瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の武将 > 尾池玄蕃

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が大川神社(権現)に寄進した雨乞用の鉦
1626(寛永3)年  旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春   浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年 8月   西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月   西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
      尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月  生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
1620年代後半に讃岐生駒藩は長年の旱魃で飢饉となり、多くの農民が土地を捨てて逃散していきます。まさに存亡の危機に追い込まれます。これに対して当時、生駒藩の後見人だった藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えます。

「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることが肝要である。ついては目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

  藤堂高虎の指示に従って、生駒藩は目付として送り込まれていた西嶋八兵衛のもとに団結し、危機を乗り越えようとします。当時30歳だった西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられ、「ため池 + 大型河川の治水灌漑 + 用水路網整備 + 農地開墾・開拓」などがセットになった「丸亀平野総合開発事業」がスタートします。
 西嶋八兵衛は藤堂高虎から英才教育をうけていて、天下普請の京都二条城、大阪城などにも参加し、設計や現場監督も務めた経験をもった当代一流の土木技術者でもありました、その彼に持てる力を発揮する場所が与えられたことになります。別の視点から見ると、城づくりなどの軍用技術が、天下泰平の世の中になって、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。ながくなりましたがここまでは前振り導入です。ここからが本題です。
 当時の西嶋八兵衛の動きを追いかけていると、本当にこれをひとりでやったの?と思えてきます。
 彼は「目付」の「レンタル客臣」で家老並みの石高2000石待遇です。今の県庁で云うと、総務部長・土木建築部長・東京出張所所長というポストかもしれません。そして残された文書には、3人の奉行の一人として彼の花押(サイン)があります。つまり目を通していたことになります。現場監督をやっている暇はなかったのではないかと思えるのです。もともと西嶋八兵衛は満濃池を造りに派遣されたのでありません。後見人の藤堂高虎の目付(全権委任責任者)として、讃岐にやってきているのです。
 そんな疑問の中で、私が注目したのが尾池玄蕃です。
彼については、以前に次のようにまとめました。

尾池玄蕃2

こうしてみると、尾池玄蕃は「丸亀平野開発プロジェクト」を担った能吏のひとりであったことが見えてきます。ところが生駒騒動前に尾池玄蕃は、熊本藩細川家に招かれ、百人扶持でトラバーユしていくのです。さらに後には二人の子供も、熊本藩に就職し、それぞれ千石拝領されています。形としては生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようにも見えます。尾池玄蕃の肥後藩への再就職には、どんな背景があったのか気になっていました。それに応えてくれる論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」です。

まず、尾池玄蕃の息子の 西山至之(にしやまのりゆき)を、ウキで見ておきます。
室町幕府13代将軍足利義輝の遺児といわれる尾池義辰(玄蕃)の子。初め尾池伝右衛門(諱:唯高)と称し、後に姓名を改めて西山左京(至之)を名乗った。父を招いた熊本藩主細川忠利から細川綱利の代まで仕える。石高は1000石。家格は比着座同列定席。子に西山重辰、西山之氏。経歴『全讃史』によれば、父の義辰は讃岐高松藩主生駒家より2000石を授けられており、至之と弟の尾池藤左衛門が各1000石を相続したという。 寛永14年(1637年)の生駒家改易(生駒騒動)や島原の乱の頃に肥後熊本藩主細川氏から熊本城下に召し寄せらる。高松藩時代同様に知行1000石・無役・客分に遇され、左右着座の上座にあたる比着座同列定席の家格に編入される(弟の藤左衛門も1000石を知行した)。
新たに称した西山姓は室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣ったものかと思われる。綱利の参勤交代に従って江戸に滞在する間に病没した(後略)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①尾池玄蕃には、3人の子どもがいて、長男が西山至之(伝右衛門)、次男が尾池藤左衛門が供に、細川藩に仕えることになった。ちなみに末子:官兵衛は生駒藩に残り、後にその子孫は大野原開発に関わることになる。
②尾池玄蕃は、室町幕府の足利義輝の嫡男であることを宣言するために「足利道艦」と改名した。
③長男の尾池伝右衛門も、室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣って「西山」に改姓した。
ここからは、尾池玄蕃が「足利義輝の直系子孫」であることを強く印象づけようとしていることがうかがえます。どうして、そのような必要があったのでしょうか?
研究者が新たに発掘した書状を見ていくことにします。
発給者の曾我古祐・包助は、足利将軍家の直臣で、この時点では徳川将軍家に召し抱えられた曽我氏の子孫になるようです。兄の古祐は大坂町奉行、弟の包助は館林松平氏(徳川一門)の家老をつとめつ立場で、徳川将軍家に重用されていたことがうかがえます。

武家家伝_曽我氏
曽我氏系図 「曾我兄弟」の子孫

一方、受取人は西山左京・八郎兵衛で、尾池玄蕃の長男で、彼らは足利義輝(室町幕府十三代将軍)の落胤を称していたことは先ほど見た通りです。つまり、足利幕府にかつて使えていた者同士の書簡のやりとりということになります。それでは見ていくことにします。

尾池玄蕃 旗本家からの書状
 意訳変換しておくと
 なお(西山左京の息子)勘十郎様や山三郎様へ書簡を先に差し出しておくべきところですが、長年音信不通で連絡がとれなく返信が困難な可能性もあり見合わせていました。道閑(尾池玄蕃)様は、このとをご存じないと存じて書状も差し上げませんでした。
 尾池伝右衛門尉殿が江戸へお上りになることについてご連絡頂き、それを見て、勘十郎様・山三殿にもお伝えしました。伝右衛門尉殿については(細川家への就職が内定し)、おめでとうございます。細川殿は肥後在国中だそうですがで、そろそろ江戸に出立するころと察せられます。なお将軍(家光)にも若君様(長男竹千代:後の徳川家綱)が御誕生したとの情報が内々ではひろがっています。これは肥後殿にとっても大慶で、下々に至るまで恐悦なことです。また私儀のことになりますが、急な用向きで、先月21日朝に、大坂へ帰任しましたが、いろいろなことで書簡を出すのが遅れてしまいました。心配しておりましたが、藤左衛門尉殿が京都にいらっしゃるようですが、日程が合えばお会いしたいとも思います。猶期後音之時度候、恐惶謹言、
曽我丹波守八月十(寛永十八年)
 八月十七日 (曽我)古祐(花押)
 西山左京様参御報(尾池)

この文書からは次のような情報が読み取れます。
①大坂町奉行在任中の曾我古祐が、西山左京に宛てた書状であること
②時期は「若君様の御誕生」から、将軍徳川家光の子息で八月出生は、寛永十八年(1641)の長男竹千代(後の徳川家綱)だけなので、この書簡は1641年のもので、生駒騒動発生前年のことになること
③内容は、尾池玄蕃の次男伝右衛門が江戸に下向することを伝えたことへの左京の書状の返書
④追伸部分に登場する勘十郎と山三郎は、西山左京の子息にあたる。
⑤江戸下向が話題にのぼっている尾池伝右衛門・藤左衛門も西山左京と同じく、足利道鑑(尾池玄蕃)の子息になる。
この中の伝右衛門については、従来は西山左京と同一人物とされていました、しかし、この書簡からは別人であったことが確認できます。以上から、尾池玄蕃は三人(西山左京と尾池伝右衛門・藤左衛門)息子と行動をともにしていたとしておきます。
ここで研究者が注目するのは②のこの書簡が、生駒騒動発生の前年にあたることです。
それでは、沈み行く生駒藩から尾池玄蕃とその息子たちが肥後の細川藩へと乗り換えたのはいつなのでしょうか。最初に肥後藩に仕えたのは、次男の西山左京だったようです。そして肥後藩の大阪事務所に勤務するようになります。それがいつなのかはよく分かりません。ただ、寛永15年(1638)には左京は熊本に移り、細川氏の家中に加わていたことが確認できます。その3年後(1641年)正月二日に、熊本で藩主細川忠利は、尾池玄蕃と西山左京勘十郎・山三郎をはじめとする家中の客分たちを熊本城の奥書院で引見しています。ここからは、1641年には尾池玄蕃と次男の西山左京は、細川藩の客分として正式に迎え入れられていたことが分かります。
 研究者が注目するのは、この時の藩主引見には、尾池伝右衛門・藤左衛門の二人の息子の名前がないことです。
尾池玄蕃や左京とちがって、伝右衛門・藤左衛門はまだ細川氏に召し抱えられていなかったと研究者は判断します。 この書簡がやりとりされた1641年の時点では、息子の尾池伝右衛門・藤左衛門のリクルートはまだ進行中で、実現はしていなかったことを押さえておきます。
 そんななかで藩主忠利が寛永18年3月に熊本で死去します。これにより伝右衛門・藤左衛門のリクルート対象は、忠利から嫡子の光尚に替わります。父が亡くなったときに光尚は江戸にいて、将軍家(家光)から家督相続と帰国を許され、熊本に下向ています。そして、用向きを終えると9月末頃に再び江戸に向かって出立しています。その途中の伏見で尾池藤左衛門と対面しています。この「殿様面接」を経て、藤左衛門も細川氏への仕官が正式決定となります。そして12月17日に、妻子を連れて熊本に到着します。
 以上から書簡に出てくる尾池伝右衛門・藤左衛門の江戸下向とは、伏見で江戸に向かう藩主細川光尚と合流し、その江戸参府に随行して上京する計画だったと研究者は考えています。書簡からは、藤左衛門が京都にいたことが分かります。それは藩主光尚の熊本出立を京都で待っていたいたようです。分からないのは、藤左衛門のみが藩主と対面していることです。伝右衛門の名前がないのです。
こうしてみると、細川家は生駒家に仕えていた尾池玄蕃と2人の息子を、客分待遇1000石で迎え入れたことになります。それも生駒騒動勃発の直前です。
尾池玄蕃の家族を客分として迎えた細川藩には、どんな思惑があったのでしょうか?
 近世に生き残った将軍足利氏の子孫としては、次の2氏が知られているようです。
A 鎌倉公方・古河公方の系譜を引く喜連川氏
B 足利義稙(十代将軍)の系譜を引き、足利義栄(十四代将軍)を輩出した平島氏
Aの喜連川氏については徳川将軍家、 Bの平島氏は阿波蜂須賀氏によって扶助されました。
しかし、喜連川氏や平島氏がと違い、尾池氏(西山氏)は、真正の足利氏後裔とはいえません。自称「足利義輝の子孫」なのです。
細川家には近世大名にのし上がるまでに数々の栄光がありました。その中にただひとつ汚点があります。それが家祖・藤孝(幽斎)が将軍足利義昭(義輝弟)の側近でありながら、織田信長に通じて義昭を裏切ったことです。これは、細川氏が自分の系譜を誇るうえで、マイナスポイントとして作用するようにもなります。そこで、細川氏は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の真偽を度外視して、尾池玄蕃と西山左京父子を家中に迎え入れたと研究者は考えています。これは「弟(義昭)は裏切ったが、兄(義輝)の子弟は客分として迎えている」という「旧主を庇護する忠臣の演出」ということになるのでしょうか。
 足利道鑑(尾池玄蕃)や西山氏・尾池氏を足利将軍家の後胤とするのは、肥後細川氏の家中の中だけで通用する虚構でした。ところが、足利家の末裔で徳川幕府の有力旗本となっていた曾我古祐・包助兄弟も、西山氏と交際するようになります。足利義昭を見捨てて、後の戦乱の世を生き延びたという経緯は、熊本の細川家と同じです。そのため、旗本の曾我兄弟は細川氏の「尾池玄蕃=足利将軍の落し子」というフィクションを受入て、西山父子を尊重する態度をとっていたのは、先ほど見た書簡の通りです。これについて研究者は次のように記します。

その裏には、今は徳川将軍家の旗本であるが、かつての旧主(尾池・西山家)にも礼を尽くしているというポーズを演出しつつ、足利将軍家旧臣としての自意識を満たそうとしたのだろう。

以上をまとめておきます。

①伊勢藩の藤堂高虎が目付として生駒藩に派遣した西嶋八兵衛は、大旱魃への対応策として「ため池 + 治水工事 + 用水路整備」がセットになったで大規模な「総合開発事業」を各地で同時に進行させた。
②丸亀平野地域の責任者が尾池玄蕃で、青野山に代官所をもうけて指揮にあたった。
③それが残された大川山の鐘や、多度津念仏踊りの史料からうかがえる。
④尾池玄蕃は自分の出自を、室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児と称した。
⑤そして讃岐香川郡の横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)の養子となったとした。
⑥後に生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。
⑦二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
⑧熊本藩細川家は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の虚構をあえて信じて「旧主を庇護する忠臣」という立場を演出した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」
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前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。

鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も俸給制が進まず、領地制を継続していました。
そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


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