「秀吉の四国平定」の讃岐侵攻については、「黒田家譜」や「改選仙石家譜』、「森古伝記」などの編纂資料を比較すると、多少のちがいはありますが、その推移はほぼ一致します。それを整理すると次のようになります。
宇喜多軍の進撃ルート 讃岐を通過して阿波へ (黒 毛利軍)
宇喜多軍の進撃ルート 讃岐を通過して阿波へ (黒 毛利軍)
ここからは東讃では、長宗我部方の抵抗はほとんどなく、短期間で軍事行動は終わったようです。宇喜多勢が植田城を放置して阿波に転戦できた背景には、讃岐東部には十河氏や安富氏をはじめとす反長宗我部勢力がいたことがあげられます。放置して通過しても、十河・安富氏がいるから大丈夫と判断したからでしょう。長宗我部軍による東讃制圧から僅かに期間で、地に根を支配体制がまだ出来上がっていなかったと研究者は考えています。
それを裏付けるものとして、秀吉軍の上陸を手引きをした香川郡の横井氏がいます。

羽柴軍を手引きした横井氏の系図
横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住んで、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主がこれ戦ったことが分かる文書もあります。そして秀吉軍の四国侵攻の際には、その手引きをしたことを示す文書も残っていることは以前にお話ししました。そのことが記されているのは天正13(1585)年5月4日付けの横井家当主の丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。ここからは横井氏が小豆島に亡命中の安富氏や十河氏と連絡をとりながら諜報活動等を行っていたことが見えて来ます。横井元正は、この書状を受け取ると同時に、仙石氏の屋島上陸作戦に備えるための行動を開始したことでしょう。そして、長宗我部方の城の情報なども伝えたのでしょう。このような反長宗我部方の土豪たちが東讃には数多くいたようです。ここからも長宗我部元親による東讃支配は不安定だったことがうかがえます。
こうして屋島に上陸した宇喜多直家軍は、限定的な戦闘だけで阿波に転戦していきます。阿波が主戦場で、讃岐は通過のみのような印象を受けます。このように軍記ものに出てくる秀吉の讃岐侵攻は東讃だけが舞台で、それも植田城を放置しての「通過」として記されています。
書かれていない西讃方面は、どうだったのでしょうか?
具体的には、長宗我部氏と親族関係を結び同盟関係にあった天霧城主香川氏に対しては、秀吉はどのような対応をとろうとしていたのでしょうか? 従来は、秀吉の四国出兵の際の讃岐攻めは、東讃だけが想定戦闘エリアとされてきました。つまり、香川氏に対しては、兵力を差し向ける意図もなかったというのです。それに再考を求める【史料】を見ておきましょう。
具体的には、長宗我部氏と親族関係を結び同盟関係にあった天霧城主香川氏に対しては、秀吉はどのような対応をとろうとしていたのでしょうか? 従来は、秀吉の四国出兵の際の讃岐攻めは、東讃だけが想定戦闘エリアとされてきました。つまり、香川氏に対しては、兵力を差し向ける意図もなかったというのです。それに再考を求める【史料】を見ておきましょう。
前回も見た毛利方の吉川元長が国元に送った書簡には、次のように記されています。
意訳変換しておくと
「また阿波方面については、羽柴軍が一宮・岩倉・脇城を取り囲んでいるが、これらも近日中には落城するだろう。そうすれば、(香川氏の居城である)雨霧城にも兵を差し向けることになろう。それで、阿波・讃岐・伊予の三国共に決着することになる。
ここには阿波戦線が片付けば、香川氏の居城雨霧(天霧)城への攻撃も予定されていたこと、そして香川氏を叩いて、四国平定の決着をつけると認識していたことがうかがえます。しかし、天霧城攻めは、それよりも先に長宗我部氏が降伏したために実行されませんでした。それでも和議成立後の8月には、羽柴秀長と小早川隆景が実際に「西讃岐」まで赴いて、香川氏と面会したようです。ここからは秀吉の戦略上の想定に讃岐西部が含まれていたと研究者は判断します。
三野郡の秋山氏に宛てた(香川)四郎五郎の書状を見ておきましょう。
意訳変換しておくと
戦況に対する情報がもたらされたので伝えておく。秋山氏が派兵した兵力について、早々の帰還についてを羽久地(白地)の長宗我部元親にお伺いしたところ、近々に帰還予定とのことであった。なお、油断することなく細心の対応をすること。櫓などの修築なども怠らないこと。観音寺方面の情勢については、油断のないように注視・対応すること、新居・西条あたりからは今朝より、兵火が上がっているようだ。伊予方面の情勢を今後も注意深く見守ること。与岐(余技崎)・ミの(箕浦)浦に煙(狼煙)が立ちのぼっているという報告も受けているが、その実態は分からない。観音寺については、主人が留守でであるので、その動向を注視したい。三孫(三野氏)へも、その旨のことを伝え、警固を強化するように指示した。明日にも、柞田・観音寺方面で軍事的な動きが発生することも考えられる。西表之衆(反長宗我部勢力?)が集結し、進軍してくることもありえる。そのために観備(観音寺香川氏)と連絡を取り、協議しておく必要ある。与次兵が帰還して、詫間衆へは連絡がついている。大見(秋山氏?)には番衆を派遣した。 くれぐれも貴所次第被相談候へと被仰候、其御心得候て、可然様御才覚肝要候、西表之事も其分別たるへく可被仰談候、恐々謹言、(天正十三(1585年) 七月十九日 (香川)四郎五郎(花押)(秋山)木工御宿所
ここからは次のような情報が読み取れます
①天霧城の香川氏の関係者である「四郎五郎」から、三野の秋山氏(木工)への書簡であること。
②毛利軍の伊予上陸で戦闘が激化し、新居・西条あたりで火災が起きていること
③伊予との国境の与岐(余技崎)・ミの浦(箕浦)からの煙(狼煙?)が上り、三豊地方に軍事的な警戒感が強まっていること
④「三孫(三野氏)」や「観備観音寺(香川)備前守)」を、香川氏配下の自軍の者としてあつかっていること
⑤それに対して、観音寺方面の軍勢を「西表之衆」と呼んでいる
⑥香川氏が派遣した軍勢の帰還に「羽久地(白地=長宗我部元親)」の指示が必要になっていること、

香川氏の天霧城
西方で発生した兵火が新居や西条方面ものであることは、日付からみて金子元宅が籠る高尾城攻めの戦火と研究者は考えています。その根拠は次の通りです。
A 金子氏の高尾城落城は17日夜の出来事である(【史料】「十七日亥刻落去仕候」)B 翌18日以降にもたらされ伊予東部の異変に関する報告C その報告への返書が、19日付のこの四郎五郎書状
つまり、この史料に年紀は入っていませんが、天正13(1585)年のものと研究者は判断します。この香川氏の書簡からは、毛利勢が伊予制圧後に讃岐方面に東進してくるのではないかと警戒を強めていたことが分かります。そして、配下の三野氏や秋山氏、「観備観音寺(香川)備前守)」と連絡を取り合いながら、軍勢配置を確認するとともに、防御施設の準備を進め、毛利軍の侵攻に備えています。ちなみに観音寺方面の敵対する軍勢を「西表之衆」と表記しています。これがどのような勢力を指すのかも、今の私には分かりません。
この史料からは、秀吉の「四国平定(出兵)」が今まで言われてきたように、讃岐東部に限定した作戦でなかったことが分かります。東讃を通過した宇喜多勢は、一旦阿波へ転戦しますが、長宗我部氏の出方次第で、香川氏を攻めるために西讃にやってきて、三豊も戦場となる可能性があったのです。このあたりのことは、南海通記などの軍記ものでは何も触れていません。
次に、秀吉が戦後の讃岐支配について、どんな指示を出していたかを見ておきましょう。
8月4日ニ「秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に書状で伝えています。その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、
意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)
一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、国衆で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行として与えること
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと
仙石秀久に讃岐を与えることが指示されています。そして、与力として、安富氏と十河氏をつけるとことが記されています。しかし、占領した緒城の扱いなどについては何も触れていません。これについては、各地の城についてまで詳細な指示を出していた阿波の戦後占領方針とは対照的なことを押さえておきます。
こうして讃岐には秀吉の命を受け仙石秀久が入部しています。仙石氏は、最初は宇多津の聖通寺城に入城し、讃岐東部に拠点をもつ十河氏、安富氏を与力とします。
それでは、無傷のままに接収した天霧城はどうなったのでしょうか?
それでは、無傷のままに接収した天霧城はどうなったのでしょうか?
先ほど見た史料の中に「讃州■吉・雨霧可取懸との由候」とあったように、天霧城攻めが当初の攻撃目標にリストアップされていたことは確かです。しかし、無傷で残った天霧城を、仙石氏が活用したという痕跡はありません。
ここからは、秀吉の西讃への軍事行動は城主香川氏を標的とした作戦であったと研究者は考えています。その背景には、長宗我部元親の次男が香川氏を継いで、長宗我部元親の同盟軍として讃岐制圧を行ったことへの報復・見せしめ的なものではなかったかと云うのです。それは、前回見た伊予の金子氏と同じ立場であったことになります。そうだとすれば、香川氏は秀吉に降伏しても、厳しい措置が待ち受けていたはずです。その後の仙石氏や生駒氏に登用される道も閉ざされていたことになります。在野に下っても、「長宗我部元親の手先」として厳しい世間の目が待ち受けていたことになります。香川氏が、土佐に亡命するという道を選んだのも納得できます。ここでは、予定されていた天霧城攻撃も伊予東部と同様に、拠点確保ではなく、香川氏を標的とした作戦であったこと。それを知っていた香川氏はいち早く土佐に落ちのびたことを押さえておきます。
ここからは、秀吉の西讃への軍事行動は城主香川氏を標的とした作戦であったと研究者は考えています。その背景には、長宗我部元親の次男が香川氏を継いで、長宗我部元親の同盟軍として讃岐制圧を行ったことへの報復・見せしめ的なものではなかったかと云うのです。それは、前回見た伊予の金子氏と同じ立場であったことになります。そうだとすれば、香川氏は秀吉に降伏しても、厳しい措置が待ち受けていたはずです。その後の仙石氏や生駒氏に登用される道も閉ざされていたことになります。在野に下っても、「長宗我部元親の手先」として厳しい世間の目が待ち受けていたことになります。香川氏が、土佐に亡命するという道を選んだのも納得できます。ここでは、予定されていた天霧城攻撃も伊予東部と同様に、拠点確保ではなく、香川氏を標的とした作戦であったこと。それを知っていた香川氏はいち早く土佐に落ちのびたことを押さえておきます。
こうしてみると秀吉の対讃岐戦略には、東讃と西讃では異なる戦略方針があったことがうかがえます。
東讃では、出兵の前から十河氏や安富氏などの羽柴方に味方する勢力が根強く残っていました。そのため屋島に上陸した宇喜多軍が直面したのは、長宗我部勢を牽制する程度の局地戦にとどまりました。そして、上陸後は植田城を無視して、短期間で阿波の木津城攻めに合流しています。ここからは羽柴軍の当初の戦略は、讃岐よりも阿波の制圧を優先したことがうかがえます。
一方、長宗我部方の香川氏が支配した西讃については、毛利軍が天霧城攻めが計画していました。そのため元親の降伏が遅れれば、西讃は戦場となり、天霧城をめぐる攻防戦が展開された可能性があったと研究者は考えています。
平井氏は毛利氏の伊予侵攻について、次のように述べています。
「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」「秀吉にとっ四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」
藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。
「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」
以上を要約・整理しておきます。
①秀吉は讃岐制圧のために宇喜多直家を大将とする軍を小豆島を拠点に送り込んできた。
②宇喜多軍は屋島に上陸して、最小限の限定的な戦闘だけで阿波に転戦した。
③ここには秀吉とって、四国平定の主戦場は阿波にありと認識されていたことがうかがえる。
④宇喜多軍の屋島上陸で、安富氏・十河氏など反長宗我部の諸勢力が抵抗が活発化して、讃岐は放置しても脅威にはならないと判断したのかもしれない。
⑤一方、天霧城の香川氏の対応については、従来の軍記ものは何も語たらず、土佐に亡命したことだけが記される。
⑥しかし、毛利側の戦略には新居浜・西条制圧後は、東進して天霧城を攻めることが予定されていた。
⑦それは、香川氏が秋山氏に送った書状などには毛利軍の動きと、戦闘準備の対応策が記されていることからも裏付けられる。
⑧しかし、長宗我部元親は早期に降伏し、香川氏は土佐に落ちのびることを選択した。
⑨無傷で残った天霧城は放置され、これを仙石氏や生駒氏が活用した痕跡は見られない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
































































