瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐の祭礼

中世から近世への神社の祭礼変化について、以前に次のようにまとめました。
神社の祭礼変遷

①中世は郷惣社に、各村々から組織された宮座が、祭礼行事を奉納していた。滝宮牛頭天王社へ奉納されていた北条組や坂本組の各組念仏踊りも、惣村で組織された宮座であった。
②検地で村切りが行われ、新たに登場した近世の村々は、それぞれが村社を持つようになる。
③近世半ばに現れた村社では、宮座に替わって若者組が獅子舞や太鼓台・奴などを組織し、祭礼運営の主導権をにぎるようになる。
④こうして中世の宮座による祭礼から、若者組中心の獅子舞や太鼓台が讃岐の祭礼の主役となっていく。
それでは江戸時代後半の各村々では具体的に、どんな祭礼が各村々の氏神に奉納されていたのでしょうか。これを今回は追ってみることにします。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ

テキストは、「神社の祭礼 坂出市史近世下151P」です。
  坂出市史は、最初に次のような見取り図を示します。
①江戸時代の村人たちは、神仏に囲まれて生活してたこと。村には菩提寺の他に、氏神・鎮守の御宮、御堂、小祠、石仏があり、氏神・鎮守の祭礼は、村人にとっては信仰行事であるとともに最大の娯楽でもあったこと。その祭礼を中心的に担ったのが若者たちだったこと。
②若者仲間が推進力となって、18世紀半ば以降、祭礼興行は盛んになり、規模が拡大すること。若者たちは村役人に強く求めて、神楽・燈籠・相撲・花火・人形芝居などの新規の遊芸を村祭りにとりこみ、近隣村々の若者や村人たちを招いて祭礼興行を競うようになること。
③これに対して、藩役人は「村入用の増加」「農民生活の華美化」「村外者の来村」などを楯にして、規制強化をおこなったこと。

若者達による祭礼規模の拡大と、それを規制する藩当局という構図が当時はあったことを最初に押さえておきます。

御用日記 渡辺家文書
御用日記 阿野郡大庄屋の渡辺家
  阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。
1841(天保12)年12月条の「御用日記」には、次のような規制が記されています。
一 神社祭礼之節、練物獅子奴等古来ョリ在来之分者格別、新規之義者何小不寄堅ク停止可被申付候。尤、獅子太鼓打の子供の衣類并奴のまわし向後麻木綿の外相用セ申間敷候
一 寺社開帳市立祭礼等の節、芝居見セ物同様の義相催候向も在之哉二相聞候、去年十二月従公儀被 御出の趣相達候通猥之義無之様可破申付候
意訳変換しておくと
一 神社祭礼については、練物(行列)や獅子舞・奴など古来よりのものは別にして、新規の催しについては、何者にも関わらず禁止申しつける。なお、獅子や太鼓打の子供の衣類や奴のまわしについては、今後は麻木綿の着用を禁止する。
一 寺社の開帳や市立祭礼の芝居や見せも同様に取り扱うこと。去年十二月の公儀(幕府)からの通達に従って違反することのないように申しつける。
ここからは、次のような事が分かります。
①旧来の獅子舞や奴に加えて「新規催し」が村々の祭礼で追加されていたこと
②藩は、それらを禁止すると共に従来の獅子舞などの服装にも規制していること
③幕府の天保の改革による御触れによって、祭礼抑制策が出されて、それを高松藩が追随していること

具体的に坂出地区の祭礼行事を見ていくことにします。 坂出市史は以下の祭礼記事一覧表が載せられています。
坂出の神社祭礼一覧
  これを見ると19世紀になると、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などさまざまな興行が行われていたことが分かります。

柳田国男は、『日本の祭』の中で、祭礼を次のように定義しています。
祭礼は
「華やかで楽しみの多いもの」
「見物が集まってくる祭が祭礼」
祭の本質は神を降臨させて、それに対する群れの共同祈願を行うことにあるが、祭礼では社会生活の複雑化の過程で、信仰をともにしながら見物人が発生し、他方では祭の奉仕者の専業化を生み出した。

祭礼が行われるときには、門前に市が立ちます。
上表の「1835(天保6)年2月、坂出塩竃神社」の祭礼と市立には、門前に約40軒もの店が立ち並び、約2100人が集まったという記録が残っています。天保7年の坂出村の人口は3215人なので、その約2/3の人々が集まっていたことになります。塩浜の道具市というところが塩の町坂出に相応しいところです。
この他にも市立ては、1839(天保十)の神谷神社(五社大明神)や翌年の鴨村の葛城大明神、松尾大明神でも、芝居興行とセットで行われています。
 芝居や見世物などの興行を行う人のことを香具師とよびました
香具師は、全国の高市(祭や縁日の仮設市)で活躍して、男はつらいよの寅さんも香具師に分類されます。その商売は、小見世(小店:露店)と小屋掛けに、大きく分けられます。小屋掛けとは、小屋囲いした劇場空間で演じられる諸芸や遊戯のことです。これはさらにハジキ(射的・ダルマおとしなどの景品引き)とタカモノ(芝居・見世物・相撲など)に分けられるようです。坂出では、どんな興行が行われていたのでしょうか。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
神谷村の神谷神社(五社大明神)の史料には、次のように記されています。
天保十年四月五日、「当村於氏神明六日五穀成就為御祈願市場芝居興行仕度段氏子共ョリ申出候」
尤、入目の儀氏子共持寄二仕、村入目等ニハ不仕」
意訳変換しておくと
1839(天保十)年四月五日、(神谷村の)氏神で明日六日、五穀成就の祈願のために市立と芝居を興行を行うと氏子たちから申出があった。なお費用は氏子の持寄りで、村入目(村の予算)は使わないとのことである」

と神谷村の庄屋久馬太から藩庁へ願い出ています。祭礼の実施も庄屋を通じて藩に報告しています。また、費用は氏子からの持ち寄りで運営されていたことが分かります。費用がどこから出されるかを藩はチェックしていました。

坂出 阿野郡北絵図
坂出市域の村々
鴨村の葛城大明神の祭礼史料を見ておきましょう。

鴨部郷の鴨神社
鴨村の上鴨神社と下鴨神社
1839(天保10)年4月7日と18日、葛城大明神社の地神祭のために「市場」「芝居興行」が鳴村庄屋の末包七郎から大庄屋に願い出られ、それぞれ許可・実施されています。この地神祭の時には「瓦崎者(河原者)」といわれた役者を雇って人形芝居興行が行われています。その際の氏子の申し出では次のように記されています。
「尤、同日雨入二候得者快晴次第興行仕度」
(雨の場合は、快晴日に延期して行う予定)」

雨が振ったら別の日に替えて、人形芝居は行うというのです。祭礼奉納から「レクレーション」と比重を移していることがうかがえます。

  林田村の氏神(惣社大明神)の史料を見ておきましょう。
林田 惣社神社
林田村の氏神(惣社大明神) 讃岐国名勝図会

惣社大明神では1845(弘化2)年8月19日に、地神祭・市場・万歳芝居興行の実施願いが提出されています。
以上のように、坂出の各村では、氏総代→庄屋→大庄屋→藩庁を通じて申請書が出され、許可を得た上で地神祭のために、市場が立ち、芝居や人形芝居の興行が行われていたことが分かります。その興行の多くは「タカモノ」と呼ばれる見世物だったようです。
  御供所村の八幡宮では、1834(文政七)8月12日に、翌々15日の松神楽興行ための次のような執行願が出されています。

然者、御供所村八幡宮二おゐて、来ル十五日例歳の通松神楽興行仕度、尤、初尾(初穂)之義者氏子共持寄村人目等二者不仕候山氏子共ヨリ申出候間、此段御間置可被成申候」

意訳変換しておくと
つきましたは御供所村の八幡宮において、きたる15日に例歳の松神楽の興行を行います、なお初穂費用については、氏子たちの持ち寄りで賄い、村人目からは支出しないとの申し出がありました。此段御間置可被成申候」

ここでも村費用からの支出でなく、「氏子共」の持ち寄りで賄われることが追記されています。
西庄 天皇社と金山権現2
西庄村の崇徳天皇社(讃岐国名勝図会)

西庄村の崇徳天皇社では、1834(文政7)年8月27日、湯神楽についての次の願書が出されています。
「然者、来月九日氏神祭礼二付、崇徳天皇社於御神前来月六日夜、湯神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出シ、尤、人目之義ハ村方ヨリ少々宛持寄仕候間、村入目者無御座候間、此段御間置日被下候」

意訳変換しておくと
つきましては、来月9日氏神祭礼について、崇徳天皇社の神前で6日夜、湯神楽を執行することが氏子より申出がありました。なお費用については村方より持ち寄り、村入目からの支出はありません。此段御間置日被下候」

 崇徳天皇社での湯神楽も費用は「村方ヨリ少々宛持寄仕候」で行われています。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とは? 意味や使い方 - コトバンク
湯神楽

鴨島村の鴨庄大明神では、1858(安政5)年9月2日松神楽の執行についての次のような願書が出されています。

「然者、於当村鴨庄大明神悪病除為御祈薦松神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出、昨朔日別紙の通、御役所へ申出候所、昨夜及受取相済候二付、今日穏二執行仕せ度奉存候、此段御聞置被成可有候」

      意訳変換しておくと
「つきましては、当村鴨庄大明神で悪病を払うための祈祷・松神楽を行うことについて氏子から申出が、昨朔に別紙の通りありましたので、役所へ申出します。昨夜の受取りなので、今日、執行させていただきます。此段御聞置被成可有候」

 前日になって氏子達は、庄屋に申し出ています。庄屋はそれを受けて、直前だったために、本日予定通りに実施させていただきますと断りがあります。
林田村の惣社大明神でも、1860(万延元)年9月12日湯神楽の執行について次の願書が出されています。
「当村氏惣社大明神於御仲前、今晩湯神楽修行仕度段御役所江申出仕候、御聞済二相成候問」

ここからはその晩に行われる湯神楽について、当日申請されています。それでも「御聞済二相成候問」とあるので許可が下りたようです。ここからは祭礼の神楽実施については、村の費用負担でなく、氏子負担なら藩庁の許可は簡単に下りていたことがうかがえます。

祭礼一覧表に出てくる相撲奉納を見ておきましょう。
御用日記に出てくる角力奉納をまとめたのが次の一覧表です。
坂出の相撲奉納一覧
御用日記の相撲奉納一覧表
ここからは次のような事が分かります。
①1821年から43年までの約20年間で相撲奉納が7回開催されていたこと
②奉納場所は、鴨神社や坂出八幡宮など
③各村在住の角力取によつて奉納角力が行われたこと
④「心願」によって「弟子兄弟共、打寄」せで行われていたこと
⑤「札配」や「木戸」銭は禁止されていること。
近世後期の坂出周辺の村々に角力取がいて、彼らが「心願」で神社への奉納角力に参画していたことを押さえておきます。
  以上をまとめておきます。
①江戸時代後半の19世紀になると、坂出の各村々の祭礼では、獅子舞や太鼓台以外にも、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などのさまざまな行事が奉納されるようになっていた。
②これらの奉納を推進したのは中世の宮座に替わって、村社の運営権を握るようになった若者組であった。
③レクレーションとしての祭礼行事充実・拡大の動きに対して、藩は規制した。
④しかし、祭礼行事が村費用から支出しないで、氏子の持ち寄りで行われる場合には、原則的に許可していた。
⑤こうして当時の経済的繁栄を背景に、幕末の村社の祭礼は、盛り上がっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    神社の祭礼 坂出市史近世下151P

          DSC05362
春日神社(琴平町)の本殿横の湧水 
 丸亀平野の扇状地上にある古い神社を訪れると、境内に湧水が湧き出しているところがいくつもあります。古代人にとって、大地からこんこんと湧き出し、耕地に注ぐ湧水は土地のエネルギーそのもので、信仰対象でもあったのでしょう。その湧水や人工的に作られた導水路に対して豊穣を祈願することは、ある意味では首長の権利であり役割であって、これをきちんと行うことが、地域支配の根拠(正当性)でもあったと研究者は考えています。
 これは古くから中国で「黄河を制する者が天下を制する」とされ、治水灌漑事業を行う者が、天下の覇者となることを正当化することと通じるものがあります。治水灌漑の土木事業の進展と共に、水に関する祭礼儀式が生み出されたとしておきましょう。湧水点は、聖地だったのです。
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            春日神社の湧水

 湧水地(水神)になんらかの宗教施設が加えられ、後に神社になっていったという仮説が湧いてきます。

琴平大井・春日神社

 例えば琴平周辺では、旧金倉川跡に南北に並んで鎮座する大井八幡・春日神社・石井八幡は、それぞれ境内に湧水地があります。そこから導水路が下流へと流れ出し、今でも水田の灌漑に使われています。この原初の姿を想像すると、弥生時代に稲作農耕が始まった時に、この湧水は下流の農耕集団の水源とされ、同時に信仰対象となったのではないかという気がしてきます。そして、時代が下ると宗教施設が設けられ、神社が姿を現すようになったというのが私の仮説です。今回は、湧水から神社はどのように生まれたを知るための読んだ文章の読書メモになります。テキストは「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」です。
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大井八幡神社境内の湧水
古代の神社に祀られるようになった「神」は、古墳時代に生まれていると研究者は考えているようです。
前方後円墳での儀式は、喪葬と首長霊継承の関連で語られていました。しかし、墳墓の造出し部分の発掘成果によって、それだけではなく古墳は、首長が行ういろいろな宗教行為のパフォーマンスの場が古墳であったとされるようになってきました。古墳では、中央や地域の王権を支えるさまざまな祭祀が行われていたこと、それが、次第に古墳から離れて豪族居館や、神霊スポットへと移り、独自の祭祀空間を獲得していくようになります。その時期が5世紀後半~6世紀前半で、この時期が「神の成立」期だと研究者は考えているようです。  
 その原型は古墳時代には、登場していたと云うことです。

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大井八幡神社(琴平町)境内の北大井湧水
  井戸や川を祭祀遺跡として見るようになったのは、戦後のことになるようです。
少し、研究史らしきものを記しておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」と記されています。
 また文献史学の立場からも 風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになり、古代日本の水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになります。さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
  そして「水の祭祀」については、次のように理解されるようになります。
常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

  水辺の祭祀は 、現在では次のふたつに分類されるようです。
①河川等の水の流れる所で行われた「流水祭祀」
②水の湧き出る所で行われたであ ろう「湧水点祭祀」
  その代表的な三重県の城の越遺跡を見ておきましょう。
湧水点祭礼 城の越遺跡1

  城之越遺跡は、新聞報道では「日本最古の庭園」と紹介されています。しかし、これは湧水を祭場に「加工」した湧水点祭祀跡です。それが、「庭(園)」にもなっていきます。この泉水遺構は,人工的に敷き詰められた石積みとともに約30年前に発掘されています。
湧水点施設1

同時に、儀式用の土器(高杯など)や刀剣型の木製品なども多数見つかっっています。これらの出土品から4世紀後半ごろに、ここで水に関する何らかの祭祀が行われていたようです。
湧水点祭礼1

祭祀遺構のすぐそばには、大型建造物の跡も見つかっていています。

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡 湧水近くに建てられた建築物

この建物の分析から、次のような点が分かってきました。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 さらに、この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。この背景には、首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。

湧水点祭礼 城の越遺跡3
庭園の石組みのようにも見える城の越遺跡の湧水施設

 また、湧水点では、誓約儀礼も行われた可能性があるようです。「記紀神話」のアマテラスとスサノフの誓約とよく似ているとされます。とすると、古墳時代の水に関する儀礼が、記紀神話にも取り込まれていることになります
湧水点祭礼 飛鳥
飛鳥の水の祭礼遺跡

飛鳥の水の祭礼遺跡です。先ほど見た城の越遺跡との間には、約200年の隔たりがあります。しかし、飛鳥の施設が城の越遺跡の発展系であることは想像ができます。湧水の下に導水施設が組まれています。これはより奇麗な水を濾過する装置と研究者は考えています。
湧水点祭礼 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池
  橿考研の岡林孝作調査部長は、次のように云います。
「飛鳥京跡苑池は宮殿の付属施設であり、流水施設も王権に関わる水のまつりの場だったと考えられる」

 飛鳥には、大王に関わる水祀りの施設が、酒船石遺跡などを含めて、いろいろな所に作られ、それは「庭」とも考えられてきたのです。そのため「庭園遺跡」という見出しを付ける記者も出てきます。これは、さきほど見た古墳時代の城之越遺跡の湧水点遺跡と導水遺跡の複合系遺跡と研究者は考えています。
 
以上をまとめておくと
①出水、湧水は弥生維持代から神聖なものとして信仰対象とされ水神が祀られた。
②古墳時代になると豪族によって、湧水周辺の開発と治水灌漑工事は行われ、湧水周辺には附属施設や豪族居館が建設されるようになった。
③さまざな儀礼が湧水周辺では、豪族主催の下に行われるようになり、湧水点遺跡や導水遺跡が整備されるようになる。
④周辺は石畳で聖域化されるなど、整備が更に進む。
⑤このような水の祭礼施設は、大和の大王のもとでも整備され、それが飛鳥の湧水点施設や流水施設である。

とすると、このような施設は讃岐の古墳時代の豪族も作っていたことが考えられます。佐伯氏支配下の善通寺周辺にも、このような水の祭礼に関わる施設があったのかもしれません。しかし、善通寺一円保絵図に描かれた壱岐の湧水や二頭湧水には、神社は描かれていません。ふたつの湧水に今も神社はありません。なぜ、壱岐や二頭湧水に神社が建立されなかったのかが私にとっては疑問なのです。
 それにたいして、最初に紹介した琴平の旧金倉川の伏流水の上に鎮座する大井神社・春日神社・石井神社には、後に神社が姿を見せます。さらに、荘園化されると春日神社のように荘園領主の九条家(藤原氏)の氏神である奈良の春日大社が勧進され、合祀されます。さらに後世には、八幡神までも合祀されていきます。そのもとは湧水に宿る水神信仰が出発点だったのかもしれません。
今日もまとまりのない内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」
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獅子舞 三十二番職人歌合の獅子舞

以前に、讃岐獅子舞の獅子たちが、いつ、どこからやって来たのかをお話ししたことがあります。それでは、讃岐にやって来る前の獅子舞は、どこから来たのかと聞かれて困ってしまいました。現在の時点で、私が考えている讃岐にやってくる前の獅子舞の姿を追いかけてみます。テキストは「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」です。
獅子 信西古楽図」の獅子図

古代の獅子舞については、よく引き合いに出されるのが上の「信西古楽図」の獅子図です。この獅子図は、現在では我が国で演じられていた獅子舞を描いたものではなく、大陸で演じられていた芸能を描いた絵巻があり、それを写したものとする説が有力なようです。だとすれば、ここに描かれた獅子舞は、中国唐代の獅子ということになります。全身毛布の縫いぐるみで覆った胴体は、昔よく見た中国のカンフー映画に登場してくる獅子舞姿です。カンフーの達人達が、かっこよく動かしていたのを思い出します。確かに、あの獅子を思い出すとあまり違和感はなくなります。
この絵に描かれた獅子を整理しておくと
①全身毛布の縫いぐるみ
②胡児が二人付くこと
③獅子に綱を付けその端を持ち、棒状のものを手にした獅子あやし(面はつけていない)が付くこと、
④獅子の楽器として腰鼓・銅鉄子打ち・鉦叩きなどがいること(笛役は描かれていない)、
これが我が国に伝来した獅子舞の現形のようです。
それでは、中国にはどこからやってきたのでしょうか。
中国唐代の詩人白楽天の「西涼伎」には、獅子舞が次のように記されています。
仮面ノ胡人仮ノ獅子、木ヲ刻ンデ頭卜為シ、糸デ尾ヲ作ル、
金ヲ眼晴二鍍シ銀ヲ歯二帖ル、奮迅ノ毛衣、双耳ヲ提キ、
流沙従り万里来タルガ如シ、紫髯深目ノ両胡児、鼓舞跳梁シテ前二辞ヲ致ス、
意訳変換しておくと
仮面を被った胡人が獅子を使う、木造の獅子頭で、尾は糸で作られている。金を眼晴りして、銀を歯に貼り付けてる。毛衣は奮い立ち、双耳を立て、胡国の流沙を越えて万里の道をやってきた獅子を、紫髯で深目ふたりの胡児(ソグド人?)が鼓舞跳梁しながら導いていく、

ここからは次のようなことが分かります。
①獅子頭は木製
②目に金、歯に銀が貼られ、尾は糸で作られ、毛衣を着ており、
③眼の深い相貌の胡児二人を従えていた
④シルクロードを越えてやってきた西国異国のものであるという認識
⑥「鼓舞跳梁」とあり、カンフー映画に出てくる獅子のように飛び跳ね俊敏に動いた
白楽天は詩人ですので、若十の誇張はあるでしょうが、唐代の獅子の様子はうかがえます。白楽天は獅子舞が胡人の芸能であり、シルクロードを通じて西方からもたらされた異国趣味の芸能として認識していたことが読みとれます。
大英博物館に降臨!? アッシリアの王アッシュールバニパル - Onlineジャーニー

   古代メソポタミアでは、獅子は百獣の王で最も獰猛な野獣として畏れられました。それゆえに王達は獅子狩りに熱中します。獅子狩自体が王の権勢を伝えることになったからでしょう。それは、アケメネス朝やササン朝の「獅子狩文錦図」をみると納得できます。こうして獅子は、畏れられると同時に威厳のある神獣として神化されていきます。
写実性に優れたアッシリア・・・ライオン紀行(9) : 写真でイスラーム

同時に獅子舞的なものがすでにササン朝時代には、あったのではないかと私は考えています。それが唐時代になって、シルクロードが開かれるとソグド人達(胡人)によって、長安に入ってきたのでしょう。先ほど見た白楽天の獅子舞はそのような姿を伝えているようです。
中国、獅子舞で新年祝う 春節迎え縁日開催 - 読んで見フォト - 産経フォト

 それでは、わが国にはいつ頃入ってきたのでしょうか。
正倉院には、東大寺の大仏開限供養の際に使われた伎楽の獅子頭が八頭保管されています。

獅子 正倉院
正倉院の獅子頭

8頭の姿は、少しずつ異なっています。どれも獰猛な姿をしているのは同じです。しかし、ライオンには見えません。当然、現物を見たことのない職人が作ったものなので実物からはだんだん遠ざかっていきます。
 各パーツは下顎と舌、両耳を別に作り、下顎は鉄棒を通して開閉できるように工夫されています。それを打ち合わせることで大きな音を出すことができます。舌も開閉すると動いたようです。目を大きく見開き、目が動くものもあます。目を開閉して、音を出し、威嚇することができたようです。この獅子たちが、大仏開限供養祭で、どんな風に使われたかは分かりません。後の史料で、補って「復元」して見てみましょう。

 史料で、古代の獅子の原型を研究者は次のように押さえます
①獅子は行列の先導役を勤める.(祓い)
②獅子は行道として歩くために四つ足で、当然二人立ちとなる。
③獅子は獰猛な動物なのでに、綱などを持つた口取りが付く。
④獅子にはそれをあやす役が付く。(二人の獅子児)

 獅子は、行列の先導役を勤めるので、「祓い」の役目を持っていたようです。これは獅子舞が移入された当初からの役割だったようです。古代メソポタミアの古代文明以来、獅子(ライオン)は、王の象徴であり、悪魔祓いの属性を持っていました。ギリシャにも獅子像はもたらされ、ミケーネ城門で睨みを効かせています。それが中国を経て、日本には狛犬としてやってきているのはご存じの通りです。
 獅子は、伎楽の中に最初に登場したようです。二頭でワンペアでの出演でした。面を着けた獅子児(獅子子で、童子の役)は、獅子をあやす役で、必ず獅子一頭につき二人が付き従います。
獅子 治道面
治道面(正倉院)

治道は、行列の露払い的な役目で、彼らの着ける面は正倉院に伝わる面の中では最も鼻が高いそうです。これが「鬼」に成長していくのかもしれません。
 「筑紫国観陛音寺資財帳」の治道の項には「麻鞭 壱条」と記されています。治道は麻の鞭を持っていたようです。治道は獅子の使い手だったのでしょう。この資財帳には笛吹2人・銅銭子撃1人・鼓撃10人がと記されています。獅子に付随する音楽集団というよりも、伎楽全体のものとしておきましょう。音楽付きでペアの獅子が先頭で露払いを演じながら舞台まで、パレードしたのかもしれません。
  世界遺産・シルクロードから薬師寺へ ~1400年の時を越え甦る幻の仮面劇~(BSテレ東)の番組情報ページ | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)                                       

伎楽は呉楽(くれのうたまい)とも呼ばれていたようです。
そのなかに獅子舞(獅子舞)が、あったことは、天平十九年(749)の「法隆寺伽藍縁起及流記資財帳」(『寧楽遺文」中巻宗教編上)に伎楽用具として、次のように記さていることから分かります。
伎楽壱拾壱具
獅子弐頭、獅子子卑面衣服具、治道弐面衣服具、呉公壱面衣服具服(以下略)
ここからは、伎楽で演じられる獅子舞は、二頭一組で、獅子一頭につき二人が、五色の毛のある縫いぐるみのようなものに入って、演じたことが分かります。

 伎楽は中央の大寺院だけで演じられていたように考えられてきましたが、そうではないことが近年の研究で分かってきたようです。各国の国分寺などを中心として、法会の荘厳芸能として演じられていたようです。諸国の国分寺が整備された奈良時代には、その法会の荘厳芸能として、伎楽が演じられるようになっていたこと、そして地方の諸人も、伎楽という渡来芸能を通じて、獅子の芸能を見ていたと研究者は考えているようです。そして、中世に成ると瀬戸内海交易を通じて経済力を蓄えた小豆島の肥土庄の八幡神社や、観音寺市の琴弾八幡にも、パレード用の獅子は姿を現すようになることは以前にお話ししました。

獅子は舞楽にも登場するようになります
舞楽の獅子舞が文献に登場するのは、伎楽の獅子よりずーと遅れます。平安時代中期以降のことになります。その早い例が、『法成寺金堂供養記』治安二年(1022)七月―四日条で、
(前略)此間乱声、両獅子出臥舞台巽坤、次吹調子 雅楽寮卒楽人迎衆僧、(中略)
楽人到会集帳、発音声如前、経前道到楽屋前立獅府昴、
 ここからは、獅子は法会の最初に乱声を奏した後に、左右の両楽屋から一頭ずつ登場し、舞台の巽(たつみ)と坤(ひつじさる)に臥します。何もしないで舞台の隅に臥すことにより、悪霊を威嚇するという役目を担っていたと研究者は考えているようです。悪霊退散の役目です。まるで番犬のようです。
 約百年後の天承二年(1132)二月一十八日に行われた法成寺東西両搭の供養の舞楽の様子を、公家の平知信が日記『知信記』に、次のように記されています。
次獅子出自左右楽屋方、臥舞台艮・巽角、件獅子付緋綱、舞者四人、京中業者応召、単衣、末濃袴合袴、毛沓付爪、綾獅子四人、左右舞人進之 面形、半腎・表袴・団扇・糸蛙・機、袖、単衣、大口給之、朧四人、面形、□、抱、補補、袴、□腰、錯懸、糸軽、袖、単衣、合袴等給之、(その後に右方から菩薩六人・胡蝶六人、左方から菩薩六人・迦陵頻六人が出る)

この時は、まず左で乱声があり、続いて左の振枠があり、次に右の乱声が奏され、振鉾が出て舞います。次いで獅子が左右の楽屋から出て、舞台の巽と艮の角(隅)に臥せます。この獅子には緋の綱が付けられていて、獅子の舞人は一人ずつで、演者は京中の業者で召しに応じた者だったようです。その衣装は単衣、袴、爪の着いた毛沓を履いています。獅子と同時に、左右から舞人による「綾獅子」が左右各二人登場。彼らの姿は面を着け、半腎・表袴・草性・機、袖、単衣、大日で、団扇を持って出てきます。この役が獅子あやしのようです。獅子を先導する朧(口取り)も一頭に二人付きます。彼らの姿は面、補補、□腰等で、糸戦を履き、獅子に付けられた緋綱を取ります。
 獅子が決められた位置に伏せると、法会が始まります。その後に左方から菩薩(六人)・迦陵頻(六人)、有方から苦薩(六人)胡蝶(六人)が、供花を持って一行に分かれて出てくる、というスタイルです

舞楽の獅子も、綱を口取りが持ち、獅子あやしが二人付くという演じ方が、以後のパターンになるようです。舞楽の獅子舞は、最初は法会が行なわれる舞台に伏すだけだったようです。邪魔者を人れないという役目で、舞台を監視する役目が与えられていたようです。
 しかし、舞台に現れた獅子は、いつまでも舞台の隅に臥しているばかりではありませんでした。いつとはなく法会の途中で舞うようになります。どんな舞を舞ったのかは今は分かりません。

獅子 四天王寺 聖霊会舞楽大法要

四天王寺の聖霊会舞楽大法要に登場する獅子たちも、現在では舞が失われているので,舞台を二度回るだけの舞になっているようです。
 舞の詳しい内容は分かりませんが承暦元年(1077)十月十八日に法勝寺で行なわれた『法勝寺供養記』には
「散華・引頭・納衆・讃衆・梵音・錫杖等次第雁行、経金堂・講堂・舞台等東西大行道、左右獅子分舞、次楽人行列」

と「左右獅子分舞」とあります。「法成寺金堂供養記」には、獅子が臥した後、楽人が衆僧を迎えて楽屋の前に立つと「楽不正、獅子舞」とあります。獅子は舞っていたようです。
四天王寺聖霊会舞楽大法要

 行道(神興渡御)の獅子と獅子の舞
 奈良時代に大陸からやってきた獅子舞は、平安時代以降になると舞楽のなかに取り入れられて、悪魔を追い祓う役目で定着したようです。そして伎楽・舞楽の一行と舞台までの行道(パレード)の先頭を行く役目も担うようになります。悪魔を祓うという獅子の役割は、祭礼の神輿渡御のパレードからもお呼びが懸かるようになります。
『百錬妙』承安一年(1173)六月十四日条には、次のように記されています。
祗園御霊会、上皇有御見物、殊被印刷之、神興三基、獅子七頭、去四日自院被調進之、

ここからは祗園御霊会の神輿渡御の神輿三基の先頭に七頭の獅子がいたことが分かります。神興を先導する獅子の場合は、頭数は関係がなかったようで『年中行事絵巻』巻十二の稲荷祭りなどには、多くの獅子が出てきます。

獅子 年中絵巻図の獅子舞

民間の祭礼に登場した獅子は、早い時期から舞ったようです
京都仁和寺の座主覚法法親王が高野山に参詣した折の日記『御室御所高野山御参籠日記』の久安四年(1148)五月二日条に、
自山崎着仁和寺丁、(中略)於淀辺有下人為市之所、令導之、今日淀祭也、乃獅子舞等令舞之、召師子於舟辺、獅子二、子一也、賜禄了、
ここには、仁和寺の座主が高野山に参詣した帰路に、淀川を行く船の近くに淀の祭りに参加していた獅子舞を呼んで舞わせ、禄を与えたことが記されています。この獅子舞は獅子が二頭で、獅子あやしの子供が一人居たとあり、「獅子舞等令舞之」と記されます。この獅子は行列の先導役のみではなく、獅子舞を演じていたことが分かります。
 以後、獅子舞は祭礼芸能の一環としてあちこちの祭礼に活躍するようになります。その基本は二頭一組で、巫女集団・上の舞・細男座・田楽座・猿楽座など、専門の芸能集団とともに大きな社寺の祭礼に姿を見せるようになったことが『年中行事絵巻』などから分かります。ここに描かれた獅子舞は専門の座が形成されていたと研究者は考えているようです。そして、獅子舞は、荘園鎮守社の祭礼などにも演じられ、地方にも広がっていったようです。

二人使いの獅子舞は、大きく分けて次の二つに分類できるようです。
ひとつは、神興渡御の先頭を行く獅子です。もともとは、二頭一組が一般的だったようです。
獅子の前を行く天狗面なども、伎楽の治道や、舞楽における口取りの変形バージョンとして残っているのかも知れません。この神興を先導する獅子は、讃岐の獅子舞にも云えますが、華麗に舞を舞うところが多く、祭礼の獅子舞として発展してきたようです。
 中世期の京都などでは、獅子舞を舞う専門芸能座があったようで、祗園社には片羽屋座などが所属していたようです。彼らは祗園御霊会などで神興渡御に付き従いました。
獅子 年中絵巻図の獅子舞
笛や太鼓の鳴り物に逢わせて、路上で舞う獅子

しかし、それだけでは生活できません。彼らは、祇園社が所属した比叡山延暦寺膝下の村々へ進出し、祈祷の獅子舞を演じる祭礼権を持つようになっていきます。こうして、獅子舞が地域の祭礼に姿を見せるようになります。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞
何頭もの獅子が神輿の先払いとして舞ながら進む

民俗芸能として伝承された獅子舞のもう一つは、太神楽系の獅子舞です。
樺猛な獅子の姿が悪魔祓いに有効とされたのは、唐の時代の中国からでした。我が国ではその頭に神を勧請して「神の力 + 獅子の威力」の相乗効果を期待するようになります。こうして獅子頭自体を独立させて、悪魔を祓ってまわるようになります。その最初は山伏・修験者たちだったようです。
獅子頭(権現さま) | いわての文化情報大事典

 南北朝期以降に東北地方で熊野山伏が展開したスタイルは、神を勧請した獅子頭を権現様と呼び、それを舞わすことで悪魔を祓うものでした。彼らは家々の悪魔祓いをしてまわるようになります。同時に、その余興として当時の流行芸能である「猿楽能(現在の能・狂一三」のスタイルで神々の登場する能(仮面劇)を演じ、激しく美しい舞を舞って人気を得ます。こうして、東北では地域を「巡業」する獅子舞集団がいくつも現れます。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞2

 さきほど見た京都祇園の獅子舞の座も、獅子頭を用いて悪魔祓いを行なうと同時に、猿楽能も演じています。このスタイルは、熊野山伏の専売ではなかったようです。戦乱が進む中世末には熊野信仰は、下火になり、熊野山伏の活躍も徐々に衰えていきます。それに代わって登場するのが、伊勢皇太神宮の信仰です。もともとは天皇家の氏神であった伊勢神宮も、中世末期になるとその維持が困難になります。そこで庶民への教線拡大策として、真似られたのが熊野山伏が行なっていたスタイルです。つまり獅子頭に神を勧請して諸国を巡り、悪魔祓いを行ない、御札を配ります。その代償として初穂を戴くようになります。彼らを「御師」と呼びますが、本来の御師は伊勢神宮の近辺に宿泊施設を構え、地方に檀那場を確保して講中を組織し、伊勢への参宮を促す役割を持っていました。だから、獅子頭を奉じて諸国を巡る太神楽の団員達は、もともとは御師ではありません。あくまで芸人なのです。
放下 - Wikipedia
         放下芸 皿回しや傘回し

  この時、祈祷の獅子舞とともに演じられたのが「放下芸」でした。放下芸はもともとは古代に大陸から渡来した散楽系の曲芸で、中世を通じて雑芸能者の手によって伝えられてきました。それがこの時期に、大道芸能として脚光を浴びるようになり、いろいろな芸人が現れるようになります。さまざまな芸をもった一団の中に、獅子の舞も取り込んで演じて見せたようです。
伊勢大神楽について - 伊勢大神楽 伊勢大神楽教 渋谷章社中
背負った屋台に獅子頭や太鼓が見える

 ここで注意しておきたいのは、獅子頭を奉じて祈祷にまわる大神楽の獅子舞は、伊勢信仰の流布のためではなかったことです。あくまで営業活動の一環なのです。
 太神楽を演じたのは伊勢神宮などの神人ではなく、伊勢神宮や熱田神宮から御札の配布を請け負った下級宗教者でした。彼らは、伊勢国桑名や吾鞍川、尾張国繁吉村などに集住して、そこを拠点地として各地に出向くという営業スタイルをとるようになります。そして巡回範囲は、全国に及ぶようになります。そういう意味では、太神楽系の獅子舞は、彼らが持ち伝えたオリジナルな獅子舞です。
伊勢大神楽講社 山本勘太夫社中

 それが大きく変化し出すのは江戸時代中期以降です。
毎年やって来る伊勢太神楽と次第に経済力を得た各地の村々の若者組が交流するようになります。彼らからその芸能を教わり、自分の村で獅子舞を演じる舞場権を買い取って、自分の村の祭礼に若者組自身が演じるようになります。研究者はこれを「祭礼芸能の民俗芸能化」と呼んでいるようですが、こうして獅子舞は村人の手に移って行きます。そして獅子舞は、それぞれに土地の風土に合わせて変化発展していくようになります。
 ここまで見てきて、なぜ小豆島の祭礼に獅子が登場しないのかが何となく見えてきました。
讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月に初めて登場します。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」という記事があり、これが一番が古いようです。それから五年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでも獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は瀬戸内海という人と物が流れる「中世のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内からやってきて、肥土庄に根付いていたのです。
しかし、これはパレード用の獅子です。獅子舞ではないのです。
 一方小豆島には、いまでも伊勢大神楽の獅子舞一座がやってきます。ということは、小豆島での獅子舞を演じる舞場権を手放さなかったということになります。小豆島では、伊勢大神楽が舞場権を持っている限り、村の若者達が獅子舞を行う事はできなかったというのが私の仮説です。そのため小豆島の若者達のエネルギーは、農村歌舞伎に向けられ、祭りでは獅子ではなく太鼓台(ちょうさ)にエネルギーが注ぎ込まれるようになったのではないでしょうか。巡回する伊勢太神楽一座も瀬戸内海の島々は、古くからの自分たちのテリトリーであり、将来も有望な地域です。手放すことはなかったのでしょう。一方讃岐の農村部は、もとから伊勢太神楽のテリトリーに属していないところが多かったのではないでしょうか。そこでは、獅子舞はスムーズに移植されたのかもしれません。伊勢太神楽のやって来るところは、村の祭りで獅子舞は舞われないという仮説が成立するのかどうか、今後の課題です。話が横道に逸れましたので、元に戻します。


 もともと伊勢太神楽系の獅子舞は、神興渡御に供奉することはありませんでした。
車付きの屋台に獅子頭を載せて、村の各戸をまわって悪魔祓いの祈疇の舞を演じたり、神社境内などの要所で、祈蒔の舞や曲芸を見せるのがメインでした。しかし、これが村の若者組の手によって演じられるようになると、話は変わります。村の祭りの花形として、獅子は華々しく登場します。
 その際のプロデュース役を演じたのは、村に住む山伏や修験者たちだったかも知れません。時代の流行芸能なども取り込んで、より華やかなもの、より面白いものに変化・発展しはじめます。村々の独自性が求められるようになります。そして、讃岐にはいろいろな変化バージョンの獅子が登場するようになるのは以前にお話ししました。
獅子舞、勇壮に 伊勢大神楽を披露 丹波篠山・泉八幡神社 /兵庫 | 毎日新聞
 
  讃岐の獅子と大神楽系獅子舞との違いは?
 大神楽系獅子舞の特徴は、獅子頭(木製)を被り、内部の上下顎をつなぐ横棒を口でくわえたり、顎にあてがって、空いた両手で幣や鈴・剣などを手に持って舞うことです。この獅子は、二人立ち獅子舞で初めて「両手」を使うことができるようになった画期的な獅子舞です。ところが讃岐の獅子頭の特徴は、紙製で軽く内部に縦棒がついていて、演者の頭は入りません。つまり、大神楽系獅子舞とはちがう「進化」の道を辿ることになります。それが讃岐独自の獅子舞につながります。紙製で頭が軽いので、それだけ激しく動き回れます。
 つまり、当時全国的なメジャー獅子舞であった大神楽の影響を、讃岐獅子舞は受けていないと研究者は指摘します。そして、讃岐という狭い地域でガラパゴス状態で進化を遂げてきた「変種」ともいえる獅子舞のようです。四国香川の獅子舞は、全国的にも珍しい紙製獅子芋三流の獅子舞文化であるようです。 香川の獅子舞は、うどん屋の数だけあると云われますが、その数の多さだけでなく讃岐の独自性も誇るべきなのかもしれません
以上を振り返り要点を整理しておきます
①獅子は古代ペルシャで神獣とされ、シルクロードのキャラバン隊と共に唐代の中国になってきた。
②日本の獅子舞と中国の獅子舞は、同じルーツをもつ
③日本古代には伎楽や舞楽の中で「番犬」的な役割を演じてきた
④中世には獅子は、各祭礼のパレードに姿を見せるようになり、舞うようにもなる
⑤伊勢太神楽は、全国を巡業し獅子舞を演じるようになる
⑥経済的に豊かになった村々の若者組は、伊勢太神楽から獅子舞を学び、興行権を買い取り、独自の獅子舞を祭礼で行うようになる
⑦しかし、讃岐の獅子頭は紙製で頭が入らないので、伊勢太神楽とは違う形で進化してきた独自性を持つ
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」
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金毘羅さんの大祭は10月10日に行われるので、地元では「お十日(おとうか)さん」と呼ばれています。
大祭5
 現在の祭は、十月九日十日十一日のいわゆるお頭人(とうにん)さんとよんでいる祭礼行列です。これは十月十日の夜、本社から山を下って神事場すなわちお旅所まで神幸し、十一日の早朝からお旅所でかずかずの神事があり、十一日は山を上って再び本社まで帰るというスケジュールです。
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しかし、本社をスタートしてお旅所まで神幸し、そこで一日留まり、翌々日に本社に還幸するという今のスタイルは、神仏分離以後のもののようです。それ以前は、神事場もありませんから「旅所への神幸」という祭礼パレードも山上で行われていたのです。
その祭がどんなものであったか「金毘羅山名勝図会」の記述で見てみましょう。
「金毘羅山名勝図会」は19世紀前半に上下二巻が成立したものです。これを読むと大祭は次のふたつに分けて考える事が出来るようです
山麓の精進屋で何日にもわたる物忌と
その忌み龍りの後で、山上で行なわれる各種神事
そして、江戸時代に人々が最も楽しみにしたのが山麓から山上の本宮に到る頭人出仕の行列で、それが盛大なイヴェント委だったようです。当時の祭礼行列は下るのではなく、本宮に向けて登っていたのです
20170908131043
大祭行事に地元の人たちはどんな形で参加していたのでしょうか
 金毘羅大権現が鎮座する小松荘は苗田、榎井、四条、五条の四村からなります。この四村の中には石井、守屋、阿部、岡部、泉、本荘、田附の七軒の有力な家があって、その七軒の家を荘官とよんでいました。大頭人になるのはこの七軒の家の者に限っていました。中世の宮座にあたる家筋です。その家々が、年々順ぐりに大頭人を勤めることになっていたようです。
9月1日がくると大頭屋の家に「精進屋」と呼ぶ藁葺きの家を建てます。柱はほりたてで壁は藁しとみで、白布の幕が張られます。その家の心柱の根には、五穀の種が埋められます。
9月8日は潮川の神事です。
この日がくると瀬戸内海に面した多度津から持って来た樽に入れた潮と苅藻葉を神事場の石淵に置き、これを川上から流して頭人、頭屋などが潮垢離をします。この日から男女の頭人と、瓶取り婆は毎日三度ずつ垢離を取り、精進潔斎で精進屋で忌みごもりをするのです。
9月9日は大頭屋の家へ、別当はじめ諸役人が集まります。
青竹の先に葉が着づきのままご幣をつけて精進屋の五穀を埋めた柱のところへ結びつけて、その竹を棟より少し高く立てます。
9月10日はトマリソメと言って、この日から大頭屋の家の精進屋で頭人たりちが正式に泊ります。
10月1日は小神事です。
10月6日は「指合の神事」です。
来年の頭屋について打合せる神富が大頭屋の家の精進屋で行なわれます。この時に板付き餅といって、扇の形をした檜の板の上に餅をおき板でしめつけます。これはクツカタ餅ともよばれます。この餅は三日参り(ミツカマイリ)の時の別当や頭司、山百姓などの食べるものだといいます。
10月7日は小頭屋指合の神事です。
10月10日は、いよいよ頭人が山上に出仕する日です。
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頭人は烏帽子をかぶり白衣騎馬で武家の身なりで出かけます。先頭には甑取りの姥が緋のうちかけで馬に乗って行きます。アツタジョロウ又はヤハタグチと呼ばれるこの姥は月水のない老婆の役目です。乗馬の列もあって大名行列になぞらえた仮装パレードで麓から本社への坂や階段を登って行きます。この仮装行列が祭りの一番の見世物となります。
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頭人は金光院の客殿で饗応をうけ、本社へ参詣し、最後に三十番神社で奉幣をします。
10月11日は、観音堂で饗応の後、神輿をかつぎ出して観音堂のまわりを三度まわります。これが行堂めぐりです。ここには他社の祭礼に見るようなミタマウツシの神事もなく、神輿は「奥坊主」が担ぎます。
 神輿には頭人が供奉します
頭人は草鮭をはき、杖をついて諜(ゆかけ)を身につけます。このゆかけは、牛の皮をはぎとって七日の内に作ったもので臭気があるといいます。そして杵を四本かついで行きます。小頭人は花桶花寵を肩にかけて行きます。山百姓(五人百姓)は金毘羅大権現のお伴をしてやって来た家筋の者ですが、この人たちは錐やみそこしや杓子等を持って行列に参加します。そして神輿が観音堂を三巡りすると、神事は終わりとなります。
金毘羅山本山図1

 この神事が終わると、観音堂で祭事に用いた膳具のすべては縁側から下へ捨てます。
祭事に参加した者はもとより、すべての人々がこの夜は境内から出て行きます。一年中でこの夜だけは誰も神前からいなくなるのです。この日神事に使った箸は木の根や石の下などに埋めておく。また箸はその夜、ここから五里ばかり離れた阿波の箸倉山(現在三好郡池田町)へ守護神が運んで行くともいわれます。

金毘羅参詣名所圖會」に見る象頭山松尾寺金光院zozuzan

11日の祭事が終わると、山を下りて精進屋へ行き小豆飯を炊いて七十五膳供えます。
14日は三日参りの式です。これは頭屋渡しとも云われ、本年の頭屋から来年の頭屋へと頭屋の仕事を引き渡す儀式です。
16日は火被の神事で、はらい川で精進屋を火にかけて焼きます。
 以上が「金毘羅山名勝図会」に記録された金毘羅大祭式の記事です。
江戸末期の文化年間の金毘羅大権現の祭礼はこのようなものでした。これを読んでいると分からないことが増えていきます。それをひとつひとつ追いかけてみましょう。
DSC01214
大祭の1ヶ月以上前から大頭人を担当する家では、頭人の忌み寵りの神事が始まっています。
大頭屋は小松荘の苗田、榎井、四条、五条の荘官の中より選ばれていました。しかし、これらの村々には次のような古くからの氏神があって、いずれもその氏子です。
 苗田  石井八幡
 榎井  春日神社
 四条  各社入り組む
 五条  大井八幡
これらの社の氏子が大祭には金毘羅大権現の氏子として参加することになります。これは地元神社の氏子であり、金毘羅さんの氏子であるという二面性を持つことになります。現在でも琴平の祭りは「氏子祭り」と「大祭」は別日程で行われています。
それでは「氏神」と「金毘羅さん」では、成立はどちらが先なのでしょうか。
 これは、金毘羅大権現の大祭の方が後のようです。金比羅さんが朱印領となった江戸時代になってから、いつとはなく金毘羅大権現の氏子と言われ始めたようです。ここにも金毘羅大権現は古代に遡るものではなく、近世になって登場してきたものであることがうかがえます。
DSC01211
鞘橋(一の橋)を渡って山上に登る祭礼行列

次に、およそ二ヶ月にもおよぶ長い忌寵の祭です。
これは大頭屋の家に建てられる「精進屋」で行なわれます。
「精進屋」の心柱の下には五穀の種子を埋めるとありました。その年に穫れたもので、忌寵の神事の過程で五穀の種子の再生を願う古代以来の信仰から来ていると研究者は考えています。
 また、五穀の種子を埋めた柱に結わえつけた青竹を、棟より高くかかげて立てて、その尖端は青竹の葉をそのままにしておいて、ご幣を立てるとあります。これは「名勝図会」の説明によると「遠く見ゆるためなり、不浄を忌む故なり」と述べていまますが、やはり神の依代でしょう。ここからは精進屋が、頭人達の忌寵の場というだけでなく、神を招きおろすための神屋であったことがうかがえます。

DSC01362
元禄の祭礼屛風
 明治の神仏分離で大祭は大きく変化しました。例えば今は、神輿行列は本社から長い石段を下りて新しく造営された神事場へ下りてきて、一夜を過ごします。しかし、明治以前は、十月十日に大頭屋の家から行列を作って山上に登っていく行列でした。
DSC01332
 祭礼行列に参加する人たちが「仮装」して高松街道をやってくる様子

その行列の先頭にアツタジョロウとよぶ甑取りの姥が参加するのはどうしてでしょうか
 甑取りというのは神に供えるための神酒をかもす役目の女性です。それがもはや月水のない女であるということは、古代以来の忌を守っていることを示すものと研究者は指摘します。
DSC01329
木戸を祭礼行列の参加者が入って行くのを見守る参拝者達

三十番社について
 山上に登った頭人は本社へ参詣してから三十番神社へ詣でて奉幣すると記されますが、三十番神社については古くからこんな伝承が残っています。
 三十番神社はもともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやって来て、この地を十年間ばかり貸してくれと言った。そこで三十番神が承知をすると大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった
と云うのです。
 このような神様の「乗っ取り伝承」は、他の霊山などにもあり、金毘羅山だけのものではありません。ここでは三十番神がもともとの地主神であって、あとからやって来た客神が金毘羅大権現なのを物語る説話として受け止めておきましょう。なにしろ、この大祭自体が三十番社の祭礼を、金毘羅大権現が「乗っ取った祭礼」なのですから。
 本社と三十番神に奉幣するというのは、研究者の興味をかき立てる所のようです。
DSC01331
祭礼後の膳具は、どこへいくのか?
山上における祭は十日の観音堂における頭人の会食と、十一日の同じ献立による会食、それからのちの神輿の行堂巡りが主なものです。繰り返しますが、この時代はお堂のめぐりを廻るだけ終わっていたのです。行列は下には下りてきませんでした。
 諸式終わると膳具を全て観音堂の縁側より捨てるのです。これを研究者は「神霊との食い別れ」と考えているようです。そしてこの夜は、御山に誰も登山しないというのは、暗闇の状態を作りだし、この日を以って神事が終わりで、神霊はいずれかへ去って行こうとする、その神霊の姿を見てはならないという考えからくるものと研究者達は指摘します。
 翌日、観音堂の縁側より捨てられた膳具はなくなっています。神霊と共に、いずれかへ去って行てしまったというのです。どこへ去って行ったのか?

DSC01629
 ここに登場するのが阿波の箸蔵寺です。
この寺は
「祭礼に使われた箸は箸蔵寺に飛んでくる」
と言い出します。その所以は
「箸蔵山は空海が修行中に象頭山から帰ってきた金毘羅大権現に出会った山であること、この山が金毘羅大権現の奥の院であること、そのために空海が建立したのが箸蔵寺であること」
という箸蔵寺の由緒書きです。
金毘羅大権現 箸蔵寺2

私の興味があるのは、箸を運んだ(飛ばした?)のは誰かということです?
 祭りの後の真っ暗な金比羅のお山から箸倉山に飛び去って行く神霊の姿、そして膳具。なにか中世説話の「鉢飛ばし」の絵図を思い浮かべてしまいます。私は、ここに登場するのが天狗ではないかと考えています。中世末期の金毘羅のお山を支配したのは修験者たちです。箸蔵寺も近世には、阿波修験道のひとつの拠点になっていきます。そして、金毘羅さんの現在の奥社には、修験者の宥盛が神として祀られ、彼が行場とした断崖には天狗の面が掲げられています。箸倉寺の本堂には今も、烏天狗と子天狗が祀つられています。天狗=修験道=金毘羅神で、金比羅山と箸蔵山は結ばれていったようです。それは、多分に箸蔵寺の押しかけ女房的なアプローチではなかったかとは思いますが・・・
 天狗登場以前の形は十一日の深夜に神霊がはるかなる山に去って行くと考えていたのでしょう。いずれにしても十一日の夜は、この大祭のもっとも慎み深い日であったようです。


 
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金刀比羅宮の例祭は10月10日に行われるので地元では「十日(とうか)さん」と呼ばれています。神仏分離以前の金毘羅大権現時代の大祭は、お山の上で行われていた御頭人さんを中心とする祭礼行事でしたが、明治の神仏分離御によて一新されます。新たに麓に神事場が造成され、神幸(お下がり)とよばれる祭礼行列が金毘羅山から下りてくる姿になりました。この行列のひとつの呼び物が香川県内の各所から出仕された数多の奴振りの競演です。
 なぜ奴行列が、御神幸(お下がり)を先導するようになったのでしょうか?
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 私は小さい頃に、江戸の町火消しが金毘羅信仰に関わるようになって、灯籠などを寄進するようになった頃に行列に参加するようになったのがきっかけと近所の物知りおじさんに教えられた記憶があります。それ以来、そう信じてきたのですが近頃、どうも怪しく思うようになってきました。奴行列についての報告です。
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 奴行列は、大名行列をモチーフにした仮装行列が起源のようです。
  江戸時代の武士の従者(武家奉公人、奴さん)が挟箱・立傘・台笠・毛槍などを持って行列するものを奴行列といい、そのうち毛槍などを振り回したり投げ渡したりする所作を伴うと奴振りと分類されているようです
かつて民俗芸能の分野では、奴踊に分類されて説明されていたようですが、奴踊は素手で輪になって踊ります。それに対して奴振りは、特定の道具を持って所作をしながら移動するので、いまでは「行列風流」ととらえられているようです。
nihonbashiii111

民俗学は奴行列を、どう分類しているのでしょうか
 奴振りは、挟箱、毛槍、立傘、台笠の四つの道具を、奴がどれかひとつを持ちます。
挟箱とは衣類をいれるための箱で、一本の棹がついて片方の肩に乗せて運びます。行列の先頭にある場合は先箱、後ろにある場合は後箱(跡箱)などとも呼びます。
113463奴(やっこ)とは
毛槍は、長柄の槍の穂に、毛鞘をつけたもので、ヤクの毛の色によって白熊、赤熊、水鳥の羽の場合は白鳥毛、黒鳥毛、巨大な場合は大鳥毛などと呼びます。
shijimi-ur1

立傘は差しかける傘に袋を掛けたもの、台笠は頭に被る笠に長柄をとりつけ、袋を掛けたものです。
show傘回し

奴振りに焦点を絞って祭礼行列を区分すると次の3つに分けることができます。
①行事の列(神官や僧侶の供揃え
②警固の列(行事を警固する武将の供揃え
③出し物の列(行列風流・見世物・趣向としての奴振り)
まず①は、奴行列の本質は主人に対する供揃えです。
これは神官、僧侶の格式を高める装置にもなったものです。
例えば、野辺送りの葬列に奴振りがみられた時代がありました。祭りを賑やかす行列仕立てが、しめやかな葬列行列に加わるというのは、今の私たちから見るといかにも不釣合いに思えるかもしれません。しかし、葬列つまり導師の僧侶の格式を表す供揃えとして奴なのです。僧侶の供揃えに奴行列がつく事例は、近江の湖東地域の寺院に伝わる近世文書でも確認できます。そこでは、葬列の一部に御導師人足や寺人足と呼ばれる僧列があり、奴行列がみられます。また、大阪の神社では、祭礼の際に葬儀業者が中心になって奴振りがおこなわれてきました。大阪の葬儀業者は、もともと大名行列の人足方であったことが分かっています。日常から神社仏閣等に出入りし、祭礼の際に棒頭として采配を振るい、奴行列をはじめさまざまな人足を手配したのです。この棒頭は、大阪天満宮は駕友、御霊神社は熊田屋、難波神社は阿波弥、熊野神社は平久と決っていました。そのため大阪のキタとミナミでは、奴振りの所作が異なったといいます。
 大阪の葬列に登場する奴振りは、死者へのセレモニーと、清浄なる神事との間を自在に行き来する身体は、葬列を構成する僧列の供揃えであることと、大名行列の人足方という葬儀業者の出自とに裏打ちされた上に成り立っていたといえます。
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②は江戸時代に①の行列を警護する役として派遣された警護の武士の行列です。
今風に言うとパトカー、警察騎馬隊の随行ということになるのでしょうか。奈良の春日若宮おん祭や、諏訪大社の御札祭では、武士の行列を模した奴振り行列が仕立てられています。それが江戸の明暦頃には、仮装の風流として祭礼行列にも取り入れられます。その後、独特の所作が「流行」し、歌舞伎舞踊に影響を与え、大名行列でも重宝されるようになります。
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③は、奴振り行列の所作を人々に見せるために、出し物として行列に取り入れられたものです。
伊勢の津八幡祭礼では、江戸初期の明暦年間(1655~58)には「大名行列の真似」が行列風流として登場していましたが、今は絶えているようです。どうして途絶えたのでしょうか?「所作を伴わない仮装行列(奴行列)たったため、飽きられたのだ」と研究者は考えています。
20160503053813292毛槍
奴振りの所作が、いつどのように始まったのでしょう?
 オランダ通詞のケンペルの日記から、元禄四~五年(1691)には奴が腕を水平に伸ばしたりして歩いてたことが印象に残ったのを面白く書いています。また、明和八年(1771)には奴の槍投げが禁止されています。禁止されると云うことは、そういう行為が行われていたということですから十八世紀前半に徐々に、奴がいろいろな所作を行うようになってきたことが分かります。
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さぬき市男山神社の奴道具
香川県は全国最多の奴行列王国?
 奴行列は、近世に北海道から鹿児島県まで、ほぼ全国に分布しており、500以上が報告されています。その中でも、香川県が最も濃密に分布しており、80近くあるようです。香川県に次いで多いのは鳥取県29、北海道26、大分県24、熊本県32、愛媛県22、京都府20、石川県が20例ですから、香川県はダントツの一位で「奴行列密集県」とも言えそうです。その中でも高松市香川町の「ひょうげ祭り」や三豊市山本町の「菅生神社の奴行列」は、市の無形民俗文化財に指定されています。
 奴行列(奴振り)はいろいろな名前で呼ばれているようです。
香川県の場合は、大名行列、奴、奴道中、奴子行列、鳶奴、道中奴、傘まわし、挟箱、投げ奴、子供奴、挟箱、練物、投げ奴、おはこ、とりけ、白熊、鳥毛、大練り、ヤッシッシ、ひょうげ祭りなど、名前を聞いただけでは何か分からないものまであります。

「奴行列は大名行列の仮装行列」といいました。
それを裏付けるかのように
「高松藩から道具一式をいただいた」(坂出市王越町木沢の奴)
「もとは高松藩の鳶奴」(丸亀市郡家町神野神社の奴)
といった伝承をもつ奴がいくつもあります。
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坂出市大越の喜佐渡神社の鋏箱 高松松平藩から下賜されたと伝えられ「三つ葵」紋が入る
香川県の奴振りの特色は、毛槍が中心と言えるようです
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 毛槍は形状・素材によっていろいろな呼び方があり、混乱しそうです。そこでとりあえず、柄の先端部に動物の毛がついてふさふさしているものを毛槍、鳥の羽根を植付鳥槍仮名付けて分けておきましょう。
 まず引田の奴に代表されるような鳥毛槍のみのものは東かがわ市に多く見られます。他は諸道具の中のイッポン(一本道具)と呼ばれる巨大な粟の穂のようなものがあるぐらいで、他は毛槍ばかりです。毛槍・鳥毛槍は、槍の投げ渡しがポイントです。掛け声をかけながら数歩進んでは、投げ渡すします。奴の道具立てはこの他に、はさみ箱・ し槍・薙刀・台傘立傘などがあり、大きな奴になると貝吹きやぞうり、傘まわし、提灯持ちなどがつくところもあります。
 はさみ箱は単に奴といえばこれを指すところも多く、芸としては前後にゆすってカラカラと音をさせたり、受け渡しをする程度です。その中で三豊市山本町神田の立石奴はオハコ(お箱)といってはさみ箱がさまざまな芸をします。全部で十二の芸があるそうで、県下では他に見られないめづらしいものです。
槍や薙刀は行列の先頭で、道中の清めとするものとされます。
薙刀は行列に先立って曲振りをし、それから芸がはじまります。三木町などでは天狗が薙刀と拍子木を持っていて柝を打って先導役を務めるところもあります。
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まんのう町諏訪神社の念仏踊りの薙刀
槍には先端が蒲の穂のようになったものと、丸い球状のものがついたタマヤリ、それに六角や八角の台状のものがついた天目槍がある。
 いずれも出発に先立って場を清めますが、左右に数回振って出発するところもあれば、立って振り、しゃがんで振りとていねいに行う組もあり、さまざまです。
 傘まわしは傘振りともいい、たたんだ唐傘をバトンよろしくさまざまに操りながら行列を進む芸です。またぞうりは近年ほとんど見られなくなりましたが、両手に各々紙緒のぞうりを一足づつ持ち、芸をしながら進みます。
 高松市鬼無町山口に伝承されていた大奴では、トウニンサン(頭家の主)の前や神前で奉納する芸をトリマイといい、この時には傘とぞうりが中心だったようです。
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 丸亀市や善通寺市の一部では、お下がり前や御旅所で奴道具を円錐状に立てかけ、その周囲をまわりながら歌をうたうところがあります。飯山町東小川では甚句を歌い「ここらあたりで甚句はやめて 当世はやりの早口と切りかえよ」というと今までとは逆まわりになり、早口にかわります。甚句は七七七五調の短い文句、早口は長いものが多く、ちょっぴり艶ぽいものです。
 さぬき市寒川町神前の男山神社では奴は氏子各集落からその年に当った役を出していますが、この内、提灯持ちが当った地区は子どもが掛けあいで歌をうたい、その歌は毎年新しく創られたオリジナル新作です。
「奴振り用具」

 奴の奉納組織はお宮付きで、氏子地区が順番に出すという形式のものが多いようです。
東かがわ市あたりでは、獅子と同じように集落単位で奴を出すところもあるようです。またさぬき市の神前地区や造田地区では氏子各地区が奴を分けて奉納するという形式で、はさみ箱だけは決まった地区が奉納するという形式のようです。
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小豆島では奴のことをネリといいます。
 福田のネリは薙刀が中心で奉納されます。また池田のネリは奴行列の最後尾にその年に話題になったものなどを造って乗せたダシが出ます。池田のネリも歌いながら道中をしますがやはり艶笑的なものが多いようです。
さて、小豆島のヤッシッシです。
名前の響きだけでも面白いし、一度耳にしたら忘れません。ここでは毛槍を持って所作をしながら輪になって踊ります。奴振りと奴踊が融合版です。ヤッシッシは、赤揮に白足袋、頭に鉢巻きをした姿で、毛槍は柄が短く、いわば大名行列の奴振りパロディ版なのかもしれません。
「ここから江戸まで三百里、どうーしてーや、はだかで道中なるものか、どういうこっちゃな、やーし^-し」
「あねさんそこらにおらんすな、どうーしてーや、おいらの赤ふんすぐとれる、あぶないごっちゃな、やーしーし」
といった歌詞に合わせて踊りますが、なんとも面白い。
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ひょうげ祀り 
おどけるとか、滑稽という意味の「ひょうげる」を冠した高松市香川町のひょうげ祭りはパロディ版の最たるモノです。挟箱の棹部は青竹で箱部は金紙を貼ったもので、毛槍も青竹の先に、傘状の藁束を取り付けたものです。
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一応、毛槍の投げ渡しの所作はあります。ひょうげ祭は、奴振りだけでなく、神幸行列のすべての道具、衣装がパロディであり、庶民のユーモアと風刺とおおらかさを感じるユニークな祭礼行列です。これを始めた先祖に、最敬礼です。
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 ことしも各地の奴たちが登場する季節が近づいてきました。

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参考文献 香川・瀬戸内の風流 祭礼百態

   海岸線が高松藩から金毘羅さんに寄進された!    
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江戸時代の後半の文政八年(1825)の2月に、高松藩は金毘羅大権現へ宇足津の寄洲を寄付します。高松藩からの通知には、次のようにあります。
「此度、殿様御心願在らせられ候二付き、鵜足郡土器村川裾より阿野郡堺迄之内海辺砂州 金毘羅神領御供用二土地寄進遊ばさるべきべき旨仰せ出され候二付き、其の段金光院え申し渡し畝間、郡奉行所役人指しだし取調の上、際面札立て右土地引渡申すべく候」
殿様(松平頼恕)の心願によって海辺砂州が寄付され、金毘羅大権現の金光院に寄付されたという札が立てられたようです。寄州とは、河口や海岸などに、土砂が風波で吹き寄せられてできた州のことで、宇多津には大束川河口に広い寄州があったようです。
その範囲はどのくらいなのでしょうか?
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「年来実録」には次のように示されています。
南境は都て浪打ち際 東西長六百三拾三間、西境は土器村海手一開水門より弐拾間東にて北江五拾弐間除地見通し長三百八拾間、東境は川口番所裏西石垣より西江拾四間除地見通し長弐百九拾間、北境「東西見通し長五百八拾八間」
これによると南側は全て波打ち際での長さが約1,3㎞の海岸線です。北側は西は土器村の水門から東は川口番所裏の石垣まで約1,2㎞、両横の長さは約0・6㎞×0・76㎞のいびつな長方形で、相当に広い土地です。現在の宇多津駅から役場辺りまでのエリアになりそうです。その年の九月二七日には高松藩役人と金光院役人との間で引き渡しが行われ四方に杭打ちが行われました。
しかし、この土地は「鵜足津浦海辺、南境波打際・・」とあるように海浜です。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
宇多津湊 道場寺(郷照寺) 金毘羅名所参拝絵図より
そんな海岸を高松藩は、金毘羅さんにどうして寄進したのでしょうか?
文書には続けて次のようにあります。
「鵜足津御寄付土地、追々開き立て(開発)候て、百姓共住宅井びに土地支配の義共、鵜足津村役人にて取り扱わせ、川口出入り等の義ハ、時々村役人より申し越し候ハ切手等指し出し申さるべく」
「収納方の義は、開発の上追て申し達すべく候」と「開き立て」=「開発・埋立」して、百姓=住民達の住宅にして「川口出入」=「新港」構想があったようです。
 この時期の讃岐をめぐる状況を見て見ましょう。
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幕末の丸亀湊 福島と新堀の二つの湊が整備されている
お隣の丸亀藩では、延享元年(1744)に金毘羅参詣船が就航して以来、上方からの金比羅参詣客が増えます。それに対応して文化三年(1806)には福島湛甫を完成させ、参拝客の急増に対応し、丸亀が参詣の湊として急速に発展していく時期です。丸亀湊の賑わいを見て、高松藩にも金刀比羅参拝の拠点湊を開き観光振興策の一つにしようとしたのではないでしょうか。そこで白羽の矢が立ったのが宇多津。宇多津は高松藩内では、金毘羅に最も近い湊です。ここを参詣客の玄関口として発展させようとする計画が生まれたと考えても不自然ではありません。
 その際に、取られたのが開発方法は高松藩が直接に工事を進めるものではありませんでした。「海岸線」を金毘羅に寄進し、埋立から開発までを「民間資本」の活用で進めようとしたのです。こうして、この年九月二十七日に高松藩の役人と金毘羅の別当・金光院の双方の重役が立ち会い土地の引渡が行われます。そして「間数四方へくい木打ち廻り」が行われたのです。

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  ところが、この土地は思わぬ方向に動き始めます
稲毛家文書の文政八年二月廿日に、次のような記事が見えます。
「金毘羅神領御寄附二付き、郷中金毘羅信こふの者より材木明俵等寄進致し候由ニテ日々賑々敷」
鵜足郡内で金毘羅信仰の厚い者達が寄進された土地を埋め立てようと材木や土砂の入った空俵などを持ってきて賑わうようになったというのです。
 これに対して藩側は
「全ク寄進致し候 事口ゆへ指留め候儀二「及ばず」とし「若者共はて成る衣類位の品ハ見免しあまり増長致さざる様」
にと、若者らに対しては派手な衣類などにならないようにと指示しただけで、作業を黙認します。その結果、次第に
「若者共そめき上方に流行の砂持ち様の真似ヲ以て花美過ぎ候」
と、寛政元年(1789)に大坂で起こった砂持明神騒ぎの様相に似てきたのです。
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大坂で起きた砂持明神騒ぎとはなんでしょうか
 大坂の港や堀は上流からの土砂堆積で少しずつ埋まっていきます。そのため定期的に土砂などを浚える必用がありました。この作業を「砂持ち」と呼びました。
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 こうした大工事には、古代に古墳の石室の巨石や石棺の運搬や大坂城築城の巨石運搬と同じように修羅を大勢の人間が曳く作業が伴います。
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これは昔から土木作業という範囲を超えた祭礼行事の側面を持っていました。都市で修羅を曳くのは、お祭りなのです。近世の砂持ち作業も単なる土木作業に留まることはありませんでした。都市住民は、この機会に囃子屋台や仮装行列が繰り出し祭礼行事化していきます。
川や堀ざらえで取り除いた土砂はどうしたのでしょうか。
各町組の氏子らが川ざらえで出た多量の土砂は、最初は寺社の整地に使われていたようです。それが新開地の埋立に使われるようになり大規模化します。
下の絵は寛政元年(1789)5月下旬から大坂玉造稲荷で熱狂的な賑わいで行われた「砂持」の様子を描いたものです。
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この絵は、町単位でそろえられた纏と法被(はっぴ)が描かれています。砂持ちに参加した人々は、砂持ち大明神を担ぎ出し、町毎の幟を立て、太鼓や鉦を打ち鳴らして加勢します。ここからは、砂持ち大明神のパレードに町々が競い合った様子がうかがえます。
 川ざらえの土砂運搬である「砂持」は、しだいに祝祭的な要素を加えていきます。
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 「砂持」は、さらえた土砂を新開地や神社へ運ぶという作業を祭礼行事(パレード)に変えて行きました。人々は鳴り物入りで踊りながら熱狂してパレードした様子が伝わって来ます。さらに時代が進むと山車も登場しますし、「仮装」も行われ、祭礼空間が産みだされています。
 広島も太田川の河口にデルタ地帯の上に造られた城下町です。
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ここでも川底に堆積する土砂を除く川ざらえが欠かせません。絵図は幕末の文久2年(1862)に広島城下の町衆が砂持加勢の土ざらえの土砂を運搬する手伝いと称し、新しいお祭りを作り出します。この絵図は、城下の各町による仮装行列を描き出したもので、互いに趣向を競い合った「砂持ち風流」の様子が見て取れます。
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このような砂持ち大明神と埋立がリンクして役人から見れば「不穏な動き」が醸し出される要素があったのです。
 当時の宇多津の動きを「歴世年譜」は次のように記します。
「城下ノ者ハ土俵ヲ車輿牛馬二積ミ 各邑ノ旗幟ヲ建テ種々ノ紛議ヲ演ジ 鉦鼓管弦且ツ奏シ且ツ行キ往来織ルカ如夕日夜絶エズ」
各村々がのぼり旗を立て、仮装行列化し、鉦や太鼓で囃し立てる光景です。大坂で風流として流行していた風俗が宇多津にも現れていたことが分かります。高松藩の為政者には「統制できない不穏な動き」の前兆と写ったことでしょう。「まずい」というのが正直な反応だったと思います。以後、高松藩は厳しい申し渡しなどで規制を強めます。その結果、騒ぎは次第に収まっていったようです。しかし、民間の力による埋立開発=新港建設という計画は頓挫してしまいます。「歴世年譜」には
「後、藩政二窮乏ヨリシテ 埋立ノ議ハ亦止ミテ行ハレス」と記されています。
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嘉永五年(1852)に金光院は次のように再度の開発計画を高松藩に申請します
「先年源態様ヨリ御寄付二相成り候 宇足津村寄洲、此の度御一手ヲ以て御開発の義、先達て御書面ヲ以て御伺の趣」。
 これに対して高松藩の回答は以下のようなものでした。
(前略)右場所先年御寄付相成り候義二付き、今度御開発成され度き段は、御尤もの義二これ在り候処、天保十三寅年異国舟渡来の節、海岸防禦の義二付き、公辺より格段厳重の仰せ出されこれ在り。国々海岸の絵図取り調べ、井びに浅深も相量り、船付きの場所より城下陣屋迄の里数、或は兼ねて人数指し出し置き候台場遠見番所の類迄も、認メ加へ指し出し候様二と御指図これ在り。則ち巨細の絵図面出来、公辺え御届け相成る。
 右二付き此の御領分東西御人数、御備台場等の義迄御届け二相成り、右寄洲の場所は御領分境の義、別して厳重の御備場所二相成り居り候間、当時二おゐてハ、同所御開発の義は、兎角御挨拶及び難き義二御座候。先ず暫く御見合わせ相成り候様致し度く御座候。」
意訳すると「天保13(1842)年の異国船渡来により幕府は、海岸防御のため各地の沿岸の実情調査し絵図作成を命じた。高松藩もこれに応じて詳細な数字を書き込んだ絵図をすでに提出している。また宇足津寄洲は丸亀藩との境にあって重要な場所となっている。このような状況下においては開発を許可することはできない」との回答です。

 こうして高松藩の「民間活力の導入」という宇多津新港の建設は「砂持ち大明神」さわぎと異国船到来という事態中で立ち消えとなったのです。
小藩ながら新湊建設を成し遂げたのが幕末の多度津藩です。
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幕末に完成した多度津湊
この結果、多度津湊には幕末から明治にかけて金毘羅参拝客が急増します。
同時に新港に出入りする船舶も急速に増加し、明治には讃岐第1の港湾施設に成長していきます。そこで資本蓄積を行った地元資本は多度津七福神と呼ばれ、景山家の下に結集し新たな投資先を求めて行くようになります。それが多度津の近代へ脱皮・成長へとつながります。そういう意味では、新港計画が挫折した宇多津と成功させた多度津のターニングポイントはこの辺りにあったのかも知れません。
参考文献 丸尾寛 宇多津への金比羅神領寄進の影響について 







         

   今では、太鼓台と聞くと蒲団型や屋根型のものだけを思い浮かべがちです。でも、太鼓台が現れた時には、櫓型・四本柱型・平天井型などの多様な太鼓台があったようです。そのような中で、大坂の難波神社の祭礼に布団太鼓台が現れ、19世紀初頭には大型化して行きました。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
         19世紀初頭 難波神社の布団太鼓
それが瀬戸内海の交易を通じて津々浦々の港町の祭礼記録に布団太鼓台が登場するのは、早くて18世紀前半、讃岐から東伊予では、18世紀後半になるようです。そこでは「神輿太鼓」と書かれていることが多く、担ぐ祭礼奉納物として神輿に御供していたようです。
 瀬戸内海で、初めて「太鼓台」と表記した一番も古い記録は天保5年(1834)のもので、これは姫路市の屋台(神輿屋根型太鼓台)の大工図面に書かれています。
 三豊の近隣地方での太鼓台関連の記録で古い物を並べて見ると、次のようになります
「神輿太鼓」寛政元年  (1789)伊予三島、
「ちょうさ太鼓」寛政元年(1789)大野原、
「神輿太鼓」文化3年   (1806)川之江、
「太鼓」文化5年     (1808)伊吹島、
「ちょうさ太鼓」文化6年 (1809)観音寺、
「輿太鼓」文化10年   (1813)琴平、
  これらは「太鼓」とは記されていますが「太鼓台」とは書かれていません
香川県下に太鼓台は、どれくらいあるの?
 いま、讃岐の太鼓台は、約350台ほどだと云われています。
地域別では西讃(観音寺・三豊)が最も多く155台、
中讃(坂出・丸亀・善通寺・宇多津・多度津・琴平・まんのう)の101台、
東讃(高松・さぬき・東かがわ)の42台、
小豆島と直島地区で52台で、
讃岐の西部が太鼓台密度が高いようです。
中・西讃及び小豆島では、大型で豪華な形態が多く、
東讃や島嶼部では、比較的簡素な太鼓台
があるというのも特徴のようです。香川県は人口や面積の上では規模は小さいが、こと太鼓台に関しては、大変盛んな土地柄のようです。
太鼓台はどのようにして讃岐にやってきたのでしょうか?
 太鼓は当初は大坂などに、直接注文したようで、その記録が伊吹島(観音寺市)に残っています。その太鼓台新調の記録を見てみましょう。燧灘に浮かぶ伊吹島は、財力のある網元や廻船の船主が多くいる豊かな島でした。そこには多くの水主や網子たちが集まり賑わいを見せていたのです。そして、これも大坂との海のルートの結びつきを通じて、大坂難波神社の太鼓台が「勧進」されたようです。
 伊吹島には上・中・下の3つの組がありますが、それぞれの組にのこる「太鼓寄(記)録帳からは、新たな太鼓台の発注についての記事が残っています。
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たとえば、 文化5年(1808)の上若(上ノ町)の「太鼓寄録帳」には文化6年(1809)に
「太鼓新に拵る者也」
とります。ここからは初めて作ったのか、以前からあったものを作り替えたのかは分かりません。この時は、伊予の大嶋(新居大島)の大工に製作させたことが記されています。
 また、約50年後の安政4年(1857)にも
「太鼓新二拵替二付諸入用」
とあります。この時には、大坂や京に本体から布団、太鼓、金具、幕まで一揃えを発注し、地元の船で取りに行っているのです。伊吹島が漁業のみならず廻船などの交易においても、大坂と海でストレートに結びついていたことをうかがわせるエピソードです。
 また、中組(中之町)は天保4年(1833)から記録が始まっています。その年に大坂で太鼓台を新調しています。そして12年後の弘化2年(1845)には、太鼓台を入れる蔵を新築しています。太鼓蔵には文政6年(1823)銘の「太鼓水引箱」があるので、この時は作り替えの記録のようです。
そして伊吹島の下組の記録です。
ここには安政3年(1856)の太鼓台の新造に関する見取図と見積書が残っています。
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見積先は大坂の呉服太物商平井小橋屋(おばしや)です。
  幕末の伊吹島の八幡神社の祭礼には3つの組から布団太鼓台が担ぎ出されて賑わいを見せていたようです。そして、ある組が大坂に新調すると他の組も競い合うように、新たな太鼓台を発注しています。そして、その発注先は大坂なのです。難波神社に奉納されていた太鼓台と同じスタイルの物が見取図が、制作元から送られています。そして、制作元は以前に発注した組のものよりもより、大きく豪華な太鼓台を提案し、依頼側の要望に応えようとしたはずです。
荘内半島の箱浦の惣社宮に、奉納されていた太鼓台です。
 
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この太鼓台は本体・装飾の刺繍幕・保管箱などの全ての制作年代が分かっている貴重なものです。
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太鼓台本体と初代蒲団は明治8年(1875)、
掛蒲団が明治14年(1881)、
水引幕が明治29年(1896)、
二代目蒲団が明治41年(1908)です。
これらを見ると、明治時代を通じて箱浦の人たちが太鼓台の懸装品を整えらていったことがわかります。
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また、この太鼓台がつくられた時代は、西讃や東予の太鼓台が巨大・豪華へ発展した時代にあたります。その過程をうかがえる貴重な存在と研究者は指摘しています。そいう意味ではこの太鼓は「明治期の基準太鼓台」と言うべき遺産のようです。
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この地区では三豊では珍しく「ちょうさ」と呼ばずに屋台とよんできました。この太鼓台が箱浦に姿を見せたのは、明治維新後で、もう150年ほど前のことになります。
 明治中期になると、三豊の太鼓台は、競うように巨大化し華美に突き進んでいきました。その流れの到達点に現在の太鼓台はあるのかも知れません。そのような中で明治初めの太鼓台がこうして残っていると云うことはありがたいことです。百年前の古い太鼓台の装飾品などが残っているというのは希有なことです。
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この太鼓台は、制作年代が判明している装飾品がたくさんあります。
特に「刺繍太鼓台」が特徴である北四国で、時代確証のある古い刺繍作品をまとう箱浦屋台は資料的価値が高いと研究者は云います。
 幕末から明治初期に架けて、備讃瀬戸の沖を行く大型廻船の望める荘内半島の先端近くで登場した箱浦の太鼓台。この太鼓台がまとう太鼓台・古刺繍は、今は見えなくなってしまった瀬戸内海をめぐる各地域の太鼓台のつながりやの関連性を無言で語りかけているのかも知れません。
 特に掛蒲団4枚「泗呑歌子・源頼光一渡辺綱・坂川金時」は印象的な図柄で、大江山の鬼退治で構成されている。箱地区ではちょうさてはなく、屋台と呼んでいた また、屋台の太鼓をたたく子どもたちは獅子舞の太鼓打ちも兼ねていて、唐子風の衣装を着ていたそうです。

箱浦の太鼓台から20年後の明治中期から後期につくられた太鼓も保存されています
 三豊市山本町の河内神社に奉納された太鼓台です。
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用具を入れた長持ちや箱には「明治26年|】久保上組」「明治35年東雲」などの銘があります。これは、愛媛県四国中央市(旧伊予三島市)の東雲の地名です。他に「明治四十四 新細工」「昭和4稔 大喜多本家寄贈」などの銘を持つ長持ちなどもあります。明治44年(1911)に、香川県一の大地主と言われた地元の大喜多本家が伊予三島の久保上組より購入し、河内上組に寄付されたと伝えられています。

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本体には豪華な彫刻が彫られていて、水引幕は志度の海女の玉取図、掛蒲団は虎図です。
太鼓台の大型化が一歩進んで展開した東伊予で、新たな太鼓台の新調の際に、古い物を売却したのでしょう。 そして、河内に迎えられて新たな地で奉納されることになった例です。

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 このように、太鼓台の新調と中古品の売買等が各区で行われるようになったのも近代の特徴です。それが太鼓台文化圏の広がりにつながったとも言えます。
       太鼓台(ちょうさ)年表
宝暦8(1758)  姫路市松原八幡神社 神輿太鼓3台の記録。太鼓台最古の記録
寛政元(1789) 「神輿太皷」として1台が奉納。旧・伊予三島市(四国中央市)
寛政元(1789) ちょうさ太鼓/旧・大野原町(観音寺市) ★大野原八幡神社(1802)の記録の中にあり。
寛政6(1794) 神輿太鼓/呉市豊浜町斎島 ★島で初めての神幸を記録した板碑の裏面に記録あり。
寛政10(1798) ふとん太鼓/大坂・難波神社  『摂津名所図会』(秋里籬島・竹原春朝斎)★太鼓台は「先進地・大坂」の蒲団型。この時代の最も豪華な部類の太鼓台
文化2(1805) 太鼓/観音寺市伊吹島下組  ★蒲団枠保管箱が蒲団枠と共に現存
文化3(1806) 神輿太鼓/旧・川之江市(四国中央市) 「祭礼行烈次第」に、神輿太鼓が5台記録
文化5(1808) 「太皷寄録帳」太鼓/伊吹島上組  ★文化6年(1809)に太鼓台を新調
文化6(1809)  ちょうさ太鼓/観音寺市 庄屋関連古文書  
文化9(1812) 小豆島町・亀山八幡宮奉納絵馬 ★薄く平らな三畳蒲団の太鼓台が5台
文化10(1813) 輿太鼓(ちょうさ)/琴平町 ★大井祭礼に奉納
文政3(1820) 櫓/旧・豊町沖友(呉市) ★水引箱箱に「三井納」(大坂・三井呉服店)の記載
文政5(1822)  太鼓/新居浜市  ★「船大工仲間永代迄の諸覚帳」新居浜太鼓台の初見
文政6(1823)  太鼓/伊吹島中組 太皷水引箱  ★水引幕を保管する道具箱
文政6(1823)  ちょうさ/観音寺市  ★雲板箱タテ・ヨコ107×40㌢、深さ3~40㎝
文政8(1825)  四つ太鼓/旧・保内町雨井  ★明石から積み下ってきた鉢巻蒲団型の太鼓台
文政8(1825) 千載楽/倉敷市下津井松島 太鼓の胴内記録 ★小型の千載楽が現存
文政8(1825) みこし太鼓/西条市  一宮神社文書 ★素人大工の拵えたみこし太鼓が登場
文政10(1827)  神輿太鼓/新居浜市  ★一宮神社文書祭礼行列の華美を諌めている。
文政10(1827)  ★シーボルト編纂『日本』全1㌻に、太鼓台(コッコデショ)のイラストあり。
文政年間(1818-30) 屋台/たつの市 阿宗神社奉納絵 ★馬播州では珍しい五畳蒲団の太鼓台
天保元頃(1830頃) 松原八幡宮絵巻 屋台/姫路市 
天保4(1833)   「太皷入用帳」 /新居浜市 ★新居大島・中之町太鼓台記録
天保4(1833) 太鼓台/伊吹島・南部 ★「太皷帳」新調時の記録
天保5(1834)  大工資料  ★「太皷台」表記の初見粕谷宗関氏著『故郷に神の華あり』(2005刊)
天保6(1835)  ちょうさ/三好市池田町馬路 ★衣裳水引・天蒲団 入箱讃岐(大野原)と阿波の太鼓台交流がうかがえる。
天保6頃(1835頃) みこし/西条市・伊曾乃神社 ★祭礼絵巻(2巻)に詳細画像…
天保9(1839)  どんでん/岡山市牛窓本町  
天保13(1842)  櫓/旧・豊町沖友(呉市) 奉納絵馬  ★平天井型の太鼓台
天保期(1830-44) ふとん太鼓/堺市・開口神社  ★豪華な祭礼行列の最後尾に、小さな蒲団型の太鼓台が2台
弘化元(1844)  ちょうさ/旧・山本町(三豊市) 「割帳」  ★西側太鼓台新調時の記録文書
嘉永5(1853)  櫓太鼓/今治市・大浜八幡 奉納絵馬 ★平天井型太鼓台
安政元(1854)~明治12(1879)頃 高価な装飾刺繍の貸し借りが、祭礼日の異なる地区間で盛んに行なわれていた。★大野原・下木屋太鼓台の古記録に、「損料」として毎年のように記載されている。(かきふとん・蒲団・金縄等)
安政3(1856)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「覚」  ★太鼓台新調の見積書と粗(あら)図面
安政4(1857)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「積り書覚」  ★前年に続く追加購入
安政5(1858) ちょうさ/三好市山城町大月 古刺繍 ★蒲団押さえ四隅の瑞雲形刺繍の裏に、墨書
安政5(1858)  ちょうさ/旧・大野原町田野々 道具箱 ★「関谷」と書いた道具箱が数点伝承
慶応3(1867)  櫓太鼓/今治市波止浜 龍神社祭礼絵馬  ★舁棒のない三畳蒲団の太鼓台
明治4(1871)  太鼓/まんのう町木ノ崎 掛蒲団保管箱 ★刺繍図柄は曾我物語「和田酒盛」
明治8(1875)  箱浦屋台/旧・詫間町箱(三豊市) 平桁保管箱

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参考文献 香川県立ミュージアム   祭礼百態

   中世の祭礼行列では 神輿を先導するのが太鼓の役目
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奈良の転害会は、宇佐八幡神が東大寺に勧進された神迎えの様子を再現した祭礼です。今では明治の神仏分離で、行列はなくなり祭式のみが転害門で行われています。東大寺の鎮守神手向山八幡宮には、この絵巻が伝わっています。そして嬉しいことにデータベースで祭礼の巻物を見ることが出来ます。奈良女子大学学術情報センターhttp://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y12/y12/ 
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これを見ると、和楽を奏でる楽人たちに続いて楽太鼓が進みますが、大きいためでしょうか輿に乗せられています。そして、そのすぐ後に神輿が続きます。
images「転害会図絵」
ここでは太鼓は神輿の先導役です。太鼓台の歴史が古い天神祭の催太鼓(もよおしだいこ)、生國魂神社の枕太鼓、杭全(くまた)神社の太鼓台などは、今でも神輿の先導役です。そして太鼓を担う人物の社会的地位は、他の練物よりも高いとされます。また、催太鼓の「催」には「お知らせ」の意味があり、生國魂神社の枕太鼓は、かつては「報知太鼓」と呼ばれていました。祭礼行列における太鼓の役割は「神輿の触太鼓」だったようです。
  太鼓台のルーツは神輿の到来を告げる触太鼓。
3888-荷太鼓
祭礼行列に太鼓が登場したときには、木枠に吊しただけの荷太鼓だったのかもしれません。太鼓が大型化する中で、輿に乗るようにそして、単純な枠式太鼓台が登場するようになります。
「神輿の到来を告げる」の時代の太鼓の叩き方はどうだったのでしょうか。
中世の流れをひく太鼓台の太鼓は、遠音がさすように一音一音が丁寧に打ち込まれます。江戸時代も同じような打ち方がなされていたようです。前回紹介した大田南畝(蜀山人)の日記『芦の若葉』には、享和元年(1801)の天神祭の催太鼓の「音」が記録されています。そこには「まどをに(間遠に)」とあり、一音一音の間隔をあけて打たれていたことが分かります。祭礼行列における初期の太鼓台の役割は、人々を囃し立てるのではなく、人々にカミの到来を知らせるために音を遠くに伝えることだったと研究者は考えているようです。
   太鼓をたたく乗子(のりこ)の装束と作法を見て見ましょう。
太鼓を打つ乗子の多くは子供です。
「化粧を施し投頭巾をかぶって艶やかな装束をまとう」
「地面に足をつけずに大人に肩車されて移動する」
といった多くの太鼓台に共通する「ルール」は、山車の囃子方というよりも、神事に向かう神役のようです。乗子は、他の祭礼と同じく無邪気な子供でなければなりませんでした。化粧・装束による「変身」は、カミに仕えるため、あるいは神聖な祭具に触れる資格を得るためなのかもしれません。太鼓台に上がるためには神聖さを求められたのです。
emaki_heian5a草岡神社 Personal Page

生国魂祭の祭礼行列の「報知太鼓」です。
08071106枕太鼓
触れ太鼓ですからパレードの先頭を行きます。その際に、前後左右に太鼓台が揺さぶられる中、願人(がんじ)と呼ばれる若衆が激しく太鼓を打ち鳴らします。願人の背もたれが大きな枕に似ているところ枕太鼓と呼ばれています。
太鼓を叩くことには、邪気を払う意味があります。願人の装いは「晴着」と呼ばれ、赤い頭巾をかぶり、瓢箪模様の法被を着ています。

研究者は太鼓台の進化を、右図のように考えています。
 
file太鼓台のルーツは神輿の触太鼓
       荷太鼓 → 枠付太鼓台 →布団太鼓台
生国魂祭の太鼓台は布団太鼓台になぜ進化しなかったのでしょうか?
太鼓台はもともとは神社に一台が基本でした。ところが神社付きの太鼓台に加えて、各組から寄進された太鼓台が増えるに従って、神輿の先導という役割を離れて、地車のように複数台が現れる祭りも多くなっていきました。
 そういう意味では生国魂神社系の祭りは太鼓台は一台だけですから、華美豪華さを競う会うこともなく形態はシンプルなままです。そして「進化」の方向は、担ぎ方や荒ぶれ方などの所作に向かいます。
一方、難波神社は、各組からの太鼓台の寄進を許したのです。
その結果、難波神社の太鼓台は何台もの太鼓台が祭礼に参加し、華美豪華と巨大化という「進化」の道をたどることになったのではないでしょうか。そして、18世紀末には巨大な布団太鼓台が姿を現すのです。
こうして18世紀半ばには、枠式太鼓台に布団以外にも、櫓や屋根等のいろいろなものが上に乗ることになります。そして時間と供に、太鼓台は各神社・地域毎に多様化していったのです。
前回紹介した18世紀末に大坂難波神社の大祭に奉納された布団太鼓台の拡大部です。これが瀬戸内海の各地にどのように伝播し、その姿を見せているのか見て見ましょう。
太鼓打ちの乗子の所作
  下図はペリー来航直前に今治市の大浜八幡神社に奉納された絵馬に描かれた太鼓台です
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    難波神社のものから50年後になります。枠付太鼓台から布団太鼓台への「進化途上」にありそうな絵です。柱は細く、布団も重ねてはないように見えます。しかし、打ち手は4人です。描き手は裸ではありません。揃えた装束と黒い足袋がきれいです。
瀬戸内海を抜けて長崎のものを見て見ましょう。
2長崎くんち・樺島町コツコデショ (文政10年1827頃 シーボル 
シーボルト編纂した絵図には 、文政10年(1827)頃に長崎くんちに登場した布団太鼓台が描かれています。布団は赤と黒の2重ですが、側面の布団には白い牡丹の刺繍が見えます。また担ぎ手が半裸ではなく装束が統一されているのが国際都市長崎らしいところでしょうか。しかし、足は裸足のようです。担ぎ棒は、四方に伸びて大人数で架けると供に、狭い路地に入って行くことはなかったようです。
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  大坂から瀬戸内海に展開した布団太鼓台。
a9b3b5fb太鼓伝播図
幕末から明治時代初期の太鼓台の大きさは、いまのように大きなものではなかったようです、飾り幕は薄めで天幕も現在のような膨らみを持っていませんでした。
 ところが、ある場所で巨大・豪華化が始まるのです。それは、住友家の手で進められた別子銅山の近代化の波が富をもたらした新居浜でした。産業が発展し、地域が潤うにつれて太鼓台を所有する各地域の対抗意識も高まります。そして太鼓台は明治中期以降から急速に大型化するようになるのです。同時に飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、艶やかになり天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。
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 しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも大型化するということは、その建設費用や太鼓台を担ぐためのかき夫の数が多く必要になるということです。別子銅山からもたらされる富と、そこに集まる人々は、その壁を「財力」と「腕力」で越えていったのです。
 今では、長い担ぎ棒に150人もの男衆がついて、巨大な布団太鼓台は差し上げられています。
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参考文献 観音寺太鼓台研究グループ 太鼓台文化の歴史










        讃岐のちょうさ(布団太鼓台)は、いつどこからやってきたのでしょうか。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
それに応えてくれるのが摂津名所図会の中にあるこの絵です。この「図会」が刊行されたのは寛政10年(1798)ですから、今から二百年余り前の太鼓台が描かれています。太鼓台が現れているのは御堂筋に面する現在の難波神社の祭礼です。大坂のど真ん中に当たります。多くの男達に担がれた太鼓が左から右へと移動して行きます。確かに布団をのせた私たちが見慣れた太鼓台です。
左下隅は階段になっています。階段の先では担手の男達が顔洗いにやってきています。つまり、これは雁木(がんぎ)のようです。先ほど云いましたように難波神社さんの近くですから、西横堀川か、長堀川か、そのあたりの浜(川岸)を移動しているようです。手前の欄干は、川に架かる橋でしょうか。ここからも太鼓台を眺める人たちがいます。しかし、天秤棒を背負って足早に橋を渡っていく姿も書き込まれています
 前を行く大きなふたつの提灯には「太鼓]の文字がみえます。その左手隣には赤い大きな笠の下に女性と子どもがいます。これはどんなシーンなのでしょうか?
 今まで太鼓を叩いていた子ども達に、お母さんやおばさんが笠を差し掛け「ようやった、ようやった」という感じで、子供を褒めたり世話しているのではないでしょうか。 
太鼓打ちの乗子の所作
 
太鼓台の中を拡大してみると、子供が4人で四方から太鼓をたたいています。向こう側の2人は鉢を振り下ろし、手前の2人は鉢を掲げています。これは早打ちではなくどーんどーんとゆっくりと刻むように太鼓を打っているように見えます。背中を向けた子供は投げ頭巾をかぶっています。この投げ頭巾は白色のようです。
 積み上げられて布団を見て見ると模様があるようにも思えます。「雨龍の刺繍」が入っていると指摘する研究者もいます。
 蒲団太鼓を舁いている人たちは、ふんどしに足袋姿で、ほぼ半裸です。よくみると刺青の入った人が何人かいるようです。 絵図史料からは、大坂の布団太鼓台についてのいろいろなことが読み取れます。
ところが、このの祭礼行事を見ていた同時代人が書き残した日記があるのです。
その人物とは大田蜀山人、あの狂歌で有名な人です。
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彼は江戸のお役人で、享和元年(1801)3月から翌年の3月までの1年間を大坂銅座御用で勤めます。53歳ぐらいの時のことだったようです。南本町5丁目の宿舎から今橋の銅座へ出勤しますが、お勤めは朝8時から午後2時まです。その後はフリーなので、大阪中を見物して歩きまわっています。そして『蘆の若葉』という日記を残します。これは当時の大坂の様子がよくわかって研究者には有り難い史料のようです。その中に船場の三神社である御霊神社、坐摩神社、難波神社の夏祭りの見物記があります。
大田蜀山人が残したの難波神社の祭礼見物記の見てみましょう。
6月21日 晴 晩雨又晴 仁徳天皇稲荷明神(難波神社)の祭なりとて、
人家の軒に菊桐の紋つけたる桃灯をかかぐ。祭わたるべき大路は、埒をゆひてみだりに人を通さず。家々の前にも手すりをまうく。博労町のほとり見にまかりしに、所謂だんじりのごときものに似て、檜皮ぶきなる上に、錦の茵五ツばかり重ねしきて、下には童部ども筒長き頭巾きて、中に大きなる太鼓をすへ、めぐりよりこれをうつ音かしがまし。きほひ、いさめる若きものども二三十人ばかり、此車をひかんとて、先にたちて、てうさや、ようさやと口々によぶ。そのあとより、れいの俄といふものあまた来たりしかど、ここの心をわかたねばかひなし。ややありて太鼓の音聞こゆるに、かの猿田彦の神馬に乗りてわたる。(後略)
意訳すると
  6月21日に 難波神社の祭り見物に出かけた。人家の軒に菊桐の紋が入った提灯が下がっている。神が渡る大路は、人は入ることはできない。家々にも手すりが置かれている。神社周辺の博労町の運河のほとりを見に行ったが、だんじりに似ているが、檜皮ぶきの上に錦の座布団が5つほど重ねられて、その下では童が筒の長い帽子をかぶって、中に大きな太鼓をすへ、周りからこれを打つ音が大きく響く。
気負い立ち、勇み立つ若者が2,30人ほどこの車を曳こうと、先に立って「ちょうさ ようさ」と口々に叫ぶ。その後から「俄」と呼ばれる者達がやってきた・・・・ 
以上から分かったり、疑問におもえることを箇条書きすると
① だんじりとはちがう、布団太鼓台が出ていたこと
②筒の長い帽子をかぶった童子がと大きな太鼓を周りから叩いていたこと
③若者達のかけ声が「てうさや ようさ」であったこと
④「車をひかんとて・・」は、太鼓台を担いでいたのではなく、曳いていたのか?
この中で③のかけ声は、私には「ちょうさや よらさ」に聞こえます。讃岐の西部では布団太鼓のことを「ちょうさ」とよびますが、これに通じるのではないかと思っています。
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さてもういちど絵図に返りましょう。
向こう側の商家では、幕を張り、提灯を吊し、屏風を立てています。そしていろいろなものが担手に振舞われています。なにが、振舞われているのでしょか
①奥の緑内では家の奥さんらしき人と担ぎ手が、お茶を飲みながら談笑しています。
②店の前や中から「どうぞこちらで休んでくだされ」と言わんばかりに手招きをしている人が何人もいます。
③ 店の前に出された縁側では、スイカを食べている担ぎ手がいます。
④その奥から、旦那さんとその仲間たちが豪華な部屋で見物しています。そこに親しげに話しかける笑顔のひき手と笑顔で返す旦那さん。身分を超える一面が、この時代から祭にはあったのかも知れません。
「川で顔を洗う人、太鼓打ちの少年の交代、スイカが準備されたお店」などから考えると、ここは太鼓台の休息場所のようです。そしてそれは、運河に面した大店の家と云うことになりそうです。
d0508b5f大坂にも車楽(だんじり)があった/摂津名所図会
最後に絵図の右上からの文字史料を見ておくことにしましょう。
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。
注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
と記されています。
 まず、太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが記されます。続いて、中国の周礼には太鼓が雷声の発するを表していると云います。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るというのです。当時の人に布団太鼓が迫力ある夏の催し物として好まれた様子が伺えます。
18世紀末の大坂で布団太鼓台が登場しているのは分かりました。
そして、それがどのように運営されていたのかもかすかに見えてきました。
次は、どのようにして瀬戸内海の港に伝播拡大していったかを探りたいと思います。
a9b3b5fb太鼓伝播図

参考文献  近江晴子 大坂三郷の氏神さんと夏祭り

   前回は高松市の石清尾八幡神社の祭礼行列を見てきました。
そこには、庶民が関わるにつれて、より賑やかになる祭礼の歩みが見られました。今回は、高松という瀬戸内海の城下町で行われるようになった祭礼行列が、いつ、どこからやって来たのかを探ってみることにします。            
  柳田国男は、「祭り」と「祭礼」を区別しています。
彼は神を迎え、祭り、神人共食(神への供え物をおろして人々も食べる)して、神を送る行事を「祭り」ととらえます。「祭り」は密室空間で特定の人たちだけが「神事」に関わり、時間帯もほとんどが夜に行われました。近世になって、そこに見物人が登場することで、神々だけでなく見物人を喜ばせる趣向である「風流」が広まり、見物人を意識した「祭礼」が昼間に行われるようになったと言います。
 今、私たちが見ることのできる太鼓台やお船、だんじり、獅子舞、奴などの「祭礼風流」は、見物人の目を意識しながら、工夫と趣向を凝らし変化させてきた結果ともいえるようです。
ところで香川・瀬戸内地域の祭礼」に影響を与えたのはどこの祭りなのでしょうか?
  それは
①京都の祇園祭 
②大阪の天神祭 
③宮島の管絃祭
三つの要素が強いと研究者は指摘します。
確かに、祇園祭に見られる山鉾は、山口祇園(山口県)や尾道久保祇園(広島県)、堺の開口神社八朔祭(大阪府)などに「移植」され、そこに根を下ろして行きます。
直島(香川県)の太鼓は、明治時代の初め頃に天神祭をならって始めたと伝えられます。また、瀬戸内各地に見られる船渡御の祭礼は、天神祭や厳島の管絃祭などの影響があるようです。
00016397祇園祭礼図屏風
    祇園祭礼図屏風に描かれた山車   江戸時代前期  

 祭礼風流は瀬戸内へ、どのように伝わったのか?
 平安時代中期、京都では疫病を鎮めるために御霊会が行われるようになります。やがてこの御霊会が祇園社に定着して、京都に最初の都市祭礼・祇園御霊会が生まれます。そして、目の肥えたみやこびとの目を意識したさまざまな芸能と混じり合い、趣向を凝らした風流が行われていきます。この祇園御霊会が祇園祭へと展開します。この屏風は、前祭の山鉾巡行を描いたものですが全部で23基の山鉾が描かれています。
祇園祭礼屏風絵

 このような山車(だし)を自分の国に持ち帰って「移植再現」使用とする試みが始まります。まずそれは、室町時代の守護大名たちの手によって行われます。
次の絵を見て下さい。大きな山車が連なる姿が描かれたいます。しかし、これは京都ではありません。山口の祇園祭の様子を昭和43年頃に描いたものです。
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  山口祇園祭屛風 昭和 山口歴史民俗資料館蔵
 山口市にある八坂神社は、応安2年(1369)大内弘世が京都八坂の感神院(八坂神社)から祇園社を勧請したと伝えられます。そして、その祭礼である山口祇園祭は、長禄3年(1459)に始まったとされ、都の祭礼が瀬戸の地方都市へ伝わった代表的な例です。
「明治百年記念」の注記があるので、昭和43年前後の作品ですが、神輿や山鉾のほか、鷺舞や趣向を凝らした造り物などがみえます。
 近世に瀬戸内の城下町で、京都や大阪から伝わった山車が「変化・成長」していきます。山・鉾・屋台などの設えやそこに据えられた人形などをはじめ、獅子舞や奴振り、狂言・踊りなどの芸能、仮装行列や曲芸など、いろいろな要素を貪欲に取り入れました。そして、衣装や設えは派手になります。また、夜には提灯などの灯りが祭礼風流として重要になっていきます。
次に設えの巨大化する姿を姫路の祭礼に見て見ましょう。
播磨国総社三ツ山祭礼図屏風
      播磨国総社三ツ山祭礼図屏風  江戸時代中期 

 戦国末期の天正9年(1581)に、姫路城の城下町建設にあわせて、播磨国の総社射楯兵主神社が現在地に遷されます。そして、新しくできた神社の祭礼には、門前に今まで見たとのないような3基の巨大な置山が姿を現します。この屏風は江戸時代中期の三ツ山大祭を描いたものです。画面下側に3基の巨大な置山(左から小袖山、五色山、二色山)が目を引きます。
c0149368_1643696播磨国総社三ツ山祭礼図屏風
             現代の置山
もともと「山」(だし)は神霊の依代として神聖なものでした。ところが、時がたつとともに姿が人型化するようになり、人形の飾り付けが行われるようになり「風流」となります。
  そして、近世に大坂城の大石を船で運び、修羅で引っ張ったような興奮が祭礼の山車にも取り込まれて行ったのではないかと私は想像しています。
「祇園祭の山車 + 大坂城の巨石運び= 博多の曳山?」
という図式が浮かんでくるのですが・・・。どちらにしても、ここには、あらたな祭礼文化の誕生が感じられます。
kan1宮島管弦祭

陸のパレードのルーツが祇園祭だとすれば、
海のパレードのルーツは、宮島の管弦祭です。
images厳島神社

管絃祭は平安時代に都の貴族の間で盛行した管絃(雅楽演奏)の舟遊びを、平清盛が厳島神社の祭礼に取り入れたものだとされます。もともとの管絃祭は旧暦6月17日の夜、沿岸の神々に管絃奏を捧げる形で行われていました。管絃船が瀬戸の港から集まった船を従えての瀬戸内海一の海のパレードが行われていたのです。管絃船の周りには、それに随行する観覧船や美しく飾られた御供船が海上を埋め尽くしました。
もうひとつの船のパレードが大坂の天神様の祭礼船渡でした。
1戎島天満宮御旅所p0030063[1]

 これは江戸時代の天神祭を描いたものです。
難波橋の乗船場から川を下り、戎島の御旅所までのルートを2つの神輿や催太鼓などを乗せた御幸船がパレードします。その船渡御の風景が、祭り見物を楽しむ人々とともに生き生きと描かれています。
img_1大阪天満宮が所有する舟形山車「天神丸」

そして、ここではこんな立派な舟形山車も出現していました。
 宮島の厳島神社の管弦祭と大坂天神様の渡海は、瀬戸内海に投じられた二つの石として、その祭礼の波は津々浦々の港町まで伝わります。そして、これを参考にした海の祭礼行列が生まれてきます。
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  大避神社祭礼絵巻  弘化2年(1845)赤穂市立歴史博物館蔵
 千種川河口の港町として、昔から重要な役割を果たしてきた兵庫県赤穂市坂越にある大避神社の船祭を描いた絵巻です。船渡御を行う船の構成をみると、擢伝馬・獅子船・頭人船7艘・楽船・御座船・供奉頭船・警固船・歌船の姿が見えます。これらが列を整え、坂越湾頭の生島の御旅所まで船渡御(船のパレード)です。向こうの岸に、石垣のように見えるのは人の頭です。人垣なのです。多くの人たちが出て賑わった様子がわかります。
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 長門国の二宮である忌宮神社(山口県下関市長府)の天保11年(1840)の祭礼の様子を伝えるものです。上段が「陸渡御」で、町内を進む神輿や行列と各町から出された山車のが見えます。それぞれの山車上部には趣向を凝らした造り物があります。
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下段が「船渡御」(海のパレード)で、神輿が乗る船を各町の船が取り囲む様子が描かれています。海上から花火が打ち上げられ、華やかな祭りの風情が伝わってきます。
 これも瀬戸内海の最重要港としての下関と大坂の海の交易なくしては生まれなかったものでしょう。海の祭礼では
「管弦祭 + 天神祭」=「瀬戸内の港の祭礼行事」
という伝播ルートが見えてきそうです。
 こうして、城下町や拠点港の都市型祭礼だけでなく周辺部の港や内陸部の村々にも祭礼行事が伝播していったことがうかがえます。
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     諸国御祭礼番附 江戸時代 高松市歴史資料館蔵
 江戸時代の後半頃の諸国の祭礼番付です。行事が伊勢両宮御祭や尾張津島祭、山城葵祭が江戸の天王祭礼などが年寄り、出雲大社祭・京都吉田祭が勧進元として特別別扱いです。そして東之方、西之方に分け主な祭礼が列記されます。東之方(関東)では江戸の山王御、神田御祭、赤坂氷川御祭、常陸の水戸御祭などが上位にみえます。西之方(関西:左)では京都の祇園御祭、大坂の天満御祭、、安芸の宮島管弦祭とともに、讃岐の金毘羅御祭の名前も挙げられています。
こうして、江戸時代後半には各地で風流化がすすんだ結果、特色のある祭礼が営まれるようになっていったのです。しかし、それは案外新しくて、江戸時代後半から幕末に架けてのことだったことが分かります。
96a1ce祇園祭礼図屏風

参考文献 香川県立ミュージアム 祭礼百態

  
石清尾八幡
             
高松の石清水八幡宮では、江戸時代から10月に大きな祭礼行列(パレード)が行われてきました。どんな行列だったのでしょうか。行列を描いた絵図を見ながら探ってみることにしましょう。
 水戸黄門(光圀)の兄で水戸徳川家から高松藩主になった松平頼重は、石清尾山上にあった石清尾八幡宮を、寛文六年(1666)に、現在地に遷し、高松城下町の氏神(総鎮守)と定めました。 以後、秋の大祭には多くの人たちが参拝し賑わうことになります。ところで江戸時代の石清尾祭は、旧暦八月十四・十五日の八幡宮放生会、生きものを放つ殺生禁断の祭りでした。しかし、この様子は史料がなくてよく分かりません。
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史料が増えてきて様子が分かり出すのは、江戸後期に藩の援助のもとで、城下町の各町が何らかの形で参加する惣町祭礼になってからのことです。そして民衆へ祭礼参加によって祭事の風流化がすすんだとされます。それでは、そこで繰り広げられたパレードの様子を見ていくことにしましょう。
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 この「石清尾八幡宮祭礼図巻」図巻は、松平家の殿様のお兄さんが書いたものです。
名前を松平頼該(いかく)といい、号は金岳・左近と称した人物で文人として高い評価を受けています。殿様の兄ですから注文制作ではありません。幕末の石清水八幡の祭礼を正確に書き留めようとする記録画的なものです。実際に現場で見て描いたらしくて、綱に引きずられて転んでいる犬や、風に幕がめくれる様子も描き込まれています。非常に写実的なのです。ちなみにこの絵巻は、高松藩から模写を許されたものが石清水八幡に伝わっている物です。原典は県立ミュージアムにあります。
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 石清尾祭の行列空間は、神社と御旅所間の直線距離550㍍という短い区間でした。その間を、町方出し物や神輿が移動していきます。図巻は、祭礼行列順に描かれています。上巻には飾船と囃子屋台、下巻は両当屋による大名行列練物とおさきら、神社祭器などの行列と神輿渡御です。

まず先頭に登場してくるのは飾舟です。
飾船は参勤交代の際の御座船を真似たものとされています。子ども達に曳かれて飾り舟が登場します。子ども達は櫂を片手に持ち、踊っているようにも見えます。それぞれの船の下には白い波濤が描かれた青幕が張られています。最初、私は「船には車が付けられてそれを、子ども達が曳いている」と思って見ていました。ところがまくれ上がった垂れ幕の中から足が見えるのです。船は担がれているのです。
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  船の中がどうなているのか「透視」してみましょう。
  船内の真ん中に丸い大きな鋲打太鼓が吊るされています。二人で両面をバチで叩くのでしょう。船の構造は、二本の丸柱が貫通しています。船体の長さは約三間(5、5㍍弱)、高さ一間半(2.7㍍強)で、幔幕や垂れ幕はいずれも金糸・銀糸で刺繍され、船具は箔を置いて飾られました。そして、太鼓の前方を三人、後方を四人ずつが、左右二列になって片手に竹杖を持って、肩で担いでいるのが分かります。船の前方には柄杓を持つ人が乗っているので、全部で十五人が船内と船上に見えます。
 幕末の飾船に関して、別の資料では
「乗組十人、船昇き十人、擢指し十人、小繋四人、鐘附役十人、
 惣警固四人の計四十八人」
と構成メンバーを記しています。乗組十人と船担き十人が船上に乗ったり、船内に入ったようです。つまり「底抜け」なのです

  ちなみに、石清水八幡祭礼に用いられていたという飾舟が今でも現役で活躍しています。
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高松市香西本町の宇佐八幡宮に奉納される2隻の船の一つで小船と呼ばれる飾舟です。
この船には、明治9年(1876)の墨書銘があります。
「石清尾八幡宮の祭礼に奉納されていたお船を譲り受けた」
と伝えられているそうです。船は木造で、船首には鯛を抱えた恵比寿神の人形が座り、水押なども螺銀で飾られています。
  どちらにしても「底抜け船」ならば引っ張る必用はないのです。どうして子ども達が綱で引っ張っているのでしょうか?  祭りの雰囲気を高めていくパフォーマンスとしておきましょう。
もういちど図巻に返りましょう。
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-01

先頭の船では擢振りの子ども十一人と大人が曳き、子どもの赤い化粧廻しが鮮やかです。確かに祭りに彩りを添えています。船正面の唐破風で面取られています。その後の船内には、弓や毛槍などが船内に立てられています。進行方向を変えるためでしょうか、艦附役が側面を押している姿も見られます。
二番目の船は十二人の擢振り子どもが曳いています。
先頭の大人は擢を抱えた擢指しでしょうか。速度が速すぎるのでしょうか、艦につないだ綱を艦附役が後方に曳いて速度を調節しているようにも見えます。
三番目の先頭は毛槍を担いで走っています。
十五人の擢振り子どもが綱を曳いていますが、小児は大人の肩に乗ています。下の青幕には、二尾の大鯛が飛び跳ねるように描かれていて勢いが感じられます。この船では、幕が開かれて船曳の一人が外に出てきました。その際に、船内の担いでいる姿が見えています。この船の後方の艫(とも)につないだ2本の綱を黄色い法被の艫付き役が曳いています。ついつい早くなるのを押さえる役割が必用なのでしょう。
4番目の先頭は瓢箪をつけた吹き流しを担いで走ります。
しかし飾船の曳き手はいません。やはり、進行速度が早過ぎるのでしょう、倒れながら後方に曳いています。その後ろで、七人の擢振り子ども(二人は大人に肩車される)が走って追いかけています。
5番目の船は、今までの飾船より小ぶりで「川船」のようです。
曳き綱もありません。ここまでが、各町から出される飾舟です

 十五日渡御の際には、飾船は先陣を切り、神社石段下から馬場先の御旅所まで、約五丁(五五〇㍍弱)の大通りを、のど自慢が太鼓に合わせて
「高砂や尾上の松も年ふりて相に相生ふ相生の松」
などの船唄を歌いながら進みます。そして、船内に入った担ぎ手が
「怒濤を乗り切る船の如く、揺すりに揺すり、揉みに揉んだ」
と記されます。
 飾舟の次に描かれているのが囃子屋台です
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-02

まず、最初に現れる屋台は、青竜刀が飾られた本鍛冶屋町のものです。しかし、担手は担いでいません。休憩中のようです。こんな所まで描くのが当時の絵巻としては珍しい所のようです。
 次の囃子屋台を見ると屋台の両側面には二本の昇き横棒が通されて四人が担ぎ、担ぎ手は杖をついているのが分かります。内部は徒囃子であり、屋台下には草履や下駄が見えます。江戸祭礼などの底抜屋台と同じようです。
 3番目は大きなエビ、4番目は虎と下幕は虎に合わせた竹藪に筒、6番目の屋根は玩具がいっぱい書かれて、側面は障子仕立てです。7番目は猫足の唐風台上に朱房が垂れた龍ででしょうか。十一番目の巨大な筆が乗っています。
いったいこの屋台は何に使われたのでしょうか?
屋台は「練物」とも呼ばれ、屋根の下に幕を垂れ、屋台の上には人形か、造り物を飾りました。屋台の床下に囃子方が入って肩で横棒を担ぎつつ、歩きながら囃します。上に乗せた飾り物により、人形屋台・造り物屋台と呼ぶこともあったようです。
 行列は夕刻前には神社に帰るので 御旅所滞在は4時間程度です。私は、この間に御旅所周辺で「開演」されたのではないかと思っていました。ところが、そうではないようです。
 別の資料では、大祭当日の丸亀町・百聞町の六力町の様子が次のように記されたいます。
是の町ぐ羅綾の衣装我劣しと戯場なす、多く恋の為に身を省ス、武士或ハ熱情の達引坏、種七の仕組、これ高松の一流と謂へし

とあり、街角が劇場となったと言います。踊屋台では武家物や色恋物が演じられたのです。演じる演目に従って「エビ」「トラ」「筆」が屋台の上の看板には大きく描かれていたようです。図会では百間町以外にも他に五ヶ所で演じられるとあります。つまり、踊屋台は神輿渡御の後ろにただついたわけではなく、町の中心部や出した町の各所に移動し、演じられた「移動舞台」だったのです。

「底抜け移動屋台」が、いまでも活躍している所があるようです。
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 1年交代に行われる女木島と男木島の大祭は行われます。そこに登場する囃子屋台です。床が張られてなくて高松の石清尾八幡と同じようなスタイルです。中に入る鉦や締太鼓の囃子方の子どもたちは、屋台の移動にあわせて歩きながら演奏します。屋台内の後方には色とりどりの布を垂らして飾っています。
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 下巻は大名行列から始まります。
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-03

先頭に登場するのは、前垂れが「の」字が染め抜かれるので、当屋となった野方村の人たちのようです。先頭より御幣持二人、台傘、挟箱四人、立傘四人、白熊四人、鳥毛四人(交互に投げ渡しの曲芸)、大鳥毛五人、長刀持一人、鉄鮑六人、弓四人、神馬が行きます。そして最後が輿に乗り朱傘が差しかけられた少年おさきら(弓箭を負う)です。そこには「の」字の大団扇が差し掛けられます。
 
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次に続く大名行列は、
御幣持二人、弓矢四人、挟箱四人、台傘・立傘四人、白熊四人(交互に投げ渡しの曲芸)、鳥毛四人、大鳥毛四人(回転させる曲芸)、長刀持一人、鉄砲四人、弓四人、刀筒四人、騎馬武者一人が行きます。そして、神が着いている「おさきら」が輿で進みます。これにも大団扇が差し掛けられます。
   
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2つの大名行列に模した「おさきら」さんが行くと、後は神社側の祭器行列と神輿渡御です。
  
 榊 猿田彦面(三方に載せた天狗面)、鉾二振、四神鉾、神馬、馬乗、大拍子、楽太鼓 雅楽系太鼓横笛(神楽笛・竜笛・能笛のいずれか) 笙 横笛 神楽鈴の巫女 横笛 銅拍子 担い太鼓 御幣と神主の三組 太刀持 神主4人 二本差しの警固、鳳輦、石清尾八幡宮石鳥居、
そして絵師「金岳」落款と同朱印が記されます。

前回には中世の神仏混淆時代の寺社の祭礼の行道に、獅子頭が参加していたことをお話ししました。それが、近世後半になると庶民への祭礼へ参加の度合いが強まり、パレードへの参加が獅子以外にも増えていったことがこの図巻からは分かります。
パレードは「飾船→屋台→大名行列→神社祭器・神輿」の四部構成と言えます。
ここには、中世にはなかった要素が3つ入り込んでいます。
この構成を見ても、静かだった祭りは時代が下るとともに派手でにぎやかになっていったことが分かります。庶民は、祭りを楽しもうとさまざまな工夫をし、趣向をこらし、新しい風をとり入れて、前よりはより楽しいものにしようとしたのでしょう。
 ある村では獅子舞をとり入れ、ある村では奴を、太鼓台を、そして城下町という都市でも飾舟や屋台・大名行列などを取り入れてバラエティに富んだものとなっていきます。そして、祭りはいよいよ楽しいものになってきたのです。
 さまざまな試みが積み重なって、今の祭りの姿になってきたことがわかります。


参考文献 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼百態

      
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 私は獅子舞の始まりを、江戸時代の始め頃とおぼろげながら考えていました。
しかし、獅子舞が舞われるようになるのは、もっと後の江戸時代も後半の19世紀になってのようです。それも各集落が獅子を持つようになるのは、明治になってからの所もあるようです。
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村の神社に、獅子が登場するようになる前と、登場してからの変化について見てみます。
 江戸時代に「村」が成立し、近世の神社が讃岐の地に姿を見せるようになるのは18世紀あたりでしょうか。現在に残る各神社の棟札を見てみると、延喜式内神社などの古社を別にすると、社殿や拝殿が建てられるようになるのは18世紀頃のようです。
 もちろんそれまでも「氏神としての神社」はあったのでしょうが、社殿や拝殿を玉垣、鳥居などが整備されていくのは江戸時代後期から明治になります。このような神社のハード面の整備が先行します。そして祭礼が大衆化し、その目玉として獅子舞が登場するという運びになるようです。
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 前回に紹介したように中世15世紀半ばに琴弾八幡神社(観音寺市)の太鼓に合わせて舞う獅子現れ、江戸時代の18世紀後半に式内社・黒島神社(観音寺市池之尻町)に、紙製獅子頭を使った獅子が現れ獅子舞へと「変身」していきます。古社に導入された獅子たちが周辺の新設された神社に姿を現すのは19世紀になってからです。
祭礼記録に獅子たちが残した痕跡を追ってみましょう。 
県下の神社には、獅子舞の経費に関わる文書が数多く残されています。これらの文書を見ていくと、いつ頃に獅子舞が祭礼に定着していったのかが分かります。
その中には、獅子舞の数が増え奉納順を争ったり、新しい芸を稽古したりしことも記されています。

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       綾川町 文政9年 北の宮獅子ほうが(奉賀)帳      
 神社付き獅子(=トウヤ獅子)から組持ちの寄進獅子へ
綾川町の北宮八幡神社には、文政9年(1826)年に獅子頭をつくった時の寄付に関わる記録類が残っています。それによると当屋や獅子舞を4組が交替で務めていたようで、「当屋入目」の記録の翌年に「獅子入目」の記録があります。ここからは当屋があたった翌年に、獅子舞の役目が回ってきたことがうかがえます。
 注目したいのは、江戸時代後期のこの時代には、各組で獅子を持っていたのではないということです。つまり獅子頭は、最初は神社が購入した「神社付き獅子」を、各組が順番で担当していたのです。それが次第に、それぞれの組が持つようになります。なお、これより先の文化12年(1815)の当屋入目にも獅子が出てくることから、この時に「神社付き」獅子用具一式がつくり替えられたようです。ちなみに費用は「銀百八拾目 獅々かしら」とあり高価なものであったことが分かります。
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男山神社蔵(さぬき市寒川町年)では、今でも、各組から出される獅子とは別に「当番獅子」と呼ばれる獅子が奉納されています。当番獅子の順番がくると、自分の組の獅子と当番獅子の二頭をつかいます。これは、神社付獅子を氏子の組が輪番でつかう江戸時代の古いかたちが残っているのでしょう。県内には、他にも宮獅子、当番獅子と呼ばれる神社付の獅子だけを氏子が交替で奉納を続けている神社もあるようです。
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 もう一度整理すると、一番古い形としては神社や氏子全体で持っていて、順番に奉納当番が廻ってくるトウヤジシとかトウバンジシと呼ばれる様式です。でも、次に廻ってくる順番を待ちかねた「獅子ホッコ達」がお金を出し合ってこしらえたり、暮しに余裕ができてきた集落や、モッタサンと呼ばれる旦那衆が居る地区では「うちでも出さんか」といって単独でこしらえるところも出来てきたのでしょう。
 先ほども出てきた綾川町あたりでは、集落持ちの獅子をキシンと呼ぶそうです。これはトウヤ(陶屋・頭屋)獅子に対する言葉で、トウヤジシが祭りの神役の一つとして奉納するのに対して、キシンはすなわち寄進で、氏子から自主的に奉納するということからきた呼び名のようです。この他にも大字(江戸時代の旧村)全体で出す獅子や、広い範囲(数地区連合)で持っている獅子もあり、これらも古い形でなのでしょう。
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北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳
獅子舞の役割は?
綾川町陶の北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳天保3年(1832)には、獅子役割として、獅子遣・太鼓打・曲太鼓・鉦・摺鉦・狸々舞などの役が記されています。この記録からは、獅子遣に2名の名前があり「二人遣い」だったことが分かります。また、獅子舞に「狸々舞」という獅子あやしのような芸が付いていたようです。
また、天保7年(1836)の記録には「ならし」と呼ばれる獅子舞の稽古について「獅子拍子始テミタチ流二相改候二付彼是ならし夜数例年より席数余分二相成候」などとあり、ミタチ流という新たな獅子舞の芸に改めたために稽古数が増えたことを記しています。私は祭礼の奉納のための獅子舞ですから先祖から受け継いだ物を大事に継承しているものとばかり思っていました。ところが、旧来の流派から新たな流派に変更することも頻繁に行われているのがうかがえます。
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             「獅子三頭始より究書」
獅子舞の奉納順番をめぐって争った高屋神社
嘉永3年(1850)の坂出市高屋町に「獅子三頭始より究書」と題された記録があります。もともと高屋神社には獅子が1頭だけでした。ところが、やがて南北2頭になって争いが起きるようになり、ついには獅子舞が奉納できなくなる事態になります。そこで嘉永3年(1850)に遍照院の仲裁で、もう1頭新設してより3頭に別れて奉納することになりました。獅子の数が1頭から2頭へと増えたことで、その順番をめぐって争いが起こっていたようです。神社で1頭の獅子しかいなかった頃には、起きなかった争いが何頭もの獅子が登場することで、奉納順や位置をめぐっての争いが各地でおきたことが残された文書から分かります。
獅子舞をめぐる取り決めを額にして随身門に掲げた国分八幡宮
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         国分八幡宮獅子順番定書(上)と追條目(下)
国分八幡宮蔵(高松市国分寺町)の定書も、安政6(1859)年の幕末期のものです。獅子舞を出していた下所・大東・東奥・馬場の4組では、神前の席順で争論が絶えませんでした。そこで安政6年(1859)未年と翌申年の奉納場所を取り決めたものがこれです。
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「追條目」は、定書を定めたのに翌年にまた争いが起こったので、獅子奉納については総代頭と相談して争いのないようにすること、獅子舞の宰領等は羽織袴で来るようになどと定められています。威儀を正して、争いの起きないように監視せよと言うことでしょうか。この神社では、この定書を額にして随神門に掲げてきました。争いの激しさと、それを収めるための智慧がうかがえます。
 ところが同社に伝わる「祭典奉納獅子席次帳」(昭和10年・1935)によると、その後も争いは絶なかったようです。そこで明治22年(1889)には、祭礼前日のトウヤ、当日の神殿前、お旅所それぞれの獅子組の奉納席順を定めています。また、昭和15年(1940)には、江戸時代に取り決めた6ヶ條の追條目で獅子舞奉納についての責任の所在などについて、坂出警察署国分駐在所巡査の立ち合いのもと協定をしているのです。獅子舞をどの場所で奉納するか、何番目に奉納するのかは獅子組にとって非常に重要だったのです。
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獅子頭の大型化は?
 江戸時代後半の天保年間に由佐の大溝の人たちによってつくられた「由佐古河の大獅子」と称される獅子頭です。獅子が各神社に姿を見せるようになった2百年前には獅子頭の大型化という現象も見られるようになりますます。現在の獅子頭は明治24年(1891)につくり替えられたものと伝わり、頭には「大正十口年」「昭和五十一年修繕/三豊郡三野町丸岡光信」などの銘があります。修理が重ねられて百年以上も使われてきたことが分かります。
 冠綴神社の祭礼には、池内大獅子(ともに県有形民俗文化財)と夫婦獅子として供奉されます。高さ90cm、幅160cm、奥行100㎝ 重さ50kg、油単の長さ12mで、運行には25人ほどの人手が必用です。
昭和の獅子舞大会がもたらした物は?
昭和になると獅子舞がさらに風流(ふりゅう)化しショウアップされるようになります。それが獅子舞大会の各地での開催でした。
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        県下獅子競技大会の優勝旗 昭和6年(1931)
 昭和6年に昭和天皇の御大典記念事業として多度津町に桃陵公園が開園します。その記念行事として「桃陵公園開園記念県下獅子競技大会(第1回)」(多度津商工会)が開かれ、ます。その時に優勝した家浦二頭獅子舞(三豊市仁尾町)が保存する優勝旗です。これをきっかけに開戦までは、県内各地で獅子舞大会が開かれるようになります。各獅子組は、県内から集まった獅子組との競演によって刺激を受けることになります。獅子頭や油単にも贅がこらされ、演技方法にも今までにないものが取り入れられ、獅子舞の「差別化」が進みます。この上に、現在の獅子舞はあります。そういう意味では獅子舞の歴史は、そんなに古い物ではないといえるのかもしれません。
さまざまな油単(ゆたん)
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          獅子舞油単  奥村定義製作(宇多津町) (戦後)
 獅子舞の胴をあらわす布は、香川県では油単(ユタン)、着物(キモノ)、幕(マク)などと呼ばれます。栗林公園の民芸館が所蔵するのり染の油単は、香川県の伝統的な絵模様の一つです。獅子油単の絵模様は、武者絵や龍虎などの絵模様が多いのですが、他にも毛模様や神紋などを配した油単、馬のたてがみを植えた油単も現れ、趣向が競われるようになります。
大漁旗が継ぎ当てされた油単
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 坂出市の白峰宮に奉納している原獅子舞保存会が使用していた稽古用の油単です。
古くなった油単に大漁旗の継ぎ当てされています。
戦争中は獅子舞が中止されていましたが、戦後になると混乱の中でも獅子舞を復活しようとする動きが出てきます。しかし、物がありません。最初は布団地の布を急造の油単にして復活させます。それでお花を集めてお金を貯め、新しい油単や獅子頭を購入したというところが多いようです。用具が十分でなくても獅子舞の復活を望んでいたのでしょう。
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  神風号東京-ロンドン間最短飛行時間樹立記念 白方自治会蔵(さぬき市鴨庄)
 さぬき市鴨庄の白方自治会の獅子に使われていた油単です。昭和12年(1937)に、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の最短時間新記録樹立(51時間19分23秒)しました。これは当時の日本にとっては、大きなニュースとして報じられ国民の心を揺さぶりました。それをテーマに図案化された油単です。中央は飯沼操縦士と塚越機関士で、当時のヒーローとなりました。油単には、社会の流行テーマも取り入れたのです。それは、中世以来の祭礼の風流(ふりゅう)化の流れを受け継いだ物なのでしょう。
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      獅子舞油単(乃木希典)  陶大宮八幡神社西川南組(祓川町)
 善通寺第11師団初代師団長として香川県にもゆかりの深い乃木希典の騎乗姿を図案化した油単です。乃木将軍は国定教科書に取り上げられるなど知名度も高く、庶民にも親しまれる人物だったので、英雄視されて油単にも登場しています。しかし、近代人が油単に登場するのはごく稀です。
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        虎頭の舞用具    東かがわ市白鳥虎頭舞保存会蔵
 東かがわ市の白鳥神社には獅子頭でなく虎頭舞が奉納されます。和唐内、虎つかい、鉦打ち、太鼓叩き、笛吹き 笹張り、拍子木、頭取で構成されます。面白いのは近松門左衛門の「国姓爺合戦」にちなんで、歌舞伎の趣向を取り入れて、隈取りをした少年扮する和唐内が虎を退治するストーリーが演じられるのです。大正11年(1922)に摂政宮であった昭和天皇が陸軍大演習の視察のため来県したおりには、善通寺第11師団で演じたようです。県内には、三本松・富田・津田でも虎頭が舞われていますが珍しいものといえます。

さて獅子舞がさかんに舞われる讃岐ですが、いろいろな問題に直面しています。
さきほど、大漁旗を貼り縫いして油単にしていた原集落では、それ以後も子舞存続のためのさまざまな取り組みをしています。
昭和30年(1955)頃、戦後休止していた獅子舞を青年会で復活。
平成10年(1998)若者不足により青年会による獅子舞奉納を中止。代わって年齢制限のない保存会発足。同時に中学・高校生による後継者育成開始
平成15年(2003)中学生、高校生による獅子舞開始
平成16年(2004)女子中学生による獅子舞(つかい手)開始
平成17年(2005)太鼓打ちに小学生女子児童がデビュー。
 原獅子舞保存会をはじめ、県内の多くの獅子組で、地域社会の変化に対応したさまざまな工夫が重ねられているようです。
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参考史料 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼風流

         
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    讃岐は獅子舞王国?
 田んぼの畦に彼岸花が咲くことになると、讃岐の里は秋祭りに向けた準備が進められていきます。讃岐のお祭りで演じられる芸能の代表格といえば獅子舞でしょう。獅子舞は県下全域に広がっていて、その数はうどん屋さんと同じ約800頭が「生息」していると言われます。「獅子生息密度」の高さは、全国のベストテンの上位にランクされ、富山県とトップ争いをしているそうです。(出典不詳・・・)
 獅子はいつ、どこから、何のためにやってきたのでしょうか? 
讃岐では、室町時代には獅子頭が祭礼に現れていたようです。南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた
というあまり目出度くない記事ですが、これが一番が古いようです。ちなみにこの犯人は捕まったと、後にでてきます。この縁起の永和元年(1375)には
「放生会大行道之時獅子面を塗り直した
と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。
 香川県内の古い神社には、中世の木製獅子頭が伝わっています。
 東かがわ市の水主(みずし)神社は、中世は四国の熊野信仰の中心拠点として機能し、それを背景に登場した勧進僧の増吽が阿波や吉備、瀬戸の島々の寺社を再興します。その河口の三本松も重要な港町でした。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭
 ここにはは、県内で一番古い年代の入った木造獅子頭(県有形文化財)があります。
上顎裏側に文安五年(1448)に三位公全秀によってつくられ、文明四年(1472)に彩色されたと墨で書かれています。
銘文には「奉安置獅子頭事」とあります
が、胴衣を縫い付けた孔も残り、獅子頭内側には、上下顎をつなぐ軸棒のほか、上方にもう一本横棒が渡っており、そこを持ち手として獅子頭を扱ったと考えられます。「安置」するだけでなかったようですが激しく頭を振り回すような機能はありません。パレードへの参加用のようです。
次の訪れるのは善通寺と琴平町の境にある大麻神社です。
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 大麻山を甘南備山とする式内社大麻神社(善通寺市)に伝わる木製の獅子頭です。
下あごが失われているために少し見慣れない感じもしますが、形状などから水主神社の獅子頭とおなじく室町時代、ひょっとするとそれ以前の鎌倉時代のものと考える研究者もいるようです。そうだとすれば「現存する県内で一番古い獅子頭」ということになります。残念ながら下顎をなくしているが惜しまれます。この木造獅子頭は、江戸末期の『西讃府志』巻第五六にも「大麻神社所蔵之獅子頭圖」として上顎部のみが描かれています。
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後の方に、油単を縫い付けたと思われる小穴が7ヵ所ほどあるのが見えますか?
これもパレード用と考えられています。
祭礼行列の参加以外にも、獅子の出番が出てきます。
享徳元年(1452)に書かれた観音寺の『琴弾八幡宮放生会祭式配役記』には、行道の「獅子首二人」とは別の姿を見せます。それは「舞車」の上で舞う「師子舞」です。獅子が稚児「楠法師」と褐鼓舞(小さな鼓=掲鼓を胸に付けて打つ舞)を演じるのです。これは当時の都で、風流(ふりゅう)拍子物として人気のあった流行物です。新しい芸能の流れを汲んだ獅子の姿です。
  そんな中で登場してくるのが紙製の獅子頭です。
 紙製の獅子頭で一番古いのは式内神社の黒島神社(観音寺市池之尻町)に残るものです。江戸時代中期の宝暦八年(1758)の銘があります。
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この獅子頭の内部は「土」の字型の木組構造です。その構造は現在の獅子頭の持ち手と同じです。紙製の補強のための縦材を持ち手に利用することで、獅子頭を片手で持つことできるようになりました。これは紙製という軽量化とあわせて、獅子を使いやすくしたはずです。獅子が激しく動き舞えるようになったのです。
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 この黒島神社の獅子頭とセットで「稚児頭巾」と呼ばれる赤い紐飾りのついた円錐状の笠が残っています。これは先ほど見た琴弾八幡神社の「獅子が稚児と舞う褐鼓舞」の際に稚児がかぶっていたものではないでしょうか。観音寺に伝わった中世の風流踊りが近世三豊の地域に、祭礼の中で広がって行ったのではないかと私は考えています。
その際に紙製の獅子頭が果たした役割は、決して小さくないような気がします。芸能性に富んだ獅子舞が生まれた要因の一つかも知れません。

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 香川県の獅子舞の大きな特徴は、獅子頭が紙製ということです。
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紙製の獅子頭は、型にあわせて和紙を張り重ね、漆を塗ったり毛を植え込んだりして仕上げます。伝統的工芸品の「讃岐獅子頭」を見てきた私は、「獅子頭は紙製(張り子)」という思い込みありました。ところが差に非ず。全国的には獅子頭は木製が主流でないようです。
 たしかに紙製獅子頭も全国各地にあり、型抜きや竹骨組など形状や構造も様々なものがあるようです。しかし、香川県以外で二人立ち獅子舞で紙製獅子頭を使うのは、松山・徳島・播磨等の瀬戸内圈、と臼杵・宇土・熊本等の九州の一部、ほか京都・和歌山・静岡・長野・岩手等にも点々と広がる程度です。しかも、局所・散在的で香川ほどの分布密度はないようです。「紙製の獅子頭」というのは讃岐の大きな特徴のようです。

最後に、獅子頭の成長ぶりをもう一度確認しておきましょう。
 中世は 小豆島肥土山の祭礼のパレードに参加する獅子
 中世末は観音寺琴弾八幡の太鼓に合わせて舞う獅子
 近世は 紙製獅子頭の登場で舞い踊る獅子へ 
これを祭礼の風流(ふりゅう)化と言うそうです。
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参考文献 高嶋 賢二 香川県の獅子舞と獅子頭 
           香川県立ミュージアム「祭礼百選」所収





大きな屏風絵が金刀比羅宮に残されたいます。
この屏風絵は二双から成り、「清信筆」の署名と「岩佐」(方印)、「清信」(円印)の押印がありますので、作者が狩野休円清信であることがわかります。描かれた時期は、元禄年間(1688~1703)とされています。
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 二双になっているのは、二王門から上のところを描いた山上の図と、二王門から下を描いた山下の図とに分かれているからです。屏風絵のテーマは、十月十日の金刀比羅宮の大祭で、頭人行列を中心に金毘羅の町のにぎわいが描かれています。この絵を見ながら、今から約三百年前の元禄時代の大祭で賑わう金毘羅の門前町の様子を見てみましょう。 
DSC01397大門祭礼図

日蓮の命日であるお会式(えしき)と金毘羅さんの関係は?
汪戸時代のはじめになると全国の大きな寺社のお会式(えしき)、御開帳の祭礼に盛大な市が立つようになります。お会式(おえしき)は、日蓮の命日の10月13日にあわせて行われる法要のことです。日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった信徒団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩きました。古くは、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだったようです。それが、江戸末期から明治時代に町火消たちが参詣に訪れるようになると纏を振るようになり賑やかになったようです。日蓮宗の寺では、境内に鬼子母神を祀る場合が多く、鬼子母神の祭りを兼ねる場合も多いようです。また、寺によっては花まつりではなく、お会式や千部会に稚児行列が出る場合があります。
 どうして日蓮のお会式が金毘羅大権現に関係あるの?
  戦国末期に、インドからこの山に招来した金毘羅神は新参者です。信仰する信者集団もいなかったために法華宗の祀った守護神である三十番社の祭礼を、奪って金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」するという荒療法を行いました。そのために金毘羅大権現の大祭には法華八講の祭礼が色濃く残るとともに、開催日も日蓮の命日であるお会式前後の十月十日になっているようです。
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 十月十日の祭礼当日の門前町ことひらを見ていきましょう
 高松道からやって来た頭人行列の動きに合わせて東(右)から西(左)に町並みの様子をたどります。まず行列は木戸をくぐります。ここが天領である池料と金毘羅社領の境でした。
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この木戸は、ここからが社領の入口であることを示す役割を持っていました。この木戸を抜けると金毘羅領です。図には、頭人の奴行列の道具を持って金毘羅領に入ろうとしているところが描かれています。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。
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すぐに鳥居が迎えてくれて、その手前で北からの道が合流しています。ここが丸亀街道の終点になります。丸亀街道からの参拝客を併せて、より大きくなった人の流れは、西(左)へと進みます。
新町の街並み
 この辺りは「新町」と呼ばれる町で、延宝3年(1675)に天領との土地交換で新しく寺領になった所です。それから20年余りで、道の両側には、板屋根の店棚がすき間なく並ぶ門前町を形成しています。地替えは、金毘羅さんには大きなプラスになったようです。 

新町の店は、道に面したところに簡単な棚を作り、その上に商品を並べているようです。よく見ると店の奥行は浅く、間取りは一部屋ほどですぐ裏に抜けます。裏は庭になっていたり、畑になっていたりします。この時期の新町は「新興商店街」で大店のお店はなく小さい店が並んでいたようです。
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 新町の町並みを木戸口の辺りから順にみてみましょう。
道の南側(下方)には、小さな宿屋と思われる家が並んでいます。屋根は板葺きがほとんどで、その中に茅葺きの屋根がポツンポツンと混じっています。その中には、生け花を飾った床の間のある部屋をもつ家や、主人と思われる人が魚を料理している家、食事の用意をしている家、参詣の旅人らしい人が横になり休んでいる家などが鞘橋まで続きます。
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 向かいの家並み(上方)の家並みでは
木戸口のところからめし屋、うどん屋と並び、丸亀道で一旦途切れます。そして、鳥居から魚屋、古着屋(服屋?)、道具屋(小間物屋?)、さらに同じような品物を並べた古着屋と続いて、屋根の付いた鞘橋のたもとにやってきます。
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 鞘橋のたもとに来たところで、川を見ると・・。裸になって泳いでいる人が・・・
最初、この絵を見たときの私の感想です。これは素人の見方です。
本当は金毘羅山に参拝するために、ここで身を清めているのです。鞘橋の下は、沐浴(コリトリ)場として神聖な場であったことを、この絵から知りました。
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鞘橋のたもとのところにも南からの道が合流しています。これが阿波からの阿波街道です。こちらからもたくさんの参詣人がやって来ています。阿波道の角のところには陶器屋が陶器類を並べています。
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身を清めて鞘橋を渡ると、町並みの南側には宿屋と思われる家並みが続いています。
 さらに西(左)へ進むと、この辺りから内町に入ります。
道の南側は宿屋(茶屋)がずっと続いています。入母屋の瓦屋根で立派な建物で、大きな庭もあります。内町は、「高級旅館街」として門前町の中心的な町として栄えていきます。先ほどの新町の宿屋は板葺屋根でしたので「格」が違うようです。後の史料からは茶屋二七軒、酌取旦雇宿六軒の計三三軒があったことが分かります。 「讃岐国名勝図絵」に
「南海中の旅舎、三都に稀なる規模にて当地秀逸と謂べし」と讃えられた「とらや」
は延享四年(1747)に入口・玄関の普請が分限不相応として閉門を命じられ、破風・玄関・式台を取り除いてやっと許された大旅館でした。その他にも、芳橘楼(ほうきつろう)・余島屋などの大旅館と共に、天保の打ちこわしで破壊対象になる米屋・酒屋・油屋などの大商店が軒を並べていました。
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 南側に対して、北側は鞘橋を渡ったすぐのところが服屋(古着屋か)です。その横に、北から合流する道があります。ここが多度津街道のゴールです。多度津道沿いの店は、角が服屋です。その隣(絵で見ると奥側)には、馬方が馬を数頭休めています。馬継所なのかもしれません。残念ながら、そこから奥はきちんと描かれていません。道を挟んだ向かい側は、煎餅らしいものを焼いている店があります。参詣客が、店主に注文しているようにも見えます。何を焼いているか分かりませんが、気になるところです。

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その隣の多度津道と本道との交差する角に当たる所は、惣菜屋(めし屋?)のようです。食べ物を売る見せも多いようです。
一方北側を見ると、惣菜屋の隣は、弓師の店です。続いて、小間物屋、道具や、二軒分の家が空いて、桶屋と続きます。 
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そして、西へ進んでいくと登り坂になって行きます。坂の両側にも、食べ物屋、うどん屋、宿屋、うどん屋、服屋、あめ屋と続きます。
参道の上り口に当たるこの辺りには札場があったので、札ノ前町と呼ばれました。
そして、その上には大門までの両側に階段状に町が形成されます。札之前町には一一軒、坂町には四軒の茶屋がありました。この両町は、参詣客が両側を見ながら参道を登って行く所で、土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。
 代表的な土産物には、上鈴(神鈴了延命酒・薬草・金毘羅団扇・天狗面・白髪素麺(宝暦十=一七六〇年、素麺師かも屋甚右衛門が移住し、製造が始まったと伝えられる)・びっくりでこなどがありました。なかでも、金毘羅大権現の神徳を象徴する土産として特に有名になったものに、大門付近などで売られた金毘羅飴があります。あめ屋の向かい、少し斜め上辺りから南西(左)に、伊予からの道(伊予街道)が合流しています。
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伊予街道沿いの町並みが谷川町です。
 延宝三年の地替図では本殿への参拝道が脇道で、伊予街道の方が本道のように描かれ、谷川町が奥の広谷墓地に向かって伸びて賑わっている様子が描かれていました。それから30年余りで状況は逆転して、この屏風絵では参詣道の方がはるかににぎやかになっているようです。谷川町は伊予街道のゴール地点として食べ物屋が建ち並んで、にぎやいだ雰囲気があります。                                                                                    
 これより上、大門(二王門)までは坂町です。
この町並みには宿屋と思われる店がずっと並んで描かれています。大門を入ると、そこは山上と呼ばれる境内です。これからは金光院家中の家が続きます。
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芝居小屋が並ぶ金山地町の賑わい
 さて山上の様子は、またの機会にして、ここからやってきた道を鞘橋まで引き返します。
先ほど見た高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わりますが史料は残りません。
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 街に入ると、ちょうど歌舞伎小屋が立ち、中では歌舞伎が演じられているようです。常設の芝居小屋である金丸座が建つのは百年後のことです。
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さらに奥へ行くと、浄瑠璃を演じている小屋もあります。道を挟んだ向かい側には、別な歌舞伎小屋も見えます。参詣客は、歌舞伎・浄瑠璃などを十分に楽しんで、あとそれぞれの村、家へ帰っていったのであろう。この屏風絵には、金毘羅の大祭の賑わいがリアルに描かれています。

  この屏風絵が描かれた元禄年間(17世紀末)の金山寺町の広場には、所狭しと小屋が架けられ、芝居が興行されていたのです。
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 江戸中期以降、全国に131か所もの歌舞伎小屋が散在していました。
その場所と規模を伝えるものに「諸国芝居繁栄数望」(天保十一年子之十一月大新板)という芝居番付が残っています。そこには金毘羅大芝居は金沢・宮島などと並んで、西の前頭六枚目の最上段に「サヌキ金毘羅市」と名前が載っています。ここからは金毘羅の芝居が西国における第一級の芝居として、高い知名度と人気があったことが分かります。
 井原西鶴の「好色一代男」の中にも、安芸の宮島と金毘羅の賑わいを、旅芸人に語らせるシーンがあります。元禄年間おいては、金毘羅の賑わいは有名であったようです。しかし、それに引かれて東国から参拝者が押し寄せるようになるのには、まだ百年の歳月が必要でした。
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 この絵からは人寄せのために芸能や見世物などが催されにぎわうこんぴらの様子が伝わって来ます。金毘羅信仰が盛んになるにつれて、市立と芸能は共に栄え、門前町ことひらは一層繁栄するようになっていった様子が分かります。
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参考文献 金毘羅門前町 町史ことひら 127P~

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