そこで丸亀の金毘羅屋敷の佐野久太夫に「金堂再建趣意書」を刊行させています。この趣意書には、次のように記します。
一讃州金毘羅象頭山の儀ハ御存じの通り諸堂相揃い居り申し候処、就中、金堂殊の外小さク御座候二付き、大堂二御再興成られたくの旨承知仕り候、此の儀ハ高札の通り是まで諸勧進何方えも申し出ず候間、此の差障り二少しも相成らざる義二候、勝手次第為るべき旨御聞き届け相済み候、これに依り同士の面々申し談じ新た二講組を立てられ、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺二造り立て仕りたく候へ共、過分の義故講中迄自カユ及び難く候二付き、当卯ノ冬より未ノ歳迄五ヶ年の開二成就仕りたき念願二御座候、左の通りの銘の寄進物世話所と相極め候間、御志の御方ハ多少に限らず御寄付成さるべく候、金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以明和八辛卯年初冬吉日惣請込 讃州丸亀 八筝 久太夫講元 讃州丸亀 津作地又右衛門講元 讃州丸亀 藤四田 為之丞講元 讃州大浜 辻与左右衛門
意訳変換しておくと
一 讃州金毘羅象頭山については、ご存じの通り諸堂が整備されていますが、ただ金堂だけは、ことのほか小規模です。つきましては、これを大堂に再興することを承知願えないでしょうか。許可いただければ来年には高札を掲げて、世間への通知をおこなう予定です。その際には、藩の差障りにならないようにします。金毘羅が勝手次第に行う事ですので、聞き届けいただければご迷惑はおかけしません。同士の者達で協議した所、二講組を立て、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺の金堂を建立する計画です。過分のことですので、当冬より5ヶ年の開講し、成就させる念願です。左の通りの寄進物と世話所を定めます。つきましては、御志の御方は多少に関わらず御寄付いただけるようお願いします。金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
要約すると次のようになります。
①金毘羅は緒堂が整備されているが、金堂が小さいので大きく再建したい
②そのために金堂建立場所を選定し、建立通知の高札を掲げたい。
③予定規模は、桁行 拾間五尺八寸、梁行 八間壱尺弐寸、柱高 四間弐尺 の超大型であること
④資金は5年間の寄進講
しかし、これは金毘羅を直撃した大水害や疫病流行、また宥存の病気のために建立計画は延期・頓挫していまいます。
金堂再建前の薬師堂は、小さかった宥存の没後に、金堂再建に乗り出すのが宥昌です。

文化3年(1806)、金光院別当宥昌は、先代別当の宥存の意志を継いで、薬師堂を廃して金堂建立の願書を提出します。宥昌は、実務を金毘羅の酒屋の秦半左衛門と多田屋香川治兵衛に当たらせ、金堂建立のための講を組織させます。しかし、宥昌は翌年5月2日に没します。金堂再建は遺言のような形で残ります。
代わって院主となった宥彦の代になって 金堂再建のために講は開かれますが、なかなか軌道に乗らなかったようです。彼の死後の文化9(1812)年の11月になって施主が決まり、普請小屋の場所の見分が行われています。その翌年1813年に、起工式を執り行うまでにこぎつけています。以後、建築用材などが順調に集まり始めます。各地で講が組織され奉納金も着実に増加します。しかし、入仏がおこなわれたのは弘化2(1845)年のことになります。約30年余におよぶ大プロジェクトで、その間に費やされた人数と金銭は膨大なものでした。この資金をどのようにして集めたのでしょうか。
① 末尾の「癸酉五月」とあるので、文化十(1813)年5月に発行されたものです。これは建立が本格始動した翌年にあたります。② 発行者の「引請世話人中」とは、金堂の建築用材を調達した大坂の西村屋愛助らのこと③ 冒頭の「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」は金堂建築使用の柱等木材の値段で以下の通り④ 「本柱」長さ四間半、断面一尺八寸四方 代金三十五両⑤ 「外柱」長さ三間 断面一尺六寸四方 代金 十二両
この広告には、必要な部材を一つ一つ書き上げ、その金額が示されています。ここに挙げられているのは、目立つ部材のみが挙げられているようです。この広告を見た人たちは、どのくらいの金銭で、どこの部材が調えられるか、具体的な感触を得て、こんな風に思ったはずです。
「35両で大黒柱一本か、金刀比さんの本堂に自分の寄進した大黒柱が使われるというのは、有難いこと」と考え、金堂が自分の寄進で成就する姿を思い浮かべ、寄進に応じようとする富裕層も出てきたはずです。詳しい数値、目立つ部材という仕掛けを通して、寄進者の気持ちをその気になせる巧みな戦略です。どちらにしても、数多くの人達の寄進によって旭社が出来上がったことが感じられます。
「35両で大黒柱一本か、金刀比さんの本堂に自分の寄進した大黒柱が使われるというのは、有難いこと」と考え、金堂が自分の寄進で成就する姿を思い浮かべ、寄進に応じようとする富裕層も出てきたはずです。詳しい数値、目立つ部材という仕掛けを通して、寄進者の気持ちをその気になせる巧みな戦略です。どちらにしても、数多くの人達の寄進によって旭社が出来上がったことが感じられます。
広告には、続いて「右に書き上げたほか(建立に必要な)品数が多くあるので、お志にまかせて御寄進ください。もっとも、御当山(金光院)から諸勧進の人は差し出しません」と記されています。つまり、引請世話人たちは、金光院からの援助とは別に、こうした摺り物を独自に作成して、木材購入に必要な金銭を集めたようです。
こうした広告の成果を見ておきましょう。
天保三(1832)年には摂津国池田(大阪府池田市)の神酒講から本柱に必要な35両が奉納されています(『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』金刀比羅宮社務所、 1988年)。本柱の35両とは、広告の摺物に書いてあった金額と一致します。摂津国は、引請世話人の西村屋の地元です。この広告が摂津国で流布して、それに応じた人達がいたことがうかがえます。その10年後の天保13(1834)年には西村屋が金堂用材の橡105本を秋田から廻送しています。
金刀比羅宮旭社(旧金堂)の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

この摺り物は徳島県の酒井家に伝わったもので、今は徳島県立文書館蔵に酒井家文書として保管されています。
酒井家は、阿波国半田村(美馬郡つるぎ町)で運送業を営んだ町人で屋号は堺屋です。この摺り物を収集したのは、五代目武助のようです。武助は天保六年に亡くなり、金堂が完成した弘化二(1845)年には、六代目弥蔵が当主になっていました。金毘羅信者が多かった阿波国は、新浜(徳島市)の善蔵が金堂願主になっているので、金堂建設資金の募集拠点のひとつでもあったことがうかがえます。徳島繁栄講の講元である後藤民之助が360両を、また講中が畳料三貫五百目を寄進しています。
酒井家は、阿波国半田村(美馬郡つるぎ町)で運送業を営んだ町人で屋号は堺屋です。この摺り物を収集したのは、五代目武助のようです。武助は天保六年に亡くなり、金堂が完成した弘化二(1845)年には、六代目弥蔵が当主になっていました。金毘羅信者が多かった阿波国は、新浜(徳島市)の善蔵が金堂願主になっているので、金堂建設資金の募集拠点のひとつでもあったことがうかがえます。徳島繁栄講の講元である後藤民之助が360両を、また講中が畳料三貫五百目を寄進しています。

弘化二(1845)年に完成した金堂(旭社) 金毘羅参詣名所図会(1848年)
金毘羅大権現金堂への寄進名簿 丸亀や三豊の人々の名前が見える
こちらの寄進一覧には丸亀と三豊の人達の名前が並んでいます。奉納額は10両~20両です。名前を見ると丸亀の船頭中(船頭仲間)や福島湊の福島町の講も見えます。武蔵国からの寄進帳
弘化二(1845)年、金毘羅では金堂入仏を祝して、2月から5月まで3ヶ月間に渡って開帳が行われました。
その間、堺屋(酒井)弥蔵は半田村から何度も金毘羅に参詣し、その模様を「弘化二年乙巳春中旅日記」(酒井家文書83)に次のように書き残しています。
2月1日
金堂御入仏の奉納物が内町から練り上るということで、おやま(遊女)たちが色々に持 え、三味線や太鼓で囃し練り歩いたのを面白く見物し、それから参詣をした
金堂御入仏の奉納物が内町から練り上るということで、おやま(遊女)たちが色々に持 え、三味線や太鼓で囃し練り歩いたのを面白く見物し、それから参詣をした
2月8日
参詣し、翌日の入仏式の当日には「参詣会式の事は中々筆に言われず、ここに略す」
参詣し、翌日の入仏式の当日には「参詣会式の事は中々筆に言われず、ここに略す」
3月11日 芝居見物
3月26日
内町南裏手からの出火に遭遇し、「金山寺町の小芝居が焼失、大芝居は無事であった、さてさて騒がしいこと」
内町南裏手からの出火に遭遇し、「金山寺町の小芝居が焼失、大芝居は無事であった、さてさて騒がしいこと」
4月7日 参詣
4月22日 母を伴い参詣。翌日に軽業見物
このように、弥蔵は足繁く阿波から金昆羅に足を運んでいます。おそらく自分や父親が寄進をした金堂が立派に成就したのを目の当たりにして、感無量だったのかもしれません。あるいは馴染みの芸子がいたのかもしれません。母に芝居や軽業も見せています。どちらにしても阿波の檀那衆を惹きつけるだけの娯楽と魅力が金比羅にはあったということでしょう。阿讃の峠を越えて、足繁く通っています。そういう意味では、金比羅は信仰の町であると同時に、歓楽・娯楽の町としての魅力にも溢れる街になっていたようです。巨大な金堂は、金毘羅の「集客モニュメント」としても機能していくことになります。

完成した金毘羅大権現の金堂
①初代髙松藩主松平頼重の保護を受けて、元禄期には金毘羅大権現の境内の整備は進んだ。
②18世紀後半になり、金比羅船を利用した参拝客が増えるに従って、さらなる集客力アップのための建造物モニュメントの必要性が出てきた。
③そこで1771年に、金堂建設計画を発表するが、数々の障害で着手には至らなかった。
④本格的な動きが開始されるのは1812年になってからで、講組織による全国的な資金集めが行われた。
⑤そこでは、金堂の建設資材の柱に値段を付けて寄進を募るという方法が採用された。
⑥こうして全国からの寄進で購入された柱には、寄進者の氏名が彫り込まれている。
⑦こうした幅広い寄進を行う事で、2万両という資金を40年掛かりで集め、金堂は完成した。
旭社の「総六材木」 寄進者の名前が彫り込まれている
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。金刀比羅宮 旭社(旧金堂)
参考文献 徳島県酒井家文書にみる金刀比羅宮金堂建立の寄進 ことひら74
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