瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の戦国時代 > 阿波三好氏

 天正7年(1579)から翌年にかけての長宗我部軍の阿波侵攻の経過を史料で追いかけていきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」です。
 この時期になると、土佐軍によって三好軍はじりじりと追い詰められていきます。そのような中で、天正8(1580)年3月に大坂石山本願寺の顕如と織田信長との和睦(勅命講和)が成立し、翌月には顕如が大坂を退去します。この事件は本願寺方を支援していた三好氏に大きな転換点となったようです。次の史料は、天正7年後半頃の阿波をめぐる情勢を伝えるものです。
 阿波平定中の長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】(東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」)(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)
一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、
一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固申付、一旦休汗馬候、敵方手成於武篇者手二取見究申間、可御心易候、
一(4)先度之御報に紀州者阿州無競望様二可被仰上之旨、尤大慶存候、既今度彼等謀略之状懸御目候、殊四国行之段御朱印頂戴仕旨、厳重申洩依致蜂起、万一如何様仁被成 御下知候哉と一先戦申加遠慮候、迪之儀詳に被仰上、委曲之御報所仰候、
一(5)阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走、可詢粉骨念願計候、
一(6)三好山城守(康長)近日讃州至(寒川郡)安富館下国必定候、子細口上可申分候、
一(7)淡州野口方(長宗)ノ所来、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被(中略)
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますので使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)
一(3)先日、陣中から注進したように、讃州の十河・羽床両城を攻撃中のことですが、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。
一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために(讃岐に)出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀と連携するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして勝瑞に迫りましたが、この城は要害化されて、もっとも手強い城なので一旦、兵馬を休め、敵方の様子を窺いながら攻城することにしました。
一(4)先だって報告したように、紀州者が阿波に侵入することがないように仰上いただいているのは大慶の至りです。なお、紀州衆の阿波への侵入事件について、私が四国統一の御朱印を頂戴していることを伝達し、これに従わないことがあれば一戦も辞さないことを申し伝えました。
一(5)阿波と讃岐の大勢は、西国方面の情勢を察して、相当の国衆が帰順しました。
一(6)三好山城守(康長)が近日中に、讃州の(寒川郡)安富館に下国するとのこと、詳しいことについては使者が口上で報告します。
一(7)淡路の野口方(長宗)については、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被一中略一
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
(3)条に「讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、 一宮之城を取巻候」とあります。長宗我部氏が讃岐の十河・羽床両城を攻囲中に、大坂石山本願寺を退城した「牢人共」が紀州勢・淡路勢とともに、阿波勝瑞に入城に立て籠もり、さらに一宮城を包囲したとあります。この「牢人共」というのは、顕如の大坂退去後も教如(顕如の子)に従って本願寺に籠城・抵抗していた者たちのようです。その勢力が紀伊雑賀衆(門徒衆ヵ)・淡路の反織田勢と合流して阿波勝瑞に入城したというのです。これは、当時三好氏本拠の勝瑞城が織田権力に抵抗する拠点の一つであったためのようです。反信長の旗印が磁場となって、同士たちを引き寄せたとしておきます。

阿波一宮城
阿波一宮城
阿波一宮城5
阿波一宮城
 「牢人共」の攻囲した一宮城は、城主一宮成相が長宗我部方に従属し、三好勢と敵対する関係にありました。この一宮城の攻防戦は、麻植郡内領主の木屋平氏がこの城に籠城していたことが史料から裏付けられます。
 同条(3条)には「阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に「令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計」とあります。ここからは、牟岐城主の新開道善らが雑賀衆と連携して、長宗我部氏に抗戦する動きがあったことが分かります。
(6)には、織田信長配下の三好康長が近日中に讃岐の安富氏館へ下向することが記されています。この時期の安富氏は、織田方の東讃岐における拠点であったことは以前にお話ししました。
研究者が注目するのは(4)で、長宗我部元親が「紀州者」の行動について、「謀略」・「蜂起」と表現して、その経緯について説明を求めている点です。これは「牢人共」の行動を、裏で信長が操っているのではないかという疑念が長宗我部元親にあったと研究者は推測します。そのため信長に説明を求めていると云うのです。さらに(7)では「紀州」勢を制圧してくれるならば、「阿・讃両国即時被及行可相果候」とも述べています。
このように天正8年後半は、教如の石山本願寺退出に伴う余波が阿波にも及んでいたことが分かります。具体的には、反信長の旗印のもとに三好勢と雑賀衆(反織田方)が阿波海瑞に集結し、そのベクトルが長宗我部勢への抗戦に向かっていたことを押さえておきます。このような情勢に対応するために長宗我部元親は、織田方に対して紀伊雑賀の制圧と淡路への対応を求めていたのです。
長宗我部元親と明智家の系図
次の史料は、「石谷家文書」に含まれる長宗我部氏関係の史料です。
この史料は、長宗我部氏家臣の中島重房らが明智光秀家臣の斎藤利三・石谷頼辰(利三兄)宛に出した全9ヵ条の書状です。

①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
(前略)
一(1)阿州之儀者、来春一行可被差競候、落着之段、兎角大坂・雑賀御手遣之節、可被探果候
一(2)淡州へ之御一勢、於御遠慮者、是非雑賀を被押置候やう之御申成肝要候、勝瑞をハ雑賀者過半相踏候、可被成共御分別候、
一(3)讃岐国之事、勝瑞一着を相願躰に候、当分此方敵心候へ共、至極之無遺恨候、千時中国二被搦、此方と敵筋候、勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候、連々調略子細候間、今一握にて可相下候、
(4)被申入人候 御朱印之事、早速御申請候て可被差下儀、大用に存候、此隣国之儀、誰在之而只今可申請仁有間敷候へ共、とても元親無二御味方に被参事候間、能被人御精、安堵之 御書可被下候、(中略)
(7)(中略)伊予州表之事者、手間入ましき躰候へ共、阿州之儀被懸念第一、淡州・紀州遺恨に付而、与(予)州口之儀成次第之躰二候、 (中略)
十一月廿四日        忠秀(花押)
        (中島)重房(花押)
意訳変換しておくと
(前略)
一(1)阿波のことについては、来春に最終的な軍事行動を起こし、落着する予定です。その際に、雑賀衆への対応が重要になります
一(2)淡路の織田方が、紀州雑賀を押さえておくことが必要です。阿波勝瑞に立て籠もるのは、半分が雑賀者ですので、それへの対応がポイントになります。
一(3)讃岐については、阿波勝瑞が落ちれば、自然と平定は進むと思われます。讃岐衆は、当分は長宗我部方へ敵心を抱くかもしれませんが、遺恨はありません。また中国筋(備中遠征)をめぐって毛利氏とは敵筋になっています。それらから考えて、勝瑞が落ちれば、讃岐のことは如何ようにもなります。連々調略子細候間、一握にて済みましょう。
(4)申請していた「四国平定」の御朱印について、早速に差下しいただけること大用に存じます。元親を織田方の味方に加えていただけることに安堵しています。(中略)
(7)(中略)伊予州方面については、今後も手間がかかりそうそうです。しかし、全体的に見ると、阿波が第1の障害です。特に、淡州・紀州勢の動きが気がかりです。第2に与(予)州という順になります。
(中略)
(天正6年)十一月廿四日        忠秀(花押)
              (中島)重房(花押)
ここには長宗我部氏の阿波と讃岐攻略の見通しが述べられています。その概略は次の通りです。
(1)条に阿波攻略の最後の軍事行動を来春に行うこと
(2)条で三好氏の勝瑞城に雑賀衆が立て籠もっており、織田方に紀州雑賀の制圧を望むこと
(3)条に、讃岐については勝瑞を攻略すれば、その後は容易に攻略できるという見通しを持っていたこと
(4)条に「被申入人候 御朱印之事」「元親無二御味方に被参事候」とあり、信長の朱印状の存在が確認できます。ここからは次のようなことが分かります。
①元親による四国平定の戦いが信長の了解を得て行われていたこと
この時期の長宗我部元親は織田氏に臣従して行動していたこと
元親家臣らが元親と信長の関係が好ましいものと考えていたこと、


徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
阿波勝瑞城

この書簡が出された時期については『石谷家文書』の編者は、天正6(1578)年と推定しています。この史料で研究者が注目するのは、史料中に雑賀衆の勝瑞入城や織田方への雑賀衆制圧の要請など、先ほど見た長宗我部元親から秀吉宛の史料⑥とよく似た記述が何箇所かあることです。この時期になると、長宗我部氏の阿波攻勢に対し、三好氏側では雑賀衆などの反織田方勢力と合流して抗戦しようとする動きが出てきます。
 (3)条には「勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候」とあります。ここからは、讃岐国衆は長宗我部元親に遺恨もなく、抵抗意欲が低く、三好氏が抵抗を止めれば戦うことなく帰順すると考えていたことがうかがえます。以上から長宗我部氏にとっては、三好氏本拠の勝瑞城攻略が阿波・讃岐制圧の最大の目標となっていたことが分かります。その達成のために長宗我部氏は、三好氏と提携して戦う雑賀衆の制圧を期待したと研究者は考えています。

次の史料は、この時期の讃岐・阿波の国内情勢を示す長宗我部側の史料です。阿波攻略を担当した香宗我部親泰から桑名氏(長宗我部氏家臣)に宛てた天正8年の讃岐・阿波の情勢を述べた書状です。
【史料⑧】「香宗我部家文書」
猶以去廿四日 財田よりの御書も相届申候、去廿六日御書昨日三日到着、得其意存候、
一(1)隣国而々儀、悉色立俵相申趣、香中(香川信景)始証人等被相渡、其外之模様条々、無残方相聞申候、是非之儀更難申上候、十河一城之儀も如此候時者、可有如何候哉、家中者心底可被難揃と申事候、
(2)昨日此御書到来、即刻先(一宮)成相ハ乗物にて(那東郡)桑野迄被越候、所労儀もしかじかなく候へとも相進候、
(3)御屋形様(旧阿波守護家細川真之)御進発事、此上者不及用捨事候間、可致御供心得候、常々さへ御いそきの事候間、以外御いらての事候間其覚悟候、兎角無人体見所之儀も如何候へとも左候とてためろふへきニあらす候間、先乗野迄御供いたすへく候、但其方今御一左右可待申覚悟候、
(4)牟岐辺事、此刻調略事候、成相申談相越候、
(5大栗衆手遣事、急度可申遣事、去廿八日太栗衆此方者相加佐那河内不残放火候時者能打入候、恐々謹言、
              (香宗我部)香左       親泰(花押)
十二月四日
桑名殿ヘ
意訳変換しておくと
去る24日に財田からの御書が届き、26日の御書が昨日三日に到着した。その要点を述べておく。
一(1)讃岐隣国の情勢が不安定な中で、香中(香川信景)を始め国衆が人質を出してきた。しかし、その他の情勢は見通しが付かない。十河城についても、いつ落城させられるか見通しがたたない。家中の者たちも、困難な状況だと感じている。
(2)阿波から昨日届いた御書によると、長宗我部方の(一宮)成相が、途中の傷害もなく(那東郡)桑野までやってきたこと
(3)で、「御屋形様(旧阿波守護家細川真之)」の出陣の際には、桑野まで御供をする用意があること
(4)の「牟岐辺事、此刻調略事候」は、牟岐城主新開道善への調略のようで、これに一宮成相とともに当たること
(5条)で、「太粟(名西郡山分)衆」の軍事動員のこと
(1)は讃岐情勢で、香川信景が人質を出して以後、有力国衆も次々と従っているが、抵抗が激しい十河城をいつ墜とせるかは分からないとしています。同時に、讃岐の情報が財田に集められ、そこからまとめて長宗我部元親のもとに送られてきたことがうかがえます。財田は土佐軍の情報収集センターだったのかもしれません。
(3)からは長宗我部元親と「阿波御屋形(守護)」の細川真之が連携していたことが裏付けられます。(4)条は、(1)の「新聞道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心」への対応のようです。ここからはこの時期の長宗我部氏は、阿波南方の拠点は桑野(那東郡)であったことが分かります。史料⑧の年次は、内容から見て天正8年と研究者は判断します。

天正9年(1581)になると、織田信長が阿波・讃岐の経略に直接乗り出してきます。

具体的には、阿波三好氏一族の三好康長を阿波攻略の責任者として派遣したことです。京都馬揃の準備を命じた天正9年1月の織田信長朱印状写に「三好山城守(康長)、是ハ阿波へ遣候間、其用意可除候」と記されています。ここからは三好康長が阿波へ派遣される予定であったことが分かります。康長が四国にいつやって来たのかは、一次史料で確認できないようです。軍記ものには同年二月とする記事があります。以後、三好康長を取次として織田信長は、長宗我部氏の外交・軍事を担当した香宗我部親泰に書状を発給するようになります。そのひとつを見ておきましょう。
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候、猶以阿州面事、別而馳走専一候、猶三好(康長)山城守可申候也、謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
意訳変換しておくと
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔について、阿波平定について、別心なく誠意を持って勤めていることは珍重である。よって、阿波方面のことについて馳走を行う。なお今後は、三好(康長)山城守に従うように申し伝える。謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
史料⑨は、信長が長宗我部氏に対し三好式部少輔(美馬郡岩倉城主)を支援して阿波での馳走を伝えたものです。
【史料⑩】(「香宗我部家伝証文」)
爾来不申承候、乃就阿力初表之儀、従信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申す旨候、随而同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就公心劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎於我等可為珍重候、恐々謹言、
(天正九年)六月十四日            康慶(花押)
香宗我部安芸守(親泰)  殿御宿所
史料⑩は三好康慶(康長)の副状で、同族で若輩の式部少輔への「御指南」を依頼した内容です。ふたつの史料は織田信長の対長宗我部氏政策に関わる史料として、これまでは見られてきました。史料の年次比定は諸説ありますが 三好康長の阿波派遣の時期から考えて天正9年と研究者は判断します。
史料⑨については、次の3つの説があります。
A 長宗我部氏に対し、式部少輔を支援して阿波支配を行うよう指示したことは、それまでの信長の長宗我部氏に対する政策変更を意味する
B 阿波で苦戦する長宗我部氏を支援するため、信長は三好康長を派遣して同国を康長と長宗我部氏との共同戦線強化に乗り出した
C 三好康長が長宗我部方の同族式部少輔に目を付け、信長と康長が式部少輔への支援を長宗我部氏に命じることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入しようとした

このふたつの史料をどう評価するかについては、三好式部少輔をどのように捉えるかが問題となります。
「長宗我部元親」が、「岩倉城」城主「三好式部少輔」宛てに発給した書状
天正6年十月の長宗我部元親書状

天正6年十月の長宗我部元親書状(史料④)と併せて考えると、この時期に長宗我部氏が式部少輔と連携していたことは、史料⑨の「三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候」からも裏付けられます。三好式部少輔は、長宗我部方として行動し美馬郡内に一定の支配領域を持っていたことが推測できます。このことから、織田方が三好式部少輔に注目し、その支援を長宗我部氏に命ずることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入したとするC説を研究者はとります。
 長宗我部方に属した一宮成相と日和佐氏の間で交わされた文書を見ておきましょう。
日和佐権頭宛の一宮成相書状には「其表御在陣御辛労不及是非候」、「此方諸口無異儀候、可御心易候」とあます。ここからは一宮・日和佐両氏が連携して長宗我部方として軍事行動をしていたことがうかがえます。
  天正9年11月、羽柴秀吉は淡路へ出兵し、織田権力の支配領域を拡大します。
その経過については「信長公記」や(天正9年)11月20日付の羽柴秀吉書状から裏付けられます。この書状には、次のように記します。

淡州之儀十六日七日先勢差遣、十八日二我等令渡海、所々令放火、洲本(津名郡)迄押詰候(中略)
始安宅各令懇望候条、則人質等取置候て召直、野口孫五郎をも本之在所三原之古城普請等申付入置、一国平均五十三日之中二申付」

意訳変換しておくと

淡路については、16・17日に先陣が先勢が出陣し、18日に我等も淡路に渡海し、所々に放火しながら、洲本(津名郡)まで押詰った。(中略)
洲本の安宅氏を降し人質を取って配下に加え、野口孫五郎に三原之古城(志知城)の普請を申付けた。一国平均五十三日之中二申付」

ここからは秀吉が淡路侵攻し、洲本の安宅氏(神五郎)を服属させて、人質を取ったこと。また野口孫五郎(長宗)に「三原之古城」(志知城)の普請を命じたことが分かります。こうして淡路は羽柴勢によって平定され、織田信長のもとに置かれたと研究者は判断します。

淡路 志知城
羽柴秀吉の淡路制圧を踏まえ、織田信長側近(堺代官)の松井友閑が讃岐東部の安富筑後守・同又三郎に発給した書状を見ておきましょう。
【史料⑪】(「東京大学史料編纂所所蔵志岐家旧蔵文書」)
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就其阿・讃之儀、三好山城守(康長)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時二両国不残一着候様二可被仰付候、可被得其意之旨、惟可申届之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
                        宮内卿法印
            友感(花押)
(天正九年)十一月十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度の淡路についての平定戦は総て終了したので、隠す必要はなくなった。ついては阿波・讃岐について、三好山城守(康長)を担当責任人者に命じた。阿讃両国の国衆は残らずに、これに従うことを仰せつかった。(信長様の意向を)申届る之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
ここでは信長は淡路平定を終えた11月時点で阿波・讃岐両国の攻略を三好康長に仰せ付け、安富氏に
その加勢を命じています。これによって、織田信長は三好康長を阿讃両国経営の責任者とする制圧政策を進めたことが分かります。これは一方では、長宗我部元親の反感を招き、両者の対立が一層高まったことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年
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長宗我部元親の阿波侵攻1
ふたつの方向から阿波に侵入した長宗我部軍
戦国末期の阿波情勢 1573~76

天正3(1575)年に土佐国内を統一した長宗我部元親は、阿波に対して南部(海部郡)と西部(三好郡)の二方面から侵攻します。阿波南部への出兵時期に関しては、「元親記」に天正3年秋と記されています。しかし、現在一次史料で確認できるのは天正5年になるようです。長宗我部軍の阿波侵攻については、これまでも何回か見てきましたが、今回は一次史料で押さえておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 です。

日和佐城

この時期の阿波南方領主の動向を示す史料として、海部郡内の日和佐肥前守に宛てた長宗我部氏方の起請文があります。
【史料3】(「高知県立歴史民俗資料館所蔵旧浜家文書」)
今度当方帰参之儀、尤珍重存候、自今以後猶以忠節御覚悟専用候、然上者御進退等儀、不可有疎意候、若此旨於偽者、 弓矢八幡・愛宕山殊氏神可蒙御罰者也、傷起請文如件、
天正五(1577)年 十一月十七日           香宗我部安芸守  親泰(花押)
日和佐肥前守殿
同新次郎殿
この史料は、香宗我部親泰(元親の甥)が日和佐氏の長宗我部氏への「帰参」に際して、今後は忠信を誓うことを誓約させたした起請文です。親泰は海部郡内への侵攻後、攻略した海部城に入城し、周辺領主への調略を図っていたことがうかがえます。これが長宗我部の日和佐方面の軍事行動が最初に見える史料のようです。
 翌年9月には、長宗我部元親自らが日和佐肥前守に起請文を発給して同盟関係を強化しています。天正5年から翌年にかけて阿波南方における長宗我部氏の勢力範囲は、香宗我部親泰の指揮のもとに拡大したことが裏付けられます。調略が順調に進んだ背景には、天正4年に三好長治と対立して阿波南方へ出奔した旧阿波守護家細川真之の強力があったと研究者は考えています。長宗我部氏が反三好方の細川真之を何らか利用しようとした可能性はありますが、両者の連携を史料で裏付けることはできません。

白地城2
大西覚用の白地城
次に、長宗我部氏の阿波西部(上郡)への侵攻を見ていくことにします。
この方面では三好郡内の白地城の大西覚用との役割が重要です。しかし、彼に関する一次史料はほとんどないようです。ウキは大西覚用について、次のように記します。

大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。城主の覚用は、一族の大西頼包を人質として一旦は和議を結んだ。しかし、三好氏が織田氏に援軍を頼み長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、覚用は三好笑岩の求めに応じ、和議の条件を破り戦闘準備に取り掛かった。それを知った元親は、まずは阿波の三好軍を破り、続いて天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とすと、覚用は讃岐国麻城へ逃げ延びた。天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した
白地城と大西氏
三好郡の阿波大西氏

「元親記」には、次のように記します。
①天正四年に大西覚用は長宗我部氏の調略に内応するが、その後離反し、翌年長宗我部氏の大西攻めで覚用は讃岐の麻口城の近藤氏の元へ落ちのびた。
②一方、大西覚用の弟・上野守〔介〕頼包?)は、阿・讃・予州の境目で長宗我部氏に対し忠功を励んだ。
③その後、長宗我部氏が重清城(美馬郡)を攻略し、その際に岩倉城主三好式部少輔が降伏した
これらを、一次史料で見ておきましょう。
前回に見た史料「(天正5年)二月付大西覚用・同高森書状」には、前回に見たように毛利氏に対して接近し「隣国表(讃岐国)第一申合候」とあって、この時期に長宗我部氏の侵攻の気配を窺うことはできません。従って阿波西部への侵攻は、天正5年以後と考えられます。
次の史料は、長宗我部元親が三好式部少輔に宛てた書状です。
【史料④】(天正6(1578年)十月十三日長宗我部元親書状「長宮三式少 御宿所  一九親」

尚々虎口之様林具可示給候、脇上・太丹へも此由申度候、①先度至南方被示越即御報申候き敵動之事、②頓而引退之由御飛脚日上之間、乗野方之儀も堅固申付、為番手昨日打入候、③然者又自勝瑞十日二相動候由大西方注進候、ホ今居陣候欺、於事実者加勢之儀不可移時日候、⑤将亦大西之儀覚用下郡被取組之由候、⑥大左・同上此方無別義趣共候、乍去彼邊之事弥承究機遣緩有間敷候、⑦定而敵表之儀為指事雖不可在之候、御手前堅固御武略肝要候、猶追々可申入候、恐々謹言、
拾月十三日        元親(花押)
三式少御宿所

意訳変換しておくと
三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して10月13日に連絡をとった書簡
①返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②それを受けて10月12日に那東郡桑野についても堅岡に命じ、番手を配置した。
③10月10日には、勝瑞から岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
⑥「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑦虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。」
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)とされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。つまり、岩倉城は毛利方が握っていたことになります。内容としては、
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど
以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④「このような情勢のもとに元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6(1578)年と研究者は判断します。
以上からは、天正6(1578)年前後について、次のような事がうかがえます。
A この時期の長宗我部氏の勢力範囲が南部では那東郡桑野周辺まで、西部では三好・美馬両郡(上郡)に及んでいたこと
B これら地域で三好氏勢力と交戦状態にあったこと、
C 上郡では、大西氏(覚用を除く)をはじめ三好式部少輔、武田氏等が長宗我部氏に従属していたこと
 .次の史料は、岩倉表(美馬郡)での三好氏と長宗我部氏との合戦の様子を伝えるものです

岩倉城2
岩倉城(脇町)
【史料⑤】(「藩中古文書」穂出5郎右衛門蔵)    38P
今度於岩倉表不慮儀、不及是非□、渡辺源太差越候処、関二相帰国候、然者左右延引候、然処二従其方人数可被越之旨、従両所中被申越候、誠不始千今儀快然候、此表之儀、敵於相働者、以一戦可討果候、兎角其方ョリ馳走段、可為喜悦候、恐々謹言、
正月朔日              (三好存保)義賢判
穂出五郎右衛門尉殿
これは、三好義堅(存保)が紀伊雑賀衆の穂出氏に宛てた書状(写)です。この時期、三好氏と穂出氏などの紀州雑賀衆が「反信長」で団結して軍事行動していたことがうかがえます。この史料で研究者が注目するのは、「今度於岩倉表不慮儀」です。これは三好氏が岩倉表で長宗我部勢と戦い、敗退したことを示しています。
 この合戦については、同時期の麻植郡山間部領主の木屋平越前守に宛てた長宗我部元親書状にも「今度於岩倉被及一戦、彼表へ歴々無比類手柄共候」とあります。元親は従軍した木屋平氏の戦功を賞しています。これがいつだったかについては、「元親記」などから天正7年末~天正8年のことと研究者は考えています。ここからは三好氏の勢力範囲が、本拠地の勝瑞に向かって後退を続けていることが見えて来ます。
 この時期の長宗我部元親は、阿波国内への侵攻作戦と同時に、織田信長との関係強化を図ります。
(天正6年)十月の(A)織田信長書状写や(B)同年12月の長宗我部元親書状には、信長から元親嫡男弥三郎(信親)への偏諄授与のことが記されています。
(A)の信長書状写に「阿州面在陣尤候」
(B)の元親書状には「阿州之儀、調略不存由断候」
とあるので、長宗我部氏は織田信長との関係を強めながら、織田権力を背景に隣国への侵攻と調略を進めたことがうかがえます。この時期の三好氏は、国内で長宗我部勢と対戦する一方で、毛利氏らと大坂本願寺を支援して織田権力に対峙していたと研究者は判断します。
以上 1576年から77年までの阿波三好氏を取り囲む情勢を史料でみてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 

戦国末期の三好氏の動きは複雑で、きちんと一次史料を元に追いかけたものがなくて、なかなか見えて来ません。そんな中で、史料で基づいて戦国末期の三好氏を追った論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 
戦国末期の阿波三好氏についての研究史を次のように整理します。
A 藤田達生氏
織田・三好両氏の関係に着目して信長の東瀬戸内支配の推移を明らかにする中で、信長の三好氏に対する政策を信長の統一戦の観点から論じている。

B 天野忠幸氏
藤田氏の研究を批判的検討し、阿波三好氏の動向を分析しつつ、信長の四国政策を段階的に捉え、その変遷を信長の統一戦に位置づけた。さらに三好好長治・存保・神五郎兄弟(実休三子)の動向を跡づけて、織豊期の阿波三好氏の歴史的評価を行った。

C 中平景介氏
信長の四国政策を論じる際に三好存保ら阿波三好氏の動向が十分に整理されていないとして、三好存保の動向を追究して信長の四国政策の意味を捉え直した。

各氏の研究は、信長の統一戦とからめて三好氏を見ているところに共通点があります。一方、阿波三好氏については、当主の存保の捉え方にそれぞれ異なった見解があるようです。存保をどう評価するかが、阿波三好氏の歴史的評価と結びつくことを押さえておきます。

研究者が対象とするのは、次の9年間です。
A 天正4年(1576)末以後、阿波三好氏の当主長治が自害に追い込まれた年
B 天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国平定まで
この9年間を、次のような4つの視点で捉えようとします。
①長宗我部氏の侵攻とそれに対する阿波三好氏(当主存保)との攻防
②織田権力による統一戦と、対立勢力の毛利氏・大坂本願寺等との交戦
③「織田 対 毛利・本願寺」抗争の中で、三好氏もその対立抗争に巻き込まれたこと。
④信長亡き後、長宗我部氏の攻勢が強まる中で、三好氏が羽柴秀吉との関係をどうするか
渦巻く情勢の中で阿波国衆は、もはや三好氏一辺倒ではなくなっていきます。三好方か長宗我部方につくかの判断をそれぞれ求められ、異なった軍事行動を取るようになります。この時期になると、阿波国内は三好氏支配下に一元化されていたわけではないようです。阿波国の政治情勢は、中央権力の動向と密接に関係しつつ、阿波をめぐって複雑な様相を見せていたことを押さえておきます。

研究者は9年間を、さらに次のように3期に時期区分します。

戦国末期の三好氏時代区分表

A 第一期(天正9年1月以前)
三好長治没後、三好(十河)存保(長治弟で讃岐十河家を継承)が阿波に入国し、阿波三好氏の家督を継承したとされる天正6年の前年から、織田信長による三好康長の阿波派遣が史料に見える
B 第2期 天正10年9月頃まで
康長の阿波派遣から、三好存保が長宗我部氏に中富川の合戦で敗れ、讃岐に退去する
C第3期は 天正13年8月まで
中富川合戦以後、羽柴秀吉による四国平定が終結し、新国主蜂須賀家政が入封する

今回はAの時期を見ていくことにします。
三好(十河)存保入国前後の阿波の政治情勢      讃岐国元吉合戦と阿波三好・毛利両氏の関係
次の史料は、阿波西部の白地城城主・大西覚用が毛利氏と結んでいたことを示すものです。
【史料①】(「乃美文書」)
先度同名越前守以書状申入候之処、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宣者口上申候之条、可被成御尋候、恐々謹百、
(大西)覚用 (花押)
(大西)高森  (花押)
(天正五年)二月廿七日               
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
日羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿 まいる御宿所
  この書簡は、白地城の大西覚用とその息子の高森が毛利氏重臣の小早川隆景などに宛てたものです。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①足利義昭(備後国鞆に滞在)の入洛について、今村紀伊守と相談している
②その実施については「隣国表」(讃岐国)の情勢を第一に考えることを申し合わせているので不確定である。
③文面からは、これまでに両者の間に書状が交わされていたことがうかがえる
以上から、白地城の大西覚用が毛利氏と相談しながら足利義昭の入洛のための軍事行動の準備を進めていたことが分かります。かつて大西氏は、三好氏に従軍し讃岐西部へ侵攻を繰り返し、領地や利権を得ていたことわお話ししました。しかし、この時期は三好氏と毛利氏は備中をめぐって対立関係にありました。その毛利氏と大西覚用が緊密な関係を結んでいることを、どう理解すればいいのでしょうか? 三好氏の指導力が低下する中で、西讃への進出を計る大西覚用は毛利氏と結ぶという独自の外交政策をとって、三好氏から離反していたことが考えられます。

 翌年の元吉合戦の際にも、元吉城を攻めたのは丸亀平野以東の讃岐国衆と三好氏です。そこにも大西覚用や近藤氏の名前はありません。ここからも、大西覚用は三好氏の支配から脱して、「親毛利」という独自の歩みをはじめていたことが裏付けられます。このように天正4~5年にかけて、阿波国内の領主の中には大西覚用のように毛利氏と連携する動きがあったことを押さえておきます。

三好長治没後の天正5年(1577)間7月に、讃岐の元吉城(琴平町櫛梨)で三好氏配下の「讃岐惣国衆」と毛利勢との間で元吉合戦が戦われます。
この戦いは何度もお話ししたので、ここでは概略だけ押さえておきます。
 この時期の毛利氏は、石山本願寺支援のために信長との対立を深めていく時期です。天正4(1576)年7月に、村上水軍などの毛利配下の水軍は、紀伊雑賀衆と連携して木津川河口で織田方の水軍を破り、大坂本願寺に戦略物資を搬人することに成功します。こうした中で、毛利氏は三好氏勢力下の讃岐国に進出します。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

三好氏の家督を継承する三好存保がまだ阿波に入国していない時期です。
元吉合戦後の和睦について、小早川隆景は次のような文書を発給しています。
      【史料2】「厳島野坂文書」
追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)
(天正五年)十一月二十日             (小早川)隆景(花押)
棚守方近衛将監殿
同左近大夫殿御宿所
  この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと
②讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと
③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」とありました。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。

和睦成立後、三好氏は毛利氏と連携したようです。
天正6年2月のものとされる小早川隆景書状に次のように記します。

「播州衆現形二付而、諸警団至岩屋(淡路国津名郡)来上、阿・淡・雑賀。大坂申談及行候」

ここからは毛利方が「播州衆現形」(別所長治の挙兵?)に応じて、阿波・淡路・紀伊雑賀・大坂本願寺と連携した行動を取ろうとしていたことが分かります。このような中で三好氏は、元吉合戦後の毛利氏との和睦を経て、反織田戦線に加わったと研究者は判断します。

十河存保の阿波入国に際しては、毛利方の史料に次のように記します。

「阿州十川〔河〕所へ入国為祝儀使僧差渡可然之由、御内儀得其心候」

ここからは、毛利氏が十河存保が阿波に帰って三好を名のることになったことについて、祝儀として使僧を遣わしたことが分かります。ここからも元吉合戦の和睦後に、三好・毛利両氏の関係が良好になったことが裏付けられます。
ここで私が気になるのは香川氏のことです。天霧城退城後の香川氏について、次のように私は考えています。
天霧城落城後の香川氏

これについて、①②③④⑤については、史料的にも裏付けることができます。しかし、⑥についてはよく分かりません。
以上を整理しておきます。
①戦国末期の三好氏を取り巻く状況は、信長・毛利・長宗我部元親の動きに翻弄される。
②三好長慶や実休の死後、三好家は混乱・衰退期を迎える。
③そのような中で、白地城の大西覚用は三好氏から自立し、独自外交を行うようになる。
④それは讃岐への進出を計ろうとしていた毛利氏と結んで、讃岐方面への勢力拡大を図るものであった。
⑤そのため大西覚用は、毛利氏側に立った政策をとり、元吉合戦にも三好側には合力していない。
⑥元吉合戦の和睦後、毛利氏と三好氏は接近し、反信長戦線を形成した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」
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 前回は16世紀初頭の永世の錯乱後の安富氏の動きを次のように整理しました。
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた国元の安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まった。

今回は細川晴元失脚後の安富氏について見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」です。
安富氏は、三好長慶が細川晴元を追放したも晴元側についていたようです。しかし、讃岐東部で三好方と反三好方(晴元方)が軍事衝突したことは史料からは確認できません。時間をかけて、安富氏は三好氏の配下に置かれていったようです。
安富氏が反三好を貫き通すことが出来なかったのはどうしてでしょうか?
考えられることは、安富氏との直接的に利害対立していた十河一存と篠原氏の脅威が取り除かれたことです。十河一存は、弘治年間頃に一存の次男が和泉守護代松浦氏の養子となり、一存も和泉の岸和田城を本拠地とするようになります。つまり、脅威であった十河氏の勢力が東讃から消えたのです。
 もう一方の篠原氏について、以前に次のようにお話ししました。
①天霧城攻防戦の攻め手は、三好実休でなく三好氏の重臣篠原長房であったこと。
②時期は1558年ではなく、1563年であったこと(1558年は三好実休は畿内で転戦中)
③つまり、天霧城を攻め西讃岐守護代家香川氏を追放したのは篠原長房であること。
こうして讃岐西部は篠原長房の支配下に置かれるようになります。そして、篠原氏の管轄エリアが西讃エリアに限定され、東讃にその力を及ぼすことがなくなります。篠原氏の脅威もなくなったのです。こうして「一存の畿内転戦 + 篠原氏の西讃岐進出」=「東讃岐における安富氏との競合の一時凍結」という情勢を産み出したと研究者は推測します。これが安富氏が反三好を貫徹しなかった理由というのです。
次に三好氏の下で安富氏が果たした役割がうかがえる史料を見ておきましょう。
浦上宗景書状写「六車家文書」
猶々、当表任存分候ハヽ、向後対御方別而可遂馳走候、近来依無指題目不申入候、貴国静誰之由珍重候、就中当国之義、字喜多(直家)逆心令露顕、去春以来及矛盾候、手前之儀堅日之条毎々得勝利候、可御意安候、然者□々可預御入魂之旨申入候き、此時之条□□ノ覚と云一廉被不留候、□御賢慮所希候様外見合候、而全可遂一左右候、普伝(日門)上人無御等閑候由、委細可為御伝達候、恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
意訳変換しておくと
「浦上宗景書状写 六車家文書」
こちら備前では、抜かりなく対応をすすめており、近頃は大きな問題もありません。貴国讃岐も平穏に治まっており喜ばしいことです。当国については、字喜多(直家)が逆心を露わにして昨年の春以来、小競り合いが続いています。しかし、これについても我が方が優勢であり、心配をおかけするような情勢ではありません。
   もし、「当表」を任せてもらえれば、こちら(浦上氏)からも「馳走」させていただきます。また、私は普伝(日門)上人と懇意にさせていただいています。その旨を取り次いでいただけるようお願いします。恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
これは備前の浦上宗景から安富筑後守に宛てられた書状です。年紀がありませんが宇喜多直家が宗景から離反し、春以来交戦しているという状況から、天正3(1575)年と研究者は判断します。

 浦上宗景は元亀年間に三好氏と同盟関係にあり、その支援を受けていたことが史料から分かります。宗景が「馳走」するとする「御方」は三好氏を指すのでしょう。この史料が「三好=浦上同盟」の延長上に位置することが分かります。そこに安富氏の名前が出てきます。安富氏が浦上氏を三好氏に取り次ぐ役割を果たしています。安富氏が重要なポジションにあったことが裏付けられます。

文書の最後に、宗景は「普伝上人=普伝院日門」と親しいことを三好氏に伝えるように依頼しています。
日門は、三好実休などの阿波三好家が帰依した日班と交流がある僧侶で、堺の講会にも参加しています。ここからは、日門も三好氏と交流があったことが推測できます。三好・浦上間の交渉に日門が登場することは法華宗の流通ネットワークが利用されていたことを示す物です。前回見たように港湾都市宇多津の管理権を握っていたのは安富氏でした。そして、特権を与えていた日蓮宗本妙寺は日班が属する法華宗日隆門流の寺院でした。日隆のネットワークの中に宇多津や安富氏が組み込まれていたことがうかがえます。ここでは、安富氏は三好氏に属しながら、三好氏と同盟する周辺勢力との交渉に関係していたことを押さえておきます。

安富氏と三好氏の関係は、もうひとつの史料で見ておきましょう。

【史料七】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事、肝要候、恐々謹言、
                   彦次郎 (三好) 長治(花押)
十月十七日     
安筑(安富)進之候
この文書も年紀がありませんが「戦国遺文三好氏編」では、天正3年(1575)とします。
三好長治は「篠原上野介・高畠越後知行」の棟別銭がかけられたことについて、こちらからは異議がないので従来通りにするよう安富筑後守に伝えています。筑後守が棟別銭をかけるのを認めたのでしょう。ここに出てくる篠原上野介と高島越後(越後守?)についてはよく分かりません。ただ両人の名字は阿波国人のもので、篠原名字なので、元亀4年(1573)の篠原長房減亡後、篠原氏が讃岐に持っていた権益が安富氏に与えられた可能性があります。どちらにしても、阿波三好家の当主が安富氏に権益を認めている内容です。ここからは両者には主従関係があったことが裏付けられます。

こうして見ると三好長治の時期にも、安富氏は三好氏に従っていたことが分かります。この年・天正元年(1573)には、畿内の三好本宗家が織田氏によって減ぼされます。その結果、2年後には阿波三好家重臣として河内で抵抗していた三好康長(康慶)も織田氏に属服し、その家臣となります。それでもなお安富氏が三好氏に従い続けたことになります。
その理由として、研究者が指摘するのは反三好勢力による香川氏への支援があったことです。
先ほど見たように1563年に天霧城を拠点とする香川氏は、篠原篠原長房によって攻め落とされます。そのため毛利氏を頼って、安芸に亡命中だったようです。その香川氏の讃岐帰国運動を、細川京兆家の当主・信良(晴元の子)は後援し、讃岐国東六郡を宛行っています。信良は実質的な支配力を持っていたわけではないので、この領知宛行は空手形です。しかし、東六郡に勢力を持つ国人たちとっては、香川氏の復帰を後押しする「毛利=細川京兆家=信長」は、仮想敵国と見えます。そのため安富氏ら東讃岐の国人は三好氏に従う以外に選択肢がなかったようです。また以前にお話したように、安富氏は三好氏の重臣・伊沢氏と縁戚関係がありました。こうした関係性が三好氏配下に留まり続けた理由と研究者は考えています。

以上を整理しておきます
①讃岐に侵攻する阿波三好勢力に、当初は安富氏は抵抗したが、最終的には三好氏に属した。
②その背景には、十河一在や篠原長房の脅威がなくなり、安富氏の権益を三好氏が容認したこと。
③三好氏の配下として、畿内や吉備に関わり、利益を得るようになったこと
④その結果、安富氏が三好氏の軍事行動にどう関与したのかはよく分からないが、三好長治が横死するまで三好氏に属し続けた。
⑤香川氏の西讃帰国運動を支援する毛利氏や細川京兆家や信長などは仮想敵国と受け取られた。
⑤そうなると、頼れるのは隣国の三好氏以外に選択肢が無かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号

戦国時代の讃岐ついては、過去の研究の多くは近世に書かれた軍記物に頼ってきました。しかし、南海通記などの信頼性が失われる中で、一次史料による新たな記述が求められるようになっています。そんな中で、西讃守護代の香川氏については秋山文書などの発掘で、その解明が進み新たな実像が見え始めました。今回は、東讃守護代の安富氏を一次資料で追いかている論文を見つけましたので紹介したいと思います。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

永世の錯乱3
永世の錯乱(1507年)


永正4年(1507)に、細川京兆家の当主政元が、家臣の香西氏によって暗殺されます。これを契機に「永世の錯乱」と呼ばれる権力闘争が細川家内部で開始されます。その余波として、阿波の細川氏が讃岐に侵入し、讃岐はいち早く戦国時代に突入することは以前にお話ししました。この動乱の中に安富氏もたたき込まれていきます。
 当時の安富氏の動きを系図化して見ておきましょう。

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安富氏の系図(一次史料によるもの)
ず安富氏の系図をみながら当主たちを追いかけて見ます。
①の安富元家は細川京兆家の筆頭内衆で、東讃岐守護代でもありました。
政元が「天狗道」に執着して政治に関心を失う中で、京兆家を主導することもあったので、その地位は高かったようです。しかし、文亀三年(1503)8月安富元家は内衆の制御を図る細川政元によって失脚させられ、翌年七月末に死去してしまいます。元家の東讃岐守護代の地位は、廃嫡されていた②長男元治(又二郎)が継承します。ところが元治も、永正元年(1504)9月、摂津守護代薬師寺元一の反乱の中で戦死します。その後は、元治の弟と思われる③安富元顕(新兵衛尉)が東讃岐守護代となります。しかし、これも永正4(1507)年に細川政元が暗殺されると、元顕は細川澄之に与して動き、澄之とともに討たれてしまいます。
 次に登場するのが永正6(1509)には高国方として④安富元運(又三郎)が確認できます。元運は世代や仮名から元治の遺児である可能性があると研究者は考えています。細川高国が澄元を畿内から追うと、高国は守護代クラスの被官を重臣とする体制の復古に動きます。そこに起用されるのが⑤安富元成(又三郎、元運と同一人物?))です。こうして、元成によって、守護代家としての安富氏は復活します。ところが国元の讃岐には、阿波から澄元方の影響力が及び、元成の東讃岐守護代は実質を伴わなくなったようです。元成は永正11(1514)までに出奔していまいます。
 高国は大永三(1513)に嫡男植国付きとして安富又二郎を配して、守護代家安富氏の復活を図ります。ところが、植国が大永5(1525)年に亡くなると、又二郎は出家してしまいます。こうして、守護代家安富氏の復権は挫折します。なお、守護代家・安富氏の傍流として安富家綱が高国に近臣として仕えています。そして、高国方に見える安富氏は享禄3年(1530)七月の安宮(安富)家綱の後継者と思しい又次郎の戦死を最後に確認できなくなります。つまり、在京の安富氏は永世の錯乱に飲み込まれて姿を消して行ったようです。

永世の錯乱抗争図3
一方、澄元・晴元方についた安富氏を見ておきましょう。
永世17(1520)、三好之長が細川高国と戦った「等持院の戦い」では、三好方に「安富」の名前が見えます。この安富氏は香川氏と並列されているので、澄元によって東讃岐守護代家に立てられたものと研究者は推測します。
澄九・晴元と高国の京兆家をめぐる争いは、結果として細川家の弱体化を招きます。そのような中で、大永7(1527)、高国から離反した波多野几清・柳本賢治兄弟が晴元と結び、高国を破って京都から追放します。高国はその後は京都を奪還できないまま、享禄4年(1531)に敗死します。このような中で、大永7(1527)年以降に晴元方の安富氏が畿内に出陣したかどうかは分かりません。讃岐在国の安宮氏は、晴元方の安富氏のようです。
なお、安富元家は通称を又二郎、新兵衛尉、筑後守と変化させたいます。
これについて川口成人氏は、この通称を仮名の又二郎は安芸守家のもので、受領名の筑後守は筑後守家のものと推定します。元家の父元綱は安芸守家から筑後守家へ養子に入ったため、元家の通称は安芸守家の仮名から比後守家の受領名へ推移するものとなったとします。そして、元家以降は、又三郎が守護代家の正嫡の仮名として定着していきます。守護代家としての安富氏が分裂しても、元家の通称がその正統性を示すものととされていたようです。
 ここでは、安富元家以降、永世の錯乱で両細川が争う中で、安富氏も在京する高国方と讃岐に在国する澄元・晴元方に分裂していったことを押さえておきます。

在京する安富氏は、高い家格を期待されていました。
しかし、国元の讃岐に影響力を及すことはできなかったようです。そのため軍事動員力が機能せず、その地位は安定しません。やがて、高国やその残党の中から安富氏は姿を消します。細川晴元が優位になるにつれて、安富氏の嫡流は晴元方に一元化されたと研究者は考えています。

安富氏が備讃瀬戸の重要港湾都市の支配権を握っていたことを示す文書を見ておきましょう。

【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相違状如件
享禄二(1529)正月二十六日     元安(花押)
宇多津法花堂

【史料2】安富政保奉書「本妙寺文書」
当寺々中諸課役事、元保任御免除之旨、得其意候者也、乃状如件、
享禄二年七月二日        安富左京進  政保(花押)
宇多津 法花堂
史料1は享禄二年(1529)に、安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役を免除したものです。
研究者が注目するのは諸役免除特権が書下形式で発給されていることです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。安富元保は自分の判断で諸役免除を行っています。宇多津は、この時期には安富氏が管理権を行使していたことがここからは分かります。

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              日隆像(宇多津の本妙寺)
 細川晴元の「堺幕府」樹立の背景には、日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れ利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」を構想していたと考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして自己の影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもありました。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったというのです。三好長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。そのサテライト拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。

史料2は、史料1の「元保書下」を受けて発給された奉書です。
ここに登場するのが「安富左京進政保」です。この人物は、長禄4年(1460)に「安富左京亮盛保」が在国の小守護代として確認できるので、政保は盛保の子孫の可能性があります。元保などの在京の安富氏は、畿内の晴元権力の意思決定には関わることができない存在で、在国の「安富左京進  政保」が国元を動かしていたと研究者は考えています。

本門寺の保護者が安富氏から篠原氏に替わったことを示す文書を見ておきましょう。
【史料三】篠原盛家書状「本妙寺文書」
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富吉筑後守(元保)如折紙、拙者其津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
                    篠原雅楽助  盛家(花押)
天文十(1582)年七月十七日     
字多津法花堂鳳風山本妙寺
          多宝坊
宇多津を支配することになった阿波の篠原盛家が「安富古筑後守(元保)」の折紙を先例として、本妙寺の諸役免除特権を認めています。「安富古筑後守」の折紙とは【史料1】のことでしょう。篠原盛家は本妙寺の諸役免除特権を引き続き認めていますが、これは安富氏の先例を継承するものです。「史料2」も書状形式なので公的な権限に基づくものではありません。
 篠原盛家は阿波守護家の被官で三好氏と深いつながりを持っていました。「右京進」や「大和守」を名乗る篠原氏嫡流と盛家の関係はよく分かりません。しかし天文8年(1529)9月には篠原右京進と盛家が阿波守護家細川持隆の使者となって働いています。ここからは、篠原家の嫡流に近い位置にあったことがうかがえます。またこの文書からは、阿波守護家の被官である盛家が宇多津に進出してきたことが分かります。これは、安富氏にとっては宇多津の伝統的な権益を奪われたことを意味します。安富氏の管轄エリアに三好氏と縁深い篠原氏が進出してきたことは、三好氏への警戒意識を抱かせることになったと研究者は推測します。



【史料4】細川晴元書状「服部玄三郎氏所蔵文書」
去月二十七日砥十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知仔細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及是非候、所詮退治事、成下知上者、安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、恐々、
八月十八日    (細川)晴元 (花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
 意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
 宛先人となっている殖田次郎左衛門尉については、よく分かりませんが「山田郡殖田郷」を名字とする国人のようです。
三好長慶と十河氏
三好長慶を支えた弟たち
十河一存は、三好長慶の末弟で讃岐国人十河氏を継いだ人物であることは以前にお話ししました。彼は天文17年(1548)を初見として民部大夫を称するようになります。仮名の孫六郎と書かれてるのでこの文書は、それ以前のものと研究者は判断します。一存が十河城を奪った契機やこの事件がいかにして解決されたかは、史料がないため分かりません。ただ分かるのは、これ以前は十河城は十河一存のものではなかったことです。
一存が十河氏の養子となり相続したという説に疑問符がともります。
【史料4】からは、十河一存の横暴に対して、細川京兆家から命令を受けて対応に当たっているのは安富氏だったことが分かります。
晴元の時代になっても細川京兆家が東讃岐の国人を軍事動員するのは、安富氏が担当していたのです。これは安富氏が東讃岐守護代の地位を細川晴元から認められていたことを裏付ける史料です。その後も十河一存は、細川京兆家のコントロールから離れ、兄の三好長慶側について動くようになります。それを安富氏は次第に制御できなくなります。

細川晴元・三好氏分国図1548年

     【史料5】細川晴元書状写「六事家文書」
為当国調差下十河左介候之処、別而依入魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯考入道(宗轍)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月十二日    (細川)晴元  (花押影)
安富又三郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、その方が懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属したので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。

【史料5】については「香川叢書』や「香川県史」は「摂州表之儀過半属本意」に注目して、大永7(1527)年のこととします。しかし、研究者は次の点に注目して異論をだします。
①波々伯部宗徹、田井長次ともに晴元の奉行人であること。
②波々伯部宗徹(元継)が伯守を称し始めるのは天文17(1548)年8月以降であること
以上から、この文書は晴元が三好長慶に敗れ没落する江口の戦い以降の文書とします。

三好長慶の戦い

ここで十河左介が晴元側について活動していることに研究者は注目します。十河左介は十河一存の一族でしょう。江口の戦い後になっても、十河左介は細川晴元に従う武将として三好方と戦い続けていることになります。さらに、安富氏も江口の戦い後も晴元側について動いていたことが裏付けられます。

江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

そのような中で1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。
そして
長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味すると研究者は判断します。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。これも阿波と讃岐の軍勢が一体化を示す動きです。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていく姿が見えます。
以上をまとめておきます
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まり、しだいに反三好勢力となっていった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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