瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 丸亀平野開拓史

丸亀市史は、金倉川について「人工河川」説を唱えています。その背景として、西嶋八兵衛が満濃池を再築する時に、灌漑用水網を丸亀平野に整備するために、その邪魔になる金倉川の流路変更を行ったということが考えられます。そんな中で、さらに次のような説が出されています。

「金倉川の下流部は、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉川は現在の西汐入川である。」

この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。まず地図で西汐入川を見ておきましょう。

丸亀 西出汐川・塩屋
現在の金倉川と西汐入川の流路
上図からは次のような情報が読み取れます。
①金倉川は中津万象園の東側に河口があること
②西汐入川は、丸亀競技場の先代池や平池あたりを源流としていること
③西汐入川は、JR塩屋駅の南500m辺りで流れを、北方向から東北方向に大きく変えること
④西汐入川は、丸亀駅の北に今は河口があること。

約120年前の明治39(1907)年の地理院の地図で、見ておきましょう。

丸亀 西出汐川・塩屋. 明治39年G
              現在の金倉川と西汐入川の流路(1909年)
西汐入川の流路に、大きな変化は見られません。A地点で、大きく屈曲しています。金倉川は、まっすぐに北上するのに、どうして西汐入川はA地点で東に流れを変えるのでしょうか? それを解くヒントが土地利用図に示されています。

丸亀 西出汐川・塩屋. 3
       西汐入川の屈曲点Aの北側には、砂丘帯B・C・Dが東西に横たわっている 

この土地利用図からは、B・C・Dの砂丘帯(微高地)が黄色で着色されています。土器川河口から、多度津までは、土器川と金倉川によって堆積した砂州が続いていました。その砂州の一部がB・C・Dのようです。この砂州によって、西汐入川は北上を阻まれて、東に流れを変えていたのです。
丸亀の砂嘴・砂堆
丸亀周辺の砂州と金倉川・土器川
次に、金倉川の下流部は西汐入川であったという説を見ていくことにします。
まず西汐入川の源流を確認します。
西汐入川の源流2
西汐入川の源流は、平池・先代池あたり
この土地条件図からは次のような情報が読み取れます。
西汐入川の源流は、平池・先代池あたりで、金倉川と併流していること
②金倉川が、かつては東の西汐入川に流れこんでいた形跡があること。
③先代池の北側には「原」「荒」の地名が残り、開発が遅れ湿地が広がっていたこと

金倉川が西汐入川として、丸亀城下に流れこんでいたことを示す絵地図が残されています。
 
金倉川流路変更 
高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 の「圓(丸)亀古城」部分
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①「圓(丸)亀古城」が丸亀城で、海側に「町」とあるのが丸亀城下町
②東(左)に土器川河口が描かれている
③西(右)側から「町」丸亀城下に川が流れこんでいること。
④西側の河口から砂嘴が伸びていること
①の「圓(丸)亀古城」の表記は、一国一城令で、廃寺となったので「古城」と呼ばれたようです。しかし、城はなくなっても城下町の一部は残っていたことがうかがえます。それが、御供所・平山・南条・塩飽などの町筋であったようです。
 この地図で研究者が注目するのは、③の西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、川の西(右)側には中津・下金倉・上金倉の地名が見えます。中津と上金倉の間を流れています。どうやらこの川は、金倉川のようです。金倉川が今津の北で西汐入川に流れこんで流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出している様子が描かれているようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、国立公文書館版の讃岐国絵図を見てみましょう。ここからは次のような情報が読み取れます。
①②丸亀城を囲んで、東に土器川、西に金倉川が流れている
③の土器川河口の砂嘴の上に船番所が置かれ、そこから丸亀城に東汐入川が伸びている
④の西汐入川河口にも船番所が置かれていること
ここから先ほど見たように、丸亀城下に西側から流れこんでくる川が小さく描かれています。そして、多度郡と郡境近くに金倉川は下金倉村で海に流れ出しています。この絵地図と先ほど見た絵地図は生駒藩時代のほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違います。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は次のように記します。
①旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
②ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。
③一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。
④西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていた。
⑤西汐入川は、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。
①の旧金倉川河口が、丸亀城下町の西北にあっために、この附近の南条・塩飽町や三浦の街並みは、台風などの度に大きな被害を受けたことが考えられます。

この被害を小さくするために旧金蔵川のルート変更を、現在の原田町や金蔵町付近で行ったのでしょう。その結果、丸亀城下町の水害は大きく減少したはずです。その一方で⑤の結果、中津から津森にかけては、砂堆の後背地湿地が広がり、葦の原野となっていきます。それは「原」「荒」などの地名からもうかがえます。
丸亀新田町
先代池が丸亀扇状地の突端部 その北の新田町
 丸亀扇状地の突端部は、先代池であることは以前にお話ししました。その北側は一段低くなっていて、かつてはここまで海だったようです。ゆめタウン建設時の発掘調査からは、海に面した集落として次のようなものが出てきています。
①製塩土器
②飯蛸壺が8か所から14点
また条里制遺構もでてきています。この辺りが丸亀平野の条里制の北限部であり、人が住んでいたのもここまでだったとされます。
 そして近世に至るまでは、その目の前には旧金倉川が逗留し、葦が茂る湿地が砂堆との間に拡がっていたことになります。ここで開拓が始まるのは山崎時代の承応年中(1652~55)のことで、塩飽島の岸本十郎重綱の子孫で又右衛門によってでした。彼らも廻船業などで得た資金を手にして入植したようです。
 ゆめタウン北東にある天満池を囲むように南と西に、塩屋の飛地がありました。この飛地は新田の開拓より数年遅れて、塩屋の人々が約11町歩の土地を開拓したという記録があります。赤穂からきた塩職人が塩田を開き、塩屋別院を建立し、門徒たちが集まり住むようになります。その門徒集団によって開かれた飛び地のようです。先に塩飽島出身者が開墾した新田に刺戟され、塩屋の天満の人々が新田に隣接したこの地を開墾したことが考えられます。
以前を整理して起きます。
①旧金倉川は金倉附近から、現在の西汐入川に流れ込み、丸亀の西へ流れこんでいた
②丸亀城下町の水害からの防衛のために、金倉川が金倉附近で付け替えられ、まっすぐに北上して下金蔵で海に流れ出すように流路変更が行われた。
③その結果、旧金倉川流路が湿地化し、開拓が始まり、新田が開発された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


 中世後半に丸亀平野の開発は進められますが、最後まで手がつけられず残されたのは土器川や金倉川の氾濫原でした。
二つの川の氾濫原は台風などの洪水の度に、水に流され湿地化していたことが想像できます。その開発に着手するのが生駒藩です。生駒藩は築城技術を民生の土木工事に転用し、霞堤防などの新技術を用いて、土器川・金倉川の流路変更をおこないつつ、コントロール下に置くことに成功します。こうして17世紀初頭に丸亀平野の両河川の氾濫原の開発が急速に進みます。その際に、生駒藩が取ったのが「入植者や開発した耕地は、入植者のものになる」という原則です。この結果、讃岐だけでなく他国からも氾濫原への入植者たちがやってきます。

芸予海賊木谷氏の多度津葛原への移住

金倉川沿いの葛原開発を行った木谷氏は、芸予諸島の村上水軍の出身だとされますが、秀吉の海賊禁止令を受けて早い時期に海賊稼業に見切りをつけて、多度津にやってきて開発定住者となっていきます。その際に、資金と一族の団結が大きな力となったことは以前にお話ししました。前置きが長くなりました。
 そういう目で土器川流域を見てみると、小谷氏と同じような他国からの有力開発者集団の痕跡が見えて来ます。今回はそれを「丸亀の歴史散歩」で追いかけてみようと思います。

丸亀の歴史散歩(直井武久) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
丸亀の歴史散歩 直井武久 昭和58年

 土器川の氾濫原を開いた開拓者一族として「丸亀の歴史散歩」が挙げるのが堀田氏です。
 県道4号(長尾線)とR11号が交差する西村の南東に堀田家本家はあります。

土器川下流 西村 上分 堀田家
                   明治39年測量図
土器川下流 西村 上分 堀田家2
土器川
下流の土地条件図 西村周辺に旧河道があることが分かります。
 江戸時代の初め、堀田英直は丸亀藩主山崎家に仕え農人町に住んでいたが、山崎家が絶家となったのでやむなく①土器の西村へ移り住んだ。そこで初代英直、二代忠直は、西村の荒れ地を開拓した。②直行の弟直道は、土器川の東を開き、本家から分かれて上分に住み為光安太夫と名乗り、③後に高松藩の大森家に仕え百十石の騎馬役となった。④本家四代目の弥三郎直美も牛窪家の騎馬役となった。五代目を弥三郎直俊といい、関口新心流兵法の居合免許を持ち、大森家の与力となっていた。
このころ著された進藤政量の讃岐廻遊記に「堀田家の庭は、その風景並びなく、庭に茶庭もあり……」と記されている通り、直俊は武術だけでなく風流もたしなんだ。遠心流生花伝授の資格を持ち、茶道にも造詣が深く、茶会をしばしば催し、挿花、床飾りにも通暁していた。
さらに敬神の念が厚く、④今日吉岡神社の参道入り口にある一対の常夜燈にその名が残っている。
 直俊は天保六年(1835)に亡くなった。その墓には次の辞世の歌がある。
  彼岸へ行そ楽しきさゝの舟 常無風の吹に任せて
ここからは堀田家の土器川開発について次のような情報が読み取れます。
①堀田家は,山崎藩断絶後に土器川左岸(西側)の土器町西村を拠点に開発に着手した
②その後、分家が右岸の土器町上分を開拓した。
③本家・分家ともに、髙松藩の有力家臣の騎馬役や与力を務めた。
④吉岡神社の参道入口の一対の常夜灯を寄進している
こうしてみると、堀田家が丸亀城内から西村にやってきて帰農したのは山崎藩断絶後のことで17世紀後半になるようです。その時点でも土器川両岸の西村や上分には氾濫原の原野が拡がっていたことになります。堀田家は、髙松藩の騎馬役に取り建てられることによって、家格を安定させています。
香川叢書第二(名著出版1972年)には「高松領郷中帯刀人別」には騎馬役として次のようなリストが挙げられています。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

郷騎馬は武士ではなく在郷の帯刀人です。注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻ると書いてあります。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。また馬場などの広い土地も必要でした。開発後も、土器川周辺にはそのような原野が残っていたことが考えられます。ちなみに髙松藩の騎馬役は6名で、この時には堀田家の名前は見えません。

堀田家よりも少し上流の二子山の東側で開発を進めた
進藤家を見ていくことにします。

丸亀市二子山 明治39年

 双子山から土器川の間の氾濫原を開発したのが進藤家です。その墓地が土器川堤防の下にあります。ここは進藤家の江戸時代以降の墓で観音堂もあったようです。このあたりは土器町の南端にあたり、小字は樋渡です。
この墓地からさらに約300m北にも墓があります。この墓が、進藤家の初期のもののようです。進藤家の由来は次のように記します。
①京の近衛家に仕えていたが、近衛家の播州姫路や丹波へ亡命を守護し、土着
②その後、讃岐へ一族郎党36名で移ることになった
③姫路から土器川河口まで船でやってきて、河口からは小舟に乗り換え、川を遡って樋渡に着いた。
④36人とは武田、大西、河西、岩崎、上村、村上、高倉氏らをいう。
⑤ここに屋敷を構えた一族は荒れ地を開いたが、堤防がなかったので土器川の氾濫で屋敷や田畑はしばしば水害に見舞われた。
⑥先ほど見た初期の墓は、五代高信と六代高利のもので、高利は元和四年(1618)没
⑦それ以後の墓は水害の少ない南方へ移した。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①近衛家護衛集団の一族と称しますが、集団で生駒藩の時代に国外からやってきた武士集団であったこと
②土器川河口が湊で、二子山辺りまでは川船が遡っていたこと
③荒れ地を拓いたときには堤防はなく、洪水のたびに舘や田畑がながされたこと
④一族の墓が土器川沿いに作られ、その後その前に堤防が作られたこと。
⑤初期の墓からは川西への入植が生駒藩時代だったこと
その後、進藤家は、享保20年(1735)から高松藩の庄屋や大庄屋並みの役を五代にわたって務めています。
最後に、寺院が開発の核となった丸亀南中学校周辺を見ておきましょう。

南中周辺
丸亀南中周辺 左が明治39年地理院発行 右が土地条件図 
このふたつの地図からは次のような情報が読み取れます。
①丸亀南中学校は、ふたつの池を埋めた上につくられていること
②馬池や宮池は、旧土器川跡に作られた溜池であること。
③南中の南には、原、大林(おおばえ)など、かつての原野を連想する地名が残ること
④原集落は微高地の上に立地し、その真ん中に東光寺があること。
まず東光寺について見ていくことにします。
 
この寺は天文年間に誓玄という僧が開基したとい伝えられます。その地点は、もともとは祚原の三本松(今の正面寺集落)で本光寺として建立されたのが始まりのようです。建立者について、寺の記録は「清水宗晴(長左衛門尉、後の宗洽)の次男釈清厳か讃州柿原郷に住居し本光寺を開基す」と記します。ここに登場する清水宗晴は、豊臣秀吉の備中高松城の水攻めの際に、清水宗治や兄の月清入道らを自刃させ、その代わりとして城兵を助け和議を結んだ人物のようです。その次男が開いたとします。つまり、武人出身者によって開かれた真宗寺院ということになります。
 祚原にあった本光寺は、元禄年間に寺の東に光り輝く霊光を見て現在の原に移され、名を東光寺と改めたとされます。現在丸亀南中学がある一帯について「丸亀の歴史散歩」は次のように記します。
この附近は、木や茅などの茂った未開の地で、今日地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野であったと思われる。その原野の一隅に東光寺ができてから人々が次第に姚まり聚落ができていったが、これは歴代住職の学徳に負うところが多い。

元禄年間(17世紀末に)に柞原から、原野の中の「原」に東光寺が移ってきて地域の開発センターの役割を果たすことになります。
七代住職了空は東光寺中興の高僧と慕われている。了空は児峰とも号し、仏典に精通していたので遠近を問わず教えを乞う仏弟子が多かった。また村民には農産業の知識技術を授け、希望する者には読み書きも教え、民衆から慈父の如く慕われた。  
 了空は安永七年(1778)80歳で没し、左の辞世の歌と詩を残している。
  ながき世の苦しき海は夢なれや 今宵は法の 舟にひかれて
  八十年来 何の為す所ぞ  すべて苦患に沈み 一事無し
  た’ゝ 今夜願船に乗るを喜ぶ しばしの間彼の地の蓮台に坐すべし
 七代住職了空のもとで、「農民に農作業の知識技術」を与えとありますが、原野の開発を進めたのもこの時期のことなのでしょう。つまり、南中一帯も元禄年果敢までは原野だった。それを開発したのが東光寺の了空と、その門徒集団だったと私は考えています。未開墾地の原や大林に、開墾拠点を移し、東光寺を中心に真宗門徒たちが団結し、周辺を開発していったことが見えて来ます。東光寺によって拓かれた南中周辺と云えそうです。
 幕末から明治の初めにかけて東光寺では、近隣の子弟に読み書きを教えていました。そのため、この塾が双山小学校になります。東光寺の双山小学校は、児童増加に対応して、春日神社の東の竜王へ移されたようです。

近世の土器川開発者

以上、堀田家と進藤家や東光寺による土器川氾濫原の開発について見てきました。共通しているのは近世になっても、土器川の氾濫原は放置されていたところが多かったと点を押さえておきます。そして江戸時代になって開発の手が入ります。その主体は、農民達ではなく有力な武士団が帰農して入植したり、寺院が開発センターの役割を果たしていることです。
古代からの丸亀平野開発の経緯をまとめておきます。
古代の丸亀平野は土器川や金倉川の作りだした扇状地で、その上をいくつもの川筋が「山田の大蛇」のように暴れていました。そのため古代人たちは、微高地に住居を建てて湧き出してくる湧水を水源として、限られた範囲を耕作していました。古代の丸亀平野は、照葉樹の森の中に切り開かれた耕地が展開するという光景だったようです。現在の全面水田が拡がる光景とはほど遠かったのです。発掘調査からは律令制の基盤となる条里制工事が行われたのは全体の3~4割程度で、半分は畑で、潅漑施設が整い水田化されていたのはその半分見も満たないとされています。
 それが大きく変化するのは中世になってからです。原因はよく分かりませんが地殻変動などで、それまでの河道が大きく変化し、固定化されるようになります。その結果、洪水危険範囲が狭まります。同時に、それまでの潅漑用水が使えなくなり、新たな用水開発が求められるようになります。それに対応したのが、中世の名主層です。また鎌倉時代に地頭や西遷御家人として讃岐にやってきた東国の武士団も治水潅漑工事を進めたことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
直井武久 丸亀の歴史散歩  昭和58年 263P
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土器川の流路変遷を研究者は次のように考えています。

金倉川 土器川流路変遷図
土器川は、台風などの洪水時にはまんのう町の長炭付近で平野に出ると、暴れ龍となって次のように幾筋も分かれて瀬戸内海に流れ落ちたようです。
①は、一番西側の紫ルートで金倉川や弘田川の流域を経て白方方面へ
②は、櫛梨山をまわりこんで生野・与北町から現在の河口方面へ
③は、祓川橋付近から垂水から八丈池→金丸池→道池を経て現在の河口へ
④は、小川・法勲寺から大束川に流れ込んで川津・宇多津方面へ
④の破線は、長尾・打越を抜けて岡田台地を下って、大窪池から大束川へ
この中で④破線の流路(長尾→打越→岡田→大窪池)については、分かりやすい史料が手元にありませんでした。そんな中で「今昔マップ」で遊んでいると、「傾斜量図」という機能があるのを見つけました。この機能で描かれた地図で④の旧流路を追いかけて見ることにします。まず現在の打越池周辺の地形を押さえておきます。

土器川旧流路 長尾から打越
         まんのう町長尾・佐岡附近の土器川 左が現在、右が傾斜量図
現在の土器川は、打越の南側を流れています。しかし、土地利用図でみてみると

土器川 旧河道(打越峠周辺)
           土器川の旧河道跡 長尾 → 打越 → 岡田  (土地利用図)
土地利用図を見ると、長尾から打越に向けての旧流路跡が残っています。
ここからは、旧土器川は打越峠の下を岡田方面に流れていたことが分かります。
現在でも長炭の亀越池に蓄えられた用水は土器川に落とされ、長尾で取り込まれて打越池にストックされて、岡田台地の仁池や大窪池に配水されています。ここでは土器川は打越峠を浸食し、ここを流路としていたことを押さえておきます。 打越池周辺を今昔マップで拡大してみます。

打越峠
今昔マップ 左が明治39年測量図 右が傾斜量図
傾斜量図からは、打越峠の西側が一段低くなっていて、用水路が通過しています。先ほど見た土器川の浸食作用で、ここが切り開かれたようです。
次に打越池を超えた土器川は、どうなったのでしょうか。研究者は次のように記します。

岡田・上法勲寺断層

岡田台地は丸亀市飯山町から綾歌町にかけての土器川右岸にある台地で、①約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地です。②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖とされますが、崖そのものは南東から北西に流れた③古綾川によって浸食された段丘崖です。断層はその北側の平野に伏在している可能性があります。

要点をまとめると
①岡田台地は約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地
②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖
③その崖を古綾川が浸食した段丘崖
以上を言い換えると岡田台地は、土器川の堆積で出来た扇状地に「東西圧縮」の力が加わり、南北にいくつもの尾根が走る台地になったようです。その時に形成された台地を「古綾川」が浸食して、それが現在の段丘崖だというのです。それを地図で見ておきます。

土器川と綾川の旧流路
①が土器川の旧流路
②が綾川の旧流路(古綾川)
③旧土器川も、古綾川も、現在の大束川に流れ込んでいた
④旧土器川の扇状地である岡田台地が上図の茶色部分
⑤その台地の北側を②の綾川が侵食し、段丘崖が南東から北西に形成された

②の羽床の古綾川の屈曲点を見ておきましょう。
綾川シラガ渕
綾川の羽床での流路変更について
①南西から北西に流れてきた綾川は、堤山の北の「しらが渕」で東に大きく流れを変えて滝宮方面に向かう。
②しかし、かつては堤山と快天塚古墳の間を西に流れ、富熊を経て大束川流域に流れ込んでいた。
③近世には、渡池(斜線部)が綾川から取水して、富熊方面に供給していた。
旧土器川の扇状地だった岡田エリアが「東西圧縮」を受けて台地となります。そこを土器川はどんなルートで流れたのでしょうか。
土器川 旧河道(打越峠から大窪池)
打越池から大窪池への土器川の旧河道
土地条件図を見ると、打越池から大窪池には旧土器川の侵食によって出来た旧河道が今も残っています。その河道跡に近世になって、いくつもの溜池が造られています。段丘崖の末端部に作られた大窪池と仁池は、その中で最大のものになります。

大窪池から法勲寺 土地条件図
             旧土器川流路 大窪池から法勲寺周辺
旧土器川の流路は、大きく窪んでいました。そこに近世になって造られた溜池は大窪池と名付けられます。この辺りは流路が変更してからも、出水が湧きだしていて農業用水の水源地でした。ここからの用水を利用しながら法勲寺周辺の古代の開発は進められたと私は考えています。

大束川旧流路(旧土器川の流れ込み)
                    旧土器川の流路跡
大束川・飯山の古代遺跡


 飯野山の南側エリアには、旧土器川と古綾川が流れ込んで、遊水地となっていたことが考えられます。
この状態が、いつまで続いたかは分かりませんが、弥生時代に稲作が始まった頃は、低地部の周辺の微高地に住居を造って生活していたようですが、これも洪水が来れば流されています不安定なものだったのかもしれません。
古墳時代後期になると、集落遺跡の立地に変化が出てきます。
岸の上遺跡や名遺跡など大束川低地の中央の旧河道近くの微高地上で、竪穴建物や総柱建物が姿を見せるようになります。名遺跡からは古代の自然流路と水田跡が出てきて、微高地の上に集落を作って、その周辺の低地を水田として開発したことがうかがえます。低地への進出が始まります。

白村江敗北後から壬申の乱にかけての7世紀後半頃になると、岸の上遺跡には大型掘立柱建物群を持つ郡衙的施設が現れます。
8世紀前半頃には、この施設に沿って南海道が伸びてきます。そして、郡衙周辺には条里型地割が進められていきます。この時期は「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」と、大規模な土木工事が行われた時期になります。鵜足郡の郡司は、このような古代国家の求める土木工事を担当・遂行することで権益を確保していったのでしょう。 沖遺跡周辺では、大型掘立柱建物群が東原遺跡や遠田遺跡などから見つかっています。岡田台地上の開発が活発化していく様子がうかがえます。また、沖遺跡南方に近接する沖南遺跡からは、法勲寺と同文の軒瓦や多くの輸入陶磁器類が出土しています。ここに氏寺としての法勲寺を建立した鵜足郡の住居があったことが考えられます。それを敢えて予想するなら神櫛王伝説の主人公である古代の綾氏が浮かんできます。坂出の福江を拠点に、大束川沿いに内陸部に勢力を伸ばしてきた綾氏の活動とダブらせておきます。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

以上をまとめておきます。
①旧土器川は打越峠を浸食し、その北側に扇状地を形成した。
②扇状地はプレートの東西圧縮により岡田台地となった。
③岡田台地の北側の先端を「古綾川」が浸食し、段丘崖を形成した。
④土器川・綾川は、どちらも大束川に流れ込んで、飯野山の南側の低地を遊水地化した。
⑤流路が変更されると、遊水地は河床平地となり、弥生人が定住するようになった。
⑥しかし、台風などの洪水時には微高地の住居は流され、生活は不安定であった。
⑦白村江敗北後の7世紀後半になると、「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」を進める勢力が現れ、開発が進められた。
⑧これを進めたのが古代の綾氏の一族で、古代寺院の法勲寺などを氏寺として造営した。

綾氏と法勲寺開発

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 今昔マップ
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.192724&lng=133.866477&zoom=15&dataset=takamatsu&age=5&screen=2&scr1tile=k_LCM25K&scr2tile=slopemap&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


 
造田開発史
       
以前に、造田は土器川の氾濫原であったことをお話ししました。今回は、寛成年間の山津波で大きな被害を受けた造田が、どのように復興していったのを見ていくことにします。テキストは「 大林英雄 難渋地の百姓 造田村の記録   琴南町誌322P」です。
 まず、造田の地形復元をイメージしておきます。
 大川山の奥に源流を持つ土器川は、急勾配な渓流を流れ落ち、明神の落合で勝浦川と合わさって勢いを増し、中通を抜けて造田の天川神社にやってきます。ここで杵野川を合わせて水量を増し、造田の中央を流れ、備中地川と合流して更に水量を増します。その上、備中地川の合流点付近からは再び川幅が狭くなる地形でした。そのため出口を塞がれた袋のような形で、近世以前には洪水の時には造田盆地全体が湖水となってと研究者は考えています。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

そのため中世においては、備中地川周辺の山裾や谷間は開墾が行われますが、盆地中央部の土器川氾濫原周辺に開発の手が伸びることはなかったようです。杵野川や大川(土器川)に、本格的な横井が設けられて耕地が増加するのは、江戸時代になってからのことです。その背景には、土木技術の発達や、村切りによって地域の団結が強固になったことが挙げられます。小池が各地に作られて、二毛作田が増えるは江戸時代後半になってからであることを押さえておきます。こうして造田盆地には、徐々に美田が拡がって行きました。

造田ハザードマップ
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)

造田ハザードマップ.2JPG

 しかし、造田盆地を囲む周りの山々は、土質が軟弱で、山崩れや土石流の危険をはらんでいました。軟らかい土は水に流されやすく、大雨が降れば泥土で井手に塞がれて、田畑に流れ込み土砂が深く堆積します。また土器川の両岸が抉り取られて田んぼが流されることもありました。水が引けば川は畿筋にもなって流れ、盆地を流れる光景が拡がりました。

『高松藩記』には寛政三(1791)年8月20日に、大風と洪水に襲われたことが記されています。
この時に造田村の内田免の、黒の谷・森の谷・池の谷・竹の谷一帯で山津波が起こります。流れ出た土石流が、たちまちにして谷地を埋め、土砂を含んだ濁水が井手から田畑に流れ込み、土砂が堆積し、耕作不能地になってしまいます。
 これに対して秋から翌年の春にかけて、復旧作業が進められます。まず、やらなければならないのは、押し流されて泥土と化した被害地の田畑や百姓自分林の境界線をひくことです。これに苦労しています。何度も寄合を開いて、翌年の寛政4(1792)年2月14日の寄合で、くじ引きで決定しています。そのやり方は区画化して、その所有者をくじ引きで決めるという次のような方法です。
「内田村 黒の谷 森の谷 池の谷・竹の谷・奥砂山林に相成人別割付間取帳(西村文書)」には、くじで決まった土地配分が次のように記されています。
黒の谷分(一人前十間四方)で、東西十間に付、三畝一二歩八厘 田方一つ
〇一番 小七郎  東西十間に付同  田方一つ
〇二番 清三郎  東是より喜三八谷前三畝一二歩 田方一つ
〇三番 忠右衛門 (以下略)
〇一番 権助 下林三畝一二歩
〇二番 磯七 同 西尾切
〇三番 彦助 同 同西谷口
(二一番に至る以下略)
つまり、一番の札を小七郎が引き当て、黒の谷の一区画を得たというこになります。ここからは困難な問題に対して、村民が話し合いを重ねて乗り越えていく姿が見えて来ます。村の自治機能が発揮されていることがうかがえます。
 このほかにも、池の内森上谷・竹の谷・中尾・竹の口東分・珠数谷・森江谷などでも、くじで畑や山林の所有地が決められています。くじに参加している百姓の総数は104人にのぼります。ここからは、この時の被害が大きかったことが改めて分かります。

翌年の寛政四(1792)年になると、田んぼから泥上が取り除かれて、田植えが行われます。
しかし、表土が流され地力がなく、稲は育たず、ほとんど収穫できません。百姓を続ける気力をなくした小百姓48名が、持高を差し上げて逃散しています。こうして158石7斗1升8合の土地が、耕し手がいなくなり、藩の「御用地」になってしまいます。このままでは、年貢が徴収できません。そこで藩は、復興対策として新池築造に乗り出します。場所は、上内田の熊野権現の東側の低地を中心にした「順道帳面田代九反八歩、畑地二反歩」です。ここに池の谷の水を導いて、遊水地とする計画でした。この池のねらいは、灌漑用というよりも洪水の時に池の谷から流れ出る濁水を、導水路によって池に貯水し、徐々に放水して下流の井手に落とすというものです。そうすることで、水の流れをよくして、田代が土砂で埋まるのを防ぐというものだったことが政所久太夫から大政所に差し出した手紙によって分かります。池は、寛政五(1793)年に完成して、深田新池と呼ばれ、その後は遊水池的機能を発揮します。

 寛政六(1794)年になると、藩は耕作者のいなくなった「上り地」を、再度百姓に耕作させるための準備を進めます。
そのためには検地を行う必要があります。この時に作られた検地帳「鵜足郡内田村上り地下し米定順道帳」の政所控(「西村文書」)には、次のように記されています。
上り地
○内田免   三八八筆
○畝〆 一〇町九反九畝二七歩
○高合 一二八反四斗二升三合
○取米 六九石五斗八升二合
この検地に基づいて、面積・石高・年貢が決められていきます。
  一方で高松藩では、郷普請方小頭岩崎平蔵に、造田村の水利について調査し、その対策を立てるように命じています。岩崎平蔵は、吉野村の庄屋で長らく大政所(庄屋)を勤め、水利技術に長けていたために髙松藩の郷普請方に登用されていたことは以前にお話ししました。藩の命令に対して平蔵は、天川の大岩を切り抜き、大川(土器川)の流れをよくして洪水を防ぐこと、同時に内田大横井の水のりを良くするように藩に答申しています。そして寛政11(1799)年正月から普請に取りかかります。

造田 天川神社周辺
天川神社の前を流れる土器川、合流する柞野川

しかし、この工事は難工事だったようです。天川神社の前の土器川は、川幅が狭く、大岩盤が露出し、その上に大岩が累々と横たわっています。そのため一度に多くの人足が働くことができず、工事は遅々として進みません。
「造田村天川岩切抜場所野取帳「岩崎文書」には、次のように記します。
①3月末までに、造田村の人足延べ833人を投入し普請場を整理
②4月からは近村の人足を召集して、普請を続行
③6月に柞野川が大川と合流する地点から南にあった大岩の切抜き終了。
この成果を褒賞するために寛政11年6月8日に、高松藩主頼儀が、岩切普請場を視察することになります。造田村では、政所の久太夫が、炭所西村の政所与三兵衛、炭所東村の政所七郎四郎、中通村の政所八郎右衛門と協力して準備を進めます。ところが巡視の前日に藩主頼儀が急病になり中止となってしまいます。「西村文書」の中に、四か村が準備のために支出した「人夫424人の賄料、職人作料、飛脚賃、万買上物などの総計費572匁4分5厘」の明細帳が残っているようです。(殿様造田村岩切抜御覧の儀被二仰出一御昼所扱に付買上物其外入目帳)。
 続いて文化九(1812)年に、岩崎平蔵は天川の杵野谷の入口から下流の巨岩の取り除き普請に着手し、翌年4月に完成させます。これで水路が広くなったので、以後、造田村は水害を受けることがやや少なくなったようです。しかし、根本解決となったわけではありませんでした。
 ここで疑問に思うのは、岩崎平蔵は寛政年間(1791―1801)に、満濃池の貯水量確保のために財田川の水を引くことを思いつき、計画図を残しています。天川で二回にわたって大普請を行ったのなら、ここから満濃池へ水を引くことを思いついたはずです。しかし、彼が土器川からの導水を計画することはありませんでした。
以上、寛政三(1791)年8月20日の山津波に襲われた造田村が、どのように復興していったかについて見てきました。続きは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 難渋地の百姓 造田村の記録   琴南町誌322P
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コウノトリが営巣して子育てをするようになったまんのう町造田と内田は、私の原付バイクの散歩コースの一つです。また、阿波へのフィルドワークに向かうときには、内田側の旧道を原付バイクで走ります。ここを走っていて気づくのは、河川跡らしきものが見えてくるのです。これは一体何だろうと思っていると、疑問に答えてくれる文章に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」です。

造田 天川神社周辺2
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)
造田とは、江戸時代から昭和31(1956)年までの村名です。
造田盆地の土器川を挟んで東が造田、西が内田になります。地名の由来は、次の2つの説があるようです
A 土器川の洪水によってできた氾濫原に田んぼを造ったので造田
B「サウダ」は遊水地を開拓して作った沢田(湿田)のことで、沢の田から起こった名だという説
文政9(1826)年の造田村については  西村文書には次のように記します。
石高、897石余り
戸数 219(石居 153、掘立66)
人数 922(男495、女424)
職業別人数は、本百姓198 半百姓64 お林守1、刀指1、僧侶2、社人1、山伏3、鍛冶1、猟師1、馬医1、神社7、寺2、庵2、牛57頭、馬4頭
神社は、天川神社と梶洲神社があり、『三代実録』に記載のある古い社です。
外に天神社・久真奴神社などがあるが、山の神社・水除社などの小祠も多い。
寺院は、浄土真宗長光寺・称名寺・真言宗吉田寺があります。
造田は、阿波街道が村を南北に貫通していて、鵜足郡南部の村村の中心的な位置を占めていたことが分かります。

 
造田盆地を貫流する土器川は、氾濫を繰り返してきました。
そのため造田盆地の中央の低地部は、十世紀ごろまでは川の左右に大きな氾濫原(遊水地)があって、ほとんど開拓されていなかったと研究者は考えています。

造田 天川神社周辺

造田地区の地形をみると、天川神社の南で山が両方から迫ってきます。下流では不動さんのところで山が川に迫り、川幅が一番狭くなっています。また、造田と内田は、土器川を挟んで、低地部(下所)と台地部(上所)に分かれている河岸段丘を形成します。この下所と上所の境に1~6mの高さの段丘崖があります。この段丘下を旧土器川が流れていた根拠を次のように挙げます。

造田の土器川氾濫原
造田と内田の土器川氾濫図(琴南町史1057P)

①新井手堰から上内田の石原を通り、段丘崖に沿って下に流れている用水が昔の大束川の河床に沿って流れていること。
②内田の西側の段丘崖は、中内田から下内田のあたりは一面の竹藪だったようで、それが「高藪」という地名として残っていること
③現在の清神原(せいじんばら)の下から小川堰あたりで氾濫水が流れ込み、川になり小川と名付けていること。
④旧県道沿いに堤防を築いてこの水を防いだことが、川原の石を積み重ねただけの幼稚な堤防からうかがえること。
⑤内田下所の田を調べてみると、かつての川の跡を示すかのように、高岸に沿って、一番低い田が、奥から下へ、段々に続いていること。
⑥この田に沿って用水が通っていること。
⑦清神原あたりから一段低い田がずっと字小川まで続いていること。

これらの河川の氾濫原の開拓は、徐々に進められてきたのでしょうが、度々の洪水でその都度水田は流されています。
 開拓の面影を残すものとして、内田下所の所々に今でも石塚が残っています。これは旧土器川の川原を開拓した時に出てきた川石を積み重ねたもので、新しく開かれた開墾地などにはよく見られます。この塚を線で結ぶラインが旧土器川の流路であった研究者は指摘します。
 いつごろから治水に成功して水田を開いたかはよく分かりません。

四国観光スポットblog - 2009年07月
天川神社
伝説によると酒部黒麿が、八世紀ごろ天川付近を開拓し、天川神社の宮田を開いたといわれています。しかし、これをそのまま信じるわけにはいきません。本格的な下所の開拓が始まったのは、江戸期の生駒藩の時代になってからと考えるのが妥当な所です。しかし、治水技術が未熟で、開墾しても洪水の度ごとに、堤防や井堰が決壊して、田畑が荒らされます。それを何年もかかって、元に戻すということが繰り返されたようです。
それは次のような記録から裏付けられます
寛保四年の巡道帳から、元禄・宝永・正徳ごろになると開発田が多くなること
文化二年の巡道帳には、延享・寛政・享和などの時代に「林ニナル」とか、「砂入ル」などの記入があること。
このような中で、卓越した治水技術を盛っていた吉野の大庄屋岩崎平蔵が高松藩の郷普請方小頭に取り立てられます。岩崎平蔵は、藩命によって寛政10(1798)年から11年と、文化9(1812)年から十年にかけての天川大岩切抜普請に取り組みます。一本杉の天川横井の水乗りを良くし、横井から下流300mまでの河床に突出していた大岩を切り開きます。これによって、うなぎ渕付近の岩床が高いために、洪水のたびに水が大岩に乗り上げ、両岸に川水が氾濫していたのを防ぐことに成功します。しかし、これも恒久的なものではありませんでした。時間を経て、岩石や土砂が堆積して川床が再び高くなり、川水が氾濫するようになります。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

江戸末期から明治初期にかけて、この復興のために内田の百姓たちは女子供まで動員しました。「難所普請」と呼んだそうです。これが旧県道治いに三本松から農協裏あたりにかけて、残っている石垣跡です。
造田側では明治20(1887)年ごろになって、やっと本格的な土木工事が行われて、川に突出したような水はねの石塁(直径10m)三か所と、川岸の堤防300mが完成します。この工事の落成を祝って三番雙が演じられたと伝えられます。この堤防を森本堤防といい、現在もその当時の一部が残っています。
 大正元(1912)年の大洪水を、この堤防は水を防ぎますが、下流300mの堤防のない所が決壊して木の下の高岸までおし流されます。その後、大正5(1917)年、県補助の災害防止事業により、土器川両岸の堤防工事が行われます。さらに昭和になってからも、補強工事が行われ、戦後も砂防堰などが建設され、造田住民の長い水との戦いの歴史は幕を閉じ、現在の姿となります。

以上みてきたように造田地区は、古くから土器川の氾濫により、長い間苦しめられてきました。
洪水で、開田した田畑が一夜にして河原になることが度々ありました。治水技術の進んでいなかった当時は人の力ではどうすることも出来なかったのかもしれません。そんな時には、人々は神仏に加護を求めます。人々は、堤防が切れないように祠を建てて水除の神を祀り、水難から除られるよう祈りmした。これが水除社(みずよけしゃ)です。

造田の水除神
水除社
天川の忍石神社(天川バス停の下)は、社伝によると延宝4(1676)年に、内田集落の水害を防ぐために水除さんとして祀ったとあります。祭神は、天忍雲根命(飲料水の神様)・水波女命(あまき水、清き水の神様)・佐太毘古命(猿田彦神)の三神です。これだけではありません。嘉永6(1853)年の大水の時に勧進した水除社が、門屋の稲毛宅の前(造田字大西561番地)にあります。もとは50mぐらい西の高岸の上にあったのをここに移したそうです。水害のあと、ここに高岸を築いて、ここからは水が入らないように神に祈って建てたものと伝えられます。石の小祠が祀ってあって、「嘉永六丑年三月吉日 世話人 平田了吉」外16人の名前がきざまれています。
 平田水車のすぐ東(造田字山下1224番地)にも水除社があります。大正元(1912)年の大水の時も、このすぐ下まで水がきて、平田水車も半分ぐらい流されます。この小祠の中に、古い棟札があり、「明治十五年四月二十七日 奉再造大神官祠」と書かれています。これも再造ですから、もっと古い時代から祀られていたはずです。
 下内田字為久の水除堤防の上にも石造の祠があり、古くから水除さんと呼ばれています。ここは昔からよく堤防が切れたところのようで、今は頑丈な堤防が築かれています。
 隅田宅の裏(造田字小川1547番地)にも石造の水除社があります。ここも土器川の水が増水するたびに、水びたしになっていたところです。
これらの水除社の祭神は天照大神です。天照大神は水の神として別名は、「あまざかるむかつひめ
の命」とも言われているところから水防の神として祀ったとされます。
 こうしてみると造田地区には、残っているものだけで水除社が五社もあります。この外に流水の分配をつかさどる神として、水分社(祭神天之水分神、国之水分神)が三社があります。ここからは造田地区の人々が洪水に悩まされ、加護を神々に祈る姿が見えてきます。昔の人々は、これらの神々に祈りを込め、土器川の氾濫を防ごうと考えたのでしょう。

以上をまとめておくと
①まんのう町(旧琴南町)造田地区は、盆地の中を土器川が貫通していく。
②そのため洪水時には、土器川は暴れ川となって盆地を何本もの水流となって駆け下った。
③生駒藩になって土器川沿いの氾濫原の開発が進められ、造田も開発田が増えた。
④しかし、襲い来る洪水が開発した水田を押し流し、再び川原や遊水地とすること繰り返された。
⑤人々は土器川沿いに水除社をいくつも建立し、水害からの加護を願った。
⑥土器川の治水コントロールが可能になるのは、近代になってからのことだった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」

四条・吉野の開発

まんのう町の吉野下秀石遺跡と安造田古墳群と弘安寺をつなぐ
前回は上のように、洪水時には遊水地化し低湿地が拡がる吉野や四条に、ハイテク技術を持った渡来人が入植し開拓に取りかかったという説を考えて見ました。今回は、吉野下秀石遺跡などを拠点とする指導者が埋葬されたと考えられる安造田古墳群を見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺
まんのう町羽間のバイパス沿いに並ぶ安造田古墳群
安造田古墳群は、まんのう町羽間の国道32号バイパス沿いにあります。土器川対岸に吉野下秀石遺跡があります。
安造田古墳群1

氏神を奉る安造田神社にも、開口する横穴式石室があります。その東側の谷に3つの古墳が造営されています。その中の1つです。これらも「初期群集墳」と考えられます。そして土器川の対岸の吉野下秀石遺跡のカマド付の竪穴式住居と、安造田3号墳は同じ時期に造られています。

安造田東3墳調査報告書1991年

  調査報告書はグーグル検索してPDFでダウンロードすることができます。時系列に発掘の様子が記されていて、読んでもなかなか面白いものになっています。調査書を開くとまず現れるのが次の写真です。
安造田3号墳 出土状況
安造田3号墳 羨道遺物出土状況

須恵器などがほぼ原形のまま姿を見せています。最初見たときに、てっきり盗掘されてないのかと思いました。次に疑問に思ったのは「羨道部の遺物出土状況」という説明文です。石室の間違いだろうと思ってしまいました。ところが羨道で間違いないようです。後世の人物が、石室内部の副葬品を羨道部に移して並べ直していたようです。どうして? ミステリーです。 発掘担当者は、次のように推理しています。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。
②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。
③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。
④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した
⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
  以上からは、8・9世紀頃には、横穴式石室内部で特別な宗教的な儀礼が行われていたのではないかと研究者は推測します。その時に玄室の副葬品羨道部に移されたとします。その結果、ほぼ完形の須恵器約50点や馬具・直刀・鍔が並べられた状態で出てきたことになります。追葬時に移されてここに置かれたのではないと担当者は考えています。
 一方、天井石が落ち土砂が堆積していた玄門部も、上層には攪乱された様子がないので未盗掘かもしれないという期待も当初はあったようです。しかし、土砂を取り除いていくと中央部に乱雑に掘り返した盗掘跡が出てきました。この盗掘穴からは蝋燭片・鉛筆の芯・雨合羽片・昭和30年の1円硬貨が出てきています。つまり、昭和30年以後に、盗掘者が侵入していたことが分かります。しかし、幸いなことに盗掘者は玄室の真ん中だけを荒らして羨道部などには手を付けていませんでした。これは、副葬品を羨道部に移動して、閉塞石をもとにもどした8・9世紀の謎の人物のお陰と云えそうです。
横穴式石室の遺存状況は極めて良好だったと担当者は報告しています。

安造田3号 石室構造
安造田3号墳 石室構造

石室の石材は、この山に多く露頭している花崗岩が使われています。担当者は、その優れた技術を次のように高く評します。
 「石室は小振りではあるが構築状況は見事」
玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。

本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。

担当者は、ハイレベルな土木技術を持った集団による構築とし、その集団のルーツを「九州文化系勢力」としています。しかし、これを前回見た吉野下秀石遺跡のカマド付竪穴住居や韓式須恵器や、この古墳の副葬品と合わせて見れば、ここに眠っている被葬者は渡来人のリーダーであったと私は考えています。
安造田3号墳 出土状況2
安造田3号墳 羨道部出土状況
羨道の副葬品を見ていくことにします。
須恵器は、南西側の壁沿いに整然と並べられていました。須恵器が多く、その他には、 土師器、馬具(轡金具・鐙・帯金具)、武具(直刀)・装飾品(銀環・トンボ玉・ガラス製臼玉・ガラス製小玉)など多種豊富で「まるで未盗掘の玄室を調査しているかの様相」だったと担当者は記します。直刀と鍔については、他の遺物と分けて北西壁沿いに置かれていました。時期的には、須恵器の形態的特徴から6世紀後半のものと研究者は考えています。これは最初に述べたように、吉野開拓のために吉野下秀吉遺跡が姿を見せるのと同時期になります。
まず完形品が多かった須恵器を見ていくことにします。
安造田3号 杯身
1~ 6・ 8~13は杯蓋、 7・ 14~20は杯身。出土した須恵器全体の量からすれば杯の数は以外に少ない
安造田3号 高杯

21~24は高杯。
25・26は台付き鉢。25は珍しい形態で胎土・焼成とも他の遺物と異なる。他所からの運び込み品?

安造田東3墳 高鉢
28~32は透かしを持つ長脚の高杯、28のみ身部が深く櫛目の模様を持つ。

安造田3号 高杯の蓋
                   有蓋高杯の蓋
33~41は有蓋高杯の蓋。37は欠損部分に煤が付着しており、灯明皿に転用された痕跡を残している。再利用された時期は不明であるが、開口部からの出土であり、中世頃の侵入者の手による可能性がある。

安造田3号提瓶 
48~50は提瓶。肩部の把部はいずれも退化が進んでいる。

安造田3号 台付長頸壺
52~54は台付長顕壷。52の口縁部にはヘラ磨き状の調整、体部にはヘラによる連続刻文の装飾が認められる。また脚部に円形の透しがあり、胎土・焼成ともに他の遺物とは異なる。
安造田3号 甕

55は甕。
56・ 57は短頸壺の蓋。2点の形態は異なり、57にはZ形のヘラ記号が認められる。
58~62は短頸壺、58の肩上部から頸部にかけて(3本の平行線と交わる直線)と59の顎部にそれぞれヘラ記号(鋸歯状文)が認められる。
安造田3号
63~67は平瓶、65の肩部にはコの字形のヘラ記号が認められる。

安造田3号 子持ち高杯
68は子持ち高杯で、蓋も4点(69~72)出土。
これは県下での出土例は少なく、完全な形での出土例はないようです。同じようなものが岡山市 冠山古墳から出ていますので見ておきましょう。

子持ち高杯岡山市 冠山古墳出土古墳時代・6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ 
岡山市 冠山古墳出土 6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ (東京国立博物館蔵)
   東京国立博物館のデジタルアーカイブには次のように紹介されています。

  「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)

安造田3号 台付三連重
 73は台付三連重。
上部は一部分しか残っていませんでしたが、復元するとこのような形になるようです。使われている粘土や焼成は先ほどの子持ち高杯(68)と同じで、脚部の形もよく似ています。同一工房の製品と研究者は考えています。このような当時のハイテクで造られた流行品をそろえるだけの力がこのグループにはあったことがうかがえます。ただものではありません。須恵器は墳丘上からも多数出土しているようですが、その多くは大型の甕の破片です。当初から埴輪的なモノとして墳丘に置かれていたと研究者は推測します。
羨道部からは多数の武具・馬具類も出土しています。
安造田3号 馬具
安造田3号墳の馬具

轡金具(108・109)や兵庫鎖(106・110)・帯金具(119)などです。これらの馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。以前に見たまんのう町の町代3号墳や、山を超えた綾川中流の羽床古墳群、さらには善通寺勢力の首長墓である大墓山古墳や菊塚古墳からも同じような馬具類が出ています。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保と、その飼育・増殖でした。町代や安造田・羽床の被葬者は、周辺の丘陵地帯を牧場として馬を飼育・増殖する「馬飼部」でもあったこと。そして非常時には善通寺勢力やヤマト政権下の軍事勢力に組み込まれたことが考えられます。そんな渡来人勢力が善通寺勢力の下で丸亀平野南部の吉野や長尾に入植して、湿地開拓や馬の飼育を行ったと私は考えています。
安造田3号 出土鉄器
横穴式石室下層埋土のふるいがけで、刀子・帯金具・鉄鏃・刀装具なども出土しています。

モザイク玉 安造田東3

さらにこの古墳を有名にしたのは、副葬品中のモザイクガラス玉です。これは2~4世紀頃に黒海周辺で制作されたものとされます。貴重品価値が非常に高い物だったはずです。同時に、同時期の同規模の古墳から比較すれば副葬品の質、量は抜きんでた存在です。古墳の優れた土木技術による築造などと併せると、ただものではないという感じがします。これらの要素を総合して考えると、ハイテク技術と渡来人ネットワークをもった人物や集団が丸亀平野南部に入植していたとになります。

前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎) 

最後に報告書を読んでいて私が気になったことを挙げておきます。
安造田3号 墳丘面の弥生土器の破片
安造田3号墳の墳丘面出土の弥生土器小片
墳丘調査のためのトレンチ掘削した際に、版築土層中から多量の弥生土器をはじめ石鏃や石包丁片などが出土していることです。土器は殆どが表面に荒い叩き目を持つ小型の甕の破片で、底部や口縁部の形から弥生時代後期末頃のものとされます。墳丘の版築土として使用されている土は、周辺の土です。その中に、紛れ込んでいたようです。周辺の果樹園や畑の中にも、同様の小片が多数散布しているようです。ここからは、この古墳周辺に弥生時代後期頃の遺構があることが推定できます。弥生時代後期には、羽間周辺の土器川右岸(東岸)には弥生時代の集落があった可能性が高いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    
安造田東3号墳 調査報告書
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まんのう町吉野
   吉野は土器川と金倉川に挟まれた遊水地で、大湿原地であった。
まんのう町の条里制跡
大湿地帶だった吉野は古代条里制が施行されず開発が遅れた
まんのう町吉野と四条

前回はまんのう町の吉野が古代の条里制施行の範囲外におかれていたことと、その理由について見てきました。それでは四条や吉野の開発のパイオニアたちは、どんな人達だったのでしょうか。それに答えてくれる遺跡が見つかっています。その遺跡を今回は見ていくことにします。テキストは 「まんのう町吉野下秀石遺跡」です。
まんのう町吉野下秀石遺跡4

  吉野下秀石遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、まんのう町役場と土器川の間にありました。
まんのう町吉野・四条 弘安寺
           吉野下秀石遺跡(まんのう町役場と土器川の間)
吉野下秀石遺跡は、土器川の氾濫原で条里地割区域外に位置するので、遺跡がないエリアと考えられてきました。しかし、地図で見ると次のようなことが分かります。
「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと
土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
発掘の結果、弥生時代から平安時代に掛けての住居跡が出土しました。その中で研究者が注目するのは、古墳時代の14棟の竪穴住居です。時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。そして14棟全てに竃(カマド)がありました。「カマド=渡来系住居」の指標であることは、以前にお話ししました。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強いカマド付の住居群の住人たちは渡来系集団であった可能性が高くなります。彼らによって「遊水池化した葦野原」だった四条や吉野の開発がにわかに活発化した気配がします。時期的には「日本唯一のモザイク玉」が出てきた安造田東3号墳の造営と重なります。「吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の渡来系開発集団」が安造田東3号墳の被葬者の拠点集落というストーリーにつながります。だとすれば、吉野や四条の開発は渡来人によって始められたことになります。
想像はこのくらいにして調査報告書で、古墳時代の竪穴住居跡のひとつであるSH04を見ていくことにします。

まんのう町吉野下秀石遺跡 SH04カマド付縦穴式
左上がSH04で、竪穴住居跡の配列は、南北方向に縦長に並びます。これは最初に成立したグループに続いて、後から一定の距離を保って次のグループが住居を建てたためとします。そして各グループに挟まれた空白地域が、「広場」的な共有空間となっています。
吉野下秀石遺跡SB04 カマド付縦穴式
 吉野下秀石遺跡 カマド付縦穴住居 SH04
カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた
②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。
③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊
④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存
⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模
⑥煙道部は、住居側が地下構造
 吉野下秀石遺跡の竪穴住居跡の竃で、保存状態が良好な竃は次の5基です。
吉野下秀石遺跡 カマド分類

残された下部構造の壁が、直立か傾斜しているかによって「半球型」と「箱型」に復元されました。
以上からは、古墳時代からこの2つタイプのカマドが使用されていたことが分かります。
吉野下秀石遺跡 カマド分類2


カマドは、韓半島から新しい厨房・暖房施設として列島にもたらされたものです。
竪穴式住居内にカマドが造りつけられ、一般化していくのは4世紀末から5世紀だとされます。この時期になると近畿では、カマドと一緒に「韓式系軟質土器」が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」とカマドは、渡来人の存在を知る上で欠かせない指標であることは以前にお話ししました。
このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化します。そのため個人個人の食器が必要になりました。
竈と共に、次のようなさまざまな食器や調理具(韓式系軟質土器)が登場することになります。
 
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠

 八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
⑥の移動式のカマドに、③の長胴甕と⑦の甑
かまど利用の蒸し調理
    韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
全羅道出土須恵器(左側)とその影響を受けた列島の須恵器編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

SB03とSB04から出てきた土器について、報告書は次のように記します。

吉野下秀石遺跡SB03 遺物
              
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。
②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。
③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。
④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)
⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。
⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。
⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
58は形状からして、甑(こしき)でしょう。

吉野下秀石遺跡SB03・4 遺物

⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。
⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。
⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。
しかし、「小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑」などのオンパレードです。「カマド+韓式系軟質土器」とともに渡来人の姿が見えてきます。
古代の調理器具

以前に「韓式系軟質土器 + 初期群集墳 + 手工業拠点地」=渡来系の集落という説を紹介しました。
前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎)
次に、渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
「初期群集墳」は、「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握のひとつの方法として群集墳が出現したと研究者は考えています。[和田 1992]。「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いたヤマト政権は「産業殖産」を次のように展開します。

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート
②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展

①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。これを参考に、四条や吉野で進められた湿地開拓を私は次のように考えています。
①河内湖開拓事業の小型版が丸亀平野南部の四条や吉野でも進められることになった。
②そのために送り込まれ、入植したのが先端技術をもつ渡来人であった。
③彼らは、土器川近くの微高地にカマド付の竪穴式住居を計画的に建てて集落を形成した。
④カマドや
韓式系土器などで米を蒸して食べる調理方法で彼らは用いた。
⑤首長は、土器川対岸の初期群集墳である安造田古墳群に埋葬された。
彼らは、四条方面の開発整備後に、その西側の吉野地区の開拓にとりかかった。
⑦吉野地区の開拓は、その途上で挫折し、吉野が条里制地割に加えられることはなかった。
⑧しかし、彼らの子孫は氏寺である弘安寺を四条に建立した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉野下秀石調査報告書2007年
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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制跡    

丸亀平野の条里制跡です。これを見ると整然と条里制跡が残っているのがよく分かります。

丸亀平野条里制4

よく見ると条里制跡のない白いスペースがあることに気がつきます。
A海岸線  当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であった
B岡田台地 丘陵上で近世までは台地だった
C旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原
D土器川の氾濫原
Cの旧金倉川については、⑤の生野町の尽誠学園あたりで流れが不自然に屈曲しています。ここで人為的に流路を換えたという説もあります。そのため生野あたりの旧流路は、川原石が堆積して耕地に適さずに明治になるまで放置され大きな樹林帯が続いていたこと。讃岐新道や讃岐鉄道は、そこを買収したために短期間で工事が進んだとされることなどは以前にお話ししました。
今回、見ていくのは丸亀平野南部の①の東側部分です。ここは土器川と金倉川に挟まれた部分で、現在の行政地名は、まんのう町吉野です。ここも条里制が及んでおらず、真っ白いエリアになっています。
それはどうしてなのでしょうか?
   国土地理院の土地条件図を見ると、土器川の旧河道がいくつも描かれています。

まんのう町吉野
吉野付近の旧河道跡
木崎(きのさき)で、それまで狭い山間部を流れ下ってきた土器川が解放されて丸亀平野に解き放たれます。ここが丸亀扇状地(平野)の扇頂で、西方面に向かっていくつもの頭を持つ蛇のように流れを変えながら流れ下っていたことが分かります。
 また金倉川も現在は水戸で大きく流れを西に変えて、琴平方面に西流しています。しかし、もともとのながれは、水戸から北流して四条方面に流れて居たので「四条川」と呼ばれていたことは以前にお話ししました。現在のベーカリー「カレンズ」さんのある水戸で流路変更が行われています。そうすると、土器川と北流する旧金倉川(四条川)に挟まれたエリアは、洪水の時には大湿原となっていたことが予測されます。つまり、現在の満濃南小学校からまんのう中学校、まんのう町役場あたりは、広々とした葦の生える湿原だったのです。だから吉野(葦の野)と呼ばれるようになったと地名研究家は云います。そのために吉野エリアは、古代の条里制施工工事から外されたということになります。以上をまとめておきます。
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している
②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。
③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。
④そのため条里制適応外エリアとされた。
もう一度、条里制施行図を見ておきましょう。
  
まんのう町の条里制跡
まんのう町の条里制跡 吉野には条里制跡はない。四条にはある。
  旧金倉川と土器川に挟まれた吉野はほとんど条里制の痕跡がありません。ところが四条から南側と西側には条里制跡が残っています。その一番東側の微高地に建立されたのが古代寺院の弘安寺です。

イメージ 5

弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
               弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺は、四条の微高地の上に立地します。そこから東は葦原の続く大湿原でした。そういう意味では弘安寺は、四条の開発拠点に建立された寺院という性格も持ちます。どんな勢力が、四条の開発を進め、弘安寺を建立したのかを次回は見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事


埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
IMG_6608

説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

IMG_6606
IMG_6607
飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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かつて「弥生期=ため池出現説」が出されたことがありました。讃岐において、これを積極的に展開したのが香川清美氏の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)でした。香川氏は弥生式遺跡とため池の立地、さらに降雨時の洪水路線がどのように結びついているかの調査から、丸亀平野における初期稲作農耕がため池水利へと発展した過程を仮説として次のように提唱しました。まず第一段階として、昭和27年7月の3回の洪水を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにします。この洪水路線と弥生式遺跡の立地、ため池の配置を示します。

丸亀平野の水系

 ここから次のようなことを指摘します
①弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池も洪水路線に沿って連なっている
③ため池は「うら成りひょうたん」のように鈴成りになっており、洪水の氾濫が収束されて最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のもので、稲作農耕初期に取水のための「しがらみ堰」として構築されたもので、それが堤防へと成長し、ため池になったものと推測できる。
⑤水みちにあたる土地の窪みを巧みに利用した、初期ため池が弥生時代末期には現れていた。
この上で次のように述べます。
 日本での池溝かんがい農業の発生が、いつどのような形で存在したかは、まだ充分な研究がなされておらず不明の点が多い.いまここで断定的な表現をすることは危険であろうが、稲作がほぼ全域に伝播した①弥生の末期には、さきに述べたような初期池溝かんがい農業が存在し、その生産力を基盤にして古墳時代を迎え、その後の②条里制開拓による急激な耕地の拡張に対応して、③本格的な池溝かんがいの時代に入ったと考えられる.このことは、④中期古墳の築造技術とため池堤防の築造技術の類似性からも推察されることである。あの壮大な古墳築造に要した労働力の集中や、石室に施された精巧な治水技術からみて、中期古墳時代以降では、かなりの規模のため池が築造されていたと考えられる。

要点しておくと
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
讃岐のため池(四国新聞社編集局 等著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

以上を受けて『讃岐のため池』第一編は、丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係を次のように記します。

  丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯は、平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されている。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられる。(中略)同時に磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地である。この一帯の山麓台地で耕地開発とため池水利の発生があった

 1970年代に『讃岐のため池』で説かれた「弥生期=ため池出現説」は、現在の考古学からは否定されているようです。
どんな材料をもとに、どんな立論で否定するのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
 最初に丸亀平野の稲作は、どのような地形で、どのような方法ではじまったかを見ておきましょう。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割 四角部分が対象エリア

 丸亀平野でも高速道路やバイパスなどの遺跡発掘が大規模に進む中で、いろいろなことが分かってくるようになりました。例えば初期稲作は、平地で自然の水がえやすいところではじめられています。それは土器川や金倉川・大束川・弘田川など作りだした扇状地地形の末端部です。そこには地下水が必ずといっていいほど湧き出す出水があります。この出水は、稲作には便利だったようで、初期の弥生集落が出現するのは、このような出水の近くです。灌漑用水は見当たりません。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵場遺跡

 また、善通寺の旧練兵場遺跡などは、微高地と微高地の上に集落が建ち並び、その背後の後背湿地が水田とされています。後背湿地は、人の力で水を引き込まなくても、水田化することができます。静岡の登呂遺跡も、このような後背湿地の水に恵まれたところに作られた水田跡だったようです。そのため田下駄などがないと底なし沼のように、泥の中に飲み込まれてしまいそうになったのでしょう。
登呂遺跡は当初は灌漑施設があったとされていましたが、それが今では見直されているようです。
登呂遺跡の場合、水田のまわりに木製の矢板がうちこまれ、水田と水田とのあいだは、あたかも水路のように見えます。そのため発掘当初は、人工的に水をひき、灌漑したものとされました。しかし、この矢板は、湿地帯につくられた水田に泥を帯りあげ、そのくずれるのを防ぐためのものだったというのが今では一般的です。矢板と水路状の遺物は、人工的な瀧漑が行なわれていたことを立証できるものではないというのです。そうすると、弥生期の稲作は、灌漑をともなわない湿地での水稲栽培という性格にとどまることになります。

『讃岐のため池』の次の主張を、現在の考古学者たちがどう考えているかを簡単に押さえておきます。
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。

②については、かつては条里制は短期間に一気に工事が推し進められたと考えられていました。
そのために、急激な耕地面積の拡大や用水路の整備が行われたとされました。しかし、発掘調査から分かったことは、丸亀平野全体で一斉に条里制工事が行われたわけではないことです。丸亀平野の古代条里制の進捗率は40%程度で、土器川や金倉川の氾濫原に至っては近代になって開墾された所もあることは以前にお話ししました。つまり「条里制工事による急速な耕地面積の拡大」は、発掘調査から裏付けられません。 
 ③の「灌漑水路の整備・発展」についても見ておきましょう。
丸亀平野の高速・バイパス上のどの遺跡でも、条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小川や出水などの小さな水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものばかりです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。 「大規模な溝(用水路)」が丸亀平野に登場するのは平安末期なのです。
   ここからは古代の満濃池についても、もう一度見直す必要がありそうです。
大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」とされますが「大きな溝」が出現しない限りは、満濃池の水を下流に送ることはできなかったはずです。存在したとしても古代の満濃池は近世のものと比べると遙かに小形で、現在の高速道路付近までは水を供給することはできなかったということになります。
   
④中期古墳の築造技術は、ため池堤防に転用できることから古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
 これについてもあくまで推測で、古代に遡るため池は丸亀平野では発見されていません。また丸亀平野の皿池や谷頭池などもほどんどが近世になって築造されたものであることが分かっています。「古墳時代後期にかなり規模のため池が築造」というのは、非現実的なようです。
高速道路・バイパス上の遺跡からは、江戸時代になって新たに掘られて水路はほとんど見つかっていません。
その理由は条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になっています。つまり従来の地割に、付け加えられるような形で整備されたことになります。これが現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。
丸亀平野の灌漑・ため逝け

 以上をまとめておきます。
①丸亀平野の初期稲作集落は、扇状地上の出水周辺に成立しており、潅漑施設は見られない。
②善通寺王国の首都とされる旧練兵場遺跡には、上流の2つの出水からの水路跡が見られ、灌漑施設が見られる。しかし、ため池や大規模な用水路は見られない。
③古墳時代も用水路は弥生時代に引き続いて貧弱なもので、大量の用水を流せるものではなく、上流の出水からの用水程度のものである。
④律令国家の条里制も一度に行われたものではなく「飛躍的な耕地面積の拡大」は見られない。
⑤用水路も弥生時代と比べて、大規模化したした兆候は見えない。用水路の飛躍的な発展は平安末期になってからである。
⑤ため池からの導水が新たに行われたことをしめす溝跡は見当たらない。
⑥新たに大規模な用水路が現れるのは近世以後で、満濃池などのため池群の整備との関連が考えられる。
⑦この際に新たに掘られた用水路も、既にある用水路の大型化で対応し、条里制遺構を大きく変えるものではなかった。
以上からは「弥生期=ため池出現説」は、考古学的には考えられない仮説である。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)。
  『讃岐のため池』
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」

DSC08058
土器川から仰ぐ飯野山
前々回は、丸亀平野の高速道路工事前の発掘調査で出てきた条里制地割に関係した「溝」を見てみました。そこからは「溝」が7世紀末に掘られたものであり、そこから丸亀平野の条里制地割施行を7世紀末とすることが定説となっていることを押さえました。
前回は、弥生時代の溝(灌漑用水路)を見ることで、弥生時代後期には灌漑用の基幹的用水路が登場し、それが条里制施行期まで継続して使用されていたことを押さえました。そこには、灌漑用水路に関しては、大きな技術的な革新がなかったことが分かりました。そういう意味では、丸亀平野の条里制跡では、すべてのエリアに用水を供給するような灌漑能力はなく、従って放置されたままの広大な未開発エリアが残っていたことがうかがえます。大規模な灌漑用水路が開かれて、丸亀平野全体に条里制施行が拡大していくのは、平安末期になってからのようです。
飯山町 秋常遺跡航空写真
秋常遺跡周辺の航空写真(1961年)


 さて、今回も「溝」を追いかけます。今回は大束川沿いに掘られていた大溝(基幹的用水路)が、飯山町の東坂元秋常遺跡で見つかっています。この大溝がいつ掘られたのか、その果たした役割が何だったのかを見ていくことにします。テキストは「 国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年」です。
飯山 秋常遺跡地質概念図
大束川流域の地形分類略図

東坂元秋常遺跡は、飯野山南東の裾部に位置します。大束川河口より5㎞程遡った左岸(西側)にあたります。遺跡の北西は飯野山で、東側を大束川が蛇行しながら川津方面に流れ下って行きます。この川は綾川に河川争奪される前までは、羽床から上部を上流部としていた時代があったようです。また、土器川からの流入を受けていた時もあったようで、その時代には流量も多かったはずです。また、大束川は流路方向が周辺の条里型地割に合致しているので、人工的に流路が固定された可能性があると研究者は指摘します。
このエリアの遺跡として、まず挙げられるのは、白鳳期の法勲寺跡で、この遺跡の南約2㎞にあります。

法勲寺跡
法勲寺跡

大束川中・上流域を統括した豪族の氏寺と考えられています。この寺院の瓦を焼いた窯が、東坂元瓦山で見つかっいますが、詳細は不明です。また平地部には、西に30度振れた方位をとる条里型地割りが残ります。法勲寺は、主軸線が真北方向なので、7世紀末に施行された周囲の条里型地割りとは斜交します。ここからは、条里型地割り施行よりも早く、法勲寺は建立されていたと研究者は考えています。

飯野山の南側エリアは、国道バイパスの建設が南へと伸びるに従って、発掘調査地点も増えました。
  飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきていることは、以前にお話ししました。
「倉庫群が出てきたら郡衙と思え」と云われるので、鵜足郡の郡衙の可能性があります。同時に岸の上遺跡からは、南海道に附属すると考えられる溝跡もでてきました。こうなるとこの地域には、「鵜足郡郡衙 + 南海道 + 古代寺院の法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。

岸の上遺跡 イラスト
古代法勲寺周辺の想像図 

さて、前置きが長くなりましたが秋常遺跡から出てきた「大溝SD01」を見てみましょう。
飯山 秋常遺跡概念図
東坂本秋常遺跡は、旧国道とバイパスの分岐点近くにあった遺跡です。東を流れる大束川の段丘崖の上にあったことが分かります。

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路
大溝(SD01)は、古代の基幹的用水路
SD01は、延長約90mでA地区尾根端部の南縁辺を回り込むように開削されています。A2区屈曲部付近でSD02が、B-1区南端部でSD03がそれぞれ合流して、ゆるやかに北に流れていきます。
飯山町 秋常遺跡変遷図1
大溝(SD01)の変遷図

 流路SD01は、頻繁に改修された痕跡があり、長期にわたって利用された幹線水路のようです。8世紀後葉までには開削されたようで、完新世段丘が形成される11世紀代になると廃棄されています。SD01の脇には、現在は上井用水が通水しています。SD01廃絶後は、土井用水に付け替えられた可能性を研究者は指摘します。

大束川流域の古代の幹線水路は、以前に紹介した下川津遺跡や川津中塚遺跡があります。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路


その中で大束川流域の水路の中では、最も大型の水路になるようです。このエリアの開発を考える上で、重要な資料となります。
同じような幹線水路は、川津川西遺跡や東坂元三ノ池遺跡にもあります。
川津川西遺跡は、飯野山北東麓の集落遺跡で、調査区中央部で南北方向に流れる幹線水路SD135が出てきました。SD135は、N60°W前後の流路主軸で、直線状な水路です。調査区内で延長約38mが確認され、幅3,5~4,3m、深さ1.3~1.4m、断面形は逆台形状で、東坂元秋常遺跡SD01とよく似た規模です。底面の標高は9m前後で、標高差から北に流下していたようです。
 報告書では、出土遺物から8世紀後半~9世紀前半代の開削、13世紀代の埋没が示されていますが、開削時期はより遡る可能性があるようです。
東坂元三の池遺跡は、飯野山東麓の裾部の緩斜面地上に広がります。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡
東坂元三の池遺跡
この南部段丘Ⅰ面からは等高線に平行して掘られた幹線水路SD30が出ています。流路方向N43°Eの流路主軸で、ほぼ直線状に掘られた幹線水路です。調査区内で延長約13mが確認され、面幅2.4m、深0,9m、断面形は逆台形状です。埋土からは数度の改修痕跡が確認できます。溝の規模や性格から古代以降の開削のものと研究者は考えているようです。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡2
         東坂元三の池遺跡の古代水路

 周辺の各水路は8世紀後半には埋没が進行し、灌漑水路としての機能が低下しつつあったようです。開削時期については、8世紀中葉以前に遡り、廃絶時期は11世紀前後で、時期も共通します。
東坂元秋常遺跡から出てきたSD01と、今見てきた水路の位置関係を表示したのが第70図です。
飯山町 秋常遺跡 大溝用水路1

この図からは、各水路は飯野山東麓の段丘縁辺をめぐるように開削され、つながっていた可能性が出てきます。そして規模や埋土の堆積状況などもよく似ています。また使用されていた期間も共通します。これらの事実から、3つの遺跡は、3~5 km離れていますが、もともとは一本の水路で結ばれていた研究者は推測します。
 そして東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に沿うように、現在は上井用水が流下しています。これを古代水路の機能が、今は上井用水に引き継がれている証拠と研究者は推察します。以上の上に、川津川西遺跡SD135を含めた3遺跡の幹線水路を「古上井用水」と一括して呼びます。

一本の灌漑水路であったとすると、その用水の供給先はどこだったのでしょうか?
飯野山東麓は、耕地となる平地が狭くて、大規模水路を建設しても、それに見合うだけの収量が期待できるエリアではありません。大規模な用水路を掘って、水田開発を行うとすれば、それは大束川下流西岸の川津地区だと研究者は考えます。
大束川下流エリアを見ておきましょう。
この地区は、バイパス+高速道路+インターチェンジ+ジャンクションなどの建設工事のために、大規模な発掘調査が行われています。そして、津東山田遺跡I区SD01、川津中塚遺跡SD Ⅱ 38、川津元結木遺跡SD10などで大型水路が確認されています。そして、それぞれに改修痕跡が見つかっていて、長期に渡って継続使用されたことが分かります。これらの水路も幹線水路として機能していたのでしょう。水路の開削時期は、9世紀頃までには開削され、11世紀頃には水路としての機能が衰退していたと研究者は考えています。こうした調査例より灌漑水路網が、遅くとも9世紀までには川津地区に整備されていたことがうかがえます。旧上井用水も、「古代川津地区総合開発計画」の一環として開かれたとしておきましょう。
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

現状水路との関係
①東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に隣接して上井用水
②川津川西遺跡SD135に近接して西又用水
が、現在は灌漑用水として機能しています

文献史料で、現行水路との関係について見ておきましょう。
上井用水は、大窪池を取水源としています。大窪池がいつ築造されたかについては、根本史料はないようです。ただ、堤防にある記念碑には、高松藩士矢延平六が正保年間(1644~1648)が増築したことが記されているので、17世紀前葉以前に築池されていたと考えられます。
 また宝暦5年(1755)に高松藩が水利施設の調査を行った際に、鵜足郡内の結果をまとめた「鵜足郡村々池帳」には、大窪池の水掛り高は3,011石で、上法軍寺村以下、東坂元秋常遺跡周辺の東坂本村などへ通水されていたことが記されています。(飯山町編1988)、このなかに上井用水の通水域は、含まれていたのでしょう。上井用水は現在は、元秋常遺跡南部で用水の大部分を大束川へ落とし、一部が東坂元秋常遺跡東辺を北流して、東坂三の池遺跡東部で西又用水へ流入しています。
西又用水は、大束川本流より直接取水しています。
用水路で、西又横井より取水し、川津地区の灌漑に利用されています。西又横井の構築時期もよく分かりません。比較のために大束川に設置された他の横井について、その構築時期を見てみると、天保7年(1836 )に、通賢が築造した坂本横井が、もっとも古い例になるようです(飯山町1988)。横井築造の技術的な問題からの築造時期は、江戸中期以降と研究者は考えています。こうすると西又用水は、江戸前半期までに上井用水の延長部として整備されていたが、西又横井の構築により再整備されたものと考えられまする。
 上井用水の開削時期は17世紀前葉以前に遡り、飯野山南部の大束川西岸平地部を主要な灌漑域とする用水路であり、その一部は川津地区へ給水されていたとします。
 このように、大窪池築造という広域的な灌漑用水路網の整備が、17世紀前葉以前に遡る可能性を研究者は指摘します。そして、下流で行われた沼池増築や横井構築といった近世の開発は、新たな土木技術の導入や労働編成による、その量的拡大であったとします。
 そして、古代の古上井用水は、11世紀段階の埋没・機能停止を契機として、中世段階に上井用水へと切り替えられ継続された結果と考えているようです。
では、古上井用水の取水源は、どこなのでしょうか?

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路3
この点で注目されるのが法勲寺です。法熟寺は、大窪池がある開析谷の開田部付近の微高地上に位置します。この寺は鵜足郡内唯一の白鳳期寺院で、郡領氏族であるとされる綾氏の氏寺として創建されたとされます。また大窪池から取水する現在の用水路は、法勲寺の西を北流して上井用水へとつながります。さらに大窪池の北西部の台地上にある東原遺跡は、7世紀中葉~奈良時代の大形掘立柱建物群が出てきていて、有力集団の居宅とされます。さらに谷部東方の台地上にある遠田遺跡からも、奈良時代の大形掘立柱建物が出てきています。
ここからは法勲寺を中心としたエリアが、古代において計画的・広域的に開発されたことが推測されます。
つまり、白村江から藤原京時代にかけての7世紀中葉から8世紀代にかけて、大窪池周辺では郡司層(綾氏?)による大規模開発が行われたと研究者は指摘します。
飯山町 秋常遺跡 土地利用図
法勲寺周辺の旧河川跡 土器川からの流路が見られる

 その一環として大窪池築池と灌漑用水路網の整備がなされたと云うのです。藤原京時代の郡家の成立とともに手工業生産や農業経営など、律令国家の政策のもと郡司層を核とした多様な開発が進んだことが明らかにされつつあります。
例えば讃岐の場合は、次のような動きが見えます。
①三野郡丸部氏による国営工場的な宗吉瓦窯群の創業開始と藤原京への宮殿瓦供給
②阿野郡綾氏による十瓶山(陶)窯群の設置
大束川流域の基幹的な用水路の設置は、同時期の上のような郡司層の動向とも重なり合うものです。それを補強するかのように、飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきたことは、以前にお話ししました。こうなるとこの地域には、「郡衙 + 南海道 + 法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。
 それを進めた政治勢力としては、坂出の福江を拠点に大束川沿いに勢力を伸ばした綾氏の一族が考えられます。
かれらが弥生時代から古墳時代に掛けて開発されていた河津地区を支配下に置き、さらにその耕地拡大のための灌漑用水確保のために、飯野山南部の丘陵部の谷間の湧水からの導水を行ったという話になるようです。そういう意味では、法勲寺は湧水の中心地に作られた古代寺院で、仏教以前の稲作農耕期には水がわき出る聖地として崇められていたことも考えられます。

以上をまとめておくと
①東坂元秋常遺跡は、飯野山と城山からのびる尾根が最接近する狭い平野部で、その東を大束川が流れる
②この遺跡からは、大束川の上面に掘られた藤原京時代の「大溝=基幹的用水路(SD01)」が出てきた。
③飯野山北麓の遺跡から出てきた基幹的用水路と、SD01は、もともとはつながっていた。
この最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年
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丸亀平野や髙松平野の高速道路やバイパスの事前発掘調査では、「溝」が数多く出ていることを前回は見ました。「溝」からは、条里制が7世紀末~8世紀初頭に工事が行われたことが分かってきました。今回は、条里制に先立つ弥生時代の「大溝」を見てみることにします。テキストは、「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」です。

弥生時代 林・坊遺跡 灌漑水路
弥生時代前期初頭の灌漑水路網   高松市の林・坊城遺跡の場合

高松市の林・坊城遺跡では、弥生時代前期初頭(板付Ⅰ式併行期)の灌漑水路網が発掘されています。
南西部を流れる幹線的水路の10・11号溝に堰が作られ、小規模な分水路の25号溝が北西の水田エリアに伸びていきます。10・11号溝は、幅約1,5m前後、深さ約0,3~0,5mで、分水点には自然礫を積んで簡易な堰が作られています。取水源は、遺跡南方の旧河道と見られますがよく分かりません。これが、この遺跡でもっとも古い灌漑水路網になるようです。10・11号溝は、水田稲作の開始期のもので、小規模で改修痕跡もなく、短期間で破棄されています。何かの理由で、耕地が放棄され別の地点に移動しようです。ここからは、初期の稲作は水田も不安定で、「定住」というよりも移動を繰り返していたことがうかがえます。

弥生時代 多肥遺跡 灌漑水路
弥生時代中期の灌漑水路網(図2)   高松市の多肥遺跡群

多肥遺跡群(高松市)では、弥生時代中期中葉までに掘られた基幹的な灌漑用水路が出てきています。
そのひとつが日暮松林遺跡(済世会地区)SDl等です。用水路は幅約4,2m・深さ約1mで、上流側の多肥宮尻遺跡SR02では、埋没旧河道の凹地に開削されています。微高地に導水され、日暮松林遺跡では微高地上面を通過して行く大掛かりなものです。その途中に、支線と見られる複数の小溝が分岐しています。加えて、南西方向から延びる別の灌漑水路(日暮松林フィットネスクラブ建設地区SD01ほか)と合流し、広範囲な灌漑水路網を形成します。
 また、開かれた後も浚渫などの維持管理による改修痕跡が確認できるようです。時期的には、弥生時代中期中葉までに開削された後、古墳時代後期まで機能していたと研究者は考えています。
 水田があった所は、溝の流下方向から見て微髙地上面だったと推測できます。調査で確認された総延長は約500mですが、取水源は更にその南側にあり、実際の灌漑水路の延長距離は約2kmはあったと研究者は考えています。以上から次のようなことが分かります。
①2㎞上流から灌漑用水による導水で微髙地も水田化が行われていたこと、
②定期的な管理が行われ長期間によって使用されていること
③この時代には稲作農耕が安定化したこと
これは弥生時代早期の用水路が短期間で廃棄されていたのとは対照的です。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡群の灌漑水路網(弥生時代後期)


弥生時代後期の灌漑水路網(上図) の例としては、坂出市の川津遺跡が挙げられます
 川津二代取遺跡、川津下樋遺跡からは復数の水路網が見つかっています。SD001は①旧河道(SR 101)が取水地で、微髙地にある川津中塚遺跡や下川津遺跡の中を貫通していきます。その間に、SR 1 03、SD57、SD30などの溝と合流し、複数の小溝で分水しながら下川津遺跡の第4微高地西側へ導水されています。最終的には。第3低地帯と呼ばれる凹地上にあった水田へつながっていたようで、総延長は約500mになります。
 途中に支線的な水路と見られる小溝が分岐しているので、下川津遺跡の第3低地帯の水田だけに用水を供給していたのではなく、微高地上面やその縁辺部にあった水田にも灌漑していたようです。遺物の出上状況からは、この用水路が弥生時代後期後半から古墳時代後期に埋没するまでの長期間に渡って機能していたことが分かります。
以上から次のようなことが分かります。
①取水口から2㎞近く離れた水田まで、微髙地を越えて導水されていたこと、
②その間にも小溝を分岐して、用水沿いの水田に供給したこと
③弥生時代中期には、灌漑用水網が丸亀・髙松平野には姿を見せていたこと。
③前回見たように、このような灌漑用水網の技術は技術革新がないまま条里制施行(7世紀末)まで使用されていること
⑤さらに大きな溝(用水路)が掘られる技術革新が行われたのは平安末期であること

ここで問題になるのが取水源です。
多肥遺跡群や川津遺跡群は、灌漑水路は沖積低地上を流れる旧河道を取水源としていたようです。取水限となる旧河道は、そこに作られる井堰の構造等などから川幅数mから20m、深さ1~2m程度の中規模の川が、弥生時代の一般的な取水源とされてきました。しかし、近年の発掘調査からは、より規模の大きい河川からの取水が行われていた可能性がでてきたようです。それを見ておきましょう。

弥生時代 末則遺跡
末則遺跡(綾川町)
末則遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主であったのだろうと私は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図
現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。綾川の「神水」地区の対岸(綾川町羽床上字田中浦)に「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設です。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる川石を50cmほど積み上げて、その間に野草を詰めた簡単なものです。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なるとこのようなものを造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で、中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたという説です。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。同時に馬の生産も行っていたことが考えられます。

中規模河川からの取水に加えて、補助的な水源を活用する事例も見られます。

弥生時代 空港跡地1
空港跡地遺跡群の灌漑用水網 その1

扇状地に立地する空港跡地遺跡群では、弥生時代中期から灌漑水路網が現れます。その中で基幹的灌漑水路と見られるのは、次のふたつです。
①基幹的灌漑水路A 上林遺跡から空港跡地遺跡I地区へ流れ下すSRi01・SRi02
②基幹的灌漑水路B 空港跡地遺跡D地区からE地区へ流下するSDd00・SDe115、SDe138。
微高地にある住居群が散在するH地区からG地区、A地区からG地区へ抜けるSDh016、SDg86、SDg42、SDg17などは、基幹的滞漑水路Aから分岐する支線的な灌漑水路群と考えられます。更に支線的な灌漑水路のSDh016、SDg03には、井戸状に掘開された大型土坑に、通水のための小溝を付設した「出水」と呼ばれる補助的な灌漑施設が複数設けられています。 SDh016、SDg03が流下する地点は微高地上で、水が流れにくい所なので、灌漑水路に補助的な水源を複数組み合わせていると研究者は考えています。

  ここから研究者の見解が私にとっては興味深いものでした。
 これまで灌漑システムの発展については、遺跡立地の変化や遺跡数の増加を材料として、農業生産の拡大や人口増加が起こるという説明がされてきました。これが「治水灌漑を制するものが、天下を制する」説になっていきます。
弥生時代 遺跡数

例えば上のグラフからは、弥生時代後期V頃に遺跡総数が激増していることが見えます。従来は、灌漑整備による生産力増大が社会的発展をもたらし、次の古墳の出現を生み出す原動力となるという説明がされていました。社会経済史を基礎に、社会発展を説く説明です。
 しかし、実線で示された住居数は見ると、あまり増えていません。つまり人口は、それほどの増加はなかったことになります。ここから遺跡総数の増加は、人口の増加をもたらしたものではなく、当時の灌漑水路網の再整備や拡充を反映しているだけであると研究者は捉えます。国家形成の「原材料」は「治水灌漑」だけでは捉えられないというのです。
東洋的専制主義 全体主義権力の比較研究(ウィットフォーゲル) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
灌漑農業と国家権力の発生について、最近の研究史を見ておきましょう。
 ヴィットフォーグルは、灌漑作業の協業化によって、「労働力の組織化」を行うリーダが現れ、社会の階層化が起こり、これが国家形成要因のひとつとなるとしました。ここからは灌漑農業の発展は、統一的な政治権力の形成など社会の階層化につながるとされ、古代の国家形成を捉えるひとつの視点を示しました。分かりやすい説明で取っつきやすいのですが「単線的なモデル」で、融通性がなく地域差の多い日本の古代を説明するには無理があるとされ、現在では否定的な意見が多いようです。
 これに対して近藤義郎氏は、灌漑農業の発展に伴う余剰生産物の発生を通じて、単位集団と生産集団との階級間の衝突が調停者としての首長の出現を求めます。そこから社会の階層化を説明します。
 都出比呂志氏は、耕地開発や水利灌漑に伴う協業の基礎的単位である世帯共同体と、水系単位でそれが結合した農業共同体を想定します。その領域と前期古墳首長墓の分布が重複することから、首長権力の発生の基盤を農業共同体に求めました。
 広瀬和雄氏は、耕地開発や水利権の調整などを素材として、灌漑水田そのものが首長を生み出す構造を持っていたとします。そして、水田稲作を開始した弥生時代の初期の段階から社会の階層化が始まったと考えます。また、首長の統率する領域を、都出氏の農業共同体よりも小規模エリアとします。こうした首長は、自給できない貴重物資の入手や耕地開発を通じて、他の首長とネットワークを形成していくとします。この首長間のネットワークは、弥生後期から古墳前期により「高度化」していきますが、その関係は近畿を中心にして最初から階層的であったことと指摘します。
 大久保徹也氏は、灌漑水路と微地形との関係から、灌漑による協業によって結ばれる共同体のエリアを広瀬と同じく小規模なものとします。そして弥生時代に見られる様々な物資流通に注目し、共同体間の結び付きについて灌漑作業以外に必需物資の生産と流通を重視します。
 押さえておきたいのは、現在の研究者たちは「治水灌漑=国家権力発生」と単純に考えていないことです。国家権力の形成には、それ以外にも、「首長間のネットワーク + 必需物資の流通確保 + α」などの要素も加味する必要がある考えていることです。それでは、弥生時代の灌漑水路網にもう一度帰って、その整備の意味を研究者はどう考えているのかを見ておきましょう。

本当に灌漑水路網は、弥生時代後期になって急激に整備されたのでしょうか。
 弥生時代後期には、基幹的灌漑水路を中心に多くの灌漑水路が開削されたことが発掘調査からは分かっています。しかし、弥生時代後期の基幹的灌漑水路の多くは、新たな地点に開削されるのでなく、埋没などの老朽化が進んだ灌漑水路に近接して見られることが多いようです。つまり、灌漑網の基本的なプランは、弥生時代前期に完成され、弥生時代後期になって基幹的灌漑水路を再整備することや、支線となる小規模な水路が多く作ることで、灌漑域の拡大が行われたと研究者は考えています。
.基幹的灌漑水路と他の生産部門との関係

弥生時代 灌漑用水網と流通関係図

基礎的灌漑水路の多くは、初期遠賀川式上器出現後の弥生時代前期後半期から開削され始めます。
Koji on Twitter:  "石斧をつくる。凝灰岩製一部磨製石斧、伐木用(上)。凝灰岩製打製石斧、戦闘用(中)。黒曜石製一部磨製石斧、試験用(下)。  https://t.co/PdYzYxlitE https://t.co/xVjwgjVA3B https://t.co/3B821Pff5I" /  Twitter

この時期は、鋤・鍬などの木製農具が増加するとともに、片岩製の両刃石斧・片刃石斧・石庖、サヌカイト製打製石包丁の流通が始まります。木製農具は、灌漑水路の開削や水田稲作に不可欠な道具で、両刃石斧・片刃石斧は、木製農具の加工に使用されたようです。また、伐採用の両刃石斧は、水田を開くための伐採など耕地開発にはなくてはなりません。
石斧プロジェクト:沖縄生物俱楽部/旧棟

 多肥松林遺跡群を初めとして基幹的灌漑水路が開削される弥生時代中期中葉には、丘陵やそれに隣接する遺跡群から磨製石斧を多く保有する集落が出てきます。このような集落では、弥生時代前期後半期の環濠集落を中心に、立地を活かして木製品生産に傾斜した生業が行われたと研究者は考えています。
 弥生時代後期は、基幹的濯漑水路や支線的な灌漑水路が多く掘られて、灌漑水路網の再整備と灌漑エリアの拡大が行われた時期です。
この時期は、土器・鉄器・製塩などの物資流通に変化があったと研究者は考えています。
 例えば土器生産では、灌漑水路網で結ばれる2~3㎞程度のエリアで流通する香東川下流域産と呼ばれる特徴的な土器器群が現れます。この香東川下流域産土器は、高松平野の北東部の集落で専門的に生産されたものです。一方、近接する空港跡地遺跡群では、「白色系土器群」と呼ばれる土器群が周辺の集落で流通しています。ここからは、それぞれの土器を生産する拠点を中心に、生産・流通活動が活発化していることうかがえます。
川津遺跡群(坂出市)などの特定の遺跡群で、鍛冶遺構が出てきます。これは川津遺跡群を中心とした大束川流域単位での鉄の生産・流通が開始されたことを示します。製塩では、高松平野の東部丘陵の遺跡群を中心に、生産体制が整備されます。
 一方で木器生産では、後期初頭を境にして木製品が急激に減少します。これは、鉄に取って代わられたのではなく、周辺の丘陵や山間部で集中的な生産が行われ、地域分業が始まったことを示すと研究者は考えています。
 このように弥生時代後期になると、複数の生産部門で特定の集落群を中心に分掌関係が成立したことがうかがえます。それに合わせる形で、灌漑水路網の整備・拡張が行われています。両者は、無関係ではないようです。灌漑水路網の整備・拡充と、農業生産を支える必需物資はリンクして拡大再生産されます。
以上をまとめておくと
①弥生時代後期の大溝を中心にした灌漑システムは、古墳時代後期まで維持される。
②その間に古墳築造が開始される。
③それは単に灌漑システムの発展だけでなく、さまざまな必需物資の生産と流通を分掌化(分業化?)が行われた上での古墳の出現だった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」
 「西末則遺跡  農業試験場移転に伴う埋蔵文化財調査報告 2002年」


丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割
丸亀平野は古代の鵜足郡、那珂郡、多度郡にあたり、整然とした一辺約110mの方格地割がみられます。しかし、よく見ると土器川や金倉川沿いなどには乱れがあります。それでも、全体としてみると統一性のある方格地割になっているようです。この地割は、古代の条里制との関わりで説明されています。律令体制の「班田収受制」を行うための整備という位置づけです。しかし、条里制の格地割形成については、次のような説や見解が出されています。
①班田制と方形地割形成を別個に考えて、両者が備わった段階を「条里プランの成立」とする金田章裕氏の説
②発掘調査からみて灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできないという説
③当初の方格地割と現在の地割にはずれがあり、段階的に成立したとする説

丸亀平野の広がる「条里型地割」の施工がどこまで遡り、 またどのような変遷をたどるのかを考古学的に見ておきましょう。テキストは「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」です。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
       善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図

丸亀平野では、1983(昭和58)から高速道路の発掘調査が大規模に行われました。広範囲な発掘調査が行われたことで、土地条件・地質環境に情報も格段に増え次のような事が分かってきました。
①丸亀平野の形成時期は、3万年以前の更新世に遡ること
②完新世以後は高燥化が進んで、河川岸に段丘崖を形成し、平野面は剥削環境にあったこと
③そのため旧河道などの低地帯を除くと、用水路以外の地割痕跡は考古学上の遺構としては把握することはできない
これは、地割を考古学的に追究する上でのデメリットですが、あえて発掘調査で出てきた「溝」に研究者はこだわります。土器川西岸に接する川西北鍛冶屋遺跡を一番東側として、西は旧多度郡の乾遺跡まで、高速道路建設での発掘調査の行われたで延長約6kmの東西に長い15遺跡のデータを並べたのが第2表です。
丸亀平野の条里制3
高速道路建設ルート上の丸亀平野の各遺跡

すべての遺跡の調査範囲の中には合計57箇所の坪界線が机上では想定されます。それが、発掘では溝として、どのように出現しているのかを見ていきます。
第2図からは、Ⅰ期(7世紀以前)にかなり広範囲に溝の分布があったことが分かります。各遺跡毎に見ると、次のようになります。
①Ⅰ期の溝が少ないのが、川西地区、龍川地区、永井・中村地区
②Ⅰ期の溝が多いのが、郡家地区、金蔵寺地区、稲木地区
ここからは、①が条里制施行が遅れたエリア、②が先行したエリアであったことがうかがえます。②は郡衙や準郡衙的な遺構があった所で、前時代からの首長の拠点と目されるエリアです。条里制地割溝には、早く施工された地域と遅れて施工された地域に偏りがあるようです。押さえておきたいことは、丸亀平野全体が一斉に、条里制工事が行われたわけではないことです。中世になって開かれた所もありますし、土器川や金倉川に至っては近代になって開墾された所もあるの以前にお話ししました。それでは、地図の東側から順番に各エリアを見ていくことにします。各遺跡図はクリックで拡大します。

丸亀 川西遺跡
a.川西北鍛冶屋遺跡(13).川西北七条Ⅱ遺跡(14)(第3図)

土器川西岸にある上図2つの遺跡群では、はっきりとした地割が見えます。弥生時代前期以降の小規模な南北方向の溝が多くあり、6世紀後半から7世紀末まで使用された出水状遺構(SX-01)があります。出水状遺構は、伏流水を灌漑用に利用するために微高地上に掘られた土坑(井戸?)で、いくつもの用水路で水田に導かれています、
 調査区内には5本の縦方向坪界と、1本の横方向坪界が見えます。
縦方向は東SR01・SD11・ SD13と2町間隔で、比較的大型の灌漑水路が想定坪界線に沿って見えます。これらは10~11世紀頃に掘られたものです。その前段階の8~9世紀と考えられる溝が、SD-12やSD-10などの斜め方向に伸びる溝です。そして、各所で南北に派生する溝が付属しています。
 これらの溝は条里型地割の方向性に一致していて、田地区画は地割に沿った方向であったことがうかがえます。したがって、平安期に坪界溝が掘削される以前にすでに、出水状遺構(SX01)を水源とする地割施工があったと研究者は考えています。
出水状遺構(SX-01)から伸びる各溝が、あるときに南北方向から地割にそった方向へ変化していることに研究者は注目します。
 出水状遺構(SX-01)が埋没するのは7世紀末~8世紀初頭頃です。ちょうど南海道が伸びてきて、丸亀平野に条里制が施行される時期になります。SD70が現状地割を基準として、半町の位置にある点、また斜めに走行するSD40・41が南北半町の位置で坪界線に合致する点からみて条里型地割のようです。ここからは、7世紀末~8世紀初頭までには地割が行われた後も、引き続き出水状遺構(SX01)を水源とする灌漑水路を維持されたことがうかがえます。それが平安期になって、大型の灌漑水路が坪界に整備されることで、その使命を終えて埋められたと研究者は考えています。

b.郡家原遺跡(19)(第4図)

丸亀平野 宝幢寺池水系
郡家周辺の旧河川跡(清水川)

郡家原遺跡は、大規模な旧河道域(清水川)の周辺に広がる遺跡です。
旧河道を遡ると宮池・大池を経て旧河道を利用して築堤された宝幢寺池があります。この池の中には白鳳期の宝瞳寺跡があることは、以前にお話ししました。南海道も、この池のすぐ南を通過しているので、郡家という地名から、この旧河川の岸のどこかに、那珂郡の郡衙があったと研究者は考えています。
丸亀 郡家原遺跡
郡家原遺跡

 郡家原遺跡は、5坪分(A~E坪)にまたがって調査区が設定されています。弥生時代後期後半に集落が営まれ、地形に従って溝が緩やかにカーブしながら伸び、古墳時代の溝も微髙地を反映した方向をもっていたようです。
坪界にあたる溝は、縦軸がSD-140・148、SD-191・189で、横軸がSD-231になります。
溝出土の遺物は7世紀末~8世紀初頭以降のもので、これが掘削時期を示しています。このうちSD-140・148は、中世以後も使用された堆積状況を示します。その他の溝は10世紀前半頃までに一旦は埋没し、その後13世紀頃に再掘削されたり、隣接地へ水路変更されています。中世になって、新たな用水路が整備されたようです。
 8世紀の奈良時代の集落がA・C・D坪にあります。
 同じ規模の建物・倉庫など等質的な3グループだったようです。出水状遺構はA坪とC坪にあります。出水状遺構が集落にあるので、井戸として使われていた可能性がありますが、この場合は坪界の水路より出水状遺構の溝の方が深く掘られているので、坪界にある基幹的水路をリレー的に結ぶ灌漑用の水源として使われていたと研究者は考えているようです。
 研究者が注目するのは、出水状遺構から伸びる用水路です。
一坪を縦に5分割した場合の東から2本目のラインと一致します。特にSD77は、南北半町の位置まで斜めに走行し、そこから屈曲してラインに合わせています。C坪では出水状遺構は見られませんが、SD175がSD77と同じ位置で北流しています。このようにみてくると、各グループの建物の配置も、東西3区画と南北半町の範囲に限定されて計画的な村落景観が地割整備と共に現れたことが分かります。

郡家原遺跡の出水状遺構は、北方に広がる水田用のものとされます。
土地条件に応じて小規模水源を組み合わせ、微高地の水田に導水していたようです。用水路は遠くまで延ばす際には、深い水路と浅い水路を立体交差させる必要が生じてきます。そのためには、高松市太田下須川遺跡、同市浴・松ノ木遺跡で出土した長さ3mほどの木管が水路を立体交差させる場合に必要となります。 
 条里制施工後の状況については、A坪の出水状遺構は平安期まで続い利用されています。ただしSD77は、9世紀代遺構には埋没して、SD73に付け替えられています。SD77等に見られたきちんとして坪内区画は、9世紀以降には見えなくなります。また、この時期になると建物配置にも、方向性やその内容に規格性がなくなります。それでも、坪界の地割溝は残ります。坪内の区画は乱れても、坪界を中心とする条里型地割には影響を与えていないようです。ここに全体として、丸亀平野の条里制的な景観が残った秘密がありそうです。
丸亀平野遺跡分布図4
丸亀平野遺跡分布図 西部版

金倉寺下所遺跡(第5図) 
金倉川西岸は、条里型地割が広範に乱れた地域になっています。
善通寺 金倉下所
金倉川下所遺跡周辺の旧河道

金蔵寺下所遺跡は、遺跡の西側に蛇行する小さな旧河道と金倉川の間の狭い微高地上に立地します。
西側の旧河道は最大幅6、5mの自然河川です。遺構の北側には、微高地上を穿って流れていて、南側の自然河川から水を引くための用水路であった可能性が高いと研究者は考えています。同じ位置に古墳時代の溝もありますが、弥生時代のものより溝底が高いことから、自然河川の堆積による水位の上昇に対応して掘り直されたようです。小規模河川の蛇行部から取水し、微高地上に用水路を掘開して下流の水田に導水するというやり方です。どちらにしても、この遺跡が弥生から古墳・律令期と長い期間にわたって存続していたことが分かります。
善通寺 金倉下所
           金倉川下所遺跡

 この微髙地には、次の3つの建物群があります。
①7世紀末~8世紀初頭の溝(SD04)を挟んで東西両側に正方位をもつグループ。建物は合計9棟で、その内総柱倉庫が溝の東に2棟ある。
②同時期の遺物が出土する溝(SD-06)の両側に、現状地割と同一の方向性をもつグループ。合計8棟で、総柱倉庫は、やや大きさが小さくなり、溝の東に1棟。
建物方位によって区分できる①②群は、建物の規模や構成点で共通性があり、前後関係は柱穴の切り合いからみて、①から②へ変化したと考えられます。建て直された時期は、7世紀末~8世紀初頭で、従来の建物構成を維持したまま条里型地割の方向性に沿って建て直されたと報告書は記しています。これも、時期的に見て条里制施行に伴う集落の再編成事業の一環のようです。

  SD06の東には、建物を区画するような5~7条の溝が並行して掘削されています。
 ここからは9世紀までの遺物が出土しているので、建物群も9世紀頃までは存続したことが推測できます。建物群の東端には最大幅10mの溝がありますが、ここには鎌倉時代前半期頃までの遺物が包まれています。そのため次の時期の小規模柱穴で作られた建物群と研究者は考えています。これが三つ目の建物群になります。
 
以上から、7世紀末~8世紀初頭の集落の再編成時において、建物や溝は条里制地割の方向性に沿って建て直された。しかし、中世になると、人々の意識の中には、地割の意識はなくなり建物はバラバラの方向に建つようになった。それでも溝は、地割ラインが残ったと云えそうです。


d 稲木遺跡(第6・7図)    
善通寺 稻木遺跡
稲木遺跡
稻木遺跡は、遺跡の中央を斜めに旧河道が横切っていました。
これが6世紀末までに埋没して水田域となります。また東肩部の微髙地では竪穴住居群が廃絶した後に一帯が水田化しています。西岸は比較的高燥な微高地で弥生時代には、方形周溝墓や竪穴住居が営まれています。微髙地の南では、7世紀後半から8世紀前半の掘立柱建物群が出ています。 
善通寺 稻木遺跡3
稲木遺跡(東側)

 この遺跡でも7世紀末頃に、それまでの建物構成を維持ながら村落の再編が行われたようです。これも条里制施行に伴う再編事業の一環のようです。建物の一部には、区画溝があるのも金蔵寺下所遺跡と似ています。また、建物区画溝が坪界に一致しない点も共通します。灌漑水路をみると、周辺縦軸の水路については10m内外の誤差が認められますが、おおむね坪界と一致します。横軸については、溝はないようです。
善通寺 永井遺跡
永井遺跡                   
 永井遺跡は、縄文時代後晩期の自然河川が埋没して作られた微高地上に立地します。
弥生時代以降、遺跡中央の浅い凹地をカーブを描きながら走行する多数の溝があります。凹地にあった水田の導排水のための灌漑水路と考えられます。これらは7世紀前半頃に埋没しています。その後の水路は、遺跡東端の水路に移っていきます。遺跡の東側とされる段丘肩部を等高線に沿って2~3条の溝が走行します。埋土の中には8世紀後半から平安期の遺物が含まれています。この溝は段丘下にあった自然河川から取水し、微高地上に新たに拓かれた水田に導水する用水路と研究者は考えています。先の浅谷部も埋没して平坦化され、遺跡の東側一帯が耕地化したようです。
 ここで研究者は注目するのは、遺跡東端の溝群が坪界の交点で屈曲して、坪界線に沿って北流することです。同じような川西北鍛冶屋遺跡でもありましたが、地形・水利上の制約を受けながらも、可能な所は坪界に合致させています。溝の掘削段階には、すでに地割の企画があって、それに基づいて田地形状や溝の位置が決められたことがうかがえます。
遺跡中央部のSD42は、8世紀中頃以前に掘削された坪界の溝(SD45)が埋没した後に、逆に等高線に沿ってカーブをを描きながら伸びていきます。これは地形・水利上の問題が当初設計よりも深刻であったので、新しく削し直したと研究者は考えています。

遺跡西側には鎌倉~室町時代の区画溝をもつ宅地が広がっています
横軸は坪界線|こ、坪界線と一致する溝が2町以上にわたって続いています。しかし、縦軸は宅地区画溝とは、合致しません。平安期の溝が埋没した後に、周辺の田地形状がどのように編成されたかを示す材料乏しいのですが、縦方向にも多少ずれた地割があった可能性は残ります。

こうして研究者は、現在の条里型地割に一致する溝を拾い出して、宅地や潅漑水路の変遷を見ることによって、現在の地割の位置づけを行いました。その上で、改めて条里型地割の変遷を見ていきます。
 条里制地割が行われ時期が分かるものとして、研究者が挙げるのは次の資料です。
①川西北鍛冶屋遺跡の出水状遺構
②郡家原遺跡の地割に沿った溝と、それに先行する建物
③金蔵寺下所遺跡や稲木遺跡の宅地の再編成時期
  これら遺構は、7世紀末~8世紀初頭に施工された条里制遺構である可能性が最も高いと指摘します。
宅地から見ていきましょう。
 稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡では、集落がそれまでと同じ構成・規模のままで、新しい条里制地割にあわせて再編成されています。郡家原遺跡では縦横軸ともきちんと坪界に一致して、3つの坪にきわめて整然とした宅地が配置されていました。坪内も半折型を基調とした区画を示す材料が揃っているので、計画的村落と云えそうです。それまでの建物群が「小規模散在的」なので、集落単位の再編成というよりも、「新計画集落」の建設と捉えた方がよさそうです。7世紀末~8世紀初頭頃に、条里制とともに集落の再編成も併せて行われたようです。この際に、1つの集落単位の再編成にとどまる遺跡は、地割との整合性にやや欠ける部分があります。それに対して、複数の集落を越える規模で再編成されたと考えられる郡家原遺跡には、厳密な計画性と整合性が見られます。

灌漑水路の整合を見ておきましょう。
どの遺跡でも、この時期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小河川や出水状遺構などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。ここからは、古代の満濃池について、もう一度見直す必要がありそうです。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的な資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

 出水遺構については、川西北鍛冶屋遺跡で1基、郡家原遺跡で2基ありました。
どちらもそこから水路が伸びているので、灌漑に使用されたことは疑いありません。川西では6世紀後半以前に掘削された水路で、弥生期の溝と同一の方向から、8世紀初頭に地割に方向を合わせた水路へと掘り直され、その後は埋没しています。郡家原遺跡では、宅地割りの一角にあり、南北半町の地点まで斜めに導水した後、現在の地割方向に曲げられています。これらは坪界に合致するものではありませんが、すぐ横に坪界に位置するやや浅い水路が伸びています。坪界水路が田地へ用水を供給するポイントでは、再び屈曲させて坪界に一致して走行した可能性が高いと研究者は考えています。

地割の整合について郡家原遺跡と稲木・金蔵寺下所遺跡で違いがありました。
この差がどこから来るのかを研究者は次のように考えます。
郡家地区は、宝帷寺周辺にあったとされる那珂郡衙と同一の小河川(清水川)水系に位置します。善通寺地区においても、仲村廃寺や善通寺跡などの古代寺院が集中するエリアにある生野本町遺跡では、7世紀末~8世紀初頭の条里型地割の中に、規格的な建物群が建っていたことは以前にお話ししました。このように、郡衛周辺エリアでは、規格性の高い地割施行が行われたようです。

条里制地割施行後の変遷には、次の2点がポイントになると指摘します。
①平安末頃に大規模な灌漑水路が掘開される段階
②近世になって「皿池」が出現する段階

まず①について、平安末頃以降になると各所で大規模な溝が掘開されるようになります。
川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿った位置に、大きな溝が見られます。大規模な溝が掘られるようになった背景には、それまでの小規模水源からの灌漑技術の革新がうかがえます。この時期の水路は坪界に位置しないものも多く、郡家原遺跡など前代の坪界の水路から横方向にずれて設置されたものもあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 たとえば小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。

 地形的条件だけでなく、地割に関する規制が薄れたことも考えられます。
金倉寺下所、永井の各遺跡では、平安期以降になると宅地配置に地割と整合しないものが出てきます。軸のズレだけでなく、方向の異なる掘立柱建物も各所で現れます。これは、郡家原遺跡の出水を源とする水路が、平安前半段階になると、区画を無視して掘り直しされている時点からすでに現れています。この時点では、律令国家の土地政策の変容が始まっていたことがうかがえます。それが受領国司の登場であり、郡衙廃止という動きであることも以前にお話ししました。
受領国司

江戸時代になって新たに採掘された水路はほとんどありません。
その理由は、条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。ということは、現在の灌漑用水路網は、条里制施工時にほぼ形成されていたことになります。
 近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になったようです。つまり従来の地割に付け加えられるような形で整備されたことになります。これが、現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。

 7世紀末~8世紀初頭段階で横軸の設定が厳密でなかった稻木遺跡や金蔵寺下所遺跡周辺では、今でも地割の乱れが見られます。
これが現在でも「乱れ」として分かるということは、条里制施行当時に統一的な地割規格があったことを示すと同時に、「乱れ」の形成要因が古代の施工時まで遡るものであったことを示すと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①丸亀平野の条里制地割の施工開始時期は、7世紀末~8世紀初頭
②この工事は、それまでの潅漑技術を応用する形で地形条件を克服し、宅地地割と水田地割を同時に行うものであった。
③そこには灌漑技術の革新があった痕跡はない。
④そのため施工されなずに放置された「空白地帯」も多くあった。
⑤条里制施行エリアは、現在の条里型地割とほとんど一致する。
⑥郡の範囲を超えて、一元的企画が地割施工開始以前にあった
⑦その意味では、条里制規格プランが7世紀後半まで遡る可能性がある。
⑧地割の基準や工法については、坪界縦軸の整合が高い

②については、一つの集落を単位とした宅地・水田の再編成と、ある一定の地域を広範に、規格化・再編成する2つのねらいがあったようです。この背景には、施行を行った政治勢力の本質的な差が現れていると研究者は指摘します。それは中央政府と首長層から転進した郡長ということになるのでしょうか。地域の「律令化」を考える上で、重要な視点になりそうです。
 ⑧の坪界縦軸について、歴史地理学は南海道のルートが先ず決められ、直線的に額坂と大日越を結び、それに直角に郡境が引かれ、それが縦軸になったとします。これが考古学的に発掘された各遺跡の溝の方向からも実証された結果となります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」
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 前回は、文献史料で弘安寺のことを知ることが難しいことを確認しました。弘安寺廃寺に迫るために残されたモノは、礎石と心礎跡と古代瓦の3つです。現在の考古学は、これらを材料にどのように迫っていくのかを追いかけて見たいと思います。テキストは「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です。

発掘調査報告書で最初に示されるのは、「周辺遺跡」と「復元地形」です。弘安寺周辺の遺跡を見てみましょう。

弘安寺周辺地遺跡図

①土器川を越えた東側に安造田古墳群があります。
この古墳群は後期古墳(6世紀代)に作られたものです。その中で「日本唯一のモザイク玉」が出土した安造田東3号墳は、6世紀末の飛鳥時代にできた短い前方部を持つ帆立貝式古墳です。
安造田三号墳モザイク玉調査報告会(まんのう町) - 善通寺市ホームページ
安造田東3号墳のモザイク玉
 
古代寺院の近くには、終末期の大型横穴式石室を持つ古墳がある場合が多いようです。例えば、善通寺王国では、大墓山古墳や菊塚古墳のように古墳後期の大型石室をもつ古墳を造営していた有力豪族(佐伯直氏)が、7世紀半ば以後に古代寺院を建立し始めます。
安造田東3号墳の調査報告書は、次のように記します。

古代における人々の活躍の場は、古墳や古代寺院の分布が示すように、九亀平野では満濃町北部が最奥とみられる。当地域には大規模な古墳の築造は行われておらず、弘安寺が羽間から長炭周辺に小規模な群集墳を築いた集団によつて建立されたと考えれば、この寺院の成り立ちは、この地の古代史を知る上で非常に興味深い。

  安造田東3号墳を造営した氏族集団が、弘安寺を建立したと考えているようです。しかし、古代寺院を建立するにしては、安造田東3号墳をはじめとする首長墓は小型です。 この財力でほんまに氏寺を建てられるのか?という疑問が私には残ります。
善通寺、仲村廃寺の周辺には、王墓山や菊塚古墳のような横穴式石室を持つ後期の大型首長墓があります。しかし、ここでは 安造田古墳群の延長線上に白鳳寺院の建立や、郡領氏族の形成が行なわれたというエリアではないようです。

 研究者が注目するのが古墳時代後期の集落跡、吉野下秀石遺跡です。
員 嚇 ・0 委 け

この遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、弘安寺の東500mに位置します。この遺跡からは、出土した14棟の竪穴住居の全てに竃があるという統一性が見られ、時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強い住居群ということです。この時期、地域の開発がにわかに活発化したことがうかがえます。同時に、時期的には安造田東3号墳の造営と重なります。
 吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の開発集団で、彼らのリーダーが日本唯一のモザイク玉」を持って眠っていた安造田東3号墳の首長というストーリーは描けそうです。急速な開発と変革がこの地で起こっていたとしておきましょう。

開発という視点から、 もう少し弘安寺の立地を考えてみよう
考古学的手法では「復元地形」を用います。つまり、当時の地形がどんなものであったのかを地質図などで復元するのです。そのセオリーに従って、地質図を見ると次のようなことが分かります。

弘安寺周辺地質図2
弘安寺廃寺周辺の旧河川跡
①土器川が、木崎を扇頂に扇状地を形成し、吉野には網状河川が幾筋にも流れている。
②吉野は土器川の氾濫原で、洪水時には遊水池で低湿地地帯であった。
③弘安寺は土器川の氾濫原の西側の扇状地上の微髙地に立地している。
土器川が吉野地区に湾入していた痕跡を現場で見てみましょう。
 丸亀市方面からほぼ真っ直ぐに南下してきた県道「善通寺ー満濃線」は、マルナカまんのう店付近で東へ大きく屈曲するようになります。これが旧土器川が西側へ湾入した流路のうちの、最もわかりやすい痕跡だと報告書は指摘します。それを裏付ける地名が「吉野」で「葦の野」 (湿地帯)だとします。また、この屈曲箇所付近に 「川滝」の地名があります。これも河川があったことをうかわせます。さらに、旧吉野小学校南側の県道の道路敷は蛇行しています。これも土器川の流路であったことを示すものだと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと「吉野」は「葦の野」で、洪水時には土器川の流路のひとつが流れ込み遊水池状態で湿地であったとしておきます。
次に金倉川を見ておきましょう。
 「カレンズ」ベーカリーの南に「水戸」があり、現在はここが満濃池用水の取水口となっています。金倉川の本流は、ここで大きく南西方へ直角に曲げられて象頭山方向に向かいます。一方、満濃池用水(旧支流)は直進して、満濃中学校の西側を通過した後に、祓川橋付近で土器川に近接するか、あるいは満濃中学校の南約250mから西へ湾流する状態を示しています。ここからは、、金倉川も土器川の吉野の湾入地域に流れ込んでいたことがうかがえます。つまり、吉野エリアは土器川と金倉川の二つの川の遊水池のような状態だったことになります。 このように吉野は、ふたつの川の影響を強く受けた地域で「葦の野」であったことがうかがえます。

吉野下秀石遺跡周辺は、条里制にもとずく規格性のある土地区画が試みられた痕跡が見られます。
旧満濃町役場西側の県道満濃善通寺線を基軸として、東方へ約200m間隔で設けられた直線状の土地区画が読み取れます。ただし、南北方向の区画線が不整いです。ここからは、吉野の条里制工事は開始されたが完成に至らなかったと研究者は考えているようです。
吉野下秀石遺跡報告書は次のように記します。
「本遺跡周辺は土地条件に恵まれた地域とは言い難く、むしろ大規模な耕地開発にはより多大な労力を要する地域」そのため
条里地割分布域の縁辺部に位置する」


弘安寺周辺の条里制復元図を見てみましょう。
弘安寺周辺条里制

これを先ほどの地質図と重ね合わせて見てみると次のようなことが分かります。
①土器川の氾濫原・遊水池である吉野エリアは条里制施行は施行されていない。
②ただ吉野地区にも条里制施行の痕跡は認められる。
③条里制が施行されているのは、四条エリアでその周辺縁に弘安寺は立地している。
④弘安寺は、四条や吉野の開発拠点に建立された寺院である。
先ほど見た吉野下秀石遺跡は、6世紀後半に開発が始まっていますが、7世紀末になって行われた条里制施行エリアには入れられていません。土器川の氾濫原の開発は、なかなか難しかったようです。吉野下秀石遺跡の西方約500mある弘安寺も、これとよく似た立地条件が類推ができると研究者は考えています。

弘安寺周辺を現在の丸亀平野の灌漑システムの視点から見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
③が吉野の水戸 満濃池用水の金倉川からの取水口
弘安寺は④の周辺

江戸時代の満濃池用水路を見ると、先ほど見た吉野の水戸が金倉川からの丸亀平野への取水口として重要な役割を果たしていることが分かります。近世の西嶋八兵衛の満濃池再建工事は、「満濃池築造 + 土器川・金倉川の治水工事(ルート変更と固定化) + 用水路網整備」の3つがセットで行われています。古代に満濃池が作られたとしたら同じような課題が、立ちはだかったはずです。満濃池の築造と灌漑網整備はセットなのです。いわば「古代丸亀平野総合開発」なのです。それを古代において後押ししたのは、国の進める条里制施行でしょう。
満濃池 水戸大横井
近世の水戸の取水口 手前が金倉川本流 向こう側が満濃池分水

 古代において、開発が早くから進んだ弘田川、金倉川流域では、しばしば氾濫に見舞われていたことが発掘調査からも分かってきました。これを押さえるためには、金倉川の水量調節が不可欠です。そのためにも上流の満濃池築造は大きい意味を持つことになります。9世紀初頭に、多度郡郡司の佐伯直氏が一族出身の空海の讃岐への一時帰還を朝廷に願い出ているのは、国の事業として満濃池の完成を図ろうとしたこと、丸亀平野全般の開発事業に関わっていたという背景があったのでしょう。満濃池が最初に姿を見せたのは8世紀初頭とされます。つまり、それ以前から佐伯直氏は、継続的にこの事業に関わっていたことがうかがえます。幼い真魚(空海幼名)も、一族の「丸亀平野南部開発総合計画」に奮戦する一族の活動を、見聞きしていたのかも知れません。

丸亀平野条里制と古代の満濃池水路
丸亀平野の条里制と満濃池用水網 ①が吉野の水戸


 以上から四条・吉野地区と佐伯氏の関係を、次のように推測しておきます。
①吉野下秀石遺跡に6世紀後半に、開拓集団を送り込んだのは佐伯直一族
②7世紀末の条里制施行時に、「吉野地区総合開発」を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
③9世紀に空海による満濃池再築を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
つまり、古墳時代後半以後、佐伯直氏は金倉上流域に対しても、その影響力を伸ばしていたのです。そして、吉野地区の水戸を押さえることで、金倉川の治水とその下流に新たな入植地を確保して、急速な開発を行ったと考えられます。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
      弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)

そういう視点で、弘安寺についてもう一度見てみましょう。
弘安寺の建立は7世紀後半の白鳳時代になります。それは、条里制施工工事が丸亀平野の一番奥の四条地区に及び満濃池が姿を現す直前です。これらの開発拠点地が、四条地区でした。四条地区は急速に耕地が拡大し人口も増えたことが予想されます。そのような中で成長した有力者が、本拠地の近くに建立したのが弘安寺廃寺だと私は考えています。
 その造営主体として考えられるのは、次のような氏族です。
①安造田東3号墳の首長系譜につながる一族
②善通寺の佐伯直氏が送り込んだ入植者集団(佐伯直氏の分家)
③佐伯直氏と姻戚関係にあった因首氏

①の場合にも、善通寺王国の緩やかな連合体の中にあったと思われるので佐伯直氏の支援があったことは考えられます。③の場合も、因首氏は那珂郡に多くの権益を持っていましたから、吉野・四条からの用水路整備には、佐伯氏と共通の利害関係があったはずです。佐伯直氏と因首氏の共同開発プロジェクトとして進められ、最後には空海を担ぎ出すことによって国営事業に発展させて完成させたとも考えられます。
 満濃池築造後は、用水路を含めて維持管理が大切なことは、残された近世の満濃池史料が伝えるところです。
古代も同様であったはずです。その満濃池管理の拠点の役割を果たしたのが弘安寺ではないのかと私は考えています。港の管理を僧侶が受け持ち、寺院が港の管理センターの役割を果たしたように、新たに作られた用水路を寺院に担当させるというのが当時のひとつのやり方でした。水戸の取水口管理や用水配分などは、弘安寺の僧侶が行っていたのではないかと思っています。
そういう意味では、弘安寺は遊水池であった吉野地区の開発センターであり、満濃池の管理センターでもあったと云えます。墾田私有令以後は、多くの開発田をもつ経済力のある寺院となり本寺の善通寺を支えたのかもしれません。

ちなみに、この開発計画のその後をうかがわせる遺跡も出てきています。
買 田 岡 下 遺 跡

 琴平の「西村ショイ」の南側のバイパス工事にともなう発掘調査が行われた買田岡下遺跡です。
買田岡下遺跡 地図

ここからは、平安時代の掘立柱建造物が同時期に20棟近くも並んでいました。
買田岡下遺 郡衙的配置
    買田岡下遺跡の準郡衙的建造物配置図 一番下

 出土遺品や建造物の並びからこれを「準郡衙」的な遺跡と研究者は考えています。丸亀平野の条里制の最南端地区で、どうしてこのような施設が出てきたのか不思議でした。しかし、弘安寺周辺で7~9世紀に行われていた開発プロジェクトからすれば、その延長線上に買田岡下遺跡の「準郡衙」が現れたということになります。

以上をまとめておくと
①丸亀平野の最奧部にあたる吉野地区は、扇状地の扇頂直下の網状河川部にあたり、洪水時には遊水池となる湿原地帯であった。
②そこに古墳時代の後期以後に、入植が進んだ。その首長たちが造営したのが安造田古墳群である。
③7世紀後半に、丸亀平野にも条里制施行が始まると四条地区の開発が本格化した。
④四条地区の有力者は、佐伯氏の支援を受けながら「四条・吉野総合開発計画」を進めた。
⑤それは治水・灌漑のための「満濃池築造・用水路網整備・土器川金倉川治水」であった。
⑥そのモニュメントして建立されたのが弘安寺であり、後には満濃池の管理センターの役割も担った。
⑦四条地区の条里制整備は進んだが、吉野地区は何度もの洪水の被害を受けて完成には至らなかった。
⑧弘安寺周辺の四条地区には、満濃池の用水路網を握り、丸亀平野南部を押さえる有力者の存在がうかがえる。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキスト
  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

坂出市史1
坂出市史

昨年末に発行された坂出市史を眺めていると、大束川の旧河道について、鎌田池から福江を経て、現在の坂出駅付近で海に流れ出していたことが書かれていました。これを今回は紹介します。
 以前に「神櫛王伝説 坂出の福江は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」では、つぎのようにまとめました。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。
大束川河口の開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。綾氏は福江湊を拠点に、大束川流域の経営を進めたという仮説でした。しかし、資料不足と勉強不足で旧大束川の具体的な河道跡を提示することはできませんでした。今回出されて坂出市史には2つの資料から河道跡を提示しています。それを見ていくことにします。
坂出市史が「証拠資料」として、まず提示するのが国土地理院の土地利用図です。
坂出の復元海岸線4
国土地理院 土地利用図

これは以前に紹介したようにグーグル「今昔マップ」で検索すれば無料で見ることができます。
福江町付近の土地利用図からは、次のようなことが分かります。
①鎌田池の北東隅から北に旧大束川の河道跡が残ること。
②鎌田池から南は、貯水池を経て川津町にいたるルートが旧大束川の河道であったこと
③坂出商業高校付近は東西に伸びる砂堆上で、ここより北は潟であったこと。
砂堆の北側にある坂出高校のグラウンドの南西隅付近の文京町2丁目遺跡からは、製塩土器が多数出土しています。奈良時代の海岸線は、この付近を東西に伸びる砂堆の北側近くにあったと研究者は考えているようです。

DSC04434
川津の貯水池と讃岐富士 
旧大束川の流れを確認しておくと
川津 → 貯水池 → 坂出中学校 → 鎌田池 → 福江 
となります。
鎌田池2
ブルーのラインが旧大束川河道跡(明治末の地図)

鎌田池の付近を拡大して見ます。
鎌田池
明治末の鎌田池(鎌田池と貯水池はつながっていた)
鎌田池は、旧河道に堤防を築いて作られたため池と伝えられます。
そのため南北に長い瓢箪池の形をしています。現在はこの間に坂出中学校が、池を埋め立てて造成されています。坂出中学校は、旧大束川河道の上に建っているようです。
下の写真は笠山と角山、鎌田池で区切られる平野部の空中写真(1961年)です。
坂出の復元海岸線5 航空写真

上の航空写真からは、次のような事が見えてきます。
①鎌田池北側には整然とした条里制が坂出高校の南側まで広がる。
②鎌田池の北東部からは、乱流する大束川旧河道が北に伸びている
丸亀平野でも金倉川や土器川の流路跡の氾濫原には条里制の跡は残りません。ここからは、条里制が施行された7世紀末には大束川は福江を通過して、海に流れ出していたことが分かります。
坂出の復元海岸線5 航空写真拡大
福江周辺の大束川河道跡
 福江は瀬戸内海と川で結ばれており、その河口付近にある港で、瀬戸内海水運に従事する船の拠点となっていたようです。神櫛王の悪魚退治伝説でも福江は、悪魚を退治した神櫛王の上陸地点ですし、悪魚が打ち上げられる所でもあります。福江は重要なステージとして登場することは以前にお話ししました。
 福江は川船で、鵜足郡の郡衙があったとされる川津ともつながっていたようです。つまり、川津の外港が福江ということになります。古代においては、鵜足郡の港は宇多津でなく福江で、大束川流域への入口であったことを押さえておきます。
坂出の復元海岸線2
中世には大束川は現ルートに変更されているので描かれていない
DSC04505
金山方面から見た福江 背後は角山
福江のことをもう少し見ておきましょう
金山・笠山・常山に囲まれた福江を、私は常山の麓の塩田背後の集落くらいに思っていました。しかし、古代には海がここまで入り込んでいたようです。福江という地名は、海が深く良湊を意味する深江が転化したと伝えられています。綾氏系図に、日本武尊の神櫛王が景行天皇の命により悪魚を退治し、福江湊に上陸した記されていること何度か紹介しました。
 そして、先ほど見てきたように条里制施行時には大束川は、福江の前を流れて海に出ていました。福江と郡衙があったと考えられる川津までは川船で結ばれていました。古代においては、大束川流域の物資の積み出し港が福江だったことになります。
坂出の復元海岸線3

福江の背後あるのが常山ですが、これは元々は「津の山」でしょう。
福江周辺を歩いてみて感じるのは、瀬戸内海の島の港町を歩いているような印象を受けることです。坂の多い路地と、あちらこちらにいらっしゃる石仏や標識、そしてお堂や庵。古い歴史を背後にもつ集落であることが、歩いていると分かります。そして、かつては富の蓄積もあったことがうかがえます。それが何からきているのかが分からなかったのですが、中世までは交易港であったことが分かると全てが納得できました。 古代の福江と川津の関係については、以前にお話ししたので省略して、中世の福江を今回は見ておきます。

DSC04512
福江
『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここからは、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また年貢に塩5石や鯛40とあるので、半農半漁的な立地を示しているようです。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。

 北山本新荘の年貢を運送していた国料船に福江丸という船がいたようです。
5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(

宝徳元(1449)年の史料に阿野郡北山本新荘の年貢輸送の国料船である福江丸に、管領細川勝几から次のような下知状が発給されています。
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、京都の崇徳院御影堂へ北山本新庄より年貢を運ぶ福江丸が登場します。福江丸船団も「国料船」で、港や川に設けいれた関所に支払う関料免除の特権を室町幕府より認められていました。摂津国兵庫津と坂出福江を行き来していた福江丸は、福江村を含む北山本新庄の年貢を運んでいた船で、「福江」という母港名がつけられているので、福江には港があり、そこに所属する船を福江丸と呼んでいたのでしょう。ここからは福江には、瀬戸内海交易に携わる輸送船を操る集団もいたことが分かります。

福江丸は、管領細川勝元から崇徳院御影堂用の国料船として、関連船も含めて毎年10艘の運行が認められています。北山本新庄では、塩浜が拓かれ塩の生産が行われていました。荘内の海で水揚げされた鯛とともに福江丸に積載して、京都の崇徳院御影堂へ輸送されたようです。
 ところが寛正元(1480)年四月、この春に限つて兵庫南北関で、突然に関料を徴収されます。これに対して崇徳院御影堂衆が幕府へ訴えた文書が残っています。
崇徳院御影堂禅衆等謹んで言上
右当院領讃岐国北山本新庄年貢輸送国料船福江丸と号すこと、海河上の諸関その煩い無く勧過の所、今春に限り兵庫両関新国料と号し、過分の関役を申し懸け、剰え以前無為の役銭共に責執の条、言語道断の次第也、所詮応永八年以来の御教書等の旨に任せ、彼の役銭など糾返され、国料船においてはその煩い無く勧過有るべく旨、厳密に御成敗を成し下さるは、御祈祷の専一たるべく者也、傷て粗言上件の如し
長禄四年卯月 日
  意訳変換しておくと
京都の崇徳院御影堂の禅衆等が謹んで言上致します
当院領の讃岐国北山本新庄の年貢輸送を担う国料船福江丸について、海上や河川の諸関を自由に通行できる権利を得ていましたが、今春になって兵庫両関新国料と称し、過分の関銭を徴収されました。従来から支払いを免除されている役銭も徴収されるなど、言語道断の措置です。応永八年以来の御教書の「関銭不用・フリー通行」の原則にもとづいて、徴収した金銭を返還し、国料船に対して今まで通りの権利を保障するように、厳密に御成敗を下さるよう祈祷致しております。粗言上件の如し
長禄四年卯月 日

ここからは、次のようなことが分かります。
①北山本新庄の年貢輸送船福江丸に対して、過書が応永8(1401)年に発行され、長期間にわたって関銭免除の特権を行使してきたこと。
②それが長禄四(1458)年卯月になって、突然に、通行税を徴収されたこと、
③それに対して崇徳院御影堂の禅衆が幕府に訴え出ていること。
どうして突然に、通行税を国料船の福江丸に対しても徴収を始めたのでしょうか?
この前年に、興福寺は国料船・過書船の免除停止を発しています。これを受けて北山本新庄国料船に対しても関料免除停止の措置を取ったようです。この背景には、国料船に名を借りて物資を積み込む状況が多発していたからです。兵庫関の関銭は東大寺と興福寺の財源でした。それが減収していたようです。その対応策として、国料船の関料免除を廃止して関料徴収と入関船の管理統制を強化しようとしたのです。

瀬戸内海を物資を積載して航行する船は、東大寺の設置した兵庫北関と、興福寺が設置した兵庫南関で関料を納入しなければなりませんでした。これに習って中世では全国中に関所が出来て、関銭が徴収されるようになります。それが寺社の財源となっていたのです。それを取り払おうとするのが織田信長の楽市楽座になります
 兵庫関でも過書船が多くなれば収益が減少するため、過書船への対応には留意していたようです。過書船は年貢物に限定され、商売物を混入して輸送することは禁止でした。しかし、梶取りたちは関料を免れるため、いろいろな抜け道を見つけ、事件を起こしたことが資料からもうかがえます。そこで興福寺や東大寺は、幕府へ過書停止の訴えを起こし、幕府もこれを認めたようです。 

  以上をまとめておきます
①古代の大束川は「河津 → 鎌田池 → 福江」というルートで現在の坂出方面に流れていた。
②東西に大束川が形成した砂州が発展し、その南側に潟が形成されていた。
③福江は、笠山まで湾入した潟と、旧大束川の河口に位置し、海運と川船が交錯するジャンクションの機能を果たした。
④大束川を遡った河津は弥生時代以来の集落が発展し、鵜足郡の郡衙跡と考えられる。
⑤その河津と福江は川船で結ばれ、鵜足郡の湊の機能も果たしていた。
⑥このような福江の役割が、中世に作られた神櫛王の悪魚退治伝説にも反映され、福江は重要なステージとして登場する。
⑦中世には、大束川の流れは変更され、宇多津に流れ出るようになり、宇多津に守護所が置かれ繁栄するようになる。
⑧しかし、福江もこの湊を母港に活動する国料船福江丸の存在が史料からは分かり、御供所などとともに瀬戸内海交易に活躍する梶取りたちの存在がうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 通史上 中世編 
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昔、高松街道でこんぴらさんにお参りする人が、土器川の清流で、身や心を清めていた付近を祓川(はらいがわ)と呼んでいたようです。その名残が旧R32号「祓川橋」として残ります。余り知られていませんが、この下流には「霞堤」がいくつもあったようです。土器川に残る霞堤を見に行くことにします。テキストは 「出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23」です

霞堤の構造

霞堤を言葉で説明すると次のようになるようです。
「連続堤に対する不連続堤のことで、上流から下流を見たとき、「ハ」の字を順番に重ねたような形状」

上流域に大雨などがあって、平野部を流れる河川の水位が上がると、堤が途切れている霞堤の開口部から水が逆流して、そこに留まり、やがで水位が下がると、逆流していた水は本流へと戻って川下へと流れていきます。開口部周辺は、遊水池としての機能を果たすことになります。

霞堤防 信玄堤
甲府盆地の信玄堤
 この「霞堤」は、武田信玄が、甲斐の国で富士川上流の釜無川で築堤したのが最初だと云われ「信玄堤」とも呼ばれます。

伝統的手法で洪水対策 24年度完成目指す  那須烏山・下境地区の那珂川|県内主要,社会,地域の話題,政治行政|下野新聞「SOON」ニュース|台風19号|下野新聞 SOON(スーン)
 香川県の川は、いつもは水無川ですが、大雨が降ると急流で濁流化して手が付けられなかったようです。そのため古代の条里制なども金倉川や土器川の氾濫原は、施行外であったようで条里制の空白地帯となっていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 地質図拡大版

土器川は洪水時には暴れ狂う龍のように、幾筋もの流れとなって龍がのたうつように流れ下っていました。そして、あるときには善通寺の弘田川へ流れ込み、あるときには金倉川(旧四条川)と交わり、あるときには大束川に流れ込んでいたことを発掘調査報告書は教えてくれます。

土器川 旧河道(大束川)

 このような暴れ龍=土器川をコントロールして広大な氾濫原を耕地化していく試みが始まったのは中世になってからです。そこには西遷御家人としてやってきた東国武士達のもたらした治水技術があったようです。それを学んだ名主たちも氾濫原開発に着手していきます。
 それが爆発的に広がるのが生駒藩時代だと私は考えています。生駒藩では、新規開発を行った者がその土地を所有できる土地政策をとります。そのため周辺国々から有力者達がやってきて開発・治水を始めます。その一例が、安芸の因島村上水軍の木谷氏の多度津への亡命・入植です。これ以外にも、丸亀市史には、この時代に多くの有力者が土器川沿いに入植し、富農となっていたことが記されています。これは土器川の治水と氾濫原開発と関わりがあると私は考えています。

土器川旧流路
郡家周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる

 その中でも西嶋八兵衛による満濃池再築は、エポックメイキングな事件でした。これは大きな池を築くという以外にも、その水を丸亀平野全体に供給するという使命がふくまれていました。そのための用水路を整備するためには、土器川を制御する必要があります。それができて満濃池から直線的な用水路が丸亀平野に引けるのです。つまり「満濃池再築 + 土器川制御 + 用水路整備」は、丸亀平野総合開発の一環として西嶋八兵衛の頭の中にはあったと思うのです。これは高松平野の郷東川の流路変更などをみても分かるとおりです。
信玄堤(霞提)

 信玄堤は各地で築かれるようになってきます。

江戸前期の治水技術の特色は、流路に向かって亀甲出しをつくって水勢を弱め、ある程度以上の水量は、あふれ越えさせることでした。これを信玄堤と呼んだようです。
 の『地方の聞書』(1668(寛文八)年)には、溜池の水門・堰普請などの用水関係のほか、堤防の検分修復・水はね出し堤の築造などのことが特筆されている。
  『百姓伝記』には、治水について次のように記されています。
 河川の大量の水をその流路内に閉じ込めず、川幅を広くして、堤外の耕地を流戯作(ながれさくば)として残し、これを護るために本堤の他に小堤をつくり二重堤とする。屈曲点などの水当りの強いところでは、猿尾(出堤)・石枠・袖枠などを設け、堤の上には柳竹芝などを植えるがよい。
また『地方竹馬集』には、『百姓伝記』にいう二重堤に対して、洗堤のことを次のように強調しています。
 通常の増水は本堤で抑えるが、特別の増水時には洗堤を越えさせて水勢を弱め、ゆるやかに田畑へあふれさせて湛水させ、耕地の流失を防ぐ。洗堤は川裏を傾斜地にして保護する。

 以上のように、江戸時代になると二重堤防や洗堤等の治水技術の進歩につれて、河川敷の固定、耕地の開発や干拓が藩の土木政策として推し進められるようになります。
扇状地状三角州の河川制御には、信玄堤が有効であることが分かるようになってきます。この方式は、洪水と全面的に対峙し、洪水を抑え込んでしまう「人間と自然の対決」という自然観ではありません。自然には勝てないが、その被害を少なくすることはできるという「減災」の考え方です。ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式だと研究者は考えているようです。
 これは直線的な連続した堤を上流から下流まで築いて、大洪水を一挙に河口に押し流そうと考える治水方法とは違います。

それでは、土器川のどこに霞堤が残っているのでしょうか。

 土器川には、かつては多くの霞堤があったようです。しかし、年とともに連続堤に改められ、その数は少なくなっています。今は、痕跡をとどめるものを含めても、約20箇所程度になっているようです。その中で。垂水橋から「生き物公園」にかけてが一番観察しやすいエリになるようです。

こんな時に便利なのが「今昔マップ」です。このソフトは、現在の地形図と明治の地形図を並べて提示してくれます。それだけでなく連動して動いてくれるので、その地点の現在と過去を比較する際には非常に便利で、私は愛用しています。今昔マップで垂水橋周辺を見てみましょう。
土器川 霞堤防垂水橋

左が明治39(1906)年、右が現在の垂水橋周辺です。このふたつの地図から読み取れることを挙げておきます
①M39年には現在地点には垂水橋はなかった。
②その代わりに左岸の垂水村仲村と岡田村の東原を結ぶ旧垂水橋があった。川の部分に架かるだけの小さい橋だったが、これが宇多津ー金毘羅街道であった
③現在の生き物公園には、中村方面からの支流の合流点だった。
④垂水橋の右岸の向王子は大束川の支流の源流になる。かつて土器川が大束川に流れ込んでいたときの痕跡が残る。

 明治39年の地図を拡大し、 右岸南から見ていきましょう。
土器川霞堤 垂水1 

垂水橋右岸たもとのの堤防を下流方向(北)に辿っていくと約300mで一旦途切れます。これが霞堤のの開口部①です。確認しておきたいのは、上流からの堤端が途切れるのに対して、下流からの堤防はその外側を重複してを上流方向に伸びていることです。
 もちろん今は開口部は埋め立てられて、下流からの堤防と同じ高さで接続しています。さらに約300m北へ進むと開口部②があります。ここでも、上流からの堤端は途切れて、下流からの堤端は南へ延びています。開口部②は今でも開いたままです。
②の東側の田んぼの中に鎮座するのが椋神社です。
ここは宇多津の港を出発し、土器川の右岸沿いに歩いてきたた金毘羅参詣の人々が、土器川を渡る場所でした。その渡河地点には「金毘羅大権現」と刻まれた常夜燈が建っていました。その常夜燈は、今は椋神社に移されています。金毘羅参詣の人々が川原へ降り、対岸の垂水の地蔵堂を目指して、左斜め前の方向に土器川を渡っていたのを、この常夜灯は見守っていたのです。開口部②は、土器川の霞堤の特色を最もよく残しているところで、お勧めの場所です。
②から③の堤防は、雑木林(水害防備林?)が繁っていて、土器川の現存する堤防の中では最も古い感じがします。
土器川の堤防は見晴らしが良くきく所が多いのですが、この区間は雑木林に覆われています。対岸は現在は、生き物公園になっています。ここを訪れると気がつくのは堤防がいくつもあることと、支流が流れ込んでいることです。それがこの公園の地形を複雑にしています。地図からはかつての郡境が走っていたことが分かります。
土器川 霞堤防中方橋

③から100mほどで④の開口部です。今は、ここもは締め切られていて、開口部から堤防に沿っては雑木林が繁っていますが、その痕跡は残っています。 中方橋右岸の東小川には土器川沿いに新名出水という地名が残ります。地図で見ると霞堤の外側に3つの出水が見えます。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg
 東小川の古図
 新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水で、いまもあります。これを利用して氾濫原の開発に乗り出した名主たちが中世には現れます。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると、「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。これらの開発地を守るためにも、開発領主達は霞堤の築造にとりくんだことが考えられます。

生き物公園周辺の霞堤は、どんな機能を果たしていたのでしょうか
大雨が降って洪水になった時に、本流の河床と開口部の関係がどうなっていたかを研究者は次のような断面図を示して説明します。下の図は地形図から2,5m間隔の等高線だけを抽出して「微地形と霞堤」で示したものです。
土器川 生き物公園霞

さらに土器川を、AーB、CーDの「模式的横断面図」です。
土器川 生き物公園霞断面図

AーBの横断面図について見てみましょう
川の中央を走る42,5m等高線が、左岸(垂水)側の霞堤開口部から堤内地を上流(南)方向に向かって、幅約60メートル、長さ約200m入り込んでいます。つまり左岸堤内地には、南北方向に延びる微凹地があることになります。それは本流と同じ高さの微凹地帯でもあります。このことは、川の中央で水位が1m上昇すると、左岸堤内の凹地帯でも同じ高さまで水位が上がってくることになります。本流中央の水位が上がったとき、開口部からは水が堤内に逆流して入ってくることを意味します。水位が下がってくると堤内地に留まっていた水は、しだいに開口部から本川へ排水されていきます。上流側のCーDの横断面のエリアでも、同じ現象が起きるはずです。もう少し詳しく見ると、上流のC=Dラインの方が貯水量は多いようです。奥まで流れ込めば流れ込むほど、より多くの水を貯水できるような構造になっています。
以上から霞堤の開口部の役割は、次の3点になります。
①洪水時には、土器川の水を開口部から堤内に逆流させ
②土器川の水位が下がってくると、それを戻す
③堤内の排水
以上のように、霞堤の開口部は、堤内の排水を行うだけでなく、洪水時には遊水池としての機能も果たしていたことが分かります。さらに、それでも捌ききれなければ、旧河道にオバーフローさせることによって、本流の堤防を守り被害を最小限に抑えようとしてきたのでしょう。
土器川 生き物公園治水図

  今昔マップで、明治39年の地形図と「治水分類地形図」を並べて見てみましょう。
先ほど見た右岸には、平行して旧河道の痕跡があります。これは大束川の源流になることは先ほどみました。一方、左岸の垂水側を見ると、生き物公園から北の中所の池にも河川跡があります。
 ここからは、ここに霞堤を築くことによって洪水時のフローをこれらの河川跡に流すことが意図されていたのではないでしょうか。
 もう一度、霞堤の目的を確認しましょう。
「ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式」

そのためには、多少の犠牲は仕方ないと割り切っているようです。その犠牲になる部分が、生き物公園周辺だったとも考えられます。その課題と機能は次のように考えられます。
①支流の合流点で、屈折点でもあった生き物公園付近は洪水の際の決壊点となった。
②そこで、川幅を広くし、両岸に霞堤を配した。
③生き物公園周辺は、洪水時には遊水池として機能すると同時に、霞堤から溢れた水は、旧河道によって下流に流された。
④これによって下流の堤防決壊を防ぎ、被害をできるだけ少なくする「減災」をめざした。
  生き物公園を歩いて感じる、普通の堤防や河川敷とは異なる奥深さは、遊水池としての機能に源があるようです。その地が公園として、保存されていることに何かしら嬉しさと誇らしさを感じてきます。
参考文献 出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23



金倉川河口 土地利用図
金倉川河口付近(土地利用図) 旧流路が幾筋も見える 
丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
.西汐入川jpg
青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

満濃池が丸亀平野に、どのように灌漑用水を送っていたのかを見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治3年(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。この絵図は、幕末に決壊し放置されたままになっていた満濃池を再築するに当たって、水掛かりの村々とそこに至る水路を確認し、課役を取り決めるために作られたものです。これを見ると、灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じのようです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。この地図を、じっくりと眺めることからはじめましょう。
 この絵図からは、満濃池からの水路がどのように伸びていたかが分かります。また、満濃池の水掛かり範囲、つまり給水エリアを知ることも出来ます。
まず幹線水路を見ておくことにします。
満濃池①は、金倉川をせき止めて作られたものなので、池から流れ出した水は、金倉川②を下ります。しかし、それもつかもまです。③の地点で、金倉川から分水されます。③は、水戸大横井堰(まんのう町吉野下)で、「水戸」と地元では呼ばれているところです。美味しいパン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に、堰はいまもあり、民家の間を抜けて北流します。

満濃池 水戸大横井

 以前にお話したように、丸亀市史には次のように記されています。
「この北流する水路は、もとは旧四条川の流路であって、ここに堰を設けると同時に、本流を西に流して金倉川を新しく人工的に作った」(要約)

と記します。確かに金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという狙いです。

DSC04908
現在の③水戸大横井関 金倉川に堰が設けられ水門方向に流される

 ③から以西の金倉川は「水路」とは、当時は認識されていなかったようで色分けも白色になります。また③からの以西の河床は、それまでと比べると非常に浅くなり、天井川になります。これも、近世になって新しく人工的に作られた川という説を補強します。金倉川は⑥の生野町の堰まで分水口はありません。金倉川は、「方流路」で水路ではなかったことがうかがえます。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大1
赤が金毘羅領 黄色が池の御領(天領) 桃色が高松藩領
それでは、今度は満濃池の真の水路を追いかけてみましょう。
それは、③の吉野下の「水戸」で分岐した用水路です。

 グーグル地図でも、丸亀幹線水路は追うことができます。水路は、満濃中学 → まんのう町役場を経て西高篠④で2つに分かれます。ローソン西高篠のすぐ西になります。
DSC04865
西高篠の分水地点 右が丸亀幹線 左が櫛梨を経て善通寺・多度津へと伸びる。ここには分水点には阿弥陀堂が建っている

ここから櫛梨に向けて西(左)に延びる水路は、天領の苗田村と高松藩の公文村の村境となっていることが色分けから分かります。この水路以前には、ここに旧四条川が流れていたことの裏付け資料にもなります。四条川は、近世初頭には「自然村境ライン」でもあったようです。
 地図で見ると④で西に分岐した水路は、⑤で金倉川に落水しています。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2

現在は、どうなっているのでしょうか。
DSC04823旧四条川合流点
右が金倉川、左が旧四条川 ふたつの川の合流点

そして、そのすぐ下流の生野の堰で善通寺多度津方面に取水されます。
これが善通寺・多度津幹線です。この水路は、現在の善通寺市役所を北流し、農事試験場(旧練兵場遺跡)をまわりこむようにして、子どもと大人の病院の北で大束川に落水し、西白方まで伸びていきます。その手間で東西方向に流れを変えますが、その区間でいくつかの分水地点を設け、丸亀平野北部への水路を派生させます。その最終地点の村名をを金倉川から西へ並べると 下金倉村・鴨村・多度津・青木村・東白方・西白方となります。これらの村が、善通寺・多度津幹線の末端の村々になるようです。ここで、今挙げた村々のエリアが、地図上で、どんな色で色分けされている注目すると茶色(白?)です。
①茶色   多度津藩
②草木色    丸亀藩
③桃色   高松藩
④赤色   金毘羅大権現寺領
⑤黄色   池の御領(陵満濃池管理のための天領)
こうしてみると多度津藩の満濃池水掛かりは、最末端にあることがよく分かります。旱魃時には、なかなかここまでは水がやってこなかったはずです。負担は同じなのに、日照りの時に水はもらえないという不満を多度津藩の農民達が抱いたのも分かるような気がします。彼らは自己防衛のために、独自でため池を増やし、幕末には池掛りからの離脱の道を歩んだことは以前にお話ししました。
 丸亀平野における各藩領地の割合を見ると圧倒的に多いのは桃色の高松藩です
⑥で分岐され用水が供給されるのは高松藩の領地になります。私はうかつにも、かつては土器川が高松藩と丸亀藩の国境と考えていたことがありました。また、那珂郡と鵜足郡の境が国境と思っていた時もありました。もう一度「満濃池水掛村々之図」の各藩領地の色分け図を見ると大間違いなことに気づきます。大ざっぱにいうと、高松藩と丸亀藩の国境は金倉川なのです。丸亀城は、丸亀平野の高松藩領土の上にちょこんと首だけ乗っているようにも見えます。丸亀城の天守閣から殿様が南を見たときに、そこに開ける水田は自分の領地ではなかったのです。丸亀の殿様は、どんなおもいだったのでしょうか。
 この絵図を見ると、高松藩が満濃池に一番強い利害関係を持っていたことが理解できます。土器川以西の灌漑用水供給という点で、②の「水戸」の堰の分水地点は、高松藩にとっても非常に重要な地点であったことを押さえておきます。ここに堰を構えることによって、満濃池の水は高松藩の水田にやってくるのです。これがなければ、そのまま金倉川方面に下っていってしまいます。
 もうひとつ、満濃池の用水路を見ていて感じるのは、直線的なことです。これは、条里制以来の水路が活用されたためと、私は思っていました。しかし、それだけでは説明できないようです。それは、これらの用水が整備される前には、このエリアには四条川という川が流れていたからと丸亀市史は云います。

 絵図に書かれた幹線水路の多くは、近代以降の改修工事を経ながらも現在まで大きくは変化していないようです。
そこで、現在の幹線水路と丸亀平野の条里地割に重ねてみましょう。それが次の地図になるようです。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
A赤色が「讃州那珂郡分間画図」や「満濃池水掛村々之図」に描かれた近世の水路
B緑色が近・現代に新しく作られた水路
C水色が土器川と金倉川
①吉野下の大横井堰
②西高篠分水
③生野堰
こうしてみるとAの近世に作られた水路は、そのルートが今もあまり変化することなく踏襲されていることが分かります。また、基本的に条理地割の上を通っています。それが直線的になったことの一つの要因のようです。この地図上でも水路を辿っておくことにします
A先ず金倉川の大横井堰①で取水され、土器川に平行するように那珂郡を北流する(現丸亀幹線)。
B②西高篠分水で西流する「多度水路」は、金倉川に落水した後、善通寺市の生野堰で再び取水され、左岸側の多度郡域へ流下する。
つまり「金倉川の治水を前提として灌漑システムが構想された」と研究者は考えているようです。これらの路網の途中の微高地上に「皿池」と呼ばれる貯留用のため池の築造が進み、安定的な灌漑網が形成されていくことになるようです。
満濃池掛かり 那珂郡分間画図
以上を仮説も含めてまとめておくと、
①古代の満濃池決壊後には、那珂郡と多度郡には金倉川と四条川が網の目のように流れていた。
②満濃池再築にあたって、西嶋八兵衛は満濃池用水路の確保のために四条川の付け替え工事をおこなった。
③それを四条川を西流させ「金倉川」とし、象頭山の麓を北流させることであった。
④丸亀平野中央部に、水路を条里制ラインに沿って掘削し、北流させた。
⑤同時に、四条川跡の櫛梨方面へも水路整備を行った。
⑤金倉川から取水された善通寺・多度津幹線は、西は西白方、東は下金倉村までをカバーする役割を担ったが、旱魃の際には水路末端まで用水を提供することが出来ず多度津藩農民の不満は高まった。これが幕末の満濃池池掛かりからの離脱を生むことになった。
⑥満濃池水掛かりの最大の受益者は高松藩であった。そのため高松藩は、倉敷代官所へも必要な意見具申をおこなっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸亀市史 金倉川と旧四条川
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書
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昭和の時代には、丸亀平野のため池は弥生時代には出現していたと考えられていました。
 当時は、津島遺跡(岡山市)や古照遺跡(愛媛県松山市)の発掘が大きく取り上げられ、その影響もあったようです。
3.西根堰と水路網にみる歴史的風致 (1)はじめに 桑折町周辺は産ヶ沢川による扇状地が発

しがらみ堰
の発掘は大きく取り上げられ、弥生時代の灌漑技術が過大評価されたこともあるようです。しがらみ堰が作れるのなら、自然の窪みを利用した小規模な堤防もつくることが出来るようになり、それがため池灌漑へ移行し、農地を拡大していったというストーリーになっていきました。そのため、丸亀平野のため池の発生も、弥生期か古墳時代にまでさかのぼると考えられました。
 そして、丸亀平野のため池の発生については、次のような仮説が出されました。
2 丸亀平野のため池と遺跡
  
①昭和27年の3回の洪水調査から丸亀平野の洪水路線を明らかにし、弥生式遺跡の立地、ため池の配置を地図上に落としてみる。
②そうすると弥生遺跡が、いずれも洪水路線に隣接する微高地に立地すること
③ため池が洪水路線に沿って、鈴なりのように連なっていること
以上から次のように、研究者は推測しました。
水田が広がるにつれて、自然の窪みを利用した小規模な堤防をもつ初期ため池灌漑がスタートした。大規模古墳の土木工事は、そのままため池の堰堤工事に転用できるし、労働力の組織化もできるようになった首長は、丸亀平野の凹地にため池を築造することで、水田開発を大規模に進めていくことになる。

  以上が「丸亀平野における弥生・古墳時代の初期ため池灌漑」説です。しかし、現在ではこれは余り顧みられることのない「過去の説」になっているようです。
DSC06130

 それでは、現在はどのようにかんがえられているのでしょうか
 20世紀末に丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代の遺跡が数多く発掘されました。その中には、溝の幅が2mを超える「大溝」や「基幹的灌漑水路」と呼称される主要な灌漑水路も出土しています。これらの分水路を組み合わせで、水田への水は引かれていたと発掘報告書は報告します。
例えば坂出IC周辺の川津遺跡からは、下のような水路が出ています。

IMG_0002

ここでは、旧大束川から分岐した用水路が川津中塚遺跡を経て、下川津遺跡まで連続して続いていました。しかし、この段階では、何㎞も先から導水路を設けて広い範囲をカバーするような灌漑水路ははないと、研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 地形区分図

 以前に見たように善通寺王国の都である旧練兵場遺跡でも、微髙地周囲を網の目のように流れる中谷川(旧金倉川?)から導水された水路は、さほど長いものではありません。居住区から遠く離れた水源から取水する必要がなかったようです。
 古墳時代も、このような状況に変化はありません。
弥生時代後期に開かれた灌漑水路の多くは、古墳時代を通じて機能・維持されますが、なぜかこれらの多くは古墳時代後期の6世紀末葉から7世紀前葉に埋没・放棄されます。その理由は不明です。7世紀前半は断絶の時代なのかも知れません。
南海道 条里制与北周辺

 7世紀末になると律令国家の建設が進み、それに伴って目に見える形で南海道が東から伸びてきます。南海道を基準に条里制ラインが引かれます。そして南海道沿いには、各郡司達は郡衙を整備し、氏寺を建立し、自らの支配力を目に見える形で誇示するようになります。
川津一ノ又遺跡
そしてこの時期に、丸亀平野にため池が始めて出現します。
川津一ノ又遺跡(坂出市)では、7世紀後葉に築造されたため池が出てきています。大きさは推定で約3ha、復元堤高は約1mで、上流側の大束川から水を取り入れ、灌漑水路で各水田へ導水していたようです。
 このため池が「条里制実施にともなう水田面積の拡大への対応」のために、作られたと思いたいのですが、どうもそうではないようです。川津のため池の堤高や池敷面積から想定して、ため池築造により灌漑エリアが格段と広がった様子はうかがえないと研究者は云うのです。ため池築造が耕作地の拡大を目指したものではなく、途中に貯水場を設けることで「安定した農業用水の供給をはかることが目的」があった研究者は考えているようです。また、灌漑域も郷エリアを超えるものではありません。

満濃池灌漑エリアと条里制
 丸亀平野の条里制については、発掘から次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割はmラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
①については、条里制工事が一斉にスタートし耕地化されたのではないようです。極端な例だと、中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあるようです。場所によって時間差があるのです。つまり、条里制によって7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないようです。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。つまり「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。
金倉川 10壱岐湧水

中世の善通寺一円保(寺領)を、例にしてみましょう
①一円保の水源は、二つの出水と弘田川でまかなわれていた。
②14世紀後半になって、弘田川上流の有岡の谷に、有岡池を築造した
つまり、善通寺の寺領(?)である一円保は、金倉川から取水は行っていません。これが私にとっては謎です。もし満濃池が空海によって築造されたとすると、その最大の受益者は空海の実家の佐伯家でしょう。
1空海系図2

空海の弟は、多度郡の郡司を勤めていたようで、業績を表彰された記録が正史に残ります。満濃池築造の際には、郡司だったかもしれません。そうだとすると、満濃池の利水に関して大きな発言権を持っていたと考えられます。当然、満濃池から善通寺周辺への灌漑路を整備し、それによって水田や畠などの開発に乗り出したはずです。
 しかし、満濃池から善通寺までの用水路なんて、この時代に整備・維持できたのでしょうか。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺生野町辺りの旧金倉川流路跡
わたしは金倉川を使えば、いいのではないかと思っていました。しかし、古代の金倉川や土器川は流路が定まらず、堤防もないためにいくつもの流れになって丸亀平野を流れ下っていました。そこに堰を設けて導水するなんてことができたのでしょうか。
金倉川と条里制

 もしそれが可能だったとしたら、どうして中世には善通寺一円保は金倉川から導水せず、有岡池の築造を選んだのでしょうか。古代にできていたことが、中世にはできなくなった理由がつけられません。
 もうひとつは、古代において多度郡の佐伯家が用水不足からため池を必要としていたのなら、まず取りかかるべきは有岡池だったのではないでしょうか。最初から満濃池である必要はありません。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の導水水路で、これは一円保には描かれていない

 土木モニュメントは、古墳を例にすると小形のものから作られ始めて、様式化し、大型化するという段階を踏みます。それまで丸亀平野になかった超大型のため池が、突然姿を現すというのも不自然です。まさに弘法大師伝説のひとつなのかもしれません。
 築造費用についても、当時の国司は空海が讃岐に帰ってきて、満濃池修築を行ってくれるなら、修築費も国が出す必要はないと云っています。手弁当で人々が参加することを前提としているのかも知れませんが、資材などの経費は必要です。だれが出すのでしょうか。これは、佐伯家が出すと云うことなのではないでしょうか。そこまでした、佐伯家にとって満濃池は必要だったのでしょうか。もし満濃池の築造の必要性があるとすれば、多度郡司である空海の弟の国家への貢献度を高め、位階を上げるためという理由付けはできるかもしれません。 
弘法大師御影 善通寺様式


 空海による満濃池修築というのは考古学的には疑問があるようです。しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。古代の満濃池については、私は分からないことだらけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書 第3章歴史的環境
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前回に続いて丸亀扇状地が、どのようにして丸亀平野になったのかを見ておきたいと思います。最初に下図に丸亀扇状地を重ねながら大きなターニングポイントを確認しておきましょう。

丸亀平野 形成史1
丸亀平野 扇状地から平野へのプロセス

上の順番で丸亀扇状地が丸亀平野になっていく過程を追って見ることにします。
まずは①の扇状地がいつ形成されたかについてです。
 丸亀平野 姶良カルデラ
29000~26000年前 鹿児島湾の姶良(あいら)カルデラ火山が噴火し,火山灰(AT)を大量に日本列島に振らせました。この時期は、地球は最終氷河期で海水面が現在より約100m下がったようです。
丸亀平野 旧石器時代の日本図

そのためこの時期は、間宮海峡,宗谷海峡が陸つづきとなり、朝鮮海峡,津軽海峡は冬期に結氷し,アイスブリッジが架かった状態となります。
丸亀平野 旧石器時代の瀬戸内

瀬戸内は草原が広がり,湖沼が発達し、そこにナウマン象などの大型ほ乳類が大陸からやってきます。私たちのご先祖さん達は、現在の瀬戸内海の島々の頂上からやってくる獲物達を見張っていたようです。瀬戸大橋の橋脚となった島々の頂上からは、国分台や坂出市の金山のサヌカイトの石器破片が数多く出てきます。これらは中国地方にも搬出されています。
 以前にお話ししましたように、発掘調査では、丸亀扇状地の礫状の上から姶良カルデラの火山灰は見つかっています。この時代の土器川は、現在の平池や聖池のラインまで礫を運んできて、すでに丸亀扇状地の形成を終えていたことになります。その後に、火山灰は降り積もりました。氷河期は雨が少ないので、土器川の浸食・堆積作用は弱まります。この時期の丸亀扇状地は、現在の土器川の瓦のように礫岩が重なり積もる姿を見せていたのでしょう。土器川は北流し、岡山の高梁川などと合流し西に流れ、現在の佐田岬を迂回して足摺岬の西方で太平洋に流れ込んでいたようです。
これが一変するのが13000年前です。温暖化進み最終氷期が終わり,完新世が始まります。
 亜寒帯針葉樹林は年々少なくなり,広葉樹林,照葉樹林が広がり、草原もなくなっていきます。こうして寒冷気侯に適応し,草原を食料源にしたナウマン象,オオツノジカ等は絶滅します。代わって森林の堅果類,芽等をえさにするた中小哺乳類のニホンシカ,イノシシ,ツキノワグマ,キツネ,タヌキ,ノウサギ,ニホンザルなど、私たちに馴染みのある動物たちが登場します。地球が暖かくなるに従って、海水面は上昇し、鳴門海峡から海水が瀬戸内草原に注ぎ込み内海としていきます。
 このころには,日本列島は黒潮の流れ込みを受けて、夏季多雨,冬期多雪の気侯が形成されていきます。この時期のご先祖さまの住居は、洞穴,岩陰を利用したものが多いようです。瀬戸内平原でのナウマン象狩りから山間部の林の中での鹿や野ウサギ狩りへと生活スタイルを変えなければならなくなったようです。

 しかし、ご先祖さまはこの環境変化に適応すべく、次のような新たな「技術」を生み出します。
これが縄文時代の幕開けとなっていきます。
   土器の発明(堅果類,肉の煮沸)
   弓矢の発明(狩猟)釣針の発明(漁撈)
   尖頭器の改良―有舌尖頭器の出現(狩猟)
   石皿,磨石の増加(堅果類の調理)
   磨製石斧の増加(木器の製作)
   磨製石斧の出現.
 この過程で,どのような地形変化があったのでしょうか。
丸亀平野 気温変化
 
更新世はかつて「洪積世(こうせきせい)」とも呼ばれていました。  更新世末期の最後の寒冷期(ヤンガー・ドリアス寒冷期)が終わると、長期的で大規模な温暖化が始まりました。これを完新世の始まりとします。完新世には急激な温暖化により、氷床や氷河が解け、世界的に5m前後の海水面上昇が起こりました。特に今から約7000年前には、現在よりも温暖化していたため、海水面の高さは今よりも約3メートル高かったと推定されています。
 その後、海水面がやや低下して現在の位置になりました。海水面が上昇したことによって、それまで陸上の低地にあった河川に海水が流れ込んできて、河川の堆積物の上に海の堆積物が重なるという事態も起こりました。 これが丸亀扇状地の末端部やその下の三角州で起こったことです。

次に弥生集落と地形の変遷を淀川流域の例で見ておきましょう。
丸亀平野 地形変化

  上の説明を図示化すると下のようになります。
丸亀平野 平野形成

これを参考にしながら以前お話しした善通寺市の旧練兵場遺跡の集落の変遷について簡単に「復習」しておきます。

丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺市旧練兵場遺跡 弥生時代の復元図

丸亀平野 扇状地から平野へ
①丸亀扇状地(平野)は,土器川の流路が東西に変遷を繰り返して氾濫し、網の目のように流れ自然堤防を形成したため,微髙地に富んでいた。
②西からやってきた弥生人たちは、この微髙地を利用して定着し稲作を始めた。
③自然堤防上に集落、その後背湿地に小さくて不規則な水田が開かれた
④定期的に低地部分には洪水が襲ってきた。その結果,地形の逆転がしばしば起こった。
⑤大規模な洪水の際には起伏が増し,反対に小規模な場合には起伏差がなくなっていった。
⑥弥生時代中期末~後期,古墳時代後期には後背湿地部分の埋積が徐々に進んだ。
⑦7世紀末には、それまでの微髙地を含む起伏が少なくなり、今のような平坦な状態になった。
その平坦になった時期に、条里型土地割の水田が拓かれていきます。
背景には、この時期に土器川の堆積作用が激減したことがあるようです。
丸亀扇状地帯の一部で段丘化が生じたと研究者は考えているようです。分かりやすく云うと、段丘崖が出来ることによって、土器川の流れが限定化され安定化します。それに応じて、人々は土地利用や土地開発の方法を変えていくようになります。平面化した扇状地は、洪水が発生しなくなり堆積が停止ます。
これは何をもたらしたのでしょうか?その影響や結果を列挙していきましょう。

丸亀扇状地で起きた段丘化がもたらしたもの

  ①地下水位が低下し土地が高燥化した。
このため,土地条件が安定し水害を受け難くなった。一方で地表面の更新が行われなくなり,同じ地表面を長い期間にわたり利用し続けなければならなくなった。
  ②地下水位の低下は湿田を、乾田化させ生産力を向上させた。
湿田と比較した場合,乾田は水管理がうまくできれば、裏作に麦をつくる二毛作が可能になったり,畜力を利用した耕作や、長鋤の利用も可能になります。これは、土地生産性を飛躍的に高めることにつながります。実際に、大阪府の池島・福万寺遺跡の中世旧耕土からは、鋤の痕跡やヒトや牛と考えられる馬蹄類の足跡が見つかっています。

  ③河川灌漑の場合には,従来の灌漑システムが段丘化により破壊されてしまうこともあった。
そのために段丘崖上まで水を引くためには、もっと上流側に取水口を設けることが必要となります。これにチャレンジしたのが中世に東国から西遷御家人としてやって来た東国武士集団だったことは以前にお話しした通りです。土器川右岸の飯山町には、そのような痕跡がいくつも残されています。

④段丘上では土地は高燥化し,より多くの灌漑用水が必要になります。濯慨がうまく行かない場合には,赤米のような耐乾品種の導入,あるいは水の管理しやすい小さな区画への変更が図られたかもしれません。また,水田から畠へ土地利用を転換せざるを得なかったかもしれません。最悪の場合,土地が放棄され荒廃した可能性もあります。
このような「耕地廃棄」と農民の移動は、中世では日常的であったとうです。 
⑤さらに,同じ土地で二毛作が行われると,程度の差こそあれ土地を疲弊させます。
このため施肥が不可欠となります。新灌漑システムは,荒廃しかけた土地の再開発には不可欠の条件になったでしょう。上流側への井堰の移動や溜池の築造などの方法がとられるようになります。
 これは善通寺の一円保絵図の中に描かれた有岡大池の築造過程で以前にお話ししましたので、省略します。
⑥一方、段丘下の現氾濫原面では、洪水が頻繁に起きます。
このため,堆積が急増し大規模自然堤防が形成されたり,砂州が急速大きくなったりします。例えば多度郡の港が、白方から堀江に移ったのも中世のこの時期です。弘田川の堆積作用で白方港は利用不能になり、代わって金倉川の堆積作用で形成された砂州の内側に堀江津が登場します。
洪水が集中する河原は「無主の地」として市が立つなどイベント広場として利用されるようになります。
例えば『一遍上人絵伝』に描かれた福岡の市は,吉井川(岡山県)の現氾濫原にできた定期市です。また,広島県福山市の草戸千軒遺跡は,芦田川の現氾濫原面に立地した河港でした。さらに,河川が上流から運んでくる土砂は海を遠浅にし,塩堤による干拓を可能にします。
 12世紀後半頃から干拓が成功し始めるのは,人々の土地開発に対する欲求,技術の進展だけでなく干拓が可能な場所ができたことと深い関わりがあると研究者は考えているようです。鹿田川(現在の旭川)の河口付近に開かれた備前国上道郡荒野荘絵図(1300年)は,まさにこのような様子を示したもののようです。

  丸亀平野は、平野と呼べるものではなく扇状地であったことが改めて分かります。
丸亀平野は、もともと扇状地の礫状の石が積み重なっていて、非常に水はけのよい土壌なのです。それが、完新世以後の洪水などで土砂が堆積して平面化しましたが、水はけがいいことには変わりありません。これは、稲作栽培には適さない土壌です。そのため善通寺一円保の寺領の水田率は、3割程度でした。そのような環境が讃岐の中世農民を、赤米の耕作や麦を重視する二毛作へと向かわせたのです。
 丸亀平野の水田化が進むのは、近世以後にため池と用水網が整備されて以後のことです。

 古代の用水網は貧弱でした。丸亀平野で最も進んだ勢力と技術力を持っていたと考えられる善通寺勢力(後の佐伯氏?)も、その水源は二つの湧水からの導水のみです。有岡大池が作られるのも中世になってからです。このような状況を見ると「満濃池」が古代に作られていたのかも疑問に思えてきます。中世の善通寺一円保は、金倉川からの導水も行えていない状態なのです。
古代に満濃池からどのようにして善通寺にまで水を運んできたのか。
池ができても用水路がなければ水は来ません。金倉川を通じて善通寺方面まで水は供給されたと簡単に考えていました。しかし、古代の土器川や金倉川の姿が見えてくれば来るほど、その困難さに気付くようになりました。地形復元なしで、土地制度や水利制度を語ることの「無謀」さも感じるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  丸亀平野が土器川の扇状地として形成されたことを以前に紹介しました。
それでは、丸亀扇状地の末端はどこなのでしょう。また、いつごろにできたのでしょうか。
その疑問に応えてくれる報告書を見つけましたので紹介します。テキストは「平池南遺跡」香川県教育委員会 2018年」です。

平池南遺跡 上空写真1
 遺跡名は「平池南」です。上の写真の造成中の場所で、現在は丸亀競技場ができています。北側にある四角い池が平池です。その向こうには備讃瀬戸が広がります。つまり、この報告書は丸亀競技場の発掘調査書なのです。丸亀競技場は1998年のインターハイに合わせて作られたものです。その報告書が20年後に出されたのかは、私にとっては最初の「謎」です。それは、さておいて先に進みます。
平池南遺跡 上空写真2

まず、丸亀平野の5m等高線地図を見てみましょう。
平池南遺跡 5m等高線地図

これを研究者が見るとすぐに、扇状地だと気づくようです。私は、何十年見ていても気付きませんでした。この地図を見ていると、小さな谷が見えてきます。これがかつての土器川の痕跡と考えられます。谷には川が流れていたはずです。その流れを青色で書き入れて見ました。
調査報告書は、平池南遺跡について丸亀扇状地の先端に位置するとします。

平池南遺跡調査報告書 10㎝等高線図

遺跡は地表下90㎝に礫層があり、八つ手の葉状に3方向に突き出す平面形になっているようです。扇状地の微地形は、旧中州・中州間低地・旧河道の集合体なので数mの起伏をもった礫層を基盤層とするようです。そのため地表下90㎝という数字をめあすにしながら研究者は扇状地の範囲を推定していきます。
 その際の指標になるのが、鹿児島湾の姶良カルデラが2万9千~2万6千年前の噴火で降らした火山灰のようです。
この時の火山灰層の厚さは
20cm以上:九州北部、四国、中国地方、近畿地方
10cm以上:中部地方、関東地方
だったことが1970年代に分かってきました。つまり、この火山灰より下が更新世で、上が沖積世となります。また、この地層を境にして植物の種類が大きく変化しており、寒冷化の原因になったと研究者は考えているようです。

 昭和の終わり頃に進められた四国横断自動車道(高松~善通寺)建設に伴う発掘調査でも、東から郡家一里屋遺跡、龍川四条遺跡、龍川五条遺跡が発掘されました。その際にも、この火山灰層が見つかっています。このうち一里屋遺跡では、地表下40cmで火山灰層が見つかっています。ここから丸亀扇状地の形成は完新世ではなく更新世に遡るものであることが分かってきました。扇状地が形成された後に、姶良カルデラの噴火があったことになります。


丸亀扇状地の先端部とその北の三角州の境界関係は、下図のようになっています。更新世に形成された扇状地の堆積層の上に沖積層の三角州が堆積して被さっている形です。
平池南遺跡 洪積世

この境界に、段丘崖などの連続面が見つかれば素人にも分かります。しかし、それは丸亀平野では、簡単なことではないようです。そこで、研究者が行うのが旧河道の開折状況です。

1962年の空中写真を判読して作成したのが下図になるようです。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

これを読み取って行きましょう
A 丸亀城の東1kmに⑪土器川が北流しています。
旧土器川の両河岸には、河川の蛇行によって形成された段丘崖が発達します。土器川は、西は善通寺の弘田川、東は飯山の大束川までを流路を変遷し、丸亀扇状地(平野)を形作ってきました。九亀平野の地形帯は、扇状地帯、三角州帯の配列で、中間地帯がないと研究者は考えていることは先述しました。まさに「丸亀平野=扇状地」なのです。
B その流路の最も東にあたる飯野東二瓦礫遺跡(飯山町)では、段丘崖下の旧河道から中世土器がでてきています。
土器川 流路等高線

ここからこの段丘崖が古代末に、旧土器川によって削られてできた完新世丘崖であることが分かっています。完新世段丘崖は右岸でははっきりと分かりますが、西側は分かりにくいようです。右岸側が攻撃斜面だったのでしょう。
C ⑪土器川の西側を見てみましょう。
平池南遺跡 地質図拡大

高速道路から北には、氾濫原面が広がっていたことが分かります。
 特に丸亀城の東南側(現土器町)では氾濫原面に向かって多数の旧河道が流れ込んでいたようです。旧河道は氾濫原面では分かりにくいのですが、上位の地形面でははっきりと地表面を刻んでいます。これは氾濫原面の形成で、浸食基準面が低下したために、その上位にあたる地形面が開折されたためと研究者は考えているようです。
 これらの旧河道を判読していると、明瞭なものと不明瞭なものに分けられ、上位の地形面が2面に分けられることがうかがえると研究者は云います。
 次に研究者は、丸亀城周辺の空中写真から次のような点を読み取っています。
①丸亀城の東南側の聖池西側に1m程度の小崖が1,5km近く連続していること
②九亀城西高校のグラウンド南側にも1m以上の高低差のある段差があること
③丸亀城に向かって背稜状に等高線の盛り上がりが見られること
④この盛り上がりを段丘面1と仮称する。
①については、先に見た5m等高線地図でも聖池から北の丸亀城の堀に向かって、流路があったことがうかがえます。丸亀城の堀は、その地下水の湧水があるようです。
また⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路があり、現在のため池群は、その旧流路の上に近世になって築造されたようです。
さらに、⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路沿いにもため池が並びます。旧流路が扇状地に掘り込んだ凹地を利用しているのがよく分かります。

  次に丸亀平野の条里制遺構図を見てみましょう
讃岐の条里制については、南海道が最初に引かれて、それを基準に順次条里制ラインが引かれたと考えられるようになっています。そして、その時期は6世紀末から7世紀初頭の藤原京時代だとされます。
平池南遺跡 周辺条里制

上の遺構図を見て条里制が残る部分と、空白部があることが分かります。空白部は条里制が施行されなかったエリアになります。空白部なのは、次のエリアです。
①海岸部
②土器川・金倉川・弘田川の河川氾濫原
③土器川・金倉川の旧河道と考えられる流域
条里制のライン引きと、実際の施行(工事)との間には時間差があるようで、中世になってから工事が行われた所もあることが発掘調査から分かってきています。しかし、空白部は7世紀前後には、条里制を施行する状態にはなかったのでしょう。つまり、海の中か湿地か、氾濫原で耕作不応地帯だったと考えられます。そういう目で那珂郡の条里制の北部を見てみると次のような点が推測できます。
①那珂郡の一条から三条は、聖池から先代池の北部までは、湿地地帯であった。
②那珂郡の四条・五条は微髙地が続き耕作可能エリアであった。
③那珂郡と多度郡の境には空白地帯があり、これが旧金倉川の流路と考えられる。
④金倉川は、与北付近で近代に流路変更が行われたことが推測できる。
これら以外にも、先ほど5m等高線図や地形分類図で見た
⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路
⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路
の周辺も条里制空白部になっています。

研究者は、これらの地形面と氾濫原面との間に、もう1面の地形面があることを指摘します。
それが聖池西側の小崖と土器川に沿う小崖の間に広がる地形面です。確かにこの地形面上には、周りから切り離されぽつんと条里型地割が残っているようです。氾濫原面だったら条里制跡は残りません。条里線のラインが引かれた時代には、完新世段丘Ⅰ面であった可能性があるようです。

ここまでで分かることをまとめておきましょう。
①土器川は、東は大束川、西は弘田川までのあいだで流路を変遷させて扇状地を形成した。
②丸亀市内における扇状地末端部にあたるのが平池南遺跡(現丸亀競技場)である。
③平池南遺跡の北側からは三角州が始まる。丸亀平野にその中間地帯はない。
④扇状地末端ラインは、先代池~聖池のでそこから北は湿地で、三角州や砂州が形成されつつあった。

  最後に出土品を一つだけ紹介しておきます。この写真は何だと思いますか?
IMG_0003

スタジアム部分から出てきた井戸です。3、5mの深さがあるようです。

平池南遺跡調査報告書 井戸jpg

太さ20cmほどの丸大で直方体の枠をつくり、その内側に板を並べ、一部では杭を打ち込んでいます。その内側にも九太を直方体に組み上げて、二重の九太によって矢板や杭を挟み込んで固定して、周囲の土圧に耐える構造にしています。一番上の九太の上には、花崗岩の切石を2段積み上げています。この石は現地で、加工したようで、石と石との間隙がほとんどないほど精巧に積み上げています。周囲への水による浸食や浸透を防ぐとともに、下部の構造物を押さえる役割を持たせていたのでしょう。職人の仕事です。
 天端から3.6m下が底で、砂礫層を掘り込んでいることが確認されています。扇状地の下の層まで掘り抜いているようです。丸亀平野では、地下水を得るための施設として、野井戸・堀・出水(ですい)がありました。
野井戸は、地下水を湧出させ、水路によって自然に流下させて灌漑に供する施設
堀は、方形で二間位の大きさ
井戸は、円形で径90㎝程度のもの
と定義されているようです。その定義からすると、これは井戸ではなく出水となるようです。いつ作られたのかは分からないようですが、昭和30年頃までは使われていたようです。地下水の出が悪くなったために埋め戻されたようです。  縄文時代以来、丸亀扇状地の末端微髙地に人々の生活の痕跡が残されています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金倉川 土器川流路変遷図

土器川は、台風などの洪水時にはまんのう町の長炭付近で平野に出ると、暴れ龍となって次のように幾筋も分かれて瀬戸内海に流れ落ちたようです。
①は、一番西側の紫ルートで金倉川や弘田川の流域を経て白方方面へ
②は、櫛梨山をまわりこんで生野・与北町から現在の河口方面へ
③は、祓川橋付近から垂水から八丈池→金丸池→道池を経て現在の河口へ
④は、小川・法勲寺から大束川に流れ込んで川津・宇多津方面へ
④の破線は、長尾・打越を抜けて岡田台地を下って、大窪池から大束川へ
岸の上遺跡 土器川流路⑤

確かに衛星写真を見るとまんのう町の吉野付近から打越池を経て、大窪池にかけては、U字状の谷が見えます。これが流路④の緑点線河道になるようです。そうだとすれば大窪池は、まさにその窪みの谷に作られたため池になります。
 地形図に丸亀平野の扇状地を落としてみても、旧河道が何本か浮かび上がってくるようです。

岸の上遺跡 土器川扇状地
④が岸の上遺跡 ①が善通寺 ②が郡家の宝幢寺池

丸亀平野の大部分は扇状地で、それは土器川が西から東へと河道を変えていく中で生まれてきたようです。最初に聞いたときには、信じられずに半信半疑で聞いていました。しかし、考古学的な発掘が進み実際に調査が行われ、その「土地の履歴書」が示されるようになると信じないわけにはいかなくなります。今まで疑いの目で見ていたものが、別のものに見えてくるようになりました。
  例えば生駒時代の中西讃の絵図を見てみましょう。

生駒時代絵図 土器川流路

①古城とあるのが廃城となった丸亀城
②その西側に善通寺の奥から流れ出してきているのが金倉川のようです。
③問題は古城と白峰寺の間の入江に流れ出している川です。
西側の支流は長尾から流域が描かれています。
これは、土器川なのでしょうか、それとも大束川なのでしょうか。
一方東側の支流は、滝宮神社(牛頭神社)付近から流路が描かれています。これは綾川のようです。土器川と綾川が合流して林田港へ流れ込んでいることになります。
 この絵図をみても、近世以前の河川の流れは、私たちの想像を超えていることがうかがえます。これを見たときも、讃岐のことを知らない生駒藩の侍たちの地理的な情報・知識不足と、鼻で笑っていました。しかし、先ほどの土器川の流路変遷図を見ると、笑ってはいられなくなります。実際に、土器川は大束川に流れ込み、さらに綾川と合流していた可能性もあるようです。

 岸の上遺跡 イラスト
  それでは本題の丸亀市飯山町の岸の上遺跡を見てみましょう。
ここからは大きな発見がいくつもありました。その中でも大きな意味を持つのは次の2つです。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。
岸の上遺跡 正倉群
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。これは郡衙以外の何者でもありません。鵜足郡の郡衙発見ということだと私は理解しているのですが、研究者達はあくまで慎重で、「鵜足郡の郡衙と南海道発見!」などというコピーは、報告会では出なかったようです。
 もうひとつ、この遺跡の報告書で驚いたのが、下の地形復元図です

飯山岸の上遺跡地形復元

①が岸の上遺跡です。バイパス工事のための調査ですから道路上に細長い区画になります。
②位置は、飯山高校に西側の交差点周辺です。
③北側には目の前に甘南備山の飯野山が鎮座します。
④西側には下坂神社があり、鎮守の森の中には今も湧水が湧きだしています。
そして、地図上の水色の部分が土器川の支流だというのです。一本の流れとはならずに、何本もの網の目状になってながれていたことが分かります。
飯山岸の上遺跡グーグル

確かにグーグル地図をよく見てみると、飯山高校周辺を旧河道が網の目のように流れていたことが分かります。この河道によって堆積した中州状の微高地上に、丸亀平野の古代のムラは成立していきます。

飯山居館跡

以前に、この北の飯野山の麓で河道跡に囲まれた中世武士の居館跡を紹介したことがあります。その河道も土器川の氾濫河道になるようです。
飯山国持居館3グーグル地図

  旧土器川が現在の河川になったのは、いつからなのでしょうか?
最初に見た生駒藩の絵図には、土器川は大束川と一緒に描かれていました。近世はじめまでは、飯野山の南側の流路は、このような編み目状だったようです。それではいつ変えられたのでしょうか。そこにはやはり西嶋八兵衛の影があるようです。
西嶋八兵衛60x1053

 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。高虎は、この時に側近の西嶋八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
それは、藤堂藩と生駒藩の密接な関係にあったようです。このことについては以前にもお話ししましたので省略します。
 自然災害に苦しむ生駒藩のために、八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。満濃池の再築に伴い、四条川を消し、金倉川を作りだしたことも以前にお話しした通りです。そして、土器川の流路変更も西嶋八兵衛によって行われたというのですが、その根拠になる資料を私は見たことはありません。
大束川旧流路
飯山町付近の土地利用図 旧土器川の流路跡が幾筋も見える

 西嶋八兵衛によるものかどうかは別にして、飯山高校の北側には、平安時代以降に激しく流れていた東西方向の旧河道が残っています。そして「北岸」「南岸」「岸の上」という字名もあります。この旧河道は度々氾濫を起こしていて、発掘エリアからも、氾濫で堆積したと砂層がでてきているようです。その遺物から7世紀の中頃と12 世紀頃に大きな洪水が起き、遺跡が土砂に埋まったことが分かるようです。この河岸丘に建物が建ち始めるのは7世紀中頃からで、南海道が伸びてくるのは8世紀初頭頃からになるようです。 次回は、この前の道がなぜ南海道と言えるのかを探ってみようと思います
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

その後、1995年の川津二代取遺跡の調査報告書の中に、大束川流域の地形復元を行った資料を見つけました。ここには丸亀平野の土器川扇状地の詳細等高線が示されています。ここからは土器川が金倉川や大束川へ流れ込んでいた痕跡がうかがえます。

土器川 流路等高線

さらに、次のような旧河道跡も1995年の時点で指摘されていたようです。
土器川 旧河道(大束川)

ここからは現土器川から東に向かって流れ込む流路や、飯野山にぶつかってから流路を東に取る流路がはっきりと示されています。また、②の大窪池から流れ込んだ時期もあったことが分かります。 
 つまり現場の考古学の研究者は20年前から土器川が流路を替えていたこと、それが弥生や古墳時代以後のことであったことを理解していたようです。知らぬは素人ばかりということのようです。
それでは、いつまで土器川は大束川方面に流れ込んでいたのでしょうか。言い方を変えると現在の流れになったのはいつのことなのでしょうか。それは又の機会に
参考文献

前回は、旧金倉川の流路について見てみました。
金倉川 7 生野町地図
上の地図で赤枠で囲まれたエリアが旧生野村で、そこにかつての金倉川(白矢印)が流れ込んでいたことを示しています。
前回のことをまとめてみると、次のようになります。
①弥生・古墳時代には壱岐湧水方面から北上する旧金倉川の河道が生野町や吉田町に幾筋もになって流れ込み、氾濫原となっていたこと、
②その中で、生野南口から四国学院には舌状に伸びる微髙地があって、この上に7世紀後半から奈良時代には、多度郡郡衙らしき遺跡が姿を見せるようになったこと
③旧金倉川の堆積作用は、奈良時代までには終わり凹凸が平坦化していったこと
④平坦化が終わった段階で、条里制や南海道建設などの大規模公共事業が行われたこと
⑤その主体が多度郡郡司の佐伯氏と考えられること
それでは、金倉川の沿いの氾濫原とされたエリアは、どんな状態だったのでしょうか。それを、今回は探って見たいと思います。テキストは「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」です。
まず、考古学者達が捉えている金倉川の流路と条里制の関係を見ておきましょう。
  金倉川と条里制
 黒い部分が山になります。①と②が併行して流れているのが、東のの櫛梨山と西の磨臼山に挟まれて一番流路が狭くなるところです。
そこに①金倉川(旧四条川)と②旧金倉川が並立して流れていたと全讃府史は記します。旧金倉川は磨臼山を抜けると洪水時には生野町や吉田町に流れ込み氾濫原を形成したことがうかがえます。
                        
まず、生野という名前の由来を考えて見ましょう
  「西讃府誌」「仲多度郡史」には、「生野」の地名のいわれを「イカシキ野」と記しています。古語辞典には「イカシ」は
①いかめしい、厳かである
②ひどく 盛んである。勢いがある。
③おそろしい。楽しい。荒々しい。
と出ています。筆者は「イカシキ野」の解釈を、「いかめしい野・荒々しい野」と解釈しているようです。

「遊塚」という宇名があったと云います。そのエリアは
東は与北の中川原と西務主から、
西は善通寺市役所の大半、
南は綴道から、
北はガスト善通寺店前にある吉田病院横の小川
にあたると古老たちは、話していたといいます。このエリアが、一面のうっそうとした森であり荒れ地だったというのです。ざっと考えただけでも何十㌶の広さになります。多くの氾濫原は開墾されて、水路が通されて水田化されていき、森は姿を消していきました。現在、金倉川流域で残っているのは多度津町の葛原にある八幡の森だけでしょうか。そのような森が明治の終わりまで市役所から尽誠学園を越えて、現在の金倉川まで広がっていたというのです。

 作者は小さい頃に祖父の兄から聞いたこととして、次のような話を
語ります

「おらは小学校のころ、井脇君の家(東務金の井脇正則氏の祖父)へ遊びに行って、遊びに夢中になり、気がつくとはやあたりが薄暗くなっていて、あわてて走って帰ったが、このトトヤ(魚)道も、今の道の半分ぐらいしかなく、雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかったもんだ」

とよく話していたと云います。 与北の東務金から森が続き「雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかった」というのです。
ここからも旧金倉川流域は氾濫原として、昭和の初め頃までは放置されていた所があり、大きな森として残っていたことが分かります。

もう少し古い時代のこととして、親戚のおじいさんに聞いた話を次のようにも伝えます
「おらが15、6の頃におやじと一緒に麦まきが終わると、ここの田んぼの木を切り倒して荒れ地を開墾して、稲のできる田にしたんだ」

というお話を聞いたと云うのです。それは、陸軍11師団がやってきた後の明治の40年前後のことだといいます。乃木大将がやって来たときにも「遊塚」には森がまだまだ繁っていて、それを開墾して田んぼにする人も現れていたようです。乃木将軍も金蔵寺からの通勤に、この森を通ったことがあるかもしれません。
 尽誠学園が生野町の現在地にやってきた時には、校地として水田を買ったのでしょうか、森を買ったのでしょうか?。私は森を買った可能性が強いと思います。

どうして生野村の東部は、「いかめしき野」だったのでしょうか?
 地図を見れば分かるように磨臼山と櫛梨山の間は直線にして約700mぐらいしかありません。
金倉川 9磨臼山と櫛梨山

かつては、ここを土器川も流れていたことは前回にお話しした通りです。そして全讃史には、この間を旧金倉川と旧四条川が並んで流れていたと記します。一旦狭められ速くなった流れが開放されると色々な方向にほとばしり出ます。この間を流れる川の名前は変わっても、何百年何千年の昔から洪水が起こるたびに氾濫し、流れを変化させ弘田川の方へも流れ込む暴れ川だったようです。その結果が、流域を氾濫原として埋め、土地の凹凸を平面化する結果となったことも前回にお話しした通りです。
 そして、氾濫原の荒地は自然のまま放置され、森となって残ったのでしょう。また森のまわりにも荒野が広がっていたようです。そのため現在の土讃線が明治に線路がひかれ、現在の国道319号が四国新道として建設されたのも、この沿線が旧金倉川の荒れ地で買収費用が安く、容易に手放す人たちが多かったからだと伝えられます。

 香色山は、佐伯氏の祖廟があり、聖なる霊山です。
 ここから東に広がる善通寺市街を見ると、条里制に沿って街作りをしたということが実感できます。筆岡、吉原、稲木、竜川あたりの水田をグーグル地図で見てもきれいに方形に区切られ条里制の名残りがみられます。しかし、生野町の上原、原、小原、東務主、西務主の水田の形をみると、てんでん、ばらばらの形です。これらは一斉に条里制に基づいて開かれたのでなく、金倉川流域の荒地の低湿地を少しずつ開発したことを物語っています。しかし、乃木大将が馬で走った森や荒地の「いかめしき野」(遊塚)は、今はどこにもありません。
金倉川 10壱岐湧水
善通寺一円保差図 二頭湧水は②?

二頭湧水は上吉田、下吉田、稲木の三村が水懸りですが、
早魅時には善通寺領の申し立てによれば、善通寺領分の田んぼも取水権を持っていたようです。それは、上の「善通寺一円保差図」を見ても分かるとおりです。②の二頭湧水からの用水路が善通寺の一円保寺領の方に続いているのが描かれています。そのため既得権利として、寛政9年と文化14年、そして文政6年と3回に渡って、善通寺は丸亀藩へ提訴しています。その内容は、早魅で有岡大池の水もなくなってしまったときの対応策についてです。善通寺の申立ては、寺領分が水を必要とした時に、上吉田村に書面を提出すると、三村の村役人が話し合って、寺領の取水日を返答する。ところが三村も水がほしくてたまらないので、取水日をはっきりと示さない。そのため善通寺が丸亀藩に提訴するということになります。
 壱岐湧水などについても、そのような既得権利を善通寺は主張していたようです。そのため本寺に訴えるために「一円保絵図」を控訴史料として作成したのではないかと研究者は考えているようです。

善通寺市デジタルミュージアム 壱岐の湧 - 善通寺市ホームページ
壱岐の湧水

もう一度、壱岐の湧水と、柿の又出水を見てみましょう。
 小学校にプールが出来る前の昭和40年代までは、子ども達がこの湧水で泳ぎまわっていたと云います。しかし、壱岐湧水に比べて、柿の又湧水は、水がきたなかったし、まわりは葦と雑草が生い茂って泳ぐ気にはならなかったと作者は云います。そのためでしょうか、現在整備されていのは壱岐湧水だけです。
金倉川12柿の股湧水
 二つの出水は絵図を見ると、条里制地割線上に西に、真っ直ぐと伸びていきます。
この一番上の条里制地割ラインはいったい現在のどの辺りになるのでしょうか?
最初私は、尽誠学園から西に真っ直ぐ伸びて四国管区警察学校や自衛隊本部(師団師令部)道の前を通る道を考えていました。しかし、現在の地図に落としてみると次のようになるようです。
金倉川11 条里制と湧水
絵図に合わせて南北が逆になっています

絵図は寺領周辺は詳しく描いていますが周辺部はデフォルメされていることが分かります。一円保絵図の一番南のラインは四国学院と護国神社を通過しています。これが多度郡の6里と7里の境界線にあたるようです。

金倉川 善通寺条里制

ちなみに四国学院の図書館建設のためのための発掘調査から6里と7里の境の溝が出てきています。そして、そこには側溝もあることから南海道の可能性が高くなっています。つまり、絵図の一番南ラインは南海道でもあったようです。
 ここからは壱岐湧水からの導水ラインは、二頭湧水を越えて北上し、善通寺一高辺りから真っ直ぐに、南海道沿いに西に伸びて四国学院のキャンパス内で(2)に接続していたことになります。
さらにその用水は現在の護国神社や中央小学校を抜けて、善通寺の南大門の南に当たる①に至ります。ここから条里制地割に沿って北に導水されていたことがわかります。この周辺に善通寺の寺領は集中していたようです。
  四国学院や善通寺東院は微髙地にあります。しかし道を越えた護国神社や西中・中央小学校は、四国学院よりも1,5mほど低くなっているようです。この地帯は水田であったことが推測できます。壱岐湧水の水は、ここまでひかれ寺領を潤していたとしておきましょう。

  前回に四国学院の東側は旧金倉川から分かれた支流が流れていて、氾濫原だったと考古学者は報告していることをお話しました。
そして、今日のテキストでは、11師団がやって来る20世紀初頭まで、現在の市役所から金倉川までは「いかめしき野」の森で、その周辺は荒れ野が続いていたという「証言」を聞きました。壱岐湧水からの用水は四国学院まで、森と荒野を抜けてやってきていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」


金蔵寺条里地図

丸亀市史には、金倉川について「近世に作られた人工河川」という説が載せられています。金倉川は満濃池の用水路整備に合わせて作られた流れで、それまでは「四条川」がまんのう町から善通寺に流れていたというのです。四条川については、以前にもお話ししました。
   今回は旧金倉川を追いかけて見ることにします。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫き下金倉に至り海に入る」
ここからは次のような事が分かります。
A 四条川が 源流の小沼峰 → 帆山→ 岸上 →四条  
 →元吉(櫛梨山)・与北山をめぐり西北流し → 上金倉で東に折れ → 金倉川と離れて土器川に合流する
B 金倉川は満濃池 → 五条 → 金毘羅山下から北流 → 西山 → 櫛梨 → 金蔵寺 → 四条川を貫き下金倉が河口だった。
金倉川 国土地理院

四条川と金倉川は、東の櫛梨山と西の磨臼山の間では、直ぐ近くを併流していたというのです。2本の川が現在の土讃線沿いに並んで流れていたことになります。これをどのように考えればよいのでしょうか?
 グーグルで、2つの川の痕跡を追いかけて見ましょう。
金倉川1 分岐点

琴平と善通寺を一直線に結んで国道319号と土讃線が並立して西側を走っています。国道から東側に少し入った所に四国計測の善通寺工場があります。その裏に現在の②金倉川は流れています。
そして、ここには④の井堰があります。この井堰が堤であったら金倉川は流路を西に取り、③の方向に流れていたはずです。現在の井堰から大麻・生野へ続く用水路を③旧金倉川としておきます。

一方、 象郷小学校方面から流れ出してきた①が旧四条川のようです。現金倉川の合流点から象郷小学校辺りまでの流路は、「大河?」の趣をいまでも感じる風景が続きます。かつての水量の多さがうかがえます。
 ④を開削することで、金倉川はそのまま北に流れ旧四条川に合流することになります。金倉川による旧四条川の乗っ取り(付け替え)工事が行われたことが推測できます。それまでは旧四条川と金倉川は隣接して併流していたことになります。
 金倉川2 大麻

丸亀平野は条里制跡がよく残っていて、グーグル地図を見ても長方形の水田跡が規則正しく並んでいる所が多いようです。さて、大麻から生野町にかけては、どうでしょうか。金倉川と国道319号・土讃線に挟まれた区間は、水田の並びが不整形なのにまず気がつきます。
グーグル地図を最大に拡大して見ると、
四国計測善通寺工場
楠原寺
南部公民館
旧自動車学校(旧池)
大麻郵便局西側
と周囲より一段低い所があるようです。これが②旧金倉川ルートの候補です。明治に作られた四国新道や讃岐鉄道の線路用地の買収について丸亀市史には
旧金倉川の廃川跡地が利用された。そのため用地取得が短期日で終わって工事に着手できた。それは、田畑でなくほとんど荒廃地だったからだ」

という話が紹介されています。確かに、この一帯は旧河川の上だったことがうかがえます。
金倉川旧流路 大麻
大麻町付近の金倉川流路跡(土地利用図)
 
一方、旧四条川は現在の金倉川だったのでしょうか。
どうもそうとは言えないのです。現地に行ってみると、現在の金倉川の西側100mあたりに、かつての堤防跡と思える連なりが畑や未開墾地として残っています。これが旧四条川の堤防だったとしておきましょう。 国土地理院の土地利用図には旧河道跡が載るようになりました。これで四条川の河川跡を追いかけてみましょう。 

  ①の旧四条川は、先ほど指摘したように現在の金倉川の左岸(西)に、かつての流れがあった痕跡があります。くねくねと曲がりながら北上します。これを真っ直ぐに付け替えたのが現在の金倉川のように思えてきます。その結果が、丸亀市史が
「金倉川は人工河川で、人為的に作られた物なので全体に河床が高く、天井川である。そのため、東西から支流がほとんど流れ込まない」

と指摘することになるのでしょう。確かにその通りです。金倉川に流れ込む支流は、ほとんどありません。

 旧金倉川は、土讃線沿いに磨臼山古墳のある山裾にぶつかるように北流していきます。

金倉川4 磨臼山古墳

「土讃線と四国新道は、旧金倉川の荒れ地にあったので買収しやすかった。それが工期の短縮につながった」
という話の通り、土讃線は旧河床沿いに敷かれています。
磨臼山を越えると壱岐の湧水があります。
以前に紹介した「善通寺一円保差図」に、善通寺領の水源地として描かれている出水です。丸亀市史は
「旧金倉川跡沿いに、出水(湧水)が点々と並ぶ」

とも指摘されます。確かに、この北には二頭湧水もあります。かつては、ここが河川跡であった可能性は高いようです。
 それでは、四条川が消されて、金倉川が現在のルートを流れるようになったのは、いつからなのでしょうか。

私は以前に、
「近世の西嶋八兵衛の満濃池の再築の際に、下流地域の農業用水路整備のために障害となる四条川は消されて、新たに金倉川が作られたのではないか」

という仮説をお話ししました。しかし、その仮説には、立ちはだかる「壁」があります。それが善通寺に残る「一円保差図」です。
金倉川5 壱岐湧水

この絵図についても以前に紹介しましたので、詳しくは話しませんが13世紀に作られたもので、当時の善通寺寺領への用水路が描かれています。条里制地割ラインに沿って、東の壱岐と柿股の湧水から導水されていたことが分かります。
 この絵図には金倉川も旧四条川も描かれていません。
つまり13世紀の時点には、河川流路はすでに変更し、壱岐や柿股は出水となっていたということが分かります。ここからは、13世紀には、旧金倉川は流れていなかったということになります。
  しかし「反論」はあります。
 下の地図は、旧練兵場遺跡の弥生時代から古墳時代の地形復元図です。
  かつての練兵場は「旧善通寺国立病院 + 農事試験場」という広大なスペースでした。その西エリアの国立病院の建て替えのために発掘作業が進められました。その結果、ここが弥生時代の善通寺王国のコア施設があったところだということが明らかになってきました。その中で、当時の地形復元も行われています。
金倉川 7旧練兵場遺跡

  西側隅(左)を迂回するように北上するのが旧弘田川です。現在の弘田川とあまり変わりないようです。しかし、現在と大きく違うのは国立病院と農事試験場の間には二本に分流して流れる河川があったということです。
   つまり、現在の看護学校あたりは、「旧河道2」で、宮川製麺所と仙遊寺は微高地の中島で、その背後には「旧河道3」があったようです。旧練兵場遺跡は、遺跡内を複数の自然河川が流れて、その間に微髙地がぽつりぽつりと島のように出ていたという情景になるようです。それをイラスト化すると下のようになるようです。
金倉川 8旧練兵場イラスト

   それでは、この「旧河道2・3」はどこから流れてきていたのでしょうか?
復元図は仙遊町の郵便局辺りでプツンと切れています。それはそうでしょう。ここからは発掘調査が行われていないのですから、書くことはできません。
周辺の遺跡報告書を見てみると、四国学院の図書館建設に伴う調査報告書に次のような記述がありました。

この付近(四国学院キャンパス)は旧金倉川の氾濫原西側の微高地上にあたり、生野本町遺跡や生野南口遺跡などの遺跡が連続する場所である。現在の地表面で標高は約31mを測る。北西約500mに立地する善通寺旧境内よりも約5m高い。
 遺跡の東端には、旧金倉川から派生する大規模な旧河道が存在することが判明しており、四国学院敷地内で収束する。四国学院敷地東側の市道には現在も暗渠にされた溝が流れている。遺跡の西側は、調査がなされていないため詳細は不明であるが、現在も学校敷地と西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1.5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れている。おそらくこの河川が遺跡の西端を示していると想像できる。

ここからは次のような事が分かります。
①四国学院の東側は「旧金倉川の大規模な河道があり氾濫原」だった。
② 西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1,5mの高低差があり、川が流れていた。
③この東西の川に挟まれた微髙地に四国学院大学遺跡はある。
そして、この微髙地は南の「生野本町遺跡 → 生野南口遺跡」へと続いていきます。これらは多度郡の郡衙跡と考えられる重要な遺跡です。
DSC01741

善通寺王国の中枢が律令期には旧練兵場跡東部から生野本町周辺に移動してきたことがうかがえます。そして、以前にお話ししたように、四国学院のキャンパスに向かって東から南海道が伸びて来ていたことを考古学の成果は教えてくれます。 
金倉川 善通寺遺跡分布図

 四国学院の東側は壱岐湧水から善通寺東中学校のラインで伸びる「旧金倉川の氾濫原」だったようですが、その痕跡はグーグルでは分かりません。ただ、旧金倉川は磨臼山の麓付近で、不自然な曲がり方をしています。ここで流路が人工的に変更された可能性もあるように思えます。それを行ったのが、磨臼山古墳に眠る善通寺王国の首長ではなかったのかと、私は「妄想」しています。

  もうひとつは、尽誠学園付近で現金倉川は流れを東に少し振ります。
金倉川旧流路 与北町付近
金倉川旧流路 尽誠高校から真北に旧流路が見える

ここからは金倉川(旧四条川)が尽誠学園の東側で、大きく東に流れを変えていた痕跡が見えます。その線上に二頭湧水もあります。流路は変更されても地下水脈は、今も昔のままで流れ続けているようです。そしてこの流れは市役所前を通って、神櫛神社方面に伸びています。
  それでは、いつごろまで金倉川の氾濫原は善通寺旧市街の東部を覆っていたのでしょうか?
もう一度「練兵場遺跡調査報告書Ⅰ」を見てみましょう。
報告書には、古墳時代中期から終末期には、住居跡や建物跡のような居住遺構が全くなくなったことを報告しています。そして、周辺の旧河川の堆積作用が間断なく続いたとします。この時期は、集落がなくなり微髙地の周りの湿地堆積が進んだようです。そして旧練兵場跡を流れていた川が完全に埋まってしまった時期が、奈良時代になるようです。報告書には、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期(奈良時代)までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

として、凹地の堆積作用が進み、微髙地の高さとほぼ一緒になり、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んだ6~7世紀は、利用困難な低地として放棄されたようです。それが、8世紀の奈良時代になって平坦地になります。その結果、農耕地としての再利用が始まると研究者は考えているようです。さらに肥沃な土砂が河によってもたらされたことも、水田などへの変化の要因の一つに挙げられます。そして、奈良時代になると労働力の組織が可能になり、このエリアでも、条里制に基づく規則的な土地開発が行われていくことになります。その主役は、佐伯氏だったとしておきましょう。
  つまり、8世紀までには旧練兵場周辺での旧金倉川の堆積作用は終わったようです。その上流の四国学院の東側の氾濫原でも、同じだったのではないのでしょうか。

この図は土器川の今までの流路変更をしめしたものです。
金倉川 土器川流路変遷図
土器川は短く急流な川で、まんのう町炭所西常包付近から河口にかけて沖積扇状地となっています。洪水の度に大量の土砂が堆積して河床を上昇させたために、河道の変遷が激しかったようです。
 まんのう町木ノ崎で山間部を抜け出した土器川は、最初は
①の木ノ崎→五条→櫛梨→下吉田→庄を流れていたようです。
  地質学者によると土器川は、西方にある基盤岩の低い部分へ向かって流れていたものが、堆積作用で流域が隆起すると、低地を求めて流出先を東へ東へと段階的に移動させて行ったと云います。

 一番東まで行ったのは④の滝ノ鼻から大束川のコースだったようです。現在の位置へと流れを変えたのは、「和名類聚抄(和名抄)」(931~938年)の記録による地名から推定すると、約千年年ほど前と研究者は考えているようです。
 この流路変更図を最初に見たときには、ショックを受けました。
ゆく河の流れは絶えずして/方丈記/鴨長明/独断でおすすめの1冊

「ゆく川の流れは絶えずして・・」ですが、「ゆく川の流れは・・」は変化し続けて来たのです。
  土器川が堆積作用で流路変更した後を、旧金倉川はさらに堆積作用を勧め奈良時代には、善通寺周辺の土地の「平坦地化」をもたらしたようです。この調査報告書は
6世紀~7世紀に旧練兵場遺跡の旧河道でも堆積作用が進んだ

としています。ということは、古墳時代後期まで善通寺東部は氾濫原だったことになります。磨臼山古墳の首長が金倉川の流路変更を行ったという私の仮説は、「妄想」に終わりそうです。

とりとめもない妄想に最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
旧練兵場遺跡調査報告書Ⅰ 2009年
四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年
丸亀市史
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3村上武吉水軍43
前回は村上水軍の領主達の末裔を追いかけました。
今回は、その下の武将や下級水夫層の行く末を探ってみようと思います。
 天下を取った秀吉が、海賊禁止令を破った能島村上に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞんだことを前回はお話しました。能島水軍の水城は焼き払われ、首領の武吉は瀬戸内海から引き離されるように九州小倉に連れて行かれます。海賊達は「失業」し、ばらばらになります。警固衆として雇い入れていた多くの大名たちも秀吉の威光を恐れて、海賊衆をリストラし見捨てます。ここに能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に「企業解体」させらたのです。そして村上衆の離散が始まるのです。
そんな中で村上水軍に属していた一族が、讃岐に、「亡命」してきます。
江戸時代の葛原村の庄屋に成長する木谷家です。その子孫である名古屋大学の歴史教授が、その後の木谷家の歩みを本にまとめています。
3村上水軍木谷家3

以前にも紹介しましたが、ここでは木谷家の「讃岐移住」に絞って見ていこうと思います。
 木谷家の「讃岐移住」は天正15(1588)年の「刀狩り・海賊禁止令」前後と伝わっているようです。当時は、秀吉の天下統一が着々と進むなかで、海賊への取締りが強まる時期でした。その時代の流れをひしひしと感じ、将来への不安が高まったのかもしれません。特に能島を拠点にする村上武吉の配下の有力武将は、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く、金倉川の氾濫で荒野となっている多度津葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然ではありません。
それでは、なぜ移住先に多度津を選んだのでしょうか?
 木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないかと私は考えています。
  第1の仮説は、戦争による木谷家武士団の讃岐遠征の経験です。
毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(1577)、讃岐の香川氏(天霧山城主)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあった。
 同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた

 この戦いを「元吉合戦」と呼んでいますが、背景には石山合戦があります。
当時の毛利方の戦略課題は石山本願寺支援のために、瀬戸内海支援ルートを確保することでした。そのために、織田と結ぶ三好勢力を讃岐から排除する必要があったと研究者は考えているようです。
 
3櫛梨城
ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは調査の結果、大規模な中世城郭跡が発見され、これが本吉合戦の舞台となった城であることが分かってきました。この時期に、毛利の大規模な讃岐侵攻作戦が行われていたのです。

3 櫛梨より
櫛梨山から善通寺方面をのぞむ 本吉合戦の舞台 
 注目したいのは次の二点です
①毛利方が小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくった
②毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた
 遠征軍の中に村上水軍の部隊があります。そして、戦後に一部兵力を残して引き上げています。この中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・
どちらにしても、木谷家には、多度津周辺についての情報があったと思います。金倉川流域の荒れた土地を眺めながら、ここを水田にすれば素晴らしい耕地になると思った先祖がいたと想像します。同時に、讃岐側の有力者との人間関係ができたのかもしれません。

3 葛原八幡神社3
葛原八幡の大楠
  第2の仮説の手がかりは、移住を行った1588年という年です。
その前年に、秀吉が讃岐領主に任じたのが生駒親正です。親正は讃岐にやって来る前は、播州赤穂の領主で対毛利攻略の要員として備前・備中を転戦していました。その過程で、生駒家の家臣団の誰かと親密になったという筋書きは考えられます。知行制の行われていた生駒藩で、金倉川流域に知行地を持つ有力武将をたよって讃岐にやってきたというのが第二の仮説です。いつもの通り、裏付け史料はありません。

3 葛原八幡神社4
 
木谷一族が庄屋に成長していった背景は何か?
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれいた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪族あるいは豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。特に目覚ましかったのが北條木谷家です、
年表で追うと
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 西嶋八兵衛が廃池になっていた満濃池の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、棟札に施主・木屋(木谷)弥三兵衛の名あり
以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、庄屋をつとめることになります。

3 葛原 金倉川
生駒藩の「旧金倉川総合開発プロジェクト」
『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の前に、事前の用水整備工事の一貫として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったことが記されています。その結果、流路の変わった金倉川の旧流路跡が水田開発エリアになります。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が築造されます。これらの開発・灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍したのが木谷家の先祖ではなかったのでしょうか。
ちなみに、当時は生駒藩の時代で大干ばつに襲われた後の復興が、藤堂高虎の指示の下に急ピッチで行われていました。その責任者が藤堂家から生駒家監督のために派遣されていた西嶋八兵衛です。かれが短期間の内に、満濃池をはじめ60あまりの大池を築造していた時期です。
3 葛原 千代池pg
木谷家が改修を行った千代池
生駒藩は「新田は開発者のもの」と新田開発を後押しします。
この時期に新田開発を行った家が庄屋となっている場合が、土器川や金倉川流域では多いように思います。木谷家もそのような生駒藩の「金倉川総合開発プロジェクト」を推進する旗頭として、多くの新田を手にしたのでしょう。1670年には、葛原村に八幡本宮が建立されますが、これは「金倉川総合開発」の成就モニュメントだったと私は考えています。

3 葛原八幡神社
葛原八幡神社
以上をまとめておきましょう。
①海賊禁止令が秀吉によって出された辱後に、村上水軍の木谷家の2軒が讃岐に移住してきた。
②彼らは「元安合戦」か「生駒氏」を通じて、金倉川流域について事前知識をもっていた。
③生駒藩の新田開発・ため池築造事業に乗じて、金倉川流域の葛原地区の新田開発を行った。
④その結果、短期間に有力者になり村の庄屋を務めるまでになった。

 芸予諸島で村上武吉のもとで海賊稼業を務めていた一族が、中世からの近世への激動の中で、讃岐に新天地を求め帰農し、新田開発を行い庄屋へと成長していくストーリーでした。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」

岸の上遺跡 那珂郡条里制

丸亀平野を南北に流れる金倉川については「近世に作られた人工河川」説が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでしょうか。いろいろな角度から検討してみましょう。テキストは「新修丸亀市史1 383P 四条川と金倉川」です。

丸亀平野北部 条里制

金倉川=人工河川説の「状況証拠」として、丸亀市史1(383P~)は次のような点を挙げています。

四条川=金倉川説1
金倉川=近世の人工河川説の根拠

①全体に河床が高く、天井川であるから、東西からほとんど支流が流れ込まない。
②竜川橋・五条橋付近では、川床から粘土が出ている。
発掘調査の時、金倉川左岸堤防の近くまで発掘したが上層は厚い粘土層であった。このことは少なくとも往古からの自然河川ではないという証明である。
③中津町の金倉川左岸堤防工事の時に、川底より砂岩の五輪塔二基と楠三本が出土した。川底がかつては平地であったということを物語っている
④金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川では、境界となることが多い。
⑤河口に形成された州が、旧金倉川のそれに比べて極端に小さい。万象園付近一帯だけである。川の歴史の浅いことを示している。
⑥金倉川沿いには、遺跡らしいものが存在しない。近世になって新しく作られた河川であるため、周辺部に遺跡がない
⑦川床幅が小さい。
以上のような状況証拠の積み重ねで「人工河川」説を補強します。

それでは、金倉川はどの位置で付け替えられたのでしょうか?

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

  その位置を丸亀市史はまんのう町吉野の①吉井橋(パン屋さんのカレンズ周辺)とします。満濃池の谷から流れ出し、北上していた流れを、ここで西流させ現在の金倉川の流れに改変したとします。ここは現在でも「水戸(みと)」と呼ばれています。

DSC04906
まんのう町吉野の「水戸」の現在の姿
満濃池水戸(みと)

改変される前の流れは、どう流れていたのでしょうか?
「丸亀市史」は改変前の北上する流れは、満濃町役場前から四条・天皇を経て高篠大分木に至り、ここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、象郷小学校から上櫛梨の木の井橋の南へと流れていたと記します。そして、この川を「四条川」と呼びます。
金倉川 国土地理院

   本当に四条川はあったのでしょうか?
『全讃史』に、四条川のことが次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す、
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
と記述されています。四条川は確かに実在したようです。しかし、流路はなかなか想像しずらいものがあります。
さらに四条川実在の論拠として、以下のような点を挙げます。
①この付近の「四条川跡」には多くの湧井が存在すること。
②善通寺大麻町の香川西部ヤクルト販売株式会社の東北に、琴平町内を北流してきた川と合流して西北流する四条川の左岸の一部が残っていること。

金倉川1 分岐点

③四条川の水量は多く、治水が容易でなく常に氾濫を繰り返していた。伝承として「明治中期起工の四国新道や讃岐鉄道の軌道敷も、四条川の廃川跡地が利用された。両者とも、用地取得が短期日で終わって工事に着手できたことは、田畑でなかった、当時はまだほとんど荒廃地だったからだ」と伝わっている。
 以上から、四条川の中流域は現JR線路と国道319号になっているようです。

金倉川3 大麻郵便局 

⑤四国横断自動車道建設にともなう発掘調査でも、JR土讃線と国道三一九号線の間では表土直下に河川堆積物の礫混じりの砂層が出てきて、四条川が氾濫を繰り返していたようです。そのため、稲木遺跡以東の、現金倉川に至るまでは、条里制跡が認めらません。これは大麻町以北の四条川右岸から、現金倉川に至るすべての地域も同じです。坂出市の鎌田博物館蔵の近世の絵図でも、磨臼山の北東を「イカノ川原」と表記しています。つまり、四条川の氾濫原で条里制施行外だっと考えられます。

金倉川1 分岐点

四条川の下流域ルートは?

旧金倉川河口跡2

旧金蔵川流路跡(四条川) 新修丸亀市史390P
多度津には、金陵多度津工場があります。ここはかつて、ここを流れていた四条川の豊富な伏流水を使った酒造りが行われています。四条川はここで、流れを大きく東へ向けます。丸亀市民体育館の西方の金倉町上下所の高丸や、新田町の高丸、津森町高丸は、四条川の氾濫による砂傑の堆積地のようです。
 さらに四条川は市民体育館の西で北に流れを変えて先代池を斜め縦断して市道中津・田村線に出ます。先代池や平池は四条川が廃棄された跡の流路を利用して、築造されます。

丸亀の海岸線 旧流域図3
「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」

四条川は田村町番神に向かって流れ、ここから北に流れを変えます。丸亀城西高校の正門前に堀が残りますが、四条川の川跡とされます。そして、津森町内を北流して津森天神社の北東200mの津森町宮浦で海に注いでいました。ここが四条川の河口でした。ここが『万葉集巻二』の柿本人麻呂の詠んだ有名な「玉藻よし讃岐国は国柄か」の枕詞ではじまる長歌の中に出てくる中乃水門とされます。現在の津森町の地名も、ここに設けられた津守に由来します。

田村廃寺周辺地質津

金陵多度津工場から河口まで四条川は、多くの支流を生みだし、旧六郷村域では氾濫常習地帯だったようです。そのため氾濫地帯の大部分は荒廃地として開拓の鍬が入りませんでした。ここが開拓されるのは、四条川が金倉川に一本化された17世紀初冬以後です。

丸亀平野北部 条里制

ちなみに中世に満濃池は、姿を消していました。
大規模な労働力を組織化できた律令時代は、大規模土木工事が可能でした。しかし、権力の分立した中世は多くの労働力を集めることができません。そのため満濃池は、堤防が壊れ放置され、「池の内」村が「開拓」されていました。このため「満濃池の治水」能力がなくなり、下流域では洪水が常習化し、河口の堆積作用も大きかったようです。こうして四条川河口には潟湖が形成され、多度郡の湊として機能するようになります。その海運センターの役割をしたのが道隆寺だったようです。
道隆寺の果たした役割については、以前に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48396077.html

丸亀平野の扇状地

大麻町以北の四条川の廃川後の開拓地を列記すると、
 
右岸(東側)では、
善通寺市大麻町本村の東北部・中土居・砂古東・生野町南原・原・遊塚の東部・上吉田町上原・寝馬・稲木町川原・下川原・金蔵寺町下所・六条
左岸(西側)では、
丸亀市原田町三分一下川・金倉町上新田・池の下・下新田・朧朧新田・新田町橋本・長池・今津町皿池・中原・津森町上拾丁分・下拾丁分・位
などです。
 また、先ほど見た先代池のように四条川に水が流れなくなった跡に、その流路を利用して、ため池が数多く築造されていきます。
金倉町に辺池・新池・平池・先代池・瓢池・天満池などです。
多度津町では、千代池・買田池・上池が、これにあたります。

平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

四条川の付け替え工事は、いつ、だれによって行われたのか
丸亀市史は「西島八兵衛由緒書控」中の次の記述に注目します。
精を出し国を被立候へと被仰付寛永二丑ノ春讃岐へ被遣候、(中略)中年三年罷有仕置仕候国も能成候とて、高虎様御機嫌二被為思召、寛永六年二江戸へ御呼かへし被成(以下略)
西島八兵衛の寛永二年の二度目の来讃は、干ばつで疲弊した讃岐国を立て直すためであったようす。領内を巡視して実情をつぶさに調査して、具体策を練っています。その上で翌年に8月に、まんのう町の有力者である矢原正直を訪ねます。

満濃池 決壊後の満濃池
西嶋八兵衛の築造前の満濃池堰堤周辺の状況図

 これは丸亀平野の治水事業を実行に移すため相談に訪れたものと思われます。そして、満濃池の再築に着手したのが寛永五年十月、二年半を費やして完成したとされます。
満濃池再築に着する前に、事前工事として四条川の流れを廃して、金倉川の流れ一本にする付け替え・改修を行ったと丸亀市史は推定します。
最後に、この工事は何のために行われたのでしょうか。

満濃池水掛村ノ図(1870年)

これについては丸亀市史は、何も語りません。
あえて推察するなら満濃池築造後の水路網の建設と関連するのではないでしょうか。現在の満濃池の水掛かりは、上の絵図のように人間の血管網のように細部まで整備されています。しかし、四条川の複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難だったと思われます。満濃池灌漑ネットワーク整備のために、四条川は金倉川に一本化・直線化され、最短ルートで海に抜けるようにされたのではないでしょうか。

丸亀平野 等高線地図
 地図で、多度津の千代池を見ているとその不思議な形から、川の流路に作られた池だろうなとは思っていました。しかし、それが、いつごろまで流れていた池かは分かりませんでした。丸亀市史を読み直していて改めて、気がついたのです。
丸亀市史に感謝

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