瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 講演用資料

安楽寺 赤門1

本日は、次のような三部構成でお話しを進めていきます。

西教寺 三部構成

讃岐には真宗興正寺派のお寺が多いと言われますが、それを数字で確認しておきます。

四国の各宗派寺院数と真宗の占める割合

一番上が讃岐です。真宗寺院が424 真言332、讃岐の寺院数910ケ寺の内、真宗占有率は約47%で約半分が真宗です。これは私としては思ったよりも少ない感じです。丸亀平野南部では8割が真宗寺院のような気がします。分布に濃淡がありそうです。例えば東讃には真宗寺院はあまりありません。真宗が多いのは髙松より西になります。真宗の中の約半分が興正寺派だそうです。興正寺に属する寺は、全国で800寺程度と聞いているので、讃岐がその1/4をしめることになります。
ついでに各県の状況も見ておきましょう。

A 阿波については、真言宗が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。

B 伊予では、真言宗も多いのですが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護があったためです。

C 土佐は、お寺の数自体が他県の半分しかありません。明治の廃仏毀釈運動を藩主が率先して行ったために多くの寺がなくなってしまいました。

四国全体では、真宗寺院は700寺で23%。それが讃岐では47%です。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いことが分かります。なかでも興正寺派が多いのです。本願寺と興正寺の関係を、最初に押さえておきます。

本願寺と興正寺
本願寺と興正寺
本願寺と興正寺の関係を簡単に見ておきます。京都駅の西側の堀川通りの一角に西本願寺があります。その南側に龍谷大学があります。そのとなりが興正寺です。面積は西本願寺の1/4程度でしょうか。●両者の関係は、なかなか複雑な関係にあるようです。それぞれ独立していたものが、15世紀後半に蓮如の吸引力で興正寺が本願寺と同一歩調をとるようになります。そして、16世紀になって本願寺が瀬戸内海への教勢拡大に乗り出すと、興正寺は阿波への布教活動を開始します。浄土真宗の阿波や讃岐への本格的な布教の始まりは16世紀になってからと研究者は考えています。それでは興正寺による阿波へ布教活動の拠点になったのが安楽寺です。

安楽寺 千葉乗隆

安楽寺住職で、龍谷大学学長も務めた千葉乗隆(じょうりゅう)氏
千葉乗隆氏は安楽寺の住職で、若い頃に自分の寺に残された文書を整理・研究します。その成果が認められて龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長も務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。彼の研究成果から興正寺派の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。それを参考にしてお話しを進めます。

安楽寺4

千葉氏が代々住職を務めている安楽寺です。吉野川の河岸段丘の上にあり、周辺には安楽寺の隠居寺が4つあり寺町と呼ばれています。中世には門徒集団が寺内町を形成して武装化していたようです。後ろに見える山が三頭山で、その向こうは美合・勝浦になります。この三頭越の道を通じて阿波から布教のための僧侶が入ってきます。手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内(じない)町」が姿を現したと研究者は考えています。


安楽寺の赤門3

昨年、まんのう町の文化財協会のフィルドワークで、この寺を訪れました。立派な赤門(山門)が迎えてくれました。「寺町案内人」のボランテアの人は、この赤門について次のように説明してくれました。

「この赤門は、讃岐の末寺からの手切金で作られました。この寺は、近世初期には84の末寺を持っていました。しかし、18世紀になると自立を望む末寺が多くなり、手切金を納めることで自立を許すようになりました。その時に集まった手切金で建てたのがこの赤門です。」


境内に入ってみましょう。

安楽寺 ボランテイアガイドの案内

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。ガイドの方は、次のように話してくれました。
①江戸時代には、讃岐や阿波に100近い末寺があったこと。
②讃岐から若い僧侶たちがやって来て修行にはげんだ学問寺でもあったこと
③若い僧侶が讃岐への布教のために送り込まれたこと
④讃岐に出向いた人達の中には千葉氏を名乗る僧侶もいたこと。
⑤赤門は、讃岐の末寺が手切れ金で建立されたこと
安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺の由緒記には、次のような事が記されています。
安楽寺開基由緒

ここには次のようなことが書かれています。
①開基は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護であったのが北条氏との権力闘争に敗れた。
②そのため親鸞聖人の高弟の下で真宗に出家。
③その後、一族の阿波守護の小笠原氏を頼って阿波にやってきて安楽寺をまかされた。
④天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗した。
ここで注意しておきたいのは、千葉氏が興正寺派であったことは、ここまでの所はどこにもでてこないことです。
浄土真宗の布教戦略は、蓮如によって次のように説かれています。

真宗の布教方法
浄土真宗の布教戦略 拠点は「道場」
こうして見ると、仏の教えを百姓にまで本気で届けようとして、ムラの中まで入ってきたのが真宗の僧侶達と云えそうです。身近の道場を通じて信徒を組織化していきます。仏前勤行で行われていることは、「常会」「お座」として、今でも私には馴染みの深いものです。五百年前の布教手段が、今に引き継がれていることになります。

安楽寺の拠点末寺
安楽寺の本末関係
①蓮如の本願寺
②蓮如によって本願寺に属するようになった興正寺
③中本寺としての美馬の安楽寺
④三豊への布教拠点となった寶光寺
⑤丸亀平野への布教拠点となった長善寺
⑥髙松方面への拠点となった安養寺
安楽寺の讃岐への教線拡大の拠点となったのがこの3つの寺院です。


丸亀平野方面の安楽寺末寺をおさえておきます。

丸亀平野の安楽寺末寺

地図で位置を確認しておきましょう。
安楽寺末寺分布図 丸亀平野

 これが土讃線、ここが琴平、これが土器川です。 緑点が安楽寺の末寺です。ここからは次のような事が見えて来ます。
①勝浦の長善寺を拠点に土器川沿いに分布 
②阿野郡南部の土器川東岸に多く、海岸部にはないこと。
③長尾城周辺に多く、開基を長尾氏とする寺が多いこと。
長尾氏は長宗我部元親に敗れた後に帰農して、安楽寺末寺の住職となったとされています。それぞれの寺に長尾氏を開祖とする系譜が残されています。どちらにしても、教線の流れは美合方面から土器川を下流へという方向です。垂水の浄楽寺の由来もそれを裏付けます。

垂水の浄楽寺

 垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転再建された寺と伝えます。これは、垂水の檀家の誘致に応えてのことでしょう。教線拡大の動きは、山から里へだったことが裏付けられます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。

安楽寺から一番近い末寺である勝浦の長善寺を見ておきましょう。


勝浦の旧長善寺


勝浦のかつての長善寺です。石垣の上の白壁は、まるでお城のようです。お寺の下が庄屋を務めた佐野家です。江戸時代には、長善寺と佐野家で勝浦村の田畑の三分の一を所有していたと言われます。長善寺は檀家が阿波と讃岐で千軒近くあります。旧本堂は惣ケヤキ造りで、門徒達の集落の持ち寄られた檜材が使われたと云われています。阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていいったことが考えられます。丸亀平野と安楽寺を結ぶ真鈴越の拠点寺院であったことがうかがえます。

長善寺の鐘楼 鐘がない
茅葺きの鐘楼 鐘がない

茅葺きの鐘楼です しかし鐘がありません。換わって吊されているのは、石柱です。鐘はどこにいったのでしょうか? 残念ながらこのケヤキ造りのお寺はいまはありません。更地になっています。今は里に下りています。

現在の長善寺
現在の長善寺

今は旧勝浦小学校跡に下りてきています。
次に讃岐の末寺は、本寺の安楽寺に対してどんな貢納を義務づけられていたのかを見ておきましょう。

西長尾城と超勝寺(長尾氏居館跡)


長尾の城山と超勝寺。この寺は長尾氏の居館跡に、その一族によって建てられたと伝えられています。長尾場周辺の興聖寺派のお寺はそれぞれ長尾氏の系図を持っています。
超勝寺が安楽寺に提出している詫び状を見ておきましょう。

長尾超勝寺の安楽寺への詫び状


これは長尾の超勝寺が安楽寺宛てに出した詫び状(始末書)です。

①最初に、いままでの非礼を詫びて、次のようなルールと守りますという内容です。逆読みすると、讃岐の末寺であった寺は安楽寺に対して、上のようなしきたり(義務)を、果たす義務を負っていたことが分かります。年3回の本山へのお勤め以外にも多くの勤めがあったことが分かります。この義務を果たすためには、讃岐山脈を越えて、年に何回も安楽寺に通わなければなりません。その際に、手ぶらではいけません。18世紀後半になると様子がかわってきます。安楽寺は、末寺総数83ケ寺の内の約半分の42ケ寺が安永年間に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第二箱一〇八)。どちらにしても、超勝寺が安楽寺の末寺であったことはこの文書で裏付けられます。

尊光寺 タイトル

長炭の種の尊光寺です。石垣の上の白壁。まるで山城のような偉容です。周囲を睥睨する雰囲気。「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。この寺も長尾氏の一族によって建立されたと伝わります。この寺には宝暦7年(1757)に安楽寺が出した離末状が保存されています。それを見ておきましょう。

尊光寺始末状
安楽寺から尊光寺に宛てられた離末状

尊光寺に残された離末文書を見ておきましょう。ここには安永六年(1777)に、中本山安楽寺が尊光寺が離末することを認めていることが分かります。(尊光寺文書三の三八)。

安楽寺からの離末寺

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)も安楽寺から離末しています。同時期に、3つの寺が離末しています。集団離末が、この時期に行われたのです。裏返して見ると、安楽寺が82の末寺を讃岐に持っていたことが裏付けられることになります。それでは、阿波のお寺がどうして讃岐に数多くの末寺を持つことになったのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?
 安楽寺の末寺分布を見ておきましょう。

安楽寺の供せ院拡大の要因は?

これを見ると阿波では吉野川沿いだけで、吉野川より南に安楽寺の末寺はありません。これは真言系修験者の勢力が強くて信者が獲得できなかったことがうかがえます。これは、東讃や坂出・三野平野、さらに小豆島・塩飽の島嶼部が空白地帯なのも同じ理由だと私は考えています。そこには勢力を持つ修験者集団がいました。大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。これらは真言密教系寺院で、多くの修験者や聖、僧兵を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては、また別の機会にお話しします。同時に、安楽寺の布教を保護する政治勢力がありました。


三好4兄弟

阿波の三好4兄弟


安楽寺を保護したのが三好氏です。三好氏は現在の三好市氏三野町芝生(しぼう:池田と美馬の間・大川山の裏側・真鈴峠)を拠点とする武士集団です。応仁の乱後の16世紀になると讃岐や阿波の守護であった細川氏が一族で争うようになります。その中で台頭するのが阿波の三好氏です。三好氏は、細川氏の守護代として力を伸ばします。そして、戦国時代に現れた元長の4人の息子の時代に全盛期を迎えます。

三好四兄弟と天下人

三好四兄弟の勢力範囲
①長男の長慶は、畿内を制圧し、天下人とよばれます。信長の20年前です、それを支えたのが3人の弟です。
②次男の実休は阿波を堅め、丸亀平野や西讃方面に侵攻し、これを制圧下に収めます。
③四男一存(かずまさ)は、三木町の十河家に養子に入って、東讃・髙松方面で勢力を拡大し、香西氏などを配下に置きます。ここでは長宗我部元親が侵攻してくる以前に讃岐は、三好氏の勢力下にあったことを押さえておきます。その三好氏から安楽寺は、讃岐での布教の自由を認められたということになります。それを裏付ける文書を見ておきましょう。

三好千熊丸(長慶の幼名)諸役免許状2

 

「三好千熊丸(長慶の幼名)諸役免許状」と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗文書の中でも、最も古いものです。読み下しておくと

 ①興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々にかんじゅう候て、②前々の如く堪忍あるべく候。③諸公事等の儀、指世申し候。④若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。


文書を見る場合に、最初に見るのは誰が誰に宛てた者かとものかうことです。財田への逃散から5年後の1520年に出されたもので、発行者は「
三好千熊丸」  宛先は、郡里安楽寺です。この文書からは次のような事が読み取れます。

三好千代丸免状から読みとれることは


⓵最初に、三好氏と安楽寺の間を取り持ったのは興正寺だったとあります。これを契機に安楽寺が興聖寺の末寺になったのか、それ以前からそうなのかはよく分かりません。どちらにしてもこれ以後は、安楽寺は興正寺を本山とします。②からは、安楽寺を阿波から追いやった敵対勢力があったことがうかがえます。それは阿波の真言系修験者勢力であったと私は考えています。③三好氏から「讃岐からの帰還許可 + 諸役免除 + 安全保障」の3つの保護内容を得ています。これは
安楽寺の全面勝利宣言的な内容です。そして、三好氏の支配下での布教活動の自由も得ます。これは讃岐にも適応されることになります。安楽寺の教線拡大と、三好氏の讃岐侵攻は重なります。
 

  ここまでで第一部の終了です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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綾子踊は恋の唄レジメ15 変遷図

前回までに中世小唄として生まれた恋歌が、歌舞伎や能の舞台で踊られ、風流踊りとして全国に広がり祖先供養の盆踊りとして踊られるようになること、その伝播に大きな役割を果たしたのが修験者や聖などであることを見てきました。今回は、盆踊りとして踊られていた風流踊りが、いつから、どうして雨乞踊りと言われるようになったのかを探って見ようと思います。まず雨乞の歴史について簡単に押さえておきます。
綾子踊は恋の唄36 雨乞は験のある高僧のおこなうもの

古代には、雨を降らせるのは神々と信じられていました。そのため験の高い僧侶が神に祈祷して雨を降らせるという信仰が生まれます。その原形が空海の京都の神泉祈雨伝説です。ここで空海は善女龍王を招聘して雨を降らせたとされます。
2善女龍王 神泉苑g  
         空海の神泉祈雨 蛇の姿をした善女龍王が現れ雨を降らせた

それを継承したのが醍醐寺や高野山で、雨乞と云えば真言系修験者の専売特許のようになります。その際に、祈願の対象は善女龍王だったので、雨乞祈祷の寺院には善女龍王が勧進されます。その善女龍王信仰が讃岐に正式に伝えられるのは、江戸時代の初めの善通寺だったことは以前にお話ししました。

5善通寺
                善通寺の善女龍王社(善通寺東院) 
以後、讃岐では、髙松藩が白峰寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺に、雨乞祈祷を命じるようになります。ここまでで押さえておきたいのは、中世の人達は、雨乞祈祷は験の高い僧侶(修験者)が行うもので、庶民が雨乞をして効き目があるとは考えていませんでした。庶民が踊るのは、その祈祷が成就した時で、そのお礼として踊っていたのです。つまり、雨乞祈願の踊りではなく、雨乞成就のお礼踊りという意識です。滝宮念仏踊りも、雨乞成就祝いの踊りだと由緒書きには記されていますし、七箇村念仏踊りも踊っている当時の人々は雨乞踊りとは思っていなかったことは以前にお話ししました。ところが江戸時代の後半から明治になると、自分たちの踊りは雨乞踊りだと主張する由緒が現れるようになります。その背景に何があったのかを今回は見ていくことにします。

綾子踊 髙松藩の倹約令 盆踊り禁止令

19世紀の文政年間に出された髙松藩の倹約令です。ひな祭り、鯉のぼり、八朔の飾り馬、家の修理、旅行禁止、三味線禁止などが並んでいます。そして最後に盆踊り禁止とあります。ここからは、江戸時代後半になると盆踊りが禁止されていたことが分かります。これに対して、庶民はいろいろな抵抗対応をします。そのひとつが、うちの踊りは盆踊りではありません、雨乞のための踊りですという正当化・大義名分の主張です。この攻防が繰り返される中で、由緒の中に、雨乞のためのおどりと書かれるようになったと私は考えています。それでは、明治の盆踊りがどんなものだったのかを見ておきましょう。
綾子踊は恋の唄44 山形県黒石盆踊

明治初年の山形県の盆踊りを描いたものです。

①上段に真ん中の歌い手を中心に大きな輪ができています。②その下には、さまざまな小集団が同時並行で踊っています。これが踊り込みです。

綾子踊は恋の唄45 盆踊りの総合性と猥雑さ 荘内半島 三崎神社 1


衣装や仮面・持ち物がさまざまで、まるで仮装行列と仮面舞踏会が合わさったような雰囲気です。ある意味では、ムラの象郷文化祭ともいえそうです。そして楽しそうです。非日常的で、羽目を外す最大のイヴェント 恋の告白日  しかし、庶民には楽しいイヴェントでも支配者にとっては、破廉恥な風紀の乱れと移ります。そのため江戸時代後半になると倹約令とのからみで、各藩で禁止令や制限令がだされるようになります。そして、明治になると近代的国家にはふさわしくないと各県で禁止令が出されます。

綾子踊は恋の唄46 愛媛県の盆踊禁止令


1874(明治6)年に愛媛県(香川県を併合中)の禁止令です。(意訳)
ここからは香川県でも明治初年には、盆踊りが禁止されたことが分かります。当時の盆踊りの模様を明治21年の雑誌は、次のように記します。

綾子踊は恋の唄47 明治の盆踊り

盆踊りをめぐって、禁止しようとするお上と、踊らせろと反発する庶民のやり取りが続いたようです。そこで讃岐の庶民が考えたのが次のような方策でなかったのでしょうか。

綾子踊は恋の唄48 盆踊り生き残り策としての雨乞踊り

こうして江戸時代末以後に書かれた由緒書きには、この踊りは雨乞のために踊られる踊りであることが強調して書かれるようになります。その口外には、これは盆踊りではないという大義名分が含まれます。以上をまとめておきます。

綾子踊 恋の唄が多いわけは

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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綾子踊は恋の唄レジメ 1

前回までに中世の小唄が、宴席や港町などで唄われたこと。その現場を法然上人絵伝の室津の遊女船の名乗り場面などで押さえました。この小唄に振りが付けられ、能や歌舞伎の舞台で踊られ風流踊りとして各地に拡がっていきます。今回は、この風流踊りを村々に伝えたのが修験者や聖であったことを見ていくことにします。まず、讃岐に伝わる雨乞踊りの分布を地図で押さえておきます。

綾子踊は恋の唄レジメ31 讃岐の雨乞踊分布図


 これは雨乞風流踊りを地図上に落としたものです。東から見ていきます。

①東讃や髙松には雨乞踊りとされるものは残っていません
②念仏系雨乞い踊りが、滝宮を中心に坂出の北条 丸亀の坂本、多度津の南鴨、善通寺の吉原、まんのう・琴平の七箇村念仏踊がある。
③風流小唄系の雨乞踊りが三豊南部に集中していること。
④中讃の念仏踊りと、三豊の風流小唄系の境界線上に佐文綾子踊が位置する。
これに対して次のような仮説を私は考えています
①については、このエリアが熊野系の水主神社の信仰エリアで、別の雨乞祈祷が行われていたため。
②の中讃に念仏踊りが多いのは、滝宮牛頭天王社の別当龍燈寺の修験者たちの活動エリアであったため
③の三豊南部については、観音寺や七宝山、大興寺、雲辺寺を結ぶ修験者の活動エリアがあったこと、
④については、綾子踊りは中讃と三豊の両者の影響を受けて近世後半に新たに作り出された雨乞に特化した綾子踊であること。ここではこれ以上は触れずに、先に進みます


次に、讃岐の雨乞踊の由来に書かれている伝達者を一覧にして見ておきます。


綾子踊は恋の唄32 雨乞踊りの芸能伝達者

A 滝宮念仏踊りの由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされます。しかし、法然の時代には念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、一遍です。一遍が起こした時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
Bの綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンです。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。

しかし、これらの歌や踊りは、中世に出来上がったものです。空海や道真や法然が生きた時代には、なかった踊りです。いまだうまれていないものを伝えることはできません。この伝承には無理があります。しかし、広く捉えると、伝承者は「高僧が伝えた」とという点では共通します。

 伝承者がはっきりしている「D豊浜和田のさいさい踊り」を見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄33 豊浜和田 さいさ踊の薩摩半島 三崎神社 1

まず歌詞を押さえます。薩摩の遊女と一夜を明かして、朝起きたら薩摩の踊りを踊ってひと祈り。薩摩の沖に船を出すと、後から遊女が、船を返してもう一晩、遊女が吾と薩摩踊りを踊ろうと誘う。歌詞の内容は、男と女 港と出船と別れ、で港町ブルースタイプです。

 ここで注目して欲しいのは踊りの隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。もともとは盆踊りであったことがうかがえます。この踊りについては、伝承者の墓碑があります。

綾子踊は恋の唄34 豊浜和田のさいさ踊 薩摩法師墓碑 

豊浜の和田の道溝集落の墓地に、ある薩摩法師の墓碑です。①ここには上のように記されています。
ここには旅の僧侶(聖・修験者・山伏)である薩摩(琵琶)法師が雨乞踊りを伝えたことが記されています。薩摩生まれの遍歴の琵琶法師である薩摩の修験者によって、この地にもたらされています。
中世の村々で琵琶法師(修験者)がどんな役割を果たしていたのかを押さえておきます。

綾子踊は恋の唄35 修験者の役割
修験者は修行を重ねながら、験を高めていきます。そして、ムラの様々な宗教活動を担っていくようになります。日照りの際に、村人に雨乞を頼まれれば、それにも応じたようです。その例をもうひとつ見ておきましょう。
綾子踊は恋の唄38 百石踊

兵庫県三田市の百石踊りです。神社の境内で丸い円になって子ども達が太鼓をたたいて踊っています。その真ん中にいるのが芸司です。①衣装に注目してください。白衣の上に墨染めの法衣を着ています。白欅を掛け菅編笠を被っています。これは僧の姿です。この僧が指揮をしたり、口上を述べます。由来伝承にも、「元信と名乗る天台系の遊行聖」がもたらしたと記されていす。ここからは、遊行聖が、雨乞踊りの伝道者であったことが分かります。
これとよく似た姿で踊られる滝宮念仏踊りも見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄38 滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会

 場所は、滝宮神社(牛頭天王社)の境内です。天満宮ではありません。時代は、ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りです。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が据わり、地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦太鼓鼓法螺貝などの鳴り物衆と警固衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
今は下司は、二本差しで、赤い陣羽織の武士の姿でおどります。しかし、もとともは黒い僧服だったと伝わります。そうだとすると、滝宮念仏踊りを伝えたのは時宗系の念仏聖ということになります。彼らの拠点が滝宮牛頭天王社(神社)でした。

綾子踊は恋の唄39 滝宮牛頭天皇社 讃岐国名勝図会
滝宮牛頭天皇社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)
ここには綾川沿いに3つの宗教施設がならんでいます。表題は「八坂神社・菅神社・龍燈院」です。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社ということでしょう。この神社は、明治の神仏分離以前は八坂神社と同じスサノオと牛頭天王を祭神としていました。スサノオは、蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが別当寺の龍燈院でした。神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院傘下の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる布教センターの役割を果たしていたことになります。同時に彼らは芸能伝達者として、念仏風流踊りを各村々に伝えたと私は考えています。こうして夏越しの大祭には、各村々から念仏踊りが滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。まとめておくと、滝宮念仏踊りを周辺の村々に伝えたのは、滝宮龍燈院に集住する念仏聖だったということになります。そして、この踊りも、もともと雨乞の踊りではなく祖先供養の盆踊りだったのです。由来は、次のように記します


綾子踊は恋の唄40 滝宮念仏踊りの由来

 現在でも、滝宮念仏踊りの踊り手達は、踊り手達の家で不幸があったときには、家まで出向いて念仏踊りで供養する所があるようです。また、七箇村念仏踊り(まんのう町)の記録には、大旱魃の対応に忙しいので念仏踊りを中止することが協議されていることは以前にお話ししました。つまり、踊っている本人達に、雨乞踊りを踊っているという自覚がなかったのです。それが、どうして雨乞踊りと言われるようになったのでしょうか? それはまた次回に

綾子踊は恋の唄レジメ 1

4部構成でお話ししています。前回は中世の小唄は、宴席で歌われたもので、その内容は恋の唄が多かったこと、それが風流踊りとなり、綾子踊りにも転用されたことを見ました。綾子踊には、海と海峡と御岬、港と船頭と女というキーワードが含まれる歌がいくつかあります。それがどうしてなのかを今回は、見ていくことにします。
綾子踊は恋の唄レジメ17 室津の遊女

これは法然上人の生涯を描いた絵伝です。法然が後鳥羽上皇の怒りをうけて、讃岐に流される途中で、潮待ちのために立ち寄った室の泊(室津)の場面です。⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取りです。停泊した船に小舟が近づいてきます。巫女姿のように見えますが、実はこれが中世の遊女の船です。

絵伝には、船上で行われた遊女と法然のやりとりが次のよう記されています。

「上人の御船と知って、やって来ました。私は乱世の中で遊女に身を落としてしまいました。この罪深い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。


「今の職業を捨てることも難しいようだ。その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そなたのような罪人も救ってくさだる。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」


この言葉に対して
遊女は、随喜の涙を流したとあります。しかし、このシーンについては、いろいろと疑問があります。海の上です。船から大声で交わすような会話ではありません。格式を重んじる遊女が行う行為ではないという研究者もいます。しかし、法然の姿を消してみれば、この場面は別の意味をもってきます。それは入港してきた船に遊女がこぎ寄せて名乗りを行っているシーンだと研究者は指摘します。そこで歌われていたのが、綾子踊の10番目の塩飽船です。


綾子踊は恋の唄レジメ18 四国船

登場するのは塩飽舟 堺船 多度津船です。それぞれの船が入港すると、迎える遊女の名告りシーンが詠われています。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりがこの「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。もう少し詳しく見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ19.png 室津 塩飽船

当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世の吉原だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 

①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」

②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。

③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います

遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。彼女たちは吉原の花魁のように、格が高くプライドを持っていました。入港してくる船を、遊女が小唄でが出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。以上を整理しておきます。

綾子踊は恋の唄レジメ20 室津の名乗り

綾子踊歌の中の1番「水の踊り「「四国船」「たまさか」「六調子」「塩飽船」などは、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。港での船頭と遊女のやりとりが小唄として歌われ、瀬戸内海の航路ネットワークで、仁尾や多度津、宇多津などの中世の各港に拡がっていったことがうかがえます。
遊女達の名乗りのシーンをもう一場面見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ21 法然上人絵伝 高砂の漁師夫婦の共通性

 室津の前の高砂の場面です。法然がやってきたということで、港近くの家に多くの人が集まってきています。法然の説法が終わると②③の老翁と老女の夫婦が、手を合わせ泣きながら次のように問います。

我たちは、この浦の海人(漁師)で朝夕に魚を獲って生業としてきました。生けるものの命を奪う者は、地獄に墜ちて耐えがたい苦しみ受けると聞きました。これを逃れる道はないのでしょうか。どうしたらいいの、どうぞお助けください

 
上人は次のように教え導きます

あなた方は多くの人びとの役に立っています。南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の悲願で浄土で往生できます。


 
私が気になるのが浜辺の船です。ここには石垣や岩壁、倉庫などのような港湾施設のようなものは見当たりません。砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているだけです。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、中世にはそのような施設もなかったようです。


一遍上人絵伝 兵庫湊の遊女

こちらは兵庫湊 平清盛によって開かれた港 現在の神戸です。こちらも港と云っても港湾施設はなにもありません。船は砂浜に乗り上げられています。ここでも室津と同じように、入港してきた船に三人一組の遊女船がこぎ寄せています。そして、先ほど見たように、互いに名のりあいをして相手を確かめた上で、若と小が乗り移ります。拡大して見ましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ24 一遍上人絵伝兵庫 たまさか

船には楯が並べられているので軍船のようです。乗り移った若が謡ったうのが「たまさか」です。たまさかというのは、スナックでママの「おひさしぶりね 長い間やってこないでつれないわね」という挨拶のようなものです。●古代は男の通い婚でした、中世にもそれの慣習は残っていました。ひさしぶりにやってきた男を、なじりながら迎えて宿に誘引します。そんな場面で歌われたのがたまさかです。


綾子踊 たまさか2番3番

2番は、今夜のしとねです。●読む 今夜のしとねは、寺の菜の花畑の中です。 ふらふらと久しぶりに男はやってきて一夜を過ごします。気がつくと夜明けの鐘が鳴っています。三番は、せわせわとやってきて、髪が白くなったのにひさしぶりにやってきて、閨をともにします。中世の庶民達は、古代の王朝貴族文化の高貴さとは無縁です。ありのまま欲望や姿があけすけに描かれています。宴席では、このような歌が場を盛り上げていったのです。エロチックからポルノチックになり、そして春歌になっていくのは、いつの時代も変わりないようです。
 ここで押さえておきたいのは、このような歌のやり取りが、船頭達によって瀬戸内海の各地の港で謡われていたことです。それが港から後背地の村々に伝えられることになります。仁尾から三豊、多度津・宇多津から丸亀平野へという流れです。
この歌詞を訳して、私が思ったのは歌われている内容が、演歌と同じということです。例えば昭和演歌の代表作「港町ブルース」の歌詞をみてみましょう。

森進一 港町ブルース

そして、演歌のキーワードを並べて見ます

綾子踊は恋の唄レジメ 3 演歌との共通性
演歌のキーワード
船と岬と海峡が歌われている四国船を見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ27 四国船

四国船には四国の岬が歌われます。最初に四国の箱の岬、次に阿波の鳴門、土佐の岬(室戸)です。これの岬は海の難所で、船乗りに怖れられていた所です。そこを乗り越えていく船乗り達が「匂いやつす(ほれぼれする)」と歌われます。ある意味では、この歌は遊女達による船頭賛歌かもしれません。これを聞いて、船乗り達は勇気を得たことでしょう。宴席で歌われれば船乗りを勇気づけたはずです。「箱の岬」というの現在の荘内半島のことです。どうして、荘内半島が歌われているのでしょうか? 地図を見てみます。


綾子踊は恋の唄レジメ28 荘内半島の地理的重要性

 
荘内半島は讃岐の西北から燧灘に突き出た岬です。そして上の3つの航路のジャンクションになります。また燧灘と備讃瀬戸の境になります。東からやって来た船は、粟島や志々島で潮待ち、風待ちして出港していきました。三崎の先には速い流れがあり、大きな隠れ岩(岩礁)もあり、海の難所でもありました。同時に、ここは七宝山から岬の先端にいたる修験者たちの行場でもありました。そんな所には、海の安全を願う神様が勧進されます。それが三崎(岬)大明神(神社)です。

綾子踊は恋の唄レジメ29 三崎神社 荘内半島

荘内半島(岬)の先端です。先端にあるのが三崎灯台、その沖に沖の岩(御幸石)、三崎灯台の上に鎮座するのが三崎大明神(神社)です。中世は、ここは観音寺や善通寺で修行する修験者の海の行場でもありました。この三崎大明神について、幕末の全讃史は上のように記します。ここからは、三崎大明神が海の神様として船乗りの信仰を集めていたことが分かります。金毘羅大権現が海の神様として信仰を集めるようになるのは近世後半以後です。この神社の役割を以前に、まとめておくと次のようになります。

綾子踊は恋の唄30 荘内半島 三崎神社 1

 以上から四国船は、遊女達が船頭達のために歌った応援歌の性格が強いとしておきます。船乗り達が口ずさむようになった歌は、瀬戸の港に拡がっていきます。このように宴席や、港で歌われた小唄が風流踊りとなり、それが背後の村々に、伝わっていくという流れが見えて来ます。それでは、風流踊りを村々に伝えたのは誰なのでしょうか。次回は、それを見ていくことにします。今回は、ここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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綾子踊は恋の唄 表紙


綾子踊は雨乞踊りと云われてきました。その演目は12曲で、3番目に踊られるのが綾子踊です。この踊りは、綾子が旅の僧から教わったとされています。当然、降雨祈願が歌われているのかと思いますが、ところが歌われていのは綾子の恋です。
雨乞にまったく関係ない綾子の恋がどうして謡われているのでしょうか。結論を先に云うと、この歌は雨乞のために作られた歌ではないからです。もともとは、中世の小唄の恋の唄として作られたものなのです。それが、時代の中で盆踊りに転用され、さらに雨乞の時に踊られるようになったためと研究者は考えています。つまり、恋の唄が長い歴史の中で雨乞歌に転用されるようになったということです。今日は、その流れを4つのパートに分けて、次のようにお話しします。

綾子踊は恋の唄レジメ 1

まず、中世の小唄がどんなものであったのか、それが風流踊りとして全国に拡がったプロセスを簡単に見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄3 綾子踊の変遷

中世の小唄は、宴席の中で謡われたものです。場を盛り上げる座頭や太鼓持ち・芸子が歌い出すと、それに続いて2番、3番と歌い継がれていく。「ひとつとせ、ふたつとせ」と、みんなで歌が作りだされる空間でもありました。それは盆踊りも、同じです。即興で歌詞が次々と生まれていくのです。そこで謡われるのは、圧倒的に恋の唄が多いのです。しかも宴席ですから、次第にエロチックで、ポルノチックなものまで謡われ、春歌のようなものも伝わっています。こうして時と共に替え歌や合体で何十もの歌が生まれ、人気のあるものは風流歌として拡がっていきます。現在残っているのは、その一部で、特に人気のあった歌だったことになります。
 流行(はやり)歌となった小唄は、出雲の阿国などによって能や歌舞伎に取り込まれて、振りが付けられ踊られるようになります。これが風流踊りの誕生になります。そして人気のある風流踊りは、芸能伝達者によって村々にも伝えられていきます。こうして、風流踊りが盆踊りとして踊られることになります。それでは綾子踊の歌詞を詳しく見ていくことにします。右が現代語訳です

綾子踊は恋の唄レジメ5 綾子踊の歌詞

 あの娘(綾子)が身も細るほどの恋をしたようです。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心がどきどきしている様子です。そのため食べるものも喉を通りません。しかし、恋やせしているのです。それを親はいつもの夏やせだというのです。それに対して、ほんとうにあじけないと娘が呟きます。あじけないとは今風に訳すと「ほんまにせがないわ、やっとれんわ、しんじられんわ」というところでしょうか。そうだとすると初恋にワンワ・どきどきする乙女心を歌ったものになります。昭和歌謡のアイドル達が歌った恋の唄と変わりません。ちなみに綾子は歌詞には登場しません。出てくるのは「あの娘」なのです。それが「綾子」と歌われるようになり、綾子踊りというタイトルになったのかもしれません。佐文で雨乞のために作られた歌でないことは確実です。

 中世小唄の恋の歌は、「一つとせ」「二つとせ」と歌ってゆく数えタイプが多かったことは先ほど云いました。最初は、座頭や芸子が歌い出して、次第に参加者が次々と歌い継いでいきます。宴会では、一番がおわると、次を急かします。綾子踊の2番のキーワードは沖の石です。比較のために沖の石が出てくる歌を見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ 6 沖の石


岡山の哲西の田植え歌では、我が恋は沖の石と同じだと謡います。何故かというと、潮が引いても姿を見せないで隠れいている、それは涙で濡れた私の袖と同じで乾く暇もないと謡います。沖の石は、秘められた恋に涙で袖を濡らす女をイメージしていたようです。例えて云うと「
沖の石とかけて、私の袖と解く」、そのこころは「いつも乾くことがなく濡れているでしょう」というところでしょうか。それでは綾子踊りでは、どう謡われているか見ておきましょう。


綾子踊2番 沖の石


綾子踊2番にも、綾子の恋が沖の石に例えられています。沖の石という言葉が出てきたら、秘められた恋、涙で濡れる袖なのです。そして
3番のテーマは、丸木橋です。


綾子踊3番 丸木橋


今度のお題は丸木橋です。平家
家物には(読む)渡ろうか、渡るまいか、なんども踏み返され、袖が濡れると歌われます。 ③●和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情なのでしょうか。綾子の気持ちがさらに一歩進んで告白するかどうかに悩んでいるようです。「沖の石」と云えば、秘められた恋心、丸木橋は「恋の告白」と成就がテーマのようです。

綾子踊は恋の唄レジメ 9 丸木橋

綾子踊り3番の歌詞です。平家物語や念仏踊歌と同じ内容です。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するキーワードだったのです。ここにもの「あじ(ぢ)きなや」が出てきます。当時の乙女達がよく使った流行語だったことがうかがえます。 綾子踊りの歌詞から分かることをまとめておきます。

綾子踊は恋の唄 歌詞分析

①綾子踊で歌われている内容は、中世の小唄と共通すること。
②中世に歌われていた小唄が、綾子踊の歌詞として伝わっていること
③綾子踊が雨乞のために作られたものではないこと
④弘法大師が綾子踊を伝えたという由来はありえないこと

次に閑吟集のトリを飾る花籠を見ていくことにします。

綾子踊は恋の唄レジメ10 閑吟集 花籠

この歌は閑吟集の最後に歌われている歌です。トリなので人気のあった歌だったことがうかがえます。
①●花が生けられ花籠です。でも、閑吟集では月が入れられています。当時のお約束では、花籠が女、その中に入れられるものが男ということになっていました。意訳すると

(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性、男との逢瀬の思い出を胸に秘める女と花籠と月の光


ここからは花籠に入る月の光という幻想的なイメージが浮かんできて、美しい歌です。宴席では、これが歌い始めで、
花籠に月に代わっていろいろなものが入れられて歌われていきます。綾子踊りには、なにが入れられるのか見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ11 花籠

意味をとっておくと、一番は玉房(恋文)が入れられます。恋する男に吾が心を伝えようかどうか、揺れる切ない恋心です。2番には我が恋、3番には浮名が入れられます。こうして花籠にいろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。タイムカプセルのように、500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した綾子踊りが無形文化財になるのは当然と研究者は考えています。 

 もう少し、艶があってエロチックなのが小鼓です。

綾子踊は恋の唄レジメ14小鼓

1番は、小鼓が男性、それを奏でるのが女性です。ふたりを隔てる川(皮)が恋の響きを奏でます。
2番は、「駒」は馬で、駒に踏みにじられた道草(女)も、露(男)に一夜の宿を貸す、ということでしょうか。
3番は、女性が水草、そこにやどるのが蛍で、男の比喩です。

古浄瑠璃『上るり御前十二段』(浄瑠璃御前十二段)・「まくらもんたう(枕問答)」には次のようなフレーズがあります。(意訳)
駒に蹴られた道芝も、露に、一夜の宿は貸します。
水にもまれる川柳も、蛍に一夜の宿は貸します。
風にもまれし呉竹も、小鳥に一夜宿は貸します。
人にはなさけがあります。なさけは人のためだけではありません。
浮世はまわる車輪のように、めぐりめぐりて後の世、我が身のためになることもあるのです。

この浄瑠璃のセリフを受けて、男が歌っていることが分かります。ここでは、路傍の草のように、相手を思うやさしい心を持ちなさい。私の恋心(下心)を、わかって受け入れて下さいという男の口説き歌になっています。


綾子踊は恋の唄レジメ15 変遷図

中世に恋の唄として歌われた小唄に振りが付けられが、狂言や歌舞伎の舞台で踊られ、風流踊りとなります。それが地方にもたらされて盆踊りに転用されていくという流れになるようです。
第一部は以上です。以下は次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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講演会 満濃池と西嶋八兵衛ポスター

今年もまんのう町の町立図書館で、3回のお話しをすることなりました。最初は、満濃池シリーズの3回目で、西嶋八兵衛について上記の通り取り上げます。興味と時間のある方の参加をお待ちしています。

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https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw(動画)


本日の授業

中寺と大川山に登って、上のような「授業」を行いました。その5時間目を報告します。
中寺展望台で昼食後に、大川山へ向かいます。

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大川神社前の紅葉(11月16日)
モミジとイチョウが紅葉で迎えてくれました。真っ青な秋のソラが赤や黄色を際立たせます。参加者からの歓声の声が上がります。まさに天からのプレゼントです。

大山神社1
大川山頂上の大川神社
大川神社の鳥居の前で、大川神社のお話しをします。まず、現在の大川神社が、どのように語られているのかを説明版で確認します。

大山神社2 2025 11月11日
大川神社の由来
 この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀で出てくる神々と、その神話だけが書かれています。これでは、中世や近世の大川山については何も知ることが出来ません。古代の大川山は、霊山として人々の信仰を集めていたことは、1時間目にお話ししました。その信仰を担ったのは密教系の修験者で、霊山大川山の遙拝所として登場したのが中寺でした。つまり、明治以前には大川山は修験者(山伏)たちの管理下に置かれていたのです。それでは、江戸時代には大川山は、どのように紹介されていたのでしょうか。

讃岐国地図 大川山権現
大川山権現 讃岐国図(髙松藩が幕府に提出した絵図)
讃岐国図には、独立峰であることを強調する姿で「大川山権現」と表記されています。「権現」は、修験者たちによって開山され、そこに彼らの信仰する神や仏が祀られた霊山であったことを表します。ここからは、大川山が修験者の山として認識されていたことが分かります。ちなみに、西側の「篠田尾」は1時間目にお話しした「笹ケ田尾(タオ=鞍部)」のことです。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。

①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。
④かつては
天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が寄進した鉦鼓

 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。
⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと

これくらいの予備知識をもって、山伏たちの痕跡を探しにいくことにします。
大山神社神域
大川神社の宗教施設
まずは、拝殿の裏側の①本殿を直接に参拝させていただきます。

大山神社 本殿 2025年
大川神社の本殿
本殿は近年に改修され、覆屋ができて直接に見ることは出来なくなりました。以前の写真がこれです。

大川神社 本殿東側面

この本殿が先ほど見たように髙松藩の歴代藩主によって改修が行われたものになるようです。それでは、この本殿は、いつころ建てられたものなのでしょうか?。本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立と、同時期に建立されたものと研究者は考えています。

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど説明版で見たように、現在祀られているのは上表下側の神々です。しかし、明治以前には大川山権現とされていました。権現と名が付く山々では、石鎚山などのように蔵王権現と役行者が祀られていました。
権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大山大権現の別当寺・新宮寺の役割を果たしたのが中寺廃寺でした。中世になって中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖としていた役業者や蔵王権現がもっとも相応しいことになります。 

石鎚 蔵王権現
石鎚山山頂に運び上げられる蔵王権現

高越山 役行者
阿波 高越山の役行者

修験道の成立と蔵王権現の登場

 明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように大川山からも権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っていることを押さえておきます。
 次に見ておきたいのが本殿の後側の石垣と玉垣で高く築かれた神域です。

大川神社3
            緑の屋根が本殿の覆屋 その手前のふたつの燈籠が並ぶ所
高い石垣を組んだ方形の区画があります。正面に立ってみます。
大川神社 松平家御廟
髙松松平藩の霊廟
階段がないので上れません。登れない聖域なのです。先ほど見たように本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたことが考えられます。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大川山権現のランクを高める物になったでしょう。
 次に見ておきたいのは、神域の西北隅にある小さな神社です。

大川神社 秋葉神社2
           大山神社の神域の玉垣(明治28年 日清戦争の戦勝記念?)
玉垣の北西隅に鳥居があります。

大山神社 秋葉神社3
鳥居には秋葉神社とあります。
秋葉大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神です。もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。
 秋葉大権現の三代誓願は次の通りでした。
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
秋葉大権現
 その姿は飯縄権現や愛宕権現と同じように白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿で描かれました。飛行自在の神通力を持ち、観音菩薩の化身(本地仏)ともされます。ここからは天狗信仰の修験者に担われて秋葉大権現が大川山に勧進されたことがうかがえます。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。 しかし、この秋葉神社が鎮座する位置は微妙です。

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大川神社神域の外に鎮座する秋葉神社
横から見ると、鳥居は神域の玉垣の内側ですが、社殿は石垣の外側に鎮座しています。これをどう考えればいいのでしょうか? 大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したのなら内側にあるのが当然です。しかし、どうみても玉垣の外にあります。

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              大川神社の玉垣の外に鎮座する秋葉神社
 もともとは神域の中にあったのが明治維新に「秋葉大権現」なので「秋葉神社」と改名し、その後に神域の外に追いやられたことが考えられます。その時期は、玉垣が整備された日清戦争後のことでしょう。しかし、もともとの信者たちの抵抗で、鳥居と入口は神域内に残されたのではないかと私は推察しています。そうだとすれば大川山周辺には、秋葉大権現を信仰する人達が数多くいて、講組織を作っていたことがうかがえます。その背景として考えられるのが、ソラ(山間部)の焼畑です。焼畑では、火を使います。火をコントロールし、最後にはきちんと鎮火させることが大切です。その火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。ここでは火を扱う焼畑の神様として、ソラの集落の人々の信仰を集めていたとしておきます。これも山伏たちの残した痕跡です。

神輿蔵の裏側に、ふたつの石造物が残されています。

 大川神社 魔除寺蔵と不動明王
            大山神社神域の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)
 左が魔除け寺蔵です。地蔵信仰は、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。これを広めたのも廻国の修験者や高野の聖であったとされます。右は不動明王のようです。

P1290012
                大山神社の不動明王
不動明王は修験者が守護神として大切にした明王です。小さな不動明王像を持ち歩き、行場に入るときには安置して外敵や己の弱い心を打ち砕いたとされます。大山神社に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。
 
大川神社 龍王社
大川神社の龍王堂
本殿の東側に、東面して建っているのが龍王堂です。
どうしてここに龍王堂があるのでしょうか。それは龍王が雨を降らせる神様とされたからです。空海祈雨伝承では京都の神仙苑の池で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされてきました。これが近世になって讃岐にも拡がるようになります。そうすると、雨乞いが行われる山には、修験者たちによって龍王神が祀られるようになります。こうして大川山も雨乞いの霊山として信仰を集めるようになります。もともとは山頂に小さな池があったというのも、そこが善女龍王の住処であったことを暗示しています。ここに龍王神が祀られているのは納得できます。それを主導したのも、芸能伝達者としての修験者たちであったと研究者は考えています。彼らが、近世後半になると風流踊りを雨乞踊りにアレンジしていきます。これは滝宮念仏踊りや、佐文綾子踊りと同じ流れです。その背後には、修験者の姿が見え隠れします。
以上見てきた大川神社の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの施設は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。それではこの聖域が作られてのは、いつなのでしょうか。玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備されたことが分かります。現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。
 
中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺の遙拝殿跡から望む霊山・大川山
最後に中寺が衰退した後の大川山権現が歩んだ道程について考えておきます。
古代国家によって建立された山林寺院は、中世になって国衙の保護を失うと急速に衰退します。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。中寺に替わる勢力が、大川山を行場として活動するようにます。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説として最後にお話ししておきます。
  五流修験は、紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて分社したのが五流です。そのため「新熊野」とも呼ばれます。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとって泣き所は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領の児島に分社されたので高い山(霊山)がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚・大三島・宮島などです。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍の船に乗り込み、瀬戸内海や九州にも布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の丸亀平野にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは土器川・金倉川沿いにまんのう町にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡を地名で見たのが次の表です。

霊山大川山と五流修験

大川山の北側の麓には「吉野」、南側に勝浦の集落があります。吉野修験のコリトリ場として天川(てんかわ)が有名です。これは造田に天川神社としてあります。ここで身を清めて大川山に参拝したのでしょう。これらは熊野や吉野にある地名です。また、山伏たちが開いた坊集落が炭所の金剛院です。中寺が中世に衰退した後は、五流修験のネットワークの中に大山大権現は組み込まれていたと私は考えています。
本日の授業

 以上で、本日の授業を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社の玉垣と紅葉(2025年11月11日)
参考文献
 大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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本日の授業

ハイキングで中寺の遺構をめぐっています。前回は展望台と、B(祈りゾーン)で「授業」を行いました。今日は3限目をA(仏ゾーン)で行います。

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の3つのゾーン
Aゾーンの遺跡は、旧郡境尾根の東側のテラスに点在します。このあたりが前々回に見た江戸時代末の絵図には、「中寺」と表記されていた所になります。ここには、次のように本堂と仏塔があったとされます。
「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔

中寺廃寺 A(祈り)ゾーンの復元図
仏塔跡で3限目の「授業」を始めます。

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3時間目 中寺廃寺A(仏ゾーン)の塔跡にて
塔跡の発掘時野の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
 中寺廃寺A(仏ゾーン) 塔跡の発掘時写真
正方形に礎石が並んでいます。4つの礎石なので三間×三間の正方形です。真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。そして、この心礎から出てきたのが、次の土器です。

中寺廃寺 心礎地鎮用2
中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器

中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
①地鎮祭用に埋められたもので、10世紀前半のもの。
②製作場所は、綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯。
③特徴しては、赤みが強いこと
②からは、地鎮祭用に作られたとすると、この塔が作られたのも10世紀前半のことになります。時期的には、国司としてやって来ていた菅原道真が帰った後のことです。③からは、このような赤みを出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの手の込んだ仕上げが必要になるようです。どうやら、この壺も国衙の発注で焼かせた可能性が高いようです。そうすると、ここにも讃岐国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたと研究者は考えています。

次に仏塔の上の仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。
中寺廃寺 A遺構仏塔2
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡

最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。
礎石の数から大きさは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)です。いまから見ると非常に小さい本堂になります。小さなお堂のようです。ここからは、10~11世紀の遺物が出土しています。さきほど見た塔と同じ時期に建てられたようです。
①平面図を見ると本堂と塔は、両方とも真南を向いています。
②本堂は小さく、その中で儀式を行う事はできません。
③そこで考えられたのが本堂前に広場をつくり、野外で儀式を行うこうことです。
④全国の類例を探すと、古代の山林寺院には、この規模の本堂があるようです。
⑤山林寺院として出発した屋島寺の創建時も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、これが古代の山林寺院の姿だったようです。
⑥そして伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺様式だと研究者は考えています。
中寺廃寺 A 本堂から塔跡
中寺廃寺 A(仏)ゾーン 本堂跡から見る仏塔跡中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図

以上の情報をまとめて、推察します。
中寺廃寺への国衙の関与2
中寺廃寺の出土品が物語る国衙の関与

A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式でした。また、心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。つまり、地鎮用の須恵器は、国衙がこの寺のために作らせた特注品です。
以上から、中寺建立には国衙や国分寺の力が働いていたことがここからも裏付けられます。しかし、このAゾーンの仏教施設が登場するのは、Bゾーン(遙拝所)の割拝殿より半世紀後のことになります。歴史的に云うと、山林修行者が活動していた霊場に、国衙が仏施設を後からプレゼントしたとも考えられる関係になります。言い方を換えるなら、霊場大川山の遙拝所に、仏教施設が国衙によって接ぎ木されたとも云えます。このあたりの関係が面白い所です。

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礎石に座って一休み 仏塔跡にて 当時は前の木々も切り払われ、大川山が目の前の見えたはず・・

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間です。これが菜園だというのです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図 上のテラスには菜園があった?

発掘以前には、仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくるのでは期待していたそうです。しかし、出てくるのは、直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。しかし、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシや鹿の対策に柵が必要だったことが分かります。中寺でも生活のために野菜などが、日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。

 それでは午前中のまとめに入ります。パンフレットの表紙をもう一度見てください。

中寺廃寺と空海

ここには、いままで見てきた建物などの出現期が表にまとめられています。中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末でした。また、ここから発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年で、空海の20歳台のことです。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身は太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この間に中寺を訪れていたことは十分考えられます。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説
 もうひとつのチャンスは、821年の満濃池改修工事の時です。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海による満濃池修復想像図(大林組) ①が、護摩祈祷を行う空海
この時に空海は讃岐に帰ってきたと伝えられます。後の史料には工事成就と安全祈願のために護摩壇岩で護摩を焚いて祈祷を行ったと記します。その時に、どんな神様に祈願したのでしょうか。先ほど見たように、満濃池の正面に見えるのが大川山です。
満濃池と大川山2
満濃池から見上げる大川山
空海は、大川山に向かって祈ったと私は思います。当然、祈祷の前には中寺に参籠し、大川山に行道していたことが考えられます。満濃池修復の際に、空海は大川山に向かって祈願した可能性はあります。

これで3限目は終わりです。
予定していた4限目のC(願い)ゾーンについては、時間がないので現場には行かずに「リモート」で、次のようなお話しをしました。
パンフレットの地図を見てください。
中寺廃寺 3つのゾーン2

A・Bゾーンから谷を隔てて、向かいに河原場があります。そこにあるのがいくつもの石積み(塔)です。
中寺廃寺Cゾーン 石組み

この石組は、平安時代にさかのぼるものであることが分かりました。平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。河原に石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為(=供養・願掛け)の一つとされました。人々が霊山である大川山への参拝の時に、ここを訪れ、石を積んで石塔を作り、祈った場所と研究者は考えています。
 平安時代に丸亀平野に棲むの人たちは、春にはその年の豊作を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などに、霊山である大川山に参拝にやって来ました。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願にやってきた人達が、参拝道の周辺にある河原を訪れて、願いや供養を込めて石を積んだというのです。それが1200年前のままで残っています。平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所と云えるかもしれません。
 このような平安時代に庶民が積んだ石塔が見つかるのは、ここが初めてでした。ふつうは後世の人達によって石が転用されたり、破壊されることが多いのです。それがここには残っています。忘れ去られた場所だったから、そのままの姿で残ったと云えるのかもしれません。
   Cゾーン「石塔」は、大川山や中寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったとしておきます。これで午前のお話しを終わります。午後は、大川山でお待ちしています。

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中寺廃寺から旧郡境尾根を笹ケ田尾へ向かう
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追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中寺・大川山でお話しした時間割です。

本日の授業


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中寺展望台での1限目授業
1時間目の中寺展望台では、こんなお話しをしました。

山林寺院の役割

 仏教伝来以前には、死者の霊は里から見える神奈備(かんなび)山に集まり漂い、時間をおいて天上世界に帰っていくと考えられていたと民俗学は云います。里から見上げられるおむすび型の甘南備山は、死霊が集まり漂う所です。例えば、善通寺の大麻山や五岳、三豊の弥谷さん・七宝山などです。そこには後になると山林修行者がやってきて、死霊を供養するようになります。同時に、彼らはそこを拠点として行場を開いて行きます。こうして死霊の集まる山は、山林修行者の集まる霊山や行場へと成長して行きます。その際に、霊場になるには麓からよくみえる山であることが条件でした。そういう意味では、丸亀平野一円から見える大川山は、霊山に相応しい山でした。
霊山では、修行の折り目折り目に、山頂で大きな火が焚かれました。

富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
これが密教に取り入れられると護摩祈祷になります。古代の山林修行者は、修行が一区切り終わると夜に山頂で周囲の木を切ってバンバン燃やしたようです。燃える焔は神秘的で、その山が特別視されるようになります。徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山、火上山・護摩山などの山名は、頂上で大きな火(護摩)が焚かれたことに由来するとされます。焼山寺の火は紀伊からも見えたようです。大川山で焚かれた火も、讃岐一円から見えたことになります。それが霊山の信仰エリアとなります。
③3番目は、前回に見たとおり、里が見渡せる国見山として戦略的な意味を持つこと
④4番目は平安時代になると山林資源をどのように囲い込むのかが課題になります。
その管理拠点の役割を担ったのが山林寺院です。この尾根の西側の尾根には尾背寺があります。尾背寺の由緒には、空海の実家佐伯直氏の氏寺で、善通寺建立の際の材木を提供した山林寺院と書かれています。つまり、佐伯氏が森林確保の役割を含めて尾背寺を保護したことがうかがえます。このように、古代の山林寺院は、宗教的役割の他にも経済的・軍事的な役割を担って登場してきたことを押さえておきます。 
 若い時代に空海が行った修行とは、どんなものだったのでしょうか?
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。

空海が行っていた修行

①まず巌籠(いわごもり)です。魑魅魍魎の現れる異界の入口である洞窟に一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。洞窟などが生活空間となり、その周辺に庵や寺院が現れます。
②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。ここでは、この中寺と大川山を回る行道が行われていたと私は考えています。

誓願捨身2 高野空海行状図画
空海の誓願捨身行 五岳の我拝師山にて (弘法大師行状絵詞)

4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。

山林寺院出現の背景

それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
 ③こうして、東大寺などの中央の官寺や、地方の国分寺などでも山林修行をおこなう僧侶が出てきます。④これに応えて、中央政府や地方の国衙も山林修行の拠点としての寺院建立を始めます。⑤こうして姿を見せた山林寺院は、国境警備や森林資源保護センターの役割を果たすようになります。山野を駆け回る山林修行者は、国衙の警備や山林保護の任務も担うことになります。ここでは空海が山林修行を始めた頃に、中寺は山林寺院として姿を現し始めていたことを押さえておきます。
 これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。

中寺廃寺 3つのゾーン2


上地図で現在地点の展望台を確認してください。
①東への稜線沿いに30m下げ鞍部が「きた坂
②北阪から南東尾根、左手は平坦地 20m下げた尾根の突端部がBゾーン
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           Bゾーン(祈りの空間) 尾根先端の盛土と、その向こうに大川山

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見上げると大川山
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2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
神社の建物ができる前は、山自体が信仰対象でした。神社という建物ができると、それに向かって拝むようになります。今では祈りの対象が山から、神社の建物に替わってしまっています。しかし、山が信仰対象であったことを思い出させてくれる場所があります。例えば、石鎚山のロープウエイ側の成就社です。
石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ここは本殿に入ると、祭壇の向こうに石鎚山です。ここから石鎚山にお参りします。 横峰寺の場合だと、星ヶ峯の遙拝所に石鎚山を拝む方向に鳥居があります。鳥居の間から、石鎚山が見えます。明治維新の神仏分離以前は横峰寺や前神寺などの山林寺院が信仰の中心で、神仏混淆の空間でした。社僧たちが、朝に夕に、石鎚山に祈りを捧げていたのです。これと同じ空間が、このBゾーンと云うことになります。
 ここで山林修行者たちは、朝夕に大川山への祈りを捧げるだけでなく、金剛界と見立てた大川山と、胎蔵界と見立てた中寺を、一体化するために往復行道を毎日、何度も行っていたと私は考えています。その中に若き日の空海もいたかもしれません。B地区は大川山への遙拝所ということで、「祈り」のエリアと名付けられました。それを裏付けるものが発掘調査で見つかっています。

この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

三鈷杵と柵状の破片

これは古い密教法具の破片であることが分かりました。左は三鈷杵といい、山林修行者を外敵から守ると共に、修行者の弱い心を打ち砕くとされる仏具です。右が錫杖の一部です。

飛行三鈷杵との比較

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの割拝殿と広場、その下の僧坊

ここには柱跡が何本ありますか、その間は? 8間×3間の長い礎石建物であるようです。特徴的なのは、中央に通路があるように見えることです。そこで、研究者は次のように復元しました。

割拝殿とは・・
Bゾーンの割拝殿
ここから霊山大川山を仰ぎ見て祈りを捧げる拝殿ということになります。

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そして、中央に通路があって分かれているので「割拝殿」と呼ばれます。

そして、割拝殿の下の斜面を平らにして造られた僧坊跡を見ます。

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2限目 中寺廃寺 Bゾーンの僧坊跡にて
ここからは柱穴から変わった瓶が出てきました。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
いくつもの口があります。これは日常生活に使われるものではなく、仏事に使われたものです。これを復元すると下のようになります。

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶
現在の考古学では、土器編年体表が整備され、いつどこで作成されたかが専門家には分かります。
多口瓶(屋島寺・法勲寺)
中寺周辺の寺院から出てきた多口瓶の類例

この多口瓶が物語ることを整理しておきます。
①多口瓶は仏具なので、この建物が僧坊であったこと
②この多口瓶が播磨の工房でつくられたもので、類例品のない特注品であること
③この多口瓶は普通の人間には手に入らない高級品で、威信財だったこと。
④中寺で修行する僧侶が、財力や地位をもった高僧であったこと
⑤見方を変えると、中寺は高級僧侶が修行する山林寺院だったこと

最後に1・2限目のまとめを行っておきます。

割拝殿 祈りの場

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。


HPTIMAGE

中寺の建造物の出現期(Bゾーンの仏堂は割拝殿のこと)
⑥割拝殿空海以前から大川寺を霊山として活動する山林修行者がいた。
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑧空海が平城京の大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
⑨9世紀半ばになって、讃岐国衙や国分寺の保護を受けてAゾーンの仏教施設が現れる。

ここからは、中寺で活動をはじめたのは山林修行者であったこと、その信仰の中心はBゾーンであったことが分かります。佛教的要素は、それに遅れて入ってきたことになります。また、若き空海が中寺で修行を行った可能性が生まれてきます。

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2限目終了です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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 11月16日(日)の勤労者山岳連盟のハイキングに招かれて、中寺と大川山でお話しすることになりました。本隊は江畑から登りますが、体力に自信のない私は笹の田尾(峠)の駐車場まで車で登ります。そこから車道を歩いて下って、中寺展望台で合流するという流れです。その模様をアップしておきます。
中寺廃寺 アクセス

中寺・大川山マップ
中寺・大川寺ハイキングマップ(まんのう町教育委員会) 各登山口に置いてあります。

 登山口の中通の野口から車で40程度で大川山への分岐を越えて、阿波大平の県境稜線尾根に出ました。ここではもう落ち葉が車道を埋めています。

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大川山西側の大平の県境尾根
このあたりのことについては、江戸時代末に高松藩主が鷹狩りと称して、大川山周辺の阿波との国境視察をおこなった時の模様が造田村庄屋の西村文書に記されています。そのルートは、次の通りです。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」
この絵図からは次のようなことが分かります。
①大山社の西側の尾根筋には鳥居があったこと。
②この鳥居ルートが江畑・塩入や阿波の大平からの参道になっていたこと
③絵図の右端(西側)の尾根の分岐が「笹ケ多尾(タオ=峠)」と呼ばれていたこと
④「笹が多尾」から北西に伸びる尾根が中寺へのルートであったこと。
⑤大川山と笹が多尾を結ぶ県境尾根の北側は「新御林」とあって新たに藩の管理する山林に指定されたこと
この辺りの山林は髙松藩の藩有林で、それが明治維新に国有化され、一部は個人や各村に払い下げられたようです。
 大平への車道を一旦下って、分岐を笹ケ多尾へと登っていきます。高原キャベツ畑の奥の稜線上に中寺駐車場があります。

中寺廃寺 駐車場
笹ケ多尾の中寺駐車場

ここからの車道は一般車は通行できません。急勾配なコンクリート道を下って行きます。

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。先ほどの絵図と同じように、殿様の国境視察時に時に、藩の求めに応じて造田村の庄屋西村市大夫が作成し提出したものです
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ田(多)尾」
③「笹ケ田尾」から江畑へ伸びる郡境尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
同時に次のような報告書も提出しています。
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。これに対して、藩はさらに詳しく知らせよと求めてきます。それに対しての造田村庄屋・西村市太郎の返答書です。
飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だというが、何免(村)にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様
以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」の尾根ルートは、かつては那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④このルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていて西側には鳥居もあったこと

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笹ケ田尾から急な車道を30分ほど下ると見えてくるのが休憩所です。
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中寺休憩所
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この休憩所は避難所の役割もあるようですが、バイオトイレがあるのがありがたいところです。
この休憩所のそばを通って林の中を抜けて行きます。

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中寺展望台と仏ゾーンへの分岐点
北側が明るくなると展望台はすぐそこです。休憩所からは5分弱です。
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中寺展望台
ここからの展望は「丸亀平野を見下ろす随一の展望」とありますが、そのとおりだと思います。
中寺廃寺 髙松方面展望
         髙松方面 屋島・その後ろの小豆島・峰山・その間にサンポート 

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                     髙松方面 
伊方原発など西からと、阿波の水力発電所からの高圧送電線が変電所に集まる。その向こうが屋島と小豆島。
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坂出方面 五色台・城山・飯野山 手前の尾根は長尾の城山から大高見峰

中寺廃寺展望台1
     丸亀・善通寺方面 直下に満濃池・その向こうが象頭山・その左が荘内半島
空海の生まれた善通寺と五岳も見えます。善通寺と満濃池と大川山が一直線に結べます。満濃池は、空海が改修したといわれ、工事中は護摩壇を築いて祈祷を続けたとされます。その間も空海は、この山を見上げ睨み続けていたのかもしれません。
 瀬戸に浮かぶ島々としては、小豆島・瀬戸大橋・本島・広島・高見島・荘内半島・紫雲出山・伊吹島がそれがパノラマのように一望できます。塩飽の島々や備讃瀬戸を行き交う船も見えます。瀬戸内海は古代から富と人の通る大動脈。ここを押さえることは、戦略的意味があります。中寺には髙松藩の殿様も鷹狩りと称して阿波藩との国境視察のために訪れたことはさきほど見た通りです。初めて江戸から帰国した若殿に対して、育成係はここでどんなことをレクチャーしたでしょうか。
こんな山を国見山とよびます。
国見山とは、領地が一望出来て、領内の異変などをいち早くとらえて通報することのできる場所でもあります。その意味では大川山は戦略的な意味を持つ山でした。支配者としては、監視人を置いておきたい場所です。 

中寺展望台から丸亀平野
中寺展望台からの満濃池と、その左手の象頭山
快晴の中、展望台でボケーとしながら考えていると、江畑からの本隊が登ってきました。一休みした後で「授業」開始です。
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中寺展望台での1時間目授業
本日の時間割は次の通りです。
本日の授業


与えられたテーマは 中寺廃寺と大川山についてですが、この2つに空海を搦ませてお話ししたいとおもいます。時間割は上図の通りです。昼食後の5限目に大川山にいって、大川山と中寺が神仏混淆下で、一体であった痕跡を探そうと思います。こんな時間割で進めていきたいと思います。
以下は、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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高松電灯と牛窪求馬
            髙松に電灯を初めてともした髙松電灯と牛窪求馬
日本で最初に電灯が灯るのは明治15年のことでした。13年後に髙松に電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)で、彼は髙松藩家老の息子でした。資本金は5万円で、旧藩主の松平氏が大口の出資者です。髙松に電灯が灯ると、中讃でも電灯会社設立の動きが活発化します。ここで注意しておきたいのは「電力会社」ではなく「電灯会社」であることです。この時期の電灯会社は、町の中に小さな発電所を作って電線を引いて灯りを灯すという小規模なものです。電灯だけですから営業は夜だけです。これが近代化の代名詞になっていきます。しかし、電気代は高くて庶民には高値の花でした。誰もが加入するというものではなく、加入者は少数で電灯会社の経営は不安定だったことを押さえておきます。
     髙松に習って中讃でも電灯事業に参入しようとする動きが出ています。

中讃の電灯会社設立の動き

ひとつが多度津・丸亀・坂出の資産家連合です。その中心は、多度津の景山甚右衛門で、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家の連合体です。もうひとつが、農村部の旧地主系で、助役や村会や郡会議員を務める人達のグループです。
景山甚右衛門と鎌田勝太郎の連合ですから、こちらの方が有力と思うのですが、なぜか認可が下りたのは旧庄屋連合でした。その中心メンバーを見ておきましょう。

西讃電灯設立発起人

西讃電灯の発起人と役員達です。ここからは次のような事が読み取れます。
①発起人には、当然ですが景山甚右衛門など多度津の七福神や坂出の鎌田勝太郎などの名前がないこと②大坂企業家と郡部有力者(助役・村会議員クラスの名前があること。
③七箇村からは、増田穣三・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)の3名がいること 
実は、この会社設立には増田穣三が深く関わっており、郡部の有力者を一軒一軒訪ねて投資を呼びかけています。ここからは旧庄屋層が電力会社という近代産業に投資し、投資家へと転進していこうとする動きが見えます。当時の増田穣三は「七箇村助役」で、政治活動等を通じて顔なじみのメンバーでした。こうして資本を集めて会社はスタートします。ここでは、この電灯会社が素人の郡部の元庄屋たちの手で起業されたことを押さえておきます。しかし、この事業は難産でした。なかなか創業開始にこぎつけられないのです。その理由は何だったのでしょうか?3年経っても火力発電所ができない理由を株主総会で次のように説明しています。

西讃電灯開業の遅れ要因

資金不足で、発電機械が引き取れなかった。土地登記に時間がかかり電柱が建てられない。要は素人集団が電力会社経営を始めたのです。ある意味では「近代化受容」のための高い授業料を払っていたことになります。これに対して、いつまでたっても操業開始に至らずに、配当がない出資者たちは不満がたかまります。なんしよんやという感じでしょうか。そこで名ばかりの社長と役員の更迭が次のように行われます。

西讃電灯の役員更迭と増田穣三

赤が社長、青が役員です。③1897(明治31)年に、西讃電灯は発足し、翌年9月に発電所建設に着工します。 ④しかし、3年経っても操業できずに、その責任と取って社長が短期間で3人交代しています。そして⑤1900年10月には、役員が総入れ替えています。彼らは経営の素人集団でした。操業にこぎつけられないための引責辞任です。こうしたなかで「七箇村村長+県会議員」であった増田穣三への圧力がかかります。「なんとかせい、あんたが有利な投資先やいうきに株式を購入したんぞ。あんたが社長になって早急に営業開始せえ。」というところでしょうか。⑥1901年8月、前社長の「病気辞任(実質的更迭)」を受けて、増田穣三が社長に就任します。これは「火中の栗」をひろう立場です。この時に⑦増田家本家で従兄弟の増田一良も役員に迎え入れられています。こうして、増田穣三体制の下で操業開始に向けた動きが本格化します。そして1年後には操業にこぎつけます。西讃地域で最初に稼働した発電所を見ておきましょう。

西讃電灯 金倉寺発電所
西讃電灯の金倉寺発電所(JR金蔵寺駅北側)
創業から5年目にして、金倉寺駅の北側に完成した石炭火力発電所です。土讃線沿いに、空に煙をはく煙突が木のように描かれています。発電行程を見ておきましょう。
①貨車で石炭が運び込まれる
②線路際の井戸から水が汲み上げられて
③手前のボイラー棟で石炭が燃やされ、蒸気が起こされる。
④蒸気が発電棟に送られ弾み車を回して発電機に伝えて電気を起こす。
⑤蒸気は、レンガ積の大煙突から排出される。
⑥ボイラーの水は鉄道路線沿いの井戸より吸い上げ、温水は南の貯水池に流していた。
⑦手前の小さい建物が本社で、社長以下5人位の事務員がいた。
どうして金蔵寺に発電所が作られてたのでしょうか?

金倉寺発電所の立地条件

火力発電所の立地条件としては土地と水と原料輸送です。まず多度津の近くには安い適地が見つからなったようです。さらに港に運ばれてきた石炭輸送を荷馬車などではこぶと輸送コストがかさみます。鉄道輸送が条件になります。そうすると、もよりの駅は金倉寺です。金倉寺周辺が旧金倉川の地下水が豊富にあります。こうして、金蔵寺駅の北側が発電所設置場所として選ばれます。就任して1年で開業にこぎ着けた増田穣三の手腕は評価できるようです。それでは、営業成績はどうだったのでしょうか?

讃岐電気 開業1年目の収支決算

営業開始から1年で、契約者は480戸。収入は支出の1/3程度。累積赤字は80000円を超えています。
これに対して、増田穣三の経営方針はどうだったのでしょうか?

増田穣三の拡大策

増田穣三の経営方針は「現時点の苦境よりも未来を見つめよ」でした。「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」とイケイケ路線です。その見通しは「善通寺11師団や琴平の旅館が契約を結べば、赤字はすぐにも解消する。今は未来を見据えて、投資拡大を行うべきだ」と、「未来のためへの積極的投資」路線です。
これに対して株主たちはどう動いたのでしょうか?

讃岐電気 経営上の対立

会社が設立されてから約10年。出資者は一度も配当金を受け取っていません。その間に、出資総額の12万円の内の8万円を赤字で食い潰しています。このまま増田穣三のいうように拡大路線を進めば、赤字は雪だるま式に膨らみ、その負担を求められる畏れがでてきます。株主たちは、「新体制でやり直すべき」という意見でした。そして譲三は、実質的に更迭されます。

増田穣三更迭後、西讃電灯はどのように経営の建て直しが行われたのでしょうか?

増田穣三解任後の西讃電灯

①経営陣に景山甚右衛門と武田熊造を迎えます。
②そして累積赤字を資本金で精算します。資本金全体は12万円でしたから、残りは3,4万円と言うことになります。出資者達は約2/3を失うことになります。
③これでは会社の経営ができないので、11,4万円の増資を行います。
④注目しておきたいのは、この増資引受人を5人だけに限ったことです。つまり、この電灯会社の資本・経営権をこの5人で握ったことになります。この人達が「多度津七福神」と呼ばれたメンバーです。その顔ぶれを見ておきましょう。

多度津七福神の不在地主化

1916(大正16)仲多度郡の大地主ランキングのトップ10です。一目盛りが50㌶です。
塩田家2軒、武田家が3軒、合田家、その統帥役とされたのが景山甚右衛門の7軒です。彼らは江戸末期から持ち船を持ち多度津港を拠点にさまざまな問屋活動を展開し、資本を蓄積します。そして、明治になって経済活動の自由が保障されると、近代産業に投資して産業資本から金融資本へと成長して行きます。
多度津七福人.1JPG
多度津銀行の設立者

その拠点機関となったのが多度津銀行でした。彼らは銀行経営を通じて情報交換し、より有利な投資先を選んで投資をして金融資本家に成長していきます。同時に互いに姻戚関係を結んで結びつきを強めます。この時期の地方の資本家は、地方銀行・鉄道・電力を核に成長して行く人達が多いようです。多度津銀行にあつまる資本家も、この機会に電力事業への進出を目論んだようです。そのためには営業権をもつ西讃電灯(讃岐電気)を傘下に置く必要がありました。増田穣三更迭後の経営権を握りますが、そのやり方が増資出資者を5人限定するという手法だったのです。こうして電灯会社の経営権は多度津銀行の重役達に握られたのです。その中心人物して担ぎ上げられたのが頭取の景山甚右衛門です。

景山甚右衛門と福沢桃介2
景山甚右衛門と福沢桃介
新しく社長に就任した景山甚右衛門は前経営陣の失敗に学びます。新しい産業を起業するのは素人集団には無理、プロに頼るのが一番ということです。景山甚右衛門が見込んだのが福沢桃介です。桃介は福沢諭吉の娘婿で、甲府に水力発電所を作って、それを東京に送電し「電力王」と称されるようになっていました。大都市から遠く離れた渓谷にダムを造り、水力で電気を起こし、高圧送電線で都市部に送るというビジネスモデルを打ち立てたのです。この成功を見た地方資産家達は、水力発電事業に参入しようと福地桃介のもとに日参するものが数多く現れます。桃介の協力・支援を取り付けて、資本参加や技術者集団の提供を実現しようとします。その中の一人が景山甚右衛門ということになります。こうして讃岐電気は「四国水力発電(四水)」と名称変更します。
ちなみに、この桃介の胸像は、現在の四国電力のロビーにあります。四国電力が自分の会社のルーツをどこに求めているかがうかがえます。一方、景山甚右衛門の銅像は、四国電力本社にはありません。この胸像があるのは、多度津のスポーツセンターの一角で、人々に目には触れにくいところです。

大正15(1926)の四水の送電線網です。

四水の送電線網大正15年

祖谷川出合いの三繩からの電力が池田・猪ノ鼻峠をこえて財田で分かれて、観音寺と善通寺方面に送電されています。髙松方面には、辻から相栗峠をこえた高圧電線が伸びます。こうして水力発電所で作られた安価で大量の電気を、讃岐に供給する体制が第1大戦前に整いました。

花形産業に成長した電力産業

これが第一次世界大戦の戦争特需による電力需要を賄っていくことになります。この結果、巨大な利益が四水にはもたらされることになります。10年前のほそぼそと火力発電所で電灯をともしていた時代とは大きく変わったのです。

四水本社(多度津)

景山甚右衛門の業績

こうして電力会社の経営権を握り、水力発電に大規模投資して電源開発を進め、四国水力を発展させた景山甚右衛門の業績は高く評価されるようになります。

一方、社長を退いた増田穣三はどうなったのでしょうか?
増田穣三は電灯会社設立の時には、投資を呼びかけて廻るなど中心メンバーでした。それが「資本減少」という形で出資者に大きな損益をあたえる結果になりました。このことを責める人達も現れ、増田穣三への信用は大きく傷きます。これに対して増田穣三は、どんな責任の取り方がをしたのでしょうか? 

増田穣三の責任の取り方.2jpg

讃岐電気社長辞任の後、村長も辞任し、その年の県会選挙にも出馬していません。公的なものから身を退いています。これが彼の責任の取り方だったと私は考えています。これは政治家生命の終わりのように思えます。ところが5年後に、景山甚右衛門引退後の衆議院議員に押されて当選しています。これは堀家虎造や景山甚右衛門の地盤を継ぐという形で実現したものです。ここにはなんらかの密約があった気配がします。


増田穣三は、電車会社の設立にも関わっています。その経緯を見ていくことにします。

讃岐電気軌道設立趣意書
讃岐電気軌道株式会社の設立趣意書
①彼が設立したのが讃岐電気軌道株式会社です。耳慣れない会社名ですが、後の琴平参宮電鉄(ことさん)のことです。琴平から坂出、多度津を結ぶチンチン電車でした。営業申請したときの社名はここにあるように「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。これは、増田穣三が電力会社の社長を辞任する2年前のことになります。電力会社として、電力需要先を作り出すこと、沿線沿いの電力供給権を手に入れるという経営戦略があったようです。

讃岐電気軌道 増田穣三

上図で線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。今の多度津駅の位置ではありません。朱色が電車会社の予定コースです。坂出から宇多津・丸亀・善通寺・琴平を結んでいます。気がつくのは、多度津への路線がないことです。この時点では、多度津を飛ばして、丸亀と善通寺を結ぼうとしていたことが分かります。面白いのは、善通寺を一直線に南下するのでなく、わざわざ赤門前にまわりこんでいます。これは11師団や善通寺参拝客の利用をあてこんでいたようです。この電車会社が営業を開始するのは1922年のことになります。設立から開業までに18年の時が流れています。一体何があったのでしょうか?

讃岐電気軌道特許状 発起人
讃岐電気軌道認可特許状
①電気鉄道敷設の「認可特許状」です。
②年紀は明治43(1910)年5月20日の認可になっています。申請から認可までに6年の月日が流れています。増田穣三は1906年に電力会社の社長は辞めています。
③12名の発起人のトップが丸亀の生田さん。2番目が増田家本家で穣三の従兄弟・一良です。
④四条村の東条正平や高篠村の長谷川氏は、先ほど見た西讃電灯の発起人でもありました
⑤5番目に増田穣三の名前が見えます。その後には坂出の塩田王鎌田勝太郎、多度津の景山甚右衛門がいます。
⑥その後に県会のボスであり、衆議院議員でもあった堀家虎造がいます。その下で裏工作を担当していたのが増田穣三でした。いわば、これは中讃の主要な政治家連合という感じがします。ところがこの会社は、その後に次のような奇々怪々な動きを見せます。
認可翌年の明治44年(1911)5月に認可された営業権の譲渡承認書です。

讃岐電気軌道譲渡契約
               讃岐電気軌道特許状の転売承認書
①明治44年2月7日の年号と、総理大臣桂太郎の名があります
②譲渡先は堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家7名の名前が並びます。この結果、創立総会も大阪で行われた上に、本社も大阪市東区に置かれます。株式の第一回払込時に、讃岐の地元株主の株数は全体の二割程度でしかありません。つまり、先に出された開業申請書は、開業する意志がなく営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないか考える研究者もいます。その後、営業免許は初代社長才賀藤吉が亡くなると、以下のように権利が転売されます。
A 三重県の竹内文平とその一族
B 高知県の江渕喜三郎
C 広島県桑田公太郎
そして大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
讃岐電気軌道経営権をめぐる不可解な動き

実は、同時期にもう一枚の認可状が讃岐電気に内閣総理大臣の桂太郎から出されています。
 
讃岐電気軌道への電力供給権

発起人総代が増田穣三と大塩長平となっています。内容は讃岐電気が電車事業へ電力供給権とその沿線への電力供給を認めるものです。これからは、沿線への電力供給権を得るために電車事業を計画したことがうかがえます。つまり、線路をひく予定はこの時点ではなかったことがうかがえます。そのため電車部門は特許状だけ得て、会社も設立せずに転売した可能性があります。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。しかし、琴電の設立に関して、大西氏の動きを見ると讃岐電気軌道を反面教師にしながら起業計画を考えたことがうかがえます。

最後にJR塩入駅前の増田穣三像をもう一度見ておきます。 

増田穣三の3つの側面

増田穣三には三つの面がありました。仲南町史などでは地元で最初に国会議員となったことに重点が置かれて、他の部分にはあまり触れられていません。起業家として電力や電車産業に関わったことや、前回お話しした未生流華道の家元であったことなどはあまり触れられていません。
この銅像は亡くなる2年前の昭和14年に建てられたことは前回お話しました。ということは、着衣は彼が選んでいたことになります。

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増田穣三(左は原鋳造所で戦後に再建されたもの)
右側は衆議院議員時代のモーニング姿の正装です。政治家なら右の姿を銅像化するのが普通のように思います。しかし、穣三が選んだのは右手に扇子を持った着物姿です。着物を着た銅像というのは、戦前の政治家としては少ないように思います。この銅像を見ていると、増田穣三自身は華道家元としてお墓に入ろうとしていたのではないかと私には思えてきます。政治や経済界で活躍しながらも、晩年は華道や浄瑠璃を窮め、心の平安を得ていたのではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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まんのう町立図書館の郷土史講座を年に3回担当しています。今回は増田穣三についてお話しします。

増田穣三公演ポスター2025 10月

興味と時間のある方はご参加下さい。なお会場が狭いので予約をお願いします。
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   最後に中寺が退転した後の大川山がどうなっていくかを見ておきます。

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大川山は丸亀平野だけでなく瀬戸内海の島々からも眺められ、霊山として信仰されてきました。そして、神仏混淆下にあっては中寺の社僧たちが管理運営を担っていました。中寺には、遙拝所が設けられ、大川山との間で厳しい行道が行われていたのです。その間には、今は忘れ去られたいくつもの行場が会ったことが考えられます。こうして霊山大川山の神宮寺としての中寺の性格が定着していったと私は考えています。
 しかし、中寺は国衙や国分寺の保護によって創建され、管理運営されてきた古代の山林寺院です。平安末になり、古代国家が解体すると国衙機能も弱体化し、中寺に対する支援保護も失われたのでしょう。中寺は平安末には姿を消して、活動を停止していきます。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。大川山には中寺に代わる宗教集団・施設が周辺部に姿を見せるようになります。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説としてお話ししておきます。

大川山と五流修験1
児島五州修験(新熊野修験者集団)
上の仮説を2つ出しておきます。これが現在の五流修験の拠点です。丸亀平野には五流修験者の痕跡が色濃く残っているようです。五流修験については以前にお話ししましたので、ここでは簡単に押さえておきます。
五流修験は、自らを紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて、分社したのが五流です。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとっての課題は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領に分社されたので霊山がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚です。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍のお先棒を担いで、瀬戸内海や九州にも活発な布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の讃岐にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは、大川山にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって、五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡が残るのが金剛院です。

「増補三代物語」にも、大川大権現(山)のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここから得られる情報を列挙しておきます。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと → 中寺のこと?
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます

中世の大川山の修験活動の中心拠点が金剛院集落にある金剛寺だったとという説を見ておきましょう。

坊集落金剛院1
金剛寺(まんのう町金剛院集落)
裏山が金華山です。ここからは中世の経塚が数多く出てきました。この集落には「空海はここに大伽藍をつくろうとした」という伝承が伝えられています。近寄ってみてみましょう。

金剛院石塔
金剛寺十三重塔(まんのう町金光院)
参道の十三重の石塔は、鎌倉時代中期に天霧石で、弥谷寺の石工達によって作られたものです。
よく似たものが白峰寺の十三重塔石塔(西塔)であることは以前にお話ししました。白峯寺や弥谷寺は、中世においては讃岐最大の山林寺院で「別院」などもあり、修験者(廻国山林修行者)の拠点でもありました。それらの寺(行場)と金光院は結ばれていたようです。

また先ほど見た裏山の金華山の頂上からは、こんな石で覆われた穴がいくつも発掘されました。
金剛院経塚2018報告書
金剛院の経塚

金剛院金華山
これが経塚の構造です。

経塚 経筒

穴を掘って石組みして、そこに経典を陶器や金銅制の筒に入れて奉納します。その際に、周囲には鏡や刀などの副葬品が埋葬されていることもあります。左が金光院の経塚からでてきた経筒です。このような経塚が金光院には何十と見つかっています。これは当時の修験者が金華山が霊場と認識していたことを示します。同時に、多くの山林修行者がここにやってきていたことが分かります。彼らは、写経して経筒を奉納するだけではありません。奉納するまでに長い修行を行って、それが成就したからこれを奉納したのです。つまり、この金剛院の周辺の山々は、行場でもあったのです。当然、大川山も行道コースの一部だったことが考えられます。

坊集落金光院2
坊集落としての金剛院集落
金剛院集落には、いまも何軒かの農家があります。その多くが藤尾坊・華厳坊・中ノ坊・別当坊と云うように坊名をもっています。これは彼らの祖先が修験者であったことを示しています。つまり、この集落にやって来た修験者たちがこの地に定着し、周辺の山野を開墾・開発してできた集落だと研究者は判断します。
「金剛院部落の仏縁地名が多いこと + 金華山が経塚群 = 金剛寺を中心とした坊集落」

 北の阿弥陀越や法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って修行を行う。そして霊山大川寺への行道を繰り返す。さらに看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていく姿が見えてきます。
 さらに視野を拡げて「霊山大川山」をとりまく状況を考えてみます。

五流修験による大川山開山

児島五流修験は、周辺に行場がなかったことは先ほど触れました。そのため早くから行場を求めて各地に修験者たちが「探索活動」を行います。そして、伯耆大山や伊予石鎚などを行場化していきます。同時に、讃岐方面にも塩飽諸島の本島を足がかりに、多度津の道隆寺・白方海岸寺などに拠点地を開きます。そして、金倉川沿いの金倉寺を経て、丸亀平野の霊山大川山を大山大権現として「開山」します。そのため大山神社の由縁には、蔵王権現や役行者が登場します。また、三代記には「大川は、伊予大三島の大山祇神社の転化」とも書かれます。大山祇神社も中世には五流修験の影響力が大きかったことは以前にお話ししました。
以上を整理しておきます。

五流修験による大川山開山説

①古代の山林寺院である中寺が鎌倉時代初期には退転した
②しかし、人々の霊山大川山にたいする信仰心はなくなることはなかった
③中世になると、児島五流修験が大川山を「権現」化し、行場化した。
④熊野行者でもある五流修験は、大川権現を熊野三山に例えた
⑤そして、その北の入口を吉野、南の入口を勝浦と呼んだ
⑥コリトリ場としては、造田に天川(てんかわ)が現れ、ここで禊ぎをおこなって大川山行道に入った。
⑦このラインは、阿波街道の要衝であり勝浦や真鈴峠・二双越えなどには、修験者が定住するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺廃寺と丸亀平野
空海が中寺で修行したといえるのかどうかを「時代考証」するために、中寺の建物跡や特色を見ています。今回はAゾーンを見ていくことにします。最初に復元図を見ておきます。

「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔
中寺廃寺Aゾーン 仏ゾーンの復元図
ここからは、尾根の斜面を造成して仏堂跡と塔跡が出てきました。まず、塔の方から見ていきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺塔跡
復元された礎石跡です。4つの礎石が、正方形に並んでいます。4つの礎石なので三間 × 三間の正方形の建物だったことが分かります。そして、真ん中にも礎石があります。発掘当時の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺塔跡

真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。

中寺廃寺 心礎
中寺廃寺塔跡の心礎
この心礎の下から出てきたものがこれです。

中寺廃寺 心礎地鎮用2

中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
            中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器
中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。これは地鎮祭用に埋められたものと研究者は判断します。須恵器を詳しく調べると、10世紀前半に綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯で焼かれたことが分かりました。そうするとこの塔が作られたのも10世紀前半ということになります。この時期の十瓶山周辺には、阿野郡の郡司綾氏によって最先端技術を持つ須恵器工房が開かれ、讃岐全域のみならず畿内にも瀬戸内海交易を通じて搬出していたことは以前にお話ししました。
 須恵器の特徴しては、赤みが強いことです。このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの特別の仕上げが必要になると研究者は指摘します。普通の須恵器ではなく、国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。そうすると「国司 → 綾氏 → 十瓶山官営窯 → 国分寺 → 中寺廃寺」という発注・納品ラインが考えられます。ここにも国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたことが裏付けられます。

  次に仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺仏堂(本堂)跡
最初は掘立柱建物で建てられ、後に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。礎石を数えると縦が4つ、横が3つなので、3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)の建物が復元できます。。ここからは10~11世紀の遺物が出土しているので、さきほど見た塔と同じ時期に建てられたことが分かります。また、礎石のない掘立柱式のものは、それ以前の9世紀末からあったことになります。
仏堂の平面図を見ておきましょう。

中寺廃寺 A遺構仏塔2

Aゾーン 平面図
中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
仏堂は塔よりも少し上にありますが、両方とも真南を向います。また、両者共に10世紀前半には姿を見せました。つまり、ひとつの伽藍として作られたようです。この伽藍配置は讃岐国分寺と同じ大官大寺式だと研究者は指摘します。

中寺廃寺 大官大寺式伽藍
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
大官大寺式伽藍配置の寺(右下が讃岐国分寺)
規模は小さいながら伽藍配置の数式からも、大官大寺様式であることが分かるようです。ここからも中寺Aゾーンの伽藍創建については、讃岐国分寺の僧侶や国衙のコントロールが働いていたことがうかがえます。
 私が仏堂(本堂)について、最初に疑問に思ったのは小さすぎることです。
この大きさでは本尊を安置するだけのお堂と同じです。これでは、この中で仏教的な儀式・法会を行う事はできません。しかし、同規模の本堂を持つ山林寺院があるようです。

中寺廃寺と同じ規模の金堂

全国の類例を探すと山林寺院には、この規模の本堂があります。また屋島寺の創建時の本堂である千間堂も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、当時はこれが普通だったようです。Aゾーンの全体復元図を見ておきましょう。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの復元図
この復元図に書き込まれている情報を読み取ります。
①仏堂と本堂は、大官大寺式で10世紀後半に同時に建立されたこと
②地鎮用の壺や甕が国衙直営の工房で造られた特注品なので、国衙の保護を受けていたこと
③本堂が小さかったので、仏教的な儀式はその前の広場で行われていたこと
中寺廃寺への国衙の関与

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間で、菜園と表記されている所です。
発掘以前には、一番広いテラスで仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくることをは期待していたそうです。しかし、出てきたのは直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。調べると、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシ対策などの柵が必要だったことが分かります。中寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っているようです。

それではテーマに立ち返って、空海が中寺で山林修行を行ったと云えるのかどうかを「時代考証」しておきましょう。

中寺廃寺と空海

右の表が前回にも見た建物などの出現期を表にまとめたものです。
①中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末です。
②Bゾーンの広場から発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。
これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年です。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身はこの間に太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この前に中寺を訪れていたことは十分考えられます。
 Aゾーンに仏塔と本堂が姿を現すのが9世紀末です。これと菅原道真が国司とやって来た時期も重なります。道真の指示でAゾーンの塔や本堂などの山林寺院が着工したことも考えられます。この時代考証を背景に、小説を書くならこんな風になります。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説

一族の期待を背負って平城京の大学へ進学した空海であった。しかし、官吏養成のための四書五経や儒教などへの興味は薄れていく。そんな中で、空海の心を捉えたのが仏教であった。当時の仏教は、宗教だけでなく医学や哲学・科学も含めた壮大な世界をもっていた。また、暗記力増進のためにと進められてやってみた虚空蔵求聞持法の修行は強烈な体験であった。自分のこれからの生きる道を考えた空海は19歳にして、大学をやめて、山林修行の道を歩むことを決意する。そのためには故郷の父母や一族に、自分の決意を伝え、理解と支援を得る必要があった。そこで、善通寺に帰ってくる。

 父は母は驚きながらも、空海の決意を受入て支援を約束する。空海はその間も、幼年期に修行した我拝師山に籠もる。そんな中で、大川山に山林修行をおこなう修行者がいることを知る。空海は、善通寺の杣山(そまやま)木材供給地の尾背山から塩入を経て中寺に向かった。そこには大川寺に向かって割拝殿が建てられ、そこから大川山を霊山として修行に励む修験者たちがいた。空海も彼らと共に大川山をめぐる行道を行い、僧坊で寝泊まりした。修行生活の中でで、四国辺路の大龍寺や室戸・石鎚などの情報を手に入れた。そして、旅立ちの準備が整うと下僕たちと供に阿讃の峰峰を東にへと向かった。これが空海の四国辺路への旅立ちであった。
私は四国辺路に旅立つ前に、空海は善通寺に帰ってきたと思っています。それは一族への報告のためと、今後の方針決定のためでもあります。もう一つは経済的な理由です。古代の辺路修行は、何人もの下僕を連れての修行でした。食事の準備などは下僕の仕事でした。室戸の海蝕洞窟の御厨人窟(みくろ)の「みくろ」は、調理スタッフのことだと研究者は指摘します。ここからも、修行者が下僕をつれていたことがうかがえます。修行者は修行だけに集中していたのです。そういう意味では、有力な富裕層の子弟でないと古代の山林修行はできるものではなかったようです。辺路修行には多額の資金や、人的なスタッフをそろえる必要があったことになります。その準備は父親の佐伯直田公の手で準備されたと私は考えています。
HPTIMAGE

その後の中寺は、平安期は国衙の保護を受け、大川山信仰の中宮寺として存続したようです。しかし、源平合戦の混乱や国衙機能の低下によって、保護者を失った中寺は平安末には退転していきます。それでも霊山である大川山への信仰は途絶えることはなかったようです。中寺に替わってあらたな山林修行者(修験者・修験道者)が登場します。彼らは、ここに権現を祀り、権現信仰の山としてリニューアルしていきます。大川山を取り巻く情勢については次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

  中寺廃寺について、次のような三部構成でお話ししています。今回は、②についてです。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
忘れ去られていた中寺廃寺が再発見されるに至った経緯は、次の通りです。

中寺廃寺発見の経緯

大川山にお寺があったという話は、いろいろな形で伝えられていました。中でも髙松の殿様の国境視察調査のルートを決めるために書かれた絵図の写しが造田村の庄屋西村家に残っていました。

西村家文書 柞野絵図2
造田村柞野谷 西側の江畑道(旧郡境)に「中寺」とある
そこには中寺という地名が書き込まれています。これらを手がかりに、旧琴南町の文化財協会の人達が粘り強い調査活動を行い「再発見」につなげます。これを受けて町による本格的な発掘調査が行われ、古代に遡る山林寺院と評価されます。そして国の史跡に指定され、保存整備が進められてきました。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺跡の展望台から望む「阿讃山脈NO1の絶景」
 江畑口駐車場から2時間ほどで、高圧鉄塔を越え最後の階段を登ると展望台が迎えてくれます。パンフレットには中寺展望台と記されています。ここまでが90分ほどでしょうか。この説明板には「阿讃山脈NO1の展望」と書かれていますが、その通りです。素晴らしい眺望が楽しめます。左手(西北)に見えているのが満濃池です。

中寺廃寺からの展望
中寺廃寺展望台からの眺望
どこが見えているか分かります?
眼下に見えるのが満濃池、その向こうが象頭山。その左手(西)に瀬戸内海に伸びているのが庄内半島、そして紫雲出山です。本島や広島やなど塩飽の島々、そして備讃瀬戸を行き交う船も見えます。このロケーションが霊山にとっては大事なのです。逆から見ると、大川山は丸亀平野だけでなく、塩飽や庄内半島から見えていたということになります。これが聖なる山・霊山の条件です。山林修行者は、修行の折り目毎に山頂で大きな火を燃やしました。それが徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山などの山名として伝わっています。焼山寺の火は、紀伊からも見えたようです。この火が見える範囲がその霊山の信仰エリアとなります。

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺と丸亀平野や瀬戸内海

中寺廃寺 各ゾーン名称

 中寺廃寺の各ゾーンを確認しておきます。ここが展望台です。
①展望台の下がAゾーン
②展望台から北に伸びる尾根の先端がBゾーン  
③谷を挟んだ向こう側河原にCゾーンになります。
④Dゾーンは、この下になります。
大川山からみると以下のようなレイアウトになります。

中寺廃寺  全景
大川山から見た中寺廃寺
注意しておいて欲しいのは、中寺は大川山にあったのではないことです。大川山を見上げる山の頂上附近にあったことを押さえておきます。
なぜ大川山の頂上に作らなかったのでしょうか? それを石鎚山を例に考えて見ます。

石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ロープウェイを降りて成就社の拝殿に入ると、見えてくるのはこの景色です。正面に石鎚山がどーんとあります。思わず手を合わせます。ここからは石鎚山自体が祈りを捧げる信仰対象であったことが体感できます。京都に行ったときにタクシーの運転手さんから教えられたのは、こんなことでした。

「神社ができる前は、山を拝んでいたこと。霊山自体が信仰対象だったこと。それが神社ができると、神を祀った建物に拝むようになったこと。拝む対象が山から、神社の建物に替わってしまったです。けったいなことですわ。

学者の難しい説明よりも、分かりやすかったのでよく憶えています。

横峯山 星ヶ峯遙拝所からの石鎚山
横峯寺の星ヶ峯遙拝所から見る石鎚山
山林修験者が、ここで石鎚山への祈りを朝夕捧げていたことが納得できます。これと同じような空間が中寺にもあります。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山.2JPG

Bゾーンの尾根の上から見えるのは大川山です。大川山(標高1043m)は、丸亀平野から見える山の中では一番高い山です。そして里からはどこから見えます。その姿もポツンと先端が飛び出していてよくわかる山です。讃岐の霊山と呼ぶのにふさわしい山です。柳田國男の民俗学では仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきたとします。そうだとすると、中寺ができる前からは、ここは大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所であったことが考えられます。
ここを発掘調査したときの写真を見ておきましょう。


中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーン 割拝殿跡の発掘現場 正面は大川山

礎石が並んで出てきました。これではよく分からないので平面図に落としたものを見てみます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの遙拝所と僧坊

南に伸びた尾根の先端部のテラスに建物跡と広場、尾根の下に斜面を整地して僧坊跡がでてきました。割拝殿の方を見ておきましょう。礎石が横に6ヶ並んでいるので五間、縦に4ケなので三間の建物です。しかし、同規模の建物が2つ並んで建っているようにも見えます。よく分からない建物でした。そのため、最初に書かれた復元図はこれでした。

割拝殿 最初の復元図

五間×三間の仏堂として復元されました。しかし、礎石の配置から見ると真ん中に通路があるようです。その事例をさがしてみると、このような割拝殿とよばれるタイプの拝殿があります。

割拝殿とは・・

これが割拝殿だとすると本殿が北側にあり、その前に割拝殿であること、その真ん中が通路となって、その前に広場が配置されています。こうして見ると、「本殿ー割拝殿ー広場ー大川山」が一直線に結ばれる祈りの空間だったことになります。まさに遙拝所としてふさわしい空間です。山林修行者達は、朝夕に大川山への祈りを捧げ、大川山への行道を毎日、何度も行っていたことが考えられます。その中に空海もいたというストーリーになります。こうして、Bゾーンは、「祈りのエリア」と名付けられました。

もうひとつ、この割拝殿周辺が出てきたものがあります。

三鈷杵と柵状の破片
三鈷杵と錫杖の破片(中寺廃寺Bゾーン)
これは何だと思いますか? 素材は青銅製です。これを研究者は、密教法具の破片と判断します。①左は最初に見た空海が手にしていた三鈷杵です。右は錫杖です。

飛行三鈷杵との比較
飛行三鈷杵と中寺廃寺出土の三鈷杵

空海の絵伝には 唐からの帰国の際に明州(寧波)から三鈷法を投げる話があります(高野空海行状図画)。「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。それがこれです。これと中寺廃寺のものを比べて見ると、空海以前の古い様式のものであることが分かります。
中寺廃寺 三鈷杵破片3

ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、大川山との行場往復をしながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた山林修行者の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。壊れた仏具の破片を埋めるには、ふさわしい場所です。そんなことをイメージできる雰囲気が、ここにはあります。
割拝殿の下の僧坊を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
僧坊跡(中寺廃寺)
この柱が礎石のあった場所で、柱跡になります。ここからは2つの建物が並んであったことが分かります。礎石は縦が4つ、横が4つですから「三間 × 二間」の建物になります。ここから出てきたものを見ておきましょう。

僧坊 Bゾーン


②は、柱穴に埋められた地鎮用の陶器です。③は威信財で、普通の人々が持てるものではありません。有力な僧侶がここで修行していたことがうかがえます。④からは、ここが山林修行者の僧坊であったことが分かります。同時に、8世紀末の調理具が出てくると言うことは、僧坊がその時期には姿を見せていたこと、山林修行者の活動がこの時期まで遡れることを意味します。 研究者が注目するのは②の多口瓶です。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺 多口瓶

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶

多口瓶(屋島寺・法勲寺)
周辺の遺跡で出土した多口瓶
多口瓶は仏具で、一般人が使うものではなく僧侶が用いるものです。多口瓶が出てきたことで、この建物が僧坊であったことが裏付けられます。この瓶がどこで作られたかを探るために発掘担当者が播磨まで行って、播磨の窯で作られたものと確認しています。あまり類例品のない特注品であることも分かりました。これも普通の人間には手に入らない威信財なのです。つまり、この僧坊で修行を行っていたのは、財力や地位をもった山林修験者であったことになります。中世の山伏の姿をイメージしてはいけいなようです。見方を変えると、中寺は国衙や国分寺の保護・管理を受けたお寺と研究者は考えています。  

以上で、Bゾーンを振り返っておきます。

割拝殿 祈りの場
HPTIMAGE

① Bゾーンは、「本殿→割拝殿→広場」が一直線に配された大川山の遙拝所であった。
② 割拝殿や僧坊は8世紀末には姿を見せていて、中寺で最初に現れた宗教施設であった。
③ 空海が大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
④ 空海が中寺で修行を行った状況証拠にはなる。
⑤ Aゾーンに本堂や塔などの仏教施設が現れる百年前に、Bゾーンは姿を見せていた。

参考文献
中寺廃寺発掘調査報告書NO3 琴南町教育委員会
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まんのう町図書館郷土史講座でお話ししたことをアップしておきます。

中寺廃寺講演会ポスター

弘法大師行状絵詞 真魚伝説

本日の与えられたテーマには「若き空海も修行した(?)中寺廃寺のを探る」ですが、真ん中に(?)がついています。これについては、追々お話しすることにして、
今日は次のような三部構成で進めていこうと思います。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
まず、①若き日の空海がどんな山林修行したかを見ていくことにします。上の絵は弘法大師行状絵詞とよばれるもので、空海亡き後に300年ほど経って書かれた絵伝です。赤い服を着ているのが空海で、幼年期は真魚と呼ばれていました。巻物は右から左へ開かれていきます。時間変遷も右から左へと進んでいきます。
①右端が、蓮の花の円座を敷いた雲の上に乗った空海が仏たちと話しています。
②真ん中では「さあ仏ができたぞ」と、土で仏を作りています。
③左端は、出来上がった仏をお堂に安置して祈っています。
こうして空海は小さい頃から、仏と共にあったことが語られます。

弘法大師 行状四天王執蓋事
空海を守護する四天王(弘法大師行状絵詞)
ある日のことです。真魚(空海)がいつものように仙遊寺あたりに遊びに行こうとしています。仏を守護する天部の四天王が、ボデイーガードとして真魚を護っています。四天王の姿は人々には見えません。

四天王に護られた空海
四天王を従えた真魚に跪く役人
しかし、都からやってきた偉い役人には、その姿が見えます。役人は驚いて馬を下り、地面にひれ伏します。その前を真魚は通り過ぎて行きます。絵伝は、空海の幼年期のことをカリスマ化ししていきます。このような話が、後の空海伝説につながって行きます。そんな中で、善通寺でだけで語られるシーンが出てきます。それを見ていくことにします。

空海の捨身行 我拝師山
我拝師山からの真魚の捨身行
 この絵の舞台は、善通寺五岳の我拝師山です。岩場から真っ逆さまに墜ちているのが真魚です。実は落ちているのではありません。説明文には次のように記されています。

弘法大師は、五岳の我拝師山の崖に立ち、次のように誓願した。吾に生きる意味があるならば、仏よ助け賜えと」と念じて、空中に身を踊らせた。すると釈迦(天女)が現れて真魚を救った。

ここでは釈迦の替わりに天女が現れていますが、もともとは釈迦でした。この言い伝えから、ここは釈迦が現れた所ということで出釈迦と呼ばれ、空海が初めて行を行った場所とされました。後には高野聖でもあった西行も、「空海の行場」に憧れ、ここにやってきて修行したことは以前にお話ししました。つまり、中世は我拝師山は空海修行の地として、山岳修験者に人気があった行場であり霊山だったことを押さえておきます。また、命をかけての最終行を「捨身」行とも云います。 この絵以来、空海は五岳で捨身行の修行をしたと語り継がれてきました。それが現在にもつながっています。現在の出釈迦寺の奥の院の鐘楼を見ておきましょう。

出釈迦寺奥の院と釈迦像

 鐘楼の横に近年姿を見せたのが金色に輝く釈迦像です。これは、先ほどの出釈迦のエピソードを受けてのことでしょう。さらに深読みすると、ここは幼年の空海の修行地であるというアピールしているようにも思えます。もうひとつ、出釈迦が今に語り伝えられているものを見ておきましょう。

ふたつの空海像

空海像です。左が高野山、右が善通寺に伝わるものです。どちらも椅子に座り右手に三鈷杵(さんこしょ)を持っています。これは、仏敵を追い払うと共に、自分の弱い心を打ち砕くとされる神聖な仏具です。後でもういちど出てきます。弘法大師の姿は、ほぼ同じです。違うのは、後ろに釈迦が雲に乗って現れています。これは先ほど見た出釈迦のエピソードに由来するものでしょう。善通寺のセールスポイントは「空海誕生の地」でした。同時に、我拝師山で空海がはじめて修行を行ったことをアピールしているものとも思えます。ここでは中世には、幼い空海が我拝師山で修行したと考えられていたことを押さえておきます。
 最初のテーマにもどりますが、中寺と空海をむすぶものは、山林修行です。
それが我拝師山までは辿れるということです。これを中寺でも行ったとすればいいわけです。次に、空海が若き日に行った山林修行とはどんなものだったのかを次に見ていくことにします。その前に、山林修行者と、修験道・修験者の違いを押さえておきます。

山林修行者から修験道へ

空海以前から山野に入って山林修行していた人達はいました。その目的は超能力を身につけるためと、鉄・銅・水銀などの鉱山資源開発のための山師(最先端テクノ技術)や、医学者としての薬草採集などの実利的な面もありました。彼らは渡来系の人達で当時の先端技術や知識を持っていた人達です。空海によって密教がもたらされると、その影響を受けて組織化が進みます。そして、12世紀になると始祖を役行者、守護神を蔵王権現・不動明王として、ひとつの部門を仏教教団の中で構成するようになります。これが修験道です。義経に仕えた弁慶も僧兵であると同時に修験者でした。讃岐に流された崇徳上皇も都に帰れぬ恨みを、「天狗になってこの恨みはらんさん」といい天狗になります。天狗になるために修行する修験者も出てきます。これを天狗道(信仰)と呼びます。そのメッカが白峰寺や象頭山でした。そこには天狗になるために修行するひとたちが沢山いたことは以前にお話ししました。
 整理しておくと、12世紀より以前に修験道もなく修験者もいなかった、いたのは雑多な山林修験者でした。そこで、中世以後を修験者、修験道、それ以前を山林修行者と分けていつこと。空海は古代の山林修行者のひとりになります。
それでは山林修行者は、どんなところで修行したのでしょうか。

山林修行者が選んだ行場とは


彼らが行場として選んだのは「異界への入口」でした。天界への入口として相応しいのは、石鎚などの切り立った山です。そこには多くの行場があり、山林修行者が集まりました。一方、地界(地下)への入口とされたのが、火口や洞窟・滝や断崖でした。洞窟は、地界に続く入口とされましたがそれだけではありません。修行者にとって雨風を凌ぐ、生活の場が必要です。お堂や寺院が出来るまでは、洞窟が生活の場でした。

空海の伝記には、空海の山林修行について次のように記されています。

空海の山林修行

以上を要約すると次のようになります。
A 山林修行の僧中に飛び込んで行動した。(先行する集団がいたこと)
B 具体的な修行内容は、②岩ごもり ③行道 ④座禅だった。
C 短期間でなく⑤何年も行った
 空海が行った修行2

 空海の行った修行を具体的に押さえておきます。
   ①まず岩籠(いわこ)もりごもりです。洞窟は、魑魅魍魎の現れる異界の入口と考えられていました。そこに一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。それだけで一般の人達から「異人」と思われたかもしれません。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。これが「木食」です。洞窟は、生活空間で、修行者が多くなると庵や寺院(奥の院)に成長して行きます。
 ②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。
どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。
それは当時の僧侶が朝廷や貴族から求められたのは高尚な仏の教えだけでなく、旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことでした。そのためには修行を積んだ「験」が高い僧侶が求められます。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントやアイテムが必要で、それが修行だったということでしょうか。そのために東大寺や地方の国分寺の高級国家公務員である僧侶も机に向かうだけでなく、空海のような山林修行を行うことがもとめられるようになります。そうしないと護摩祈祷しても所願成就とはなりません。僧侶としての栄達の道も歩めません。

空海は、どんな修行をおこなったとされているのでしょうか?
絵伝に出てくる修行シーンを見ていくことにします。

阿波太龍寺 宝剣飛来
阿波の大滝山で虚空蔵求聞持法を唱える空海と飛来する宝剣(弘法大師行状絵詞)
阿波大滝山での空海の修行の成就シーンです。空海が座っている所は、よく見ると崖の上の洞窟です。これが大瀧山の不動霊窟のようです。行場として相応しいところです。空海の前には黒い机が置かれています。その上には真ん中の香炉、左右に六器が置かれています。虚空蔵求聞持法というのは、百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。すると、 雲海が切れて天空が明るなります。そして雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。これが修行によるパワーポイントやアイテムの獲得です。しかし、これで修行が終わったわけではありません。成就すると次の行場に向かいます。絵巻は室戸へとつながっていきます。

室戸 明星 空海
室戸で明星が口に飛び込む
太龍寺からの続く雲海が切れると、岬の絶壁を背にして空海が瞑想しています。前は大海原で逆巻く波濤を押し寄せています。すると、輝く明星が室戸の海に降り注ぎます。その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を体験し、身を以て体感し悟りに近づいていきます。これが山林修行です。
  
金剛頂寺 空海
金剛頂寺で禅定する空海と、そこに現れる魔物たち。
この舞台は金剛頂寺です。壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいます。本堂に空海は座って、修行に励んでいます。上の説明文を読んでおきましょう。
「汝ら

金剛頂寺 生木仏像
魔物退散のために生木に仏を彫る空海
木に仏を彫るというのは、魔除けのために空海が行ったことです。このため後の修験者たちも生木に仏を刻むことを行います。生木地蔵などがあれば、そこが修験者や高野聖の拠点であったことが推測できます。また、この魔類や妖怪たちは、柳田國男の民俗学で仏法以前の「地主神」とされます。このように、もともといた神々を追い払ったり、従えながら仏法が定着する姿を語ったというのです。
ここで注目しておきたいのは、室戸岬で生活していたとは書いていないことです。生活していたのは金剛頂寺で、行場が室戸岬で、そこを往復=行道していたと記します。これを整理して起きます。

金剛頂寺と室戸の行道

位置関係を地図で見ておきます。①こちらが金剛頂寺 こちらが室戸岬。20㎞余り離れています。研究者は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマだったようです。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺(ほつみさきじ)となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。ここでは、禅定や巌籠もりだけでなく、行道もおこなっていたことを押さえておきます。
 以上から、どうして山林寺院がこの時代に姿を見せるようになったかをまとめておきます。

山岳寺院誕生の背景

このようなことを背景に、中寺は国衙によって建立されることになります。ここまでが第1部です。

辺路修行から四国遍路へ

  蛇足になりますが、四国遍路の形成について現在の研究者は次のように考えています。
①小辺路は我拝師山や室戸岬のように1ヶ所での修行
②中辺路は、観音寺から七宝山を越えて我拝師山までとか、丸亀平野の七ケ所詣り・髙松平野の七観音巡礼のように、いくつかの小辺路を結んだもの
③さらに中辺路のブロックをいくつか重ねたものが大辺路
こうして、中世のプロの修験者たちは四国の行場で辺路修行を重ねていました。それが近世になるとアマチュアが、これに参入するようになります。彼らは素人の修験者なので、行場での長期の修行はしません。お札だけを奉納する巡礼に替わります。つまり、修行なしの遍路になります。そうすると、行場のある奥の院を訪れる参拝者は少なくなり、お寺は行場のあった奥の院から里に下りてきてきます。そして里の札所をめぐるスタンプラリーとなります。ここでは中世の辺路修行(=行場めぐり)が、四国遍路のベースにあったことされていることを押さえておきます。 今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中寺廃寺講演会ポスター

まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。8月は中寺廃寺についてお話しします。
日時 8月24日(日)10:30~12:00
場所 まんのう町図書館会議室
興味と時間のある方の参加を歓迎します。なお会場が狭いので事前予約をお願いします。
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空海満濃池築造説への疑問

前回は、研究者たちが「空海の造った満濃池」と云わずに、「空海が造ったと云われる満濃池」という理由を史料的な面から探りました。今回は考古学的な見地から見ていくことにします。

満濃池用水の供給条件

苗田と公文の境界を流れる満濃池用水の善通寺幹線です。かつては、この用水路が池御坊の天領と高松藩の境界でした。向こうには五岳の我拝師山が見えます。この用水路が善通寺・多度津方面に用水を供給しています。幹線用水路としては、この程度の規模の用水路を整備する必要がありました。池が出来ても灌漑用水路なしでは、田んぼに水を供給することはできません。そして用水路を網の目のように張り巡らすためには、土器川や金倉川の治水コントロールが前提になります。古代における治水灌漑技術は、どうだったのでしょうか? この問題に先駆的見解を示したのが「讃岐のため池」で、次のような説を提示しました。

「讃岐のため池」の「古代ため池灌漑整備説」


以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。

古代の土器川は幾筋もの暴れ川だった

まんのう町吉野付近の旧河川跡 (左が北)

これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)

近世:治水整備後に整えられた灌漑網


長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。

②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
 用水路の
末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。

金倉川の旧流路跡と善通寺の河川復元


善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。

 右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。

次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
 

中世の善通寺一円保に描かれた灌漑用水網

善通寺一円保絵図(下が北)
ここには中世の善通寺の寺領と用水路が書かれています。東院(4つの区画を占領)・誕生院・五岳の位置をまず確認します。 黄土色の部分が現在の善通寺病院(練兵場遺跡=善通寺王国)です。黒いのが水路で、西側は、有岡大池を水源にして弘田川と分岐して東院の西側を通過して、国立病院の北側まで伸びています。一方に東側は、壱岐・柿股・二双の3つの湧水を水源にして条里制に沿って四国学院の西側を北に伸びています。しかし、現在の農事試験場や国立病院あたりまでは用水路は伸びていません。寺領の全エリアに水を供給するシステムは未整備であったようです。国立病院北東の仙遊寺あたりには、出水がいくつもあり、そこから北には別の荘園が成立していました。以上、中世期の善通寺寺領をめぐる灌漑について整理しておきます。

①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。

②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。

③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた

丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。

丸亀平野の条里制は一気に進められたのではない


現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。

空海満濃池築造説への疑問

 

このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。

ユネスコ無形文化遺産の考え方

世界文化遺産が真正性や独自性にこだわるのに対して、無形文化遺産の方は多様性を重視します。そして、継承していくために変化していことも文化遺産としての財産とします。
満濃池の歴史の捉え方g

この考え方を満濃池にも適応するなら、
核の部分には史料などからから確認できる実像があります。同時に、長い歴史の中で人々によって語り継がれるようになった伝承や物語もあります。これらを含めて満濃池の歴史と私は思っています。だからそれらも含めて大切にしていく必要があると考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年もまんのう図書館の郷土史講座でお話しすることになりました。テーマは、こちらで決めることは出来ません。リクエストのあったテーマについてお話しするのですが、満濃池へのリクエストは高いようで毎年選ばれます。昨年は近世の満濃池の変遷を話したので、今回は空海の満濃池築造についてということでした。そこで、研究者たちが「空海が造った」と断定的に云わずに。どうして「空海が造ったと云われる満濃池」と表現するのかをお話しすることにしました。その内容とレジメ資料をアップしておきます。


まず満濃町所蔵のこの版画から見ていきます。これは今から約180年ほど前、19世紀半ばに描かれたもので「象頭山八景 満濃池遊鶴(弘化2年(1845)」です。当時は金毘羅さんの金堂(旭社)が完成し、周辺整備が進み石畳や玉垣なども整備され、境内が石造物で白く輝きだす時代です。それが珍しくて全国から参拝客がどっと押し寄せるようになります。そんな中でお土産用に描かれた版画シリーズの一枚です。ここに「満濃池遊鶴」とあります。鶴が遊ぶ姿が描かれています。江戸時代には満濃池周辺には鶴が飛んでいたようです。
 話を進める前に基礎的な用語確認を、この絵で確認しておきます。東(左)から
①護摩壇岩
②対岸に池の宮と呼ばれる神社のある丘
③このふたつをえん堤で結んで金倉川をせき止めています。
④池の宮西側に余水吐け(うてめ)
この構造は江戸時代の最初に、西嶋八兵衛が築いたものと基本的には変わっていません。それではここでクイズです。この中で、現在も残っているもの、見ることができるのはどれでしょうか。

満濃池  戦後の嵩上げ工事で残ったのは「護摩壇岩」のみ
1959年の第3次嵩上げ後の満濃池 護摩壇岩だけが残った
戦後の満濃池嵩上げ工事後の現在の姿です。貯水量を増やすために、次のような変更が行われました。
①堰堤は護摩壇岩の背後に移され、
②その高さが6㍍嵩上げされ、貯水量を増やした。
③その結果、池の宮の鎮座していた小山は削り取られ水面下に沈んだ。そのため現在地に移動。
④余水吐けは、堤防の下に埋められた
こうして護摩壇岩だけが残されました。

満濃池 護摩壇岩3
満濃池の護摩壇岩

現在の護摩壇岩です。護摩壇岩と向こうに見える取水塔の真ん中当たりに池の宮はありました。その丘は削りとられ池の底に沈みました。それでは、クイズの第2問です。どうして護摩壇岩だけがして残されたのでしょうか。

空海修復の満濃池想像図
空海が修築した満濃池の想定復元図(大林組)

これは大手ゼネコンの大林組の研究者たちが作成したものです。①空海が岩の上で完成成就祈願のために護摩祈祷しています。ここが「護摩壇岩」と呼ばれることになります。ここは空海と満濃池をつなぐ聖地とされてきました。言い換えると「空海=満濃池修復」説のメモリアル=モニュメントでもあるのです。そのために池の宮は削られても、護摩壇岩は残されたと私は考えています。堤防は池の宮との間にアーチ状に伸ばされています。
②その下に②底樋が埋められています。
③池側には竪樋が完成し、5つのユルが見えています
④採土場から掘られた土が堤まで運ばれています。それを運ぶ人がアリのように続いて描かれています。

6 護摩壇岩 空海が護摩祈祷を行った聖地
 
護摩壇岩と碑文です。護摩壇岩は「空海の作った満濃池」を裏付けるモノと私は思っていました。
ところが中央からやってきた研究者の中には「空海が作ったとされる(伝えられる)満濃池」という言い方をするひとがいます。含みを持たせる言い方です。どうして「空海が作ったと言い切らないのですか?」と訪ねると、文献的にそれを証明できる・裏付ける資料がないというのです。これに私は驚きました。空海=満濃池築造説は史料的に裏付けられているものと思っていたからです。今回は、学者たちが空海が満濃池を作ったと言い切らない理由を追いかけて見ようと思います。まず空海が満濃池をつくったという最初の記録を見ていくことにします。

日本紀略の満濃池記述
日本紀略の空海の満濃池修復部分

まず古代の根本史料として六国史があります。これは、日本書紀など国家によって編纂された正史です。この編纂には公文書が用いられていて信頼度が高いとされます。6つあるので六国史と呼ばれます。ちなみに、誰が書いたか分からない古事記は、正史には含まれません。ところで六国史の中に満濃池は出てきません。満濃池が初めて出てくるのは日本略記という史書です。満濃町史や満濃池史など地元の郷土史は、日本紀略の記述を根本史料として「空海=満濃池修築説」を紹介しています。しかし、原典にはあたっていません。日本紀略の原典は上記の通りです。読み下しておきます。

讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。

最後に「許之」とあります。この主語は朝廷です。つまり朝廷が讃岐国司の空海派遣申請を認めたということです。これだけです。分量的には百字あまりにすぎません。内容を確認しておきます。

日本紀略の満濃池記述(要点)
日本紀略に書かれていることは

ここでは国司の空海派遣申請と、それに対する国家の承認だけが簡潔に述べられているだけです。空海が讃岐で何を行ったかについては何も触れていません。堤防の形や、護摩壇岩のことは何も出てこないことを押さえておきます。次に日本紀略の性格に就いてみておくことにします。

日本紀略の性格
日本紀略の史料的性格と評価
紀略はこの書は、①国家が誰かに編纂を命じて作られたものではありません。誰が書いたのかも、正式の書名も分かりません。当然、正史でもありませんし、何の目的で書かれたのかも分かりません。②内容は、それまでに造られている正史からの抜粋と、あらたに追加された項目からなります。空海と満濃池の部分は、新たに追加され項目になります。③成立時期は11世紀末後半から12世紀頃とされます。これは空海が亡くなった後、200年を経た時点で書かれた記録ということにります。同時代史料ではないことを押さえておきます。④評価点としては・・・⑤注意点としては・・・・    
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒書があって箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、古文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると「日本紀略」は満濃池の記述に関しては同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書ということになります。満濃町誌などは、紀略を「準正史的な歴史書」と評価しています。しかし、研究者は「注意して利用すべき歴史書」と考えているようです。両者には、根本史料である日本紀略の評価をめぐって大きなギャップがあることを押さえておきます。

 空海=満濃池修築悦を裏付ける史料として、満濃町史が挙げるのが「讃岐国司解」です。

満濃池別当に空海を申請する讃岐国司解
讃岐国司が空海派遣申請のために作成したとされる解(げ)

冒頭に「讃岐国司解申請 官裁事」とあります。「解」とは、地方から中央への「おうかがい(申請)文」のことです。最後に弘仁12年(820)4月と年紀が入っています。ここで注意しておきたいのは、現物では実在しないことです。写しの引用文です。④これが載せられているのは、空海の伝記の一つである「弘法大師行化(ぎょうけ)記」です。つまり、空海伝記の中に引用されたものなのです。それを押させた上で、内容を見ておきましょう。

①内容については「請 伝燈大法師位 空海宛築満濃池別当状」とあり、空海を別当に任じることを申請したタイトルが付けられいます。文頭にでてくるのは既に派遣されていた築造責任者の路真人(みちのまびとはまつぐ)です。③その後の内容は、ほぼ「日本紀略」の丸写しです。誤記が何カ所かあるのが気になります。この申請書を受けて中世政府がだした太上官府も、引用されています。それも見ておきましょう。

満濃池 空海派遣を命じる太政官符
空海を満濃池修復の別当として派遣することを認めた太政官符

太政官符の前半部は紀略の内容とほぼ同じです。つまり、讃岐国司からの解(申請文)がそのまま引用された内容です。後半部には空海を別当として派遣する上での具体的な指示が書かれています。そのため日本紀略よりも分量も多くなっています。また最後の年紀が「弘仁元年」とする誤記があります。それ以上に研究者が問題にするのは太政官符の体裁・スタイルです。この太政官符より15年前に出された空海出家を伝える太政官符と、比較して見ましょう。

空海入唐 太政官符
延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)
この内容は、遣唐使として入唐することになった空海が正式に出家して国家公務員となったので、課税を停止せよと命じたものです。一部虫食いで読み取れませんが補足しながら読んでいくと
①冒頭に「大政官符 治部省」とあって、補足すると「留学僧空海」と読めます。
②その下に空海について記され、「讃岐國多度郡方田郷方田郷」とあります。ここからは空海の本籍が多度郡方田郷だったことが分かります。方田は「弘田郷」の誤りとされていました。しかし、平城京からは「方田郷」と記された木簡が2本出てきました。実際に存在した郷であったかもしれません。どこであったかはよく分かりません。
③空海の属した戸主は「戸主正六位上佐伯直道長」とあります。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、佐伯直道長です。彼の官位は正6位上という地方では相当高い官位です。どのようにして手に入れたのか興味あるところです。多度郡の郡長を務めるには充分な官位です。佐伯家では多度郡では有力な家であったことが裏付けられます。ちなみに、道長は空海の父ではありません。空海の父は田公です。道長が空海の祖父だった可能性はあります。当時の戸籍は大家族制で、祖父から叔父たちの子ども達(従兄弟)まで百人近くの名前が並ぶ戸籍もあります。空海も、道長の戸籍の一人として「真魚」と記帳されています。
④次からが本題の用件です。延暦22年4月7日「出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここからは空海は留学直前まで得度(出家)していなかった。正式の僧侶ではなかったことが分かります。
以上を、先ほど見た満濃池別当状を命じるものと比べるとどうでしょうか。官府は「何々を命じる」とコンパクトな物です。国司の解を引用し、説明を長々とするものではありません。そういう意味からも満濃池別当状は異例なスタイルです。太政官符の写しとしてはふさわしくないと研究者は考えているようです。
      また空海死後直後の9・10世紀に成立した伝記には満濃池は出てきません。
死後2百年後を経た11世紀に書かれた伝記は4つあります。その中で満濃池が出てくるのは「弘法大師行化記(ぎょうけき)」だけです。その他の伝記には出てきません。ここからは紀略の記述を参考にして「行化記」の作者が、讃岐国司解と太政官符の写しを新たに作成して載せた可能性が出てきます。

空海=満濃池修復説の根拠とされる史料に今昔物語があります。

今昔物語 満濃池の龍
今昔物語 満濃池の龍の冒頭文
この中に「満濃池の龍」が載せられています。その冒頭は、この文章から始まります。そこには、空海との関係が次のように記されています。
「その池は弘法大師がその国(讃岐)の衆生を憐れんだために築きたまえる池なり。」

空海について触れられているのは、これだけなのです。空海が別当として派遣されたことなども書かれていませんし、護摩壇岩やアーチ型堤防などについては何も触れていません。
空海が朝廷の命で雨乞祈祷をして雨を降らせた話があります。その時に祈るのが善女龍王です。善女龍王は、雨を降らせる神として後世には信仰されるようになります。綾子踊りでも善女龍王の幟を立てて踊ります。
綾子踊りの善女龍王
綾子踊の善女龍王
ちなみに善女龍王は普段は小さな蛇の姿をしています。満濃池の龍も、堤で子蛇の姿で寝ているところを、天狗の化けたトンビにさらわれて、琵琶湖周辺の天狗の住処の洞穴に連れ去られてしまいます。龍の弱点は、水がないと龍には変身できない所です。かっぱと同じです。そこに京から僧侶もさらわれてきます。この僧侶が竹の水筒をもっていて、水を得た子蛇は龍に変身し、天狗を懲らしめて、僧侶を寺に送り届けて満濃池に帰って来るというお話しです。

今まで見てきた3つの史料の成立した年代を見ておきましょう。

満濃池記載史料の成立年代
 満濃池と空海の関係を述べた史料の成立年代

11世紀になると、空海は死んではいない。入定しただけで身は現世にとどまっているという「入定留身信仰」説が説かれるようになります。これは今も空海は、この世に留まり衆生を見守り、導こうとしているということになります。これが近世になると「同行二人」いつも空海さんと一緒に ということになっていきます。佐文の綾子踊りでも由緒書きには、「ある旅の僧侶が綾に雨乞踊りを伝授した。踊れば雨が振った。村人は歓喜した。いつの間にか僧侶はいなくなっていた。その僧侶が弘法大師であったと村人はささやきあった。と記します。つまり、いろいろな行事や功績などが空海に接ぎ木されていくようになのです。そんな流れの中で登場してくるのが空海ー満濃池修復説といえそうです。
 満濃町史は、国司解や太政官符を見て紀略がかかれたという立場です。しかし、それは成立年代からすると無理があるようです。紀略の記事を見て、太政官符が創作されたということも考えられます。 こうして弘法大師伝記には、いろいろな話が付け加えられていくのです。そして92種類の伝記が確認されています。
次にいろいろな話が付け加えられていく過程を、満濃池史の今昔物語の記述で見ておきましょう。

今昔物語の原文と「満濃池史」の比較

先ほど見たように今昔物語が空海と満濃池の関係に触れているのは、一行でした。それが満濃池史の「今昔物語」には、次のようになっています。

満濃池の龍神 今昔物語に付け加えられた部分


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満濃池史の「今昔物語」
ここには①讃岐国司・清原夏野の嵯峨天皇への直訴的申請 ②路真人浜継(みちのまびと)の来讃。③空海の派遣申請などがいろいろなことが記されています。しかし。これらはもともとの今昔物語には書かれていないことです。日本紀略や「行化記」などに書かれていることが今昔物語に接ぎ木されています。伝説とは、このようにして後世にいろいろな物語が付け加えられて膨れあがっていきます。地域の歴史を書く場合には、地元の歴史について知ってほしい、そして誇りを持って欲しいという思いが強く働きます。私もそうです。そのためサービス精神が旺盛になりすぎて、史料検討が甘くなり、いろいろなことを盛り込んでしまうことが往々にしてあります。そういう意味では、厳密に云うと、これは今昔物語ではありません。いろいろな情報が付加された「今昔物語増補版」ともいえるものです。
 ここまでを整理しておくと、12世紀前後に成立した3つの書物に、空海と満濃池の関係が書かれるようになったこと。しかし、その内容は、空海の派遣経緯が中心でした。空海がこの地にやってき何をしたかについては、何も記されていませんでした。それでは最初に見た護摩壇岩やアーチ型堤防などの話はいつ頃から語られ始めたのでしょうか。これは近世に書かれた矢原家文書の中に出てくるものです。
満濃池池守 矢原家について
これは幕末の讃岐国名勝図会に描かれている矢原家です。おおきな屋敷と二本の松の木が印象的です。カリンの木は見えませんが、大きな財力をもっていたことが屋敷からはうかがえます。この場所は、満濃池の下のほたるみ公園の西側で「矢原邸の森」として保存されています。矢原家について簡単に触れておきます。①真野を拠点とする豪族とされますが ②史料からは中世以前のことについてはよく分かりません。③文書的に確実にたどれるのは生駒藩時代以後です。④西嶋八兵衛が満濃池を再興するときに、用地を寄進したことで、池の守職に任じられたこと ⑤しかし、満濃池修復費用に充てるために池の御領とよばれる天領が設置されます。天領が置かれると代官もがの指揮下におかれて、既得権利を失ったこと⑥そのため池の守職を無念にも辞任したこと。
このように池の守として満濃池に関わった矢原家には、満濃池についての文書が多く残されたようです。その一部を見ておきましょう。


矢原家々記の空海による満濃池築造
矢原家々記の空海来訪場面

 古代のことが昨日のように物語り風に語られています。こんな話を矢原家では代々語り伝えてきていたのかもしれません。この内容をそのまま史実とすることはできませんが書いた人の意図はうかがえます。
①空海が矢原家に宿泊したこと → 矢原家が空海の時代まで遡る名家であること 
②矢原家の伝統と格式の高さ 
③その象徴としてのかりん 
これらは空海の来訪を記すと同時に、作成目的の中に「矢原家顕彰」というねらいがあったことを押さえておきます。矢原邸跡に香川県が設置した説明版には「空海が矢原正久の屋敷に逗留した際、記念にお手植えされたとされるカリンがある。」と記されています。矢原家々記を書いた人物の意図が、現在に生きていることになります。

矢原家文書の空海伝説 アーチ堤防


我々が満濃池の特徴としてよく聞く話は、近世になって書かれた矢原家文書の中にあることを押さえておきます。これらを受けて満濃池町史は、次のように記されています。

満濃町史の伝える空海の満濃池修復

①821年太政官符が紹介されていますが、これが「行化記」の引用であることは触れていません。
②③は近世の矢原家家記に記されていることです。 ④は日本紀略 ⑤の
神野寺建立は、後世の言い伝えで、これは史料的には確認できないことです。なお、池之宮は絵図・史料に出てくるに出てきますがが、神野神社は出てこない。出てくるのは「池の宮」です。これを神野神社と呼ぶようになるのは、幕末頃になってらです。ここには池の宮を神野神社として、延喜式内社の論社にしようという地元の動きが見えます。
以上をまとめておくと次のようになります。

①地元の郷土史は、日本略記や空海派遣を命じた太政官符を根拠に「空海=満濃池修復」説を記す。

②これに対して、日本紀略や太政官符などからだけでは文献考証面から「空海=満濃池築造説」を裏付けるできないと研究者は考えている。


この上に、11世紀前半のものとされる史料の中には、空海が満濃池修復を行ったという記録がありません。それが「満濃池後碑文」です。

空海関与を伝えない満濃池後碑文
満濃池後碑文(まんのういけのちのいしぶみ)
以下も意訳変換しておくと

三年(853)二月一日、役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない


ここには、空海の満濃池修復後の約20年後に決壊した満濃池を国司の弘宗王が修復したことが記されています。その内容を見ると動員数など具体的で、日本紀略の記述に比べると、よりリアルな印象を受けます。弘宗王とは何者なのでしょうか?

 満濃池修復を行った讃岐国司弘宗王
満濃池を修復した弘宗王

弘宗王について当時の史料は次のように評しています。
「大和守
弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方政治について、見識をもった人物である。」
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、満濃町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、「倫理観に書ける悪徳国司」的な評価をし、「萬濃池後碑文」は偽書の可能性を指摘します。しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関してのな内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。どちらにしても最終的には大和国の国司を務めるなど、なかなかのやり手だったことが分かります。その子孫が、業績再考のために造ったのがこの碑文です。そこに書かれていることと、日本紀略の記事で年表を作成すると以下のようになります。


空海と弘宗王の相互関係の年表

「後碑文」には、満濃池は701年に初めて造られたとあります。その後、818年に決壊したのを空海が修復したことは日本略記に書かれていました。それが約30年後の852年に決壊します。それを復旧したのが讃岐国主としてやってきた弘宗王になります。その事情が後碑文(のちのひぶみ)の中に記されます。その後も、決壊修復が繰り返されたようです。そして、1184年 源平合戦が始まる12世紀末に決壊すると、その後は放置されます。つまり満濃池は姿を消したのです。それが修復されるのは役450年後の江戸時代になってからです。つまり、中世には、満濃池は存在していなかったことになります。

それでは「空海=満濃池修築」のことが、満濃池後碑文にはどうして書かれなかったのでしょうか?
その理由を考えて見ると次のようになります。


満濃池後碑文に空海が出てこない理由は

日本紀略よりも先に造られた満濃池後碑文からは「空海=満濃池非関与」説が考えられるということです。以上をまとめておきます。


空海満濃池築造説への疑問

考古学的な疑問点は次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
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