瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐真宗布教史 > 常光寺

真宗興正派の研修会でお話ししたことをアップしておきます。

真宗興正派 2024年6月28日講演

讃岐は真宗寺院が多いと云われますが、その比率はどのくらいなのでしょうか。
それを最初に数字で押さえておきます。

四国寺院宗派別数


①最初に讃岐を見ておきましょう。真宗寺院が424 讃岐の寺院数910ケ寺の内、約47%約半分が真宗です。
これは思ったよりも少ない感じ。私の感覚では8割でもおかしくないのですが・・。分布に濃淡がありそうです。この中で約半分が興正派です。興正派の寺は全国は800程度と聞いているので、讃岐がその1/4をしめることになります。この背景には、何らかの歴史的な要因があるはずです。


②阿波については、真宗阿波では13%、真言が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。


③伊予ではわずか9%、真言も多いが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護によるようです。


④土佐は全体数がが358と他県に比べると半数以下です。お寺の数が少ないのが特徴です。明治の神仏分離が四国でもっとも過激に進められたのが土佐です。時の土佐藩は寺院廃止・統合政策を強力に進めました。その結果がこの数字です。その中では真言が多いようです。

⑤四国全体では、真宗寺院は700で23% 讃岐以外の各県では、真宗寺院の数は100以下、それが讃岐では400を越えます。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いこと、なかでも興正寺派が多いことが分かります。これはどうしてなのでしょうか。それを説明するために従来使われていた史料が三木の常光寺の縁起です。まず常光寺から見ておきましょう。

常光寺

常光寺
三木町の香川大学の農学部の南の方に常光寺というお寺があります。
この寺は銀杏が有名なようです。本堂前の碑文には、次のような縁起が記されています。 

常光寺縁起1

ここからは次のような事が分かります。


①開基年 1368年 
②開基者 生駒浄泉(泉州の城主の次男)  
③末寺が75 明治維新にも27の末寺 
④本堂が17世紀半ばのもの 



もう少し詳しい史料を見てみましょう。
江戸後半の18世紀になると、各藩では自藩の潜在能力を知るために地誌の出版がおこなわれるようになります。例えば丸亀藩が各村の庄屋に村の歴史と郷土の産物などを調べて提出させています。それに基づいて編纂されたのが西讃府誌です。髙松藩でも、その動きがあったようで各寺院へ由緒や現状などについてのレポート提出を求めています。次の縁起は幕末に髙松藩の求めに応じて、提出したレポートの一部です。

常光寺縁起

縁起を整理すると

常光寺縁起2

浄泉は泉州の城主の子孫でした。この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のことのようです
①開基が古いこと
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺であること
③そのため多くの末寺を抱えていたこと。
この史料によって、讃岐への真宗伝播は語られてきました。 このレポートには、常光寺の末寺一覧表が添付されています。それも見ておきましょう。

常光寺末寺リスト1

常光寺末寺リスト その1

所在村名と寺名が示されたいます。最初に出てくるのは高松藩領内の末寺です。ここからは次のようなことが分かります。


①常光寺周辺の三木郡に多い。
②香川郡には少ない(阿波の安楽寺の末寺安養寺との棲み分け現象?)
③阿野郡西分村の善福寺(綾菊の南側)は、鴨村に末寺・正蓮寺などをもっている。
④那珂郡トップに登場するのが円徳寺も、3つの末寺を持っている。

常光寺末寺リスト 円徳寺


円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。

常光寺末寺リスト3 円徳寺 法照寺


ちょうと寄り道します。円徳寺の末寺の佐文の法照寺です。

佐文 法照寺

この寺の前には、金刀比・伊予土佐街道が通っています。かつては、金比羅参りの参拝客が数多くこの前を行き来していました。しかし、もともとここにあった訳ではないようです。丸亀藩に出された屋根の葺き替え申請書には次のように記されています。  
佐文 法照寺2

ここには次のような事が記されています。
①円徳寺の末寺として、生間に開基
②1722年に協議の末・佐文に移転
ここから分かることは18世紀になると村の間で、お寺の誘致合戦が展開されるようになっていることです。その背景には、お寺がないと不便なことがありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向いて頼んでやってきてもらうことになります。そのために村にお寺のない所は、誘致運動を展開するようになります。佐文の法照寺も、とともとは生間にあったのが「誘致運動」で佐文にやってきたようです。その際に、寺だけでなく門徒も一緒についてくることもあったようです。本寺の円徳寺ももともとは、本目にあったと聞いています。お寺さんは、昔からそこに有り続けるモノと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
常光寺文書には離末寺のリストもあります。
かつては常光寺に属していたが、何らかの理由で離末した寺のリストです。


常光寺離末リスト


①2番目のまんのう町高篠の円浄寺は、享保10(1725)
②天領榎井村の玄龍寺は1813年、
③赤丸以後の7ケ寺は、文化十年に一斉に離末
その内の一番最初は、天領榎井村の玄龍寺、そして次の4ケ寺が多度郡、最後の2つが三豊郡の2寺です。その理由は、後で見ることにしてここでは一斉離末があったことを押さえておきます。これを見ると、全盛期には75の末寺をゆうしていたという由緒書きは、本当だったようです。次に視点を変えて末寺分布を見ておきましょう。

興正寺派常光寺末寺

常光寺末寺分布図(丸亀平野)



常光寺丸亀平野の末寺をグーグル地図に落としてみました。
黄色ポイントが末寺です。円徳寺が右隅です。その末寺が佐文の法照寺・造田の西福寺・垂水の西の坊です。東から伸びてきた教線ラインが円徳寺にやってきて、丸亀平野に下っていく動きが見えて来ます。
ここからは次のような事がうかがえます。

①②多度津丸亀など海岸線部や都市部にはない。

③三野平野に進出していない。

その理由として対抗勢力の存在が考えられます。三野平野は、中世に秋山氏によって開かれた法華宗の本門寺の強固な信徒集団がいました。また、その背後には、弥谷寺の修験・聖集団がいました。また観音寺には禅宗の寺院がありました。
④髙松藩や丸亀藩の藩を超えて教線がのびています。これは讃岐が2つの藩に分割される以前の生駒藩時代に、この本末関係ができたことを示しています。以上が、末寺リストから分かることです。今回は、このあたりにしておきます。
次回は阿波美馬の安楽寺を見ていくことにします。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 関連記事

18世紀頃になると中本山である安楽寺から離脱していく讃岐の末寺が出てきます。どうしてなのでしょうか。その背景を今回は見ていくことにします。
本寺と末寺(上寺・下寺)の関係について、西本願寺は幕府に対して次のように説明しています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」
              「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)
 ここには下寺(末寺)は、本山より上寺(中山)に預け置かれたものとされています。そして下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要とされました。上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗改派は禁じられていたのです。
  ところが17世紀になると情勢が変わってきます。本末制度が形骸化するのです。その背景には触頭(ふれがしら)制の定着化があるようです。触頭制ついて、浄土宗大辞典は次のように記します。

江戸時代、幕府の寺社奉行から出された命令を配下の寺院へ伝達し、配下寺院からの願書その他を上申する機関。録所、僧録ともいう。諸宗派の江戸に所在する有力寺院がその任に当たった。浄土宗の場合は、芝増上寺の役者(所化役者と寺家役者)が勤めた。幕府は、従来の本末関係を利用して命令を伝達していたが、本末関係は法流の師資相承に基づくものが多く、地域的に限定されたものではなかった。そのため、一国・一地域を区画する幕藩体制下では、そうした組織形態では相容れない点があった。そこで、一国・一地域を限る同宗派寺院の統制支配組織である触頭制度が成立した。増上寺役者は、寛永一二年(一六三五)以前には存在していたらしい。幕府の命令を下すときは、増上寺管轄区域では増上寺役者から直接各国の触頭へ伝達され、知恩院の管轄区域では、増上寺役者から知恩院役者へ伝えられ、そこから各国の触頭へ伝達された。

幕府に習って各藩でも触頭制が導入され、触頭寺が設置され、藩の指示などを伝えるようになります。浄土真宗の讃岐における中本山は、三木の常光寺と阿波の安楽寺でした。この両寺が、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがった真宗ネットワークの中心でした。しかし、各藩毎に触頭と呼ばれる寺が藩と連携して政策を進めるようになると、藩毎に通達や政策が異なるので、常光寺は安楽寺は対応できなくなります。こうして江戸時代中期になると、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反を押さえる策から、合意の上で金銭を支払えば本末関係を解消する策をとるようになります。つまり「円満離末」の道を開きます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

 安楽寺の高松平野方面での拠点末寺であった安養寺の記録を見ておきましょう。
西御本山
京都輿御(興正寺)股御下
千葉山 久遠院安養寺
一当寺開基之義者(中略)本家安楽寺第間信住職仕罷在候所、御当国エ末寺門従数多御座候ニ付、右間信寛正之辰年 香川郡安原村東谷江罷越追而河内原江引移建立仕候由ニ御座候、然ル所文禄四年士辛口正代御本山より安養寺と寺号免許在之相読仕候。
意訳変換しておくと
安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から第間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。

整理すると次のようになります。
①寛正元年(1460)に安楽寺からやってきた僧侶が香川郡安原村東谷に道場をかまえた。
②その後、一里ほど西北へ離れて内原に道場を移転(惣道場建立?)
③文録四年(1595)に本山より安養寺の寺号が許可

①については、興正寺の四国布教の本格化は16世紀になってからです。また安楽寺が興正寺末寺となり讃岐布教を本格化させるのは、讃岐財田からの帰還後の1520年以後で、三好氏からの保護を受けてのことです。1460年頃には、安楽寺はまだ讃岐へ教線を伸ばしていく気配はありません。安楽寺から来た僧侶が道場を開いた時期としては早すぎるようです。
安養寺 安楽寺末
安楽寺と安養寺の関係

②については、「香川郡安原村東谷」というのは、現在の高松空港から香東川を越えた東側の地域です。安楽寺のある郡里からは、相栗峠を挟んでほぼ真北に位置します。安楽寺からの真宗僧侶が相栗峠を越えて、新たな布教地となる香東川の山間の村に入り、信者を増やし、道場を開いていく姿が想像できます。そして、いくつもの道場を合わせた惣道場が河内原に開かれます。これが長宗我部元親の讃岐侵攻時期のことであったのではないかと思います。
 以前に見たまんのう町の尊光寺由来に「中興開基」として名前の出てくる玄正は、西長尾城主の息子として、落城後に惣道場を開いたとあります。つまり、惣道場が開かれるのは生駒時代になってからです。
③には安養寺の場合も1595年に寺号が許されるとあります。しかし、西本願寺が寺号と木仏下付を下付するようになるのは、本願寺の東西分裂(1601年)以後のことです。ちなみに龍谷大学の史学研究室にある木仏には次のように記されたものがあるようです。

「慶長12(1609)年、讃岐国川内原、安養寺」

この木仏は西本願寺→興正寺→安楽寺→安養寺というルートを通じて、安養寺に下付されたものでしょう。「寺号免許=木仏下付」はセットで行われていたので、寺号が認められたのも1609年のことになります。
 どちらにしても安養寺は、安楽寺の末寺でありながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院として発展します。そのため初代高松藩主としてやってきた松平頼重は、高松城下活性化と再編成のために元禄2(1689)年に、高松城下に寺地を与えて、川内原より移転させています。以後は、浄土真宗の触頭の寺を支える有力寺になっていきます。寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
真宗興正派安養寺末寺
安養寺末寺

安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
安養寺末寺一覧
安養寺の末寺
  以上から安養寺は安楽寺の髙松平野への教線拡大の拠点寺院の役割を担い、多くの末寺を持っていたことが分かります。それが髙松藩によって髙松城下に取り込められ、触頭制を支える寺院となります。その結果、安楽寺との関係が疎遠になっていたことが推測できます。安養寺の安楽寺よりの離末は、宝暦七(1757)年になります。離末をめぐる経緯については、今の私には分かりません。

DSC02132
尊光寺(まんのう町長炭東) 安楽寺の末寺だった
まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)

一札の事
一其の寺唯今迄当寺末寺にてこれあり候所、此度得心の上、永代離末せしめ候所実正に御座候。然る上は自今以後、本末の意趣毛頭御座なく候。尤も右の趣御本山へ当寺より御断り候義相違御座なく候。後日のため及て如件.
阿州美馬郡里村
安永六酉年        安楽寺 印
十一月           知□(花押)
讃州炭所村
尊光寺
意訳変換しておくと
尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があります。これに対して安楽寺文書にも、次のような文書があり離末が裏付けられます。
第2箱72の文書「離末、本末出入書出覚」
「安永七年四月り末(離末)」
第5箱190の「末寺控帳」写しに
「安楽寺直末種村尊光寺安永七年四月り末(離末)」
  このような離末承認文書が安楽寺から各寺に発行されたようです。

興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅
興泉寺(琴平町)

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)が安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。  
 尊光寺の場合も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺は徳島城下の末寺で、触頭寺となった東光寺と本末論争の末に勝利します。しかし、東光寺が触頭として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に政策転換したことが分かります。17世紀半ば以後には、讃岐末寺が次々と「有償離末」しています。

 そのような中で、長尾の超勝寺だけが安楽寺末に残こります。
長勝寺
超勝寺(まんのう町長尾)
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺だけが末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。山を越えて末寺として中本山に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)
讃州長尾村超勝寺本末の式相い失い、拙寺より本山へ相い願い、超勝寺誤り一札仕り候
写、左の通り。
(朱書)
「八印」
御託証文の事
一つ、従来本末の式相い乱し候段、不敬の至り恐れ入り奉の候
一つ、住持相続の節、急度相い届け申し上げ候事
一つ、三季(年頭。中元。報思講)御礼、慨怠無く相い勤め申し上ぐ可く候事
一つ、葬式の節、ご案内申し上ぐ可く候事
一つ、御申物の節、夫々御届仕る可く候事
右の条々相い背き候節は、如何様の御沙汰仰せ付けられ候とも、毛頭申し分御座無く候、傷て後日の為め証文一札如件
讃岐国鵜足郡長尾村
            超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
これを深読みすると、安楽寺の末寺はこのような義務を、安楽寺に対して果たしてきていたことがうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。

安楽寺の末寺総数83ケ寺の内の42ケ寺が安永年間(1771~82)に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第2箱108)。離末理由については何も触れていませんが先述したように、各藩の触頭寺を中心とする寺院統制が整備されて、本山ー中本山を通して末寺を統制する本末制が有名無実化したことが背景にあるようです。

来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
常光寺(三木町)
このような安楽寺の動きは、常光寺にも波及します。
幕末に常光寺が藩に提出した末寺一覧表には、次の「離末寺」リストも添付されています。
安養寺末寺一覧
常光寺の高松藩領の離末リスト

これを見ると髙松藩では、18世紀前半から離末寺が現れるようにな
ります。
常光寺離末寺
常光寺の離末リスト(後半は丸亀藩領)

そして、文化十(1813)年十月に、多度・三豊の末寺が集団で離れています。この動きは、先ほど見た安楽寺の離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。
常光寺碑文
常光寺本堂前の碑文
常光寺本堂前の碑文には、上のように記されています。75寺あった末寺が、幕末には約1/3の27ヶ寺に減っていたようです。

以上をまとめておくと
①讃岐への真宗伝播の拠点となったのは、興正派の常光寺(三木町)と安楽寺(阿波郡里)である。
②両寺が東と南から讃岐に教線を伸ばし、道場を開き、後には寺院に格上げしていった。
③そのため讃岐の真宗寺院の半分以上が興正派で、常光寺と安楽寺の末寺であったお寺が多い。
④しかし、18世紀になると触頭制度が整備され、中本山だった常光寺や安楽寺の役割は低下した。
⑤そのような中で、中世以来の本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
⑥そこで安楽寺や常光寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑦安楽寺を離れた末寺は、興正寺直属の末寺となって行くものが多かった。
⑧しかし、中にはいろいろな経緯から東本願寺などに転派するお寺もあった。
⑨また、明治になって興正寺が西本願寺から独立する際に、西本願寺に転派した寺も出てきた。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号

  四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国各県の宗派別寺院数と真宗占有率
香川県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗で、それは約47%になります。その中でも興正寺派の占める割合が非常に多いようです。その背景として、次のような要因が考えられることを以前にお話ししました。
①15世紀に仏光寺(後の興正寺)が教勢拡大拠点として三木に常光寺、阿波の郡里(美馬市)に安楽寺を開き、積極的な布教活動を展開したこと
②本願寺も瀬戸内海沿い教線拡大を行い、宇多津に西光寺などを開き、周辺への布教活動を行ったこと
③戦乱の中で衰退傾向にあった真言勢力に換わって、農民層に受けいれられたこと
④髙松藩が興正寺派と幾重もの姻戚関係を結び、その保護を受けたこと
讃岐の浄土真宗寺院分布図
浄土真宗寺院の分布図
この中の①の阿波の安楽寺の丸亀平野方面への教線拡大過程は以前に押さえましたが、常光寺のうごきについては見ていませんでした。そこで、今回は常光寺の教線拡大ルートを見ていきたいとおもいます。テキストは 「藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号」です。
来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
興正寺派の布教拠点となった常光寺(三木町)

江戸時代後半の19世紀前半に、常光寺が髙松藩に提出した由緒書きが残っています。それを見ると、常光寺というお寺の性格が分かります。
『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕(意訳)
 当寺の創建は、足利三代将軍義満の治世の時(1368年)とされます。泉洲大鳥領主で生駒左京太夫光治の次男政治郎光忠と申すものが発心し、法名浄泉と名前を改め、仏光寺で修行しました。その後、常光寺の号を与へられました。仏光寺門下に秀善坊という者がいて、安楽寺と号していました。
 あるときに仏光寺了源上人は、二人に四国への教線拡大を託します。浄泉と秀善のふたりは、ともに応安元年に四国へ渡り、秀善坊は、阿州美馬郡香里村安楽寺を創建しました。一方、浄泉坊は当国へやって来て、三木郡氷上村に常光寺を建立します。布教活動の結果、教えは阿讃両国の間にまたたくまに広がり、真宗に帰依する者は増えました。こうして安楽寺・常光寺の両寺の末寺となる寺は増え続け、日を追って両山門は繁昌するようになりました。
 開基の浄泉より百余年後の文明年中(1469~87年)、五代目の住侶浄宣のことです。仏光寺の経豪上人は本願寺蓮如上に帰依し、仏光寺を弟経誉上人に譲り、蓮如上人を戒師にして、その頼法名を蓮教と改名し、京都山科の口竹に小庵を構へました。その寺は、蓮如上人より興正寺と名付けられました。これを見て、蓮教を慕う当寺の浄定坊も仏光寺末を離れて、文明年中より興正寺蓮教上人の末寺となりました。こうして、応安元年に浄泉坊は当寺を建立しました。
22代の祖まで血脈は連残し、相続しています。
要約すると
①足利義満の時代に(1368)に、佛光寺(後の興正寺)了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣した。
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿波美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。
④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。

以上は、300年以上経た19世紀になってから常光寺で書かれた由緒書きなので、そのままを信じることはできないにしても、大筋は認められると研究者は考えているようです。
常光寺や安楽寺は14世紀後半に創建されたとされますが、それが教線を拡大していくようになるのは16世紀になってからになるようです。この報告書には、続きがあります。そこには、常光寺の末寺が次のように列挙されています。
常光寺末寺1
常光寺末寺 1(髙松藩領内)
常光寺末寺2
常光寺末寺(前半髙松藩 後半丸亀藩領内)

かつて末寺あった寺としてあげられているのが次の通りです。
(年号は離末した年)
常光寺離末寺
常光寺離末寺(末寺を離れた寺院)

ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は興正寺の中本山として、41ケ寺の末寺をその管理下においていたこと。
②最盛期には、豊田郡流岡村(観音寺市)や、三野郡麻(三豊市)にまで末寺があり、三豊まで教線を伸ばしていたこと
③離末していく寺が18世紀になって増え、文化10(1813)年には多度津以西の寺が集団で離末していること

丸亀平野の末寺に絞り込んで見ると次の通りです。
①那珂郡七ケ村 円徳寺
②      垂水村 善行寺
③      垂水村 西教寺
④      原田村 寶正寺
⑤垂水村 西 坊     (円徳寺末寺)
丸亀藩領
⑥那珂郡 田村  常福寺
⑦那珂郡 佐文村 法照時(円徳寺末)
⑧那珂郡 苗田村 西福寺(円徳寺末)
旧末寺
⑨那珂郡 榎井村 玄龍寺
⑩多度郡  吉田村 西光寺
⑪多度郡 下吉田村浄蓮寺
⑫多度郡 三井村 円光寺
⑬多度郡 弘田村 円通寺

興正寺派常光寺末寺
丸亀平野の常光寺末寺分布地図
この中で①の円徳寺(現まんのう町七箇照井)は、⑤⑦⑧の3つの末寺を持っていたようです。
円徳寺・法照寺本末関係
那珂郡南部の常光寺の本末関係

常光寺の教線拡大図に阿波・安楽寺の末寺を重ねてみましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
阿波郡里の安楽寺の末寺分布図
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾〉
慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)尊光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦) 妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
安楽寺も勝浦の長善寺などを拠点に、教線ラインを次第に「讃岐の山から里へ」と伸ばしていく様子が浮かび上がってきます。
常光寺と安楽寺の教線拡大ラインと比較すると次のようになります。
常光寺 
三木から三豊へと讃岐を東西に結ぶ内陸の農村部を中心にした教線拡大ライン
安楽寺
阿波郡里から讃岐山脈を越えて丸亀平野や三豊平野に下りていく、南から北への教線拡大ライン

クローズアップして、現在の丸亀市垂水の両寺の末寺を見てみます。

垂水の興正寺派末寺
丸亀市垂水の善光寺・正教寺・浄楽寺

 以前にお話ししたように垂水は古代においては、土器川の氾濫原で条里制施行の空白地帯だったエリアです。それが中世になって有力武士団などによって、治水灌漑が行われ耕地整備が進んだと研究者は考えているようです。それを示すかのように、現在でも土器川生き物公園は、土器川の氾濫寺の遊水池として近世には機能していました。いわば土器川氾濫原の中世の開発地区が垂水や川西地区だと私は思っています。この開拓への入植農民達への布教活動を活発に行ったのが真宗の僧侶達だったのではないでしょうか。宗教的な情熱に燃える真宗僧侶が東の常光寺から、南の阿波安楽寺からやってきます。そして、道場が開かれ寺に成長して行くという道をたどったようです。
例えば、垂水の善行寺と西教寺は、もともとは常光寺の末寺で、善行寺は寛文年中(1661~72)に、西教寺は寛永年中(1624~44)に木仏・寺号を許されたといいます。

一方、この両寺の間にある浄楽寺は、讃岐名所図会に次のように安楽寺末寺と記されています。
一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり

とあり、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し創建したと伝えられています。また、まんのう町買田の恵光寺の記録には、次のように記されています。
(この寺はもともとは、(まんのう町)塩入の奥にあった那珂寺である。長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建された

 琴南町誌には、現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また檀家も存在することが記されています。 以上から、垂水の藤田大隅守の城跡へ、塩入にあった那珂寺が垂水に移転再建され浄楽寺と呼ばれるようになったようです。どちらにせよ安楽寺の教宣拡大戦線の丸亀方面の最前線に建立された寺院であるといえます。この寺は、寛永年中に寺号を許されたようで、後には安楽寺を離れて西本願寺末となります。

  垂水の真宗興正派の3つのお寺を見ると、まさに西に向かって伸びていく常光寺の教線ラインと、北に伸びていく安楽寺の教線ラインが重なったのが丸亀平野なのだと思えてきます。このようなふたつのルートの存在が互いのライバル心となり、さらに浄土真宗の丸亀平野での拡大にはずみをつけたのかも知れません。これが16世紀半ばから17世紀前半にかけてのことです。
 これを真言宗の立場から見てみるとどうなるのでしょうか。
例えば当時の真言勢力の拠点と考えられるのは、阿野北平野では白峰寺、丸亀平野では善通寺です。これらの寺院は中世には、いくつもの子院や別院を持ち、多くの伽藍を擁する大寺院に成長し、僧兵を擁していた可能性もあることは以前にお話ししました。しかし、戦国時代になると戦乱と西讃岐守護の香川氏などの周辺武士団の押領を受けて勢力を失っていきます。白峰寺や善通寺・弥谷寺なども16世紀後半には、それまでの伽藍の姿が大きく縮小し、子院の数も激減しているのが残された絵図からは分かります。讃岐の真言勢力は衰退の危機的な状態にあったと私は考えています。そういう中で、古い衰退していた寺を、真宗僧侶は中興し、真宗に宗派替えしていきます。
 浄土真宗への転宗寺院の一覧表を見てみましょう。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
 ここからは、次のことがうかがえます。
①どの宗派から真宗に転宗した寺院が多いか
②どの郡に転宗寺院が多いか
①については、密教系修験者の山林寺院が多かった天台・真宗からの転宗が多いことが分かります。
②については、鵜足・那珂・多度郡など丸亀平野を中心とする中讃地域に多いことが分かります。
また、転宗時期は、天文年間以降に多く見られます。この表からも讃岐で真宗寺院が増加していくのは天文年間以後であったことが裏付けられます。
  
次の表は各史料に書かれた讃岐の浄土真宗の創建年代を、年代別に示したものです。
讃岐の真宗寺院創建年代
16世紀までの讃岐の真宗寺院創建年代

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐最初の浄土真宗のお寺は、暦応4年(1341)に屋島沖の大島に創建された法蔵院(現真行寺)
②14世紀中に設立されたとする32寺院について、常光寺のように史料的に裏付けられるものは少ないこと
③讃岐における浄土真宗寺院の増加は16世紀以後のことであること。
④16世紀半ば以後に、真言・天台の大寺が衰退し、その勢力が弱まったこと。具体的には修験者の活動が停滞したこと。
⑤その隙間を狙うように、真宗興正寺派の教宣ルートが丸亀平野に延びてきたこと。

上の讃岐における真宗寺院創建年代を、更に詳しく郡別に分けた次のような表を研究者は作成しています。
四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐真宗寺院創建年代一覧(郡別)
ここからは16世紀までに創建されたとされる真宗寺院は、香川・阿野(綾)・鵜足・那珂に多いことが分かります。
以上のデータから当時の常光寺や安楽寺の教宣拡大戦略を私なりに考えて見ると次のようになります。
①戦乱の中で今まで大きな力を持ていた白峰寺や善通寺が衰退している。
②そのため多くの修験者や聖達が離れて、農村部への布教活動もままならない状態となっている。
③丸亀平野では「宗教的空白地帯」が生まれている。
④これは我々にとっては大きなチャンスである。丸亀平野を真言から「南無阿弥陀仏」念仏に塗り替えるときがやってきた。
⑤我々の新天地は、丸亀平野に在り! 丸亀平野が我々の西方浄土である!
⑥この仏の与えたチャンスをいかすために、我々の教宣活動の中心を丸亀に向ける
このような戦略が16世紀前半には立てられ、それが実行に移され浄土真宗寺院の数が増え出すのが16世紀半以後と私は考えています。

 一方このような浄土真宗の拡大に危機感を持った真言僧侶もいたはずです。
その一人が西長尾城の城主の弟とされる宥雅です。彼は善通寺で修行を重ねていましたが、長尾氏の勢力下でも増え続ける照度真宗のお寺や道場、真宗僧侶の布教活動のようすを見て脅威や危機感を感じていたののではないでしょうか。その対応策として考えたのが、松尾寺の守護神として新たな流行神である「金毘羅神」を祀るということでした。私は金毘羅神は、丸亀平野での真宗拡大に対する真言側の対応の一つ出ないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号
関連記事

このページのトップヘ