瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の武将 > 近藤氏

 
讃岐戦国史年表2

1563年に天霧城陥落し、その2年後以降は、香川氏の発給文書が途絶えます。代わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が萩原寺の地蔵院などの各寺に残されています。ここからは三好氏による讃岐支配が固まり、天霧城を追われた香川氏は備中に亡命し、毛利氏の傭兵部隊として活動しながら讃岐帰国のチャンスをうかがっていたと研究者は考えるようになっています。三好氏の讃岐制圧によって、讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。その結果、三好家に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料は今のところは見つかっていません。しかし、その一端を窺うことができる史料を以前に見ました。今回は、阿波白地城の大西氏が、三豊にどのような利権を持つようになっていたかを見ていくことにします。テキストは「中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年」です。
まず、天霧城退城後の香川氏の発給文書を香川県史の年表で押さえておきます。
1563年8月7日
A 香川之景・同五郎次郎、阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の秋山藤五郎の奮戦に対し感状を発する(秋山家文書)
8月18日 
B 香川之景・同五郎次郎が、三野菅左衛門尉に、天霧籠城と退城の時の働きを賞し、本知行地と杵原寺分を返付することを約する(三野文書)
C 12月6日 帰来秋山氏、財田で阿波の大西衆と戦う(帰来秋山家文書)
1564年2月3日
D 香川五郎次郎、秋山藤五郎が無事豊島に退却したことをねぎらう(秋山家文書)
E 3月~  三好の重臣篠原長房、豊田郡地蔵院に禁制を下す(地蔵院文書)
5月13日 香川之景・同五郎次郎、三野勘左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返却
 1565年6月28日 
F 香川之景、秋山藤五郎に、三野郡熊岡・上高野御料所分内の父秋山兵庫助の所領分を安堵し、家弘名を新恩として宛行う(秋山家文書)
1568年 
G  篠原長房、讃岐国衆を率いて備前児島に出陣し、毛利軍と戦う。
この年表からは次のような情報が読み取れます。
①A・Bより1563年8月に、三好氏との攻防戦の結果、香川氏は天霧城を退城したこと。
②C・D・Fから、香川氏はその後も約2年間、三豊を拠点に三好氏に抵抗を続けていたこと
③1565年6月28日を最後に、香川氏の発給文書が途絶える。これは香川氏が讃岐から備中に亡命したことを示す。
④Gから三好氏の重臣篠原長房の備中遠征に、讃岐国衆は従軍し、毛利軍と戦っている。

上の年表のC帰来秋山家文書の感状を見ておきましょう。
A 閏年永禄6年(1563)の香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言閏十二月六日   五郎次郎(花押)
             香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。
謹言閏十二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること

同じような内容の感状が、翌年の3月20日も香川五郎次郎から発給されています。ここでは、天霧城落城の後も財田方面で「大西衆」と香川氏の戦闘が続き、従軍していた帰来善五郎が軍功を挙げていたことを押さえておきます。
 香川氏の抵抗は2年ほど続きますが、1565年には篠原長房の圧迫を受けて、毛利氏を頼って備中に落ちのびます。そこで傭兵活動を行いながら臥薪嘗胆の時期を送ります。西讃の香川氏の領地は、阿波の武将たちに論功行賞として与えられたのです。この文書に登場する大西衆が、阿波白地城の大西覚用を中心とする一族だったようです。彼らが西讃地方に領地や権益をを確保するようになったことがうかがえます。
阿波大西氏は、阿波三好郡の白地城を中心に讃岐豊田郡・三野郡・伊予宇摩郡・土佐長岡郡にまで勢力を持ったとされる国人とされます。
阿波大西氏についてのまとまった研究としては、以下の2つが挙げられます。
A 田村左源大「阿波大西氏の研究」(1937)
B 池田町史 上巻(1983年、132P~183P)
池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

しかし、史料不足のために詳しいことは分かりません。
大西覚用系図
阿波大西氏系図
例えば系譜については、系図・軍記によって違いがあります。大西出雲守頼武と覚用については、親子関係が逆転していたり、同一人物として扱われるなど混乱しています。『池田町史 上巻」は、頼武を親、覚用を子とします。なお、覚用の母は三好元長女(実休妹)とされているので、覚用は三好長治・存保の従兄弟になります。また、大西覚用の妻は三好長慶の妹とされます。三好氏と何重もの婚姻関係を持ち、深いつながりがあったことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
天正年間の当主である大西覚用について、ウキの前半部には次のように記します。
「大西 覚用(かくよう)- 天正6年(1578年))は、阿波国の国人領主。出雲守と称す。俗名は輝武。父は大西元高、子は大西頼武(親子が逆転している)
①大西氏は鎌倉時代に荘官として京都より派遣されていた近藤氏が土着・改姓したもの。
②承久の乱で功のあった小笠原長清の子小笠原長経が、守護代として阿波池田に赴任してきた際に小笠原氏に属した。
③南北朝時代には大西氏と小笠原氏は南朝方として戦っていたが、南朝方が不利になると小笠原氏は細川氏と和議を結びこの地を離れ三好と改姓。これを契機に大西氏は小笠原氏より独立、戦国時代には阿波西部の最大勢力となっていた。
④大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。
⑤阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐の長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。

①~④までについては、軍記ものに書かれている内容で、これを裏付ける史料はありません。しかし、①では、大西氏も従来は近藤氏と名乗っていたとします。
④からは婚姻関係を通じて三好家と大西家は強く結ばれていたことが分かります。三好氏の讃岐制圧戦の先陣を切って、大西覚用が西讃の丸亀平野や三豊平野に侵攻し、領地を確保したことがうかがえます。それをうかがわせる史料が冒頭の財田合戦に出てくる「大西衆」です。

大西覚用の西讃侵攻の「相棒」となったのが二宮・麻の近藤氏です。
中世の近藤氏については、以前にも触れましたのでここでは省略します。

大水上神社 近藤氏系図

近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えています。この背景には、永世の錯乱によって、阿波細川家と讃岐細川氏が対立し、阿波勢力が讃岐に侵攻してきたことが背景にあります。その先兵が三好氏でした。三好氏の讃岐侵攻は東讃地方では、十河氏を中心に進められたことは以前にお話ししました。それに対して、西讃については三好氏の侵攻制圧過程が史料からは、なかなかたどれません。そのため、南海通記ばかりを見ていると、西讃は天霧城の香川氏の配下にあったと思えてきます。しかし、長尾氏や奈良氏・羽床氏・滝宮氏なども三好氏に従属していたこと、また香川氏は1573年に天霧城を退城後は、備中で毛利軍の「傭兵部隊」として10年近く活動していたことが分かっています。そして、讃岐国衆の安富氏や中讃の滝宮氏などは、三好氏の重臣と婚姻関係を結び、三好氏の遠征に従軍するようになっていたことは以前にお話ししました。そのような流れの中で、三豊の近藤氏を捉える必要があります。
 
三好氏の近藤氏への懐柔策の一つが「近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えた」という婚姻政策でしょう。
そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。国雅の代になると、三好氏との連携強化が進みます。三好氏から見ると西讃制圧が進み、讃岐の国人衆を配下に入れで動員できる体制が整ったといえます。こうして近藤氏は、阿波三好氏に従軍しして動くようになります。これに対して、反三好を旗印とする天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます。
信長と三好氏の対立
         織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

永禄三(1560)年、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは先ほどお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで近藤国雅が永禄三年に討死しています。三好氏の侵攻が天霧城をめざして、じりじりと迫っていることがうかがえます。近藤氏は、この時点で大西覚用と同盟関係にあったことがうかがえます。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう。
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。国祐を取り巻く肉親関係は少々複雑です。国祐は大平氏を名乗ります。母親は阿波白地城の大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。とすると、近藤氏は、当主の嫁を三好氏に続いて、大西家から迎え入れていたことになります。近藤氏の阿波勢力とのつながりが深化していることがうかがえます。

大西覚用が讃岐において何らかの権益を得ていたことは次の史料から分かります。
 次の史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が、備後亡命中の香川信景に讃岐に帰国し、反三好的な行動を起こすことを求めたものです。
「【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿

上洛してきた香川氏に対して反三好的な軍事行動を起こすなら「大西跡職」を与えるとあります。「大西跡職」というものがなんのことか私にはよく分かりません。ただ大西覚用が西讃に持っている権益を香川氏に与えると読み取れます。そうだとすると、大西覚用は三好氏から恩賞として、なんらかの権益を讃岐に持っていたことになります。以上からも篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと考えられます。一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えるようになります。この中には近藤氏も含まれていたことが推測できます。こうして阿波三好氏による讃岐平定は着々と進められて行きます。奈良氏・長尾氏・羽床氏も三好氏の配下となり、香川氏追放後の西讃は三好氏の氏配下にあったことを改めて押さえておきます。そういう視点から見ると、これまでの南海通記に基づいて書かれてきた歴史は辻褄があわなくなってきます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

例えば1574年10月に「大西覚養(用)が香川氏を討つために那珂郡へ侵入」とあります。しかし、香川氏はこの時点では亡命中です。そして、奈良氏や長尾氏は三好氏へ従属しています。大西覚用は、二宮や麻の近藤氏と婚姻関係を結び、同盟軍として動いています。すでに10年前から讃岐国衆は三好配下にあるのです。そこに大西覚用が「讃岐侵入」するはずがありません。ここにも南海通記の時代認識の誤りが見られます。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 このような中で三好氏の讃岐支配をひっくり返す動きが起こります。それが次の2つの事件です。
A 毛利軍の支援による香川氏の天霧城復帰と元吉城占領
B 長宗我部元親による阿波侵攻
長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親は、阿波や讃岐でも懐柔策を進めます。『祖谷山旧記』には、次のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここにはいち早く長宗我部元親に帰順した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。祖谷山間部の土豪を、豊永の豊楽寺の信仰集団に組織し、見方に引き入れた土佐軍は、吉野川上流から大西覚用の白地城に近づきます。そのような中で、長宗我部元親が栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。
十一月二十三日長宗我部元親書状

雖未申入候、令啓達候、
貴国が今不昇平御心
遣令察候、自今以後
別而可得御意候条、於御
入魂者可畏存候、就中
大西方・三好安藝守方
和睦
之儀、此中申試候
殊被添御情由大慶至候、
重而使者差越申義
候之間、双方納得之御助
言所仰候、傷御太刀一腰
馬一疋進覧之候、卿
表御祝儀計候、猶
委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

意訳変換しておくと

今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方の納得を得れるように助言していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

内容を次のように整理して起きます。
①長宗我部元親から栗野氏への初信で、阿波国内の混乱に言及した上で、今後の従属を求めています。
②阿波大西氏と三好安芸守の和睦を試みていることについて喜び、重ねて調停の使者を派遣するため双方が納得するような助言を求めています。

ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。

白地城周辺
阿波白地城と栗野屋敷

白地城から西へ1㎞ほどにある池田町白地字井ノ久保には栗野屋敷という城館跡があり、栗野大膳を祀った塚があります。この栗野氏は白地城主の一族ともされます。この栗野氏の三好郡内における立場がどんなものだったのかはよく分かりませんが、阿波山間部の南朝年号文書に見える南朝武将の中には、粟野三位中将が出てきます。三好部内に子孫を称する家が多数あると「池田町史 上巻115P」には記します。しかし、南朝年号文書については近年は、近世の偽書の可能性が指摘されていて、そのまま信じることはできません。
 ここでは栗野氏が、阿波大西氏・三好安芸守の懐柔に影響力を持つ人物と元親は見ていたことがうかがえます。この後の天正5年に、大西氏・三好安芸守は帰順します。

ウキには、大西覚用の後半部が次のように記されています。
⑥城主の大西覚用は、一族の大西頼包(弟?)を人質として一旦は長宗我部元親に従属した。
⑦しかし、三好氏が織田氏と同盟し、長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、大西覚用は三好笑岩の求めに応じ三好側に寝返った。
⑧それに対して元親は、天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とし、覚用は讃岐国麻城の近藤氏のもとへ逃げ延びた。
⑨天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。
⑩阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。
⑪覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した

この時期の大西覚用の動向を、一次史料と『元親記』『昔阿波物語』「三好記』などの軍記でもう少し詳しく見ておきましょう。
    ⑥については「元親記(上)」には、次のように記されています。(要約)

天正四年(1576)、前年に阿波南部に侵攻を果たした長宗我部元親は大西入りを評議した。当時、大西覚用は土佐の寺院の住持だった兄を通じて元親と音信を交わす関係にあった。このため元親は、覚用を調略し、覚用は甥の大西上野介頼包を元親への人質とした。しかし、その後覚用は三好長治に寝返り頼包を見捨てた。しかし、元親はその後も人質の頼包を重用した。

「大西覚用の兄」については、「芝生大西系図」「阿波志」六に覚用の弟として土佐野根万福寺の僧である了秀の名が記されています。長宗我部元親は修験者をブレーンとして重用して、情報収集や凋落などの外交交渉にも当たらせていたことは以前にお話ししました。ここにも、その一端が見えてきます。

⑦については、元親から離反する前の大西覚用の動向を次のよう史料で確認できます。
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏の重臣「御四人」に宛てたものです。
小早川左衛助殿参
吉川駿河守殿御宿所        
先度同名越前守以書状申人候之虎、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宜者日上申候之条、暉被成御尋候、恐々謹言、
  二月廿七日       (大西)覚用(花押)
                  高森(花押)
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
口羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿
参 御宿所
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏重臣「御四人」に宛てたものです。大西越前守からの書状に対する毛利氏の返信を受けての書状で、覚用らが足利義昭の入洛について前年より今村紀伊守と相談し、隣国表(讃岐)を第一とする申し合わせをしていることを伝え、毛利氏にその了承を求めています。内容からは、元吉合戦のあった天正五(1577)年のものと研究者は判断します。
  ここからは前年の天正四(1576)年に、大西覚用が、毛利氏の進める義昭の入洛(織田氏に対する軍事行動)に従軍していたことが確認できます。毛利氏と長宗我部元親の間には不戦条約的なものがあり、準同盟的な関係にあったと研究者は考えています。この頃の毛利氏は「海陸行」と称される対織田氏の大規模な軍事行動を計画していて、大西氏の讃岐への侵攻計画もその一環と研究者は考えています。なお、毛利氏の軍事行動は2月に実施され、讃岐では7月に元吉合戦が戦われています。大西覚用は、天正四年から義昭人洛について協議し、翌5年には毛利氏と連携した讃岐への軍事行動を予定していたようです。しかし、これは長宗我部元親の侵攻で頓挫します。
「元親記』上には、長宗我部氏の大西攻めは、大西頼包の先導によって行われ、在地領主の離反にあった覚用は讃岐三野郡麻城に逃亡したと記されています。西讃府志には、麻城主は近藤出羽守国久で、国久は大平伊賀守国祐の弟と記されています。大平国祐の母は、先ほど見たように大西備前守長清女とされます。その関係で大西覚用は縁戚関係にあった近藤国久を頼って麻城に逃れたようです。なお、覚用弟の長頼も覚用敗死後に麻城に逃れたと西讃府史は記します。

この大西覚用追放の功績で、頼包は元親より白地城の領地を認められます。さらに三好郡西部の馬路を得て、三好郡東部の足代を攻略します。この長宗我部氏の大西侵攻については、一次史料によって4月頃であったことが分かります。

長宗我部元親文書の中に、大西覚用や弟たちが登場するものがあるので見ておきましょう。

長宗我部元親 【史料②】十月十三日長宗我部元親書状
上の右部分の拡大
【史料②】十月十三日長宗我部元親書状 拡大

【史料2】十月十三日長宗我部元親書状
「 (墨引)   長宮
三式少御宿所  一九親」
尚々虎口之様林具
可示給候、脇上・太丹へも
此由申度候、
先度至南方被示越
即御報中候き敵動之事、頓而
引退之由御飛脚日上之間、
乗野方之儀も堅固申付、

為番手昨日打入候、然者又
自勝瑞十日二相動候由大西方
注進候、ホ今居陣候欺、於事
実者加勢之儀不可移時日候、
将亦大西之儀覚用下郡被取
組之由候、大左・同上此方無別
義趣共候、乍去彼邊之事
弥承究機遣緩有間敷候、
定而敵表之儀為指事雖
不可在之候、御手前堅固御武
略肝要候、猶追々可申入候、恐々
謹言、
拾月十三日  元親(花押)
三式少
御宿所
意訳変換しておくと
①三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して連絡をとった際に、返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②そのため那東郡桑野についても堅岡に命じ、十月十二日に番手を配置した。
③勝瑞から十月十日に岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑧虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)にとされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。書かれていることを、もう少し詳しく見ておきましょう。
①については「御飛脚」と敬意を表していることから、「南方」とは阿波南部で阿波三好氏と敵対していた阿波守護家細川真之を指すと研究者は考えています。
この史料の中で注目したいのは、⑤の大西覚用とともに文中に出てくる⑥の「太左」「同上」です。
⑥のふたりは覚用の弟たちで、(A)大西左馬頭長頼と(B)大西上野介頼包と研究者は考えています。
(A)「太左」=大西左馬頭長頼については、次のように考えられています。
(1)「善正寺系図」(三豊郡史 1921年、328P)では、讃岐三野郡麻城主
(2)「芝生大西系図」(大西徹之「阿波大西氏明視録(その四)」『宇摩史談」八八号)では、讃岐豊田部不二見城主
(3)「日本城郭大系』第15巻160頁は、讃岐三野郡麻口城を「大西左馬守長頼の居城」(典拠不明)
麻口城は、高瀬町史などでは讃岐では麻近藤氏の居城とされています。そこが大西覚用の弟たちの城だったというのです。それほど近藤氏と大西覚用の一族は関係が深かったと言えるのかもしれません。ただ、大西覚用の弟たちが讃岐の城主として活動していることは押さえておきます。
(4)「太左」については、『阿波志』六は、阿波三好郡漆川城主とある大西左衛門尉の可能性もあると研究者は指摘します。
(B)大西左衛門尉は、人質として長宗我部元親に出されていた人物ともされます。
(5)「漆川村大西鎮一所蔵系図」では「大西七郎兵衛 後上野守」、「阿波志」六では「頼包 称上野介」として記され、いずれも覚用の弟とされます。
(6)「元親記」上は「上野守」として覚用の甥、「みよしき」「昔阿波物語」「三好記」では「七郎兵衛」と見え、覚用の弟とします。
⑨の「太丹」「脇上」は、三好式部少輔重臣とされる大島丹波守と岩倉城に程近い美馬郡脇城主の武田上野介信顕と研究者は考えています。いずれも三好式部少輔に近い人物で、式部少輔とともに長宗我部氏に服属し、阿波三好氏と敵対していたようです。

内容としては、次のような事が分かります。
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)から注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど。以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、弟の大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6年と研究者は判断します。
 内容を整理すると、次のようになります。
A 長宗我部元親が三好式部少輔に対して、阿波三好勢の侵攻があった阿波南方の状況を伝えている。
B 同時に、大西より三好勢侵攻の注進があった岩倉表の状況について問い合わせ、大西覚用ら阿波大西氏の動向についても知らせたもの
この史料は「史料綜覧』巻11に天正四年十月十日条の「阿波三好長治、其将大西覚泰の長宗我部元親に降るに依り、之を攻む」の出典として挙げられているものです。

以上をまとめておきます。
①三好実休の時代には、東讃は十河一存を中心に三好氏の勢力浸透が行われた。
②一方、西讃においては白地城の大西覚用などが三豊地域への進出を行う
③その際に大西覚用は、二宮・麻の近藤氏と婚姻関係を深めながら進出を計る。
④近藤氏の麻口城は、阿波の大西覚用の進出拠点として機能した
⑤そのため周辺では、天霧城の香川氏配下の秋山氏などとの小競り合いが多発した。
⑥しかし、三好氏の重臣篠原長房の西讃制圧によって、香川氏は備中への亡命を余儀なくされた。
⑦以後は、香川氏の領地は阿波国衆に配分され、大西覚用も西讃に領地や利権を得た。
⑧このような中で1577年に、元吉合戦と同時並行で毛利氏支援による香川氏帰国が実現する。
⑨一方、長宗我部元親に従属していた大西覚用は寝返り、白地城を追われ麻口城に落ちのびてくる。
⑩大西覚用と近藤氏は、長宗我部元親の西讃侵攻に対して徹底して抵抗する。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年
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大水上神社の参道
大水上神社は、古代には延喜式の讃岐の二宮神社でしたが、中世には衰退します。二宮三社縁起には、近藤氏がそれを八幡神と合祀して二宮三社神社として再建したこと、そして、神職も近藤氏の一族が務めるようになったことを記していることを前回は見てきました。中世には、近藤氏の保護を受けて二宮三社(大水上神社)は存続していたようです。今回は、大水上神社の保護者であった二宮近藤氏を見ていきたいと思います。テキストは高瀬町史です。
まずは近藤氏の系譜を最初に確認しておきます。
『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、「近藤国平」が記されています。
1 国平は讃岐守護となり、子孫は地頭として讃岐に定着する。
2 近藤国平の子の国盛は土佐に移住し、土佐大平氏を称し、子孫は後に讃岐に帰ってきた。
3 室町時代の「見聞諸家紋」には、大平氏は近藤国平の子孫を称している
4「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮」とあって、室町期には二宮、麻の両系統の近藤氏がいた。
5 二宮近藤氏は、大水上神社領を中核とした二宮荘を根拠地とした近藤氏
6 麻近藤氏は、土佐から讃岐に再び移住してきた大平氏の一族で勝間、西大野に所領を持った。
 ここではふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。
① 麻近藤氏 本地は麻城(高瀬町麻)
② 二宮近藤氏 本拠地は、大水上神社領を中心として
二宮荘(羽方、神田、佐俣)で神田城拠点
この内の①麻の近藤氏については、大野庄の年貢を手形送金していたことや、押領して訴えられていたことを以前にお話ししました。今回見ていくのは、②の二宮近藤氏です。
大水上神社 近藤氏系図

二宮近藤氏の祖先は、鎌倉時代初期に守護として讃岐にやってきたようです。
近藤国平は、源頼朝の挙兵に応じて、戦功を挙げて頼朝側近の一人として仕えます。国平は元暦二(1185)年2月、頼朝の命で鎌倉殿御使として上京します。その直後の3月24日、平家は壇ノ浦合戦に敗れ滅亡します。しかし、平家滅亡後も世の中が落ち着いたわけではなく、不穏な空気が瀬戸内海には漂います。そうした中で讃岐に、武士の乱暴狼籍の鎮定のために派遣されてくるのが近藤国平です。建久10(1199)年には、讃岐守護に就任します。混乱を鎮めた経験を買われ、動揺した讃岐国内を鎮める役割を果たしたようです。つまり、近藤氏は、讃岐守護としてやってきた西遷御家人になるようです。しかし、その後の近藤氏はパッとしません。その後の讃岐守護には有力御家人三浦氏や北条一門が就いています。近藤氏の出番はなくなり、その動向は鎌倉末まで分からなくなります。近藤氏は讃岐国内においては、大きく成長することはなかったこと、二宮荘を拠点として、細々と存続していたことがうかがえます
一族の中で、国平の子の国盛は、土佐に移住して大平氏を称します。
『見聞諸家紋』には、大平氏は近藤国平の子孫を称していて、同じ左巴紋で「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」と記されています。室町期には、二宮、麻にふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。、
①二宮近藤氏は大水上神社領を中核とした二宮荘(三野郡)を根拠地
②麻近藤氏は土佐から讃岐に再び移住してきた一族で、麻を本拠地

その後の、史料に現れる近藤氏を見ておきましょう。
元德3年(1331)二宮荘を下地中分
文和4年(1355)藤原(近藤)国頼が祇園社領西大野郷の代官職獲得
文安3年(1446)祇園社から麻殿へ西大野郷の料足10貫文の請取受取
享徳3年(1454)将軍足利義政から近藤越中守に勝間荘領家職(三野郡)と西大野郷領家方代官職が安堵
このように近藤氏は、三野郡の大野郷・勝間郷を基盤として活動し、「麻近藤入道」あるいは「近藤二宮元国」と称されたようです。近藤氏は、西大野郷以外に「麻(勝間郷)」にも勢力を拡げます。その結果、讃岐二宮の大水上社に強い影響力を持つようになったようです。近藤氏は細川京兆家の内衆としては、名前が出てきません。しかし、応安2 年(1368)以後は在京していたことが、史料から確認できるので、守護細川氏の被官として奉公していたことは確かなようです。

大水上神社 羽方エリア図
二宮庄の羽方村エリア 北に佐俣、南に神田がある
二宮近藤氏が基盤とした二宮庄を見ておきましょう
 二宮荘は天文二(1533)年の「法金剛院領目録」に大水上社とあり、大水上神社を中心に、羽方・佐俣・神田のエリアで成立した荘園のようです。ここには、田101町2段70歩、畠151段160歩と記されています。元弘の乱後の元徳三(1331)年に、二宮庄の地頭近藤国弘以下の武士達が、年貢の滞納・押領の罪で領家の臨川寺に訴えられ、下地中分が行われたことが史料に残っています。
 『二宮記録』天正二(1574)年の記事には、領家方、地頭方に分かれて神事を負担したことが記されています。約240年前に下地中分で分割されたエリアが、戦国期になっても残っていたことがうかがえます。その地頭方と領家方にそれぞれ記されている名田をあげると次のようになります。

 地頭方として、
是延、友成、成重、徳光、時真、利真、友貞、是方、貞弘、光永、大村分、正時、吉光、末利、助守の一五名、
 
領家方として、
清真、光末、真久、為重、守光、安宗、光包、時貞、友利、末光、末真、国行、重安、是安、吉真、真近、国真の一八名

 これらの名主や地侍達が、二宮三社の神事を指図した宮座のメンバーたちのようです。羽方エリアには地頭の吉成、領家の光真、黒嶋に領家方の光弘の名が見えます。彼らは、数町規模の名を持っていた有力者だったのでしょう。
二宮三社縁起によると14世紀の半ばに、二宮近藤氏が本殿を建立したことを次のように記しています
大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享11(1439)年9月10日に、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、京都より帰国し、11月10から造営が開始された。そして、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏は安座した。
ここからは次のようなことが記されています
①二宮(近藤)国重が在京していたときに造営奉行に任じられて帰国し、建立に取りかかったこと
②その際に東西守護代の安富氏と香川氏と150貫の寄進があったこと
③建立された本陣には3つの神々と、その本地仏が祀られたこと
  この縁起は、江戸時代の中期に書かれたもので「造営奉行」などという用語も使われているように同時代史料ではないので、そのままを信じることはできません。しかし、「従京都下着」とあるように、近藤氏が常々は京都にいたことがうかがえます。また、近藤氏によって二宮三社の本殿がこの時期に建立されたことは事実と高瀬町史は考えているようようです。
 それでは二宮近藤氏の居城は、どこにあったのでしょうか
大水上神社 神田
神田エリアは二宮荘の南部に当たる。
全讃史には「神田村にあり、近藤但馬、これに居りき」とあります。ここから二宮近藤氏の居城は神田城(現山本町神田砂古)とされています。位置は、国道377号沿いのファミリーマート神田店の東南の竹藪の中になります。グーグルに「神田城跡」とマーキングされている所は、記念碑が建てられている所で、城郭跡はこの竹藪のうえになります。

大水上神社 神田城2
 
 中世城館調査報告書(香川県)で、神田城の縄張図を見ておきましょう。

大水上神社 神田城
神田城縄張図 中世城館調査報告書(香川県)

 記念碑が建っているのは城郭先端の「シロダイ」から伸びて来た尾根のスソになります。「城の下」や「下屋敷」という地名も残ります。下屋敷からは道路工事に伴う発掘調査で、中世後半の遺物が出ています。その前を神田川が流れています。このあたりに居館があったのかもしれません。城郭跡として確かな遺構は2本の堀切だけです。その他は山全体が畑化された際に破壊され、「曲輪らしいといえるだけ」と、報告書は記します。そして次のように続けます
「縄張り図のIも完全な削平地ではなく、Ⅲは広くはないが平坦地で曲輪と言え、両側に堀切がある。これより南東にも平坦地が続くが畑と考えられ、堀切までが城域と判断する。北の堀切から北東の谷に向かって溝が下り、先端に城の井戸といわれる小池がある。尾根先端部にも平坦地があるがかつて畑化されており、南端に城の井戸と言われる穴があり、昔からあったというが、表面観察では後世のものと思えたが、試掘調査を行った。遺構は存在しなかったが、中世後半の遺物が出土している。
  実際に、素人の私が見るとただの竹藪にしかみえません。しかし、「2本の堀切」と「中世後半の遺物が出土」しているので城郭跡にはまちがいないようです。二宮近藤氏の居城なのでしょう。

この地区には次のような話も伝わっています。
下屋敷の農家の庭先を東へ進むと雑木林の中に宝筐印塔があります。笠の古いものもあり、地元の人々の話では、ここを筍藪にでもしようと思って開墾にかかったところ、人骨が次々と出て、それがフゴに一杯もあった。しかたなくこれを川に流したところ、不吉なことが次々と起こった。そこで再び墓地にもどし、散乱した墓石などを整理した
これも落城悲話のひとつとして、古老が語り伝えてきた話です。この墓地は、二宮近藤氏の兵を弔うものでしょう。墓地からは、谷一つ向うに筍籔となった神田城跡があります。

 前回見た大水上神社に伝わる『二宮記録』には、本殿建立者として近藤国茂の名前がありました。
この城のある神田は、大水上神社の氏子エリアでもあります。近藤但馬の子孫という人たちが住む城跡北東の土井地区には、「ドイ」・「ドイノモン」の地名も残っています。その近くの薬師庵には、近藤但馬の墓と伝えられる五輪もあります。二宮近藤氏は、この城のある神田地区を拠点に、二宮三社(大水上神社)の筆頭氏子として宮座を率いて祭礼を行い、二宮荘への影響力を行使していたとしておきましょう。
 仁尾の近藤家の一族を見ておきましょう。
 応永九(1402)年、草木荘(仁尾町)の近藤二宮元国が仁尾の常徳寺に三段あまりの本浜田を寄進したという記録が残っています。草木荘は石清水八幡宮護国寺領の荘園で、現在の仁尾町草木にありました。「二親之菩提」と「当家繁栄」を祈るために寄進するとあます。ここからは、仁尾にも二宮近藤氏の一族がいて、その菩提寺が常徳寺であったことが分かります。ここからは二宮近藤氏のひろがりがうかがえます。草木には中上館跡と呼ばれる地頭の館跡との伝わる場所があります。また、土井、上屋敷、城の門、大門、上屋敷、前屋敷といった地名が残されています。これらが二宮近藤一族の館と高瀬町誌は推測しています。

 応仁の乱と近藤氏  
 応仁の乱において讃岐の武士たちは、守護の細川勝元にしたがって戦いました。応仁の乱で細川方についた武士の家紋を記した「見聞諸家紋」に、麻と二宮の近藤氏が載っています。ここからは近藤氏が従軍し、京都で戦闘に参加したことがうかがえます。
 応仁の乱後も、讃岐では兵乱が続きます。
文明十一(1479)年には守護細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、山名氏に味方した伊予の河野氏を攻撃します。この戦いで麻近藤国清は合戦に参加し、伊予寒川村で病死しています。二宮近藤氏も従軍していた可能性があります。
大水上神社 近藤氏系図
讃岐近藤氏の系図
国清のあとは、国保、国匡と続きます。近藤国匡は土佐の大平国雄から大江流軍法を学んだと云います。大平国雄は文明年間に在京して、和歌、連歌、五山僧と交流を持った人物で、父国豊から学んだ大江流軍法から二、三項を抜き書きし、心あるものに伝えようとしたことが五山僧月舟の「書決勝後」と題する一文に書かれています。ここからは、大平氏から近藤氏に大江流軍法が伝えられたことがうかがえます。これは、実戦に役立つものというよりも、武士としての必要な教養でした。どちらにしても、麻の近藤氏は在京し、中央の高い文化に触れていたことが分かります。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 二宮近藤氏の阿波三好氏への接近がもたらしたものは? 
国匡の次が国敏になります。国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えます。阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化しようとしたようです。そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。 阿波三好氏の讃岐侵攻が本格化すると、近藤氏は阿波三好氏の先陣として動くようになります。これに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
 織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

  永禄三(1560)年の秋から翌年にかけて、高瀬町の麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは以前にお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで国雅が永禄三年に討死しています。これらの戦いは、麻の近藤氏と三野の秋山氏の間で代理戦争のような前哨戦が行われていたようです。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう 
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。かれを取り巻く肉親関係は少々複雑ですが見ておきましょう。国祐は大平氏を名乗ります。母親は阿波白地城のの大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。国祐の子が国常で、その母親は香川元景の娘だとされます。国祐を土佐の大平氏が滅亡後に讃岐に落ち延びてきたものという伝承もありますが、土佐大平氏の滅亡は天文十五(1546)年前後のことなので、国祐が土佐から落ち延びてきた人物とは考えられないと高瀬町史は記します。

 永禄六(1563)年8月7日に阿波三好勢の圧力を受けて、香川之景は、天霧城を一時的に落ち延びます。
この時の感状が秋山氏や三野氏に出されています。しかし、城は落ちても香川氏の抵抗は続いていたようです。例えば、閏12月6日に財田では、讃岐武士が阿波大西衆と戦う財田合戦がありましたが、ここには秋山氏の一族である帰来秋山氏が参戦し、感状を香川氏から受けています。感状が出せるというのは、香川氏が一定の支配権を維持していたことがうかがえます。

大水上神社 長宗我部元親

長宗我部元親の讃岐侵攻
 このようななかで阿波三好勢の讃岐侵攻を根本からひっくり返すような「国際情勢の変化」が起きます。長宗我部元親が土佐から西阿波へ侵入してくるのです。天正5(1577)年に土佐勢は、阿波白地城の大西覚養を攻め落城させ、ここを阿波・讃岐侵攻の拠点とします。大西覚養は讃岐二宮の近藤国久のもとへに落ち延びたと西讃府志は記します。伝承では、近藤国祐や国久の母は阿波白地の大西長清の娘でだったとされます。そのために近藤氏は、母方の里である阿波の大西方として戦うようになったとします。
 白地城
長宗我部元親が白地城を落とした天正五(1577)年は元吉合戦が行われた年でもあります。
 この合戦で、香川氏は毛利方と協力し、讃岐の三好の勢力を一掃します。そして、次のような処置がとられています
①尊経閣文庫所蔵文書の「細川信元書状」では、大西跡職を香川中務大輔に申し付けられ
②出羽方所領の50貫文が帰来秋山親安に与えられてること
ここからは、毛利=香川=秋山氏が勝ち馬側で、大西氏側についた近藤氏は負け馬側となり所領を没収され、それが香川氏配下の秋山氏などに与えられたようです。近藤氏の勢力は、これによって大きく減退したと高瀬町史は指摘します。
近藤氏の滅亡 
第9章:讃岐侵攻 -長宗我部元親軍記-

 毛利氏が讃岐から手を引くのを待っていたかのように、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まります。
大水上神社 麻城

元吉合戦の翌年の天正6(1578)年、麻城は、財田本篠城を陥落させ侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城します。その年代はよく分かりませんが、麻城城主の国久は麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地を横死ヶ谷と呼んでいます。
 大平国祐の居城である獅子ヶ鼻城(和田城、大平城とも)も、落城します。国祐は出家して、姫郷和田村(豊浜町和田)にあった真言宗の寺を廃して、日蓮宗の国祐寺を開きます。その後、秀吉の四国平定後、仙石秀久につかえ九州遠征に従軍し、入水自殺し、国祐寺に葬られます。
雲風山・國祐寺 | kagawa1000seeのブログ

 国祐の弟で国久の兄国秀は、財田上の橘城(天王城)の城主でしたが、これもまた落城します。伝承では長宗我部元親によって焼かれたとあります。この城の構造は、讃岐にはあまり見られない竪堀構造で、土佐の山城の特徴を持っています。これは、藤目城や本篠城と同じです。落城後には土佐軍の讃岐侵攻の拠点として、土佐風の改修が行われたようです。この城跡の南東にある鉾八幡は、国秀が付近の神社を合祀したものとされます。また伊舎那院には中将国秀と書かれた竹筒が出土しています。
橘城の図/香川県三豊市|なぽのホームページ

 財田上の橘城(天王城)
二宮の近藤氏の居城である神田城については、どの史料にも落城のことは出てきません。しかし、麻城や獅子ヶ鼻城の落城のようすからみると、二宮近藤氏も最後まで抵抗し、落城した可能性が高いように思えます。こうして、麻の近藤氏 二宮(神田)の近藤氏 財田の近藤氏は領地を没収されることになります。
それでは、没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?
 長宗我部氏の事跡を記した『土佐国朧簡集』には、三豊市域の地名がいくつか記されています。三豊平定から3年後の天正九年(1581)八月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、香川氏に婿入りした長宗我部元親の次男親和に従って土佐からやってきた人物です。そこには、次のような地名が記されています。
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

これらは高瀬町や周辺の地で、大水上神社の旧領地であり、同時に近藤氏の領地でもあった所です。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が吉松右兵衛に与えられています。これらの地は財田・山本町域になります。ここからは、長宗我部元親に抵抗した近藤氏やそれに従った土侍衆から土地が没収され、土佐からやって来た新たな支配者に分配されたことがうかがえます。
 江戸中期に書かれた大水上神社に伝わる縁起の最後の巻には次のように記されます。
大水上神社縁起16
意訳変換しておくと
     昔は二宮三社神社(大水上神社)は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になってしまった。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。

ここからは、土佐軍侵入で大水上神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会ったこと。そして、近藤一族などの保護者を失い再建不能な状態にあったことが分かります。近藤氏の多くは神田を中心に帰農しますが、一部は大水上神社の神職として神に仕えるものもいたようです。後の時代に彼らの子孫達にとって書かれた縁起が、長宗我部元親に対して厳しいのは当然のような気がします。

高瀬町史は新たな視点から長宗我部元親の三豊支配に光を当てます。
 高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があるようです。またこの地にある浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと云われます。一方、高瀬町上勝間に鎮座する土佐神社は、長宗我部元親が創建した神社で、もともとは矢ノ岡にあったものを、延宝三年(1675)に日枝神社境内に遷座したと伝わります。明治の北海道移住者が出身地の寺社を勧進し、新たな入植地の精神的なシンボルとしたように、土佐から移ってきた人々の信仰対象として祀られたものかもしれないと高瀬町史は指摘します。それは、先住者を追い出して土佐人が入植したと云うよりも、原野が開発され、新たな村落が形成されたという事実を紹介します。

そして、次のように閉めます。
 戦いの時に寺社は軍勢の駐屯地になり、もし敵に攻められれば火を放つこともあった。それは戦いの常套手段であり、かならずしも長宗我部氏だけがしたことではない。元親は大野原の地蔵院に禁制を出し、禁止事項を厳命している。これは戦時における寺院保護のため出されたものであり、寺院焼き打ちとは反対の施策である。以上のことから何を知ろう。「侵略者は悪者」といったイメージは勝手に作り上げられたものであり、歴史的事実の上で再度見つめ直さなければならないと考える。

 長宗我部元親=侵略者という論を越えた所に高瀬町史は、立っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高瀬町史 近藤氏の動向 127P

   
DSC07817

『八坂神社(祇園社)記録』(増補続史料大成)
 (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

前回は、この史料から京都の祇園社(八坂神社)の社領となっていた大野荘(三豊史山本町)の代官が年貢を手形で決済したことを見ました。今回は大野荘の管理にあたっていた武士をを追いかけてみます。
「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」
とあります。ここからは「際符=手形」を近藤氏の家臣が、八坂神社から年貢督促のために派遣された社僧伊予房と同道して上洛したことがわかります。そして、大野荘の管理を行っていたのが近藤氏であったようです。
DSC07904
 室町時代に応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」とあって、室町期には二宮、麻のふたつの近藤氏がいたことが分かります。
①二宮近藤氏は、大水上神社領を中心とする二宮荘を根拠地
②麻近藤氏は、麻を拠点に勝間、西大野に所領を持っていた
この史料に出てくるのは②の麻近藤氏のようです。
近藤氏がどのように「押領」したのかを年表で見ておきましょう。
讃岐守護の細川氏の下で、北朝方として活動していたようです。
1354 文和3 8・4 
幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田における新宮三位房の濫妨停止を,守護細川繁氏に命じる
1355 文和4 7・1
守護細川繁氏,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の下地を祗園社執行顕詮に打渡すよう,守護代秋月兵衛入道に命じる
同年7・4近藤国頼,祗園社領西大野郷の年貢半分を請負う
1361 康安1 7・24
細川清氏,細川頼之と阿野郡白峯山麓で戦い,敗死する.
 10・- 細川頼之,讃岐守護となる
1363 貞治2 8・24 
足利義詮,祗園社領三野郡西大野郷における近藤国頼の押領停止を,守護細川頼之に命じる
14世紀半ばの祇園社領大野郷では、新宮三位房による濫妨(乱暴)が行われており、これに手を焼いた祇園社は幕府に訴え出ています。この訴えに対する幕府の対応は、新宮三位房を排除し、代わって麻の近藤国頼に代官職を任せるというものでした。これが近藤氏の大野郷進出のきっかけとなったようです。
DSC07907
近藤氏の麻城へ「たけのこ道」を行く
 しかし、その8年後の貞治二(1363)年には、近藤国頼は祇園社に訴えられ「押領停止」を、命じられています。これを命じているのが新しく讃岐守護になった細川頼之です。この時期から近藤氏による「押領」は始まっていたようです。そして、その後も八坂神社と国頼の争いは続きます。

1368 応安1 6・17 守護細川頼之,祗園社領西大野郷の下地を領家雑掌に打渡すよう,守護代細川頼有に命じる. 
   9・20 守護代細川頼有,重ねて祗園社領西大野郷における近藤国頼代官の違乱を止め,下地を領家雑掌に打渡すよう,守護使田村弥三郎入道・大庭六郎左衛門入道に命じる
1369 応安2 9・12 守護細川頼之,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行うよう口入する.
  12月13日,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行う
応安元(1368)年、細川頼之は調停に乗り出します。領家職の下地を渡付するように近藤国頼に守護使を通じて命じます。その一方で翌年に頼之は、国頼の言い分にも耳を傾け、近藤国頼の代官職継続をはかります。国頼は年貢の三分の一を代官得分とするという条件で代官職請負契約を結んでいます。

細川頼之1

 この文書の端裏には「矢野左衛門口入大八色云し」とあり、矢野遠村の仲介で近藤氏と八坂神社の和解がおこなわれたことがうかがえます。守護の細川頼之が近藤国頼の権益確保を図ったのは、当時の讃岐をめぐる軍事情勢が背景にあった研究者は考えているようです。

細川頼之4略系図
当時の政治情勢を年表で見ておきましょう。
1371 応安4 三野郡西大野郷,大旱魃となる
 1372 応安5 伊予勢(河野軍)侵入し,讃岐勢は三野郡西大野郷付近に布陣
1377 永和3 細川頼之,宇多津江(郷)照寺を再興
1379 康暦1 3・22 細川頼之,一族を率い,讃岐に下る
 諸将,足利義満に細川頼之討伐を請い,義満は頼之の管領を罷免
1388 嘉慶2 この年 幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の役夫工米の段銭を免除
1389 康応1 3・7 守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1392 明徳3 3・2 守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
伊予河野氏が西讃に侵入してきた
 細川頼之が調停に乗り出した応安元(1368)年は、後村上天皇が亡くなり南朝が吉野に拠点を移し、南北間の抗争が再燃する時期です。細川頼之にとって、予想される伊予との抗争に備えて、西讃の武将達との関係強化に努める必要がありました。
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 伊予の河野氏は、一時的には九州に逃れていましたが、この年に伊予に戻り、南朝方として反撃を開始します。そして応安五(1372)年には、讃岐に侵攻し、大野郷に布陣するのです。先ほど見た祇園社への年貢が手形で納められたのは、この年のことなのです。近藤氏にとっては、まさに寺領が他国者によって踏み荒らされる状況でした。

DSC05491麻城

一方讃岐守護の細川頼之は、管領として河内・伊勢等での南朝軍との転戦で、地元讃岐に援軍を派遣できません。讃岐の武将達は苦しい戦いを強いられます。にもかかわらず近藤氏ら西讃の武将達は、侵入してきた伊予軍を大野荘近辺で迎え撃って、そこからの進軍を許しませんでした。ある意味で細川頼之の「恩=土地」に対し、近藤国頼が「忠=軍事力」で「奉公」し、「一懸命」を実践する時だったのかもしれません。 
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その後、讃岐細川方は攻勢に転じて、逆に伊予領内に侵入していきます。
①応安八(1375)年に伊予三島社に細川頼之の願文が納められていること
②永和三(1377)年に伊予府中の能寂寺に細川頼之が禁制が出していること
などから讃岐勢力が、伊予の府中あたりまでを勢力圏にしていたことが分かります。
細川頼之 54
西条周辺までが細川氏の支配領域に含まれている

以上をまとめておくと、
①当時の讃岐は、伊予河野氏と抗争中で、そのためにも近藤氏のような西讃の国人を掌握しておく必要があった。
②その一貫として、細川頼之は大野荘をめぐって対立していた近藤国頼と八坂神社の間を取り持ち、調停した
となるようです。

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伊予との「臨戦状態」の中でも、大野荘は京都の八坂神社に対し、年貢、灯油、仕丁を負担したことが『八坂神社記録』の応安四年と五年の両年の記録に記されています。灯油は現物で祇園社に納めています。これは西大野郷内の名(地区)ごとに徴収されたものです。また、祇園社に労役として奉仕する仕丁も近藤氏は出していますが、それがしばしば逃亡しており、その都度、祇園社は近藤氏に通報しています。近藤氏は、祇園社と対立をはらみながらも、祇園社への宗教的な奉仕は果たしていたようです。
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 室町期の近藤国房
 近藤氏の菩提寺である財田の伊舎那院からは
「大平三河守国房法名道覚 応永元年七月二十四日」
と没年を書いた竹筒が出土しています。これは麻近藤氏の国頼の次の世代の当主・国房のことだと研究者は考えているようです。
 また、讃岐国内の段銭徴収の際に、金蔵寺領名主、沙汰人に対し、段銭徴収方式を条々書にしている文書があります。段銭は一段当たり三〇文が徴収されており、寺社領、御料所、同所々人給分も除外しないなどの事柄が記されています。この中には近藤国房が守護細川氏の使者としてこの旨を申し入れたことが記されています。細川氏の讃岐家臣団の中で、近藤氏がある程度の立場にあったことが分かります。
 国房の居城については『西讃府志』には、知行寺山城(現山本町大野・神田)の城主として大平伊賀守国房の名前が記されています。この城を根拠地として西大野郷を支配していたのかもしれません。
 ところが明徳四(1394)年に、国房は西大野郷を押領した罪に問われて、所領を没収されてしまい、その翌年に死去します。今まで見てきたように近藤氏の大野郷への「押領」は、昔から続いてきたことなのに、なぜこの時には「所領没収」という厳しい処分が出たのでしょうか。今の私には分かりません。
 国房の次の当主・国有は、西大野の上村を領有したといいます。
「大野村両社記」には、大野は上下に分かれ、下村は祇園社の負担に応じなかったと記します。上村については、麻近藤氏を通じ年貢が納入されたようです。文安三(1446)年には、麻近藤氏にあてて、10貫文の受け取りが祇園社から出されています。年貢額が70年前の応安年間の半額になっています。荘園領主側の立場の弱体化がここにもうかがえます。しかし、半額にはなっていますが麻近藤氏が年貢を、祇園社に送り続けていることがうかがえます。以前見た長尾の荘では、14世紀に入ると醍醐寺三宝院には未払い状態が続いていたことを思い出すと対照的です。それだけ、国房の時の西大野押領による領地没収処分がの効き目が継続していたのかもしれません。別の視点からすると祇園社の方が幕府への影響力が強かったのかもしれません。あるいは、大野郷に勧進された祇園社への信仰が高まり、それが本社への「納税」を自主的に行う機運を作り出すようになったのかもしれません。単なる想像で裏付けの史料はありません。 
 国有の時代は、所領を没収され経済的にも苦しい状況に近藤氏は追い込まれていたようです。
この時代にこんな讃岐侍の話が広がりました。
「麻殿」という讃岐の武士が京都で駐屯していた。「麻殿」は貧しいことで知られ、「スキナ」を「ソフツ(疎物)」としていた。人々の嘲笑をかっていることを知った麻氏は
「ワヒ人ハ春コソ秋ヨ中々二世の「スキナノアルニマカセテ」
という和歌を詠んだ。これに感じ入った守護細川満元は、旧領を返還した。田舎者と馬鹿にされていたが、和歌のたしなみの深い人物であった。
というのです。
ここからは次のような事がうかがえます
①近藤氏のような讃岐武士団が細川氏に従軍し、京都にも駐屯していた。
②京での長期間の駐屯で、教養や遊興・趣昧など教養を身につける田舎侍も現れた。
③「旧領返還」されたのは、大野の代官職のことか?
④ 細川満元の時代とあるので、麻近藤氏の国有が最有力。
それを裏付けるように、
①享徳三(1454)年に、足利義政から近藤越中守(麻近藤氏)に対して、西大野郷代官職と勝間荘領家職の安堵
②文明五(1473)年には、祇園社から十年契約で、二〇貫文の年貢を請負
とが記録されています。これが、かつて没収された「旧領の返還」だったのかもしれません。
 その後の近藤氏は・  
 応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」に麻近藤氏のものが見えます。また、細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、伊予の河野氏を攻撃します。この戦いに麻近藤国清も参加していましたが、戦陣中に伊予寒川村で病死しています。
近藤国敏は阿波三好氏と連携強化
 その次の国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。これが近藤氏衰退のターニングポイントになります。近藤氏が阿波三好氏と結んだのに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
    織田信長=天霧城の香川氏  VS 阿波の三好氏=麻近藤氏
この結果、敗れた三好側についた近藤も所領を没収されます。それが香川氏配下の武将たちに与えられたようです。近藤氏の勢力は、この時期に大きく減退したと考えられます。
 近藤氏の没落 
 そして、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まり、讃岐の戦国時代は最終段階を迎えます。麻城は、侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城したと伝えられます。近藤家の城主国久は、麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地は横死ヶ谷と呼ばれています。
 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領に麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬といった近藤氏の所領が記されていることが指摘されています。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったようです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が入植してきたようです。その後の近藤氏の様子は分かりません。しかし、近世の神田村に神主の近藤氏、同村庄屋として近藤又左衛門の名が見えます。近藤氏の末裔の姿なのかもしれません。

以上を、私の想像力交えてまとめておくと次のようになります
①麻地区を拠点としていた近藤氏は、14世紀半ばに京都祇園神社の大野荘の代官職を得ることによって大野地区へ進出した
②讃岐守護の細川頼之は近藤氏など西讃地方の国人侍と連携を深め、伊予勢力の侵攻を防ごうとした。
③そのため伊予勢力の圧迫がある間は、細川氏は近藤氏などを保護した。
④大野荘から京都の祇園神社に年貢が手形で運ばれたのもこのような伊予との抗争期のことである。
⑤この時期から荘園領主の祇園社と代官の近藤氏の間では、いろいろないざこざがあった。しかし、伊予との緊張状態が続く中では、細川頼之は祇園社からの訴えを聞き流していた。ある意味、近藤氏にとってはやりたい放題の状況が生まれていたのではないか。
⑥平和時になって、これまで通りの「押領」を続けていたが「所領没収」の厳罰を受ける。
⑦この処罰の効果は大きく、以後近藤氏は15世紀後半ころまで、年貢を祇園社に納め続けている。
⑧大野郷と祇園社は近世に入っても良好な関係が続く背景には、近藤氏の対応があったのではないか。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 高瀬町史

                          

       
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大野の須賀神社(祇園さん) 
前回は年貢計算書でしたが、今回は手形決済です。年貢を手形決済で行ったのが大野荘です。大野荘は、財田川が山域から平野部に流れ出す三豊市山本町の扇状地に開けた地域で、洪水に苦しめられた所です。ここは京都祇園宮の社領でした。荘園ができると、本領の神々が勧進されるのが常でした。大野郷では京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)を産土神と勧進します。香川郡に大野があるので、これと区別するために西大野と呼ばれたようです。ちなみに、本山寺も牛頭天王を本尊とする寺です。また、滝宮の滝宮牛頭天王社(別当寺 龍燈寺)は、丸亀平野の牛頭信仰の拠点寺社でした。

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大野郷の祇園神社
 貞享5(1688)年の当社記録『大埜村両社記』には次のように記します。

「古老相伝ヘテ曰夕、昔牛頭天皇アリ。光ヲ放チテコノ山上ノ北二飛ビ来タル。其所今現ニアリ、コレニヨリ宮殿ヲカマエ、コレヲ祀ル」

毎年京都の祇園宮への王経供養のための御料として指定されてからは、隆盛を極めたようです。

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『大埜村両社記』には、次のように記します。

「大埜地五百石ヲ以テ社領二付シ、七坊ヲ割テ神事ヲ守ル。富栄知ル可キナリ。大社タルヲ以テ毎歳洛ノ祇園ヨリ燈料胡麻三解ヲ課ス

ここからは毎年本宮である京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。今も、この胡麻を収納したと思われる字上岡・字上川原・字南川原の三ヵ所に塚が残っています。
  この程度の予備知識を持って「八坂神社記録」を見てみましょう。
『八坂神社記録』(増補続史料大成) (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。14世紀後半の南北朝時代の記録になります。一行目に次のように記します。

  「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」

ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。前回見た長尾荘が醍醐寺三宝院に納めていたのは、米麦の現物納入でしたから、こちらの方が進んでいたようです。

ぜに 

 銭一貫=銭千枚ですから納めるべき年貢は銭二万枚です。当時の銭は、日本では鋳造されずに中国の宋銭や明銭を海外交易手に入れて、国内で「流用」していました。そのため何種類もの中国製銅銭が流通していましたが、どれも同価値扱いでした。重さは、十円王より少し重くて一枚五グラム程度です。そうすると、2万枚×5グラム=100㎏になります。100㎏の硬貨を讃岐から都まで運ぶのは、現在でも大変です。
 そこ代銭納の登場です。これは年貢を現物で納めるのに対して、銭で納めることです。しかも、実際には実物の銭は動きません。手形決済システムなのです。
  伊予房という人物が出てきます。
この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来ています。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、自分で払うことになります。
「今年年貢当方」で、八坂神社に納められる分は二十貫。
「この内一貫在国根物」とあり、「根物」というのは必要経費です。つまり、食事をしたり、泊まったりというその必要経費に一貫を使いました。

「又一貫上洛根物に取ると云々。」 

これは上洛、つまり都に運ぶ費用になります。ですから合計二貫文が引かれ、都合十八貫文になります。その後に「この際符」という聞き慣れない言葉が出てきます。後に見ることにして先に進みます。

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」

近藤という人物が西大野荘の代官
です。近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符」で年貢を持参して一緒に、上洛することになったようです。ところが、

「今日近藤他行、明日問答すべきの由伊子房申す」

とあり、どうやら今は近藤氏がどこかへ行って不在であるので、明日協議を行うことになったといいます。
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ここまでを整理すると、
①この年は荘園領主の使が、十八貫の年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符」で、京都に持参することになった。
  さて「際符」とは、なんでしょうか?
「際符」は正式の名称は割符と書いて「さいふ」と読むそうです。「さきとる、さく」という意味で「さいふ」となります。符というのは札の意味で、今の為替と同じです。この時代は「加わし」と呼んでいたようで、それが「ためかえ」で、「かわせ」に変化していくようです。ここでは「際符=為替」としておきます。つまりは、「遠隔地取引に用いられる信用手形」=「手形決済」です。この時代すでに讃岐の西大野と都の間では、手形決済が行われていたことになります。
それでは、この手形は誰が発行したのでしょうか?
また、どうやって換金したのでしょうか?

バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

「際符」は、運送業者を兼ねた商人である問丸が地方の荘園で、米・麦などの年貢を購入し、代金相当の金額と京都・山崎・堺などの替屋(割符屋)の名を記した割符を荘官に発行します。荘官は、都の荘園領主のもとへ割符を届け年貢の決済を行うというシステムのようです。荘園領主は受け取った「際符」を替屋に持って行って支払日の契約を取決め、裏書を行い(裏付け)を行い現金化したようです。
 この時も讃岐財田大野で問屋が発行した「際符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやってきたのです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符」に書かれている内容は
①金額 銭十八貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
のみが書いてあったと研究者は考えているようです。ちなみに実物は、まだ見つかっていないそうです。このように代銭納というのは、実際に現金(大量の銅銭)を動かすのではなく手形決済という方法で行われたようです。確かに都まで、大量の銭を運ぶのは危険です。二十貫文=100㎏の銭は腹巻きにも入れられませんし、運ぶのは現実的ではありません。決済のためには責任者が都まで出向く必要はあったようです。
 大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。

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参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)

 

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