郷土史関係の本を読んでいると、古代の郡にはそれぞれに港があったと書かれています。それが近世の港へと引き継がれたと云うのです。例えば、次のような各郡と港です。
A 阿野郡 松山湊B 鵜足郡 宇多津C 那珂郡 中(那珂)津・津森(守)D 多度郡 多度津F 三野郡 三野津
これらの港が本当に郡の港であったのかどうかを見ていくことにします。今回は、Cの那珂郡の湊とされる中津・津之郷についてです。
那珂郡の湊については、柿本人麿の歌が万葉集に次のように載せられています。
「王藻よし 讃岐の国は国柄か 見れども飽かぬ神柄 か ここだ貴き 天地 日月とともに たりゆかむ 神のみ面と つぎ来る 中(那珂)の水門ゆ 船浮けて 吾が 漕ぎくれば 時つ風 雲居に吹くに 沖見ればとい浪立ち辺見れば……(中略)。
反歌二首 妻もあらば疹みてたげまし佐美(沙弥島)の山 作の 上のうはぎ 過ぎにけらずや (後略)」
ここには人麻呂が「中(那珂)の水門」から船出して、強風で沙弥島へたどり着いた時のことが記されています。この歌に出てくる「中の水門=那珂郡の湊」が、どこにあったについていろいろな説が出されています。例えば「丸亀の歴史散歩」には、次のように記します。(要約)
①途中に亀山があるが、中津、今津、津森、中府、高津などを結ぶが線がほぼ一直線となっているので、この直線のあたりが昔の海岸線。②現在の中津、今津、津森のあたりから北は海で、柿本人麿が舟出した中の水門も、今津か津森③現在に残る地名由来からすると、「津の守」は郡港役所のあった所、宮浦は船の着く所、八日市は八のつく日に物々交換の市が立った所。④津森天神のあたりが港で、津ノ守から津森の地名になった。
津森天神宮の名前については、次のような2つの話が伝えられます。
A 景行天皇の孫津森別命と津森王が、ともにここにいたという説
B 菅原道真が国司として国内巡視の際に、亀山の麓の松原から那珂の入江の風光を眺め、「あの森は何か」と聞かれたので「加治須(梶州)の森といい、天穂日命を祭る社です」と答えたところ、道真は「わが遠祖の神だ」と言い、わざわざ下馬参拝したので、やがて州の森が津の森となったという説
そして次のように続けます。
古代においては津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていまう。鎌倉時代には、北方約700mの所にある法然上人ゆかりの擢掘の井戸のあたりも砂浜となっていた。鎌倉時代の海岸線はこの井戸の北にある県道多度津線のあたりと思われ、今津や津森は既に陸地になっていたわけである。
前回にお話ししたように、西汐入川は丸亀競技場の先代池や平池附近を源流として、Aの今津で大きく東に屈曲して丸亀福島町で瀬戸内海に流れこんでいます。A地点で屈曲する理由は、北にB・C・Dの砂丘帯が東西に伸びているからです。そのため北上できずに東流し、砂丘帯の隙間を縫って福島へ流れ出します。問題は、この砂堆がいつからあったのかということです。
「丸亀の歴史散歩」には「津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていった」とありました。しかし、この状態は中世にはじまるものではなく弥生時代以前まで遡ると研究者は考えています。そうすると、津森や今津は古代にはすでに「陸封」され、湊の機能を果たすことはなかったことになります。確かに、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳に、多度津や宇多津は登場しますが、津森や今津はでてきません。交易活動などが史料では追いかけられません。
それでは那珂郡の湊は、どこにあったのでしょうか? 私が注目するのは金倉川河口の西側周辺です。
金倉川河口 明治39年
金倉川河口の土地利用図 Bは那珂郡と多度郡の旧郡境
金倉川河口西側の下金倉や中津万象園は、丸亀市に属します。それは、Bの那珂郡と多度郡の郡境がここにあったためです。古代の郡境は川が「自然国境」とされることが多かったようです。そういう意味では、金倉川の西に那珂郡の一部(下金倉)があります。これは、古代に郡境線が川沿いにひかれた後に、流路変更があったことを伺わせます。もともとは旧金倉川は、下金倉と北鴨の間を流れ、堀江付近で海に流れ出していたことが考えられます。もうひとつは、堀江にも砂丘堆が東西に伸びて、その背後に大きな潟湖があったことが地形復元できることは以前にお話ししました。
堀江から道隆寺に駆けて拡がっていた「堀江潟」
また、古代には「港」という言葉は使わずに、次のような用語が使い分けられていました。
柿ノ本人麻呂は「中(那珂)の水戸」と表記しています。水戸=水門=「河口にできた船着き場」になります。そうすると「中の水戸」は、金倉川河口にあったことになります。
以上から那珂郡の湊は、この潟湖の中の那珂郡に属する部分か、旧金倉川沿いあったのではないかと私は考えています。その根拠を挙げておきます。
①金倉川は那珂郡の重要輸送ラインであった。その河口に湊を設置するのが便利②道隆寺・下金倉・北鴨 → 金倉寺は活発な人とモノの動きがあった。③多度郡の古代の郡港は弘田川河口の白方にあり、競合関係にはなかった
④「中(那珂の水戸」は、旧金倉川河口にあった潟湖が考えられる。
以上を整理して起きます
1 柿ノ本人麻呂の歌の中に「中の水門=那珂郡の湊」から出港したことが出てくる
2 那珂郡の湊については、従来の説では津森や今津などが挙げられてきた。
3 しかし、津森や今津は古代の時点で砂堆によって陸封化され、湊としての利用は難しかった
4 そこで、現在の金倉川河口の東側の那珂郡に属する潟湖の内側が那珂郡の湊候補として考えられる
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追補
1 柿ノ本人麻呂の歌の中に「中の水門=那珂郡の湊」から出港したことが出てくる
2 那珂郡の湊については、従来の説では津森や今津などが挙げられてきた。
3 しかし、津森や今津は古代の時点で砂堆によって陸封化され、湊としての利用は難しかった
4 そこで、現在の金倉川河口の東側の那珂郡に属する潟湖の内側が那珂郡の湊候補として考えられる
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追補
「中乃水門」について「新編丸亀市史1 398P」には次のように記します。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。平野部に位置し津としての立地条件はよくないが、南海道那珂郡衙からまっすぐに通じ、距離もわずか三・五㎞と近い。四条川によって長年月にわたり運ばれたおびただしい土砂は、海中に堆積して広大な洲を形成した。現在の福島町・新町・新浜町・塩屋町・前塩屋町・天満町などである。このように③四条川の河口に開けた中乃水門は、しだいに内陸部に位置するようになり、津としての機能を失ってゆく。④中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。承元元年(1207)三月、専修念仏停止で讃岐国に配流となった法上人が、5月に小舟で塩飽を出て上陸したのがここ今津である。
丸亀市史は、流路変更される以前の旧金倉川は四条川であったという立場で書かれています。これを「四条川=旧金倉川」に置き換えて要約してみます。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。
②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。
③近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。
③近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
④四条川の河口に開けた中乃水門は堆積作用で陸封化され、津としての機能を失っていった
⑤中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。
津森周辺の土地利用図を見ておきましょう。
先ほど見た西汐入川(旧金倉川)の支流が幾筋も現在の金倉川と併行に南北に流れています。津森町も東西に支流跡が見えます。このように丸亀平野になる前に「丸亀扇状地」では、土器川や金倉川は幾筋もの流れに分かれて網の目状にながれていたことは以前にお話ししました。ここでは、旧金倉川も数多くの支流があったことを押さえておきます。
次に「北流し海に注いでいた」とありますが、先ほど見たように津森の北には、東西に走る砂堆が東西にB・C・Dとありました。砂堆は、B・C・Dの順番に形成されてきたものですが、その起源は古代に遡ります。そのため旧金倉川は北流できずに、東流して福島町あたりで海に流れ出していました。当時の津森や今津と砂堆の間は、洪水時には湧水池化して広大な芦ノ原となっていたことが考えられます。
⑤中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。
津森周辺の土地利用図を見ておきましょう。
丸亀市津森・今津周辺の土地利用図 旧金蔵川の河道跡が何本も見える
先ほど見た西汐入川(旧金倉川)の支流が幾筋も現在の金倉川と併行に南北に流れています。津森町も東西に支流跡が見えます。このように丸亀平野になる前に「丸亀扇状地」では、土器川や金倉川は幾筋もの流れに分かれて網の目状にながれていたことは以前にお話ししました。ここでは、旧金倉川も数多くの支流があったことを押さえておきます。
次に「北流し海に注いでいた」とありますが、先ほど見たように津森の北には、東西に走る砂堆が東西にB・C・Dとありました。砂堆は、B・C・Dの順番に形成されてきたものですが、その起源は古代に遡ります。そのため旧金倉川は北流できずに、東流して福島町あたりで海に流れ出していました。当時の津森や今津と砂堆の間は、洪水時には湧水池化して広大な芦ノ原となっていたことが考えられます。
以前にもお話ししたように、津森は丸亀扇状地の突端あたりに位置します。その下の砂州の一部を開発することは出来ても、北側にできた遊水池を全面的に開拓できる技術力は古代にはありません。また、湧水地に福島方面から船が入ってこられていたかどうかは分かりません。もし、堀江潟のようになっていたのなら港としての機能はあったかもしれません。今の私に言えるのは、ここまでです。
また、丸亀市史399Pは中津については次のように記します。那珂郡の古代の津は、中乃水門であったことはうなずけるが、中世においては堀江津の可能性もある。いずれにしても、中津という津はまったく存在しない。従来、現在の中津町の読み方を誤解して、金倉川の河口を那珂津に比定する説が多いが、これらの説は間違っているのである。起名の由来は中州であり、このナカスが濁音化してナカズとよばれるようになったのである。近世後期に入って、たまたま中津の字が使われたもので、現在もナカツとは決してよぶことはないし、「中州」「中津」は俗称地名であった。






























































































































































