瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:綾子踊りの里・佐文から > 綾子踊の歌詞

                 
綾子踊は、雨乞い踊りとされてきました。それでは、そこで歌われている地唄は、雨乞いに関係ある歌詞なのでしょうか。実は、歌われている内容は、雨乞いとは関係ない恋の歌が多いようです。
綾子踊りには、どんな地唄が歌われているのかを見ていくことにします。 綾子踊りには、12の地唄があります。その中で「綾子踊」と題された歌を見ておきましょう。

綾子踊り地唄 昭和9年
綾子踊地唄(尾﨑清甫文書 1934年版) 

尾﨑清甫が1934(昭和9)年に、残した「綾子踊」の地唄です。
歌詞の上に踊りの動作が書き込まれています。例えば、最初の「恋をして、恋をして」の所には、「この時に、うちわを高く上げて、真っ直ぐに立て捧げ、左右に振る」。「わんわする」で「ここでうちわを逆手に持ち替えて、腰について左に回る」、その後で「小踊入替」とあります。踊りの所作が細かく書き込まれています。一番を、意訳変換しておくと次のようになります。

綾子踊り地唄
綾子踊の1番
「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。「恋をして 恋をして ヤア わんわする。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。それを親は、夏やせだと思っています。「あじ(ぢ)きなや」です。「アヂキナイ」 とは情けないこと 、あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことです。恋やせなのに、夏やせとはあじけない。人の気持ちが分かっていない、情けないというところでしょうか。2番を見ておきましょう。

綾子踊り地唄2
綾子踊の地唄 2番

2番は①我が恋は夕陽の向こうの海の底の沖の石と歌います。これだけでは意味が取れないので、他の類例を見ておきます。備後地方の田植え歌には「沖の石は、引き潮でも海の底にあって濡れたままで乾く間もない」、千載和歌集には「沖の石は姿を現すことのなく、誰にも見えない秘めた恋」とあります。「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。これを参考に次のように意訳しておきます。

「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

綾子踊りの3番を見ておきましょう。
綾子踊り地唄3番

綾子踊り3番は、我が恋を細谷川の丸木橋に例えます。
これだけでは意味が分からないので、また類例を見ておきましょう。
平家物語には、「なんども踏み返され、袖が濡れる」、和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。転じて自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情が見えて来ます。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するものとして、当時の歌によく使われています。
ここからは「沖の石」や「細谷川の丸木橋」というのは、流行歌のキーワードで、「秘められた恋心」の枕詞だったのです。艶歌の世界で云えば「酒と女と涙と恋と」というところでしょうか。こうしてみると綾子踊りの歌詞には、雨乞いを祈願するようなものはないようです。まさに恋の歌です。

次に花籠を見ておくことにします。
綾子踊り 花籠2
              綾子踊地唄 花籠(尾﨑清甫文書 1934年版)
綾子踊り 鳥籠
花籠の意訳

この歌は、閑吟集(16世紀半ば)の一番最後に出てくる歌のようです。
綾子踊り 花籠 閑吟集

ここには「男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・」「花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性」という幻想的なイメージが浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。実は当時は「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があったようです。そういう視点からもう一度読み返すと、この歌は情事を描いたものと研究者は指摘します。愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、という内容になります。こういう歌が中世の宴会では、喝采をあびていたのです。それが風流歌として流行歌となり、盆踊りとして一晩中踊られていくようになります。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した歌詞が、地唄として踊られているというのが「無形文化財」だと研究者は考えています。


私の綾子踊りに対する疑問の一つが「雨乞い踊りなのに、どうして恋歌が歌われるのか」でした。
その答えを与えてくれたのは、武田明氏の次のような指摘でした。
雨乞いなのに恋の歌

 つまり、雨乞い踊りの歌詞は、もともとは閑吟集のように中世や近世に歌われていた流行歌(恋歌)であったということです。それがどのようにして雨乞い踊りになっていったのでしょうか。それを知るために佐文周辺の風流雨乞い踊を次回は見ていくことにします。

どうして綾子踊りに、風流歌が踊られるのか?


      諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
                   
中世以来、子松・真野・吉野郷で郷社に奉納されていた風流踊りが「那珂郡七か村念仏踊り」でした。
これは東西2組で構成され、二百人のを越える大部隊で編成されました。この2つの踊り組の西組は、下司(芸司)や子踊り・棒振・薙刀振・棒振りを佐文村が占めていて、佐文を中心に編成されていた組です。ところが19世紀末に、滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで西組は廃止され、1編成だけになります。そして佐文村のスタッフは、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文をめぐって何らかのトラブルや不祥事があり、その責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文衆にとって、これはある意味で屈辱的なことだったと思われます。それに対して、佐文が起こしたアクションが、新たな踊りを雨乞い踊りとして出発させるということです。こうして雨乞い踊りは生まれたのではないかというのが私の仮説です。
それでは綾子踊りは、どのようにして作り出されたのでしょうか。
新たな踊りを考える際に参考にしたのは、それまで自分たちが参加してきた「那珂郡七か村念仏踊り」です。もう一度、真野郷の諏訪大明神(諏訪神社)に奉納されていた「念仏踊図」を見てみましょう。この絵と現在の綾子踊りの共通点を挙げてみましょう。

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「七か村念仏踊り」の芸司(下司)と子踊り
①花笠をかぶった芸司が「月と星」の団扇をもって踊っている
②赤い花笠を被った六人の子踊り(稚児)がそれに従っている
③棒振と薙刀振が試技や問答を行っている
④棒付きが場内警備について踊り区域を確保している。
⑤幟持ちがいる。
ここからは佐文がメンバーとして参加していた「那珂郡七か村念仏踊り」から多くのものを学び、綾子踊りに引き継いでいることがうかがえます。荒っぽく云うと、役目や衣装は、「七か村念仏踊り」そのまんまです。ちがうのは、まわりに建てられた宮座衆の「見物小屋」だけとも云えそうです。この見物小屋を消して「これが江戸後期の綾子踊りです」と云われても「ああそうですか」と答えそうになります。ここでは、綾子踊りの役目や衣装・持ち物は「七か村念仏踊り」から引き継いだものであることを押さえておきます。DSC01887
七箇村念仏踊図の棒振りと薙刀振り

問題は、この絵図の題名が「諏訪大明神念仏踊之図」とあり、歌われていた風流歌は念仏系であったことです。
現在の綾子踊りは、以前にお話ししたように「瀬戸内海の港町ブルース」のように、男と女の情話が数多く歌われる風流踊歌です。これが「七か村念仏踊り」で歌われていたとは思えません。この風流踊歌は、どこからやって来たのでしょうか。
 
ここで思い出されるのが以前に紹介した、高瀬町上栂の昔話に伝えられる「綾子踊り」です。
そこには次のようなことが語られています。
①時代は、東山天皇の時代とされるので、17世紀後半の元禄年間のこと。
②綾子踊りを伝えたのは、流刑で流された京都の公家の娘・綾子姫。
③綾子姫が船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われ、高瀬の上麻に住み着いた。
④旱魃が続いたときに、人々はいろいろな雨乞祈願をしたが効き目がなかった
⑥そこで綾子姫は「京の雨乞い踊り」を、上栂で踊ることを思い立つ。
その制作過程を、次のように記しています。

 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が上麻の上栂に導入され経緯がうかがえます。
畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。
風流舞には、つぎのような融通性があったことは前々回にお話ししました
      「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

これは、雨乞い踊りにも適応されます。綾子姫が踊った踊りも、当時の流行っていた風流踊りであったことが予想されます。また、「綾子」という伝説上の人物を、取り去ってしまうと、当時の仁尾や観音寺・多度津などの港町で歌われていた風流踊歌が雨乞い踊りの中に「転用」されたことが考えられます。
 「上栂綾子踊り」の起源については、綾子自体が17世紀の人物になります。
また、「金毘羅神=海の神様」として登場します。金毘羅神が海上安全祈願の対象として世間に認知されるのは19世紀になってからであることは以前にお話ししました。ここからは、この物語が江戸時代後半になって作られたものであることが分かります。
 また京都や奈良などでは、雨乞いは真言僧侶や修験者(山伏)など呪力のある修行を積んだ人物が行うもので、雨が降った時にそれに感謝して踊るのが雨乞踊りでした。人々は「雨乞い祈願」のために踊っていたわけではないようです。「雨乞成就感謝」のために、自分たちが普段踊っていた風流踊りを踊ったのです。これは滝宮念仏踊りも同じです。坂本念仏踊りの由来には「菅原道真が祈願して雨が降ったことに感謝して踊る」と記されています。ここでも「降雨成就感謝踊り」であったことが分かります。
 ところが、「上栂綾子踊り」は、京から流刑された綾子姫が京都の雨乞い踊りを参考にして「創作」した踊りで、その目的は「雨乞い祈願」だったというのです。ある意味、民衆による民衆の手による雨乞いがここに生まれたと云えるのかもしれません。18世紀後半から19世紀にかけて上栂では、雨乞いのために綾子踊りが踊られるようになったとしておきます。
 以上をまとめておきます
①「上栂綾子踊り」の起源は、18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

上栂には、この「上栂綾子踊り」の祈念碑が戦後に建てられています。
そこには、佐文より前から綾子踊りを踊っていたことが記されています。綾子踊りの本家本元は上栂であるとの主張にも読み取れます。そうだとすると、上栂から佐文へはどのように移植されたのでしょうか。
 尾﨑傳次氏が書き写したという綾子踊りの由来には、弘法大師伝説が語られています。
それは旅の僧(弘法大師)が綾子に、踊りを伝授したという内容です。しかし、綾子踊りは中世の風流踊りで、歌われている歌も風流歌です。弘法大師のずーと後に作られたものです。弘法大師が生まれた時には、こんな歌や踊りもなかったのです。
 また「善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。」と雨乞いの神として善女龍王の力を讃えますが、この神も讃岐にもたらされるのは近世になってからであることは以前にお話ししました。つまり、この由来は古代にまで遡るものがなにもないことになります。描いた人物は弘法大師信仰をもつ山伏か聖が考えられます。
 
以上の状況証拠の上に、想像力を膨らませて綾子踊り誕生物語を描いて見ましょう。
山伏 七箇村念仏踊りの件の顛末については、聞きましたぞ。大変なことになりましたな。
庄屋 わたしども佐文にとっては厳しいお裁きです。棒付十人の参加しか認められなくなりました。
山伏 それは村の衆も気落ちしていることでしょう。
庄屋 その通りです。念仏踊りへ芸司や子踊りを出すのは佐文の誇りでもありまたので。若衆の中   には、棒振りや薙刀振りは憧れでもありました。それが出せないのは辛いことです。村の空気も沈んでしまします。
山伏 それでは、新しい踊りを佐文だけで始めてはどうですか。
庄屋 そんなことができるのですか
山伏 わたしがよく通う上栂では、新しく綾子踊りという雨乞い踊りを近頃、踊るようになっています。お上も毎年踊る盆踊りには目くじらたてて取り締まりも行いますが、日照りの時の「雨乞い踊り」と云えば、見て見ぬ振りをしているようです。
庄屋 はいはい、そのことは隣村なので知っております。それを佐文で踊るというのですか?
山伏 もちろん隣村で踊られているのを、そのまま佐文に持ってきて踊るのでは芸がありません。
庄屋 それでは、どうするのですが。
山伏 佐文には、今まで参加してきた「七か村念仏踊り」のやり方が伝わっています。衣装もあります。それを使って、踊りや歌はまったく別のものにするのです。上栂綾子踊りで歌われているものや、近辺の村々の盆踊りなどで踊られている歌や踊りを使えばいいのです。それは私が考えましょう。
庄屋 それはありがたいことです。村の衆の気持ちも、晴れるでしょう。よろしくお願いします。
こうして、佐文単独の雨乞い踊りである綾子踊りが、山伏の手でプロデュースされていきます。
    高瀬町史には、 寛政二年(1790)に大水上神社(二宮神社)に奉納された「エシマ踊り」が次のように記されています。
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
意訳変換しておくと
 羽方村(高瀬町)のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷に関する文書(森家文書「諸願覚」)
 旱魃の時に、羽方村の庄屋へ雨請いを願い出た。その際に上ノ村(財田町)と、お上から酒二本と御鯛五つが雨乞いのためにと捧げられた。頂戴の役人と太左衛門が罷り出で、代銀で羽方村に下された。雨請いについては、村々でそれぞれのやり方で行うようにと仰せ付けられた。そこで、7月7日、ニノ宮社の神前、千五百御神前、金出水神二高松王子でエシマ踊りを興行した。踊り子は30人ほどで、歌い手は6人、肝煎、触れ頭サシ、村中は今通りで、百姓・役人・寺社・庄屋が立ち合って奉納した。寺社は御初尾米一升宛と御神酒を御神前え供え、寺社への礼については相談の上で、米五升ほどを送ることを協議手して決めた。この神前への支度供えについては次の通りである。(以下略)

ここには、干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞い踊りが興行されたことが記されています。それに対して、藩からもお供え物が送られ、雨乞い祈祷のやり方については、それぞれの村のやり方で置こうなうように指示されたとあります。

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大水上神社境内の千五百王皇子祠

そこで、羽方村では二宮神社、境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。ここからは雨乞祈願に関しては、踊りを踊ることも含めて各村の独自性に任されていたことが分かります。
エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。
どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。しかし、盆踊としても当時三豊周辺で踊られいた風流系小歌踊の可能性が高いことは、財田の「さいさ踊り」と、綾子踊りに共通する歌がいくつもあることから推測できます。ここからは次のような流れも考えられます。

①京の風流踊り
②瀬戸内海の港町で女達が踊った風流踊り
③港町の後背地への風流踊りの拡大
④雨乞い踊りへの転用とエシマ踊りの誕生
⑤高瀬町麻上栂の「綾子踊り」
⑥佐文綾子踊り

以上をまとめておくと
①「七ヶ村念仏踊り」の中心的な存在を追われた佐文は、新たな雨乞い踊りを作り出した
②その際に役目や衣装、隊系などは今まで参加していた「七ヶ村念仏踊り」を継承した。
③一方、踊りや歌に関しては、高瀬の二宮神社に奉納されていた「エシマ踊り」のものを採用した。
④その結果、服装や役目など見た目には「七ヶ村念仏踊り」に近い形で、歌や踊りは風流系のものが採用されることになった。
こうして、綾子踊りは「七箇村地か念仏踊り + エシマ踊り」というスタイルになった。

こうして誕生した綾子踊りは、次のように今までにない風流踊りの性格をもちます。
①雨乞成就感謝の躍りではなく、農民が雨乞い祈願のために踊る雨乞祈願の踊りであること。
②宮座制でなく、盆踊りのように誰でもが参加できる風流踊りであること。
②については、綾子踊りの由緒書きの中に、次のように記します。
    降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はない。

ここにも、中世的な宮座制から村人全員参加制への転換が、この機会に行われたことがうかがえます。以上は、私の推論であくまで仮説です。事実ではありませんので悪しからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊りユネスコ登録
 綾子踊りのユネスコ登録が間近と言われます。それは全国の「風流踊」のひとつとして登録されるようです。雨乞い踊りも風流踊りのひとつのジャンルとして分類されていることをおさえておきます。綾子踊で歌われている歌も風流踊歌のひとつということになります。
たまさか
綾子踊歌 たまさか(邂逅)
 前回までの綾子踊歌を見てみて気づいたことは、歌詞の中に雨乞いについての内容は、ほとんどないことです。
ほとんどが瀬戸内海を行き交う船と、船乗りと港の女達の恋歌や情歌で、まるで演歌の世界でした。その内容も、わかったような、分からない歌が多いのです。その理由のひとつが、歌詞の意味を伝えようとするのが主眼ではなく、当時流行の風流なフレーズが適当に繋がれているからでしょう。まるで、サザンオールスターズの歌詞のようです。意味不明で、適当な固有名詞やフレーズが雰囲気を作り出していくのです。そのため、解釈せよと云われても、「解釈不能」な歌も数多くありました。最初は、もともとの歌詞が歌い継がれる中で、崩されり、替え歌となって、こうなったのかと思っていましたが、そうではないようです。どうしてこんな歌詞が雨乞い踊りとされる綾子踊りに歌われるようになったのでしょうか。

綾子踊り風流パンフレット

風流踊歌には、次の3系統があると研究者は考えています。
①田楽系統
もともとは広島の囃子田のように太鼓を打ってはやす田の行事が、丘に上がって風流化したもの
②念仏踊系統
中央に本尊を置いて、その周りを念仏を唱えながらめぐる一遍の念仏踊りが風流踊となったもの
③疫病神送り乱舞が風流踊化したもの
  風流踊りの特徴の一つが、老若男女が誰でも参加して踊るという点にあります。  それは以上の3つの系統が入り交じっていることが、それを可能にしていると研究者は指摘します。風流踊については①②については、なんとなく知っていました。しかし、③の「疫病神送り乱舞が風流踊化したもの」という系統については、私は知りませんでした。この系統について見ておきましょう。

京都やすらい踊り

風流踊りでよく知られているのは、京都の「やすらい花」です。
 春に花が散る際に疫神も飛び散ると言われ、その疫神を鎮める行事として行われきたと言われます。現在の行事について、今宮神社のHPには次のように記されています。
 (前略)
 祭の中心は「花傘」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)位の大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿を挿して飾ります。この傘の中に入ると厄をのがれて健康に過ごせると云われています。
祭礼日は町の摠堂に集まり「練り衆」を整え街々を練りながら当社へ向かいます。春の精にあおられ陽気の中で飛散するといわれる疫神。「やすらい花や」と囃子や歌舞によって疫神を追い立てて、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込みます。花傘に宿った疫神は、摂社疫社へと鎮まり、この一年の無病息災をお祈りしています。
    今宮神社の境内では、2組8人の大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納します。桜の花を背景に神前へと向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、“やすらい花や”の声に合わせ安寧の願いを込めて踊ります。
 ここからは、花を飾った風流花傘を中心に行列を組み、町の辻々で踊りながら今宮神社境内の疫神社に送るというものであることが分かります。
やすらい祭

この祭りの起源については、鳥羽法皇が亡くなり、保元の乱が起きた1156年3月に京中の子ども達が柴野神社に参って、太鼓や笛を鳴らして乱舞したのが始まりとされます。風流の花笠を指し飾って、みんなが声を揃えて次のような風流歌を歌いながら踊ったとあります。
はなやさきたるや やすらい花や
やとみくさの花 やすらい花や
 梁塵秘抄口伝集巻第十四「花笠、歌笛太鼓」には、柴野神社の踊りが次のように記されています。
「ちかきころ久寿元年(1151年)三月のころ、京ちかきもの男女紫野社へふうりやうのあそびをして、歌笛たいこすりがねにて神あそびと名づけてむらがりあつまり、今様にてもなく乱舞の音にてもなく、早歌の拍子どりにもにずしてうたひはやしぬ。その音せいまことしからず。
傘のうへに風流の花をさし上、わらはのやうに童子にはんじりきせて、むねにかつこをつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、悪気(原註:悪鬼とも)と号して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて十二月のおにあらひとも申べきいで立にておめきさけびてくるひ、神社にけいして神前をまはる事数におよぶ。
京中きせん市女笠をきてきぬにつつまれて上達部なんど内もまいりあつまり遊覧におよびぬ。夜は松のあかりをともして皆々あそびくるひぬ。そのはやせしことばをかきつけをく。今様の為にもなるべきと書はんべるぞ。」
意訳変換しておくと
「久寿元年(1151年)3月頃、京周辺の男女が紫野社へ風流踊り服装で、歌や笛太鼓、摺鐘などを持って「神あそび」と称して群がり集まっている。今様でもなく、乱舞の音もなく、早歌の拍子どりともちがって歌い囃す。その調子は今までに聞いたことがない。
傘の上に風流の花を指して、童子に「はんじり」を着せて、胸に「かつこ」をつけて、数十人で拍子に合せて乱舞のまねをして、悪気(悪鬼)という鬼の姿をした赤い垂れを首につけて、魚口の貴徳の面を被って12月の鬼洗いのような姿で現れ、わめき叫び狂う。そして神社に参り、神前を回ること数度におよぶ。
京中の貴賤が市女笠を被って、この様子を見に来る。夜は松のあかりを灯して、皆々が遊び狂う。その時に歌われることばをここに書き付けておく。それが今様の為になるかもしれない。」
柴野の今宮さんは、もともとは疫病神でした。
疫病神を祀って疫病が流行らないことを祈ったことになります。これがやがて年中行事になります。その季節が、花の散る頃なので「鎮花(はなしずめ)祭」という雅な言葉で呼ばれるようになります。平安の現実と、それを伝えるフレーズはかけ離れていることに、驚かされます。
ここで注目したいのは「はなさきたるや」の風流踊歌です。
この歌はもともとは、美濃の田歌だと研究者は指摘します。どうして田歌が、疫病神送りに歌われるようになったのでしょうか? これに対して研究者は次のように答えます。
  「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

  この答えには、私は拍子抜けしてしまいました。疫病神送りには、それなりの「テーマソング」が考えられ、そのテーマに沿った歌詞が歌われているものという先入観があったのです。しかし、当時は、参加者のよく知っている流行歌でもよかったのです。そのために疫病神送りに、「はなやさきたるや やすらい花や」という雅な歌が歌われたのです。このミスマッチが「鎮花(はなしずめ)祭」という名称とともに、私たちにシュールさを感じさせるのかも知れません。一昔前なら、村の盆踊りに、流行の昭和演歌が歌われ踊られたのと似ているようにも思えます。
鹿島踊り(伊豆)
鹿島踊り(伊豆)
もうひとつ「鹿島踊り」を見ておきましょう。
 鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があるようですが、今では茨城県鹿島神宮では踊られていません。相模湾沿いに小田原市から伊豆東海岸一帯にかけて21ケ所の神社で伝承されていますが、本家の茨城県鹿島神宮には今は伝承されていません。伊豆の鹿島踊りは、歌も、踊りも、衣装も、よく似ているので、そのルーツは一つのようです。白丁という白装束で、踊り手がけがれない白の乱舞を見せてくれます。
 鹿島踊りのルーツは、その名の通り常磐の鹿島地方にあるようでが、ここでは、疫病神や疱瘡神を送るために弥勒歌が歌われていました。弥勒歌とは、弥勒の来訪を賛美する祝歌です。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊るのですが、その発祥の地が鹿島なので鹿島踊りとも呼ばれたようです。疫病神送りに、祝歌というのもミスマッチのような気がしますが、ここでも先ほどの「参加者が知っている歌ならなんでもOK」というルールが適用されたようです。

現在伝わっている風流踊歌の中には、次のような点が見えると研究者は指摘します。
①踊り手自身がアドリブ的に、互いに歌い返すタイプ
②音頭的に、歌詞がどんどん継ぎ足されて、延々と詠い踊られるタイプ
こんなタイプは、踊り手と歌い手が一緒なので、踊るだけでなく、歌も満足しようとする気持ちが強かったようです。そのため踊歌には長いものが選ばれる傾向があります。そして、その延長線上には、知っている歌なら何でも、歌って踊ってみようということになります。これはかつての田舎の盆踊りと一緒です。最初はお決まりの歌詞がありますが、次第に飛び込みでアドリブ的な歌が歌われ、その内に流行演歌などが歌われるようになります。先祖供養というよりも「デスコ的雰囲気」が生まれ、「なんでもありあり」状態になります。これが雑多な庶民性で、新たな創造物が生まれ出す源になったのかもしれません。
  「疫病神送りの乱舞(風流踊)には、何を歌ってもOK」という指摘を受けて、綾子踊りの成立について、次のような過程を考えてみました。
①瀬戸内海を行き来する船乗りと港の女の恋歌や情歌が風流歌として、各港を中心に広がった。
②多度津や仁尾・観音寺などの港町の女達が歌った風流踊歌がその後背地に拡大した。
③そして郷村の盆踊りなどに、風流踊歌が「転用・混在」することになった。
④その例が、真野郷の郷社である諏訪神社に奉納された「那珂郡七か村念仏踊り」で、これは念仏系の風流踊りであった。
⑤この踊りは真野郷の村々で編成され、宮座によって運営された。
⑥「那珂郡七か村念仏踊り」、各村々の鎮守社にも奉納され、最後に牛頭天王を祭る滝宮神社にも奉納されるようになった。
⑦については、三豊市財田町のさいさい踊りの歌詞の中に、綾子踊りと共通するものがあることなどからもうかがえます。同じような風流踊りが中世の三豊やまんのう町周辺では歌い踊られていたのでしょう。それが盆踊歌に「転用・混合」されて入り込み、神社などに奉納されるようになった。
 南北朝統一から応仁の乱、明応の政変と戦乱の中で庶民が力を蓄えるようになります。そんななかで、一遍が普及させた踊り念仏が、庶民の民間信仰に娯楽を伴う念仏長田となり、盂蘭盆会と結びつくようになります。そして、それは当時の人の意表をついた派手な様相である風流(ふりゅう)とも合流し、いろいろな風流踊りが誕生します。さらに、江戸時代になると盆踊りに風流踊歌が取り込まれていくようになります。そのような流れの中で綾子踊りも生まれたようです。

風流踊り

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  本田安次「風流踊考」
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綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 綾子踊り 六調子
綾子踊り 六調子

五嶋(ごとう)しぐれて雨ふらはば  千代がなみたと思召せ    千代がなみたと思召せ
ソレ リンリンリンソレリンリンリンソレリンリンリン

八坂八坂が七八坂 中の八坂が女郎恋し 中の八坂が女郎恋し
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン

雨もふりたが水も出た 水も出た 渡りかねたが横田川 渡りかねたが横田川
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン
意訳変換しておくと
(一)女 あなたが帰ってゆく道中、時雨が来たら、それは、わたし(千代)が、別れを惜んで流す涙だと思って下さい。
(二)男 道中の坂を越えるたびに、あなたへの恋しさが募るばかり)
(三)男 帰りの道中、横田川を渡りかねています。そのわけは、雨が降り水量が増したからばかりではなさそうです。あなたの宴でのおもてなしが、とてもたのしかったから、お別れがつらいのです。

六蝶子には「勇ましくうたう。速い調子でうたう。」という注がついています。
「六蝶子」は「六調子」です。1番の歌詞から見ていきましょう。最初に出てくる「ごとう=五島」のようですが、九州長崎の五島列島を中心とする島々なのかどうか、よく分かりません。登場する「ちよ」は女性名で、後朝(きぬぎぬ)の別れの台詞です。千代が名残惜しんで歌います。「ちよ」は、この歌の歌い手(自身)です。
2番の「七坂八坂と越えて行く」の歌い手は、「ちよ」と別れてゆく男の科白です。七坂八坂と越えて分かれていく「千代」との別れを詠います。
3番目では、大雨となって道中の横田川が増水して超すに越せない状態になったようです。恋の名残が暗にうたわれているようです。千代と別れて帰る男の道行。別れが辛くて恋しさが募ってくるという所でしょうか。

  ○ごとう(語頭)がしぐれて雨ふらす 
  これもをどり(踊り)のご利生かや

◎千代の男を送り出す別れ涙が雨となった。別れ雨は「涙雨」で、「七坂八坂」の坂を、別れ難くて、越えかねるというの心情が伝わってきます。この心情は、現在の演歌で詠われる「酒は女の涙か、別れ雨」的な心情に受け継がれてきています。こんな歌が、どんな場面で歌われたのでしょうか?
六調子は「酒宴歌謡」で、中世には宴会で踊り付で詠い踊られたと研究者は考えています。
①「ごとうしぐれて」 =送り歌
②「八坂八坂」 =立ち歌
③「雨もふりたつ」 =立ち歌
さらに酒宴の送り歌と立ち歌の関係で見ると、次の通りです。
○もはやお立ちかお名残り惜しや もしや道にて雨などふらば(大分県・直入郡・送り歌)
○もはや立ちます皆様さらば お手ふり上げて ほろりと泣いたを忘りようか(同。立ち歌)
宴会もお開きとなり、招待側が送り歌を歌い、見送られる側が席を立って「立ち歌」を歌います。

「六調子」は、次のように各地に伝わっています。
①広島県・山県郡・千代田。本地・花笠踊・六調子(本田安次『語り物風流二』)
②広島県・山県郡加計町「太鼓踊」。六調子(同)
③広島県・安芸郡田植歌の六調子。(『但謡集』)
④山口県・熊毛郡・八代町・花笠踊・六調子踊(本田安次『語り物風流二』)
⑤熊本県・人吉市・六調子は激しいリズムで、ハイヤ節の源流ともされる。
⑥鹿児島県・熊毛郡の六調子。岡山県の「鹿の歌」の歌を「六調子」と呼ぶ。(『但謡集』)
六調子は、調子(テンポ・リズム)のことで、綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたわれる記されています。

中世の酒宴の流れを、研究者は次のように図解します。
綾子踊り 六調子は宴会歌

酒宴(酒盛)は歌謡で始まり、やがて座が盛り上がり、時が流れて歌謡で終わります。祝いやハレの場の儀礼的な色合いの濃い酒宴においては、次のように進行されます。
①まずめでたい「始め歌」があり、人々の間にあらたまった雰囲気を作り出す
②次にその時々の流行小歌や座興歌謡として、参加者によって詠われる。
③宴もたけなわになると、酒宴でのみ歌うことを許されている卑猥な歌やナンセンス歌謡、参加者のよく知っている「思い出歌謡」なども詠われる。
④最後に終わ歌が詠われる。

①では、迎え歌に対して、招いてくれた主人やその屋敷を讃めて挨拶とする客側の挨拶歌謡があって、掛け合いとなります。
②の終わ歌は、送り歌と立ち歌が詠われます。これも掛け合いのかたちをとります。

 このように中世の宴会場面で歌われたものが16世紀初頭に当時の流行歌集『閑吟集(かんぎんしゅう)』に採録されます。
   南北朝から室町の時代になると白拍子や連歌師、猿楽師などの遊芸者が宮中に出入りするようになり、彼らの歌う小歌が宴席に列する女中衆にも唄われるようになります。それらを収めたのが『閑吟集』です。流行歌集とも言える閑吟集が編纂されたのは、今様集『梁塵秘抄』から約350年後の室町時代末期(16世紀初頭)のことです。  
 巫女のような語り口調で謡わているのが特徴のようですが、後の小唄や民謡の源になっていきます。これらの小唄や情歌は宴会歌として、人々に歌い継がれ、船乗りたちによって瀬戸の港町に拡がり、風流踊りの歌として、「盆踊り」や「雨乞い踊り」などにも「転用」されていったようです。
綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたうと注記されています。ここまでの歌と踊りは、緩やかですがこの当たりからアップテンポにしていく意図があるのかも知れません。詠われる内容も「別れの浪が雨」で「大雨となって川が渡れない」です。雨乞い歌に「転用」するにはぴったりです。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

 DSC07257
綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
綾子踊りに詠われている歌詞の内容について、前回までは見てきました。そこには中世の小歌などに詠われた瀬戸内海を行く船や港町の様子、そして男と女の恋歌が詠われていました。雨乞い踊りの歌なので祈雨を願う台詞がでてくると思っていたので、ある意味期待外れの結果に終わっています。
 さて今回は6番目の「たまさか(邂逅)」です。
たまさか
綾子踊り たまさか(邂逅)

一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番の「解釈」を見ておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でしたから、私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っている様のようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。用例は次の通りです
○かづいた水が、ゆりゆりたぶつき(『松の葉』・巻一・裏組・賤)
○許させませよう 汲んだる水は ゆうりたぶと、とき溢れる(広島市・安芸町・きりこ踊『芸備風流踊り歌集』)
この歌の題名は「たまさか(邂逅)」ですが、これは「たまたま。まれに」という意味のようです。
○恋ひ恋ひて、邂逅に逢ひて寝たる夜の、夢は如何見る、ぎしぎしと抱くとこそ見れ(今様・『梁塵秘抄』・四六〇番、
○思ひ草 葉末にむすぶ白露の たまたま来ては 手にもたまらず
(『金葉和歌集』・巻七・恋・源俊頼)
○恋すてふ 袖志の浦に拾ふ王の たまたまきては 手にだにたまらぬ つれなさは(『宴曲集』・巻第三・袖志浦恋)
○枯れもはて なでや思草 葉末の露の、玉さかに 来てだに手にも たまらねば(同・巻第二・吹風恋)
以上を見てみると「たまさかに」は、港や入江の馴染みの女達・遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面だと研究者は推測します。なじみの男に、対して話しかけたことばが「たまさかに」で、女達の常套句表現だったことがうかがえます。
○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)
この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評しています。何度も読み返してみると、なるほどポルノチックにも思えてきます。それを堂々と詠っているのが中世らしい感じがします。「たまさかに」という言葉は、当時は女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。

DSC07251
綾子踊り
  それを理解した綾子踊りの歌詞を改めて見てみましょう。
1番が「たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ」で、たまたまやってきた男と、夜明けの鐘が鳴るまで・・・」とあからさまです。
2番の歌詞は、「ここに寝よか ここに寝よか さて菜の中に しかも御寺の菜の中」と続きます。アウトドアsexが、あっけらかんと詠われています。丸亀藩の編纂した西讃府志には、初期のものには載せられていますが、後になると載せられていません。艶っぽすぎで載せられなかったと私は考えています。そして、この歌詞をそのまま直訳して載せることは、町史などの公的な機関の出す刊行物では、できなかたのかもしれません。それほど詠われている内容はエロチックを越えて、ポルノチックでもあるのです。
綾子踊り たまさかに2
遊女と船乗りの男との「たまさか」の世界を見ておきましょう。
たまさかは、遊女達が男たちに対して、口にしていた常套句でした。酒盛りや同衾する男へ、遊女がその出逢いを、「たまさかの縁」「たまさかに来て」と言った伝統があるようです。
『万葉集』以来の雨乞風流踊歌・近世流行歌謡に出てくる「たまさかの恋」の代表的なものは次の通りです。
古代
○たまさかに我が見し人をいかならむ よしをもちてかまたひとめ見む(『万葉集』・巻十一・二三九六)
中古中世
○恋ひ恋ひて 邂逅(たまさか)に逢ひて寝たる夜の 夢は如何見る ぎしぎしぎしと抱くとこそ見れ(『梁塵秘抄』・二句神歌・四六〇番
中世近世
〇たまさかに逢ふとても、猶濡れまさる袂かな、明日の別れをかねてより、思ふ涙の先立ちて(『艶歌選』・3番)
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綾子踊り
3番の歌詞に出てくる「せはせはと」を見ておきましょう。
「閑吟集』には、次の小歌があります。
○男 わごれうおもへば安濃の津より来たものを をれふり事は こりやなにごと(77)
○女 なにをおしやるぞ せはせはと うはの空とよなう こなたも覚悟申した(78)
意訳変換しておくと
男「おまえのことを思って、安濃の津よりわざわざやってきたのに、その機嫌の悪さは何事か」
女「何をおっしゃるのか せはせはと・・」と女が言い返しています。
「せはせはと(忙々)」とは「せわせわしい人。しみったれて こせこせしており その態度のいやらしい人」の意味で使われています。言いわけをしたり、しみったれたことを言ったして、なかなかやって来なかった男をなじっているようです。それが小歌になって、宴会の席などで詠われていたのです。ちなみに、このやりとりからは、男は安濃の津の船乗りで、その女は馴染の人、または遊女かそれに近い存在と研究者は推測します。
せわせわの類例を見ておきましょう。
○何とおしやるぞ せわせわと 髪に白髪の生ゆるまで  (兵庫県・加東郡・百石踊・『兵庫県民俗芸能誌』)
○うき人は なにとおしやるぞ せわせわと 申事がかなうならば からのかゝみ(で)、ななおもて  (徳島県・板野郡・嘉永四年写『成礼御神踊』)


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綾子踊り
佐文に近い三豊市財田町「さいさい踊」には、「豊後みさきおどり」が伝承しています。
ぶんごみのさき からのかがみは のをさて たかけれど みたいものかよ のをさて 
ぶんごみのさき ぶんご女郎たち 入江入江で 船のともづなに のをさて 針をさす
船のともづなに のをさて 針をさすよりも あさぎばかまの のをさてひだをとれ なおもだいじな のをさて すじの小袴
意訳変換しておくと
豊後の岬 唐の鏡は美しく磨かれ 高価だけれども 見たいものよ、 
豊後の岬 豊後女郎たちは 入江入江で 船のともづなに  針をさす
船のともづなに  針をさすよりも 浅黄袴ひだをとれ なおもだいじな  すじの小袴

詠っているのは、船乗りの男です。詠われている「ぶんご女郎」は、豊後の入江入江の港に、入港する船を待っている女達です。船乗りたちからすると、恋女であり、馴染の女性で、つまり遊女です。研究者が注目するのは、「船のともづなに針をさす」という行為です。これには、どんな意味があったのでしょうか?
参考になるのが 三豊郡和田雨乞踊歌「薩摩」の、次の表現です。
①薩摩小女郎と 一夜抱かれて朝寝し(て)起きていのやれ ボシャボシャと薩摩のおどりを一踊り
②薩摩の沖に船漕げば 後から小女郎が出て招く 舟をもどしやれ わが宿へ 舟をもどしやれ わが宿ヘ
この歌に詠われているのは、港町での船乗りの男達と、港の女達との朝の別れの場面です。船出した舟を曳き戻し、船乗りの男を我がもとに留めておこうとする遊女の姿がうたわれています。そのひとつの行為が、船のトモ綱に針を刺す「呪術」だったと云うのです。男たちを行かせまいと、遊女は船のとも綱に針を刺し留めようとしたのです。これは遊女達の間に、受け継がれてきた「おまじない」だったのでしょう。遊女が男の心意と行動を、恋の針でしっかりと刺して、射とめる呪的行為としておきましょう。こんな行為は、歴史の表面や正史には現れません。浦々の女達の、その世界だけの「妖術」とも云えます。そんな行為が、風流歌には「化石」となって残されています。綾子踊歌「たまさか」は、瀬戸内海を行き来する廻船と女達の「入江の文化」を、伝えているといえそうです。
 これらの小歌が讃岐の港町でも宴会の席などでは、船乗りと女達の間で詠われたのでしょう。
観音寺や仁尾・三野の港町に伝えられた小歌や風流踊りが、背後の村々にも伝えられ、それが盆踊りとして踊られ、神社に奉納されるようになったと推測できます。中世の郷社では、この風流踊りの奉納は宮座によって行われていました。そのため神社の境内には、宮座を形成する有力者が桟敷小屋を建てる権利を得ていたことは以前にお話ししました。今では村の鎮守の祭りは、ちょうさや獅子舞が主流ですが、これらが登場するのは近世後半になってからです。中世の郷社では、風流踊りが奉納されていたことを押さえておきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪神社の風流踊り(まんのう町真野 19世紀半ば)

 それを示すのが財田の「さいさ踊り」や綾子踊りであり、諏訪神社(まんのう町真野)の風流踊りということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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今までに12ある綾子踊歌の4つを見てきました。
「1水の踊り」「2 四国船」は、瀬戸内海航路の港や難所、そして、水夫たちが歌われて「港町ブルース」の世界でした。「3綾子」には、綾子の恋の歌で、「4小鼓(こづつみ)」は、情事を詠った艶っぽい歌でした。ここまで見る限りは、雨乞いを一生懸命に祈る、願うというような歌は見当たりません。そろそろ「雨乞い歌」らしい台詞が出てくるのでしょうか。
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花籠

今回は5番目に踊られる「花籠」を見ていくことにします。

綾子踊り 花籠
綾子踊り 花籠
一、花寵に 玉ふさ入れて もらさし人に しらせしんもつが辛苦の つんつむまえの ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ ソレ うきや恋かな せうたいなしや うきや恋かな たまらぬ ハア とに角に
二、花寵に 我恋いれて もらさし人に 知らせしん もつがしんくの つむ前の ヒヤ 一花つむ前の ヒヤ ソレ  つきや恋かな せうたいなしヤ  うきや恋かな砲まらぬ ハア とに角に
三、花寵に うきなを入れて もらさし人に しらせしん もつが辛苦の つむ前の ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ うきや恋かな  せうたいなしや  うきや恋かなたまらぬ ハア 兎二角に
意訳変換しておくと
花籠に恋文を入れて、人には知られないようにと、秘めておくのは、辛いことだよ。しかし、花籠では、すぐに漏れてしまいますよね.

花籠に入れるものが「たまふさ(恋文)→ わが恋 → 浮き名」と変化していきます。この花籠の原型は、 『閑吟集』の中にあると研究者は指摘します。
中世の歌謡 『閑吟集』の世界の通販/真鍋 昌弘 - 小説:honto本の通販ストア

『閑吟集(かんぎんしゅう)』は、16世紀初頭に成立した、当時の流行歌集です。 室町時代に流行した「小歌」226種と、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた」などを合わせて、311首が収録されています。
座頭 - Wikipedia
座頭
これらは座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌とされます。そのため艶っぽいものや時には、ポルノチックなものまで含まれています。また自由な口語調で作られた小歌で、実際に一節切り、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われたものです。内容的には、恋愛を中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸歌謡の基礎ともなります。
没後50年、松永安左エ門 「電力の鬼」の信念を支えた茶の心|【西日本新聞me】

『閑吟集』の最後を締めくくるのが、「花籠」です。
①花籠に月を入て 漏らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な(三一〇番)
②籠かなかな 浮名漏らさぬ籠がななふ(311番)
①を意訳変換しておくと
縁側の花籠に 月の光が差し込む
この光を逃さないように 遮るものがないように  この貴重な時間を出来るだけ長く保ちたい
(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)
 花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性、という幻想的なイメージも浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。

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「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があるようです。
そうすると、漏らすまいとしているものは何なのでしょうか、それを持つ(持たせる)事が大切なようです。つまりは、性行為の比喩を描いていると研究者は指摘します。
『閑吟集』は、宴席での小歌なども再録されているので、掛け言葉・縁語を交えての猥歌も出て当然なのです。今で云うとエロチックで、ポルノ的な解釈ができる場面が沢山出てきて楽しませてくれます。
 別の見方をすれば、遊女の純愛の歌と解釈することも出来ます。

愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、

 さらには、“月”は男女の間の愛情とか、自分の幸福とか、つかめそうでつかめない、努力しなければすぐに網目をすり抜けいってしまう、そんなもの比喩と考えても意味が通りそうです。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。綾子踊りの花籠では、花籠に次のものが入れられています。
1番に 玉ふさ(玉章)で「書状=恋文」
2番に わが恋
 3番に  浮き名
綾子踊り 花籠3

前回見た「小鼓」と同じように、『閑吟集』の小歌に遡ることができます。綾子踊歌が中世小歌の流れの上に歌い継がれていることが分かります。

佐文周辺でに伝わる「花籠」を見ておきましょう。
①花籠に浮名を入れて 洩らさでのう人に知らせしん もつがしん     (徳島県板野郡・神踊・花籠)『徳島県民俗芸能誌』
財田 さいさい踊り
財田町石野のさいさい踊

香川県三豊市財田町石野・さいさい踊の「花籠たまずさ踊」では次のように歌います。
②花籠にたまずさ(恋文)入れて ひんや 花籠にたまずさ入れて む(も)らさじの人にしらせずや ア もとがしんく(辛苦)で つむわいの つむわいの
③花籠にうきなを入れて(以下同)
④花籠に匂ひ入れて (以下同)
ここからは、佐文の近隣の財田でも、「花籠」が歌い踊られていたことが分かります。佐文だけに伝えられたのではなく、風流歌として、三豊一帯で謡い踊られていたようです。
つぎの「漏らさじ」とは、「人に知らせまいとして、大事に、秘めやかに・・」という意味です。
311番の類歌には、次のような歌われます。
竹がな十七八本ほしやま、浮名や洩らさじのな籠に組も(『松の葉』・巻一・裏組・みす組)

 以上をまとめておきます
①『閑吟集』には、座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌などが311首載せれている。
②これは自由な口語調で作られた小歌で、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われた。
③これが風流歌として各地に拡がり、この小唄を核にして替歌や、小唄の合体などを行われ各首の風流歌が生まれた。
④綾子踊りの花籠と財田のさいさ踊りの「花籠」の歌詞は、よく似ているので、西讃一帯で歌われていたことがうかがえる。
⑤盆踊りなどでは、最初は先祖供養のオーソドックスなものから始まり、時を経るに連れて次第に猥雑な歌詞も歌われた。
⑥郷社では小屋掛けがされて風流歌が盆踊りとして踊られた。その中に人気のあった「花籠」なども紛れ込んだ。
⑦雨乞成就のお礼のために踊りが奉納されるときに、盆踊りが「転用」された。
こんなところでしょうか。
どちにしても、綾子踊りに「花籠」が詠い踊られている事実は、その由来で述べられている「綾子踊り=弘法大師伝授」説とは、次の点で矛盾します。
①歌われている歌詞が16世紀までしか遡ることは出来ない。
②弘法大師が、こんな艶っぽい歌を綾子に伝えたとは、考えられない。
あくまで弘法大師伝授というのは、伝説のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

        
前回までは綾子踊りに謡われる風流歌が「港町ブルース」のように、当時の瀬戸内海の港町や行き交う船の船乗りや港などを舞台にした歌詞が作られていることを見てきました。
今回は、一転して「恋の歌」です。雨乞い踊りに、どうして恋の歌が歌われるのかと疑問に思いますが、少し付き合ってください。 
綾子踊りで3番目に踊られるのは「綾子(綾子踊)」で、歌詞は次の通りです。

綾子踊り 3綾子の歌詞
「綾子踊り 綾子」の歌詞

一、恋をして 恋をして ヤア わんわする 親の ヤア 知らずして
あんあの子は いんいつも ソレ 夏やせをする ウンウノヤ あらんや 夏やせをする ウンウノヤ 
あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
二、我が恋は 我が恋は ヤア 夕陽にむこう 沖の石 ふんふみかやさんされて ヤア ソレ ぬるぬるそで エンエンエノヤ あらんや ぬるぬるそで エンエノヤ あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
三、我が恋は我が恋はヤアほん細谷川の丸木橋ふんふみかやさんされて ヤアぬれぬる袖エンエンエノヤあんあじきなやひうやにひうやにヤア やらにやりうろ や
意訳変換しておくと
綾子は恋をして、その心は、いつも「わんわ」して、身は細ります。親はそれと知らず、夏痩せをしているのであろうと思っている。実は恋の痩せなのです。

2.3番は、 一転して失恋の「袖の涙」が歌われます。和歌の類型表現でです。そして全てに「さて雨が降り候」を加えて、雨乞風流踊であることが強調されます。内容を詳しく見ていきます。

「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。
「恋をして 恋をして ヤア わんわする わか恋は」の「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。次のような表現例を、研究者は挙げています。

①恋をせば 峰の薬師お参りやれ 峰の薬師は恋の神
           (柏崎市・越後綾子舞「恋の踊」)

恋の踊には、「一つとや」「二つとや」と歌ってゆく数え歌系があります。その例になるようです。「あんあの子は  いんいつも ソレ 夏やせをする」というのは、夏痩せと思えたのは、実は恋のためであったということです。
二番の「沖の石 ふんふみかやさんされて  ぬるぬるそで 」の「沖の石」についての例は次の通りです。
②我恋は潮千に満ちぬ沖の石、何時こそ乾く暇もない(備後地方・田植歌『哲西の民謡』)
③わが袖は汐千に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間ぞなき(『千載和歌集』・巻十二恋二こ二條院讃岐。
④沖の石とはおろかの沙汰よ乾く間もなきわが涙…(『落葉集』・第七・「沖の石」)
⑤見るにつけ聞くにつけ、胸に迫りし数々の、袖も乾かぬ沖の石(吟曲古今大全)
⑥汐千に見えぬ沖の石の乾く間もなき袖の露…(同・沖の石)
意訳変換しておくと
「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。
三番の「細川谷の丸木橋」が謡われる例としては、次の通りです。
①我恋はほそ谷川のまろ木ばし(丸木橋) ふなかへされてぬるヽ袖かな (「平家物語』巻九・小宰相。『淋敷座之慰』。通盛口説木遣)
②我が恋は 細谷川の丸木橋 ふみかへされては ぬるんるゝ袖かや(『松の落葉』巻第六・四十四 地つき踊.)
③我が恋は  細谷川の丸木僑 ふみかへされてぬるる袖かな
(山口県・南條踊歌、「但謡集』)
④わが恋は細谷川の丸木橋 渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ(大阪府・泉大津・念佛踊歌. )
わが恋が「細川橋の丸木橋」に例えられています。自分の気持ちを伝えなければ届かないし、それを伝えることは怖いし、躊躇する乙女心という所でしょうか。「細川橋の丸木橋」といえば、自分の思いを告げようか告げまいか悩む乙女というイメージが当時の人たちにはあったようです。ここでは、綾子の「わが恋」が「細川橋の丸木橋」と云うことになるのでしょうか。
意訳変換しておくと
私の恋は、細川橋の丸木橋のようで、自分の気持ちを伝えなければ届かないし、それを伝えることは怖いし、躊躇する乙女心で涙で袖も濡れてしまいました。

ここにも雨乞い的な雰囲気は一切ありません。 「綾子」は、秘めた恋心に苦しむ恋歌としておきます。
研究者が注目するのは全てに出てくる「あんあじきなやひうやにひうやに」の「あじ(ぢ)きなや」です。
このことばは「中世小歌全体の抒情にかかわることば」で「中世小歌の常用の心情語」と研究者は指摘します。『日葡辞書』には、次のように記します。
「アヂキナイ」 情けないこと あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことにかかわって言う。あぢきなく あぢきなう」

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「中世小歌」のキーワードのようです。用例を見ておきましょう。
①沖の門中(となか)で舟漕げば 阿波の若衆に招かれて あぢきなや 櫓が押されぬ(「閑吟集』・一三三)
②北野の梅も古野の花も 散るこそしよずろヽ あぢきなや(『宗安小歌集』‐50)
③見るも苦しみ 見ねば恋しし あぢきなの身や(隆達節)
④吉野のさくら花見る姫も あんじきなあや こしもとこしもと いざやたちより花を見る(香川県三豊郡、さいさい踊・「吉野のさくら踊」)

  次は、4番目が小鼓(つづみ)です。この歌は、もう少し艶っぽい内容になります。
一、君は 小津々み(小鼓) 我しらず ヒヤ 川(皮)をへだてて 恋をめす ソレ うんつんつれなの 君の心に、 イア さて 雨が降り候
二、こまにけられし道草も ヒヤ 露に一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて 雨が降り候
三、水にもまれし うき草も ヒヤ 蛍に 一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて雨が降り候
意訳変換しておくと
わたしが恋するあなたは、「小鼓」のようなもの。わたしは、その小鼓を打つ演奏者だよ。鼓の皮を打つと美しい音色を奏でます。それなのに、いつもつれないね。

この「小鼓」は、『言継卿記(ときつぐきょうき)』紙背と『宗安小歌集(そうあんこうたしゅう)』に、次のように載せられています。
『言継卿記』(大永七(1527・五月十四日条の紙背。)
①身(私)は小つヽみ きみはしら(調)へよ  川(皮)をへたててね(寝)にをりやる
「宗安小歌集』(一一五番)
②おれ(私)は小鼓 とのは調めよ 皮(川)をへだてて ね(音)におりやある ね(寝)におりや
『言継卿記』と『閑吟集』は、ほぼ同じ16世紀前半の成立です。①・②はともに、女性が自分を「小鼓」だと歌っています。「ね」は「音と寝」を掛けます。二人は川(皮)に隔てられているので、川を越えて、川の道を通って逢いに来るです。恋人(男性)は、鼓の緒を締めたりゆるめたりする奏者であるということ。「皮」は鼓に張られた皮に「川」を掛けています。「寝におりやる」とあるので、人間の肌の皮を暗示して、艶っぽい歌です。まさに「艶歌」に通じます。

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もう少し用例を楽しんでおきましょう。
①我は小鼓ノ 殿御は調よ かはを隔てて  かはを隔てて ねにござる 花の踊りをノ 花の踊りを 一踊り(『松の葉』・巻一・浮世組)
②いとし若衆との小鼓は締めつ緩めつノ調べつつ ねに入らぬ先に 鳴るか鳴らぬか なるかならぬか(同)
③手に手を締めてほとほとと叩く 我はそなたの小鼓か(隆達節二八九)
④きみはこつゞみ しらべの糸よ いくよしめてもしめあかぬ(『延宝三年書写踊歌』・やよやぶし)
⑤そもじやこつゝみ われはしらべよヒヤア かはをへだてゝ のうさて かわをへだてゝ ねにござれ(駿河志太郡徳山村・盆踊歌)
⑥おれは小鼓 殿は知らぬ 川を隔てゝげに呼ぶ ホチヤラニ/ヽ ヮーローヒューヤラーニ
(阿波国神踊歌 徳島県 板野郡 神踊歌 『徳島県民俗芸能誌』)
⑦そもじやこつゞな われらはしらべよ かわをへだてて のふきて かわをへだててねにござれ(静岡県 榛原郡 徳山盆踊歌)
  ⑥には「おれ」とありますが、中世はこれが女性の一人称だったようです。女性のことです。「ぬしの小鼓となりたい」なんていうのは、江戸の小歌の中にもよく出てきます。

二番の「こま(駒)にけ(蹴)られし道草も  露に一夜の宿をかす」を見ておきましょう。
「駒」は馬で、駒に踏みにじられた道草も、露に一夜の宿を貸す、ということでしょうか。転じて路傍の草のように、相手を思うやさしい心を持ちなさい。私の恋心「下心」を、わかって受け入れて下さいという口説き文句になります。その他の用例を見ておきましょう。
人にふまれし道芝は 一路に一夜のやとをかす あら堅そんじやこの宿は(滋賀県草津市上笠・雨乞踊)
3番の「水にもまれし うき草も  蛍に 一夜の宿をかす」の用例を見ておきましょう。
  我が恋は 水に燃えたつ蛍々 物言はで 笑止の蛍 (閑吟集59)

意訳変換しておくと 
私の恋は、水辺で燃え立つ蛍のよう。物も言えない哀れな蛍よ

 「笑止の蛍」の「笑止」というのは、現在ではあざ笑うとか、失笑や冷笑の意味で使いますが、もともとの意味は気の毒なとか、かわいそう、痛ましいことといった意味だったようです。「水に」には「見ずに」がかかります。
  「蛍」は「火垂」で「思い(火)」の縁語として使われます。 
現在の演歌の歌詞のキーワードが「酒と女と涙」のように、「蛍」も閑吟集の決まり文句であったようです。この歌を「鑑賞」すると、多分、忍ぶ恋をしているのでしょう。恋しい人の顔を見ることも出来ず、好きとも言えず、ただじっと耐え忍んで思い続ける恋心の切なさ。なんてかわいそうな私……。そう言ってため息をついているのでしょうか。自分の柄とも思えない忍ぶ恋をしてしまった、そんな自分自身を仕様がないとひっそりと嗤っている、そんな姿が描けそうです。
「道草」と「露」、「浮草」と「蛍」の恋の情をうたう部分は、古浄瑠璃『上るり御前十二段』(浄瑠璃御前十二段)・「まくらもんたう(枕問答)」に次のように記されます。
○さてもそののち御さうし(御曹司)は、かさねてことばをつくされける、いかに申さん上るりひめ(浄瑠璃姫)、むかしかいまにいたるまでたけのはやし(竹の林)かたか(高)いとて とうりてん(塔利天)まてとヽかぬもの、たに(谷)のたかいとてみねのこまつ(峯の小松)にかけささず、九ちようのとう(九重塔)かたかいとて、いかなるいや(賤)しきてうるい(鳥類)つはさ(翼)か、はねうちたてゝと(飛)ふときは、九ちうのとう(九重塔)をもした(下)にみる。こま(駒)にけられしみちしば(道芝)も、つゆ(露)に一やのやと(宿)はか(貸)す。みつ(水)にもまれしかわやなぎ(川柳)も、ほたる(蛍)に一やのやどはかす、かせ(風)にもまれしくれたけ(呉竹)もことり(小鳥)に一やのやと(宿)はかす、
たんだ(只、)人にはなさけあれ、なさけは人のためならず、うきよ(浮世)はくるまのはのごとく、めぐりめぐりてのちのよわ、わがみのためになるぞかし
(『浄瑠璃御前十二段』元和寛永頃古活字版。「古浄瑠璃正本集』第一)
意訳変換しておくと
それでも御曹司は、重ねて次のように言われた。どう言ったらいいのはよく分かりませんが、お聞き下さい(浄瑠璃姫)、昔から今に至るまで竹の林が高いからといって、塔利天までには届きません。谷が深いと云っても峯の小松)に影は指しません。九重塔か高いとて、空飛ぶ鳥たちは翼を持ち、羽ばたいて飛べば、九重塔をも下に見ます。駒に蹴られた道芝も、露に、一夜の宿は貸します。水にもまれる川柳も、蛍に一夜の宿は貸します。風にもまれし呉竹も小鳥に一夜宿は貸します。
 只、人にはなさけがあります。なさけは人のためだけではありません。浮世はまわる車輪のように、めぐりめぐりて後の世、我が身のためになることもあるのです。
ここには、「恋の情けを尊しとすべし」ことが御曹司の口を借りて説かれています。こういう発想・表現が中世の風流踊歌の一つの特質だと研究者は指摘します。
 綾子踊りの「小鼓」には、当時流行していた風流歌の「恋歌」が「頭取り」され、三連ともに最後に「雨が降り候」の一句を「接木」して、「雨乞踊歌」としています。ここまでを整理しておきます。
①16世紀前半に成立した閑吟集などに収められた恋歌が「流行歌」として世間に広がった。
②風流踊りの中に「恋歌」が取り込まれて踊られるようになる。
③風流踊りが盆踊りや雨乞い踊に「転用」されて踊られるようになる。
④こうして、中世に読まれた恋歌が「雨乞い踊り」の歌詞にアレンジされながら歌い継がれることになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸
前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。

三野郡 荘内半島 讃岐国地図
             近世初頭の荘内(三崎)半島 讃岐国地図
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

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  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置
意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 
ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
DSC00417
神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
DSC00409
神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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綾子踊り 全景
綾子踊り まんのう町佐文賀茂神社
綾子踊歌は、次の十二の組踊歌から成っています。
1水踊。 2四国 3綾子 4小鼓。 5花籠  6鳥籠  7邂逅(たまさか)8六調子(「付歌」を含む)。 9京絹 10塩飽船 11しのび 12帰り踊り

綾子踊りは雨乞い踊りなので、歌詞の内容は、降雨祈願のことが謡われているものとかつては思っていました。小さい頃は、何が謡われているのかも気にせずに佐文の住人として、この踊りに参加していました。ところが年月を経て、歌詞の内容を見てみると、雨乞い的な内容のフレーズは、ほとんど見当たらないことに気づきました。出てくるのは艶っぽいオトナの情愛の歌と、瀬戸内海航路を行き交う船と港のことばかりです。まるで「港町ブルース」の世界なのです。どうして、こんな艶っぽい歌が、雨を切実に祈願する綾子踊りで謡われ、踊られていたのか。また、この風流歌の起源はどこにもとめられるのか。それが長年の疑問でした。
 それに答えてくれるのが、「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」です。これをテキストにして、綾子踊歌の起源と内容を見ていくことにします。
       
綾子踊りで、最初に謡われるのは「水の踊り」です。
綾子踊り 水の踊
一、堺の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ  しつぽとぬうれて ソレ 水か水か サア こうちござれ こうちござれ
二、池田の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ雨が降ろと ままいの ソレ しつぽとぬうれて ソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ
三、八坂の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ しつぽと ぬうれてソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ

「さかひ(堺)の町、池田の町、八坂の町」の3つの町が登場します。

頭の町の名前が変わるだけで、後のフレーズは三番まで同じです。三つの町に雨が降ること、その雨に「しつぽと濡れる」ことが謡われます。これを「人々の雨を乞う願い、雨を降らせようとする強い気持ちで包まれた歌」と研究者は評します。

IMG_0018水の踊り

 ここに出てくる「堺・池田・八坂」の町は、現在のどこに当たるのでしょうか?
「さかい(堺)」は、南蛮貿易や商工業で栄えた堺市でしょう。瀬戸内海交易の最大拠点で、西の博多とともに中世には繁栄していた港町でした。瀬戸内海を行き来する廻船のゴールでもあり、文化の中心地で、憧れの地でもあったようです。
堺の港が、登場すると風流歌や雨乞い踊歌を挙げると次の通りです。
○あれに見えしはどこ浦ぞ 立目にきこえし堺が浦よ 堺が浦へおしよせて    (香川県三豊郡・和田・雨乞踊歌)
○さかへおとりわおもしろやヽ さかへさかへとおしやれども 一化の都にますわゑな      (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
○堺の浜を通りて見れば あらうつくしのぬりつぼ竿や  (徳島県阿南市・神踊・殿御踊歌)
○堺ノ浦ノ千石船ハ ドナタヘマイルタカラブネ  (徳島県名東郡・佐那河内村・神踊歌)
○ここは堺か面白やア かたにおろしてあきないしよ あきなゐおどりはひとおどり(徳島県徳島市。川内町あきない踊り
こうしてみると堺の港は、瀬戸内海を行き交う船にとって象徴的な町として、風流歌の中に取り込まれて各地で謡われていたことが分かります。それでは、「池田」「八坂」は、どうなのでしょうか。考えつくのは
池田の町=阿波池田?
八坂の町=京都の八坂?
ですが、どうもピンときません。これらの町も「堺」とともに、めでたく豊かさを象徴する町として出てくるとしておきましょう、その中でも「堺の町」は、瀬戸内海文化エリアの中で繁栄する港町のイメージとして登場し、謡われていることを押さえておきます。
IMG_1379
綾子踊り 団扇には「雨乞い」裏が「水」

次に「広いようで狭い」「しっぽと濡れて」です。

この類型句を挙げて見ると次の通りです。
○堺の町は広いようで狭い 一夜の宿を借りかねて 森木の下で夜を明かす 夜を明かす  (順礼踊『芸備風流踊歌集』)
○遠州浜松広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ(『山家鳥虫歌』・遠江)
○遠州浜松広いよで狭い 横に車が横に卓がやんれ 一丁も二丁目三丁目も…  (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
ここに出てくる「広いようで狭い」という表現は、その街道が狭いこと云っているのではなく、むしろ、道も狭いと感じさせるほど、町が繁盛し人々で賑わっていることを伝えていると研究者は指摘します。浜松は、東海道のにぎやかな海道の要所です。18世紀後半の『山家鳥虫歌』に、このような表現があるので、近世民謡の一つのパターン的な表現方法のようです。いわば現在の演歌の「恋と涙と酒と女」というような決まり文句ということでしょうか。綾子踊「水のおどり」は、その決まり文句が入ってきているとしておきます。

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次は「しつぽと」についてです。
『宗安小歌集』に、次のような表現があります。
「しつぽと濡れたる濡れ肌を今に限らうかなう まづ放せ」(一七五番)
艶っぽくエロチックな表現です。しかし、「濡れ肌」でなく「町がしっぼと濡れる」です。これは堺の町など三つの町が、めぐみの雨によって、十分にしっとりとうるおい、蘇ったありさまを表現していると研究者は評します。しかし、それだけではありません。
 中世の『田植草紙』系田植歌には、色歌・同衾場面をうたう情歌にもよく出てきます。こんな表現を民衆は好みます。だから風流化として各地に広まったのでしょう。そして、その根っこでは、人間の「繁殖」と稲の豊穣を重ねて謡われていたと研究者は評します。ここでは、豊作を願う農民たちの祈り歌の思いが込められていたとしておきます。
どうして綾子踊りの最初に、「水おどり」(雨のおどり)が踊られるのでしょうか?
それは綾子踊の目的が雨乞いにあるからと研究者は指摘します。雨が降って身が濡れること、夕立雲が湧き出てくる様子も、豊穣の前兆としてうたわれます。「水おどり」も歌謡・芸能の風流の手法として、農耕の雨を呼ぶ「呪歌」であると云うのです。雨が降ることを確信を持って謡うこと、また祈願が叶って雨が降ったときの歓喜が「雨よろこび」の歌となります。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』
幕末に丸亀藩が編纂した『西讃府志』・巻之三の『雨乞踊悉皆写』には、「綾子路舞」について、次のように記します。

佐文村二旱(日照)ノ時、此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏神ノ社トニテスルナリ」

これに続いて、祭礼の人数・役割・位置・衣装等が詳しく記されます。
西讃府志 綾子踊り3
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』 最後に踊りの順番が記されている
その一番最後に、踊の順を次のように記します。
 其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠、次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ馴日、次ナルヲ忍び 次ナルヲ帰り踊 ナドト、十二段ニワカテリ
ここでも「水の踊」が全十二段の、最初に置かれています。
綾子踊りは、雨を呼ぶための呪術的祭礼歌謡です。そのために、雨を期待し、表明する歌謡として伝承されてきました。
しかし、雨乞い踊りと云われる中に、雨が降ったことに感謝するために踊られるものもあります。
例えば、滝宮神社に奉納される坂本念仏踊りには、「菅原道真の祈雨成就に感謝して踊られる」と、その由来に書かれています。雨乞い踊りではなく、もともとは「雨乞成就への感謝踊り」なのです。
 奈良大和の「なむて踊り」も、雨乞い踊りではなく、降雨感謝の踊りです。そして、その踊りは、風流盆踊りが借用されたもので、内容は風流踊りでした。これが雨乞い踊りと混同されてきたようです。

綾子踊り 善女龍王
綾子踊り 善女龍王の幟

 中世では素人が雨乞いを祈願しても神には届かないという考えがあったようです。
丸亀藩が正式に雨乞いを命じたのはは善通寺、髙松藩は白峰寺だったのは以前にお話ししました。そこでは、高野山や醍醐寺の雨乞い修法に則って「善女龍王」に、位の高い僧侶が祈祷を捧げました。村々でも、雨乞は山伏や近郷の祈祷寺に依頼するのが常でした。自ら百姓たちが雨乞い踊りを踊るというのは少数派で、中世においては「異端的で、先進的」な試みだった私は考えています。
 そういう意味では、佐文の綾子に雨乞い踊りを伝授したという僧侶は、正式の真言宗の僧侶ではありません。それは、山伏や高野聖たちであったと考えた方がよさそうです。雨乞いは、プロの修験者や真言僧侶など霊験のあるものが行うもので、素人が行うものではないという考えが中世にはあったことを、ここでは押さえておきます。

綾子踊り 善女龍王2

 以上見てきたように「水の踊」に登場するのは「堺・池田・八坂」です。讃岐近郊の地名は登場しません。この歌が瀬戸内海を行き交う船の寄港地などで風流歌として歌われ、それが盆踊りに「借用」され、讃岐でも拡がったこと。佐文では、さらにそれをアレンジして「雨乞踊り」に「借用」して踊られるようになったことが考えられます。
最後に意訳変換しておくと
繁昌する堺の町(池田の町、八坂の町)は、広いようで狭いよ。雨乞踊の祈願が叶って雨が降り、人々は蓑よ笠よと騒いでいるが、田も野もそして町も、しっぽりと濡て潤い、蘇りました。この「水が水が」とうたう水の歌が、佐文に水を呼ぶ。うれしいことだよ、めでたいことだよ。

 「雨乞踊の最初に、願いどおりの結果になつたことを、前もってうたい、世の中を祝った予祝歌謡」と研究者は評します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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