瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:弘法大師空海 > 弘法大師入定留身伝説

「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
       遺告二十五条 巻頭部
「御遺告」は、承和三年(835)2月15日の日付があり、空海が亡くなる直前に書かれたとされてきました。しかし、今では10世紀半ばのものとされています。この中に「入定留身」信仰について、どのように触れられているのかを見ていくことにします。

「遺告二十五ヶ条」巻末に空海・実恵
遺告二十五条 巻尾部

遺告二十五条第1条「成立の由を示す縁起第一」には、次のように記されています。

   吾れ、去(いん)じ天長九年(832)十一月十二日より、(A)深く穀を厭(いと)いて、専ら坐禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。并びに末世後生の弟子・門徒等が為なり。方(まさ)に今、諸の弟子等、諦(あきらか)に聴け。諦に聴け。(B)吾生期、今幾ばくならず。仁等(なんじたち)好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾れ入減せんと擬することは、今年三月廿一日の寅の刻なり。諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ。吾れ即滅せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾生年六十二、

②吾れ初めは思いき. 一百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。(C)然れども諸の弟子等を侍んで、忽(いそい)で永く即世せんと擬するなり。

A・B・Cは、「入定」のことを指す表現とも受けとれます。とくに(B)の「吾れ人滅せんと擬することは」は、「人滅に似せる、人滅をまねる」ともとれます。しかし、「人定」ということば自体は、まだ出てきません。また、自分の入滅日を「三月二十一日」と予告しています。これも今までになかった記述です。
次に、「御遺告」の第十七条を見ておきましょう。
夫れ以(おもんみ)れば東寺の座主大阿閣梨耶は、吾が末世後生の弟子なり。吾が滅度の以後、弟子数千萬あらん間の長者なり。門徒数千萬なりと雖も、併(しかし)ながらわ吾が後生の弟子なり。、租師の吾が顔を見ざると雖も、心有らん者は必ず吾が名号を開いて恩徳の由を知れ。
(D)是れ吾れ白屍の上に、更に人の労を欲するにあらず、密教の寿命を譲り継いで龍華三庭に開かしむべき謀(はかりごと)なり。
(E)吾れ閉眼の後に、必す方に兜率陀天(としつたてん)に往生して、弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後に、必ず慈尊と御供に下生して吾が先跡を問うべし。亦且(またかつ)うは、未だ下らざるの間は、微雲の菅より見て、信否を察すべし。是の時に勤め有んものは祐を得んの不信の者は不幸ならん。努力努力、後に疎(おろそ)かに為すこと勿れ。

意訳変換しておくと
 私(空海)が目を閉じた後に、以後の弟子が数千万いようとも、門徒が数千万いようとも、それらはすべて私の後生の弟子達である。祖師や、私の顔を見ることがなくても心ある人はかならず私の名号を聞いて恩徳のわけを知るべきである。このことは私が世を去ったことに、さらに人びとのいたわりをのぞんでいるわけではない。(D)ただ密教の生命を護りつないで、弥勒菩薩が下生し、三度の説法を開かせるためのはかりごとからである。
(E)私の亡き後には、かならず兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前にはべるであろう。
五十六億七千万年後には、かならず弥勒菩薩とともに下生し私が歩んだ道をたずねるであろう。
ここで研究者が注目するのは、次の二点です。
(D)の弥勒片薩の浄土である兜率天への往生と
(E)②弥勒菩薩ががこの世に下生されるとき、ともに下生せん」の部分
これは『御遺告』で初めて登場する文章です。しかし、ここには空海を「お釈迦さまの入涅槃から弥勒菩薩の出生にいたる「無仏中間(ちゅうげん)」のあいだの菩薩」とみなす考えは、まだ見られません。
 『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたことは以前にお話ししました。
今までに書かれていなかった新しい記述が加えられ、新たな空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以上からここでは『御選告』の特色として、次の点を押さえておきます。
①第1は「入定」が暗に隠されているふしがみられること
②第2は、兜率天往牛と弥勒善薩との下生説がみられること
③ 第3は、『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたこと

『空海僧都伝』

『御遺告』と、ほぼ同じ時代に成立したのが『空海僧都伝』です。

その最後の部分を、六段に分けて見ていくことにします。
 A 大師、天長九年(832)十二月十二日、深く世味を厭いて、常に坐禅を務む。弟子進んで曰く、「老いる者は唯飲食す。此れに非ざれば亦隠眠す。今已に然らず。何事か之れ有らん」と。報えて曰く「命には涯り有りの強いて留まるべからず。唯、尽きなん期を待つのみ。若(も)し、時の至るを知らば、先に在って山に入らん」と。
意訳変換しておくと
A 大師は、天長9年(832)十二月十二日に、深く世情を避けて、常に坐禅をするようになった。弟子が「老いる者はただ飲食のみか、そうでなければ眠るかである。ところが大師は、ちがう。どうしてなのか」と訊ねた。これに大師は、次のように答えた。「命には限りがあり、いつまでもこの世に留まることはできない。唯、尽きない時をまつだけである。もし、自分の死期を知れば、先に高野山に入ろうと思う」と。


B 承和元年五月晦日、諸の弟子等を召して語らく、「生期(吾生イ)、今幾くならず。汝等、好く住して仏法を慎み守れ。我、永く山に帰らん」と。

C 九月初めに、自ら葬処を定む。
D 二年正月より以来、水漿(すいしょう)を却絶す。或る人、之を諫めて曰く、「此の身、腐ち易し。更に奥きをもって養いと為すべし」と。天厨前(てんちゅうさき)に列ね、甘露日に進む。止みね、止みね。人間の味を用いざれ、と.
E 三月二十一日後夜に至って、右脇にして滅を唄う。諸弟子等一二の者、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺教に依りて東の峯に斂(おさ)め奉る。生年六十二、夏臓四十一

F 其の間、勅使、手づから諸の惟異(かいい)を詔る。弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

意訳変換しておくと
B 承和九年(832)五月晦日に、弟子等を召して次のように語った。「私の命はもう長くない。汝等は、仏法を慎み守れ。私は、高野山に帰る」と。

C 九月初めには、自らの墓所を決めた。
D 835年正月から、水漿(=水や塩)を絶った。これを諫めた人に対して、「この身、は腐ちやすい。更に躰の奥から清めなければならない」と云った。滋養のあるものを並べ、食べていただこうとするが「止めなさい。人間の味を使うな」と云うばかりであった.
E 3月21日夜半になって、右脇を下にして最期を迎えた。諸弟子は、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺言通りに東の峯に斂(おさ)めた。生年六十二、出家して四十一年

F この間のことを、勅使は「手づから諸の惟異(かいい)を詔る」(意味不明) 弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

この中には次の4つの注目点があると研究者は指摘します。
①Aは832年に、最期のときを悟ったならば、高野山に入ろうと弟子たちに語ったこと。ここからは、空海が自分の死に場所は高野山だと、生前から弟子たちに語っていたことが記されます。
②C・Dは承和元年(834)年9月はじめに埋葬場所を決めいたこと。翌年正月からは水と塩気のあるものを絶ったこと。つまり、空海は最期に向けて「断食=木食(ミイラ化)」を行っていたこと。これが後の真言修験者の「木食修行」につながっていくようです。
③Eからは3月21日の深夜に、右脇を下にして最期を迎えたこと、そして遺言によって「東の峯に斂めた」とあります。従来は「東の峯=奥の院」とされてきました。本当にそう考えていいのでしょうか。また「斂」は「おさめる」で、「死者のなきがらをおさめる」意と解されていたことがうかがえます。そうだとすると「入定」とは少しかけ離れたことばと研究者は指摘します
④Fの「勅使、手づから諸の惟異を詔(つげ)る」と意味不明部分があること。文脈からすると、葬儀のあいだのできごとをさしているようですが、よく分かりません。

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

G 雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保五年(968)成立 
この評伝は、草創期の高野山を考えるうえでの根本史料のひとつになります。そして、ここではじ
めて「入定」ということばが4ヶ所で使われます。長文になりますが見ていくことにします。
A 大師、諸の弟子等に告げて曰く。「吾れ、却世の思いあり。明年三月の中なり。金剛峯寺を以て真然大徳に付す。件の寺の創造、未だ終わらず。但し、件の大徳、自力未だ厚からず。実恵大徳、功を加うべし、と云々。吾れ、初めは思いき、一百歳の間、世に住して密教を流布し、蒼生を吸引せんと、然リと雖も、禅師等、恃(たの)む所の至篤(しとく)なり。吾が願、又足んぬ。仁等(なんじら)、まさに知るべし。吾れ、命を万波の中に忘れ、法を千里の外に尋ぬ。僅かに伝うる所の道教之を護持して、国家を安鎮し、万民を撫育(ぶいく)すべし。」と云々。
意訳変換しておくと
A 大師は、弟子等に次のように告げた。①「私の死期は明年3月半ばである。②ついては金剛峯寺は真然大徳に任せる。寺の造営は、まだ終わっていない。しかし、真然の力はまだまだ弱い。実恵大徳がこれを助けよ。」
「私は、百歳になるまで、長生きして密教を流布し、蒼生を吸引せんと、初めは考えていた。しかし、それも適わぬものであると知った。私の願いは達せられないことを、なんじらは知るべし。私は、命を幾万もの波の中に投げだし、法をもとめて千里の道を長安に訊ねた。③そこから持ち帰った教えを護持して、国家を安鎮し、万民を撫育すべし。」と云々。
以上の部分を整理・要約すると
①死期の預言
②金剛峯寺の後継者を真然(空海の弟)に指名し、それを東寺長者の実恵が助けよ
③教団の団結と教え
B 承和二年三月十五日、又いわく。「(ア)吾れ、人定に擬するは来る二十一日寅の刻なり。自今以後、人の食を用いず。仁等、悲泣すること莫れ。又、素服を着ること勿れ。
 吾れ(イ)入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。五十六億余の後、慈尊下生の時、必ず須く随従して吾が旧跡を見るべし。此の峯、等閑にすること勿れ。顕には、丹生山王の所領、官持大神を勧請して、嘱託する所なり。
 冥には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置する所なり。跡を見て必ず其の体成を知り、音を聞いて則ち彼の慈唄を弁ずる者なり。吾が末世の資、千万ならん。親(まのあ)たり、吾が顔を知らずと雖も、一門の長者を見、及び此の峯に寄宿せん者は、必ず吾が意を察すべし。吾が法、陵遅せんと擬する刻は、吾れ必ず絡徒禅侶の中に交わって、此の法を興さん。我執の甚しきにあらず。法を弘むる計なるのみ。
意訳変換しておくと
B 承和二年(835)三月十五日には、次のように言われた。④私が「人定に擬する」のは3月15日寅の刻である。今からは何も食べず断食に入るが、なんじらは悲泣するな。又、喪服も着るな。
 ⑤私が入定したら知足天に行って慈尊の御前に仕える。五十六億余年の後、慈尊が下生する時、必ず一緒に現れて、高野山に帰ってくる。その時までこの峯を守り抜け。⑥表では、丹生山王の所領、官持(高野)大神を勧請して、守護神としている。裏には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置した。その姿を見て必ず体成を知り、音を聞いて慈唄を弁ずるであろう。
 ⑦私に続く者達は末世まで続き、千万人にもなろう。その中には、私の顔を知らないものも出てこようが、一門の長者を見、高野山に寄宿する者は、必ず私の意が分かるはずである。私の教えを陵遅せんと擬する刻は、私は必ず禅侶の中に交わって、この法を興すであろう。我執の甚しきにあらず。教えを弘めることを考え実践するのみである。
この部分を整理・要約すると
④入滅日の予告と断食(木食)開始
⑤入定後の行き先と対処法
⑥高野山の守護神である丹生明神と官持(高野)大神の勧請(初見)
⑦高野山を護る弟子たちへの教えと願い
C 則ち承和二年乙卯三月二十一日、寅の時、結珈朕坐して大日の定印を結び、奄然として(ウ)人定したまう。兼日十日四時に行法したまう。其の間、御弟子等、共に弥勒の宝号を唱う。唯、目を閉じ言語無きを以て(エ)人定とす。自余は生身の如し。時に生年六十二、夏臓四十 。
意訳変換しておくと
C 承和二年(835)3月21日寅の刻、(大師は)結珈朕坐して大日の定印を結び、(ウ)人定した。その後、兼日(けんじつ)十日四時に行法した。その間、弟子たちは弥勒の宝号を唱えた。ただ目を閉じ話さないことを以て(エ)人定とする。それ以外は生身のようである。この時大師齢六十二、出家して四十一年目 。
基本的な内容と論の進め方は、先行する「遺告二十五条」と同じなので、これを下敷きにかかれたものであることがうかがえます。
読んで気がつくのは、「入定」ということばが次のように4回出てくることです。
ア、吾れ、入定に擬するは来る二十一日寅の刻刻なり。
イ、吾れ入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。
ウ、寅の時、結珈欧座して大日の定印を結び、奄然として入定したまう。
エ、唯、目を閉じ言語無きを以つて入定とす。自余は生身の如し。

これを分類すると、アは「入定に擬する」で、「入定のまねをする」ととれます。それに対して、イ・ウ・エでは「入定の間」「入定したまう」「入定とす」とあって、まさに「入定」です。また(エ)では、「入定」の定義が次のように示されています。

唯、目を閉じ言語無きを以って入定とす。自余は生身の如し。

ここからは、入定とはただ目を閉じ、ことばを発しないだけでって、それ以外は生きているときと同じ「生身の如し」とします。

奥院への埋葬の次第については、次のように記されています。

⑧然りと雖も世人の如く、喪送(そうそう)したてまつらず。厳然として安置す。則ち、世法に准じて七々の御忌に及ぶ。御弟子等、併せ以て拝見したてまつるに、顔色衰えず髪髪更に長ず。之に因って剃除を加え、衣裳を整え、石壇を畳んで、例(つね)に人の出入すべき許りとす。其の上に石匠に仰せて五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を人れ、其の上に更に亦宝塔を建立し、仏舎利を安置す。其の事、 一向に真然僧正の営む所なり。

意訳変換しておくと
⑧(空海は亡くなったが)、世人のような葬儀は行わなかった。ただ厳然と安置した。それは、世法に准じて七日ごとの忌日を務めた。弟子たちが、空海の姿を拝見すると、顔色は変わらず、髪は伸びていた。そこで剃髪し、衣裳を整え、石壇を畳んで、つねに人が出入し世話できるようにした。その上に石工に依頼して五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を入れて、その上に更にまた宝塔を建立し、仏舎利を安置した。これを行ったのは、真然僧正である。

葬儀を筒条書きにすると、次の通りです。
1、通常の葬送儀礼は行わず、厳然と安置した。
2、常の習いに准じて、七日七日の忌日は勤めた。
3、弟子らが拝見すると、この間も大師の顔の色はおとろえず、頭髪・あご髪はのびていた。
4、そこで、髪・鬚を剃り、衣を整え、人の出入りできる空間を残して石壇を組み、
5、その上に、石工に命じて五輪塔を安置し、梵本・陀維尼を入れ、さらにその上に、宝搭を建て
仏合利を安置した。
6、これらはすべて、真然僧正が執り行った。

これらの記述を読んで、次のような疑問が湧いてきます。
①石壇を組んだ場所はどこか
②梵本・陀羅尼を入れたのはどこか
③仏舎利を安置したのはどこか
これらについては示されていません、また、これらをすべて真然が執り行ったとする点と、①で金剛峯寺の責任者に真然を指名したという話については、研究者は疑問を持ちます。

このように『修行縁起』には、はじめて登場する話が数多く載せられています。
別の見方をすると、に遺告二十五条や『空海僧都伝』と、この雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』とのとのあいだには、大きな相違・発展があるということです。分量自体が大幅に増えていることからも分かります。9世紀には一行であった空海の最期についての記述が11世紀になると大幅に増えていることをどう考えればいいのでしょうか。
 これについて、考証学は「偉人の伝記が時代を経て分量が増えるのは、後世の附会によるもの」とします。新たな証拠書類が出てきたわけではなく、附会する必要が出てきて後世の人物が、有りもしないことをあったこととして書き加えていくことは、世界中の宗教団体に残された史料からも分かります。11世紀に「入定」を附会する必要性が高野山側には生まれていたとしておきます。その背景については、また別の機会に・・。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善 「弘法大師」の誕生 137P
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奥の院御廟が確認できるのは12世紀以後

前回は空海が「入定」したとされる高野山奥の院の御廟が、いつごろから存在したのかを見ました。今回は「入定」という言葉がいつ頃から史料に登場してくるのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」です。

まず空海の跡を継いだ、実恵の書簡を見ていくことにします。

1 空海系図52jpg
          佐伯直 空海系図 実恵は佐伯直の本家筋にあたる

実恵は空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあたり、幼い頃から顔見知りだったかもしれません。空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた頃から傍らに仕えていて「空海第一の弟子」とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)、実恵32歳の時になります。晩年の空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。
 この実恵の書状は、空海入滅の翌年に、長安の恵果和尚の墓前に報告するために書かれたもので空海の最期を次のように記します。
A 承和三年(836)5月5日付 青龍寺宛て実恵等書状

其の後、和尚(空海)、地を南山に卜して伽藍を置き、終馬の庭とす。共の名を金剛峰寺と曰く。上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。二年の季春、薪尽き火減す。行年六二。

ここには簡潔に「新尽き火減す」とあり、新が燃えつきるがごとく、静かな最期を高野山の金剛峯寺で迎えたことが記されるのみです。「入定留身」については何も触れられませんし、どこに埋葬されたかも記されていません。

B 『続日本後紀」の空海卒伝 貞観11年(870)成立
870年に成立した正史の『続日本後紀』の巻第四の承和三年(835)3月庚午(25日)条の「空海卒伝」は次のように記します。
禅関僻左(へきさ)にして、凶聞、晩(おそ)く伝ふ。使者奔赴して荼毘を相助くることあたわず自ら終焉の志あり。紀伊国金剛峯寺に隠居す。化去の時、年六十三。
ここで注目されるのは「荼毘を相助くることあたわず」と「荼毘」ということばがあることです。
ここから歴史学者は「入滅火葬説」をとなえ、真言宗内からは「入定留身:説が唱えられていることは前回お話した通りです。しかし、この史料からも空海は「化去」し、「禅居に終る」とあって、入定については何も触れられていません。しかし、通常とは違うことばで、空海の最期を記録している点に研究者は注目します。

C 聖宝撰「贈大僧正空海和上伝記」(略称:寛平御伝)  寛平7年(895)成立
これは真言宗内で書かれたもっとも占い大師伝になるようです。撰者は、かつては空海の弟の真雅とされてきましたが、今では醍醐寺開山の聖宝(理源大師)とする説が有力です。ここには、次のように簡潔に記します。
承和二年(834)、病に罹り金剛峯寺に隠居す。三年三月二十一日卒去す。

ここからは空海は病を患っていたことが分かります。
   空海の病気については、『性霊集』補闘抄の「大僧都空海、疾(やまい)に嬰りて上表して職を辞する奏状」に次のように記します。
天長八年(831)庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、831年5月の末に「悪瘡」が体にできて直る見込みがなく、「吉相」を見せることができず死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して自由の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡について「大師御行状集記」では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノのようです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。
「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」からは、空海は自分の意志で高野山に隠居したことが分かります。「卒去」は人の死をあらわす一般的表現です。空海が亡くなって三代あとの時代には、その最期が単に「卒去」と記されています。「卒去」からは「特別待遇」ではなく一般的なニュアンスしか伝わってきません。

D 伝寛平法皇作「諡号を賜らんことを請う表」延喜18年(918)8月11日
寛平法皇が醍醐天皇に空海への大師号下賜を依頼したときのものとみなされてきたもので、次のように記します。
承和二年(834)、病に嬰りて高野の峯に隠肝す。金剛峯寺という是れなり。同三年二月二十一日、和尚卒去す。

この文章については以前にも見た通り、全文が先ほど見たCの『寛平御伝』を下敷きに書かれています。この部分もほぼ丸写しです。寛平法皇(宇田天皇)は、この当時は出家して真言宗教団の中心的存在であったようです。それが「寛平御伝」を下敷きにして、「卒去す」とだけ記していることになります。このこと自体が、この時にはまだ入定信仰について何も知らなかったことを物語ると研究者は考えています。
 添田隆昭師は『大師はいまだおわしますか』(46P)で、次のように記します。

どこにも入定留身したとは書いていない。大師に対する熱烈な思慕を持ち、後世、入定留身説話の主人公となる観賢僧正も、寛平法皇も、まだこの時代には、人定留身というアイデアは生まれなかったと考えられている。

   以上から空海に大師号が下賜される以前の10世紀初めまでは、真言宗内においては、空海の最期を特別視する風潮はまだなかったことが分かります。それが変化し出すのは、大師号下賜以後に書かれた伝記類からのようです。

私が気になるのはCの「寛平御伝」に、「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」とあることです。
この悪瘡について「癖瘡(ようそう)」=「悪性の皮膚病説」があることは先に述べた通りです。
この皮膚病の原因は何なのでしょうか。これは丹生(水銀)と関係あるのではないかとという説があります。これを最後に見ておきましょう。

ミイラ信仰の研究 : 古代化学からの投影(内藤正敏 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


空海は道教や錬丹術に強い関心をもっていたとされます。
内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のように記します。
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。

「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ

また高野山自体が丹生(水銀・朱砂)などの鉱物生産地で鉱山地帯であった可能性があるようです。
そのため空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとする研究者もいます。その根拠としては、次のような点を挙げます。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
     重文 弘法大師・丹生・高野明神像 右下が丹生明神
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が丹生(水銀)や銅を産出する地質であったこと
人定信仰や即身成仏信仰の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は、その上に生まれたものだと云うのです。つまり、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたという説です。
丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

 松田壽男も次のように記します。

空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

例えば空海が若い頃に書いた「三教指帰」の中には、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。
白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

意訳変換しておくと
「白金・黄金は水銀と金である。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されている。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬である。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(=天)に昇る。
ここからは空海が道教の仙人思想と水銀と金の役割を、早くから知識としては知っていたことが分かります。
須恵器「はそう」考

内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを次のように記します。
空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないか。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったか。

「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」
  空海は、当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していた節があるというのです。話が大きく逸れたようです。今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高野山丹生明神社
   高野山奥の院の御廟に並んで鎮座する高野・丹生明神社

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」
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空海火葬説
            空海=火葬説
前回は史料からは、空海やその師の恵果が火葬されていることが読み取れることを見てきました。今回は空海が、どこに埋葬されたかについて見ていくことにします。

   空海には今なお生き続けているという入定留身信仰があります。
入定とは禅定(瞑想)に入ることで、空海は入滅(逝去)したのではなく入定しているというのが真言教団の立場です。例えば、次のようなエピソードが語られてきました。

 内閣総理大臣を務めた近衛文麿が、空海の廟所である高野山奥之院に参拝した時のこと。近代真言宗の高僧と呼ばれた金山穆韶師に案内され、「空海は永久に入定したまま、今もなお衆生済度のために尽力している」との説明を受けたのですが、近衛は一笑に付しました。その夕べ、金山師が近衛を訪ね、さらに入定の由縁をじゅんじゅんと説いたところ、近衛は従者にこう話したそうです。「ともかくよくわからないが、老師の努力と信念には感心した」。(「沙門空海」 渡辺照宏・宮坂宥勝著)

これが宗門および大師信者の弘法大師に対する信仰を代弁したものと云えそうです。
  そのため戦前の歴史学者・喜旧貞吉の「空海=火葬説」に対して、真言宗内から多くの反論が出されました。以後、これに正面から答えようという動きはなくタブーとされていた観があります。それが21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える書物が出されます。それが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」です。これをテキストにして、今回は空海がどこに埋葬されたのかを見ていくことにします。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院
一遍絵図の高野山奥の院
空海の廟所については、一般的に次のように云われています。
弘法大師御廟は奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。

弘法大師空海-生涯と奥の院の秘密 | やすらか庵
                弘法大師御廟
それでは「奥の院」の廟所の存在が確認できるのは、いつからなのでしょうか。 
言い換えると、いつまで奥の院は遡ることができるかを見ておきましょう。確認できる確実な史料として、研究者が挙げるのが天永4年(1113)5月3日の日付をもつ比丘尼法薬の埋経です。この埋経は1964年の秋・開創1150年の年に、御廟周辺整備の時に出土したものです。そにには次のような語句が出てきます。
斯の経巻をもって高野の霊窟に埋め、云々
② 弥勒慈尊出性の時を期せんが為に、殊に弘法大師入定の地を占す、まくのみ。
③ 仰ぎ願わくは、慈尊兼ねて斯の願を憐憫し、伏して請うらくは、大師常に斯の経を護持し、必ず其れ三会の座席に接せんことを。
ここには「高野の霊窟」「弥勒慈惇出世の時」「弘法大師入定の地」「三会の座席」などの言葉が出てきます。これらは入定留身する大師や奥の院の御廟を意識していることが分かります。出土地が御廟のすぐ横ということからも、平安末の天永4年(1113)には、御廟が現在地にあったことが裏付けられます。
次に奥の院の存在を示すのが「御入定所」と記した「高野山図」です。   211P

高野山図 平安時代
              高野山図
高野山図2
          高野山図 江戸時代の複写

「高野山図」が、いつ成立したものなかのか押さえておきます。
①奥の院入定所が描かれているので、弘法大師御入定説成立以前ではない。
②奥の院御廟の左の丹生・高野両社は、天暦6年(952)6月に奥院廟塔が類焼
③翌7月に執行職に就いた雅真が、翌天暦7年(953)夏に奥院御廟を再興したもの(「検校帳」)
④同時に、それまで御廟橋の近くにあつた丹生・高野両社を御廟の左に移築した(『高野春秋』)ものなので、それ以後のもの
⑤絵図の下石の垣荘は、天慶9年(946)に石垣荘上下二荘に分割して以来のこと(正智院文書)
⑥東搭は天治元年(1124)10月、鳥羽上皇の高野参詣の際に完成したものなので、東搭が描かれているので、絵図の成立をそれ以前に比定することはできない。
以上からは比丘尼法薬の埋経からは、12世紀はじめには御廟はいまの奥の院に存在していたことが裏付けられます。しかし、それ以前に御廟がどこにあったかは分かりません。確かな史料がないのです。
そこで研究者が注目するのは「高野山七廟説」です。

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『紀伊続風土記』の「高野山之部」巻之十の「奥院之五 附録」には、次のように記されています。

①慶安三年(1650)頃初て七廟の名を載て、奥の院(廟所)・高野山とも、是は日本国中の大師の廟門七ヶ所あることにて、当山に七廟ある説にあらず。(中略)

②寛文の頃(1661~73)、或記に初て当山七廟の名を載て、奥の院(今の助所)・高野山)姑耶也)・遍照岡・正塔岡・大塔・御影堂・弥勒石といふ此説ありてより、好事のもの雷同して終に巷談口碑せり。             (『紀伊続風土記』四 189P)

①からは、近世になるまで七廟はなかったこと、②からは17世紀後半になって「七廟」という表現が用いられ始めたことが分かります。ここでは「七廟」というのは、近世以後の表現であることを押さえておきます。
そして「紀伊続風土記」の「高野山之部」の著者道猷も、いまの奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと次のように記します。
是らに因り猶大師の墓所を考ふるに、今山上にて七廟の説を伝ふ。其実は大師の葬処造にかくと定めかたし。或いはここならんといひし所七ケ所ありし中、今の奥院の処と定まりしとなん。然れともし廟の説によりて考ふれば、南谷宝積院の地こそ葬庭ならんかといふ。因りて書して後の考に備ふ。
意訳変換しておくと
①今日、高野山には七廟説が伝わっていて、大師の墓所はここで間違いないと言えるところはない。
②ここだあそこだと言ってきた七廟説のなかで、今の奥の院に落ち着いてきた。
③しかしながらいま一度、七つの候補地を検討すると、大師の廟所としては、市谷の宝積院の地が最も相応しいといえる。
④後世のために、あえて記しておく。        (『続真言宗全書』三六  23P)

とあって、最も有力な候補地として③の「南谷の宝積院の地」としています。さらに、割注でその根拠を次のように挙げています。(要約簡条書)
①今の高野山は、弘法大師の時代にくらべると、百倍も開かれているといえよう。
②奥の院の地は、今日でも中心部からは遠く、幽奥僻遠の地といった感じを強くうける。
③大師在世の時代にあっては、このように幽奥僻遠の地を選ぶ理由などなかったはずである。
④南谷宝積院の地は、大師が生活していた寺の向いで、遍照岡と呼ばれていた。
⑤また宝積院は、ふるくは阿逸多院といい、阿逸多坊とも呼ばれた。
⑥遍照は大師の号であり、阿逸多は弥勒菩薩の梵語である。
⑦この寺名は、大師が入定されたことに由来するとすれば、ここが大師の墓所であったと考えるのが自然である。
⑧宝積院を再建したときの記録には、次のように記されている。
境内を掘つたところ、奇怪な響きがした。寺主は不思議に想つて、さらに深く掘ったところ、五、六尺のところから一つの石函が出てきた。その一辺は一丈ばかりであった。恐れをなして、もとのように埋めてしまった、という。
⑨この記録は、この地が大師の墓所であったことの根拠といえるのではないか。
⑩ただし、今の奥の院が古くから大師の廟堂とされているので、このことは異聞としておく。

以上から道猷は「空海奥の院入所説」に対して、次の3つの根拠を挙げて疑義を表明します。
A ①②③で、開創当時の高野山を考えたとき、奥の院は伽藍建立の地である壇上から遠いこと
B ④⑤⑥⑦で、南谷宝積院の地は遍照岡ともいい、古くはは阿逸多院・阿逸多坊ともいい、大師および弥勒苦薩との関係ががえること。
C ⑧には宝積院を再営したときの記録に、境内から石函が掘り出されたこと

弘法大師が入定した約1300年前の高野山を取り巻く地形を「地形復元」してみると、山上は原生林におおわれていたことが想像できます。奥の院は最初に開かれた壇上伽藍から4㎞東の原始林の中です。そこにいろいろなものを運ぶとなると、多くの困難を伴ったことが想像できます。

高野山建設2
高野山開山 (高野空海行状図画) 原始林を切り開いての建築作業で宝剣出土

しかも、当時の高野山は伽藍の堂搭も、まだほとんどは姿を見せていない「開拓地」状態です。
その際に、参考になるのが高野山第2世の真然が、どこに、どのように葬られたかです。

真然大徳廟

  真然の入滅については「高野春秋編年曹録』巻第3 寛平3年(891)の条に次のように記します。

秋九月十一日。長者真然僧正、愛染王の三摩地に住し、病無く奄然として中院において遷化す。門人、院の東方の原野に賓斂す(中略) 寿八十九   (『大日本仏教全書」131 36P)

意訳変換しておくと

秋9月11日、真然は中院(現・龍光院)の愛染王の三摩地にて、病にかかることもなく忽然と亡くなった。弟子たちは中院の東方の原野に埋葬した。齢89歳であった

ここには「院の東方の原野に埋葬」とあります。大師から50年後の真然の場合でも墓所は、いまの金剛峯寺の裏山です。
空海の甥で十大弟子の一人である智泉(ちせん)の場合を見ておきましょう。

智泉大徳 2月14日は常楽会の日として知られますが本日は智泉大徳のご命日でもあります。 また、本年は1200年目の御遠忌でもあり  智泉大徳は平安時代前期の真言宗の僧で母は弘法大師の姉と伝えられ弘法大師の甥にあたり十大弟子の一人でもあります。若くして病に倒れた甥 ...
                  知泉大徳廟 
彼も讃岐出身で、母は空海(弘法大師)の姉で阿刀氏出身と伝えられます。空海が若くして惜しまれつつ亡くなった智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にあります。知泉は、天長2年(825)に高野山で入滅ししますが、その墓所については次のように記されています。
蓋し大師在世の日には、智泉大徳、此地に一字の僧房を営んで正住し給ふ故に、当院封内羊申の角に、師の墓所あり。此地、東塔の東にして、南は蛇原を限り、東に大乗院あり
                   (『紀伊続風土記』四  375P)
ここからは空海よりも10年前に亡くなった智泉の墓所も、伽藍東塔の東どなりに作られたことが分かります。こうして見ると高野山の開山途上にある時点で、空海の墓所が遠く離れた奥の院の原始林を拓いて作られたという話には疑義があると研究者は判断します。

以上を整理・要約しておきます。
①「空海は永久に入定したまま、奥の院で今もなお衆生済度のために尽力している」という入定留身信仰がある。
②奥の院の御廟の存在を確かな史料で確認できるのは、12世紀初め以後になる。
③17世紀後半になって「高野山七廟説」が説かれ始めるようになる。
道猷は、奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと記し、最も有力な候補地として「南谷の宝積院の地」を挙げる。
⑤空海の十代弟子であった知泉や、高野山2世も東塔周辺に埋葬されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 210P」

弘法大師入定留身の形成過程

前回は、上記のように空海への大師号下賜がきっかけとなって、入定留身信仰が形成される過程を「高野空海行状図画」で見てきました。入定留身説が初めて語られるようになるのは、11世紀初頭のようです。それと、観賢の御廟開扉の話をからめて語られるようになるのは、約80年後の11世紀の後半以降だとされます。今回は、「入定留身」について、史料はどのように記しているのかを見ていくことにします。
まず最初に「空海の最期はどうであったか」を史料で押さえておきます。
大正から昭和にかけての歴史学者の喜田貞吉は「空海=火葬説」を出しますが、真言宗内からの猛反論を受けます。以後、この問題に正面から答えようという動きはなかったようです。21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える研究者が現れます。これが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」です。これをテキストにして見ていくことにします。

弘法大師伝承と史実: 絵伝を読み解く
伝記などに書かれているように、空海は自分の意志で入定したのでしょうか?
これについて研究者は「NO」の立場です。その根拠を見ておきましょう。空海の最期について、もっとも信憑性が高い史料は空海の最期をみとった実恵(じちえ)をはじめとする弟子達の手紙です。

実恵 
         実恵(観心寺)
実恵は空海の筆頭弟子で、高野山開創を手がけた高弟で、東寺の長者(管長)を務めた人物です。実恵の手紙は、空海入滅の翌年の承和3年(836)5月5日付で、その師・恵果和尚の墓前に報告するために、長安の青竜寺に送った書状です。この手紙は、承和の遣唐使の一員として入唐することになった真済と留学僧真然に託して、青竜寺に届けるために書かれたものです。
実恵の青竜寺に宛てた手紙のなかで、空海の最期を記したところを見ておきましょう。
【史料1】承和3年(836)5月5日付実恵等書状(『弘法大師全集」・第五輯、391P~)
①その後、和尚、地を南山に卜して一つの伽藍を置き、終焉の処とす。その名を金剛峯寺と曰う。②今上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。③二年の季春、薪尽き火滅す。④行年六十二。
⑤鳴呼哀しいかな。南山白に変じ、雲樹悲しみを含む。⑥一人傷悼し、弔使馳驚(りぶ)す。⑦四輩鳴咽して父母を哭するが如し。鳴呼哀しいかな。⑧実恵等、心は火を呑むに同じく、眼沸泉の如し。死減すること能わず、房を終焉の地に守る。
研究者は次のように現代訳します。
①空海は南山・高野山の地を卜定して一つの伽藍を建てられ、そこを終焉の地となされた。その名を金剛峯寺といった。②今上、つまり仁明天皇の承和元年(834)をもって高野山に隠居なされた。③同二年の季春(二月)に、薪が燃え尽き、火の勢いがだんだんと弱くなるように最期を迎えられた。④このとき62歳でした。⑤空海の滅を哀しんで、南山の樹々は一度に白くなり、雲も樹々も悲しみを表しました。⑥天皇は深く哀悼なされ、速やかに弔使を遣わされた。⑦また、 一般の人たちも鳴咽して、父母の死を悼むがごとくであった。⑧残された実恵等の弟子は、心は火を呑むように苦しく、眼からは泉のように哀しみの沸が流れた。⑨殉死することもままならず、師の開かれた房舎を末永く守ることにした。

ここには、空海の最期に立会った弟子の真情がストレートに現れていると研究者は評します。
ここで研究者が注目するのは、この文章の内容が空海が書いた「恵果和尚の碑文(大唐神都青龍寺故三朝國師灌頂阿闍梨耶恵果和上之碑 日本國學法弟子 苾蒭空海撰文并書)」を参考にしていることです。
「恵果和尚の碑文」とは、長安で空海が恵果の弟子を代表して碑文を起草したものです。
全文が空海の韓詩文集である「遍照発揮性霊集」に収録されています。そこには、恵果の最期と埋葬のようすが次のように記されています。

遂に乃ち永貞元年に在る極寒の月満を以って、住世六十、僧夏四十にして、法印を結んで摂念し、人間に示すに、①薪の尽くるを以ってす

嵯呼痛いかな、日を建寅の十七に簡(えら)んで、塚を城郎の九泉に卜す。腸を断つて玉を埋め、肝を爛して②芝を焼く。泉扉永く閉じぬ。天に想うれども及ばず。茶蓼鳴咽(とりょうおえつ)して③火を呑んで滅えず。(傍線筆者)

これを「性霊集講義侃(107P)」は、次のように現代訳しています。

断腸の思いをしながら尊体を埋め、肝を焼爛せらるる思いをしながら之を焼き奉る。ああかくて永遠に貴泉に旅立たれてしまった。天に訴え叫けべども今は詮かたなし。

 ①「薪の尽くるを以ってす」と ②「之を焼き奉る」からは、恵果和尚が火葬されたのを空海は見ていたことになります。碑文を書いた空海は、師である恵果和尚の最期や葬送儀式に立ち会っていたはずです。そうすると、自分の最期を迎えるとき、師・恵果和尚の葬儀を思い返したことでしょう。

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         恵果崩御(高野空海行状図画)
また、実恵らの手紙の文章に対応する空海の「碑文」のことばをあげると(前が実恵らの手紙、後が空海の「碑文」)
③「薪尽き火滅す」     → 「人間に示すに、薪の尽くるを以てす」
⑤「雲樹悲しみを含む」→ 「天雲鯵々として悲しみの色を現わし、松風厖々として哀しなの声を含めり」
⑧「心は、火を呑むに同じく」→「荼蓼(とりょう)鳴咽して火を呑んで滅えず」
この対応関係からは、空海の最期を恵果和尚に重ね合わせて書かれたことがうかがえます。ここからは実恵が報告文を書く際に、空海の文章を何度も読んでいたことが見えて来ます。実恵らの書状には、「薪尽き火滅す」とあるだけで、具体的な葬送儀礼は伸べられていませんが、状況証拠からして、空海は火葬されたと研究者は考えています。なお「南山白に変じ、雲樹悲しなを含む」は、お釈迦さまが涅槃に人られたとき、沙羅双樹の葉が瞬時に白くなってしまったことを下敷きにしているようです

次に正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月21日の記録を見ておきましょう。

承和2年3月丙寅(21日)、大僧都伝燈大法師位空海紀伊国の禅居に終る

ここでは「禅居に終る」と記すだけです。これに対して、3月25日には、後太上天皇(淳和天皇)をはじめとする人たちの対応のようすが次のように詳しく記されています。

庚午(25日)、勅して内舎人(うどねり)一人を遣わして法師の喪を弔し、併せて喪料を施す。後太上天皇(淳和天皇)の弔書有りて曰く、真言の洪匠、密教の宗師。。邦家、其の護持に憑り、動植、共の掃念を荷ふ。あに図らんや。御慈いまだ逼(せま)らず。無常速に侵さんとは。仁舟悼を廃し、弱喪帰を失ふ。ああ哀しいかな。A禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。これを言いて恨みとす。帳恨何ぞ巳(やみ)なん。付にして旧窟を思うこと、悲涼料べし。今は通かに単書を寄せて之を弔す。著録の弟子、入室の桑門、棲愴(せいそう)奈何、兼ねて以つて旨を達す、と。  (『国史大系』第二巻 38P)

ここで研究者が注目するのが、Aの文章です。

禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。

周辺部を意訳変換しておくと

「大師のお住まいは僻左で、ずいぶん遠い山のなかであるから、その訃報が届くのが遅かった。そのため、使者を派遣して荼毘をお助けすることができなかったことは、痛恨の極みである

荼毘を相助くる」の「茶毘」をどう理解すればいいのでしょうか?
一般的には「茶毘にふす」といった形で使われ、火葬のことをさすことばです。これを「茶毘」は、「火葬ではなく、単に葬儀をさすことばである」とする説もありますが、すなおに読めば「火葬」とするのが自然と研究者は判断します。
我が国における火葬の初見記録は、『続日本紀』巻  文武四年(700)三月己未(十日)条の道昭の卒伝で次のように記します。
道昭和尚物化(みまか)りぬ。縄床に端座して、気息有ること無し。時にし七十有二。弟子ら、遺(のこ)せる教を奉けて、栗原(あわはら)に火葬せり。天下の火葬、此より始まれり。

ここには「栗原に火葬せり」と出てきます。考古学的には、それ以前の火葬の例も報告されているので、奈良時代にはある程度普及していたとされます。したがって、空海が火葬にされたことは充分に考えられます。しかし、ここでも研究者は断定はしません。それはこの後太上天皇の弔書が、いつの時点で書かれたかがよく分からないからです。天皇が正確な報告を開かないで書いたとすれば、推測で「茶毘」と記したとも考えられるからです。

ここまでを整理・要約しておきます。
①真言教団では入定留身信仰から「空海=火葬説」はタブーとされてきた。
②空海は入唐時に師の恵果の葬儀に参列し、その追悼文に「薪の尽くるを以ってす」②「之を焼き奉る」と書いている
③ここからは、恵果和尚が火葬されたことが分かる。
④空海入滅を長安の青竜寺に報告するために、実恵は留学僧に文書を渡した。
⑤その空海入滅報告書には、空海入定については何も触れられていない。
⑥空海の葬儀について、正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月25日の条には、「荼毘を相助くる」という言葉が出てくる
⑦これは「荼毘=火葬」と考えるのが自然であると研究者は判断する。
以上から、根本史料からは「空海火葬説」が優位であるします。また、空海入滅直後の記録には、生きながらにして成仏したということを裏付ける記述は見えないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」
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大師は高野山の奥の院に生身をとどめ、つぎの仏陀である弥勒菩薩がこの世にあらわれでられるまでの間、すっとわれわれを見守り救済しつづけているという信仰があります。これを「弘法大師の入定留身」と呼ぶようです。この信仰が生まれる契機となったのは、大師への大師号下賜だったとされてきました。それは次のような話です。

  空海は、承和2年(835)年3月21日に入滅した。その86年後の延喜21年(921)年10月27日に、「弘法大師」の諡号が峨醐天皇から下賜されることになった。その報告のため、奥の院に参詣した観賢は、人定留身されている空海の姿を拝見し、その髪を剃り、醍醐天皇から賜わつた御衣を着せて差し上げた。

 26御衣替
奥の院に参詣した観賢が、人定留身の空海と出会う場面

今回はこの「入定留身」伝説を、高野空海行状図画で見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房192P」です。

今生での別れのときが近いことを悟った空海は、承和元年(834)5月、弟子たちを集めます。
そして「僧団のあるべき姿と日々の仏道修行のあり方を、また高野山を真然に付嘱すること」を遺言したとされます。その場面が「門徒雅訓」です。

第九巻‐第2場面 門徒雅訓 高野空海行状図画


門徒雅訓 江戸時代の天保5年(1834)に模写
           門徒雅訓 高野空海行状図画(トーハク模写版)

 この絵図版は、狩野〈晴川院〉養信ほかが、天保5年(1834)に模写したもで、トーハク所蔵でデジタルアーカイブからも見ることができます。原本は、鎌倉時代・14世紀に描かれたもののようです。
 中央の椅子にすわりこちらにむかってっているのが空海です。そして弟子たちがその廻りに座っています。しかし、空海の顔が見えませんし、弟子たちは七人しか描かれていません。

門徒雅訓 高野空海行状図画 親王本
    門徒雅訓 高野空海行状図画(親王版) 十大弟子に遺言する空海
一方、こちらは十大弟子とされる「真済・真雅・実恵・道雄・円明・真如・杲隣・泰範・智泉・忠延」が、空海ののまわりを取り囲んでいます。今の私にはこの絵の中に、誰がどこに描かれているのかは分かりません。悪しからず。
 空海が高野山を開いた当時は、奈良の「南都六宗」の力が巨大で、生まれたばかりの真言宗は弱小の新興勢力でしかありません。そのために空海はブレーンを集めるのに苦労したようです。そこで頼ったの「血縁と地縁」です。実恵は空海の佐伯直本家出身、真雅は空海の弟、智泉と真然は甥、とされます。空海と同じ讃岐の出身者の割合が高いのです。初期の真言集団が、讃岐出身者で固められていたことをここでは押さえておきます。
 祖師に仕える十人の弟子の絵は、何を表しているのでしょうか?
 
これを深読みすると、当時の真言宗の階層性社会が見えてくると研究者は考えています。別の視点から見ると、高野山の伽藍の堂宇は彼らによって造営されたものです。人物は高野山の伽藍を象徴しているとします。僧侶の肖像画は、教団と伽藍を示す暗喩でもあると云うのです。
 また地蔵院流道教方の歴代僧侶画像には「真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁海・成尊・義範・勝覚・定海・元海・実運・勝賢・成賢・道教」が描かれています。密教では師から弟子へと教えを引き継ぐ儀式を灌頂といい、頭の上(頂)から水を注(灌)ぐように、師の知識や経験、記憶は弟子へと受け継がれていきます。その際には、教えを受け継いできた歴代僧名を記した系譜「血脈(けちみゃく)」が与えられます。そういう意味では、この歴代僧侶画像は「血脈を絵画化」したものと研究者は考えています。
 歴代先師の肖像は、僧侶が受け継いだ教義の道程を示すものであり、僧侶自身が歴史の連続体の中にあることを実感させる道具の役割を果たします。
いわば肖像は、過去から現在へと連なる時間の流れを視覚化するものなのです。並んだ歴代肖像画を見上げる僧侶達は、自分がとどの祖から派生し、どの血脈に賊するかがすぐに分かります。十人の弟子たちが描かれていると云うことは、そんなことも意味するようです。とすれば、トーハク版の法が十人をしっかりと描いていません。原画は、それに無頓着な時代に描かれたことが考えられます。
 またこの十大弟子に、後に孫弟子で「高野山二世」となった真然(しんぜん)と、平安中・後期に高野山の再興に尽くした祈親上人(定誉)の2人が追加され、十二人になります。十二人ですが「釈迦の十大弟子」になぞらえ、人数が増えてもそのままの呼称で呼ばれているようです。

入定留身1 高野空海行状図画
             入定留身

空海は、承和2年(835)3月15日、改めて弟子たちに遺言します。
これが「遺告(ゆいごう)二十五条」とされてきて権威ある文書とされてきました。しかし、近年では空海がみずから書いたものではないとする説が有力のようです。それは別にして、このこの「遺告二十五条」には、この時に空海は次のように云ったと記されています。

私は来る三月二十一日の寅刻(午前4時)に入定し、その後は必ず兜卒天(とそつてん)の弥勒菩薩のもとに行き、お前たちの信仰を見守っていよう。一心に修行するがよい。五十六億年あまりのち、弥勒菩薩とともに、必ずこの世に下生するから、と,(『定本全集』七 356P)

ここからは空海が亡くなったのは、承和2年(835)年3月21日の寅の刻であることが分かります。空海は胎蔵・大日如来の法界定印をむすび最期を迎えます。御歳63歳、具足戒ををうけてから31年目のことになります。
 この時のことを、高野空海行状図画は三場面で描いています。
右は、諸弟子に見守らて最期を迎えられたところです。真ん中にすわる空海となみだをぬぐう十人の弟子たち、
入定留身 高野空海行状図画親王本
 入定留身(高野空海行状図画 親王院本)
中央は、大塔のよこを黒い棺に人れられて運ばれている場面です。目指すのは左の奥の院です。
一説には次のように記します。
「弟子たちは、埋葬後も生前と同じように仕え、49日目に、鬚をそり、衣服をととのえて、住まわれていた住房(現御影堂)から奥の院に移した。後に石室を造り、陀維尼と仏舎利をおさめ、五輪塔をたてた」

ここでは、空海は黒い布が架かられた御簾で運ばれています。
左の奥の院には、一番奥に宝形造りの御廟と灯籠堂が、御廟の右に丹生・高野明神社が描かれています。この奥の院の風景は、平安末から鎌倉時代にかけてのものであり、当時のものではないことを研究者は指摘します。

入定留身 高野空海行状図画 生身の空海
       入定留身(高野空海行状図画模写)
江戸時代末の模写を見てみると、空海はまさに生き身の姿で担がれています。「入定留身」をより印象づける姿です。
入定留身 奥の院 高野空海行状図画
入定留身 奥の院への道には卒塔婆が並ぶ
時衆の開祖一遍も高野山にやってきています。それが  「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれています。そこに描かれた奥の院を見ておきましょう。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院

             「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた奥の院
①参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。
②その途中に右から左に小川が流れ、そこにに橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。これが今の「中橋」になるようです。
③中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きます。
④その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。
⑤周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。
⑥廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。
この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。

空海への大師号下賜


    921年の観賢の2度目の上奏に対して、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜したことが次の史料で裏付けられます。(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

  このあたりのことを高野山のHPには次のように記します。
10月27日、勅使の平維助卿一行が高野山に登嶺し、厳かに宣命を読み上げられました。その後、東寺の住職、観賢僧正は下賜伝達のため、弟子の淳祐を伴い、高野山へ。入定後初めて御廟の扉を押し開けたところ、そこには深い霧が立ちこめ、お大師さまの御姿を拝することが叶いませんでした。僧正は自らの不徳を嘆き、一心に祈られました。すると霧が晴れ、そこには天皇から聞かされていたとおりのお大師さまの御姿がありました。しかし、淳祐にはどうしてもその姿を拝することが叶いません。そこで僧正は淳祐の手を取り、お大師さまのお膝にそっと導かれます。その膝は温かく、淳祐の手には御香の良い香りが残りました。
 二人は準備しておいた剃刀ていとうでお大師さまの髪や髭を整えると、新しい御衣にお召し替えいただき、大師号下賜の報告を申し上げました。そしていよいよ観賢僧正と淳祐が御廟を退座し、御廟橋の袂たもとで後を振り返ると、そこにはお大師さまのお姿がありました。僧正は御礼を申し上げると、お大師さまは「汝なんじ一人を送るにあらず、ここへ訪ね来たるものは、誰一人漏らさず」と仰せられました。淳祐の手の香りは生涯消えず、持つ経典に同じ香りが移ったといわれております。

贈大師号 高野空海行状図画
          贈大師号 右が空海との対面場面 左が剃髪場面
右の場面は、大師号が下賜されたことを伝えるために、高野山に登った東寺長官の観賢と弟子淳佑(しゅんにゅう)が、奥の院の廟竃を開き、禅定の姿をした空海と対面した所です。
26御衣替
 高野山HPの空海との対面場面 

大師号下賜 親王院本九- 院納院本
贈大師号 高野空海行状図画(親王院本)
親王院本を見ると空海の頭には、長く伸びた髪が描かれています。この時に、姿を見たのは観賢だけで弟子淳佑は見ることはできなかったと記します。そこで観賢は、その姿を分からせるために空海の膝に触れさせようと、手を取って導いています。

大師号下賜 高野空海行状図画親王院本 剃髪

左の場面は、のびるにまかせていた空海の髪を観賢が剃っているシーンです。御髪を剃った観賢は、次のように詠います
たかの山 むすぶ庵に袖くらて 苔の下にぞ有明の月

空海が登場する霊夢を見た醍醐天皇自らが贈られた檜皮色の御衣を着せて、もとのように石室を閉じた、とします。この故事にもとづき、今も高野山では衣服を取り替える儀式が行われているようです。この「お衣替」の儀式は、 甦り、再生の儀式でもあると研究者は指摘します。こうして「空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめておられる」という「人定留身信仰」が生まれます。そして11世紀はじめになると、高野山の性格は「修行の山から信仰の山へ」と大きく変わっていくのです。空海はいまも、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」との大誓願のもと、われわれを見守りつづけてくださっているというのが高野山の立場のようです。
 研究者が注目するのは、画面に五輪塔が描かれていることです。しかし五輪搭があらわれるのは平安中期以後で、このような大型のものは、奈良西大寺の律宗の布教戦略に絡んで出現します。10世紀前半には五輪塔は早すぎるというのです。
以上を整理・要約すると
①空海は入滅後は、高野山奥の院の霊廟に入定した。
②それから86年後に空海に大師号が下賜された。
③それを知らせに高野山に赴いた東寺の観賢は、霊廟をあけると空海が髪を伸ばして座っている姿に出会った
④そこで髪を剃り、天皇より下賜された服を着せ、霊廟を閉めた。
⑤こうして空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめているという「人定留身信仰」が生まれた。
⑥この信仰は高野聖などによって各地に伝えられ、弘法大師伝説と高野山を使者供養の信仰の山として
全国に流布することになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」
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 921年に大師号が下賜されてから、約1100年あまりの年月が過ぎました。空海の大師号が「弘法大師」ですから、「空海=弘法大師」で同一人物なはずです。しかし、人格的には、両者を別人としてあつかった方がいいと研究者は考えているようです。どうしてなのでしょうか?
空海は、宝亀5年(774)に誕生して、承和2年(835)に入寂します。その間、62年間、真言宗の開祖となった仏教界はもとより、詩文、書、芸術、教育、社会事業、土木技術などの諸分野で大活躍した実在の人物です。一方、弘法大師とは、人寂のあと86年目に、生前の功績を讃えて醍醐天阜から贈られた最高の称号です。信仰や説話・伝承の世界で、いかなる願いも叶え、生死の苦しみや困難に出迎ったとき、必ず手を差しのべて救ってくれるスーパーマンのような存在として語られる人物です。つまり、弘法大師の名で語られる人物は、必ずしも実在した空海その人ではないということになります。
 それでは、弘法大師を主人公として語られる物語には、空海は存在しないのでしょか?
空海ほど伝記の多い人物はいないとされます。特に、空海が開眼してから時代が降るにしたがって、伝記には荒府無稽とも思われる物語が加えられ、超人・弘法大師として語られるようになります。それは弘法大師伝説として、ひとつの研究分野にもなるほどです。

弘法大師伝説集 1~3巻(斎藤昭俊 編著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 たとえば、弘法大師は唐から帰国するに先立って、明州の浜で「密教を広めるにふさわしいところがあれば教えたまえ」と祈念して、持っていた三鈷杵をわが国に向けて投げ上げます。それを帰国後に、高野山の松の樹上に発見し、この地に伽藍を建立することになった話などが、その典型的なものです。
 それらの奇蹟諄を想像力たくましく絵画で表わしたのが、『弘法大師行状絵詞』『高野大師行状図画』といった絵巻物であることは以前にお話ししました。そこには、われわれ常人を超えた能力を持った人物として描かれています。しかし、その裏には宗教的な真理、歴史的な真実が隠されていると研究者は次のように述べます。

 絵巻物をひもとく楽しみのひとつは、それら背後に隠された歴史的な真実、宗教的な真理を探索することにある。一見して、実在した空海とは無関係と想われる物語も、冷静に読みすすめると、空海の事績が核となり肉付けされていることが多い。すなわち、弘法大師として語られる荒唐無稽とも思われる不思議な「弘法大師」物語からも、真実の空海を読みとり、日々の生活に役立つ教訓を読みとることができる。

弘法大師伝説の中に実在した空海が隠されている。注意深く読み取れば、それが見えてくるということでしょうか。この時に注意すべきことを、次のように記します。

空海と弘法大師とを混同すべきではない。このふたつの名前は厳然と峻別しておくことをお勧めしたい。歴史的事実が信仰を否定するものでも、フィクションが事実をゆがめるものでもないからだ。ただひとついえることは、歴史的に実在した空海だけを追っかけても真実の空海像にはたどり着けないということだ。いい換えると、真実の空海を知るには超人的な能力、奇蹟諄をもって語られる弘法大師伝説が不可欠である」

空海と弘法大師を「別人」と捉えながらも、弘法大師伝説を読み解いていく地道な作業が必要なようです。そこで、今回は空海が弘法大師になっていく過程を史料で辿っておきたいと思います。テキストは「武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。
「弘法大師」の誕生: 大師号下賜と入定留身信仰 [書籍]

まず空海が弘法大師と呼ばれるようになった経緯を見ていくことにします。
『日本紀略』延喜21年10月27日条に次のように記されています。
【史料1】(『国史大系』第。1巻、24P)
己卯。勅す。故贈大僧正空海に諡して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。
〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈人僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とされました。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現いたしました。 そこで、諡号下賜する勅出を少納言惟扶に持たせ、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣いたしました。

ここからは、醍醐天皇が空海死後86年目の延喜21年(921)10月27日に、「弘法大師」の諡号を下賜したことが分かります。
それでは大師号とは何なのでしょうか? 『国史大辞典』(第8巻、751P)には、次のように記されています。   
①梵語シャーストリの漢訳。偉大なる師、大導師の意で、はじめは釈迦大師というように仏の尊称として用いられた。
②後世、中国では高徳の僧に対する敬称となり、智顎の智者大師(または天台大師)、菩提達磨の達磨大師、慧思の南岳大師、曇鸞の曇鸞大師、善導の善導大師、吉蔵の嘉祥大師、窺基の慈恩大師、法蔵の賢首大師、澄観の清涼大師などがある。これらは私的な敬称である。
③唐の宣宗が大中2年(848)に廬山慧遠(ろざんえおん)に辮覚(べんかく)大師の号を贈ったのが諡号のはじめといえよう。
④わが国では原則的に諡号として用いられ、最初は貞観8年(866)に最澄に贈った伝教大師と円仁に贈った慈覚大師とであり、その他、代表的なものに空海の弘法大師、親鸞の見真大師、道元の承陽人師、日蓮の立正大師などがある。
ここには大師号はもともとは大師号は私的なモノだったとあります。そして皇帝から下賜される形の大師号は9世紀半ばからです。これは、最初に最澄や円仁に諡号が送られた時期とほぼ同時になります。諡号は案外新しいものであることを、ここでは押さえておきます。

次に大師号を下賜された24人のメンバーを見ておきましょう。 
大師一覧表
大師一覧表2


この一覧表を見て気がつくことを挙げておきます。
①最初に下賜されたのは天台宗の天台宗の最澄・円仁であったこと、
②空海への大師号の下賜は、それに遅れること55年目であったこと
③大師号を贈られた僧は24名いるけれども、その大部分は江戸時代以降に下賜されている

大師号下賜 時代別
④平安時代に大師号を下賜されたのは最澄・円仁・空海・円珍の4名だけ、
⑤鎌倉時代は益信1人だけ
⑥江戸時代が7名、
⑦残り12名は明治時代以降の下賜であること。
⑧真言宗に属する先師は、空海を筆頭に道興大師(実恵)・法光大師(真雅・空海弟)、本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師((覚錢)・月輪大師(俊高)の7名
⑨法然のように一人で8回も下賜された例もあること。
ここで押さえておきたいのは最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」であることです。空海にこの大師号が贈られたのは、最澄らより55年遅い921年のことになります。空海は、最澄に比べると半世紀以上遅れています。

私にとって予想外であったのは、明治になって諡号されている人達が半分以上になることです。これはどうしてなのでしょうか?明治になると各宗派から諡号下賜申請が次々と出され、申請運動が高まります。
そこで、明治12(1879)年4月、道元へ諡号考証にあたって次のような「大師号国師号賜与内規」が定められます。

 一 大師号を賜与するは宗名公称の各宗宗祖に限るべし
 一 国師号は各宗の祖若くは其第二世以下其宗の中祖とも称すべくして特別徳望あるもの又は旧来各分派の名実ありし其派祖及び二世以下と雖も前後に諡号の勘例ある者に限るべし
 一 大師国師を論ぜず古来加号の例規ありし者は猶期年に至り上請の上 特旨を以て加号の御詮議あるべし
 一 生前死後に論なく特旨を以て大師国師号等を賜与せらるるは固より定例規格の外とす

朱書きの注意書きには、次のように記されています
第1項の大師号については当時、大師号がなかった道元、隠元、日蓮、一遍を想定。
第2項の国師号の派祖については、栄西、蘭渓道隆のみであり、二世以下の場合も授翁宗弼は例外的に漏れていたのであって、滅多にない例と記している。また真宗、日蓮宗の諸派は「近世の分派」であるから派祖であっても「諡号に及ばず」とあります。
第1項は、法然、無学祖元、宗峰妙超、夢窓疎石、関山慧玄、隠元を挙げていますが、必ず加号するものとの契約があるわけではないとします。

それから4年後の明治16年10月6日に、次のように改定され内規となります。

大師号国師号賜与内規 表紙

大師号圀師号賜与内規制定ノ件1
             大師号国師号賜与内規(朱が運用基準)

第一条 大師号を賜与するは左の六項に限るべし(大師号下賜の6条件)
一 一宗の開祖
二 一宗の中教旨に差異ありて別に一派を開き布教隆盛なるものの派祖
三 天皇の御崇敬を得て一大寺を開基し特別の由緒及び功徳ある者

大師号圀師号賜与内規制定ノ件2

四 一宗の第二世以下と雖も宗風を拡張し中興とも称すべき功徳ありて開祖に比肩すべき者
五 皇子にして学徳顕著なる者
六 天皇の戒師にして特別の功徳ある者
第二条 国師号を賜与するは左の七項に限るべし
 一 一宗一派の開祖
 二 一宗一派第二世以下と雖も特別功徳ある者
 三 勅願に依て一寺を創立し由緒功徳ある者
 四 一派を中興せし者
 五 皇子をして学徳ある者
 六 天皇の戒師たりし者
 七 学徳優長にして各宗同く景仰する者

大師号圀師号賜与内規制定ノ件3

第三条 大師号国師号は死後之を賜はるものとす
第四条 大師国師を論ぜず年期加号の例は自今之を廃止す
こうして見ると、明治になるまで親鸞や道元には大師号はなかったことが分かります。それが浄土真宗の明治政府への協力ぶりと働きかけで親鸞と蓮如が大師号を得ると、各宗派も自らの開祖に諡号を求めて政府への働きかけを強めます。それが近代以後に、大師号を送られた僧侶が数多く現れる背景のようです。
大師号下賜 近代以後

当初の「着陸予定地」が大きく狂ってしましましたが、今回はこの当たりで終わりにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

前回は、9世紀末までに成立していた大師伝の次の2つを比較対照しました。
A「続日本後紀」(空海卒伝)承和2年3月25日条(貞観11年(869)年成立)
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝)      寛平7年(895)成立
その結果、空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことを見ました。今回は、C『遺告二十五ヶ条(御遺告)」(10世紀中頃成立)では、どうなっているのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」です。

御遺告2
遺告二十五ヶ条 巻首(奈良国立博物館)

遺告二十五ヶ条は、従来は次のように考えられてきました。

「空海が、死期を悟って門弟のために遺したとされる遺言。
本品は真言宗全体に関わるさまざまな事柄を二十五箇条にまとめたものである。」

そのためその記述が聖典化され、疑われることなく事実とされ根本史料とされてきました。しかし、他の空海の文章と比べると稚拙で、内容も世俗的なことが付加されていて格調や緊張感に欠けるとされます。そのため十世紀中頃までに、弟子らによってまとめられたものと考えられるようになっています。二十五箇条遺告の最古写本は、金剛寺所蔵の安和二年(969)書写本です。研究者は、これを全文を28段落に分け、その部分が後の「高野空海行状図画」などの絵巻伝記にどのように取り込まれ、神秘化・伝説化されていく経緯を見ていきます。なお末尾数字は同じ趣旨の話がみられる『高野大師行状図面』の巻と場面・標題です。

i遺告二十五ヶ条冒頭部 年少期エピソード
                遺告二十五ヶ条の冒頭部
書き下し文
①夫れ以れば、吾れ昔、生を得て父母の家に在りし時、生年五、六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語ると見き。然りと雖も専ら父母に語らず。況んや他人に語らんや。此の間、父母偏に悲んで、字して貴物(とふともの)と号す。

高野大師行状 (2)
 八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語る(高野空海行状図画(1-2  幼稚遊戯)
②年始めて十二なりき。後に父母の曰く、我が子は是れ、昔仏弟子なる可し。何を以ってか之を知る。夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。然れば則ち、此の子をもたらして、将に仏弟子と作さんとすべし。吾れ若少の耳に聞き歓んで、泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて、彼の内に安置して礼し奉るを事と為しき。 一の1 誕生奇譚

DSC04476真魚誕生
夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。
(弘法大師行状絵詞 一の1 誕生奇譚

高野大師行状 (1)
泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて(高野空海行状図画一の1 誕生奇譚

遺告二十五ヶ条の①の五、六歳のころの逸話と②の十二歳のとき聞いた出生の秘話です。
10世紀末までに成立した大師伝は、次の5つです。
①『続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条  貞観11年(869)年成立
②『増大僧正窄海和上伝記』(覚平御伝)  寛平7年(895)成立
③『遺告二十五ヶ条』(御遺告)  10世紀中頃成立)
④「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝)  10世紀中頃成立)
⑤「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起)  康保5年(968)成立
このうちで御遺告以外は、どれも空海の誕生から亡くなるまでを年代順に記述します。例えば①の「空海卒伝」や②の「寛平御伝」では、15歳でおじの阿刀大足について本格的に学問をはじめ、18歳で大学に入り、程なくして虚空蔵求聞持法と出会い神秘体験をへて、俗世間での出世を断念し仏門に入るという運びです。これは『三教指帰』序文を参考にしながら書かれたことがうかがえます。
  ところが御遺告で冒頭に来るのは、次のようなエピソードです。
A 5,6歳のころに、いつも蓮華に坐して諸仏と語らう夢をみていた
B 11歳のとき、インドの僧が懐に人るのを夢みて懐妊したので、将来、仏弟子としようと考えていたと父母から聞かされ、喜んだ。
C 泥土で作った仏像を草茸きの小屋に安置し礼拝するのが常であった、
これは三教指帰などにはない事績です。遺告二十五ヶ条ではじめて登場します。
ここには空海が生まれながらに僧になることが約束されていたかのような導線として描かれます。
多くの障害を越えて空海(真魚)を平城京の大学に進学させたのは、中央の高級官僚をめざすという一族の期待を背負っていたことだ私は考えています。それを否定するエピソードが冒頭に置かれます。ここに御遺告の空海伝の性格が如実に出ているように思います。ここでは『御遺告』では、空海の生涯全般において神秘化・伝説化が著しく進んでいることを押さえておきます。そして、今までに書かれていなかった新しい空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以下、高野空海行状図画などの絵図を挿入しながら見ていきます。

⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑤然して後、生年十五に及んで人京し、初めて石淵の贈僧正大師(勤操?)に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵(虚空蔵求聞持法)の法呂を受け、心に入れて念持す。‥…一の6 聞持受法
虚空蔵求聞持法 勤操
 初めて石淵の贈僧正大師に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵の法呂を受け(一の6 聞持受法)

⑥後に大学に経遊して、直講味洒浄成(あらさけのきよなり)に従って毛詩・左伝・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問う。博く経史を覧しかども、専ら仏経を好む。一の5  明敏篤学

明敏篤学の事
大学に経遊して博く経史を覧し(一の5  明敏篤学)

⑩或いは土佐室生門(室戸)の崎において、寂暫として心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵の光明照し来たって普薩の成を顕し、仏法の無二を現わす。      一の11  明星入口

明星入口3 室戸 高野空海行状図画
土佐室戸にて明星口に入り、虚空蔵の光明を照(一の11  明星入口)
⑫爰に大師石淵の贈僧正(勤操?)召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除して、沙弥の十戒、七十二の成儀を授け、名を教海と称し、後に改めて如空と称しき 
一の10  出家受戒

空海出家1
和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除(一の10  出家受戒)

⑬此の時仏前に誓願を発して曰く「我れ仏法に従って、常に要を求め尋ぬるに、三乗五乗十二部の経、心神に疑い有って、米だ以って決を為さず。唯だ願くは三世十方の諸仏、我に不二を示したまえ」と心に折感するに、夢に人有りて告げて曰く。「此に経有り、名字は「大毘庸遮那経」と云う。是れ乃が要むる所なり」と。 二の2 久米東塔

⑭即ち随喜して件の経王を尋ね得たり。大日本の国高市の部久米の道場の東塔の下に在り。此に於いて一部緘を解いて普く覧るに、衆情滞り有りて、憚(ただ)し問う所無し。二‐2 久米東塔

久米寺東塔2 高野空海行状図画
国高市の部 久米の道場の東塔
入唐求法については
⑯彼の海路の間、三千里なり。先例は揚蘇洲に至るて傾無し、とム々、面に此の度般(たび)七百里を増して衡洲(福州)に到る、障多し。

大師入唐渡海2 遣唐使船

此の間、大使越前国の太守正三位藤原朝臣賀能、自手書を作して衡洲の司に呈す。洲司披き看て、即ら此の文を以って已て了んぬ。此の如くすること両三度なり。然りと雌も胎を封じ、人を追って湿沙の上に居ら令む、此の時に、大使述べて云く。切なる愁、之れ今、抑大徳は筆主になり。書を呈せよ、と云々。爰に吾れ書様を作り、大使に替わって彼の洲の長に呈す。開き覧て、咲(えみ)を含んで船を開き、問いを加えて即に長安に奏す。三十九箇目を経て、洲府の力使四人を給へり。且つ資糧を給うて、洲の長好し問うて、借屋十三烟を作りて住せ令む。五十八筒日を経て、存問の勅使等を給う。彼の儀式極り岡し。之を覧る主客、各々涙を流す。

入唐着福州 高野空海行状図画
福州での大師に代わっての代書

次で後、迎客の使を給う。大使に給うには七珍の鞍を以ってす。次々の使等には皆粧る鞍を給う。
入唐入洛3 高野空海行状図画


長安入京の儀式、説き尽す可きこと無し。之を見る者、選池に満てり。此の間、大使賀能大夫達、向に国に帰る。其れ延暦二十四年電時なり。即ち大唐の貞観二十一年に配り。
                               二の5 入唐著岸
⑱少僧、大同二年を以って、我が本国に帰る。此の間、海中にして人々の云はく。日本国の天皇崩じたまへり、と云々。是の言を聞き諌(ただ)して本口の言を尋ぬるに、船の内の人、首尾を論争して都て一定せず。注り繋ひで岸に着く。或る人云いい告げらく。「天皇、某の同時に崩じたまう」者(てへり)。少僧、悲を懐いて素服を給わる。爾従り以降、帝四朝を経て、国家の奉為(おんため)に壇を建て法を修すること五十一度なり。 三の9  著岸上表


⑲神仙苑における雨乞祈祷と善女龍王について
⑲亦神泉苑(しんせんえん)の池の邊にして、御願に法を修して雨を祈るに、霊験其れ明かなること、上殿上従り下四元に至る。此の池に龍王有り、善如龍王と名く。元是れ無熱池の龍上の類なり。慈しみ有つて人の為に害心を至さず。何を以ってか之を知るとならば、御修法の比(ころおい)、人に託して之を示す。即ち真言の奥旨を敬って、池の中従(よ)り形を現す時に悉地成就す。彼の形業を現すこと、宛かも金色の如し。長さ八寸許の蛇なり。此の金色の蛇、長さ九尺許の蛇の頂きに居在するなり。此の現形を見る弟子等は、実恵大徳井びに真済・真雅・真照・堅恵・真暁・真然等なり。諸の弟子は敢えて覧看ること難し、具に事の心を注して内裏に奏聞す。少時の間に、勅使和気真縄、御弊種々の色の物をもって龍王に供奉す。真言道の崇めらるること、爾れ従り弥起れり。若し此の池の龍王他界に移らば、池浅く水減して世薄く人乏しからん。方に此の時に至って、須らく公家に知ら令めずして、私に析願を加うべし。而己。八の1  神泉祈雨

神仙苑4
  神泉祈雨と善女龍王の出現(高野空海行状図画八の1)

㉑大阿閑梨の御相弟子・内供奉十禅師順暁阿閣梨の弟子、玉堂寺の僧珍賀申して云わく「日本の座主、設ひ聖人なりと雖も是れ門徒に非ず、須らく諸教を学ば令むべし。而るを何ぞ密教を授けられんと擬す、と云々。両三般妨げ申す。是に珍賀、夜の夢に降伏せ為れて、暁旦来り至って、少僧を三たび拝して過失を謝して曰く、と云々。‥…3の3  珍賀怨念

守敏降伏2 高野空海行状図画 
高野空海行状図画(三の3  珍賀怨念)
㉒又去じ弘仁七年に、表をもつて紀伊国の南山を請うて、殊に入定の処とんす。一両の草庵を作り、高雄の旧居を去つて、南山に移り入る。厥の峯絶遥にして遠く人気を隔てり。吾れ居住する時に、頻りに明神の衛護在り。常に門人に語らく。我が性、山水に慣れて人事に疎し。亦、是れ浮雲の類なり。年を送って終りを待っこと、此の窟の東たり。……七の2  巡見上表
㉕万事遑無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(高野山)を看る。山の裏の路の辺りに女神有り。名づけて丹生津姫命と言う。是の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝(ふしゅく)に託して曰く、「妾は神道に在って、成福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり 。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国岬命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。冀(こいねが)わくば、永世に献して仰信の情を表す、と云々。如今(いま)、件の地の中に所有開川を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、是れなり。 七の3  丹生託宣

丹生明神
丹生託宣
㉖吾れ、去じ天長九年十一月十二日由り、深く穀味を厭いて、専ら座禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。井びに丼びに末世後生の弟子・門徒等が為に、方に今、諸の弟子等、諦に聴け、諦に聴け。吾が生期、今幾ばくならず、仁等好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾人減せんと擬することは、今年三月二十一の寅の旭なり〕諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ、吾れ即減せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾れ生年六十二、腸四―なり。……九の3  入定留身

入滅2
㉗吾れ初めは思いき 。百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。然れども諸の弟子等を恃んで、急いで永く即世せんと擬するなり。九の3 入定留身

入滅3
㉘但し弘仁の帝卑、給うに東寺を以ってす。歓喜に勝えず。秘密の道場と成せり。努力努力(ゆめゆめ)他人をして雑住令むること勿かれ。此れ狭き心に非ず。真を護るの謀なり。圓なりと雖も、妙法、五千の分に非ず。広しと雖も、東寺、異類の地に非ず。何を以ってか之を言うとならば、去じ弘仁十四年正月月十九日に東寺を以って永く少僧に給い預けらる。勅使藤原良房の公卿なり。勅書別に在り。即ち真言密教の庭と為ること、既に謂んぬ。師師相伝して道場と為すべき者なり。門徒に非ぎる者、猥雑す可けんや……七の11 東寺勅給  『伝全集』第一 10~23P

以上の中で⑩と⑱以外の十五項目は、遺告二十五ヶ条にはじめて出てくる話です。しかも、伝説的要素が非常に強いものです。その中でも、
②と①の出生の秘話と神童の逸話迎話、
⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑬と⑭の『大日経』の感得、
㉒と㉕の丹生津比売命からの高野山譲渡説
㉖と㉗の高野山への隠棲
㉘の嵯峨天皇からの東寺給預説
などは、絵伝類の中に取り入れられ後世に大きな影響を与えます。その絵伝類の「根本史料」となったのが遺告二十五ヶ条の空海の事績のようです。遺告二十五ヶ条の事績を元に、絵伝は描かれた。そして、時代が下るにつれて、神格化・伝説化のエピソードは付け加えられ、増えていったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」

空海については、実像像と神格化・伝説化された弘法大師像のふたつの像があるようです。研究者は「弘法大師の神格化・伝説化は、大師の末徒によって「大師伝」が書かれた頃、つまり9世紀末からはじまっていた」と指摘します。それを具体的に見ていくことにします。
平安中期(10世紀末)までに成立していた「大師伝」は、次の5つです。
A「続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条 貞観11年(869)年成立
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝) 寛平7年(895)成立
C『遺告二十五ヶ条』(御遺告) 10世紀中頃成立
D「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝) 10世紀中頃成立
E「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保5年(968)成立
今回はAとBを比較して、大師伝に奇跡譚や伝説化された事績が、どのように追加されていったのかを見ていくことにします。テキストは、武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収です。
まず、Aの『続日本後紀』から見ていきます。
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続日本後記
これは朝廷が作った正史で、根本史料です。この巻第四、承和2年(835)3月庚午(二十五)の条に、大師の略歴が記されています。正史にの略伝を「卒伝」と呼びますが、この「空海卒伝」を、研究者は13項目に分けて次のように要約します。
①法師は、讃岐国多度那の人。俗姓は佐伯直
②15歳にして、おじの阿刀大足について文書を読み習い、
③18歳にして、大学に入った。
④時に一人の沙門から求聞持法を習い、
阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎において、求聞持法を修し、霊験を得た(山谷瞥に応じ、明星
末影す)
⑥これより、彗星、日々新たにおこり、信宿のあいだに「三教指帰」を書いた、
⑦書法においては最もその妙を体得なされ、草聖と称せられた。
⑧31歳で得度し、
⑨延磨23年(804)に入唐留学し、青龍寺恵果和尚から真言を学んだ。帰国後、はじめてわが国に秘密の門を啓き、大日の化を弘めた。
⑩天長元年(824)、少憎都に補せられ、
⑪天長7年(830)、大僧都となった。
⑫みずからの志により、紀伊国金剛峯寺に隠居した。
⑬化去の時、63歳であった。
ここには空海の生涯が事実だけが簡潔に記されています。神秘化・伝説化された事績は、ほとんど見られません。強いて云うなら⑤の「求聞持法によって霊験をえた結果、日々慧解(理解力)がすすみ、2日ほどで『三教指帰』を書き上げた。」という点くらいでしょうか。これも、編者のひとりである春澄普縄の空海に対する思い入れが強かったことによるとしておきます。ちなみに⑪の天長七年に大僧都に昇補したことと、⑬の亡くなったのが63歳であったとするのは、最近の定説とは異なるようです。
 ここで押さえておきたいのは、死後直後に書かれた正史には、空海についての事績は、非常にコンパクトで、神秘化・伝説化されたモノは少ないということです。

次に『贈大僧正空海和上伝記』(寛平御伝)を見ていくことにします。
これは、真言宗内で書かれた一番古い大師伝です。奥書から寛平七年(八九五)三月十日、貞観寺座主の聖宝が撰述したとされてきました。研究者は、これも全文を29に分けて次のように要約します。

①讃岐=多度郡の人で、姓は佐伯氏、後に京の地に移貫した。
②宝亀5年(774)に誕生した。殊に異相があった。
③延暦7年(788)15歳。伊予親王の文学であったおじの阿刀氏について学問をはじめた。
④延暦10年(791)18歳、大学に入り経籍を歴学した。
⑤心中に避世の志あり、沙門について求聞持法を学んだ。ついに学問を出でて山林を経行した。
⑥阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎にて修行に励み、法験の成就をえることができた
⑦播磨国において、旅中、路辺の家に寄宿した。老翁が出できて、飯を鉄鉢に盛って空海に供養し、つぎのように語った。「私は、もと行基書薩の弟手の僧のいまだ出家せざりし時の妻なり。彼の僧、存りし日にこの鉄鉢をもつて、私に授けて曰く、「後代に聖あり。汝が宅に来宿せん。須らくこの鉢を捧げて汝が芳志を陳ぶべし」と。今、来客に謁して、殊に感ずるところがあったので、是をもって供養した」と。

⑧伊豆国桂谷山寺に往き、「大般若経』の「魔事品」を虚空に書写した。六書八体、点画を見た。始めて筆を揮うに、憶様成懸瞼監視(古来、理解不能とされてきた)。そのほか、奇異の事は多くあり、そのすべてをあげ、述べることはできない。
⑨その明年、剃髪出家して沙弥形となった。25歳。
⑩延磨23年(804)4月8日、東大寺戒壇院において具足戒を受けた。31歳
⑪延暦23年6月、命を留学にふくんで、大使藤原葛野麻呂と第一船にのり、咸陽に発赴した。
⑫8月、福州に着岸。10月13日、書を福州の観察使に呈した。
⑬12月下旬、長安城にいたり、宣陽坊の官宅におちついた。
⑭延暦24年2月11日、大師等、帰国の途につく。空海、勅により西明寺永忠僧都の故院に移り住む。
⑮城中を歴て名徳を訪ね、たまたま青龍寺東塔院の恵果和尚に遭いたてまつる。空海、西明寺の志明・談勝法師等五六人と同じく往きて和上にまみえる。
⑯6月上旬、学法潅頂壇に人り胎蔵法を受法する‐
⑰7月上旬、更に金剛界の法を受法する。
⑱8月上旬、伝法阿閣梨位の滞頂を受法する。兼ねて真言の教文・両部曼荼羅・道具・種々の法物等を請う。
⑲12月15日、恵呆和尚入滅する。
⑳大同元年(806)10月22日、招来法文の状を判官高階達成に付して上表する。
㉑弘仁11年(820)11月20日、天皇より、大法師位を授けられる。47歳。
㉒天長年中、旱魃あり。天皇、勅して神泉苑にて雨乞を祈らせるに雨降りたり。その功を賀して少僧都に任ぜられる。
㉓いくばくならずして大僧都に転任する。
㉔和上、奏聞して東寺に真言宗を建て秘密蔵を興す。
㉕承和2年(835)病にかかり、金剛峯寺に隠居する。
㉖承和3年(836)3月21日、卒去する。63歳
㉗仁寿年中(851~54年)、僧正貞済の上奏により、大僧正を贈られる。
㉘和上、智行挺出にして、しばしば異標あり。後葉の末資、委しく開くことあたわず。仍って、しばらく、一端を録して、謹んでもって上聞する。謹言
㉙寛平7(895)年3月10日 貞観寺座主
  (『伝令集』第1  37P~38P
この『寛平御伝』は、空海が卒去してからちょうど60年目に書かれた大師伝です。真言教団で書かれたものとしては最古のものになります。空海卒伝と比べて見て、一目で感じるのは、項目が倍増し、ボリュームも大幅に増えていることです。それだけ新しい事項が付け加えられたことになります。
ここで研究者が注目するのは、以下の3点です。
①に誕生年次を「宝亀五(774)年」と明記すること
㉖に卒去を「承和三年三月二十一日」とすること
㉘に「謹んでもって上聞す」とあって、宇多天皇に提出されたものであることが分かること。    

この大師伝には、伝説的な記述が次のように三ヶ所でてきます。
⑦の播磨の国で、行基菩薩の弟子の出家する前の妻から鉄鉢にご飯をもって差し出される話
⑧の伊豆の桂谷山寺において、虚空に『大般若経』の「魔事品」を書写する話
㉒の天長年中に、京都の神泉苑において、雨乞いの法を修された話
⑧と㉒の話は、簡略な記述で、これが原初的な形です。これが後世になると拡大され、絵伝にも収められるようになります。どちらにしても、この3つのテーマは、「弘法大師行状絵巻」には必ず図絵されてて、伝説化されていきます。

もうひとつ研究者が注目するのは、空海の神秘化・伝説化要素が、最初と最後に配置されることです。
最初は②の「宝亀五年(774)、誕生す。殊に異相あり」です。最後は㉘の「和上、智行挺出にして、しばしば異標あり」です。この「殊に異相あり」「智恵・言動が傑出していて、しばしば異標あり」の「異相・異標」は、すでにこの当時から、誕生とその後の事積に関して、いくつかの神秘的・伝説的なことが語られていたことがうかがえます。
 ここからは空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことが分かります。次回は、遺告二十五ヶ条では、その動きがどのように加速化されるようになったかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収

同行二人 蓑笠

  私が持っている笠にも同行二人(どうぎょうににん)と書かれています。「同行二人」とは、お遍路さんがお大師さんと二人づれという意味と教えられました。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。そして、遍路で使われる杖には弘法大師が宿ると言われています。そのため杖は大切に扱うように教えられます。
 それでは「同行二人」という考え方は、いつ頃どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  「同行二人」のことを説明するときに語られるのが、右衛門三郎のお話です。この話を最初に見ておきましょう。
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

   翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれました。その子は左手を固く握って開こうとしません。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたといいます。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっています。


同行二人 右衛門三郎伝説

右衛門三郎伝説の「石」は現在も石手寺(松山市)に奉られているようです。また、松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか)」が今も点在しています。右衛門三郎伝説は、近世になって石手寺の高野の念仏聖たちによって作られたと研究者は考えているようです。
この話が四国遍路の始まりと先達は語ります。
ここには、亡き子の菩提を弔い、悪業を悔い、大師にわびるための巡礼という回向を重ねることにより、やがて大師にめぐり合えるという話です。これが大師が今も四国を回っておられ、一心にお四国めぐりをするうち、いずれかどこかで大師に巡りあえるという信仰になります。つまり弘法大師は、今も四国霊場を巡礼すると同時に、巡礼者達を見守っているという「同行二人」信仰につながっていくのでしょう。
 そのためには、弘法大師は今もなお生き続けているという信仰が前提となります。
それは「弥勒入定信仰」から生み出されたもののようです。同行二人の基になる弥勒入定信仰を探ってみようと思います。テキストは武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程  です。

 右衛門三郎伝説以前の「同行二人」信仰について見てみましょう。
元禄三年(1690)の真念「四国遍礼功徳記」賛録は、次のように記されています
 遍礼(遍路)の事、或人のいへるに、大師の御記文(御遺告)
とて伝ふるに、身を高野の樹下にとどめ、魂を都率の雲上にあそばしめ、所々の遺跡を検知して、日々の影向をかずかずとあり。
 此文世の人信じあへる事にて、人々の口耳にとどまる事となんぬ。御遺跡へは大師、日々御影向あるにより、八十八ケ所の内いづれにてぞは大師にあひ奉といひなせるは、此よりなりと予江戸にありし時、ある人のいふをきけば、四国遍礼すれば大師にかならずあひ奉ると聞しにより、
 われ遍礼せし時、日々心をかけて、けふはけふは待しに、二十一日にてありしに、あんのごとく大師にあひ奉りこそ有がたけれと、手をあわせてかたりける。予いか様のすがたにてましましけるやといひければ、くろきぬの衣をめしけると覚え、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へ征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、ただ目を閉じ拝み奉る計にてすぎぬとなり、此たぐひ又おほし。
意訳変換しておきましょう
遍礼(遍路)のことについて、ある人から聞いた話によると、大師の残した文書には、身は高野の地に留めるが、魂は都率の雲上に遊び、四国の遺跡(霊場)を、日々巡り訪ねると書かれている。
この文章を信じる人たちによって、世に広められめられたようだ。大師が今も四国辺路を廻っているのなら、四国辺路すれば必ず弘法大師にあえるというのはここから来ているのだと思うようになった。真念が江戸にいた時に、弘法大師に会うために四国辺路した人から次のような話を聞いた。
 今日こそ、今日こそ出会えるかと心待ちに願っていたが、ついに21日目に弘法大師に出合うことができたという。まことに有難いことで、手を合わせて語りかけたという。真念が「どんな姿をなさっていましたか」と聞くと、「黒い衣を着て、征鼓を首にかけ、念仏を唱えられていました。征鼓は見えましたが、御顔は見えませんでした。ただ目を閉じ、拝んでいただき過ぎていかれました。」と言う。これはたぐいなく貴いことである。

 ここからは『御遺告』にあるように
「身は高野山の樹下に留めているが、魂は都率の雲上におられ、御遺跡(四国霊場)には日々御影向(巡礼)する」

ので「四国辺路すれば八十八ケ所の内のいずれかで弘法大師に出合える」と主張しています。これが弥勒下生信仰・人定信仰のようです。四国辺路には、古代・中世の弥勒信仰や弘法大師人定信仰が大きく影響していると、研究者は考えているようです。
次に進む前に、弥勒信仰の予習メモを見ておきます。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

兜率天(とそつてん)は、仏教の宇宙観にある天上界の一つで、欲界の第四番目の世界です。ここに住むのが弥勒菩薩です。上の図では一番上のゾーンになるようです。弥勒菩薩の登場は、お釈迦様の滅後56億7000万年後とされています。長くて待てない、との思いから弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)が生まれます。輪廻転生を繰り返して成仏を待つより、兜率天へ往生し弥勒菩薩から直接教えを聞く方が早道である、との考え方から兜率天往生の信仰がさかんになったようです。兜率天は弥勒菩薩の浄土として描かれることもありますが、天界は輪廻する世界のひとつですから、阿弥陀様の極楽浄土とはちがいます。浄土は、そこで成仏することができる究極の世界で、寿命は永遠です。兜率天は成仏できる世界ではなく、寿命に限りがあります。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

 古代新羅では、弥勒信仰が盛んだったようです。そのため新羅系の渡来人の中には信者が多く、大きな影響力を持っていたようです。また花浪集団の組織化や「聖徳太子伝説」などとも関わりがあったとされます。空海が生まれた時代にも、弥勒信仰が受けいれられていたようです。それが平安時代の後半から”兜率天へ行こう”の弥勒信仰から”極楽へ行こう”の阿弥陀信仰へと仏教界の流れは変わっていくようです。
仏像の種類:弥勒菩薩・弥勒如来とは】56億7千万年後に降臨する未来の救世主! | 仏像リンク

次に、弘法大師に弥勒信仰がどのように関わっているのかを見ていきましょう。
弘法大師と弥勒信仰との関係は『三教指帰』の中に、すでに見られます。それが高野山の弥勒浄上説や弘法大師入定説などへ展開し、弘法大師伝説へと成長して行きます。

① 弘法大師は『三教指帰』巻下「仮名乞児論」のなかで次のように記しています。
 所以に慈悲の聖帝(弥勒菩薩)、終を小したまう日、丁寧に補処の儲君、旧徳の受殊等に顧命して、印璽を慈尊(弥勒)に授け、撫民を摂臣に教ゆ、(中略)
余、忽に微旨を承って、馬に林ひ、車に脂して装束して道を取り、陰陽(道教)を論ぜず、都史(兜率天)の京に向かう。
とあり、若き日の空海が陰陽の道を進まず、弥勒菩薩がいる兜率天に向かったと、儒教・道教・仏教の中から仏教を選んだ理由を述べています。ここからは空海が弥勒菩薩の上生信仰(じょうしょうしんこう)を持っていたことが分かります。

②「性霊集』巻八「藤左近将監、先枇のために。七の斎を設くる願文」には、
所謂大師、異人ならむや 阿糾哩也 摩訶味鉾紺冒地薩錘(弥勒菩薩)即ち是也。法界宮に住して人日の徳を輔け、都史殿(兜率天)に居して能寂の風を扇ぐ。尊位は昔満じたれども権に辰宮に冊す。元元を子として塗炭を抜済す。無為の主宰、誰か敢えて名け言はむ。伏して推みれば、従四位下藤氏、担には四徳を蛍きて、晩、三宝を崇む。朝に閻浮を厭ひ、夕に都率(兜率)を願う。身は花と共に落ちつれども、心は香と将に飛ぶ。
とあり、「朝に閻浮(この世)を厭い、タベには都率天を願う」と、弥勒信仰を述べ、兜率上生を願っていたことが分かります。
同行二人 遺告

③『御遺告二十五箇条』「後生の末世の弟子、祖師の恩を報進すべき縁起第十七条に
吾れ、閉眼の後には必ず、まさに兜率天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後には必ず慈尊と御共に下生し、祗候して吾が先跡を問うべし。

とあります。これは弘法大師自身が、兜率天に往生し五十六億七千万年後に弥勒とともに下生して、自から修行した地を訪れるという意味ととれます。ここでは、弘法大師自身が兜率天に上生し、弥勒の下生とともに弘法大師も下生すると云っています。『御遺告』は、現在では後世に書かれたものというのが定説になっていますが、かつては承和三年(835)3月15日付けで、弘法大師入定の一週間前に弟子に与えた遺戒とされ、権威と効力をもってきました。

  やがて人定後170年後ころになると弘法大師は、生きたまま高野山に入定しているという信仰が登場してきます。
④『栄華物語』に道長が高野に参議した時のことが、次のように記されています。
 高野に参らせ給ひては、大師の御人定の様を覗き見奉らせ給へば、御髪青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、鮮かに見えたり、御色のあはひなどぞ、珍かなるや。ただ眠り給へると見ゆり。あはれに弥勒の出世龍花三会の朝にこそは驚かせ給はめと見えさせ
意訳変換しておくと
 高野山に参拝し、弘法大師の入定の様子を覗き見させていただいた。髪は青々(黒々)として、着ている衣は塵もついておらず、煤けてもおらず鮮やかに見え、そのお顔の色など、生きているかのようで、眠られているように見えた。弥勒の出世(下生)の時には、目覚めるであろうと思われるほどである。

 ここでは実際に、大師入定の堂を開いてその姿を見たという設定で、その様子が記述されています。ドキメンタリーではなく「物語」なので、許される記述としておきましょう。その姿は「まるで生きているように眠っていて、弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現すであろうことが記されています。
⑤ 康和五年(1103)   十一月の高野山大塔供養願文には
「紀州高野山者、弘法大師延暦年中、入唐求法之後、帰朝解純之時、遙隔万岨遠投三鈷、為値慈尊(弥勒菩薩)之出世、久結禅座而人定之地也」

というように、弥勒下生を願うために大師は、入定したというように変化していきます。
⑥康和六年(1104)に没した経範の『大師御行状集記』では、
「吾入定後、必住兜率他天、可待弥勒慈尊出世、五十六億余之後、必慈尊下生之時、出定祗候、可問吾先跡」

と記されます。ここではいろいろな経過を経て、弥勒信仰から弘法大師の入定説が成立したことが記されています。
⑦これに関連して、町旧市立国際版画美術館本の弘法大師図の賛文を研究者は比較検討します。
我昔遇薩錘 親悉伝印明 発無比誓願 陪辺地異域 昼夜万民 住普賢悲願 肉身証三味 待慈氏下生

読み下し変換すると
「我れ(弘法大師)は昔、薩睡(師)に遇い、親(まのあ)たりに、悉く印明を受け、無比の願いを発して、辺地やあらゆる場所において、昼夜の別なく万民を救済し、普賢菩薩の慈悲に住し、肉身のまま一味に入って、弥勒苦薩の下生を待つ

ここでも弘法大師が五十六億七千万年後の弥勒菩薩の下生を待つとされています。
 
⑧これに関連して、鎌倉時代作の三重・大生院本弘法大師図には、次のように記されています。
卜后於高野之樹下 遊神於都率之雲上  不?日々之影向 検知処々之遺跡

書き下し変換すると
「高野山奥院に住居し、兜率天に遊神し、日々影向し、各地の遺跡を検知す」
意訳すると
「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知(巡礼)する」

となるのでしょうか。これが室町・江戸時代を通して弘法大師御形に、常套句として見られるようになります。この文は「日々影向文」と言われるものです。この起源については、
⑨ 賢宝(1333~98)の『弘法大師行状要集』第五に、
興然閣梨自筆記云、或御筆丈云、卜居於高野樹下。心神雖遊兜率天上 不?間日々之影向。検知処々遺跡、云々東寺定額勝実 善通寺別当下向讃州。件下有此御筆文ム。勝実閑梨岨醐頼昭アサリ弟子也。

とあり、寛治年中(1078~94)に、東寺の定額僧勝実が善通寺の別当として讃岐に勤務したときに、善通寺で大師御筆の「日々影向文」をみたと記します。
⑩ さらに『阿波国太龍寺縁起』には、
卜居於之□□高野樹下 遊神於都率之雲上。庶貨坐会之雲。不閉日々之影向。移大滝之月。検知処々之遺跡。

とあり、兜率天の雲上にありながら、大瀧山に移る月を見るように、四国霊場を今も見守っていると記します。この縁起は承和3年の真然選とされますが、それをそのまま信じることはできないようです。

以上から「日々影向文」は、『御遺告』などに基づき成立したことがが分かります。
これが盛んに使われ出すのは鎌倉時代中期になってからのようです。そして興然(1121~1203)や勝実などのことを考慮すれば、平安時代後期には、「日々影向文」は知られていたようです。「日々影向文」を記した『阿波国大龍寺縁起』が、21番札所の縁起となっていることは「処々の遺跡を検知」という信仰、つまり弘法大師が聖跡を巡るという信仰と同じ地平に建っていることを示します。
 以上から「弥勒下生の時、人定を出て、私の旧跡(四国霊場)をたずねよう」とすることは、『御遺吉』から展開してきたものであることが分かります。
 弥勒下生説は、弥勒が下生する時に弘法大師も高野山奥院の人定から出て、自らが修行した旧跡をたずねるというのです。しかし、これでは、弘法大師に逢うためには、五十六億七千万年後の弥勒下生の時まで待たなくてはなりません。
Discover 4 弥勒菩薩 | 仏像フィギュアのイスムウェブショップ

 そこで、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えるという説が登場してきます。
 熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者にとって、弘法大師の聖跡を廻る目的の一つは「日々影向文」にあるように弘法大師に出会うことでした。これが大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることに発展したのではないでしょうか。近世になって庶民が辺路巡りをするようになると、その傾向が益々強いものになります。その要望に応えて「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出しいったと研究者は考えているようです。

真念『四国偏礼功徳記』贅録の内容を再確認してみましょう              
 八十八ケ所霊場を巡る目的の一つに、弘法大師の遺跡(八十八ケ所霊場)を巡ることにより、大師に逢い奉ることが記されています。真念は、辺路の意義をしっかりと認識していたことは間違いありません。その背景や起源にある、弥勒下生信仰や人定信仰を継承していたとも言えます。
 このような弘法大師と弥勒との関係は、弘法大師の本地は弥勒菩薩だという考えを生み出します。
つまり弘法大師=弥勒菩薩説の始まりです。
ここから新たな弘法大師像が作り出されます。通常の弘法大師図は右手に金剛杵、左手に数珠を持ちます。しかし、弘法大師=弥勒菩薩説では左手に弥勒菩薩の持物である五輪塔が載せられます。こうしたスタイルの弘法大師像が江戸時代中期頃に作られるようになります。これが弘法大師の弥勒信仰の最終的な展開と研究者は考えているようです。
同行二人 密教の弥勒菩薩

四国霊場の中に、弥勒信仰はどのように残されているのでしょうか。
14番常楽寺は八十八ヶ所の中で唯一、本尊が弥勒菩薩です。その像高は八寸と云いますから30㎝足らずで、本尊としては本当に小さい仏様です。詳しい緑起などもなく、その来歴は不明のようです。
51番石手寺には、大師堂に隣接して弥勒堂があります。そこに安置される弥勒菩蔭坐像は、鎌倉末~南北朝ころの作とされ、この時期の弥勒信仰の四国への広がりを知ることができます。
65番三角寺は慈尊院と呼ばれ、境内に御堂があり、等身に近い弥勒如来が安置されています。ここでも、弥勒に対する信仰が一時期は大きなものがあったことがうかがえます。
讃岐に入って69番観音寺には、やはり弥勒菩薩が安置された弥勒堂があります。寂本『四国偏礼霊場記』の境内図にも描かれていて、現在もほぼ変わらぬ位置に建っています。
77番道隆寺には寂本『四国偏礼霊場記』の中に弥勒堂が描かれていますが、現在は弥勒像はありません。
 以上のように霊場寺院には、弥勒菩薩信仰の痕跡が残るのはわずかです。これ以外にも本堂や大師堂などの諸堂内に、弥勒菩薩の像があるはずです。例えば、竹林寺の大日如来坐像とされる宝冠を戴く像は、専門家は弥勒菩薩(如来)と考えています。八十八ケ所寺院でも弥勒信仰が広がっていた時期があるようですが、それは大きな流れにはならなかったようです。
弥勒信仰に基づく、弘法大師入定信仰を広めたのは誰なのでしょうか。
多くの研究者は、それは高野聖(こうやのひじり)達であったと考えているようです。高野聖にとって、四国の地に弘法大師人定説を広めることは、さほど難しいことではなかったかもしれません。
その例として、研究者は平安時代の歌人として著名な西行を挙げます。
彼を高野聖として位置づけたのは、五来重氏です。それは西行の「回国性・勧進・世俗性」などの特性を根拠としますが、重要なことは彼が長く高野山に滞住していたことです。仁安3 年(1168)十月、西行が讃岐を訪れた目的は、以前にお話ししたように崇徳上皇の墓前に詣でることと、弘法大師師誕生地や所縁地を訪ねることでした。
 実際に、西行は我拝師山で捨身行を行い、近くに庵を構えて何年も修行生活を送っています。そこには、弘法大師が幼いときに修行したところで自分も修行しているという思いが記されています。すでにこの頃には、高野山では弘法大師人定説が広がっていて、「日々影向文」のことも西行は知っていたはずです。弘法大師信仰者の西行にとって、弘法大師の聖跡地に詣でることは、重要な修行のひとつであったのでしょう。

  高野聖ではありませんが高野山と根求寺との紛争から責任をとり、仁治3年(1242 )に讃岐に流された高僧の道範も善通寺の傍らの庵に住みつきます。そして、弘法大師の聖跡や各地の真言宗寺院を訪ねています。
 このように高野山との直接的な交流の中で、弘法大師人定信仰は讃岐をはじめ四国内の諸国に、高野聖を通じて浸透したと研究者は考えているようです。

以上をまとめておきます
①弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)を空海は受けいれていた
②空海死後に高野山は「56億年の弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現す」という弥勒下生説を流布するようになる。
③そして弘法大師は亡くなったのではない。弥勒下生を願うために大師は、入定したとする
④「日々影向文」=「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知する」
 という「弘法大師=四国辺路巡礼現在進行形説」が生み出される
⑤そこでは、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えると云われるようになる。
⑥熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者が弘法大師に出会うために、大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることになる。
⑦「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出す。
⑧弘法大師伝説として新たな展開を示すようになった

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献   武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程 

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