徳島市川西遺跡
位置は徳島市の眉山の南を流れる園瀬川が、その流れを北から東に変える川西地区です。現在の園瀬川は遺跡よりも南側を流れていますが、近世までもう少し北まで入り込んで流れていたようです。

旧園瀬川の流路(青色) 川西で大きく東へ蛇行している
川西でU字に流れを変えるので、岸の浸食をおさえるために次のような護岸工事が鎌倉時代以後に行われてきたようです。①第1段階 鎌倉時代から室町時代にかけて川岸斜面を東西45m、南北10mにわたり、重さ2kg程度の結結晶片岩(青石)で石積みして護岸。②第2段階 13世紀に重さ15kg前後の青石をその上に積んで、補強。③第3段階 13世紀後半に石敷き護岸上に直線状の築地状の石積護岸施行④第4段階 14世紀中葉から砂礫が堆積した中洲に向けて、東西幅5m、南北の長さ15の突堤を設置し、川港化⑤第5段階 14世紀後半に、築地状の石積護岸と、突堤の西側接合部分を水流から保護するために、縦杭・添え木・横木を組み合わせた複数の柵設置。⑥その後も補強・増築が行われて、石積みに加え盛土をしたり、捨石と石留め杭で堅固化
ここで私が注目するのは、④の中洲に向けて作られた石積みの上に盛土で覆った突堤です。河川立地の遺跡で、このような突堤構造を採用する遺構は、中世以前には類例がなく、初めての出土になるようです。
港湾施設が港に現れる時期を、再度押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀③階段状雁木は18世紀
確かに「石積護岸 + 川港」としては、全国で最も古いものになるようです。



ポイントをまとめると、
①河川の石積み護岸としては、国内最古の鎌倉時代の護岸施設。②そこに室町時代に川湊が設置されたこと。
鎌倉時代から室町時代前半の約250年間にわたり、この地区を大規模な洪水から守ってきたことになり、現代の河川護岸の原型とも云えます。また、突堤状の遺構は、船着き場である川湊(=川津)であったと研究者は考えています。
どうして、ここに整備された川湊が開かれていたのでしょうか
斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具、将棋の駒、カタカナ文字が書かれた木簡、仏具「独鈷杵(どっこしょ)」の鋳型祈祷などです。その他にも漆器椀、折敷(トレーのようなもの)など食膳にかかわるものや、櫛、下駄、扇など装いにかかわるものもあります。呪術や祭礼に使われた土器は穢れを嫌い、そのまま川へと捨てたようです。そのため無傷なままの土器が大量に出土しています。木製品の中には製作途中のものや木屑もあります。ここからはこの遺跡周辺で、漆器椀などの木製品の生産工房や建築木材の加工場があったことが推測できます。
木製品が大量に出土する場所は、鎌倉時代の西日本にあっては、寺院であることが多いようです。 それを裏付ける物として、寺院建築の存在をうかがわせる平安末期の軒平瓦や軒丸瓦も出てきています。
12世紀末~13世紀前半の瓦 左流水巴文(?)
つまり、川西遺跡周辺に木工工房を持つような有力な寺院があったことがうかがえます。木製品の生産工房や建築木材の加工場を管理統括する寺院が、製品の出荷や原材料などの物資を集積するために、この川湊を築造したと研究者は考えています。以前に、讃岐大内郡の与田寺には増吽によって組織された工房があって、仏像や神像・版木を制作する一方、大般若経書写センターなども兼ねていたことをお話ししました。その工房とイメージがダブってきます。
那賀川などのように、園瀬川流域でも木材が切り出され、河口に運ばれていたこと、その管理機能を持つ寺院が周辺にあったとしておきましょう。
その寺院とは、どんな寺院だったのでしょうか? 地元の村史には次のように記します。
①川西地区は「道成寺」や「大徳寺」という時期不明の寺があったと、②近くに「西光寺」の地名が残り、バス停にもなっている。③約2km東には、2002年に約3700枚の埋納銭(注1)が出土した寺山遺跡(徳島市八万町)がある。④その近くには、平安末期創建の「金剛光寺」(注2)という大きな寺があったとされる。
④の「金剛光寺」について「八万村史」(1935年)は、次のように記します。


「境内の広きこと、上八万村の北方より下八万の西方にまたがり、園瀬川屈曲して境内を流れ……」「七堂伽藍建ちてその宏壮(こうそう)美麗は丈六寺に拮抗せり」
寺山の西隣の小山には、平安時代に建立された金剛光寺があった。寺が栄えた鎌倉時代には境内に閼伽池(あかいけ)と称する庭池があった。この池が昔の園瀬川の流路の一部であったと云うのです。それが天正年間(1573~92)に侵攻した長曽我部元親に焼き払われたとされます。
寺山遺跡と川西遺跡には、土器の出土状況などに共通点もあるようなので、金剛光寺の工房が川西にあった可能性もあります。
以上から、次のような仮説を出しておきます。
①鎌倉時代から250年間にわたって木材供給などで大きな利権を持っていた寺院があった。②その寺院は川西に木工工房を持ち、そこで仏像や版木などが制作されていた。
③同時に、園瀬川の浸食を防ぐために石積護岸が作られ、背後にあった木工工房を護った
④室町時代になると、中堤防が作られ川港が姿を現す。
⑤これは、このエリアが河口と上流を結ぶ河川交通の中継地として重要な役割を果たしていたことを物語る。
以上からは阿波の川港には、室町時代には川西遺跡と同じような護岸と川港を持った施設が各地に姿を見せていた可能性があります。そして、その川港も瀬戸の港のように、寺院の管理下にあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P
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