瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:弘法大師空海 > 弘法大師御影

  
弘法大師像 真如親王モデルの誕生 

前回までに見てきたように弘法大師の肖像が盛んに造られるようになったのは、鎌倉時代になってからでした。このことは遺品の数が鎌倉時代になると、各段に増えることからもうかがえます。それでは、どうして鎌倉時代に入って弘法大師像が盛んに造られるようになったのでしょうか。今回は、この謎を追いかけて見ようと思います。

空海6

テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。

 「肖像彫刻の概説書  日本の美術 10号肖像彫刻」、至文堂、一九六七年)は、鎌倉時代に肖像製作が盛んになる理由を次のように記します。

「近代以前の日本彫刻史のうえで、鎌倉時代ほど精神につらぬかれた時期はなかったといってよい。それと同時に、人間に対する興味深い観察がこれにともない、肖像彫刻あるいは肖像画のいちじるしく発達する温床が設けられることになった。」

 確かに、鎌倉時代の時代精神が肖像製作の背景にあったことはあるかもしれません。しかし、それだけでは納得できません。研究者は、別の観点からこのことについて次のように説明します。
背景要因のひとつは、鎌倉時代に、一時途絶えてい入宋僧の肖像が増大していくことです。
ここには鎌倉初期に入宋した禅宗僧侶の影響が考えられます。彼らは肖像製作が盛んであった中国の実情に触れ、それを日本に伝え、高僧の肖像が作成されるようになったと云うのです。


 例えば重源については、鎌倉時代前半期の肖像彫刻が四体遺されています。栄西や俊芿(しゅんじょう)の肖像画もあります。

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俊芿(しゅんじょう) 泉涌寺
特に俊芿については、亡くなる直前に中国人の画人によって描かれた泉涌寺本の肖像画があります。
寿福寺 | かまくら・れぽじとり
                栄西 鎌倉の寿福寺
さらに、栄西も鎌倉・寿福寺に二体の肖像彫刻の古像があります。
これら三人の僧侶は教団はちがいますが、いずれも入宋僧で、帰国後鎌倉時代の仏教史に大きな足跡を残した人物です。彼らが中国の肖像製作や最新の情報を多量に日本にもたらしたことが、肖像製作につながったと研究者は考えています。
 もちろん、奈良時代には鑑真のような中国僧の来日もありました。また空海を始めとする入唐八家のような著名な高僧たちもいました。 彼等の中には、中国の肖像製作の実情に通じていた人物もいたはずです。
円珍坐像 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺
鑑真(688~763) や円珍(814~891)のように亡くなる前後に肖像彫刻が製作された人物もいます。しかし、この時期は肖像の製作が始まったばかりでその数は限られています。ところが10世紀を過ぎると入宋者が激減し、中国の肖像情報が減少します。その結果、奈良時代から平安時代半ばにかけて高まった肖像製作機運が継続せずに中折れ状態になります。そんな中で鎌倉時代になると宋元との交流が復活して、高名な中国人禅僧の来日が続くようになります。日本の禅僧も中国に赴き、修行を積んで帰国する者が数多く出てきます。禅僧の中国への渡航は明朝になっても変わりません。こうした交流は新たな肖像情報を日本にもたらし、肖像製作意欲を高めます。これが鎌倉時代半ば過ぎに禅宗の拡大と共に、肖像が数多く造られるようになる背景だと研究者は考えています。

鎌倉時代に入ると、 新たな宗教教団の誕生が相次ぎます。
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鎌倉時代は、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗 禅宗などの諸宗派が誕生します。各宗派は信仰基盤を固め、発展していくために宗派、教団のシンボルを求めるようになります。そこで登場してくるのが、法然・親鸞・日蓮などの宗派開祖の像です。彫像は大勢の礼拝に適しているので布教面での効果は大きく需要が高まります。宗派開祖たちの肖像が数多く作られるようになったのは、新興の宗派や教団だけではありませんでした。伝統的な顕密宗派 (奈良時代以来の伝統的宗派と、平安時代に興った天台宗や真言宗などの密教宗派でも再興運動が活発化します。この動きと肖像の需要増大はリンクしているようです。
どの教団や寺院でも、祖師像の需要が高まります。
例えば、 南都では戒律の再興運動を目指してさまざま社会活動を行った西大寺の叡尊の肖像彫刻が弘安三年(1280)に造られます。

西大寺の叡尊の肖像彫刻
                叡尊坐像 奈良西大寺
後年、興正菩薩と呼ばれる叡尊は大和国箕田に生まれ、はやくから仏門に入り、醍醐寺や高野山で密教を学びました。さらに東大寺で修学を積み、当時荒廃の一途を辿っていた西大寺に住み、律院として復興しました。その後、鎌倉にも戒律の種を蒔き、後の西大寺流律宗(今日の真言律宗)の隆盛の基礎を築きました。叡尊の80歳を寿して善春によって造られた西大寺の寿像がよく知られています。叡尊の肖像彫刻は、幾つかの模刻像が造られ、末寺におさめられるようになります。 

白毫寺 叡尊(興正菩薩)坐像
           叡尊坐像 白毫寺 像高74cm、檜材寄木造(国宝.鎌倉中期)

白毫寺の像は、西大寺のものを忠実に模したものとされます。模作ですが形式化が目立たず、各地の西大寺系寺院に伝わる叡尊の肖像彫刻のなかでも優れた作であり、造立時期も叡尊没後まもなくの時期と研究者は考えています。このように、本山で開祖像が造られると、そのコピー版が各地の末寺にも姿を見せるようになります。これが彫造や画像の需要背景です。

 天台宗でも宗祖を始めとして兵庫・円教寺の開山性空(910~1007)などの過去の高僧の肖像彫刻製作が行われるようになります。

性空 書写山
性空

その中でも盛んに造られたのが慈恵(じえ)大師(良源)の肖像です。

慈恵大師坐像(ヒノキ寄木内刳)弘安9年(1286年)蓮妙作。
慈恵大師坐像 東京国立博物館
慈恵大師は、元三大師(がんざんだいし)とも呼ばれ、比叡山延暦寺の中興の祖として知られます。また、中世以降は「厄除け大師」など独特の信仰を集めるようになります。「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物を伝え、これが沢庵漬けの始祖ともされているようです。
 このような流れを受けて真言宗でも、開祖空海弘法大師の肖像が盛んに造られるようになります。
 弘法大師像についても文献史料から平安時代にある程度の数の肖像が造られていたことが分かります。しかし、平安時代のものは少数で、本格的に肖像が造られるようになるのは、嫌倉時代に入ってからであることは、前々回に見た通りです。このことは、残された弘法大師像の製作年代からも次のように裏付けられます。
東寺御影堂に祀られる大師像

天福元年(1233)の康勝の東寺像が先駆けで、鎌倉時代後半期になると造像が活発化します。

紀美野町津川の遍照寺
永仁2年(1294) 和歌山 遍照寺 弘法大師像
弘法大師 奈良・元興寺
             正中2年(1325) 奈良・奈良・元興寺像
天台大師坐像と弘法大師像2 太興寺

大興寺(三豊市) 弘法大師坐像      建治二年(1276年)
この像は、後世に彩色されているので新しそうに見えますが13世紀後半のものです。
前回見た通り、高野山の真如親王モデルの絵画を踏襲したスタイルのものが、各地に拡がっていったことが分かります。真言宗は、いくつかの流派に分化しますが、その場合も宗祖像として、流祖像とともに末寺に祀られます。そのためにも膨大な数の弘法大師像が造られるようになります。四国遍路をしていると真言宗でない札所にも大師堂があり、そこには大師像があります。そういう意味では、大師像はいまでも需要があり造り続けられていると云えます。

以上から弘法大師像が鎌倉時代に造られるようになった背景には、次の3点が考えられます。
①鎌倉時代頃から活発化する中国との文化交流で肖像文化が伝わる
②教団の団結や教勢拡大のためのシンボルとしての祖師像の需要増大
③系列化された末寺への祖師像の安置
ただ弘法大師像は他の始祖像と比べると、その数が圧倒的にが多いようです。これに対して天台宗の始祖伝教大師最澄像は、はるかに少ないのです。そして、天台宗では、延暦寺の中興の祖・慈恵大師良源や、寺門派の始祖智証大師円の肖像の方が数多く遺っています。これらをどう考えればいいのでしょうか?

円珍坐像2 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺 

天台宗の祖師像の製作状況について、研究者は次のように述べています。
①慈恵大師良源像については、悪鬼をも畏怖させるような力を持つ人物という「特殊な信仰」が大きく反映していたこと
②円珍については天台宗の山門派と寺門の対立を背景に、寺門派教団では派祖としての円珍が教団のシンボルとなり、崇拝対象となっていたこと
これらが肖像が数多く造られた背景だと云うのです。
一方、真言宗における弘法大師空海の位置づけは、新派として新義真言宗が生まれても、始祖としての空海の地位は揺るぐことはありませんでした。新しい真言宗の勢力が生まれても弘法大師像は製作され、宗派の始祖の像として後世まで広く製作されていきます。さらに言えば、弘法大師信仰の広がりから、真言宗の枠組みを超え、偉大な高僧といイメージが広く世に流布します。これは、先ほど見たように四国霊場の真言宗以外の札所にも大師堂が建てられ、そこには弘法大師像が本尊として安置されるということが近代になっても進められてきたのがひとつの例かもしれません。
こうしたことも弘法大師像が鎌倉時代以降盛んに製作された要因の一つなのかもしれません。
以上をまとめたおきます。
①平安時代にも高僧肖像画は、描かれていたがその数は限られていた。
②それが鎌倉時代になると、入唐僧の激増を背景に高僧の肖像画が数多く作られるようになった。
③肖像画や彫造は、教団や流派の布教活動や信者の団結を培うものとして有用であった。
④そのため鎌倉時代に生まれた新教団は、教祖の肖像画や遺品を信仰対象(聖遺物)とした。
⑤これは旧仏教教団にも広がり、今まであまり描かれなかった高僧の肖像画が信仰対象となった。
⑥こうして真如親王モデルの弘法大師像が各地の真言寺院の大師堂に本尊として祀られることになった
⑦この背景には、弘法大師信仰を持った高野聖や真言系密教修験者の活発な活動があった。
⑧こうして讃岐でも13世紀後半頃から弘法大師像が造られ安置する寺院が現れるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム
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前回は弘法大師の画像の出現について次のように整理しました。

弘法大師像 真如親王モデルの誕生 

今回は弘法大師の彫造が、どのように現れるのかを見ていくことにします。
弘法大師像の初期のものが京都・安祥寺にあります。これは真言八祖像の中の中のひとつで、9世紀半頃のものです。ここからは次のような情報が読み取れます。
①彫像も、真如親王様の図様平面を抜き出して立体化したものが多いこと
②真如親王モデルの画像は、頭部のみ右に振っていつが、彫刻では頭部も体も正面向きとしているものが多いこと
その中で例外的なのが高野山三宝院の弘法大師像です。

高野山三宝院の弘法大師像

この像は頭部だけを右に向けています。ある意味では、真如親王様の画像をそのまま立体化したものといえます。大師の彫像が頭部を振らないのは、礼拝者と像の頭部が正対することで礼拝しやすくなることが考えられます。さらに頭部の特徴的な出っ張りがよく見えるということもあります。頭部の出っぱりは、「エスパー」の証拠ともされていたようですから・・・。
 いずれにしても彫刻も真如親王様の影響が強いことを押さえておきます。
正中二年(1325)に作られた奈良・元興寺の弘法大師像を見ておきましょう。

元興寺 弘法大師坐像(重文.1325頃?正中二年)

 鎌倉期の400年遠忌から単独の祖師像が造立されるようになります。この像もその頃の作で、願主珠禅の願文には「大師の哀愍によって後生に兜率天(弥勒仏の浄土)に往生したい」と記されています。ここからは、弘法大師像は単なる祖師像ではなく、弥勒仏としても祀られていたことがうかがえます。それを裏付けるように、像内には理趣経が朱書きされ、数多くの納入品が発見されています。全国に数多くある大師像中の白眉とされます。この時期のものは、ふくよかな顔立ちをしているものものが多くなるようです。

以前にお話しした四国霊場大興寺(三豊市)の弘法大師像(建治2年(1276)も、その系譜にあると研究者は評します。

天台大師坐像と弘法大師像2 太興寺
大興寺 弘法大師坐像      建治二年(1276年)
この像は、後世に彩色されているので新しそうに見えますが、実は13世紀後半のものです。
像内に、次のような墨書が見つかっています。
体部背面の内側部
建治弐年丙子八月日
大願主勝覚生年□
大檀那広田成願□
大仏師法橋仏慶
 東大寺末流 
讃州大興寺
建治式年歳次丙子八月二日大願主勝覚
生年四拾五  山林斗藪修行者 金剛仏子
大檀那讃岐国多度郡住人 広田成願房
(体部前面材の内側部)
丹慶法印弟子
大仏師仏慶
東大寺流
 讚岐国豊田郡大興寺
ここからは次のようなことが分かります。
①造立は鎌倉時代後期の建治二年(1276)で、両像は一緒に作られたセット像。
②大願主は勝覚
③仏師は東大寺流を名乗る大仏師仏慶、
④大檀那は天台大師像は房長、弘法大師像は広円の成願
 発注者(大願主)の勝覚とは、何者なのでしょうか?
彼の「肩書き」は、「山林斗藪修行者金剛仏子」とあります。山林斗藪修行者とは、山伏(修験者)のことです。つまり、ふたつの像の発注者の金剛仏子勝覚は、「金剛仏子」という言葉から熊野系修験者だったことがうかがえます。そうだとすると、勝覚は「弘法大師信仰 + 熊野信仰」の持ち主で、彼の中でこの二つの信仰が融合されていたことになります。これは与田寺の増吽と同じような信仰を持っていた僧侶ということになります。
 銘記から仏師佑慶は「丹慶法師弟子」で「東大寺流」を自称しています。丹慶は運慶の嫡男湛慶のことと研究者は考えています。彼は、建長八年(1256)から湛慶が主宰した東大寺講堂本尊千手観音像の仏に小仏師として加わった可能性があります。どちらにしてもふたつの像は、この時期の讃岐だけでなく四国の慶派仏師の動向を知る遺品として重要です。また弘法大師像としても四国内最古銘記をもつ彫像になるようです。
 このように平安時代後期には弘法大師が真言宗宗祖として信仰されはじめ、鎌倉期の400年遠忌から単独の祖師像が造立されるようになったことを押さえておきます。

このような中で登場するのが東寺御影堂の弘法大師像です。この像は、それまでのものと顔立ちがかなり違っています。

東寺御影堂に祀られる大師像

 作者の康勝は運慶の四男で、湛慶の弟で、運慶工房の優れた担い手として次のような業績を残しています。
①建久8 - 9年(1197 - 1198年)、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(明治初頭に焼失)の造立に運慶らとともに携わったのが初見。
②建暦2年(1212年)完成の興福寺北円堂復興造仏では、四天王のうちの多聞天像を担当。(現在所在不明)
空也上人像(六波羅蜜寺蔵)制作
重要文化財 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
           
康勝の代表作が空也上人像(六波羅蜜寺蔵)

康勝の東寺の弘法大師座像について、研究者は、次のように評します。

「この像のおかげで、東寺は弘法大師信仰の京都における拠点として復活した。そう考えると、運慶一門の修復によって、東寺講堂の諸像が蘇り、それに続いて康勝によって東寺そのものの存在が高まったということになる。そしてこの坐像は、その後の大師像のベンチマークとなる。」

運慶は、空海が唐から請来したり、新しく世に送った平安初期の仏像には多くを学んでいます。それを土台に自身の作風を作りあげます。そして、運慶一門によって、東寺が再興されたことを押さえておきます。
東寺御影堂の弘法大師像

 東寺御影堂の弘法大師像の特徴は、その写実性だと研究者は次のように指摘します。

この像の面貌は後補の漆塗りのために現状では少し強ばったように見えるが、横顔を見ると頭部の骨格の把握が的確で、実在の人物を写したように表現されていることがよくわかる。また、体部に目を移せば肉身の抑揚も感じられ、それを覆う着衣には彫り口の深い衣文が刻まれ着衣の質感までを捉えたかのような着衣表現が認められる。

 このような写実的な描写は、鎌倉時代の写実への関心の高まりと従来は捉えられてきました。これに対して、研究者は別の視点を次のように打ち出します。

 この像は、弘法大師没後四百年ほどの時を経て、運慶の子息、康勝によって造られたものである。像主を目の当たりにして造られたものではなく、在りし日の人物を再現した肖像彫刻なのである。運慶一門は、興福寺北円堂無著世親像や、やはり康勝が造った京都六波羅蜜寺空也上人像などをこうした再現的で写実的な表現をもって造り上げるなど、この種の手法による肖像彫刻の製作をしばしば行っているが、この像もこうした肖像彫刻の一例と言えるのである。改めてこの写実性の問題を考えると、写実的な手法でなされたこうした描写は、礼拝者と像主との時の隔たりを縮める手段として採用されたところがある。

 さらに、弘法大師再生願望を高まる意図があったと指摘します。

戦乱や自然災害が続く世を生き残った者たちは、弘法大師のような聖人が再び現れ救済してくれることを待ち望んでいたのかもしれない。この世に再び現れた大師の姿を思わせるこの肖像彫刻は、こうした人々の祈りに応えるために造られたとも考えられる。さらに言えば、こうした思想は、生身仏を待ち望む信仰を産み出すことになる。生身仏とは、現世に現れ、様々な奇跡を起こした仏像のことだ。特に十二世紀の院政期から鎌倉時代前半期頃までの時期はこうした生身仏が現世に現れ奇跡を起こすことを待ち望む期待が高まり、仏師たちは如何にしてこうした生身の仏を造り出すかに腐心するようになる。仏像や高僧像の写実的な表現も、実はこの世に現れた像をわれわれが実感するための一つの拠り所に用いられたという側面もある。
 
 運慶を始めとする慶派仏師は、こうした写実的表現に秀で、優れた仏像や肖像彫刻を数多く造り出します。その課題の一つが、一種の生身仏を造り出すことだったと云うのです。その到達点のひとつが東寺御影堂弘法大師像ということになります。

東寺の弘法大師像をモデルに江戸時代に造られたのが威徳院(三豊市高瀬町)にあります。

威徳院の弘法大師座像 清水龍慶
威徳院(三豊市高瀬町)の弘法大師像

この弘法大師坐像には、座背面に朱漆で次のように造立寄進の経緯が次のように記されています。

天明四年甲辰丁高祖遍照金剛九百五十年之遠忌 此有檀越矢野武右衛門常昌法諱壽量院猷祥良仙優婆塞其室寂照院 最珍貞忍優婆夷者欲投若干資財彫刻高祖塑像奉安之 本院真影堂住持體同法印随喜遂使佛工清水隆慶摸刻京師東寺祖師云  
正月吉辰日
意訳変換しておくと
高祖遍照金剛=空海の950年遠忌の天明4年(1784)に檀家の矢野武右衛門昌とその妻寂照院が財を投じて大師像を造らんと願いでた。これを受けて住職體同法印は、京都の仏師清水隆慶「京師東寺祖師(東寺の弘法大師像)」をモデルに制作させた。

 施主の矢野夫妻については、威徳院に遺る位牌から没年が武右衛門は天明六年(1786)、妻は宝暦十年(1760)であることが分かります。武右衛門は20年以上も前に他界した妻とともに寄進を行なったことになります。「古記録檀家施入井院号帳」には、妻の名で御影堂天井の寄進も行われたことが記されています。
 仏師の清水隆慶とは何者なのでしょうか?
 四代にわたって京都を舞台に活躍した仏師であることが先行研究から分かります。この像を手がけた二代目については、寛政七年(1795)に67歳で没しています。2代目は、醍醐寺文書の安永七年’(1778)「佛師清水隆慶起請文」に「京建仁寺町五條上ル町、佛工毘首門亭清水隆慶隆(花押)」とあります。その事績は安永七年の実原寺(奈良県)の木造聖徳太子立像をはじめ、京都だけでなく新潟や長野での作例が報告されています。
 手本とされた「京師東寺祖師(東寺御影堂像)」とは、先ほど見た東寺御影堂に祀られる大師像のことのようです。両者を比べて見ると、似ているのでしょうか? 両者を比べて三好賢子氏は、次のように評します。

①側面、背面には共通性が認められず、左肩にかかる袈裟の高さなどもちがう。
②東寺像の特徴である衲衣の左袖と左腕にかかる袈裟の一部が座面より垂れ下がる表現もない。
③共通点としては、左側面袖と袈裟端が膝頭へまわり込んで前方にわだかまる所は同じ
④威徳院像の衣文は、東寺像の現実感のある着衣表現による衣文と比べ、個々の隆起が強く装飾的で、仏師隆慶の個性による造形表現が発揮されている
⑤左肩にかかる袈裟の四筋の襞、前をわたる袈裟の下縁のゆるやかな翻りや、膝前の大きな弧を描く衣文、右腕や右膝付近に見せる松葉状衣文の位置や向きは概ね同じ
確かに、型自体は東寺像のそれに似せて、顔立ちも少し厳しさがうかがえます。しかし、顔立ちの写実性は希薄となり、着衣の襞の表現も異なっているというのです。この違いはどこからくるのでしょうか。

実はこの時に東寺像は正徳三年(1713)に出来上がったばかりの厨子内に安置されるようになっていたようです。そのため厨子中に入った弘法大師の正面しか見ることが出来なかった可能性があります。像全体を詳しく見ることは出来なかったために、完璧な「模倣」ができなかったのかもしれません。 しかし、そのことが幸いして「すべてを忠実にうつすことより、東寺模刻像という由緒にこそ意義が保たれていた」と研究者は評します。

清水隆慶作の威徳院の弘法大師座像の評を見ておきましょう。
  
 衣の上から袈裟を右肩にまとい、左手に数珠(後補)、右手に五鈷杵(後袖)をとり、椅子式の座に正面を向って座す。真如親王タイプの大師御影の彫像である。眼窩を窪ませ、小鼻の脇から頬骨の下に向けて法令線を細い線で表し、口角から皮膚のたるみを表す。顎下に括り線を刻み、後頭部は下方に肉をたるませる。ヒノキ材による寄木造りで、目には玉眼が入れられています。彩色があつい当初の状態が良くのこるため、詳しい構造は判然としない。
  耳は肉厚で平板的で、衣文は彫りが深く技巧的である。自然な立体表現というより形式的で人形に近い感をもつ。だが、鼻がそう高くなく、下顎が前に出る側面観は理想的なバランスには至らず、また正面観において求心的かつ左右非対称の目鼻立ちにはかえって人間味も感じられる。

最後に松尾寺(琴平町)の弘法大師像を見ておきましょう。

4 松尾寺弘法大師座像
松尾寺(琴平町) 弘法大師坐像
この弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置されたものが、慶長九年(1604)になって、金毘羅大権現の金光院住職宥盛の手に移り、新しく建立された金毘羅御影堂の本尊として再デビューされたもので、その時にお色直しされたことは以前にお話ししました。それが明治の神仏分離の際に、松尾寺にもたらされたようです。
この像も着衣方法などは真如親王様と同じで、三好賢子氏は次のように評します。
胸元をひろく開けて覆肩衣を着し、腹部に祐の結び紐をのぞかせ、袈裟は偏祖右肩にまとい、左肩に袈裟をとめる鈎紐をあらわす。また、袈裟は左肩にて懸け留められる部分の下方の端が、左腕外へもたれ、その下にまわされている袈裟(かけ初めの部分)は、下端が右は膝頭にかかって膝下に垂れ込み、左端は膝前に畳まれている。このような左腕にかかる袈裟の処理は、画像・彫像を問わず空海像に共通してみられるものである。
 胸前から左肩にかかる袈裟が上縁を折り返し、その縁端が波うつようにたわむのも、空海像に共通してみられるものだが、本像では、わずかにうねる曲線の表現にとどまる。近い時期のものとして、和歌山遍照寺像や奈良元興寺像と比較してもその違いは明らかである。
 研究者にとって袈裟の表現が気になるようです。
「左肩の袈裟が波打つようにたわむ」表現が乏しく、絵画の描線のような硬さをぬぐいきれない。さらに全体を通してみても、衣文や衣の動きには誇張的な表現もないかわりに、メリハリの効いた躍動感も乏しい。動的というよりは静的であり、穏やかにまとめられている」

このような印象を受けるのは、仏師が画像を手本に造ったためではないかと研究者は考えているようです。
4 松尾寺弘法大師座像4
弘法大師像内の墨書銘  
4 松尾寺弘法大師座像t体内銘4
びっしと文字が書かれています。この中央付近には、後世に入れられた木製五輪塔が打ちとめられ、その五輪塔の側面にも墨書銘が次のように記されています。
 讃岐国 仲郡善福寺 御木願主
     弘法大師御形像壹鉢
右奉為 金輪聖皇天長地久御願圓満 公家安穏 武家泰平常國之事 留守所在庁郡内郷内庄内安楽 寺院繁昌惣一天風口(寫)四海口(温)泰乃至法界衆生平等利益也敬白 
大願主夏衆 偕行慶 偕宗円
文保三年(1319)己未正月十四日造立始之
大佛師唐橋法印門弟           
    法眼定祐
   小佛師兵部公定弁
「讃岐国仲郡 善福寺 御本願主」で始まります。気をつけたいのは願主が「善寺」でなく「善寺」です。この寺は、史料にも出てこない未知の寺です。こんな寺が中世の仲郡にはあったようです。
願主として「大願主夏衆 偕行慶 偕宗円」と記されています。これについては、研究者は次のように読み取ります
①「大願主夏衆」は「偕行慶」「偕宗円」両者にかかるもので、どこの寺院に属する僧かは分からない。「夏衆」は寺院によって、修行僧をさす場合と、諸堂に勤仕する堂衆などのうち、仏への供花の役割を担った偕をさす場合のふたつがある。
②両名は「大願主」であったが、ほか複数の願主もいた可能性もある。願文のいう、公家の安穏、武家の泰平、讃岐国、そして留守所も在庁も、郡、郷、庄内いたるところすべての安楽を願うといった内容は、多くの僧俗が願主となっていたからだと思える。
③本像の造立には、地域の多くの僧侶や信者が関わっていたことが考えられる。
そして、この像が作られた時には、造仏に関係した人々の名を記した納入品などが入れられたのでしょう。ここからは弘法大師信仰が14世紀前半には丸亀平野南部でも拡がっていたことが分かります。その担い手は、廻国の修験者や高野聖・熊野行者だったようです。 

4 松尾寺弘法大師座像5

この像を作った仏師について見ておきましょう。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分からないようです。
以上をまとめておきます。
①初期の弘法大師彫造像は、画像の真如親王モデルを参考に、立体化されたものが多い。
②鎌倉期の400年遠忌から単独の祖師像が造立されるようになる。
③その中で運慶の四男康勝が作った東寺御影堂の弘法大師座像は、後世の模倣モデルとなった。
④13世紀後半には、四国霊場大興寺(三豊市)に弘法大師像が天台大師像と共に、奉納されている。
⑤寄進者は廻国の修験僧達で、熊野信仰と弘法大師信仰などを同時に担った与田寺の増吽のような性格がうかがえる
⑥文保三年(1319)に仲郡の善福寺に奉納された弘法大師像にも修験者や高野聖などが人々の寄進で制作したことがうかがえ、讃岐での弘法大師信仰の広がりが見えてくる。
⑦江戸時代には威徳院に、東寺の弘法大師像を模倣した坐像が信者から寄進されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム
三好賢子 清水隆慶の弘法大師像について 同上
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  善通寺御影とよばれる独特な弘法大師像について興味を持っています。

善通寺御影 香川県立ミュージアム
善通寺御影 香川県立ミュージアム

画は綿糸に節を多くもつ。肉身は朱線で描いて宍色に塗り、衣は、輪郭、文線ともに墨で描き、その描線は太く強い。鋭さをもつ目は虹彩を赤茶色とし、上瞼と目頭、目尻を群でぼかす。過去の修理に際し、柚木から天保三年(1832)の墨書銘が確認されている。それによれば、もと備前の法万寺にあったもので、先住増吽よる宝徳年間(1449~52)の真筆で、増吽自らが旧軸に「如生身(あたかも生身のごとし)」と賛を記していたという。眉が太髪と顎の剃り跡をのこして生身性を強く感じさせ、善通寺御影の遺例のなかでも異彩を放っている。

善通寺御影は、弘法大師の背景に釈迦が描かれているのが大きな特徴です。

空海の捨身行 我拝師山

これは空海が真魚と呼ばれていた幼少の時に捨身行を行った際に釈迦が現れて救ったというエピソードに由来するとされます。このエピソードは中世善通寺の信仰活動の原動力になったともされます。これを描いたのが東讃の与田寺の増吽とされます。増吽には「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 大般若経写経集団 + 仏画作成工房」など、さまざまな要素があったことは以前にお話ししました。増吽が弘法大師像を描くようになった頃の時代背景を知りたいと思っていました。そんな中で弘法大師像作成の変遷について、コンパクトにまとめられている文章に出会いましたので要旨をアップしておきます。テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。
 肖像には、生前に造られた寿像と、没後造られる遺像があります。空海の場合は、生前に造られた記録はないので、総て死後に作られたものになります。その中で一番古い肖像が高野山にあるとされます。それが空海が入定(生死の境を越えて永迎の眼想に入ること)の際に、佐伯直氏出身で空海の高弟・実恵(786ー847)が、真如親王(平城天皇の子で、空海の弟子)に描かせたという画像です。この真如親王筆とされる像が高野山の御影堂には安置されているとされています。この真如親王筆という画像は後世、弘法大師の肖像画の根本モデルとなるのもで、後世への影響は多大なものがありました。でも、実物を見た人はいないようです。しかし、それを写したというものがあります。

 高野山御影堂安置の根本画像第三伝(模写)として伝わるのは大阪・天野山金剛寺の弘法大師像です。
大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
                大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
この画像は承安年中(1171~74) に創建された金剛寺御影堂の本尊像で、平安時代最末期の作とされます。この像を元に真如親王様の図様を「復元」すると次の通りです。
①茶褐色の柄衣 (人が拾てたぽろを税って作った袈娑)を縫い、
②斜めに描かれた背もたれのある椅子式の座(方形の床に、短い四脚を設けた台座)に
③ 花文様の敷物を敷いて坐し、
④右手は体を返して五鈷杵(インドの武器で先が五つに分かれた密教法具)を胸前にもち
⑤左手は 数珠を執る
⑥椅子の前には木履と、横には水瓶が置かれる
⑦顔は、右向かって左に少し振る
⑧頭立ちはふくよかで、後頭部が出っ張っている
この空海像は、体を正面に向け、頭部のみを右に振る姿です。こうした描き方は、高僧が後頭部が出っ張っている異相を持つ者が多いので、それを強調する構図であるともされます。どちらにしても真如親王モデルを元にして、数多くの像が産み出されていくことになります。

 空海像 高野山と善通寺の2つの様式

 初期の弘法大師像は単独で描かれるよりも真言八祖の一人として描かれたものが多いようです。
   空海は真言宗の法脈を示すために祖師たちの画像を持ち帰りました。それは空海の帰国の際に、曼荼羅とともに、師の恵果が宮廷画家の李真(りしん)らに制作させたものとされます。

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              長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
これが『請来目録』には、金剛智(こんごうち)・善無畏(ぜんむい)・大広智(だいこうち)(不空(ふくう)・恵果(けいか)・一行(いちぎょう)の五祖師で、各三幅一鋪(三枚の絹を継いだ画面に描かれた掛幅)とあります。教王護国寺に伝わる真言七祖像のうち五幅が、これにあたるとされます。

真言七祖像 不空(東寺 国宝)
さらに、龍猛と龍智は帰国後の弘仁十二年(821)に空海が補作します。これに空海の像が加えられたのがいつのころかは分かりません。しかし、先に真言七祖像の様式に似せて空海像が描かれたことはうかがえます。

真言八祖像 室生寺
真言八祖像 室生寺 右下が空海
 
 空海の肖像が真言八祖の一体として描かれたものとしては、延喜四年(904)に建立された京都・仁和寺円盤院の障子に描かれたものが番古いようです。東京国立博物館には、この障子絵の影響を受けた「先徳画像」という平安時代の白描画像があります。ここでは、空海の肖像画が真言八祖像の一人として描かれるようになったことを押さえておきます。
 奈良国立博物館の真言八祖像を見ておきましょう。

真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像のうち 金剛智
真言八祖像 金剛智(奈良国立博物館)

真言八祖像 恵果
真言八祖像 恵果

真言八祖像 空海 南海流浪記
真言八祖像 空海 奈良国立博物館 
 奈良国立博物館の真言八祖像について、研究者は次のように評します。
鎌倉時代のもので神護寺本に次ぐ大きさをもち、明快な象形と彩色による清爽な印象の作風を示し、保存も良好な一本として貴重である。恵果と空海は、椅子式牀座(しょうざ)に坐る真如親王モデルが普通であるが、ここでは他の六祖と同じ単純な形の四脚が付くのみの低い牀座に坐らせ、また履き物や水瓶の配し方についても、全体の統一感を重視する風が見受けられる。像をできるだけ大きく表そうとする点にも、構図の特色がうかがわれる。
香川県立ミュージアムの真言八祖像として描かれ弘法大師像を見ておきましょう。

真言八祖像の中の空海像 香川県立ミュージアム
        弘法大師像(香川県立ミュージアム) 真言八祖像のひとつ
香川県立ミュージアム本は室町時代の作とされます。この画像も真言八祖像の一福で、少し周囲が裁断されたところがあるようです。
 顔をやや右に向けて椅子式の座に坐し、右手に五鈷杵、左手に数珠をもつ姿です。真如親王モデルを踏襲しています。しかし、背もたれと肘掛けのない座に坐しています。 座面の濃紺の縁の四隅に方形布が描かれているので、座具は布製と研究者は推測します。その他の三祖師も布製座具です。敷物に坐す八祖像には實金剛寺(神奈川県)や洞光寺(長野県)のものがありますが、数は少ないようです。伸びやかなびやかな描線に穏やかな彩色、具の文様も丁寧に描かれ、室町時代初期までの制作と研究者は評します。
①全体的に真如親王様の図様を忠実に継承している。
②右手は掌を返して五鈷杵を胸前に構え、左手は数珠を執る
③右に振った頭部のふくよかで鼻や唇を小さく表した顔立ち
これを見ると、初期の大阪・天野山金剛寺像本の真如親王タイプをよく継承していることが分かります。平安末期までは、真言八祖像の一部として弘法大師像は描かれていたこと、それは真如親王様式を踏襲していること、そして真如親王モデル自体が真言八祖像の様式上にあることを押さえておきます。
ここまでを整理しておきます。
弘法大師像 真如親王モデルの誕生 
             
真如親王様は真言七祖像の一部として生まれた。

ところが鎌倉時代後半期になると、様々な図様が描かれてくるようになります。

東寺 談義本尊 弘法大師像
東寺の談義本尊
その代表的なものが東寺に伝わる「談義本尊」像です。これは史料(「東宝記)から正和二年(1313)に後宇多法皇が東寺西院御影堂(弘法大師の肖像彫刻を祀る御堂)に施入されたものであることが分かります。姿は真如親王様と同じですが、背もたれのない椅子に坐っています。

水原堯栄「弘法大師御影」及び「宸翰英華」には次のように記します。

絹本着色。竪四尺五寸八分、横二尺五寸、
桐箱裏に寛延二巳巳年十月補修。于時年預。寶菩提院法印大僧都覺空。
軸の表装に後宇多院宸翰談義本尊。八祖様式、・・・線は潤達遒倒である。
念珠は百八果半装束様である。
床冗は四脚唐草模様金具附上に茵(しとね)をしいてある。
衣袈裟は香染衣である。
東宝記には「大師御影一鋪一幅、後宇多院宸筆、右談義本尊となして法皇施入これあり」等とあるによって明らかである。・

御影の上段には大師「御遺告」の中から後宇多院宸翰で次のように記します。

竊以大法同味興廢任機。師資累代付法在人。鷲峯視聽傳流中洲鐵塔傳教利見烏卯。探流尋源鑒晃討本。大唐曲成既有血脈。日本末葉何無後生。吾初思及于一百歳住世奉護教法。然而恃諸弟子等忩永擬即世也。但弘仁帝皇給以東寺。不勝歡喜。成祕密道場。努力努力勿令他人雜住。非此狹心護眞謀也。雖圓妙法非五千分。雖廣東寺非異類地。以何言之。去弘仁十四年五月十九日以東寺永給預於少僧勅使藤原良房公卿也勅書在別。即爲眞言密教庭既畢。師師相傳爲道場者也。豈可非門徒者猥雜哉・・・」

書き下し文では

ひそかにおもんみれば、大法は同味にして興廃は機に任せり。師資累代付法は人にあり。鷲峯の視聽(お釈迦様が霊鷲山で説法された法は)傳を中州(インド各地)に流る。鐵塔の傳教(南天の鉄塔からでた密教は)烏卯に利見す(すみやかにひろまった)流を探り源を尋ね晃を鑒みて本を討ぬ。(法の流れを探り、源泉を尋ね、暗夜に光の所在をよく考えてそのもとを求める)大唐の曲成に既に血脈有り。日本の末葉、何ぞ後生無んや(日本の真言宗の末徒としても、この教えを後世に伝えないことがあろうか)吾れ初めは思ひき一百歳に及まで世に住して教法を護り奉らんと。然而れども諸弟子等を恃んで永く即世んと擬す也。但し弘仁の帝皇給ふに東寺を以ってす。歡喜に勝えず。祕密道場と成す。努力努力他人をして雜住せしむる勿れ。此れ狹き心にあらず。眞を護るの謀也。圓かなる妙法なりと雖ども五千の分に非ず。廣き東寺といえども異類の地に非ず。何を以ってか之を言ん。去じ弘仁十四年正月十九日東寺を以って永く少僧に給預はる。勅使は藤原良房公卿也。勅書在別。即ち眞言密教の庭となること既に畢ぬ。師師相傳して道場とすべきもの也。豈に非門徒の猥雑すべきならんや。門徒数千万、併しながら吾後生の弟子等祖師吾顔を見ずと雖も心有る者は必ず吾の名号を聞き、恩徳の由を知れ。是吾、白屍の上に更に人の勞を欲するに非ず。密教寿命を護り継ぎ、龍華三庭に開かしめん謀なり。微雲間より見て信否を察すべし。是の時懃有る者は祐を得、不信の者は不幸ならん、努々」)」

 研究者が注目するのは、画像本紙の絹と肌裏紙の間に五輪塔の形の紙型が修理の際に発見されたことです。五輪塔は中世では「釈迦の遺骨=舎利(聖遺物)」とされていたので、弘法大師の姿そのものが舎利と同様に聖なるものとされていたことを示しています。弘法大師を神聖視する思想が、鎌倉時代後半にはますます深化していたことがうかがえます。
神野真国荘(こうのまくにのしょう)と呼ばれた高野山の根本寺領の一つにある遍照寺の弘法大師像です。
紀美野町津川の遍照寺
 遍照寺の真如様(しんにょよう)の弘法大師像

 謹直な描線で輪郭を描いた丁寧な作風から南北朝時代(14世紀)の制作とされます。高野山のまわりでは一番古い大師像になるようです。画像を本尊とすることは珍しいように思いますが、高野山壇上伽藍御影堂の本尊は真如自筆の弘法大師画像と伝えられるので、それを踏襲しているのかもしれません。この遍照寺弘法大師像からは、次のような情報が読み取れます。
①画面上部には、仏の姿を文字によって表す種子(しゅじ)という梵字が書かれていること。
②右から「アーク(胎蔵界大日如来)」「バン(金剛界大日如来)」「キリーク(千手観音)」「ソ(弁才天)」
③この種子は、高野山の鎮守の神である四社明神(丹生明神・高野明神・気比明神・厳島明神)を表したものであること
つまり、ここには「弘法大師 + 四社明神」で5人の神と人が描かれているということになります。弘法大師の方ばかり見ていると、四人の神を見落としてしまいます。しかし、この画像が表す内的世界は、高野山の象徴としての弘法大師と四社明神とが織りなす信仰世界、すなわち高野山浄土ともいえる大きな広がりを含んでいると研究者は指摘します。ここでは弘法大師像の新たな展開が始まっていることを押さえておきます。そして、次の段階になると四明神も姿を見せるようになります。
高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像と呼ばれている画像があります。

高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像
             高野山金剛峯寺の「問答講本尊」像
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席

これは中央に真如親王様の弘法大師像、その前方の左右に高野・丹生の両明神像を配した三尊形式の絵図で、その後には奥の院院廟境内と天野社が描かれています。この絵図は天野社で正応四年(1291)に始められた問答講の本尊として描かれたものと伝えられています。空海がやってくる前の高野山の先住者が信仰していた地主神(その土地の主となって守護する神)や、丹生(朱水銀)採掘者の信仰する丹生神と空海の神仏信仰思想を基に作られたものとであることは以前にお話ししました。このような流れは讃岐へも伝わってきます。

延命院弘法大師四社明神像
       延命院(三豊市) 弘法大師四社明神像 縦136㎝ 横43㎝ 14~15世紀
①右手に五鈷杵 左手に念珠
③弘法大師像の四隅に、高野山の地主神である四社明神像
④上部の色紙形に兜卒天にいる空海が各地に影向することを述べた「日々影向文」
四隅の四社明神像は、向かって右上が丹生明神、左上が高野明神、下段は右が気比明神、左が厳島明神とされます。四神に比べて主人公の弘法大師を大きく描かれています。上段二神の本地仏を表す梵字や、空海を高野山に導いたという二匹の犬のほか、獅子・狛犬などが描かれます。これも鎌倉時代以降の弘法大師入定信仰が高野聖たちによって全国に広められた中で登場してくるものです。「日々影向文」をする弘法大師像と、聖地高野山を象徴する四社明神像を組み合わせた図柄で、弘法大師には生きていることを表すために髭が描かれています。これを見せながら高野聖たちは「大師は生きている、どこにも現れ救ってくださる」と弘法大師信仰を説いたのかもしれません。それが四国霊場成立へとつながります。
 繊細な描線や彩色などから制作時期は南北朝から室町時代初期と研究者は考えています。この時期、弘法大師信仰がさまざまな形で各地に広がり、人々の心に届いていったことを押さえておきます。

神仏習合思想の影響下で製作されたものとしては、「互いの御影」と呼ばれる弘法大師像が有名です。
互いの御影 弘法大師と八幡神

互いの御影の八幡神
互いの御影 八幡神(神護寺)

互いの御影 弘法大師 神護寺
互いの御影 弘法大師像(神護寺)
京都・神護寺の所伝には八幡大菩薩と弘法大師が互いに御影を描いたとものとされます。ここでは当時の真言僧侶や修験者たちは、八幡神と弘法大師を混淆して信仰したことを押さえておきます。この絵の弘法大師は背もたれのない座に坐し、胸元を大きく開けずに、 襟をしめ、衣の袖から筒袖状の内衣があらわれるように描かれています。これもそれまでの真如親王像とは異なっている新しいタイプの弘法大師像です。
四国霊場八栗寺のもともとの本山とされる六萬寺にも弘法大師との神仏混淆を示すものがあります。

香川・六萬寺 熊野曼荼羅図 弘法大師との混淆
        六萬寺 熊野曼荼羅図 横103㎝ 横41㎝ 13~15世紀

熊野三山に祀られる祭神やその本地仏を描いたもので、85番札所八栗寺を奥院とする六萬寺に伝来するものです。三つに区画された部分に次のような仏たちが描かれています
A 中段 熊野十二所権現の本地仏と弥勒菩薩(満山護法)
B 下段 礼殿執(らいでんしつ)金剛を中心として、紅葉する自然景の中に九体熊野王子と座す弘法大師(右下隅の赤四角部分)
C 上段 岩山の中に役行者や大八大童子大威徳明王(阿須賀社)などが見え、右端に那智とその本地仏でる千手観音
 熊野曼荼羅にはモデルがなく信仰形態が変化すると、いろいろな図像が生み出してきました。この画中には弘法大師が描かれています。智証大師円珍を描いた天台系の聖護院本などに対して、真言系の修験に関わるもののようです。ここからは弘法大師信仰と熊野信仰が結びついていて信仰されていたことがうかがえます。一遍は熊野信仰と八幡信仰と阿弥陀信仰を混淆しようとしたことは以前にお話ししました。一遍の試みも、このような動きの上に立って立ってのことだったのかもしれません。
 「一部に補彩もあるが、張りのある的確な線で描かれており、南北朝時代から室町時代の作」と研究者は考えています。

日輪大師像 極楽寺
                 日輪大師像 極楽寺     
 赤い輪の中に紅蓮華の上に座した異形の空海御影です。姿勢や着衣、右手に五鈷杵をとるのは真如親王タイプの弘法大師像に同じですが、左手は掌に五輪塔ささげます。
研究者は次のように評します
日輪の上には小さな月輪、蓮華座の下には輪宝が敷かれ、さらに下方には蛇のようにうねる水波らしきものが描かれ、左右両袖に渦文を表すなど特異な図像である。画面上方に五字四行の文が隷書体で墨書されるが、今その判読は難しい。
 日輪大師は彫像も含めて数例で数は少ない。五輪塔は密教では万物を構成する地・水・火・風・空の五つを象徴的に造形化したものだが、弥勒の持ち物でもある。この図については、空海が高野山で永遠に瞑想を続け、弥勒が下生して生を救済するのを待っているという入定留身信仰を背景に作り出された物という説が出されている。
 密教の灌頂の影響を受けて神道でも灌頂が行われるようになります。その際に掲げられたのが日輪大師像でした。大師信仰の神道への波及という流れを示すものになります。

このような流れの中で登場するのが「善通寺御影」です。

善通寺御影(瞬目大師)善通寺
善通寺の瞬目大師像 
このタイプは先ほど見たように弘法大師自体は真如親王様と変わらないのですが、背景がちがいます。右上方に松山(我拝師山)が描かれ、その上に釈迦如来が現れています。これは弘法大師の我拝師山での捨身伝説が拡がりだしたあとに描かれるようになったものです。ここには善通寺の「弘法大師生誕地」の自己主張と布教戦略がうかがえることは以前にお話ししました。

こうした大師像とまったく異なるのが椎児大師像の出現です。

「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます。

「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」

意訳変換しておくと 
私が5、6際の頃に生まれた家にいた頃に、八葉蓮華の上に座って、諸仏と共に語る夢を見たものだ。しかし、そのことは父母は、もちろん他人に語ることはなかった。この間、父母はひとえに私をを慈しみ「貴物」と呼んだ。

ここに出てくる「諸仏と語る空海の姿」が映像化さたのが大師稚児像です。

稚児大師御影(ちごだいしみえ)※高野山霊宝館寄託2
 稚児大師御影(ちごだいしみえ)清浄心院蔵 高野山霊宝館寄託

箱書に「童形大師」と墨書する。空海が入定する前に弟子・信徒へ後世の為への戒めを25箇条にわたって示された遺言の「御遺告(ごゆいごう)」の中に「5~6歳の頃、蓮華座に座して諸佛と物語る」とあるのに基づいて図像化されたもの。
 袴を着けた垂髪(すいはつ:たれ下げた髪)姿の童形の空海が合掌し、蓮華座に座して、月輪を後背としている。稚児大師像と言えば、本図が普及しているが、中世以前の作例は少なく、清浄心院蔵の稚児大師御影は貴重である。


稚児大師像 兵庫・香雪美術館
             稚児大師像 十三世紀 兵庫・香雪美術館 
肩まで切りそろえた型の髪をきれいに揃えた小袖・袴姿の稚児姿の空海で、蓮華に座っています。蓮華は仏教では聖なる者を生み出す最も重要な花です。その台に座って合掌し、月輪の中に浮かぶ様子は、空海が幼少の頃から仏に近い聖性を備えていたことを象徴的に表したものです。
 また中世には童子を聖なる者とみなしていました。南無仏(なむぶつ)太子(聖徳太子二歳)像や稚児文殊像など童子が多く登場するようになります。こうした童姿の空海画像は「稚児大師」と呼ばれ、十数例が残されていますが、その中でも本作品は最も早い時期のものとされ重要文化財に指定されています。
 稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀
画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。

秘鍵大師
秘鍵大帥像
他にも「般若心経秘鍵」を根拠にして、空海が宮中で般若心経を講じる姿を表した図で、右手に剣、左手に念珠を持つ姿を描く秘鍵大帥像などいつかの型の弘法大師像があります。こうした様々な大師像は中世後期以後に製作されたものが多く、この時期になると多種多様な弘法大師像が描かれるようになります。
 さまざまな弘法大師の画像を見てきましたが、顔立ちや姿は真如親王様が大本になっていて、それを継承していることが改めて分かります。ここでは真如親王タイプの権威が、その後の弘法大師肖像の原形として影響力を持ち続けてきたことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①空海像死後に真如親王に書かれたという肖像画が一番古い
②初期の弘法大師像は真言八祖像の一つとして書かれたものが多く、その数は多くない。
③また様式は真如親王モデルを忠実に踏襲したものが多い
④鎌倉時代以後になって、新宗教の各教団が団結や布教のために教祖像を用いるようなる。
⑤この動きを受けて、真言教団でも弘法大師像が数多く描かれるようになる。
⑥それは真如親王モデルの枠を越えた広がりをもたらす。
⑦こうした中で、善通寺御影や稚児大師像、弘法大師の神仏混淆像などが現れる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

空海6
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム

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空海像 高野山と善通寺の2つの様式

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。 
高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 善通寺様式 東博
           弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている

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善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

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空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

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出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
空海ゆかりの国宝や秘仏などが一堂に 生誕1250年記念展示会が開幕|au Webポータル国内ニュース
善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
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4 松尾寺

 琴平町の金丸座の下にある真言宗松尾寺は、現在でも「金毘羅大権現を祀る寺」という看板を掲げています。明治の神仏分離の際に、象頭山金毘羅大権現の別当寺の金光院や塔頭の僧侶が還俗し、神社化するなかで、松尾寺(普門院)は時流に従わずに金毘羅大権現を仏式で祀り続けようとします。そのため松尾寺と金毘羅宮の間では、明治末に裁判にもなっています。
 神仏分離の廃仏毀釈の際には、山内の諸堂宇にあった仏さんのいくつかが難を逃れて「避難」してきています。その中に、弘法大師坐像があります。調査の結果、この像の内側には造立銘記が発見されました。そこから文保三年(1319)正月に二人の仏師によって作られたことも分かってきました。今回は、この弘法大師座像をみていくことにします。
テキストは 「三好 賢子  松尾寺木造弘法大師坐像について 県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年」です。この報告書を片手に見ていくことにします。 
予備知識として、次の4点を抑えておきます。
①銘がある弘法大師像としては、県内最古のもの
②後世に表面を彩色され、本来の風貌からやや遠のいている
③しかし、まなざしが穏やかで、他の像にはない温和な親しみやすい顔立ちである
④平成21年3月に、県指定有形文化財の指定を受けた。
4 松尾寺弘法大師座像

まずは全体像について、テキストには次のように記されています。
 椅子式の林座に践坐する通例の弘法大師像で、胸をはって上体を起こし、顔は正面を向き、視線をやや下方に落とす。頭部は円頂、後頭部下位はわずかに隆起し、首元はなだらかにつくる。鼻は鼻先の丸みが強く、鼻孔をあらわし、口は小さめで唇も薄く、一文字に結ぶ。
右手は強い角度で屈腎して胸前で五鈷杵をとり、左手は膝上におろして数珠をとる。
着衣は、内から覆肩衣、措、袈裟をまとう。覆肩衣は領を重ね合わし、ゆるくつきあわせて胸元を大きくひらく。腹部中央に祖を結びとめる紐をのぞかせる。左肩にはまわしかけた袈裟をとめる鈎紐をあらわす。
体幹部の正中線からみて頭部はやや左に傾いている。眉はわずかな稜線でうっすらとあらわされ、彩色が落ちた現状では眉の存在を捉えにくい。鼻はそれほど高くなく、鼻先が肉づさのよい団子鼻であり、目が上瞼線をゆるやかに下げ、耳や眉とともに左右非対称であることなどもあって、理想的に整えられた顔というよりは、現実的に存在するかのような人間味をもった顔貌である。 
【品質構造】
 ヒノキ材 寄木造 玉眼嵌入 本堅地彩色仕上げ
 空海の統合性(一)|高橋憲吾のページ -エンサイクロメディア空海-

 空海の肖像(御影)は、「真如親王様」と呼ばれる形式が多いようです。真如親王が書いたと云われる高野山御影堂の根本像のスタイルです。それは、やや右を向いて(画面では向かって左へ顔をむける)椅子式の鉢座に座って、左手に五鈷杵、右手に数珠をとる姿です。
 彫像も真如親王様のスタイルが多いようですが、向きが横ではなく正面を向くものがほとんどです。しかし、彫刻は、生きて永久の瞑想に入ったとする入定信仰を、具体的に意識させるために正面に向けた姿となっていることが多いようです。

4 松尾寺弘法大師座像2
 この像も、着衣方法などは真如親王様と同じで、テキストは次のように解説します。
胸元をひろく開けて覆肩衣を着し、腹部に祐の結び紐をのぞかせ、袈裟は偏祖右肩にまとい、左肩に袈裟をとめる鈎紐をあらわす。また、袈裟は左肩にて懸け留められる部分の下方の端が、左腕外へもたれ、その下にまわされている袈裟(かけ初めの部分)は、下端が右は膝頭にかかって膝下に垂れ込み、左端は膝前に畳まれている。このような左腕にかかる袈裟の処理は、画像・彫像を問わず空海像に共通してみられるものである。
 胸前から左肩にかかる袈裟が上縁を折り返し、その縁端が波うつようにたわむのも、空海像に共通してみられるものだが、本像では、わずかにうねる曲線の表現にとどまる。近い時期のものとして、和歌山遍照寺像や奈良元興寺像と比較してもその違いは明らかである。

 研究者にとって袈裟の表現が気になるようです。
「左肩の袈裟が波打つようにたわむ」表現が乏しく、絵画の描線のような硬さをぬぐいきれないと云うのです。さらに全体を通してみても、衣文や衣の動きには誇張的な表現もないかわりに、メリハリの効いた躍動感も乏しい。動的というよりは静的であり、穏やかにまとめられている」

このような印象を受けるのは、仏師が画像を手本に造ったためではないかと研究者は考えているようです。

  さて、この像の面白いのはここからです。  像の底です。
一木造りではなく、いろいろな木が寄せられて作られている寄木造りあることが、板から見るとよく分かります。内部は空洞で、底が半月型の底板がはめられていたようです。これは、後世にはめられたします。
4 松尾寺弘法大師座像3

その底板を外して中を見ると・・・・
4 松尾寺弘法大師座像4

びっしと文字が書かれています。墨書銘です。そして、この中央付近には、後世に入れられた木製五輪塔が打ちとめられ、その五輪塔の側面にも墨書銘が記されていました。
 まず、体内に書かれた墨書名は見てみましょう。
4 松尾寺弘法大師座像t体内銘4
    
 文字は、像の背面部を、平らに彫り整えたところへ墨書されています。筆は一貫していて、制作当初の造像記とみて間違いないと研究者は判断します。一番右側の一行が「讃岐国 仲郡善福寺 御木願主」と見えます。
ここには次のように記されていました。
 讃岐国 仲郡善福寺 御木願主
     弘法大師御形像壹鉢
右奉為 金輪聖皇天長地久御願圓満 公家安穏 武家泰平常國之事 留守所在庁郡内郷内庄内安楽 寺院繁昌惣一天風口(寫)四海口(温)泰乃至法界衆生平等利益也敬白 
大願主夏衆 偕行慶 偕宗円
文保三年己未正月十四日造立始之
大佛師唐橋法印門弟           
    法眼定祐
   小佛師兵部公定弁
 像の内部の造立銘記を見ていきましょう。
先ほど見たように「讃岐国仲郡 善福寺 御本願主」で始まります。最初にあれ?と思うのは。願主が「善寺」でなく「善寺」なのです。この寺は、角川地名辞典やグーグル検索でも出てきません。史料にも出てこない、私の知らない未知の寺です。こんな寺が中世の仲郡にはあったようです。
 研究者は「讃岐国仲郡善福寺御本願主」は「弘法大師」にかかる修辞句で「善福寺本願主の弘法大師」となるとします。善福寺という寺は弘法大師を本願主とする由緒をもっていたことになります。ここからは、願主は善福寺までは分かりますが、作られた本像がどこへ安置されたのかは分かりません。どうして、善福寺が大師本願寺だという由緒だけを書く必要があるのでしょうか。安置先が書かれないのは不自然です。
 研究者は、銘記の書き振りを再度確認し「讃岐国仲郡」「善福寺」「御本願主」の語句それぞれは間をやや離して記されていることに注目します。そして「讃岐国仲郡善福寺」「善福寺御本願主」と二つの語句を記すところを、「善福寺」の語が重なるのを避けたのではないかという「仮説」を出しています。そして「讃岐国仲郡善福寺、当寺御本願主」と理解し、弘法大師本願の善福寺が、自分の寺に安置したとします。しかし、この善福寺についてはこれ以上は分かりません。

造られた年については「文保三年(1319)己未正月十四日造立始之」とあります。
当時の仲郡や多度郡の宗教界の様子を年表で見ておきましょう。
1300 正安2 3・7 本山寺(現,豊中町)本堂(国宝),造営される.
1307 徳治2 11・- 善通寺の百姓ら,寺領一円保の絵図を携え,本寺随心院へ列参する
1308 延慶1 3・1 金蔵寺,火災にあい,金堂・新御影堂・講堂以下の堂舎が焼失する
   この年 僧宥範,善通寺東北院に入る(贈僧正宥範発心求法縁起)
1310 延慶3 3・- 善通寺蔵銅造阿弥陀如来立像,鋳造される.
1312 正和1 10・8 三野郡本山寺二天像,造り始める.130日で完成
1324 正中1 この年 白峯寺十三重塔.建立される.
1326 嘉暦1 この年 熊手八幡宮(現,多度津町)五輪塔,建立される.
1330 元徳2 4・8 僧隆憲,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院本堂の再建
1336 建武3 2・15 足利尊氏,那珂郡櫛無社地頭職を善通寺誕生院宥範に寄進
1341 暦応4 7・20 守護細川顕氏,宥範に善通寺誕生院住持職を安堵
1338~42      善通寺誕生院宥範,善通寺五重塔などの諸堂を再興

すぐに気がつくのは、現在の四国霊場の本山寺の本堂が建てられ、二天像が造られるなど活発な造営活動を展開しています。それ以上に目立つのが善通寺です。14世紀の前半は、宥範が登場し、善通寺の復興を進めている時です。この弘法大師像が造られたのも、中世の善通寺ルネサンス運動の流れの中でのことのようです。
願主として「大願主夏衆 偕行慶 偕宗円」と記されています。
これについては、研究者は次のように読み取ります
①「大願主夏衆」は「偕行慶」「偕宗円」両者にかかるもので、どこの寺院に属する僧かは分からない。「夏衆」は寺院によって、夏安居の修行僧をさす場合と、諸堂に勤仕する堂衆などのうち、仏への供花の役割を担った偕をさす場合のふたつがある。
②両名は「大願主」であったが、ほか複数の願主もいた可能性もある。願文のいう、公家の安穏、武家の泰平、讃岐国、そして留守所も在庁も、郡、郷、庄内いたるところすべての安楽を願うといった内容は、多くの僧俗が願主となっていたからだと思える。
③本像の造立には、地域の多くの僧侶や信者が関わっていたことが考えられる。
そして、この像が作られた時には、体内に造仏に関係した人々の名を記した納入品などが入れられたと研究者は考えているようです。

4 松尾寺弘法大師座像5

 次にこの像を作った仏師について見てみましょう。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分かりません。

体内からは,木製の五輪塔が出てきました。
4 松尾寺弘法大師座像体内五輪塔4
四本出てきたのではありません。それぞれ別の角度から写しています。一番右側の正面に書かれた文字を見てみましょう。
まず上から梵字五字でキャ、カ、ラ、バ、ア)で、五輪法界真言で。東方のことのようです。
その下に
権大僧都宥盛逆修 善根 

とあります。宥盛と云えば、金毘羅さんの正史が金毘羅大権現の開祖とする人物です。現在の金毘羅宮でも、その功績をたたえて彼を神として、奥社に祀っています。奥社に祀られているのは、宥盛です。
  これが入れられたのは、いつなのでしょうか?
「右側面」には、梵字五字で北方と記され、その下に
慶長九(1604)年甲辰三月廿一日敬白

と記されています。宥盛の活躍した年代とぴったりとあいます。
 これはいったいどういうこと? どうして宥盛の名前が入った五輪塔がでてくるのでしょうか。
五輪塔と一緒に二つ折りにして収められていたのが次の文書です。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4

  これも分かりやすい字体で、私にも読めそうな気がするくらいです。花押と重なっていますが、その上の二文字は宥盛と読めます。研究者は、先ほど見た五輪塔とこの文書の筆跡は同一人物だと判断しています。つまり、宥盛自筆の文書であり、宥盛の花押ということになります。ふたつは、慶長九年(1604)、空海忌日の3月21日に、金光院住職宥盛が書いたものにまちがいないようです。

木製五輪塔の納入文書にの内容を見てみましょう
 敬白真言教主大日如来両部界会一切三宝境界而
 奉採造弘法大師一鉢並三間四面御影堂一宇常山中古開山沙門権大
 僧都法印宥盛令法久住志深而偏咸端権現御前カタメ祈諸佛
 加被権現御前ヒレフス或時権現有御納受神変奇特顕ワル
 誠照不思儀一天是故一拝暫所望起叶悉地壹不崇哉不可仰
 々々々文爰貴賤上下投金銀弥財事春雨之閏似草木
 爰以僧都宥盛無比誓願ヲマシテ堂社佛閣建寺塔
 造佛像常山一カ建立畢如斯留授縁待慈尊成
 道春而已
   于時慶長九甲辰三月廿一口]常山中古開山沙門法印宥盛
                      (花押)
  奉供養佛舎利全粒二世安全所
これを入れたのは、先ほど見たように、象頭山金光院の宥盛です。
弘法大師像に奉採造(彩色)し、併せて三間四間の御影堂を山内に再建したとあります。その際に、宥盛自らが金毘羅大権現の御前で諸仏に祈ったようです。ここからは、弘法大師像が再興(本当は新建立?)された御影堂本尊として開眼されたことが分かります。「奉採造」とあるので、今の表面彩色は、この時に施されたようです。 

この像の足取りを整理しておきましょう
①弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置
②慶長九年(1604)、金光院住職宥盛によって新しく建立された御影堂の本尊として再デビューした。その時にお色直しされた。
ということでしょうか。
次の疑問は、どうして、金毘羅大権現にやってきたのかということです
  「仏像は栄えるお寺に自然と集まる。それは財力のあるお寺なので、集まってきた仏さんたちのお堂をつくることもできる。いまの四国霊場のお寺が良い例ですわ」

というのが私の師匠の言葉です。この大師さんは、善福寺が廃寺となり、勢いの出てきた金光院に移ってきたようです。それが宥盛の時代であったという所が私には引っかかります。
 金光院の宥盛について「復習」し、ひとつのストーリーを考えます。
流行神としての金比羅神を造りだし、金比羅堂を建立したのは、長尾城主の弟と云われる宥雅でした。しかし、宥雅は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命を余儀なくされます。変わって金光院院主の座についたのは、元親に従っていた土佐出身の修験者宥厳でした。土佐勢が引き上げ、宥厳も亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、堺に亡命していた宥雅は、後を継いでいた宥盛を生駒藩に訴えます。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた金比羅堂のお金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。新興勢力の金光院が成り上がっていくためには、山内における「権力闘争」を避けることができなかったことは以前お話ししました。
 このような「闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位が確立して行ったのです。宥盛の金光院を発展させるための闘争心を感じます。当時に「無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った」という宥雅の指弾からは、追放したり、廃寺に追い込んだ寺から仏像・仏具類の「財宝」を「収奪」したことがうかがえます。善福寺から奪ってきた弘法大師像を本尊として、新たな信仰施設を「増設」したのではないかとも思えてきます。
 当時の宥盛の布教活動は、非常に活発なものであったようです。金比羅神は何にでも権化する神なのです。それは、時として弘法大師にも権化したのかもしれません。

  大師堂は明治維新まで境内にあったようです。
志度の多和神社社人で高松藩皇学寮の教授であった松岡調が、金刀比羅宮に参詣したおりのことを『年々日記』に記しています。明治二年(1869)四月十二日条によると、神仏分離で神社化の進む境内を見て
「護摩堂・大師堂なと行見に内に檀一つさへなけれ

と記しています。ここからは大師堂はあったことが分かります。しかし、その中に安置されていた弘法大師像は、この時すでに外へ移されていたようです。「内に檀一つさへなけれ」と堂内は空っぽだったと伝えます。
 松岡調は、翌年には金刀比羅宮の禰宜に就任し、実質的な運営を彼が行うようになります。
明治5年5月になると、県にお伺いを立てて「入札競売を行い、売れ残った仏像・仏具は焼却処分にして宜しいか」と、問い合わせています。そして、県からの許可を得た6月末から仏像仏具などの競売が行われます。
松岡調の『年々日記』の明治5年6月から7月にかけては、次のような記述があります。(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕
6月5日 今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり
7月10日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ   
7月11日 御守所へものセり、十字(時)のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、

7月19日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、
7月21日 御守処へものセり、今日又商人つとひ来て、とかく云のヽしれハ、入札と云事をものして、刀、槍、鎧の類を金三十両にてうり、昨日庁へ書出セしを残置て、其余のか百幅にもあまれるを百八十両にてうり、又大般若経(大箱六百巻)を三十五両にて売りたり、今日にてワか神庫の冗物ハ、大かたに売ハてたり  
    
7月23日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり

 ここには具体的に買手がついたものとして、次のようなものが挙げられています。
①梵鐘が、榎井村の行(法)泉寺へ227円50銭で
②両界曼荼羅が善通寺へ金20両で
③刀、槍、鎧の類が金三十両で落札され
④万燈堂にあった大日入来の銅像は金六百両で
 そして買い手のなかった仏像・仏具類は焼却されます。この中に、松尾寺の弘法大師像は入っていなかったのです。
どのようにして松尾寺にもたらされたのでしょうか?
①松尾寺が入札し、買い受けた
②混乱の中で密かに、松尾寺に運び入れた。
先ほどの入札売買リストの中に弘法大師像はありませんでした。それ以前に、すでに松尾寺に運び込まれていたのかもしれません。
最後に、この座像のたどった道をまとめておきます。
①14世紀に善福寺
②17世紀初頭に金毘羅大権現の金光院へ 
③明治の神仏分離で松尾寺へ
という変遷になるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
追記  
①この弘法大師像の願主は、「讃岐国 仲郡善福寺 御木願主」とありました。善福寺が出てくる史料と出会いましたので報告しておきます。弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置
  「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」の中の「別紙別筆 四国之日記さぬき(讃岐)之分」に、多度・那珂郡の道者(檀那)たちが次のように紹介されています。
伊勢御師 四国日記讃岐分1 中府
           「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 中府・津森・今津

伊勢御師 四国日記讃岐分6 多度津
         「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 多度津・白方

 この中の多度津には「そうめんや(素麺屋)真吾殿」「かち(鍛冶)吉五郎殿」「かち(鍛冶)又五郎」も伊勢道者のメンバーとして名を連ねています。また多度津の末尾には「三百斗の所にて、内被官一円」とあります。ここからは多度津が香川氏の城下町として、家臣団が居住する一方で、都市的な機能を持ち的な賑わいを見せていたことがうかがえます。
 その中に「善福寺」が見えます。この寺は明王院道隆寺の末寺で、宝塔山多聞院のことだと田中氏はは指摘します。多聞院は、香川氏の帰依した寺で、香川信景の末子・西谷藤兵衛寄進の石塔や肖像画二幅を伝承する(『西讃府誌』)ことは先ほど見たとおりです。「明ちょう寺」というのは、よく分かりません。しかし、史料には「仲郡善福寺」記されています。多聞院は多度郡です。疑問は残ります。2025/11/14 追記
参考文献 
三好賢子 松尾寺木造造弘法大師坐像について 県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年

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