瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 三豊の歴史

山本町大野
大野村(三豊市山本町大野)
       
西讃府誌には、佐文綾子踊の後に、豊後小原木踊が次のように紹介されています。
大野村の豊後踊り
大野村の雨乞い踊り「豊後・小原木踊」
「大野村ノ人雨ラ祈ルニ踊リナス。村人上組下組とニツニワカレ、上ナルヲ豊後、下ナルフ小原木卜琥ク」
「先八幡宮、次に樋盥(ひだらい)、次に澱醸(よどしこ)、次に役場と凡そ六処一日になすと云」
ここからは次のようなことが分かります。
①「村人が上組と下組の二つに分かれ」、それぞれが「豊後、小原木」と呼ばれる2組の踊組があったこと
②大野村の八幡宮、樋盥(ひだらい)、澱醸(よどしこ)、役場などの6ヶ所で踊られたこと
 この踊りについては「西讃府志」が完成した1859(安政6年)頃までは、踊られていたことが分かります。しかし、その後いつころまで続いたかなどは分かりません。西讃府誌に残るだけの謎の雨乞踊のようです。
   西讃府誌に載せられている「豊後踏舞(踊り)」の歌を見ていくことにします。

大野村の豊後踏舞
豊後踏舞(西讃府誌)
大野村の豊後踏舞2
              豊後踏舞
大野村の豊後踏舞 佐渡島2

歌詞の内容から、綾子踊、さいさい踊、和田の雨乞踊と同じ系統に属するもので、江戸時代初期までさかのぼると、研究者は考えているようです。
次のように「何々をどりは一をどり」という形式の文句が各歌詞に出てきます。
「豊後のをどりは一をどり」
「札所をどりは一をどり」
「佐渡島をどりは一をどり」
「泉水をどりは一をどり」
「忍びのをどりは一をどり」
「天笠をどりは一をどり」
「小笹をどりは一をどり」
「鐘巻をどりは一をどり」
「本蔵をどりは一をどり」
この形式句は、近世初期の歌謡に良く出てくるスタイルです。
また「うらうら(浦々)」には、
あれに見えしはどこ浦ぞ、音に間えし堺が浦よ、
堺が浦へおし寄せて、ひいめがはかをつもろふよ、
いくさのはかをつもろふよこれ
と同じ形式で讃岐の浦、八嶋の浦が歌われいます。瀬戸内海の繁栄する港町の様子がいくつも歌い込まれています。
 構成・扮装・芸態について、「西讃府志」は次のように記します。

  大野村の豊後踊り 西讃府誌
     「豊後・小原木踊」の芸態について(西讃府誌)
  上文を意訳変換しておくと
(芸態は)3の輪を作り、第一輪の中心に傘宮という大きな傘の上に宮を置いて、そこに造花などを飾って。これを数人が持って立つ。第一輪には「花受」と呼ばれる、7・8歳の童子、40人ほどが花笠を被って、扇を持って、化粧し廻りに立つ。その外側の第二輪には、小踊と呼ばれる12歳から15歳ほどの童子が、麻衣の振袖を着て、女帯を結んで、菅笠に小さな赤い絹地を着けたものを被って、扇子を持って40人ほどが輪になって立つ。その外側の第三輪には、警護として20歳ほどの男数十人が、羽織を着て刀を指して大きな団扇を持って周りに立つ。第二輪と第三輪の間には、太鼓打4人、鉦打2人、出音頭4人、付音頭4人が立つ。太鼓と鉦打は、共に陣笠を被り、半臀(はんひ)の裾に鈴が付いたものを着て、草鞋(わらじ)を履いて脚絆を結ぶ。太鼓は胸に結付けて、両手にバチを持って、歌の曲節に合わせて、輪の周りを走り廻リながら打ち鳴す。音頭(芸司)は、金銀の紙で縁どった大きなハ団扇を持って、その傍らに並立つ。先ず音頭(芸司)が謡い出し、
大野村の豊後踊り3
    「豊後・小原木踊」の芸態について・その2(西讃府誌)
上文を意訳変換しておくと
付音頭も第二句から声を合せて共に歌う。 
 踊り初めの時、「先番板」という踏舞(踊り)の次第を書付けた板を会場に立てる。次に追払(ついはらい)という長刀を持った男二人が進みでて、その場を清め開く。次に、修験者三人が法螺貝を吹き、花受・小踊・警護の手引が一人づつ入場する。中には花受ではあるが兜を被り、上下を着、団扇を持ったものがいる。その時に手引の者は、先に入場して、それぞれの位置を定める。踊り終ると、修験者の法螺貝を合図に退場する。最初に八幡宮、次に樋盥、次に換醜、次に役場、など六ケ所を一日で廻ると云う。
これを見ておどろかされるのは、その編成規模です。
①三重の輪踊りで、「花受40人+子踊40人+警固60人=140人」+芸司・太鼓・鉦・芸司・法螺貝吹きなどを合わせると、150人を越える大編成部隊になります。滝宮に踊り込んでいたい念仏踊りの各組の編成規模と同規模です。風流小歌踊系の雨乞踊としては、最も規模の大きなものであったようです。
②「西讃府志」の説明分量も、佐文綾子踊りと同じくらいの記述分量があります。西讃の風流小歌系雨乞踊として、綾子踊と同じ規模と認識されたいことがうかがえます。

讃岐雨乞い踊り分布図

もういちど讃岐の風流雨乞い踊りの分布図を見ておきましょう。
上図を見ると、讃岐の風流雨乞い踊りが三豊南部に集中していること。その東端が佐文綾子踊であることが分かります。ここからは綾子踊の成立には、三豊の風流踊りがおおきな影響を与えていることがうかがえます。
 以前にお話したように、佐文は「七箇念仏踊り」の主要な一員として、芸司や子踊りも出していました。それが19世紀になると次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞い踊りを取り入れながら、新たな踊りを「創作」したのではないかというのが、今の私の仮説です。

大野の小原木踏舞.J 鐘巻PG

大野の小原木踏舞.2J 鐘巻PG

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 豊後・小原木踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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財田仲
財田中の入樋
三豊市財田町は、財田上、財田中、財田西に分かれていますが、古くはそれぞれ上の村、中の村、西の村と呼ばれていました。そのうちの財田上の村は多度津領で、さいさい踊が伝わっています。一方、財田中の村は丸亀藩で、弥与苗(やとな)踊・八千歳(やちよ)踊・繰り上げ踊が踊られていました。それ今では、財田中の一集落である入樋に伝承されています。
 弥与苗踊は、「いよいよ苗を与える」踊という意味で名付けられたとされます。それに対して八千歳踊・繰り上げ踊は盆踊で、八千歳踊は祝う心もち、繰り上げ踊は歌や踊のテンポが早くなり次第に興が高まる踊りとされます。この三つをまとめて入樋の盆踊りと呼んでいるようです。 踊りはもともとは、旧七月の旧盆で、今は新盆踊として踊られています。雨乞踊りとして踊られるときには、財田川の上流瀬戸の龍王で踊り、それから雨の宮神社、塔金剛(とうきんこう)の五輪塔の前の3か所で踊ったという。今はエリエールゴルフ場の西側に鎮座する高津神社(王子大権現)の坂の下の入樋公民館の前の広場で踊られています。

財田中入樋の高津神社
高津神社(財田中の入樋)
大正10年頃に大西恭造氏が書いた「弥与苗踊略縁起」を筆写したものには、次のように記されています。

抑当村雨乞の由来を訪ぬるに、人皇第六十一代朱雀天皇の御宇近江の国矢上山と言ふ所に娯蛭ありて人を傷つくる事数多なれ共、之を退治する事叶はす。衆人受ひに沈む事幾年なるを知らず。疑に人職冠藤原鎌足公の後胤俵藤人秀郷なる者、日本無双の英雄にて、龍神より百足退治の詔勅を受け、則ち近江路に到り、瀬多橋より容易く退治給ふ事、沿く人の知る所なり。其時龍神より報恩の為秀郷の望みを叶ふべしとありし時、秀郷日く、吾故郷は、動もすれは早魃多し。人民の飲き聞くに忍びず。願はくは月に六度の雨を降らし給はらば、生涯の本望足に過ぎすとありけれは、龍神願の如く永世の契り諾し給ひけり。其時秀郷は上之村谷道(財田上の村・渓道)の城に有り給ふ。之より財田の私雨と言ふことを世に言はるる事となり、且つ川の名を財田(たからだ)川といふ因縁は此時より始まると申し侍るなり。
其後数代を経て長久四年の春、天下大いに旱りして苗代水なし。其時雨の官に於て有徳の行者、三十七日雨を乞へども、更にその験なし。最早重ねて祈る力なしとて心を苦しむ。折柄其の夜、不思議の霊夢を蒙むり、爾等心を砕きて数日雨を乞ふ志薄からきる事天に通せども、村中衆生の願力薄き故に、雨降り難しと言ふ事を論され、それより時を移さず、村民一同踊を奏し御神意を勇め奉らんと思ひて,則ち踊の手と音頭の文を作りて奏し奉りし時、雨大いに降りて豊作を得たり。苗を与ふると言ふ心を直ちに弥与苗踊と名附けたり。此時都の歌人来り居て、此の不思議の霊験に感じて、
財田や何不足なき満つの秋
と詠みしとなり。其の後も早ありし時踊を奏し奉りて、御利生を蒙むる事皆人の知る所なり。依て略縁起如件 大義
    意訳変換しておくと
そもそも当村の雨乞由来を訪ねると、第六十一代朱雀天皇治政(在位930年10月16日 - 946年5月23日)に近江国矢上山というに娯蛭(大むかで)が現れて、多くの人々に危害を与えた。しかし、退治する者が現れず、人々は長年苦しんでいた。そんな中で藤原鎌足公の子孫で俵藤人秀郷という者が、日本無双の英雄として、龍神より百足(むかで)退治の詔勅を受けて近江路に出向いた。そしてついに瀬多橋で退治したことは、衆人の知るところである。この時に、龍神から報恩褒美として秀郷の望みを何でも適えてやろうと言われた。そこで秀郷は、故郷の讃岐財田は、早魃が多く、人々が苦しんでいます。願わくば、月に六回は雨を降らていただければ、生涯の本望ですと答えた。龍神は、この願いを永世の契りとして聞き入れた。この時に秀郷は、上之村谷道(財田上の村・渓道)の城を居城としていた。そこで、財田に降る雨を「財田の私雨(わたくしあめ)」と、世間では呼ぶようになった。また、川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まると伝えられる。

   その後、数代を経て長久四(1043)年の春、天下は大旱魃となり苗代の水もない日照りとなった。
そこで雨の宮で、験のある行者(修験者)が37日も雨乞祈祷を行った。しかし。それもむなしく雨は降らない。もはや重ねて祈る力ないと人々は心痛した。その夜、不思議な霊夢で龍王は次のように告げた。爾(なんじ)等の雨を乞ふ気持ちは天に通じている。しかし、村中のひとりひとりの願力が薄いために、雨が降らないのだ。」と。そこで、村民一同で神意を勇めようと思い、踊の手と音頭の文を作って、踊りを奉納した。すると雨が大いに降って豊作となった。人々はこの踊りに、「苗を与ふる」という思いで、弥与苗踊と名附けた。この時に村に滞在していた都の歌人は、この不思議な霊験に感じて次の歌を詠んだ。
財田や何不足なき満つの秋
その後も旱魃があれば、踊りを奉納して、御利生を蒙むってきたことは誰もが知っている所である。依て略縁起如件 大義
この縁起が書かれた大正時代後半は、讃岐を大旱魃が襲って、県が雨乞い踊りの復活実施を各市町村に通達しています。そこで明治以来、踊られることのなかった雨乞い踊りが各地で復活したことは以前にお話ししました。それを記録に残そうと、新たに由来・伝承が書かれます。それは、山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りでも見た通りです。そのような「創作背景」を押さえた上で、内容を見ていくことにします。
前半 
俵藤太秀郷の近江のむかで退治伝説 → 龍神からの褒美として財田の私雨(わたくしあめ)
 川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まる
後半
大旱魃の際に、修験者の雨乞祈祷だけでは龍神に届かなかった。そこで村民の心を一つにして神に伝えるために、踊りを奉納したこと。これが弥与苗踊と呼ばれるようになったこと。
ここで私が注目するのは、「修験者の雨乞祈祷だけでは雨は降らなかった。そこで村民一同で雨乞いのために踊った」という箇所です。
近世前半では、雨乞祈願の主役は修験者や高僧でした。農民達は、それを見守るだけでした。農民達が行うのは、雨乞成就のお礼踊りの奉納でした。祈祷自体は験のある修験者の行う事で、ただの百姓が龍神に祈願しても聞き届けられるはずがないというのが、当時の宗教観だったようです。それが近世末になると、修験者の祈祷を助けるために、自分たちも雨乞い踊りを踊るというスタイルがここには出てきます。そして、大正期に書かれた「伝書」には、雨乞いを後押しするために、村人もみんなで踊るという風に変化していきます。

弥与苗踊は雨乞踊りとしても踊りますが、盆踊りとしても踊っていました。


真中に太鼓をすえてその周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されたことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたのです。以下のような動きを押さえておきます。

風流雨乞い踊りの変遷図

弥生苗(やよな)踊りについて、「香川県の文化財」(昭和46六年香川県文化財保護協会刊)には、次のように記されています。

香川の文化財

「雨乞の折には四隅にしめなわを引きめぐらし、
踊り子は、蓑笠姿、手に団扇を持つ。
一曲を三回繰り返して六曲を雨の降るまで踊りつづけた

六曲とは次の歌です。
1 人葉(いりは)
ざんぎぎんざと いりょかいぐち いてとせきどをあらたみょや
2 弥与蘭
にしはじぐれの かやがやの雨 音はせぬかや 降りかかる
3 長生(ちょうせい)
ここはどこぞと たずねてみれは たからだやまのふるさとや 
音に聞えしたからだ山に 雨が降る 神の御利生か雨が降る
4 御元(おもと)
春は花さく 夏は橘 菊は九月の中の頃 鶯が小簸小校に巣をかけて ひよこ育てて 飛んで来る
5 糸巻き(いとまき)
たなばたの 朝ひく糸の 数々を 綾や錦を織りおろす 秋が来たかえ 鹿が鳴く なぜに紅葉か花が咲く
6 すくい
ひさしおどれば 花か散る つまおれがさに 露がする
弥生踊り
           弥生苗(やよな)踊り

1・2・3は雨をねがう内容のものですが、4・5・6は四季の風情を叙して、優雅な趣がしますが、雨には関係がありません。

弥与苗踊が終ると、八千歳踊へと移ります。
八千歳音頭
八千歳踊は、俵藤太物語の音頭があり、 ついで繰り上げ(クッリヤゲ)にうつっていきます。入樋の「繰上げ」金毘羅御利生
この歌詞を見ても、近世後期のもので、雨乞いとは関係ない内容です。 「讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」は、次のように記します。
八千歳踊は、舞の手が入り、腰や手首を微妙に使い、足を組む所作まであり、扇と手拭を派手に使って踊る。繰り上げ踊になると、テンポも早く、振りも複雑に派手になり軽快な踊となる。踊手は激しさに息をはずませることになる。繰り上げ踊の歌詞は、金毘羅御利生、鈴木主水、佐倉宗五郎、八百屋お七、和尚亀松、俊徳丸、お礼政次などのが登場し、いかにも盆踊にふさわしい。これらの口説を歌い続けて宵から夜が更けてしまうまで踊り興ずるのが音の風であったという。

「いかにも盆踊にふさわしい」の評の通り、まさに盆踊りなのです。輸踊であることもそれを裏付けます。この踊りは、雨乞踊と盆踊との関係を考える上に重要なヒントを与えてくれます。つまり、高見島の「なもで踊り」と同じように、「盆踊化した雨乞踊り」と研究者は考えているようです。しかし、私はそれは逆で「盆踊りが雨乞い踊化」したと考えています。
 なもで踊りの歌詞はすべて近世のものですが、弥与苗踊の六曲には、中世のものが含まれていますが、綾子踊や和田の雨乞踊、財田上のさいさい踊などよりは、内容的には新しいものと研究者は考えているようです。
弥与苗・八千歳踊に熟練し、伝承に熱心であった大木義武氏は次のように語っています。
自分が二十歳そこそこの頃に香川県全般に大早魃があり、豊田村の池の尻(観音寺市)から雨乞のため入樋の雨乞踊を踊ってくれと請われた。しかし踊ったとて降るとは限らぬからと一旦は断ったが、たって乞われたので行って踊った。真光院という寺の境内で踊ったが、始めの頃は星が空一面に出ていたのに、踊が進むにつれて、雨が降り出した。境内の松の露だろうと思って踊っていたが、ほんとうに雨が降り出したのであった。踊り終って小学校の校長先生宅で休んでいると雨は本降りになってきたc
手伝が来て大変なご馳走になり帰ってきたが、入樋の踊で雨が降ったという評判が高くなり、踊れば五遍に三遍は必ず降るものだという自信のようなものができた。
 ここにも大正時代の旱魃の際に、各地の雨乞い踊りが復興し、他地域からの奉納依頼があったことが分かります。これが踊り手達の自身や誇りとなり、記録や由緒などを残そうとする動きが出てきます。大正の大旱魃は、讃岐の雨乞い踊りの復興運動(ルネサンス)を引き起こしたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 弥与苗踊・八千歳(やちよ)踊  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

讃岐の風流雨乞踊りの伝播について、私は次のような仮説を考えています。
滝宮念仏踊りの変遷

①滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)の別当寺である龍燈院滝宮寺の社僧達は、蘇民将来の札などを配布することで信仰圏を拡げた。
②その際に社僧達(修験者・聖)たちは、祖先供養として念仏踊りを伝えた。
③こうして滝宮周辺では郷を越えた規模で踊組が形成され、郷社などに奉納されるようになった。
④それが牛頭信仰の中心地である滝宮に奉納されるようになった。
⑤生駒藩は、これを保護奨励したために滝宮への踊り込みは、大きなレクレーションとして成長した。
⑥一方、高松初代藩主・松平頼重は、この踊りを統制コントロールし、「雨乞踊り」として整備した。
⑦そのため滝宮念仏踊りは、もともとは風流念仏踊りであったが、次第に雨乞い念仏踊りとされるようになった。

この中で史料がないのが②です。滝宮念仏踊りの由来には次のように伝えられています。
A 菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになった
B 法然上人が雨乞いのための念仏踊りを伝えた
これでは②の「社僧達(修験者・聖)たちが、祖先供養として念仏踊りを伝えた。」という仮説を裏付けることはできません。そこで「迂回ルート」として、滝宮周辺の念仏踊りや風流踊りについて調べています。今回は、讃岐西端の豊浜の和田・姫浜と大野原の田野々に伝わる風流系雨乞踊りを見ていくことにします。テキストは   「和田雨乞踊り・姫浜・田野々雨乞い踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
この3つの雨乞踊は、伝承系統が同じと研究者は考えています。
それはひとりの「芸能伝達者」によって伝えられたとされているからです。どんな人物が、この地にこれらの風流雨乞い踊りを伝えたのでしょうか。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町和田道溝(みちぶち)
和田の道溝集落の壬申岡墓地に、薩摩法師の宝医印塔と墓碑があります。そこには、次のように記されています。
往古夏大旱、和田村庶民之を憂ふ。法師をして祈らしむ。法師はもと薩摩の人。自ら踊り其の村民に教へて雨を祈り、壬生岡に念ずる頃、 これ天乃ち雨ふり、年則ち大いに熟す。

  意訳変換しておくと
昔、大旱魃で和田村の人達が苦しんでいると、薩摩の法師が人々に、踊りを教えて壬生岡で雨乞祈願すると、雨が降り、その年は豊作となった。

ここには薩摩法師が歌と踊りを村人に教えて、雨乞祈願させたのに始まるとあります。そして墓の建立世話人には和田、姫浜、田野々の人々の名前が連なっています。

和田・田野々
和田・姫浜・田野々
 以上からは、3つの雨乞踊りが薩摩法師という廻国聖によって運ばれて来たことが裏付けられます。ただ、この「芸能伝播者」が「薩摩法師」だったかどうかについては疑問があるようです。「薩摩法師」説は、歌の中に次のような「薩摩」という歌があることから来ています。
薩摩

内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。この歌詞を早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性を武田明氏は指摘します。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。どちらにしても、和田、田野々などの踊り歌は、遍歴の「芸能伝達者」によってもたらされたことになります。
①踊りの歌詞が共に、慶長年間に和田にやってきた薩摩法師が伝えたとされること。
②曲目も「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられること。
以上を押さえておきます。
和田風流踊り 西讃府誌
    和田雨乞い踊り(西讃府誌)
和田雨乞い踊りについて、西讃府誌は次のように記します。

姫濱和田ナドニモ雨乞ノ踊舞ァリ、姫濱ナルヲ屋形トイヒ、和田ナルフ雨花卜云、踊ノサマハカハリタルコトナケンド、歌ノ、同ジカラズ。其サマ太鼓扱打八人、花笠ヲカツキ、太鼓を胸二結付、蝶脚(ておい)絆ヲナシ、鞋ヲ着テ輪ヲナシテ廻リ立、コレガ間二音頭ノ者数人交リ立テ、鼓ノ曲節ノマヽニウタフ、サテ其外ノ廻リニ、編笠ヲカプキタルガ、数十人メグリ立テ踊ル。其外二童子敷十人、叉編笠ヲキテメグリ踊ナリ、
 
    意訳変換しておくと
姫浜と和田には雨乞踊りがあり、姫浜のものを屋形踊り、和田のものを雨花踊りと呼ぶ。両者の踊りに違いはないが、歌詞が異なる所はある。芸態は太鼓打8人で、花笠を被り、太鼓を胸二に結びつけ、蝶脚(ておい)絆を着けて、鞋を履いて丸く輪を作る。この間に音頭(歌歌い)数人が入って、太鼓に合わせて歌う。その外廻りには、編笠を被った数十人が囲んで踊る。その外に童子が数十人、編笠を着て踊る。

ここからは 太鼓打が八人、音頭の者数人が中央にまとまり、その外側に数十人が輪を作り、その外に子供たちがまた数十人めぐって、二重の円陣の踊ったことが分かります。これは隊形や歌詞などから、もともとは盆踊りとして踊られていたものであったことが分かります。

和田風流踊の歌詞は、近世初期の歌謡だと研究者は指摘します。
その多くが綾子踊と同じ系統の風流小歌踊の歌詞です。第1章「雨花」のなかには、次のように地元の地名が出てきます。
大谷山にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり。
伊吹の嶋にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり
ここには「大谷山」や「伊吹島」のような地元の地名が出てきて、郷土色を感じさせます。しかし、それ以外には讃岐や三豊の地域性を感じさせるものはありません。各地の港を廻遊する船頭の目から見た「港町ブルース」のような感じです。定住者の目ではなく「旅する者の意識」で歌われていると研究者は指摘します。以下を簡単に見ておくと
第8章の「濃紅」は、寺の小姓との衆道の情調
和田風流踊り 濃紅
第2章の「屋形」・第11章の「めてた」は、屋敷褒めの歌です。
和田風流踊り 11番目立度

「めてた」の中に、次のように「歌連歌」という言葉が出てきます。

こなたのお手いを見てあれは、諸国のさむらひ集りて、弓張りほふ丁、歌連歌、たいこのがくうつ人もあり。

武士が歌連歌に興ずるのは、室町か江戸初期の風俗です。ここからもこの歌詞の時代がうかがえます。また次のような句法は、江戸時代初期の歌謡によく使われたようです。
雨ばなをどりを一をどり一をどり、       (第二章「雨花」)
やかたのをどりを一をどり一をどり、    (第二章「屋形」)
四季のをどりをいぎをどろふや、           (第二章「四季」)
さつまのをどりを一をどり一をどり、    (第五章「薩摩」)
とのこのをどりを一をどり一をどり、    (第九章「御段」)
以上からは、和田の風流踊は中世末から近世にかけて歌われていた風流歌であると研究者は考えています。私が注目するのは、次の記述です。
   (和田の)雨花踊は、雨乞踊というよりも、それ以上に雨乞御礼踊としてよく踊られたという。舞踊の振に舞の手があるといわれ、また子供も交わって踊るはなやいだ気分のものであり、多くの盆踊りと同じく中央に歌い手と囃子がおり、その周囲を踊り手が廻る形である。
ここでは和田の雨花踊は、「①中世の風流踊り → 雨乞御礼踊(成就お礼踊) → 雨乞踊」と変遷してきたことを押さえておきます。

豊浜国友寺
国祐寺(豊浜町台山)
雨乞祈願が行われた国祐寺には、次のような記録が残っています。
第15世松樹院日豊(安永三丙午八月廿六日没)が書き残した「新宮両社建立諸記」に次のように記されています。
宝歴十二壬午五月十六ノ暁ヨリ十八日迄二夜三日台山龍王ニテ雨請ス
同五日廿二日雨請礼踊在之候依之廿日二村之五人頭岡之停兵衛使二而案内申来候而廿一日之昼ヨリ村人足二催領人岡伝兵衛相添寺内之掃除二参申候。(注記「躍子太鼓打昇り持ニハ握飯二ツナラシニ遣シ申候」)
宝歴十二年六月廿五日 雨請之踊在之廿二日之昼五人頭太四郎使二雨申来候掃除人足水打人足如前。
意訳変換しておくと
宝歴十二(1762)年5月16日の暁から18日まで2夜3日に渡って台山の龍王社で雨請を行った。5月22日に雨請成就のお礼踊が行われることになり、20日に五人頭の岡之伝兵衛が、21日昼より国裕寺の寺内の掃除を人足達と行う事を伝えにやってきた。注記、「踊子と太鼓打と幟持には握飯2つを配布すると云った」)
宝歴十二(1762)年6月25日 五人頭の太四郎が使者としてやってきて、雨請踊を22日昼に行う。ついては、掃除人足・水打人足については前例通りと告げた。
台山の龍王社に籠って、雨乞いをして、雨が降ると雨乞成就のお礼として、踊りが踊られています。
明和三戌六月七日雨請踊在之候急之儀二而躍子笠なしにてをどり申候此方二而者宮斗二而済申候八日昼時分より雨ふり申候得共少々斗に而在之候
十日雨請之礼躍在之候
同月十七日之暁より十九日迄ニ二夜三日之雨請也 富山之龍王江籠り申候
六月廿六日礼躍在之候
七月十八日より同廿日迄二夜三日雨請いたし申候―八日七ツ時台山にて躍諸役人中は直に宮江籠申
  意訳変換しておくと
明和三(1783)年6月7日雨乞踊が急遽行われることになり、踊り子の中には、笠がないままで踊った者もいたという。この時には翌日の8日昼頃から雨が降った。しかし、少量であった。
10日に雨乞成就のお礼踊りを行った
6月17日の暁から19日までの2夜3日、当国裕寺の龍王へ籠もり雨乞を行った。
6月26日 (雨が降ったので)お礼踊りを行った
7月18日から20日まで二夜三日、雨請祈願を行った。18日七ツ時に、台山で踊諸役人たちは宮(龍王社)へ籠った。

  ここからは次のような事が分かります。
①18世紀後半に豊浜の和田では、旱魃の時には台山の龍王祠で雨乞いが行われていた
②そして雨が降ると台山の国裕寺の境内で雨乞成就のお礼踊りが奉納されていた
この史料からは、宝暦、明和のころには、国祐寺での雨請祈祷に合わせて、雨乞踊やその御礼踊が盛んに行われいこたことを押さえておきます。

安政五年に脱稿したという丸亀藩の「西讃府志」に「屋形雨花」として歌詞とともに記録せられています。ここからは安政5年頃にも、和田ではこの踊りが盛大に踊られていたことが分かります。古老の話として伝えられる所によると、和田の風流踊は、もとは和田だけでなく、姫浜および田野々の三地区が一体となって、高尾山の龍王祠で行われたと云います。田野々は高尾山の裏側の大野原町五郷の集落になります。龍王を祀る山の裏と表の両方で、善女龍王信仰が根付き、そこで同じ風流踊りが雨乞いお礼踊りとして踊られていたことを押さえておきます。
  1977(昭和52)年11月23日に行われた香川県教育委員会主催の「ふるさとのつどい」の民俗芸能発表会に出演した記録が次のように残されています。
「奉祈雨元祖薩摩法師和田村道溝講中 ①昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟を先頭に押し立てて、青年団員に指導されて、四十名の小学生の踊り子達が一列に入場して来る。踊子の服装は、紺がすりに赤い欅、日本手繊ざあねさんかぶりをし、ボール紙て作ったたつころばちの形の笠をかぶる。そして赤い手おおいに、水色のきやはんをつけて、胸に締太鼓を掛け、二本の檸を持って、その太鼓を打ちつつ踊る。入場の時には、「宿入り」の歌に合わせて入る。歌い手は、ずっと青年団の者(西原芳正氏)が勤めた。先頭に立った幟持ちが、まず会場の中央に幟を持って立ち、その傍に台に乗せた太鼓を置き、一人の男の打手(青年団)が、二本の標を持って構える。その周囲を四十名の踊子達が円陣に並び、左の方へ右廻りに廻りつつ踊る。歌い手は、円陣の外側正面の所に立って歌う。踊りは、太鼓の、カンカン トコトン トントコトントコ トントコトンという一区切りごとに、同じ振りを繰り返してゆく。踊の歌は十二章まであるが、その一章ごとに踊の振りはかわってゆく。また曲打ちというのがあって、太鼓の曲だけとなりそれに踊を合わせるというところもある。
踊子は男女の子連に少し女子青年も交っていたが、昔は男だけで踊り、ゆかた禅がけでたっころばち(たからばち)も紙製ではなく、本物をかぶったという。歌い手も、円陣の外側に立つのではなく、円陣の中であった。
①「昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟」というのは、昭頭家和の大旱魃の年に、県の通達で雨乞祈祷や踊りを復活実施したときに、作られた幟でしょう。
それより前の大正の大旱魃があった大正12年8月には、御礼踊として、以下の順で奉納されています。
①和田浜の高尾山の龍王桐(八大龍王)の前
②台山の龍王祠(国祐寺の西)の前
③壬生(にぶ)岡墓地の薩摩法師宝筐印塔前
④和田小学校の校庭で総踊り
この四場所が踊の場所として昔から一般的だったようです。

  大正12年の大旱魃の時にも、県が雨乞踊りの復活実施を通達しています。そのため明治以来、踊られなくなっていた雨乞踊りが各地で復活したことは、以前にお話ししました。前回お話した山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りもこの時に復活したものです。

大正12年雨乞いの御礼踊に、少年として参加した蔦原寿男氏の言葉が次のように載せられています。
あの時も、たしか二重の輪の踊で、総踊というにふさわしいほどの大勢であった。和田地区は、その中央を流れる吉田川を境に、川東組(雲岡・長谷・道溝・梶谷の各部落)と川西組(太村・大平木・直場・岡の各部落)の二つに分れている。それぞれ60名位の組が、東西の龍王宮に参請し、踊を奉納して下山し、国祐寺で両組が合流し、その西の龍王祠(雨龍神社)に八大龍王の幟を建て、その大前で、踊を奉納、終りに今の豊浜南小学校の校庭で、大円陣を作って踊った。お礼踊であるから近郷近在からの見物人は、秋祭の人出をしのぐ程盛大であった。

  以上 和田風流踊りについてまとめておきます。
①和田・姫浜・田野々の風流踊りは、曲目や歌詞が同じであることから同一系のものであること
②それはどの由来も薩摩(琵琶)法師によって伝えられ、墓標が残されていることからも裏付けられる。
③ここからは廻国の薩摩法師が和田地区に住み着き、祖先供養を行い信者を増やしたこと
④その過程で芸能伝達者として、先祖供養の盆踊りとして風流踊りを伝えたこと。
⑤それが台山の龍王祠でも雨乞成就のお礼踊りに転用され、後には雨乞い踊りへと変化していったこと
風流踊り → 先祖供養の盆踊り → 雨乞成就の返礼踊り → 雨乞踊りへと変遷していく姿が見えてきます。これが財田のさいさい踊りなどをへ影響を与え、佐文綾子踊りへとつながるのではないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年
参考文献 「和田念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」

佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

大久保諶之丞

2月の小さな講演会「史談会」は、大久保諶之丞をとりあげます。
大久保家の子孫の家に保存されてた大量の文書や史料が県立ミュージアムに近年、寄贈されたようです。文書を分析して、年表化したものが報告書として出されたりしています。大久保諶之丞をめぐる情報が私たちの目にも触れるようになり、研究が一気に進むことも考えられます。
 そんな中で、大久保諶之丞についての調査研究をライフワークにしてこられたのが、今回の講師としてお呼びする伊東 悟氏です。いろいろな顔をもつ大久保諶之丞の姿を、縦横無尽に語っていただけるはずです。興味と時間がある方の来訪を歓迎します。

参考文献
     松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のり
~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)

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浪打八幡宮 | 神社仏閣めぐり
浪打八幡神社(三豊市詫間町)

中世名主座が近世にどのように変わっていったのか、浪打八幡宮名主座の行方をたどってみます。
浪打八幡 駕輿丁次第之事

                 .
史料Bは1391(明徳二)年のもので、8月に行われる放生会の駕輿丁(神の乗る駕篭かき)のローテション・リストです。これを見ると、太鼓夫を仁尾が担当し、駕輿丁を他の4つの村が担当していることが分かります。
 研究者が注目するのは、この時点で浪打八幡宮名主座の名が、村ごとに区分けして表示されていることです。ここからは、14世紀末期には詫間荘には個別村落が姿を見せていたことがうかがえます。
 浪打八幡宮名主座の場合は、惣荘名主座の名がそれぞれの個別村落名で表記されています。これは詫間荘の名というよりも、吉津村、中村、比地村、仁尾村(仁尾上村)や詫間村の名という意識の方が強いように思えます。そうだとすれば、浪打八幡宮名主座の名は、「個別村落の名」の集合体ということになります。
 これについては、前回見たように詫間荘内の仁尾浦の動きが強い影響を与えていると研究者は推測します。
  仁尾浦の京都鴨社の供祭人(神人)たちは、神饌奉納の代償として、いろいろな特権を手に入れ、広範囲の経済活動を燧灘を舞台に繰り広げます。それが仁尾賀茂神社を単なる個別村落鎮守社にとどまらない、より広範囲に影響力をもつ神社へと成長させたことは前回見たとおりです。仁尾賀茂神社は「準惣荘鎮守社的な存在」に成長したのです。このような仁尾浦の動きが、他の吉津村、中村、比地村や詫間村を刺激し、自立化を促したというのです。

【史料H】 1769(明和六)年に浪打八幡宮検校宝寿院が詫間村庄屋に社領の内容を伝えた覚書を見ておきましょう。
高四拾石
一五町七反四畝拾歩
生駒様御代より御免許御証文御座候
(中略)
右之通浪打八幡宮社領分二而御座候、以上
                 詫間村検校
明和六(1769)年丑七月六日
庄屋 惣十郎殿
(香川県立文書館所蔵片岡氏収集文書一五七号)。
ここからは次のようなことが分かります。
①浪打八幡社は、生駒時代に寄進された40石(約15、7㌶)の社領を持っていたこと
②所有社領面積を、浪打八幡宮検校(宝寿院)が詫間村庄屋(惣十郎殿)伝えていること
この背景には江戸時代の後半になると、荘郷神社が維持管理することが難しくなったことが背景にあるようです。ここは浪打八幡宮が社領の維持管理が困難になって、詫間の庄屋に援助を求めていることがうかがえます。これは、経済的基盤が崩れた惣荘鎮守社の名主座が、だんだんと政治的主導権を失っていく過程でもあるようです。浪打八幡宮の名主座も、それまでのスタイルでは存続できなくなってきたようです。
【史料I】未(元禄四年力)八月浪打八幡宮旧例書(香川県立文書館所蔵)
豊後
相模
浪打八幡宮旧例書
浪打八幡宮神方旧例有来之次第
一 毎年八月祭礼二五ヶ之頭人方へ門注連おろし二御前人三右衛門榊を持進、五ヶ村之村頭人方へ参、門注連八月朔日二おろし申次第
一番     吉津村
二番     中村
二番     比地村
四番     仁尾村
五番     詫間村
右之通仕来り申候
一 八月三日四ヶ之村頭人詫間之頭人方へ寄合、神事有来之相談仕、詫間頭人より四ヶ之村頭人を振廻申候、右之通、毎年仕来り申候
一 八月十日八幡宮御はけおろし、所かざり仕、検校説言上ヶ御ヘい三右衛門請取、社人頭人共頂戴仕次第
一番    中村  豊後
二番    中村  相模
三番    吉津村 頭人
四番    中村  頭人
五番    比地村 頭人
六番    仁尾村 頭人
七番    詫間村 頭人
八番    詫間村 惣大夫
右之通頂戴仕候、其上二検校上座二面右之次第二座を作り、検校より御かわらけ始り連座次第二御酒頂戴仕候而宮ヲ披申候
(中略)
未ノ八月廿二日            中村社人 豊後 判
        同村社人 相模 判
中村豊後・相模相談、両人旧例書仕、吉田へ指上候へ者、御帰被成、拙僧二、二人之社人役付旧例書付候へと被仰出、書付指上候、則吉田二留り、其返二被仰付候
                    検校理巌
意訳変換しておくと
豊後
相模
浪打八幡宮の旧例書の次第は次の通りである
一 毎年八月祭礼の際には、25の頭人が門注連を下ろしのために、御前人三右衛門の所へ、五ヶ村の村頭が榊を持っていく。門注連を八月朔日(旧暦8月1日=新暦9月半ば)に下ろす順番は次の通りである。
一番     吉津村
二番     中村
二番     比地村
四番     仁尾村
五番     詫間村
ローテンションは以上の通りである。
一 8月3日に四ヶ村の頭人が詫間の頭人方へ集合して、神事進行について協議した。そこで詫間頭人から四ヶ之村頭人を振り分け、以下のようなローテションにすることになった。
一 8月10日八幡宮御幣おろし(おはけおろし=神社の祭前の清め)、所かざりを行った後で、検校(宝寿院)から、三右衛門が受取り、社人頭人がともに頂く。その時の順番は以下の通りである。
一番     中村 豊後
二番     中村 相模
三番    吉津村 頭人
四番    中村  頭人
五番    比地村 頭人
六番    仁尾村 頭人
七番    詫間村 頭人
八番    詫間村 惣大夫
以上のような順番で受取り、上の順番で座を作って検校(宝寿院)を上座にして座を作り、御かわらけを廻して御酒を頂戴することにする。
(中略)
未ノ八月廿二日          中村社人 豊後 判
        同村社人 相模 判

以上は、中村豊後・相模が相談し、両人が旧例を書きだし、吉田へ提出されたものである。拙僧び、二人の社人役付が旧例書付があることを申し出て、それを提出したので、吉田が預かり確認した上で、返却を申しつけた
                               検校(宝寿院)理巌

史料Iは年紀未詳、未八月の文書です。浪打八幡宮の中村社人である豊後・相模両人の社務に関する係争があったことが別の文書から分かります。その文書には1691(元禄四)年八月の年紀が入っているので、史料Ⅰも同年文書のようです。
神幸祭注連下し祭典 in 神崎聡(こうざきさとし)夢からはじまる
注連下ろし
   文書に出てくる「門注連を下ろし」とは、祭りの始まる前に、神域や町内を清めるために行う行事のことです。注連縄を貼った青笹を門状に立て、竹串御弊(たけぐしごへい)と呼ばれる竹で作った御弊を飾って神域にします。つまり、祭り期間中は、注連縄を貼った青笹からは神様の領域ということになります。
  また、祭り終了時の御神酒をいただく順番をめぐっても争われていたようです。それが新たに決められたようです。社務をめぐる係争の中で、検校(宝寿院)はリーダーシップを強化して、新ルールを制定しています。そして以後は、「別当」と自称するようになります。ちなみに、中世の文書には宝寿院が別当であったことを示すものはないようです。別当呼称の初見は、この元禄四年八月御断申上覚写からで、これ以降に、宝寿院検校は別当または別当検校と呼ばれるようになります。

 史料Iで研究者は注目するのは、浪打八幡宮名主座の頭役の表記です。吉津村頭人、中村頭人、比地村頭人、仁尾村頭人、詫間村頭人というように、村ごとの頭役として勤仕されています。今までは、史料Bで見たように、「名」の名前が記されて固定されたものでした。それが各村ごとにそれぞれ頭人を選出して、その村の頭人が頭役として奉仕する祭祀形態に変化したことになります。このような形態の宮座を、研究者は「郷村頭役宮座」と呼んでいます。

駕輿丁(かよちょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
駕輿丁(かよちょう)

1645(正保二)年には、駕輿丁を名ごとに昇ぐ方式を確認しています。これも係争があったのでしょう。
浪打八幡 駕輿丁次第之事2

この史料を見ると、中世以来の名主座がまだ維持されていたことが分かります。それが17世紀後期になると、郷村頭役宮座の形に変わったことになります。
池田町における百手の神事について

浪打八幡宮でも近世になってから百手神事が行われるようになります。
その百手頭人もやはり郷村頭役としておこなわれています。17世紀後期には、各村の名主家継承者が頭役を勤めていたようです。それが、次第に頭役勤仕者はより広い階層に拡がっていくようになります。各村落で、「郷村頭役宮座」の頭役を勤める身分階層が「郷村頭役身分」です。浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質したと研究者は考えています。

詫間荘における村落内身分についてまとめておきます。
①詫間荘の惣荘鎮守社である浪打八幡宮の名主座は、14世紀後期までには成立していた。
②中世の浪打八幡宮名主座の運営は、社務(惣官)と検校が指導的な役割を果たしていた。
③詫間荘準惣荘鎮守社である仁尾賀茂神社宮座は、京都の鴨社との関係から、鬮次成功制宮座であった。
④畿内近国の鬮次成功制宮座は、京都の鴨神社との関係を通じて仁尾に伝播した。
⑤詫間荘という一つの荘園に二つのタイプの宮座の併存するのは、「周辺部」の特徴である。。
⑥浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質した。
⑦浪打八幡社の郷村頭役宮座は、単なるトウヤ祭祀ではなく、宮座である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」

古代三野郡郷名
古代の三野郡詫間郷
 前回は三野郡詫間郷の浪打八幡社が郷社として、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名主座という宮座によって祭礼が行われていたことを見ました。その中で浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていました。
 ここで私が気にかかるのが仁尾浦の賀茂神社との関係です。
仁尾浦の「名」たちは、詫間の浪打八幡社の宮座のメンバーでありながら、仁尾の賀茂神社にも奉仕する神人でもあったことになります。この関係は、どうなっているのでしょうか? 両神社の関係を、今回は見ていくことにします。テキストは、「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。

賀茂神社の注連石 --- 巨石巡礼 |||
仁尾賀茂神社

【史料E】仁保浦鴨大明神御前之まつり覚之事
文禄弐(1593)年閏菊月拾五日
但前々のかたきのまつりなり、右後日如件
                仁保(仁尾)年寄中
この文書からは、中世の仁保浦鴨大明(仁尾賀茂神社)では「仁保年寄中」による祭祀が行われていたことが分かります。それでは、この年寄中というのは、どのような人達なのでしょうかに。
【史料F】寛永10年2月鴨大明神祠官仁尾大夫詫状『新編香川叢書』覚城院文書二五号)
(前略)
一 御宮さいかうなとの御時、万事年寄衆被仰次第二可仕事
一 祭礼御まつり、如先例□、供祭人衆被仰次第二可仕事
一 まつり之時、神子、大夫分、日之儀、如先例之、可仕事、付り、重而何にてもいつわり申間敷事右之通、少も相背申候ハヽ、何時二ても、御奉行様へ被仰上テ、我等越度二相極候ハヽ、大夫被召上ケ候様二可被成候、為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日      二保(仁尾)ノ大夫 印
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
意訳変換しておくと
一 御宮再興などの際には、万事について年寄衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、先例通りに、供祭人衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、神子、大夫分、日之儀なども先例の通り行う事、また重ねて何事についても嘘偽りを云わないことを誓います。少しでもこれに背いた場合には、何時でも御奉行様へ申し上げること。その結果、大夫の役割を召し上がれることも承知しました。為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日           二保(仁尾)ノ大夫
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
内容は1633年春に、仁尾の大夫が嶋大明神(賀茂神社)の氏子衆・年寄衆・覚城院にたいして提出した詫状です。今後は指示に従わずに勝手な行動をとることはしないことを誓う内容です。逆に言えば「二保(仁尾)大夫」が先例に従わず、年寄衆や覚城院の指示にも従わずに、勝手な振る舞いが目に付いたので「詫び状(誓約書)」をとられたようです。
 史料Fからは、仁尾年寄衆が宮年寄であることが分かります。
宮年寄とは、祭祀集団において年長が上位で、祭祀を主導する立場にある者のことです。史料Fで仁尾賀茂神社の宮年寄が祭祀を主導しています。ここからは次のような事が分かります。
①仁尾賀茂神社の祭祀組織が宮座であこと
②覚城院に対しても誓約しているので、覚城院が鴨大明神(賀茂神社)の神宮寺であったこと

覚城院】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仁尾の覚城院

【史料G】文政十二年加茂社御頭心得惣記録(仁尾賀茂神社文書)
加茂社御頭心得惣記録
一 八月朔日御閥戴キ承人々社頭ヨリ呼二参候間、早速袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より御閣戴候趣承り罷帰り可申事
(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
意訳変換しておくと
加茂社御頭の心得全記録
一 旧暦の八月朔日(ほずみ=8月1日で新暦の九月中旬頃)、社頭からすぐに来るようにとの連絡があり、早速に袴羽織に着替えて、宮座へ出席した。年寄衆より協議議題について聞いて帰ってきた。(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
ここには、「・・袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より・・・」とあり、仁尾賀茂神社の祭祀組織が「宮座」と表現されています。さらに研究者は注目するのは、頭人が年寄衆の集会で差配されていることです。
 名主座では頭文が作成され、頭文順番で名主座の名頭は奉仕します。第二次大戦前の仁尾賀茂神社宮座は、塩田・鴨田・河田・倉本の四苗(みよう)だけの家で頭屋が運営されていたようです。この四苗の家が300軒あり、そこから5人の頭屋を鬮(くじ)引きで選びます。履脱八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
履脱八幡神社(仁尾)

 仁尾の履脱八幡宮の宮座も十二苗の輪番制で運営されています。
苗はオヤ(本家筋)を中心にまとまっていたようです。この苗が「名」の名残である可能性もありますが、仁尾の場合はそのようには解釈できないと研究者は考えています。それは仁尾賀茂神社宮座の五苗は、名主座の名の数が少ないこと。また履脱八幡宮宮座の十二苗は、オヤを中心とする同族的集団です。仁尾賀茂神社の苗も塩田・鴨田・河田・倉本・吉田という苗字に固定されています。そこから、仁尾賀茂神社・仁尾八幡宮のどちらの苗も、もともとは名ではなく同族を意味するものと研究者は考えています。したがって、両社の宮座は鬮次成功制宮座が変質して、近世以降に家単位の宮座になったようです。

 仁尾賀茂神社の宮座は以下の点から、鬮次成功制宮座であると研究者は判断します。
①宮年寄があること
②宮座という史料表現
③「御鬮(くじ)」による頭人差定
 史料Eの記載から宮座は、中世後期に遡ることができるようです。
中世讃岐の仁尾港 守護細川氏は、香西氏を仁尾の浦代官に任じて支配しようとした : 瀬戸の島から
仁尾賀茂神社

どうして、浪打八幡社という惣荘名主座がある詫間荘内に、もうひとつ別の宮座があるのでしょうか。
 その解決のためには、詫間荘の仁尾浦と仁尾賀茂神社の歴史を見る必要があるようです。まず研究者が注目するのは、以下のように仁尾賀茂神社に免田があったことです。

延文二年二月御代官三郎次郎免田安堵状
(『香川県史』仁尾賀茂神社文書一六号)、延文三年九月詫間荘領家某免田寄進状(同一七号)                         

これは、仁尾賀茂神社が仁尾浦(村)の神社でありながら、詫間荘全体にとっても重要な神社であったことを意味しています。浪打八幡宮は詫間荘の全荘的名主座です。しかし、詫間荘のすべての名を網羅したものではありませでした。仁尾浦(村)には、浪打八幡宮名主座に入っていない名として、金武名・武延名・延包名の三つの名がありました。ここでは浪打八幡宮名主座に編成されていない名が仁尾浦(村)にあったことを押さえておきます。

仁尾浦(村)の他にない特色は、京都の鴨社との関係です。
1090(寛治四)年に鴨社供祭所として「讃岐国内海」が指定されます。この讃岐国内海とは、仁尾浦の津多(蔦)島のことです。その関係から仁尾に賀茂神社が勧請されます。この仁尾の浦人が仁尾賀茂神社の供祭人(神人)へと成長して行きます。
仁尾 初見史料
仁尾浦が史料で最初に確認できる文書 仁尾浦鴨大明神とある

 京都鴨社の仁尾浦支配は、土地支配ではなく、供祭人を通しての支配でした。そのため詫間荘の荘園支配と併存することが可能でした。仁尾賀茂神社の宮座成員は、鴨社供祭人であり、詫間荘荘民でもあるという関係です。仁尾賀茂神社の鴨社供祭人は、京都の鴨社に供物をおくる義務とひき替えに、保護を得て仁尾浦漁携や海運特権を独占するようになります。
 それが1415(応永22)年になると、讃岐国守護の細川頼之から海上諸役や兵船の供出を命じられています。ここからは15世紀初頭になると、仁尾浦供祭人は京都の鴨神社から細川京兆家へと保護者を替えたことが分かります。そうすることで、仁尾浦供祭人は伊予や安芸方面と燧灘を通じての交易活動を活発に展開します。仁尾賀茂神社の鬮次成功制宮座が成立したのは、京都鴨社との関係を持つ賀茂供祭人(神人)がいたからのようです。そして、浪打八幡宮の惣荘名主座とは異なる祭祀スタイルを、仁尾浦の供祭人(神人)は生み出していったと研究者は考えています。

7仁尾3
 中世の仁尾浦の海岸線と寺社分布(点線が海岸線)

仁尾浦と鴨社供祭人は、瀬戸内海を舞台にしして広範囲の経済活動を行っていました。燧灘に面する伊予や安芸の拠点港として機能していたことが考えられます。
 その結果、仁尾賀茂神社は単なる村の鎮守社にとどまらない神社に成長して行きます。ここでは次の事を押さえておきます。
①仁尾賀茂神社が「準惣荘鎮守社的な存在」だったこと
②詫間荘内には異なるタイプの宮座が併存してたこと。それは、一つの荘園に二つのタイプの宮座が併存する珍しい例だったこと。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

                  
三豊の古代郷
讃岐国三野郡詫間郷(庄内半島とその付根部分)
三野郡には詫間郷がありました。それが1250(建長2)年頃には、九条家領として立荘され詫間荘となります。その荘域は、荘鎮守の浪打八幡宮の祭祀圏から推測して、近世の吉津村、中村、比地村、仁尾村と詫間村の五ヶ村だったとされます。
詫間郷3
詫間郷の各地域
 詫間荘の惣荘鎮守社は、詫間村八幡山の浪打八幡宮です。この神社は、「名主座」と呼ばれる宮座で祭礼がおこわなれていたようです。今回は浪打八幡宮の宮座について見ていくことにします。テキストは「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。
浪打八幡神社/三豊市

まず、浪打八幡宮の放生会も御頭所(頭屋)を見ていくことにします。
  【史料A】  浪打御放生会御頭所
  ①比地村
一番 安行   二番 黒正   三番 守弘  四番 清追   五番 小三郎  六番 助房
七番 吉光   八番 糸丸   九番 貞門  十番 包松
  中村分
一番 宗国   二番 真守   三番 友成  四番 重光   五番 吉真   六番 安弘
七番 成松   八番 末守   九番 国正      (中略)
(中略)
  吉津詫間仁尾分十二年廻
一番 則永   助宗   守永
二番 経正   西光   則方
三番 真光   宗久   金武
四番 則久   時延   宗吉
五番 為弘   吉松   武経
六番 依国   行真   宗藤
七番 則包   近光   土用
八番 是時   国光   定宗
九番 光永   正光   友行
十番 秋弘   真光   久則
十一番 正光   為時   吉久
十二番 延正   末次   宗成
浪打御放生会御頭所Ξ
史料Aは、浪打八幡宮の放生会の頭人の年周りの割当表です。
「秋弘」などは、人の名前で「名」になるようです。そして、浪打八幡宮の放生会の当番については、次のようなことが分かります。
①比地村10名で10番まであるので10年ごとに巡ってくること。
②中村は9名で9番までなので9年ごと
③吉津村・詫間村・仁尾村分は三名1組で12番まであり、12年ごとにめぐってくる。
そして比地1名 + 中村1名 + 吉津・詫間・仁尾3名=5名で担当したようです。このように、各村の名によって「御頭(頭屋)」が決められているので、浪打八幡宮の宮座は名主座だと研究者は判断します。
史料Aは写で、中略部分に「正元ハ永正六(1509)マテ五十一年二成也」とあります。ここからは原文書の年紀は1509(永正6)年のものと分かります。16世紀初頭の浪打八幡宮では名主座という宮座によって祭礼が行われていたようです。 辞書で「名主座」を調べると次のように記されています。

「名主座は宮座の一形態で、 14世紀初頭ごろに成立した名主頭役身分の者たちが結集した村落内身分集団」

よく分からないので、あまり深入りしないで、先に進みます。
それでは、浪打八幡宮の名主座は、いつごろ成立したのでしょうか。
【 
浪打八幡 駕輿丁次第之事

史料B(端裏書)「八幡宮 御放生会驚輿丁并義量等神判 写」
史料Bは、浪打八幡宮放生会の駕輿丁と太鼓夫の勤仕を定めたものです。ここからは次のようなことが分かります。
①  駕輿丁は、4人の名で担当し  左右の場所まで指定される。
② 仁尾は太鼓夫を担当している
この勤仕も「名」によって行われています。
①「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件
②明徳二(1291)年 八月九日定之」
史料Bの②からは、1291(明徳二)年の年期があるので、元寇後の13世紀末には、浪打八幡宮の名主座は成立していたことが分かります。①については、次の史料と一緒に見ることにします。浪打八幡宮が詫間荘惣荘鎮守社であることが確認できる史料をみておきましょう。
史料Cは、1367(貞治六)年2月の浪打八幡宮年中行事番帳の写です。
浪打八幡 八幡宮年中行事番帳之次第
【史料C】定 八幡宮年中行事番帳之次第

ここに記されているのは、詫間荘内の詫間・吉津・比地にあった寺院や坊舎などです。それが4つの寺を一組として、ローテションで浪打八幡宮の年中行事に奉仕していたことが分かります。ここに出てくる寺院や坊が、史料Bの
「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件」
の「供僧中」だと研究者は考えています。この供僧中は本来12口でした。それが史料Cの14世紀になると新加入の供僧が増えて、その数はその倍以上にふくれあがっています。浪打八幡宮供僧中は、詫間荘全域ではありませんが、詫間・吉津・比地と荘内の各地域に分散しています。ここからは、浪打八幡官が惣荘鎮守社であるとともに、詫間荘全荘の宗教的センターの役割も担っていたことが分かります。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
正保国絵図に見る詫間郷周辺

史料Bでは、「社務供僧中検校雇頭神人有会合定之」とあります。
そして検校と惣官が署判しています。社務は神職で、署判している惣官がこれにあたるようです。検校は供僧の代表的存在、雇頭神人は名頭役を勤仕する名主のことでしょう。ここからは、浪打八幡宮名主座の運営は、社務・検校・供僧・名主の合議で行われていたことがうかがえます。そのなかでも史料Bに署判している社務(惣官)と検校が指導的な役割を担っていたようです。僧侶が神を祀る祭礼に奉仕するのは、今の私たちには違和感があるかもしれません。しかし、神仏混淆のすすんだ中世は、神も僧侶によって祀られていたのです。同時に、三野平野西部の詫間荘には、これだけのお寺や坊があって、多くの僧侶がいたことを押さえておきます。そして、その数は中世の間に、次のように大幅に増えています。
1391(明徳二)年の史料Bには、詫間・吉津・比地・仁尾の19の名。
1509(永正六)年の史料Cの頭文には、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の36名が見えます。
  別の見方をすると、浪越八幡社は36のお寺や坊が関わる地域の宗教センターであったことになります。そして、大般若経を整備したりする場合には、これだけの僧侶が写経や寄進に関わることになったはずです。
 それではこれだけの寺院に支えられた浪打八幡社は、どこの寺院の傘下にあったのでしょうか?
 それは多度津の道隆寺だったようです。中世の道隆寺明王院の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

道隆寺温故記
 
これを見ると西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。それは、その下で奉仕する僧侶達も影響下にいれていたことになります。
その中に
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

 庄内半島や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。詫間荘の浪打八幡宮の祭礼に参加する僧侶達は、道隆寺の下に組織化されていたことになります。道隆寺は讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。道隆寺の果たしていた役割については、以前にお話ししました。それを要約しておくと
①地域の学問寺として僧侶育成の場でもあり、写経センター的な役割を果たしていた。
②堀江港の管理センターの役割を持ち、塩飽など海に開かれた布教活動を行っていた
③讃岐西守護代香川氏の菩提寺として、香川氏を経済的・文化的に支援した
 このように香川氏の下で活発な活動を行う道隆寺の傘下にあったのが浪打八幡宮と、それに奉仕する詫間荘の36の寺院・坊の僧侶達と云うことになります。道隆寺は、海を越えた児島の五流修験(新熊野)との関係があった痕跡がします。熊野修験 → 児島五流 → 道隆寺 → 浪越八幡という流れが見えてくるのですが、これを史料で裏付けることはできません。しかし、このような関係の中で、道隆寺傘下の寺社は活発な瀬戸内海交易活動を展開していたと私は考えています。そして、それを保護したのが天霧城の主である香川氏と云うことになります。

以上を整理しておくと
①三野郡詫間郷は、13世紀半ばに立荘され九条家の荘園となった
②その郷社として建立されたのが浪打八幡社である。
③浪打八幡社の祭礼には、詫間荘の 詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名や寺院がローテンションを組んで奉仕していた。
④浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていた。
⑤浪越八幡宮は、その上部組織としては多度津の道隆寺の傘下にあった。
⑥道隆寺は海に開かれた寺院として、堀江港を管理する港湾管理センターの役割を果たしていた。
⑦道隆寺傘下の寺社は、道隆寺のネットワークに参加することでそれぞれの地域で瀬戸内海交易を展開した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」
関連記事

DSC03968仁尾
燧灘に開けた仁尾(昭和30年代)

  仁尾浦住民とその代官とが「権利闘争」を展開していることを以前にお話ししました。その経過をもっと分かりやすく紹介して欲しいという要望を受けましたので、できる限り応えてみようと思います。
今回は史料紹介はなしで、経緯だけを追っていくことにします。テキストは「国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」です
仁尾浦は、南北朝期頃までは鴨御社社領でした。
それが15世紀初めに讃岐守護細川満元によって、社家の課役が停止されます。そして仁尾浦は「海上の諸役」という形で守護細川家に「忠節を抽ずべき」とされます。早く言えばパトロンが京都賀茂神社から細川京兆家に替わったということです。「仁尾浦の神人に狼藉をなすものは罪科に処す」と命じているのは細川氏です。ここからは仁尾浦の統治権限は細川氏が握っていたことが分かります。言い換えれば、仁尾浦は細川氏の所領になったと云えます。しかし、細川氏は自分で所領経営を行うことはありません。代官を派遣します。仁尾浦代官を任されたのが香西氏です。15世紀前半までには、仁尾浦の代官を香西氏が務めるようになっていたことが史料から分かります。
香西氏は、代官として次のような賦課を行っています。
①兵船微発
②兵糧銭催促
③一国平均役催促
④代官親父逝去に伴う徳役催促。
①は細川氏所領として義務づけられている「海上の諸役」です。
②は代官香西氏が「和州御陣」に参加した時に2回微収されています。一回目は1438(永享10年ごろ、20余貫を「御用」として納めています。2回目は翌年に50貫と「使者雑用以下」として10余貫文計60余貫文を納めています。2回目の時には「厳密にさた在らば」「以前の徳役の事はし下さるべきなり」という条件が付けられているので、この時の兵糧銭は代官の恣意的課役だったようです。
③は本来は守護代香川氏が課税するものなのでしょうが、仁尾浦では代官の香西氏が賦課しています。そして「浦人は精一杯御用をつとめている」と述べています。②③は合わせて「役徳」・「徳役」と称されるもです。
④はまさに香西氏の恣意によって課された「徳役(役得?)」で20余貫文を納めさせられています。

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事の起こりは、嘉吉の乱への守護代香川氏からの用船調達命令でした。長くなりますが、その経緯を追って行きます。
 仁尾浦は「今度の御大儀(「嘉吉の乱勃発に伴う泉州出兵)」のために、西方守護代香川修理亮方から「出船」の催促を受け、船二艘を仕立てます。これに対して代官香西豊前方は、それは「僻事(取り違い)」であると制止します。そして対応処置として船頭と船を抑留します。香川方への船と水夫の提供については「御用」に従って、追って命令があるまで待て、と香西五郎左衛門は文書で通知します。そのため仁尾浦では船の準備をやめて指示を待っていました。

仁尾賀茂神社文書 1441年
讃岐国仁尾浦神人等謹言上(仁尾賀茂神社文書9

 ところが、守護代香川氏からは手配を命じた船がやって来ないので「軍務違反」の罪で取り調べを受けることになってしまいます。結局、仁尾浦は代官香西方と守護代香川方の両方から「御罪科」に問われることになります。徴用された船の船頭は、追放されて讃岐へ帰ってきますが、すぐに父子ともに逐電してしまい、その親族は浦に抑留されます。
 また、 香西方に「止め置かれた船(塩飽で抑留?)」については、何度も人を遣わした末に取り返します。そうする内に今度は、香西氏から「船を仕立てて早急に参上するべき」との命令を受けます。そこで「上下五十余人」を船二艘に乗せて参上し、しばらく京都にとどまることになります。その機会に幕府に対して、今回のことについて何回も嘆願します。しかし、機能不全に陥っている室町幕府からはきちんとした返事は得られません。ついには「申し懸ける」人もなくなり、なす術がなくなってしまいます。

 以上からは、用船について代官香西氏と守護代香川氏が仁尾浦に対して、違う指示を出していたことが分かります。
もしかしたら香西氏と香川氏は半目状態にあったのではないかとも思えてきます。どちらにしても命令系統が一本化されておらず、両者の間には相互連絡や調整もなかったようです。そのため仁尾浦は2つの違う命令に応じて、次のような無用の出費を費やすことになります。
①守護代香川氏の命で兵船を仕立てるために40貫文
②香西方の命で船を仕立てるために100貫文
挙句のはてに「御せっかんに預かる」という始末です。そしてすべての責任と経費を仁尾浦側が負うことになってしまいます。しかし、仁尾浦の神人を中心とする浦人たちは黙って泣き寝入りをしません。次のような抵抗運動を展開します。
①香西氏の代官改易要求の訴え
②仁尾浦住人の逃散
③徳役50貫文催促拒否
 そして、この仁尾浦住民の訴えは、幕府に受けいれられます。「(香西)豊前方の綺いを止められるべきの由」の「御本書」を得ることに成功し、京より帰ってきた神人たちは「抵抗運動勝訴」を兼ねて「九月十五日、当社の御祭礼」を執り行おうとします。
 そこを狙ったように香西氏は「同所陸分の内検」を強行しようとします。
これは仁尾の田畠を掌握して、新たな課税を行おうとするものでした。香西氏の制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を改めて要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。
香西氏は仁尾浦住民の反発が予想されるにもかかわらず、次のような新たな賦課を課そうとします。
①「一国平均役」 → 本来は守護側が課すべき賦課
②守護代香川氏の催促を無視して行われた「兵船催促」
③住人逃散に対して行われた「陸分内検」
これは、守護細川氏の家臣であるという地位を利用した課税と支配の強行とも云えます。
 守護の代官による御料所支配は、荘園の代官職請負のように明文化された契約に基づいて行われれていたのではないようです。守護細川氏は、自分の家臣を代官に任命して、一任しています。そのため浦代官は慣行を無視できる立場でした。香西氏は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。これは、守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいが考えられる事は以前にお話ししました。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制

経済的に見ると浦代官になることは、国人領主が財政基盤を固め次のスッテプに上昇するためのポストでもあったようです。
 例えば、髙松平野東部に勢力を持つようになった十河氏は、古高松の方(潟)元湊の管理権を得ることで、財政基盤を高め有力国人へと成長して行きます。また、多度津湊で国料船の免税特権の運行権を持っていた香川氏も、瀬戸内海交易を活発に行っていたことは以前にお話ししました。香西氏も香西湊を拠点に、塩飽方面にも勢力を伸ばし、細川氏の備讃瀬戸制海権確保の一翼を担っていたともされます。  そのような中で、伊予や安芸との交易拠点となる仁尾浦を管理下に入れて、支配権を強化し財政基盤強化につなげるという戦略をとろうとしたことが考えられます。それは細川京兆家の意向を受けたものだったかもしれません。

  最後に、これを進めた仁尾の浦代官は誰だったのかを見ておきましょう。
史料には仁尾浦代官の名前が次のように見えます。
1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)
1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)
この史料からは1441年10月に死去した「香西豊前の父」は、「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 この史料には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。つまり、この二人は同時代人で、別人ということになります。ここからも香西氏には2つの系譜があったことが分かります。整理しておくと
①15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
②その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
③細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」
関連記事


庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸

前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

大日本地名辞書 8 | 吉田 東伍 |本 | 通販 | Amazon

  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置

意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 

ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
DSC00417
神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
DSC00409
神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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本山寺 接待碑
本山寺の接待碑(1745年)
本山寺には延享2年(1745)の銘をもつ接待碑があます。
この碑の正面には「永代常接待」と刻まれ「施主 比地中村 石井万治」とあります。永代にわたって茶接待を行なうことが宣言されています。この頃から遍路者を含めた参詣者が増加し、それに対応して札所・本山寺が遍路接待の拠点とされたことが分かります。本山寺は、遍路者と地域住民とをつなぐ結節点となっていたようです。
茶堂について、明治12年(1879)本山寺が内務省に提出した届控えには、次のように記されています。
【史料1】茶堂 本尊弘法大師
由緒 延享二乙丑年二月施主当国三野郡比地中村石井万治郎ナル者是ヲ建立シ、永代茶ヲ焚摂待セン事心願二依テ耕宅地八反五畝拾一歩ヲ寄附ス、然ルニ該堂年ヲ経テ破損致シ候処、
安政六己未年九月仝当時(石井時四郎/石井増治郎〉両名ヲシテ是ヲ再建ス  建物梁行弐間半 桁行四間半
意訳変換しておくと
茶堂の由緒については、延享二(1745)年2月、当国三野郡比地中村石井万治郎が施主として建立した。永代に渡って茶の接待をすることを願って、耕宅地八反五畝拾一歩を寄付した。ところが年月を経て、破損が目立つようになり、安政六(1859)年9月に石井時四郎と石井増治郎が、これを再建した。
建物梁行弐間半 桁行四間半

ここからは、接待碑の施主と茶堂の施主とは同一人物であることがうかがえます。接待碑とあわせて茶堂がつくられたようです。建立から約110年後の安政6年の再建も、石井万治郎の子孫とみられる人たちによって行われています。このように本山寺では延享2年に遍路や参詣者を迎え入れる空間整備が行われたことが分かります。
 本山寺境内には、天保5年(1834)に亡くなった伯者国出身の締信法師の墓があります。「当山茶堂坊」との銘があるので、締信法師は茶堂で接待奉仕をしていたことがうかがえます。巡礼者や廻国者が、そのまま境内に居着いて寺に奉仕するということはよくあったようです。
本山寺 伽藍図




この茶堂は弘化4年(1847)の『金昆羅参詣名所図会』(第4図)にも描かれています。本文中には「茶堂(大師堂に並ぶ、摂待所なり)」と記されています。さらに明治28年(1895)の『本山寺伽藍井本坊改造図』(第5図)や大正3年(1914)頃の『七宝山本山寺全図』(第6図)にもそれぞれ確認することができるから、近代に入ってもなお維持されていたことが分かります。

本山寺境内改造図(明治28年)


貞享4(1687)年に、本山寺を訪れた僧真念は、『四国辺路道指南』に次のように記します。

「七十番本山寺平地。坤むき、此事は家居よく景気もよし。しかれども辺路やど(宿)不自由なり。本尊馬頭 坐二尺五寸、御作。」

ここからは、本山寺周辺は家も建ち並び、経済活動も活発に行われているが、「辺路やど(宿)不自由」とあるので、宿は整備されていなかったことがうかがえます。それを、住持や周辺の有力者も課題と考え、どうにかしたいとおもうようになります。
それから60年後に書かれた「遍路屋記録之覚」(本山寺蔵)を見てみます。
 遍路屋記録之覚
延享二年春令遍路屋造立其旨意趣者、竹田村辻治兵衛尉祐刹数年之依志願被建立、寄進之土地屋敷之分ハ承仕屋敷寺抱屋敷之内二而当寺先師威徳院現住法印周峯永代被寄進之、右施主方より伺之指構茂無之諸事寺之致支配様二と有之、尤番人等二至迄も村役人者不及申施主方迄も当寺住職之了簡相任、此後修復繕普請等ハ以奉加勧進可致支配之筈二相定候、

 ここには延享2年(1745)に、竹田村の辻治兵衛尉が遍路屋を建立したことについて記されています。この年は、先に見た接待碑・茶堂の建立と同じ年に当たります。また、竹田村は、本山寺の北側に位置する近隣村落です。増える巡礼者に対して、茶堂などの接待所や、宿泊のための遍路屋が周辺の有力者によって建立寄進されていることが分かります。これは、以前にお話しした弥谷寺でも同じような動きがありました。寺の遍路受入に周辺有力者が積極的に協力していく姿が見えます。これも弘法大師伝説の浸透の成果かも知れません。

本山寺の大師堂

今は、どこの札所寺院にも大師堂があります。しかし、江戸時代初期には大師堂がある札所は、ほんのわずかでした。四国辺路から四国遍路へと、巡礼者が修行者から一般庶民へと変わって行く中で、「大師一尊化」が急激に進んでいきます。その結果、札所にとって大師堂は欠かせないものとなります。そして、大師堂の建立が進み、戦後は大師像が境内に姿を見せるようになります。これは、弘法大師信仰は各札所寺院には江戸時代になって遅れてやってきたものであることを示しています。それまでの霊場に根付いていた「熊野信仰 + 阿弥陀信仰 + 修験道」などの信仰に、近世になって弘法大師信仰が接ぎ木されたと研究者は考えているようです
大師堂(本山寺) 

本山寺にはどのように大師堂が、建てられたのでしょうか?
大師堂の棟札には寛政7年(1795)9月29日に建立されたと記されています。発願主が「三箇邑中」(寺家村・岡本村・本大村)、大工棟梁が「三好源蔵長光鍛治等」です。この棟札には「弥勒堂」とありますが、これは「祖師堂」の別名で、建築時に事故があったために弥勒堂と称したと記されています。これが棟札から分かる大師堂建立についての情報です。
 本山寺文書の中には、より詳しく大師堂建立の経緯を記したものがあります。それを見ていきます。
本山大師堂、十一年以前寅冬東国之廻国行者源次郎与申者、本山之土地二而久々相煩九死一生之詢、弘法大師井本尊馬頭観音へ此伽藍御影堂建立可仕間、此方之命御助ヶ奉願上立願仕候由二而先住代建立被仰付被下度与願出少々勧進仕候得共、近年之世柄故に今建立相済不申、右開帳勧場二而今年建立仕度旨御願申上候、右廻国行者源次郎逗留仕居申願主相勤罷有候外二浄入与申道心者、是茂東国者二而願主相加り何角世話仕罷有候、元来少々奉

  意訳変換しておくと
本山の大師堂については、11年以前の冬に東国の廻国行者である源次郎と申す者が、本山の近くで九死一生の病となった時に、弘法大師と本山寺の本尊馬頭観音へ御影堂(大師堂)建立を行う代わりに助命を願った。そこで先住の院持は彼に建立勧進の願主を命じて、勧進活動を進めた。
 しかし、近年の世俗柄で建立までには至らなかった。そこで開帳勧場を行うことになり、廻国行者源次郎と供に、本山寺に逗留していた浄入という東国の道心者(下級仏教者)に世話をさせた。こうして奉加寄進を果たすことができた。         後略

ここからは次のようなことが分かります。
①「東国之廻国行者源次郎」が、本山寺の御影堂(大師堂)建立の願主となり、勧進を行っていたこと
②本山寺には東国者の「浄入」という道心者がて、源次郎とともに勧進活動を進めたこと。
大師堂建立に関わった勧進僧の勧善浄行の墓が境内にあります。
その墓碑銘には正面・側面・裏面の銘文を合わせ、次のように記されています。
俗名宗七、肥之前州松浦郡里邑之人、寛政中、拝四国霊場巡而請当山、万謁光師教英法印、時師有祖堂当建之願志、后以促之、即奉命日吾雖無金銭、以□営事而希投身命而胎師之願□廼勧奨十方四来之檀越而募一粒半銭之助縁、於是道俗喜而投資財、貴賤群而曳土木、遂乃弥勒堂一宇、不日造畢後、有本堂修理之志、未果病而区、
文化二年乙丑四月七日、本山寺現住体教誌
意訳変換しておくと
俗名宗七は肥之前州松浦郡里邑の人である。寛政年間(1789~1801)に、四国霊場の巡礼中に、当山の教英法印から「祖堂(大師堂)」建立の志を聞いて、助力することになった。金銭はないけれども、勧進活動に身を投じ、教英法印の願いを実現すべく十方四来を行き来し、一粒半銭に至るまで助縁を願い、人々は喜んで資財を寄進した。貴賤に関わらず多くの人々が土や木を曳き、ここに弥勒堂(大師堂)は姿を見せた。大師堂完成後は、本堂の修繕を願っていたが、これは適わずに病没した。文化二(1805)年4月7日のことであった。本山寺現住体教誌

 彼の墓が境内につくられていることからみて、その功績が大きかったことがうかがえます。ここからは、本山寺の大師堂建立に際して、廻国行者源次郎や道心者浄入・遍路の浄行などの勧進僧が集団を形成して勧進活動に当たっていたことが分かります。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
太興寺の仁王門

本山寺周辺の勧進僧の活動を見ておきましょう。
 66番大興寺の仁王門は、関東からやってきた唯円という廻国行者が享保12(1727)から10年間の勧進活動で建立したことは以前にお話ししました。唯円はその業績を買われて、その後は善通寺五重塔の勧進活動に携わっています。唯円の再築から60年後の寛政元(1789)年に、この仁王門は改修されることになります。その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国  金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者たちであったことになります。
大興寺周辺の廻国六十六部の動きを年表化して見ておきましょう。
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の遍路路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っています。周辺の札所寺院で勧進活動を行い、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵などに定着していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
  そして、本山寺が大師堂を建立することになると、彼らが勧進グループを形成して、建設資金の調達から人夫募集まで手がけるようになります。

勧進活動と聖人の関係を振り返って起きます。
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は、次のように評されます。

「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

しかし、経済的な視点で見ると「勧進」は、聖人の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていました。
 時が経つに従って、大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業をうけおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・善光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると。勧進を研究者は次のようにも指摘します。

勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。四国霊場札所の堂宇建設や遍路道整備などに、廻国の六十六部のような勧進僧が活躍するのは、このような歴史的な背景があったからのようです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       上野進 札所霊場としての本山寺 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会

本山寺 伽藍図
本山寺伽藍図
近世に書かれた「七賓山本山寺縁起」には、次のようなことが記されています。
①開基は弘法大師で、平城天皇の勅願をうけてこの地を訪れた大同2年(807)、鎮護国家のために堂字を建立したこと。
②本堂には「一夜建立」の伝説があり、短期間でできたこと。
③弘法大師は堂宇に本尊として馬頭観世音菩薩像を彫像し、寺号を「七宝山持宝院長福寺」として創建したこと。
④往古は「根本中堂七間四面、五重賓塔一基、大恩教主堂、虚空庫蔵堂、愛染尊堂、普賢延命堂、入灌頂堂、大師御影堂、護摩堂、十二堂、外安、五所大権現、賓庫一宇、鐘棋堂、閑伽井、文殊堂,般若堂、可利帝母堂、二王門、中門」が境内には多数の堂字が建ち並んでいたこと
⑤「土州長曾我部元親之兵火 焦土伽藍 焼失寺院」とあり、「境内は本堂、二王門を残し、灰儘に帰した」こと。
これはあくまで「縁起」ですので、そのまま信じることはできません。
本当に④に記されたような堂宇が建ち並んでいたのでしょうか?
⑤には、「天正の兵火」の長宗我部軍の侵攻で、「本堂を仁王門を残して灰燼に帰した」と記します。なぜ本堂と仁王門は残ったのでしょうか。言い伝えでは、次のように語られてきました。

(長宗我部元親の配下の武将が本山寺の)住職に刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れた。このため仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるようになった。その後、長法寺から「本山寺」と名を改めた

これは、江戸時代に作られた「伝説」です。私は本山寺は兵火には会っていないと考えています。だから鎌倉時代の本堂や仁王門が残っているのです。中世の本山寺には、本堂と仁王門しかなかったのではないでしょうか。
 長宗我部郡の侵攻の際に焼き討ちに遭っていないのがはっきりしているのは、三豊では本山寺と観音寺、中讃では松尾寺金光院(現金刀比羅宮)です。松尾寺は長宗我部占領下で院主宥雅が堺に亡命し「無血開城」しました。その後には、元親側近の修験者が金光院の院主に就任しています。天霧城の香川氏と長宗我部元親の間には、「不戦協定」が結ばれていて、香川氏の勢力下にあった寺社は焼かれていないことは以前にお話ししました。本山寺も、当時は香川氏の勢力下にあったことが考えられます。観音寺の室本麹座は、香川氏からの特権を得ています。観音寺周辺まで、香川氏の勢力範囲であったことを裏付けます。一方、阿波の三好勢力にあった近藤氏や詫間氏などの勢力下にあった寺社は焼き討ちにあっているようです。長宗我部元親は、闇雲に讃岐全土の寺社を焼き討ちにはしていないことを以前にお話ししました。

讃岐の近世は生駒親正によってはじまるとされます。
生駒氏は金毘羅大権現を始め、讃岐の寺社を保護し、荒れ果てていた伽藍の整備を支援したと伝えられます。本山寺には、親正の子一正が持宝院(本山寺)に宛てた文禄4(1595)の寄進状が残されています。これには、一正が持宝院に対して屋敷・上田1反を寄進したことが記されています。
 慶長16(1639)年には高松における論議興行にあたって参加を呼びかけらた19ケ寺の中に持宝院の名があります。この頃には讃岐を代表する寺院の一つになっていたことがうかがえます。しかし、寛永17年(1640)の寺領は1石5斗4升と記されます。これが本山寺の経済基盤であるとしたら、本当に「復興」が進められていったのでしょうか?
澄禅 四国遍路日記」(澄禅 宮崎忍勝 解説・校注) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

承応2(1653)年に、僧澄禅によって書かれた『四国遍路日記』に、本山寺は次のように記されています。
「本山寺七宝山長福寺持宝院」
「本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。寺主ハ四十斗ノ僧也。当寺ノ縁記別二在。」

ここには本堂、二王門、鐘楼だけが記されるだけです。澄禅は、存在した建物は全て列挙しています。本山寺には、これ以外の建物はなかったと考えられます。「土州長曾我部元親之兵火 焦土伽藍 焼失寺院」がなかったとすれば、もともとがこれだけだった可能性もあります。そうだとすれば生駒藩の下での本山寺は、伽藍整備は進んでいなかったことになります。また、住職はおおよそ40才ほどの僧であったことも分かります。
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それから30年後に訪れた僧真念は、『四国辺路道指南』(貞享4年(1687))に次のように記します。

「七十番本山寺平地。坤むき、此事は家居よく景気もよし。しかれども辺路やど(宿)不自由なり。本尊馬頭 坐二尺五寸、御作。」

本堂については、現在と同じ「南西むき」の建物配置であったことが分かります。しかし、ここでもその他の建物については、何も触れていません。姿を見せていなかったと考えた方がよさそうです。
周辺は家も建ち並び、経済活動も活発に行われていたようですが。「路やど(宿)不自由」とあるので、真念の泊まった宿は整備されていなかったことがうかがえます。

その後の本山寺の動向を簡単に年表化して見ておきます。
寛文5年(1665) 尚範の後、住持になった弘尊による本堂修理
貞享元年(1684) 弘厳が住持となる
元禄7年(1694) 本山寺は大覚寺の末寺となり、本末関係に組み込まれていく
元禄11年(1698)住持弘厳が奥の院興隆寺の薬師堂建立
四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳) | 護, 村上, 寂本 |本 | 通販 | Amazon

弘厳が住持を勤めたいた頃に本山寺を訪れたのが僧寂本です

寂本は「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689)に、次のように記します。
此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、(中略)堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、

意訳変換しておくと
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古い五輪塔五六基がある。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川が流れている。

ここからは次のようなことが分かります。
①境内は垣によって囲まれ、広さは一町半あったこと
②境内には「本堂の右(本堂に向って左側)に石の塔」とあるので、五重塔の礎石あるいは基壇があったものと研究者は推測します。
③堂の後ろには五輪塔、二王門の右に五所権現があったこと
本山寺 四国遍礼霊場記
本山寺(四国遍礼霊場記) 
挿図を見ると、上の記述と同じような配置が描かれています。
この挿図をみると周囲の垣には四方に垣の途切れる部分が2ヶ所あります。
南は①「二王門」で「観音寺道」の記述が、
東には「弥谷道」の記述が
本堂に向かって左(西側)には、神社と考えられる建物が描かれています。これが現在は境内西側にある高良神社のようで、当時は境内にあったことが分かります。
④大型五輪塔5基は本堂(観音堂)背後にもともとはあったこと
大師堂については、「四国遍路日記』、『四国辺路道指南』と同じように、なにも書かれていないので、17世紀末までなかったことがうかがえます。もちろん五重塔もありません。

これを境内構成を研究者は次のように指摘します。
①竹垣と土塀らしいもので囲まれた本坊「持宝院」と、「観音堂」や「五所権現」などの堂舎が配された境内という二元的構成であったこと
②境内空間は竹垣で区画されているものの、二つの道によって参詣者に開かれていたこと。
③神仏に対する「信仰の場」として不特定多数の参詣者を受け入れていたこと。

18世紀の住持たちによって行われた伽藍整備を見ていくことにします。
宝永4年(1707)に住持となった素光は、7年後の正徳4年(1714)に五所権現(現鎮守堂)の大改修を行っています。また、境内の石造物に目を向けると、享保元年(1716)に宝医印塔が建立されていて、これが境内地にある最古の紀年銘石造物で、「奉納大乗妙典回国」と刻されているので廻国供養塔になります。
享保10年(1725)に住持となったのが淵泉です。かれは享保15年に庚申堂を建立しています。それまでは建物修理にとどまっていたのが、新規建立を含めた寺内整備がみられるようになるのは、この時期からのようです。
 また、境内に次のような一般民衆からの寄進物もみられるようになります。
享保11年(1726) 境内に地蔵菩薩坐像が寄進
享保15年(1731) 境内に地蔵菩薩立像が寄進

元文2年(1737)に住持となった周峯は、元文6年に開帳を実施します。その後、寛保元年(1741)に威徳院へ転住し、かわって住持となったのが龍行(?)は宝暦9年(1759)に十王堂を建立し、寺内の整備を進めます。

住持龍行の在任期で、研究者が注目するのは延享2年(1745)に接待碑が建てられたことです。
施主は比地中村の住人で、本山寺を拠点に接待が行われていたことが分かります。この碑は今も大師堂と十王堂の間に建っています。またこの時に、茶堂も建立されたようです。さらに同年に、竹田村の住人が遍路屋を建立しようとしています。この頃になると本山寺において遍路接待が盛んになっていたようです。他の四国霊場と同じように、本山寺でもしだいに遍路者をはじめ参詣者が増加していたことへの対応策がとられるようになったのでしょう。これは、弥谷寺や白峯寺でも見られました。18世紀末から19世紀になると参拝客の誘引のために、次のような経営戦略がとられるようになります。
①遍路道・道標の整備
②茶堂・休息所など接待施設の充実
③目玉となる誘引モニュメントの建立
教英も数多くの堂宇造営を手がけ、境内の充実に努めます。
寛政5年(1793) 鐘楼を修理
寛成7年(1795)弥勒堂(大師堂)を建立
この頃の境内の状況をみてみると、次のようなものが寄進されています。
安永元年(1772) 灯籠(赤堂前)が
安永2年(1773)手水鉢
安永7年(1778)地蔵菩薩半跏像
安永10年(1781)灯籠
寛政4年(1792)とその翌年には灯籠一対
この中で手水鉢の願主は「講中」となっているので、信仰団体としての講が形成されていたことが分かります。ここからは18世紀半ば以降になると、境内への寄進物が増加していったことが分かります。

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))には、次のように記されています。
本山寺は「当寺ハ本山の庄にある故に寺号とせる也。
詠歌 本山にたれがうへける花なれや春こそたおれ手向にぞなる
本堂本尊馬頭観世音坐像御長二尺五寸大師御作、脇士阿弥陀薬師、各大師の御作。十二堂本堂のまへにあり、大師堂本堂のまへにあり、石仏五智如来本堂の裏にあり、大師御作といふ、裏門。」
意訳変換しておくと
本山寺は本山庄にあることからくる寺号である。
詠歌 本山にたれがうへける花なれや春こそたおれ手向にぞなる
本堂本尊は馬頭観世音坐像で御長二尺五寸の大師御作である。脇士の阿弥陀と薬師もそれぞれ、大師の御作である。十王堂は本堂の前にある。大師堂も本堂の前にあり、石仏五智如来は本堂の裏にあり、大師の御作という。裏門。」
ここからは次のようなことが分かります。
御詠歌の「春こそたおれ手向に」は、花を供養に供えている人たちの存在を取り上げています。この寺が周辺村落の有力者の祖先供養の寺として機能していたことをうかがえます。そういえば境内に寄進されてている石造物も、この時期のものは地蔵菩薩が多いようです。弥谷寺と同じような性格も持っていたのかも知れません。
 また「
石仏五智如来は本堂の裏にあり、大師の御作」とあります。
ここからは、本堂裏(現太子堂裏)の五輪塔は弘法大師御作の五智如来として信仰対象になっていたことが分かります。
今度は挿図を見てみましょう。

本山寺 四国遍礼名所図会
本山寺(四国遍礼名所図会 1800年)

①二王門を入って正面に②本堂があり、その参道の左右に建物が描かれています。
右側手前の鐘が描かれていることから③鐘楼堂
右側中央の建物が④「大師堂」
相対する左側中央の建物が⑤「十王堂」
本堂右(本堂に向って左側)にある建物は、⑥「大日堂」
これまでなかった大師堂が姿を見せています。『四国遍礼名所図会』(1800年)の時点で、現在の本山寺境内の建物配置は、五重塔を除いてはほぼ確定されたことが分かります。

文化9(1812)年に住持となるのが本具です。
本具は文政元(1818)年から、本堂の蔀戸を菊紋唐戸に新調し、縁廻部を修理しています。また境内には、文化13年とその翌年に大師堂前に灯籠が、文政2(1819)年に地蔵菩薩坐像(大門前)が寄進されています。この付属品の花立には「女講中」とあります。この時期には、女性による講も組織されていたようです。
文政11(1828)年に、本堂の大修理に着手します。
しかし、本堂修理事業は計画通りには進みません。境内の嘉永元年(1848)の光明真言供養塔には、幹事9人のもとで、本堂修理のための有志による寄附が始められたことが記されています。ここからは、本堂修理事業が、幹事を務める信徒によって進められていたことが分かります。この頃は金毘羅大権現の金堂が完成し、善通寺の五重塔が建設中だった時期になります。寄進勧進による寺社の建築ブーム時期に当たります。
この時期の本山寺の姿を描いたのが『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))で、次のように記されています。
「本山宝持院長福寺」
「本尊、馬頭観世音(長二尺五寸、弘法大師の作)脇士、阿弥陀如来・薬師瑠璃光如来(右同作)/御影堂、弘法大師(本堂の左の向かふにあり)茶堂(大師堂に並ぶ。摂待所なり)大塔の跡(本堂の右の傍にあり。小堂を建つる)十三堂(大師堂に対す.十三井びに三十三所の観音。三面大黒等を安ず)鐘楼(大師堂に隣る)庚申堂(青面金剛童を安ず)五所権現社(庚申堂に並ぶ)二王門(金剛力士の像を安ず)銀杏の古木(十王堂の傍にあり。至つて大木なり。今枯れて幹のみ存す。里俗これに祈願してその験ありと云ふ)

意訳変換しておくと
「本山宝持院長福寺の本尊は、馬頭観世音(長二尺五寸、弘法大師の作) 脇士は、阿弥陀如来・薬師瑠璃光如来で、弘法大師の作である。御影堂(大師堂)は、本堂の左の向かいにある。茶堂は接待所で、大師堂に並んでいる。大塔の跡が本堂の右の傍にあって、そこに小堂を建てている。十王堂は大師堂に対面し、十王と三十三所観音と三面大黒等を安置している。鐘楼は大師堂の隣。庚申堂には、青面金剛童が安置されている。五所権現社は庚申堂に並ぶ。二王門には金剛力士の像が安置されている。銀杏の古木が十王堂の傍にあって、大樹であるが今は枯れて幹のみ残る。地元の人たちは、これに祈願すれば願いが叶うと云う。

挿図を見ると境内の全ての建物に記述があり、境内の建物配置の詳しく書かれています。しかし、よく見ると、次のような疑問点を研究者は指摘します。
①十王堂の屋根が本来は寄棟造であるが、入母屋造に描かれている
②仁王門も切妻なのに入母屋に描かれている
金毘羅参詣名所図会の挿入絵については、弥谷寺の時にもお話ししたように、実際に絵師が現地を訪れずに、以前の絵図などを参考にして書かれた部分が多々あります。故に、この絵図は「絵図資料」としては、信頼性に欠けると研究者は考えているようです。

嘉永7年(1854)には方丈・庫裏が全焼しますが、それを乗り越えて、慶応3年(1867)には大師堂を再建しています。幕末寺の伽藍整備に尽力した戒如の功績は大きいようです。
また、住持戒如の頃には境内に多くのものが寄進されるようになります。
嘉永5年(1852) 線香立(赤堂前)
嘉永6年 灯籠(地蔵菩薩周辺)が女人講から寄進
安政6年(1859)に薬師如来座像(大師堂裏)、灯籠(地蔵菩薩周辺)
境内の整備状況を住持ごとにみてきました。ここからは、在地に密着した郷村寺院として、規模は小さいながらも数多くの喜捨を地域住民から集めていたことが分かります。また本山寺は、丸亀藩の支援を受けていましたが、基本的には檀家に支えられる村落寺院だったようです。
 江戸時代中期頃に成立した『七宝山本山寺縁起』には、本山寺の周辺にある岡本・本山(寺家)・本大の3か村にある多くの堂舎は、ほとんどを末寺・末社として、本寺の「持宝院(本山寺)」がこれを「職掌」したと記されています。これは本山寺が檀家以外にも、地域の神社の別当寺として地域の中核的な宗教センターとして支持を得ていたことを示しているようです。しかし、寺領の実態については分かりません。そのため寺の経済基盤についても分かりません。

 明治3年(1870)の『本末寺号其外明細帳』の本山寺の項には、「一 滅罪檀家 五百拾軒 内拾三軒ハ御他藩県御管轄二有り」とあり、本山寺には檀家が510軒あったことが分かります。
これは、江戸時代もほぼ同じ檀家数だったと推測できます。ここからは、本山寺の檀家数は都市部の観音寺や志度寺などに次ぐものだったと云えます。しかし、いざ本堂の修理などになると、檀家だけの力ではできませんでした。そのためたびたび開帳が行われています。もともと交通の要衝に位置した本山寺は開帳の場として定期的に人々を誘引しました。本尊が馬頭観音菩薩であることからもうかがえるように、牛馬の神として広範囲の信仰を集め、牛馬市なども開催されていたようです。中讃地域では、滝宮牛頭神社(現 滝宮神社)の龍燈院と同じような性格を持ったお寺であったと私は考えています。そのため地域社会だけでなく外にも開かれ、不特定多数の参詣者を受けいれるにふさわしい「信仰の場」を形成していったことが考えられます。

明治維新とともにやってきた神仏分離政策に、本山寺も翻弄されます。
別当を務めていた3ケ村の神社の社領・山林を新政府の「上知令」によって没収されます。これは寺院経営の基盤を突き崩すものでした。また、境内に目を向けると、幕末期に比べて寄進物は減少しています。たとえば明治になっての寄進物は次の通りです。
明治2年 丼戸枠(大師堂と十王堂の間)
明治9年 標石(大師堂と十王堂の間)
明治17年 弘法大師1050年遠忌の記念碑(本堂右横)
ここからは、寄進物は減ってはいますが、神仏分離後も本山寺は、信徒の支援を受けていたことが分かります。

本山寺 頼富実毅
本山寺住職 頼富実毅

明治24年に、本山寺特任住職となるのが頼富実毅です。
頼富実毅は精力的に境内整備に取り組んだ人物で、本山寺第二中興とされ、境内にも銅像があります。明治29年から14年の歳月をかけて五重塔の再興を果たします。五重塔再建にともない、大日堂が現在地に移転し、五重塔周辺には玉垣、標石が寄進されています。彼は明治の勧進僧でもあったようです。
頼富実毅が、五重塔着工前前年の明治28年に、檀家等に配布したのが「本山寺伽藍・本坊改造図」です。
本山寺境内改造図(明治28年)
本山寺伽藍・本坊改造図(1895年)

五重塔建設を願って配布されたもののようで、当時の境内の状況が詳しく描かれています。この図を見ると切妻造の「大門」(二王門)を抜け、正面に寄棟造の「本堂」があり、左右に諸堂が建ち並ぶ状況が描かれています。これはほぼ現在の境内建物配置と同じです。左右の諸堂は、
右側には手前から
「鐘楼堂」、「御影堂」(大師堂)、「茶堂」
左側には手前から
「鎮守堂」、「庚申堂」の2棟、寄棟造の「護摩堂」、
 宝形造の「大日堂」(旧多宝塔)
が描かれています。
 「大日堂」に向かって左側には、五重塔が姿を見せています。完成記念に描かれたものかと思っているとそうではないようです。よく見ると五重塔は他の建物より薄く描かれています。これはまだ姿がない建設予定の五重塔が描かれているようです。五重塔が姿を現すのは、明治43年のことです。明治28年には、まだありませんでした。当時の住職頼富賓毅の五重塔を建てたいという意思が伝わってきます。この伽藍図を見せながら頼富実毅は、五重塔の勧進事業を人々に説き、協力を求めたのでしょう。

本山寺全図(1914年)
本山寺 (七宝山本山寺全図 1914年)
本山寺所蔵資料の「七贅山本山寺全図」(大正3年(1914)頃)です。
切妻造の「二王門」を抜け、正面に寄棟造の「本堂」があり、左右に諸堂が建ち並びます。左右の諸堂は、
右側には手前から
「大門」、「祖師堂」(大師堂)、「鐘楼堂」、「茶堂」
左側には手前から
「鎮守堂」、「庚申堂」、寄棟造の「十二堂」、宝形造の「塔堂」(現在の大日堂)

が描かれています。「塔堂」に向かって左側には、「五重大塔」が描かれています。この時点でほぼ現在の境内建物配置と同じ状況ですが、「鐘楼堂」が本堂に向って右側に隣接して描かれ、これまでの挿図や現在の配置とは違っているようです。

本山寺 大門移築 1913年
本山寺大門移築工事(1913年)

また、境内の東側を通る伊予街道からの入口はなかったのですが、新たに東側に門(大門)が作られています。これは、地元有力者の寄進で、岡山の牛窓のお寺の門を解体移築したことは以前にお話ししました。こうしてみると現在の伽藍レイアウトが完成するのは、今から約110年前であったことが分かります。
愛染明王座像 本山寺
愛染明王(本山寺)
以上をまとめておくと
①元寇後の全国的な寺院建立運動の中で13世紀末に、本山寺では現在の本堂や仁王門が修験者や聖たちの勧進僧たちによって建立された
②縁起には中世には五重塔を含む大伽藍があったが、長宗我部元親の兵火にかかり本堂を仁王門だけを残して灰燼に帰したと伝える。
③しかし、「中世大伽藍」保持説には疑問があり、五重塔が実在したかどうかは分からない
④中世を通じて、本堂と仁王門を中心とするシンプルな伽藍であったことも想定できる。
⑤それを示すように江戸時代初期に本山寺を訪れた巡礼僧侶が残した記録には、本堂と仁王門しか描かれていない。ある意味、中世のままの姿である。
⑥18世紀になり四国巡礼者の数が増えるとともに寄進物も増え、大師堂などの堂宇も立ち並ぶようになる。
⑦遍路や参拝客誘致のためにも伽藍整備が求められるようになり、現在の伽藍の原型が出来るのは18世紀末である。しかし、江戸時代にも五重塔の姿は見えない。
⑧五重塔が現れるのは明治末になってからである。
本山寺 建物変遷一覧表
本山寺境内建物変遷一覧表
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

本山寺 境内 仁王門より
本山寺境内 仁王門より
本山寺は、財田川と宮川の合流点付近の平地の中にあります。遍路道を観音寺からを歩いて行くと、明治に建てられた五重塔がシンボルタワーとして導いてくれます。この寺の歴史を見ておきたいとおもいます。テキストは「上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会」です。

本山寺地図
本山寺周辺遺跡
まず本山寺の立地条件から見ていきましょう。
本山寺の南を流れる財田川は、まんのう町塩入の東山峠付近の阿讃山脈に源をもちます。山間部では蛇行を繰り返しながら、三豊市山本町で三豊平野に出て扇状地を形成します。三豊平野を流れる財田川周囲の地形にはグーグル地図を見てもかなりの乱れが見えるので、氾濫を繰り返す川であったことがうかがえます。本山寺は財田川右岸にあり、ちょうど高瀬町羽方宮奥に源を持つ財田川支流の宮川が合流する所になります。
本山寺 航空写真1974年
本山寺周辺 財田川と宮川の合流地点に立地
航空写真を見ると財田川北側に残る条里型地割が、財田川と宮川の氾濫によってかなり乱れています。その縁辺部に沿って江戸時代以降の旧伊予街道が抜けていていて、その街道に接するように本山寺があることが分かります。本山寺は氾濫原に接していますが、本山寺の史料に洪水の記事は出てこないので、この地が安定していた場所であったことがうかがえます。
  宮川の源流は、式内神社の大水上神社(讃岐二宮)です。
この流域からは銅鐸や銅剣が出ているので、早くから開けたエリアだったことが分かります。宮川流域の延命院の境内には、横穴石室を持った中型の古墳があります。しかし、その規模や数は母神山や大野原の古墳群に比べると見劣りします。ところがこのエリアの有力者は7世紀後半に突如として讃岐で最も早い古代寺院の建立を始めます。それが⑤妙音寺になります。これは、壬申乱後に成立した天武朝政権に取り入り、最新鋭の宗吉瓦窯群を誘致し、藤原京へ宮殿用瓦を瓦を提供した丸部氏の氏寺であると研究者は考えているようです。
 地方の古代寺院は、旧国造クラスの有力者の氏寺として作られたものがほとんどです。そのためパトロンである有力者が衰えると維持できなくなります。妙音寺も中世になると衰退したようです。そのような中で、妙音寺に代わって登場するのが本山寺になります。
 本山寺は、三豊市豊中町にある高野山真言宗の寺院で、七宝山持宝院と号します。もとは長福寺と称したようです。
江戸時代中期に書かれた『七宝山本山寺縁起』には、その由来を空海による「一夜建立之霊刹」で、草創の時期は大同2年(807)と記します。しかし、成立期の本山寺については同時代の史料がないのでよく分からないようです。ただ、地理的に次のような点は確認できます。
①古代から本山寺が財田川と宮川の合流点に位置していたこと
②古代の官道である南海道がすぐそばを通っていたこと
ここからは交通の要衝に、本山寺の前身寺院の長福寺があったことは考えられます。

本山寺 本堂用材
本山寺本堂に保存されている用材

 明治33年(1900)の「古建物調査書」によれば、本山寺本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。そういえば、善通寺建立の用材は、まんのう町春日の尾野瀬山から切り出されたと伝えられます。
 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、交流していたことをうかがわせるものです。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

元寇後の地方寺社の建築ラッシュ
元寇後の地方有力寺社の建築一覧表
 
上の地方寺院の造営時期一覧表を見て分かることは、元寇後の13世紀末に諸国に寺社の修造ブームが巻き起っていることです。讃岐近隣の寺院を抜き出して見ると、次のようになります。
1289年 土佐の金剛福寺
1292年 安芸宮島の厳島神社
1293年 土佐の最御崎寺
1298年 善通寺 備後浄土寺
1300年 本山寺
1312年 伊予大三島の大山積神社

この背景には幕府が寺社保護を強化するという政策がありました。これが地方寺社の改築ラッシュにつながったようです。このときの寺院建造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
①寺社建造が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
②建造運動が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって進められたこと

②については、正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に次のように記されています。
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたことがうかがえます。このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させます。そして、地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。こういう動きの中で、善通寺や本山寺の本堂改築を見ていく必要があるようです。

それでは、鎌倉時代の本山寺の動向を見ておきましょう。
①暦仁2年(1239) 沙弥真仏が本堂修理。
②建長7年(1255)「沙門心導」「比丘尼宝阿」と「沙弥道安」が本堂修理
③正応4年(1291) 「金剛仏子心導」と「佐々木某」が本堂修理
ここからは、鎌倉時代以前に本堂にあたるものがすでにあり、13世紀に定期的に修理が行われていることが分かります。本山寺は平安時代末期には、存在していたようです。
研究者が注目するのは、登場人物の「沙弥」という肩書きです。
沙弥とは「正式の僧侶になる以前の人」ととされます。暦仁2年(1239)の「沙弥真仏」、建長7年(1255)の「沙弥道安」がどのような人物であるかは分かりません。しかし、彼らが僧侶と在家の中間にあって本山寺本堂の修理に関与していたことは分かります。また、暦仁2年の修理以外は、どれも正式な僧侶と沙弥(あるいは俗人)とがセットになって修理・再建の責任者となっています。ここからは、本山寺本堂は僧侶たちだけでなく、沙弥・俗人の支援を受けて修理・再建が行われていたことが分かります。これは早い時期から本山寺が、地域社会と連携し、その支援を受けれる体制が整えられていたことを示すものと研究者は考えています。

本山寺 本堂
本山寺本堂
そして、13世紀末の諸国寺社の修造ブームが本山寺にもやってきます。
本山寺の本堂は、従来は正応年間に丸亀藩の京極近江守氏信が寄進したものと伝えられてきました。ところが昭和28(1953)年2月の解体修理の際に、礎石から次のような墨書銘がみつかります。

「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」

ここから、本堂が鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝に指定されます。讃岐の寺社では「長宗我部元親焼き討ち全焼説」が由来として」伝わっていることが多いのですが、本山寺の本堂はそれ以前のもので焼き討ちを受けていないことを押さえておきます。
 また、「大工藤原国重や平友末」と大工名も記されています。
その後の研究で彼らは奈良南都の工匠で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。奈良の名のある大工が讃岐にやってきて手がけた本堂になるようです。同じ時期に、奈良の大工たちが尾道の浄土寺などにもやってきて腕を振るっていた時代です。本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。
本山寺 本堂2
本山寺本堂廊下よりの伽藍 右が十王堂
なお、正安2年に本堂棟上を行ったのは「沙弥覚道」です。
「覚道」については、善通寺中興の祖として著名な宥範の師のようです。宥範の伝記『贈僧正宥範発心求法縁起』(応永9年(1402)撰集)に、その師として「談議所無量寿院僧正覚道上人道憲」が記されています。「覚道上人道憲」とあるので本山寺本堂に関わった「覚道」と同一人物である可能性を研究者は指摘します。
 またこの史料によれば、徳治元年(1306)に宥範が東国修行から帰国した際、讃岐国野原(現在の高松)の無量寿院隋願寺で、師「覚道上人道憲」と面会しています。ここからも「覚道上人道憲」は正安2年の「覚道」と同一人物であることが裏付けられます。
 この「覚道上人道憲」は顕日房道憲とも呼ばれたようです。
道憲は東大寺戒壇院中興の祖とされる実相房円照の弟子です。文永9年(1272)に授戒し、円照の授戒弟子として南都奈良で活動した後、出身地に帰って寺院建立や教化活動を行っていたことが知られています。とすれば、寺院建立に実績のある「覚道上人道憲」が、本山寺本堂の建立にあたっても助力したと考えることができます。本山寺の本堂や仁王門の建立を、南都奈良の大工たちが担当していました。それを実現させたのは奈良でも寺院建立活動を行っていた「覚道上人道憲」がいたから実現できたことと研究者は推測します。

本山寺 仁王門3

本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立されます。
本山寺 二王
本山寺の二天像
そこに二天像が収められます。二天王像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は、「当国内大見」住人と記されています。大見は、弥谷寺の麓で三野湾に面する所で、三野郡下高瀬郷に属します。西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。
②の絵師は、善通寺お抱えの絵師のようです。
ここからは、本堂や仁王門などの建築物については、奈良からやってきた宮大工たちが、そこに安置された二天像は地元讃岐の仏師や絵師たちによって造られたことが分かります。
P1120243本山寺 毘沙門天
本山寺の二天立像(毘沙門天)
本山寺の造立運動を進めたのは、どんな宗教者だったのでしょうか?
先ほど見たように、この時期の地方寺社造立ラッシュは「②地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していた」と研究者は指摘していました。それを今度は見ていこうと思います。
中世の本山寺は、持宝院あるいは長福寺とよばれていたようです。 本山寺という現寺名は、地名によるもので古代の郷名「本山郷」に由来します。本山荘は鎌倉時代前期には九条家領でしたが、のちに石清水八幡宮領となります。研究者が指摘するのは岩清水八幡宮領の成立に際して、その分霊が勧請されていることです。

岡本鳩八幡社
鳩八幡神社
その一つが岡本にある鳩八幡神社になるようです。
   本山荘・本山新荘のエリアは、現在の豊中町本山・岡本、観音寺市本大町あたりが荘園領域とされます。岡本(鳩)八幡神社は、社記によると嘉禎年間(1235)に本山荘が山城国石清水八幡宮へ寄進せられ、その社領となります。そのため領家である石清水八幡宮の御分霊を勧請し荘内の総社として祀られたとされています。 荘園が立荘された場合には、荘園領主と同じ神社を勧進するのが一般的でした。
 15世紀の観音寺船籍の船には、山崎胡麻60石の積載記録が残されています。これは石清水八幡宮の荘園である本山荘・山本荘から財田川を通じて観音寺港に集積されたものと考えられます。石清水八幡宮の神人たちは、淀川の交通路を握り、そこから瀬戸内海に進出しました。讃岐には海浜部を中心に草木荘・牟礼荘・鴨部荘など石清水八幡宮の荘園をはじめ末社が多いのもそのためです。

長浜神社 ネットワーク

近江坂田郷の寺社関係 八幡神社を中心にネットワークが形成されていた例

 つまり、本山寺は本山荘の寺社ネットワークの核であったことになります。そして中世は、石清水八幡宮のネットワークの一端に組み込まれていたことがうかがえます。それを裏付けるように、近世においては、本山寺は岡本八幡の社僧を務めています。また、熊岡八幡神社の別当寺でもあったことは、先述したとおりです。本山寺は、こうした旧本山荘内にある神社の別当を務めることによって勢力を維持したと研究者は考えています。
熊岡八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
熊岡八幡神社
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく
②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる
③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた
 つまり、有力寺院による地域寺院の組織化(末寺化)と、新たな信仰対象物の形成が同時進行で行われていたというのです。讃岐でも室町期には、荘郷を超えて寺社の相互扶助的関係が形成されていきます。研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。
以前に、多度津の道隆寺や大内の与田寺(水主神社)などを例に紹介しました。
道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。また与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったのです。

興隆寺五輪塔
興隆寺の五輪塔群
 そういう視点で本山荘を見ると、見過ごせないのが興隆寺跡です。
西讃府誌には、興隆寺は 本山寺の奥の院で本尊薬師如来が本尊であったと記されます。伽藍跡は、今は鬱蒼たる樹木や雑草の中に花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。興隆寺跡にある石塔群は108基で、製作年代は鎌倉時代後期から室町時代末期の約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものです。
  本山寺のご詠歌は
本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる

五来重氏は、このご詠歌はもともとは、奥の院興隆寺のものと考えています。「手向にぞなる」とは、亡くなった人の供養を示します。建ち並ぶ五輪塔も先祖供養のためと考えれば弥谷寺と同じような性格の寺であることになります。鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔を造立したことがうかがえます。
興隆寺五輪塔
興隆寺五輪塔群
  一方、残された興隆寺の縁起や記録などから、石塔群は出家修行者の行供養で祈祷する石塔と考える研究者もいます。
一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。どちらにしても、ここには修験者や聖などの行場であり、先祖供養の寺でもあったようです。
本山寺の奥の院であったという妙音寺・興隆寺の前後関係を確認しましょう
妙音寺  本堂本尊  12世紀の木造阿弥陀如来坐像
興隆寺  伝本尊  薬師如来 中世期に石塔群造立
本山寺  本 尊  馬頭観音 
     脇士   阿弥陀如来 + 薬師如来
   本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
本山寺の本尊馬頭観音

馬頭観音の梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」という意味のようです。
これはヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもあるので、敵対するヒンズー教の神を「天部の仏」として迎え入れたことがうかがえます。その役割は、衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。そのため他の観音が女性的で穏やかな表情なのに、馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒相です。私は、最初に馬頭観音を見たときに、「これが観音さま?」というのが正直な感想でした。密教では「馬頭明王」と呼ばれて、すべての観音の憤怒身ともされています。そのため憤怒相の守護尊として明王部に分類されることもあるようです。
仏像の種類:馬頭観音とは、ご利益・梵字、真言など】菩薩なのになぜ激怒?!道の石仏は昔の人々の馬への感謝の表れ|仏像リンク

 「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。そして、馬だけでなく牛や蚕などあらゆる畜生類を救う観音ともされるようになり近世には農民たちの広い信仰を受けるようになります。そして、道ばたにも馬頭観音の石仏が立てられるようになります。その造立目的は、次のようなものでした。
  ①牛馬の安全守護
  ②牛馬供養
 
造立の際に、勧進によって多数同信者の願いを結集すれば、その石仏の功徳はより大なものになると信じられます。そのために万人講を組織して、喜捨をあつめることが多かったようです。これを進めたのが修験者や聖たちでした。そのため馬頭観音やその権化・権頭天王を祀る寺社は、彼らの拠点となり周辺に多くの修験者が生活していたようです。ここでは、中世の本山寺(長法寺)が馬頭観音を本尊とする修験者たちの拠点寺院化していたことを押さえておきます。



本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如来です。
阿弥陀如来は妙音寺、薬師如来は興隆寺の本尊です。つまり、ふたつの奥の院の本尊であった仏を、本山寺の馬頭観音が率いているということになります。ここには、現在の本堂が建立された13世紀末の本山寺を取り巻く事情が反映されているのでしょう。それは、妙音寺と興隆寺を統合して、外から新規に馬頭観音を向かえて本尊としたということが考えられます。それを進めたのが修験者や聖たちであったというのです。
特別展『みほとけのかたち ─仏像に会う─』@奈良博-05
 京都・浄瑠璃寺「馬頭観音菩薩立像」

牛馬の安全を折る信者集団が本山寺の「変身」の主体となったのでしょうか。馬頭観音は、もともとは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされます。そして、次のような本地垂迹が語られ、姿を換えていきます。
祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天皇(祇園大明神)
権化が牛頭天王
蘇民将来説話の武塔天神
薬師如来の垂迹
スサノオの本地

牛頭天王は、京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ、現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られるようになります。これを進めたのが修験者や廻国の念仏聖のようです。

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社

「牛頭天王」を祭った讃岐の寺社としては、滝宮神社があります。
滝宮神社は、神仏分離以前には牛頭天王神(ごずてんのう)と呼ばれていました。菅原道真の降雨成就のお礼に国中の百姓がこの神社で悦び踊った。これが滝宮念仏踊りとされています。

滝宮龍燈院跡
滝宮牛頭神社の別当寺 龍燈院跡

牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となったのが龍燈院です。
龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが三豊の本山寺周辺でも起こっていたのではないかと私は考えています。つまり、牛頭天王神(ごずてんのう)をまつる聖集団によって、本山寺は中世に姿を見せたという説です。
滝宮龍燈院の十一面観音
滝宮龍燈院の十一面観音(綾川町生涯学習センター蔵)
讃岐でも、大般若経の書経活動でも聖たちの連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと

 本山寺でも、戦後まで大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
 本山寺ではお経を担いで村を回ります。これも回って読む一つのやり方ですから、転読といえるでしょう。住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。これが、檀家だけでなく、地域をめぐっていたようです。これも中世以来の村々の境を超え、宗派や檀家を越えた「郷村の寺社」としての本山寺の性格を伝える物かも知れません。

新潟県阿賀町馬取(まとり)地区の村中大般若
大般若経経典 の入った木箱を背負った一行が無病息災を祈る

最初に紹介したように徳島県三好郡池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。

大般若経 山所神社 池田町
三所神社の大般若経

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵

ここからは、山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。良恵は住持でなく聖のようです。 与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。

以前に、仁尾の商人や大工が四国山脈を越えた現在の大豊町や本山町で活動を行っていたことを次のように紹介しました。
①高知県大豊町の豊楽寺の本堂新築(天正2(1574)年11月)の御堂奉加帳に「仁尾」の「塩田又市郎」の名前があること。
②土佐郡森村(土佐郡土佐町)の森村の阿弥陀堂造立棟札に「大工讃州仁尾浦善五郎」とあり、善五郎という仁尾浦の大工が請け負っていること。
長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは土佐からの熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでした。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。
 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
 近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世になると詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。
  塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、中世には三野湾で作られた塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。その利益から仁尾には数多くの寺院が姿を見えるようになります。
 そういう視点から本山寺の出現過程を次のように推察しておきます。
①熊野行者などの山林修行者によって七宝山に行場が開かれ、庵や堂が姿を見せる。
②観音寺は七宝山の行場を結んで「中辺路」ルートとして売り出す。
③その行場のひとつが七宝山麓の興隆寺で、先祖供養の地として地元の有力者が五輪塔を納めるようになる。
④そこに新しく登場してきたのが牛頭信仰を持った修験者たちである。彼らは、「馬頭観音=その権化である牛頭天王=蘇民将来説話の武塔天神=薬師如来の垂迹=スサノオの本地」としていた。
⑤彼らは、京都東山祇園や姫路の広峰山から牛頭神を勧請し、全国に祇園社、天王社を祀るようになる。
⑥そのような中で、本山荘内の興隆寺や妙音寺で活動していた牛頭天王信仰の修験者たちが、新たな寺院を現在地に建立する。それが本山寺の前身である。
⑦こには牛や馬に関わる百姓や馬借たちの支持もあった。そして、郷村を越えた広域信仰圏を形成した。

南海道(伊予街道)に隣接した本山寺は、交通の要衝に当たります。
仁尾の商人や修験者たちは土佐に三野湾で採れた塩を運び込み、その還りに茶を持ち帰って利益を挙げていたのは先に見たとおりです。本山寺を拠点とした修験者たちは、財田川を遡り、財田やまんのう町の峠を越えて、阿波との交流を持ち、その信者たちには、塩を運ばせたことが考えられます。阿波池田や、山所神社のあった祖谷口、あるいはその奥までが本山寺の信仰ネットワークの及ぶ地域で、本山寺の信者となっていた馬借たちの活動範囲だったことが推測できます。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

 天文16年(1547)に鎮守堂が建立されるなど、天文年間(1532~55)は本山寺の堂宇整備時期であったようです。
130年後に書かれた『玉藻集』延宝5年(1677)には、16世紀の状況が次のように記されています。
本山寺持宝院
此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、亦は長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、門内に古松枝條扶疎として、幾世をか経ぬる、むかしを問ましき計也、堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、
意訳変換しておくと
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古五輪五六基があり、境内と隔て置かれている。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川(財田川か宮川?)が流れている。

ここには空海建立説はありませんが「三尊共弘法大師作」と記されるので、近世前期になると本山寺に空海伝説が根付いていたことが分かります。
本山寺中興の祖といわれる尚範が元亀2年(1571)に高野山にのぼり、金剛三味院で研鑽を積んだ後に本山寺の復興に尽力します。以後、本山寺僧と高野山との関わりが、本山寺における弘法大師信仰の普及につながると研究者は推測します。同じような動きが弥谷寺にも見られることは以前にお話ししました。この背景には、高野聖たちの活動があったことがうかがえます。彼らによって弘法大師伝説が本山寺にももたらされたようです。そういう意味では、弘法大師伝説は牛頭天王信仰に、室町時代以後に接ぎ木されたものといえそうです。

本山寺(もとやまじ)五輪塔 (五基)
本山寺の五輪塔

『玉藻集』に「堂の後に古五輪五六基あり」とあるのは、現在は大師堂裏にある大型五輪塔群のことでしょう。
この大型五輪塔群は室町時代のもののようです。一説には奥の院の興隆寺から移されたとも伝わるようです。本山寺が有力者の菩提寺的な性格を持っていたことが分かります。しかし、それが誰なのか、どんな一族であったのかは分かりません。
 同時期に、西讃守護代で天霧城の香川氏は、弥谷寺西の院を墓域化して多くの五輪塔を残しています。それが、本堂下の生駒親正の大きな五輪塔につながって行きます。この五輪塔と、本山寺の大きな五輪とは合い響き合うモノがあるように私には思えます。16世紀には観音寺室本の麹職人たちに香川氏は、特許上を出しています。香川氏の勢力が観音寺の当たりまで及んでいたことを示します。本山寺も香川氏の勢力下にあったと考えられます。

   以上をまとめておきます。
①元寇後に異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は、勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと。
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④その流れの中に、本山寺の本堂や仁王堂のあらたな建立があったこと
⑤同時に、伽藍整備と平行して、郷村の有力寺社は周辺寺社の系列化・末寺化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造勧進への協力や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして観音寺や本山寺は勧進聖や修験者によって、「中辺路」ルートの拠点寺としてネットワーク化されそのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」から四国遍路へとつながっていく。
今回は中世までとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  テキスト
上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会
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弥谷寺 四国遍礼名所図会1800年jpg
弥谷寺 四国遍礼名所図会(1800年)

 弥谷寺は、四国八十八ヶ所霊場71番札所です。伽藍の一番高いところに、磨崖に囲まれるように①本堂があり、諸堂も岩山に囲まれるように配されています。境内の磨崖や岩肌には数え切れないほどの五輪塔や梵字、名号などが刻まれています。中には納骨された穴もあって「死霊の集まる山」として民俗学では、よく知られた寺院です。
弥谷寺は江戸時代の「弥谷寺略縁起』には、次のように記されています。
行基が弥陀・釈迦の尊像を造立し、建立した堂宇にそれらを安置して蓮花山八国寺と号した」
「その後、弘法大師空海が虚空蔵求聞持法を修したこころ、五鈷の剣が天から降り、自ら千手観音を造立して新たに精舎を建立し、剣五山千手院と号した」
「行基=空海」の開基・中興というのは、後世の縁起がよく語るところで、開創の実態については史料がなく、よく分かりません。ただ岩山を穿って獅子之岩屋や磨崖阿弥陀三尊が作られる以前の平安時代に、修行者や聖といった人々が修行の場を求めて弥谷山に籠ったことが、この寺の成立の基礎となったことはうかがえます。
 平安時代末期には、四国の海辺の道を修行のためにめぐり歩く聖や修験者らがいました。彼らの修行の道や場として「四国辺地」が形成され、それがベースとなって四国遍路の祖型が出来上がっていきます。弥谷山の修行者や聖たちも、そうした四国遍路の動きと連動していたようです。
仁治4年(1243)に、高野山の党派抗争の責任をとらされて讃岐に流された高野山僧の道範は、宝治2年(1248)に善通寺の「大師御誕生所之草庵」で『行法肝葉抄』を書いています。その下巻奥書には、この書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたと記されています。これが「弥谷」という言葉の史料上の初見のようです。弥谷寺ではなく「弥谷上人」であることに、研究者は注目します。
「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修行者や聖のような宗教者の一人と考えられます。
 ここからも鎌倉時代の弥谷山は、聖たちの修行地だったことがうかがえます。それを裏付けるもうひとつの「証拠」が鎌倉時代末期に作られた本堂の東にある阿弥陀三尊の磨崖仏です。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏
この阿弥陀三尊像は、弥谷山を極楽浄土に見立てる聖たちが造立したものです。また仁王門付近にある船石名号の成立や磨崖五輪塔にみられる納骨風習の成立には、時衆系高野聖の関与があったと研究者は考えています。
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船石名号(弥谷寺 仁王門上部)

当時の高野山は、一山が時衆系の念仏聖に占領されたような状態で、彼らは各地の聖山・霊山で修行を行いながら熊野行者のように高野山への信者の誘引活動を行っていました。弥谷山も「死霊の集まる山」として祖先慰霊の場とされ、多くの五輪磨崖物が彫られ続けます。これが今でも境内のあちらこちらに残っている五輪五輪塔です。ここでは中世の弥谷寺は、浄土阿弥陀信仰の聖地で、弘法大師の姿は見られないことを押さえておきます。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏
磨崖五輪塔(弥谷寺)

 細川氏の守護代であった香川氏は天霧城に城を構えます。そうすると、天霧城と山続きの弥谷寺には香川氏の五輪塔が墓標として造立され続け墓域を形成していきます。守護代の香川氏の菩提寺となることで、その保護を受けて伽藍整備が進んだようです。同時に、この時期は弥谷寺境内から切り出された天霧石で作られた石造物が三野湾から瀬戸内海各地に向けて運び出された時期でもありました。
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香川氏のものとされる五輪塔(弥谷寺西院跡から移動)

   弥谷寺に弘法大師信仰が姿を見せるようになるのは、近世になってからのようです。今まで語られたことのなかった弘法大師伝説が、弥谷寺には伝えられます。
承応2年(1653)に澄禅が記した『四国遍路日記』には、次のように記されています。
   弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂(現大師堂 旧奥の院)がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。(後略)

ここには現在の大師堂には、木像の弘法大師と石像の藤新大夫(とうしんだゆう)夫婦が安置されていたことが記されています。高野山関係の史料には、空海の父母は古くから弘法大師の父は佐伯氏、母は阿刀氏の女とされてきました。ところがここでは、空海の父母は、藤新大夫夫婦で父は「とうしん太夫」、母は「あこや御前」とされていたことが分かります。ここからは、江戸時代初期の弥谷寺では、高野山や善通寺とはちがうチャンネルの弘法大師伝が作り出されて、流布されていたようです。「空海の父母=藤新大夫夫婦」説は、近世初頭には四国遍路の開創縁起として、かなり広く流布されていて、多くの人たちに影響を与えていたようです。これに対して「正統的な弘法大師信仰者」の真念は、「愚俗のわざ」として痛烈に批判しています。

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現在の獅子の岩屋の配列 弘法大師の横には佐伯田公と記されている

 こうした異端的な弘法大師伝が生まれた背景には、弥谷寺やその近辺で活動する高野聖の存在が考えられます。それをたどると、多度津の海岸寺・父母院から道隆寺、そして児島五流修験や高野聖が関わっていたことが浮かび上がってきます。そういう意味でも、四国遍路の成立過程はひとつの流れだけではなく、何本もの流れがあったことがうかがえます。それが弥谷寺からは見えてきます。

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獅子の岩屋 空海の横には母玉依御前

戦国時代に兵火で焼失した弥谷寺は、近世の生駒家の下で復興が始まります。
本堂焼失後に仮堂を建立し、残された本尊千手観音や鎮守の神像等をおさめて伽藍の再興がはかられます。そして、17世紀後半には境内整備が進展して伽藍が復興されます。また近世の弥谷寺は、生駒家に続いて丸亀藩・多度津藩の祈躊寺として位置づけら、五穀成就や雨乞いの祈躊を執行するなど、丸亀・多度津両藩の保護を受ける特別な寺となります。
弥谷寺 一山之図(1760年)
弥谷寺一山之図(1760年)
 同時に民衆にとっても中世以来の「死霊の集まる山」で先祖供養にとして重要な存在でした。承応2年(1653)の『四国遍路日記』には、弥谷寺の境内には岩穴があり、ここに死骨を納めたとあります。江戸時代前期の弥谷寺は、中世に引き続いて死者供養の霊場として展開していたことが分かります。
 弥谷寺の年中法会の中で重要なものとされる光明会が、 日牌・月牌による先祖供養の法会として整備されていきます。近世の弥谷寺は檀家を持っていませんでしたが、この光明会によって死者供養、先祖回向の寺として、広範囲にわたって多くの人々の信仰を集め続けます。また、修行者や聖などの宗教者の修行地とされていた弥谷寺には、彼らが拠点とした院房が旧大門(八丁目大師堂)から仁王門にかけて、十を越えて散財していました。それが姿を消します。これは、白峰山の変貌とも重なり合う現象です。
弥谷寺 八丁目大師堂
院坊跡が潅頂川沿いにいくつも記されている

 修験者や聖たちに替わって、弥谷寺を訪れるようになったのは遍路たちです。そして、弥谷寺も遍路ら巡礼者に対応した札所寺院に脱皮・変貌していくことになります。それが例えば遍路接待のための施設設置です。
正徳4年(1714)までは、寺内の院坊の一つである納涼坊が遍路ら参詣者の接待所を兼ねていました。しかし、享保10年(1725)に財田上の大庄屋・宇野浄智惟春が接待所(茶堂)を、現在の大師堂の下に寄進設置しています。
弥谷寺 茶堂
金毘羅参詣名所図会に描かれた茶堂
この接待所は弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』などにも描かれていて、ここで接待が行われていたことが分かります。

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「永代常接待碑」
現在は、この接待所の跡地に、永代にわたって接待することを宇野浄智が記した「永代常接待碑」(享保10年2月銘)が建っています。またその2年後には宇野浄智から「永代常接待料田畑」が寄進されています。この他、弥谷寺の門前には、ある程度の店も立ち並んでいたようで、遍路ら参詣者を迎え入れる札所寺院として整備されていったことが窺えます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
             「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 しかし、江戸中期以降の弥谷寺への参拝者の増加は、四国遍路よりも金毘羅詣りの参拝者の増加とリンクしたものでした。金毘羅さんにお参りした客を、弥谷寺に誘引しようとする動きが強まります。そのため丸亀に上陸した参拝客に「七ヶ所詣り」の地図が手渡され、善通寺方面から弥谷寺への誘引をはかります。そのために寺へ通じる沿道の整備が進められます。
 弥谷寺は、鳥坂越手前で伊予街道から分岐する遍路道を整備します。そして寛政4年(1792)に分岐点近くの碑殿村の上の池の堤防横に接待所を設置し、往来の参拝客に茶を施したいと願い出て、多度津藩から許可されています。この接待所は「茶堂庵」と称され、講中によって維持されていきます。同時に、この接待所には弥谷寺に向けたスタート・モニュメントとして大地蔵を建立されます。
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善通寺市碑殿町の大地蔵

ここから弥谷寺境内の法雲橋へ至る道に、10の仏像を安置する計画が立てられ、ゴールの境内では寛政3年(1791)、金剛挙菩薩像(当初は大日如来)の造立に取りかかっています。このように弥谷寺は周辺地から境内へ至る道の整備を進め、増加しつつある参詣者を誘致に務めています。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
 近代の弥谷寺は、明治5年(1872)に山林が上地処分によって官有地として没収されます。これによって経済的な打撃を受けますが、明治39年に「上地林」は境内に再び編入されます。諸堂の整備も引き続き行われ、明治11年には大師堂が再建されます。また江戸時代以来の接待所(茶堂)は、通夜堂ともよばれ、近代でもにおいて遍路の宿泊施設としても機能します。しかし、これも昭和50年代に廃絶したようです。

弥谷寺 西院跡
 弥谷寺の現存建造物としては、次のようなものがあります。
明治11年 大師堂
弘化5年(1848)再建の本堂
天保2年(1831)再建の多宝塔
大正6年(1917)再建の観音堂
大正8年再建の十王堂
残された絵図を見ても本堂や大師堂など中心的な伽藍の配置は、江戸時代から大きな変更はありません。境内とそれを取り囲む岩山は、遍路や参拝者が行き交った近世の札所霊場の景観を伝えるものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世まで修行者や聖などの修行地であった。
②彼らは弥谷寺を浄土阿弥陀信仰の聖地として信者たちを誘引し、その結果磨崖五輪塔が造立された。
③中世から近世への移行期に高野山との交流によって、弘法大師信仰が定着した。
④近世前期には、中世同様に死者供養の霊場として参詣者の間に浸透していった。
⑤近世中期以降、さらに多くの民衆が金比羅詣りや遍路として訪れるようになり、接待所が設置されるなど、弥谷寺は遍路ら参詣者を迎え入れる開放的な空間として整備されていった。
⑥境内へ至る沿道についても整備が進められ、不特定多数の人々にも開かれた場へと展開していった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
        参考文献 弥谷寺調査報告書 2015年 香川県教育委員会

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弥谷寺本堂
弥谷寺本堂については、私は次のような「仮説」を考えていました。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていた。
②それが、いつの時代かに磨崖仏は信仰の対象ではなくなった。
③その結果、磨崖と本堂の間に壁が作られるようになった。
その根拠となるのが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)の弥谷寺本堂について次の記録です。(意訳)
(前略)
さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、弥谷寺本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。

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弥谷寺本堂の正面壁と磨崖

 現在の本堂は背面が壁で閉じられているので、岩壁に彫られた仏像や五輪塔は見えません。礼拝の対象外になっています。つまり岩壁に彫られた仏像とは全く無関係に、現在の本堂は建てらたことになります。

弥谷寺 本堂平面図
弥谷寺本堂平面図

岩壁を覆うように仏堂を建てるのは、岩壁に彫られた仏像に対する儀式を行う場を設けるためと考えられています。その例として、研究者は次のような仏堂を挙げます。
弥谷寺 龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂は岩窟に祀られた木彫の薬師・阿弥陀・不動明王の三尊の前に儀式空間の礼堂が設けられています。
弥谷寺 不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)
不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)

不動寺本堂は、岩盤の竃に厨子を置いて、本尊を安置しその前に岩壁に接した仏堂が設けられています。
これらの例のように弥谷寺本堂も18世紀中頃までは、磨崖の本尊を覆うような形で建てられていたと考えるのが自然のように思えます。
今のように壁によって隔てられる前の本堂の姿は、どんなものであったのでしょうか。しかし、それ以上は絵図資料からは分かりません。そこで研究者は屋根形式の変遷をさぐるために、磨崖のレーザー実測図を手がかりにしながら、岩壁の穴や窪みを見ていきます。

弥谷寺 本堂と磨崖
弥谷寺本堂背面岩壁の痕跡
上図を見ると本堂裏の磨崖には、数多くの五輪塔と四角い穴が彫られていたことが分かります。これが今は本堂によって隠されていることになります。東側(右)に五輪塔が密集しています。「四国遍路日記」の「阿弥陀三尊本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。」という記述通りの光景が広がります。西側に四角い穴が3つ見えます。

研究者は、この写真を詳しく検討して本堂は、複数回の建て替えが行われていること、それに伴なって屋根形式も変更されていることを次のように指摘します。
①第42図左下部のAの部分には、地面から3mの高さまで角柄穴が一列に並んでいる。
②地面近くでその1m西に柄穴2個がある。
③これらはこの前に立っていた建物の柱と繋ぐためのもので、前者は間渡しの柄穴、後者は縁葛の柄である。
④この位置は現在の本堂の柱筋とほぼ一致する。
⑤現在の本堂には岩壁へ向かって壁が設けられていた痕跡がないので、岩壁の痕跡はこれ以前の建物のものである。
⑥前身建物の西側の側柱は、現在の建物と同じ位置になる。
以上から次のような事を研究者は推測します。
⑦古くは岩壁に彫られた籠E・F・G・Hを利用して本尊が祀られていた。
⑧その前に儀式の場である本堂が設けられていた
⑨その場合、本堂は現状よりやや西に寄っており、C1~C3がその屋根跡で、今より2mほど低くなる。
⑩屋根葺材もCOや C1は、Bの現在の屋根の傾きから比べると勾配が緩いので、檜皮葺きか板葺と推定できる。
⑪以上から絵図「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年のに本堂は瓦葺ではなく、檜皮葺か柿葺と考えられる。

以上をまとめておくと、この磨崖には四角穴に尊像が彫り抜かれていて、そこにC1~C4までの4回の屋根が改修再建がされたことになります。確かにEは、C期の本堂の中心軸に位置します。そして、その周囲をFが取り囲む配置になります。この棚状の所に、何体かの尊像が安置されていたのでしょう。C期には、磨崖右側の五輪塔は本堂の外にあったことになります。
 Cにあった屋根がBになって大型化するのが18世紀中頃になります。それが「讃岐剣御山弥谷寺全図」天保十五(1844)年に描かれた天守閣のような本堂なのでしょう。ここでは、本堂が1720年の焼失で建て替えられ、それ以後は現状に近い「入母屋造妻入」のスタイルになったこと、その時に本堂は磨崖から切り離されたことを押さえておきます。
弥谷寺 本堂と磨崖

現本堂の棟より下にみえる溝状の痕跡Cを、もう少し詳しく見ていきます。
これも屋根が取り付いていた痕跡のようです。現在の屋根や痕跡Bより低い位置にあり、少なくともCl・C2。C3の三時期分の屋根の痕跡と研究者は考えています。またそれにつながると見られる水平の痕跡COoやC4もあります。これを研究者は次のように推察します。
①COとCl、 C4とC3がそれぞれ一連の屋根の痕跡である。
②COとCl、 C4とC3に向かつて正面側と右側に流れがあるから、寄棟造、平入の屋根が設けられていた可能性が高い。
③これが澄禅が「四国遍路日記」(承応二年=1653)の中で、「片ハエ作」と呼んだ屋根かもしれない。
④C2は、これに連なる痕跡がないので、切妻造か寄棟造かは分からない。

以上の屋根の痕跡から見て、C群の屋根の時期の本堂の中軸は、今より西にあった。
COとC1は2m以上
C4・C3は約1m以上、
C2は0,5m
  本堂は次第に東に移動していったようです。

もういちど第42図にもどり。今度はBの屋根跡を見ていきます。
Bには現在の本堂の屋根よりほんの少し高い所に残った、漆喰の埋められた山形の溝の用です。漆喰の大部分の表面は、黒く塗られています。これは切妻造の屋根が岩盤に突き当たっていた証拠だと研究者は指摘します。屋根と岩盤の取り合い部分を塞ぐために、漆喰を塗ったと云うのです。
 Bの東・西の、それぞれの屋根の流れは現在よりわずかに短いようです。 ただし西側(左側)では漆喰のある部分よりも西まで、その傾斜を延長する位置に岩盤の彫り込みが延びています。この一部は仏竃の上部も彫り込んでいて、漆喰がはがれた痕跡もあるようです。またBの東側(右)では、軒の先端(東端)に反りのある屋根形状に合わせた彫り込みが見えます。これらの漆喰や彫り込みも、前身建物の屋根の痕跡のようです。そうするとBの漆喰部分は、現本堂の屋根とほぼ重なり合うことになります。つまり、規模と傾きが一致する屋根で、表面の黒塗りから屋根は瓦葺だったと研究者は推察します。
それに対して、東側(右)で見られる反りのある彫り込みは、檜皮葺か瓦葺でも中世的な技法の屋根と推察します。以上から同じ位置で2期分の痕跡があることになります。それは、いずれも現本堂とほぼ同じ幅の屋根です。ここからは、現本堂の再建前に、同規模の屋根を持つ本堂が檜皮葺と瓦葺でそれぞれ1回ずつ建てられていたことになります。

弥谷寺 建築物推移表
上表は明和6年(1769)の「弥答寺故事謂」と、昭和6年(1931)の史料(年鑑)に載っている弥谷寺の建築物を、研究者が年代順に並べて整理したものです。
これを見ると、寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立されています。(「年鑑」)
この建物は、大見村庄屋の大井善兵衛をはじめ上高瀬・下高瀬・麻・三井・今津村などの三野郡3か村、多度郡2か村、那珂郡1か村の庄屋クラスの村役人たちの尽力によって建てられたもので、弥谷寺で最も古い建築物になるようです。
その約40年後の宝永6(1709)年にも、本堂(千手観音堂)が建てられています。これはどうも改修再建のようです。この時の千手観音堂(本堂)は、11年後の享保5年(1720)の春に焼失します。
 この時に弥谷寺は、大庄屋上ノ村の字野与三兵衛へ次のように願いでています。
「貧寺殊二無縁地二御座候得は、再興仕るべき方便御座無く迷惑仕り候、これに依り御領内、御表万う御領分共二村々廻り、相対二て少々の勧化仕り度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「我が寺は貧寺で、檀家も持たない無縁地ですの、再興の術がなくほとほと困っています。つきましては多度津御領内、だけでなく丸亀藩の御領分の村々をも廻り、少々の勧進寄付を行いたいと思いますので、許可していただけるように、多度津藩に取り次いでいただけないでしょうか。

 弥谷寺は、多度津藩だけでなく本藩丸亀藩にも、村々を回つて寄附を募ることを、願い出ています。(「奉願正三之覚」、文書2-116-2)。これは藩には認められなかったようです。勧進寄付活動は認められなかったようですが「本尊観音堂」の建立は認められたようです。それは本尊が千手観音の大悲心院が再建されていることから分かります。ここでは、本尊観音堂の建立を「本堂建立」と記しています。つまり、千手観音堂とは本堂のことだと研究者は指摘します。私は、千手観音堂は現在の観音堂のことだと思っていましたがそうではないようです。
本堂(千手観音堂)は近世後期にも焼失し、弘化5(1848)年に再建されています。(「年鑑」)。これが現在の本堂になるようです。
 これを先ほどの本堂裏の磨崖面の屋根跡とつきあわせると、次のようになります。
①寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立(「年鑑」)  →C群のどれか 
②宝永6(1709)年、本堂(千手観音堂)の改修再建。(「年鑑」)、→Bの茅葺き
③18世紀半ばに本尊千手観音の大悲心院(本堂)が再建  →近世後期に焼失 →Bの瓦葺き
④弘化5(1848)年に再建(現本堂)
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弥谷寺本堂東側磨崖の五輪塔
この本堂裏の磨崖には、どんな仏たちが安置されていたのでしょうか。
現在の本堂には、木造彫刻の千手観音・不動・毘沙門が安置されています。本尊千手観音は、弘化四年(1847)の作であることが分かっています。弘化の本堂の再建に併せて、本尊も造られたようです。「元禄霊場記」「寛政名所図会」などにも、本尊は、同じ仏像であった事が記されています。
「元禄霊場記」には弘法大師の事績として、次のように記されています。
三柔の峰東北西に峙てり、その中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ、本堂岩屋より造りつゝ゛けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

意訳変換しておくと
三柔の峰は東北西に伸びていて、その中軸に大師が岩屋を掘り、仏像を彫刻した。本堂岩屋より造り続けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

ここには大師が岩屋を掘って仏像を彫刻し、本堂はその岩屋に続いていたと伝えらていたことがうかがえます。この記事は延宝5年(1677)の「玉藻集」(『香川叢書』第二 所収)の記事を引用したようのなので、延宝五年以前には岩壁の磨崖仏が弘法大師作で貴重なものであるという認識があったようです。それが次第に忘れられ、手作りでつたなく見える石仏造物よりも、プロ職人の作った木像仏が本尊として迎えられ、同時に磨崖と本尊は壁で隔てられたというストーリーが描けそうです。
磨崖の尊像たちは、どのように安置され礼拝されていたのでしょうか。
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「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」(弥谷寺大師堂)

その疑問に答える鍵を、研究者は現在の大師堂の獅子の岩屋内の「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」に求めます。この2枚の扉は、岩屋の向かって右側に立てかけられた形で安置されています。

この扉には慶長9(1609)年に作られた高さ120~130㎝の扉の残欠です。
「讃州三野郡剣五山弥谷寺故事謂」『新編香川叢書 史料編一』所載 「明和故事諄」と略記)には、次のように記されています。
一、大悲心院 一宇 享保十二年未年、幹事宥雄法印
本尊 千手観音  弘法大師御作
脇士鉄扉 右 不動明王
銘云、鋳師河内国(略)
同 鉄扉 左 毘沙門天王
銘云、奉寄進(略)

ここからは次のようなことが分かります。
①大悲心院(本堂)の本尊が千手観音で弘法大師作であったこと。
②右の鉄扉に不動明王
③左の鉄扉に毘沙門天王
つまり、「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」は、もともとは大悲心院(本堂)にあったのです。それでは、鉄扉はどのように使用されていたのでしょうか。研究者が注目するのは42図の四角穴Eです。Eは、屋根がC群にあった時期には、本堂のちょうど中央にあった穴になります。Eには、扉の軸摺穴が残っていることを研究者は指摘します。鉄扉がここに填まっていたとすれば、Eに本尊千手観音が安置されていたことになります。この位置は屋根の痕跡COの位置とほぼ揃います。慶長の頃には、Eに本尊を祀り、その前に本堂の建物が取り付いて、不動明王・毘沙門天王が浮彫にされた鉄扉を開けると本尊の千手菩薩を拝むことができたことになります。
正徳四年(1714)の「弥谷寺由来書上」(寺蔵文書1-17-8)には、次のように記されています。
一、当山本尊千手観音堂、炎焼以後者壱丈二五間之片廂仮屋二鎮守権現・千手観音、不動・毘沙門 ハ左右之鉄扉脇士ノ尊像也、弥陀・釈迦・地蔵菩薩一所二安置セリ、然に延宝年中二仮堂大破に及たり、建立之願を発し、遠近の門戸を控、微少の施財を集、三間四面之観音堂建立功畢、参拾餘に及て大地震二、大石堂二落懸り、堂已二大破せり、依之再建造営ノ願、止事なしといへとも、前之堂所ハ、不安穏の地なれは、後代無愁之所を択定、往昔中尊院屋敷江引越、奥行四間、表五間に造営建立、其功令成就畢、
意訳変換しておくと
弥谷寺の本尊千手観音堂は、(天正年中の)戦禍で焼失以後は壱丈二五間之片廂仮屋で、そこに鎮守権現・千手観音を安置し、不動・毘沙門天は左右の鉄扉の脇士尊像であった。つまり、弥陀・釈迦・地蔵菩薩を仮堂の一ケ所に安置していた。ところが延宝年中(1673年~81年)に仮堂も大破してしまった。そこで、再建願いを藩に出たが、大規模な寄進活動は行わず、限られた募金活動で、わずかばかりの施財を集め、三間四面の規模で観音堂(本堂)を再建することにとどめた。 ところがこれも30年ばかり後に大地震に見舞われ、磨崖の上から大石が本堂に落ちてきて、本堂は大破してしまった。再建造営願を藩に提出し、再建に向けて動き出した。その際に、今までの本堂が建っていた所は、再び落石の危険があるので、後代に愁いの無いところへ移して再建されることになった。奥行四間、表五間の規模で造営建立された。其功令成就畢、

ここからは次のようなことが分かります。
①戦国末期の天正年中の兵火で本堂も焼失
②その後は片庇の仮堂を建てて、本尊やその他の尊像を安置していた
③ところがこの仮堂も、延宝年中に大破した。
④そこで、限られた寄進活動で三間四面の小規模な規模で観音堂(本堂)を再建した
⑤ところが約30年後に地震で大石が落ちてきて、これも大破
⑥そこで安全なところに場所を移して奥行四間、表五間の規模で再建された。

これ以外にも「剣五山弥谷日記」(弘化三年 寺蔵文書2-20-1)には、享保五年の本堂火災等の記事もあることは先ほど見たとおりです。
岩壁崩壊後に場所を移動して建てられた本堂が屋根跡C→Bを示すのかも知れません。しかし、どの程度移動したのかはよく分かりません

以上をまとめておくと
①弥谷寺本堂裏の磨崖には、尊像を安置した四角穴が4つほど穿たれている。
②ここには弘法大師作とされる尊像が安置されていた。
③そのためこの尊像が安置された四角穴を覆うように、屋根が被せられそれが本堂とされてきた。
④その本堂は現在のものよりも小型で、現在の位置よりも西へ2mほどよった所に建てられていた。
⑤それが江戸時代中期になると本堂は焼失や落石などで大破し、再建されることが続いた。
⑥その結果、江戸時代後半には参拝客の増加とともに本堂も大型化し、瓦葺きとなっていった。
⑦本尊も弘法大師作という石仏からプロ職人の木像仏へと代わり、磨崖仏との間に壁がつくられるようになった。
⑧磨崖物の本尊千手観音を守っていた脇士の不動明王と毘沙門天の鉄扉像は役割を終えて、現在は太子堂内の獅子の岩屋に収められている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会

     P1120861
弥谷寺本堂

四国霊場のお寺は、もともとは山林寺院だった所が多く、本堂の奧に奥の院や大師堂があるのが普通です。ところが弥谷寺は、本堂が一番上にあります。獅子の岩屋があるのが「大師堂」です。ちなみに大師堂と呼ばれるようになったのは、この寺が江戸時代に善通寺の末寺となってからのことです。この寺に弘法大師信仰がはいってくるのは近世以後だったことがうかがえます。これについては、また別の機会にふれるとして、先を急ぎます。
P1120852
阿弥陀三尊磨崖物

 本堂が一番上にあるのは、ここが一番大切な所であったからでしょう。それは何かと云えば、本堂下の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像だと私は思っています。鎌倉時代に弥谷山を拠点とした高野聖や念仏聖たちが信仰したのは阿弥陀さまです。それが彼らの修行場であり、聖なる磨崖に彫られて本尊として信仰されるようになります。後に本尊は観音さまに交代しますが、弥谷寺のスタートは阿弥陀信仰です。そして、この上に本堂は建立されることになります。

P1120869
弥谷寺本堂軒下の磨崖に置かれた石仏

 弥谷寺本堂は伽藍の最上段に岩盤を削って建てられています。
その西側面と背面には岩盤が垂直に迫ってきて、背面には人が彫った窪みや磨崖五輪塔がいくつも穿たれています。本堂はこの岩盤に接するように建てられ、背面切り妻屋根はそのまま岩盤に繋がれています。
P1120867
弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔
 この本堂を最初に見たときに思ったのは、断崖に囲まれた岩窟寺院という印象でした。まわりの断崖の中に、すっぽりと本堂が入り込んでいるような感じです。その後、中国の敦煌や竜門などの石窟寺院を見て、改めてこの本堂を見ると腑に落ちないことがいくつかでてきました。それは、弥谷寺でも磨崖に仏像が彫られ、それが本尊として信仰対象となっていたはずです。それなのに、今の本堂は断崖との間に壁があるのです。
P1120872
仏が彫られた磨崖側の本堂の壁(弥谷寺)
これでは、本尊を拝むことは出来ません。私の仮説は、次のようなものです。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていたい
②それが、いつの時代かに磨崖物は信仰の対象ではなくなり、磨崖との間に壁のある本堂が建てらた。
しかし、素人の悲しさで、これ以上のことは分かりませんでした。どうして壁が作られたのか、また、それがいつ頃のことなのか疑問のままでした。それに答えてくれたのが、「山岸 常人 弥谷寺の建築の特質  弥谷寺調査報告書263P」です。今回は、これをテキストに弥谷寺本堂の謎に迫っていきたいとおもいます。

まず、研究者が押さえるのが弥谷寺が描かれた次の絵画史料です。
①「四国編礼霊場記」 (元禄2(1689)年
②「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年
③「四国遍礼名所図会」 (寛政十二(1800)年
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年、
⑤「金毘羅参詣名所図会」 (弘化4(1847年 )

これらの絵図で弥谷寺本堂を見ていきましょう。
弥谷寺 四国編礼霊場記
 ①「四国編礼霊場記」では、「観音堂」とあるのが本堂です。
先ほど述べたように伽藍の中で一番高い所にあり、その周辺には、多くの磨崖物や五輪塔が描かれています。本堂(観音堂)は平入の仏堂のように描かれていて、岩壁に接しているようには見えません。現在の本堂は、正面入母屋造、妻入の建物ですが、背面は切妻造になっていて、背面側は土壁で開じられています。背面と向かって左側面に岩壁があり、それらに接するように本堂が立っています。
「四国編礼霊場記」は写実性に乏しいとされるので、すぐに17世紀の本堂の建築形式が今とは違っていたと判断することはできないと研究者は考えています。本堂の右側に描かれているの阿弥陀三尊の磨崖物です。
弥谷寺 一山之図(1760年)
②「剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10(1760)年です。
  本堂は、「正面入母屋造、妻入の建物」ですが、背面は切妻造ではないようです。ここからも本堂が磨崖に接しているようには見えません。本堂周辺部を見ると、山崎家の3つの五輪塔が描かれています。しかし、現在は本堂のすぐ西側にあるので位置が違うような気もします。山崎家五輪塔は、後世に現在地に移動された可能性があります。また、天霧城主の香川氏の五輪塔が100基以上もかつては西院跡にはあったとされますが、それも描かれています。香川氏と山崎氏の墓域であったことを強調しているようにも思えます。現在の大師堂は「奥の院」と標記されています。大師堂と呼ばれるようになるのは弘法大師信仰が強まる江戸後半以後のようです。
弥谷寺 四国遍礼名所図会

③「四国遍礼名所図会」(寛政十二(1800)年の本堂です。
 「正面入母屋造、妻入で、背面は切妻造」の現在の姿に近いようです。背後も磨崖に接しているように見えます。この絵図は、他の絵図と比べても最も写実的な要素が強いようなので「本堂=磨崖設置説」を裏付ける資料にはなりそうです。また、本堂前の坂道が石段化されています。この時期は、曼荼羅寺道なども整備され接待所が置かれ、大地蔵や金剛拳菩薩などの建立が進められていた時期になります。進む境内の整備状況を描いたとも考えられます。金毘羅さんでも見ましたが、境内整備が進むとそれをアピールして、さらに参拝客を増やそうとする「集客作戦」を、当時の大きな寺社は展開していました。このプロモート作戦が功を奏してか、十返舎一九の描くやじ・きたコンビも金毘羅詣でのついでに、弥谷寺にお参りしているのは、以前に紹介しました。この時期から参拝客が激増します。しかし、それは四国霊場の「集客力」ではなく、「金毘羅+善通寺+七ケ所廻り」という誘引戦略のおかげだと私は考えています。

弥谷寺 「讃岐剣御山弥谷寺全図」
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年です。
この時期は、金毘羅に歌舞伎小屋や旭社が姿を見せ始め金比羅詣客がピークに達した時期になります。それに連れて、弥谷寺参拝客が最盛期を迎える頃になります。そのためか伽藍整備も進んで本堂も天守閣のような立派な建物になっています。旧奥の院も大師堂と名前を変えて、堂々とした姿を見せています。
 本堂西側に山崎氏の五輪塔が集められて墓域を形成しています。この時期に本堂の西側に移された可能性があります。

弥谷寺 金毘羅参拝名所図会
⑤次が「金毘羅参詣名所図会」です。
この本堂や大師堂を見ると「????」です。先ほど見た④と比べて見ると3年しか建っていないのに、描かれている建物がまったくちがいます。それに「大師堂」が「奥の院」の表記に還っています。これはいったいどうしたのでしょうか。火事で全山焼失し、新たな建物となったということもなさそうです。
研究者は⑤の描く本堂や奥の院が②「剣五山弥谷寺一山之図」と、非常によく似ていることを指摘します。つまり⑤は出版に際して、現地を見ずに②を写した可能性があると研究者は考えているようです。今では考えられないようなことですが、当時は現地を訪れずに絵図が書かれることもあったようです。とすると⑤「金毘羅参詣名所図会」は、資料としては想定外となると研究者は判断します。
四国遍路関連古書

絵図はこれだけですが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、次のように記されています。
 剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師(弘法大師)の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切王フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、
 拉、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段ヒリテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、
内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノロニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
意訳変換しておくと
弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。
 寺の広い庭から一段上ると鐘楼在、また一段上がると護摩堂がある。これも広さ九尺斗二間に岩を切り開いて戸をつけてある。その中には、本尊の不動の他に、何体もの仏像があるが、全て石仏である。ここから少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今風の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。
その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。
 さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、17世紀中頃の弥谷寺の様子が詳しく書かれていて貴重な一級資料です。本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。どちらにしても澄禅は、弥谷寺本堂は、片流れの屋根であったと記しています。この記事は十七世紀中期には本堂の屋根が、いまのような入母屋造妻入でなかったことを教えてくれます。片流れ屋根なら磨崖仏を本尊とする本堂には相応しいものになります。

それでは本堂が「片流れの屋根」から「入母屋造妻入」姿を変えたのはいつのことなのでしょうか?
本堂が焼失した記録は、享保5(1720)にあります。また18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。ここからは1720年に焼失した本堂が18世紀半ばまでには、新たに再建されたことが分かります。先ほど見てきた絵図が書かれた時代をもう一度見てみると、次のようになります。
澄禅の「四国遍路日記」承応二(1653)年   片流れ屋根
①「四国編礼霊場記」 元禄2(1689)年 平入の仏堂
②「剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10(1760)年   入母屋造妻入の本堂
ここからは17世紀には、片流れの屋根であったのが、1720年の焼失後に再建されたときに、入母屋造妻入の本堂になったと考えることが出来そうです。元禄年間前後に屋根形式の変更があった可能性を押さえておきます。

しかし、これだけでは本堂が本尊とされる磨崖仏の上に被せるように屋根があったことは証明できません。それを研究者はレーザー透視で撮られた写真をもとに解明していきます。それはまた次回に・・・
IMG_0014
弥谷寺本堂背後の磨崖仏や五輪塔

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会
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         P1120863
弥谷寺本堂西側の山崎家の墓域
17世紀中頃の丸亀藩藩主・山崎家治の代に、弥谷寺の麓での田地開発が許可されたことが、郡奉行から大見村庄屋又大夫に伝えられた史料に残されています。この史料からは弥谷寺が畑6反3畝の土地を開発し、伽藍修理料としての「御免許」(年貢免除)を得たことが分かります。これが「御免許地」、つまり田畑の税を免除された最初の寺領になるようです。(「御免許山林田畑之事」、文書2-106-19)
 さらに山崎家断絶の後に入封してきた京極藩の高和の代に、郡奉行へ新開地1町5反を、大庄屋上の村の新八、下高瀬村宇左衛門、大見村庄屋七左衛門を通して「御免許地」として願い出ています。そこには、「開地漸く七反余開発仕り、用水池を構えた」とあります。ため池築造とセットで、新田開発が引き続いて行われていたことがうかがえます。
 元禄7年(1694)に、丸亀藩の支藩として多度津京極藩が成立します。
2多度津藩石高
多度津藩の石高
前回お話ししたように弥谷寺のある大見村は、多度津藩に属します。そのため多度津藩の領地決定まで土地開発は一時中断したようです。多度津藩の領地が決定すると、改めて1町5反の開発を、大見村庄屋善兵衛が大庄屋三井村の須藤猪兵衛、上ノ村宇野与三兵衛へ申し出て、大庄屋の二人から代官に願い出ています。そして正徳4年(1714)3月に、次のような証文を得ています。

弥谷寺格別の儀二思し召され、後代堂塔修理料として、開田畑壱町五反御免許

こうして5月には、この田畑1町5反(田2反9畝、畑1町2反1畝)が御免許地とされます。これを山崎家時代に認められていた6反3畝と併せると御免許地は2町1反3畝になります。

P1150031
大見から見た弥谷山(真ん中 右が天霧山)
これらの弥谷寺の寺領は、どこにあったのでしょうか?
  弥谷寺の下に広がる大見の地は、中世に秋山氏によって開かれたとされます。秋山氏の一族である帰来秋山氏は、竹田に舘を構えていました。近世になると三野湾が大規模に干拓されていきます。そのような中で弥谷寺に続く斜面も開墾され、その上部の谷頭にため池を築造することで棚田状の新田を開発したことが推測できます。

P1150038
現在の八丁目太子堂付近 左が旧遍路道

 現在の八丁目太子堂辺りに、かつては大門があったことは以前にお話ししました。この太子堂の裏には谷頭に作られたため池があります。
弥谷寺 遍路道
八丁目大師堂(大門跡)の南に残る「寺地」

太子堂から本山寺に続く遍路道を下りていくと旧県道と交わる辺りに「寺地」という地名が残ります。江戸時代に、弥谷寺が開発し、「御免許地」となったは2町1反3畝の水田は、この辺りにあったと私は考えています。この土地は、弥谷寺にとっては伽藍維持や日常的な寺院経営にとっての経済基盤となったはずです。
弥谷寺 八丁目大師堂 大門跡
弥谷寺の寺地周辺
 また、4月には大見村の鳥坂原で、新開畑5反5畝が弥谷寺分として認められています。この地については「当夏成より定めの通り上納仕るべき者なり」とあるので、「夏成」(夏年貢)を納める必要があったようです。(以上、「御免許山林田畑之事」、文書2-11「19、「弥谷寺由来書上」、文書1-17-8)。

弥谷寺は、自らの手による新田開発以外にも、有力者からの田畑の寄進を受けています。
弥谷寺に残された田畑等の寄進証文を、研究者が年代順に整理したのが次の表です。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田畑等の寄進証文一覧表

これを見ると一番古いのは「1の元禄12年の三野郡上高瀬村の田中清兵衛」によるもので、精進供料とし田畑5畝(高2斗5升が寄進されています。この時期は、弥谷寺境内に多くの墓標が造立され始めたころで、18世紀中頃にかけて急速にその数が増えていきます。墓標を弥谷寺境内に建てると同時に、追悼供養として寄進が始まったようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
弥谷寺の墓標造立数の推移表
2は、先ほど見た大見村寺地組の有力者で深谷家の当主です。新田として開発された周辺の土地が寄進されたのかも知れません。3~5は、大見村の属する「上の村組」の大庄屋である宇野家によるものです。宇野家は大庄屋として、多度津藩が命じて弥谷寺で行われる大般若経の転読や雨乞祈願などの行事には、上の村組の庄屋たちのトップとして臨席する立場にありました。ある意味、宇野家にとっては弥谷寺は慰霊の地であるとともに「ハレの場」でもあったのです。そこに、「観音堂修理料」の名目で、土地が3ケ所寄進されています。その後の田畑寄進者の名前を見ると、宇野家を見習うように大見村土井家、大見村庄屋大井家や、大見村内の有力者の名前が続きます。
 生駒氏や松平氏が新興の金毘羅神を保護し、金光院に多くの土地を寄進しました。それを真似るように、この時代になると庄屋や有力者が田畑を寺社に寄進するようになります。弥谷寺への土地寄進の先頭を切ったのは、大庄屋の宇野家で、これを見習うように庄屋たちが続いていきます。その背後には、彼らが弥谷寺を死霊の集まる山として霊山信仰をもち、そこに墓標を建てるようになったことがあります。

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弥谷寺の墓標
その中で6の正徳3年の5月と翌年3月に、美作の久米南条郡金間村平尾次郎兵衛が、岩谷奥院灯明料を寄進しています。
その理由は研究者にも分からないようです。ただ、近世以前の弥谷寺は、善通寺の影響下に入らずに、白方の海岸寺や父母院と同じ山伏(修験者・聖)たちとともに「空海=白方誕生説」を流布してたことは以前にお話ししました。そして、その源は多度津の道隆寺を経て、海を渡って備中児島の五流修験者たちとのつながりが見て取れます。五流の修験者の中には、海岸寺や弥谷寺を空海生誕の聖地として、先達なって信者たちを誘引していた時期があります。その名残がこの背景にはあるのではと、私は推測しています。

弥谷寺に寄進地された土地は、あまり広い田畑はないようです。
一番広いのが田畑5反3畝25歩の享保12年9月の上ノ村の大庄屋三野(宇野)浄智(与三兵衛)です。その次が寛延3年6月の田畑3反2畝27歩の宇野清蔵(宇野浄智の一族と思われる)になります。寄進目的としては精進供料、本尊仏倉向備、観音堂修理料、岩屋奥院三尊前言明料、石然地蔵尊仏倉向備、観音堂供灯明料、常灯明料・護摩供支具料・地蔵尊敷地・寺地普請などが記されています。
 宇野浄智の場合は常接待料・接待堂・常接待石碑となっており、遍路のための参詣者や接待堂建設のための寄進もあることに研究者は注目します。
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺の地蔵刻印の墓標


これらの寄進地は、その土地からの収入がすべて弥谷寺の収入となったわけではありません。
作徳米(藩へ年貢)を納めた後の収納米が弥谷寺の収入になります。たとえば一番古い元禄12年の田中兵衛の寄進状には、次のように記されています。
大見村小原にて田畑五畝、此の高弐斗五升の田畑買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料二事二仕る処なり、尤も御年貢諸役等其の方二て御勤め、其の余慶を以て御精進供御備え願い奉る者なり、右の意趣は両親のため、現世安穏後生善くする所なり
意訳変換しておくと
大見村小原で田畑五畝、石高弐斗五升の田畑を買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料として寄進する。もちろん御年貢諸役などを納めたあとの余慶を、御精進供御備するものである。この意趣は両親のため、現世安穏・後生を善くするためである。

ここからは次のようなことが分かります。
①寄進地は、従来から持っていた田畑ではなく、新たに弥谷寺周辺の田畑を買い求めたものであること。
「弘法大師の御精進供料」と弘法大師信仰がみられること
③「御年貢諸役等其の方二て御勤め」とあるように、年貢やその他の藩への負担である諸役は弥谷寺から納め、残った分を「其の余慶を以て御精進供御備え」に充てるとあること
この「余慶」が作徳米になります。つまり田畑の寄進を受けたとはいっても、それが「御免許地」のように藩への年貢貢等税が免除された寺領という性格ではなかったことを押さえておきます。
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弥谷寺本堂下の磨崖に彫られた五輪塔とその前に並ぶ墓標

弥谷寺への土地の売り渡し・質入れ証文が残っているのは、どうして?
享保11年(1726)から、幕末の嘉永元年(1848)までに20通を数える売り渡し・質入れ証文があります。どうして個人の証文が弥谷寺に残っているのでしょうか。研究者は次のように考えています。享保11年と同12年の大庄屋宇野浄智の売り渡し証文は、計田5反3畝25歩です。これは寄進地の第22表8番目の三野郡財田上ノ村宇野浄智と一致します。また宝暦6年2月の「利助取次」が宛名になっています。畑4畝12歩は、さらに大見村庄屋の大井平左衛門宛となっています。これは寄進地の13番目の宝暦6年12月大井平左衛門の田畑6畝5歩と同一の田畑だと研究者は指摘します。ここから大庄屋の宇野家や大見村庄屋の大井平左衛門は、質流れで手に入れた土地を、自分のものとするのではなく弥谷寺へ寄進したとことが分かります。この頃の庄屋は自分の利益だけを追い求めていたのでは、村役人としてやっていけなかった時代です。質流れの抵当として手に入れた土地は、寺社に奉納するという姿勢を見せておく必要があったのかもしれません。
以上をまとめておくと
①17世紀の弥谷寺は、八丁目大師堂の下あたりの斜面を開墾し、谷頭にため池を築造し新たな田畑を開いた。
②これは藩から「御免許地2町1反3畝」として無税の寺領として認められた。
③一方、18世紀になると大庄屋の宇野家など、境内に墓標を建てた有力者たちから先祖供養代などとして土地寄進が行われるようになった。
④その土地には「質流れ担保」で、庄屋たちの多くは自分のものとせずに弥谷寺に寄進する道を選んだ。
前回は大般若経の転読や雨乞い祈祷などの宗教行事を通じて、地域の有力者が弥谷寺と深く関わっていたことを見てきました。今回は、大庄屋などの有力者が経済的に弥谷寺をどのように支えてきたのかを見たことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
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   多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)年4月19日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村、三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
こうして多度津藩は丸亀藩の支藩として成立します。その石高は以下の通りです。
2多度津藩石高
多度津藩の石高(多度郡+三野郡)

多度津藩の石高1万石は、多度郡が7130石余(15か村)、三野郡が2869石余(5か村)でした。その内で三野郡5か村は大見村・松崎村・原村・神田村・財田上ノ村で、その石高は次の表の通りです。

2多度津藩石高変化
多度津藩各村毎の石高推移

三野郡では宝暦年間は、大見村の石高一番多く、少ないのが原村だったことが分かります。それが明治4年には、神田や財田上(上の村)の石高が倍増しています。山間部での水田開発が継続して行われていたことがうかがえます。
弥谷寺 大見村と上の村組
多度津藩の三野郡5ケ村の位置

上の地図のように前者の3ケ村は三野郡の北部で、後者の神田村(山本町)・財田上ノ村(財田町)は、三野郡の南部になります。ふたつは離れた飛び地でした。環境の違うふたつのグループをまとめていくことは、なかなか大変だったことが予想されます。どちらにしても、弥谷寺のある大見村は、三野郡5か村で構成される上ノ村組に属していました。
上ノ村組の大庄屋は、財田上の宇野家が務めていたようです。
正徳1(1711)年に、神田村に隣接する羽方村(高瀬町)が多度津領に追加されます。その2年後の正徳3(1713)年4月に、上の村組大庄屋の宇野与惣兵衛が観音堂修理料として弥谷寺に田5畝を寄進しています。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田地寄進一覧表
 宇野家は大庄屋を代々務め、多度津藩の湛甫建設が本格化する天保7(1836)年3月まで、宇野弥三左衛門の名前は大庄屋として確認できます。一方、大見村の庄屋は、近世初期の元和6年(1620)以降、明治まで、大井家がずーっと継承しています。(『新大見村史』)
P1120799
弥谷寺の本坊
字野家や大井家と、弥谷寺はどんな関係だったのでしょうか?
その関係を垣間見える資料を研究者は2つ挙げています。ひとつは、享保19年(1734)に、弥谷寺住職智等が隠居願いを本寺の善通寺誕生院へ提出しています。それと同時に,大見村庄屋大井平左衛門と連名で大庄屋の宇野与三兵衛へも提出しています。しかし、これは認められなかったようです。
 2つ目は、隠居願いが認められなかった住職智等は、3年後の元文2(1737)年に、有馬温泉への入湯願いが出されています。このほかにも住職の高野山への登山や、本山善通寺の造塔のための大坂行についても承認伺いが庄屋や大庄屋に出されています。ここからは弥谷寺の願書は、直接に多度津藩の寺社奉行に提出され、その結果が直接に弥谷寺へ伝えられるという形式ではなく、庄屋・大庄屋の承認を受けて後に、藩に取り次がれるという仕組みになっていたことが分かります。それだけ弥谷寺の維持、運営に大庄屋・庄屋が深く関わっていたようです。
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弥谷寺本坊
次に弥谷寺の住職の後継者決定手続きを見てみましょう。
寛政11(1799)年暮れに住職蜜範が病死し、後継者を決めることになります。その際の記録に「法春並びに村役人共打ち寄り評議仕り候」とあります。法春とは同一宗門を修行する仲間のことで、弥谷寺の住職の決定には「法春」とともに村役人が「評議」して、その承認が必要であったことが分かります。蜜範の後継者には、松崎村の長寿院が転住して住職となっています。この時は大見村宝城院と大見村庄屋玉三弥源太連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願い出ています。(「諸願書控」、文書2-104-3)。

 その次の後継者選びは、文政9年(1826)に住職霊熙が病気隠居し、後任者に大見村の宝城院が兼帯することを願い出ています。この時も弥谷寺と大見村後見大井勇蔵の連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願書を提出しています。このことは善通寺誕生院へも伝えられ、多度津藩では「願書二誕生院よりの添翰を以て願い出」ているので、これを認めています。(「奉願口上之覚」、文書2-116-11)
 幕末の嘉永5年(1852)に弥谷寺では住職智量が隠居したため、後継者を決めることになります。この時も寛政11年の時の「法春井びに村役人共評議仕り」との同じような文言があります。ここからは弥谷寺の後継者決定にも、大見村の村役人が深く関わっていたことが分かります。村役人と弥谷寺の関係の強さがうかがえます。
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弥谷寺十王堂

弥谷寺の住職は多度津藩の陣屋が出来るまでは、藩主が在国している時には、年頭に丸亀城で丸亀藩主・多度津藩主にお目見えをしていたようです。また、正・五・九月には丸亀城内で、般若経の転読や祈祷を行っています。ここからは、弥谷寺は丸亀藩・多度津藩の祈祷寺だったことが分かります。(「弥谷寺故事謂」)

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弥谷寺十王堂からのながめ

 明和7(1770)年はこの年は不作で、丸亀藩では農民に対し、「夫喰」(食料米)の貸与を行っています。これに対して5月に、多度津藩・寺社奉行は弥谷寺と道隆寺を呼んで、次のように命じていることが「五穀成就民安全祈祷控」に記されています。(要約)

藩主・京極高文様が近年の旱魃という領内不幸に、「百姓貧殺イタセシ事」を深く悲しんでおられる。そのために正月に「五穀豊熟民安全」を祈って、藩主自らが大般若経の「御札」を書き、その版木を道隆寺へ奉納することになった。そこで、多度津藩内の道隆寺と弥谷寺に大般若経の転読を命じ、祈祷料として銀5枚、領内へ配る御札用の料紙として杉原一束が渡された。祈祷料と御札紙のことは、弥谷寺から地元の「上の村組中」へも伝えらた。

 大般若経とは、正式な名前を「大般若波羅蜜多経」といいます。
 唐の時代に三蔵法師玄奘侶が16年のインド(天竺)留学から持ち帰り、その後4年を費やして翻訳(漢訳)します。小品般若、大品般若、金剛般若、文殊般若、秘密般若、理趣般若などさまざまな般若部経典の大全集で、その数は600巻にもなるようです。内容は、「般若波羅密」と訳される”悟りに至る智恵”を説く諸経典を集成したもので、「色即是空 空即是色」、一切の存在はすべて空であるという空間思想を説いているとされています。
2020年8月 – 三方石観世音
大般若経600巻

   しかし、中世の村々の寺社では、災異や疫病の流行を鎮め豊作を祈るための祈願行事となります。村々では日々の安寧を祈るため、大般若経を手に入れて祈願するようになります。導師が説草を唱える合間に、大般若経600巻を複数の僧侶で転読し、藩内の安全、五穀豊穣、また地区住民の厄災消除、家内安全を祈願するものです。

大般若経転読法要: 薬師寺日記
大般若経の転読(薬師寺)
しかし、600巻もあるお経を読むのも、長い巻物を巻くのも大変です。そのため、お経の形は5センチくらいの幅で蛇腹折りにした「折本」の形に変えられ、これを片手から片手へパラパラと落とし受けられるようにし、これでお経を読んだことにする「転読」が広く行われるようになりました。村のお経は、共同体の拠りどころである神社の宮座に置かれたので、仏教の経典が神社に伝わるという保管状況になっていたところが多いようです。それが、神仏分離で神社からお寺に移され、保管されてきたようです。
大般若シリーズ【3】 転読 その1新米和尚の仏教とお寺紹介

 経本を1巻1巻正面で広げ流し読むことで、それによって清らかな”般若の風”が起き、疫病や災害が吹き飛ばされるとされます。それぞれの僧侶が、1巻1巻「大般若波羅蜜多経 巻第○○(巻数) 唐三蔵法師玄奘奉詔訳ー!!」と、大音声で経巻数を唱え、最後に「調伏一切大魔最勝成就!」と唱え締めくくります。
このような転読会が多度津藩主から弥谷寺と道隆寺には命じられていたようです。
この時の弥谷寺の大般若経の転読には、代拝使として寺社奉行と寺社取次・代官奈良井藤右衛門らがやってきています。そして三野郡大庄屋字野十蔵を初めとする、大見村など4ヶ村の庄屋や村々の長百姓、組頭らも弥谷寺へやってきます。これは、多度津藩上ノ村組の大庄屋・庄屋・村役人のフルメンバーになります。そこに大勢の見物人もやってきます。その前で、弥谷寺住職によって大般若経の転読が行われています。一大イヴェントです。ここからは、弥谷寺が「上の村組」の重要な宗教的センターの役割を担っていたことが分かります。弥谷寺は、藩の保護を受けた特別なお寺と地元では認識されるようになります。ちなみに、この転読には弥谷寺のほかに、宝城院・長寿院・牛額寺・萬福寺・吉祥寺ら11人の僧が参加しています。その頂点に立つのが弥谷寺住職ということを目に見える形で、地元の人たちに知らしめる機会にもなります。
それから半世紀近く経った文化12年(1815)に、弥谷寺と道隆寺へ御紋幕が下賜されています。
その下賜理由は、次のように記されています。(要約)
「昨年秋の旱魃では、多度津領内は「一統困窮」した。そこで今年の夏は「五穀成就 民安全の御祈祷」を命じた。その結果、秋には領内全体に「作り方宜しく 村々より冥加米等献上」されている。これを祝して紋幕一対を下賜するので今後も、「五穀成就 民安全の祈念」をするように」とのことであった。
文化12年10月「御紋幕御寄附之控」、文書2-106-3=裏竃.

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善如龍王(男神像)
幕末の頃には「雨乞執行(祈祷)」が弥谷寺で行われています。
丸亀藩が日照りの時に、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。また、三野郡の威徳院(高瀬町)や本山寺(豊中町)では、善女龍王信仰による雨乞祈願が早くから行われていたことは、以前にお話ししました。それを見て多度津藩でも幕末になると「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。この時の雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。
 また年は分かりませんが18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にありますので、この頃のことのようです。
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生駒一正のものとされる五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておくと次のようになります
①弥谷寺は中世は、高野聖などの念仏僧によって阿弥陀浄土信仰の拠点となっていた。
②そのために周辺の有力な信者たちが磨崖五輪塔を建立し、納骨するなど慰霊の聖地となった。
③守護代の香川氏は天霧城を拠点とすると、弥谷寺を菩提寺として、西院周辺に墓域を設け五輪塔を造立し続けた
④戦国時代末に藩主としてやってきた生駒氏も、ここに五輪塔を造立するとともに、弥谷寺で作った五輪塔を墓碑として各地の寺院に造立した
⑤丸亀藩主の山崎氏も本堂の西側に、藩主のものを含めて五輪塔3基を造立した。
⑥18世紀になると香川氏・生駒氏・山崎氏の墓標がならぶ弥谷寺境内に、それに習うかのように周辺の有力者が墓標を造立するようになる。
⑦境内に墓標を建てた有力者は、弥谷寺の保護者となり寺院経営に協力していくことになった。

それが本堂改築の資金調達であったり、以前にお話した金剛拳菩薩建立のための資金調達であったようです。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
このように弥谷寺は多度津藩の有力寺院として公的な行事を行う中で寺格を上げていきます。同時に後継者決定には、大庄屋や庄屋たちを関わらせることで、地域の有力者の寺院経営への参加意識を高め、伽藍整備に関わる資金調達をスムーズに行うシステムを作り上げていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
                                                      


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弥谷寺の磨崖五輪塔 岩壁の中程に並ぶ
弥谷寺は境内の岩壁に数多くの磨崖五輪塔や磨崖仏が刻まれて独特の雰囲気を生み出しています。また、石仏、五輪塔、墓標などが境内のあちらこちらに数多く見られます。一方で弥谷寺は境内に、石切場が中世にはあったと研究者は考えています。つまり、石造物の設置場所と生産地の2つの顔を弥谷寺は持つようです。これまで中世に瀬戸内海で流通していた石造物は豊島石製と考えられてきました。それが近年になって天霧石製であることが明らかにされました。天霧石の採石場があったのが弥谷寺と研究者は考えているようです。
 弥谷寺の石造物については、いつ、何のために、だれによって造られたのかについて、系統的に説明した文章になかなか出会えませんでした。そんな中で弥谷寺石造物の時代区分について書かれた「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」に出会えました。これをテキストに弥谷寺の石造物を見ていくことにします。
 研究者は弥谷寺の石造物を次のような6期に時期区分します。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地に天霧石の五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所に石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半)外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が設置
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
今回はⅠ期の「平安時代末期~南北朝時代(12世紀後半~14世紀)」の弥谷寺の石造物を見ていきます。
この時期は磨崖仏、磨崖五輪塔が中心で、石造物はほとんど造られていません。
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本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)

磨崖仏として最初に登場するのは、本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏です。この仏は凝灰岩の壁面に陽刻され、舟形光背を背後に持ちます。今は下半身は分からないほど表面は、はがれ落ちています。

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         本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏

中央と左像は像下に蓮華坐が見られます。中央像はよく見ると肉系と二定印が見えるので、阿弥陀如来像とされます。左脇侍は観世音菩薩像、右脇侍は勢至菩薩像で、鎌倉時代末のものと研究者は考えています。
南無阿弥陀仏の六字名号
弥谷寺では阿弥陀三尊像に向って右に二枠、 左に一枠を削り、南無阿弥陀仏が陰刻されています。それは枠の上下約2.7m、横約3mの正方形に近い縁どりをし、その中に「南無阿弥陀仏」六号の名号を明確に三句づつ ならべたもので、3×3で9つあります。これが「九品の阿弥陀仏」を現すようです。

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南無阿弥陀仏の六字名号が彫られていたスペース
 今は表面の磨滅が進み今ではほとんど読み取れず、空白のスペースのように見えます。
弥谷寺 阿弥陀如来磨崖仏 1910年頃
阿弥陀如来三尊磨崖仏(弥谷寺)左右のスペースに南無阿弥陀仏がかすかに見える

約110年ほどの1910年に撮られた写真を見ると、九品の「南無阿弥陀」が阿弥陀如来の左右の空間にはあったことが分かります。仏前この空間が極楽往生を祈る神聖な場所で、この周辺に磨崖五輪塔が彫られ、その穴に骨が埋葬されていました。

弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の下に書かれた南無阿弥陀仏(金毘羅名所図会)


弥谷寺 磨崖仏分布図
弥谷寺の磨崖仏分布図
 次に古い磨崖仏があるのは、現在の大師堂にある獅子窟です。
弥谷寺 大師堂入り口
大師堂入口から見える獅子の岩屋の丸窓

獅子窟は大師堂の奥にあります。凝灰角礫岩を刳り抜いて石室が造られています。もともとは屋根はなかったのでしょう。獅子が口を開いて吠えているように見えるので、獅子窟と呼ばれていたようです。
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大師堂の中をぐるりと廻って獅子の岩屋へ
弥谷寺 獅子の岩屋2
獅子の岩屋(弥谷寺大師堂)
獅子窟の奥には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が東壁と北壁の2ヶ所の小区画内に陽刻されています。
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壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。
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一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 一番手前は弘法大師

側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。
弥谷寺 獅子の岩屋 大日如来磨崖仏
従来は大日如来とされた磨崖仏(弥谷寺)

ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、地蔵菩薩の可能性が高いと研究者は指摘します。そうだとすると阿弥陀如来と地蔵菩薩という仏像の組合せと配置は特異で、独自色があります。「九品の浄土」と同じく「阿弥陀=念仏信仰」の聖地であったことになります。
 どちらにしても獅子窟の磨崖仏は、表面の風化と 護摩焚きが行われて続けたために石室の内部は黒く煤けて、素人にはよく分かりません。風化が進んでいるので年代の判断は難しいようですが、これらの磨崖仏は、平安時代末期~鎌倉時代のものと研究者は考えているようです。ここで押さえておきたいのは、最初に弥谷寺で彫りだされた仏は、阿弥陀如来と地蔵菩薩であるということです。
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護摩堂内部 一番左に安置されているのが道範像
どうして、弥谷寺に最初に造られたのが阿弥陀如来なのでしょうか?
任治4年(1243)に讃岐国に流された高野山のエリート僧侶で念仏僧でもある道範は、宝治2年(1248)2月に「善通寺大師御誕所之草庵」で『行法肝葉抄』を著しています。その下巻奥書には「是依弥谷上人之勧進、以諸国決之‐楚忽注之」とあります。

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道範像(弥谷寺護摩堂)
ここからこの書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたものであることが分かります。これが「弥谷」が史料に出てくる最初のようです。「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修者や聖のような宗教者の一人と研究者は考えます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)
 阿弥陀三尊の磨崖仏が弥谷寺に姿を現すのは鎌倉時代のことです。
元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印による「剣御山爾谷寺略縁起」には、阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が、「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。
弥谷寺 九品来迎図jpg

「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという死生観です。そのため、印相を変えた9つの阿弥陀仏が必要になります。本堂東の水場のエリアも、「九品の浄土」して阿弥陀如来が彫られ、「南無阿弥陀仏」の六文字名号が9つ彫られます。ここから感じられるのは、強烈な阿弥陀=浄土信仰です。中世の弥谷寺は阿弥陀信仰の聖地だったことがうかがえます。
それを支えたのは高野聖などの念仏行者です。彼らは周辺の村々で念仏講を組織し、弥谷寺の「九品の浄土」へと信者たちを誘引します。さらにその中の富者を、高野山へと誘うのです。

 中世の弥谷寺には、いくつもの子院があったことは、前回お話ししました。

弥谷寺 八丁目大師堂
子院アト(跡)が参道沿いにいくつも記されている
天保15年(1844)の「讃岐剣御山弥谷寺全図」には跡地として、遍明院・安養院・和光院・青木院・巧徳院・龍花院が書き込まれています。それら子院のいくつかは、中世後期には修験者や念仏僧の活動拠点となっていたはずです。それが近世初頭には淘汰され、姿を消して行きます。それが、どうしてなのか今の私にはよく分かりません。
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磨崖五輪塔(弥谷寺)

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は、次のように記します。
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

山中の磨崖一面には、どこにも仏像が彫られていたことが分かります。
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磨崖に彫られたキリク文字
その30年後に、訪れた元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)は、次のように記します。
「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」
意訳しておくと
 水場の当たりの磨崖には、キリク文字や南無阿弥陀仏の六字名号が彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が彫られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、弥谷寺はおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた阿弥陀=浄土信仰の「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った宗教者の活動の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
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苔むした磨崖五輪塔(弥谷寺)
次に弥谷寺の磨崖五輪塔を見てみましょう。  磨崖五輪塔は何のために作られたのでしょうか。
五輪塔は死者の慰霊のために建立されますが、磨崖五輪塔も同じ目的だったようです。 弥谷寺の五輪塔は、空、風、火、水、地がくっきりと陽刻されています。そして地輪の正面に横20 cm前後、上下約25 cm 、深さ15 cm 程の 矩形の穴が掘られています。水輪にもこのような穴があけらたものもあります。この穴は死者の爪や遺髪を紙に包んで六文銭と一緒に納めて葬られたと伝えられます。このため納骨五輪塔とも呼ばれたようです。

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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔 奉納孔が開けられている

弥谷寺の磨崖五輪塔は、次の3ケ所の岩や磨崖に集中しています。
①仁王門から法雲橋付近の「賽の河原」
②大師堂付近
③水場から本堂付近
③については、今まで説明してきたように、「九品の浄土」とされる聖なる空間で、阿弥陀三尊が見守ってくれます。ここが五輪塔を作るには「一等地」だったと推測できます。
②については、先述したように大師堂は獅子窟があるところです。ここも弥谷寺の2番目の「聖地」(?)と私は考えています。そこに、多くの磨崖五輪塔が作られたのも納得いきます。
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レーザー撮影で浮かび上がる磨崖五輪塔(弥谷寺)
①の法雲橋付近に多いのは、どうしてなのでしょうか? 
 弥谷寺では、灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきたようです。
弥谷寺の『西院河原地蔵和讃』には、次のように謡われています。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き
このエリアには、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると 説きます。そのために、このエリアにも早くからに五輪塔が掘り込まれたようです。

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潅頂川にかかる伝雲橋近くに彫られた磨崖五輪塔

 弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが、伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
 大山と弥谷寺では、同じように阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役です。「さいの河原」に石を積むように、磨崖五輪塔を造立することも積善行為で、先祖供養だったと私は考えています。
 この教えを広げたのは修験者や高野聖たちだったようです。弥谷寺は時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたともいえそうです。当寺の高野山は、一山が時宗化した状態にあったことは以前にお話ししました。慰霊のために磨崖五輪塔が作られてのは、弥谷寺の聖地ベスト3のエリアであったとしておきます。

弥谷寺 磨崖五輪塔
弥谷寺の磨崖五輪塔の変遷
 弥谷寺磨崖五輪塔の初期のものは、空輪の形からは平安時代末~鎌倉時代中期のものと想定されます。しかし、軒厚で強く反る火輪を加味すれば平安時代末まで遡らせることは難しいと研究者は考えているようです。結論として、弥谷寺の磨崖五輪塔は鎌倉時代中期のもので、三豊地域ではもっとも古いものとされます。

弥谷寺 五輪塔の変化
火輪は軒の下端部が反るものから直線的なものに変遷していく。(赤線が軒反り)

 磨崖五輪塔は、多くが作られたのは鎌倉時代中期から南北朝時代です。室町時代になるとぷっつりと作られなくなります。磨崖五輪塔の終焉がⅠ期とⅡ期を分けることになると研究者は考えています。そして、 磨崖五輪塔が作られなくなったのと入れ替わるように石造物製作が始まります。 それがⅡ期(15世紀~16世紀後半)の始まりにもなるようです。ここまで見てきて私が感じることは、「弘法大師伝説」はこの時期の弥谷寺には感じられないことです。「弥谷寺は弘法大師の学問の地」と言われますが、弘法大師伝説はここでも近世になって「阿弥陀=念仏信仰」の上に接ぎ木されたようです。
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潅頂川の賽の河原に彫られた磨崖五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておきます。
①鎌倉時代に、弥谷寺の磨崖に仏像や五輪塔が彫られるようになった。
②磨崖仏は阿弥陀仏と地蔵菩薩がほとんどで、磨崖五輪塔は納骨穴があり慰霊のためのものであった。
③その背景には、「念仏=阿弥陀=浄土」信仰を広めた高野聖たちの布教活動があった。
④高野聖は弥谷寺を拠点に、周辺郷村に念仏信仰を広め念仏講を組織し、弥谷寺に誘引した。
⑤富裕な信者たちは弥谷寺の「聖地」周辺に、争うように磨崖五輪塔を造るようになった。
⑥弥谷寺は慰霊の聖地であり、高野聖たちは富裕層を高野山へと誘引した。
⑦こうして弥谷寺と高野山との間には、いろいろなルートでの交流が行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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弥谷寺下の八丁目大師堂
本山寺から弥谷寺への遍路道の最後の上り坂に八丁目大師堂があります。この大師堂には、台座裏面には寛政10年(1798)の墨書銘がある弘法大師坐像が安置されています。

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八丁目大師堂の弘法大師座像

坐像が造られた18世紀末と云えば前回お話ししたように、弥谷寺が参拝客誘致のために周辺の遍路道を整備し、接待所を設け、そこに大地蔵などのモニュメントを設置していた時期とかなさります。「弥谷寺周辺整備計画」の一環として大師堂が建立され坐像が安置されたようです。
弥谷寺 遍路道
大師堂付近は「大門」の地名が残る

 私が気になるのは、この大師堂一体に「大門(だいもん)」の小字名が残っていることです。かつての弥谷寺の大門がこのあたりにあったと伝えられています。そうだとすれば当時の弥谷寺境内は、このあたりから始まっていたことになります。さらに、この坂を県道まで下りていった辺りは「寺地」と呼ばれています。弥谷寺の寺領と考えられます。明治の神仏分離に続く寺領没収以前には、、かなり広い範囲を弥谷寺は有していたようです。
P1120733
八丁目大師堂からの遍路道
今回は、弥谷寺の八丁目大師堂付近にあったという大門について探ってみたいと思います。テキストは「弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会」です。P1150049
八丁目大師堂より上の道 かつては両側に子院が並んでいた
『多度津公御領分寺社縁起』(明和6年(1769)には、次のように記されています。
「上古は南之麓に大門御座候て、仁王之尊像を安鎮仕候故、深尾より祈祷地への通ひ道を仁王道と申し候、然る所寛永年中(1624~1643) 大門致大破候故、仁王之尊像をは納涼坊へ移置候、於干今大門之旧跡御座候て、其所をは大門と名つけ、礎石等相残居申候、先師達、大門之営興之念願御座候得共、時節到来不仕候、其内有澤法印延宝九年(1681)、先中門に再建仕候て二王像を借て本尊と仕候て、諸人誤て仁王門と申候得共、実は中門にて御座候、往古は中門に大師御作之多聞・持国を安鎮仕候、其二天は今奥院に有之候」

意訳変換しておくと
「昔は南の麓に大門があり、そこに仁王尊像を安置していたので、深尾より祈祷地への道を仁王道と呼んでいた。ところが寛永年中(1624~1643)に大門が大破し、仁王像は納涼坊へ移された。以後は大門跡なので、大門と呼んでいた。礎石などは残っていたので、先師達は、いつか大門再建を願っていたが、その機会は来なかった。そうしている内に、有澤法印が延宝九年(1681)、先に中門を再建し、二王像を向かえて本尊とした。そのため人々は、誤ってここを仁王門と呼ぶようになった。実はここは中門で、往古は大師御作とされる多聞・持国天が安置されていた。その二天は今は奥院におさめられている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①本来の大門には二王像が安置されていたので仁王門と呼ばれていたが寛永年間に大破したこと、
②大門はそれ以降再建しておらず、「大門」の地名だけが残ったこと
②中門が再建され「仁王像」が安置されたので、「中門」が仁王門と呼ばれるようになったこと。

それでは大門はどこにあったのでしょうか。
 「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には「大門跡」が描かれています。

弥谷寺全図(1844年)2
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)

この絵図が書かれた時期の金毘羅さんを見ると、丸亀や多度津に新港が整備され金比羅参拝客が激増します。その機運の中で3万両と資金を集め、巨大な金堂(現旭社)が完成間近になっていました。それに併せるように石段や玉垣なども整備され、芝居小屋も姿を見せるなど、参拝客はうなぎ登りの状態でした。そのような中で当寺の弥谷寺の住職も、金毘羅詣での客を自分の寺にどのように誘引するかを考えたようです。それが前回お話しした曼荼羅寺道の整備であり、伊予街道分岐点近くの碑殿上池への接待所設置であり、ここを初地(スタート)とするシンボルモニュメントである初地地蔵菩薩の建立でした。

弥谷寺 初地菩薩
初地菩薩(現在の碑殿上池の大地蔵)からの曼荼羅寺道
そしてゴールの弥谷寺境内には現在の金剛拳菩薩が姿を現し、その前には二天門が新たに建立されたことは前回お話ししました。

P1120884
ゴールの金剛拳菩薩(建立当初は大日菩薩)
 そして、この絵図を見るといくつもの堂宇が山の中に建ち並んでいる姿が見えます。18世紀末から整備されてきた弥谷寺のひとつの到達点を描いた絵図とも云えます。金毘羅詣でを終えて、善通寺から弥谷寺にやってきた参拝客もこの伽藍を見て驚き満足したようです。善通寺よりも伽藍に対する満足度は高かったと言われます。
 さて本題にもどります。大門跡付近を拡大してみましょう。

弥谷寺 八丁目大師堂
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)の大門跡付近拡大

絵図の右下隅に「南入口」とあり「是ヨリ/本堂へ八丁」とあります。その先に「大門跡」の立札があります。「是ヨリ/本堂へ八丁」とあるので、八丁目大師堂のあたりに大門があったことが裏付けられます。ちなみに大門跡前の坂道を参拝客が登る姿が描かれています。その下の参道左側にお堂が描かれています。これが現在の「八丁目大師堂」の前身だと研究者は推測します。その根拠は「八丁目大師堂」の弘法大師坐像の台座裏面に記された寛政10年(1798)の墨書銘です。この坐像が安置された大師堂も、同時期に建立されたはずです。それから約50年後の天保15(1844)年の「讃岐剣御山弥谷寺全図」に、「八丁目大師堂」が描かれていても不思議ではありません。現在の大師堂も参道の左側にあります。ここに描かれた建物が現在の八丁目大師堂だとすると、大門はその青木院跡前の参道の右側付近にあったことになります。

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八丁目大師堂から上の参道 子院が並んでいた周辺

この絵図を見ていて私が驚いたのは、参道両側に仁王門に至るまでいくつもの「院房アト(跡)」が記されていることです。ここからは、これだけの僧侶が弥谷寺を中心に活動していたことが分かります。その中には修験者や高野聖・念仏僧などもいたはずです。彼らが周辺の郷村に、念仏講を組織し、念仏阿弥陀信仰を広めていたことが推測できます。彼らは村の鎮守祭礼のプロデュースも果たすようになります。そして、都で流行していた風流踊りや念仏踊りを死者を迎える盆踊りとして伝え広めていきます。
 その成果として弥谷寺に建てられているのが、仁王門の上に建っている「船墓(ハカ)」です。
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仁王門上に建つ船ハカ
この船形の石造物は、今は摩耗してかすかに五輪塔が見えるだけです。
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しかし、この絵図には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたことが分かります。これは念仏阿弥陀信仰の記念碑であることは以前にお話ししました。
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船ハカ(レーザー撮影版)左に五輪塔が浮かび上がる
これを建てる念仏阿弥陀信仰者の講があり、それを組織した念仏僧が弥谷寺にいたことが分かります。今は弥谷寺は四国霊場の札所で空海の学問所とされています。しかし、中世には郷村へ念仏阿弥陀信仰を広める拠点で、人々は磨崖に五輪塔を彫り、そこに舎利をおさめ念仏往生を願ったのです。この寺の各所に残る磨崖五輪塔は、その慰霊のモニュメントだったようです。そこに近世になって弘法大師伝説が「接ぎ木」されたことになります。

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本堂横の磨崖に彫られた五輪塔 穴にはお骨がおさめられた
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会
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麻盆地の出口にあたる下麻には、「勝間次郎池」という大きな池があったという話が伝えられています。まずは、その昔話を見ていくことにします。
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下女塚が載っているのは第1集
下女塚 勝間次郎という池の堤に人柱が立てられた話です。
昔、下麻と首山にまたがって、朝日山や傾山や福井山などに囲まれた大きな池がありました。名を勝問次郎といいました。
このあたりで一番大きいのが満濃池で、満濃太郎と呼ばていたのに対して、勝間次郎は、満濃太郎の次に大きい池だという意味です。勝間次郎は、数十の谷から流れこむ三筋の川によって、池はいつも海のように水をたたえていたと言われています.
大きな池には長い堤が必要です。勝間次郎にも、たいへん長い堤防がありました。大きい池は水が多くて重いので、長い堤は切れやすいのです。堤がきれるたびに、海のような水が流れだして、そのたびに家が水浸しになり、たんばやはたけの作物が流されたりして、たいへんな被害がありました。
こんなに被害をもたらす池ですが、旧んぼやはたけの作物には水が必要です。人々はつらい思いをしながら、切れた堤を修理するのです。
麻盆地 
大麻山の西山麓に広がる麻盆地
 その年も、勝間次郎の堤が切れて、たいへんな被害がありました。
堤を修理する工事は、たいへんな苦労で、大勢の人が、何十日も汗を流して働きました。
修理の工事をしているときに、ある人が言いました。
「このようにたびたび切れる池には、人柱を立てると切れなくなるそうだな。東のほうの池で、若い女を人柱を立てたところ、それから堤が切れなくなったということを聞いたぞ」
修理の工事がきびしく苦しいので、賛成する人が何人も出てきました。
「大勢の人を助けるためには、かわいそうだが人柱もやむをえない
「そうだ、そうだ」
「あすの朝、一番にここを通った女の人を人柱にしよう」
「そうだ、女の人をつかまえて切れた堤の中へうめることにしよう」
「うん、それがよい」
こうして、工事の人たちの話し合いは、人柱を立てることに決まりました。
この話は村の庄屋さんの家へも伝わりました。庄屋さんも奥さんもたいへん心配しました。
「村の女の人を死なせることはできないわ」
と、奥さんは思いました。
次の朝になりました。まだ夜が明けきっていません。
  庄屋さんの奥さんは、自分の家で働いているお手伝いの人を連れて、堤の上を通りかかりました。待っていた工事の人びとは、名前を聞くこともなく、
「それっ」
と取り巻いて、二人をとらえました。そして、わけも言わずに、堤の工事現場へむりやりに連れていって、土の中に押し込んで、うずめてしまいました。
後になって、人びとは、むりやりに堤の土の中に押し込めたのが、庄屋の奥さんとお手伝いの人だと知りました。奥さんが自分から人柱になろうとしたことも知りました。
そんな悲しいことがあってから後、しばらくは、災害が起こらなくなりました。村の人々は安心しました。人柱になってくれた二人のおかげだと思いました。
村の人びとは、奥さんが持っていた鏡をご神体として神社を建てました。それが池の宮です。
また、お手伝いの人が持っていた箱をうめて塚を建てました。
それが下女塚です。昔は、お手伝いの人を下女といいました。池の宮は福井山の側に、下女塚は傾山の側に、高瀬川をはさんで、今も建っています。
しかし、長い年月がたつと、人柱を立てたかいもなく、いつの年にか、また堤が切れました。堤は修理ができないほど、ひどくこわれてしまいました。それから、また何年もたちました。水がなくなった池の中に田んぼができて、家が建ちました。そうして、勝間次郎は、あとかたもなくなり、伝説の池になってしまいました。

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勝間次郎池が広がっていたとされるあたり 左が朝日山
この昔話は次のような事を伝えています
①下麻に高瀬川をせき止めた海のように大きな池「勝間次郎池」があったこと
②長い堤防で幾度の決壊に人々は苦しめられていたこと
③決壊を防ぐために人柱が立てられたこと
④人柱となた庄屋の奥さんと下女の供養のために池の宮神社と下女塚が建立されたこと
⑤その後も決壊を繰り返した勝間次郎池は放置され、池の中は開墾され田んぼとなったこと
 勝間次郎池は、満濃太郎に次ぐ周囲数里の大池で、弘法大師空海の頃に築造され、決壊を重ね中世には廃池となったと伝えられているようです。それが、この池に代わって上流に岩瀬池が築かれ、勝間次郎池のことはしだいに忘れられたと『高瀬町史2005年 151p」には記されています。本当に勝間次郎池はあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 地図
③が勝間次郎池の推定位置
 
今回は伝説の勝間次郎池を見ていくことにします。テキストは「木下晴一 高瀬勝間次郎池を探る  香川地理学会会報N0.27 2007年」です
勝間次郎池があったことについて触れている史料をまず見ておきましょう。
西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション

丸亀藩が幕末に編纂した『西讃府志』には、三野郡勝間郷下麻村について、次のように記されています。

「池宮八幡宮 昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ 祭祀八月十五日 社林一段 社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」

意訳変換しておくと

「池宮八幡宮については、この地に勝間二郎という池があったので池宮と呼ばれています。祭祀は八月十五日で、社林一段鮨 社僧は歓喜院祠官の遠山伊賀が務めています。」

西讃府志の地誌部分は、地元の庄屋たちのレポートを元に作成されていることは以前にお話ししました。幕末に「昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ」という話が幕末には伝わっていたことが分かります。
麻 池八幡神社2
池八幡神社 高瀬川まで張り出した尾根上に鎮座している

まず、研究者が注目するのは「池ノ宮(池八幡神社)」です。
 池ノ宮は、社名からも池の守護神であることがうかがえます。同じような例としては、依網(よさみ)池と大依羅神社(大阪市住吉区)や狭山池と狭山堤神社(大阪狭山市)などがあり、池の周辺の丘の上に祀られています。
 下の地図を見てみましょう。
麻 池八幡神社周辺
池八幡神社(三豊市高瀬町下麻)と高瀬川
池八幡神社は、象頭山や朝日山などによって囲まれた麻盆地から高瀬川が流れ出す出口に鎮座しています。鬼が臼山と傾山に挟まれた最も谷幅の狭くなる地点になります。

P1120672
池八幡神社
境内には、明和5年(1768)の銘のある鳥居と、お旅所には文政2年(1819)の銘のある鳥居が建てられています。また先ほど見た西讃府志には「社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」とありましたので、歓喜院の僧侶が社僧を務めていたことが分かります。

麻 池八幡神社4jpg

 池八幡神社の祭神は、保牟田別命と豊玉姫命です。
八幡については、この神社の西にある歓喜院鎮守堂の八幡神社を分祀したと伝えられています。ここからは、もともとの祭神は豊玉姫命で、保牟田別命(応神天皇)は、後から合祀されたものであることがうかがえます。豊玉姫命がもともとの祭神であったのを、八幡信仰の流行の頃に、社僧を務める歓喜院の僧侶が保牟田別命(応神天皇)を合祀したと研究者は考えています。池八幡神社は、もともとは「池の宮」として建立されていたようです。
 それでは「豊玉姫」とは何者なのでしょうか?
 『日本書紀』(巻第二第十段)や『古事記』には、豊玉姫は海神の娘で、海幸彦の釣り針を探して海神(わたつみのかみ)の宮に訪れた山幸彦と結婚しますが、のち出産の際に鰐(龍)となっているところを山幸彦に見られたことを怒り、子を置いて海神の宮に帰ってしまった説話が記されています。
豊玉姫 | トヨタマヒメ | 日本神話の世界
豊玉姫

 豊玉姫は海の神とされ、讃岐では男木島の豊玉依姫神社などのように海に隣接する神社に祀られることが多いようです。一方で雨乞いや止雨、安産の神としても祀られています。たとえば阿波の豊玉姫を祀る神社には、那賀川沿いにある宇奈為神社(那賀町木頭)、雨降神社(徳島市不動西町)・速雨神社(徳島市八多町)など、立地や社名から雨乞神としてまつられていたことがうかがえます。
 讃岐の木田郡三木町の和年賀波神社には灌漑の神としての性格があると研究者は考えているようですが、これも祭神は豊玉姫です。高松市香川町鮎滝の童洞淵の童洞神社の祭神も豊玉姫命です。童洞淵は雨を祈った淵として有名な場所であることは以前にお話ししました。山幸彦が豊穣を約束された説話が多いように、豊玉姫についても、雨乞いや灌漑など豊穣の対象として信仰されていたことを押さえておきます。

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県道に面する民家の庭先にある下女塚 道の向こうが堰堤跡(?)

下女塚を見ておきましょう。
 勝間次郎池の堤塘復旧の際に、人柱となったのは、庄屋婦人とその下女でした。村人は婦人の鏡や櫛・算(髪飾り)を池ノ宮に、下女の持っていた手箱を塚に手厚く祀ったとありました。下女塚は、高瀬川を挟んだ県道沿の民家の庭先にあります。宝暦4年(1754)の銘のある舟形地蔵と寛政11年(1779)の銘のある供養塔が建てられています。

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下女塚
 人柱については、『日本書紀』巻第十一(仁徳天皇11年)に茨田堤の築造に際に出てきます。
築いてもすぐに壊れて塞ぐことが難しい所に、人柱をたてた話が記載されています。大規模な土木工事の際に古くから行われていたようで、讃岐でも次のような池に人柱伝説があるようです。
平池(高松市仏生山町) 治承2年(1178)築造)
小田池(高松市川部町) 寛永4年(1627)築造)、
一の谷池(観音寺市中田井町) 寛永9年(1632)築造)
吉原大池(善通寺市吉原町) 元禄元年(1688)築造)
夏目池(仲南町十郷)
この中で小田池と一の谷池には、人柱を祀る祠が立てられています。勝間次郎池の堤塘と下女塚の位置関係は、小田池のものと共通すると研究者は指摘します。
P1120679
下女塚


勝間次郎池の堤は、どこにあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 余水吐

 池の宮の東側の傾山の裾に形成された断崖の西南端の部分が堤遺構だと研究者は考えています。尾根から突き出すように、池の宮の方向に伸びて、県道工事の際に切断されています。
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堰堤跡とされる部分

これについて研究者は次のように指摘します。
尾根の傾斜とも崖錘の傾斜とも不連続で、頂部は水平であることなどから人為的な構造物である可能性が高いと思われる。池ノ宮との標高もほぼ等しく、平面的な位置関係から勝間次郎池にかかわる堤塘の遺構と考えられる。
P1120687
堰堤跡の上から池之宮方向をのぞむ
神社西側の余水吐跡について、見ておきましょう。
麻 勝間次郎池 地図3
      
研究者が注目するのは、神社の背後(西側)に細長い谷状地形①がみえることです。これは尾根と神社境内との間を完全に切断しているのではなく、途中で切れています。この谷状地形は、昭和60年(1990)の神社の神域整備事業によって埋め立てられたため、今は見ることはできないようです。聞き取りによると、谷状地形の底は数段の棚田で、サコタ(低湿な田)であったようです。これを研究者は勝間次郎池の余水吐だったと推測します。

P1120668
本殿裏手の余水吐け跡

 豪雨によって池への流入水量が急激に増え、堤塘を越えるようになると、堤塘が崩壊するので、ため池には余水吐が作られます。排水量が多くなる大規模なため池では、人工の堤塘上ではなく自然地形を利用して余水吐をつしていることが多いようです。満濃池の余水吐については以前にお話ししました。ここでは、余水が10m近い落差を流れ落ちるために谷頭浸食が起こり、谷が形成されたと研究者は考えています。現地での聞き取り調査からも、地元ではこの谷や堤塘状遺構が勝間次郎池の跡だったと伝わっているようです。これまで勝間次郎池は、朝日山と傾山を堤防で結んでいたと伝わってきましたが、以上から堤塘の位置が推定できます。つまり、勝間次郎池の堤防は、②の堤跡から池の宮を結ぶルートで、その延長線上に余水吐があったという仮説が出せます。それを地図で示すと次のようになります。

麻 勝間次郎池 復元図
勝間次郎池の堤防と位置
  ②から池の宮のある尾根までの距離は約150mなので、そこに堤防を築いて高瀬川をせき止めたことになります。
麻 勝間次郎池 地図43
勝間次郎池 ③が池の面積 ①が池の宮
こうして生まれた勝間郷池は、どれくらいの拡がりを持っていたのでしょうか
 研究者は次のような方法で池の面積を推定しします。 ため池では、満水時の水面は堤頂部より1,5m程度低い位置になります。そこで現地で水準器を立てて、堤塘状遺構の頂部より1、5mほど低い水準で周囲を見渡すという方法をとります。その結果、復元したのが上の池敷きです。ここからは次のようなことが分かります。
①最も狭い部分に堤防を築き高瀬川をせき止めた。
②池の宮の西側には自然地形を利用して、余水吐が作られた。
③堤防の西側の丘の上に、池の宮が建立された。
④池の東側岸は傾山の麓部分になり、現在の県道になる。
⑤東は、高瀬川沿いの光照寺付近まで
⑥北東は、朝日山麓の仏厳寺手前まで
これを計測すると池の面積は約38,5万㎡になるようです。満濃池が約140万㎡で、これには遠く及びませんが、国市池が22,8万㎡なので、それよりは広かったことになります。
 池の堤防は、直線なのかアーチ状なのかは分かりません。地図上では全長150 mほどの規模になります。高さについては、高瀬川の河床高が変化している可能性があるため現時点では不明としています。

勝賀次郎池は、本流堰き止めタイプのため池だった
 この池は高瀬川を盆地の出口で締め切って作られています。讃岐のため池では、近世以前のものは本流をせき止め、流域すべてを集水するため池は、勝間次郎池のほかに井関池と満濃池ぐらいしかないと研究者は指摘します。
 井関池は、観音寺市大野原町の杵田川を締め切るため池で、集水面積は約3000haを越えます。寛永20(1643)年に近江の豪商平田詞一左衛門によって、「大野原台地総合開発」の一環として築造されます。池の東西にふたつの余水吐が設けられ、堤長378 m、堤高約118m、池面積12,1haの規模です。井関池は、「本流堰き止めタイプ」の池だったために、完成後わずかの間にあいだに3回決壊しています。このタイプの池は、大雨による急激な増水に対応しきれないことが多く、維持が難しかったことが分かります。それが最初に見たように昔話の中に、柱伝説を生んだのかも知れません。

勝間次郎池は、いつ築造されたのでしょうか?
 本流堰き止め型の大規模なため池は、愛知県犬山市の入鹿池、大阪府大阪狭山市の狭山池や奈良県橿原市の益田池などがあります。このうち狭山池と益田池は古代に築造されたため池です。
 表は8世紀中ごろから9世紀中ごろの利水・治水にかかわる記事を集成したものです。この表を見ていると、勝間次郎池が弘法大師空海のころに築造されたという伝承も荒唐無稽なものでないような気もしてきます。
 律令国家による主な治水利水事業の一覧年表

722 百万町歩開墾計画をすすめる
723 三世一身法を定める(続日本紀)
  矢田池(大和)をつくる(続日本紀)
731 狭山池(河内)を行基が改修する(行基年譜)
   昆陽池(摂津)を行基がつくる(行基年譜)
732 狭山下池(河内)をつくる(続日本紀)
734 久米田池(和泉)を行基がつくる(行基年譜)
737 鶴田池(和泉)などを行基がつくる(行基年譜)
743 墾田永年私財法を定める(続日本紀)
750 伎人堤(摂津・河内の国境)・茨田堤(河内)が決壊する)
761 畿内のため池・井堰・堤防・用水路の適地の視察(続日本紀)
   荒玉河(遠江)が決壊し,延べ303,700人で改修する(続日本紀)
762 狭山池(河内)決壊,延べ83,000人で改修する(続日本紀)
   長瀬堤(河内)が決壊し,延べ22,200人余りで改修する(続日本紀)
764 大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐などに池をつくる(続日本紀)
768 毛野川(下総・常陸)を付け替える(続日本紀)
769 鵜沼川(尾張・美濃)を掘りなおす(続日本紀)
770 志紀堤・渋川堤・茨田堤(河内)を延べ30,000人余りで改修する(続日本紀)
772 茨田堤6箇所・渋川堤11箇所,志紀堤5ケ所が決壊する(続日本紀)
774 諸国の溝池を改修・築造する(続日本紀)
775 伊勢国渡会郡の堰溝を修理する(続日本紀)
   畿内の溝池を改修・築造する(続日本紀)
779 駿河国二郡の堤防が決壊,延べ63,200人余りで改修する(続日本紀)
783 越智池(大和)をつくる(続日本紀)
784 茨田郡堤15箇所か決壊し,延べ64,000人余りで改修する(続日本紀)
785 堤防30箇所(河内)が決壊し,延べ307,000人余りで改修する(続日本紀)
788 摂津・河内両国の国境に述べ230,000人余りで川を掘る(失敗する)(続日本紀・日本後紀)
800 葛野川(山城)の堤防を10,000人で改修する(日本紀略)
811 このころ伴渠(備口)を開削する(日本後紀)
820 泉池(大和)をつくる(日本後紀)
821 このころ空海が満濃池を改修する(日本紀略)
822 益田池(大和)をつくる(日本紀略)
ただ、讃岐の髙松平野や丸亀平野からは、古代の大型の用水路は出てきません。条里制の水路は貧弱で、長距離の潅漑施設が登場していた痕跡もありません。そのため考古学者の中には、満濃池の水が丸亀平野全域を潤していたという説には懐疑的な人も多いことは以前にお話ししました。
以上をまとめておくと
①高瀬の昔話の下麻に勝間次郎池という大きな池があり、決壊に苦しんだ人々が人柱を立てた話が伝わっている
②その供養のために建立されたのが池の宮(池八幡神社)と下女塚とされる。
③池の宮の東対岸にあたる傾山の麓の県道際には、堤防跡の遺構がある。
④池の宮の西側には、余水吐跡の痕跡がある。
⑤以上より、池の宮の尾根から傾山麓へ150mの堤防が築かれ、その丘の上に池の宮が建立されたことが考えられる。
⑥池の広さは、東は朝日山の光照寺や仏厳寺にまで湖面が至っていた
⑦この池の起源は中世から古代に遡る可能性もある。
古代だとすると、この大工事が出来るのは郡司の丸部氏かありません。丸部氏は、壬申の乱で功績を挙げ中央政府とのつながりを持つようになり、当時最新鋭の瓦工場である宗吉窯を建設して、藤原京の宮殿用の瓦を提供したり、讃岐で最初の氏寺である妙音寺を建立したとされる一族です。善通寺の佐伯家が一族の空海を呼び寄せて、金倉川をせき止めて満濃池を築造したと言われるように、丸部氏も高瀬川をせき止めて勝間次郎池を作ったという話になります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「下女塚」 高瀬の昔話 高瀬町教育委員会  2015年

観音寺茂木町 地図
観音寺市茂木町
財田川河口から少し遡った 観音寺市の茂木町には、かつては何軒もの鍛冶屋が並んでいたようです。鍛冶屋の親方が、近郷の村々の馴染みの農民たちが使う農具や刃物を提供したり、修理を行っていました。茂木町は鍛冶屋町でもあったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市
鍛冶屋の風景(滋賀県長浜市)
親方たちは、農具を預かって修理を行うと同時に、農家の二男三男等を弟子として預かり、一人前に育てたようです。鍛冶屋の技術は江戸時代頃から親方のもとで技術を磨く徒弟制度の中ではぐくまれました。義務教育を終えて徒弟に入り、フイゴの火起こしの雑用から始めて、次第に難しい技術を身につけ、それを磨いてきます。技術習得には四、五年の年期がかかったようです。一人前になると、礼奉公の意味で半年か一年居候し、親方からの「年祝ひ」の手製の鍛冶道具をもらって、それぞれの地へ巣立っていったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市の鍛冶

 農具は鍛冶屋に注文し、鍛冶屋で何度も修理して長く使うというのが当たり前でした。モノによっては「一生モノ」もあったようです。農具は、使い捨てではなかったのです。

観音寺茂木町 鍛冶屋 (滋賀県)

戦前の茂木町の鍛冶屋の親方たちは、近郷の農家を年に何回か「出張営業」したようです。
 「日役」で「サイに寸をする」などの注文をその場で行います。これが「居職かじ」です。これを農民たちは「鍛冶屋を使う」と言いました。大百姓は単独で、小百姓は何軒か組んで鍛冶屋を雇ってくることもあったようです。
鍛冶屋
村の鍛冶屋 

「出張営業」の依頼を受けた親方は、小道具をフゴに入れて弟子に天秤捧をかつがせ農家を巡回します。一日の手間賃は、米五升ぐらいが通り相場だったようです。親方のもとで技術を磨いた近郷の二男三男達は、それぞれの自分の出身地に帰り、鍛冶屋を開きます。そのため親方への「出張営業」は減ってきます。そのため、製品を作り商いにその活路を見出すことを求められるようになります。
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岐阜関市の刃物市

 当時は神社仏閣の催しごとがイベントの中心で、人が集まりました。そこには昔から市が立ち、住民のいろいろな生活用品が売られてきました。農機具や刃物も、祭りの市で売られるようになります。茂木町の鍛冶屋が荷車を引いて「出店」した市は、次のようなものです。
本山寺
大野原の八幡宮
仁尾の覚域院
金刀比羅宮
これ以外にも、年に数回は寺社のお祭りで商いをしたようです。

鍛冶屋には「フイゴ祀り」という独自の祭りがありました。

箱フイゴ
箱フイゴ
フイゴは、鉄を加工するために欠かせない道具の一つでした。農具などの鉄製品を造るためには、まずは材料の鉄を加工しやすいように溶かさなければなりません。そのためには強い火力が必要であり、その火力を強める風を炉に送る道具がフイゴです。
 鍛冶屋でのフイゴ祭りのことが次のように記されています。

観音寺茂木町 フイゴ祀り
フイゴ祭り

  フイゴ(鞴)を使う鍛冶屋では、鍛冶屋の神様として守護神金山彦命(かなやまひこのみこと)と迦具土神(かぐつちのかみ)を御祭りしました。大正10年(1921年)頃の記録では、毎年11月8日には仕事を休みんで、フイゴ鞴場の清掃をして注連縄を張り餅等を供え、夕食時にはお祭りの料理を整えて、出入りの職人たちをを招き、家付きの徒弟等も交えて酒宴を催し、近所の子供達にも蜜柑を配ったりしたのでした。(中略)
観音寺茂木町 フイゴ3
黄色マーカーで囲んだのが箱フイゴ

 また近郷村への「日役」の際に、鍛冶屋が使った火口は牛小屋に吊すと、牛が病気をしない魔除けとして信じられていて珍重されたようです。
 三豊の農家の人たちを支えた鍛冶の活動は戦争によって、引き裂かれます。
総動員体制の「全てのモノを戦場へ」のかけ声の下に、鉄は国家統制の対象となり、鍛冶屋の親方や徒弟は軍事工場に徴用されます。鍬や鎌作りから武器作りへと国家によって「配置転換」されます。
 鍛冶屋が一番盛況を極めたのは、戦後復興の時期だと云います。
食糧生産のために開墾・開田が行われ、山の中まで満州帰りの開拓者たちが入った時です。彼らのとって、農具は生きるための生活必需品でした。鍛冶屋の鉄を打つ音が財田川沿いの鍛冶屋に響いたそうです。しかし、それもつかの間です。耕耘機が登場し、農機具が機械化されるようになると、鍬やとんがは脇に置かれ、出番は少なくなります。同時に鍛冶屋の仕事も減っていきます。幹線道路が広くなり、生まれ変わった茂木町の街並みの中に鍛冶屋の痕跡はなにもありません。しかし、ここでは、鉄を打つ音が高く響いていた時があるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

(瀬戸内海歴史民族資料館年報「西讃の鍛冶職人」(丸野昭善)参照)   観音寺市史874P

室本 麹


酒造りだけでなく、味噌や醤油など日本の発酵製品で欠かせないのが麹です。麹と云えば、私にとっては甘酒です。高度経済成長が始まる前までは、西讃の田舎のわが家では秋祭り以外にもよく甘酒を作っていました。それを年寄りは楽しみにしていました。
室本 地図
観音寺市室本

その麹は、室本からもたらされたものでした。地域で一括して代表者が室本の麹屋に発注し、届けて貰って分けるというシステムで、当時はお店では販売していなかったように思います。西讃エリアの麹は、古くから室本がまかなっていたようです。今回は、室本の麹について見ていくことにします。テキストは、室本麹と専売権  観音寺市史222P」です 
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幕末に、丸亀藩が各村の庄屋たちに原稿提出を求めて作られた「西讃府志」には、室本の麹について、次のように記されています。
室本村ノ人、古ヨリ是ヲ製ルヲ業トシテ、国内二売レリ、香川氏ノ時ヨリ、三野那ヨリ西ノ諸村二、醴(甘酒)又 味噌ナド造ルニ、此村ヲ除キテ外二製ルコトヲ許サズ、香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ。                 (西讃府志巻之五十)
意訳変換しておくと
室本村の人々は、古くから麹を製ることを生業とし、讃岐国内で販売してきた。(戦国時代の讃岐守護代であった)香川氏の時に、三野郡から西の諸村では、醴(甘酒)や 味噌などを作るときに麹については、室本以外には製造・販売を認めずに独占権を与えた。その香川之景の認可状が、この村には伝えられている。                 (西讃府志巻之五十)

ここからは、室本には三野・豊田郡の麹の独占製造販売権が、戦国時代に西讃守護代の香川氏から認められていて、それが幕末まで続いていたことが分かります。
室本浦里img000007
室本浦里

「香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ」とされるものが、永禄元年(1558)の香川之景の判物で、次のように記されています。

室本 麹特許
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以其筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
意訳変換しておくと
讃岐国の室本の地下人の麹商売について、先書や元景の折紙で明示したように、その筋目をもって別儀を行う事を認めない。もし子細に問題がある場合には申し述べること、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
この史料からは次のようなことが分かります。
①之景の先代である元景の時代から、室本では麹商売の独占的生産と売買権が与えられていたこと
②それを永禄元年(1558)に香川之景が改めて認めたこと
③多度津を拠点とする香川之景の勢力が観音寺室本まで及ぶようになっていたこと
④室本の麹行者は座を組織し、王子(皇子?)大明神を本所としていたこと
⑤王子(皇子?)大明神の管理権は、別当多宝坊が保持していたこと
⑥麹が永禄年代には室本の専売品として中讃・西讃地域に売りさばかれていたこと
室本 皇子神社
皇太子(王子)神社 観音寺市室本
ここで注目しておきたいのは④⑤の「王子大明神」です。
これは、現在の皇太子神社のことののようです。この神社では、今でも年頭弓射神事は、左右両講中の宮座によって行われています。この宮座が麹組合のものであり、室町期まで遡れることがうかがえます。

  室町時代の麹座をめぐる状況を知るために、当時京都で起きた事件について見ておきましょう。
 室町時代には、酒蔵が使う麹は麹屋が卸していました。酒蔵はまだ麹造りを行っておらず、「麹屋」という麹の製造から販売までを担う専門業界が別個に存在していたようです。
例えば京都で、麹の製造販売を独占していたのが北野天満宮でした。北野天満宮の下には、「麹座」と呼ばれる麹屋の同業者組合(北野麹座)が結成され、麹の製造や販売の独占権を取り仕切っていました。幕府が北野天満宮の麹座に麹造りの独占権を認めていたため、酒蔵が勝手に麹を造ることはできなかったのです。次の史料は足利義持下知状(1419年)です。

室本 足利義持下知状
 足利義持下知状
この「下知状」は、北野天満宮ゆかりの西京神に麹製造・販売の独占権を認めるものです。西京神人以外の京の酒屋には麹をつくらないと誓約させ、幕府の前で麹道具を壊して廃業させたことを記録しています。しかし、この独占は長く続きませんでした。
 しかし、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、資本力のある酒蔵の中には麹造りに取り組む者も現れます。酒蔵の意を受けて麹販売権の規制緩和や撤廃を求めて圧力を掛けたのが延暦寺です。延暦寺と北野天満宮の対立はエスカレートしていきます。幕府は延暦寺からの抗議に折れた形で、北野麹座の独占権の廃止を認めます。これに反対する麹座の面々は北野天満宮に立て籠もり抵抗しますが、幕府側に鎮圧され、この事件(文安の麹騒動)により社が焼失します。
 この事件の結果、麹屋は没落して酒造業へ組み入れられ、奈良の「菩提泉(ぼだいせん)」や近江の「百済寺酒」、河内の「観心寺酒」などの僧坊酒が台頭する一因になるようです。
 ここでは、15世紀初め頃までは北野天満宮の神人たちが形成する座が、麹の独占権を幕府から認められていたこと。それが15世紀半ばになると台頭する酒蔵の意を受けた比叡山によって打破され、麹座の独占は破棄されたことを押さえておきます。
 香川之景の室本麹座免許状が出されているのは、それから約百年以上経った16世紀半ばです。
讃岐では、麹座の特権が守護代の香川氏によって認められていたようです。同時に、室本の麹座の本所が皇子神社に置かれ宮座としても機能したことを改めて押さえておきます。

室本 鑑札
室本の麹商売の許可鑑札

この香川之景の室本麹座免許状を室本の麹座は、その後も大切に保管していたようです。
麹組合の古文書の中には享保16(1731)年の室本浦「麹之儀御尋被為遊候ニ付差上口上書控え」というものがあります。そこに引用されているのが「香川之景の室本麹座免許状」なのです。
室本浦 糀室之儀御尋被為遊候二付差上申口上書控
香川之景 書付之通二候得者 重書並ビ二元景之折紙可有之物紛無之右之子細二而モ可有之卜被遊御意候由 右之景之御書付 則御家老様方迄モ御覧二御入被為遊候旨 向後者下札可被遣トノ御義二而夫ヨリ以来 御下札被為下来り由候
意訳変換しておくと
室本浦の麹室についてのお尋ねについて、以下の通り返答を差し上げた口上書の控である。
香川之景の書については、別添えの通りです。元景の折紙については紛失して子細は分かりませんが、その意は景之の書付とほぼ同一であると思えます。御家老様方にも御覧いただき、今後は鑑札を下札していただけるようになりました。
享保16(1731)年は、西讃地域は飢饉がつづき、住民はわら餅・松皮餅まで食べた伝えられています。そのため麹をつくる材料が手に入らないありさまになったようです。そこで麹組合として、香川之景の許可状を証拠に申し立てています。それに対して丸亀藩は、麹商売の許可札を下付します。使用する玄米については、中籾(籾米)・悪米(青米)を材料にして製造するように指示すると同時に、無税で販売をすることが許されているます。

室本 皇子神社2
 江甫山と皇太子神社(観音寺市室本)
麹組合には、次のようなことが云い伝えられていると観音寺市史は記します。
①昔は、「籠留(かごどめ)」・「棒留(ぼうどめ)」などと云って、 飢饉の際に一時期な米や麦の運搬停止命令が出た時でも、麹は生き物で使用日数に限りがあるので、鑑札を下付されて、それを持参していれば自由に糀の運搬ができる特典が与えられていたこと、
②西讃地域内での専売権があるので、他の者には麹製造や販売が認められていなかったこと
③無断で商売をする者がれば上訴するのは当然のことであり、無視する者には鍬・鋤を持って侵害者の家や庄屋に出向き中止させるよう実力行使をしたことも、たびたびあったこと
室本 鑑札札
室本の麹販売の鑑札

上訴した内容については、書控として次のような7件が残されています。
1705年(宝永2)乙酉年三野郡上之村(現香川県三豊郡財田町上)に糀室を作ろうとした時の対応。
室本 麹控訴経路

室本村の庄屋善右衛門が三野郡奉行に差し止めを願いでて、それが上ノ村の属する多度津藩家老まで伝えられています。そして停止命令が、三野奉行所に下され、上ノ村の大庄屋に伝えられて停止措置がとられたのでしょう。その経過を上ノ村庄屋は、室本村が属する豊田郡坂本村の大庄屋に伝え、そこから室本の庄屋に下りてくるという伝達経路になります。
  1731年(享保16)辛亥年6月19日 のことです。
丸亀城下の山之北・土器両八幡宮の「ふく酒糀」を、それまでは室本村の源七が納品していました。それを停止して、丸亀城下通町の糀屋徳右衛門が、造酒のため以外の糀商売を城下でできるように請願したときの対応表が次の通りです。

室本 麹控訴経路2
以上をまとめておくと
①永禄元年(1558)の香川之景の判物で、観音寺室本の麹座に対して、麹の独占販売権が既得権利として認められていること
②16世紀半ばに、室本の麹座は三野郡以西の麹独演販売権を持っていたこと
③室本の麹座は皇子神社の宮座として集結していたこと
④江戸時代になっても丸亀藩に麹の独裁権を再確認させていたこと
⑤多度津藩や丸亀城下町でも麹の独占権を拡大させていたこと
⑥独占権の擁護のために、違反者に対しては控訴や実力行使を繰り返して行っていたこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    室本麹と専売権  観音寺市史222P

香川氏発給文書一覧
香川氏発給文書一覧 帰来秋山氏文書は4通

高瀬町史の編纂過程で、新たな中世文書が見つかっています。それが「帰来秋山家文書」と云われる香川氏が発給した4通の文書です。その内の2通は、永禄6(1563)年のものです。この年は、以前にお話したように、実際に天霧城攻防戦があり、香川氏が退城に至った年と考えられるようになっています。この時の三好軍との「財田合戦」の感状のようです。
 残りの2通は、12年後の天正5年に香川信景が発給した物です。これは、それまでの帰来秋山氏へ従来認められていた土地の安堵と新恩を認めたものです。今回は、この4通の帰来秋山家文書を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

 帰来秋山家文書は、四国中央市の秋山実氏が保管していたものです。
 帰来秋山家に伝わる由緒書によると、先祖は甲斐から阿願人道秋山左兵衛が讃岐国三野郡高瀬郷に来住したと伝えていています。これは、秋山惣領家と同じ内容です。どこかで、惣領家から分かれた分家のようです。
 天正5(1577)年2月に香川信景に仕え、信景から知行を与えられたこと、その感状二通を所持していたことが記されています。文書Cの文書中に「数年之牢々」とあり、由緒書と伝来文書の内容が一致します。
 秀吉の四国平定で、長宗我部元親と共に香川氏も土佐に去ると、帰来秋山家は、讃岐から伊予宇摩郡へ移り、後に安芸の福島正則に仕えます。しかし、福島家が取り潰しになると、宇摩郡豊円村へ帰住し、享保14年(1729)に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至ったようです。由緒書に4通の書状を香川氏から賜ったとありますが、それが残された文書のようです。帰来秋山一族が、天正年間に伊予へ移り住んだことは確かなようです。伝来がはっきりした文書で、信頼性も高いこと研究者は判断します。
 それでは、帰来秋山家文書(ABCD)について見ていきましょう。
まずは、財田合戦の感状2通です。
A 香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
 一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
 一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来(秋山)善五郎とのヘ
ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること
永禄6年に天霧城をめぐって大きな合戦があって、香川氏が城を脱出していることが三野文書史料から分かるようになっています。この文書は、一連の天霧城攻防戦の中での戦いを伝える史料になるようです。
B 香川之景・同五郎次郎連書状    (香川氏発給文書一覧NO11)
去十七日於才田(財田)合戦、被疵無比類働忠節之至神妙候、弥共心懸肝要候、謹言、
三月二十日                            五郎次郎(花押)
     之  景 (花押)
帰来善五郎とのヘ
文書Aとほとんど同内容ですが、日付3月20日になっています。3月17日に、またも財田で戦闘があったことが分かります。冬から春にかけて財田方面で戦闘が続き、そこに帰来善五郎が従軍し、軍功を挙げています。

文書Bと同日に、次の文書が三野氏にも出されています。 (香川氏発給文書一覧NO12)
去十七日才田(財田)合戦二無比類□神妙存候、弥其心懸肝要候、恐々謹言、
三月二十日                    五郎次郎(花押)
    之  景 (花押)
三野□□衛門尉殿
進之候
発給が文書Bと同日付けで、「去十七日才(財)田合戦」とあるので、3月17日の財田合戦での三野氏宛の感状のようです。二つの文書を比べて見ると、内容はほとんど同じですが、文書Aの帰来(秋山)善五郎宛は、書止文言が「謹言」、宛名が「とのへ」です。それに対して、文書Bの三野勘左衛門尉宛は「恐々謹吾」「進之」です。これは文書Aの方が、「はるかに見下した形式」だと研究者は指摘します。三野勘左衛門尉は香川氏の重臣です。それに対して、帰来善五郎は家臣的なあつかいだと研究者は指摘します。帰来氏は、秋山氏の分家の立場です。単なる軍団の一員の地位なのです。香川氏の当主から見れば、重臣の三野氏と比べると「格差」が出るのは当然のようです。
 この冬から春の合戦の中で、香川氏は大敗し天霧城からの脱出を余儀なくされます。そして香川信景が当主となり、毛利氏の支援を受けて香川氏は再興されます。

文書C  (香川氏発給文書一覧NO16)は、その香川信景の初見文書にもなるようです。讃岐帰国後の早い時点で出されたと考えられます。
C 香川信景知行宛行状
秋山源太夫事、数年之牢々相屈無緩、別而令辛労候、誠神妙之や無比類候、乃三野郡高瀬之郷之内帰来分同所出羽守知行分、令扶持之候 田畑之目録等有別紙 弥無油断奉公肝要候、此旨可申渡候也、謹言、
天正五 二月十三日                       信 景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
秋山源太夫について、この数年は牢々相屈無緩で、辛労であったが、誠に神妙無比な勤めであった。そこで三野郡高瀬之郷之内の帰来分の出羽守知行分を扶持として与える。具体的な田畑之目録については別紙の通りである。油断なく奉公することが肝要であることを、申し伝えるように、謹言、
天正五 二月十三日                       (香川)信景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
この史料からは次のようなことが分かります。
①天正5年2月付けの12年ぶりに出てくる香川氏発給文書で、香川信景が初めて登場する文書であること
②秋山源太夫の数年来の「牢々相屈無緩、別而令辛労」に報いて、高瀬郷帰来の土地を扶持としてあたえたこと
③直接に秋山源太夫に宛てたものではなく三野菊右衛文尉に、(秋山)源太夫に対して知行を宛行うことを伝えたものであること
④「田畠之目録等有別紙」とあるので、「別紙目録」が添付されていたこと
 香川氏が12年間の亡命を終えて帰還し、その間の「香川氏帰国運動」の功績として、秋山源太夫へ扶持給付が行われたようです。「牢々相屈無緩、別而令辛労」からは、秋山源太夫も、天霧城落城以後は流亡生活を送っていたことがうかがえます。
これを裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2
 6月12日,足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
 8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
 9・17 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川氏の帰国支援に動いていたことがうかがえます。
 
文書Cで給付された土地の「別紙目録」が文書D(香川氏発給文書一覧NO10)になります。
D 香川信景知行日録
一 信景(花押) 御扶持所々目録之事
一所 帰来分同五郎分
   帰来分之内散在之事 後与次郎かヽへ八反田畠
   近藤七郎左衛門尉当知行分四反反田畠
   高瀬常高買徳三反大田畑  出羽方買徳弐反
   真鍋一郎大夫買徳一町半田畑
以上 十拾八貫之内山野ちり地沽脚之知共ニ
一所  ①竹田八反真鍋一郎太夫買徳 是ハ出羽方之内也、最前帰来分江御そへ候て御扶持也
一所 出羽方七拾五貫文之内五拾貫文分七反三崎分
右之内ぬけ申分、水田分江四分一分水山河共ニ三野方へ壱町三反 なかのへの盛国はいとく分
此外②武田八反俊弘名七反半、此分ぬけ申候て、残而五拾貫文分也、又俊弘名七反半真鍋一郎太夫買徳、
但これハ五拾貫文之外也
以上
天正五(1577)年二月十三日         
             秋山帰来源太夫 親安(花押)

 研究者が注目するのは、この文書の末尾に「秋山帰来源太夫」とあるところです。
秋山家文書の中にも「帰来善五郎」は出てきますが、それが何者かは分かりませんでした。この帰来秋山文書の発見によって、帰来善五郎は秋山一族であることが明らかになりました。善五郎が源太夫の先代と推測できます。伊予秋山氏は帰来秋山家の末裔といえるようです。
三野町大見地名1
三野湾海岸線(実線)の中世復元 竹田は現在の大見地区
帰来秋山氏は、どこに館を構えていたのでしょうか。
①②の「竹田」「武田」は、現在の三野町大見の竹田と研究者は考えています。 秋山家文書の泰忠の置文(遺産相続状)には、大見にあった秋山氏惣領家の名田が次のように出てきます。
あるいハ ミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハ なか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハ とくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは 一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハ のふとしミやう (あるいは延利名)
又ハ   もりとしミやう (又は守利名)
又は   たけかねミやう (又は竹包名)、
又ハ   ならのヘミやう (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」

多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。このような名田を泰忠から相続した分家のひとつが帰来秋山家なのかもしれません。
秋山氏 大見竹田
帰来秋山氏の拠点があった竹田集落

③の「帰来分」は帰来という地名(竹田の近くの小字名)です。
ここからは帰来秋山氏の居館が、本門寺の東にあたる竹田の帰来周辺にあったことが分かります。そのために帰来秋山氏と呼ばれるようになったのでしょう。ここで、疑問になるのはそれなら秋山惣領家の領地はどこにいってしまったのかということです。それは後に考えるとして先に進みます。

もう一度、史料を見返すと帰来分内の土地は、真鍋一郎へ売却されていたことが分かります。それが全て善五郎へ、宛行われています。もともとは、帰来秋山氏のものを真鍋氏が買徳(買収)していたようです。真鍋氏は、これ以外に秋山家惣領家の源太郎からも多くの土地を買っています。
 どうして秋山氏は所領を手放したのでしょうか?
 以前にお話したように、秋山氏は一族が分裂し、勢力が衰退していったことが残された文書からは分かります。それに対して、多度津を拠点とする守護代香川氏は、瀬戸内海交易の富を背景に戦国大名化の道を着々と歩みます。香川氏の台頭により、三野郡での秋山氏の勢力衰退が見られ、 一族が分裂するなどして所領が押領されていった可能性があると研究者は考えているようです。
 戦国期末期には、秋山一族は経済的には困窮していて、追い詰められていたようです。それだけに合戦で一働きして、失った土地を取り返したいという気持ちが強かったのかもしれません。同時に、秋山氏から「買徳」で土地を集積している真鍋氏の存在が気になります。「秋山氏にかわる国人」と研究者は考えているようです。


讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図 大見はかつては下高瀬郷の一部であった
 帰来秋山文書の発見で分かったことをまとめておきます。
讃岐秋山氏の実質的な祖となる3代目秋山泰忠は、父から下高瀬の守護職を継ぎました。ここからはもともとの秋山氏のテリトリーは、本門寺から大見にいたるエリアであったことがうかがえます。それが次第に熊岡・上高野といった三野湾西方へ所領を拡大していきます。新たに所領とした熊岡・上高野を秋山総領家は所領としていたようです。今までは、下高瀬郷が秋山家の基盤、そこを惣領家が所有し、新たに獲得した地域を一族の分家が管理したと考えられていました。しかし、大見の竹田周辺には帰来秋山氏がいました。庶家の帰来秋山氏は下高瀬郷に居住し、在地の名を取って帰来氏と称していました。もともとは、下高瀬郷域は惣領家の所領でした。分割相続と、その後の惣領家の交代の結果かもしれません。
 
 永禄年間の三好氏の西讃岐侵攻で、秋山氏の立場は大きく変わっていきます。そこには秋山氏が香川氏の家臣団に組み込まれていく姿が見えてきます。その過程を推測すると次のようなストーリーになります。
①永禄6(1563)年の天霧城籠城戦を境にして、秋山氏は没落の一途をたどり 一族も離散し、帰来秋山源太夫も流亡生活へ
②香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命し、之景から信景に家督移動
③香川信景のもとで家臣団が再編成され、その支配下に秋山氏は組み入れられていく。
④毛利氏の備讃瀬戸制海権制圧のための讃岐遠征として戦われた元吉合戦を契機に、毛利氏の支援を受けて、香川氏の帰国が実現
⑤三好勢力の衰退と長宗我部元親の阿波侵入により、香川氏の勢力は急速に整備拡大。
 この時期に先ほど見た帰来秋山家文書CDは、香川信景によって発給され、秋山源太夫に以前の所領が安堵されたようです。香川氏による家臣統制が進む中で、那珂郡や三野・豊田郡の国人勢力は、香川氏に付くか、今まで通り阿波三好氏に付くかの選択を迫られることになります。三好方に付いたと考えられる武将達を挙げて見ます
①長尾氏 西長尾 (まんのう町)
②本目・新目氏  (まんのう町(旧仲南町)
③麻近藤氏 (三豊市 高瀬町麻)
④二宮近藤氏   (三豊市山本町神田) 
これらの国人武将は、三好方に付いていたために土佐勢に攻撃をうけることになります。一方、香川信景は土佐勢の讃岐侵入以前に長宗我部元親と「不戦条約」を結んでいたと私は考えています。そのため香川氏の配下の武将達は、土佐軍の攻撃を受けていません。本山寺や観音寺の本堂が焼かれずに残っているのは、そこが香川方の武将の支配エリアであったためと私は考えています。

  帰来秋山家文書から分かったことをまとめておきます。
①帰来秋山家は、三豊市三野町大見の竹田の小字名「帰来」を拠点としていた秋山氏の一族である。
②香川氏が長宗我部元親とともに土佐に撤退して後に、福島正則に仕えたりした。
③その後18世紀初頭に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至った
④帰来秋山家には、香川氏発給の4つの文書が残っている。
⑤その内の2通は、1563年前後に三好軍と戦われた財田合戦での軍功が記されている。
⑥ここからは、帰来秋山氏が香川氏に従軍し、その家臣団に組織化されていたことがうかがえる。
⑦残りの2通は、12年後の天正年間のもので、亡命先の安芸から帰国した香川信景によって、香川家が再興され、帰来秋山氏に従来の扶持を安堵する内容である。
こうして、帰来秋山家は従来の大見竹田の領地を安堵され、それまでの流亡生活に終止符を打つことになります。そして、香川氏が長宗我部元親と同盟し、讃岐平定戦を行うことになると、その先兵として活躍しています。新たな「新恩」を得たのかどうかは分かりません。
 しかし、それもつかの間のことで秀吉の四国平定で、香川氏は長宗我部元親とともに土佐に退きます。残された秋山家は、どうなったのでしょうか。帰来秋山家については、先ほど述べた通りです。安芸の福島正則に仕官できたのもつかぬ間のことで、後には伊予で帰農して庄屋を務めていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
       「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

イメージ 2
中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 詫間 波打八幡
   波打八幡神社(詫間町)
詫間荘の波打八幡神社の放生会には、詫間・吉津・比地・中村に加えて仁尾浦も諸役を分担して開催されています。また、三崎半島からまんのう町長尾に移った長尾氏も、移封後も奉納金を納めています。ここからは、中世の波打八幡宮は三野郡を越える広域的な信仰を集める存在だったことがうかがえます。
仁尾 覚城院
覚城院(仁尾町) 賀茂神社の別当寺
 仁尾の覚城院の大般若経書写事業には、吉津村の僧量禅や大詫間須田善福寺の長勢らが参加しています。ここからも三野湾の海浜集落や内陸の集落も仁尾の日常的な生活文化圏内にあったことがうかがえます。そうすると仁尾神人(供祭人)や、その末裔である商職人たちの活動も、そこまで及んでいたと推測できます。それが近世になると「買い物するなら仁尾にいけ」という言葉につながって行くようです。仁尾の商業活動圏は、七宝山の東側の三野湾周辺やその奧にまで及んでいたとしておきましょう。

 しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。

豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。

   豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳
        元親(花押)
  有瀬右京進  有瀬孫十郎  嶺 将監
  仁尾 
  塩田又市郎  嶺 一覚   西 雅楽助
  奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉  平孫四郎
      (後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。

仁尾 土佐の豊楽寺との関係
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。
 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。

仁尾 土佐町
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。

 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎

大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか? 
 技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。

1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。
1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める 
1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる
    長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
 こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。

 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。

 金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、
②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、
③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、
④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、
⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、
⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、
⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、
⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、
⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、
⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、
⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、
⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、
⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」
土佐の碁石茶
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。

大豊の碁石茶|高知まるごとネット
土佐の碁石茶

つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。
 仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
 そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
 また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺
②旧新宮村の熊野神社
③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。

P1190594
熊野神社(旧新宮村)

②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
   仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
    市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

仁尾町の賀茂神社 - 三豊市、賀茂神社の写真 - トリップアドバイザー
仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
DSC03293
金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

DSC03290
天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

DSC03291
      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

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日枝神社 高瀬町
日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている

三豊市高瀬町の上勝間の日枝神社には、土佐神社が一緒にまつられているようです。どうして土佐の神社が合祀されるようになったのでしょうか? 「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」には次のよう記されています。

今から五百年くらい前のことでした。戦国時代のことです。土佐の長曾我部元親は四国全体を自分の領地にしようとして、各地の有力者をせめほろぼしていきました。
元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。
長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。
さて、それからだいぶん年数がたつたころのことです。ある晩、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。はっきり見た人がいたのでまちがいありません。そのことがあって、間もなく、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。ほかにも、またそのほかにもその光を見た人がいて、その人の家も火事で燃えてしまったそうです。
「こりゃ、神さんのたたりでないんじゃろか」
村の世話役たちは相談しました。そして、
「神社をもっと高いところ移して、よくお参りしたらええのかもしれん」
ということになりました。
そこで、神主さんにおがんでもらって、神社を近くの高台ヘ移しました。そして、村の人はよくお参りしました。
けれども、しばらくしたある日、前のときと同じように、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。
村の世話役たちは、また相談しました。そして、
「土地の神さんが怒ってたたりよるのかもしれん。土地の神さんは日枝の神さんじゃ。両方をいっしょにおまつりしたらどうじゃろ」
ということになりました。
そこで、また、神主さんに来てもらって、日枝神社と土佐神社を同じ場所におまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。
ところがまた、しばらくしたある日、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。神社の近くの家はほとんど火事で燃えたそうです。
村の世話役さんはまた相談しました。そして
「八幡さんは、いくさの神さんじゃ。近くに八幡神社を建てたらどうじゃろ」
ということになりました。
村の人びとは力を合わせて、道をはさんで向かいがわに八幡さんをおまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。お祭りの日には白酒を作ってお供えしました。

それからは、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走ることがなくなりました。

日吉神社 土佐神社
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

この昔話の中には、土佐神社建立について、次のように記されていました。
「元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。」

というのが、土佐神社建立の理由として地元には伝わってきたようです。「侵略した側は1世代で忘れるが、侵略された側は何世代にもわたって覚えている」という歴史家の言葉を思い出します。江戸時代後半になると、讃岐人の郷土愛(パトリオテイズム)が高まってきて、讃岐を征服した長宗我部元親への反発心が強くなっていきます。その背景のひとつに、「南海戦記」などの軍記ものの流行があったようです。そこでは、土佐軍が寺社を焼き、略奪を行ったことが書かれ、次第に
悪玉=讃岐を侵略した長宗我部元親、
善玉=それを守って抵抗する讃岐国人たち
という勧善懲悪型の歴史観が広がって行きます。そして、昔話も、このような内容のものが伝わることになったようです。

 しかし、本当にそうなのでしょうか? 高瀬町史は「実際は、そうではないで・・・」と、語りかけてくれます。それを以前にお話ししました。今回は、もう少し要約して、かみ砕いて記してみようと思います。
日枝神社 土佐神社合祀
       日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

土佐軍の侵攻以前には、讃岐の国人たちの多くは阿波三好勢力の配下にありました。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
 例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
 いままでの市町村史の戦国時代の記述は、南海通記にたよってきました。これを書いたのは香西氏の子孫で、香西氏顕彰のために書かれたという面が強く「長宗我部元親=悪、香西氏に連なる一族=善」という史観が強いようです。そのためこれに頼ると、全体像が見えなくなります。しかし、他に史料がないので、これに頼らないと書けないという事情もありました。
 その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
香川氏から見れば、最大の敵は阿波の三好氏です。
 その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
 毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主の詫間弾正、
④高瀬・麻城の近藤氏
⑤山本町神田城の二宮・近藤氏
これらは、香川氏とは敵対関係にあった勢力のようです。
 一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

大水上神社 神田城
二宮近藤氏の居城・神田城
 一方高瀬町内に支配エリアを持っていた二宮近藤氏と麻の近藤氏の場合を見ておきましょう。
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?

大水上神社 神田城2

『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からやってきた人物です。彼には、次の土地が与えられています。

「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

  これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。
翌年三月には、
「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
五月には
「財田・麻岩瀬村」
で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 土佐の武将の領地となった土地には、労働力として土佐からの百姓が連れてこられます。高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
  先ほど見た昔話には、次のように記されていました。

「せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです」

 しかし、これはどうも誤りのようです。土佐からの移住者が大量に入ってきて、新たに入植したことが分かります。彼らが入植地に、団結と信仰のシンボルとして勧進したのが土佐神社だったと高瀬町史はは考えています。
 そして、土佐軍撤退の生駒藩の下でも土佐からの移住団は、そのまま入植地に残ったようです。三豊には、近世はじめに土佐からの移住者によって開かれたという地区が数多く残ります。しかし、今まではそれが土佐軍の占領下での移住政策であったとは、考えられてきませんでした。そういう目で、この時期の土佐人の動きを見てみる必要があります。
土佐神社 高瀬町日枝神社と合祀
        日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

 土佐の移住者たちが住み続けたので、土佐神社は残った。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史
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前回は、讃岐における須恵器生産の始まりと、拡大過程を見てきました。そして、7世紀初頭には各有力首長が支配エリアに須恵器窯を開いて、讃岐全体に生産地は広がっていたことを押さえました。これが後の「一郡一窯」と呼ばれる状況につながって行くようです。今回は、その中で特別な動きを見せる三野郡の須恵器窯群を見ていくことにします。テキストは「佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論 埋蔵物文化センター紀要」です。
 須恵器 三野・高瀬窯群分布図
           三野郡の須恵器窯跡分布地図       
 上の窯跡分布地図を見ると次のようなことが分かります。
①高瀬川流域の丘陵部に7群の須恵器窯が展開し、これらが相互に関連する
②中央に窯がない平野部のまわりの東西8km、南北4kmの丘陵部エリアに展開する。
③これらの窯跡群を一つの生産地と捉えることができる。
以上のような視点から『高瀬町史』は、7群の窯跡群をひとまとめにして「三野・高瀬窯跡群」と名付け、7群を支群(瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻の各支群)として捉えています。
まず、7支群がどのように形成されてきたのかを見ておきましょう。
第1段階(6世紀末葉~7世紀初頭)
爺神山麓の瓦谷支群(1)で生産開始。
第2段階(7世紀前葉)
瓦谷支群(2)で生産継続、(この段階で生産終了) 
代わって野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
野田池支群での生産拡大
道免・高瀬末の2支群の生産開始 (高瀬末支群は終了)
瓦谷支群北側直近の宗吉瓦窯で須恵器生産の可能性あり。
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)。
道免・野田池の2支群での生産継続。
宗吉瓦窯での須恵器生産継続。(この段階で終了)。
第5段階(8世紀前葉~中葉)
道免・野田池の2支群での生産継続
青井谷支群での生産開始(平見第4地点)。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大(平見第8地点・青井谷第3地点)
五歩田支群での生産開始(五歩田第1地点)
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
青井谷支群での生産継続(平見第1地点)
上麻支群での生産開始(上麻第4地点)。
この段階で三野・高瀬窯群の操業終了。
窯跡の変遷移動からは、以下のようなことが分かります。
①窯場が瓦谷支群(1)や野田池支群(2)などの三野津湾に面した場所からスタートして、次第に山間部の東方向へと移動していく
②その移動変遷は瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)と奥地に移動していったこと
③窯場の移動は、製品搬出に必要な河川ないし谷道を確保する形で行われいる。
④7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にある。
⑤大きく見れば宗吉瓦窯も三野・高瀬窯跡群を構成する窯場(「宗吉支群」)として捉えられること。
⑥燃料(薪)確保のためか窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること。

他の讃岐の窯場との比較をしておきましょう。
 隣接する苅田郡の三豊平野南縁には、辻窯群(三豊市山本町)が先行して操業していて競合関係にありました。辻窯群には、紀伊氏の墓域とされる母神山の群集墳や忌部氏の粟井神社があり、讃岐では他地域に先んじて、須恵器生産を始めていました。それが7世紀中葉になると三野・高瀬窯群の操業規模が辻窯跡群を、圧倒していくようになります。
 一方、讃岐最大の須恵器生産地に成長する十瓶山窯跡群(綾歌郡綾川町陶)と比較すると、8世紀初頭までは圧倒的に三野・高瀬窯の方が操業規模が大きいようです。それが逆転して十瓶山窯が優位になるのは、8世紀前葉以降のことです。10世紀前葉になると、十瓶山窯との格差がさらに大きくなり、次第に十瓶山窯が讃岐全体を独占的な市場にしていきます。そのような中で10世紀中葉以後は三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小させます。

旧三野湾をめぐる窯場が移動を繰り返すのは、どうしてなのでしょうか?
 須恵器窯は、大量の燃料(薪)を必用とします。その燃料は、周辺の照葉樹林帯の木材でした。山林を伐り倒してしまうと、他所へ移動して新たな窯場を設けるというのが通常パターンだったようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は、窯相互の間隔から半径500mを指標としています。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えて三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされたことが推測されます。
 更に加えて、7世紀末には藤原京造営の宮殿用瓦製造のために宗吉瓦窯が操業を開始します。これは、それまでの須恵器窯とは比較にならないほどの大量の薪を消費したはずです。加えて、製塩用の薪確保のための「汐木山」も伐採され続けます。こうして8世紀には、旧三野湾をめぐる里山は切り尽くされ裸山にされていたと研究者は考えているようです。古代窯業は、周辺の山林を裸山にしてしまう環境破壊の側面を持っていたようです。
  周辺の山林を切り尽くした後は、どうしたのでしょうか?
第6・7段階の動きを見ると、その対応方法が見えてきます。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大→五歩田支群での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
  青井谷支群での生産継続→上麻支群での生産開始
第6段階では、野田池支群から五歩田支群に移動し、第7段階になるとさらに五歩田支群から上麻支群に移っています。上麻は、大麻山の南斜面に広がる盆地で水田耕作などには適さないような所です。しかし、須恵器生産に必用なのは以下の4つです。
・良質の粘土
・大量の燃料(薪)
・技術者集団
・搬出用の交通網
これが満たされる条件が、内陸部の盆地である上麻にはあったのでしょう。同じように、丸亀平野の奧部の満濃池周辺にも須恵器窯は、後半期には造られています。これも、上麻支群と同じような要因と私は考えています。
 こ三野・高瀬窯群を設置・運営した経営主体は、丸部氏だったと研究者は考えています。
⑤で先述したように「燃料(薪)確保のために窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること」が指摘されています。高瀬郷内での燃料確保ができて、後には郷域を超えて勝間郷(五歩田・上麻の2支群が該当)にも窯場と薪山を設定しています。それができる氏族は、三野郡では丸部氏かいないようです。 
 「続日本紀」の771年(宝亀2)には、丸部臣豊抹が私物をもって窮民20人以上を養い、爵位を与えられたとの記事があります。ここからは、丸部氏が私富を蓄積し、窮民を自らの経営に抱え込むことのできる存在であったことがうかがえます。丸部氏は、7世紀以降に政治的な空白地であった三野平野に進出して、須恵器生産体制を形作ります。さらに壬申の乱以後には、国家的な規模の瓦生産工場である宗岡瓦窯を設置・操業させます。同時に、讃岐で最初の古代寺院である妙音寺を建立し、その瓦を宗岡瓦窯で焼く一方、多度郡の佐伯氏の氏寺である仲村廃寺や善通寺にも提供しています。以上のような「状況証拠」から丸部氏こそ、三野郡における須恵器生産を主導した勢力だと研究者は考えます。
 「三野・高瀬窯跡群」の須恵器は、どのように流通していたのでしょうか。
須恵器 蓋杯Aの生産地別スタイル

須恵器・蓋杯Aには、上のような生産地の窯ごとに特徴があって、区分ができます。これを手がかりに消費遺跡での出土状況を整理し一覧表にしたのが次の表になります。
須恵器 蓋杯Aの出土分布一覧表

例えば1の大門遺跡(三豊市高瀬町)は、高速道路建設の際に発掘調査された遺跡です。そこからは56ヶの蓋杯Aが出土していて、その生産地の内訳は「辻窯跡」のものが15、三野窯跡のものが41となります。大門遺跡は、三野・高瀬窯跡のお膝元ですから、その占有率が高いのは当然です。ただ、山本町の辻窯跡からの流入量が意外に多いことが分かります。当然のように、三豊以外からの流入はないようです。ここにも、三豊の讃岐における独自性が出ているようです。
6の下川津遺跡を見てみましょう。
ここでは、三野窯と十瓶窯が拮抗しています。他の遺跡に比べて、十瓶窯産の須恵器の利用比率が高いようです。十瓶窯は、綾氏が経営主体と考えられています。そのため綾氏の拠点とされる綾北平野や大束川河口の川津などは、十瓶窯産の須恵器が流通していたとしておきます。
この表で注目したいのは、三野・高瀬窯の須恵器が丸亀平野にとどまらずに、讃岐全体に供給されていることです。
このことについて、研究者は次のように指摘します。
①三野・高瀬窯の須恵器の分布は、ほぼ讃岐国一円に及ぶこと。
②讃岐全体への供給されるようになるのは、第3・4段階(7世紀中葉~8世紀初頭)のこと
この時代の讃岐における須恵器生産窯の「市場占有形態」を研究者が分布図にした下図になります。なお、上図の番号と下地図の番号は対応します。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg

ここからは「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していたことがうかがえます。さらに、辻窯は丸亀平野までが市場エリアで会ったのに対して、三野窯はさぬき全域をカバーしていたことが分かります。辻と三野を比較すると三野が辻を凌駕していたようです。
 この時期は、7世紀後半の壬申の乱以後のことで、国営工場的な宗岡瓦窯が誘致され、20基を越える窯が並んで藤原京の宮殿瓦を焼くためにフル操業していた時期と重なり合います。その国家的な建設事業に参加していたのが丸部氏だったことになります。そういう見方をすると丸部氏は、須恵器生産という面では、三豊南部で母神山古墳群から大野原古墳郡を築き続けた勢力(紀伊?)の管理下にあった辻窯を凌駕し、操業を始めたばかりの綾氏の十瓶窯を圧倒していたことになります。このような経済力や政治力を背景に、讃岐で最初の古代寺院妙音寺に着手したのです。ともかく7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へ、三豊から讃岐全体へだったことを押さえておきます。
その後の須恵器供給をめぐる動きを見ておきましょう。
③第5段階(8世紀前葉~中葉)になると、急速に十瓶山窯製品に市場を奪われていくこと。
④買田・岡下遺跡(まんのう町)では、第6段階末期の特徴的な杯B蓋(青井谷支群青井谷第3地点で生産)がまとまって出土しているので、この時期になっても三野・多度・那珂3郡には三野窯は一定の市場をもっていたこと
⑤第5~7段階の中心的な窯場である青井谷支群は、大日峠で丸亀平野につながり
第6段階の野田池支群から転移した五歩田支群や第7段階に五歩田支群から移動した上麻支群は麻峠や伊予見峠で、それぞれ丸亀平野側とつながっており、内陸交通網に依拠した交易が想定できる。
大胆に推理するなら①②段階の讃岐全体への供給が行われた時期には、海上水運での東讃への輸送もあったのではないでしょうか。藤原京への宗吉瓦の搬出も舟でした。宗吉で焼かれて瓦が、仲村廃寺や善通寺に供給されたいますが、これも「三野湾 → 弘田川河口の白方湊 → 弘田川 → 善通寺」という海上ルートが想定されます。引田や志度湊に舟で三野の須恵器が運ばれたとしても不思議はないように思えます。③④⑤になり、十瓶山窯群に東讃の市場を奪われ、丸亀平野エリアへの供給になると大日峠や麻峠が使われるようになり、その峠の近くに窯が移動してきたとも考えられます。

以上をまとめておきます
①讃岐の須恵器生産が始まるのは5世紀前半で、渡来人によって古式タイプの須恵器が生産された。
②しかし、窯は単独で継続性もなく不安定な生産体制であった。
③須恵器窯が大規模化・複数化し、讃岐全体に分布するようになるのは、6世紀末からである。
④須恵器窯が地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と、セットで分布していることから、窯設置には、地域首長が関わっている
⑤「一郡一窯」が実現する中で、三豊の辻窯と三野窯は郡境を越えて製品を提供した。
⑥その中でも丸部氏が経営する三野窯は、7世紀後半には讃岐全体に須恵器を供給するようになる。
⑦7世紀の須恵器生産の中心は、三豊にあったという状況が現れる。
⑧その間にも三野窯群は、燃料を求めて定期的に東へと移動を繰り返している
⑨その背後には、「三野須恵器窯+宗吉瓦窯+三野湾製塩」のための大量燃料使用による森林資源の枯渇があった。
⑩奈良時代に入ると三野窯の市場占有率は急速に低下し、十瓶山窯群に取って代わられる。
次回は、十瓶山窯群の台頭の背景を見ていくことにします。

参考文献
佐藤竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
高瀬町史
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  讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

本棚の整理をしていると佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」が目に入ってきました。ぱらぱらと巡っていると私の書き込みなどもあって、面白くてついつい眺めてしましました。約40年前に買った本ですが、今読んでも参考になる問題意識があります。というわけで、今回はこの本をテキストに、「血税一揆」がどんな風にして起こったのかを見ていくことにします。

明治六年(1873)6月26日 三野郡下高野村で子ぅ取り婆さんの騒動が起こります。
この騒動について、森菊次郎は手記「西讃騒動記」を残しています。
この人は三豊郡詫間町箱の人で、戦前、箱浦漁業会長などもした人で、昭和28年に86歳で亡くなっていますから、この一揆のときは六、七歳の子どもです。そのため自分の体験と云うよりも聞書になります。そのために事実と違うことも多く、全面的に信用できる史料ではありません。しかし、一揆に関する記録のほとんどが官庁記録なので、こうした民間人の記録は貴重です。

血税一揆 地図
子ぅ取り婆事件の起きた下髙野

子ぅ取り婆事件について、この手記は次のように記しています。
『子ぅ取り婆が子供をとっているとの流言飛語が一層人心を攪乱した。しかも実際にその子ぅ取り婆を認めたものはなかった。その子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者でこれが、ちょうど騒動の起こりだった。

この子ぅ取り婆が明治六年六月二十六日、坂出町から三野郡に入り込み、同日昼ごろ、比地中村の春日神社に来たり、拝殿でしきりに太鼓を打ち鳴らし、騒がしいので神職及び二、三の人々は懇諭、慰安を与えなどして行き先を問うたら、観音寺へ行くというので、早く行かぬと日が暮れると言い聞かせ、門前を連れ出し、観音寺へ行く道を教えて出立せしめたが、 最早、下高野の不焼堂(如来寺)へ行くまでに日没となってしまった。
夕涼みの多くの人々は、子ぅ取り婆が来たと大騒ぎし、婆が行く前後には多くの子供がつきまとった。その子供らの中の一人を老婆が抱きあげると、多勢の人々はこれを追っかけ、取り返した。しかし実際は取ったのではなく、その子供が大勢の人々に押し倒され転んで井戸の中へ落ちんとしたのを救いあげ、抱いたまま走って行ったのでした。 一犬吠ゆれば万犬吠ゆで、これが竹槍騒動の動機となった』
以上が「西讃騒動記」の発端の部分です。ここからは次のようなことが分かります。
①子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者で
②明治6年6月26日、坂出町から三野郡に入り込み、昼ごろに比地中村春日神社にやってきた。
③日没時に下高野の不焼堂(如来寺)にやってきて騒ぎとなった
この他に、一揆のまとまった記録としては、次の2つがあるようです。
①一揆後の近い時期に官庁報告をまとめた「名東県歴史
②邏卒報告書などから材料を得た昭和9年発行の「旧版・香川県警察史
この内で②の「警察史」は、その発端をを次のように記します。
 『明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。
 このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。
群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。

然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―』
 この経緯をまとめておくと、次のようになります。
①子ぅ取り婆が子どもを抱いて連れ去ろうとした
②それを村民たちが捉えて、なぶり殺しにしようとしたので村役人の田辺安吉が自分の家に連れて帰った
③戸長も駆けつけ、戸長役場に連行しようとしたが、取り囲んだ人々はそれを認めず騒ぎは大きくなった
④急報によって駆けつけた邏卒の姿を見ると群衆は、怒り騒然とした雰囲気に包まれた。

血税一揆 事件発生
下髙野

事件の起こった場所については、どの記録も下高野と記します。
地元では下高野の南池のほとりと伝えられているようです。南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南へ行った付近にあります。不焼堂あたりから子供たちが、子ぅ取り婆さんにぞろぞろとつきまといはじめ、南池のほとりでこの事件が起こったものとしておきましょう。子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた子供と、この子供の守をしていた人の家、及び村吏の田辺安吉の家もこの南池の近くにあります。
 豊中町本山のKさんの祖母は田辺安吉家から出た人ですが、この人は生前に、子ぅ取り婆さんは田辺家の門の柱に縛りつけられ、散々痛めつけられて見るも哀れな姿であったと語っていたという。子ぅ取り婆さんは、その愛児が池で蒻死したため発狂したとされます。つきまとう子をかかえて走ったのは、その子がわが子とみえたのかもしれません。
子ぅ取り婆さんについては、名前は塩津ノブ。 年齢は30代後半と(旧「観音寺市史」は記します。出身地については、
「西讃騒動記」は坂出町
「警察史」は志度町とも国分村とも書いています。
「豊中町誌」は『寒川郡志度の者』
「名東県歴史」は 『女は阿野郡国分村農、与之助の孫女』
信頼度の高い「名東県歴史」に従って国分村の者と研究者は推測します。
子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた小児については
①「名東県歴史」は、「比地大村の農民某の妻二児を携え路傍に逍逢す」
②「警察史」は『小児の父兄、姓名、自宅不明』、『矢野文次の娘』
③地元の伝承では、「下高野村の南池近くの家の子で、後に成人して比地大村へ嫁した」

②の「警察史」は『矢野文次の娘』とあるのは、一揆の首謀者が矢野文次であったからのこじつけと研究者は指摘します。
①は、子ぅ取り婆さんが抱きかかえられた子を「二児」と記しますが、これは他の史料には見当たりません。抱きかかえたのは一人のようです。
「警察史」は続けて次のように記しています。
 一方、土民は、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるの諺の如く、何ら事実を知らざるものまで出で加わり、はては鐘、太鼓を打ち鳴らし、西に東に駈け回ることとて