瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:満濃池の歴史 > 古代の満濃池

空海満濃池築造説への疑問

前回は、研究者たちが「空海の造った満濃池」と云わずに、「空海が造ったと云われる満濃池」という理由を史料的な面から探りました。今回は考古学的な見地から見ていくことにします。

満濃池用水の供給条件

苗田と公文の境界を流れる満濃池用水の善通寺幹線です。かつては、この用水路が池御坊の天領と高松藩の境界でした。向こうには五岳の我拝師山が見えます。この用水路が善通寺・多度津方面に用水を供給しています。幹線用水路としては、この程度の規模の用水路を整備する必要がありました。池が出来ても灌漑用水路なしでは、田んぼに水を供給することはできません。そして用水路を網の目のように張り巡らすためには、土器川や金倉川の治水コントロールが前提になります。古代における治水灌漑技術は、どうだったのでしょうか? この問題に先駆的見解を示したのが「讃岐のため池」で、次のような説を提示しました。

「讃岐のため池」の「古代ため池灌漑整備説」


以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。

古代の土器川は幾筋もの暴れ川だった

まんのう町吉野付近の旧河川跡 (左が北)

これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)

近世:治水整備後に整えられた灌漑網


長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。

②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
 用水路の
末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。

金倉川の旧流路跡と善通寺の河川復元


善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。

 右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。

次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
 

中世の善通寺一円保に描かれた灌漑用水網

善通寺一円保絵図(下が北)
ここには中世の善通寺の寺領と用水路が書かれています。東院(4つの区画を占領)・誕生院・五岳の位置をまず確認します。 黄土色の部分が現在の善通寺病院(練兵場遺跡=善通寺王国)です。黒いのが水路で、西側は、有岡大池を水源にして弘田川と分岐して東院の西側を通過して、国立病院の北側まで伸びています。一方に東側は、壱岐・柿股・二双の3つの湧水を水源にして条里制に沿って四国学院の西側を北に伸びています。しかし、現在の農事試験場や国立病院あたりまでは用水路は伸びていません。寺領の全エリアに水を供給するシステムは未整備であったようです。国立病院北東の仙遊寺あたりには、出水がいくつもあり、そこから北には別の荘園が成立していました。以上、中世期の善通寺寺領をめぐる灌漑について整理しておきます。

①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。

②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。

③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた

丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。

丸亀平野の条里制は一気に進められたのではない


現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。

空海満濃池築造説への疑問

 

このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。

ユネスコ無形文化遺産の考え方

世界文化遺産が真正性や独自性にこだわるのに対して、無形文化遺産の方は多様性を重視します。そして、継承していくために変化していことも文化遺産としての財産とします。
満濃池の歴史の捉え方g

この考え方を満濃池にも適応するなら、
核の部分には史料などからから確認できる実像があります。同時に、長い歴史の中で人々によって語り継がれるようになった伝承や物語もあります。これらを含めて満濃池の歴史と私は思っています。だからそれらも含めて大切にしていく必要があると考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年もまんのう図書館の郷土史講座でお話しすることになりました。テーマは、こちらで決めることは出来ません。リクエストのあったテーマについてお話しするのですが、満濃池へのリクエストは高いようで毎年選ばれます。昨年は近世の満濃池の変遷を話したので、今回は空海の満濃池築造についてということでした。そこで、研究者たちが「空海が造った」と断定的に云わずに。どうして「空海が造ったと云われる満濃池」と表現するのかをお話しすることにしました。その内容とレジメ資料をアップしておきます。


まず満濃町所蔵のこの版画から見ていきます。これは今から約180年ほど前、19世紀半ばに描かれたもので「象頭山八景 満濃池遊鶴(弘化2年(1845)」です。当時は金毘羅さんの金堂(旭社)が完成し、周辺整備が進み石畳や玉垣なども整備され、境内が石造物で白く輝きだす時代です。それが珍しくて全国から参拝客がどっと押し寄せるようになります。そんな中でお土産用に描かれた版画シリーズの一枚です。ここに「満濃池遊鶴」とあります。鶴が遊ぶ姿が描かれています。江戸時代には満濃池周辺には鶴が飛んでいたようです。
 話を進める前に基礎的な用語確認を、この絵で確認しておきます。東(左)から
①護摩壇岩
②対岸に池の宮と呼ばれる神社のある丘
③このふたつをえん堤で結んで金倉川をせき止めています。
④池の宮西側に余水吐け(うてめ)
この構造は江戸時代の最初に、西嶋八兵衛が築いたものと基本的には変わっていません。それではここでクイズです。この中で、現在も残っているもの、見ることができるのはどれでしょうか。

満濃池  戦後の嵩上げ工事で残ったのは「護摩壇岩」のみ
1959年の第3次嵩上げ後の満濃池 護摩壇岩だけが残った
戦後の満濃池嵩上げ工事後の現在の姿です。貯水量を増やすために、次のような変更が行われました。
①堰堤は護摩壇岩の背後に移され、
②その高さが6㍍嵩上げされ、貯水量を増やした。
③その結果、池の宮の鎮座していた小山は削り取られ水面下に沈んだ。そのため現在地に移動。
④余水吐けは、堤防の下に埋められた
こうして護摩壇岩だけが残されました。

満濃池 護摩壇岩3
満濃池の護摩壇岩

現在の護摩壇岩です。護摩壇岩と向こうに見える取水塔の真ん中当たりに池の宮はありました。その丘は削りとられ池の底に沈みました。それでは、クイズの第2問です。どうして護摩壇岩だけがして残されたのでしょうか。

空海修復の満濃池想像図
空海が修築した満濃池の想定復元図(大林組)

これは大手ゼネコンの大林組の研究者たちが作成したものです。①空海が岩の上で完成成就祈願のために護摩祈祷しています。ここが「護摩壇岩」と呼ばれることになります。ここは空海と満濃池をつなぐ聖地とされてきました。言い換えると「空海=満濃池修復」説のメモリアル=モニュメントでもあるのです。そのために池の宮は削られても、護摩壇岩は残されたと私は考えています。堤防は池の宮との間にアーチ状に伸ばされています。
②その下に②底樋が埋められています。
③池側には竪樋が完成し、5つのユルが見えています
④採土場から掘られた土が堤まで運ばれています。それを運ぶ人がアリのように続いて描かれています。

6 護摩壇岩 空海が護摩祈祷を行った聖地
 
護摩壇岩と碑文です。護摩壇岩は「空海の作った満濃池」を裏付けるモノと私は思っていました。
ところが中央からやってきた研究者の中には「空海が作ったとされる(伝えられる)満濃池」という言い方をするひとがいます。含みを持たせる言い方です。どうして「空海が作ったと言い切らないのですか?」と訪ねると、文献的にそれを証明できる・裏付ける資料がないというのです。これに私は驚きました。空海=満濃池築造説は史料的に裏付けられているものと思っていたからです。今回は、学者たちが空海が満濃池を作ったと言い切らない理由を追いかけて見ようと思います。まず空海が満濃池をつくったという最初の記録を見ていくことにします。

日本紀略の満濃池記述
日本紀略の空海の満濃池修復部分

まず古代の根本史料として六国史があります。これは、日本書紀など国家によって編纂された正史です。この編纂には公文書が用いられていて信頼度が高いとされます。6つあるので六国史と呼ばれます。ちなみに、誰が書いたか分からない古事記は、正史には含まれません。ところで六国史の中に満濃池は出てきません。満濃池が初めて出てくるのは日本略記という史書です。満濃町史や満濃池史など地元の郷土史は、日本紀略の記述を根本史料として「空海=満濃池修築説」を紹介しています。しかし、原典にはあたっていません。日本紀略の原典は上記の通りです。読み下しておきます。

讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。

最後に「許之」とあります。この主語は朝廷です。つまり朝廷が讃岐国司の空海派遣申請を認めたということです。これだけです。分量的には百字あまりにすぎません。内容を確認しておきます。

日本紀略の満濃池記述(要点)
日本紀略に書かれていることは

ここでは国司の空海派遣申請と、それに対する国家の承認だけが簡潔に述べられているだけです。空海が讃岐で何を行ったかについては何も触れていません。堤防の形や、護摩壇岩のことは何も出てこないことを押さえておきます。次に日本紀略の性格に就いてみておくことにします。

日本紀略の性格
日本紀略の史料的性格と評価
紀略はこの書は、①国家が誰かに編纂を命じて作られたものではありません。誰が書いたのかも、正式の書名も分かりません。当然、正史でもありませんし、何の目的で書かれたのかも分かりません。②内容は、それまでに造られている正史からの抜粋と、あらたに追加された項目からなります。空海と満濃池の部分は、新たに追加され項目になります。③成立時期は11世紀末後半から12世紀頃とされます。これは空海が亡くなった後、200年を経た時点で書かれた記録ということにります。同時代史料ではないことを押さえておきます。④評価点としては・・・⑤注意点としては・・・・    
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒書があって箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、古文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると「日本紀略」は満濃池の記述に関しては同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書ということになります。満濃町誌などは、紀略を「準正史的な歴史書」と評価しています。しかし、研究者は「注意して利用すべき歴史書」と考えているようです。両者には、根本史料である日本紀略の評価をめぐって大きなギャップがあることを押さえておきます。

 空海=満濃池修築悦を裏付ける史料として、満濃町史が挙げるのが「讃岐国司解」です。

満濃池別当に空海を申請する讃岐国司解
讃岐国司が空海派遣申請のために作成したとされる解(げ)

冒頭に「讃岐国司申請 官裁事」とあります。「解」とは、地方から中央への「おうかがい(申請)文」のことです。最後に弘仁12年(820)4月と年紀が入っています。ここで注意しておきたいのは、現物では実在しないことです。写しの引用文です。④これが載せられているのは、空海の伝記の一つである「弘法大師行化(ぎょうけ)記」です。つまり、空海伝記の中に引用されたものなのです。それを押させた上で、内容を見ておきましょう。

①内容については「請 伝燈大法師位 空海宛築満濃池別当状」とあり、空海を別当に任じることを申請したタイトルが付けられいます。文頭にでてくるのは既に派遣されていた築造責任者の路真人(みちのまびとはまつぐ)です。③その後の内容は、ほぼ「日本紀略」の丸写しです。誤記が何カ所かあるのが気になります。この申請書を受けて中世政府がだした太上官府も、引用されています。それも見ておきましょう。

満濃池 空海派遣を命じる太政官符
空海を満濃池修復の別当として派遣することを認めた太政官符

太政官符の前半部は紀略の内容とほぼ同じです。つまり、讃岐国司からの解(申請文)がそのまま引用された内容です。後半部には空海を別当として派遣する上での具体的な指示が書かれています。そのため日本紀略よりも分量も多くなっています。また最後の年紀が「弘仁元年」とする誤記があります。それ以上に研究者が問題にするのは太政官符の体裁・スタイルです。この太政官符より15年前に出された空海出家を伝える太政官符と、比較して見ましょう。

空海入唐 太政官符
延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)
この内容は、遣唐使として入唐することになった空海が正式に出家して国家公務員となったので、課税を停止せよと命じたものです。一部虫食いで読み取れませんが補足しながら読んでいくと
①冒頭に「大政官符 治部省」とあって、補足すると「留学僧空海」と読めます。
②その下に空海について記され、「讃岐國多度郡方田郷方田郷」とあります。ここからは空海の本籍が多度郡方田郷だったことが分かります。方田は「弘田郷」の誤りとされていました。しかし、平城京からは「方田郷」と記された木簡が2本出てきました。実際に存在した郷であったかもしれません。どこであったかはよく分かりません。
③空海の属した戸主は「戸主正六位上佐伯直道長」とあります。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、佐伯直道長です。彼の官位は正6位上という地方では相当高い官位です。どのようにして手に入れたのか興味あるところです。多度郡の郡長を務めるには充分な官位です。佐伯家では多度郡では有力な家であったことが裏付けられます。ちなみに、道長は空海の父ではありません。空海の父は田公です。道長が空海の祖父だった可能性はあります。当時の戸籍は大家族制で、祖父から叔父たちの子ども達(従兄弟)まで百人近くの名前が並ぶ戸籍もあります。空海も、道長の戸籍の一人として「真魚」と記帳されています。
④次からが本題の用件です。延暦22年4月7日「出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここからは空海は留学直前まで得度(出家)していなかった。正式の僧侶ではなかったことが分かります。
以上を、先ほど見た満濃池別当状を命じるものと比べるとどうでしょうか。官府は「何々を命じる」とコンパクトな物です。国司の解を引用し、説明を長々とするものではありません。そういう意味からも満濃池別当状は異例なスタイルです。太政官符の写しとしてはふさわしくないと研究者は考えているようです。
      また空海死後直後の9・10世紀に成立した伝記には満濃池は出てきません。
死後2百年後を経た11世紀に書かれた伝記は4つあります。その中で満濃池が出てくるのは「弘法大師行化記(ぎょうけき)」だけです。その他の伝記には出てきません。ここからは紀略の記述を参考にして「行化記」の作者が、讃岐国司解と太政官符の写しを新たに作成して載せた可能性が出てきます。

空海=満濃池修復説の根拠とされる史料に今昔物語があります。

今昔物語 満濃池の龍
今昔物語 満濃池の龍の冒頭文
この中に「満濃池の龍」が載せられています。その冒頭は、この文章から始まります。そこには、空海との関係が次のように記されています。
「その池は弘法大師がその国(讃岐)の衆生を憐れんだために築きたまえる池なり。」

空海について触れられているのは、これだけなのです。空海が別当として派遣されたことなども書かれていませんし、護摩壇岩やアーチ型堤防などについては何も触れていません。
空海が朝廷の命で雨乞祈祷をして雨を降らせた話があります。その時に祈るのが善女龍王です。善女龍王は、雨を降らせる神として後世には信仰されるようになります。綾子踊りでも善女龍王の幟を立てて踊ります。
綾子踊りの善女龍王
綾子踊の善女龍王
ちなみに善女龍王は普段は小さな蛇の姿をしています。満濃池の龍も、堤で子蛇の姿で寝ているところを、天狗の化けたトンビにさらわれて、琵琶湖周辺の天狗の住処の洞穴に連れ去られてしまいます。龍の弱点は、水がないと龍には変身できない所です。かっぱと同じです。そこに京から僧侶もさらわれてきます。この僧侶が竹の水筒をもっていて、水を得た子蛇は龍に変身し、天狗を懲らしめて、僧侶を寺に送り届けて満濃池に帰って来るというお話しです。

今まで見てきた3つの史料の成立した年代を見ておきましょう。

満濃池記載史料の成立年代
 満濃池と空海の関係を述べた史料の成立年代

11世紀になると、空海は死んではいない。入定しただけで身は現世にとどまっているという「入定留身信仰」説が説かれるようになります。これは今も空海は、この世に留まり衆生を見守り、導こうとしているということになります。これが近世になると「同行二人」いつも空海さんと一緒に ということになっていきます。佐文の綾子踊りでも由緒書きには、「ある旅の僧侶が綾に雨乞踊りを伝授した。踊れば雨が振った。村人は歓喜した。いつの間にか僧侶はいなくなっていた。その僧侶が弘法大師であったと村人はささやきあった。と記します。つまり、いろいろな行事や功績などが空海に接ぎ木されていくようになのです。そんな流れの中で登場してくるのが空海ー満濃池修復説といえそうです。
 満濃町史は、国司解や太政官符を見て紀略がかかれたという立場です。しかし、それは成立年代からすると無理があるようです。紀略の記事を見て、太政官符が創作されたということも考えられます。 こうして弘法大師伝記には、いろいろな話が付け加えられていくのです。そして92種類の伝記が確認されています。
次にいろいろな話が付け加えられていく過程を、満濃池史の今昔物語の記述で見ておきましょう。

今昔物語の原文と「満濃池史」の比較

先ほど見たように今昔物語が空海と満濃池の関係に触れているのは、一行でした。それが満濃池史の「今昔物語」には、次のようになっています。

満濃池の龍神 今昔物語に付け加えられた部分


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満濃池史の「今昔物語」
ここには①讃岐国司・清原夏野の嵯峨天皇への直訴的申請 ②路真人浜継(みちのまびと)の来讃。③空海の派遣申請などがいろいろなことが記されています。しかし。これらはもともとの今昔物語には書かれていないことです。日本紀略や「行化記」などに書かれていることが今昔物語に接ぎ木されています。伝説とは、このようにして後世にいろいろな物語が付け加えられて膨れあがっていきます。地域の歴史を書く場合には、地元の歴史について知ってほしい、そして誇りを持って欲しいという思いが強く働きます。私もそうです。そのためサービス精神が旺盛になりすぎて、史料検討が甘くなり、いろいろなことを盛り込んでしまうことが往々にしてあります。そういう意味では、厳密に云うと、これは今昔物語ではありません。いろいろな情報が付加された「今昔物語増補版」ともいえるものです。
 ここまでを整理しておくと、12世紀前後に成立した3つの書物に、空海と満濃池の関係が書かれるようになったこと。しかし、その内容は、空海の派遣経緯が中心でした。空海がこの地にやってき何をしたかについては、何も記されていませんでした。それでは最初に見た護摩壇岩やアーチ型堤防などの話はいつ頃から語られ始めたのでしょうか。これは近世に書かれた矢原家文書の中に出てくるものです。
満濃池池守 矢原家について
これは幕末の讃岐国名勝図会に描かれている矢原家です。おおきな屋敷と二本の松の木が印象的です。カリンの木は見えませんが、大きな財力をもっていたことが屋敷からはうかがえます。この場所は、満濃池の下のほたるみ公園の西側で「矢原邸の森」として保存されています。矢原家について簡単に触れておきます。①真野を拠点とする豪族とされますが ②史料からは中世以前のことについてはよく分かりません。③文書的に確実にたどれるのは生駒藩時代以後です。④西嶋八兵衛が満濃池を再興するときに、用地を寄進したことで、池の守職に任じられたこと ⑤しかし、満濃池修復費用に充てるために池の御領とよばれる天領が設置されます。天領が置かれると代官もがの指揮下におかれて、既得権利を失ったこと⑥そのため池の守職を無念にも辞任したこと。
このように池の守として満濃池に関わった矢原家には、満濃池についての文書が多く残されたようです。その一部を見ておきましょう。


矢原家々記の空海による満濃池築造
矢原家々記の空海来訪場面

 古代のことが昨日のように物語り風に語られています。こんな話を矢原家では代々語り伝えてきていたのかもしれません。この内容をそのまま史実とすることはできませんが書いた人の意図はうかがえます。
①空海が矢原家に宿泊したこと → 矢原家が空海の時代まで遡る名家であること 
②矢原家の伝統と格式の高さ 
③その象徴としてのかりん 
これらは空海の来訪を記すと同時に、作成目的の中に「矢原家顕彰」というねらいがあったことを押さえておきます。矢原邸跡に香川県が設置した説明版には「空海が矢原正久の屋敷に逗留した際、記念にお手植えされたとされるカリンがある。」と記されています。矢原家々記を書いた人物の意図が、現在に生きていることになります。

矢原家文書の空海伝説 アーチ堤防


我々が満濃池の特徴としてよく聞く話は、近世になって書かれた矢原家文書の中にあることを押さえておきます。これらを受けて満濃池町史は、次のように記されています。

満濃町史の伝える空海の満濃池修復

①821年太政官符が紹介されていますが、これが「行化記」の引用であることは触れていません。
②③は近世の矢原家家記に記されていることです。 ④は日本紀略 ⑤の
神野寺建立は、後世の言い伝えで、これは史料的には確認できないことです。なお、池之宮は絵図・史料に出てくるに出てきますがが、神野神社は出てこない。出てくるのは「池の宮」です。これを神野神社と呼ぶようになるのは、幕末頃になってらです。ここには池の宮を神野神社として、延喜式内社の論社にしようという地元の動きが見えます。
以上をまとめておくと次のようになります。

①地元の郷土史は、日本略記や空海派遣を命じた太政官符を根拠に「空海=満濃池修復」説を記す。

②これに対して、日本紀略や太政官符などからだけでは文献考証面から「空海=満濃池築造説」を裏付けるできないと研究者は考えている。


この上に、11世紀前半のものとされる史料の中には、空海が満濃池修復を行ったという記録がありません。それが「満濃池後碑文」です。

空海関与を伝えない満濃池後碑文
満濃池後碑文(まんのういけのちのいしぶみ)
以下も意訳変換しておくと

三年(853)二月一日、役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない


ここには、空海の満濃池修復後の約20年後に決壊した満濃池を国司の弘宗王が修復したことが記されています。その内容を見ると動員数など具体的で、日本紀略の記述に比べると、よりリアルな印象を受けます。弘宗王とは何者なのでしょうか?

 満濃池修復を行った讃岐国司弘宗王
満濃池を修復した弘宗王

弘宗王について当時の史料は次のように評しています。
「大和守
弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方政治について、見識をもった人物である。」
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、満濃町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、「倫理観に書ける悪徳国司」的な評価をし、「萬濃池後碑文」は偽書の可能性を指摘します。しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関してのな内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。どちらにしても最終的には大和国の国司を務めるなど、なかなかのやり手だったことが分かります。その子孫が、業績再考のために造ったのがこの碑文です。そこに書かれていることと、日本紀略の記事で年表を作成すると以下のようになります。


空海と弘宗王の相互関係の年表

「後碑文」には、満濃池は701年に初めて造られたとあります。その後、818年に決壊したのを空海が修復したことは日本略記に書かれていました。それが約30年後の852年に決壊します。それを復旧したのが讃岐国主としてやってきた弘宗王になります。その事情が後碑文(のちのひぶみ)の中に記されます。その後も、決壊修復が繰り返されたようです。そして、1184年 源平合戦が始まる12世紀末に決壊すると、その後は放置されます。つまり満濃池は姿を消したのです。それが修復されるのは役450年後の江戸時代になってからです。つまり、中世には、満濃池は存在していなかったことになります。

それでは「空海=満濃池修築」のことが、満濃池後碑文にはどうして書かれなかったのでしょうか?
その理由を考えて見ると次のようになります。


満濃池後碑文に空海が出てこない理由は

日本紀略よりも先に造られた満濃池後碑文からは「空海=満濃池非関与」説が考えられるということです。以上をまとめておきます。


空海満濃池築造説への疑問

考古学的な疑問点は次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
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  前回は文献的問題から研究者が「空海が満濃池を築造した」と断定しないことをお話ししました。今回は、考古学的な立場から当時の治水・灌漑技術が丸亀平野全域に用水を送ることが出来る状態ではなかったことを見ていくことにします。                           

古代に空海が満濃池を築造したとすれば、越えなければならない土木工学上の問題が次の3つです。
①築堤技術
②治水技術
③灌漑用水網の整備
①については、大林組が近世に西嶋八兵衛が満濃池を再築した規模での試算がネット上に公表されています。これについては技術的には可能とプロジェクトチームは考えているようです。

満濃池 古代築造想定復元図2

②の治水工事のことを考える前に、その前提として当時の丸亀平野の復元地形を見ておきましょう。20世紀末の丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代から古代の遺跡が数多く発掘されました。その結果、丸亀平野の形成史が明らかになり、その復元図が示されるようになります。例えば、善通寺王国の拠点とされる旧練兵場跡(農事試験場 + おとなと子供の病院)周辺の河川図を見てみましょう。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵隊遺跡周辺の河川
 これを見ると次のようなことが分かります。
①善通寺市内には、東から金倉川・中谷川・弘田川の支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れていた。
②その微高地に、集落は形成されていた。
③台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを振って、まさに「暴れ龍」のような存在であった。
このような状況が変化するのは中世になってからのことで、堤防を作って治水工事が行われるようになるのは近世になってからです。放置された川は、龍のように丸亀平野を暴れ回っていたのです。  これが古代から中世にかけての丸亀平野の姿だったことは以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡 土地利用図
 土器川の大束川への流れ込みがうかがえる(飯野山南部の丸亀市飯山町の土地利用図)

古代から中世にかけての丸亀平野では、いくつもの川筋が網の目のようにのたうち回りながら流れ下っていたこと、それに対して堤防を築いて、流れをコントロールするなどの積極的な対応は、余り見られなかったようです。そうだとすれば、このような丸亀平野の上に満濃池からの大規模灌漑用水路を通すことは困難です。近世には、満濃池再築と同時に、金倉川を放水路として、四条川(真野川)の流れをコントロールした上で、そのうえに灌漑用水路が通されたことは以前にお話ししました。古代では、そのような対応がとれる段階ではなかったようです。
 丸亀平野の条里制については、次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割は条里ラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
丸亀平野の条里制.2
 かつては「古代の条里制工事が一斉にスタートし、耕地が急速に増えた」とされていました。しかし、今ではゆっくりと条里制整備はおこなわれ、極端な例だと中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあることが発掘調査からは分かっています。つまり場所によって時間差があるのです。ここでは、条里制施工が行われた7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないことを押さえておきます。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。

弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡の灌漑水路網
最後に灌漑技術について、丸亀平野の古代遺跡から出てくる溝(灌漑水路)を見ておきましょう。
どの遺跡でも、7世紀末の条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展し、大型の用水路が現れたという事例は見つかっていません。潅漑施設は、小さな川や出水などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。この時期に灌漑技術が飛躍的に向上したということはないようです。
 大規模な溝(用水路)が出てくるのは、平安末頃以降です。
丸亀平野の川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿って、大きな溝(用水路)が出てきました。大規模な溝が掘られるようになったことからは、灌漑技術の革新がうかがえます。しかし、この規模の用水路では、近世の満濃池規模の水量を流すにはとても耐えれるものではありません。丸亀平野からは、満濃池規模の大規模ため池の水を流す古代の用水路跡は出てきていません。
ちなみに、この時期の水路は条里制の坪界に位置しないものも多くあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。
ここでは次の点を押さえておきます。

「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」

 以上から以下のように云えます。
①古代は暴れ川をコントロールする治水能力がなかったこと
②大規模な灌漑用水整備は古代末以後のこと
つまり8世紀の空海の時代には、満濃池本体は作ることができるとしても、それを流すための治水・灌漑能力がなかったということになります。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力がないと、水はやってきません。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
近世の満濃池の灌漑用水網

 しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか。もし、満濃池が存在したとしても、それは私たちが考える規模よりも遙かに小さかったのかもしれません。満濃池については、私は分からないことだらけです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

新訂増補 国史大系10・11 日本紀略 前編/日本紀略 後編・百錬抄(黒板勝美編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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昭和の時代には、丸亀平野のため池は弥生時代には出現していたと考えられていました。
 当時は、津島遺跡(岡山市)や古照遺跡(愛媛県松山市)の発掘が大きく取り上げられ、その影響もあったようです。
3.西根堰と水路網にみる歴史的風致 (1)はじめに 桑折町周辺は産ヶ沢川による扇状地が発

しがらみ堰
の発掘は大きく取り上げられ、弥生時代の灌漑技術が過大評価されたこともあるようです。しがらみ堰が作れるのなら、自然の窪みを利用した小規模な堤防もつくることが出来るようになり、それがため池灌漑へ移行し、農地を拡大していったというストーリーになっていきました。そのため、丸亀平野のため池の発生も、弥生期か古墳時代にまでさかのぼると考えられました。
 そして、丸亀平野のため池の発生については、次のような仮説が出されました。
2 丸亀平野のため池と遺跡
  
①昭和27年の3回の洪水調査から丸亀平野の洪水路線を明らかにし、弥生式遺跡の立地、ため池の配置を地図上に落としてみる。
②そうすると弥生遺跡が、いずれも洪水路線に隣接する微高地に立地すること
③ため池が洪水路線に沿って、鈴なりのように連なっていること
以上から次のように、研究者は推測しました。
水田が広がるにつれて、自然の窪みを利用した小規模な堤防をもつ初期ため池灌漑がスタートした。大規模古墳の土木工事は、そのままため池の堰堤工事に転用できるし、労働力の組織化もできるようになった首長は、丸亀平野の凹地にため池を築造することで、水田開発を大規模に進めていくことになる。

  以上が「丸亀平野における弥生・古墳時代の初期ため池灌漑」説です。しかし、現在ではこれは余り顧みられることのない「過去の説」になっているようです。
DSC06130

 それでは、現在はどのようにかんがえられているのでしょうか
 20世紀末に丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代の遺跡が数多く発掘されました。その中には、溝の幅が2mを超える「大溝」や「基幹的灌漑水路」と呼称される主要な灌漑水路も出土しています。これらの分水路を組み合わせで、水田への水は引かれていたと発掘報告書は報告します。
例えば坂出IC周辺の川津遺跡からは、下のような水路が出ています。

IMG_0002

ここでは、旧大束川から分岐した用水路が川津中塚遺跡を経て、下川津遺跡まで連続して続いていました。しかし、この段階では、何㎞も先から導水路を設けて広い範囲をカバーするような灌漑水路ははないと、研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 地形区分図

 以前に見たように善通寺王国の都である旧練兵場遺跡でも、微髙地周囲を網の目のように流れる中谷川(旧金倉川?)から導水された水路は、さほど長いものではありません。居住区から遠く離れた水源から取水する必要がなかったようです。
 古墳時代も、このような状況に変化はありません。
弥生時代後期に開かれた灌漑水路の多くは、古墳時代を通じて機能・維持されますが、なぜかこれらの多くは古墳時代後期の6世紀末葉から7世紀前葉に埋没・放棄されます。その理由は不明です。7世紀前半は断絶の時代なのかも知れません。
南海道 条里制与北周辺

 7世紀末になると律令国家の建設が進み、それに伴って目に見える形で南海道が東から伸びてきます。南海道を基準に条里制ラインが引かれます。そして南海道沿いには、各郡司達は郡衙を整備し、氏寺を建立し、自らの支配力を目に見える形で誇示するようになります。
川津一ノ又遺跡
そしてこの時期に、丸亀平野にため池が始めて出現します。
川津一ノ又遺跡(坂出市)では、7世紀後葉に築造されたため池が出てきています。大きさは推定で約3ha、復元堤高は約1mで、上流側の大束川から水を取り入れ、灌漑水路で各水田へ導水していたようです。
 このため池が「条里制実施にともなう水田面積の拡大への対応」のために、作られたと思いたいのですが、どうもそうではないようです。川津のため池の堤高や池敷面積から想定して、ため池築造により灌漑エリアが格段と広がった様子はうかがえないと研究者は云うのです。ため池築造が耕作地の拡大を目指したものではなく、途中に貯水場を設けることで「安定した農業用水の供給をはかることが目的」があった研究者は考えているようです。また、灌漑域も郷エリアを超えるものではありません。

満濃池灌漑エリアと条里制
 丸亀平野の条里制については、発掘から次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割はmラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
①については、条里制工事が一斉にスタートし耕地化されたのではないようです。極端な例だと、中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあるようです。場所によって時間差があるのです。つまり、条里制によって7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないようです。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。つまり「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。
金倉川 10壱岐湧水

中世の善通寺一円保(寺領)を、例にしてみましょう
①一円保の水源は、二つの出水と弘田川でまかなわれていた。
②14世紀後半になって、弘田川上流の有岡の谷に、有岡池を築造した
つまり、善通寺の寺領(?)である一円保は、金倉川から取水は行っていません。これが私にとっては謎です。もし満濃池が空海によって築造されたとすると、その最大の受益者は空海の実家の佐伯家でしょう。
1空海系図2

空海の弟は、多度郡の郡司を勤めていたようで、業績を表彰された記録が正史に残ります。満濃池築造の際には、郡司だったかもしれません。そうだとすると、満濃池の利水に関して大きな発言権を持っていたと考えられます。当然、満濃池から善通寺周辺への灌漑路を整備し、それによって水田や畠などの開発に乗り出したはずです。
 しかし、満濃池から善通寺までの用水路なんて、この時代に整備・維持できたのでしょうか。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺生野町辺りの旧金倉川流路跡
わたしは金倉川を使えば、いいのではないかと思っていました。しかし、古代の金倉川や土器川は流路が定まらず、堤防もないためにいくつもの流れになって丸亀平野を流れ下っていました。そこに堰を設けて導水するなんてことができたのでしょうか。
金倉川と条里制

 もしそれが可能だったとしたら、どうして中世には善通寺一円保は金倉川から導水せず、有岡池の築造を選んだのでしょうか。古代にできていたことが、中世にはできなくなった理由がつけられません。
 もうひとつは、古代において多度郡の佐伯家が用水不足からため池を必要としていたのなら、まず取りかかるべきは有岡池だったのではないでしょうか。最初から満濃池である必要はありません。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の導水水路で、これは一円保には描かれていない

 土木モニュメントは、古墳を例にすると小形のものから作られ始めて、様式化し、大型化するという段階を踏みます。それまで丸亀平野になかった超大型のため池が、突然姿を現すというのも不自然です。まさに弘法大師伝説のひとつなのかもしれません。
 築造費用についても、当時の国司は空海が讃岐に帰ってきて、満濃池修築を行ってくれるなら、修築費も国が出す必要はないと云っています。手弁当で人々が参加することを前提としているのかも知れませんが、資材などの経費は必要です。だれが出すのでしょうか。これは、佐伯家が出すと云うことなのではないでしょうか。そこまでした、佐伯家にとって満濃池は必要だったのでしょうか。もし満濃池の築造の必要性があるとすれば、多度郡司である空海の弟の国家への貢献度を高め、位階を上げるためという理由付けはできるかもしれません。 
弘法大師御影 善通寺様式


 空海による満濃池修築というのは考古学的には疑問があるようです。しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。古代の満濃池については、私は分からないことだらけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書 第3章歴史的環境
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  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国が次のように言上した. 去年から満濃池の修造工事を進めていますが,事業規模が大なのに対し差発できる民は少なく, まだ完了していません.ところで,僧空海は当地出身の人物で,山中で修行して鳥獣に親しみ, 海外にまで仏教の真理を求め,学問を積んで帰国しました. そのため, 出家人も俗人も空海の風貌を敬い、人々は空海の姿を仰ぎ見ています.空海が留まる所には教えを請う者が市をなし, 出行するとあとを追う者が雲のごとくとなります.
 いま, 空海は郷里を離れ, 平安京に住んでいますが、百姓は父母のごとく恋い慕っており、空海が来ると聞きますと,履物を逆さにしたまま慌てて迎えるほどです. 伏して,空海を満濃池修造事業の別当に起用して完成させることを請願します.
言上を許可した.
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より)

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昔むかし、讃岐の国のいなかに、満濃の池という、それは大きな池がありました。土地には水が少なく、満足に米もとれずに、みんなつらい暮らしをしておったとか。
 そのころ、高野山に、弘法人師さまというえらいお坊さまがおってのう、みんなのなんぎを聞いて、たいそう心をいためられたそうな。「かわいそうになあ。これでは、みんな、ごはんを食べられなくなってしまう」
 そこで弘法人師さまは、何かしてやれることはないかと知恵をしばったそうな。
「おお、そうじゃ! ひとつ、この上地に人きな池をつくってやろうか!」 思いたつと、方々から人を集めなさったと!・
 弘法人師さまのおやさしい人柄をしたって、それはもう、たくさんの人が集まってきたそうじゃ。

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こうしてできた池の大きいこと。堤も、それはそれは高く作られました。
  とても池とは思えんのう
   こりゃあ、海ではないかい
  土地の人々はみんなうわさしあったそうな。
あまりに大きくて向こう岸がぼーっとかすんではっきり見えません。みんな大喜びで大事に使うことにしました。
 それまでは、日照りが多く、田柚えどきには水不足に泣かされていましたが、この池のおかけで、どこのたんぼも、水を引くことができ、ぶじにうるおうことができたとか。
 朝廷からも、たくさんの川をつなぐ力をいただき、絶えることがなかったそうな。

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池の中には、大きいのやら、小さいのやら、いろんな魚が住んでいて、みんなどんどん魚をとっていました。でも、魚はいくらでもおったので、どれだけとってもいなくなることはありません。
あるとき、領主様が、この国の人々やら、館の人々やらをおおぜい集めて、お話をなさったとか。
 そのおりにも、満濃の池の話でもちきりだったそうな。
「なんと! 満濃の池には、いろんな魚がいっぱいおるそうじゃと!三尺の鯉でもおるじやろう」
 だれがいうたか、そのことが領主様の耳にはいってしまいました。
 「それは、ぜひとも欲しいものよ」
 領主様は思いたって、おいいつけなさった。
 「この池の魚をとる! 用意いたせ!」
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ところが、池の深いこと、深いこと。       
 下りていって網をしかけることもできぬほど。
そんならどうしたらよかろうかと、みんなで頭をひねっていたら、
 「この池の堤に大きな穴をあけよ’・
 そこから出る水の落ちるところにしかけをせよ
流れでる魚をとるのじや」
 家来衆がいうとおりにするとぱーつと勢いよく水が吹き出し、出るわ、出るわ、次々とたくさんの魚が出てきました。
 「やったあ! 大漁じゃあ」
   ところがその後、穴をふさごうとしましたがものすごい勢いで水が吹き出し、どうしてもふさぐことができません。
 そこに堤をつくり、木の樋を打ちつけ、少しずつ水を流すようにしたところ、池はそのおかげでなんとかもたせることができました。
「しかしまあ、この穴は、堤をぶちぬいてできた穴だもんな。
しかもこんなに大きい穴、大丈夫かいな」
  みんな、ほんに考えこんだそうな。
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  はたして梅雨がきて、どしゃぶりの雨がつづき、たくさんの川に水があふれ、それが全部、この池に流れこみはじめました。
さあ、たいへんです。
ゆき場のない水が、出口をもとめていっきに穴をめがけて押し寄せたのでもうたまりません。あれよあれよというまに、堤はこわれてしまい、池の水は残らず流れ出てしまいました。    
  「助けてくれ! 流される」
   おらんとこの、家も田んぼも畑も、めちゃめちゃじゃあ
  泣いても、叫んでも、もうどうにもなりません。
  みんな、何もかもなくしてしまいました。

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国の人たちは、これにすっかりこりて、池は小さく造ろうと考えました。
 そんなわけで、小さな池をなんぼでもつくったものの、池はすぐにひからびてしまい水は残りません。池のあった跡さえ、判らないようになってしまいました。
 悪いのは、なにがなんでも三尺の鯉が欲しいというたご領主様じゃ。ご領主様のせいで、あの生き仏様が、弘法大師さまが、土地の衆をかわいそうに思うて、せっか く造ってくたさった池をなくしてしもうた。ばちあたりなことはかりしれんわ。この池の崩れたことでたくさんの人が家を壊され、たんぼや畑をなくしてしまいました。
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 それもこれも、みんな、ご領主様のせいじゃ」
 だれもがそういうたとか。
 「池のなかの魚を、ちょっととりたいばっかりに、池をこわしてしまうとは、なんたるこっちや」
 [大きなむだじゃ。しょうのないご領主様じゃ]
 そう言って、みんな怒り、嘆きました。

 まあそういうことで、人間は欲張ってはいけません。
 他国の人々までも、今にいたるまで、ご領主様の悪口を言っているとか。
 その池の跡は今もまだ残っているそうな。

 『今昔物語』の舞台となった満濃池

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まずは今昔物語を見ておきましょう。
今昔物語集[平安時代後期] 巻二十本朝附仏法第十一
「龍王、天狗のために取られたる語」 の冒頭部です
 今昔、讃岐国、□□郡ニ、万能ノ池ト云フ極テ大キナル池有リ。其池ハ、弘法大師ノ、其国ノ衆生ヲ哀ツレカ為ニ築給ヘル池也。池ノ廻リ遥ニ広シテ、堤ヲ高築キ廻シタリ。池ナドヽハ不見ズシテ、海トゾ見エケリ。池ノ内底ヰ無ク深ケレバ、大小ノ魚共量無シ。亦竜ノ栖トシテゾ有ケル。
意訳変換しておくと
今は昔、讃岐国□□郡に万能の池という非常に大きな池があった。その池は、弘法大師がこの国の民衆を哀れんでお造りになった池である。池の周囲ははるかに広々としており、堤を高く築き巡らしてある。とても池には見えず、海のように見えた。池は底知れぬほど深いので、大小の魚は数知れず、また竜の住処となっていた。
全文を意訳変換したものを載せておきます
昔むかし、いまから千百年あまり前の弘仁(八二〇年)の頃のお話です。
 讃岐の国のお役人、国司清原夏野は弘仁九年の大洪水とそれにつづく、翌年の大干ばつ、またその翌年も干ばつと、大雨や日照りで農民を苦しめる災いにどうしたものか”と強く心をいためておりました。
 大雨はともかく、夏の日照りの水不足を防ぐ手はないものかと、ずっとずっと考えこんでいました。そこではたと思いついたのが金倉川です。
 「そうだ、あの川をせき止めよう。そうすれば池にはたくさんの水がためられる」
 われながら名案だと思ったのですが、洪水で決壊して干上がった池の内にはすでに人々が大勢住そんなわけで清原夏野は考えたことを実行に移します。
 まず手始めは、ときの天皇、嵯峨上皇ににその計画を願い出ることです。幸いなことに天皇はそのお話をお聞きいれになり、池の修築工事のために築池使の路眞良人浜継(みちのまびとはまつぐ)を讃岐の地に遣わされました。
 やれやれこれでひとまず安心とばかり胸をなでおろした清原夏野でしたが、それもつかのま、今度は工事の人夫が思うように集まりません。
「満濃池 」の画像検索結果
募るいらいらが頂点に達したとき、またまた妙案が清原夏野の頭を掠めました。
 「そうだ、あのお方なら……」
 自分の新たな思いつきに飛び上がって喜びました。
 あのお方とは……。満濃池の歴史の一時代を飾る「空海の修築」の主役、空海こと弘法大師です。

 そこでいよいよ主役の登場です。
 人の心を掴んで離さない高僧の誉れ高い空海が讃岐に下ったのはそれからまもなくのことでした。 その後の工事はいうまでもなくとんとん拍子。清原夏野の思わくどおり、池普請の現場は空海を慕う人々であふれ、人手に困ることはありませんでした。

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 それから数か月後の弘仁十二年(821)、堤防の工事が無事終わり、広々とした池には澄んだ水があふれるほどにたたえられました。
 こうして甦った満濃池の堤では、あたたかくなると、昼寝ざんまいの小蛇を一匹見かけることがときおりあったそうです。
 のんべんだらりと、小さな身体のわりには態度の人きさがちょっと気になるこの小蛇、それもそのはず、身元をたどれば池に住む人きな人きな身体の龍神だったのです。 冬、ひなたはっこで池の堤に寝ころぶときは、くるりと身体をひとひねりして小さな蛇に変身。これなら誰にも邪魔されません。
 「なんとまあ、ここちいいことかい」
 龍神はお目さまに日を細めるといつものように草むらにごろん。あったかい陽ざしを布団がわりに、木々の梢を揺らして過ぎるそよ風を子守歌にうとうととまどろむ日もあったようです。
ところが今日はいつもとはちょっと様子が違っていました。
  ”ぴーひょろろ、ぴーひょろ‐”
広げた両の翼に上昇気流をいっぱいに受けて、高く高く大空を舞うとんびが一羽。その小さな目に、池の堤でひっくりかえっているまるで小指ほどの蛇が一匹飛び込んできました。
 なんだい、蛇のくせに昼寝かい
 いたずらとんびは昼寝の小蛇めがけて急降下。
さあー 土手の草がいっせいになびきます。
同時にとんびのくちばしが小蛇をがちっ。
目をさますまもなく小蛇の身体は宙に浮き、空へ空へ。
小蛇をくわえたとんびは、緑の田畑を越えて青い海へ。
海を過ぎるとふたたび陸へ。
とんびはどこまでもどこまでも飛びつづけます。
いったいどこへ行くのでしょう。
実はこのとんび、近江の国の比良山をねぐらにする天狗だったのです。
とんびは山のなかの洞穴に、小蛇をぽいと放り込むと
木々の間を縫うように舞い上がり、再び青空のかなたへ姿を消してしまいました。
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”まいったな。ほんにうかつじやった”
 龍神は悔やみましたが後のまつり。
水さえあれば大きな龍の身体にもどれるのですが、あいにく洞穴には一滴の水もありません。

 とんびに化けたいたずら天狗は琵琶湖の近くの比叡山までひとっ飛び。
今度は比叡山のお坊さんを狙います。
そんなこととはつゆ知らぬお坊さん、
 「ほんにすっきりしたわい」
 手洗いの水が入った瓶をかかえて厠からぬっと姿を見せました。
とんびの天狗はーい、一丁あがり!とばかり、
両足でお坊さんの襟首をつかむとすいすい、比良山の洞穴へ。
いきなり暗いところへ放り込まれたお坊さん、
「はて、わしやいったいどうなったんじやい」
首を傾げるばかり。
そんなことには頓着なしのいたずらとんび、
「もうひとっ飛び、行ってくるか」
と、またもや空高く舞いあがりました。  
どうしたものかと思案にくれていた小蛇の龍神は、お坊さんの水瓶に元気百倍。
「もしもーし、どなたか存じませんが、その瓶の水を
わたしの身体にふりかけてはくださいませぬか」
 小蛇の言葉に気のいいお坊さん、
 「あいよ、あいよ」
 ふたつ返事で、瓶の水を小蛇の身体にじゃばじゃば。
すると小さな蛇がむくむく、むくむく。伸びて伸びて、
天を突くような巨大な龍に変身しました。
「満濃池」の画像検索結果
おかけで助かった。さあ、はようわしの背中へ 寺までお送りしましょうぞ龍神はお坊さ
んを寺まで送り届けると比叡山から京の都を越えてふるさとの満濃池へ向かおうとしました。
ところがどっこい、今度は荒法師に姿を変えたいたずら とんびが、鴨川にかかる大橋を堂々と歩いているではありませんか。
 ”なにかまた、よからぬことを考えておるな” 龍神は、そうと荒法師の後ろに近づくと、 「こらー!・」
 大声とともに背中をどおーん。力いっぱい押しました。
いきなりの雷声と嵐のような力にさすがの天狗も、
 「まいったあー」                   
 目を白黒させながらその場にばたん。
 「もう二度といたずらなんぞするんじゃないぞ」
 龍神の言葉が聞こえたかどうか定かではないものの、よほどに懲りたものか、それからは天狗の悪さを耳にすることはありませんでした。
 そんなわけで、龍神は京の都から山や野を越え、海を渡り、満濃池に戻ることができました。
 ところで龍神、いたずらとんびの天狗に懲りてもう小蛇に化けるのはやめにしたとか、そんな噂もありますが、とんでもない。やっぱりひなたぼっこはやめられないと、ほら今日も鼻ちょうちん。それが証拠に堤の草むらで夢みごこちの小蛇を村人たちはときおり見かけるそうです。
 満濃池で昼寝の小蛇に出会ったら、それはきっと龍神ですから、決して水などかけぬよう。
小蛇がいきなり大きな龍になったらおおごとです。そっとそっと見て見ぬふりで……。

 昔むかしのお話です。
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今昔物語 満濃池と龍神の全文         

讃岐国那珂郡に万乃池と云、極て大きなる池あり。
其池は弘法大師の其國の衆生を哀しかり、為に築たまへる池なり。
池の廻り遙かに廣くして堤を高く築きまはしたり。
池なととは見えすして、海とそ見えける
池の内底ひなく深ければ大小の魚とも量なし。
龍の棲としてありける。
然る間其池に住ける龍 日に当らんとおもひけるにや。
池より出て人離たる堤の遷に小蛇の形にて蜻て居たりけり。
其時に近江国比良山に住ける天狗鎬の形として其池の上を飛まわるに堤に此小蛇の幡て有を見て掴反下て、俄に掻き探て逢に空に昇ぬ。
龍ちから強き者なりといへ共、思ひかけぬ程に俄に拝れぬれ八、更に術尽て只猟れて行に、天狗小蛇を扨砕て食せんといへとも龍の用力強に依て心にまかせて探み砕て散ん事あたはずして遥に本の栖の比良の山に持行ぬ。
 狭き洞の動へくもあらぬ所に打寵置つれ八、龍狭口口口破元くして居たり。
一滴の水も元八空を翔る事もなし。亦死ん事を待て四五日あり。然る間此天狗比叡山に行て俗を伺て貴き僧を取らんと思ひて夜、東塔の北谷にありける高き木に居て伺ふほとに其向に造り懸たる房あり。其房に有僧、外に出て小便をして手をあらはんふため水瓶を以て手を洗ふて居るを、此天狗本より飛来て僧を掻採て、逼に比良山の栖の洞に将き行て龍の有處に打置つ。
僧水瓶を持なから我にもあらて居り。いま八限とおもふほとに天狗八僧を置ままに去ぬ。
其時に暗き所に苔有て僧に向て云く、汝八此誰人そ。何より来そそと。
僧答て目、我比叡山の僧なり。手を洗はん為に坊の橡に出たりつるを天狗の俄に掴み取て将来れはなり。然八水瓶を持なから来れるなり。抑かくいふ八また誰そ。
龍答て云、我は讃岐国万能池に住龍なり。堤に這出たりしを、此天狗空より飛来て俄に猟て此洞に将来こり。狭く口口て為む方無といへとも、一滴水も元けれ八空をも翔らすと。
僧のいはく、此二持たる水滴に若一滴の水や残りたらんと。
龍是を聞て喜て云、我此所にして日来経て既に迦終なんと為るに幸に来り會ひ給ひて互に命を助る事得へし。一滴の水有ら八、必汝本の栖、二将至へしと。
僧又喜て水瓶を傾て龍に授るに一滴斗の水を受て、龍喜て僧に教て云、努々怖る事なくして、目塞て我に負れ給ふへし。此御更に世々にも忘かたしといふて、龍忽に小童の形と現し、僧負て洞を蹴破りて出る間、雷電屏震して陰り雨降事甚怪し。
僧身振肝迷て怖しと思ふといへとも、龍を睦ひ思ふかゆゑに念して負れて行し程に、須実に比叡山の本の坊に至る。僧を橡に置て龍八去。彼房の人常の屏震して房に落懸と思ふほとに俄に坊の澄暗夜の如く成ぬ。しはらく斗有たる時に見れは、一夜俄に失ひにし人の橡にあり。坊の人々奇異に思て問に、事有様を委しく語る。人々ミな聞て驚き奇異りける。
其後龍彼天狗の怨を報せ為に天狗を求るに天狗京に智識を催す荒法師の形と成て行けるを龍降て蹴殺てけり。
 然ば翼折れたる屎鵠にてなん。大路踏れける。彼比叡山の僧八彼龍の恩を報せんかため、常に経を誦し善を修しけり。実に此龍八僧の徳に依て命をなし。僧八龍の力依て山に返る。是もミな前世の機縁なるへし。此事は彼僧の語り傅へを聞継て語り傅へたるとかや。

   

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