瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐中世史 > 神谷神社

前回に続いて、神谷神社本殿を支えてきた人々の近世編になります。

神谷神社の香西氏連歌会

15世紀末に香西氏が神谷神社神前で、一族や幕下の羽床・滝宮氏などを集めて団結誇示のために法楽連歌会を開いていたことを前回お話しました。そこからは当時の阿野北平野が香西氏のテリトリーであったことがうかがえるとしました。その連歌会の30年ほど前に行われた本殿改修の棟札(写)が伝えられています。
神谷神社 1460年の棟札
神谷神社寛正元(1460)年の棟札(写)

①一番右側の吉兆の言葉の下に寛正元(1460)年の年紀が見えます。応仁の乱の少し前です。
②建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。③真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは、当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。④その下に来るのが改修総責任者の名前です。「遷宇行者神主松元式部三代孫松元惣左衛門正重」とあるので、総責任者を松本式部の3代後の孫が務めていたことになります。これは三代前から社司が松元氏によって「世襲化」されつつあったことを示しています。以後、神谷神社は近世を通じて松元(本)氏が社司を務めます。
 この棟札で問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。
「河埜氏」は阿刀氏と同族で、物部氏を祖先とするので、このように記されたと近世の史書は記します。阿刀氏は空海の母親の出身氏族です。つまり空海の母親の実家が勧進したということになります。しかし、これには無理があります。阿刀氏は畿内泉州を本貫とする中央貴族であることは以前にお話ししました。讃岐にいた記録はありません。この棟札の裏書については「江戸時代になって弘法大師伝説が広まる中で作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札の記載内容は、信じることができるようです。


神谷神社棟札1540年

神谷神社 天文九(1540)年の棟札

   地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。ここでも松元氏が筆頭者になっています。松元氏は社司であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。そして奉行(勧進責任者)として、蓮歳坊ともう一名の名前が見えます。ここからは、社司以外にも社僧が何人かいて、彼らの勧進活動によって遷宮(葺替え修復)が行われていたことが分かります。

神谷神社江戸時代の棟札

       永禄11(1568)年の棟札は、本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに遷宮(葺き替え)が行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。
以上のように残された棟札からは、次のようなことが読み取れます。
①中世は、荘官や政所などの個人によって、檜皮葺の屋根の葺き替え工事が行われていた
②それは社僧達(勧進聖)たちの勧進活動によっても賄われていたこと
③それが近世になると村人達が氏子となって、改修修理を担うようになっていたこと
④それをまとめ上げていたのが社司の松元氏であった。
それでは社司の松元家をも少し見ていくことにします。

神谷神社 讃岐国名勝図会1

讃岐国名勝図会(1854年 約170年前)に描かれた「神谷神社」周辺です。
①流れ落ちる神谷川 その川に沿って真っ直ぐに続く松並木の参道
②その上に神谷神社があります。(神社と表記されていることを押さえておきます。神社の背後の三重塔はありません。
③別当寺の青竜(立)寺は現在地に移っています。
④青竜寺の前には三好氏の大きな屋敷があります。
さて、右側の神谷神社周辺を拡大して見ておきましょう。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
 
ここで目が引かれるのは、社司松本(元)家の屋敷です。神社の下側に隣接して大きな門構えです。その下に民家が密集しています。この松元家が15世紀の半ばから近代に至るまで、社司を務めたことになります。もうひとつ気がつくには、神社の周りには仏教的性格の建物がなくなっていることです。ここからは神谷明神では、近世の早い時期に松元氏によって「神仏分離」が行われたことがうかがえます。そして、別当寺は現在地に下りていったようです。その経過については、今の私には分かりません。どちらにしても江戸時代の神谷神社の管理権を握っていたのは社司の松元家であったことを押さえておきます。
 私が気になるのは、鳥居は2つ描かれていますが玉垣や狛犬はないことです。玉垣や狛犬などの石造物は、いつ頃奉納されたのでしょうか?

神谷神社 手水 玉垣

手水石(ちょうず)には「天保9(1838)年」と見えます。約190年前のものになります。その奥に見える玉垣は、明治28(1895)年ですから日清戦争の戦勝祝いとして奉納されたようです。

神谷神社 鳥居・狛犬

 二の鳥居は、嘉永2(1849)年で約170年前、狛犬は1864年で、160年前です。

神谷神社 石造物一覧

神谷神社の石造物を年代順に並べたものです。これを見ると、石造物が設置されるようになるのは19世紀になってからだということが分かります。約190年前頃から境内は整備され、現在の原型ができたようです。これは金毘羅さんの整備状況から見てもうなづけることです。金毘羅の参道は、石段と石畳に玉垣、そして燈籠と石造物で埋め尽くされ白く輝くようになり、その姿が一新するのは19世紀前半のことです。その姿を周辺の寺院も真似るようになります。この時期、村人達は隣の村の神社と競い合うように石造物を次々と奉納し、伽藍は整備されていきます。ちなみに本殿や拝殿などの建築物の新築・改修などには、髙松藩の許可が必要でした。髙松藩は新築や増築工事をなかなか認めません。従来通りの改修が認められるだけでした。そのため氏子達は石造物の寄進という方法に自然と進んでいきます。

近世の村社

天保10年4月5日にと神谷村の庄屋・久馬太から髙松藩に願い出た文書です。
神谷神社と市と芝居

ここでは4月6日の神谷明神祭礼で市と芝居興行を行うことを、その前日に神谷村の庄屋が願いでています。その経費は氏子からの持ち寄りで賄い、村入目(公的財源)は使わないと記されています。費用がどこから出されるかを藩は主にチェックしていたようです。また前日に出すのは、藩からの口出しを免れる意図もあったようです。こうしてみると19世紀半ばの神谷明神は、信仰だけでなく人々の娯楽や交流の場としても機能していたことが分かります。市や芝居小屋が建つためには、広い参道や神前の広場が必要です。それらが整備されれば鳥居や手水石・燈籠などが寄進されます。そんな風に幕末の整備は進んだと私は考えています。
神谷神社の中世から近世への担い手の移りかわりをまとめておきます。
①中世は、荘司や政所と脇坊の寄進と僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていた
②それが近世になると、社司松元氏とと「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになった。
③19世紀になると、地域の人達が氏子となって積極的に境内整備を行うようになった
④その背景には、信仰の場としてだけでなく、市や芝居・見世物などのレクレーションの場としても神社が活用されてきたからである。
⑤それが明治以後、神仏分離と国家神道によって信仰の場だけに役割が純化・制限されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

坂出市の文化財保護協会の神谷神社見学会の後で、お話ししたことをアップしておきます。

中世の神谷神社1

白峯寺にある白峰寺古図です。白峰寺の中世の様子を江戸時代になって、洞林院が描かせたものとされています。そのため栄華が誇張されていて、事実を伝えるものではないと思われてきました。その評価大きく変わったのは最近のことです。発掘調査が行われた結果、三重塔が描かれている本堂横と別所跡から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えるようになっています。中世の神谷明神が置かれた環境を、この絵図から情報が読み取りながら見ていきたいと思います。最初に全体的な絵解きをしておきます。神谷神社がどこにあるか分かりますか?。

中世の白峰寺古図

 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと  海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れ落ちる。断崖の上に展開する伽藍が霊山としてデフォルメされています。①まず注目したいのは、白峯山です。ここには権現とあります。修験者たちが開いた霊山が権現と呼ばれます。②ここに別所があります。奥の院への入口あたりです。別所は、修験者や聖・僧兵たちの拠点となったところです。③ここが崇徳上皇陵です。中世には修験者の天狗信仰と結びつきます。④本堂と別所の間に、洞林院があります。それ以外にも多くの子院が描かれています。中世の白峰寺というのは、このような子院の連合体で運営されていました。④注目したいのは三重塔が3つ描かれています。神谷神社にも三重塔が描かれています。比叡山で云えば山上の大伽藍に対して、麓にいくつもの里の宗教施設をもっていました。中世の神谷明神も、白峰寺勢力を取り巻くサテライト寺院のひとつであったことを押さえておきます。見方を変えて云えば、ここに描かれている範囲が白峰寺の宗教的テリトリーであったとも考えられます。
神谷神社を拡大して見ていくことにします。

白峰寺古図の神谷明神
 
ここに「神谷明神」と書かれています。ここからは白峰寺の大門(現在の展望台)に向けて道が伸びています。神谷明神は白峰寺への入口でもあったことが分かります。
神谷の谷にいくつかの建物が描かれています。
①が一番奥の三重塔です。白峰寺の本堂横・別所にも三重塔は描かれていました。その存在が発掘調査で確かめれています。とすれば、ここにも三重塔があった可能性が高いと研究者は考えています。②が本堂でしょうか。しかし、妻入り社殿のようにも見えます。③が僧坊のようです。どちらにしても、ここからは中世には清瀧寺という神宮寺(別当寺)が神谷明神を管理していたという言い伝えが裏付けられます。ここで注目したいのが④の随身門です。これが随身門なら随身様がここにはいたはずです。
宝物庫には鎌倉時代作とされる随身立像があります。それを見ておきましょう。

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宝物庫前の随身像の説明版
神谷神社の随身さん

神谷神社の宝物庫の随身立像です。
 鎌倉時代中期の13世紀の作品とされ、全国でも記銘がある中では二番目に古い随身さんです。それを裏付けるかのように、次のような古風な要素を持ちます。
① 床几に坐る形式の随身像が多いが、立っている。
② 両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。様式化される前のタイプ。
③ かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。
④ これと同じ造りの随身さんが高屋神社にもある。
ここからは、随身さんや仏像などの職人集団が白峰寺の周辺にはいた可能性もうかがえます。また、この随身立像は、先ほどの絵図に描かれていた随身門に納められていたものかもしれません。また鎌倉時代の作とされる木造狛犬1対もあります。こうして見ると本堂が姿を現した13世紀初頭以後に、神谷明神が整備されていったことがうかがえます。この随身様の他にも、別当寺青竜寺の本尊とされる仏さまが伝わっています。

青竜寺本尊 阿弥陀如来立像

現在の青龍(立)の本尊「木造阿弥陀如来立像」(県文化)です。
ヒノキの寄木造、像高99cmで、胸部内側に墨書銘があって、「1270(文永7)年に僧長円が両親の極楽往生を願って造立した」とあります。とすると神谷神社本社が建立されて、約半世紀後の造られた阿弥陀仏になります。「讃岐国名勝図会」には、上図のように記します。これによるともともとは、神谷神社(五社明神)の別当寺清龍寺の本尊であったたものが、中世に寺が退転した後、現在地に下りて青竜寺の本尊として迎えられたようです。中世の別当寺の本尊が阿弥陀如来であったというのは興味深いところです。ここからはこの寺が阿弥陀浄土信仰の拠点として、高野聖などの念仏聖たちがいたことがうかがえます。
神谷神社には、中世の舞楽面が2つ伝えられています。

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神谷神社の舞楽面
神谷神社の舞楽面
 ひとつは抜頭面で、父親をかみ殺した猛獣と格闘し、勝利して喜ぶ様を演じた舞に使用されたものです。もうひとつは還城楽面(げんじょうらく)で、西域の胡人の姿に扮して朱の仮面をつけ、桴(ばち)を持ち、捕らえた蛇を食うさまを模した舞に使われるものです。ちなみに、讃岐で舞踊が奉納されていた記録が残るのは、善通寺と観音寺だけです。これらに比べると、各段に小規模な神谷明神に舞楽面が残されていることをどう考えればいいのでしょうか?
 それを解くヒントは、神谷集落に残る額(楽)屋敷という地名です。楽屋敷は、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。ここからは神谷集落の舞楽集団は、白峯寺の「楽所」として、白峯寺に舞楽を奉納していたことが考えられます。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さが見えて来ます。

神谷神社には、香西氏が「法楽連歌会」を神前で開いて奉納した記録があります。

神谷神社の香西氏連歌会

「神谷神社法楽連歌一巻」(神谷神社蔵)は、明応5年(1496)2月22日に神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。時代は応仁の乱の後の15世紀末で、この時期の香西氏は、管領細川政元の右腕として栄華の絶頂期にあった頃です。香西氏が率いる讃岐武士達が京都の政治動向を左右していたのです。
作者の香西元資は細川勝元の家臣で、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちに勧進して法楽連歌が行われたようです。連衆として、宗堅、宗高、元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
 神谷神社神前で開いた連歌会には、香西氏一族だけでなく、守護代の安富氏や有力武士や社僧・神官など29人が参加しています。明智光秀が本能寺の信長を襲う前にも連歌会を開いて、身内の団結と戦勝を願っています。 法楽連歌は、歌の内容如何にかかわらず、神仏に対する祈願を籠め、参加者の統合を保証するものでした。地縁・血縁等で結ばれた領主の連合=国人一揆は、公方や守護の圧力に対抗するために開かれたりもします。 
室町時代には連歌は武士の必須教養とされるようになります。
複数の者が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸で、コミュニテイ形成のツールでした。円滑な社会秩序の安定には価値観や情報の共有を図ることが不可欠です。連歌会は参加者同士の新たな人間関係を生み出します。連帯感や同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認し合う場でもありました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なこととされました。この連歌会を運営するにはプロの連歌師を京から呼ぶ必要がありますた。在京が長かった香西氏や安富氏に招かれて来讃する連歌師・猿楽師等がいたようです。彼らが逗留し活動拠点になったのが白峰寺だったのかもしれません。

連歌会を行うのは、自分が保護し、伽藍を整備した寺社が選ばれます。そういう意味からすると、神谷神社が香西氏の勢力下にあり、保護を受けていたことがうかがえます。また神谷明神は、讃岐武士団の団結を誓う場として機能していたことになります。それだけの規模設備があったのでしょう。香西氏は、一族や有力国衆を神谷神社の法楽連歌会に結集して、政治的・宗教的な人的ネットワークをより強固なものにしていたことを押さえておきます。

もうひとつ、神谷神社に残る中世的要素を見ておきましょう。鎌倉時代後期の層塔です。
神谷神社の層塔
           神谷神社の層塔と白峰寺十三重石塔
玄武岩ではなく凝灰岩の層塔なので、天霧産と思われます。これも別当寺の青竜寺に寄進されたのものでしょう。白峰寺十三石塔とよく似ています。もともとは十三重の塔だったのかも知れません。層塔を布教拡大のモニュメントとして使ったのが奈良の西大寺です。西大寺は天皇より各国の国分寺の再興を命じられ、瀬戸内海で活発な活動を展開します。讃岐国分寺再興や白峰寺に十三重塔が姿を現すのと同じ時期になります。これは律宗勢力伸張の痕跡とされます。そのような動きの中で、建立されたのがこの層塔ではないかと私は考えています。石造物にも、白峰寺のサテライト的な性格が見られることをここでは押さえておきます。
以上、中世の神谷明神を取り巻く環境をまとめておくと次の通りです。

中世の神谷明神と別当青竜寺

次回は近世の神谷神社について見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P
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坂出市の文化財協会の神谷神社本殿の修理保存見学会に行ってきました。

P1280461

最初に宮司の中尾格さんから今回の落雷被災の経過からクラウドファンデイング(CF)に至る経過について、次のようなお話しをうかがいました。
神谷神社 本殿2
          国宝 神谷神社 三間社流造 (1219年の墨書棟木あり)

神谷神社 屋根上部にあった箱棟
神谷神社 落雷した北側(左側)の千木
①2022年9月27日 正午頃に千木に落雷(避雷針なし)。千木を通じて屋根内部で火災発生し、風の影響か東側(右側)に火元が移動。そのため右側の方が激しく焼けている。

神谷神社 火災5

②消火施設は落雷のため機能せず。燃えているのが屋根内側のため放水しても効果なし。御神体を遷した後、檜皮葺屋根をはがして消火活動再開。
③消防士が消火活動を再開し、延焼を屋根部分に限定できた結果、16:30分頃鎮火
④屋根部分だけの被災にとどめることができたために、国宝指定解除にはならず。
④復興費用については、国宝なので国と県の補助金が下りるが、地元負担も1000万円を超える。

神谷神社 クラウドファン

⑤氏子140軒で年金生活者が多い現状では困難。そこで宮司の娘さんの提案でクラウドファンデイングを実施。
神谷神社 クラウドファティーグ

⑥最初は危ぶんでいたが、蓋を開けてみると開始して3ヶ月後には目標額に到達。結局、倍の2000万円が集まった。
神谷神社 工事計画日程
神谷神社本殿 工事計画 2025年夏の完成予定
⑦資金目処を得て、約1年後の2023年10月に工事開始。今年の秋の完成を目指している。
以上のようなお話しでした。
このあと参加者全員がヘルメットを被って工事現場に案内していただき見学しました。

案内していただく前に、神谷神社本殿がどうして国宝に指定されているかを見ておきましょう。

流れ造と神明造り


神社様式で最も古いのは神明造りです。伊勢神宮正殿が原形とされます。その特徴は、本を伏せたような切妻造(きりづまづくり)の屋根、屋根の端に飛び出た板・千木(ちぎ)、棟の上の丸太・鰹木(かつおぎ)などです。
 これに対して、新しく登場してくるのが流造りです。この特徴は、
正面側の屋根を長く伸ばした優美なな曲線美です。これはそれまでの直線的な外観の神明造と見た目に大きく異なる姿です。ここでは、流造りというのは、古代末から中世初頭に新しく登場してきた神社モデルであることを押さえておきます。それでは、代表的な三間社流造りの圓城寺新羅堂と神谷神社を比べてみなす。

神谷神社と圓城寺新羅堂

新羅善神堂(国宝)は、讃岐出身の円珍(智証大師)の創建した寺院です。その守護神が奉られているのが新羅堂で。両者はよく似ていていますが、相違点を挙げると次のような点です。

神谷神社の方が屋根の反りが強い。

②神谷神社は乱積み石垣の基壇の上に載っている。

③神谷神社は、扉口が真ん中だけで、脇間は板壁で閉鎖的である

④新羅堂は屋根がさらにのびて向背が付け加えられている。

以上からは、神谷神社の方がより古いタイプであると研究者は考えています。次に神谷神社の特徴を挙げておきます。

神谷神社の特色

ここからは、「古代様式 + 中世様式 + 仏教様式」が混じり合った建物で「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と研究者は評します。このように古いタイプの流造り社殿であることは、分かっていたのですが、国宝指定の決め手となったのは建築年代がわかる史料が見つかったことです。

神谷神社の墨書銘



 大正時代に行われた大改修の時に
、棟木に建築年代を記した上のような墨書銘が見つかったのです。

それを見てみると、
①まず「正一位
神谷大明神」とかかれています。ここからは中世は神谷神社でなく、神谷明神と呼ばれていたことが分かります。
②「健保(けんぽ)
7年2月10日に始之」とあるので、約800年前の1219年に、着工したことが分かります。建保7年は、その年の内に承久に代わります。後鳥羽上皇が承久の乱を起こす2年前のことです。施主は荘官であった刑部正長(さんみぎょうぶのすくね ながまさ)です。この物については、なにも分かりません。 当時は、古代綾氏が国府の在庁官人から武士団化する時期にあたります。そんな一族なのかも知れませんが手がかりはありません。 

神谷神社 本殿5
神谷神社本殿

 どちらにして、神谷神社本殿が約800年前に建てられた建物で、当時姿を現したばかりの流造り様式の原初的な位置にある建物であることが分かりました。これは、神社様式を考える上で、重要な建物になります。それが国宝に指定された決め手のようです。

神谷神社 落雷被災6


次に再建に向けたこれまでの動きを見ていくことにします。

まず足場が組まれ、覆屋が架けられ、次のような手順で作業は進められてきました。

神谷神社 改修手順
解体手順

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屋根の解体手順

神谷神社 桧皮葺屋根の解体4
檜皮葺屋根解体

神谷神社 桧皮葺屋根の解体5
檜皮葺の撤去

神谷神社 野垂木解体
野垂木解体 焦げていても仕える木材は出来るだけ残す

神谷神社 化粧裏板解体
化粧板解体

神谷神社 屋根解体終了
小屋組解体

神谷神社 部材検討
下ろした古材の保管と点検

私が興味があったのは、先ほど見た「建保(けんぽ)7年2月10日月始之」の年期の記された棟木です。

神谷神社 棟木墨書.3jpg
墨書銘の記された垂木
下ろされた棟木を見てみると、火災の煙で真っ黒になっています。ライトを当てて見ると・・・

神谷神社 棟木墨書.4jpg

浮かび上がってくる文字が見えるようです。神谷神社 棟木墨書.2jpg

大正時代の大改築の時の写真(右側)と比べて見ると「建保(けんぽ)7年2月10日月始之の最後の3文字だけがかすかに確認できたようです。この棟木も火災で真っ黒になりましたが、強度には問題ないので再建が進む本殿に使われていました。

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順調に工事は進んでいて、その様子を覆屋の中の2回に上がって身近に見ることができました。
貴重な機会を与えていただいたことに感謝。

神谷神社2
神谷神社本殿
そして本殿が私たちの前に一日も早く姿を見せてくれることを祈念。
今回の被災と復興をめぐる動きを見ながら私が思ったことを最後に記します。
神谷神社の起源は、この奥にある磐座(いわくら)である影向石(ようこうせき)への巨石信仰に始まるのかもしれません。それが阿野北平野の古代豪族綾氏に引き継がれ、ここに神社が創建されたのでしょう。。

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              神谷神社の磐座 影向石
綾氏は、讃岐で最大の古代豪族として国府の府中誘致などに力を発揮します。そして、他の郡司たちが律令制の解体の中で姿を消して行く中で、国府の在庁官人や武士団化してその統領として勢力を維持します。古代末から中世かけての阿野北平野の情勢を考える際に、綾氏一族を抜きにしては考えられません。800年前に神谷神社本殿を再建した庄司も綾氏につながる一族だったのではないかと私は考えています。そして、綾氏=讃岐藤原氏の一族である香西氏の勢力範囲に置かれるようになります。

神谷神社が受け継がれてきたのは・・・

そのような中で、神谷明神本殿は上図のような人たちによって、改修を重ねてきました。
そして今回の改修再建については、21世紀型の勧進活動=クラウドファンデイングによって実現したようにも思えます。担う人達がバトンタッチされながら、そのスタイルは違うかも知れませんが、この神社の本殿を未来に残したいという願いは同じではないかと思えてきました。中世の勧進聖達がこんな「勧進スタイル」を生み出した人達を驚きながら誉めてくれそうです。もし、崇徳上皇が天狗となって白峰寺から見ていたらこんな風に呟いたのではないでしょうか。
 天狗や雷神は私の配下の者達である。その者達が、この度は手違いで大きな迷惑と苦労をかけたことを詫びる。しかし、儂も越えられない試練は課さない。見事に21世紀型の勧進・結集(けつじゅう)で、困難を乗り越えたのは見事であった。以後も、天狗として天から見守っておるぞ・・・」
崇徳上皇と松山天狗

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考資料
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】01プロローグ 工事内容紹介
https://youtu.be/rELeCq-v08Q
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】02解体作業状況
https://www.youtube.com/watch?v=O0Dxp1jr6-s
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        上棟式の棟札 - マネジャーの休日余暇(ブログ版)
現在の棟札

中世の荘園の歴史を知ろうとするとき、頼りとなるのは京都や奈良の荘園領主の手もとに残された史料になるようです。地元の民家や寺社に中世文書が残されていることは、ほとんどありません。その中で棟札は、荘園の全体的な枠組みの手がかりを伝えてくれる地元の貴重な史料です。
 棟札とは、寺社の造営や修理のときに、その事業の願主、大工、上棟の年月日、造営の趣旨などを書いて、棟木に打ち付けた木札のことです。建物自体が老朽化して解体されたのちも棟札だけが残され保存されていることがあります。

天嶽院 | 山門屋根 茅葺替大修理・3 棟札調査

以前に見た坂出の神谷神社にも、中世に遡る棟札が何枚も保管されていました。式内社や荘園鎮守社であったような神社には、棟札が残されている場合があります。棟札からは何が見えてくるのでしょうか。今回は中世の地方神社の棟札を見ていくことにします。    テキストは「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121Pです。
    棟札 武内神社2
                                                           
京都府相楽郡精華町の北稲八間荘の武内神社には、20枚もの棟札が保存されているようです。
時代的には、鎌倉時代末期から昭和にまでいたる造営棟札です。
棟札 武内神社
武内神社の棟札
年代的に二番めに古い延文三年(1358)の棟札には「神主源武宗」や大工のほかに、道念、了円など8人の名前が記されています。この8人がこの時代の北稲八間荘の有力者たちだったようです。
応永十年(1403)にも、ほぼ同じ内容のものが作られています。
文明四年(1472)のものになると、「神主源武宗」の下に「老名」として道法以下10名の名前が並びます。北稲八間荘の有力者たちが「老名」(オトナ)と呼ばれていたことが分かります。オトナは「長」「長男」とも表記されますが、十人という数が北稲八間のオトナの定数だったことが分かります。
棟札 武内神社3
武内神社拝殿

 天正三年(1574)のものをみると、オトナのうち一人に「政所」という肩書きが付きます。ここからは十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことがうかがえます。神主の名乗は、慶長13年(1608)まで「武宗」でした。ここからは「源武宗」が神主家の代々の当主に世襲される名前であったことが分かります。
江戸時代にはいると、神主は紀姓の田中氏に交替しています。
かわって「フシヤゥ」という役名が登場するようになります。「フシヤウ」とは検非違使庁の下級職員の「府生」のことだと研究者は指摘します。中世後期になると京都周辺の荘園の荘官級武士の中には、朝廷の下級職員に編成され、重要な儀式のときにだけ出仕して、行列の一員などの役を演ずる者が現れます。「フシャウ」とは、そういう位置にある者で、具体的には「源武宗」を指すようです。そうだとすると旧神主家が、神主の地位を失ったのちも村の中で一定の地位を保っていたことになります。しかし、それも元文三年(1738)を最後に姿が見えなくなります。
 江戸時代には、北稲八間荘はそのまま北稲八間村となり、瑞竜寺、朝倉氏、寛氏の三つの領主に分割されました。領主ごとに庄屋が置かれ、それぞれ寺島氏、川井氏、田中氏が勤めます。かれらは家筋としては、オトナたちと重なります。こうした家筋の人々は、おそらく壮年期には庄屋を務め、長じてはオトナ、すなわち村の古老として武内神社の祭礼や造営などを指揮したようです。
 また元禄十三年(1700)以後の棟札には「鹿追」と呼ばれる役職がみえるようになり、五人から十人の名前が連記されています。鹿などの獣害駆除を直接の任務とする村の若者たちの代表と研究者は考えているようです。
 以上のように神主、オトナ、庄屋、鹿追、それに繁呂寺の住職の名前を書き連ねるのが、江戸時代の武内神社の棟札の定番だったようです。おもしろいことに嘉永五年(1853)の棟札には、「鹿追 このたび勝手につき手伝い申さず候」と記されています。幕末を迎え、オトナ、庄屋といった村内の古老や壮年層と若者たちの間に、何らかの対立が発生していたようです。

 近代を迎えると、国家、社会体制の中での村の位置づけは大きくかわっていきます。
神社の祭礼、造営についていえば、古式が尊重されているようです。下は明治30年(1897)の棟札です。

棟札 武内神社4
これをみると、神主は社掌、庄屋は区長と名をかえています。しかし記されている内容や形式はおおむね古式に従ったものです。オトナという文字はみえませんが、氏子総代とされる三名の名前が見えます。明治以後になってオトナは「氏子総代」に変わったようです。
 中世には、オトナとか沙汰人と呼ばれる人々は祭礼、祈祷などのほか、年貢の村請、湯起請に象徴される刑事事件の解決など幅広い村政を担っていました。それが江戸時代になると、徴税や一般的な村政にかかわる権限は庄屋に移管され、オトナの権限は宗教的な行事に限られたようです。つまり江戸時代に村の政教分離が行われたことになります。そして、その延長上にあるのが今の氏子総代になるようです。
 棟札は集落によって作られ、村に残されたモニュメントとも云えます。棟札から、中世の村のようすがわかる事例をもう一つ見ておきましょう。
棟札 日吉神社
日吉神社(宮津市)

丹後半島の宮津市岩ヶ鼻の日吉神社の棟札を見てみましょう。
この神社には天文十八年(1549)11月19日の日づけをもつ三枚の棟札があります。
棟札 日吉神社2

右側二枚の棟札からは次のようなことが分かります。
①中世にはこの地が伊爾(祢)荘(官津市・与謝郡伊根町)と呼ばれていたこと
②日吉神社が伊爾荘の一宮(荘園鎮守)であったこと
③伊爾荘は「延永方」と「小嶋方」に分かれていたこと

さらにる文献史料ともつきあわせると、「延永方」は「西方」「東方」に分かれ、
「東方」と「小嶋方」は幕府奉行人の飯尾氏の所領、
「西方」はこの地の国人松田氏の所領
であったことがわかります。棟札の銘からは、飯尾氏の支配部分においても松田氏が代官として伊爾荘を仕切っていたことがうかがえます。

研究者が注目するのは、一番左の棟札です。
多くの名前が列記されています。これを見ると格名前に権守とあります。権守を辞書で調べると「守(かみ)(国司の長官)、または、頭(かみ)(寮の長官)の権官(ごんかん)。」と出てきます。この棟札には、権守の肩書きを持つ偉そうな人たちばかりのように思えます。ところが、これは村人たちの名前だというのです。これが遷宮の時の「御百姓中官途」の顔ぶれだというのです。
 中世後期の村では、村人に村が「官途」(官位)を与えていました。
具体的には「権守」「介」「大夫」「衛門」「兵衛」などです。これらの官途の名称は、朝廷が使っていたものをコピーしたものです。権守、介はそれぞれ国司の長官と次官であり、衛門、兵衛はそれぞれ衛門府、兵衛府のことです。また大夫と大は五位(正五位、従五位)のことになります。しかし、村における官途付与はもちろん朝廷の正式の任免手つづきを経たものではありません。ある年齢に達したときや、鎮守の造営に多額の寄付を行ったときなどに、村の合議によって官途が与えられていたようです。

中国古代帝国の形成と構造 : 二十等爵制の研究(西嶋定生 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 西嶋定生の「二十等爵の研究」を思い出させてくれます。
① 秦朝発展の原因のひとつは開発地に新たに設置した「初県」(新村落)にあった。
②初県では人的秩序形成のために国家が定期的に位階を配布し、人間のランク付けを行った。
③ハレの場である社稷祭礼の際には、その位階ランク順に席につき、官位の高い老人や有力者が当然上位に位置し、会食も行われた。
④この座席順が日常生活でのランク付けに用いられた。
この手法と日本の中世神社で行われていたことは、なんとなく響き合うものを感じます。アジア的長老支配の手法といえるのかもしれません。
京都府宮津市の神前式|天然記念物の花々が咲き乱れる「山王宮日吉神社」とは
日吉神社本殿
話を日吉神社に戻します。
官途の名乗を許されると「官途成」と呼ばれます。
官途成すると、その村の成人構成員として認知を受けたことになります。江戸時代の庶民に「○衛門」「○兵衛」「○介」といった名前が多いのは、中世村落での官途成に由来があるようです。江戸時代になると、こうした名前も親の命名で自由につけられるようになりますが、中世には、村の許可を得てはじめて名乗れる名前でした。村の官途にも上下の秩序があったようです。「衛門」「兵衛」などは、比較的簡単に名乗ることが許可されたもので、下位ランクの官途だったようです。
それに対し最高位は、この棟札に出てくる「権守」です。
彼らも若いころは「衛門」や「兵衛」などの官途を名乗ったのでしょう。それが年齢を重ねるとともに「大夫」へ、さらに「権守」へと「昇進」していったようです。「権守」までくれば村のオトナで、指導者です。そういう目で見ると、伊爾荘の日吉神社も、オトナたちが遷宮事業の中心となっていたのが分かります。
 遷宮完了を記念して、右側2枚は、荘の代官を勤めている国人たちが納めた者です。そして左側のものは、村の指導者(オトナ=権守)たちが、自分たち独自の棟札を神社に納めものです。そこには、鎮守を実質的に維持・管理するのは自分たちだという自負と、この機会にその集団の結束や団結を確認する思いを感じます。棟札には、村を運営した人々の存在証明の主張が込められていると研究者は指摘します。
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2つの神社の棟札を見て養った「視力」で、坂出の神谷神社に残る棟札を見てみましょう。

神谷神社本殿2
神谷社殿社殿
この神社の社殿は香川県に2つしかない国宝建築物のひとつです。大正時代に行われた大改修の時に発見された棟木の墨書銘に、次のように記されていました。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
 惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。

神谷神社棟札1460年
   今度は一番古い年紀を持つ上の棟札(写)を見てみましょう。
表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。「再興」とあるので、それ以前に建立されていたことが分かります。建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。そして真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。  その下に来るのが改修総責任者の名前です。「行者神主松本式部三代孫松本惣左衛門正重」とあります。
神谷神社は明治の神仏分離までは「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。「行者神主」にそのあたりのことが現れていることがうかがえます。
さて私が興味をひかれるのは最後の行です。
「当村政所並惣氏子共栄貴祈所 木(?)政所並惣氏中」とあります。ここに出てくる「政所」とは何なのでしょうか? 
先ほど見た京都の武内神社の天正三年(1574)の棟札にも、オトナのうち一人に「政所」という肩書きがありました。そして十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことをみました。それと同じ意味合いだとすると、神谷村のオトナ(有力者)たちということになります。しかし、ここでは「当村政所」とだけ記し、具体的な氏名は書かれません。

神谷神社棟札2枚目


その後の16世紀後半から百年毎棟札を並べたのが上図です
この3つの棟札を比べると次のようなことが分かります。
①地域の有力者の手で、定期的に社殿の遷宮(改修)が行われてきたこと
②遷宮の行者神主は代々松元氏が務めていること
③村の檀那等(氏子)の祈祷所として信仰を集めてきたこと
④中世は脇坊の僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていたのが、江戸時代になると「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになっている。
そして、オトナ(有力者)の名前が具体的に記されています。
神谷神社にも 中世のオトナ → 江戸時代の庄屋 → 明治以後の顔役 神社総代という流れが見られるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121P


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