瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の戦国時代 > 秀吉の四国平定

「秀吉の四国平定」の讃岐侵攻については、「黒田家譜」や「改選仙石家譜』、「森古伝記」などの編纂資料を比較すると、多少のちがいはありますが、その推移はほぼ一致します。それを整理すると次のようになります。

四国征伐・宇喜多軍
           宇喜多軍の進撃ルート 讃岐を通過して阿波へ (黒 毛利軍)

秀吉の四国出兵 讃岐方面

ここからは東讃では、長宗我部方の抵抗はほとんどなく、短期間で軍事行動は終わったようです。宇喜多勢が植田城を放置して阿波に転戦できた背景には、讃岐東部には十河氏や安富氏をはじめとす反長宗我部勢力がいたことがあげられます。放置して通過しても、十河・安富氏がいるから大丈夫と判断したからでしょう。長宗我部軍による東讃制圧から僅かに期間で、地に根を支配体制がまだ出来上がっていなかったと研究者は考えています。
それを裏付けるものとして、秀吉軍の上陸を手引きをした香川郡の横井氏がいます。
横井家家系 丸亀市今津
羽柴軍を手引きした横井氏の系図

横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住んで、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主がこれ戦ったことが分かる文書もあります。そして秀吉軍の四国侵攻の際には、その手引きをしたことを示す文書も残っていることは以前にお話ししました。そのことが記されているのは天正13(1585)年5月4日付けの横井家当主の丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。ここからは横井氏が小豆島に亡命中の安富氏や十河氏と連絡をとりながら諜報活動等を行っていたことが見えて来ます。横井元正は、この書状を受け取ると同時に、仙石氏の屋島上陸作戦に備えるための行動を開始したことでしょう。そして、長宗我部方の城の情報なども伝えたのでしょう。このような反長宗我部方の土豪たちが東讃には数多くいたようです。ここからも長宗我部元親による東讃支配は不安定だったことがうかがえます。
 こうして屋島に上陸した宇喜多直家軍は、限定的な戦闘だけで阿波に転戦していきます。阿波が主戦場で、讃岐は通過のみのような印象を受けます。このように軍記ものに出てくる秀吉の讃岐侵攻は東讃だけが舞台で、それも植田城を放置しての「通過」として記されています。
書かれていない西讃方面は、どうだったのでしょうか? 
 具体的には、長宗我部氏と親族関係を結び同盟関係にあった天霧城主香川氏に対しては、秀吉はどのような対応をとろうとしていたのでしょうか? 従来は、秀吉の四国出兵の際の讃岐攻めは、東讃だけが想定戦闘エリアとされてきました。つまり、香川氏に対しては、兵力を差し向ける意図もなかったというのです。それに再考を求める【史料】を見ておきましょう。
前回も見た毛利方の吉川元長が国元に送った書簡には、次のように記されています。
毛利軍の天霧城攻撃目標設定史料

意訳変換しておくと

「また阿波方面については、羽柴軍が一宮・岩倉・脇城を取り囲んでいるが、これらも近日中には落城するだろう。そうすれば、(香川氏の居城である)雨霧城にも兵を差し向けることになろう。それで、阿波・讃岐・伊予の三国共に決着することになる。

ここには阿波戦線が片付けば、香川氏の居城雨霧(天霧)城への攻撃も予定されていたこと、そして香川氏を叩いて、四国平定の決着をつけると認識していたことがうかがえます。しかし、天霧城攻めは、それよりも先に長宗我部氏が降伏したために実行されませんでした。それでも和議成立後の8月には、羽柴秀長と小早川隆景が実際に「西讃岐」まで赴いて、香川氏と面会したようです。ここからは秀吉の戦略上の想定に讃岐西部が含まれていたと研究者は判断します。

香川氏の安芸亡命
香川氏は天霧城落城後、毛利を頼って安芸亡命 帰国は元吉合戦の時であった。

それでは香川氏は、羽柴軍や毛利軍の動きをどのように警戒していたのでしょうか?
三野郡の秋山氏に宛てた(香川)四郎五郎の書状を見ておきましょう。
毛利氏の伊予侵攻 香川氏の警戒

意訳変換しておくと
 戦況に対する情報がもたらされたので伝えておく。秋山氏が派兵した兵力について、早々の帰還についてを羽久地(白地)の長宗我部元親にお伺いしたところ、近々に帰還予定とのことであった。なお、油断することなく細心の対応をすること。櫓などの修築なども怠らないこと。観音寺方面の情勢については、油断のないように注視・対応すること、新居・西条あたりからは今朝より、兵火が上がっているようだ。伊予方面の情勢を今後も注意深く見守ること。
 与岐(余技崎)・ミの(箕浦)浦に煙(狼煙)が立ちのぼっているという報告も受けているが、その実態は分からない。観音寺については、主人が留守でであるので、その動向を注視したい。三孫(三野氏)へも、その旨のことを伝え、警固を強化するように指示した。明日にも、柞田・観音寺方面で軍事的な動きが発生することも考えられる。西表之衆(反長宗我部勢力?)が集結し、進軍してくることもありえる。そのために観備(観音寺香川氏)と連絡を取り、協議しておく必要ある。与次兵が帰還して、詫間衆へは連絡がついている。大見(秋山氏?)には番衆を派遣した。 くれぐれも貴所次第被相談候へと被仰候、其御心得候て、可然様御才覚肝要候、西表之事も其分別たるへく可被仰談候、恐々謹言、      
 (天正十三(1585年) 七月十九日                                (香川)四郎五郎(花押)
(秋山)木工御宿所
ここからは次のような情報が読み取れます
①天霧城の香川氏の関係者である「四郎五郎」から、三野の秋山氏(木工)への書簡であること。
②毛利軍の伊予上陸で戦闘が激化し、新居・西条あたりで火災が起きていること
③伊予との国境の与岐(余技崎)・ミの浦(箕浦)からの煙(狼煙?)が上り、三豊地方に軍事的な警戒感が強まっていること
④「三孫(三野氏)」や「観備観音寺(香川)備前守)」を、香川氏配下の自軍の者としてあつかっていること
⑤それに対して、観音寺方面の軍勢を「西表之衆」と呼んでいる
⑥香川氏が派遣した軍勢の帰還に「羽久地(白地=長宗我部元親)」の指示が必要になっていること、

天霧城3
香川氏の天霧城
西方で発生した兵火が新居や西条方面ものであることは、日付からみて金子元宅が籠る高尾城攻めの戦火と研究者は考えています。その根拠は次の通りです。
A 金子氏の高尾城落城は17日夜の出来事である(【史料】「十七日亥刻落去仕候」)
B 翌18日以降にもたらされ伊予東部の異変に関する報告
C その報告への返書が、19日付のこの四郎五郎書状
つまり、この史料に年紀は入っていませんが、天正13(1585)年のものと研究者は判断します。この香川氏の書簡からは、毛利勢が伊予制圧後に讃岐方面に東進してくるのではないかと警戒を強めていたことが分かります。そして、配下の三野氏や秋山氏、「観備観音寺(香川)備前守)」と連絡を取り合いながら、軍勢配置を確認するとともに、防御施設の準備を進め、毛利軍の侵攻に備えています。ちなみに観音寺方面の敵対する軍勢を「西表之衆」と表記しています。これがどのような勢力を指すのかも、今の私には分かりません。
 この史料からは、秀吉の「四国平定(出兵)」が今まで言われてきたように、讃岐東部に限定した作戦でなかったことが分かります。東讃を通過した宇喜多勢は、一旦阿波へ転戦しますが、長宗我部氏の出方次第で、香川氏を攻めるために西讃にやってきて、三豊も戦場となる可能性があったのです。このあたりのことは、南海通記などの軍記ものでは何も触れていません。

 次に、秀吉が戦後の讃岐支配について、どんな指示を出していたかを見ておきましょう。
  8月4日ニ「秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に書状で伝えています。その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)

一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、
意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)

一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、国衆で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行として与えること
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと

仙石秀久に讃岐を与えることが指示されています。そして、与力として、安富氏と十河氏をつけるとことが記されています。しかし、占領した緒城の扱いなどについては何も触れていません。これについては、各地の城についてまで詳細な指示を出していた阿波の戦後占領方針とは対照的なことを押さえておきます。
 こうして讃岐には秀吉の命を受け仙石秀久が入部しています。仙石氏は、最初は宇多津の聖通寺城に入城し、讃岐東部に拠点をもつ十河氏、安富氏を与力とします。
それでは、無傷のままに接収した天霧城はどうなったのでしょうか?
先ほど見た史料の中に「讃州■吉・雨霧可取懸との由候」とあったように、天霧城攻めが当初の攻撃目標にリストアップされていたことは確かです。しかし、無傷で残った天霧城を、仙石氏が活用したという痕跡はありません。
 ここからは、秀吉の西讃への軍事行動は城主香川氏を標的とした作戦であったと研究者は考えています。その背景には、長宗我部元親の次男が香川氏を継いで、長宗我部元親の同盟軍として讃岐制圧を行ったことへの報復・見せしめ的なものではなかったかと云うのです。それは、前回見た伊予の金子氏と同じ立場であったことになります。そうだとすれば、香川氏は秀吉に降伏しても、厳しい措置が待ち受けていたはずです。その後の仙石氏や生駒氏に登用される道も閉ざされていたことになります。在野に下っても、「長宗我部元親の手先」として厳しい世間の目が待ち受けていたことになります。香川氏が、土佐に亡命するという道を選んだのも納得できます。ここでは、予定されていた天霧城攻撃も伊予東部と同様に、拠点確保ではなく、香川氏を標的とした作戦であったこと。それを知っていた香川氏はいち早く土佐に落ちのびたことを押さえておきます。
こうしてみると秀吉の対讃岐戦略には、東讃と西讃では異なる戦略方針があったことがうかがえます。
東讃では、出兵の前から十河氏や安富氏などの羽柴方に味方する勢力が根強く残っていました。そのため屋島に上陸した宇喜多軍が直面したのは、長宗我部勢を牽制する程度の局地戦にとどまりました。そして、上陸後は植田城を無視して、短期間で阿波の木津城攻めに合流しています。ここからは羽柴軍の当初の戦略は、讃岐よりも阿波の制圧を優先したことがうかがえます。
 一方、長宗我部方の香川氏が支配した西讃については、毛利軍が天霧城攻めが計画していました。そのため元親の降伏が遅れれば、西讃は戦場となり、天霧城をめぐる攻防戦が展開された可能性があったと研究者は考えています。
 平井氏は毛利氏の伊予侵攻について、次のように述べています。

「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」「秀吉にとっ四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」

 藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

以上を要約・整理しておきます。
①秀吉は讃岐制圧のために宇喜多直家を大将とする軍を小豆島を拠点に送り込んできた。
②宇喜多軍は屋島に上陸して、最小限の限定的な戦闘だけで阿波に転戦した。
③ここには秀吉とって、四国平定の主戦場は阿波にありと認識されていたことがうかがえる。
④宇喜多軍の屋島上陸で、安富氏・十河氏など反長宗我部の諸勢力が抵抗が活発化して、讃岐は放置しても脅威にはならないと判断したのかもしれない。
⑤一方、天霧城の香川氏の対応については、従来の軍記ものは何も語たらず、土佐に亡命したことだけが記される。
⑥しかし、毛利側の戦略には新居浜・西条制圧後は、東進して天霧城を攻めることが予定されていた。
⑦それは、香川氏が秋山氏に送った書状などには毛利軍の動きと、戦闘準備の対応策が記されていることからも裏付けられる。
⑧しかし、長宗我部元親は早期に降伏し、香川氏は土佐に落ちのびることを選択した。
⑨無傷で残った天霧城は放置され、これを仙石氏や生駒氏が活用した痕跡は見られない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

毛利の伊予出兵は、秀吉の戦略方針・指示のもとにおこなわれたと研究者は考えています。毛利氏は秀吉から、4月の段階で伊予方面の担当を命じられ、さらに5月下旬には、次のような指示を安国寺惠瓊を通じて受けています。
「仍動方角之儀、以安国寺従羽筑被申候間、至上伊予新居・宇摩郡諸勢差渡候」

意訳変換しておくと
「伊予方面への兵力派遣については、安国寺惠瓊が羽筑秀吉より指示された通り、伊予新居・宇摩郡方面へ差し向けること」

ここからは「秀吉 → 安国寺恵瓊」というルートを通じて、新居・宇摩郡へ侵攻するよう指示を受けていたことが分かります。なぜ新居・宇摩郡だったのでしょうか? それは後ほど見ることにして、先に進みます。
 五月下旬の時点で、小早川隆景はすでに出港準備完了段階だったようです。しかし、先述したように、秀吉と長宗我部氏の国分案に毛利氏(特に小早川隆景)が強く反対し、水面下での交渉は難航し、出兵が伸びます。最終的に小早川隆景が毛利勢を率いて伊予に渡したのは、1ヶ月後の6月27日のことでした。この時には、秀吉から伊予一国領有の確約を得ています。伊予戦線の簡単な経緯は、次の通りです。
四国征伐・毛利軍
毛利軍の進撃コース
秀吉の四国出兵 伊予方面NO1

 ここからは毛利軍がまず目指したのが新居郡の金子元宅の城であったことが分かります。金子氏を撃破した後に、東の川之江方面、西の今治・松山方面に進撃しています。
毛利家と吉川家
そのことを押さえた上で、小早川隆景の甥の吉川元長の書状をもとに伊予の戦いをみていくことにします。
毛利氏の伊予侵攻 吉川氏の書状

 意訳変換しておくと
 現在は、土州長宗我部征伐のために、(川之江の)仏殿城から六里ほどに後備えとして布陣している。今までの経過を述べると、日に今治に着岸し、そこで叔父の小早川隆景と今後の方針を協議した。そして竹子まで進軍し、陣を敷いた。14日に高尾城と丸山城を包囲し、出城の丸尾城は当日に落城させた。高尾城も、その日のうちに攻め落とそうとした。しかし、隆景公が云うには、この先の数ヶ所の城には、土佐勢が入って加勢してるので士気も高く、強引に攻めるとこちら側の負傷者も増え、今後の戦闘に支障がでるかもしれません。そこで、翌日十五日から仕寄戦法を採用して、負傷者が出来るだけでないようにしながら、戦意高揚を図った。その結果、17日亥刻に落城させた。城内の金子(元宅)備後守を始め、六百余の兵を打果した。これを見て、高峠・近藤しやうし山・小城・岡崎・金子本城の兵は戦わずして逃亡した。下伊予方面の五つの城からも兵は逃走し、今では川之江の仏殿城だけが残っている。これも近々に落城するであろう。
 長宗我部元親の籠もる本陣がどこに置かれているのかが分からない。ちなみに今張津(今治湊)から高尾城までは道前と云う。そして、このあたりは新居郡と呼ばれる。これは宇摩郡の仏殿城を境に、阿波や讃岐と国境を接する。現在、阿波の一宮・岩倉・脇城は羽柴軍が攻城中であるが、近日中には落城するであろう。
 また讃州方面の雨霧城へも進軍して取り囲む予定である。阿波・讃岐と伊予の境界の戦いも、今少しで決着がつくであろう。そうすれば急ぎ帰陣し、みなを安心させることができよう。又某気分きとくニ能候、今日迄ハ如形候、可御心安候、定而無御心元可被思召と存、申上事候く、万慶重畳可得尊慮候、恐惶敬白、(天正十三年)
 七月廿七日                     元長(花押)
ここには今治に上陸し、先に渡海した小早川隆景らと合流しています。そして、まっすぐに新居郡の金子氏が籠る高尾丸山両城に攻めかかっています。そして、「仕寄」戦法で攻め寄り、17日の夜に高尾城を落城させ、金子元宅をはじめ六百余名を討ち取ったと伝えます。

高尾城と金子氏


 伊予東部における中心的人物であった金子元宅が討ち取られたことは、長宗我部方の諸将にとっては大きな衝撃だったようです。高尾城の落城後、高峠城・近藤城生子山城や小城・岡崎城・金子城の諸城、さらには「下伊予(伊予東部より西側の地域を指すか)」の拠点も「退散」したとしています。つまり戦わずして逃げたようです。
 一方、近世編纂の地誌「西條誌」には、周辺寺社が戦火の被害を受けたという伝承が多数残されています。ここからは高尾城や金子氏の本拠の金子城の周辺では小規模な戦いが継続した模様です。その後、毛利勢はさらに東進を続け、七月末の頃には予讃国境に近い宇摩郡川之江の仏殿城を取り囲みます。
金子山城(新居浜市)
 伊予の高尾城攻めにおいても阿波と「仕寄」を用いて敵城を包囲する作戦が採用されています。しかし、阿波とは異なる点は、包囲して籠城軍を疲弊させるのではなく、積極的に城を攻撃する所に主眼が置かれていることです。毛利軍は、短期に伊予を制定する方針だったことがうかがえます。

秀吉の四国出兵 伊予方面金子氏g
毛利軍の伊予出兵と金子氏の抵抗

毛利軍は
新居郡の高尾城高峠城金子城を次々と攻め落とし、宇摩郡に転進して仏殿城を攻め落とします。しかし、長宗我部元親が降伏したこともあって終戦となります。そのため毛利軍が讃岐に進行することはありませんでした。仏殿城には吉川元長が城主として入り、天正14年(1586)には福島正則の持ち城になりますが、その後に廃城となり、現在はその跡地に「川之江城」が建っています。

川之江城 - お城散歩
仏殿城(現川之江城)
伊予の戦後処理について、秀吉の指示書を見ておきましょう。
  一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉・くろた官兵衛両人差遣、城々請取、小早川二可相渡、自然何かと申延城を不渡輩在之ハ、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻悉成敗可被申付旨、小早川懇二可申渡旨、両人二可被申付事
一、いよの国城ともさかい目かなめの城と申て、自然わたし候てハ如何と、はちすか彦右衛門尉・黒田官兵衛秀吉かたへ可尋事も可在之候、早与州儀ハ小早川へ出置候上、何たるおしき城成とも与州の内ならハ、此方へ不得御意、請取次第毛利かたへ可相渡候事、
〔十六十七条目略)
意訳変換しておくと
 一、伊予へは蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛の両人を城の受取役として派遣する。その後、両人から小早川に引き渡すこと。この際に、何かと不平を述べて占領した城を渡さない者も出てくることも考えられる。その際には、後代の見せしめに、毛利家の取巻連中であろうとも成敗することを申付ける。この件については、小早川にも両人にこのように伝えていることを言い含めておく。

一、伊予の国城であるとか、重要な城であるからと言い訳して、蜂須賀彦右衛門尉や黒田官兵衛秀吉に引き渡すのは如何なものかという者も現れるかもしれない。その際は、伊予は小早川が領有するするという決定なので、どんな城でも伊予の城なら受け取り次第に毛利方へ渡すこと。

伊予では、蜂須賀正勝・黒田孝高が諸城を請け取り、小早川隆景に渡すことが第十四条に定められています。十五条には、どんなに重要な城であっても秀吉の許可を得るまでもなく、請け取り次第に毛利に渡すべきことが重ねて指示されています。ここでは、伊予では、阿波とちがって、「どの城を残して整備しろ」などという、具体的な城郭整備についての指示は何もありません。新しく統治担当者となる小早川氏に委ねる方針だったのでしょう。

七月十四日の小早川隆景からの高尾・丸山両城攻めの報告に対する羽柴秀吉の返書を見ておきましょう。
(天王十三) 去十四日之書状、今日廿一至大坂到来、令披見候、
一、州内金子城被取卷候之?、為後卷長曾我部人数出候処、則被及一戦、切崩、数多被両城被乗捕之誠御手柄之段、昔中難中尽候事(*)
一、其表弥被申付、新広・宇麻郡へ被相移、阿讃在陣候美濃守可被仰談旨尤候、無越度様行専用候、永陣之儀不苦候条、可被得其意候事、
七月廿一日              秀吉(花押)
小早川(隆景)左衛門佐殿
吉川治部少輔殿 
意訳変換しておくと
(天王十三(1585)年 14日の書状について、今日21日に大坂に届いたものを見た。
一、伊予国の金子城を取り囲み、長曾我部勢が討ち出てくる所を切り崩し、両城を落城させたのは なかなか挙げられる手柄ではない。
一、伊予方面の戦後処理については、新広・宇麻郡へ移、阿波・讃岐に在陣中の美濃守とよく協議し、独断専行のないようにすること、長引く陣中で生活に苦労が多いと思うが、励むように。
七月廿一日              秀吉(花押)
小早川(隆景)左衛門佐殿
吉川治部少輔殿 
ここでは秀吉は、毛利勢が金子城を取り巻き、後巻の長宗我部勢を撃退したことを称賛しています。研究者が注目するのは、毛利勢の攻撃対象を最初は「金子城」としながら、後半で「両城」と記している点です。毛利方は伊予東部に土地勘があり「高尾」「丸山」と正確に書き分けています。「両城」とあるということは、毛利方からの報告には「高尾」・「丸山」と記してあったはずです。 それをどうして、秀吉は「金子城」と書いたのでしょうか?。
 開戦前の天正13年5月下旬の段階で秀吉は、攻撃目標として金子氏の支配領域である新居・宇摩郡を攻撃するよう毛利氏に指示していたことは、最初に見た通りです。
 毛利勢がおこなった高尾城攻めでは、「仕寄」を用いた包囲戦が採用されています。しかし、これは前回見た阿波の攻城戦のように、敵に圧力をかけるというものではなく、非常に攻撃的なものです。そして、降伏や落ちのびることを許さずに「殲滅」を図ろうとしていた節が見えます。これは高尾城や丸山城の占拠ではなく、金子氏の殲滅が目的であったからと研究者は推測します。先ほど見た史料に出てくる「金子城」という表現は、城の名称ではなく、「金子氏が籠る城」の意味で秀吉は用いたものとすると、「金子氏殲滅」の秀吉の意思が見えて来ます。
 これを裏付けるのが阿波戦線・副大将の羽柴秀次の7月21日付の小早川隆景への返書です。
「敵方両城令落去事」
「長宗我部内金子相蹈候城」
ここからも羽柴軍のなかは、伊予の金子氏に対する憎悪的感情が生み出されていたことがうかがえます。 この感情は、毛利方にもあったことを裏付ける史料を見ておきましょう。毛利輝元が元康に伊予の戦況を伝えた書簡です
 呉々今度之御粉骨之段、無比類存候隆景・元長へも即申遣候、弥御吉左右所仰候、河原山之儀被差寄、即被切崩由御注進、真無比類御粉骨之至、中々申も疎之候、就中与州表儀去十七日金子城高尾之儀被切崩、敵千余討捕之候、以其響石川城其外十ヶ所二余落去候、即至土州境一昨日陣易之由候、打続諸方任存分候と本望此事候弥吉事承可申入候、恐々謹言、
(天正十三年) 七月廿日               右馬元(毛利輝元)  (花押)
 元康 参御返報
  意訳変換しておくと
 今度の無類の粉骨の働きぶりについて、隆景・元長へも即申遣候、弥御吉左右所仰候、河原山之儀被差寄、即被切崩由御注進、真無比類御粉骨之至、中々申も疎之候、就中伊予方面の戦いについて17日に金子城・高尾で敵を切崩し、千余討を捕虜としたこと。さらに石川城やその外十ヶ所以上の城を落城させたこと、そして、昨日は土佐の国境まで進軍して布陣していること、打続諸方任存分候と本望此事候弥吉事承可申入候、恐々謹言、
(天正十三年) 七月廿日               右馬元(毛利輝元)  (花押)
元康 参御返報
ここでは、高尾城を「金子城高尾之儀」、高峠以下の諸城を「石川城其外十ヶ所」と記しています。ここでも城の名称ではなく、金子・石川の家名を冠した表現となっています。これをみると、金子氏のほかに石川氏も攻撃の対象のトップに置かれていた可能性があるようです。  ここでは金子氏を第1標的とする方針は、毛利勢を含めた羽柴軍の共通認識となっていたことを押さえておきます。
最後に、秀吉の四国出兵の意図について見ておきましょう。
四国出兵の根本的な目的は、長宗我部氏を降伏させ、土佐一国に封じることでした。そのうえで秀吉は、第一に四国東部の平定、特に阿波の直接支配を目論んでいました。秀吉は、国分交渉で阿波と讃岐の二か国の領有を基本目標としていました。その中でも、秀吉の出した細かな作戦指示や戦後処理の方針から見て、とりわけ阿波を四国のおさえとして重視したことがうかがえます。
その意味は何なのでしょうか?
 淡路を支配下に置いていた秀吉は、阿波を確保したことで、大坂湾・瀬戸内海東部の制海権の支配権を手にしました。これは大坂方面から淡路を経て阿波に至る四国へのルートの確保も意味します。小牧・長久手の戦いの際には、織田・徳川方が長宗我部氏に淡路に攻め上がるよう促しています。そういう意味では、このルートは四国攻略だけでなく、大坂防衛の観点からも重要な意味をもつと秀吉は判断していたはずです。
 秀吉の伊予方面での戦略的な目的のひとつに金子氏懲罰がありました。
秀吉は、伊予の戦後処理の方針を示した第十四条に次のように記します。

「自然何かと申延城を不渡輩在之い、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻悉成敗可被申付」

つまり城郭接収(武装解除)に応じない領主たちを「後代のこらしめ」に成敗するよう命じています。阿波一宮城攻めの「菟角国々こらしめ、旁以千殺二仕可然候」の指示も同じような匂いがします。

伊予の金子元宅

 金子元宅は四国出兵の直前にも、周敷郡の知行獲得を画策していました。
こうした領土拡大を天下人の秀吉に対しても露骨に示す金子氏は、秀吉から見せしめとして成敗の対象とされた可能性があるというのです。ただ、見せしめにするだけであれば、阿波の一宮城などと同様に包囲して圧力をかける戦法でもよかったはずです。しかし、高尾丸山両城への攻撃は厳しく、金子氏を殲滅しようとする強い意思が感じられます。なぜ、金子元宅は討ち取られなければならなかったのか。これについては、私にはよく分かりません
ウキには、金子元宅について次のように記します。
 「天正13年(1585年)の羽柴秀吉の四国攻め(天正の陣)の直前、妻の実家の石川家中で毛利軍との和戦の議論が行なわれた際、「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない。」「勝負は時の運なり、死力を尽くして一戦を交えて、刀折れて矢尽きる迄身命を賭して戦うべし」と元宅は敵に臆することなく戦いを決意する。
 羽柴秀吉の命を受け圧倒的な兵力数(3万人)で瀬戸内海を渡り侵攻してきた小早川隆景率いる小早川・毛利軍を総勢2千とも云われる金子軍が迎え撃った。岡崎城、金子城などが陥落する中、元宅は氷見の高峠城に入り敵の大軍を迎え撃つべく残党兵を高尾城に集結させた。
 高峠城主石川備中守をはじめ金子・高橋・松木・藤田・菰田・野田・近藤・塩出・徳永・真鍋・丹・久門・難波江などが高尾城に拠って抵抗した。全軍を指揮をとったのは元宅であり、総勢6百程であったとされている。小早川・毛利軍の多勢に対し、最期を悟った元宅は自ら高峠城に火を放ち、百人程で野々市ヶ原に打って出て奮戦。その生涯を終えた。
 小早川隆景は元宅らの見事な散り様を称え、将兵たちの亡骸に向かって合掌し、鎧の上に法衣を置いて自ら弔いの舞を舞ったと言われ、居合わせた将兵の舞に合わせた拍子がトンカカと聞こえた事から、トンカカさんという踊りが生まれたとされる。その後、供養のために金子山麓の金子氏居住跡に元和4年(1618年)頃に元宅の実弟である金子元春によって慈眼寺が建立された」
  以上を整理・要約しておきます
①1585年6月 毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢3万から4万は、小早川隆景を総大将として出港した。
②毛利氏の伊予での重点的な攻撃目標は、新居郡の金子元宅の高尾城であった。
③元宅は、長宗我部元親と同盟関係にあり、反秀吉・反毛利の急先鋒の象徴的な存在であった。
④そのため天下人となった秀吉に抵抗する金子氏が第1の攻撃目標に選ばれた。
⑤このような機運は、金子氏に対する憎悪を高め「殲滅戦」が展開されることになった
⑥毛利勢は東進して川之江の仏殿城を攻略中の25日に元親が降伏した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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秀吉の長宗我部元親処遇案

前回は、秀吉の四国出兵が長宗我部元親処遇案が、あいまいな部分を残したまま開始されたことを見ました。また、四国出兵は秀吉が陣頭指揮をしないという初めてのケースでもありました。そのため今までにない指揮系統や戦術が見られます。その辺りのことを阿波方面を中心に今回は見ていくことにします。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。

秀吉の四国侵攻6
四国征伐・羽柴本軍
羽柴軍の進撃ルート
秀吉の四国出兵 阿波戦線

羽柴軍が阿波に上陸したのは6月23日のことです。そして、撫養の土佐泊城に集結します。ここが阿波制圧のスタート地点となります。これも秀吉の事前の指示によるものでした。
 緒戦となったのが木津城攻めでした。この城について「ウキ」は、次のように記します。

秀吉の四国侵攻 阿波木津城
木津城 羽柴軍に8日の籠城で落城
    「永禄年間(1558年 - 1570年)から三好氏の武将篠原自遁が守っていた。1582年(天正10年)の長宗我部元親による阿波侵攻では、十河存保方についたものの、中富川の戦いや勝瑞城攻防戦には参加しなかった。しかし頼りの織田信長が本能寺の変で討たれ、織田方の援軍が期待できないため、自遁は城を明け渡し淡路へ逃走した。
 長宗我部元親領有後は腹心である東条関之兵衛が城主となった。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったと見られる。1585年(天正13年)、羽柴秀吉による四国攻めでは、羽柴秀長の攻撃を受け、8日間後に水の手を断たれて落城した。関之兵衛は脱出し、土佐に帰還したが敗戦の責を問われて首をはねられた。
木津城を秀長と秀次の大軍が囲みます。そして8日後の7月5日には落城します。その後、羽柴軍は二手に分かれますが、そこへ黒田官兵衛など讃岐方面の軍勢も合流し、次のように手分けして攻略します。
A 秀長+宇喜多勢           一宮城
B 秀次+近江衆・仙石秀久・蜂須賀正勝 牛岐城(牟岐)
秀次勢は7月10日には調略によって牛岐城を開城させ、15日には脇城攻めに取り掛かります。こうして羽柴軍は一宮・脇両城を包囲し、7月下旬に長宗我部氏が降伏するまで攻城戦を続けます。

 木津城・一宮城・脇城の攻城戦には共通点があることを、研究者は指摘します。
①木津城「木津ノ城、敵楯籠之条、即座押詰、本城塀際迄仕寄、責破処」
②一宮城「其後一宮取巻、諸口以仕寄押詰、水を相留候条、一途不可有程候」
③脇城
「当脇城へ押詰、山下追破、従翌日仕寄等丈夫二申付候」
「当城も水之手不自由にて迷惑由、従城内闕落申越候、殊懸樋をも切落候間、弥不可有程候」
    意訳変換しておくと
①木津城の攻城戦では、敵の籠城戦対して、即座に押詰め、本城塀ぎわまで仕寄、これを攻め破る
②一宮城では、城を取り囲み、諸口を仕寄って押詰め、水源を遮断し、水が手に入らないようにした。
⑧脇城では押詰て、山下で追い破り、翌日に仕寄を丈夫に設置することを申し付けた
「当城も水之手がなく、飲み水に不自由している様子なので、城内に水をひく懸樋をも切落し、水を断った。
 ここには、共通した戦法として「押詰」「仕寄」と「水断」という言葉が出てきます。
「仕寄」とは、「敵の城を攻撃する際に用いる、竹などを束ねた防具」のことのようです。

仕寄り戦法

「仕寄り」

仕寄せ 真田丸に出てきた
大河ドラマ 真田丸に登場した「仕寄り」作り
 仕寄せは、盾や竹の束で身を守りながら、城を攻めるためのもの簡易な基地です。鉄砲から身を守るためのもので、この小型の基地を移動させて城を攻めたようです。鉄砲が普及した戦国時代後半に出てきた戦い方です。これに加えて、水断ちが行われています。四国出兵はちょうど夏季(現在の8月頃)にあたりました。真夏に、水を断たれることは籠城側にとっては、致命傷となったことが推測できます。

7月18日に戦地の伊藤祐時に、秀吉が宛てた書簡を見ておきましょう。
 去十四日書状十六日於京都到来、披見候、
一、其面取巻丈夫成由、兵吉口上之通、何も聞届尤候事、
一、一宮城如此取巻、既仕寄以下入精、水手相留由候条、少々日限延候共、菟角国々こらしめ、旁以千殺二可然、委細兵吉二申聞候事、[中略]
 意訳変換しておくと
 14日の戦地から書状が、16日に京都に届いた。
一、籠城戦への対応が指示通り首尾良く進んでいるとの報告を受け取った。
一、一宮城のように、兵で取巻き、仕寄で対応し、水断ちすれば、少々日数はかかろうが、阿波国衆をこらしめ、干乾しにすべし。委細は兵吉に伝えている[中略]
ここからは「仕寄」と水断による包囲戦は、秀吉の命令によるものであったことが分かります。秀吉の指示で「押詰(包囲)」「仕寄(接近)」と「水断」が、セットとなって、各攻城戦で展開されていたことを押さえておきます。
 また「国々こらしめ、旁以干殺二仕可然候」とあります。阿波の国衆をこらしめ、干殺しにするよう指示しています。これは見せしめの意図も読み取れます。これに加えて秀吉は、繰り返し前線に次のような指示を出しています。
「手負等無之様二木津城責殺可申候」(7月3日付)
「手負無之様二可申付候事」(7月10日付)
「少々長陣候事者不苦候条、少之手負無之様二」(7月27日付)
ここからは秀吉が「手負等無之様」と、「たとえ長引いたとしても、自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」と求めていたことが分かります。

秀長は7月19日付の伊予戦線の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を次のように報告しています。
9000とされる一宮城兵は善戦したが、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の我が軍に兵糧を絶たれ、城への坑道を掘り水の手を断つ戦法で、7月中旬には開城した。

これに前後して脇・岩倉城も、秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落します。この結果、白地城の長宗我部元親は、東からの秀長・秀次勢、西から川之江まで進撃してきた毛利氏に挟撃される形になります。
『南海治乱記』には、前線から白地城へ戻った谷忠澄が、次のように述べて長宗我部元親に降伏を勧めたと記します。
上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。

これに対し『元親記』には、長宗我部元親が言葉が次のように記されています。
縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。
意訳変換しておくと
たとえ、岩倉・一の宮城を奪われようとも、海部城に退却し、合戦すべき手立がある。そうなったら白地城に集結している軍兵や土佐国元の兵力を総動員すれば、一万八千余の兵力になる。それを、信親が大将として率いて野根・甲浦で待ち受け、海部城を支援する。

ここでは元親は、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言います。そして、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っています。
しかし、重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏します。交渉の仲介役を務めたのが蜂須賀正勝です。
 降伏から和睦条件の成立に至る経過を整理しておきます。
①天正13年7月下旬、一宮・脇両城を包囲する羽柴軍に対し、長宗我部方から降伏交渉の打診。
②7月25日、羽柴秀長は一宮城の長宗我部重臣の江村親俊・谷忠澄に、土佐一国安堵と、五日間の「矢留(戦闘停止)」を約束
③同じ頃、秀吉は秀長に宛て、元親の土佐一国のみの安堵と降伏条件を確認し、最終的な判断を秀長らの判断に一任
  そして8月4日までに、長宗我部元親の正式な降伏が了承されます。8月6日に成立した和睦条件の内容は、次の4項目です。
①長宗我部氏に土佐一国のみ安堵
②長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、
③人質の提出
④徳川家康との同盟禁止
これによって、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を失います。ちなみに、秀吉から秀長への指示書にかかれた阿波国の統治方針についての部分を見ておきましょう。

 一、阿波国城々不残蜂須賀小六二可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいの山麓二覚候、去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻二四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在庫の者とも談合、よく候いん所相定、さ様二候ハ、大西脇城かいふ牛木かせてよく候いん哉、小六身二替者可入置候、但善所ハ立置悪所かわり、新儀にも其近所にこしらへ候事、[四~六条目略]

意訳変換しておくと
一、阿波国については、城はすべて蜂須賀小六に渡すこと、小六の居城については、絵図からすれば「いの山(渭山:現徳島城)」山麓が適地と思うが、実際に見ていないのでなんとも云えない。ついては、その方(秀長)が候補地をいくつか選定し、秀吉が四国を見廻りに行き決定しても良い。また小六が適地と考えるところを、秀長や各在庫衆と協議して決定してもよい。大西・脇・海部・牟岐城については、城の現状を維持し、小六が信頼が出来る者を選んで配置すること、ただし、戦略上からして立地条件が不適切な城は、新規に適所に移転して築城すること。

 読み取れる情報を挙げておきます。
①阿波国内の諸城は、残らず蜂須賀家政に渡すこと、
②居城は「いの山(渭山)」を適地とするが、秀長ら在庫衆で談合して定めること、
③大西・脇・海部・牛岐の各城は今まで通り存置し、しかるべき人物を配置すること。

研究者が注目するのは、③で具体的な城郭整備について言及している点です。
渭山に置かれた新城が徳島城で、大西城ほかの4城は近世初期まで阿波の支城体制「阿波九城(一宮・牛岐・仁宇・海部・撫西条・川島・脇・大西)」として活用されていきます。阿波では、戦後処理の初期段階から、秀吉の統治方針が明確にあらわれています。四国出兵で羽柴軍の攻撃対象となった一宮・牛岐・脇の諸城は、「阿波九城」に含まれます。四国侵攻の軍事行動の意図には、領国支配のための拠点となる城郭の掌握があったと研究者は考えています。

 阿波での戦いは、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦でした。
秀吉の指示に基づき、攻めるべき城が 事前に選定され、そこでの採用される戦術まで指定され、自軍兵力の消耗をおさえる慎重な戦術を行うように求められています。さらに、後の蜂須賀氏による領国支配につながる地域の拠点城の掌握まで考えられていたと研究者は評します。

以上をようやく整理しておきます。
①阿波・讃岐への侵攻については、兵力の集結メンバー・日時・場所・ルートについて事前に秀吉が指示を詳しく示している。
②その立案や連絡調整に当たったのが黒田官兵衛や小西行長である。
③阿波戦線は、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦であった。
④木津城・一宮城・脇城に対しては「押詰」→「仕寄」→「水断」という共通した戦法が採られている。
⑤「これは
自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」という秀吉の指示でもあった。
⑥同時に攻城対象の城は、蜂須賀氏による領国支配のための拠点となる城郭でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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長宗我部元親6

長宗我部元親年表

信長による本格的な四国攻めは、本能寺の変で実現しませんでした。長宗我部元親は、ある意味で命拾いしたのかもしれません。

秀吉の備讃瀬戸・淡路への進出

しかし、信長の後を継いだ秀吉は一貫して長宗我部氏に対して対決姿勢で臨みます。これに対して長宗我部元親も「秀吉の敵は味方だ」で、常に秀吉の敵対勢力と手を結んで、秀吉を牽制します。例えば

長宗我部元親の反秀吉政策
①天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは「柴田勝家」「織田信孝」と同盟
②翌年の小牧長久手の戦いでは「徳川家康」「織田信雄」と同盟
③天正12年(1584)に、長宗我部氏と毛利氏との軍事同盟が破綻。その背景には、毛利氏が秀吉と停戦し、同盟関係を結んだことです。対秀吉同盟戦線としての長宗我部・毛利の利害関係が消滅したのです。
④天正13年(1585)には、秀吉によって紀州が攻略され、長宗我部氏の強力な同盟者であった「根来衆」「雑賀衆」が壊滅。
こうして、長宗我部氏は軍事的孤立状態へと追い込まれます。今回は、秀吉の長宗我部元親に対する対応がどのように変化したのか見ていこうと思います。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。 

通説では天正13年(1585)の春に、長宗我部元親が四国統一を果たしたとされてきました。

長宗我部元親の四国平定?

しかし、実際には阿波・讃岐・伊予各地で残存勢力がゲリラ的抵抗活動を続けていたことが近年には明らかになってきました。そのため元親が四国全土を完全制圧したわけではないとする説が提唱されています。そして、秀吉はこれらの反長宗我部抵抗勢力に戦略物資補給などの支援を行っています。つまり、元親が四国を統一したとは言いがたく、軍事的優位に立っていたにすぎないと捉えるのが現実的な解釈だというのです。こういう状態では、長宗我部元親は秀吉と戦うことはできません。
長宗我部側としては、四国制覇どころではなく、秀吉との和睦交渉に全力を尽くすというのが実情だったのかもしれません。以下、史料で「長宗我部 vs 秀吉」外交の足跡をみてみましょう。
1585年の正月17日付けの、蜂須賀正勝と黒田官兵衛の連署による書状では、毛利家臣の井上春忠に対し、以下の旨のようなことを伝えています。(『小早川文書』)
①秀吉=毛利間の婚姻締結のこと
②人質の小早川秀包のこと
③秀吉は3月には紀伊国雑賀を攻めること
④秀吉は夏に四国を攻める予定であること
⑤秀吉は伊予・土佐両国を毛利氏に与えること
⑥元親から色々懇願されているが、秀吉はこれを受け入れないこと。
同じころ、毛利輝元も児玉元良に対して「秀吉が伊予・土佐両国を毛利家に渡すと伝えてきた」と言っています。(『山口県史』)。
 ここからは、長宗我部元親は土佐と伊予2か国の安堵を秀吉に懇願していたようですが、秀吉はこれを受け入れずに、その2か国は毛利に渡すことにしていたことが分かります。こうしてみると、両者の交渉は対等な立場での和睦交渉ではなく、立場の弱い長宗我部側が、より有利な形で降伏条件を求める交渉だったことがうかがえます。
 両者は和平交渉の可能性を探っていました。一旦は長宗我部側の要求を一蹴した秀吉ですが、元親が土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに、以下の2点を申し出たため、秀吉も手を打とうとしたようです。
①嫡男の長宗我部信親を大阪に居住させ、奉公させる。
②信親の他、実子をもう1人人質として提出する。
このような交渉が出兵期限とされていた6月になっても続いたために、出兵は繰り延べられます。しかし、最終的に和平交渉は決裂します。
その背景には毛利氏と長宗我部元親の伊予をめぐる対立がありました。

毛利氏と長宗我部元親の伊予を巡る対立

     瀬戸内から南下する毛利(小早川)氏 宇和島方面から北上する長宗我部氏

毛利氏には伊予と土佐に対する領土的な野心がありました。
本願寺の記録『貝塚御座所日記』には、次のように記されています。

「元親と秀吉の和睦交渉は成立しようとしていたが、毛利氏の望みでそれが断たれた」

『小早川文書』等では、次のように記します。
「秀吉は、伊予国を求める毛利家に配慮し、人質を返却して四国出兵を決意した」

ここからは、毛利氏が強く秀吉に伊予の割譲を求めていることが分かります。
秀吉の長宗我部元親処遇案が、どのように変化していったかを見ておきましょう。

秀吉の長宗我部元親処遇案

天正13(1583)年正月、秀吉は長宗我部氏征伐を打ち出し、夏に四国出兵を行う事を表明。同時に、毛利氏に伊予・土佐両国の領有を約束。
4月 紀伊雜賀根来寺を制圧し、改めて毛利氏に四国出兵の具体的な準備を指示
5月上旬には、6月3日の出兵と決まるが、下旬に6月16日に延期。この背景には、秀吉と長宗我部氏の最後の交渉が続けられていた。
6月中旬までに長宗我部氏は、阿波・讃岐の献上と実子を人質として差し出すことを条件に、土佐一国と伊予領有分の支配を承認され、和睦がほぼ成立していた。これに対して、伊予一国の領有を求める毛利氏(小早川隆景)が難色を示しめす。
そのため秀吉は一転して毛利側の主張を受け入れ、長宗我部氏との交渉は決裂、四国出兵へと進む。最終的な長宗我部氏の処遇案は、全面降伏を前提条件とする土佐一国のみの領有となる。

 平井氏は、秀吉の四国出兵について次のように評価します
「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」
「秀吉にとって四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」
 一方、藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

 長宗我部氏の「宥免」か「成敗」かの判断は、6月時点でも流動的であったようです。
秀吉・長宗我部・毛利の三者間における国分交渉は、次のように「A→B→C」と変化していきます。
A 「長宗我部=成敗、毛利=土佐・伊予領有」
B 「長宗我部=土佐・伊予(領有分)、毛利=伊予(残り分)」
C 「長宗我部=土佐、毛利=伊予」
ここでは、秀吉の長宗我部氏への対応が、わずか半年の間にめまぐるしく変化したことを押さえておきます。
その一方で、長宗我部や毛利など当事者以外に宛てた秀吉書状からは、別の秀吉の意向が見えて来ます
五月の段階で、秀吉は黒田孝高や一柳直末、加藤嘉明、中川秀政などの家臣に対して、長宗我部成敗を命じています。
 出兵開始時に秀吉から中川秀政らに宛てた書簡には、次のように記されています。
「秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候」
 将亦、秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候、申遣候、諸勢渡海候哉、再三如申聞候、物をしミ不仕、一手二令野陣、所々見斗、無越度様二可申付候、其方一左右次第、不移時日、内府可出馬候、成其意、路次中道橋、同泊々要害以下、権兵衛与相談候て、見刷普請可被申付候、路次伝、渡口、城之何と申所二誰を置候哉、委書付可申越候、何も其表様子、切々可有注進候、不可有油断候、謹言
                       秀吉(朱印)
(天正十三年)六月十七日
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
   意訳変換しておくと
秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する。諸勢が瀬戸内海を渡り、四国出兵を行うことになる。ついては、物見などの敵情偵察を怠ったり、戦場候補地を選定してなかったりなどのことがくれぐれもないように申しつける。内府が出馬した際には、路中の道や橋、港などについて、(仙石権兵衛)と相談して、普請して置くように申付ける。また、道順や、上陸地点、城の位置・名前・城主なども調査し報告すること。さらに、その時々の情勢の変化なども、油断せずこまめに注進すること。謹言
(天正十三年) 六月十七日                                秀吉(朱印)
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
ここでは「秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する意向」とあり、長宗我部成敗を前提としています。
ところが出兵時に秀吉が弟の秀長に宛てた史料には、長宗我部元親の処置について次のように記されています。
 尚、土佐一国にて候い長曾我部可指置候、細甚右衛門尉・三郎四郎二申含候、巳上、書状?蜂須賀其方への書中、遂披見候、
一、長曾我部事、最前申出候つるハ、土佐一国・伊与国、只今長曾我部かたへ進退候分にて、毛利方・小早川方へ安国寺を以令相談、尤之内義二候て、右之通二国宥免与申聞候処、間違候て、安国寺此方へ罷上、伊与国二不給候者、外聞迷惑候由、小早川申由候条、与州国二小早川二遣候、然間、土佐一国にて言申候者可指置候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎二申含、重而差越候条、定而懇可相達候、

一廿五日・廿八日・朔日、追々人数遣、三日二出馬候条、成其意、早々渡海候て、木津城成共何成共、見合取巻儀可申付候、面々人数何も一手二居陣候て、無越一度様二調儀専一候、

一甚右衛門尉・三郎四郎二申含遣候間、其様子聞届、蜂須賀へ相談肝要候、謹言、
(天正十三年) 六月廿日                  秀吉(朱印)
     意訳変換しておくと
 なお土佐一国の長曾我部についての措置については細甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えている。蜂須賀方への書簡を参考にすること

一、長宗我部元親所領の土佐と伊予の配分については、毛利方・小早川方と安国寺惠瓊が協議して決定する。伊予・土佐両国を毛利に与えると漏れ伝わっているのは間違いである。それについては安国寺惠瓊を通じて調整しする。小早川は、与州を小早川に与え、土佐一国については留保するようにとの申し入れがあった。このことについての仔細は尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎に言い含めてあるので、そちらに出向いた際に、聞き置くように。

一 25日・28日・30日に、次々と兵を出発させ、私は3日に出馬予定である。ついては、早々に渡海して、木津城でも、どこの城でもなんなりと、攻城することを申付ける。一手に集結して、攻め立てること。

一 甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えているので、そのことを聞き届けた上で、蜂須賀と相談しながらすすめることが肝要である。謹言
(天正十三年) 6月20廿日              秀吉(朱印)
ここには、国分交渉決裂の経緯を事細かに説明したうえで、次のように繰り返し長宗我部氏への対処の指示をしています。
「土佐一国にて侘言申候者可指置候」、
「土佐一国にて候ハ長曾我部可指置候」
この様子をみると、四国出兵の先陣をつとめた秀長でさえも、出兵時には長宗我部成敗と思っていたのも当然です。
 四国渡海後の7月になると、国分交渉決裂の経緯を本願寺が漏れ知ります。そして、四国出兵の背後事情が世間にも漏れ伝わるようになります。しかし、少なくとも六月の出兵開始までは、秀吉が家臣や外部勢力に長宗我部氏を「宥免」すと伝えた形跡はないと研究者は判断します。あくまで「長宗我部元親=征伐」だったのです。
 これに対しする長宗我部元親の動きを見ておきましょう。
秀吉の四国侵攻6
秀吉の四国出兵時の城郭
元親は羽柴軍の渡海に備えて5月17日には、吉野川沿いの阿波大西、翌日には岩倉に着陣しています。その後は「元親記」などには、阿波西部の白地城に入ったと記されます。この間も長宗我部元親は、水面下で秀吉と国分交渉を継続し和睦の道を探ります。一方で秀吉が出兵準備を進め、長宗我部成敗の方針を表明し続けているので、戦いの備えも必要でした。長宗我部方は、基本方針が分からないまま宙ぶらりんの状態に置かれます。

豊臣秀吉の四国征伐前

四国出兵は阿波・讃岐・伊予の三方面からの進軍になりますが、阿波・讃岐を担当した羽柴軍の構成メンバーについては、記録上で一部錯綜があるようです
ここでは改めて出兵時の羽柴軍の動向について見ておきましょう。
「大日本史料」では、天正13年6月16日条には次のように記されています。

「羽柴秀吉、弟秀長ヲシテ、諸軍ヲ率ヰテ、四国二渡海セシム」

これをみると、6月16日に秀長が諸軍を率いて四国に渡海したように思えます。しかし、続く関連史料(「多聞院日記』天正十三年六月十六日条)には、「四国ハ陳立在之云々、当国衆ハ不立、如何」とあるだけで、出発したとは記されていません。
 天正13年10月に大村由己が記した「天正記」の「四国御発向井北国御動座記」(以下、「四国御発向」と略す)には次のように記されています。


A 秀長は大和・紀伊・和泉の軍勢を率いて淡路洲本に、
B 羽柴秀次は摂津・丹波の軍勢を率いて播磨明石より淡路岩屋に渡海
C その後、淡路南部の福良に一旦集結し、そこから阿波土佐泊に渡った

讃岐方面を担当した宇喜多秀家は備前・美作の軍勢を率いて、蜂須賀正勝家政父子、黒田孝高らと讃岐屋島に上陸したとされます。

 次に、羽柴軍の四国上陸までの過程を見ておきましょう。
秀次の部隊と同じ明石から岩屋に渡った中川秀政は、6月17日前後に淡路に上陸したようです。
史料に「権兵衛(仙石秀久)与相談候て」とあるので、秀吉の指示を受けながら、現地の仙石秀久と対応にあたっています。ここからは、急ピッチで阿波上陸に向けた準備が進められた様子がうかがえます。そして「四国御発向」とあるので、秀長・秀次らの軍勢は福良周辺に集結して、6月23日に阿波に渡海しています。
【史料3】
書状披見候、早々渡海之由尤候、美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候、不可有由断候、謹言、
                                        秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
  意訳変換しておくと
 書状を見た。早々に阿波への渡海が完了したことは幸先がよい。以後は美濃守・孫七郎と相談しながら事を進めること。由断することなかれ候、謹言、
                                秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
この書簡は、阿波への渡海終了を伝えた中川秀政への秀吉の返書です。中川氏は秀吉から個別に命令を受ける立場にありましたが、ここには「美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候」とあるように、渡海をする過程のなかで、秀長秀次を中心とした軍勢に、次第にまとめられていると研究者は指摘します。

 一方、蜂須賀氏も淡路で秀長と協議しています。しかし蜂須賀氏は「四国御発向」では宇喜多秀家の率いる讃岐方面軍の所属となっています。
さらに、「改選仙石家譜」や「森古伝記」には、蜂須賀氏のほか尾藤・仙石らの諸氏も、宇喜多氏と讃岐屋島に上陸したと記します。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 研究者は次のように解釈します
①蜂須賀氏らは備前・美作の軍勢を率いて渡海した
②しかし、宇喜多氏とは別行動で、淡路・阿波方面から讃岐に渡った
③蜂須賀氏・尾藤氏は、長宗我部氏の最終処遇案を詳しく知る立場であった。
④彼らが淡路で秀長に接した後、別働隊として宇喜多氏に合流した
⑤これは、秀吉からの戦略的な情報を現地で共有するという点においても重要だった。
 四国出兵は、豊臣政権による国内統一戦のなかで唯一、秀吉が現地に出馬しなかった戦いです。
史料でみたように、当初は6月25日、28日、7月1日と順次出兵を進め、秀吉自身も7月3日に出馬する予定でした。それが先陣の秀長への配慮などを理由に、最終的に出陣することはありませんでした。四国出兵は、秀吉が陣頭指揮を執るこれまでの秀吉の軍事行動とは異なるものでです。そのため、命令伝達や作戦指示も、多少ギクシャクしたものになったと研究者は考えていここでは四国出兵における羽柴軍は、秀吉の指示を逐一受けながら、秀長・秀次を中心に一定の戦略方針のもとに軍事行動にあたったことを押さえておきます。
  以上を整理しておくと
①長宗我部元親は、信長政権の後継者となった秀吉にも敵対的な行動を取り続けた。
②一方、伊予をめぐって長宗我部は、毛利とも敵対関係に入り、外交的に孤立化した。
③秀吉は長宗我部元親制圧のために四国出兵を実行した。
④最初のその軍事行動の目的は、長宗我部元親の打倒と、伊予・土佐の毛利への配分であった。
⑤これに対して、毛利方は外交交渉で譲歩し、土佐と伊予の南半分の領有という妥協案が生まれた。⑥しかし、これに対して毛利氏の反発があり、秀吉は毛利側の主張を容れた。
⑦こうして開始された四国出兵は、秀吉が陣頭指揮をとらない初めてのケースで、指揮系統や戦略目標の選定などに今までにない動きが見られる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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 天正10(1582)5月7日に、信長は四国遠征を決定します。このとき、三男の織田信孝に対して以下の計画を伝えています。
①信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
こうして5月11日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日に出発する予定を立てました。このような中で、信長の意向を讃岐の国衆ヘ伝達する役割を担っていたのが安富氏でした。今回は、信長の四国平定策が頓挫した後の、秀吉と安富氏の関係に焦点を当てて見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

信長に代わって権力を握った秀吉は、畿内情勢が落ち着くと四国平定に乗り出します。
秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。

書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎(行長)二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四日                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎(行長)に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。讃岐のことについては、いずれも弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四日         筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑥最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること

⑥からは、安富氏の人質は「利用価値」が高いと秀吉が考えていた節があります。
それは、安富氏の持つ海運力だったと研究者は考えています。安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたことは以前にお話ししました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたことになります。これは秀吉にとっては、大きな戦略的意味がありました。こうして秀吉は、戦わずして淡路の岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を配下に繰り入れることで、東讃・小豆島の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 秀吉の命で、仙石秀久が河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.
   屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保は逃亡
6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
1585年4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
以上のように秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。ここからは、 讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことが分かります。そして、小豆島・塩飽の領主に任じられていたのが「若き青年海軍将校・小西行長」でした。秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行の小西行長だったことになります。それだけではありません。③には、秀吉から黒田官兵衛への指示書には、小西行長と協議しながら戦略立案せよとありました。
ここでは秀吉は、東讃守護代の安富氏を配下に置くことで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れたことを押さえておきます。。

【史料14】羽柴秀吉書状写「十林証文」        89p
急度申候、乃去廿三日調略之以子細柴田打果候、近日其国ハ可令出馬候条、右之趣味方申江可被申遣候、猶千石(仙石)権兵衛(秀久)尉可申候、恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
急ぎ知らせる。3月23日に柴田勢を打ち払った。ついては、近日中に四国平定を開始するつもりである。このことを味方に急ぎ知らせるように。なお千石(仙石)権兵衛(秀久)には連絡済みである。恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
この書簡は、天正11(1583)3月23日に賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を敗死に追い込んだことを秀吉が安富氏に送ったものです。「右之趣味方申江可被申遣候」と、勝利の知らせを味方に伝達せよとあります。ここからは安富氏は、信長時代に引き続いて四国側の情報喧伝の役割を果たしていたことが分かります。
 ここで研究者が注目するのは、安富氏の宛名にいままでの筑後守がなく「又三郎」となっていることです。ここからは、筑後守は死去するか隠居して、又三郎が安富氏の当主になったことがうかがえます。この頃には前年に中富川の戦いで長宗我部氏に敗れ讃岐に逃れていた十河(三好)存保も羽柴氏に属していました。四国の「味方中」へ連絡することが求められていたのは、存保ではなく安富氏であったことを押さえておきます。

【史料15】羽柴秀吉書状写「改撰仙石家譜」
書状之旨、逐一令披見候、
一、去四日至阿州表讃岐十河(存保)・安富合手、河北不残令放火、則河端城押詰、外構乗崩、首八十余討取被指上、実二安度候、
一、今度於阿州表令忠節面々二対し一札被遣候、忠節神妙二候問可被申聞候、猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
尚以今度高名之もの共、能々書付候而可被参候、来春我々褒美可申付候間、出馬之刻聞届寺木へ申含候、
意訳変換しておくと
書状について拝見し、次のように申し伝える、
一、去る四日から阿波で讃岐十河(存保)・安富と合力して、吉野川河北地方を残らず焼き払い、河端城に押し寄せ、外構を乗崩して、首八十余を討取ったと報告を受けた。これは実に立派な働きである。
一、今度の阿波での軍功に対して、忠節神妙なので一札入れておく。猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
なお、今回の功名について、それぞれの書付を持参すれば、来春以後に褒美を取らせることにする。やってくる日時などを寺木へ提出すること。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①天正11(1583)12月となっても、仙石氏と安富氏・十河存保が羽柴陣営下の一員として、阿波方面で侵入してきた長宗我部元親に対して軍事活動を展開していたこと
②阿波での軍功の褒賞を約束していること
しかし、天正12(1584)6月に、讃岐の十河城が長宗我部元親によって陥落させられます。すると、讃岐における反長宗我部方の活動はあまり見られなくなります。この時期の安富氏が讃岐で活動を続けたのか、それとも落ちのびたのかはよく分かりません。分かっているのは、安富氏が反長宗我部・親秀吉の立場を貫いたということです。これが後の秀吉の「安富氏=忠義の者」という好印象につながったようです。

秀吉の四国平定1

 天正13(1585)になると羽柴秀吉は、それまでの守勢から反撃態勢に出ます。
大軍を動員し、三方から四国に侵入し、またたくまに長宗我部元親の防備ラインを突破していきます。こうして降伏した長宗我部氏の領国は、土佐一国となり、残りの三国は没収されます。
秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に述べていますが、その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)
一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、

  意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)
一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、地侍で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行を確定するように指示している
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと
仙石秀久的軍裝: WTFM 風林火山教科文組織
仙石秀久

こうして安富又三郎は、十河存保とともに仙石秀久の与力に位置付けられることになります。

結果として両氏は、領主の地位を保つことができました。長宗我部元親の侵攻と、その直後の秀吉の四国平定で、讃岐国内は動乱の舞台となり、多くの国人が讃岐からの離国を余儀なくされました。その中で、安富氏と十河氏だけが讃岐では領主として生き残ったことになります。ただし、讃岐一国を代表する地位は仙石秀久です。安富氏は、それまでの讃岐を代表する地位を失うことになります。

戸次川
四国衆の墓場となった戸次川の戦い 仙石・十河の名が見える
翌年、仙石秀久は九州攻めへ出陣しますが、秀久が率いるのは「四国衆」と総称されます。
そして、天正14年(1586)12月の戸次川の戦いで、仙石秀久が島津氏に大敗し、その責任によって改易されます。同時に、十河氏・安富氏も領主として姿を消します。十河存保が戸次川の戦いで戦死したことは知られています。「十河物語」には、安富氏(玄蕃允?)も戦死したと記されています。「十河物語」は作者も成立年代もよく分からない軍記ですが、長宗我部氏の讃岐攻めでは十河氏と安富氏が協働して戦ったことが記されています。こうした状況から一定の事実性を認めてもよいと研究者は評します。ここでは、安富又二郎も戸次川の戦いで死亡し、後継者が不在か幼かったことにより、改易されたとしておきます。

以上を整理しておきます
①信長の四国平定政策を引き継いだ秀吉も、讃岐国衆のまとめ役として安富氏を重視した。
②その後も安富氏は十河氏とともに秀吉側に付いて、長宗我部氏と戦い続け、讃岐を追われた。
③その忠節を認めて秀吉は「四国国分」の中で、仙石秀久の与力として領主の地位を十河氏と共に与えた。
④翌年の九州の戸次川の戦いで安富氏又三郎が戦死し、その地位も失われた。

最後に史料から確認できる安富氏の系図を研究者は次のように考えています。
安富氏系図

安富氏系図
①戦国期の安富氏当主は、元家以来の仮名「又三郎」、受領名「筑後守」を通称として使っている。
②彼らを特定する根本史料はないが、前後の当主は親族関係にある。
③南海通記など軍記ものに出てくる当主名と、一次史料の記述は、ほとんど合わない。
④又三郎や筑後守などの伝統的な通称さえ、南海通記には出てこない。
以上から、安富氏については南海通記の記述からは明らかに出来ない研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。
秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

 今回は石山戦争を契機として、織田政権が瀬戸内海の制海権掌握にどう取り組んだのか。同時に信長が四国への勢力伸張を、どのように図ろうとしたのかについて、見ておきます。テキストは 橋詰 茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年でです。
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鳥取城を攻撃していた秀吉は、黒田孝高(官兵衛)に淡路攻略を命じます。 
天正九年(1581)10月23日、秀吉は、岩屋の与一左衛門に対して次のような朱印状を与えています。
淡州岩屋舟五十七艘之事、此方分国中灘目廻船往来儀、不可有別候、猶浅野弥兵衛尉可申候也、
天正九年十月廿三日                            筑前守秀吉(花押)
淡州岩屋舟五十七艘之分、筑前守殿御分国中灘目廻船之儀、不可有御別之旨、被出御判候詑並に与一左衛門舟、諸公事御免許候也、
天正九年十月吉日                     浅野弥兵衛尉長吉(花押)
上の文書が、秀吉が浅野弥兵衛尉長吉に対して、岩屋の船57艘について秀吉分国内の沿岸への回船と往来の自由を認めること命じたものです。下の文書は、それを受けて、浅野弥兵衛尉長吉が与一左衛門の船には諸公事を免除することを伝えています。秀吉分国とは、播磨国沿岸から播磨灘一帯と淡路周辺を含むエリアと研究者は推測します。

 特権を与えられた与一左衛門は石井与次兵衛の一族で、岩屋の船団の統率者です。石井氏は、代々明石に居住していて、与次兵衛は明石沿岸の海賊衆の一人で、秀吉の中国攻略の早い時期からつながりを持ち、この時期には秀吉の配下にありました。与次兵衛の一族である岩屋のボス・与一左衛門を味方につけるために特権を与えたようです。
 秀吉は、自らの水軍を編成するために、与次兵衛を配下に抱え込んだのでしょう。
与次兵衛は、それに応えて明石を拠点として、明石海峡を掌握するために工作活動を行っていました。その成果が、対岸の岩屋の与一左衛門を秀吉陣営に引き込むという成果となって現れたことを示す史料です。与次兵衛はその後も、秀吉の水軍の中核部隊の指揮官の一人として活躍しています。こうして明石海峡の両岸を押さえた秀吉は、この水路の制海権を確実なものにしていきます。この戦略的な成果の上には、毛利水軍は手の出しようがなくなります。本願寺支援ルート回復が、不可能になったと毛利や本願寺に思わせるものでした。
麒麟がくる」秀吉に四国盗られた光秀!長宗我部と縁/ご挨拶 - 大河 映画 裁判 酒 愛猫“幸あれ…!!”清水しゅーまいブログ

 秀吉は11月中旬、淡路に渡って山良城を攻めて安宅貴康を降し、ついで岩屋城を陥落させて淡路全体を制圧します。
そして、淡路の支配を仙石秀久に、岩屋城を生駒親正に守備を命じています。仙石氏と生駒氏は、讃岐にとっては馴染みの武将です。後の四国遠征の主力として讃岐に進撃し、その軍功から讃岐国守となります。讃岐にやって来る前には、淡路の城持ちであったのです。
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 こうして秀吉は、四国へとつながる淡路を手に入れます。
次の目標は四国です。淡路を拠点として四国への進出を図ろうとします。この時点で、秀吉は明石・岩屋・淡路を結ぶルートを掌握したことになります。さらに、播磨灘を越えて四国方面に出て行こうとすれば、海上ルートとして重要になるのが、播磨の室津 ー 小豆島 ー 讃岐引田を結ぶラインです。このルートを確保できれば、東瀬戸内海の制海権を掌握したことになると秀吉は考えていたはずです。それは、後に話すように安富氏を支配下におくことによって実現しました。それでは、このエリアの管理・運用を誰に任せるかです。播磨灘周辺をめぐる年表を見てみましょう。
天正 8年(1580)頃 小西行長が父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 小西隆佐・行長が秀吉より播磨室津を所領として与えられる
天正10年(1582)6月本能寺の変で、信長に代わって羽柴秀吉が権力掌握
天正10年(1582) 行長が小豆島の領主となる
天正11年(1583) 行長が舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 行長が紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 行長が四国制圧の後方支援
 播磨灘から備讃瀬戸に至る東瀬戸内海の「海の提督」に任命されたのが若き小西行長でした。
小豆島を手に入れた秀吉は、堺商人出身の小西隆佐とその息子行長に統治を任せ、播磨の室津と併せて、東瀬戸内海支配の拠点としたのです。
近年辛労共候、乃兵糧取二はや小西弥九郎(行長)差返候間、早々室津へ追懸、弥九郎二相談、兵糧請取、舟二つミて早々可帰候、不可由断候也、
卯月十一日                                            秀吉 (花押)
この文書には宛名がありませんが、文中に出てくる小西弥九郎は行長のことです。ここからは、小西行長が兵糧に関しての輸送船を管理・運行していたこと、それを父隆佐が堺から後方支援していたことが分かります。天正九年の岩屋をめぐる抗争の時に出された文書のようですが、小西行長は、室津を拠点に播磨灘で活動していたことが裏付けられます。

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秀吉が播磨・備後での攻略を進めている間に、毛利撤退後の讃岐に侵攻してくるのが長宗我部元親です。
毛利と長宗我部の間には、「不戦協定」があった気配がします。長宗我部元親は、毛利が元吉合戦後に讃岐から撤退するのを見計らうタイミングで、阿波三好から讃岐山脈を越えて侵攻してきます。その後の讃岐をめぐる土佐軍の軍事行動と、秀吉の対応ぶりを年表で見ておきましょう

1578(天正6) 長宗我部元親の讃岐侵攻開始,藤目城・財田城落城  11・16  信長の水軍が毛利水軍を破る(第2次木津川海戦)
1579 4・-  羽床氏,長宗我部元親に降伏する(南海通記)
        香川信景,長宗我部元親と和し,婚姻関係を結ぶ
1580 天正8  長宗我部元親,西長尾山に城を築き,国吉甚左衛門尉を城主とする(南海通記)
   3・5  石山本願寺顕如,織田信長と和し、紀伊雑賀に退却〔石山合戦終わる〕
1582 4・-  塩飽・能島・来島が,秀吉に人質を出し,城を明け渡す 
   9・21 十河存保,阿波国勝瑞城の戦いに敗れ,虎丸城に退く 9・-  仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
   10・-  阿波から長宗我部元親軍到着し,十河城一帯を焼き払う(南海通記)
   5・7  羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する
   6・2  明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1583 天正4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う(仙石家譜)
   4・21  秀吉,柴田勝家の兵を破る「賤ヶ岳の戦〕
1584 6・11  長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16  秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年4・26  仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
   7・25  秀吉と長宗我部元親との和議が成立。土佐軍退却
   7・-  仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.

  年表を見ると、1578(天正6)年に、長宗我部元親が阿讃山脈を越えて、讃岐への侵入を開始しています。その侵攻ルートは、現在の三豊地方から始まり、丸亀平野を経て東讃へと向かいます。阿波三好氏に敵対的な動きを見せていた西讃守護代の天霧城主・香川氏は、戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。そして、元親の次男を養子として迎え後継者にします。こうして香川氏は元親と姻戚関係を結び同盟軍として、以後の長宗我部元親の讃岐平定に協力していくことになります。

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 一方、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていたようです。しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
  秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。
書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿
意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。彼表行之儀、何も弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

ここからは次のようなことが分かります。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑤最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること
讃岐の歴史

 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。

それが何であったのかを研究者は次のように指摘します。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたと研究者は推測します。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を保護し、配下に繰り入れることで東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
死闘 天正の陣
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。
天正10(1582)年に、小豆島の領主に秀吉から任じられていたのは、小西行長でした。翌年には行長は、舟奉行に任命され塩飽も領有します。つまり、秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行として小西行長であったことになります。それだけでは、ありません。さきほど見たように、行長は前線の黒田官兵衛と協議しながら戦略立案を行っていました。行長を四国平定のための影の功績者と秀吉は、評価したのでしょう。そして九州平定後は、加藤清正と同じ石高で九州の大名に若くして抜擢し、朝鮮出兵の立案計画を任せることになることは以前にお話ししました。
讃岐の歴史

  私は、小西行長の拠点となった室津・小豆島・塩飽は、毛利に対する港湾基地とばかり考えてきました。
しかし、秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、まさに瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。

以上をまとめておくと
①信長と本能寺の石山戦争の一環として、本願寺支援ルートをめぐって瀬戸内海制海権をめぐる抗争が展開された。
②信長は、第2次木津川海戦で新兵器の鉄張巨大船で木津川河口の制海権を確保した。
③以後は、明石海峡の岩屋をめぐる攻防戦が続いたが秀吉は、岩屋の廻船実力者に特権を与えることで味方に付け、明石海峡の制海権を確実なものとした。
④同時に黒田官兵衛は淡路を攻略し、四国への道を開いた。
⑤秀吉配下の黒田官兵衛のもとには、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けた阿讃の国人たちが保護を求めてやってきた。
⑥秀吉は、東讃守護代の安富氏を保護することで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れた。
⑦秀吉は堺商人出身の小西行長に室津・小豆島・塩飽を領有させ「海の司令官」として、四国・中国・九州制圧の後方支援部隊して運用させた。
⑧長宗我部元親に対する秀吉の讃岐侵攻部隊は小豆島を戦略拠点としてして派遣されており、その輸送には小西行長の輸送船団が関わったことが考えられる。
このように秀吉の讃岐侵攻に小豆島は後方支援の戦略基地として重要な役割を果たしていたことが分かります。そして、小豆島から讃岐に海上輸送をうけ持ったのが小西行長と私は考えています。そうすると小豆島は北岸の屋形崎だけでなく、南岸の内海湾にも「戦略基地」が置かれていたことがうかがえます。それが、以前にお話しした小西行長による小豆島のキリスト布教とも関わってくるし、高山右近の小豆島潜伏にもつながるようです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

天正10年(1583)6月、本能寺で天下統一の事業半ばで信長は倒れます。代わって羽柴秀吉は、後継者の地位を固めると、翌年には、本願寺のあった石山の地に大坂城を築き、天下統一の拠点とします。そして1585年には、秀吉は土佐の長宗我部元親を討つための四国遠征軍を準備します。信長亡き後の混乱を予想していた長宗我部元親にとって、秀吉が意外なほどの早さで天下統一事業を立て直し、実行してくることに驚きと脅威をもって見ていたかもしれません。 
 このころ小豆島や塩飽は、秀吉の「若き海軍提督」と宣教師が名付けた小西行長によって統治され、瀬戸内海の海軍(輸送船)の軍事要衝的な性格を帯びていたことは以前にお話ししました。当然、塩飽にも行長の家臣が、船の準備をするために滞在していました。
小西行長と塩飽・小豆島の関係を年表で押さえておきます。
天正 8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)を所領
天正10年(1582) 小豆島の領主となる
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正15年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。このように東瀬戸内海エリアを秀吉の「若き海軍提督」の小西行長が高速船で行き交い、海賊たちを取り締まり「海の平和」が秀吉の手で実現していきます。
 ところが芸予諸島周辺では、小早川隆景配下の能島村上氏は海賊行為を続けていたようです。天正13~14頃の秀吉が小早川隆景に宛た朱印状には、次のように記されています。
能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被中付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上可申候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのヘ
意訳変換しておくと
能島(村上武吉)の事については、今でも海賊行為(関銭取り立て)を行っていると伝え聞くが、これは言語道断の事である。これが事実かどうかは分からないが、もし事実であれば、秀吉自らが成敗をくわえるべきものである。しかし、小早川隆景の家臣なので措置は、そちらに任せる。再度、関銭取り立てなどの行為禁止を申しつける。ただし、申し開きがあるなら村上掃部(武吉)を大坂へ参上させよ。そちらで成敗しないのであれば、(秀吉)が直接に軍を派遣して処置する。
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐(小早川隆景)とのヘ
 ここからは「海賊禁止」を守らずに、芸予諸島海域で関銭取り立てを続ける村上武吉への秀吉の怒りが伝わってきます。これに対して、小早川隆景を秀吉に全面的に屈することなく、配下の村上武吉を守り通そうとします。小早川隆景と武吉をめぐる話は以前にお話したので省略します。

「海の平和」実現のために天正16年(1588)7月に出されたのが「海賊禁止令」です。
これは、刀狩令と同時に出されていますが、この刀狩令に比べるとあまり知られていないようです。海賊禁止令は、次のような三条です。
3 村上水軍 海賊禁止令
秀吉の海賊禁止令(1588年)
意訳変換しておくと
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町の能島村上氏の管轄エリア)で起きたのは曲事(不法)である。
一 船を使って海で生きてきた者を、調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊行為が明らかになった場合は、藩主の監督責任として、領地没収もありうる
第一条からは、再三の警告に対しても関銭取り立てを続けている村上武吉に対して出されたものという背景がうかがえます。
第二条は、経済的には海の「楽市楽座」のとも云える政策で、自由航行実現という「秀吉による海の平和」の到来宣言とも云えます。まさに天下統一の仕上げの一手です。
  しかし、これは村上武吉などの海賊衆から見れば「営業活動の自由」を奪われるものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆は、どうだったのでしょうか。
その後の歩みを見てみると、塩飽衆は「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったことは以前にお話ししました。今回は、秀吉政権下での塩飽の動きをもう少し追いかけて見ましょう。
秀吉の九州遠征と塩飽
 海賊禁止令が出される2年前の1586年に、秀吉は塩飽島年寄中に朱印状を発給し、島津攻めのため、塩飽へ軍用船を出すことを命じています。当時の背景を見ておくと、秀吉は九州で抗争を続けていた薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟に対して和睦勧告をします。それに対して、島津氏が無視したため、島津氏討伐のために九州へ出陣準備を進めます。豊後へ侵入した島津勢に対する大友勢の救援として、まず毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が主力として豊前へと向かいます。一方、四国征伐後に秀吉は、次の九州出陣に備えて四国への大名配置を行っていました。事前の計画通り、讃岐の仙石秀久が十河存保や長宗我部元親等の四国勢を従えて豊後へと出陣します。
 この時の九州遠征には、塩飽に対して輸送船徴発が行われています。それが秀吉朱印状に残されています。
豊臣秀吉朱印状(折紙)
 今度千石権兵衛尉俄豊後江被遣候、然者当島船之事、雖加用捨候五十人充乗候船十艘分可相越候、則扶持方被下候間、壱艘二水主五人充可能出候也、
八月廿三日                   (朱印)
塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

意訳変換しておくと
 今度の仙石秀久の豊後出陣に際して、塩飽の輸送船を次の通り準備すること。50人乗の船十艘と1艘について水夫5人、合計50人を提供せよ。
八月廿三日                        (朱印)
塩飽年寄中
 これを見ると50人乗の船10艘と水夫50人を塩飽は負担することを命じられています。ここからは塩飽船は、秀吉直参の輸送船団にに組み込まれたことがうかがえます。
薩摩攻めの時には、次のように記されています。
御兵糧米並御馬竹木其外御用御道具、大坂より仙台(川内)江塩飽船二而積廻し候様二と、年寄中江被仰付、早速島中江船加子之下知有之

意訳変換しておくと
兵糧米や兵馬・竹木などの外の軍事物資について、大坂から薩摩川内へ塩飽船で輸送するようにとの、塩飽年寄中に申しつけられたので、早速に島中へ船水夫のことを伝達した

ここからは兵糧・武器の輸送を 塩飽船が行ったことが分かります。ここでも軍船は出していません。研究者は、この文書の宛先が「塩飽年寄中」となっていることに注目します。薩摩攻めの史料にも「年寄中江被仰付」と「年寄中」という言葉が見えます。ここからは年寄と称す何人かの年寄で、島を統治していたことがうかがえます。これが江戸時代の塩飽の四人の年寄につながっていくようです。ここでは、秀吉の九州攻略以降、塩飽は豊臣政権下に組み込まれていたと研究者は考えています。
  九州制圧が終わると朝鮮出兵への野望を膨らませながら秀吉は、小田原の北条氏攻めを行います。
秀吉にとっては「小田原攻め」は、戦略物資の輸送に関しては次に控える「朝鮮出兵」の事前演習的な所もあったようです。ここでも塩飽船が活動しています。兵糧米を大坂から小田原へと輸送していることが、次のように記されています。
「(塩飽)島中之船加子数艘罷出候処、御手船ハ勢州鳥羽浦二乗留メ、彼地二逗留致延引候、塩飽島ハ不残小田原へ乗届、御陣之御用立相勤中候」

意訳変換しておくと
塩飽島中の船や加子が数艘動員された。秀吉の御手船(直属輸送船)は鳥羽浦に留まりで逗留したが、塩飽船は全て小田原まで乗り入れ、兵粮や戦略物資を運び入れ、任務を果たした。

ここからは、秀古の手船は鳥羽浦までしか行かなかったのに対して、塩飽船は太平洋の荒波を越えて小田原まで航行したと、操船能力の巧みさを自画自賛しています。秀吉は四国・九州遠征を通じて水軍編成を計っていきます。小田原攻めの時には、秀吉の直属の九鬼嘉隆の率いる水軍をはじめ、毛利水軍・長宗我部水軍・加藤嘉明水軍も動員され、相模湾には、水軍が蟻のはい出る隙間もないほど結集したと云われます。この時にも塩飽船は、軍船ではなく兵糧輸送船として徴用され活躍していることを押さえておきます。

北条氏を減ぼして全国統一を果たした秀吉の次の野望は、朝鮮半島でした。古代ローマ帝国と同じく領土拡大を行う事で、秀吉政権は成長してきました。領土拡大がストップすることは、倍々ゲームで成長してきた企業が成長0になることにも似ています。政権の存続基盤が失われることを意味します。それを秀吉は朝鮮出兵、中国への侵入という大風呂敷を広げることで帳尻を合わせようとしたのかもしれません。すでに九州遠征の時から「唐入り」の野心を膨らませていたのです。誇大妄想的な野望かも知れませんが、そのために取られた準備は用意周到なものでした。各地の城の修理や増築を行い備えた上で、朝鮮出兵の拠点として肥前名護屋城の普請を行います。また朝鮮への渡海のための船の建造を進め、全国の大名にも船舶の建造命令を出しています。
これにともない塩飽でも船の建造が行われたことが、次の秀次朱印状から分かります。
③豊臣秀次朱印状(折紙)
大船作事為可被仰付、其国舟大工船頭就御用、為御改奉行画人被指遣候間、成共意蔵入井誰々雖為知行所、有職人之事、有次第申付可上候者也、
十月十二日                   (朱印)
塩飽
所々物主
代官中
意訳変換しておくと
大船の造船を命じることについて、舟大工や船頭の雇用が必要なることが考えられるので、奉行を派遣して職人の募集を行う事、また危急の際なので、給料や人物にこだわることなく使える職人は、すべて雇用すること、

この文書には、年次がありませんが文禄九年(1592)と研究者は考えているようです。船大工の雇用に当たっては「蔵入並並に誰々雖為知行所」とあるように、少々人件費高くとも人間的に問題があっても使える職人は全て雇へという命令です。
 また、この文書で研究者が注目するのは宛先が「塩飽 所々物主 代官中」となっていることです。ここからは、この時期の塩飽には代官がいて、秀吉の直轄統治が行われていたことが分かります。この文書を受けた塩飽代官は、どうしたでしょうか。塩飽には中世以来の海上輸送の物流基地で船大工もいたでしょうがその数も限られていたでしょう。塩飽以外の地からも多くの船大工を呼び入れたはずです。そこで、各地からやってきた船大工句の間で、造船技術の交流・改良が行われたことは以前にお話ししました。同じ事は、小豆島でも同時並行で行われていたようです。

船を建造するだけでなく、塩飽船は朝鮮出兵にも動員されていることが、次の文書から分かります。

「文禄九年高麗御陣之時、七ケ年之間、御手船御用之節、豊臣秀次様御朱印を以、御用被為仰付、塩飽船不残、水主五百七拾余人、高麗並肥前日名護屋両所二相詰、御帰陣迄御奉仕候、其節之御朱印二通」

意訳変換しておくと
文禄九年の朝鮮出兵の時は、7年間に渡って、御手船御用を言いつかっていた。そして、豊臣秀次様から御朱印をいただき、御用を仰せつかり、塩飽船は残らず、水主570余人とともに、高麗と肥前の名護屋城の両方に詰めて、出兵が終わり帰陣するまで御奉仕した。その時の御朱印が二通ある。

塩飽勤番所に残された2通の朱印状は、文禄二年(1593)に豊臣秀次から出されたもので、次のような内容です。
豊臣秀次朱印状
名護屋へ医師三十五人並に下々共外奉行之者被遣候、八端帆継舟式艘申付、無由断可送届者也、
文禄二年二月二十八日                (朱印)
志はく(塩飽)船奉行中
これは名護屋へ医師35人と奉行衆を八端帆継舟二艘で送り届けよという命令書で、宛先は塩飽船奉行です。もう1通は竹俣和泉の名護屋派遣について、兵と軍資を継舟で送るように指示しています。
⑤豊臣秀次朱印状
竹俣和泉事、至名護屋被指下候、然者、上下弐拾人並荷物「儀」(後筆)十荷之分、継舟二て可送届者也、
文禄弐年三月四日                 (朱印)
塩飽船奉行中
この継舟というのは八端帆船のことと研究者は考えています。これ以前の元亀二年(1571)来島・因島衆との海戦に、塩飽の八端帆船三艘が活動しています。ここから塩飽船は、八端帆船が主役であったと研究者は考えているようです。ここでも、動員されているのは軍船ではありません。
では八端帆船とは、どのくらいの大きさの船だったのでしょうか?
当時は帆一反につき櫓四挺の割合になるようです。すると8端×櫓4=32挺櫓で、長さ約20尺程の船になります。そこに乗り組む水夫は、漕ぎ手が32人+αで、武者も同じくらい乗船するので70名程度になるようです。
村上水軍 小早船
毛利水軍書の「小早」(村上海賊ミュージアム)

毛利水軍書の「小早」と称される船にあたるようです。③で「大船作事可被仰付」とありましたが、塩飽が大船を多数保有していたなら、それほど建造する必要もなかったでしょう。それまでの塩飽には、大船がなく八端帆船が多数を占めていたため「大船作事」命令となったと研究者は推測します。
3  塩飽 関船

ここからも、塩飽は八端帆継舟による海上輸送にあたっていたことがうかがえます。塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ継舟として文禄の役に徴発されます。④⑤の文書の宛名は「塩飽舟奉行」となっています。船奉行の支配下のもとに、瀬戸内海を通じて大坂・九州名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担ったと研究者は考えています。

 確かに塩飽は、文禄の役に多くの船と水夫を出しています。
そのために江戸時代には、朝鮮出兵で活躍の証が秀吉・秀次朱印状で、それが徳川の「塩飽船方衆(人名)」につながったとされてきました。これは、本当なのでしょうか? 
 西国大名の朝鮮出兵に関する研究が進むにつれて、塩飽だけが特別に負担が多かった訳ではないことが分かってきました。九州大名と舟手の水軍大名は、本役(百石につき5人の動員)、四国・中国大名は四人役(百石につき四人)と、石高に応じて軍役(人夫と水夫)が課せられていたようです。人夫や水夫の負担が多い大名の中には、軍役の2/3に達する藩もあります。これから考えると、塩飽に対しても検地に基づく石高で、軍役負担が課されたようです。天正18年(1590)に塩飽で行われた検地では、650人の舟方が軍役負担者として義務つけられます。これをもとにした軍役が、朝鮮出兵の時にも課せられているようです。それは決して特別重い軍役ではないと研究者は考えています。
 今までの通説では、次のように云われてきました。
塩飽は文禄の役の際には、他と比較にならぬほど多くの船と水夫を出した。それは、塩飽が豊臣の御用船方であり、船舶が堅牢で水夫が勇敢かつ航海技術が優れていたからである

しかし、これは塩飽を美化したものに他ならないと研究者は指摘します。九州などでは塩飽以上に多くの一般民衆が人夫や水夫として徴発されている事実からすれば、塩飽のみが重い負担であったとは云えないようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年
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天正13年(1585)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいたと言われます。ここからは、四国の大名を一括して認識していたフシが見えられます。どんな思惑で秀吉は、大名達を配置していったのでしょうか。讃岐に生駒氏が配される背景を巨視的に見ていきたいと思います。テキストは「川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置 中世西国社会と伊予所収」です。 
51585年頃の大名配置図
  
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讃岐・仙石秀久
伊予・小早川隆景
このほか詳しく見ると各国の一部は、
阿波には 赤松則房・毛利兵橘
讃岐には 十河存保・安富又三郎
伊予には 安国寺恵瑣・来島通総・得居通久にも与えられています。彼らは、いずれも長宗我部戦での活躍が認められたものです。長宗我部から奪った瀬戸内三国を見ると、阿波・讃岐には豊臣大名が、伊予には秀吉に近い毛利系大名の小早川氏が配されています。以前から河野氏と結び伊予に進出していた毛利氏は、平定前に秀吉から伊予拝領を約されていました。この大名配置のねらいは、阿波・讃岐・伊予の瀬戸内三国に政権下の有力大名を配置し、九州征討に備えることにあったようです。それを裏付けるように天正13年~15年にかけて、この三国では検地が行われています。これは新たな軍役賦課のためであったと研究者は考えているようです。そして実際に、九州攻撃の先陣を務めたのは「四国衆」でした。
 
仙石秀久、戦国を駆ける | 書籍 | PHP研究所

 讃岐の領主とまった仙石秀久は天正14年(1586)9月に島津征討に参陣しますが、豊後・戸次川の戦で大敗し、その責任を問われて領地没収となります。代わって翌年正月に、讃岐国領主になったのは尾藤知宣です。しかし、彼もまた日向での作戦失敗で領知を没収されます。その後を受けて、天正15年8月に讃岐領主に封じられたのが、生駒親正(近規)です。短命に終わった仙石・尾藤氏に代わって領主となった生駒氏によって讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世へと脱皮していくことになります。

高松城 周辺地理図

生駒親正の高松城築城の戦略的なねらいは?

 天正十五年の九州平定後は、讃岐・伊予の大名が入れ替えられて瀬戸内の固めが増強されます。秀吉の子飼いの豊臣大名によって、この地域が占められるようになります。その中でも生駒親正が築城した高松城は、城の中に港湾機能を取り込んだ今までにない構造であることは以前にお話ししました。その規模や岡山城などの移転状況などから判断して、瀬戸内海の制海権を握るための重要な役割を担うために作られた水城だと研究者は考えているようです。
 秀吉は生駒親正を信頼し、頼りとしていたようです。秀吉は親正に「讃岐国一円領知状」〔生駒家文書〕を出し、国内に秀吉直轄の蔵入地を観音寺に設定し、その代官にも任命しています。豊臣政権下での讃岐や生駒親正の重要性をうかがい知れます。さらに、親正は中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老(小年寄)として、五大老・五奉行間の調整を図る要職にも就いています。
 こういう中で親正は、自らの居城築城を開始します。
その選定にあたっては、まず引田浦・宇多津という港町に入りますが適地とせずに、最終的に野原庄(現在の高松)を選定したことは以前にお話ししました。「南海通記」によれば、戦国時代の野原庄には香西氏配下の武将達の小城が多数あったとされます。その記録通りにサンポート開発の発掘によつて、港湾施設や積荷が出土し、中世の港町があったことが分かっています。西浜や東浜や砂州の存在、船便の良さや背後の高松平野のヒンターランドとしての潜在力も、高松選定の大きな要因だったと研究者は考えているようです。
 高松城と生駒親正は、西国全体を支配下に置いた豊臣政権にとって、瀬戸内海の防衛・侵略拠点としての大きな布石の役割を果たすことになります。

次に伊予の情勢を見てみましょう
小早川隆景の肖像画の画像 | 戦国ガイド 
小早川隆景(毛利元就の三男)
伊予を支配することになったのは、安芸から海を越えてやってきた小早川隆景です。彼は秀吉の意向を受けて、城割・検地などを実施し、近世伊予の礎を築いたとされます。これらの政策は、先ほど見たように九州侵攻をにらんでのことでした。しかし、伊予国内には先ほど見たように旧領主の河野氏や西園寺氏の領地も混在し、小大名領が入り交じった状態でした。その結果、中世的遺制が残り、これが払拭されるのは九州平定後のことになるようです。
 しかも秀吉は、翌年の天正15年(1587)6月には、隆景(毛利元就二男)に筑前一国と筑後二郡・肥前二郡が与えて九州に転封させます。これに併せて毛利秀包(元就九男・隆景養子)に筑後三郡が与えられます。この転封は、朝鮮半島への侵攻準備のためだと研究者は考えているようです。九州平定のために四国にその侵攻の中核となるべき大名が配置されたのと同じ手法です。秀吉の信頼の厚かった小早川隆景に、朝鮮半島侵攻の基盤となる筑紫が任されたのです。こうして筑前名島城に入った隆景は、太閤検地など近世的政策が展開され、地元領主階級の結集がなされていきます。
5 四国の大名配置表

このような動きと連動する形で、秀吉は四国の大名配置を行なったことを改めて確認する必要がありそうです。
九州平定とそれに続く朝鮮出兵の布石として、秀吉は四国の大名配置を行ったという視点です。その動きを簡単に見ておくことにしましょう。

5 秀吉の四国大名配置図

 小早川隆景を筑紫に転封したの後、秀吉は東・中予に福島正則、南予に戸田勝隆を入れます。こうして瀬戸内三国全てに、秀吉子飼いの豊臣大名が配されます。福島正則や戸田勝隆は、伊予の近世化を進め、地付きの土豪族を弾圧し多くの悲劇が生まれますが、それも後に控える朝鮮半島侵攻のためには不可欠な準備の一つだったと考えていたのかも知れません。領内の不満分子弾圧を果たした後、戸田勝降は大津城から板島丸串城へ、福島正則は湯築城から国分山城へ短期間で移ります。
国分山城 - 城見る人も好きずき
国分山城に迫る小早川軍
 
文禄4年(1595)7月、関白秀次は高野山へ追放され、切腹を迫られます。その検使役を勤めた福島正則は、尾張清州34万石に転じ、代わって池田秀雄が国分山城へ入ります。秀雄の子秀氏は、南予の大津二万石に移された。同じく文禄4年7月には、加藤点明が文禄の役の功によって増封され、淡路から正木に入ってきます。そして同月、板島の戸田勝隆に換わり、藤堂高虎がやって来ることになります。豊臣秀長配下で、高野山に隠居していた高虎を秀吉に仕えさせたのは、讃岐藩主の生駒親正でした。

国分山城の写真:今治城天守にあった解説文 | 攻城団

朝鮮出兵にみる「四国衆」
豊臣秀吉は四国の大名を「四国衆」と呼んでいたことは最初に述べました。秀吉は小田原の役から朝鮮出兵にかけて、四国衆を水軍として軍団編成を行ったようです。当時の四国衆の大名にとって、朝鮮半島出兵のための水軍編成が大きな課題として秀吉から求められていたことになります。しかし、朝鮮での実戦では「四国衆」として統一的に動くことはありませんでした。それどころか大名間で反目し、ばらばらに動きに終始して、そこを朝鮮水軍に各個撃破されることが多かったようです。
阿波の古狸と呼ばれた『蜂須賀家政』したたかに乱世を生き抜く - YouTube

その中で、讃岐の生駒親正と阿波の蜂須賀家政だけは名実ともに同一ユニットで動いていたと研究者は指摘します。蜂須賀正勝は、秀吉の与力としてその統一過程に深く関わり、播磨国龍野5万石余の大名となります。四国平定においても、嫡子家政とともに讃岐・阿波に侵攻して活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後に、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされます。土佐の長宗我部は秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である生駒・蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。それを裏付けるように城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されています。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が上佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。このような「讃岐・阿波」の同盟関係が朝鮮半島侵攻の際にも発揮されたようです。

 朝鮮出兵した豊臣大名同士でも大きな軋蝶があったことはよく知られています。
それがその後の関ヶ原の戦いなどにどのような影響をもたらすのか、ひいては四国の大名配置にどう働いたのかという視点で見ておきます
 伊予の藤堂高虎と加藤嘉明は、同じ水軍に編成されていました。しかし、この両者は激しく対立し、軍事行動の分離・排斥がたびたびあったようです。そのため高虎は独断で、秀吉に注進しています。その際に蜂須賀家政は嘉明に同情的だったと伝えられます。
 朝鮮出兵では、関ヶ原合戦の要因ともなる事件も起きています。
石田三成の腹心・福原長尭が軍目付として派遣され、蜂須賀家政らの戦線縮小策を秀吉に報告し、家政らが罰せられます。後に家政は、福島正則・藤堂高虎・加藤清止・浅野幸長・細川忠興・黒田長政とともに石田三成襲撃を決行しています。朝鮮戦線に出兵した大名達の間には、大きな亀裂が生まれ豊臣政権は内部から分裂していたのです。その中で「四国衆」と呼ばれた大名たちの連携・対立が次代へと受け継がれていきます。

慶長五年(1600)9月15日、関ヶ原合戦における四国大名の動向を見ておきましょう。

5 四国の大名配置表 関ヶ原直前

徳川家康の東軍についていたのは
①阿波の蜂須賀至鎮
②讃岐の生駒一正
③伊予の加藤嘉明・藤堂高虎
石田三成の西軍についたのは
④讃岐の生駒親正
⑤伊子の安国寺恵瑣・小川祐忠・池田高祐・来島康親、
⑥土佐の長宗我部盛親

東軍勝利の結果、合戦後の論功行賞では、
⑦伊予が加藤嘉明・藤堂高虎に三分
⑧土佐一国に山内一豊
⑨讃岐の生駒氏は親子が両軍に分かれて戦ったが、一正の活躍が認められ、旧領を安堵された。
⑩蜂須賀家政は、領国家臣を豊臣秀頼に返却して高野山に隠遁
関ヶ原合戦を四国衆の視点で見ると、次のようになるようです。
①徳川秀忠軍の遅参のために、家康は旧豊臣大名中心の陣立てで勝利を得た
②そのため戦後の論功行賞では、旧豊臣大名に報いる必要があった
③結果として徳川政権成立期には、阿波・讃岐・伊予には秀吉子飼いの「外様」大名領が残った

そのような中で、長宗我部氏の居城であった土佐浦戸城の受け取りには井伊直政が派遣されますが、長宗我部軍の激しい抵抗を受けます。阿波・讃岐・伊予軍の動員によって,ようやく城が明け渡され、翌年正月に山内一豊が入城し、高知築城に着手するという不穏な情勢もあったようです。徳川の天下に決まったとは思わない人たちも数多くいたようです。

徳川の時代到来と四国衆
慶長八年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任命され、江戸城・城ドの増改築を進めるなど二重公儀・東西分治体制を確立していきます。「四国衆」もこれに協力していく姿勢を取るようになります。山内一豊は、御前帳において9、8万石の拝領高を10、36万石に改正して提出します。応分の軍役を負担することをこのような形で申し出たのです。「四国の押さえ」としての自覚ともいえます。
 風見鶏と云われながらも外様大名として家康の信頼を得て、側近的地位を築いたのが藤常高虎です。
彼は伊予から伊勢・伊賀への転封後、家康の下で大坂を包囲する戦略を練り、それを具体化するための各地の城造りに携わります。高虎の旧領大津へ、洲本から高虎に近い脇坂安治が入ります。高虎は家康の意を汲んで、洲本城を大津に移し、板島城を改築して、大坂包囲網を完成させます。その後、伊達秀宗がこの地に入国し、宇和島と改称します。
大坂の陣へは、四国衆も出兵します。
戦後に、諸大名の中で最も高い評価を受けたのは、松平忠直・井伊直政・藤常高虎でした。四国衆では蜂須賀至鎮の評価が高かったようです。至鎮へは淡路一国7万石が加増さています。蜂須賀家では、この武功は後の世まで語り継がれることになります。
 大坂夏・冬の陣で豊臣家が減亡することによって、「二重公儀体制」は清算されました。しかし、秀吉時代に配置された旧豊臣大名が四国や西国を占るという問題は解消されませんでした。
            
 この状況が大きく変化するのは、三代将軍家光治世の寛永期になってからです。
この時期は、キリスト教禁止令・貿易制限令・ポルトガル船来航禁止令の発布、島原の乱平定など、幕府の「鎖国」(海禁)体制整備期でもあり、西日本は対外的・軍事的緊張が高まっている時でした。そのような西日本の軍事的緊張を背景に、瀬戸内海沿岸にも御家門が配置されていきます。それまで、瀬戸内の中国・四国筋に御家門はありませんでした。ただひとつだけ備後福山に「譜代」水野家があるだけです。そういう意味で、四国に御家門を置くということは徳川政権にとって家康以来の大きな課題でもあったようです。
寛永13年(1645)には、松山15万石、今治3三万石が久松松平家に与えらます。そして、この藩は正保4年(1647)のポルトガル船来航に際し、長崎警備を命じられています。
さらに生駒騒動の後、寛永19年には水戸徳川家の連枝として高松城に入った松平頼重もまた、徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されていました。将軍から「西国・中国の目附たらんことを欲す命」〔「英公実録」〕があったようです。幕府の意を汲んで、松平頼重は高松城の海側への拡張工事を行い、軍事機能を充実させています。頼重は、朝鮮出兵も経験した生駒家の船団をそのまま引継ぎ、さらに紀伊徳川家からは、軍船が武器を備えて贈呈されています。頼重はこの船に乗って、宮島参り称して安芸の宮島近くまで船団の「軍事訓練兼示威パレード」を何度も行っています。
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 つまり、生駒氏によって築城された高松城は秀吉の大阪城を守るためであり、瀬戸内海の制海権防衛の拠点、さらには豊臣家の外様である土佐長宗我部への備えという戦略的な意味がありました。しかし、松平高松藩の高松城は大坂防衛の水城であると同時に「西国・中国の目付」の役割を求められていたようです。それを体現したのが松平頼重による高松城の改修だったことになるようです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置
中世西国社会と伊予所収」    

 
  丸亀市の今津町で江戸時代に庄屋を務めた横井家の倉から出てきた文書が香川県立文書館で公開されるようになりました。その中から新しく分かったことが紹介されていました。見てみましょう。 
横井家について
横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住し、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主であった横井元正がこれと戦ったことが分かる文書もあります。 面白いのは「征服」された横井元正が秀吉軍の四国侵攻の際に、その手引きをしたことを示す文書も残っているのです。これは天正一三年五月四日付け丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。
どのようにして正元は秀吉からの書状を得たのでしょうか?  

「長宗我部元親」の画像検索結果
          長宗我部元親
当時の情勢を見てみましょう。長宗我部家の記録には次のように記されています。
天正六年(1578)四国制覇を目指し、讃岐侵攻を開始した元親は、6年後の天正12年月には東讃岐の十河存保の十河城を攻め落とした。城主の存保は、かろうじて脱出した。
この合戦以後の讃岐は、すべての勢力が土佐軍の下に従い、支配下に入った。さらに翌13年春までに伊予を攻め、河野氏をも破った。こうして元親は、ほぼ四国も掌中に入れた。
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はたして土佐側史料の通りに、讃岐も伊予もて完全に討ち滅ぼされ支配下に収まったのでしょうか?伊予では、河野氏サイドの史料研究から道後地域を中心にゲリラ的な抵抗運動が続いたことが分かります。そんな中で、讃岐の反長宗我部の抵抗運動の具体的な活動をうかがえるのが、横井家の史料なのです。
「長宗我部元親」の画像検索結果
   長宗我部元親 初陣像
秀吉の四国征圧作戦の開始
 織田信長の後継者となった羽柴秀吉は、長宗我部元親が四国征圧を果たした翌年の天正13年春から本格的な四国攻略に取り掛かかります。安芸の小早川家の4月13日付文書によれば、秀吉は小早川隆景に近く自らの四国出馬を伝え万全の準備を命じています。
 黒田孝高には「5月3日」を「XーDAY」として、四国上陸のための準備を進めるように指示します。さらに、側近の一柳(市介)のに宛てた秀吉の朱印状が伊予小松一柳文書に伝わっています。そこには次のようにあります。

「急度申遣候、掲長曽我部為成敗来月(5月)三日四国出馬渡海候、就者其方人数半分召連、至明石可着陣候、則船等申付候、不可有由断候也、」

 5月3日に長宗我部征伐のための四国へ軍を海を越えて渡らせる。そのため保有戦闘員の半分を引き連れて明石で待てという内容です。これと同じ日付の文書が横井家に残る横井元正宛ての文書です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は一柳文書と同じで「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島方面に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。
 長宗我部軍の下で雌伏し、密かに刀を研いでいた横井氏など反長宗我部勢力の情報を、秀吉方は掴んでいたのでしょう。何度か情報交換の後に、横井氏等に内応工作が進められたことがうかがえます。これを待っていたかのように、横井元正は書状を受け取ると同時に、仙石氏の讃岐上陸に備えるための行動を開始したことでしょう。
長宗我部元親は、どのように動いたのでしょうか
 元親は、阿波の岩倉に着陣していたと言われます。元親の下には秀吉軍が伊予と阿波及び讃岐の三方面から、しかも同時に攻め掛かってくるとの情報が既に伝えられていました。
それに対する防戦戦略について家臣団の意見の不統一もあったようで、戦意は上がりません。
 そんな中で、秀吉軍の上陸決行予定日が突如延期されます。理由は、秀吉のちょっとした病にあったようです。あるいは、朝廷・公家等から親征中止の要請があったことも原因かも知れません。
 しかし、約一月遅れの6月16日には、秀吉は四国征討軍の総大将である弟秀長に総軍発進を命じます。諸史料からも阿波・讃岐・伊予の三方面からの四国総攻撃はいずれも、6月16日に開始されたと記されています。そして、あっけなく2ケ月後の8月6日の和議成立で四国攻めは終了します。横井氏の長宗我部氏に対するゲリラ戦術も勝利の旗が揚がり、雌伏の時は終わります。
短期間で長宗我部征討作戦が終了したのは、なぜでしょう?
それは、伊予における状況と同じように、讃岐でも長宗我部の支配体制が確立していなかったからではないかと研究者は見ているようです。
 確かに、長宗我部の侵入が早かった中讃や三豊では、統治のための坪付が行われたことが確認できます。そして、新たに土地を給付された土佐方の武将等が領主として所領経営を始めていたのです。「長宗我部による讃岐支配の実態」という視点での研究はあまりされていません。近年に高瀬町誌が「長宗我部が残した物」として、町内の土佐神社や土佐の武将による農業経営などに光を当てているのが異色です。
 長宗我部軍は引き上げても、そのまま讃岐に残って定着しようとした人たちはかなりいたようです。
例えば元親の側近として従軍してきた修験道僧侶の宥厳は、金毘羅さんの金光院院主を任されます。そして、土佐勢の撤退後も象頭山に留まり、新たに領主してやって来た生駒家などとの関係を結んでいき金毘羅発展の基礎を築いていきます。また、その後の宥睨は、土佐からの移住者である山下家の出身です。山下家は、長宗我部侵攻前後に三豊市財田に定住していた家系です。このように西讃においては長宗我部が引き上げた後も讃岐に残り、郷士としての力を維持し、寺院や神社を残した勢力はいくつもあったようです。
 しかし、占領が始まったばかりの東讃地方では、時間的に見て坪付けに至るなど統治政策を開始するまでには至ってなかったようです。
それは伊予の状況と共通する情勢で、残存勢力の「ゲリラ戦」などもあり「掃討作戦中」であったという所でしょう。そうだととするならば、食糧確保や山城構築・陣形整備など防備体制の整備は、もちろん進んでいなかったでしょう。それが土佐軍が徹底抗戦を行わずに、戦闘の短期終結となった一因といえるようです。そのような混乱の中での反長宗我部への抵抗運動を担ったのが横井家の先祖・横井元正だったようです。
 さて、秀吉からの朱印状を受け取った横井元正は、どのようにして仙石氏の讃岐上陸作戦を手引きしたのでしょうか。そして、その恩賞は?
 残念ながらそれを伝える文書は残っていません。小説家のように想像力を膨らませて各自のSTORYを描くしかないようです。
横井家家系 丸亀市今津
横井家丸亀市

参考文献 
唐木 裕志   「四国渡海」と讃岐の土豪横井氏 天正一三年羽柴秀吉発給の新史料について
                        香川歴史学会編 香川歴史紀行所収

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