瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近代史 > 戦前の村

かつての讃岐では、村々で雨乞踊りが踊られていました。しかし、その踊りが雨乞踊りと称するようになるのは、江戸時代末から明治以後であることがおおいようです。それまでは風流踊りの流れを汲む盆踊りとして踊られていたようです。それがどうして、雨乞踊りと称するようになったのでしょうか。これについて、幕府や明治政府から盆踊り禁止令を出すようになったこと関係があるのではないかと私は考えています。禁止された盆踊りを、雨乞踊りと称する事で正当化して、踊る機会を確保しようとしたのではないかという仮説です。そこで今回は、明治政府が出した禁止令と、どうして盆踊りが禁止されたのかについて見ていくことにします。テキストは「伊東佳那子・來田享子  明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」です。

風流踊りから盆踊りへ

次の表のように1870年(明治3)年の群馬県を先頭にして、16県で盆踊り禁止令が出されています。
各県の盆踊り禁止令一覧
盆踊り禁止令を出した各県一覧表 
最初に禁止令を出した群馬県のものを見ておきましょう。
古来ヨリ盆踊ト申事当国ニ於テハ右様賤敷 風俗無之筈之処近来越後辺ヨリ下賤ノ者入込候故歟悪風ヲ佩ヒ盆踊ト唱ヒ夜遊等イタシ候向相聞既ニ昨年中モ厳重取締為致回勤之者見当次第召捕候筈ニ侯処当年之儀モ等一制禁ヲ犯シ相催候儀於有之ハ甚以不埓之事ニ侯以後心得違於有之ハ左之通申付侯事
一、踊之当人ハ其身分ニ応シ相当之過怠金可申付事
一附下女下男ハ其主人ヘ過怠金可申付候事
一、右之催致シタルニ於テハ其居町居村ノ役人共ハ勿論一統ヘ相当ノ過怠金可申付候
一又社寺之境内ニテ催シ候而モ過怠ノ儀同断 猶其上社寺迄可及事
意訳変換しておくと
古来より当国には、盆踊りというような風俗はものはなかった。ところが近年になって越後から下賤の者が入り込んできて、彼らがこのような悪風を拡げ、盆踊りと称して、夜遊などを行うようになったと聞く。すでに昨年中に、巡回して(盆踊りを)見つけたらすぐに逮捕するように命じてある。当年についても、この禁止令を犯し盆踊りを開催することは、大変不埓なことである。以後、心得違の者に対しては、以下のような罰金を申しつける
一、踊った者は身分に応じて相当の罰金を支払うこと。
一、使用人が踊った場合、その主人が罰金を支払うこと
一、盆踊りを主催した村や町の役人はもちろん、その一族も罰金を申しつける。
一、社寺の境内で開催した場合、その社寺も同罪で罰金を支払うこと。
ここでは越後から流入者(民俗芸能伝播者=修験者や山伏)が盆踊りを持込んで、夜遊びなどの「悪風」をひろげたので禁止するとあります。そして、踊ったものだけでなく、盆踊り主催者や場所を提供した寺社などにも罰金刑を課しています。
それでは、明治初年頃の盆踊りとはどんなものだったのでしょうか?

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
場所は、山形町愛宕山地蔵院の境内や黒石陣屋(藩政時代)の周辺で行われていた盆踊り風景です。
①上部の  「組踊りは風流踊りの一種で、規模は100人以上が様々な衣装や仮面を着て踊り歩く大掛かりなもの
②その下に描かれているのが「俄(にわか)」で、路上で寸劇などの芸能を演じる、いわいるストリートパフォーマンス。
③「有来たりの踊り」は「ぞめき踊り」とも呼ばれ、先祖供養を目的とした小規模な輪踊りのこと
こうしてみると明治初年には、江戸時代に流行したいろいろな踊りや芸能を飲み込んで、大型化・パレード型に進化し、総合芸能化していたことが見て取れます。
絵図からは、次のような事が読み取れます。
①円形で盆踊りが踊られていること。
②踊りの輪の下には、別の踊り集団がいくつもあって、同時並行で踊られていること

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』2
                   明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

③仮面を被ったり、いろいろな出で立ち姿であること、上半身裸の踊り手もいること。
④真ん中の着飾った歌い手の女性は柄杓で酒(水?)を飲みながらやっていること
⑤手にいろいろな持ち物を持って踊っていること

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』3
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

⑥輪の外にも、いろいろな人がいて面白おかしく踊っている。
⑦上半身裸で三味線を持って演奏している女性もいる。
⑥仮装した踊り手達が町中を上(カミ)から下(シモ)へ、下から上へと踊りながら行進し、夜更けまで踊り明かしたこと
これを見ると、明治初年の盆踊りは、現在の盆踊りからは想像も出来ないほど、猥雑であったことがうかがえます。だから禁止対象となったいえるかもしれません。

愛媛県の禁止令(明治6年8月29日)を見ておきましょう。

  略)盆踊ハ大概夜中ノ嬉戯ニシテ①男女混同頗ル猥褻ニ渉リ竟ニ言フベカラザルノ嫌ヒナキヲ免カレズ殊ニ妙齢ノ者共心気ヲ浮藻ノ地ニ動カシ本業ノ妨害タル(略)

意訳変換しておくと

 略)盆踊はだいたい夜中に踊られもので、そこに①男女が混同して集まり、非常に猥雑になり、言葉に云い表せられないような忌むべき光景が見られる。特に妙齢の若者男女の心気を浮藻にさせて、本業を疎かにさせる(略) 

ここには男女混同が風俗を乱すものになっていることを指摘して、今後一切の禁止を命じています。盆踊り禁止理由のひとつが男女の風紀の乱れであることを押さえておきます。 

田舎教師/田山 花袋|岩波文庫 - 岩波書店
 
  それを裏付けるのが1909(明治 42)年の田山花袋の「田舎教師」に描かれた盆踊りシーンです。
盆踊りのある処は村の真中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まってくる。樽拍子の音が揃うと、白い手袋を被った男と女が手をつないで輪をつくって、調子よく踊り始める。(中略)
村にはぞろぞろと人が通った。万葉集のかがいの庭のことが、それとなく清三の胸を通った。男は皆一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻なことを平気で話している。世の羈絆を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちが四辺に充ち渡った。垣の中からは燈光がさして笑い声がした。
「田舎教師」は、青年教師である小林秀三氏の日記を基に、現地調査によって執筆した小説です。この盆踊りの舞台は、埼玉県羽生市発戸とされています。このような光景は、ここだけではなく、全国で見られたシーンであったようです。これが「男女が一箇所に集まり風紀が乱れる」という理由になるようです。これを参加する男女から見れば盆踊りは、唯一の開放的な娯楽の場所で、性解放の機会だったようです。これは期待が膨らむ場所です。しかし、禁止スル側から見れば「それが問題なのだ!」ということになります。 


歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり
               歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり」

 一方、岐阜県や小倉県(福岡県)の禁止令では、「老幼男女群集」、「多人数相集」るものとし、男女だけではなく、多くの年齢層が集まる場と捉えています。権力者は、人が大勢集まる場所を嫌います。それは、一揆などの政治活動の場に転化・利用されてきたからです。研究者の中には次のように指摘する人もいます。

「盆踊りの輪がつくりだす非日常的な社会編成は、集会条例が禁止の対象とした政治演説のアジテーションと同様(あるいはそれ以上に)、治安当局にとって警戒すべき事態だった」

 しかし、自由民権運動が高まり、『大日本帝国憲法』の発布や帝国議会開設へ向けて、大衆の政治熱が大いに盛り上がりをみせるのは明治20年代になってからのことです。盆踊り禁止令が出されているのは明治初頭です。時間的なズレがありますので「盆踊り禁止令=政治運動規制」説は、無理筋のようです。
風俗画報 明治24年より(湘南盆踊り研究会所蔵
明治24年の盆踊り
 各県の禁止理由を、研究者は次のように4つに分類します。
① 一箇所に男女が多人数集まること
 盆踊りは「男女が集まる場所」であり、そのことによって風紀が乱れることを問題視しています。たとえば秋田県の禁止令には、盆踊りが「男女群ヲ成」すことが挙げられます。
② 盆踊り禁止理由の2つ目は「裸体や奇妙な格好をすること」です。

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』4
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

 禁止令は 「裸体」「異形之体」「奇異ノ姿」などの姿で行われる盆踊りを次のように問題視します。
A 1871(明治 4)年 和歌山藩の禁止令では、男女が化粧をして舞い踊ること
B 1872(明治 5)年 宇都宮県の禁止令では、盆踊りを「裸体や異形の体にて舞い跳びするもの」と捉え、「奇異の姿で行われる」こと
C 1874(明治 7)年 神奈川県の禁止令では、「女児聯伍シ衣服等頗ル美麗ヲ競ウ」とあり、女児が衣服などで美麗を競い合う見世物的要素があったこと
これを裏付けるのが、「田舎教師」(1909(明治 42)年)と同じ年に発行された森鴎外の自叙形式の小説「ヰタ・セクスアリス」の描写です。そこには森鴎外が10 歳の記憶として盆踊りの場に「男が女装」、「女が男装」した人がいたことが描かれています。以上からは、盆踊りには異性装で踊る慣習があったことが分かります。異性装は風流踊りの要素のひとつでもありました。
 異性の服装で踊ることについては、研究者は次のように解釈します。
①仏教的宗教性に加えられた演出として、盆踊りの仮装性を捕らる視点
②祝祭空間での異性装が「神性」に近づこうとするものであったという視点
盆踊りに異性装するのは、当時の庶民感覚では「当たり前」のことでした。ところが文明開化を推進する明治政府の役人達の中には、異性装は恥ずべき風習と考える人達がいたようです。両者に大きな隔たりがあったと研究者は指摘します。政府の役人達は、大衆を無知で遅れた存在ととらえ、彼らを文明開化に導いていくという指命感があったようです。別の言葉で言い換えると、政府役人が庶民を「矯正」しようとしているのです。これは政府の庶民の娯楽的風俗への介入です。それが「親心」であれ、実態は庶民の宗教的感性の抑圧になります。

月百姿 盆の月 月岡芳年作 画像は復刻版
月百姿 盆の月 月岡芳年作  (湘南盆踊り研究会所蔵)

③ 盆踊り禁止理由の3番目は
「楽器等を打ち鳴らすこと」です
 盆踊りに楽器を叩きながら踊ることは、一遍の念仏踊りに原点があると研究者は考えています。
神奈川県の禁止令では、「大鼓竹甄」を打ち鳴らすもの、秋田県の禁止令では「管弦等を鳴らして歌舞をする」ものと記します。ここからは「邦楽器の使用」も政府のめざす文明開化には、そぐわないとされたようです。絵図には、いろいろな楽器を打ち鳴らす姿が描かれています。しかも、いくつも集団が混じり合って、同時に演奏しています。これは「騒音」とされてもしかたない面もあったようです。         
④ 盆踊り禁止理由の4番目は「町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)もの」です
夜中に町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)ことが禁止の理由とされています。
秋田県では「深夜外歩」、若松県では夜中に道路で踊り騒ぐこと、栃木県では夜中の路頭を徘徊することが問題視さています。念仏踊りの頃には、盆踊りは神社の境内などで円形隊列で踊られていました。ところが江戸時代中頃になると伊勢踊りの「道行き」の要素が加わってきたようです。道行きとは、一箇所に留まらず往還をゆっくりと踊りながら進んでいくスタイルです。これを「踊(練)り歩く」と表現しました。これは江戸時代以降に加わったものです。これが禁止理由のひとつになっています。
 山形県の禁止令では、盆踊りと同じように「群行市在踊リ歩」くことと、通りがかりの家で酒や食事を貪る風習を問題視して「卑陋」として禁じています。

1873(明治 6)年に出された磐城県(現:福島県)の「念仏躍」禁止令は、次のように記します。

磐城之風俗旧来念仏躍ト相唱ヘ湛秋之際仏名ヲ称ヘ太鼓ヲ打男女打群レ夜ヲ侵シテ遊行シ中ニハ如何ノ醜態有之哉之由文明ノ今日有間敷弊習ニ付管内一般本年ヨリ右念仏躍禁止申付侯条少年児女ニ至迄兼テ相達可申事

 意訳変換しておくと
磐城の風俗である念仏躍は、晩秋に仏名を称えて太鼓を打ち鳴らし、男女が群集し夜を徹して、遊行する。中にははなはだ醜態をさらす者もいる。これは文明開化の今日では許されない悪習である。ついては県内では本年より、念仏躍を禁止する。少年・少女に至るまで通達するように

 ここで禁止理由は、男女が群れ夜中に遊行することが問題視されています。明治時代の念仏踊りは、盆踊りとして踊られていました。娯楽的な面が高まるにつれて、男女が一夜を共にすることが普通のこととされるようになります。そのため、磐城県ではこうした行為が醜態であるとし、念仏踊りを「文明の今日あるまじき弊習」と指弾します。以上、明治初年の禁止令の4つの禁止理由を見てきました。
 盆踊りは、江戸時代にも禁止令がだされています。
しかし、明治時代の盆踊り弾圧と江戸時代とのものは、禁止背景が異なると研究者は指摘します。例えば、江戸で出された 触れには、次のように記します。
1677(延宝 5)年 「8 月になって踊り続けるのはいけない」
1709(宝永 6)年6 月 夜中に町々に踊る者がいるので、交通の妨害になるから差し止める」
ここに書かれている禁止利用は、盆踊りによって人々が家業などを忘れ怠惰すること、江戸の秩序が乱れること、交通の邪魔、近所迷惑になることから禁止、制約したものです。ところが、明治時代の禁止は、諸外国との不平等条約改正を目的に行われた近代化政策の一環でもあったようです。盆踊りを「文明国として欧州に伍する為に廃止すべき弊風」とみなす延長線上にありました。ここでは、同じような表現を用いた禁止でも、江戸時代と明治時代とでは、その意味は大きく違っていたことを押さえておきます。
 また、禁止することは、大衆の反感を招き、騒動になるおそれがあることを役人達は知っていました。そこで踊りの日数を短縮させて許可するなどの懐柔策も併用しています。天皇制を浸透させる祝日である天長節が盆踊りを許可する日として指定いるのも象徴的です。

風俗画報明治30年より、河内音頭の図
                  風俗画報明治30年より、河内音頭の図(湘南盆踊り研究会所蔵)
もうひとつ盆踊りが弾圧対象とされた背景には、神道の神仏分離・廃仏毀釈の攻撃目標になったのではないかと私は考えています。
明治初年に明治政府の意志決定場面に近い所にいた神道学者たちは、仏教だけでなく、修験者や民間信仰までも排斥対象としていました。そのような目で見ると、庶民のなかで大きな娯楽であり、影響力をもつ盆踊りは潰しておきたい存在だったのではないでしょうか。それは、文明開化を推進するの近代化官僚と目的は違えども利害は一致します。民衆の中にある猥雑な大衆娯楽を取り除くというスローガンで、穢れの多い盆踊りを排斥したのではないかと私は考えています。

最後に盆踊り禁止令をめぐるその後を見ておきましょう。
明治初年に盆踊り禁止令が出されて、取り締まり対象となります。しかし、布告だけで庶民の最大の娯楽である盆踊りをやめるはずもありません。取締まる側と民衆との間で、攻防戦が展開されます。その結果、緩和と制限が繰り返されます。
愛媛県(香川県を併合中)の場合も見ておきましょう。
1878(明治10)年 盆踊り禁止令公布
1881(明治14)年 8月8日 愛媛県が盆踊り禁止(愛媛県甲第147号達)
1889(明治22)年 禁止していた盆踊りを許可(県令54号)
1893(明治26)7月 盆踊りを旧暦7月10日~20日の間に制限して許可(香川県県告諭第669号)
愛媛県に併合されていた香川県は、独立後に盆踊りを期間を短縮して許可しています。これは、県民達は喜んだはずです。東京からやってきた知事の人気取り政策のひとつであったのかもしれません。また、許可された期間が7月10日~20日の10日間となっています。ここからは、江戸時代には、これよりも長く盆踊りは、夏の夜に毎晩、踊り続けられていたことが分かります。

明治中期の盆踊り取締まり状況を、日本之時事第7号 明治21年(1888年)を見てみましょう。
記事概要(意訳)
数百の老若男女が一同に、立場のわけへだてなく集まって、灯籠をかかげ、声がとどろき、踊りが沸き立ち、手拍子が響き渡る、これが田舎の盆踊りである。市街の路上、名主の門前、鎮守の杜内などで、時期は盂蘭盆、七月十五六日の夜である。男性の女装、女性の男装、ボロをきたり、貴族の装いをしたり、奇抜な格好で、意表をつく趣向をこらして、皆の目をひこうと競い合う。卑猥でみだらで、男女の情が交錯し、一夜の契りを結んで果ては子を宿すこともあり、風紀を乱すとういうことで、以前より警察により取り締まられることになった。

 この盆踊りは、田舎に多いが、特に東北が盛んであった。筆者は、避暑のために東北に旅行したが、丁度8月15日~16日にあたった。東北では、陽暦でも陰暦でもなく、その中間のやり方で、この季節を盂蘭盆としているのが多い。今年は西日本が水害などで大変だったが、東北は非常に季候が良く、作物もよく実った。農家の人は意気揚々とし、それが商工業の人にも波及して、腹をたたいたり、胸をたたいたり、往事の盆踊りの賑わいであった。老若男女が熱狂して踊り騒いでいる。警察もこれを黙認していた。これをみて、眉をひそめる人もあるかもしれない。ああ、また風俗が乱れていると。しかし、筆者は思う。煌びやかな場で行われる舞踏会は男女が抱擁して跳ね回っているではないか。また、仮装舞踏会なども盆踊りの仮装と何が違うのだろう。もし、風俗をただすというなら、庶民からでなく上からやるべきではないだろうか。何事も西洋がよいといって、カルタはだめでトランプはよい、とか、盆踊りはだめで舞踏会はよい、とか、忠義は反逆罪より卑しいとか、そういう人もいまだに多い。庶民の風紀をただそうと、厳しく禁じたところで、元をたださないと、どうにもならないのではないか。そうしたこともあるから、最近は警察も粋にはからって、盆踊りも黙認するようになったのではないか。古来中国では、気候変化の予兆から、農家の苦境を知ったというが、このように農民が歓喜しているのは、気候がよく豊穣が見込まれるからであり、むしろ大いに楽しんでもらうべきではないか。盆踊りも村芝居もよいではないか。

 ここからは、警察によって取り締まられていた盆踊りが、黙認され、また賑わいを取り戻す姿が描かれています。また、盆踊り復活を肯定的に捉える世論が形成されつつあることがうかがえます。

ところが緩和の動きが反転するのが明治末です。
「第二次桂内閣 1908年(明治41年)~1911年(明治44年)の文部大臣 小松原英太郎 内務大臣 平田東助が盆踊り禁止令を再発動して、農村粛正にのりだします。生産阻害、風俗壊乱の元兇として盆踊り廃止を説いてまわります。これを『盆踊り退治』と称したようです。この影響で、盆踊りがやまった時期が明治の終わり頃か、大正の初め』と伝えられる村も多いといいます。(永田衡吉「民俗芸能 明治・大正・昭和」より)

このように江戸時代末から大正初めにかけて、幕府や明治政府は盆踊りを禁止する方向にあり、守ろうとする民衆と綱引きを繰り返していたと云えそうです。
以上をまとめておきます。
①一遍上人の踊り念仏は、江戸時代になり風流化され、村々で盆踊りとして踊られるようになった。
②その中で、仮面や女装男装姿で踊ることが定着し大衆化し、猥雑化し、人びとの最大の娯楽となっていた。
③明治になると、文明開化=近代化を掲げる明治政府は、猥雑さを伴う盆踊りを禁止した。
④しかし、庶民は禁止令を無視し、盆踊りを続けようとする。
⑤そこで、取り締まる側と、庶民との間で攻防戦が展開されるようになる。
⑥その中で、讃岐では「この踊りは、ただの盆踊りではありません。雨乞踊りなのです。旱魃の時に踊られ続けて来た神聖な踊りです」という由緒が強調されるようになる。
⑦その結果、盆踊りであった滝宮念仏踊りなども、雨乞踊りというキャッチフレーズが付けられて紹介されるようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東佳那子・來田享子 明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」
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八朔の団子馬3

私の住んでいる丸亀平野南部のまんのう町では、旧暦8月1日の八朔を「馬節供」と称し、団子馬を作って男児の誕生と成長を祝っていました。八朔は、稲の穂が出る時期にあたり、農村では豊作祈願など次のような儀礼が行われてきました。

八朔の団子馬4
A 初穂を刈って神にささげる
B 主人が田をめぐりながら田の神に豊穣を祈願する「田誉め」
C 稲作が害虫の被害に遭うことを防ぐための虫送り
D 八朔に上巳(3月3日)や端午(5月5日)の節供と同じような行事を行う。
八朔は季節の節目とも考えられて、次のようなこととも関連していたようです。
夜なべ仕事が始まる日
奉公人の任期が終わる日
一連の盆行事の終わる日
ある意味では、特別な日で「ハレ」の日でもありました。八朔の行事としては『日本民俗地図』には、広島・香川・愛媛・福岡・佐賀県では、八朔に米の粉で作った馬や人形を飾り、子どもの成長を祈願する風習が報告されています。どうして、これらのエリアだけに残ったのでしょうか。この疑問には、また別の機会に考えることにして、先を急ぎます。

八朔の団子馬 馬台
馬台と団子馬
西讃地方では、男児の誕生と成長を祝う「馬節供(うまぜっく)」が行われてきました。
これは馬台と呼ばれる骨組みに、米粉を使った団子を盛り上げて作る「団子馬」を、武者人形などとともに床の間や玄関などに飾るものです。私の家でも幼年期にも作られたようで写真や馬台が残っています。今回は、八朔の団子馬について見ていくことにします。テキストは「服部 比呂美 八朔の馬節供 西讃地方の団子馬製作を中心に」です。

八朔の団子馬7

  この論文には、八朔や馬節句に関する先行研究史や史料、聞き取り調査などが載せられていて、読み応え充分です。検索すればPDFでも読むことができます。

西讃府誌34

  まず、西讃府史にどのように書かれているかを見ておきましょう。
西讃府誌は幕末の安政5年(1858)、丸亀藩主・京極高朗が、儒臣の巌村秩と加藤穀の願いを受け、那珂郡櫛梨神社の祠官秋山惟恭らに命じて作らせた編纂所で、各村の庄屋などが書き上げたレポートをもとにして編纂されたことは以前にお話ししました。。『西讃府志』には「猪駒」とでてきます。
猪駒(ししこま)
八月朔日、此日田実トテ男子ノアル家ニハ、米ノ粉ノ団子ニテ馬ヲ作リテ飾ル、是猪駒ト
云、子生レテ初テナルハ、初馬トテ親キ人ナド招き、宴ナド設ケテ祝フモアリ、又三野豊田ノアタリニハ、雛祭リスルモアリ、又丸亀アタリノ町人ハ、船ヲ作リテ飾ルモアルナリ、又奴隷ヲ養ヘル家ニハ、今日ヨリ夜作(ヨナベ)ヲサシム11)
意訳変換しておくと

八月の八朔には、男児のある家では、①団子で馬を作って飾る。これを猪駒と呼んでいる。特に生まれて②初めての八朔は初馬といって、宴席を設けて子どもの親族などが祝う。また、③三野豊田あたりでは、八朔に雛祭りをし、④丸亀あたりの町人は、船を飾って飾る。また⑤奉公人のいる家では、この日から夜なべを始める。

西讃府誌 団子馬34

ここからは「①団子馬はかつてはシシコマと呼ばれていたことが分かります。その他にも番号をつけた4つの情報を得ることができます。
 
次に団子馬(=シシコマ)が登場する最も古い史料を見ておきましょう。
讃岐国豊田郡和田浜村(観音寺市豊浜町)の豪農であった藤村家の年中行事を記録した文化12年(1818)の「讃岐藤村家年中行事録」に、次のように出てきます。
八月一朔日 頼節句
獅子駒   祝
酒肴
此又世上有ふれにてよし 格別珍敷沢なる事無用
ここに登場する獅子駒が団子馬のようです。八朔の団子馬の風習は、史料的には19世紀初頭までした遡れないようです。
嘉永5(1852)年に宇多津の『阿比野家祭式 八朔の馬節供全』には、次のように記します。
男子出生ニテモ馬ハカざらす 男子無之候而も有無ニハカゝわらず吉米五合粉ニ引テ牛馬斗り作り 牛ハクラヲイ馬ハクラ俵三俵置 粉之余りニ而作物心次第ニ作り 足付膳ニ乗テ座敷床ニのし付テかざり晩ニヲロシ祝事 前日ニ拵ヘテ一夜置テ翌朔日晩ニさけてアフリ祝フテクウ事
意訳変換しておくと

男子が生まれたから馬を飾るのではない。男子のあるなしに関わらず吉米五合を製粉して牛馬を作る。牛は鞍を背負わせ、馬は俵三俵を置く。余った粉でいろいろな作物を作り 足が付いた膳に乗せて座敷の床間に飾る。その晩に祝事宴席し、前日に供えて、一夜置いて翌朔日晩に下げてきたものを炙って食べる

ここには、男児の有無に関係なく団子馬がつくられたことが記されています。これについて秋山照子氏は、次のように評します。

「馬の鞍に置いた俵などからは農耕との強い関連がうかがえ、近づく稲刈を予祝する行事ともとれる。このような慣習は、西讃地域に伝承される馬節供のより素朴な形態であり、団子馬の前段階の風習が推定できる」

つまり、馬節供に先行する形で、「稲刈を予祝」行事があり、それに男子の健やかな成長を願う思いが後世に接ぎ木されたということになります。

八朔の団子馬 着付け

『四国新聞』の前身である『香川新報』は、明治22年4月10日に創刊されました。『香川新報』に載せられた八朔記事を見ておきましょう。
○香川新報 明治24(1891)年9月3日(旧暦8月2日)八朔の獅子駒 
昨三日ハ陰暦の八月朔日俗に八朔と称へて市中の男児持つ家甲所乙所には米の粉で作りたる獅子駒を派手に飾り立て楽むなりし故か一昨夜より昨夜へ掛けては市内大通り辺ハ人の出却々に多く随分賑しきとなりき
意訳変換しておくと
昨日ハ陰暦の八月朔日で俗に八朔と呼ばれる。髙松市内の男児がいる家では米の粉で作った獅子駒を派手に飾り立て楽しむ。そのためか一昨夜から昨夜へかけては市内大通りの賑わいが普段よりも格別だった

この記事からは、明治24年には、高松市内の大通りでは、男児のいる家で団子の獅子駒が飾り立てられ、これを見るために多くの人々が町へ繰り出して、いつもよりも人通りが多かったことが分かります。夕凪のため夜が更けるまで蒸し暑い夏の夜には、獅子駒飾りを見ることは一つの楽しみでもあったのかもしれません。明治には、髙松でも八朔に団子馬が作られていたことを押さえておきます。

八朔の団子馬 仁尾6

○香川新報 明治25(1892)年9月21日 旧暦8月朔 獅子駒の入費三百円 (現代語訳)
今日は陰暦八月の朔日で、俗に八朔と呼ばれる。男児のいる家では座敷に獅子駒を飾る日である。そのため髙松市内でも例年夜分になると賑ふのであるが、今年は格別であった。また多度津では会議員の小国茂吉方が獅子駒の飾付けを三日前に完成させ。それは実に目を驚すばかりの立派さで、見物人が昼夜引も切れず訪れている。明治になって、讃岐では古いものは総て破棄すべきとの風評があるが、これには見るべきものがある。大広間の中央に二間四方の泉水を作り、その周りに他の物を飾り附けてある。泉水に五十円、大人形には七十余円を要し、総ての費用は約三百円に達したという。
この記事で取り上げられている「獅子駒」も団子馬のことのようです。準備に3日もかけ、大広間に泉水を作ってその周りに武者人形などを配置して飾る様子は、髙松にはない風習だったようです。

八朔の団子馬 飾り付け
これは仁尾や多度津などの港町で栄える商人たちの家で行われていたデコレーション方法だと研究者は指摘します。団子馬を飾るときに、蚊帳で作った山や砂で作った川に松や竹を植えるといった「景色をつくる」手法です。この記事からは、こうした豪華な飾り方がこの頃には多度津では行われていていたことが分かります。獅子駒は派手に飾り立てるもので風流(ふりゅう)的な要素がありましたが、明治になると藩の倹約令の制約がなくなり、「目を驚かす」景色を作り出すより派手さと豪華さが演出されるようになったことを押さえておきます。

八朔の団子 丸亀駅展示6
丸亀駅に飾り付けられた団子馬
香川新報 明治25年9月22日(旧暦8月2日)八朔と市の商業(現代語訳)
例年旧暦八月朔日は周辺の村々から祭りの買ひ物に出かけてくる人達が多く、市内でも獅子、駒等の団子(馬)細工に相当のお金をかけて飾り付けをおこなう。それに使用する縮緬、鹿の子なども売れるのだが、今年は団子細工屋も鹿子屋も八朔のお陰にはあずかっていないようだ。その背景には、今年が不景気であるからだと云う。周辺の村々は、収穫はまだだだし、髙松市内は岩瀬尾八幡さんのお祭りには、小遣いが消費されるようになるかも知れない。
先ほどの翌日の記事になります。前日の記事には、多度津町の獅子駒の飾りには300円かけたという景気の良い内容がありましたが、高松市内の八朔には景気のいい記事はありませんが、こからは次のような情報が読み取れます。
①「獅子、駒の団子細工」と表記されて、獅子と駒が別のものであったこと
②「団子細工屋」という専門店があったこと
③獅子駒も、団子馬に帯揚げや帯を巻き付けたように、縮緬や鹿の子などの布で装飾されていたこと
④八朔は高松市内では経済効果が期待される日でもあったこと

八朔の団子馬 着付け

香川新報 明治36(1904)年9月22日 西讃の八朔(現代語訳)

高松以東の八朔は、獅々と駒を陳列し祝うが、その飾りつけは温雅なものが多く、華美なものは少ない。ところがこれに反して綾歌郡坂出以西は、端午の菖蒲人形にプラスして鹿、駒などを飾る。その華美なことは、初めて見る人のを驚かすに充分なものがある。五節句すべてを祝ふことは明治になって衰へ頽れても、この八朔の飾り付けについては今でも数百円を投じる家もある。昨日も坂出、宇多津、丸亀等の家々を見てまわったが、宇多津町の久住泰三といふ家では間口三間半奥行二間の表座敷を舞台しえ、城郭を築き、その内外に松樹を植へ込み、城内には一個数円の武者人形を、城外には白に栗毛、黒毛毛色様々の野馬、乗馬を約数十頭もレイアウトして置いてある。これだけでも数十円を投じていると思われる。これを見ながら親族や友人を招いて宴会を開く。その費用は百数十円にもなろうと思われる。こうして見てみると、八朔行事でも高松と丸亀とには、大きな違いがある。これも東讃と西讃と区分する一つの原因かもしれない。

ここからは次のような事が読み取れます。
①八朔の飾り付けが高松以東は華美ではないが、西讃の飾りは「眼なれぬ人をして驚かしむる」ほど華美であること
②西讃の都市部の商家では、座敷には数十頭の馬の人形が配され、親戚や知人を招いての宴会も費用をかけておこなわれていた
③明治になって仁尾 → 多度津 → 宇多津と海運業や塩田業で栄える港町に豪華な八朔人形の飾り付けが拡がっていったこと。
④明治期には、西讃のように派手な飾りではないが、東讃にも「獅子駒」の団子馬の習俗はあったこと
八朔の団子 1940年6

先述したように、近世の西讃地方では「獅子駒」に次の二つのタイプがありました。
A 豊作を予祝するタイプ
B 男児の誕生を祝うタイプ
新聞記事からは、明治になると東讃でも西讃でもAの豊作を予祝するタイプは見えません。八朔行事のテーマは男児の節供です。その中で東讃では飾りが華美になってゆく気配がありません。これに対し、西讃では飾りが次第に豪華になります。、中でも馬の飾りが存在感が増していくと研究者は指摘します。

八朔の団子馬 飾り付け2

 また、西讃でも八朔飾りが豪華になっていくのは明治以後のことです。
安政年間(1854~59)の丸亀藩の倹約令は、次のように記します。(現代語訳)
一 雛人形の衣裳などは、四代に渡って使い、その分限に応じたものにすること。
一 節句の五月幟は一本だけにすること。彩色や紋様入のものは使用しないこと
一 七月の盆灯籠(とうろう)は、代金二匁以下のものにする
一 八朔飾馬(はっさくうま)については、これまでよりも減らすこと
一 来客者に対してはさ湯と薬物だけの接待で、決して酒宴の席を設けないこと
ここからはひな人形や、五月の幟(後の鯉のぼり)の本数も一本だけに制限されています。また八朔の飾馬については、数を減らすように通達されています。ということは、何頭もの馬や飾られていたことがうかがえます。幕末には、豊かな商家や庄屋では八朔飾りが華美になっていく傾向があったのでしょう。それに歯止めをかけるために、この通達は出されています。
 このような倹約令の下では、豪華な飾り付けはできません。それが変化するのは制約がなくなった明治以後のことで、そこから豪華化は始まると私は考えています。その動きが始まる場所は、仁尾や多度津、宇多津などの豊かな商家です。特に幕末期からの多度津は、多度津藩の政策もあって商人達が活発に動き始めるようになります。それが「多度津の七福神」と呼ばれる商業資本集団を形成していき、鉄道、銀行、電力などの近代工業に出資して、産業資本家へと成長していくことは以前にお話ししました。彼らが江戸時代の制約が亡くなり、経営基盤が軌道に乗った明治半ば以後に、豪華な八朔飾りを始めたと私は考えています。また、多度津や宇多津は金比羅大権現への参詣者が押し寄せた港町でもあります。そこでは「人の目を驚かす」という風流(ふりゅう)意識が富裕層には脈々と生きていました。それが豪華な八朔の飾り付けの原動力となったとしておきます。

  もうひとつ団子馬は、米粉で作られます。そのためには米を大量に粉にしなければなりません。これが可能になるのは水車の普及を待たなければいけません。水車もやはり18世紀後半から讃岐の川筋に出現するようになります。これと小麦からつくるうどんの大衆化は重なります。団子馬も、このような水車の普及を背景に、拡がったと私は考えています。言うなれば、うどんが半夏(はんげ)というハレの日の特別食であったように、団子馬は八朔の時の特別食だったと云えそうです。

大正7年の『多度津町史』には、馬節供のことを次のように記します。
今も郡内に於て男児ある家には、米の粉にて団子馬を作り、室内に樹石などを配置して山川を形造り、武者人形等を並べ飾る風習あり。之を馬節句とも云ふ。初めは丸き胴に短き首足を作りて猪駒など称せしが、今は胴とて木又は金にて骨格を組み、一、二升乃至一斗余の糯を以つて造り、鬣、尾、轡、手綱、腹帯等を着く。之を馬の衣裳と云ふ。男児生れて初めなるときは、初馬とて  親戚知友より糯馬或は忠孝武勇に秀てし人形等を贈り、初馬の家には奇麗に之を飾付け、贈り人を招きて酒宴を為す。之れ其の児の出世を祝ふなり。而して翌日其の馬を割きて配贈す。
 八朔に馬を飾るは、足利時代に此の日将軍家より 朝廷に御馬を献上するに習へりと云ひ。又 崇徳院当国に在らせ給ひし時、村嫗院の無聊を慰めむと、団子を馬の形に造りて奉りしに起る。故に此の儀西讃に盛なりとも云ふ。馬飾りの事団子馬の腐敗すとて一時衰へしか、近来美しき人形を主として、今も盛に其の儀を行へり12)
意訳変換しておくと
今でも仲多度郡内では男児がいる家では、米の粉で団子馬を作り、室内に樹石などを配置して山川のジオラマを作って、武者人形を並べ飾る風習がある。これを馬節句とも云う。団子馬は、初めは丸い胴に短き首足をつけたもので猪駒など呼ばれた。しかし、今では胴は木や鉄で骨格を組み、それに一、二升から一斗余の米粉の団子で作って、それに、尾、轡、手綱、腹帯等を飾り付ける。これを馬の衣裳と云う。特に男児生れて初めテキストの時には、、初馬と称して  親戚や友人が糯馬や忠孝武勇に秀てし人形を贈る。初馬の家では、それらを飾付け、贈っていただいた人を招いて酒宴を催す。これはその児の出世を願う行事でもある。そして、翌日に団子馬を割って配贈する。
 八朔に馬を飾るようになったことについては、足利時代にこの日に将軍より朝廷に御馬を献上することに習ったつ伝わる。又、崇徳上皇が讃岐に流刑になった時に、その寂しさを慰めるために、団子を馬の形に造って、奉ったことに始まるという説もある。そのために、この行事は西讃で盛んに行われている。団子馬については、腐敗するとされて一時は衰退したが、近年になって美しい人形を中心に復活して、今でも盛に作られるようになった。
八朔の団子馬5

観音寺中央公民館刊行の『郷土の文化』には、大正時代の八朔の団子馬製作について次のように記します。
「少年時代 八朔の思い出」
私の少年時代である大正七・八年頃と言えば、もう半世紀以上も昔となりました。楽しかった旧八月一日八朔人形の事を思い出します。私は大野原の農家に生れましたので、その付近の事を書くことにします。当時の農家の土間は、どこでも広くできていました。八朔が近づくと、まず広い土間に涼み台(三尺×六尺)を二台も三台も敷き詰め、その涼台に御座とか莚を敷きます。野原より芝草の土が付いている物を沢山取ってきて、その芝草を奥を高く山に見立て積上げ、前を平に敷詰めます。芝草で山や谷、野原や川等も造り、松や笹で繁みを造っていきます。木の沢山繁っている奥の方から虎が出て来ている様に見せます。その虎を加藤清正の人形が槍をかまえて向っている様に見せるのです。山の上では、足柄山の金時が獣を集めて相撲の稽古をしている風に飾りつけます。色々な人形を高い所から谷川附近や平野の所へうまく飾っていきます。当時の人形は現代の様に小型化し上品にできていない時代の事で、さも素人くさい人形で土俗的なにおいがぷんぷんとしていました。どの人形も大型にできていたようです。讃岐や阿波地方の方言では、人形のことを「でこ」とも言っていました。男の子の生れた初馬の家があると、村中の男の子も女の子も大人迄もが見に集ったものです。仲間同志「どこそこのでこは、ほんとうにきれいやぜ」と言って何度も見にいったものです。
 ダンゴ馬は、前足、後足、頭の部分は鉄ででき、胴体と台は木材でできている馬の型に、米ダンゴの蒸した物を上手にくっつけて造り上げて行きます。家によっては前足を高く上げている馬、後足をはね上げている馬等色々な型の馬がありました。身長はでき上りが五十糎前後と思います。時には割箸を折って骨組にして小さなダンゴ馬を何頭も造り上げている家もありました。立髪や尾には麻が用いられていました。こうしてできた馬に派手なしぼりの帯を胴中に結びつけると素晴しいダンゴ馬になったものです。その馬は前列に飾ら
れました。沢山の人々に見てもらい、八朔が終るとダンゴ馬は適当に切り取られて隣近所へもおすそ分けをしました。そのダンゴを焼いて食ると仲々おいしい味がしたものです。現代の様にラジオ・テレビ、映画等何でも楽しむ事ができる時代ではなく何にもこれと言う娯楽のない時代の事ですからそれを見に行くのが何よりの楽しみでありました。集った子供達は子供なりにどこそこのが一番良かった、二番がどこ、三番がどこと言う風に子供なりに等級をつけて楽しんだものです。少年時代の八朔のおもかげが少しでも残っているだろうかと思って見るだけでもほのかな心地良い思い出がよみがえってきます
八朔の団子馬 善通寺 

こうして多度津や仁尾・宇多津の八朔人形の飾り付けは、金毘羅の旅館などにも取り入れられ、人びとの楽しみとなります。明治末から大正時代になると、それが周辺の村々の富裕層の家々にひろがります。さらに、一般の家でも馬節共の飾りがおこなわれるようになったとしておきます。
  
八朔の団子馬 変遷 

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「服部 比呂美 八朔の馬節供 西讃地方の団子馬製作を中心に」
動画については

変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成

讃岐の馬節供

  前回までに、召集令状(赤紙)と、役場の兵事掛かりについて見てきました。今回は、徴兵された兵士達がどのようして村の人達から見送られて出征していったのかを見ていくことにします。テキストは「 吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」です。
国防婦人会/藤井 忠俊|岩波新書 - 岩波書店

 藤井忠氏は著書「国防婦人会」には、次のように記します。

日中戦争からアジア太平洋戦争の時代は、出征兵士と送り出す側の「別れ」が生み出す一体感が、戦争を「聖なるもの」とした。

出征兵士を送り出すセレモニーが、送る側と送られる側の一体感を作りだし、それが戦争を浄化し、「聖なるもの」としたというのです。それでは、実際にどのような見送りが行われていたのか見ていくことにします。
1932年の満州事変後に、市町村では入営・除隊兵の歓送迎会が毎年開かれるようになります。
長野県南佐久郡野沢町でも、小学校で会費10銭で歓送迎会が開かれています。その準備のために在郷軍人会と青年団の役員は、入場券を売りさばくために各戸を訪問し、出席を要請してまわっています。これが軌道に乗った4年後の1936年1月5日の兵士送迎会の案内状には、次のように記されています。
 兵士送迎会は除隊の兵士諸君を迎へてその労を謝し、新に入営せらる兵士諸君の行を壮にしてその前をする意味を以て全町を挙げて送迎会でありますから、子供が会員券を持つて来て受付で菓子を貰ってそのまま、すぐ帰ると云ふやうなことでなく、(中略)
なるべく大人の方々が出席せられて終りまで会に列せられ、奉公の大義に出入する町出身の兵士諸君を心から送迎するの誠を現はしていただきたいことであります。
 ここからは、子供らが大人のかわりに菓子をもらいに来るような「お祭り」感覚の雰囲気が強かったことがうかがえます。そういう意味では、「兵士を支える銃後体制の構築」という軍のねらいには、ほど遠い性格だったようです。
 1932年2月23日になると、第14師団管下の松本第五〇連隊にも動員令が下されます。
長野県下で召集された兵士達は翌24日から3月1日にかけて、松本、宇都宮、水戸の各部隊に入隊し、第五〇隊は3月5日に松本を出発します。その連隊が帰還するのは、1934年5月のことです。この時期になると兵士が出征する度に、小学校で壮行会や送別会が開かれ、在郷軍人会が分会旗などを先頭に町村長分会長小学校長、町村会議員、助役、各種団体員、町村民が、旗やとともにパレードで停車場まで兵士を見送るようになります。
「野沢町報」は、次のように報告しています。

青年訓練所生徒が行列の整理にあたり、小学校生徒は途中まで軍歌「天に代りて不義を打つ」を合唱しつつ見送った。主婦会・女子青年団等の婦人団体員の参加が特に多かった

 ところが戦争熱がおさまった1934(昭和9)年になると、昭和恐慌の影響もあって入営除隊のあり方が問われるようになります。
12月13日頃に、第二師団管下の独立山砲兵第一連隊長が、各町村に入隊の際の祝費節約について次のように通達しています。
現下 非情時局に直面し珠に最近東北地方一般に凶作不況の折柄、入営者に対し各町村に例の如き祝意を表せらる事は努めて省略せられ、単に物質的よりも精神的の意に止められ、以つて冗費の節約と将来除隊に際しての返礼用土産物の費用を成るべく節約せしめられ度き考えに有之、当隊にては毎年等の習を打破する如く努め居りふも往々入営前に是等祝儀及祝品を預かる関係上、自然除隊に際してかる返礼に苦慮し相当の金銭消費致し家政上からさる工面と苦慮にはされ居る者も有之、次第に就き、各位特に在郷軍団、青年団員各位の御賢察と御指導により是非此際無汰を省略する様御取計らい相成度(44)

意訳変換しておくと 
非常時の時局に加えて、最近は東北地方が凶作不況なので、入営者に対して例年のような過剰な祝意を行う事を省略するように伝えること。物質的よりも精神的に祝意を表し、冗費の節約につとめるべし。また将来の除隊の際には、返礼の土産物用費用が必要となり、それが家計を苦しめているとも聞く。当隊では、毎年の悪習を打破することに努めているが、入営前に祝儀や祝品を貰った以上は、除隊の際に返礼品を送ることが恒例化しており、家計を圧迫している。ついては、在郷軍団、青年団員各位の指導により、これらの悪習を省略するように取計らって欲しい

 隣接する東北農村が凶作に苦しんでいる中で、入営兵への送別餞別や除隊兵の返礼などの冗費節約を求めています。
 同年の12月24日には、高田連隊区司令官が市町村長へ次のような指示を出しています。
入営壮丁や付添人や町村吏員について、宿舎の設備や待遇などについて苦情を漏し不平を述べ不合理なる要求をなすものありとの噂を聞く。しかし、その多くは入営壮丁ではない。
(中略)付添人、町村吏員の中に不心得の言動をなすものあるようだ。宿舎に蒲団寝巻(中略)の差し入れ以外に酒食を強要したり、飲酒が横行して無垢の青年達を毒している。
ここからは、満州事変から数年が経過して、軍隊内部での士気や規律が弛緩して、入営兵の付添人や役場吏員の中には入隊に際して、目に余ることが多かったことがうかがえます。しかし、これらの通達でも改善はされなかったようです。翌年の1935年10月19日にも、再度市町村長に「入隊兵の別及除隊兵の土産物廃止に関し御協力相成度件通牒」を送付し、次のように要望しています。
 除隊兵か土産物を購入するためには在給せらる、給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)中より毎月(一人平均二十五円位にて貯蓄せる金額の殆んと全部手拭等を購入し除隊前人をして郷里に小包郵便等を送せしめ置くを一般の風習とす)を消費しある状況にして、此際家市町村民の時弊矯正を断行するの勇気に欠くるには、を旨とし勤の美をしを郷里に及ぼすべき所謂良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することはさる次第と存しと述べた上で、さらに次のことを要請した。
 市町村民を一層徹底的に啓発指導せられ、入除隊の際は各戸に国旗を掲け入隊兵の壮行会除隊兵の歓迎会等は貧富の別なく一様に氏神の社殿に於て之を行ひ、神殿に詞を捧げしむる等、天皇親の皇軍の本義に基づき最も熱誠ある精神的行事を挙行し、一方幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)餞別、土産物等市町村民の負担に係はる物質的儀礼は一切之を廃止する様致度存し居り右重ねて御依頼申上候
意訳変換しておくと
 除隊兵が土産物を購入するためには支給される給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)の中から毎月25円位を貯蓄して、手拭等を購入して除隊前に郷里に小包郵便で送付させておくようにしている。この際に、市町村民の悪習矯正を勇気を持って断行して欲しい。それが郷里に良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することにつながる。
市町村民を啓発指導して、入除隊の際には各戸に国旗を掲けること。
入隊兵の壮行会や除隊兵の歓迎会などでは貧富の別なく氏神の社殿で、式典を行い、神殿に詞を捧げること。
皇軍の本義に基づく精神的行事を挙行すること。
幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)や餞別、土産物など市町村民の負担なるような物質的儀礼は一切廃止すること
以上を、重ねて依頼申上げる。
ここまでをまとめると次のようになります。
①満州事変以後の段階では、入営・除隊兵の歓送迎会は、戦争に民衆を送り出すための装置として盛大に行われていた。
②それが世界恐慌後に農村が疲弊すると、軍は民衆の負担となる餞別や返礼などの廃止を要望するようになったこと。
③代わりにお金のかからない精神的なセレモニーを行うように市町村に指導通達を繰り返していた。

満州事変から5年後の1937(昭和12)年7月7日、軍部は柳条湖事件を引き起こし、日中全面戦争へと突入します。
このため軍は大規模動員に迫られ、全国で在郷軍人への赤紙が配られ始めます。この年には93万人の兵士が動員されます。そのうちの約60万人が赤紙召集兵で、現役兵約34万人に対して、ほぼ倍の人数が召集されます。満州事変に比べると桁外れの動員が行われ、社会に不安と動揺を与えたようです。
 日中戦争開始後の長野県の南佐久郡の動員を見ておきましょう。
① 7月16日、桜井村では郷軍分会長が会旗とともに、召集兵を中込駅まで見送り。
② 7月20日、戦勝祈願祭が村社桜井神社で開催。
③ 7月16日、八月村でも平賀神社で武運長久祈願祭が挙行
④ 小学校で村民参加の壮行会が開催
 こうして兵士が召集されるたびに、各村社で各種団体、小学校、村民一同等による皇軍戦出征軍人安祈願祭を開催され、小学校では村民による壮行会が開かれることがパターン化します。

出征兵士2
皇軍戦出征軍人安祈願祭 出征兵士の名前が並んでいる

そして8月23日になると、中込駅長の音頭で、郡下の桜井前山・野沢・大沢・平賀・内山・申込の七つの村が協議して所定の場所での送迎会を合同でおこなうことが決定します。こうして応召兵を送り出す宴と武運長久を祈る祈願祭である「赤紙の祀り」が始まります。

イメージ 1
婦人会による駅での見送り

 その中で問題になってくるのが、動員に関する機密秘密の漏洩です。
 軍の機密事項である軍用列車の発着日時をめぐり、時刻等を事前に知らされていた駅長と在郷軍人等各種団体との間に軋轢が生じます。兵士の送迎では、駅長の役割が大きかったことは先ほど見たとおりです。出征兵士の壮行会や歓送会を盛大にやることは、動員の秘密事項保持と矛盾します。
 8月19日、高田連隊区司令官が町村長在郷軍人分会長に「出征軍人部隊送に関する指示」を送付して次のように指示しています。
 精神的歓送は盛大に行われることを希望するが機密保持も絶対必要である。ついては、
駅での見送りは入場数を制限する。そして出発前に各市町村で盛大なる壮行式を行ことにする。その席には、官民や出征兵家族を出させるが、駅での歓送は、機密保持のために、以下の人間のみに制限する
 1、官公術、市町村並学校(中等学校、青年学校小学校等)の代表者(学生を含む)
 2、在郷軍人連合分会及同分会代表者
 3、各種団体 男女青年団、婦人団体、教育会、神職会仏教界、自警団、町会代表者
 4、出兵兵の家族
ここでは駅での見送りは、規模が縮小されたことを押さえておきます。
そして、次のような注意書が付けられています。
一、歓送用国旗は携行してなきも、之を列車内の将兵に手渡し
二、発車の際は列車に向ひ隊列を整へ、知事又は市長等の声にして万歳をへられたし
三、在郷軍人会、愛国婦人会、国防婦人会青年団等は補充に援助を与へられたし、但し発車の直前定位に復せられたし
しかし、この通達はすぐに展開されて、9月27日に新しい通達「第二師団司令部の要望事項に関する件」が市町村長へ送付されてきます。

 今次動部隊の各編成地出発に方り、停車場の見送りは連隊区司令部又は部隊より出発時刻を通知せる最小限の人数以外は、停車場構内への入場は禁止すべき方針にして、後の熱誠なる後援にゆるには極めて冷淡にして情に於てはひさる所なるも、発動完結後の部隊の行動は全くの軍事行動にして、特に輸送の日時等は絶対とする為め、必要止むを得るに出てたるものなることを諒せられ度

つまり、人数制限して駅での見送りを認めた前通達を撤回し、駅構内への入場を禁止するものになっています。今までは盛大な歓送を奨励していたのに、冷淡と批判されようが、動員の秘密事項は守らざるを得ないことを銃後民衆には納得してもらいたいという内容です。こうして駅での見送り禁止されました。しかし、応召兵の祈願祭や壮行式、駅までの見送りが禁止されたわけではありません。長野県南佐久郡内の「桜井時報」や「野沢町報」にも、それらのその壮行式等が盛大に行われたことが記事として掲載され続けています。
 
武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

こうした中、12月23日に南京が陥落すると、戦争は終わったとする弛緩した空気が広がります。
そして任務を終えた部隊が郷里に帰還するようになると、これを盛大に迎えようとする動きが高まります。これに対して、1938年3月初めには、陸軍省兵務局長の通牒「帰還軍隊の輸送間に於ける送迎に関する件」が市町村長に送付されてきます。その内容は次の通りです。
此等部隊は事変の終結により帰還するものに非すして、今後の長期持久に即応する如く、出動部隊一部の整理交代に基つくなるをて、其の歓送迎は専ら精神的方面に意を用ひ、形式的事項は力めを抑制し、以て緊張したる国民精神を消せしめ延びてつ地に在る出動部隊に及ぼす等の事からしむる如く深の考慮を払必要がある

意訳変換しておくと

この度の帰還部隊は事変終結により帰還するものではない。今後の中国戦線での長期持久に対応するための部隊の整理交代である。そのため歓送迎については精神的面に限定し、形式的祝い事などは抑制すること。緊張した国民精神を弛緩させる出動部隊の戦意を弱めることのないような考慮が必要である

ここでは戦争は終わったという気分と、長期戦になるという軍部の思惑のちがいがあったことがうかがえます。かつての露戦争時の凱旋とは、意味が違うというのです。別の所では次のような注意も行っています。

 帰還者に対する歓迎の様式程度に就ては、色々の考方もあろうと思ひますが、決論的に申せば、官民が今迄やつて来た還送勇士に対すると同様にするのが適当と存するのであります。一切の歓迎会、祝賀会等は之を行はず、幟や流し等は之を廃し、最も精神的に感謝の意を披して之を迎へ、其の労功をたいと思ふのであります。特に帰還兵に対しては、凱旋の辞句を使はしめぬ様にせられたいのであります。村に帰った際、氏神様の社頭を挙行し、神前に供た冷酒を戴いて武運の加護を謝し、将来の報告をふ等は最も望ましい事であります。未だ勝利したのではありません。(中略)
貴き犠牲者の遺骨さへ尚、大部は帰還して居ないのであります。又その慰霊の行事さへ十分出来ぬ情勢に於て祝賀会を実施すると云ふ事は適当でないと考へます。

 軍としては、兵士の帰還は単に部隊の交代であり、まだ戦争が終わっていないことを強調しています。死者の家族のためにも、凱旋気分で帰還兵士の歓迎会や祝賀会をしないよう、幟やアーチや旗などで迎えぬよう指示しています。
入営祝い幟
入営祝いの幟

さらに3月5日に陸軍省副官は「召集解除者の贈答等虚礼廃止に関する件」を通知しています。
 部隊の交代整理等により召集を解除せらるる者か、応に当り受けたる送別に対し餞別返礼等贈答に腐心するからさる様にして、巷間にも之が制止方要望し来るものあり。
 時局は尚愈々重大を加ふるの秋、多くの戦友たち召集を解除せらるる者は充分其の言動を慎重ならしむるは勿論、特に無意義な贈答等の虚礼は百害ありて一利なきものなることに深く留意し、断然之を廃止し、寧ろ帰郷後は率先銃後の核心となって尚戦地に残戦友の労に報ゆる如く、此等召集解除者に対しては充分なる指導を加へられ度。
 帰還兵が出征前に受けた餞別についての返礼を・贈答を行わないように通達指導せよとの内容です。ここからは、餞別の返礼等が依然として残っていたことが分かります。
以上をまとめておきます
①満州事変後に、軍は入営兵への餞別や除隊兵の返礼などの冗費の節約に力を入れるようになった。
②日中戦争後に、多くの兵士が動員されるようになり、応召兵の赤紙の祭礼が始まった。
③戦争が長期化すると、軍は防諜を理由に入営・応召兵の壮行会や歓送会、激励会、武運長久を祈る祈願祭の簡素化を試みた。
④特に日中戦争の帰還兵士の歓迎には神経をつかい自粛を求めるようになった。

このような軍の方針は、1941年7月のが独ソ戦開始と、12月のアメリカとの開戦で、紆余曲折をたどることになります。それはまた別の機会に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」
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前回見たように徴兵名簿作成で大きな役割を担っていたのは、役場の兵事係でした。彼らは、徴兵検査や召集令状の交付だけを行っていたのではありません。今回は、兵事係の果たしていた役割について見ていくことにします。テキストは「吉田敏浩 赤紙と徴兵」です。

赤紙と徴兵

各役場には兵事係という担当者がいました。彼らの業務を挙げておくと次のようになります。
A 出征兵士の見送り
B 武運長久祈願祭の開催
C 戦地への慰問袋の取りまとめ
D 戦死者の告知と公葬
E 出征軍人家族や遺族の援護
DSC00582
A 出征兵士の見送り (観音寺)


DSC00572 戦死者村葬 昭和13年 仁尾町
戦死者の村葬(仁尾)

ここからは徴兵制に関わる村役場の業務を兵事係が一人で担当していたことが分かります。

次に徴兵名簿が出来るまでのプロセスを見ておきましょう。
①戸籍簿と徴兵適齢届に基づいて家庭環境、経歴、病歴、性格、品行、風評などを調べて「現役兵身上明細書」を作成
②「在郷軍人名簿(在隊時の勤務状況、品行、賞罰等在隊間成績調査)
③赤紙(召集令状)の交付記録、動員日誌、召集令状の交付手順を記した動員実施業務作成
④家の不動産や戸主の収入、課税額の調査
⑤「特に注意すべき件」には「他人の無品を掠めるかもしれない性癖」等の個人情報記入
⑥在郷軍人名簿の作成
こうして出来上がった一覧表リストは、次のように各師団に集約されていきます。
①市町村は毎年1月10日までに県の兵事官に提出
②県の兵事官は、1月20日まで陸軍の連隊区司令部に提出
③連隊区司令部は、1月31日まで所属師団長に提出
④各師団長は「師管壮丁人員表」を作成し、2月10日までに陸軍大臣に提出
⑤大臣は天皇の裁可を経て毎年の徴集人員を連隊区司令部に割り当て、更に末端の市町村に割り当て
こうして徴兵名簿が各村に送られてきます。 兵事係を務めた人の回想が載せられているので見ておきましょう。
「赤紙は昼夜の別なく来ましたが、来るのはなぜか夜間が多かったです。軍事機密に関わるからでしょうか。警察署から「動員令予報」の電話があり、役場の宿直の使丁(小使い)が自宅に知らせにくると、すぐに役場に行きました。村長と兵事係と書記と収入役が役場に集まって、警察官が赤紙を届けにくるのを待ちます。それが届くと「在郷軍人名簿」と照らし合わせて氏名など間違いがないか確認するんです。人の命がかかっているので、間違いがあってはいけません。何回も見直して、とても神経を使いました。兵事係の責任は重大なんです」

「そして、自転車に乗って赤紙を届けました。大阪や京都に出稼ぎや丁稚奉公に行っている人も多かったので、本人がいないときは家族が受け取りました。本人には家族が電報などで知らせるようにしていたんです。赤紙を朝、配るときもあり、本人が家にいなくて田や畑に出ていれば、そこまで行って渡したものです」

「また、私だけでは配りきれないので、信頼できる青年団員にも赤紙を配る使者の役目を頼みました。「動員令予報』があると、前もって決めてある村内令状配達区域の青年団の若者を役場に呼び集めたんです。そして自転車で配達させました。」
「ただ、家によっては何人も召集された家もあります。だから、すでに出征者のある家や戦死者が出ている家には、必ず私が届けるようにしました。やはり気の毒でしたから……
   出征した五人の息子さんのうち三人が戦死した寺田利兵衛さんの家に赤紙を届けたとき、本人が不在で代わりに利兵衛さんが受け取り、「そうですか、また来ましたか」とじっとうつむいて、ぽろっと涙を落とされたこともありました。あのときは、こっちまで泣けてきました……。
どの家も働きざかりの息子や夫を軍隊に取られて、戦争で命までも取られるかもしれないのですから。赤紙というのはただ簡単に渡せるものじゃないんです。赤紙を配るのはつらいことでしたが、国のため、役目だと思ってやりました」
赤紙通達人 1
赤紙通達人2
赤紙を各家まで配ったり、戦死の知らせを家族に伝えたりする「陸軍動員用急使」の札。札の裏には、次のように記されています。

「これを持っている者は動員用の書類をもち最重要な任務についているので、万一事故にあった時には、最寄の巡査駐在所か村役場に急報するように。

軍からは兵事係などの「動員用急使」に対して13条の「赤紙を配達する者の心得」を次のように示しています。
①途中乗り物が破損して急に修繕のできないような場合には、直ぐ下りて少なくとも1時間4キロ以上の速さで行かねばならない。
②自転車は全速力で走らせ、途中で誰かに話しかけられても、決して応じてはならない。自転車は止めてもいけない。 
⑨令状等はなるべく5分以内に渡すように心がけねばならない。
⑨は到着して相手と話す時間まで決めています。感情移入が起こる人間の心を察して、それを押し殺して渡して、指名押印させたらすぐに引き上げよということでしょうか。

兵事係には、赤紙を渡した後の「町内巡視」報告の提出も義務づけられていました。
規則では「条令(赤紙)発送後、巡視係を命じ巡視せしむ」とあります。そのため役場の書記や書記補佐を巡視係として赤紙受領者(応召員)の身辺を監視しました。赤紙を受け取った応召員の士気とその家族の様子、その周りの住民の様子などを含めて巡視係は兵事係に報告しています。兵事係はそれを詳しく記録して報告しています。まとめられた報告書の一部を見ておきましょう。

「応召員 志気最モ旺盛ニシテ、令状受領セバ直チニ体ヲ潔メ、自家の神仏に生還を期セジトノ出征ノ旨ヲ告ゲ、家族又応召者ニ対シ志気ヲ激励シ、村民一般国家的観念盛ニシテ応召員ノ出発二際シテハ全村民挙ゲテ駅頭ニ歓送セリ。」p132

「自家の神仏に生還を期セジ」と「一般国家的観念(天皇陛下万歳)などのフレーズが決まり文句となって綴られています。
しかし、戦後になって兵事係は次のように回顧しています。
「当時、村の人たちはみんな、口にこそ出しませんが、自分の家に私(兵事係)が来なければいいと思っていたはずです。私が自転車に乗って走っていると、いったいどこに行くのか、どこかの家に赤紙を届けているのではないかと、いつもみんなが私を見つめて、注目していました・・・・・・。
兵事係が召集の人選をすると思い込んでいる人もいました。だから私を恨んだ人もいたでしょう。面と向かって言われたことはありませんが。そう感じていました。」
「すでに何度も赤紙が届いて、息子さんたちが召集されていたある父親が、自分で捕った大きな鯉を私の家に持ってきて、「なんとか、もう自分の息子たちを召集しないでほしい」と、私に頼み込んだこともありました。自分が召集の人選をしているわけではないと、繰り返し説明しましたが、とても気の毒で、本当に弱りました……」

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル
戦時下の国民生活 中学校歴史教科書(帝国書院)

戦況が悪化すると兵事係の業務は、多忙を極めるようになります。
それまでの徴兵検査の手続きや召集令状の交付など、男たちを戦場へと送り出すことにとどまらなくなります。
A 国防献金や戦地に送る慰問袋の取りまとめと発送
B 武運長久祈願祭の執行
C 出征軍人家族や戦没者遺族や傷痍軍人とその家族への援護
D 戦死の告知
E 戦死者の公葬や慰霊祭の執行
など、戦場の後方にあって戦争を支える銃後の護りの最前線に立つことになります。

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル2


例えば出征した兵士が戦死した場合を見ておきましょう。

①市町村長に戦死の電報(内報)が届く。
②「内報」は兵事係から遺族に伝えられ、部隊長からの「戦死公報」は数ヶ月後に届けられた。
③戦死者の葬儀は役場(兵事係)が主宰
兵事係は戦地からの出征兵士が使者となって帰ってきた場合の対応まで含まれていたことになります。

 戦没者の公葬について、元兵事係は次のように語っています。

遺体は白木の箱に入って帰ってきました。それを遺族が連隊に受け取りに行きます。その時に兵事係の私は在郷軍人会の分会長と、駅まで迎えに行き、汽車からご遺族が白木の箱を抱えて降りてくると、一緒に村を歩いて帰りました。在郷軍人会の分会長が分会旗を捧げ持って歩きました。白木の箱に遺骨は入ってなくて、名前を書いた紙が一枚入っているだけだと、ご遺族から聞きました」
 
 そして慰霊祭が行われ靖国神社合祀となって英霊と崇めらることになります。こうして村ぐるみ、
地域ぐるみで戦争を支える体制が出来上がっていました。
元兵事係の最後に次のように回顧しています
  
  赤紙を配るときに「兵事係の〇〇さんがやってきた」と嫌がられ、戦死の通知のときにま「また兵事係の〇〇さんが来はった!」彼の動きは死を告げる使者であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「吉田敏浩 赤紙と徴兵」
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