瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の武将 > 三野氏


前回は三野郡勝間(三豊市高瀬町)を拠点に古代の三野郡司から武士団へと成長を遂げた三野氏をみてきました。三野氏は下勝間の勝間城を拠点に、柞原寺を菩提寺として成長していきます。そして戦国期になると天霧城の香川氏の重臣として活動し、所領を守っていきます。香川氏が長宗我部と結ぶと讃岐平定の先兵として活躍し、人質として岡豊城にも出向いていました。さらに、生駒藩時代には、二代目一正を支える重臣として5000石の知行地をもつにまで至ります。
 生駒藩の文書には、藤堂高虎の意を受けて、藤堂藩からレンタル派遣されて奉行職を務めた西嶋八兵衛と並んで署名したものがいくつも残されています。ここからは西嶋八兵衛などと、実質的な藩運営に関わっていたことがうかがえます。
西嶋八兵衛による満濃池築造に代表されるように藩全域的な治水灌漑工事が一段落すると、つぎに問題になってくるのが知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、高松城下町のことが次のように記されています。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

ここからは次のようなことが分かります。
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
ここからは太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたことが分かります。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、三野郡の三野氏のように生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きが活発化します。
 秀吉の太閤検地の意味をもう一度確認しておきましょう。
 太閤検地でと「領有制から領知制」に変わります。武士は、土地と百姓から切り離され、土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。検地後は、武士は自らの「あらし子(侍の手作り地で働く農業労働者)」のように、百姓を自由に使うことは出来なくなったはずです。百姓層を使って、自由に新田開発を行うことはあり得ないことです。ところが、三野孫之丞は、700石もの「自分開」を新たに拓いています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。 この広大な新田を、どこにどのようにして拓いたのでしょうか。それを三野氏の拠点である下勝間で見ていくことにします。テキストは高瀬町史288P 勝間新田の開発    です。

    高瀬下勝間地図 
                              
下勝間村は、上の赤線で囲まれたエリアで、現在の三豊市役所(旧高瀬庁役場)から高速道路の北辺りまでにあった行政区画です。江戸時代初期の下勝間村の石高は次のように記されています。
下勝間村高千弐百壱石、 畝数百拾四町六反三畝
内訳 
田方本村五百弐石五斗    畝数四拾四町六反三畝
田方鴨分四百拾石九斗八升 畝数三拾八町四反
新田拾弐町九畝     
  居屋敷五町五反七畝
畑方村中九町三反     
  新畑三町弐反九畝
    「佐股組明細帳」『高瀬町史史料編』
①「田方 本村」は勝間小学校から高瀬中学校のあたり
②「鴨分」は国道以西から高瀬駅・高瀬高校あたりになります。
税率を示す「斗代」は一石七斗で、このころは上田の一石五斗が一般的でした。それからすると上田が多く勝間は三野郡における穀倉地帯だったといえそうです。この辺りが下勝間の「本村」であったことがうかがえます。本村を拠点に周辺部が新田開発されていきます。

新田開発を行ったのは、どのような勢力なのでしょうか。
生駒時代の寛永~元禄年間(1624~04)に新田開発の内訳です。
 新田開発の状況
既往の新田畑 三町四反九畝十九歩 四町三反四畝十八歩
新規開発新田 十町九反二十四歩
内訳
佐股甚左衛門新田 壱町七反弐拾歩
上高瀬新八新田 三町八反壱歩弐拾三歩
長右衛門新田 壱町三反九畝十三歩
巳ノ新田 三反六畝
六ツ松新田 壱反弐畝弐拾九歩
巳ノ新田元禄十二年改 壱反九畝弐拾三歩
同 元禄十六年改 六畝五歩
同宝永二年改 壱町七反弐畝十五歩
同 元禄十二年より宝永二年改 壱町五反壱畝六歩上勝間五兵衛新田
新たに拓かれた面積を計算してみると
既往の新田畑3町4反9畝19歩 + 4町3反4畝18歩 + 新規開発新田10町9反24歩=約18町6反

が下勝間地区で新たに拓かれたようです。
佐股甚左衛門新田とあるのは「佐股村庄屋の甚左衛門が拓いた新田」という意味になります。ここからは、開発者のひとりが、佐股村庄屋であったことが分かります。彼は六ツ松のほか西股でも1町5反の新田のほか、西山千田林には約2町歩の新田と甚(陣)左衛門池を拓いています。新田と池の築造はセットで行われなければ意味がありません。
 上高瀬大庄屋三好新八郎は、石の塔沿いに新田と上池・下池を築造しています。彼は威徳院検地帳に上勝間庄屋と記されています。ここからは、下勝間周辺の庄屋たちが村のエリアを越えて新田開発とため池築造工事をセットで進めていたことが見えてきます。彼らは幕藩政治の下で世の中が落ち着いて活躍場所を失った武士たちが帰農したものたちもいたはずです。その中には、讃岐以外の地からやってきて一族で住み着いて、豊富な資金力と労働力で急速に周辺の土地を集積していった勢力がいました。
 
  その例を多度津町葛原の木谷一族に見てみましょう
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれていた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。そして金倉川の氾濫原の新田開発と千代池などのため池改修を進めて、大庄屋へと成長して行きます。
 1628年に西嶋八兵衛は廃池になっていた満濃池の改修に着手し、同時に金倉川の流路変更や治水工事を行い、用水路整備をすすめます。それは、当時の新田開発という大きなうねりの中にあったことを押さえておきます。
 この他にも、生駒家2代目一正の側室となったオナツの実家の山下家も、この時期に財田西や河内で盛んに新田開発を行い分家を繰り返し、成長していきます。オナツによって生駒家に作られた外戚閥族が生駒騒動の原因の一つとも言われます。また、オナツの甥は金毘羅大権現の金光院院主でした。この「伯母・甥」関係が生駒家から金光院への330石という大きな寄進につながったようです。どちらにしても、当時の財田西の山下家は殿様の側室を出した家として、特別な存在だったようです。この山下家も新田開発に熱心だったことを押さえておきます。
  そういう目で見てみると、三野・多度郡・那珂郡は生駒時代に拓かれた新田が多いような気がします。それを裏付けるデーターに出会いました。

生駒藩新田開発割合

ここには讃岐11郡の生駒家時代の新田開発状況がグラフ化されています。
①灰色が「自分開」で、家臣団による新田開発面積
②桃色が「新田悪所改出」で、地主による新田開発面積  
これを見ると新田開発が盛んに行われた郡とあまり行われていない郡があるようです。また、新田開発の担い手にコントラストもあります。例えば山田郡を見ると、開発主体は地主たちだったようです。それに対して、香東郡・鵜足郡・多度郡・苅田郡は家臣たちが積極的に開発を行っています。さて三野郡はと見ると・・・、家臣団と地主が争うように行っています。
三野郡で新田開発をおこなっていた家臣とはだれなのでしょうか。

生駒家新田開発一覧表
そのトップにいるのが三野孫之丞です。彼は、前回見てきたように古代の三野郡司につながる三野氏の当主で、5000石の重臣でした。高松城の本丸近くに広い屋敷を持っていました。同時に、拠点の三野郡では、他に類がないほどの新田開発をおこなっていたことになります。ここからは、先ほど見た庄屋による新田開発と並ぶだけの面積が三野氏の手によって下勝間周辺では行われていたことがうかがえます。

新田が拓かれた場所は、周辺のため池の名前からその場所が推定できるようです。
「威徳院検地帳」の地名を見れば、それは、現在の新田部落の的場・彦三郎池そば・菖蒲池そば・丸山道下から六ツ松峠付近であったことが分かります。築造された主な溜池を挙げて見ましょう。
①山王下  山王池  かに谷池   菖蒲池  相本池
②威徳院上  菰池   皿池
③六ツ松  松葉崎池 かも池  陣左衛門池
④石ノ塔    新田池 同上池 同下池
⑤五丁池上 渡池 鬼ノ窪池 どじょう池
⑥上勝間村堺 皿池 丸山池(千田林)佐股新田
関連溜池 庄屋池。梅之谷池。足和田池・岩瀬池・立花池。
勝間 ため池

上の中から主要な溜池四池について、時代ごとの灌漑面積を比較したのが下表です。

①江戸時代前期の「佐股組明細帳」37、4町
②江戸時代末『西讃府志』    56,8町
③現在             70,0町 
江戸時代の200余年の間に、灌漑面積は約倍増しています。しかし、溜池の築造 →余水確保 → 新田開発 → 日照りと干害 → 新しい溜池築造という悪循環だったようで、池の嵩増しや「新池」を次々と造り続けられます。連続して並ぶ池は、その歴史を物語る証人でもあるようです。
高瀬町勝間のため池2

南海道と伊予大道が合流する六ツ松峠付近を見てみましょう
「勝間村郷土誌」は、池堤を旧国道として利用したことによって生まれた独自の溜池景観を次のように記します。

旧往環国道11号線 道音寺方面を通れば一歩に二池、五歩に十池、左右の水色道音寺城山の松、翠に映発して美観いうべからず

たしかに、六つ松から笠田に抜けて行く峠付近は、池の堤防が国道にもなっていたようで、小さなため池が左右に続く風景が残っています。これらも江戸時代の新田開発とともに谷頭に池が作られていった結果、生まれてきた光景で讃岐らしさが現れている「歴史的風景遺産」と呼ぶことができるのかもしれません。

さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
新田台地に建つ威徳院

この新田開発の推進役のひとつが威徳院です。

この寺は、新田台地中央に位置し、讃岐国領主生駒一正の保護を受けて20石を安堵された以後、寺勢が急速に伸びいきます。その時期は、三野氏が新田開発を大規模に推し進めていた時と重なります。
 さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院
また、三野四郎左衛門は一正に仕えて、朝鮮出兵や関ケ原の戦いにも従軍し、豊臣方の大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めていました。このような中で、新たに建立(再建)されたのが威徳院なのではと思っています。あるいは、当初は柞原寺の別院のような存在であったかもしれません。その院主が三野四郎左衛門の帰依を得て、そのつながりで藩主一正の保護を受けるようになったのではないかと推察します。

DSC06244勝間城・威徳院
勝間城と威徳院(中世城館跡詳細分布調査報告2003年)

なぜなら威徳院のある場所は、三野氏の居城である勝間城の直下です。ここには三野氏の保護支援なくして、寺院を建立できるものではありません。また、いまは廃寺となりかけている威徳院西院は、三野氏の居城跡ともされます。その跡に建立されていることも三野氏との関係を推測させます。ひょっとしたら三野氏が拓いた新田が、その後に威徳院に寄進されたことも考えられます。
 「西谷池の記念碑」には威徳院が、寺池として大池・西谷池・寺池・同上池・同下池などを築造し、田畑の開発に努めていったことが記されています。
その結果がどうなったのかを「威徳院検地帳」(元禄12(1699)年)に見てみましょう。
 下に挙げたのは、その一部ですがここから分かることを挙げておきましょう。
高瀬町威徳院検地帳

 威徳院寺領検地帳(元禄十二年)         高瀬町史資料編516P
①「堤まえ」などと、土地の位置が明記されているので、だいたいの場所が分かる。
②「下田」が多く本村と比べると、土地条件が劣る
③一反未満の小さな田畑が多く、棚田状にならんでいたことがうかがえる。
④「手作り地」といった記述もあるので、寺子などを使って寺独自に耕作が行われていた田畑もあった。

最後に威徳院寺領の総合計と、土地の等級評価が次のように記されています。
  畝数合七町弐反五歩 内三畝拾五歩  多門坊屋敷
残而七町壱反六畝廿歩再僻分
上田 六反四畝弐歩 反二付米八斗   取米五石壱斗弐升五合
下上田 壱町六反八畝 反二付七斗 取米拾壱石七斗六升
下田 壱町九反六畝七歩 反二付六斗五升 取米拾弐石五升四合
下々田 弐町弐拾七歩 反二付六斗 取米拾弐石五升四合
下畑 四反七畝十三歩 反二付二斗五升 取米壱石壱斗八升六合
下々畑 壱反七畝拾六歩 反二付壱斗五升 取米弐斗六升三合
屋敷弐反弐畝十五歩 反二付弐斗五升 取米五斗六升三合
(朱書き)
「其新畑四畝廿五歩 取米七升弐合  米合四拾三石七斗三合
右之通相定申候、以上
元禄拾弐年卯ノ三月十八日 
源右衛門
彦八郎
組頭 四郎兵衛
清右衛門
庄屋 五兵衛花押
寺内作付分
一、上田六畝拾弐歩  浦門内
一、上田九畝拾八歩  下藪北切
一、上田四畝八歩    ふろ屋敷
一、上田七畝廿歩    同所上切
一、上畑六畝拾歩    莱畑
一、上畑弐畝拾歩    泉ノ本
一、上田壱畝拾五歩  門道下
一、上田弐畝      同所道上

畝〆四反三畝
元禄拾弐年卯ノ三月廿八日
源右衛門
彦八郎
四郎兵衛
庄屋 五兵衛花押

 史料末尾に、村役人の連名がります。彼らが検地を実施し、その確認を行ったもののようです。寺は年貢米を徴収しただけと研究者は考えているようです。
  ここからは17世紀末には、威徳院は寺領として7町2反(7,2㌶)をもつ地主でもあったことが分かります。威徳院の近世の隆盛ぶりを支えた経済的基盤は、ここに求めることができそうです。

それでは、三野氏が開発した土地は、どうなったのでしょうか。
 最初に指摘したように生駒藩では「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていました。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していたのです。その上、新たに開発した新田は「自己開」として自分の知行に繰り込むことができたのです。そのため地元領主出身の三野氏は、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大したのです。それは先ほどのグラフで見たとおりです。周囲の一族や地主はそれを真似ます。このようにして生駒家の三野郡では、新田開発ラッシュが起きました。そのシンボルとして新田台地に姿を現したのが威徳院ではないでしょうか。
 三野氏の描いたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役し耕作をおこなうものです。これは秀吉の目指した太閤検地以後の時代の流れに「逆行」するものです。これを阻止しようする勢力が藩内に現れない方がおかしいのです。
新藩主のもと前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。もちろん家臣たちの新田開発などは許しません。家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向に軌道修正します。それは歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択が迫られるようになります。生駒騒動の背景には、このような土地政策をめぐる対立があったようです。

  以上をまとめておくと
①生駒藩では、「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわれ、生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していた。
②新田開発で生まれた田畑は、自分の所領とすることが出来たので讃岐出身の家臣を中心に新田開発が進められた。
③その中でも三野郡の新田開発は飛び抜けており、その中心に三野氏がいた。
④三野氏は下勝間を中心に新田開発を進め、それを一族や菩提寺も真似た。
⑤こうして生駒時代の勝間周辺は膨大な新田とため池が造られ今日的な景観に近づいた。
⑥この時期に新たな宗教施設として、姿を見せるのが威徳院である。威徳院は柞原寺に代わってこの地区の宗教センターとしての役割を担うことになる。
⑦威徳院の経済基盤は、この時代に拓かれた新田7町の田畑にあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 高瀬町史288P 勝間新田の開発 
      合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」
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1高松城 生駒氏重臣

生駒藩にて取り立てられ、家老までになったのが三豊の三野氏です。上図は生駒藩時代の高松城の本丸周辺に配置された重臣たちの屋敷図です。⑦が「三野孫之丞」の屋敷です。生駒家の親族たちと比べても見劣りしない広さです。そして5000石の高級取りでした。
さて、三野氏とは何者なんでしょうか?
三野氏のことについては、私はほとんど知りませんでした。秋山氏や生駒氏のことを見て行くにつれて気になりだしました。一度、その「発生から消滅」までをまとめておきたいと思います。テキストは高瀬町史 高瀬町域の武家と生活 三野氏 133Pです。

 三野氏のことが最初に記された史料は『吾妻鏡』のようです。
源平合戦で、いち早く平氏を見捨てて、京都に上り源氏方に加勢する讃岐武士のグループのことは以前にお話ししました。下の氏名一覧が、この時のメンバー表です。

讃岐の御家人 吾妻鏡
讃岐國御家人 
注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日
①は古代綾氏の系譜をひく讃岐藤原氏の統領で、リーダー的な存在だったのでしょう。
古代綾氏は、阿野北平野を拠点に勢力を伸ばし、国府を府中に誘致し、その後は国衙の在庁官人の中心的存在になります。菅原道真が国司とやって来た時代にも、郡司兼在庁官人として出仕していたことが史料からも分かります。そして、讃岐最大の武士集団に成長し、中世には讃岐藤原氏(藤氏)を名乗るようになるのは、以前にお話ししました。つまり、国衙の在庁官人のトップが平家支配を嫌って、一族を率いて源氏方に走ったのです。
その中の⑤⑦に三野氏の名前があります。
⑤三野首領盛資は「首領」とあるので、三野郡の郡司
⑦三野首領太郎以下は、郡司盛資の息子や一党
三野家文書には、自らを綾氏の末裔と記します。つまり讃岐藤原氏の一族であるという意識を持っていたことがうかがえます。古代の綾氏は阿野郡を拠点に鵜足郡・多度郡へと勢力を拡大していったようです。12世紀には、多度郡郡司に綾氏の名が見られます。中讃を拠点に西讃にも勢力を伸ばし、三野郡の郡司を代々務めるようになり、その一族が三野氏を称するようになったとしておきましょう。三野氏の郡司としての活動ぶりは分かりませんが、源平合戦ではその動向が『吾妻鏡』に記されているので武士化したことはうかがえます。

讃岐国絵図天保 三野郡
讃岐国絵図 天保版の三野郡 
 源平合戦の際に、いち早く平氏から源氏へと移り、勝ち馬に乗り換え、頼朝の御家人となった14人の武士達は、恩賞を受け、所領を安堵され、在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになります。三野氏も三野郡の勢力基盤を確保し、勢力拡大を果たした筈ですが史料的な裏付けはできません。その後は戦国期まで、三野氏は史料には登場しません。

1永正の錯乱

戦国期の三野氏 
 管領兼讃岐守護の細川政元が永正四(1507)年に香西元長などの家臣によって暗殺されます。後継者をめぐって、細川一族、家臣の間で争乱が起こり、讃岐も戦国時代に突入します。これが「永正の錯乱」という政治混乱です。このなかで、秋山氏は阿波守護家出身の澄元方についていることが分かります。秋山家文書の中に阿波守護家の重臣一宮賢長から、当時の秋山家の頭領・秋山源太郎にあてた書状が二通あります。そこに三野氏が登場します。
 阿波守護家から秋山源太郎に対して、三野氏が澄元へ味方する意思を示したならば、同道して一宮のもとに参上するよう促しています。またもう一通は、阿波守護家は秋山氏も三野氏も決して扱いをなおざりにするものではない。合戦で馬廻の者が多く死傷してしまったので、使者を立てられないが、直接会って申し上げると述べています。秋山氏を通して三野氏も阿波方の味方に引き入れようとしていることがうかがえます。この時点では、三野氏も秋山氏と同じように西讃守護代の香川氏の配下には入っていなかったことが分かります。

高瀬下勝間地図 
下勝間のエリア
戦国時代の三野氏の拠点は、どこにあったのでしょうか。
善通寺から大日峠を越えて西進する南海道と、鳥坂峠から南下してくる中世の伊予見大道が合流するのが現在の国道11号の六つ松です。この合流点の西側の小高い丘の上に城山神社があります。
ここに勝間城があったとされます。

1勝間城

 ちなみに勝間城跡の候補地としては、県の調査報告書ではここよりも、隣にある②威徳院の西の院跡を候補地(③勝間城)として次のように述べています。

DSC06244勝間城・威徳院
「周囲より10m高い小山で、頂部は広い平坦地になっている。傾斜のゆるい北側には幅6~10mの細長い平坦地があり、西端は土塁状になっている。また南西端にも土塁状地形が続くが、池が決壊したときのための堤防という話も聞かれた。」

私もここを押したいと思います。かつての城郭があった丘の上に、柞原寺に代わる新たな菩提寺が江戸時代になって建立されたとしておきます。
 「全讃史」には
「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」
とあります。
三野氏は代々、この山城(勝間城)を拠点に勝間を支配した。三野菊右衛門は、その末裔であるというのです。地元では「勝間を支配した三野氏の居城があったのが、ここだ」とされてきたようです。『西讃府志』には城主名は無く、戸慶城とだけ記されています。
 西讃府志には16世紀初頭のこととして、詫間城の項目に詫間城城主に詫間弾正を挙げて、その後に「三野大炊頭城」と記します。ここからは、三野大炊頭が所領を没収された後に、詫間氏が城主となったことがうかがえます。中央の細川家の騒乱に際して、勝ち馬に乗りきれないと「所領没収」という羽目になります。三野氏は、この時に詫間の所領を失ったようです。

三野津5
 中世の三野湾の湾入状態
その後の動きを三野文書と秋山文書で追ってみましょう。
秋山文書の永禄四(1561)年の書状は、天霧城主香川之景が秋山兵庫助にあてた知行宛行状です。ここには秋山氏の所領であった三野郡高瀬郷水田分と守利名が、三野氏の所領になっているが、それを秋山氏に返付するというものです。ここで奉行的役割を果たした者として、三野泰佐、三野菊右衛門の名が見えます。香川之景の感状に「詳しくは三野菊右衛門が口頭で申す」と記されています。ここからは、三野氏が香川氏の重臣として活動していたことがうかがえます。

1563(永禄6)年8月7日の三野文書には、次のような内容が記されています。
 天霧城主・香川之景が、三野菅左衛門尉に阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の働きを賞し、河田七郎左衛門尉に扶持していた領地を本知行地として返還し、また作原寺分を返付することを約す

 そして翌年1564(永禄7)年5月13日には、約束通り、香川之景が三野勘(管)左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返し与えています(三野文書)
 鴨村というのは、 近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村と記されているので、柞原寺周辺にあった村のようです。これが30年前の大炊頭の時代に没収された所領のようです。失った所領を香川氏の下で取り戻したことになります。

永禄七年の三野文書に見える勘(菅)左衛門は、菊右衛門の父になるようです。
 「全讃史」の 「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」という記事は、一次資料で裏が取れます。三野菊右衛門は「三野大領の末裔」のようです。
 以上から、三野氏は、郡司時代には詫間を拠点にして、中世には詫間城を居城していたのが、内陸へも所領を拡大し、その一族が勝間にも入ってきて拠点を構えた。それが勝間城だったというストーリが描けます。

また帰来秋山家文書には、1577(天正5)年2月13日付けの次のような書状があります。
 香川信景が秋山帰来源大夫親安に高瀬郷のうち帰来分および近藤出羽守知行分の地を宛行い、奉行三野菊右衛門尉に、この旨の申し渡しを命じる

これは香川信景の知行宛行状で、秋山源大夫に知行を宛行うものです。その使者となっているのが奉行三野菊右衛門で、ぬかりなく忠勤を励むように伝達を命じられています。また、その際に作成された知行日録には、三野方一町三反とあり、三野氏も所領を獲得したことが分かります。その後も三野氏は、香川氏の奉行として活躍したようで、三野菊右衛門は、勝間城主と記されています。
 三野菊右衛門は天霧城主香川氏に仕え、その奉行(重臣)として活動していることが分かります。逆の視点で見ると天霧城主の香川氏は、周辺の三野・秋山・河田氏などを家臣団へと組織化して、急速に戦国大名へと変身していたことがうかがえます。

DSC09080
柞原寺とその向こうに爺神山
柞原寺は、三野氏の氏寺?
近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村が記されています。鴨村は現在の高瀬高校や杵原寺があるエリアにあったようです。柞原寺には境内に鎌倉期に建立された石造宝塔が残され、かつては方八町の大伽藍を有していたという伝承があります。これは大げさにしても『西讃府志』には、林三町五反を持っていたと記されます。

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柞原寺
 実際に柞原寺背後の林を造成して高瀬高校を建設中に、山林の土中から五輪墓石数十基が出土しています。戦国期の戦死者をとむらつたものと伝えられます。三野氏のものかもしれません。どちらにして、現在の柞原寺から高瀬高校一帯が境内で、それが三野氏の菩提寺であったとしておきます。柞原寺は、その背後に甘南備山として信仰対象でもあった爺神山を望む「遙拝所」であったと私は考えています。秋山氏が本門寺を保護したように、三野氏も柞原寺を保護したのでしょう。

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柞原寺
長宗我部元親の讃岐侵攻直前の三野郡の情勢を見ておきましょう。
①高瀬郷 秋山氏
②勝間郷        三野氏
③詫間郷 詫間氏
④熊岡(比地)郷帰来秋山氏
⑤麻郷    麻近藤氏
  当時の中讃から三豊にかけての勢力対立は、次の2勢力でした。
A 戦国大名化する天霧城の天霧山
B 讃岐全域を支配下に置こうとする阿波の三好勢力
三野郡の①~⑤の武士団の棟梁たちも、AかBのどちらに付くかの選択を求められることになります。Aの香川氏の外交方針は一貫しています。それは「反三好」です。主君である細川氏を下克上で追いやった三好氏は許せないという感情論もあったでしょう。讃岐に侵攻してくる三好に対抗するためにどうするかが香川氏の外交方針です。そのために、あるときは信長と組み、後には毛利に頼り、そした最後に長宗我部元親と同盟するのです。香川氏が目指したのは「反三好」戦線の構築です。

1細川氏と三好氏

 一方、香川氏の勢力に反発を抱く者は、阿波三好勢に頼ります。
例えば、⑤の近藤国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。こうして次のような関係ができます。

 長宗我部元親=天霧城の香川氏 VS 阿波の三好氏=麻近藤氏

これを香川氏の目から見ると、三好氏についた讃岐の武士団は敵なのです。


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「南海通記」などの軍記物は、幕藩体制も固まった江戸時代中期になって書かれました。そのため各藩ごとの「郷土愛」で彩られ、長宗我部元親の侵攻を土佐軍と讃岐防衛軍の戦いという「郷土防衛戦争」の視点描いています。そこでは、最後まで抵抗する香西氏や東讃の武将に共感が働き、抵抗せずに降伏した香川氏は「悪者」としての役割を与えられています。読んでいて、土佐軍に果敢に抵抗する藤目城などに、どうして援軍をおくらないのか。同じ讃岐人として恥ずかしくないのか・! というような感情がわいて来ます。
 しかし、さきほど見たように、香川氏の基本的な外交戦略を思い返すと、その反発は的外れなことに気付きます。長宗我部元親と香川氏は「反三好」で利害が一致するのです。
そして長宗我部氏も香川氏も、かつては細川氏の臣下だったのです。
阿波三好氏との戦いは、主君細川氏のともらい合戦という大義名分もついてきます。香川氏は早い時期から長宗我部元親との同盟締結を模索していたと私は考えています。それは元親配下の修験者たちによって密かに進められていたと想像します。だから、香川氏は、土佐軍の侵入に対しても援軍を送らないし、動かないのです。近藤氏や本目・新目氏たちは、かつて三好氏の先兵として天霧城を取り囲み、その後も小競り合いを続けて来た敵なのです。それを土佐軍が「駆除」してくれる。その長宗我部元親と手を組むのは自然です。これは「降伏」ではなく「同盟」なのです。当初は「秘密同盟」であったかもしれません。
 そういう目で土佐軍が焼き討ちを行ったとされる所を見てみると。阿波三好方についていた武士団の拠点が多いことに気づきます。観音寺や本山寺、弥谷寺などの寺院は、焼き討ちを受けていません。それは、香川氏の勢力範囲だった所です。そういう意味では、三野氏の氏寺である柞原寺も戦禍にはあっていないと思うのですが、なぜか焼かれたと寺伝は伝えます。これも金刀比羅宮と同じで、長宗我部元親を嫌う機運が高まった結果かもしれません。そして、長宗我部側と戦った近藤氏などの所領は没収されます。

 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領として麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬などが挙げられています。これはかつての近藤氏の所領でした。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったのです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が移住・入植してきました。

香川氏が長宗我部元親に降って同盟関係を結んだ仕上げに、元親の次男親和が香川氏の養子に入ります。
その見返りの人質として岡豊城に入ったのが三野菊右衛門です。土佐へ移った香川信景・親和父子のその後の動向は、どうだったのでしょうか?
 岡豊城の近くの東小野という所に、屋敷を宛がわれたようです。『長宗我部地検帳』には「香川殿様分・香五様分」などと記されている土地があるようです。香川殿様は香川信景、香五様は香川五郎次郎(元親次男)のことです。ここからは、長宗我部氏から知行地を与えられていたことが分かります。この隠居地で晩年を過ごしたようです。
  一方、土佐へ赴いたのは香川氏父子だけではなかったようです。
『地検帳』には、三野・河田(川田)・詫間・山路・観音寺などの名前が見えます。これは香川氏の家臣です。その中の三野菊右衛門・河田七郎兵衛は、信景が元親と和議を結んだ際に人質として土佐へ赴いた人物です。ここからは香川氏の家臣の多くは土佐へ亡命し、そこで所領を与えられたことが分かります。戦いで敗れて逃げ落ちたかつての同盟軍のものたちを、元親は迎え入れています。多くの者は新しい領主山内氏のもとで帰農していったのでしょう。
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生駒親正
 秀吉によって讃岐領主に指名されたのは生駒親正です。
親正が秀吉から命じられたのは「次は九州平定で、その次は朝鮮出兵じゃ、それまでに船と兵をそろえておけ」ということです。水軍強化と兵士増強が最重要課題でした。そのために手っ取り早いのは、任地讃岐の讃岐の武士を家臣に取り立てることです。香西氏の家臣達をはじめ、数多くの土豪たちが取り立てられます。
 親正の子である一正に取り立てられたのが、三野四郎左衛門です。香川氏の重臣であった三野菊右衛門の息子です。彼は土佐に行かず三豊に残っていたようです。若き一正と共に、対馬海峡を越えて朝鮮出兵に従軍しています。讃岐武士団の登用は、朝鮮出兵の動員兵士を確保するためでもあったことが分かります。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺)
 関ケ原の戦いに生駒家は、父親正は西軍に、子一正は東軍について戦います。この時も、三野四郎左衛門は一正に従って関ヶ原で戦います。この時に四郎左衛門は、大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めることになります。讃岐出身者としては最高の出世者です。こうして生駒藩の中で三野家は押しも押されぬ存在になっていきます。

三野氏は、見てきたように中世の三野郡司の出身で国人領主でした。
そのため地元の勝間では、多くの作人を支配し土地耕作を行っていたと考えられます。特に生駒藩では、「自分開」の新田開発が認められていました。自分が開発した新田は自分の領地となるというのです。そのため有力者は百姓たちを使って周辺の未開地の新田開発を進めます。またこれを聞いて、周辺の国々からも資金力のある土豪や帰農を目指すかつての武士団の一族がやってきて開発を進める光景が至ることろで見られたようです。その筆頭に立っていたのが家老職にあった三野氏です。

生駒家新田開発一覧表

 こうして三野氏の拠点である勝間では、新田開発が急速に進められていきます。三野四郎左衛門の息子の孫之丞は、700石もの「自分開」を持っています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。この広大な新田を、どのようにして拓いたのでしょうか。これはまた次回に・・・

以上をまとめておくと
①三野氏は、綾氏出身で三野郡の郡司と在庁官人を兼務する有力者で、次第に武士団化した。
②源平の戦いの際には、平家の支配する讃岐国衙を捨てて、京都に上り源氏方に付いた「讃岐在庁官人グループ」の一員ともなった。
③これによりいち早く源氏の御家人となったメンバーたちは、その後の留守所でも大きな政治力をもつことになった。
④三野氏は、その後も三野郡で勢力を保持していたが16世紀初頭の細川家の内紛で、詫間城や勝間郷の権益を失った
⑤その後、天霧城の香川氏の重臣として活動し、勝間城を拠点に勢力を伸ばした。
⑥三野氏の菩提寺は、柞原寺が考えられる。
⑦香川氏が長宗我部元親と同盟を結ぶと、三野菊右衛門は人質として岡豊城に入るとともに、残された一族は東讃侵攻の先兵としても活躍した。
⑥生駒氏の下では、三野四郎左衛門が生駒家二代目の一正に登用されて、関ヶ原の戦いで大殊勲をあげ、その戦功で5000石の家老にまで出世した。
⑦生駒家の文書には、西嶋八兵衛と並んで生駒家の主の名前が並ぶものが数多くある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献 高瀬町史  高瀬町域の武家と生活 三野氏 133P
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