
真宗興正寺派鶴林山法照寺。本尊阿弥陀如来、①万治元年(1658)戌五月開基。②当初生間村字明通寺にあったが、享保年間佐文村下地に移転した。本堂六間半に七間、境内三七六坪、鐘堂五坪、山門九坪、檀徒150軒。同寺所蔵の古文書に、その昔生間村より佐文村へ引寺した移転申請書なる「奉願上口上覚」に③「生聞村一向宗法照寺貧寺に御座侯処に(中略)
④享保七(1722)年寅二月、門徒総代、佐文村庄屋、七ケ村庄屋、山地六助右門殿」と記され、まず、下地に移転し、さらに現在地の北岡に移転した。
⑤(後世の)本堂屋根ふき替えの申請書「奉願上口上之覚」には「拙寺本堂五間四面、右は去る享保八年(1723)卯の年生間村より当村へ引寺仕り当年より数十年前より、堂舎かや葺であるを…………」と記され、(生間より移転数十年後に)かやぶきから瓦屋根にふきかえた様子がうかがえる。
⑥また、「御慈悲おうかがい口上の覚」(旱魃に伴う減免願書)には、「寛政九年(1797)巳十月十八日、佐文村法照寺組頭二名、佐文村庄屋連名で土居村庄屋高木久太夫殿」とあり、当時は、寺住職も村役人と共に、政治に関与していたことがわかる。
⑦また、「和談離縁御願」と称して、養子縁組の解消を証明する役割も住職の業務であった。その昔、徳川幕府の宗教政策であるキリシタン禁制を徹底させた「門徒人別帳」も保存されているが、長年月を経過して破損が甚しい
江戸時代になって新たな村が作られます。村が安定化してくるとお寺がないと不便なことがいろいろと起きてくるようになります。お寺は藩の末端行政機関でもありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向かなければなりません。村にお寺のないのはプライド的にも許されなくなります。そこで寺がない村は、誘致運動を展開するようになります。村によっては、檀家ではないのに他宗派の寺をわざわざ誘致して、門徒でない村人が全員でその寺の維持に関わっている所もあったようです。
享保七(1722)年寅二月、門徒総代、佐文村庄屋、七ケ村庄屋、山地六助右門殿」
とあるので、佐文村や七箇村の庄屋や門徒総代が協議して佐文への移転が決まったようです。そして最初は「下地」に建立されます。ここで注意しておきたいのは、この時点では佐文の人達は法照寺の門徒(檀家)ではなかったことです。法照寺がやってくる前からある家は、檀那寺変更をしなかった家もあります。
ちなみに我家は、法照寺が生間からやって来ることになった時に、寺にくっついて佐文にやってきたと伝えられています。その時には、開墾の進んでいなかった佐文の南側斜面の尾郷原や神田原への入植が許されたようです。このように寺だけでなく門徒も一緒についてくることもありました。お寺さんは、変わりなく同じ場所に有り続けるものと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院や農民は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
次に法照寺の本末関係を見ておきましょう。


②池内村の北に照井、金毘羅の南に相見(佐文)が見えるが生間は見えない。
以前にお話しした三木町の常光寺の末寺リストの中に法照寺が次のように出てきます。

これを見ると円徳寺末寺として3つの寺が記されています。 円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。
髙松藩
「円徳寺末寺那珂郡垂水村西坊」丸亀藩「円徳寺末寺那珂郡佐文村 法照寺」「円徳寺末寺池御領苗田村 西福寺」

円徳寺は、末寺の法照寺の佐文移転をどう考えたのでしょうか? 本寺の承認なしには、移転は進みませんので、円徳寺も同意の上に移転は進められたはずです。考えられるのは、照井と生間という距離です。両寺は3㎞あまりしか離れていません。檀家の持ち替え整理などをしながら、法照寺をもう少し離れた新天地に移すことで新たな門徒獲得を狙ったのかもしれません。
佐文は金毘羅大権現の土佐・伊予街道の入口に当たります。当時の金毘羅大権現は髙松藩主松平頼重の手厚い保護で伽藍は一新して参拝者が急増していた時期にあたります。招来の発展性がある佐文の地への移転を決めるひとつの要素であったかもしれません。
以上をまとめておくと、
真宗興正派の教線伸張には、以下のような3つのステップがあることを以前にお話ししました。

お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。」
このような布教活動が三好氏が支配下に置かれた讃岐の山沿いの村々で始まります。三好氏は16世紀初頭の永世の錯乱以後、讃岐に侵入し支配地を拡大していきます。長尾氏や二宮の近藤氏も三好氏配下に組み込まれていきます。そして三好氏の保護を得た阿波美馬の安楽寺の伝道活動が活発化します。
もうひとつの波は、秀吉の四国制圧後です。新たな領主となった生駒氏にリクルート出来なかった長尾氏や三好氏は、在野に下るしか生きる道がありませんでした。彼らはその際に浄土真宗に改宗し、その宗教的な指導者として在野における指導力や影響力を残そうとします。長尾城周辺の尊光寺や超勝寺慈光寺などの真宗寺院には長尾氏出自の系図を持つ寺院が多いことがそれを裏付けます。
そういう視点で法照寺を見ておきましょう。
うちの開祖は阿波より来た武士であったが、殺生な戦をするのに無常の感を覚え、仏門に入った。
開祖の付玄法師は1636年没です。そして姓は「三好」です。ここからは想像になりますが、もともと三好氏一族として讃岐支配にやってきていた人物が、長宗我部元親の讃岐侵入や秀吉の四国制圧の中で敗残兵となり、その後にやってきた生駒氏へのリクルートが適わずに在野に下ったことが考えられます。これは長尾氏の身の振り方と同じです。そして、中本寺の常光寺や、円徳寺で修行を重ねた後に生間で道場を開いたという物語になります。それでは法照寺は、寺号を得ていたのでしょうか?
西本願寺側の「木仏之留」に記された讃岐の真宗寺院を見ておきましょう。


まんのう町の尊光寺の木仏(2回目に下付された18世紀の木仏:阿弥陀仏)
これを法照寺の歴史と搦ませて見ておきましょう。
木仏御礼 5両2分
木仏寺号御礼 11両
開山(親鸞)絵像下付 24両2分
永代飛檐御礼 33両1分

土佐伊予街道沿いにある法照寺(まんのう町佐文北岡)
佐文に移ってきた法照寺は、行政・文教センターの役割を担っていくことになります。
以上をまとめておきます
①長尾氏や三好氏が在野に下ったものの中には、真宗興正派の僧侶として布教活動を行う者達が現れた。
②その拠点となったのが、阿波美馬の安楽寺と三木の常光寺であった。
③常光寺は、円徳寺を拠点に布教活動を展開し各地に道場を開いた
④その中のひとつがまんのう町生間に開かれた法照寺であった。
⑤開祖は阿波からやって来た元武士で、姓は「三好」を名のっていた。
⑥当時の佐文は、発展する金毘羅大権現の西の入口として人口増加が続いていたが寺院がなかった。
⑦そこで本寺の円徳寺や七箇村と交渉して、1723年に法照寺の佐文下地への移転を実現した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献















































































































































































































































![紙本墨書蓮如上人名号[しほんぼくしょ・れんにょしょうにんみょうごう] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)](https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/image/9122.jpg)






































































































安楽寺
