1年に3回、まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。今回は、丸亀平野南部を勢力下において、天霧城の香川氏と対峙した長尾氏を取り上げることになりました。時間と興味のある方の参加を歓迎します。
お話する内容については、以下の記事がベースになります。
安政5年(1858) 建立の本堂天保14年(1843)建立の山門昭和5年(1930) 建立の経蔵



「常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺(真言宗)に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。②その後、安楽寺の子院が創建されると、その門徒は西教・常念・林照の各寺に振り分けられた
2025年10月26日(日) 参加者 20人9:00 仲南支所出発10:00 安楽寺(途中・道の駅みまの里でトイレ) 安楽寺・願勝寺など訪問地元ボランテアガイド西前さんによる案内11:30 道の駅(みまの里)で各自昼食12:45 バス集合・出発13:00 脇町道の駅 藍ランドうだつ着 自由散策14:15 脇町発15:00 仲南支所解散
「この赤門は、末寺からの手切金で作られたと言われています。安楽寺は、近世初期には84の末寺を持っていました。しかし、18世紀になると自立を望む末寺が多くなり、上納金を納めることで自立を許すようになりました。その時に集まった手切金で建てたのがこの山門です。

尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。





讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。(朱書)「八印」御託証文の事一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと一つ、御申物については、安楽寺にも届けること以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
讃岐国鵜足郡長尾村 超勝寺天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判安楽寺殿
3)安楽寺山門 木造 三間三戸二階二重門 入母屋造 本瓦葺 円柱(粽柱)宝暦6年(1756)棟札写桁行8.09m,梁間5.13m,入母屋本瓦葺の三間三戸二階二重門で中央及び両脇に桟唐戸がつく。近世社寺建築の記述によると,建立は宝暦6年(1756)棟札写とあり,江戸後期の建物である。禅宗様の礎盤のうえに粽柱が立ち,頭貫の上に台輪が載る。特徴としては,下層の組物に斗供(ときょう)を省略して,柱を桁まで伸ばし,柱を取り巻くように井桁に組んだ肘木と,壁付け方向のすけ材を交互に積み上げ軒を受けるといった独自の形式である(図16)。
それに対して,上層の組物は正統的な禅宗様(唐様)三手先組物で柱頭部に大斗を載せ肘木で受ける。火灯窓、縁腰組出組の上に四方切目縁が付き,逆蓮高欄が回る。軒についても下層は二軒繁垂木,上層は放射線状に広がる扇垂木と禅宗様の様式を見せる。内部では,下層の格天井を大斗に代わる井桁詰組を外側に鬼,内側に蓮華の彫刻で支える。上層は通し肘木の上に丸桁が乗り,桁や虹梁で小屋組を支え,中桁まで垂木を引き込んで天井板を張るものの中央部は天井を張らず野小屋を見せる。中央の棟束を支える虹梁型の梁には,梵鐘を吊る穴の痕跡がある。しかし、鐘楼門として実際に使われたがどうかは確認できなかった。また,上層の外側の大斗は付大斗であった。全体に禅宗様が色濃く,時代相応に華やかであり,細部に奇抜な意匠を取り入れた,本格的な二重門である(図17)。