瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金刀比羅宮の歴史 > 金毘羅大権現の仏たち

 金光院の公式文書で初代院主とされる宥盛は、高野山で学び山岳修験を積んだ真言修験者でもありました。彼は「弘法大師信仰 + 高野念仏聖 + 天狗信仰の修験者」などの各信仰を持っていました。そのためその後の金光院には修験道的な要素が色濃く残ることになります。例えば金毘羅大権現時代には、お札は金光院の護摩堂で修験者が祈祷したものが参拝者に渡されていました。そして、護摩堂には、本尊として不道明王が祀られることになります。不道明王は修験者の守護神ともされ、深い関係にありました。修験の流れを汲む金光院で不動明王が大切にされたのには、こんな背景があるようです。そのため金刀比羅宮には不動明王の絵画がいくつも伝来しています。今回は金刀比羅宮の不動さまの絵画を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)」です。

不動明王にはいくつかのパターン図柄がありますが、まず円心(えんじん)様の不動明王二童子像を見ておきましょう。
円信様式 富豪明王 嵯峨寺

円心は正確には延深(えんじん)という名の絵仏師て、11世紀中頃に活動したとされます。円心様の不動の特徴は、次の二点です。
①海中の岩座に立つ
②剣を持つ右腕は肘を大きく横に張り出し、髪は巻き毛でフサフサと豊かである
それでは次に金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆(室町時代)」を見ておきましょう。
26不動明王
       金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆」

①円心の不動は寸胴で武骨な力強さを見せるのに対して、金刀比羅宮図像は、比較的伸びやかな肢体で華麗な印象を与える。
②金刀比羅宮像の火炎は、緩やかに波打ちながら上方へすらりとした曲線を描き、細く枝分かれした炎の先端は繊細なゆらめきを見せる。
③不動の肉身も青黒い体の要所に照り隈が施され、ぼってりとした筋肉の盛り上がりが感じられる。
④左の衿羯羅(こんがら)童子の顔貌部や肉体は、補筆が多く加えられている
⑤右の制多迦(せいたか)竜子の方は、当初の状態がよく残っていて、肉身を描く線も緩いながらも柔らかな抑揚を示しており、丸みを帯びた童子らしい肉体を巧みに描写している
 それらを勘案してみると、金刀比羅宮像は14世紀の後半の室町時代の者と研究者は判断します。

金刀比羅宮のもうひとつの不動明王(血不動)を見ておきましょう。
「血不動」と呼ばれている不動さまですが、もともとは「黄不動」(黄色は本来金色)を描いたもので、「血不動の通称は、黄不動の転訛」と研究者は指摘します。黄不動は、讃岐出身の智証大師(円珍:814~891)が感得した不動明王像とされ「天台宗延暦寺座主円珍伝」には、次のように記されています。

承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に命じて写させた

智証大師の描かせた原本は園城寺に秘仏として伝えられています。しかし、霊験ある像として広く信仰されたために、下の曼殊院本を筆頭に転写本が案外多く残っているようです。
絹本著色不動明王像(国宝、曼殊院所蔵)。平安時代後期(12世紀)の作で、黄不動の模写像としては最古例[1]。
不動明王像(国宝曼殊院所蔵) 平安時代後期(12世紀) 黄不動の模写像としては最古例

圓城寺像の古い模写である蔓殊院の黄不動さまを研究者は次のように評します。
①肉身は白色に透明な黄色をかけ、腹部は膨らみを表すために暈しをかけている。
②太めの硬質な線で輪郭を適確に描き、その色料は珍しく朱と墨を混ぜている。
③かっと見開いた両眼の瞳には金泥が注され、また渦巻状の髪も金泥を用いている。
④着衣文様は彩色のみで、院政期仏画にしては珍しく截金は使用していない。
⑤園城寺の原本と比べるとプロポーションが洗練されて筋骨隆々の成人体躯となっていたり、岩座が描き加えられている。
それでは金刀比羅宮の「血不動(黄不動)」を見ていくことにします。

21 不動明王(血不動)(伝円珍筆)
    不動明王(血不動)伝円珍筆 室町時代 (金刀比羅宮蔵)

絹の傷みがひどく不動さまの姿はかすかにしか見えません。まるで「闇夜の烏」のようです。まず、上から見てく行くと忿怒の顔が見えて来ます。
「不動の肉身は、肥痩のある墨線で描かれ、筋肉の隆起した遅しい姿は原本の雰囲気をなお伝えている」
「不動の左の足元を見るとわずかに岩座を描く線が残っている」
と研究者は記すのですが、私にはそれもなかなか見えて来ません。
金刀比羅宮の血不動の制作時期については、研究者は次のように判断します。

墨線は平安仏画の鉄線描に見られるような粘った強さはなく、やや走ったような軽さがうかがえる。また装身具の形態描写も崩れがあり、時代的には下っていることを予想させる。諸模本との比較が不可欠だが、室町時代の制作であろうと思われる。

最初にも述べた通り金毘羅大権現の別当寺としての金光院は、真言宗寺院でした。院主は高野山で学んでいます。その中にあって天台宗の円珍が感得した黄不動が伝わるのは一見不思議に思えます。しかし、それは近世の本末制度が固定化して以後のことに縛られた見方で、近世以前には地方の寺院ではいろいろな宗派が入り乱れて宗教活動を行っていたことは以前にお話ししました。諸宗派の垣根は低く、近隣の金倉寺が智証大師誕生所となっているので、その縁によって伝わったのか、あるいは黄不動の信岬は東密にまで広がっていたので、高野山を通じでもたらされたのかも知れません。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

ここからは1655年に金光院内になった護摩堂本尊を、それまでの根津入道作から、伝智証大師作の不動明王に交換したことが記されています。
不動明王3
           不動明王(金刀比羅宮)
それが現在の宝物館の不動像になります。これは木彫作品ですが、護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されるなど、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。この木造不動さまと、「血不動」のどちらが先にやってきたかは分かりませんが、前後した時代であったはずです。
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代

元禄時代の金毘羅大権現境内図 護摩堂は金光院の中にあった
最後に「不動種子 伝覚鍔筆」を見ていくことにします。

24 不動種子 伝覚鍔筆 絹本著色金泥 室町時代
          「不動種子 伝覚鍔筆」(金刀比羅宮)

画面の中央に金泥で不動明王の種子である「カーンマン」が金泥で大きく書かれています。
右側には不動の二側面の化現である衿蜈羅(こんがら)、制多迦(せいたか)二童子が描かれます。
①慈悲を示す小心随順とされる白身の衿務羅は種子に向かって手を合わせ、
②方便としての悪性を示す赤身の制多迦は剣を握り体を背けつつも視線を種子に送る。
向かって左側には、不動明王の象徴とされる倶利伽羅龍(くりからりゅう)のまとわりついた宝剣が描かれます。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on X: "来年2024年の干支は辰。それにちなんで葛飾北斎が描いた龍 の絵をご紹介。不動明王が手にする倶利伽羅剣(くりからけん)にぐるりと巻き付いている龍が、剣先を呑み込もうとしています。倶利伽羅不動と呼ばれます。北斎  ...
           倶利伽羅龍北斎漫画』十三編より

童子の上方には、金泥によって「不動尊」の三字が記されています。このように、画面内には種子、漢字、画像が入り混じり複雑な表現世界を形作っています。
どうして、不動明王を絵画でなくて種子で表現するのでしょうか。
それに対して研究者は次のように答えます。
「漢字によって示される意味の世界が記憶する現実界との連続性や、視覚像の直接的な具体性を超えた種子の観念的絶対性も印象付けられる。変転する色相の世界を超越した尊格生起の根本原因としての種子の意義が巧みに表現されている」

作者については覚鑁(かくばん)の伝承筆者名がありますが、実際の製作年代は室町時代と研究者は判断します。

  金毘羅神は、近世はじめに天狗信仰を持った修験者たちによって生み出された流行神でした。
それが急速に教勢を伸ばします。いくつもできた子院の中で頭角を現すのが金光院です。金光院は神仏混交の金毘羅大権現の別当の坐に就き、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの藩主の特別な保護を受けてお山の大将になっていきます。この間に、他の宗教勢力と権力闘争を繰り返してきたことが史料からもうかがえます。初代金光院主とされる宥盛は、優れた修験者であり、有能な弟子を数多く育てています。同時に彼は、高野山で学んだ高僧でもあり「弘法大師信仰 + 真言密教修験者 + 高野念仏聖」などの性格を併せ持っていたことは以前にお話ししました。ここで押さえたおきたいのは、神仏混淆下の金毘羅大権現の支配権は真言宗を宗旨とする金光院が握っていたことです。そのため数多くの仏像や仏画が金光院に集まってきました。そのうちの仏像については明治の神仏分離の際に、オークションに掛けられ、残ったものは焼却されました。しかし、仏画に関しては、秘匿性が高かったので優良なものは密に残したようです。そのため優れた仏画がいくつも残っているようです。その中で研究者が高く評価するのが「釈迦三尊十六羅漢像」です。優れたものであるにもかかわらず、これまでその存在を世に知られていなかった作品だは評します。
今回はこの伝明兆筆とされる「釈迦三尊十六羅漢像」を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。この仏画は、次のように3幅対の構成です
中幅  釈迦、文殊、普賢を描いた釈迦三尊像
左右幅 羅漢を八尊ずつを描いた羅漢図(右と左が同じ画像になっています)
仏教全体の祖師である釈迦の像や、釈迦の弟子である羅漢の図が描かれ始めるのは平安末期になってからです。その背景には
①仏教の原点回帰運動の風潮に乗って釈迦信仰が高まってきたこと
②日宋貿易による多くの仏画伝来
そんな中で、中世になると釈迦三尊像が盛んに描かれるようになります。金刀比羅宮の釈迦像と羅漢図も中世に流行したスタイルを踏襲しています。三幅対にまとめる手法も中国元代の作や、日本の鎌倉・南北朝時代の作に見られます。しかし、これらの作品は、脇幅が十八羅漢図であるのに対して、金刀比羅宮のものは十六羅漢図です。十八羅漢図の中から、各幅一尊ずつを消去し、各幅八、計十六になっています。 
それでは、金刀比羅宮本のどのような点を研究者は評価するのでしょうか? 
まず、羅漢図の評価を見ておきましょう。
27 釈迦三尊 
   釈迦三尊十六羅漢像 左幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
①十六羅図に変更していることは、先例を逸脱した新しい展開であり、やや時代の進展を予想させると。
②十六羅漢図の人物に見られるやや白みがかった肌色に、朱隈を添える色感は、金処士の「羅漢図」(メトロポリタン美術館)や睦信忠の「涅槃図」(奈良国立博物館)に登場する人物の色感に類似し、南宋本の仏画の感覚を忠実に踏襲しているように思われること。
③衣では、具色を用いた中間色は少なく、和様化の傾向が窺われること。
④火の線描は切れのある筆遣いでよどみなく変転する衣惜を描き出し、この画家が優れた技量の持ち主であったことを窺わせる
⑤肉身は、衣文より細めの線を用いるせいか、時にお手本を引き写したような弱々しさを見せることもあるが、全体的には切れ込むように引き締まった線の中に、緊張感ある肥痩を見せ、宋元人物画の品格を的確に継承している。
⑥水墨による自然景の描写は、たどたどしく、特に松樹の表現は神経質な細線を用いていて、原本となった宋元画の重厚感は描写し得ていない。
⑦このことは、この画家が、水彩画生画よりも著色の仏画を得意とした絵仏師系の人物であることを想像させよう。
⑧全体の構成は、宋元の先例などに比べ緊密感に著しく欠け、画家の主体的な構成意識よりも、各部分をパーツとして写し取ることの方に意識が奪われているを感じさせる。
以上からは、宋や元の仏画をお手本に、緊張しながら写し取っていく絵師の姿がうかがえます。絵画は、模写から始まるとされていたので当然なことかもしれません。
次に中央の釈迦三尊像を研究者は評します。

27 釈迦三尊十六羅漢
 釈迦三尊十六羅漢像 中幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
頭光に火炎の縁取りがないことや、象の足元の蓮盤の数が少ないことを除けば、一蓮寺本の中幅に最も近い。しかし蓮寺本の幽暗な色彩感に比べ、金刀比羅宮本は明快で暖かみのある色彩であり、金彩による装飾も日立っていて、和様化の進展を感じさせる。釈迦の相貌も。一蓮寺本の鈍い目をした厳しいものから、より和らいだものに変化している。この点は、宋元仏画の色感に比較的忠実な十六羅漢図との時代観の相違を感じさせる。これは、この三幅対が異種配合によって出来た可能性をも想像させるが、詳細に観察するとそうした色感の相違は肉身部に限られ、衣の彩色は両者に共通すると言えよう‐
中幅の各尊像の衣文線は、宋元画に比べれば緩さを感じさせる。
軽い打ち込みとともにナイフで布を明りつけたような鋭さを感じさせるものであり、形態の描写にも崩れはなく、ここでも高い技量を認めてよい。釈迦の台座や、菩薩の衣服、獅子や象に施された装飾品などの細々とした細部の描写も破綻しておらず、手本を模写したとはいえそれなりに優れた画家であったと想像できる。獅子や象の文高く伸び上がった姿にもさわやかさがある」
一蓮寺の釈迦三尊十六羅漢像(真ん中)
釈迦三尊十六羅漢像 中幅(一蓮寺)
 確かに、金刀比羅宮本とよく似ています。ここからは両者には、共通する「手本」があったことがうかがえます。
社伝では明兆筆と伝えられるようですが、どうなのでしょう?
 
明兆
 明兆は淡路島に生まれ、淡路の安国寺で臨済宗の高僧だった大道一以 (1292~1370)に禅を学んだと伝えられます。『本朝画史』には、絵ばかり描いて禅の修行を怠ったので師から破門された記します。そのため明兆は自らを「師に捨てられた破れ 草鞋わらじ 」にたとえて「 破草鞋はそうあい 」と号しています。しかし、大道に従って東福寺に入り、寺では高位に就くことも期待されたとされますから、禅の修行を怠って破門されたのではありません。ただ、明兆が出世を拒否し、寺の管理や仏事の道具を整える「 殿司(でんす) 」にとどまり、「 兆殿司 」と呼ばれていたのは事実のようです。殿司職は今の会社でいえば庶務係で、地位や名誉より絵を描き続けることを選択し、「寺院専属の画家」になろうとしたのかもしれません。多くの伽藍を持ち、大きな絵を飾る広々とした空間があった東福寺は、明兆にとって最高の勤務先だったとしておきます。そこで彼は、伝来した宋元の仏画を手本にし、仏事で用いる儀式用の仏画を描き続けます。その代表作が、大徳寺の宋画五百羅洪図を模写した「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)です。

明兆 五百羅漢図2
         明兆「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)
この大作のおかげで後世には「羅漢図といえば明兆」とされるようになります。その意味で、金刀比羅宮本の作者としても相応しい人物です。しかし、研究者は「本図に明兆その人の個性の明確な痕跡を見出すことは難しい。」と指摘します。具体的には、明兆筆「五百羅洪図」のは色面がかなリフラットになっていることと比較して、金刀比羅宮本の羅漢が「より隈取りが強く、羅洪図に関する限り、明兆と共通する感覚は見られない。」と評します。
27  釈迦三尊十六羅漢像 伝明兆筆 右幅
釈迦三尊十六羅漢像 右幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)

 そして、金比羅宮本の製作年代については次のように記します。
①鎌倉時代後半の初期の「釈迦三尊十八羅漢図」に比べると、和様化が進展し、両脇幅では十六羅漢に図像が変化していること
②構図の緊密感にやや欠けること
③中幅における金彩の目立つ明快な色彩感覚などを見られること
以上を勘案すると、明兆と同時代(14世紀後半~15世紀前半)の絵仏師の作と想定します。

 金刀比羅宮には、もうひとつ明兆作と伝わる「楊柳観音像(瀧見観音)室町時代」があります。
28 瀧見観音
「楊柳観音像(瀧見観音) 伝明兆筆 室町時代」
懸崖の下、海中に突き出た岩座に、正面向きに生す白衣観音の姿です。このモチーフは、明兆やその弟子たち、狩野派の画家たちにも受け継がれ、白衣観音として広く流布するようになります。中でも、背景を水墨で描き、観音を著色で描くスタイルは、下図の東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」を代表作として、明兆派による作例が多く残されています。金刀比羅宮本にも、明兆筆の伝承筆者名があります。

明兆 白衣観音
            東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」

東福寺の白衣観音と比べて見ると、大枠としては明兆系の匂いを感じる作品と云えそうです。
しかし、研究者は次のように評します。
①観音像は、明兆画のような抑制を利かせたメリタリーのあるものではなく、のっペーとして流派的特色をあまり見せない保守的なものとなっている
②山水景の表現は、断崖から垂れる草木の筆致は鈍いものの、岩座の鼓法は比較的力強く立体感を描き出し、海波も動感あるものとなっている
③どちらかと言えば水墨技の方に技量があり、著色の仏画はお手本をなぞったような凡庸さを感じさせる。
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」

ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」に比べると、金刀比羅宮本は、明兆につながる室町時代的な雰囲気を感じます。
しかし、明兆やその弟子の赤脚子、霊彩らほどの精彩は放っておらず、製作年代がもう少し降ると研究者は判断します。そして、金刀比羅宮本を描いた絵師については、「狩野派の新様が有力になる直前頃か、もしくはそれ以降であっても狩野派とは接触を持たなかった室町後期の保守的な作家による作品」とします。
 金刀比羅宮に残る「伝明兆筆」とされる作品は、明兆のものではありませんが評価すべきもののようです。また、「伝明兆」とされる作品が多いのも、それだけ明兆の作品が後世からも評価されていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」

25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。かつてのこの画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めたことが書かれていたようです。ここからは、もともとは奈良の春日社に伝わっていたものであることが分かります。この弁財天については、以前にその由来を次のようにまとめました。

金毘羅大権現の弁才天信仰

今回はこの絵図についてもう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)」322Pです。
 弁才天の起源はインドの河の神サラスバティーで、土地に豊穣をもたらす女神でした。
後に弁才の神ヴァーチと習合し、弁舌・学問・知識・音楽の女神として信仰されるようになります。日本には奈良時代にやってきて、「金光明最勝王経」を拠り所の経典として像が造られ、礼拝されますが、当時はマイナーな仏だったようです。
それが中世になると変化してきます。「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経(以下:陀羅尼経)」などの弁天五部経が成立すると、弁才天は財福神として広く信仰されるようになり、像も盛んに行われるようになります。そして「弁才天」から「弁財天」へとネーミング変更して、七福神のメンバー入りも果たします。
もともとの弁財天の姿は、次の2つの姿がありました。
A「金光明最勝玉経」 武具を手に取る戦闘神風の姿
B「現図胎蔵受茶霧」 琵琶を抱えた音楽神としての姿
しかし、中世に成立した「陀羅尼経」では、その姿を次のように記します。
①8本の手で、その内2つの手には武具ではなく、財福の象徴である宝珠と鍵を持つこと
②穀物の神である宇賀神を頭上に白蛇の姿で載せること
③宇賀神は老人の顔で、体は蛇体
④眷属として十五童子を伴うこと
この記述通りに、弁財天の周囲には十五童子が集まっていて、頭上には老人顔蛇身の字賀神を載せています。


弁才天2
           頭上に「老顔白蛇」の宇賀神を載せる弁財天

経典の規定と違うのは、手が8本でなく6本なことです。持物は、左手には宝珠、弓、鉾を、右手には鍵、矢、剣を執っています。二本の手が減っているので左手側の輪と、右手側の棒が描かれていません。その代わりに財福を象徴する宝珠と鍵を体の中心に置いて目立たせて、財福神としての存在をアピールしているかのようです。水中の岩に座を設け、そこに豊かな体をゆったりと立たせる姿も如何にも福徳神らしい姿だと研究者は評します。

25弁財天
           弁才天十五童子像(拡大:金刀比羅宮)

 一方、十五童子像の中で、向かって左側に並ぶ童子の中には、笛、笙、竿、琵琶を持っているものがいます。これが弁才天の首楽神としての性格も表わしているようです。

弁才天に宝樹の盛られた鉢を棒げる異国使節団
  宝樹の盛られた鉢を奉納する龍王?(弁才天十五童子像:金刀比羅宮)
 画面下の水中からは異国の姿をした礼拝者が宝樹の盛られた鉢を棒げて弁才天を供養しています。これが龍王とすれば、弁才天の水神、河神としての性格も表現されていることになります。以上からは、弁才天の複合的な性格がよく表されていると研究者は評します。
 研究者が注目するのは、画面上方に円内の五尊が描かれていることです。

弁才天十五童子像の五尊

   向かって右から釈迦、薬師、地蔵、十一面観音、文殊の春日本地仏です。

春日本地仏曼荼羅 
            春日本地仏曼荼羅

これは春日本地仏曼荼羅に描かれる仏達と、顔ぶれが一致します。画面上部の大きな円相には、春日の神々の本来の姿である本地仏が描かれます。その下には、奈良の春日山、御蓋山(みかさやま)、若草山や春日野の風景が描かれます。
 最初に見たように、この絵が入っていた以前の箱書には「春日御祓講本尊」とあったようです。これは本地垂述思想に基づく春日曼荼羅の一種で、春日信仰との関連でとらえられるべきだと研究者は考えています。それはおそらく弁才天が寺院の枠をはみ出し、むしろ宇賀神との習合なども含めて神社での信仰が盛んになり、弁才天社が数多く作られてゆくような状況と関連していたのでしょう。
 
金刀比羅宮の
弁才天十五童子像の制作年代をを押さえておきます。
①絵の中に、河神や音楽神などが描き込まれて古いタイプの「弁才人」の特性も表現されていること
②そこから財福神に特化する前の比較的早い時期のものと推測できること
弁天五部経の成立や弁天信仰の隆盛は室町時代であること。
④以上から、
室町初期頃のもの
「室町時代初期頃に成立し、中世的な弁天信仰に基づく初期形態を示す画像として貴重」と研究者は評します。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現をいつも求めていました。
そのために寺社は繁栄を維持するためには境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅神だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。庶民の信仰欲求に応える対応が常に迫られていたのです。
 金毘羅大権現の別当金光院では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。
毘沙門天は『法華経』
弁才天は「金光明経』
大黒天は『仁王経』
の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったようです。足らないのは、弁財天です。
こうした中で弁才天画像を春日神社から手に入れたのは金光院院主の宥天(在職期間1824~32年)でした。
宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったと研究者は推測します。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて開帳されます。そこに祀られたのが三天講の本尊の一つで春日社から購入した宇賀弁才天画だったというストーリーになります。ここで押さえておきたいのは、仏像や仏画などは、財力のある有力な寺院に集まってくると云うことです。そこに室町時代作の仏像や仏画があっても、その寺の創立がそこまで遡るとは限らないのです。金毘羅大権現には、多くの仏像や仏画が近世に集められたようです。

象頭山と門前町
       金丸座のあたりが金山寺町(讃岐国名勝図会 1854年)

文化十年(1813)には、芝居小屋や茶店が建ち並ぶ金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。

さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天を福徳の仏して、熱心に拝むようになります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」322P
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金刀比羅宮には、極彩色の「大国主神像」画があります。

IMG_0022 17大国主神像
         大国主神像 絹本著色 一幅 江戸時代

この絵図は、幕末に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年が奉納したもので、元雪筆とあります。大国主神は小さな金嚢を左手に握っています。大黒天の「大黒」と大国主神「大国」の音が同じなので、混交して同一視されることがよくあります。また、大黒天も大国主神も大きな袋を背負っているので、姿もよく似ています。これが混交して「大黒天像」が「大国主神像」とされるようです。金刀比羅宮の「大国主神像」も大国主神を描いたものでなく、「大黒天像」であると研究者は指摘します。 それがどうしてなのかを今回は見ていくことにします。テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。
大園寺の勝軍大黒天
        勝軍大黒天(目黒区大園寺)
前回見た勝軍大黒天の誕生背景を、もう一度整理して起きます。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であること。
勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。「大黒天+大将軍神」=勝軍大黒天ということになること。
大国天 5
『覚禅抄』の大黒天
そして、勝軍大黒天の特徴としては、次のような4点が挙げられます。
①片手に金嚢を持つ、
②片手に宝棒を持つ
③冑か宝冠をかぶって甲(鎧)をまとう、
④臼の上に片足を垂らして座る、
この視点からもう一度、金刀比羅宮の元雪筆の「大国主神像」を見てみましょう。
IMG_0022 17大国主神像
元雪筆の「大国主神像?」
右手に金嚢を持ち、左手付け、臼の上に右足を垂らして座っています。『覚禅抄』の中に、左手に小さな金嚢を持ち、右手は拳を握り、台の上に右足を垂らして座る大黒天の図が掲載されています。また、観世音寺。松尾寺・興福寺南円堂脇納経所の大黒天は、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。拳を握るのは、大黒天の特徴です。  ①・③・④を満たしていまが、②の宝棒は持っていません。しかし、その他の特徴からして、これは大黒天(勝軍大黒天)であると研究者は考えています。
金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」を、岡田為恭が模写したものもあります。
為恭は、幕末 1860年、宥盛上人の250年祭の時に金毘羅大権現から招かれた金毘羅にやってきて、3月10日から19日まで滞在しています。その間にお守りの木札の文字が古くて型がくずれていたのを直したり、小座敷の袋戸棚に極彩色の絵を描いたり、宝物を調査・分類したりしています。こうした縁で為恭の作品が、金刀比羅宮に百余点残っているようです。しかし、その内の半分は明治になって奈良春日大社の伶人、富田光美がもたらしたものです。白書院の天丼の竜は、寸法を計って帰り、帰京後描いて翌年の文久元年(1861)6月18日に京都から献上使が預かってもち帰ったものです。
 金毘羅滞在中に模写したひとつが、元雪の「大国主神像」のようです。
大黒天模写
       為恭の「大国主神像」模写(着色なし)
研究者が注目するのは、為恭が模写した「大国主神像」の向かって右上の黒く塗りつぶした部分です。ここには、最初は「大国主神像」と書いたのが、為恭途中で「大国主神像」とすることに疑問を感じて、墨で黒く塗りつぶしたと研究者は推測します。つまり、為恭は「大国主神像」ではなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」であると知っていたことになります。同時に江戸時代末期には、この絵は金毘羅では「大国主神像」と名前が付けられていたことも分かります。

『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』
『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』

為恭は金毘羅大権現に滞在中、いくつかの作品を模写しています。
その模写した作品の中に、元雪筆「大国主神像」がありました。元雪は江戸時代の狩野派画家で、ふだんから勝軍大黒天を信仰していたようです。彼は勝軍大黒天に彼独自の工夫を加えています。例えば、それまでの勝軍大黒天.は黒い甲冑を着けていましたが、元雪はきらびやかな甲や宝冠をまとわせています。ある意味、新しい独自の勝軍大黒天像を描きだしたと研究者は評します。

金毘羅大権現の大黒天
金刀比羅宮の大黒天
 元雪の描いた勝軍大黒天像が、どのような経過をたどったかは分かりませんが、宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年の所有となり、金毘羅大権現に奉納されたようです。江戸時代後期には、「金毘羅大権現=大国主神(大物主神)」であるという俗説が広められていました。その影響を受けて勝軍大黒天像が大国主神(大物主神)として金毘羅大権現に奉納されようです。
金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名勝図会
弘化4年(18478)刊行の『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神について次のように記しています。
金毘羅大権現、祭神未詳、あるいは云ふ、三輪大明神、また素蓋烏尊、また金山彦神と云ふ.

『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神を未詳として、三輪大明神(大物主・大国主命)、素垂鳥尊、金山彦神の名をあげます。しかし、これらの三神は金毘羅大権現ではありません。金毘羅大権現は全毘羅坊(黒眷属金毘羅す)という天狗だったことは以前にお話ししました。
 金毘羅大権現=大物主神(大国主神)というのは俗説ですが、その俗説の影響を受け、勝軍大黒天像が金毘羅大権現に奉納されます。それは、大国主神と大黒天は混交して同一視されたからでしょう。
  以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」がある。
②しかし、それは本当は「大国主神像」でなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」である。
③大国主神と大黒天は混交して、同一視された。
④大国主神と混交したのは大きな袋を背負った大黒天であって、小さな袋を持った大黒天ではなかった。
⑤金毘羅大権現では、誤って小さな金嚢を持つ大黒天像を、「大国主神像」とした
⑥これがただされることなく現在に至っている。
 金刀比羅宮所蔵「大黒天像」は、普通の大黒天のように黒い甲冑をまとったものでなく、きらびやかな甲(鎧)を着け、さん然と輝く宝冠を戴いた姿です。これは、他に類のない貴重なものです。正しい名前で呼んで、評価することが価値を高まることにつながると研究者は評します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記 
 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)318P」に、この「大国主神像」についての解説文が載っていましたので転載しておきます。
IMG_0022 17大国主神像

本図は「大国主神像」とされるが、図像上は見慣れないものである。基本的には、毘沙門天と大黒天が混交した姿であり、大黒天との関係から大国主神に変貌したものであろう。昆沙門天はヒンドゥー教における財宝神クベーラの別名であり、このクベーラは財福の神として大黒天とも混交したらしい。さらにこの毘沙門天と大黒天は、日本において共に七福神として庶民信仰の対象になっており、民間信仰における雑居性が、本国におけるような、毘沙門天の姿でありながら、大黒主風の小道具を持つ大国主神という特異な図像を作り上げたげたのであろう。
 本図は、松原秀明一一金昆羅庶民信仰資料集 年表篇一(金刀比羅宮社務所、一九八八年二月)によると、明治11年(1878)に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大午が奉納したものであることが分かる。神仏分離後の奉納であるため、「大国主神」とされたのかもしれない。神仏分離後、金刀比羅宮の祭神は大物主神であり、この大物主神は大国主神の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であるとされ、根本的には同体であると考えられている。そのような縁で「大国主神」として、金刀比羅宮に奉納されたのであろう。 面右辺やや下寄りに「□氏元雪筆」と落款がある。筆者元雪については伝歴不詳である。作品自体は江戸時代ではなかろうか。尚、本図と同じ図様が金刀比羅宮所蔵の冷泉為恭関係模本(『冷泉為恭とその周辺‐模本と復古やまと絵』金刀比羅宮社務所、2004年図版61-1)に見られる。本図が明治になってからの奉納とすると、直接本図を写したものとは考えにくくなるが、この図様は当時比較的流布していたものなのかもしれない。
(伊藤)






参考文献

大黒天 | 天部 | 仏像画像集

前回はインドのシヴァ神の化身だった大黒天が、日本にやって来て「打出の小槌と俵」をアイテムに加えることで富貴のシンボルとして信仰されるようになるとともに、日本神話の大国主神と混淆していく過程をみてきました。今回は、大黒天のその後の発展過程を見ていくことにします。  テキストは「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」です。
もとはインドの大魔神であった・大黒天│沖縄県那覇市の密教護摩祈祷、祈願寺

室町時代になると、打出の小槌を持ち、俵の上に乗る日本独自の大黒天は、盛んに信仰されるようになります。
そして室町時代末期に七福神が考え出されると、大黒天はそのメンバーに仲間入りします。夷・大黒天・毘沙門天・弁才天・福禄寿・寿老人・布袋の七つを、七福神といいます。福禄寿と寿老人は同じものであるので、このどちらかのかわりに吉祥天を加えることもありました。
大黑天 七福人
七福人に仲間入りした大黒天
大黒天の流行の中から新たに登場してくるのが三面大黒天と勝軍大黒天です。
三面大黒天は、大黒天・弁才天・毘沙門天を合体させて三面六胃像になります。三面大黒天の持ち物は、一定してないようですが、延暦寺のものは俵に乗り、その中面は大黒天で剣と宝珠を持ち、左面は弁才天で鍵と鎌を持ち、右面は毘沙門天で鉾と宝棒を持っています。まずは、この登場の背景について見ておきましょう。
大黑天 比叡山

   比叡山では最澄が唐からもたらした大黒天は、各院の食厨に大黒天像が祀られ、修行僧たちの生活を維持してくれる神として崇敬されてきました。そんな中で、比叡山では護国の三部経の尊が次のようにされます。

大黑天 比叡山2
大黒天は『仁王経』
弁才天は『金光明経』
毘沙門天は『法華経』
つまり、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することになるとされたのです。三面大黒天を祀ることは三部卿信仰にもつながることになります。この言い伝えを拠り処にして、三面大黒天は成立したと研究者は考えています。
三面大黒天のご利益と効果

 こうして比叡山で登場した三面大黑天は、今までは黒くて怖い顔から、次第に柔和な親しみやすい面相に変化していきます。蓮の葉の上に立っていた木像も、俵の上に載せられるようになります。
 三面大黒天へと変身することによって、新たな「流行神」として、京都の人々に受け入れられて大流行します。文化の中心である京都での流行は、地方に伝播していきます。こうして、比叡山で信仰されていた大黒天が、三面大黑天に変身することで、全国的デビューを果たしたことになります。それは室町末期の風流や流行神の時代背景の中でのことのようです。
三面大黒天信仰 新装2版の通販/三浦 あかね - 紙の本:honto本の通販ストア

こうして誕生した三面大黒天のその後を見ておきましょう。
室町末期に七福神がグループとしてデビューし、大黒天はそのメンバーに迎え入れられます。そして、七福人の人気が高まるにつれて、大黑神の認知度も上昇し、より多くの人々に信仰されるようになります。この上昇気流が、三面大黒天という新たな大黒天を生み出したことを押さえておきます。大黒天信仰が盛んなのを見た延暦寺の僧は、全く新しい民衆のニーズにあった大黒天をつくって、民衆の信仰を得ようとします。それだけの柔軟性が比叡山にはあったことになります。
大園寺の勝軍大黒天
      勝軍大黒天(目黒区大園寺)

 三面大黒天と同時に考案されたのが勝軍大黒天のようです。
勝軍大黒天は黒い唐風の甲冑をまとい、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負って、臼の上に右足を垂らして座っています。臼に座っているのが勝軍大黒天がポイントのようです。臼は脱穀や精白を行うための道具で、精白をした米を入れる容器です。俵と臼は密接につながっています。俵に乗る大黒天の影響を受けて、勝軍大黒天は臼に座わる姿で登場したようです。
 比叡山延暦寺大黒堂の勝軍大黒天は、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、額上に如意宝珠の付いた宝冠を戴き、身に甲をまとい、自の上に左足を垂らしています。延暦寺本坊の勝軍大黒天は、右手に手三量貢を持ち、左手に宝棒を持ち、宝冠をかぶって、臼の上に右足を垂らして座っています。
 .東京都目黒区大園寺の勝軍大黒天は、左手に金嚢を持ち、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、甲冑をまとい、臼の上に左足を垂らして座っています。
大将軍
京都大将軍八神社の大将軍神
勝軍大黒天の成立の背景を研究者は次のように考えています。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であるというのです。大将軍神像は、衣冠束帯の座像と立像が二十二体、武装の座像と半珈像が四十三体あります。

大将軍2
 武装の半珈像(京都の大将軍八神社)
武装の半珈像の中には、右手に剣を持ち、左手の人差し指と中指を揃え立てて印を結び、唐風の甲冑をまとい、岩座の上に左足を垂らして座ったものもあります。このような大将軍神半珈像と、『南海奇帰内法伝』に出てくる大黒天半珈像を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天と研究者は考えています。勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。

「大黒天+大将軍神」=勝()軍大黒天

ということになるというのです。そうだとすれば勝(将)軍大黒天の甲冑は、大将軍神から貰ったものになります。
江戸時代になると大黒天はさらに人気が高まり、様々な種類の大黒天像が造られます。
江戸期の『仏像図彙』には、次の六種の大黒天が載せられています。
「摩訶迦羅大黒、比丘大黒、王子迦羅大黒、夜叉大黒、摩訶迦羅大黒女、信陀大黒」の六種です。これについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神に取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②日本に伝わってきた大黒天は「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、それを背負うために立姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。
⑦室町時代になって七福人の仲間入りすることで流行神の性格を帯びるようになり、新たな大黑新が生まれてくる
⑧比叡山では三面大黑天や勝(将)軍大黒天が登場し、京都の庶民の流行神となる。
⑨それが各地に伝播し、江戸時代になると大黒天ファミリー版の六種大黒も登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
      「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」
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大黒天 シヴァ神
踊るシヴァ神
インドのヒンズー教では、次の神々を三大神として信仰しています。
ブラフマー 創造
ヴィシュヌ 維持
シヴァ   破壊
仏教は、ヒンズー教で信仰されていた神々を数多く取り込みます。三大神の中でも、ブラフマーとシヴァは、仏教にとり入れられ、ブラフマーは梵天になり、シヴァは大自在天・青頚観音・摩臨首羅・大黒天に「権化」します。
 シヴァ神が恐ろしい戦闘神になる時には、三面六腎で全身に灰を塗り、黒い色になります。大黒天のことをマハーカーラとも云いますが、マハーは「大」、カーラは黒の意味のようです。

大黒煙1

大黒天のル―ツは戦闘神のシヴァ神で、次のふたつの姿を持っていることを押さえておきます。
①戦闘モードの忿怒の三面六腎大黒天
②福神モードで袋を持った一面二臀大黒天

密教の胎蔵界曼荼羅には、三面六臀大黒天が描かれています。
大黒天は、胎蔵界曼茶羅では外金剛部中の左方第三位にいます。

三面大黒天 マハーカーラ 青面金剛 三宝荒神 庚申塔 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市
大黒天(マハーカーラ)
そこでは①「全身黒色で忿怒怒相をしていて、火髪を逆立てた三面六腎像」=忿怒の戦闘モード」のお姿で描かれています。
その姿を見ておきましょう。
①右第一手は、剣を握って膝の上に置き、左第一手は一手は剣の先端を持ちます。
②右第二手は合掌した人間の頭髪を握ってぶらさげ、左第二手は白羊の角を握ってぶらさげます。
③左右の第三手は象の生皮を背後に掲げます。首には髑髏を貫いたネックレスをかけ、腕には毒蛇を巻いて腕輪としています。体には人間の死灰をを塗り、黒色になっています。
大黒天4

これが怒りモードの大黒天のようです。大黒天の怒りの姿は余り見ることがないので、これが大黒天と云われてもすぐには信じられない姿です。これも「権化」としておきましょう。

しかし、インドのマハーカーラ神は、あまり見かけることのない神で、ヒンドゥー教のなかではそれほどポピュラーな存在ではなかったようです。それがどうして、日本にやってくると大黒天として、大人気をよんだのでしょうか。それはマハーカーラ神が日本で、独自の進化発展・変身をしていったからのようです。
 日本の大黒天には、次の四種の姿があるようです。
①忿怒相としての大黒
②天台系寺院に見られる武神の装束を身につけ、左手に宝棒、右手に金袋を持つ像
③袋を背負った立像
④「三面大黒」で、正面が大黒天、脇の二面が毘沙門天と弁財天
①②も大黒天として日本に入ってきましたが庶民に信仰されることはありませんでした。庶民から信仰されるようになったのは③です。そして、その後に④が生まれてくると云う流れになるようです。

マハーカーラ神からの変容については、弥永信美氏が次のように述べています。
誰にも知られ、親しまれている大黒天が、古来、日本の密教では恐ろしい像容をもって描かれていることを知っている人は、それほど多くはないかもしれない。たとえば、もっとも普及した現図胎蔵曼荼羅の図像では、大黒天は摩訶迦羅という名で知られ、三面六臂、前の二手では剣を横たえ、、右に小さな人間を髪つかんで持ち、左に山羊の角をつかみ、後ろの二手は、左右で象の皮を被るように広げている。曼荼羅の数々の忿怒相の諸尊のなかでも、これほど恐ろしい形相の尊像は多くはない。「おめでた尽し」の福の神・大黒天が、一方ではこの恐るべき忿怒の形相の摩訶迦羅天と「同じ神」であるとは、いったいどうしたことなのだろう。(略)
つまり大黒天とは、本来、ヒンドゥー教のシヴァ神の眷属であったのが仏教の守護神とされ、さらに厨房の神から日本では福の神として信仰されるようになった、というふうに要約することができるだろう。弥永信美『大黒天変相』74-76P
真読】 №18「大黒天、寺の食厨(くり)を守る」 巻一〈祈祷部〉(『和漢真俗仏事編』読書会) - BON's diary

          インドの大黒天(マハーカーラ)

求法のためにインドに赴いた義浄の「南海寄帰内法伝」には、大黒天について次のように記します。

西方の諸大寺処にはみな食厨の柱側に於て、或は大庫の門前に在りて木を彫りて形を表す、或は二尺三尺にして神王の状を為す。坐して金嚢を把(と)り、却(かえ)って小状に鋸し、一脚を地に垂る。毎に油を将(も)って拭ひ、黒色を形と為す。(中略)淮北には復た先に無しと雖も、江南には多く置く処あり。求むれば効験あり、神道虚に非ず。

ここからは次のようなことが分かります。
①インドの諸大寺では食厨の柱や大庫の入口に高さ二尺(約60㎝)~三尺(約90㎝)の二臀大黒天の本像を安置していていたこと、
②その木像は片手に金嚢を握り、小さな台の上に片足を垂らして座っていること。
③人々は供養のため、油でそれらの木像を拭うので、黒く光っている。
④中国の江南地方では、よく二腎大黒天を祀っているが、淮北地方では全く祀っていない

  大黒天のルーツは、ヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身・破壊と戦闘を司る神マハーカーラでした。
戦闘色の強い忿怒の神で、その名前の意味は「偉大なる暗黒」です。「黒」の文字が「大黒天」につながっているようです。しかし、私たちの大黒天のイメージは、財福の神として、温和な姿の大黑さまです。ここに出てくる大黒天とマハーカーラはイメージが違います。それがどんな風に繋がっていたのでしょうか?

大黒天 長谷寺
長谷寺の大黒天 片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っている。

平安時代になると、日本でも大黒天信仰が広がります。
最澄・円仁・円珍などの入唐した天台の高僧が、大黒天を請来します。最澄は大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置します。最澄が請来して延暦寺の食厨に安置した大黒天は、インドで義浄が見たものと同じもので、片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っています。

覚禅(平安末期~鎌倉前期の頃の僧侶)の著した『覚禅抄』に、三態の大黒天の次のような図が載せられています。

大黒天三体
           大黒天三態
①左 『伝神憧記』の大きな袋を背負って立つ一面二臀大黒天
②中央『南海奇帰内法伝』の小さな金嚢を持ち、片足を垂らして座る一面二腎大黒天、
③右  胎蔵界曼茶羅の忿怒相をした三面六臀大黒天
③→②→①の順に「進化」していくようです。
真ん中の大黒天の嚢を強調して生まれたのが、左側の大黒天のようです。嚢を強調した結果、小さな金嚢は大袋になります。大きな袋を背負うために大黒天は立ち姿になります。
 最澄が入唐した時、中国ではインド伝来の②の大黒天が盛んに信仰されていました。そのため最澄は②の大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置したと研究者は推測します。①や③の大黒天は、その後に円仁や円珍が請来したのでしょう。③の大黒天が伝えられると、③の大黒天が②の大黒天に取って代わり、②の大黒天は衰退し、現在ではお姿を見ることはなくなりました。②の大黒天は室町末期に勝軍大黒天に生まれ変わり、信仰を集めますが、それまでは鳴かず飛ばずでした。
大黒天三態

福岡の観世音寺にある藤原時代初期作の大黒天像を見ておきましょう。
大黒天 観世音寺
観世音寺の大黒天像
この大黒天像は左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。

奈良の文化と芸術 松尾寺の大黒様
松尾寺の大黒天
奈良県矢田松尾寺や奈良県興福寺南円堂脇納経所にも、観世青寺のものに似た大黒天像があって、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握るスタイルです。
木造大黒天立像(だいこくてんりゅうぞう) - 法相宗大本山 興福寺
興福寺の大黒天

この二つの大黒天像は、観世音寺のものより新しく、鎌倉時代前期のものです。しかし、これを大黒天といわれても「????」です。何かが足りないのです。それは、打ち出の小槌と米俵と、温和な笑顔でしょう。それは、後で見ることにして・・。

大黒天2
打ち出の小槌を持ち、俵の上に立つ大黒天
この大黒天が神話に出てくる大国主命と混交します。
『古事記』上巻の「大国主神と菟と鰐の条」には、次のように記されています。(要約)
大国主神とその兄弟の八十神は、因幡の八上比売に求婚するため、因幡の国に出掛けたが、大国主神には大きな袋を背負わせて、従者として連れていった。途中の海岸で隠岐島から鰐(鮫)を欺いて本土に渡った菟が、本土の寸前で欺いたことがばれて鰐に皮をはがれて泣いているのに出会い、八十神は出鱈目の治療法を教えた。しかし、大国主神は正しい治療法を教えて菟を救った。八上比売は八十神の求婚を断り、大国主神を夫とした。

ここからは、大きな袋を背負った大国主神と大きな袋を背負った大黒天とが混交して、同一視されるようになったことがうかがえます。
仏像の種類:大黒天とは、ご利益や真言】ふくよかな七福神…しかし実は武闘派戦闘神!開運最強の三面大黒天!|仏像リンク

③の大黒天に打出の小槌と俵が与えられるのは鎌倉時代の後期になってからです。

日本独自の、打出の小槌を持ち、大きな袋を背負って、俵の上に乗る大黒天の登場です。佐和隆研『日本密教 その展開と美術』(NHKブックス323P、昭和41年)323Pには、次のように記されています。

「版画で仏像をあらわしたものをもって、それをお守りにするということは天台、真言両系統で行なわれていた。そのお守りは「九重のお守り」と言って、それぞれの系統の修験者、ひじりたちが本山から受け取って地方に持ちまわって、売り歩いたものである。このお守りの起源がいつごろまで遡りうるものか、文献的には明らかでないが、鎌倉時代末期ごろにはあったと推定されている。このお守りは、諸種の種子曼茶羅を中心としたものをはじめとして、日本人の信仰の対象になっている、多くの諸尊の姿をならべたものなど、種々の系統のものがある。この最古の例は金沢文庫所蔵の一本で、鎌倉時代末期ごろと推定されている。」

ここからは鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」が使われたこと分かります。
大黒天 九重守

「九重のお守り」には、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになります。

九重守・九重守経・九重御守
九重守りに印刷された仏たち

林温「荼枳尼天曼荼羅について 仏教芸術』二一七号、毎日新聞社発行、1994年)には、「九重のお守り」について、次のように記されています。(要約)
奈良県西大寺蔵の木造文殊菩薩騎獅像内に納入された九重のお守りには、「弘安八年(1285)二月信聖」という記がある。この九重のお守りは、諸種の曼茶羅・真言・図像などを列挙したもので、図像だけでも六十三種が印刷されている。釈迦や観音といった伝続的な仏尊の他に、日本で変貌した日本独自の仏像も登場する。例えば、十五童子を眷属として従えた弁才天(宇賀弁才天)、白狐の上に乗った天女子・赤女子・黒女子・帝釈使者の四天を従えて剣と宝珠を持った女神が辰狐の上に乗る荼枳尼天(だきにてん)、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天などが印刷されてている。
 神奈川県称名寺蔵木造弥勒菩薩像内に、右に良く似た九重のお守りが納められていた。称名寺の九重のお守りには西大寺の九重のお守りにない地蔵十三や晋賢十羅刹女があり、西大寺の九重のお守にはある天形星が称名寺の九重のお守りにないとか、西大寺の九重のお守りの聖天は人間の男女が抱き合うものであるのに対して称名寺の九重のお守りの聖天は象頭人身の男女が抱き合うものであるといった、若干の違いは存在するけれども、基本的には両者は合致するものである。
 称名寺の方が西大寺よりもいくらか古く、弥勒菩薩像内に、納入されたその他の多くの品とともに弘安八年(一二七八)頃のものと思われる。
ここからは、鎌倉時代後期には九重のお守りの尊像の一つとして、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天が、印刷されていたことが分かります。

鎌倉時代の大黒天は、左で大きな袋を背負い、右手は拳を握っていました。
このような大黒天に打出の小槌と俵を与えることで、日本独自の打出の小槌を持ち、大きな袋を背負い、俵の上に乗る大黒天が生まれたようです。興福寺走湯や河内大黒寺の大黒天彫像は、左手で大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、俵の上に乗っている姿です。その姿から鎌倉時代後期のものとされます。鎌倉中期から後期の初めにかけての頃に誕生した日本独自の大黒天は、最初は九重のお守りにとり入れられ、それがやがて彫像とされるようになったようです。

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神にに取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②中国では特に「富貴福禄」の部分に焦点が当てられ信者が増えた。
③日本に伝わってきた大黒天も「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、大きな袋を背負うために大黒天は立つ姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」に、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになり、広範に知名度を上げていく。
⑦知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。

大黑神と大国主の混淆
大黒天と大国主の混淆まで

以上、インドのシバ神の化身が、日本神話の大国主神と混淆するまでの物語でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。

25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。弁才天画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めた書かれています。ここからは、もともとは春日社に伝わっていたものであることが分かります。

25弁財天
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)(拡大)

春日社にあった弁才天十五童子像がどうして、金刀比羅宮にあるのでしょうか。
今回は、その伝来について見ていきたいと思います。テキストは「羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57」です。
金刀比羅宮の弁財天画を見る前に、弁財天の歴史について簡単に見ておきます
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ヒンズー教の現在のサラスヴァティー(弁才天)

弁財天の起源はインドです。古代インド神話でサラスヴァティーと呼ばれた河の神は、後になると言葉の神ヴァーチュと結び付いて、学問、叡知、音楽の女神となり、最高神ブラフマー(梵天)の妃の一人とされるようになります。それが仏教にとり入れられると、仏教名を弁才天、妙音天、 美音天などと呼ばれるようにます。さらに財宝神であることが強調されるようになると、弁財天と書かれるようになります。神も進化・発展します。その上に、『金光明最勝王経』は、弁才天を美神とか戦闘神であると説き、弓、箭、刀、鉾、斧、長杵、輪、霜索を持つ8つの手があるとします。後世にいろいろな効能が追加されていくのが仏像の常です。二本の手では足らなくなって8本になります。

かつての横綱、若乃花・貴乃花の手形石、意外と小さい - Photo de Mimurotoji Temple, Uji - Tripadvisor

日本で盛んに信仰されるようになるのは、宇賀弁才天です。
水神の白蛇や、その白蛇が発展を遂げて生まれた老翁面蛇体の宇賀神を、頭上に戴くのが宇賀弁財天です。宇賀神は稲荷信仰を混淆して生まれました。稲を担った老翁姿の稲荷神と、水神の蛇が結合したのが宇賀神となるようです。整理しておくと
宇賀神  = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)
宇賀弁才天= 宇賀神     + 弁才天
こうしてとぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く宇賀弁才天が登場してきます。
弁才天と宇賀神

これが鎌倉時代末期のようです。弁才天の化身は蛇や龍とされますが、これはインド・中国の経典にはありません。日本で創作された宇賀弁才天の偽経で説かれるようになったようです。

弁才天3

 初期の宇賀弁才天が8本の手に持つのは『金光明経』に記されるように「鉾、輪、弓、宝珠、剣、棒、鈴(鍵)、箭」と全て武器でした。ところが、次第に「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなり、商人達に爆発的に信仰が広がります。

弁才天には「十五童子」が従います。
これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれます。

弁才天十五童子像3

絹本著色の弁才天十五童子像として代表的なものをあげると、
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)
京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
などがあります。これらの絵に共通する点は、主尊の弁才天と眷属神の十五童子(十六童子の場合もある)を中心に、龍神やその他の神々が描き込まれていることです。
弁才天十五童子像

        大阪府江戸前~中期/17~18世紀
      岩座の弁才天と十五童子を表す立体曼陀羅
弁才天十五童子像2

金刀比羅宮の弁才天画像を見てみましょう。

25弁財天十五童子像

25弁財天

岩の上に立つ一面六臀の弁才天を中心に天女のまわりを眷属神の十五童子がかためます。画像の上方の五つの円相の中には釈迦・薬師・地蔵・観音。文殊という春日明神の本地仏が描かれています。春日社の祭神の本地仏は、武甕槌命(本地は釈迦)・経津主命(薬師)・天児屋根命(地蔵)・比神(観音)とされます。祭神は一神一殿の同じ形の、同じ大きさの社殿に祀られています。ただ、文殊だけは一社だけ離れて若宮社に祀られています。

弁才天立像
武人的な要素の強い弁才天

日本三弁天と称しているのは、次の3社でした。
近江の都久夫須麻神社
鎌倉の江の島神社
安芸の厳島神社
神社が弁才天信仰の中心となったのは、弁才天が神仏習合したからです。弁才天の頭上には白蛇(宇賀神)と華表(鳥居)がのっています。

弁才天2
白蛇はさらに発展し、老翁面蛇体の宇賀神としてソロデビューしていきます。日本三弁天の神社の影響もあって、春日社でも宇賀弁才天を祀るようになったようです。頭上に、水神・食物神とされる宇賀神をいただく宇賀弁才天を祀ることは、多くの荘園を持つ春日社にとっては大切な要素です。雨が降らないと稲は育ちません。荘園経済の上に基盤を置く春日社にとつては死活問題です。そのため水神である宇賀弁才天を祀るようになったのでしょう。

弁才天画像を春日神社から手に入れたのは松尾寺住職の宥天です。彼の在職期間は、1824~32年まででした。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現を求めていました。そのために、寺社は境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。

金毘羅本社絵図


 金毘羅大権現の別当寺松尾寺では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。毘沙門天は『法華経』、弁才天は「金光明経』、大黒天は『仁王経』の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。
 生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったはずです。足らないのは、弁財天です。宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったという推理が浮かんできます。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて祀られます。そこに祀られたのが春日社から購入した宇賀弁才天画で、三天講の本尊の一つだったようです。

文化十年(1813)には、金毘羅大権現の門前町である金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。
さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天が福徳の仏して、熱心に拝むよようになります。
3分でわかる弁財天とは?】ああっ幸福の弁天さまっ!のご利益や真言|仏像リンク

 弁財天はインドではもともとは川の神、水の神で水辺に生活する神とされていました。そのためいつのまにか雨と関連づけられ雨乞いにも登場するようになります。
松尾寺でも江戸時代には雨乞いが行われています。
宇賀弁才天木像及び弁才天十五童子像画像は、雨乞いにも活躍したようです。奥社からさらに工兵道を進むと、葵の滝があらわれます。ここは普段は一筋の瀧ですが、大雨が降った後は壮観な光景になります。かつては、ここは山伏たちの行場であった所です。私も何度かテントを張って野宿したことがあります。夜になるとムササビが飛び交う羽音がして、天狗が飛び回っているように思えたことを思い出します。
善通寺市デジタルミュージアム 葵の瀧 - 善通寺市ホームページ
葵の瀧

 流れ落ちる屏風岩の下に龍王社の祠が置かれます。ここが金毘羅大権現の祈雨の霊場で修験を重ねた社僧達がここで雨乞いを祈願したと私は考えています。宇賀弁才天が祀られるようになると、水の神である宇賀弁才天も雨乞い祈願の一端を担うようになったのでしょう。

四国のお寺には、かつては雨乞い神の善女龍王が祀られていた祠が、いつのまにか弁財天を祀る祠になっている所がいくつもあります。神様や仏様にも流行廃れがあり、寺社はあらたな神仏の「新人発掘」を行いプロモートの努力を続ける努力をしていたのです。それを怠ると繁栄していた神社もいつの間にか衰退の憂き目にあったようです。そういう意味では、江戸末期の金毘羅大権現の別当たちは、「新人発掘」に怠りがなかった。そのひとつの象徴が三天講の企画であり、そのための宇賀弁才天画の購入であったとしておきます。


以上をまとめておくと
①江戸時代になると商売繁盛の神として宇賀弁才天が信仰を集めるようになる。
②金毘羅大権現の別当金光院も、宇賀弁才天を勧進し三天講の開催を始める
③そのため宇賀弁天の本尊が春日神社から求められ、三天講の縁日の時には開帳されるようになる。
④宇賀弁天は、水神でもあったため雨乞い信仰の神としても信仰を集めるようになる
⑤その結果、それまでの善女龍王竜王に宇賀弁天がとって代わる所も現れた。
⑥江戸時代の庶民派移り気で、寺社も新たな流行神を勧進し信者を惹きつける努力を行っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57
関連記事

 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。それでは、この不動明王は、もともとはどこにいらっしゃったのでしょうか


img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。

(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは金光院の護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金光院表書院の南側にあった護摩堂
金光院の護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。金光院の修験僧達が毎日、護摩焚きを行っていたのようです。先ほど見たように「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分」があるのは、そのためのようです。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは比叡山延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。

1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。
修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。

香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

C-23-1 (1)

 明治初期に吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐を、金毘羅大権現は金刀比羅神社に姿を変えることで生き残りました。そこでは、仏閣から、神社への変身が求められました。それに伴って金毘羅大権現の仏像・仏具類も撤去されることになります。仏さん達は、どこへ行ったのでしょうか。全て焼却処分になったという風評もあるようですが、本当なのでしょうか。金毘羅大権現を追い出された仏達の行く方を追って見たいと思います。

  松岡調の見た金毘羅大権現の神仏分離は       
 明治2年(1869)4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現・以後は金刀比羅宮使用)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。

 (前略) 護摩堂、大師堂なとへ行見に、①内にハ檀一つさへなけれハ、ゐてこしヽ老女の涙をおしのこひて、かしこき事よと云たるつらつき、いミしうおかし、かくて本宮へ詣て二拝殿へ上りて拝奉る、御前のやう御撫物のミもとのまヽにて、其外は皆あらたまれり、白木の丸き打敷のやうなる物に、瓶子二なめ置、又平賀のさましたる器に、②鯛二つかへ置て奉れり、さて詣っる人々の中にハ、あハとおほめく者もあれと、己らハ心つかしハそのかミよりは、己こよなくたふとく思へり、
絵馬堂へ行て頚(くび)いたきまて見て、やうように下らんとす、観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像ハとりたる跡へ御簾をかけて、白幣を立置たり
  意訳しておきましょう
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、②鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もあるが、私は、その心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子が見えてきます。仏像仏具に関しては
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任します。
1 金毘羅 狛犬1

さて、撤去された仏像はどうなったのでしょうか。
 取り除かれた仏像・経巻・仏具類は、仏堂廃止とともに境内の一箇所に取りまとめて存置されていたようです。それが動き出すのは、松岡調が金刀比羅宮の禰宜に就任した年になります。明治5年4月に香川県宛に旧金光院時代の仏像の処分について、伺いが出されています。これについては『年々日記』明治五年四月二十四日条に、
二十四日 一日ハ(晴)れす、会計所へものせり、さきに県庁へねき聞へし条々につきて、附札にてゆるされたる事ども
事比羅神社社用之廉々伺書
一 当社内二在之候従来之仏像、御一新後悉皆取除、山麓之蔵中江集置候処、右撥遣(廃棄) 二相成候上者、如何所置可仕哉、焼却二及候而も不苦候哉之事、
      焼却可申事 (○中略)
事比羅神社
  県庁御中
意訳しておくと
当社内に保管する仏像について、維新後に全て取除き、山麓の蔵中へ集めて保管してきました。これらについて廃棄することになった場合は、どのように所置すればよろしいか。焼却してもよそしいか。

この伺いに対する香川県の回答が「焼却可申事」であったようです。ここからは仏像類の処分方法について、金刀比羅宮が事前に香川県の承認をうけていたことが分かります。4月に焼却処分の許可を得た上で、8月4日に仏像類の大部分を焼却したようです。
これだけ見ると「全ての仏像・仏具を焼いた」と思われそうです。実際に、そのように書かれた本や言説もあります。しかし、松岡調の日記を見ると、そうではないことが分かります。

1 金毘羅 狛犬222表

 処分に先立って、松岡調自ら仏像・仏具類を納めた倉庫を検分したり、松崎保とともに社中に残し置くべき仏像などについて、立ち合い検査を行なっています。6月から7月になると『年々日記』に、次のような記述が見られるようになります。
 
五日 (中略)今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕、読点筆者)

八日 雨ふる、こうきあり、例の時より会計所へものセり、西の宝庫に納たりし雑物を出して塵はらわせり、来る十一日にハ、仏像仏具を始、古きものともをうらんとて置そす、今夜いミしう雨ふる、(以下略)(『年々日記』明治五年〔七月八日条〕)

6月5日には、金毘羅さんのお膝元・榎井村の行泉(興泉)寺が梵鐘を227円50銭で買いつけています。これも、戦中の金属供出で溶かされたのでしょうか、今は興泉寺に、この鐘はないようです
7月8日には、西の倉庫に保管されていた「雑物」を出して奇麗にしたようです。それは仏像仏具を売りに出すための準備であったようです。
 九日 雨はれす、二字(2時)のころやうくはれたり、御守所へ詣てつ、間なく裏谷なる仏像、仏具を納たる倉を見にものセるか、大きなる二層の倉の上にも下にも、かの像ともの古きなる小きなる満々たり、小きこまかなるは焼ハらふも、いとあたらしきワさなれハ、仏ゑと共にうらんとて司庁(社務所)へおくりやる、数多の中に大日仏の像なとは いみしき銅像になん、
(『年々日記』明治五年 〔七月九日条〕)
意訳すると
7月9日 
雨晴れず、2時頃からようやく晴れてきた。御守所へ参拝してから「裏谷」の仏像、仏具を保管している倉を見行く。そこには大きな2層の倉の上にも下にも、古い仏像や小さい仏像などで満ちている。小さい仏像は燃いても、造られたばかりの新しいものは、仏絵と共に売ることにして司庁(社務所)へ運んだ。数多くある中でも大日如来像は、価値のあるもののように見える。       
ここからは、次のような事が分かります。
①「裏谷」にある倉に仏像、仏具を保管してあったこと
②倉の中には、仏像でいっぱいだったこと
③新しい仏像は、仏絵と共に販売するために運び出したこと
④大日如来像はすぐれた作品であると「鑑定」していたこと
明治元年に撤去された仏像たちは、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されていたようです。そして、売れるものは売るという方針だったことがうかがえます。
1 金毘羅 備前焼狛犬1

十日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ 
   (『年々日記』明治五年 【七月十日条】)
     ○
意訳すると
7月10日 明日11日から始まるオークションの準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものである。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

  仏画類については、前日に書院のなげしに掛けて「鑑定」を行って、おおよその価格を事前に決めていたようです。
1 金毘羅1 狛犬11

さて入札当日は、どうだったのでしょうか。
十一日 御守所へものセり、十字のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
 (『年々日記』明治五年 七月十一日条)
意訳すると 
7月11日 10時ころより、多御守所でセり(入札)が始まり。多くの人がやって来て入札品を見てまわった。しかし、仏像などは鑑定眼がないので、近寄る者はいない。難物や古かねの類の価値のないものはおおから買取り手が見つかった。ある人が言うには、仏像の類は15日が過ぎるまで待ったらどうか。近くの寺々に、この入札会のことを知らせれば、買い手も集まってくるだろう。

十二日 東風つよく吹けり、会計処へものセり(払い下げ)、今日も商人数多ものして、くさくさの物かへり、己ハ柳にて作れる背負の鎧櫃やうのもの、価やすけれハかいつ、よさり佐定御願へものセるに、かたらへる事あり。    
意訳
7月12日 束風が強く吹いた日だった。会計所へ払下品を求めて、今日も商人たちが数多くやってきて、買っていく。自分は、柳で編んだ背負の鎧櫃のようなものを、値段が安いので買った。佐定は御願へもとするのに使うために、相談があった。

仏像・仏具の払い下げが、11日から始まったようです。最初に売れたのは、「難物・古金」のように重さで売れるものだったようです。仏像などは、見る目がないので手を出す者は初日にはいなかったようです。そして、ここでもコレクターとしての血が騒ぐのでしょう、松岡調は「柳で編んだ背負の鎧櫃」を買い求めています。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12
18日 今日も同じ、裏谷の蔵なる仏像を商人のかハんよしをぬきだし、ままに彼所へものさハりなきをえり出して売りたり、数多の商人のセりてかへるさまのいとおかし
 (『年々日記』明治五年 [七月十八日条])

十九日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、(○以下略)『年々日記』明治五年〔七月十九日条〕)
意訳
7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。
     
7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)
1 金毘羅 牛屋口狛犬12

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、大かた売り払った。(『年々日記』明治五年七月二十一日条〕)

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったよです。
二十三日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり
 (『年々日記』明治五年〔七月二十三日条〕)
意訳すると
23日 御守所での競売で、旧万燈堂に安置されていた大日如来像が金600両で売れた。

1 金毘羅 高灯籠1

 二十日 会計所へものせり、去し六月のころ厳島の博覧会にいたセる、神庫物品目録と云を見に、仏像、仏具を数多のセたるより、ワか神宮の仏像の類も古より名くハしき限りハのこし置て、さハる事もなからすと思ふまゝに佐定とかたらひ定て、この程県庁へさし出セし神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録かかせて、明日戸長の県庁へものセんと聞かハ、上等使部山下武雄をやりてかたらひつ、此つひてに志度郷の神宮の宝物、また己かもたる古器をも、いさヽかいつけ(買付けて)てことつけたり、
  (○中略)
 よさり佐定と共に裏谷に隠置(かくしおき)たる物を検査にものセしに、長櫃二つあり。蓋をとりて見に、弘法大師の作といふ聖観音立像、及智証大師の作といへる不動の立像なといミしきもの也、外に毘沙門また二軸の画像なとの事ハ、こヽには記しあへす、今夜矢原正敬かりに宿る。
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])
意訳すると 
会計所での「ものせり(入札)」の日である。昨年6月に安芸の宮島厳島神社の博覧会の時の「神庫物品目録」を目にした。そこには仏像、仏具を数多く載せてある。我が金刀比羅宮の仏像類も古くて価値があるものは残して置いても支障はないと思うようになる。
 佐定と相談して、県庁へ提出した神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録に追加させた。それを明日、琴平の戸長(町長)が県庁(高松)へ出向いて入札すると聞いたので、上等使部山下武雄を使いにやって、志度郷の神宮の宝物、また自分のものとして古器なども、かいつけ(買付けて)を依頼した。
  (○中略)
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。        (『年々日記』明治五年[七月二十日条])
1 JR琴平駅前狛犬

ここからは、次のようなことが分かります。
①宮島厳島神社の目録を見て、価値のある仏具類は残すことが出来ないか考えるようになったこと
②一部は志度の多和神社や自分のものとして、買い付けていたこと。
③裏谷の倉の長櫃から弘法大師や智証大師の作という仏像が出てきた
④その他にも毘沙門天像や軸物など「お宝」でいっぱいだったこと。
⑤矢原正敬を訪れ、今夜はそこに泊まること
ここからは価値のある仏像類は、残そうという姿勢がうかがえます。また、個人蔵とするために、お宝を買い付けていたことが分かります。このあたりに、松岡調のコレクターしての存在がうかがえます。多和神社や多和文庫の中には、金毘羅大権現からやってきたものがあるようです。
  そして、矢原正敬が登場してきます。
「矢原家家記」によると、矢原氏は讃岐の国造神櫛王(かんぐしおう)の子孫を自称し、満濃池再興の際には、弘法大師が先祖の矢原正久(やばらまさひさ)の邸に逗留したと記し、自らを「鵜足郡と那珂郡の南部を開拓し郡司に匹敵する豪族」とします。
 そして、近世になって西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、池の中に出来ていた「池内村」を寄進し、再築に協力したと伝えられます。その功績で、満濃池の池守として存続してきた家です。 矢原正敬はその当主になります。   歴史的な素養もあり、骨董品についても目利きであったようなので松岡調とは、気心があったようです。この日も、夜を明かして、「裏谷の倉」に眠る「お宝」についての話が続いたのかもしれません。

倉の中に保管していた仏像・仏具を、明治五年になって処分しようとしたのはなぜでしょうか。
それは、宥常が進める事業の資金を賄うためであったようです。
明治5年4月,宥常は権中講義に補せられ,布教活動プランを提出するよう教部省から求められます。これに対して、宥常は早速に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を設置案と提出します。しかし、これには多くの経費が必要となりました。上京していた宥常は、資金調達のため一旦帰国しています。そして、6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まるのです。ここからは、東京での出費を賄うために「仏像・仏具の入札」という方法が採られたと研究者は考えているようです。

 残った仏像類の処分に関しては、次のような記録があります
 葉月三日 四日
   今日第八字ヨリ於裏谷、仏像不残焼却致候事、
   担シ 禰宜、社掌、筆算方 立合ニ罷出候
中略
佐定云、さハりありとて残置し仏像を此八日の頃に皆焼きすてたり、一日の内に事なくハて、灰なとハ何処となく埋めさセたり、ことにをかしき事にハ、たれに聞きつけたるか、其日の日暮れ頃に老いぼれたる老女の二三人、杖にすかりあえき来て、かの仏像を焼たる跡に散りぼひたる灰を、恐ろしきことよとつまミ取て、紙に包ておしいたヽきて帰りしさまと、又仕丁ともの灰をかきよセて埋る時に、眼の玉を5つ六つ7つなと拾ひて、緒しめにせんなと云あへりし事よ、又瓔珞(ようらく)の金具のやけ残りたるを集さセて売しに、金三両にあまれりなと かたれり。
 (『年々日記』明治五年〔八月十八日条〕

意訳すると
8月3・4日 今日8時から裏谷で、仏像を全て焼却した。これには、禰宜、社掌、筆算方は立ち会ていない。(中略)
佐定は次のように話した。
「障りがあると残していた仏像を、皆焼きすてた。一日の内に、無事終えて、灰などは何処となく埋めさせた。印象に残ったことは、誰に聞いたのか、その日の日暮頃に老女が二、三人、杖にすがり喘ぎながら登ってきて、仏像を焼いた跡に散らばる灰を、「恐ろしきことよ」と、拾い集めて、紙に包んで押し頂くように帰って行った姿と、仕丁たちが灰をかき寄せ埋る時に、眼の玉をいくつも拾ひて、緒び締めにしようと言い合っていたことである。
 また瓔珞(ようらく)の金具のやけ残を集めて売ったところ、金三両になったと云うことだ。 
 こうして仏像・仏具類などは売却され、残ったものは焼却処分にされたようです。
ここからは「全てが焼かれた」のではないことが分かります。例えば、最後まで残った大日如来像が金600両で入札されています。松岡調が目を付けていた仏像だけの価値はあったようです。これがどこの寺に収まったのか気になるところです。入札で、買い手が付いた仏像や仏画などは商人の手を経て、どこかの寺に収まったのかもしれません。また、全国ネット取引を通じて、横浜に運ばれ海外に流出したものもあるのかもしれません。それも仏像に「流出先 金毘羅大権現 明治5年競売」とでも書かれていない限りは、探しようがありません。どちらにしても大量の仏像・仏具が、明治初期には市場に出回ったことがうかがえます。
 そして、こうした仏像は「寺勢」のある寺に自然と集まってくるのです。古い仏像があるだけでは、そのお寺の年暦が判断できないのは、こんな背景があるからなのでしょう。
 
禰宜であった松岡調が「宝物」として遺した仏像類も何体かあったようですが、現在残るのは次の二体です。

Kan_non
①伝空海作とされていた十一面観音立像(社伝では正観音といわれており、旧観音堂本尊)重文
1 金刀比羅宮蔵 不動明王

②伝智証大師円珍作とされていた不動明王像
(旧護摩堂本尊)重文
 
備前西大寺には、金毘羅から二体の仏像が「亡命」しています。
これは万福院の宥明(福田万蔵)が、明治3年に岡山の実家角南悦治宅に移したものでした。裏谷の倉の中に保管されていた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したようです。このような例は、これ以外にもあったのではないかと思うのですが、その由来が伝わっているところは、あまりありません。確かに本尊伝来書に
「金毘羅さんで競売された仏を入札したのが現在の本尊」

と書くのは憚られます。それに、似合う物語を創作するのが住職の仕事でしょう。
西大寺の金毘羅大権現の本地仏
西大寺に移された仏像
以上をまとめておくと
①神仏分離で金毘羅大権現の仏像・仏具類は撤去され、裏谷の倉に保管された
②明治5年に、東京虎ノ門の事比羅社内に神道教館を設置することになり資金が必要になった。
③そこで、保管していた仏像・仏具類の入札販売を行うことになった
④6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まり、7月末には売却を終えた。
⑤8月に残ったものを償却処分にした。
ここから多くの仏像は、競売品として売られていたことがうかがえます。それが、いまどこにあるのかは一部を除いてわかりません
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
松原秀明    神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

                                                        


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂の本尊であった十一面観音像が迎えてくれます。

11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
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         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
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長尾城主の弟とされる宥雅(長尾高広)が松尾寺の本堂(観音堂)を、現在の本社の鎮座する場所に建立したのは1571年のことでした。当然、そこにはこの観音様が安置されていたことが考えられます。
宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

 さて、本題に入っていきます。宥雅によって観音堂が創建されたのは戦国時代末です。しかし、宝物館の十一面観音は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会 幕末)

ここからは次のような事が考えられます
A 松尾寺創建の本堂に、どこからか十一面観音が持ち込まれたこと
B その十一観音が、いつの時代からか聖観音に「改装」されたこと。
このことについて、以下のような仮説を羽床正明氏を考えています。

金刀比羅宮十一面観音の由来 仮説1

 Aについて、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で次のように述べています。
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

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滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」という説とも矛盾しません。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説は、紙一重で生き残っていることになります。

もうひとつは十一面観音は、象頭山の麓の称名寺からやってきたという説です。

称名寺 「琴平町の山城」より
現在の金刀比羅宮の神田の上にあった称名寺
称名寺の本尊については、南海流浪記に道範は何も記していません。しかし、江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』には次のように書かれています。

「当山の内、正明称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 ここには阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

DSC05446
称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場でもあったようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。観音堂の観音様はどこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について触れておきます。

DSC05439
称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺や金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。

宥雅建立の金比羅堂の棟札
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②金比羅堂本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。

大麻山と象頭山 A
象頭山

次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような神櫛王の悪魚退治伝説が、伝えられてきました。

金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説
            神櫛王の悪魚退治伝説

 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
 その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます。

 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には、守護神として金比羅神が流行神となっていくことなど及びも付かないことでした。観音堂の本尊が十一面観音でも、正観音でも関係はなかったはずです。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。

次に、いつ・どうして十一面観音から正観音への「改装」が行われたかを見ておきましょう。

金刀比羅宮 正保年間境内図
正保年間の金毘羅大権現(松尾寺)の境内配置図

土佐軍の讃岐侵攻で宥雅は堺に亡命し、無人となった松尾寺は、長宗我部元親の配下の修験者宥厳に管理運営を任されます。この時期は土佐の修験者たちによって松尾寺が運営され、多くの院坊が形成されます。そのような中で主導権を握ったのが宥盛です。彼は強い天狗信仰をもち「死しては天狗となって金毘羅大権現を守らん」とも云ったと伝えられます。こうして宥厳・宥盛の時代に、 象頭山は松尾寺から金毘羅大権現をまつる金光院へと主導権が移っていきます。それが目に見える形で伽藍配置に現れます。
具体的には、1623年に松尾寺の本堂である観音堂が移築され、そこに金比羅堂(現本宮)が姿を見せます。こうして金光院は、松尾寺から金毘羅大権現を祀る宗教施設へと立ち位置を移していきます。
そうなると観音堂の本地仏が問題になります。金毘羅大権現の本地仏は、正観音とされていました。それまで観音堂に安置されていたのは十一面観音です。そこで、改装が行われたのではないかと私は考えています。

年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579  長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584 讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっと古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観音を宥雅に提供した
④ こうして法勲寺の十一面観音は、松尾寺観音堂の本尊として安置された
⑤ その後、天狗道を侵攻する修験者たちの拠点となった金光院は、松尾寺から金毘羅大権現に比重を移した
⑥ その結果、観音堂の本尊も十一面観音から、金毘羅大権現の本地仏とされる正観音に改装された。
最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
改訂版2025/12/06
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


西大寺

明治神仏分離の際に金毘羅を離れた「金毘羅大権現像」が、裸祭りで有名な岡山市の西大寺に安置されているといいます。どんな経緯で、象頭山から海を渡り、西大寺で祀られるようになったのでしょうか。そして祀られている「金毘羅大権現像」とは、どんなお姿なのでしょうか。
西大寺に今ある「金毘羅大権現像」を確認しておきましょう。 
1西大寺不動明王
       こんぴらさんから伝来した不動明王
牛玉所殿に安置される仏像三部の内の中央と左の二躰が「金毘羅大権現」として祀られているようです。中央が像高217㎝の不動明王像、左が邪鬼から兜までの総高が117㎝の毘沙門天像です。不動明王の方が一回り大きいようですが、おなじ形の厨子に納められていています。
西大寺の金毘羅大権現の毘沙門天
                   毘沙門天
 確認しておきたいのは、ふたつの仏像は「金毘羅大権現像」ではないということです。祀られているのは不動さまと毘沙門さまです。こんぴらさんに祀られていた「金毘羅大権現」像の姿については、幕末に金毘羅の当局者によって記された「象頭山志調中之能書」には次のように記されています。
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠、右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽・技芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子、技芸ハ制託伽童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神躰是也」
 
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

ここからは、内陣に御神体として祀られていた金毘羅大権現像は、優婆塞姿で山伏のような持ち物をもった姿だったことがわかります。まさに「頗ル役ノ行者ニ類セリ」とあるように、その姿は、役行者像そのものの修験道者姿だったのです。
 そうだとすれば、西大寺の2躰はこんぴらさんの内陣にあった金毘羅大権現像ではないということになります。さて、それではどこにあったお不動さんと毘沙門さんなのでしょうか?これを解く鍵を私は持っていませんので、先を急ぎます。
西大寺牛玉所殿1
       「金毘羅大権現」安置される牛玉所殿
毘沙門天像の厨子の内側には、次の墨書があります
  毘沙門天
 此尊像故有て更々 西京之仏司二命し 日ならず成工上 
 朝廷下は国家万民安全子孫繁昌のため敬て安置し畢于時 
 明治三年庚午孟春
 備陽岡山藩知事 源朝臣池田章政  謹誌
 この厨子は西京の仏司に命じ 日ならず完成したとあります。池田章政(1836~1903)は、明治元年三月に最後の岡山藩主となった殿様で、その年の六月岡山藩知事となり、明治四年廃藩置県により藩知事を免ぜられ東京に去ります。
 この厨子は明治3年に知事であった池田章政が、毘沙門天の保管のために作らせたもののようです。「此尊故有て」というのが、こんぴらさんからの「亡命仏」ということを暗示しているのでしょうか?
疑問を持ちながら前へ進みましょう。
西大寺2
吉井川河畔に面していた西大寺
不動明王の「亡命」のいきさつを追いかけてみましょう。
岡山県立博物館にある西大寺文書には、この金毘羅大権現像についての史料がいくつかあります。その一つが「金毘羅大権現由縁記」で、明治十五年三月五日に当寺の西大寺観音院住職 長田光阿が記したものです。長いのですが全文を紹介します。
 当山江奉安鎮 金毘羅大権現者、素卜讃岐国那賀郡金毘羅邑象頭山金光院二安置シ、其盛乎可知也、然ルニ年月ヲ経過シ、維新之際二至リ、当時之寺務者、何之故乎、仏像ヲ以テ神ナリト奏之、堂宇悉ク神道二変擬ス、依之彼仏像ヲ幽蔽シ、自来又祭ル者無シ、爰二明治三年有字法眼者、彼之尊像祭祠不如意ヲ歎キ、自ラニ鐙ノ尊像ヲ乞受而郷二帰リ、仮リニ同苗悦治ノ弟二置而、後光阿二祭祠センコトヲ請フ、然トモ時未至矣、

意訳変換しておくと
 当寺の金毘羅大権現はもともとは讃岐那珂郡の金毘羅(金光院)に祀られていたものであり、世間によく知られたものである。ところが明治維新の神仏分離によって、金毘羅は堂宇ことごとく神社に変わり、これらの仏像も神殿の奥深くに幽閉されてしまい、誰もこれを祭祀する者がいない状態になってしまった。これを憂えた有字法眼(宥明)は明治3年、二躰の仏像を譲り受けて自らの故郷である備前上道郡君津村(現、岡山市東区君津)の親戚角南悦治宅にこれを移し、光阿にその祭祀を依頼したが、時いまだ熟せず、実現はしなかった。
西大寺会陽 絵巻
                 裸祭りと西大寺
 宥明は金毘羅大権現の神仏分離の際にどんな行動を起こしたか?
この文章だけでは、象頭山で起きていた神仏分離、廃仏毀釈の嵐の様子が伝わって来ません。そこで明治末期の新聞記事からこんぴらさんのお山に吹き荒れた廃仏の大嵐を年表で見てみましょう。 
明治2年  金毘羅大権現本社、神道に転換 諸堂、御守所等残らず改革。
金堂を旭社などと改称し、仏像仏具を運び込み保管所へ
明治3年  万福院宥明、福田万蔵と改名、金刀比羅宮の幹部となる。
  旧多宝塔の建物除去。
         宥明が二躰の仏像を岡山の実家角南悦治宅に移す。
       県知事池田章政が、毘沙門天の保管のために厨子を作らせる
明治4年   廃藩置県で池田章政免官し、東京へ去る。
明治5年   神仏分離に反対する普門院宥曉、松尾寺に移動。
  仏像、雑物什器等売却。
  諸堂内の仏像を焼却
  象頭山を琴平山と改名
明治7年  7月12日 宥明(福田万蔵)が琴平の阿波町の自宅で死去。
明治13年  西大寺に牛玉所殿が造営
明治15年  両仏像が西大寺へ勧請

明治元年に、神仏分離令が出ると金光院宥常は復飾改名し、僧侶から宮司に転じて神社への「変身」を推し進めます。そのために僧職者を還俗させ、わずかばかりの一時金で山から下ろします。これに対して、脇寺の
普門院住職宥暁は、強硬に反対し、寺院維持を主張します。そこで、宥常は宥暁に対して、金毘羅大権現の堂塔や仏像などを山外に移し、(新)松尾寺を継承することを許します。こうして山内の仏像仏具経巻は、松尾寺の宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に集められ保管管理されます。しかし、宥暁は、あらたに松尾寺で金毘羅大権現を復活させ仏式で祀ることを計画したため、宥常は約束を反故にし、一切の仏像などを渡さず焼却することにします。こうして、明治5年に、旧金堂に集められていた仏像・仏具などは「浦の谷」に運んで全てが焼却さたのです。

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     現在に伝わった観音堂本尊の聖観音(宝物館蔵)  
 ちなみに、この際に焼却を免れ現在でも宝物館に残る仏像は2躰のみです。一躰が観音堂の正観音像、もう一躰が本堂の不動明王です。それ以外に今に伝わるのは、西大寺の不動さまと毘沙門さまということになります。

 宥明は、神仏分離によって還俗して、福田万蔵と改名して、明治3年には金刀比羅宮の幹部職員に「就職」していたことが史料から分かります。「明治3年、二躰の仏像を譲り受けて」とありますが、当寺の情勢の中で仏像を金刀比羅宮当局が宥明に譲り渡すということは考えられません。旧金堂(旭社)に集められた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したというのが真相ではないでしょうか。
 ふたつの仏像
の大きさは、先ほど確認したとおり、不動さんは2メートルを超えます。一人で運ぶ事は困難です。協力者が必用です。丸亀街道か多度津街道を人力車に乗せて夜に運び、舟で岡山に着いたのでしょうか。大変な苦労をして実家の角南助五郎宅に持ち込んだのでしょう。
 彼宥明者、備前上道郡内七番君津村之産而、角南助五郎二男ナリ、幼而師於金光院権大僧正宥天而随学、象頭山内神護院二住職シ、又転シテ万福院二住ス、後金刀比羅邑安波町福田氏ニテ上僊ス、時明治七年七月十二日也、宥明之為性 蓋シ可謂愛著仏像者矣、
而右仏像金毘羅大権現者世尊(釈迦)ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖(弘法大師)之所作ナリ、故ヲ以テ信仰之者日々ニ月々盛也、
意訳すると 
この宥明という僧侶は君津村角南助五郎の二男で、幼くして金毘羅別当金光院住職宥天大僧正に師事して学び、象頭山内の神護院住職、次いで万福院住職を歴任し、還俗後は福田姓を名乗り明治七年七月十二日に琴平の阿波町でこの世を去ったという。二躰の仏像の内、金毘羅大権現は釈迦が作ったもの、不動明王は宗祖弘法大師空海が作ったものと伝承され、角南家に祀られた両像は日を経るごとに多くの人の信仰を集めるようになった。

  ここには仏像を持ち出した宥明が金光院の脇坊であった万福院の住職であったこと、神仏分離で還俗した後に琴平で亡くなったことが記されています。さらに、彼が持ち出した仏像が2つであること、その内のひとつが金毘羅大権現で、もうひとつが不動明王と理解していたことが分かります。つまり、小さい方の毘沙門天を金毘羅大権現と考えていたようです。

なお、西大寺のHPには
万福院の住職宥明師が、明治7年(1874年)7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。
とありますが、この日付は宥明の死亡日時です。持ち替えたのは明治3年です。それは、毘沙門天の厨子の墨書の日付が明治3年となっていることからも分かります。
 而当国前知事 池田章政公者、厚ク信心之命于市街下、出石村円務院住職大忠令祭之、以テ天下安静ヲ祈ル矣、時政府廃藩之令出テ諸知事ヲ廃ス、依而知事東京二趣ク、而大忠故有テ大念二譲ル、而尊像祭祠不意、是れ以テ本院光阿迎而祭祠セントス、其臣杉山直及岡野篤等二之ヲ謀ル、而二人公(池田章政)二告ルニ 彼ノ寺之衰ヲ以テス、公又之ヲ許諾ス、乃チ命於本院遷移、既而光阿撰日、迎祭祠焉、当此時寺務者謂出還尊像、則以彼之寺益衰、依之防禦之資金若干ヲ以テス、此事件之成ルヤ、偏二杉山氏之尽力、其功居多卜云、
    金毘羅大権現由縁ヲ略記云
                   本院  光阿
      明治十五年三月五日奉迎 
 意訳すると
当時備前の藩知事であった池田章政は大変信仰心の厚い人で、岡山城下出石村(現、岡山市北区出石町)の池田家祈祷所円務院の住職大忠にこれを祀らせて、市街の人々にこれを信仰するよう命じ、以て天下安静を祈らしめた。
 けれども明治新政府が廃藩の命令を出し知事が廃されることとなったため、池田章政は東京に移ることとなった。円務院の住職は故あって大忠から大念に譲られていたが、仏像は満足に祭祀されていなかった。これを見た西大寺の光阿は、両仏を迎えて祭祀せんと決意し、池田家の家臣杉山直・岡野篤らに協力を要請した。
 両名が東京に去った池田章政に諮ったところ、円務院は寺自体衰微しつつあり、仏像のためにも移した方がよかろうとこれを許し、その結果、両像は西大寺に遷座することになった。光阿は良き日を選びこれを迎えて祭祀しようと思っていたが、円務院の方では両像を奪われては益々寺が衰微するとこれに納得しなかった。そこで若干ではあるが円務院にお金を渡し、ようやく遷座が実現する運びとなった。これも偏に杉山氏の多大なる尽力があったればこそ、
と光阿は締め括っています。
  ここでは藩知事であった池田章政がこんぴらさんからもたらされた両仏を引き取り、池田家祈祷所円務院の住職大忠に祀らせたことが分かります。最初に見た毘沙門天像を納めた厨子の池田章政の墨書は、角南悦治宅から両像を引き取り円務院に移した時に、京都の仏師に命じて両像を修理させるとともに、それぞれに合う厨子を新調させたことを記したものと研究者は考えているようです。
 どちらも明治3年のことなので、角田家に安置されていたのはわずかな期間であったようです。ところが翌年の明治4年に廃藩置県で、池田章政は東京へ去ります。池田家の保護を失い檀家もなかった円務院の経営は困難になったようです。そこで明治15年になって、西大寺の住職光阿は、池田家の了承を取り付けて、この仏像を西大寺に向かえます。
松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現
ふたつの仏像を円務院から西大寺に移す事については、明治十五年四月十七日付の桑原越太郎が岡野篤に宛てた次の書簡もあります。
 先年円務院江 池田家ヨリ安置被致候不動尊・毘沙門天二部之義ハ、当時杉山直祭典之者二付、其縁故ヲ以テ、右二躰、今般西大寺へ遷座致度段、両寺熟議之上、陳述方同人江及依願候二付、其旨東京本邸へ申出候処、頼意二被為任候由、尤此件二付テハ、素々御関係之義モ不砂候間、承諾被致候義、貴殿占両寺へ御伝達相成度候、及御伝候様、直ヨリ依願書差送間、此段及御通知候也
     十五年四月十七日 桑原越太郎刑
      岡野 篤殿
伸、本章之後、両寺へ御伝達之上ハ、将来不都合無之様、御注意有之度段モ、併テ申被遣候様トノ依頼二御座候也                     
 差出人の桑原越太郎は、当時内山下(現、岡山市北区内山下)にあった池田家事務所につとめていた人物のようです。杉山直から提出された円務院の不動尊・毘沙門天の二躰を西大寺に遷座させたいとの願いについて、東京の池田家本邸に伺いをたてたところ、希望どおりにせよとの回答が得られた、と伝えています。追伸として、将来にわたって両寺の間で問題が生じないように配慮せよ、と最後に記されています。
   東京の池田家より仏像のを西大寺に移す承諾があると、岡野篤は杉山直にその決定を伝えたのでしょう。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現

同年六月付で杉山直は西大寺の光阿に対し、次のように知らせています。
 備前国御野郡上出石村円務院二鎮座相成居候 旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候毘沙門・不動ノニ躯、今般同院協議之上、其院へ譲受遷坐相成候旨、池田従三位殿へ申達候処、被聞置候トノ事二候、此段及御伝達候也
  明治十五年
   六月  杉山 直
  備前国上道郡西大寺村
  観音院住職
   長田光阿殿
ここには「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候 毘沙門・不動ノニ躯」と記されています。 こうして両仏像が西大寺に安置された翌々年に、光阿はこれをを金毘羅大権現として、開帳して良いかどうかを次のような文書で確認しています。
        奉伺
一、金毘羅大権現祭祀為 荘厳之提燈並幕・祭器等、御紋付相用度奉存候、不苦候哉、此段奉伺候、宜上申可被下候也
       西大寺観音院住職
   明治十七年    長田光阿俳
    桑原越太郎殿
  乙心伊書面之趣、承届候事
   十七年七月廿八日 桑原越太郎俳」
ここでは金毘羅大権現(両仏像)をお祭りするための提灯や幕に池田家の紋章を使っても良いかという聞き方です。これに対して、「内山下 池田家事務所」から円務院で使っていた麻幕・紫絹幕を同院から返上させたので使用するようにとの回答を得ています。これは、西大寺がふたつの仏像を金毘羅大権現として広めていくお墨付きを池田家からもらったことを意味します。こうして、「毘沙門・不動ノニ躯」は、「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ」て広められていきます。
 以上から西大寺の不動明王・毘沙門天は、明治3年に藩知事池田章政によって同家祈祷所たる円務院に安置されたものが、明治15年になって西大寺に遷座されたという経緯が確認されます。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
不動明王・毘沙門天は、こんぴらさんのどこに祀られていたの?
 ところで「略縁記」の中で光阿は
  「右仏像金毘羅大権現者 世尊ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖之所作ナリ」
と記していました。ここからは、二躰の内一躰が金毘羅大権現で、残りの一躰が不動明王ということになることを指摘しておきました。
 金毘羅大権現の本地仏については
「本地は不動明王也とぞ」(『一時随筆』)
「本地不動明王之応化」(『翁躯夜話』)
「権現御本地「不動明王也」(「象頭山志調中之鹿書」)
などとされていますから、二躰の内の不動明王が金毘羅大権現の本地仏であったことは確かなようです。しかし、もうひとつの毘沙門天像をもって金毘羅大権現像とする見解には、研究者は次のような疑問の声を投げかかけます。
「役行者の如き像容をした江戸時代の金毘羅大権現像とは、全く姿を異にする」
と。
金毘羅大権現2

 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』に、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録です。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ
ここには、金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。その姿は尊躰「法衣長頭襟ニテロヲ持シ玉リ」と表現されるように、役行者の如き像容をしています。そして、最後のに金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたと記されます。研究者は
「明治維新後金毘羅を離れ、現在西大寺鎮守堂に安置される不動明王・毘沙門天の両像はまさしくこの二躰にほかならないのであろう」
といいます。 つまり、西大寺の両像は金毘羅大権現像の脇仏であったようです。
それでは、金毘羅大権現像はどこへいったのでしょうか?
金毘羅大権現像については、役行者説と近世初頭の金光院住僧金剛坊説のふたつがあるようです。『古老伝旧記』は金光院住僧の金剛坊(宥盛)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂あると記されています。ここからは、江戸時代に金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当金剛坊宥盛であった研究者は考えるているようです。ちなみに金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その木像もひょっとしたら奥社に密かに祀られているのではと私は考えています。
 ここまでで分かったことは、江戸時代には観音堂裏堂には本尊として金毘羅大権現(宥盛)、脇仏として、不動明王と毘沙門天が安置されていたこと、そして脇侍が西大寺に「亡命」してきたようです。そして、本尊の金毘羅大権現は行方不明ということでしょうか。
 
西大寺牛玉所殿
             明治13年に造営された牛玉所殿
金毘羅大権現を祀った西大寺の戦略は?
西大寺の呼び物は「裸祭り」ですが、この裸祭りは正式には「会陽」というそうです。これは正月元旦から十四日間にわたって執行される修正会の結願の行事で、修正会で祈封した牛玉を参詣者に投授するというものです。陰陽二本の神木を、群がる信徒たちが裸体で激しく奪い合うという裸祭りは、研究者に言わせれば「牛玉信仰が特異な行事に発展したもの」のようです。

西大寺8
その西大寺における牛玉信仰の中核が、牛玉所大権現です。
こちらの権現さまは、金毘羅大権現(実際は不動明王・毘沙門天の二部)がやってくるまでは、単独で鎮守堂に祀られていました。今は金毘羅大権現とされるふたつの仏像と並んで祀られています。
7西大寺牛玉所殿
 金毘羅大権現を西大寺が勧進した狙いは何だったのでしょうか?
江戸時代後半以来、喩伽大権現(岡山県倉敷市の楡伽山蓮台寺)は「金毘羅さんと喩迦さんの両参り」を宣伝し、参拝客を集めていました。西大寺はそれに、牛玉所大権現を加えた「三所詣り」を喧伝していたようです。
5西大寺牛玉所殿

それを証明するかのように、竜宮城の姿をした石門を潜って出た吉井川の旧河畔には、次のように+刻まれた常夜燈が建っています。
 (竿正面) 金毘羅大権現
 (竿右面) 喩伽大権現
 (竿左面) 牛玉所大権現
 (竿裏面) 嘉永七年歳在庚戌六月新建焉
 (基礎正面)玉垣講連中
 ここからはこんぴらさんからやってきた金毘羅大権現を勧進することで、『三所詣り』の縁をより強くし、参拝客にアピールしたいという願いが読み取れます
8西大寺牛玉所殿

参考文献 北川 央 岡山市・西大寺鎮守堂安置金毘羅大権現像の履歴         近世金毘羅信仰の展開所収
 

    

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