若い頃に、重いテントとシュラフをキスリングザックに入れて、地図を片手に四国の山々を歩いていました。地図を読んでいるといるといろいろなことが見えてくるのですが、その中で不思議に思ったのが山の中に書き込まれた地名です。サコ・クラ・タキなどの接尾語を持つ言葉が多いのです。これは何らかの共通性があるのだろうと思っていましたが、その疑問に答えてくれる文章に巡り会えましたのでアップしておきます。テキストは「楠瀬慶太 研究ノート 高知県旧物部村の地名に見る山の生活誌 四国中世史研究NO12 2013年」です。
地名のほとんどは複数の語によって構成されます。例えば、「大谷」と言う地名は、次の二つで構成されています。
A 前部の「大」という土地の性質・状態を表す形容語B 後部(接尾辞)の「谷」という地形名
研究者は、地名の接尾辞を研究者は次のように3つに分類します。
①「ヤ」「ヤシキ」「タク」「ヂ」「ハタ」「夕」「バ」など人為的に作られた社会的要素②「タニ」「サコ」などの地形を表す自然的要素③「キタ」「ミナミ」などの方位、「シモ」「カミ」などの方向を表す位置関係要素
表1 旧物部村の地名のカテゴリー分類
旧物部村で使われる地名接尾語を、一覧表にしたものが上表です。そのうちでよく出てくるものを見ていくことにします。



A ダキ(タキ:瀧)
山中には崖崩れがおきて、岩肌がむき出しになっている所です。このような断崖は「ダキ(瀧)」と呼ばれました。川を流れ落ちる滝とは違って、水は流れません。危険な場所で、山林修行者の行場となったところで、普通の人は近寄ってはいけない場所とされたようです。大字別府の「瀬次郎ダキ」、大字安丸の「白滝」「神滝」などがあります。
山中には崖崩れがおきて、岩肌がむき出しになっている所です。このような断崖は「ダキ(瀧)」と呼ばれました。川を流れ落ちる滝とは違って、水は流れません。危険な場所で、山林修行者の行場となったところで、普通の人は近寄ってはいけない場所とされたようです。大字別府の「瀬次郎ダキ」、大字安丸の「白滝」「神滝」などがあります。

新しくできた崩壊地のことで、次のような「ツエ」があります。
「土佐地検帳」のツエノ村(現在の大字頓定の内)に「杖谷」
大字笹の「潰野々川」
大字市宇の「ツエ谷」
大ヅエで知られる大字高井の「冬谷」の周辺にある「ツエ」
これらは地形的には深い渓谷に多く、谷川が山崩れなどで剥がれてできた地形につけられたようです。
C タビ(滝)
水の流れる滝(瀧壷)のことを「タビ」と呼んだり、滝の下が深くなっているものは「お釜」と呼びました。大字別府の「百間タビ」、「タビノロ」という地名が大字五王堂・中谷川・大栃にあります。また、「お釜」は水神様がすんでおり、金物で水をすくってはいけない、女の人は近づいてはいけないなどと伝えられます。「お釜」には釜の主がいて、大鯰や大鰻が住んでいることもあったようです。
水の流れる滝(瀧壷)のことを「タビ」と呼んだり、滝の下が深くなっているものは「お釜」と呼びました。大字別府の「百間タビ」、「タビノロ」という地名が大字五王堂・中谷川・大栃にあります。また、「お釜」は水神様がすんでおり、金物で水をすくってはいけない、女の人は近づいてはいけないなどと伝えられます。「お釜」には釜の主がいて、大鯰や大鰻が住んでいることもあったようです。
D トウ・タヲ・タワ
四国では峠のことを「トウ(タヲ:塔・頭)」ということが多いようです。
四国では峠のことを「トウ(タヲ:塔・頭)」ということが多いようです。
また、嶺続きの低くなった所を「タワ」といい、獣類の通り道にもなっています。峠は、人間にとっても山越しに欠かせない交通路でした。大栃には、土のような峠があります
①大北の集落から栃谷へと抜ける峠道付近に「越トウ」の地名
②中屋の集落から大字山崎の塩の集落へ抜ける峠道付近には「仏ノ頭」
③字笹の「赤仁尾」、大字五王堂の「西仁尾山」などがあります。
E ナロ 平たな場所、ナルイ場所のことを「ナロ(平・タイラ」
F ニオ 高山や奥山のことを「ニオ」
F ニオ 高山や奥山のことを「ニオ」
G ワダ(和田) 山の窪地や低い所。山の低地部の窪地
H ウド・ウドウ 雨水に洗い流されて深く凹んだ所を「ウド」、谷のやや深く入り込んだ所を「ウドウ」
I イソ カモシカなどのいる断崖絶壁の岩山
I イソ カモシカなどのいる断崖絶壁の岩山
J クラ 石山のこと。ニク(カモシカ)をクラシシというように、カモシカは岩場に棲む習性があります。獣のつく所を「クラ」、広い岩壁を「ヨコクラ」、更に高くのびた岩壁を「タテクラ」と呼びます。岩場、特に岩壁には自然の洞窟も多く、ここも山林修行者の行場となるところです。大字柳瀬の「大倉山」、大字岡ノ内の「マガリクラ」「コガネクラ」「藤蔵ノ畝」など。
K ヌタ 山腹の湿地に猪が自ら凹地を設け水を湛へた所
『後狩詞記」に次のように記されています。
『後狩詞記」に次のように記されています。
「猪(イノシシ)は夜来つてこの水を飲み、全身を浸して泥をぬり、近傍の樹木にて身をこする。故にヌタに注意すれば、猪の棲息するや否やを知り得たるべし」
旧物部村にも各地に「奴田(ヌタ)」「奴田ノ尾」などの地名があります。
L ヒウラ・カゲ 日当たりの良い山の側面を「ヒウラ」、日当たりの悪い山の側面を「カゲ」
日当たりの多い日浦には、影側より集落が多いようです。
日当たりの多い日浦には、影側より集落が多いようです。
M 土居田 各大字には、「土居」という地名や屋号があります。これは、名本と呼ばれる開発領主が初めて開発した土地のことです。「土居」と呼ばれる屋敷の周辺には、「土居田」と呼ばれる田地があります。「土居田」は、開発領主が最初に開発した土地で、谷の水掛かりがよい平地にあって、収量もよく、面積の大きい田地であることが多いようです。大字押谷に「土居田」。
L セマチ 田の一区画を「セマチ」。
M ホリタ 開墾地のことで、『地検帳」にも「堀田」(大字大栃)、「ホリ田」(大字庄谷相)
N ハルタ 年中いつも水の溜まっている泥田、鋤返して泥深い田、或いは深田のこと。大字安丸に「春田」の地名があり。
O ヤケ 焼畑では山焼きを行い、土地に地力をつけます。「ヤケヤノタワ(トウ)」は、応永23(1416)年の仙頭名(現在の大字仙頭)の領域を記した文書に載る村の境界の地名です。。また、大字仙頭には「ヤケノ(焼け野)」「ヤケヤノ平」などの焼畑に関わる地名です。
P アレ・ヤレ 焼畑では輪作を行うため、数年間耕作されない荒地ができます。大字南池の山には「長荒」「麦荒」「水荒」「カジ荒」などの地名が、それにあたるようです。
次に、今見てきた地名を地図上で見ていくことにします。まず、峠(トウ・タヲ・タワ)は、人間の交通路です。
同じ様に、峠は獣達の通う道でもありました。交通路でもありました。大字中谷川の③「山犬トウノウ子」は「地検帳」にも載っている古くからの峠です。戦前には中谷川の子供達が、ひと山越えた大字拓の⑤拓小学校へ通う通学路でもありました。
同じ様に、峠は獣達の通う道でもありました。交通路でもありました。大字中谷川の③「山犬トウノウ子」は「地検帳」にも載っている古くからの峠です。戦前には中谷川の子供達が、ひと山越えた大字拓の⑤拓小学校へ通う通学路でもありました。
中谷川の①キウネ集落か④ら山神山を越えて、大字拓の⑤北舞集落へいたる峠道。その途中に、③「山犬トウノウ子」はあります。峠は、山犬(オオカミ?)の通り道でもありました。山犬は、収穫期の焼畑に集まる猪や鹿を退治してくれる益獣であった反面、人を襲う害獣でもありました。その山犬への信仰は、焼畑文化圏に特徴的地名でその発生も古いものがあることは以前にお話ししました。また、峠道の周辺には、中谷川側に②「奴田(ヌタ)」、拓側に「ヌタ久保」があります。「ヌタ」は猪の集まる場所です。猪は「奴田」から「ヌタ久保」へ峠を越えて移動していたことがうかがえます。
峠は山と山の境にもあたります。そのため村々の境界争いの対象になることもありました。
例えば、次のようなトウ(峠)が係争地となっています。
A 応永23年の仙頭名の領域を記した文書には「ツツミノトウ」「ヤケヤノトウ」、
例えば、次のようなトウ(峠)が係争地となっています。
A 応永23年の仙頭名の領域を記した文書には「ツツミノトウ」「ヤケヤノトウ」、
「限北ヲ ①シャウシ(庄司)屋敷ノ爪ヲ堺(境)、山モト堂ヲヤケヤノタワヲツツミノトウヲカナワ足ヲ堺テ、カナワ足ヲ栗ノクホノエミヲ堺テ、フキサロノ下ナルエミヲ堺テ、次ニアサシクノ下ナルエミヲ堺テ、柿ノモトマテ」
北側は、隣の押谷名との境界が問題になったため以上のように設定されたようです。前半部を現地比定をしておきましょう。
①「庄司屋敷」→「山モト堂」(現在の大師堂)→「ヤケヤノトウ」→「クリノ久保」の尾根が境界争いの対象だったようです。この時に引かれた境界は現在のものとほぼ一致します。村の境界が、このときにで設定されたことが分かります。
ここに出てくる「ヤケヤノトウ(焼け野の塔)」は、焼畑が行われた峠という意味です。ここからは境界争いが焼畑の活発化から起きたことがうかがえます。また、現在も峠道が通るように、交通路としても「ヤケヤノトウ」は重要な役割を果たしてきました。「クリノ久保」の上には「ヌタノ久保」の地名があり、猪の集まる場所で狩猟場だったところです。猟場をめぐる境界争いも重なっていたのかもしれません。
もう1つ交通路・境界に関する地名を見ておきましょう。「中山」です。.
旧物部村には、大字大栃・押谷・根木屋に「中山」の地名があります。その位置を地図上で押さえておきます。
.次に、下図の大字押谷の「中山」も、押谷と山崎のちょうど字界にあります。
私は、「中山」は、村の中央にある山とばかり思っていました。しかし、山村の中山は、真ん中にあるのではなく、隣村との境界上にある山ということになります。そのため境界上に位置する中山は、軍事的な意味を持っていたと研究者は考えています。
私は、「中山」は、村の中央にある山とばかり思っていました。しかし、山村の中山は、真ん中にあるのではなく、隣村との境界上にある山ということになります。そのため境界上に位置する中山は、軍事的な意味を持っていたと研究者は考えています。
最後に、大字根木屋の「中山」を見ておきましょう。
この地図を見ると、大栃や押谷のように境界上にある地名ではないように見えます。しかし、もともとは、この中山も境界上にあったと研究者は次のように考えています。文保二年(1218)の同ノ内名の四至境を記した文書には、「中山」が境界の地名として次のように記されています。
この地図を見ると、大栃や押谷のように境界上にある地名ではないように見えます。しかし、もともとは、この中山も境界上にあったと研究者は次のように考えています。文保二年(1218)の同ノ内名の四至境を記した文書には、「中山」が境界の地名として次のように記されています。
「西限、上ハカフリノタキヲサカヒ、下ハアラセ(荒瀬)谷シヤウシヤウチトチサコノウヘ中山ヲ谷口、カケハウヘノ谷ヲサカヒ、峰ハウヘノタキクロ又タノニシノクホヲサカヒ」
岡ノ内名の西側の境界です。「荒瀬」「中山」「クロヌタ」は上図で比定できます。「カケハウヘノ谷」は並びからして、「中山」の北西にある「影藪(かげやぶ)」の谷(小字は「蕗ノ谷」)と研究者は推測します。このように見てくると、文書から復原できる鎌倉後期の岡ノ内名の境界は、近世の岡内村の領域とは、まったくちがっていたことがうかがえます。この時期の岡ノ内名の境界は、根木屋名(村)の中央部まで大きく延びていたことが見えてきます。
また「中山」は交通路にあります。野久保集落から影藪集落への山道の途中に「中山」があります。「中山」を越えていく山道は、その上の連合集落へと続きます。ここでは「中山」は交通路・境界を示す地名であったことを押さえておきます。
また「中山」は交通路にあります。野久保集落から影藪集落への山道の途中に「中山」があります。「中山」を越えていく山道は、その上の連合集落へと続きます。ここでは「中山」は交通路・境界を示す地名であったことを押さえておきます。
狩場としての「ヌタ・クラ」
「ヌタ」は、イノシシのぬた場のあったところであると同時に、次のような特性を持ちます。
A 村の境界に多い地名B 高い山の尾根を越える峠下に広がる地名
根木屋の「クロヌタ」は、応永34年(1427)の仙頭名内の送畑の境界を記した文書にも係争地でした。この文書には、他にも「いまぬた」「むかしぬた」の地名があります。このように、「ヌタ」という地名が中世の相論文書に載るのは、単にそこが境界だからというだけでなく、何らかの利権を生じさせる土地だったからではないと研究者は推測します。そこで、鳥獣に関わる地名として類似する「クラ」の空間的分布を見ていくことにします。
武士団の狩猟場としての「クラ」
中山武士団の譲状や相論文書には、「カグラ」(狩倉・鹿倉など)という地名がよく出てきます。「カグラ」というのは領主(地頭)が狩猟をするための山で、一般の農民(名田百姓)が狩を禁じられた所領でした。猟の目的は、獣肉とその皮です。獣皮は武具や敷物に使われ、武士に欠かせないものです。
A「大倉山」「上大倉」「中大倉」「下大倉」がある大字柳瀬B「マガリクラ」「コガネクラ」「藤蔵ノ畝」などがある大字岡ノ内
これらは中世の韮生郷・槙山郷の有力名主層の根拠地になるようです。特に、柳瀬氏は韮生郷で大きな勢力を持った武士層です。大字柳瀬における「クラ」地名の分布を上図で見てみると大字神池・格佐古との境界に位置しています。中世には、楮佐古名は柳瀬名の脇名で、「大倉」は柳瀬氏の領域でした。「クラ」地名に沿った山道には、「熊ノ内」や「兎ノ内」など鳥獣に関する地名があります。ここからは、このエリアが狩猟場であったことがうかがえます。
江戸後期の『南路志』柳瀬貞重筆記に次のように記されています。
「昔ハ猪鹿を弓にて射たるよし、矢ノ根山々にすたり有りしを、予幼少の時、拾い来たりしを数々見たり」
鉄砲導入前には、弓矢による狩猟が盛んであったことが分かります。近世には、鳥獣害対策のための「農具としての鉄砲」が普及し、藩と村の管理下で使用され続けます。土佐藩による村ごとの鉄砲の本数の把握は、こういった流れの中で捉える必要があると研究者は考えています。
以上をまとめておきます。
①村の境界には「ヌタ」や「クラ」という地名がある
②これは、中世の武士団の狩猟場で、大きな利権でもあった。
③また、焼畑農耕の活発化で境界をめぐる相論も起きるようになる
④その利権や境界をめぐって、領主や村々で境界争いが起きる
⑤物部村の名(村)同士の境界紛争が頻発化するのは、材木利用や耕地利用の活発化だけでなく、狩猟場としての山地利用も含めた総体的な山地利用の活発化という背景があった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
楠瀬慶太 研究ノート 高知県旧物部村の地名に見る山の生活誌 四国中世史研究NO12 2013年最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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