瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:霊山・修験道・廻国行者・高野聖 > 熊野信仰と熊野行者

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

髙松平野とその丘陵部の東西の植田町には、熊野神社が数多く分布すること、その背景として、中世に屋島寺や大内郡の水主神社の熊野行者の活発な活動があったことを以前にお話ししました。熊野行者の痕跡は、香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」として報告されています。この中には、熊野信仰の道と「平家落人の道」・「義経がきた道」が重なりあっていることが指摘されています。今回は、これを見ていくことにします。
 髙松平野から塩江に至るルートには、次のような熊野信仰の痕跡が残されていることを以前にお話ししました。
①松縄町の熊野神社(熊野大社別当・熊野湛増の子孫の建立)
②元山町の熊野神社(元山権現) 大熊氏(熊野湛増の子孫)の建立
③十川西町佐古の熊野神社(吉田神社と同居)
④ヒジリ(聖)の墓  熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡
⑤トンボ越 修験者の聖地
⑥城池 植田美濃神の戸田城 山伏池と祠
⑦戸田城の守護神宝(熊野)権現           
⑧菅沢町の熊野三所権現
⑨塩江の熊野権現
「松縄 → 植田 → 菅沢→ 塩江」までは熊野行者の活動拠点が点々と続きます。これに県史14巻に載せられている平家落人伝説を重ねていきます。
まず②の「かまとこ寺蔵」からみていくことにします。 
 春日川の上流、神村(こうのむら)には、かまとこ地蔵が祀られてある。
平家の落人がここまで逃げてくると馬の足音がする。 追手が来た、とまだ火を入れていない炭焼窯にかくれたところ、源氏の兵たちはその炭焼窯を土でふたをしてしてしまった。それから後、さまざまの怪異が起きたので、源氏でもない平家でもない地元の人たちは炭焼窯の床に地蔵を祀った。窯の床に祀られた地蔵のそばに、桜の古木が植えられてある。
炭焼き窯に隠れた兵への落人を供養して地元の人たちが、その窯の床に寺蔵を祀ったというお話しです。続いて大石には「平家ばあさんの木」の話が伝わります。ここには姫君と乳母の塚があり、木を切るとたたりがあるとされます。桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿、こんなことわざとともに、平家ばあさんの木を切ることを諫めています。
黒岩神社 植田町
黒岩神社 髙松市西植田町
黒岩では平家の宝刀が埋められていると伝えられます。祈願を黒岩神社にこめたところ、病が治ったのでお礼に剣を埋めたと云います。
落人ではありませんが祇王(ぎおう)祇女が隠れ住んだという下谷も近くにあります。 妓王は「平家物語」に登場する白拍子のことで、ふたりとも 平清盛に寵愛されますが、仏御前に寵愛が移ると冷遇され、屈辱から自害を決するが母に止められ出家します。そして二人を追って仏御前もやってきたというのです。そして、それが次のような地名になっていきます。
①仏を背負って越えた峠が仏坂
②祇王たちが住んだ近くの山は祇王山
③これら迷いの多い女たちが煩悩を解脱したのが生枯(はえがらし)
④「もえ出るも枯れるも同じ野辺の草いずれか秋にあわれはつべき」と彼岸に達したところの地名が生枯
こんなストーリーを語るのは、行者や聖が得意とするところでした。全国を廻国して仕入れた情報や話題が「還元」されていきます。
 平家の女人伝説はさらに、綾上町前山に続きます。この周辺には姫塚伝説が各所に残ります。
都が見えるところ、すなわち海が見える高地へ葬られた塚とされます。さらに琴南町雨島にも姫塚があります。姫塚は、どこも屋島から逃れてきた足弱な姫君がみまかったところとされます。今は、山桜の古木が枝を広げています。景色の良い山の上に石組みの塚が造られていたことがうかがえます。それが姫塚として、平家落人伝説に結びつけられていきます。
 しかし、民俗学者は「姫塚」の別の用途を次のように述べます。

卯月八日の「山遊び」は山の神を迎えるため
山の神を迎えに、人々は春の山に登って、積善のために石を積んだ。

「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔(塚)」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や国見を兼ねて見晴らしの良い山に登ります。そこで積善のために石が積まれたのです。以前にお話ししたように、中寺廃寺のCゾーン(祈り)の石組みも、春の「山遊び」の際に積まれた石組み(塚)と研究者は考えています。讃岐の景色のいい山の頂上近くや川原にも、このような塚が積まれたことがうかがえます。それが後世になって用途が分からなくと、修験者が落人伝説と結びつけて「姫塚」と呼ぶようになったと私は考えています。
中寺廃寺Cゾーン 石組み
中寺廃寺Cゾーンの石組み(まんのう町) これが姫塚とされた?

 屋島から矢が飛んできたという岩、平家の落人と地元の兵たちが戦った弓取橋など、名もない塚などはすべて落人の塚として今に伝わっています。

大滝山 龍王山から大川 讃岐国図2
                  江戸時代初期の讃岐国絵図 
山田郡の下司 → 塩江 → 貝の脵川 → 堂床 → 雨島 → 横畑というルートが見えてくる
   美合村(まんのう町)横畑集落の宮本家に伝わる平家落人伝説について、香川県史14巻民俗編540Pは、次のように記します。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は海上へ逃がれることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、①高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀ったと言う②かまとこ地蔵、③平家乳母の塚、落人ゆかりの伝説がいくつか語り残されている。春日川上流の峰を越えると香川郡香川町、さらに山道は綾歌郡綾上町仲多度郡琴南町へと一直線上にけもの道が隠されている。 
ここからは横畑への落人の道は、次の2つのルートがあったようです。
A 塩江町から貝股川沿いに、浅木原を越えて、横畑へ入りこんだルート
B 綾上町柏原から西谷川沿いに郡境を越えて、まんのう町の雨鳥の郡境尾根から浅木原→横畑というルート
大滝山 龍王山から大川 讃岐国図

そしてこれらのルート途中には、次のような落人伝説があるようです。
雨島に平家落人の塚
前の川に四方塚
長谷に、体の弱った兵たちがはぜの木にまけたという地名由来
雨島峠4
           綾川方面からの美合への入口となった雨島峠

こうしてみると、どちらのルートにも落人伝説が散在しています。これは、熊野行者や高野聖などの修験者が、このエリアを行場や霞として通ってきていたからだではないでしょうか。それが横畑の宮本家に残る平家落人伝説につながることは以前にお話ししました。

雨島峠の寺蔵
雨島峠に建つ「二界万霊」地蔵
 香川県史14巻468Pには、通説のルートとは違うもうひとつの「義経が来た道」紹介されています。それは吉野川をさかのぼり、まんのう町勝浦を越えて来たというルートです。それを最後に見ておきましょう。
 勝浦(かつうら)とは縁起のよい地名だと勇みたった義経軍は、通る道が二つ分かれた、右するか左するか、ええい、真ん中を通るべしと野原の中央を通る。中通(なかと)と現在呼ばれる地点である。流れの激しい渕では馬を休める、渕の石には義経の馬のあとが岩にきざまれる。駒が淵を通り、物見の兵が山へあがる。雨島の遠見山である。平家姫君の塚がある山である。日が暮れて道がよくわからないので、松明に火を点じたところ、牛の尾に火がついて山の木立が燃えはじめた。このあかりで峠を越える。これが焼尾峠、琴南町から綾上町へ抜ける峠道である。
 
 山が燃えたので雨が降り出した。しぼり谷でぬれた衣をしぼったものの兵たちに生気がない。そこで義経は牛の子堂に祈願をこめる。「勝利に導きたまえ。我にお力添えをいただけるのなら、あかしを見せ給えと。そのとき山上から赤い子牛が下りてきて、先へ先へと歩いてゆく。木が茂り曲がりくねったところも牛に続いて歩けば道は開ける。曲木(もじき)・開(ひらき)と呼ばれるところ。萩戸から菖蒲を通り、四歩市、九十谷へ来たとは、いつの間にか牛が九〇匹となり、千疋へ来たときは牛が千匹にもなっていた。矢坪で矢の用意をし、牛の角松明をつけて屋島へと向かった。義経弁慶石のあるあたりは柴折り神さんとなり、柴を折って手向ける。
 東谷には、義経の馬の病気を治したという神職の話も残されている。
これらの話も、大川神社の別当を務めていた山伏たちが祭りや庚申講の時に夜を徹して話したことが伝わったものでないかと私は考えています。「平家落人伝説の影には、山伏あり!」です。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 
香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」
関連記事

前回は、水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張について次のように整理しました。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

 髙松市松縄町の熊野神社が、髙松平野における水主神社の熊野行者たちの記念碑的なモニュメントになったことを前回は見ました。この神社の出現を契機に、熊野権現(神社)が周辺に姿を現すことになります。それを今回は追ってみたいと思います。テキストは「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450Pです。まず、松縄神社の東にある元山の熊野神社を見ていくことにします。

髙松市元山の熊野神社
髙松市元山町の熊野神社
元山町の元山(熊野)神社について、香川県史14巻463Pには、次のように記します。 
ここは①熊野のお札を配っていたころの拠点だった伝えられる。この社の近くに②大熊氏の城があった。大熊氏も(熊野別当の)湛増の子孫であることはすでに述べたとおりである。
 この大熊備後守清助、どうしたことか男子に恵まれなかった。嗣子がないとは残念なりと、紀州熊野に祈願をこめた。「何卒、男子を授け給え」と祈念した。その霊験あらたかに男子を授かった③清助は、神恩報謝のためと熊野の分霊をお受けし、元山郷の氏神として奉祀した。境内には百間馬場があったと言う。また、近くには二王田というところがあるが、かっての仁王門の跡だと言い、熊野神社の西のあたりには社僧も住んでいた。
 備後守清助の一子が善兵衛。これが熊野権現の申し子で、体躯偉大にして武芸に秀でたと「木田郡誌」にある。とにかく、尋常な人ではなかったと伝えられている。大熊亀田池戸を領した大熊氏は、十河氏の麾下として鳴らした。琴電長尾線の元山駅あたりにかっての大熊はあったと言う。熊野のお札を配っていたとか、そのお陰をいただいたという小社は意外に多い。神仏分離のとき、名称は変更されながら「権現堂」などの地名は今に残されている。元山権現からさらに東植田よりに権現堂というバス停がある。新道がついてむかしの権現堂からは離れているものの、地名はそのままである。
ここに書いてあることを整理すると次のようになります。
①元山の熊野神社は、熊野札の配布所であった。
②湛増の子孫と称する大熊氏が勧進建立し、元山郷の郷社となった。
③大熊氏は、大熊・亀田・池戸を領地として、十河氏の配下にあった武将である。
ここでは元山の熊野神社が大熊氏の氏寺として建立されたこと、熊野札の配布所になっていたことを押さえておきます。
次に、十川西町佐古にある吉田神社と同居している熊野神社を見ていくことにします。

髙松市 吉田神社(合祀熊野神社)
髙松市十川西町佐古にある吉田神社(合祀:熊野神社)
 農作物の虫封じの神である吉田神社の社殿が大きく、熊野大権現のお堂は小さくなってしまった。地元の人たちは、「片間貸して本間とられた権現さん」と言っている。後からやってきた吉田さんに片間を貸したところ、だんだん大きくなり、今では吉田神社の方を信仰する人が多くなったのである。鳥居や玉などはかっての大庄屋が寄進している。
 旧街道沿いの権現堂は、道路拡張によりだんだん敷地が狭くなってしまった。なお、近くには東林山光清寺があり、四つ辻には疣(いぼ)を取ってくれるという薬師堂がある。薬師堂のわき水をくんで岩を洗い、疣を洗うと落ちると言い、むかしから多くの人が参詣した。これらは比較的人々の往来が盛んな街道に位置するが、香地池を越え東植田町に入りこむと人通りはまばらになる。わずかに阿波越えをした旅人たちが通ったであろう山道が細々と続いている。(香川県史14巻464P)
この南には十河氏が拠点とした十河城跡があり、そのテリトリー内になります。十河氏は阿波三好氏の一存が養子として入り、東讃へ支配浸透の拠点となった所です。戦国時代末期には、軍事的な緊張関係のまっただ中にありました。

熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡が残っています。それを県史14巻465Pは次のように記します。

 その十字路のほとりにヒジリ(聖)ゴという塚があった。ヒジリの墓というだけで一人の墓なのか、幾人もの人を葬ったものかさだかではない。ここも道路改修のため塚は別の地点へ移転した。石を三つばかり重ねたと、手洗石めいたものが仙尾の墓場に移されている。ヒジリゴのそばには、妙見屋敷というたんぼが残されているが、この地へ妙見さんを祀るはずであったという。だから、この地を不浄にすると障りがあると、聖なる地として取り扱っている。

ここには聖(修験者・高野聖)たちの墓(塚)があったと伝えられています。また妙見屋敷と呼ばれる田んぼからは妙見信仰を持った修験者が住む坊やお堂があったことがうかがえます。さらに次のように記します。

髙松市公渕池 とんぼ坂
 この聖郷の前を行くととんぼ越えとなる。この坂道は多くの①験者(ゲンジャ)が通った道でもあった。②ゲンジャというのは少々風体の違った山伏も拝み屋も、山で修業する人たちも言い表わしたようである。カマド祓いや牛屋はらいなどの風体の異なる人も含まれていた。③石鎚参りの集団も多く通行した道で、④お山(修行)をして帰る行者があると、子供たちはその前へ横たわってまたいでもらった。夏痛みせず元気になるというので、子供たちはこぞって三尺道へ横になっていた。このように験者が越える道には、目のぎょろりとした恐ろしいトンボがいたとも言う。眼光光々とした験者を指したものか、恐ろしい山伏くずれの者が通行人を脅かしていたものか。里人たちにとっては恐怖の道であった。平家の残党が人々を襲っていたのを奥美濃の旧家の力持ちが退治したという話もある。とんぼ越えの恐ろしいものを退治した刀を蜻蛉切りの名刀とした。とんぼ越えは現在も町境となっている。
公渕池と三つ子池に挟まれたトンボ坂あたりには、いろいろな修験者が通っていたようです。④のお山で修行して験(げん=パワーポイント)を高めた修験者は、いろいろな効能をもっています。そのために、子ども達は、道に並んで寝て跨いで貰っていたようです。それが「夏痛み」への効能と信じられていました。
定住した修験者(里山伏)の活動は?

公渕池から双子山、出貝丘と山道をさらに進むとある城(じょう)池については、次のように記します。
植田氏の戸田城跡
         
植田氏の戸田城 守護神は熊野三所権現を勧進したもの

城池には、かって植田美濃守がよった戸田城があった。岡の城とも呼ばれている。城の内堀のような形で残されたのが①山伏池である。そのほとりに②山伏の塚がひっそりと祀られ、植田美濃守の子孫たち数名が現在もお祀りしている。③山伏の御神体を近くで拝んでみると、まるで生首のように目があり鼻がある。鼻が張ったふしぎな石の御神体である。(県史14巻466P)

 岡の城跡の後方には、④戸田城の守護神宝権現が祀られてある。戦勝を祈願した社で、祭神は伊弉諾命、速玉男命、事解男命、菅沢町の熊野三所権現の分霊を受けたものである。正式名称は宝神社であるが、地元では昔のままに権現さんと呼んでいる。祭りの日のも宝大権現と染めぬかれてある。秋の大祭は特別な行事はないが、毎年の大晦日にお火焚き祭りが行われている。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①植田氏の戸田城(岡の城)は、残った堀が山伏池と呼ばれていること。
②その池の畔に山伏の塚があり、植田氏の子孫がまつられていること。
③同時に山伏が御神体としてまつられていること。
ここからは植田氏の一族の中にも、入道と呼ばれ熊野信者や天狗信者として活躍していた人物がいたことがうかがえます。
④戸田城の宝権現(神社)は、菅沢町の熊野三所権現の分霊で、もともとは植田氏が勧進した熊野権現であったこと
この地域の中世武士団が熊野信者となって、居館や城の近くに熊野神社を勧進していたことが見えて来ます。同時に、熊野行者などの修験者の痕跡が濃厚にうかがえます。

村に現れた聖たち

④の菅沢の熊野神社について香川県史14巻470Pには次のように記します。

菅沢の熊野神社1
菅沢氏の勧進した熊野神社(髙松市菅沢町)
東植田と菅沢は、高松市に合併するまでは同じ町に属していた。菅沢町の産土神として宮谷に熊野神社が祀られてある。熊野神社は、菅沢甚兵衛という人が600年も昔に紀州熊野からお迎えして祀りはじめたものと言う。その時に一緒に持って帰った赤樫の木が境内で大木に育っている。
 この菅沢氏の先祖は、十河存久の次男存常が別家して、菅沢へ住むようになったのが初めと言う。 二六代目の菅沢官兵衛義長は、仙石秀久の配下に属し、生駒家に仕えて360石を賜わる。さらに、二七代の菅沢甚兵衛義は、生駒家の弓師範として家禄をつぐ。寛永十五年には高俊公より100石を加増されたとある。この甚兵衛が、紀州から熊野神社の分霊を受けてきたことになる。
熊野神社の境内には耳塚がある。
菅沢の熊野神社 耳塚
耳塚
これは菅沢内膳義景が秀吉の下知により十河存保、仙石権兵衛ともども九州へ出陣し、戸次川の戦いであえなく討死してしまう。義景の体の一部をその子義長が持ち帰って葬ったものと言う。こうして名門十河家も亡んでしまう。松平頼重公入封に伴い、菅沢を熊野姓に改めて松平公に仕える。寛文八年のことと(菅沢熊野家記録)記されてある。
熊野の分霊をお受けして帰ったという由緒により、現在も菅沢熊野氏をカンヌシと呼んで秋の祭礼を行う。ミタマウツシのとき、チョウノザに座るのはカンヌシと呼ばれる熊野氏、そして神職、宮代と並んで神事を行う。祭神は、伊弉諾尊、速玉男命、事解男命で熊野権現と呼ぶ。社宝には菅沢義が生駒高俊公から拝領したとという馬具があった。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①菅沢は、十河氏の分家であること
②後に生駒家の弓師範になり、紀州から熊野神社の分霊を勧進したこと
③境内の耳塚は、先祖が十河氏に従って秀吉の九州征伐に遠征時に討ち死にしたものを持ち帰ったもの
④菅沢氏は、髙松松平氏に仕えるときに熊野姓にあらためたこと。

菅沢の熊野神社から、さらに南に向かうと塩江の不動の滝の入口にも熊野神社が鎮座します。

塩江の熊野権現社
この神社の由緒について香川県史14巻471Pには、次のように記します。

むかし、松平の殿さんが馬に乗ったまま熊野神社の前を通ると、馬が暴れ困ったと言う。この熊野神社の由来は、源頼光の子孫が祀り始めたものとも言う。頼光の子孫は、松原氏とも赤松氏とも伝えられている。不動の滝にある蔵王権現を祀りはじめたのは平宗盛なのだ、とも伝わっている。平家の落人だった平宗盛自身が祀られたところだとも言い、蔵王権現が好んだという桜の古木も共に残されている。蔵王権現は熊野神社となり、現在も丁寧な祭礼が行なわれている。熊野のひじりたちが行き交ったであろう古道には、屋島おさめた源氏の話、敗北を喫した平家の伝説が草の実のようにこぼれ落ちている。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①塩江の熊野神社の建立者は源頼光の子孫である松原氏や赤松氏とされる。
②熊野神社はもともとは蔵王権現であり、蔵王権現信仰から熊野信仰に取り替えられた気配がある。
こうしてみると、髙松平野から塩江にかけては熊野行者たちの活発な動きが見えて来ます。
前回とまとめて整理し、推察しておきます
①髙松平野への熊野信仰の浸透は、東讃の水主神社や屋島寺の熊野行者たちによって進められた。
②熊野行者たちは髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、彼らを熊野に誘引した。
③熊野参拝で熊野信仰を高めた武士たちは、熊野三社を氏神として勧進する者が現れた。
④植田町や塩江周辺部には、多くの熊野権現が武士・熊野行者たちによって勧進された。
⑤その周辺には、熊野行者や修験者・聖たちが住み着き、修行やお札配布・芸能活動も行った。
⑥修験者たちは武装化し、僧兵的な役割を担って居館や山城周辺に住み着いていたことも考えられる。
⑦このような修験者集団を配下に置いた水主神社や屋島寺は、宗教的にだけでなく、政治・軍事的にも大きな力を持つことになった。
以上です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450P
関連記事






髙松平野南部の神社分布図を見ていると、熊野神社が多いことに気がつきます。

髙松市十郷町の熊野神社
髙松平野南部の十河町周辺の熊野神社
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊邪那岐命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら髙松周辺の熊野系神社(『香川県神社誌』)を一覧表化したのが次の表です。

讃岐の熊野神社3
          高松市周辺の熊野神社一覧
ここからも植田町から塩江などに、熊野神社が数多く点在していることが分かります。
どうして、髙松平野の南部には熊野神社が多いのでしょうか?

髙松平野の武士団による熊野神社の勧進

上皇や公家たちの間での流行であった熊野信仰が、地方の地頭クラスの武士たちに拡がっていったのは12世紀初頭の承久の乱以後とされています。そして、讃岐で熊野詣でが活発に行われるようになるのは14世紀以後のことです。こうして熊野から勧進された熊野系神社が讃岐にも姿を見せるようになります。その勧進で大きな役割を果たすのは、次の2者です
A 増吽のような熊野行者たち
B 熊野詣でを行い信仰心を高めた武士団の棟梁たち
以上を予備知識として、髙松市東植田町周辺の熊野系神社は、建立に関してどのような由来を持っているのか、具体的にはどんな人によって建立されたと伝わるのかを見ていくことにします。テキストは「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450Pです。

熊野参拝システム

髙松市南部の熊野神社の教勢拡大の拠点とされるのが松縄の熊野神社のようです。

髙松市松縄の熊野神社2 
髙松市松縄の熊野神社
その説明版を見ておきましょう。
髙松市松縄の熊野神社 
 髙松市松縄の熊野神社説明版 
ここには次のように記されています。
「祭神:伊弉冊尊・事解男命・速玉男命元久・
承元年間(1204~1210)紀州の熊野清光が三木郡田中村から山田郡の十河村、それより松縄村に移住した。そこで、熊野神社の神霊を勧請して社殿を新宮・本宮・那智三社を三所に造営した。そのため三所権現と称した。大正六年(1917)に合祀して一社とした。文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。その後、元亀・天正の戦乱によって社殿もこわれたのを、元和元年(1615)生駒家三代正俊が社殿を再興し社領三石を与えた。この熊野神社のある丘の周辺が松縄城跡と推測され、代々宮脇氏が居城した。宮脇氏は紀伊熊野の海賊を率いて活躍した新宮別当湛増の子孫とも伝えられ鬼無の佐料城に居城する香西氏に属していた。戦国時代末期には、宮脇長門守又兵衛が、信長・秀吉に仕え、軍功をたてたという。高松市教育委員会。」
ここからは次のような情報が読み取れます。
①紀州の熊野清光(熊野別当湛増の子)が、移転を重ねながらここに熊野神社を造営したこと
②当初は新宮・本宮・那智三社あったので三所権現と呼ばれた
③香西氏に従っていた宮脇氏(熊野清光の子孫)が、衰退していたものを居城の松縄城周辺に再建した
建立者の熊野清光は、熊野別当の湛増(たんぞう)の子とされます。しかし、①②③からは、清光の子孫を名のる宮脇氏が、湛増・清光の創建伝説に自分たちの再建を「接木」したものに思えます。
 また、清光が松縄にやって来たとしても承久の乱以後で、それは13世紀初頭のこととされます。そうすると熊野神社の勧進もその前後になります。これは、熊野行者による全国展開よりも百年以上早いことになります。これも、この伝承をそのままは信じられない理由のひとつです。
ウキには湛増について次のように記します。
元暦2年(1185年)、源義経によって①平氏追討使に任命された熊野別当湛増は、200余艘の軍船に乗った②熊野水軍勢2000人を率いて平氏と戦い、③源氏方として屋島の壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した。これらの功績により、文治2年(1186年)、熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた。
ここからは湛増が「熊野信仰の責任者 + 熊野水軍指導者 + 源氏方に協力」した宗教者であり、水軍などの軍事指導者であったことが分かります。その子・清光が讃岐にやってきて勧進したのが松縄の熊野神社とされます。

武蔵坊弁慶と熊野別当湛増と闘鶏の像 - Picture of Tokei Shrine, Tanabe - Tripadvisor
弁慶の父ともされる湛増
 さらに伝説では、湛増は義経に仕えた弁慶の父とされていました。そうだとすると清光と弁慶は兄弟関係だったことになります。かつては「弁慶の兄弟清光が建立した松縄の熊野神社」として人々には伝えられていたのです。由来に登場させる人物としては申し分ありません。

熊野信仰の讃岐への浸透

湛増と松縄の熊野神社の関係を、香川県史14巻462Pには、聞き取り調査報告として次のように記します。

(湛増の子清光は)野原荘、太田荘などの領地を得て住みついた。そして、松縄に熊野三所大権現を勧請し、紀州熊野から本宮・那智・新宮の三社神をお迎えした。かつては宮西の二つの丘にそれぞれ別々にお祀りされ、祭りの日も新宮が八月十三日、本宮九月十五日、那智九月十七日であり、たかばたけの宮、いかきの宮と呼ばれていた。大正の初めに寄せ宮となり、現在の地に祀られるようになった。鳥居の神額は「熊埜三所「宮」となっている。御手洗の井戸水は現在も飲料水となっているとか。長い年月の間にさまざまの浮き沈みがあったが、この松縄に熊野神社を勧請したのは熊野清光なのである。松縄道と呼ばれる松並木の道は、改修によりかっての面影は半減したが、今なお昔の繁栄がしのばれる。
この地にしっかりと根をおろした①熊野湛増、清光の子孫は、宮脇、大熊両家へ引継がれてゆく。②湛増の子孫は、松縄城に住み、越中守長定、兵庫頭と続く。兵庫頭の娘は、勝賀城主香西伊賀守清の片腕と言われた植松備後守に嫁いだ。香西伊賀守は讃岐の中世の武将のなかで悲運をかった盲目の城主なのだが、この香西氏は先見の明があり、瀬戸内海という航路に早くから目をつけ、国内は言うに及ばず、遠く南方にまで貿易の手をのばしていたと伝えられる。
系譜の偽作方法は、史料や記憶で遡れるとことまで遡ったら、あとはかつて実在した名家の家譜に「接ぎ木」することであることは以前にお話ししました。ここでも①②の熊野別当の湛増や、その子清光に、宮脇家や大熊家の家譜が接ぎ木されていることがうかがえます。それを近世の戦記物が取り上げ、広まっていきます。
  松縄の熊野権現(神社)の創建は、先ほど見た説明版の「文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。」の「再建」を「創建」とした方が妥当だと私は考えています。つまり、15世紀後半に宮脇氏によって建立されたという説です。そうだとすると宮脇氏の熊野信仰の先達(熊野行者)はどこにいたのでしょうか? 周囲を見回してみると、眼に入るのは屋島寺です。

以前に
屋島寺に残る熊野権現の痕跡を次のようにまとめました。 
屋島寺に残る熊野信仰痕跡
特に応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達が「髙松の一族」を熊野詣でに先達したことが分かります。屋島寺は、京都の律宗西大寺の影響下にもありましたが、坊主の中には熊野信仰を持つものもいたはずです。ひょうとしたらここに出てくる「行政坊有慶」が、宮脇氏の一族の者を率いて熊野詣で行っていたかもしれません。ここでは松縄周辺の熊野神社は、屋島寺を拠点として活動する熊野行者たちによって建立されたものではないかという説を出しておきます。それは時期的には大内郡の与田寺で増吽が活躍していた頃です。
 屋島寺の髙松平野南部への影響力を示す伝承がありますので見ておきましょう。
香川県史14巻民俗編479Pは、次のように記します。
(東植田町の)杣尾は、屋島寺を建てる木材を供給したところなので、杣尾・寺峰の名がついた。もともと屋島寺はこの地へ建てる予定であった。堂池へは本堂を建て、寺峰へは鐘撞堂を建立するつもりでキズクリを始めた。高柿にあった大柿の木を切り倒して材としていた。昼も夜もとんかんとキズクリをする音がやかましいと言う人が、樵夫たちを追っぱらってしまった。すると、音がぴたりと止み、夜のうちに屋島寺建立の木材は消えうせてしまった。一夜のうちに、木を運んで行ったものがあるのだ。しかし、あまりにもあわてていたのか縁の板を一枚途中で落としてしまう。 だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。 なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。 鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。
だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。
なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。
鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。

ここには、杣尾は屋島寺への木材供給地だったとします。とすると杣尾周辺は、屋島寺の寺領か管理地で、木材の切り出しができた所ということになります。杣尾周辺に屋島寺の影響力が伸びてきていたことがうかがえます。それに対して、妨害・対立する勢力があったようです。そのため天狗が一晩で、切り倒した木材を屋島寺に運んでしまったというのです。これも屋島寺の飛鉢伝説と同じで、修験者たちの「創作話」によく出てくる話です。修験者たちの拠点であった屋島寺の当時の性格を表しているとも云えます。
さて、杣尾のすぐ南には松縄の熊野権現を勧進した清光を祀る祠があります。

髙松市植田町清光神社2

髙松市東植田町下司には、古代の下司(げし)廃寺塔跡があります。発掘調査はされていませんが、この塔跡は、比較的よく残しています。高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、次のように記します。
塔跡基壇は高さ約2メートル、大きな楠の樹間に祠(ほこら)が置かれ、礎石数個が露出し、古瓦破片が散乱している。境内地並びに堂宇の全容は不詳であるが、周辺の地名(東の丁・中の丁・西の丁など)があり、相当広い寺域にわたっていたことが推定され、この地が宗教的に開けていたことを物語っている。

髙松市東植田町 下司廃寺の白鳳時代の軒丸瓦

昭和38年道路工事の際に出土した軒丸瓦(復葉蓮華紋)には、蓮9個、八葉複弁蓮華紋で周囲に波紋があります。他に布目瓦も出土しているので奈良期白鳳時代の古い寺とわかります。古代から開けたエリアで、有力豪族がいたことがうかがえます。
 また下司という用語は、中世の荘園の荘官のことで、後には「役所のこと」として使用されました。この附近には、中の丁、東の丁、西の丁という地名が残っていて、条里制の条と考えられ、四方に水利を引いていたようで、その取水点に荘園の下司(役所)が置かれていたことが考えられます。古代寺院跡から中世荘園の荘官跡へのつながりがたどれます。下司廃寺の境内に含まれる中の街道沿いに清光神社という小祠があります。
髙松市東植田町下司 清光神社
熊野清光を祀る清光神社(髙松市東植田町下司)
これが松縄の熊野神社を勧進した清光を祀る祠です。

髙松市植田町清光神社3
清光神社の釈迦如来と薬師如来
祠には、石造りの釈迦如来と薬師如来が祀られてあり、椋の巨木の根の下には布目瓦が幾枚もくみ敷かれています。どうして、清光を祀ったかについては、次のような話が香川県史14巻462Pに載せられています。
 平野部を行く南海道に対して山間部を行く脇街道としてにぎわった下司から、とんぼを峰越え三木町三つ子池へののぼり坂となる。三つ子池を望む地点が村境である。池の中に小祠のある大岩があり、この大岩を清光が背負って来たという。

髙松市三つ子池の大岩
三つ子池の大岩 行場で聖地となっていた
ここでの話は、熊野権現のお告げにより三つ子山から清光が大岩をかかえ下ろしたと言う。これが光護石とも言われる。清光は最初は三木郡田中に住み、後に山田郡十河を経て、高松市松縄町に移り住んだ。彼は源平屋島合戦に功績のあっ熊野別当湛増の子孫であると伝えられている。
 もともとは、松縄の熊野権現の建立者として登場した熊野清光が、ここでは大岩を抱えて運んできた強力として伝えられています。これも庶民の語り継ぐ「村の歴史」かもしれません。それにしても、この周辺には熊野神社が多いことに改めて築かされます。その背景を次回は考えたいと思います。
以上を整理しておきます。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

①14世紀になると髙松平野にも熊野信仰が浸透してくるようになった
②それを伝えたのは、屋島寺や東讃の水主神社の熊野行者たちであった。
③彼らは周辺の行場で活動を行いながら髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、熊野に誘引した。
④武士団の中には熊野詣でに参加し、高まった熊野信仰を背景に、熊野三社を氏神として勧進するものも現れた。
⑤こうして15世紀なると、松縄などに武士たちによって勧進された熊野神社が姿をあらわすようになった。
⑥後世になると、その建立由来は熊野別当の湛増や清光の系譜に接ぎ木されるようになった。
⑦ここからは屋島寺や水主神社の髙松平野への勢力伸長と、それを受けいれた武士団の熊野信仰の受容や熊野権現建立が見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻462P
関連記事



現在のところ弘法大師が四国遍路に関わったことを記す最古の史料は、第51番札所・ 石手寺(松山市)の由緒を記した「通宣刻板」のようです。
これは厚さ1、6㎝の板で、戦国時代の「永禄10 (1567年)の年号が刻まれています。内容は
表面には、和銅 5 年(712)から文明13年(14811)までの安養寺(石手寺の旧名)の由緒と河野伊予守通宣の名前・花押
裏面には建物・文書・寺社領田・宝物の一覧
ここからは、この寺に、白山信仰・薬師信仰・真言密教・熊野信仰・弘法大師信仰・三島信仰など、さまざまな信仰が流れ込み、新たな要素が付け加えられきたことがうかがえます。

弘法大師と衛門三郎の像です - 神山町、杖杉庵の写真 - トリップアドバイザー
衛門三郎と弘法大師
この中に天長 8 年(831)のこととして、次のような浮穴郡江原郷の「衛門三郎」の話が載せられいます。
A
天長八辛亥載、浮穴郡江原郷右衛門三郎、求利欲而冨貴破悪逆而仏神故、八人男子頓死、自尓剃髪捨家順四国邊路、於阿州焼山寺麓及病死、一念言望伊豫国司、爰空海和尚一寸八分石切、八塚右衛門三郎銘封左手、経年月生国司息利男子、継家号息方件石令置当寺本堂畢

意訳変換しておくと
A
831(天長8) 年、江原郷に住む衛門三郎という富豪が、私腹を肥やして神仏も信じなかった。そのためか8人の男子が次々と死んだ。そこで心を入れ替えて剃髪し、四国遍路に出た。衛門三郎は阿波焼山寺(徳島県神山町)のふもとで病死する前、伊予国司になることを望み、現れた弘法大師は「八塚右衛門三郎」と書いた石を左手に握らせた。月を経て国司の河野家でこの石を握った男子が誕生した。この石は今は、安養寺(石手寺)の本堂奉納されている。

澄禅の『四国辺路日記』(承応2年(1653)にも、衛門三郎のことが次のように記されています。

B
河野氏の下人である衛門三郎は悪人で、八坂の宮(八坂寺)を訪れた①弘法大師の鉢を八つに割ってしまう。その後、衛門三郎の子八人が次々に亡くなり、それが②大師への悪事の報いであることをさとった衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に出る。衛門三郎は死ぬ間際に阿波国焼山寺の麓でようやく大師に出会い、河野の家に生まれ変わることを願う。大師は衛門三郎の左手に、③南無大師遍照金剛衛門三郎と書いた石を握らせる。三年後河野の家にその石を握った子が生まれ、衛門三郎の生まれ変わりであることがわかる。

A・Bを比べて見ると次のような違いがあることがことが分かります。
①Aには、衛門三郎が四国遍路に出るまでの部分に弘法大師は出てこないこと。
つまり、衛門三郎が大師の鉢を割ったことや大師を慕って四国遍路に出たことは書かれていません。書かれているのは、子が死んだのは、衛門三郎が貪欲で仏神に背いたためとされています。
②後半部に出てくる衛門三郎が握った一寸八分の石の銘も、Bは「南無大師遍照金剛衛門三郎」と記されていたとしますが、Aには「衛門三郎」としかありません。こうしてみるとBは、衛門三郎と大師の関係で話が進みます。それに対して、Aでは大師は死ぬ間際の衛門三郎に石を渡す役割だけです。

八坂寺 衛門三郎A
八坂寺版の「弘法大師と衛門三郎」
 このように衛門三郎伝説にはAとBの二つが伝わっています。
「記述量の少ない史料の方が古い。後世に付け加えられて伝説は長くなる。」というセオリーからするとAが原形で、Bが後世の付加物版と推測できます。研究者は、Aの「石手寺刻版」が「本来の衛門三郎伝説」であったと判断します。そして「本来の衛門三郎伝説は、現在伝えられるよりもはるかにシンプルなものであった」と指摘します。そうだとすると、衛門三郎は、弘法大師の鉢を割ってもいないし、弘法大師に会うために四国遍路に出たのでもないことになります。伝説の中の弘法大師は、もともとは影が薄いものだったのです。ここでは本来の衛門三郎伝説(A)が、弘法大師信仰の「肥大化」により四国遍路縁起にみられる(B)に付加変容していくこと、これが衛門三郎伝説の初見であることを押さえておきます。
実は「石手寺刻版」には、先の引用部分に続いて次のように記されています。

 寛平三年辛亥、創権現宮拝殿新堂、同四壬子三月三日奉請熊野十二社権現、改安養寺熊野山石手寺、令寄附穴郡江原?、順主伊予息方

意訳変換しておくと

寛平3年(891)に熊野権現宮拝殿・新堂を創建し、翌年に熊野十二社権現を勧請して、安養寺を熊野山石手寺と改める。これは河野氏の息子の手にあった石から「熊野山石手寺」とした。

衛門三郎の生まれ変わり記事に続いて、熊野権現が勧進されて拝殿や新堂が創建された経緯が記されています。また『予陽郡郷俚諺集』では、石を握りしめて生まれた子を「熊野権現の申し子」としています。そして「衛門三郎の再生=河野家の子の生誕」を熊野権現の示現と考え、「石手寺十二所(熊野)権現始めは是なり」と締めくくります。以上から衛門三郎伝説は、もともとは石手寺の熊野信仰の由来譚だったと研究者は判断します。
安養寺から石手寺への改名が、この地への熊野信仰の時期にあたることになります。それはいつごろなのでしょうか?
①正安 3 年(1301)の六波羅御教書(三島家文書)に「石手民部房」の名
②建武 3年(1336)の河野通盛手負注文写(譜録)に「石手寺円教房増賢」の名
ここからは安養寺に代わって、石手寺の名前が出てくるのは14世紀初頭であることが分かります。この時期までには、安養寺から石手寺に改名されたいことが分かります。同時に、衛門三郎伝説もその頃までに成立していたことになります。
 ここでは、14世紀には石手寺は熊野信仰の拠点として、熊野行者の管理下にあったこと、そのために安養寺から石手寺に寺名が替えられたこと。その背景には、熊野行者たちによる信仰圏の拡大があったことがうかがえます。それは以前にお話しした同時代の大三島の三島神社と同じです。その背後には、備中児島の新熊野勢力(五流修験)の瀬戸内海全域での信仰圏の拡大運動があったと私は考えています。
もう一度、衛門三郎伝説を見ておきましょう。研究者が注目するのは、この中に四国巡礼に出た衛門三郎が権力者に生まれかわりたいと望むことです。
 出家して四国遍路に出た衛門三郎が伊予国司に生まれ変わりたいという世俗的な望みを持つことは、私から見れば仏道を歩んできた者の最後の望みとしては不自然のように思えます。しかし、これには当時の宗教的な背景があるようです。12世紀末の仏教説話集『宝物集』には次のように記します。

「公経聖人が一堂建立を発願したが果たせず、死後国司に転生することを望んだ」

衛門三郎が伊予の国司へ生まれ変わりたいと望んだのも、自分の望む身分に生まれ代わって目的を達したいという遊行聖の性格が反映されていると研究者は考えています。また、よく知られた話として頼朝坊という六十六部聖が源頼朝に生まれ変わったとする六十六部縁起の話があります。これが「頼朝坊廻国伝説=頼朝転生譚」で、衛門三郎伝説とつながりがあるように思えます。
 このように伊予国主という権力者に生まれ変わるという衛門三郎伝説のモチーフは、それより以前の説話や縁起にすでにみえています。ここで注意しておきたいのは、転生しているのは「遊行聖」や「六十六部」たちであることです。
自分が生まれ変わりであることを知った権力者は、次のような「積善」を行っています。
A 『宝物集』 国司となった藤原公経が聖人の宿願である仏堂の供養
B 六十六部縁起 前世が六十六部聖であったことを知った源頼朝が法華堂(法華経信仰による仏堂建立
 以前にお話ししたように、六十六部は全国に法華経を奉納する巡礼を行う廻国僧(修験者)でした。つまり、生まれ変わった権力者の行為は、前世の聖と密接に関連しています。衛門三郎の生まれ代わりである河野氏の息子も、熊野権現宮などを創建し、熊野十二社権現を勧請しています。これは衛門三郎やその転生者が熊野信仰と深く関わっていたことを示すと研究者は考えています。

やまだくんのせかい: 江戸門付
             廻国の聖たち
以前に、こうした視点で一遍の熊野信仰の関係を次のようにまとめておきました
 この時期は、高野聖たちも本地仏をとおして、熊野信仰と八幡信仰を融合させながら、念仏信仰を全国に広めていた時期です。
熊野信仰と阿弥陀念仏信仰の混淆と一遍
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。
②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。
③一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。
④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。」
川岡勉氏は、石手寺の堂舎の配置や規模などから、中世において熊野行者たちが大きな勢力を有していたこと、そして近世になると熊野信仰が本来の薬師信を圧倒するようになったと指摘します。石手寺の衛門三郎伝説は、こうした熊野信仰隆盛の中で作り上げられたものと考えられます。そうだとすれば、衛門三郎伝説に八坂寺や阿波の焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられ寺院が、各地にあらわれるのは当然のことです。当時は、熊野行者たちは強いネットワークで結ばれ、活発な活動を展開していたことは、三角寺と新宮村の熊野神社の神仏混淆関係のなかでもお話ししました。

四国巡礼の由緒は衛門三郎伝説
 
以上を整理しておきます。
①もともと衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰由来譚で、弘法大師信仰にもとづくものではなかった。
②中世の四国辺路には熊野信仰や阿弥陀念仏・山岳信仰などさまざまな信仰が流れ込んでいた。
③それが近世の四国遍路は弘法大師信仰一色になる
④その結果、当初は少なかった大師堂が各札所に建立されるなど「大師一幕化」が進む。
⑤弘法大師信仰が高まる中で四国遍路の由緒譚が求められるようになる。
⑥そこで石手寺の熊野信仰受容の由来譚であった衛門三郎伝説が、四国遍路の由来説話に接ぎ木・転用された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 四国巡礼縁起と西国巡礼遍礼縁起 霊場記衛門三郎伝説 四国遍路研究センター公開研究会
関連記事

四国遍礼霊場記

寂本の『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には、大興寺が次のように記されています。
「小松尾山大興寺、此寺(弘法)大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり。其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠、
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
意訳変換しておくと
小松尾山大興寺は、弘法大師によって開かれとされる。古くは七堂伽藍がそろっていたが、現在は礎石のみが残っている。かつては天台・真言密教の兼宗で、隆盛を極め学僧が蝗のように群をなして集まったという。豊田郡小松尾村に寺があるので、小松尾寺とも呼び、山号としている。
 本尊は薬師如来、脇士は不動と毘沙門立像で長四尺、これらは皆、弘法大師の御作である。
熊野十二神の本地仏はそれぞれ長三尺二寸で、湛慶作。
本堂の右に鎮守である熊野権現の祠、
左に弘法大師の御影堂、大師像は堪慶作。
ここに天台大師の御影もあり、醍醐勝覚の裏書がある。
大興寺と書かれた扁額は、従三位藤原朝臣経朝が文永四丁卯歳七月廿二日丁未に書いたもので、裏書もある。経朝は世尊寺家でm行成八世の孫と伝えられる。ここからは、かつてのこの寺の繁栄ぶりを垣間見ることができる。近頃までは、宝塔・鐘楼もあったという。

  内容を要約しておきます。
大興寺 四国遍礼霊場記

A 弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
B 隆盛を極めた時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の学問寺であった。
C 本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守である②熊野権現の祠、
D 本堂の左(本堂に向って右側)に③御影堂(大師堂)
E 大師堂には弘法大師と天台大師の両像が安置。
F 別当寺の④本興寺は、本堂(薬師堂)の下の段にあった

熊野権現とその本地仏・薬師如来を安置する①本堂(薬師堂)が上の段にあって、別当寺(大興寺)は、一団低い所にあります。ここからは、太興寺の社僧たちが、熊野権現に奉仕する宗教施設であったことがうかがえます。ここでは、神仏混淆下の中世の大興寺が熊野権現を中心とする宗教施設であったことを押さえておきます。

 さて、今日は③の大師堂(御影堂)に安置されている弘法大師と天台大師のふたつの像について見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭  熊野信仰と弘法大師像」  四国へんろの歴史33P」です。

まずは天台大師坐像(像高73、9㎝)から見ていくことにします。

天台大師坐像と弘法大師像 太興寺
天台大師坐像(大興寺)
天台大師とは?
天台大師智顗(ちぎ)は、中国のお釈迦さまと云われ、隋の煬帝から深く尊敬され、「智者」の名を贈られた僧侶です。浙江省の天台山で修行し、そこで亡くなったので、天台大師とも呼ばれます。天台とは、天帝が住んでいる天の紫微宮(しびきゅう)〈北極星を中心とした星座〉を守る上台、中台、下台の三つの星を意味し、天台山は聖地として信仰されていました。
 天台大師は、インドから伝えられた膨大な経典を、ひとつひとつ調べて整理し、その中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であるとします。法華三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、最澄の目にとまります。最澄は、桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後に日本天台宗を開きます。天台宗では、天台大師を高祖、最澄(伝教大師)を宗祖と呼んで、仏壇に二人の画像をかかげます。
この天台大師坐像の胎内には、次のような墨書が記されています。
建治弐年□子八月 
大願主勝覚 
金剛仏子 
大檀那大夫公 
    房長 
大仏師法橋
    仏慶
次に、弘法大師座像(像高72、5㎝)を見ておきましょう。

天台大師坐像と弘法大師像2 太興寺

弘法大師座像(大興寺)
弘法大師像にも、次のような墨書があります。
体部背面の内側部
建治弐年丙子八月日
大願主勝覚生年□
大檀那広田成願□
大仏師法橋仏慶
 東大寺末流

讃州大興寺
別の箇所
建治式年歳次丙子八月二日大願主勝覚
生年四拾五  山林斗藪修行者 金剛仏子
大檀那讃岐国多度郡住人 広田成願房
(体部前面材の内側部)
丹慶法印弟子
大仏師仏慶
東大寺流
 讚岐国豊田郡大興寺
ここからは次のようなことが分かります。
①造立は鎌倉時代後期の建治二年(1276)で、両像は一緒に作られたセット像であること、そのため像高も同じ大きさ。
②大願主は勝覚
③仏師は東大寺流を名乗る大仏師仏慶、
④大檀那は天台大師像は房長、弘法大師像は広円の成願
 両像の発注者(大願主)の勝覚とは、何者なのでしょうか?
彼の「肩書き」は、「山林斗藪修行者金剛仏子」とあります。山林斗藪修行者とは、山伏(修験者)のことです。つまり、ふたつの像の発注者の金剛仏子勝覚は、「金剛仏子」という言葉から熊野系修験者だったことがうかがえます。そうだとすると、勝覚は「弘法大師信仰 + 熊野信仰」の持ち主で、彼の中でこの二つの信仰が融合されていたことになります。


香川・六萬寺 熊野曼荼羅図 弘法大師との混淆
六萬寺の熊野曼荼羅図 弘法大師との混淆(左は赤外線写真 右下が弘法大師)
熊野三山に祀られる祭神やその本地仏を描いたもので、八十五番札所八栗寺を奥院とする六萬寺に伝来するものです。ここには三つに区画された部分に次のような仏たちが描かれています
A 中段 熊野十二所権現の本地仏と弥勒菩薩(満山護法)
B 下段 礼殿執(らいでんしつ)金剛を中心として、紅葉する自然景の中に九体熊野王子と座す弘法大師(右下隅の赤四角部分)
C 上段 岩山の中に役行者や大八大童子大威徳明王(阿須賀社)などが見え、右端に那智とその本地仏でる千手観音
 熊野曼荼羅には規範がなく、信仰形態の変化に応じていろいろな図像が生み出されてきました。この画中には弘法大師が右下隅に描かれています。愛媛の明石(めいせき)寺本などに比べても弘法大師が諸尊より大きく描かれていることに研究者が注目します。智証大師円珍を描いた天台系の聖護院本などに対して、真言系の修験に関わるもののようです。ここからは弘法大師信仰と熊野信仰が混淆していたことがうかがえます。このような上に、一遍は熊野信仰と八幡信仰と阿弥陀信仰を混淆していこうとしたのかもしれません。一部に補彩もあるが、張りのある的確な線で描かれており、南北朝時代から室町時代の作と研究者は考えています。

 元に返ります。確認しておきたいのは、「弘法大師信仰」と「熊野信仰」が、太興寺にやって来たのは、どちらが先なのかと云うことです。
大興寺は熊野神社の別当として、熊野行者達によって再興された別当寺です。信仰の中心にあったのは熊野信仰で、熊野行者達がそれを担っていました。つまり、大興寺に先に入ってきたのは熊野信仰だったことを押さえておきます。熊野行者は、もともとは天台系の修験者でした。その後の出現順は、次の通りです

①熊野行者(天台系修験者)
②天台・真言の両宗兼備の修験者(聖)
③真言系の熊野行者(修験者)

 天台系の熊野行者から真言系の熊野行者への移行が大興寺でも行われたことがうかがえます。
 寂本の『四国徊礼霊場記』の中には、次のようにありました。

「大興寺が隆盛を誇った時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の=学問寺であった。」

願主の勝覚は「台密二教(天台・真言)の=学問寺(大興寺)」で学んだと考えるのが自然です。しかし、「金剛仏子勝覚」とあります。「金剛」は真言系僧侶の象徴です。彼は、真言系修験者であったことは、先ほど見たとおりです。しかし、同時に、天台大師の坐像も奉納しています。彼が天台宗についてもリスペクトしていたことが分かります。勝覚の信仰世界は「弘法大師信仰 + 熊野信仰 + 天台信仰」が融合された世界だったとしておきます。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊の薬師如来 那智本宮の本地仏

 ちなみに、讃岐の雲辺寺や道隆寺・金倉寺・尾背寺なども学問寺でした。
修験者や聖・学問僧が全国から頻繁にやってきては修行としての写経を行っています。そして、どこもが台密二教(天台・真言)の=学問寺だったと、寺歴や縁起で伝えます。これをどう考えればいいのでしょうか? ここまでを整理してみます。
①古代・中世の熊野信仰は天台系が主流であった。
②そこへ室町時代になると真言系の熊野勧進聖や先達が出てくる。その象徴が醍醐寺開祖の聖宝。
③大興寺に所属した勝覚は、天台大師と弘法大師の両像の大願主となっている。
④ここからは、勝覚が天台、真言の両宗兼備の僧であったことが分かる。
研究者は「両宗兼備の熊野修験者から真言系の熊野修験者が成立」すると考えているようです。

「①熊野行者 → ②天台系修験者 → ③天台・真言の両宗兼備の僧 → ④真言系の熊野山伏」

という出現プロセスがあったというのです。つまり、「熊野信仰と弘法大師信仰」が融合し、結びつくのは、③のような修験者たちによって行われたことになります。太興寺は、それまで熊野信仰を中心に宗教活動を行っていました。それが建治二年(1276)に、弘法大師像が造られたころには、「熊野信仰 + 弘法大師」信仰の二つの中心をもつ宗教施設へと移行していたことがうかがえます。その後に戦乱などで熊野信仰が衰退しすると、熊野信仰から弘法大師信仰へと重心を移していきます。そして、近世半ばになると四国霊場札所へと「脱皮・変身」していくと研究者は考えています。
大興寺の弘法大師と天台大師の二つの坐像は、そのようなことを垣間見せてくれる像のようです。

天台大師坐像と弘法大師像 太興寺
天台大師坐像(大興寺)
以上をまとめておくと
①大興寺は、古代寺院として開かれたが中世には退転した。
②それを再興したのは、熊野行者達で熊野権現信仰を中心に、別当寺として大興寺を再建した。
③そこでは熊野権現へ社僧の社僧達が奉仕するという神仏混淆の管理運営が行われた。
④社僧達は、熊野行者で修験者でもあり、山岳修行を活発に行う一方、熊野先達なども務めた。
⑤同時に、「天台・真言の両宗兼備」の学問寺として、山岳寺院ネットワークの拠点として、活発な交流をおこなった。
⑥そうした中で14世紀初めの勝覚は天台、真言の両宗兼備の山伏として、弘法大師と天台大師の二つの坐像を奉納した。
⑦これは大興寺が「熊野信仰と弘法大師信仰」の両足で立っていくその後の方向性を示すものでもあった。
⑧近世になって熊野信仰が衰退すると、大興寺は四国霊場札所として生きる道を選択した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ
参考文献

 2 大興寺全景近代
1902年の大興寺伽藍図 小松尾山不動光院大興寺とある
大興寺は、地元では小松尾寺と呼ばれていました。それが今は、大興寺となっています。どうして、小松尾寺から大興寺に名前が変わったのでしょうか。今回は、寺名が近年になって「変更」された背景を探って行きたいと思います。
もともとこの寺は大興寺と呼ばれていたようです。それは、字名として「大興寺」という地名が残っていることから分かります。ところが、大興寺という字名は、現在地ではありません。下の大興寺周辺の字切図を見てください。

6大興寺周辺の字切地図 
大興寺周辺の古地名(字切図)

国道377号沿いに④「大興寺」や⑥「鐘鋳原」の小字名が見えます。ここからは次の事が推察できます
A もともとの大興寺は、国道377号沿いの「大興寺」にあったこと
B 「鐘鋳原」で出張してきた鋳物師集団によって、大興寺の鐘が作られたこと
これを裏付けるように旧大興寺跡推定地からは、白鳳期の十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土しています。旧大興寺は、白鳳時代の古代寺院で、国道377号沿いにあったことを押さえておきます。

DSC02082
旧大興寺跡から望む三豊平野と七宝山

  古代氏寺はパトロンの氏族が衰退していくと、寺も退転していきます。
旧大興寺も、同じような道を歩んだようです。それを再興していくのが中世の勧進聖たちです。大興寺に関する中世の資料は、ほとんどありません。中世の遺品としては、次のようなものがあります
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれています。京の高官藤原経朝が奉納したものとされます。そうだとすると、鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたことになります。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるので、誇張とばかりは云えません。
 これ以外の中世史料はないのですが、次のような「状況証拠」は得られます。
寺の由来に次のようにあります。

熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここにはこの寺が、熊野三所(本宮・那智・新宮)権現の鎮護のための別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は、熊野権現の本地仏です。

大興寺 四国遍礼霊場記
太興寺(四国遍礼霊場記)
上の四国遍礼霊場記の挿絵では、石段正面に①の薬師堂があって、その両脇に②大師堂と③熊野権現が並んで祀られています。そして、それに奉仕するかのように④大興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が大興寺だったことが裏付けられます。太興寺の社僧たちによって、熊野権現が神仏混淆状態で信仰されていたことがうかがえます。

6大興寺薬師本尊2g
大興寺の本尊・薬師如来 薬師如来は熊野本宮の本地仏

以上から、中世の大興寺は、熊野権現社とその本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたとしておきます。そして、周辺にはいくつもの坊や子院があったのです。
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
慶長2年(1597)の棟札には、次のように記されています。
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」
「諸堂大破而瑕(仮)堂建立」
ここからは「諸堂大破した後に仮堂を建立」されたこと。願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」だったことが分かります。

6大興寺周辺の字切地図 

先ほどの字切図に残る字名で⑦「泉上坊」を探すと、それは現在の大興寺周辺にあります。つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、彼らは退転した旧大興寺を、自分たちの坊の近くに移動させて仮堂を再建したと研究者は考えています。古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭の生駒藩時代ということになります。
 「移転再興」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とは、どんな性格の宗教者だったのでしょうか?
それを考える材料は、次の2点です。
①「近世の大興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
ここからは、真言系密教修験者の姿が想像できます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺(山伏寺)だったようです。ここからは、大興寺を支える宗教者が、中世の熊野行者から真言系密教修験者へと移り替わったことがうかがえます。ちなみにこの時期の金毘羅大権現では、修験者宥盛によって金光院が勢力を拡大している頃で、高野山系の真言密教修験者たちが活発に動いていた時代です。
移転し、仮堂を建てた所の地名が小松尾でした。
中世や近世では、お寺を呼ぶ際に地名で呼ぶことがよくありました。移転した大興寺も地元では「小松尾寺」と呼ばれるようになります。近世はじめの史料を見てみましょう。
①澄禅『四国辺路日記』に「小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。(以下略)」。
②真念「四国辺路道指南』に「小松尾山、東むき、豊田郡辻村、本尊薬師、坐長二尺五寸、大師御作」
③寂本「四国遍礼霊場記』には、「小松尾山大興寺」
④詠歌には「植置し小松尾寺をながむれば法のおしへの風ぞふきぬる」
など、17世紀後半の案内記はすべて、小松尾寺として登場します。
  しかし、大興寺所蔵の公的文書に「小松尾寺」が使われている例はないようです。確かに江戸時代前期の真念などの案内記「小松尾寺」と表記されていました。しかし、寂本は「豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。」と記しています。小松尾村にある寺だから「小松尾寺」と呼ばれていると云うのです。
 以上から、小松尾寺は通称地名で、古来からの「大興寺」が正式な名称であったと研究者は考えています。近世・近代を通じて「小松尾寺」と「大興寺」という2つの寺名が並立して使用されてきたのです。ここからは私の想像です。

 万博も終わった頃に、国道377号のバイパス工事化が行われ、新たに「小松尾寺」への道標が掲げられた。これに対して大興寺側からクレームが出された。当寺の正式名称は「大興寺」である。勝手に、「小松尾寺」という看板を出すのは如何なものか。今回は甘受するが、次回の改修時には「大興寺」とするように善処していただきたい。これを受けて公官庁の文書では「小松尾寺」に替わって正式名称「大興寺」が用いられるようになった。

これは、あくまで私の創作話です。悪しからず。

以上をまとめておきます。
①この地には白鳳時代の古代寺院として大興寺が建立された。
②中世になると退転した大興寺に、熊野行者達が熊野神社を勧進し、その別当寺として再建した。
③中世の大興寺は神仏混淆下で、熊野行者達が管理・運営を行った。
④大興寺の熊野行者は、熊野詣での先達を務める一方で、山林修行者として雲辺寺や萩原寺(大野原町)・道隆寺(多度津)などの山岳寺院とのネットワークを結び活発な活動を展開した。
⑤しかし、戦乱の中で熊野先達業務が行えなくなり、熊野行者の活動が衰退し、大興寺も衰退する。
⑥退転していた道隆寺を現在地に移転させ、仮堂を建立したのは勧進修験者である。
⑦移転地が「小松尾」と呼ばれる地名だったので、近世には小松尾寺と呼ばれるようになった。
⑧戦後になって、正式名称「大興寺」に「統一」させた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年

前々回に、伊予の四国霊場八坂寺について、次の点を押さえました。
①熊野十二社を勧進し、熊野先達業務をおこなっていたこと
②周辺に広い霞(信者テリトリー)をもち、広範囲の檀那を擁していたこと
それが近世になって熊野詣でが衰退すると、石鎚詣での先達に転進して活躍するようになり、信者を再組織していきます。これが八坂寺の中世から近世への変化に対する生き残り策であったようです。
 今回は、山伏(修験者)たちが、中世から近世への時代変化に対して、どのように対応して生き残っていったのかをを見ていくことにします。テキストは「近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景」です。

熊野詣での衰退要因については、研究者は次のように考えています。
熊野詣での衰退と対応

16世紀における戦乱の拡大は参詣者の減少をもたらし、さらに戦乱による交通路の不通によって、熊野先達業務は廃業に追い込まれた。15世紀末以降、熊野先達は檀那であった国人領主層の没落などを受けて、新たに村々の百姓との結びつきを深め、彼らを檀那として組織するようになった。しかし、戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化していったと考えられる。

 それでは熊野先達業務が不調になっていく中で、先達を務めた来た山伏たちは、生き残る道をどこに見つけたのでしょうか。それについて修験道研究では、次のような事が指摘されています。
①戦国期には山伏の村落への定住が始まったこと
②そして山伏が庶民への呪術的宗教活動を盛んに行うようになったこと
 つまり、近世の山伏たちは、生活圏を町場から村へと移し、檀那(信者)もそれまでの武士領主層から村々の百姓へと軸足を移したというのです。それでは山伏は新たに住み着いた村々で、どんな「営業活動」を行ったのでしょうか?

修験者の里定着の方法

北条家朱印状写の中の「年行事古書之写」を見ていくことにします。
これは永禄13年(1585)に、小田原玉瀧坊に対して後北条氏から出された「修験役」に関する文書です。玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は次の通りです。
〔史料五〕北条家虎朱印状写34)(「本山御門主被定置
○年行事職之事丸之有ハ役ニ立たさる也 十一之御目録」
一、伊勢熊野社参仏詣
一、巡礼破衣綴
一、注連祓・辻勧請
一、家(堅カ守)
一、釜注連
一、地祭
一  葬式跡祓
一、棚勧請
一、宮勧請
一、月待・日待・虫送・神送
一、札・守・年中巻数
右十一之巻、被定置通リ、不可有相違候、若不依何宗ニ違乱之輩有之者、急度可申付者也、注連祓致陰家ニ(ママ)者有之者、縦令雖為真言・天台何宗、修験役任先例可申付者也、仍而定如件、
永禄十三(1570)年八月十九日長純
「○時之寺社奉行与申伝ニ候」
玉瀧坊
 近世に書写された史料ですが、ここには近世初頭の山伏の年間行事が挙げられています。

HPTIMAGE

このことから修験者の役割は、次の4つに分類できそうです。
①伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、
②家や土地の汚れを祓(はら)う行為
③葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、
④守札等の配札行為、
一番目に「伊勢・熊野社参仏詣」とあります。これが、伊勢や熊野への先達業務です。ここからは、戦国時代になっても山伏が伊勢・熊野などの諸寺社への先達業務を行っていたことが分かります。ここで注意しておきたいのは、「伊勢・熊野」とあるように、熊野に限定されていない点です。その他の有名寺院にも先達を務めたり、代参を行っていたことがうかがえます。
 しかし、残りの活動を見てみると「注連祓」「釜注連」「地祭」「宮勧進」などが並びます。これらは村の鎮守の宗教行事のようです。また。 「葬式跡祓」とあるので、山伏が村人の葬儀にも関係していたことが分かります。
 「月待・日待・虫送・神送」は、近世の村の年中行事として定着していくものです。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
疫病退散 日本の護符ベスト10 | 島田裕巳 | 絵本ナビ:レビュー・通販

「札・守・年中巻数」は、護符や守り札のことでしょう。

これらも山伏たちによって、村々に配布されていたのです。こうして見ると、近世に現れる村社や村祭り・年中行事をプロデュースしたのは山伏であったことが分かります。風流踊りや念仏踊りを伝えたのも、山伏たちだったと私は考えています。
ここでは、山伏は、「イエ」や個人に依頼され祈祷を行うだけでなく、近世になって現れた村の鎮守(村社)の運営や年中行事などにも関わっていたことを押さえておきます。

Amazon.co.jp: 近世修験道文書―越後修験伝法十二巻 : 宮家 準: 本
越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
これは金剛院空我という人物によって著された呪術作法集で、寛文年間(1661~73)に、書かれたものとされます。その内容は、喉に刺さった魚の骨を取る呪法や犬に噛まれない呪法などの現世利から始まり、堂社の建立や祭礼、読経、託宣な169の祈祷作法が記されています。 当時の村に住む山伏が、村人の要望に応えて多種多様な祈祷活動をしていたことが見えてきます。村人から求められれば、なんでも祈祷しています。それは、歯痛から腰痛などの痛み退散祈祷からはじまって、雨乞い、までなんでもござれです。このような活動を通じて、山伏たちは、村の指導者たちからの信頼を得たのでしょう。こうして山伏の村落への定住は、彼らに新たな役割をあたえていきます。

疫病退散貼り札の登場です。 | 茨城県の縁結びなら常陸国出雲大社

例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。

 天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。

ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。そして伊予では、熊野詣から石鎚参拝に転化したことは、以前にお話ししました。その背景について、考えておきましょう。
 近世の熊野参詣は、参加者が数人程度の小規模なものになっていきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。

こうした中で、新たな熊野参詣の方法が採られていくようになります。
天正16年(1588)に古河公方家臣の簗田氏の一族・簗田助縄という人物から、武蔵国赤岩新宿の修験寺院大泉坊に対して出された判物を見ておきましょう。
簗田助縄判物諸社江代官任入候事
一、大峯少護摩之事
一、宇佐八幡代官之事
一、八幡八幡代官之事
一、伊勢へ代官之事
一、愛宕代官之事
一、出雲代官之事
一、熊野ヘ代官之事
一、多賀へ代官之事
一、熱田へ代官之事
右、偏任入候、来年ハ慥ニ一途可及禮候、尚鮎川可申届候、以上
   戊子六月廿一日 助縄(花押)
大泉坊
ここには「諸社江代官任入候事」とあります。ここからは、簗田助縄が大泉坊に対して、こららの寺社への代参を依頼していることが分かります。吉野の大峯から、豊後の宇佐八幡宮まで全国各地の有力神社へが列記され、その中に熊野神社の名前もあります。この時期、武将達は「代参」という形で地方の有力寺社に祈願していたのです。これを研究者は、次のように指摘します。
①「大泉坊が民間信仰の総合出張所=地域の宗教センター的役割を果たしていた
②大泉坊に代参を依頼した背景には、簗田氏というよりは、むしろそこに集う民衆の要請があった
ここでは、戦国期には直接参詣に赴くことができない信者の要請を請けて、山伏が代参という形で地方の諸寺社を参詣するということが行われていたことを押さえておきます。人々の熊野に対する信仰は、代参という形に変化したも云えます。
以上をまとめておくと
なぜ中世後期に熊野参詣が停滞・衰退したのか、
①15世紀末(戦国期)ころから山伏たちは、村々への定着とともに、村人を檀那とするようになった。
②山伏は、村人の要請に応えていろいろな祈祷や祭礼を、行うようになった。
③一方で熊野参詣は、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより実施が困難になっていく。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
⑤代参は熊野だけでなく、全国の有力神社が対象で、熊野はそのなかのひとつにすぎなくなった。
⑥その結果、熊野参詣の停滞・衰退が生みだされた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景
関連記事


八坂寺一二社権現
八坂寺の鎮守だった熊野十二社権現
前回は八坂寺の歴史を大まかに見ました。その中で私が興味を持ったのは、八坂寺が熊野行者や石鎚先達として指導的な役割を務める修験者(山伏)たちの寺であったということです。今回は、「八坂寺=修験者の寺」という視点から見ていくことにします。テキストは「四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。
熊野神社が鎮守として祀られている伊予の霊場を挙げてみましょう。
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
多くの霊場札所に、熊野信仰の痕跡が残ることが分かります。ここから「四国辺路」の成立には、熊野信仰が大きく影響したと研究者は考えています。霊場札所が熊野行者によって、開かれたという説です。
熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を地域で果たしたのではないかとも考えます。こうして熊野信仰の拠点寺院に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成されるという考えです。その典型として注目されるの八坂寺ということになります。

熊野信仰の讃岐への浸透

 近世始めに書かれた澄禅の『四国遍路日記』(承応2年(1653)には、八坂寺本堂に安置されていたという阿弥陀如来像に関わる由緒や、寺院自体の創建伝承・沿革などについては何も触れていません。記述の中心は、境内にあったの鎮守の熊野十二所権現で、次のように記されていました。
①八坂村の長者てあった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、熊野三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の中心は鎮守(熊野三山)で、右手に小ぶりな本堂が並んでいたこと
ここからは地元の長者によって熊野神社がこの地に勧進されたこと、そして、神社の別当として熊野先達を行う修験者がいたこと。さらに長床があったとすれば、熊野行者達の信仰センターの役割も果たし、この地域の熊野信仰の中心地であったこと、などがうかがえます。つまり中世の八坂寺の信仰の中心は熊野権現社で、多くの熊野行者が活動し、その周りには廻国の高野聖や念仏聖なども「寄宿」していたことが推測できます。

熊野参拝システム

 これを裏付けるのが熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券です。
ここには近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。さらに、『四国遍路日記』には、八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったとも記されています。

 熊野行者が里に定住するようになっt背景を見ておきます。

熊野行者の里定住の背景は?

 熊野先達の活動が衰退するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。「戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような中で熊野先達たちは、活路をどこに求めたのでしょうか。
「熊野先達=熊野行者=修験者=山伏」たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を武士層から、村の有力者へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供する道を探ります。その内容は有名な霊山への「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。そして地元に受け入れられて、定着し里寺を起こす者も現れます。
 同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。具体的には四国巡礼や石鎚参拝の先達業務です。つまり、中世に熊野先達を勤めていた八坂寺の修験者たちは、近世には四国辺路修行や石鎚参拝の先達を務めるようになったのです。
 石鎚参拝の先達を勤める八坂寺の住持たちの姿を史料で見ておきましょう。
「石鉄(石鎚)山先達所惣名帳」(延宝4年(1676)前神寺文書)には、浄瑠璃寺村の「大坊」の「快常法印」が石鉄山先達の一人として挙げられます。浄瑠璃寺の中興に、元禄年間に活躍した快賢がいます。「快」の字が共通するので「大坊」も浄瑠璃寺のことを指すと研究者は考えています。江戸後期までに石鉄山の先達としての地位は、浄瑠璃寺から八坂寺へと移行します。それが八坂寺所蔵の古文書・古記録で次のように確かめられます。

「石鉄山先達名寄井檀那村帳」(文化6年(1809)は、を見ておきましょう。
これは道後地域の石鉄山先達や檀那村の記録です。そこに八坂寺が先達として記されています。

八坂寺 「石鉄山先達名寄井檀那村帳」
八坂寺の石鉄(石鎚)山先達の檀那村一覧
そして八坂寺の檀那村として、次の村々が挙げられます。

窪野村、久谷村、浄瑠璃寺村、恵原町村、西野村、上野村、小村、南高井村、北高井村、東方村、河原分、
大洲領麻生分西高尾田

 ここに出てくる檀那村は、文化5年(1808)に八坂寺に奉納された『大般若経』(聖教1~10)の施主の居住地と重なります。

八坂寺 大般若経
八坂寺 大般若経
石鎚参拝を通じて養われた先達としての師檀関係は強く、『大般若経』の勧進などでも大きな働きをしています。また、石鉄山先達の同僚である不動院(伊予郡松前村)、円通寺(久米郡樋口村)、和気寺(温泉郡衣山村)などは、文化5年の鐘楼堂再建供養にも出仕ていることが木札から分かります。八坂寺は、石鉄山先達のネットワークに支えられていた「山伏寺」だったのです。

八坂寺 天明8年(1788)明細帳 山伏
        天明8年(1788)明細帳 山伏八坂寺とある
 近世の八坂寺は醍醐寺三宝院末の当山方真言修験宗に属していたことが史料からも確認できます。

八坂寺 醍醐寺末寺
「醍醐三宝院御門主末院真言修験宗 八坂寺」とある

醍醐寺三宝院は、空海の弟真雅の弟子理源大師(聖宝)の開祖とされ、真言系修験者の拠点寺院でした。そのため近世の八坂寺縁起の中には、理源大師を開祖とするものもあります。八坂寺住持は、修験者として吉野への峰入りも行い、石鎚先達としても活動していたことになります。

以上をまとめておきます。
四国霊場八坂寺は熊野から石鎚に参拝先を転換した

①中世の八坂寺は熊野神社を勧進し、伊予松山地域における熊野信仰センターとして機能した
②八坂寺の住持は修験者で、熊野先達として檀那達を熊野詣でに誘引した。
③戦国時代に戦乱で熊野信仰が衰えると、里寺として地域に根付く運営方法を模索した
④その一環として、四国辺路や石鎚参拝の先達として活動を始め、信者ネットワークを形成した。
⑤そのため信者は、地元に留まらず土佐や大洲まで傘下に入れるようになった。
⑥こうして近世の八坂寺は「熊野信仰 + 石鎚参拝 + 四国霊場」の信仰センターとして機能した。

三角寺も八坂寺とおなじような動きをしていたことは、以前にお話ししました。三角寺ももともとは熊野先達で、それが四国辺路への先達活動を行うようになります。そして、周辺に多くの修験者や廻国行者を抱え込んでいきます。そして彼らがお札を持って、信者ネットワークの村々を巡るようになります。そのためこれらの寺には、いろいろな札の版木が残っています。同時に、讃岐の与田寺で見たように工房的なものもあり、僧侶の職人がいろいろな信仰工芸品を作成していました。それが八坂寺にも残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
関連記事

        
前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
関連記事


中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。

熊野参拝システム
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。

熊野信仰の全国展開と檀那権の売買
熊野信仰の全国展開と檀那売券

那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた那智の実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。

実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐担当
実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐の熊野詣での宿泊先
2018春、熊野の世界遺産(3/5):実方院跡、木斛の大樹、赤鳥居、那智山熊野権現扁額、狛犬』那智勝浦・太地(和歌山県)の旅行記・ブログ by  旅人のくまさんさん【フォートラベル】
実方院跡
実報院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでの那智山の経営維持は、皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切ります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順に並べたものを見ていくことにします。

②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀になると継続して発行が行われるようになります。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ない。三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、これらを拠点にして東から西へ信仰圏が拡がったことが推測できます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた最有力の武士集団です。有力武士団を旦那に持っていたことが分かります。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。ここでは、いろいろな修験者が熊野参拝の先達を行っていたことを押さえておきます。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったことは以前にお話ししました。その中には熊野先達を務めるものもいたことが分かります。こうしてみると、一人の修験者の中に「熊野信仰 + 天狗信仰 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀信仰」などが同居していたことになります。それが一遍の高野山詣でや熊野詣でにつながるのかもしれません。

熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券NO3
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)

⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が出されています。それを見ておきましょう。

「勝達房道秀檀那売権」から分かること
 
 最初は、「中郡スエ(陶)王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)の「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」は、「檀那売券」ではなく「借銭状」となっていますので、抵当に入れて借金したようです。        
 以上からは、もともとは勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持ちながら、この地域で活動を続けていたのでしょう。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと郷村ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。
 そんな中で私が注目したいのが、善通寺市の仲村城跡と木熊野神社の関係です。

仲村城と木熊野神社
善通寺市の仲村城跡と木熊野神社

仲村城は丸亀平野西部の有力な武士の居館です。そして、その南の湧水地帯の中に木熊野神社と若宮神社が鎮座します。この関係をどう考えればいいのでしょうか? 先ほども見たように、熊野詣で行った武士たちの中には、熊野神社を建立する者が現れます。ここでも天霧山の下で西讃守護代の香川氏に属する武士団棟梁が居館近くに熊野神社や若宮を勧進したことが考えられます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
これらの神社を拠点にしながら熊野行者たちは、空海が修行したとされる行場の聖地・我拝師山で活動します。そして退転していた善通寺の復興に関わっていくと私は考えています。
 佐伯直氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯直氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、讃岐各地に王子権現・熊野神社として記されるものが数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。
①早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)
②次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)に長徳寺の鎮守に勧進
③鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、約69社の熊野関係の神社があった。

伊予では
①一番古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社。
②その神輿鏡銘には貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘あり。
③ここから鎌倉時代初期には勧請され、銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ライン伸張
④さらに新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。
⑤四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、各地からの熊野参拝者が立寄った聖地。

阿波の場合は南部の那賀郡と吉野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐は、どうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。一方、先ほど見た讃岐の熊野系神社43社には確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。とりあえず社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士たちが、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣を行うようになります。彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。②の善通寺の木熊野神社の近くには、中世の武士居館もあります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。
そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いようです。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は、戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。ここでは熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)によるふたつの場合があることを押さえておきます。。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
関連記事


以前に備中新見荘から高梁川を下って、舟で京都に帰る荘園管理人(僧侶)の帰路ルートを追いかけました。今回は中世の山陽道を旅した僧侶の記録を見てみましょう。 テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。
山陽道斑鳩宿

播磨国斑鳩荘(兵庫県太子町・龍野市)は、法隆寺のもっとも重要な荘園でした。
延徳二年(1490)、法隆寺の僧快訓(かいくん)がこの斑鳩荘に向かう旅をはじめます。快訓は政所として赴任することになったのです。その旅路を「当時在荘日記」には次のように記されています。
僧快は、大和の斑鳩を発って、大和川沿いに河内に入り、山本(八尾市)で、持参した昼の弁当を食べています。その日の夜は、天王寺宿(に宿泊。宿泊料は700文、庭敷銭(にわしきせん)は100文とあります。庭敷銭とは、庭の占有料という意味で、荷の保管料のようです。翌朝、宿で朝食が用意され、快訓には30文、雑用のために従っている下僕たちには25文の食事が出されています。

斑鳩寺 クチコミ・アクセス・営業時間|たつの・揖保川・御津【フォートラベル】
太子町の斑鳩寺
二日目は、天王寺から舟で大阪湾を横切り、西宮宿で昼休み。休憩料は500文、庭敷銭は50文です。宿泊料に比べると休息料が高いような気もします。宿で昼飯をとっていますが、やはり身分に応じて30文と25文のランク分けされた食事が出されています。その日は、兵庫宿(神戸市兵庫区)まで行き、宿をとります。ここの宿泊料は、前回利用したときには700文だったが、値上がりして800文になっていた、ただし庭敷銭、翌朝の朝食代などは値上がりしていなかったことまで記します。
以下の旅程を見てみると次のように記します。
3日目は、大蔵谷宿(明石市)で昼休みし、加古川宿で宿泊、
4日目は国府(姫路市)で昼休みし、その日の夕方に竜野に到着しています。細かな経費は下表のとおりです。
山陽道 宿賃一覧表

これを見ると、宿泊料、食事代などは、全行程ほぼ同額なことが分かります。快訓の旅行記録から、この時代の山陽道では、どこの宿に泊まっても、同じような経費で同じようなサービスが受けられる、というシステムができていたことが分かります。
 中世後期の陸上交通をささえるインフラやシステムについては、まだ分からないことの方が多いようです。「関所が乱立してスムーズな交通が妨げられていた」ように思いがちですが、この記録を見る限りは、案外に快適な旅ができたようです。

   中世山陽道の宿は、どんな人が経営していたのでしょうか?。
朝日新聞デジタル:世界記憶遺産が描く荘園の騒動 矢野荘 - 兵庫 - 地域

播磨西部の現在の相生市に矢野荘がありました。
ここは東寺の荘園で、その史料が「東寺百合文書」の中に残されているので、研究が進んでいるようです。この荘園を山陽道が通っていて、隣の荘園に二木宿がありました。この宿を拠点とした小川氏という一族を追いかけて見ようと思います。小川氏は、南禅寺領矢野別名の荘官を務める武士で、同時に金融活動も行っていたようです。
小川氏の活動とは、どんなものだったのでしょうか? 
 守護赤松氏がとなりの東寺領矢野荘に、いろいろな目的で人夫役を賦課してきたときには、同荘の荘官に代わって守護の使者と減免の折衝をしています。ときには命じられた数の人夫を雇って差し出したりもしています。矢野荘自身が必要とする人夫を集めることもしています。(「東寺百合文書」)。いわゆる人足のとりまとめ的な役割を果たしていたことが分かります。
 そんなことができたのは、小川氏か宿を拠点に持ち、「宿周辺の非農民の流動性のたかい労働力を掌握」していたからできることだと研究者は考えているようです。つまり、一声かけると何十人もの人夫を集めることの出来る顔役であったということなのでしょう。即座に多くの人夫を集めることができる力は、交通・運輸業者としての武器になります。それが小川氏の蓄財の源だったとしておきましょう。
小川氏と交通のかかわりは、それだけではないようです。
 二木宿には時宗の道場がありました。時宗の道場は、安濃津や、東海道の萱津(愛知県海部郡甚目寺町)、下津(同稲沢市)などの例が示すように、旅行者の宿泊所として使われていました。ただの宿泊所ではなく将軍の宿所として利用されることも多く、宿泊所としてはランクの高いものだったようです。二木宿の道場も、格の高い宿泊所だったと推測できます。
 あるとき二木宿の遊行上人(時宗の僧)が勧進活動をはじめます。道場を維持するための勧進だったのかもしれません。このとき小川氏は、周辺の荘園をまわって勧進への協力を求めています。ここからは、二木宿の道場(宿泊所)は、小川氏の保護を受けて維持されていたと研究者は考えいます。小川氏が時宗の保護者であると同時に、宿泊所のオーナーであった可能性も出てきます。
 周辺の人夫を掌握し、宿泊所を維持する、そして金融業を営むほどの財力。これが室町時代の「宿の長者」だったようです。
小川氏と同じような存在は斑鳩荘もいました。斑鳩荘六ヵ村の一つ宿村も山陽道の宿です。

山陽道斑鳩荘マップ1

斑鳩宿と呼ばれていたこの宿の長者は、円山氏でした。
円山氏は、宿の守護神である戎社の裏手に屋敷を構え、宿村を中心に土地を集積する有力者でもあったようです。円山真久は、永正十三年(1516)に行われた斑鳩寺の築地修理のときには、守護や守護代の五倍もの奉加銭を出しています。もともと円山氏は、荘内の人間ではなく、十六世紀になるまでは斑鳩荘の名主職ももってはいなかったようです。それが円山真久は斑鳩寺や、聖霊権現社や斑鳩荘の鎮守稗田神社の修理にも多額の寄進を行い、その功績によって太子講という斑鳩荘の侍衆たちによって構成される講への参加資格を認められます。鎮守の祭礼や造営にお金を出すことは、地域での身分序列を形成・確認するための格好の機会でした。円山氏は、このセオリー通りを利用して「上昇」していきます。円山氏の財力も二木宿の小川氏と同じように山陽道の交通・運輸にかかわることによって獲得されたものと研究者は考えいます。
 円山氏の姻戚関係を知る史料が残されています。
永禄十年(1567)に作成された円山真久(河内守・二徳)の譲状(「安田文書」)によれば、彼には、「妙林・揖保殿・香山殿・神吉殿・平位殿・小入」の六人の娘がいました。揖保と平位は斑鳩の西方、神吉はずっと東方の加古川あたりの、いずれも山陽道に沿った土地の地名です。円山真久は山陽道の交易によって交流を深めたそれぞれの土地の土豪たちに、娘たちを嫁がせていたことがうかがえます。神古郷の近くには加古川宿があるので、神古氏も宿支配関係者だった可能性があると研究者は考えています。
龍野醤油の祖・円尾家の新資料を発見 龍野歴史文化資料館で公開 兵庫 - 産経ニュース
竜野醤油の祖 安政2(1855)年制作の「円尾家当主肖像画」

 研究者が注目するのは、近世脇坂藩の城下町龍野(兵庫県龍野市)の竜野醤油の祖で豪商円尾氏の先祖についてです。
円尾家文書には、円尾氏の初代孫右衛門は、林田川をはさんで斑鳩宿と向かいあう弘山宿の出身であり、二代目孫右衛門(弘治二年〈1556〉生)の母は、「円山河内守」の娘だったと記します。記載された年代からすれば、この円山河内守は、斑鳩宿の円山真久のことのようです。二代目の母が真久の6人のうちのどの娘であるかは分かりませんが、斑鳩宿と弘山宿の有力者同士が縁戚関係にあったことが分かります。さらに真久は東寺領矢野荘の又代官職も手に入れ、矢野荘に土地も所有するようになります。
  
   法隆寺の快訓の播磨への赴任旅程では、どこの宿でもほぼ同額で同じようなサービスを受けられたことを見ました。
こんなシステムができあがっていた背景には、宿の長者同士が婚姻関係などで結ばれた情報交換のネットワークがあったことがうかがえます。そのネットワークが、山陽道沿いの広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していたと研究者は考えいます。

小川氏や円山氏のような宿の長者たちが旅館も経営していたことを見てきました。旅館の経営もただ寐る場所を提供するだけでなく、多角的サービスを提供していたようです。
興福寺大乗院門跡尋尊の日記『大乗院寺事記』の延徳二年(1490)十一月四日条には次のように記されています。
  先年、興福寺の衆徒超昇寺の被官で奈良西御門の住人宇治次郎は、運搬中の高荷を京都・奈良間の宇治で奪われた。近日になってこの高荷を引いていた馬が宇治の旅館扇屋の所有する馬であったことを知った超昇寺は、次郎と扇屋が結託して荷をかすめ取ったのではないかと疑ったのであろう、扇屋を捕らえ、次郎とともに拘禁してしまったという。

以上を整理しておくと次のようになります。
①宇治次郎は、京都と奈良の間の運輸に従事していた馬借である。
②宇治次郎の馬は個人持ちでなく、宇治の旅館扇屋所有の馬で、それを借りて営業していた。
③宇治次郎と宇治の旅館扇屋は結託して、荷主の荷物を奪われたと称してくすねた。
④これを疑った超昇寺被官の奈良西御門が扇屋と次郎を拘禁した
  ここからは、宇治の旅館扇屋が旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけはなく、馬を持ち馬借を雇い運輸システムの中に組み込まれた存在であったことが分かります。
奈良の転害大路1
平城京の転害大路は東大寺から西に伸びていた

 奈良の転害大路は京都方面から奈良に入ってきたときの入口にあたり、鎌倉時代の終わりにはすでに多くの旅館が営業していました。
室町時代の中ごろには鯛屋、烏帽子屋、泉屋などの旅館が営業していました。戦国時代になると、旅館業以外の商売にも手を広げていたようです。たとえば、天文十一年(1542)十一月、伊勢貞孝が将軍足利義晴の名代として春日社に代参したときには、転害大路の旅館腹巻屋に、300~400人もの随行者を連れて宿泊しています。この腹巻屋は金融業や酒造業を営む富商でもあったようです(『多聞院日記』天文11年11月15日条ほか)。

奈良の転害大路
転害門

旅館の活動は商売だけではありません。
京都と奈良のちょうど中間に位置する奈島宿(京都府城陽市)には魚屋という屋号の旅館がありました。この魚屋の亭主孫三郎はについて、
「康富記」は次のように記します。
「奈島や木津あたりにある大炊寮惣持院領の年貢米を請け取って、大膳職に渡している人物」
探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -3 道標「梨間の宿」・梨間賀茂神社・深廣寺 | 遊心六中記 - 楽天ブログ

京都の近郊には、一つの所領といっても一ヵ所にまとまって存在しているのではなく、耕地があちこちに点在している型の所領が多く、年貢を集めるのも容易ではなかったようです。南山城各地に散らばっている大炊寮領の年貢のとりまとめを、魚屋が請け負っていたというのです。これも多数の馬や人夫、近隣の同業者との連絡網などがあって、はじめて可能なことです。
旅館のこうした機能に、地域的の権力者が目をつけないはずがありません。
播磨の二木宿の長者小川氏は、室町時代にすでに守護赤松氏の被官となっています。そして、みずから赤松氏の人夫催促使を勤めてもいます。人夫の元締めのような存在である小川氏を催促使とし取り込んでおいたほうが領国経営には有益だったのでしょう。

 十六世紀のはじめごろ、摂津の西宮宿には橘屋という旅館がありました。
    天文十二年(1543)、西官の近傍の久代村(兵庫県川西市)に池田氏から段銭が課されます。池田氏とは池田城に拠って北摂津を支配していた国人です。段銭賦課の名目は分かりませんが、おそらく毎年賦課されていた定例の段銭だと研究者は考えいます。暮れになって、段銭奉行の使者田舟五郎兵衛が徴収にまわり、久代村は段銭のほか奉行や奏者への礼銭など合わせて12貫余を納入しています。納入の場所は「西宮橘屋」です。翌年の記録にも、屋号は記されていませんが「西官へ納めた」と記されています(「久代村旧記」)。
ここからは、池田氏の使節は段銭徴収のために領内の村々を巡っていったのではないことが分かります。旅館にやってきて、近くの村々から段銭を持参させていたのです。領内に自前の在地支配の拠点をもたない池田氏は、保護する旅館を利用して、そこで納税業務を処理していたのです。旅館が「納税臨時出張サービス」的な役割を果たしています。旅館にはこのような準公的な顔もあったようです。

以上をまとめておきます
①中世後半のの山陽道には「宿の長者」が経営する旅館が姿を見せるようになった
②「宿の長者」は旅館経営以外にも、人夫の募集や馬借など多角経営を行い金融業者に成長して行く者もいた。
③彼らは街道沿いの同業者と婚姻関係などを通じて人的ネットワークを形成し、広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していった。
④「宿の長者」の持つ力に着目した戦国大名達は彼らを取り込み、支配拠点として利用するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。


 院政期に法皇や中央貴族たちの間で爆発的な流行を見せた熊野巡礼は、鎌倉時代になると各地の武士の間でも行われるようになります。さらに南北朝以後になると、北は陸奥から南は薩摩・大隅にいたるまでの多くの武士、都市民、農民、漁民たちが熊野に向かうようになります。貴族たちのきらびやかな参詣の例があまり知られていないためか、院政期の熊野詣に比べると影が薄いようです。しかし、いろいろな階層の人々の間に熊野巡礼が広まり、「蟻の熊野詣」といわれるような状況が現れるようになるのは、むしろ中世後半だったのです。そんな熊野詣で姿が一遍絵図には、何カ所にも描かれています。

一遍絵図 太宰府帰参3
一遍絵図 市女笠・白壺装束姿の熊野詣での旅姿

巡礼者たちは自分たちの力だけで熊野に向かったのではありません。
そこには熊野の修験者たちがつくりあげた巡礼の旅の安全を保障するシステムがありました。厳しい山岳修行による霊力獲得の信仰と、海の向こうの観音浄上で永遠に生きようという補陀落信仰の結びついたのが熊野信仰です。この信仰は、紀伊半島の山岳が本州最南端の海に落ち込む熊野という地に誕生しました。そこには修験者、時衆、聖など呪術的で、いくぶんいかがわしさも漂わせたいろいろな宗教者たちが集まり、そして各地に散って行きました。
 彼らは先達と呼ばれ、それぞれの地域において、人々に熊野の霊験あらたかなることを説いて信者とします。さらに獲得した信者を熊野参詣に勧誘するという活動を展開するようになります。先達は、信者との間に生涯にわたる師檀契約を結び、それは子孫にまで受け継がれていきました。
熊野信仰の諸相 中世から近世における熊野本願所と修験道 | 小内 潤治 |本 | 通販 | Amazon

熊野には、三山と総称される本官、新宮、那智山の三つの聖地がありました。
それぞれの聖地には御師と呼ばれる人々がいます。彼らは参詣者を自分の坊に宿泊させ、滞在中の食事の世話や、聖地での道案内などを行います。
中世の熊野御師としては、本宮の高坊や音無坊、那智の廊之坊などがよく知られています。
各地の先達は、それぞれに特定の御師と契約を結んで、三山にやってくると、馴染みの御師に参詣者の世話を任せます。先達とは、今日風にいえばツアー・コンダクターの役割を果たしていました。本山周辺の旅館と専属契約を結んだツアコンたちの案内によって、全国からやって来る熊野参詣者の旅が可能だったとも云えます。

熊野御師 尊称院

 先達と檀那の関係がツアコンと違うのは、両者には師弟関係以上のものがあったことです。
信者は何ヶ月にもわたる旅路の中で、先達の毎日の姿を見て畏敬の念を抱くようになります。信者たちが先達を怖れていたことをうかがえる文書も残っています。しかも契約制ではありません。一度結ばれた関係は死ぬまで続きます。破棄できないのです。死んでも子孫に世襲されていきます。
 信者たちの精神世界において先達の占める割合は大きかったのです。熊野参拝に同行した先達を信頼した檀那は、パトロンとして庵や院を建立し、先達を院主として向かえるようにもなります。こうして熊野行者が熊野神を勧進し、彼らが院主として住み着く山伏寺(山岳寺院)が四国の聖地や行場に姿を見せるようになります。それが四国霊場に発展していく、という筋書きのようです。 この場合、行場だった奥の院には不動明王が、里下りした里寺には薬師如来が本尊として祀られるというパターンが多いようです。
 豊楽寺薬師堂 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
豊楽寺の薬師堂 
熊野詣での巡礼者は、どんな施設に宿泊したのでしょうか。
 土佐の熊野参拝ルートの一つとして考えられているのが、現在の国道32号線のルートです。このルートには豊永の豊楽寺や新宮の熊野神社に代表されるように、熊野系寺社が点在します。これは、初期の熊野行者の土佐への進出ルートであったことを物語るようです。熊野詣でには、このルート沿いある寺社が宿泊所として利用されたようです。熊野神社や山岳寺院は、熊野詣での宿泊所でもあり、修験者の交流所や情報交換所の機能も持っていたことになります。吉野川沿い撫養まで出て、そこから熊野に渡ったことが考えれます。
豊楽寺釈迦如来坐像(彫刻) | 大豊ナビ
豊楽寺の薬師如来
 この他にも修験者や禅僧のように諸国を遍歴する宗教者を宿泊させる施設として「接待所」とよばれる建物があったようです。また、四国八十八ヵ所巡礼路沿いに「旦過」という地名が多く残されています。旦過とは、もともとは禅寺で遍歴修行中の雲水を宿泊させる施設でした。それが聖地巡礼者や行商人のための簡易宿泊所も指すようになったようです。

滝沢王子
滝沢王子 

熊野参詣の場合には、参詣路のあちこちに「王子」と呼ばれる祠がいまでも残っています。
南部王子(和歌山県日高郡南部町)の故地近くには、今は丹川地蔵堂と呼ばれる小さな堂が建っています。熊野参詣路にも巡礼者のための「旦過」があったことがうかがえます。先達に率いられて熊野を目指す信者たちも、こうしたお堂を利用していたようです。
終わりかけの梅の花(熊野古道紀伊路 切目駅~紀伊田辺駅) / よもぎもちさんの熊野古道紀伊路その3の活動日記 | YAMAP / ヤマップ
丹川(旦過)地蔵堂
接待所も旦過もお堂のような粗末な建物で、旅行者の世話をする人もいなかったはずです。これが四国遍路の遍路小屋に受け継がれて行くのかもしれません。どちらにしても風呂に入って、布団に寐て、ご馳走を食べてと云う寺社詣でとは、ほど遠い設備や環境でした。熊野詣では修行であり、苦行の性格が強かったとしておきましょう。

一方では、中世後期には常時営業している旅館も登場してきます。
それは伊勢参詣路に多く見られます。鎌倉時代になると神仏混淆が進む中で、伊勢神宮自らが「伊勢の神は熊野権現と同体である」との主張するようになります。民衆に広がった極楽往生願望を伊勢が吸収する説が広められます。その結果、鎌倉中後期以後、難路のつづく熊野参詣より簡単にお参りの出来る伊勢は、急速に参詣者を拡大していくようになります。
 室町中期の禅僧太極の日記には、備州の村民たちが共同で米穀を拠出し、それを運用した利潤で伊勢参詣の旅費に充てようとしていたところ、運用を委ねられていた者が私的に流用してしまったという記録が残っています(『碧山日録』寛正三年八月九日条)。
 ここからは、岡山の農村社会でも伊勢参詣の講が結ばれていたことが分かります。
室町時代には、足利義満、義持ら将軍が盛んに伊勢参詣を行います。
将軍等が伊勢参りを行うと、京都の貴族、武士、僧侶の間で拡がり伊勢講がつくられるようになります。熊野詣でに、取って代わる流行です。伊勢外宮の門前の山田(伊勢市)には、御師たちの経営する宿坊が軒を連ねるようになります。
日本人の原風景Ⅱお伊勢参りと熊野詣 - 株式会社かまくら春秋社

どうして伊勢参りに人気が出たのでしょうか
  熊野参詣には難路を歩くという苦行的要素があり、参詣者にもそれを期待するようなところがありました。先達も宗教的威厳に満ちた「怖い人」で、修行的でした。それに対して、伊勢参宮は観光的な要素が強かったようです。また後発組の伊勢参詣路には、整った宿泊施設が用意されるようになります。お堂や寺社の接待所に泊まるのとは違った楽な旅ができたようです

室町期の伊勢参詣を記した太極の参詣記録を見てみましょう。『碧山日録』
長禄三年(1459)春、太極は伊勢参詣に出かけます。太極は京都・東福寺の僧ですが、五山の禅林の中では、それほど高位の僧ではないようです。伊勢行きに同行したのは、若い四人の弟子たちです。
京都から琵琶湖岸の松本津(滋賀県大津市)に出、
舟で対岸の矢橋(同草津市)に渡ったのち陸路で草津に到着、旅館で昼食をとります。ここで瀬田橋周りのルートを騎馬で追いかけてきた一族の武士たちと合流しています。その日の宿泊は近江の水口(同甲賀郡水口町)です。
翌日は雨の中、鈴鹿山を越えて坂下(鈴鹿郡関町)に出ますが、疲労のために急遽、窪田(同津市)の茶店で宿泊しています。
翌日は雨も止み、茶店で馬を借りて、遅れを取り戻すかのように、一気に山田まで行きます。伊勢神宮では、外宮、内官に参拝をすませると、山田での宿泊はわずか一泊で帰途につきます。
復路の初日は安濃津(津市)、二日めは水回の旅館に宿泊しますが、太極は足をすっかり痛めてしまい、水口で馬を借りて草津に到着しています。舟で松本津に渡ると再び馬を借りて、京都に帰着しています。

 ここからは参詣路上に宿泊場所や食事を提供したり、馬を貸し出したりする旅館があったことが分かります。もちろん馬子つきです。
江戸時代のお伊勢参りの浮世絵に出てくる光景が、いち早く生まれていたことがうかがえます。
江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬 | 粋なカエサル

江戸時代のお伊勢参り 馬子の曳く馬に3人乗り

太極の旅より37年前、応永29年(1422)に中原康富ら下級貴族たちの仲間が伊勢に参詣しています。『康富記』
初日は昼食が坂下、宿泊は窪田。
2日めは昼食が飛両(三重県一志し郡三雲町肥留)、
宿泊は山田。
帰路の初日は窪田で昼食、坂下で宿泊。
3日めは水口で昼食、草津で宿泊。
太極の旅程と比べると休憩地、宿泊地ともによく似ています。その他の伊勢参詣の記録をみても、旅程は同じです。ここからは、室町半ばには伊勢参詣には、定まった旅程のパターンが成立していて、参詣客をあてこんだ宿場が形成されていたと研究者は指摘します。

伊勢詣で 御師宿の客引き
伊勢御師の宿の出迎え(江戸時代)
室町時代には、宿の予約システムもあったようです。
永享二年(1430)2月、前管領畠山満家の家臣が奈良を訪れ、定宿である転害大路(奈良市)の旅館藤丸に宿を取ろうとしたところ、

「きょうは伊勢参詣の旅人が泊まるという先約がある」

という理由で断られてしまいます。(『建内記』永享二年二月二十三日条)。結局伊勢参詣の客は来ず、宿泊を断られた畠山の家臣たちは怒って藤丸になぐり込み、大路の住人を巻き込んだ刃傷事件になります。ここで研究者が注目するのは、伊勢参詣の旅人が何日も前から、藤丸に宿泊の希望を告げていたということです。室町時代の中ごろ、旅館に宿泊予約をしておくというシステムがすでに成立していたことがうかがえます。
 どんな人々が旅館を経営していたのでしょうか。
鎌倉時代の史料に、宿の長者と呼ばれる者がでてきます。網野善彦氏は宿の長者を次のように記します
「宿の在家を支配し、宿に住む遊女、愧儡子などの非農業民を統轄していた者」

長者自身が旅館の経営者でもあったようです。
『吾妻鏡』建久元年(1190)十月の源頼朝上洛記事には、
頼朝の父義朝は、東国と京都を行き来するたびに美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)の女長者大炊の家に宿泊していた。それが縁で大炊は義朝の愛人となっていたことが記されています。
また文和二年(1353)、南朝軍に京都を攻略され、美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)まで落ちのびた足利義詮も長者の家を宿泊所としています。ここからは宿の長者の家が旅行者の宿として利用されていたことが分かります。

    そういう目で金刀比羅宮を見ると、近世に成立した門前町に宿を開いたのは、金比羅信仰を広めた天狗信仰の山伏(修験者)=先達たちが多かったようです。彼らは各地で獲得した信者を、自分の宿の常客としたのかもしれません。金比羅にも熊野・伊勢信仰につながるシステムが継承されていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


勧善寺 遠景
勧善寺(神山町)
 
徳島県神山町の四国霊場焼山寺の近くに、勧善寺という寺院があります。
ここには、南北朝時代末期に書写された大般若経が伝えられていて、今でも転読儀礼に用いられているようです。今回は、勧善寺の大般若経を見ていくことにします。テキスト長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義」です。

大般若経は全部揃うと600巻にもなる大巻のお経です。これが疫病封じなどにも効き目があるとされ、これを読経することで様々な禍を封じ込めることができるとされました。そこで、地方の有力社寺の中には、大般若経を備えようとするところがでてきます。その際の方法としてとられたのが、多くの僧侶が参加する勧進書写方式です。元締めとなる僧侶が、周辺地域の寺院に協力を求めます。さらに熊野詣でなどの折りに知り合った僧侶にも協力依頼を行います。こうして、何十人という僧侶の参加協力を得て、大般若経は完成していったようです。

「大般若経 転読」の画像検索結果

 600巻を全部読経すると大変なので「転読」というスタイルがとられます。お経を上から下に扇子のように開いて、閉じることを繰り返し、読経したことにします。この時に、お経から起きる風が「般若の風」と云われて霊験あらたかなものとされたようです。こうして、般若心経を揃えて「般若の風」を地域に吹かせることが、その寺社のステイタスシンボルになりますし、書経に参加したり、主催することで僧侶の名声にもつながります。この時代に讃岐で活躍した善通寺復興の祖宥範や、東讃の増吽も勧進僧であり、書写ネットワークの中心にいた人物だったことは以前にお話ししました。


勧善寺 地図

  神山町の「勧善寺大般若経」の成立背景を要約すると次の通りです。
①もともとは柚宮(ゆうのみや)八幡宮の二之宮八幡神社に奉納されたもの
②それが神仏分離で明治初年に勧善寺に移された
③分散的書写されていて、写経所となった寺社等は19か所、写経者や願主などの関係者も43名になる。
④写経所の分布は、柚宮八幡宮の近辺を中心に、鮎食川流域の大粟山周辺が多い
⑤徳島市や佐那河内村、石井町や鴨島町でも書写されている
⑥さらには讃岐(さぬき市)の遍照坊や岡坊でも写経され、国境を越えた広がり見られる
⑦写経期間は至徳四(1387~89)足かけ三年でおこなわれた
 書写は大粟山の鎮守とされる上一宮と神宮寺のような地域の有力な寺社もありますが、「坊」と記された小規模寺院(村堂?)も含まれています。ここからはいろいろな寺社等が、写経事業と通じて結びつけられていたことが分かります。また具体的な個人名としては宴隆のように、全国の行場を修行して四国辺路修行を行ったような修験者(山伏)も参加しています。これらの地域を結びつけ「地域間交流の接着剤」の役割を果たしていたのが遍歴の辺路修行者や山伏であったようです。

研究者が注目するのは巻208の奥書で、次のようなに記されています

勧善寺大般若経」208巻
勧善寺大般若経 巻208の奥書
(尾題前)
宴氏房宴隆(書写名)
(尾題後)
嘉慶二年初月十六日般若並十六善神
三宝末流、瀧山千日、大峰・葛木両峯斗藪、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼水木石、天壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者、為法界四恩令加善云々、
後日将続之人々(梵字ア)(梵字ビ)(梵字ラ)(梵字ウン)(梵字ケン)」金剛資某云々、熊野山長床末衆
ここからは次のようなことが分かります。
①嘉慶二年(1388)の年紀がある
②この巻の筆者は宴氏房宴隆
③宴隆は「三宝院末流」の「熊野山長床末衆」(山伏)
④自分の修行遍歴を、次のように記しています。
①瀧山千日
②大峯(大峰山)・葛木(葛城山)両峯斗藪
③西国観音三十三所
④海岸大辺路(四国大辺路?)
⑤所々巡礼水木石(?)
 宴隆は以上のような修行遍歴を積んだ上で、この地にやって来て大般若経の書写に参加したことが分かります。この中で研究者が注目するのは④の「海岸大辺路」です。平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」には次のように記します。

 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は 伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

ここからは、仏教修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたようです。同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、次のように記します。

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
意訳変換しておくと

われらの四国修行の様は、忍辱袈裟(にんにくのけさ=あらゆる侮辱や迫害に耐え忍び、恨みを持たない精神性を、身を守る法衣)を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく破れ、四国の辺地を常に歩くことだ

ここからは修行者が笈を背負い、衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたと記します。平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場は、次のような所です。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」という風につながって行くと研究者は考えているようです。
こうして見ると宴隆が修行地履歴に記す「海岸大辺路」は、「海岸=四国」で、後の四国遍路の原型となる「四国大辺路」を指しているようです。熊野行者の修行場リストには、「両山・四国辺路十斗藪」「滝山千日籠」や「両山斗藪、瀧山千日、笙巌屈冬籠、四国辺路、三十三ケ所諸国巡礼」と記されることが多いようです。大峰・葛城山系での山林修行と「四国辺路」はセットとなっていたこと、さらに、「観音三十三ケ所諸国巡礼」も、彼らの必須修行ノルマであったことが、ここからはうかがえます。どちらにしても、宴隆は各地の行場を訪れて、修行を重ねていたプロの修験者だったことを押さえておきます。

勧善寺 巻210
              勧善寺大般若経 巻210の奥書

 巻210巻です。この奥書にも「金剛資宴氏房」とあります。同じ大般若経の巻201に「宴氏房宴隆金剛資」とあり、巻206には「金剛資某」とありますが、これらは宴氏房宴隆のことで同一人物と研究者は判断します。
 宴隆は自分の所属寺院を「三宝院末流」の「熊野山長床衆」と記します。
三宝院とは聖宝が開いた醍醐寺三宝院のことで、近世には修験道当山派の拠点となる寺院です。また熊野山長床衆の「長床」とは、護摩壇の別称で、いつしか熊野修験者たちの拠点とする堂舎を指すようになります。ここからは宴隆が「醍醐寺三宝院の末寺 + 熊野山長床衆」の一員であると名乗っていることになります。彼は熊野行者で、醍醐寺の真言僧侶でもあったことが分かります。推測すると彼に中には「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 聖宝信仰」があったと思われます。
宴隆がかかわった巻について見ていきましょう。
宴隆の名前が記されているのは巻201~206、208、210の8巻のようです。その中で巻201・204の2巻は、経文と奥書が同筆なので、宴隆自身が写経したようです。しかし他の6巻は、経文と奥書の筆跡が異なると研究者は指摘します。そこで研究者が注目するのが、巻202・210の奥書です。そこには次のように記されています。
(巻202)
宴氏房宴降
宇嘉慶元年霜月一日  後見仁(人)光明真言 澄弘三十八
(巻210)
金剛資宴氏房
於阿州板西郡吉祥寺書写畢 右筆侍従房禅齊
ここでは巻202には「後見仁(人)」として澄弘が、巻210には「右筆」として侍従房禅斉がそれぞれ名を連ねています。ここからは宴降の呼びかけ(勧進)に澄弘や禅斉が賛同(結縁)し、経巻を書写・本納したことがうかがえます。ここで注意しておきたいのは、巻210は「板西郡吉祥寺(現在の板野町西部」で、大粟山(神山町)の外で書写されていることです。ここからは宴隆が大栗山に留まっているのでなく、阿波国内を移動して活動していたことが分かります。巻208以外にも、経文と宴隆による奥書の筆跡が違う巻があります。これらは二巻と同じような写経形態がとられたようです。
 以上からは、宴隆は自分で写経を行うとともに、書写勧進も行うなど、大般若経書写事業に深くかかわっていたことがうかがえます。そんな人物がどうして、勧善寺にいたのでしょうか?

「焼山寺」の画像検索結果
焼山寺
  大粟山と焼山寺
 宴隆が大栗山(神山町)の住人だったかどうかは分かりません。しかし、熊野長床衆であることから、熊野行者として熊野と阿波の間を往来していたことは確かです。先達活動を行う熊野行者だったかも知れません。そのため熊野詣でを通じて、地域を越えた行者(真言僧侶)の知人も多く、人的なネットワークを持っていたことが考えられます。そのネットワークが書写活動に活かされていたのです。これは、与田寺の増吽の場合と同じです。増吽から約百年後のことになります。
 もうひとつの謎は、宴隆の出自です。
彼はこの地の出身ではなく、外から入り込んだ可能性があるようです。そうだとすると、どうして大栗山にやってきたのでしょうか? そこで周辺を見回すと、近くに四国霊場十二番札所の焼山寺があります。この寺は大栗山の山ひとつ東にあります。

「焼山寺虚空蔵菩薩」の画像検索結果
焼山寺の大師像
 「阿波国大龍寺縁起」(13世紀後半成立)には、「悉地成就之霊所」を求めた空海が、「遂阿波国到焼山麓」で修行を行ったとされる聖地で、そのため弘法大師伝説の聖地として、修験者には憧れの地になっていたことは以前にお話ししました。
また、『義経記」(14世紀成立)の「弁慶山門(を)出る事」に、弁慶が阿波の「焼山、つるが峰」を拝んだとあります。ここからもこの山が阿波国でも有数の霊山としても知られていたことがうかがえます。
焼山寺の性格を考える上で参考になるのが、同寺所蔵「某袖判下文」(正中二年(1325)です。
(袖判)
下 焼山寺免事
 合 田式段内 一段 一段 (蔵王)権現新免 虚空蔵免
 蔵王権現上山内寄来山畠内古房□東、任先例、
蔵王権現為敷地指堺打渡之畢、但於四至堺者使者等先度補任状有之、右、令停止万雑公事、可致御祈蒔之忠勤之状如件、
正中二年二月 日                                     宗秀
ここには焼山寺に対し、田一反に賦課される万雑公事の免除と祈祷の命令が行われています。田の内訳は「権現新免」「虚空蔵新免」の各一反です。この文書に蔵王権現堂のことが記されていることから、新たに免田が設定された「権現」は蔵王権現だと分かります。このように14世紀の焼山寺では、 信仰の核は蔵王権現と虚空蔵菩薩であったようです。現在もこの寺の本尊は虚空蔵菩薩で、焼山寺山にある奥の院に祀られているのは蔵王権現です。

「焼山寺奥の院」の画像検索結果
焼山寺奥の院 蔵王権現を祀る

役行者・蔵王権現像の登場と修験道の成立

蔵王権現が、役小角とセットで修験者の信仰を集めるようになるのは、古代のことではなく中世になってからのことです。それは役行者が中世以降に修験道の開祖に仮託された後のことです。同時に蔵王権現の信仰は、山岳修行僧と深くかかわっています。
 
焼山寺 虚空蔵菩薩
         焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩 (修験者の手造り感が強い)

 また、虚空蔵菩薩については、空海がその著『三教指帰』において、若い頃に焼山寺で虚空蔵求聞持法を修したと記しています。それを弘法大師行状絵詞は次のように記します。

空海の山林修行

こうして真言系修験者たちからは「焼山寺=若き空海の行場=聖地」として捉えられるようになります。これは善通寺の我拝師山が「空海の捨身行の行場として人気があったのと同じでしょう。歌人で有名な西行も我拝師山にやってきて、庵を結んで修行しています。同じような行動パターンととしておきます。真言宗では弘法大師にならって虚空蔵求聞持法を行う山岳修行者が多かったようです。こうして虚空蔵菩薩信仰と修験道の関係も深くなっていきます。
以上から鎌倉時代後期頃の焼山寺は、「弘法大師 + 蔵王権現 + 虚空蔵菩薩」という信仰対象が並立する霊山で、真言系修験者からは人気の行場であったとしておきます。このような修行聖地は醍醐寺三宝院流の山伏である宴隆を惹きつける力があったのでしょう。そのため多くの修験者たちが宴隆のように、周囲の堂や庵に生活していたことが想像できます。同時に、彼らは熊野行者として先達業務を生業としていたことが考えられます。

勧善寺 と焼山寺地図

  さらに、焼山寺には次のような熊野信仰の痕跡も残ります
①は鎌倉末期から室町時代にかけての熊野系懸仏
②澄禅の「四国辺路日記」には、焼山寺は「鎮守は熊野権現」と記される
このように焼山寺に残る熊野信仰の痕跡は、宴隆のような熊野行者の活動の反映かも知れません。そういう目で見れば先ほど見た巻208奥書の記述は、熊野行者としての宴隆の活動を記したものとして自然なものと納得が出来ます。
 熊野行者としての宴隆は、どんなルートで熊野へ詣でていたのでしょうか?

中島田遺跡は、この「倉本下市」の集落

 中世阿波の熊野信仰は、吉野川水運と深く関係していると研究者は指摘します。大栗山は吉野川の支流である鮎喰川の上流になります。この川を下ると阿波国府に出れます。鮎喰川が大栗山と外部の世界をつなぐ道でした。勧善寺大般若経の巻321奥書には「嘉慶 2年(1389) (中 略)阿州名東庄倉本下市」と記されています。ここからは南北朝末期の頃に、現在の徳島市蔵本町付近に市が立っていたことが分かります。このことは中島田遺跡に近接する「倉本」の地が、荘園市場 として機能 していたと同時に、この地が交通上の要地にあり、物資の集散が活発に行われていたことを示しています。それを裏付けるのが、国産・大陸産の陶磁器をはじめ、豊富な出土遺物が出てきて、鎌倉時代後期から南北朝時代における阿波の流通の様相が知られる中島田遺跡です。この遺跡が「倉本下市」と研究者は考えています。ここでは、鮎喰川が人や物資の往来の道としても機能していたことを押さえておきます。宴隆も先達として熊野へ詣でるときには、檀那衆をつれて鮎喰川を下って、吉野川河口に出て行ったとしておきます。
勧善寺の大般若経が完成して約50年を経た天文21年(1552)の「阿波国念行者修験道法度」を見てみましょう
この史料は、阿波国北部の十九か寺(坊)に所属した「念行者」といわれる有力山伏の結合組織があったことを示すものです。これらの山伏は熊野先達でもあり、それぞれの所属する寺院(坊)は熊野信仰にかかわったものが少なくないとされます。従来は、寺院(坊)の分布が古野川下流域を中心にあることが強調されてきました。

勧善寺 地図
 しかし、視点を変えて大栗山との関連という視点でみていくと、鮎喰川流域の密度が高いことに気付きます。下流から挙げると、田宮妙福寺、蔵本川谷寺、矢野千秋房、 一之宮岡之房、大栗阿弥陀寺の五か寺(坊)があります。これは、鮎喰川やその沿岸が熊野信仰の道でもあったことを反映しているようです。当然、そこは熊野系山伏らの活動エリアでもあったのでしょう。
以上からも、大栗山への熊野信仰の浸透に、鮎喰川の果たした役割は大きいといえます。そうすると

大栗山―鮎喰川―吉野川―紀伊水道―紀伊半島

というコースが、宴隆が熊野への道としてたどったルートになります。

神山町に残る勧善寺所蔵大般若経巻208奥書は、当時の熊野行者の活動と熊野信仰の浸透、それが四国霊場焼山寺に与えた影響を考える上での根本資料であることが分かります。
以上をまとめておきます。
①勧善寺の大般若経は、嘉慶二年(1388)に、熊野行者の宴隆につながる行者ネットワークの手で作られた。
②宴隆は「弘法大師信仰 + 虚空蔵信仰 +熊野信仰 + 聖宝信仰」を持ち、各地の行場で修行を重ねた真言系修行者であった。
③宴隆は、熊野詣でなどで培った行者ネットワークを利用して、宍喰川流域の行者たちに書写を呼びかけた。
④宍喰川流域は、四国霊場で若き空海が虚空蔵求聞持法を修したとされる焼山寺があり、多くの行者たちが集まってくる行場の聖地でもあった。
⑤また宍喰川と吉野川を通じて、阿波の国府や海瑞城などともつながり人とモノが行き来していた。
⑥戦国時代に入って社会混乱が深まり熊野詣でが衰退すると、宍喰川流域の修験者たちは、誘引先として石鎚や剣山へと転換し、庚申信仰などを通じて里への定住をはかるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義
関連記事 

増吽 水主神社jpg

  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
この神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。水主神社はその名前からも分かる通り、もともとは水源の神を祀った神社だったようです。三豊の二宮川上流の大水上神社と性格がよく似ています。そこへ中世になって、熊野三所権現が勧進しされて、併せて祀られ同体とされるようになります。つまり、地神が水主神、客神が熊野権現ということになります。

水主三山 虎丸山

 水主神社の「大水主大明神和讃」は、中世の水主神社知る上では貴重な資料です。熊野信仰との関係がどのように記されているのかを見てみましょう。。
従孝霊天皇元年、至応永十七庚賞一千六百三十四年。
親依明神之御託宣直以和讃二結玉フ。又熊野与明神一外之事ハ、依熊野ノ若殿ノ御託宙、除今宮五郎殿ノ段、熊野本宮結御前与明神同一之由直承之。我御山ニテモ、水主二テモ、雖有因呆之不同一口也 神言銘肝、結和讃給。
 北御前ハ 如本宮証誠 天神六代 此ハニ親大御前ハ 結御前 南御前ハ 早玉 熊野両所三所権現卜中モ 一所大明神卜中モ 一然卜云々
明応第五天卯月五日書之。是偏二大明神之神慮卜存也。其故ハ、愚僧此和讃ヲ先年所持之処、行方不知失畢。乃此年来五六ケ年之間、彼方此方雖尋申更不得遇事然処二、此本ハ地蔵院宥改、大水主山麓之砌、自社中申出、所持之乃今熊野任神慮苦写之畢。此和讃之趣興大水主差図縁起寸分相違之儀無之。但従安居院神道出ル処ノ水主ノ本縁起ニハ、相違之処多之。但神秘之儀式、能々思エハ、只秘事ヲ尽シタル迄ニテ、更々無相違云々。
  意訳変換しておきましょう。
孝霊天皇元年から応永十七(1410)年に、明神の御託宣によって、この和讃が完成した。
熊野と明神は一体であり、熊野の若殿の御託宙、今宮五郎殿ノ段を除き、熊野本宮の御前で明神と同一であることの由緒を承った。我山、水主においても、この二つを同一とすることは肝に銘じるべしと和讃は結んでいる。
 北御前は、熊野本宮であり 天神六代は 親大御前は 結御前 南御前は 早玉熊野両所三所権現とも、三所大明神とも申す。明応五(1496)年に卯月五日にこの書は書かれた。これは大明神の神慮である。それ故に、愚僧(宥旭)は、この和讃を先年より所持してきたが、行方不明となっていた。近年の五・六ケ年の間、見つからなかった。ところが偶然に、宥改が、大水主山麓の地蔵院のにあることお申出でてきた。さっそく手元に置いて、書写して和讃の趣と大水主差図縁起を比較してみたところ寸分の相違もなかった。ただし安居院神道の水主本縁起と比べると、相違する所が多い。神秘の儀式については、よくよく考えるに、ただ秘事を尽したるに過ぎず、更々相違はない。
ここからは次のような事が分かります。
①応永十七年(1410)に、明神の託宣によって、増吽がこの和讃を作成したこと
②大水主大明神と熊野三所権現とが一体であること
③明応五年(1496)に僧宥旭が、これを書き終わるとしている。
④安居院神道の水主の縁起とは相違するところが多い
⑤この和讃以外にも縁起が存在した
ことが述べられています。
この和讃については『大水寺山緒』では、増吽の作としています。
つぎに、水主神社所蔵の「水主神社社坊図」をみていきますが、残念ながら絵図はアップできません。悪しからず。
 この図は文政四年(1821)に石門露珍によって描かれたもののようです。水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアに多くの宗教施設がひしめきあっている姿が描かれています。水主神社を中心にして本宮山・新宮山・那智山が描かれ、その山麓に数多くの寺院・庵・神社などが極彩色で細かく描かれています。それぞれに短冊形の銘記欄を設けて、寺院名や坊の名が墨書されていますが、墨書の部分が剥落していて分かりにくい状態です。後世の貼紙に墨で寺院名や坊名が記されているので、個々の名称を知ることができます。有難いことです。
 しかし、江戸末期にこれほどの建物がこの地にあったとは、考えられません。
「讃岐国名勝図会」の挿図と比較してみます。
水主神社 讃岐国名勝図会

ここには大水寺以外は、何も描かれていません。また次のように本文には記されています。

「往古は大内一郡の惣鎖守なれば、社家も七十五員、僧坊四十二宇ありて繁栄なりしが、(中略)さるにより社殿・境内は古のままなりといへども、社家・僧坊もあまた退転し、寺跡当村に所々に存せり」
「仲善寺跡、釈迦寺跡、孝徳寺跡、葉王寺跡、蔵坊跡、観通坊跡、念仏坊跡、多聞坊跡、新蔵坊跡、善福寺跡、その他三十四坊一々挙ぐるにいとまあらず」

 ここからは江戸時代末期には、寺跡を残すだけになっていたことが分かります。そのため文政四年の社坊図は、中世末の室町時代ころの全盛期の様子を描いた古図を模したものと研究者は考えているようです。作者の石門露珍も「臨写」したと記しています。「臨写」とは「手本を見ながら写す」という意味になるようです。
 そのような視点で「社坊図」をみると、「大水主大明神旧記」にある嘉古二年(1442)九月八日の「大水主社供僧座配之事」の記述と、一致していると研究者は指摘します。そこには、供僧名が次のように記されています。
宰相坊・薬王坊・党音坊・釈迦寺・円光寺・満蔵坊・宝幢坊・定光寺・持宝坊・玉泉坊・仲善寺・善福寺・孝徳寺・城琳寺・宝積坊・岡之坊・財林坊・北之坊・継養坊・聖無動坊・十輪寺・妙光坊・浄土寺・多聞坊・十乗寺・遍照寺・忠日寺。光善坊・本蔵坊・善勝坊・智海坊・宝住坊・高原寺・I蔵坊・念仏寺・慈尊坊・報恩坊・願成坊・国護坊・観通坊
これだけの院坊が水主神社の周囲にはあり、僧侶や修験者・聖が住持していたことになります。以上のことを頭に入れた上で、研究者は絵図を読み込んで、次のように指摘します。
①大水主神社を図の中央に大きく描き、参道には桜並木があり、赤い大きな鳥居が一基描かれる。
②その奥まったところに本殿や摂社などが並び、三重塔が傍らにみえる。いかにも神仏混淆の中世の伽藍らしい
③水主神社に隣接して大水寺がみられるが、その規模はかなり大きい。
水主神社 看板

ここからは水主神社の別当寺として、大水寺があったことが分かります。
私は、水主神社の別当寺は与田寺だったと思い込んでいたのですが、そうではないようです。水主神社の別当寺は大水寺であったようです。水主神社と与田寺がかなり離れているので、神仏分離後に与田寺が移動したのかなと思っていました。それなら大水寺と与田寺の関係はどうなるのでしょうか? 今後の宿題としておきます。

大水寺について『御領分中寺々山来』には、次のように記されています。
「大水主人明神之別当にて在之候、開基は知不申候、中古応永年中、増吽僧正再興、則自筆之棟札有之事」

とあり、増吽の棟札が残り、彼が再興したと伝えます。また『御領分中寺々由来』には大水寺の項に
「当寺開基詳ならず、初め社坊といいしを寛文の頃、今の寺号に改む」

とあり、大水寺というのは江戸初期ころからの寺号とします。
たしかに『大水寺大明神社旧記」には、
永享四年(1432)卯月十五日の御法楽には「水徳山神宮寺宝珠院」とあり、古くはこの寺が神宮寺と呼ばれていたようです。また水主神社の鳥居の下部に位置するところの数棟には、浄土寺と刻まれているようです。
  この浄土寺は「御領分中寺々山来」には
「水主山石風呂在之事  、弘法大師堂、代々堂守之寺にて有之候、文禄年中再興、共後元和年中再興棟札有之事」
とあり、次のような事が分かります
①水主の石風呂があったところにあった
②弘法大師堂があり、弘法大師伝説が伝わっていた
③その大師堂の堂守を代々勤めていた寺である
④元禄期に再興された

①については「社坊図」を見てみると、堂宇に隣接して小さな建物があります。これが石風呂になるのでしょうか。よく分かりません。

その後は『讃岐国名勝図会』の「弘海寺」の項目に「はじめ浄土寺といえり」とあるので、浄土寺から江戸時代の末期には弘海寺と改名していたようです。
大水寺の変遷を整理しておきます
①中世は水徳山神宮寺宝珠院
②鳥居には浄土寺
③江戸時代の末期には弘海寺
④その後、大水寺?
 この変遷を見ていると、ひとつの寺院系譜ではないような気がします。中世には水主神社に仕えた社僧の寺がいくつかあって、並立していたのではないでしょうか。彼らが寺の寺勢とともに別当職を交替して担当していたようにも見えます。

社坊図には、背後に大きな山が描かれます。
水主三山のようです。  水主三山とは水主神社を取り囲む虎丸山・那智山・本宮山の三山です。今でも「ミニ熊野三山巡り」のハイキングルートとして親しまれています。社坊図には、それらの山の頂きには、那智・新宮・本宮と注記され、鳥居と社殿がみえます。特に那智には、滝が流れ落ちています。熊野の那智の滝にちなんだデフォルメのようです。
水主三山 虎丸山

この他に銘記欄には、依守太夫・定吉・貞遠太夫・守重太夫・楠谷太夫などと記されます。これらの人物は『大水主人明神旧記』の文安元年(1444)の「大水主神人座配之事」の座配に出てくる人物名と同じです。
 社坊図には、数多くの寺院や坊が書き込まれていますが、□□坊と記される建物は、小さく簡素なものです。
ここに居住したのが水主神社を根拠地とする熊野修験者であったのではないかと研究者は考えているようです。中世には、与田山の若一王子権現社や水主神社を中心とする熊野信仰を背景に、東讃の地には熊野系の勧進聖や先達が数多くいたようです。増吽はそうした熊野先達の中心的な存在であったことは前回に見たとおりです。

増吽 那智山

 水主神社を囲むように配置された水主三山の熊野権現は、熊野三山を勧進したものです。
それを増吽を中心とする熊野勧進集団は信仰し、勧進活動を進め、この地に数多くの神仏施設を作りあげていったのでしょう。それは、建物や施設だけでなく教学センターや書経センターも含め、一大宗教センターとなり、「東讃の新熊野」として機能していたようです。そのような姿は、海を越えた備中児島の五流修験の活動と重なり合ってきます。増吽が児島の数多くの真言寺院を創建したと語り伝えられていることとつながります。

水主三山 那智山
水主三山の那智山からの瀬戸内海方面

以上のことから、与田山や水主の地は、五流修験の児島と共に熊野信仰の極めて盛んな霊地で、熊野信仰の四国の拠点として機能していたとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰

  増吽
倉敷市の蓮台寺旧本殿(現奥の院)に祀られている増吽上人

戦前には「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽には、熊野信仰と弘法大師信仰が重なり、いくつかの別の顔が見えてきます。
①熊野信仰にも傾倒する熊野系の勧進聖 廻国性
②弘法大師を深く信仰する真言宗の僧侶
③写経・工房集団を束ねる先達
前回は③の姿を追いかけましたので、今回は①の熊野信仰との関係を見ていこうと思います。
関西の力】祈りの場(1)熊野詣で 上皇も歩んだ「霊性」宿る参道 - 産経ニュース

 院政期から鎌倉時代にかけて、熊野詣が大流行するようになります。この流行をもたらす役割を担ったのが、熊野先達や熊野系の山伏・聖たちの勧進・布教活動でした。讃岐大内郡の与田山への熊野三山勧請を、増吽の時代のこととする説もあるようですが、香川県史はこれを否定します。増吽以前の、南北朝から鎌倉末期に遡るものという立場です。まず、熊野権現の与田山への勧進時期について確認しておきましょう。
増吽 水主三山

与田山の熊野権現勧進由来は、次のように伝えます

元弘年中(1331)、後醍醐天皇が捕らわれの身となり皇子大塔言(激趾親王)は、熊野へ落ち延び難を逃れようとした。その時、主従別行動することになり、その離別の瞬間に一羽の烏が西に飛び立った という。その烏は、神の導きとして与田山に飛来した。

烏の飛来は、熊野権現の使いを意味するものでしょう。ここからは、南北朝初期にはすでに与田山に、熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。

水主三山の那智山上空からの瀬戸内海
 水主三山の那智山上空からの瀬戸内海

 背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)の活発な交易活動と布教活動が展開」されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。
水主神社 地図
水主神社やその神宮寺であった与田寺が熊野信仰関わっていたことを示す史料を挙げてみましょう
①与田寺縁起には、観応二年(1351)の預所沙弥重玄の寄進状があり、祝師阿闇梨苦海に免田畠が寄せられている
②貞和2(1346)年の銘文のある棟木がある 
③応永十七年(1410)に増件が作ったとされる「熊野水主大明神秘讃』には、熊野三所権現と大水主大明神は同一体であると記されている。
④水主神社の「外陣大般若経」巻第八十八には「敬白泰法山川市大水主社 五所大明神御賢治等」とあり、「為熊野権現」とある。大明神とは『大水、五所大明神和讃』から、熊野三所権現を指すようです。

そして、水主神社が熊野信仰の拠点であったことを示すのが「若王子大般若経」巻第二百二十八です。ここには次のように記されます。
真敬白 組斗書写率、讃州大内郡与田山王子常住御経由、右執筆宥南無熊野権現当世成就、子時志永七年三月二十一日
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会)
ここには大般若経の書写成就を熊野権現に祈願しているのが分かります。増吽が言うように、当時の水主神社では、熊野三所権現と大水主大明神は、同一体であったことが裏付けられます。

 このほかにも若王寺の鎮守社与田神社には、平安後期から室町時代の熊野権現の本地を表した懸仏が伝わります。その後、文正年間や長亨年間に、大内郡の白鳥や引田の先達たちが檀那を導いて熊野詣でを行っている文書も残っています。以上からは、大水主社周辺では熊野信仰が人々の間に浸透していたことが分かります。
 大内郡に熊野信仰を持ち込んだのが熊野修験者たちでした。
その結果、水主神社周辺には修験道も浸透していたようです。それは以前にお話したように「内陣大般若経」が石鎚山から修験者によって運ばれたという「牛負い般若伝承」からもうかがえます。修験道の霊山・石鎚山から逮ばれたという伝承から、修験道との関係を読み取れます。
増吽(与田寺)
増吽(与田寺蔵)

 ここで増吽に再び目を向けましょう。
増吽は、このような熊野信仰や修験者が活躍する大内郡で生まれ、高野山で真言密教を学んでいます。当時の真言密教は山岳信仰と深く結びついていますから空海が行ったような山岳修行を僧侶達も行っていました。増吽もこの流れの中に身を投じたことが考えられます。その修行の中で、彼は多くの霊山や行場を巡り、人的なネットワークを形作って行ったのではないでしょうか。それは、増吽が勧進修験者への道を歩むことでもありました。
 
 「旧記』には、増吽が大水主・五社南宮を勧進活動により建立したと記されています。また熊野三山を水主に勧請したとも記されます。事実は別にして、当時周囲からは増吽が熊野系勧進僧として見られていたことがうかがえます。
茂木町の文化財「大般若経600巻他」
大般若経
 増件のもう一つの顔は、写経集団のリーダーであったことです。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、写経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの写経依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業の痕跡とも考えているようです。これが前回お話しした「北野社一切経」という大事業につながります。
 「北野社一切経」は、増吽の弟弟子の覚蔵院増範が大願主となっていますが、今見たように増吽を先達とする写経集団が背後にあったからこそできた事業でした。増吽だけでなく讃岐や阿波の僧侶たちがこの写経集団に加わっています。
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面

それでは、彼らと増吽を結びつけたものは何だったのでしょうか。
その精神的紐帯は熊野信仰にあったようです。増吽は、幾度となく熊野参詣を行い、厚く信仰したと伝えられます。彼が先達として行った熊野参拝の様子を伝える文書が、仁尾の覚城院文書の中に残っています。
先度、付使宣、進状候しに、預御返事候、乃熊野参詣之銭送給候、令祝着候、道中散銭候て、可致祈疇候者哉、事繁候、篤志誠以喜存候、今日十九日舟出し候ハんと申居候へは、五月雨水々しく候て、末天陰に天気待居候、経衆ハ廿人、於阿讃両州調之候、伶人両三人同じく参候、彼是如法経百日ハ管弦と申候て、伶人参詣事被申下候、毎事計会、可被察候、露命之習、秋までも存命候者、下向候て、可入見参候、何事御助成大切候、恐々
五月十九日                                                     増吽(花押)
覚城院御返報
意訳変換しておきます
先日の進状にお返事をいただきました。熊野参拝の費用について送銭いただき喜んでいます。道中は費用がかかり、祈祷なども頻繁に行っていますがいただいた篤志は、誠に喜びに絶えません。本日19日に、出港予定でしたが五月雨で天気が悪く、天候待ちとなっています。
 経衆20人、伶人(楽人)2~3人は、阿波と讃岐で調え同行予定です。如法経百日管弦のために、伶人(楽人)を伴って参詣するようにと云われているので、それを適えて参拝することができます。秋まで熊野に留まる予定ですが、帰国後は、また出向きます。その時にお会いできることを楽しみにしております。最後になりましたが、御助成いただきありがとうございます。

最後に「覚城院御返報」とあります。熊野参詣に際しての仁尾の覚城院からの餞別への返礼のようです。内容は、熊野参詣のため船出しようとした増件は、五月の長雨により足留めされているようです。
足止めされているのは、どこなのでしょうか? 
与田寺の外港の引田湊が第1候補です。先ほども述べましたが、当時の引田湊は熊野水軍の拠点湊でもあり、多くの舟が紀伊や熊野との間を行き交っていたようです。芸予諸島の大三島と熊野の間には「定期船」も運行されていたと考える研究者もいます。そのため引田湊は、伊予や讃岐からの熊野詣信者が舟に乗るために集まってくる集結地点であったと私は思っています。引田港の後にあったのが水主神社とその神宮寺の与田寺でした。増吽が先達として、経衆(書写スタッフ)20人、伶人(楽人)2人を引き連れて、熊野詣でに出発する湊にはふさわしい場所のように思えます。
 第2候補は、阿波の那賀川河口です。

水主神社 那賀川流域jpg
この周辺には、増吽の率いる経衆(写経スタッフ)が多数いたところでもあり、紀州との関係が深いところでもありました。増吽は逢坂峠を越えて、ここまでやって来て、紀州への船便を待っていたのかもしれません。その間に熊野詣でに参加するメンバーを整えていたことも考えられます。
 さらに、如法経百日管弦のため伶人も伴い熊野参拝するとあります。「如法経」とは、法華教を写すことです。この行事に参加するために、20名もの書写スタッフを引率しているようです。このような「集団写経遠征」は、熊野だけでなく備中や阿波などに向けても行われていたのではないかと私は考えています。各地で行われる大写経事業に、大勢のスタッフを引き連れて応援に駆けつける増吽の姿が私には見えてきます。そして、そこで何ヶ月か泊まり込んで、写経を行い完成式典に参加して帰国する。そんな活動を増吽は重ねていたという仮説を出しておきましょう。これも勧進聖のひとつの活動パターンだったのかもしれません。このような活動を通じて、増吽の人的なネットワークは広く、遠くまで張り巡らされ、それに連れて名声も高まったのかもしれません。
水主神社2(讃岐国名勝図会)
江戸時代の水主神社周辺(讃岐国名勝図会)
後世の江戸時代前期になると、増吽と熊野を結びつけた文書が増えます。
『御領分中寺々山来』には、つぎのように記されています。
熊野三所大権現を以て同鎮守と為す。増吽僧正恒に熊野三所を信す。始め毎歳熊野に参詣。応永年中熊野新宮再興。増吽幸に参詣あり、祝等増吽に遷宮の導師憑。増吽曰汝等来る午日寅の一天に。新殿に於て神体を遷す可し。予は亦讃州誉田に於て開眼供養す可しと。契証有つて、当院に帰る。件の日寅の一人に当院に供養有り。其の時増吽檀上にて振鈴の声虚空に響いて熊野山に聞くと。村翁の伝説也。将、当所水主山にして三双の高嶺有り。
増吽後に、この山に熊野三社を勧請し。当寺中に於て塩水湧出の泉を掘る。毎朝塩水にて垢離あって医王山の嶺に踏。勧請の三社を伏拝。則伏拝の松並塩水涌出の泉今に之れ在る也。
意訳変換しておくと
 熊野三所大権現を勧進して、鎮守とした。増吽僧正は、熊野三所を信仰し、毎歳のように熊野に参詣し。応永年中の熊野新宮を再興の際に、増吽は参詣した。その際に新宮の祝が増吽に遷宮の導師を依頼した。そこで増吽は次のように応えた。「午日寅の一天、新殿に神体を遷すべし、私はそれを讃州誉田(与田寺)で開眼供養します」と。参拝が終わり、讃岐へ帰って来ると、約束した日に、与田寺で供養を行った。その時、増吽が檀上で鈴を振ると、その音が虚空に響いて熊野山に届いたという。これが村翁の伝説である。当所には水主山という三双の高嶺がある。増吽は後に、この山に熊野三社を勧請した。そして、当寺の境内中に塩水が湧き出る泉を掘った。毎朝塩水にて、垢離をとり、医王山の嶺に登り勧請の三社を伏拝する。伏拝の松と塩水涌出の泉は、今に伝わっている。

また『虚空蔵院・大水寺由緒』の「増吽僧正は常に熊野権現を信ず」には、つぎのように記されています。
応永年中熊野新宮再興あり。其節増吽熊野に参詣ある。社務・巫祝など増吽を以遷宮の導師と頼み奉る。増吽の曰く 我れ国に有り遷官の法執行す。来る午の日寅の一人に神を新殿に移し奉る可しと。契諾有って帰国せり。去れば契約の日に増吽遷宮の供養の法を之れ執行す。共の時供養法の鈴の声熊野由に於て虚空に聞こえるム々。増吽自筆の棟札など新宮に之有リム々。また水主村において一所の高山有り。増吽老年の後、熊野一所権現を勧請して当寺の鎮守と為す。塩水を以垢離を取り、当山自り毎日これを伏拝す。当山に於て其塩水涌出の泉あり、又伏拝の所の松とて古本今に之有り。

 さらに「讃岐国大日記』は、増吽が熊野に「毎月参詣」したと記し、『御領分中寺々山来』には「毎年参詣」とあります。参詣の回数については誇張があるとしても、熊野に度々参話していたことは事実のようです。ここからは増吽が強い熊野信仰を持ち、先達を勤めるなど熊野修験者であったことが分かります。
次に増吽が熊野三所権現を、水主三山に勧請したということについて見ておきましょう
『讃岐府志』には、
  水主三山権現。大内郡に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。以、三山権現と為す。
『讃岐国人睡譜』には、
  増吽、常に熊野三社を信じて、月詣す、故に彼の三社を水主山に移し、毎日参詣而怠らず云々。

とあります。しかし、増吽以前から熊野信仰の痕跡が見えることは、前述したとおりです。つまり、増吽以前から水主神社には、熊野権現が勧進されていたと香川県史は記します。
これに対しては、次の2つの考え方が研究者の中にもあるようです。
①江戸時代初期に「増吽の伝説化」と共に、増吽勧進説が流布されるようになった。
②水主山には若一王子権現が古くからあったが、正式に熊野三所を勧請・再興したのは増吽である。
さてどうなのでしょうか。それを証明する史料はありません。
虎丸城 - お城散歩

増吽との関係で資料に記されているものに「石風呂」があります。
『水主石風呂記』(寛保三年( 1743)には、石風呂が次のように記されます
  また一説に熊野権現の風呂とも云う。水主村三高山ありて、南最高嶽の嶺に新宮大権(本地薬師)石の社建つ。西高嶽本宮(本地阿弥陀)、北の高根那智(本地観音)なり、この一の麓に三の石風呂ありしに、ただ新宮山下の風呂のみを償し、自他の人あつまり人治養す風呂の谷と名つせく、二所の風呂はいつとなく破壊す、ゆえに今の世の人、是を知らず。

ここからは次のような事が分かります
①水主村三高山には、
南の嶺に新宮大権 (本地薬師)石の社、
西高嶽に本宮 (本地阿弥陀)
北の高根に那智 (本地観音)の三者が山上に鎮座している
②三高山の麓に熊野権現の風呂と呼ぶ石風呂がある。
③新宮山下の風呂は、多くの人が集まり、人々を治養するので風呂の谷と呼ばれている
④その他の風呂は、いつとなく途絶えていまい、今は誰も知らない
虎丸城 - お城散歩

『讃岐府志」にも、同じような内容が次のように記されます
水主三山権現大内部に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。三山を以、権現と為す。旧一石室有り。温泉に擬し、痢疾の徒を療す。其法生柴を以、石室の内に焼き、然れば灰炭を払い、洒たに塩水を用い後、瘤者を延べ、而して石室の内に坐じめ。炎気酷烈する寸は則ち出る。この如くすること一日二三次、或るは七日を期す。沈病の者十に六七を全。皆謂う増吽か行感至りこの如く。死者起きせしむ。俗に岩風呂と曰く。(中略)
按ずるに往苦より影行有りと雖も、中絶に依り、増吽再興す。諸人歩を運び石室を見ること、三嶺の麓に各之在り、今風呂は新宮風呂なり。
  意訳変換すると
水主三山権現は大内郡に鎮座する。明徳年中に、僧増吽が新宮本宮那智の三所神を勧進し、三山を権現とした。そこに古い石室がある。温泉のようで、様々な疾病の人々を癒やす。その使用法は、生柴を石室の内で焼いて、その後で灰炭を取り除いて、塩水をまく。そこへ瘤者を入れて、石室の内に座らせる。炎気酷烈なので長くは居られない。これを一日に二・三回、七日程続ける。そうすると沈病の者でも、十人の内の六・七人はよくなる。増吽さまのお陰で、死者も生き返ると皆が云う。俗に岩風呂という。(中略)
 この歴史を考える古くから岩風呂はあったが、いつしか途絶えていたのを、増吽が興したのであろう。かつては、、三嶺の麓に三つの石風呂があったが、今は新宮風呂だけになった。
ここでも三山の麓に風呂があったが、今は新宮のみであることが記され、増吽が再興したとされます。

では、この石風呂はどのような意味をもっていたと研究者は考えているのでしょうか。
  以前に湯屋と風呂のちがいについて次のように分類しました。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
讃岐で古来から見られるのは②の温室(風呂)です。瀬戸内海の海岸部の岩屋では、海藻をつかって蒸風呂として利用したところがいくつか知られています。水主の石風呂は、熊野権現の風呂と言う別称があるように、このエリアの中世以来の熊野信仰と関係があります。神仏への参詣の前には、精進・みそぎがおこなわれましたが、水垢離(コリトリ)・塩垢離による熊野精進を熊野修験者は行いました。

熊野本宮参詣では昌之峰温泉でコリトリを行いました。
これと同じような関係が、水主の熊野三山と石風呂にもあったようです。水主の風呂は、中世の大内郡の人々や熊野への参詣がかなわない人々が、水主の本宮那智新宮の山麓に設けられた石風呂に入浴して三山詣を行ったのでしょう。
 山岳宗教では女人を不浄としましたが熊野神社は、女人を嫌いませんでした。水主の三つの風呂でも江戸中期まで、新宮風呂に入る女性に、弘海寺(浄土寺)で水除けの符を配て入浴させていたといいます。これを見ても水主の石風呂の起源は、中世まで遡るようです。近世になると、これら石風呂の宗教的な起原は忘れ去られ、湯治目的の温室としてのみ引き継がれていくようになります。
 中世の石風呂は、現在のように衛生・娯楽よりも宗教施設であったことは以前にお話しした通りです。熊野三所と熊野権現風呂を再興したのが増吽という可能性も、大いにあるようです。
以上、増吽を熊野修験者として捉え、熊野詣での先達、熊野権現の勧進、石風呂の設置などについてみてきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
   唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       香川史学1989年
 香川県史 

 修験道は、里人のお山信仰と深くつながっていたようです。今回は、修験と里人のお山信仰を比較しながら関連づけて行くことにします。テキストは   宮家準 修験道とお山信仰 修験道と日本宗教所収です 
 修験道には、お山を曼荼羅ととらえる世界観があります。
平安時代初期に成立した『大峰縁起』の中には、次のような仏教聖界が説かれます。
①吉野から熊野に到る大峰山系の吉野側が金剛界曼荼羅、
②熊野側が胎蔵界曼荼羅
③大峰山の峰々に金剛界、胎蔵界の各部の諸尊が配置
 胎蔵界という言葉から分かるように、お山を「母なる山」とし、そこで修行することによって再生するという宗教思想がすでに生まれていたことが分かります。

密教の教義では、曼荼羅は宇宙そのものを神格化した大日如来、すなわち宇宙の全体像をさすものとするようです。
この視点からお山を金剛界、胎蔵界の曼荼羅ととらえる「宇宙山」の思想が生まれます。宇宙山は世界の中心軸をなす黄金の山で、吉野の金峰山が国軸山、金の御岳と呼ばれるようになります。
しかし、これはすでに行者達によって存在していた山中他界観を密教の立場から説明したものに過ぎないように私には思えます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰(その1) 【寄稿文】 福江 充」 | ZIPANG-2  TOKIO 2020

 日常の世界とは違う「他界」としてのお山を捉え、そこを仏の世界とするとらえ方からは、密教的色彩の強いお山曼荼羅観が成立しました。もっとも早いものは、奈良時代末までさかのぼるもので、お山や海岸近くの岬などを観世音菩薩の補陀洛の浄土とする信仰です。
熊野の那智山
東北の月山
関東の日光
四国の足摺岬
大和の松尾山
などが修験道の行場としてさかえます。
瀬戸内海に着き出した岬や海岸などが補陀洛浄土の出発地点とされ十一面観音などの観音がまつられている所は、讃岐にもいくつかあります。東から志度寺、屋島寺、根来寺、郷照寺、道隆寺、海岸寺、観音寺などは補陀洛信仰の痕跡がうかがえます。
兜率天とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
弥勒菩薩の治める兜率天
 次いで平安時代になり、末法思想が盛行し弥勒菩薩の信仰が人々の心をとらえるようになちます。
そうするとお山を弥勒菩薩が説法している兜率天の四十九院とする信仰が生まれてきます。
平安時代末期の『諸山縁起』は、大峰山の内に四十九院があるとしたり、『彦山流記』に彦山四十九窟があると説くのは、こうした弥勒信仰からきているようです。
やがて浄土思想が流行するようになると、お山に阿弥陀の浄土が描かれるようになります。熊野本宮や白山など阿弥陀如来を本地物や本尊とする霊山は、多いようです。
古代の人々は、お山を死霊・祖霊の居所と信じていたと民俗学者は云います。
 観音の浄土補陀洛を信じる人々は、遠く中国の舟山諸島にあるとされた補陀洛に往生することを願って、那智や足摺の浜から船出する行者たちを生み出します。また吉野の金峰山などは弥勒の浄土とされていましたので、そこへの参詣も、死後は兜率天に往生して弥勒の説法を聞くことを願ってのことでした。もちろん熊野への参拝は、阿弥陀の浄土での極楽往生を求めてのことでした。
つまり次のような分業体制があったことになります。
①観音菩薩=補陀洛信仰=熊野那智 
②弥勒菩薩=兜率天信仰=吉野金峯山
③阿弥陀菩薩=浄土信仰=熊野本山
こうして各地の霊山には、お山の景勝地に「弥陀が原」など浄土を指す名称が付けられていきます。 これを「山中他界観」と云うようですが、そこにはお山に骨をおさめたり、墓地を作ったり、供養塔を建てるというようなことも行われるようになります。東北の山寺(立石寺)、高野山などでは、これに修験者が関わることがもあったようです。ここから山岳寺院の中には、納骨の風習が残っているところがあります。それが「死者の帰っていく山」と呼ばれた霊山で、讃岐では三豊の弥谷寺が有名でした。近年では、修験関係の社寺では祖霊殿を設け、遺骨などをあずかっている所が増えているようです。
 修験者自身も、死後は死霊となってお山に帰ることであるとして、死亡を「帰峰」と呼ぶ人も多いようです。霊山にある供養塔や木曽御岳の霊神碑などは、死霊となってお山に帰った修験者の霊を弔うためのものなのです。
 お山には浄土や極楽だけでなく、地獄もありました。
立山山岳信仰 (吉村外喜雄のなんだかんだ)
立山曼荼羅地獄谷部分

 立山や白山・大山のように火山だったお山では煙や熱湯が噴き出している所を地獄谷と呼んでいます。そこには極楽往生できぬ死霊が徘徊していると云われます。そして、供養のための「作善」として、小石が積まれたりするようになります。後世には、修験者がお山の極楽と地獄を描いた曼荼羅を持ち歩いて、極楽往生のための参詣を勧めるようになります。
泉光院の足跡 175 立山の地獄 - ヨリックの迷い道

 極楽には阿弥陀如来が、地獄には奈落に苦しむ死霊を導く仏として地蔵菩薩が配置されます。次第に地獄のおそろしさが強調されるようになると、死霊を極楽に導く地蔵菩薩への崇拝度が高まります。それに従って地蔵菩薩の対偶仏として天界を支配する虚空蔵菩薩が極楽の仏として崇められるようになります。
虚空蔵菩薩 - Wikipedia
虚空蔵菩薩
もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で行者が守護仏として重視した仏だったようです。それが空海が虚空蔵求聞持法のために修行した仏として有名になります。こういう背景があるためでしょうか、伊勢の朝熊山をはじめ当山派・修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としていることが多いようです。

霊山にある奇岩、巨石、滝、泉などは、神霊が宿るものとして、崇められていました。
すぐれた霊地の神霊、山の神、水分神などは、とりわけ大きな霊力を持つとされます。蛇・狼・狐・熊などの動物は、こうした神のあらわれとしておそれられ、信仰されたりもします。なかでも竜や蛇は各地のお山で水分神の体現とされていました。

理源大師の大蛇退治

 当山派修験には、開祖とされる聖宝(理源大師)が大峰山で大蛇を退治したという伝承があります。お山に入った修験者が竜を退治したという伝説は、修験者がお山の主ともいえる水分神を自己の統御下においたことを物語っているようです。つまり、降雨をコントロールできる霊力をもつ存在とされ、雨乞い祈祷を行うようになります。讃岐でも、村々で行われた雨乞い祈祷は、念仏踊りも、綾子踊りも山伏たちが主導していたと私は考えています。
 お山を曼荼羅とした場合には、いろいろな神霊は曼荼羅内の諸尊に当てはめられました。
大峰山などでは、その主要な八ヵ所の霊地に峰中修行の宿を設け、そこに役小角が体得した金剛蔵王権現の巻属である大峰八大金剛童子が一つずつ祀られています。大峰山中には、この八つの宿を含めて百二十(実際は七十余)の宿が設けられていたといいますが、その多くは修験者がお山に入る以前から神霊をまつる霊地であったようです。。
 葛城山系では、拝所に法華経二十八品を一つずつおさめて経塚が作られています。
葛城二十八宿経塚巡行 滝畑金剛童子から境谷、梶路峠、郷ノ峠 - 葛城二十八宿経塚巡行

その主な所には葛城八大金剛童子が配置されています。修験者がお山に入る以前には、ばらばらにあったお山の霊地が、修験道の影響のもとに一定の世界観にもとづいて体系化されていったようです。このように山中に、童子をまつったり、宿や経塚を作ることは、大峰や葛城などの以外の全国各地のお山の修験道場でも行われるようになります。
お山は邪神邪霊、邪鬼や神霊の使いである動物のすむ魔所として、里人は畏れていました。
 魔所に入り込んで修行する修験者を、邪鬼や動物霊と闘い、それを降伏させ命ずるままに使役する存在と畏れ敬うようになります。
役行者のこと
役小角と前鬼、後鬼
役小角が大峰山中で前鬼、後鬼を使役したとの伝承、修験者が飯綱を使ったとの民間伝承は、こうした力を体得した修験者の活動を示すのでしょう。同時に、修験者が信仰対象になっていく姿がうかがえます。
 さらに修験者は獅子にも変身したようです。
岩手県早池峰山麓の山伏神楽の権現舞では、魔界の王者である獅子(権現様)に変身した山伏が村人の安全を祈って舞います。
篠木神楽 | 滝沢わくわくNavi | 滝沢市観光協会【公式観光ポータルサイト】

羽黒山の修験者が峰中で用いる鈴懸の模様は獅子です。これは修験者が獅子への変身していることを表しているようです。秋祭りの獅子舞の起源もこの辺りにあるのかもしれません。
小田代神楽 権現舞 @祀りの賑い - 祭りの追っかけ

 天上や地下の境界であるお山で修行する修験者は、超人的な性格を持つ宗教者としてとらえられていたようです。ここから山伏を天狗としておそれる信仰も生まれます。修験者は、人間であり、鳥の姿をした天狗とされたようです。天狗信仰は、山伏の活躍する霊山に根付いています。金毘羅大権現の象頭山も天狗が住む山とされていました。修験者が根付く霊山だったのです。
天狗さま | 天宮の歳事記ブログ
 
また、修験霊山には鬼の子孫と称する者もいたようです。
修験者が峰入に際して頭髪を一寸八分の摘髪にしたのも、僧でもなく俗人でもないことを示すためのものだったされます。修験者を半僧坊と呼ぶのもこうした性格を示していようです。このように修験者は、天上や地下の他界と此の世の人間を結ぶ「境界人」とされていたのです。
 修験者の峰入は、春夏秋冬のそれぞれに行なわれていました。
これも次のように人々のお山登拝が起源にあるようです
①「春の峰」は卯月八日の山あそびが基にあるようです。
大峰山寺の戸開式は、戦前は旧暦四月八日に行われ、修験者は山上の石楠花を手折って下山したといいます。これは、山上で山遊びをした乙女が花を手折って下山する卯月八日の行事に通じます。
②当山派の「花供の峰」は、六月に大峰山中の拝所に花を供えてまわるという行事です。これも、お山を旅する人々が霊地に花を手向けて旅の安全を祈った習慣に似ています。
③七・八月頃に、信者が大峰山に登拝する「夏の峰」は、大和地方で盆山と呼ばれています。これも、山中に眠る祖霊に会いに行くための峰入だったようです。羽黒山でも夏の峰は、月山から祖霊を迎えるためのものとされています。
④山伏が一定期間山中に寵る「秋の峰」
 羽黒山の「秋の峰」は子供たちの通過儀礼(成人式)の役割を果たしてきました。これももともとは修験者が、冬にお山に留まり春先に里に下って農神を守る山の神の力を体得するために、山の神が山中に留まっている間は、修験者も山中で修行したことと関係がありそうです。冬の峰の出峰の日が、山の神が里に下るとされる卯月八日にあたることも、これを裏付けます。
 冬の峰の修行者は、山中で年を越したことから晦日山伏と呼ばれ、特に験力に秀でた者として崇められたようです。
晦日山伏は出峰後、修行によって獲得した験力を競うために験競べを行なっています。十二月晦日から元旦にかけて行なわれる羽黒山の松例祭の鳥飛び・兎の神事・大松明まるき・火の打ちかえなどの競技は、冬の峰終了後の験競べの面影を今に伝える行事だと研究者は考えているようです。
 お山修行を終えた修験者は、山の神を招いて祭をし、託宣させる宗教者として活躍します。
①福島県の葉山まつりは、修験者は葉山の神を招いて憑依させ託宣を下す。
②木曽の御岳の神を中座につけて託宣させる御岳講の前座
③山中の護法を憑りましにつける美作の護法祭の修験者
などは、いずれも山の神霊が修験者に憑依し、神霊を操作する宗教者とし振る舞います。他にも
①権現と化した修験者が舞う早池峰の山伏神楽、延年の舞、
②修験的色彩の花太夫が榊鬼に神つけをする奥三河の花祭
③美作の荒神神楽
④石見の大元神楽の託舞
は、お山修行によって験力をえた修験者が山霊となり、分霊を使役する芸能です。以上をまとめておきます
①山岳信仰は、霊山を神々の鎮まる霊地として山麓から拝む神道となって展開するようになる。
②一方でお山に入って修行することによって山の神の力を身につけ、それをもとに呪術宗教的な活動をするという修験道を生み出した。
③修験道は、修行や呪験力を権威づけるために、仏教思想と混淆する。
④里人の山入り慣習にあわせて峰人修行行事を組み込み、仏教の成仏観をとり入れて、成仏や験力の根拠を説明するようになる
⑤こうした世界観を広げることによって、里人の現世利益的な願いや求めに応えて、呪術的活動を行うようになる。
⑥そして、近世には里人だけでなく都市庶民の間に深く浸透していき、流行神を登場させたりすることになる。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収

水主神社 古代郡名

 旧大内郡は讃岐の東端にある郡で、引田郷・白鳥郷・入野郷・与泰(田)郷の四郷からなります。その構成は、西に「中の山」(中山)が境界となり寒川郡と分かたれ、南は、讃岐と阿波の「中の山(大坂峠)」があって、両国を隔てます。さらに、郡内にも「中山」(伊座)があって引田郷と白鳥郷を分けます。そして、北と東は瀬戸内海に面し畿内と接します。 
中世の旧大内郡には、ひとつの宗教文化圏が形成されていたと研究者は考えているようです。
 南北朝期から室町期にかけて三方を山に囲まれ、北は瀬戸内海に広く開いた大内郡に花開いた宗教文化が形作られていたというのです。その中心が水主神社やその神宮寺の与田寺であったといいます。そして、その頂点の時代を象徴するのが増吽という真言密教系の僧侶であったと指摘します。

水主神社 地図
大川郡に形成された中世文化圏がどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。
旧大内郡には、中世以前の大般若経600巻を保有する寺社が二ヵ所あります。それだけの歴史と勢力を持っていた宗教施設と考えることが出来ます。
肉筆 古写経 大般若波羅蜜多経 全600巻揃 室町 江戸初期 中国経典経本唐本 真言宗天台宗 仏教密教 大般若経  古筆仏書和本古文書写本仏画(掛軸)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)
オークションに出されていた写経大般若経六百巻

まず、大般若経の写経とその意味について最初に確認しておきます。
写経は、経典の一字一句を書き写すことですが、功徳の最も大きい行為だとされてきました。
①朝廷や諸経寺の写経所では、専門の写経生らが書き写しました。一般の僧俗らも盛んに写経を行いました。修験者たちも山野での修行と同じように、写経は修行ともされ、功徳ともされていたようです。
②写経は大般若経が主流でした。これは600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し、納めたのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます
③大般若経を真読する法会を大般若会といいますが、その目的は、現世安穏(あんのん)・菩提追修の祈願と国家安寧のための祈願のふたつがあったようです。これが、しだいに各階各層を越えて各地で流行するようになります。室町時代になると真読するのではなく転読することが盛行するようになります。
①真読は600巻すべてを読誦するために多くの僧侶と時間が必要です。
②そこで考えられた短縮方法が「転読」です。転読は、巻頭の経題と数行を読んで次に移る方法です。
③巻子本では、巻き取りに手間と時間がかかるため折本が使われるようになります。
④さらに、折り本を片手に巻末を扇状に広げると経文を読み通すような様になります。華麗な動作は、転読に主る祈願法会の「華」でした。
大般若経600巻を一気読み!日龍峯寺で大般若祈祷会が行われました! - 伝説ロマン溢れる津保谷(TSUBODANI)のブログ

旧大川郡で大般若経があるのは大内町の水主神社と白鳥町の若王寺です。
香川県内には古代・中世の大般若経六〇〇巻揃えて保存している所はほとんどありません。この2ヶ所以外では
①丸亀市の正覚院
②庵治町の願成寺
③観音寺市の宝寿寺
④高松市の随願寺(戦災で焼失)
だけです。その中でも、水主神社の大般若経は、国の重要文化財に指定されています。この経は、もともと巻子本であったものを転読しやすいように折本に仕立て直しています。600巻の中の7巻に奥書があります。さらに、その7巻の内巻388には、保延元(1135)年の年紀があります。ここから平安時代後期のものを中心に、鎌倉から室町時代にかけて補写したものが混しっていることが分かります。
秋の大般若経転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ) | 成田山 東京別院 深川不動堂
経函に保管された大般若経

 この経は、「牛負大般若経」と呼ばれてきました。
それが何故なのかは、経函の底に書かれた墨書から分かります。そこには「水主神社大般若経函底書」書かれ至徳三(1286)年に水主神社の末寺であった仲善寺の亮賢が勧進して作らせたものであることが記されています。
そして、伝来については次のように記します。
破損した箱を新たな物に交換する際に、書き直したと注記して次のように水主神社大般若経の由緒を記しています。
 本云伝聞、此大般若経、元伊予国石鎚社所奉安置御経也、而自彼国奉送当社之時、負牛運送之間、於泥中奉落、失般若二巻、雖然彼牛負大般若経依功徳、受人身成沙門形上、件子細具感夢想之間、参詣当社 此経内二巻書写之、奉加之、此子細聞及之間、為後代記之、洛陽比叡山末流阿闇梨幸厳

  意訳変換すると
 次のように伝え聞いている。この大般若経は、元は伊予国の石鎚社に奉安されていたものである。それが牛の背中に乗せられて運ばれてきた際に、泥の中落ち、般若二巻を失ってしまった。しかし、牛負大般若経の功徳を伝え聞いた沙門が阿現れ、当社で失われた二巻を写経し、奉納した。この子細については、後代の記録でよく知られている。比叡山末流阿闇梨幸厳

  ここからは次のような事が分かります
①この大般若経、元は伊予国石鎚社にあったものを移管したこと
②その際に牛によって運ばれてきたので牛負大般若経と呼ばれるようになった
③輸送中に亡くなった2巻については、写経し完成させた。
 このような牛負(荷)伝承は、仏教説話として各地に残るのもので、ありふれた内容です。しかし、面白いのは、伊予の石鎚社にあった経巻を水主神社に納めていることです。石鎚社は、長寛元(1163)年以前に、すでに熊野権現が勧請されて『梁塵秘抄』にも有名な修験行場の一つに数えられているように四国における熊野信仰の一大拠点でした。当然、伝来した時には水主神社でも熊野信仰が盛んで、熊野行者が相互に頻繁に往来していたことがうかがえます。
   それでは、だれが、いつ大般若経を石鎚社から水主神社にもたらしたのでしょうか。
 経巻奥書と函書に出てくる3人の人物で研究者が注目するのは、阿闇梨伝燈大法師幸厳です。彼は、牛負伝承の伝聞者であると同時に、仁治元(1240)年八月十七・十八の両日それぞれ巻186と316を書写した人物です。そして幸厳は、境内にある御幸殿に祭られています。これは大般若経六百巻をもたらした功によるものではないかと研究者は考えているようです。
   幸厳は、天台系の修験者を自ら示唆しています。
伊予石鎚社の横峰寺の最澄の弟子が仁寿四(854)年、延暦寺別当になっています。これらの関係を併せて考えると大般若経が水主神社に移されたのも唐突ではないようです。

至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①経函製作のための桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものでしょう。水主の地理的環境からして前者と研究者は考えているようです。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。
水主神社 那賀川流域jpg

それでは、「皆阿州吉井ノ木」とある吉井とはどこなのでしょうか。
阿波の吉井は、阿波国那珂郡の南北朝期、東福寺普門院領であった大野本荘にあたるようです。大野本荘の本所は、一条家です。この荘園は、鎌倉時代から熊野信仰の盛んなところで、正安二(1300)年三月三日付けの先達栄賢引旦那注文案(米良文書)によると、大野本荘にあった岩嶺寺の先達に導かれる旦那33家が目録に記されています。熊野先達にとっては、有力な旦那衆がそろっていたところだったようです。
 また、地図で分かるとおり吉井の地は、那珂川の下流に位置します。この川の上流は、鶴林寺や太龍寺があり、真言系僧侶(修験者)たちが山林管理も担当していたようです。また、紀州からやって来た集団の寄進を受けていたことは、以前にお話ししました。那賀川流域の流通・交流に熊野修験者のネットワークは大きな影響力を持っていたようです。ある意味、那賀川流域の木材の流通圏を握っていたのかもしれません。木材等は、那賀川で河口に運ばれ、そこから遡上して水主神社まで運ばれた可能性もあります。後世には、阿波木材は堺に運ばれ三好衆の大きな財源となっていたようです。そのようなルートが中世からあったと考えられます。

  大内郡における神仏習合
 旧大内郡は、13世紀後半以降、南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせます。そのため南北朝以降も新仏教勢力が浸透・定着が進まなかったと研究者は考えているようです。そのことを、当時の大川郡における神祇信仰から見ていきましょう。

水主神社 地図
中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
先ほど見た大般若経の函書にあるように、大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですがは、「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会 幕末)
坊舎をふくめると100を越える数になったとでしょうし、与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。
 水主神社の残る神祇信仰関係の文化財を見てみてみましょう。ここには次のような国指定重要文化財があります。
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像 女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対
P1120164 水主神社 ももそひめ
倭追々日百襲姫命坐像(水主神社)
P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)

P1120208水主神社 狛犬
木造狛犬一対(水主神社)

P1120167水主神社 女神3
女神像2(水主神社)

P1120169水主神社 女神4
女神像4(水主神社)
大水主神社獅子頭  松岡調
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会 松岡調筆)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。狛犬や獅子頭は、中世の村々に神社が姿を現し、本殿が造営され、その中に神像が納められていく時期にあたります。与田寺周辺にあった工房で作られて、周囲の寺社に提供されていたことが考えられます。
  どちらにしても香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはないと研究者は評します。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も大内地区は隆盛を迎えていたのです。これが後の浄土真宗の大内地区への教線拡大が進まなかった要因のひとつだと私は考えています。
大内郡全体を見てみると、誉田神社が2社あります。
引田の亀山と旧誉水村横内です。この二社は、県下の誉田神(応神天皇)を祭っている神社の多くとは異なり、中世以前の勧請で古社です。郷八幡社は、『宝蔵院古暦記』によれば、承平一(936)年秋八月に一郷一八幡勧請によって創始されたと伝わります。
 引田の誉田神社は社伝に、承和八(841)年に河内国誉田八幡宮を勧請して、当初中山伊座に祭祀していたものを延久元(1069)年、現在地へ遷宮したと記します。
 横内の誉田神社は、創始は不明ですが、同じく河内国誉田八幡宮からの勧請を伝えます。研究者が注目するのは、両社が河内国誉田八幡宮からの勧請をうたっていることです。
 八幡神は、神仏習合の強い神で、源氏の氏神とされて以来、鎌倉時代からは盛んに武神としても祭られるようになります。河内の誉田八幡宮の創始は、平安時代末期のこととされます。したがって、大内郡の誉田神社両社の勧請は、それ以降のことになります。そうだとすれば、与田郷に地頭職を得て東国から遷住した小早川氏の勧請が考えられます。
 引田の誉田神社は、中世引田港の管理機能を担っていた可能性があること以前にお話ししました。そのため戦国末期に引田に城下町を築こうとした生駒氏も、この寺院を取り込んだ町割りを行っています。
  しかし、神祇信仰では、大内郡では圧倒的に水主神社の勢力が強かったようです。
このことは、江戸時代になっても松平頼重が水主神社の強勢に対抗させるため白鳥宮への保護政策をとったことからもうかがえます。このように、大内郡の宗教文化は、仏教と神祇信仰との習合と競合によって隆盛を見ることができました。その中心にあったのが水主神社と、その別当の与田寺であったようです。それは、熊野系修験者(真言密教僧侶)に担われていたようです。そのため、熊野行者のネットワークを通じて、水主神社は阿波や伊予の石鎚、或いは備中児島の五流修験、紀伊熊野と結びつけられ、活発な人とモノの交流が行われていたようです。
 その例が伊予石鎚社からの大般若経の奉納であり、阿波那賀川流域からの木材の寄進にみられました。また、熊野参拝の四国側の集結地点にも当たります。熊野参拝を目指す先達に連れられて、この地にやってくるきて信者への宿泊や行場を提供したはずです。その外港である引田港は、熊野水軍の拠点として寄港する舟も多かったことは以前にお話ししました。 
  四国巡礼(八十八ヵ所)の始発(打ち出し)上陸地は、金毘羅参詣の隆盛に押されるまでは、引田・白鳥・三本松が圧倒的優位を占めていました。
 大内郡における宗教文化を中世讃岐の文化史上に、正しく位置付けようとする試みが研究者によって続けられているようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 山の神仏-吉野・熊野・高野 │ 大阪市立美術館

四国霊場の形成前史に熊野行者が関わっていたとされます。
平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」には次のように記します。
 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は 伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

ここからは、仏教修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたうです。同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、次のように記します。

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
意訳変換しておくと

われらの四国修行の様は、忍辱袈裟(にんにくのけさ=あらゆる侮辱や迫害に耐え忍び、恨みを持たない精神性を、身を守る法衣)を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく破れ、四国の辺地を常に歩くことだ

ここからは修行者が笈を背負い、衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたと記します。平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場は、次のような所です。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」という風につながって行くと研究者は考えているようです。
 
修験者等の行場巡りによる四国辺路形成の痕跡


行者(修験者)が修行を行う行場は、四国だけだったのでしょうか
そうではないようです。『梁塵秘抄』巻二の二百九十八には次のように記されています。

聖の住所はどこどこぞ、大峰 葛城 石の槌(石鎚)、箕輪よ勝尾よ、播磨の書写、南は熊野の那智新宮

とあり、大峰山・葛城山・石鎚山・箕面山、書写山・熊野などの霊山で「山岳修行」を行っていたようです。行場を求めて遍歴する一環として、四国の石鎚山などにもやって来ていたようです。同時に、四国の海辺を廻る辺地修行も行います。若き空海もその群れの中に身を投じ、阿波の大瀧山や土佐の室戸で辺地修行を行ったのでしょう。空海が始めたわけではなく、空海もその中の一人であったと考える方が現実には近いようです。

 平安時代後期ころから熊野信仰が隆盛を迎えます。

熊野三山の本地仏

それまでも熊野行者の中には、四国の辺地修行を行う者はいました。彼らは足摺岬の金剛福寺や室戸の最御崎寺など、太平洋につきだした岬を、観音信仰に伴う補陀落信仰の絶好の聖地とするようになります。そこには、多くの修行者が集まってくるようになります。補陀落信仰は、インド南端の観音菩薩が住む浄上に起源があるようです。わが国では平安時代に、熊野那智が補陀落とされ、熊野信仰の中で重要な位置を占めるようになります。このような熊野信仰の影響が、四国八十八ヶ所霊場の中に見いだせると研究者は指摘します。

本地垂迹資料便覧

もともと、熊野信仰は天台系が主流であつたようです。
それは寛治四年(1090)に、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めたのが園城寺の増誉で、初代の熊野三山の検校に任じられたからです。これ以降、熊野一山の検校は園城寺系の聖護院の高僧が補任されることとになり、上皇の熊野御幸の先達を務めるのが慣習化します。ところが中世の記録『熊野那智人社文書』には熊野先達のなかに、真言宗寺院や札所寺院に属する者も以下のように見られます。
①阿波 平等寺の治部、太龍寺の秀信、順成寺
②讃岐 一の宮の持宝坊、向峯寺の先達
③伊予 繁多寺の先達、香園寺の先達、大山寺の先達、三角寺(めんどり先達)、実報寺
  これらの寺院は真言密教系寺院です。先達を勤めたのは、それらの寺院に所属していた熊野先達でしょう。すると彼らは、熊野信仰を持つ熊野先達であり、同時に弘法大師信仰も持ち合わせていたと考えられます。このような信仰形態が南北朝時代から室町時代には、珍しいことではなかったようです。

四国八十八ケ所霊場の成立に、熊野信仰はどんな役割を果たしたのでしょうか。
 熊野信仰と88ヶ所霊場の関係について、最初に指摘したのは近藤喜博氏です。彼は、霊場寺院のなかに熊野神社を鎮守とする例が多くみられることことを取り上げます。そこから四国辺路の形成には、中世の熊野信仰が強く関わっていることを明らかにしました。
現存の四国八十八ケ所霊場に熊野信仰の痕跡を探ってみましょう。
 熊野行者が行場にやって来て修行を続け、そこが聖地となり、庵や寺が出来るときに本尊とともに客神として熊野神社を祀ったことが考えられます。熊野神社が鎮守として祀られている霊場を挙げてみましょう。
徳島県では
1番霊山寺、5番地蔵寺(熊野神社が鎮守)
7番十楽寺(近在に熊野神社)
8番熊谷寺(縁起に熊野権現権現が登場)
12番焼山寺(境内に熊野神社)
20番鶴林寺(熊野神社が鎮守)
の6ヶ寺があります。
このうち焼山寺は、平安時代後期の虚空蔵菩薩を本尊とします。
焼山寺 虚空蔵菩薩
焼山寺の虚空蔵菩薩
この像は素人ぽい仏で、修験者が修行の一環として制作したことがうかがえます。また焼山寺には熊野神社が境内にあります。さらに室町時代の懸仏も数面ありますが、それらは熊野十二所権現を表したものとされています。これらからもこの寺は、熊野行者の痕跡が色濃く残る寺といえます。
 また、以前にお話ししたように竹林寺は、紀伊からやってきた豪族の寄進した灯籠が残るなど、紀伊熊野との関連を伝えます。
高知県では
24番最御崎寺(補陀落渡海の道場)
26番金剛頂寺、35五番清滝寺、37番岩本寺、
38番金剛福寺(補陀落渡海の道場)、
39番延光寺
このうち、最御崎寺と金剛福寺は、熊野信仰にみられる補陀落渡海が考えられています。補陀落渡海とは補陀落信仰に基づくものです。補陀落とは『華厳経』に、インドの南海岸にあるという補陀落山という観音菩薩の住む浄土と考えられていました。やがて観音信仰の広がりとともに、中国の普陀山が擬せられて観音浄土としての補陀落霊場が作られ、補陀落信仰が隆盛になります。
 それがわが国伝わると、浄土信仰の隆盛とともに熊野那智山が「補陀落山の東門」と言われるように補陀落信仰のメッカとなります。
513 補陀落渡海 – KAGAWA GALLERY-歴史館

こうして仏教伝来以前の海上他界と観音信仰が那智で重なり合い補陀落信仰が成立します。つまり海の彼方に常世と、袖陀落観音が習合したのです。こうして、その「実践行」として熊野那智から船に乗り、観音浄土である補陀洛山へ往生し、生まれ変わりそこで永遠に生きるというのが補陀落渡海のようです。

浜の宮王子 補陀落渡海の境地 | 落人の夜話

 この熊野那智の補陀落信仰の影響を受けたのが、土佐室戸の金剛頂寺と足摺岬の38番金剛福寺です。
中世には、足招岬から補陀落渡海したという記録がいくつもみられます。さらに金剛福寺の本尊(暦応五年(1342)は、熊野の補陀洛山寺の本尊千手観音と同じ三面千手観音です。明らかに熊野信仰の影響があるようです。
愛媛県では
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
このうち八坂寺に近い文殊院は右衛門三郎伝説の地で、石手寺も右衛門三郎に深く係わる寺です。この石手寺には右衛門三郎伝説を記した石手寺刻板が所蔵されるなど、伊予における熊野信仰が強く見られる寺院です。
香川県では
66番雲辺寺
67番太興寺 (熊野神社が鎮守)
70番本山寺、71番弥谷寺、78番郷照寺(境内に熊野神社)、
84番屋島寺 (境内に熊野神社)
86番志度寺(補陀落渡海の行場)
このうち屋島寺は熊野神社を鎮守社としていて、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺です。
さらに近世初期の「熊野本地絵巻」が所蔵されています。この種の熊野本地絵巻は、熊野比丘尼が絵解きしたといわれますので、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に「血の池」という池も残りますので、熊野比丘尼の存在を暗示しているようです。
 志度寺は土佐の金剛福寺や最御崎寺のように、大海原を望むというわけではありませんが、北側には瀬戸内の海を間近に控え、補陀落渡海の行場とされてきました。やはり熊野信仰が基になっていたようです。
以上、四国八十八ケ所霊場寺院にみられる熊野信仰について、みてきました。これらを背景に、研究者が推測するのは「熊野修験者の修行ルート」や「熊野先達の熊野への参詣ルート」です。熊野信仰の痕跡の残る霊場は、四国の各地から熊野への参詣ルート上にある拠点で、それが四国辺路の原形になったのではないかという仮説を提示します。
熊野修験者といえば、厳しい修行者というイメージを持ちます。
しかし『熊野那智大社文書』(応永14(1407)の行政房有慶日那売券に「高松の一族」とあり、また仁尾の覚城院文書の増吽書状には
「経衆は二十人(中略)伶人両三人」

とあるように、中世の熊野修験者は、先達として多くの信者などを引き連れて熊野参拝を生業としていました。自らの修行とは別に、檀那(信者)とともに行動し、時には熊野まで直行することなく檀那の求めに応じて、様々の寺院や神社に参拝していたのです。
 四国の熊野先達のなかには、弘法大師信仰を持った者もかなりいたようです。そうだとすれば熊野への道すがら、弘法大師の聖跡あるいは真言宗寺院に参拝しながら熊野を目指したと思われます。これが弘法大師信仰を広めることにもつながります。民衆への弘法大師信仰の流布は、こんな形で進められたのではないでしょうか。

四国霊場の成立に熊野信仰が関係していたとするなら、弘法大師と熊野信仰の接点が前提になります。
熊野垂迹神曼荼羅図(乙本) 文化遺産オンライン

その具体的な例として、研究者は愛媛・明石寺の熊野垂迹曼荼羅を挙げます。この図は図の中央に、八葉蓮弁形に熊野の神々の垂迹神が配置されます。その中央には新宮と那智あり、その周囲に本宮と五所王子と、四所明神のうちの勧請十五所と一万・十万宮が巡らされています。上部には那智の滝や摂社などが山の中に描かれ、下部には熊野諸王子とともに北野天神や八幡大菩薩などが描かれています。複雑な信仰の実態がうかがえます。
 ここで研究者が注目するのは、図上部の「役の行者」に相対するように、弘法大師が描かれていることです。
このような例は、香川・六万寺の熊野曼荼羅図(南北朝時代)にもみられます。六万寺は真言宗としての歴史を持ち、八十五番八栗寺を奥院とする四国辺路とは深い寺院です。この図に描かれる弘法大師は、明石寺本や西明寺本に比べるとずいぶん大きくなっています。椅子の形状や水瓶・沓などはいわゆる「真如親王様」の姿です。ここに描かれた弘法大師は、数多くの尊の中の一尊とは違って、弘法大師そのものの存在を主張していると研究者は指摘します。
熊野曼荼羅図
.このように熊野曼荼羅の図中に弘法大師が描かれることが、南北朝時代から現れます。
この頃から熊野信仰と弘法大師信仰との接点が、熊野曼荼羅のなかにも見られるようになります。鎌倉時代の熊野曼荼羅には、弘法人師は描かれていません。しかし、室町時代ころからの弘法人師が現れます。ここからは熊野信仰の中に、弘法大師信仰が何らかの形で影響を与えていると考えられます。
札所寺院の中に、熊野信仰と弘法大師伝説の展開が具体的な形で残る例は、少ないようです。しかし八番熊谷寺の弘法大師像も永享3年(1431)の造立で、しかも鎮守が熊野権現なので、焼山寺と同じ過程を歩んだと考えられます。
以上から札所寺院の中に、弘法大師信仰をもった熊野先達がかなりいたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①「四国辺路の成立や展開には、熊野信仰が大きく影響した」は、研究者の間では定説となっている。
②それは霊場札所の鎮守に熊野神社が多いことからもうかがえる。
③そこからは霊場札所が熊野行者によって、開かれたことをうかがわさせる
④熊野行者は、熊野先達も勤めており熊野参拝の際には、ルート上の熊野先達の拠点を利用した。
⑤これが四国辺路の原型となったのではないか。
⑥また、熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を果たしていた。
⑦こうして四国辺路を中心に熊野信仰に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成される。

熊野行者の拠点であった寺院が、熊野への参詣ルート上の宿泊地などとして重要な役割を果たしていたという仮説は私にとっては興味深いものでした。

  参考文献 武田和昭   四国の辺地修行から熊野信仰ヘ 四国辺路の形成過程所収


   備中児島を中心に大きな勢力を持っていた五流修験の起源について、前回はみてきました。
その結果、五流修験は熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団であること。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからということが分かってきました。彼らは由来に「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであると考え、熊野本山との「幻想共同体」を作りだしていたようです。
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。今回は、そこから見ていきましょう。

五流 後鳥羽上皇系図

 後鳥羽上皇の第四王子 冷泉宮頼仁親王が承久の乱に連座して、承久二年(1220)に児島に配流されます。これが五流修験の発展の原動力になっていきます。
『吾妻鏡』承久三年(1222)七月廿五日の条には、次のように記されます
「冷泉宮令遷二于 備前国豊岡庄児島の佐々木太郎信実 法師受一武州命丿令互子息等奉守護上之云云」

 児島の豊岡庄に配流された冷泉宮頼仁親王は、備前の国の守護佐々木信実にあずけられます。この頼仁親王の兄が桜井宮覚仁法親王でした。覚仁法親王は、建保五年(1217)十二月大阿闇梨青龍院覚朝について得度し、翌6年には、三井寺円満院住職として三井の長吏になっています。
 「五流伝記略」などによると、頼仁法親王は、承久二年(1220)に京都の戦乱をさけて、児島にやって来て尊滝院に庵室を設けて避難生活を送っていたようです。
 一方、翌承久三年に豊岡庄に流された頼仁親王も、林の尊滝院に移って共に生活するようになったようです。このために尊滝院を御庵室先達と呼ぶようになります。

 やがて延応元年(1239)、後鳥羽上皇は隠岐で亡くなります。
翌年の仁治元年(1240)の一周忌に両親王は、その遺徳をしのんで石塔、廟堂、経蔵などを建て供養します。この石塔が、後鳥羽上皇御影塔と呼れ、重要文化財の石造宝塔になるようです。

五流 後鳥羽上皇御影塔

この塔は昭和45年に解体修理が行なわれましたが、その時に塔身首部から火葬した骨片95、歯12、香木8片、鉄製細片などが発見されたようです。五流一山には、後鳥羽上皇が亡くなった後に死体を荼毘に付し、遺骨を三分して一つを隠岐、今一つを山城国、最後の一つをこの宝塔におさめたとの伝承があります。その伝承通りの遺物です。
頼仁親王は、守護の佐々木信実の娘を妻とし、二人の子供を残します。
宝治元年(1247)四月二十日、48歳で、尊滝院で亡くなります。亡骸は木見の諸興寺に葬り、墓地を若宮御霊殿と呼びます。
五流 若宮御霊殿

  一方、後鳥羽上皇の第6皇子が覚仁法親王です。
この地に流された兄頼仁親王(後鳥羽上皇の第4皇子)と共に、当時衰退しかけていた尊瀧院の再興に力を尽くしたとされます。
岡山の風 | 熊野神社(倉敷市林)|昭和48年 (1973年) 8月
 
岡山県倉敷市林の熊野神社参道の途中に池があり、その中に桜井塚という島があります。そこに、五流尊瀧院の大僧正となった桜井宮覚仁法親王の墳墓があります。桜井塚の十三重層塔と灯籠は、覚仁親王の墓と並んでありますが、親王のために建立されたものです。
倉敷市林・伝桜井宮覚仁法親王御墳墓 - 寮管理人の呟き

塔は約5m高さで、親王没の弘長3年頃の建立で、初重の軸だけが当初からのもので、その他は明治末年になって皇国史観の高まりの中で修復・再建されたものです。造灯籠は高さ約170㎝の豊島石製で、室町時代(14世紀初め頃)の作とみられています。これも後のになって、建立されたもののようです。
 ふたりの親王の墓を比べると、五流一山がふたりをどう評価していたがうかがえます。覚仁法親王の方が五流一山に残したものは大きかったと考えられていたようです。なぜかと云えば、覚仁法親王は宝治二年(1248)に、熊野三山ならびに新熊野三山検校となり、建長七年(1255)の後嵯峨上皇の熊野御幸に際しては、先達をつとめます。これが親王先達のはじめとなるからです。彼は文永三年(1266)四月十二日、59歳で亡くなります。
 覚仁法親王は、頼仁親王の長男道乗を、尊滝院の後継者とします。あわせて自分が所有していた肥後詫間郡之内大庄の八ヶ所、同郡の川尻庄の大部分を与えています。
後継者となった道乗の行った経営スタイルを見ておきましょう
①上沢氏から妻をめとり、宮家六党のうしろだてのもとに児島五流の再建(創建?)を進める。
②自らは五流一山の庄務となり、清田八幡宮・福南山・滝宮・通生神社に社領を与え、諸興寺・由伽寺・藤戸寺領などを定めた。
③尊滝院を長子澄意(次は二子頼宴)、伝法院を三子親兼、太法院を四子隆禅、報恩院を五子澄有、建徳院を六子昌範につがせて、自分の子供たちにより五流一山の再興を行った。
ここからは道乗によって、親王の子孫が五流一山の統率者になるというスタイルが出来上がったことが分かります。こうして一山の組織は整えられると共に、求心力も高まったようです。

 由伽山蓮台寺には、正安元年(1299)在銘の打懸札二枚が伝えられています。そのうちの一枚の裏に、親兼・隆遍・隆禅・隆有・宋助の名前が記されています。このうち親兼、隆禅は道乗の子になります。ここからは、道乗の子供や法資が熊野三山の一つである那智に比定された由伽山の経営に関係していたことが分かります。「岡山熊野三山」の連携が見えてくるのも、この時期からのようです。
こうして、五流一山は道乗によって組織化され、そのうしろだてとなった宮家六党らによって支配されるようになります。その神領は小島庄を中心として、波佐川庄、豊岡庄を含めて児島一円に及んでいたようです。

 この時期の五流一山の状況を見てみましょう。
弘長二年(1262)二月の奥書がある「長床六十三箇条式目」には、次のような事が記されます。
 まず児島の庄全体は、長床衆一同の領で、権現結縁の者が生活する所とされています。そして次のように記されます
一山の運営は長床衆の下知に従って庄官及び両政所が行なう。その際両政所は行事を支配し、庄官は百姓を支配する。政所や庄官になるのは長床の座衆のみである。しかしいくら長床の座衆でも熊野常住の者や京都に留まっているものがなることは出来ない。なお政所は百文、庄官は百五十文の支給を受ける。
社寺に関しては、まず修理をおこたらず、祭礼に専念せよ。
もっとも神社、寺院、供僧の加増は禁止する。また社寺の奉仕者の職を在俗者にゆずることも禁じる。
 長床の地は一般の人々は入れない殺生禁断の地で、百姓が茸をとったり、漁人が貝などをとることも禁じす。
なお、修行の道場は質素であったようで、社殿にはたたみやござをしいてはいけない。修行道場である福南山の供米は、庄官の得分でまかなえ。
 その他に、一山の行事としては六月会、峰入、霜月大師講、後鳥羽上皇追善の大乗会などがあげられています。この「六十三箇条式目」には、二十一名に及ぶ署名が並びます。おそらくこの人々が当時の長床衆の主要な者と考えられます。

 前回に、お話ししたように児島は「吉備の中海」に面し備讃瀬戸の戦略的要衝でした。
戦略的な要衝は、争奪戦の対象になり戦乱に巻き込まれるのが世の常です。中世期には、五流一山は、度々戦乱にまきこまれます。その際に、熊野は南朝の拠点でしたから五流一山も南朝方に荷担します。結果としては、負け戦の連続になり神領を減らしていくことになります。その過程を見ておきましょう。
 南北朝の戦乱に活躍した児島高徳は、児島五流の出身といわれています。
太平記鬼伝―児島高徳 (小学館文庫) | 火坂 雅志 |本 | 通販 | Amazon

彼は後醍醐天皇の隠岐脱出を知ると一族のものと馳参じ、その功によって児島を得ています。そして尊氏の反乱後は、熊山城、福山城などで反幕の兵をあげます。南北朝の争を記した「太平記」には、児島高徳をはじめ修験者の活躍について、くわしく記されています。
 また「洞院公定日次記」の応永七年(1400)十月の条に「太平記」の作者として、小島法師が挙げれています。こうしたことから、「太平記」の作者を児島の五流山伏と考える研究者もいるようです。

南北朝時代の暦応三年(1340)には、児島の佐々木(飽浦)信胤が反幕の兵をあげ、小豆島にせめ入ります。
五流 佐々木

 そして、吉野朝廷に大将軍の下向を要請します。吉野では、これに応えて脇屋義助を派遣します。義助は吉野から高野山をへて田辺にでて、ここで新宮別当湛誉から熊野の水夫、武具、兵糧などを与えられ、三百余般の船にのって船出します。そして淡路の武嶋に行き、さらにここから備前の児島につき信胤と同船して、伊予今治におもむいています。ところが義助は、伊予の国府で病死し、信胤も敗れてしまいます。
 佐々木信胤は五流と親族関係で、熊野水軍も佐々木方に荷担しました。両者に関係をもつ五流一山も当然、南朝方につきます。幕府の高師直は、これに対する処罰として児島の常山より東側を五流一山から没収します。この結果、五流一山は児島の西半分のみを社領として活動を続けることになります。
 その上に、応仁の戦乱にまきこまれます。
 五流一山の覚王院は、細川勝元と所縁がありました。その権威をかりて山内でおもいのままに振舞い反感をかっていたようです。応仁の乱は、細川勝元と山名持豊が争ったわけですが、覚王院に反感を持っていた五流一山の者は、山名方に味方し、覚王院を亡ぼそうと画策します。
 これを知った覚王院円海は備中国西阿知に退きます。そして応仁二年(1468)三月二十日夜、細川方の兵をかりて五流一山に乱入し伽藍僧堂を一宇も残らず焼きはらってしまいます。こうして以後、覚王院と五流一山の確執は長く尾をひくことになります。
 応仁の乱後、幕府はこの五流一山の衆徒の争を罰して、神領をさらに減らします。その結果、近隣十七村、約8000石になってしまいます。
このような窮状の中で、再建計画を打ち出したのが大願寺の天誉です。
 彼は応仁の乱で廃墟になった一山の再建を志し、文明元年(1469)から長享元年(1487)にかけて四国を中心として諸国を勧進し、資財や資金を集めます。そして明応元年(1492)に一山の再建に成功します。
 しかしこの再建直後の明応年間に、残っていた児島十七村の熊野権現神領が、常山城主の謙野土佐守及び同肥前守に押領されてしまうのです。伽藍は再建されましたが、神領を失ってしまったのです。そこで管領細川政元にかけあいますが、一向に要領をえません。
 そのような中で永正四年(1507)、管領となった大内義弘のはからいで児島のうち林庄、曾原庄、火打庄(今の福江)の三ヶ村が五流一山に返されることになります。
 しかし、天文十六年(1547)には、一山を追われた覚王院円海の子孫との因縁から再び戦乱に巻き込まれます。
五流一山へ帰山を許されないことに恨みを抱いていた覚王院円海の子孫は、阿波の三好長慶の兵を借りて、一山に乱入して火をかます。この時には一山の者が結束して、これを防いだために、楼門や長床を焼失したのにとどまったようです。この時に焼かれた長床は、元亀二年(1571)大納言増印が資財をあつめて、天正の始めに再建しています。

 このような五流一山の神領への押領や侵入にたいして、本山である京都の聖護院門跡道応が動きます。
彼は、西国廻国の際に毛利元就に接見し、五流一山の保護を求めます。吉備への進出のプラス材料になると考えた元就は、五流近隣の城主へ五流の保護を命じます。加えて永禄十一年(1868)十月二十六日に、三ヶ村の界に輝元と元就の名で神領である事を明示した制札を建てています。こうして、大内氏から与えられた神領三ヶ村は、毛利氏の庇護のもとに安堵されることになります。
 修験者(山伏)が武力集団化するのは、古代以来のことです。
五流一山も武力集団化していたようで、一山の修験者が従軍僧として戦陣に加わることは日常化していたようです。彼らは、「知識人」でもあったので右筆・外交官・葬儀・戦闘記録・祈祷師など、いろいろな業務を担当していたようです。
 たとえば元亀二年(1571)春、讃岐国の香西駿河入道宗心が、児島の本太城の能勢修理を攻めた時のことです。五流の建徳院が能勢修理の陣に加わり、雨乞をして大雨を降らせ、能勢修理はそれに乗じて打って出て宗心を打ちとったという記録が残っています。五流修験が戦争で、重要な役割をはたしたことが分かります。
 こうした五流一山の武力や情報収集力、その背後にある熊野水軍などに注目する勢力も出てきます。
それが秀吉です。秀吉は、山陽・四国制圧のためには瀬戸内海の制海権を握ることが不可欠であることに早くから気付いていたようです。当時は備讃瀬戸の制海権は、毛利氏に属する村上水軍が握っていました。それに対抗しようとしたのか、天正十年(1882)秀吉は、長床衆の加勢を求めて使者として蜂須賀小六を五流に送っています。しかし、五流一山は毛利氏への帰属が強く、この時には応じなかったようです。そのため秀吉から、林、火打、曾原の三ヶ村も没収されてしまいます。全ての神領を失った一山では、天正十一年(1883)、使者を京都に派遣し、照高院道澄を通して秀吉に歎願します。この結果、天正十七年(1589)になって、秀吉の配下となった小早川隆景から、堪忍料として百石を与えられています。この百石の社領は後には、宇喜多秀家にもひきつがれます。

戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。
特に戦国時代になって、神領のほとんどを失ってからは、この動きが強まります。五流修験では原則として「霞(かすみ=テリトリー)」は、五流のみが所持していました。公卿は五流のいずれかに属して、直接に配札などの活動をおこなっていたようです。五流それぞれの霞は次のようになります。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後
太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島  
    作州(本山、桃山除)、日向
建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡 
報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、
    備前西大寺
伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡 
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。
統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。また各院の霞は、前回に見た縁起で主張される「熊野権現」分祠地と重なるようです。
 
室町時代の五流一山の衆会、講、饗などの年中行事を見ておきます。
これらの行事は長床衆を中心として行なわれていました。行事の名称を見ると、初雪、月見などの饗、連歌会、管絃講、公達集会や公達庚申などが見られます。地方の山伏にしては、洗練された諸行事が数多く行なわれていると研究者は指摘します。これは五流修験が、常に京都や熊野におもむいたり、早くから院や公卿の先達をしてきたことから、身につけた教養や作法なのかもしれません。
「後法興院記」の明応二年(1493)四月十九日の条には、児島の山伏二人が聖護院門跡の京都入りのお供をしていたことが記されています。こうしたこともあって五流修験は、京都でもよく知られた山伏であったようです。児島の五流修験は、都でも聖護院末の異色の修験者として受けとめられていたとしておきましょう。

戦国期の五流の伽藍や関連宗教施設を最後に見ておきます
①伽藍整備については、明応年間に大願寺の天誉によって再建され整備されて。本社・若殿・西宮・中西社から成る社殿を中心として、長床・観音堂・三重塔・神楽殿・御供殿・鐘楼・仁王門が立ち並んでいます。さらに元亀天正の頃までには、行者堂、楼門、唐門、回廊、一切経蔵、千体仏堂、後鳥羽院の御廟堂、覚仁法親王の御廟堂が再建されています。この他に修験の院坊、大願寺、神宮寺などの社僧の本堂、庫裡が山内各所に姿を見せていました。戦国期の地方寺院としては、瀬戸内では有数の規模を誇っていたようです。
 当時の児島には、五流のどんな関連社寺があったのでしょうか。
五流 岡山熊野三山

まず新宮にあたる木見の諸興寺があります。ここには新宮権現の本地薬師(恵心作)をまつった薬師堂、阿弥陀堂、若宮殿、御廟堂が立ち並んでいました。その他にも、紀州の神倉に比定された背後の山には毘沙門堂もあります。
那智にあたる由伽山には、権現堂と本地堂があり、本地堂には那智権現の本地十一面観音がまつられていました。その南には、紀州の那智同様に滝があり、滝宮があります。この他五流の山伏が那智権現に参詣する際に垢離をとった井戸があり、五流の井戸と呼ばれていました。
その他の関連宗教施設を列挙しておきましょう
①応永三十一年(1424)五流一山総録の智蓮光院宜深が一山の菩提寺として作った有南院
②有南院の近くには、熊野権現の御旅所の清田八幡宮
 熊野権現の祭礼の際には神輿や神馬は、本宮(林)を出て、新宮(木見)をへたうえで、清田八幡宮へ渡御し、神事の法楽ののちに本宮に帰ったと伝えられます。現在この神社には、
 至徳四年 (1387)三月
 嘉慶元年 (1387)十一月
 応永十九年 (1412)十一月
 応永二十九年(1422)二月
 永禄八年 (1565)九月
の五枚の棟札が伝えられています。そこには五流一山の関係者の名前が記されています。ここからは、清田八幡宮が五流一山において重視されていたことが分かります。

 室町時代の五流一山は、五流と公卿を中心とした修験者から成る座衆と大願寺を中心とした非座衆から成りたっていました。しかし、実際の運営は座衆が行なっていたと研究者は考えているようです。「新熊野権現御伝記」には、元亀・天正頃の長床結衆寺院(座衆)として、次のような院が記されます
建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院、智蓮光院、覚城院、南滝坊、常住院、本城院、青雲院、宝蔵院、大弐(出家当住)、俊雀(千手院当住)、正寿院、少納言(大善院当住)
 ここには塩飽本島の吉祥院が新たに加わって「五流」が六ヶ院に
なっています。建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院が五流で、その他は公卿になります。
 塩飽本島の吉祥院が「五流」に加えられた経緯を示す史料はないようです。推測するなら、塩飽本島は塩飽水軍の拠点で早くから五流が関係していた備讃瀬戸の戦略的拠点です。そのために、本島に新たに五流の一院をもうけ、一山の運営に参加させるようになったとしておきましょう。どちらにせよ、塩飽本島に、五流の拠点が置かれていたことは押さえておく必要があります。

以上をまとめておきましょう。
①中世に後鳥羽上皇の子孫とされる道乗によって児島の地に五流修験は確立される。
②この時期に五流修験は備前国の守護の佐々木一族など宮家六党の後だてのもとに熊野神領の児島庄を支配し、熊野権現に奉仕する形ができた。
③しかし、この時期も児島に本拠をおくとともに、熊野にも拠点を持って先達として積極的に活動していた。
④南北朝時代以来のたびたびの戦乱で神領による財政的な支えが不可能とななったことに加えて、熊野信仰そのものも衰退した
⑤このため児島の修験者は熊野から独立して、自分達自身の手で一山を守り信者を獲得して行くようになった。
⑥五流修験者は瀬戸内沿岸で活動し、中国・四国から九州をテリトリーとする霞が成立するのはこの時期である。
⑦五流修験は、霞の檀那への配札や加持祈祷などの収入に活路を見出すようになる。
このように考えれば「長床縁由」に記される「熊野権現勧請譚」や、「聖武天皇や孝謙天皇の御代の伝承」は、信者をひきつけるためにこの頃に考え出された物語と思えてきます。
 どちらにしても五流は、戦争や内乱に屈することなく、縁起をととえ積極的に宗教活動を行なうことによって新たな信者を獲得し、その後の五流修験の活動基盤を作っていったと言えます。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

中世には「蟻の熊野詣」と言われるほど、多くの巡礼者が熊野三山(本宮・那智・新宮)に参詣したようです。熊野参詣を隆盛に導いた原動力の一つが、地方(在地)の先達(修験者=山伏=熊野参詣の案内人)や、それを支援する檀那の力があったからだと云われます。その中でも中世の伊予国は、全国的にも先達や檀那数は多い地域とされます。
 今回は、先達と檀那の間に結ばれた師檀契約の願文から熊野信仰について迫った研究を見てみることにします。
テキストは「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」です。
まず、最初に中世における熊野信仰の広がりを確認することから始まります。
 熊野信仰は、熊野三所権現の成立した11世紀末以降に盛んになりました。熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが「三位一体化」します。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていますが、同時にそれらの神が神仏習合化(神仏混淆性)していきます。

1熊野信仰 熊野三尊
 本宮は阿弥陀仏、
 新宮は薬師如来
 那智社は千手観音
を本地とします。そして
①本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。
②新宮は東方瑠璃浄土、
③那智は補陀落浄土
とも説明されるようになり、庶民にも受けいれやすく「加工」されていきます。
1熊野信仰 那智神

さらに、仏教でも不浄視されていた女性へも寛容的で、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすい性格だったようです。ただこの点は、後には南北朝末期に高野山側が
「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」

と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられたようです。この点が戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていった理由の一つと研究者は考えているようです。
 
熊野三山へ参詣する道(熊野古道)は、紀伊路、伊勢路があり、
紀伊路は大辺路・中辺路・小辺路の3ル━トがありました。中世には主として中辺路が一般的となり、公式ル━トにもなります。熊野参詣道には、多くの王子社(熊野権現の御子神を祀る分社、九十九王子と称せられる)が設けられ、参詣者は道すがらここで奉幣したり、経供養をしたり、法楽の催しをしながら、旅の苦労や愁いを一時なりとも忘れたと云われます。
 熊野参詣は、平安時代、院政期から貴族階級の間に盛んになり、法皇・上皇や女院、院の近臣、女房たちが、難路の苦しみを越えて、大行列で度重なる参詣を行うようになります。四国霊場を歩き通すことが人々に達成感や成就感あたえ、明日に生きていく力を養うことにつながると同時に、そこでの非日常体験や宗教的な霊感が信仰心を高めていきます。同時に、長い参拝はある意味で修行生活で学習の場でもありました。鎌倉時代に入ると、地方の武士たちも「世間を学ぶ」ために貴族たちと同じように、参詣をする者が現れます。そして、熊野詣でを、自分の子どもたちに「通過儀礼」として体験させる者も現れます。こうして 
①平安時代の貴族→ ② 鎌倉時代の武士 ③室町時代の商人 

へと熊野信仰は、広がりと安定した基盤をもつようになります。

幕府が鎌倉に開かれたこともあり、東国武士の間に熊野信仰が広がりを見せます。中部・関東・東北が圧倒的に多く、関西地方は遠くそれに及びません。また、熊野三山関係の社領荘園は、紀伊国や東海地方に多く、四国・九州地方は少ないようです。当然、社領荘園には、熊野の末社が勧請されて、熊野信仰の拠点となっていきます。そのため「熊野神社の末社数=熊野詣で参詣数隆盛」という図式がすぐに考えられますが、どうもそうではないようです。それは熊野詣でが近世の金毘羅詣でと違って、個人参拝ではなかったからです。熊野参拝のシステムは
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(修験者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
この三者の結びつきで出来上がっていました。
 先達に引率されて熊野にやって来た檀那は、神宮と参拝取次を御師に依頼します。その際に御師との間に師檀関係(檀縁関係)を結び、その名前(個人及び集団中の個々人の名前)や住所を記した名簿(願文)を提出しました。これは神との契約関係で、1回だけでなく一生の通じての契約でした。そのため檀那の名やその在所は、御師の家に大切に文書として保管されていました。
1 熊野信仰 檀那願文

 中世後期になると、檀那を金銭で売買することが一般化します。売券類、譲状、寄進状、借銭状、請取状などの経済関係の文書に見られるようになります。檀那を売買するという行為は、私たちから見ると違和感を覚えます利権として当たり前とされたいたようです。
 伊予国の熊野社と先達寺院を見てみましょう
 先ほども触れましたが中世の伊予国には、ほとんど熊野社領荘園はありません。にもかかわらず伊予は熊野神社が全域に分布しています。それはどうしてなのでしょうか。
  その理由を、先達である修験者(山伏)の活動の多さと活発な活動にあった研究者は考えているようです
 熊野神社の分社は、徳島県82社(寛保神社帳)や高知県69社(長宗我部地検帳)に比べると、少ないようですが全県下に分布していることが表からは分かります。分布特徴としては、山間部に多く、宇和町に集中している点を挙げることができそうです。

1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
 伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。
そのため愛媛の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。
その意味で新宮の熊野神社は、熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。また、吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。土佐方面への次の拠点は、
①新宮村熊野神社→ ②土佐豊永の熊野神社(定福寺)→ ③大豊町豊楽寺(若一王子神社)→④本山町金剛寺(若一王子神社)

という伝播ルートが考えられ、このルートは土佐の人々の熊野詣でルートであったともされます。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧2

 一方、伊予方面への伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
伊予国の先達拠点の特徴を、研究者は次のように指摘します
①真言系の旧仏教寺院(四国遍路の札所になったもの)、
②伊予国の東半分の比較的海岸に近い地域に多いこと、
③石鎚・出石山の二大修験霊場、一宮(三島社)という大社
④主要な寺社(宇摩郡新宮の熊野神社、石手寺の鎮守社)
などを拠点にして、熊野先達たちは活動していたようです。
 この中でも、風早郡の熊野谷権現社(ゆやだにごんげんしゃ)は史料が残っていて、詳細な点まで分かるようです。この神社は熊野谷と書いて(ゆやだに)と読むようです。ここの社僧(修験者)である池内氏(河野氏分流)は、檀那の守るべき社役を定めていますが、その中には次のような条文があります。
「当所より熊野参けいの人ハ、湯屋谷権現へ先参也、ふさた候へハ、道中にてしちありと申しつたへ候」(池内家文書、明応九年九月九日付熊野谷権現社僧勝賢置文)。 
 
とあって「熊野参詣の前には、湯屋谷権現(熊野谷権現)へ、まずお参りし絵から出かけること」と記されています。

三 檀縁関係からみた伊予の熊野信仰
 売買の対象になった檀那(武士)は、
(一)檀那の一族、一門
(二)地域
(三)先達
の3つに分類されています。
(一)と(二)について、研究者は具体例をあげて検討しています。 
 中世の伊予国で最大の武士団を形成したのは、河野氏です。
年不詳の「潮崎氏檀那目録」(近藤喜博著『四国遍路』に引用)に次のように河野氏は登場します。
 同国(伊予国)河野ノ一族十八ケ村、其外トウコ・トウセン一円、並川野ゝ一門十八ケ村々一族ケイツ書立有、代弐拾六貫文分
意訳すると
 伊予の河野一族は、18ケ村の他に、道後・道前一円や川野にいる。講の一門18ヶ村の檀那帳の代金は26貫文である。

ここでは、河野氏一族を「十八ケ村」と一括りにして、檀那を26貫文で売買されています。中世には、「一石一貫(米1石=銭1貫文)」という換算方法があったようです。これで計算すると1貫文は、10万円前後となるようです。26貫文は、260万円で、熊野社の檀那売買としては、かなり高額な値段で売却されているようです。「十八ケ村」で括れない河野氏勢力圏全体という意味で、そんな値段になったと研究者は考えているようです。
 しかし、河野氏一族を「十八ケ村」というのは、あいまいな概念です。これをもとに檀那を売買した檀那権をめぐる先達同士の紛争が起きたことが予想できます。このため一族単位に檀那を売買する方式は、一般的ではなかったようです。

河野氏の有力家臣で、熊野社の檀那として名前が見えるものもいます。
伊予郡大平の天神山城主の森山氏とその一門、
久米郡岩加羅城主の志津川氏、
浮穴郡小田(のち久万の大除城主)の大野氏
などです。
この三氏が共通の先達としたのは医王寺(現東温市)です。
医王寺引檀那注文(新出熊野本宮大社文書)に
「しつ河遠江守殿、森山殿、小田大野殿」
が見えます。


有力な氏族単位を檀那とする形とは別に、地域の小規模な武士集団を檀那とする方式も見られます。
応永元年(1394)正月16日の伊予郡長田郷岡田衆中檀那注文(新出本宮大社文書)には、
①岡田衆という伊予郡の武士集団(小田・町田・長田・東・北・森・向居・田中・大西・安松・重延等諸氏)
②長田郷内の農民や氏族単位の檀那(一家中)もいて、
随明寺僧橋本坊を先達としていたようです。こういう地縁的な結合形態(河野氏の軍事組織でもあったか)を利用した檀那もあったことが分かります。
 次に喜多郡の事例をあげてみましょう。
1 熊野信仰 伊予国喜多郡

この地域は、中世には河野氏の支配領域ではなく、宇都宮氏やその系列の武士をはじめ、比較的規模の小さい領主が割拠していたようです。それが熊野の檀那分布状況にも反映されています。喜多郡八多喜寺が先達であった檀那注文(那智大社文書)によると、
①津々喜谷氏(宇都宮氏家臣、滝之城主、在所は横松)、水沼氏(粟津郷)、上須戒の向居氏、延尾氏、篠尾氏、臼杵氏のグル━プ、
②笠間(宇都宮一族)、土屋、市木のグル━プ、
③下須戒氏(矢野氏流)、
④出海の兵藤氏、
⑤富永氏流の小田大野氏・立花氏・石原氏・宇津氏
など、五つの系列に分かれています。これらは、地縁的、氏族的にまとまりがあります。これらの在地領主らの中には、下野国から移住してきた宇都宮氏とその被官、三河国設楽郡から移りすんだとみられる兵藤氏や大野氏など、他国から伊予国へ来た武士たちも交っているようです。
 グループ毎に先達に引き連れられて、ながい熊野詣でに出かけます。先達は現在のツアーコンダクターに、修験道の師匠を加味したような性格を持ち畏敬の念で見られていたようです。ある意味、旅は「鍛錬」や「学習」の場でもありました。日常生活では見たり聞いたり出来ないことも体験します。それが人間的な成長の糧にもなります。武士団の頭領のような人たちにとっては「社会勉強」の役割も果たします。同時に、長い苦楽を共にした参加者との連帯感を養うことにもなります。各武士団が団結を深めるためにも熊野詣では役だったようです。
 熊野への参拝ルートは2つ考えられるようです。
 ①芸予諸島から熊野水軍の「定期船」で熊野へ
 ②新宮村熊野神社を拠点に、阿波吉野川沿いの熊野神社分社を経由し、撫養から紀州へ
この2つのルートが熊野参拝ルートとして中世以来の利用されていたようです。
喜多郡には先達寺院も多く、伊予国の中でも熊野信仰が盛んな地域でした。
 喜多郡菅田の清谷寺に伝わったという暦応三年(1340)十月十八日付の檀那譲状(「大洲旧記」所収)があります。しかし、この文書は文書様式からみても、譲状ではありません。内容的にも、清谷寺が道後河野氏を始め、喜多郡内の武士たち、宇和郡の西園寺氏、宇和郡須智郷の北ノ川氏など有力な領主を数多く檀那していた記録です。そこには誇大な記載があり、年代的にも疑わしと研究者は考えているようです。江戸時代になると、修験者は、信仰圏(霞という)を誇大に吹聴して、虚勢を張ることが多々あったようです。

このような熊野先達の活動が停滞するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。
 「戦乱の拡大とと交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」

と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような状況下で、熊野先達たちは活路をどこに求めたのでしょうか。
熊野先達=熊野行者=修験者=山伏たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を、新たに村落住人へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供するようになります。その内容は「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。地元の定着し里寺を起こす者も現れます。同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。それが中世の古四国遍路の完成につながっていき、その上に近世になって素人による四国巡礼が始まると研究者は考えているようです。
  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」
関連記事

中世は宗教が科学の役割を果たしていました。武力や技術、医療なども宗教と深く結びついていました。そのため人々にとって神仏は、身近な存在でした。すべては神仏で説明されたのです。
そんな中で、上皇や貴族たちから始まった熊野信仰は、鎌倉時代になると、皇族や貴族をまねて地方の武士たちも熊野に参詣するようになります。そして、後には富裕層も参加するようになり、次第にさまざまな階層の人々に受け入れられ、全国に広がったようです。
熊野信仰は、どのようにして各地に広がったのでしょうかに

 「瀬戸内海交通路を通じた霊場の系列化により浸透した」

と研究者は考えているようです。
熊野水軍に代表されるように古代からの熊野の海上交易ルート沿いに熊野領荘園の設置や熊野権現の勧進が行われます。しかし、それだけでは熊野詣を行う原動力にはなりません。身近で熊野に行こうと働きかけてくれる人物が必要です。それが熊野先達でした。
熊野先達の果たした役割を見ておきましょう。
先達の指示した精進潔斎を行って、参拝者(檀那)は熊野に出発します。先達は道中の道案内、関所、渡船、宿泊などの世話を行ないます。船で紀伊について熊野詣道に入ってからは、熊野王子などの霊地で拝礼や垢離などの導師を勤め、帰路や帰還後の作法を取り仕切ります。これだけ見ると現在の団来旅行のインストラクターのようですが、これは先達の職務の一部でしかありません。さらに先達は参詣をできない人の喜捨を熊野にとどける「代参」も行います。つまり、参拝しない信徒も抱えているのです。そして、熊野に参詣したり、寄進する人(信者)を「檀那」と呼んでいました。
 熊野にやってきた檀那や先達を受け入れ、宿泊、祈祷、山内案内などに従事したのが御師です。
先達は檀那を熊野に導くと、御師あてに檀那の在所、氏名、自己の在所、名前、提出年月日などを記した願文を提出しました。その形式は、次のようなものです。
     上野国高山修理亮重行(花押)
一    応安五年三月四日
一   道先達金峯山別当民部律師
一   那智山御師六角堂弁法眼
 この願文は応安五年に、上野国高山の檀那の修理亮重行が、大和の先達・金峰山別当民部律師を仲介として、那智山御師六角堂弁法眼に提出したものです。このように願文は、本来は熊野に到着した際、檀那が先達・御師を介して熊野権現に祈願をとりついでもらうために提出する祈祷依頼状でした。ところがこの願文には、今後は必ずこの御師のもとに来ることを契約した内容も含まれています。それだけでなく、この先達が導いた檀那、その檀那の一族のものにも同様のことが義務づけられるようになります。そのため後には、願文とあわせて系図が提出させられ、御師は檀那の系図を作って保管するようになります。
つまり「願文提出」は、先達と檀那との契約関係ともいえるのです。今と違うのは神仏を介して成立していることです。熊野本宮の神前で御師・先達・檀那により交わされたもので、熊野権現への誓約という形で行われています。つまり神をバックにする御師・先達と、ただの人間の契約で対等なものではありません。契約を破れば、神仏から罰せられることになります。しかも契約は一代かぎりでないのです。子孫まで拘束するものであったことが文書から分かります。
  こうして以後は、子孫に至るまで「檀那・先達と御師」との結びつきが続くことになります。こうした御師と先達・檀那の関係を「師檀関係」と呼んでいるようです。願文は先達・檀那が署判して御師に提出する師檀関係の締結を示す契約状の性格をもつようになります。

 熊野の御師は、どんな風に全国の檀那を「登録管理」していたのでしょうか?
 熊野では、鎌倉時代から室町時代初期までは、檀那を一族単位で掌握していたようです。それが後には、在所単位に移っていきます。「那智山社法格式書」に、諸大名・諸氏は名字・氏・系図にもとづき、町人・百姓は生縁の在所によるとあるように、古くは、在地領主は一族単位で掌握されていたことが分かります。東北、関東など、在地領主の支配力が強い地域では、一族引きの形がとられたようです。ここからは、同じ地域に住む一族が一緒に、熊野詣をしていたことがうかがえます。
 御師にとっては師檀関係を結んだ檀那や先達は、他の御師へ鞍替えは出来ないシステムだったので、まさに永遠の「常客」です。このリストを持っている限り、参拝客が熊野にやって来てた場合には、宿泊料や取次料が入ってきます。そのため檀那リストは貴重な財産とされるようになります。
 御師は、檀那・先達の願文を保存し、さらに名簿や檀那の系図なども作って大切に保管するようになります。そしてやがてこれらの檀那・先達リストは譲渡や売買の対象としたり、借金の抵当となるのです。これは、そこに名前の記されている檀那や先達の意志と関係なく、御師の間で行なわれ、変更後にこのことを檀那や先達には知らせていたようです。現在の旅館がこんなことをやれば、怒りをかうでしょう。
 その際、御師の間ではのちの紛争を防ぐために檀那や先達の譲渡状、売買や借金に関する文書が取りかわされています。その上で、相手方に願文や檀那・先達リストが渡されています。
現在熊野の那智大社と本宮大社には、御師文書と呼ばれるこれらの文書が一括して保存されているようです。このうち那智大社所蔵のものは、『熊野那智大社文書』全六巻にまとめられています。
 この中にある「願文・願文帳・檀那譲状・檀那売券・借銭状・先達や檀那の名簿」をもとにして研究者は、各地の能野先達や檀那の活動を明らかにしているようです
その中の先達が「檀那権」を譲渡・売買した譲状を見てみましょう
これは、先達が親子・師弟などの間で檀那を無償で譲渡するものです。
    永譲渡檀那事
  合 上野国 玉村保住人讃岐公
  右件檀那者、京尊之相伝也 然聞所譲渡于玄善房実也、但後日証文之状如件、
   永仁七年卯月十七日                  京尊花押
 これは先達の京尊が上野国見桃保(群馬県玉村町)の檀那讃岐公を玄善房に譲渡したものです。
最初に「譲渡檀那事」とあります。「永」が文頭に記されているのは、「期間限定のレンタル譲渡」もあったからです。その場合には、レンタル期間が記されています。
 ここからは 参拝者(檀那) ー 熊野先達 ー 熊野の御師という関係(師檀関係)を、先達たちも互いに譲渡・売買していたことが分かります。 
 熊野先達を勤めた人たちは、どんな人だったのか
  先達は山伏だったと研究者は云います。石鎚山や中国地方の大山などの山岳霊場で修行する一方で、自分の拠点周辺の住民などを熊野へ引導しました。その途上、彼らは道筋にある神社や社寺などに泊まることもあったようで、その手続きや宗教儀礼なども執り行います。また。檀那の代理として参詣したり、礼を配ったりするなど、日常的に檀那と深くつなかっていました。今私たちが考える団体旅行のインストラクターとは、まったく違ったものです。ある意味、先達は檀那の信仰を菅理する立場で、師匠でもあり、怖れられる存在でもあったようです。13世紀の説話集「沙石集」からは、檀那が先達に畏怖の念を抱いていたことがうかがえます。
先達は檀那の信仰に深く関わり、その代償として利益を得ています。
だから、檀那との関係が動産化し譲渡や売買の対象となったと研究者は考えているようです。
徳島県吉野川市鴨島町の仙光寺所蔵の古文書は、地方の熊野先達に関する貴重な文書が残っています。そこには「十川先達」という熊野先達の名前が出てきます。彼は「柿原別当」という師匠について修験活動を行う山伏でした。彼の活動歴を残された文書から見てみると、周辺の先達から檀那株を買ったり、いろいろな手段で檀那を増やし、活動・経済基盤を固めている様子が次のように見えてきます。
① 14世紀には吉野川市鴨島・川島町が、檀那の分布域であった。
② 15世紀には柿原別当から石井町、吉野川市鴨島町の檀那を買い取った。
③ 16世紀初頭には、鴨島町西部に新たな檀那をもつようになる
④ さらに、鳴門市や徳島市、美波町、三好市などの檀那が散在するようになる。
このように、鴨島を中心に霞(かすみ)と呼ばれるテリトリーを拡大し、広域的に活動するようになります。ところで、檀那株を買った先の「柿原別当」は、もともは十川先達の師匠であったようです。ここからは十川先達が師匠から自立し、川島町を拠点に檀那を増やした。そして師匠の「柿原別当」が引退すると、その檀那株を譲り受けたという筋書きが描けそうです。
  熊野詣には、どれほどの費用が必要だったのでしょうか?
 吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達の残した史料から、参詣の費用について見てみましょう。
 白地城(三好市)の城主として名高い武将である大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げたものが残っています。
熊野三山御師え渡日記  大西覚用
 熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書のうち)


ここからは次のような先達と檀那の関係が見えてきます。

檀那 大西覚用 ー 十川先達 - 御師という師檀関係

覚用がこのときに、自分自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって参詣したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは3745万8750円で、大変な高額です。これは、御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。こちらについての記録は内容ですが、地域の有力武士団の棟梁クラスは、このくらいの「参拝料」を収めていたようです。商人たちは参詣講を組織し、グループで参詣していたようなので、こんな高額にはならなかったのかもしれません。しかし、一般庶民の手の出る者ではありません。近世の伊勢詣でや、金毘羅詣でとは違って庶民性は薄いようです。ところが、こんな方法ではなく、信心の強い人は物乞いをしながら熊野へ向かった人もいたようです。参詣に要する経費はさまざまであったということになるのでしょうか。
 どちらにしても紀伊からやってきた熊野修験者たちが四国各地に定着し、多くの檀那を確保して熊野詣でに参道していたようです。

  
土佐神社4
土佐神社
高知の神社で他県から勧請されたものを数えると、熊野系が128社と圧倒的に多いようです。その他では金峯(吉野)36社、石鎚が12社と続きます。熊野神社が数多く見られるは、土佐特有の現象です。

古代の熊野信仰形成過程
 

熊野神と仏教の混淆=熊野信仰の成立

熊野三山の本地仏


熊野信仰の全国展開と檀那権の売買

それでは熊野行者達は、どのようにして土佐に熊野権現を広めていったのでしょうか。
考えられる「仮説」を先に示しておきます。
空海以前の辺路修行者による行場・霊山の開発
プロの修験者の辺路修行社の巡礼・廻国
熊野修験者による熊野詣で
有力豪族の熊野行者保護と熊野権現の勧進
土佐神社1
土佐神社(高知市)

 まず土佐郡一宮の土佐神社と熊野信仰の関係を見てみましょう。
 ここは旧国幣中社の名社で、土佐最初の国造小立足尼の祖先一言主神を祀っています。

土佐神社祭神
土佐神社の祭神は、一言主神

 社伝では、雄略天皇が大和の葛城山で狩をした時に、一言主神が神異を顕わした(大王家と同格の振る舞いを行った?)ために、この地に移し祀った(流刑?)と伝えます。土佐郡には葛木男神社、葛木眸神社の両式内社がありますが、どちらも葛城山の伝承と結びつけられています。土佐に移住した加茂氏や葛城氏の一族布氏が、祖神を祀ったものと研究者は考えているようです。

土佐神社2

 ここからは、熊野・吉野(大峰)と並ぶ修行道場である葛城の神々が早い時点から土佐に祭られていたことが分かります。これは、土佐での熊野行者たちの伝播を、助けることになったでしょう。
 古代から聖や修行者が集まった土佐の寺院を挙げると、次のようになります。この中に熊野行者の姿を探しておきます。
①空海が修行窟とされる室戸岬の最御崎寺(東寺)
②最御崎寺の本寺とされる金剛頂寺(西寺)、
熊野の若一王子宮の神宮寺である長岡郡本宮町寺家の長福寺
④中国の五台山になぞらえられた高知市の五台山竹林寺
⑤修行僧善有によって開かれた安芸郡の妙楽寺
補陀洛渡海信仰とむすびついた足摺岬の金剛福寺
熊野三山の本地仏

 これらを見てみると室戸岬・足摺岬、吾川郡秋山村の種間寺など南方補陀洛浄土と結びついた寺院が岬や海辺近くにあることに気付きます。室戸岬から足摺岬に到る海岸線は「辺路修行」の道で、後には「四国遍路道」となっていきます。
それでは、奥地ある寺院や霊山はどうでしょうか?
⑦安芸郡和田に比定される妙楽寺、
⑧香美郡の高板山や石立山、
⑨長岡郡の白髪山、
⑩土佐郡の土佐山の長泉寺
⑪石鎚山系につらなる瓶ヶ森、
⑫高岡郡の横倉山や虚空蔵山、
⑬幡多郡の白皇山や篠山
これらの山々は、現在でも信仰されている霊山です。このように古代土佐の山岳信仰には、次の2種類があると研究者は指摘します。
A 海岸に面した岬や小丘
B 内陸の諸山

1香我美史 若一王子
 
 熊野信仰は、だれがどんなルートでもたらされたのでしょうか。初期に土佐に勧進された4つの熊野権現を見てみましょう。
①高岡郡越知村 横倉山
②長岡郡寺内 吾橋庄
③香美郡 大忍庄
④幡多郡 伊与木近辺
橫倉宮2
橫倉山
このうち最も早いのは横倉山への勧請で、保安三年(1122)です。
 横倉山南の本社に熊野権現、北の本社に吉野の金峰山の蔵王権現が勧請されています。単純に考えると、横倉山は最初に吉野系の真言系修験者がやってきて、吉野金峰山の蔵王権現を祀り、その後に熊野修験者がやってきて熊野権現を祀ったということになるようです。しかし、横倉山については、複雑なので、また別の機会に触れたいと思います。先を急ぎます。

豊楽寺 大豊町寺内
長岡郡寺内(大豊町) 豊楽寺は熊野信仰の拠点
 吉野川の大歩危の上流に位置する長岡郡寺内にあった吾橋庄は、のちに熊野権現領となります。
 この庄の長徳寺に伝わる平安末期の安元二年(1176)十二月三日付の文書には、次のように記されています。

「土佐国庁、北条吾橋山、奉免長徳寺 并王子殿四至内……」

ここからは、12世紀の吾橋庄に熊野王子社が勧請されていたことがわかります。そして、このエリアの熊野信仰拡大の拠点となっていくのが、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺です。

豊楽寺 大豊町寺内2
豊楽寺の薬師堂
豊楽寺に至る熊野行者の伝播ルートは次のように考えられています。
①紀伊半島 → 吉野川沿い → 四国中央市新宮町の熊野神社(別当三角寺) → 豊楽寺 
豊楽寺は陸路で吉野川沿いに入ってきた熊野行者たちの土佐への入口にあたります。熊野詣での時にも、多くの熊野信者たちが宿として利用したことが考えられます。つまり人とモノの交流点で、讃岐の仁尾商人たちもこの寺に寄進していることは以前にお話ししました。
土佐における熊野権現社領の代表的なものは大忍荘です。そこに勧進された熊野権現を見ておきましょう。
若一王子宮1 香南市
若一王子宮(香南市)
村上永源上人が紀州熊野から御厨子を背負ってきて、この地に勧請したと伝えられるのが若一王子宮です。弘安九年(1286)には、禅源が、さらに文保三年(1319)には、その子増源がこの社の別当を務めています。永源上人に供奉して、この地に来た山伏の子孫と称する家が六軒あり、紀州の熊野と同様に鳥喰いの神事を伝えていたそうです。

香南市 若一王子宮1
若一王子宮(香南市)
 同じ頃、南国市の田村庄にも、熊野先達入交源六兵衛沙弥浄円によって若一山東光寺が建立されています。このように土佐への熊野権現の伝播にあたっては、背景に次のようなうかがえます。
①荘園などを媒介とした熊野との社会経済的関係
②熊野聖・山伏・熊野比丘尼などの勧進活動
③それにもとづく師檀関係の成立
次に13世紀から16世紀にかけて、勧進された熊野権現を見ておきましょう。
①文治二年(1186)
平家の家臣大野源太左衛門紀州熊野より新宮を勧請(熊野神社。安芸郡馬路村)
②元亨元年(1321)
安田三河守元高、紀州熊野から熊野権現を勧請(熊野神社、安芸郡中山村大字別所宇鍛冶屋敷)
③建武年間(1334~)
藤原朝臣長山信濃守信安、神託により熊野より勧請(熊野神社、高岡郡東津野村)
④延徳四年(1492)豊後入道次男が同社別当職就任(新宮神社、長岡郡十市町)
⑤文亀二年(1502)源重隆、新宮三所権現を再興.
 
⑤永正年間(1504)領主隠岐守元国勧請(若一王子宮、吾川郡芳原村)
⑥永正十六年(1519)別当珍光阿闇梨再興、願主は泰氏茂親(本宮神社、土佐郡旭町)
⑦大永五年(1525)大峰先達長泉坊、長徳寺を再興
⑧弘治三年(1557)藤原資重、嫡子弥陀保子丸、二男重家入道沙弥良範か建立(熊野神社、幡多郡山中村)
⑨永禄二年(1559)真福寺権大僧都昌誉法印再建.当初は十二人の山伏が熊野から勧請したという(十二所権現、高岡郡北原村)
⑩永禄四年(1561)長曾我部元親勧請(若一王子、香美郡王子村)
⑪天正年間(1573)蚊居太子楠女勧請(熊野神社、長岡郡新改村)
⑫天正三年(1575)長曾我部元親勧請(熊野神社、長岡郡大篠村)
①②③④⑤⑧⑩⑫は土豪または武将やその関係者による勧請、
⑥⑦⑨は山伏、⑪は熊野比丘尼の勧請と考えられるものです。
吾橋庄のある長岡、大忍庄を持つ香美、横倉山を含む高岡などに熊野権現が増えています。これらの場所が熊野行者の活動拠点であったと推察できます。

 土佐は遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。
行基や弘法の巡錫伝説、『今昔物語』にあげられている醍醐寺の観幸、信濃の猟師であったが発心して出家した工藤大主、さらには重源、一遍、一向なども土佐を訪れています。また、俗聖などが土佐を訪れて、生をおえることも多かったようです。このため、やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものが見られます。
  熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしたことがうかがえます。
熊野信仰が広まるにつれて、土佐から熊野に参詣に行く人もでてきたようです。
応永25年(1418)幡多郡の瑳詑山住職が熊野参詣の先達職に任じられています。
永享 9年(1437)香曾我部氏の一族西山氏が、熊野参詣の費用を作るために地頭職を売ったことを示す文書が残っています。
文明十年(1478)十月 熊野那智の御師実報院に伝わる「米良氏諸国檀那帳」には、同院が玉井から土佐・八木氏を檀那として十三貫文で譲り受けたことが記されています。
慶長四年(1599) 熊野那智の潮崎氏は、それまで所持していた土佐国の長曾我部、香曾我部、一条、浅野一門、中村姓、ふく井姓、蓮池姓、きら氏の檀那株を新宮御師方に売却しています。
  このように中世末期には、那智や新宮の御師と土佐や他地域の先達、土佐の土豪を中心とする檀那の三者の関係が成立していたことをしめす文書があります。
  土佐からも先達である熊野行者に導かれて、熊野詣でを行う土豪達がいたのです。先達と檀那の関係は、現在のツアー旅行のツアコンとお客の関係ではありません。先達を師とする「師弟関係」のようなものでした。熊野への長い旅を通じて、強い人間的な信頼関係を先達と檀那は結ぶ事になります。檀那達を熊野へ導いた修験者の社会的な地位は高かったのです。その御礼として、熊野権現を自宅周辺に勧進し、氏神とすることもあったようです。
 土佐では江戸時代の初めには、250人、幕末には150人位の修験者がいたようです。
例えば足摺岬に近い幡多郡では、
本山派は中村の龍光院を中心に、聖護院院家の播州の伽耶院に属す40人
当山派は寺山の南光院下の20人 
それが幕末の文久4年(1864)に江戸幕府に出された「霞書大略」には、土佐は総て伽耶院の「霞」(テリトリー)で、当山派の修験者はいないと報告されています。ここからは、土佐では真言系当山派が凋落したことがうかがえます。この背景には、土佐山内藩の本山派保護策と当山派への冷遇策があったようです。そのため、幕末には当山派は土佐藩から一掃されます。
 本山派聖護院所蔵の「院家院室末寺修験頭分書上帳」には、近世末期の本山派修験の拠点寺院が各国ごとに記されていますが、土佐に関しては次の通りです。
 直末院   佐川        安楽院    
 準年行事  土佐郡江之口村   明星院    
 準年行事  香美郡香宗土居村  龍蔵院    
 準年行事  安芸郡和倉村    改宝院
    準年行事  幡多郡中村     龍光院  
    準年行事  安芸郡伊尾喜村   寿福院  
    準年行事  吾川郡長浜村    常楽院  
これらが聖護院側から見た土佐の本山派修験の支配層だったようです。

 

          
大山祗神社神域図

大山祇神社の神仏分離前の痕跡である
祖霊社を探して、神域を歩いてみまた。
 宝物館の裏から長い階段が伸びています。上にある建物は見えません。登って行くと入母屋の寺院的な建物が現れます。しかし賽銭箱子もなければ宗教的な雰囲気さえしません。なによりもまわりはフェンスで囲まれて、有刺鉄線も張られています。倉庫のような雰囲気さえ醸し出しています。何が祀られているのか?
 ここが祖霊社と呼ばれる建物です。
祖霊殿3
大山祇神社の祖霊社

『大三島詣で』(大山祇神社々務所)は、この建物ついて次のように記します。
「神宮(供)寺は四国霊場八十八ヶ寺の第五十五番札所・月光山神宮寺(今は今治市南光坊)として殷賑を極めた時代もあったが、明治元年の神仏分離令によって仏像・仏具その他全てが他所に移され」寺は大山祇神社末社「祖霊社」になった

祖霊社と呼ばれていますが、今は何にも使われていない建物のようです。しかし、神仏分離前はここが寺院ゾーンの中心センターだったのです。そして、その他の院坊が現在の国宝館辺りには立ち並んでいたようです。確かに、北側に神社ゾーンがあり、それに並ぶように寺院ゾーンがあった気配はあります。
 ここでも中世は、神仏習合が行われていたのです。
  本地仏の大通智勝仏について
  霊力を低下させた神様は、蛮神の仏に姿を変えて人々を救うとされ、神仏習合が中世には広がります。大山祇神が権化(=変身)したのが「大通智勝仏」という仏様です。人の名前のようで聞き慣れない仏名です。この仏については、後に触れるとして・・・
大通智勝仏
大通智勝仏

大山祇神が権化の本地仏「大通智勝仏」 16人の王子を持ちます
大山祇神社に神宮寺ができるのは保延元年(1135)のことで、当初は「神供寺」と呼ばれていました。「三島宮御鎮座本縁」には
七十五代崇徳院御宇保延元(乙卯)年、天下卒て暗夜の如く、雲靉靆と為し、人民日月光を見ず三日に及ぶ。 時に虚空に軍陣の音隙無く聞へ、其の響き恰も雷霆の如し。 故に人民大に騒動す。 此の時大山積神託宣に曰く、吾諸大地祇を率ひて、これを掃い除く也。 少く頃ありて快晴す。 これに依り諸人奇異の思ひを為しこれを伝へ聞く。 遠近の貴賤当社へ群集参運ころ数日夥しと云云。 此の事叡聞に達し、藤原忠隆を勅使と為し、当社の本宮を始め末社迄悉く造営之宣旨。 
 別て神代巻造化を以て人体に教へ給ふ通り、本社に雷神・高龗を加へ、三社を以て本社に崇むべしとの宣旨これ有り。 此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。 外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。 其の外摂社末社の本地仏を斯の如に調へ、御正体と号し、大通智勝仏の左右に掛け並へ、仏供院と号す。 亦は本寺堂と云。 是れ神供寺の初め也云云。
前半部は暗闇が何日も続く「天変地異」が続いたこと、これを大山祗神が治めたので、朝廷から勅使がやって来て本宮・末社を造営した事が記されます。同時に別当寺が建立されます。さらに
「神供寺のほかに「一于の堂」を建て、そこに大通智勝仏(東西南北四方八方を守護するとされる仏)の像を安置し、大山積神の本地仏とした、また、摂社末社の本地仏も調え、それらを大通智勝仏の左右に並べ、この堂を「仏供院」とも「本寺堂」とも称した、これが大山祇神社の「神供寺」の初めである」
と記します。このようにして、この神社では国家主導の形で神仏習合は進めれたようです。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点であったのでしょう。現在にまで法燈をつないでいるのが、今治市の南光坊(四国巡礼札所)と大山祗社に隣接する東円坊の二坊のみのようです。瀧本坊は、熊野における那智大滝を統括していた坊名です。ここからも大三島における熊野修験者の活動がうかがえます。

大山祗神社3

 神域を歩くと、楠の巨木に何本も出会います。
その中で、もっとも存在感があるのは、境内の中心に聳える「小千命御手植の楠」でしょう。
『大山祇神社略誌』には、次のように紹介されています。
 小千(おち=越知氏の祖先)命は神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。

小千命御手植の楠

 そしてもう一本、霊木「能因法師雨乞いの楠」があります。
『略誌』は、この楠について次のように奇譚を述べます。
 伊予守藤原範国の命により祈雨のため大三島へ詣でた能因法師が「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と詠じて幣を奉ったところ、伊予国中に三日三晩降り続いた(金葉和歌集)という。宇迦神社前の古木がこれである。

お隣の讃岐では、国守の菅原道真自身が雨乞祈祷を行っていますが、ここでは霊験のある修験者に雨乞祈願を行わせています。
そのために
能因法師がやって来たのがここです。注意したいのは「幣を奉った」のが本殿ではなく、この大楠であったこと。また、「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」にしても、本殿神ではなく大楠に宿る神への奉納歌であること。ここからは能因法師は、この大楠に大三島の水霊神(雨を司る神)が宿ると認識していたことがうかがえます。
 『略誌』は「宇迦神社前の古木がこれである」と書かれているだけで、その後の説明はありません。しかし、この霊木があるのは宇迦神社の前で、その本尊は龍神のようです。境内の中にも、いろいろな神々が祀られていたことがうかがえます。
大三島詣で』は、宇迦神社について、次のように書いています。
宇迦神社
鎮座地  本社境内(放生池の島
祭 神  宇賀神
例祭日 三月十五日
 木造・素木・流れ造り・屋根銅板葺き。池をはさんで木造・素木・屋根銅板葺きの拝殿。現在の社殿は昭和五十七年十二月新築。
 例祭のほか、本社の例大祭にさきだち、旧暦四月十五日から二十一日までの七日間、大祭期間中の好天を祈る祈晴祭が、当日晴天のときには旧暦四月二十四日に祈晴奉賽祭が行なはれ、その神饌は放生池に投供される。
 古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社として信仰されており、雩の神事には安神山頂の龍神社にお籠りをし、つづいて宇迦神社の放生池(土地の人が、べだいけんと呼ぶ)をさらえ、境内で千人踊りをした。

放生池の中島にまつられる宇迦神社
放生池の中島にまつられる宇迦神社
 宇迦神社は「古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社」とあります。
このことを知っていたから能因法師は、本殿ではなく宇迦神社の前の霊木の前で、雨乞祈祷をおこなったのかもしれません。ここには、大山祗神と宇賀神が「地主神と客神」の関係にあったのではないかという疑問も沸いてきますが、それはここでは封印しておいて・・・
 ここで見ておきたいのは、中世において院坊が数多く成立し、そこを拠点に熊野系の修験者が周辺への「布教活動」を展開している様子がうかがえることです。大三島周辺の島々への布教を行い、勃興する村上氏などを信仰下に置いて行ったのは、修験者たちだったようです。

それでは大山祗神社の社僧(=修験者)たちが聖地とし、行場としたのはどこでしょうか?
 大山祇神社の神体山はふたつあります。

安神山(大山祇神社の神体山の一つ)

ひとつは、龍神社を山頂にまつる山が安神山です。
もうひとつが、大山祇神社本殿の右後方に聳える山、鷲ヶ頭山です。この山には現在TV塔が建っていて、サイクリストのヒルクライムのトレーニングゲレンデにもなっていますが、ここに立てば絶景が広がります。
 さて、この山の谷にあるのが行場の「入日の滝」です。
研究者は「大三島において、修行・信仰の対象となりうる滝は、この「入日の滝」をおいてほかにはありません。」とまで云います。
滝山寺2
入日の滝

この滝までが、かつては大山祇神社の神域だったのではないでしょうか? 
現在、ここには滝山寺(無住)があり、その本尊は十一面観音です。古い供養塔などがみられ、その鎮守社は小さな祠ですが、祠内には「出雲大社」の神札がみえます。
 大山祇神社一の鳥居の横にある観光案内板は、この「入日の滝」について、
「鷲ヶ頭山の山麓にあり、高さ一六m男瀧女瀧にわかれている。その飛沫が夕陽に映じて美観を呈する夢幻境で俗塵が洗われる。古くから蛍の名所として知られている」
と記すのみです。神仏混淆時代の修験者の活動について、触れる事は当然ありません。

滝山寺本尊
滝寺の十一面観音
 しかし、しかしここの滝神は、先ほど述べたように本地仏を十一面観音とし、出雲大神を滝神と見立てています。この神仏習合関係を研究者は次のように指摘します

「この関係は、熊野・那智と似ています。那智において、大滝の神(飛滝権現)の本地仏は十一面千手観音ですし、熊野那智大社は那智大滝の神を出雲大神としています。また、滝山寺の御詠歌には、「大三島西国第一番台[うてな]の瀧山」とあます。
 これは、熊野那智(那智山青岸渡寺)が西国三十三観音巡礼第一番札所であったことを擬したものでしょう。「入日の滝」の滝神が、熊野那智の滝姫神を投影させたものであることは明らかで、熊野那智の滝信仰が、大三島の「入日の滝」にはまるごと再現されているようです。」

 ここからも大三島周辺で活躍した修験者達が熊野系であったことが推察できます。さらに一歩踏み込むなら、吉備児島の五流修験の流れではないかと考えられます。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立てて「新熊野」を名乗り、瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしていきます。その流れがここまで及んでいるようです。

祖霊殿2

参考文献 月の抒情、瀧の激情 http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-9.html?sp

 

このページのトップヘ