瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金刀比羅宮の歴史 > 金光院の院主たち

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田野々の庚申塔
 阿波のソラの集落を廻っていると、お堂と庚申信仰の痕跡によく出会います。

庚申信仰=山伏形成説

山伏たちによって庚申信仰がソラの集落に拡げられ、そこをテリトリーとしていたことがうかがえます。ところが、私の住む金毘羅周辺には、庚申信仰はあまりみられません。どうしてなのか疑問に思っていましたが金光院日帳を見ていると疑問が解けてきました。今回は金光院と庚申信仰の関係を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら3 民俗編274P」です。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領 桃色が高松藩領

 金光院住職は、金比羅社領330石の小さいながらも領主で「お山の大将」でした。

そのため領主として禁令やお触れを出しています。禁令が出されると云うことは「禁止すべきようなことが当時は行われていた」ということです。そういう目で見ていきます。
①元禄二年(1689)十一月  髙松藩より境内での殺生禁止、山林竹木切るべからざるの制札下さる。
②元禄七年(1694)十月 宿貸し・遊女博奕停止のこと触す。
③正徳四年(1714)六月二十日 庚申待無用申し渡される。
④享保六年(1721)十一月八日 近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑥享保二十年(1735)一月十九日 町方で綱引のとき口論があり、以後綱引停止。
⑦寛保三年(1743)六月二十二日 (金倉川)川筋にて殺生禁の札を建てる。
⑧延享四年(1747)五月二日  内町虎屋兵次郎、入口玄関の普請分不相応につき閉門八日、破風玄関式台取り除き閉門御免。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用申渡す。
⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。
⑪宝暦二年(1752)二月九日  愛宕町の平兵衛、南の山にて小松を伐採したので追放。
⑫宝暦三年(1753)二月 曜日婚礼の折り、石打ちする者があり組頭とも閉門。
⑬宝暦五年(1755)七月二十九日 昼の葬礼また川より西にて火葬のこと無用申し渡す。
 十一月二十八日 醤油仕込みの節、老女呼び上げること無用。
⑮宝暦九年(1759)七月十三日 笛田村の相撲見無用。
⑯          七月二十四日 桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門
十二月十七日 町方借者に念を入れるよう申し渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
⑲明和二年(1765)五月十七日  神前近辺で薪をこしらえること御法度。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月   奉公人の宿貸しするのは風儀上良くないので無用申し渡す。
 十一月  会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。
㉓寛政四年(1792)八月  高松様御逝去の忌中のところ、謡をうたった者があり遠慮申し付ける。
㉔天保元年(1830)五月二十一日  社領の者に、一向宗法談聞のこと差し止める。
 九月十六日、   十二日夜に石打徒党の者に閉門申し付ける。
㉖天保五年(1834)五月十四日 五日の夜、鞘橋の下で殺生した内町屋太兵衛の清之助、同嶋屋金蔵伜十太、金山寺町弥三郎作俊吉、取調べのうえ入牢申し付けた。このほど格別を以て御免になり、それぞれの親へ預けるよう仰付られる。
       十一月二十九日  神前の灯籠を盗んだ甚兵衛件磯吉を召し捕え、裸乱髪に橋の下にさらし、五日目に追払い申し付ける。
㉘天保六年(1835)六月十九日 前町にて御守札に寄せの小絵図を売る者があるのを指し止める。
㉙天保七年(1836)五月十一日  出来屋善左衛門外二名、十二景図を土産に紛らわしく仕立てて売り出した咎により戸閉め申し付ける。
㉚弘化三年(1846)三月二十五日  榎井村口の諸殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。
 六月二十三日  石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。

まず庚申講について、見ておきましょう。

庚申待2

③の正徳四年(1714)の「庚申待無用申し渡される。」が、最初のお触れです。18世紀初頭に金毘羅周辺でも庚申信仰が広まってきたことがうかがえます。それに対し「庚申待無用」を金光院は通達しています。しかし、人々の信仰熱は押さえられません。約40年後の⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。」と再度の通達が出されています。
 補足すると次のようになります。

「夜遅くまで会合しても、決まり通り法中は法衣を着し修法などして、在家も真言を唱えて殊勝に待つのであれば祈疇にもなることであるが、そうではなく深夜まで遊興がましいことばかりするのでは無益であるだけでなく悪業をも増すことになって全く良くないので、法事のあとは夜食切りで解散するように心懸けること」

これは「深夜まで遊興がましいこと」を行う庚申待ちが流行してきたので、それにブレーキをかけるものです。しかし、「禁止」ではありません。一晩中寝ずに庚申待ちをするのは止めよと、後退した内容です。
庚申待ち2
庚申待ちの様子を描いた絵図 床の間に庚申さまが掛けられているが拝んでいるのはひとりだけ。あとはどんちゃん騒ぎの様子。
 以上をまとめておきます。
①金毘羅門前町では18世紀初頭には庚申信仰が流行神として拡がってくるようになった。
②これに対して金光院は「庚申講無用」とするが、広がりを押さえることは出来なかった。
③そこで18世紀半ばには、「庚申待は夜食切に仕舞え」と再度通達している。
④この背景には、庶民の中での庚申講の盛行があり、頭から禁止できないほどになっていたことが考えられる。
⑤しかし、金毘羅周辺には庚申碑は見られないので、庶民は金光院の意を汲んで石碑を建てることは
控えていたのかもしれない。

①⑦に見られるように社領内では、早くから殺生と竹木伐採が禁止されていました。
⑯では「桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門」とあり、自分の家の中の木を切ることも許可が無ければできなかったようです。
には「神前近辺で薪をこしらえる(採取)こと御法度」とあり、本社周辺では薪拾いも禁止されています。㉖には、「鞘橋の下で殺生した三人に取調べのうえ入牢申し付けた。」とあります。
㉚の弘化三年(1846)になると、(髙松街道の入口の)「榎井村口に殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。」とあり、㉛には、「石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。」とあります。ここからは幕末には、榎井村口、石渕、佐文の牛屋口(西口峠)など、社領と隣村の境には領内での殺生禁止と木竹伐採禁止の立札が建てられていたことが分かります。鞘橋のかかる金倉川には社家による大祓や、僧侶の流れ勧進が行われていました。また参詣者が垢離をとる所でもありました。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋の下の金倉川は垢離取り場でもあった(金毘羅大祭行列屏風 18世紀初頭)
金倉川は神聖な川であり、そこで殺生を行うことは禁止されていたことを押さえておきます。

金毘羅周辺の村々で行われる行事には、金比羅領民は参加すべからずというのが金光院の基本方針だったようです。
④享保六年(1721)十一月八日  近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用中渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。 
以上からは近在の村で芝居・相撲などがあっても、領内の者には「見物無用(行ってはならぬ)」という氏姓です。これは領内の芝居の繁栄を考えたためなのでしょうか? 私にはよく分かりません。

 金毘羅は門前町として繁盛するにつれて、周辺からの人口流入が強まり、都市化が進みます。
そのため流入者が増えて住宅需要が増大します。流入者は借屋を探すのですが、治安にも関係するので勝手に貸すことは禁止されて、借人諸状のこともやかましく言われていたようです。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月 奉公人が参詣人に宿貸しするのは風儀上良くないので無用。
十一月 会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。

逆にいうと18世紀後半頃から参拝客の増加や、周辺農民の流入による住宅不足が深刻化していたことがうかがえます。金毘羅の都市化は、18世紀後半になって拍車がかかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献 「町史ことひら3 民俗編274P」
関連記

金光院日帳 1834年 正月
江戸時代に金刀比羅宮を管理していた別当寺の金光院の日帳を見ています。前回は金光院院主は元旦には、まず護摩堂で護摩祈祷を行った後で、神前奉納を行っていたこと、「仏が先、神は後」であったことを見ました。今回は正月三日から始まる参籠について見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
 金光院日帳には、次のように記されています。
正月三日 午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。
正月四日  お山の口明け。小頭・中間が神酒一升持参ででかけ、薪一荷ずつ拵える。 松葉は瓦屋へ渡す。
三日から参籠が始まります。子房(脇坊)も、これに従っています。
四日の「口明け」というのは、「はじまり」を意味する言葉で、象頭山への入山解禁を山の口明けとか山の口と云っていたようです。小頭と中原が神酒をもって山に入り、山を浄めた後に、薪を一荷だけ山から下ろしています。作業というよりも、これも儀式です。
正月五日 町方重立の者へお節を下さる。正午ごろ登山、料理一汁二菜、酒肴三種、吸い物なし。東西領の出入りの中、今日も登山。
 正月六日 参籠の中日なので台所で①饂飩(うどん)を拵えて籠所へ差し上げる。ただし、②切り火で整える。③金剛坊宥盛の祥月なので尊前へ仏供を供える。

 ここで注目したいのは、参籠の中日に饂飩が出されていることです。饂飩が讃岐で最初に確認できる史料は、元禄時代の「金毘羅大祭行列屏風」です。

金毘羅大祭行列屏風図 10
元禄時代の金毘羅大祭行列屏風図(金刀比羅宮宝物館)
この大きな屏風図の中には、次の3軒のうどん屋が描かれています。

1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風

1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

1 金毘羅祭礼図のうどん屋2

1 うどん屋の看板 2jpg

軒先に、この招牌が掲げられているのでうどん屋であることが分かります。現在の所では、これが讃岐で最初に登場する饂飩屋の絵図史料になるようです。文書史料としては、金光院日帳のものが一番古いのではないかと思います。空海が饂飩を持ち帰ったというのは俗説で、饂飩が登場するのは近世になってからです。それが金光院では正月参籠の中日に出されていたことを押さえておきます。
 
参籠中日に出す饂飩の調理は「切り火(きりび)で整える」とあります。
これは火打石と火打鎌(鉄片)を打ち合わせて火花を出し、厄除け、清め、邪気払いを祈願する日本古来の伝統的な風習です。鬼滅の刃にも、次のように登場します。
鬼滅の刃】狛治と恋雪さん、かまぼこ隊に切り火で魔除けをする 【コラ注意】

  正月七日
 七草の雑煮を籠所で差し上げる。 年男が若餅を籠所へ持参して、お上に直接差し上げる。
「弘化行事」 脇坊・役人そのほか一統 籠所で人日のあいさつを申し上げる。
  正月八日 
神前お経の口明。 籠所での鏡餅を雑煮にして出す。また小附飯も出す。 本坊でも鏡餅を雑煮にして出勤している者一同に下さる。酒は出さない。
「宝暦九年日帳」 お経の口明、雑煮だけであったが蓋の飯も出すようせ出される。
  正月九日
 いつものように当月御祈の札守を高松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げるので、寺社奉行まで使僧を差し出す。昨年の暮れ、お申越しの五穀成就の祈祷の札守も一緒に差し上げる。明日からの会式の役割を申し渡す。 夜、町方から寄進の掛行灯を御神前までの道筋にともす。 表門へ菊の紋付の雪洞一ツ台行灯ともす。 黒門は平常の金灯籠で済ませる。 御守所へ晒幕を掛け、菊の紋付の雪洞一ツ、内に大行灯をともす。
「弘化行事」 参籠結願なので脇坊・法中が籠所へ恐悦のあいさつに上る。
  正月十日 
役割の通り、銘々詰所へ出動する。 護摩堂で恒例の大般若の修行があり、衆僧へ昼食に焼飯を出し、斎(とき)・非時(ひじ)は籠範所で出す。焼飯は切り火で拵える。
 参籠中の食事は、「籠堂へ持参」とあります。お籠もりなので。本坊には下りてこずに籠所で夜も過ごしたことが分かります。また、正月に院主が護摩堂で祈祷祈願したお守りは、「髙松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げる」とありますが、丸亀藩については何も記されていません。9日が参籠結願の日です。この日には、参道の燈籠に灯りが灯されます。こうして3日から9日まで続いた参籠が終わります。
 それでは院主が参籠した籠所とは、どこにあったのでしょうか?
金毘羅大権現 本社と観音堂 讃岐国名勝図会


讃岐国名勝図会の絵図をつなぎ合わせてみます。右が金毘羅大権現の本社、左が松尾寺本堂の観音堂です。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
            金毘羅大権現の松尾寺本堂 観音堂(讃岐国名勝図会)
伽藍の一番南に「籠堂」とあります。ここに金光院主は正月に1週間ほど参籠していたようです。しかし、そこで何を行っていたのかは、いまの私にはよく分かりません。
 中世の参籠の流儀を見ておきましょう。
 まず、七日七夜をかけて参籠に先立って精進潔斎します。到着すると祓殿(はらえどの)で身を清め、斎屋(ゆや)で斎戒沐浴(さいかいもくよく)します。夜になると本堂に上がり、御師(おし:祈祷僧)に願文を託して、夜通し祈りを捧げ、夢のお告げを待ちました。夜が明けると、一旦、籠所に下がります。籠所のない所では、斎屋・橋殿・僧坊などが利用されたようです。そして、夜になるとまた本堂に上がることを繰り返します。裕福な層の人たちは、あらかじめ本堂と籠所にスペースを局(つぼね)を確保しました。そうでない人たちは、床下などに籠ることもあったようです。帰宅すると精進落としをして一区切りとなります。
 金光院院主は金毘羅大権現の最高指導者で、330石の寺領朱印地の小領主でもありました。ここでは、その地位にある人物が一週間の参籠を年頭に行っています。その背景には、金光院院主の出発地点が、天狗信仰の修験者に始まると云うことを示す者ではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事
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