瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:綾子踊りの里・佐文から > 佐文の歴史

 国道377号の佐文交差点の西側から象頭山と西山の鞍部に旧道が伸びている。これがかつての旧伊予土佐街道だ。坂を登り詰めた所が牛屋口峠で、バブルの時代に坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」と記されている。

牛屋口の坂本竜馬像
牛屋口(まんのう町佐文)の坂本竜馬と燈籠群

ここは土佐・伊予方面からの参拝者が金毘羅大権現に参拝する際の西の人口で、かつては茶店なども軒を連ねていたという。今も同じ大きさの数十基の燈籠が並んでいる。この燈籠群は、いつ、だれが寄進したのだろうか? ひとつひとつの燈籠には、寄進した人たちの職域名・地域名・講名・年代・世話人などが刻まれていて、いろいろな情報を読み取ることができる。

1 燈籠の奉納者は、どこの人たちか?

牛屋口の燈籠3
牛屋口の土佐燈籠 
燈籠の正面に刻まれた金比羅講の地名から土佐の人たちの寄進であることが分かる。最も多いのは柏栄連で、これは和紙の産地として名高い伊野町の講名で12基寄進している。中には高知市内の歓楽街にあった花山講のように、「皆登楼」「松亀楼」などの名前があり、遊郭の主人達によって奉納されたものもある。

牛屋口の燈籠4
同年と奉納年が刻まれた燈籠

2 燈籠はいつ頃、奉納されたのか?
刻まれた年代は、 一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年で4年の間に69基が奉納されている。年に20基ほどののハイベースで建ち並んでいったようだ。
なぜ、明治初年に短期に集中して寄進されたのか? 
 それは幕末から維新への土佐藩の躍進を背景にしているのではないかと識者は言う。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとったのは土佐藩であり、幕府の親藩であった松山藩や高松藩とは政治的立場が逆転した。この前後から伊予土佐街道の燈籠・道標は、それまでの伊予からのものに替わって土佐から奉納されるものが増える。その象徴的モニュメントが牛屋口の並び燈籠なのだ。
牛屋口の並び燈籠
牛屋口の土佐燈籠群

改めてこの前に立つと維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。土佐が四国を動かす」という意気込みと、金昆羅さんに対する信仰のあかしを私たちに語りかけてくるように思える。
まんのう町報ふるさと探訪2018年6月分
参考史料

 
 今は、里山周辺の山々も利用価値がなくなり、人の手が入らずに竹が伸び放題になった所が多くなりました。しかし、江戸時代には田にすき込む柴木を刈るための「資源提供地」で入会権が設定されていたことを前回に見てきました。それは、時には入会林をめぐっての村同士の抗争も引き起きていたようです。
 象頭山の西斜面の「麻山」については、小松庄(琴平)の農民たちは入山料を支払い、鑑札を持参した上で、刈取りが認められていました。その中で佐文に対しては、鑑札なしの入山という有利な条件が設定されていました。ところが約70年後になると、佐文は周辺の村々と入会林争論を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。

佐文周辺地域
佐文と周囲の村々
 正徳5(1715)年6月に神田村と上ノ村(財田)・羽方(高瀬)の3ケ村庄屋が連名で、佐文村を訴えて、次のような訴状を丸亀藩に提出しています。(要約)
佐文 上の村との争論

意訳変換しておくと
「財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。昨年4月には、別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒す始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の2月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。(中略)今後は佐文の者どもが三野郡中へ入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。」

 これに対して佐文庄屋の伝兵衛からは、次のような反論書が提出されています。
佐文 上の村との争論 佐文反論

意訳変換しておくと

「新法によって財田山への佐文の入山は停止されたと財田衆は主張し、箸蔵街道につながる竹の尾越で佐文村の人馬の往来を封鎖する行動に出ています。春がやって来て作付準備も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わずに迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万です。」

 ここからは上の村は、竹の尾越を封鎖する実力阻止を行っていたことが分かります。
入会林をめぐる対立の背景には、丸亀藩の進める「新法=山検地」があったようです。
山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を、5年ごとに調査する形で行われています。そして、検地を重ねる度に入会林が藩の直轄林(御林)に組み込まれ、縮小されていきます。佐文が既得権利を持っていた「麻山」周辺の入会林も縮小されます。そのために佐文の人たちは、新たな刈敷山をもとめて、昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈るようになったようです。これが争論の背景と推測できます。
 これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」の結論でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 この10年後の享保10(1725)年の「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料からは、村有林や入会林を監視するために神田村は「山番人」を置くようになっていたことが分かります。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったようですが、山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。今は、放置されている集落周辺の山々は、江戸時代には重要な「資源提供地」で争いの対象だったようです。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」高瀬町史史料編 511P
  文責 池内 敏樹

  入会林の覚え書き 1641年
山入会(入会林)付覚書(大麻山周辺の入会林について)

生駒藩お取りつぶし後に、讃岐が二つの藩が出来て、丸亀藩に山崎家が入ってくることになったのが1640年のことでした。その時に、大麻山周辺をめぐる中世以来の入会林の既得権が再確認されて文書化されます。そこには入山料を支払い、入山鑑札を持参した上で、小松庄(琴平)の農民たちに大麻山の西側の「麻山」への入山が認められていました。ところが佐文の農民に対しては、鑑札なしの入山が許されていました。その「特権」が古代以来、佐文が「麻分」で三野郡の麻の一部と認識されていたことからくるものであったことを前回は見てきました。
 入山権に関して特別な計らいを受けて有利な立場にあった佐文が、それから約70年後の正徳五(1715)年になると、周辺の村々と紛争(山論)を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。テキストは、「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」です。
佐文周辺地域
佐文周辺の各村(佐文は那珂郡、他は三野郡)

正徳5(1715)年6月に、神田と上ノ村・羽方の3ケ村連名で、丸亀藩に次のような「奉願口上之覚」が提出されています。

佐文 上の村との争論
山論出入ニ付覚書写(高瀬町史資料編160P)
意訳変換しておくと
一、財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。そこで、見つけ次第に拘束しました。ところが今度は昨年四月になると、西の別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒し迷惑かえる始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の二月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。
佐文 上の村との争論2

このままでは百姓どもの了簡が収まりませんので、口上書を差し出す次第です。村境設定以前に、上ノ村山の中に佐文の入会場所はありませんでした。30年以来、南は竹ノ尾山の一ノかけから上、西は別所野田ノ尾から東の分については入会で刈らせていました

一、神田山について
前々から佐文村は、入会の山であると主張しますが、そんなことはございません。先年、神田庄屋の理左衛門の時に、佐文の庄屋平左衛門と心易き関係だったころに、入割にして、かしの木峠から東之分を入会にして刈り取りを許したといいます。これは近年のなってことでので、大違です。由□□迄参、迷惑仕候
 以上のように入山禁止以外にも、今後は佐文の者どもが三野郡中へは入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。三ヶ村の百姓は、前々から佐文の入山を停止するように求めてきましたが、一向に改まることがありません。そのためここに至って、三ケ村の連判で訴え出た次第です。御表方様に対シ迷惑至極ではございましょうが、百姓たち一同の総意でありますので口上書を提出いたします。百御断被仰上可被下候、以上        
正徳五(1715)年六月   
     
三野郡神田村庄屋   六左衛門
          同神田村分りはかた(羽方)村庄屋  武右衛門
上ノ村大庄屋字野与三兵衛
庄野治郎右衛門様
  神田村(山本町)・羽方村(高瀬町)と上ノ村(財田町)の庄屋が連名で、丸亀藩に訴えた書状です。佐文の百姓が上ノ村との村境を越えて越境してきて、芝木刈りなどを勝手に行っていること、それが実力で阻止されると、神田村の神田山にも侵入していること、それに対して強硬な措置を取ることを事前に藩に知らせ置くという内容です。
佐文 地図2

 これに対して佐文からは、次のような口上書がだされています。

佐文 上の村との争論 佐文反論
   佐文からの追而申上候口上之覚 (高瀬町史史料編158P)
  意訳変換しておくと
一、この度、財田之衆が新法を企て、朝夕に佐文村からの入山に対して差し止めを行うようになって迷惑を受けていることについては、2月28日付けの書面で報告したとおりです。佐文村からの入山者は勾留すると宣言して、毎日多くの者が隠れて監視を行っています。こちらはお上の指図なしには、手出しができないと思っているので、作付用意も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わない状態で迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万であると与頭は申しています。

一、新法によって財田山へ佐文の入山は停止されたと財田衆は云います。朝夕に佐文から侵入してくる証拠としてあげる場所(竹の尾越)は、箸蔵街道につながる佐文村の人馬が往来する道筋です。そこには、馬荷を積み下ろしする場所も確かにあります。2月14日に、この通行を突然に差し止めることを上ノ村側は通告してきました。が、竹の尾越は佐文の人馬が往来していた道なので、馬の踏跡や馬糞まで今でも残っています。佐文以外の人々も、何万の人たちがこの道筋を往来してきました。吟味・見分するとともにお知りおき下さい。(以下破損)
一、先に提出した文書でも申上げた通り、財田側は幾度も偽りを為して、出入り(紛争)を起こしてきました。財田方の言い分には、根拠もなく、証拠もありません。度々、新法を根拠にしての違法行為に迷惑しております。恐れながらこの度の詮儀については、申分のないように強く仰せつけていただけるよう申し上げます。右之通、宜被仰上可被下候、以上  
正徳五未四月十三日      佐文村庄屋 伝兵衛 印判
同村与頭覚兵衛 
同同村五人頭弥兵衛
同同村惣百性中
山地六郎右衛門殿
佐文の言い分をまとめてみると次のようになります。
①「新法」を根拠に、財田上ノ村が旧来の入会林への佐文側の入山を禁止し、実力行使に出たこと
②その一環として、箸蔵街道のに続く竹の尾峠の通行も規制するようになったこと
③佐文側が「新法」について批判的で、「改訂」を求めていること。

両者の言い分は、大きく違うようです。それは「新法」をどう解釈するかにかかっているようです。新法とは何なのでしょうか?
貞享5年(1688)年に、丸亀藩から出された達には、次のように記されています。
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」

意訳変換しておくと
「林野(田畑以外の山や野原となっている土地)などに生えている木竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよ

というものです。さらに史料の後半部には「焼き畑禁止条項」があります。ここからは、藩が田畑だけでなく山林全体をも含めて支配・管理する旨を宣言したものとも理解できます。この達が出る前後から、藩側からの山林への統制が進められていったようです。
 そのひとつが山検地であると研究者は指摘します。
山検地は、丸亀藩の山林への統制強化策です。山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われています。京極高和が丸亀へ入部した万治元(1658)年の5月に、山奉行高木左内が仲郡の七ヶ村から山林地帯を豊田郡まで巡回しています。これが山検地の最初と研究者は考えているようです。検地の結果、山林については次の4つに分類されます
①藩の直轄する山林
②百姓の所有する山林
③村や郡単位での共有地となっている山林
④寺社の所有する山林
そして、5年毎に山検地は行われますが、検地を重ねる度に山林が藩の直轄林(御林)に組み込まれていきます。そして、入会地が次第に縮小されていきます。この結果、佐文が既得権利を持っていた「麻山」や「竹の尾越」周辺の入会地も縮小されていったことが推測できます。一方で、佐文でも江戸時代になって世の中が安定化すると、谷田や棚田が開発などで田んぼは増えます。その結果、肥料としての柴木の需要はますます増加します。増える需要に対して、狭まる入会地という「背に腹は刈られぬ状況」の中で、佐文の住民がとったのが「新法=山検地(?)」を無視して、それ以前の入会地への侵入だったようです。
①南は、竹の尾越を越えた財田上の村(財田町)方面
②南西は、立石山を越えた神田村(山本町)方面
③西は、伊予見峠を越えた羽方村(高瀬町)
佐文 地図2

これらの山々でも、入会地縮小が進んでいたようです。それが「新法」だったと私は考えています。特権として認められたいた麻山の旧入会地が狭められた結果、入るようになったのが①~③のエリアで、それも新法で規制を受けるようになったのかもしれません。どちらにしても丸亀藩の林野行政の転換で、入会林は狭められ、そこから閉め出された佐文が新たな刈敷山をもとめて周辺の山々に侵入を繰り返すようになったことがうかがえます。
 佐文村の百姓が藩が取り決めた境を越えて昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈ったことから起こった紛争の関係書類を見てきました。これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 これから享保10(1725)年には「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料が残っています。これは「山番人」をめぐる神田・羽方両村の争いに関する史料です。ここからは、佐文との山争論の10年後には、村有林や入会林を監視するために「山番人」が置かれるようになったことが分かります。また、「御林」に山番人が監視にあたると、今まで入会地とされてきた場所は次第に「利用制限」されていきます。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったのですが山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。山の境界をめぐって、藩の山への取り締まりは強化されていきます。
 しかし、百姓たちからする「御林(藩の直轄山林)」は、もともとは自分たちの共有林で入会林であった山です。そこに入山ができなくなった百姓たちの反発が高まります。そうして起こったのが享保17年の乙田山争論のようです。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。
琴南林野 阿野郡南川東村絵図(図版)
阿野郡南 川東村絵図
(まんのう町川東地区の御林(緑色)と野山(赤色)を色分けした絵図
 中世の各郷による山林管理体制を引き継いだ生駒時代には、野山・山林の支配は村を単位にして、藩主と個人的関係のある代官や地元の有力者を中心に行われていました。とくに大麻山・琴平山と麻山の周辺の山林は、佐文のように古い体制を残しながら支配が複雑に入り組んでいました。それがきちんとした形に整えられていくのは享保年間ごろと研究者は考えています。生駒家時代の林野に対する政策は、京極藩で確立する林野政策の過渡的な形態を示しているようです。
まんのう町の郷
古代中世の各郷
 以上をまとめておくと
①生駒時代には、大麻山は入会林で鑑札を購入しての周辺村々の芝木刈りのための入山が認められていた。
②麻山の鑑札による入会林として利用されていたが、佐文は鑑札なしでの芝木刈りが認められていた
③丸亀京極藩は、田畑以外に山林に対しても山検地を始め、入会林を「御林(藩の直轄林)」へと組み込みこんでいった。
④「御林」の管理のために「山番人」が置かれるようになり、入山規制が強まる。
⑤こうして「麻山」周辺への入山規制が強化されるにつれて、佐文は南部の財田や神田への山林への侵入をするようになった。
⑥これに対して財田上の村、神田村、羽方村の3ケ村連名で「新法」遵守を佐文に求めさせる抗議書が提出された。
⑦丸亀藩の決定は「新法遵守」で、あらたに設定された境界を越えての入山は認められなかった。
⑧このような入会林や村境界の争論を経て、近世の村は確立されていく
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
DSC09453
大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

まんのう町佐文のこはくさん(布伯神社)について

 3月15日は布伯(ふはく)神社のおまつりです。「布伯」と書きましたが、私たちは「こはくさん」と呼んで親しんできました。小川布伯という人物をお祭りしているそうですが、地元ではどのように言い伝えてきたのでしょうか。それを史料で見ていきたいと思います。

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 小川布伯と「佐文城跡」について

 江戸時代の末に、丸亀京極藩がまとめた「西讃府誌」には、当時の言い伝えとして次のようなことが記されています。 
「佐文の南部の尾郷という地にある。ここが小川布伯のいた所と伝えられている。その跡は、今は(オゴウ)と呼ばれている。」
 また、仲多度郡史には
「上麻村に原佐文という地名がある。布伯は、その娘を麻の近藤氏に嫁がせた。その時に、近藤氏がこの地(原佐文)を割いて小川布伯に与えた。」ともあります。
以上から次のようなことが言われてきました。
①布伯は、戦国時代に麻城の近藤氏に使える土豪侍であったこと。
②その拠点が佐文の尾郷集落にあったとこと。
③尾郷集落の地名は「小川」→「尾郷」へと転じてきたこと。
 本当に布伯は、館や山城的なものを、この地に建てていたのでしょうか。現在の畑や田圃の下に、その遺構が眠っているのでしょうか?

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百姓の神様として祀られた布伯

布伯の最後については、次のように書かれています。
佐文では「領主小川布伯守は、天正(1583)の昔、土佐の長宗我部の兵火にかかり、そのため、佐文の城が落ちた」と今なお語りつがれている。古老の語るところによれば、「領主であり、百姓の神様である」と、いわれている。(佐文誌)

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          布伯神社から眺める象頭山

尾郷の黄金伝説?

 長宗我部が攻めてくる前に小川布伯守は財宝を埋めました。そこが「黄金原」で、それがいつの間にか「尾郷原」と呼ばれるようになりました。 
明治の初め頃、こはくさんの台地を尾郷部落の男衆が整地していた時のことです。昼近くになって、小牛程もある大きな石が出てきました。男衆たちは「この石は、こはくさんが黄金を埋めた蓋石ではないか」「いや、これは、墓のふた石だろう」「とにかく、空腹では動かせない。昼飯を食べて本腰でかかろう」と、家に帰りました。早々と食事を済ませて来てみると、さっきの石は影も形もなかったそうです

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こはく社

こはく社の台石は、どこから?

 佐文誌には
「昭和四年頃のことです。加茂神社の御旅所の神輿休の台石を新しく築くことになり、古い台石を尾郷の講中がゆずりうけて、こはく社の台石にした。」
 つまり、布伯神社の台石は、加茂神社の御旅所の神輿台石を、尾郷部落の人たちが運んで来たようです。

 明治以後、政府の政策で小部落に祀られていた祠や神社は、佐文では加茂神社に集められました。しかし、尾郷の人たちは、この地で「こはくさん」を守り通してきたのです。

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布帛神社の 正式の名称は「九白神社」です

  古老の伝える所によると、「戦前の昭和14・15年頃のこと。ある祈とう師がこの地を訪れ、『お祈りをせねば、この地に不幸がおこる』とのお告げで、神社名を九白神社と定め、社殿を整備し、拝殿も建てました。そして4月4日と9月9日には御祭りをしていましたが、今は春の3月15日だけになりました。


2017年賀茂神社小祭り 浦安の舞と獅子舞小祭り

まんのう町佐文に伝わる如松流華道

増田穣三法然堂碑文.J2PG
園田翁顕彰碑(西光寺)
 増田穣三が宮田の西光寺(法然堂)の住職園田氏実(法号波法橋、流号如松斉)から華道を学び、若くしてその継承者になったことは前述した。代議士を引退した後の穣三は「家元」として「活花指導に専念した」と伝えられている。どんな活動が行われていたのだろうか、そしてその後の流派は、どうなっているのだろうか。今も譲三が家元であった「如松流」を掲げる華道の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
琴平方面から観音寺方面に国道377号を2㎞ほど行くと国重要民俗文化財「綾子踊りの里」として知られる佐文盆地が広がる。
 旧土佐伊予街道が金比羅さんに向けて、その中央を通っている。その旧街道沿いにある尾﨑家の玄関には、3代にわたる華道師範の「看板」が掲げられている。これを見て、最初に私が気づいたのは「未生流」ではなく嵯峨流とともに「如松流」という流派を名乗っていることだ。如松とはもちろん法然堂の住職であった如松斉のことである。つまり、未生流から独立し新たに如松斉がおこした「新流派」を継承しているのだ。
尾﨑清甫2
尾﨑清甫(傳次)
一番左が尾﨑傳次(号清甫)のものである。
彼は明治3年3月29日生まれで、増田穣三よりも13歳年下になる。傳次が生まれた翌年明治4年に如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念する。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。
 幕藩体制の身分制度社会の下では、いろいろな事が禁令として定められていた。例えば丸亀藩では、百姓が家に花や木を植え育てることも
「百姓が米作りに専念することに差し障りがある」

と禁止していた。明治を迎え、花を育てることも活花を楽しむこともできる世の中がやってきた。時代の新しい流れ「新流行」が、ここでは活花であったのかもしれない。
如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいる。

増田穣三法然堂碑文
三好霊順の名前が発起人のなかにある
如松斉の顕彰碑裏面の発起人一覧の中に増田穣三、田岡泰に続いて3番目に彼の名前は刻まれている。霊順は、如松斉から学んだ立華を、自分の寺のある佐文の地で住民達に広げていった。 
 その際に今の私たちの感覚と違うのは、華道を学びに来たのが男達であったことだ。農作業等が終えた男達が寺に集まり、自分たちが集めてきた花や木を花材に花を生けた。「華道」のために男達が集まり、そこから新たな文化が芽生えていく様子が垣間見える。丹波からやって来た如松斉の華道は、こうしてこの地の人たちに受けいれられていった。
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 尾﨑清甫も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受けた。
そして、入門免許を明治24年12月に21歳で得ている。その際の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されている。

尾﨑清甫華道免許状

 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられている。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かる。

尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努めた。

そして、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだ。
 尾﨑家には、清甫が残した手書きの「立華覚書き」が残されている。その中には、師である増田穣三の活けた作品を写生したものも含まれているかもしれない。
 孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父の清甫が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。
 また、如松流の創始者である如松斉が住職を務めた「法然堂の市」の際には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていた。そこには増田穣三の門下生達の作品が多く展示された。

尾﨑清甫 華道作品

 その準備等を取り仕切ったのが尾﨑傳次ではなかったのか。そして次第に、譲三の信頼を得て門下生の中でも「高弟」に当たる地位と役割を果たしていくようになる。

 尾﨑清甫はその後も精進を続け、大正9(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任する。
さらに大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっている。
昭和12年というと増田穣三の最晩年にあたり、翌年には銅像が建立される時期である。「如松斉流」の第3代家元を、譲三は誰に譲ろうとしていたのかも気に掛かるところである。
 傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなる。
その前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けられている。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。
 戦後、農村では食糧増産のために熱気ある時代が訪れ、青年団や婦人会活動などの「新農村文化活動」が芽生えてくる。そんな中で、再び男達が花を活けることを楽しみ出す。自分の花器をしつらえ山から切り出してきた木や庭から摘んできた花を活ける。その輪の中の中心で指導を行ったのが尾﨑沢太であった。沢太は青年団に招かれ若い青年達に活花の手ほどきを行ったという。
増田穣三・尾﨑清甫

 考えてみれば、幕末に丹波からやって来た法然堂の住職がもたらした未生流華道の流れが、増田穣三を経て、尾﨑家に伝わり、佐文の地に広がり、今も受け継がれている。「如松流」の看板が掲げられていると言うことは、様々な意味があることに改めて考えさせれた。

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