瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:阿波の歴史と天空の村のお堂と峠 > 池田町史


民家検労図の「烟草(たばこ)」
民家検労図の烟草(たばこ)
煙草葉栽培1
煙草畑(阿波池田)
 わが家はもともとは農家で、私の生まれる前は煙草葉を作っていたようです。わが家の主屋の横には使われなくなった煙草の乾燥小屋が倉庫代わりに建っていました。

煙草乾燥小屋(ベーハ小屋)三豊市高瀬町
          煙草の乾燥(ベーハ)小屋 三豊市高瀬町
煙草乾燥小屋(ベーハ小屋)の構造
明治37年頃の煙草乾燥小屋の構造
天井が高くて涼しくて、夏には縁台を出して昼寝をしていたことを覚えています。ソラの集落を原付ツーリングしていると、煙草の乾燥小屋が残されているのに気づきます。それも次第に消えつつあります。煙草小屋が残っていると云うことは、その農家がかつては煙草葉の栽培をしていたことを物語るものです。ソラの集落で煙草葉が、どのように作られていたかに興味があります。そんな中で出会ったのが「池田町史下巻 939P 町民の歴史 箸蔵の煙草農家」です。栽培していた当事者による回想というのは、なかなか出会えません。貴重な資料だと思うので見ていくことにします。
 
私の家では、私の生まれるずっと前から煙草が中心の農家だったんです。
小さいときから煙草摘みや煙草のしは、よくやらされました。兵隊に行くまでは、家族の者と一緒に煙草を作り、大正10年に善通寺へ現役兵として入隊しました。シベリア出兵の留守部隊だったんです。(中略)
 除隊後、戦時体制が厳しくなった昭和18年、大政翼賛議員に推薦されて村政にもかかわりました。それから、終戦後、池田町の合併までずっと村会議員をしました。合併のときは、横野太郎さんが村長で、私が議長でした。 箸蔵村は、小さい村で、中学校建てたり、坪尻の駅をしたりしよるうちに赤字になって弱ったんです。そのうち、国から、町村合併せえといわれ、箸蔵村は指定町村になったんです。赤字も大きいし、合併を議決したんです。
(中略)
煙草作るのには、まず土を作らないけません。     939P

農具 六つ子
六つ子
 六ツゴという孫で(マゴデ)で一ぺん一ぺん返して、土が下へ崩れ落ちるから、また六ッゴでさらい上げるんです。きぶい(傾斜が急な)畑作らんようになったらどんなに良かろうと思うくらい苦労しましたわ。

徳島農業 急傾斜実習
戦前の徳島農業校の急傾斜地実習 
肥草はたくさん刈らなんだら煙草はできんので、鎌で一つひとつ刈りましたわ。草刈りができたのは最近です。刈ったのを乾かしといて、また、運びだす。今開拓しとる付近は共同の草刈り場じゃったが、普通は自分の山を刈ったんです。共同の草を刈るには金がいったんです。刈った肥草は、みそ肥という、みそのような村の肥土に苗は、自分で落葉集めて、角な苗床つくって、一日おきぐらいに水やって、上へふご張って、寒いときにはテント張って養成するんです。苗が大きくなったら、苗床広げて、間隔広げて植えて、葉が七枚ぐらいついたら本甫へ植えるんです。今は、農協が苗を育てて植える前に送ってくれるようになりました。
 
煙草栽培歴
煙草栽培暦
煙草の生育ステージ

前の年の煙草の後へ野菜植えて、10月の末ごろに植えて、その次の年の5月までに麦を刈って、その後へ煙草を植える。麦の間へ植えることもある。麦は青うても刈るんです。植える前に肥料をやって土で隠し、十四、五日して煙草が少し大きくなったら、本中(ほんなか)というて、両方から土盛りして、中の溝へ麦わらでも山肥でも入れて溝が固まらんようにする。これが5月の末ごろです。

 次は、虫の防除です。
今では楽でするが、昔は薬がなくて、山のカワラ樫ちゅう大きな葉のある木を刈ってきて、そこへ竹串を立てたりして方々へ配置するんです。それに虫が晩に入るんですわ。深い玉網みたいなのを用意して、揺すって蛾を取る。それでもわくときは、手で一匹一匹取ったもんです。煙草のニコチンが好きな虫がいるんです。取っても取ってもわいてきて、虫取りに苦労しました。現在でも、最低三回は薬で消毒します。その虫取りがすまんうちに、下から土葉(どば)というあか葉ができて、もう収穫せないかんのです。
煙草 黄色くなったら『収穫時』
黄色くなった葉から収穫
煙草葉 下から生長の順に切り取られる。
                   下から生長の順に切り取られる。
収穫は、土葉から始まって、やがて中葉、本葉と熟れてくるんです。黄色くなった収穫です。
熟れとるかどうかは、葉の様子を見ればわかる。葉がきちんと上を向いている間は熟れてない。熟れれば葉がひねくれてくる。葉がねじれたよなると熟れている。土葉、中葉、本葉といくんですが、最近は、天葉を先に採る。昔は下から上へ順に採りよったが、今では下から採り上から探りして、全部採ってしまう。土葉をかぎ始めるのが7月の20日ごろで、8月下旬には収穫が終わってしまう。一か月の間ですが、暑い盛りの作業ですから、朝、暗がりで起きて、採って帰って、お昼過ぎまで後始末する。それから吊らないかんきん、ようけ採ったら一日かかる。縄に順々にはせていくんです。

IMG_6883煙草の天日干し
たばこ葉の天日干し(まんのう町教育委員会蔵)
黄色葉の共同乾燥 美合
葉煙草の共同乾燥(琴南町誌)
 乾燥させた葉を、今度は一枚一枚のすんです。

煙草葉のし
のしと選別
のした葉をクロ(積み重ねた杉)にして、発酵させ、それをしわいて、また積みなおして充分発酵させる。そして今度は選別する。のすのも一枚一枚、へぐのも一枚一枚です。一貫目の葉が五千枚ぐらいはある。それを手でのして、一枚一枚、また、へぐんです。のすのは、南(南風、空気がしめる)をみて、前がしたらしめるんで、そのときおろして、むしろかぶせておいて、のすんです。本葉になったら水をかけてのす。昔は噴霧器がなかったので、ほうきに水をつけて振ったもんです。
 納付が、また大変でした。                    941P
阿波葉 計量作業
葉煙草の計量出荷
道も、自動車もないときですから、みんなで背負って運ぶんです。煙草(乾燥済み)の反収は、八十貫ぐらいですから二反八畝ぐらい作って、二百五十貫ぐらいの収量がありました。かさ(容量)がありますから、男で一二貫、女で八貫くらいが一回に運べる量です。今は一度に納付していますが、昔は三回に分けて、12月から2月ごろに納付しました。それでも一回の納付に何回も何回も運ばないかなんだ。出しちゅうて、何日も前から出すんです。納付は寒いときで、雪でも降ったら、坂道ですべったりころんだり。それに、渡し場まで行ったら、びゅうびゅう風の吹く所で長いこと待って、そら大変でした。

勝山専売公社への収納
専売公社への収納作業
 それでも、畑の作としては煙草にかなうもんはありません。
今は、苗は農協が作ってくれるし、消毒は薬があるし、のすことはなし、選別も機械にかけて葉が流れとるのをひらうになっとる。五人組で、優等ひらう、一等ひらう、二等ひらう、三等ひらう、四等、五等は下へ流してしまう。一枚一枚へいで選別したことを考えたら、今は楽なもんです。
池田町史の回想録の中には、戦後混乱期の煙草の闇売りについて語られたものがあります。
次の「煙草葉の闇市場(抜け荷)」は、公的な記録には触れられませんで、これも貴重な記録だと思います。

戦地から帰ってから煙草を中心に農業したんです。       1157P
反別は少なかったんですが、煙草耕作組合の千足(せんぞく)山貝の総代をおおせつかりました。煙草耕作組合の下に各部落の総代があり、総代の下に五人組がありました。総代の役目は、煙草を作る申請や納付の世話です。専売所から組合へ来た連絡事項は、総代が五人組の組長に知らせるのです。煙草の闇は、お互いにせられんことを隠れてするんじゃから、「せえ、すな」(しなさい、するな)ですわ。戦後直後は煙草があったら、何でも必需品が交換できた。金で買えんものでも手に入った。たばこの抜け荷は、どこの家でも程度の差はあってもみんなしょったが、総代の私はできなかった。

たばこの苗床(昭和55年頃)(下柏崎 小堀政六提供
煙草の苗床
煙草専売公社は農民達を耕作組合を通じて、指導・管理を行っています。
種子の採収から苗床の作り方から、肥培管理、収穫、乾燥と調理の全過程について細かく規定がつくられていました。また明治38年の専売所の指導は次の通りです。
①「苗床作りについて」(2月17日)
②「植付けについて」(5月29日)煙草収納所から講師がきて役場二階で講演。
③5月24日苗床検査
④6月19日植付け検査
⑤8月18日第1回葉数検査
⑥8月28日第2回葉数検査
⑦9月7 日第3回葉数検査
ここからは、収穫直前まで指導員が派遣された、様々な検査が行われていたことが分かります。耕作反別は耕作者の許可申請をうけて専売支局から大字毎に配当されました。専売公社の指導に従わない農家には申請した面積が認められないなどの「選別化」が行われていたようです。
たばこ栽培の許可書
専売公社が発行した煙草耕作認可証(明治38年)

 専売所の検査は、「植付検査」、成長したときは「量目査定」があり、総代立会いで査定をしたもんです。横流しが多くなったから、今度は「葉敬査定」になった。葉のつき方が八枚とか十六枚とか査定して、全部で何万何千枚と決められる。作る者もへらこいから、ええ所抜いて、ワキ芽を伸ばしてそれを収穫した。それも見つかればやられる。本木延長といって普通は、ワキ芽の出たやつは全部とらないかんのです。特別にできの悪い、黒い煙草ができたような場合には、本木延長も認められているんですが、かくれて葉数を増すために、もう一べん芯を止めるんです。そのワキ芽を乾して三枚なり五枚なりをよけ取るわけです。
 あんまり葉数が足らなんだら理由書がいる。理由書は、闇に流したと言えんから、虫が食うてのせんとか、雨風におうて腐ったとか言うのです。廃楽処分は収納所へ持って行ってせよということになっていたんです。収納の金額は一貫二千円くらいで、闇が五千円くらいでした。
 (抜け荷)煙草の運び出しには苦労したらしいです。立番をして晩に山越しで負うて運び出すわけです。昼間でも、いろんなもんに包んで車に載せて出るのもあるし、山越しに歩いて出したらしいです。祖谷の方からは、相当負い出したらしいです。闇の全盛は三、四年だったでしょうか。当時大分金もうけた人もありました。

 そのころの煙草作りは、一反作るのに百二十工ぐらいかかりました。今は、その半分の六十工ぐらいですみます。特に煙草のしは、雨降りとか、外の仕事のできんとき、ほとんど夜業で老人や子供も動員したんで、子供は勉強どころではなかった。何組のしたら幾らやろうということで、子供
にもどうせ小遣いやらないかんしな。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻 939P 町民の歴史 箸蔵の煙草農家
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筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門附近を下る筏
  前回は、吉野川上流の材木が白地周辺の「管(くだ)流し」職人によって、徳島に流送されていたことを見ました。しかし、これは明治になって以後のことで、阿波藩は19世紀になると「管流し」や筏流しを原則禁止としていたようです。その辺りの事情を今回は見ていくことにします。テキストは「池田町史上巻504P 土佐流材」です。
 中世後半には吉野川は木材流しに利用されたと私は考えています。阿波藩時代の初期には、文書で木材流し行われていたことが次の文書から分かります。
今度祖谷御村木筏之御下シ被成候ニ付□
いかたのり(筏乗り)拾人仰付二付其□
いかたのり無御座候所我等共方へ御屋
右拾人之いかたのり我等共方今頤より□
此ちん銀之儀百五拾目ニ相定外二後□
御公儀樣より御下侯舍右銀之内七□
只今湖取申侯 残る八拾目御公儀□
被下候筈若御公樣八抬め(目)□
ハ百姓方より百五拾目之通可被仰
加様ニ相定拾人分請取申上候此儀ニ付
六ヶ敷儀出来侯共我等共罷出御断申
□毛頭六ヶ敷儀かけ申間敷候為□□
書付取遣加件
延宝二(1674)年六月廿六日                            太刀野村弥六 同村宅□

花還村庄屋半兵衛殿 
同村五人案百姓方へ
(三野町長谷均所蔵)
 この文書は下部が欠落しているので、不備な点もありますが、次のような情報が読み取れます。
①阿波藩が祖谷御木材を筏にして流すことになり、筏乗りの人数を各村に割当てたこと。
②花還村(現・三野町花園)に割り当てられた十人が用意できないので、代わって太刀野村の弥六などが引き受けたこと
③その際の賃金についての花還村との契約書であること
ここからは阿波藩が祖谷山の木材を筏流しによって、下流に運んでいたいたことや、筏流しの専門的な職人がいたことがうかがえます。
 江戸前半期の木材輸送は、土佐の業者が吉野川上流で木材を伐り出し、川岸に積み、洪水のとき吉野川に放流して下流で拾い集めるという少々荒っぽい方法でした。これは陸送に比べて輸送費がほとんどかからず、木材業者にとっては魅力的な輸送方法でした。しかし、弊害が出てきます。新田開発が進み吉野川流域に耕地が拡大します。そうすると洪水と共に流れてくる流木が、堤防を壊し、田畑や家屋に大きな被害を与えるようになります。特に、天明の大洪水のときは流材による被害が大きかったようです。そのため天明8(1788)年に、西林村の農民達から木材の川流し禁止が次のように申請されています。
『阿波藩民政資料』
阿波郡西林村 土州材木之義に付彼是迷惑之后願出候に付去る正月別紙添書を以各様迄被出候處共儘打過恢付狗亦其後も願出候1付追願紙面添書を以申出侯共節坂野惣左衛門台所へ罷出居申候 付右願迷惑之義に候得は土州御役所懸合侯得は可然を惣左衛門へ被仰聞惣左衛門より委曲承知仕候に付右迄紙面添書之共節伏屋岡三郎指引有之由御座候然所此節尚又別紙之通願出候土州村木に付村方迷惑有之候へは不相當義に候得は何卒急々御設談被遣度此上相延候は興惑可仕候て先而願書宮岡相指上申候                                          以上
天明八年 正月                                         江口仁左衛門
片山猪又樣 
内海一右衛門様
右之通
御城に而片山猪又殿懸合侯處被申出段致承知候併土州材木台件之儀は御断被仰義に候然此度差下之村木之義は残材木に候最早切に而後に無之后被申聞侯事
二月三日
ここには前段で、木材流し禁止を願い出たが御返事がいただけないので、早急に結論を出してもらいたいという再度の願いたてが記されています。後段は役所からの返書で、現在行われている木材流しが終了すれば、禁止すると記されています。

こうして天明8年以後は、吉野川の材木流しは「原則禁止」となります。
寛政年間に禁裏修築用木材の吉野川流送の申出がありましたが、阿波藩では実状を訴えてこれを断っています。さらに享和年間には、取締りを強化するために吉野川流木方を新設しています。吉野川の上流三名村から山城谷までを三名士、池田村から毛田村までは池田士に取締りを命じ、洪水時の祖谷分は喜多源内、徳善孫三郎、有瀬宇右衛門にも応援させ、川沿の庄屋五人組にも流木方の指揮に従い油断なく取り締ることを命じています。
 「取り締まり強化=犯罪多発」ですから、天明8年の以後も、秘かに木材流送が行われていたことがうかがえます。川岸や谷々に積まれた木村が洪水の度に散乱し、これが吉野川に流れ出て、既成事実としての流送が黙認されていたようです。
 取締りが強化されると、今度は土佐藩からの流送許可を求める運動が繰り返されるようになります。
これは土佐からの交通路にあたる三好郡の組頭庄屋や庄屋を通じて行われます。
A  文化12年(1815) 白地村庄屋三木晋一郎が藩へ報告した文書には、次のような点が指摘されています。
①土佐流材の許可が阿波と土佐の両国に便利・利益をもたらすこと
②阿波藩の流材禁止が撤回されない時には、土佐藩は吉野川上流を堰き止めて流路を替えて土佐湾に流す計画があること、
③そうなると吉野川の水が一尺五寸も減って平田舟の往来にも困るようになること
B 文政5(1822)年には、佐野村組頭庄屋の唐津忠左衛門が「春冬の三か月の平水のときのみにして流してはどうか」という提案を藩に提出しています。これは 土佐の大庄屋高橋小八郎、長瀬唯次の要請を受けて阿波藩に取り次いだものです。その要旨は次の通りです。

「天明のころの大被害は、木材を増水時を見はからって流したので、洪水で決壊した護岸を越えて材木が散乱して起こった。だから①増水の時節は除き、春冬の平水のときに②筏を組んで川下げすればよいのではないか」

これに対して、西山村組頭庄屋の川人政左衛門、他六人の組頭庄屋が連名で、調査結果をもとにして次のように禁止継続を訴え出ています。長くなりますが見ておきましょう。

隣国が仲良くしなければならない事も良くわかり、材木流しが土州阿州の両方に利益があることも良くわかる。それで、郡々の川筋を実際に見分し、村々の趣もよくたしかめ相談してこの訴えを決めた。

材木流しを「二月より山へ入り、五・六月ごろまでに筏流し、六・七月ごろより九月まで谷へ出し、十月より三月まで川下げを許可する」という提案について。

A まず、土佐境か山城谷の川までは約五里、この間は岩石が多く、平水のときは流せないので、ちょうど良い増水を見はからって流すのであろう。ところが天気のことでいつ大水になるかもわからない。そうなると池田でいったん取り上げて置くなどとうていできない。天明年中の災害のときを考えてもはっきりしている。あれは正月下旬のことであったが、阿波部西林村岩津のアバ(網場)が平水から四、五尺の増水で岸が切れ、材木が散乱、村々の堤防へつき当てて破損した。
 川幅広く流れのゆるやかな岩津でもこうであるから、池田あたりではもっとひどい。土佐から川口までは、山間二、三町の谷筋を流れ出るので、洪水時には山の如く波立ち、どんな坑木も役立たず材木が散乱する。特に六、七、八月に谷に材木を置くと、台風などの大雨が降ればどんな方法でも材木を留めて置くことはできない。また、池田村の往還は川縁より四、五尺から三余も高い所にあるが、それでも水が乗る。材木を引き揚げて水の乗らない遠方まで移動させるには費用がかかり過ぎる、いろいろあって、とても材木の川下げを認めることはできない。


B 吉野川は、祖谷山西分、山城谷、川崎、白地、その他から年貢の炭・娯草・椿などの品、徳島や撫養から塩・肥料等を乗せた平田船が多く行き交っている。特に十月から三月は一番多い時期である。材木を流したら池田・川口間の船が通れなくなって、年貢収納にも差支える。天明の洪水では、岩津から川口までの漁船が止って大変難渋したことは老人は皆知っている。

C 先年の増水のときには、村々へ流れ込んだ材木を人村役を雇って川へ出した。この度も賃銀で人夫を召使う予定のようだが、材木を担ぎ出す費用は各村々の負担となる。田畑は崩れ、川に成り(川成)、川除普請もかさむ上に、そのような負担まで課せられたらやっていけない。

D 天明、寛政の洪水では、下流の方でも木材が川の曲った所へ突き当り、岸が崩れるなど至るところで大損害を受けている。(中略、具体的に各所の状況説明)
先年の大災害は天災ではあるが、深山の諸木を伐払い水気(水分)を貯えることができなかったからだと今も言い伝えられている。その後、流木御指留(禁止)によって、近年洪水もおこっていない。私達の相談の結果をさし控えなく申しあげた。
これを受けて阿波藩では材木川下しを禁止し、唐津忠佐衛門からも土州大庄屋へ、徳島藩の流材禁止の方針を伝える文書を送付しています。なお、この文書の中で天明の禁止は、大阪鴻池善右衛門を通じて土佐へ通されたことが分かります。ここからは材木川下し復活運動には、大坂商人が介在していたことが分かります。
このような中で天保9(1838)年、江戸城西ノ丸の用材を吉野川よって搬出したいという申し入れが土佐藩からあります。阿波藩はこれに対しても実状を説明し、幕府の了解のもとで川下しを断って陸送されることになります。またこの時に、土佐藩が本山郷木能津村へ集材し、陸送の予定にしていた材木が、4月25日の大雨で、約800本が吉野川へ流れ込んでしまいます。この時には幕府の水野越前守が仲介し、その処理案を次のように決めています。
①阿戸瀬(山城町鮎戸瀬)まで流れ着いた材木約30本は陸送で土佐境まで運んで土州に引き渡す。
②阿戸瀬より下流に流れ着いた材木は陸送で、撫養まで送り土佐藩の役人へ引き渡す。
 ここからは阿波藩は、下流の村々を護るために土佐材は一本も吉野川を川下しさせないという方針を貫いたことが分かります。江戸城修復のための木材流送を、こうした形で処理した徳島藩は、天保9年11月6日に「吉野川流訓道書」を出します。この中には次のように記されています。

幕府の用材さえ川下しを拒否したのであるから、今後他国の者が過分の御益を申し立てて許可を求めて来ても絶対に相手にしてはいけない。若し背く者は厳しく罰する

こうしてこの流材問題は決着し、明治になるまで禁止されることになります。
以上を整理しておきます。
①中世以来、吉野川は土佐や阿波の木材搬出のために使用されてきた。
②その方法は、筏を組まずに一本一本を増水時に吉野川に流し、河口付近で回収するというものだった。
③そのため輸送コストが格安で、これが畿内での阿波・土佐産の木材の価格競争力となった。
④この木材運送と販売で、財政基盤を整えたのが中世の三好・大西氏、近世の蜂須賀氏であった。
⑤しかし、吉野川流域の新田開発が進むと、洪水時の「管流し」は流域の被害を拡大させた。
⑥そのため19世紀の大災害を契機に高まった農民達の「管流し」廃止運動が高まった。
⑦それを受けて、阿波藩は吉野川の材木流しを廃止し、取り締まりを強化した。
⑧これが復活するのは明治になってからである。
ここで押さえておきたのは、木材流しが禁止されるのは19世紀になってからのことで、それまでは行われていたこと、もうひとつは池田周辺の網場(あば)で筏に組まれるのは、明治になって始まったことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「池田町史(上巻504P) 土佐流材」
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徳島高速道路の美濃田SAは吉野川の美濃田の淵に面しています。ここの吉野川は、いままでの瀬から瀞へ流れが変化し、ゆったりと流れます。ここは網場(あば)で、木材が筏に組まれて吉野川の流れに乗って下流に輸送されていたことは以前にお話ししました。しかし、それに関わっていた筏師たちの輸送集団については、分からないままでした。池田町史を読んでいると、「最後の木材流し」というタイトルで、これに関わった人の回想が載せられていました。今回はこれを見ていくことにします。
テキストは、「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」です。
  まずは、池田町史上巻837Pで、吉野川を使った木材の流送を押さえておきます。
吉野川による木材の流送は、藩政時代に始まったとされますが、私は中世の大西氏の時代には行われていたと思っています。吉野川が木材輸送に使用されるようになったのは、元和年間に土佐藩が幕府への木材献上と藩財政建直しのため、吉野川上流の藩林の伐採を行い、流送したのが始まりとされます。そして19世紀になるまでは、盛んに木材の川流しが行われていました。しかし、新田開発などで流域の開発が進むと村々を護るために、徳島藩は天明年間に木材流しを禁止します。
 それが再開されるのは、明治期になって徳島・高知の両県の間に協定が成立してからです。
明治30年代以降になると徳島の木材商人は、高知県の本山周辺の国有林のモミ・ツガを買付け、徳島市場へ流送するようになります。大正期になると人工林の「小丸太」が新たに出回るようになり、官材の購入ができなかった地元の業者が買付けるようになります。

nagasi_1

菅流し 那賀川
那賀川の管流しの再現 

伐り出された木材は「どば」からばらで流し、一本木に乗って、とび口で上手に体をあやつりながら瀬を下ります。大歩危小歩危を越えて流された木材は白地渡しの上流の流れの緩やかなところで、網場(あば:木材を止めるために張った木をつけたワイヤー)に集められて筏に組まれます。敷ノ上の川原には、袋のような「止め」がつくられてあって、増水によって流された木材は、ここに流れ込んで山のように集められます。そして敷ノ上の渡し附近で筏に組まれました。

筑後川の網場
土場 木材の集積地

 こうした仕事を協力して行うために、大正から昭和のはじめにかけて、白地木材労働組合が結成されます。会長には、祖父江勘平や山西崎歳らが就任し、組合員も40名近くいたようです。戦前の白地・三繩は、木材送の根拠地でした。

昭和初期のトラック 阿波池田通運

 それが昭和の初めころからトラック輸送が始まります。さらに高知県に森林軌道が敷設され、越裏門以西の伐採木はすべて軌道輸送に切り替えられます。そのため吉野川流送の木材輸送量は減少します。明治大正を通じて平均年間11万石前後が流送されていたものが、昭和期戦前には数万屯規模に半減しています。
 1回あたり「一山一五万石」が標準で、40人グループの人夫で上流(本川)より、池田まで30日前後で流してきます。流送期間は11月から3月までの冬期で、これ以外の時期には県の許可が必要でした。
以上を押さえた上で「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」を見ていくことにします。
終戦になって、遊んでもいられないので、川向いにあった野田村の工場長から日給二円四十銭ぐらいで来ないかと誘われました。従兄で、流材をやっていた影石涼平に相談に行きましたら「せっかく製材へ入るんなら、本川(吉野川)へ行って村木流しをしたり、寸検もしたり、すべて終えてから入っても遅うはないぞ。」と言われ、食い捨てで日給十円ぐらいになるというので、本川の材木流しに行くことに決めました。
 昭和20年11月9日、大霧の朝、大杉の駅まで行って、トンネルを抜けて大槌へ流してきよるところへ行きました。小笠原という人が庄屋でした。
「庄屋」というのは、山の所有者(秋田木材など)で親方から一切を任された責任者で、仕事の段取りをはじめとして、全てを掌握する役です。一万石なら一万石の山を、親方から庄屋が詰負います。
これを流すために、次のような組を作ります。
「会長」は賃金の会計経理を預かります。「味噌会長」というのは、毎日の味噌とか、じゃことかとかを「人夫」から聞いて「炊き」に指示する役でした。「炊き」は、飯炊きで「人夫」25人に一人の割りで、女もいますが男も構わんので、25人の飯を炊いて、現場へ届ければ、男の一人前と同じ賃金をくれるわけです。

菅流し

現場の組織は、大材(国有林物で何万石というもの)の場合は、70人から80人ぐらい、小さい材木量の場合は、30人前後で「木鼻(きばな)」「中番」「木尻(きじり)」に分かれ、それぞれに各一名の「組長」がつき、これを束ねる役が「会帳」です。「組長」の下に「日雇」(人夫)がつくわけです。
 日雇は「目先ビョウ」「ムクリビョウ」「セキセイビョウ」など呼ばれる人に分かれていました。「目先ビョウ」というのは頭を働かせて、「この中石のところを通すよりは、こちらを回ったのがええとか、この石をいっちょうダイナマイトかけたら、ツゥーと通るから、こりゃすか」とか、頭を使う日雇いです。
「ムクリビョウ」というのは、言われたとおり仕事をする人夫でした。
「セキセイビョウ」というのは、足元の軽い(身の軽い)日のこと
「木」には「日先ビョウ」や「セキセイビョウ」が道をつけていくわけです。
「ムクリビョウ」は、「トンコの先でもお山を返すわ」というんで「突いとれ、突いとれ」 で材木を突いて流すという風な人夫で「中番」に多いわけです。
「セキセイビョウ」は、「木尻」におって、足元が軽く、一本木に乗って、スースーと、どこへでも行けるので、どんどこどんどこ追いかけてくるという風なことで流すわけです。「木鼻」(先番)「中番」「木尻」という組を作って、「日番」と「ムクリ」を混ぜていくことで一つの流れになるんです。

木材 管流し2

「庄屋」にだれがなるかは、山から伐り出した材木が大川に出たところで決められるんです。今度の山は、大体一万石(七二寸二分五厘、八寸五分の二間材で一石)とか五千石とか、三千石とかいうことで、庄屋が決まります。まあ、あいつにやらしてみたらというようなことで、組長しよったのが抜擢で庄屋になるわけなんです。一万石以上のようなものは、影石涼平のような大物がおって、庄屋しよった奴が組長に格下げみたいな調子になるわけです。
 人夫の中にはお年寄りもいました。            
弁当負うて、次はどこそこの河原で茶沸かしとけとか、豊かな経腕が物を言うことも多かっです。白地の涌谷政一さんは、元老と呼ばれ、天気予報の名人で、重宝がられていました。絶えず空を眺めて、親父どうぜよって言うたら、これはおいとけ、明日の朝は降るぞって言うてな。無理して押し込んどいたら、ようけ流れ出て、陸へ打ち上るで、中半な水だったら平水の時分に流しよるやつが、パァッと水が出て、打ち上げられたら、また、引っぱり込むの大変だから、今日はおかんかという風なことでおいたり、いろいろそういう相談役みたいな元とクラスの人が六十前後、七〇でも元気な人が二、三人はおりました。「ムクリ」は、二〇代から三十四、五歳まででした。
材木流しにも角力界のような厳しい掟が、自然にできていました。  
村木流しになるには、庄屋に対する誓いの言葉があるんです。
「本川煙草のドギツイ奴を、桐の木胴乱しこたま詰めこみ、越裏(えり)門、寺川、大森、長沢、猪、猿、狸のお住いどこまでついて行きます。」というのです。本川煙草というのは、ものすごく辛いんです。私らが持っているのは、黒柿の胴乱なんですが、桐の木胴乱ていうのは、水に浸かっても蓋がビッシャリしとるけん、煙草が湿らんのです、川へ落ちても心配ないわけです。とにかく、猪、猿、狸の住家までもついて行くわけで、これで親分子分の盃を交すんです。
 上下の規律は厳しくて、庄屋とか何とか役職がつくと、個室をくれるんです。旅館でも、組長とか、「トビ切り」の質をもらうものは、個室で、布団もちゃんと敷いてくれるし、お膳も猫脚のついた高膳で、酒も飲み放題なんです。「トビ切り」以上は箔仕がつてくれるが、上質取りになると、脚のないお膳で、自分でついで食べる。一番貨、二番賃やいうものになると、ちょうど飯台の上にレール倣いとりまして、木で作ったトロッコみたいなものに鉢をすえて、「おいこっちへ回してや」と、押して持って来て食べるわけです。
 そのほかに、味噌会長が「コウさん飯八台、じゃこ二〇円とか、味噌何匁」とかいう場合は「モッソウ」という木の丸いもんに入れて計り飯ですわ。そのときでも、「トビ切り」になるとお茶碗でした。本山へ着きますと、別館と本館があり、上質以上は新館、一番貨以下は旧館で寝るわけです。
管流し4
.修羅出し
 木材を運び出すのは大変な力のいる仕事で、集材地点までの、木集めの代表的なものが、修羅(シュラ)で、 丸太を滑り落とす桶のような設備。

昭和2年 木材を木馬で運ぶ様子 天龍木材110年
木馬出し
 一週間おきぐらいに「スズカケ」じゃ、「大瀬」じゃ、「荒瀬」じゃという瀬があります。
その瀬を乗り切ると「切り紙」ちゅうて、小さいお銭を書いた切り紙をくれるんです。いわば辞令みたいなもんですな。「太郎殿十一円五〇錢、次郎殿十一円二〇錢」という風に、賃金で三十銭、五十銭と違うわけなんです。ほしたら、ゆうべまでは次郎が先へ風呂へ入りよっても、太郎が十銭上へあがると、太郎の方が「ちょっとお先に」というわけなんです。
 寝床も上質取りは、一人一つの布団ですが、一番貨、二番賃になると、二人ずつ、ニマクリ、茶沸かし、日になると雑魚寝というわけです。厳しい上下の規律があり、実力によってどんどん変わるわけです。
賃金を決めるのは、組長の下に「不参回り」というのがあって、みんなの仕事ぶりを見ているんです。あれは仕事しょらなんだ、あれは仕事はしよったが、水に落ちこんで火にあたりよったとか、詳しく見ているわけです。
 前にもちょっとふれましたが、野田製材の工場長が、日給二円四十銭ぐらいのとき、材木流しは、食い捨てで一〇円が上質でした。飲み食い全て親方持ちで一〇円ですから「ヒョウさんかえ神さんかえ」ちゅうぐらいだったんです。私のやめた昭和二十五年の暮、池田通運の方が月一万円取るときに、私など、食うて二万円ぐらいもろうていました。本山で言えば河内屋とか伊勢屋とかいうところに芸者はんがようけおりまして、そこで飲食したりするのは自弁でした。才屋で泊って、才屋で飲み食いする分には全部親方持ちでした。

 庄屋は、名義人というか、親方代人と言っていて、流送許可願に署名するのは庄屋で、秋田木材株式会社親方代人影石涼平と言ったものです。親方から請け負った金で庄屋が差配していたわけです。
材木 管流し3
                  鉄砲堰(テッポウゼキ)
昭和13年 川狩りで川をせきとめている様子 天龍木材
               堰をつくる 左が上流
水量の少ない川で水を溜めて、これに集材し、堰を開けて一挙に流します。

 行儀作法もやかましかったもんです。   
まず服装ですが、「わしゃ一生懸命しよるのに、賃金が上がらんぞ、どしたんぞ。」と言うと、
「お前そんな格好でや駄目じゃ」ちゅうことですな。
「一円も二円も違うんだったら、これ縫てもろた方がましじゃ」ということで、きりっとしたズボンをみんなが履くようになったんです。大膝組んだりしても賃金が上がらん。
「お早うございまおたぐちす」「お疲れさまでした」という風なことも口に出さなんだら「あれは半人前じゃから」ということでバッサリ下がる。中には酒飲んで包丁ふり回したり、鳶口でけんかしたり、いろいろあるんですが、これは放逐ということになります。放逐されると、半年なら半年、どこの庄屋も使わんわけです。親分の義理があるから、なんぼ手が要っても使わんのです。
 私が初めて現場へ行ったときは、影石源平の従弟だというので大事にされて、大槌から大田口まで十六日で着きました。十六日で金百六十円、その上に影石の親父にとドブ酒二升と小遣い五十円もらって、影石涼平に報告に行きました。すると、奥へ行けというので、大田口に着いて土場祝いがすむと、一番奥の田の内へ行ったんです。二回目からは厳しくなり、従兄が来てからはもっと厳しくなったんです。もうやめようかと思いましたが、従兄と一晩酒を飲んで、わしの顔に泥を塗らんといてくれと気合を入れられました。その後、一人前にしてやるというので、鴬の引き方、つるの張り方など相当教育されました。もともと川で泳ぐのは達者でしたから、なぁに負けるものかという気持ちでがんばり、昭和二十二年の二月末か、三月ごろから、こんまい川の庄屋か、先前の組長かで、上賃トビ切りということになりました。脚のついた高膳で得意になったものでした。
 (中略)
今は架線で飛ばしますけれど、その当時は、スラガケとかセキ出しというもんで大川(吉野川本流)へ入ってくるわけです。 大川へ入ると、大川入りというお祝いをします。 その大川入りとか泥落しとかを区切りに、古くは越裏門、寺川、大森、長沢から流していたのですが、現在は日ノ浦にもダムができて、流木溝ちゅうて、材木を飛ばす水路が別にあるわけです。それから、高薮の発電所の水路を十二キロほどずっと流して、沈砂池でもある程度足場こしらえて調整し、田之内の発電所へついたとき、流木濤へつっこんで、そこから水といっしょに飛ばすんです。水といっしょに飛ばすんと、空で飛ばすんとでは村木のみが相当違います。我々も、日ノ浦から請け負うて流したのですが、トンネルの中で詰ったり、いろいろしたことがありました。結局、中番、木尻が協力して流してくるわけです。
 途中、高知県にも「渡し(渡船場)」が相当ありまして、「渡し」には上賃取りを二名つけて、舟には一切あてないという条件もあるんです。例えば、「ジヶ渡し」は「今晩夜遅うになっても、こまわりをかけよ」と言うんです。ここまでという請け負いをさせることを「こまわりをかける」と言います。知人の組長に「こまわりをかけて、トキ渡しは切れよ」と言ったら、流して来よる過程でトキ渡しだけは木尻を切って、ここを過ぎたら今日の上質とか、三台つけてやれという風に、こまわりかけてでも、渡しだけは切って行くという風なことでやっておった訳です。

 白地までは(一本一本)バラで流すわけですが、木の上に乗って下るんです。
早明浦(今のダムより上流、橋のあるあたり)の下流、今のダムのある付近を、中島とか大淵と言っていました。その大淵にアバ(網場)をかけて、いったん大水では止める。大水が出ると一万石と三〇〇〇石の木が一緒になるので、それを選り分けつつ流すわけです。早明浦の橋までは筏に組まず、バラ木で来るんですが、村木の浮き沈み(大きい小さい)によって二人で乗って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりする場合もあります。一本に一人ずつ乗るのが普通なんです。
早明浦を越えると四本を縄でくくって筏にし、その筏であっち行き、こっち行きして流すのが普通です。大歩危小歩危も四本で下るわけです。豊永の駅の前に大きな瀬があり、雨でも降れば一本になります。あれがビヤガ、カナワ瀬と言うんです。いちおう、本山から下流になりますと、舟を一杯つけるんです。一丈八尺ある舟を一船つけるんです。
 本山から下には、ワダノマキとかクルメリとか言いまして、材木が流れ込むと舞う渦がありまして、絶対に出ない。このときは、舟で引っぱって出すわけです。それで本山から下は、舟を一杯つけ、筏は二杯三杯に増やすわけです。

筏 本川への合流

 流すシーズンは、正規の許可は十月一日から五月末までで、六月になれば徳島県の許可がいりますし、七月以降は絶対禁止でした。鮎釣りの漁業組合との関係もあったのでしょう。ですから十
月初めまでに伐らないと、木の皮がむけんのです。そのため皮をつけたまま来るわけです。ただし、重いので流送賃が高いんです。けれども、伐りだちは皮をつけて放り込まんと、皮をむいたら沈むんです。三〇〇石とか、五〇〇石の少ない場合や、急ぐ場合、注文材だったら皮をつけたまま流してくるんです。その場合はアクがあるというのか、艶が違うんです。

 いちおう秋伐りでも、お盆越えたら伐り初めます。お彼岸を過ぎると杉の皮をむいて使っていた時代です。杉の皮がもとまむけなくならないよう、三尺の元だけむいておくとか、苦心したものです。その当時一坪の杉皮が六十円か八十円もしましたから、杉皮むきは奥さんが、木伐りの方で親父さんがもうけ、夫婦で共稼ぎっていうのが相当いたんです。ぜいたく物も米版と味噌とじゃこぐらいでしたが、一般の家よりは米飯であるだけ贅沢だったかもしれません。

 流材の仕事に従事していたのは、主として大利、白地、川崎の人々でした。
川崎、白地、大利あたりでも250人くらいが従事していたのでないかと思われます。 尼後、石内、松尾、宮石から百五十人から二百人ぐらい行っきょったと聞いています。その中には、川崎の原瀬大作さんや西林さんなど今でも名を語り伝えられた人もいます。大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付したりで、不幸な生まれで苦労したそうですが、帰省するときは、村長さんが迎えに出たほどだったと言われています。

本格的な筏流しは三繩や白地・池田から始まります。
そのため筏師の親方が、この辺りに何人もいたようです。昭和8年の三縄村役場文書には「筏師九名、管流し百名」と記されていることがそれを裏付けます。この管流しの百名は、ほとんどが白地と中西(三繩)出身だったようです。つまり、中西や白地には大きな「木材輸送集団」がいたことになります。「大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付」と記されています。ここからは彼らの信仰を集めていたのが周辺の寺社ということになります。

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管流しの網場(あば:木材集積場)だった猫坊

三縄駅南の猫坊は、吉野川が大きく屈曲して大きな釜となり、下流で流れが緩やかになります。
ここは当時は、網場(アバ)と呼ばれ、村木の流失を防ぐために張る縄が張られていました。アバに集められた木材が筏に組まれる筏場(土場)でもありました。そのため多くのモノと人が集まって周辺は栄えていたようです。そこで三繩の漆川橋と山城谷村猫坊の商人が渡船を共同経営で運営していました。利用者は、船(渡)賃を支払っていた。しかし、昭和3年に三好橋が開通すると利用者が激減し、昭和9年ごろ廃止されています
 ここで池田や白地周辺の神社と木材流しの関係を探っておきます。
池田町上野の諏訪神社は、小笠原氏の氏神として創建されましたが、小笠原氏がこの地を去ると、氏子を持たない神社として退転します。これを復興させたのが商人や水運関係者たちです。諏訪神社は、池田の港から見上げる所に鎮座します。船乗りたちは、水の安全を守る神として信仰するようになります。更に、池田町が刻煙草の町として発達するようになると、氏子の数も増え神社は繁栄を取り戻します。諏訪神社の再建がいつのことなのかは、よく分かりません。ただ屋根瓦・彫物などに舟や魚に関するものが多くみられるので、舟運に関係する人々によって17世紀に再建されたと研究者は考えています。石燈籠や寄付者の氏名を刻んだ石柱などにも、船頭中や刻煙草商人が名を連ね、正面の絵馬にも船頭中の名が見えます。

漆川二宮神社 三好市
漆川二宮神社
 幕末ごろには一万数千人の信者が集まったと言われる漆川二宮神社も見ておきましょう。
この神社は先ほど見た猫坊の奥に鎮座します。吉野川から離れていますが、網場(あば)であった猫坊の筏運送者のから水上安全の神として信仰を集めたようです。そのためかこの神社は、山間部の神社とは思えない壮大な構えをして、本殿前の広場も広大で祭りには大勢の人々が集まっていたようです。この神社も船頭・木材流しなど、林業や運輸に関係する商人たちの寄進によって建立されたものと研究者は考えています。極彩色の花流しの絵馬がその名残を留めています。
 また一宮神社にも「船頭中」と刻まれた手洗いが残されています。箸蔵大権現も、この地域の煙草業者や、船頭など舟運関係者も水上(海上)安全の神として信仰を集めていたようです。それを示すのが本殿前の巨大な燈籠に、「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られています。  
 ここでは、池田周辺の大きな寺社は水運関係者や木材流しの信仰をあつめ、多額の奉納を受けていたことを押さえておきます。回想を続けて見ていきます。

 10月から5月末まで働くと、夏に遊んでいても、かなり裕福にいけたのでないかと思います。池田辺の普通賃金の四倍ぐらいが材木流しの賃金で、木馬引きで七人前というのが、常用としての基本賃金だったのです。賃金が高い原因は、ひとつは寒さです。鳶棹が、川につけて出すとすぐ凍ってしまいます。本川なんかでは、猪が飛び込んで、氷が厚いためによう出んと、水を飲んで死ぬというくらいの寒さです。「寒い日あいの言づけよりも、金の五両も送ればええが」と言うくらいですが、寒さはものすごかったものです。

賃金が高いもうひとつの理由は危険な仕事だったことです。
戦前は、ひと川流すごとに三人、五人と亡くなったこともありました。中石へモッコといって材木がひっかかっているときなど、一本木で乗り込んだりすると、前の方へ乗っているので、ずうっと潜水艦みたいに沈みこんで行って、着いたとき、チラチラッと向うへ走って行く。これが間違うと木の下へ潜って出てこれなくなる。
 吸い込まれたら相当泳ぎの達者な者でも、村木の下でお参りしてしまうわけです。だから、落ちこんだら、精一杯下まで行って、材木のない所まで行って頭をあげないと、材木の下になって死んでしまうんです。そういう命がけの仕事でした。
 朝一番に、ドブ酒を一台か二合飲んで仕事をする。唐辛子を焼いて闇に浮かして、ぐっとやる。加減を知らんと飲み過ぎてドブンと落ち込んでしまう。戦前に、ひと川で「今年は二人で済んだのう。三人ぐらいだったのう」というようなことで、今の交通事故みたいな死に方をしていたらしい。土地の人を「地家の人」と言いますが、一本木に乗るようなことはようしなかったもんです。
 大木のときなど、材木が狭い川の中で詰ってしまうと、バイズナというシュロの三分ぐらいにのうたやつで人間をくくって、岸の両岸から人間をつり込むんです。材木を崩しとるのを上流から村木が押しかけて来たら、両方からしゃくりよったが、あばら骨がばりばりっと言いますよ。「とび切り」という者が、そうした命がけの仕事をやるのです。そうした仕事を見ていて賃金を決める不参回りの制度などは、現在の会社などにも取り入れられると思います。

 朝、夜が明ける時分には現場へ行って火をたいて、夜が明けたら仕事を始めるんです。
日が暮れての先が見えんようになったら「届ぬかのお」というて帰る。朝は三時半に起きて、行って、火をたいて、鳶の先とかトンコの先とかツルの先を鍛治屋代わりに自分でやって、夜が明けるのを待って仕事にかかる。今の労働基準法みたいなことはなかったです。賃金は、だてにもろうとるのでないというのは、常に頭に置いとったです。
 夜の夜半に、ちょうど手ごろな水じゃけん、何とかせんかとか、それに発電所がある関係で、水が、材木流す手ごろなときが夜の場合と昼の場合と、また春先と冬とも違うんです。どんなに昼のカンカン照りの良い天気で、仕事をしたいと思っても、四花(四国電力)さんが断水しとったら水の流れが少なくで仕事になりません。その時には、昼寝しょっても良い。ところが夕方とか、朝早くでも、ダムから水が出た場合は、どんどん流さないかんという具合です。


管流しは、漆川の猫坊の浜がひとつのゴールでした。
ここに集められて筏に組まれます。川幅百mあまり両岸の岩にはローブをくくる太い留め金跡がいまも残ります。管流しの木材を受けとめるため、両岸の留め金の間にロープが張られ、そのローブに沿って村木が一列に結びつけられます。これが網場(アバ)です。筏師は網場の中で材木を集めて筏に組みます。11月から3月までの間の作業で、朝の寒い日でも筏師たちの勇ましい掛け声が猫坊の川から流れてきたと伝えられます。
私らの仕事は、バラ流しとか管(くだ)流しとか言って、その後は白地や猫坊などで筏を組んで徳島へ流すわけです。大体は、材木を流して来た者が、夏仕事に筏流しをやんりょったです。水量がありますと二日、穴吹で泊って行くんです。ちょっと水が出たら一日で徳島へ着きよったです。筏を宵に組んどいて、朝ちょっと早よ出たら一日でした。ハイタというて、端寸の板で、手元持ってこいで行ったんです。白地が主体です。筏流しは、中西、白地など三好橋から下が筏流しというわけですが、猫坊辺の人も行っとったです。

網場での筏組
網場での筏組
 集材組合っていうのがありました。あれは、大水に流れた流材を集めて保管して、拾得賃(保管料や用地費)を取る組合でした。
流村主は金を払って、また川へつけて流していく。自動車の入る所は自動車で積んでいったものです。一例をあげると「一本ここへかかっとるから損害十円払いましょう。」と言うと、「そりゃ困る、うちは十円もらいとうてしとるんじゃない。一晩中かけまいとして、つき放しつき放ししょったんじゃけど、力つきて帰んて来た後へかかったんじゃ。つき流した一晩の賃金をくれんかったら渡さん。」ということになる。
 材木を買うた方が安くつく場合もあるが、刻印を打ってあるので会社のメンツで受け取るということになる。河原にソネという名の石グロがあるが、あれが集材組合がこしらえたものです。集材の収入を白地のお宮へ寄付したとも聞いています。(中略)
  管流し中に洪水で木材が漂流した時には、どうしたのでしょうか?
その時には、所有者は流れた木材を取得した人に収得料を支払って引き渡してもらいます。
明治41年の三縄村役場文書によると、受渡しには世話人があって、出水の高低により取得料が定められています。収得料には一定した標準はなく、低水には長さによって一本につき一五銭より、中位は20銭前後、最高位は30銭ぐらいと記されています。沿岸住民は、このため出水時には夜を徹し、時には組を作り、舟を出して漂流木材を拾いをして稼ぎとしたようです。

筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門
附近を下る筏(徳島県立文書館蔵)
 私が最後に池田まで流送したのは、昭和24年でした。
そのころから、時代が変わりはじめ、早明浦に橋がかかり、どんどん道路が吉野川の奥に伸びていきました。これでは陸送に勝てん、村本流をしょったんでは食えん時代だなと考え、昭和25年の暮からトラックの助手をして、26年に自動車の運転免許をもらいました。
 一日に二万円ももらっていたのに、三〇〇〇円のトラックの助手になったのは大変なことでしたが、やはり流送というものの見通しが全く立たなくなったからでした。それに、年齢のいかないうちに免許を取っておかないとと考えたわけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと
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荷馬車2
馬車   
前回は、讃岐との境の猪ノ鼻峠越えの牛荷馬による輸送について見ました。今回は祖谷街道の馬の荷車引きを見ていくことにします。まずは、荷馬車をとりまく背景を、池田町史909Pで見ておきましょう。
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池田町周辺の荷馬車数の変遷

ここからは次のような情報が読み取れます。
①三繩・佐馬地村ともに、日露戦争後に荷馬車が普及した
②これは馬の大型化と道路整備が急速に進んだことが背景にある。
③大正末期がピークで、それ以後は三縄村でも減少
④大正末から昭和にかけて増加しているのは、土讃線建設による資材運搬の急増が考えられる
⑤昭和になってから急減するのは、土讃線開通後の「運輸革命」による
⑥それでも昭和10年ごろまでは荷馬車とトラックは並行して利用されていた
それでは「池田町史下巻1143P 祖谷街道の荷馬車引き」を見ていくことにします。
回想者は、明治31年11月1日生まれで、聞き取り調査時点で83歳の男性です。
前略
 大正10(1921)年、24歳の時に大利で家を借りて、一年ほどは炭焼きに行きました。そのあと自分で山買うて、自分で窯ついてやりました。そのころは白炭でしたが、山買うて炭焼いていては金儲けにはならんのです。そのうち、①四国水力の隧道工事の土方に雇われて行ったんです。土方をして二百円貯め、それで②馬と車を買うて祖谷街道の馬車ひきを始めたんです。
上鮎食橋東詰 阿波沢庵の出荷
上宍喰橋 沢庵樽の出荷(徳島県立文書館蔵)
 約二十年馬車ひきをやりました。車は、四つ車で前の車が小もうて、車の軸が自由に動くようになっている。後車は大きくて車台に固定し、四つとも車には鉄の輪を入れとって、手木がついていて、これを馬の鞍につけるようになっとる。後の車が三七貫あった。台も三〇質はあった。前車も十四、五貫ぐらいはあった。荷物は、鉄の輪だと三百貫ぐらいのもんです。
三繩発電所

祖谷川は両岸にけわしい断崖絶壁が立ちふさがり、人馬の往来を許しませんでした。それが明治30年頃になって、祖谷川沿いに車の通る道路を通そうとする気運が関係三村の間に起り、大正9(1919)年3月に全線が開通します。
祖谷街道看板

 白地―中西―大利―出合―一宇―善徳―小島―和田―京上―下瀬―落合―久保
 総延長 12里28町55間(約50km)
 工費総額 420,209円
 内訳 県費補助金  108,969円
    郡費〃  51,255円
    三縄村費   116,512円24銭
    西祖谷山村費 57,460円48銭
    東祖谷山村費 79,012円28銭
祖谷街道建設三ヶ村契約書
祖谷街道建設三ヶ村規定
 この新道の開通によって祖谷川流域の住民は峠越えをすることなく容易に出合に出ることができるようになります。同時期に土讃線も伸びてきます。つまり祖谷山に「運輸革命」がもたらされ、モノと人の流通量が飛躍的に増えます。これに拍車をかけたのが交通事情の大幅な改善を背景に、水力電源開発計画が進められたことです。
三繩発電所2
 四国水力発電KK(多度津本社:社長景山甚右衛門」の年表を見ると、1910(明治43年)に増大する電力需要を賄うために、三縄水力発電所の建設工事に取りかかり、翌年には完成させています。これを皮切りに祖谷川周辺では電力開発事業が進められていきます。①「四国水力の隧道工事」②の「馬と車を買うて祖谷街道の馬車ひきを始めた」というのは、以上のような「交通革命 + 電力開発」が進められる時期と重なります。
築地コンクリート工業のパイル管運搬
荷馬車 築地コンクリート工業のパイル管運搬(徳島県立文書館蔵)
続いて荷車をひく馬についての回想です。

 初めに買うた馬がオゲ馬(おくびょう馬)でひっぱらんで困りました。家内が、「何とか金は工面するけん、強い馬買うて来なはれ」言うて、四八〇円ちゅう錢こっしゃえたんです。里から借ったんか、娘のときからへそくりしとったか。それで、ええ馬探したら、徳島の近くのハタ(現在所不明)という所にええ馬居るちゅうて、馬喰の大下さんに頼んで四八〇円で買うてもろたんです。その馬は、結局四年しか使わなんだです。日射病にかかって死にました。仕方がないんで、これに負けん強い馬ということで、火傷しとったが良い馬を、大下さんに頼んで徳島から買いました。一六〇円でした。ところが、この馬も出合の奥の壁というところで殺しました。
 ③四国水力のトランスホーマーという重い機械を石井運送店から頼まれて運んどったところが、馬が後へのした拍子に、急な坂道じゃけん車が後もどりして、狭い道をはずれて、機械積んだまま、馬もろとも下の川へ落ちたんです。山鳴りがして落ちました。

祖谷川出合発電所
      出合発電所(三好市池田町大利 大正15(1926)年10月完成
③の運んでいたトランスホーマーは、時期的に考えると出合発電所のものだったと推察できます。工事のために、多くのモノと人が流入し、運送業も好景気だったことがうかがえます。
 あのとき、車ひきやめたらよかったんですが、また、方々借銭して馬と買いました。
ところが、その馬が、四本のうち三本まで足を痛めて、世話するのに困りました。治療して伊予へ持って行って二〇〇円に売りました。二〇年の間に馬六頭使いましたが、馬は生き物ですので苦労しました。暴れたり、かみついたりする馬もありました。そんなのは、そのときにがいにひつけ(せっかん)するんです。がいにしばいてしばっきゃげるんです。そのときすぐひつけせな癖になる。
 そやけど、馬は利口で可愛いもんです。商売道具でもあるし、ふけ取ってやったり、足洗ってやったり、精一杯大事にしてやります。馬屋の中へ、乾いた草やわらを入れてやると、すぐ、まくれまくれしてな。あれで疲れがとれるんですな。
荷馬車1

回想録には、祖谷と池田を結ぶ輸送サイクルを、次のように述べています。
A 1日目 自宅(大利)から池田へ行って荷物を積み、大利まで帰って来る。
B 2日目 大利から西祖谷の一宇まで行って泊る。
C 3日目 落合まで行って泊まるんですが、途中、荷物を配達しながら行くんです。
D 4日目 さらに久保まで行って荷物を配達し、下げ荷と言うて、村木や、三塁などを積んで泊るんです。
E 5日目 久保から一宇まで下り、
F 6日目 一宇から大利までが一日
6日目に大利へ帰りつくことになります。その翌日は、また池田へ荷を積みに行くわけです。6日サイクルで祖谷街道を往復していたことになります。
祖谷街道 出合橋
              祖谷街道の入口 出合橋 
池田から積む荷物は、四国水力の機械やセメントのように、石井運送店などから特別に依頼されるものもあるんですが、上げ荷と言うて、商売人が注文受けて送る荷物がおおかたです。肥料、米、味噌醤油、干竹からあらゆる食料品、雑貨などです。
 そのころの道路は狭かったし、舗装はできとらんし、金輪(かなわ)の筋が入って、よけ重かったですわ。雨の日は仕事ができんが、降りやんだらいご(動)ける。雪があったらなかなか動けん。車も重いし、馬の足に雪がついて通れんのです。車を川へ落とすやいうことはめったにありませんが、荷物ころがしたりは時にありました。でも、これは荷主さんが損ということです。四川水力のトランスを落としたときは石井将太さんが弁償してくれた。
 宿屋へ泊るときは、馬宿というのが別にあった。
そこでは、ちゃんと馬屋こっしゃえとった。出台の奥の南日浦にもあったし、一宇にも、眠谷にも、そこここに馬宿がありました。車に飼葉桶をつけて、休むときにも、宿についても、まず馬に水や飼葉をやります。馬が好きなのはそら豆で、玄麦や粉やわらをまぜて食わす。そら豆一日に六升ぐらい食わすんです。馬だけでも大分いります。

祖谷渓絵葉書 祖谷街道
祖谷街道 大宮谷附近
 賃金は、大正十年ごろで一日三円でした。
このころ人夫の賃金は最高で一円、普通は七十銭か八十銭でした。人賃の三倍以上ですが、馬糧に大分とられる。それに雨や雪が降って、ひとつも引けなんだら、自分も泊まらないかんし、馬にも食わさないかん。宿賃が七十銭もいるんじゃきん、祖谷へ行って雨や雪が降って滞在したら大けな借銭してもどるんです。馬も向こうの家で買うたら高いし、宿銭も払えんのじゃ。
 それに、馬が死んだり、病気したり、車がめげたり。税金もとられるし、罰金もとられることがある。裸で歩いてはいかん、車に乗ったらいかんいう規則があってな。車に乗っとて巡査によってはこらえてくれて人もあったが、五円とられたこともある。

祖谷街道の荷馬車
祖谷街道の荷馬車
戦争がはげしくなったころ、馬の微発があって、私も追うて行きました。
夜の十二時に三好橋に集まって徳島まで十五、六頭で行きました。一五〇円で買いあげてはくれたんですが、また金足して買うわけです。戦争の終りごろ、池田の建物疎開のとき、壊した家の古材を一週間ほど島の川原へ捨てに勤労奉仕しました。私らは金光さんに泊って、馬は池田のホームにつないで一週間ただ働きでした。
 車引きは、私が始めたころからしばらくが最盛期で、そのころ、六十五頭おりました。池田にもようけおったし、出合、大利、川崎、それに祖谷にもおりました。祖谷街道馬車組合を作っていましたが、新年会を清月でやったり、親睦が主だったです。荷馬車も、ゴム輪になって、荷物が倍の六百貫ぐらい積めるようになったり、楽に運べるようになってきたんですが、昭和十何年ごろからトラックが祖谷に入るようになったんです。
   何とかいう人が初めてトラックで入って来たときは、荷物とられるっていうんで邪魔しました。我々の生命線を守れ言うて、一宇では自動車の前に大の字になって寝た人もありました。けんど時代の波には勝てまへん。だんだん荷馬車が減っていって、仕方なしに、自動車には道をよけてあげるということになりました。
 戦争が終わったのをしおに車引きをやめました。二十幾年車続けましたが、貧乏から抜け出せませんでした。
トラック輸送については、次のような新聞記事があります。
昭和初期のトラック 阿波池田通運
 
昭和に入るとトラック輸送がはじまり、徐々に後退していきます。トラックの出現は荷馬車従事者の生活を脅かすとして、県にトラック営業不許可を陳情しています。

祖谷街道4
祖谷渓谷
大正時代の祖谷街道の出現の意味を整理しておきます。  
「明治17年 「徳島県下駅遞郵便線路図」(三好新三庄村投場所蔵)には、次のように記されています。
徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。
これが祖谷街道完成後の大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞も、その日の午後には読めるようになります。昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。
明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
祖谷街道によって祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります。
戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は脇町から、池田へと比重を移します。その結果、昭和25年1月1日には、祖谷地方は美馬郡から三好郡へと編入されます。そして、平成の合併では、三好市の一部となりました。ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻1143P 祖谷街道の荷馬車引き
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池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

池田町史の下巻には、明治・大正・昭和を生きた町民の回想録が載せられています。これは約半世紀前(1980年頃)に収録されたモノで、私にとっては興味深いものが数多くあります。また史料的にも貴重です。その中からいくつかをアップしておきます。
 まず牛車の普及状況について見ておきましょう。
牛車の普及 池田町
  池田町の牛車 池田町史上巻907P
この表からは次のような情報が読み取れます。
①徳島県内の牛車は、明治26年ごろから増加し、 大正13年~昭和初期頃がまでが最も多く、以停は減少した。
②牛車増加の背景には、四国新道によって基幹道が整備され牛車が通行できる条件整備が行われたこと
③牛車減少は、昭和初期から土讃線整備が進み「運輸革命」が進展したこと。
④三繩村周辺は、後背地が広く、傾斜のきつい道路が多く、牛車が残ったこと

それでは猪ノ鼻越の馬車引きを30年続けられた伊丹久平さん(明治23年5月1日:聞き取り時点で91歳)の回想録を見ていくことにします。(一部、読みやすいように改変)

二軒茶屋コース
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 荒戸
前略
大正元年に台湾で除隊し内地に帰り、それから馬と牛を相手に暮らしました。
わしの親父は、讃岐から米買うて、池田へ運んでいました。わしも若いしになったころは、親父の手伝いをしたもんです。①明治22年までは猪ノ鼻街道(讃岐新道)が抜けとらなんだ。そのため馬を追うて船原へ上り、②二軒茶屋を越してアラト(荒戸)という今の財田駅のあるあたりへ降りる。朝の三時ごろ、州津を出たら、朝が白みかける6時ごろアラトへ着き、③馬に三斗負わせて、自分は一斗担いでもんて来る。そして昼飯食うて池田へ売りに行くんじゃが、わらじも作らないかん、馬の靴も作らないかんし、二日に一回ですわ。その二日で25銭儲かる。四斗で買うたもんを四斗で売るんで、升を上手に計っても茶碗一杯出るか出んかで、駄賃が25銭ですわ。こんなことした人は、もう皆死んでしもうたわ。牛の靴作れる人はあるかわからんが、馬の靴作れる人間は、わししかないだろうな。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①②からは、猪ノ鼻越の四国新道が抜ける以前は、船原→箸蔵寺→二軒茶屋→財田荒戸経由で米が讃岐から入っていた。
③からは、馬に三斗、自分で一斗、合計四斗で25銭の儲けになっていた。
ここからは財田荒戸には、阿波への米の集積店があったことがうかがえます。

四国新道が猪ノ鼻峠を抜けるまでの経過は次の通りです。(池田町史892P)
明治19年3月10日に高知県、3月25日に池田小学校、4月7日に琴平神事場で起工式。
明治19年春、東州津赤鳥居に県土木出張所が設けられ、浅谷付近の雑工事竣工
明治20年春には、落まで開通、
明治23年に猪ノ峠の掘削工事竣工し、香川県財田に通じた。
新道完成後すぐに、猪ノ鼻街道を利用するようになったのではないようです。回想録には次のように記します。
大正元年、馬車引きを始め、やがて馬を牛にかえて猪ノ鼻から荷を運ぶようになりました。
馬は足は速いがよくおぶける(驚く)んです。キン(睾丸)は抜いとるんですが、おぶけて走ったら馬が死ぬか人間が死ぬか、それでなくとも荷物は転落するし、危険が多いんですわ。それで牛車に替えたんじゃ。
大八車を引く牛
大八車(別名:天秤) 
大八車の名前の由来については、次のような説があるようです。
①一台で八人分の仕事(運搬)ができるところから(代八車)。
②牛の代わりに八人で動かすところから(代八車)
③車台の大きさが八尺(約2.4m)のものを大八と呼んだ
④芝高輪牛町の大工八五郎が発明した。
全国的にも運送車といって、大型の大八車を牛や馬に引かせて、運び賃をとって荷運びをしていたところが各地にあったようです。回想を続けて見ていきます。
牛車いうても大正10年ごろまでは、二つ車の天秤という大八車の大きい奴ですわ。大正10年ごろからは四つ車になって、荷物も三百貫ぐらい積めました。 讃岐の米を阿波へ運ぶんですが、ここの浜から米俵一俵一七貫を井川や池田まで運ぶんが三銭、川口までだと十銭です。池田へ行ったら、あすこ持って行け、ここ持って行けって、配達までするんです。それで三銭です。一五俵積んで、川口まで行って一日一円五〇銭ですな。
 猪ノ鼻から運んで一円八十銭くらいになる。ところが猪ノ鼻へ行っても荷のないときもありました。くじ引きで当らな荷がないんです。それに大具の渡しの渡し賃が一車二五銭とられる。
そやけんど一円五〇銭いうたら当時の人夫賃の三人前以上ですわ。そのころは土方人夫が四〇銭、職人が五〇銭です。米一石が一二円で人夫貨は米三升といったもんです。一円五〇銭
と言えば米一斗以上です。 でも毎日毎日一円二〇銭はなかなか取れん。それに牛は米六石(七十円ぐらい)、馬は米一〇石と言われるぐらい高いんです。田(一反)は米三〇石、畑は麦三〇石と相場です。阿波池田からの荷物は、専売所の煙草が多かった。

四輪車を引く牛
牛の曳く四輪車
州津の人は他に仕事がないきん、牛車買える者は牛車引き、そうでない者は土方でした。
それも昭和4年に土讃線 が池田までが開通すると、荷物がばたりと止まりました。その後はカン木って、薪を運んだんです。個人の家では女子衆が薪しましたけん、酒屋や醤油屋、うどん屋などへ薪運ぶんですわ。そのうちにトラックが入って来まして、仕事がだんだん無くなりました。四つ車では三百貫ぐらい、トラックやったら四〇〇貫積めるし、牛車で一日かかるところが一時間で運べますわ。それでも、ぽつぽつやっていましたが、昭和15年ごろやめて百姓することになりました。 息子は一人戦死し、手元に残って鉄道に勤めていた息子も死んで、長女と末っ子が残っています。長女が今年七三歳になります。
考えてみると、わしの親父は、うもないもの食べて働きづめで死んでまことに気の毒じゃった。わしは親父と違うて、ええ時代に回り会うた。今は孫がアーンと泣いたら、そらそら言うて抱き上げる。昔の殿様の若様じゃ。
 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①四国新道開通後には、二軒茶屋経由から猪ノ鼻越にルート変更があった
②道が整備され、馬の背から牛が曳く大八車にかわり、後に四輪車にグレードアップした。
③猪ノ鼻峠に中継所ができて、讃岐側が運び上げたものを、阿波側に運び下ろすスタイルになった。
土讃線が財田まで伸びてきたのが1923年になります。この時点では、財田駅が土讃線の終点で、人とモノはここで降ろされ、猪ノ鼻越を目指しました。そのため財田駅の駅員は50名近くいて、荷物の扱いにあたっています。この時期が猪ノ鼻越の人とモノの量が最盛期だった時期です。それが昭和4(1929)年に土讃線が阿波池田まで開通すると、人とモノ流れは劇的に変化します。
 
猪ノ鼻峠2
猪ノ鼻峠                                  
猪ノ鼻峠3
かつての猪ノ鼻峠

次に明治34年生まれ(収録80歳)の方の回想「猪ノ鼻峠の運送と馬喰  池田町史下巻921P」を見ていくことにします。
(前略)
わしの家では、二反半に畑二反ぐらい作りよったが、それでは食うて行けん。それで、おやっさんは馬で荷物を運んどったんじゃ。馬買うて、讃岐へ米運びに行っきょった。阿波には米が無い。讃岐には米がようけあるきんな。明治20年代までは、猪ノ鼻の道が抜けとらんきに車が通れん。そこで船原へ上って、箸蔵時から山の峰を通って二軒茶屋を通って財田の戸川へ降りる。そこで讃岐で米買うて、馬に三斗負うせて、自分が一斗かたいで、夜の12時ごろもんて来る。早う出ても、帰るんは夜中になる。そのあくる日(翌日)、渦の渡し舟にのって池田へその米を売りに行く。一番上の姉が口取りに一緒に行くんじゃ。姉が馬の口元持っとる間に、おやっさんは米を運んだり注文取ったりした。姉が16歳で明治30年ごろのことじゃ。姉がよう話しとったわ。私は八人兄弟のおと子(末子)じゃ。
牛の曳く大八車
大八車を曳く牛 
猪ノ鼻街道が抜けると、近くの人はいっせいに車をこしらえて、牛車になった。
二つ車(天秤大八車)で、車の幅が四寸あって、四分か五分の厚さのかね(鉄)を巻くんじゃ。高さ(車の直径)が「ごに(五二)」いうて二尺五寸ある。「ごこう」いうて中心から、木が車の枠まで御光のように出とる。大八車のような形をしていて、米俵が二十俵から二十五俵ぐらい積める。一袋が十六貫六、七百ある。二五俵とすると四百貫以上になる。車が二つじゃきん、前と後がつり合わないかん。天びんじゃ。そして、それに懸けるんじゃ。
   讃岐に米の商売人が五、六人おって、阿波へ注文取りに来る。
百姓の家では、米はよけ食わん。麦一升に米一合か二合しか入れんのじゃ。讃岐の商人は池田の町人や酒屋が得意先で、注文取って帰って米を買い集めて、水車でふんで(精米して)、讃岐の車引きが猪ノ鼻まであげるんじゃ。これを「上げ荷」言うとりました。猪ノ鼻には運送店があって、一袋にいくらか口銭をとってそれを扱う。阿波の車引きは、この荷物を阿波へ選ぶ。これを「下げ荷」言うとった。下げ荷に一五人も(猪ノ鼻に)行ったが、荷が十人分しかない時は五人は仕事にあぶれることになる。が、翌日も行かな権利がなくなってしまう。荷物も、川口の酒屋とか、辻、池田と行先も違うので、くじで決める。くじはホービキという、かたい紙ででこっしゃえとるんじゃ。州津にも、大北と安藤という二軒の問屋があって、阿波からへ行く荷物を扱っとった。そこへ行って荷物があったら、猪ノ鼻まで積んで行く。そんなときは朝早く出ないかん。けんど、下げ荷と言って、わざに昼から行くことも多かった。
 わしが十九のときこんなことがあった。葉たばこが猪ノ鼻の運送店へかかって、池田の専売局へ送ることになった。「六貫の丸」というて、こも(薦)に包んである。米五俵の上に「六貫の丸」を、天びんの車に二十積んで、猪ノ鼻から帰りよった。讃岐からの荷物が遅うなって、猪ノ花で暗うなった。七、八町も下りた所で荷がくずれて積みなおしとった。十人くらい行っとったが、みな先に行って一人だけになってしまった。すると、今下りて来た猪ノ鼻の方から「がじゃがじ」と大きな妙な音が近づいて来る。すかして見ると、何と大きな象じや。足に鎖がつないである。矢野というサーカス団が、讃岐から高知へ行くのにを豬ノ越しに歩かせていたのじゃ。 
大正9年19歳のとき、天びんから四つ車に替えた。
ちょうど池田に煙草専売所が建っとったんで、仕事はようけあった。猪ノ鼻へ行かんでも、砂、バラスを、吉野川の河原から西井川の須賀の道路へ上げているのを、一日に五回ぐらい専売所へ運んだ。
 牛車ひきの賃金は、人夫の三倍というのが標準だった。そのころ、人夫の賃金は一円ぐらい。車引きは四円五十銭儲かった。そのころ、時計買うたんじやが九円だった。車ひきの二日分の賃金で、人夫氏の六日分ですわ。猪ノ鼻までは一俵で三銭五厘じゃった。州津、落、船原、中尾にかけて車が五十五台あった。
 兵隊から帰って、また百姓と車ひきじゃ。大正の終わりごろから土讃線の工事が始まり、坪尻へ砂、バラスを運んだ。一日に二回いった。賃金が一日4円20銭じゃ。昭和に入ると不景気で、それまで一貫目六円ぐらいしとった繭が二円になった。琴平銀行がつぶれたりしたが、鉄道の仕事は昭和四年ごろまで続いた。
昭和四年に土讃線が開通し、運送の仕事も少なくなったんで、牛馬商の資格を取って、ばくろうを始めた。この辺の車ひきもみなやめた。車を置いとったら税金かかるんで、みな売り払った。
たくあん用大根干し作業 徳島県立文書館
沢庵用の大根干しと牛車(徳島県立文書館蔵)

つぎの回想録は、戦後に中国から引き揚げてきて自動車輸送を始めた人のものです。(1101P)
 昭和二十一年一月の旧正月ごろ三縄へ帰り着きましたが、防寒や下着など今も保管しています。帰ってまた商売始めたんですが、自動車使って運送商売したんは、わしやが早い方だったです。三輪の新車で手木のハンドルでした。五百㎏積みの小まいやつで、十四、五万したと思います。免許証とったんは昭和二十六年だったと思うが、それまではぬけで走りぬいたです。試験は徳島であったが、向うに検定の車がないんで、こちらから乗って行って、その車で試験受けたんですよ。無免許で乗って行っても、それで通ったんです。
 
川島の渡し
川島の渡船に乗る三輪自動車
自転車や荷車と違うて、早くてようけ荷物運べるから、商売はしよかったですな。そやけんど、三輪や言うても、今のと違って弱かったです。猪ノ鼻越えるのに一、二へん止まってエンジン冷やさないかんのです。空冷のエンジンじゃきん十分くらい止まって、団扇であおいでやるんです。エンジンかける時にもようケッチン食うて痛かったでわ。車も頂々に良うなったけんど値段も上ったです。
 終戦後しばらくは統制で苦労したが、まあ乗り越してきました。二人の男の子も、池田と大阪でそれぞれ独立しとります。隠居というわけではないが、孫も三人できて、安心です。
 三人の回想録から分かることを整理しておきます。
①明治22年に猪ノ鼻越えの四国新道ができるまでは、二軒茶屋ルートが物流の主流だった。
②阿波の米を馬の背で運ぶ運送人が箸蔵には、何人もいた
③四国新道ができると、馬の背から牛が曳く大八車に主役が交代し、輸送量も飛躍的に増えた。
④讃岐から猪ノ鼻峠までの輸送を「上げ荷」、猪ノ鼻から池田までの輸送を「下げ荷」とよんだ
⑤米だけでなく煙草などの商品も活発に運ばれるようになり、大八車から四輪車へ移行した。
⑥昭和4(1929)年に、土讃線が池田まで開通すると人とモノの動きは、劇的に変化した。
⑦猪ノ鼻峠を往復する牛車は、薪運びなどに限定されるようになった
⑧戦後は自動車が登場し、牛馬は次第に姿を消した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田町史下巻 町民の記録889P
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池田町史に「お話し歴史教材」として、中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活が物語り風に記されていました。それを紹介しておきます。(池田町史(上巻)190P)

応仁の乱が終わって間もない時期。
夫婦と子ども三人の百姓の家庭。
子どもも生産のにない手。
田畑五反ほどを耕作している。
常食は麦で、正月や節句には米も食べる。
食事は朝・昼・晩の三食(鎌倉期までは朝晩の二回)。
おかずは、最近このあたりに作られるようになったウリ、ナス、ゴボウ、
特にコイモ(里芋)は保存がきくので評判がよい。
食器は、木地屋から買った木の棚に並べてある。
父が男の子をつれて山へ狩に行く。兎や猫の肉はごちそうである。

中世になると、新たに開発された谷戸田などでは二毛作が行われるようになります。平地の皿田では排水が難しかったのですが、谷戸田の場合、排水は比較的容易でした。 そのため谷戸田の私有田は、二毛作に適していました。二毛作には、麦と米、麦と豆がありました。山村の焼き畑では、奏と大豆の組合せも早くから行われていたようです。古代の稲作が「かたあらし」という隔年で耕作したり、何年も荒らしておいたりしていたのと比べると、二毛作は農民達により多くの収穫物をもたらすようになります。

 昔(南北朝ころ)は松の枝をたいて明りをとっていたが、今では油をしぼって燈明にできるので明るいし、目に煙がしむこともないと母親はよく昔話をする。燈明に照し出された家の中を見ると、部屋はふた間で、板の間にむしろが敷いてある。この板の間も、父の自慢のもので、村の半数位の家は土間にむしろを敷いている。土間は広く、この土間で父は仕事をし、母は糸をつむぎ布を織る。糸の原料は梶とひゅうじの皮であるが、ひゅうじの皮を集めるのは、弟妹の役目で長男は父の仕事を手伝う。
 土間のすみには①木製の鍬やすきが置かれている。その側に②備前焼の壺が黒光りに輝いている。二、三年前に種物を入れるために、大事にしていた銭を出して、医家大明神の市で買ったものである。種が、いつもねずみに食い荒らされるので、無理をして買ったものである。

①の農具については鎌倉時代には、鉄製の鍬、鎌、馬把などが使われるようになります。
が、それらは貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことが見えて来ます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。

②の備前焼については、鎌倉時代の壺が三好市の馬路・松尾・川崎、白地の各民家に茶壺として伝世しています。
 備前焼の壺は、農民のための種壺や酒壺として焼かれたものです。また、池田城跡の発掘の際も、室町末期の備前焼の破片が出土しています。前回見た阿波と讃岐の交通路であった中蓮寺からも、安土・桃山期の備前焼の鉢の破片が出てきています。ここからは備前で焼かれた壺が瀬戸内海を渡り、財田まで運ばれ、中蓮寺を越えて持ち込まれたことが裏付けられます。

福岡 大壺・高瀬舟
福岡の市で売られる備前焼の大壺(一遍上人絵伝)

惣村の小百姓台頭背景

物語に帰ります。
 最近、もう一つ無理をして買ったものがある。下肥を運ぶ桶である。今までは、用便は近くの川へ行ってしていたが、近ごろでは、どの農家でも屋外に便壺を掘って溜め肥料にするようになり、柚子桶がはやって来た。
 夜なべのないをしながら、父は京都での戦争に連れて行かれた体験を子供に話す。母には③宮座の寄合いのことを話して聞かせる。父は、村の長老である名主が、最近都から取寄せた大鋸の使い方を百姓たちに教えてくれるというので楽しみにしている。
 今まで、板を作るのに、木を割ってヤリガンナでけずらねばならなかったが、近ごろ挽鋸と台ができてが安く手に入るようになったと聞いていたが、その製材用の大鋸と台を名主が手に入れたのである。父が楽しそうに話しているのは、新しい道具への期待だけでなく、寄合いの後で行われる酒盛りであるらしい。お面を被って踊ったり歌ったり、夜更けるまで酒盛りは続く。父は、秘かにその様子を想像しながら話し続ける。夜なべ仕事の手を休めることもなく。
 15世紀後半の応仁の乱以後)は、「惣」の組織ができ、その団結の核となったのが社寺です。神社に集まって、同じ神事を行い、同じ神社の氏子として、共同体としての意識を強め、時にはお神酒を飲み団結を誓いあいます。一味神水の行事などもその一つでした。田井ノ荘の社寺がどのような状況であったか、記録や古文書は残っていません。ここでも「惣」を中心とする、村落の祈蔵寺が形成せられていたと研究者は考えています。

室町時代になると地域毎の特産物が登場し、流通経済に乗って遠くまで運ばれて行くようになります。

室町時代の特産品

池田町史には、田井の庄の特産物として次のようなモノを挙げています。
山村は平野部に比べて、耕作地が少なく生産力が低いという先入観が私にはありました。しかし、山村でないと手に入らない特産品がありました。それが次のようなモノです。
  A 荘内に産する砂金
荘内を流れる伊予川(銅山川)、相川が主産地で、馬路川の谷、川崎・大利付近でも産出したようです。砂金の産出は江戸時代まで続き、近代になっても一時、盛んに採集されました。また、古代からの銅山なども各地に開かれていたようです。金や銅以外にもさまざまな鉱山資源を産出していたことがうかがえます。
B 漆川の地名が示すように、漆は三縄の山分で多く産していました。
漆川の古名は志津川ですが、この地名が漆川に変わったようです。応永年間は志津川と表記されていて、江戸時代に入ると漆川となっています。ここからは戦国時代には漆が多く作られ、大西氏の領内特産品の一つになっていたと研究者は考えています。
 C 紙の原料である楮(こうぞ)は、荘内山分の特産品でした。
中世には、衣類は楮を原料とする太布織が中心で、田井ノ荘の山分で生産されていました。阿波の太布織は京都へも送られた記録が残っています。布は、麻が好まれたようですが、この地方は太布の産地だったので太布を人々は着ていた可能性があります。養蚕も三木文書(美郷村)に見えるので、田井ノ荘でも行われていたようですが、製品は調として都へ送られたのでしょう。
D 三好郡は、古代から良馬を産することで知られます。
美馬郡(含三好郡)の名もここから生まれたとされます。宇治川の先陣争いで有名な名馬の生月は井内谷の生まれであると『阿波志』は記しています。池田地方でも牛馬の飼育が行われていたことがうかがえます。
E 吉野川を通じて木材が大量に下流に流されています。これらは撫養から堺などに運ばれていたようです。
以上が田井庄の特産物で、これらが大西氏の財政基盤となったことが考えられます。三好氏に従って畿内に遠征し、長期間滞在するには財政基盤がしっかりしていないとできません。 

これらの特産物が登場すると、それを生産する農家にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
 農村に富が残るようになると、いままでは都周辺で活動していた鍛冶犀とか鋳物など職人たちの中には、戦乱を避けて地方にも下ってくるようになります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが豊かな村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
これは広い視野から見ると、京都中心の求心的で中央集中的なシステムから、地方分権的な方向に姿を変えていく姿です。そういう中で、守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしていくのです。いままでの荘官や地頭は、中央の貴族、寺社、将軍などに仕えなければ、自分の地位そのものが確保できませんでした。それにと比べると、おおきな違いです。田井の庄の大西氏もこのような中で、大きな勢力へと成長して行ったことが考えられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史上巻190P お話し歴史教材 中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活



秋がやって来たので原付ツーリング兼フィールドワークを再開しようと思って、その「調査先」選考のために阿波池田町史を読んでいます。その中に中世の中蓮寺のことが載せられていましたので読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは「池田町史220P 中蓮寺」です。

中蓮寺峰 香川用水記念館から
中蓮寺峰(財田の香川用水記念館より)
 ウキには中蓮寺峰について、次のように記されています。

 香川県と徳島県の県境にある山で、雲辺寺山から猪ノ鼻峠まで若狭峰(787m)と共に延びている峰である。平安時代に雲辺寺の隠居部屋として創営されたと云われている中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置にあった。しかし、戦国時代に長宗我部元親が阿波国に進攻した際に寺は焼撃ちに遭った為、現在は存在しない。中蓮寺峰の山名はこの寺の名前を戴いたものである。
  
中蓮寺越 

中蓮寺越の道(四国の道説明板)

私の今の関心のひとつが「中世の山林寺院と修験者」です。そういう視点で中蓮寺を見ると、この寺は東の中寺廃寺・尾背山と西の雲辺寺を結ぶ位置にあったことになります。中世の山林寺院は、孤立していたのではなく修験者や熊野業者・高野聖など廻国の宗教者によって結ばれネットーワーク化されていたことは以前にお話ししました。その例が尾背寺と萩原寺・善通寺の関係でした。そのネットワークの拠点の一つが中蓮寺ではないかというのが私の仮説です。
池田町史220Pには、中蓮寺について次のように記します。

この寺には、次のような話が伝わっている。①中蓮寺は雲辺寺の隠居寺で、雲辺寺より格が上であった。②本尊が金の鶏であったので、下野呂内地区では大正の初めごろまでを飼わなかった。廃寺になった原因は、猫を殺した住職がそのたたりで相ついで変死したためである。③七堂伽藍のあった立派な寺院であったが、④長宗我部元親の焼討にあって廃寺となった。⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門であった。

上のような伝承はありますが、それを裏付ける古記録や古文書は残っていないようです。 ここで押さえておきたいのは「中蓮寺は雲辺寺の隠居寺」であったということです。雲辺寺のネットワーク下にあったことがうかがえます。また、「⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門」とあります。相当に広い寺領を有していたことがうかがえます。
現在の三好市は田井の庄という広大な荘園で、その庄司が大西氏でした。この下野呂内も田井の庄に組み込まれ、白地城の大西氏の支配下にあったと研究者は考えています。それは近くに大西神社が鎮座することからも裏付けられます。

中蓮寺峰と金の卵

ここには中蓮寺の御神体が金の鶏であったので、下野呂内地区では鶏を飼ってはならないことになっていたことが記されています。寺の御神体というのもおかしな話ですが、当時は神仏混淆で社僧たちには何の違和感もなかったのでしょう。そのため明治の末年ごろまで実際に鶏を飼わなかったといいます。
池田町史下巻903Pには、次のような地元の人の回想が載せられています。

 かしわも食べん。
 昔は時計がないきん一番鶏が鳴いたら一時、二番鶏が鳴いたら二時、バラバラ鶏になったら夜が白んでいて六時ですわ。時を告げ鶏は神さんのお使いのように思とったんでしょうな。卵も食わなんだ。昔は肺結核を労症と言っとったが、労症が家に入ったら三人は死ぬと言われとりました。鶏はその労症のたんをすすっとるから、卵を食うたら労症になると親父からよう聞いた。 牛肉や卵を食わんのは、わしが十七、八になるころ、日露戦争ごろはそうだった。そういう考えのしみ込んでいる人がようけ生きしとりました。

ここからは、「中蓮寺の金の鶏」伝説が深く住民の心に根付いたいたことがうかがえます。下野呂内地区が中蓮寺の強い影響下にあったことが分かります。中蓮寺によって周辺が開発され、そこに人々が住み着いたことも考えられます。
 雲辺寺文書の嘉暦三(1305)年「田井ノ荘の荒野を賜う」とあります。この時に雲辺寺に寄進された「荒野」が雲辺寺の東側の上野呂内だとされます。そうすると、下野呂内も中蓮寺の寺領のような形で、その支配を受けていたかも知れません。
 それでは中蓮寺はどこにあったのでしょうか?

野呂内 中蓮寺跡
三好市野呂内 中蓮寺跡(池田町史下巻446P)

ウキには「中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置」とありました。

旧野呂地小学校に、いまはサウナができていますが、そこから開拓地として開かれた小谷にのぼっていくと三所大権現があります。敷地は二段になっていて、上段に小社が建って、下段は相当の広さの広場となっています。鐘楼の跡とされるあたりには礎石らしいもの、前庭には風化した凝灰岩の石仏と五輪塔が残っています。どちらもおそらく中世のものです。地元では、この付近一帯を中蓮寺と呼んでいます。これらの遺品を見ていくことにします。
中蓮寺跡周辺の遺物について、池田町史は次のように報告しています。

中蓮寺の五輪塔
中蓮寺の五輪塔(池田町史下巻450P)
①神社の庭に凝灰岩の約30㎝の仏像が風化して残されていて、付近には同じ凝灰岩の五輪塔の一部が散乱している。
②明治24年寄進の唐獅子一対と、明治41年の銘ある燈籠一対があり神社風である。 
③約50m下に相撲場と称する地名が残り、ここから幅約5mの参道がつづいている。
④参道両側に松の古木の並木が現在23本残っている。約2/3は枯れて株が残っているが、最近枯れた松の木の年輪を数えてみると350まで数えられたという。約四百年の古木であることがわかる。並木は初め約八十本から百本ぐらいあったものと推察される。
⑤中蓮寺跡の建物敷地に隣接した地点で、土地造成中に弥生式土器の破片と須恵器及び鎌倉期以後(安土桃山時代)のものと思われる備前焼のスリ鉢の破片を出土した。
⑥少し下に、 中蓮寺のお堂があった地点と言われるところがあり、空堂と呼ばれている。
ここからは次のような事がうかがえます。
①の仏像からは、ここが寺院跡であったこと。
②の明治時代寄進の唐獅子燈籠からは、明治維新の神仏分離後に神社化が進められ整備されたこと
③の「相撲場」からは祭りには相撲が奉納され、周辺の村々から人々が集まっていたこと
⑤の備前焼スリ臼については「口縁は、内面の線がびっしりつけられてなく、十条ごとに間隔をあけて引かれており、口縁が三重になっている様子などから安土桃山期のもの」と推定しています。弥生土器も出てきているので、弥生時代から阿讃を結ぶ峠越の交易路があり、その中継地の役割を果たす人々がいたことがうかがえます。
以上を総合してみると、次のルートで人とモノが移動していたことが見えて来ます。

池田→西山→洞草→下野呂内→空堂→中蓮寺→ 讃岐財田

中世に中蓮寺越を通じて運ばれたものとして考えられるのは次の通りです。
A 讃岐財田から池田へ 塩・陶器(備前焼)
B 池田から讃岐財田へ 木地物・太布・茶・砂金・朱水銀
阿州大西(三好市池田町)から讃岐へのルートとして「南海道記」は次の四つをあげています。
中通越  阿州大西より讃州増須(真鈴)へ六里。増須より西長尾へ三里
山脇越  阿州大西より讃州藤目へ六里、藤目より円(丸)亀へ六里
財田越  阿州大西貞光より讃州財田石野へ三里、白地より財田へは六里
海老救越 阿州大西より讃州和田へ三里、和田より杵田へ四里
右の外、山越の道ありと云へども荷馬の通らざる路は事に益なし
この内で中蓮寺越ルートは「財田越」にあたるのでしょう。このルートは縄文人たちが塩を求めて讃岐に下りていった時以来のルートだったのかもしれません。
次に下野呂内の三所大権現に残された棟札を見ておきましょう。
下野呂内 三所神社棟札
下野呂内の三所神社棟札(池田町史より)

社名 三所大権現
導師 箸蔵寺及密厳寺住職
年号 文化元年、文政六年、天保一三年、宝永七年
ここからは次のような情報が読み取れます。
①中蓮寺という名はない。江戸時代には寺院としては退転して、三所大権現に姿を変えた。
②導師を箸蔵寺の住職が務めているので、神仏混淆下では別当寺は箸蔵寺であったこと
三所大権現は、大きい社ではありませんが、明治初年まで相撲や競馬が行われて栄えていたようです。別当寺が箸蔵寺、権別当に箸蔵寺の末寺である密厳寺が当たっています。小規模神社であるため、神官はなく、氏子の頭屋が雑務を処理し、祭りの進行を取り仕切っていたようです。 中西一宮神社・川崎三所神社の棟札にも、遷宮大導師は雲辺寺と記します。池田町内のほとんどの神社は、雲辺寺か箸蔵寺が別当として管理にあたっていました。小規模の神社については、その末寺が権別当などの名で実際の管理にあたっていたようです。
 ここでは寺院が神社を支配し、祭礼にも仏式が取り入れられ、神社で般若心経が称えられていたことを押さえておきます。これは藩の強い支持があったからできたことです。神社側はこれに対して訴訟を起こしていますがすべて寺院側の勝利に終わっています。神社の氏子にこれが無理なく受け入れられた原因は、中世から表われていた仏教の民俗化とそれに伴う神仏混交の思想、さらに、宗門改めなどに見られる寺院の行政的性格の強化があったからでしょう。

中蓮寺の東にあった中世山林寺院の尾背寺(まんのう町春日)は、多くの僧坊がありました。
善通寺の杣山管理センターの役割を果たしていたこと、ここを拠点に廻国の修験者たちが写経をし、次の行場(目的地)目指して旅立っていったことは以前にお話ししました。その時に書かれた経典類が萩原寺地蔵院には残されています。その尾背山の西に位置したのが中蓮寺です。ここも大西氏出身の僧侶達が住職を務めながら、野呂内の開発や、森林管理、交易路修繕などにあたっていたことが考えられます。
鎌倉時代になると守護や荘園の本家や領家が、領内の安定、荘園経営の円滑などを願って、自己の尊ぶ神仏を領内に持ち込んだり、その地方の神社仏閣を修復したりするようになります。荘園が社寺保有の場合はもちろんですが、そうでなくとも、氏寺、氏神として勧請されることが多かったようです。
 例えば阿波守護として名西郡鳥坂城に入った佐々木経高は、承元二年(1208)頃に雲辺寺を再興しています。

雲辺寺千手観音
                  雲辺寺の千手観音坐像
寿永三年(1184)頃に、雲辺寺の千手観音坐像、毘沙門天立像が相ついで奉納されているので、雲辺寺が衰微していたとは思えません。佐々木経高の雲辺寺再興は、それから約30年後のことです。これは自らの守護の役目が十分果たせることを願っての寄進だったと研究者は推測します。
 承久の変の後、守護としてやってきた小笠原氏は現在の池田中学校に池田舘(大西城)を築いてここを守護所とします。そして城の東へ、自らの氏神である一ノ宮諏訪大明神を勧請して、諏訪大明神とします。これが城跡の東に残る諏訪神社です。小笠原氏は、その他にも各地の神社を創建したり、再建したと伝えられます。
 田井の庄の荘官であった大西氏も菩提寺だけでなく、各地域の祈祷寺を建立し、修験者たちを保護しています。大西氏も、村落の信頼を得るために、それらの寺社へ寄進をすることが有効だと考えていたのでしょう。それが支配の円滑化にもつながるので、「必要経費」であったのかもしれません。大西氏は荘内の多くの社寺へさまざまな寄進をし、荘民の信頼を得べく努めています。その例を挙げて見ると
① 一宮、二宮、三宮神社の再建
② 雲辺寺へ鰐口寄進
③ 三好町願成寺へ薬師如来座像寄進
④ 西山密厳寺へ大般若経20巻寄進
⑤ 山城の長福寺、梅宮神社等への寄進
このような寄進をしていることは、「惣」へ強い影響力を保つために、「惣」の信仰する社寺へ寄進をしたと研究者は考えています。こうした寄進を通じて、大西氏の一族は地域に根付いていきます。それを示すかのように、野呂内にも大西神社が鎮座します。
ところが、白地城が落ち大西氏が離散すると、多くの寺々は後援者を失い一挙に廃寺へと追いこまれていきます。
一方、雲辺寺は寺伝によると文禄二年(1593)蜂須賀篷庵(小六)の参拝登山の記事があります。ここからいち早く新しい支配者の支持をとりつけたことがうかがえます。三好町の願成寺は大西覚用の支援を受けて禅宗の寺院として栄えていました。覚用の死後、真言宗に改宗し、庶民の寺として生きかえります。このときに勧進活動を行うのが修験者や聖たちです。ある意味では、修験者や聖の勧進活動なしでは、寺院は生き残れなくなっていたのです。どちらにしても中世後半に多くの寺院が一挙に廃寺に追いこまれたことは確かなようです。
 ここでは新たに支配者としてやって来た蜂須賀家の保護を受けることの出来た雲辺寺は存続し、大西家に代わるパトロンを見つけられなかった中蓮寺は廃寺化したことを押さえておきます。

大西氏離散後の下野呂内
長宗我部元親の白地城占領は無血入城だったとされます。その際に大西一族が逃げ込んだ先として考えれるのが野呂内です。野呂内の伝承に、大西石見守 (大利城主)の弟大西角兵衛が隠れ住み、やがて長宗我部の軍に討ち取られる話などが残っていますが、それに似た事件はあったかもしれません。また長宗我部元親は、西讃に兵を送り込んでいく際には中蓮寺越えを利用したことが考えられます。箸蔵街道が主要街道として利用されるようになるのは近世以後のことで、中世には中蓮寺越が利用されていたと私は考えています。その街道の管理センターの役割を中蓮寺は果たしていたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 下野呂内小谷の戦後の開拓のことが「池田町史下巻953P 町民の回想」に載せられていましたので追補しておきます。
 (前略)
小谷の開拓地には、箸蔵村村長の横野繁太郎さんに勧められて入ったんです。開拓農家の組合長を横野さんがやめてからは、私がやらしてもらっています。入ったころは、まだ松やに採りよった。開墾せないかんのじゃけんど、松をまだ伐っとらんのじゃけん。県からは「開墾いくらした」と催足が来るけに、「何町何歩やりました」と報告して補助をもらう。昭和28年に会計検査があって、だいぶん油をしぼられました。開墾しとらんのに補助金がきとる。今まで出した分の面積を開墾するまでは浦助金出さんということになったんです。それでは困るから、栗畑を作ることにし、全部開墾せんでも、少しずつ開墾して栗植されば良いということで、穴うめをしました。
 道つくりに苦労し、ブルドーザが入るようになってから全山の開墾をやった、畑を作ったり、田を造成して、米ができたときは嬉しかったです。食料不足の時代ですから。その後、缶詰用の桃やら、アスパラガスなどやってみましたが成功せなんだ。栗は良くできて、私は栗の主みたいに言われました。郡内で一番早かったですからな。
現在、開拓地の七戸の中四戸が豚を大規模にやっています。自分の資本でないので面白くないと言っています。会社の委託飼育で、月に三〇万くれて、後で精算するんだそうです。飼料が高いですけんねえ。私は、栗と椎茸やっとりますが、このごろは一パック三十円くらいで、ただみたいなもんです。二百円もするときがあったんです。八、九十円もすれば採算が合うんじゃ。自分の木切って原木にしとるのやけど、原木買ってしたんでは引き合わん。
参考文献 池田町史220P 中蓮寺
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前回は、長宗我部元親の阿波侵攻を史料で押さえました。今回は、地元の池田町史には白地城の大西覚用の対応・抵抗がどのように書かれているかを見ていくことにします。テキストは「池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡」です。
三好氏系図.4jpg
  三好氏系図 長慶死後は、弟実休(義賢)の息子・長治が継承

三好氏を支えていた三好義賢、長慶が亡くなり、その後を継いだのが長治です。そんな中で元親に阿波進出の口実を与える事件が、阿波の南方と海瑞で同時に持ちあがります。
南方の事件は、元亀2年(1571)のことです。元親の末弟・島弥九郎親益が、病弱のため有馬の湯治に出かけた帰りに、海部郡奈佐の港に風浪をさけて停泊します。これを知った海部城主海部宗寿が、これを攻めて殺してしまいます。この時にちょうど海部城には、元親に滅された土佐安芸氏の遺臣が客分になっていました。彼らが旧主の敵討ちのために、この拳に出たようです。一方、海瑞では元親に討たれた土佐本山氏の一族が長治を頼って来ます。「志」には次のように記します。

「本山式部小輔主従七十三人阿波国へ行き(中略)勝瑞に至れば三好河内守長治大いに悦び、所領を与え一方の大将に定めぬ」

土佐の敗軍である本山氏を身内に招き入れることも、長宗我部元親を刺激します。こうして阿波と土佐の間で戦雲が広がります。ところが、軍記書には次のように記します。

「三好長治愚昧にして策なく「元親本山の遺臣を遣し、阿波に於て小輔を殺す」(「蠹簡集」)

蜂須賀藩時代になって書かれた軍記書は、どれも長治のことを「暴君・無能」と記します。しかし、これは以前にお話したように前政権担当者を悪く言って、現政権担当者を引き立たせようとする暦書の常套手段のひとつです。これをそのまま信じることは出来ません。しかし、長治の代になって三好政権に陰りが見え始めたことは事実です。有能な家臣の篠原長房を攻め殺し、阿波国内の混乱が続く中で、それを見透かしたように土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 天正三年(1575)、島弥九郎の事件を口実に、元親は宍喰に侵入し、海部城を攻めます。
この時に、海部宗寿は三好氏に従軍して讃岐へ出兵中で留守のために、簡単に落城したようです。土佐軍は、海部城を拠点として阿波南方の足がかりとして、由岐城、日和佐城、牟岐城を戦わずして次々と陥していきます。阿波の南方に侵入した長宗我部氏は、同時に阿波の西方への進出も開始します。目標となったのが四国中央にあたり、大西覚用が城主であった白地城です。
大西家系図 池田町史

大西家系図(池田町史)
長宗我部元親と大西覚用の関係はどうだったのでしょうか?
  池田町史は「上名藤川家家記」の内容を、次のように載せています。(意訳)

「藤川助兵衛長定が天神山城において侵入軍を撃退し主将嶋田善兵衛を討ち取り、その後も立川丹後守、佐川兵衛等の侵入軍を退け、その功により大西覚用より、信正、所窪を加増せられた」

ここには藤川氏が土佐軍の侵入を阻止し、その軍功に対して白地城の大西覚用から加増を受けたとします。しかし、実際には土佐軍は戦うことなく調略で、阿波国境の「山岳武士」たちを味方に付けていたことは以前に次のようにお話ししました。
A 阿波国西部の祖谷地方などの「山岳武士」たちを豊楽寺への信仰で組織し味方に引き入れていること。祖谷山衆も天正年間初期には、掌握していたこと。
B  『祖谷山旧記』には、長宗我部元親の指令に応じて祖谷山衆が「さたミつ(貞光)口」へ侵攻していること。
C 天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防戦の際の長宗我部元親の感状に木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞していること。つまり、木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことを裏付けられます。
 長宗我部元親は土佐国境の祖谷山衆を天正年間の初めには配下に置いていたと研究者は判断します。そうだとすると、阿波と土佐の国境附近では戦闘は行われず、無傷で土佐軍は大歩危・小歩危の難所を、祖谷山衆の手引きで越えたことになります。

 このあたりのことを「元親記」は、次のように記します。

天正四年、元親は大西(白地城周辺の地名)入りの評議をしたが、「大西への道筋は日本一の難所で、力態に越さるる所に之無く(中略)先ず覚用を繰りて見んとて(「元親記」)」、
ちょうど覚用の弟了秀が出家し、土佐国野根の万福寺住職であったので、この了秀を遣わして和議を申込ませた。

しかし、これを史料で確認することはできません。 以前に紹介した長宗我部元親が大西覚用を味方に引き入れるため栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。(意訳)
今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方を我が方に引き入れるように活動していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、恐慢謹言、
十一月廿三日       (長宗我部)元親(花押)
栗野殿人々御中
ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。
白地城周辺
白地城の西の粟野屋敷

このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
このような情勢を讃岐の香西成資の「南海通記」は、次のように記します。

 阿波国ノコト三好長治政ヲニシ国内ノ諸将威勢と謡ヒ、親族ノ者モ皆離れて長治ニ服せず。故ニ南方が羈縻ニ属す。大西ハ猶以テ土佐二近シ。隣国ノ好ヲ以テ土州二一意シハバ互いの悅之ニ過グベカラズ。今阿州の人心ヲ思フニ大西ニ事アリトモ誰カカッ合スペキヤ。却テ大西ヲラントスル者多カルベシ。コノ程ヲ思量シテ和親ノ約ヲナシ玉ハバムッマジキガ中ニモ猶ムツマジク成テ大西領地モ広マリ繁栄ナルベキコトコノ時ニアリ。

意訳変換しておくと
 阿波国については三好長治の代になって、国内諸将の支持を失い、親族も皆離れて長治に従わなくなった。そのため阿波南方は土佐軍に奪われてしまった。一方、白地城の大西覚用は、土佐国境に近く、長宗我部元親と隣国のよしみもあって、敵対関係はなかった。そこで大西覚用は次のように考えた「白地城が長宗我部元親に攻められても、三好氏が救ってくれることはないだろう。そうだとすると三好氏を捨て長宗我部元親と和睦するほうが、大西の領地も拡大し、繁栄する道につながる」

香西成資の南海通記は、長老の伝聞と阿波や土佐の軍記ものを参考に書かれたものなので、曖昧なことや誤謬も多いことは以前にお話ししました。この部分も阿波の編纂史に頼った記述内容となっています。しかし、当時の情勢をよくつかんでいるように思えます。町史などを記述する立場であれば、こういう記事に頼りたくなるのは当然だと思います。
 大西覚用の立場になって考えて見ると、三好長治の失政のため阿波の政局は混乱し、三好氏内部も二分して争う状況です。阿波南方の海部城は落城しましたが、三好氏はこの奪回に手をかそうとしません。こうした動きを見ると、三好氏に頼ることは危険に思えてきます。そこで頼りとするのが毛利氏と長宗我部元親です。大西覚用が元親と交渉を持つ一方で、中国の毛利氏に文書を送っていたことや、讃岐に独自の利権を持つようになっていたことは以前にお話ししました。こうして、大西覚用は戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。元親記には、大西覚用を味方に引き入れたときの長宗我部元親の反応を次のように記します。

「先此大西(白地城)さへ手に入候へば、阿讃伊予三ヶ国の辻にて何方へ取出すべきも自由なりとて、満足し給ひけり。」

 阿波・讃岐・伊予への進入路となる白地城の大西覚用を味方に付けたことの戦略的な重要性をよく認識しています。元親にとっては「大西覚用を手繰りてみん」という謀略の一環だったのでしょう。

阿波大西氏5

 ところが何があったのかはよくわかりませんが大西覚用は、長宗我部元親をすぐに裏切ります。
その寝返りの理由とされるのが、畿内の三好康長(笑岩)からの書状だとされます。当時畿内では、織田信長が「天下布武」に向けて足固めを行っていました。天下人に近づく信長に従って各地で転戦するようになったのが河内国高屋城主三好康長(笑岩)です。康長(笑岩)は、阿波国内の城持ち衆に、信長の意を汲んだ書簡を送りつけてきます。そこには次のように記されていました。

 来年(天正六年) 我信長公は大軍を挙げて阿波に出陣、土佐方へ奪取所の南方を取返し、阿波を安堵す。ついては阿波国中の城持衆は、力を合せて敵(土佐軍)に抵抗し、その領地を護り、信長軍の来軍に備えよ。

 大西覚用は、この書簡を受けて長宗我部元親を裏切り、三好側に寝返って戦いの準備を始めたとされます。
この決定で困難な立場になったのが人質として元親のもとにあった大西覚用の弟・上野介です。
普通だと切腹です。ところが元親は深謀を発揮して、上野介の一命を助けます。そのことを元親記は次のように記します。

「覚用に捨てられたる人質上野守は已に気遣に及ぶ。元親卿より上野方へ有使。身上心安致すべし。其方に対し毛頭別儀無之助置て上る。其より上野をば家人同前に心易居候へと宣て弓鉄砲を免じ鳥など打遊山せよと宜し也」

意訳変換しておくと

「兄の覚用に捨てられた人質上野守は、切腹を覚悟した。ところが元親卿よりの使者は、身上心安くすべし。その方に対しは何の責めも危害も加えない。これよりは上野を家人同様にあつかうので、そう心易よ。今まで通り、弓・鉄砲で鳥などを狩猟することも許す」

上野介はこの恩義に感激して、元親の西阿進攻に犬馬の労をいとわないことを誓います。そして白地城落城に大きな功績をあげたと軍記ものには詳しく活躍が記されます。そのため上野介はある意味では、英雄譚のように語られることになります。上野介が登場するシーンは、注意する必要があるようです。

天正五年(1577)3月 讃岐で毛利軍が丸亀平野南部の元吉城(櫛梨城)に入り、三好氏の率いる讃岐国衆と元吉合戦が戦われる4ヶ月前のことです。
勝瑞城を出奔して仁宇谷に拠った細川真之を攻めた三好長治が、逆に細川方の急襲で、長原で戦死してしまいます。
 長治戦死という事態を知った長宗我部元親は、このチャンスを見逃しません。上野介を道案内兼参謀として、西阿波に侵攻します。この様子を池田町史で見ておきましょう。

白地城では、年老いた頼武が、戦いに疲れ病弱の身を城内で起き伏していた。城主である頼武の子・大西覚用は、長宗我部軍の侵攻の近いことを知って、勝瑞の三好氏や、畿内の三好軍に援軍を求めた。しかし、勝瑞の三好方は長治の戦死でそれどころではなかった。信長の大軍をたのんで応援にかけつけるはずだった高屋城の三好康長(岩)も信長も、紀伊の雑賀党の鉄砲隊に悩まされて、身動きできない状況だった。

つまり、孤立無援のまま長宗我部元親と戦わなければならないことになります。
大西覚用は、土佐軍への迎撃体制を次のように整えたと池田町史は記します。
①白地域をとりまく城を移築し、有力な武将を配置した
②土佐の正面にあたる山城谷の尾城を移築して、弟大西京進穎信を城主とし、老臣寺野源左衛門を補佐させます。
③白地城をとりまくように大利城(城主大西石見守)、天神山塁、漆川城(城主大西左門衛尉頼光)、中西城(城主東條隠岐守)馬路城、佐野城、さらに三好町の東山城と守りを固めた。
④急を告げる狼煙の道が、三名の茶園の休場→天神山城→根津木越→越の田尾→田尾城→大利城→白地城と整備された。
一方、雲辺寺文書の中には、次のような年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状が残っています。

大西覚用から雲辺寺への借用書
  年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状
 馬数入候問四五日逗留候てかり申す可く候 くら(鞍)をきて下さるべく候 態此者参らせ候やがてやがて返し申す可く候 恐々謹言
閏七月十二日             (大西覚用) 覚(花押)
俊崇坊
雲辺寺 
意訳変換しておくと
 荷馬が緊急に必要なので四、五日逗留して借用(徴用)を申しつける。鞍を付けておいてくれれば、配下の者を使わし連れて帰る。馬は後日改めて返還する 恐々謹言
閏七月十二日
                                 (大西覚用)覚(花押)
俊崇坊参
雲辺寺 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日付が閏7月12日とあり、閏年が7月にあったのは天正3(1575)年で、白地落城の二年前
②そのころの大西氏は讃岐へ出兵しているので、そのための荷馬借用を命じるものか
③あるいは、土佐軍侵攻近しというので、そのための準備か
④雲辺寺に馬が何頭も飼育されていたこと
⑤馬の借用依頼文だが、一種の軍事微発ともとれる。
⑥当時の雲辺寺の責任者が「俊崇坊」で、坊連合による寺院運営が行われていたこと
⑦雲辺寺には自衛のために僧兵・軍馬がいて、大西覚用の影響下にあったこと
 この手紙によって馬が借りられたかどうかなどは分かりません。しかし、長宗我部元親との戦いに備えて、大西覚用が戦備を整えている様子がうかがえます。

これに対して、白地城攻略の先兵を命じられたのが大西覚用の弟大西上野介です。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
天正5年5月下句、土佐軍は味方に付けていた阿土国境の三名士(藤川大黒西宇三氏)の先導で国境の大難所も容易に通過して、白地山城と言われた田尾城に殺到します。土佐軍は、竹の水筒に、煎麦の粉(オチラシ)を糧食として腰に下げた歴戦の3000人余でした。 

阿波田尾城2 大西覚用
白地山(田尾)城
白地山(田尾)城の戦いについては、阿波や讃岐方の軍記ものである「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」等の軍記ものをまとめて、池田町史は次のように記します。

 第一日目
三千人の土佐軍は、三百人余の城兵が守る田尾城の南方正面から攻撃を開始した。しかし、このことあるを覚悟していた城方は鉄砲を並べ、矢を連ねてこれを防いだ。老いたりとは言え寺野源左衛門の用兵は見事に功を奏し、小城とあなどって攻めかけた土佐軍の戦死する者数を知らず、たちまちの尾根は屍の山を築き、後世まで屍の田尾と呼ばれるようになったほどだった。田尾城から屍の田尾に至る畑の中にも点々と戦死者お残っています。こうして土佐方の第一日目の攻撃は完全に失敗した。

阿波田尾城 大西覚用
阿波田尾城

 第二日目
上野介は、このままだと損害が大きくなるばかりであると考え、手からの夜襲を献策した。田尾城の北側は、険しい谷になっているので、恐らく、守りも手薄であろうと考えたのであるが、それ以上に、夜の戦いであれば、かねて意を通じてある城内の武士が土佐軍に味方して動き易くなるであろうと考えたのであろう。
 その夜、主力は火を並べて、正面からの夜翼の気配を見せ、上野介は五、六十名を引きつれ乾いた熱を手に手に搦手に回った。夜が更けて、正面の恒火も一つずつ消え、物音も静まって夜のしじまがやって来た。城中では第一日の勝利に、土佐軍は夜襲をあきらめたものと警戒を解き土張を枕にまどろむ者もあった。
阿波田尾城3 大西覚用
阿波田尾城

 夜半を過ぎたころ、搦手の上野介の兵士は、乾いた煙に火を放ち、どっとときの声をあげて城内へ殺到した。これに呼応して正面からも一時にかん声をあげて城内へ突入していった。城内では、もう夜はないものと安心していただけに、混乱の樹に達し、内通者の動きも混乱を一層大きくした。
 すっかり戦意を失った城内の兵は、勝手知った暗闇の退路を相川橋に向かって走った。わずかの兵に守られた右京進頼信と寺野源左衛門→相川橋にたどりつき、橋をこわして白地域に向かって退却していった。三千人の土佐軍は、これを追って相川橋方面へ進んだが、暗さは暗し、慣れない山道で、小谷に落ち、崖からころぶ者数を知らずという状況だった。ことに橋のこわされていることを知らない土佐軍が一度に相川橋に押し寄せたため、後から押されて伊川に落ちて溺れる者も多かったという。
 相川橋付近の狭い土地に三千の兵がひしめき、勝ち戦とは言え、土佐軍も一時混乱に陥っていたが、やがて主力を大和川に集結し、右翼を下川に、左翼を馬路付近に集め、白地本城攻撃の陣形をたてなおしていった。

白地城 大西覚用 池田町史
白地城(池田町史)
3日目

 一夜明けると白地城の中は大騒ぎとなった。これほど早く田尾城が落ちるとは思っていなかったのである。頼武は老弱であったので覚用が、さっそく土佐軍を迎えうつ軍議を開いた。ところが、「土佐方と和議を結ぶべし」という意見が出て軍議はまとまらず混乱に陥った。上野介の説得が開者によって広く将兵の間に浸透していたのであろう。
「元親公は決して大西を敵としているのでなく、めざすのは三好氏であり、勝瑞の十川存保である。それに、元親公は、普通であれば当然断罪に処せられているはずの上野介様を大切に扱われ、その上野介様は今度の戦いには参謀格で来ておられる。和議を結んでも決して悪いようにはなるまい。」という和平派の主張は将兵の耳に快く響いたに違いなかった。
 和平派が大勢を占めたため、大西覚用は小数の部下と家族をつれて増川(三好町)の東山城に逃れた。東山城も安住の地でな家族を増川に残し、弟長頼の居城である讃岐の城へ落ちて行ったのである。こうして、土佐軍は白地城を無血占領し、白地の台は元親の将兵が満ち満ちたのである。白地落城が伝わると佐野城も馬路城も、川崎城も戦わずして開城し、思い思いに落ちていった。
 白地城2

以上が「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」などに書かれていることをまとめたものです。田尾城攻防戦の様子がなどが見てきたように描かれています。しかし、これらは蜂須賀藩の時代になって書かれたもので「反長宗我部元親」「阿波郷土防衛戦」の色彩が強く出ていることは以前にお話ししました。ちなみに土佐側の史料や軍記ものには、白地城に至るまでに抵抗があったことは記されていません。これは讃岐における長宗我部元親の西讃侵攻時と同じです。侵略された側は、我が軍はこれだけの抵抗を行い多くの犠牲者を出したと記します。しかし、それは土佐側の史料には記されていません。実際に激しい抵抗があったのかどうかは分からないと研究者は考えています。それは、後の上野助の行動を見ると分かります。また大西覚用は後に、婚姻関係で結ばれていた讃岐の麻口城の近藤氏のもとに落ちのびていきます。その後は再度、長宗我部元親の下で働くことになるのです。もしここで大西覚用が激しい抵抗をした場合には、二度目の帰順は許されなかったと思います。
 「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親の基本戦術は、「兵力温存・長期戦になっても死者の数をできるだけ減らす」「交渉によって味方に付ける」であったことは以前にお話ししました。阿波や讃岐側の軍記ものの記述は、長宗我部元親の戦術に反するものです。
 こうして白地城をはじめ、阿波と伊子、土佐の大西方の城はすべて落城します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡
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