瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐真宗布教史 > 髙松御坊

水戸黄門のお兄さんに当たる松平頼重が初代髙松城主としてやって来るのが1640年のことです。彼は、幼少期には水戸藩の嫡男として認められずに京都の寺院に預けられて、そこで成長します。僧侶としての知識と世界観と人脈をもっていた人物でした。そのため次のような興正寺と姻戚関係を持っていまし。

松平頼重の真宗興正派保護の背景

これ以外にも髙松藩と興正寺の間には、家老などの重臣との間にも幾重にも婚姻関係が結ばれて、非常に緊密な関係にあったようです。そのことをもって、松平頼重の興正寺保護の要因とする説もありますが、私はそれだけではなかったと考えています。政治的な意図があったと思うのです。
宗教政策をめぐる松平頼重の腹の中をのぞいてみましょう。
大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしたい。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか?
 東讃では、髙松城下では? 中讃では?

もっとも手強いのは真言宗のようだ。その核になる可能性があるのは善通寺だ。他藩にあるが髙松藩にとっては潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか?

松平頼重の宗教政策

このような宗教政策の一環として、真宗興正派の保護が行われたと私は考えています。血縁でつながり信頼の置ける協力的な興正派の寺院を増やすことは、政治的な安定につながります。その方策を見ておきましょう。
まずは高松御坊を再興して真宗興正派の拠点とすることです。
御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。その一環として高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、坊が三木から移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。

髙松屏風図 高松御坊
髙松屏風図絵

髙松城屏風図とよばれている4枚の屏風図です。水戸からやってきた松平頼重やそのブレーンは、この屏風図を見ながら城下町の改造計画を練ったのかもしれません。現在の市役所がある西寺町から東寺町にかけて東西にお寺ぶエリアが置かれていました。これは高松城の南の防衛ラインの役割を果たし、緊急事態の折には各侍達はどこの寺に集合するのかも決められていたと云います。

高松御坊3
讃岐国名勝図会(1854年)に描かれた高松御坊(勝法寺)
 幕末の讃岐国名勝図会には、東寺町(現在の御坊町)に高松御坊が描かれています。前の通りが現在のフェリー通りで、その門前に奈良から連れてきた3つの子院が並び、東側には真言の無量寿院の境内が見えます。寺町の通りを歩けば、建物を見るだけで真宗興正派の勢力が分かります。
 高松御坊は、水戸から松平頼重がやってきたときにはここにあったようです。頼重は、その坊舎を修繕し、150石を寄進して財政基盤を整えます。その際に創建されたのが奈良から移された勝法寺です。
そして高松御坊・興正寺代僧勝法寺として、京都興正寺派の触係寺とします。勝法寺は、京都の興正寺直属のお寺として高松御坊と一体的に運営されることになります。そして勝法寺を真宗の触頭寺とします。
興正寺末寺
高松藩の興正派末寺(御領分中寺々由来書)
「代僧勝法寺」が本末一覧表のトップに位置する。

このように勝法寺は髙松藩における真宗興正派の拠点寺院として創建(移転)されたのです。そのため興正寺直属で、京都からやってきた僧侶が管理にあったりました。しかし、問題が残ります。勝法寺は、讃岐に根付いた寺院ではなく、末寺もなく人脈もなく政治力もありません。そのためいろいろと問題が起こったようです。そこで松平頼重が補佐として、後から後見役としてつけたのが常光寺と安養寺でした。そのうちの安養寺は、それまでの河内原からこの地に移されます。後から移されたので、建設用地がなくて堀の外側にあります。こうして高松御坊と一体の勝法寺、それを後見する安養寺と、3つの子院という体制ができあがったのです。御坊町はこうして、真宗興正派の文教センターとなっていきます。
高松興正寺別院
現在の高松御坊(高松市御坊町)


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 江戸時代の高松御坊と塩屋御坊は、つぎのような関係にありました。     
①高松御坊(高松藩)は、興正寺末の勝法寺が管理
②塩屋御坊(丸亀藩)は、西本願寺直轄で本山の輪番寺が管理
西本願寺と興正寺の間には、本末関係にありながら根深い対立があったことは以前にお話ししました。西本願寺は興正寺を自派の末寺と考えていたのに対して、興正寺は自ら本山と称していました。このような両者の対立は、明暦元年(1655)4月には、幕府によって興正寺19世准秀が越後へ流罪となるような事態も生みました。それでも興正寺は、別派を立てる運動をやめません。そのため興正寺別院の高松御坊(勝法寺)も、西本願寺に素直に従おうとはしなかったようです。高松御坊にすれば、三好実休以来の伝統があり、最近出来たばかりの丸亀の塩屋別院とは歴史も格もちがうという自負心もありました。それを高松藩が応援します。

高松藩藩祖の松平頼重は、興正寺との間に次のような姻戚関係がありました。
①興正寺18世准尊の娘良子が父頼房の側室に上がっていたこと、
②自分の娘万姫が20世良尊円超の養女となり、三男で21世を継いだ寂眠の室となったこと
このため興正寺や勝法寺を保護し、西本願寺との争いでも興正寺方に強く肩入れします。高松御坊からすれば、西本願寺のもとで新たに設置された丸亀藩の塩屋御坊は、自派に対しての切り崩し拠点のように見えたのかも知れません。そのため対抗的な姿勢を示します。それを高松藩も支援するという空気が生まれていきます。そのギクシャクした関係を見ておきましょう。

享保19(1734)年に、教法寺の住職が追放され、西本願寺の別院となったことは以前にお話ししました。
その際に、西本願寺は、御坊御請の御礼に高松に戒忍寺住職を派遣しています。彼は、高松藩へのあいさつを終わると、6月8日には高松勝法寺(高松御坊)へ出向いて塩屋御坊のことをよろしくおねがいしますと挨拶を済ませています。それ以前の6月5日付で、西本願寺からも高松の勝法寺へ次のような挨拶状が送られています。
一筆中さしめ候……然らば其の国丸亀領塩屋村教法寺儀、四年以来御本山え願い置かれ候処、今度、御領主え仰せ入れられ御許容の上 御坊に 仰せ付られ候間、万端御坊輪呑示し合さるべく候、触等の儀は在来の通りに候間、その意を得らるべく侯、不宣
六月五日                三人
高松 勝法寺
追啓 法中え 仰せ渡されの御使僧として戒忍寺御差下候間、左様心得らるべく候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上奉り候……讃岐国丸亀領塩屋村教法寺について、先年以来、本山に対して別院化の願いがあった。そこで、丸亀藩主に願いでたところ許可が下りたので、正式に塩屋別院(御坊)とすることが認められ。ついては、万事について塩屋別院と協議しすること。なお、触頭等については従来の通りに行われるように、取り計らうように依頼する。不宣
六月五日            三人
高松 勝法寺
追伸 法中への仰せ渡しの使僧として戒忍寺を派遣して、以上のようなことを伝えたと、心得えていただきたい。以上

しかし、その後の経過を見ると、西本願寺が期待したようには、勝法寺と御坊輪番寺との関係はうまくいかなかったようです。
讃岐の真宗興正派の寺からは、丸亀藩の塩屋別院は西本願寺の讃岐への教勢拡大の拠点として設置された寺院で、自分たちの勢力圏に打ち込まれた布石とみられていたような気配がします。そのため塩屋御坊の活動については、非協力的な態度で臨みます。例えば塩屋御坊ができて4年後の元文2年(1737)には、次のような事件が起きています。
本願寺から御影が届きました | 浄泉寺
祖師(親鸞)御影
この年5月、塩屋別院に祖師御影が下付され、6月21日から28日まで開帳が行われることになります。そこで、開帳セレモニーへの参加を、讃岐の真宗寺院に呼びかけるために、塩屋別院の当時の輪番寺・弘願寺は「御遷座の節、法中・門中参詣の義」の触れ(通知)を出します。
 これに対して、丸亀城下の正玄寺(西本願寺末)から異議が出されます。それは高松藩の触頭寺は、高松御坊(勝法寺)であるので、その触れ(通知・指図)がなくては参詣できないと断ってきたのです。困った弘願寺は、西本願寺に経過報告するとともに、対処方を相談しています。これに対して西本願寺は、次のように答えています。

……是迄も御触・連署差し下し候節は、惣法中の触は正(勝)法寺え向け添状遣し正法寺より相触れ候、其御坊えは格別に別紙を以て御触の趣申し遣し候事に候、此度の儀も共の元より正法寺え向け連署相渡され正法寺より相触させ候えば、初発より御定の通りに相違致さずと中ものに候、其の元より直に触れられ候故、其の御坊の触下の様にも成るべきかと正法寺よりもこばみ候ものと推察せしめ候……

  意訳変換しておくと
 これまでも本山からの御触・連署を差し下す時には、真宗寺院の触頭寺である高松の正(勝)法寺へ送付し、それを正法寺から讃岐の各真宗寺院へと相触(連絡)するという方法をとってきた。これについては、以前に別紙で「触等の儀は在来(従来)の通り」と高松御坊(勝法寺)に伝えている。
 この度の件については、勝法寺へ連署を渡たし、勝法寺から相触(連絡)させれば、問題は起きなかったはずである。それが勝法寺を通さずに、丸亀別院(輪番寺弘願寺)から直接に、各寺委員への連絡通知をだしたことが、勝法寺の機嫌を損ねたのだろうと推察する…。
ここからは高松領、九亀領ともに真宗寺院への触れは高松の勝法寺から触れるのが筋道だと西本願寺でも承知していたことが分かります。それを守らなかった輪番の弘願寺に落ち度があるとも云わんばかりの内容です。これが慣例なのかもしれませんが、丸亀藩における連絡網としては、機能不全です。丸亀御坊が丸亀藩の真宗寺院に触れを出す場合にも、その都度高松御坊に依頼して出さなくてはならないということになります。これは、不便ですし、何より屈辱的です。

塩屋別院3
塩屋御坊(讃岐国名勝図会) 現在の本堂は安永4年のもの
安永4年(1775)の丸亀御坊の本堂上棟の時のことです。
30年余りの工期の末に、立派な本堂が完成します。その御書請待(セレモニーへの参加依頼書)が、藩主には西本願寺門主からの御書が、丸亀藩家老ヘは本山坊官からの連署が下されます。これに対して、興正寺末の金倉円龍寺と津森光善寺は「先例に従わないもの」と不承知の意思表明をします。そこで、丸亀御坊の当時の輪番寺だった善行寺は、丸亀藩の寺社役・安達覚左衛間、安藤貞右衛門、明石六太夫へ掛け合って、寺社役名で、門主の御書を受け取るように領内の末寺へ申し渡します。これは「特別措置」なのでお礼として、西本願寺は門跡から丸亀藩主に薫物と肴、家老と寺社役へは本山からそれぞれ羽二重と肴、加賀絹と肴が贈られています。「お手数をおかけしました」というお礼とお詫びの意味が込められていたのでしょう。
 しかし、西本願寺のこのような動きに対して、興正寺も黙っていません。
使僧桃源寺を丸亀に派遣して、これを先例としないように立ち働いたようです。その結果、翌(1777)年になって興正寺末の寺々からは不承知の旨が藩に対して出されます。藩では、それをも聞き入れて御書聴写猶予の触れを出しています。この当たりには、丸亀藩の高松藩に対する配慮ぶりがうかがえるように見えます。
 これに対して西本願寺はからは、次のような不満の書状が丸亀藩に送られてきます。
「……塩屋村掛所再建労に付き、御領中の末寺・門徒ども弥増しに法義相続候様に相示され候儀にて、 一国中におよひ候儀にて御座無く候故、寺法に差間と申す筋にては御座無く候……」

意訳変換しておくと

「……塩屋村掛所(御坊)の本堂再建の落慶法要について、御領中の末寺・門徒に対して法義に基づいて、通達連絡を行おうとしました。これについては讃岐一国のことではなく、丸亀藩内だけに関わることです。(どうして高松の勝法寺を通す必要があるのでしょうか。) 寺法を乱すものだという批判は、的外れです。」

しかし、丸亀藩の意向を変えることはできません。
このように京都の本山同士の争いが続いている間は、興正寺末の勝法寺やその他の諸院と塩屋御坊との関係は、決して円滑な者ではなく、ぎくしゃくとした関係だったようです。

以上をまとめておくと
①塩屋別院(御坊)は、もともとは赤穂からやって来た製塩集団を門徒たち建立した西本願寺を本寺とする寺だった。
②それが18世紀前半に、住職と門徒集団の争いで住職が追放され、西本願寺直属の御坊となっり、本山の僧侶が輪番で管理運営するようになった。
③しかし、讃岐の真宗寺院の触頭寺・勝法寺(高松御坊)からすると、宗派も異なり自分のテリトリーを犯す存在と写ったのか、反目が絶えなかった。
④こうして西本願寺別院としての塩屋御坊は、多数派の真宗興正派寺院からは冷たい眼で見られた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

塩屋別院3
丸亀の塩屋御坊(讃岐国名勝図会)

 丸亀市の塩屋町には、塩屋別院(御坊)という大きな伽藍をもつ真宗寺院があります。讃岐の真宗寺院の中では飛び抜けて大きい伽藍で気になる存在です。今は西本願寺の四国教区の教務所として、四国の末寺292ケ寺を束ねる役割を果たしているようです。今回は、この寺の創建と江戸時代の運用について見ていくことにします。テキストは、「堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年」 です。
丸亀の塩屋別院の位置 昔の地形図より
丸亀塩田のすぐそばに創建された教法寺(戦前の地図)

この寺は、もともとは教法寺として創建されました。

創建したのは、元和元年(1615)、播州赤穂からやってきた二十数人の製塩集団です。彼らは赤穂でいたときにすでに本願寺の門徒になっていました。塩屋村へ移り、塩浜を開いたときにすぐに念仏道場をひらきます。寛永20年(1643)12月には、本山の西本願寺から木仏・寺号を許され、教法寺と号するようになります。この寺は讃岐の農村部の真宗興正派の寺とは、その創建経過が異なります。塩職人を中心とする門徒集団(講)の発言権が強く、住職との間がギクシャクとした関係にあったようです。
 そんな中で享保16年(1731)正月、三代目住職知観が死去すると、その家族と門徒との間に争いが表面化します。これに対して丸亀藩は、本山・西本願寺の指示を仰ぐように命じます。本山の裁きは、寺を本山へ召し上げるというものでした。こうして住職は追放され、本山の御堂衆の明円寺が当分の間、管理することになります。明円寺は本山門主の留守番役です。

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塩屋御坊(山門)
 3年後の享保19(1734)年に、教法寺は本山の別院として塩屋御坊と呼ばれることになります。いわば本山の直轄管理寺院となったのです。ここまでを整理しておくと、塩屋御坊は当初は赤穂からやってきた製塩集団の念仏道場として開かれたものが、18世紀前半に西本願寺の別院になったという経緯があるようです。こうして別院にふさわしい寺格や伽藍が次のように整備されていくことになります。
享保18(1733)年 西本願寺一四代寂如の御絵下付
享保19(1734)年 教法寺を本山西本願寺の別院化
元文2年(1737)5月 等身の御影御絵が下付。
    (1738)年 御門と築地を建立、京都へ注文してあった釣鐘到着
寛保元年(1741) 台所完成
延享3年(1746) 勘定所完成
同 4年(1747) 二尊絵像の下付
寛延2年(1749)  本堂着工
安永四年(1775) 上棟式挙行
 現在の本堂は、18世紀半ばに着工し、完成までに30年近くの年月を要したようです。こうして塩屋別院には立派な伽藍が整備され「本院建築物の広大壮麗なる点は、郡内(仲郡)寺院中の第一位にあり」と仲多度郡史に記されるほどになります。

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讃岐国名勝図会に載せられた塩屋御坊に着色したもの
ちなみに、これらの整備事業には多額の資金が必要です。例えば西本願寺の御影・真影の下付相場は、次のような金額でした。

西本願寺宝物の下付相場

その都度、本寺にはこれだけの奉納金が納められ、謝金以外にも式典などにも多額の資金が必要でした。これだけの資金を準備できる讃岐の真宗寺院は稀だったはずです。塩屋御坊は財政基盤が裕福だったことになります。その財政基盤はなんだったのでしょうか? それはまた後ほど考えることにして、次に進んで行きます。

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塩屋御坊(山門から望む本堂)
 塩屋御坊は、先に見たとおり創建過程からして配下とか与力のない一本立ちの寺でした。そのため塩屋御坊講中の力が強く、輪番となった寺々と対立し、良好な関係が築けなかったようです。塩屋御坊のことを、輪番となった唯念寺は、天保12年(1841)正月3日付の手紙で、次のように本山へ報告しています。
……塩屋御坊所儀は御配下并に与力とてもこれ無く一本立の場所の上、時々輪番心配より国内にて講中・世話方と申す者相引立て、繁昌いたし候様に相成行き候に付ては、却て同坊講中共不機嫌に相成り中し候、夫と申すは、御坊勘定所の賄方、外へ相知れ候儀をば大にきらひ候所より和熟致さず候間、増々御坊所えは立入り申さず候様に相成り行き候に付き、塩屋村切りの御坊所に相成り居り申し候……
 
意訳変換しておくと
……塩屋御坊については、配下や与力などがない一本立の寺である。立地条件がいいので、輪番になった寺は讃岐国内から講中・世話方を引立てて、その才覚によって繁昌するようになった。これにたいしては同坊講中の中には、不機嫌な連中もいる。と云うのは、御坊の勘定所の賄方について、外部に知られることを嫌い、避けようとして融和が進まない。そのため外からの門徒が御坊へ立入ることがなくなり、塩屋村だけの御坊所になっている始末だ。

ここからは塩屋御坊が閉鎖的で、外部の講中に対して開かれた存在となっておらず、「塩屋村だけの御坊所」になっていると指摘しています。塩屋御坊は教宣センターとしての機能を果たしていなかったようです。

天保12(1841)年2月に、本山からの巡寺慈眼寺が提出した書簡を見ておきましょう。
一、塩屋御坊所之処在来御直門徒限二而万事御取持申上来候処、近来追々我意之振舞有之、輪番所賄向二不限、御作法向迄も差構候様相成、門徒気辺二不随候ハ交代等申立、且又御坊諸上納之処、御坊内御人少二而、賄向多分入不申、残何貫目と申程ハ村方門徒之処有二相成、且又於領方而も、塩運上之処御坊所有之候故、差寛めニ相成、是又村方之益二相成、格別外御坊とたかい
御殿之御恩を蒙居候。其弁もなく私欲かちに御座候ニ付、丸亀城下講中并高松同行も次第二不綺合二相成候処、当番所唯念寺殿、先般被  仰付候丸亀勘定元方講中を再取立勘定等為致候二就而者、御門御普請之運相成、町同行者勿論、東讃同行も追々帰状いたし、御繁昌二も及懸候処、村方直門徒以前之如く私欲難相成、且御上納金を以、是迄通り恣二酒食二取費候儀難相成候二付、当番番所并元〆講中世話方等相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候
  意訳変換しておくと
一、塩屋御坊の門徒について報告しておきます。この門徒達は、近頃ますます勝手な振舞が目立つようにようになっています。輪番所の賄向に限らず、御作法についても前例を無視することが多く、門徒たちの中には当番寺が従わないのなら、本寺へ交代を申立るべしと言い出す者も現れています。 又御坊が収めるべき上納物も、御坊内の用人が少くなり、賄向もかつてほどは入り用でないはずなのに、残何貫目と村方門徒の云うとおりに差配されています。さらに塩屋町は、塩運上所を御坊が所有しています。それも村方の利益となります。御坊は、格別に高い御殿(西本願寺住職)の御恩を受けています。ところがそれに応えることなく、私欲に走っているように見えます。そのため丸亀城下の講中や高松同行も、丸亀別院の講中のやり方について批判的なものが増えています。
 当番所の唯念寺殿は、先日次のように申しつけました。丸亀勘定元方講中を再取立てて勘定などの取り扱わせる。御門普請について、町同行はもちろん、東讃同行門徒にも寄進を募り、繁昌に見合うだけの寄進を行うなど、村方門徒も以前のように私欲なく、上納金を酒食に使うなどのことがないように、当番番所や元〆講中世話方が相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候

ここには丸亀御坊の講中は、御恩をわきまえずわがままばかりしているという評価が周りからでていることが報告されています。
DSC05907丸亀別院
塩屋御坊(別院)の山門と背後の本堂
これに対して、2ヶ月後の4月に塩屋御坊の講中は、本山からの使者石田小右衛門に口上書を差し出して、次のように反論しています。
一、塩屋村惣道場教法寺智観、自庵之企二付享保十六亥暦より三四ケ年之間村中騒動仕候而御領法御厄介二相成、
終二者
御本山依御慈悲二教法寺寺跡御取上御坊二被為仰候。其難有さの余り、大造之御堂御再建莫大之御借財二および、村中たばこを止め、正月の餅を不揚、心魂を砕しき御修覆相調申候処、去ル文化之頃、輪番最覚寺悪逆を企、大騒動二及、夫より暫く輪番中絶仕、留守居同様二相成居候処、講中共色々心痛仕漸々以前之通輪番被下候様相成申候処、又々唯念寺義最覚寺同様講中不和二相成、御坊廃亡仕候次第、誠二村中之老若男女児女童二至る道悲歎之涙にむせひ、此上は
御本山様へ愁訴歎願仕候あ外無御座与、村中一統決談仕罷在候
意訳変換しておくと
一、塩屋村の惣道場・教法寺の住職智観は、享保16(1731)年から村の講中と対立して、ついには騒動を起こして領法によって追放されました。そして、御本山の御慈悲で教法寺の寺跡は没収し、本山直属の御坊となりました。この措置に歓んだ門徒達は、御堂再建のために莫大な借金をして、そのために村中の門徒はたばこを止め、正月の餅を絶ち、心魂を砕いて修覆に身も心も捧げました。
 ところが文化年間(19世紀初頭)に、輪番寺の最覚寺が悪逆を企て、大騒動を引き起こしてしまいました。そのため輪番は中絶し、留守寺同様の有様になってしまいました。私たち講中はいろいろと心痛し、以前のような輪番制が復活するように申し入れてきました。ところが輪番制を務めることになった唯念寺が最覚寺と同じ様に講中と不和になってしまい、終には御坊は廃亡ということになりました。これについて村中門徒の老若男女児女童に至るまで悲歎の涙にむせんでいます。この上は御本山様へ愁訴歎願するしかないと、村中一統で決議してお願いする処断です。
ここには次のようなことが記されています。
①享保年間に、講中が住職と争い、住職が追放されて、寺は本山に取りあげられ別院となった。
②歓んだ講中は、西本願寺門主の御恩にこたえるために、伽藍整備にとりくんだ。そのため大きな借財ができたので、煙草も止め、正月のモチもつかない様であった。
このような塩屋門徒(講中)と、輪番各寺の両者の言い分には大きな開きがあるようです。
DSC05923
塩屋御坊本堂
 どちらにしても、丸亀御坊というのは丸亀藩における布教拠点となるべき寺院です。それが製塩集団の門徒と当番寺の間で諍いが続き、西本願寺の厄介な荷物になっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年

  前回に続いて龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)を見ていくことにします。この書は西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったものです。41冊の内の6冊には、裏に「長御殿(ながごてん)」とあります。これは、西本願寺の中枢部、今で言えば総務部に当たる部署になるようです。「長御殿」の六冊は、上下三段に分かれていて、上段には本寺から末寺へ、下段には末寺から本山へ出した書簡が収められています。そしてその内容は、長御殿の配下の財務、庶務、講、免物など、それぞれの係の記録を整理したもので、「留役所」のものも、ある事件に関連した幾つかの書簡を一か所に集めるという風になっています。いまでいう項目毎にフォルダで整理するスタイルです。その中の嘉永4、5年ごろの書簡の中に、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」をめぐる問題が記されています。今回は、それを見ていくことにします。テキストは 「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」です。

讃岐国名勝図会表紙
 「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854)刊行)
 嘉永4、5(1851)年ごろと云えば、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」が出版される3年前になります。この「図会」の出版経緯については以前にお話ししましたので、ここでは省略します。父の残した資料や原稿を整理しながら、松岡調による挿絵も次々と仕上がり、この頃は原稿が出来上がってきます。そのため印刷に向けた動きが始まります。当時は、讃岐にはこのような書物を出版できる版元はなかったようで、京都の池田鳳卿に出版を頼んでいます。版下の確認・打合せののために、監水もよく上京していたようです。

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  「讃岐国名勝図会 前編第1巻巻頭」(国立公文書館版)
そんな中で、池田鳳卿宅に出入りする西本願寺の用人藤田大学が「讃岐国名勝図会」の版下に目にとめます。中を見ると、記事の中に西本願寺の意に沿わない所があることに気がつきます。そこで上司に報告するとともに、自分の意見を讃岐の梶原藍水に書き送ります。その部分を要約すると、次のように記されています。
①「興正寺末 常光寺」とあるのを「本願寺御門跡御末寺」または「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」とすること
②一向宗という呼び名は讃岐ではよく通じる称号かもしれないが、それを「浄上真宗」と改めること
などを版元の池田を通じて梶原藍水と掛け合っています。
西本願寺と興正寺
京都の西本願寺と興正寺
前回にもお話ししたように、興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのような立場からすると「興正寺末 常光寺」という記述は認めがたいことになります。譲っても「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」でなければならないという立場です。これを書き換えるなら、西本願寺による「一括大量購入」もありうるという話が持ちかけられたようです。今で云うなら出版に関する宗門の介入で、言論の自由に関わる問題になります。しかし、当時は本寺がこのような書物の内容に口出しするのは当たり前だったようです。
 これを聞きつけた東本願寺からは、宗号のことは二の次にしても、東西本願寺を同格に書くのならよいが、西が東より尊いという書き方になれば大きい問題になるとの申入れが入ります。さらに興正寺からは「今のままでよいではないか。それなら興正寺末の四千の寺へ一部ずつ買わせるようにする」と言ってきます。

4343290-32高松寺町
高松城下の寺町その1(讃岐国名勝図会)

 各寺からの申し入れを受けた藍水は、高松藩主や重役から言付けられたことで、自分の考えで書きかえは出来ないと初めは突っぱねます。しかし、西本願寺が末寺への配布のために「一括大量購入」という条件を見せると、書き直しに応じる姿勢を見せます。結局、その後の話し合いがうまくいかずに、記事は改めたものの、本は買ってもらえない結果になってしまったようです。

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       高松城下の寺町その2(讃岐国名勝図会)
以上の経緯からは、次のような事がうかがえます。
①東西本願寺や興正寺の僧侶たちは、寺格や本末関係のささいなことまで気にとめていたこと。
②京都の大寺院は「○○国図会」などを大量購入し、全国の末寺に配布していたこと。つまりこの手の書籍のお得意さんは、京都の大寺院であったこと。
③幕末の讃岐では、大型の書籍を大量に印刷できる版元はおらず、京都の版元に依頼していたこと
④そのため書籍出版の打合せなどのために、知識人が京都を訪れ、相互の情報交換が活発に行われていたこと。これが幕末の各国ごとの図会出版の流れを生んだこと。

「讃岐国名勝図会」巻五の末尾
  讃岐国名勝図会 後編や続編の広告が載せられているが未完
 ちなみに讃岐國名勝図会は、前編7巻(大内郡から香川郡まで)だけが1854年に出版されます。その後も梶原藍水は、後編の出版に向けて準備を進め、原稿は出来上がっていきます。しかし、これが出版されることはありませんでした。原稿のまま明治を迎え、彼の死後に受け継いだ息子は、明治政府に原稿を献本しています。それが鎌田博物館に保存されていることは、以前にお話ししました。

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讃岐国名勝図会後編の推薦文 安政4年となっている

 どうして原稿が出来上がっていたのに出版できなかったのか。
ひとつ推測できるのは資金難です。前編を出版し、その売上金を資金に後編を出版しようとしていたと思われますが、それが回収できなかったことが推測できます。大量購入先と思っていた西本願寺との交渉が行き詰まったことは先に述べました。それなら興正寺が買ってくれたのでしょうか、これもよくわかりません。讃岐国名勝図会は、各資料を参考にした考証的な性格で、挿絵も松岡調による緻密なもので後世の評価は高いものがあります。しかし、採算的ベーズには乗らなかったのかもしれません。それが、前編だけの出版に終わった原因としておきましょう。

4344097-09岩瀬尾八幡
高松の岩瀬尾八幡

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」
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讃岐の真宗寺院には東西本願寺の末寺は少なくて、興正寺の末寺が多いことは以前にお話ししました。これは高松藩の興正寺保護政策の成果という面もあります。高松藩がどうして興正寺を保護したかについては、藩祖松平頼重との次のような特別な関係がありました。
①頼重の娘万姫が興正寺へ養女にゆき、
②興正寺の子供超秀は頼重の猶子として1ヶ月、高松城内にいて、仏光寺の間跡となったこと
このような姻戚関係があったために頼重は、高松の興正寺別院(高松御坊)を保護し、御坊川のあたりの寺領を今里村に地替えし、百五十石の朱印地を与えています。高松御坊の代僧となったのが勝法寺です。この寺はもともとは大和国吉野にあった寺で、それが讃岐に移り、三好実休から寺領をもらって、生駒家の時に城下の現在地に移った寺です。それを頼重は高松御坊を修造し、勝法寺を北隣へ移して御坊を守らせることにしたことは以前にお話ししました。

高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺と高松御坊(讃岐国名勝図会)

 興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。
しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのため西本願寺と興正寺とのあいだでは、諍いが何度もあり、指導者同士も反目し合っていたようです。そんな中で、興正寺直営の勝法寺は、高松藩における西本願寺の触頭を務めていました。
 西本願寺と興正寺の関係がギクシャクしているので、勝法寺は西本願寺の云うとおりには動かず、西本願寺は取扱に苦慮します。そんな一コマが見えてくる史料が西本願寺に残されています。それが龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)です。これは、西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったもので、金毘羅宮の学芸員であった松原秀明氏が紹介しています。
この中に、天保12年(1841)11月、高松の勝法寺との関係改善のために使僧慈眼寺が高松に派遣されます。西本願寺に残された報告書がには、次のように記されています。

高松勝法寺殿是迄丸々 興門様味方、役寺講中ハ勿論之事二御座候、依之 御殿之庭悪軽二取成仕、尤 興殿役人よりも少々二而も 御本殿御取持之振候得者、相嫌ひ候様子二御座候。然ル処、此度拙寺罷越候之処、始者殊之外諸方悪敷取附嶋も無之段之儀二候。夫より段々御殿之御趣意を申話し候処、実二心底より改心二相成、巳来者急度御取持可申上与役寺両寺二いたる迄心底相改り申候。実二御高徳之顕与奉存候。右触頭さへ改り候ハゝ追々相開ヶ可中与奉存、たとへ此度巡寺は出来不申候とも触頭さへ右之心中二相成候ハゝ、國ハ追々と相開ケ可申儀二御座候。(下略)
 
意訳変換しておくと
高松勝法寺殿はこれまでは、興門様(興正寺)の味方で、役寺講中は勿論のこと、西本願寺に対しを軽視し悪し様に取り扱っていると思っていた。しかし、勝法寺は西本願寺に対してばかりでなく、興正寺役人にたいしても嫌悪感を持っていることが分かった。それは今回、私が実際に高松の勝法寺を訪問したところ、こちらに対する悪印象や態度を示さなかったことからもうかがえる。実際に会って膝を突き合わせ、西本願寺の御殿の御趣意を伝えた所、心底より改心した様子であった。そして、急ぎ与役寺の両寺を呼んで話をした所、これも心底から態度を変えると約束した。これはまさに西本願寺御殿の高徳のいたすところである。触頭寺である勝法寺の態度さえ改まれば、追々に道は開けてくる。たとへ今回は、高松藩内の寺々を巡寺出来なくとも、触頭寺を味方につけることができたので、讃岐については追々と相開けていくことが期待できる。(下略)

西本願寺に対して悪し様であった高松藩触頭寺の勝法寺の態度が、直接に出向いて話し合った結果、関係が改善される兆しが見えてきたことを使者は、西本願寺に報告しています。ところがそれは見込み違いだったようです。6年後の弘化4年(1847)には、触頭勝法寺への通達は、すべて興正寺の添書がないと讃岐の国内には通用しないと高松藩は言い出します。これは西本願寺が讃岐に出す通達について、興正寺の認可が必要だということです。興正寺を自分の末寺としか認めない西本願寺としては、認めがたい事態です。通達の許可を末寺の興正寺に求めなければならないのですから。

興正寺派と本願寺
本願寺と興正寺の関係
このような状況打開のために、西本願寺は動き出します。高松藩の家老・本村駄老が上京する時を捕らえて、次のような文書を出しています。
(前略) 右様御領方二於て御寺法用道之趣意御聞取無之候ハ而者難相成義哉、此段及御尋問申度、右者全新規之義二而、御寺法差支之次第二候得者、何卒先規仕来之通ニ而相済候様致度、興正寺御関迄も当本山御木寺之事故、前以御用向之御趣意柄申達候義ハ難相成筋二御座候。新規之義彼是御寺法差支二付、於其御領方、是非趣意柄御承知被成度義二御座候ハゝ、拙者共とも其度毎御家司中亦者寺社役中迄申入候義ハ格別、前件之次第二而者、何共差支候二付、貴様造□急度拙者共ども及内談候間、右辺之所御汲取、御領方之御振合預御聞繕度、尤拙者共両人掛り之義二付不得止事及御内談候事(下略)

  意訳変換しておくと
(前略)高松藩領内での今回の通達は、西本願寺の意向を聞取ることなく実施されたもので寺法に差し障りが生じ、大きな問題となっている。今回の通達は、まったく新規のことで、寺法に差支えがありますので、何卒、先規に従って興正寺の添書がなくても当本山(西本願寺)通達が出せるように、前々のように改めていただきたい。新規のやり方だと、当寺にとっては大きな差支がある。代案として高松藩領内の末寺への通達や連絡について、私どもはその度に毎回、高松藩の役人か、寺社役人へ申入れを行うことを提案する。この代案を受けて、以前通りの取扱としていただきたい。繰り返しになるが新規方法は、差支がある。このことについて、高松藩と拙者方で協議したい。以上を汲取っていただき、高松藩領内における西本願寺からの通達について聞き届け頂き、改善いただきたい。そのためにも拙者との内談の場を設けて欲しい(下略)

 ここからは西本願寺の担当者の悲鳴のような要請が聞こえてきます。通達のたびごとに、西本願寺から藩の役人、また寺社方へお断りするから、興正寺の添書をもらうことは勘弁して欲しい、そのためにも内談の場を設けて欲しいという内容です。しかし、家老の黙老は、本願寺からの内談要望が伝わってくると、京都見物にかこつけて留守を使い、容易に会おうとはしません。黙老自身が興正寺内の牧家の親類であるうえに、高松勝法寺へは二女が嫁いでいるという婚姻関係をもっていました。つまり、高松藩の家老は、興正寺や勝法寺の身内でもあったのです。初代藩主の松平頼重が幾重もの婚姻関係を興正寺と結んでいたことは以前にお話ししました。それを受けて、以後の高松藩の重臣達の中には、興正寺と婚姻関係を持つ者が多く、幾重にもそのネットワークは結ばれていたのです。高松藩には「興正寺応援団」が広く広まっていたようです。
西本願寺と興正寺
西本願寺と興正寺の伽藍 隣り合ってある
 興正寺は本寺である西本願寺に反発し、「独立」を目指しますが、幕府は「本寺からの勝手な独立は認めない」という原則を貫きます。このため江戸時代に興正寺の独立が適うことはありませんでした。それが実現するのは、明治になってからです。興正寺は全国の末寺を引き連れて「独立」しようとします。これに対して西本願寺は、引き留め運動を展開します。こうして、興正寺末寺は、興正寺に着いていくか、興正寺末寺を離れて西本願寺につくかの選択を迫られることになります。興正寺末寺の多かった讃岐は、この渦中に巻き込まれていきます。ここで大きな影響力を持ったのが、旧藩主の松平氏だったようです。高松藩と興正寺の親密な関係から、讃岐の興正寺末寺に対して、興正寺に残るようにと影響力を行使します。そのため高松藩では、全国から比べると興正寺末寺に残った寺の比率が高いようです。興正寺の独立を陰で支えた高松藩ということになるのかもしれません。

興正寺末寺
高松藩の興正寺末寺
御領分中寺々由来 17世紀後半 安楽寺末を除く)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

高松市御坊町 興正寺別院
高松御坊町にある興正寺別院と勝法寺
 高松市の御坊町という町名は、ここに高松御坊があったことに由来するようです。高松御坊は、現在の興正寺別院にあたります。興正寺別院と勝法寺は並んで建っていて、その前の通りがフェリー通りで、長尾線の向こうには真言の名刹無量寿院があります。このレイアウトを頭に残しながら

高松御坊(興正寺別院)
「讃岐国名勝図会」(1854年)で見てみましょう。
 勝法寺という大きな伽藍を持った寺院の姿が描かれています。これが高松御坊でもありました。この広大な伽藍が戦後の復興と土地整理の際に切り売りされて、現在の御坊町になったようです。通りを挟んで徳法寺・西福寺・と3つの子坊が見えます。その向こうに見える無慮寿院の伽藍の倍以上はある大きな伽藍だったことが分かります。この辺りは江戸時代には寺町と呼ばれ、西方の市役所辺りまで、大きな寺院がいくつも伽藍を並べて、高松城の南の防御ラインでもありました。そのため勝法寺の南側には堀が続いているのが見えます。このような広大な伽藍と、偉容を備えた寺院を誕生させたのは高松藩初代藩主松平頼重です。その裏には頼重の真宗興正派保護政策があったようです。まずは、ここにこのような寺院が現れる経過を見ていくことにします。
興正寺別院歩み

高松興正寺別院の境内の石碑「高松興正寺別院の歩み」の一番最初には次のように刻まれています。
1558年 興正寺第16世証秀上人讃州遊化。

これについて『興正寺付法略系譜』には、次のように記します。
永禄ノ初、今師(証秀)讃州ノ海岸ニ行化シ玉ヒ一宇ヲ草創シ玉フ

永禄年間(1558~70)のはじめに、興正寺門主の証秀が讃岐の海岸に赴き、一宇を草創したとあります。この一宇が現在の高松別院のことを指すと伝えられています。また現在の高松別院のHPの寺伝には次のように記されています。

 1558年(永禄元年) 興正寺第十六世 証秀上人が教化活動として讃岐を訪問されたのをきっかけに、当時、東讃を支配下に置いた阿波の三好好賢(三好実休)の庇護を受けて、「楠川の地(現高松市上福岡町)」に高松御坊勝法寺を建立。現在地へは、1614年(慶長19年) 高松藩主 生駒正俊公の寄進により、寺地三千坪で移転。

 証秀は興正派の富田林の地内町建設に大きな役割を果たすと同時に、彼の時代に西国布教を進めています。しかし、実際に讃岐や四国に来たことはないと研究者は考えているようです。証秀が讃岐に赴いて建立したと述べられていますが、これは憶測で、証秀の代に高松御坊(現在の高松別院)が開かれたとまでしか云えません。ここでは現在の興正寺富田林別院や、高松別院も証秀上人の代に開かれたと伝えられていることを押さえておきます。

16世紀半ばになると三好氏配下の篠原氏に従って、讃岐国人の香西氏や十河氏が畿内に従軍します。
そして本願寺を訪れ真宗門徒となり、帰国して地元に真宗の菩提寺を建立するようになることは以前にお話ししました。この背後には、三好氏の真宗保護政策があったようです。どちらにしても16世紀半ばには、髙松平野には本願寺や真宗興正寺派の末寺が姿を見せるようになっていたようです。
 文献によって確実に高松御坊(別院)が確認できるのは、天正11年(1583)2月18日の文書です。
三好実休の弟で十河家を継いだ十河存保が、高松御坊の坊主衆に対して出したもので次のように記されています。

 野原野潟之寺内、池戸之内四覚寺原へ引移、可有再興之由、得其意候、然上者課役、諸公事可令免除者也、仍如件(「興正寺文書」)

意訳変換しておくと
 ①野原の潟の寺内を、②池戸の四覚寺原へ引き移し、再興したいという願いについて、それを認める。しかる上は③課役、諸公事などを免除する。仍如件
 
野原郷の潟(港)の寺内町と坊を四覚寺原に再興することを認め、課税などを免除する内容です。池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺になるようです。この時点では讃岐御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。

 野原・高松・屋島復元図
中世の野原の港(現高松市) 背後に無量寿院が見える
 ①の「野原の潟」とは野原の港周辺のことです。
髙松平野で最も栄えていた港であったことが発掘調査から明らかになっています。その背後にあったのが無量寿院です。その周辺に真宗門徒の「寺内町」が形成され、道場ができていたともとれます。同時期の宇多津でも鍋屋町という寺内町が形成され、そこを中心に「鍋屋下道場」が姿を現し、西光寺に成長して行くことは以前にお話ししました。しかし、「可有再興之由」とあるので、移転ではなく「再興」なのです。ここからは高松御坊は、お話としては伝わっていたが、実態はなかったことも考えられます。この時期は、興正寺の中本寺として三木の常光寺が末寺を増やしている時期です。
常光寺と始覚寺と十河氏の拠点である十河城の位置を、地図で見ておきましょう。

常光寺と十河城
三木の始覚寺 常光寺の近くになる
地図で見ると、常光寺や始(四)覚寺は、十河氏の支配エリアの中にあったことがうかがえます。ある意味では、十河氏の保護を受けられるようになって始めて、教勢拡大が展開できるようになっとも考えられます。ちなみに、安楽寺の末寺である安原村の安養寺が教線を拡大していくのも、このエリアです。ここからは次のような仮説が考えられます。
①三好氏は阿波安楽寺に対して、禁制を出して保護するようになった。
②安楽寺は、三好氏の讃岐侵攻と連動する形で真宗興正派の布教を展開した。
③三好氏配下の十河氏や香西氏も真宗寺院を保護し菩提寺とするようになった。
④そのため十河氏や香西氏の支配エリアでは、真宗寺院が姿をみせるようになった。
⑤それが安養寺や常光寺、始覚寺などである。

十河文書出てくる再興を認められた池戸の四覚寺の坊について見ておきましょう。
坊の境内地を寺内と表記し、その寺内への加役や諸公事を免除するといっています。寺内は寺内町の寺内で、加役や諸公事を免除するとはもろもろの税を免除するということです。ここからは坊の境内地には俗人の家屋もあって、小規模な寺内町をかたち作っていたと推測できます。しかし、四覚寺原での再興がどうなったのかははよく分かりません。また、常光寺との関係も気になるところですが、それを知る史料はありません。

高松野原 中世海岸線
中世の海岸線と御坊川流路
再び御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。
 讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。そのため高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、それにともなって坊も移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。

高松御坊(興正寺別院)2
東寺町に勝法寺が見える 赤は寺院で寺町防衛ラインを形成
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。
それが現在地の高松市御坊町の地です。これは、先ほど見たよう高松城の南の防衛ラインを寺町として構築するという構想の一環です。寺院が東西に並べられて配置されたのです。その配置先が高松御坊の場合には、無量寿院の西側だったということになります。

高松城下図屏風 寺町2
高松城下図屏風
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重が21歳でやってきます。
 松平頼重は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、母は徳川光圀と同じ家臣の谷重則の娘です。しかし頼房は、頼重が兄の尾張・紀伊徳川家に嫡男が生まれる前の子であったため、遠慮して葬らせようとした所、頼房の養母英勝院(家康の元側室)の計らいで誕生したといわれます。そのため、頼重は京都天龍寺の塔頭慈済院で育ち、出家する筈でした。英勝院が将軍家光に拝謁させ、常陸国下館五万石の大名に取り立てられ、その後に21歳で讃岐高松12万石の城主となりました。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、的確な情報提供者を幾人ももっていたようです。そして、宗教ブレーンに相談して生まれたのが次のような構想だったのでしょう。
①真宗興正派の讃岐伝道の聖地とされる高松御坊(高松別院)を勝法寺とセットで創建する。
②勝法寺は京都の興正寺直属として、代々の住職は興正寺より迎える。
③その経済基盤として150石を寄進する。
④御坊護持のために3つの子院(徳法寺・西福寺・願船坊)を設置する。
高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺とセットになった高松御坊(興正寺別院)
このような構想の下に、現れたのが高松御坊と勝法寺が一体となった大きな伽藍のようです。ところが「入れ物」はできたのですが、その運用を巡って問題が発生します。それは次のような2点でした。
①勝法寺が奈良から移されたよそ者の寺で、末寺などが持たず政治力もなかった。
②勝法寺は興正寺直属のために、興正寺から僧侶が派遣された。
このため讃岐の末寺との関係がうまく行かずにギクシャクしたようです。そこで、松平頼重が打った手が、頼りになる地元の寺を後見としてつけることです。そのために選ばれたのが次の2つの寺です。
①三木の常光寺 興正寺末の中本寺として数多くの末寺保有
②安原村の安養寺 阿波安楽寺の末寺ではあるが髙松平野への真宗興正派の教線拡大の拠点となり、多くの末寺保有
このふたつの寺については以前に紹介しましたので詳しく述べませんが、讃岐への真宗興正派の教線拡大に大きな役割を果たし、数多くの末寺を持っていました。そして、目に見える形で勝法寺の後見寺が安養寺であることを示すために、安養寺を高松の城下町へ移動させます。その場所は、先ほど讃岐国名勝図会でみた見た通りです。この場所は、寺町防衛ラインの堀の外側になります。これは、寺町が形成された後に、安養寺が移転してきたために外側でないと寺地が確保できなかったようです。こうして、常光寺と安養寺を後見として勝法寺は、京都の興正寺直属寺として機能していくことになります。

松平頼重は、どうしてこれほど興正寺を保護しようとしたのでしょうか。 
一般的には、次のような婚姻関係があったことが背景にあると言われます。
松平頼重の興正寺保護

しかし、これだけではないと研究者は考えています。
松平頼重の寺社政策についての腹の中をのぞいてみましょう

大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしていくことが必要だ。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか? 

具体的な対応策は?
①東讃では、大水主神社の勢力が大きい。これは長期的には削いでいくほうがいいだろう。そのために、白鳥神社にてこ入れして育てていこう。
②髙松城下では? 生駒藩時代には、祭礼などでも楯突く神社が城下にあったと聞く。岩清尾神社を保護して、ここを高松城下町の氏神として育てて行こう。そして、藩政に協力的な宮司を配そう。
③もっとも潜在的に手強いのは、真言宗のようだ。そこに楔をうちこむために、長尾寺と白峰寺の伽藍整備を行い、天台宗に転宗させよう。さらに智証大師の金倉寺には、特別に目をかけていこう。
④讃岐の真言の中心は善通寺だ。他藩ではあるが我が藩にとっても潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか? 近頃、金毘羅神という流行神を祭るようになって、名を知られるようになった金毘羅大権現の金光院はどうか。ここを保護することで、善通寺が牽制できそうだ。
松平頼重の宗教政策
潜在的な脅威となる寺社(左側)と対応策(右側)
⑤もうひとつは、讃岐に信徒が多い真宗興正派の支援保護だ。興正寺とは、何重にも結ばれた縁戚関係がある。これを軸にして、高松藩に友好的な寺院群を配下に置くことができれば、今後の寺社政策を進める上でも有効になる。そのためにも、京都の興正寺と直接的につながるルートを目に見える形で宗教モニュメントとして創りたい。それは、興正派寺院群の威勢を示すものでなければならない。
このような思惑が松平頼重の胸には秘められていたのではないかと私は考えています。

高松興正寺別院
現在の興正寺高松別院

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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