瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:丸亀平野開拓史 > 大束川流域

土器川の流路変遷を研究者は次のように考えています。

金倉川 土器川流路変遷図
土器川は、台風などの洪水時にはまんのう町の長炭付近で平野に出ると、暴れ龍となって次のように幾筋も分かれて瀬戸内海に流れ落ちたようです。
①は、一番西側の紫ルートで金倉川や弘田川の流域を経て白方方面へ
②は、櫛梨山をまわりこんで生野・与北町から現在の河口方面へ
③は、祓川橋付近から垂水から八丈池→金丸池→道池を経て現在の河口へ
④は、小川・法勲寺から大束川に流れ込んで川津・宇多津方面へ
④の破線は、長尾・打越を抜けて岡田台地を下って、大窪池から大束川へ
この中で④破線の流路(長尾→打越→岡田→大窪池)については、分かりやすい史料が手元にありませんでした。そんな中で「今昔マップ」で遊んでいると、「傾斜量図」という機能があるのを見つけました。この機能で描かれた地図で④の旧流路を追いかけて見ることにします。まず現在の打越池周辺の地形を押さえておきます。

土器川旧流路 長尾から打越
         まんのう町長尾・佐岡附近の土器川 左が現在、右が傾斜量図
現在の土器川は、打越の南側を流れています。しかし、土地利用図でみてみると

土器川 旧河道(打越峠周辺)
           土器川の旧河道跡 長尾 → 打越 → 岡田  (土地利用図)
土地利用図を見ると、長尾から打越に向けての旧流路跡が残っています。
ここからは、旧土器川は打越峠の下を岡田方面に流れていたことが分かります。
現在でも長炭の亀越池に蓄えられた用水は土器川に落とされ、長尾で取り込まれて打越池にストックされて、岡田台地の仁池や大窪池に配水されています。ここでは土器川は打越峠を浸食し、ここを流路としていたことを押さえておきます。 打越池周辺を今昔マップで拡大してみます。

打越峠
今昔マップ 左が明治39年測量図 右が傾斜量図
傾斜量図からは、打越峠の西側が一段低くなっていて、用水路が通過しています。先ほど見た土器川の浸食作用で、ここが切り開かれたようです。
次に打越池を超えた土器川は、どうなったのでしょうか。研究者は次のように記します。

岡田・上法勲寺断層

岡田台地は丸亀市飯山町から綾歌町にかけての土器川右岸にある台地で、①約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地です。②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖とされますが、崖そのものは南東から北西に流れた③古綾川によって浸食された段丘崖です。断層はその北側の平野に伏在している可能性があります。

要点をまとめると
①岡田台地は約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地
②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖
③その崖を古綾川が浸食した段丘崖
以上を言い換えると岡田台地は、土器川の堆積で出来た扇状地に「東西圧縮」の力が加わり、南北にいくつもの尾根が走る台地になったようです。その時に形成された台地を「古綾川」が浸食して、それが現在の段丘崖だというのです。それを地図で見ておきます。

土器川と綾川の旧流路
①が土器川の旧流路
②が綾川の旧流路(古綾川)
③旧土器川も、古綾川も、現在の大束川に流れ込んでいた
④旧土器川の扇状地である岡田台地が上図の茶色部分
⑤その台地の北側を②の綾川が侵食し、段丘崖が南東から北西に形成された

②の羽床の古綾川の屈曲点を見ておきましょう。
綾川シラガ渕
綾川の羽床での流路変更について
①南西から北西に流れてきた綾川は、堤山の北の「しらが渕」で東に大きく流れを変えて滝宮方面に向かう。
②しかし、かつては堤山と快天塚古墳の間を西に流れ、富熊を経て大束川流域に流れ込んでいた。
③近世には、渡池(斜線部)が綾川から取水して、富熊方面に供給していた。
旧土器川の扇状地だった岡田エリアが「東西圧縮」を受けて台地となります。そこを土器川はどんなルートで流れたのでしょうか。
土器川 旧河道(打越峠から大窪池)
打越池から大窪池への土器川の旧河道
土地条件図を見ると、打越池から大窪池には旧土器川の侵食によって出来た旧河道が今も残っています。その河道跡に近世になって、いくつもの溜池が造られています。段丘崖の末端部に作られた大窪池と仁池は、その中で最大のものになります。

大窪池から法勲寺 土地条件図
             旧土器川流路 大窪池から法勲寺周辺
旧土器川の流路は、大きく窪んでいました。そこに近世になって造られた溜池は大窪池と名付けられます。この辺りは流路が変更してからも、出水が湧きだしていて農業用水の水源地でした。ここからの用水を利用しながら法勲寺周辺の古代の開発は進められたと私は考えています。

大束川旧流路(旧土器川の流れ込み)
                    旧土器川の流路跡
大束川・飯山の古代遺跡


 飯野山の南側エリアには、旧土器川と古綾川が流れ込んで、遊水地となっていたことが考えられます。
この状態が、いつまで続いたかは分かりませんが、弥生時代に稲作が始まった頃は、低地部の周辺の微高地に住居を造って生活していたようですが、これも洪水が来れば流されています不安定なものだったのかもしれません。
古墳時代後期になると、集落遺跡の立地に変化が出てきます。
岸の上遺跡や名遺跡など大束川低地の中央の旧河道近くの微高地上で、竪穴建物や総柱建物が姿を見せるようになります。名遺跡からは古代の自然流路と水田跡が出てきて、微高地の上に集落を作って、その周辺の低地を水田として開発したことがうかがえます。低地への進出が始まります。

白村江敗北後から壬申の乱にかけての7世紀後半頃になると、岸の上遺跡には大型掘立柱建物群を持つ郡衙的施設が現れます。
8世紀前半頃には、この施設に沿って南海道が伸びてきます。そして、郡衙周辺には条里型地割が進められていきます。この時期は「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」と、大規模な土木工事が行われた時期になります。鵜足郡の郡司は、このような古代国家の求める土木工事を担当・遂行することで権益を確保していったのでしょう。 沖遺跡周辺では、大型掘立柱建物群が東原遺跡や遠田遺跡などから見つかっています。岡田台地上の開発が活発化していく様子がうかがえます。また、沖遺跡南方に近接する沖南遺跡からは、法勲寺と同文の軒瓦や多くの輸入陶磁器類が出土しています。ここに氏寺としての法勲寺を建立した鵜足郡の住居があったことが考えられます。それを敢えて予想するなら神櫛王伝説の主人公である古代の綾氏が浮かんできます。坂出の福江を拠点に、大束川沿いに内陸部に勢力を伸ばしてきた綾氏の活動とダブらせておきます。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

以上をまとめておきます。
①旧土器川は打越峠を浸食し、その北側に扇状地を形成した。
②扇状地はプレートの東西圧縮により岡田台地となった。
③岡田台地の北側の先端を「古綾川」が浸食し、段丘崖を形成した。
④土器川・綾川は、どちらも大束川に流れ込んで、飯野山の南側の低地を遊水地化した。
⑤流路が変更されると、遊水地は河床平地となり、弥生人が定住するようになった。
⑥しかし、台風などの洪水時には微高地の住居は流され、生活は不安定であった。
⑦白村江敗北後の7世紀後半になると、「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」を進める勢力が現れ、開発が進められた。
⑧これを進めたのが古代の綾氏の一族で、古代寺院の法勲寺などを氏寺として造営した。

綾氏と法勲寺開発

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 今昔マップ
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.192724&lng=133.866477&zoom=15&dataset=takamatsu&age=5&screen=2&scr1tile=k_LCM25K&scr2tile=slopemap&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2



埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
IMG_6608

説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

IMG_6606
IMG_6607
飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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讃岐の武将達 飯山町法勲寺に地頭としてやってきた関東の御家人は?

  

DSC08058
土器川から仰ぐ飯野山
前々回は、丸亀平野の高速道路工事前の発掘調査で出てきた条里制地割に関係した「溝」を見てみました。そこからは「溝」が7世紀末に掘られたものであり、そこから丸亀平野の条里制地割施行を7世紀末とすることが定説となっていることを押さえました。
前回は、弥生時代の溝(灌漑用水路)を見ることで、弥生時代後期には灌漑用の基幹的用水路が登場し、それが条里制施行期まで継続して使用されていたことを押さえました。そこには、灌漑用水路に関しては、大きな技術的な革新がなかったことが分かりました。そういう意味では、丸亀平野の条里制跡では、すべてのエリアに用水を供給するような灌漑能力はなく、従って放置されたままの広大な未開発エリアが残っていたことがうかがえます。大規模な灌漑用水路が開かれて、丸亀平野全体に条里制施行が拡大していくのは、平安末期になってからのようです。
飯山町 秋常遺跡航空写真
秋常遺跡周辺の航空写真(1961年)


 さて、今回も「溝」を追いかけます。今回は大束川沿いに掘られていた大溝(基幹的用水路)が、飯山町の東坂元秋常遺跡で見つかっています。この大溝がいつ掘られたのか、その果たした役割が何だったのかを見ていくことにします。テキストは「 国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年」です。
飯山 秋常遺跡地質概念図
大束川流域の地形分類略図

東坂元秋常遺跡は、飯野山南東の裾部に位置します。大束川河口より5㎞程遡った左岸(西側)にあたります。遺跡の北西は飯野山で、東側を大束川が蛇行しながら川津方面に流れ下って行きます。この川は綾川に河川争奪される前までは、羽床から上部を上流部としていた時代があったようです。また、土器川からの流入を受けていた時もあったようで、その時代には流量も多かったはずです。また、大束川は流路方向が周辺の条里型地割に合致しているので、人工的に流路が固定された可能性があると研究者は指摘します。
このエリアの遺跡として、まず挙げられるのは、白鳳期の法勲寺跡で、この遺跡の南約2㎞にあります。

法勲寺跡
法勲寺跡

大束川中・上流域を統括した豪族の氏寺と考えられています。この寺院の瓦を焼いた窯が、東坂元瓦山で見つかっいますが、詳細は不明です。また平地部には、西に30度振れた方位をとる条里型地割りが残ります。法勲寺は、主軸線が真北方向なので、7世紀末に施行された周囲の条里型地割りとは斜交します。ここからは、条里型地割り施行よりも早く、法勲寺は建立されていたと研究者は考えています。

飯野山の南側エリアは、国道バイパスの建設が南へと伸びるに従って、発掘調査地点も増えました。
  飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきていることは、以前にお話ししました。
「倉庫群が出てきたら郡衙と思え」と云われるので、鵜足郡の郡衙の可能性があります。同時に岸の上遺跡からは、南海道に附属すると考えられる溝跡もでてきました。こうなるとこの地域には、「鵜足郡郡衙 + 南海道 + 古代寺院の法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。

岸の上遺跡 イラスト
古代法勲寺周辺の想像図 

さて、前置きが長くなりましたが秋常遺跡から出てきた「大溝SD01」を見てみましょう。
飯山 秋常遺跡概念図
東坂本秋常遺跡は、旧国道とバイパスの分岐点近くにあった遺跡です。東を流れる大束川の段丘崖の上にあったことが分かります。

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路
大溝(SD01)は、古代の基幹的用水路
SD01は、延長約90mでA地区尾根端部の南縁辺を回り込むように開削されています。A2区屈曲部付近でSD02が、B-1区南端部でSD03がそれぞれ合流して、ゆるやかに北に流れていきます。
飯山町 秋常遺跡変遷図1
大溝(SD01)の変遷図

 流路SD01は、頻繁に改修された痕跡があり、長期にわたって利用された幹線水路のようです。8世紀後葉までには開削されたようで、完新世段丘が形成される11世紀代になると廃棄されています。SD01の脇には、現在は上井用水が通水しています。SD01廃絶後は、土井用水に付け替えられた可能性を研究者は指摘します。

大束川流域の古代の幹線水路は、以前に紹介した下川津遺跡や川津中塚遺跡があります。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路


その中で大束川流域の水路の中では、最も大型の水路になるようです。このエリアの開発を考える上で、重要な資料となります。
同じような幹線水路は、川津川西遺跡や東坂元三ノ池遺跡にもあります。
川津川西遺跡は、飯野山北東麓の集落遺跡で、調査区中央部で南北方向に流れる幹線水路SD135が出てきました。SD135は、N60°W前後の流路主軸で、直線状な水路です。調査区内で延長約38mが確認され、幅3,5~4,3m、深さ1.3~1.4m、断面形は逆台形状で、東坂元秋常遺跡SD01とよく似た規模です。底面の標高は9m前後で、標高差から北に流下していたようです。
 報告書では、出土遺物から8世紀後半~9世紀前半代の開削、13世紀代の埋没が示されていますが、開削時期はより遡る可能性があるようです。
東坂元三の池遺跡は、飯野山東麓の裾部の緩斜面地上に広がります。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡
東坂元三の池遺跡
この南部段丘Ⅰ面からは等高線に平行して掘られた幹線水路SD30が出ています。流路方向N43°Eの流路主軸で、ほぼ直線状に掘られた幹線水路です。調査区内で延長約13mが確認され、面幅2.4m、深0,9m、断面形は逆台形状です。埋土からは数度の改修痕跡が確認できます。溝の規模や性格から古代以降の開削のものと研究者は考えているようです。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡2
         東坂元三の池遺跡の古代水路

 周辺の各水路は8世紀後半には埋没が進行し、灌漑水路としての機能が低下しつつあったようです。開削時期については、8世紀中葉以前に遡り、廃絶時期は11世紀前後で、時期も共通します。
東坂元秋常遺跡から出てきたSD01と、今見てきた水路の位置関係を表示したのが第70図です。
飯山町 秋常遺跡 大溝用水路1

この図からは、各水路は飯野山東麓の段丘縁辺をめぐるように開削され、つながっていた可能性が出てきます。そして規模や埋土の堆積状況などもよく似ています。また使用されていた期間も共通します。これらの事実から、3つの遺跡は、3~5 km離れていますが、もともとは一本の水路で結ばれていた研究者は推測します。
 そして東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に沿うように、現在は上井用水が流下しています。これを古代水路の機能が、今は上井用水に引き継がれている証拠と研究者は推察します。以上の上に、川津川西遺跡SD135を含めた3遺跡の幹線水路を「古上井用水」と一括して呼びます。

一本の灌漑水路であったとすると、その用水の供給先はどこだったのでしょうか?
飯野山東麓は、耕地となる平地が狭くて、大規模水路を建設しても、それに見合うだけの収量が期待できるエリアではありません。大規模な用水路を掘って、水田開発を行うとすれば、それは大束川下流西岸の川津地区だと研究者は考えます。
大束川下流エリアを見ておきましょう。
この地区は、バイパス+高速道路+インターチェンジ+ジャンクションなどの建設工事のために、大規模な発掘調査が行われています。そして、津東山田遺跡I区SD01、川津中塚遺跡SD Ⅱ 38、川津元結木遺跡SD10などで大型水路が確認されています。そして、それぞれに改修痕跡が見つかっていて、長期に渡って継続使用されたことが分かります。これらの水路も幹線水路として機能していたのでしょう。水路の開削時期は、9世紀頃までには開削され、11世紀頃には水路としての機能が衰退していたと研究者は考えています。こうした調査例より灌漑水路網が、遅くとも9世紀までには川津地区に整備されていたことがうかがえます。旧上井用水も、「古代川津地区総合開発計画」の一環として開かれたとしておきましょう。
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

現状水路との関係
①東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に隣接して上井用水
②川津川西遺跡SD135に近接して西又用水
が、現在は灌漑用水として機能しています

文献史料で、現行水路との関係について見ておきましょう。
上井用水は、大窪池を取水源としています。大窪池がいつ築造されたかについては、根本史料はないようです。ただ、堤防にある記念碑には、高松藩士矢延平六が正保年間(1644~1648)が増築したことが記されているので、17世紀前葉以前に築池されていたと考えられます。
 また宝暦5年(1755)に高松藩が水利施設の調査を行った際に、鵜足郡内の結果をまとめた「鵜足郡村々池帳」には、大窪池の水掛り高は3,011石で、上法軍寺村以下、東坂元秋常遺跡周辺の東坂本村などへ通水されていたことが記されています。(飯山町編1988)、このなかに上井用水の通水域は、含まれていたのでしょう。上井用水は現在は、元秋常遺跡南部で用水の大部分を大束川へ落とし、一部が東坂元秋常遺跡東辺を北流して、東坂三の池遺跡東部で西又用水へ流入しています。
西又用水は、大束川本流より直接取水しています。
用水路で、西又横井より取水し、川津地区の灌漑に利用されています。西又横井の構築時期もよく分かりません。比較のために大束川に設置された他の横井について、その構築時期を見てみると、天保7年(1836 )に、通賢が築造した坂本横井が、もっとも古い例になるようです(飯山町1988)。横井築造の技術的な問題からの築造時期は、江戸中期以降と研究者は考えています。こうすると西又用水は、江戸前半期までに上井用水の延長部として整備されていたが、西又横井の構築により再整備されたものと考えられまする。
 上井用水の開削時期は17世紀前葉以前に遡り、飯野山南部の大束川西岸平地部を主要な灌漑域とする用水路であり、その一部は川津地区へ給水されていたとします。
 このように、大窪池築造という広域的な灌漑用水路網の整備が、17世紀前葉以前に遡る可能性を研究者は指摘します。そして、下流で行われた沼池増築や横井構築といった近世の開発は、新たな土木技術の導入や労働編成による、その量的拡大であったとします。
 そして、古代の古上井用水は、11世紀段階の埋没・機能停止を契機として、中世段階に上井用水へと切り替えられ継続された結果と考えているようです。
では、古上井用水の取水源は、どこなのでしょうか?

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路3
この点で注目されるのが法勲寺です。法熟寺は、大窪池がある開析谷の開田部付近の微高地上に位置します。この寺は鵜足郡内唯一の白鳳期寺院で、郡領氏族であるとされる綾氏の氏寺として創建されたとされます。また大窪池から取水する現在の用水路は、法勲寺の西を北流して上井用水へとつながります。さらに大窪池の北西部の台地上にある東原遺跡は、7世紀中葉~奈良時代の大形掘立柱建物群が出てきていて、有力集団の居宅とされます。さらに谷部東方の台地上にある遠田遺跡からも、奈良時代の大形掘立柱建物が出てきています。
ここからは法勲寺を中心としたエリアが、古代において計画的・広域的に開発されたことが推測されます。
つまり、白村江から藤原京時代にかけての7世紀中葉から8世紀代にかけて、大窪池周辺では郡司層(綾氏?)による大規模開発が行われたと研究者は指摘します。
飯山町 秋常遺跡 土地利用図
法勲寺周辺の旧河川跡 土器川からの流路が見られる

 その一環として大窪池築池と灌漑用水路網の整備がなされたと云うのです。藤原京時代の郡家の成立とともに手工業生産や農業経営など、律令国家の政策のもと郡司層を核とした多様な開発が進んだことが明らかにされつつあります。
例えば讃岐の場合は、次のような動きが見えます。
①三野郡丸部氏による国営工場的な宗吉瓦窯群の創業開始と藤原京への宮殿瓦供給
②阿野郡綾氏による十瓶山(陶)窯群の設置
大束川流域の基幹的な用水路の設置は、同時期の上のような郡司層の動向とも重なり合うものです。それを補強するかのように、飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきたことは、以前にお話ししました。こうなるとこの地域には、「郡衙 + 南海道 + 法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。
 それを進めた政治勢力としては、坂出の福江を拠点に大束川沿いに勢力を伸ばした綾氏の一族が考えられます。
かれらが弥生時代から古墳時代に掛けて開発されていた河津地区を支配下に置き、さらにその耕地拡大のための灌漑用水確保のために、飯野山南部の丘陵部の谷間の湧水からの導水を行ったという話になるようです。そういう意味では、法勲寺は湧水の中心地に作られた古代寺院で、仏教以前の稲作農耕期には水がわき出る聖地として崇められていたことも考えられます。

以上をまとめておくと
①東坂元秋常遺跡は、飯野山と城山からのびる尾根が最接近する狭い平野部で、その東を大束川が流れる
②この遺跡からは、大束川の上面に掘られた藤原京時代の「大溝=基幹的用水路(SD01)」が出てきた。
③飯野山北麓の遺跡から出てきた基幹的用水路と、SD01は、もともとはつながっていた。
この最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年
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坂出市史1
坂出市史

昨年末に発行された坂出市史を眺めていると、大束川の旧河道について、鎌田池から福江を経て、現在の坂出駅付近で海に流れ出していたことが書かれていました。これを今回は紹介します。
 以前に「神櫛王伝説 坂出の福江は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」では、つぎのようにまとめました。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。
大束川河口の開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。綾氏は福江湊を拠点に、大束川流域の経営を進めたという仮説でした。しかし、資料不足と勉強不足で旧大束川の具体的な河道跡を提示することはできませんでした。今回出されて坂出市史には2つの資料から河道跡を提示しています。それを見ていくことにします。
坂出市史が「証拠資料」として、まず提示するのが国土地理院の土地利用図です。
坂出の復元海岸線4
国土地理院 土地利用図

これは以前に紹介したようにグーグル「今昔マップ」で検索すれば無料で見ることができます。
福江町付近の土地利用図からは、次のようなことが分かります。
①鎌田池の北東隅から北に旧大束川の河道跡が残ること。
②鎌田池から南は、貯水池を経て川津町にいたるルートが旧大束川の河道であったこと
③坂出商業高校付近は東西に伸びる砂堆上で、ここより北は潟であったこと。
砂堆の北側にある坂出高校のグラウンドの南西隅付近の文京町2丁目遺跡からは、製塩土器が多数出土しています。奈良時代の海岸線は、この付近を東西に伸びる砂堆の北側近くにあったと研究者は考えているようです。

DSC04434
川津の貯水池と讃岐富士 
旧大束川の流れを確認しておくと
川津 → 貯水池 → 坂出中学校 → 鎌田池 → 福江 
となります。
鎌田池2
ブルーのラインが旧大束川河道跡(明治末の地図)

鎌田池の付近を拡大して見ます。
鎌田池
明治末の鎌田池(鎌田池と貯水池はつながっていた)
鎌田池は、旧河道に堤防を築いて作られたため池と伝えられます。
そのため南北に長い瓢箪池の形をしています。現在はこの間に坂出中学校が、池を埋め立てて造成されています。坂出中学校は、旧大束川河道の上に建っているようです。
下の写真は笠山と角山、鎌田池で区切られる平野部の空中写真(1961年)です。
坂出の復元海岸線5 航空写真

上の航空写真からは、次のような事が見えてきます。
①鎌田池北側には整然とした条里制が坂出高校の南側まで広がる。
②鎌田池の北東部からは、乱流する大束川旧河道が北に伸びている
丸亀平野でも金倉川や土器川の流路跡の氾濫原には条里制の跡は残りません。ここからは、条里制が施行された7世紀末には大束川は福江を通過して、海に流れ出していたことが分かります。
坂出の復元海岸線5 航空写真拡大
福江周辺の大束川河道跡
 福江は瀬戸内海と川で結ばれており、その河口付近にある港で、瀬戸内海水運に従事する船の拠点となっていたようです。神櫛王の悪魚退治伝説でも福江は、悪魚を退治した神櫛王の上陸地点ですし、悪魚が打ち上げられる所でもあります。福江は重要なステージとして登場することは以前にお話ししました。
 福江は川船で、鵜足郡の郡衙があったとされる川津ともつながっていたようです。つまり、川津の外港が福江ということになります。古代においては、鵜足郡の港は宇多津でなく福江で、大束川流域への入口であったことを押さえておきます。
坂出の復元海岸線2
中世には大束川は現ルートに変更されているので描かれていない
DSC04505
金山方面から見た福江 背後は角山
福江のことをもう少し見ておきましょう
金山・笠山・常山に囲まれた福江を、私は常山の麓の塩田背後の集落くらいに思っていました。しかし、古代には海がここまで入り込んでいたようです。福江という地名は、海が深く良湊を意味する深江が転化したと伝えられています。綾氏系図に、日本武尊の神櫛王が景行天皇の命により悪魚を退治し、福江湊に上陸した記されていること何度か紹介しました。
 そして、先ほど見てきたように条里制施行時には大束川は、福江の前を流れて海に出ていました。福江と郡衙があったと考えられる川津までは川船で結ばれていました。古代においては、大束川流域の物資の積み出し港が福江だったことになります。
坂出の復元海岸線3

福江の背後あるのが常山ですが、これは元々は「津の山」でしょう。
福江周辺を歩いてみて感じるのは、瀬戸内海の島の港町を歩いているような印象を受けることです。坂の多い路地と、あちらこちらにいらっしゃる石仏や標識、そしてお堂や庵。古い歴史を背後にもつ集落であることが、歩いていると分かります。そして、かつては富の蓄積もあったことがうかがえます。それが何からきているのかが分からなかったのですが、中世までは交易港であったことが分かると全てが納得できました。 古代の福江と川津の関係については、以前にお話ししたので省略して、中世の福江を今回は見ておきます。

DSC04512
福江
『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここからは、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また年貢に塩5石や鯛40とあるので、半農半漁的な立地を示しているようです。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。

 北山本新荘の年貢を運送していた国料船に福江丸という船がいたようです。
5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(

宝徳元(1449)年の史料に阿野郡北山本新荘の年貢輸送の国料船である福江丸に、管領細川勝几から次のような下知状が発給されています。
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、京都の崇徳院御影堂へ北山本新庄より年貢を運ぶ福江丸が登場します。福江丸船団も「国料船」で、港や川に設けいれた関所に支払う関料免除の特権を室町幕府より認められていました。摂津国兵庫津と坂出福江を行き来していた福江丸は、福江村を含む北山本新庄の年貢を運んでいた船で、「福江」という母港名がつけられているので、福江には港があり、そこに所属する船を福江丸と呼んでいたのでしょう。ここからは福江には、瀬戸内海交易に携わる輸送船を操る集団もいたことが分かります。

福江丸は、管領細川勝元から崇徳院御影堂用の国料船として、関連船も含めて毎年10艘の運行が認められています。北山本新庄では、塩浜が拓かれ塩の生産が行われていました。荘内の海で水揚げされた鯛とともに福江丸に積載して、京都の崇徳院御影堂へ輸送されたようです。
 ところが寛正元(1480)年四月、この春に限つて兵庫南北関で、突然に関料を徴収されます。これに対して崇徳院御影堂衆が幕府へ訴えた文書が残っています。
崇徳院御影堂禅衆等謹んで言上
右当院領讃岐国北山本新庄年貢輸送国料船福江丸と号すこと、海河上の諸関その煩い無く勧過の所、今春に限り兵庫両関新国料と号し、過分の関役を申し懸け、剰え以前無為の役銭共に責執の条、言語道断の次第也、所詮応永八年以来の御教書等の旨に任せ、彼の役銭など糾返され、国料船においてはその煩い無く勧過有るべく旨、厳密に御成敗を成し下さるは、御祈祷の専一たるべく者也、傷て粗言上件の如し
長禄四年卯月 日
  意訳変換しておくと
京都の崇徳院御影堂の禅衆等が謹んで言上致します
当院領の讃岐国北山本新庄の年貢輸送を担う国料船福江丸について、海上や河川の諸関を自由に通行できる権利を得ていましたが、今春になって兵庫両関新国料と称し、過分の関銭を徴収されました。従来から支払いを免除されている役銭も徴収されるなど、言語道断の措置です。応永八年以来の御教書の「関銭不用・フリー通行」の原則にもとづいて、徴収した金銭を返還し、国料船に対して今まで通りの権利を保障するように、厳密に御成敗を下さるよう祈祷致しております。粗言上件の如し
長禄四年卯月 日

ここからは、次のようなことが分かります。
①北山本新庄の年貢輸送船福江丸に対して、過書が応永8(1401)年に発行され、長期間にわたって関銭免除の特権を行使してきたこと。
②それが長禄四(1458)年卯月になって、突然に、通行税を徴収されたこと、
③それに対して崇徳院御影堂の禅衆が幕府に訴え出ていること。
どうして突然に、通行税を国料船の福江丸に対しても徴収を始めたのでしょうか?
この前年に、興福寺は国料船・過書船の免除停止を発しています。これを受けて北山本新庄国料船に対しても関料免除停止の措置を取ったようです。この背景には、国料船に名を借りて物資を積み込む状況が多発していたからです。兵庫関の関銭は東大寺と興福寺の財源でした。それが減収していたようです。その対応策として、国料船の関料免除を廃止して関料徴収と入関船の管理統制を強化しようとしたのです。

瀬戸内海を物資を積載して航行する船は、東大寺の設置した兵庫北関と、興福寺が設置した兵庫南関で関料を納入しなければなりませんでした。これに習って中世では全国中に関所が出来て、関銭が徴収されるようになります。それが寺社の財源となっていたのです。それを取り払おうとするのが織田信長の楽市楽座になります
 兵庫関でも過書船が多くなれば収益が減少するため、過書船への対応には留意していたようです。過書船は年貢物に限定され、商売物を混入して輸送することは禁止でした。しかし、梶取りたちは関料を免れるため、いろいろな抜け道を見つけ、事件を起こしたことが資料からもうかがえます。そこで興福寺や東大寺は、幕府へ過書停止の訴えを起こし、幕府もこれを認めたようです。 

  以上をまとめておきます
①古代の大束川は「河津 → 鎌田池 → 福江」というルートで現在の坂出方面に流れていた。
②東西に大束川が形成した砂州が発展し、その南側に潟が形成されていた。
③福江は、笠山まで湾入した潟と、旧大束川の河口に位置し、海運と川船が交錯するジャンクションの機能を果たした。
④大束川を遡った河津は弥生時代以来の集落が発展し、鵜足郡の郡衙跡と考えられる。
⑤その河津と福江は川船で結ばれ、鵜足郡の湊の機能も果たしていた。
⑥このような福江の役割が、中世に作られた神櫛王の悪魚退治伝説にも反映され、福江は重要なステージとして登場する。
⑦中世には、大束川の流れは変更され、宇多津に流れ出るようになり、宇多津に守護所が置かれ繁栄するようになる。
⑧しかし、福江もこの湊を母港に活動する国料船福江丸の存在が史料からは分かり、御供所などとともに瀬戸内海交易に活躍する梶取りたちの存在がうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 通史上 中世編 
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