瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > まんのう町金剛院

聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」で、長尾氏の西長尾城周辺を見ていました。https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434

長尾・城山 綾歌三山
讃岐国地図 西長尾城(まんのう町)周辺
右(西側)を流れているのが土器川です。土器川の東側の打越池から綾歌(青山)三山と呼ばれる城山・猫山・大高見峰が東に伸びていきます。城山は、長尾氏が山城を築き、その後に長宗我部元親によって大規模改築された山城遺構が残っています。ところが、この絵地図で城山を探しても見つからないのです。もう少し、拡大して見ます。デジタルアーカイブは、自由自在に拡大ができて便利で重宝しています。
城山は権現山
             讃岐国地図 城山はなく、あるのはオカダ 大権現」
①城山があるべき所には、「オカタ(岡田)大権現」とあります。大権現とは、修験者(山伏)たちが開山した霊山で、周辺には行場が拓かれることが多いことは以前にお話ししました。②は、今も猫山です。③は今は大高見峰ですが、この時の表記は「大高山(おおたかぼうさん)」です。地元では、この山のことを今でも「たかんぼさん」と親しみを込めて呼んでいます。もともとは「大高坊山」だったことがうかがえます。そうすると、この山も「大高坊」という修験者(山伏)と祀る権現山だった可能性があります。この地図でもうひとつ押さえておきたいのは、②の猫山と③の大高坊山の間に黒い実線が通っています。これが鵜足郡と阿野郡の郡境線になります。現在も、丸亀市と綾川町の境界となっています。

綾歌三山 猫山 高見峰2 
              綾歌三山(城山 猫山 大高見峰)
 大高見峰の頂上直下には、今も高見坊神社(権現)が鎮座しています。

高見峰神社6
             大高見(坊)神社(権現)
その拝殿にお祀りされているのは・・

高見峰神社8
               天狗信仰の大高見(坊)神社 
ここには天狗の面や絵馬・額など天狗に関するものが数多く奉納されています。天狗信仰のメッカであることが分かります。途中の登山道には天狗岩もあります。

大高見山前の天狗岩
大高見(坊)神社の登山道にある天狗岩
ここも天狗になろうとして修行を重ねた修験者たちの行場のひとつでしょう。城山から大高見峰は、修験者たちの行場エリアであったと私は考えています。それは、郡境の山脈によって阿讃山脈の龍王山や大滝山、そして大川山などの霊山に続いていたのでしょう。

高見峰神社5
            坂出・綾歌方面に展望が開ける大高見(坊)神社
高見峰の綾歌側からの登山口が勝福寺になります。

勝福寺からの大高見峰
               勝福寺から見える大高見峰

しょう高見峰登山口 

この登山口の入口には、次のような説明版が立てられています。
高見峰と天狗伝説

ここには次のように記されています。
①山岳修験者の霊場となり、その統率者の大高見坊の名前が山の名前になった
②ここは讃岐四大天狗伝説の聖地(白峯相模坊・象頭山金毘羅の金剛坊・五剣山中将坊)
③修験行者ルートが、大鉢山や竜王・大滝山へ伸びていた。
また福成寺(まんのう町)に残る天狗に関する古文書には、次のように記されているようです。
天文十三年(1544)年3月18日の六代住職が勤行の妨害をしたとして、天狗の腕を切り落とした
この背景には、16世紀初頭の永世の錯乱以後、阿波三好氏が土器川沿い讃岐に進出し、長尾氏など讃岐の国衆を配下に置くようになります。その後を、三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺も、阿讃山脈を越えて浄土真宗興正寺派の教線ラインを土器川沿いに北上させることは以前にお話ししました。その結果、まんのう町の各地に真宗の道場が開かれます。その流れの中で、真言系修験者の中にも浄土真宗に改宗する者が現れます。浄土真宗に改宗した僧侶に対して、妨害活動を行った修験者に対して「天狗の腕を切った」として記録に残ったことが考えられます。
 大高見峰に天狗信仰の権現さんが、どのようにして現れたのかを簡単に推察しておきたいと思います。
① 古代 霊山大川山信仰と、遙拝所としての山林寺院中寺廃寺の登場  
② 中世 中寺廃寺の退転と、それに代わる金剛寺の登場 → 霊山大川山の遙拝所
③ 鎌倉 末法思想の聖地として経塚群と、坊集落「金剛院」の形成
綾歌三山の修験者の活動を考える時に、大きな意味を持つのが金剛寺(まんのう町長炭)です。
この説明板には次のように記されています。


金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。そして各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っています。ここからはこの地が修験者たちによって拓かれた坊集落であることがうかがえます。

坊集落金光院の性格

金剛院では鎌倉時代中期頃には、写経し経典を奉納する経塚が作られ続けています。彼らは、写経するだけでなく行場でも修行も行いました。その行場が綾歌三山であったと私は考えています。

④ 綾歌三山の行場化と聖地化 多くの修験者の活動 
⑤ 室町 天狗信仰の拠点地化と、長尾氏の保護 → 金剛院と長尾氏の結びつき
⑥ 近世初期 天狗信仰による金毘羅信仰の隆盛 → 周辺の修験者の天狗行者化

大川山 金剛院
金剛院集落 後ろの山が経塚
金剛院を拠点に活動する修験者たちを保護していたのが長尾氏と私は考えています。
長尾氏の山城である長尾城は、背後の猫山や大高見峰が修験者たちの行場であり、霊場であったことになります。
西長尾城概念図3
長尾氏の西長尾城の背後の峰が修験者の行場となっている。

長宗我部元親は修験者たちを、メッセンジャーとしても情報収集者としても活用しています。天霧城を拠点とする香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、修験者たちを取り込んでいました。長尾氏も金光院の修験者たちを配下において、三好氏との情報のやりとりおこなった可能性があります。彼らの活動ルートは、大滝山や龍王山へと伸びていたのは先ほど見たとおりです。その向こうは阿波です。

鷹丸山(たかまるやま)387.2mからの城山
長尾の鷹丸山から望む城山 左手は象頭山、その奥が善通寺五岳
 長宗我部元親の侵入から生駒氏の来讃までに、長尾氏は没落していきます。長尾氏の生き残り戦略として、浄土真宗の道場の主人となり、寺院の住職として勢力を温存するという方法が取られたことは以前にお話ししました。
 それでは天狗信仰を持つ真言系修験者たちは、どのようにして生き残ったのでしょうか。ひとつは金比羅行者となって、全国に金比羅信仰を拡げるために散っていったことが考えられます。もうひとつの道として、滝宮牛頭天王社(別当・龍燈寺)の社僧として、牛頭天王のお札を配ったのではないかと私は考えています。滝宮牛頭天王社は、周辺の村々からいくつもの念仏踊りが奉納されていました。それは坂出の阿野北平野や、飯山の坂本念仏踊り、多度津の賀茂念仏踊り、那珂郡南部一帯の七箇村念仏踊りなです。滝宮に来れた野踊りが奉納されるということは、これらの地域を信仰圏に置いていたことになります。それは午頭天皇のお札を配る、そしてその奉納金を集めるという形で行われていました。つまり、ミニ伊勢御師のような存在が必要でした。それをつとめていたのが社僧(修験者)でした。そのため滝宮周辺のお堂や神社には、多くの修験者たちがいたことが推測できます。そして、修験者には、行場が必ず必要です。行を行わないと高い験は得られないのです。滝宮牛頭天王社などの修験者たちが行場としていたのが綾歌三山の霊山ではないかと私は考えています。

綾歌三山の権現開山と行場化(仮説)

 想像がふくらみすぎたようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434
関連記事

   最後に中寺が退転した後の大川山がどうなっていくかを見ておきます。

HPTIMAGE

大川山は丸亀平野だけでなく瀬戸内海の島々からも眺められ、霊山として信仰されてきました。そして、神仏混淆下にあっては中寺の社僧たちが管理運営を担っていました。中寺には、遙拝所が設けられ、大川山との間で厳しい行道が行われていたのです。その間には、今は忘れ去られたいくつもの行場が会ったことが考えられます。こうして霊山大川山の神宮寺としての中寺の性格が定着していったと私は考えています。
 しかし、中寺は国衙や国分寺の保護によって創建され、管理運営されてきた古代の山林寺院です。平安末になり、古代国家が解体すると国衙機能も弱体化し、中寺に対する支援保護も失われたのでしょう。中寺は平安末には姿を消して、活動を停止していきます。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。大川山には中寺に代わる宗教集団・施設が周辺部に姿を見せるようになります。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説としてお話ししておきます。

大川山と五流修験1
児島五州修験(新熊野修験者集団)
上の仮説を2つ出しておきます。これが現在の五流修験の拠点です。丸亀平野には五流修験者の痕跡が色濃く残っているようです。五流修験については以前にお話ししましたので、ここでは簡単に押さえておきます。
五流修験は、自らを紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて、分社したのが五流です。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとっての課題は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領に分社されたので霊山がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚です。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍のお先棒を担いで、瀬戸内海や九州にも活発な布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の讃岐にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは、大川山にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって、五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡が残るのが金剛院です。

「増補三代物語」にも、大川大権現(山)のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここから得られる情報を列挙しておきます。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと → 中寺のこと?
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます

中世の大川山の修験活動の中心拠点が金剛院集落にある金剛寺だったとという説を見ておきましょう。

坊集落金剛院1
金剛寺(まんのう町金剛院集落)
裏山が金華山です。ここからは中世の経塚が数多く出てきました。この集落には「空海はここに大伽藍をつくろうとした」という伝承が伝えられています。近寄ってみてみましょう。

金剛院石塔
金剛寺十三重塔(まんのう町金光院)
参道の十三重の石塔は、鎌倉時代中期に天霧石で、弥谷寺の石工達によって作られたものです。
よく似たものが白峰寺の十三重塔石塔(西塔)であることは以前にお話ししました。白峯寺や弥谷寺は、中世においては讃岐最大の山林寺院で「別院」などもあり、修験者(廻国山林修行者)の拠点でもありました。それらの寺(行場)と金光院は結ばれていたようです。

また先ほど見た裏山の金華山の頂上からは、こんな石で覆われた穴がいくつも発掘されました。
金剛院経塚2018報告書
金剛院の経塚

金剛院金華山
これが経塚の構造です。

経塚 経筒

穴を掘って石組みして、そこに経典を陶器や金銅制の筒に入れて奉納します。その際に、周囲には鏡や刀などの副葬品が埋葬されていることもあります。左が金光院の経塚からでてきた経筒です。このような経塚が金光院には何十と見つかっています。これは当時の修験者が金華山が霊場と認識していたことを示します。同時に、多くの山林修行者がここにやってきていたことが分かります。彼らは、写経して経筒を奉納するだけではありません。奉納するまでに長い修行を行って、それが成就したからこれを奉納したのです。つまり、この金剛院の周辺の山々は、行場でもあったのです。当然、大川山も行道コースの一部だったことが考えられます。

坊集落金光院2
坊集落としての金剛院集落
金剛院集落には、いまも何軒かの農家があります。その多くが藤尾坊・華厳坊・中ノ坊・別当坊と云うように坊名をもっています。これは彼らの祖先が修験者であったことを示しています。つまり、この集落にやって来た修験者たちがこの地に定着し、周辺の山野を開墾・開発してできた集落だと研究者は判断します。
「金剛院部落の仏縁地名が多いこと + 金華山が経塚群 = 金剛寺を中心とした坊集落」

 北の阿弥陀越や法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って修行を行う。そして霊山大川寺への行道を繰り返す。さらに看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていく姿が見えてきます。
 さらに視野を拡げて「霊山大川山」をとりまく状況を考えてみます。

五流修験による大川山開山

児島五流修験は、周辺に行場がなかったことは先ほど触れました。そのため早くから行場を求めて各地に修験者たちが「探索活動」を行います。そして、伯耆大山や伊予石鎚などを行場化していきます。同時に、讃岐方面にも塩飽諸島の本島を足がかりに、多度津の道隆寺・白方海岸寺などに拠点地を開きます。そして、金倉川沿いの金倉寺を経て、丸亀平野の霊山大川山を大山大権現として「開山」します。そのため大山神社の由縁には、蔵王権現や役行者が登場します。また、三代記には「大川は、伊予大三島の大山祇神社の転化」とも書かれます。大山祇神社も中世には五流修験の影響力が大きかったことは以前にお話ししました。
以上を整理しておきます。

五流修験による大川山開山説

①古代の山林寺院である中寺が鎌倉時代初期には退転した
②しかし、人々の霊山大川山にたいする信仰心はなくなることはなかった
③中世になると、児島五流修験が大川山を「権現」化し、行場化した。
④熊野行者でもある五流修験は、大川権現を熊野三山に例えた
⑤そして、その北の入口を吉野、南の入口を勝浦と呼んだ
⑥コリトリ場としては、造田に天川(てんかわ)が現れ、ここで禊ぎをおこなって大川山行道に入った。
⑦このラインは、阿波街道の要衝であり勝浦や真鈴峠・二双越えなどには、修験者が定住するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

まんのう町金剛院が中世の修験者たちによって拓かれた「坊集落」であること、石造十三重塔が鎌倉時代末に、弥谷寺石工によって天霧石によって作成されたことを、前回までに見てきました。今回は、金剛院に残されたもう一つの手がかりである「経塚」について見ていくことにします。テキストは、次の報告書です。
金剛院経塚2018報告書
                   写真は出土した経塚S3

南方に開けた金剛院集落の真ん中にあるのが金華山です。その山に南面した金剛寺が建っています。

イメージ 7
金剛院集落の金華山と金剛寺
位置的にも金華山が霊山として信仰を集め、そこに建てられた寺院であることがうかがえます。この山の頂上には、かつては足の踏み場もないほどの経塚があったようです。経塚とは末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡のことです。見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地とされる場所に造られます。そのため数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。その典型例が讃岐では、金剛院になるようです。

金剛寺2 まんのう町

拡大して経塚のある第1テラスと第2テラスの位置を確認します。

金剛院金華山

次に、これまで発掘経緯を見ておきましょう。
金剛院経塚は今から約60年前の1962年9月に草薙金四郎氏によって最初の調査が行われました。その時には2つの経塚を発掘し、次のようなものが出土しています。
陶製経筒外容器7点
鉄製経筒   2点
和鏡     1点

金剛院経筒 1962年発掘
               陶製経筒外容器(まんのう町蔵)

この時には完全に発掘することなく調査を終えています。問題なのは、経筒発見に重きが置かれて、発掘過程がきちんと残されていません。例えば経塚の石組みなどについては何も触れていません。今になってはこの時の発掘地がどこだったのかも分かりません。その後、目で確認できる経塚からは、その都度遺物が抜き取られ本堂に「回収」されたようです。ちなみに経塚には「一番外が須恵器の外容器 → 鉄・銅・陶器などの経筒 → 経典」という順に入れられていますが、地下に埋められた経典は紙なので姿を消してしまいます。経典が中から出てくることはほとんどないようです。

古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
                一般的な経塚の構造と副葬品例 

 金剛院経塚の本格的な調査が始まるのは、仲寺廃寺が発掘によって明らかになった後のことです。
2012(平成23)年度から調査が始まり、次のように試掘を毎年のように繰り返してきました。
2012年度 
第2テラスのトレンチ調査で、柱穴3、土穴1、排水溝1が確認され、山側を切土して谷側に盛土して平坦面を人工的につくったテラスであることを確認
2013年度
石造十三重塔の調査・発掘が行われ、次のような事を確認。
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと
②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと
③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと
④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
合わせてこの年には、第1テラスの測量調査を行い、地上に残された石材群を16グループに分類                 
2015年度
現状記録のために検出状況を調査して、12ケ所で埋蔵物が抜き取られていることを確認
2016年度 
経塚S9の調査を行い、主体部が石室構造で、その下に別の経塚があること、つまり上下二重構造であったことを確認。
金剛院経塚第1テラスS9
 第1テラス 経塚S9(金剛院経塚:まんのう町)

金剛院経塚S9の遺物 
経塚S9(2016年度の発掘)出土の経筒外容器

経塚調査の最後になったのが2017年度で、経塚S3を発掘しています。

金剛院経塚テラスS3
       金剛院経塚・第1テラスの経塚分布と経塚グループS3の位置


金剛院経塚第1テラスS3
             第1テラス 経塚S3(金剛院経塚:まんのう町)
この時は経塚S3の調査を行い、次のような成果を得ています。
①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土
②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
この時の発掘について報告書は次のように記します。
金剛院経塚出土状況4
経塚S3 平面図
金剛院経塚出土状況2
経塚S3 断面図
金剛院経塚S3発掘状況1
要約しておきます。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。
②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。
③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。

金剛院経塚1
     金剛院経塚S3から出土した外容器 土師器質のA・Bと瓦質の甕のC(後方)

この経筒外容器A・B・Cの中からは、何が出てきたのでしょうか。報告書は次のように記します。
金剛院経塚C3出土の外容器
要約しておくと
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片
②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部
③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
          外容器Cの甕 和紙が付着した銅製経筒が出てきた
発掘すれば、これ以外にもいろいろな経筒がでてくるはずですが、初期の目的を達成して発掘調査は終わりました。ここからは経塚から出てきた遺物は中世鎌倉時代に作られたもので、金華山頂上に連綿と経塚が造られていた事が分かります。金剛院の伝承では、弘法大師が寺院を建立するための聖地を求めて、この地に建立されたとされます。聖地の金華山山頂という限られた狭い空間に、山肌が見えないほどにいくつもの経塚が造られ続けたのです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
 比較のために以前にお話しした善通寺香色山の経塚を見ておきましょう。

DSC01066
 
 香色山山頂からは4つの経塚が発掘されています。
香色山一号経塚
香色山の経塚と副葬品
 そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には平安時代末期(12世紀前半)の経筒が納められていて、上の石郭からはそれより遅い12世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。上と下で時間差があることをどう考えたらいいのでしょうか?
 研究者はつぎのように説明します。
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。

上下2段スタイルは全国初でした。先ほど見たように、金剛院経塚S3も2段構造で追葬の可能性があります。作られたのも同時代的です。善通寺と金剛院の間には、何らかの結びつきがうかがえます。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
香色山1号分の埋葬品

 香色山経塚群は、平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「聖域」という点から、ここに経塚を作った人物については、次のような説が一般的です。

「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」

しかし、以前にお話ししたように空海の子孫である佐伯氏は本貫地を京に移し、善通寺から去っています。この時期まで、佐伯直氏一族が善通寺の経営に関わっていたとは思えません。そうであれば、もう少し早くから「善通寺=空海生誕地」を主張するはずです。
  どちらにしても世の中の混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」として僧侶や貴族は捉えるようになります。彼らが経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて経塚を築くようになります。その心情は、悲しみや怒り、あるいは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。
 私は経塚に経典を埋めた人達は、周辺の有力者と思っていたのですが、そうばかりではないようです。遙か京の有力者や、地方の有力者が「廻国行者(修験者)」に依頼して、作られたものもあるのです。その例を白峰寺(西院)に高野聖・良識が納めた経筒で見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
何が書いてあるか確認します
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
これは白峰寺から出てきた経筒で、⑥の「檀那の下野国道清」の依頼を受けて讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでであることが分かります。これは経筒を埋めたのは、地元の人間ではなく他国の檀那の依頼で「廻国の行人(修験者や聖)」が全国の聖地を渡り歩きながら奉納していたことを示すものです。これが六十六部と呼ばれる行人です。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。ここからは、金剛院に経塚を埋めたのも六十六部などの全国廻り、経塚を作り経典を埋めるプロ行者であったことがうかがえます。 
 そのことを金剛院の説明版は、次のように記しています。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
以上をまとめておきます。

①平安末期になると末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した経塚が作られるようになる。
②その場所は、見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地に密集して作られることが多い。
③その例が金剛院の金華山や善通寺の香色山の山頂の経塚である。
④経塚造営の檀那は地元の有力者に限らず、全国66ヶ国の聖地に経典を埋葬することを願う六十六部や、その檀那も行った。
⑤白峰寺には、下野国の檀那から依頼された行人が収めた経筒が残されていることがそれを物語る。
⑥このような経典を聖地に埋め経塚を造営するという動きが阿弥陀浄土信仰とともに全国に拡がった。
⑦讃岐でその聖地となり、全国からの行人を集めたのが金剛院であった。
⑧こうして金華山山頂には、足の踏み場もないほどの経塚が造営され、経典が埋められた。
⑨全国からやって来る行人の中には、金剛院周辺に定着し周囲を開墾するものも現れ、「坊集落」が姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 調査報告書 金剛院経塚 まんのう町教育委員会2018年
関連記事

 金剛寺(まんのう町長炭)の説明板には次のように記されています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。私が気になるのは、各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っていることです。ここからは坊を名乗る修験者たちが、数多くいたことがうかがえます。それでは修験者たちは、この地にどのようにして定着して行ったのでしょうか? 中世後半に姿を消した金剛寺には、それを物語る史料はありません。そこで、以前にお話した国東半島の例を参考に推測していきたいと思います。

やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。
            国東半島の天念寺と鬼会の里
国東半島に天念寺という寺院があります。
背後の無明橋と鬼会の里として有名です。この寺は、中世にはひとつの谷全体を境内地としていました。そのため長岩屋(天念寺)と呼ばれたようです。この寺が姿を見せるようになるプロセスを研究者は次のように考えています。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
①行場に適した岩壁や洞穴を持つ谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

「夷耶馬」にも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋があります。
古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源は長い年月、岩屋のまわりの森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山や、この長岩屋の住僧三人、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じようなプロセスで開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋エリアに住むことを許された62戸の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。
他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の様子が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
                鬼会の行われる身禊(みそぎ)神社と講堂

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)があります。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。ここからは、長岩屋は「宗教特区」だったことになります。国東の中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。このようなムラを「坊集落」と研究者は呼んでいます。

このように国東の特徴は、修験者が行場周辺を開発して定着したことです。
そのため修験者は、土地持ちの農民として生活を確保した上で、宗教者としての活動も続けることができました。別の視点で見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的環境を作り出してきた要因のひとつと研究者は考えています。どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
 別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。豊後灘の向こう側の伊予の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるような気配がします。しかし、今の私には、史料的に裏付けることはできません。

天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

以上、国東半島の天念寺の「坊集落」を見てきました。これをヒントに金剛院集落の成り立ち推測してみます。
坊集落金光院の性格


金剛院集落=坊集落説

①古代に讃岐国府の管理下で、大川山の山腹に山林修行のために中村廃寺が建立された。
②山上の中村廃寺に対して、里に後方支援施設として金剛寺が開かれ、周辺山林が寄進された。
③廻国の山林修行者が金剛寺周辺に、周辺の山林を焼畑で開墾しながら定着し、坊を開いた。
④こうして金剛寺を中心に、いくつもの坊が囲む宗教的空間(寺社荘園)が現れた。
⑤金剛寺は、鎌倉時代には宗教荘園として独立性を保つことができたが、南北朝の動乱期を乗り切ることができずに姿を消した。
⑥具体的には、守護細川氏・長尾城主の長尾氏の保護が得られなかった(敵対勢力側についた?)
⑦古代後半から南北時代に、金光院集落からは多くの修験者たちを生む出す供給地であった。
⑧金剛寺が衰退した後も、大川山周辺は霊山として修験道の活動エリアであった。
こうして見てくると、旧琴南など地元寺院に残る「中村廃寺」の後継寺という由緒も、金剛寺とのつながりの中で生まれたと考えた方が自然なのではないかと思えてきます。

また、旧琴南地区に山伏が登場する昔話が多く残っているのも、金剛寺の流れを汲む修験者の活動が背景があるからではないか。

金剛院集落 まんのう町
まんのう町金剛院集落(手前は十三重塔)
どちらにしても古代末から南北朝時代にかけて、まんのう町長炭の山間部には金剛寺というお寺があり、周囲にはいくつも坊を従えていたこと。そこは全国からの山林修行者がやってきて写経し経筒を埋める霊山でもあったこと、その規模は、白峯寺や弥谷寺にも匹敵した可能性があることとしておきます。

もうひとつ修験者たちには、芸能伝達者としての役割がありました。金剛院周辺には、独特の芸能や祭礼を残す神社がいくつかあります。これらは、中世に遡るもので、その伝達者の第一候補と考えられるのが金剛院集落の修験者たちです。その祭事を見ておきましょう。

三島神社 湯立ち

三崎神社の湯立神事  
この神社は、長尾大隅守の家臣・久米盛重によって創建されたことが次のように伝わります。
 1364(貞治3)年、細川頼之に従って伊予の河野氏と戦った久米左京売盛重が、出陣中、伊予の大三島神の神威によって戦功をたてることができたのを感謝して、頼之から長尾の地に所領を与えられたときに八幡宮の地に伊予の三島神社を勧請したのが当社で、創建は1317(応安四)年と伝えられている。

 久米盛重は、細川氏に服属して阿波国名東郡芝原城主となった久米氏の一族で、長尾の地に住んで長尾大隅守の家臣となり、その子孫と思われるものの氏名が、天正期の長尾大隅守の家臣録に記されています。長宗我部元親の侵攻によって、長尾大隅守が西長尾城を退去した後も、久米氏は土着して郷士と
なったようです。江戸時代になると長尾村の庄屋として登場します。久米家の信仰を受けて、郷社として成長して行きます。
三島神社の湯立

 この神社に伝わるのが湯立神事で、県のHPには次のように紹介されています。

まんのう町長尾の三島神社の秋祭に際して、その前夜、方二間、高さ七尺五寸の棚が組まれ、湯釜が設置される。まず神職による神楽が奉納され、「榊の舞」から「市立の舞」までが行われる。その後、入湯の行事に移り、三島神社の祭神・八幡神社の祭神・事代主神が続けて釜の湯に入る(御幣などを湯浴みさせる)。次に枝宮・枝社の祭神が湯に入る。続いて笹葉を釜に敷いて祭主(神職)自身が湯釜に入り湯浴みする。最後に笹葉で湯釜の湯を参拝の氏子にふるまって終わる。そして火渡りの行事が行われ、神楽の「鉾の舞」が舞われる。

これは豊前神楽の「湯大事・火大事」と起源を同じくするものと研究者は指摘します。
豊前の湯立神楽には、修験道の影響を色濃く見ることができます。燃えさかる焔で湯を湧かした釜(湯釜)の廻りで、 鬼と幣方が舞を繰り広げます。その後、鬼は高さ10mの柱に登り、柱の先端の大幡を切 り落とした後、アクロバティックな縁起で観客を沸かせます。最後に火の上を裸足で渡る火渡りで火を鎮めます。これは修験者の護摩祈祷に起源があるようです。三島神社の湯立神事も、修験者たちが伝えた祭礼行事と研究者は考えています。
また、吉野の大宮神社の柴(採)燈護摩も、護摩木を組んで、独特の修法の後で般若心経が唱えられ、願文が書かれた護摩札が投じられます。これも、修験者によって伝えられたものでしょう。これらの芸能伝達者が金剛院の修験者たちであったという説になります。また彼らは、備中児島の五流修験の流れをくむ勢力であった気配がします。

五流修験と金剛院

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  金剛寺は中世まで遡ることの出来る寺院で、修験者の痕跡を色濃く残します。

金剛院集落と修験道
金剛院部落と修験道

現地の説明版に次のように記します。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
金剛院説明版
金剛寺前の説明版  
  説明板の要旨
金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。
要点を整理しておくと次の通りです。
①金剛寺の裏山の金華山は経塚が数多く埋められていること
②これを行ったのは中世の廻国の山林修行者(修験者・聖・六十六部たち)で、書経や行場であった。
③多くの僧侶(密教修行者)が各坊を構えて生活し、宗教的荘園を経済基盤に山林寺院があった。
④石造十三重塔は鎌倉時代中期のもので、修験者の行場であり、聖地であったことを伝える。

ここにも書かれているように金剛院地区は、仏教に関係した地名が多く残り、かつては大規模な寺院があったと語り継がれてきました。しかし 、金剛寺の由来を記した古文書がありません。目に見える痕跡は、門前の田んぼの中にポツンと立つ十三重の石塔(鎌定時代後期)だけでした。今回は、この石造五重塔に焦点を絞って見ていきたいと思います。テキストは以下の報告書です。
金剛院調査報告書2014
まず金剛寺の 地理的環境を見ておきましょう。
金剛院集落は、土器川右岸の高丸山 ・猫山 ・小 高見峰などに固まれ、西に開けた狭い盆地状の谷部にあります。金剛院地区周辺をめぐると気づくのは「阿弥陀越」や「法師越」といったいった仏教的な地名が数多く残っていることです。これらの峠道を通って、峠の北側の丸亀平野との往来が盛んに行われていたこと、そこに廻国の修験者や聖たちがやってきたこと、それらを受けいれる組織・集団がいたことがうかがえます。
イメージ 7
金華山と金剛寺

盆地の中央に金華山と呼ばれる標高約 207mのこんもりと盛り上がった小山(金華山)があります。この前に立つと何かしら手を合わせたくなるような雰囲気を感じます。そういう意味では金華山は、シンボル的で霊山とも呼べそうです。金華山を背負って南面して金剛寺は建っています。

イメージ 9
金剛寺の石造十三重の塔

 その金剛寺前の参道沿いに十三重塔はあります。参道の両側は、今は水田ですが、これは金華山南方の尾根を削平したものと研究者は考えています。そうだとすると、この塔は、境内の中にあったことになり、相当広い伽藍をもっていたことになります。塔身初重軸部より下は、今は土に埋もれています。しかし、笠を数えてみると十三ありません。今は十重の塔です。それがどうしてかは後ほど話すことにして先を急ぎます。
まんのう町周辺の古代から中世にかけての仏教関係遺跡を、報告書は次のように挙げています。

まんのう町の中世寺院一覧表

①白鳳・奈良期の古代寺院である弘安寺廃寺・佐岡寺跡
②平安時代の山林寺院である国指定史跡中寺廃寺跡
③平安時代後期から中世の 山林寺院である尾背廃寺跡
④平安時代後期の経塚群がある金剛寺
⑤弘法大師との関係が深いとされる満濃池
⑥高鉢山の氷室遺跡(修験者との関連)

これらの遺跡をつなぎ合わせていくと、次のような変遷が見えて来ます。
 白鳳・奈良期の古代寺院→ 平安時代の古代山林寺院→ 中世の山林寺院→ 経塚群

これらの宗教遺跡は約10kmの範囲内にあって、孤立したものではなくネットワークを結んで機能していた可能性があることは以前にお話ししました。しかし、文献史料がないためにその実態はよくわかりません。
十三重塔は、貴重な石造物史料ということになります。詳しく見ていくことにします。

金剛寺十三重塔9 
                  金剛寺十三重の塔 東西南北から

さきほどみたように、この十三重塔の一番上の十三重と十二重はありません。崩れ落ちたのでしょうか、金剛寺境内に別の塔の一部として今は使われています。
金剛寺十三重塔 13・12重 

金剛寺十三重塔 13・12重2 

上図のように上と下面に丸い穴が開けられています。上面の穴に相輪が設置されていたようです。他の塔身に比べ縦長です。ちなみに塔身11重は、今は行方不明のようです。
そうすると上から塔身の3つが欠け落ちているので、残された笠は十重になります。それを報告書は次のように記します。
①塔身初重から塔身 5重までは側面が揃うが 、塔身6重は上から見て反時計回りのねじれ 、塔身7~9重は時計回りのねじれがある
②塔身6~10重は南東方向へ若干傾く
③塔身は上層ほど風雨により侵食され、稜線が磨滅している。
④塔身12重は軸部と笠部がかなり磨耗しているため 、減衰率が低くなっている
次に塔身初重軸部を見ておきましょう。

金剛寺十三重塔 
金剛寺十三重塔4 
塔身初重軸部の東西南北

①上面と下面の中央に円筒状の突出部がある
②北側と東側 の側面に梵字が刻印されている 。

北側面の梵字は「アク」(不空成就如来)、東側面の梵字「ウン(阿閥如来)」です。そして研究者が注目するのは、上図のように梵字の方位が金剛界四仏の方位と合致することです。ここからは、この十三重塔は最初に建てられた本来の方位を向いていること、さらに云えば建立当初の位置に、今も建っていると研究者は推測します。ちなみに梵字が彫られているのは、北と東だけで、西側と南側にはありません。

それでは金剛寺十三重塔は、いつ・どこで作られたものなのでしょうか?
①凝灰岩製でできているので、石材産地は弥谷山 ・天霧山の凝灰岩 (天霧石)
②制作時期は塔身形状から仏母院古石塔(多度津町白方)と同時期
と研究者は考えています。
③の仏母院古石塔には石塔両側面に「施入八幡嘉暦元丙寅萼行」の銘があるので「嘉暦元丙寅 」 (1326年)と分かります。金剛寺十三重塔も同時代の鎌倉時代後半ということになります。

西白方にある仏母院にある石塔
             白方にある仏母院にある石塔「嘉暦元丙寅 」 (1326年)
ちなみに、これと前後するのが以前にお話しした白峰寺のふたつの十三重塔です。

P1150655
白峰寺の2つの十三重塔
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものとされています。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その代表作が金剛寺十三重塔ということになります。しかし、天霧石は凝灰岩のために、長い年月は持ちません。そのために上の笠3つが崩れ落ちたとしておきます。
天霧系石造物の発展2
 天霧山石造物の14世紀前半の発展

白峯寺石造物の製造元変遷
     
ちなみに中世に於いて五輪塔や層塔などの大型化の背景には、律宗西大寺の布教戦略があったと研究者は考えています。そうだとすると、讃岐国分寺復興などを担った西大寺の教線ルートが白峯寺や金剛寺に伸びていたという仮説も考えられます。
      
    周辺で同時代の天霧山石造物を探すと三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ大水上神社の燈籠があります。
大水上神社 灯籠
大水上神社の康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠

下図は白峰寺に近畿の石工が収めた燈籠です。これをモデルにして弥谷寺の石工がコピーしたものであることは以前にお話ししました。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峰寺頓證寺殿前の燈籠(近畿の石工集団制作

近畿産モデルを模造することで弥谷寺の石工達は技量を高め、市場を拡大させていたのが14世紀です。白峯寺に十三重塔が奉納された同時期に、まんのう町の山の中に運ばれ組み立てられたということになります。同時に、弥谷寺と金剛院の修験者集団のネットワークもうかがえます。弥谷寺の石工集団が周囲に石造物を提供するようになった時期を押さえておきます。

i弥谷寺石造物の時代区分表

白峯寺や金剛寺に十三重塔を提供したのは、第Ⅱ期にあたります。この時期に弥谷寺で起きた変化点を以前に次のように整理しました。

弥谷寺石造物 第Ⅱ期に起こったこと

第Ⅰ期は、磨崖に五輪塔が彫られていましたが立体的な五輪塔が登場してくるのが、第Ⅱ期になります。その背景には大きな政治情勢の変化がありました。それは鎌倉幕府の滅亡から足利幕府の成立で、それにともなって讃岐の支配者となった細川氏のもとで、多度津に香川氏がやってきたことです。香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、そこに五輪塔を造立するようになり、それが弥谷寺石工集団の発展の契機となります。そのような中で白峯寺や金剛寺にも弥谷寺産の十三重塔が奉納されます。ここでは金剛寺の十三重塔と、香川氏の登場が重なることを押さえておきます。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧石産石造物の分布図

天霧石製石造物はⅡ期になると瀬戸内海各地に運ばれて広域に流通するようになります。
かつては、これは豊島石産の石造物とされてきましたが、近年になって天霧石が使われていることが分かりました。弥谷寺境内の五輪塔需要だけでなく、外部からの注文を受けて数多くの石造物が弥谷寺境内で造られ、三野湾まで下ろされ、そこから船で瀬戸内海各地の港町の神社や寺院に運ばれて行ったのです。そのためにも弥谷寺境内で盛んに採石が行われたことが推測できます。ここからは弥谷寺には石工集団がいたことにが分かります。中世の石工集団と修験者たちは一心同体ともされます。中世の採石所があれば、近くには修験者集団の拠点があったと思えと、師匠からは教わりました。
また上の天霧山石造物の分布図は、「製品の販売市場エリア」というよりも、弥谷寺修験者たちの活動範囲と捉えることもできます。そのエリアの中に金剛寺も含まれていたこと。そして、白峰寺西塔に前後するように、弥谷寺の石工集団は金剛寺にも十三重塔を収めたことになります。
別の言い方をすれば、まんのう町周辺は天霧山の弥谷寺石工の市場エリアであったことがうかがえます。

最後に天霧山石造物のまんのう町への流入例を見ておきましょう。
弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
 この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に「四條一結衆(いっけつしゅう)并」
と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。


金剛寺4
金剛寺と十三重塔の位置関係

報告書は、金剛寺の十三重塔造成過程を次のようにまとめています。
①金剛寺が金華山南面に造営された際に、十三重塔付近の尾根も削平された
②続いて、石列と参道への盛士が行われ、金剛寺への参道が整備された。
③石列の一部を除去し盛士造成し、根石を設置した上に十三重塔が建てられた。
④それは天霧山石材を使ったもので弥谷寺の石工集団の手によるもので14世紀のことであった。
⑤天霧山で作られた石材がまんのう町まで運ばれ組み立てられた。
⑥天霧・弥谷寺と金剛院の山林修行者集団(修験者)とつながりがうかがえる。
⑦その後の根石の磨滅で、長期間根石が地上に露出していた
⑧この期間で十三重塔東西の平地は畑地化し、旧耕作土が堆積した。
⑨さらに、2回目の参道盛土が行われ、その際に人頭大・拳大の石が置かれた。
これは畑地化の過程で出てきた石を塔跡付近に集めてた結果である。
⑩さらに3回目の盛土が堆積し、水田化され耕作土が堆積する 。
以上からは、参道部分は何度も盛土が行われきましたが、参道と十三重塔は常に共存してきたようです。それは建立当初の位置に、この塔が今も建っているとから分かります。

香川県内の十三重塔はいくつかあるのですが、きちんと調査されているのは白峯寺の2基だけです。それに続いて調査されたのが金剛寺十三重塔になります。いろいろな塔が調査され、比較対照できるようになれば讃岐中世の石造物研究の発展に繋がります。その一歩がこの調査になるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金剛寺十三重塔調査報告書 まんのう町教育委員会
関連記事 

    
前回は幕末の宇和島藩には880人の修験者たちがいて、それぞれが地域に根付いた宗教活動を行い、定着していたことを見ました。これは別の言葉で表現すると「修験者の世俗化」ということになるようです。地域社会に修験者が,どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかを明らかにするのは、ひとつの研究テーマでもあるようです。
 修験者が自分の持つ権成や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していくプロセスの解明と云うことかもしれません。その戦略は、置かれた時代・地域・生活形態に応じて変化します。前回はその戦略の一端を宇和地方に見たということになります。今回は、国東の田染庄への修験者たちの地元への定住戦略を見ていくことにします。

やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。

国東の修験者の修行の道を歩いて見たくなり、天念寺耶馬の無明橋を目指したことがあります。やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
  
目をこらすと無明橋も見えているような気もします。
ところがあいにくの雨。雨具を付けて出発しようとすると鬼会の里のスタッフから「雨天時の登攀は、危険で事故も多発していますので、ご遠慮いただいております」との言葉。

天念寺の看板に誘われ参拝する。
長岩屋天念寺
行く場をなくして、雨の中の彷徨を始まります。まず、訪れたのが駐車場の横にある長岩屋天念寺です。お寺には見えない民家のような小さな本堂です。
この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたという。<br />しかし、明治以後は大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたという。今の寺の規模は最盛時の何十分の1になっている。<br /> 売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で今は公開されているという。<br /><br />

この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたようです。しかし、明治の神仏分離で神社から切り離されて、ここに移動。その上に大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたといいます。今の寺の規模は、最盛時の何十分の1になっているようです。売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で公開されていました。

天念寺への参拝終了とおもいきや、<br />このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからにあった。<br />川下に歩いて行くと・・・
身禊神社

天念寺への参拝終了とおもいきや、このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからでした。川下に歩いて行くと・・・
萱葺きの神社が現れました。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
身禊(みそぎ)神社と講堂
背後は切り立つ断崖。
天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの修験者たちの「行の場」のひとつでした。神仏混淆で神も仏も一体化し、天念寺がこの神社の別当だったようです。

背後は切り立つ断崖。<br />天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの僧侶たちの「行の場」のひとつでもあった。<br /><br />そして神仏混淆で神も仏も一体化していた。<br />天念寺がこの神社も管理していたのだろう。<br />
身禊神社 鳥居と本殿
鳥居の奧が本殿?
それでは、左の萱葺き屋根の建物が拝殿?
中に入って参拝させていただきます。
拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。

拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。
そして、隣接する謎の建物の礼拝所へ<br /><br />広いのです。<br /><br />神社の拝殿の規模を遙かに超えています。

そして、隣接する謎の茅葺き建物へ
広いのです。神社の拝殿の規模を遙かに超えています。
無造作にいろいろなものが置かれています。
ここが何に使われる空間か、私にはこの時には分かりませんでした。

中世の村を歩く - 新書マップ

後に「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」を読むと、次のようにありました。
昭和4年にこの地をは、種田山頭火もこの地を訪れ、萩原井泉水に宛てて出した書翰には「小耶馬渓とでもいひたい山間」と記し、しぐれる耶馬を越えた行程に思いを馳せて、「いたゞきのしぐれにたゝずむ」などの俳句を詠んでいます。
      身禊神社の前の川中不動
昼の勤行が終わると、ホラ貝と鐘を合図に勤行の僧と祭りに奉仕するムラ人のテイレシ(松明入れ衆)たちは、川中不動の前の淵に集まる。
テイレシたちは水中に入って身を清めるコーリトリ(垢離取り)の式を行う。真冬二月の夕方の薄暗がりの中に、白い裸身が浮かび、見るだけでもいかにも寒そうだが、そこが信仰の力なのであろう。

そして川中不動に会いに行きます。
コーリトリ(垢離取り)が行われる川中不動

やがてまたホラ貝と早鐘を合図に、寺の前や橋の上など三か所に立てられた三本の大松明がテイレシたちによって次々に点火されると、暗くなった谷の中はパッと明かるくなる。夜の勤行の始まりである。

天念寺鬼会2

岩壁に直接建て掛けられた講堂の中は、すでにムラの人たちや参詣者たちでいっぱいである。勤行の前半は読経を中心に、さまざまの祈祷が行われ、比較的単調な時が流れる。
天念寺鬼会1 

後半は一転して芸能的色彩が濃くなり、人々を飽きさせない。まず「香水棒」と呼ばれる、小正月の削掛に似た棒を持った二人の僧が登場、足拍子と下駄の音高く、互いに棒を打ち合わせ、堂を踏み鎮める。「マンボ」のリズムにも似た調子で、いかにも快い。やがて長老の僧二人が「鈴鬼」の夫婦として現れ、おだやかに舞い納めて、「災払鬼」「荒鬼」を招き入れる。いよいよ「鬼走り」といわれるクライマックスだ。
修正鬼会とは - コトバンク
              「災払鬼」
「災払鬼」は赤鬼の面に赤の着衣で、右手に斧、左手に小松明を持つ。 一方、「荒鬼」は黒鬼の面に黒(今は茶)の着衣、右手に太刀、左手に松明を持つ。ともに体力のある若い僧侶の役で、順に登場、法会を主催する僧に聖なる水を吹きかけられると、とたんに武者震いをし、活動を始める。
 カイシャク(介錯)役の数人の村人とともに点火した松明を打ち振り打ち振り、堂の廊下を「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」と大声で連呼しつつ、乱舞し、飛び回る。満員の堂内はどよめき、人の粉の飛び散るなかを逃げまどう人々も多い。騒然たるなかで、「鬼の目」と呼ばれる餅が撒かれる。この餅は無病息災の御利益があるとして、人々は争ってこれを拾おうとする。また堂内に座っている人々の背中を鬼が次々と松明で叩き、加持を加える。鬼会もここでようやく最後となり、天念寺の僧による「鬼鎮め」を受けた鬼は静かに講堂から退場する。
天念寺鬼会3

 藁葺きの講堂は真冬に行われる「鬼会」の舞台だったようです。
そのための空間なので、ただ広く殺風景なのです。しかも、ここは身禊神社に隣接していますが、所属は天念寺の講堂になるようです。神仏分離への苦肉の対応ぶりがうかがえます。

それでは鬼会の鬼とは、何なのでしょうか?
「鬼会」に登場する鬼たちは、どうも節分の豆撒きで払われるような単純な鬼ではないようです。
「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」という鬼の掛け声は、宇佐八幡宮の創始者の法蓮を誉め称える、との意味で、鬼はまさに法蓮の化身、あるいは不動明王の化身

とパンフレットには説明されていました。
 一方では、「災払鬼」「荒鬼」の着衣は、十二か所(閏年は十三か所)も麻縄(昔はカズラ)でくびられています。これはいかにも一年のはじめに来訪する神を暗示します。

天念寺鬼会 鈴鬼
天念寺鬼会 鈴鬼
また白塗りでおだやかな夫婦の「鈴鬼」は、老人の姿をとって現れる先祖の神のようにも思えます。「鈴鬼」が手に持った団扇には米粒が入っていて、これをガラガラと打鳴らしながら舞をします。米粒に象徴される農耕神の再生を暗示ともとれると研究者は考えているようです。
そこからさらに一歩進めて、修正鬼会の鬼は、実は仏であり、また神でもあるのだという説もあるようです。この講堂は、鬼が仏や神に変わっていく舞台でもあるようです。
 確かに、国東の神社には仁王の像が立ち、寺と社がほとんど一体化した神仏分離以前の姿が残っています。鬼にも仏と神が一体化した姿が宿っているのかも知れません。

修正鬼会へ行ってきました! | アナバナ九州のワクワクを掘りおこす活動型ウェブマガジン | [九州の情報ポータルサイト]

鬼会の主催者は?
私は神社で行われているので、身禊(みそぎ)神社の主催かと思っていました。そうではないようです。鬼会は、長岩屋の地区の主催する行事なのです。テイレシ(松明入れ衆)やカイシャク(介錯)の役をはじめ、笛・太鼓・鉦などのお囃子方も、また運営の役員も、松明や香水棒を作ることも、すべてはムラの人々によって行われているようです。それは、中世にここにあった都甲荘内のムラからの伝統を受け継いでいるのです。
天念寺修正鬼会 - 写真共有サイト「フォト蔵」

鬼会の大松明は、明治までは十二本供えられたようです。
長岩屋の谷の各所にあった天念寺の十二の坊が、それぞれ一本ずつ大松明を作っていました。またテイレシの人々も十二の坊から出されていました。
 中世荘園では、名が年貢や公事(雑税)を出す単位でした。一年十二ケ月ごとに雑税を分けて負担するので、名の数は十二とされることが多かったようです。鬼会の負担が天念寺の十二坊に割り当てられているのも、中世荘園の痕跡だと研究者は指摘します。

行者による谷の開発
この谷は今も長岩屋という地区名で呼ばれています。それは、この谷の領域の全体がそのまま長岩屋(天念寺)という寺院の境内地だったからのようです。谷の開発過程を見ておきましょう。
①急峻な岩壁を持つこの谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

都甲からは北方の夷も、「夷耶馬」と称される景勝の地です。
ここにも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋がありますた。古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源はすでに長い年月、岩屋に接した森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山はもとより、この長岩屋の住僧三人以下、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じような開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
近年の調査で、この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)が発見されています。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。長岩屋は、宗教特区だったことになります。特別なエリアという印象も持ちますが、国東の谷々で開発された中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。

天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

 長岩屋エリアに住むことを許された62の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。

他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の姿が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。
 「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。 これはまんのう町金剛院の修験の里を考える場合のヒントになります。金剛院にも、屋号に「○○坊」と名乗る家が残ります。彼らが廻国行者などとして全国をめぐり、金剛院周辺に定着し、周辺地を開発していったということが考えられます。

天念寺境内実測図
現在の天念寺境内実測図
最初に見た「修験者の世俗化」テーマをもう一度考えてみます。
地域社会に修験者が、どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかという問いに対しては、ある研究者は次のように応えています。

「(修験者が)自分の持つ呪術力や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していく戦略」

その戦略は、時代や場所などに応じて変化させなけらばならなかったはずです。その柔軟性こそが、修験者が里修験化できるかどうかの分かれ目となったとも云えます。そんな視点から「修験者の世俗化」を見ると、修験者たちは、農耕や狩猟、漁業、鉱業、交通・医療などに、積極的に関わりをもち、参入していったことが見えてきます。
富山県西部の砺波平野の例を見ておきましょう。
砺波平野の定着修験(里修験)は、次の三つに分類できるようです
①高野聖、廻国聖などの遊芸聖系
②山伏系、
③貧民・落人・漂泊民系
この3タイプは、①の遊芸聖系が中世全般、②の山伏系が中世末から近世初期、③の貧民・落人・漂泊民系が近世前期に定着していきます。定着修験たちは、自分たちの生活のためにも地域の仏事法要や仏事講に携わっていきます。同時に、多数の氏子を獲得できる堂社祠にも奉仕するようになります。例えば具体的に、初夏には「虫除ケ祈疇」という虫送りの民俗と融合した儀礼を執り行うようになります。また「雨乞祈疇護摩札」なども、配布したりするようになります。そして、「農村的歳事年中行事との結びつきにより、山伏は役割的にも村落社会に確実に定着していた」と研究者は指摘します。
 修験者は、農民たちの農耕儀礼に関わることによつて、農村社会での存在価値が高めらいきます。それは、同時に彼らの定着化の大きな原動力になります。定着後は、儀礼執行者として指導性を発揮すよようになります。
 また農民として農耕を行う修験者も出てきます。
新潟県岩船郡山北町搭ノ下の修験であるホウインは、寛文年間(17世紀中葉)にすでに約2反の水田を持ち、後にはそれをい1町歩にまで増やしています。宗教的教導者としての性格よりも、次第に農民化しているようにも見えます。
天念寺周辺行場
天念寺周辺の行場
国東のムラで起こっていたことも、地域へ定着という方向は同じです。
 しかし、地域への定着後のあり方が大きく異なってきます。それは、行場の周辺を開発し定着したことです。さらに、住人の選別を行ったことです。そのため他の地域では、行場から乖離し、里下りした修験者が多くなりますが、国東では行場と一体化した宗教活動が続けられたことです。修験者は、土地持ちの農民としての生活を確保すると同時に、活発な宗教活動を展開する修験者でもあったようでっす。経済的に見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的な環境を作り出してきたひとつの背景になるのではないでしょうか。
 どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。四国の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるようなきがするのですが、史料的に裏付けるものはありません。  
 
天念寺(てんねんじ) | 観光スポット&お店情報 | 昭和の町・豊後高田市公式観光サイト
天念寺無明橋

以上をまとめておくと
①国東の霊山にやってきた修験者たちは行道を行い各地に行場を開いていった
②急峻な岩壁を持つ天念寺耶馬の谷にも修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②その中の大きな岩屋である「長岩屋」周辺に施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③修験者たちは坊を開き、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④屋敷は12坊に編成され、その宗教センターとして神仏混淆の天念寺が建立される。
⑤ここでは「鬼会」を初めとするさまざまな年中行事が、修験者たちによって営まれていくことに⑥修験者たちは、この地に定住した後も峰入りなどを継続して行い、行場から分離されることがなかった。
⑦また明治の神仏分離も柔軟に受け止め神仏混淆スタイルとできるだけ維持しようとした。
⑥そのため独自の国東色を残す宗教的なカラーが受け継がれてきた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
関連記事

宗教荘園と修験道の里 まんのう町金剛院

土器川沿いの主要道を走っているだけでは見えてこない光景が、まんのう町にはいくつもある。そのひとつが金剛院。この地名に隠された謎を解きに行ってみよう。

イメージ 1

県道185号を種子から四国の道の看板に導かれて入っていく。

イメージ 2

法師越の道沿いに何体かの石仏が迎えてくれる。

イメージ 3


法師越の石仏は、この峠を越える人々を見守ってきた。
ところでこの峠を越えたのは、どんな人たちだったのだろう。
地元の人たち以外にも、多くの外部者がここには入ってきたという。
それはどんなひとたちだったのか?
イメージ 4

そのヒントは四国の道の看板が教えてくれる。
それは金剛院集落の中心にあるという。そこに行ってみよう。

イメージ 5

金剛院集落の盆地の中央を走る道に下りてきた。周囲を讃岐独特の丸いおむすび山が取り囲む。
イメージ 6

東に位置するた竜王山を盆地の底から眺める。

イメージ 7

そして目的の金剛院。背後が金華山。

イメージ 8

あぜ道のような参道の横に石塔が建っている。

イメージ 9

数えると十層??? 
上部の三層は傷みがひどいので寺内に移され、今は下部の十層だけここにあるそうだ。
イメージ 10

のんびりとした光景が広がるが、今から1000年前の平安後期から鎌倉にかけては、この地は宗教荘園で、そのセンターがこの金剛寺であったという。

イメージ 11

ここには仏教に因んだ仏縁地名が多い。この寺の裏山は金華山と呼ばれる小山を背景建てられている。周囲からは平安末期の軒平瓦、軒丸瓦が発見てされており、建立はその時期まで遡るとされる。
イメージ 12

 金剛寺の裏山の金華山は経塚群だ。経塚は平安中期から始められて、鎌倉時代に盛んとなった仏教の作善業の一つ。1952(昭和27)年の県教育委員会の調査では、この金華山から陶製の外筒六木・鋳鉄製の経筒五本・鏡一面などの経塚遺物が発掘されたという。そのため金華山全山が経塚であると考えられている。経塚は修験道と関連が深く、ここは金剛寺を中心とした修験道の霊域であったと思われる。

イメージ 13

日本全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経(かんきん)や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行ったことが想像できる。

イメージ 14

さきほど法師谷から下りてきた道路に沿ったあたりが、王迎と別当である.ここには藤尾坊・華蔵坊・中の坊・別当坊・慈源坊・灯蓮坊の地名があり、今はそこにある民家の屋号のようになっている.
 この道から分かれて、少し上がったところにある砂子谷池の上手には御殿という地名があり、池の近くには一泉・法蔵屋敷・坊屋敷・経塚などの地名がある.こうした地名の分布を見ると、中世の大寺院や神社を中心とした宗教荘園が考えられるという。

坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P

行場の一つであった金山神社に行ってみよう。

イメージ 15

栗熊東に抜ける阿弥陀越の林道から明治期に整備された長い長い石段を登ると・・

イメージ 16

金山神社が現れた。
「古今名所図絵」には
「妙見社 炭所東にあり。当社詳細未生、往古は金剛院という寺地なりしが退転の跡、鎮守社の残りしを村民これを拝趨して氏宮とす」
とあり、金剛院の鎮守社で妙見社と呼ばれていたようである。神社の境内からは鎌倉時代の瓦も出土している。
イメージ 17

また、吉野の大宮神社の記録には
「妙見社の御神体は阿弥陀三尊である」
と記されている。明治の廃仏毀釈で三尊の内の観音・勢至菩薩が金剛院に移された。

イメージ 18

 この神社も元々は、猫山の頂上付近にあったと伝えられている。
行者達の行場の一つであったのだろう。猫山から大高見峰に続く行場を「行道」しながら「磐籠」や「龍燈」の行をおこなっていたのかもしれない。そして、行が成就し、写経が終わると次の行場へ向けて出発していく。そういう意味で大山の中廃寺や尾瀬寺とのネットワークの中心部にあたる地位に金剛院はあったのかもしれない。

そんなことを考えながら参道を下り、車道を阿弥陀越えに向かって原付を走らせる。

イメージ 19

 現在の阿弥陀越にはこんな標識があった。
この峠は、鵜足郡栗熊村から金剛院にはいる交通路として藩政期に使用されていた。栗熊西畦田(あぜた)の薬師を祀った丘の麓に、古墳の石室を利用した蒸し風呂があって繁昌した記録があり、一七一七(享保二)年の道標も立っているという。

イメージ 20

ここには幕末期(嘉永)の年号が掘られた石仏が立っていた。

イメージ 21

石仏達は何も語らず、今の金剛寺を見つめていた。

このページのトップヘ