瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:弘法大師空海 > 空海と満濃池

空海満濃池築造説への疑問

前回は、研究者たちが「空海の造った満濃池」と云わずに、「空海が造ったと云われる満濃池」という理由を史料的な面から探りました。今回は考古学的な見地から見ていくことにします。

満濃池用水の供給条件

苗田と公文の境界を流れる満濃池用水の善通寺幹線です。かつては、この用水路が池御坊の天領と高松藩の境界でした。向こうには五岳の我拝師山が見えます。この用水路が善通寺・多度津方面に用水を供給しています。幹線用水路としては、この程度の規模の用水路を整備する必要がありました。池が出来ても灌漑用水路なしでは、田んぼに水を供給することはできません。そして用水路を網の目のように張り巡らすためには、土器川や金倉川の治水コントロールが前提になります。古代における治水灌漑技術は、どうだったのでしょうか? この問題に先駆的見解を示したのが「讃岐のため池」で、次のような説を提示しました。

「讃岐のため池」の「古代ため池灌漑整備説」


以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。

古代の土器川は幾筋もの暴れ川だった

まんのう町吉野付近の旧河川跡 (左が北)

これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)

近世:治水整備後に整えられた灌漑網


長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。

②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
 用水路の
末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。

金倉川の旧流路跡と善通寺の河川復元


善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。

 右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。

次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
 

中世の善通寺一円保に描かれた灌漑用水網

善通寺一円保絵図(下が北)
ここには中世の善通寺の寺領と用水路が書かれています。東院(4つの区画を占領)・誕生院・五岳の位置をまず確認します。 黄土色の部分が現在の善通寺病院(練兵場遺跡=善通寺王国)です。黒いのが水路で、西側は、有岡大池を水源にして弘田川と分岐して東院の西側を通過して、国立病院の北側まで伸びています。一方に東側は、壱岐・柿股・二双の3つの湧水を水源にして条里制に沿って四国学院の西側を北に伸びています。しかし、現在の農事試験場や国立病院あたりまでは用水路は伸びていません。寺領の全エリアに水を供給するシステムは未整備であったようです。国立病院北東の仙遊寺あたりには、出水がいくつもあり、そこから北には別の荘園が成立していました。以上、中世期の善通寺寺領をめぐる灌漑について整理しておきます。

①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。

②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。

③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた

丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。

丸亀平野の条里制は一気に進められたのではない


現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。

空海満濃池築造説への疑問

 

このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。

ユネスコ無形文化遺産の考え方

世界文化遺産が真正性や独自性にこだわるのに対して、無形文化遺産の方は多様性を重視します。そして、継承していくために変化していことも文化遺産としての財産とします。
満濃池の歴史の捉え方g

この考え方を満濃池にも適応するなら、
核の部分には史料などからから確認できる実像があります。同時に、長い歴史の中で人々によって語り継がれるようになった伝承や物語もあります。これらを含めて満濃池の歴史と私は思っています。だからそれらも含めて大切にしていく必要があると考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年もまんのう図書館の郷土史講座でお話しすることになりました。テーマは、こちらで決めることは出来ません。リクエストのあったテーマについてお話しするのですが、満濃池へのリクエストは高いようで毎年選ばれます。昨年は近世の満濃池の変遷を話したので、今回は空海の満濃池築造についてということでした。そこで、研究者たちが「空海が造った」と断定的に云わずに。どうして「空海が造ったと云われる満濃池」と表現するのかをお話しすることにしました。その内容とレジメ資料をアップしておきます。


まず満濃町所蔵のこの版画から見ていきます。これは今から約180年ほど前、19世紀半ばに描かれたもので「象頭山八景 満濃池遊鶴(弘化2年(1845)」です。当時は金毘羅さんの金堂(旭社)が完成し、周辺整備が進み石畳や玉垣なども整備され、境内が石造物で白く輝きだす時代です。それが珍しくて全国から参拝客がどっと押し寄せるようになります。そんな中でお土産用に描かれた版画シリーズの一枚です。ここに「満濃池遊鶴」とあります。鶴が遊ぶ姿が描かれています。江戸時代には満濃池周辺には鶴が飛んでいたようです。
 話を進める前に基礎的な用語確認を、この絵で確認しておきます。東(左)から
①護摩壇岩
②対岸に池の宮と呼ばれる神社のある丘
③このふたつをえん堤で結んで金倉川をせき止めています。
④池の宮西側に余水吐け(うてめ)
この構造は江戸時代の最初に、西嶋八兵衛が築いたものと基本的には変わっていません。それではここでクイズです。この中で、現在も残っているもの、見ることができるのはどれでしょうか。

満濃池  戦後の嵩上げ工事で残ったのは「護摩壇岩」のみ
1959年の第3次嵩上げ後の満濃池 護摩壇岩だけが残った
戦後の満濃池嵩上げ工事後の現在の姿です。貯水量を増やすために、次のような変更が行われました。
①堰堤は護摩壇岩の背後に移され、
②その高さが6㍍嵩上げされ、貯水量を増やした。
③その結果、池の宮の鎮座していた小山は削り取られ水面下に沈んだ。そのため現在地に移動。
④余水吐けは、堤防の下に埋められた
こうして護摩壇岩だけが残されました。

満濃池 護摩壇岩3
満濃池の護摩壇岩

現在の護摩壇岩です。護摩壇岩と向こうに見える取水塔の真ん中当たりに池の宮はありました。その丘は削りとられ池の底に沈みました。それでは、クイズの第2問です。どうして護摩壇岩だけがして残されたのでしょうか。

空海修復の満濃池想像図
空海が修築した満濃池の想定復元図(大林組)

これは大手ゼネコンの大林組の研究者たちが作成したものです。①空海が岩の上で完成成就祈願のために護摩祈祷しています。ここが「護摩壇岩」と呼ばれることになります。ここは空海と満濃池をつなぐ聖地とされてきました。言い換えると「空海=満濃池修復」説のメモリアル=モニュメントでもあるのです。そのために池の宮は削られても、護摩壇岩は残されたと私は考えています。堤防は池の宮との間にアーチ状に伸ばされています。
②その下に②底樋が埋められています。
③池側には竪樋が完成し、5つのユルが見えています
④採土場から掘られた土が堤まで運ばれています。それを運ぶ人がアリのように続いて描かれています。

6 護摩壇岩 空海が護摩祈祷を行った聖地
 
護摩壇岩と碑文です。護摩壇岩は「空海の作った満濃池」を裏付けるモノと私は思っていました。
ところが中央からやってきた研究者の中には「空海が作ったとされる(伝えられる)満濃池」という言い方をするひとがいます。含みを持たせる言い方です。どうして「空海が作ったと言い切らないのですか?」と訪ねると、文献的にそれを証明できる・裏付ける資料がないというのです。これに私は驚きました。空海=満濃池築造説は史料的に裏付けられているものと思っていたからです。今回は、学者たちが空海が満濃池を作ったと言い切らない理由を追いかけて見ようと思います。まず空海が満濃池をつくったという最初の記録を見ていくことにします。

日本紀略の満濃池記述
日本紀略の空海の満濃池修復部分

まず古代の根本史料として六国史があります。これは、日本書紀など国家によって編纂された正史です。この編纂には公文書が用いられていて信頼度が高いとされます。6つあるので六国史と呼ばれます。ちなみに、誰が書いたか分からない古事記は、正史には含まれません。ところで六国史の中に満濃池は出てきません。満濃池が初めて出てくるのは日本略記という史書です。満濃町史や満濃池史など地元の郷土史は、日本紀略の記述を根本史料として「空海=満濃池修築説」を紹介しています。しかし、原典にはあたっていません。日本紀略の原典は上記の通りです。読み下しておきます。

讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。

最後に「許之」とあります。この主語は朝廷です。つまり朝廷が讃岐国司の空海派遣申請を認めたということです。これだけです。分量的には百字あまりにすぎません。内容を確認しておきます。

日本紀略の満濃池記述(要点)
日本紀略に書かれていることは

ここでは国司の空海派遣申請と、それに対する国家の承認だけが簡潔に述べられているだけです。空海が讃岐で何を行ったかについては何も触れていません。堤防の形や、護摩壇岩のことは何も出てこないことを押さえておきます。次に日本紀略の性格に就いてみておくことにします。

日本紀略の性格
日本紀略の史料的性格と評価
紀略はこの書は、①国家が誰かに編纂を命じて作られたものではありません。誰が書いたのかも、正式の書名も分かりません。当然、正史でもありませんし、何の目的で書かれたのかも分かりません。②内容は、それまでに造られている正史からの抜粋と、あらたに追加された項目からなります。空海と満濃池の部分は、新たに追加され項目になります。③成立時期は11世紀末後半から12世紀頃とされます。これは空海が亡くなった後、200年を経た時点で書かれた記録ということにります。同時代史料ではないことを押さえておきます。④評価点としては・・・⑤注意点としては・・・・    
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒書があって箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、古文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると「日本紀略」は満濃池の記述に関しては同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書ということになります。満濃町誌などは、紀略を「準正史的な歴史書」と評価しています。しかし、研究者は「注意して利用すべき歴史書」と考えているようです。両者には、根本史料である日本紀略の評価をめぐって大きなギャップがあることを押さえておきます。

 空海=満濃池修築悦を裏付ける史料として、満濃町史が挙げるのが「讃岐国司解」です。

満濃池別当に空海を申請する讃岐国司解
讃岐国司が空海派遣申請のために作成したとされる解(げ)

冒頭に「讃岐国司申請 官裁事」とあります。「解」とは、地方から中央への「おうかがい(申請)文」のことです。最後に弘仁12年(820)4月と年紀が入っています。ここで注意しておきたいのは、現物では実在しないことです。写しの引用文です。④これが載せられているのは、空海の伝記の一つである「弘法大師行化(ぎょうけ)記」です。つまり、空海伝記の中に引用されたものなのです。それを押させた上で、内容を見ておきましょう。

①内容については「請 伝燈大法師位 空海宛築満濃池別当状」とあり、空海を別当に任じることを申請したタイトルが付けられいます。文頭にでてくるのは既に派遣されていた築造責任者の路真人(みちのまびとはまつぐ)です。③その後の内容は、ほぼ「日本紀略」の丸写しです。誤記が何カ所かあるのが気になります。この申請書を受けて中世政府がだした太上官府も、引用されています。それも見ておきましょう。

満濃池 空海派遣を命じる太政官符
空海を満濃池修復の別当として派遣することを認めた太政官符

太政官符の前半部は紀略の内容とほぼ同じです。つまり、讃岐国司からの解(申請文)がそのまま引用された内容です。後半部には空海を別当として派遣する上での具体的な指示が書かれています。そのため日本紀略よりも分量も多くなっています。また最後の年紀が「弘仁元年」とする誤記があります。それ以上に研究者が問題にするのは太政官符の体裁・スタイルです。この太政官符より15年前に出された空海出家を伝える太政官符と、比較して見ましょう。

空海入唐 太政官符
延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)
この内容は、遣唐使として入唐することになった空海が正式に出家して国家公務員となったので、課税を停止せよと命じたものです。一部虫食いで読み取れませんが補足しながら読んでいくと
①冒頭に「大政官符 治部省」とあって、補足すると「留学僧空海」と読めます。
②その下に空海について記され、「讃岐國多度郡方田郷方田郷」とあります。ここからは空海の本籍が多度郡方田郷だったことが分かります。方田は「弘田郷」の誤りとされていました。しかし、平城京からは「方田郷」と記された木簡が2本出てきました。実際に存在した郷であったかもしれません。どこであったかはよく分かりません。
③空海の属した戸主は「戸主正六位上佐伯直道長」とあります。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、佐伯直道長です。彼の官位は正6位上という地方では相当高い官位です。どのようにして手に入れたのか興味あるところです。多度郡の郡長を務めるには充分な官位です。佐伯家では多度郡では有力な家であったことが裏付けられます。ちなみに、道長は空海の父ではありません。空海の父は田公です。道長が空海の祖父だった可能性はあります。当時の戸籍は大家族制で、祖父から叔父たちの子ども達(従兄弟)まで百人近くの名前が並ぶ戸籍もあります。空海も、道長の戸籍の一人として「真魚」と記帳されています。
④次からが本題の用件です。延暦22年4月7日「出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここからは空海は留学直前まで得度(出家)していなかった。正式の僧侶ではなかったことが分かります。
以上を、先ほど見た満濃池別当状を命じるものと比べるとどうでしょうか。官府は「何々を命じる」とコンパクトな物です。国司の解を引用し、説明を長々とするものではありません。そういう意味からも満濃池別当状は異例なスタイルです。太政官符の写しとしてはふさわしくないと研究者は考えているようです。
      また空海死後直後の9・10世紀に成立した伝記には満濃池は出てきません。
死後2百年後を経た11世紀に書かれた伝記は4つあります。その中で満濃池が出てくるのは「弘法大師行化記(ぎょうけき)」だけです。その他の伝記には出てきません。ここからは紀略の記述を参考にして「行化記」の作者が、讃岐国司解と太政官符の写しを新たに作成して載せた可能性が出てきます。

空海=満濃池修復説の根拠とされる史料に今昔物語があります。

今昔物語 満濃池の龍
今昔物語 満濃池の龍の冒頭文
この中に「満濃池の龍」が載せられています。その冒頭は、この文章から始まります。そこには、空海との関係が次のように記されています。
「その池は弘法大師がその国(讃岐)の衆生を憐れんだために築きたまえる池なり。」

空海について触れられているのは、これだけなのです。空海が別当として派遣されたことなども書かれていませんし、護摩壇岩やアーチ型堤防などについては何も触れていません。
空海が朝廷の命で雨乞祈祷をして雨を降らせた話があります。その時に祈るのが善女龍王です。善女龍王は、雨を降らせる神として後世には信仰されるようになります。綾子踊りでも善女龍王の幟を立てて踊ります。
綾子踊りの善女龍王
綾子踊の善女龍王
ちなみに善女龍王は普段は小さな蛇の姿をしています。満濃池の龍も、堤で子蛇の姿で寝ているところを、天狗の化けたトンビにさらわれて、琵琶湖周辺の天狗の住処の洞穴に連れ去られてしまいます。龍の弱点は、水がないと龍には変身できない所です。かっぱと同じです。そこに京から僧侶もさらわれてきます。この僧侶が竹の水筒をもっていて、水を得た子蛇は龍に変身し、天狗を懲らしめて、僧侶を寺に送り届けて満濃池に帰って来るというお話しです。

今まで見てきた3つの史料の成立した年代を見ておきましょう。

満濃池記載史料の成立年代
 満濃池と空海の関係を述べた史料の成立年代

11世紀になると、空海は死んではいない。入定しただけで身は現世にとどまっているという「入定留身信仰」説が説かれるようになります。これは今も空海は、この世に留まり衆生を見守り、導こうとしているということになります。これが近世になると「同行二人」いつも空海さんと一緒に ということになっていきます。佐文の綾子踊りでも由緒書きには、「ある旅の僧侶が綾に雨乞踊りを伝授した。踊れば雨が振った。村人は歓喜した。いつの間にか僧侶はいなくなっていた。その僧侶が弘法大師であったと村人はささやきあった。と記します。つまり、いろいろな行事や功績などが空海に接ぎ木されていくようになのです。そんな流れの中で登場してくるのが空海ー満濃池修復説といえそうです。
 満濃町史は、国司解や太政官符を見て紀略がかかれたという立場です。しかし、それは成立年代からすると無理があるようです。紀略の記事を見て、太政官符が創作されたということも考えられます。 こうして弘法大師伝記には、いろいろな話が付け加えられていくのです。そして92種類の伝記が確認されています。
次にいろいろな話が付け加えられていく過程を、満濃池史の今昔物語の記述で見ておきましょう。

今昔物語の原文と「満濃池史」の比較

先ほど見たように今昔物語が空海と満濃池の関係に触れているのは、一行でした。それが満濃池史の「今昔物語」には、次のようになっています。

満濃池の龍神 今昔物語に付け加えられた部分


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満濃池史の「今昔物語」
ここには①讃岐国司・清原夏野の嵯峨天皇への直訴的申請 ②路真人浜継(みちのまびと)の来讃。③空海の派遣申請などがいろいろなことが記されています。しかし。これらはもともとの今昔物語には書かれていないことです。日本紀略や「行化記」などに書かれていることが今昔物語に接ぎ木されています。伝説とは、このようにして後世にいろいろな物語が付け加えられて膨れあがっていきます。地域の歴史を書く場合には、地元の歴史について知ってほしい、そして誇りを持って欲しいという思いが強く働きます。私もそうです。そのためサービス精神が旺盛になりすぎて、史料検討が甘くなり、いろいろなことを盛り込んでしまうことが往々にしてあります。そういう意味では、厳密に云うと、これは今昔物語ではありません。いろいろな情報が付加された「今昔物語増補版」ともいえるものです。
 ここまでを整理しておくと、12世紀前後に成立した3つの書物に、空海と満濃池の関係が書かれるようになったこと。しかし、その内容は、空海の派遣経緯が中心でした。空海がこの地にやってき何をしたかについては、何も記されていませんでした。それでは最初に見た護摩壇岩やアーチ型堤防などの話はいつ頃から語られ始めたのでしょうか。これは近世に書かれた矢原家文書の中に出てくるものです。
満濃池池守 矢原家について
これは幕末の讃岐国名勝図会に描かれている矢原家です。おおきな屋敷と二本の松の木が印象的です。カリンの木は見えませんが、大きな財力をもっていたことが屋敷からはうかがえます。この場所は、満濃池の下のほたるみ公園の西側で「矢原邸の森」として保存されています。矢原家について簡単に触れておきます。①真野を拠点とする豪族とされますが ②史料からは中世以前のことについてはよく分かりません。③文書的に確実にたどれるのは生駒藩時代以後です。④西嶋八兵衛が満濃池を再興するときに、用地を寄進したことで、池の守職に任じられたこと ⑤しかし、満濃池修復費用に充てるために池の御領とよばれる天領が設置されます。天領が置かれると代官もがの指揮下におかれて、既得権利を失ったこと⑥そのため池の守職を無念にも辞任したこと。
このように池の守として満濃池に関わった矢原家には、満濃池についての文書が多く残されたようです。その一部を見ておきましょう。


矢原家々記の空海による満濃池築造
矢原家々記の空海来訪場面

 古代のことが昨日のように物語り風に語られています。こんな話を矢原家では代々語り伝えてきていたのかもしれません。この内容をそのまま史実とすることはできませんが書いた人の意図はうかがえます。
①空海が矢原家に宿泊したこと → 矢原家が空海の時代まで遡る名家であること 
②矢原家の伝統と格式の高さ 
③その象徴としてのかりん 
これらは空海の来訪を記すと同時に、作成目的の中に「矢原家顕彰」というねらいがあったことを押さえておきます。矢原邸跡に香川県が設置した説明版には「空海が矢原正久の屋敷に逗留した際、記念にお手植えされたとされるカリンがある。」と記されています。矢原家々記を書いた人物の意図が、現在に生きていることになります。

矢原家文書の空海伝説 アーチ堤防


我々が満濃池の特徴としてよく聞く話は、近世になって書かれた矢原家文書の中にあることを押さえておきます。これらを受けて満濃池町史は、次のように記されています。

満濃町史の伝える空海の満濃池修復

①821年太政官符が紹介されていますが、これが「行化記」の引用であることは触れていません。
②③は近世の矢原家家記に記されていることです。 ④は日本紀略 ⑤の
神野寺建立は、後世の言い伝えで、これは史料的には確認できないことです。なお、池之宮は絵図・史料に出てくるに出てきますがが、神野神社は出てこない。出てくるのは「池の宮」です。これを神野神社と呼ぶようになるのは、幕末頃になってらです。ここには池の宮を神野神社として、延喜式内社の論社にしようという地元の動きが見えます。
以上をまとめておくと次のようになります。

①地元の郷土史は、日本略記や空海派遣を命じた太政官符を根拠に「空海=満濃池修復」説を記す。

②これに対して、日本紀略や太政官符などからだけでは文献考証面から「空海=満濃池築造説」を裏付けるできないと研究者は考えている。


この上に、11世紀前半のものとされる史料の中には、空海が満濃池修復を行ったという記録がありません。それが「満濃池後碑文」です。

空海関与を伝えない満濃池後碑文
満濃池後碑文(まんのういけのちのいしぶみ)
以下も意訳変換しておくと

三年(853)二月一日、役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない


ここには、空海の満濃池修復後の約20年後に決壊した満濃池を国司の弘宗王が修復したことが記されています。その内容を見ると動員数など具体的で、日本紀略の記述に比べると、よりリアルな印象を受けます。弘宗王とは何者なのでしょうか?

 満濃池修復を行った讃岐国司弘宗王
満濃池を修復した弘宗王

弘宗王について当時の史料は次のように評しています。
「大和守
弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方政治について、見識をもった人物である。」
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、満濃町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、「倫理観に書ける悪徳国司」的な評価をし、「萬濃池後碑文」は偽書の可能性を指摘します。しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関してのな内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。どちらにしても最終的には大和国の国司を務めるなど、なかなかのやり手だったことが分かります。その子孫が、業績再考のために造ったのがこの碑文です。そこに書かれていることと、日本紀略の記事で年表を作成すると以下のようになります。


空海と弘宗王の相互関係の年表

「後碑文」には、満濃池は701年に初めて造られたとあります。その後、818年に決壊したのを空海が修復したことは日本略記に書かれていました。それが約30年後の852年に決壊します。それを復旧したのが讃岐国主としてやってきた弘宗王になります。その事情が後碑文(のちのひぶみ)の中に記されます。その後も、決壊修復が繰り返されたようです。そして、1184年 源平合戦が始まる12世紀末に決壊すると、その後は放置されます。つまり満濃池は姿を消したのです。それが修復されるのは役450年後の江戸時代になってからです。つまり、中世には、満濃池は存在していなかったことになります。

それでは「空海=満濃池修築」のことが、満濃池後碑文にはどうして書かれなかったのでしょうか?
その理由を考えて見ると次のようになります。


満濃池後碑文に空海が出てこない理由は

日本紀略よりも先に造られた満濃池後碑文からは「空海=満濃池非関与」説が考えられるということです。以上をまとめておきます。


空海満濃池築造説への疑問

考古学的な疑問点は次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

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それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国が次のように言上した. 去年から満濃池の修造工事を進めていますが,事業規模が大なのに対し差発できる民は少なく, まだ完了していません.ところで,僧空海は当地出身の人物で,山中で修行して鳥獣に親しみ, 海外にまで仏教の真理を求め,学問を積んで帰国しました. そのため, 出家人も俗人も空海の風貌を敬い、人々は空海の姿を仰ぎ見ています.空海が留まる所には教えを請う者が市をなし, 出行するとあとを追う者が雲のごとくとなります.
 いま, 空海は郷里を離れ, 平安京に住んでいますが、百姓は父母のごとく恋い慕っており、空海が来ると聞きますと,履物を逆さにしたまま慌てて迎えるほどです. 伏して,空海を満濃池修造事業の別当に起用して完成させることを請願します.
言上を許可した.
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


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