瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金刀比羅宮の歴史 > 金刀比羅宮の建築物

金光院歴代院主
歴代の金毘羅大権現金光院の院主
第9代金光院別当の宥存は、明和8年(1771)に金堂建立を思い立ちます。
そこで丸亀の金毘羅屋敷の佐野久太夫に「金堂再建趣意書」を刊行させています。この趣意書には、次のように記します。
 一讃州金毘羅象頭山の儀ハ御存じの通り諸堂相揃い居り申し候処、就中、金堂殊の外小さク御座候二付き、大堂二御再興成られたくの旨承知仕り候、此の儀ハ高札の通り是まで諸勧進何方えも申し出ず候間、此の差障り二少しも相成らざる義二候、勝手次第為るべき旨御聞き届け相済み候、これに依り同士の面々申し談じ新た二講組を立てられ、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺二造り立て仕りたく候へ共、過分の義故講中迄自カユ及び難く候二付き、当卯ノ冬より未ノ歳迄五ヶ年の開二成就仕りたき念願二御座候、左の通りの銘の寄進物世話所と相極め候間、
  御志の御方ハ多少に限らず御寄付成さるべく候、金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
   明和八辛卯年初冬吉日      
惣請込 讃州丸亀 八筝 久太夫
講元  讃州丸亀 津作地又右衛門
講元  讃州丸亀 藤四田 為之丞
講元  讃州大浜 辻与左右衛門
意訳変換しておくと
一 讃州金毘羅象頭山については、ご存じの通り諸堂が整備されていますが、ただ金堂だけは、ことのほか小規模です。つきましては、これを大堂に再興することを承知願えないでしょうか。許可いただければ来年には高札を掲げて、世間への通知をおこなう予定です。その際には、藩の差障りにならないようにします。金毘羅が勝手次第に行う事ですので、聞き届けいただければご迷惑はおかけしません。
 同士の者達で協議した所、二講組を立て、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺の金堂を建立する計画です。過分のことですので、当冬より5ヶ年の開講し、成就させる念願です。左の通りの寄進物と世話所を定めます。つきましては、御志の御方は多少に関わらず御寄付いただけるようお願いします。金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
要約すると次のようになります。
①金毘羅は緒堂が整備されているが、金堂が小さいので大きく再建したい
②そのために金堂建立場所を選定し、建立通知の高札を掲げたい。
③予定規模は、桁行 拾間五尺八寸、梁行 八間壱尺弐寸、柱高 四間弐尺 の超大型であること
④資金は5年間の寄進講
しかし、これは金毘羅を直撃した大水害や疫病流行、また宥存の病気のために建立計画は延期・頓挫していまいます。
象頭山金毘羅大権現 金堂改築前
金堂再建前の薬師堂は、小さかった
宥存の没後に、金堂再建に乗り出すのが宥昌です。
文化3年(1806)、金光院別当宥昌は、先代別当の宥存の意志を継いで、薬師堂を廃して金堂建立の願書を提出します。宥昌は、実務を金毘羅の酒屋の秦半左衛門と多田屋香川治兵衛に当たらせ、金堂建立のための講を組織させます。しかし、宥昌は翌年5月2日に没します。金堂再建は遺言のような形で残ります。
代わって院主となった宥彦の代になって 金堂再建のために講は開かれますが、なかなか軌道に乗らなかったようです。彼の死後の文化9(1812)年の11月になって施主が決まり、普請小屋の場所の見分が行われています。その翌年1813年に、起工式を執り行うまでにこぎつけています。以後、建築用材などが順調に集まり始めます。各地で講が組織され奉納金も着実に増加します。しかし、入仏がおこなわれたのは弘化2(1845)年のことになります。約30年余におよぶ大プロジェクトで、その間に費やされた人数と金銭は膨大なものでした。この資金をどのようにして集めたのでしょうか。
 それがうかがえる史料を見ておきましょう。

「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」
「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」酒井家文書
阿波の酒井家に残る「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」と題する摺り物は、募金集めの宣伝ビラで次のようなことが分かります。
① 末尾の「癸酉五月」とあるので、文化十(1813)年5月に発行されたものです。これは建立が本格始動した翌年にあたります。
② 発行者の「引請世話人中」とは、金堂の建築用材を調達した大坂の西村屋愛助らのこと
③  冒頭の「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」は金堂建築使用の柱等木材の値段で以下の通り
④ 「本柱」長さ四間半、断面一尺八寸四方 代金三十五両
⑤ 「外柱」長さ三間  断面一尺六寸四方 代金 十二両




⑥「虹梁」長さ二間  幅二尺 厚さ一寸二 代金  十両
⑦ 隅搉    代金 二十両
⑧ 間搉    代金  三両

斗栱 枡形

⑨ 本枡形 (斗栱) 代金五両
⑩ 小枡形  代金三両八分

旭社 正面 唐扉
旭社の唐扉
⑪ 唐扉  代金二十両

旭社の銅瓦調査1
旭社銅瓦の調査

⑫ 銅瓦 代金銀三匁
この広告には、必要な部材を一つ一つ書き上げ、その金額が示されています。ここに挙げられているのは、目立つ部材のみが挙げられているようです。この広告を見た人たちは、どのくらいの金銭で、どこの部材が調えられるか、具体的な感触を得て、こんな風に思ったはずです。
「35両で大黒柱一本か、金刀比さんの本堂に自分の寄進した大黒柱が使われるというのは、有難いこと」と考え、金堂が自分の寄進で成就する姿を思い浮かべ、寄進に応じようとする富裕層も出てきたはずです。詳しい数値、目立つ部材という仕掛けを通して、寄進者の気持ちをその気になせる巧みな戦略です。どちらにしても、数多くの人達の寄進によって旭社が出来上がったことが感じられます。

  広告には、続いて「右に書き上げたほか(建立に必要な)品数が多くあるので、お志にまかせて御寄進ください。もっとも、御当山(金光院)から諸勧進の人は差し出しません」と記されています。つまり、引請世話人たちは、金光院からの援助とは別に、こうした摺り物を独自に作成して、木材購入に必要な金銭を集めたようです。
 こうした広告の成果を見ておきましょう。
天保三(1832)年には摂津国池田(大阪府池田市)の神酒講から本柱に必要な35両が奉納されています(『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』金刀比羅宮社務所、 1988年)。本柱の35両とは、広告の摺物に書いてあった金額と一致します。摂津国は、引請世話人の西村屋の地元です。この広告が摂津国で流布して、それに応じた人達がいたことがうかがえます。その10年後の天保13(1834)年には西村屋が金堂用材の橡105本を秋田から廻送しています。

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         金刀比羅宮旭社(旧金堂)の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

旭社正面の柱に彫られた江戸の寄進者の名前。先ほど見た広告によると「外柱(長さ三間・断面一尺六寸四方は、代金十二両」でした。その12両をこれらの人達で分割し寄進したことが考えられます。

 この摺り物は徳島県の酒井家に伝わったもので、今は徳島県立文書館蔵に酒井家文書として保管されています。
酒井家は、阿波国半田村(美馬郡つるぎ町)で運送業を営んだ町人で屋号は堺屋です。この摺り物を収集したのは、五代目武助のようです。武助は天保六年に亡くなり、金堂が完成した弘化二(1845)年には、六代目弥蔵が当主になっていました。金毘羅信者が多かった阿波国は、新浜(徳島市)の善蔵が金堂願主になっているので、金堂建設資金の募集拠点のひとつでもあったことがうかがえます。徳島繁栄講の講元である後藤民之助が360両を、また講中が畳料三貫五百目を寄進しています。

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
弘化二(1845)年に完成した金堂(旭社) 金毘羅参詣名所図会(1848年)

金堂寄進帖〜讃岐国
金毘羅大権現金堂への寄進名簿 丸亀や三豊の人々の名前が見える
こちらの寄進一覧には丸亀と三豊の人達の名前が並んでいます。奉納額は10両~20両です。名前を見ると丸亀の船頭中(船頭仲間)や福島湊の福島町の講も見えます。

金堂寄進帖〜武蔵国
武蔵国からの寄進帳

弘化二(1845)年、金毘羅では金堂入仏を祝して、2月から5月まで3ヶ月間に渡って開帳が行われました。
その間、堺屋(酒井)弥蔵は半田村から何度も金毘羅に参詣し、その模様を「弘化二年乙巳春中旅日記」(酒井家文書83)に次のように書き残しています。
2月1日
金堂御入仏の奉納物が内町から練り上るということで、おやま(遊女)たちが色々に持 え、三味線や太鼓で囃し練り歩いたのを面白く見物し、それから参詣をした
2月8日
参詣し、翌日の入仏式の当日には「参詣会式の事は中々筆に言われず、ここに略す」
3月11日 芝居見物
3月26日
内町南裏手からの出火に遭遇し、「金山寺町の小芝居が焼失、大芝居は無事であった、さてさて騒がしいこと」
4月7日 参詣
4月22日 母を伴い参詣。翌日に軽業見物
このように、弥蔵は足繁く阿波から金昆羅に足を運んでいます。おそらく自分や父親が寄進をした金堂が立派に成就したのを目の当たりにして、感無量だったのかもしれません。あるいは馴染みの芸子がいたのかもしれません。母に芝居や軽業も見せています。どちらにしても阿波の檀那衆を惹きつけるだけの娯楽と魅力が金比羅にはあったということでしょう。阿讃の峠を越えて、足繁く通っています。そういう意味では、金比羅は信仰の町であると同時に、歓楽・娯楽の町としての魅力にも溢れる街になっていたようです。巨大な金堂は、金毘羅の「集客モニュメント」としても機能していくことになります。

旭社正面 神社明細帳附図
完成した金毘羅大権現の金堂

以上を整理しておきます。
①初代髙松藩主松平頼重の保護を受けて、元禄期には金毘羅大権現の境内の整備は進んだ。
②18世紀後半になり、金比羅船を利用した参拝客が増えるに従って、さらなる集客力アップのための建造物モニュメントの必要性が出てきた。
③そこで1771年に、金堂建設計画を発表するが、数々の障害で着手には至らなかった。
④本格的な動きが開始されるのは1812年になってからで、講組織による全国的な資金集めが行われた。
⑤そこでは、金堂の建設資材の柱に値段を付けて寄進を募るという方法が採用された。
⑥こうして全国からの寄進で購入された柱には、寄進者の氏名が彫り込まれている。
⑦こうした幅広い寄進を行う事で、2万両という資金を40年掛かりで集め、金堂は完成した。

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旭社の「総六材木」 寄進者の名前が彫り込まれている
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金刀比羅宮 旭社 氏子神饌【旭社→御本宮 編】
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

参考文献 徳島県酒井家文書にみる金刀比羅宮金堂建立の寄進  ことひら74
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まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、金刀比羅宮の重要文化財の建物めぐりを行いました。別宮・本宮をめぐって、下りの石段を下りていきます。石段の途中から大きな建物が見えてきました。
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金刀比羅宮の旭社(旧金毘羅大権現の金堂)
逆光の中で建物が浮かび上がってくるように見えます。
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 金刀比羅宮 旭社 特徴は軒下の欅板に掘られた渦巻き文様
 ケヤキの大きな板一枚一枚に渦巻き文様が彫られています。この軒下の彫り物が、この金堂の特徴だそうです。組物も豪快です。

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金刀比羅宮 旭社の内部は空っぽです。太鼓がみえるだけです。

旭社は、神仏分離の前は何だったのでしょうか?

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
金毘羅参詣名所図会(1848年)  
金毘羅参詣名所図会は、金堂(旭社)について次のように記します。
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作
金毘羅参詣名所図会からは、次のような情報が読み取れます。
①観音堂の下の空間には巨大な「金堂」があった。
②金堂(旭社)の下には多宝塔があった。
③金堂は1845年に完成したばかりで、多宝塔横の参道は石段や玉垣が未整備で、燈籠もない。
④本尊が薬師如来像であった。

讃岐国名勝図会に描かれた金堂も見ておきましょう。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の金毘羅大権現金堂(1853年)
金毘羅参詣名所図会の5年後に描かれた讃岐国名勝図会です。これを見ると金堂周辺整備が進み、石段や玉垣・燈籠なども石造物の整備が進んでいることが分かります。旭社は金毘羅大権現の金堂として、1845年に完成したことを押さえておきます。 

旭社正面 神社明細帳附図
金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 正面
金堂上梁式の誌には、次のように記します。
①文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね②弐万余の黄金(2万両)をあつめ
②今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①1806年の発願から1845の完成まで約40年がかりの建築工事だったこと
②建設資金は約2万両で勧進講で集めたこと
ちなみに、式では投げ餅が一日に7500、投銭が15貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。建立当時は中には本尊を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には漆が塗られその上に金箔が施されたといいます。

旭社 神社明細帳附図
            金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 側面
 それではこの金堂には、どんな仏さまが本地仏として安置されていたのでしょうか?
松尾寺の本尊は、十一面観音だったので観音堂が本堂でした。それに対して、金堂に安置されたのは、金光院の本地仏である薬師如来像でした。そのため薬師堂とも呼ばれています。どうして薬師如来だったのかというと、次のように考えられていたようです。

金毘羅大権現の本地仏は薬師如来

1十二神将12金毘羅ou  
薬師十二神将

「金毘羅大権現の本地仏=薬師如来説」に対して、次のような熊野行者勧進説もあります。
山林寺院の中には熊野行者によって開かれた寺院が多く、熊野神宮の本地仏のひとつが薬師如来でした。そのため薬師如来を本尊とするところが多いとされます。後に薬師堂となる本地堂に薬師如来が安置されていたのは松尾寺の熊野行者や熊野信仰との結びつきを示すものと考える研究者もいます。このあたりは、今の私にはよく分かりません。

1 善通寺本尊2
善通寺東院金堂の本尊 薬師如来坐像
ちなみに象頭山周辺で薬師如来を金堂の本尊とするが善通寺東院です。東院金堂には、江戸時代になって勧進活動で得た資金で京都の仏師に発注した薬師さまがいらっしゃることは以前にお話ししました。金光院は善通寺をライバル視していて仲が悪かったので、善通寺金堂を意識していたはずです。「善通寺さんよりもよりも大きく高いものを!」と。しかし、どんな薬師さまが安置されていて、それが廃仏毀釈によって、どこに売却されたかは今の私には分かりません。

イメージ 2
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

 明治の廃仏毀釈で金堂はどうなったのでしょうか? 金刀比羅宮が県に提出した「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てみましょう。

[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここには境内仏堂の廃止と、その跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことが報告されています。
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旭社の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

金堂も旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などを祀るようになります。しかし、今は空っぽに見えます。

旭社平面図 神社明細帳附図
旭社平面図
旭社(旧金堂)は、神仏分離後には神道の「教導説教場」として使用されるようになります。

旭社内部 天井 神道
現在の旭社内部の「素木の講壇」
明治の金刀比羅宮は、讃岐における神道の指導センターの役割を果たすようになります。そのため神道の教えを教導するための教習場となり、県下から神官が集まってきました。その時の講習会場として、この建物は使われるようになります。その際に、仏式に荘厳されていた天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木とされたようです。記録には「明治6年6月19日 素木の講檀が竣成」とあります。
 しかし、神官による説法は僧侶に比べると面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教指導は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されます。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。

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           旭社の扁額
この建物が完成したのが1845年のことで、180年前のことになります。近年南側の欅の軒下の松材が白蟻の被害を大きく受けていることが分かりました。そのため大改修が来年から始まるようです。金刀比羅宮のHPには次のような「旭社 令和の大改修プロジェクト御奉賛のお願い」が載せられています。
今般、二階の屋根材木に白蟻被害が確認され、一部の柱に圧壊も認められたことから、半解体による大規模な修理工事が必要となりました。
調査の結果、修理には、工事用道路、覆屋の建設、解体、修理、復元とさまざまな工程を18年に亘り進める必要があり、約50億円の経費が必要であることが分かりました。旭社は国の重要文化財に指定されておりますので、修理費の一部は国や地元自治体からの補助をいただく予定ですが、事業規模がこれまでになく大きく、「令和の大改修プロジェクト」として、旭社の建築時と同様、多くの方々から御奉賛をいただきながら、事業を確実に進めていきたいと考えております。
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           金刀比羅宮旭社 南面部 この軒下部が白蟻被害部分
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                      その拡大
渦巻きの掘られた檜板は被害を受けていませんが、その内部の松材が被害甚大だそうです。
完成から200年後の2045年頃まで改修工事が続くことになるようです。私が生きているうちには、改宗後の姿は見られないようです。大切なものを未来に残していく作業が、ここでも始まろうとしています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、重要文化財となっている金刀比羅宮の別宮・本宮・旭社を巡ってきました。今回は本宮についてお話しします。テキストは、帰りに手に入れた次の報告書です。
金刀比羅宮本社上空写真1
        金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
左奧が別宮・手前が本宮です。明治の再営時には、観音堂と旧本宮(金大権現本社)は、それぞれ旭社への下り道と、御前四段坂の参道の前に線を揃え東面して並び建っていました。この配置を踏襲して、同位置に別宮、新本宮が造営されます。別宮が完成し、明治9年に仮遷宮が行われると旧本宮は取り壊され、その跡地に新本宮の造営工事が開始されます。そして、1年間の短期間で明治11年に正遷宮が行われます。
 本宮・別宮ともに本・中・拝殿が連結された複合社モデルです。それぞれ左右に神殿と直所が渡殿や渡廊下で繋がるよく似た形式でが、本宮は建築面積にして別宮の二倍を超える大規模なものです。それにもかかわらず仮遷宮後、2年で正遷宮を迎えています。短期間で工事を終えることが出来た要因については、旧本宮の基本的な構成と配置を大きく違えることなく、地盤面の石材などを再利用し、大規模な基礎工事を避けたためと研究者は考えています。

金刀比羅宮本社周辺図

本宮は四段坂の階段を登ってくると、その正面に姿を現します。

金刀比羅宮 石段777段目
785段の石段のゴール・四段坂の正面にたつ金刀比羅宮本宮

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金刀比羅宮本宮 拝殿正面
お参りしたのは11月末でしたが、正月の参拝客に備えて高い拝殿への階段には木の板が張られ、注連縄も新しくなっていました。正面から見るとシンプルに見えます。

金刀比羅宮 拝殿正面
                金刀比羅宮本社 拝殿正面図
拝殿前から振り返ると四段坂の最後の急勾配の石段が見えます。本宮は参道ゴールに鎮座していることを押さえておきます。お参り後に、移動してから拝殿の北側を見てみます。

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                金刀比羅宮 本宮拝殿北側
正面から見る印象と、横から見る印象が違います。屋根には千鳥破風と軒唐破風が乗っていて複雑です。この屋根を造ったの檜皮師たちは、下表のように摂津国兵庫の職人と、讃岐・備前連合の2つのグループだったことは、前回お話しました。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

報告書40Pには、本宮拝殿について次のように記します。
①高2,3mの高床建築で桁行三間、三関の横長の平面。
②円柱を礎石建てとし、切日長押、内法長押、頭、台輪を回し
③組物は各間の中央にも配した三手先詰組で基本は角形、組物間には通射本を多用する。
④軒は二軒角繁垂木とし小天井を備える。
⑤屋根は入母屋造で、正背面には大棟と棟を揃えた大きな千鳥破風を備え、両側中央に軒唐破風を備える。
⑥妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狭間格子とする。正面向拝を設け、軒とする。
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                 金刀比羅宮 本宮拝殿北側

金刀比羅宮本宮拝殿 組み物

③④の拝殿組物

金刀比羅宮本社拝殿 向拝
⑥の拝殿の正面向拝

金刀比羅宮本宮拝殿内部
金刀比羅宮 本宮拝殿内部
讃岐風俗舞を奏進、田耕行事を行い、続いて田舞3
本宮拝殿内部
金刀比羅宮 新嘗祭 本宮拝殿
本宮拝殿内部 新嘗祭

拝殿にお参りすると、これが本宮だと思ってしまします。しかし、本宮は「拝殿 + 中殿 + 本殿」の3つの建物が連なった複合施設です。それを次の絵図で見ておきましょう。

金刀比羅宮 拝殿
金刀比羅宮本宮  左から「本殿 + 中殿 + 拝殿」
これを断面図で見ると次のようになります。

金刀比羅宮本宮断面図
金刀比羅宮本宮の断面図

3つの建物がつながっていることが分かります。また、先ほど見たように拝殿は高床式で、縁の下に通路が2本あるのも確認できます。この縁の下の通路は何のために設けられたのでしょうか?

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本宮拝殿正面の縁下通路
幕末の金毘羅参詣名所図会には、拝殿について次のように記します。
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   
その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。 
ここからは、拝殿下の通路を使って、拝殿の周りを何回も「行道(堂)」する祈願スタイルが行われていたことが分かります。そのために、明治の再営でも廊下通路は造られたようです、しかし、再営後には拝殿周囲には柵を巡らしているので、従来の祈願スタイルは禁止となっていたようです。ちなみに、このスタイルは、倉敷市の由加神社本宮(旧瑜伽権現本社)や高松市の石清尾八幡宮下拝殿(明治14年(1881)などにも受け継がれています。

金刀比羅宮本宮平面図
金刀比羅宮 本宮平面図
 次に中殿を見ていくことにします。中殿は幣殿とも呼ばれ、拝殿と本殿を繋ぐ縦長の建物です。調査報告書には次のように記します。

金刀比羅宮 中殿内部1
金刀比羅宮本宮 中殿内部
①桁行三間、梁間一間の縦長平面。
②礎石建ての拝殿とは異なり土台建てだが、軒桁の高さは拝殿に揃える。
③両側面は桁行に切目長押、内法長押、頭貫、台輪で固める。
④第一間は拝殿脇間との境を開放し、第二間は双折戸を両外開に構え外に切目縁を備える。
⑤第三間は腰板壁と格子窓とする。
⑥組物は組の平三斗の上にさらに通肘木3段及び通実肘木を連斗を介して重ねた
金刀比羅宮 中殿組物1
金刀比羅宮本宮 中殿組物
中殿については、外からは見えにくい所にあるので、あまり馴染みのない建物になります。
本殿について報告書は次のように記します。

金刀比羅宮 本殿
金刀比羅宮 本宮本殿
①三間社入母屋造で、向拝は設けずに正側面の三方に緑を回す
②正面中央間の軒下部分は両側面のみを閉ざして中殿から一連の内部空間とする。
③身舎円柱に切目長押、内法長押、木鼻付き頭台輪を回す。
④頭賞木鼻は形のない簡素な角形ながら入八双金物で飾る。
⑤身組物は角形の財木を用いた三手先の話組で、丸に金の神紋を中備とする。
⑥軒は二軒角繁垂木とし、正面中央間では組物は前面の天井桁を受け、軒を現さない。
⑦屋根は入母屋造とし、大棟に千木・堅魚木を置き、正面には大棟と高さを揃えた大きな千鳥破風を飾る。
⑧妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狹間格子とし大きな鰆付きの猪目懸魚を飾る。
金刀比羅宮本宮本殿3
金刀比羅宮 本宮本殿
金刀比羅宮本社本殿組物
金刀比羅宮 本宮本殿の組物

金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)
金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)

金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
                金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
本殿・中殿・拝殿の格天井については、次のように記します。

素木のままの天井板と桜樹木地蒔絵を描いた天井板とを交互に市松文様状に配っている。絵柄は拝殿では円形にデザインされた桜樹、中殿と本殿では1本から数本の桜の折枝とし、一枚ごとに変化を持たせている。

そして桜の木は、本殿の外側の壁にもデザインされています。

金刀比羅宮 本宮本殿の側面壁の桜の蒔絵
本宮本殿の側面壁 ガラス面に金色に輝く蒔絵

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金色の蒔絵の桜の木
これらの蒔絵を担当した職人たちの名前が、棟札には次のように記されています。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
本宮棟札に書かれた蒔絵師たちの名前
ここからは蒔絵を担当したのは、東京の山形次郎兵衛を頭取とする東京グループと、西京2名と大阪1名の職人だったことが分かります。

P1290080

 現在の本宮がいつ再営されたのかを棟札で見ておきましょう。

金刀比羅宮本殿棟札明治10年
           金刀比羅宮(事刀比羅宮)本宮(本殿・中殿・拝殿)の棟札 
明治 8年1月22日 開始
明治 9年4月15日 仮遷宮
明治10年4月15日 本宮上棟祭
明治11年4月15年 本遷宮 

 以上見てきたように本宮の形式や意匠からは、神社建築の新しい形式や表現を求めたことがうかがえます。その原動力は何だったのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
         金毘羅大権現に描かれた旧本社 讃岐国名勝図会(1853年)

本宮再営の「御本宮再管竣功之記」には、次のように記します。

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
         神仏分離以前の金毘羅大権現の旧本宮 (彩色美に彩られていた)

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

ここからは施主である金刀比羅宮の指導者たちが、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、「大神に釣り合う」復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。例えば、旧本宮は屋根は檜皮葺でしたが、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」からは分かります。これらを仏教風なものとして排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。

金刀比羅宮本社
           金刀比羅宮 本宮
屋根には新たに千木・堅魚木を置くなどして、神社建築の伝統的な要素が加えられます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい感性がみられます。
金刀比羅宮本社2

以前に見たように先行する別宮新宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性が見えました。しかし、肘木下端には曲面を残し、向拝や木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が残されて華やかな細工になっています。これに対して、本宮工事では肘木も角形になっています。そして、彫刻的細部は向拝中備など最小限にとどめ装飾的細部を、さらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も、大工棟梁は琴平高藪町の綾坦三であったことは前々回にお話ししました。
同じ棟梁が担当しながらも、2年しか経っていないのに、別宮と本宮で様式的な変化を造りだしています。これは別宮の完成後に脱神仏混淆様式の追求を、本宮ではさらに推し進めるようにとの要望が施主側の金刀比羅宮からあったからかもしれません。どちらにしても本宮には、前例のない新しい様式が取り入れられています。これは金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっては挑戦にもなりました。このような宮大工の研究心が19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群工事や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。
 また、装飾的要素を全面的に否定したわけではありません。
絵様形と彫物に代わって、銅金物がその役割を担うようになります。本宮では錫金物が各所に多用されて華やかさを増し、さらに桜樹木地蒔絵が施されています。装飾のモチーフとして選ばれたのは、丸に金の神紋と葛紋・花狭間・桜樹です。そこには動物の姿は見えません。旧本宮や旭社(旧金堂)にみられた三つ巴紋も姿を消します。これに代わって金毘羅灯籠などに広く用いられてきた丸に金の神紋が各所に多数現れるようになります。

金刀比羅宮 明治12年
金刀比羅宮 新しく登場した本宮と別宮(明治11年)

金刀比羅宮境内図 明治45 縦
                  金刀比羅宮 明治45年
こうして象頭山には、明治の新しい神社建築様式をもつ本宮と別宮が並んで登場します。
これは物見高い民衆の評判にもなり、参拝客はますます増えるという「集客力向上」にもつながります。また、金刀比羅宮の新しい本宮・別宮モデルは、人々には新鮮なものとして好印象で受け止められます。すると、香川県西部や徳島県西部では、角形射木など金刀比羅宮の影響を受けた様式が、この時期の神社建築に見られるようになります。

岩清尾八幡 髙松市
      髙松の石清尾八幡宮の下拝殿(明治14(1881年)は金刀比羅宮本宮に酷似
例えば、旧高松城下町の氏神とされた石清尾八幡宮の下拝殿は、金刀比羅宮の本宮完成後の3年後(明治14年/1881)に出来上がっています。その姿を見ると角形の肘木・木昴、多角形手挟が使用され、花狹間格子の特徴的な妻飾も取り入れられていて、金刀比羅宮拝殿に酷似していると研究者は指摘します。

 熊手八幡宮
多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)
 岩清尾八幡社絵馬堂(明治26年/1893)や多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)、拝殿(明治21年/1888)では、角形肘木を用いる一方で木鼻は彫物とするなど金刀比羅宮の様式を選択的に取り入れています。この様式は、多度津では戦前まで地域の神社建築様式として長く影響を与え続けたと研究者は報告しています。(1.「多度津伝統的建造物群保存対策調査報告書」令和2年3月多度町教育委員会)
 さらに阿波街道で結ばれていた阿波の美馬・三好郡には明治期神社の本殿に肘木のみ角形とするものが数多くあり、肘木・木鼻とも角形とする例も次のように報告されています。
①三好市井川の馬岡新田神社(明治16年)
②つるぎ町半田の石堂神社本殿(明治24年)
③美馬市美馬弁財天神社本殿(明治28年)
④杉尾神社本殿(明治35年)
「郷土研究発表会紀要』第38号1992.3、第44号1998.3.「阿波学会紀第49号2003.3、第53号2007.7.55号2009.7.第57号2011.7)。
ここからは、かつては「四国の道は金毘羅に通じる」と言われたようですが、金毘羅は神社建築などでも文化情報の発信地であったことが見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

「金刀比羅宮 本宮地域建造物 調査報告書」
参考文献は、巫女がお持ちの「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年」です。
関連記事

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮 本宮 

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札

本宮建設に関わった職人240名のリスト
明治の本宮造営の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには本宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。テキストは金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。前回に上段の大工たちは見ましたので、今回は中段からになります。
その筆頭に来るのが「御宮材木調進方」です。    

「御本宮再營諸職人」という板札
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 御宮材調進方
 「御宮材調進方」の主事は、別宮・本宮ともに小原林右衛門です。出身地を見ると手附3名を含めて全員が土佐国高智(高知)です。別宮・本宮は、両方とも総檜造でした。そのため檜の調達が最優先となるので、檜の産地である土佐出身者が臨時職員として採用されたと研究者は考えています。「御本宮再警竣功之記」には、次のように記します。
①宮材となる檜の良材は土佐国船戸山の峡谷(高岡郡津野町船戸)のものが使用された
②檜の無節にこだわり、渡殿や廊下などでは僅かに節が混じるものは丹念に取り除いて木を撰んだ。
小節ひとつといえども許さない心意気だったことが伝わってきます。

2段目の次に記されるのが蒔絵師です。
江戸時代、蒔絵を施す蒔絵師。細かい作業をする職人に眼鏡は欠かせない(『和国諸職絵尽』より) - 江戸ガイド|江戸ガイド
蒔絵師
本宮の本殿画面板壁と脇障子、本殿・中殿・拝殿の各格天井には、檜の柾目板の木地に高蒔絵の桜の木が描かれています。
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金刀比羅宮本宮の 本殿画面板壁 桜が描かれている。
白木の上に金色に輝く桜の木の蒔絵を作成した職人たちを見ておきましょう。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
           金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 蒔絵師 
 
蒔絵師頭取は東京の山形治郎兵衛で、配下の手附も東京です。山形治郎兵衛率いる東京の絵師集団が作成したことが分かります。さらに拝殿の格天井には、西京2名と大阪1名の蒔絵師が加わっています。蒔絵技術を持つ職人は、琴平にはいなかったようです。

続いて金物師を見ておきましょう。
本宮では、素木造の社殿に対して銅金物が各所に多用されています。そこには丸に金の神紋や紋を打ち出しや、地金に葛紋を線刻した意匠で統一されています。板札には、それぞれのグループが担当した部位も詳細に記しています。
金刀比羅宮本社2
           金刀比羅宮本宮の金具

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 金物師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 金物師

別宮棟札には、金具師は琴平の藤本茂吉だけしかみえませんでしたが、本宮では藤本茂助に加えて大阪の大西仙助が頭取として加わっています。そして、次のように2グループ合計32名の名前があります。
頭取 琴平の藤本茂助 その手附に、西京8、近江国2名、大阪4名、高松1名、当村2名の計17名
頭取 大坂の大西仙助 その手附に、大阪から11名、西京から4名の計15名
さらに鉄金物については琴平村の金物師田村榮吉1名、鋳物師は備中国阿曽の林友三郎1名で拝殿擬宝珠を製作しています。こうしてみると金具も京都や大阪の職人が中心となっていたことが分かります。 

2段目の一番最後に出てくるのが檜皮師です。

檜皮師
檜皮師の作業

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

別宮では、水野宗三郎の頭取1名の1班体制でした。それが本宮では次のように編成されています。
A 檜皮師頭取 摂津国兵庫 小泉 為七 手附は摂津国兵庫から1名、西京から6名の計7名
B 檜皮師頭取 琴平村   岡内小四郎 手附は伊豫国西条から1名、当国丸亀から4名、備前国岡山から2名の計7名
Aの京都職人とBの讃岐・備前・伊予連合の2班体制になっています。檜皮も他国職人に発注しなけらばならなかったようです。

最後の下段には、石工が並びます。
最初、本宮のどこに石が使われているのかと私は疑問に思いました。しかし、報告書には本宮の特色を次のように記します。
本宮本殿・中殿・拝殿は、四段坂の参道に軸線を揃えて旧本宮とほぼ同位置に再営されている。大規模な高床の拝殿の脇間背面通りから後方は、地盤を1、4m高くして、中殿と本殿が建つ神城とする。正面や両側面の壁には延石、地覆石、羽目石、葛石からなる化粧石が施され、擁壁の縁に沿って葛石を布基礎とする透塀を回し、透塀の場内に拳大の玉石を敷き詰める。拝殿・中殿・本殿が接続して後方に高まりながら複雑な屋根の構成をみせる総檜の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式になる

豆知識|寺院、神社の新築、改修、屋根(銅・チタン)、地震対策はカナメ

建物の下には大量の石材が使用されているようです。これを扱った石工集団を見ていくことにします。

「御本宮再營諸職人」 石工
2つの石工グループ
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 石工 琴平在住
           手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
①最初に来るのが丸亀の石工集団で、頭取の小野利助と小野藤吉が率いる総勢9名
②次に、地元琴平の佐々木儀三郎が頭取を務める備前・長門の12名
③その後に地元の手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
 別宮や本宮で使用された石材はほぼ全てが花崗岩です。花崗岩は讃岐でも産出しますが、職人の出身地は大きな広がりを見せます。地元讃岐だけでは間に合わなかったのかもしれません。丸亀や備前・長門から運び込まれた石材を修正して設置したのが③の「琴平村の手伝頭・香原政吉が率いる「引受」石工56名」ということになるようです。
ここで疑問に思うのは、琴平にどうして石工が56名もいたかということです。
それは大工が沢山いたことと同じ要因が考えられます。次の表は境内に、いつごろ玉垣が整備されたを示すものです。
4 玉垣旭社前122
ここからは次のような情報が読み取れます。
①18世紀以前には石造の玉垣はほとんどなく、朱色の木造玉垣が主であった。
②石造物の玉垣が造られ始めるのは、1840年頃からである。
③1845年の金堂完成に併せて周辺整備が進められ玉垣・石段・敷石が急速に普及した。
④幕末から明治にかけて、玉垣など石造物で埋められ白く輝く境内に変身した
⑤同時に、石造物需要が高まり、石工が琴平に数多く定住するようになった。
このように明治初頭の琴平には、大工や石工などが数多くいたのです。彼らに仕事を与えるためにも新しい神道様式の本宮・別宮は求められていたのかもしれません。ある意味で、住民に仕事を確保する公共事業的な役割もあったのでしょう。
以上を整理しておきます。
①別宮・本宮造営については大工については、琴平在住の大工で対応ができた。
②しかし、金物師、檜皮師(ひわだし)、石工のなどの各職種については、地元の職人だけでは対応できずに、他国の職人に発注しているものもある。
③一方、琴平出身者がリーダーとなりながら他国者を入れた混合の班編制をして運用している職種もある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
関連記事

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金刀比羅宮 別宮
金刀比羅宮の重要文化財に指定された建築物の中の別宮について、いろいろとみています。今回は別宮建設に関わった技術者集団について見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮別宮
まず明治時代の別宮造営時の棟札を見ていくことにします。

金刀比羅宮 別宮棟札2
別宮 棟札(明治8年)

まず工期と宮司と権宮司を確認します。
明治8年1月22日 新始式
    10月12日 上棟
明治9年(1876)4月10日 落成・仮遷宮
宮司  深見逸雄(鹿児島県出身 明治政府の派遣) 
権宮司   琴綾宥常(旧金毘羅大権現の金光院主)
禰宜 松岡調(讃岐国名勝図会の絵図製作者・多和文庫創設者)
拡大して、一番下の職人集団のリーダーたちの名前を見ておきましょう。

別宮棟札13の拡大

一番下段には小さな文字で、次のような職人集団の指導者の名前が記されています。
大工棟梁 1名 綾 担三
大工副棟梁 2名 川添清八郎 白川駒造
大工世話方 4名 箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎  
檜皮師、金具師、石工、宮材主事 各1名
棟梁は綾担三、副棟梁は川添清八郎と白川駒造で、琴平村在住の大工たちです。明治8年の別宮上棟に綾担三自身が書いた板札には次のように記されています。

「父ハ綾九良右衛門豊章 金堂今旭社教殿之棟梁也」
意訳変換しておくと
「私の父は綾九良右衛門豊章で、 金堂(現旭社)教殿の棟梁を務めた」

綾担三の父、豊章は旭社を建てた棟梁だと記します。綾担三は、若い頃には豊矩と名のっていて高燈寵を建てています。明治になると名を豊矩から坦三と改めて、金刀比羅宮本宮や別宮の棟梁を務めたことになります。
副棟梁の川添清八郎(明治25年1月没)は、先代の長兵衛の代からの宮大工で、屋号は「西屋」でした。川添家は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に土佐から移り、寛文8年(1688)に琴平町に定住したと伝えられます。
 大工棟梁を務めた綾氏は、もともとは山下姓だったようです。 
 
4 塩飽大工
高倉哲雄・三宅邦夫「塩飽大工」成29年(2017)年3月 塩飽大工彰会
以前紹介した「塩飽大工」には、本島泊浦の大工山下家の流れについて次のように記します。

「塩本島泊浦の大工山下家から江戸初期に西讃地方に移った三兄弟がそれぞれ仁尾町、高瀬町、三野町を拠点に宮大工として活躍しするようになる。その高瀬山下家の流れを汲むのが琴平で活躍するようになる綾氏」

そして綾氏(改姓前は山下)が残した建築物を、次のように挙げています。


名前 住所   建設年     建設所在地
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10  善通寺五重塔  
山下理右衛門豊春      1823 文政6  石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824  文政7  石井八幡宮    琴平町
 山下から綾へ改名
越後   豊章 高藪町  1837 天保8  金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2  金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12  金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7  金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4  金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三(豊矩が改名)高藪町 1875 明治8  金刀比羅宮別宮・神饌所 
綾坦三      高藪町  1877 明治10  金刀比羅宮本宮  琴平町

ここからは次のような情報が読み取れます。
①1760年頃に、高瀬から琴平の苗田にやって来て善通寺五重塔に関わったのが最初
②19世紀初頭に、豊春が苗田村の石井神社拝殿・本殿を担当
③これを契機に、豊章は旭社・表書院などの棟梁を務めるようになり、住所を高藪に移した。
④天保2(1831)年2月に金光院棟梁役を仰せつかった際に、金光院院主を輩出する山下家との混同を避けて綾氏に改名
⑤19世紀中頃から豊章の後を豊矩(後の担三)が継いで、高灯籠などを担当
天保2(1831)年の金毘羅大権現の旭社(旧金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前があります。綾と名のっていますが、これは山下理右衛門豊章が金光院院主を輩出する山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになるのが上表からも分かります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。豊章という名前からは、豊春の子ではないかと推測できますが、確証できる資料はないようです。豊章の子が豊矩で幕末に高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、別宮や本宮の棟梁を務めることになります。 次の綾坦三の棟梁任命書が、それを裏付けます。
 「綾坦三 御別宮棟梁申付候事 明治七年七月十七日 (讃岐国金刀比羅宮印) 
  「綾坦三 御本宮御造営棟梁申付候事 明治十年四月 (讃岐国金刀比羅宮印)」

高灯籠版画
高灯籠 綾担三(豊矩)は、高灯籠の棟梁も務めた

19世紀は金毘羅信仰の高まりと共に、参拝客が激増して財政的に金光院は潤ったことは以前にお話ししました。その経済力を背景に境内整備が進められ、大工たちにとってはいい仕事が続いてあったことを押さえておきます。
別宮の棟札にもどります。大工たちの出身地を見ておきましょう。
「大工世話方係」は班長格の大工で、4名すべてが地元琴平村出身、その配下となる大工80名中69名も琴平出身者です。琴平以外は大阪1名、塩館10名です。別宮や本宮は、地元琴平の大工の手によって建てられたと云ってもいいようです。私は、神仏混淆様式を排した近代的な神道建築のためには、京都から宮大工を招いたのかと思っていましたが大外れです。それに対応できる大工集団が琴平にはいたようです。思い返してみれば、19世紀前半の金毘羅大権現は金堂工事が期間30年間・経費2万両の大工事を行っていました。その後には、7500両の経費がかかった高灯籠も綾担三(豊矩)が務めたことは先ほど見たとおりです。さらに、善通寺の五重塔も同時進行で建設中だったことは以前にお話ししました。そのため腕のいい大工集団が集まっていたようです。

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮本宮
 次に本宮の建設に関わった大工たちを見ていくことにします。
本宮工事の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには今宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札
          御本宮再營諸職人 本宮建設に関わった職人240名のリスト

本宮工事に「御本宮再營諸職人」という板札
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人(一部拡大)

三段になっていますが上段に並ぶのが大工たちの名前です。筆頭部分を拡大してみます。
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 大工
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人の大工筆頭部 大工棟梁は綾担三


大工棟梁   綾担三
大工副棟梁  川添清八郎 白川駒造
大工世話方  箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎 綾弥三蔵 綾喜三郎
先の別宮スタッフに加えて新たに大工世話係に、「綾弥三蔵 綾喜三郎」の2名が加えられています。綾家の三人は名前からして、担三の子息か親近者のようです。以下、出身地を「同村(琴平村)」と表記された大工たちが70名並びます。その中には、綾姓が8名、箸方姓が7名います。琴平以外では、塩飽大工が10名、大阪府が1名のみです。こうしてみると、別宮と同じように、本宮も琴平在住の大工集団で建てられたことが分かります。それだけの技術力や経験を金刀比羅宮の宮大工たちは持っていたことになります。
 大工棟梁の綾坦三に金刀比羅宮が求めたものは何なのでしょうか?
「御本宮再管竣功之記」には、金毘羅大権現の旧本宮について次のように記します。

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
金毘羅大権現本社(旧本宮) 天保三年御本社圖
ここからは施主である金刀比羅宮の指導者層が、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、大神に相応しい復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。旧本宮は、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」などからは分かります。脱神仏混淆色のために、動物デザインなど仏教風なものを排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。屋根には新たに千木・堅魚木を置いて、神社建築の伝統的な要素を加えます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい工夫を見せます。
 先に工事を行った別宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性を取りました。しかし、肘木下端に曲面を残し、向拝やの木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が描かれて華やかな細工になっています。これに対して、続いて行われた本宮工事では、肘木も角形になっています。彫刻的細部は、向拝中備などにしかありません。装飾的細部をさらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も大工棟梁は綾坦三でした。2年しか経っていないのに、次のような様式的な変化が見られます。
A 別宮では伝統的な様式を残し、神仏混淆様式からの脱却が徹底していない
B 本宮では脱神仏混淆色を、より進めて徹底した。
 そのような要望が施主側の金刀比羅宮からあったのかもしれません。それを実現するだけの技術と創意が大工たちにあったようです。どちらにしても、本宮の細部様式は、前例のない新しい様式でした。これは、金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっても新しい挑戦にもなりました。 このような宮大工の研究心が、19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
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金刀比羅宮 別宮
前回は明治維新後の神仏分離で姿を現した金刀比羅宮の別宮(現三穂津姫社)について、次のようにまとめました。

別宮登場の背景は?

明治時代に別宮が出来るまでは観音堂があったのです。観音堂は次のように立地場所を移します。それを今回は追いかけて見ようと思います。

金毘羅大権現観音堂の変遷

①1571年 宥雅が松尾寺の本堂観音堂を建てたのは現本宮の位置
②1624年 本宮の向かい側の北寄りに移築
③1659年 別宮の位置に東向きに移築
まず松尾寺観音堂の創建から見て行きます。

宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

長尾城城主の宥雅(長尾高広)が善通寺での修行を終えて、その末寺の称名寺に入るのが1570年のことです。この時期は丸亀平野の支配権をめぐって、天霧城の香川氏と阿波三好氏に従う香西・羽床・長尾氏などの間で、小競り合いが続く頃です。1573年には、天霧城が落城し、香川氏が備後に亡命する事件が起きています。一方、三好氏の保護を受けた真宗興正寺派の阿波の安楽寺が、讃岐に教線を伸ばし、各村々に道場が姿を見せる時期でもありました。
 このような中で1571年に、宥雅は新たな真言寺院・松尾寺を建立します。そして、その守護堂とし2年後に建立したのが金毘羅堂です。この時の棟札が宝物館には保存されています。これが金毘羅神についての最も古い一次史料になります。つまり、金刀比羅宮には中世に遡る歴史はないと近年の研究者は考えています。  
宥雅の金毘羅建立

 それでは宥雅は観音堂や金毘羅堂を、どこに建てたのでしょうか? 
金毘羅堂と観音堂の位置

上の図で見ておきましょう。
A 観音堂   現在の本宮
B 金刀比堂  四段坂の登り口
Aの観音堂の建つ位置は、 象頭山の地層が変わるとこで断崖にテラス状の平地が現れるところで展望も優れています。山林寺院の建立場としては最適です。ここに松尾寺の観音堂は姿を見せます。その本尊として迎えられたのが十一面観音です。

11金毘羅大権現の観音
             金刀比羅宮宝物館の十一面観音

金刀比羅宮十一面観音の由来 仮説1

藤原期の十一面観音像とされますが、今は化仏がありません。この観音様は、いまは宝物館にいらっしゃいます。明治の「廃仏毀釈」の中でも金刀比羅宮が守り通した仏像です。松尾寺の観音堂には、この観音様が安置されていたことを押さえておきます。 
 しかし、松尾寺を建立したばかりの宥雅に、思ってもいなかった激変が襲いかかってきます。
土佐軍の讃岐侵攻です。宥雅は堺に亡命し、無人となった松尾寺は、長宗我部元親の配下の修験者宥厳に管理運営を任されます。この時期は土佐の修験者たちによって松尾寺が運営され、多くの院坊が形成されます。そのような中で主導権を握ったのが宥盛です。彼は強い天狗信仰をもち「死しては天狗となって金毘羅大権現を守らん」とも云ったと伝えられます。こうして宥厳・宥盛の時代に、金光院は 松尾寺から金毘羅大権現へと立ち位置を移していきます。それが伽藍配置に目に見える形で現れます。

金刀比羅宮 正保年間境内図

まず1618年の生駒藩からの寺領寄進状には、それまでの松尾寺や金光院でなく「金毘羅大権現」と記されます。これが金毘羅大権現の初見史料になるようです。そして1623年になると新しい金毘羅堂が建立されています。ここには「内陣・弊(拝)殿・拝殿」と記されているので、神道的な本宮が登場したことが分かります。また、旧金比羅堂をを役行者堂にしたとあるので、それまでの仏教的堂ではなく神道的本宮だったことが裏付けられます。その場所が、いままで松尾寺の観音堂があったところだったようです。そして、観音堂は金毘羅大権現本宮に場所を譲って、翌年に移築されます。このことについては後世の人達から「松尾寺は、金毘羅大権現に軒先を貸して、主屋を乗っ取られた」と揶揄されることになります。ここでは観音信仰から出発した松尾寺は、17世紀初頭には金毘羅信仰へと大きく信仰対象を換えたとを押さえておきます。その管理運営の中心が金光院と云うことになります。

金刀比羅宮 元禄頃の境内図
元禄末頃(1704)の金毘羅大権現境内

そして髙松藩初代藩主・松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、上図のように元禄末頃には伽藍を一新します。観音堂も本宮の横から現在の別宮のある所に移って大型化します。18世紀初頭に書かれた金毘羅大祭屏風図を見ておきましょう。

金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
金比羅大祭屏風図(18世紀初頭)の本宮と観音堂

金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会
          金毘羅大権現 本社 (金毘羅参詣名所図会)

こうして見ると一等地を金毘羅大権現に譲り、その南に観音堂は控えたような風情がしてきます。
それでは観音堂の役割は何だったのでしょうか?

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
金毘羅大祭の舞台となった観音堂(金毘羅山名所図会)
ここには10月10日の金刀比羅宮の大祭「お十日(おとうか)さん」の観音堂行堂(道)巡図」がえがかれています。大祭の際に、観音堂のまわりを神官や五人百姓たちが「行堂=行道=行進(パレード)」する姿です。もともとは松尾寺の法華経を守護する三十番社のお祀りでした。そのため本堂である観音堂を舞台に行われていました。各地から集まった信徒たちが観音堂の周りを練り歩いたのです。讃岐国名勝図会に載っているものも見ておきましょう。

大祭観音堂行道 讃岐国名勝図会
                観音堂行堂巡図(讃岐国名勝図会)
①観音堂の周りを神輿が練り歩いている。
②これに五人百姓たちも従っている。
③観音堂の縁台には、頭家(とうや)僧が見守っている。
ここで注意しておきたいのは、行堂(道)は本宮ではなく観音堂のまわりを巡っていること、その主催者は神官ではなく僧侶であることです。何かを担いでいる人が五人百姓のようです。何を担いでいるのかは、よく分かりませんが「奉納品」のようです。そうだとすると、近世に流行神として金毘羅大権現が勧進される以前から、五人百姓と修験者たちは観音堂への信仰によって結ばれていたことになります。ここでは、五人百姓が金毘羅大権現が現れる前から観音堂の信者であり、祭礼に重要な役割を果たしていたこと、松尾寺から金毘羅大権現へ信仰対象を移し替えても、大祭は従来通り観音堂に捧げられていたということを押さえておきます。

大祭4
大門前に整列し、観音堂に登っていく大祭行列

DSC01629大祭図
同じく大門前の大祭祭礼図

観音堂のもうひとつの役割が、金剛坊殿と併設されていたことです。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会1854年)
金剛坊は金光院の初代院主とされる宥盛のことです。
『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
意訳変換しておくと 
宥盛は慶長十八葵丑年正月六日に出家し、俗名は井上氏と伝わる。慶長十八年から正保二年迄間三十三年、真言僧で両袈裟で修験号を金剛坊と称し、大峰修行も行っている。常に帯刀也。金剛坊(宥盛)の御影は修験姿で、観音堂裏堂に安置されている。高野山、熊野山権現・愛岩山権現などを勧請した。また柴燈護摩祈祷を何度も行った。
ここには金剛坊の御影の修験姿像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。こうしてみると、金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、宥盛であったかもしれない可能性も出てきます。それをまとめると次のようになります。
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として観音堂浦堂の金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた

観音堂平面図 江戸時代
観音堂の金剛院殿内部の略図

松尾寺観音堂鰐口2
金毘羅大権現 観音堂に吊されていた鰐口(金刀比羅宮宝物館蔵)

松尾寺観音堂鰐口
最後に幕末の観音堂の周りの宗教施設をもういちど見ておきましょう。

金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金刀比羅宮観音堂の南にある籠堂・通夜堂(讃岐国名勝図会)
この絵図を見ると観音堂の南側には絵馬堂や千体仏堂・孔雀堂などの施設が見えます。私が気になるのは、籠堂と通夜堂です。この名前の通り、観音堂の法会などでは世を明かしての宗教的な行事や、修験者や天狗信者に対する宿泊施設のサービスが行われていたことがうかがえます。観音堂は、金毘羅大権現における仏教行事の中核センターであったとも思えてきます。そういう意味でも、江戸時代の金毘羅大権現は神仏混淆の仏教施設であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ことひら町誌
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まんのう町文化財保護協会の秋のフィルドワークで、今年も金刀比羅宮を訪ねました。昨年は宝物館を中心に見学しましたが、今年は重要文化財に指定された本宮・別宮(三穂津姫社)・旭社を見てまわりました。その報告記を載せておきます。
最初に「四国新聞・2024/05/18」で事前学習をしておきます。
(前略)
明治初頭の神仏分離で仏教色を排し、神社として再興するため境内を再編しており、明治政府の宗教政策への対応を示す貴重な事例。複合社殿の本宮と別宮は独自の細部意匠を備え、両宮をつなぐ渡り廊下など一連の施設と共に優れた景観を形成していることも評価された。(中略)
金刀比羅宮本社周辺図


県内では明治以降の建造物が重文指定されるのは初めてで、今回答申された建造物は次の12棟。
「本宮本殿・中殿・拝殿」
「本宮神饌殿(しんせんでん)」
「本宮直所(じきしょ)」
「別宮本殿・中殿・拝殿」
「別宮神饌殿」「別宮直所」
「祓所殿(ばつじょでん)」
「南渡殿(みなみわたどの)」
「神楽殿」「御炊舎(みかしぎしゃ)」
「神輿(しんよ)庫」
「神庫」
 いずれも1874~78(明治7~11)年に建てられた。金刀比羅宮はかつて「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」として神仏混交の寺院でもあったが、1868(同元)年の神仏分離令から神社として再興。組織の再編に合わせ、境内も大規模に改編した。
県教委などによると、1878(同11)年建築の本宮は仏教色をなくし、壁面や天井に木地蒔絵(まきえ)を施した複合社殿。拝殿から本殿に向かって床高を上げることで格式を高め、破風(はふ)を多用した屋根も荘厳で優美な雰囲気を醸し出している。本宮本殿などを修理する際に本宮からご神体を移す別宮も本宮に準じた高い格式で、神饌殿や直所など付属施設を伴う構成も同じという。また、両宮をつなぐ全長42メートル、高さ2・2メートルの長い渡り廊下「南渡殿」は金刀比羅宮独特の形式。同時期に建てられた神楽殿、御炊舎など各殿舎も残り、同審議会は「優れた社頭景観を呈するとともに、神仏分離による境内改編の様相を伝え、歴史的に価値が高い」としている。
それではまんのう町役場から町のマイクロバスで出発です。

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金刀比羅宮山上から望む阿讃山脈と大川山
今回は文化財研修ということで、専用道路の使用許可をいただき町バスで山上まで上がること出来ました。バスから下りるとこんな風景が拡がります。阿讃の山が幾重にも連なり、朝の神域は空気まで美味しく感じます。

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昨年と同じ学芸員の森下さんに御案内していただきます。
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大銀杏が色付き初めています。まずは正面の祓除殿に向かいます。
金刀比羅宮本社上空写真1
      金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書の表紙 2024年 金刀比羅宮
金刀比羅宮本社周辺図

四段坂の階段を登った所に本宮、旭社(旧金堂)への下口前に別宮が鎮座します。山上の本宮と別宮をを回廊が結んでいます。まず山上の一番南の建物から見てまわります。

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金刀比羅宮 別宮の南側より 左が祓除殿・右が直所
金刀比羅宮 祓除殿2
金刀比羅宮 祓除殿
祓除殿(ばつじょでん:はらえでん)」は、穢れや災厄を取り除く儀式である「祓い」を行う場所だそうです。殿上に上がる時には、ここで「祓い」受けます。この施設は、神仏混淆の金毘羅大権現時代にはありませんでした。神仏分離後の明治10年(1877年)に建立されたものです。この建物も重要文化財に指定された12棟の文化財の一つです。もともとはガラス扉はなく、開放的な空間だったようです。

金刀比羅宮 別宮 祓除殿 直所
                 金刀比羅宮 祓除殿(左)と直所(右)

金刀比羅宮 別宮祓除殿内部
金刀比羅宮 祓除殿内部 ここで穢れや災厄を取り除く「祓い」を行います。

金刀比羅宮 直所1
金刀比羅宮 別宮の直所
祓除殿に並んであるのが直所です。直所は拝殿の番所です。「金刀比羅宮攝末社陪祀史」第二巻」(大正10年)には次のように記します。

「夜間出仕一人奉仕して警衛の任に当たる」

建築年代は、別宮と同じ明治8年(1875)に付属施設として建てられています。

金刀比羅宮 別宮直所内部
金刀比羅宮 別宮の直所内部

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かつては祓除殿の南側には隣接して絵馬堂がありましたが、今は更地になって広々した空間になっています。
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ここは神域の景観が大きく変わったとこです。そのために南方の景色がよく見えるようになりました。

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大銀杏の下を通って、別宮の南側から正面に移動していきます。

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 別宮の正面が見えて来ました。

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別宮は、旭社への下り参道の正面に建っています。振り返ると別宮の正面です。

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金刀比羅宮 別宮拝殿の正面 
金刀比羅宮 別宮正面図
金刀比羅宮 別宮(三穂津姫社)拝殿 正面図
調査報告書56Pには、別宮について次のように記します。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮 別宮 拝殿と本殿
①拝殿から後方は地盤を0.7mほど高めて、周囲に切石2段の石積上に葛石を回し、
②この石を布基礎として透塀を回して中及び本殿を開い。内部に拳大の玉石を敷き詰める。
③拝殿・中・本殿が接続して複雑な屋根の構成をみせる
④総欅の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式
P1290064
金刀比羅宮 別宮拝殿
⑤拝殿は高床の建築で、切石二段布積の布基礎上に上部梓付きの角柱を土台建て
⑥組物は大斗財木で柱間の使い正背面両脇は疎組だが、柱間中央では大木を配って詰とする。
⑦軒は二軒で角垂木を疎らに配る。
⑧屋根は入母屋造檜皮葺で、飾は前の上に三を組み、中に神紋を備えた彫物を配し、絵様を施した虹の上に笈形付大東を立て、破風の拝みに鯖付き無懸魚を釣る。


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⑨正面千鳥破風は大棟に高さを揃えて前方に棟を延ばし、妻は花狭間格子、拝懸魚は大屋根と同様とする。

金刀比羅宮 別宮本殿
金刀比羅宮 別宮平面図
平面図を見ておきましょう。
①桁行三間、梁間二間で、正面中央間特に広く12尺(3.6m)
②疎垂木を16枚(1枚=7寸5分)に割り付け、両脇は9枝と狭くし、側面は11枝等間
③拝殿中央間の柱は、正面向拝並びに後方に続く中殿及び本殿の間口に揃えた重要な基準間
④正面及び両側面は各間に双折れ唐戸を両外開に構え、正面中央間は長押を一段切り上げる
⑤背面は中殿に続く中央間を開放とし、両脇間は両外開きの唐戸を構える。

金刀比羅宮 別所本殿内部
金刀比羅宮 別宮拝殿から本殿への階段

金刀比羅宮 別宮 三穂津姫社例祭2
金刀比羅宮 別宮拝殿内部 (三穂津姫祭)

この別宮が建てられる前には、ここには何が建っていたのでしょうか? 

金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会には、別宮がある所に松尾寺の本堂(観音堂)が描かれています。
 明治維新の神仏分離によって、金刀比羅宮は金毘羅大権現を追放し、新たな国家神道の宗教施設としての道を歩み始めます。しかし、山上には今までの神仏分離の仏教色の強い本宮や、旧観音堂(松尾寺の旧本堂)が、そのまま残っていました。これらの宗教施設を一掃し、近代的な国家神道に相応しい宗教施設群の建設を金刀比羅宮は目指そうとします。ちなみに、幕末から明治にかけての金毘羅信仰の高まりはすざましく、経済的基盤にはめぐまれていたことは以前にお話ししました。こうして、山上におけるリニューアル工事が明治8年にはじまり、旧本社や旧観音堂は撤去されることになります。
 さて、ここで学芸員の方から出されたクエスチョンです。本宮と別宮では、どちらが先に建てられたでしょうか?
本宮の方が優先度が高いはずです。しかし、新しい本宮を建てるためには、神様を別の施設に遷宮をしなければなりません。つまり、祭神を一時的に迎える宗教施設が必要になります。そのために建てられたのが現在の別宮なのです。現在の別宮は、祭神の遷宮受け入れ先として造られたことを押さえておきます。建築順からすると、本宮よりも別院の登場の方が早いということです。

別宮登場の背景は?

P1290066
重要文化財と書かれた別宮と三穂津姫社の看板の大きさに注目
かつては、この建物の看板には三穂津姫社と大きく書かれ、そこには祭神である大国主命の妻を夫婦で祀ってあることになると書かれていた記憶があります。しかし、重要文化財指定後は「御別宮」と大きくあり、三穂津姫社の説明版は小さくなっています。ここには、この建物が遷宮祭の際に使用される「別宮」であることの方をを強く打ちだしているように感じます。

金刀比羅宮 別宮 三穂津姫社例祭
金刀比羅宮 別宮拝殿で奉納される三穂津姫舞

ちなみに、この建物が三穂津姫社とされるようになるのは、いろいろな経緯を経て後年のことになるようです。そこにはいろいろな内部での意見対立などもあったようです。最後に、別院は三穂津姫を祀るために造られたのではなく、別院として造られた。そのために、別院は面積的には本宮の半分の規模だが、本宮と同じように、直所や神饌所などの付属施設を持っているのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書紙 2024年 金刀比羅宮
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金刀比羅宮には、象頭山の美しい景観を十二の景勝に分けて描いた「象頭山十二景図」があります。
この制作過程については、以前に次のようにお話ししました。

象頭山十二景の作成手順

④の髙松藩の狩野常真(じょしん)に描かせたのが下の「象頭山十二境図巻」2巻です。
HPTIMAGE

              「象頭山十二境図巻」の雲林洪鐘
これを江戸に送って、江戸の奥絵師が描いたのが次の絵です。
雲林洪鐘 鐘楼・多宝塔
                象頭山十二景図の雲林洪鐘 狩野安信

つまり、江戸の狩野安信と時信の父子は、送られてきた絵図と漢詩を手がかりに、この絵を描いたことになります。金毘羅には出向いていないようです。
まず図巻について、研究者は次のように評します。
全体的に濃彩で、目に鮮やかな松樹・竹林・山肌の緑に、時折描かれる梅花の赤や桜花の白がアクセントを加えている。松樹の葉などは部分に応じて顔料の明度を変じ、筆を綱かく使って細部に至るまで丁寧に描き込まれている。
 掛幅については
  一方の掛幅は色彩が淡く、筆を面的に用いたグラデーションの強弱でもって各モチーフを色付かせている。本々などのモチーフの描写は図巻と比べて簡略化されており、画面の抽象度が高くなっていると言えよう

今回は、狩野安信と時信の 「象頭山十二景」に何が書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334Pです。
金光院院主の有栄が選んだ十二題は次の通りです。
⑦左右桜陣  ⑥後前竹国  ⑪群嶺松雪  ③幽軒梅月
⑫箸洗清漣  ②橋廊複道  ⑧前池躍魚  ⑨雲林洪鐘
⑤五百長市  ⑩裏谷遊鹿  ④石淵新浴  ①万農曲流
その位置を番号で地図上で示すと以下の通りです
象頭山12景 番号入り
象頭山十二景図のデータ

「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通りです。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、賛は林蒼峰の、画は狩野安信
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、賛は林鳳岡の、画は狩野時信
制作者のプロフィールを見ておきます。
漢詩作者の林育峰(1618~68)は林羅山の第二子で春斎と号し、幕府に仕え、寛文3年(1663)に弘文院学七の称号を賜り、父に次いで二代目大学頭に就任しています。林鳳岡(1644~1732)は、その育峰の次男で名を信篤(のぶあつ)といい、整宇とも号します。貞享4年(1687)に弘文院学士となり、のち三代目大学頭となっています。「讃州象頭山十二境」詩巻では、先の十二題のうち前半の六首を林鵞峰(林学士)が、後半の六首を林鳳岡(林整宇)が作っています。
 掛幅を描いた狩野安信(1612~85)は探幽・尚信の弟で、狩野宗家貞信の養子となって狩野家の家督を継いた人物です。中橋狩野家の祖となり、寛文11年(1662)に法眼に叙せられます。掛幅のもう一人の筆者・時信(1642~78)は安信の長男で、父に画を学びます。図巻の筆者である結野常真は安信の門人で、本姓を日比氏、名を宗信といい、法橋に叙せられた三尚松藩初代御用絵師を務め、元禄十年(1697)に没しています。
それでは一枚一枚を見ていきましょう

39 象頭山十二景 左右桜陣(桜の馬場)
             象頭山十二景図「左右桜陣」図

[解説]
大門を入って約二町(約220mの間は、参道の左右に数十株の桜が植わり、桜馬場と称される。そこを指して「左右桜陣」と言う。春には桜が咲き誇ることから、花の名所とされる。画面には大門に続く桜馬場の景観が描かれる。安信筆の掛幅画は、常真筆の図巻からモチーフを中央にとりまとめるようにして画面全体を構成する。掛幅ではまた、画面中央の遠山の背後にさらなる逮山の稜線を薄く引いており、画面の天地が狭いという形態上の制約を持った常真筆の図巻では表現し難かった空間の奥行き=三次元性を追究している。

大門から続く桜の馬場周辺を描いたこの絵から得られる情報を挙げておきます。
①桜の馬場には、石畳も石灯籠などの石造物が何もない。これらが設置されるのは19世紀なってから。
②桜の馬場の右側には、各院の建物が並んでいる。

39 前後竹囲
         象頭山十二景図「後前竹囲」図

象頭山の山裾から郊外にかけて竹林が多く群生する様を指して「後前竹囲」と言う。 本図は象頭山麓の郊外を描いたもの。画面に見える竹林は年々減少していき、現在では本図により往時の景趣が偲ばれるのみである。

39 浦谷遊鹿
         象頭山十二景図「前池躍魚」図
「解説]
魚が遊泳する池を中心に、通用門、中間、玄関、そして表書院と奥書院といった、両書院一帯の景観が描かれている。安信筆の掛幅は、常真の図巻がわずかに示した遠山ブロックを画面上方に拡大して配し、両中空間に奥行きを創出している

39 前池躍魚 十二景
          象頭山十二景図「裏谷遊鹿」図
[解説]
「裏谷」とは現在の裏参道の道中にある千種台(ちぐさのだい)地域を指す。ここはかつて草生地や山畑であり、鹿が多数いた。 しかし、その数は減少の一途を辿り、明治期になると遂に見られなくなったという。画面には紅葉鮮やかな山道に、群れ遊ぶ三頭の鹿と帰路の樵らしき人物が描かれ、牧歌的な画趣を示す。
39 群嶺松雪
         象頭山十二景図「群嶺松雪」図

「群嶺」とは、象頭山の山嘴である八景山、愛宕山、天神山、祖渓、琵琶渓、金山寺山などの諸嶺を指す。画面にはこの諸嶺の裾野に沿って松樹が配され、両者は降り積もる雪により白く色づいている。これが「松雪」。この雪は、図巻では顔料を振りまいて描くことて粒子状の表現となっている。掛幅では顔料を筆で掃いて描くことで面的な表現となっている。掛幅・図巻ともに山と松樹のスケール比がやや現実にそぐわないが、これは詩題のメインモチーフのひとつである松樹を強調する意図によるもの。

39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
      象頭山十二景図 「橋廊複道」図 (鞘橋) 
[解説]

象頭山の麓、市街を南北に貫流する潮川(宮川:金倉川)に架した鞘橋には屋根があり、これを指して「橋廊」と云い、また「複道」と言う。この鞘橋はもともと現在の一之橋の位置(髙松街道)にあったが、明治38年(1905)に御神事場に程遠くない現在地に移築された。また、画面に描かれた橋には橋柱が描かれ、橋梁に湾曲も見られないが、これは明治2年(1869)の改築以前の姿である、この時の改築により橋柱は取り除かれて橋は両岸からの組み出し構造となり、それゆえ湾曲も強くなった。図巻の方が描出の視点を遠くに設定して景観を放射状に広がるように描いているため、掛幅よりも広々とした視覚印象を覚える。図巻では、荷物を手に橋を往来する二人の人物が描かれている。しかし、掛幅の画面に見られる橋上の人物が何をしているのかは、一見した限りでは不明である。わずかに前傾姿勢をとっており、橋を渡って参道へと歩みを進めているようにも、水面を見つめているようにも見える これが賛の「風力推無運、始知不足舟」に対応するならば、彼は物思いに耽るうちに橋を舟になぞらえ、風の吹くままに身を任せている心地なのだろう。しかし、現実には風がいくら吹いても舟は進むことはなく、橋上の自分という現実に立ち戻るのである。
 
この絵図を見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に「大雨洪水、鞘橋流失」し、翌年に「材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る」とあります。ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更されたようです。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
        貞淳3年(1687)に再建された鞘橋 金毘羅大祭行列屏風図
この屏風図には、三連の屋根になっています。このように17世紀の金毘羅大権現の伽藍や境内の姿を描いた絵図はあまりありません。その中で「 象頭山十二景図」は、いろいろな情報を伝えてくれる絵画史料でもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334P
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前回は18世紀末に、金刀比羅宮表書院のふすま絵リニューアルを円山応挙が担当することになったこと。担当者となった応挙は、それまでの各間の呼称に従って絵を描いたことを見ました。今回は、そのなかで玄関に一番近い鶴の間に、応挙がどんな絵を収めたのかを見ていくことにします。まずもう一度、表書院の間取りを確認しておきます。

表書院平面図2

玄関に一番近いところにあるのが鶴の間です。各間には、次のようなふすま絵が描かれました。

表書院間取り3
             表書院の間取りと各部屋の障壁画

最初に迎えてくれるのが鶴の間で、ここには遊鶴画が描かれています。鶴の間は、東西二間、南北二間の十二畳の部屋です。玄関を入ってすぐ左にあって、西側の虎の間に続きます。鶴の間の絵図配置の拡大版を見ておきます。
表書院鶴の間 1
表書院 鶴の間の配置図
1ーA 稚松双鶴図(ちしょうそうかくず)  東側の壁貼付で床の間三面
1ーB 稚松図(ちしょうず)        障子腰貼付二面  
1ーC  稚松丹頂図 西側の襖四面
1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面
1ーE 芦図(あしず) 南側の障子腰貼付四面
全て円山応挙の障壁画です。ここに描かれている鶴たちを見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)298P」です。

鶴之間 円山応挙「遊鶴図」西側
              鶴の間の西側(1-C)と北側(1-D)

鶴の間には見る者の視線を次のように誘導する配慮・配置がされていると研究者は指摘します。
①まず縁側廊下を西に進むと最初に見えてくるのが西側(1-C)です。

1-C西側 松に丹頂
             1ーC  稚松丹頂図  西側の襖(金刀比羅宮表書院)

②西側には松と3羽の鶴が描かれています。わたしは若鶏を連れた丹頂の夫婦と思っていました。北海道の道東地方の沼や湿原で、こんな丹頂の姿を何度も見ました。異なる鶴同士が一緒に行動することはほとんどありません。しかし、右端はマナヅルだそうです。当時はいろいろな種類の鶴が描き込まれるのが流行だったようです。
③左端の丹頂は、首をひねって後方を見渡しています。その鶴の視点に誘導され、西側から北側(正面)へと視線を移動させると、「1-D」の芦の中の丹頂たちと向き合うことになります。

1-D北側 芦丹頂飛翔
④北側4面(1ーD)の大襖の2枚には、舞い降りてくる丹頂が描かれています。鶴の動きを追ってみると、後ろの鶴は飛翔体制ですが、前の鶴は脚を出していて着地体制に入っています。ここには時間的連続性が感じられます。そのまま私たちの方まで飛んできそうな感じです。大空を飛ぶ躍動感が伝わってきます。
鶴の間北側 芦辺の丹頂
       1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面(金刀比羅宮表書院)

⑤その隣が芦辺に舞い降りた一対の丹頂鶴が描かれています。警戒心を持つ左が牡で、エサをついばもうとしているのが牝と私は勝手に思っています。これもつがいで行動する丹頂のよく見える姿です。

鶴の間東側1-A 稚松双鶴図
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
⑥そして、視線が最後に行き着くのが東側(1-A)の「稚松双鶴図」です。ここには床の間に身を寄せ合うようにし一本立ちで眠る二羽の真鶴と松が描かれています。この鶴は小さく描かれ、左側には大きな余白が作られています。これはどうしてなのでしょうか? それはここが床の間で、空白部分には軸を飾るためだそうです。

1A丸山応挙 表書院鶴の間
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)

見てきた通り、この部屋には多くの鶴が描かれています。
日本画に描かれるのが最も多いのが丹頂鶴で、次に真鶴(マナヅル)が続き、鍋鶴は毛色が地味なのでほとんど描かれることはないようです。野鳥観察という視点から見ると、応挙は鶴をよく観察していると思います。相当な時間を鶴のバードウオッチングに費やしていることがうかがえます。
応挙と鶴の関係を見ておきましょう。
①享保18年(1733)丹波国穴太村(京都府亀岡市)の農家出身
②延享 4年(1747)15歳頃、京都の呉服商に奉公し、
   後に玩具商尾張屋(中島勘兵衛)の世話になり、眼鏡絵を描く作業に携わる。同時に、尾張屋の援助で狩野派の石田幽汀門に入り絵の修業を積む。
③宝暦 9年(1759)27歳頃、「主水(もんど)」の署名で、タンチョウとマナヅルを描いた「群鶴図」(円山主水落款・個人蔵)制作

円山応挙 双鶴図(仙嶺落款・八雲本陣記念財団蔵)
               円山応挙「双鶴図」(仙嶺(せんれい)」の署名
④明和2年(1765)、30歳頃から「仙嶺」の署名で「双鶴図」(八雲本陣記念財団蔵)制作
⑤応挙が師事した石田幽汀の代表作品は「群鶴図屏風」(六曲一双・静岡県立美術館蔵)
⑥若き日の応挙は、石田幽汀の下で、鶴の絵の技法などを学ぶ。
応挙の師である石田幽汀の作品を見ておきましょう。

石田幽汀 《群鶴図屏風》

石田幽汀 《群鶴図屏風 応挙の師匠
         石田幽汀 《群鶴図屏風》1757-77 六曲一双屏風 各156.0×362.6cm
ここにはさまざまな姿の鶴が描かれています。種類は、タンチョウ・ナベヅル・マナヅルの他にも、ソデグロツル・アネハヅルまでいます。趣味として野鳥観察を行っていたレベルを越えています。博物学的な興味となんらかの制作事情が重なったことがうかがえます。そして、若き日の応挙は、この石田幽汀一門下にいたのです。鶴への知識が豊富なはずです。それが18世紀の「写生」時代の絵画の世界だったのかもしれません。ここでは、応挙は、鶴の博物学的な師匠から学んだことを押さえておきます。
ただ、師匠の描く鶴は多種多様な鶴たちの乱舞する鶴たちでした。しかし、晩年の応挙が鶴の間に残した鶴たちは、つがいで行動する鶴たちでした。印象は大きく違います。

鶴の間には落款がありませんが、その作風から隣の虎の間と同じ天明7年(1787)、応挙55歳の作と研究者は判断します。ところがその翌年に、応挙は京都の大火に被災して焼け出されてしまいます。そのため一時は創作活動が停止します。その困難を克服後の寛政6年(1794)に完成させたのが七間・風水の間の絵になるようです。
ちなみに客殿として使用された表書院には、各間に次のようなランクがあったことは前回お話しました。
表書院の部屋ランク


金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

やってきた人の身分によって通す部屋が違っていたのです。その中で鶴の間は、玄関に一番近く部屋ので、最も格下の部屋とされていました。格下の部屋には、画題として「花鳥図」が描かれるのがお約束だったようです。円山応挙に表書院のふすま絵のオファーが来たときから、それは決まっていたことは前回にお話しした通りです。
幕末から明治にかけては、満濃池にも鶴が越冬のためにやってきたようです。
満濃池遊鶴(1845年)2
      満濃池遊鶴(1845年)に描かれた群舞する鶴
金堂(旭社)の完成を記念して刷られた刷物には、満濃池の上を乱舞して、岸辺に舞い降りた鶴の姿が描かれ「満濃池遊鶴」と題して、鶴が遊ぶ姿を歌った漢詩や和歌が添えられています。ここからは、200年前の丸亀平野には鶴がやって来ていたことが分かります。そして、いま鶴よりも先にコウノトリが帰ってきたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)
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「金刀比羅宮の名宝(絵画)」を手にすることができたので、この本をテキストにして、私の興味があるところだけですが読書メモとしてアップしておきます。まず、表書院について見ていくことにします。

39 浦谷遊鹿
        象頭山十二景図(17世紀末)に描かれた表書院と裏書院

金光院 表書院
        金刀比羅宮表書院(讃岐国名勝図会 1854年)

生駒騒動後に、松平頼重が髙松藩初代城主としてやってくると、金毘羅大権現へ組織的・継続的な支援を次のように行っています。

松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

松平頼重が寄進した主な建築物だけを挙げて見ます。
正保二年(1645)三十番神社の修復
慶安三年(1650)神馬屋の新築
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。表書院が登場するのも、この時期です。
IMG_0028

表書院は、客殿として万治年間(1658~61)に建立されたと伝えられています。

先ほど見たとおり、松平頼重の保護を受けると大名達の代参が増えてきます。その対応のためにもきちんとした客殿が必要になったのでしょう。建設時期については、承応2年(1654)に客殿を建て替えたという文書もあるので、万治2年(1659)の本宮造営完了の頃には姿を見せていたと研究者は考えています。そして、その時から各部屋は「滝之間、七賢之間、虎之間、鶴之間」の呼び名で呼ばれていたことが史料で確認できます。それが百年以上経過した18世紀後半になって、表書院をリニューアルすることになり、各部屋のふすま絵も新たなものにすることになります。その制作を依頼したのが円山応挙だったということのようです。この時期は、大阪湊からの定期便が就航して以後、関東からの参拝客が急速に増加して、金光院の財政が潤い始めた時代です。


表書院
表書院平面図2
                    表書院の間取り
 
円山応挙が表書院の絵画を描くようになった経緯については、金毘羅大権現の御用仏師の田中家の古記録「田中大仏師由緒書」に次のように記されています。

田中家第31代の田中弘教利常が金光院別当(宥存)の意を受けて円山応挙に依頼したこと、資金については三井北家第5代当主高清に援助を仰いだこと。

当時の金光院別当の宥存については、生家山下家の家譜には次のように記します。
俗名を山下排之進といい、二代前の別当宥山の弟山下忠次良貞常の息として元文四年(1739)10月26日に京都に生まれた。
宝暦5 年(1755)9月21日(17歳)で得度
宝暦11年(1761)2月18日(23歳)で金光院別当として入山し27年間別当職
天明 8年(1787)10月8日(49歳)で亡くなる。
宥在は少年時代を京都で過ごし、絵画を好んだので若冲について学んだと伝わります。
金光院別当宥存は京の生まれで、少年時代を京で過ごした経歴を持ち、絵事を好んで若冲に教えを受けたことがあるとされます。ここからは表書院の障壁画制作の背景について、次のように考えることができます。
①京画の最新状況に詳しい金光院別当の宥存
②経済的に他に並ぶものがない豪商三井家
③平明な写生画風によって多くの支持層を開拓していた円山応挙
これらを御用仏師の田中家が結びつけたとしておきます。京から離れた讃岐国でも、京都の仏師達や絵師たちが、善通寺の本尊薬師如来を受注していたことや、高松藩主松平頼重が多くの仏像を京都の仏師に発注していたことは以前にお話ししました。京都の仏師や絵師は、全国を市場にして創作活動を行っていました。金刀比羅宮表書院と円山応挙の関係もその一環としておきます。

金刀比羅宮 表書院4
       表書院 七賢の間から左の山水、右の虎の間を望む
応挙が書いた障壁画には、次のふたつの年期が記されています。
①天明7年(1787)の夏    虎の間・(同時期に鶴の間?)
②寛政甲寅初冬(1794)10月 山水の間・(同時期に七賢の間?)
ここからは2回に分けて制作されたことが分かります。まず、①で鶴の間・虎の間が作られ、評判が良かったので、7年後に②が発注されたという手順が考えられます。応挙が金毘羅へやってきたという記録は残っていないので、絵は京都で書かれ弟子たちが運んできたようです。
 なお、最初の天明7年(1787)10月には、施主であった第十代別当宥存(1727~87)が亡くなっています。もう一つの寛政6年(1794)は、応挙が亡くなる前年に当たります。そういう意味で、この障壁画制作は応挙にとっても集大成となる仕事だったことになります。ちなみに、完成時の別当は第11代宥昌になります。
 表書院は客殿とも呼ばれていて、表向きの用に使われた「迎賓館」的な建物です。
実際にどんなふうに運用されていたのかを見ていくことにします。『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が金光院の客段であったことに触れた後、次のように記します。

「表立ちたる諸儀式並に参拝の結紳諸候等の応接には此客殿を用ゐたるが、二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎之間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々並に役人等の座席に、鶴之間は当時使者之間とも唱へ、諸家より来れる使者の控室に充当したりしなり」

意訳変換しておくと
公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここでは、各間の機能を次のように押さえておきます。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

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松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には、「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居.
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈.
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物]
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
虎の間3
虎の間(金刀比羅宮表書院 円山応挙)
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。

鶴の間 西と北側
             表書院 鶴の間(金刀比羅宮)
同じように、鶴の間についても松原氏の年表で見ておきましょう。

①天保8年(1837)4月1日  金堂講元伊予屋半左衛門・多田屋次兵衛、以後御見席鶴之間三畳目とし、町奉行支配に申しつける

ここからは当時建立が決定した金堂(旭社)建設の講元の引受人となった町方の有力者に対して、「御目見えの待遇」で町奉行職が与えられています。それが「鶴の間三畳目」という席次になります。席次的には最も低いランクですが、町奉行支配という形で、金刀比羅宮側の役人に取り立てたことを目に見える形で示したものです。
七賢の間
七賢の間(金刀比羅宮表書院) 
七賢の間については、金光院表役の菅二郎兵衛の手記に次のように記されています。

万延元年(1860)2月の金剛坊二百丘十年忌の御開帳に際して、縁故の深い京の九条家からは訪車が奉納されたが、2月5日に奉納の正使が金毘羅にやってきた。神前への献納物の奉納後、寺中に戻り接待ということになったが、その場所は、本来は七賢の間であるべきところが、何らかの事情により小座敷と呼ばれる場所の2階で行われた

ここからは、七賢の間は公家の代参の正使を迎える場として使われていたことが分かります。
 天保15年(1844)に有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝にやって来て、その後に奥書院の襖絵を描いた岸岱に対する金刀比羅宮側の対応を見ておきましょう
天保15年(1844)2月2日、有栖川宮の御代参として参詣した時には、岸岱は七賢の間に通されています。それが、6月26日に奥書院の襖絵を描き終わった後の饗宴では、最初虎の間に通され、担当役人の挨拶を受けた後、院主の待つ御数寄屋へ移動しています。この時、弟子の行芳、岸光は鶴の間に通され、役人の扶拶のないまま、師の岸岱と一緒に数寄屋へ移動しています。
表書院 虎の間

          七賢の間から望む虎の間(金刀比羅宮表書院)

以上から、表書院の部屋と襖絵について研究者は次のように解釈します。
表書院の部屋ランク

つまり、表書院には2つの階層格差の指標があったのです。
A 奥に行くほど格が高く、入口に近いほど低いという一般常識
B 「鶴(花鳥)→虎(走獣)→賢人→山水」に格が高くなると云う画題ランク

以上を踏まえた上で、表書院の各室は次のように使い分けられていたと研究者は指摘します。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割


このことは先ほど見たように、画家の岸岱が有栖川宮の代参者としてやってきた時には「七賢の間」に通され、画家という芸能者の立場では「虎の間」に通されていることとからも裏付けられます。
表書院は金刀比羅宮の迎賓館で、ランク毎に使用する部屋が決まっていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊藤大輔 金刀比羅宮の名宝(絵画) 
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    2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
象頭山御本社(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅大権現の歴史を見ていくための資料として私が参考にしているのが金毘羅参詣名所図会です。すでに丸亀港から金毘羅門前までは見てきましたので、今回は仁王門から本堂までの部分を意訳して載せておくことにします。興味のある方は、御覧下さい。

金毘羅参詣名所図会 仁王門
金毘羅参詣名所図会図 絵図68 二王門 坊中 桜並樹 
上の左図内の挿入文章には、次のように記されています。

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。
   花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長
右Pの仁王門以下を意訳変換しておぃます。


  二王門  一の坂を上った所にあって、金剛神の両尊(仁王)を安置する。この門にかかる象頭山の額は、竹内二品親王の御筆である。
桜馬場  二王門をくぐると、左右に桜の並木が連なる。晩春の頃は花爛慢として、見事な美観である。金毘羅十二景の内の「左右の桜陣」とされている。この桜並木の間には、数多くの石灯籠や石の鳥居がある。

直光院 万福院 尊勝院 神護院
 4つの院房が桜の並木の右にある。並木の左後ろは竹藪である。
別業(べつぎょう)  
 坂を上って左の方にあるのが別業で、本坊金光院の別荘である。これも金毘羅十二景のひとつで「幽軒梅月(ゆうげんの梅月)」と題されている。

2


金毘羅参詣名所図会.jpg 金光院
      象頭山松尾寺金光院(金毘羅参詣名所図会)
これも意訳変換しておくと
象頭山松尾寺金光院  
古儀真言宗、勅願所、社領三百余石。
本坊 御影堂 護摩堂  その他に院内に諸堂があるが、参詣は許されず立入禁止である
御守護贖(まもりふだ)所 方丈の大門を入ると正面に大玄関があり、その右方にある。ここで御守護(お札)を受けることができる。護摩御修法を願う人は、ここに申し込めば修法を受けることができる。
神馬堂 本坊の反対側の左側にあり、高松藩初代藩主の松平頼重公の寄進建立である。神馬の姿は木馬黒毛の色で、高さは通例通りである。

茶堂 神馬堂の側にあり、常接待で参拝客を迎え、憩いの場となっている。
黒門表書院口 石段を上りって右の方にあり、これが本坊表口である。この内の池が十二景の「前池躍魚(ぜんちのよくぎょ)」である
     「前池躍魚」                       林春斉
同隊泳テ其楽  自無香餌投  焼岩縦往所  活溌□洋也

2-17 愛宕山
愛宕山(金毘羅参詣名所図会)

愛宕山遥拝所 道の左に愛宕山遥拝所があり、そこから向こうの山の上に愛宕権現が見える。
多宝塔  石段を少し登ると右の方にあり、五智如来を安置している。
二天門・多宝塔 金毘羅参詣名所図会
金堂竣工直前の金堂前広場(金毘羅参詣名所図会1847年)
この部分を見て気づくことを挙げておきます。
①金堂(現旭社)がほぼ完成していること。
②二天門(現賢木門)の位置が移されたこと。
③多宝塔から広場下の坂は、石段の階段がまだできていないこと。
④金堂前も石畳化されておらず、整備途上であること。

萬燈籠 金毘羅参詣名所図会

萬燈堂 多宝塔のそばにあり、本尊大日如来を安置する。常灯明である。
大鰐口  萬燈堂の縁にあって、径が約四尺余、厚さ二尺余、重すぎて掛けることができない。宝暦(1756)五乙亥年二月吉日、阿州木食義清と記す。阿波の木食(修験者)の寄進である。
古帳庵之碑  万灯堂の前にあり、天保十四年癸卯春正月建立されたもので、次のように記す
のしめ着たみやまの色やはつ霞 折もよしころも更して象頭山  江戸小網町 古帳庵
同裏 
天の川くるりくるりとながれけり あたまからかぶる利益や寒の水      古帳女

このあたりからの展望はよくて、十二景の「群嶺松雪(ぐんれいのしょうせつ)」と題される。
     群嶺松雪                林春斉
尋常青蓋傾ヶ 項刻玉竜横  棲鶴失其色  満山白髪生
同     幽軒梅月  是は前に記せし別業の事なり。
起指一斉光開 座看疎影回 高同低同一色 知否有香来


2-18 二天門

意訳変換しておくと
   二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した。
鐘楼  二天門をくぐった内側の右側にある。先藩主・生駒家の寄進である。十二景の「雲林の洪鐘」と題されている。
十二景之内 雲林洪鐘
 近似万事轟  遠如小設有鳴  風伝朝手晩  雲樹亦含声
四段坂・本地堂 金毘羅大権現
金毘羅大権現 四段坂の本地堂(金毘羅参詣名所図会) 
本地堂 金毘羅参詣名所図会

 意訳変換しておくと
本地堂 鐘楼から少し歩くと石の鳥居があり、その正面が本地堂である。本尊 不動明王。
石階(きざはし) 本社正面の階段の両側には石灯籠が数多く建ち並ぶ。
行者堂  石段中間の右方にあり、役(行者)優婆塞神変大菩薩を安置する。
大行司祠 当山の守護神であと同時に、毘沙門天、摩利支天の相殿の社でもある。
金銅鳥居 石段の中間、右方にあり、役行者堂の正面になる。
御本社  東向き、麓より九丁、山の半腹にあり。
金毘羅参詣名所図会 本堂
象頭山本社(金毘羅参詣名所図会)
 〔図70〕二王門内より御本社の宝前へかけ国守をはじめ、諸侯方よりの御寄付の灯籠彩し。紫銅あり、石あり、いずれも御家紋の金色あたりに輝き、良工しばしば手を尽せり。
切て上る髪の毛も見ゆ象頭山繋かるゝ如くつとふ参詣      絵馬丸
夕くれや烏こほるゝ象頭山

金毘羅大権現 本社 拝殿
金毘羅大権現 拝殿(金毘羅参詣名所図会)
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。

金毘羅本社よりの展望
本社からの展望(金毘羅参詣名所図会)

左の方に番所があり、開帳を願う人は、ここに申し出れば内陣より金幣が出され頂かせらる。本開帳料は、銀十二匁半、半開帳は六匁。
本社 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の本社周辺(讃岐国名勝図会 1854年)

三十番神社  本社の左方の石段の上にある。前に拝殿があり、本社の内陣にも近いので、このあたりでは不遜な行為は慎むこと。
経蔵  拝殿に並んであり、高松藩主松平頼重公の御寄付による大明板の一切経が収められている。釈迦、文珠、普賢、十六羅漢、十大弟子并に博大士(ふだいし)、普成、普建などを安置している。
紫銅碑(からかねのひ) 経蔵の傍にあって、上に「宝蔵一覧之紀」とある。下に細文の銘があるが略する。寛文壬寅二月日記之とあり、後に詳しく述べる。
観音堂  経蔵より石段を少し下りた右方にある。堂内には、絵馬が数多く掛っている。宿願のために参籠する者も、本社に籠ることは許されていないので、この観音堂にて通夜をすることになる。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)

金毘羅参詣名所図会 金毘羅観音堂2
金毘羅観音堂周辺(金毘羅参詣名所図会) 
本尊 正観世音菩薩 弘法人師真作
前立 十一面観世音菩薩 古作也。左右三十三体の尊像あり。
狩野占法眼元信 馬の画本額 堂内北の脇格子の内にあり。
土佐守藤原光信 祇園会の図奉額 同所に並ぶ。
後堂(うしろどう)
金剛坊尊師・宥盛の霊像を安置する。像は長三尺寸計り、兜中篠繋(ときんすずかけ)で、山伏の姿で岩に腰をかけた所を写し取ったものと云ふ。この金剛坊というの約は300年前、当山の院主であった宥盛僧正という僧のことである。権化奇瑞で死後、金毘羅大権現の守護神となった。その像は初めは、本尊の脇に並べて安置していた。ところが、崇りが多くて衆徒が恐れるようになった。そこで尊霊に伺うと「我は当山を守護するので山の方に向けよ」と云ったので、今のように後堂に移した。
 先年250年遠忌に当たって、法式修行のついでにご開帳で参拝人に尊像を拝せた所、三日の間、開扉するとたちまち晴天かき曇って激しく雷雨となり、閉帳すると直ちに、また白日晴天にもどったという。

絵馬堂  
観音堂南の脇にあり、難風の危船漂流の図、天狗の面などの額、本願成就の本袖が数多く架かっている。その傍に奉納の紫銅の馬もある。

金毘羅金堂 金毘羅参詣名所図会

阿弥陀堂 絵馬堂の傍にあり、千体仏が安置されている。これも高松藩の松平頼重公の寄進である。
孔雀明王堂 阿弥陀堂に並び、仏母人孔雀明王を安置する。
籠所(こもりしょ) 孔雀堂の傍にある。参籠のために訪れた参拝人は、ここで通夜する。
神輿堂  観音堂の前にある。
観音坂  石段である。荒神社 坂の傍にあり。
蓮池  観音堂の南にあり、御神事の箸をこの池に捨るという。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現金堂(讃岐国名勝図会)
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作。

以下には金毘羅大祭が続きますが、これはまたの機会にします。
ここまで見てきて、気づいたり思ったりしたことを挙げておきます。
①近世の象頭山は神仏混淆の霊山で、金毘羅大権現と観音堂が並んで山上にはあった。
②山上の宗教施設に仕えていたのは神官ではなく社僧で、金光院主が封建的小領主でお山の大将であった。
③お札も金光院の護摩堂で社僧が祈祷したものが出されていた。
④金光院初代院主・宥盛は、神として観音堂背後に奉られていた。
⑤本地堂や役行者をまつるお堂などもあり、修験道の痕跡がうかがえる。
⑥金毘羅参詣名所図会(1847年)出版のために、暁鐘成が大坂から取材のためにやって来た頃は、金堂の落成間際で周辺整備が行われ、石垣・石畳・玉垣が寄進され、白く輝く「石の伽藍空間」が生まれつつあった時代でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅参詣名所図会(暁鐘成 著 草薙金四郎 校訂) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献  
金毘羅参詣名所図会 歴史図書社
香川県立図書館デジタルライブラリー 金毘羅参詣名所図会
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/digitallibrary/konpira/komonjo/detail/DK00080.html
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丸亀:金毘羅参拝図 高灯籠以後 
金毘羅案内図
金毘羅船で丸亀にやってきた参拝客は、案内絵図を手渡されます。その案内図に従って「金毘羅+四国霊場善通寺 + 七ヶ寺」巡礼を行って、再び丸亀に帰ってきて、帰路の船に乗ることが多かったことを、前回までにお話ししました。案内図には、目印となるモニュメントが描かれるのがお約束でした。新たに描かれるようになったモニュメントで、その案内図がいつごろ出版されたかもわかります。今回は絵図に描かれたモニュメントを見ながら絵図の発行年代を推測していきたいと思います。

最初に、参拝道モニュメントの完成年を押さえておきます。
天明2年 1782 粟島庄屋、高藪の鳥居寄進。
天明8年 1788 二本木銅鳥居建立。
文化元年1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九、「讃岐象頭山金毘羅詣」
天保2年 1831 金堂初重棟上げ。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永4年 1851 二本木に江戸火消組奉納の並び灯龍完成
安政元年 1854 安政地震で新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
  道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
安政2年 1855 新町に石鳥居再建。(位置が東に移動)
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政6年 1859 一の坂口の鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成
文久元年 1861 内町本陣上棟。
元治元年 1864 榎井村六条西口に鳥居建立。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。旗岡に石鳥居建立。
上の年表を、年代判定の「ものさし」にして。案内絵図の発行年代を推測してみます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
      E27「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
 この絵図で、大きな指標となるのが丸亀港のふたつの湛甫①②と、二本木周辺⑤のモニュメント群です
②に天保4年(1833)に完成した新堀が描かれ、江戸町人の寄進灯龍2基が並ぶこと
⑤に万延元年(1860)に建設された高燈籠が描かれていること。
さらに金毘羅の山上を見ると、金堂が旭社と改名されていること
ここからは、神仏分離の進んだ明治以後に発行されたものであることが分かります。年表を見ると慶應3(1867)年に、賢木門前に真鍮の鳥居建立されたという情報があります。確かに、賢木門前には鳥居があります。しかし、これが、真鍮かどうかは分かりません。また、金毘羅大権現から金刀比羅宮へと切り替えが進み、神仏分離が実質的に進められるのは、翌年の明治2年以後です。下限年代を絞り込む情報を、私は見つけることができません。絵図の発行年代は明治2年(1867)~明治5年くらいまでとしておきます。

善通寺・弥谷寺
善通寺 ないはずの五重塔が描かれる

私がこの案内図を見ていて不思議に思うのは、善通寺の五重塔です。
この塔は、戦国末期に焼け落ちてなかったものが文化元年(1804)に再建されます。ところがそれもつかのまで、天保11(1840)年には落雷で焼失します。それが再建されるのは明治の後半になってからのことです。つまり、幕末から明治前半には、善通寺の五重塔は姿を消していたはずです。ところがどの金毘羅案内図を見ても、善通寺の五重塔は描かれているのです。これをどう考えればいいのでしょうか?

233善通寺 五岳
善通寺の東院と誕生院 五重塔

  善通寺にとって五重塔は必要不可欠のアイテムなので、実際になくても描くというのが「お約束」だったのかもしれません。どちらにしても五重塔は、絵図がいつ描かれたかを知るための基準にはならないことを押さえておきます。

丸亀街道 E22 ことひら5pg
E㉒「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

これも原田屋の版で、先ほど見た明治ものと描かれているモニュメントはほとんど同じです。ところが、山上の宗教施設の註が全て異なっています。金堂や観音堂など神仏混淆時代の呼名が記されています。ということは、神仏分離前に発行されたものであることが分かります。山下のモニュメントを見てみると、次の2つが描かれています
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)
以上から、E㉒は高灯籠建立後から明治維新までの間に出されたものと分かります。

丸亀街道 E27 ことひら5pg
      E㉗「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

E㉗を先ほどのE㉒と比べて、何がなくなっているかを「引き算」してみます。
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)がありません。
・しかし、1851年に完成した並び燈籠はあります
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)もありません。
・新町の燈籠もありません。



年表を見ると分かるように、新町の燈籠は、安政元年(1854)の大地震で倒れてしまいます。そして、その翌年・安政2(1855)年に、位置を東側に移して石鳥居として建立されます。これが現在のもののようです。以上からこの案内図は、新町鳥居の建立より前で、並び灯籠完成後の間に出版されたことになります。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
      E⑳「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
最後にE⑳です
①天保4年(1833)に完成した新堀湛甫が描かれ、江戸町人の寄進灯龍も3基並ぶこと
②弘化2年(1845)に完成した金堂が描かれていること。
③万延元年(1860)に、二本木に建設される高燈籠が描かれていないこと。
④安政元年(1854)に倒壊した新町の鳥居が再建前の位置に描かれていること。
⑤二本木に嘉永4年(1851)に江戸火消組奉納の並び灯龍がなく、玉垣だけであること
以上からE⑳は、1845年~51年の間に出版されたと推測できます。しかし、金堂に関しては、完成の5年前には、銅葺き屋根は姿を見せていたので、さらに遡る可能性はあります。
高灯籠8
幕末の二本木 高灯籠建立後で二本差しの武士が見えるので幕末期

こうしてみると金堂が整備される時期にあわせて、石段や玉垣なども整備され景観が一変していきます。それが人々にアピールして、さらなる参拝客の増加を招くという結果を招きます。案内絵図を見ていても燈籠や道標などのモニュメントが急速に増えていくのも、この時期です。高灯籠の出現は、この時期に出現したモニュメントのシンボルであったと私は考えています。
丸亀街道 弥谷寺めぐり


 丸亀から善通寺や七ヶ所霊場を周遊する霊場巡りは、明治になっても変わりません。これが大きく変化していくのは、明治20年代に登場する多度津と琴平を結ぶ汽車です。汽車の登場によって、歩いての金毘羅参拝は下火になり、善通寺やそのまわりの七ヶ寺を巡礼する参拝者は激減していくようになります。金毘羅参拝と四国巡礼が次第に分離していくことになります。それ以前は、神仏混淆下で金毘羅も善通寺もおなじ金比羅詣でだったようです。
高灯籠23
明治の二本木周辺 並燈籠+鳥居+一里塚の巨木+高灯籠

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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      山下谷次(まんのう町)    
山下谷次像 仲南小学校(まんのう町)

まんのう町出身の国会議員・山下谷次(1872年3月30日 - 1936年6月5日)のことを調べていると、彼が金刀比羅宮が設立した明道学校の出身者であることを知りました。山下谷次は仲多度郡十郷村帆山(現在のまんのう町)の中農の四男として生まれています。決して豊かな家ではなく、父も早く亡くなったために、上の三人の兄たちは小学校卒業後は、家の農作業を手伝っていました。谷次の前にあった道は、兄たちと同じように家の仕事を手伝うことでした。ところがその道を変更するものが現れます。それが金刀比羅宮が開校させた明道学校でした。明道学校は開校当初は、特待生は授業料が無料だったのです。谷次の希望を受け止めた母親が、兄たちに説得し明道学校へ通うことになります。谷次が後に国会議員に成長して行く岐路に現れたのが明道学校だと私は考えています。そんなわけで、今回はこの明道学校について見ていくことにします。テキストは西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」です。

ペリー来航の頃には、金毘羅大権現には正風館という塾がありました。それが明治維新期には、旭昇塾と名を換えて引き継がれていったとされます。しかし、旭昇塾についての文献は殆どありません、後の『明治43年 金刀比羅宮沿革取調草稿』の中に、次のように記されているだけです。
旭昇塾
当塾ハ、宝物館西方ノ岡ノ上二当ル場所二存セシモノニシテ、瓦葺二階建ナリキ、後名称ヲ明道学校卜改メタルガ、明治二十九年廃校卜同時二取払ヒタリ、
(『金刀比羅宮史料』第七巻)
意訳変換しておくと
当塾は、宝物館西方の岡の上にあったもので、瓦葺二階の建物であった。後に名称を明道学校と改めたが、明治29年に廃校となり、同時に取払われた。 
ここから分かるのは、旭昇塾が「宝物館西方の岡の上」にあったことだけです。その教育内容なども不明です。旭昇塾は、金刀比羅宮の神職や職員などの子弟の教育機関となっていたと研究者は考えています。
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明道学校跡付近の大楠

金刀比羅宮は1878(明治11)年4月に、明治維新以来の課題であった御本宮正遷座を終えます。これで神仏分離の混乱も一段落して社内も落ち着きを見せるようになります。そのような中で、地域社会の子弟を対象とした教育機関開設の動きが出てきます。
 当時中央では、 明治10年(1877)頃から神道の大教宣布の不振や、これに続く祭神論争に対して、政府内では神道の研究・教育センターとしての学校設立を求める動きが出されていました。これを受けて明治15年(1882)には、明治天皇が有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、飯田町に皇典講究所を開学させます。これが後の國學院です。
  このような中央の動きを受けて、香川県の神道の中心センターであった金刀比羅宮でも、神道の教育機関を立ち上げる構想が出てきます。当時、旭社で行われていた定期的な神道講習会も、思うような成果は挙げられていなかったようです。神道の国民生活へ浸透の担い手となる若き指導者たちの育成が急務とされたのです。そのような中で、金刀比羅宮附属の教育機関の設立構想が膨らんでいきます。その中心となったのがすでに設立されていた「皇典学会」です。「皇典学会」の事業としては三種類(教育、談論、編修)が掲げられていました。その中で学校は「教育部の現場機関」という位置づけでした。
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明道学校跡
「皇典学会教育部規則」と、細則「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ておきましょう。
皇典学会教育部規則
第一条 本部ハ本会規約ノ趣旨二拠り、 私立学校ヲ設立シテ、専ラ国典ヲ講明シ、兼テ支那、欧米ノ学二渉り、子弟ヲ教育スル者トス
第二条 学校ハ、先ツ其本校ヲ讃岐国琴平山二設ケ、漸次会員、生徒増員二従ヒ各地方二設置スヘシ
第三条 琴平山二置クモノヲ単二明道学校卜称シ、其各地方二置クモノヲ明道学校某地方分校卜称ス
第四条 学校諸規則ハ別冊ヲ編シ、之ヲ詳記セリ、就テ見ルヘシ
第五条 図書館、博物館、幼稚園ヲ漸次二開設ス
第六条 図書館ハ古今内外ノ書籍ヲ蒐集シテ庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第七条 博物館ハ古今ノ器物、書画、物理、農エノ器械、動植、金石ノ見本等ヲ蒐集シ、庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第八条 幼稚園ハ、幼子女ノ薫陶スル所トス
第九条 図書館、博物館、幼稚園ノ細則ハ、開設二随テ之ヲ編製ス、
(『金刀比羅宮史料』第十九巻、
ここには、琴平に本校を置いて、その後は各地に地方分校を開設していく計画が示されています。また学校だけでなく、附属の、図書館・博物館・幼稚園などの開設計画もあったことが分かります。学校教育と社会教育を総合した教育機関という構想がうかがえます。

「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ると、明道学校の教授内容(教科目)などが分かります。
皇典学会教育部明道学校諸規則
第一編 教  則
第一章 教旨
第一条 本校ハ国典ヲ基礎トシテ普通中学科ヲ授ケ、国体ヲ講明シ事理ヲ研究シ、以テ智識ヲ発育シ道徳ヲ涵養セシムル所トス
第二条 学科ヲ分ツテ本科、予科ノニトス
第二条 本科ハ古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、記簿、書法、図画、体操トス
第四条 予科ハ就学時期ヲ失シテ、本科二入ルヘキ学カヲ有セサルモノヲ養成スルモノトシ、学科ハ之ヲ予定セス
第五条 本科、予科ノ外、別二須知科ヲ設ケ、余カヲ以テ講読セシムルコトアルベシ
第三章修行年限
第六条 終業年限ハ四ヶ年トス
第四章 学     期
第七条 学期ハ一ヶ年ヲニ期二別ケ、二月二十一日ヨリ七月廿日マテヲ前学期トシ、八月二十一日ヨリニ月二十ロマテヲ後学期トス
第八条 学級ヲ八級二別チ、毎級六ヶ月間ノ修業トス
第五章 授業 日
第九条 本校ハ左ノロヲ除クノ外、総テ授業スルモノトス
日曜日      大祭祝日
金刀比羅宮大祭日
夏期休業 七月二十一日より八月二十日まで凡川口‐11‐「「
冬期休業 十二月二十五日より一月五日まで
臨時休業ハ時二掲示スベシ
第十条 授業時数ハ一日六時トス
第二編 校  則
第一章 入  退  学
第一条 生徒ハ品行端正ニシテ、左ノニ項二適合スルモノヲ以テ、入学ヲ許ス
  第一項 小学中等科以上卒業ノ者、及十四年以上ニシテ第十五条ノ試業二合格ノモノ
  第二項 種痘又ハ天然痘ヲ為シタル者
第二条 入学期ハ毎年両度、定期二月七月試業ノ後トス、尤モ校ノ都合ニヨリ、臨時入学ヲ許スコトアルヘシ
第三条 入学期日ハ、之ヲ三十日以内二広告スヘシ
第四条 入学志願ノ者ニハ、第一号書式ノ入学願書及ヒ履歴書ヲ差出サシム
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻、)

本科には古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、簿記、圭[法、図画、体操の二十科目が設けられています。

 明道学校が開校準備を行なっていた頃、明治14年(1881)七月の文部省達『中学校教則大綱』によると、当時中学校は初等中学科四年・高等中学科二年の修業年限で、それぞれ次のような教科目を履修する規定になっていました。
初等中学科(初等科) 修身・和漢文・英語・算術・代数・幾何。地理・歴史・生物・動物・植物・物理・化学・経済・簿記・習字・図画及び唱歌・体操
高等中学科(高等科) 修身・和漢文・英語・簿記・図画及び唱歌・体操・三角法・金石・本邦法令・物理・化学
つまり、これらの科目を開設しないと中学校とは見なされなかったのです。金刀比羅宮の経営戦略としては、神道専門学校の設立を目指すものではなく、地域に開かれた中学校を目指していましたから、文部省のカリキュラムに準じたものではなりません。そのため英語も当然入ります。
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明道学校跡からの光景
当時は香川県には公立中学校がない時代でした。
そのため私立の中学校の存在意味が高かったようです。その背景を香川県史は、次のように記します。
明治十九年四月、中学校令が公布されて、一県一中学校の制に基づき、高松に置かれていた愛媛県第二中学校が廃止された。爾来、明治二十六年、香川県尋常中学校が設置されるまでの数年間、香川県に公立の中学校は全く途絶した。
この間隙を埋め、尋常中学の教育過程にのっとり、中等教育の役割を果たしたのが、私立坂出済々学館である。のち、その閉校に際し、功績を称えて香川県参事官は言う。明治十九年
「公立ノ中学校ヲ廃セシヨリ、我ガ讃ノ一国僅二琴平ノ明道学校卜微々タル一二ノ私塾」がみられる程度で、「仮令資産裕カニシテ有為ノ志ヲ懐クモノト雖モ、遠ク山海数千里ノ地ヲ践ムニアラザレバ、完全ナル小学以上ノ教科ヲ修ムル能ハズ、為メニ俊秀ノ子弟ヲシテ進修ノ念ヲ絶ツニ至ラシメタルモノ砂カラズ」、そこで坂出町の有志十数名が出資して、十九年夏、私立済々学館を設立した。(○中略)
 その後二十六年四月二十一日、
「今ヤ、時来り機熟シ、髪二県立中学校ノ設立ヲ観ル、因テ本日フトシ閉館ノ式ヲ挙ゲ、学生ヲシテ県立中学二入ラシム」
と、二年級以下の生徒六〇余名が香川県尋常中学校に編入を認められた。まさに公立中学校の代役を終えて、私立坂出済々学館は閉館した。教育熱心な有志に支えられて、中等教育の命脈は保たれていたのである。
(『香川県史』第五巻〔通史編 近代I〕、ルビ筆者)
  ここでは、私立坂出済々学館のことが主に書かれていますが、金刀比羅宮の明道学校も同じでした。香川県が愛媛県に合併され、「一県一中学校の制」で讃岐から県立中学校が姿を消した時代でもあったのです。 明道学校のカリキュラムが、当時の中学校の教育内容を意識した科目編成であることには、そんな背景もあったようです。

金刀比羅宮をめぐる動きを年表で見ておきましょう
明治14年 1881 水野秋彦、明道学校教授に任ぜられる。
明治15年 1882 古川躬行着任。
明治17年 1884 明道学校開校。
明治19年 1886 四国新道起工式。
明治20年 1887 電灯点灯。
明治22年 1889 大日本帝国水難救済会設立。琴平、丸亀間に鉄道布設。猪鼻峠新道工事完工。
明治23年 1890 久世光熙、琴陵家の養子となる。
明治25年 1892 宥常没53歳。南光利宮司となる。
明治29年 1896 明道学校廃校。善通寺に第11師団設置。
開講2年前に準備に向けて、水野秋彦を招いています。
彼の履歴書が『明道学校関係書類』の中に残っています。それを見てみましょう
(水野秋彦履歴)
                                       常陸国茨城郡笠間桂町三百五十四番地
茨城県士族
水野秋彦
嘉永二己西年十二月十三日生
当明治十六年八月二十三年九月
一 文久元年ヨリ同三年迄、新発田(しばた)藩浪士小川容斎二従テ漢学ヲ受ケ、慶応二年ヨリ明治三年迄、笠間藩賓礼教師鬼沢大海二従ヒテ皇学ヲ受ク
一 明治三年庚午十一月十五日、笠間藩史生二任シ、同四年辛木九月二日、旧藩主家従二雇ハレ、同五年壬申正月八日、笠間県学助教試補命セラル
一 明治七年二月十日、岩城国国弊中社都々古別神社権宮司に任じ、集中講義ニ補し、同年3月31日、大教院ヨリ、磐前県神道教導取締命セラレ、同八年二月二十日、依願免本官並職
一 明治十四年二月廿七日、琴平山明道教校教授二雇ハル
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻)

ここからは、嘉永二年(1849)に常陸国笠間藩医士の家に生まれで、国漢の学を修め和歌にも秀でた人物であること。維新後は笠間県学助教試補や都々古別神社権宮、警視庁四等巡査などを経て、明道学校の前身旭昇塾教授として金刀比羅宮の招きでやってきたことが分かります。明治22年(1889)11月に41歳にて病没するまで、明道学校教長(校長)として神道や国典などを担当しています。
  この他にも明道学校で教鞭を執った人物を見ておきましょう。
金刀比羅宮の禰宜であった松岡調や地元では名の知られていた黒木茂矩(しげのり)らの名前も講師陣として挙げられています。しかし、これらは国学や神学の学者です。数学や理科などの理系科目や、英語など当時求められていた文明開化をリードする科目ではありません。そのような実学の教授たちを招致するのは、大変だったようです。

 英語の教師として埼玉から原猪作という人を招くことに成功しています。
その給料は、当時の校長の俸給の倍額にあたっていたようです。
遠くから招いた教師の補助には、特待生として入学させた成績優秀な生徒を当てています。最初に紹介した山下谷次も、授業料免除の特待生でしたから、「教師補助」を務めていたのかもしれません。そして、次世代の教授養成をねらいとしていたのかもしれません。しかし、原猪作は半年余りで琴平を去っています。

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明道学校跡からの眺め
伊佐庭如矢は、文政11年(1828)に松山城下の医師の三男として生まれています。
幼少の頃より学問を好み、28歳の時に私財を投じて松山城下に「老楳下塾」を開いて子弟教育にあたります。明治になると愛媛県庁吏員として、「城郭廃止令」によって取り壊そうとされていた松山城の保存を訴え、松山公園として開園させた手腕は高く評価されています。
 その後、明治16年(1883)には県立高松中学校長となりますが、さきほど見たように「一県一中学校の制」で高松中学が廃校になりリストラされたようです。それを、金刀比羅宮がスカウトします。明治19年(1886)4月に金刀比羅宮爾宜に就任し、明道学校校長も兼務しています。しかし、わずか半年余の在職の後に退職し、翌年には愛媛県道後町初代町長となっています。
こうしてみると講師陣はあまり長続きしていないようです。地方の私立中学校において、優秀な講師陣を揃えることは至難の業であったようです。

このような事業を行うための経済的な基盤は、どうだったのでしょうか?
 明治になって移動(旅行・参拝)の自由が保証されて、金毘羅参拝客は、明治になって増加したようです。参拝客たちがもたらす寄進物や奉納品はも増加します。そして、何よりの経済基盤となったのが以前にお話しした崇敬講社の全国展開です。このネットワークが張り巡らされいくにつれて、講員が増えると巨大集金マシーンとして働き始めます。
1崇敬講社加入者数 昭和16年
金刀比羅宮 崇敬講社新規加入数(明治16年)
この資金を使って、金刀比羅宮は本殿の遷宮や、明道学校などの新規事業、芸術家たちへの支援育成事業などにも積極的に取り組むことができたようです。お金の心配はしなくていい時代だったようです。鉄道や道路を新たに建設しようとする新規授業者は、資金援助をもとめて金刀比羅宮通いを行ったことが記録に残っています。
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明道学校跡付近の大楠
明治17年(1884)1月6日、旭昇塾は組織替えして、新たに地域の中等教育を担当する学校「明道学校」として開校します。
その場所は、宝物館の西にあたる「青葉岡」の大樟周辺だったようです。木造瓦葺2階建の八間に十八間、廊下付きの建物でした。
松岡調は『年々日記』に次のように記します。
六日 ことにてる、うらヽかにて春のことし、本日ハ学舎の開業の日なれハ、とくより明道館へものセハ、康斐、俊次、生徒をつとひて、教場なる学神を斎き奉るしたくセんとて、帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置、中央に新しき檜のひもろきを置奉る、又昇降口にハ忌竹をさし、注連縄をハリ、日章のふらふを打ちがへてなびかセたるハ、開業式のさま見へたり、やう/\会幹、教師の人々出仕ありしか、 一時すきたりて副会長琴陵宥常ぬしもものセられたり、ほとなく会員もつとひたれハ、御祭式にかヽらんとす、会長深見速雄主の出仕あらねハ、宥常ぬし祭主つかうまつれけり、勝海ハ奉設長たり、まっ宥常ぬし、勝海、準吉等神雛の御前に進ミて一段拝ありて、宥常ぬしハ微音にて学神を招き本る、勝海和琴、準吉警躍つかうまつる、しハしの間に招神式ハてヽ両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒奉れり、此間奏楽あり、次に祭主祝詞を奏セリ、此祝詞ハ水野秋彦かつくりまつれると、

意訳変換しておくと
六日のことについて、うららかな春のような本日は学舎開業の日なので、明道館へ出向いてみると、康斐、俊次など生徒が集って、教場に学神を招く準備を行っていた。帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置き、中央に新しき檜のひもろきを奉る、又昇降口に忌竹をさし、注連縄を張り、日章旗を挙げてなびかせている。開業式の準備が整うと、会幹、教師などの人々が集合してきた。一間空いて副会長の琴陵宥常も現れ、会員が集合した。御祭式が始まった。会長深見速雄主は不参加であるが、宥常が祭主を務め、勝海が奉設長である。宥常、勝海、準吉などが神雛の御前に進んで一段拝して、宥常が微音で学神を招き入れる、勝海和琴、準吉警躍で仕える。しばしの間に招神式は終わり、両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒が奉れた。その間も奏楽が奏でられる。次に祭主祝詞が読み上げられる。この祝詞は水野秋彦か作成したものであり、次のようなものであった。

明道学校開業国祭学神祝詞
琴平山之山上乃。朝日之日向処。夕日之之隠処。聳立在流学校乃高楼ホ。神離起大斎奉。皇神等乃広前。畏々毛白左久。世間乃人道。天地乃物 理。種々乃技芸等波。学ホ依ヽ覚明弁久。学ホ依人修成弁支物奈利斗。皇典学会員乃議計良久波。此会な教育、編韓、談論乃二部有流其中小毛。最重美之先須弁支波。世人ホ真道乎覚良之米。真理乎明米之米。万芸乎修之牟生。教育ホ古曽有祁礼。急速ホ。其学校乎開先物叙斗。議定之事乃隋(小。今姦明治十七年云茂乃歳初乃。今日乃生日之足ロホ。明道云美名負在此学校ホ。皇典 学会 々員。教員。学生。相集大。白三神等乃厳之御前″小。礼代乃物等十。横山―置在流古典。修身通之教訓L経古人申良小。言霊之幸御国乃言語斗。横ホ書成西洋語乎。惟年左太加ホ。歌詩乃詠法1。文洪文乃作則美外。法ホ実乎測量流算術。天地之万物乃理乎。博久知得流術々乎。阿夜ホ苛久。文字書支図画画久手乃芸乎。阿夜ホ愛久。落事無久令教給比。漏事無久令学給比人。此学校乃教育乃光乎。四方ホ偏久令輝。皇典学会乃功乎。大八洲国内体広久令施給開斗。天之八平手拍上人。恐々毛白須。
以下意訳のみ
この学会の主義を見事に言い表しているものである。
祝詞が終わると、最初のように両段拝があり、祭官が北方の座に着くと、御前に進みて一拝して、西北の方に向いた座について、古事記の天地初発の段を解いてた。それが終わると堀翁が進み出て語学の大意を述べる。次に秋彦が万葉集、敏足が中庸、荘三大が日本史、俊次がリードルの始め、沢蔵が算術の主意を述べた。この時に、俊次の英語を聞いて、心なき生徒の中には、初めて聞く英語に何を言っているのか分からず、くすくすと笑ふ者もいた。このように講義も無事に終った。
 私も会長に代って、御前に進み祝文をよんだ。荘三も進み出て、答辞をよむ。これも終わると、伶人発声し、その間に直会の御酒を、祭官を始め、生徒にいたる全員に振る舞われた。(以下略)(『年々日記』明治17年 83

ここで私が気になるのは、開校式典に、会長深見速雄が出席していないことです。これをどう考えればいいのでしょうか。当時の会長深見速雄と琴綾宥常の関係が以前から気になるのです。大事な式典に欠席するのは、ある意味で異常です。名目的存在に留まり、式典などにも参加していなかったのでしょうか。それは置いておいて、式典を見ていきましょう。
①学神を神簾(ひもろぎ)に招神して神崎勝海以下の奉仕で献餃
②斎主は水野秋彦の起草になる「明道学校開業日祭学神祝詞」を奏上
③祭典の後に、明道学校教授代表による講義
 講義は、先ず松岡調が『古事記』天地初発の段を講じ、
 次に堀秀成がわが国の言語学の大意を述べ、
 次に水野秋彦が『万葉集』を講じ
  敏足が『中庸』を講じ
 伊藤荘三が『大日本史』を講じ
 中村俊次がリードル(英文講読)を行ない
 大西沢蔵が算術の主意を講ずる
などです。殊に参列者の中には中村俊次によるリードル(英文講読)の際に、「心なき者ともハ、何吏を云ならんと思へるかくづくづ笑ふあり、」との松岡調は指摘します。初めて聞く外国語の不可思議さは、ある意味ではおかしさでもあったのかもしれません。

どうして明道学校と名付けられたのでしょうか?
明治14年(1881)6月20日に校長の水野秋彦が説教講究会でで、次のように述べています。
「今日し初むる講説の会はしも、皇大御国の本教の神道を明らめ究むる会にして」「わが国の本教たる神道を明らめ究める会」

つまり、「明道」とは「神の道を明らかにする」意であったようです。

 明道学校の廃校について
明道学校の存在意味のひとつは、讃岐から中学校がなくなったことを埋めることでした。明治19年(1886)四月に施行された『中学校令』(明治19年勅令第一五号)の第六条には、次のように規定されています。
尋常中学校ハ各府県二於テ一校ヲ設置スヘキモノトス、但土地ノ状況二依り文部大臣ノ許可ヲ得テ数校ヲ設置シ、又ハ本文ノ一校ヲ設置セサルコトヲ得、(『中学校令』)

 愛媛県と併合された香川県では、県庁所在地の松山にあった「愛媛県第一中学校」のみが残され、高松にあった「愛媛県第二中学校」は、一府県一中学校の原則規定にしたがって廃止されました。そのため讃岐には公立(県立)の中学校がなくなっていたことは、先ほど見たとおりです。
明道学校は、明治19年(1886)から26年(1892)まで讃岐に公立(県立)中学校がなかったために、私立中学校として坂出の済々学館とともに存在意義があったともいえます。しかし、1896年に丸亀に丸亀中学校(分校)が建学されると、ある意味で存在意義をなくしたようです。
 しかし、金刀比羅宮の附属学校、図書館・学芸館(宝物館)は、地方での学芸奨励という面からのアプローチは当時としては注目される試みだったと云えます。最初に紹介したように、まんのう町帆山出身の山下谷次にとっては、この明道学校がなければ世に出ることもなく、国家議員になることもなかったのです。彼にとってはまさに人生のスタートを切るチャンスを与えてくれた学校だったと私は考えています。

以上をまとめておくと
①金刀比羅宮は明治10年代になって、神仏分離への対応が一段落し、崇敬講社が軌道に乗り始めると、教育事業への投資を考えるようになった。
②それは皇典学会の「教育部門の附属機関」という形で、具体的には明道学校の建学という形になった。
③そのため将来の神道指導者の要請と同時に、「一府県一中学校」の原則で讃岐に中学校がなくなったことを受けての受け皿としても機能する学校作りを目指した。
④経済的なゆとりがあったので全国から有能な教師を招こうとしたが、なかなか長く定着してくれる講師陣は少なく、英語や理系科目の教師陣の招聘には苦労したことがうかがえる。
⑤結果、金刀比羅宮の附属学校として、国学や神学には強いが上級学校に進学するための「進学指導」には手薄になり、丸亀中学が出来ると存在意味を失い廃校となった。
⑥しかし、金刀比羅宮の附属機関としての教育機関という発想は、その後にも活かされ、附属図書館や附属学芸館(宝物館)の開設につながることになり、地域文化の拠点として機能していくことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。⑦

参考文献
         西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」

金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。金刀比羅宮の宝物館には最初に登場した金比羅堂の棟札が展示されています。これは金刀比羅宮に残る最古の史料になります。これよりも古い史料はないと研究者は考えています。そこには次のように記されています。

宥雅建立の金比羅堂の棟札

 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②建立者は金光院の宥雅で、元亀四年(1573)で、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立したこと
③本尊の開眼法要の導師を、高野山金剛三昧院の良昌が務めたこと
②に登場する宥雅(俗名長尾高広?)は、長尾城主の弟とされる人物です。彼は長尾氏の支援を受けながらこの地に松尾寺を新たに建立します。その守護神「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したのが1573年のことになります。それでは金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

宥雅は、善通寺で修行して、その末寺であった称名院を任されるようになります。

「讃岐象頭山別当職歴代之記」には次のように記されています。

讃州象頭山別当職歴代之記(
讃岐象頭山別当職歴代之記

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「金毘羅堂誕生説」を見ていくことにします

宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

宥雅は、「下の院=称名寺」にかわる「上の院=松尾寺」の建立を目指します。
まず荒廃していた三十番神社を修復して、これを松尾寺の守護神にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。同時に、三十番社の祠のそばに本堂として観音堂を建立したのが1571年、その後、金毘羅堂を建立したのが1573年とします。
 注意したいのは、その立てられた場所です。 松尾寺の本堂として観音堂が建てられたのは、現在の本宮の鎮座する所にあたります。そして、その守護神として金毘羅堂が建てられたのは、四段坂の下のだと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 当初の金毘羅堂はT39の創建された


今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると、金毘羅神を祀る新しい御宝殿(金毘羅堂)は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。そして観音堂は、その左前に押しのけられる形になります。
この時に現れた本宮について『古老伝旧記』は、次のように記します。
元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの拠点であったことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったのです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


4 塩飽大工
  
前回は「塩飽大工」という本に導かれながら島の大工の活動を見てきました。そこからは明治当初の塩飽では700軒を越える家が大工を生業としていたこと、それは3軒に1軒の比率になることなど、大規模な大工集団がこの島々にはいたことを見えてきました。塩飽は人名の島、廻船の島でもありますが、大工の島でもあったことが改めて分かりました。
3  塩飽 戸籍$pg

もう一度、明治5年の壬申戸籍に基づいて作られた上表を見ていきます。
ここには各浦毎の職業別戸数が数字化されています。例えば、本島の笠島(上から3番目)は、(カ)列を見ると人名が95名がいたことが分かります。ここが中世以来の塩飽の中心であったことが改めてうかがえます。(イ)列が大工数です。(エ)が笠島の全戸数ですので、大工比率は(オ)38%になります。
大工比率の高い集落ベスト3を挙げると、
①大浦 65%、 72軒
②生ノ浜61%  43軒
③尻浜 58%  28軒
で3軒に2軒は大工という浦もあったようです。
「漁村だから漁師が住んでいた」
という先入観は捨てないと「海民」の末裔たちの姿は見えてこないようです。ちなみに小坂浦は漁業230軒で、大工数は4軒です。そして、人名数は0です。ここが家船漁民の定着した集落であることがうかがえます。
 人名の次男たちが実入りのいい宮大工に憧れて、腕の良い近所の棟梁に弟子入りして腕を磨き、備讃瀬戸周辺の他国へ出稼ぎに行っていたことを前回はお話ししました。
どんな所に出稼ぎに行っていたのでしょうか?
備讃瀬戸沿岸地域の棟札調査からは、塩飽大工の活動地域が見えてきます。
4 塩飽大工出稼ぎ先

表の見方の説明のために、本島の泊浦(上から4番目)を見てみましょう。泊浦は本島の南側に開けた集落で、中世以来讃岐とのつながりの強い集落です。ここには50人の大工が明治5年にはいました。
彼らの先輩たちが残した寺社建築物が、どこに残っているかがわかります。
「倉敷・玉野」、「浅口倉敷」と讃岐の三野郡(現三豊市)の3つのエリアが群を抜いて多いようです。この3つが泊の大工集団のお得意さんであったことが分かります。
他の大工集団の動きを、「塩飽大工」では次のように指摘しています
・本島笠島  
総社市新本地区と井原市に多い。井原は大津寄家が大規模で参画人数が多くなっている。
・本島大浦  倉敷市に集中し、備中国分寺五重塔(総社市)に関与
・本島生ノ浜 倉敷市と総社市が多い。橘家の活動が大きい。
・本島尻浜  岡山県を広く活動。矢掛の洞松寺、大通寺が目立つ。
・本島福田  矢掛町、笠岡市が多い。明治には丸亀もあり
・広島    讃岐が多い。東坂元村(丸亀市)へ移住した都筑家の影響か?
・高見島   倉敷市に限定し、中でも連島地区が多い。
 この表から塩飽大工の出稼ぎ先について見えてくることは
①圧倒的に倉敷市が多く、次に総社市で、このふたつで5割を超える
②備前池田領、讃岐松平領など「大藩」が少ない。
③浦によって、出稼ぎ先が固定している。
④17世紀までは讃岐への出稼ぎが多く、18世紀になると備中が全体の7割近くを占める
  これらの背景を研究者は、次のように分析します。
①②については、岡山・高松の大きな藩はお抱えの宮大工集団がいるので、塩飽大工に出番はなかった。
③については、例えば本島泊浦から三野郡に29の寺社の建造物を建てているが、それは、泊浦の山下家が高瀬、三野、仁尾へ移住し、移住後も島からの出稼ぎが続いたため。
 各浦の宮大工集団には、お得意先ができてテリトリーが形成されていたようです。それでは、讃岐を活動の舞台とした泊浦の山下家の動き追っていくことにします。
4塩飽大工 山下家

山下家は上から4番目になります。その寺社建築は
①17世紀初めに極楽寺(牛島)から始まり
②以後は、讃岐の仁尾で、八幡神社(仁尾)→賀茂神社(仁尾)を手がけるようになります
塩飽大工で最も多い建築物を残す大工集団で、活動期間が長く人数も多かったため次のような分家が出ています
もう少し詳しく山下家本家の活動について見ておきましょう

4 塩飽大工 極楽寺
牛島極楽寺 「無間(むげん)の鐘」
丸尾家と同じくこの島を拠点としていた長喜屋宗心が1677年に寄進したという梵鐘
①1620元和6年 極楽寺(与島)建立から聖神社まで80年間で16の建造物造営、 極楽寺は、牛島を拠点に活躍した塩飽廻船の丸尾家の菩提寺です。檀那は丸尾家で、財力に任せた寺社建築を、棟梁として出がけたのでしょう。この時の経験や技術力が後に活かされます。
②与島での仕事と同時進行で仁尾でも活動しています。
 高見島や粟島での神社の仕事を請け負った後で、仁尾から依頼が来るようになります。1631寛永8年から60年間の間に、仁尾の賀茂神社・履脱(くつぬぎ)八幡神社に6つ建造物を造営・再建しています。与島での仕事と並行する形で仁尾でも神社建築を行っています。後には羽大神社と恵比寿神社も再建します。
③1671延宝2年 地元泊浦の木烏神社再建
④1687貞享4年 冨熊八幡神社(丸亀市) 本殿、1707宝永4年 同拝殿建立。
⑤1710宝永7年 高瀬(三豊市)の森神社を建立。
⑥1822文政5年 沙弥島(坂出市)の理源大師堂建立
 泊山下本家は泊浦に住みながら三野の仕事場に、長年船で出向いていたのでしょう。もちろん毎日「通勤」出来るわけはありません。三豊に家を構え出張所のような存在ができ、それが、高瀬、三野、仁尾へ移住し、分家(支店)となっていったようです。
高瀬山下家の活動について
山下家本家から分かれた泊山下分家は、九兵衛実次に始まり、理左衛門実義、小左衛門実重と続きます。この家系の理左衛が寛文年間(1670年頃)に高瀬へ移住し、高瀬山下家が始まったようです。
泊山下分家の実績を詳しく見ておきます
 棟札による高瀬山下家の建造物
 氏名      居住 建造年     建造物      所在  
山下理左衛門実義 新町 1671 寛文11 弥谷寺千手観音堂 三野町
山下理左衛門真教    1676 延宝4 八幡宮      高瀬町
山下七左衛門   新町 1681 延宝9 弥谷寺御影堂   三野町
山下七左衛門   新町 1683 天和3 弥谷寺鐘楼堂   三野町
山下利左衛門豊重    1696 元禄9 賀茂神社長常   仁尾町
山下理左衛門豊重 新町 1699 元禄12 賀茂神社社殿   仁尾町
山下利左衛門豊重 下高瀬新町1702 元禄15 履脱八幡神社拝殿 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下甚兵衛理左衛 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛    新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1710 宝永7 森神社      高瀬町
山下理左衛門豊重 新名村  1716 享保元 善通寺鐘楼堂   善通寺市
山下甚兵衛賞次  新名村  1718 享保3 宗像神社     大野原町
山下甚兵衛賓次  新名村  1718 享保3 中姫八幡神社   観音寺市
山下利左衛門豊重 新名村  1722 享保7 賀茂神社長床   仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1723 享保8 賀茂神社幣殿拝殿 仁尾町
山下甚兵衛賞次  新名村  1724 享保9 千尋神社    .観音寺市
山下利左衛門   新名村  1724 享保9 千尋神社     観音寺市
山下理左衛門豊之 新名村  1734 享保19 賀茂神社釣殿   仁尾町

ここから琴平移住?
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10 善通寺五重塔(,建始)琴平町
山下理右衛門豊春      1823 文政6 石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824 1文政7 石井八幡宮    琴平町
                綾へ改名
越後豊章    高藪町  1837 天保8 金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12 金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2 金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7 金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4 金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三      高藪町  1875 明治8 金刀比羅宮神饌所 琴平町
綾坦三      高藪町  1877 明治10 金刀比羅宮本宮  琴平町
  (作成:高倉哲雄)
①高瀬山下家の三野郡最初の作品は、弥谷寺千手観音堂(三豊市三野町・1671寛文11年)のようです。
この棟札の高瀬山下家の棟梁の居住地は「新町」とあるので、すでに下高瀬新町に移住していたようです。それから25年後に利(理)左衛門豊重が棟梁として仁尾の賀茂神社(三豊市仁尾町1696元禄9年)を建てています。仁尾へは元禄までは山下本家が直接に出向いていましたが、この時から以降は、高瀬分家が仁尾を担当するようになります。これは、40年間も続く大規模で長期の仕事だったようです。
仁尾の仕事の後に、高瀬山下家の棟札が見つかっていないようです。
分家と考えられる新名村を居住とする棟梁の名前はありますが、高瀬新町の山下家の棟梁の棟札は三豊では見つかりません。高瀬山下家「空白の90年」が続きます。この時期の高瀬山下家は困窮していたようです。その打開のために、金毘羅さんの麓の苗田(のうだ)へ移住したのが太郎右衛門です。
 彼は、善通寺に売り込みを行って受け入れられ、善通寺五重塔(三代目)の材木買付に関わったことが、再興雑記(1760宝暦10年)に出てきます。ただし、五重塔の棟札には彼の名がありませんので、棟梁格ではなかったのでしょう。
 これをきっかけに高瀬山下家は再興の機会をつかんだようです。
石井八幡宮(琴平町苗田)の棟梁として理右衛門豊春が棟札に記されています。しかし、これには彼の居住地は記されていませんので、苗田に住んだ太郎右衛門の系なのか、高瀬の系なのかが分かりません。
 1831天保2年に、金毘羅大権現の旭社(旧、金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前が見えます。
4 塩飽大工 旭社

これは山下理右衛門豊章が金光院の山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。
 豊章という名前からは、豊春の子ではないかと研究者は推測していますが、確証できる資料はないようです。その子の豊矩は高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、金刀比羅宮本宮の棟梁を務めています。

4 塩飽大工 旭社2

  以上から幕末に金毘羅さんで活躍した大工のルーツは、
塩飽本島泊の山下家 → 高瀬山下家 → 琴平へ移住し改名した綾氏
塩飽大工の系譜につながるようです。

  次に【三野山下家】 を見てみます。
三野山下家の過去帳が下表です。
4 塩飽大工 三野山下家

①最も古い棟梁は弥平治(1697元禄10年11月13日)になるようです。屋号が大貴屋となっていて、本来の屋号塩飽屋ではないのですが元禄以前に汐木(三豊市三野町)へ移住していたようです。
②棟札に初めて名が出るのは、吉祥寺天満宮(1724享保9年)の山下治良左衛門です。その後、吉祥寺と本門寺のお抱え大工のような存在として、両寺院の建築物を手がけています。そして、江戸末期には領主が立ち寄るほどの格式の家になっていたようです。
最後に仁尾山下家を見ておきます 
4 塩飽大工 仁尾山下家

仁尾と塩飽の関係は、1631寛永8年の賀茂神社鐘楼堂に始まり、それ以後賀茂神社天神拝殿(1694元禄7年)までは泊山下家が出向いています。そして、1696元禄9年賀茂神社長常からは、高瀬山下家に代わっています。仁尾居住の山下家とはっきりしているのは賀茂神社門再建(1800寛政12年)の藤十郎からです。
 仁尾山下家には安左衛門妻佐賀の位牌(1804文化元年没)が残ります。この位牌から安左衛門または子の藤十郎がこれより一世代前に、塩飽本島から仁尾へ移住したと推測できます。ただ、仁尾山下家は高瀬から分家移住という可能性もあるようです。
 仁尾と塩飽大工の関係は350年以上も続き、確かなものだけでも履脱八幡神社、賀茂神社、金光寺、吉祥院、常徳寺、羽大神社、恵比寿神社があります。仁尾の寺社建築の多くは、塩飽大工の手によって建てられたようです。
最後に三野山下氏が残した本門寺の建物を見ておきましょう

4 塩飽大工 本門寺
  本門寺は高瀬大坊と呼ばれる日連正宗派のお寺です。この寺は東国からやって来た秋山氏が建立した寺で、西国で最初に建立された法華宗寺院の一つとされます。広く静かな境内には山門、開山堂、位牌堂、客殿、御宝蔵(ごほうぞう)、庫裡など、立派な堂宇が建ち並んでいます。この寺には、次のような棟札が残り、三野山下家との関係を伝えます。
1726享保11年 前卓  工匠    山下治良左衛門藤原義次
1727享保12年 宝蔵  大工頭領  山下治良左衛門吉次 

1781天明元年 本堂  棟梁    汐木住人山下浅治郎
          旅棟梁同所 山下吉兵衛 山下守防
          後見 丸亀住人 三好与右衛門宣隆
           丸亀住人  藤井善蔵近重
          大工世話人 比地村 九左衛門
1811文化8年 大法宝蔵 大工棟梁 山下治良左衛門暁清 
1819文政2年 庫裡 棟梁禰下治郎左衛門暁次
           後見 森田勘蔵喜又      
1822文政5年庫裡 棟梁 山下治郎左衛門暁次
           後見 藤井善蔵近重      
しかし、この中で現存するのは本堂だけのようです。

4 塩飽大工 本門寺2
「桁行5間 梁間5間 入母屋造 向拝1興 本瓦葺 総欅造」
日蓮聖人の御影が座すので御影堂とも呼ばれ、本門寺一門の本堂として御会式を始め重要な儀式が行われる所です。建て始めから棟上げまで58年もかかっています。
「塩飽大工」には次のように紹介されています
側面は角柱、正面は円:札、組物は出組。中備墓股は波や草花文様が凝っており風格がある。長押と頭貫の間を埋める連子と、両併面の荘重甕が上品である。軒二軒角繁(のきふたのきかくしげ)。妻飾りは二重虹梁大瓶東で、結綿は鬼面が虹梁を噛む。虹梁間の慕股は、二羽の島が羽を円形に広げて向かい合う二つの円と一羽が大きく羽を円形に広げた一つの円で珍しい。隅垂木を担ぐ力士像は良い表情をしている。向拝は角柱、組物は連三斗、正面墓股の龍や木鼻の獅子は躍動感がある。内部にも木鼻の獅子や墓股など外部と同系の彫刻が施されている。

 隅垂木を担ぐ力士像は近重作と銘があります。後見人の藤井善蔵近重が彫っているようです。
 以上をまとめると
①塩飽大工は浦毎に大工集団として棟梁に率いられて活動した
②讃岐三野郡には、本島泊の山下家の大工集団がやってきて島嶼部の粟島などの神社を手がけた
③その後、仁尾や託間の寺社建築を手がけ、出稼ぎ先に定住する分家も現れた
④高瀬山下家は、琴平への移住し綾氏と改名し、金毘羅大権現の旭社(小松尾寺金堂)の棟梁として活躍
⑤三野山下家は、日蓮宗本門寺のお抱え大工として活躍
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

  明治以前の金毘羅さんの姿を見てみましょう。
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 明治以前の神社は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)のもとで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   インドからやって来た番神クンピーラ(金毘羅神)を権現としたので金毘羅大権現と呼ばれていました。そして象頭山は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。

これは幕末の「金毘羅参詣名所圖會」に見る金毘羅さんの姿です。
金毘羅本殿周辺1
大門から続く参道と石段を登ってきた参拝客が目にするのは、左下の金堂(現旭社)です。そして、参道は右に折れて仁王門をくぐって、最後の石段を登って本社へ至ります。山内の建物を挙げると次のようになります
 大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり
本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。
古義真言宗の御室直末派に属す。
山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
この説明文だけを読むと、金毘羅さんが神社とは思えません。また当時の建築物群も、神社と云うよりも仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったようです。
 この絵図だけ見ると、どの建築物が一番立派に見えますか?
金毘羅山多宝塔2
これは誰が見ても中段の金堂が立派です。
幕末に清水次郎長の代参で金毘羅さんに参拝した森の石松は、この金堂を右上の本殿と勘違いして、この上にある本殿まで行かずに帰ったことになっています。そのために、帰り道で事件に巻き込まれ殺されたと語られています。それが、納得できるほどこの建物は立派です。同時の参拝記録にも賛辞の言葉が数多く記されています。

DSC04049
 金毘羅大権現 金堂(現 金刀比羅宮 旭社)
 この建物は以前にも紹介しましたが幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。そして、ここに納められたのが薬師さまでした。それ以外にも堂内には、数多くの仏達が安置されたいたのです。金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。しかし、今は堂内はからっぽです。
   目を転じて手前を見ると塔が建っています。多宝塔を記されているようです。別の角度から見てみましょう。
金毘羅山旭社金堂

★「讃岐名所圖會」にみる金堂と多宝塔
さきほどの金堂を別の角度から俯瞰した絵図です。参道には、蟻の子のように人々が描かれています。正面に金堂(現旭社)、そして右へ進むと長宗我部元親の寄進したと云われる二天門が参拝客を迎えます。そして、参道の両側には灯籠が並びます。今の金毘羅さんの姿とちがうのは・・? 右手に塔があります。よく見ると多宝塔と読めます。これは今はありません。ここには神馬が奉納されています。明治以前の金毘羅さんが仏教的な伽藍配置であったことを再確認して、先に進みましょう。
まず、明治以前の建物群の配置図を確認しましょう
konpira_genroku 元禄末頃境内図:
元禄末頃(1704)境内図
元禄末頃の作と推定される「金毘羅祭礼屏風図」の配置と参道です
   ①昔の参道(点線)は、普門院の門の所に大門がありました
   ②脇坊中前土手を通り、本坊の大庭の中を通り、築山の道を抜け
    ③宥範上人の墓の付近を通り、鐘楼堂仁王門に出て
    ④本地堂其の他末社の前を通り、神前に至るルートでした。
 ○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。
 ○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。
 ○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。
このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え
 ○寛延元年(1748)  万灯堂建立。
 ○天保3年(1832)  二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846)  金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
そして明治の神仏分離以後の配置図です
明治13年神仏分離後
    
    神仏分離・廃仏毀釈によって、どう姿が変わったのかを確認します。
    ①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
    ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
    ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
    ④金堂    廃止し、その建物を旭社
    ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
    ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
    ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
    ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去
    ⑨経蔵   廃止し、その建物を文庫へ
    ⑩大門   左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
    ⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門
    ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
    ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
    ⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
    ⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
    ⑯鐘楼   明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ 
    ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
    ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
    松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡が読み取れます。そして、金光院、金堂、大門などは転用されています。なかでも明治の宗教政策の様相がうかがえるのが5つあった門院の転用用途です。
    神護院→小教院塾、
    尊勝院→小教院支塾、
    万福院→教導係会議所、
    真光院→教導職講研究所、
    普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています
    崇敬講社扱所以外では、讃岐における神道の指導センターとしての役割を忠実に実行したようです。 現在では、下の現在の境内図に見られるように坊舎跡は取り払われ、宝物館や公園になっています。  
     
konpira_genzai2002年境内図
2002年境内図
こうして仏教的な伽藍は、神社へと姿を変えたのですがそこには、おおきな痛みを伴いました。神仏分離が金毘羅大権現になにをもたらしどう変えていったのかを、次回は当時の金光院主に焦点を当てながら考えていきたいと思います。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  関連記事 金堂(旭社)についてはこちらへ 


参考文献(HP) 讃岐象頭山金毘羅大権現多宝塔(象頭山松尾寺多宝塔)
    

  イメージ 8 
幕末に四国の金毘羅門前町の丸亀街道の一里塚に、姿を現したのがこの高灯籠です。
この灯籠の建設資金
総工費3,000両は、寒川を中心とする東讃岐の砂糖作りに関わる人たちの寄進で賄われました。これだけの募金が集められた高松藩の砂糖産業について見ていきましょう。
 砂糖は、讃岐三白の一つとして塩と綿とともにその名が知られるようになります。現在でも、高級甘味料「和三盆」として生産が続けられています。
関連画像
和三盆糖
砂糖生産の始まりは?
 讃岐国は昔から水不足に悩まされてきました。この克服のために、高松藩五代藩主松平頼恭は干害に比較的強いサトウキビ(甘薦)の栽培に注目し、鹿児島藩からの技術導入を図ります。藩命を受けた藩医池田玄丈や大内郡湊村(東かがわ市湊)の医師向山周慶ら多くの人々の努力によって、サトウキビの栽培、製糖の技術や砂糖づくりの道具が確立されていきます。そして領内各地に砂糖の生産・製造が広まります。特に大内・寒川・阿野郡で盛んになります

ちなみに、甘藷植え付け面積の推移をみると、
天保五年(1835)1210町
弘化元年(1844)1750町、
嘉永元年(1848)2040町、
安政三年(1856)3220町、
安政五年(1858)3715町
と着実に増加しています。
「讃岐 砂糖 歴史」の画像検索結果
サトウキビを絞る砂糖車
 高松藩で生産・製造された砂糖は、寛政六年(1794)に大坂、文化年間(1804)には江戸に積み出された記録があります。さらに販路が紀伊、明石や尾道などの瀬戸内沿岸、酒田・出雲崎・温泉津など日本海沿岸まで拡がったことが、各地の湊町に残る廻船問屋の顧客名簿である「諸国御客船帳」から分かります。
「大坂砂糖問屋」の画像検索結果
 文化十一年(1814)に江戸の小川顕道が書いた随筆集『塵塚談』では、讃岐国産の白砂糖は
「白雪の如く、舶来にいささかおとらず」
と、高い評価を受けるようになります。
さらに大坂市場でも高い市場占有率を誇るようになり、天保元年(1830)から同三年までの白砂糖の大坂への積登量の平均は、積登高全体の54%のシェアを高松藩が占めています。この背景には「樽一杯の砂糖が樽一杯の銭」と云われるほど砂糖が利潤の高い商品作物であったからです。
 さて、文政初年の高松藩の財政というと、
水害や旱ばつによって年貢収入が減り、さらに江戸屋敷での経費もかさみ、財政は火の車状態でした。このため大坂の商人から多額の借金があり、その借金の返済も天保三年には返済猶予を願うほどでした。まさに多重債務状態にあったのです。
 
そこで高松藩では財政難の克服のため砂糖に注目します。
砂糖売り上げの利潤を、借金返済に廻す流通統制を始めます。この流通統制は文政二年(1819)に始まりますが、砂糖会所を設置するなど大坂の砂糖市場を利用して、利益を上げようとするものです。この「流通統制」は大坂の砂糖市場との結びつきを強めながらも、荷主や船主の裁量で大坂以外でも売り捌くことまでは制限したものではありませんでした。「緩やかな統制」だったのです。
 この政策が結果的にはプラスに働き、利潤を求めて全国各地に高松藩の砂糖が流通していくもとになります。こうして高松藩は財政難を解消し、天保末ごろには軍用資金や災害備金を貯えるまでになります。明治維新の廃藩置県の際は、高松藩から香川県へ多額の引継金があったほどです。
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 ところで、砂糖流通は船が担っていました。
砂糖を運ぶ船を砂糖船といい、その中で藩から公認された船を砂糖組船と呼びました。砂糖組船は各浦に設けられ、五艘一組で組織されます。こうして浦々の砂糖役人と大坂の砂糖商人が砂糖市場や砂糖船の活動を通じて深く結びつくようになります。
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そのつながりを東讃の港に残る常夜燈や玉垣に見てみましょう。
天保14年の大内郡引田浦の波止普請にあたっては、引田村庄屋や浦役人だけでなく、引田浦の砂糖組船、隣郡の寒川郡津田浦の砂糖船持中、大坂砂糖問屋や大坂砂糖会所からも寄付が寄せられています。
同浦の氏神である誉田八幡宮に現存する嘉永六年(1853)奉納の玉垣は、大坂渡海船持中が世話人となり大坂砂糖問屋嶋屋奥兵衛・阿波屋儀助・丸屋喜之助か奉納しています。そのp5年後の安政五年(1858)に建てられた大鳥居にも、寄付者として大坂砂糖問屋の名が見えます。
 引田浦の隣村の馬宿浦(東かがわ市馬宿)の山王宮にある天保一三年の常夜燈も、大坂砂糖問屋の丸屋喜之助や馬宿浦砂枡組船中・渡海船持中が奉納したものです。
 大内郡三本松浦(同市三本松)の前山天満宮にも嘉永四年大坂砂糖問屋佐野屋繁蔵から奉納された玉垣が残ります。
イメージ 5
このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金毘羅山の金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。
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そこには、砂糖産業が船によって支えられているという意識があったように思えてきます
 
 サトウキビの生産にあたって、サトウキビの苗は香川郡香西浦(高松市香西本町など)や阿野郡乃生浦(坂出市王越町)から移入されました。また油粕や干鰯などの肥料、中和剤となる牡蝸殼は、備前・備中国から船で運ばれてきました。砂糖産業に関する生産・製造に関する材料も船で運ばれていたのです。
「北前型弁才船」の画像検索結果
 高松藩の財政を支えた砂糖の流通は、船が担っていたと言えます。
讃岐国は全国的な市場である大坂に近いだけでなく、平野が狭い分、各湊が後背地に比較的近い、つまり生産地と積出港が近接しているという地理的条件も砂糖の生産と流通に適していたと研究者は指摘します。
「北前型弁才船」の画像検索結果
                           
参考文献 萩野 憲司 讃岐三白「砂糖」の流通 香川県歴史学会編香川歴史紀行

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             長宗我部元親像2

讃岐を征服した長宗我部元親は、支配者としてどのような統治政策をとったのでしょうか。
江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の記録は「天正の長宗我部元親の兵火により焼かれる」という記録で埋め尽くされています。それは、織田信長の「比叡山焼討ち」に対する「罵詈雑言」にも似ています。歴史を書く側の社寺勢力を、敵に回した結果なのかもしれません。「破壊者」のみの側面が強調されているようです。
元親の讃岐支配は、数年という短いものでした。
しかし、元親は新たな讃岐の支配者たらんとしての新たな統治策を打ち出していたことが明らかになっています。新しい時代を開いていくためには「スクラップ & ビルド」で、破壊が必要になる場合もあります。しかし、破壊だけでは新しい時代は生まれません。新たな創造が必要になります。それを織田信長は行ったということが、戦後は認められるようになり「破壊者」から「英雄」へと見方が変わっていきました。元親の征服者としての「新たな創造」とは、なんだったのでしょうか?
金毘羅山への元親の宗教政策を、そんな視点から見ていくことにします。
 阿波三好支配下に置かれていた讃岐武士団は「小群雄割拠」状態で、「反土佐統一抵抗戦線」を組織することは出来ず「各個撃破」で攻略されていきます。
天正七年(1579)四月には、西讃守護代で天霧城主・香川信景は、戦わずして元親と和議を結びます。
 信景は、元親の次男の五郎次郎親和を娘の婿に迎えて、天霧城(多度津町)を譲り、形式的には隠居します。こうして、三豊・丸亀平野を睨む天霧城を戦わずして元親は手に入れます。そして「長宗我部=香川」同盟を形成します。これは、後の讃岐攻略を進める上で大きな役割を果たすことになります。讃岐の武将達は、最初は形だけの抵抗を見せ籠城をする者もいますが、多くの者は香川氏の斡旋を受けいれて元親の軍門に降ります。

土佐軍が丸亀平野に侵攻してきた時に、元親はどこに陣を敷いたのでしょうか?
まず考えられるのは、善通寺です。善通寺の近くには同盟関係を結んだ香川信景の居館や天霧山城が、近くにあります。天霧城攻防戦の時にも、阿波三好氏の本陣は善通寺が置かれました。しかし、善通寺は三好軍退陣の際に燃え落ちたとされます。その後は、江戸時代になるまで再建されずに放置されたままです。大軍を置くには不便なような気がします。
もうひとつは、櫛梨城です。この城には土佐的な要素が至る所に見られるので、元親によって大規模改修が行われたと調査報告書は述べて居ます。丸亀平野全体を押さえるには適地です。
いくつかの歴史書には、琴平山の松尾寺に本陣を置いたと記します。
それを裏付けるのが天正7年(1579)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を琴平山の松尾寺に奉納していることです。当時、松尾寺の建物群は無傷で残りました。長尾氏出身の宥雅によって建立されたばかりの観音堂も、金比羅堂も無傷で残っていました。
それでは、宥雅は、どうなったのでしょうか。
彼の本家である長尾氏は、一戦を交えた後に元親に下ったようです。しかし、宥雅はそれよりも早く逃げ出しています。後に生駒藩主となる生駒親正が京都の聖護院内桂芳院にあてた文書は次のように記します。

洞雲(宥雅の別名)儀、太閤之御時大谷刑部少輔等へ走入(亡命)

意訳変換しておくと
洞雲(宥雅の別名)については、太閤時代に大谷刑部少輔を頼って境に走入(亡命)

ここからは宥雅が秀吉重臣の大谷刑部少輔を頼って、泉州堺へ逃げ出したことが分かります。院主である宥雅がいなくなった無住の松尾寺を、長宗我部元親は無傷で手に入れたようです。元親は金毘羅さんを焼き討ちしていないことを押さえておきます。

土佐の『南路志』の寺山南光院の項には、次のように記されています。


「元祖 大隅南光院、讃州金毘羅に罷在(まかりあり)候処、元親公の御招きに従り、御国(土佐)へ参り、寺山一宇拝領

意訳変換しておくと

元祖の大隅南光院は、讃州の金毘羅に滞在中に、元親公の招きを受けて、御国(土佐)へ参り、寺山一宇を拝領した

ここからは、南光院(宥厳)が元親に招聘されて、金毘羅(松尾寺)の院主を任されたことが分かります。つまり、元親の山伏ブレーンの宥厳(南光院)が松尾寺の院主の座についたのです。これが「元親による松尾寺管理体制」の始まりになります。こうして松尾寺では、元親の手によって伽藍整備が次のように進められます。
天正十一年(1583) 松尾寺境内の三十番神社を修造。棟札に「大檀那元親」「大願主宥秀」
天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定
天正十二年(1584)10月9日 元親の松尾寺仁王堂の建立寄進
先ほど見たように4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼の意味が仁王堂寄進には込められていたのでしょう。その棟札を見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親
金刀比羅宮(松尾寺)仁王堂(二天門)棟札 (長宗我部元親奉納)

中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
右に 大檀那大梵天王長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王権大法印宗仁

その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城の香川氏を継いだ次男「五郎次郎」の名前も見えます。さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
「天正十二甲申年十月九日」という日付も気になります。
10月9日というのは、現在でも金刀比羅宮の大祭日です。金毘羅大祭は、もともとは三十番社に伝わるお奉りでした。それを、金比羅堂の大祭に取り込んだことは、以前にお話ししました。その大祭日を選んで、奉納されています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

裏側には「供僧」として榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったと研究者は考えています。しかし、よく見ると江戸時代に金光院に仕えることになる院とは違います。長宗我部時代と江戸時代では、一山の構成メンバーが替わっているのです。ここに記されているのは長宗我部元親によって指名された「土佐占領下のメンバー」だと私は考えています。
 さらに「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」と多度津や宇多津の鍛治大工と瓦大工の名が記されています。
多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。同時に、この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門が香川氏から長宗我部元親への「お祝い」であったと私は考えています。
なお一番下右に「当寺西林坊」とありますが、金光院という名前はでてきません。
当時の松尾寺の中心院房は
西林坊であったことが分かります。ちなみに、西林坊は次の宥盛の時代に追放されたとされる院房です。
ここでも土佐軍の引き上げ後に、松尾寺をとりまく勢力が大きく変わったことがうかがえます。土佐派の粛正追放が宥盛によって行われた可能性があります。そして、ここに出てくる修験者や子房は追放され、宥盛肝いりの天狗信仰の修験者たちが取り巻きを形成すると私は考えています。
裏側左には、次のように記します。(意訳)

「象頭山には瓦にする土はないのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

土佐出身の宥厳をたたえる表現で、「霊験のある山伏の指導者」としてカリスマ化しようとする意図がうかがえます。同時に、二天門の瓦は周辺の土が用いられたというのですから、近辺に瓦窯が作られたことが分かります。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
     幕末の二天門 金堂(旭社)建設に伴う整備事業でここに移築

 研究者が注目するのは、元親の寄進した「天額仕立ての矢」「松尾寺境内の三十番神社」「松尾寺境内の仁王堂」の寄進先が金毘羅堂ではなく松尾寺であることです。
ここには「金毘羅」も金光院もまだ登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 宥雅が松尾寺の観音堂に登る石段の北脇に、金毘羅堂を建てた元亀四年(1573)のことです。つまり、この時点では金比羅神はデビューから10年しか経っていないのです。知名度はまだまだない「新人」だったのです。この時点では松尾山の宗教施設の中心は松尾寺であったようです。元親の寄進先は、中心施設の松尾寺に向けられたとしておきます。

多宝塔
元禄年間には二天門は、薬師堂の前にあった

さて、仁天門の棟札をもう一度見てみましょう
二天門棟札 長宗我部元親
二天門棟札(讃岐国名勝図会)
棟札の表の檀那と願主に、研究者は注目します。
檀那は「大梵天王 長曽我部元親公」
願主は「帝釈天王 権大法印宗信」
「大梵天王」「帝釈天王」とは何者なのでしょうか?
古代インド神話では、次の三神一体です。
①創造を司る神ブラフマー 梵天
②維持を司る神がヴィシユヌ
③破壊を司るシヴァ神
ブラフマーは、宇宙の創造を司る「世界の主」であり、万有の根源を神格化した神です。これが仏教にとり入れられて梵天となり、釈尊の守護者とされるようになります。そして、梵天は帝釈天と対となって、釈尊のそばに侍するものとされます。梵天の住み家は、須弥山の上の天上で、人間界を支配する神として敬われ、諸天の中で、最高の地位にあるとされたます。
 一方、雷神インドラは帝釈天となり、梵天とともに釈尊のそばに仕えます。帝釈天も住み家は、須弥山上で、その帝釈宮に住みます。日本に伝わった帝釈天は、自然現象を左右する神であるとされ、雨を降らす神だとか太陽神だと考えられるようになります。帝釈天の配下で、須弥山中腹の四門を守るのが四天王で、東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天が配されます。ちなみに北を護る多聞天=毘沙門天であり、多聞天が独尊で祀られる時、毘沙門天といわれるようになります。
 世界の主である梵天にあやかって「大梵天王」と記したのは、元親の宗教的ブレーンたちでしょう。

そして、その中心人物と目される宗信は「大願主帝釈天王権大法印宗信」と自分を帝釈天王と称するのです。元親を世界の主の大梵天王と称させたのは、この人物のようです。宗信は、このような表現で元親に「天下への野心」を焚きつけたのかもしれません。私が元親の小説や映画を作るならば、松尾寺仁王門建立シーンでの元親と宗信のやりとりは是非入れたいところです。 同時に、松尾寺は讃岐における宗教支配の拠点センターとしての役割をになうことが求められるようになります。

土佐出身の山伏指導者による松尾寺の管理・経営
先ほども述べたように元親の軍には、次のように多数の山伏が従っていたことが史料から分かります。
①三十番神社の棟札に名の見える宥秀
②仁王堂の棟札に名の見える宗信・宥厳
③帝釈天王を称する宗仁は、山伏たちを束ねる頭領
 ①の宥秀は幡多郡横瀬村の山本紀伊守の子で、九歳の時、足摺山で出家して僧侶となります。足摺山は補陀落渡海の地で土佐修験道のひとつの拠点です。
 ②の宥厳も大隅南光院と名乗る山伏でした。元親に従軍して松尾寺を任され、名前も宥厳とあらため松尾寺の住職となったことは、先ほど述べたとおりです。
「山伏」というと「流れ者」というイメージが今では広がっています。しかし、当時の山伏(修験者)は「金比羅堂」を創設した宥雅のように高野山で修行と修学を重ねた学僧もいました。中央の学問所で学んだ知識と人的ネットワークを持った僧侶は、祐筆(秘書集団)としてだけでなく戦国大名の情報収集や外交工作には欠かせないものでした。そこから毛利藩の僧侶から戦国大名にまで成り上がる恵瓊のような人物も現れてくるのでしょう。

 長宗我部元親は、僧侶の中でも修験道の山伏を重用したようです。彼らは、四国辺路など修行のために四国中の行場を自由に往来していました。これが敵国に攻め入る際には、情報収集活動や道案内を行うには適任でした。また戦功の記録係りや戦死者の弔い係りの役割も果たします。
 そして、松尾寺は元親に従う山伏達の集結する場となります。
これが、生まれたばかりの金比羅神の「成長」におおきな影響を与えたと私は考えています。
 ちなみに、金毘羅大権現と呼ばれた江戸時代は、阿波三好の箸蔵寺は「金毘羅さんの奥宮」と呼ばれ、非常に強い関係がありました。ここは阿波修験道の中心地であり、山伏がおおく住む拠点でもありました。元親の讃岐・阿波攻略の際に、彼らの果たした役割を考えて見るのも面白い所です。
天正十三年(1582)には、伊予の河野通直を降し、四国統一を成し遂げます。
 このような中で長宗我部元親は、金比羅を四国の宗教センターとの機能をもたせようとします。それを実現するために動いたのが、宥厳を中心とする土佐出身の修験者たちでした。権力者の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。宥厳と供に、これを進めたのが宥厳の兄弟弟子である宥盛です。宥盛については、後に話しますので詳しくは述べませんが、この時の体験が讃岐藩主としてやってきた生駒氏との対応に活かされることになります。彼らは保護と寄進を訴えるだけでなく、藩に必要な宗教政策を提言するだけの知識と気力が長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが生駒氏や松平氏の金毘羅大権現への保護と寄進につながるのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号

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ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ

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 ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。

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 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された仏教寺院の金堂として、建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
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清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
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 金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
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   高灯寵の建造  

 このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。 
高灯籠の事
 右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
   年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」

ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」
で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
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 この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。
これだけの募金が集められた経済力の源は何だったのでしょうか?
 東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが
弘化元年(一八四四) 一七五〇町、
嘉永元年(一八四八)二〇四二町、
安政三年(一八五六)三二二〇町、
安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
 
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総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。

工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。

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 上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。もう少しワイドに見てみましょう。

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日清戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう。
 
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右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保諶之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
 鳥居と大きな木に注目して下さい。

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丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。

丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。

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1900年前後の高灯籠周辺は空き地

土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。

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大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
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その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
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参考文献 町史 ことひら 

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天保9年(1838)に、茶町が密集していた金山寺町は大きな火災にみまわれます。残された被害記録から当時の町屋の様子が分かります。

金山寺町火災図 天保9年

金山寺町火災図4 天保9年

金毘羅金山寺町 天保9年火災

金毘羅門前町の焼失エリアの復元図
それによると、この町筋の総家数は八四軒、その内茶屋・酌取女旦雇宿は二十三軒です。他の記録では三十二軒ともあります。他に金光院家中四軒、大工四軒、明家(明屋)六軒、茶屋用の座敷三つ、油場一つ、酒蔵一軒、その他四二軒です。この町筋の1/3が茶屋・酌取女旦雇宿(=遊女をおく茶屋)だったことが分かります。
金比羅では表向きは「遊女」は存在せず「酌取女」と書かれました。
酌取女をおく宿が茶屋で、置かない宿は旅籠と区別されます。表通りに面して茶屋・酌取女日雇宿が多く、それは間口が狭く、奥行の深い「うなぎ床」の建物でした。そして仮設の芝居小屋は、茶の並ぶ金山寺の裏通りにありました。金山山町の茶屋と芝居小屋は、背中合わせの位置関係だったのです。

 また表通りの茶屋・酌取女日雇宿は「水帳付」とされている者が多く、賃貸ではなく屋敷自体の所有者でした。茶屋の主人は、建物も自前の檀那が多かったのです。ここからも茶屋・酌取女日雇宿の繁盛ぶりがうかがえます。 
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2、芝居小屋建設に茶屋は、どのように関わっていったか

元禄時代の屏風図には、この辺りには、歌舞伎・人形瑠璃などの臨時小屋がいくつも描かれています。それらは上演される季節は限られていて、それ以外は野原でした。一部にぱらぱらと役人や一部の商人の家がありました。それが天保期を境に芝居小屋・富くじ小屋といった「悪所」が姿を現します。芝居小屋が常宿化すると小屋立のための野原は不必要になります。その結果、芝居小屋の周辺の空き地に茶屋・酌取女旦雇宿が数多く造られ、金山寺町は大変貌を遂げます。ここでは18世紀半ばに「茶屋と芝居小屋が一つの空間の中で一体化」していったことを押さえておきます。
  「芝居小屋 + 富くじ + 遊女」の相乗効果で繁栄のピークを迎えます。
常設の芝居小屋建設の過程で、茶屋と遊女はどのような関わりを持ったのでしょうか?

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芝居小屋建設をリードしたのは、茶屋の主人達でした。 

 それまで、年三回の芝居興行の度に立て替えられていた仮芝居小屋を、瓦葺の定小屋として金山寺町に建てたいという願いを、町方の者が組頭に提出したのは、天保五年(1834)十二月のことです。この願書に対して、翌年二月五日高松藩より金光院へ許可が下ります。それを受けて金光院は、芝居小屋建設に伴う「引請人」と「差添人」という役職を町方の者に命じます。
「町方」からは、どんな人たちが選ばれたのでしょうか
まず差添人の「麦屋」は内町の茶屋、そして花屋も茶屋です。つまり、遊女達を置く茶屋の旦那衆が主体となって芝居小屋建設は進めれたことが分かります。

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 九月には小屋の上棟で完成をみ、十月にはこけら落としの興行を行っています。芝居小屋の完成を間近に九月一日には、町中で「砂持」の祝いをしたとあります。
芝居定小屋土地上ヶ申候。付、今明日砂持初り、芸子・おやま・茶や之若者共いろいろ之出立晶、町中賑々敷踊り廻り砂持候斜
と、芸子・おやまが町中を賑やかに踊り祝ったことが記されています。定小屋建設が町の人々、特に茶屋連中にとって大きな期待をもって迎えられた様子がうかがえます。芝居の存在は彼らにとって「渡世一助」のものであり、芝居と門前町の繁栄は両者不可欠なものと当時の彼らは考えていたようです。

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芝居の興業も茶屋・旅寵屋連中が主体となっています。
常設小屋のこけら落としの興業者の最後に名前がある「大和屋久太郎」は、文政七年の「申渡」に「旅人引受人」として任命されている人物です。ここでは「芝居興行の勧進元」としての役割も担っています。つまり、今風に言うと旅館組合(=茶屋組合)が芝居小屋の建設、そして興行勧進元としての役割を担っていたのです。

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芝居見学は、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーで

 芝居見物座席の買取予約用に用いたとされる「金毘羅大芝居奥場図噺」によると、平場桝席の上には当時一流の旅寵・茶屋の屋号の書込みがありました。これはあらかじめ茶屋・旅寵屋別に座席の販売が行われていたことを意味します。現代と同様、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーが存在したということです。また芝居興行の際に配るパンフレットにも、「茶屋茂木屋/新町」などと茶屋・旅寵屋の広告などが掲載されています。
 このように茶屋と芝居小屋の関係は非常に密接だったのです。
茶屋は参詣客に宿と食事と遊女を提供する場所であると同時に、芝居小屋を作り、芝居勧進元を務め、見物席を売るプレイガイドとしての役割をも担っていたのです。

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 遊女には、どのような徴収金が課せられていたのでしょうか。
まず、金毘羅の遊女の徴収金は大きくわけて二種類ありました。
一つは 「刎銀」です。これは、遊女たちの稼ぎの一部を天引きしたものです。酌取女・おやまの稼ぎの2%が「刎銀」としてまず宿場方へ、次に年寄、そして多田屋次兵衛へと渡る徴収制度です。宿場方(町方役人)が茶屋を通して遊女の稼ぎの一部を取り立てているのです。これは「宿場積金」として芝居興行だけでなく町の財政全般に組み込まれました。この「宿場積金」については、慶応二年(一八六六)の記録からは内町・金山寺町からの遊女からの天引きが、つまり刎銀が収入部分の大半を占めているのです。
93桜花下遊女図 落合芳幾
          桜花下遊女図 落合芳幾 金刀比羅宮奉納絵馬
二つめは「雑用銀」で、遊女一人一人に対する「人頭税」です。
「旅人引請人」である大和屋久太郎によって置屋から徴収されています。この支出部をみてみると、支出七〇貫余のうち、芝居関係費用が約三三貫にもなっています。宿場にとって芝居は大きな負担でもあったのです。
 「宿場積金指出牒」に詳細記載のある十四年間のうち黒字利益のあった年は、わずか六年だけでです。後は赤字を出しながら芝居興行を続けているのです。金比羅門前町に参拝客を寄せるためには、赤字続きでも芝居興行をうつほかはなかったのです。その赤字補填は、遊女達への徴収金で支払われていたのです。このあたりの事情は、現在の金比羅大芝居と共通する部分がありそうです。
「街興し」のためのイヴェントが、赤字を重ねて行政が補填する。しかし、利益を得ている人たちもいるので止められない。江戸時代は、遊女から天引きされたお金が補填に使われていたのです。

内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
金毘羅の芝居小屋と金山寺町(讃岐国名勝図会)

遊女たちが影の存在として支えた金比羅大芝居

 茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけでなく、芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席の販売を担うまでのマルチな営業活動を繰り広げています。そこで働く遊女達も、種々の負担金を通して、芝居小屋の経営、ひいては門前町自体の財政をも支えていたわけです。
「こんぴらさん」と親しまれ、讃岐が誇るこの一大観光地も、江戸時代に遡れば、それを大きく支えていたのは茶屋・遊女たちといった陰の存在と言えるのかもしれません。

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