
青龍寺徳源院のパンフレット表紙
丸亀藩・多度津藩の京極氏の菩提寺である滋賀県米原市の青竜寺徳源(とくげん)院に、お参りする機会がありましたので、報告記を載せておきます。
東海道本線松原駅近くの青龍寺 関ヶ原の西側に位置する。
鎌倉時代に近江守護となった佐々木氏は、六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれていきます。
その中で本家筋に当たる六角氏は、信長に滅ぼされますが、京極氏は戦国時代末期の大変動をくぐり抜けて丸亀藩主として明治まで存続します。霊通山清瀧寺徳源院は、この京極氏の菩提寺です。寺の由緒は、京極家初代氏信(法号:清瀧寺)によって1283年に建立された、そのため氏信の法号の清瀧寺殿から青竜寺を称したと伝えます。
徳源院のパンフレットには次のように記します。
第5代高氏(道誉)は婆娑羅大名としてその名をはせ、その活躍は『太平記』や『増鏡』に詳しい。境内の桜は道誉が植えたものと伝えられ道誉桜と呼ばれている。(県指定名木、2代目)。江戸時代には、高和(第21代)の代に讃岐の丸亀に転封されたが、その子である高豊(第22代)、寛文12年(1672) に領地の一部とこの地を交換して寺の復興をはかり、三重の塔(県指定文化財)を建立し、院号も高和の院号から徳源院と改称した。このとき、近隣に散在していた歴代の宝篋印塔をここに集めたものが、現存の京極家の墓所である。
青龍寺徳源院=「京極家初代氏信(法号:清瀧) + 高和の院号徳源院」ということになります。
京極氏についての詳しい歴史については、別の機会に譲って、現在の徳源院の姿を報告します。
青龍寺徳源院 黄色ゾーンが坊を含むエリア 赤が墓域
青龍寺京極家墓所谷から流れ出す小川沿いにかつては16坊が建ち並んでいたようです。その奥、左手に本堂や三重塔はありました。
伽藍内部のレイアウトを見ておきましょう。
正面から入ると右手に大きなしだれ桜が枝を広げています。
これが婆娑羅大名・佐々木道誉にちなむ道誉桜です。
この木は2代目で樹齢350年とのことでことでした。左手が3代目でこちらは、40年前後のようです。ちなみに丸亀城にも、この道誉桜を挿木したものが植えられているようです。
青龍寺徳源院の三重塔 屋根が改修されたばかり
左手の三代目桜の奥に三重塔があります。小ぶりでスマートで、お洒落な感じがします。これも丸亀城主高豊が墓域を整備し、この寺を整備したときに建立されたものになります。何十年ぶりかの屋根の葺き替えを終えたばかりの姿です。ちなみに、この寺は京極氏の菩提寺なので檀家が一軒もないそうです。そのためサラリーマン住職として、この寺を代々住職家が守ってきたそうです。この塔の改修費は文化財に指定されているので、8割は国の補助が受けれるそうですが、2割は個人負担です。次に代には後継者はなく、維持が難しいとのことでした。案内され通されたのが庫裡の庭に面した部屋です。
枯山水の味のある庭です。
庭を見ながらお茶を飲みながら住職さんから京極氏とこの寺の関係をお聞きします。贅沢な時が流れていきます。香川からの墓参りということで、特別に墓所に入ることが許されました。燈籠などの転倒の可能性があり、通常は立ち入りを行わなくなっているとのことでした。
京極家墓所入口
京極家墓所配置図
いただいたパンフレットには次のように記します。
篋印塔と墓所は、境内の裏手の山裾に上下段に分かれている。上段は向かって右より始祖の氏信の古塔(花崗岩製、高さ278cm) 筆頭に高吉(第18代)に及ぶ歴代当主の墓18基が並ぶ。下段には、衰微していた京極家を立て直し中興の祖と崇められる高次(第19代)の墓が石廟の中に祀られ、歴代当主や分家(多度津藩)の墓が14基配列されている。大きい墓や小さい墓は、京極家の栄枯盛衰をそのままに表している。墓に刻まれた梵字や蓮華は長い間に風雪に削られて、容易に判読はできない。鎌倉時代から江戸時代に及ぶ各世代の特徴と変遷を示す30余基の宝篋印塔が、1カ所にあり、各時代の流行、特徴の変化が見られるのは、石塔研究家にとって貴重な資料となっている。
門を入ってすぐに眼に入ってくるのが19世の松江藩主として京極家の復興を果たした高次の石廟です。
しっかりした石廟の中に納められています。
高次の石廟の右側に、歴代の宝篋印塔が並びます。高次だけが石廟のなかに納めれていて、あとは木廟です。そして歴代順ではありません。2つ置いて高次の息子で松江藩主となった忠高、そして丸亀初代藩主高和・高豊と並びます。
軒瓦には京極家の家紋があります。
そして裏側に多度津藩主の宝篋印塔が並びます。
上段に並ぶ18基の内の十基です。もう一度パンフレットの言葉を読み返します。
しっかりした石廟の中に納められています。
高次の石廟の右側に、歴代の宝篋印塔が並びます。高次だけが石廟のなかに納めれていて、あとは木廟です。そして歴代順ではありません。2つ置いて高次の息子で松江藩主となった忠高、そして丸亀初代藩主高和・高豊と並びます。
軒瓦には京極家の家紋があります。
そして裏側に多度津藩主の宝篋印塔が並びます。
歴代多度津藩主の宝篋印塔
下段の丸亀藩・多度津藩主の宝篋印塔と、上段の宝篋印塔
上の奥の方に並んでいるのが「氏信以下歴代当主の墓18基」になるようです。上には上がれませんので近くからお参りすることはできませんでした。調査報告書に載せられているものを見ておきましょう。上段に並ぶ18基の内の十基です。もう一度パンフレットの言葉を読み返します。
大きい墓や小さい墓は、京極家の栄枯盛衰をそのままに表している。墓に刻まれた梵字や蓮華は長い間に風雪に削られて、容易に判読はできない。鎌倉時代から江戸時代に及ぶ各世代の特徴と変遷を示す30余基の宝篋印塔が、1カ所にあり、各時代の流行、特徴の変化が見られるのは、石塔研究家にとって貴重な資料となっている。
清瀧寺の創建から高豊による中興までの歴史を振り返っておきます。
京極氏の始祖・氏信は、弘安7年(1284年)に出家して道善と号し、自分の没後追善のために清瀧寺へ料田を寄進しています。(「佐々木氏信寄進状」徳源院蔵)。これ以降、京極家の菩提寺となったようです。その後、高氏が母方の祖父・宗綱の供養のために西念寺を建立し、「清瀧西念両寺々務条々」を制定したほか、高詮の菩提寺である能仁寺の整備、高光の菩提寺である勝願寺など、清瀧寺周辺の整備が進みます。しかし、応仁の乱後の京極氏の衰退の中で、寺も退転したようです。
清瀧寺の整備は、中興の祖とも称される高次から高豊に至るまで段階的に実施されます。松江城主となった高次が発給した「清瀧惣坊中宛」の書状(「京極高次書状」徳源院蔵)に次のように記します。
「正祖屋敷」の「台所」を建てるために、「少し地形せばく」、「北の方」を増築したい
高次の子・忠高は、高次の墓所を清瀧寺に営み、清瀧寺参道の整備や参道に面して僧坊などの建物を建てたと伝えれてきましたが発掘調査で裏付けられます。高和は、丸亀へ転封になりますが、引き続いて「清瀧寺諸宇観を改む」とあるように整備を継続します。(『佐々木氏信寄進状』奥書)。
さらに高豊は、寛文12年(1672年)に京極領だった播磨の二村を幕府に返上し、その代わりに清滝村と大野木村の一部を清瀧寺の寺領として経済基盤を整えます。同時に、三重塔、位牌堂、客殿を建て、庭園を整備し、周辺にあった歴代当主の墓を集約して墓所とし、十二坊を再興するなどの整備を行います。こうして整備された寺を父・高和の法号から「徳源院」とします。
清瀧村及び清瀧寺境内図
高矩の代に描かれたとされる「清瀧村及び清瀧寺境内図」には、徳源院の庫裡や本堂の北西に「本堂」が描かれています。これが清瀧寺の本堂で、高豊が整備した徳源院は、位牌堂や墓所域を整備した清瀧寺境内にある院であったと研究者は考えています。
京極氏が松江や丸亀に転封になっても、本貫地の菩提寺を守り通そうとしたことが伝わってきます。しかし、この寺は京極氏の菩提寺で、他に檀家がいません。明治以後の近代になっての維持には苦労があったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 史跡清滝寺京極家墓所保存活用計画 米原市教育委員会
清瀧村及び清瀧寺境内図
高矩の代に描かれたとされる「清瀧村及び清瀧寺境内図」には、徳源院の庫裡や本堂の北西に「本堂」が描かれています。これが清瀧寺の本堂で、高豊が整備した徳源院は、位牌堂や墓所域を整備した清瀧寺境内にある院であったと研究者は考えています。
京極氏が松江や丸亀に転封になっても、本貫地の菩提寺を守り通そうとしたことが伝わってきます。しかし、この寺は京極氏の菩提寺で、他に檀家がいません。明治以後の近代になっての維持には苦労があったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 史跡清滝寺京極家墓所保存活用計画 米原市教育委員会































