瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 文化財保護協会

前回は美馬市郡里の安楽寺訪問記をアップしました。今回は安楽寺周辺のお寺巡りを載せておきます。

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美馬市寺町散策パンフレット(表)
美馬市寺町散策
                 美馬市寺町散策パンフレット(裏)
安楽寺を後にして、その北側にある西教寺を訪ねます。


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西教寺は、慶長14年(1609年)に安楽寺から分かれた寺です。本堂・経蔵・山門が有形文化財に登録されています。
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西教寺の登録有形文化財
安政5年(1858) 建立の本堂
天保14年(1843)建立の山門
昭和5年(1930) 建立の経蔵
このなかで案内人の方の説明が一番長かったのは山門でした。

西教寺山門 美馬市寺町

西教寺山門(三間薬医門)
研究者は、この山門に対して次のように評しています。(阿波学会紀要 第55号(pp.115-126) 2009.7)
山門は三間一戸の薬医門で,正面向かって中央に桟唐戸,右手に潜戸(くぐりど),左手に板壁を設け,屋根は切妻,本瓦葺とする。棟南鬼瓦の正面に「天保拾四歳卯七月吉日」(1843)とある。

西教寺山門の妻飾り

本柱の上に冠木を置き,控柱は貫で繋ぎ,龍の木鼻が付く。妻飾は上部に男梁,下部に女梁とし,二重となるのが特徴である。その間に蟇股を挟み,先端には異様な形の拳鼻が付く連三斗を設ける。また,男梁の上に太瓶束笈形を置き,棟木を支える。破風の飾りは,くだり・外部側が菊,境内側は雲である(図20)。

美馬市寺町西教寺山門 軒裏

軒は二軒,飛檐垂木は板軒で雲の模様が施されているなど,山門の意匠には目を止めるものがある(図21)
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西教寺山門の説明を聞く参加者

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西教寺経蔵
経蔵は、昭和の初期らしくどっしりとして近代的な感覚がします。

安楽寺の西側が林照寺です。ここも安楽寺から分家されたお寺です。

林照寺 美馬市寺町

唐破風屋根を載せたものを唐門といいます。林照寺の山門は正面前後に唐破風のある一間一戸の向唐門です。


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林照寺の唐門
林照寺の唐門 美馬市寺町


林照寺本堂

寺町に浄土真宗のお寺が集まっていうのは、どうしてでしょうか?
美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
美馬市寺町の寺院分布

「安楽寺文書」には、安楽寺から分離した常光寺について次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家600軒を分与されています。安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。安永6年まで200年余り檀家がなくて、「寺中あつかい」だったことになります。
安楽寺の隠居寺として創建された林照寺も、当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです
それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺(真言宗)に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その門徒は西教・常念・林照の各寺に振り分けられた
こうして、安楽寺を中心とする真宗の寺院が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院を周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
こうして寺町には、浄土真宗興正寺派の拠点として機能していたようです。ただ、明治の宗教改革で、安楽寺は興正寺派から西本願寺に移ります。現在の安楽寺の看板には「西本願寺派」とありました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

まんのう町文化財保護協会仲南支部 秋の一日研修会を以下のように実施しました
2025年10月26日(日)  参加者  20人
 9:00 仲南支所出発
10:00 安楽寺(途中・道の駅みまの里でトイレ) 安楽寺・願勝寺など訪問
    地元ボランテアガイド西前さんによる案内
11:30 道の駅(みまの里)で各自昼食
12:45 バス集合・出発
13:00 脇町道の駅 藍ランドうだつ着 自由散策
14:15 脇町発
15:00 仲南支所解散  
その報告をアップしておきます。

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集合は仲南支所です。ありがたいのは町のマイクロバスが借りれることです。県内と隣接の徳島県や愛媛県の市町村が運行可能エリアです。今回の美馬市は、県外ですが「隣接地」ということで運行可能でした。費用は燃料費だけです。バス代が高くなった昨今では、これは大変ありがたいことです。定員いっぱいの参加者を乗せて、仲南支所を出発します。

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安楽寺の赤門(美馬市)
一時間ほどでやってきたのは、美馬市郡里の安楽寺です。紫のジャンパーを来た「寺町案内人」の人達が、立派な赤門で迎えてくれます。案内人の方から、この赤門の由来について次のような説明がありました。

「この赤門は、末寺からの手切金で作られたと言われています。安楽寺は、近世初期には84の末寺を持っていました。しかし、18世紀になると自立を望む末寺が多くなり、上納金を納めることで自立を許すようになりました。その時に集まった手切金で建てたのがこの山門です。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)
意訳変換しておくと

尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があり、最後に「讃岐長炭村尊光寺」の名前があります。
 この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)も安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。尊光寺も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺の末寺で、徳島城下町にあった東光寺が触頭寺として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に転換します。そして18世紀半ば以後になると、讃岐の末寺が次々と「有償離末」していきます。その「手切金」で建てたのが、現在の赤門ということになるようです。そういう目で見ると、この門は、讃岐門徒の寄進で建てられたともいえるのかもしれません。
安楽寺

 安楽寺と讃岐の興正寺派の寺との本末関係を確認しておきます。

安楽寺の拠点寺院

安楽寺が興正寺派の中本寺であったことを押さえておきます。安楽寺文書に、末寺として出てくる丸亀平野の寺院を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

まんのう町周辺の浄土真宗の寺の多くが安楽寺の末寺ででした。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分布図

安楽寺の赤門には「千葉山安楽寺」とあります。

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千葉山と称するのは、この寺の代々の住職さんが千葉氏であるからです。安楽寺の由来は、次のように記します。
安楽寺 開基由緒

鎌倉時代に上総(千葉県)守護であった千葉氏が、北条氏との権力闘争に敗れて、阿波に亡命たこと。その際に、阿波守護の小笠原氏から安楽寺を任され、それを浄土真宗に改めて住職となったとあります。だから「千葉山安楽寺」なのです。

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赤門には千葉氏の家紋が描かれています。

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大きな枝振りの松が本堂に伸びています。
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安楽寺本堂
本堂に上がらせていただきます。

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この日は11時から法事が営まれるとのことで、その準備が整えられていました。
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上には三本爪の龍が描かれています

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本堂から赤門をのぞむ

まんのう町長尾の超勝寺も安楽寺の末寺でした。
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺は末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。阿讃の峠を越えて末寺として安楽寺に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)

意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
   讃岐国鵜足郡長尾村  超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
ここからは安楽寺の末寺には、このような義務が課せられていたことががうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。同時に末寺の跡取り住職たちは、安楽寺で修行し、学問を身につけたのでしょう。安楽寺が学問寺と呼ばれる由縁です。
 安楽寺の格の高さを示すものを2つ紹介しておきます。

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本堂に置かれたピアノ
このピアノがピアノ教室に使われているのではないそうです。ピアノ演奏でお経が歌われるのだそうです。奥さんのソプラノの詠歌が美しく本堂に響くそうです。

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本堂横の能楽堂(安楽寺)
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能舞台

こちらの能舞台では、能や狂言師を京都から呼んで年に何回か公演が行われています。それを支えているのが地域の会員やボランティアの方々とのことです。秋の公演では、午前中は中学生対象、午後は一般対象と2回の公演が行われているとのことです。地域の文化発信の拠点ともなっているようです。
改めて、讃岐への真宗興正寺派の教線拡大の拠点となった安楽寺の底力というものを垣間見たような気になりました。

安楽寺山門正面

最後に安楽寺山門のデータと研究者の評価を載せておきます。 阿波学会紀要 第55号(pp.115-126) 2009.7
安楽寺山門 平面図
安楽寺山門(赤門)
3)安楽寺山門 木造 三間三戸二階二重門 入母屋造 本瓦葺 円柱(粽柱) 
宝暦6年(1756)棟札写
桁行8.09m,梁間5.13m,入母屋本瓦葺の三間三戸二階二重門で中央及び両脇に桟唐戸がつく。近世社寺建築の記述によると,建立は宝暦6年(1756)棟札写とあり,江戸後期の建物である。禅宗様の礎盤のうえに粽柱が立ち,頭貫の上に台輪が載る。特徴としては,下層の組物に斗供(ときょう)を省略して,柱を桁まで伸ばし,柱を取り巻くように井桁に組んだ肘木と,壁付け方向のすけ材を交互に積み上げ軒を受けるといった独自の形式である(図16)。
安楽寺赤門 井形組物
それに対して,上層の組物は正統的な禅宗様(唐様)三手先組物で柱頭部に大斗を載せ肘木で受ける。火灯窓、縁腰組出組の上に四方切目縁が付き,逆蓮高欄が回る。軒についても下層は二軒繁垂木,上層は放射線状に広がる扇垂木と禅宗様の様式を見せる。内部では,下層の格天井を大斗に代わる井桁詰組を外側に鬼,内側に蓮華の彫刻で支える。上層は通し肘木の上に丸桁が乗り,桁や虹梁で小屋組を支え,中桁まで垂木を引き込んで天井板を張るものの中央部は天井を張らず野小屋を見せる。中央の棟束を支える虹梁型の梁には,梵鐘を吊る穴の痕跡がある。しかし、鐘楼門として実際に使われたがどうかは確認できなかった。
 また,上層の外側の大斗は付大斗であった。全体に禅宗様が色濃く,時代相応に華やかであり,細部に奇抜な意匠を取り入れた,本格的な二重門である(図17)。
 

今回はここまでで・・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

美馬市寺町散策
美馬市寺町散策パンフレット

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