瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > まんのう町の古墳

四条・吉野の開発

まんのう町の吉野下秀石遺跡と安造田古墳群と弘安寺をつなぐ
前回は上のように、洪水時には遊水地化し低湿地が拡がる吉野や四条に、ハイテク技術を持った渡来人が入植し開拓に取りかかったという説を考えて見ました。今回は、吉野下秀石遺跡などを拠点とする指導者が埋葬されたと考えられる安造田古墳群を見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺
まんのう町羽間のバイパス沿いに並ぶ安造田古墳群
安造田古墳群は、まんのう町羽間の国道32号バイパス沿いにあります。土器川対岸に吉野下秀石遺跡があります。
安造田古墳群1

氏神を奉る安造田神社にも、開口する横穴式石室があります。その東側の谷に3つの古墳が造営されています。その中の1つです。これらも「初期群集墳」と考えられます。そして土器川の対岸の吉野下秀石遺跡のカマド付の竪穴式住居と、安造田3号墳は同じ時期に造られています。

安造田東3墳調査報告書1991年

  調査報告書はグーグル検索してPDFでダウンロードすることができます。時系列に発掘の様子が記されていて、読んでもなかなか面白いものになっています。調査書を開くとまず現れるのが次の写真です。
安造田3号墳 出土状況
安造田3号墳 羨道遺物出土状況

須恵器などがほぼ原形のまま姿を見せています。最初見たときに、てっきり盗掘されてないのかと思いました。次に疑問に思ったのは「羨道部の遺物出土状況」という説明文です。石室の間違いだろうと思ってしまいました。ところが羨道で間違いないようです。後世の人物が、石室内部の副葬品を羨道部に移して並べ直していたようです。どうして? ミステリーです。 発掘担当者は、次のように推理しています。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。
②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。
③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。
④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した
⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
  以上からは、8・9世紀頃には、横穴式石室内部で特別な宗教的な儀礼が行われていたのではないかと研究者は推測します。その時に玄室の副葬品羨道部に移されたとします。その結果、ほぼ完形の須恵器約50点や馬具・直刀・鍔が並べられた状態で出てきたことになります。追葬時に移されてここに置かれたのではないと担当者は考えています。
 一方、天井石が落ち土砂が堆積していた玄門部も、上層には攪乱された様子がないので未盗掘かもしれないという期待も当初はあったようです。しかし、土砂を取り除いていくと中央部に乱雑に掘り返した盗掘跡が出てきました。この盗掘穴からは蝋燭片・鉛筆の芯・雨合羽片・昭和30年の1円硬貨が出てきています。つまり、昭和30年以後に、盗掘者が侵入していたことが分かります。しかし、幸いなことに盗掘者は玄室の真ん中だけを荒らして羨道部などには手を付けていませんでした。これは、副葬品を羨道部に移動して、閉塞石をもとにもどした8・9世紀の謎の人物のお陰と云えそうです。
横穴式石室の遺存状況は極めて良好だったと担当者は報告しています。

安造田3号 石室構造
安造田3号墳 石室構造

石室の石材は、この山に多く露頭している花崗岩が使われています。担当者は、その優れた技術を次のように高く評します。
 「石室は小振りではあるが構築状況は見事」
玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。

本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。

担当者は、ハイレベルな土木技術を持った集団による構築とし、その集団のルーツを「九州文化系勢力」としています。しかし、これを前回見た吉野下秀石遺跡のカマド付竪穴住居や韓式須恵器や、この古墳の副葬品と合わせて見れば、ここに眠っている被葬者は渡来人のリーダーであったと私は考えています。
安造田3号墳 出土状況2
安造田3号墳 羨道部出土状況
羨道の副葬品を見ていくことにします。
須恵器は、南西側の壁沿いに整然と並べられていました。須恵器が多く、その他には、 土師器、馬具(轡金具・鐙・帯金具)、武具(直刀)・装飾品(銀環・トンボ玉・ガラス製臼玉・ガラス製小玉)など多種豊富で「まるで未盗掘の玄室を調査しているかの様相」だったと担当者は記します。直刀と鍔については、他の遺物と分けて北西壁沿いに置かれていました。時期的には、須恵器の形態的特徴から6世紀後半のものと研究者は考えています。これは最初に述べたように、吉野開拓のために吉野下秀吉遺跡が姿を見せるのと同時期になります。
まず完形品が多かった須恵器を見ていくことにします。
安造田3号 杯身
1~ 6・ 8~13は杯蓋、 7・ 14~20は杯身。出土した須恵器全体の量からすれば杯の数は以外に少ない
安造田3号 高杯

21~24は高杯。
25・26は台付き鉢。25は珍しい形態で胎土・焼成とも他の遺物と異なる。他所からの運び込み品?

安造田東3墳 高鉢
28~32は透かしを持つ長脚の高杯、28のみ身部が深く櫛目の模様を持つ。

安造田3号 高杯の蓋
                   有蓋高杯の蓋
33~41は有蓋高杯の蓋。37は欠損部分に煤が付着しており、灯明皿に転用された痕跡を残している。再利用された時期は不明であるが、開口部からの出土であり、中世頃の侵入者の手による可能性がある。

安造田3号提瓶 
48~50は提瓶。肩部の把部はいずれも退化が進んでいる。

安造田3号 台付長頸壺
52~54は台付長顕壷。52の口縁部にはヘラ磨き状の調整、体部にはヘラによる連続刻文の装飾が認められる。また脚部に円形の透しがあり、胎土・焼成ともに他の遺物とは異なる。
安造田3号 甕

55は甕。
56・ 57は短頸壺の蓋。2点の形態は異なり、57にはZ形のヘラ記号が認められる。
58~62は短頸壺、58の肩上部から頸部にかけて(3本の平行線と交わる直線)と59の顎部にそれぞれヘラ記号(鋸歯状文)が認められる。
安造田3号
63~67は平瓶、65の肩部にはコの字形のヘラ記号が認められる。

安造田3号 子持ち高杯
68は子持ち高杯で、蓋も4点(69~72)出土。
これは県下での出土例は少なく、完全な形での出土例はないようです。同じようなものが岡山市 冠山古墳から出ていますので見ておきましょう。

子持ち高杯岡山市 冠山古墳出土古墳時代・6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ 
岡山市 冠山古墳出土 6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ (東京国立博物館蔵)
   東京国立博物館のデジタルアーカイブには次のように紹介されています。

  「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)

安造田3号 台付三連重
 73は台付三連重。
上部は一部分しか残っていませんでしたが、復元するとこのような形になるようです。使われている粘土や焼成は先ほどの子持ち高杯(68)と同じで、脚部の形もよく似ています。同一工房の製品と研究者は考えています。このような当時のハイテクで造られた流行品をそろえるだけの力がこのグループにはあったことがうかがえます。ただものではありません。須恵器は墳丘上からも多数出土しているようですが、その多くは大型の甕の破片です。当初から埴輪的なモノとして墳丘に置かれていたと研究者は推測します。
羨道部からは多数の武具・馬具類も出土しています。
安造田3号 馬具
安造田3号墳の馬具

轡金具(108・109)や兵庫鎖(106・110)・帯金具(119)などです。これらの馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。以前に見たまんのう町の町代3号墳や、山を超えた綾川中流の羽床古墳群、さらには善通寺勢力の首長墓である大墓山古墳や菊塚古墳からも同じような馬具類が出ています。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保と、その飼育・増殖でした。町代や安造田・羽床の被葬者は、周辺の丘陵地帯を牧場として馬を飼育・増殖する「馬飼部」でもあったこと。そして非常時には善通寺勢力やヤマト政権下の軍事勢力に組み込まれたことが考えられます。そんな渡来人勢力が善通寺勢力の下で丸亀平野南部の吉野や長尾に入植して、湿地開拓や馬の飼育を行ったと私は考えています。
安造田3号 出土鉄器
横穴式石室下層埋土のふるいがけで、刀子・帯金具・鉄鏃・刀装具なども出土しています。

モザイク玉 安造田東3

さらにこの古墳を有名にしたのは、副葬品中のモザイクガラス玉です。これは2~4世紀頃に黒海周辺で制作されたものとされます。貴重品価値が非常に高い物だったはずです。同時に、同時期の同規模の古墳から比較すれば副葬品の質、量は抜きんでた存在です。古墳の優れた土木技術による築造などと併せると、ただものではないという感じがします。これらの要素を総合して考えると、ハイテク技術と渡来人ネットワークをもった人物や集団が丸亀平野南部に入植していたとになります。

前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎) 

最後に報告書を読んでいて私が気になったことを挙げておきます。
安造田3号 墳丘面の弥生土器の破片
安造田3号墳の墳丘面出土の弥生土器小片
墳丘調査のためのトレンチ掘削した際に、版築土層中から多量の弥生土器をはじめ石鏃や石包丁片などが出土していることです。土器は殆どが表面に荒い叩き目を持つ小型の甕の破片で、底部や口縁部の形から弥生時代後期末頃のものとされます。墳丘の版築土として使用されている土は、周辺の土です。その中に、紛れ込んでいたようです。周辺の果樹園や畑の中にも、同様の小片が多数散布しているようです。ここからは、この古墳周辺に弥生時代後期頃の遺構があることが推定できます。弥生時代後期には、羽間周辺の土器川右岸(東岸)には弥生時代の集落があった可能性が高いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    
安造田東3号墳 調査報告書
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    まんのう町の古墳を見ています。今回は長尾の町代地区の圃場整理の際に調査された古墳と遺跡を見ていくことにします。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長尾の町代遺跡と古墳群

町代2号墳
町代2号墳

ここにはもともと古墳とされる塚(町代2号墳)があり、その上に五輪塔が置かれるなど、地元の人達の信仰対象となっていたようです。

町代2・3号墳
町代2号墳と3号墳の位置関係
そこで発掘調査の際に、古墳周辺の調査が行われると、新たな古墳(町代3号墳)と住居跡が出てきました。

町代3号墳石室

近世になって耕地化された際に、上部石組みが取り除かれて、2・3段目の石組みと床面だけが残っていました。その上に耕地土壌が厚くかけられたために、床面などはよく保存された状態だったようです。そのため多くの遺物が出てきました。その中で注目されるのが鉄製武具と馬具です。町代3号墳について見ておきましょう。
町代3号墳平面図
町代3号墳平面図
町代3号墳の内部は、中世には住居として使用されていたようです。
その周濠は中世には埋没しています。また、周辺からは中世の住居跡も出ています。ここからは古墳周辺が中世には集落として開発されたことが分かります。その頃は3号墳の石室は、まだ開口していので住居として利用されたようです。その後、江戸時代初期前後頃に3号分は石室を破壊して耕地化をが進められたという経緯になります。それに対して、2号墳は信仰対象となり、そのまま残ったということのようです。おおまかに2つの古墳を押さえておきます。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。
⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造
③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない
④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。
⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない
⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
町代3号墳石室遺物
町代3号墳の遺物出土状況 番号は下記の出土遺物

町代3号墳の古墳の特徴は、多彩な鉄製品や馬具のようです。

町代3号墳鉄製遺物
町代3号墳の鉄製武具NO1

126~135は鉄尻鏃
126~128は鏃身外形が長三角
127・128は直線状。128は大型。
129は鏃身外形が方頭形
130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く
131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着
134・135は鏃身外形が腸快の逆刺
136~130は小刀と思われるが、いずれも破損

町代3号墳鉄製遺物2
            町代3号墳の鉄製武具NO2
140に木質痕が認められる。
146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土
147~149は、か具である。148は半壊、
147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式

町代3号墳馬具

                 町代3号墳の馬具

150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土
151・152も轡。
155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。
156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。

町代3号墳鉄製遺物3
                   町代3号墳の鉄製品
157は4ヶ所の鋲が認められる。
159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。
160は平面卵形で、断面が非常に薄い。
161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
これらの馬具は、どのように使用されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが善通寺郷土資料館の展示です。
1菊塚古墳
善通寺の菊塚古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)

善通寺大墓山古墳の馬具2
大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
ガラス装飾付雲珠・辻金具の調査と復元| 出土品調査成果| 船原 ...
これは馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。ここからは町代遺跡周辺の勢力が善通寺の大墓山や菊塚に埋葬された首長となんらかの関係を持っていたことがうかがえます。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保であったとされます。それを手にした誇らしげな善通寺勢力の首長の姿が見えてきます。同時に、町代の勢力はそれに従って従軍していたのか、或いは「馬飼部」として善通寺勢力の下で丸亀平野の長尾に入植して、馬の飼育にあたった渡来人という説も考えられます。
辻金具 馬飾り
辻金具

香川県内で馬飾りである辻金具・鏡板が一緒に出ているのは次の3つの古墳です。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳
B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳
C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
辻金具だけ出土しているのが大野原町縁塚10号墳の1遺跡、
鏡板だけ出土している古墳は次の7遺跡です。
大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体
高松市夕陽ケ丘団地古墳
綾川町浦山4号墳
観音寺市上母神4号墳
 同  黒島林13号墳
 同  鍵子塚古墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。
以上をまとめておきます。
①古墳中期になると丸亀平野南部の土器川左岸の丘陵上に、中期古墳が少数ではあるが出現する。
②善通寺の有岡の「王家の谷」に、6世紀半ばに横穴式石室を持つ前方後円墳の大墓山古墳や菊塚古墳が築かれ、多くの馬具が副葬品として納められた。
③同じ時期に、まんのう町長炭の町代3号墳からも馬具や馬飾り、鉄製武器が数多く埋葬されてた。
④同時期の綾川中流の羽床盆地の浦山4号墳(綾川町)からも、武具や馬具が数多く出土する
⑤これらの被葬者は、馬が飼育・増殖できる渡来系の馬飼部で、小軍事集団のリーダーだった
⑥快天塚古墳以後、首長墓が造られなくなった綾川中流の羽床盆地や、それまで古墳空白地帯だった丸亀平野南部の丘陵地帯に、馬を飼育する小軍事集団が「入植」したことがうかがる。
⑦それを組織的に行ったのが羽床盆地の場合はヤマト政権と研究者は推測する。
⑧善通寺勢力と、丸亀平野南部の馬具や鉄製武具を副葬品とする古墳の被葬者の関係は、「主従的関係」だったのか「敵対関係」だったのか、今の私にはよく分かりません。

羽床盆地の古墳と綾氏

古墳編年 西讃

古墳編年表2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町古墳3
HPTIMAGE

丸亀平野南部の古墳群は、土器川右岸(東岸)の丘陵の裾野に築かれたものが多いようです。
これは山間部を流れてきた土器川が、木ノ崎で解き放たれると暴れ川となって扇状地を形作ってきたことと関係があるようです。古墳時代になると土器川の氾濫の及ばない右岸エリアの羽間や長尾・炭所などに居住地が形作られ、その背後の岡に古墳が築かれるようになります。丸亀平野南部のエリアには前期の古墳はなく、中期古墳もわずかで公文山古墳や天神七ツ塚古墳などだけです。そのほとんどが後期古墳です。この中で特色あるものを挙げると次の通りです。
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳
②「一墳丘二石室」の佐岡古墳
③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳
④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

私が気になるのは③の断頭古墳と樫林清源寺1号墳です。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長炭の土器川右岸の古墳群(まんのう町HP まんのうマップ)

それは石室が美馬の『断の塚穴型』の系譜を引くと報告されているからです。丸亀平野南部は、阿波の忌部氏が開拓したという伝説があります。その氏寺だったのが式内社の大麻神社です。阿波勢力の丸亀平野南部への浸透を裏付けられるかもしれないという期待を持って樫林清源寺1号墳の調査報告書を見ていくことにします。

樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳

この古墳の発掘は、長尾天神地区の農業基盤整備事業にともなう発掘調査からでした。1996年12月から調査にかかったところ、いままで見つかっていなかった古墳がもうひとつ出てきたようです。もともとから確認されていた方を樫林清源寺1号墳、新たに確認された古墳を樫林清源寺2号墳と名付けます。
樫林清源寺1号墳4
                樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳について報告書は、次のように記します。  
樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳 石室構造
埋土中からは黒色土器A類、須恵器壺等が出土しているので7世紀初頭の造営
⓵円墳で、大きさは12m前後
⓶墳丘天頂部の盛土が削られ、平坦な畦道となるよう墳丘上に盛り土がされている。
③墳丘上からは、鎌倉・室町時代前後の羽釜片が出土。
⑤墳丘構築は、自然丘陵を造形し、やや帯状で版築工法を用いている。
⑥横穴式石室で、玄室床面プランは一辺約2m10 cmの胴張り方形型
⑦高さは約2m30 cm、持ち送りのドーム状
ドーム状石室については、報告書は次のように記します。
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」

⑧石材は、ほとんどが河原石。一部(奥壁基底石及び側壁の一部)に花崗岩
⑩羨道部は長さ3m60 cm、幅lm10~2 0cm、小石積みであり、羨道部においても若千の持ち送り
⑪天丼石は持ち送りのため、2石で構成。
⑫床面は、直径2 0cm前後の平たい河原石を敷き、その上に1~2 cm大の小石をアットランダムに敷き、床面を形成していた。
⑬排水溝は、石室の周囲を巡っていたが、羨道部では確認できなかった。
⑭遺物については玄室内から、外蓋・身、高杯不蓋・身、小玉、切子玉、管玉、勾玉、なつめ玉、刀子、鉄鏃、人骨歯が出土
樫林清源寺1号墳 石室内遺物
           樫林清源寺1号墳 石室内遺物
⑮羨道部からは、土師器碗、提瓶、鈴付き須恵器(下図右端:同型の出土例があまりないので、器形については不明)が出土。
樫林清源寺1号墳 羨道遺物

         樫林清源寺1号墳 羨道の遺物

樫林清源寺1号墳 鈴付高杯
                   鈴付き須恵器
『鈴付き高杯』については。
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。

「近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長」とは、具体的にどんな首長なのでしょうか?
それと「持送りのドーム状天井」が気にかかります。以前に見た段の塚穴古墳をもう一度見ておきましょう。

郡里廃寺2
徳島県美馬市郡里(こおり)周辺の古代遺跡 横穴式巨石墳と郡衙・白鳳寺院・条里制跡見える
美馬エリアは、後期の横穴式石室の埋葬者の子孫が、律令期になると氏寺として古代寺院を建立したことがうかがえる地域です。古墳時代の国造と、律令時代の郡司が継承されている地域とも云えます。
段の塚穴古墳群の太鼓塚の横穴式石室を見ておきましょう。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
たしかに林清源寺1号墳の石室構造と似ています。阿波美馬の古墳との関連性があるようです。

段の塚穴古墳天井部
太鼓塚古墳の天井部 天井が持送り構造で石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」
共通点は、石室が持ち上がり式でドーム型をしていることです。

郡里廃寺 段の塚穴

この横穴式石室のモデル分類からは次のような事が読み取れます
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
②ドーム型天井をもつ古墳は、美馬郡の吉野川沿いに拡がることを押さえておきます。そのためそのエリアを「美馬王国」と呼ぶ研究者もいます。その美馬王国とまんのう町長炭の樫林清源寺1号墳は、何らかの関係があったことがうかがえます。
「ドーム型天井=段の塚穴型石室」の編年表を見ておきましょう。
段の塚穴型石室変遷表

この変遷図からは次のようなことが分かります。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。
②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。
樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
以上からは6世紀中頃から7世紀にかけて「美馬王国」の勢力が讃岐山脈を超えて丸亀平野な南部へ影響力を及ぼしていたことがうかがえます。

2密教山相ライン
中央構造線沿いに並ぶ銅山や水銀の鉱床 Cグループが美馬エリア
三加茂町史145Pには、次のように記されています。
 かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  三加茂の丹田古墳や美馬郡里の段の穴塚古墳などの被葬者が首長として出現した背景には、周辺の銅山開発があったというのです。銅や水銀の製錬技術を持っているのは渡来人達です。
古代の善通寺王国と美馬王国には、次のような交流関係があったことは以前にお話ししました。
古代美馬王国と善通寺の交流

③については、まんのう町四条の古代寺院・弘安寺の瓦(下図KA102)と、阿波立光寺(郡里廃寺)の瓦は下の図のように同笵瓦が使われています。
弘安寺軒丸瓦の同氾
まんのう町の弘安寺と美馬の郡里廃寺(立光寺)の同版瓦
ここからは、弥生時代以来以後、古墳時代、律令時代と丸亀平野南部と美馬とは密接な関係で結ばれていたことが裏付けられます。それでは、このふたつのエリアを結びつけていたのはどんな勢力だったのでしょうか。
最初に述べた通り、忌部伝説には「忌部氏=讃岐開拓」が語られます。しかし、先ほどの忌部山型石室分布からは、忌部氏の勢力エリアは麻植郡でした。美馬王国と忌部氏は関係がなかったことになります。別の勢力を考える必要があります。
 そこで研究者は次のような「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。その具体的な勢力が佐伯直氏だと考えています。そのことの当否は別にして、美馬王国の石室モデルであるドーム型天井を持つ古墳が7世紀にまんのう町長炭には造営されていることは事実です。それは丸亀平野南部と美馬エリアがモノと人の交流以外に、政治的なつながりを持っていたことをうかがわせるものです。
以上をまとめておきます。

古代の美馬とまんのう町エリアのつながり

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳 満濃町教育委員会1996年
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