瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:綾子踊りの里・佐文から > 公演活動

髙松ユネスコ協会ポスター2025年

髙松ユネスコ協会創立50周年記念式典に次のような日程で参加しました。
 8:00 佐文公民館集合・荷物積込 
 8:30 出発 (マイクロバス2台33名)
  9:40 サンポート到着 搬入
10:00 リハーサル(入庭隊形・位置・音量確認・鳴物)
10:45 昼食 → 終了後に着替え開始
13:20 入庭隊形で待機
13:30 入庭(いりは)
14:10 退場  着替え・撤収
15:00 サンポート出発 
16:00 佐文公民館帰着(片付終了後解散)
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会場はサンポート第1小ホールです。

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サンポート第1小ホール舞台
入庭のルートや舞台の広さを確認し、立ち位置を決めていきます。
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全体を通してみて、地唄の音量を見て、大団扇を振れるだけの空間があるかなどを確認します。

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リハーサルを見守る保護者たち

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リハーサル後に早い食事をいただき、着付けを始めます。全員の着付けには、約1、5時間ほどの時間がかかります。小学生達が小姫姿で化粧して踊るのが、綾子踊の大きな魅力です。着付けが終わると、最後に花笠を被ります。いよいよ出番です。

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いよいよ入庭(いりは:入場)です。
風流踊りでは、会場への入庭も「祭礼隊列パレード」として、おおきな意味を持っていました。舞台で踊るだけではなく、入庭も大切にしたいと思っています。
舞台上の流れ
13:30 客席より入庭 

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13:36 保存会長挨拶
こんにちわ まんのう町の綾子踊保存会会長の白川です。
髙松ユネスコ協会創立五十周年 誠におめでとうございます。この式典に呼んでいただいたことをありがたく思っています。
 私たちの住むまんのう町佐文は金毘羅さんが鎮座する象頭山の南側にある小さな盆地で、百四十軒ほどの集落です。水利の便が悪く、香川用水が通じるまでは水不足に悩まされてきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。そこで踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
  笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る姿は、中世の風流踊りにつながるものとされています。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っております。
 髙松ユネスコ協会のますますのご活躍を祈念しながら、本日は踊らせていただきます。
今回は次のように簡単な役割紹介をしました。
雲竜の幟(保存会長の右側)
雨を呼ぶ善女龍王の昇り龍が描かれています。空海がインドから迎えたという龍で、満濃池や竜王山に済んでいたとされます。
法螺貝
頭巾に袈裟(けさ)の山伏姿です。綾子踊を伝えた修験者との関わりがうかがえます。
13:37 棒と薙刀(なぎなた)
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棒振りと薙刀(なぎなた)は、演舞と問答で穢れを祓い、会場を浄めます。

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舞台右手は 
露払い 入庭の際に、榊(さかき)の枝をもって、道中を浄めながら先導します。
棒   薙刀と共に踊りの前に会場の邪鬼を祓い、浄めます
佐文村雨乞踊の幟

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地唄(一番右で座っている)
麻の上下に小脇差(こわきさし)姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。
台笠(青い笠)
烏帽子をかぶり、神職姿で台笠を持ちます。台笠の下は神聖な空間とされました。
拍子    
龍王に供える榊を(さかき)持って入場します。黄色い大きな団扇を持ち、芸司を支える役割を果たします。
芸司 (げいじ)
全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた芸能伝達者の僧侶でした。大きな団扇には、日と月が描かれています。
太鼓  袴(はかま)姿に白たすき掛けで黒足袋です。
僧侶姿で、白衣に、黒い袈裟を架けて鉦を持ちます。風流念仏踊りの影響がうかがえます。
笛  黒紋付の羽織袴(はおりはかま)で、白足袋に草履姿です。
鼓    裃(かみしも)、袴(はかま)姿で小脇差しを指します。
側踊(がおどり)
浴衣姿で竹皮の笠を被ります。側踊りは人数にきまりがありませんでした。そのため雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったと伝えられます。
善女龍王の幟 綾子踊を捧げたのは、雨を振らせる善女龍王に対してでした。 
13:50 踊り開始(水の踊り→綾子踊→かえりの踊り)
14:00 退場  

最後にサンポートの屋上広場で瀬戸内海をバックに記念写真をとりました。

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秋の海風を受けながらみんなの顔には充実の笑顔がありました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」で綾子踊りと尾﨑清甫を紹介したもの
https://www.youtube.com/watch?v=2jnnJV3pfE0

日時 11月2日(日)
場所 サンポート高松 第1小ホール
12:00 受付・会場 入場料無料(入場整理券が必要)
13:00 開演 開会式
13:30 綾子踊り 佐文綾子踊保存会
14:15 滝宮念仏踊り
15:10 香川町農村歌舞伎「祇園座」
興味と時間のある方の来場を歓迎します。
今年は5月に大阪万博で踊って以来のことになります。この公演のための練習が佐文公民館で今週から始まりました。1年生から始めた小踊りの小学生3名も、大分慣れてきました。踊る機会を与えてくれたことに感謝しながら舞台に立ちたいと思います。
 綾子踊りは佐文自治会約140軒全員がメンバーです。踊る前にその都度、役割が決められます。次回は来年9月6日(日)に、佐文賀茂神社での定期公開公演になります。

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EXPOメッセ WASSE (西口ゲート近く)
大阪・関西万博の「EXPOメッセ WASSE」で香川県のブースが4月30日から5月3日まで置かれました。
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香川県ブース「せとのかけはし号」 ⑤の後部がステージ
「せとのかけはし号」という船の形をした会場内では、香川県の市町村が、伝統工芸や文化などの魅力を発信しています。その最終日に、綾子踊が、まんのう町を代表して出演することになりました。その参加報告をアップしておきます。日程は次の通り二泊三日でした。
 5月2日(金)
  19:00 佐文公民館出発
22:30 ホテル到着予定(淡路SA以後はノンストップ)
 5月3日(土) 
    8:30~ 着付け(ホテル内の会場)
11:00 ホテル出発
13:30 EXPOメッセにて公演(30分)
15:00 万博会場出発
16:00  夕食(ホテル内)
 5月4日(日)
 8:30 ホテル発 会場到着後は自由行動 
11:30   パソナ館 
  15:30    万博会場出発
  20:00  佐文帰着
 参加者39名     
今回の万博参加は、お呼ばれしたのではなく、どちらかというと「押しかけていった」といえる参加形態でした。そのためいろいろな「課題障害」に出会うことになりました。例えば、県外にお呼ばれして踊る場合は、立派なホールや会館が会場で、バスをすぐ近くまで寄せて、荷物の積み下ろしができます。また、着替え場所や控え室も確保されています。つまり、「演技者」としてリスペクトされて、それなりの待遇で遇していただけることが多いのです。しかし、万博はそうはいきません。道ばたや広場で踊るる「大道芸人」と立場は同じです。着替え場所も控え室もありません。

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ホテルで着替え中の小踊り
そこでホテルから着物に着替えて、小道具・大道具を持ってのバス移動となりました。しかも着替え終わって踊り始めるのは、約5時間後です。帯に締め付けられた小踊りの子ども達は、それだけで苦しそうです。
大阪万博1
観光バス駐車場から西ゲート入口までは、徒歩20分
 さらに貸切バス駐車場から西口ゲートまでの移動距離の長さに苦しめられます。観光バスの駐車場は、シャトルバスの駐車場の外側に配置されているので、駐車場をぐるりと廻って行かなければなりません。

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花笠を持って西側ゲートまで駐車場より移動開始
時間にして20分、1㎞は歩かなければなりませんでした。控え室がないのでないので荷物を少なくしたいので、草鞋ばきの人もいて、指の間に縄目が食い込んで痛そうです。

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西側ゲート万国旗の前を草履履きで会場目指してもくもくとあるく会長
踊り終わって還る時には、脚を引きずるような人もでてきました。高齢者の出演者に今回の思い出を聞くと「バスとEXPOメッセとの間の歩いての移動」という声が返ってきました。大きな組織やイベントは現場の判断での「融通」などを働かすことが出来ないので、現場ではいろいろな小さな問題が起こります。「出演者にやさしくない万博」と愚痴り会いながらスタッフ専用ゲートを目指します。
 到着して会場を下見します。この日も試食コーナーでは讃岐うどんの試食コーナーが開かれていて、多くの人で香川県ブースは賑わっていました。その後ろのコーナがステージとなります。教室の半分もない広さであることを確認して、立ち位置などを決めていきます。

大阪万博ステージ2
香川県ブース平面図


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渋滞を危惧して早く出発していましたが、それもなかったので1時間以上の待機時間です。着物に草履では、会場散策も出来ないのでリングの下のベンチで待ちます。

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出番前の待ち時間にも笑顔が溢れます

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芸司の大団扇 今回は会場が狭くて思う存分に振れなかったと残念がっていました。
13:30 隊列を組んで、露払いを先頭にしての入庭(いりは)です。ステージで隊列を整えます。

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最初に保存会長が口上(由来)を読み上げます。そして、大きな団扇をもった芸司のかけ声と共に地唄が歌われ、踊りが始まります。バックの壁には佐文の賀茂神社の光景が映し出されます。温かい演出に感謝。狭い会場ですが多くの人が見守っていただきました。まんのう町長や議長も応援に駆けつけてくれました。

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 中世の風流踊りには鳴り物として三味線がありません。笛や太鼓・鉦だけの単調な響きで、踊りのうごきも華やかさや雅さはありません。しかし、これがもともとの風流踊りの原型だと研究者は指摘します。この単調さの中に中世の響きがあると私は考えています。

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後ろのスクリーンには、佐文の賀茂神社が映し出されていました。

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踊りが終わるとインタヴューを受けて、そのでステージで記念写真を撮りました。そのあとは、再び歩いてバス駐車場を目指します。

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バスへの帰路
帰り道に、警備員や誘導員の方々が「お疲れ様でした」と声をかけてくれました。それがなぜか心に沁みました。結局、この日は万博見物はできませんでした。
 それでは可愛そうだというので、翌日に見学日を一日とっていただけました。しかし、連休後半の初日で予約がとれたのはパソナ館のみ。あとは、前日とは大違いで長蛇の行列でした。私はリングの上をゆっくると一周してみました。上から眺める景色は最高です。西には六甲の山脈と、その麓の神戸の街並みが見えます。南には明石海峡から伸びる淡路島。南には大阪湾が大きく開けます。東には金毘羅船なども目印とした天保山が見えます。この海が古代以来果たしてきた役割が、頭の中で走馬灯のように走り抜けて行きます。この日は五月晴れですが、海風が強く波頭が白く見え「兎跳ぶ海」の風情で、リング上を歩いていると肌寒く感じるほどでした。
 リングの内側は、各パビリオンでひしめき合っています。1970年の時のパビリオンと比べると個性がないように思えます。あの時代は「大きいことはいいことだ」という言葉に象徴されるように、「より高く、より早く、より遠く」にがパビリオンにも求められていたようで、資金の惜しまず高く大きな異彩の建物が林立していました。しかし、今回はリングが中世都市の城壁で、その内側の建物はリングよりも高いものはありません。高さ制限があるような感じです。形も資金節減が前面に出て枠組みをハリボテで囲んだようなものが多く、個性的なものも少ないように私には思えます。有名な建設家が競いあうという雰囲気はないように見えます。それでも私にとってはリングからながめるだけでも充分面白い物でした。2㎞というリングの上を90分ほどかけて歩くと、私はエネルギー切れです。並んで見学しようとする意欲は湧いてきません。私と同じ世代の出演者たちもも同じで、2時間前には集合場所に返ってきて、バスの駐車場へ向かいました。冷房の効いたバスで待つ方が楽のようです。集合場所でみんなが帰って来るのを待ちながら「マンウオッチング」をしていました。確かに、高齢者の姿は少ないようです。観光バスで団体で移動することの多い老人会とかは、移動のことを考えると躊躇すると思います。高齢者にはやさしくない会場なのかも知れません。  
 いろいろと書いてきましたが、万博で踊らせていただく機会を頂いたことに感謝します。ありがとうございました。
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次の公演予定は11月の文化の日に、サンポート小ホールです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
なお使用写真は参加者から提供していただいたものです。

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まんのう町図書館の郷土史講座で綾子踊りについて、お話ししました。その時のことを史料と共にアップしておきます。
綾子踊り 図書館郷土史講座

佐文に住む住人としてして、綾子踊りに関わっています。その中で不思議に思ったり、疑問に思うことが多々でてきます。それらと向き合う中で、考えたことを今日はお話しできたらと思います。疑問の一つが、どうして綾子踊りが国の重要無形文化財になり、そしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのか。逆に言うと、それほど意味のある踊りなのかという疑問です。高校時代には、綾子踊りをみていると、まあなんとのんびりした躍りで、動きやリズムも単調で、刺激に乏しい、眠とうなる踊りというのが正直な印象でした。この踊りに、どんな価値があるのか分からなかったのです。それがいつの間にか国の重要文化財に指定され、ユネスコ登録までされました。どなんなっとるんやろ というのが正直な感想です。今日のおおきなテーマは、綾子踊りはどうしてユネスコ登録されたのか? また、その価値がどこにあるのか?を見ていくことにします。最初に、ユネスコから送られてきた登録書を見ておきましょう。

ユネスコ登録書
ユネスコ無形文化遺産登録書

ユネスコの登録書です。何が書かれているのか見ておきます。
①●
convention」(コンベンション)は、ここでは「参加者・構成員」の意味になるようです。Safeguardingは保護手段、「heritage」(ヘリテージ)は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、「intangibles cultural heritage」で無形文化遺産という意味になります。ここで注目しておきたいのは登録名は「Furyu-odori」(ふりゅう)です。「ふりゅう」ではありません。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。それでは風流と「ふりゅう」の違いはなんでしょうか。

風流とは?
「ふうりゅう」と「ふりゅう」の違いは?

「風流(ふうりゅう)」を辞書で引くと、次のように出てきました。

上品な趣があること、歌や書など趣味の道に遊ぶこと。 あるいは「先人の遺したよい流儀


 たとえば、浴衣姿で蛍狩りに行く、お団子を備えてお月見するなど、季節らしさや歴史、趣味の良さなどを感じさせられる場面などで「風流だね」という具合に使われます。吉田拓郎の「旅の宿」のに「浴衣の君はすすきのかんざし、もういっぱいいかがなんて風流(ふうりゅう)だね」というフレーズが出てくるのを思い出す世代です。
これに対して、「ふりゅう」は、
人に見せるための作り物などを指すようです。
風流踊りに登場する「ふりゅうもの」を見ておきましょう。

やすらい踊りの風流笠
やすらい踊りの風流笠


中世には、春に花が散る際に疫神も飛び散るされました。そのため、その疫神を鎮める行事が各地で行われるようになります。そのひとつが京都の「やすらい花」です。この祭の中心は「花傘(台笠)」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)ほどの大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿などを挿して飾ります。この傘の中には、神霊が宿るとされ、この傘に入ると厄をのがれて健康に過ごせるとされました。赤い衣装、長い髪、大型化した台笠 これが風流化といいます。歌舞伎の「かぶく」と響き合う所があるようです。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河大念仏の大うちわ

奥三河の大念仏踊りです。太鼓を抱えて、背中には巨大化したうちわを背負っています。盆の祖先供養のために踊られる念仏踊りです。ここでは団扇が巨大化しています。これも風流化です。持ち物などの大型化も「ふりゅう」と呼んでいたことを押さえておきます。

文化庁の風流踊りのとらえ方

文化庁の「風流踊」のとらえ方は?
華やかな色や人目を引くためためにの衣装や色、持ち物の大型化などが、風流(ふりゅう)化で、「かぶく」と重なり会う部分があるようです。一方、わび・さびとは対局にあったようです。歌舞伎や能・狂言などは舞台の上がり、世襲化・専業化されることで洗練化されていきます。一方、風流踊りは民衆の手に留まり続けした。人々の雨乞いや先祖供養などのいろいろな願いを込めて踊られるものを、一括して「風流踊り」としてユネスコ登録したようです。

雨乞い踊りから風流踊りへ
雨乞い踊から風流踊へ

綾子踊りについてもも時代と共に微妙に、とらえ方が変化してきました。国指定になった1970年頃には、綾子踊りの枕詞には必ず「雨乞い踊り」が使われていました。ところが、研究が進むに雨乞い踊りは風流踊りから派生してきたものであることが分かってきました。そこで「風流雨乞い踊り」と呼ばれるようになります。さらに21世紀になって各地の風流踊りを一括して、ユネスコ登録しようという文化庁の戦略下で、綾子踊も風流踊りのひとつとされるようになります。つまり、雨乞い踊りから風流踊りへの転換が、ここ半世紀で進んだことになります。先ほど見たようにいくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、文化庁が発行したのがこの証書ということになるようです。ここでは「風流踊りの一部」としての綾子踊りを認めるという体裁になっていることを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①かつての綾子踊りは、「雨乞い踊」であることが強調されていた。
②しかし、その後の研究で、雨乞い踊りも盆踊りもルーツは同じとされるようになり、風流踊りとして一括されるようになった。
③それを受けて文化庁も、各地に伝わる「風流踊」としてくくり、ユネスコ無形文化遺産に登録するという手法をとった。
④こうして42のいろいろな踊りが「風流踊り」としてユネスコ登録されることになった。
今日はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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綾子踊公開公演の中止について
下記の通り実施予定だった綾子踊は、台風接近のため中止となりました。残念です。2年後の公開に向けてまた準備を進めていきます。


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       佐文公民館(まんのう町佐文) 火の見櫓
ユネスコ文化遺産に登録されて初めての公開奉納が以下の日程で行われます。
IMG_6569佐文公民館

日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)
場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)
日 程  9:00  受付開始
   10:00  公民館前出発 加茂神社への入庭
   10:15  保存会長による由来口上
   10:20  棒・薙刀問答
   10:30  芸司口上 踊り開始
  ①水の踊 ②四国船 ③綾子踊  ④小鼓
 小休止
  ⑤花籠  ⑥鳥籠  ⑦たま坂  ⑧六蝶子(ちょうし)
 小休止                   
  ⑨京絹  ⑩塩飽船  ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
暑さ対策のために、今年は2回の休憩をとって、3回に分けて踊ります。11:40頃 終了予定 その後出演者の記念写真

「緩くて眠たくなる」とも言われますが、三味線が登場する前の中世の風流踊りの芸態を残しているともされます。この「緩さ・のんびりさ」が中世風流踊りの「神髄」かもしれません。「中世を感じたい人」や時間と興味のある方の来訪をお待ちしています。

① 駐車場については、青い法被を着た係の指示に従ってください。(農道駐車となります。)
② 先着100名の方に、以下のうちわかクリアケースを記念品としてお渡しします。神社の受付まで申し出て下さい。

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綾子踊のうちわ(4種類)

綾子踊り 図書館郷土史講座

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
ユネスコ登録書

風流とは?

文化庁の風流踊りのとらえ方

雨乞い踊りから風流踊りへの転換

西讃府誌の綾子踊り

西讃府誌の綾子踊り記述

綾子踊り歌詞1番

小鼓の意味

閑吟集の花籠

どうして恋の歌が歌われるのか

IMG_0011綾子踊り 綾子

IMG_0009綾子踊り由来
綾子踊り 由緒
IMG_0016
鳥籠
IMG_0015綾子踊り 塩飽船
塩飽船

IMG_0018水の踊り
水の踊り
IMG_0024綾子踊り 地唄
綾子踊り
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絵の提供は石井輝夫氏です。

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佐文綾子踊 小踊りの花笠
昨年11月末にまんのう町のある小学校で綾子踊りのお話しする機会がありました。小学校4年生の郷土学習で、綾子踊りがどのように取り上げられているかを報告しておきたいと思います。
 教室に入っておどろいたのは、後ろの棚に並べられた花笠です。

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教室の花笠
子ども達は花笠を自分たちで造って持っているのです。この制作のために、時間も確保しています。ちなみに、このキットはまんのう町教育委員会が作成して、各小学校に配布しているようです。

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ぼくの「マイ・花笠」

こんな「しかけ」を考えてくれている教育委員会の人達に感謝です。綾子踊りについて町内の人達に、どんな風に伝えて行くかを考える時に、こんな取組は本当にありがたいと思います。

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子ども達が自分が作った花笠を大切にしていることが分かります。
これを自分の手で作ったら子ども達の「興味関心」は、ぐーんと高まるはずです。今回、教室を訪ねて知ったことのもうひとつが4年生の「社会科の郷土学習読本」に、大きく綾子踊りが取り上げられていることです。
 
郷土学習 わたしたちの香川県

綾子踊りの部分を少し見ておきましょう。
綾子踊りとは、どんなおどりか調べよう。
綾子踊 郷土学習読本1

調べたことが、教室の背面掲示板に次のように掲示されています。

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教室の背面掲示板
綾子踊りは、どのようにはじまったのだろう?
綾子踊 郷土学習読本3

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私が思っていた以上に、詳しく深く書かれています。これまでに「花笠作り」の含めて、綾子踊りのことを学習してきているようです。

今日のテーマ 綾子踊りがどうして変わらずに残ったのか考えよう。

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4年生の教室
「綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?」という発問に生徒達が考えます。

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綾子踊 郷土学習読本5

先生が生徒の意見を引き出して板書していきます。
綾子踊板書2

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アクティブラーニングで生徒同士が情報交換
ここで私の登場です。ここでは尾﨑清甫が残した文書に何が書かれているのかを中心に話しました。詳しくは以前にお話ししましたので、ここでは省略します。

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    尾﨑清甫が残した「雨乞踊請書類」の花笠寸法帳
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫

私の話を、先生は次のように板書にまとめられました。

綾子踊板書3

そして読本には、佐文綾子踊保存会の取組みが次のように書かれています。
綾子踊 郷土学習読本6

綾子踊 郷土学習読本8

小学校の授業に招いていただいて、綾子踊りの保存と継承に向けて、周囲の人達からの支援を改めて感じる機会となりました。長い目で見ると、こうしたとりくみを経て「佐文の綾子踊」から「まんのう町の綾子踊」へと成長していけるののかなとも思えてきました。感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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「綾子踊りがどうして変わらずに残ったのか考えよう。」全体板書
参考文献
香川大学教育学部社会科教育研究会 「香川県小学校社会科郷土学習読本 わたしたちの香川県



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オリンピック青少年センター
明治神宮に隣接するオリンピックセンターからバスで移動してきたのは
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日本青年館
全国民俗芸能大会にお呼ばれしてやってきました。この大会には、第40回大会にも参加しています。今回が第70回と云うことなので、約30年ぶりの参加になります。前回には、小学生の小踊りで参加していた子ども達が、いまは保存会の中心として担っていく存在になっています。

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午前中の10:30からリハーサルなので、9時に楽屋入りして着付けや化粧を開始します。

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日本青年館の楽屋での着付け
今年は4回目のお呼ばれ公演なので、着付けなどの準備もなれてきて、スムーズに進みます。


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後部客席からの入場
今回も入庭(いりは:入場)は、客席側からです。リハーサルなのでお客さんは入っていません。
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露払いを先頭に、ステージを一周して後方に一列に並びます。全国民俗芸能大会1
佐文綾子踊由来口上(保存会長)
この大会では、公演だけでなく「記録に残す」ということも目的のひとつになっているようです。そのため保存会長の口上などもリハーサルでは省略なしで、全部読み上げられました。できるだけ本番に近い形で、記録にのこしておきたいそうです。

綾子踊り由来昭和14年版
       雨乞踊由来(尾﨑清甫書:昭和14年版)
これを全部読み上げると、6分少々かかるので、短縮バージョンで対応することになりました。次は、棒と薙刀が踊る場所を演舞で確保します。そして、問答がはじまります。これも修験者たちの流儀を受け継いでいることは以前にお話ししました。民俗芸能を媒介した修験者や聖の存在が垣間見えます。

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棒と薙刀の問答
棒薙刀問答 尾﨑清甫まとめ版
棒薙刀問答(尾﨑清甫筆:昭和14年)
 いよいよ踊りのはじまりです。

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芸司(げいじ)の次の口上とともに踊りが始まります。
薙刀問答4 芸司口上1
芸司口上(尾﨑清甫筆:昭和14年)

普段は小踊りの子ども達は6人なのですが、直前にインフルエンザ感染などで、3人で踊ることになりました。

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「善女龍王」などの幟も2本、総勢34名でいつもの半分程度の編成になっています。
民俗芸能大会2
芸司の周囲に左から太鼓・鉦(僧服)・拍子(大団扇)・一番右が姫姿の大踊りが配されます。

民俗芸能大会4
芸司の左側

民俗芸能大会5
下手で待機する薙刀・露払い・幟持ち・法螺貝吹


民俗芸能大会6

本番の時間は50分です。最後に本番に向けての入場・立ち位置の確認が行われました。

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花笠を脱いで、最後の踊りの確認

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地唄の音量調整も行われます。
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余裕の笑顔です。準備完了

控室に帰って弁当を食べていると、記録のための係員がやってきて、用具や楽器を見せて下さいとのこと。廊下の床に団扇などを並べて寸法をはかり、イラストに書き上げていきます。

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団扇の寸法をはかり、イラストを仕上げていく記録員
研究者に聞くと、写真よりもイラストの方が特徴がよく掴めるそうで、図版に残しておくのも大切な作業のようです。

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質問を受ける太鼓
一方で、太鼓や笛・地唄などは、いろいろな質問を受けていました。
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質問を受ける笛
昼食後13:00開演。そのトップが佐文綾子踊りでした。残念ながら本番の写真は撮れていません。50分の公演後に、別室で文化庁や青年館などから表彰を受けました。

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いただいたペナントや感謝状
ペナントには第70回とあります。

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帰ってきて前回の平成2年にいただいたものを見てみると「第40回」とあります。佐文綾子踊りが、踊り継がれていることを実感できる記念品でもあります。30年間の間に、継承関わった人たちに感謝しながら青年館を後にしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


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「風流踊のつどい In 郡上」
やってきたのは岐阜県の郡上市。郡上市では「郡上踊り」と「寒水の掛踊り」のふたつの風流踊りがユネスコ認証となりました。それを記念して開かれた「風流踊のつどい In 郡上」に、綾子踊りもお呼ばれして参加しました。
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       郡上城よりの郡上市役所と市民ホール
2台のバスで総勢43名がまんのう町から約8時間掛けて移動しました。
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          郡上市役所と市民ホール
やって来たのは、市役所の下にある市民文化ホール。前日に、会場下見とリハーサルを行い、入庭(いりは)の順番や舞台での立ち位置、音量あわせなどを行いました。長旅の疲れを郡上温泉ホテルで流し、「郡上踊り」や「寒水の掛踊り」の役員さん達の親睦会で、いろいろな苦労話を聞いたり、情報交換も行えました。

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綾子踊の花笠(菖蒲の花がさされます)

8日(日)13:00からの開会式後のアトラクションで舞台に立ちます。小踊りの着付けには、1時間近くの時間がかかります。

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着付けが終わった大踊りの高校生と小踊り

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僧侶姿の鉦打ち姿の保存会長
今回は会場からの入庭(入場)でした。
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佐文綾子踊(郡上市)
残念ながら踊っている姿を、私は撮影できませんでした。動画はこちらのYouTubeで御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=-_tNK3DKbqU

前日のリハーサルでは、問題点が山積み状態だったのですが、本番では嘘のようにスムーズに進みました。わずか20分の舞台は、あっというまでした。着替えの後で、郡上市長さんからお礼の言葉をいただき、記念写真を撮りました。
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佐文綾子踊保存会(郡上市文化ホール)
 「風流踊り In 郡上」に招待していただいたことに感謝しながら
帰路に就きました。

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     佐文と象頭山
  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

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芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
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鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 昨年11月30日付で、佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、白川正樹会長が授与式に参加していだいてきました。そこ書かれていることを、翻訳アプリに読ませると次のように表示しました。

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風流踊り ユネスコ無形文化財認証状 
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
登録名は「Furyu-odori」です。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。
この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、文化庁の認可状です。
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ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」と明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
  全国の風流踊りを一括して、ユネスコ登録を実現させるというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てこないので、別途証明するために文化庁が発行した証書ということになるようです。
佐文綾子踊年表 重要無形民俗文化財指定に伴う後継者育成事業が今の綾子踊を支えている : 瀬戸の島から
 忘れられていた綾子踊りを「再発見」して、世に出してくれたのは中央の民俗芸能の研究者です。
幕末に編纂された西讃府誌に載せられていた綾子踊歌詞が、中世に成立していた閑吟集の中にあることを見つけます。そして、中世の風流踊りの流れを汲む踊りとして評価します。それを受けて、国や県が動き出すことになります。その中で大きな意味を持ったのが「国の重要無形民俗文化財指定(1976年)」だと私は考えています。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと
②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと
③全国からの公演依頼への補助金支出
④公開記録作成と「佐文誌」の出版
 こうして隔年毎に公開公演を行うこと、そのために、事前にメンバー編成を行い、踊りの練習を行うことが慣例化します。これが回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。

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綾子踊り(財田香川用水記念館にて)
 また、小踊りには小学生6人が、大踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという経験が蓄積されました。かつて小踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

 今年は、10月に郡上八幡、11月には東京の第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)の公演が予定されています。
33年前の第40回大会に出演し、この場で小踊を踊った小学生が、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。小・中学生達に大きな舞台に立つ経験を積むことも、綾子踊を未來につないでいく大切な手段のひとつだと思っています。綾子踊へのさまざまな人達からの支援に感謝します。
 

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 陶の親戚に盆礼参りに行くことを伝えると、「ちょうど滝宮念仏踊りのある日じゃわ。一緒に見に行かんな」と誘われました。実は、私は今まで一度も見たことがないので、いい機会だと思って「連れて行ってください。お願いします」と頼みました。
 今年になって佐文綾子踊りの事務的な御世話をすることになって、いろいろなことを考えるようになりました。この際、滝宮念仏踊りを見ながら、佐文念仏踊りについて考えて見たいと思ったのです。
 昼食を済ませて少し早めに会場に向かいます。

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てっきり、滝宮神社で踊られるものと思っていたら、昼の会場は滝宮天満宮でした。滝宮神社では、朝の8;30から奉納が行われていたようです。炎天下に朝昼のダブルヘッター公演です。演じる方は大変だと思います。
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滝宮天満宮に奉納された御神酒
  拝殿にお参りに行くと各踊組からの御神酒が奉納されてありました。一升瓶は12本あり、1本1本に奉納組の名前が書かれています。12組の踊組が出演することがわかります。例年は、3組ずつの公演なのですが、今回はコロナ開けの特別公演で、惣踊りになるようです。下側に張られたグループ分けの紙を見ると、3組ずつがグループとなって、4公演となるようです。

滝宮念仏踊り 御神酒
滝宮天満宮に奉納された12本の御神酒(西分奴組を含む)
第1組 北村 千疋  萱原
第2組 東分 山田上 山田下
第3組 西村 石川  羽床上
第4組 北村 小野  羽床下
これが江戸時代の「南条組」だったようです。南條組が、今は旧綾南・綾上町の11組に分けて、その中から毎年3組ずつが1グループとして奉納します。そして5年に一度、11組全部で踊る総踊りが行われているようです。滝宮天満宮に奉納されていた12本の御神酒は、「西分組 + 11組の踊組」からのもののようです。
 4年で一巡して、5年目が惣踊りということになります。
 ここでは、「旧南條組=現滝宮念仏踊り」で、それが11組に分かれていること。11組で4グループを作って、そのグループごとで毎年奉納していることを押さえておきます。この11組の念仏踊り組の総称が、現在は「滝宮念仏踊り」と呼ばれているようです。
 別視点から見ると、この11組は中世には滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)の信仰圏下にあったエリアで、踊り念仏が時宗の念仏聖によって伝えられた地域だと私は考えています。
幕末の西讃府誌には、滝宮念仏踊りのことが次のように記されています。(意訳)。
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳の時、①雨乞成就に感謝して、毎年7月25日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、②七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎、異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25日までは、③各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、④瀧宮踊と呼ばれている。

  整理・要約すると次の通りです。
①雨乞い踊りのために踊るとは書いていない。雨乞成就に感謝してとされていること。
②踊りを奉納するのは、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)の4ヶ所だったこと
③滝宮への奉納以前に、地元の各村神社に奉納されて、最後の奉納が滝宮牛頭天皇社であったこと。
④「滝宮念仏踊り」とは書かれていない。「瀧宮の踊り」「滝宮踊」であること

③には、17世紀には踊組は、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)がローテンションで務めていたとあります。七ケ村(那珂郡:まんのう町)と、北條組は今は奉納されていません。
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滝宮天満宮への滝宮念仏踊りの入庭(いりは)

西讃府誌を続いて見ていきます。
 この踊りは、普通の盆踊とは大きな違いがある。⑤下知(芸司)と呼ばれる頭目が、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや(南無阿弥陀仏)」と云いながら曲節に併せて踊る。
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。
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 滝宮念仏踊り 滝宮天満宮への入庭(いりは=入場)
⑤の「下知(芸司)の由来について、見ておきましょう。
 以前にお話した兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊の「頭目」は「新発意(しんほつい)」と呼ばれます。

百石踊り - marble Roadster2
      百石踊の「新発意(しんほつい)」は僧服

新発意(下司)役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧の姿を表したものとされます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」だと研究者は考えています。
 百石踊は僧侶の扮装をした新発意役(新参僧侶)が主導するので、「新発意型」の民俗芸能のグループに分類されるようです。滝宮念仏踊りや綾子踊りも「頭目=下知(芸司)」が指導するので、このグループの風流踊りに分類されます。ちなみに綾子踊りも言い伝えでは、空海が踊りを綾子一族に教えたとされます。空海が「頭目」として踊りを指導したことになります。つまり、このタイプの「頭目=下知(芸司)」とは、もともとは踊りを伝えた「芸能媒介者」は修験者や聖達だったと研究者は考えています。

それは、下司の着ている服装の変化からも裏付けられます。
①古いタイプの百石踊の「下司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で庄屋の格式衣装
③滝宮念仏踊りの下司(芸司)は、現在は陣羽織
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滝宮念仏踊りの入庭 陣羽織姿の下司たち
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、現代は金ぴかの陣羽織に変化してきたことがうかがえます。

隣にやって来た地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

 これを以前の私ならば「昔のままの衣装を引き継ぐのが大原則とちがうんかいなあ」と批判的に見たかもしれません。しかし、いまでは共感的に見ることができます。それは、ユネスコ登録が大きな影響を与えてくれたように思います。
風流踊り ユネスコ登録の考え方
ユネスコ文化遺産と無形文化遺産の違い

ユネスコ無形文化遺産の精神は、
「フリーズドライして、姿を色・形を変えることなく保存に努めよ」ではないようです。
ユネスコ

「無形文化財の変遷過程自体に意味がある。どのように変化しながら受け継がれてきたのかに目を向けるべき」といいます。
ユネスコ無形文化財の理念3

つまり、継承のために変化することに何ら問題はないという立場です。これには私は勇気づけられました。かすりや麻の裃にこだわる必要はないのです。金ぴかの陣羽織の方が「風流」精神にマッチしているのかもしれません。変化を受入れて、継続させていくという方に重心を置いた「保存」を考えていけばいいと思うようになりました。その対応ぶりが綾子踊りの歴史になっていくという考えです。

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「南無阿弥陀仏」幟(滝宮念仏踊り)

法螺貝が吹かれ、太鼓と鉦が鳴らされ、踊りが始まります。
3人の各組の下司が並んでおどりはじめます。西讃府誌には「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。」と記されていますが私には「なもあ~みどうや(南無阿弥陀仏)と聞こえてきます。これは念仏七遍返しといって、次のような文句を七回で繰り返すようです。
お―な―むあ―みどおお―え
お―な―むあ―みどお…え
お―な―むあ―あみどんどんど
は―なむあ―みどお―え
お―なつぼみど―え
は―な―んまいど―え
な―むで ノヽ /ヽ
単調なリズムの中で、下司が大団扇を振り、廻しながら飛び跳ねます。三味線のない単調さが中世的なリズムだと私は感じています。この踊りの原型が一遍や空也の踊り念仏で、それが風流化するなかで念仏踊りに変化していったと研究者は考えているようです。これも風流踊りの変遷のひとつのパターンです。

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下司達の惣踊り(滝宮念仏踊り)

もうひとつ気になるのは、江戸時代に那珂郡七箇村踊りが奉納していた踊りが念仏踊りだったのかという疑問です。
いまは「滝宮念仏踊り」と言われますが、西讃府誌には「瀧宮の踊り」「滝宮踊」とあります。江戸時代前半の史料にも、「滝宮念仏踊り」と表記されているものの方が少ないような気がします。そこで思うのが、ひょっとして、念仏踊りではなく、中には小歌系風流踊りを奉納していた組もあるのではないかという疑問です。特に七箇村の踊りが気になります。
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        滝宮念仏踊りのきらびかな花笠


以前にお話ししたように、国の無形文化財の佐文綾子踊りと七箇村の踊りは、ともに佐文がメンバーとして関わっていて、踊り手の構成が非常に近い関係にあります。七箇村の踊りは、佐文綾子踊りのように小歌系の風流おどりであった可能性があるのではと、私は考えています。つまり、奉納されていた踊りが、すべて念仏踊りではなかったという説です。これは今後の課題となります。
以上、滝宮念仏踊りを見ながら考えたことの一部でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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記念にいただいた滝宮念仏踊りの団扇です。

参考文献   綾川町役場経済課 ◎滝宮の念仏踊りの由来

Amazon.co.jp: 綾子踊 : 綾子踊誌編集委員会: Japanese Books
      祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)

綾子踊のユネスコ登録を前に、まんのう町は「祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史」という報告書を出しています。これはPDFでネットからダウンロードする事も出来るので簡単に手にすることができます。これが綾子踊に関する今の私のテキストになっています。この報告書末に、綾子踊の年表が掲載されています。今回は、これを見ながら綾子踊がどのようにして、再発見され継承されてきたかを見ていくことにします。

中世の雨乞い踊りについては、以前に次のようにまとめました。
①中世の雨乞祈祷は、修験者など呪力ある者のおこなうものであった。
②村人達は、雨乞成就の時に感謝の踊りを、郷社などの捧げた。
これは、滝宮神社に奉納されている坂本念仏踊りの由来にも「菅原道真の雨乞祈願成就への感謝のために踊った」とかかれていることからも裏付けられます。また高松藩は白峰寺に、丸亀藩は善通寺に、多度津藩は弥谷寺に雨乞祈祷を命じていたのです。これらの真言修験者系の寺院は、空海以来の善女龍王神への雨乞いを公的に行ってきました。ここには庶民の出番はありません。中世や近世までは、神に雨乞ができるのは呪力のある修験者などに限られていて、何の力もない庶民が雨乞いを念じても効き目はないというのが一般的な考えだったことを押さえておきます。村人が雨乞祈祷を行ったのではなく、その成就感謝のために踊ていたのが、いつもまにか雨乞い踊りと伝えられるようになっていることが多いようです。
綾子踊年表1
綾子踊年表
  前置きが長くなりましたが、綾子踊年表を見ていくことにします
年表の最初に来るのは、1875年(明治8年)7月6日の次のような記事です。
七月六日より大順をかけ、十三日踊願い戻し 又十五日、十七日より、夫より二度の願立てをなし、二十三日めなり。それより二十七日めなり。又、添願として神官の者より、自願かけ自願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり

意訳変換しておくと
7月6日に大願を掛けて、13日まで綾子踊を踊った。(それでも雨は降らないので)15日、17日に改めて二度の願立てをし直した。それでも雨は降らない。そこでさらに23日、27日に、添願として神官が自願した。自願後の8月3日に綾子踊を踊った所、十分の雨があった。これも踊りのご利益である

ここには次のようなことが記されています
①雨乞成就のために村人自らが綾子踊りを踊っていること
②7月6日に踊りを始めて、1週間連続で踊り続けたこと
③それでも降らないので願をかけ直し、さらに神官(山伏?)も雨乞祈祷した。
④その結果、雨乞い開始から約1ヶ月後に十分な雨が降ったこと
  最後は「踊りのご利益」としています。ここからは村人達が自分たちの力で雨を降らせたという意識をもっていたことがうかがえます。明治初年には、中世や近世の雨乞祈願とは異なる意識変化があったようです。自分たちで綾子踊を踊り、雨を降らせるというのは「近代的発想」とも云えます。しかし、頻繁にやってくる旱魃の度に、綾子踊りは踊られていたことを史料から確認することはできません。
 また、ここで注意しておきたいのは一番古い記録が明治初期のもので、それ以前のもにについては何もないことです。ここから綾子踊が実際に踊られるようになったのは、近世後半になってからだということがうかがえます。。
綾子踊り 善女龍王
善女龍王の幟(綾子踊・佐文賀茂神社)
 次に記録が残っているのは1934(昭和9)年のことです。
1934(昭和9)年7月16日 かんばつにつき加茂神社にて踊る
1939(昭和14)年かんばつにつき8月9日よりけい古
8月17日 加茂神社・龍王祠前で踊る
8月22日 自雨あり
9月 1日 雨あり
9月11日 お礼踊り

ここには、旱魃のために綾子踊りを踊るための次のような手順が記録されています。
 踊り実施決定 → 稽古 → 実施 → 降雨 → お礼踊り

しかし、本当に明治以後から戦前にかけて頻繁に綾子踊が踊られていたかどうかは、史料からは確認できないようです。
綾子踊りが世間から注目されるようになるのは、戦後のことです。それは、地元から動きではなく、外からの視線でした。丸亀藩が幕末に、各村々の庄屋に命じて提出させたレポートについては以前にお話ししました。そのレポートに基づいて、丸亀藩が編纂したのが西讃府志です。
幕末の讃岐 西讃府志のデーターは、庄屋たちが集め報告書として藩に提出したものが使われている : 瀬戸の島から

この時に、佐文村の庄屋は、綾子踊について報告しています。その中に、踊られる歌詞も記されていました。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志の佐文綾子踊についての記述
この歌詞に注目したのが、中央の研究者たちです。ここに収められている歌詞は、中世に成立した閑吟集に起源を持つものがあります。こうして綾子踊りは、中世に起源を持つ風流歌の系譜の上にあるとされるようになります。それを受けて地元でも、記録・復興に向けた動きが出てきます。そして、各地に招かれての次のような公演活動も始まります。

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綾子踊の芸司と子踊り

戦後の復活
1953年12月12日 十郷村文化祭出演(十郷小学校)
     12月13日 香川県公会堂出演(高松市)
1954年8月21日 香川県文化財に指定 綾子踊公開(加茂神社)
1955年3月9日 琴電会社映画撮影 綾子踊公開(加茂神社)
1955年4月2日香川県無形文化財に指定
9月5日  香川県農業祭出演
1960年1月28日 中四国民俗芸能大会出演(岡山市天満屋)
1962年10月30日 仲南村文化祭出演(仲南東小学校)
1966年     4月10日 宮田輝司会 NHKふるさとの歌まつり出演
1968年9月10日 佐文核子踊保存会会則制定
1970年1月21日 第12回香川県芸術祭出演(高松市民会館)
1971年4月11日 国の重要無形民俗文化財として文化庁認定
     8月16日 文化庁選択芸能公開 於加茂神社
1972年8月18日 NHK金曜広場出演(NHK松山放送局)
  8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
 11月19日 第15国香川県芸術祭出演(普通寺西中学校)
公開活動を通じて認知度を高め、「1955年 県無形文化財」に指定されます。しかし、これだけでは佐文住民とっては、あまり「意識変化」はなかったようです。大きなインパクトになったのは、1966年に宮田輝司会の「NHKふるさとの歌まつり」への出演です。NHKの人気番組に出演し、全国放送されたことは佐文住民にとっては、「自慢の種」となりました。認知度もぐーんと高まり、「佐文の誇り:綾子踊り」という意識が芽生え始めたのはこの当たりからです。
そして、71年には、国の重要無形文化財」に指定されます。注目度は高まり、NHKなどが頻繁に取り上げてくれるようになります。

綾子踊年表2
綾子踊年表2
1973年12月1日 仲南町文化祭出演(仲南中学校)
1975年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1976年5月4日 文化庁が重要無形民俗文化財第一回を指定する
        同日 佐文綾子踊が国の重要無形民俗文化財に指定
     6月19日 文化庁より重要無形民俗文化財指定証書交付
     9月 5日 重要無形民俗文化財指定記念事業により綾子踊公開(加茂神社)
76年から三年間、国の補助金を受け、伝承者養成現地公開記録作成事業推進.)
1977年8月14日 重要無形民俗文化財指定の記念碑除幕式と綾子踊公開(加茂神社)
 8月26日 伝承者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1978年9月3日 伝水者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1979年6月10日 香川用水落成記念式典出演(香川町大野小学校)
7月15日 綾子踊を含む佐文誌編集企画
1980年10月25日 中四国民俗芸能大会出演(高知市RKCホール)
1982年9月 5日 綾子踊公開(加茂神社)
1984年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
1986年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1988年7月21日 瀬戸大橋架橋博覧会出演(同博覧会場)
1990年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
    11月24日 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館)

綾子踊の継承にとって大きな意味をもつのが「1976年の国の重要無形民俗文化財指定」です。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①三年間、国の補助金を受け伝承者養成事業を行い、隔年毎の公開公演を佐文賀茂神社で行うこと
②公開記録作成を行うと共に、「佐文誌」編集出版
③全国からの公演依頼に応じて行う公演活動に対する補助金支出
こうして隔年毎に公開公演を行う。そのために事前にメンバーを組織して、踊りの練習を公開1週間前から行うことがルーテイン化します。。回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。また、子踊りには小学生高学年6人が、お踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという形が定着します。かつて、子踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

綾子踊り11
賀茂神社に向かう綾子踊の隊列(まんのう町佐文)

1990年代を見ておきましょう。

1992年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 1日 日韓中3ヶ国合同公演出演(県民ホール)
1994年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
1995年2月16日 NHKイブニング香川出演(佐文集荷場)
5月27日 第3回地域伝統芸能全国フェスティバル出演(サンメッセ香川)
1996年8月25日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 3日 ブレ国民文化祭総合フェスティバル出演(県民ホール)
1997年5月24日 第5回地域伝続芸能全国フェステンバル島根出演(出雲大社)
 8月31日 NHKふるさと伝承録画 賀茂神社
   10月25日 ブレ国民文化祭オーフニングフェスティバル出演(県民ホール)
1998年4月19日 国営讃岐まんのう公演フェスタ出演
 9月20日 仲南町民運動会40回大会出演(仲南中学校)
1999年10月30日 郷上民俗芸能祭出演(三木町文化交流ブラザ)
2000年8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
国指定25周年記念として新潟県柏崎市の綾子舞を招待し、競演
        ※以降、隔年で加茂神社にて公開

この時期は、重要無形文化財指定後に固定化した隔年毎の一般公開が継承されています。同時に、対外的な出演依頼に応えて、各地で公演活動を行っています。

2000年代を見ておきましょう。
2004年10月14日 中四国芸能大会(琴平町金丸座)
2017年11月12日 柏崎古典フェスティバル2017にて綾子舞と共演
2022年11月30日 ユネスコ無形文化遺産に登録
2023年10月 8日 郡上八幡 出演(郡上市総合文化センター)
               11月25日  第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)に出演

これを見ると、対外公演が激減していることが分かります。この背景には何があるのでしょうか?
考えられる事を挙げてみると
呼ぶ側の財政問題 佐文綾子踊は役目が多く、50人近い大所帯での公演になります。これを1泊2日で呼ぶと、交通費や宿泊費だけで100万円をこえる予算が必要になります。民俗芸能よりも経費がかからずに、人が呼べるイヴェント編成を考えるのは担当者としては当然のなりゆきです。

そんな中で、今年になって佐文綾子踊に公演依頼が次のように入っています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ中に大型イヴェントが実施できずに、財源が蓄積されていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が集まっていること。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。
①佐文賀茂鴨神社での隔年毎の公開公演
②対外的なイヴェントへの出演
これは綾子踊の後継者養成にとっては重要な柱なのです。 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館:1990年11月24日)に出演し、青年会館ホールで踊った子踊りのメンバーが、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。それから33年ぶりに日本青年会館で踊ることになりました。彼らが今後の綾子踊りの継承・保存の中核メンバーとなっていくはずです。そのためにも、小・中学生達に大きな舞台に立って踊る経験を積ませたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)
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昨年の2022年 11月30日付けで 佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、会長が授与式に参加していただいてきたのがこれです。

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ユネスコ世界無形文化資産 「風流踊」登録書

さび付いた私の頭は、英単語が消え去って判読不明。そこでスマホで写して、アプリに翻訳させると次のように出てきました。
                         
  ユネスコ無形文化遺産
このリストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。
風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。
日本の提案により「風流踊り」のリストへの登録を認証します。私たちは、文化的多様性の重要性の認識を高め、尊重する対話の促進に貢献します。
UNE事務局長    刻印日:2022年11月30日 

冒頭の「convention」には、「①慣習、しきたり②会議、集会③大会参加者、出席者」という3つの意味があります。よく使われるのは②の意味ですが、ここでは③の参加者・構成員の意味のようです。 「heritage」は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、後世に伝えるべき自然環境や、遺跡跡など、文化的、歴史的に受け継がれるものを指しています。例えば、「intangibie cultural heritage」で無形文化遺産という意味になるようです。
     
  そして登録名は「Furyu-odori」です。
その形容詞が「人々の願いや祈りが込められた神事の踊り」となっています。ここで気になるのは、ユネスコの認証状の中には「風流踊」とあるだけで、佐文綾子踊はどこにもありません。

もうひとつは、そのリストが日本政府によって提出された。それを、ユネスコが認めリストに登録したという形式がとられていることです。あくまで承認権者はユネスコなのです。ユネスコ世界遺産事業以後、ユネスコは権威を高めたように思います。遺産の保護活動以外に承認権者の地位を手にしたことが、その背景にはあるのではないかと私は勝手に考えています。
 この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、次の文化庁の書類です。
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綾子踊 文化庁の認証状
  内容的には、ユネスコ認証状の日本語訳版のようなものです。ただ、ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」が明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
文化庁のユネスコへの「風流踊」提案書には次のように記されていました。
内 容 華やかな、人目を惹く、という「風流」の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこ らして、歌や笛、太鼓、鉦(かね)などに合わせて踊る民俗芸能。除災や死者供養、豊作祈願、雨乞いなど、安寧な暮らしを願う人々の祈りが込められている。祭礼や年中行事などの機会に地域の人々が世代を超えて参加する。それぞれの地域の歴史と風土を反映し、多彩な姿で今日まで続く風流踊は、地域の活力の源として大きな役割を果たして いる。

  いくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、別途文化庁がそれを証明するために発行したのがこの証書ということになるようです。

どちらにしても、保存会会長からの指示は、これらに相応しい額を購入して、佐文公民館に掲げよというものです。早速、額選びにとりかかっています。この2つの証書を預かって、最初にしたのは、仏壇に供えることです。

そして、ユネスコ認証状がとどいたことを父に報告しました。父もかつては保存会会長を務めていたことがあります。2年に一度の地元の神社での一般公開や、東京や長岡での公演活動の準備に、尽力していた姿を思い出します。この知らせを歓んでいるはずです。
 今年は講演依頼がいつになく多い年になっています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ開けで、伝統芸能公演ラッシュとなっていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が高いこと。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。そのため公演メンバーが決められ、いろいろな下準備が進められています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

今年度から綾子踊りのスタッフに入ることになりました。その最初の活動が、財田の香川用水の水口祭への参加となりました。その様子をお伝えして、記録として残しておこうと思います。

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水口祭次第(6月11日 日曜)
阿波池田ダムで取水された香川用水が讃岐山脈をトンネルで抜けて、姿を見せるのが財田です。ここには香川用水公園が整備され、水口祭が毎年行われているようです。そこに綾子踊りも参加することになりました。
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佐文公民館 8:40出発
総勢36名がまんのう町の2台マイクロバスで出発です。
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やってきたのは財田町の香川用水公園。トンネルから姿を現した用水が、ここを起点に讃岐中に分配されていきます。会場は、紅白の幕が張ってある場所。まさに香川用水の真上です。その向こうには讃岐山脈が連なります。雨乞い踊りを踊るのは最適の場所かも知れません。
雨もあがったようです。天が与えてくれたこんな場所で、綾子踊りを奉納できることに感謝。

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控え室に入って、衣装合わせです。
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お母さん方の手を借りて、小踊りの小学生達の衣装が調えられていきます。
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こちらせは花笠のチェック。
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着付けが終わると、出演前に記録写真。
そして、会場に向かいます。
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踊りに参加する人以外に、それを支えるスタッフも10名余り参加しています。この日は総勢36名の構成でした。フル編成だと百人近くになります。

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小踊りのメンバーと最後の打合せです。
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いよいよ入場です
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かねや太鼓の素樸な音色が響きます。単調ですが、これが中世の音色だと私は思っています。
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踊りが始まります。芸司の団扇に合わせて、素樸な踊りが繰り返されます。しかし、踊りの主役は、小踊りの女装した男の子達です。中世の神に捧げる芸能では、小踊りは「神の使者」とされていました。小踊り以外は、私には「小踊りに声援をおくる応援団」にも思えます。
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新緑の中に、小踊りの衣装が赤く映えます。

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今回の公演は15分で、演目は3つ。あっという間の時間でした。
公演後に着替えて、うちたてのうどんをいただきました。

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 知事さんもうどんを食べていました。お願いすると気軽に写真に入ってくれました。参加者には、いい記念になりました。感謝

12:20 記念館を出発
12:40 佐文公民館帰着
13:00 弁当配布後に解散
以上、香川用水記念館の水口祭りへの参加報告でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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