今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
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①築堤技術②治水技術③灌漑用水網の整備
①善通寺市内には、東から金倉川・中谷川・弘田川の支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れていた。②その微高地に、集落は形成されていた。③台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを振って、まさに「暴れ龍」のような存在であった。

①7世紀末の条里地割は条里ラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。


「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」
①古代は暴れ川をコントロールする治水能力がなかったこと②大規模な灌漑用水整備は古代末以後のこと

「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」②「金剛峯寺建立修行縁起」③経範の「弘法大師行状集記」(1089)④大江匡房の「本朝神仙伝」
① 満濃池の築造の歴史② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要③ その際に僧真勝が行った修法について
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。②日本紀略の内容を裏付ける史料がない③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)927 神野神社が式内社となる。947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。1020 萬濃池後碑が建立。1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。1201 「高濃池後碑文」成立。
①昭和27年の3回の洪水調査から丸亀平野の洪水路線を明らかにし、弥生式遺跡の立地、ため池の配置を地図上に落としてみる。②そうすると弥生遺跡が、いずれも洪水路線に隣接する微高地に立地すること③ため池が洪水路線に沿って、鈴なりのように連なっていること
水田が広がるにつれて、自然の窪みを利用した小規模な堤防をもつ初期ため池灌漑がスタートした。大規模古墳の土木工事は、そのままため池の堰堤工事に転用できるし、労働力の組織化もできるようになった首長は、丸亀平野の凹地にため池を築造することで、水田開発を大規模に進めていくことになる。
①7世紀末の条里地割はmラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
①一円保の水源は、二つの出水と弘田川でまかなわれていた。②14世紀後半になって、弘田川上流の有岡の谷に、有岡池を築造した


「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
「讃岐国が次のように言上した. 去年から満濃池の修造工事を進めていますが,事業規模が大なのに対し差発できる民は少なく, まだ完了していません.ところで,僧空海は当地出身の人物で,山中で修行して鳥獣に親しみ, 海外にまで仏教の真理を求め,学問を積んで帰国しました. そのため, 出家人も俗人も空海の風貌を敬い、人々は空海の姿を仰ぎ見ています.空海が留まる所には教えを請う者が市をなし, 出行するとあとを追う者が雲のごとくとなります.
いま, 空海は郷里を離れ, 平安京に住んでいますが、百姓は父母のごとく恋い慕っており、空海が来ると聞きますと,履物を逆さにしたまま慌てて迎えるほどです. 伏して,空海を満濃池修造事業の別当に起用して完成させることを請願します.
言上を許可した.
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。寛仁四年歳次庚
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く |
818 弘仁9 万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11 讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12 5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2 讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5 萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)
この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184 元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる。
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった


こうしてできた池の大きいこと。堤も、それはそれは高く作られました。
とても池とは思えんのう
こりゃあ、海ではないかい
土地の人々はみんなうわさしあったそうな。あまりに大きくて向こう岸がぼーっとかすんではっきり見えません。みんな大喜びで大事に使うことにしました。それまでは、日照りが多く、田柚えどきには水不足に泣かされていましたが、この池のおかけで、どこのたんぼも、水を引くことができ、ぶじにうるおうことができたとか。
朝廷からも、たくさんの川をつなぐ力をいただき、絶えることがなかったそうな。

池の中には、大きいのやら、小さいのやら、いろんな魚が住んでいて、みんなどんどん魚をとっていました。でも、魚はいくらでもおったので、どれだけとってもいなくなることはありません。
あるとき、領主様が、この国の人々やら、館の人々やらをおおぜい集めて、お話をなさったとか。
そのおりにも、満濃の池の話でもちきりだったそうな。
「なんと! 満濃の池には、いろんな魚がいっぱいおるそうじゃと!三尺の鯉でもおるじやろう」
だれがいうたか、そのことが領主様の耳にはいってしまいました。
「それは、ぜひとも欲しいものよ」
領主様は思いたって、おいいつけなさった。
「この池の魚をとる! 用意いたせ!」

ところが、池の深いこと、深いこと。
下りていって網をしかけることもできぬほど。
そんならどうしたらよかろうかと、みんなで頭をひねっていたら、
「この池の堤に大きな穴をあけよ’・
そこから出る水の落ちるところにしかけをせよ流れでる魚をとるのじや」家来衆がいうとおりにするとぱーつと勢いよく水が吹き出し、出るわ、出るわ、次々とたくさんの魚が出てきました。「やったあ! 大漁じゃあ」ところがその後、穴をふさごうとしましたがものすごい勢いで水が吹き出し、どうしてもふさぐことができません。
そこに堤をつくり、木の樋を打ちつけ、少しずつ水を流すようにしたところ、池はそのおかげでなんとかもたせることができました。「しかしまあ、この穴は、堤をぶちぬいてできた穴だもんな。みんな、ほんに考えこんだそうな。
しかもこんなに大きい穴、大丈夫かいな」

はたして梅雨がきて、どしゃぶりの雨がつづき、たくさんの川に水があふれ、それが全部、この池に流れこみはじめました。さあ、たいへんです。ゆき場のない水が、出口をもとめていっきに穴をめがけて押し寄せたのでもうたまりません。あれよあれよというまに、堤はこわれてしまい、池の水は残らず流れ出てしまいました。「助けてくれ! 流される」おらんとこの、家も田んぼも畑も、めちゃめちゃじゃあ泣いても、叫んでも、もうどうにもなりません。みんな、何もかもなくしてしまいました。

国の人たちは、これにすっかりこりて、池は小さく造ろうと考えました。そんなわけで、小さな池をなんぼでもつくったものの、池はすぐにひからびてしまい水は残りません。池のあった跡さえ、判らないようになってしまいました。悪いのは、なにがなんでも三尺の鯉が欲しいというたご領主様じゃ。ご領主様のせいで、あの生き仏様が、弘法大師さまが、土地の衆をかわいそうに思うて、せっか く造ってくたさった池をなくしてしもうた。ばちあたりなことはかりしれんわ。この池の崩れたことでたくさんの人が家を壊され、たんぼや畑をなくしてしまいました。

だれもがそういうたとか。
「池のなかの魚を、ちょっととりたいばっかりに、池をこわしてしまうとは、なんたるこっちや」
[大きなむだじゃ。しょうのないご領主様じゃ]
そう言って、みんな怒り、嘆きました。
まあそういうことで、人間は欲張ってはいけません。
他国の人々までも、今にいたるまで、ご領主様の悪口を言っているとか。
その池の跡は今もまだ残っているそうな。

今昔、讃岐国、□□郡ニ、万能ノ池ト云フ極テ大キナル池有リ。其池ハ、弘法大師ノ、其国ノ衆生ヲ哀ツレカ為ニ築給ヘル池也。池ノ廻リ遥ニ広シテ、堤ヲ高築キ廻シタリ。池ナドヽハ不見ズシテ、海トゾ見エケリ。池ノ内底ヰ無ク深ケレバ、大小ノ魚共量無シ。亦竜ノ栖トシテゾ有ケル。
今は昔、讃岐国□□郡に万能の池という非常に大きな池があった。その池は、弘法大師がこの国の民衆を哀れんでお造りになった池である。池の周囲ははるかに広々としており、堤を高く築き巡らしてある。とても池には見えず、海のように見えた。池は底知れぬほど深いので、大小の魚は数知れず、また竜の住処となっていた。
昔むかし、いまから千百年あまり前の弘仁(八二〇年)の頃のお話です。
讃岐の国のお役人、国司清原夏野は弘仁九年の大洪水とそれにつづく、翌年の大干ばつ、またその翌年も干ばつと、大雨や日照りで農民を苦しめる災いにどうしたものか”と強く心をいためておりました。
大雨はともかく、夏の日照りの水不足を防ぐ手はないものかと、ずっとずっと考えこんでいました。そこではたと思いついたのが金倉川です。
「そうだ、あの川をせき止めよう。そうすれば池にはたくさんの水がためられる」
われながら名案だと思ったのですが、洪水で決壊して干上がった池の内にはすでに人々が大勢住そんなわけで清原夏野は考えたことを実行に移します。
まず手始めは、ときの天皇、嵯峨上皇ににその計画を願い出ることです。幸いなことに天皇はそのお話をお聞きいれになり、池の修築工事のために築池使の路眞良人浜継(みちのまびとはまつぐ)を讃岐の地に遣わされました。
やれやれこれでひとまず安心とばかり胸をなでおろした清原夏野でしたが、それもつかのま、今度は工事の人夫が思うように集まりません。
募るいらいらが頂点に達したとき、またまた妙案が清原夏野の頭を掠めました。
「そうだ、あのお方なら……」
自分の新たな思いつきに飛び上がって喜びました。
あのお方とは……。満濃池の歴史の一時代を飾る「空海の修築」の主役、空海こと弘法大師です。
そこでいよいよ主役の登場です。
人の心を掴んで離さない高僧の誉れ高い空海が讃岐に下ったのはそれからまもなくのことでした。 その後の工事はいうまでもなくとんとん拍子。清原夏野の思わくどおり、池普請の現場は空海を慕う人々であふれ、人手に困ることはありませんでした。

それから数か月後の弘仁十二年(821)、堤防の工事が無事終わり、広々とした池には澄んだ水があふれるほどにたたえられました。
こうして甦った満濃池の堤では、あたたかくなると、昼寝ざんまいの小蛇を一匹見かけることがときおりあったそうです。
のんべんだらりと、小さな身体のわりには態度の人きさがちょっと気になるこの小蛇、それもそのはず、身元をたどれば池に住む人きな人きな身体の龍神だったのです。 冬、ひなたはっこで池の堤に寝ころぶときは、くるりと身体をひとひねりして小さな蛇に変身。これなら誰にも邪魔されません。
「なんとまあ、ここちいいことかい」
龍神はお目さまに日を細めるといつものように草むらにごろん。あったかい陽ざしを布団がわりに、木々の梢を揺らして過ぎるそよ風を子守歌にうとうととまどろむ日もあったようです。
ところが今日はいつもとはちょっと様子が違っていました。
”ぴーひょろろ、ぴーひょろ‐”
広げた両の翼に上昇気流をいっぱいに受けて、高く高く大空を舞うとんびが一羽。その小さな目に、池の堤でひっくりかえっているまるで小指ほどの蛇が一匹飛び込んできました。
なんだい、蛇のくせに昼寝かい
いたずらとんびは昼寝の小蛇めがけて急降下。
さあー 土手の草がいっせいになびきます。
同時にとんびのくちばしが小蛇をがちっ。
目をさますまもなく小蛇の身体は宙に浮き、空へ空へ。
小蛇をくわえたとんびは、緑の田畑を越えて青い海へ。
海を過ぎるとふたたび陸へ。
とんびはどこまでもどこまでも飛びつづけます。
いったいどこへ行くのでしょう。
実はこのとんび、近江の国の比良山をねぐらにする天狗だったのです。
とんびは山のなかの洞穴に、小蛇をぽいと放り込むと
木々の間を縫うように舞い上がり、再び青空のかなたへ姿を消してしまいました。

”まいったな。ほんにうかつじやった”
龍神は悔やみましたが後のまつり。
水さえあれば大きな龍の身体にもどれるのですが、あいにく洞穴には一滴の水もありません。
とんびに化けたいたずら天狗は琵琶湖の近くの比叡山までひとっ飛び。
今度は比叡山のお坊さんを狙います。
そんなこととはつゆ知らぬお坊さん、
「ほんにすっきりしたわい」
手洗いの水が入った瓶をかかえて厠からぬっと姿を見せました。
とんびの天狗はーい、一丁あがり!とばかり、
両足でお坊さんの襟首をつかむとすいすい、比良山の洞穴へ。
いきなり暗いところへ放り込まれたお坊さん、
「はて、わしやいったいどうなったんじやい」
首を傾げるばかり。
そんなことには頓着なしのいたずらとんび、
「もうひとっ飛び、行ってくるか」
と、またもや空高く舞いあがりました。
どうしたものかと思案にくれていた小蛇の龍神は、お坊さんの水瓶に元気百倍。
「もしもーし、どなたか存じませんが、その瓶の水を
わたしの身体にふりかけてはくださいませぬか」
小蛇の言葉に気のいいお坊さん、
「あいよ、あいよ」
ふたつ返事で、瓶の水を小蛇の身体にじゃばじゃば。
すると小さな蛇がむくむく、むくむく。伸びて伸びて、
天を突くような巨大な龍に変身しました。
おかけで助かった。さあ、はようわしの背中へ 寺までお送りしましょうぞ龍神はお坊さ
んを寺まで送り届けると比叡山から京の都を越えてふるさとの満濃池へ向かおうとしました。ところがどっこい、今度は荒法師に姿を変えたいたずら とんびが、鴨川にかかる大橋を堂々と歩いているではありませんか。”なにかまた、よからぬことを考えておるな” 龍神は、そうと荒法師の後ろに近づくと、 「こらー!・」大声とともに背中をどおーん。力いっぱい押しました。いきなりの雷声と嵐のような力にさすがの天狗も、「まいったあー」目を白黒させながらその場にばたん。「もう二度といたずらなんぞするんじゃないぞ」龍神の言葉が聞こえたかどうか定かではないものの、よほどに懲りたものか、それからは天狗の悪さを耳にすることはありませんでした。そんなわけで、龍神は京の都から山や野を越え、海を渡り、満濃池に戻ることができました。ところで龍神、いたずらとんびの天狗に懲りてもう小蛇に化けるのはやめにしたとか、そんな噂もありますが、とんでもない。やっぱりひなたぼっこはやめられないと、ほら今日も鼻ちょうちん。それが証拠に堤の草むらで夢みごこちの小蛇を村人たちはときおり見かけるそうです。満濃池で昼寝の小蛇に出会ったら、それはきっと龍神ですから、決して水などかけぬよう。小蛇がいきなり大きな龍になったらおおごとです。そっとそっと見て見ぬふりで……。昔むかしのお話です。

讃岐国那珂郡に万乃池と云、極て大きなる池あり。其池は弘法大師の其國の衆生を哀しかり、為に築たまへる池なり。池の廻り遙かに廣くして堤を高く築きまはしたり。池なととは見えすして、海とそ見えける。池の内底ひなく深ければ大小の魚とも量なし。亦龍の棲としてありける。然る間其池に住ける龍 日に当らんとおもひけるにや。池より出て人離たる堤の遷に小蛇の形にて蜻て居たりけり。其時に近江国比良山に住ける天狗鎬の形として其池の上を飛まわるに堤に此小蛇の幡て有を見て掴反下て、俄に掻き探て逢に空に昇ぬ。龍ちから強き者なりといへ共、思ひかけぬ程に俄に拝れぬれ八、更に術尽て只猟れて行に、天狗小蛇を扨砕て食せんといへとも龍の用力強に依て心にまかせて探み砕て散ん事あたはずして遥に本の栖の比良の山に持行ぬ。狭き洞の動へくもあらぬ所に打寵置つれ八、龍狭口口口破元くして居たり。一滴の水も元八空を翔る事もなし。亦死ん事を待て四五日あり。然る間此天狗比叡山に行て俗を伺て貴き僧を取らんと思ひて夜、東塔の北谷にありける高き木に居て伺ふほとに其向に造り懸たる房あり。其房に有僧、外に出て小便をして手をあらはんふため水瓶を以て手を洗ふて居るを、此天狗本より飛来て僧を掻採て、逼に比良山の栖の洞に将き行て龍の有處に打置つ。僧水瓶を持なから我にもあらて居り。いま八限とおもふほとに天狗八僧を置ままに去ぬ。其時に暗き所に苔有て僧に向て云く、汝八此誰人そ。何より来そそと。僧答て目、我比叡山の僧なり。手を洗はん為に坊の橡に出たりつるを天狗の俄に掴み取て将来れはなり。然八水瓶を持なから来れるなり。抑かくいふ八また誰そ。龍答て云、我は讃岐国万能池に住龍なり。堤に這出たりしを、此天狗空より飛来て俄に猟て此洞に将来こり。狭く口口て為む方無といへとも、一滴水も元けれ八空をも翔らすと。僧のいはく、此二持たる水滴に若一滴の水や残りたらんと。龍是を聞て喜て云、我此所にして日来経て既に迦終なんと為るに幸に来り會ひ給ひて互に命を助る事得へし。一滴の水有ら八、必汝本の栖、二将至へしと。僧又喜て水瓶を傾て龍に授るに一滴斗の水を受て、龍喜て僧に教て云、努々怖る事なくして、目塞て我に負れ給ふへし。此御更に世々にも忘かたしといふて、龍忽に小童の形と現し、僧負て洞を蹴破りて出る間、雷電屏震して陰り雨降事甚怪し。僧身振肝迷て怖しと思ふといへとも、龍を睦ひ思ふかゆゑに念して負れて行し程に、須実に比叡山の本の坊に至る。僧を橡に置て龍八去。彼房の人常の屏震して房に落懸と思ふほとに俄に坊の澄暗夜の如く成ぬ。しはらく斗有たる時に見れは、一夜俄に失ひにし人の橡にあり。坊の人々奇異に思て問に、事有様を委しく語る。人々ミな聞て驚き奇異りける。其後龍彼天狗の怨を報せ為に天狗を求るに天狗京に智識を催す荒法師の形と成て行けるを龍降て蹴殺てけり。然ば翼折れたる屎鵠にてなん。大路踏れける。彼比叡山の僧八彼龍の恩を報せんかため、常に経を誦し善を修しけり。実に此龍八僧の徳に依て命をなし。僧八龍の力依て山に返る。是もミな前世の機縁なるへし。此事は彼僧の語り傅へを聞継て語り傅へたるとかや。