瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐阿波交流史 > 阿讃の峠

  若い頃に、重いテントとシュラフをキスリングザックに入れて、地図を片手に四国の山々を歩いていました。地図を読んでいるといるといろいろなことが見えてくるのですが、その中で不思議に思ったのが山の中に書き込まれた地名です。サコ・クラ・タキなどの接尾語を持つ言葉が多いのです。これは何らかの共通性があるのだろうと思っていましたが、その疑問に答えてくれる文章に巡り会えましたのでアップしておきます。テキストは「楠瀬慶太 研究ノート 高知県旧物部村の地名に見る山の生活誌   四国中世史研究NO12 2013年」です。

地名のほとんどは複数の語によって構成されます。例えば、「大谷」と言う地名は、次の二つで構成されています。
A 前部の「大」という土地の性質・状態を表す形容語
B 後部(接尾辞)の「谷」という地形名
  研究者は、地名の接尾辞を研究者は次のように3つに分類します。
①「ヤ」「ヤシキ」「タク」「ヂ」「ハタ」「夕」「バ」など人為的に作られた社会的要素
②「タニ」「サコ」などの地形を表す自然的要素
③「キタ」「ミナミ」などの方位、「シモ」「カミ」などの方向を表す位置関係要素

旧物部村の地名のカテゴリー分類
              表1 旧物部村の地名のカテゴリー分類

旧物部村で使われる地名接尾語を、一覧表にしたものが上表です。そのうちでよく出てくるものを見ていくことにします。
物部村

monobe1.gif



  A ダキ(タキ:瀧)
山中には崖崩れがおきて、岩肌がむき出しになっている所です。このような断崖は「ダキ(瀧)」と呼ばれました。川を流れ落ちる滝とは違って、水は流れません。危険な場所で、山林修行者の行場となったところで、普通の人は近寄ってはいけない場所とされたようです。大字別府の「瀬次郎ダキ」、大字安丸の「白滝」「神滝」などがあります。

山林修行者が選んだ行場とは
  B 「ツエ」
新しくできた崩壊地のことで、次のような「ツエ」があります。
「土佐地検帳」のツエノ村(現在の大字頓定の内)に「杖谷」
大字笹の「潰野々川」
大字市宇の「ツエ谷」
大ヅエで知られる大字高井の「冬谷」の周辺にある「ツエ」
これらは地形的には深い渓谷に多く、谷川が山崩れなどで剥がれてできた地形につけられたようです。
  C タビ(滝)
水の流れる滝(瀧壷)のことを「タビ」と呼んだり、滝の下が深くなっているものは「お釜」と呼びました。大字別府の「百間タビ」、「タビノロ」という地名が大字五王堂・中谷川・大栃にあります。また、「お釜」は水神様がすんでおり、金物で水をすくってはいけない、女の人は近づいてはいけないなどと伝えられます。「お釜」には釜の主がいて、大鯰や大鰻が住んでいることもあったようです。
D トウ・タヲ・タワ  
四国では峠のことを「トウ(タヲ:塔・頭)」ということが多いようです。
また、嶺続きの低くなった所を「タワ」といい、獣類の通り道にもなっています。峠は、人間にとっても山越しに欠かせない交通路でした。大栃には、土のような峠があります
①大北の集落から栃谷へと抜ける峠道付近に「越トウ」の地名
②中屋の集落から大字山崎の塩の集落へ抜ける峠道付近には「仏ノ頭」
③字笹の「赤仁尾」、大字五王堂の「西仁尾山」などがあります。
E ナロ 平たな場所、ナルイ場所のことを「ナロ(平・タイラ」
F ニオ  高山や奥山のことを「ニオ」
G ワダ(和田) 山の窪地や低い所。山の低地部の窪地
H ウド・ウドウ  雨水に洗い流されて深く凹んだ所を「ウド」、谷のやや深く入り込んだ所を「ウドウ」
I イソ  カモシカなどのいる断崖絶壁の岩山
J クラ  石山のこと。ニク(カモシカ)をクラシシというように、カモシカは岩場に棲む習性があります。獣のつく所を「クラ」、広い岩壁を「ヨコクラ」、更に高くのびた岩壁を「タテクラ」と呼びます。岩場、特に岩壁には自然の洞窟も多く、ここも山林修行者の行場となるところです。大字柳瀬の「大倉山」、大字岡ノ内の「マガリクラ」「コガネクラ」「藤蔵ノ畝」など。
K ヌタ  山腹の湿地に猪が自ら凹地を設け水を湛へた所
『後狩詞記」に次のように記されています。

「猪(イノシシ)は夜来つてこの水を飲み、全身を浸して泥をぬり、近傍の樹木にて身をこする。故にヌタに注意すれば、猪の棲息するや否やを知り得たるべし」

 旧物部村にも各地に「奴田(ヌタ)」「奴田ノ尾」などの地名があります。
L ヒウラ・カゲ  日当たりの良い山の側面を「ヒウラ」、日当たりの悪い山の側面を「カゲ」
日当たりの多い日浦には、影側より集落が多いようです。

M 土居田  各大字には、「土居」という地名や屋号があります。これは、名本と呼ばれる開発領主が初めて開発した土地のことです。「土居」と呼ばれる屋敷の周辺には、「土居田」と呼ばれる田地があります。「土居田」は、開発領主が最初に開発した土地で、谷の水掛かりがよい平地にあって、収量もよく、面積の大きい田地であることが多いようです。大字押谷に「土居田」。

L セマチ  田の一区画を「セマチ」。
M ホリタ  開墾地のことで、『地検帳」にも「堀田」(大字大栃)、「ホリ田」(大字庄谷相)
N ハルタ  年中いつも水の溜まっている泥田、鋤返して泥深い田、或いは深田のこと。大字安丸に「春田」の地名があり。
O ヤケ   焼畑では山焼きを行い、土地に地力をつけます。「ヤケヤノタワ(トウ)」は、応永23(1416)年の仙頭名(現在の大字仙頭)の領域を記した文書に載る村の境界の地名です。。また、大字仙頭には「ヤケノ(焼け野)」「ヤケヤノ平」などの焼畑に関わる地名です。
P アレ・ヤレ  焼畑では輪作を行うため、数年間耕作されない荒地ができます。大字南池の山には「長荒」「麦荒」「水荒」「カジ荒」などの地名が、それにあたるようです。

 次に、今見てきた地名を地図上で見ていくことにします。まず、峠(トウ・タヲ・タワ)は、人間の交通路です。
同じ様に、峠は獣達の通う道でもありました。交通路でもありました。大字中谷川の③「山犬トウノウ子」は「地検帳」にも載っている古くからの峠です。戦前には中谷川の子供達が、ひと山越えた大字拓の⑤拓小学校へ通う通学路でもありました。
大栃の峠2
   中谷川の①キウネ集落か④ら山神山を越えて、大字拓の⑤北舞集落へいたる峠道。その途中に、③「山犬トウノウ子」はあります。峠は、山犬(オオカミ?)の通り道でもありました。山犬は、収穫期の焼畑に集まる猪や鹿を退治してくれる益獣であった反面、人を襲う害獣でもありました。その山犬への信仰は、焼畑文化圏に特徴的地名でその発生も古いものがあることは以前にお話ししました。また、峠道の周辺には、中谷川側に②「奴田(ヌタ)」、拓側に「ヌタ久保」があります。「ヌタ」は猪の集まる場所です。猪は「奴田」から「ヌタ久保」へ峠を越えて移動していたことがうかがえます。

峠は山と山の境にもあたります。そのため村々の境界争いの対象になることもありました。
例えば、次のようなトウ(峠)が係争地となっています。
A 応永23年の仙頭名の領域を記した文書には「ツツミノトウ」「ヤケヤノトウ」、
B 延慶2年の槙山と韮生の争いでは、安次名(現在の大字中谷川)の境界地名として「クイミノタワ」
大栃のヤケノトウ
応永年間の文書の地名を地図上で押さえておきます。文書には、次のように記されています。

「限北ヲ ①シャウシ(庄司)屋敷ノ爪ヲ堺(境)、山モト堂ヲヤケヤノタワヲツツミノトウヲカナワ足ヲ堺テ、カナワ足ヲ栗ノクホノエミヲ堺テ、フキサロノ下ナルエミヲ堺テ、次ニアサシクノ下ナルエミヲ堺テ、柿ノモトマテ」

  北側は、隣の押谷名との境界が問題になったため以上のように設定されたようです。前半部を現地比定をしておきましょう。
①「庄司屋敷」→「山モト堂」(現在の大師堂)→「ヤケヤノトウ」→「クリノ久保」の尾根が境界争いの対象だったようです。この時に引かれた境界は現在のものとほぼ一致します。村の境界が、このときにで設定されたことが分かります。
ここに出てくる「ヤケヤノトウ(焼け野の塔)」は、焼畑が行われた峠という意味です。ここからは境界争いが焼畑の活発化から起きたことがうかがえます。また、現在も峠道が通るように、交通路としても「ヤケヤノトウ」は重要な役割を果たしてきました。「クリノ久保」の上には「ヌタノ久保」の地名があり、猪の集まる場所で狩猟場だったところです。猟場をめぐる境界争いも重なっていたのかもしれません。

もう1つ交通路・境界に関する地名を見ておきましょう。「中山」です。.
旧物部村には、大字大栃・押谷・根木屋に「中山」の地名があります。その位置を地図上で押さえておきます。
まず、大字大栃の「中山」です。下図を見れば分かるように、大栃と山崎のちょうど字界にある地名です

大栃の中山

.次に、下図の大字押谷の「中山」も、押谷と山崎のちょうど字界にあります。
大栃の中山2

私は、「中山」は、村の中央にある山とばかり思っていました。しかし、山村の中山は、真ん中にあるのではなく、隣村との境界上にある山ということになります。そのため境界上に位置する中山は、軍事的な意味を持っていたと研究者は考えています。
最後に、大字根木屋の「中山」を見ておきましょう。
大栃の中山3


この地図を見ると、大栃や押谷のように境界上にある地名ではないように見えます。しかし、もともとは、この中山も境界上にあったと研究者は次のように考えています。文保二年(1218)の同ノ内名の四至境を記した文書には、「中山」が境界の地名として次のように記されています。
「西限、上ハカフリノタキヲサカヒ、下ハアラセ(荒瀬)谷シヤウシヤウチトチサコノウヘ中山ヲ谷口、カケハウヘノ谷ヲサカヒ、峰ハウヘノタキクロ又タノニシノクホヲサカヒ」
岡ノ内名の西側の境界です。「荒瀬」「中山」「クロヌタ」は上図で比定できます。「カケハウヘノ谷」は並びからして、「中山」の北西にある「影藪(かげやぶ)」の谷(小字は「蕗ノ谷」)と研究者は推測します。このように見てくると、文書から復原できる鎌倉後期の岡ノ内名の境界は、近世の岡内村の領域とは、まったくちがっていたことがうかがえます。この時期の岡ノ内名の境界は、根木屋名(村)の中央部まで大きく延びていたことが見えてきます。
 また「中山」は交通路にあります。野久保集落から影藪集落への山道の途中に「中山」があります。「中山」を越えていく山道は、その上の連合集落へと続きます。ここでは「中山」は交通路・境界を示す地名であったことを押さえておきます。

 狩場としての「ヌタ・クラ」
「ヌタ」は、イノシシのぬた場のあったところであると同時に、次のような特性を持ちます。
A 村の境界に多い地名
B 高い山の尾根を越える峠下に広がる地名
根木屋の「クロヌタ」は、応永34年(1427)の仙頭名内の送畑の境界を記した文書にも係争地でした。この文書には、他にも「いまぬた」「むかしぬた」の地名があります。このように、「ヌタ」という地名が中世の相論文書に載るのは、単にそこが境界だからというだけでなく、何らかの利権を生じさせる土地だったからではないと研究者は推測します。そこで、鳥獣に関わる地名として類似する「クラ」の空間的分布を見ていくことにします。
武士団の狩猟場としての「クラ」
中山武士団の譲状や相論文書には、「カグラ」(狩倉・鹿倉など)という地名がよく出てきます。「カグラ」というのは領主(地頭)が狩猟をするための山で、一般の農民(名田百姓)が狩を禁じられた所領でした。猟の目的は、獣肉とその皮です。獣皮は武具や敷物に使われ、武士に欠かせないものです。
「カグラ」という地名は、旧物部村にはありませんが、「クラ」はあります。その空間的分布には、重要な特徴があると研究者は次のように指摘します。

大栃のクラ
A「大倉山」「上大倉」「中大倉」「下大倉」がある大字柳瀬
B「マガリクラ」「コガネクラ」「藤蔵ノ畝」などがある大字岡ノ内
これらは中世の韮生郷・槙山郷の有力名主層の根拠地になるようです。特に、柳瀬氏は韮生郷で大きな勢力を持った武士層です。大字柳瀬における「クラ」地名の分布を上図で見てみると大字神池・格佐古との境界に位置しています。中世には、楮佐古名は柳瀬名の脇名で、「大倉」は柳瀬氏の領域でした。「クラ」地名に沿った山道には、「熊ノ内」や「兎ノ内」など鳥獣に関する地名があります。ここからは、このエリアが狩猟場であったことがうかがえます。
 江戸後期の『南路志』柳瀬貞重筆記に次のように記されています。

「昔ハ猪鹿を弓にて射たるよし、矢ノ根山々にすたり有りしを、予幼少の時、拾い来たりしを数々見たり」

鉄砲導入前には、弓矢による狩猟が盛んであったことが分かります。近世には、鳥獣害対策のための「農具としての鉄砲」が普及し、藩と村の管理下で使用され続けます。土佐藩による村ごとの鉄砲の本数の把握は、こういった流れの中で捉える必要があると研究者は考えています。

以上をまとめておきます。
①村の境界には「ヌタ」や「クラ」という地名がある
②これは、中世の武士団の狩猟場で、大きな利権でもあった。
③また、焼畑農耕の活発化で境界をめぐる相論も起きるようになる
④その利権や境界をめぐって、領主や村々で境界争いが起きる
⑤物部村の名(村)同士の境界紛争が頻発化するのは、材木利用や耕地利用の活発化だけでなく、狩猟場としての山地利用も含めた総体的な山地利用の活発化という背景があった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
楠瀬慶太 研究ノート 高知県旧物部村の地名に見る山の生活誌   四国中世史研究NO12 2013年
関連記事

 6 阿讃国境地図

まんのう町美合や勝浦あたりでは、阿波へ行くのも、隣村へ行くのも、どうしても峠を越えねばなりませんでした。阿波との阿讃山脈にも多くの峠があったことが、江戸時代の絵図を見ていると分かります。
4 阿波国絵図3     5

東から、龍王山から大川山の間にも寒風越、三頭越、二双峠、滝の奥越、真鈴峠と5つの峠が記されています。このうち二双峠は、峠を越えてからもう一度立石峠を経て阿波へ下っていく道でした。

阿讃国境地図 琴南の峠2

 讃岐の隣村へ越えて行く峠には、塩江町の只の股へ越える浅木原峠、塩江町・綾上町方面へ越える雨島峠、綾上町の牛の子堂に出る焼尾峠、綾上町の角の内に出る首切峠などがあります。このほかにも名もない峠は多くあり、峠を越え人やモノが行き来したのでしょう。
モノの多くは、
行商人のもたらしたもの、
一種の宗教人が漂泊しながら携えてきたもの、
金毘羅参りの人々がもたらしたもの
などがあったようです。琴南町誌の中から各峠について書かれていることを拾い上げてみます。

阿波国大地図 琴南の峠1

美合の奥のソラの人たちは、阿波の貞光にはよく買物に行ったようです。その際に使うのが、寒風越でした。峠の頂上まで来ると、急に寒い風が吹いてくるので寒風峠と呼ばれるようになったといいます。
竜王山(讃岐山脈)・大川山 少し近付いてきました。

 この峠の山続きに蛇の道というところがありました。道が曲がりくねっていて、ところどころがくぼんでいて、それは大蛇が通った跡だろうと話ながら歩いたそうです。
 三頭越は、阿波からの金毘羅参りの人々が通った峠です。
三頭越え ハイキングルート

その登り口に大師堂があります。その川向かいは、昔、茶堂があった跡で、金昆羅参詣者が休憩したところです。大師堂には以前にお話した道作り坊主の了念が建立したという陸中二十四輩の石像があります。これは了念が、生国が陸中であるために建てたものだと伝えられます。道作り坊主の了念については、以前にお話ししましたので省略します。
三頭越え 久保谷の大師堂

 滝の奥越は、土器川の源流で今は「源流碑」が建てられています。ここから阿波の滝寺へ下りて行く道が続きます。滝寺へは、養蚕が盛んであった時代は、美合の農家の人々もこの峠を越えて参詣に行ったようです。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 勝浦から真鈴峠へ行く途中に四つ足堂があります。
かつては、このお堂では湯茶の接待があったといいます。そして一軒の茶店があって、うどん、酒、たばこぐらいは売っていたようです。
 真鈴峠を越えると三野町へ入りますが、峠を越えると大屋敷の剣山神社があり、牛追い達は、ここで休んでいたようです。
 真鈴峠の頂上近くに清水がわき出ていて、もとは真清水峠と呼んでいたようです。旅人は、この峠で一杯の清水にのどをうるおしました。大屋敷は水が乏しいので、昔はそばを持って来てこの水と交換していたという話が残っています。

 勝浦や美合高松の城下へ出るには焼尾峠を越えました。
峠を越えてから粉所の新名を経て、山田へ出て岡本で高松街道に出て高松へ向かったいたようです。あるいは焼尾峠から陶へ出て行くルートも使われました。しかし、焼尾峠は恐ろしい峠で、追いはぎも出たし、妖怪の話もあったと云います。
 二双峠は頂上にニソの社があります。
ニソの社というのは、もとも祖先の霊のこもる森のことです。峠を越えて行く旧道は、谷川に沿ってどんづまりまで行き、それから急坂をよじ登ったといいます。

立石越(二双越)

山中の村では、病人が出来るとふごの中に雨戸を載せて、その上に寝せたり座らせたりして連れて行きました。荷物を運送していた者に、ダチンカツギ(駄賃担ぎ)と呼ばれた人たちがいました。これは荷物を背に負うて運んだり、オウコ又はトンガリ棒で運びました。車が行けるところは、トウカイヤが車に載せて運びます。どの集落にも一軒か二軒ぐらいはあって、そこへ頼んでいました。

明神などが店を並べて市街地のようになったのは、近代になってからのようです。
まんのう町明神地区の町並み

それまでは日用品や雑貨。米、醤油などを売る店がぽつぽつとあっただけでした。正月がくると正月買物、盆がくると盆買物に町に下りていきます。そんな時には、ふだんの仕事に使うオウコよりは、ややきゃしやできれいに仕上げたオウコを持って行ったものだと云います。正月には砂糖、下駄、足袋など、盆にはそうめんや浴衣地などを買って来ます。
 衣類などは自分の家で織っていたので、わざわざ買うことはありませんでした。機織りをしなくなってからは、阿波から反物を売りに来るようになりました。
魚は、家に婚礼、厄ばらいなどの宴会がある場合は、わぎわざ琴平の町へ買いに行きました。
常は琴平・坂出などから魚の行商人が来ていたようです。魚屋が出来たのは近年になってからのことです。それでブエンの魚も容易に手に入るようになっりました。魚屋が出来た初めのころは、ブエンの魚はなくて、店には竹の皮で編んだかごの中の塩鰯とか、女竹に通しためざしなどを売っていたと云います。

塩は、専売になる前は坂出・宇多津方面からも、また阿波の貞光からも売りに来ていたと云います。
塩は漬物用にも大量に買いましたが、牛を飼っている農家でもたくさん買っていたようです。農家では、 塩の下に桶を置いていました。それはニガリを取るためです。ニガリは正月前に豆腐をつくるために必要でした。今では豆腐をつくる家もなくなってしまいました。明神などには豆腐屋ができたからでしょうか。
明神から奥のソラの集落に行商人がやってくると、懇意にしている大百姓や地主の家に泊まっていました。
阿波から正月にやって来るデコマワシも馴染みの家に泊まって村落の家々を廻りました。物もらいは、秋の終わりから冬の初めによく来ました。お米が出来て豊かな季節だったので、そんなころを見はからって来ていたののでしょう。物もらいは、行商人と違ってどこの家でも泊めてくれません。そこで無住の庵とか焼き場の中のコツドウ(輿堂)などに泊まつていました。
阿波の山間部は米が少ないので、馬が美合まで来て米を積んで帰えりました。
米を二俵半ぐらい鞍の両側につけます。これを運ぶのは運送用の馬でなくて農耕用の馬だったと云います。伊予からは、秋祭りや正月の前になると障子紙を売りに来ました。大抵の家では障子紙を買って貼り替えをします。年に一度というのがきまりであったようです。
真鈴あたりからは、建築材料である真竹を明神まで売りに来ました。竹は、車が産地まで入らねば運搬が難しかったのです。土器川に沿って水車屋も何軒かありましたが、廃業して米屋となったり、今ではうどん屋となって有名になった店もあります。
讃岐うどん「谷川米穀店」香川県仲多度郡まんのう町 - 讃岐うどんやラーメン食べ歩きと、旅のブログ

美合の皆野には、一軒の油屋がありました。
菜種をしぼって各地の店へ油を卸していた。しばり粕はタマと言い、馬に載せて周辺の農家の畑へ売りに行きます。よい肥料として歓迎されたようです。油は一日に二石しめるのが一人前だといわれました。
人々は油徳利を持って油を買いに行きます。そして灯明や揚げ物の油として使いました。菜種をしばるのが普通でしたが、辛子の種でも油をとっていたと云います。
内田には薬を行商とする家がありました。
この家には五人ぐらいの行商人がいて、阿波のソラの村へ行商に行っていました。イレ(入)クスリとかカエ(替)クスリといって、富山の薬売りと同じような商いを行っていたようです。農閑期の秋から年末に出かけて行って、先方の農家へ薬を置いて、毎年入れ替えてくるのきます。後には、高松の薬屋から千金丹、万金丹、五龍園などをうけて来て、それを入れ替えに行くようになったと云います。

水車屋も、油屋や薬の行商もなくなり阿讃の峠を越える人は、だんだん少なくなりました。そのほかに、今はなくなってしまったものに紺屋があります。これは内田に二軒あって、機織りが盛んであった時代に、女たちはそこへ行って糸を染めて来ました。ソラに近い美合あたりの人は、峠を越えて阿波の郡里・重清などの紺屋に行ったとようです。
 内田の吉田寺のお大師さんの市は、琴南の人々にとっては最もにぎやかで楽しみの多いものだったようです。
江戸期の記録によると、簑売り、ヤリ屋、餅、うどんなどの店が出ています。それらの店の中には、内田の地に定住する者もあって、だんだんと集落は一つの町並みとして発達していったようです。
参考文献
琴南町誌 民俗

4 阿波国絵図3     5

讃岐と阿波の境を東西に走っている阿讃山脈は、まんのう町(旧琴南町)域の県境付近が最も高く、東に竜王山、西に大川山がそびえる県境尾根です。江戸時代には、この山脈(やまなみ)が、人々の交通を阻害していました。しかし、自然の障壁よりも、人の自由な交流を強く規制したのは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人」についての協定だったと云われます。
 徳島藩では、寛永19(1642)年の大飢饉以後、ますます増加した農民の逃散に対をなんとか防ごうとして、いろいろな対策を出しますが、効果がなかったようです。そこで慶安2(1649)年5月14日に、阿波藩と高松藩との間で、百姓の走人(逃散)についての相互協定が結ばれます。「讃岐松平右京様被二仰合一条数之写」(阿波藩資料)によると、 協定は一八条からなります。内容は、寛永21(1644)年より以後に逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したものです。
第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。
第16条では、「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では、「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」
特に18条は結婚と養子を禁止した厳しいものです。この走人協定の目的は、百姓を村に縛りつけて労働力を確保しようとする江戸時代の藩政の常套手段です。「移動の自由」を認めていたら封建制は維持できません。
阿波国大地図 琴南の峠1

 讃岐の砂糖産業の発展して、阿波から砂糖車を絞るための大型の牛をつれた「かりこ」たちが阿讃の峠を越えてやって来て、砂糖小屋で働いていたと、いろいろな本には書いてあります。
しかし、阿波からの労働力の受入が禁止されていたとすれば、これをどう考えればいいのでしょうか。
 また阿讃国境の峠の往来は、管理されていたのでしょうか。番所などがあり、自由な往来が禁止されていたのなら、多くの阿波の人たちが商売や金毘羅詣でにやってきたというのも怪しくなってきます。
DSC08485

  勝浦村奥には真鈴の集落があります。
ここから真鈴峠を越えて阿波に入ると瀧口には、徳島藩の番所があったことが絵図からも分かります。また、何か事件があると重清越番所が置かれました。しかし、領民の通行はほとんど規制されなかったようです。商人や馬方は自由に往来し、百姓も日帰りの旅は黙認されていたようである。両国境の往来の自由がうかがえる資料を見てみましょう

DSC08444

文化四(1807)年6月20日、勝浦村の多賀次郎が、阿波の勢力村の内田池で、溺死しかかるという事件が起きています。
この事件について勢力村の取立役与惣次が、次のような手紙を、勝浦村の庄屋佐野直太郎に送っています(「牛田文書」)。
一筆致二啓上一候。大暑の潮に御座候得共、弥御健勝に可被成二御勤一旨、珍重に奉存候。然は其御村熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す仁、三人連にて用事に付、昨日当国へ罷越候趣、然る処当村内田池の縁を通り懸り、暑さに堪え兼ね水を浴び候迪、多賀次郎と申仁、落込申すに付、池水抜放し筏井桐を張り、大勢相並び相い入り申す内、右鹿蔵と申仁、知らせに被二罷帰一候由、
 其内追々相入り、尋ね当り引揚け、医師等相配り、彼是手当致候得共、何分大切に相見え申す折柄、 親類中数人被罷越・様々介抱被致候得共、 何分大切に付召連帰り養生仕度候間、指返呉候様被二申出候に付、 今少々養生被致候様申述候へ共、誠に怪我の義にて何の子細も無御座事故、片時も早く召連帰度、被指帰呉候様に、達て被申出候に付、無拠、乍大切中指帰し申候。
前段の通り何の子細も無御座親類中召連被帰候義にて、当方役所へも不申出、内分にて右様取計申候。然共大切の容然にて連れ被帰候事に候へば、兎角助命の程無覚東奉存候。依之内分の取計には候へ共、御他領の御事故、当地にての有し姿の運、為御承知内々得御意度、如斯御座候。恐怪謹言。
               阿州勢力村取立 与惣次
六月十一日
  讃州勝浦村政所 佐野直太郎様
意訳して見ると
一筆啓上します。大暑の時期ですが健勝でございましょうか。
早々ですが、そちらの村の熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す者が三人連で、昨日当国へ参りました。そして当村の内田池を通りかかり、暑さに堪え兼ねて水を浴びをしていましたところ、多賀次郎と申す者が、池に落ちました。そこで、池の水を抜いて筏を浮かべ、大勢で並んで探しました。
それを鹿蔵と申す者が、そちらに知らせに帰ることになりました。捜索を続けていると、人らしき感触があったので引揚け、医師を呼び、手当を致しましたが危篤状態です。親類の数人に来ていただいて、何分大切に連帰り養生した方がよいと医者も申します。
中略
 親類が連れ帰ることについては、当方の役所へも届けずに、内分に取計うつもりです。しかし、容態は良くはないので動かせば、せっかく助かりかけた命も覚束なくなる恐れはあります。内分の取計ですので、他領の御事故ですので御承知していただければ幸いです。恐怪謹言。                      

このあと勢力村の取立(村役人)与惣次が心配したように、多賀次郎は亡くなります。佐野直太郎はこのことを伝えると共に、勢力村の与惣次に深謝する手紙を送っています。それの控えが残っているようです。
 百姓にとって池の水を、最も大切にしなければならない6月末に池の水を抜いて、多賀次郎を助け上げ、十分に養生するように申し出てくれた勢力村の人々の好意を、活かすことができなかったようです。勝浦村の人々の脳裏には、これ以上の迷惑を掛けることを恐れるとともに「御国の御作法」である「走人協定」が重くのしかかっていたのかもしれません。
 ここからは勝浦の百姓3人が自由に阿波に移動できている様子がうかがえます。しかし、正式な裁きになった場合には、厳しい取り調べを受け処罰されることになったようです。そこで、国境を越えた村役人同士は、お上には届け出ずに「内済」で済ませる道を選んだようです。つまり、法的には禁止されているが、国境の往来について取り締まりや規制は行っていない状態だったようです。手形を求められると云うこともなかったのでしょう。
以上を確認すると
  江戸初期の慶安二年(1649)に、阿波の蜂須賀藩と讃岐の高松藩の間で走人協定が結ばれた。それ以後、百姓の移住はもちろん、短期間の雇入れも、婚姻も表向きは認められなかった。しかし、商人の往米は自由であり、金毘羅詣りの往来も認められていた。
ということになるようです。
もうひとつ旧美合村には、阿波との特別の関係が認められていたようです。 
6 阿讃国境地図

阿波の三好郡と美馬郡は、上郡と呼ばれ、地形や地質上から水田ができにくい土地柄で、畑作地帯でした。藩政時代になって、帰農した武士で土着する者が多く、讃岐の国境近くにまで集落が開かれるようになります。しかし、穀類よりも煙草などの商品作物優先で食糧が少なく特に米が不足がちでした。
 徳島藩は、表高25、2万石、実高は45万石あったと云われます。その実高を生み出したのは、吉野川下流域の藍作りでした。徳島藩では商品作物としての藍作りを奨励し、米作りを抑える政策をとります。そのため阿波の上郡一帯の人々は、阿波国内から米を買い付けることが難しい状況になります。ちなみに藍や煙草栽培で、経済力を付けた百姓達上層部の米需要は高くなります。彼らは、国境を越えた讃岐の米に期待し、依存するようになります。
勝浦や中道村は、年貢は金納だった
一方、高松藩の宇多津の米蔵から遠く離れていて、交通も不便であった阿野郡南の川東村では約130石、鵜足郡の勝浦村では約20石、中通村では約10石の米が、金納(平手形納)されるようになります。

例えば鵜足郡の造田村は、水利や地性が悪く良質の米が取れなかったので、毎年200石の年貢米を現米買納の形で金納していました。これらの村々は、米や雑穀を売り払い、藩の定めた米価で金納しなければならなかったのです。しかし、それだけの米の販売先が周辺にはありません。これを買ってくれるのは、阿讃山脈の向こうの三好郡と美馬郡の米問屋たちです。そのために米と雑穀は、峠を越えて、阿波の上郡へ売られていきます。これを高松藩は容認していたようです。
高松藩の食料政策は?                                                 
 高松藩では、年貢米と領民の食糧を確保し、領内での米価の安定を図らなければなりません。それに失敗すれば一揆や打ち壊しが起きます。そのために通用米や雑穀の藩外への流出については、厳重な取り締りを行うとともに、他藩米の流入についても関心を払っていたようです。
文化四(1807)年9月、高松藩は、「御領分中他所米売買停止」の御触れを出し、これに対して、勝浦村庄屋佐野直太郎が、次の誓約書を差し出しています。
他所米取扱候義御停止の趣、
兼て被二仰渡一も有レ之候に付、当村端々に至迄、厳敷申渡御座候。此度又々被レ入二御念一の被二仰渡一候につき、 尚又村中入念吟味仕候得共、右様の者決て無二御座一候。若隠置、外方より相知候へば、私共如何様の御咎にても可レ被二仰付一候。為二後日一例て如レ件。
文化四却年九月                  佐野直太郎
               市 郎
               甚 八
               加兵衛
中手恒左衛門様
岡田金五郎様
秋元加三郎様
意訳すると
他所との米取扱停止の件について
このことについて、当村でも村の端々にまで伝えて、申し渡しました。この度の件について、村中で入念に吟味いたしましたが、このような者が決して出ぬようにします。もし、そのようなことがあれば、私共はどんな御咎もお受けする覚悟でございます。何とぞ、今までのように特例認可をして頂けるようにお願いします
文書内容が抽象的で意味が掴みにくいのですが、当時の状況から補足して解釈すると、
①文化四年の作柄が豊作で、領内の米価下落傾向にあった
②そのため他所からの米の買付業者が横行した
③対応策として、他所との米取扱停止の通達を高松藩が出した。
ということでしょうか。しかし、これでは年貢米を金納している「まんのう町国境の村々」は、やっていけません。そのために、事情を説明し特別許可を認めてもらうのが従来からのパターンだったようです。この時も、申請者には阿波の業者への販売許可が下りたようです。
 特例が認められた村では「刻越問屋」の発行した証明書を添えて、年貢量と同じだけの米の売却が許されました。しかし、これに便乗して通用米を「他所売り」するものが、多数いたようです。実際に認められた以上の石高の米が、美合地区から阿波の上郡に運ばれていたようです。
馬方とは - コトバンク

讃岐で売られた米を阿波へ運ぶ峠道の主役は、阿波の馬方たちでした。
三頭・二双・真鈴の峠を越えて讃岐に入り、買い付けた米を引き取るために阿波の馬方は吉野上村の木ノ崎にあった高松藩の口銭番所の近くまで姿を見せていたようです。流石に、ここには高松藩の番所があったので、ここから北には足が伸ばせなかったようです。

 阿讃の峠道は決して安全なものでなかったので、絶えず道普請が行われていたようです。
文政10(1827)年秋、勝浦村の八峯に新しい掛道が造られます。触頭の加兵衛と、徳兵衛。仁左衛門・銀太が中心になり、阿波の馬方数人が手伝って完成させたようです。新道ができると、阿波からの米買いの馬方が、次々と通るようになります。
 これに対して八峯免の与市右衛門と弥平が、通行の峠馬や馬方に、畑を踏み荒らされると訴え出ています。勝浦には阿波美馬・郡里の真宗興正寺派安楽寺の末寺長善寺がありました。この寺が土器川沿いに興正寺派が教線を伸ばしていく拠点の寺院となったことは以前にお話ししました。大きな茅葺きの本堂があったのですが、最近更地になっていました。
 与市右衛門と弥平が、馬に畑を踏み荒らされるとが訴え出られた長善寺の院住や御林上守の岡坂甚四郎は、なんとか内済にするよう尽力しますが話はまとまりません。そこで、冬も迫った11月23日に大庄屋の西村市太夫がやってきて言い分を聞きます。「畑が踏み荒らされると御年貢が納められない」という主張に屈して、
「新掛道の入口であるあど坂という所へ、幅一間から一間半の水ぬきを掘り、両縁を石台にしてささら橋(小橋)を掛け、牛馬を通さない」

ようにすることで両者を和解させました。
 そして今後のことは、八峯免全員の協議で決めるよう説得します。
市大夫は最後に
「あど坂から少し入った所に百姓自分林がるわな、ここを下し山(木を切り降ろす)時に、木馬が通るには土橋があった方が便利なわな。その時はみんなで協議して土橋にしたらええがな」

と、一本釘を打つことも忘れなかったようです。ささら橋は、間もなく土橋に架け替えられて、馬方の鈴の音が絶えることのない馬方道になったと伝えられます。
馬子唄」と「馬方節」 - 江差追分フリークのブログ

文政12(1829)年から、川東村の馬廻り橋の架替え工事が始められ、天保2(1831)年12月に、普請が終わっています。
この際の橋の工事帳(馬廻橋村々奇進銀入目指引丼他村当村人足留帳:「稲毛文書」)には、
「総人夫 595人 総費用 608匁8分」

とあります。その中には阿波馬方分として 銀62匁が含まれています。総費用の1/10は、阿波の馬方が負担したことが分かります。
 ここからは次のような事が分かります。
①19世紀になると経済的な発展に伴い阿讃交易も活発化し、金毘羅詣の人々の増加と共に峠道を越える人や馬は急増した。
②しかし、峠道は以前のままで狭く悪路で危険な箇所が数多くあった
③それを地元の有力者が少しずつ改修・整備した。
④それには阿波の馬方からの寄進も寄せられていた。
二双越

   立石峠(二双越)には、いまはモトクロス場が出来て休みの日はバイクの爆音が空に響く峠になっています。かつて、馬を曳いて峠越えをしていた馬方が見たら腰を抜かすかもしれません。峠を阿波分に少し下りた、高さ二層を超す立派な庚申仏と、地蔵仏が建ています。

二双越の地蔵

地蔵尊は像高1.32mで、小さい地蔵尊を左の手に抱き、右の手に錫杖を持っています。高さ1,8mの三段の台石の正面から左右にかけて、阿讃両国の関係者の名前が刻まれています。
二双越の地蔵2

小さい地蔵を抱いた石像には嘉永六(1853)年十月吉日の文字が読み取れます。金毘羅大権現に金堂(現旭社)が姿を現し、周辺の石畳や灯籠などの整備が進み参道の景色が一変し、それまでにも増して参拝客が増えていく頃です。ここを通る馬方は、この二尊像に朝夕に祈りを捧げ、峠道を越えていったのかもしれません。

立石越

 この当時までは、三頭峠よりも二双越や勝浦経由の真鈴越えが阿波の馬方達にはよく利用されていたのではないかと、私は考えています。古い絵図を見ると三頭越えが描かれていないものもありますが、立石峠(二双越)は、必ず描かれています。三頭越えが活発に利用されるようになるのは、以前にお話しした幕末から明治維新にかかての智典の三頭越街道の整備以後なのではないかと思うようになってきました。
立石越(二双越)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

"'   
塩の道1
      
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 九州地方では、行商者が背負って内陸ヘ塩がもたらされたようです。やや深い内陸へは、牛馬の背を利用しての運ばれていきました。三陸海岸の塩は、牛馬の背によって北上山脈をこえて北上川流域にもたらされていました。日本海岸からは牛の背によって飛騨、信濃の内陸部へ送られました。そして、その量が多いところでは問屋が発達します。また川を利用した塩の輸送も盛んにおこなわれています。北上川、最上川、信濃川、利根川、富士川、筑後川などは、川口からかなり上流にまで川船が通っています。
それでは阿波の三好地方の人たちは、どのようにして塩を手に入れていたのでしょうか?
阿波西部の三好郡は、讃岐から運び込まれる塩への移存度が古代から高かったようです。塩の移入ルートの踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。

4 阿波国絵図     5
 一番右側(東)が大刀野から樫の休場経由で塩入に至るルート

阿波に運び込まれる塩の集積地がまんのう町(旧仲南町)の「塩入(しおいり)」でした。
DSC02547
眼下に見えるのが塩入集落 その向こうが満濃池(樫の休場から)

塩入は、その名の通り讃岐の塩が阿波に運び込まれる入口の役割を果たしていました。江戸時代には、丸亀や坂出の塩田で作られた塩が、讃岐の人夫達によって、この地まで運ばれてきます。そして、塩入の中継ぎ業者の倉庫に保管されます。それを阿波からやって来た人夫が背負たり、牛や馬に載せて、昼間や芝生の塩問屋に運びます。ここからさらにらに吉野川を渡ります、そして、池田や辻や三賀茂などの塩屋にさばかれたようです。さらに、落合峠などの峠越えて祖谷に運び込まれたようです。
 里の塩屋からソラの集落までは、塩はどのようにして運ばれたのでしょうか? 

5塩の道 ぼっか姿
昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っていたようです。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、ソラの人たちは里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換することが多かったようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
塩作りは重労働 海水を運ぶ男たち | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
揚浜塩田に塩を汲み上げる

全国では、どんなものが塩と交換されていたのか見てみましょう。
岩手県北上地方では、塩は稗・栗・藁細工などと交換することが多く、秋田県や岩手県北上川流域では米との交換が多かったようです。関東以西では麦・大豆・小豆。木の実・雑穀などに変わっていきます。高知県大栃の農家では、煙草・紙・茶・干藷などと交換している例もあるようです。これらのものを、交換した塩屋が売って金にしたのでしょう。塩と薪・材木などと交換した例も千葉・京都・大分・五島などに見られます。ソラの住人が塩を手に入れるためには、いろいろなものと交換していたことが分かります。背景には、貨幣経済が浸透していなかったという事情があるようです。


 阿波の東部海岸にも製塩地がありましたが、三好地方は瀬戸内海の讃岐の塩の方が輸送に便利だったのと、古代からの「塩の道」が踏襲されてきたようです。「塩の道」は、阿讃の峠道を越えて祖谷地方まで続いていました。ちなみに、祖谷の向こう側の土佐の大栃には、太平洋から塩が運ばれてきていました。祖谷と大栃の間が、瀬戸内海の塩と太平洋の塩との分水嶺だったようです。
5塩の道 大栃


綿も、讃岐から西阿波に運び込まれました。
江戸時代になると西讃地方は綿作地帯になります。
服は畑からできている! −綿花栽培プロジェクトを知る− | 北はりま大学

丸亀藩や多度津藩は、綿花を「讃岐三白」のひとつに育て上げていきます。米の裏作として栽培された綿花の販売先が、塩と同じ阿波の三好地方だったようです。ソラの集落の女達が、讃岐産の綿花をつむぎ、機織機で木綿を織る音が冬になると聞こえるようになります。ほとんどが家庭で使われるもので、商品として流通する物ではなかったようです。寒さの厳しいソラの人たちにとって、木綿は従来の麻に比べると、耐久力にも強く,保温の点でもすぐれたものでした。そのため讃岐綿花の需要は高く、西讃地方から峠道を越えて入って行くようになります。
 阿波で紡績が出来ない頃は糸ではなく綿を、3・4人の人夫が肩に担いで峠道を越えて運びました。綿は 「しの巻」で一丸(ひとまる)は二貫目(7,5㎏)で、これを阿波から出向いた人夫が、一人で6丸(45㎏)ぐらいを背負って峠を越えたようです。これも、ソラの人たちが里に下りてきて買い求めたようです。
Amazon | 手芸わた 巻綿 185g | 手芸わた 通販
綿の「しの巻」

琴南町史には、次のような農家の機織りの話が採集されています。
阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。布をのべる日は、風のない静かな日を選び、四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸をひとすじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。
5塩の道 機織り期jpg

明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり。器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。
 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
徳島 1965-1966(昭和40-41年)]藍とデコ - YouTube
阿波のデコ(人形)まわし(つかい)
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
                                        北条令子 旧琴南町の峠の集落で採集

ここからは「正月の子ども達の晴れ着」や「年寄りの綿入」も、家で織っていたことが分かります。その糸は里の「内田の紺屋」染めてきた糸です。横糸と縦糸を用意し、丹念に思いを込めて織られていたことが伝わってきます。美しい物語だと思います。
 また、徳島からはデコまわしがやって来て三番叟(さんばそう)を門付けしていたことも分かります。阿讃国境の峠は、明治になると阿波の人形浄瑠璃の一段が讃岐の村々での公演のために、越えていくことが多くなります。始めて見る阿波の人形浄瑠璃に讃岐人は、心を奪われたようです。自分たちで素人歌舞伎団を結成して、村祭りなどで披露するようになったことは以前に、お話ししました。モノと人と文化が峠を越えていきました。そして牛も峠を越えるようになります。次回は借耕牛について・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福井好行 峠道利用の阿讃交渉関係序説
北条令子 琴南町の民話 琴南町史
関連記事

DSC02527
東三好町のソラの集落 男山 
 
東三好町の旧東山村には、讃岐山脈から北に張り出した尾根に多くのソラの集落が散在します。このソラの住人たちの生活圏は、車道が整備されるまでは讃岐に属していたようです。吉野川筋の昼間へ下りていくよりは、讃岐との往来の方が多かったと云います。その理由は
①小川谷に沿って昼間へ出る道が整備されていなかったこと
②金毘羅(琴平)が商業的・文化的にも進んでいだこと
そのため阿波藩の所領ですが、経済的には讃岐、特に「天領で自由都市」である金毘羅さん(琴平)との結びつきの方が強かったようです。東山から金毘羅への道は、次のようなルートがありました。
4 阿波国図     5
①内野から法市・笠栂を経て樫の休場(二本杉)から塩入へ
②葛龍から水谷・樫の休場(二本杉)を経て塩入へ
③貞安・光清から男山峰を越えて、尾野瀬山を経て春日へ。
④差山(指出・登尾山)を越えて石仏越で箸蔵街道と合流して財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ
4 阿波国図 15

 どの道も塩入や財田経て、金毘羅さんへ続きます。「四国の道は、金毘羅さんに続く」の通り、金毘羅さんを起点に、次の目的地をめざしたのです。
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。
品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
DSC02495
男山集落

 阿讃越の峠道は、ソラの集落の尾根を登って峰を越えていく山道でした。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。
DSC02447

 天に近いほど、山の頂上に近いほど、金毘羅にも近いことになります。
つまり、奥地ほど讃岐に近いく便利だったのす。その結果、奥へ奥へと開墾・開発は進められます。それは当時のソラの集落の重要所品作物が煙草であったことも関係します。
タバコの葉っぱ<> | 萩市の地ブログ

煙草は気象の関係から、高いところで栽培された物ほど高く売れたようです。これは髙地の畑作開墾熱を高め、そこへの開墾移住熱をも高めました。そのため、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が開かれていったようです。
 葛尾の集落が街道沿いの集落として、明治までは繁昌していた様子が、残された屋敷跡や立派な石垣からうかがえます。これは、讃岐への交通の要に位置していたからでしょう。
DSC02478

    男山から昼間への道 打越越えの開通は? 
 昼間の奥の男山は、讃岐に経済的には近かったこと。その要因として、徳島側への道が整備されていなかったことを挙げました。徳島側の拠点となる昼間から東山中心部への往来は、谷と険しい峰に阻まれており、谷に沿って、何回も何回も谷を渡り、河原を歩かなければならなかったようです。 この川沿いの悪路を避けて、尾根沿いに新たな新道が開かれたのは、いつのことなのでしょうか。
それは案外遅く、幕末になってからのようです。
 教法寺の過去帳には、弘化三年(1846)10月24日から11月2日にかけて昼間村地神から東山村貞安小見橋間の道普譜が行われた際の次のような動員文書があります。

 昼間村地神より東山村貞安小見橋まで道お造りなされ候、東山村より人夫千人百人程出掛ヤ御郡代より御配り候て道作り候。普請中裁判人、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門他に三、四人裁判の由にて、霜月の二日に道造直し、御郡代三間勝蔵殿十月二十七日に御見分担戊申事。
意訳すると
 昼間村の地神から東山村貞安小見橋まで、道を作るときに、東山村より人夫1100人程が郡代の命で動員され道作りに参加した普請の裁判人は、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門の他に三、四人裁判したようで、霜月の2日に道を点検し、郡代三間勝蔵殿が10月27日に御見した。

文中の「裁判」は、人夫を指揮監督することだそうです。この文書からは、郡代による大規模な工事が行われたことが分かります。この工事が新設か改修かは、文書からは分かりませんが、「状況証拠」から新設に近いものであったと研究者は考えているようです。昼間の地神さんを起点として打越を越え、内野までの尾根沿いの安全な道が、幕末になってやっと確保されたのです。

DSC02539
 
こうして樫の休場越は、それまでの阿波の三加茂・芝生・足代方面からのルートに加えて、
昼間 → 打越峠 → 男山 → 葛籠 → 樫の休場

という新ルートが加えられ、ますます利用者が増えます。讃岐側では
「塩入 → 春日(七箇村) → 岸上 → 五条」 

を経て金毘羅阿波町に至るので。七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれるようになります。
 明治になると「移動の自由」「経済活動の自由」が保証され、人とモノの動きは活発化します。
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
DSC02547
樫の休場から望む満濃池 手前が塩入集落

 こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
DSC02541

東山峠越の新道建設へ
 このような背景を受けて、以前にお話ししたように明治28年(1895)ごろから塩入と阿波の男山を結ぶ新たな里道工事が始まるのです。この工事の際に、里道(車道)としては、男山まで道路改修が進んでいました。そこで、峠はその上部に作られることになります。これが現在の東山峠の切通です。阿讃の物資は大八車で、東山峠で行き交うようになります。その結果、樫の休場越は次第に寂れていきます。
DSC02461
東山峠の切通 ここで阿波の里道と讃岐からの里道は結ばれた
 
   ソラの集落への「猫車道」の開設は
 大正初期に書かれた『東山の歴史』に、ソラの集落への道路開設の様子がどのように進められたかを見ていきましょう。。
   葛籠線 
DSC02500

葛籠は男山から樫の休場への途中にある集落です。
それまでの道は、男山谷に沿って入っていくので大変険悪だったようです。また、谷を9回も渡らなければならないので、洪水の時には男山峰からの迂回路を取るか、危険を冒して「引綱」を頼りに渡るしかなかったと云われます。
 明治33年(1900)に、幅六尺(約180㎝)の新道建設が始まり、東山の各部落から夫役の無償供与を受けて完成しています。猫車を押して通れるようになったのでこれを「猫車道」と呼んだようです。
DSC02504


 男山線 
男山新道は、男山西浦から始まって二本栗でで塩入線に接続します。大正元年(1912)に起工し大正四年に完成しています。これも各部落からの夫役寄付で工事が行われました。当時は、半額が国・県負担で、残りの半額は「地元負担」でした。そのため自分たちの道は、自分たちで作るという気概がリーダー達にないと、造れるものではありませんでした。
 このように明治末から大正初年の新道開設は、ようやく普及し始めた猫車による運搬に対応するためのものだったようです。それが戦後まで利用されます。

DSC02513
 戦後の高度経済成長が始まると「軽四トラック」が里の村には走り始めます。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
 そうなると買い出しは、トラックで昼間のスーパーに行った方が便利になります。しかし、今でも東山の人たちは讃岐との関係を持ち続けて生活している人が多いようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 三好町史 民俗編309P   讃岐への道

                                                                           
前回は一遍が「死出の旅」として、伊予大三島から讃岐を経て阿波へ抜けたことをお話ししました。その際に、使ったと考えられる讃岐山脈を越える峠道を挙げました。これについて、もう少し詳しく知りたいとのリクエストをいただきました。そこで、今回は大川山から猪ノ鼻峠まで間の峠道に焦点を絞って、紹介したいと思います。

DSC02463
東山峠

1.明治になって開かれた東山峠
 このエリアの幹線道路は、丸亀=三好線(県道4号線)です。このルートは、まんのう町塩入から東山峠へ至る道です。明治に香川の七箇村と徳島の昼間村が協議し、双方から新道を建設し東山峠で結ぶことで完成しました。明治39年に全線が開通し、これにより塩入と撫養街道分岐の昼間村が新道で結ばれました。明治42年の国土地理院の地形図には、幅3m以上の車道として記載されています。
 このルートは先行する財田・阿波池田を結ぶ猪ノ鼻峠ルート(四国新道)への対抗策として計画された側面があります。そして、その期待に昭和初期に土讃線が開通するまでは十分に応えていたようです。

「祖谷や井内谷の人は辻の渡しを渡ってこの道を通り、塩入部落を経て琴平へ行きました。借耕牛も通り、讃岐の米や塩が馬やネコ車で運ばれてきていました。」

と内野集落の老人(明治36年生)が話した記録が残っています。
 ここから分かることは、東山峠を通過するルートは近代になって作られたルートなのです。

東山峠を通過する新道が作られる前は、どうだったのでしょうか?
幕藩体制が安政化する18世紀になると、幕府は各藩に領域地図の定期的な提出を求めるようになります。提出された地図に基づいて、幕府は各藩の境界を定めていきます。そのために各藩は、国境附近の情勢や街道についても地図に書き込むようになります。
4 阿波国図     5
     吉野川沿いの阿讃山脈の国境ラインと街道が見える

1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図で阿讃国境と峠道を見てみましょう。

4 阿波国絵図     1700年

大川山から現在の国道32号線が通過する猪ノ鼻峠までの間には3本の峠道が描かれています。拡大してみます。
4 阿波国絵図 拡大

①~③の峠と、その説明文を見てみます。
①樫休場  大刀野村ヨリ讃岐国塩入村  牛馬通
②差土越  昼間村ヨリ 讃岐国山脇村  牛馬
③石仏越  東山ヨリ  讃岐国財田上村 牛馬通
記載されているルートを推定してみます。
①は 現在の三好市三野町芝生→大刀野→樫休場→塩入(旧仲南町)
②は 現在の東三好町昼間→ 東山→差土越 → 山脇(旧仲南中)
③は 現在の東三好町東山→(箸蔵街道と合流)→石仏 →三豊市財田町上ノ村
ここには、東山峠越のルートはありません。18世紀初頭においては、東山峠ルートは主要街道ではなかったことが分かります。次に地図に描かれている①~③の峠道を見ていきます。

①の樫の休場への道
4 樫の休場 東山峠俯瞰図

大川山から東山峠まで
大川山から東山峠までの阿讃山脈ルートと各峠

 樫の休場(標高 850m)は、東三好町(旧三好町)、三好市三野町、まんのう町(旧仲南町)の3町にまたがる峠で交通の要所でした。讃岐側からは二本杉越と呼ばれています。讃岐側の里から見ると、稜線に大きな2本の杉が立っているように見えるからです。実際には、もっと本数はあるのですが・・。
 この峠は、明治中期に丸亀三好線が東山峠で結ばれるまでは、幹線ルートとして使用されていたようです。この峠に至るには、阿波側からは次のルートがあります。
①三好市三野町の芝生→ 山口―中屋―笠栂―寒風― 樫の休場― 塩入
②昼間 → 男山集落手前 → 葛籠方面へ分岐 → 寒風(樫の休場の南1km にある峠)
江戸時代は昼間からの人々も、このルートを利用者する人が多かったようです。三野町や三加茂町の人々が讃岐へ出る道として利用し、ここには茶屋も2軒あったと伝えられます。しかし、昭和4年に土讃線が開通してからは、峠の往来は少くなりました。

4 樫の休場
樫の休場から望む眼下の塩入集落と、その向こうの満濃池
ここからは、讃岐方面の展望が開け、満濃池の向こうにおむすび型で甘南備山の讃岐富士がぽつんと見えます。ここから讃岐方面へ下ると深い谷に囲まれた塩入集落です。
阿波への塩の集積地だった塩入
 塩入は、讃岐の塩が阿波に運ばれる際の重要な中継基地でした。江戸時代には、ここまでは讃岐の人夫が馬などでここまで運んできて中継商人の倉に入れます。それを、阿波の人夫が受け取り、次の中継拠点に運びました。「塩入」という地名は、阿波への塩の入口であったことからつけられたといわれています。東山新道が出来る以前には、塩入→樫の休場→打越峠→昼間や網代のルートで結ばれていたようです。例えば昼間に運ばれた塩は、その後は吉野川を渡り、対岸の辻に運ばれ、そこから男達の背に担がれて祖谷の奥まで、讃岐の塩が運ばれて行ったようです。塩は昔から生活に欠かすことのできない必需品でした。それは、江戸時代よりも古くからあった讃岐と阿波を結ぶ「塩の道」だったようです。
  樫の休場について地元の古老は、戦後の聞き取り調査の際に次のような話を残しています。

借耕牛の道として利用され、讃岐の米や塩がこの峠を越えて運ばれてきました。また琴平や丸亀へ嫁入りする人を見送ったり、善通寺へ入隊する兵士を見送った峠でもありました。三好町の人は、峠の北東4km にある大川神社へ参拝するときにも通りました。」

 
4 樫の休場 ru-tozu

  この街道をしのぶものとして、笠栂と樫の休場の間には次の2体の石仏が残っているようです。
○不動尊
 笠栂から寒風に向けての稜線上に標高 810m地点に建っています。舟形の浮し彫りで、像高は 108cm。台石に「文化元年足代邑 昼間村講中」とあるので、足代と昼間両村の人々が講を組織して建てたことが分かります。ここからも、ふもとの足代や昼間の集落の人々が、葛籠経由のこのルートを使っていたことがうかがえます。
○水谷の地蔵尊
 男山を経て葛籠からの街道で合流する地点の中蓮寺峯(標高 929.9m)の東斜面の道路沿いに座っています。樫の休場からは500m南西の杉林の中です。ここにも土讃線開通直後の昭和10年頃までは庵があって人が住んでいたといいます。今はブロック囲いの小さなお堂の中に、かなり風化した地蔵尊(像高 30cm)がポツンと祀られています。世話をする人はいるのでしょう、いつも奇麗な服を着せてもらっています。お堂の横の古い手洗い石には「明和四(1768)年寅十月廿四日」と刻まれてあったそうです。
③ 石仏越 
4 石仏越

 ③の石仏越は箸蔵街道とは別のルートになります。
現在のサーキットのある東三好町男山の柳沢、増川から馬除を経て池田町境の尾根を登るルートです。後にこのルートに、新たに箸蔵寺からの街道がドッキングされます。
 二軒茶屋という地名は、昔ここに大国屋や福島屋という二軒の宿屋があって旅人に宿泊や茶の接待をしていたことからついた名前だと云います。この峠の阿波側には金比羅宮の奥の院と称する箸蔵寺があり、街道はこのお寺の参道として整備されました。この周辺は修験者(山伏)の密集地で、江戸時代中期以後になって、彼らによって箸蔵寺は頭角を現すようになります。その広報戦略は
①金毘羅さんの奥の院
②金毘羅との両詣り
で、金比羅宮に参詣した人を「両詣り」で勧誘する方法です。先達達(山伏)も街道を整備したり、参拝客を箸蔵寺に勧誘しました。また、箸蔵寺にはこの街道を行き交う旅人に対して、無量で宿泊所を提供したので、ここに停まって翌日金比羅詣でを行う人も阿波の人たちの中には多かったようです。そのため阿波の人たちは、この街道を「箸蔵街道」とも呼ぶようになります。箸蔵寺を通過する「箸蔵街道」が整備されるのは、案外遅いようで江戸時代後半になってからです。

4 阿波国絵図     5
 
 先ほど見た1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図にも、箸蔵街道はありません。あるのは③の男山から石仏越のルートです。
このルートに、箸蔵寺からの道が二軒茶屋付近で合流する形で、付け加えられます。そして、次第に③のルートよりも箸蔵街道を利用する人たちの方が多くなって③のルートは廃れ、「箸蔵街道」にとって代わられたのではないかと私は考えています。

 箸蔵街道も、明治27年に財田の大久保諶之丞が計画した四国新道が猪ノ鼻峠を通過するまでは、毎日多くの人々が行き交いました。特に阿波池田方面の人々の利用が多かったようですです。

箸蔵街道(香川県、四国の信仰古道を辿る) | 世界日本の景色

二軒茶屋から土讃線財田駅への下口にある石仏までの間には、箸蔵への距離を刻んだ次の3基の丁石が残っています。
1 五十七丁 阿州西井ノ内谷段地名氏子
2 六十一丁 阿州三好郡加茂村 萩原藤右ヱ門
3 六十五丁 東豫中之庄 大西彦三良

 箸蔵街道も明治の四国新道の建設と、昭和の初めの土讃線の開通で大きく姿を変えます。利用者は激減し、二軒あった茶屋も姿を消します。しかし、このルートは信仰の道として信者によってしっかりと整備された道なので、今も十分に利用可能です。財田駅に車を止めて、二軒茶屋を越えて、箸蔵寺に参拝し、ロープウエイで箸蔵駅の直ぐ上にまで下りて、土讃線で帰ってくるとというのが定番でした。ところが・・いまは土讃線の便数が減って、帰ってくる普通列車がなくなってしまいました。急行の南風は通過してしまいます。どうしたらいいものやら・・・

以上紹介した東山峠・樫の休場・二軒茶屋はよく知られたルートです。しかし、旧東山村の『東山の歴史』(大正5年編纂)にはもう一つのルートが示されています。
4 阿波国絵図 拡大

②の差出の地蔵越への道
「東山の歴史」には、「風光絶佳なること、我昼間村第一」として「差出山」(標高887.3m)が紹介されています。しかし、この山は私にとっては始めて耳にする山でした。もちろん手持ちの古い国土地理院の地図にも名前は入っていません。しかし、グーグルで検索してみると標高が同じ山があります。「登尾山(のぼりおやま)887.3m」です。尾野瀬山分岐点より西の県境尾根にあります。標高が同じなので「差出山」(標高887.3m)=「登尾山(のぼりおやま)887.3m」であることが分かります。グーグルは、運用開始時は山関係では役に立つことはなかったのですが、多くの人が山名や地名を補足して、役立つツールに成長してきたようです。
 「東山の歴史」には、次のように紹介されています。

「維新前までは香川県へ通ずる要路に当りしが、今は近路として通過するに過ぎざれば道路の甚だしく荒廃せんとするは惜しむべきなり。」

大正の時代に、すでに忘れ去られようとしていたルートのようです。
 この峠道は阿讃サーキットの貞安や滝久保、石木集落方面の人々が香川県の財田、琴平方面へ出るときに利用していたようです。琴平まで日帰りで用事や買物に出掛けたと云います。貞安からの尾根を詰めれば、この山の山頂に立てます。確かに「風光絶佳なること、我昼間村第一」かもしれません。特に讃岐方面の展望がいいのです。
 この頂から県境尾根を西に行けば、箸蔵街道と合流して財田方面にでることができます。東に辿れば、中世の山岳寺院があった尾の瀬神社への分岐点があり、尾野瀬神社を経てまんのう町(旧仲南町)春日に至ります。春日で東山峠からの三好=丸亀線と合流します。そこからは金毘羅さんへは一里半ほどになります。この街道については、貞安の老人は次のような話を残しています。

 「財田との縁組も多く、借耕牛も沢山通りました。財田の香川熊一さんや滝久保の木下常一さんが博労をしていて、牛の貸借の仲介をしていました。戦後耕運機が入るまで、借耕牛の行き来は続きました。」

 財田方面への借耕牛が数多く通った道のようです。
 貞安から差出越までの峠道には、4体の石仏が残っているようです。
○差出越の地蔵尊
 峠には2体の地蔵尊が祀られています。道路から向かって右は像高37cmで「文化十三年十月吉日」、左は像高 43cm で「明治十九年十二月吉日」の銘があります。2体ともに「棟木」の地名が刻まれています。棟木(現 東山字棟木)の人々が、この道を利用していたことが分かります。
○ヤマンソの地蔵尊
 峠の南東 1,5kmの展望の良い尾根上にいらしゃいます。像高 88cm「三界萬霊  安政三辰二月吉日 施主東山村中 世話人貞安大西高助 内野丹蔵」の銘があります。
○ハチベの不動尊
 峠の南東 500m の松の大木の下にあり、像高は 44.5cm。造立の年代は不明で、昔讃岐へ行くときここに刀を隠しておいたという話が残っているそうです。

 一遍時衆がどのルートで、善通寺から阿波へ抜けていったかという点に話を戻します
以上から私は次のように想像しています。
①善通寺から金倉川沿いに歩みを勧めた一行は、塩入に入ります。ここで一泊。
②翌日に、財田川の源流を遡って樫の休場に登っていきます。
③そして、葛籠・男山を経由して昼間に入ります。昼間に時宗の末寺が後世に作られたことは、なんらかの由縁が、この時にあったと無理矢理想像します。
④吉野川を祖谷への塩を渡す渡し船で右岸(南岸)の辻へ渡ります。
⑤吉野川右岸を東に向かって遊行中にメンバーの尼僧が亡くなります。
⑥この間、メンバーの追放や布教活動の乱れなどから、彼らを取り巻く状況は悪くなっていきます。
⑦9日後の6月1日に、鴨島で一遍発病
というストーリーです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
○東山の歴史(大正5年編)
○三好町誌

 「三好町史」を原付バイクに詰め込んで、東山詣でが続く。
 
今日のミッションは「葛籠から樫の休場(二本杉)を経て大川山までの林道ツーリング」だ。まんのう町塩入から入り、県道4号(丸亀ー三好線)を財田川の源流沿いにツーリング。原付はスピードが出ないために、いろいろなものをゆっくりと眺められるし、考えられる。狭いソラの集落の道にも入って行きやすい。最適だ。

東山峠から一気に男山の小川谷に架かる橋まで下る。ここから葛籠集落の入口までは広い農道が整備されている。

葛籠集落の道沿いには、行き交う人々の安全を祈ってかお地蔵さんがいくつか見受けられる。ここは東山峠越の新道が整備される明治40年までは、樫の休場を越える塩入街道の宿場的役割を果たしていたという。
葛籠が繁昌していた「気配」は、今は残された屋敷跡の立派な石垣くらいしか感じることはできない。

傾斜した畑の中に「山祗神社」が鎮座する。 祭神は大山風命
祭礼には獅子舞が奉納される。この集落も大川神社の祭礼に参加するが、香川県から多数の獅子舞がやってくる。そこで「文化的交流」が行われてきたために獅子舞は、讃岐との流れをく んでいると言われる。大川神社の信仰を通じての阿讃の交流の一コマかもしれない。
イメージ 5

 集落の南側は「前山」が立ちふさがり、昼間方面との交通を難しくしてきた。
明治になって昼間から東山まで新道が整備されて、葛籠から樫の休場経由の塩入街道は繁盛する。今では、それも残された屋敷跡の立派な石垣からしか察することができないが・・・

集落を抜けてさらに高みに林道を上ると、眼下にいま抜けてきた葛籠集落 
そして小川谷川の向こうに貞安が見えてくる。 
ここも天空に通じるソラの集落だ。

葛籠林道の終点。
ここから大平までは「林道 樫の休場線」が阿讃山脈の稜線の阿波側を走っている。
右へ行くと馬瓶 → 田野々 → 仲野 → 太刀野山へと吉野川へ下りて行く。。このルートも塩入街道のひとつだった。
ここを左に曲がり、樫の休場へ。
中蓮寺山の枝打ちされた明るい杉林の中を抜けていくと・・・
樫の休場に飛び出した。

北側の讃岐の眺望が開ける。
眼下に塩入集落。
その向こうに満濃池が広がる。

この峠には6本の杉が立っている。これが讃岐方面から見ると2本の大杉が並んでいるように見えるので、讃岐側の地元の人たちは「二本杉」と呼んできた。
つまり地図などの公式文書には「樫の休場」、
讃岐の地元の呼称は「二本杉」ということになろうか。
最期に、三好町史の塩入街道「樫の休場」についての記述を紹介したい。
三好町史 民俗編 309P
  東山では、北へ行くにも南へ行くにも峰を越さなければならず、東へ行くにも西へ行くにも谷を渉らなければならなかった。そこでは、道を整えて人が通ったのではなくて、人が通った足跡が自然に道としての形を整えていったと思う。

 東山からの道は、まず讃岐へ通じ、人も物資も吉野川筋へ山入するよりも讃岐へ往来したと思われる。それは小川谷に沿って昼間へ山たり、峰を越えて昼間へ山ることが地勢から見て困難であったことにもよるが、それよりも、琴平や丸亀が商業的にも、文化的・情報的にも進んでいだことによると思う。江戸時代以峰、行政的には阿波藩に属したが、それでも吉野川筋への往来が讃岐への往来と並ぶという程ではなかった。
 讃岐への道は、
① 内野から法市・笠栂を経て水谷・二本杉(旧称・樫の休場)から塩入へ。
②葛龍から水谷・二本杉を経て塩入へ。
③貞安・光清からは男山峰を越えて塩入へ。
④差山(指出)の峰を越えて財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ出ていた。
どの道も塩入や財田を径て琴平・善通寺・丸亀をめざすものであった。足が達者であった昔の人は、一日で琴平へ往復できたようである。
これらはいずれも徒歩の道であって、それぞれの集落の尾根を登って峰を通る道であった。尾根を経て峰を行く道は、最短距離を行く道であって迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかった。
 また耕地を損ずることも少なし利点があった。が、それだけに急坂が多かったし、つづら折りに曲がってもいた。足掛りだけの徒歩の道であった。荷物は背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりした。
現在とは異なり、琴平・善通寺・丸亀等の商業圈に属していた。どの集落も奥地ほど讃岐に近いので便利であり、開化の土地であった。昔は、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が続いていた。

 

イメージ 1
野口ダムより仰ぎ見る阿讃の山々 この奥に塩入集落がある
東山峠は、南の昼間(現三好町)と北の讃岐の七箇村(旧仲南町:現在のまんのう町)の阿讃の村をつなぐ。この峠が出来るまでは、阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場を越えて、塩入集落に至っていた。そして、福良見から堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平の阿波町に至る。金毘羅参りの街道でもあったため三頭越えなどとともに「金毘羅参拝阿波街道」のひとつとされる。
イメージ 2
財田川の源流に沿ってならぶ塩入集落
 
またこの道は讃岐の塩を阿波へ運搬する道でもあった。阿波藩は「鎖国の国」と言われたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波の奥地にまで入っていった。その拠点となった塩入集落には、うどん屋や旅人宿ができ宿場町を形成していた。

イメージ 3
財田川の源流沿いに東山線は伸びていく。離合可能な走りやすい道である。
 明治時代に入って各藩の「鎖国政策」は取り払われ、「交易自由化」が進められ阿波・讃岐間の交易も活発になる。煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、人と物の交流が増加する。
 さらに財田の大久保諶之丞の四国新道建設に刺激を受けて、阿讃の両側(七箇村と昼間村)から道路改修が行われ、東山峠で結ばれることになる。これが現在の県道4号丸亀三好線のルーツである。

イメージ 4

東山峠で阿讃が結ばれるまでの経過を追いかけてみよう。

1 1892年(M25年)に、昼間村長は、「香川県に属する分の改修」を七ケ村長に交渉している。ちなみにこの時の七箇村長は田岡泰。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を責任を持って建設し、東山峠でドッキングすることが計画されたようである。
 そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」で「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」であえなく中断。
イメージ 5
             現在の東山峠
 6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で工事を実施。明治39年に塩入から伸びてきた道と東山峠でドッキングさせた。
「新道建設」の際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設  改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことである。
 村のリーダーとしては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県議会への働きかけが大切になる。

イメージ 6
 現在の男山集落 
     丸亀~三好線がつづら折れに集落を貫いている。

認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記している。
 道路建設を決議した村の負担の大きさとそのリーダーたちの心労は大きいものがあった。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかった。


 阿讃国境付近の道路改修は、東山越に新しい新道が建設されたことになる。その結果、それまでの主要道であった、樫の休場越がどうなっていったのかは又の機会に。

四国新道完成後の財田の様子については、次のような記述があります。

四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。    (仲南町誌)
  この資料から開通後の四国新道沿線沿いの十郷・財田村の活況さがうかがえる。財田町誌にも

「特に、財田の戸川集落には旅籠や乗合バス亭・水車による脱穀業などが新しく並び立ち、新たな賑わいを見せるようになった。(財田町誌682P)」

と四国新道完成後の沿線の「経済効果」を紹介しています。
 視点を変えると「新道」は、現在の「バイパスあるいは高速道路」です。新道が出来たために物と人の流れが変わり、周辺には寂れていく街道や宿場も出てきます。四国新道の完成は七箇村を通る「塩入街道」にも影響を及ぼしました。
「春日を通過する塩入街道が寂れていく」という危機感をバネに「わが村にも第2の四国新道建設を!」

という思いを持つ指導者が徳島の昼間村に現れます。

 讃岐山脈を越えた徳島県昼間村(現みよし町)の村長田村熊蔵は、樫の休場経由の塩入道を、車馬の通行可能な新しい道路にグレードアップする道を探っていました。その際にルートを、東山峠越で塩入に至るルートに付け替えようと考えます。
徳島県三好側からの東山峠までの「新道」開通に向けた動きを見てみましょう。
香川県仲多度郡七ケ村につながる道は険悪であった。そこで人馬の通行が円滑になるようにと、昼間村長田村熊蔵、有志三原彦三郎等が香川県に属する分の改修を七ケ村長(田岡泰)に交渉した。明治25年(1892)昼間・撫養街道分岐点より延長三百余間の改修を行った。しかし、全線に係る工費は巨額で村力の及ぶところではなかった。その後も、郡費補助をたびたび要求した。
 その結果、明治30年度に金792円74銭の補助が受けられることになり、時の村長丸岡決裁はこれと同額の金額を有志の義捐に求め前の改修に接続して、延長千七百間の改修を行った。が、東山字内野まで伸張し、一時工事中止となった。
 明治32年5月に内野から県境までは測量は終了したが、郡財政上着工にまでは至らなかった。その後明治35年度において再び郡費補助を得たが、今度は村の自己負担分の工費が工面できず県費補助を要求した。
 その結果、明治36年度より39年度に至る四か年の継続事業として郡県の補助を得ることが出来るようになった。それを生かし道路用地は各持主の寄付によることを協定し、更に県の実測を経て里道改修工事を竣工させた。総工費22334円にて、内5262円53銭9厘の県費補助、6729円43銭3厘は郡費補助を受け、残額10142円49銭6厘は村の負担として、有志の義金又は賦役寄付に求めた。(以上 三好町誌)
 明治39年になって三好町昼間から男山を経て東山峠までの新道が完成します。いままでの獣道ではなく車馬交通の便を開けたのです。

 そこに至る経過を整理しておきましょう

1892年(明治25)昼間村長は田岡泰七ケ村長と話し合い「自分の村の改修は自ら行う」ことを確認します。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を互いに責任を持って建設し、東山峠でドッキングする約束をしたのです。そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」でした。そのため
「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」

であえなく中断。以後は、小刻みに伸ばしていく戦略に切り替えます。
5年後、郡からの半額補助を受けて内野まで延長。さらに6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で東山峠まで伸張し、1906年(明治39年)に香川県側の七箇村塩入から伸びてきた道とドッキングさせてています。香川側の完成から16年後のことになります。

イメージ 1
  東山峠

 この際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことです。村の村長としては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県会への働きかけが大切な仕事になります。補助金が付き、認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。
 「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記します。
当時は、建設費の半分は地元負担が原則です。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかったようです。
  七箇村の田岡泰や増田穣三達、若きリーダーも、徳島側と連携をとりながらこの「自負と決意」を固め、実行に移していったのでしょう。それでは、香川県まんのう町側の「塩入街道改修」はどのように進められたのか、またを負担金はどのように集めたのかを次回は見ていくことにします。

このページのトップヘ