前回は大野原新田開発に、そのシンボルとして井関池が登場するまでを追いかけてみました。完成後の井関池は、次のように決壊と復旧をの繰り返します。
①正保元年(1644年)2月に7ヶ月の突貫工事で井関池完成②同年8月に堤防決壊③翌年正保2年(1645)2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊④慶安元年(1648年)に決壊
こうしてみると数年で3回も決壊しています。工法に問題があったのと、余水吐けの排水能力が不足していたようです。井関池は、柞田川に直接に堤防を築いています。そのために台風時などの大雨洪水になると、東側のうてめだけでは余水が処理しきれなくなり、堤防の決壊を繰り返したようです。その結果、修復費用がかさみ資金不足のために復旧に目途が立たず、入植した百姓達の中には逃げ出すものも出てきます。大野原開発の危機です。
これに対して平田家は、次のように対応策を打ちだします。
①丸亀藩に対して井関池復興事業を藩普請で行うように求めて同意を取り付けたこと② 洪水時の流下能力向上のために、うてめ(余水吐け)の拡張工事を行う事③明暦(1656)年11 月に平田与一左衛門が亡くなった後は、二代目与左衛門源助が本拠を京から大野原に移して腰を据えて新田開発に取り組む姿勢を見せたこと
こうしてようやく平田家の開墾新田は軌道に乗っていきます。
そのような中で、井関池の改修がどのように行われたのかを、尾池平兵衛覚書で見ていくことにします。テキストは「観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」です。
そのような中で、井関池の改修がどのように行われたのかを、尾池平兵衛覚書で見ていくことにします。テキストは「観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」です。
解読文 12
東宇手目(うてめ)ヨリ横井キハ迄生山ヲ堤二仕候分ハ、地蔵院寺領之内ヲ、山崎様御代二御所望被成、池堤二被仰付候。
東うてめ口から横井の際までは、山を堤として利用している。この山については、もともとは地蔵院寺の寺領であったものを、山崎家にお願いして池堤として利用できるようになった。
大野原開墾古図(1645年) 井関池周辺の部分図
上記のトレス図
地図を見ると井関池の東側には、地蔵院(萩原寺)が見えます。中世にはこの寺は非常に大きな寺勢を有した寺でした。現在の井関池の東側までは地蔵院の寺領だったようです。そこで藩主に願いでて払い下げてもらって、堤として利用したと書かれています。その尾根を切通して「うてめ(余水吐け)」を作るというプランだったことが分かります。井関池は西嶋八兵衛が底樋を設置するまで工期が進んでいたとされるので、この堰堤位置を決定したのは西嶋八兵衛の時になるのかも知れません。西嶋八兵衛が築造した満濃池のうてめ(余水吐け)を見ておきましょう。
満濃池遊鶴図 池の宮の東につくられた「うてめ」
満濃池遊鶴図 池の宮の東につくられた「うてめ」
満濃池のうてめも堅い岩盤を削ってつくられている。
②井関池の「うてめ」拡張工事について、「尾池平兵衛覚書10 井関池東宇手目(うてめ)を十間拡げた事」44Pには次のように記します。
大野原之義井関池ハ川筋ヲ築留申二付、東宇手目幅四間岩ヲ切貫候故、水大分参候時ハ本堤切申二付、毎年不作仕及亡所二、最早中間中も絶々二罷成候。然処ヲ柳生但馬様ヲ頼上、山崎甲斐守様江御歎ヲ被仰被下二付テ、山崎様ヨリ高野瀬作右衛門殿と申三百石取フ為奉行、御鉄胞衆弐百人斗百十日西(東力)宇手目拾間廣被下候。以上拾四間二候。夫ヨリ以来堤切申義無之候。
意訳変換しておくと
大野原の井関池は、柞田川の川筋に堤防を築いているために、幅四間の岩を切り貫ぬいたうてめ(余水吐け)では、洪水の時には堤防を乗り越えて水が流れ、決壊した。毎年、不作が続き「中間」中でも資金が足りなくなってきた。そこで、柳生但馬様を通じて、丸亀藩の山崎甲斐守様へ藩の工事としてうてめ拡張工事を行う嘆願し、実現の運びとなった。山崎様から高野瀬作右衛門殿と申三百石の奉行が鉄胞衆200人ばかりを百十日動員して、東のうてめを10間拡げた。こうしてうてめは14間に拡張し、それより以後は堤が切れることはない。
ここからは、もともとのうてめは幅4間(1,8m×4)しかなかったことが分かります。それが堤防決壊の原因だったようです。拡張工事を行ったのが、丸亀藩の鉄砲衆というのがよく分かりません。火薬による発破作業が行われたのでしょうか?
井関池の東うてめ(余水吐け) 固い岩盤を切り通している
余水吐けの下は「柱状節理」で、固い岩盤です。これを切り開いて余水吐としています。満濃池もそうですが、うてめは岩盤の上に作られています。土だとどんなに堅く絞めても、強い流水で表面が削り取られていきます。柱状節理や岩盤の尾根を削って余水吐けを作るというのは、西嶋八兵衛が満濃池で採用しているアイデアです。また、西嶋八兵衛が井関池建設に着工していたとすれば、金倉川と同じように柞田川の大雨時の流入量も想定していたはずです。幅4間の狭い余水吐けで事足りとはしなかったはずです。平田氏は池普請にどのような土木集団を使ったのでしょうか? その集団が未熟だったのでしょうか。このあたりのことが、もうひとつ私には分かりません。
次に「11 井関池東の樋を宮前の樋と申し伝える由来(45p)」を見ておきましょう。
大野原請所卜成、東宇手ロキハノ堤ノ上弁才天池宮ヲ立置候処二、戸マテ盗取候二付、今慈雲寺引小社之ノ中ノ弐間在之力、先年ノ井関二在之社二候。然故、井関東ノ樋ヲ宮ノ前ノ樋卜今二言博候。
意訳変換しておくと
大野原が平田家の請所となって、東の宇手目(うてめ:余水吐)の堤上に弁才天池宮を勧進した。ところが宮の戸まで盗まれてしまった。今は慈雲寺に二間ほどの小社があるが、これは井関池にあった弁才天社をここに遷したものである。この由来から井関池の東樋を「宮の前の樋」と今でも呼んでいる。
もういちど大野原開墾古図を拡大して見てみましょう。
大野原開墾古図 井関池拡大
この図からは尾根を切り通した「うてめ」の西側に「弁才天」が見えます。そこまでが「山」で、ここを起点に堤が築かれたことが分かります。池の安全と保全、そして大野原開発の成就を願って、ここに弁才天が勧進され小社が建立されたようです。それが後に、慈雲寺に遷されますが「宮の前の樋」という名前だけは残ったと伝えます。東うてめ拡張以前のことについて「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)には、次のように記されています。
「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
解読文
新樋卜申ハ先年東宇手目四間ニテハ水吐不申ニ付、彼新樋ノ所ヲ幅八間ノ宇手ロニ仕候。堤ヲ宇手目ニ仕候ヘテ、中之水ニテ洗流二付、下地へ篠ヲ敷其上ヲ拾八持位ノ石ヲ敷、又其上ヲ篠ヲ敷其上ヲ真土ニテ固メ、其上ヲ大石ヲ敷宇手ロニ仕候得共、洪水ニハ切毎年不作仕候。其時分ハ今ノ小堤西南ノ角フ又堤二〆、四尺斗之樋ヲ居裏表二鳥居立二仕、宇手目 .吐申時ハ東小堤へ方へ水不参様二仕、用水ノ時ハ戸ヲ明候。扱大井手下ノ高ミノキハ二四尺四方ノ臥樋ヲ居、宇手目 一吐中時ハ戸ヲ指、宇手目水ヲ今ノ大河内殿林中へ落し候。其臥樋今ノ慈雲寺門ノ橋二掛在之候。
新樋というのは、先年に東うてめ(余水吐)四間だけでは充分に洪水時の排水ができないので、幅八間のうてめを新たに堤に設置したもののことである。堤から流れ落ち流水で下地が掘り下げられるのを防ぐために、下に篠を敷いてその上に10人で持ち上げられるほどの大きな石を強いて、さらにその上に篠をしいてその上に真土で堅め、その上に大石をおいてうてめ(余水吐け)とした。しかし、洪水には耐えることができなかった。その頃は今の小堤の西南のすみに堤を築いて閉めて、四尺ばかりの鳥居型の樋を建てた。東のうてめから水が流れ出しているときには、東の小堤へ方へ水が行かないように閉めて、用水使用時には戸を明けた。大井手の下の高ミノキは四尺四方ノ 竪樋で、うてめが水を吐いているときには戸を指し、うてめ水を大河内殿林側へ排水した。その底樋が今の慈雲寺門の橋となっている。
ここからは、東のうてめの拡張工事の前に、西側に8間の新しい「うてめ(余水吐け)」を堤防上に開いていたことが分かります。先ほども述べましたが、うてめは強い流水で表面が削り取られていきます。そのためにコンクリートなどがない時代には、岩盤を探して築かれていました。そのための工法が詳しく述べられています。それでも洪水時には堪えることが出来なかったようです。土で築いた堤防上に「うてめ」を作ることは、当時の工法では無理だったようです。そこで池の西南隅に別のうてめを作ったようです。以上から井関池では洪水時の排水処理のために次の3つの「うてめ」が作られていたことが分かります。
①東のうてめ(幅4間で岩盤を切り抜いたもの)
②堤防上に「新うてめ」(8間)
③西南のうてめ
④東のうてめの拡張工事(8間)
東うてめの拡張工事後の対応について「14 ツンボ樋の事」は、次のように記します。
解読文
右之宇手目数度切不作及亡所二候故、御断申宇手目ノ替二壱尺五寸四方ノ新樋ヲ居、池へ水参ル時ハ立樋共二抜置、池二水溜不申様二仕候。然共洪水ニハ中々吐兼申二付、東宇手目拾間切囁今拾四間ノ宇手ロニ成候。右之新樋ハ東方ノ石樋潰ツンホ樋ト名付、少も用水ノタリニ不成候二付、右之新樋ヲ用
水樋二用末候。
意訳変換しておくと
右の宇手目(うてめ)は、数度に渡って決壊し使用されなくなったので、うてめの替わりに壱尺五寸四方の新樋を設置した。そして大雨の時に池へ水が流れ込む時には、立樋と共に抜いて放流し、池に水が貯まらないように使用した。ところが洪水の時には、なかなか水が吐けなかった。そこで東うてめを10間を新たに切り開いて、併せて14間の「うてめ」とした。そのため新樋は東方の石樋完成によって使われなくなり「ツンホ樋」と呼ばれ、まったく要をなさないものになった。そのため新樋を水樋に使用した。
③の西南のうてめも数度の決壊で使用不能となっています。そこに1尺5寸(50㎝)四方の底樋を埋めて新樋とします。そして大雨時の排水処理に使おうとしたようですがうまくいきません。結局、東うてめの拡張工事が終わると無用のものとなり「ツンボ樋」と呼ばれるようになったようです。
ここからも東うてめ拡張以前に、いろいろな対応工事が行われていたことが分かります。
今回は「尾池平兵衛覚書」の井関池のエピソードから分かることを見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。ここからも東うてめ拡張以前に、いろいろな対応工事が行われていたことが分かります。
参考文献 「観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」
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