瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 三豊の歴史

  尾池薫陵が京都遊学で学んだものは何だったのでしょうか? 今回は、このテーマを「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」をテキストにして見ていくことにします。
薫陵が京都遊学で学んだものを知る手がかりは、彼が残した医学書の写本です。僧侶が経典を写経することが修行のひとつであったように、当時の医学生は、自分の学ぶ医書を書写していました。そのため薫陵がのこした医学書の写本をみれば、彼が興味を持っていた医学分野見えてきます。それらを並べて見ると次のようになります。
①師の後藤一『一隅』・艮山医学の要点をまとめたもので、「医原(養庵先生遺教)」「艾炙」「泉浴」「肉養」「薬療」
②宝暦7年(1757)、加藤暢庵録の後藤艮山の遺著を筆写
5月18日に『師説筆記』136条
10月10日に『病因考』2巻
10月16日に『(先生手定)薬能』『薬能附録』の筆写終了
 ここからは、薫陵が修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学で、古方系処方と灸治を併用した独特な古方医学であったことがうかがえます。
18世紀の医学界の動きを、研究者は次のように考えています。
①京都など西国の医家の多くは、古方派の医学理論と処方学を基盤にしていた。
②それを基盤に、それぞれ専門科目の医術を付け加えていた
③新たに付け加えられて専門科目とは、1800年頃には荻野元凱の腹診術、華岡流外科、池田流治痘術などで、
④1830年頃になると賀川流産科術、小石元俊らの蘭方であった。
⑤古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
⑥こうした学び方が、「漢蘭折衷」と言われる医学の普通に見られるスタイルであった
そのような医学界の動きの中で、讃岐の尾池家はどのような対応をしていたのでしょうか?
それも残された資料からうかがうことができるようです。結論から言うと「漢方から漢蘭折衷へ」の移行が見えてくると研究者は指摘します。
尾池家の場合は、次のような傾向があります。
①医業を創始した立誠が京都で後藤艮山に学んでいること。
②その後継者たちが長く後藤艮山流をベースにした医学・医療を行ていたこと。
③尾池薫陵の養子となった桐陽が後藤艮山の外孫であるともされ、京都の古方派諸家と長年にわたって結びつきが深かったこと。
こうした中で従来の後世方医学に代わって新たに古方医学がどのように京都の医学界で台頭してきたのか、それが瀬戸内地域にどのように伝播していったかを知る貴重な史料だと研究者は考えています。

 この頃の京都医学界では新思潮が勃興していたようです。
そのため薫陵は、5年間で学んだ成果にすぐに満足できなくなります。遊学を終えて帰郷した翌年の宝暦9年(1759)7月に、薫陵は京都に再遊しています。この時の京都滞在は30日程度でしたが、その成果を大野原に戻ってから立誠門の先輩である備中総社の赤木簡に宛てて次のような長文の書簡にしたためています。
②尾池薫陵書簡―宝暦9年(1759)10月12日、赤木要蔵宛―(赤木制二氏所蔵)
赤木要蔵様   常
(前略)
御聞及被下候通、小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京仕、古方家先生方へ相見、疑問仕候而得鴻益、大悦御察可被下候。山脇・吉益・松原三家とも豪傑ノ先生ニ而、各所長御座候。傷風寒治療、山脇ハ承気湯類ニ長シ、松原ハ真附・四逆・附子湯ニ長シ候様ニ相見へ申候。何分、三家中ニ而ハ山脇先生術ニ長シ申候様ニ相見へ申候。専ラ艮山先生称シ、古方ノ今日ニ弘リ候も全ク後藤先生輙被レ藉レ口申候。依之、小生義束脩之力也ト、動仕入門仕候。京都ニも三十日斗留滞仕候。晝夜とも山脇家へ相通イ、其暇ニ吉益・松原へ相通、論説とも承申候。扨々面白敷義ニ御座候。傷寒論讀方とも違イ申候義とも御座候。見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難行ハ、術ノコトニ御座候。(後略)
    意訳変換しておくと
お聞きおよびの通り、小生には大望があます。ついては、私は初秋に上京し、古方医学の先生方をお訪ねして、かねより疑問に思っていたところを問い、それに親しく答えていただきました。山脇・吉益・松原三家とも豪傑の方々で、それぞれに長所をお持ちです。傷風寒の治療に関しても、山脇先生は承気湯類に詳しく、松原先生は真附・四逆・附子湯に長じているように思えました。その三家中では山脇先生に一日の長があるように見えます。山脇先生は後藤艮山先生を尊師として仰ぎ、古方医学の今日の隆盛も後藤先生のお陰手であると云います。これを聞いて、小生もその下で学びたいと思い入門いたしました。
 京都には三十日ばかり滞在しました。昼夜なく山脇家へ通い、その間にも吉益・松原先生方も訪ね、お話しをうかがうことができました。その話の内容は、私にとっては興味深いものでした。傷寒論の読み方(解釈)もそれぞれが異なります。
冒頭の「小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京」という言葉が、薫陵の強い修学意欲を伝えています。
この上京に時には薫陵は、山脇東洋(1706~62)・吉益東洞(1702~73)・松原一閑斎(1689~1765)らの古方派諸名医を歴訪して各人の医説の吸収に努めています。そして東洋・東洞・一閑斎をいずれ劣らぬ豪傑と評価して、各人について論評します。とりわけ山脇東洋が医術に長じ、また艮山流の古方医学に最も忠実である点に敬服して、7月18日に正式に入門します。一か月間、昼夜とも山脇塾に通学し、あいまに東洞と一閑斎にも音信を通じています。『傷寒論』の読み方にも三者三様の相違があることなどに強く興味を惹かれています。この書簡からは薫陵の興奮に満ちた修学状況が伝わってきます。
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山脇東洋

                  山脇東洋の『蔵志』
     この時に師事した山脇東洋は、禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行った人物で、その記録「親試実験」として公表します。彼は日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評され、古方派の五大家(後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞、松原一閑斎)のひとりに挙げられています。薫陵が京都に滞在したこの秋には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な両著が刊行されます。東洋の刑屍解剖による日本初の観臓は、薫陵が初めて京都遊学した同年同月の宝暦4年(1754)閏2月のことになります。その興奮が京都の医学界に拡がっていた中に薫陵はいたことになります。

 帰郷後の薫陵は、古方医学に基づく医術の実践に格闘しています。それを次のように記します。

「見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難キハレ 行ハ術ノコトニ御座候」
「宋後之書一向読ミ不申候様ニと受レ教ヲ申候。然とも先入為レ主候而、後世方用度所存萌シ出テコマリ申候。宋後之書ナキ世トアキラメ、古方書ノミニテ済シ申度コトニ御座候」

意訳変換しておくと
「見識については諸先生の力で見立てができても、帰郷に見立てに応じた治療方法をどうおこなうのかが難しいのです」
「中国の宋以後の医学書を読んで、教えを受けたことを伝えています。しかし、先の教えと、後世の教えに矛盾が出てきて困っています。宋以後の書はないものとしてして、古方書の教えだけを伝えるようになりました。」
   薫陵は大野原では塾生を抱える立場でした。そのために治療だけでなく、門人に医学を教えなければなりません。「教えることは学ぶこと」で、自分も講義用のノートなどを作っておく必要があったかもしれません。そのような中で、何を教え、何を教えないかの取捨選択に悩んでいたことがうかがえます。ここからは古方医学の斬新さと薫陵が置かれていた模索状態をよく伝えています。
 山脇塾では「吐方」という新しい治療法も学んでいましたが、副作用が強くなかなか実行できなかったようです。書簡の追伸に述べられている処方と生薬に関する記述も、薫陵が吸収に努めた新知識の多さを示していると研究者は評します。
 こうした薫陵の研鑚はすぐに近隣の評判となり、この年から薫陵への入門者が増加します。それを次のように記します。
当夏より隣村及ヒ金毘羅より門人両生石川林之介、三木市太郎投塾、御存之通ノ矮屋、恰如有舟中、紛々罷在候。依之小屋相構申候而、屋敷北ノ方へ結構仕候。二間四間余。大方成就仕候。自今以後、御渡海も被成候ハヽ、御投宿被成候ニも可然ヤトハ御噂申事ニ御座候。当秋より門前観音堂ニ而三 八ノ夜、論語開講仕候処、近隣風靡、聴衆も大勢有之、悦申候。何トソ打續ケかしと所祈御座候。傷寒論も不絶讀申候而、此間より金匱要畧讀申候。上京之節、後藤・香川両家へも相尋申候。両家とも無異事、後藤家繁昌之體ニ相見へ、門生も七人投塾罷在候。香川家も不相替候。
 
意訳変換しておくと
この夏から隣村や金毘羅から門人の石川林之介、三木市太郎が塾生となり、通ってくるようになりました。わが家はご存じの通り、小さな家などで手狭で、まるで舟中にいるがような狭さです。そこで、屋敷の北方へ二間四間の離れを増築しました。今後は、わが家に投宿したときには、お使いいただきたいと思います。
 この秋から門前観音堂で、3日と8日の夜に、論語の購読を開講しました。それが近隣の噂となり、多くの人々がやって来るようになり喜んでいます。これが続いていくことを願っています。傷寒論も何度も読み返し、行間からさまざまなことを学んでいます。上京の節には、後藤・香川両家へも伺いました。両家とも繁昌のようすで、門生も七人抱えています。香川家も変わりありません。

ここからは、塾生を迎えて塾舎を新築していたことが分かります。
また門前の観音堂を会場にして3・8日の夜に『論語』の講義を始めたところ、近郷近在から聴衆が詰めかけます。医者が在村知識人として、社会教育的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 記録からは薫陵への入門者は、宝暦9年から明和6年(1759~69)までの間に26人を数えるようです。また明和6~8年(1769~71)には、備中惣社の赤木家7代の浚が大野原に遊学しています。その時に浚が筆写した本に、尾池立誠『傷寒論聴書』、尾池薫陵『経穴摘要』、香川修庵『一本堂行餘医言』等が残っていて、尾池塾における基本的な修学内容がうかがえます。
 薫陵の研鑚の原動力のひとつに、隣村の和田浜の合田求吾の存在があったようです。
 合田求吾(1723~73)は和田浜(観音寺豊浜町)で代々医を業とする家に生れます。
30才のころ京都に遊学し、さらに数年後江戸へ出ます。その際に、参勤交代で長崎から江戸に出て来たオランダ商館長に随行する商館医から和蘭の医療について話を聞く機会を得ます。その話の中に長崎の大通詞で蘭書が解読出来るばかりでなく、医療の経験ももっている吉雄耕牛が彼の家でオランダの医療について講釈してくれることを聞き知ります。これを聞いて、長崎への遊学を決意したようです。
  一旦讃岐に帰った求吾は宝暦12年(1762)になって長崎遊学を実行に移します。そして吉雄耕牛の家塾で毎日時間を決めて、内科を中心にオランダ医療について原書からの和訳を聞きとり、その内容を筆録する日課を続けます。それを二ヶ月半ほどの滞在中に、五冊の冊子にまとめてその第一冊の題目を「紅毛医言」とします。
紅毛医言 合田強

合田 強(通称:求吾  「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図
合田 強(通称:求吾 ) 「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図

 それまでオランダの医療は、外科ばかりと思われていたようです。そんな中で内科も秀でていることを伝えたことは、重要なことでした。しかし、残念ながらこの冊子は幕末に至るまで刊行されることはありませんでした。求吾の周囲、周辺で読まれるだけだったようです。
 オランダ内科の詳細が知られるようになったのは津山藩医の宇田川玄随(1755~94)の「西説内科撰要」(寛政五:1799年刊)以後のことなので、この「紅毛医言」が草稿として纒められたのは、その30年前のことになります。そして昭和初期に呉秀三氏よって、はじめて陽の目を見るようになったようです。合田家に所蔵されていた「紅毛医言」は、今は新設された香川県立歴史博物館(高松市)に寄託保管されているようです。

 「紅毛医言」が著された同時期に、尾池薫陵も古方医学の立場から新著『素霊正語』を著しています。薫陵は、その序文を合田求吾に求めています。求吾は長崎からの帰郷後、名医としてその名が人々の間に知られようになり、遠くからも病人が訪れるようになります。また、自身の知識を伝えようと大勢の弟子も受け入れています。
豊浜墓地公園の合田求吾の墓碑銘には次のように記されています。

和田浜(観音寺市豊浜町)の畏友合田求吾(1723~73)
合田求吾(1723~73)の墓碑(豊浜墓地公園)

「先生は天資温和にして人の善を賞揚し、よく父母につかえ、仁術をもって皆をよろこばせ、郷里の人々によく学問を教えた」

このような合田求吾の姿を追いかけたのが、薫陵だったのかもしれません。ふたりの遊学状況と講学内容(共通点と相違点)からは、互いに切磋琢磨する姿が見えてきます。薫陵編の『諸家文集』には、求吾が諸家から送られた尺牘を多数収録しています。ここからも、両者の交流の深さと薫陵の求吾への関心の高さがうかがえます。
以上をまとめておきます。
①18世紀半ばの京都では、各派は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学ぶ「漢蘭折衷」だった。
②薫陵が5年間の京都遊学で修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学だった
は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
③薫陵が遊学を終えた頃には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な医書が刊行された。
④大野原に帰郷しても豊浜の合田求吾に刺激されて、薫陵の探究心や向上心は衰えなかった。
⑤門下生を受けいれる一方で、地域では論語購読を行うなど社会教育にも貢献した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」

 江戸時代に讃岐三豊で医業を営んだ尾池家は、丸亀藩医となった尾池薫陵やその養嗣子で漢詩人として知られた尾池桐陽などを輩出しています。また独自の尾池流針灸術の一派を形成したことでも知られています。その縁戚の中澤家(香川県三豊市詫間)には、尾池家の蔵書や文書が数多く残されているようです。今回は、その史料を見ていくことにします。テキストは「町泉寿郎(二松学舎大学 文学部)  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)」です。
                                                                                        
  まず『尾池氏系譜』を「年表化」して、尾池家の歴史を見ておくことにします。
①室町幕府の将軍足利義輝が永禄の変(1565)に没したとき、懐妊中であった烏丸大納言の女が讃岐に難を逃れ、誕生した義輝の遺子義辰は讃岐の土豪尾池氏に身を寄せ、尾池姓を名乗ったところから始まる。
②尾池氏は讃岐領主となった生駒氏に仕えたが、1640年に生駒騒動により生駒氏は城地没収。
③その時に義辰とその子息たちは浪人となり各地に離散。義辰(通称玄蕃:別号道鑑)は88歳(1566~1653)で没した。
④義辰の子孫は、官兵衛義安(法号意安)→ 仁左衛門(1616~88、法号覚窓休意)→森重(1655~1739) → 久米田久馬衛門、法号遊方思誠)と継承
⑤森重の代に、大野原(現観音寺市大野原)に住みついた。
森重の子が医業を興した立誠(1704~71)で、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学び、加藤暢庵・足立栄庵らと並ぶ艮山門の高弟に数えられた
⑦立誠は、讃岐に帰郷して大野原に開業する傍ら、艮山流古方医学を講じ、讃岐だけにとどまらず瀬戸内各地から遊学する者が多く訪れた。
⑧立誠は四男四女をもうけたが、長男・二男が早く亡くなったため、門人谷口氏を養子とし、二女楚美を娶わせた。
⑨立誠の著書には『医方志『耻斎暇録』『恭庵先生口授』『恭庵先生雑記』等がある。
⑩大野原の菩提寺慈雲寺にある墓碑は、大坂の儒者三宅春楼(艮山と交流のあった三宅石庵の男で
懐徳堂の教授)が撰文
⑪薫陵(1733~84)は、祖父を谷口正忠、父は正直で、16歳(1748)で立誠に入門。
⑫才能を見込まれて21歳(1753)で尾池家の養子となり、京都に5年間遊学(1754~59)し、尾池家を継承。
⑭帰讃後は、邸内に医学塾寿世館を営み、学びに来る者が多かった。
⑮49歳(1781)で丸亀藩主京極高中から侍医として召し出され、丸亀城下に移った。
⑯薫陵の著書に『経穴摘要』『古今医変』『素霊正語(素霊八十一難正語)』『試考方』『古今要方』『痘疹証治考』『脚気論』『医方便蒙』『薫陵方録』『薫陵雑記』『薫陵子』『大原雑記』等がある。
⑰丸亀の菩提寺宗泉寺にある薫陵の墓碑は後藤敏(別号慕庵、艮山の二男椿庵の庶子)の撰文
⑱薫陵が丸亀城下に別家を建てたのち、大野原の尾池家は立誠の三男義永(1747~1810)が継承した。
⑲義永の後、義質(?~1837、号思誠) → 平助泰治(?~1863) → 平太郎泰良(1838~94)と代々医業を継承。
⑳義雄(1879~1941、ジャーナリスト、青島新聞主幹)は、義質の長兄允は尾藤二洲に学んで儒者となり、江戸で講学した。
㉑薫陵が立てた丸亀藩医尾池家は、その門人村岡済美(1765~1834)が薫陵の二女を娶って継承した。
㉒済美の父は丸亀藩士村岡宗四郎景福で、母は村岡藤兵衛勅清の長女で、『尾池氏系譜』に済美を後藤艮山の孫とする。ここからは宗四郎景福は、艮山の血縁者とも推定される。
㉓済美は大坂の中井竹山や京都の皆川淇園に学び、菅茶山・頼山陽・篠崎小竹らとも詩文の交流があった。著書に『桐陽詩鈔』等がある。
㉔済美の長男静処(1787~1850)は、丸亀藩医を継承し『傷寒論講義』『静処方函』『治痘筆記』等の医書を残しています。
㉕静処の弟松湾(1790~1867)は、菅茶山に学び、父桐陽の文才を継いで詩文によって知られた。編著書に『梅隠詩稿』『梅隠舎畳韻詩稿』『蠧餘吟巻』『松湾漁唱』『穀似集(巻1桐陽著、巻2静処著、巻3松湾著)』『晩翠社詩稿』、(京極高朗著)『琴峰詩集』等がある。松

最初の①には、室町幕府の将軍義輝の遺子義辰が讃岐の尾池家の姓を名乗ったとあります。
この話は、どこかで聞いたことがあります。以前にお話しした生駒藩重臣の尾池玄蕃の生い立ちについて、「三百藩家臣人名事典 第七巻」には次のように記します。

永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。

この話と一緒です。ここからは、尾池玄蕃につながる系譜を持っていたことが分かります。後で見る史料にも次のように記します。
一 尾池玄蕃君、諱道鑑、承應二年卒。是歳明暦ト改元ス。
一 休意公ハ玄蕃君ノ季子也。兄二人アリ。是ハ後ニ玄蕃君肥後ヘツレユケリト。定テ肥後ニハ後裔アラン。
ここでは、尾池家では尾池玄蕃と祖先を同じくするとされていたことを押さえておきます。その後、生駒家にリクルートしますが、生駒騒動で禄を失い一家離散となったようです。その子孫が三豊の大野原に定住するようになるのが⑤⑥にあるように、17世紀後半のことです。大野原の開発が進められていた時期になります。そして、立誠(1704~71)の時に医師として開業します。立誠は、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学んだ後に、讃岐に帰郷して大野原に開業したようです。艮山流古方医学を講じ、他国からの遊学者も数多く受けいれています。その後、⑪⑫にあるように薫陵が谷口家から尾池家の養子となったのは宝暦3年(1753)、21歳の時です。
その経過を白井要の『讃岐医師名鑑』(1938 刊)は次のように記します。

尾池恭庵(?~1771)は後藤艮山の門人で,実子の義永と義漸が共に早世した。そこで寛延元年(1748)に 16才で入門してきた谷口正常(1733~1784)が秀抜だったため、やがて娘を配した.この養嗣が尾池薫陵で、字は子習という。現存する父子の著述は全て写本で、父の『恭庵先生雑記―方録之部―』(1810 写)、子の『試効方』(1753 自序)・『経穴摘要』(1756自序)・『素霊八十一難正語』(1763自序)・『医方便蒙』(1810写)・『古方要方』・『脚気論治』が残っている。

養子として尾池家を嗣ぐことになった薫陵は京都遊学します。その際のことを『筆記』と題された日記に次のように記します。
①尾池薫陵『筆記』(中澤淳氏所蔵)
一 宝暦三癸酉六月廿五日、有故、師家之義子ト成。(中略)
一 宝暦四甲戌閏二月九日宿本發足。金毘羅へ廻り丸亀ニ而一宿。十日丸亀より乗船、即日ニ下津井へ着、一宿。十一日岡山ニ一宿。十二日三ツ石ニ一宿。十三日姫路ニ一宿。十四日明石ニ一宿。十五日西宮一宿。十六日八ツ時大坂へ着。北堀江高木屋橋伊豫屋平左衛門方ニ逗留。十九日昼船ニ乗、同夜五ツ時、京都三文字屋へ着。同廿七日、香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。同廿四日平田氏東道へ發足

  ここまでを意訳変換しておくと
一 宝暦3癸酉6月25日、故あって私(薫陵)は、師家の義子となった。21歳の時である。(中略)
一 宝暦四(1754)年2月9日に宿本を出発し、金毘羅廻りで丸亀で一宿。
10日に丸亀より乗船し、下津井へ渡り一宿。
11日 岡山で一宿。
12日 三ツ石で一宿。
13日 姫路に一宿。
14日 明石ニ一宿。
15日 西宮一宿
16日 八ツ時大坂着。北堀江高木屋橋の伊豫屋平左衛門方に逗留。
19日(淀川の高瀬舟に)昼に船に乗船し、五ツ時、京都の三文字屋へ着。
27日 香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。
28日 平田氏が江戸へ出発。
私が興味があるのは、瀬戸内海を行き交う船の便で、それを当時の人々がどのように利用していたかです。
尾池家の養子となった9か月後、宝暦4年(1754)閏2月9日に薫陵は京都遊学に出発します。その際の経路が記されているので見ておきましょう。伊予街道を東に向かい金毘羅宮に祈願し、丸亀から乗船しています。船で下津井に渡り、岡山、三石、姫路、明石、西宮で宿泊しながら、16日に大坂に達し、19日に淀川を上る川船で京都に到着しています。どこにも寄り道せずに、一直線に京都を目指しています。京都まで10日の旅程です。ここで注意しておきたいのは、丸亀=大阪の金比羅船の直行便を利用していないことです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々
大坂と丸亀の船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していたことは以前にお話ししました。金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。そのため冬期は丸亀ー下津井ルートが選ばれたようです。海路ではなく陸路・山陽道を利用していることを押さえておきます。
京都到着後、すぐの2月27日に香川修庵に入門しています。
そして、艮山の子孫が運営する中立売室町の後藤塾に寄宿したようです。艮山の四子のうち医者として名前が知られていたのは、二男椿庵(1697~1738、名省、字身之、通称仲介)と四男一(名督、通称季介・左一郎)でした。このうち椿庵はすでに亡くなっていたので、薫陵が師事したのは一でした。薫陵が後藤一のもとでの修学したことを、薫陵は「在京之日、後藤一先生賜焉」と記します。
一 三月十一日夜より時疫相煩、段々指重り申候處、新蔵様・宗兵衛様、但州御入湯御出被成ニ付御立寄被下。右御両人様にも様子見捨難、御介抱被成被下候。右御両所より國本へ書状被遣、國本よりも両人伊平治・久五郎、四月十七日罷登り申候。伊平治ハ同廿日帰シ申候。段々快復仕ニ付、御両人様とも四月廿一日京都御發足、但州御出被成候。五月朔日ニ久五郎帰シ申候。
一 右病気ニ付、三月廿七日より外宿。油小路竹屋町下ル所、嶋屋傳右衛門裏座敷にて保養申候。四月廿六日ニ後藤家帰り申候。
一五月十二日平田氏関東より出京被成候。旅宿竹屋町三条上ル所ニ御滞留。六月廿三日京地御發足。
一惣兵衛様、但州にて六月一日より水腫御煩被成候所、段々指重(2a)、同十四日ニ棄世被成候。
拙者も右不幸ニ付、六月廿八日發足、平田氏と大-21坂より同船にて七月二日乗船。同五日ニ帰郷申候。又々同十八日和田濱より出船致候所、時分柄海上悪敷、同廿二日ニ明石より陸ニいたし、廿三日大坂へ着。北堀江平野屋弥兵衛ニ逗留。廿七日夜船乗、廿八日上京仕候。
一八月十三日京都發足、河州真名子氏へ参、逗留仕。十四日夜、八幡祭礼拝見。同十八日ニ帰京。
一九月廿五日、南禅寺方丈拝見。
一十月四日、高尾・栂尾・槙野楓拝見、且菊御能有之候(2b)。
一亥正月十  紫宸殿拝見
一同十七日  舞御覧拝見
一同廿三日  知恩院方丈拝見
一二月五日  今熊野霊山へ見物
一香川先生二月七日御發駕、播州へ御療保ニ被成、御帰之節、丹州古市にて卒中風差發、御養生不相叶、翌十三日朝五ツ時御逝去(3a)被遊候。
同十四日、熊谷良次・下拙両人、丹州亀山迄御迎ニ参申候。
十四日ニ御帰宅、同廿五日御葬送。
一 三月九日、國本より養母病気ニ付、急申来、發足。同十四日帰郷。
意訳変換しておくと
一 3月11日 夜より疫病に患う、次第に容態が重くなり、後藤家の新蔵様・宗兵衛様が但州の温泉治療に向かうついでに立寄より、診断していただいた。その結果、放置できないと診断され、御両所から讃岐の国本へ書状を送った。それを受けて讃岐から伊平治・久五郎が4月17日に上京した。伊平治は20日は帰した。次第に回復したので、御両人様も4月21日京都を出立し、但州へ温泉治療に向かわれた。5月朔日に久五郎も讃岐へ帰した。
一 この病気静養のために、3月27日から、油小路竹屋町下ルに外宿し、嶋屋傳右衛門の裏座敷にて保養した。それも回復した4月26日には後藤家にもどった。。
一5月12日平田氏が関東より京都にやってきて、竹屋町三条上ルの旅宿に滞留。6月23日に京を出立した。
一惣兵衛様が但州で6月1日より水腫の治療のために温泉治療中に、様態が悪化し、14日に亡くなった。拙者もこの際に、国元で静養することにして、6月28日に京を出立し、7月2日に平田氏と供に大坂より乗船。5日に帰郷した。そして、18日には和田濱から出船したが、折り悪く海が荒れてきたので22日に明石で上陸し、陸路で23日に大坂へ着き。北堀江の平野屋弥兵衛に逗留。27日夜の川船に乗、6月28日に上京した。
一8月13日京都出立し、河州真名子氏へ参拝し逗留。14日夜は、八幡祭の礼拝を見学。18日帰京。
一9月25日、南禅寺の方丈拝見。
一10月4日、高尾・栂尾・槙野の楓見物。菊御能有之候。
  宝暦5年(1755)一正月10日 紫宸殿拝見
一同 17日 舞御覧拝見
一同 23日 知恩院方丈拝見
一2月 5日 今熊野霊山へ見物
一香川先生が2月7日に発病され、播州へ温泉治療に行って、その帰路に丹州古市で卒中風が襲った。看病にもかかわらずに、翌13日朝五ツ時に逝去された。被遊候。
同  14日、熊谷良次と私で丹州亀山に遺骸をお迎えに行った。
   24日 御帰宅、同25葬送。
一 3月9日、讃岐の国本から養母病気について、急いで帰るようにとの連絡があり、14日帰郷。

 後藤塾での生活が始まって1ヶ月も経たない3月11日に薫陵は病気になります。
一時はかなり重病で、心配した後藤家の家人が国元に手紙を出すほどだったようです。4月末には、病状回復しますが、静養のためか一旦帰郷して再起を期すことになったようです。6月28日に京都を発し7月5日に帰郷しています。この時の経路については何も記しません。最速で、京都・三豊間が一週間前後で往来できたようです。讃岐で2週間ほど静養し、7月18日に、今度は和田浜より乗船し明石に上陸して、23日大坂到着。28日に京都に戻っています。この時期には、和田浜と大阪を結ぶ廻船が頻繁にあったことは以前にお話ししました。
 体調の回復した薫陵は、毎月京都とその近郊の名所見物に出かけるなど、遊学生活を十分に楽しんでいます。そんな中で師事した香川修庵が、宝暦5年(1755)2月7日に播磨国姫路での病気療養に出かけ、逝去します。73歳のことでした。翌日、薫陵は同門の熊谷良次とともに丹波亀山まで師の遺体を出迎え、修庵の遺体と共に京都に戻り、25日に葬儀が営まれます。結局、師を失った修庵への従学期間は、1年に満たずして終わってしまいます。
 3月には尾池の養母が急病という連絡が入り、14日に一旦帰郷します。国元の岐阜から一旦帰国するように義父から命じられたのかも知れません。しかし、4ヶ月の滞在で、7月には3度目の上京を果たしています。その時の上京のようすを見ておきましょう。
七月六日 國本發足、同九日讃ノ松原ノ海カヽリ、白鳥大明神へ参詣。同日夜俄大風、殊之外難義。翌十日、松原上リ教蓮寺隠居ニ一宿。同所香川家門人新介方ニ一宿。
十四日朝、大坂へ着。
十七日ニ大坂發足、渚ニ一宿。
十八日八幡へ寄、同日晩方京着。
七月廿七日、芬陀院へ尋、即東福寺方丈幷
見。其時、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
同廿八日、嵯峨へ先生墓参。
八月四日、與二石原氏一、之二(4a)。黄檗及菟道一。途中遇雨
八月十日、與吉田元・林由軒、之鞍馬及木舟。
同十三日、嵯峨墓参。
同廿四日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。
廿二六日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山へ行、唐崎遊覧、大津ニ一宿。
廿七日、石山遊行而返ル
八月廿二日、要門様御上京。
九月九日、藤蔵同道、妙心寺方丈拝見。
同廿七日、義空師上京。同廿九日、牧門殿預御尋、
直ニ同道、芬陀院へ参、一宿。
十月四日、歌中山清眼寺へ行。
同六日、養伯子發足。東福寺中ノ門迄見立。東福寺
南昌院へ尋ル。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢
候。
十月十五日、義空師關東へ下向。
同十九日、菊御能拝見。
同廿一日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
十一月廿一日、河州へ下ル。同廿四日、上京。
同廿六日、御入内。
同廿八日、御上使御着。
十二月四日、御参内。
同七日、 兵馬子帰郷。
同八日、 御上使御發足。
宝暦6年(1756)子正月卅日、鹿苑院金閣寺拝見。
二月一日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝見。
四月十九日、入湯御發足。六月十九日、御帰家。
戊寅二月一日、平井順安老、丸亀迄渡海。即日観音
寺浮田氏へ着、滞留。
同九日、丸亀より乗船、帰郷
意訳変換しておくと
 7月6日 ①大野原を出立し、9日に讃岐の松原の海(津田の松原)を抜けて、白鳥大明神へ参詣。その夜に俄に大風が吹き、殊の外に難儀な目にあった。
翌 10日、(津田)松原から教蓮寺隠居で一宿。同所香川家門人新介方で一宿。
  14日朝、大坂着。
  17日に大坂出立、渚で一宿。
  18日に、岩清水八幡に参拝して、同日の晩方に京着。
7月27日 芬陀院を訪問し、即東福寺方丈幷山門拝拝観。、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
  28日、嵯峨へ香川先生の墓参。
8月 4日、與二石原氏一之二 黄檗及菟道一。途中遇雨
8月10日、與吉田元・林由軒、鞍馬及木舟(貴船)見学。
  13日、嵯峨墓参。(香川先生)
  24日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。(愛宕山参り)
  26日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山参拝、唐崎を遊覧、大津に一宿。
  27日、石山遊行。
8月22日、要門様御上京。
 9月9日、藤蔵同道、妙心寺の方丈を拝見。
  27日、義空師が上京。
  29日、牧門殿預御尋、直に同道、芬陀院へ参拝し一宿。
10月4日、歌中山の清眼寺へ参拝。
   6日、養伯子へ出発。東福寺中ノ門まで見立。東福寺南昌院を訪問。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。
10月15日、義空師關東へ下向。
   19日、菊御能拝見。
   21日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
11月21日、河州へ下ル。同24日、上京。
   26日、御入内。
   28日、御上使御着。
12月 4日、御参内。
    7日、兵馬子が帰郷。
    8日、御上使御發足。
  宝暦6年(1756)正月30日、鹿苑院金閣寺拝見。
  2月1日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝観。
 4月19日、入湯(温泉治療)に出立。
 6月19日、温泉治療から帰宅。
戊寅2月1日、平井順安老、丸亀まで渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。
    9日、丸亀より乗船、帰郷
 ①には、7月6日に三豊を出発して、津田の松原を眺めて白鳥神社に参拝し、同門の香川家門人宅に泊まったと記します。門人が各地に散在していて、その家を訪ねて宿としています。幕末の志士たちが各地の尊皇の有力者を訪ね歩いて、情報交換や人脈作りを行ったように、医者達も「全国漫遊の医学修行」的なことをやっています。小豆島の高名な医者のもとには、全国から医者がやってきて何日も泊まり込んでいます。それを接待するのも「名医」の条件だったようです。江戸時代の医者は「旅する医者」で、名医と云われるほど各地を漫遊していることを押さえておきます。そして、彼らは漢文などの素養が深い知識人でもあり、詩人でもありました。訪れたところで、漢詩などが残しています。若き日の薫陵も「旅する医者」のひとりであったようです。

金毘羅航海図 加太撫養1
「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」
 白鳥神社参拝後は、引田港からの便船に乗ったことが考えられますが、はっきりとは書かれていません。引田港は古代・中世から鳴門海峡の潮待ち港として、戦略的にも重要な拠点でした。秀吉に讃岐を任された生駒親正が最初に城下町を築いたのも引田でした。引田と紀伊や大坂方面は、海路で結ばれていました。その船便を利用したことが考えられます。

『筆記』は、その後も宝暦6年(1756)2月頃まで、京都周辺の名所見物の記事が続きます。
しかし、その後は遊学生活にも慣れたのか記事そのものが少なくなります。そして宝暦8年(1758)2月帰郷したようです。ここで気になるのが「9日、丸亀より乗船、帰郷」とあるこです。その前に、丸亀には帰ってきて「滞留」しています。そうだとすると丸亀から船に乗って、庄内半島めぐりで三豊に帰ってきたことになります。急いでなければ、財布にゆとりのある人は金毘羅街道を歩かずに、船で丸亀と三豊を行き来していたことがうかがえます。
こうして尾池薫陵は、3度の帰郷を挟んで足掛け5年に及ぶ京都遊学を終えることになります。そういえば尾池家で医業を興した立誠の京都遊学も五年間でした。義父との間に、遊学期間についても話し合われていたのかもしれまん。それでは、薫陵が京都遊学で学んだものは、なんだったのでしょうか? それはまたの機会に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 町泉寿郎  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考―讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)
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秋山氏

以前に秋山氏のことは上のようにまとめておきました。
今回は、上表で⑥と⑦の間に位置するころの「秋山氏の鷹贈答文化政策」を見ていくことにします。
テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
香西元長による管領細川政元暗殺に端を発する永世の錯乱(1507年)は、「讃岐武士団の墓場」と呼ばれ、多くの讃岐武士団の凋落をもたらします。同時に、中央での細川氏同士の争いは、阿波細川氏の讃岐への侵攻をもたらします。その結果、讃岐は他国に魁けて戦国時代に突入したと研究者は考えています。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この時期に秋山源太郎は、細川澄元や淡路守護家細川尚春(以久)に接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元の後継者の最右翼と源太郎は考えて、秋山家の命運を託そうとしたのかも知れません。 
 この時期の城山文書からは次のような事がうかがえます。
①高瀬郷内水田跡職をめぐって秋山源太郎と香川山城守が争論となった時に、京兆家御料所として召し上げら、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなっていたこと。
②この没収地の変換を、秋山源太郎が細川尚春に求めていたこと。
③そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせていたこと
④淡路守護家に臣下の礼をとり、尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けていたこと。
⑤その淡路守護家からの礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されていること。
⑥ここからは、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来が見えてくること。
この文書については、以前にお話ししました。それを一覧化したものを見ておきましょう。

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
     秋山源太郎への淡路細川尚春(以久)やその奉行人からの書状一覧
①一番上が日付 
②発給者の名前に「春」の字がついている人物が多いので、細川淡路守尚春(以久)の一字を拝領した側近
③一番下が秋山源太郎からの贈答品です。鷹・小鷹・鷂(ハイタカ)・悦哉(えっさい:ツミ)が多いのが分かります。
鷹狩り

鋭いかぎ爪でハト襲うハイタカ 繰り返された野生の攻防 沖縄・名護市 | 沖縄タイムス+プラス
            鳩を捕らえたハイタカ(牝)

鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサ・ツミ(愛玩用?)が用いられたようですが、秋山源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカが多いようです。
ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
文書の中に贈答品として、鷹がどんな風に登場するかを見ておきましょう。
(年欠)7月5日付 秋山源太郎宛 細川氏奉行人薬師寺長盛書状 
「就中、重寶之給候」
(年欠)10月29日付 細川氏奉行人 春綱書状
「就之儀、石原新左衛門尉其方へ被越候、可然様御調法候者、可為祝着之由例、諸事石原方可被申候間、不能巨細候」
調教済みの鷹を贈られたことへのお礼が述べられています、
同11月9日付 細川氏奉行人 春綱書状
「なくさミのためゑつさい所望之由」
なぐさめ(観賞用)の悦哉(ツミ)を、細川家の奉行人が所望しています。
同12月27日付 細川氏奉行人 春綱書状
「鷂(ハイタカ)二居致披露候處祝着之旨以書札被申候」
秋山氏から鷂が贈られてきたことへの細川氏奉行人の春綱書状お礼です。用件のついでに、鷹の進上への謝辞をさらりと入れています。
 今度は、淡路守護細川尚春から秋山源太郎へ書状です。                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、鷹廿居尋ねられ給うべく候、子細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言          以久(淡路守護細川尚春)花押
九月七日
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か! 非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる。子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は「永世の錯乱」後に、細川政元の養子となっていた「澄之・澄元・高国」による家督争いが展開中でした。澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に淡路守護細川尚春が秋山源太郎に宛てて出された書状です。 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことに怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後一転してハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
それから3ヶ月後の淡路守護細川尚春からの書状です。
鵠同兄鷹(ハイタカ)給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)以久 (花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ20羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズのものを秋山氏が贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。
 ここからは、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りがハイタカ20羽で帳消しにされたことがうかがえます。鷹の価値は大きかったようです。細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたのです。

 ところで秋山氏の所領がある三野郡に、これだけの鷹類がいたのでしょうか?
 私もかつて日本野鳥の会に入っていて、鷹類の渡り観察会に参加していました。阿波の鳴門や伊予の三崎半島の突端には、東から多くの鷹たち(多くはサシバ)がやってきて、西へと渡って行きます。鷹柱になることもあります。それらを見晴らしのいい高台から眺めるのは気持ちのいいものでした。香川県支部タカ渡り調査グループの調査記録によれば、荘内半島近辺は、春に朝鮮半島へ向かう鷂が集まりやすい地形で、秋には差羽(サシバ)、雀鷹(ツミ)・鷂(ハイタカ)なそが岡山県側から備讃瀬戸の島伝いに南下してくることが報告されています。秋山氏の所領の高瀬郷付近は、春と秋に渡り鳥が飛来する適地であったようです。
 鎌倉時代の関東からの西遷御家人によって、西国に東国の鷹狩り文化が持ち込まれたと云われます。元寇後に讃岐にやって来た西遷御家人でもある秋山氏も、東国で行っていた鷹狩りを讃岐でも行うようになった可能性はあります。贈答用のハイタカは庄内半島周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春のもとで仕えていた秋山新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

どうして上級武士達は鷹狩りに熱中したのでしょうか?
古代の鷹狩は「遊猟」と書き、「かり」「みかり」と読まれる神事・儀式だったようです。
遊猟(鷹狩) は「君主の猟」といわれ、皇族や貴族に限られ、庶民が鷹を飼うことは厳禁でした。その背景には、鷹が「魂の鳥、魂覓(ま)ぎの鳥」と見なされていたことがあります。中世でも鷹は仏神の化身として、神前に据える「神鷹」の思想へと受け継がれていきます。このように古代から支配者の狩猟活動は、権威のシンボル的意味を持っていたことは、メソポタミアの獅子刈りがそうであったように世界の古代帝国に共通します。その中で鷹狩(放鷹)は、調教した鷹を放って鳥や獣を捕える技で、天皇・皇族が行う遊猟とみなされてきました。そのため鷹狩はレクレーションではなく、国家権力行使の一部と見みられます。こうして鷹の雛採取の権利は、山林支配権とも結びつきます。それは天皇家から武家政権にも継承されます。今でも「鷹の巣山・大鷹山、鷹山(高山)」などの山名を持つ山は、この系譜に連なっていた可能性があるようです。その一大イヴェントが源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で大規模で行った巻狩です。これは軍事演習であると同時に、統治者としての資格を神に問うものでもありました。

源頼朝の富士裾野の巻狩り
源頼朝の富士の裾野の巻狩図
「一遍上人絵伝」を見ていると、武家屋敷主屋の縁先に鷹が描かれています。中世武士と鷹との関係は日常的なものだったようです。
 室町期には、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」等に嵐山渡月橋近くを行く鷹匠一行が描かれています。鷹狩が定着すると、室町幕府は公家の放鷹や諏訪流鷹術を学んで大名・守護の鷹狩を公認するようになります。その一方で、幕府への鷹の進上を大名・守護に求めるようになります。これはドミノ理論のように、将軍家の鷹献上のために、守護は被官たちに鷹の進上を求めるようになります。自分で鷹狩りをするためだけでなく、鷹が贈答品としての大きな価値を持つようになったのです。だから、守護の中には幾種類何十羽の鷹を飼育し、専業者を雇い入れる者も出てきます。
 そのような中で出されたのが6代将軍足利義教の時の鷹・猿楽統制令です。
これは鷹狩と猿楽は室町殿だけに許される芸能として、他のものには許認可制とするものです。鷹狩と猿楽を権力の象徴として、室町殿の管理下に置こうとする動きと研究者は考えています。その後、三管領等の有力大名から、年頭に将軍に「美物」が献上されるようになります。「美物」として挙げられているのが次のものです。(室町幕府政所代蜷川親元の日記『親元日記』文明17年(1485)

「白鳥・雁・鴨・鶇・青鷺・五位鷺・菱食・鴫・初雁・水鳥・鷹」

こうして室町時代には、鷹の献上・下賜儀礼品化が進んでいきます。
後の信長や秀吉も、この先例を引き継ぎます。こうして戦国期には鷹狩が大流行し、織田信長は大名や家臣から鷹を献上させます。それでは満足できずに、鷹師を奥羽に派遣して逸物の鷹を手に入れ、朝廷に「鷹・雁・鶴」を献上します。それだけでなく「鷹」を家臣団をはじめ安土城下の町民にも下賜しています。
 続いて豊臣秀吉は、全国の鷹を居ながらにして獲得できる鷹の確保体制を築き上げます。
そして、朝廷と武家の儀礼を融合した独自の贈答儀礼を創りだします。天正16年(1588)5月には、鷹狩の獲物が献上品となり、朝廷へは白鳥が、大名には鶴・雁が献上されるようになります。こうして家臣や従属下にある領主から献上させる場合には「進上」という言葉が使われるようになります。これは単なる贈与ではなく、従属関係にあることをはっきりとさせたものです。それだけにとどまりません。それは次のような2つの政治的意図がありました。
①鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
②村落内の小領主は、棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を獲得
秀吉のやり方は、見事です。村落は鷹を進上することで山野の利用権(野山入会権)を設定し、村落内の小領主も鷹を進上することで、彼らの既得権を維持させたのです。

最後に秋山氏以外の讃岐における国人・土豪層の鷹狩文化を見ておきましょう。
①明応元年(1492) 香川備中守息の香河五郎次郎が鷹野に往っている(蔭凉軒日録)。
②明応6年(1497) 山城国守護代となった香西元長は、翌年に南山城で鷹狩実施。
新しく守護代となって支配者の特権である鷹狩権を山城で行使しています。これは自らの支配権を目に見える形で行使するデモンストレーションでもありました。
③永正元年(1504) 主君細川政元から東讃守護代安富元家に対して「自御屋形鷹二・鳥十・鯛一折、被送下候、祝着畏入候」とあり、鷹・鳥・鯛が下賜。(『細川家書札抄』(高松松平家蔵)
④阿波の三好長治が元亀3年(1572)冬に、山田郡木太郷で讃岐諸将(多度津雅楽助・大林三郎左衛門)を召集して鷹狩実施(南海治乱記)。
これも三好氏による讃岐占領地である山田郡での支配者としての示威行動ともとれます。
⑤『玉藻集』には「阿波の屋形へ羽床伊豆守より白鷺を指上る」とあり、羽床伊豆守政成が「今度於綾川ニ、盡粉骨白鳥一羽生捕畢。進上之如件」(綾川で取れた白鳥(白鷺)を進上)という宛状を調えて、「屋形様 御近習衆中」宛てに送っています。ここからは、白鳥が「美物」であったことが裏付けられます。
⑥「多田刑部は西郡に住す。代々鷹の道をよく知ると云々」とあり、讃岐西部の香川氏家臣多田刑部が「鷹の道」に通じていたこと。ここからは西讃には秋山氏以外にも鷹匠的技能をもつ武士たちがいたことが分かります。彼らが近世になると大名の鷹匠へと招聘されていくのかも知れません。
以上をまとめておきます
①日本には古代の天皇の放鷹にみる「鷹狩する王」(狩る王)の系譜があった。
②中世にはその伝統が在地武士の小領主の間にも広がり、
③鷹はその小領主権を象徴し、鷹の献上は服属の儀礼を意味するようになった
④秀吉は、それを逆手にとって鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
⑤その代償として、村落内の小領主に対しては棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を与えた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

井関池
                  井関池

  前回は大野原新田開発に、そのシンボルとして井関池が登場するまでを追いかけてみました。完成後の井関池は、次のように決壊と復旧をの繰り返します。
①正保元年(1644年)2月に7ヶ月の突貫工事で井関池完成
②同年8月に堤防決壊
③翌年正保2年(1645)2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊
④慶安元年(1648年)に決壊
こうしてみると数年で3回も決壊しています。工法に問題があったのと、余水吐けの排水能力が不足していたようです。井関池は、柞田川に直接に堤防を築いています。そのために台風時などの大雨洪水になると、東側のうてめだけでは余水が処理しきれなくなり、堤防の決壊を繰り返したようです。その結果、修復費用がかさみ資金不足のために復旧に目途が立たず、入植した百姓達の中には逃げ出すものも出てきます。大野原開発の危機です。
 これに対して平田家は、次のように対応策を打ちだします。
①丸亀藩に対して井関池復興事業を藩普請で行うように求めて同意を取り付けたこと
② 洪水時の流下能力向上のために、うてめ(余水吐け)の拡張工事を行う事
③明暦(1656)年11 月に平田与一左衛門が亡くなった後は、二代目与左衛門源助が本拠を京
から大野原に移して腰を据えて新田開発に取り組む姿勢を見せたこと
こうしてようやく平田家の開墾新田は軌道に乗っていきます。
そのような中で、井関池の改修がどのように行われたのかを、尾池平兵衛覚書で見ていくことにします。テキストは観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書



尾池平兵衛覚え書11~15

「12 東宇手目(うてめ)は地蔵院の寺領を所望せし事」45P
解読文 12
東宇手目(うてめ)ヨリ横井キハ迄生山ヲ堤二仕候分ハ、
地蔵院寺領之内ヲ、山崎様御代二御所望被成、
池堤二被仰付候。
   
ため池の構造物
          ため池の構造物  宇手目(うてめ)=余水吐け

  意訳変換しておくと
東うてめ口から横井の際までは、山を堤として利用している。この山については、もともとは地蔵院寺の寺領であったものを、山崎家にお願いして池堤として利用できるようになった。

大野原開墾古図 1645年(井関池周辺)
         大野原開墾古図(1645年) 井関池周辺の部分図

大野原開墾古図 1645年(部分)
                    上記のトレス図

地図を見ると井関池の東側には、地蔵院(萩原寺)が見えます。中世にはこの寺は非常に大きな寺勢を有した寺でした。現在の井関池の東側までは地蔵院の寺領だったようです。そこで藩主に願いでて払い下げてもらって、堤として利用したと書かれています。その尾根を切通して「うてめ(余水吐け)」を作るというプランだったことが分かります。井関池は西嶋八兵衛が底樋を設置するまで工期が進んでいたとされるので、この堰堤位置を決定したのは西嶋八兵衛の時になるのかも知れません。西嶋八兵衛が築造した満濃池のうてめ(余水吐け)を見ておきましょう。

満濃池遊鶴(1845年)2
           満濃池遊鶴図 池の宮の東につくられた「うてめ」
満濃池のうてめも堅い岩盤を削ってつくられている。
②井関池の「うてめ」拡張工事について、「尾池平兵衛覚書10 井関池東宇手目(うてめ)を十間拡げた事」44Pには次のように記します。
大野原之義井関池ハ川筋ヲ築留申二付、東
宇手目幅四間岩ヲ切貫候故、水大分参候時ハ本
堤切申二付、毎年不作仕及亡所二、最早中間
中も絶々二罷成候。然処ヲ柳生但馬様ヲ頼上、
山崎甲斐守様江御歎ヲ被仰被下二付テ、山崎様
ヨリ高野瀬作右衛門殿と申三百石取フ為奉行、御鉄
胞衆弐百人斗百十日西(東力)宇手目拾間廣被下候。
以上拾四間二候。夫ヨリ以来堤切申義無之候。
意訳変換しておくと

  大野原の井関池は、柞田川の川筋に堤防を築いているために、幅四間の岩を切り貫ぬいたうてめ(余水吐け)では、洪水の時には堤防を乗り越えて水が流れ、決壊した。毎年、不作が続き「中間」中でも資金が足りなくなってきた。そこで、柳生但馬様を通じて、丸亀藩の山崎甲斐守様へ藩の工事としてうてめ拡張工事を行う嘆願し、実現の運びとなった。山崎様から高野瀬作右衛門殿と申三百石の奉行が鉄胞衆200人ばかりを百十日動員して、東のうてめを10間拡げた。こうしてうてめは14間に拡張し、それより以後は堤が切れることはない。

  ここからは、もともとのうてめは幅4間(1,8m×4)しかなかったことが分かります。それが堤防決壊の原因だったようです。拡張工事を行ったのが、丸亀藩の鉄砲衆というのがよく分かりません。火薬による発破作業が行われたのでしょうか? 

現在の井関池の余水吐けを見ておきましょう。

井関池のうてめ

井関池のうてめ.2JPG
        井関池の東うてめ(余水吐け) 固い岩盤を切り通している

余水吐けの下は「柱状節理」で、固い岩盤です。これを切り開いて余水吐としています。満濃池もそうですが、うてめは岩盤の上に作られています。土だとどんなに堅く絞めても、強い流水で表面が削り取られていきます。柱状節理や岩盤の尾根を削って余水吐けを作るというのは、西嶋八兵衛が満濃池で採用しているアイデアです。また、西嶋八兵衛が井関池建設に着工していたとすれば、金倉川と同じように柞田川の大雨時の流入量も想定していたはずです。幅4間の狭い余水吐けで事足りとはしなかったはずです。平田氏は池普請にどのような土木集団を使ったのでしょうか? その集団が未熟だったのでしょうか。このあたりのことが、もうひとつ私には分かりません。
次に「11 井関池東の樋を宮前の樋と申し伝える由来(45p)」を見ておきましょう。
 大野原請所卜成、東宇手ロキハノ堤ノ上弁才天
池宮ヲ立置候処二、戸マテ盗取候二付、今慈雲寺
引小社之ノ中ノ弐間在之力、先年ノ井関二在之社二候。
然故、井関東ノ樋ヲ宮ノ前ノ樋卜今二言博候。
意訳変換しておくと
大野原が平田家の請所となって、東の宇手目(うてめ:余水吐)の堤上に弁才天池宮を勧進した。ところが宮の戸まで盗まれてしまった。今は慈雲寺に二間ほどの小社があるが、これは井関池にあった弁才天社をここに遷したものである。この由来から井関池の東樋を「宮の前の樋」と今でも呼んでいる。

  もういちど大野原開墾古図を拡大して見てみましょう。

大野原古図 井関池拡大
大野原開墾古図 井関池拡大
この図からは尾根を切り通した「うてめ」の西側に「弁才天」が見えます。そこまでが「山」で、ここを起点に堤が築かれたことが分かります。池の安全と保全、そして大野原開発の成就を願って、ここに弁才天が勧進され小社が建立されたようです。それが後に、慈雲寺に遷されますが「宮の前の樋」という名前だけは残ったと伝えます。

東うてめ拡張以前のことについて「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)には、次のように記されています。

尾池平兵衛覚書13新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
               「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
解読文
新樋卜申ハ先年東宇手目四間ニテハ水吐不申
ニ付、彼新樋ノ所ヲ幅八間ノ宇手ロニ仕候。堤ヲ宇手目
ニ仕候ヘテ、中之水ニテ洗流二付、下地へ篠ヲ敷其上ヲ
拾八持位ノ石ヲ敷、又其上ヲ篠ヲ敷其上ヲ真土ニテ
固メ、其上ヲ大石ヲ敷宇手ロニ仕候得共、洪水ニハ
切毎年不作仕候。其時分ハ今ノ小堤西南ノ角フ又
堤二〆、四尺斗之樋ヲ居裏表二鳥居立二仕、宇手目    .
吐申時ハ東小堤へ方へ水不参様二仕、用水ノ時ハ戸ヲ明候。
扱大井手下ノ高ミノキハ二四尺四方ノ臥樋ヲ居、宇手目  一
吐中時ハ戸ヲ指、宇手目水ヲ今ノ大河内殿林中へ落し候。
其臥樋今ノ慈雲寺門ノ橋二掛在之候。
大野原古図 井関池拡大
            大野原開墾古図 井関池拡大図の「うてめ」

意訳変換しておくと
新樋というのは、先年に東うてめ(余水吐)四間だけでは充分に洪水時の排水ができないので、幅八間のうてめを新たに堤に設置したもののことである。堤から流れ落ち流水で下地が掘り下げられるのを防ぐために、下に篠を敷いてその上に10人で持ち上げられるほどの大きな石を強いて、さらにその上に篠をしいてその上に真土で堅め、その上に大石をおいてうてめ(余水吐け)とした。しかし、洪水には耐えることができなかった。その頃は今の小堤の西南のすみに堤を築いて閉めて、四尺ばかりの鳥居型の樋を建てた。東のうてめから水が流れ出しているときには、東の小堤へ方へ水が行かないように閉めて、用水使用時には戸を明けた。大井手の下の高ミノキは四尺四方ノ 竪樋で、うてめが水を吐いているときには戸を指し、うてめ水を大河内殿林側へ排水した。その底樋が今の慈雲寺門の橋となっている。

ここからは、東のうてめの拡張工事の前に、西側に8間の新しい「うてめ(余水吐け)」を堤防上に開いていたことが分かります。先ほども述べましたが、うてめは強い流水で表面が削り取られていきます。そのためにコンクリートなどがない時代には、岩盤を探して築かれていました。そのための工法が詳しく述べられています。それでも洪水時には堪えることが出来なかったようです。土で築いた堤防上に「うてめ」を作ることは、当時の工法では無理だったようです。そこで池の西南隅に別のうてめを作ったようです。以上から井関池では洪水時の排水処理のために次の3つの「うてめ」が作られていたことが分かります。
①東のうてめ(幅4間で岩盤を切り抜いたもの)
②堤防上に「新うてめ」(8間)
③西南のうてめ
④東のうてめの拡張工事(8間)

東うてめの拡張工事後の対応について「14 ツンボ樋の事」は、次のように記します。
尾池平兵衛覚え書14
解読文
右之宇手目数度切不作及亡所二候故、御断申
宇手目ノ替二壱尺五寸四方ノ新樋ヲ居、池へ水参ル
時ハ立樋共二抜置、池二水溜不申様二仕候。然共洪水ニハ
中々吐兼申二付、東宇手目拾間切囁今拾四間ノ宇
手ロニ成候。右之新樋ハ東方ノ石樋潰ツンホ樋ト
名付、少も用水ノタリニ不成候二付、右之新樋ヲ用
水樋二用末候。
意訳変換しておくと
  右の宇手目(うてめ)は、数度に渡って決壊し使用されなくなったので、うてめの替わりに壱尺五寸四方の新樋を設置した。そして大雨の時に池へ水が流れ込む時には、立樋と共に抜いて放流し、池に水が貯まらないように使用した。ところが洪水の時には、なかなか水が吐けなかった。そこで東うてめを10間を新たに切り開いて、併せて14間の「うてめ」とした。そのため新樋は東方の石樋完成によって使われなくなり「ツンホ樋」と呼ばれ、まったく要をなさないものになった。そのため新樋を水樋に使用した。

③の西南のうてめも数度の決壊で使用不能となっています。そこに1尺5寸(50㎝)四方の底樋を埋めて新樋とします。そして大雨時の排水処理に使おうとしたようですがうまくいきません。結局、東うてめの拡張工事が終わると無用のものとなり「ツンボ樋」と呼ばれるようになったようです。
ここからも東うてめ拡張以前に、いろいろな対応工事が行われていたことが分かります。

今回は「尾池平兵衛覚書」の井関池のエピソードから分かることを見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」
関連記事

前回は大野原新田の着工までの動きを以下のように見てきました。

大野原新田着工まで


着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間(請負連合)」を形成し、次のように契約を書面にしたためています。
①開発費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと
②目処が立った後で備中屋などの三者は、3人で経費の半分を負担すること
③新田開発の利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ること
 

こうして「中間」たちは中姫村庄屋・四郎右衛門宅に逗留して、新田開発を進めます。そして、つぎのような作業を同時並行で進めていきます。
A 藩の役人や近隣の村役人立会いの下、請所大野原エリアの確定
B 開拓者の募集
C 自分たちの土地・屋敷を整えること
D 郷社の建設
E 井関池の築造
この中でも最重要課題は井関池の築造でした。大野原は、雲辺寺を源流として流れ出す柞田川の扇状地の扇央部にあります。そのため土砂が厚く堆積して、水はけが良く地下水脈が深く、水田には適さない土地です。この地を美田とするためには、大きなため池と用水路が不可欠です。井関池築造について、「尾池平兵衛覚書」にどのように記されているかを見ていくことにします。テキストは「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書


尾池平兵衛覚書
尾池平兵衛覚書

「尾池平兵衛覚書(10番)」は、井関池築造について次のように記します。
尾池平兵衛覚書10井関池築造の事

上記を解読すると(「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」(44P)
生駒様御代二、西嶋人兵衛殿と申役人、無隠案
者ノ見立テ井関池ヲ築立、井関村ハ大野原カ
福田原江百姓御出シ、浪指ハ落相、宇手ロハ東ハ
地蔵院山ノタリ西ハ鋳師岡ヲ水吐二〆、大野原
不残田地二〆万石も可在之積、靭ハ杵田邊観音寺
迄ヘモ用水二可遣トノ積ニテ、樋御居(据?)サセ被成候。樋尻
東江向有之候.然処二生駒様御落去以後打
捨在之、山崎様へ願銭持ニテ池二築立候。樋初ハ
弐ケ所在之候。壱ケ所ハ石樋二仕、長三十三間蓋迄
石ニテ仕二付、堤ノ土ニテシメ割、役二不立二付、京極様
御代二成御断申埋申候.猫塚池下掛樋二石樋
有之蓋石壱つハ中間入口門ノ跡石二成候。此コトク
成石樋二候。今ニテも入用二候得ハ堤ノ裏方堀候得ハ何
程も在之候。今ノ東方樋ヨリ七八間西方二候堤前ノ本槙木ノ樋二候。

意訳変換しておくと
生駒様の御代に、西嶋人兵衛殿という役人が、井関池築造に取りかかった。井関村や大野原・福田原へ百姓を動員し作業を始めた。計画では、宇手ロ(うめて:余水吐口)は東の地蔵院山で、堤は西の鋳師岡までくもので、大野原だけでなく、杵田・観音寺へも給水を行う計画であった。しかし、底樋の樋尻を東へ向けて設置したところで、生駒様は御落去となって以後は打捨てられた状態になっていた。そこで、丸亀藩山崎家に対して「銭持(町人請負)」での池の築造計画を願いでた。
 樋は最初は、2ケ所に設置した。1ケ所は石樋で、長さ33間(1間=1,8m)の石造であったが、堤の土の重さに耐えきれずに割れてしまったので、京極様の許可を得て堤防の中に埋めた。そこで猫塚池の下掛樋に石樋蓋石があったが、これは中間入口門の跡石であった。これがコトク成石樋二候。今でも必要であれば、堤の裏方を堀ればでてくるはずである。現在の東方の樋から8間西に堤前のものは本槙木製の樋である。

ここには生駒時代の西嶋八兵衛による築造計画が記されています。
西嶋八兵衛

西嶋八兵衛と治水灌漑工事
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。
     高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
西嶋八兵衛は、慶長元(1596)年遠州浜松に生まれで17歳の時に父が使えていた伊勢津藩主藤堂高虎の小姓になります。藤堂高虎は「城造りの名手」で、若き日の西嶋八兵衛は、近習として天下普請である京都二条城の築城や大阪城の修築に従事して、築城・土木・建築技術を学びます。その後、藤堂家と生駒藩との姻戚関係で、客臣(千石待遇・後には五千石の家老級)として生駒藩に西嶋八兵衛やって来ます。そして、うち続く旱魃で危機的な状態にあった生駒藩救済策として。数々の総合開発計画を進めます。その一環が満濃池などのため池築造であったことは以前にお話ししました。
 ここには西嶋八兵衛が築こうとした井関池の規模を「大野原だけでなく柞田から観音寺までも潤す満濃池にも劣らないほどの大規模なもの」で、東は地蔵院山,西は鋳い物師岡の谷を山の高さで柞田川を堰き止める」計画だったと記します。しかし、底樋の石を設置した段階で、生駒藩が転封となったために放置状態になったようです。
  西嶋八兵衛による井関池築造が挫折した後を受けて、これに乗り出したのが平田与一左衛門と備中屋籐左衛門,三島屋叉左衛門,松屋半兵衛」の近江と大坂の商人連合(仲間)でした。 ここでは、石造の底樋のことが記されています。しかし、石造底樋については数々の問題があったことは、以前に「満濃池の底樋石造化計画」でお話ししました。

次に「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73Pを見ておきましょう。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池
                尾池平兵衛覚書NO69

一、井関池 南請 但生駒様御代二堤形有之
        山崎様御代大野原より願銭持ニテ
        築立ル
寛永弐拾未年二
請所申請候。正徳六申年迄七拾四年二成ル。井関築
立二現銀弐百貫目余入、大阪ョリ銭ヲ積下シ観音寺方
牛車ニテ毎日井関マテ引上ル。牛遣ハ大津方抱参候
久次郎と申者、右之車外今中間明神様御社之
下二納在之候。其時分観音寺る海老済道ハ在之候
得共、在郷道二候ヘハ幅四五尺斗之道ニテ、杵田川方ハ
北岡岸ノ上江登り、善正寺ノキハヲ天王江取付候。牛車
通不申二付御断申上、川原ヨリ天王宮ノ下今ノ道へ、
新規二道幅も井関迄弐間宛仕候.井関池下二町
並二小やヲ立、酒肴餅賣居申。又四国ハ不及申
中国ョリも、讃岐二池ノ堤銭持在之候卜間俸、妻
子召連逗留日用仕候。堤ハ東と西方筑真中ヲ
川水通、此川筋一日二築留申日、前方方燭ヲ成
諸方方大勢集、銭フイカキニ入置握り取二仕候。
毎日ノ銭持ハ土壱荷二銭五歩札壱銭札ヲ持せ、十荷
廿荷と成候時ハ十文札五十文札二替手軽キ様二仕候。
其時二桜ノ小生在之ヲ、今ノ中間へ壱荷二〆銭百文ニ
買四本並植候。老木二成枯(漸今壱本残ル。
意訳変換しておくと
一、井関池   生駒様の御代に堤の形はあったが、山崎様の御代に大野原から願い出て、町人受で資金を拠出して築造した。寛永20年(1643)に、(新田開発)の請所を申請し、正徳6年(1716)まで74年の年月を経て完成した。①井関池築造のために銀二百貫目余りを投入した。②銭は大坂から船便で、観音寺まで送り、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。牛遣いは、大津の時代から平田家に仕えていた久次郎という者にやらせた。その頃の観音寺から井関までは海老済道(阿波道?)があったが、途中までは幅四・五尺ほどの狭い在郷道だった。そこで杵田川から北岡・岸ノ上で上がって、善正寺(川原)から天王宮下を通り、井関まで二間ほどの道を新規につけて運んだ。
  ③井関池の下には多くの小屋が建ち並び町並みを形成するほどであった。そこでは酒や肴・餅などを売る店まで現れた。 ④井関池工事に行けば「銭持普請」(毎日、その日払いで銭を支払ってくれた)で働けることを伝え聞いて四国だけでなく、遠く中国地方からも多くの人足が妻子連れで長逗留の準備をして集まって来た。
堤は東と西より土をつき固めていき、真ん中は山からの川水を通すため開けておき、最後に一気に川筋を築き留めるという工事手順だった。そのため最後の日は前々から周知し、銭を篭に入れて、労賃を握り取るという方法で大勢の人足をかき集めてた。
 ⑤毎日の労賃の支払いは土一荷(モッコに二人一組で、土を入れ運んだ?)に銭5歩札の札を与え、10荷、20荷単位で十文札、50文札に替えて銭と交換した。堰堤が完成したときには、桜の苗を4本買って植えた。それも老木になって枯れていまい、壱本だけ残っている。
ここから得られる情報をまとめておきます。
①井関池は、平田家が銀二百貫目余りを投下する私的な単独事業として行われた。
②銭(資金)は大坂から船便で観音寺まで運ばれ、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。
③労賃支払いは「銭持普請」(毎日現金払い)のために、遠くからも多くの人足が妻子連れでやってきた。
④そのため井関池の下には多くの小屋が建ち、酒や肴・餅などを売る店まで現れた。
⑤毎日の労賃支払方法は、土一荷(モッコ一籠)について銭5歩で、現金払いであった。
ここで押さえておきたいのは、池の築造は近江の豪商平田与一左衛門が丸亀藩に願い出て町人普請として着手されたことです。大野原新田開発は、井関池関係だけでも銀200貫を要しています。工事全体では全体720貫の額に膨れあがったようです。そのため当初の「中間(仲間:商人連合)」の契約では、完成までの費用は平田家単独で支出するが、工期終了時には平田家3/6、他の3家は1/6毎に負担する契約でした。しかし、工事資金が巨額になって支払いに絶えられなくなった3家は「仲間」を脱退していきます。以後の大野原開発事業は、平田家の単独事業として行われていくことは前回お話しした通りです。どちらにしても、井関池が寛永20年8月から翌年2月までのわずか半年間で築かれたこと、その費用は、すべて平田家によって賄われたことを押さえておきます。

こうして出来上がった井関池の規模と構造物について、「尾池平兵衛覚書」は次のように記します。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池の規模と構造物jpg
        「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73P
 堤長弐百拾間(約282m)、根置(堤の底面幅)30間(約55m)、樋長22間(約66m)、
高6間(約11m)、馬踏(堤の上部幅)3間(約5・5m)で、所によって2間半もある。
水溜りは、新樋は四間五尺で、土俵三俵二水溜リテ□
(上の文書はここから始まる)
東の古樋は八寸五分二九寸で、櫓三つでスホンは三穴五寸
新樋は壱尺五寸二壱尺六寸で、櫓三スホン六櫓一ニ二宛
              スホン上ノ穴八寸 宛下ハ六寸
仮樋は八寸四方で、櫓一つで鳥居立一スホンニ穴五寸宛
              此樋自分仕置候
樋尻の小堤は長さ七拾六間
池之内の面積は、十二町壱反
池の樋取り替えは、延宝七未年、仮樋も同年に行った。。
正徳六申迄三十八年六月ヨリ工事を始め、12月21日に成就した。

ここに出てくる「スホン」は樋穴を塞ぐスッポンのことです。満濃池の櫓樋とスッポンを見ておきましょう。

P1240778
  讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図(樋櫓から下にのびているのがスッポン)
  水掛かりについては、次のように記します。
  池の水掛については①大分木(大分岐)水越九尺
  内
壱尺        萩原          田拾六町此高百六拾石
壱尺         中姫          田四拾町此高四百石
            
壱尺   杵田四ケ      田十三町高弐百汁石       黒渕
田五拾九丁                  田拾五町高百五拾石       北岡村
高五百汁石                  田拾壱町高百拾石 大畑ケ
           田拾町高七拾石 山田尻
六尺 大野原  田百拾町高七百七拾石
水掛畝〆弐百弐拾五町 高〆千人百六拾石
右之通ノ水越寸尺ニテ候処、先年方三分古地方七分
大野原申偉、則御公儀上り帳面二も其通仕候。

大野原開墾古図 1645年(部分)
   大野原開墾古図(1645年)トレス図(部分) 黒い部分が井関池の堤防 

 ①の大分木(大分岐)は、井関池本樋の250mほど下流に設けられた最初の分岐のことです。
この大分木について研究者は次のように解説しています。

「大分木を越えていく水が幅にして九尺分あるとすると、その内一尺分を萩原の田へ引くようにする。同様に一尺分は中姫へ、同じく一尺分の水は杵田四カ村(黒渕・北岡。大畑。山田尻)へ、そして大野原へは幅6尺分の水を流すようにする。」

つまり井関池本樋から流れて来た水を、「大分木」で次のように配分します。
3/9は、萩原・中姫・杵田へ、
6/9は、大野原へ
これは開拓に取り掛かる際に丸亀藩と交わした「1/3は古地へ、2/3分は大野原新田へ」という水配分の約束に従っていることが分かります。「大分木」で大野原への用水路に流された水は、さらに約800m南西へ下った所にある「鞘分木」で、小山・下組・上之段へ行く3つの水路に分けられ、大野原の新田を潤します。
観音寺市立中央図書館に「大野原開墾古図」という、和紙を貼り合わせた縦横が5×4mほどの大きな古地図があります。

大野原開墾古図
                  大野原開墾古図
開発が始まって2年目の正保二(1645)年9月に作成されたもので、ここには井関池から伸びる用水路がびっしりと描き込まれています。ここに描かれた用水路は、基本的には現代のものと変わりないと研究者は評します。

大野原古図 17世紀
大野原開墾古図(1645年) 縦横に用水路が整備されている
大野原開墾古図1645年(トレス図)
            大野原開墾古図(トレス図)

  こうして工期7ヶ月の突貫工事で、正保元年(1644年)2月に、大野原新田開発のシンボルとして井関池は姿を見せます。その年の4月には18,6kmの灌漑用水網も出来上がり、126haの開墾用地に62軒の農家が入植しました。ところがその年の8月には堤防が決壊します。工事を急いだ突貫工事であったことや工法に問題があったことが考えられます。翌年の正保2年2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊、さらに慶安元年(1648年)にも決壊するなど、わずか数年で3回も決壊しています。このため平田家と仲間の負担は限度を超え、資金不足のために3回目の復旧は目途が立たず、入植した百姓達の中には、逃げ出すものも出るようになります。このような危機をどう切り抜けたのでしょうか。それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 観音寺市文化財保護協会 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原
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尾池平兵衛覚え書

尾池平兵衛覚書 四国新聞
 
図書館の新刊書コーナで、「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」という冊子を見つけました。手に取ると久保道生氏が「観音寺市古文書研究会」のメンバーとの読み込み活動の成果として「大野原開基380年」に出版されたものです。原本史料の下に印字文が書かれていて、古文書を読むテキストにも最適です。
1大野原地形

  大野原は雲辺寺の五郷から流れ下る柞田川の扇状地で、砂礫の洪積台地で地下水が深く中世までは水田化が進まなかったことは以前にお話ししました。そのため近世初頭までは「大きな野原=おおのはら」のままの状態だったようです。「大野原総合開発事業」が開始されるのは、生駒騒動後に讃岐が2つに分割され、山崎家が丸亀城主としてやって来るのと同時期のことで、寛永20(1643)年のことになります。昨年が380周年になるようです。
 開発の主役は京都の商人・平田与一左衛門で、巨費を投じて新田開発に着手します。そのことを書き留めたのが、平田家の手代・尾池平兵衛です。彼は開墾10年目にの11歳で丸亀から大野原新田にやってきて享保元年(1716)まで60年に渡って、新田開発に関わった人物です。その彼が残した史料を採録し、解説したものがこの書になります。
最初に尾池家について記した部分をまとめておきます。
①尾池平兵衛(1654~1720)の祖父・尾池官兵衛は、生駒家に仕える武士。
②『西讃府志』の「生駒家分限帳」に、生駒将監の組内に、高二百石の尾池官兵衛の名あり。
③生駒騒動(1640)年で、官兵衛は領主について改易地の矢島へ行くが、すぐに丸亀へ帰郷。
④その息子が平兵衛の父・尾池仁左衛門(1666~88)で、「仁左衛門 町年寄相勤申」とあり町年寄を務めていた。
「町年寄」とは、町奉行の下で町の令達・収税を統括役する役割です。町人ですが公儀向の勤めを立場であったことが分かります。ここからは、生駒騒動後の身の振り方として、祖父は主君に従って一旦は改易地にいきますが、すぐに状況を見て帰讃して、武士を捨てたようです。父は山崎藩の下で塩飽町の町年寄りを務めるようになっています。塩飽町の町年寄とあるので、旅籠的なものを営んでいたのではないと思います。それは、京都の平田家が丸亀来訪時の常宿に尾池家をしているからです。
このくらいの予備知識を持って「尾池平兵衛覚書」を最初から読んでいくことにします。

尾池平兵衛覚書
                  尾池平兵衛覚書
01 大野原開墾と仲間のこと
尾池家と大野原新田開発との関わりを、「覚書」は次のように記します。 
尾池平兵衛覚書1
         尾池平兵衛覚書01ー1「大野原開墾と仲間の事」
  平兵衛大野原江被曜申由緒ハ、山崎甲斐守様丸亀御拝知被為成、御居城御取立入札被仰付候。依之京都平田与市左衛門様銀本ニテ、手代木屋庄二郎、大坂備中屋藤左衛門殿、同所米屋九郎兵衛子息半兵衛、同所三嶋屋亦左衛門右四人連ニテ下り、塩飽町同苗仁左衛門宅ヲ借り逗留候。御城入札ハ何茂下り無之内二埒明申二付、折角遠方ヲ下り此分ニテハ難登候。相應之義ハ有之間鋪哉卜仁左衛門へ被尋候。仁左衛門答ハ自是三里西二高瀬村卜申所二余程之入海在之候。是ヲ築立候ハヽ新田二可成と望手も有之候得共、未熟談無之と申候ヘハ、ゐと不案内二候。乍大義同道頼度との義二付、仁左衛門同道彼地一覧被仕、成程新田ニモ可成候得共、連望申上ハ此場所ヨリ廣キ所ハ有之間鋪哉と評判申候処へ、何方トモナク出家壱人被参、各々ハ何国方被参候哉と被申候ヘハ、右之子細申聴候。
意訳変換しておくと
尾池平兵衛が大野原開発に関わるようになった由縁は次の通りである。
①山崎甲斐守様が天草から藩主としてやってきて、丸亀城の改修工事の入札を行うことになった。②入札に参加するために京都の平田与一左衛門様を元締にして、平田家手代の木屋庄三郎、大坂の備中屋藤左衛門、同所米屋九郎兵衛の子の半兵衛、同じく大坂の三島屋亦左衛門の四人が連れ立って丸亀にやって来た。③そして丸亀塩飽町の尾池仁左衛門宅を借りて逗留し、入札への参加を企てたがすでに終わってしまっていた。④そこで四人は『せっかく遠方からやって来たのに、このままでは帰れない。どこか相応の物件はないものか』と仁左衛門に尋ねた。これに対して『ここから三里西へ行ったところに高瀬村という所があります。そこに広い入海(三野湾?)があります。そこに堤を築き立てれば新田になる』と答えます。
 四人は地理に不案内なので仁左衛門に案内を乞い、高瀬村へやって来た。しかし三野湾は確かに新田にはなるが余りにも狭い。もっと広い所は無いものかと、あれこれ話していた。そこへどこからともなく一人のお坊さんがやって来た。そのお坊さんに、どこからやってきた客人か?などと聞かれるままに事の次第を話した。
これらを関連年表の中に落とし込んでおきます。
1628年 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
1641年 幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を、出羽国矢島1万石に移す.
   同年 肥後天草の山崎家治に西讃5万石を与えられ、城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年 ①幕府より丸亀の廃城を修築し居城にすることを許され、入札開始(小規模改修)
   同年 ②入札参加のために平田与一左衛門の手代等が丸亀にやってきたが入札はすでに終了。
      ③その際に宿したのが塩飽町の町役人の尾池家
1643年 ④尾池家の案内で大野原視察し、開発開始。井関池着工
1645年 大野原開墾古図作成。
1663年 二代目平田源助(与左衛門正澄)が京都から大野原へ本拠地移動
1665年 尾池平兵衛が11歳で大野原へやってくる。
私がここで気になったのは、ここでは丸亀城の改修工事の入札のために、京都の平田氏を中心とする大商人の手代達がやってきたとあることです。そうだとすると、山崎藩はお城の普請工事を大商人に請け負いさせていたことになります。
続いて尾池平兵衛覚書を見ていきます。
 
尾池平兵衛覚書2
 尾池平兵衛覚書01ー2「大野原開墾と仲間の事」
彼僧被申ハ、是ヨリ三里西二壱里四方之野原在之候。此場所生駒様御時代二、新田二被仰付トテ谷川ヲ池二築掛在之候。御落去以後、打捨り居申候。今日被参候テ見分可然と申、兎哉角評判申内彼僧行衛不知候。末々二至テ考申ハ、平田家筋ハ法花(華)宗高瀬二法花寺在之候。芳以祖師之御告ニテ可在之と申博候。

 右教ノ□其日中姫村迄参庄屋ヲ尋候ヘハ、四郎右衛門ト申此宅二何茂一宿仕、四郎右衛門案内ニテ及見有、荒給固二書丸亀へ帰宅申、新田ニモ望候ハヽ請所二可被仰付哉と宿仁左衛門ヲ頼、甲斐守様御役人衆へ内窺仕候。其働甲斐様御一家二山崎主馬様卜申テ、此御方ョリ仁左衛門内方ヲ筆娘二被成候由緒と申、仁左衛門町年寄相勤申二付御公儀向勤、亦則右之旨内窺申上候ヘハ、成程請所二願候様二
と被仰二付、
京都へ相達候得ハ重畳ノ義二候、御城普請ハ営分縦利潤在之テも末々難斗候。新田卜申ハ地一期子孫二相博候得ハ、万物二勝タル田地ノコト、随分御公儀向宿仁左衛門ヲ頼願叶次第、瑞左右可申越と申末候。然故新田願書指上ケ、首尾能相叶候新田成就之時ハ、六ツニ〆三ハ与市左衛門様、残三ヲ右二人卜〆取申極。然共始終ノ銀子入目ヲ元利与市左衛門様へ返済無之候テハ、右之配分無之極之書物二候。
意訳変換しておくと
するとお坊さんは次のように云った。①『ここから三里西に、一里四方の野原がある。ここは生駒様の時代に新田にしようと、谷川をせき止め池を築こうとしていたのだが、生駒様御落去で打ち捨てられ今日に至っている』とのことであった。それを聞いてとにかく行ってみようと相談しているうち、ふと気がつくと、お坊さんはいなくなっていた。後々になって思い至ったのは、②『平田家は法華宗であり、高瀬には大きな法華寺院(本門寺)があるので、これは日蓮祖師のお導き違いない』と申し伝えられている。」

 教えの通りにその日のうちに五人は中姫村へ行き、庄屋の四郎右衛門の家に一泊し、翌日には四郎右衛門の案内で原野を視察した。③それを直ぐに「荒絵図」に描き記し、仁左衛門を通じて新田開発願いを藩の役人に提出した。なお仁左衛門の奥方は藩主・山崎甲斐守の一族・山崎主馬の娘を、頼まれて筆娘にした懇ろな関係にあったことや、仁左衛門が町年寄を務めるなど公儀の役目にあったこともプラスに働いたようだ。

 この視察報告を受けた京都の平田与一左衛門は、「大変結構な事である。御城普請は一時の利益に過ぎないが、新田開発は末々まで価値を生む田地を子孫に残す万事に勝る」との快諾の返事を寄した。こうして、新田開発が首尾良く成就した際には、3/6は平田与市左衛門様、残りを備中屋・米屋・三嶋屋で分与すること。但し備中屋・米屋・三嶋屋は平田が立替えた費用の自己負担分を元利合わせて返済した場合のみ、6分の1の配分に関わる権利を有すること約した。但し、最初に平田家が立替えた銀子費用の返済がなければ、これは適用されないという契約内容を文書で交わした。

ここには次のような事が記されています。
①僧侶は生駒藩時代の新田開発候補地として「大野原」を勧めた。
平田家は法華宗なので、法華衆の高瀬本門寺の宗祖日蓮の導きにちがいないとした。
③大野原を新田開発の適地として、山崎藩に申し出ると問題なく認可が下りた。
④着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間」を形成した。
⑤そして開墾にかかる費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと、そこから上がる利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ることが約された。


尾池平兵衛覚書02
 02尾池仁左衛門長男に庄大郎と命名したこと

右之由緒ニ付、仁左衛門子共之内壱人ハ大野原江囃当国之支配ヲモ頼可然と、新田取立前後評判在之候処二、幼少二付大野原へ可預ケ様無之と打捨置候。併讃岐新田鍬初之時分ヨリ宿と言、御公儀然願ハ仁左衛門被致候ヘハ、子共ノ内責テ為由緒名成共付置候得と、与市左衛門様ヨリ手代庄二郎へ被仰越、則仁左衛門惣領男子ヲ庄三郎ョリ庄太郎卜名ヲ付被申候。其時分仁左衛門ヨリ庄二郎然へ頼申手筋ニテ無之候得共、与市左衛門様御名代二庄二郎と従御公儀御證文ニも書載申程ノ庄三郎二候ヘハ、右之首尾二仕候処ニ庄太郎死去申候。右之由緒二付大野原開発ヨリ今二至迄宿卜成候。

意訳変換しておくと
この関係について、尾池仁左衛門の子供の内の一人は平田家へ奉公に出して、後々には大野原新田の経営に当たらせるという話が当初からあった。しかし、仁左衛門の子供はまだ幼少だったので、打ち捨てられて具体的な話は進まなかった。これと併せて、新田開発当初から尾池仁左衛門宅は平田家の定宿となり、讃岐支社の様相を呈し、丸亀藩へとの連絡業務は仁左衛門を通じて行われていて、両者の関係はますます深くなった。そこで京都の平田与一左衛門は、手代の庄三郎に対して「両家の深い付き合いの手始めに、仁左衛門の惣領男子の名付け親になるように」と命じた。(この時(与一左衛門の子・与左衛門(大野原平田家の祖)は、まだ大野原へは来ていなかった)。そこで庄三郎は、自らの「庄」の字を取って仁左衛門の長男に庄太郎と名付けた。こうして将来は庄太郎が大野原へ来るものと皆思っていた。ところが庄太郎が病死してしまった。そこで寛文年間(1661~73)に、庄太郎の代わりに平兵衛が大野原へ来ることになった。

ここからは次のような事が読み取れます。
①当初から尾池仁左衛門の子供の一人を平田家へ奉公にだすことが約されていたこと
②尾池仁左衛門が新田開発について藩とのとの仲介を果し、京都の平田家との関係が深まったこと
③尾池仁左衛門の長男が死去したため、次男の平兵衛(14歳)が大野原に送り込まれたこと

尾池平兵衛覚書03・04

03 尾池平兵衛が大野原に参りたる次第
平兵衛義、家ノ惣領二候得共、庄太郎替リニ大野原開発指越旨、山中親五郎右衛門殿ヲ以平田源助様ヨリ被仰聞何分可任仰と答、則御公儀へも惣領之義二付町年寄ヲ頼御願申上候ヘハ、聞停候処古キ馴染之手筋二候間、勝手次第二仕候得と被仰渡候。

意訳変換しておくと
   平兵衛は、尾池家ノ惣領ではないが、長男の庄太郎に替って大野原開発に関わっていくこととなった。これについては、山中親五郎右衛門殿に対して平田源助様から事前に相談すると、丸亀藩としては、惣領として塩飽町の町年寄を継いで欲しいが、大野原開発に携わるのなら、古い馴染の手筋でもあるので、勝手次第にせよと許可が出た。


NO4 平田与左衛門が源助と改名した次第
平兵衛十一才ノニ月十一日ニ大野原へ罷越申候。其時分ハ源助様ヲ平田与左衛門様と申候へ共、御郡奉行二山路与左衛門様之御名指相申ニ付、源助と御改被成候。

意訳変換しておくと
こうして尾池平兵衛は11才の2月11日に大野原へやってきた。その時分は平田家の源助様は与左衛門と名乗っていた。ところが郡奉行が山路与左衛門様という御名の方になったために、源助と改名した。以後、平田与左衛門は平田源助となった。

尾池平兵衛覚書5・6・7

NO5  平田源助様(与左衛門正澄)と尾池平兵衛が大野原に参る

一、寛文三卯年二源助様ハ京都ヨリ御引越御下り被成候。平兵衛ハ寛文五巳年二参候。

意訳変換しておくと
寛文3年(1663)に平田源助様(与左衛門正澄)は京都から大野原へ移住してきた。平兵衛が大野原へ来たのは、その2年後の寛文5年のことである。

NO6 当時の手代のこと
其時分、手代ニハ山中五郎右衛門殿御公義被勤候。内證手代ハ多右衛門と申仁、夫婦台所賄方勤ル。廣瀬茂右衛門二も内證手代二候得共、五郎右衛門殿指合之砌ハ公用被勤候。
意訳変換しておくと
「その時分、手代は3人いた。一人は、御公儀向きの勤めをする山中五郎右衛門(備中屋藤左衛門の二男)、もう一人は、奥向きの台所賄いなどの仕事をする多右衛門夫婦、も一人は、広瀬茂右衛門で、台所賄い方や財政に関する仕事をしながら時には五郎右衛門が多忙な時には、公儀向きの仕事も助けた。

そこへ11歳の平兵衛がやって来ます。最初は見習いでしたが次第にめきめきと力を発揮し、やがて公儀向きの重要な仕事を任されるようになります。

  07 平田源助 吉田浄庵老の娘と結婚のこと
  先源助様之奥さま、嵯峨吉田浄庵老申御仁之御娘子、弐十四才二て寛文六午年四月二御下リ御婚礼。今之源助様御惣領奥様ハ、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿御親類先。角蔵与市殿ハニ子宛出生。以上廿四人在之由。十七人目ノ孫子ヲ吉田浄庵老御内室二被成候。其御内室様二も当地へ御下り二年御滞留、御名ハ寿清さまト申候。
  意訳変換しておくと
先の平田源助様の奥さまは、嵯峨吉田浄庵老と申す御仁の御娘子で、寛文六年(1666年4月2に大野原にお輿入れになった。今の源助様の惣領の奥様は、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿の親類から輿入れた方で、角蔵与市殿は子沢山で、24人に子どもが居たがその17人目ノ孫子が吉田浄庵老御内室になられた。その御内室様も当地へ御下りになり2年滞留された。名前は御名ハ寿清さまと申す。

尾池平兵衛覚書8JPG

NO8 仲間解散し、大野原を平田家が片づけることになった次第
 寛文之頃、先年之大野原請所中間(仲間)備中屋藤左衛門、米屋九郎兵衛、前方与市左衛門 取替申銀子指引も被致候。大野原も如何様各々評判被致候様二と催促申候ヘハ、右両人取替銀之返弁撫と申ハ不寄存候。然上ハ大野原ハ与左衛門殿へ片付候間、向後可為御進退と大野原不残与左衛門様へ片付候故、寛文頃方百姓方諸事之證文二平田与左衛門同市右衛門と為仕候。三嶋屋亦左衛門ハ、先年大野原ヲ欠落九州へ参候様二風間仕候。市右衛門様京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ御商賣二御下リ
 意訳変換しておくと
  寛文年間頃に、大野原開発の「中間(仲間)=開発組合」であった備中屋藤左衛門・米屋九郎兵衛・前方与市左衛門に対して、平田家が立て替えている費用の納期期限が近づいているので、支払いの用意があるかどうかの意向確認を行った。これに対して三者は、支払いは行わないとの返事であった。こうして三者が「仲間」から手を引いたので、今後の大野原開発は平田与左衛門殿が単独で行うことになった。寛文年間頃には百姓方諸事の證文には平田与左衛門と市右衛門の名前が見える。三嶋屋亦左衛門は、先年に大野原を欠落して九州へ云ったと風の噂に聞いた。市右衛門様
京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ商売のために下った。

「大野原総合開発事業」は平田家・備中屋・米屋・前方の四者が「中間(仲間)=商人連合体」を形成してスタートしました。その初期費用は、平田家が単独で支払うという内容でした。ちなみにこの事業に平田家がつぎ込んだが負担した費用は、借銀だけで約二百貫目に達します。最初の契約では、平田家が立替えた諸費用の半分を、備中屋たち3者が後に支払うことになっていました。
これについて『西讃府志』(667~668P)には、次のように記します。

「明暦三年十二月に至リテ、彼ノ三人ノ者与一左衛門ヨリ借レル銀、七百二十一貫ロニナレリ、是二於テ終二償フコトヲ得ズ、開地悉ク与一左衛門二譲り、翌ル年ヨリ与一左衛門ノ子与左衛門一人ノ引請トナリシカバ、与左衛門京師ヨリ家ヲ挙テ移り来り、遂二其功ヲトゲテ、世々此地ノ引受トナレリ」

意訳変換しておくと
「明暦三年(1657)12月になって、「仲間=開発組合」の借入銀は、721貫に達した。ここに至って、三者は借入金の1/6を支払うことができずに開発地の総てを平田与一左衛門に譲渡することになった。そうして翌年には与一左衛門の子である与左衛門が引請者として京都から一家で大野原にやってきた。こうして大野原は平田家の単独引受地となった。

ここから開墾開始から14年後の明暦3(1657)年には、「仲間三者」が手を引いて、大野原は平田一人の請所となり、仲間は解散してしまったことが分かります。

11歳で大野原へやって来た平兵衛(幼名:文四郎)の果たした役割は大きいと研究者は評します。
そのことについて「NO40 平兵衛功労のこと」で、自分の労苦を次のように記します。
14歳で年貢の請払という仕事の手伝いを始めた。17歳で元服し「平兵衛」を名乗るようになってからは、山中五郎右衛門の補佐をしながら丸亀勘定方との交渉役を勤めるようになった。平田家手代の中心であった五郎右衛門が亡くなると、もう一人の手代である広瀬茂右衛門とともに、大野原開発の全ての仕事を担うようになった。
 開発が軌道に乗るのは、延宝時代になってからで、大方の田畑が姿を見せ、新しく来た百姓たちも居付きはじめた。その頃、藩による検地が行われたが、私(平兵衛)はずっと一人で検地役人の相手を勤めた。そのうえ夜になると測量した野帳の間数や畝数、坪数を改めて清書し、検算した。それを私一人で行った。当時は19歳だった」
「今、考えてみるに、14歳から年貢方の請払いで大庄屋所の寄合に出席したり、知行新田の興賃の取り引きや稲の作付に関することの交渉をやってきた。17歳からは御公儀向きの仕事にのみ従事するようになった。私は相手が年長の旦那方であっても、何とか百姓たちが大野原に居付いてくれるように、一人で交渉し話し合ってきた。今になっては、我ながらよく勤めたものだと思っている」

若くして重要な仕事を任され、大人たちに交じって夢中で勤めを果し、一定の成果をあげてきたという平兵衛の自負が強く感じられると研究者は評します。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」


 
碗貸塚古墳石室2 大野原古墳群

碗貸塚古墳 石室実測図

大野原古墳群の石室タイプは、九州中北部から西部瀬戸内に拡がっている複室構造石室に由来するというのが定説です。
それでは「複室構造の横穴式石室」とは、なんなのでしょうか、それを最初に押さえておきます。

副室化石室

                複室構造の横穴式石室
①5世紀代に北・中九州で採用された横穴式石室は、腰石の使用や石室が大型化する。
②6世紀前半になると、肥前・筑前・筑後・肥後の有明海沿岸部の地域で、玄室と羨道の間に副室(前室)が設けられる複室構造の横穴式石室が新たに出現する。
③初期の複室構造ものは、はっきりした区画は見られず、閉塞(へいそく)石や天井石を一段高くするなどして区分化している。
④その後、側壁に柱石を立てるようになると、前室としての区画がはっきりと見えてくる
⑤筑前・豊前・豊後などの北東九州では少し遅れてれ、6世紀中頃の桂川町の王塚古墳に羨道を閉塞石で区画した原初的な複室構造が出現する。
 6世紀中頃の横穴式石室の単室から複室化への変化の背景を、研究者は次のように記します。

514年の百済への四県割譲や、562年に任那が新羅と百済によって分割、滅亡し、ヤマト政権が半島政策の放棄した結果、動乱を逃れて渡来した下級技術者たちが北九州の有力首長層の下に保護され、高句麗古墳にみるような中国思想を導入した日月星辰(せいしん)、四神図、それに胡風に換骨奪胎(かんこつだったい)した生活描写を生み出したり、複室構造の横穴式石室を構築したのではないかと考えられる(小田富士雄「横穴式石室古墳における複室構造の形」『九州考古学研究 古墳時代篇』1979年)。

このような複式構造の石室を大野原古墳群は採用してます。そして複式石室導入以後、次のような改変を進めます。
①使用石材の大型化志向
②羨道の相対的な長大化
③羨道と玄室一体化
石室形態の変化から大野原古墳群諸古墳と母神山錐子塚古墳の築造順を、研究者は次のように考えています。
  ①母神山錐子塚古墳 → ②椀貸塚古墳 → ③岩倉塚古墳 → ④平塚古墳 →⑤角塚古墳

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
大野原古墳の比較表


最後に登場するのが讃岐最大の方墳で、最後に造られた巨石墳である角塚になります。角塚は、その石室様式が「角塚型石室」と呼ばれ、瀬戸内海や土佐・紀伊などへも広がりを見せていることは前回お話ししました。
角塚式石室をもつ古墳分布図
                  角塚型石棺をもつ古墳分布

今回は「角塚型石室」について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」です。        
大野原古墳群と母神山錐子塚古墳は、断絶したものではなく継続したものと研究者は考えています。
ここでは4つの古墳の連続性と変化点を、挙げておきます。
①母神山錐子塚古墳と椀貸塚は、玄室の前方に羨道とは区別される明確な一区画を設ける。これが複室構造石室における前室に相当する。
②平塚古墳、角塚古墳ではこれがなくなり、前室区画と羨道の一体化する。
③平塚古墳では羨道前面の天井石架構にその痕跡がうかがわれ、前室区画の解消=羨道との一体化の過程を指し示すものがある。
①については、母神山錐子塚古墳の段階で後室相当区画(玄室)や前方区画(玄室)は長大化しています。
1大野原古墳 比較図
母神山錐子塚古墳と大野原古墳群の石室変遷図
その後は前室区画は、羨道と一体化してなくなってしまいます。複室構造石室では前後室の仕切り構造は、前後壁面より突き出すように左右に立柱石を据え、その上部に前後から一段低く石を横架します。これが母神山・鑵子塚古墳、椀貸塚古墳では、はっきりと見えます。そして前方区画(前室)と羨道の間にも同じような構造になっているようです。さらに平塚古墳・角塚古墳では、この部分の上部構造の変容がはっきりと現れています。
 こうして見ると、大野原に3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
角塚型石室のモデルである角塚古墳を見ておきましょう。
角塚古墳 石室実測図
角塚古墳 石室実測図
①玄室(後室)長約4,5m、玄室幅約2、6m、床面積は12㎡弱、三室長幅比は1,8
②玄室(奥室)平面形は、長幅比がやや減じるが4つの古墳の間で、大きな開きはない。
③もともとの複室構造の後室形態と比較すると、玄室長が同幅の約2倍の長大な平面形。
平塚古墳 石室
平塚古墳 石室実測図
平塚古墳と角塚古墳を比較すると、前室区画と羨道が一体化し長大化が進んでいることが分かります。
①平塚は長約5,9mで玄室長と同程度で、角塚は約7mと玄室長よりも長い。
②羨道幅は、平塚が玄室幅の77%、角塚が92%
③玄室に匹敵するほどに前室と一体化した羨道が発達する。
④平塚古墳では羨道最前方の天井石を一段低く架構し、この形は羨道と一体化した前室部区画の痕跡
 平塚古墳は、玄門上の横架石材が両側立柱のサイズにそぐわないまでに巨大化します。

平塚古墳 石室.玄門部の支え石
平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」右側

平塚古墳 石室.玄門部の支え石 左
              平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」左側

その荷重を支えるために、玄室の両側壁第二段を内方に突き出すように組んでいます。これと立柱石で巨大な横架石材を支える構造です。また横架石材は一枚の巨石で玄門上部に架橋し、これに直接玄室天井石が載っています。こうして見ると、椀貸塚古墳までの典型的な楯石構造は、平塚では採用されていません。
 さらに角塚古墳になると、両側立柱上部の石材は、前後の天井石とほとんど同じ大きさで整えられています。平塚古墳石室に見えた羨道天井石との段差はなくなり、玄室天井石との間もわずか10 cm程度の痕跡的な段差がかろうじて見られるだけです。
 次に研究者は、各古墳の玄室(後室)壁面の石積状態と使用石材サイズについて次のように整理します。 角塚は石室規模は小型化しますが、そこに組まれている石は大形化します。その特徴を見ておきましょう。
角塚古墳 立面図
角塚古墳 石室立面図
①玄室奥壁と左側壁は一枚の巨石で構成
②右側壁も大形材一段で構成し、不足分に別材を足す。
③奥壁材は最大幅2,5m以上、高さ2、3m以上の一枚巨石
④右側壁には幅3,4m高さ2,4mの石材。左奥壁に据えた玄室長に達する幅4,5m高さ2m以上の石材が最も大きい。
⑤玄室架構材は2,3m×2,88m以上、1,7m×2,7m以上。
⑥羨道部壁面は左右とも二段構成で右側壁下段に長2,5m、左側壁下段に3,5m以上の大形材を使用
 角塚石室の使用石材サイズと石積みを押さえた上で、それまでの石室変遷を見ておきます。
まず母神山錐子塚古墳と椀貸塚古墳には近似点が多いと研究者は次のように指摘します。

碗貸塚古墳石室 大野原古墳群
碗貸塚古墳の石室立面図

平塚古墳 石室立面図
平塚古墳の石室立面図 

①石室規模の飛躍的に大きくなっているのに、椀貸塚古墳では用材サイズには変化がみられない
②用材大形化は、椀貸塚古墳と平塚古墳の間にで起こっている。
研究者が注目するのは、平塚古墳の巨大な玄室天井石と左側壁第二段の巨大な石材です。大形材の使用という点では、巨石だけで玄室を組んでいる角塚古墳がぬきんでます。しかし、平塚古墳にも角塚に負けないだけの巨石が一部には使用されています。角塚古墳の石室は、母神山錐子塚以来の系統変化の終点に位置づけられます。ここでは、その角塚古墳石室と平塚古墳石室とでは形態・構造面ではよく似ているのですが、大形石材の利用能力には格差があったことを押さえておきます。
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。
これは盟主古墳の移動で、三豊地方の母神山(柞田川北エリア)から大野原(南エリア)へ「政権移動」があったことがうかがえます。

1碗貸塚古墳2
大野原椀貸塚は、柞田川の両側を勢力下に置く三豊平野はじめての「統一政権の誕生」を記念するモニュメントとして築かれたとも言えます。それは百年前の5世紀後半に、各地の豪族統合のシンボルとして各平野最大の前方後円墳が築かれたのと同じ意味を持つものだったのかもしれません。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示するには充分なモニュメントで政治的意味が読み取れます。
以上を整理してまとめておきます
①柞田川の北エリアでは、6世紀前半に母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が築造される。
②6世紀後半になると円墳で横穴式の錐子塚古墳が、それに続く
③7世紀前半に中位・下位クラス墳群である千尋神社支群、黒島林支群、上母神支群が形成される。
④北エリアの豪族連合長の豪族のほとんどが、母神山を墓域としていることから、この山が霊山だったことがうかがえる。
⑤6世紀末に、大野原に椀貸塚、7世紀はじめには平塚、7世紀半ばに角塚が築造される。
⑥大野原3墳を中心にして、7世紀前半には古墳小群が柞田川の流れに沿うように作られるようになる⑦これらの中小勢力によって、柞田川周辺の開発が進められた
⑧大野原では大野原3墳と、対になるように観音堂古墳、町役場古墳、若宮(石砂)古墳がかつてはあったが、江戸初期の新田開発によって失われてた。
⑨大野原3墳は、これらの墳墓群と墓域を共用していた
以上から、6世紀末に観音寺エリアの墓域が、母神山から大野原に移ったことを押さえておきます。つまり、大野原墳墓群の組織化は始祖の統一、同族関係の確立と捉えることができると研究者は指摘します。言い換えれば、6世紀末に三豊平野の豪族の族的統合が行われたこと、その政治的なモニュメントの役割を果たしたの大野原3墳ということになります。これは三豊平野の内部の動きです。それ以外に、外部の力もこの動きを推進したと研究者は考えています。
それは次のようなヤマト政権内部での抗争との関連です。
①朝鮮半島経営に大きな力を持つ葛城氏
②葛城氏の下で、瀬戸内海南ルートの交通路を押さえた紀伊氏
③瀬戸内海南ルートを押さえるために紀伊氏が勢力下に置いた拠点
④そのひとつが母神山古墳群勢力 
⑥葛城氏・物部氏の没落後に台頭する蘇我氏
⑦蘇我氏の支持を取り付けて、台頭する大野原勢力
⑧大野原への盟主古墳の移動と3世代に渡る碗貸塚古墳→平塚→角塚の造営
⑨角塚は、讃岐最大の方墳であり、讃岐最後の巨石墳であること
以上からヤマト政権内部の蘇我氏の政権獲得と、大野原古墳群の出現はリンクしているという説になります。そういえば蘇我氏は、巨石墳の方墳が好きでした。いわばヤマト政権の「勝ち馬」に載った勢力が、地域の盟主にのぼりつめることができたことになります。
 前回お話ししたように角塚の石室モデル(角塚型石室)が瀬戸内海各地や土佐・紀伊にも拡大していること、讃岐の巨石墳のモデルになったのが大野原古墳群であったことなどが、それを裏付けることになります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大野原古墳の比較一覧表
                 大野原古墳群の比較一覧表
参考文献
「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」
関連記事






大野原古墳群1 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳
大野原古墳群 (時代順は碗貸塚 → 平塚 → 角塚)

観音寺市の大野原には、大きな石室を持つ3つの古墳が並んでいます。この3つの古墳群は、それまで古墳がない勢力空白地帯の大野原に、突然のように現れます。この背景には、あらたな新興勢力がこの地に定着したと考えられています。その中でも一番最後に築かれた角塚は、その石室が「角塚型石室」と呼ばれて、6世紀後半に台頭する新興勢力の古墳に共通して採用されているようです。今回は、「角塚型石室」を採用する巨石墳を見て、その背景を考えて行きたいと思います。テキストは「清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳」です。

1大野原古墳 比較図
大野原古墳の変遷

まず、大野原の3つの古墳群の特徴を報告書は、次のように記します。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
④6世紀後半から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が、椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と3世代順番に築造されていること。

そして、今回取り上げる角塚の石室を見ておきましょう。 

角塚
                    角塚平面図

①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長さ4mの規模で、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳

角塚石室展開図
   大野原古墳の角塚石室展開図
     
  西日本の横穴式石室を集成した山崎信二氏は、大野原古墳群について次のように記します。
大野原古墳群は、石室構造の変遷から椀貸塚→平塚→角塚の順で造られたとされます。そして、各古墳の石室構造の特徴は次の通りです。

大野原古墳の比較表

ここからは、母神山の鑵子塚古墳と大野原で最初に造られた椀貸塚古墳は、九州色が強く連続性があること、それに対して平塚・角塚は、複室構造から単室構造への変化など、畿内色が強くなっていることが分かります。この背景については、次のようなことが考えられます。
①瀬戸内海交易の後ろ盾の変化、つまり九州勢力から畿内勢力への乗り換え
②畿内勢力内部での権力抗争(葛城氏や物部氏 VS 蘇我氏)にともなう三豊郁での勢力関係の変化
これについては、また別の機会にして先を急ぎます。
山崎氏は、角塚古墳を典型例として「角塚型石室」の拡大について次のように記します。
①瀬戸内海沿岸各地で角塚と同じタイプの石室が造られているので、その典型例である角塚をもって角塚型石室とする。
②角塚型石室が造られるようになるプロセスは、地方豪族と中央有力豪族との疑似血縁関係が強化され、同族意識が生まれてくる時期と重なる
③角塚型石室は玄門立柱を保持し、平塚からの形態変化を追うことができる
④吉備以東の石室は、急激な畿内型化するが、讃岐以西についてはヤマト政権との一元的な従属関係におかれず、九州との関連を強く持ち、なお相対的自立性を保持していた

角塚式石室をもつ古墳分布図
           角塚型石室をもつ古墳分布図
A 7世紀初頭 広島県梅木平古墳・愛媛県宝洞山1号墳
B 7世紀前半 山口県防府市岩畠1号墳
C 7世紀中期 角塚(大野原)、愛媛県川之江市向山1号境
D 7世紀後半 広島県大坊古墳
造営時期は、7世紀初頭から後半までで、約40年程度の年代差があるようです。
角塚型石室は「九州からの系譜をひきつつ、複室構造石室が瀬戸内で独自に変化した石室」(中里2009)とされます。
その分布を見ると瀬戸内海を中心に分布していることが分かります。特に観音寺周辺に集中しています。また、これらの古墳は離れていても、平面規格や構築方法に共通点があります。つまり、石室築造についての情報が共有されていたことが分かります。それは同系列の技術者集団によって、同じ設計図から作られたということです。
     
それでは角塚型石室を持つ高知平野西端の朝倉古墳を見ていくことにします。

土佐の首長墓の移動
高知平野の盟主古墳の移動 小連古墳から朝倉古墳に7世紀前半に移動
朝倉古墳は高知平野の西端にあって、仁淀川を遡るとて瀬戸内へ抜けるルートがあったようです。それは現在の国道194号と重なりあうルートで、西条市や四国中央市に繋がるものだったことが考えられます。
 7世紀前半の小連古墳から朝倉古墳への盟主古墳の移動を、研究者は次のように考えています。
① 小蓮古墳は四万十市の古津賀古墳や海陽町大里2号墳と石室が類似している。
② 小蓮古墳の被葬者は、太平洋沿岸のルートを掌握していた。
③ その後、太平洋ルートよりも瀬戸内沿岸交流がより重視されるようになる。
④ そんな情勢下で小蓮勢力から、瀬戸内との繋がりの強い朝倉の勢力が盟主的首長の地位を奪取した。
⑤ そして盟主的首長墳は高知平野西端の朝倉吉墳に移動する。
朝倉古墳石室 角塚型石室
朝倉古墳の角塚タイプの横穴式石室
この図からは朝倉古墳について、読み取れることを挙げておきます。
①整った形状の大形石材を多用されている。
②玄室長に対して短縮化した羨道という先行要素を持っている
③上部架構材を含めて、玄門構造は大野原古墳群と類似する。
④奥壁一段、玄室左右側面二段の石積みは角塚古墳に似ている
⑤横架材は巨大化し、左右の玄門立柱で支持する構造は平塚古墳の玄門構造よりも古い
以上から朝倉古墳は、大野原古墳群の角塚と同じような石室を持っていることが分かります。
造営年代は、大野原の平塚や角塚と同時代のものと研究者は考えています。角塚型は先ほど見たように、角塚古墳をモデルとした瀬戸内を中心に分布する石室型式です。そうすると朝倉吉墳の石室は、瀬戸内の影響を受けて成立した可能性が高いことになります。ここからは朝倉古墳が瀬戸内の勢力と結びついて、畿内や瀬戸内海の政治的変動と連動して土佐の盟主的首長墳の移動が行われたとことがうかがえます。
高知平野の盟主墓の築造変遷をまとめておきます。
①土佐の古墳は、前期後半に幡多地域に出現する。
②中期前葉には幡多地域での首長墳築造は途絶え、新たに高知平野に古墳が築造される。
③後期になると横穴式石室墳が高知平野を中心として展開し、古墳数が増加する。
④後期後半から終末期にかけて伏原大塚古墳→小蓮古墳→朝倉吉墳と高知平野の盟主的首長墳は
築造場所を移動する。
⑤朝倉古墳は角塚型石室を持ち、この石室は瀬戸内の勢力と関係し、近畿の勢力にも通じる。
⑥小蓮古墳から朝倉古墳への盟主権の移動は、畿内勢力の動向が影響を及ぼしている。
 
角塚型石室の標識となる角塚古墳は、観音寺市の大野原古墳群の最後の大型巨石墳で、最大の方墳とされます。

角塚古墳 平面測量図
角塚平面図

三豊地域では椀貸塚・平塚・角塚という巨石墳が続いて3つ築造され、他地域と比較しても突出した勢力がいたことは最初に見た通りです。ところが三豊地域は、前期には前方後円墳もなく、後期前半までは首長墳らしいものはありませんでした。それが後期後半になると、突然のように大型巨石墳が姿を現します。これはそれまでの勢力とは異なる「新興の勢力」の登場と、研究者は考えています。そして、次の段階には、他地域で大型古墳群は作られなくなります。その中で角塚だけが造られます。

三豊に隣接する伊予の宇摩郡(現四国中央市)でも同じような現象が見られます。

宇摩向山1号墳 角塚式石室
宇摩向山1号墳の石室

「角塚型石室」を持つ宇摩向山1号墳は1辺70m×55mの巨大方墳です。宇摩地域は古墳時代後期に東宮山古墳や経ヶ岡古墳という首長墳が築かれ始めます。これは、この地域の新参者で向山1号墳という伊予の盟主的首長墳を登場させます。ここで押さえておきたいのは、讃岐・伊予・土佐では6世紀以降に台頭し、盟主的位置を奪取した首長墳は、角塚型石室を採用しているという共通点があることです。
さらに研究者が注目するのは角塚型石室や角塚型と関係を持つ石室が紀伊にもあることです。
紀伊・有田川町の天満1号墳からは、TK209型式~TK217型式の須恵器が出てきます。
天満1号墳石室
紀伊・有田川町の天満1号墳
奥壁は大きな正方形の鏡石を置き、天丼石までの間に補助的な石材を積んでいたようです。玄門は、立柱石が羨道側にせり出し楯石があります。これまで天満1号墳は、岩橋型石室の変容型とされてきました。これに対して、研究者は「角塚型との類似点」として、角塚型の影響と捉えます。

岩内1号墳 - 古墳マップ

岩内1号墳
                   御坊市・岩内1号墳
御坊市・岩内1号墳も、奥壁や玄室平面形などの類似から天満1号墳の変化形の石室と研究者は考えています。これらの古墳は、紀ノ川流域ではありません。前者は有田川、後者は日高川流域で「紀中」になります。紀中は古墳時代を通して首長墳が築かれなかったエリアで、それまでは「権力の空白地帯」でした。古墳時代後期の紀伊では、岩橋千塚古墳群のように、首長墳は紀ノ川流域に築造されています。その岩橋千塚古墳群が6世紀末には衰退します。それに代わるように紀中に天満1号墳や岩谷1号墳が現れるのです。この2つの古墳は直径約20m。1辺19mと決して大きくはありません。そのため紀伊の盟主的首長墳とするには、無理があるかもしれません。しかし、6世紀代に隆盛を誇った岩橋千塚古墳群の勢力が衰退し、その後に出現した新興勢力であることは言えそうです。こうして見ると角塚型石室の拡散は、四国だけでなく紀伊や近畿の勢力にも及んでいたことが分かります。以上をまとめておくと次の通りです。
①他エリアで首長墳が造られなくなる時期に、新たに台頭してきた新興勢力が盟主的地位を獲得した。
②そうした新興勢力は、角塚型石室の巨石墳を採用した
③ここには首長系譜の変動が瀬戸内から紀伊にかけて連動して見られる
④土佐では、その動きが少し遅れて現れること

7世紀になると紀伊の岩橋千塚古墳群が衰退します。
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                    岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は紀氏の奥津城であったと考えられています。
瀬戸内海の紀伊氏拠点
また、紀氏はヤマト政権下では、瀬戸内航路を掌握した氏族とされます。それに代わるように新興勢力が紀伊から瀬戸内の盟主的位置を占めるようになります。この背景には、交通の大動脈である瀬戸内の交通路の掌握について、紀伊氏に替わる新興勢力が登場してきたことが推測できます。瀬戸内の交通路は、ヤマト政権成立以来の「生命線」でした。そこに新興勢力が台頭してくることは、どんなことを意味しているのでしょうか? これはヤマト政権内部の抗争と無関係ではないはずです。そういう目で見ると、角塚型石室墳を採用した首長系譜の拡大は、ヤマト政権内部の権力抗争とリンクしていたことになります。その背景を推察すれば、朝鮮半島経営に大きな力を持っていた葛城氏の没落と蘇我氏の台頭が考えられます。
 研究者が注目するのは、角壕とほぼ同じ時期に築造された奈良県桜井市市卯基古墳と次のように類似点が多いことですです。
①側壁が一枚石であること
②玄室の長さ・幅・高さが角塚とほぼ同じであること。
③平面形が長方形状で、角壕が長辺:短辺が54m:45 mで、押基が28m:22mで、相似形であること。
④墳丘に段をもたず方錐形であること
ここからは、両古墳が同じ設計図・技術者によって造られた可能性が出てきます。平塚・角塚は、九州色から畿内色へと石室内部が変化していることは、先ほど述べた通りです。その角塚の設計図が大和櫻井の古墳に合って、その設計図と技術者集団によって、角塚は造られたという説も出せそうです。そうだとすれば、大野原勢力の後にいたのは、ヤマト政権中枢部の権力者ということになります。想像は膨らみますが、今回はこのあたりでやめます。

角壕は讃岐における最後の巨石墳です。讃岐でも7世紀中葉ごろに、地方豪族の大墳墓造営は終わります。ところが角壕は、他の地域の盟主の大型古墳が造営を停止した後に方墳として造られたものです。その規模からみても終末段階の古墳の規模としても存在意味は、大きいものがあります。その存在は、さまざまな謎を持っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 古清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳 「古墳時代政権交替論の考古学的再検討」所収
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大野原の3つの古墳群の特徴を、調査報告書(2014年)は、次のように指摘します。

「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

6世紀後半から7世紀前半にかけて「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」と首長墳が築造し続けた大野原勢力の力の大きさがうかがえます。この時期は、中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に当たります。そして、築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期にも重なります。今回は、大野原に巨大古墳が造られる以前の観音寺エリアの動きを見ていくことにします。テキストは「丹羽佑一 大野原3墳(椀貸塚・平塚・角塚)の被葬者の性格 大野原古墳群1調査報告書2014年87P」です。

 まず、その前史として観音寺エリアの弥生時代の青銅器の出土状況を押さえておきます。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏

ここからは、三豊地区からは銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」が祭礼に用いられていたことが分かります。つまり、それぞれのグループで別々の祭儀方法だったということは、その伝来も別々の地域から手に入れたことになります。さらに云えば、観音寺北エリアには「3種の祭器」で別々の祭礼を行う3つの祭儀集団が混住していたことがうかがえます。ひとつのエリアに「3種の祭器」集団というのは、善通寺と観音寺くらいで全国的にも珍しいようです。ここでは、観音寺エリアでは弥生時代から多角的な交易関係が結ばれていたことを押さえておきます。
それでは、これらの集団の関係は「対抗的」だったのでしょうか、「三位一体的」だったのでしょうか?
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況
善通寺市の青銅器出土地

 善通寺市の瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口・中細形銅矛1口が同時に出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは、大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されていることから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀が行われていたと研究者は考えています。

旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡
道鏡に継承される銅剣・銅鐸
 同じように三豊平野中央部北エリア(財田川中流域)にも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルがちがう3集団がいたことが分かっています。これらの集団は、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成していたと研究者は考えているようです。
 一方、南エリアでは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。彼らはこの時点では、祭器を持つことが出来ずに北エリアに従属する小集団であったようです。ここでは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であったことを押さえておきます。
古墳編年 西讃

次に、観音寺エリアの古噴時代前半の展開を見ておきましょう。
 南エリア東縁の小丘陵にある赤岡山古墳群の第3号墳は、高さ3・5m、直径24mの墳丘規模で、入念な施工です。葺石、大型の天井石の竪穴式石室で、副葬品は彷製鏡1点の出土していますが、須恵器がないので、前期円墳に研究者は分類しています。しかし、この時期には北エリアには古噴は、まだ現れません。

青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南側の丘陵地帯にある青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が現れるのは、中期の青塚古墳です。

青塚古墳2
青塚古墳(観音寺市)古墳中期

一ノ谷池の西側のこんもりとした岡があり、小さな神社が鎮座しています。そこが青塚古墳の後円部になります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、地域における「祭祀センター」のようです。

青塚古墳旧測量図
青塚古墳測量図(観音寺市誌)

青塚古墳測量図
                     青塚古墳測量図(調査報告書)
①墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m、長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、今は前方部は失われている。
②後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡っていた。
③幅1、2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在
 青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者がヤマト志向でなく、九州勢力との密接な関係がうかがえます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと研究者は考えています。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺・有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
                   丸山古墳の石室と石棺

初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。

丸山古墳測量図

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳の石室測量図
 三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在がうかがえます。
母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳

後期に入ると三豊総合公園のある母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が現れます。
①盾形周濠(幅3~4m)を巡らし、
②墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lm
③瓢箪塚古墳は、中期の青塚古墳を継承する首長のもので、青塚 → 瓢箪塚と続く北エリア前方後円墳群の形成です。
④同時期の前方後円墳が善通寺市の王墓山古墳(墳長約46m)や菊塚

 近年の考古学は、ヤマト政権の成立を次のように考えるようになっています
①卑弥呼死後の倭国では、「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた
②その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められた。
③そして、国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けて手が結ばれた。
④そこでは、吉備も讃岐もその同盟下に入った。
そうすると早い時期に造られた前方後円墳群は、「ヤマト連合政権同盟」に参加した首長達のモニュメントとも言えます。
A 古墳時代初期 讃岐では瀬戸内海沿いに東から、津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せる
B 古墳墳中期  内陸部に進出し、平野を基盤にした豪族諸連合の統合が進む。そのモニュメントとして各平野最大の前方後円墳が築造される。
C 古墳後期   善通寺市域を除いて前方後円墳の築造が終わる。
つまり、前方後円墳は地域の豪族の連合を代表する首長墓として造られ始め、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わるというのが現在の定説です。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、後期になっても善通寺と同じテンポで前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、やっと前方後円墳は終了します。それに続いて横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
それが北エリアの母神山の三豊総合公園の中にある錐子塚古墳です。

母神)鑵子塚古墳 - 古墳マップ
鑵子塚古墳(古墳後期)
この古墳は、後期母神山古墳群の草分けとなります。前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、北エリアの豪族長の墓域は変わらなかったようです。
 ところが突然のように、墓域が南エリア(大野原)に移ります。錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。
それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 三豊平野では母神山に錐子塚が築造されたのを先駆けとして、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られ始めます。

1大野原古墳 比較図

 その中心が大野原3墳です。研究者は、横穴式石室の形式の展開と時間的・空間的位置関係(変遷と分布)を見ていくことで、その社会的性格を明らかにしていきます。  それは、次回に紹介します
以上をまとめておきます
①青銅器の出土状況からは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であった
②観音寺地区に前期前方後円墳は現れない。ヤマト連合国家の形成に関わっていない?
③最初の中期前方後円墳は青塚で、阿蘇溶結凝灰岩の石棺が使用されており九州色が強い、
④丸山古墳は、初期横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されている。
⑤丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓で、共に九州色が強い。
⑥古墳後期になると讃岐では善通寺地区の王墓山・菊塚以外には前方後円墳が造られなくなる
⑦ところが北エリアの母神山丘陵に青塚古墳を継承する首長糞として前方後円墳・瓢箪塚古墳が造られる。
⑧瓢箪塚古墳は、後期母神山古墳群の草分けで、以後は母神山が観音寺地区の墓域となり、有力者の墓が、前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へとスタイルを変えながら作り続けられる。
⑨それが6世紀後半になると、中央の蘇我氏の台頭と呼応するかのように、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

山本町大野
大野村(三豊市山本町大野)
       
西讃府誌には、佐文綾子踊の後に、豊後小原木踊が次のように紹介されています。
大野村の豊後踊り
大野村の雨乞い踊り「豊後・小原木踊」
「大野村ノ人雨ラ祈ルニ踊リナス。村人上組下組とニツニワカレ、上ナルヲ豊後、下ナルフ小原木卜琥ク」
「先八幡宮、次に樋盥(ひだらい)、次に澱醸(よどしこ)、次に役場と凡そ六処一日になすと云」
ここからは次のようなことが分かります。
①「村人が上組と下組の二つに分かれ」、それぞれが「豊後、小原木」と呼ばれる2組の踊組があったこと
②大野村の八幡宮、樋盥(ひだらい)、澱醸(よどしこ)、役場などの6ヶ所で踊られたこと
 この踊りについては「西讃府志」が完成した1859(安政6年)頃までは、踊られていたことが分かります。しかし、その後いつころまで続いたかなどは分かりません。西讃府誌に残るだけの謎の雨乞踊のようです。
   西讃府誌に載せられている「豊後踏舞(踊り)」の歌を見ていくことにします。

大野村の豊後踏舞
豊後踏舞(西讃府誌)
大野村の豊後踏舞2
              豊後踏舞
大野村の豊後踏舞 佐渡島2

歌詞の内容から、綾子踊、さいさい踊、和田の雨乞踊と同じ系統に属するもので、江戸時代初期までさかのぼると、研究者は考えているようです。
次のように「何々をどりは一をどり」という形式の文句が各歌詞に出てきます。
「豊後のをどりは一をどり」
「札所をどりは一をどり」
「佐渡島をどりは一をどり」
「泉水をどりは一をどり」
「忍びのをどりは一をどり」
「天笠をどりは一をどり」
「小笹をどりは一をどり」
「鐘巻をどりは一をどり」
「本蔵をどりは一をどり」
この形式句は、近世初期の歌謡に良く出てくるスタイルです。
また「うらうら(浦々)」には、
あれに見えしはどこ浦ぞ、音に間えし堺が浦よ、
堺が浦へおし寄せて、ひいめがはかをつもろふよ、
いくさのはかをつもろふよこれ
と同じ形式で讃岐の浦、八嶋の浦が歌われいます。瀬戸内海の繁栄する港町の様子がいくつも歌い込まれています。
 構成・扮装・芸態について、「西讃府志」は次のように記します。

  大野村の豊後踊り 西讃府誌
     「豊後・小原木踊」の芸態について(西讃府誌)
  上文を意訳変換しておくと
(芸態は)3の輪を作り、第一輪の中心に傘宮という大きな傘の上に宮を置いて、そこに造花などを飾って。これを数人が持って立つ。第一輪には「花受」と呼ばれる、7・8歳の童子、40人ほどが花笠を被って、扇を持って、化粧し廻りに立つ。その外側の第二輪には、小踊と呼ばれる12歳から15歳ほどの童子が、麻衣の振袖を着て、女帯を結んで、菅笠に小さな赤い絹地を着けたものを被って、扇子を持って40人ほどが輪になって立つ。その外側の第三輪には、警護として20歳ほどの男数十人が、羽織を着て刀を指して大きな団扇を持って周りに立つ。第二輪と第三輪の間には、太鼓打4人、鉦打2人、出音頭4人、付音頭4人が立つ。太鼓と鉦打は、共に陣笠を被り、半臀(はんひ)の裾に鈴が付いたものを着て、草鞋(わらじ)を履いて脚絆を結ぶ。太鼓は胸に結付けて、両手にバチを持って、歌の曲節に合わせて、輪の周りを走り廻リながら打ち鳴す。音頭(芸司)は、金銀の紙で縁どった大きなハ団扇を持って、その傍らに並立つ。先ず音頭(芸司)が謡い出し、
大野村の豊後踊り3
    「豊後・小原木踊」の芸態について・その2(西讃府誌)
上文を意訳変換しておくと
付音頭も第二句から声を合せて共に歌う。 
 踊り初めの時、「先番板」という踏舞(踊り)の次第を書付けた板を会場に立てる。次に追払(ついはらい)という長刀を持った男二人が進みでて、その場を清め開く。次に、修験者三人が法螺貝を吹き、花受・小踊・警護の手引が一人づつ入場する。中には花受ではあるが兜を被り、上下を着、団扇を持ったものがいる。その時に手引の者は、先に入場して、それぞれの位置を定める。踊り終ると、修験者の法螺貝を合図に退場する。最初に八幡宮、次に樋盥、次に換醜、次に役場、など六ケ所を一日で廻ると云う。
これを見ておどろかされるのは、その編成規模です。
①三重の輪踊りで、「花受40人+子踊40人+警固60人=140人」+芸司・太鼓・鉦・芸司・法螺貝吹きなどを合わせると、150人を越える大編成部隊になります。滝宮に踊り込んでいたい念仏踊りの各組の編成規模と同規模です。風流小歌踊系の雨乞踊としては、最も規模の大きなものであったようです。
②「西讃府志」の説明分量も、佐文綾子踊りと同じくらいの記述分量があります。西讃の風流小歌系雨乞踊として、綾子踊と同じ規模と認識されたいことがうかがえます。

讃岐雨乞い踊り分布図

もういちど讃岐の風流雨乞い踊りの分布図を見ておきましょう。
上図を見ると、讃岐の風流雨乞い踊りが三豊南部に集中していること。その東端が佐文綾子踊であることが分かります。ここからは綾子踊の成立には、三豊の風流踊りがおおきな影響を与えていることがうかがえます。
 以前にお話したように、佐文は「七箇念仏踊り」の主要な一員として、芸司や子踊りも出していました。それが19世紀になると次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞い踊りを取り入れながら、新たな踊りを「創作」したのではないかというのが、今の私の仮説です。

大野の小原木踏舞.J 鐘巻PG

大野の小原木踏舞.2J 鐘巻PG

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 豊後・小原木踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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財田仲
財田中の入樋
三豊市財田町は、財田上、財田中、財田西に分かれていますが、古くはそれぞれ上の村、中の村、西の村と呼ばれていました。そのうちの財田上の村は多度津領で、さいさい踊が伝わっています。一方、財田中の村は丸亀藩で、弥与苗(やとな)踊・八千歳(やちよ)踊・繰り上げ踊が踊られていました。それ今では、財田中の一集落である入樋に伝承されています。
 弥与苗踊は、「いよいよ苗を与える」踊という意味で名付けられたとされます。それに対して八千歳踊・繰り上げ踊は盆踊で、八千歳踊は祝う心もち、繰り上げ踊は歌や踊のテンポが早くなり次第に興が高まる踊りとされます。この三つをまとめて入樋の盆踊りと呼んでいるようです。 踊りはもともとは、旧七月の旧盆で、今は新盆踊として踊られています。雨乞踊りとして踊られるときには、財田川の上流瀬戸の龍王で踊り、それから雨の宮神社、塔金剛(とうきんこう)の五輪塔の前の3か所で踊ったという。今はエリエールゴルフ場の西側に鎮座する高津神社(王子大権現)の坂の下の入樋公民館の前の広場で踊られています。

財田中入樋の高津神社
高津神社(財田中の入樋)
大正10年頃に大西恭造氏が書いた「弥与苗踊略縁起」を筆写したものには、次のように記されています。

抑当村雨乞の由来を訪ぬるに、人皇第六十一代朱雀天皇の御宇近江の国矢上山と言ふ所に娯蛭ありて人を傷つくる事数多なれ共、之を退治する事叶はす。衆人受ひに沈む事幾年なるを知らず。疑に人職冠藤原鎌足公の後胤俵藤人秀郷なる者、日本無双の英雄にて、龍神より百足退治の詔勅を受け、則ち近江路に到り、瀬多橋より容易く退治給ふ事、沿く人の知る所なり。其時龍神より報恩の為秀郷の望みを叶ふべしとありし時、秀郷日く、吾故郷は、動もすれは早魃多し。人民の飲き聞くに忍びず。願はくは月に六度の雨を降らし給はらば、生涯の本望足に過ぎすとありけれは、龍神願の如く永世の契り諾し給ひけり。其時秀郷は上之村谷道(財田上の村・渓道)の城に有り給ふ。之より財田の私雨と言ふことを世に言はるる事となり、且つ川の名を財田(たからだ)川といふ因縁は此時より始まると申し侍るなり。
其後数代を経て長久四年の春、天下大いに旱りして苗代水なし。其時雨の官に於て有徳の行者、三十七日雨を乞へども、更にその験なし。最早重ねて祈る力なしとて心を苦しむ。折柄其の夜、不思議の霊夢を蒙むり、爾等心を砕きて数日雨を乞ふ志薄からきる事天に通せども、村中衆生の願力薄き故に、雨降り難しと言ふ事を論され、それより時を移さず、村民一同踊を奏し御神意を勇め奉らんと思ひて,則ち踊の手と音頭の文を作りて奏し奉りし時、雨大いに降りて豊作を得たり。苗を与ふると言ふ心を直ちに弥与苗踊と名附けたり。此時都の歌人来り居て、此の不思議の霊験に感じて、
財田や何不足なき満つの秋
と詠みしとなり。其の後も早ありし時踊を奏し奉りて、御利生を蒙むる事皆人の知る所なり。依て略縁起如件 大義
    意訳変換しておくと
そもそも当村の雨乞由来を訪ねると、第六十一代朱雀天皇治政(在位930年10月16日 - 946年5月23日)に近江国矢上山というに娯蛭(大むかで)が現れて、多くの人々に危害を与えた。しかし、退治する者が現れず、人々は長年苦しんでいた。そんな中で藤原鎌足公の子孫で俵藤人秀郷という者が、日本無双の英雄として、龍神より百足(むかで)退治の詔勅を受けて近江路に出向いた。そしてついに瀬多橋で退治したことは、衆人の知るところである。この時に、龍神から報恩褒美として秀郷の望みを何でも適えてやろうと言われた。そこで秀郷は、故郷の讃岐財田は、早魃が多く、人々が苦しんでいます。願わくば、月に六回は雨を降らていただければ、生涯の本望ですと答えた。龍神は、この願いを永世の契りとして聞き入れた。この時に秀郷は、上之村谷道(財田上の村・渓道)の城を居城としていた。そこで、財田に降る雨を「財田の私雨(わたくしあめ)」と、世間では呼ぶようになった。また、川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まると伝えられる。

   その後、数代を経て長久四(1043)年の春、天下は大旱魃となり苗代の水もない日照りとなった。
そこで雨の宮で、験のある行者(修験者)が37日も雨乞祈祷を行った。しかし。それもむなしく雨は降らない。もはや重ねて祈る力ないと人々は心痛した。その夜、不思議な霊夢で龍王は次のように告げた。爾(なんじ)等の雨を乞ふ気持ちは天に通じている。しかし、村中のひとりひとりの願力が薄いために、雨が降らないのだ。」と。そこで、村民一同で神意を勇めようと思い、踊の手と音頭の文を作って、踊りを奉納した。すると雨が大いに降って豊作となった。人々はこの踊りに、「苗を与ふる」という思いで、弥与苗踊と名附けた。この時に村に滞在していた都の歌人は、この不思議な霊験に感じて次の歌を詠んだ。
財田や何不足なき満つの秋
その後も旱魃があれば、踊りを奉納して、御利生を蒙むってきたことは誰もが知っている所である。依て略縁起如件 大義
この縁起が書かれた大正時代後半は、讃岐を大旱魃が襲って、県が雨乞い踊りの復活実施を各市町村に通達しています。そこで明治以来、踊られることのなかった雨乞い踊りが各地で復活したことは以前にお話ししました。それを記録に残そうと、新たに由来・伝承が書かれます。それは、山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りでも見た通りです。そのような「創作背景」を押さえた上で、内容を見ていくことにします。
前半 
俵藤太秀郷の近江のむかで退治伝説 → 龍神からの褒美として財田の私雨(わたくしあめ)
 川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まる
後半
大旱魃の際に、修験者の雨乞祈祷だけでは龍神に届かなかった。そこで村民の心を一つにして神に伝えるために、踊りを奉納したこと。これが弥与苗踊と呼ばれるようになったこと。
ここで私が注目するのは、「修験者の雨乞祈祷だけでは雨は降らなかった。そこで村民一同で雨乞いのために踊った」という箇所です。
近世前半では、雨乞祈願の主役は修験者や高僧でした。農民達は、それを見守るだけでした。農民達が行うのは、雨乞成就のお礼踊りの奉納でした。祈祷自体は験のある修験者の行う事で、ただの百姓が龍神に祈願しても聞き届けられるはずがないというのが、当時の宗教観だったようです。それが近世末になると、修験者の祈祷を助けるために、自分たちも雨乞い踊りを踊るというスタイルがここには出てきます。そして、大正期に書かれた「伝書」には、雨乞いを後押しするために、村人もみんなで踊るという風に変化していきます。

弥与苗踊は雨乞踊りとしても踊りますが、盆踊りとしても踊っていました。


真中に太鼓をすえてその周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されたことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたのです。以下のような動きを押さえておきます。

風流雨乞い踊りの変遷図

弥生苗(やよな)踊りについて、「香川県の文化財」(昭和46六年香川県文化財保護協会刊)には、次のように記されています。

香川の文化財

「雨乞の折には四隅にしめなわを引きめぐらし、
踊り子は、蓑笠姿、手に団扇を持つ。
一曲を三回繰り返して六曲を雨の降るまで踊りつづけた

六曲とは次の歌です。
1 人葉(いりは)
ざんぎぎんざと いりょかいぐち いてとせきどをあらたみょや
2 弥与蘭
にしはじぐれの かやがやの雨 音はせぬかや 降りかかる
3 長生(ちょうせい)
ここはどこぞと たずねてみれは たからだやまのふるさとや 
音に聞えしたからだ山に 雨が降る 神の御利生か雨が降る
4 御元(おもと)
春は花さく 夏は橘 菊は九月の中の頃 鶯が小簸小校に巣をかけて ひよこ育てて 飛んで来る
5 糸巻き(いとまき)
たなばたの 朝ひく糸の 数々を 綾や錦を織りおろす 秋が来たかえ 鹿が鳴く なぜに紅葉か花が咲く
6 すくい
ひさしおどれば 花か散る つまおれがさに 露がする
弥生踊り
           弥生苗(やよな)踊り

1・2・3は雨をねがう内容のものですが、4・5・6は四季の風情を叙して、優雅な趣がしますが、雨には関係がありません。

弥与苗踊が終ると、八千歳踊へと移ります。
八千歳音頭
八千歳踊は、俵藤太物語の音頭があり、 ついで繰り上げ(クッリヤゲ)にうつっていきます。入樋の「繰上げ」金毘羅御利生
この歌詞を見ても、近世後期のもので、雨乞いとは関係ない内容です。 「讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」は、次のように記します。
八千歳踊は、舞の手が入り、腰や手首を微妙に使い、足を組む所作まであり、扇と手拭を派手に使って踊る。繰り上げ踊になると、テンポも早く、振りも複雑に派手になり軽快な踊となる。踊手は激しさに息をはずませることになる。繰り上げ踊の歌詞は、金毘羅御利生、鈴木主水、佐倉宗五郎、八百屋お七、和尚亀松、俊徳丸、お礼政次などのが登場し、いかにも盆踊にふさわしい。これらの口説を歌い続けて宵から夜が更けてしまうまで踊り興ずるのが音の風であったという。

「いかにも盆踊にふさわしい」の評の通り、まさに盆踊りなのです。輸踊であることもそれを裏付けます。この踊りは、雨乞踊と盆踊との関係を考える上に重要なヒントを与えてくれます。つまり、高見島の「なもで踊り」と同じように、「盆踊化した雨乞踊り」と研究者は考えているようです。しかし、私はそれは逆で「盆踊りが雨乞い踊化」したと考えています。
 なもで踊りの歌詞はすべて近世のものですが、弥与苗踊の六曲には、中世のものが含まれていますが、綾子踊や和田の雨乞踊、財田上のさいさい踊などよりは、内容的には新しいものと研究者は考えているようです。
弥与苗・八千歳踊に熟練し、伝承に熱心であった大木義武氏は次のように語っています。
自分が二十歳そこそこの頃に香川県全般に大早魃があり、豊田村の池の尻(観音寺市)から雨乞のため入樋の雨乞踊を踊ってくれと請われた。しかし踊ったとて降るとは限らぬからと一旦は断ったが、たって乞われたので行って踊った。真光院という寺の境内で踊ったが、始めの頃は星が空一面に出ていたのに、踊が進むにつれて、雨が降り出した。境内の松の露だろうと思って踊っていたが、ほんとうに雨が降り出したのであった。踊り終って小学校の校長先生宅で休んでいると雨は本降りになってきたc
手伝が来て大変なご馳走になり帰ってきたが、入樋の踊で雨が降ったという評判が高くなり、踊れば五遍に三遍は必ず降るものだという自信のようなものができた。
 ここにも大正時代の旱魃の際に、各地の雨乞い踊りが復興し、他地域からの奉納依頼があったことが分かります。これが踊り手達の自身や誇りとなり、記録や由緒などを残そうとする動きが出てきます。大正の大旱魃は、讃岐の雨乞い踊りの復興運動(ルネサンス)を引き起こしたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 弥与苗踊・八千歳(やちよ)踊  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

讃岐の風流雨乞踊りの伝播について、私は次のような仮説を考えています。
滝宮念仏踊りの変遷

①滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)の別当寺である龍燈院滝宮寺の社僧達は、蘇民将来の札などを配布することで信仰圏を拡げた。
②その際に社僧達(修験者・聖)たちは、祖先供養として念仏踊りを伝えた。
③こうして滝宮周辺では郷を越えた規模で踊組が形成され、郷社などに奉納されるようになった。
④それが牛頭信仰の中心地である滝宮に奉納されるようになった。
⑤生駒藩は、これを保護奨励したために滝宮への踊り込みは、大きなレクレーションとして成長した。
⑥一方、高松初代藩主・松平頼重は、この踊りを統制コントロールし、「雨乞踊り」として整備した。
⑦そのため滝宮念仏踊りは、もともとは風流念仏踊りであったが、次第に雨乞い念仏踊りとされるようになった。

この中で史料がないのが②です。滝宮念仏踊りの由来には次のように伝えられています。
A 菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになった
B 法然上人が雨乞いのための念仏踊りを伝えた
これでは②の「社僧達(修験者・聖)たちが、祖先供養として念仏踊りを伝えた。」という仮説を裏付けることはできません。そこで「迂回ルート」として、滝宮周辺の念仏踊りや風流踊りについて調べています。今回は、讃岐西端の豊浜の和田・姫浜と大野原の田野々に伝わる風流系雨乞踊りを見ていくことにします。テキストは   「和田雨乞踊り・姫浜・田野々雨乞い踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
この3つの雨乞踊は、伝承系統が同じと研究者は考えています。
それはひとりの「芸能伝達者」によって伝えられたとされているからです。どんな人物が、この地にこれらの風流雨乞い踊りを伝えたのでしょうか。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町和田道溝(みちぶち)
和田の道溝集落の壬申岡墓地に、薩摩法師の宝医印塔と墓碑があります。そこには、次のように記されています。
往古夏大旱、和田村庶民之を憂ふ。法師をして祈らしむ。法師はもと薩摩の人。自ら踊り其の村民に教へて雨を祈り、壬生岡に念ずる頃、 これ天乃ち雨ふり、年則ち大いに熟す。

  意訳変換しておくと
昔、大旱魃で和田村の人達が苦しんでいると、薩摩の法師が人々に、踊りを教えて壬生岡で雨乞祈願すると、雨が降り、その年は豊作となった。

ここには薩摩法師が歌と踊りを村人に教えて、雨乞祈願させたのに始まるとあります。そして墓の建立世話人には和田、姫浜、田野々の人々の名前が連なっています。

和田・田野々
和田・姫浜・田野々
 以上からは、3つの雨乞踊りが薩摩法師という廻国聖によって運ばれて来たことが裏付けられます。ただ、この「芸能伝播者」が「薩摩法師」だったかどうかについては疑問があるようです。「薩摩法師」説は、歌の中に次のような「薩摩」という歌があることから来ています。
薩摩

内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。この歌詞を早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性を武田明氏は指摘します。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。どちらにしても、和田、田野々などの踊り歌は、遍歴の「芸能伝達者」によってもたらされたことになります。
①踊りの歌詞が共に、慶長年間に和田にやってきた薩摩法師が伝えたとされること。
②曲目も「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられること。
以上を押さえておきます。
和田風流踊り 西讃府誌
    和田雨乞い踊り(西讃府誌)
和田雨乞い踊りについて、西讃府誌は次のように記します。

姫濱和田ナドニモ雨乞ノ踊舞ァリ、姫濱ナルヲ屋形トイヒ、和田ナルフ雨花卜云、踊ノサマハカハリタルコトナケンド、歌ノ、同ジカラズ。其サマ太鼓扱打八人、花笠ヲカツキ、太鼓を胸二結付、蝶脚(ておい)絆ヲナシ、鞋ヲ着テ輪ヲナシテ廻リ立、コレガ間二音頭ノ者数人交リ立テ、鼓ノ曲節ノマヽニウタフ、サテ其外ノ廻リニ、編笠ヲカプキタルガ、数十人メグリ立テ踊ル。其外二童子敷十人、叉編笠ヲキテメグリ踊ナリ、
 
    意訳変換しておくと
姫浜と和田には雨乞踊りがあり、姫浜のものを屋形踊り、和田のものを雨花踊りと呼ぶ。両者の踊りに違いはないが、歌詞が異なる所はある。芸態は太鼓打8人で、花笠を被り、太鼓を胸二に結びつけ、蝶脚(ておい)絆を着けて、鞋を履いて丸く輪を作る。この間に音頭(歌歌い)数人が入って、太鼓に合わせて歌う。その外廻りには、編笠を被った数十人が囲んで踊る。その外に童子が数十人、編笠を着て踊る。

ここからは 太鼓打が八人、音頭の者数人が中央にまとまり、その外側に数十人が輪を作り、その外に子供たちがまた数十人めぐって、二重の円陣の踊ったことが分かります。これは隊形や歌詞などから、もともとは盆踊りとして踊られていたものであったことが分かります。

和田風流踊の歌詞は、近世初期の歌謡だと研究者は指摘します。
その多くが綾子踊と同じ系統の風流小歌踊の歌詞です。第1章「雨花」のなかには、次のように地元の地名が出てきます。
大谷山にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり。
伊吹の嶋にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり
ここには「大谷山」や「伊吹島」のような地元の地名が出てきて、郷土色を感じさせます。しかし、それ以外には讃岐や三豊の地域性を感じさせるものはありません。各地の港を廻遊する船頭の目から見た「港町ブルース」のような感じです。定住者の目ではなく「旅する者の意識」で歌われていると研究者は指摘します。以下を簡単に見ておくと
第8章の「濃紅」は、寺の小姓との衆道の情調
和田風流踊り 濃紅
第2章の「屋形」・第11章の「めてた」は、屋敷褒めの歌です。
和田風流踊り 11番目立度

「めてた」の中に、次のように「歌連歌」という言葉が出てきます。

こなたのお手いを見てあれは、諸国のさむらひ集りて、弓張りほふ丁、歌連歌、たいこのがくうつ人もあり。

武士が歌連歌に興ずるのは、室町か江戸初期の風俗です。ここからもこの歌詞の時代がうかがえます。また次のような句法は、江戸時代初期の歌謡によく使われたようです。
雨ばなをどりを一をどり一をどり、       (第二章「雨花」)
やかたのをどりを一をどり一をどり、    (第二章「屋形」)
四季のをどりをいぎをどろふや、           (第二章「四季」)
さつまのをどりを一をどり一をどり、    (第五章「薩摩」)
とのこのをどりを一をどり一をどり、    (第九章「御段」)
以上からは、和田の風流踊は中世末から近世にかけて歌われていた風流歌であると研究者は考えています。私が注目するのは、次の記述です。
   (和田の)雨花踊は、雨乞踊というよりも、それ以上に雨乞御礼踊としてよく踊られたという。舞踊の振に舞の手があるといわれ、また子供も交わって踊るはなやいだ気分のものであり、多くの盆踊りと同じく中央に歌い手と囃子がおり、その周囲を踊り手が廻る形である。
ここでは和田の雨花踊は、「①中世の風流踊り → 雨乞御礼踊(成就お礼踊) → 雨乞踊」と変遷してきたことを押さえておきます。

豊浜国友寺
国祐寺(豊浜町台山)
雨乞祈願が行われた国祐寺には、次のような記録が残っています。
第15世松樹院日豊(安永三丙午八月廿六日没)が書き残した「新宮両社建立諸記」に次のように記されています。
宝歴十二壬午五月十六ノ暁ヨリ十八日迄二夜三日台山龍王ニテ雨請ス
同五日廿二日雨請礼踊在之候依之廿日二村之五人頭岡之停兵衛使二而案内申来候而廿一日之昼ヨリ村人足二催領人岡伝兵衛相添寺内之掃除二参申候。(注記「躍子太鼓打昇り持ニハ握飯二ツナラシニ遣シ申候」)
宝歴十二年六月廿五日 雨請之踊在之廿二日之昼五人頭太四郎使二雨申来候掃除人足水打人足如前。
意訳変換しておくと
宝歴十二(1762)年5月16日の暁から18日まで2夜3日に渡って台山の龍王社で雨請を行った。5月22日に雨請成就のお礼踊が行われることになり、20日に五人頭の岡之伝兵衛が、21日昼より国裕寺の寺内の掃除を人足達と行う事を伝えにやってきた。注記、「踊子と太鼓打と幟持には握飯2つを配布すると云った」)
宝歴十二(1762)年6月25日 五人頭の太四郎が使者としてやってきて、雨請踊を22日昼に行う。ついては、掃除人足・水打人足については前例通りと告げた。
台山の龍王社に籠って、雨乞いをして、雨が降ると雨乞成就のお礼として、踊りが踊られています。
明和三戌六月七日雨請踊在之候急之儀二而躍子笠なしにてをどり申候此方二而者宮斗二而済申候八日昼時分より雨ふり申候得共少々斗に而在之候
十日雨請之礼躍在之候
同月十七日之暁より十九日迄ニ二夜三日之雨請也 富山之龍王江籠り申候
六月廿六日礼躍在之候
七月十八日より同廿日迄二夜三日雨請いたし申候―八日七ツ時台山にて躍諸役人中は直に宮江籠申
  意訳変換しておくと
明和三(1783)年6月7日雨乞踊が急遽行われることになり、踊り子の中には、笠がないままで踊った者もいたという。この時には翌日の8日昼頃から雨が降った。しかし、少量であった。
10日に雨乞成就のお礼踊りを行った
6月17日の暁から19日までの2夜3日、当国裕寺の龍王へ籠もり雨乞を行った。
6月26日 (雨が降ったので)お礼踊りを行った
7月18日から20日まで二夜三日、雨請祈願を行った。18日七ツ時に、台山で踊諸役人たちは宮(龍王社)へ籠った。

  ここからは次のような事が分かります。
①18世紀後半に豊浜の和田では、旱魃の時には台山の龍王祠で雨乞いが行われていた
②そして雨が降ると台山の国裕寺の境内で雨乞成就のお礼踊りが奉納されていた
この史料からは、宝暦、明和のころには、国祐寺での雨請祈祷に合わせて、雨乞踊やその御礼踊が盛んに行われいこたことを押さえておきます。

安政五年に脱稿したという丸亀藩の「西讃府志」に「屋形雨花」として歌詞とともに記録せられています。ここからは安政5年頃にも、和田ではこの踊りが盛大に踊られていたことが分かります。古老の話として伝えられる所によると、和田の風流踊は、もとは和田だけでなく、姫浜および田野々の三地区が一体となって、高尾山の龍王祠で行われたと云います。田野々は高尾山の裏側の大野原町五郷の集落になります。龍王を祀る山の裏と表の両方で、善女龍王信仰が根付き、そこで同じ風流踊りが雨乞いお礼踊りとして踊られていたことを押さえておきます。
  1977(昭和52)年11月23日に行われた香川県教育委員会主催の「ふるさとのつどい」の民俗芸能発表会に出演した記録が次のように残されています。
「奉祈雨元祖薩摩法師和田村道溝講中 ①昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟を先頭に押し立てて、青年団員に指導されて、四十名の小学生の踊り子達が一列に入場して来る。踊子の服装は、紺がすりに赤い欅、日本手繊ざあねさんかぶりをし、ボール紙て作ったたつころばちの形の笠をかぶる。そして赤い手おおいに、水色のきやはんをつけて、胸に締太鼓を掛け、二本の檸を持って、その太鼓を打ちつつ踊る。入場の時には、「宿入り」の歌に合わせて入る。歌い手は、ずっと青年団の者(西原芳正氏)が勤めた。先頭に立った幟持ちが、まず会場の中央に幟を持って立ち、その傍に台に乗せた太鼓を置き、一人の男の打手(青年団)が、二本の標を持って構える。その周囲を四十名の踊子達が円陣に並び、左の方へ右廻りに廻りつつ踊る。歌い手は、円陣の外側正面の所に立って歌う。踊りは、太鼓の、カンカン トコトン トントコトントコ トントコトンという一区切りごとに、同じ振りを繰り返してゆく。踊の歌は十二章まであるが、その一章ごとに踊の振りはかわってゆく。また曲打ちというのがあって、太鼓の曲だけとなりそれに踊を合わせるというところもある。
踊子は男女の子連に少し女子青年も交っていたが、昔は男だけで踊り、ゆかた禅がけでたっころばち(たからばち)も紙製ではなく、本物をかぶったという。歌い手も、円陣の外側に立つのではなく、円陣の中であった。
①「昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟」というのは、昭頭家和の大旱魃の年に、県の通達で雨乞祈祷や踊りを復活実施したときに、作られた幟でしょう。
それより前の大正の大旱魃があった大正12年8月には、御礼踊として、以下の順で奉納されています。
①和田浜の高尾山の龍王桐(八大龍王)の前
②台山の龍王祠(国祐寺の西)の前
③壬生(にぶ)岡墓地の薩摩法師宝筐印塔前
④和田小学校の校庭で総踊り
この四場所が踊の場所として昔から一般的だったようです。

  大正12年の大旱魃の時にも、県が雨乞踊りの復活実施を通達しています。そのため明治以来、踊られなくなっていた雨乞踊りが各地で復活したことは、以前にお話ししました。前回お話した山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りもこの時に復活したものです。

大正12年雨乞いの御礼踊に、少年として参加した蔦原寿男氏の言葉が次のように載せられています。
あの時も、たしか二重の輪の踊で、総踊というにふさわしいほどの大勢であった。和田地区は、その中央を流れる吉田川を境に、川東組(雲岡・長谷・道溝・梶谷の各部落)と川西組(太村・大平木・直場・岡の各部落)の二つに分れている。それぞれ60名位の組が、東西の龍王宮に参請し、踊を奉納して下山し、国祐寺で両組が合流し、その西の龍王祠(雨龍神社)に八大龍王の幟を建て、その大前で、踊を奉納、終りに今の豊浜南小学校の校庭で、大円陣を作って踊った。お礼踊であるから近郷近在からの見物人は、秋祭の人出をしのぐ程盛大であった。

  以上 和田風流踊りについてまとめておきます。
①和田・姫浜・田野々の風流踊りは、曲目や歌詞が同じであることから同一系のものであること
②それはどの由来も薩摩(琵琶)法師によって伝えられ、墓標が残されていることからも裏付けられる。
③ここからは廻国の薩摩法師が和田地区に住み着き、祖先供養を行い信者を増やしたこと
④その過程で芸能伝達者として、先祖供養の盆踊りとして風流踊りを伝えたこと。
⑤それが台山の龍王祠でも雨乞成就のお礼踊りに転用され、後には雨乞い踊りへと変化していったこと
風流踊り → 先祖供養の盆踊り → 雨乞成就の返礼踊り → 雨乞踊りへと変遷していく姿が見えてきます。これが財田のさいさい踊りなどをへ影響を与え、佐文綾子踊りへとつながるのではないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年
参考文献 「和田念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」

佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

大久保諶之丞

2月の小さな講演会「史談会」は、大久保諶之丞をとりあげます。
大久保家の子孫の家に保存されてた大量の文書や史料が県立ミュージアムに近年、寄贈されたようです。文書を分析して、年表化したものが報告書として出されたりしています。大久保諶之丞をめぐる情報が私たちの目にも触れるようになり、研究が一気に進むことも考えられます。
 そんな中で、大久保諶之丞についての調査研究をライフワークにしてこられたのが、今回の講師としてお呼びする伊東 悟氏です。いろいろな顔をもつ大久保諶之丞の姿を、縦横無尽に語っていただけるはずです。興味と時間がある方の来訪を歓迎します。

参考文献
     松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のり
~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)

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浪打八幡宮 | 神社仏閣めぐり
浪打八幡神社(三豊市詫間町)

中世名主座が近世にどのように変わっていったのか、浪打八幡宮名主座の行方をたどってみます。
浪打八幡 駕輿丁次第之事

                 .
史料Bは1391(明徳二)年のもので、8月に行われる放生会の駕輿丁(神の乗る駕篭かき)のローテション・リストです。これを見ると、太鼓夫を仁尾が担当し、駕輿丁を他の4つの村が担当していることが分かります。
 研究者が注目するのは、この時点で浪打八幡宮名主座の名が、村ごとに区分けして表示されていることです。ここからは、14世紀末期には詫間荘には個別村落が姿を見せていたことがうかがえます。
 浪打八幡宮名主座の場合は、惣荘名主座の名がそれぞれの個別村落名で表記されています。これは詫間荘の名というよりも、吉津村、中村、比地村、仁尾村(仁尾上村)や詫間村の名という意識の方が強いように思えます。そうだとすれば、浪打八幡宮名主座の名は、「個別村落の名」の集合体ということになります。
 これについては、前回見たように詫間荘内の仁尾浦の動きが強い影響を与えていると研究者は推測します。
  仁尾浦の京都鴨社の供祭人(神人)たちは、神饌奉納の代償として、いろいろな特権を手に入れ、広範囲の経済活動を燧灘を舞台に繰り広げます。それが仁尾賀茂神社を単なる個別村落鎮守社にとどまらない、より広範囲に影響力をもつ神社へと成長させたことは前回見たとおりです。仁尾賀茂神社は「準惣荘鎮守社的な存在」に成長したのです。このような仁尾浦の動きが、他の吉津村、中村、比地村や詫間村を刺激し、自立化を促したというのです。

【史料H】 1769(明和六)年に浪打八幡宮検校宝寿院が詫間村庄屋に社領の内容を伝えた覚書を見ておきましょう。
高四拾石
一五町七反四畝拾歩
生駒様御代より御免許御証文御座候
(中略)
右之通浪打八幡宮社領分二而御座候、以上
                 詫間村検校
明和六(1769)年丑七月六日
庄屋 惣十郎殿
(香川県立文書館所蔵片岡氏収集文書一五七号)。
ここからは次のようなことが分かります。
①浪打八幡社は、生駒時代に寄進された40石(約15、7㌶)の社領を持っていたこと
②所有社領面積を、浪打八幡宮検校(宝寿院)が詫間村庄屋(惣十郎殿)伝えていること
この背景には江戸時代の後半になると、荘郷神社が維持管理することが難しくなったことが背景にあるようです。ここは浪打八幡宮が社領の維持管理が困難になって、詫間の庄屋に援助を求めていることがうかがえます。これは、経済的基盤が崩れた惣荘鎮守社の名主座が、だんだんと政治的主導権を失っていく過程でもあるようです。浪打八幡宮の名主座も、それまでのスタイルでは存続できなくなってきたようです。
【史料I】未(元禄四年力)八月浪打八幡宮旧例書(香川県立文書館所蔵)
豊後
相模
浪打八幡宮旧例書
浪打八幡宮神方旧例有来之次第
一 毎年八月祭礼二五ヶ之頭人方へ門注連おろし二御前人三右衛門榊を持進、五ヶ村之村頭人方へ参、門注連八月朔日二おろし申次第
一番     吉津村
二番     中村
二番     比地村
四番     仁尾村
五番     詫間村
右之通仕来り申候
一 八月三日四ヶ之村頭人詫間之頭人方へ寄合、神事有来之相談仕、詫間頭人より四ヶ之村頭人を振廻申候、右之通、毎年仕来り申候
一 八月十日八幡宮御はけおろし、所かざり仕、検校説言上ヶ御ヘい三右衛門請取、社人頭人共頂戴仕次第
一番    中村  豊後
二番    中村  相模
三番    吉津村 頭人
四番    中村  頭人
五番    比地村 頭人
六番    仁尾村 頭人
七番    詫間村 頭人
八番    詫間村 惣大夫
右之通頂戴仕候、其上二検校上座二面右之次第二座を作り、検校より御かわらけ始り連座次第二御酒頂戴仕候而宮ヲ披申候
(中略)
未ノ八月廿二日            中村社人 豊後 判
        同村社人 相模 判
中村豊後・相模相談、両人旧例書仕、吉田へ指上候へ者、御帰被成、拙僧二、二人之社人役付旧例書付候へと被仰出、書付指上候、則吉田二留り、其返二被仰付候
                    検校理巌
意訳変換しておくと
豊後
相模
浪打八幡宮の旧例書の次第は次の通りである
一 毎年八月祭礼の際には、25の頭人が門注連を下ろしのために、御前人三右衛門の所へ、五ヶ村の村頭が榊を持っていく。門注連を八月朔日(旧暦8月1日=新暦9月半ば)に下ろす順番は次の通りである。
一番     吉津村
二番     中村
二番     比地村
四番     仁尾村
五番     詫間村
ローテンションは以上の通りである。
一 8月3日に四ヶ村の頭人が詫間の頭人方へ集合して、神事進行について協議した。そこで詫間頭人から四ヶ之村頭人を振り分け、以下のようなローテションにすることになった。
一 8月10日八幡宮御幣おろし(おはけおろし=神社の祭前の清め)、所かざりを行った後で、検校(宝寿院)から、三右衛門が受取り、社人頭人がともに頂く。その時の順番は以下の通りである。
一番     中村 豊後
二番     中村 相模
三番    吉津村 頭人
四番    中村  頭人
五番    比地村 頭人
六番    仁尾村 頭人
七番    詫間村 頭人
八番    詫間村 惣大夫
以上のような順番で受取り、上の順番で座を作って検校(宝寿院)を上座にして座を作り、御かわらけを廻して御酒を頂戴することにする。
(中略)
未ノ八月廿二日          中村社人 豊後 判
        同村社人 相模 判

以上は、中村豊後・相模が相談し、両人が旧例を書きだし、吉田へ提出されたものである。拙僧び、二人の社人役付が旧例書付があることを申し出て、それを提出したので、吉田が預かり確認した上で、返却を申しつけた
                               検校(宝寿院)理巌

史料Iは年紀未詳、未八月の文書です。浪打八幡宮の中村社人である豊後・相模両人の社務に関する係争があったことが別の文書から分かります。その文書には1691(元禄四)年八月の年紀が入っているので、史料Ⅰも同年文書のようです。
神幸祭注連下し祭典 in 神崎聡(こうざきさとし)夢からはじまる
注連下ろし
   文書に出てくる「門注連を下ろし」とは、祭りの始まる前に、神域や町内を清めるために行う行事のことです。注連縄を貼った青笹を門状に立て、竹串御弊(たけぐしごへい)と呼ばれる竹で作った御弊を飾って神域にします。つまり、祭り期間中は、注連縄を貼った青笹からは神様の領域ということになります。
  また、祭り終了時の御神酒をいただく順番をめぐっても争われていたようです。それが新たに決められたようです。社務をめぐる係争の中で、検校(宝寿院)はリーダーシップを強化して、新ルールを制定しています。そして以後は、「別当」と自称するようになります。ちなみに、中世の文書には宝寿院が別当であったことを示すものはないようです。別当呼称の初見は、この元禄四年八月御断申上覚写からで、これ以降に、宝寿院検校は別当または別当検校と呼ばれるようになります。

 史料Iで研究者は注目するのは、浪打八幡宮名主座の頭役の表記です。吉津村頭人、中村頭人、比地村頭人、仁尾村頭人、詫間村頭人というように、村ごとの頭役として勤仕されています。今までは、史料Bで見たように、「名」の名前が記されて固定されたものでした。それが各村ごとにそれぞれ頭人を選出して、その村の頭人が頭役として奉仕する祭祀形態に変化したことになります。このような形態の宮座を、研究者は「郷村頭役宮座」と呼んでいます。

駕輿丁(かよちょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
駕輿丁(かよちょう)

1645(正保二)年には、駕輿丁を名ごとに昇ぐ方式を確認しています。これも係争があったのでしょう。
浪打八幡 駕輿丁次第之事2

この史料を見ると、中世以来の名主座がまだ維持されていたことが分かります。それが17世紀後期になると、郷村頭役宮座の形に変わったことになります。
池田町における百手の神事について

浪打八幡宮でも近世になってから百手神事が行われるようになります。
その百手頭人もやはり郷村頭役としておこなわれています。17世紀後期には、各村の名主家継承者が頭役を勤めていたようです。それが、次第に頭役勤仕者はより広い階層に拡がっていくようになります。各村落で、「郷村頭役宮座」の頭役を勤める身分階層が「郷村頭役身分」です。浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質したと研究者は考えています。

詫間荘における村落内身分についてまとめておきます。
①詫間荘の惣荘鎮守社である浪打八幡宮の名主座は、14世紀後期までには成立していた。
②中世の浪打八幡宮名主座の運営は、社務(惣官)と検校が指導的な役割を果たしていた。
③詫間荘準惣荘鎮守社である仁尾賀茂神社宮座は、京都の鴨社との関係から、鬮次成功制宮座であった。
④畿内近国の鬮次成功制宮座は、京都の鴨神社との関係を通じて仁尾に伝播した。
⑤詫間荘という一つの荘園に二つのタイプの宮座の併存するのは、「周辺部」の特徴である。。
⑥浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質した。
⑦浪打八幡社の郷村頭役宮座は、単なるトウヤ祭祀ではなく、宮座である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」

古代三野郡郷名
古代の三野郡詫間郷
 前回は三野郡詫間郷の浪打八幡社が郷社として、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名主座という宮座によって祭礼が行われていたことを見ました。その中で浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていました。
 ここで私が気にかかるのが仁尾浦の賀茂神社との関係です。
仁尾浦の「名」たちは、詫間の浪打八幡社の宮座のメンバーでありながら、仁尾の賀茂神社にも奉仕する神人でもあったことになります。この関係は、どうなっているのでしょうか? 両神社の関係を、今回は見ていくことにします。テキストは、「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。

賀茂神社の注連石 --- 巨石巡礼 |||
仁尾賀茂神社

【史料E】仁保浦鴨大明神御前之まつり覚之事
文禄弐(1593)年閏菊月拾五日
但前々のかたきのまつりなり、右後日如件
                仁保(仁尾)年寄中
この文書からは、中世の仁保浦鴨大明(仁尾賀茂神社)では「仁保年寄中」による祭祀が行われていたことが分かります。それでは、この年寄中というのは、どのような人達なのでしょうかに。
【史料F】寛永10年2月鴨大明神祠官仁尾大夫詫状『新編香川叢書』覚城院文書二五号)
(前略)
一 御宮さいかうなとの御時、万事年寄衆被仰次第二可仕事
一 祭礼御まつり、如先例□、供祭人衆被仰次第二可仕事
一 まつり之時、神子、大夫分、日之儀、如先例之、可仕事、付り、重而何にてもいつわり申間敷事右之通、少も相背申候ハヽ、何時二ても、御奉行様へ被仰上テ、我等越度二相極候ハヽ、大夫被召上ケ候様二可被成候、為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日      二保(仁尾)ノ大夫 印
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
意訳変換しておくと
一 御宮再興などの際には、万事について年寄衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、先例通りに、供祭人衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、神子、大夫分、日之儀なども先例の通り行う事、また重ねて何事についても嘘偽りを云わないことを誓います。少しでもこれに背いた場合には、何時でも御奉行様へ申し上げること。その結果、大夫の役割を召し上がれることも承知しました。為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日           二保(仁尾)ノ大夫
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
内容は1633年春に、仁尾の大夫が嶋大明神(賀茂神社)の氏子衆・年寄衆・覚城院にたいして提出した詫状です。今後は指示に従わずに勝手な行動をとることはしないことを誓う内容です。逆に言えば「二保(仁尾)大夫」が先例に従わず、年寄衆や覚城院の指示にも従わずに、勝手な振る舞いが目に付いたので「詫び状(誓約書)」をとられたようです。
 史料Fからは、仁尾年寄衆が宮年寄であることが分かります。
宮年寄とは、祭祀集団において年長が上位で、祭祀を主導する立場にある者のことです。史料Fで仁尾賀茂神社の宮年寄が祭祀を主導しています。ここからは次のような事が分かります。
①仁尾賀茂神社の祭祀組織が宮座であこと
②覚城院に対しても誓約しているので、覚城院が鴨大明神(賀茂神社)の神宮寺であったこと

覚城院】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仁尾の覚城院

【史料G】文政十二年加茂社御頭心得惣記録(仁尾賀茂神社文書)
加茂社御頭心得惣記録
一 八月朔日御閥戴キ承人々社頭ヨリ呼二参候間、早速袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より御閣戴候趣承り罷帰り可申事
(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
意訳変換しておくと
加茂社御頭の心得全記録
一 旧暦の八月朔日(ほずみ=8月1日で新暦の九月中旬頃)、社頭からすぐに来るようにとの連絡があり、早速に袴羽織に着替えて、宮座へ出席した。年寄衆より協議議題について聞いて帰ってきた。(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
ここには、「・・袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より・・・」とあり、仁尾賀茂神社の祭祀組織が「宮座」と表現されています。さらに研究者は注目するのは、頭人が年寄衆の集会で差配されていることです。
 名主座では頭文が作成され、頭文順番で名主座の名頭は奉仕します。第二次大戦前の仁尾賀茂神社宮座は、塩田・鴨田・河田・倉本の四苗(みよう)だけの家で頭屋が運営されていたようです。この四苗の家が300軒あり、そこから5人の頭屋を鬮(くじ)引きで選びます。履脱八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
履脱八幡神社(仁尾)

 仁尾の履脱八幡宮の宮座も十二苗の輪番制で運営されています。
苗はオヤ(本家筋)を中心にまとまっていたようです。この苗が「名」の名残である可能性もありますが、仁尾の場合はそのようには解釈できないと研究者は考えています。それは仁尾賀茂神社宮座の五苗は、名主座の名の数が少ないこと。また履脱八幡宮宮座の十二苗は、オヤを中心とする同族的集団です。仁尾賀茂神社の苗も塩田・鴨田・河田・倉本・吉田という苗字に固定されています。そこから、仁尾賀茂神社・仁尾八幡宮のどちらの苗も、もともとは名ではなく同族を意味するものと研究者は考えています。したがって、両社の宮座は鬮次成功制宮座が変質して、近世以降に家単位の宮座になったようです。

 仁尾賀茂神社の宮座は以下の点から、鬮次成功制宮座であると研究者は判断します。
①宮年寄があること
②宮座という史料表現
③「御鬮(くじ)」による頭人差定
 史料Eの記載から宮座は、中世後期に遡ることができるようです。
中世讃岐の仁尾港 守護細川氏は、香西氏を仁尾の浦代官に任じて支配しようとした : 瀬戸の島から
仁尾賀茂神社

どうして、浪打八幡社という惣荘名主座がある詫間荘内に、もうひとつ別の宮座があるのでしょうか。
 その解決のためには、詫間荘の仁尾浦と仁尾賀茂神社の歴史を見る必要があるようです。まず研究者が注目するのは、以下のように仁尾賀茂神社に免田があったことです。

延文二年二月御代官三郎次郎免田安堵状
(『香川県史』仁尾賀茂神社文書一六号)、延文三年九月詫間荘領家某免田寄進状(同一七号)                         

これは、仁尾賀茂神社が仁尾浦(村)の神社でありながら、詫間荘全体にとっても重要な神社であったことを意味しています。浪打八幡宮は詫間荘の全荘的名主座です。しかし、詫間荘のすべての名を網羅したものではありませでした。仁尾浦(村)には、浪打八幡宮名主座に入っていない名として、金武名・武延名・延包名の三つの名がありました。ここでは浪打八幡宮名主座に編成されていない名が仁尾浦(村)にあったことを押さえておきます。

仁尾浦(村)の他にない特色は、京都の鴨社との関係です。
1090(寛治四)年に鴨社供祭所として「讃岐国内海」が指定されます。この讃岐国内海とは、仁尾浦の津多(蔦)島のことです。その関係から仁尾に賀茂神社が勧請されます。この仁尾の浦人が仁尾賀茂神社の供祭人(神人)へと成長して行きます。
仁尾 初見史料
仁尾浦が史料で最初に確認できる文書 仁尾浦鴨大明神とある

 京都鴨社の仁尾浦支配は、土地支配ではなく、供祭人を通しての支配でした。そのため詫間荘の荘園支配と併存することが可能でした。仁尾賀茂神社の宮座成員は、鴨社供祭人であり、詫間荘荘民でもあるという関係です。仁尾賀茂神社の鴨社供祭人は、京都の鴨社に供物をおくる義務とひき替えに、保護を得て仁尾浦漁携や海運特権を独占するようになります。
 それが1415(応永22)年になると、讃岐国守護の細川頼之から海上諸役や兵船の供出を命じられています。ここからは15世紀初頭になると、仁尾浦供祭人は京都の鴨神社から細川京兆家へと保護者を替えたことが分かります。そうすることで、仁尾浦供祭人は伊予や安芸方面と燧灘を通じての交易活動を活発に展開します。仁尾賀茂神社の鬮次成功制宮座が成立したのは、京都鴨社との関係を持つ賀茂供祭人(神人)がいたからのようです。そして、浪打八幡宮の惣荘名主座とは異なる祭祀スタイルを、仁尾浦の供祭人(神人)は生み出していったと研究者は考えています。

7仁尾3
 中世の仁尾浦の海岸線と寺社分布(点線が海岸線)

仁尾浦と鴨社供祭人は、瀬戸内海を舞台にしして広範囲の経済活動を行っていました。燧灘に面する伊予や安芸の拠点港として機能していたことが考えられます。
 その結果、仁尾賀茂神社は単なる村の鎮守社にとどまらない神社に成長して行きます。ここでは次の事を押さえておきます。
①仁尾賀茂神社が「準惣荘鎮守社的な存在」だったこと
②詫間荘内には異なるタイプの宮座が併存してたこと。それは、一つの荘園に二つのタイプの宮座が併存する珍しい例だったこと。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

                  
三豊の古代郷
讃岐国三野郡詫間郷(庄内半島とその付根部分)
三野郡には詫間郷がありました。それが1250(建長2)年頃には、九条家領として立荘され詫間荘となります。その荘域は、荘鎮守の浪打八幡宮の祭祀圏から推測して、近世の吉津村、中村、比地村、仁尾村と詫間村の五ヶ村だったとされます。
詫間郷3
詫間郷の各地域
 詫間荘の惣荘鎮守社は、詫間村八幡山の浪打八幡宮です。この神社は、「名主座」と呼ばれる宮座で祭礼がおこわなれていたようです。今回は浪打八幡宮の宮座について見ていくことにします。テキストは「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。
浪打八幡神社/三豊市

まず、浪打八幡宮の放生会も御頭所(頭屋)を見ていくことにします。
  【史料A】  浪打御放生会御頭所
  ①比地村
一番 安行   二番 黒正   三番 守弘  四番 清追   五番 小三郎  六番 助房
七番 吉光   八番 糸丸   九番 貞門  十番 包松
  中村分
一番 宗国   二番 真守   三番 友成  四番 重光   五番 吉真   六番 安弘
七番 成松   八番 末守   九番 国正      (中略)
(中略)
  吉津詫間仁尾分十二年廻
一番 則永   助宗   守永
二番 経正   西光   則方
三番 真光   宗久   金武
四番 則久   時延   宗吉
五番 為弘   吉松   武経
六番 依国   行真   宗藤
七番 則包   近光   土用
八番 是時   国光   定宗
九番 光永   正光   友行
十番 秋弘   真光   久則
十一番 正光   為時   吉久
十二番 延正   末次   宗成
浪打御放生会御頭所Ξ
史料Aは、浪打八幡宮の放生会の頭人の年周りの割当表です。
「秋弘」などは、人の名前で「名」になるようです。そして、浪打八幡宮の放生会の当番については、次のようなことが分かります。
①比地村10名で10番まであるので10年ごとに巡ってくること。
②中村は9名で9番までなので9年ごと
③吉津村・詫間村・仁尾村分は三名1組で12番まであり、12年ごとにめぐってくる。
そして比地1名 + 中村1名 + 吉津・詫間・仁尾3名=5名で担当したようです。このように、各村の名によって「御頭(頭屋)」が決められているので、浪打八幡宮の宮座は名主座だと研究者は判断します。
史料Aは写で、中略部分に「正元ハ永正六(1509)マテ五十一年二成也」とあります。ここからは原文書の年紀は1509(永正6)年のものと分かります。16世紀初頭の浪打八幡宮では名主座という宮座によって祭礼が行われていたようです。 辞書で「名主座」を調べると次のように記されています。

「名主座は宮座の一形態で、 14世紀初頭ごろに成立した名主頭役身分の者たちが結集した村落内身分集団」

よく分からないので、あまり深入りしないで、先に進みます。
それでは、浪打八幡宮の名主座は、いつごろ成立したのでしょうか。
【 
浪打八幡 駕輿丁次第之事

史料B(端裏書)「八幡宮 御放生会驚輿丁并義量等神判 写」
史料Bは、浪打八幡宮放生会の駕輿丁と太鼓夫の勤仕を定めたものです。ここからは次のようなことが分かります。
①  駕輿丁は、4人の名で担当し  左右の場所まで指定される。
② 仁尾は太鼓夫を担当している
この勤仕も「名」によって行われています。
①「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件
②明徳二(1291)年 八月九日定之」
史料Bの②からは、1291(明徳二)年の年期があるので、元寇後の13世紀末には、浪打八幡宮の名主座は成立していたことが分かります。①については、次の史料と一緒に見ることにします。浪打八幡宮が詫間荘惣荘鎮守社であることが確認できる史料をみておきましょう。
史料Cは、1367(貞治六)年2月の浪打八幡宮年中行事番帳の写です。
浪打八幡 八幡宮年中行事番帳之次第
【史料C】定 八幡宮年中行事番帳之次第

ここに記されているのは、詫間荘内の詫間・吉津・比地にあった寺院や坊舎などです。それが4つの寺を一組として、ローテションで浪打八幡宮の年中行事に奉仕していたことが分かります。ここに出てくる寺院や坊が、史料Bの
「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件」
の「供僧中」だと研究者は考えています。この供僧中は本来12口でした。それが史料Cの14世紀になると新加入の供僧が増えて、その数はその倍以上にふくれあがっています。浪打八幡宮供僧中は、詫間荘全域ではありませんが、詫間・吉津・比地と荘内の各地域に分散しています。ここからは、浪打八幡官が惣荘鎮守社であるとともに、詫間荘全荘の宗教的センターの役割も担っていたことが分かります。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
正保国絵図に見る詫間郷周辺

史料Bでは、「社務供僧中検校雇頭神人有会合定之」とあります。
そして検校と惣官が署判しています。社務は神職で、署判している惣官がこれにあたるようです。検校は供僧の代表的存在、雇頭神人は名頭役を勤仕する名主のことでしょう。ここからは、浪打八幡宮名主座の運営は、社務・検校・供僧・名主の合議で行われていたことがうかがえます。そのなかでも史料Bに署判している社務(惣官)と検校が指導的な役割を担っていたようです。僧侶が神を祀る祭礼に奉仕するのは、今の私たちには違和感があるかもしれません。しかし、神仏混淆のすすんだ中世は、神も僧侶によって祀られていたのです。同時に、三野平野西部の詫間荘には、これだけのお寺や坊があって、多くの僧侶がいたことを押さえておきます。そして、その数は中世の間に、次のように大幅に増えています。
1391(明徳二)年の史料Bには、詫間・吉津・比地・仁尾の19の名。
1509(永正六)年の史料Cの頭文には、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の36名が見えます。
  別の見方をすると、浪越八幡社は36のお寺や坊が関わる地域の宗教センターであったことになります。そして、大般若経を整備したりする場合には、これだけの僧侶が写経や寄進に関わることになったはずです。
 それではこれだけの寺院に支えられた浪打八幡社は、どこの寺院の傘下にあったのでしょうか?
 それは多度津の道隆寺だったようです。中世の道隆寺明王院の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

道隆寺温故記
 
これを見ると西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。それは、その下で奉仕する僧侶達も影響下にいれていたことになります。
その中に
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

 庄内半島や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。詫間荘の浪打八幡宮の祭礼に参加する僧侶達は、道隆寺の下に組織化されていたことになります。道隆寺は讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。道隆寺の果たしていた役割については、以前にお話ししました。それを要約しておくと
①地域の学問寺として僧侶育成の場でもあり、写経センター的な役割を果たしていた。
②堀江港の管理センターの役割を持ち、塩飽など海に開かれた布教活動を行っていた
③讃岐西守護代香川氏の菩提寺として、香川氏を経済的・文化的に支援した
 このように香川氏の下で活発な活動を行う道隆寺の傘下にあったのが浪打八幡宮と、それに奉仕する詫間荘の36の寺院・坊の僧侶達と云うことになります。道隆寺は、海を越えた児島の五流修験(新熊野)との関係があった痕跡がします。熊野修験 → 児島五流 → 道隆寺 → 浪越八幡という流れが見えてくるのですが、これを史料で裏付けることはできません。しかし、このような関係の中で、道隆寺傘下の寺社は活発な瀬戸内海交易活動を展開していたと私は考えています。そして、それを保護したのが天霧城の主である香川氏と云うことになります。

以上を整理しておくと
①三野郡詫間郷は、13世紀半ばに立荘され九条家の荘園となった
②その郷社として建立されたのが浪打八幡社である。
③浪打八幡社の祭礼には、詫間荘の 詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名や寺院がローテンションを組んで奉仕していた。
④浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていた。
⑤浪越八幡宮は、その上部組織としては多度津の道隆寺の傘下にあった。
⑥道隆寺は海に開かれた寺院として、堀江港を管理する港湾管理センターの役割を果たしていた。
⑦道隆寺傘下の寺社は、道隆寺のネットワークに参加することでそれぞれの地域で瀬戸内海交易を展開した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」
関連記事

DSC03968仁尾
燧灘に開けた仁尾(昭和30年代)

  仁尾浦住民とその代官とが「権利闘争」を展開していることを以前にお話ししました。その経過をもっと分かりやすく紹介して欲しいという要望を受けましたので、できる限り応えてみようと思います。
今回は史料紹介はなしで、経緯だけを追っていくことにします。テキストは「国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」です
仁尾浦は、南北朝期頃までは鴨御社社領でした。
それが15世紀初めに讃岐守護細川満元によって、社家の課役が停止されます。そして仁尾浦は「海上の諸役」という形で守護細川家に「忠節を抽ずべき」とされます。早く言えばパトロンが京都賀茂神社から細川京兆家に替わったということです。「仁尾浦の神人に狼藉をなすものは罪科に処す」と命じているのは細川氏です。ここからは仁尾浦の統治権限は細川氏が握っていたことが分かります。言い換えれば、仁尾浦は細川氏の所領になったと云えます。しかし、細川氏は自分で所領経営を行うことはありません。代官を派遣します。仁尾浦代官を任されたのが香西氏です。15世紀前半までには、仁尾浦の代官を香西氏が務めるようになっていたことが史料から分かります。
香西氏は、代官として次のような賦課を行っています。
①兵船微発
②兵糧銭催促
③一国平均役催促
④代官親父逝去に伴う徳役催促。
①は細川氏所領として義務づけられている「海上の諸役」です。
②は代官香西氏が「和州御陣」に参加した時に2回微収されています。一回目は1438(永享10年ごろ、20余貫を「御用」として納めています。2回目は翌年に50貫と「使者雑用以下」として10余貫文計60余貫文を納めています。2回目の時には「厳密にさた在らば」「以前の徳役の事はし下さるべきなり」という条件が付けられているので、この時の兵糧銭は代官の恣意的課役だったようです。
③は本来は守護代香川氏が課税するものなのでしょうが、仁尾浦では代官の香西氏が賦課しています。そして「浦人は精一杯御用をつとめている」と述べています。②③は合わせて「役徳」・「徳役」と称されるもです。
④はまさに香西氏の恣意によって課された「徳役(役得?)」で20余貫文を納めさせられています。

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事の起こりは、嘉吉の乱への守護代香川氏からの用船調達命令でした。長くなりますが、その経緯を追って行きます。
 仁尾浦は「今度の御大儀(「嘉吉の乱勃発に伴う泉州出兵)」のために、西方守護代香川修理亮方から「出船」の催促を受け、船二艘を仕立てます。これに対して代官香西豊前方は、それは「僻事(取り違い)」であると制止します。そして対応処置として船頭と船を抑留します。香川方への船と水夫の提供については「御用」に従って、追って命令があるまで待て、と香西五郎左衛門は文書で通知します。そのため仁尾浦では船の準備をやめて指示を待っていました。

仁尾賀茂神社文書 1441年
讃岐国仁尾浦神人等謹言上(仁尾賀茂神社文書9

 ところが、守護代香川氏からは手配を命じた船がやって来ないので「軍務違反」の罪で取り調べを受けることになってしまいます。結局、仁尾浦は代官香西方と守護代香川方の両方から「御罪科」に問われることになります。徴用された船の船頭は、追放されて讃岐へ帰ってきますが、すぐに父子ともに逐電してしまい、その親族は浦に抑留されます。
 また、 香西方に「止め置かれた船(塩飽で抑留?)」については、何度も人を遣わした末に取り返します。そうする内に今度は、香西氏から「船を仕立てて早急に参上するべき」との命令を受けます。そこで「上下五十余人」を船二艘に乗せて参上し、しばらく京都にとどまることになります。その機会に幕府に対して、今回のことについて何回も嘆願します。しかし、機能不全に陥っている室町幕府からはきちんとした返事は得られません。ついには「申し懸ける」人もなくなり、なす術がなくなってしまいます。

 以上からは、用船について代官香西氏と守護代香川氏が仁尾浦に対して、違う指示を出していたことが分かります。
もしかしたら香西氏と香川氏は半目状態にあったのではないかとも思えてきます。どちらにしても命令系統が一本化されておらず、両者の間には相互連絡や調整もなかったようです。そのため仁尾浦は2つの違う命令に応じて、次のような無用の出費を費やすことになります。
①守護代香川氏の命で兵船を仕立てるために40貫文
②香西方の命で船を仕立てるために100貫文
挙句のはてに「御せっかんに預かる」という始末です。そしてすべての責任と経費を仁尾浦側が負うことになってしまいます。しかし、仁尾浦の神人を中心とする浦人たちは黙って泣き寝入りをしません。次のような抵抗運動を展開します。
①香西氏の代官改易要求の訴え
②仁尾浦住人の逃散
③徳役50貫文催促拒否
 そして、この仁尾浦住民の訴えは、幕府に受けいれられます。「(香西)豊前方の綺いを止められるべきの由」の「御本書」を得ることに成功し、京より帰ってきた神人たちは「抵抗運動勝訴」を兼ねて「九月十五日、当社の御祭礼」を執り行おうとします。
 そこを狙ったように香西氏は「同所陸分の内検」を強行しようとします。
これは仁尾の田畠を掌握して、新たな課税を行おうとするものでした。香西氏の制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を改めて要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。
香西氏は仁尾浦住民の反発が予想されるにもかかわらず、次のような新たな賦課を課そうとします。
①「一国平均役」 → 本来は守護側が課すべき賦課
②守護代香川氏の催促を無視して行われた「兵船催促」
③住人逃散に対して行われた「陸分内検」
これは、守護細川氏の家臣であるという地位を利用した課税と支配の強行とも云えます。
 守護の代官による御料所支配は、荘園の代官職請負のように明文化された契約に基づいて行われれていたのではないようです。守護細川氏は、自分の家臣を代官に任命して、一任しています。そのため浦代官は慣行を無視できる立場でした。香西氏は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。これは、守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいが考えられる事は以前にお話ししました。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制

経済的に見ると浦代官になることは、国人領主が財政基盤を固め次のスッテプに上昇するためのポストでもあったようです。
 例えば、髙松平野東部に勢力を持つようになった十河氏は、古高松の方(潟)元湊の管理権を得ることで、財政基盤を高め有力国人へと成長して行きます。また、多度津湊で国料船の免税特権の運行権を持っていた香川氏も、瀬戸内海交易を活発に行っていたことは以前にお話ししました。香西氏も香西湊を拠点に、塩飽方面にも勢力を伸ばし、細川氏の備讃瀬戸制海権確保の一翼を担っていたともされます。  そのような中で、伊予や安芸との交易拠点となる仁尾浦を管理下に入れて、支配権を強化し財政基盤強化につなげるという戦略をとろうとしたことが考えられます。それは細川京兆家の意向を受けたものだったかもしれません。

  最後に、これを進めた仁尾の浦代官は誰だったのかを見ておきましょう。
史料には仁尾浦代官の名前が次のように見えます。
1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)
1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)
この史料からは1441年10月に死去した「香西豊前の父」は、「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 この史料には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。つまり、この二人は同時代人で、別人ということになります。ここからも香西氏には2つの系譜があったことが分かります。整理しておくと
①15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
②その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
③細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」
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庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸

前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

大日本地名辞書 8 | 吉田 東伍 |本 | 通販 | Amazon

  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置

意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 

ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
DSC00417
神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
DSC00409
神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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本山寺 接待碑
本山寺の接待碑(1745年)
本山寺には延享2年(1745)の銘をもつ接待碑があます。
この碑の正面には「永代常接待」と刻まれ「施主 比地中村 石井万治」とあります。永代にわたって茶接待を行なうことが宣言されています。この頃から遍路者を含めた参詣者が増加し、それに対応して札所・本山寺が遍路接待の拠点とされたことが分かります。本山寺は、遍路者と地域住民とをつなぐ結節点となっていたようです。
茶堂について、明治12年(1879)本山寺が内務省に提出した届控えには、次のように記されています。
【史料1】茶堂 本尊弘法大師
由緒 延享二乙丑年二月施主当国三野郡比地中村石井万治郎ナル者是ヲ建立シ、永代茶ヲ焚摂待セン事心願二依テ耕宅地八反五畝拾一歩ヲ寄附ス、然ルニ該堂年ヲ経テ破損致シ候処、
安政六己未年九月仝当時(石井時四郎/石井増治郎〉両名ヲシテ是ヲ再建ス  建物梁行弐間半 桁行四間半
意訳変換しておくと
茶堂の由緒については、延享二(1745)年2月、当国三野郡比地中村石井万治郎が施主として建立した。永代に渡って茶の接待をすることを願って、耕宅地八反五畝拾一歩を寄付した。ところが年月を経て、破損が目立つようになり、安政六(1859)年9月に石井時四郎と石井増治郎が、これを再建した。
建物梁行弐間半 桁行四間半

ここからは、接待碑の施主と茶堂の施主とは同一人物であることがうかがえます。接待碑とあわせて茶堂がつくられたようです。建立から約110年後の安政6年の再建も、石井万治郎の子孫とみられる人たちによって行われています。このように本山寺では延享2年に遍路や参詣者を迎え入れる空間整備が行われたことが分かります。
 本山寺境内には、天保5年(1834)に亡くなった伯者国出身の締信法師の墓があります。「当山茶堂坊」との銘があるので、締信法師は茶堂で接待奉仕をしていたことがうかがえます。巡礼者や廻国者が、そのまま境内に居着いて寺に奉仕するということはよくあったようです。
本山寺 伽藍図




この茶堂は弘化4年(1847)の『金昆羅参詣名所図会』(第4図)にも描かれています。本文中には「茶堂(大師堂に並ぶ、摂待所なり)」と記されています。さらに明治28年(1895)の『本山寺伽藍井本坊改造図』(第5図)や大正3年(1914)頃の『七宝山本山寺全図』(第6図)にもそれぞれ確認することができるから、近代に入ってもなお維持されていたことが分かります。

本山寺境内改造図(明治28年)


貞享4(1687)年に、本山寺を訪れた僧真念は、『四国辺路道指南』に次のように記します。

「七十番本山寺平地。坤むき、此事は家居よく景気もよし。しかれども辺路やど(宿)不自由なり。本尊馬頭 坐二尺五寸、御作。」

ここからは、本山寺周辺は家も建ち並び、経済活動も活発に行われているが、「辺路やど(宿)不自由」とあるので、宿は整備されていなかったことがうかがえます。それを、住持や周辺の有力者も課題と考え、どうにかしたいとおもうようになります。
それから60年後に書かれた「遍路屋記録之覚」(本山寺蔵)を見てみます。
 遍路屋記録之覚
延享二年春令遍路屋造立其旨意趣者、竹田村辻治兵衛尉祐刹数年之依志願被建立、寄進之土地屋敷之分ハ承仕屋敷寺抱屋敷之内二而当寺先師威徳院現住法印周峯永代被寄進之、右施主方より伺之指構茂無之諸事寺之致支配様二と有之、尤番人等二至迄も村役人者不及申施主方迄も当寺住職之了簡相任、此後修復繕普請等ハ以奉加勧進可致支配之筈二相定候、

 ここには延享2年(1745)に、竹田村の辻治兵衛尉が遍路屋を建立したことについて記されています。この年は、先に見た接待碑・茶堂の建立と同じ年に当たります。また、竹田村は、本山寺の北側に位置する近隣村落です。増える巡礼者に対して、茶堂などの接待所や、宿泊のための遍路屋が周辺の有力者によって建立寄進されていることが分かります。これは、以前にお話しした弥谷寺でも同じような動きがありました。寺の遍路受入に周辺有力者が積極的に協力していく姿が見えます。これも弘法大師伝説の浸透の成果かも知れません。

本山寺の大師堂

今は、どこの札所寺院にも大師堂があります。しかし、江戸時代初期には大師堂がある札所は、ほんのわずかでした。四国辺路から四国遍路へと、巡礼者が修行者から一般庶民へと変わって行く中で、「大師一尊化」が急激に進んでいきます。その結果、札所にとって大師堂は欠かせないものとなります。そして、大師堂の建立が進み、戦後は大師像が境内に姿を見せるようになります。これは、弘法大師信仰は各札所寺院には江戸時代になって遅れてやってきたものであることを示しています。それまでの霊場に根付いていた「熊野信仰 + 阿弥陀信仰 + 修験道」などの信仰に、近世になって弘法大師信仰が接ぎ木されたと研究者は考えているようです
大師堂(本山寺) 

本山寺にはどのように大師堂が、建てられたのでしょうか?
大師堂の棟札には寛政7年(1795)9月29日に建立されたと記されています。発願主が「三箇邑中」(寺家村・岡本村・本大村)、大工棟梁が「三好源蔵長光鍛治等」です。この棟札には「弥勒堂」とありますが、これは「祖師堂」の別名で、建築時に事故があったために弥勒堂と称したと記されています。これが棟札から分かる大師堂建立についての情報です。
 本山寺文書の中には、より詳しく大師堂建立の経緯を記したものがあります。それを見ていきます。
本山大師堂、十一年以前寅冬東国之廻国行者源次郎与申者、本山之土地二而久々相煩九死一生之詢、弘法大師井本尊馬頭観音へ此伽藍御影堂建立可仕間、此方之命御助ヶ奉願上立願仕候由二而先住代建立被仰付被下度与願出少々勧進仕候得共、近年之世柄故に今建立相済不申、右開帳勧場二而今年建立仕度旨御願申上候、右廻国行者源次郎逗留仕居申願主相勤罷有候外二浄入与申道心者、是茂東国者二而願主相加り何角世話仕罷有候、元来少々奉

  意訳変換しておくと
本山の大師堂については、11年以前の冬に東国の廻国行者である源次郎と申す者が、本山の近くで九死一生の病となった時に、弘法大師と本山寺の本尊馬頭観音へ御影堂(大師堂)建立を行う代わりに助命を願った。そこで先住の院持は彼に建立勧進の願主を命じて、勧進活動を進めた。
 しかし、近年の世俗柄で建立までには至らなかった。そこで開帳勧場を行うことになり、廻国行者源次郎と供に、本山寺に逗留していた浄入という東国の道心者(下級仏教者)に世話をさせた。こうして奉加寄進を果たすことができた。         後略

ここからは次のようなことが分かります。
①「東国之廻国行者源次郎」が、本山寺の御影堂(大師堂)建立の願主となり、勧進を行っていたこと
②本山寺には東国者の「浄入」という道心者がて、源次郎とともに勧進活動を進めたこと。
大師堂建立に関わった勧進僧の勧善浄行の墓が境内にあります。
その墓碑銘には正面・側面・裏面の銘文を合わせ、次のように記されています。
俗名宗七、肥之前州松浦郡里邑之人、寛政中、拝四国霊場巡而請当山、万謁光師教英法印、時師有祖堂当建之願志、后以促之、即奉命日吾雖無金銭、以□営事而希投身命而胎師之願□廼勧奨十方四来之檀越而募一粒半銭之助縁、於是道俗喜而投資財、貴賤群而曳土木、遂乃弥勒堂一宇、不日造畢後、有本堂修理之志、未果病而区、
文化二年乙丑四月七日、本山寺現住体教誌
意訳変換しておくと
俗名宗七は肥之前州松浦郡里邑の人である。寛政年間(1789~1801)に、四国霊場の巡礼中に、当山の教英法印から「祖堂(大師堂)」建立の志を聞いて、助力することになった。金銭はないけれども、勧進活動に身を投じ、教英法印の願いを実現すべく十方四来を行き来し、一粒半銭に至るまで助縁を願い、人々は喜んで資財を寄進した。貴賤に関わらず多くの人々が土や木を曳き、ここに弥勒堂(大師堂)は姿を見せた。大師堂完成後は、本堂の修繕を願っていたが、これは適わずに病没した。文化二(1805)年4月7日のことであった。本山寺現住体教誌

 彼の墓が境内につくられていることからみて、その功績が大きかったことがうかがえます。ここからは、本山寺の大師堂建立に際して、廻国行者源次郎や道心者浄入・遍路の浄行などの勧進僧が集団を形成して勧進活動に当たっていたことが分かります。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
太興寺の仁王門

本山寺周辺の勧進僧の活動を見ておきましょう。
 66番大興寺の仁王門は、関東からやってきた唯円という廻国行者が享保12(1727)から10年間の勧進活動で建立したことは以前にお話ししました。唯円はその業績を買われて、その後は善通寺五重塔の勧進活動に携わっています。唯円の再築から60年後の寛政元(1789)年に、この仁王門は改修されることになります。その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国  金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者たちであったことになります。
大興寺周辺の廻国六十六部の動きを年表化して見ておきましょう。
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の遍路路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っています。周辺の札所寺院で勧進活動を行い、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵などに定着していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
  そして、本山寺が大師堂を建立することになると、彼らが勧進グループを形成して、建設資金の調達から人夫募集まで手がけるようになります。

勧進活動と聖人の関係を振り返って起きます。
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は、次のように評されます。

「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

しかし、経済的な視点で見ると「勧進」は、聖人の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていました。
 時が経つに従って、大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業をうけおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・善光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると。勧進を研究者は次のようにも指摘します。

勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。四国霊場札所の堂宇建設や遍路道整備などに、廻国の六十六部のような勧進僧が活躍するのは、このような歴史的な背景があったからのようです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       上野進 札所霊場としての本山寺 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会

本山寺 伽藍図
本山寺伽藍図
近世に書かれた「七賓山本山寺縁起」には、次のようなことが記されています。
①開基は弘法大師で、平城天皇の勅願をうけてこの地を訪れた大同2年(807)、鎮護国家のために堂字を建立したこと。
②本堂には「一夜建立」の伝説があり、短期間でできたこと。
③弘法大師は堂宇に本尊として馬頭観世音菩薩像を彫像し、寺号を「七宝山持宝院長福寺」として創建したこと。
④往古は「根本中堂七間四面、五重賓塔一基、大恩教主堂、虚空庫蔵堂、愛染尊堂、普賢延命堂、入灌頂堂、大師御影堂、護摩堂、十二堂、外安、五所大権現、賓庫一宇、鐘棋堂、閑伽井、文殊堂,般若堂、可利帝母堂、二王門、中門」が境内には多数の堂字が建ち並んでいたこと
⑤「土州長曾我部元親之兵火 焦土伽藍 焼失寺院」とあり、「境内は本堂、二王門を残し、灰儘に帰した」こと。
これはあくまで「縁起」ですので、そのまま信じることはできません。
本当に④に記されたような堂宇が建ち並んでいたのでしょうか?
⑤には、「天正の兵火」の長宗我部軍の侵攻で、「本堂を仁王門を残して灰燼に帰した」と記します。なぜ本堂と仁王門は残ったのでしょうか。言い伝えでは、次のように語られてきました。

(長宗我部元親の配下の武将が本山寺の)住職に刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れた。このため仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるようになった。その後、長法寺から「本山寺」と名を改めた

これは、江戸時代に作られた「伝説」です。私は本山寺は兵火には会っていないと考えています。だから鎌倉時代の本堂や仁王門が残っているのです。中世の本山寺には、本堂と仁王門しかなかったのではないでしょうか。
 長宗我部郡の侵攻の際に焼き討ちに遭っていないのがはっきりしているのは、三豊では本山寺と観音寺、中讃では松尾寺金光院(現金刀比羅宮)です。松尾寺は長宗我部占領下で院主宥雅が堺に亡命し「無血開城」しました。その後には、元親側近の修験者が金光院の院主に就任しています。天霧城の香川氏と長宗我部元親の間には、「不戦協定」が結ばれていて、香川氏の勢力下にあった寺社は焼かれていないことは以前にお話ししました。本山寺も、当時は香川氏の勢力下にあったことが考えられます。観音寺の室本麹座は、香川氏からの特権を得ています。観音寺周辺まで、香川氏の勢力範囲であったことを裏付けます。一方、阿波の三好勢力にあった近藤氏や詫間氏などの勢力下にあった寺社は焼き討ちにあっているようです。長宗我部元親は、闇雲に讃岐全土の寺社を焼き討ちにはしていないことを以前にお話ししました。

讃岐の近世は生駒親正によってはじまるとされます。
生駒氏は金毘羅大権現を始め、讃岐の寺社を保護し、荒れ果てていた伽藍の整備を支援したと伝えられます。本山寺には、親正の子一正が持宝院(本山寺)に宛てた文禄4(1595)の寄進状が残されています。これには、一正が持宝院に対して屋敷・上田1反を寄進したことが記されています。
 慶長16(1639)年には高松における論議興行にあたって参加を呼びかけらた19ケ寺の中に持宝院の名があります。この頃には讃岐を代表する寺院の一つになっていたことがうかがえます。しかし、寛永17年(1640)の寺領は1石5斗4升と記されます。これが本山寺の経済基盤であるとしたら、本当に「復興」が進められていったのでしょうか?
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承応2(1653)年に、僧澄禅によって書かれた『四国遍路日記』に、本山寺は次のように記されています。
「本山寺七宝山長福寺持宝院」
「本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。寺主ハ四十斗ノ僧也。当寺ノ縁記別二在。」

ここには本堂、二王門、鐘楼だけが記されるだけです。澄禅は、存在した建物は全て列挙しています。本山寺には、これ以外の建物はなかったと考えられます。「土州長曾我部元親之兵火 焦土伽藍 焼失寺院」がなかったとすれば、もともとがこれだけだった可能性もあります。そうだとすれば生駒藩の下での本山寺は、伽藍整備は進んでいなかったことになります。また、住職はおおよそ40才ほどの僧であったことも分かります。
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それから30年後に訪れた僧真念は、『四国辺路道指南』(貞享4年(1687))に次のように記します。

「七十番本山寺平地。坤むき、此事は家居よく景気もよし。しかれども辺路やど(宿)不自由なり。本尊馬頭 坐二尺五寸、御作。」

本堂については、現在と同じ「南西むき」の建物配置であったことが分かります。しかし、ここでもその他の建物については、何も触れていません。姿を見せていなかったと考えた方がよさそうです。
周辺は家も建ち並び、経済活動も活発に行われていたようですが。「路やど(宿)不自由」とあるので、真念の泊まった宿は整備されていなかったことがうかがえます。

その後の本山寺の動向を簡単に年表化して見ておきます。
寛文5年(1665) 尚範の後、住持になった弘尊による本堂修理
貞享元年(1684) 弘厳が住持となる
元禄7年(1694) 本山寺は大覚寺の末寺となり、本末関係に組み込まれていく
元禄11年(1698)住持弘厳が奥の院興隆寺の薬師堂建立
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弘厳が住持を勤めたいた頃に本山寺を訪れたのが僧寂本です

寂本は「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689)に、次のように記します。
此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、(中略)堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、

意訳変換しておくと
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古い五輪塔五六基がある。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川が流れている。

ここからは次のようなことが分かります。
①境内は垣によって囲まれ、広さは一町半あったこと
②境内には「本堂の右(本堂に向って左側)に石の塔」とあるので、五重塔の礎石あるいは基壇があったものと研究者は推測します。
③堂の後ろには五輪塔、二王門の右に五所権現があったこと
本山寺 四国遍礼霊場記
本山寺(四国遍礼霊場記) 
挿図を見ると、上の記述と同じような配置が描かれています。
この挿図をみると周囲の垣には四方に垣の途切れる部分が2ヶ所あります。
南は①「二王門」で「観音寺道」の記述が、
東には「弥谷道」の記述が
本堂に向かって左(西側)には、神社と考えられる建物が描かれています。これが現在は境内西側にある高良神社のようで、当時は境内にあったことが分かります。
④大型五輪塔5基は本堂(観音堂)背後にもともとはあったこと
大師堂については、「四国遍路日記』、『四国辺路道指南』と同じように、なにも書かれていないので、17世紀末までなかったことがうかがえます。もちろん五重塔もありません。

これを境内構成を研究者は次のように指摘します。
①竹垣と土塀らしいもので囲まれた本坊「持宝院」と、「観音堂」や「五所権現」などの堂舎が配された境内という二元的構成であったこと
②境内空間は竹垣で区画されているものの、二つの道によって参詣者に開かれていたこと。
③神仏に対する「信仰の場」として不特定多数の参詣者を受け入れていたこと。

18世紀の住持たちによって行われた伽藍整備を見ていくことにします。
宝永4年(1707)に住持となった素光は、7年後の正徳4年(1714)に五所権現(現鎮守堂)の大改修を行っています。また、境内の石造物に目を向けると、享保元年(1716)に宝医印塔が建立されていて、これが境内地にある最古の紀年銘石造物で、「奉納大乗妙典回国」と刻されているので廻国供養塔になります。
享保10年(1725)に住持となったのが淵泉です。かれは享保15年に庚申堂を建立しています。それまでは建物修理にとどまっていたのが、新規建立を含めた寺内整備がみられるようになるのは、この時期からのようです。
 また、境内に次のような一般民衆からの寄進物もみられるようになります。
享保11年(1726) 境内に地蔵菩薩坐像が寄進
享保15年(1731) 境内に地蔵菩薩立像が寄進

元文2年(1737)に住持となった周峯は、元文6年に開帳を実施します。その後、寛保元年(1741)に威徳院へ転住し、かわって住持となったのが龍行(?)は宝暦9年(1759)に十王堂を建立し、寺内の整備を進めます。

住持龍行の在任期で、研究者が注目するのは延享2年(1745)に接待碑が建てられたことです。
施主は比地中村の住人で、本山寺を拠点に接待が行われていたことが分かります。この碑は今も大師堂と十王堂の間に建っています。またこの時に、茶堂も建立されたようです。さらに同年に、竹田村の住人が遍路屋を建立しようとしています。この頃になると本山寺において遍路接待が盛んになっていたようです。他の四国霊場と同じように、本山寺でもしだいに遍路者をはじめ参詣者が増加していたことへの対応策がとられるようになったのでしょう。これは、弥谷寺や白峯寺でも見られました。18世紀末から19世紀になると参拝客の誘引のために、次のような経営戦略がとられるようになります。
①遍路道・道標の整備
②茶堂・休息所など接待施設の充実
③目玉となる誘引モニュメントの建立
教英も数多くの堂宇造営を手がけ、境内の充実に努めます。
寛政5年(1793) 鐘楼を修理
寛成7年(1795)弥勒堂(大師堂)を建立
この頃の境内の状況をみてみると、次のようなものが寄進されています。
安永元年(1772) 灯籠(赤堂前)が
安永2年(1773)手水鉢
安永7年(1778)地蔵菩薩半跏像
安永10年(1781)灯籠
寛政4年(1792)とその翌年には灯籠一対
この中で手水鉢の願主は「講中」となっているので、信仰団体としての講が形成されていたことが分かります。ここからは18世紀半ば以降になると、境内への寄進物が増加していったことが分かります。

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))には、次のように記されています。
本山寺は「当寺ハ本山の庄にある故に寺号とせる也。
詠歌 本山にたれがうへける花なれや春こそたおれ手向にぞなる
本堂本尊馬頭観世音坐像御長二尺五寸大師御作、脇士阿弥陀薬師、各大師の御作。十二堂本堂のまへにあり、大師堂本堂のまへにあり、石仏五智如来本堂の裏にあり、大師御作といふ、裏門。」
意訳変換しておくと
本山寺は本山庄にあることからくる寺号である。
詠歌 本山にたれがうへける花なれや春こそたおれ手向にぞなる
本堂本尊は馬頭観世音坐像で御長二尺五寸の大師御作である。脇士の阿弥陀と薬師もそれぞれ、大師の御作である。十王堂は本堂の前にある。大師堂も本堂の前にあり、石仏五智如来は本堂の裏にあり、大師の御作という。裏門。」
ここからは次のようなことが分かります。
御詠歌の「春こそたおれ手向に」は、花を供養に供えている人たちの存在を取り上げています。この寺が周辺村落の有力者の祖先供養の寺として機能していたことをうかがえます。そういえば境内に寄進されてている石造物も、この時期のものは地蔵菩薩が多いようです。弥谷寺と同じような性格も持っていたのかも知れません。
 また「
石仏五智如来は本堂の裏にあり、大師の御作」とあります。
ここからは、本堂裏(現太子堂裏)の五輪塔は弘法大師御作の五智如来として信仰対象になっていたことが分かります。
今度は挿図を見てみましょう。

本山寺 四国遍礼名所図会
本山寺(四国遍礼名所図会 1800年)

①二王門を入って正面に②本堂があり、その参道の左右に建物が描かれています。
右側手前の鐘が描かれていることから③鐘楼堂
右側中央の建物が④「大師堂」
相対する左側中央の建物が⑤「十王堂」
本堂右(本堂に向って左側)にある建物は、⑥「大日堂」
これまでなかった大師堂が姿を見せています。『四国遍礼名所図会』(1800年)の時点で、現在の本山寺境内の建物配置は、五重塔を除いてはほぼ確定されたことが分かります。

文化9(1812)年に住持となるのが本具です。
本具は文政元(1818)年から、本堂の蔀戸を菊紋唐戸に新調し、縁廻部を修理しています。また境内には、文化13年とその翌年に大師堂前に灯籠が、文政2(1819)年に地蔵菩薩坐像(大門前)が寄進されています。この付属品の花立には「女講中」とあります。この時期には、女性による講も組織されていたようです。
文政11(1828)年に、本堂の大修理に着手します。
しかし、本堂修理事業は計画通りには進みません。境内の嘉永元年(1848)の光明真言供養塔には、幹事9人のもとで、本堂修理のための有志による寄附が始められたことが記されています。ここからは、本堂修理事業が、幹事を務める信徒によって進められていたことが分かります。この頃は金毘羅大権現の金堂が完成し、善通寺の五重塔が建設中だった時期になります。寄進勧進による寺社の建築ブーム時期に当たります。
この時期の本山寺の姿を描いたのが『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))で、次のように記されています。
「本山宝持院長福寺」
「本尊、馬頭観世音(長二尺五寸、弘法大師の作)脇士、阿弥陀如来・薬師瑠璃光如来(右同作)/御影堂、弘法大師(本堂の左の向かふにあり)茶堂(大師堂に並ぶ。摂待所なり)大塔の跡(本堂の右の傍にあり。小堂を建つる)十三堂(大師堂に対す.十三井びに三十三所の観音。三面大黒等を安ず)鐘楼(大師堂に隣る)庚申堂(青面金剛童を安ず)五所権現社(庚申堂に並ぶ)二王門(金剛力士の像を安ず)銀杏の古木(十王堂の傍にあり。至つて大木なり。今枯れて幹のみ存す。里俗これに祈願してその験ありと云ふ)

意訳変換しておくと
「本山宝持院長福寺の本尊は、馬頭観世音(長二尺五寸、弘法大師の作) 脇士は、阿弥陀如来・薬師瑠璃光如来で、弘法大師の作である。御影堂(大師堂)は、本堂の左の向かいにある。茶堂は接待所で、大師堂に並んでいる。大塔の跡が本堂の右の傍にあって、そこに小堂を建てている。十王堂は大師堂に対面し、十王と三十三所観音と三面大黒等を安置している。鐘楼は大師堂の隣。庚申堂には、青面金剛童が安置されている。五所権現社は庚申堂に並ぶ。二王門には金剛力士の像が安置されている。銀杏の古木が十王堂の傍にあって、大樹であるが今は枯れて幹のみ残る。地元の人たちは、これに祈願すれば願いが叶うと云う。

挿図を見ると境内の全ての建物に記述があり、境内の建物配置の詳しく書かれています。しかし、よく見ると、次のような疑問点を研究者は指摘します。
①十王堂の屋根が本来は寄棟造であるが、入母屋造に描かれている
②仁王門も切妻なのに入母屋に描かれている
金毘羅参詣名所図会の挿入絵については、弥谷寺の時にもお話ししたように、実際に絵師が現地を訪れずに、以前の絵図などを参考にして書かれた部分が多々あります。故に、この絵図は「絵図資料」としては、信頼性に欠けると研究者は考えているようです。

嘉永7年(1854)には方丈・庫裏が全焼しますが、それを乗り越えて、慶応3年(1867)には大師堂を再建しています。幕末寺の伽藍整備に尽力した戒如の功績は大きいようです。
また、住持戒如の頃には境内に多くのものが寄進されるようになります。
嘉永5年(1852) 線香立(赤堂前)
嘉永6年 灯籠(地蔵菩薩周辺)が女人講から寄進
安政6年(1859)に薬師如来座像(大師堂裏)、灯籠(地蔵菩薩周辺)
境内の整備状況を住持ごとにみてきました。ここからは、在地に密着した郷村寺院として、規模は小さいながらも数多くの喜捨を地域住民から集めていたことが分かります。また本山寺は、丸亀藩の支援を受けていましたが、基本的には檀家に支えられる村落寺院だったようです。
 江戸時代中期頃に成立した『七宝山本山寺縁起』には、本山寺の周辺にある岡本・本山(寺家)・本大の3か村にある多くの堂舎は、ほとんどを末寺・末社として、本寺の「持宝院(本山寺)」がこれを「職掌」したと記されています。これは本山寺が檀家以外にも、地域の神社の別当寺として地域の中核的な宗教センターとして支持を得ていたことを示しているようです。しかし、寺領の実態については分かりません。そのため寺の経済基盤についても分かりません。

 明治3年(1870)の『本末寺号其外明細帳』の本山寺の項には、「一 滅罪檀家 五百拾軒 内拾三軒ハ御他藩県御管轄二有り」とあり、本山寺には檀家が510軒あったことが分かります。
これは、江戸時代もほぼ同じ檀家数だったと推測できます。ここからは、本山寺の檀家数は都市部の観音寺や志度寺などに次ぐものだったと云えます。しかし、いざ本堂の修理などになると、檀家だけの力ではできませんでした。そのためたびたび開帳が行われています。もともと交通の要衝に位置した本山寺は開帳の場として定期的に人々を誘引しました。本尊が馬頭観音菩薩であることからもうかがえるように、牛馬の神として広範囲の信仰を集め、牛馬市なども開催されていたようです。中讃地域では、滝宮牛頭神社(現 滝宮神社)の龍燈院と同じような性格を持ったお寺であったと私は考えています。そのため地域社会だけでなく外にも開かれ、不特定多数の参詣者を受けいれるにふさわしい「信仰の場」を形成していったことが考えられます。

明治維新とともにやってきた神仏分離政策に、本山寺も翻弄されます。
別当を務めていた3ケ村の神社の社領・山林を新政府の「上知令」によって没収されます。これは寺院経営の基盤を突き崩すものでした。また、境内に目を向けると、幕末期に比べて寄進物は減少しています。たとえば明治になっての寄進物は次の通りです。
明治2年 丼戸枠(大師堂と十王堂の間)
明治9年 標石(大師堂と十王堂の間)
明治17年 弘法大師1050年遠忌の記念碑(本堂右横)
ここからは、寄進物は減ってはいますが、神仏分離後も本山寺は、信徒の支援を受けていたことが分かります。

本山寺 頼富実毅
本山寺住職 頼富実毅

明治24年に、本山寺特任住職となるのが頼富実毅です。
頼富実毅は精力的に境内整備に取り組んだ人物で、本山寺第二中興とされ、境内にも銅像があります。明治29年から14年の歳月をかけて五重塔の再興を果たします。五重塔再建にともない、大日堂が現在地に移転し、五重塔周辺には玉垣、標石が寄進されています。彼は明治の勧進僧でもあったようです。
頼富実毅が、五重塔着工前前年の明治28年に、檀家等に配布したのが「本山寺伽藍・本坊改造図」です。
本山寺境内改造図(明治28年)
本山寺伽藍・本坊改造図(1895年)

五重塔建設を願って配布されたもののようで、当時の境内の状況が詳しく描かれています。この図を見ると切妻造の「大門」(二王門)を抜け、正面に寄棟造の「本堂」があり、左右に諸堂が建ち並ぶ状況が描かれています。これはほぼ現在の境内建物配置と同じです。左右の諸堂は、
右側には手前から
「鐘楼堂」、「御影堂」(大師堂)、「茶堂」
左側には手前から
「鎮守堂」、「庚申堂」の2棟、寄棟造の「護摩堂」、
 宝形造の「大日堂」(旧多宝塔)
が描かれています。
 「大日堂」に向かって左側には、五重塔が姿を見せています。完成記念に描かれたものかと思っているとそうではないようです。よく見ると五重塔は他の建物より薄く描かれています。これはまだ姿がない建設予定の五重塔が描かれているようです。五重塔が姿を現すのは、明治43年のことです。明治28年には、まだありませんでした。当時の住職頼富賓毅の五重塔を建てたいという意思が伝わってきます。この伽藍図を見せながら頼富実毅は、五重塔の勧進事業を人々に説き、協力を求めたのでしょう。

本山寺全図(1914年)
本山寺 (七宝山本山寺全図 1914年)
本山寺所蔵資料の「七贅山本山寺全図」(大正3年(1914)頃)です。
切妻造の「二王門」を抜け、正面に寄棟造の「本堂」があり、左右に諸堂が建ち並びます。左右の諸堂は、
右側には手前から
「大門」、「祖師堂」(大師堂)、「鐘楼堂」、「茶堂」
左側には手前から
「鎮守堂」、「庚申堂」、寄棟造の「十二堂」、宝形造の「塔堂」(現在の大日堂)

が描かれています。「塔堂」に向かって左側には、「五重大塔」が描かれています。この時点でほぼ現在の境内建物配置と同じ状況ですが、「鐘楼堂」が本堂に向って右側に隣接して描かれ、これまでの挿図や現在の配置とは違っているようです。

本山寺 大門移築 1913年
本山寺大門移築工事(1913年)

また、境内の東側を通る伊予街道からの入口はなかったのですが、新たに東側に門(大門)が作られています。これは、地元有力者の寄進で、岡山の牛窓のお寺の門を解体移築したことは以前にお話ししました。こうしてみると現在の伽藍レイアウトが完成するのは、今から約110年前であったことが分かります。
愛染明王座像 本山寺
愛染明王(本山寺)
以上をまとめておくと
①元寇後の全国的な寺院建立運動の中で13世紀末に、本山寺では現在の本堂や仁王門が修験者や聖たちの勧進僧たちによって建立された
②縁起には中世には五重塔を含む大伽藍があったが、長宗我部元親の兵火にかかり本堂を仁王門だけを残して灰燼に帰したと伝える。
③しかし、「中世大伽藍」保持説には疑問があり、五重塔が実在したかどうかは分からない
④中世を通じて、本堂と仁王門を中心とするシンプルな伽藍であったことも想定できる。
⑤それを示すように江戸時代初期に本山寺を訪れた巡礼僧侶が残した記録には、本堂と仁王門しか描かれていない。ある意味、中世のままの姿である。
⑥18世紀になり四国巡礼者の数が増えるとともに寄進物も増え、大師堂などの堂宇も立ち並ぶようになる。
⑦遍路や参拝客誘致のためにも伽藍整備が求められるようになり、現在の伽藍の原型が出来るのは18世紀末である。しかし、江戸時代にも五重塔の姿は見えない。
⑧五重塔が現れるのは明治末になってからである。
本山寺 建物変遷一覧表
本山寺境内建物変遷一覧表
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本山寺 境内 仁王門より
本山寺境内 仁王門より
本山寺は、財田川と宮川の合流点付近の平地の中にあります。遍路道を観音寺からを歩いて行くと、明治に建てられた五重塔がシンボルタワーとして導いてくれます。この寺の歴史を見ておきたいとおもいます。テキストは「上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会」です。

本山寺地図
本山寺周辺遺跡
まず本山寺の立地条件から見ていきましょう。
本山寺の南を流れる財田川は、まんのう町塩入の東山峠付近の阿讃山脈に源をもちます。山間部では蛇行を繰り返しながら、三豊市山本町で三豊平野に出て扇状地を形成します。三豊平野を流れる財田川周囲の地形にはグーグル地図を見てもかなりの乱れが見えるので、氾濫を繰り返す川であったことがうかがえます。本山寺は財田川右岸にあり、ちょうど高瀬町羽方宮奥に源を持つ財田川支流の宮川が合流する所になります。
本山寺 航空写真1974年
本山寺周辺 財田川と宮川の合流地点に立地
航空写真を見ると財田川北側に残る条里型地割が、財田川と宮川の氾濫によってかなり乱れています。その縁辺部に沿って江戸時代以降の旧伊予街道が抜けていていて、その街道に接するように本山寺があることが分かります。本山寺は氾濫原に接していますが、本山寺の史料に洪水の記事は出てこないので、この地が安定していた場所であったことがうかがえます。
  宮川の源流は、式内神社の大水上神社(讃岐二宮)です。
この流域からは銅鐸や銅剣が出ているので、早くから開けたエリアだったことが分かります。宮川流域の延命院の境内には、横穴石室を持った中型の古墳があります。しかし、その規模や数は母神山や大野原の古墳群に比べると見劣りします。ところがこのエリアの有力者は7世紀後半に突如として讃岐で最も早い古代寺院の建立を始めます。それが⑤妙音寺になります。これは、壬申乱後に成立した天武朝政権に取り入り、最新鋭の宗吉瓦窯群を誘致し、藤原京へ宮殿用瓦を瓦を提供した丸部氏の氏寺であると研究者は考えているようです。
 地方の古代寺院は、旧国造クラスの有力者の氏寺として作られたものがほとんどです。そのためパトロンである有力者が衰えると維持できなくなります。妙音寺も中世になると衰退したようです。そのような中で、妙音寺に代わって登場するのが本山寺になります。
 本山寺は、三豊市豊中町にある高野山真言宗の寺院で、七宝山持宝院と号します。もとは長福寺と称したようです。
江戸時代中期に書かれた『七宝山本山寺縁起』には、その由来を空海による「一夜建立之霊刹」で、草創の時期は大同2年(807)と記します。しかし、成立期の本山寺については同時代の史料がないのでよく分からないようです。ただ、地理的に次のような点は確認できます。
①古代から本山寺が財田川と宮川の合流点に位置していたこと
②古代の官道である南海道がすぐそばを通っていたこと
ここからは交通の要衝に、本山寺の前身寺院の長福寺があったことは考えられます。

本山寺 本堂用材
本山寺本堂に保存されている用材

 明治33年(1900)の「古建物調査書」によれば、本山寺本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。そういえば、善通寺建立の用材は、まんのう町春日の尾野瀬山から切り出されたと伝えられます。
 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、交流していたことをうかがわせるものです。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

元寇後の地方寺社の建築ラッシュ
元寇後の地方有力寺社の建築一覧表
 
上の地方寺院の造営時期一覧表を見て分かることは、元寇後の13世紀末に諸国に寺社の修造ブームが巻き起っていることです。讃岐近隣の寺院を抜き出して見ると、次のようになります。
1289年 土佐の金剛福寺
1292年 安芸宮島の厳島神社
1293年 土佐の最御崎寺
1298年 善通寺 備後浄土寺
1300年 本山寺
1312年 伊予大三島の大山積神社

この背景には幕府が寺社保護を強化するという政策がありました。これが地方寺社の改築ラッシュにつながったようです。このときの寺院建造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
①寺社建造が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
②建造運動が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって進められたこと

②については、正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に次のように記されています。
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたことがうかがえます。このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させます。そして、地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。こういう動きの中で、善通寺や本山寺の本堂改築を見ていく必要があるようです。

それでは、鎌倉時代の本山寺の動向を見ておきましょう。
①暦仁2年(1239)  「沙弥真仏」が本堂修理。
②建長7年(1255) 「沙門心導」「比丘尼宝阿」と「沙弥道安」が本堂修理
③正応4年(1291)  「金剛仏子心導」と「佐々木某」が本堂修理
ここからは、鎌倉時代以前に本堂にあたるものがすでにあり、13世紀に定期的に修理が行われていることが分かります。本山寺は平安時代末期には、存在していたようです。
研究者が注目するのは、登場人物の「沙弥」という肩書きです。
沙弥とは「正式の僧侶になる以前の人」ととされます。暦仁2年(1239)の「沙弥真仏」、建長7年(1255)の「沙弥道安」がどのような人物であるかは分かりません。しかし、彼らが僧侶と在家の中間にあって本山寺本堂の修理に関与していたことは分かります。また、暦仁2年の修理以外は、どれも正式な僧侶と沙弥(あるいは俗人)とがセットになって修理・再建の責任者となっています。ここからは、本山寺本堂は僧侶たちだけでなく、沙弥・俗人の支援を受けて修理・再建が行われていたことが分かります。これは早い時期から本山寺が、地域社会と連携し、その支援を受けれる体制が整えられていたことを示すものと研究者は考えています。

本山寺 本堂
本山寺本堂
そして、13世紀末の諸国寺社の修造ブームが本山寺にもやってきます。
本山寺の本堂は、従来は正応年間に丸亀藩の京極近江守氏信が寄進したものと伝えられてきました。ところが昭和28(1953)年2月の解体修理の際に、礎石から次のような墨書銘がみつかります。

「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」

ここから、本堂が鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝に指定されます。讃岐の寺社では「長宗我部元親焼き討ち全焼説」が由来として」伝わっていることが多いのですが、本山寺の本堂はそれ以前のもので焼き討ちを受けていないことを押さえておきます。
 また、「大工藤原国重や平友末」と大工名も記されています。
その後の研究で彼らは奈良南都の工匠で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。奈良の名のある大工が讃岐にやってきて手がけた本堂になるようです。同じ時期に、奈良の大工たちが尾道の浄土寺などにもやってきて腕を振るっていた時代です。本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。
本山寺 本堂2
本山寺本堂廊下よりの伽藍 右が十王堂
なお、正安2年に本堂棟上を行ったのは「沙弥覚道」です。
「覚道」については、善通寺中興の祖として著名な宥範の師のようです。宥範の伝記『贈僧正宥範発心求法縁起』(応永9年(1402)撰集)に、その師として「談議所無量寿院僧正覚道上人道憲」が記されています。「覚道上人道憲」とあるので本山寺本堂に関わった「覚道」と同一人物である可能性を研究者は指摘します。
 またこの史料によれば、徳治元年(1306)に宥範が東国修行から帰国した際、讃岐国野原(現在の高松)の無量寿院隋願寺で、師「覚道上人道憲」と面会しています。ここからも「覚道上人道憲」は正安2年の「覚道」と同一人物であることが裏付けられます。
 この「覚道上人道憲」は顕日房道憲とも呼ばれたようです。
道憲は東大寺戒壇院中興の祖とされる実相房円照の弟子です。文永9年(1272)に授戒し、円照の授戒弟子として南都奈良で活動した後、出身地に帰って寺院建立や教化活動を行っていたことが知られています。とすれば、寺院建立に実績のある「覚道上人道憲」が、本山寺本堂の建立にあたっても助力したと考えることができます。本山寺の本堂や仁王門の建立を、南都奈良の大工たちが担当していました。それを実現させたのは奈良でも寺院建立活動を行っていた「覚道上人道憲」がいたから実現できたことと研究者は推測します。

本山寺 仁王門3

本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立されます。
本山寺 二王
本山寺の二天像
そこに二天像が収められます。二天王像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は、「当国内大見」住人と記されています。大見は、弥谷寺の麓で三野湾に面する所で、三野郡下高瀬郷に属します。西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。
②の絵師は、善通寺お抱えの絵師のようです。
ここからは、本堂や仁王門などの建築物については、奈良からやってきた宮大工たちが、そこに安置された二天像は地元讃岐の仏師や絵師たちによって造られたことが分かります。
P1120243本山寺 毘沙門天
本山寺の二天立像(毘沙門天)
本山寺の造立運動を進めたのは、どんな宗教者だったのでしょうか?
先ほど見たように、この時期の地方寺社造立ラッシュは「②地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していた」と研究者は指摘していました。それを今度は見ていこうと思います。
中世の本山寺は、持宝院あるいは長福寺とよばれていたようです。 本山寺という現寺名は、地名によるもので古代の郷名「本山郷」に由来します。本山荘は鎌倉時代前期には九条家領でしたが、のちに石清水八幡宮領となります。研究者が指摘するのは岩清水八幡宮領の成立に際して、その分霊が勧請されていることです。

岡本鳩八幡社
鳩八幡神社
その一つが岡本にある鳩八幡神社になるようです。
   本山荘・本山新荘のエリアは、現在の豊中町本山・岡本、観音寺市本大町あたりが荘園領域とされます。岡本(鳩)八幡神社は、社記によると嘉禎年間(1235)に本山荘が山城国石清水八幡宮へ寄進せられ、その社領となります。そのため領家である石清水八幡宮の御分霊を勧請し荘内の総社として祀られたとされています。 荘園が立荘された場合には、荘園領主と同じ神社を勧進するのが一般的でした。
 15世紀の観音寺船籍の船には、山崎胡麻60石の積載記録が残されています。これは石清水八幡宮の荘園である本山荘・山本荘から財田川を通じて観音寺港に集積されたものと考えられます。石清水八幡宮の神人たちは、淀川の交通路を握り、そこから瀬戸内海に進出しました。讃岐には海浜部を中心に草木荘・牟礼荘・鴨部荘など石清水八幡宮の荘園をはじめ末社が多いのもそのためです。

長浜神社 ネットワーク

近江坂田郷の寺社関係 八幡神社を中心にネットワークが形成されていた例

 つまり、本山寺は本山荘の寺社ネットワークの核であったことになります。そして中世は、石清水八幡宮のネットワークの一端に組み込まれていたことがうかがえます。それを裏付けるように、近世においては、本山寺は岡本八幡の社僧を務めています。また、熊岡八幡神社の別当寺でもあったことは、先述したとおりです。本山寺は、こうした旧本山荘内にある神社の別当を務めることによって勢力を維持したと研究者は考えています。
熊岡八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
熊岡八幡神社
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく
②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる
③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた
 つまり、有力寺院による地域寺院の組織化(末寺化)と、新たな信仰対象物の形成が同時進行で行われていたというのです。讃岐でも室町期には、荘郷を超えて寺社の相互扶助的関係が形成されていきます。研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。
以前に、多度津の道隆寺や大内の与田寺(水主神社)などを例に紹介しました。
道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。また与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったのです。

興隆寺五輪塔
興隆寺の五輪塔群
 そういう視点で本山荘を見ると、見過ごせないのが興隆寺跡です。
西讃府誌には、興隆寺は 本山寺の奥の院で本尊薬師如来が本尊であったと記されます。伽藍跡は、今は鬱蒼たる樹木や雑草の中に花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。興隆寺跡にある石塔群は108基で、製作年代は鎌倉時代後期から室町時代末期の約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものです。
  本山寺のご詠歌は
本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる

五来重氏は、このご詠歌はもともとは、奥の院興隆寺のものと考えています。「手向にぞなる」とは、亡くなった人の供養を示します。建ち並ぶ五輪塔も先祖供養のためと考えれば弥谷寺と同じような性格の寺であることになります。鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔を造立したことがうかがえます。
興隆寺五輪塔
興隆寺五輪塔群
  一方、残された興隆寺の縁起や記録などから、石塔群は出家修行者の行供養で祈祷する石塔と考える研究者もいます。
一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。どちらにしても、ここには修験者や聖などの行場であり、先祖供養の寺でもあったようです。
本山寺の奥の院であったという妙音寺・興隆寺の前後関係を確認しましょう
妙音寺  本堂本尊  12世紀の木造阿弥陀如来坐像
興隆寺  伝本尊  薬師如来 中世期に石塔群造立
本山寺  本 尊  馬頭観音 
     脇士   阿弥陀如来 + 薬師如来
   本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
本山寺の本尊馬頭観音

馬頭観音の梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」という意味のようです。
これはヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもあるので、敵対するヒンズー教の神を「天部の仏」として迎え入れたことがうかがえます。その役割は、衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。そのため他の観音が女性的で穏やかな表情なのに、馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒相です。私は、最初に馬頭観音を見たときに、「これが観音さま?」というのが正直な感想でした。密教では「馬頭明王」と呼ばれて、すべての観音の憤怒身ともされています。そのため憤怒相の守護尊として明王部に分類されることもあるようです。
仏像の種類:馬頭観音とは、ご利益・梵字、真言など】菩薩なのになぜ激怒?!道の石仏は昔の人々の馬への感謝の表れ|仏像リンク

 「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。そして、馬だけでなく牛や蚕などあらゆる畜生類を救う観音ともされるようになり近世には農民たちの広い信仰を受けるようになります。そして、道ばたにも馬頭観音の石仏が立てられるようになります。その造立目的は、次のようなものでした。
  ①牛馬の安全守護
  ②牛馬供養
 
造立の際に、勧進によって多数同信者の願いを結集すれば、その石仏の功徳はより大なものになると信じられます。そのために万人講を組織して、喜捨をあつめることが多かったようです。これを進めたのが修験者や聖たちでした。そのため馬頭観音やその権化・権頭天王を祀る寺社は、彼らの拠点となり周辺に多くの修験者が生活していたようです。ここでは、中世の本山寺(長法寺)が馬頭観音を本尊とする修験者たちの拠点寺院化していたことを押さえておきます。



本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如来です。
阿弥陀如来は妙音寺、薬師如来は興隆寺の本尊です。つまり、ふたつの奥の院の本尊であった仏を、本山寺の馬頭観音が率いているということになります。ここには、現在の本堂が建立された13世紀末の本山寺を取り巻く事情が反映されているのでしょう。それは、妙音寺と興隆寺を統合して、外から新規に馬頭観音を向かえて本尊としたということが考えられます。それを進めたのが修験者や聖たちであったというのです。
特別展『みほとけのかたち ─仏像に会う─』@奈良博-05
 京都・浄瑠璃寺「馬頭観音菩薩立像」

牛馬の安全を折る信者集団が本山寺の「変身」の主体となったのでしょうか。馬頭観音は、もともとは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされます。そして、次のような本地垂迹が語られ、姿を換えていきます。
祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天皇(祇園大明神)
権化が牛頭天王
蘇民将来説話の武塔天神
薬師如来の垂迹
スサノオの本地

牛頭天王は、京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ、現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られるようになります。これを進めたのが修験者や廻国の念仏聖のようです。

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社

「牛頭天王」を祭った讃岐の寺社としては、滝宮神社があります。
滝宮神社は、神仏分離以前には牛頭天王神(ごずてんのう)と呼ばれていました。菅原道真の降雨成就のお礼に国中の百姓がこの神社で悦び踊った。これが滝宮念仏踊りとされています。

滝宮龍燈院跡
滝宮牛頭神社の別当寺 龍燈院跡

牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となったのが龍燈院です。
龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが三豊の本山寺周辺でも起こっていたのではないかと私は考えています。つまり、牛頭天王神(ごずてんのう)をまつる聖集団によって、本山寺は中世に姿を見せたという説です。
滝宮龍燈院の十一面観音
滝宮龍燈院の十一面観音(綾川町生涯学習センター蔵)
讃岐でも、大般若経の書経活動でも聖たちの連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと

 本山寺でも、戦後まで大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
 本山寺ではお経を担いで村を回ります。これも回って読む一つのやり方ですから、転読といえるでしょう。住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。これが、檀家だけでなく、地域をめぐっていたようです。これも中世以来の村々の境を超え、宗派や檀家を越えた「郷村の寺社」としての本山寺の性格を伝える物かも知れません。

新潟県阿賀町馬取(まとり)地区の村中大般若
大般若経経典 の入った木箱を背負った一行が無病息災を祈る

最初に紹介したように徳島県三好郡池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。

大般若経 山所神社 池田町
三所神社の大般若経

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵

ここからは、山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。良恵は住持でなく聖のようです。 与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。

以前に、仁尾の商人や大工が四国山脈を越えた現在の大豊町や本山町で活動を行っていたことを次のように紹介しました。
①高知県大豊町の豊楽寺の本堂新築(天正2(1574)年11月)の御堂奉加帳に「仁尾」の「塩田又市郎」の名前があること。
②土佐郡森村(土佐郡土佐町)の森村の阿弥陀堂造立棟札に「大工讃州仁尾浦善五郎」とあり、善五郎という仁尾浦の大工が請け負っていること。
長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは土佐からの熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでした。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。
 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
 近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世になると詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。
  塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、中世には三野湾で作られた塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。その利益から仁尾には数多くの寺院が姿を見えるようになります。
 そういう視点から本山寺の出現過程を次のように推察しておきます。
①熊野行者などの山林修行者によって七宝山に行場が開かれ、庵や堂が姿を見せる。
②観音寺は七宝山の行場を結んで「中辺路」ルートとして売り出す。
③その行場のひとつが七宝山麓の興隆寺で、先祖供養の地として地元の有力者が五輪塔を納めるようになる。
④そこに新しく登場してきたのが牛頭信仰を持った修験者たちである。彼らは、「馬頭観音=その権化である牛頭天王=蘇民将来説話の武塔天神=薬師如来の垂迹=スサノオの本地」としていた。
⑤彼らは、京都東山祇園や姫路の広峰山から牛頭神を勧請し、全国に祇園社、天王社を祀るようになる。
⑥そのような中で、本山荘内の興隆寺や妙音寺で活動していた牛頭天王信仰の修験者たちが、新たな寺院を現在地に建立する。それが本山寺の前身である。
⑦こには牛や馬に関わる百姓や馬借たちの支持もあった。そして、郷村を越えた広域信仰圏を形成した。

南海道(伊予街道)に隣接した本山寺は、交通の要衝に当たります。
仁尾の商人や修験者たちは土佐に三野湾で採れた塩を運び込み、その還りに茶を持ち帰って利益を挙げていたのは先に見たとおりです。本山寺を拠点とした修験者たちは、財田川を遡り、財田やまんのう町の峠を越えて、阿波との交流を持ち、その信者たちには、塩を運ばせたことが考えられます。阿波池田や、山所神社のあった祖谷口、あるいはその奥までが本山寺の信仰ネットワークの及ぶ地域で、本山寺の信者となっていた馬借たちの活動範囲だったことが推測できます。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

 天文16年(1547)に鎮守堂が建立されるなど、天文年間(1532~55)は本山寺の堂宇整備時期であったようです。
130年後に書かれた『玉藻集』延宝5年(1677)には、16世紀の状況が次のように記されています。
本山寺持宝院
此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、亦は長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、門内に古松枝條扶疎として、幾世をか経ぬる、むかしを問ましき計也、堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、
意訳変換しておくと
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古五輪五六基があり、境内と隔て置かれている。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川(財田川か宮川?)が流れている。

ここには空海建立説はありませんが「三尊共弘法大師作」と記されるので、近世前期になると本山寺に空海伝説が根付いていたことが分かります。
本山寺中興の祖といわれる尚範が元亀2年(1571)に高野山にのぼり、金剛三味院で研鑽を積んだ後に本山寺の復興に尽力します。以後、本山寺僧と高野山との関わりが、本山寺における弘法大師信仰の普及につながると研究者は推測します。同じような動きが弥谷寺にも見られることは以前にお話ししました。この背景には、高野聖たちの活動があったことがうかがえます。彼らによって弘法大師伝説が本山寺にももたらされたようです。そういう意味では、弘法大師伝説は牛頭天王信仰に、室町時代以後に接ぎ木されたものといえそうです。

本山寺(もとやまじ)五輪塔 (五基)
本山寺の五輪塔

『玉藻集』に「堂の後に古五輪五六基あり」とあるのは、現在は大師堂裏にある大型五輪塔群のことでしょう。
この大型五輪塔群は室町時代のもののようです。一説には奥の院の興隆寺から移されたとも伝わるようです。本山寺が有力者の菩提寺的な性格を持っていたことが分かります。しかし、それが誰なのか、どんな一族であったのかは分かりません。
 同時期に、西讃守護代で天霧城の香川氏は、弥谷寺西の院を墓域化して多くの五輪塔を残しています。それが、本堂下の生駒親正の大きな五輪塔につながって行きます。この五輪塔と、本山寺の大きな五輪とは合い響き合うモノがあるように私には思えます。16世紀には観音寺室本の麹職人たちに香川氏は、特許上を出しています。香川氏の勢力が観音寺の当たりまで及んでいたことを示します。本山寺も香川氏の勢力下にあったと考えられます。

   以上をまとめておきます。
①元寇後に異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は、勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと。
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④その流れの中に、本山寺の本堂や仁王堂のあらたな建立があったこと
⑤同時に、伽藍整備と平行して、郷村の有力寺社は周辺寺社の系列化・末寺化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造勧進への協力や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして観音寺や本山寺は勧進聖や修験者によって、「中辺路」ルートの拠点寺としてネットワーク化されそのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」から四国遍路へとつながっていく。
今回は中世までとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会
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弥谷寺 四国遍礼名所図会1800年jpg
弥谷寺 四国遍礼名所図会(1800年)

 弥谷寺は、四国八十八ヶ所霊場71番札所です。伽藍の一番高いところに、磨崖に囲まれるように①本堂があり、諸堂も岩山に囲まれるように配されています。境内の磨崖や岩肌には数え切れないほどの五輪塔や梵字、名号などが刻まれています。中には納骨された穴もあって「死霊の集まる山」として民俗学では、よく知られた寺院です。
弥谷寺は江戸時代の「弥谷寺略縁起』には、次のように記されています。
行基が弥陀・釈迦の尊像を造立し、建立した堂宇にそれらを安置して蓮花山八国寺と号した」
「その後、弘法大師空海が虚空蔵求聞持法を修したこころ、五鈷の剣が天から降り、自ら千手観音を造立して新たに精舎を建立し、剣五山千手院と号した」
「行基=空海」の開基・中興というのは、後世の縁起がよく語るところで、開創の実態については史料がなく、よく分かりません。ただ岩山を穿って獅子之岩屋や磨崖阿弥陀三尊が作られる以前の平安時代に、修行者や聖といった人々が修行の場を求めて弥谷山に籠ったことが、この寺の成立の基礎となったことはうかがえます。
 平安時代末期には、四国の海辺の道を修行のためにめぐり歩く聖や修験者らがいました。彼らの修行の道や場として「四国辺地」が形成され、それがベースとなって四国遍路の祖型が出来上がっていきます。弥谷山の修行者や聖たちも、そうした四国遍路の動きと連動していたようです。
仁治4年(1243)に、高野山の党派抗争の責任をとらされて讃岐に流された高野山僧の道範は、宝治2年(1248)に善通寺の「大師御誕生所之草庵」で『行法肝葉抄』を書いています。その下巻奥書には、この書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたと記されています。これが「弥谷」という言葉の史料上の初見のようです。弥谷寺ではなく「弥谷上人」であることに、研究者は注目します。
「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修行者や聖のような宗教者の一人と考えられます。
 ここからも鎌倉時代の弥谷山は、聖たちの修行地だったことがうかがえます。それを裏付けるもうひとつの「証拠」が鎌倉時代末期に作られた本堂の東にある阿弥陀三尊の磨崖仏です。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏
この阿弥陀三尊像は、弥谷山を極楽浄土に見立てる聖たちが造立したものです。また仁王門付近にある船石名号の成立や磨崖五輪塔にみられる納骨風習の成立には、時衆系高野聖の関与があったと研究者は考えています。
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船石名号(弥谷寺 仁王門上部)

当時の高野山は、一山が時衆系の念仏聖に占領されたような状態で、彼らは各地の聖山・霊山で修行を行いながら熊野行者のように高野山への信者の誘引活動を行っていました。弥谷山も「死霊の集まる山」として祖先慰霊の場とされ、多くの五輪磨崖物が彫られ続けます。これが今でも境内のあちらこちらに残っている五輪五輪塔です。ここでは中世の弥谷寺は、浄土阿弥陀信仰の聖地で、弘法大師の姿は見られないことを押さえておきます。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏
磨崖五輪塔(弥谷寺)
弥谷寺に発展の機会が訪れるのは、室町時代になってからです。その契機となったのが讃岐守護細川氏の下で西讃守護代となった香川氏の菩提寺となったことです。香川氏は多度津に居館を置き、天霧城に山城を構えます。天霧城の裏側(南側)が弥谷寺という位置関係になります。こうして天霧城と山続きの弥谷寺には、香川氏の五輪塔が墓標として二百年あまりにわたって西の院に造立され続け墓域を形成していきます。つまり、守護代香川氏の菩提寺となることで、その保護を受けて伽藍整備が進んだようです。同時に、この時期は弥谷寺境内から切り出された天霧石で作られた石造物が三野湾から瀬戸内海各地に向けて運び出された時期でもありました。その代表例が、白峰寺の石造十三重塔(西塔)です。


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香川氏のものとされる五輪塔(弥谷寺西院跡から移動)

   弥谷寺に弘法大師信仰が姿を見せるようになるのは、近世になってからのようです。今まで語られたことのなかった弘法大師伝説が、弥谷寺には伝えられます。
承応2年(1653)に澄禅が記した『四国遍路日記』には、次のように記されています。

   弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂(現大師堂 旧奥の院)がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。(後略)

ここには現在の大師堂には、木像の弘法大師と石像の藤新大夫(とうしんだゆう)夫婦が安置されていたことが記されています。高野山関係の史料には、空海の父母は古くから弘法大師の父は佐伯氏、母は阿刀氏の女とされてきました。ところがここでは、空海の父母は、藤新大夫夫婦で父は「とうしん太夫」、母は「あこや御前」とされていたことが分かります。ここからは、江戸時代初期の弥谷寺では、高野山や善通寺とはちがうチャンネルの弘法大師伝が作り出されて流布されていたことが分かります。「空海の父母=藤新大夫夫婦」説は、近世初頭には四国遍路の開創縁起として、かなり広く流布されていて、多くの人たちに影響を与えていたようです。これに対して「正統的な弘法大師信仰者」の真念は、「愚俗のわざ」として痛烈に批判しています。

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           現在の獅子の岩屋の配列 弘法大師の横には佐伯田公(父君)と記されている

 こうした異端的な弘法大師伝が生まれた背景には、弥谷寺やその近辺で活動する高野聖の存在が考えられます。それをたどると、多度津の海岸寺・父母院から道隆寺、そして児島五流修験や高野聖が関わっていたことが浮かび上がってきます。そういう意味でも、四国遍路の成立過程はひとつの流れだけではなく、何本もの流れがあったことがうかがえます。それが弥谷寺からは見えてきます。

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獅子の岩屋 空海の横には母玉依御前

戦国時代に兵火で焼失した弥谷寺は、近世の生駒家の下で復興が始まります。
本堂焼失後に仮堂を建立し、残された本尊千手観音や鎮守の神像等をおさめて伽藍の再興がはかられます。そして、17世紀後半には境内整備が進展して伽藍が復興されます。また近世の弥谷寺は、生駒家に続いて丸亀藩・多度津藩の祈躊寺として位置づけら、五穀成就や雨乞いの祈躊を執行するなど、丸亀・多度津両藩の保護を受ける特別な寺となります。

弥谷寺 一山之図(1760年)
弥谷寺一山之図(1760年)
 同時に民衆にとっても中世以来の「死霊の集まる山」で先祖供養にとして重要な存在でした。承応2年(1653)の『四国遍路日記』には、弥谷寺の境内には岩穴があり、ここに死骨を納めたとあります。江戸時代前期の弥谷寺は、中世に引き続いて死者供養の霊場として展開していたことが分かります。
 弥谷寺の年中法会の中で重要なものとされる光明会が、 日牌・月牌による先祖供養の法会として整備されていきます。近世の弥谷寺は檀家を持っていませんでしたが、この光明会によって死者供養、先祖回向の寺として、広範囲にわたって多くの人々の信仰を集め続けます。また、修行者や聖などの宗教者の修行地とされていた弥谷寺には、彼らが拠点とした院房が旧大門(八丁目大師堂)から仁王門にかけて、十を越えて散財していました。それが姿を消します。これは、白峰山の変貌とも重なり合う現象です。
弥谷寺 八丁目大師堂
院坊跡が潅頂川沿いにいくつも記されている

 修験者や聖たちに替わって、弥谷寺を訪れるようになったのは遍路たちです。そして、弥谷寺も遍路ら巡礼者に対応した札所寺院に脱皮・変貌していくことになります。それが例えば遍路接待のための施設設置です。
正徳4年(1714)までは、寺内の院坊の一つである納涼坊が遍路ら参詣者の接待所を兼ねていました。しかし、享保10年(1725)に財田上の大庄屋・宇野浄智惟春が接待所(茶堂)を、現在の大師堂の下に寄進設置しています。
弥谷寺 茶堂
金毘羅参詣名所図会に描かれた茶堂
この接待所は弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』などにも描かれていて、ここで接待が行われていたことが分かります。

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「永代常接待碑」
現在は、この接待所の跡地に、永代にわたって接待することを宇野浄智が記した「永代常接待碑」(享保10年2月銘)が建っています。またその2年後には宇野浄智から「永代常接待料田畑」が寄進されています。この他、弥谷寺の門前には、ある程度の店も立ち並んでいたようで、遍路ら参詣者を迎え入れる札所寺院として整備されていったことが窺えます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
             「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 しかし、江戸中期以降の弥谷寺への参拝者の増加は、四国遍路よりも金毘羅詣りの参拝者の増加とリンクしたものでした。金毘羅さんにお参りした客を、弥谷寺に誘引しようとする動きが強まります。そのため丸亀に上陸した参拝客に「七ヶ所詣り」の地図が手渡され、善通寺方面から弥谷寺への誘引をはかります。そのために寺へ通じる沿道の整備が進められます。
 弥谷寺は、鳥坂越手前で伊予街道から分岐する遍路道を整備します。そして寛政4年(1792)に分岐点近くの碑殿村の上の池の堤防横に接待所を設置し、往来の参拝客に茶を施したいと願い出て、多度津藩から許可されています。この接待所は「茶堂庵」と称され、講中によって維持されていきます。同時に、この接待所には弥谷寺に向けたスタート・モニュメントとして大地蔵を建立されます。

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善通寺市碑殿町の大地蔵

ここから弥谷寺境内の法雲橋へ至る道に、10の仏像を安置する計画が立てられ、ゴールの境内では寛政3年(1791)、金剛挙菩薩像(当初は大日如来)の造立に取りかかっています。このように弥谷寺は周辺地から境内へ至る道の整備を進め、増加しつつある参詣者を誘致に務めています。

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金剛拳菩薩(弥谷寺)
 近代の弥谷寺は、明治5年(1872)に山林が上地処分によって官有地として没収されます。これによって経済的な打撃を受けますが、明治39年に「上地林」は境内に再び編入されます。諸堂の整備も引き続き行われ、明治11年には大師堂が再建されます。また江戸時代以来の接待所(茶堂)は、通夜堂ともよばれ、近代でもにおいて遍路の宿泊施設としても機能します。しかし、これも昭和50年代に廃絶したようです。

弥谷寺 西院跡
 弥谷寺の現存建造物としては、次のようなものがあります。
明治11年 大師堂
弘化5年(1848)再建の本堂
天保2年(1831)再建の多宝塔
大正6年(1917)再建の観音堂
大正8年再建の十王堂
残された絵図を見ても本堂や大師堂など中心的な伽藍の配置は、江戸時代から大きな変更はありません。境内とそれを取り囲む岩山は、遍路や参拝者が行き交った近世の札所霊場の景観を伝えるものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世まで修行者や聖などの修行地であった。
②彼らは弥谷寺を浄土阿弥陀信仰の聖地として信者たちを誘引し、その結果磨崖五輪塔が造立された。
③中世から近世への移行期に高野山との交流によって、弘法大師信仰が定着した。
④近世前期には、中世同様に死者供養の霊場として参詣者の間に浸透していった。
⑤近世中期以降、さらに多くの民衆が金比羅詣りや遍路として訪れるようになり、接待所が設置されるなど、弥谷寺は遍路ら参詣者を迎え入れる開放的な空間として整備されていった。
⑥境内へ至る沿道についても整備が進められ、不特定多数の人々にも開かれた場へと展開していった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
        参考文献 弥谷寺調査報告書 2015年 香川県教育委員会

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弥谷寺本堂
弥谷寺本堂については、私は次のような「仮説」を考えていました。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていた。
②それが、いつの時代かに磨崖仏は信仰の対象ではなくなった。
③その結果、磨崖と本堂の間に壁が作られるようになった。
その根拠となるのが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)の弥谷寺本堂について次の記録です。(意訳)
(前略)
さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、弥谷寺本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。

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弥谷寺本堂の正面壁と磨崖

 現在の本堂は背面が壁で閉じられているので、岩壁に彫られた仏像や五輪塔は見えません。礼拝の対象外になっています。つまり岩壁に彫られた仏像とは全く無関係に、現在の本堂は建てらたことになります。

弥谷寺 本堂平面図
弥谷寺本堂平面図

岩壁を覆うように仏堂を建てるのは、岩壁に彫られた仏像に対する儀式を行う場を設けるためと考えられています。その例として、研究者は次のような仏堂を挙げます。
弥谷寺 龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂は岩窟に祀られた木彫の薬師・阿弥陀・不動明王の三尊の前に儀式空間の礼堂が設けられています。
弥谷寺 不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)
不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)

不動寺本堂は、岩盤の竃に厨子を置いて、本尊を安置しその前に岩壁に接した仏堂が設けられています。
これらの例のように弥谷寺本堂も18世紀中頃までは、磨崖の本尊を覆うような形で建てられていたと考えるのが自然のように思えます。
今のように壁によって隔てられる前の本堂の姿は、どんなものであったのでしょうか。しかし、それ以上は絵図資料からは分かりません。そこで研究者は屋根形式の変遷をさぐるために、磨崖のレーザー実測図を手がかりにしながら、岩壁の穴や窪みを見ていきます。

弥谷寺 本堂と磨崖
弥谷寺本堂背面岩壁の痕跡
上図を見ると本堂裏の磨崖には、数多くの五輪塔と四角い穴が彫られていたことが分かります。これが今は本堂によって隠されていることになります。東側(右)に五輪塔が密集しています。「四国遍路日記」の「阿弥陀三尊本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。」という記述通りの光景が広がります。西側に四角い穴が3つ見えます。

研究者は、この写真を詳しく検討して本堂は、複数回の建て替えが行われていること、それに伴なって屋根形式も変更されていることを次のように指摘します。
①第42図左下部のAの部分には、地面から3mの高さまで角柄穴が一列に並んでいる。
②地面近くでその1m西に柄穴2個がある。
③これらはこの前に立っていた建物の柱と繋ぐためのもので、前者は間渡しの柄穴、後者は縁葛の柄である。
④この位置は現在の本堂の柱筋とほぼ一致する。
⑤現在の本堂には岩壁へ向かって壁が設けられていた痕跡がないので、岩壁の痕跡はこれ以前の建物のものである。
⑥前身建物の西側の側柱は、現在の建物と同じ位置になる。
以上から次のような事を研究者は推測します。
⑦古くは岩壁に彫られた籠E・F・G・Hを利用して本尊が祀られていた。
⑧その前に儀式の場である本堂が設けられていた
⑨その場合、本堂は現状よりやや西に寄っており、C1~C3がその屋根跡で、今より2mほど低くなる。
⑩屋根葺材もCOや C1は、Bの現在の屋根の傾きから比べると勾配が緩いので、檜皮葺きか板葺と推定できる。
⑪以上から絵図「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年のに本堂は瓦葺ではなく、檜皮葺か柿葺と考えられる。

以上をまとめておくと、この磨崖には四角穴に尊像が彫り抜かれていて、そこにC1~C4までの4回の屋根が改修再建がされたことになります。確かにEは、C期の本堂の中心軸に位置します。そして、その周囲をFが取り囲む配置になります。この棚状の所に、何体かの尊像が安置されていたのでしょう。C期には、磨崖右側の五輪塔は本堂の外にあったことになります。
 Cにあった屋根がBになって大型化するのが18世紀中頃になります。それが「讃岐剣御山弥谷寺全図」天保十五(1844)年に描かれた天守閣のような本堂なのでしょう。ここでは、本堂が1720年の焼失で建て替えられ、それ以後は現状に近い「入母屋造妻入」のスタイルになったこと、その時に本堂は磨崖から切り離されたことを押さえておきます。
弥谷寺 本堂と磨崖

現本堂の棟より下にみえる溝状の痕跡Cを、もう少し詳しく見ていきます。
これも屋根が取り付いていた痕跡のようです。現在の屋根や痕跡Bより低い位置にあり、少なくともCl・C2。C3の三時期分の屋根の痕跡と研究者は考えています。またそれにつながると見られる水平の痕跡COoやC4もあります。これを研究者は次のように推察します。
①COとCl、 C4とC3がそれぞれ一連の屋根の痕跡である。
②COとCl、 C4とC3に向かつて正面側と右側に流れがあるから、寄棟造、平入の屋根が設けられていた可能性が高い。
③これが澄禅が「四国遍路日記」(承応二年=1653)の中で、「片ハエ作」と呼んだ屋根かもしれない。
④C2は、これに連なる痕跡がないので、切妻造か寄棟造かは分からない。

以上の屋根の痕跡から見て、C群の屋根の時期の本堂の中軸は、今より西にあった。
COとC1は2m以上
C4・C3は約1m以上、
C2は0,5m
  本堂は次第に東に移動していったようです。

もういちど第42図にもどり。今度はBの屋根跡を見ていきます。
Bには現在の本堂の屋根よりほんの少し高い所に残った、漆喰の埋められた山形の溝の用です。漆喰の大部分の表面は、黒く塗られています。これは切妻造の屋根が岩盤に突き当たっていた証拠だと研究者は指摘します。屋根と岩盤の取り合い部分を塞ぐために、漆喰を塗ったと云うのです。
 Bの東・西の、それぞれの屋根の流れは現在よりわずかに短いようです。 ただし西側(左側)では漆喰のある部分よりも西まで、その傾斜を延長する位置に岩盤の彫り込みが延びています。この一部は仏竃の上部も彫り込んでいて、漆喰がはがれた痕跡もあるようです。またBの東側(右)では、軒の先端(東端)に反りのある屋根形状に合わせた彫り込みが見えます。これらの漆喰や彫り込みも、前身建物の屋根の痕跡のようです。そうするとBの漆喰部分は、現本堂の屋根とほぼ重なり合うことになります。つまり、規模と傾きが一致する屋根で、表面の黒塗りから屋根は瓦葺だったと研究者は推察します。
それに対して、東側(右)で見られる反りのある彫り込みは、檜皮葺か瓦葺でも中世的な技法の屋根と推察します。以上から同じ位置で2期分の痕跡があることになります。それは、いずれも現本堂とほぼ同じ幅の屋根です。ここからは、現本堂の再建前に、同規模の屋根を持つ本堂が檜皮葺と瓦葺でそれぞれ1回ずつ建てられていたことになります。

弥谷寺 建築物推移表
上表は明和6年(1769)の「弥答寺故事謂」と、昭和6年(1931)の史料(年鑑)に載っている弥谷寺の建築物を、研究者が年代順に並べて整理したものです。
これを見ると、寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立されています。(「年鑑」)
この建物は、大見村庄屋の大井善兵衛をはじめ上高瀬・下高瀬・麻・三井・今津村などの三野郡3か村、多度郡2か村、那珂郡1か村の庄屋クラスの村役人たちの尽力によって建てられたもので、弥谷寺で最も古い建築物になるようです。
その約40年後の宝永6(1709)年にも、本堂(千手観音堂)が建てられています。これはどうも改修再建のようです。この時の千手観音堂(本堂)は、11年後の享保5年(1720)の春に焼失します。
 この時に弥谷寺は、大庄屋上ノ村の字野与三兵衛へ次のように願いでています。
「貧寺殊二無縁地二御座候得は、再興仕るべき方便御座無く迷惑仕り候、これに依り御領内、御表万う御領分共二村々廻り、相対二て少々の勧化仕り度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「我が寺は貧寺で、檀家も持たない無縁地ですの、再興の術がなくほとほと困っています。つきましては多度津御領内、だけでなく丸亀藩の御領分の村々をも廻り、少々の勧進寄付を行いたいと思いますので、許可していただけるように、多度津藩に取り次いでいただけないでしょうか。

 弥谷寺は、多度津藩だけでなく本藩丸亀藩にも、村々を回つて寄附を募ることを、願い出ています。(「奉願正三之覚」、文書2-116-2)。これは藩には認められなかったようです。勧進寄付活動は認められなかったようですが「本尊観音堂」の建立は認められたようです。それは本尊が千手観音の大悲心院が再建されていることから分かります。ここでは、本尊観音堂の建立を「本堂建立」と記しています。つまり、千手観音堂とは本堂のことだと研究者は指摘します。私は、千手観音堂は現在の観音堂のことだと思っていましたがそうではないようです。
本堂(千手観音堂)は近世後期にも焼失し、弘化5(1848)年に再建されています。(「年鑑」)。これが現在の本堂になるようです。
 これを先ほどの本堂裏の磨崖面の屋根跡とつきあわせると、次のようになります。
①寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立(「年鑑」)  →C群のどれか 
②宝永6(1709)年、本堂(千手観音堂)の改修再建。(「年鑑」)、→Bの茅葺き
③18世紀半ばに本尊千手観音の大悲心院(本堂)が再建  →近世後期に焼失 →Bの瓦葺き
④弘化5(1848)年に再建(現本堂)
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弥谷寺本堂東側磨崖の五輪塔
この本堂裏の磨崖には、どんな仏たちが安置されていたのでしょうか。
現在の本堂には、木造彫刻の千手観音・不動・毘沙門が安置されています。本尊千手観音は、弘化四年(1847)の作であることが分かっています。弘化の本堂の再建に併せて、本尊も造られたようです。「元禄霊場記」「寛政名所図会」などにも、本尊は、同じ仏像であった事が記されています。
「元禄霊場記」には弘法大師の事績として、次のように記されています。
三柔の峰東北西に峙てり、その中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ、本堂岩屋より造りつゝ゛けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

意訳変換しておくと
三柔の峰は東北西に伸びていて、その中軸に大師が岩屋を掘り、仏像を彫刻した。本堂岩屋より造り続けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

ここには大師が岩屋を掘って仏像を彫刻し、本堂はその岩屋に続いていたと伝えらていたことがうかがえます。この記事は延宝5年(1677)の「玉藻集」(『香川叢書』第二 所収)の記事を引用したようのなので、延宝五年以前には岩壁の磨崖仏が弘法大師作で貴重なものであるという認識があったようです。それが次第に忘れられ、手作りでつたなく見える石仏造物よりも、プロ職人の作った木像仏が本尊として迎えられ、同時に磨崖と本尊は壁で隔てられたというストーリーが描けそうです。
磨崖の尊像たちは、どのように安置され礼拝されていたのでしょうか。
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「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」(弥谷寺大師堂)

その疑問に答える鍵を、研究者は現在の大師堂の獅子の岩屋内の「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」に求めます。この2枚の扉は、岩屋の向かって右側に立てかけられた形で安置されています。

この扉には慶長9(1609)年に作られた高さ120~130㎝の扉の残欠です。
「讃州三野郡剣五山弥谷寺故事謂」『新編香川叢書 史料編一』所載 「明和故事諄」と略記)には、次のように記されています。
一、大悲心院 一宇 享保十二年未年、幹事宥雄法印
本尊 千手観音  弘法大師御作
脇士鉄扉 右 不動明王
銘云、鋳師河内国(略)
同 鉄扉 左 毘沙門天王
銘云、奉寄進(略)

ここからは次のようなことが分かります。
①大悲心院(本堂)の本尊が千手観音で弘法大師作であったこと。
②右の鉄扉に不動明王
③左の鉄扉に毘沙門天王
つまり、「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」は、もともとは大悲心院(本堂)にあったのです。それでは、鉄扉はどのように使用されていたのでしょうか。研究者が注目するのは42図の四角穴Eです。Eは、屋根がC群にあった時期には、本堂のちょうど中央にあった穴になります。Eには、扉の軸摺穴が残っていることを研究者は指摘します。鉄扉がここに填まっていたとすれば、Eに本尊千手観音が安置されていたことになります。この位置は屋根の痕跡COの位置とほぼ揃います。慶長の頃には、Eに本尊を祀り、その前に本堂の建物が取り付いて、不動明王・毘沙門天王が浮彫にされた鉄扉を開けると本尊の千手菩薩を拝むことができたことになります。
正徳四年(1714)の「弥谷寺由来書上」(寺蔵文書1-17-8)には、次のように記されています。
一、当山本尊千手観音堂、炎焼以後者壱丈二五間之片廂仮屋二鎮守権現・千手観音、不動・毘沙門 ハ左右之鉄扉脇士ノ尊像也、弥陀・釈迦・地蔵菩薩一所二安置セリ、然に延宝年中二仮堂大破に及たり、建立之願を発し、遠近の門戸を控、微少の施財を集、三間四面之観音堂建立功畢、参拾餘に及て大地震二、大石堂二落懸り、堂已二大破せり、依之再建造営ノ願、止事なしといへとも、前之堂所ハ、不安穏の地なれは、後代無愁之所を択定、往昔中尊院屋敷江引越、奥行四間、表五間に造営建立、其功令成就畢、
意訳変換しておくと
弥谷寺の本尊千手観音堂は、(天正年中の)戦禍で焼失以後は壱丈二五間之片廂仮屋で、そこに鎮守権現・千手観音を安置し、不動・毘沙門天は左右の鉄扉の脇士尊像であった。つまり、弥陀・釈迦・地蔵菩薩を仮堂の一ケ所に安置していた。ところが延宝年中(1673年~81年)に仮堂も大破してしまった。そこで、再建願いを藩に出たが、大規模な寄進活動は行わず、限られた募金活動で、わずかばかりの施財を集め、三間四面の規模で観音堂(本堂)を再建することにとどめた。 ところがこれも30年ばかり後に大地震に見舞われ、磨崖の上から大石が本堂に落ちてきて、本堂は大破してしまった。再建造営願を藩に提出し、再建に向けて動き出した。その際に、今までの本堂が建っていた所は、再び落石の危険があるので、後代に愁いの無いところへ移して再建されることになった。奥行四間、表五間の規模で造営建立された。其功令成就畢、

ここからは次のようなことが分かります。
①戦国末期の天正年中の兵火で本堂も焼失
②その後は片庇の仮堂を建てて、本尊やその他の尊像を安置していた
③ところがこの仮堂も、延宝年中に大破した。
④そこで、限られた寄進活動で三間四面の小規模な規模で観音堂(本堂)を再建した
⑤ところが約30年後に地震で大石が落ちてきて、これも大破
⑥そこで安全なところに場所を移して奥行四間、表五間の規模で再建された。

これ以外にも「剣五山弥谷日記」(弘化三年 寺蔵文書2-20-1)には、享保五年の本堂火災等の記事もあることは先ほど見たとおりです。
岩壁崩壊後に場所を移動して建てられた本堂が屋根跡C→Bを示すのかも知れません。しかし、どの程度移動したのかはよく分かりません

以上をまとめておくと
①弥谷寺本堂裏の磨崖には、尊像を安置した四角穴が4つほど穿たれている。
②ここには弘法大師作とされる尊像が安置されていた。
③そのためこの尊像が安置された四角穴を覆うように、屋根が被せられそれが本堂とされてきた。
④その本堂は現在のものよりも小型で、現在の位置よりも西へ2mほどよった所に建てられていた。
⑤それが江戸時代中期になると本堂は焼失や落石などで大破し、再建されることが続いた。
⑥その結果、江戸時代後半には参拝客の増加とともに本堂も大型化し、瓦葺きとなっていった。
⑦本尊も弘法大師作という石仏からプロ職人の木像仏へと代わり、磨崖仏との間に壁がつくられるようになった。
⑧磨崖物の本尊千手観音を守っていた脇士の不動明王と毘沙門天の鉄扉像は役割を終えて、現在は太子堂内の獅子の岩屋に収められている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会

     P1120861
弥谷寺本堂

四国霊場のお寺は、もともとは山林寺院だった所が多く、本堂の奧に奥の院や大師堂があるのが普通です。ところが弥谷寺は、本堂が一番上にあります。獅子の岩屋があるのが「大師堂」です。ちなみに大師堂と呼ばれるようになったのは、この寺が江戸時代に善通寺の末寺となってからのことです。この寺に弘法大師信仰がはいってくるのは近世以後だったことがうかがえます。これについては、また別の機会にふれるとして、先を急ぎます。
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阿弥陀三尊磨崖物

 本堂が一番上にあるのは、ここが一番大切な所であったからでしょう。それは何かと云えば、本堂下の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像だと私は思っています。鎌倉時代に弥谷山を拠点とした高野聖や念仏聖たちが信仰したのは阿弥陀さまです。それが彼らの修行場であり、聖なる磨崖に彫られて本尊として信仰されるようになります。後に本尊は観音さまに交代しますが、弥谷寺のスタートは阿弥陀信仰です。そして、この上に本堂は建立されることになります。

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弥谷寺本堂軒下の磨崖に置かれた石仏

 弥谷寺本堂は伽藍の最上段に岩盤を削って建てられています。
その西側面と背面には岩盤が垂直に迫ってきて、背面には人が彫った窪みや磨崖五輪塔がいくつも穿たれています。本堂はこの岩盤に接するように建てられ、背面切り妻屋根はそのまま岩盤に繋がれています。
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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔
 この本堂を最初に見たときに思ったのは、断崖に囲まれた岩窟寺院という印象でした。まわりの断崖の中に、すっぽりと本堂が入り込んでいるような感じです。その後、中国の敦煌や竜門などの石窟寺院を見て、改めてこの本堂を見ると腑に落ちないことがいくつかでてきました。それは、弥谷寺でも磨崖に仏像が彫られ、それが本尊として信仰対象となっていたはずです。それなのに、今の本堂は断崖との間に壁があるのです。
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仏が彫られた磨崖側の本堂の壁(弥谷寺)
これでは、本尊を拝むことは出来ません。私の仮説は、次のようなものです。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていたい
②それが、いつの時代かに磨崖物は信仰の対象ではなくなり、磨崖との間に壁のある本堂が建てらた。
しかし、素人の悲しさで、これ以上のことは分かりませんでした。どうして壁が作られたのか、また、それがいつ頃のことなのか疑問のままでした。それに答えてくれたのが、「山岸 常人 弥谷寺の建築の特質  弥谷寺調査報告書263P」です。今回は、これをテキストに弥谷寺本堂の謎に迫っていきたいとおもいます。

まず、研究者が押さえるのが弥谷寺が描かれた次の絵画史料です。
①「四国編礼霊場記」 (元禄2(1689)年
②「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年
③「四国遍礼名所図会」 (寛政十二(1800)年
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年、
⑤「金毘羅参詣名所図会」 (弘化4(1847年 )

これらの絵図で弥谷寺本堂を見ていきましょう。
弥谷寺 四国編礼霊場記
 ①「四国編礼霊場記」では、「観音堂」とあるのが本堂です。
先ほど述べたように伽藍の中で一番高い所にあり、その周辺には、多くの磨崖物や五輪塔が描かれています。本堂(観音堂)は平入の仏堂のように描かれていて、岩壁に接しているようには見えません。現在の本堂は、正面入母屋造、妻入の建物ですが、背面は切妻造になっていて、背面側は土壁で開じられています。背面と向かって左側面に岩壁があり、それらに接するように本堂が立っています。
「四国編礼霊場記」は写実性に乏しいとされるので、すぐに17世紀の本堂の建築形式が今とは違っていたと判断することはできないと研究者は考えています。本堂の右側に描かれているの阿弥陀三尊の磨崖物です。
弥谷寺 一山之図(1760年)
②「剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10(1760)年です。
  本堂は、「正面入母屋造、妻入の建物」ですが、背面は切妻造ではないようです。ここからも本堂が磨崖に接しているようには見えません。本堂周辺部を見ると、山崎家の3つの五輪塔が描かれています。しかし、現在は本堂のすぐ西側にあるので位置が違うような気もします。山崎家五輪塔は、後世に現在地に移動された可能性があります。また、天霧城主の香川氏の五輪塔が100基以上もかつては西院跡にはあったとされますが、それも描かれています。香川氏と山崎氏の墓域であったことを強調しているようにも思えます。現在の大師堂は「奥の院」と標記されています。大師堂と呼ばれるようになるのは弘法大師信仰が強まる江戸後半以後のようです。
弥谷寺 四国遍礼名所図会

③「四国遍礼名所図会」(寛政十二(1800)年の本堂です。
 「正面入母屋造、妻入で、背面は切妻造」の現在の姿に近いようです。背後も磨崖に接しているように見えます。この絵図は、他の絵図と比べても最も写実的な要素が強いようなので「本堂=磨崖設置説」を裏付ける資料にはなりそうです。また、本堂前の坂道が石段化されています。この時期は、曼荼羅寺道なども整備され接待所が置かれ、大地蔵や金剛拳菩薩などの建立が進められていた時期になります。進む境内の整備状況を描いたとも考えられます。金毘羅さんでも見ましたが、境内整備が進むとそれをアピールして、さらに参拝客を増やそうとする「集客作戦」を、当時の大きな寺社は展開していました。このプロモート作戦が功を奏してか、十返舎一九の描くやじ・きたコンビも金毘羅詣でのついでに、弥谷寺にお参りしているのは、以前に紹介しました。この時期から参拝客が激増します。しかし、それは四国霊場の「集客力」ではなく、「金毘羅+善通寺+七ケ所廻り」という誘引戦略のおかげだと私は考えています。

弥谷寺 「讃岐剣御山弥谷寺全図」
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年です。
この時期は、金毘羅に歌舞伎小屋や旭社が姿を見せ始め金比羅詣客がピークに達した時期になります。それに連れて、弥谷寺参拝客が最盛期を迎える頃になります。そのためか伽藍整備も進んで本堂も天守閣のような立派な建物になっています。旧奥の院も大師堂と名前を変えて、堂々とした姿を見せています。
 本堂西側に山崎氏の五輪塔が集められて墓域を形成しています。この時期に本堂の西側に移された可能性があります。

弥谷寺 金毘羅参拝名所図会
⑤次が「金毘羅参詣名所図会」です。
この本堂や大師堂を見ると「????」です。先ほど見た④と比べて見ると3年しか建っていないのに、描かれている建物がまったくちがいます。それに「大師堂」が「奥の院」の表記に還っています。これはいったいどうしたのでしょうか。火事で全山焼失し、新たな建物となったということもなさそうです。
研究者は⑤の描く本堂や奥の院が②「剣五山弥谷寺一山之図」と、非常によく似ていることを指摘します。つまり⑤は出版に際して、現地を見ずに②を写した可能性があると研究者は考えているようです。今では考えられないようなことですが、当時は現地を訪れずに絵図が書かれることもあったようです。とすると⑤「金毘羅参詣名所図会」は、資料としては想定外となると研究者は判断します。
四国遍路関連古書

絵図はこれだけですが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、次のように記されています。
 剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師(弘法大師)の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切王フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、
 拉、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段ヒリテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、
内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノロニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
意訳変換しておくと
弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。
 寺の広い庭から一段上ると鐘楼在、また一段上がると護摩堂がある。これも広さ九尺斗二間に岩を切り開いて戸をつけてある。その中には、本尊の不動の他に、何体もの仏像があるが、全て石仏である。ここから少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今風の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。
その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。
 さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、17世紀中頃の弥谷寺の様子が詳しく書かれていて貴重な一級資料です。本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。どちらにしても澄禅は、弥谷寺本堂は、片流れの屋根であったと記しています。この記事は十七世紀中期には本堂の屋根が、いまのような入母屋造妻入でなかったことを教えてくれます。片流れ屋根なら磨崖仏を本尊とする本堂には相応しいものになります。

それでは本堂が「片流れの屋根」から「入母屋造妻入」姿を変えたのはいつのことなのでしょうか?
本堂が焼失した記録は、享保5(1720)にあります。また18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。ここからは1720年に焼失した本堂が18世紀半ばまでには、新たに再建されたことが分かります。先ほど見てきた絵図が書かれた時代をもう一度見てみると、次のようになります。
澄禅の「四国遍路日記」承応二(1653)年   片流れ屋根
①「四国編礼霊場記」 元禄2(1689)年 平入の仏堂
②「剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10(1760)年   入母屋造妻入の本堂
ここからは17世紀には、片流れの屋根であったのが、1720年の焼失後に再建されたときに、入母屋造妻入の本堂になったと考えることが出来そうです。元禄年間前後に屋根形式の変更があった可能性を押さえておきます。

しかし、これだけでは本堂が本尊とされる磨崖仏の上に被せるように屋根があったことは証明できません。それを研究者はレーザー透視で撮られた写真をもとに解明していきます。それはまた次回に・・・
IMG_0014
弥谷寺本堂背後の磨崖仏や五輪塔

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会
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         P1120863
弥谷寺本堂西側の山崎家の墓域
17世紀中頃の丸亀藩藩主・山崎家治の代に、弥谷寺の麓での田地開発が許可されたことが、郡奉行から大見村庄屋又大夫に伝えられた史料に残されています。この史料からは弥谷寺が畑6反3畝の土地を開発し、伽藍修理料としての「御免許」(年貢免除)を得たことが分かります。これが「御免許地」、つまり田畑の税を免除された最初の寺領になるようです。(「御免許山林田畑之事」、文書2-106-19)
 さらに山崎家断絶の後に入封してきた京極藩の高和の代に、郡奉行へ新開地1町5反を、大庄屋上の村の新八、下高瀬村宇左衛門、大見村庄屋七左衛門を通して「御免許地」として願い出ています。そこには、「開地漸く七反余開発仕り、用水池を構えた」とあります。ため池築造とセットで、新田開発が引き続いて行われていたことがうかがえます。
 元禄7年(1694)に、丸亀藩の支藩として多度津京極藩が成立します。
2多度津藩石高
多度津藩の石高
前回お話ししたように弥谷寺のある大見村は、多度津藩に属します。そのため多度津藩の領地決定まで土地開発は一時中断したようです。多度津藩の領地が決定すると、改めて1町5反の開発を、大見村庄屋善兵衛が大庄屋三井村の須藤猪兵衛、上ノ村宇野与三兵衛へ申し出て、大庄屋の二人から代官に願い出ています。そして正徳4年(1714)3月に、次のような証文を得ています。

弥谷寺格別の儀二思し召され、後代堂塔修理料として、開田畑壱町五反御免許

こうして5月には、この田畑1町5反(田2反9畝、畑1町2反1畝)が御免許地とされます。これを山崎家時代に認められていた6反3畝と併せると御免許地は2町1反3畝になります。

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大見から見た弥谷山(真ん中 右が天霧山)
これらの弥谷寺の寺領は、どこにあったのでしょうか?
  弥谷寺の下に広がる大見の地は、中世に秋山氏によって開かれたとされます。秋山氏の一族である帰来秋山氏は、竹田に舘を構えていました。近世になると三野湾が大規模に干拓されていきます。そのような中で弥谷寺に続く斜面も開墾され、その上部の谷頭にため池を築造することで棚田状の新田を開発したことが推測できます。

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現在の八丁目太子堂付近 左が旧遍路道

 現在の八丁目太子堂辺りに、かつては大門があったことは以前にお話ししました。この太子堂の裏には谷頭に作られたため池があります。
弥谷寺 遍路道
八丁目大師堂(大門跡)の南に残る「寺地」

太子堂から本山寺に続く遍路道を下りていくと旧県道と交わる辺りに「寺地」という地名が残ります。江戸時代に、弥谷寺が開発し、「御免許地」となったは2町1反3畝の水田は、この辺りにあったと私は考えています。この土地は、弥谷寺にとっては伽藍維持や日常的な寺院経営にとっての経済基盤となったはずです。
弥谷寺 八丁目大師堂 大門跡
弥谷寺の寺地周辺
 また、4月には大見村の鳥坂原で、新開畑5反5畝が弥谷寺分として認められています。この地については「当夏成より定めの通り上納仕るべき者なり」とあるので、「夏成」(夏年貢)を納める必要があったようです。(以上、「御免許山林田畑之事」、文書2-11「19、「弥谷寺由来書上」、文書1-17-8)。

弥谷寺は、自らの手による新田開発以外にも、有力者からの田畑の寄進を受けています。
弥谷寺に残された田畑等の寄進証文を、研究者が年代順に整理したのが次の表です。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田畑等の寄進証文一覧表

これを見ると一番古いのは「1の元禄12年の三野郡上高瀬村の田中清兵衛」によるもので、精進供料とし田畑5畝(高2斗5升が寄進されています。この時期は、弥谷寺境内に多くの墓標が造立され始めたころで、18世紀中頃にかけて急速にその数が増えていきます。墓標を弥谷寺境内に建てると同時に、追悼供養として寄進が始まったようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
弥谷寺の墓標造立数の推移表
2は、先ほど見た大見村寺地組の有力者で深谷家の当主です。新田として開発された周辺の土地が寄進されたのかも知れません。3~5は、大見村の属する「上の村組」の大庄屋である宇野家によるものです。宇野家は大庄屋として、多度津藩が命じて弥谷寺で行われる大般若経の転読や雨乞祈願などの行事には、上の村組の庄屋たちのトップとして臨席する立場にありました。ある意味、宇野家にとっては弥谷寺は慰霊の地であるとともに「ハレの場」でもあったのです。そこに、「観音堂修理料」の名目で、土地が3ケ所寄進されています。その後の田畑寄進者の名前を見ると、宇野家を見習うように大見村土井家、大見村庄屋大井家や、大見村内の有力者の名前が続きます。
 生駒氏や松平氏が新興の金毘羅神を保護し、金光院に多くの土地を寄進しました。それを真似るように、この時代になると庄屋や有力者が田畑を寺社に寄進するようになります。弥谷寺への土地寄進の先頭を切ったのは、大庄屋の宇野家で、これを見習うように庄屋たちが続いていきます。その背後には、彼らが弥谷寺を死霊の集まる山として霊山信仰をもち、そこに墓標を建てるようになったことがあります。

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弥谷寺の墓標
その中で6の正徳3年の5月と翌年3月に、美作の久米南条郡金間村平尾次郎兵衛が、岩谷奥院灯明料を寄進しています。
その理由は研究者にも分からないようです。ただ、近世以前の弥谷寺は、善通寺の影響下に入らずに、白方の海岸寺や父母院と同じ山伏(修験者・聖)たちとともに「空海=白方誕生説」を流布してたことは以前にお話ししました。そして、その源は多度津の道隆寺を経て、海を渡って備中児島の五流修験者たちとのつながりが見て取れます。五流の修験者の中には、海岸寺や弥谷寺を空海生誕の聖地として、先達なって信者たちを誘引していた時期があります。その名残がこの背景にはあるのではと、私は推測しています。

弥谷寺に寄進地された土地は、あまり広い田畑はないようです。
一番広いのが田畑5反3畝25歩の享保12年9月の上ノ村の大庄屋三野(宇野)浄智(与三兵衛)です。その次が寛延3年6月の田畑3反2畝27歩の宇野清蔵(宇野浄智の一族と思われる)になります。寄進目的としては精進供料、本尊仏倉向備、観音堂修理料、岩屋奥院三尊前言明料、石然地蔵尊仏倉向備、観音堂供灯明料、常灯明料・護摩供支具料・地蔵尊敷地・寺地普請などが記されています。
 宇野浄智の場合は常接待料・接待堂・常接待石碑となっており、遍路のための参詣者や接待堂建設のための寄進もあることに研究者は注目します。
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺の地蔵刻印の墓標


これらの寄進地は、その土地からの収入がすべて弥谷寺の収入となったわけではありません。
作徳米(藩へ年貢)を納めた後の収納米が弥谷寺の収入になります。たとえば一番古い元禄12年の田中兵衛の寄進状には、次のように記されています。
大見村小原にて田畑五畝、此の高弐斗五升の田畑買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料二事二仕る処なり、尤も御年貢諸役等其の方二て御勤め、其の余慶を以て御精進供御備え願い奉る者なり、右の意趣は両親のため、現世安穏後生善くする所なり
意訳変換しておくと
大見村小原で田畑五畝、石高弐斗五升の田畑を買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料として寄進する。もちろん御年貢諸役などを納めたあとの余慶を、御精進供御備するものである。この意趣は両親のため、現世安穏・後生を善くするためである。

ここからは次のようなことが分かります。
①寄進地は、従来から持っていた田畑ではなく、新たに弥谷寺周辺の田畑を買い求めたものであること。
「弘法大師の御精進供料」と弘法大師信仰がみられること
③「御年貢諸役等其の方二て御勤め」とあるように、年貢やその他の藩への負担である諸役は弥谷寺から納め、残った分を「其の余慶を以て御精進供御備え」に充てるとあること
この「余慶」が作徳米になります。つまり田畑の寄進を受けたとはいっても、それが「御免許地」のように藩への年貢貢等税が免除された寺領という性格ではなかったことを押さえておきます。
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弥谷寺本堂下の磨崖に彫られた五輪塔とその前に並ぶ墓標

弥谷寺への土地の売り渡し・質入れ証文が残っているのは、どうして?
享保11年(1726)から、幕末の嘉永元年(1848)までに20通を数える売り渡し・質入れ証文があります。どうして個人の証文が弥谷寺に残っているのでしょうか。研究者は次のように考えています。享保11年と同12年の大庄屋宇野浄智の売り渡し証文は、計田5反3畝25歩です。これは寄進地の第22表8番目の三野郡財田上ノ村宇野浄智と一致します。また宝暦6年2月の「利助取次」が宛名になっています。畑4畝12歩は、さらに大見村庄屋の大井平左衛門宛となっています。これは寄進地の13番目の宝暦6年12月大井平左衛門の田畑6畝5歩と同一の田畑だと研究者は指摘します。ここから大庄屋の宇野家や大見村庄屋の大井平左衛門は、質流れで手に入れた土地を、自分のものとするのではなく弥谷寺へ寄進したとことが分かります。この頃の庄屋は自分の利益だけを追い求めていたのでは、村役人としてやっていけなかった時代です。質流れの抵当として手に入れた土地は、寺社に奉納するという姿勢を見せておく必要があったのかもしれません。
以上をまとめておくと
①17世紀の弥谷寺は、八丁目大師堂の下あたりの斜面を開墾し、谷頭にため池を築造し新たな田畑を開いた。
②これは藩から「御免許地2町1反3畝」として無税の寺領として認められた。
③一方、18世紀になると大庄屋の宇野家など、境内に墓標を建てた有力者たちから先祖供養代などとして土地寄進が行われるようになった。
④その土地には「質流れ担保」で、庄屋たちの多くは自分のものとせずに弥谷寺に寄進する道を選んだ。
前回は大般若経の転読や雨乞い祈祷などの宗教行事を通じて、地域の有力者が弥谷寺と深く関わっていたことを見てきました。今回は、大庄屋などの有力者が経済的に弥谷寺をどのように支えてきたのかを見たことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
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   多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)年4月19日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村、三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
こうして多度津藩は丸亀藩の支藩として成立します。その石高は以下の通りです。
2多度津藩石高
多度津藩の石高(多度郡+三野郡)

多度津藩の石高1万石は、多度郡が7130石余(15か村)、三野郡が2869石余(5か村)でした。その内で三野郡5か村は大見村・松崎村・原村・神田村・財田上ノ村で、その石高は次の表の通りです。

2多度津藩石高変化
多度津藩各村毎の石高推移

三野郡では宝暦年間は、大見村の石高一番多く、少ないのが原村だったことが分かります。それが明治4年には、神田や財田上(上の村)の石高が倍増しています。山間部での水田開発が継続して行われていたことがうかがえます。
弥谷寺 大見村と上の村組
多度津藩の三野郡5ケ村の位置

上の地図のように前者の3ケ村は三野郡の北部で、後者の神田村(山本町)・財田上ノ村(財田町)は、三野郡の南部になります。ふたつは離れた飛び地でした。環境の違うふたつのグループをまとめていくことは、なかなか大変だったことが予想されます。どちらにしても、弥谷寺のある大見村は、三野郡5か村で構成される上ノ村組に属していました。
上ノ村組の大庄屋は、財田上の宇野家が務めていたようです。
正徳1(1711)年に、神田村に隣接する羽方村(高瀬町)が多度津領に追加されます。その2年後の正徳3(1713)年4月に、上の村組大庄屋の宇野与惣兵衛が観音堂修理料として弥谷寺に田5畝を寄進しています。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田地寄進一覧表
 宇野家は大庄屋を代々務め、多度津藩の湛甫建設が本格化する天保7(1836)年3月まで、宇野弥三左衛門の名前は大庄屋として確認できます。一方、大見村の庄屋は、近世初期の元和6年(1620)以降、明治まで、大井家がずーっと継承しています。(『新大見村史』)
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弥谷寺の本坊
字野家や大井家と、弥谷寺はどんな関係だったのでしょうか?
その関係を垣間見える資料を研究者は2つ挙げています。ひとつは、享保19年(1734)に、弥谷寺住職智等が隠居願いを本寺の善通寺誕生院へ提出しています。それと同時に,大見村庄屋大井平左衛門と連名で大庄屋の宇野与三兵衛へも提出しています。しかし、これは認められなかったようです。
 2つ目は、隠居願いが認められなかった住職智等は、3年後の元文2(1737)年に、有馬温泉への入湯願いが出されています。このほかにも住職の高野山への登山や、本山善通寺の造塔のための大坂行についても承認伺いが庄屋や大庄屋に出されています。ここからは弥谷寺の願書は、直接に多度津藩の寺社奉行に提出され、その結果が直接に弥谷寺へ伝えられるという形式ではなく、庄屋・大庄屋の承認を受けて後に、藩に取り次がれるという仕組みになっていたことが分かります。それだけ弥谷寺の維持、運営に大庄屋・庄屋が深く関わっていたようです。
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弥谷寺本坊
次に弥谷寺の住職の後継者決定手続きを見てみましょう。
寛政11(1799)年暮れに住職蜜範が病死し、後継者を決めることになります。その際の記録に「法春並びに村役人共打ち寄り評議仕り候」とあります。法春とは同一宗門を修行する仲間のことで、弥谷寺の住職の決定には「法春」とともに村役人が「評議」して、その承認が必要であったことが分かります。蜜範の後継者には、松崎村の長寿院が転住して住職となっています。この時は大見村宝城院と大見村庄屋玉三弥源太連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願い出ています。(「諸願書控」、文書2-104-3)。

 その次の後継者選びは、文政9年(1826)に住職霊熙が病気隠居し、後任者に大見村の宝城院が兼帯することを願い出ています。この時も弥谷寺と大見村後見大井勇蔵の連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願書を提出しています。このことは善通寺誕生院へも伝えられ、多度津藩では「願書二誕生院よりの添翰を以て願い出」ているので、これを認めています。(「奉願口上之覚」、文書2-116-11)
 幕末の嘉永5年(1852)に弥谷寺では住職智量が隠居したため、後継者を決めることになります。この時も寛政11年の時の「法春井びに村役人共評議仕り」との同じような文言があります。ここからは弥谷寺の後継者決定にも、大見村の村役人が深く関わっていたことが分かります。村役人と弥谷寺の関係の強さがうかがえます。
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弥谷寺十王堂

弥谷寺の住職は多度津藩の陣屋が出来るまでは、藩主が在国している時には、年頭に丸亀城で丸亀藩主・多度津藩主にお目見えをしていたようです。また、正・五・九月には丸亀城内で、般若経の転読や祈祷を行っています。ここからは、弥谷寺は丸亀藩・多度津藩の祈祷寺だったことが分かります。(「弥谷寺故事謂」)

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弥谷寺十王堂からのながめ

 明和7(1770)年はこの年は不作で、丸亀藩では農民に対し、「夫喰」(食料米)の貸与を行っています。これに対して5月に、多度津藩・寺社奉行は弥谷寺と道隆寺を呼んで、次のように命じていることが「五穀成就民安全祈祷控」に記されています。(要約)

藩主・京極高文様が近年の旱魃という領内不幸に、「百姓貧殺イタセシ事」を深く悲しんでおられる。そのために正月に「五穀豊熟民安全」を祈って、藩主自らが大般若経の「御札」を書き、その版木を道隆寺へ奉納することになった。そこで、多度津藩内の道隆寺と弥谷寺に大般若経の転読を命じ、祈祷料として銀5枚、領内へ配る御札用の料紙として杉原一束が渡された。祈祷料と御札紙のことは、弥谷寺から地元の「上の村組中」へも伝えらた。

 大般若経とは、正式な名前を「大般若波羅蜜多経」といいます。
 唐の時代に三蔵法師玄奘侶が16年のインド(天竺)留学から持ち帰り、その後4年を費やして翻訳(漢訳)します。小品般若、大品般若、金剛般若、文殊般若、秘密般若、理趣般若などさまざまな般若部経典の大全集で、その数は600巻にもなるようです。内容は、「般若波羅密」と訳される”悟りに至る智恵”を説く諸経典を集成したもので、「色即是空 空即是色」、一切の存在はすべて空であるという空間思想を説いているとされています。
2020年8月 – 三方石観世音
大般若経600巻

   しかし、中世の村々の寺社では、災異や疫病の流行を鎮め豊作を祈るための祈願行事となります。村々では日々の安寧を祈るため、大般若経を手に入れて祈願するようになります。導師が説草を唱える合間に、大般若経600巻を複数の僧侶で転読し、藩内の安全、五穀豊穣、また地区住民の厄災消除、家内安全を祈願するものです。

大般若経転読法要: 薬師寺日記
大般若経の転読(薬師寺)
しかし、600巻もあるお経を読むのも、長い巻物を巻くのも大変です。そのため、お経の形は5センチくらいの幅で蛇腹折りにした「折本」の形に変えられ、これを片手から片手へパラパラと落とし受けられるようにし、これでお経を読んだことにする「転読」が広く行われるようになりました。村のお経は、共同体の拠りどころである神社の宮座に置かれたので、仏教の経典が神社に伝わるという保管状況になっていたところが多いようです。それが、神仏分離で神社からお寺に移され、保管されてきたようです。
大般若シリーズ【3】 転読 その1新米和尚の仏教とお寺紹介

 経本を1巻1巻正面で広げ流し読むことで、それによって清らかな”般若の風”が起き、疫病や災害が吹き飛ばされるとされます。それぞれの僧侶が、1巻1巻「大般若波羅蜜多経 巻第○○(巻数) 唐三蔵法師玄奘奉詔訳ー!!」と、大音声で経巻数を唱え、最後に「調伏一切大魔最勝成就!」と唱え締めくくります。
このような転読会が多度津藩主から弥谷寺と道隆寺には命じられていたようです。
この時の弥谷寺の大般若経の転読には、代拝使として寺社奉行と寺社取次・代官奈良井藤右衛門らがやってきています。そして三野郡大庄屋字野十蔵を初めとする、大見村など4ヶ村の庄屋や村々の長百姓、組頭らも弥谷寺へやってきます。これは、多度津藩上ノ村組の大庄屋・庄屋・村役人のフルメンバーになります。そこに大勢の見物人もやってきます。その前で、弥谷寺住職によって大般若経の転読が行われています。一大イヴェントです。ここからは、弥谷寺が「上の村組」の重要な宗教的センターの役割を担っていたことが分かります。弥谷寺は、藩の保護を受けた特別なお寺と地元では認識されるようになります。ちなみに、この転読には弥谷寺のほかに、宝城院・長寿院・牛額寺・萬福寺・吉祥寺ら11人の僧が参加しています。その頂点に立つのが弥谷寺住職ということを目に見える形で、地元の人たちに知らしめる機会にもなります。
それから半世紀近く経った文化12年(1815)に、弥谷寺と道隆寺へ御紋幕が下賜されています。
その下賜理由は、次のように記されています。(要約)
「昨年秋の旱魃では、多度津領内は「一統困窮」した。そこで今年の夏は「五穀成就 民安全の御祈祷」を命じた。その結果、秋には領内全体に「作り方宜しく 村々より冥加米等献上」されている。これを祝して紋幕一対を下賜するので今後も、「五穀成就 民安全の祈念」をするように」とのことであった。
文化12年10月「御紋幕御寄附之控」、文書2-106-3=裏竃.

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善如龍王(男神像)
幕末の頃には「雨乞執行(祈祷)」が弥谷寺で行われています。
丸亀藩が日照りの時に、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。また、三野郡の威徳院(高瀬町)や本山寺(豊中町)では、善女龍王信仰による雨乞祈願が早くから行われていたことは、以前にお話ししました。それを見て多度津藩でも幕末になると「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。この時の雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。
 また年は分かりませんが18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にありますので、この頃のことのようです。
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生駒一正のものとされる五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておくと次のようになります
①弥谷寺は中世は、高野聖などの念仏僧によって阿弥陀浄土信仰の拠点となっていた。
②そのために周辺の有力な信者たちが磨崖五輪塔を建立し、納骨するなど慰霊の聖地となった。
③守護代の香川氏は天霧城を拠点とすると、弥谷寺を菩提寺として、西院周辺に墓域を設け五輪塔を造立し続けた
④戦国時代末に藩主としてやってきた生駒氏も、ここに五輪塔を造立するとともに、弥谷寺で作った五輪塔を墓碑として各地の寺院に造立した
⑤丸亀藩主の山崎氏も本堂の西側に、藩主のものを含めて五輪塔3基を造立した。
⑥18世紀になると香川氏・生駒氏・山崎氏の墓標がならぶ弥谷寺境内に、それに習うかのように周辺の有力者が墓標を造立するようになる。
⑦境内に墓標を建てた有力者は、弥谷寺の保護者となり寺院経営に協力していくことになった。

それが本堂改築の資金調達であったり、以前にお話した金剛拳菩薩建立のための資金調達であったようです。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
このように弥谷寺は多度津藩の有力寺院として公的な行事を行う中で寺格を上げていきます。同時に後継者決定には、大庄屋や庄屋たちを関わらせることで、地域の有力者の寺院経営への参加意識を高め、伽藍整備に関わる資金調達をスムーズに行うシステムを作り上げていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
                                                      


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弥谷寺の磨崖五輪塔 岩壁の中程に並ぶ
弥谷寺は境内の岩壁に数多くの磨崖五輪塔や磨崖仏が刻まれて独特の雰囲気を生み出しています。また、石仏、五輪塔、墓標などが境内のあちらこちらに数多く見られます。一方で弥谷寺は境内に、石切場が中世にはあったと研究者は考えています。つまり、石造物の設置場所と生産地の2つの顔を弥谷寺は持つようです。これまで中世に瀬戸内海で流通していた石造物は豊島石製と考えられてきました。それが近年になって天霧石製であることが明らかにされました。天霧石の採石場があったのが弥谷寺と研究者は考えているようです。
 弥谷寺の石造物については、いつ、何のために、だれによって造られたのかについて、系統的に説明した文章になかなか出会えませんでした。そんな中で弥谷寺石造物の時代区分について書かれた「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」に出会えました。これをテキストに弥谷寺の石造物を見ていくことにします。
 研究者は弥谷寺の石造物を次のように時期区分します。

弥谷寺の石造物 天霧産石造物

今回はⅠ期の「平安時代末期~南北朝時代(12世紀後半~14世紀)」の弥谷寺の石造物を見ていきます。
この時期は磨崖仏、磨崖五輪塔が中心で、石造物はほとんど造られていません。
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本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)

磨崖仏として最初に登場するのは、本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏です。この仏は凝灰岩の壁面に陽刻され、舟形光背を背後に持ちます。今は下半身は分からないほど表面は、はがれ落ちています。

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         本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏

中央と左像は像下に蓮華坐が見られます。中央像はよく見ると肉系と二定印が見えるので、阿弥陀如来像とされます。左脇侍は観世音菩薩像、右脇侍は勢至菩薩像で、鎌倉時代末のものと研究者は考えています。
南無阿弥陀仏の六字名号
弥谷寺では阿弥陀三尊像に向って右に二枠、 左に一枠を削り、南無阿弥陀仏が陰刻されています。それは枠の上下約2.7m、横約3mの正方形に近い縁どりをし、その中に「南無阿弥陀仏」六号の名号を明確に三句づつ ならべたもので、3×3で9つあります。これが「九品の阿弥陀仏」を現すようです。

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南無阿弥陀仏の六字名号が彫られていたスペース
 今は表面の磨滅が進み今ではほとんど読み取れず、空白のスペースのように見えます。
弥谷寺 阿弥陀如来磨崖仏 1910年頃
阿弥陀如来三尊磨崖仏(弥谷寺)左右のスペースに南無阿弥陀仏がかすかに見える

約110年ほどの1910年に撮られた写真を見ると、九品の「南無阿弥陀」が阿弥陀如来の左右の空間にはあったことが分かります。仏前この空間が極楽往生を祈る神聖な場所で、この周辺に磨崖五輪塔が彫られ、その穴に骨が埋葬されていました。

弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の下に書かれた南無阿弥陀仏(金毘羅名所図会)


弥谷寺 磨崖仏分布図
弥谷寺の磨崖仏分布図
 次に古い磨崖仏があるのは、現在の大師堂にある獅子窟です。
弥谷寺 大師堂入り口
大師堂入口から見える獅子の岩屋の丸窓

獅子窟は大師堂の奥にあります。凝灰角礫岩を刳り抜いて石室が造られています。もともとは屋根はなかったのでしょう。獅子が口を開いて吠えているように見えるので、獅子窟と呼ばれていたようです。
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大師堂の中をぐるりと廻って獅子の岩屋へ
弥谷寺 獅子の岩屋2
獅子の岩屋(弥谷寺大師堂)
獅子窟の奥には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が東壁と北壁の2ヶ所の小区画内に陽刻されています。
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壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。
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一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 一番手前は弘法大師

側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。
弥谷寺 獅子の岩屋 大日如来磨崖仏
従来は大日如来とされた磨崖仏(弥谷寺)

ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、地蔵菩薩の可能性が高いと研究者は指摘します。そうだとすると阿弥陀如来と地蔵菩薩という仏像の組合せと配置は特異で、独自色があります。「九品の浄土」と同じく「阿弥陀=念仏信仰」の聖地であったことになります。
 どちらにしても獅子窟の磨崖仏は、表面の風化と 護摩焚きが行われて続けたために石室の内部は黒く煤けて、素人にはよく分かりません。風化が進んでいるので年代の判断は難しいようですが、これらの磨崖仏は、平安時代末期~鎌倉時代のものと研究者は考えているようです。ここで押さえておきたいのは、最初に弥谷寺で彫りだされた仏は、阿弥陀如来と地蔵菩薩であるということです。
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護摩堂内部 一番左に安置されているのが道範像
どうして、弥谷寺に最初に造られたのが阿弥陀如来なのでしょうか?
任治4年(1243)に讃岐国に流された高野山のエリート僧侶で念仏僧でもある道範は、宝治2年(1248)2月に「善通寺大師御誕所之草庵」で『行法肝葉抄』を著しています。その下巻奥書には「是依弥谷上人之勧進、以諸国決之‐楚忽注之」とあります。

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道範像(弥谷寺護摩堂)
ここからこの書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたものであることが分かります。これが「弥谷」が史料に出てくる最初のようです。「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修者や聖のような宗教者の一人と研究者は考えます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)
 阿弥陀三尊の磨崖仏が弥谷寺に姿を現すのは鎌倉時代のことです。
元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印による「剣御山爾谷寺略縁起」には、阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が、「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。
弥谷寺 九品来迎図jpg

「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという死生観です。そのため、印相を変えた9つの阿弥陀仏が必要になります。本堂東の水場のエリアも、「九品の浄土」して阿弥陀如来が彫られ、「南無阿弥陀仏」の六文字名号が9つ彫られます。ここから感じられるのは、強烈な阿弥陀=浄土信仰です。中世の弥谷寺は阿弥陀信仰の聖地だったことがうかがえます。
それを支えたのは高野聖などの念仏行者です。彼らは周辺の村々で念仏講を組織し、弥谷寺の「九品の浄土」へと信者たちを誘引します。さらにその中の富者を、高野山へと誘うのです。

 中世の弥谷寺には、いくつもの子院があったことは、前回お話ししました。

弥谷寺 八丁目大師堂
子院アト(跡)が参道沿いにいくつも記されている
天保15年(1844)の「讃岐剣御山弥谷寺全図」には跡地として、遍明院・安養院・和光院・青木院・巧徳院・龍花院が書き込まれています。それら子院のいくつかは、中世後期には修験者や念仏僧の活動拠点となっていたはずです。それが近世初頭には淘汰され、姿を消して行きます。それが、どうしてなのか今の私にはよく分かりません。
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磨崖五輪塔(弥谷寺)

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は、次のように記します。
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

山中の磨崖一面には、どこにも仏像が彫られていたことが分かります。
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磨崖に彫られたキリク文字
その30年後に、訪れた元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)は、次のように記します。
「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」
意訳しておくと
 水場の当たりの磨崖には、キリク文字や南無阿弥陀仏の六字名号が彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が彫られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、弥谷寺はおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた阿弥陀=浄土信仰の「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った宗教者の活動の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
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苔むした磨崖五輪塔(弥谷寺)
次に弥谷寺の磨崖五輪塔を見てみましょう。  磨崖五輪塔は何のために作られたのでしょうか。
五輪塔は死者の慰霊のために建立されますが、磨崖五輪塔も同じ目的だったようです。 弥谷寺の五輪塔は、空、風、火、水、地がくっきりと陽刻されています。そして地輪の正面に横20 cm前後、上下約25 cm 、深さ15 cm 程の 矩形の穴が掘られています。水輪にもこのような穴があけらたものもあります。この穴は死者の爪や遺髪を紙に包んで六文銭と一緒に納めて葬られたと伝えられます。このため納骨五輪塔とも呼ばれたようです。

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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔 奉納孔が開けられている

弥谷寺の磨崖五輪塔は、次の3ケ所の岩や磨崖に集中しています。
①仁王門から法雲橋付近の「賽の河原」
②大師堂付近
③水場から本堂付近
③については、今まで説明してきたように、「九品の浄土」とされる聖なる空間で、阿弥陀三尊が見守ってくれます。ここが五輪塔を作るには「一等地」だったと推測できます。
②については、先述したように大師堂は獅子窟があるところです。ここも弥谷寺の2番目の「聖地」(?)と私は考えています。そこに、多くの磨崖五輪塔が作られたのも納得いきます。
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レーザー撮影で浮かび上がる磨崖五輪塔(弥谷寺)
①の法雲橋付近に多いのは、どうしてなのでしょうか? 
 弥谷寺では、灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきたようです。
弥谷寺の『西院河原地蔵和讃』には、次のように謡われています。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き
このエリアには、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると 説きます。そのために、このエリアにも早くからに五輪塔が掘り込まれたようです。

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潅頂川にかかる伝雲橋近くに彫られた磨崖五輪塔

 弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが、伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
 大山と弥谷寺では、同じように阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役です。「さいの河原」に石を積むように、磨崖五輪塔を造立することも積善行為で、先祖供養だったと私は考えています。
 この教えを広げたのは修験者や高野聖たちだったようです。弥谷寺は時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたともいえそうです。当寺の高野山は、一山が時宗化した状態にあったことは以前にお話ししました。慰霊のために磨崖五輪塔が作られてのは、弥谷寺の聖地ベスト3のエリアであったとしておきます。

弥谷寺 磨崖五輪塔
弥谷寺の磨崖五輪塔の変遷
 弥谷寺磨崖五輪塔の初期のものは、空輪の形からは平安時代末~鎌倉時代中期のものと想定されます。しかし、軒厚で強く反る火輪を加味すれば平安時代末まで遡らせることは難しいと研究者は考えているようです。結論として、弥谷寺の磨崖五輪塔は鎌倉時代中期のもので、三豊地域ではもっとも古いものとされます。

弥谷寺 五輪塔の変化
火輪は軒の下端部が反るものから直線的なものに変遷していく。(赤線が軒反り)

 磨崖五輪塔は、多くが作られたのは鎌倉時代中期から南北朝時代です。室町時代になるとぷっつりと作られなくなります。磨崖五輪塔の終焉がⅠ期とⅡ期を分けることになると研究者は考えています。そして、 磨崖五輪塔が作られなくなったのと入れ替わるように石造物製作が始まります。 それがⅡ期(15世紀~16世紀後半)の始まりにもなるようです。ここまで見てきて私が感じることは、「弘法大師伝説」はこの時期の弥谷寺には感じられないことです。「弥谷寺は弘法大師の学問の地」と言われますが、弘法大師伝説はここでも近世になって「阿弥陀=念仏信仰」の上に接ぎ木されたようです。
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潅頂川の賽の河原に彫られた磨崖五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておきます。
①鎌倉時代に、弥谷寺の磨崖に仏像や五輪塔が彫られるようになった。
②磨崖仏は阿弥陀仏と地蔵菩薩がほとんどで、磨崖五輪塔は納骨穴があり慰霊のためのものであった。
③その背景には、「念仏=阿弥陀=浄土」信仰を広めた高野聖たちの布教活動があった。
④高野聖は弥谷寺を拠点に、周辺郷村に念仏信仰を広め念仏講を組織し、弥谷寺に誘引した。
⑤富裕な信者たちは弥谷寺の「聖地」周辺に、争うように磨崖五輪塔を造るようになった。
⑥弥谷寺は慰霊の聖地であり、高野聖たちは富裕層を高野山へと誘引した。
⑦こうして弥谷寺と高野山との間には、いろいろなルートでの交流が行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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P1120732
弥谷寺下の八丁目大師堂
本山寺から弥谷寺への遍路道の最後の上り坂に八丁目大師堂があります。この大師堂には、台座裏面には寛政10年(1798)の墨書銘がある弘法大師坐像が安置されています。

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八丁目大師堂の弘法大師座像

坐像が造られた18世紀末と云えば前回お話ししたように、弥谷寺が参拝客誘致のために周辺の遍路道を整備し、接待所を設け、そこに大地蔵などのモニュメントを設置していた時期とかなさります。「弥谷寺周辺整備計画」の一環として大師堂が建立され坐像が安置されたようです。
弥谷寺 遍路道
大師堂付近は「大門」の地名が残る

 私が気になるのは、この大師堂一体に「大門(だいもん)」の小字名が残っていることです。かつての弥谷寺の大門がこのあたりにあったと伝えられています。そうだとすれば当時の弥谷寺境内は、このあたりから始まっていたことになります。さらに、この坂を県道まで下りていった辺りは「寺地」と呼ばれています。弥谷寺の寺領と考えられます。明治の神仏分離に続く寺領没収以前には、、かなり広い範囲を弥谷寺は有していたようです。
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八丁目大師堂からの遍路道
今回は、弥谷寺の八丁目大師堂付近にあったという大門について探ってみたいと思います。テキストは「弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会」です。P1150049
八丁目大師堂より上の道 かつては両側に子院が並んでいた
『多度津公御領分寺社縁起』(明和6年(1769)には、次のように記されています。
「上古は南之麓に大門御座候て、仁王之尊像を安鎮仕候故、深尾より祈祷地への通ひ道を仁王道と申し候、然る所寛永年中(1624~1643) 大門致大破候故、仁王之尊像をは納涼坊へ移置候、於干今大門之旧跡御座候て、其所をは大門と名つけ、礎石等相残居申候、先師達、大門之営興之念願御座候得共、時節到来不仕候、其内有澤法印延宝九年(1681)、先中門に再建仕候て二王像を借て本尊と仕候て、諸人誤て仁王門と申候得共、実は中門にて御座候、往古は中門に大師御作之多聞・持国を安鎮仕候、其二天は今奥院に有之候」

意訳変換しておくと
「昔は南の麓に大門があり、そこに仁王尊像を安置していたので、深尾より祈祷地への道を仁王道と呼んでいた。ところが寛永年中(1624~1643)に大門が大破し、仁王像は納涼坊へ移された。以後は大門跡なので、大門と呼んでいた。礎石などは残っていたので、先師達は、いつか大門再建を願っていたが、その機会は来なかった。そうしている内に、有澤法印が延宝九年(1681)、先に中門を再建し、二王像を向かえて本尊とした。そのため人々は、誤ってここを仁王門と呼ぶようになった。実はここは中門で、往古は大師御作とされる多聞・持国天が安置されていた。その二天は今は奥院におさめられている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①本来の大門には二王像が安置されていたので仁王門と呼ばれていたが寛永年間に大破したこと、
②大門はそれ以降再建しておらず、「大門」の地名だけが残ったこと
②中門が再建され「仁王像」が安置されたので、「中門」が仁王門と呼ばれるようになったこと。

それでは大門はどこにあったのでしょうか。
 「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には「大門跡」が描かれています。

弥谷寺全図(1844年)2
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)

この絵図が書かれた時期の金毘羅さんを見ると、丸亀や多度津に新港が整備され金比羅参拝客が激増します。その機運の中で3万両と資金を集め、巨大な金堂(現旭社)が完成間近になっていました。それに併せるように石段や玉垣なども整備され、芝居小屋も姿を見せるなど、参拝客はうなぎ登りの状態でした。そのような中で当寺の弥谷寺の住職も、金毘羅詣での客を自分の寺にどのように誘引するかを考えたようです。それが前回お話しした曼荼羅寺道の整備であり、伊予街道分岐点近くの碑殿上池への接待所設置であり、ここを初地(スタート)とするシンボルモニュメントである初地地蔵菩薩の建立でした。

弥谷寺 初地菩薩
初地菩薩(現在の碑殿上池の大地蔵)からの曼荼羅寺道
そしてゴールの弥谷寺境内には現在の金剛拳菩薩が姿を現し、その前には二天門が新たに建立されたことは前回お話ししました。

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ゴールの金剛拳菩薩(建立当初は大日菩薩)
 そして、この絵図を見るといくつもの堂宇が山の中に建ち並んでいる姿が見えます。18世紀末から整備されてきた弥谷寺のひとつの到達点を描いた絵図とも云えます。金毘羅詣でを終えて、善通寺から弥谷寺にやってきた参拝客もこの伽藍を見て驚き満足したようです。善通寺よりも伽藍に対する満足度は高かったと言われます。
 さて本題にもどります。大門跡付近を拡大してみましょう。

弥谷寺 八丁目大師堂
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)の大門跡付近拡大

絵図の右下隅に「南入口」とあり「是ヨリ/本堂へ八丁」とあります。その先に「大門跡」の立札があります。「是ヨリ/本堂へ八丁」とあるので、八丁目大師堂のあたりに大門があったことが裏付けられます。ちなみに大門跡前の坂道を参拝客が登る姿が描かれています。その下の参道左側にお堂が描かれています。これが現在の「八丁目大師堂」の前身だと研究者は推測します。その根拠は「八丁目大師堂」の弘法大師坐像の台座裏面に記された寛政10年(1798)の墨書銘です。この坐像が安置された大師堂も、同時期に建立されたはずです。それから約50年後の天保15(1844)年の「讃岐剣御山弥谷寺全図」に、「八丁目大師堂」が描かれていても不思議ではありません。現在の大師堂も参道の左側にあります。ここに描かれた建物が現在の八丁目大師堂だとすると、大門はその青木院跡前の参道の右側付近にあったことになります。

 P1120738
八丁目大師堂から上の参道 子院が並んでいた周辺

この絵図を見ていて私が驚いたのは、参道両側に仁王門に至るまでいくつもの「院房アト(跡)」が記されていることです。ここからは、これだけの僧侶が弥谷寺を中心に活動していたことが分かります。その中には修験者や高野聖・念仏僧などもいたはずです。彼らが周辺の郷村に、念仏講を組織し、念仏阿弥陀信仰を広めていたことが推測できます。彼らは村の鎮守祭礼のプロデュースも果たすようになります。そして、都で流行していた風流踊りや念仏踊りを死者を迎える盆踊りとして伝え広めていきます。
 その成果として弥谷寺に建てられているのが、仁王門の上に建っている「船墓(ハカ)」です。
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仁王門上に建つ船ハカ
この船形の石造物は、今は摩耗してかすかに五輪塔が見えるだけです。
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しかし、この絵図には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたことが分かります。これは念仏阿弥陀信仰の記念碑であることは以前にお話ししました。
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船ハカ(レーザー撮影版)左に五輪塔が浮かび上がる
これを建てる念仏阿弥陀信仰者の講があり、それを組織した念仏僧が弥谷寺にいたことが分かります。今は弥谷寺は四国霊場の札所で空海の学問所とされています。しかし、中世には郷村へ念仏阿弥陀信仰を広める拠点で、人々は磨崖に五輪塔を彫り、そこに舎利をおさめ念仏往生を願ったのです。この寺の各所に残る磨崖五輪塔は、その慰霊のモニュメントだったようです。そこに近世になって弘法大師伝説が「接ぎ木」されたことになります。

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本堂横の磨崖に彫られた五輪塔 穴にはお骨がおさめられた
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会
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麻盆地の出口にあたる下麻には、「勝間次郎池」という大きな池があったという話が伝えられています。まずは、その昔話を見ていくことにします。
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下女塚が載っているのは第1集
下女塚 勝間次郎という池の堤に人柱が立てられた話です。
昔、下麻と首山にまたがって、朝日山や傾山や福井山などに囲まれた大きな池がありました。名を勝問次郎といいました。
このあたりで一番大きいのが満濃池で、満濃太郎と呼ばていたのに対して、勝間次郎は、満濃太郎の次に大きい池だという意味です。勝間次郎は、数十の谷から流れこむ三筋の川によって、池はいつも海のように水をたたえていたと言われています.
大きな池には長い堤が必要です。勝間次郎にも、たいへん長い堤防がありました。大きい池は水が多くて重いので、長い堤は切れやすいのです。堤がきれるたびに、海のような水が流れだして、そのたびに家が水浸しになり、たんばやはたけの作物が流されたりして、たいへんな被害がありました。
こんなに被害をもたらす池ですが、旧んぼやはたけの作物には水が必要です。人々はつらい思いをしながら、切れた堤を修理するのです。
麻盆地 
大麻山の西山麓に広がる麻盆地
 その年も、勝間次郎の堤が切れて、たいへんな被害がありました。
堤を修理する工事は、たいへんな苦労で、大勢の人が、何十日も汗を流して働きました。
修理の工事をしているときに、ある人が言いました。
「このようにたびたび切れる池には、人柱を立てると切れなくなるそうだな。東のほうの池で、若い女を人柱を立てたところ、それから堤が切れなくなったということを聞いたぞ」
修理の工事がきびしく苦しいので、賛成する人が何人も出てきました。
「大勢の人を助けるためには、かわいそうだが人柱もやむをえない
「そうだ、そうだ」
「あすの朝、一番にここを通った女の人を人柱にしよう」
「そうだ、女の人をつかまえて切れた堤の中へうめることにしよう」
「うん、それがよい」
こうして、工事の人たちの話し合いは、人柱を立てることに決まりました。
この話は村の庄屋さんの家へも伝わりました。庄屋さんも奥さんもたいへん心配しました。
「村の女の人を死なせることはできないわ」
と、奥さんは思いました。
次の朝になりました。まだ夜が明けきっていません。
  庄屋さんの奥さんは、自分の家で働いているお手伝いの人を連れて、堤の上を通りかかりました。待っていた工事の人びとは、名前を聞くこともなく、
「それっ」
と取り巻いて、二人をとらえました。そして、わけも言わずに、堤の工事現場へむりやりに連れていって、土の中に押し込んで、うずめてしまいました。
後になって、人びとは、むりやりに堤の土の中に押し込めたのが、庄屋の奥さんとお手伝いの人だと知りました。奥さんが自分から人柱になろうとしたことも知りました。
そんな悲しいことがあってから後、しばらくは、災害が起こらなくなりました。村の人々は安心しました。人柱になってくれた二人のおかげだと思いました。
村の人びとは、奥さんが持っていた鏡をご神体として神社を建てました。それが池の宮です。
また、お手伝いの人が持っていた箱をうめて塚を建てました。
それが下女塚です。昔は、お手伝いの人を下女といいました。池の宮は福井山の側に、下女塚は傾山の側に、高瀬川をはさんで、今も建っています。
しかし、長い年月がたつと、人柱を立てたかいもなく、いつの年にか、また堤が切れました。堤は修理ができないほど、ひどくこわれてしまいました。それから、また何年もたちました。水がなくなった池の中に田んぼができて、家が建ちました。そうして、勝間次郎は、あとかたもなくなり、伝説の池になってしまいました。

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勝間次郎池が広がっていたとされるあたり 左が朝日山
この昔話は次のような事を伝えています
①下麻に高瀬川をせき止めた海のように大きな池「勝間次郎池」があったこと
②長い堤防で幾度の決壊に人々は苦しめられていたこと
③決壊を防ぐために人柱が立てられたこと
④人柱となた庄屋の奥さんと下女の供養のために池の宮神社と下女塚が建立されたこと
⑤その後も決壊を繰り返した勝間次郎池は放置され、池の中は開墾され田んぼとなったこと
 勝間次郎池は、満濃太郎に次ぐ周囲数里の大池で、弘法大師空海の頃に築造され、決壊を重ね中世には廃池となったと伝えられているようです。それが、この池に代わって上流に岩瀬池が築かれ、勝間次郎池のことはしだいに忘れられたと『高瀬町史2005年 151p」には記されています。本当に勝間次郎池はあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 地図
③が勝間次郎池の推定位置
 
今回は伝説の勝間次郎池を見ていくことにします。テキストは「木下晴一 高瀬勝間次郎池を探る  香川地理学会会報N0.27 2007年」です
勝間次郎池があったことについて触れている史料をまず見ておきましょう。
西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション

丸亀藩が幕末に編纂した『西讃府志』には、三野郡勝間郷下麻村について、次のように記されています。

「池宮八幡宮 昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ 祭祀八月十五日 社林一段 社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」

意訳変換しておくと

「池宮八幡宮については、この地に勝間二郎という池があったので池宮と呼ばれています。祭祀は八月十五日で、社林一段鮨 社僧は歓喜院祠官の遠山伊賀が務めています。」

西讃府志の地誌部分は、地元の庄屋たちのレポートを元に作成されていることは以前にお話ししました。幕末に「昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ」という話が幕末には伝わっていたことが分かります。
麻 池八幡神社2
池八幡神社 高瀬川まで張り出した尾根上に鎮座している

まず、研究者が注目するのは「池ノ宮(池八幡神社)」です。
 池ノ宮は、社名からも池の守護神であることがうかがえます。同じような例としては、依網(よさみ)池と大依羅神社(大阪市住吉区)や狭山池と狭山堤神社(大阪狭山市)などがあり、池の周辺の丘の上に祀られています。
 下の地図を見てみましょう。
麻 池八幡神社周辺
池八幡神社(三豊市高瀬町下麻)と高瀬川
池八幡神社は、象頭山や朝日山などによって囲まれた麻盆地から高瀬川が流れ出す出口に鎮座しています。鬼が臼山と傾山に挟まれた最も谷幅の狭くなる地点になります。

P1120672
池八幡神社
境内には、明和5年(1768)の銘のある鳥居と、お旅所には文政2年(1819)の銘のある鳥居が建てられています。また先ほど見た西讃府志には「社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」とありましたので、歓喜院の僧侶が社僧を務めていたことが分かります。

麻 池八幡神社4jpg

 池八幡神社の祭神は、保牟田別命と豊玉姫命です。
八幡については、この神社の西にある歓喜院鎮守堂の八幡神社を分祀したと伝えられています。ここからは、もともとの祭神は豊玉姫命で、保牟田別命(応神天皇)は、後から合祀されたものであることがうかがえます。豊玉姫命がもともとの祭神であったのを、八幡信仰の流行の頃に、社僧を務める歓喜院の僧侶が保牟田別命(応神天皇)を合祀したと研究者は考えています。池八幡神社は、もともとは「池の宮」として建立されていたようです。
 それでは「豊玉姫」とは何者なのでしょうか?
 『日本書紀』(巻第二第十段)や『古事記』には、豊玉姫は海神の娘で、海幸彦の釣り針を探して海神(わたつみのかみ)の宮に訪れた山幸彦と結婚しますが、のち出産の際に鰐(龍)となっているところを山幸彦に見られたことを怒り、子を置いて海神の宮に帰ってしまった説話が記されています。
豊玉姫 | トヨタマヒメ | 日本神話の世界
豊玉姫

 豊玉姫は海の神とされ、讃岐では男木島の豊玉依姫神社などのように海に隣接する神社に祀られることが多いようです。一方で雨乞いや止雨、安産の神としても祀られています。たとえば阿波の豊玉姫を祀る神社には、那賀川沿いにある宇奈為神社(那賀町木頭)、雨降神社(徳島市不動西町)・速雨神社(徳島市八多町)など、立地や社名から雨乞神としてまつられていたことがうかがえます。
 讃岐の木田郡三木町の和年賀波神社には灌漑の神としての性格があると研究者は考えているようですが、これも祭神は豊玉姫です。高松市香川町鮎滝の童洞淵の童洞神社の祭神も豊玉姫命です。童洞淵は雨を祈った淵として有名な場所であることは以前にお話ししました。山幸彦が豊穣を約束された説話が多いように、豊玉姫についても、雨乞いや灌漑など豊穣の対象として信仰されていたことを押さえておきます。

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県道に面する民家の庭先にある下女塚 道の向こうが堰堤跡(?)

下女塚を見ておきましょう。
 勝間次郎池の堤塘復旧の際に、人柱となったのは、庄屋婦人とその下女でした。村人は婦人の鏡や櫛・算(髪飾り)を池ノ宮に、下女の持っていた手箱を塚に手厚く祀ったとありました。下女塚は、高瀬川を挟んだ県道沿の民家の庭先にあります。宝暦4年(1754)の銘のある舟形地蔵と寛政11年(1779)の銘のある供養塔が建てられています。

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下女塚
 人柱については、『日本書紀』巻第十一(仁徳天皇11年)に茨田堤の築造に際に出てきます。
築いてもすぐに壊れて塞ぐことが難しい所に、人柱をたてた話が記載されています。大規模な土木工事の際に古くから行われていたようで、讃岐でも次のような池に人柱伝説があるようです。
平池(高松市仏生山町) 治承2年(1178)築造)
小田池(高松市川部町) 寛永4年(1627)築造)、
一の谷池(観音寺市中田井町) 寛永9年(1632)築造)
吉原大池(善通寺市吉原町) 元禄元年(1688)築造)
夏目池(仲南町十郷)
この中で小田池と一の谷池には、人柱を祀る祠が立てられています。勝間次郎池の堤塘と下女塚の位置関係は、小田池のものと共通すると研究者は指摘します。
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下女塚


勝間次郎池の堤は、どこにあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 余水吐

 池の宮の東側の傾山の裾に形成された断崖の西南端の部分が堤遺構だと研究者は考えています。尾根から突き出すように、池の宮の方向に伸びて、県道工事の際に切断されています。
P1120683
堰堤跡とされる部分

これについて研究者は次のように指摘します。
尾根の傾斜とも崖錘の傾斜とも不連続で、頂部は水平であることなどから人為的な構造物である可能性が高いと思われる。池ノ宮との標高もほぼ等しく、平面的な位置関係から勝間次郎池にかかわる堤塘の遺構と考えられる。
P1120687
堰堤跡の上から池之宮方向をのぞむ
神社西側の余水吐跡について、見ておきましょう。
麻 勝間次郎池 地図3
      
研究者が注目するのは、神社の背後(西側)に細長い谷状地形①がみえることです。これは尾根と神社境内との間を完全に切断しているのではなく、途中で切れています。この谷状地形は、昭和60年(1990)の神社の神域整備事業によって埋め立てられたため、今は見ることはできないようです。聞き取りによると、谷状地形の底は数段の棚田で、サコタ(低湿な田)であったようです。これを研究者は勝間次郎池の余水吐だったと推測します。

P1120668
本殿裏手の余水吐け跡

 豪雨によって池への流入水量が急激に増え、堤塘を越えるようになると、堤塘が崩壊するので、ため池には余水吐が作られます。排水量が多くなる大規模なため池では、人工の堤塘上ではなく自然地形を利用して余水吐をつしていることが多いようです。満濃池の余水吐については以前にお話ししました。ここでは、余水が10m近い落差を流れ落ちるために谷頭浸食が起こり、谷が形成されたと研究者は考えています。現地での聞き取り調査からも、地元ではこの谷や堤塘状遺構が勝間次郎池の跡だったと伝わっているようです。これまで勝間次郎池は、朝日山と傾山を堤防で結んでいたと伝わってきましたが、以上から堤塘の位置が推定できます。つまり、勝間次郎池の堤防は、②の堤跡から池の宮を結ぶルートで、その延長線上に余水吐があったという仮説が出せます。それを地図で示すと次のようになります。

麻 勝間次郎池 復元図
勝間次郎池の堤防と位置
  ②から池の宮のある尾根までの距離は約150mなので、そこに堤防を築いて高瀬川をせき止めたことになります。
麻 勝間次郎池 地図43
勝間次郎池 ③が池の面積 ①が池の宮
こうして生まれた勝間郷池は、どれくらいの拡がりを持っていたのでしょうか
 研究者は次のような方法で池の面積を推定しします。 ため池では、満水時の水面は堤頂部より1,5m程度低い位置になります。そこで現地で水準器を立てて、堤塘状遺構の頂部より1、5mほど低い水準で周囲を見渡すという方法をとります。その結果、復元したのが上の池敷きです。ここからは次のようなことが分かります。
①最も狭い部分に堤防を築き高瀬川をせき止めた。
②池の宮の西側には自然地形を利用して、余水吐が作られた。
③堤防の西側の丘の上に、池の宮が建立された。
④池の東側岸は傾山の麓部分になり、現在の県道になる。
⑤東は、高瀬川沿いの光照寺付近まで
⑥北東は、朝日山麓の仏厳寺手前まで
これを計測すると池の面積は約38,5万㎡になるようです。満濃池が約140万㎡で、これには遠く及びませんが、国市池が22,8万㎡なので、それよりは広かったことになります。
 池の堤防は、直線なのかアーチ状なのかは分かりません。地図上では全長150 mほどの規模になります。高さについては、高瀬川の河床高が変化している可能性があるため現時点では不明としています。

勝賀次郎池は、本流堰き止めタイプのため池だった
 この池は高瀬川を盆地の出口で締め切って作られています。讃岐のため池では、近世以前のものは本流をせき止め、流域すべてを集水するため池は、勝間次郎池のほかに井関池と満濃池ぐらいしかないと研究者は指摘します。
 井関池は、観音寺市大野原町の杵田川を締め切るため池で、集水面積は約3000haを越えます。寛永20(1643)年に近江の豪商平田詞一左衛門によって、「大野原台地総合開発」の一環として築造されます。池の東西にふたつの余水吐が設けられ、堤長378 m、堤高約118m、池面積12,1haの規模です。井関池は、「本流堰き止めタイプ」の池だったために、完成後わずかの間にあいだに3回決壊しています。このタイプの池は、大雨による急激な増水に対応しきれないことが多く、維持が難しかったことが分かります。それが最初に見たように昔話の中に、柱伝説を生んだのかも知れません。

勝間次郎池は、いつ築造されたのでしょうか?
 本流堰き止め型の大規模なため池は、愛知県犬山市の入鹿池、大阪府大阪狭山市の狭山池や奈良県橿原市の益田池などがあります。このうち狭山池と益田池は古代に築造されたため池です。
 表は8世紀中ごろから9世紀中ごろの利水・治水にかかわる記事を集成したものです。この表を見ていると、勝間次郎池が弘法大師空海のころに築造されたという伝承も荒唐無稽なものでないような気もしてきます。
 律令国家による主な治水利水事業の一覧年表

722 百万町歩開墾計画をすすめる
723 三世一身法を定める(続日本紀)
  矢田池(大和)をつくる(続日本紀)
731 狭山池(河内)を行基が改修する(行基年譜)
   昆陽池(摂津)を行基がつくる(行基年譜)
732 狭山下池(河内)をつくる(続日本紀)
734 久米田池(和泉)を行基がつくる(行基年譜)
737 鶴田池(和泉)などを行基がつくる(行基年譜)
743 墾田永年私財法を定める(続日本紀)
750 伎人堤(摂津・河内の国境)・茨田堤(河内)が決壊する)
761 畿内のため池・井堰・堤防・用水路の適地の視察(続日本紀)
   荒玉河(遠江)が決壊し,延べ303,700人で改修する(続日本紀)
762 狭山池(河内)決壊,延べ83,000人で改修する(続日本紀)
   長瀬堤(河内)が決壊し,延べ22,200人余りで改修する(続日本紀)
764 大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐などに池をつくる(続日本紀)
768 毛野川(下総・常陸)を付け替える(続日本紀)
769 鵜沼川(尾張・美濃)を掘りなおす(続日本紀)
770 志紀堤・渋川堤・茨田堤(河内)を延べ30,000人余りで改修する(続日本紀)
772 茨田堤6箇所・渋川堤11箇所,志紀堤5ケ所が決壊する(続日本紀)
774 諸国の溝池を改修・築造する(続日本紀)
775 伊勢国渡会郡の堰溝を修理する(続日本紀)
   畿内の溝池を改修・築造する(続日本紀)
779 駿河国二郡の堤防が決壊,延べ63,200人余りで改修する(続日本紀)
783 越智池(大和)をつくる(続日本紀)
784 茨田郡堤15箇所か決壊し,延べ64,000人余りで改修する(続日本紀)
785 堤防30箇所(河内)が決壊し,延べ307,000人余りで改修する(続日本紀)
788 摂津・河内両国の国境に述べ230,000人余りで川を掘る(失敗する)(続日本紀・日本後紀)
800 葛野川(山城)の堤防を10,000人で改修する(日本紀略)
811 このころ伴渠(備口)を開削する(日本後紀)
820 泉池(大和)をつくる(日本後紀)
821 このころ空海が満濃池を改修する(日本紀略)
822 益田池(大和)をつくる(日本紀略)
ただ、讃岐の髙松平野や丸亀平野からは、古代の大型の用水路は出てきません。条里制の水路は貧弱で、長距離の潅漑施設が登場していた痕跡もありません。そのため考古学者の中には、満濃池の水が丸亀平野全域を潤していたという説には懐疑的な人も多いことは以前にお話ししました。
以上をまとめておくと
①高瀬の昔話の下麻に勝間次郎池という大きな池があり、決壊に苦しんだ人々が人柱を立てた話が伝わっている
②その供養のために建立されたのが池の宮(池八幡神社)と下女塚とされる。
③池の宮の東対岸にあたる傾山の麓の県道際には、堤防跡の遺構がある。
④池の宮の西側には、余水吐跡の痕跡がある。
⑤以上より、池の宮の尾根から傾山麓へ150mの堤防が築かれ、その丘の上に池の宮が建立されたことが考えられる。
⑥池の広さは、東は朝日山の光照寺や仏厳寺にまで湖面が至っていた
⑦この池の起源は中世から古代に遡る可能性もある。
古代だとすると、この大工事が出来るのは郡司の丸部氏かありません。丸部氏は、壬申の乱で功績を挙げ中央政府とのつながりを持つようになり、当時最新鋭の瓦工場である宗吉窯を建設して、藤原京の宮殿用の瓦を提供したり、讃岐で最初の氏寺である妙音寺を建立したとされる一族です。善通寺の佐伯家が一族の空海を呼び寄せて、金倉川をせき止めて満濃池を築造したと言われるように、丸部氏も高瀬川をせき止めて勝間次郎池を作ったという話になります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「下女塚」 高瀬の昔話 高瀬町教育委員会  2015年

観音寺茂木町 地図
観音寺市茂木町
財田川河口から少し遡った 観音寺市の茂木町には、かつては何軒もの鍛冶屋が並んでいたようです。鍛冶屋の親方が、近郷の村々の馴染みの農民たちが使う農具や刃物を提供したり、修理を行っていました。茂木町は鍛冶屋町でもあったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市
鍛冶屋の風景(滋賀県長浜市)
親方たちは、農具を預かって修理を行うと同時に、農家の二男三男等を弟子として預かり、一人前に育てたようです。鍛冶屋の技術は江戸時代頃から親方のもとで技術を磨く徒弟制度の中ではぐくまれました。義務教育を終えて徒弟に入り、フイゴの火起こしの雑用から始めて、次第に難しい技術を身につけ、それを磨いてきます。技術習得には四、五年の年期がかかったようです。一人前になると、礼奉公の意味で半年か一年居候し、親方からの「年祝ひ」の手製の鍛冶道具をもらって、それぞれの地へ巣立っていったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市の鍛冶

 農具は鍛冶屋に注文し、鍛冶屋で何度も修理して長く使うというのが当たり前でした。モノによっては「一生モノ」もあったようです。農具は、使い捨てではなかったのです。

観音寺茂木町 鍛冶屋 (滋賀県)

戦前の茂木町の鍛冶屋の親方たちは、近郷の農家を年に何回か「出張営業」したようです。
 「日役」で「サイに寸をする」などの注文をその場で行います。これが「居職かじ」です。これを農民たちは「鍛冶屋を使う」と言いました。大百姓は単独で、小百姓は何軒か組んで鍛冶屋を雇ってくることもあったようです。
鍛冶屋
村の鍛冶屋 

「出張営業」の依頼を受けた親方は、小道具をフゴに入れて弟子に天秤捧をかつがせ農家を巡回します。一日の手間賃は、米五升ぐらいが通り相場だったようです。親方のもとで技術を磨いた近郷の二男三男達は、それぞれの自分の出身地に帰り、鍛冶屋を開きます。そのため親方への「出張営業」は減ってきます。そのため、製品を作り商いにその活路を見出すことを求められるようになります。
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岐阜関市の刃物市

 当時は神社仏閣の催しごとがイベントの中心で、人が集まりました。そこには昔から市が立ち、住民のいろいろな生活用品が売られてきました。農機具や刃物も、祭りの市で売られるようになります。茂木町の鍛冶屋が荷車を引いて「出店」した市は、次のようなものです。
本山寺
大野原の八幡宮
仁尾の覚域院
金刀比羅宮
これ以外にも、年に数回は寺社のお祭りで商いをしたようです。

鍛冶屋には「フイゴ祀り」という独自の祭りがありました。

箱フイゴ
箱フイゴ
フイゴは、鉄を加工するために欠かせない道具の一つでした。農具などの鉄製品を造るためには、まずは材料の鉄を加工しやすいように溶かさなければなりません。そのためには強い火力が必要であり、その火力を強める風を炉に送る道具がフイゴです。
 鍛冶屋でのフイゴ祭りのことが次のように記されています。

観音寺茂木町 フイゴ祀り
フイゴ祭り

  フイゴ(鞴)を使う鍛冶屋では、鍛冶屋の神様として守護神金山彦命(かなやまひこのみこと)と迦具土神(かぐつちのかみ)を御祭りしました。大正10年(1921年)頃の記録では、毎年11月8日には仕事を休みんで、フイゴ鞴場の清掃をして注連縄を張り餅等を供え、夕食時にはお祭りの料理を整えて、出入りの職人たちをを招き、家付きの徒弟等も交えて酒宴を催し、近所の子供達にも蜜柑を配ったりしたのでした。(中略)
観音寺茂木町 フイゴ3
黄色マーカーで囲んだのが箱フイゴ

 また近郷村への「日役」の際に、鍛冶屋が使った火口は牛小屋に吊すと、牛が病気をしない魔除けとして信じられていて珍重されたようです。
 三豊の農家の人たちを支えた鍛冶の活動は戦争によって、引き裂かれます。
総動員体制の「全てのモノを戦場へ」のかけ声の下に、鉄は国家統制の対象となり、鍛冶屋の親方や徒弟は軍事工場に徴用されます。鍬や鎌作りから武器作りへと国家によって「配置転換」されます。
 鍛冶屋が一番盛況を極めたのは、戦後復興の時期だと云います。
食糧生産のために開墾・開田が行われ、山の中まで満州帰りの開拓者たちが入った時です。彼らのとって、農具は生きるための生活必需品でした。鍛冶屋の鉄を打つ音が財田川沿いの鍛冶屋に響いたそうです。しかし、それもつかの間です。耕耘機が登場し、農機具が機械化されるようになると、鍬やとんがは脇に置かれ、出番は少なくなります。同時に鍛冶屋の仕事も減っていきます。幹線道路が広くなり、生まれ変わった茂木町の街並みの中に鍛冶屋の痕跡はなにもありません。しかし、ここでは、鉄を打つ音が高く響いていた時があるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

(瀬戸内海歴史民族資料館年報「西讃の鍛冶職人」(丸野昭善)参照)   観音寺市史874P

室本 麹


酒造りだけでなく、味噌や醤油など日本の発酵製品で欠かせないのが麹です。麹と云えば、私にとっては甘酒です。高度経済成長が始まる前までは、西讃の田舎のわが家では秋祭り以外にもよく甘酒を作っていました。それを年寄りは楽しみにしていました。
室本 地図
観音寺市室本

その麹は、室本からもたらされたものでした。地域で一括して代表者が室本の麹屋に発注し、届けて貰って分けるというシステムで、当時はお店では販売していなかったように思います。西讃エリアの麹は、古くから室本がまかなっていたようです。今回は、室本の麹について見ていくことにします。テキストは、室本麹と専売権  観音寺市史222P」です 
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幕末に、丸亀藩が各村の庄屋たちに原稿提出を求めて作られた「西讃府志」には、室本の麹について、次のように記されています。
室本村ノ人、古ヨリ是ヲ製ルヲ業トシテ、国内二売レリ、香川氏ノ時ヨリ、三野那ヨリ西ノ諸村二、醴(甘酒)又 味噌ナド造ルニ、此村ヲ除キテ外二製ルコトヲ許サズ、香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ。                 (西讃府志巻之五十)
意訳変換しておくと
室本村の人々は、古くから麹を製ることを生業とし、讃岐国内で販売してきた。(戦国時代の讃岐守護代であった)香川氏の時に、三野郡から西の諸村では、醴(甘酒)や 味噌などを作るときに麹については、室本以外には製造・販売を認めずに独占権を与えた。その香川之景の認可状が、この村には伝えられている。                 (西讃府志巻之五十)

ここからは、室本には三野・豊田郡の麹の独占製造販売権が、戦国時代に西讃守護代の香川氏から認められていて、それが幕末まで続いていたことが分かります。
室本浦里img000007
室本浦里

「香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ」とされるものが、永禄元年(1558)の香川之景の判物で、次のように記されています。

室本 麹特許
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以其筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
意訳変換しておくと
讃岐国の室本の地下人の麹商売について、先書や元景の折紙で明示したように、その筋目をもって別儀を行う事を認めない。もし子細に問題がある場合には申し述べること、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
この史料からは次のようなことが分かります。
①之景の先代である元景の時代から、室本では麹商売の独占的生産と売買権が与えられていたこと
②それを永禄元年(1558)に香川之景が改めて認めたこと
③多度津を拠点とする香川之景の勢力が観音寺室本まで及ぶようになっていたこと
④室本の麹行者は座を組織し、王子(皇子?)大明神を本所としていたこと
⑤王子(皇子?)大明神の管理権は、別当多宝坊が保持していたこと
⑥麹が永禄年代には室本の専売品として中讃・西讃地域に売りさばかれていたこと
室本 皇子神社
皇太子(王子)神社 観音寺市室本
ここで注目しておきたいのは④⑤の「王子大明神」です。
これは、現在の皇太子神社のことののようです。この神社では、今でも年頭弓射神事は、左右両講中の宮座によって行われています。この宮座が麹組合のものであり、室町期まで遡れることがうかがえます。

  室町時代の麹座をめぐる状況を知るために、当時京都で起きた事件について見ておきましょう。
 室町時代には、酒蔵が使う麹は麹屋が卸していました。酒蔵はまだ麹造りを行っておらず、「麹屋」という麹の製造から販売までを担う専門業界が別個に存在していたようです。
例えば京都で、麹の製造販売を独占していたのが北野天満宮でした。北野天満宮の下には、「麹座」と呼ばれる麹屋の同業者組合(北野麹座)が結成され、麹の製造や販売の独占権を取り仕切っていました。幕府が北野天満宮の麹座に麹造りの独占権を認めていたため、酒蔵が勝手に麹を造ることはできなかったのです。次の史料は足利義持下知状(1419年)です。

室本 足利義持下知状
 足利義持下知状
この「下知状」は、北野天満宮ゆかりの西京神に麹製造・販売の独占権を認めるものです。西京神人以外の京の酒屋には麹をつくらないと誓約させ、幕府の前で麹道具を壊して廃業させたことを記録しています。しかし、この独占は長く続きませんでした。
 しかし、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、資本力のある酒蔵の中には麹造りに取り組む者も現れます。酒蔵の意を受けて麹販売権の規制緩和や撤廃を求めて圧力を掛けたのが延暦寺です。延暦寺と北野天満宮の対立はエスカレートしていきます。幕府は延暦寺からの抗議に折れた形で、北野麹座の独占権の廃止を認めます。これに反対する麹座の面々は北野天満宮に立て籠もり抵抗しますが、幕府側に鎮圧され、この事件(文安の麹騒動)により社が焼失します。
 この事件の結果、麹屋は没落して酒造業へ組み入れられ、奈良の「菩提泉(ぼだいせん)」や近江の「百済寺酒」、河内の「観心寺酒」などの僧坊酒が台頭する一因になるようです。
 ここでは、15世紀初め頃までは北野天満宮の神人たちが形成する座が、麹の独占権を幕府から認められていたこと。それが15世紀半ばになると台頭する酒蔵の意を受けた比叡山によって打破され、麹座の独占は破棄されたことを押さえておきます。
 香川之景の室本麹座免許状が出されているのは、それから約百年以上経った16世紀半ばです。
讃岐では、麹座の特権が守護代の香川氏によって認められていたようです。同時に、室本の麹座の本所が皇子神社に置かれ宮座としても機能したことを改めて押さえておきます。

室本 鑑札
室本の麹商売の許可鑑札

この香川之景の室本麹座免許状を室本の麹座は、その後も大切に保管していたようです。
麹組合の古文書の中には享保16(1731)年の室本浦「麹之儀御尋被為遊候ニ付差上口上書控え」というものがあります。そこに引用されているのが「香川之景の室本麹座免許状」なのです。
室本浦 糀室之儀御尋被為遊候二付差上申口上書控
香川之景 書付之通二候得者 重書並ビ二元景之折紙可有之物紛無之右之子細二而モ可有之卜被遊御意候由 右之景之御書付 則御家老様方迄モ御覧二御入被為遊候旨 向後者下札可被遣トノ御義二而夫ヨリ以来 御下札被為下来り由候
意訳変換しておくと
室本浦の麹室についてのお尋ねについて、以下の通り返答を差し上げた口上書の控である。
香川之景の書については、別添えの通りです。元景の折紙については紛失して子細は分かりませんが、その意は景之の書付とほぼ同一であると思えます。御家老様方にも御覧いただき、今後は鑑札を下札していただけるようになりました。
享保16(1731)年は、西讃地域は飢饉がつづき、住民はわら餅・松皮餅まで食べた伝えられています。そのため麹をつくる材料が手に入らないありさまになったようです。そこで麹組合として、香川之景の許可状を証拠に申し立てています。それに対して丸亀藩は、麹商売の許可札を下付します。使用する玄米については、中籾(籾米)・悪米(青米)を材料にして製造するように指示すると同時に、無税で販売をすることが許されているます。

室本 皇子神社2
 江甫山と皇太子神社(観音寺市室本)
麹組合には、次のようなことが云い伝えられていると観音寺市史は記します。
①昔は、「籠留(かごどめ)」・「棒留(ぼうどめ)」などと云って、 飢饉の際に一時期な米や麦の運搬停止命令が出た時でも、麹は生き物で使用日数に限りがあるので、鑑札を下付されて、それを持参していれば自由に糀の運搬ができる特典が与えられていたこと、
②西讃地域内での専売権があるので、他の者には麹製造や販売が認められていなかったこと
③無断で商売をする者がれば上訴するのは当然のことであり、無視する者には鍬・鋤を持って侵害者の家や庄屋に出向き中止させるよう実力行使をしたことも、たびたびあったこと
室本 鑑札札
室本の麹販売の鑑札

上訴した内容については、書控として次のような7件が残されています。
1705年(宝永2)乙酉年三野郡上之村(現香川県三豊郡財田町上)に糀室を作ろうとした時の対応。
室本 麹控訴経路

室本村の庄屋善右衛門が三野郡奉行に差し止めを願いでて、それが上ノ村の属する多度津藩家老まで伝えられています。そして停止命令が、三野奉行所に下され、上ノ村の大庄屋に伝えられて停止措置がとられたのでしょう。その経過を上ノ村庄屋は、室本村が属する豊田郡坂本村の大庄屋に伝え、そこから室本の庄屋に下りてくるという伝達経路になります。
  1731年(享保16)辛亥年6月19日 のことです。
丸亀城下の山之北・土器両八幡宮の「ふく酒糀」を、それまでは室本村の源七が納品していました。それを停止して、丸亀城下通町の糀屋徳右衛門が、造酒のため以外の糀商売を城下でできるように請願したときの対応表が次の通りです。

室本 麹控訴経路2
以上をまとめておくと
①永禄元年(1558)の香川之景の判物で、観音寺室本の麹座に対して、麹の独占販売権が既得権利として認められていること
②16世紀半ばに、室本の麹座は三野郡以西の麹独演販売権を持っていたこと
③室本の麹座は皇子神社の宮座として集結していたこと
④江戸時代になっても丸亀藩に麹の独裁権を再確認させていたこと
⑤多度津藩や丸亀城下町でも麹の独占権を拡大させていたこと
⑥独占権の擁護のために、違反者に対しては控訴や実力行使を繰り返して行っていたこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    室本麹と専売権  観音寺市史222P

香川氏発給文書一覧
香川氏発給文書一覧 帰来秋山氏文書は4通

高瀬町史の編纂過程で、新たな中世文書が見つかっています。それが「帰来秋山家文書」と云われる香川氏が発給した4通の文書です。その内の2通は、永禄6(1563)年のものです。この年は、以前にお話したように、実際に天霧城攻防戦があり、香川氏が退城に至った年と考えられるようになっています。この時の三好軍との「財田合戦」の感状のようです。
 残りの2通は、12年後の天正5年に香川信景が発給した物です。これは、それまでの帰来秋山氏へ従来認められていた土地の安堵と新恩を認めたものです。今回は、この4通の帰来秋山家文書を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

 帰来秋山家文書は、四国中央市の秋山実氏が保管していたものです。
 帰来秋山家に伝わる由緒書によると、先祖は甲斐から阿願人道秋山左兵衛が讃岐国三野郡高瀬郷に来住したと伝えていています。これは、秋山惣領家と同じ内容です。どこかで、惣領家から分かれた分家のようです。
 天正5(1577)年2月に香川信景に仕え、信景から知行を与えられたこと、その感状二通を所持していたことが記されています。文書Cの文書中に「数年之牢々」とあり、由緒書と伝来文書の内容が一致します。
 秀吉の四国平定で、長宗我部元親と共に香川氏も土佐に去ると、帰来秋山家は、讃岐から伊予宇摩郡へ移り、後に安芸の福島正則に仕えます。しかし、福島家が取り潰しになると、宇摩郡豊円村へ帰住し、享保14年(1729)に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至ったようです。由緒書に4通の書状を香川氏から賜ったとありますが、それが残された文書のようです。帰来秋山一族が、天正年間に伊予へ移り住んだことは確かなようです。伝来がはっきりした文書で、信頼性も高いこと研究者は判断します。
 それでは、帰来秋山家文書(ABCD)について見ていきましょう。
まずは、財田合戦の感状2通です。
A 香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
 一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
 一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来(秋山)善五郎とのヘ
ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること
永禄6年に天霧城をめぐって大きな合戦があって、香川氏が城を脱出していることが三野文書史料から分かるようになっています。この文書は、一連の天霧城攻防戦の中での戦いを伝える史料になるようです。
B 香川之景・同五郎次郎連書状    (香川氏発給文書一覧NO11)
去十七日於才田(財田)合戦、被疵無比類働忠節之至神妙候、弥共心懸肝要候、謹言、
三月二十日                            五郎次郎(花押)
     之  景 (花押)
帰来善五郎とのヘ
文書Aとほとんど同内容ですが、日付3月20日になっています。3月17日に、またも財田で戦闘があったことが分かります。冬から春にかけて財田方面で戦闘が続き、そこに帰来善五郎が従軍し、軍功を挙げています。

文書Bと同日に、次の文書が三野氏にも出されています。 (香川氏発給文書一覧NO12)
去十七日才田(財田)合戦二無比類□神妙存候、弥其心懸肝要候、恐々謹言、
三月二十日                    五郎次郎(花押)
    之  景 (花押)
三野□□衛門尉殿
進之候
発給が文書Bと同日付けで、「去十七日才(財)田合戦」とあるので、3月17日の財田合戦での三野氏宛の感状のようです。二つの文書を比べて見ると、内容はほとんど同じですが、文書Aの帰来(秋山)善五郎宛は、書止文言が「謹言」、宛名が「とのへ」です。それに対して、文書Bの三野勘左衛門尉宛は「恐々謹吾」「進之」です。これは文書Aの方が、「はるかに見下した形式」だと研究者は指摘します。三野勘左衛門尉は香川氏の重臣です。それに対して、帰来善五郎は家臣的なあつかいだと研究者は指摘します。帰来氏は、秋山氏の分家の立場です。単なる軍団の一員の地位なのです。香川氏の当主から見れば、重臣の三野氏と比べると「格差」が出るのは当然のようです。
 この冬から春の合戦の中で、香川氏は大敗し天霧城からの脱出を余儀なくされます。そして香川信景が当主となり、毛利氏の支援を受けて香川氏は再興されます。

文書C  (香川氏発給文書一覧NO16)は、その香川信景の初見文書にもなるようです。讃岐帰国後の早い時点で出されたと考えられます。
C 香川信景知行宛行状
秋山源太夫事、数年之牢々相屈無緩、別而令辛労候、誠神妙之や無比類候、乃三野郡高瀬之郷之内帰来分同所出羽守知行分、令扶持之候 田畑之目録等有別紙 弥無油断奉公肝要候、此旨可申渡候也、謹言、
天正五 二月十三日                       信 景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
秋山源太夫について、この数年は牢々相屈無緩で、辛労であったが、誠に神妙無比な勤めであった。そこで三野郡高瀬之郷之内の帰来分の出羽守知行分を扶持として与える。具体的な田畑之目録については別紙の通りである。油断なく奉公することが肝要であることを、申し伝えるように、謹言、
天正五 二月十三日                       (香川)信景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
この史料からは次のようなことが分かります。
①天正5年2月付けの12年ぶりに出てくる香川氏発給文書で、香川信景が初めて登場する文書であること
②秋山源太夫の数年来の「牢々相屈無緩、別而令辛労」に報いて、高瀬郷帰来の土地を扶持としてあたえたこと
③直接に秋山源太夫に宛てたものではなく三野菊右衛文尉に、(秋山)源太夫に対して知行を宛行うことを伝えたものであること
④「田畠之目録等有別紙」とあるので、「別紙目録」が添付されていたこと
 香川氏が12年間の亡命を終えて帰還し、その間の「香川氏帰国運動」の功績として、秋山源太夫へ扶持給付が行われたようです。「牢々相屈無緩、別而令辛労」からは、秋山源太夫も、天霧城落城以後は流亡生活を送っていたことがうかがえます。
これを裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2
 6月12日,足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
 8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
 9・17 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川氏の帰国支援に動いていたことがうかがえます。
 
文書Cで給付された土地の「別紙目録」が文書D(香川氏発給文書一覧NO10)になります。
D 香川信景知行日録
一 信景(花押) 御扶持所々目録之事
一所 帰来分同五郎分
   帰来分之内散在之事 後与次郎かヽへ八反田畠
   近藤七郎左衛門尉当知行分四反反田畠
   高瀬常高買徳三反大田畑  出羽方買徳弐反
   真鍋一郎大夫買徳一町半田畑
以上 十拾八貫之内山野ちり地沽脚之知共ニ
一所  ①竹田八反真鍋一郎太夫買徳 是ハ出羽方之内也、最前帰来分江御そへ候て御扶持也
一所 出羽方七拾五貫文之内五拾貫文分七反三崎分
右之内ぬけ申分、水田分江四分一分水山河共ニ三野方へ壱町三反 なかのへの盛国はいとく分
此外②武田八反俊弘名七反半、此分ぬけ申候て、残而五拾貫文分也、又俊弘名七反半真鍋一郎太夫買徳、
但これハ五拾貫文之外也
以上
天正五(1577)年二月十三日         
             秋山帰来源太夫 親安(花押)

 研究者が注目するのは、この文書の末尾に「秋山帰来源太夫」とあるところです。
秋山家文書の中にも「帰来善五郎」は出てきますが、それが何者かは分かりませんでした。この帰来秋山文書の発見によって、帰来善五郎は秋山一族であることが明らかになりました。善五郎が源太夫の先代と推測できます。伊予秋山氏は帰来秋山家の末裔といえるようです。
三野町大見地名1
三野湾海岸線(実線)の中世復元 竹田は現在の大見地区
帰来秋山氏は、どこに館を構えていたのでしょうか。
①②の「竹田」「武田」は、現在の三野町大見の竹田と研究者は考えています。 秋山家文書の泰忠の置文(遺産相続状)には、大見にあった秋山氏惣領家の名田が次のように出てきます。
あるいハ ミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハ なか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハ とくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは 一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハ のふとしミやう (あるいは延利名)
又ハ   もりとしミやう (又は守利名)
又は   たけかねミやう (又は竹包名)、
又ハ   ならのヘミやう (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」

多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。このような名田を泰忠から相続した分家のひとつが帰来秋山家なのかもしれません。
秋山氏 大見竹田
帰来秋山氏の拠点があった竹田集落

③の「帰来分」は帰来という地名(竹田の近くの小字名)です。
ここからは帰来秋山氏の居館が、本門寺の東にあたる竹田の帰来周辺にあったことが分かります。そのために帰来秋山氏と呼ばれるようになったのでしょう。ここで、疑問になるのはそれなら秋山惣領家の領地はどこにいってしまったのかということです。それは後に考えるとして先に進みます。

もう一度、史料を見返すと帰来分内の土地は、真鍋一郎へ売却されていたことが分かります。それが全て善五郎へ、宛行われています。もともとは、帰来秋山氏のものを真鍋氏が買徳(買収)していたようです。真鍋氏は、これ以外に秋山家惣領家の源太郎からも多くの土地を買っています。
 どうして秋山氏は所領を手放したのでしょうか?
 以前にお話したように、秋山氏は一族が分裂し、勢力が衰退していったことが残された文書からは分かります。それに対して、多度津を拠点とする守護代香川氏は、瀬戸内海交易の富を背景に戦国大名化の道を着々と歩みます。香川氏の台頭により、三野郡での秋山氏の勢力衰退が見られ、 一族が分裂するなどして所領が押領されていった可能性があると研究者は考えているようです。
 戦国期末期には、秋山一族は経済的には困窮していて、追い詰められていたようです。それだけに合戦で一働きして、失った土地を取り返したいという気持ちが強かったのかもしれません。同時に、秋山氏から「買徳」で土地を集積している真鍋氏の存在が気になります。「秋山氏にかわる国人」と研究者は考えているようです。


讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図 大見はかつては下高瀬郷の一部であった
 帰来秋山文書の発見で分かったことをまとめておきます。
讃岐秋山氏の実質的な祖となる3代目秋山泰忠は、父から下高瀬の守護職を継ぎました。ここからはもともとの秋山氏のテリトリーは、本門寺から大見にいたるエリアであったことがうかがえます。それが次第に熊岡・上高野といった三野湾西方へ所領を拡大していきます。新たに所領とした熊岡・上高野を秋山総領家は所領としていたようです。今までは、下高瀬郷が秋山家の基盤、そこを惣領家が所有し、新たに獲得した地域を一族の分家が管理したと考えられていました。しかし、大見の竹田周辺には帰来秋山氏がいました。庶家の帰来秋山氏は下高瀬郷に居住し、在地の名を取って帰来氏と称していました。もともとは、下高瀬郷域は惣領家の所領でした。分割相続と、その後の惣領家の交代の結果かもしれません。
 
 永禄年間の三好氏の西讃岐侵攻で、秋山氏の立場は大きく変わっていきます。そこには秋山氏が香川氏の家臣団に組み込まれていく姿が見えてきます。その過程を推測すると次のようなストーリーになります。
①永禄6(1563)年の天霧城籠城戦を境にして、秋山氏は没落の一途をたどり 一族も離散し、帰来秋山源太夫も流亡生活へ
②香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命し、之景から信景に家督移動
③香川信景のもとで家臣団が再編成され、その支配下に秋山氏は組み入れられていく。
④毛利氏の備讃瀬戸制海権制圧のための讃岐遠征として戦われた元吉合戦を契機に、毛利氏の支援を受けて、香川氏の帰国が実現
⑤三好勢力の衰退と長宗我部元親の阿波侵入により、香川氏の勢力は急速に整備拡大。
 この時期に先ほど見た帰来秋山家文書CDは、香川信景によって発給され、秋山源太夫に以前の所領が安堵されたようです。香川氏による家臣統制が進む中で、那珂郡や三野・豊田郡の国人勢力は、香川氏に付くか、今まで通り阿波三好氏に付くかの選択を迫られることになります。三好方に付いたと考えられる武将達を挙げて見ます
①長尾氏 西長尾 (まんのう町)
②本目・新目氏  (まんのう町(旧仲南町)
③麻近藤氏 (三豊市 高瀬町麻)
④二宮近藤氏   (三豊市山本町神田) 
これらの国人武将は、三好方に付いていたために土佐勢に攻撃をうけることになります。一方、香川信景は土佐勢の讃岐侵入以前に長宗我部元親と「不戦条約」を結んでいたと私は考えています。そのため香川氏の配下の武将達は、土佐軍の攻撃を受けていません。本山寺や観音寺の本堂が焼かれずに残っているのは、そこが香川方の武将の支配エリアであったためと私は考えています。

  帰来秋山家文書から分かったことをまとめておきます。
①帰来秋山家は、三豊市三野町大見の竹田の小字名「帰来」を拠点としていた秋山氏の一族である。
②香川氏が長宗我部元親とともに土佐に撤退して後に、福島正則に仕えたりした。
③その後18世紀初頭に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至った
④帰来秋山家には、香川氏発給の4つの文書が残っている。
⑤その内の2通は、1563年前後に三好軍と戦われた財田合戦での軍功が記されている。
⑥ここからは、帰来秋山氏が香川氏に従軍し、その家臣団に組織化されていたことがうかがえる。
⑦残りの2通は、12年後の天正年間のもので、亡命先の安芸から帰国した香川信景によって、香川家が再興され、帰来秋山氏に従来の扶持を安堵する内容である。
こうして、帰来秋山家は従来の大見竹田の領地を安堵され、それまでの流亡生活に終止符を打つことになります。そして、香川氏が長宗我部元親と同盟し、讃岐平定戦を行うことになると、その先兵として活躍しています。新たな「新恩」を得たのかどうかは分かりません。
 しかし、それもつかの間のことで秀吉の四国平定で、香川氏は長宗我部元親とともに土佐に退きます。残された秋山家は、どうなったのでしょうか。帰来秋山家については、先ほど述べた通りです。安芸の福島正則に仕官できたのもつかぬ間のことで、後には伊予で帰農して庄屋を務めていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
       「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

イメージ 2
中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 詫間 波打八幡
   波打八幡神社(詫間町)
詫間荘の波打八幡神社の放生会には、詫間・吉津・比地・中村に加えて仁尾浦も諸役を分担して開催されています。また、三崎半島からまんのう町長尾に移った長尾氏も、移封後も奉納金を納めています。ここからは、中世の波打八幡宮は三野郡を越える広域的な信仰を集める存在だったことがうかがえます。
仁尾 覚城院
覚城院(仁尾町) 賀茂神社の別当寺
 仁尾の覚城院の大般若経書写事業には、吉津村の僧量禅や大詫間須田善福寺の長勢らが参加しています。ここからも三野湾の海浜集落や内陸の集落も仁尾の日常的な生活文化圏内にあったことがうかがえます。そうすると仁尾神人(供祭人)や、その末裔である商職人たちの活動も、そこまで及んでいたと推測できます。それが近世になると「買い物するなら仁尾にいけ」という言葉につながって行くようです。仁尾の商業活動圏は、七宝山の東側の三野湾周辺やその奧にまで及んでいたとしておきましょう。

 しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。

豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。

   豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳
        元親(花押)
  有瀬右京進  有瀬孫十郎  嶺 将監
  仁尾 
  塩田又市郎  嶺 一覚   西 雅楽助
  奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉  平孫四郎
      (後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。

仁尾 土佐の豊楽寺との関係
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。
 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。

仁尾 土佐町
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。

 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎

大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか? 
 技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。

1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。
1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める 
1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる
    長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
 こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。

 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。

 金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、
②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、
③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、
④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、
⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、
⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、
⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、
⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、
⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、
⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、
⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、
⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、
⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」
土佐の碁石茶
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。

大豊の碁石茶|高知まるごとネット
土佐の碁石茶

つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。
 仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
 そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
 また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺
②旧新宮村の熊野神社
③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。

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熊野神社(旧新宮村)

②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
   仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
    市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

仁尾町の賀茂神社 - 三豊市、賀茂神社の写真 - トリップアドバイザー
仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
DSC03293
金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

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天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

DSC03291
      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

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日枝神社 高瀬町
日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている

三豊市高瀬町の上勝間の日枝神社には、土佐神社が一緒にまつられているようです。どうして土佐の神社が合祀されるようになったのでしょうか? 「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」には次のよう記されています。

今から五百年くらい前のことでした。戦国時代のことです。土佐の長曾我部元親は四国全体を自分の領地にしようとして、各地の有力者をせめほろぼしていきました。
元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。
長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。
さて、それからだいぶん年数がたつたころのことです。ある晩、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。はっきり見た人がいたのでまちがいありません。そのことがあって、間もなく、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。ほかにも、またそのほかにもその光を見た人がいて、その人の家も火事で燃えてしまったそうです。
「こりゃ、神さんのたたりでないんじゃろか」
村の世話役たちは相談しました。そして、
「神社をもっと高いところ移して、よくお参りしたらええのかもしれん」
ということになりました。
そこで、神主さんにおがんでもらって、神社を近くの高台ヘ移しました。そして、村の人はよくお参りしました。
けれども、しばらくしたある日、前のときと同じように、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。
村の世話役たちは、また相談しました。そして、
「土地の神さんが怒ってたたりよるのかもしれん。土地の神さんは日枝の神さんじゃ。両方をいっしょにおまつりしたらどうじゃろ」
ということになりました。
そこで、また、神主さんに来てもらって、日枝神社と土佐神社を同じ場所におまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。
ところがまた、しばらくしたある日、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。神社の近くの家はほとんど火事で燃えたそうです。
村の世話役さんはまた相談しました。そして
「八幡さんは、いくさの神さんじゃ。近くに八幡神社を建てたらどうじゃろ」
ということになりました。
村の人びとは力を合わせて、道をはさんで向かいがわに八幡さんをおまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。お祭りの日には白酒を作ってお供えしました。

それからは、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走ることがなくなりました。

日吉神社 土佐神社
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

この昔話の中には、土佐神社建立について、次のように記されていました。
「元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。」

というのが、土佐神社建立の理由として地元には伝わってきたようです。「侵略した側は1世代で忘れるが、侵略された側は何世代にもわたって覚えている」という歴史家の言葉を思い出します。江戸時代後半になると、讃岐人の郷土愛(パトリオテイズム)が高まってきて、讃岐を征服した長宗我部元親への反発心が強くなっていきます。その背景のひとつに、「南海戦記」などの軍記ものの流行があったようです。そこでは、土佐軍が寺社を焼き、略奪を行ったことが書かれ、次第に
悪玉=讃岐を侵略した長宗我部元親、
善玉=それを守って抵抗する讃岐国人たち
という勧善懲悪型の歴史観が広がって行きます。そして、昔話も、このような内容のものが伝わることになったようです。

 しかし、本当にそうなのでしょうか? 高瀬町史は「実際は、そうではないで・・・」と、語りかけてくれます。それを以前にお話ししました。今回は、もう少し要約して、かみ砕いて記してみようと思います。
日枝神社 土佐神社合祀
       日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

土佐軍の侵攻以前には、讃岐の国人たちの多くは阿波三好勢力の配下にありました。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
 例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
 いままでの市町村史の戦国時代の記述は、南海通記にたよってきました。これを書いたのは香西氏の子孫で、香西氏顕彰のために書かれたという面が強く「長宗我部元親=悪、香西氏に連なる一族=善」という史観が強いようです。そのためこれに頼ると、全体像が見えなくなります。しかし、他に史料がないので、これに頼らないと書けないという事情もありました。
 その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
香川氏から見れば、最大の敵は阿波の三好氏です。
 その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
 毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主の詫間弾正、
④高瀬・麻城の近藤氏
⑤山本町神田城の二宮・近藤氏
これらは、香川氏とは敵対関係にあった勢力のようです。
 一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

大水上神社 神田城
二宮近藤氏の居城・神田城
 一方高瀬町内に支配エリアを持っていた二宮近藤氏と麻の近藤氏の場合を見ておきましょう。
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?

大水上神社 神田城2

『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からやってきた人物です。彼には、次の土地が与えられています。

「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

  これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。
翌年三月には、
「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
五月には
「財田・麻岩瀬村」
で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 土佐の武将の領地となった土地には、労働力として土佐からの百姓が連れてこられます。高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
  先ほど見た昔話には、次のように記されていました。

「せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです」

 しかし、これはどうも誤りのようです。土佐からの移住者が大量に入ってきて、新たに入植したことが分かります。彼らが入植地に、団結と信仰のシンボルとして勧進したのが土佐神社だったと高瀬町史はは考えています。
 そして、土佐軍撤退の生駒藩の下でも土佐からの移住団は、そのまま入植地に残ったようです。三豊には、近世はじめに土佐からの移住者によって開かれたという地区が数多く残ります。しかし、今まではそれが土佐軍の占領下での移住政策であったとは、考えられてきませんでした。そういう目で、この時期の土佐人の動きを見てみる必要があります。
土佐神社 高瀬町日枝神社と合祀
        日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

 土佐の移住者たちが住み続けたので、土佐神社は残った。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史
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前回は、讃岐における須恵器生産の始まりと、拡大過程を見てきました。そして、7世紀初頭には各有力首長が支配エリアに須恵器窯を開いて、讃岐全体に生産地は広がっていたことを押さえました。これが後の「一郡一窯」と呼ばれる状況につながって行くようです。今回は、その中で特別な動きを見せる三野郡の須恵器窯群を見ていくことにします。テキストは「佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論 埋蔵物文化センター紀要」です。
 須恵器 三野・高瀬窯群分布図
           三野郡の須恵器窯跡分布地図       
 上の窯跡分布地図を見ると次のようなことが分かります。
①高瀬川流域の丘陵部に7群の須恵器窯が展開し、これらが相互に関連する
②中央に窯がない平野部のまわりの東西8km、南北4kmの丘陵部エリアに展開する。
③これらの窯跡群を一つの生産地と捉えることができる。
以上のような視点から『高瀬町史』は、7群の窯跡群をひとまとめにして「三野・高瀬窯跡群」と名付け、7群を支群(瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻の各支群)として捉えています。
まず、7支群がどのように形成されてきたのかを見ておきましょう。
第1段階(6世紀末葉~7世紀初頭)
爺神山麓の瓦谷支群(1)で生産開始。
第2段階(7世紀前葉)
瓦谷支群(2)で生産継続、(この段階で生産終了) 
代わって野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
野田池支群での生産拡大
道免・高瀬末の2支群の生産開始 (高瀬末支群は終了)
瓦谷支群北側直近の宗吉瓦窯で須恵器生産の可能性あり。
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)。
道免・野田池の2支群での生産継続。
宗吉瓦窯での須恵器生産継続。(この段階で終了)。
第5段階(8世紀前葉~中葉)
道免・野田池の2支群での生産継続
青井谷支群での生産開始(平見第4地点)。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大(平見第8地点・青井谷第3地点)
五歩田支群での生産開始(五歩田第1地点)
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
青井谷支群での生産継続(平見第1地点)
上麻支群での生産開始(上麻第4地点)。
この段階で三野・高瀬窯群の操業終了。
窯跡の変遷移動からは、以下のようなことが分かります。
①窯場が瓦谷支群(1)や野田池支群(2)などの三野津湾に面した場所からスタートして、次第に山間部の東方向へと移動していく
②その移動変遷は瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)と奥地に移動していったこと
③窯場の移動は、製品搬出に必要な河川ないし谷道を確保する形で行われいる。
④7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にある。
⑤大きく見れば宗吉瓦窯も三野・高瀬窯跡群を構成する窯場(「宗吉支群」)として捉えられること。
⑥燃料(薪)確保のためか窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること。

他の讃岐の窯場との比較をしておきましょう。
 隣接する苅田郡の三豊平野南縁には、辻窯群(三豊市山本町)が先行して操業していて競合関係にありました。辻窯群には、紀伊氏の墓域とされる母神山の群集墳や忌部氏の粟井神社があり、讃岐では他地域に先んじて、須恵器生産を始めていました。それが7世紀中葉になると三野・高瀬窯群の操業規模が辻窯跡群を、圧倒していくようになります。
 一方、讃岐最大の須恵器生産地に成長する十瓶山窯跡群(綾歌郡綾川町陶)と比較すると、8世紀初頭までは圧倒的に三野・高瀬窯の方が操業規模が大きいようです。それが逆転して十瓶山窯が優位になるのは、8世紀前葉以降のことです。10世紀前葉になると、十瓶山窯との格差がさらに大きくなり、次第に十瓶山窯が讃岐全体を独占的な市場にしていきます。そのような中で10世紀中葉以後は三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小させます。

旧三野湾をめぐる窯場が移動を繰り返すのは、どうしてなのでしょうか?
 須恵器窯は、大量の燃料(薪)を必用とします。その燃料は、周辺の照葉樹林帯の木材でした。山林を伐り倒してしまうと、他所へ移動して新たな窯場を設けるというのが通常パターンだったようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は、窯相互の間隔から半径500mを指標としています。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えて三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされたことが推測されます。
 更に加えて、7世紀末には藤原京造営の宮殿用瓦製造のために宗吉瓦窯が操業を開始します。これは、それまでの須恵器窯とは比較にならないほどの大量の薪を消費したはずです。加えて、製塩用の薪確保のための「汐木山」も伐採され続けます。こうして8世紀には、旧三野湾をめぐる里山は切り尽くされ裸山にされていたと研究者は考えているようです。古代窯業は、周辺の山林を裸山にしてしまう環境破壊の側面を持っていたようです。
  周辺の山林を切り尽くした後は、どうしたのでしょうか?
第6・7段階の動きを見ると、その対応方法が見えてきます。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大→五歩田支群での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
  青井谷支群での生産継続→上麻支群での生産開始
第6段階では、野田池支群から五歩田支群に移動し、第7段階になるとさらに五歩田支群から上麻支群に移っています。上麻は、大麻山の南斜面に広がる盆地で水田耕作などには適さないような所です。しかし、須恵器生産に必用なのは以下の4つです。
・良質の粘土
・大量の燃料(薪)
・技術者集団
・搬出用の交通網
これが満たされる条件が、内陸部の盆地である上麻にはあったのでしょう。同じように、丸亀平野の奧部の満濃池周辺にも須恵器窯は、後半期には造られています。これも、上麻支群と同じような要因と私は考えています。
 こ三野・高瀬窯群を設置・運営した経営主体は、丸部氏だったと研究者は考えています。
⑤で先述したように「燃料(薪)確保のために窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること」が指摘されています。高瀬郷内での燃料確保ができて、後には郷域を超えて勝間郷(五歩田・上麻の2支群が該当)にも窯場と薪山を設定しています。それができる氏族は、三野郡では丸部氏かいないようです。 
 「続日本紀」の771年(宝亀2)には、丸部臣豊抹が私物をもって窮民20人以上を養い、爵位を与えられたとの記事があります。ここからは、丸部氏が私富を蓄積し、窮民を自らの経営に抱え込むことのできる存在であったことがうかがえます。丸部氏は、7世紀以降に政治的な空白地であった三野平野に進出して、須恵器生産体制を形作ります。さらに壬申の乱以後には、国家的な規模の瓦生産工場である宗岡瓦窯を設置・操業させます。同時に、讃岐で最初の古代寺院である妙音寺を建立し、その瓦を宗岡瓦窯で焼く一方、多度郡の佐伯氏の氏寺である仲村廃寺や善通寺にも提供しています。以上のような「状況証拠」から丸部氏こそ、三野郡における須恵器生産を主導した勢力だと研究者は考えます。
 「三野・高瀬窯跡群」の須恵器は、どのように流通していたのでしょうか。
須恵器 蓋杯Aの生産地別スタイル

須恵器・蓋杯Aには、上のような生産地の窯ごとに特徴があって、区分ができます。これを手がかりに消費遺跡での出土状況を整理し一覧表にしたのが次の表になります。
須恵器 蓋杯Aの出土分布一覧表

例えば1の大門遺跡(三豊市高瀬町)は、高速道路建設の際に発掘調査された遺跡です。そこからは56ヶの蓋杯Aが出土していて、その生産地の内訳は「辻窯跡」のものが15、三野窯跡のものが41となります。大門遺跡は、三野・高瀬窯跡のお膝元ですから、その占有率が高いのは当然です。ただ、山本町の辻窯跡からの流入量が意外に多いことが分かります。当然のように、三豊以外からの流入はないようです。ここにも、三豊の讃岐における独自性が出ているようです。
6の下川津遺跡を見てみましょう。
ここでは、三野窯と十瓶窯が拮抗しています。他の遺跡に比べて、十瓶窯産の須恵器の利用比率が高いようです。十瓶窯は、綾氏が経営主体と考えられています。そのため綾氏の拠点とされる綾北平野や大束川河口の川津などは、十瓶窯産の須恵器が流通していたとしておきます。
この表で注目したいのは、三野・高瀬窯の須恵器が丸亀平野にとどまらずに、讃岐全体に供給されていることです。
このことについて、研究者は次のように指摘します。
①三野・高瀬窯の須恵器の分布は、ほぼ讃岐国一円に及ぶこと。
②讃岐全体への供給されるようになるのは、第3・4段階(7世紀中葉~8世紀初頭)のこと
この時代の讃岐における須恵器生産窯の「市場占有形態」を研究者が分布図にした下図になります。なお、上図の番号と下地図の番号は対応します。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg

ここからは「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していたことがうかがえます。さらに、辻窯は丸亀平野までが市場エリアで会ったのに対して、三野窯はさぬき全域をカバーしていたことが分かります。辻と三野を比較すると三野が辻を凌駕していたようです。
 この時期は、7世紀後半の壬申の乱以後のことで、国営工場的な宗岡瓦窯が誘致され、20基を越える窯が並んで藤原京の宮殿瓦を焼くためにフル操業していた時期と重なり合います。その国家的な建設事業に参加していたのが丸部氏だったことになります。そういう見方をすると丸部氏は、須恵器生産という面では、三豊南部で母神山古墳群から大野原古墳郡を築き続けた勢力(紀伊?)の管理下にあった辻窯を凌駕し、操業を始めたばかりの綾氏の十瓶窯を圧倒していたことになります。このような経済力や政治力を背景に、讃岐で最初の古代寺院妙音寺に着手したのです。ともかく7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へ、三豊から讃岐全体へだったことを押さえておきます。
その後の須恵器供給をめぐる動きを見ておきましょう。
③第5段階(8世紀前葉~中葉)になると、急速に十瓶山窯製品に市場を奪われていくこと。
④買田・岡下遺跡(まんのう町)では、第6段階末期の特徴的な杯B蓋(青井谷支群青井谷第3地点で生産)がまとまって出土しているので、この時期になっても三野・多度・那珂3郡には三野窯は一定の市場をもっていたこと
⑤第5~7段階の中心的な窯場である青井谷支群は、大日峠で丸亀平野につながり
第6段階の野田池支群から転移した五歩田支群や第7段階に五歩田支群から移動した上麻支群は麻峠や伊予見峠で、それぞれ丸亀平野側とつながっており、内陸交通網に依拠した交易が想定できる。
大胆に推理するなら①②段階の讃岐全体への供給が行われた時期には、海上水運での東讃への輸送もあったのではないでしょうか。藤原京への宗吉瓦の搬出も舟でした。宗吉で焼かれて瓦が、仲村廃寺や善通寺に供給されたいますが、これも「三野湾 → 弘田川河口の白方湊 → 弘田川 → 善通寺」という海上ルートが想定されます。引田や志度湊に舟で三野の須恵器が運ばれたとしても不思議はないように思えます。③④⑤になり、十瓶山窯群に東讃の市場を奪われ、丸亀平野エリアへの供給になると大日峠や麻峠が使われるようになり、その峠の近くに窯が移動してきたとも考えられます。

以上をまとめておきます
①讃岐の須恵器生産が始まるのは5世紀前半で、渡来人によって古式タイプの須恵器が生産された。
②しかし、窯は単独で継続性もなく不安定な生産体制であった。
③須恵器窯が大規模化・複数化し、讃岐全体に分布するようになるのは、6世紀末からである。
④須恵器窯が地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と、セットで分布していることから、窯設置には、地域首長が関わっている
⑤「一郡一窯」が実現する中で、三豊の辻窯と三野窯は郡境を越えて製品を提供した。
⑥その中でも丸部氏が経営する三野窯は、7世紀後半には讃岐全体に須恵器を供給するようになる。
⑦7世紀の須恵器生産の中心は、三豊にあったという状況が現れる。
⑧その間にも三野窯群は、燃料を求めて定期的に東へと移動を繰り返している
⑨その背後には、「三野須恵器窯+宗吉瓦窯+三野湾製塩」のための大量燃料使用による森林資源の枯渇があった。
⑩奈良時代に入ると三野窯の市場占有率は急速に低下し、十瓶山窯群に取って代わられる。
次回は、十瓶山窯群の台頭の背景を見ていくことにします。

参考文献
佐藤竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
高瀬町史
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  讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

本棚の整理をしていると佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」が目に入ってきました。ぱらぱらと巡っていると私の書き込みなどもあって、面白くてついつい眺めてしましました。約40年前に買った本ですが、今読んでも参考になる問題意識があります。というわけで、今回はこの本をテキストに、「血税一揆」がどんな風にして起こったのかを見ていくことにします。

明治六年(1873)6月26日 三野郡下高野村で子ぅ取り婆さんの騒動が起こります。
この騒動について、森菊次郎は手記「西讃騒動記」を残しています。
この人は三豊郡詫間町箱の人で、戦前、箱浦漁業会長などもした人で、昭和28年に86歳で亡くなっていますから、この一揆のときは六、七歳の子どもです。そのため自分の体験と云うよりも聞書になります。そのために事実と違うことも多く、全面的に信用できる史料ではありません。しかし、一揆に関する記録のほとんどが官庁記録なので、こうした民間人の記録は貴重です。

血税一揆 地図
子ぅ取り婆事件の起きた下髙野

子ぅ取り婆事件について、この手記は次のように記しています。
『子ぅ取り婆が子供をとっているとの流言飛語が一層人心を攪乱した。しかも実際にその子ぅ取り婆を認めたものはなかった。その子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者でこれが、ちょうど騒動の起こりだった。

この子ぅ取り婆が明治六年六月二十六日、坂出町から三野郡に入り込み、同日昼ごろ、比地中村の春日神社に来たり、拝殿でしきりに太鼓を打ち鳴らし、騒がしいので神職及び二、三の人々は懇諭、慰安を与えなどして行き先を問うたら、観音寺へ行くというので、早く行かぬと日が暮れると言い聞かせ、門前を連れ出し、観音寺へ行く道を教えて出立せしめたが、 最早、下高野の不焼堂(如来寺)へ行くまでに日没となってしまった。
夕涼みの多くの人々は、子ぅ取り婆が来たと大騒ぎし、婆が行く前後には多くの子供がつきまとった。その子供らの中の一人を老婆が抱きあげると、多勢の人々はこれを追っかけ、取り返した。しかし実際は取ったのではなく、その子供が大勢の人々に押し倒され転んで井戸の中へ落ちんとしたのを救いあげ、抱いたまま走って行ったのでした。 一犬吠ゆれば万犬吠ゆで、これが竹槍騒動の動機となった』
以上が「西讃騒動記」の発端の部分です。ここからは次のようなことが分かります。
①子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者で
②明治6年6月26日、坂出町から三野郡に入り込み、昼ごろに比地中村春日神社にやってきた。
③日没時に下高野の不焼堂(如来寺)にやってきて騒ぎとなった
この他に、一揆のまとまった記録としては、次の2つがあるようです。
①一揆後の近い時期に官庁報告をまとめた「名東県歴史
②邏卒報告書などから材料を得た昭和9年発行の「旧版・香川県警察史
この内で②の「警察史」は、その発端をを次のように記します。
 『明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。
 このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。
群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。

然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―』
 この経緯をまとめておくと、次のようになります。
①子ぅ取り婆が子どもを抱いて連れ去ろうとした
②それを村民たちが捉えて、なぶり殺しにしようとしたので村役人の田辺安吉が自分の家に連れて帰った
③戸長も駆けつけ、戸長役場に連行しようとしたが、取り囲んだ人々はそれを認めず騒ぎは大きくなった
④急報によって駆けつけた邏卒の姿を見ると群衆は、怒り騒然とした雰囲気に包まれた。

血税一揆 事件発生
下髙野

事件の起こった場所については、どの記録も下高野と記します。
地元では下高野の南池のほとりと伝えられているようです。南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南へ行った付近にあります。不焼堂あたりから子供たちが、子ぅ取り婆さんにぞろぞろとつきまといはじめ、南池のほとりでこの事件が起こったものとしておきましょう。子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた子供と、この子供の守をしていた人の家、及び村吏の田辺安吉の家もこの南池の近くにあります。
 豊中町本山のKさんの祖母は田辺安吉家から出た人ですが、この人は生前に、子ぅ取り婆さんは田辺家の門の柱に縛りつけられ、散々痛めつけられて見るも哀れな姿であったと語っていたという。子ぅ取り婆さんは、その愛児が池で蒻死したため発狂したとされます。つきまとう子をかかえて走ったのは、その子がわが子とみえたのかもしれません。
子ぅ取り婆さんについては、名前は塩津ノブ。 年齢は30代後半と(旧「観音寺市史」は記します。出身地については、
「西讃騒動記」は坂出町
「警察史」は志度町とも国分村とも書いています。
「豊中町誌」は『寒川郡志度の者』
「名東県歴史」は 『女は阿野郡国分村農、与之助の孫女』
信頼度の高い「名東県歴史」に従って国分村の者と研究者は推測します。
子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた小児については
①「名東県歴史」は、「比地大村の農民某の妻二児を携え路傍に逍逢す」
②「警察史」は『小児の父兄、姓名、自宅不明』、『矢野文次の娘』
③地元の伝承では、「下高野村の南池近くの家の子で、後に成人して比地大村へ嫁した」

②の「警察史」は『矢野文次の娘』とあるのは、一揆の首謀者が矢野文次であったからのこじつけと研究者は指摘します。
①は、子ぅ取り婆さんが抱きかかえられた子を「二児」と記しますが、これは他の史料には見当たりません。抱きかかえたのは一人のようです。
「警察史」は続けて次のように記しています。
 一方、土民は、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるの諺の如く、何ら事実を知らざるものまで出で加わり、はては鐘、太鼓を打ち鳴らし、西に東に駈け回ることとて、さなきだに維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒、次第にその数を加え、殺気みなぎる』

村吏の田辺安吉の家を取り囲んだ群衆は、邏卒の姿を見て興奮したようです。その背景は、「維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒」から読み取れそうです。日頃から戸長や邏卒に「万事猜疑の眼」を向けていたようです。「警察が来たぞ!」という声に、テンションが上がったようです。

DSC06991
早鐘が鳴らされた延寿寺
そして早鐘が打ち鳴らされます。早鐘は、今で云う非常招集サイレンで、火事や非常時の際にならされました。この早鐘は七宝山の麓の丘にある延寿寺のものでした。鐘を鳴らした矢野多造は、事件後の裁判で「杖罪」に処せられ、背中が青ぶくれにはれあがるほどたたかれたと生前に語っていたようです。

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              延寿寺本堂
 鐘が鳴りはじめると間もなく手に手に竹槍を持った農民が、比地大村や、竹田村方面から国木八幡前を、道一杯に長蛇をなして下高野へ押し寄せて来ます。こうして、竹槍農民の数はますます増えて来ました。

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国木八幡神社

観音寺邏卒出張所の吉良伍長の報告を見てみましょう

 『百方説諭すといえども集合の徒一切聞き入れず、四方よりますます奸民群集し、既に私共へ竹槍をもって突っかけ、切迫の勢いに相成り、手段これ無く―』

吉津邏卒出張所、北村伍長選卒報告。
『共に説諭を加え候へども何分頑愚にしてその意を弁ぜず、漸く右を平治すれば左沸騰し、間も無く人民数百人群集、暴言申しかけ、竹槍にて突っかからんとする勢い、とても防ぐべき策無きにつき―』

村吏の田辺安吉宅を取り囲んでいた群集は、やがて移動を開始します。国木八幡宮前をまっしぐらに比地大村友信の豊田戸長宅へ向かったのです。そして、戸長宅に火が付けられます。一揆の焼打ち第一号は豊田戸長宅になります。
 そのころ傷を負った豊田戸長は、身の危険を感じて七宝山麓の知人の家に逃れ潜んでいました。彼は知人から野良着を借り、野良帰りの農夫をよそおって帰途にしようとして、わが家の焼けるのを見たようです。地元の下高野村では、これ以外には高札場が毀されただけでした。
この騒ぎの中、子ぅ取り婆さんは姿を消しています。彼女のその後の消息については記録、伝承ともにありません。
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         延寿寺山門からの下髙野    
子ぅ取り婆は、子供の血をとる。という風評は以前からありました。
  明治5年の戸籍法(壬申戸籍)で役場が家族名、性別を各戸について調査したとき、血をとって外国人に売るためだという流言が流れたと云います。同じく明治五年、外国人指導の富岡製糸場の女工募集も「女工になって行けば外国人に血をとられる」との噂があったようです。
それでは、人々はこの流言を本当に信じていたのでしょうか。
農民が子ぅ取り婆だけを問題にしていたのであれば、子ぅ取り婆が狂人と分り、どこかへ消えていった段階でこの騒ぎはおさまったはずです。ところが、群衆はこの後、戸長、吏員宅、区事務所、小学校、邏卒出張所などを次々と襲っていきます。襲撃対象を見ると、明治維新の新政後に登場した村の「近代施設」ばかりです。江戸時代の襲撃対象となった庄屋や大商人の邸宅が対象となっていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
 血税一揆を語る場合に、民衆が血を採られると勘違いしたのが契機となったと「民衆=無知」説で片づけられることが多かったようです。しかし、研究者はこれに対して異議を唱えます。「百姓を馬鹿にするなよ。それを知った上での新政府への新政反対一揆であった」というのです。
徴兵令とは】わかりやすく解説!!目的や内容(条件&免除規定)・影響など | 日本史事典.com

一揆の背景となった徴兵制を見ておきましょう
明治5年1月発布の徴兵令に関する太政官告諭に、次のような文句があります。
『凡そ天地の間に一事一物として税あらざるものなく、以て国用に充つ。然らば即ち人たるものは、もとより心力を尽し、国に報ぜざるべからず。世人これを称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり』

徴兵=「生血を以て国に報ずる」=血税という説明になっています。
血税は英語の「ブラッド タックス」で兵役を意味します。これを担当官は「徴兵=血税」と訳しました。この訳が一揆の原因となったというのです。それはこんな風に語られました。
血税の二字から、村々は次のような流言でもちきりになった。
「血税というのは若者を逆さづりにしてその血を異人に飲ませるのだそうだ」
「横浜の異人が飲んでいるぶどう酒というのがそれだ。赤い毛布や、赤い軍帽は若者の血で染めているのだ」
「徴兵検査は怖ろしものよ。若い子をとる、生血とる」
という噂が流言となって広がったようです。
「西讃騒動記」には、次のような一節があります。

血税の誤解から当時の三野郡、豊田郡の人心動揺をはじめ、遂に竹槍、薦旗の焼き打ち騒動を惹き起こし、各町村の小学校、役人の邸宅に放火し、暴状を極めた。徴兵告論を読んだ人が、我国には昔から武士が戦いのことには専ら関係しているため、我らは百姓を大切に農業に従事し、つつがなく租税を納めておればよい。しかるに、西洋にならって徴兵して、生血を取る御布令には少しも従うことは出来ぬと反対し、その声喧章、だんだん広がって騒がしくなって来たので、 県では容易ならぬこととして比地大村の豊田徳平、竹田村の関恒三郎、 本大村の大西量平の三戸長をして人民の誤解を解かせょうとしたので、三戸長はその命を受け、熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話を行ったのであるが、人民は頑として聞き入れず……」

 ここからは、血税という流言だけでなく徴兵制そのものへの反対が民衆の間には根強くあったことが分かります。その中で地元戸長たちが徴兵制推進のために「県の命を受けて熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話」を重ねますが「人民は頑として聞き入れ」なかったようです。徴兵制反対の人々にとって、推進の先頭に立つ戸長たちに敵意が向けられるようになったことがうかがえます。

実は、讃岐の一揆の一週間前に、鳥取県でも同じような一揆が起きています。これを政府に伝えた県庁報告書には、次のように記されています。(意訳)
『明治六年六月十九日に伯者国会見郡で農民が蜂起した。この一揆の背景には人民哀訴や歎願があったのではない。また巨魁、奸漢などの黒幕が企てたものでもない。ただ徴兵公布令を農民輩たちが、徴兵令の中の「血税」等の文字を誤解し、事実無根の流言を唱え、兵役は生血を搾り取られる、兵事とはただ名のみで、その実態は血を取るためであるという流言が広まったためである。
 これに加えて、鉱山での御雇外国人が、鉱山検査のため、山陰、山陽を巡回し、本管内を巡回する際にも、生血を搾られるという流言が流された。そのため民衆の中には、一層の恐怖感を抱き、、家族の数を知られないように表札を隠したりする者も現れる始末であった。
 これを見て戸長たちは驚き困惑し、懇々と説諭したが民衆は聞く耳を持たない。そして、ついに北条県下の人民が蜂起し、それが本県にも波及した。頑民(戸長の云うことを聞かない人々)は、徴兵募集の役人が来たときには、相共に竹槍や使い慣れた器杖で追い返すべしと相談した。
  六月十九日、会見郡古市村の農民勝蔵の妻いせが、山畑で耕作していると異状の者(邏卒)の姿を見て、絞血(採血)の者と勘違いして、家族を守るために、近隣の儀三郎の家に走り込んで次のように告げた
「異状の者がやってきました、気をつけて下さい」
儀三郎の家には、二十歳の男子があり日頃から搾血の説を聞いて、心痛めていた。そのためこれを聞いて狼狽して、走り廻って
「搾血の者来れり」と叫んで告げた
村の人々はこれを聞いて隣村にも伝えた。また、寺鐘を早打ちして緊急集合をかけた。これを以て各村は、一斉に蜂起すすることになった』
(上屋喬雄、小野道雄編「明治初年農民騒擾録」所収)

ここには当時の鳥取県の担当者が「無知蒙昧な民衆が血税の流言に惑わされて、一揆を起こした」と中央政府に報告していることが分かります。「血税一揆=流言説」です。 「西讃騒動記」「名東県歴史」「警察史」なども大体同じ論法です。しかし、これに対しては反対論もあったようです。

新聞(明治5年)▷「東京日日新聞」(創刊号、現・毎日新聞) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

明治七年二月七日の東京日々新聞に発表された「血税暴動は県側の詭弁」は、次のように反論します。
 血取りの説は「血税」以前から流布していたのであって徴兵令からはじまったものではない。従って徴兵反対一揆は血税の二字に原因するものではなく、それは県吏の民意を愚民観ですり代え、一揆の真因をぼかそうとする地方政治担当者の政治的作為によるものである。

一揆発生の明治六年に出版されたの横河秋濤著「開化の入口」という本には、次のように記されています。
『比の頃、徴兵とやら、血税とやらいって、大切な人の子を折角両親が辛苦歎難を尽し、屎尿の世話から手習い、算盤そこそこに稽古させ、これから少し家業の役にもたつようになったものを十七歳、或いは、二十歳より引上げて、ギャッと生れてから夢にも知らぬ戦いの稽古させ、体が達者でそろそろ役にもたつものは直ぐさま朝鮮征伐にやり――』

そして、大分県の徴兵反対一揆に立ち上った農民の一人は、次のように嘆いています。
「徴兵で鎮台に遣わされ、六、七年も帰して貰えないのでは全く困ったことになってしまう」

この頃、俗謡にあわせて、「徴兵、懲役一字の違い、腰にサーベル、鉄鎖り」という俗謡が流行になったともいいます。
ここからは農民は血取りを恐れていたのではなく、徴兵そのものに反対していたことがうかがえます。
警察の誕生と歴史
裸を取り締まる明治の邏卒(警察官)

血税一揆の際に、邏卒が上司へ提出した報告書を見てみましょう。
第四十九区(一揆波及地―阿野郡北村、羽床上、同下、山田上、同下の各村)
第五十五区(一揆波及地―同郡岡田上、同下、同東、同西、栗態東、同西の各村)
は、以前徴兵検査の節、所々山林へ集合し、度々説諭にまかり越し候区内なれば、農民共、此の虚(一揆蜂起)に乗じ発起すべきもはかり難きに付、情、知察のため午後二時頃より巡遣し、四時頃帰宅』
意訳変換しておくと
二つの区は、以前に徴兵検査について、山林へ集まって反対集会を開いていたところなので、度々説得に出かけた区内である。農民共が、この旅の一揆蜂起に参加するかどうか分からない情勢なので、偵察に午後二時頃より巡回し、四時頃に帰宅した』

滝宮邏卒出張所詰、平瀬英策報告。
『(鵜足郡)林田村の頑民、 既に説諭によって服従、 一時検査を受くるといえども余儘なお残炎、時あらば後燃せんとする気、もとよりその場動するものありて然り』
意訳変換しておくと
『(鵜足郡)林田村(坂出市林田町)の頑民(新政府反対派)たちは、 すでに我々の説諭によって服従し、徴兵検査を受けた者もいるが、心の中には今も残炎が残り、機会を見ては再び燃え上がろうとする雰囲気がある。もとよりその場動するものありて然り』

ここからは讃岐でも徴兵検査に反対する集会があちらこちらで開かれ、その度に邏卒や戸長が出向いて説諭を繰り返していたことが分かります。それが「血税」の流言だけのための反対運動ではないことは明らかです。「血税一揆」を流言によるものとするのは、民衆無知蒙昧説の上に胡座をかいた説と研究者は指摘します。
邏卒
              5代目菊五郎が演じた邏卒

上の史料からは一揆の頃には、すでに徴兵検査も行われ、徴兵検査で血が採集されないことは分かっていたはずです。ここからは人々が「血取り」反対したのではないと云えます。それでは何に反対したのでしょうか?
鳥取県一揆について農民の側から出した願書があります。それは次のように記されています。(「明治初年農民騒擾録」)
鳥取県一揆願書
一、米穀値段下げ仰せつけられ候こと。
二、外国人管轄通行禁止。
三、徴兵御繰出し御廃止仰せつけられ候こと。
四、今般騒動致し候条、発頭人御座無く候こと。
五、貢米、京枡四斗切り、端米御廃止仰せつけられ候こと。
六、地券合筆取調諸入費、官より御弁じ仰せつけられ候こと。
七、小学校御廃止、人別私塾勝手仰せつけられ候こと。
八、御布告板冊、代価御廃止。
九、太陽暦御廃止、従前の大陰暦御改め仰せつけられ候こと。
十、従前の通り半髪(丁髭)勝手仰せつけられ候こと。

ここには、徴兵反対の他にも、地券、小学校、太陽暦、斬髪令などの、この時期の新政府の出した政策に対する反対や、米価引き下げ、端米廃止などの生活に直結した要求が列挙されています。
先ほど見た政策担当者の県庁報告は、これらの事実を無視し、他に「哀訴歎願の根底あるに非ず」として、すべてを血税の誤解一色で塗りつぶそうとしていると研究者は指摘します。ある意味、一揆の原因を、愚民観ですりかえよう意図が見えてきます。

鳥取県一揆の願書でも分るように、徴兵だけが問題だったのではない。そのことは讃岐のこの一揆の経緯にも現われています。というのは、豊田戸長が真っ先に焼き打ちをかけられたのには理由があったからです。
「大見村史」に次のように記されています。
維新のはじめ、当郡比地大村、岡本村を管轄する戸長に豊田徳平なるものあり、此の者と同地人民との間に三升米とて公費の徴収に関し葛藤を生じ、故障申し立ての結果、終に人民の失敗に帰し、体刑に処せられたれば之を遺恨に思い、豊田戸長に報いんとする折柄、徴兵令の非議を豊田戸長に提起したるに戸長曰く、徴兵は風説の如く疑うべきに非ず、又、血税は決して血を採る意義に非ず、若し万一そのことありたる暁は予が首を渡すことを誓う、と。 一同はそのことを聞き、 一段落を告げたり。
 又、明治五年、県令を以て庶民の剃頭束髪(丁髭)を廃止され、其の実行を否む者に対しては吏員をして断髪の強制執行をなしたり。事態かくの如くなるを以て頑民は彼を思い、これを顧りみ不満に耐えず、疑惑、誤解交々起これり。時に明治六年六月二十六日、当郡岡本村に於て児取り婆の所為発生したり』(傍点、引用者)
ここからは、血税一揆が起こる前に、この地域では「三升米事件」や徴兵制検査・断髪強制など新政府の進める政策をめぐって、戸長と村民との間に対立が起こっていたことが分かります。
 
  子ぅ取り婆さんの騒動が、これらの積もり積もった戸長や邏卒への不満や反発に火をつけて暴発させたようです。そこには、人々の新政府への不満があったのです。
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大見村遠景
  以上をまとめておくと
①明治5年になると新政府への期待は失望から反発へと転換していった。
②明治政府の徴兵制や義務教育制の強制は、人々にとっては新たな負担の増加で反対運動の対象となった
③民衆の反対運動への説得や圧迫のために、戸長や邏卒が活発に活動した。
④そのため戸長や邏卒は明治政府の手先として、反感・反発対象となった。
⑤そのため一揆が起こると戸長宅や邏卒事務所(駐在所)は攻撃対象となった。
⑥政策責任者や警察では、この一揆の原因を「無知蒙昧な民衆の血税への誤解」としたために、一揆の本質が伝わらないままになっている。
一揆の本質は、期待外れの明治新政府への不満と反発が背景にあった。それは香川県だけでなく、周辺の県でも同じような運動がおこっていることからいえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      と佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」
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 前々回に、大久保諶之丞の四国新道構想へ向けての活動が史料から確認できるのは、明治17年になってからであること、そして、四国新道構想を最初に提唱したのは、三野豊田郡長の豊田元良であったことという説を見てきました。今回は、明治17年の諶之丞の動向をたどりながら、四国新道構想が具体化していく過程を見ていくことにします。その際に、従来はあまり注目されてこなかった豊田元良が、どんな役割を果たしていたのかに注目しながら見ていきたいと思います。
 テキストは 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。

四国新道構想が動き出すのは明治17年のことですが、この年については諶之丞の日記には、新道についてはほとんど何も記されていません。その代わり、諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳が残っています。これで諶之丞の動きを、推測する以外にないようです。もうひとつの参考史料は、諶之丞が四国新道開整に関する書類をまとめた「南海道路開鑿雑誌」「国道開鑿雑書」です。どちらも四国新道工事が開始される以前の新道関係の書類を綴じ合わせたものです。

大久保諶之丞 国道開鑿雑書細目
国道開鑿雑書
国道開鑿雑書」には、次のようなものが綴じ込まれています。
①猪ノ鼻の道路開築の願書・見積書、
②明治17年10月、高知県官員の新道路線巡視に関する通達の写し、
③明治17年11月、琴平で開催された道路開撃の有志集会の議事録、
④その他誰之丞の書簡
これらは、どれも明治17年中のものです。

大久保諶之丞 南海道路開撃雑誌
南海道路開撃雑誌
「南海道路開撃雑誌」も、四国新道に関する書類の綴じ込みです。
こちらには明治17年11月から明治18年12月の史料の綴じ込みで、主なものは次の通りです。
⑤明治17年11月の道路有志集会の議事録や有志者名簿、巡視委員による高知県巡視や徳島県令による猪ノ鼻巡視の概略、
⑥明治17年12月の「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開撃二付願」、
⑦明治18年2月13日の三県申合書、高知県における道路開撃願書などの写し、
⑧箸蔵道を経由する讃岐・阿波。土佐間の貨物数量調べ、「猪ノ鼻越道路景況調」など
ここからは四国新道構想に向けて具体的な活動が始まったのは明治17年から明治18年にかけてであったことが分かります。そして、その時期の主な資料がここにはまとめられていて、四国新道に関する基本的資料と研究者は考えています。特に⑧は、箸蔵道を経由する讃岐・阿波・土佐間の貨物数量調査で、当時どのような産物が流通していたかを具体的に知ることができます。四国新道の建設に向けて、このような資料も求められていたことがうかがえます。

「国道開鑿雑書」にある「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」(明治17年6月)から見ていきましょう。この見積書の前には、猪ノ鼻開鑿の「道路開築御願」が綴じられ、次のように記されています。
本県三野郡財田上ノ村ヨリ阿州三好郡池田村ニ通スル字猪ノ鼻ノ嶺タルヤ、阿讃両国ノ物産ヲ相輸シ、加之ナラス上ノ高知ヨリ讃ノ多度津二通シ、即チ布多那ヲ横貫スル便道ニシテ、一日モ不可欠ノ要路ナリ、然り而メ我村二隷スル猪鼻嶺壱里余丁ハ岸崎巌窟梗険除窄、為二往復ノ人民困苦ヲ極ム、牛馬モ亦通スル能ハスト雖、此沿道二関係アル土阿ノ諸郡、皆讃卜物産ヲ異ニスルヲ以、互二交換運輸セザルヲ得ス、然ルニ、土ハ海路ノ便悪敷、阿ハ運河アリト雖、海岸二遠隔スルヲ以、其便ヲ得サルヨリ、不得止土着ノ者掌二唾シ脊二汗シテ負担シ得ルモ、運価高貴ナリ、運価高貴ナルノミナラズ、冬季二至テハ寒雪ノタメ、往々凍死スル者アルヲ免ヌヵレズ、実に其惨、且ツ不便筆紙二形シ難シ、今マ果断以テ此嶺ヲ開築セハ、直接二阿讃ノ便益ヲ得ル而已ナラス、閑接二其益ノ波及スルヤ小少二非ル也、不肖等此二意アル数年、然トモ奈セン、資金無ヲ以因、乃遂ニ今日二流ル、遺憾二耐ヘザル処然リト雖トモ、聖世今日ノ運搬旺盛ノ際二当テ、何ゾ傍観坐視、此便道路ヲ度外二置クニ忍ンヤ、故二今般本村々
会二附、毎戸人夫ヲ義出シ、早晩開築ノ功ヲ奏セント可決相成候条、今ヨリ阻勉、右開築ニ着手致度候間、伏シテ真クハ、人民便否ノ如何ヲ御洞察御允許相成度、別紙図面目論見書相添、此段奉願上候、以上
 愛媛県下三野郡財田上ノ村  大久保諶之丞
  意訳変換しておくと
三野郡財田上ノ村から阿波三好郡池田村に通じる猪ノ鼻嶺は、阿讃両国の物産が行き交う峠で、これに加えて高知から讃岐・多度津に通じる要衝で、一日たりとも欠くことが出来ない要路である。 しかし、上ノ村に属する猪鼻嶺までの1里余の道のりは急傾斜が続き、往来する人々を苦しめ、牛馬の通行もできない。この沿道に関係のある土佐や阿波の諸郡は、讃岐の特産品を手に入れるために、互いに交換運輸をせざるえない。また土佐は海路の便が悪く、阿波は運河が発達しているが、海岸から遠いので、その利益を得るのは一部地域に限られる。そのため人々は掌に唾して背に汗して、物品の輸送を行うがそのコストは高く付いている。輸送コストだけでなく、冬には寒く雪も積もり、輸送中に凍死する者も現れる。実に悲惨で、筆舌に尽くしがたい。今こそ果敢に猪ノ鼻嶺を開鑿し、阿讃の交通の便を開けば、その波及効果は少ないものではない。不肖、私はこの数年、この道の建設に私財を投じて当たってきたが、資金不足のために今になっても完成させることができないでいるのが残念である。
 明治の世の中となり、運輸面においてもいろいろな発展が見られるようになってきた。ただ傍観坐視するのではなく、この機会に道路開通を果たしたいと願う。そのために、村会で、各家毎に人夫を出し、早期着工に向けての請願を可決した。以上の通り交易面で利便性の向上のために、工事着手に向けてご決断いただけるように、別紙図面目論見書を添えて奉願いたします。以上
       愛媛県下三野郡財田上ノ村 大久保諶之丞

 これを読むと題名は「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」ですが、猪ノ鼻だけの部分的な開鑿願書ではないことが分かります。この中には四国新道につながる内容が含まれています。前にも見たように、諶之丞は以前から猪ノ鼻開鑿に取り組んでいました。

大久保諶之丞の開通させた道路
大久保諶之丞の取り組んでいた開鑿・改修工事

明治17年に入ってからもその工事は続いていたことが諶之丞の手控帳からは分かります。例えば4月21日には、諶之丞が猪ノ鼻へ道路検査に出向いていますが、この時には郡長の豊田元良も同行しています。ここからも、以前から細々と続けていた猪ノ鼻開鑿を、四国新道(国道)として、国に請願していこうとする目論見が見えてきます。そこには、郡長の同意と承認を受けて、このころに本格化したことがうかがえます。そのような動きが開始された契機は、高知県の新道計画でした。

大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
大久保諶之丞が開鑿した箸蔵道のトラバースルート

同じ頃、愛媛県と高知県の間でも国道開鑿の計画が浮上してきたのです。
この年6月28日に、高知・愛媛両県令から国に「国道開鑿之義二付上申」が提出されています。これは、次のようなルート案でした。

「土佐伊予ノ両国二跨り東西二大路線即チ川ノ江ヨリ瓜生野高知伊野・須崎等ヲ経テ、吾川高岡両郡間二流ルヽ仁淀川二沿ヒ別枝二至リ久万町ヲ経テ松山ニ達スルノ国道を開修」

ルートとしては、土佐藩が参勤交替に使っていた土佐街道(現在の高速道)と国道33号を併せた「四国Vコース」になります。結果として、この上申は7月12日、工事計画書を精査するようにと指示され不認可になっています。

大久保諶之丞 新道着工までの動き1
大久保諶之丞 明治17年の動向

 諶之丞が、この計画をどの段階で知ったのかは分かりません。しかし、上表の明治17年2月の欄を見れば分かるように、諶之丞が農談会に出席するため陸路で松山に赴いていますが、この時の道中を記した「旅行記」の表紙に次のように記します。
「此旅行二付道路之事ニハ一層ノ感ヲ憤起シタル事アリ」

ここからは、彼がこの時点では愛媛・高知間の国道計画の情報を知っていたことがうかがえます。「これはまずいことになった」というのが本音でしょうか。高知と川之江に国道が作られたのでは、猪ノ鼻峠越に今作っている道が国道に昇格することはなくなります。川之江ルート案に対して早急に巻き返し活動が求められるようになったのです。これが四国新道の猪ノ鼻への誘致活動の開始となったと研究者は考えています。
大久保諶之丞と豊田元良2
吉野川疎水案や瀬戸大橋案も豊田元良の発案であるとする史料

 豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、四国新道構想は自分が最初に唱えて、大久保諶之丞にそのことを伝えたのが始まりだと回顧していることは以前にお話ししました。その視点からすると、これらの情報も、豊田から伝えられた可能性があります。豊田は郡長として、それらの情報を入手しうるポストにいました。また、「四国新道開鑿起因」にも、「高知県高知卜本県川ノ江間ノ道路開築」に関する記述があります。そして高知・川ノ江間の道路開築に対する金刀比羅宮からの工費二万円の寄付を、豊田が撤回するよう画策したことなどが記されています。本当だとすれば、露骨な川之江ルートつぶしです。
 豊田元良は、大久保諶之丞を呼んで情報を伝えるととともに、今後の対応策を協議したのではないでしょうか。ここからが猪ノ鼻ルートへの広報と支援を求めての活動開始となります。 
諶之丞の動き追ってみると、明治17年5月、6月には道路建設に関して、徳島県の洲津や池田に出向いているのが分かります。
徳島側の地方要人を味方につけて巻き返しを図ろうとしたのでしょう。これも豊田元良との協議の結果でしょう。郡長の後盾や紹介状があってこそ、これらの工作はスムーズにいったはずです。
 6月に猪ノ鼻開鑿の見積書を作成したのも、高知・川ノ江間の道路開鑿の動きを意識してのことだったと研究者は考えています。猪ノ鼻開鑿の願書・見積書が「国道開鑿雑書」に綴じられていることも、そのことを裏付けます。
その後の大久保諶之丞の動きを、残された金銭手控帳から見ておきましよう
8月19日 播州から測量技師を招いて猪ノ鼻・谷(渓)道の測量開始
9月 8日 道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く
10月4日 道路の件で池田に出張。
このような動きからは、この時期に愛媛・高知間の国道開鑿の動きを受けて、諶之丞が讃岐・阿波を経て高知に至る四国新道路線の実現に向けて活動をしていたことが見えてきます。これは、郡長・豊田の承認と指示があって可能なことです。諶之丞は豊田元良に対して、頻繁に連絡を取り報告しています。大事なことについては、実際に郡庁を訪ねて報告しています。例えば9月8日は、「道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く」というメモが残っています。ここからは、これらの誘致活動が豊田元良の指示下で行われていたことをうかがえます。郡長の紹介状があるから村の役人に、県知事(県令)や各地の郡長が会ってくれたとも云えます。そういう意味では、大久保諶之丞は豊田の「全権委任特使」の任を果たしていたとも考えられます。
 明治17年10月下旬から11月の初めにかけて、高知県の官員が新道開鑿路線巡視を実施しています。
諶之丞や豊田の運動の結果、実現したのでしょう。しかし、高知県側へ具体的にどのような働きかけを行っていたかは資料からは分かりません。
 俗説では、大久保諶之丞が高知県の田辺県令を訪ね猪ノ鼻ルートの利便性や経済性を説いたと伝えられています。例えば「双陽の道」には、その時の模様が次のように描かれています。
  諶之丞の熱意に共鳴し理解した田辺県令(知事)は、すでに高知・松山間の国道計画は走り出しており、諶之丞の構想では、それに徳島県を巻き込むことになることから、地元阿波池田三好郡の武田党三郡長の賛同を得て、下から徳島県令酒井明を動かすことが肝要であることを説いた。武田部長は物事の呑み込みが早く行動力もある名郡長であったからである。田辺県令は、県下の熱心な道路推進者を動かして武田郡長のところへやるからそれに合わせて諶之丞も行くように、あとは諶之丞の説得と武田郡長の考え次第だと諶之丞に下駄を預けた。諶之丞が三好郡役所で武田郡長に会う日程に合わせて県下の有力人物を武田郡長のもとに派遣する約束。先ず諶之丞が武田郡長に会って自分の道路構想を説き同調してもらうこと、そして折りよく田辺県令の内意を受けた高知県下の二人が訪れる段取りとなった。
 しかし、これは史料的に裏付けのあるものではありません。諶之丞の日記は、この年の四国新道については、何も書かれていないことは先に述べたとおりです。これは、物語として後世の人々が脚色し、語り継がれるようになったストーリーで事実として裏付けるものはないようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳(明治17年分)

根本史料となる「国道開鑿雑書」に、もう一度返りましょう。
ここには、その巡視日程・宿泊予定地の通知の写しが綴じられています。それによると、高知県一等属日比重明と御用係の千種基、竹村五郎が視察にやってきています。巡視行程からすると、愛媛県・高知県が6月に国に提出した高知・川之江ルートと、猪ノ鼻ルートの両方を巡視したようです。

大久保諶之丞 新道ルート図

 10月29日から諶之丞もこれに同行しています。10月31日、同行中の諶之丞が、財田上ノ村の戸長篠崎嘉太治に宛てて箸蔵山から発した手紙が「国道開鑿雑書」に綴じ込まれています。
そこに諶之丞は、次のように記します。
尚此度者、殊の外意外ニ幸福ヲ得タル義二て、四方山の御咄アリ、帰村次第万語
此頃者、道路開撃事業二付、軟掌御中へ彼是御手数相供、厚ク御配慮二預り、万々実二好都合二御座候、予而御噂申上候官員御中ハ日割ヨリ一日速着相成、琴平二於而少シク残念之廉もアリタレトモ、昨夜箸山ニテ御泊、充分下拙の考慮ヲ開伸、且ツ昨日者琴平ヨリ箸蔵迄同行、実地充分二吐露、
大二見込モ被相立候趣二候、さて今般見積り之開菫事業者、真二未曽有ノ大工事ニシテ、今此時憤発従事、身命ヲ抱ツトモ、是非此功ヲ奏セスンハアルヘカラズ、而メ過日来御高配被降候猪ノ鼻開鑿願、大至急差出サステハ其都合ノあしき事アリ、依テ願書今二通並ニ目論見書三通、至急御認置可被降、図面者明日帰村次第、御衛へ参上、御相談可申上候、次ニ目論見書へ小字記入不被成方、却而よろしく、番号ノミ御記入可被下候
明治17年十月三十一日朝 箸山二て   誰之丞
篠崎嘉太治殿
  意訳変換しておくと
 この度の視察のことについては、期待した以上の成果が挙げられそうである。積もる話もあるが帰り次第に伝えたい。道路開撃事業について、数々のお手数と配慮をいただいていることが、好結果につながっている。感謝したい。
 高知からの視察団は予定よりも一日早く到着した。琴平では少残念なこともあったが、宿舎では、私の計画案を充分にお聞きいただいた。また昨日は、琴平から箸蔵寺まで同行し、測量結果などのデーターを示しながら現地説明を行った。大いに見込ありとの意を得た。さて今回の見積開鑿事業者について、未曽有の大工事になるので、憤発して従事し、身命をかけて取り組む決意の者でなければならない。
 先日にお見せした猪ノ鼻開鑿願について、至急に提出するのは不都合なことが出てきました。そのため願書と目論見書三通を、至急作成していただきたい。図面については、明日に私が帰村次第、持参し相談するつもりです。なお計画案への小字の記入は必要ありません。番号だけ書き入れて下さい。

  四国新道構想実現の手応えを感じた諶之丞の興奮・気負いが伝わってくるとともに、猪ノ鼻開鑿願書について次のようなことが分かります。
①猪ノ鼻開鑿願書は、この時点では提出されていなかったため、至急提出しようとしていること
②村戸長篠崎嘉太治と頻繁に情報を交換や協議を行いながら、対応をすすめていること。つまり、大久保諶之丞のスタンドプレーではなくチームプレーとして進められていること。
③猪ノ鼻開鑿願書を提出することで、猪ノ鼻ルートを有利にしようと考えていたこと
大久保諶之丞 高知県ヨり徳島県を経て本県多度津丸亀に達する道路願
道路開削願いに添付された別紙図面

ここからは、高知県への働きかけの結果、高知から調査団が調査団が派遣され、二つのルートを視察・比較して、猪ノ鼻ルートの方が有利であるとの「内諾」を得たことがうかがえます。ルート決定について、直接に高知県令に直接談判に赴いたというのは、あまりに荒っぽい話で現実的でないことが、これまでの諶之丞の動きから分かります。ひとつ一つを積み上げていく着実な対応ぶりです。
ここまでを研究者は、つぎのようにまとめています。
①阿讃国境に位置する財田上ノ村に生まれ育った誰之丞は四国新道に取り組む以前から、財田上ノ村において、阿讃間の道路の開鑿・改修に取り組んでいた。
②そのような中、三野豊田郡長として赴任してきた豊田元良と出会ったことにより、琴平・猪ノ鼻峠を通る四国新道が構想された。
③誰之丞が、阿讃国境の猪ノ鼻の開整に着手しつつあった明治17年、高知・川ノ江間の国道開撃計画が浮上した。
④この動きを受けて、誰之丞と豊田元良は、讃岐を通る猪ノ鼻ルートへの改線に向けて活動を開始した。
⑤活動内容の詳細は不明であるが、高知や徳島の有志と連絡をとりつつ改線の機運を高めていった。
⑥その結果、明治17年10下旬には高知県視察団が猪ノ鼻ルートを巡視し、誰之丞等が提唱する路線実現の可能性が高まった。

また、愛媛県史は新道建設について、次のように記します。
大久保ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開鑿計画(高知・川之江ルート)を拡大して多度津・丸亀路線を入れ、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとしてこの計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。
こうして見てくるとひとつの疑問がわいてきます。
それは、「大久保諶之丞=最初の四国新道構想提唱者」についてです。大久保諶之丞や豊田元良が動き出す前に、高知県令は他県の道路建設の先進例を学び高知から川之江・松山を結ぶ「四国新道Vルート」案を国に提出しています。これが最初の四国新道構想と云えるのではないでしょうか。
この高知県の考えていた川之江・高知ルートを、猪ノ鼻ルートに変更することを働きか掛けて成就させたのが大久保諶之丞・豊田元良のコンビと云うことになるのではとも思えてきます。
ています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月

大久保諶之丞 大久保家年表1

大久保諶之丞の年譜を見ていると、1873年や77年に戸長辞任を願いでています。これを私は「三顧の礼」のような「謙譲の美徳」と思っていたのですが、どうもそうではないようです。なぜ、戸長を辞めさせてくれと大久保諶之丞が言っていたのか、当時の情勢や背景を見ておきたいと思います。
テキストは「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」です
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

大久保諶之丞の祖父と父の話から始めます。
 大久保諶之丞の祖父與三治は、讃岐三白といわれた砂糖の原料となる甘庶の栽培をすすんで取り入れて小作農家を育成したり、山道改修をおこなっています。跡継ぎは男子がなかったので、隣村十郷村(旧仲南町)田中源左衛門の長男森治(文政八年。1825生)を、その利発さを見込んで頼み込んで養子に迎えます。これが諶之丞の父になります。森治は、與三郎が見込んで養子に迎えた人物で、文武に秀でているばかりでなく、人柄は温厚篤実で近隣の住民からも親しく信頼されていました。
 父森治は、與三郎を尊敬し、その意志を継いで池を作り新田開発をしたり、同村戸川(御用地)で藩御用の菜種油製造をして、藩から二人扶持を与えられています。父祖は、実業に熱心だったことがうかがえます。                        
 森治は、大久保家の養子になる前は、十郷村田中家の長男として、若いころの香川甚平の塾に出入りしていました。甚平の語る陽明学とは、次のようなものです。

「知行合一」で「心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を生み出す。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多い。よって先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。」

陽明学は行動主義で、本の中に閉じこもる学問ではありません。幕末の志士たちのイデオロギーともなった思想です。 後には、諶之丞や弟の彦三郎も香川甚平の塾で学び、陽明学を身につけていきます。
 大久保家では曽祖父権左衛門から「直」の字を字に取り入れています。人が生きるのに最も大切なものであるのは「直」であるという考えが家の中に一本通っていたと云えるかも知れません。
  「直」には、ただしい心、ただしい行の意味があるようです。
 森冶は、自らを「直次」と称し、長男菊治は「直道」、三男諶之丞は「直男」、五男彦三郎は「直之」と称させています。そして折に触れて「直」のもつ意味と、生きる方向を伝えたのでしょう。
 後に尽誠学園を開く彦三郎は、父森治61歳の還暦祝のときに、「家厳行述」と題して父の伝える家訓「直」を讃える漢詩を作っています。
大久保諶之丞3

18歳で結婚し、諶之丞は、明治5(1872)年24歳の時に、財田上の村役場吏員となります。その間には、長谷川佐太郎が指揮して、約20年前に崩壊していた満濃池再築工事(1870年)に参加して土木技術と「済世利民」の理念を身をもって学んでいます。ここには父や祖父の意思を継いで、地域に貢献しようとする意思が見えます。

讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

このような中で明治6(1873)年6月西讃竹槍(農民)騒動(血税一揆)が起きます。
 明治維新の「文明開化」の名の下に、徴兵制や学制などの近代化政策が推し進められます。地元の女達からすれば徴兵制は、兵士として夫や子どもを国に取られることです。義務教育制は、学校建設や授業料負担を地元に強制するモノです。新たな義務負担と見えます。それを通達する地元の役人たちも、江戸時代の村役人のように村の常会で協議での上で決定というそれまでの流儀を無視するものでした。しかも、それを行う村の役人は庄屋に代わって、あらたにそのポストに成り上がって、威張ったものもいました。全国の農村で、現場無視の近代化政策への不満と、現場役人たちへの不満が高まっていたようです。
明治時代(1)⑤ ちょっと怖い「徴兵令」… : ボケプリ 涙と笑いの日本の歴史
発端は、三野郡下高野村で起きた娘の誘拐事件で、次のように伝えられます。
下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が女の子を抱え、連れ去ります。「子ぅ取り婆あ」に娘がさらわれたという騒ぎに、住民が手に手に竹槍をもって集まり、さらった女を取り押さえなぶり殺しにしようとします。それを阻止しようとした村役人や戸長に対して、日頃の不満が爆発し暴動に発展します。これがあっという間に、周辺に広がります。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだ後、翌27日には、群集の蜂起は2万人にも膨れあがり、三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに丸亀へと進んで行きます。
 その背景には、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という「徴兵=血税=血が採られる」いうフェイク情報がありました。また、一揆の掲げたスローガンを見ると「徴兵令反対、学制反対、牛肉食による牛価騰貴、貧民困却」などが挙げられています。ここからは、徴兵制や学制など明治政府の進める政策への民衆の不満に自然発火的に火が付いたことがうかがえます。暴動の襲撃目標は、近代化の象徴である小学校、戸長事務所、戸長宅、邏卒出張所などに向けられます。約600の家屋が焼打ちにされたと報告書は記します。この内の48が小学校とありますので、義務教育の強制に対しても住民は不満を持っていたことが分かります。その背景には学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられるようになったことがあるようです。

西讃竹槍騒動 進行図
西讃竹槍騒動の一揆軍と鎮圧部隊の進行図
財田上の村では、戸長、副戸長宅、品福寺、宝光寺など家屋十軒が火災被害にあっています。
森治が村の副戸長、諶之丞が村吏をしていたために大久保家も焼打ちにあいます。ちなみに後に出された大久保家の被災届には、次のように記されています
「居宅、座敷、竃場、湯殿、作男部屋、雪隠、釣屋、懇屋、牛屋、薪屋、油絞屋、勝手門、土蔵三棟など三百坪に及ぶ屋敷」

森治の屋敷は、長屋門を構え300坪のる大きなものであったことが分かります。
このあとすぐに、父森治は副戸長を、諶之丞は役場吏員を辞しています。翌年の明治七(1874)年には、大久保家は財田上の村戸川に自宅を再築します。村の政治から手を引いた大久保家ですが、村民の大久保森治家、とくに諶之丞に対する信望は厚かったようです。固持しても、とうとう担ぎ出されて諶之丞は、明治八(1875)年に、副戸長(副村長)となり、4カ月後には27歳の若さで戸長(村長)になっています。兄菊治は村の小区会議員に担がれています。
  諶之丞は一揆のことを、教訓として次のように日記に書き残しています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」

 「合意と実行」が政策を進める上での教訓となったようです。
この事件は、大久保家にとっては大きなトラウマとして残ります。。
 諶之丞が戸長になることについて、父森治は別として義母リセ、妻タメをはじめとする家族の心配や小言が絶えなかったことが諶之丞の日記からはうかがえます。この時期は、明治9年熊本神風連の変、前原一誠萩の乱、明治10年の西南の役と続いた世情不安定な時代です。戸川に再建した自宅も、あの西讃竹槍騒動のときのように再び焼打ちに遭うのではないか、諶之丞の身に危険が及ぶのではないかという心配が家族にはあったのです。諶之丞が戸長を辞めたいと再三のように嘆願しているのは、家族の声を聞いてのことのようです。しかし、それもかなわないまま明治12年まで戸長を続けます。
財田上の村荒戸組三十二名連判の明治十年六月「村民条約書」が残っています。意訳すると次のようになります。
戸長の大久保甚之丞殿より何度も辞職願が提出されているが、村民一同より辞めないで続けてくれるように、何度もお願してきた。同氏は資性才敏にして、村内の利益を第一に考え、村民を保護安堵させてくれていりので、我々一同お蔭で助かっています。元来同氏は、役員(人)となることは不本意で好まないところですが、村内が選ぶので命用されます。そのたびに上司に辞任届を出しますが承諾されず、村民もひたすらこれを推戴して、ついに今日に至った次第です。
 先年農民の暴動(讃岐血税一揆)は、役員(人)と見れば問答無用で居宅を放火し、その人物の如何を論じない。同氏もその災害に罹った。一揆が突然だったために、焼き討ちを止めるいとまがなく遺憾極まりない。
 大久保家の家族は、先年の暴動に懲りて吏職を嫌うようになりました。奉職している諶之丞氏は、不本意だが村民の情実を汲みとつて勉励してくれています。村民において、同氏に報いる義務なくしては、実に相済まない。そのため以下の条件を約し連判するものである。万一、条約に背いた者は、村内一同より罰責する。
第一条
村民大久保氏を推戴して戸長となつている以上はその指揮に間違いなく従います。いやしくも意見があれば直ちに忠告をし、親睦補佐して、利害を共にし憂楽を同じくすること。
第二条
    万一、先年のごとき奸民暴挙、官吏を傷害することがあって、大久保氏をも禍いしようとすれば、村民一同相率いて居宅家族を囲統守護して、乱暴の者は即刻排除すること。
第三条
万一、乱民暴動を防ぎ切れず居宅が毀わされ焼かれたときには、村民一同その居宅の新築費用を助成すること。
右三条硬く守り決して違背しません。
「荒戸組」というのは、藩政時代の行政組織として財田上の村にあった集落のことです。東から山分組、荒戸組、石野組、朝早田組、さらに財田川北川の北地組と五つの組がありました。大久保家が属していた石野組とは別の隣り組です。荒戸組だけでなく、五つの組すべての村民が、組それぞれにこのような連判状を作って諶之丞に差し出したことがうかがえます。それほど村民の信望は厚かったようです。

戸長については、明治四(1871)年四月に戸籍法が定められ、戸籍吏として戸長・副戸長が置かれます。
戸長は、この戸籍吏に土地人民一般の事務を取扱わせたものです。大区には区長、小区には戸長が置かれました。この時の戸長は、民選したものを郡長が指名しまします。戸長の職務は、県・郡からの通達徹底、戸籍整備、租税徴収、小学校設置、徴兵調査などで、政府の中央集権政策の末端遂行機関でした。ここには、衛生福祉などサービス的な要素は一切ありません。小さな政府の小さな役所で、戸長の家が役所として使われていた所も多かったのです。そのために、農民騒擾が起ると、その攻撃対象に戸長宅がなることが多かったようです。
 また江戸時代の村役人とは異なり、権威主義的な統治手段がとれません。村民と権力側の板挟みになる立場のために旧庄屋層は戸長就任を嫌うことも多かったようです。例えば、明治になって満濃池再築を行う榎井村の大庄屋の長谷川佐太郎も戸長に選ばれますが、すぐに辞退しています。

   諶之丞が、財田上の村戸長をしていたときのことです。
財田上の村では、品福寺内に学校を置いていましたが、一揆以後に新たに小学校を建てることになります。当時の義務教育は、全額が地方負担です。国は何の補助も出さずに、地方に義務教育の普及を命じます。村の予算の1/3が学校建築や教員給与となっていた時代です。受益者負担で、そのため村民は授業料も負担しなければなりませんでした。この義務教育の強制は徴兵制施行とともに、村人の怨嗟の的になります。「讃州血税一揆」の原因となったは先ほど触れた通りです。
 このような中で、戸長を勤めていた大久保諶之丞がどのようにして学校建設を行ったのかを見てみましょう。
 彼は、少しでも村の財政負担を少なくするために近隣の山林を多く所有する神社寺院や村民などから木材を寄進してもらおうと、村内を駆け回つています。校舎建築のための材木確保のためです。
  その頃の村のわらべ歌に次のようにうたわれていたと云います。
大久保諶之丞は  大久保諶之丞は
日暮のカラス
森をめがけて飛んで行く
公務を終えて夕方になると小学校建築のため奔走していた当時の諶之丞の姿が、村民の親から子に言いはやされていたようです。その姿が目に浮かぶようです。

明治9年12月、財田上の村は、「学校新築を勧むる諭言」を出しています。
学問の必要性と学校新築の重要性を論じ、金のある者は多額の寄金を、そうでない者は竹木縄薪夫力を提供することを求めたものです。おそらく当時の戸長であった諶之丞が起案した文書でしょう。明治8年4月に戸長になった諶之丞は、すぐに校舎新築のために動き出したようですが、資金力に乏しい村では完成までの資金が不足します。校合完成のために村民全体の世論を高め協力を求めた書面のようです。建築資金の支払は、明治12年までかかっていますが、校合はそれ以前には出来上がっていたようです。財田上の村の春魁小学校、雉峡小学校の校舎は、このようにして建築された。ここには、血税一揆から学んだ次の教訓が活かされています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」 

 学校建設においても、強制的に資金を割り当てて徴収するのではなく、その必要性を手間暇掛けて村民に膝つき合わせて説いて、財力に相応した資金提供を求めています。それが新たに出来だ学校を「自分たちが創った学校」と村民に意識づけることになったようです。この手法が、大久保諶之丞への信頼につながり、彼のファンを増やしたのかもしれません。これは新道造りにも反映されていきます
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞の父森冶は、陽明学を学び、それを経営の柱に位置づけようとした。
②そのためため池や道路工事などに積極的に関わり、信望の厚い人物で、それが諶之丞にも受け継がれていくことになる
③明治維新後、父は森治副戸長、諶之丞は役場吏員を務めていたが、西讃血税一揆の際に家が焼き討ち対象とされた。
④このため大久保家では諶之丞が戸長などの公的なポストに就くことに反対する雰囲気が強くなった
⑤その意を受けて、諶之丞は何度も戸長辞任願いを提出しているが、受けいれられることはなかった
⑥このような大久保家の心配を受けて、財田上ノ村の5つの地区は、それぞれが留任嘆願書を出している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」
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大久保諶之丞の開通させた道路
  大久保諶之丞が四国新道以前に取り組んでいた新道一覧

 大久保諶之丞が20代~30代にかけて財田上ノ村周辺の廃道の開鑿や整備に取り組んでいたことを前回は見てきました。今回は、彼が四国新道構想を抱くようになった時期と契機を見ていきます。テキストは、 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞の四国新道構想に大きく関わっていたのが豊田元良(もとよし)のようです。
 彼は1850年(嘉永3年) 生まれで明治維新を28歳で迎えたことになるので、大久保諶之丞と、ほぼ同年齢になります。讃岐・丸亀藩の高畑家に生まれ、後に琴平の豊田家の養子となります。彼の官暦を見ておきましょう。
明治14年9月、三豊郡長
明治16年11月~17年3月まで、仲多度郡長を兼務、後任の福家清太郎が
明治18年3月 ~23年11月まで再び仲多度郡長
明治23年11~  再度三豊郡長に転出、
明治32年~37年 市政を施いた丸亀市の初代市長就任、
仲多度郡と三豊郡の郡長を20年近く務めた後に、初代の丸亀市長を務めて引退している人物です。この期間に、多くの人間ネットワークを築いて大きな政治力を発揮した人物でもあるようです。この時代の郡長というのは、各村が小さく戸長の実権が小さいのに比べると、実権も強く大きな力を持つ存在でした。
 三豊郡長に豊田元良が赴任したのは明治14年9月、36歳の時になります。これが大久保諶之丞との出会いになるようです。この前年に、大久保諶之丞は学務委員として、上ノ村に勤務しています。

大久保諶之丞 大久保家年表2
大久保諶之丞年譜 調査報告書より

  豊田と大久保諶之丞の最初の出会いは、どんなものであったのでしょうか。
豊田元良が四国新道開鑿当時を回顧した「四国新道開鑿起因(四国新道主唱ノ起因)」には、四国新道開鑿の発端について、次のように記されています。(意訳変換)
私(豊田元良)は明治九年ころから四国の道路が狭く曲折しており、金刀比羅宮への参拝者に不便であるため、四国を貫通する道路開通の必要性を認識し、金刀比羅宮司深見速雄や禰宜琴陵宥常にその計画を語った。その手順は、まず多度津・琴平間の道路を開通させてモデルを示し、次第に四国に広げていくというものであった。測量調査も始めていたが、明治10年の西南の役で、中断やむなきにいたった。
   明治14年に私が三野豊田郡長になり、その年の11月に郡内巡回で財田村を訪れた時に、初めて大久保諶之丞と会った。その時に四国新道の計画を述べると、諶之丞は手を打って賛同し、握手してその成功を誓い合い、さらに猪ノ鼻峠をともに視察した。
 そこで、私は金刀比羅宮司から新道工費二万円の寄付の約束を取り付けるとともに、愛媛県知事関新平へ願書を提出する準備を進めた。一方、諶之丞には徳島県三好郡長武田覚三、高知県知事田辺良顕と面会し、賛同を求めるよう指示し、四国新道開整に向けて行動を開始した。
 実際の文章には克明な描写もあり、興味深いものですが、新道が完成してから後年に記されたものなので、年月日の誤りなど不正確な部分もあり、とりあつかいには「慎重な検討が必要」と研究者は考えているようです。
 ここで、研究者が注目するのは、豊田元良が明治9年という早い段階で四国新道開整を計画していたということです。その計画をまとめておくと次のようになります。
①金比羅への参拝者の便をはかるために、琴平を中心とする四国縦貫道路開通を目的としたこと。
②その第一段階として、多度津・琴平間から着手する計画だったこと。
③その財政的支援を金刀比羅宮の宮司や禰宜から取り付けていたこと
④多度津・琴平間以外の路線については、どこまで具体的な考えがあったかは不明

1大久保諶之丞
大久保諶之丞と弟の彦三郎(尽誠学園創立者)

次に、明治14年11月に豊田と諶之丞が初めて対面したことについて見ておきましよう。
 裏付けとなる諶之丞の日記が、この時期の部分が欠けているようです。そのため正確なことは分かりません。しかし、明治14年のことと推測される12月20日付の諶之丞から弟彦三郎に宛てた手紙に、次のように記されています。

郡長巡回、学事道徳ヲ述ノ件ヲ懇話シ、且勧業二注ロスル体ナリ

ここからは、諶之丞と郡長の豊田が面会したことが裏付けられます。しかし、「学事と勧業」のことは触れられていますが、肝心の四国新道については何も記されていません。先ほど見たように豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、出会ってすぐに意気投合して具体的に四国新道の計画を語り合い、すぐさま二人がその実現に向けて動き出したように記されていました。しかし、諶之丞の手紙からは、そこまで読み取れないようです。勧業のなかに四国新道構想の話題も出たのかも知れませんが、この段階では、まだ具体的な行動に着手するまでには至っていなかったと研究者は考えているようです。そして、諶之丞明治15年9月5日付けで、学務委員から勧業世話係(地域振興係)に移動しています。道路建設などにあたる係を担当することになったようです。
 別の史料としては、「大久保諶之丞君志(土木之部)」の中には、次のように記されています。
明治十四年ノ頃、豊田元良氏ノ三野豊田郡長二任セラルヽヤ、夙ニ親交ヲ呈シ施政ノ方針ヲ翼賛シ、勧業・教育ノ事柄ニツキ、渾テ援助ヲ呈セザルナク、豊田氏モ亦深ク氏ガ身心ヲ公益二注クノ人タルヲ重ンジタリ、故二氏ノ意見トシテハ呈出セルモノハ大二注意ヲ払ヒテ荀モスルコトナカリキ、故二今氏ノ手記ニツイテ見ルモ、親交イト厚ク、来往モ亦頻繁ナリ、而メ一トシテ世益二関セサルハナカリキ、
 星移り歳替り明治十六年ノ春二至り四国新道開鑿ノ件ヲ談議ス、豊田氏案ヲ叩イテ大二賛助ノ意ヲ表シ、直接卜間接トヲ問ハズ助カスベキコトヲ折言ヒタリ、爰二於テ氏力意志確固不抜ノ決意ヲ為セリ、爾後時ノ愛媛県令関新平氏二賛助ヲ求メ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏ニモ賛助ノ誠ヲ折言ハレ、大二氏ガ意志ヲ安ンセシムルニ至レリ、

  意訳変換しておくと
明治14年頃に、豊田元良氏が三野豊田郡長に任じられると、二人の親交は急速に深まった。大久保諶之丞は、豊田郡長の施政方針を理解し、勧業・教育の政策実現に能力を発揮した。豊田氏は、公益のために活動する人物を重んじたので、諶之丞が提出する意見書などには、大いに注意をはらい、見過ごすことがなかった。今になって大久保諶之丞の手記を見てみると、二人の親交が厚く、頻繁に会っていたことが分かる。
 こうして、明治16年の春になり、四国新道開鑿のことが話題に上ると、大久保諶之丞は豊田氏案を聞いて、大いに賛助の意を示し、直接・間接を問わず助力することを申し出た。ここに諶之丞爰の四国新道にかける意志は確固たるものになった。こうして、愛媛県令関新平氏に賛助をもとめ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏にも賛助を求め、この二人の賛意をえることができた。

ここからは、次のようなことが分かります。
①明治14年に、豊田元良氏が三野豊田郡長に赴任後に、大久保諶之丞との親交が始まった。
②豊田郡長は地域振興に意欲的な活動をしていた大久保諶之丞に目をかけた
③明治16年に四国新道開鑿が議題にあがり、豊田案による実現に向けての具体的な活動が始まった。
  ここでは二人が四国新道建設を談議したのは、明治16年の春としています。
豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、豊田元良が諶之丞に、高知県令田辺良顕を訪ねて賛同を求めるよう勧めたことが記されていました。田辺県令が高知に赴任するのは、明治16年3月です。ここからも明治16年の春に、四国新道建設向けての陳情活動は始まったと研究者は考えています。

大久保諶之丞 四国新道
 ふたりの立場を再確認しておくと豊田元良は三野豊田郡長で、大久保諶之丞は村役場の職員です。
今で云うと県知事と、町の職員という関係でしょうか。決してパートナーと呼べる関係ではありません。年齢的には同世代ですが、誤解を怖れずに云うならば「師匠と弟子」のような関係だったと私は考えています。
それでは四国新道構想を最初に打ち出したのは、どちらなのでしようか?
史料では「四国新道開鑿起因」「大久保諶之丞君志(土木之部)」のどちらもが、豊田元良から諶之丞へ四国新道構想を提示したと記します。特に「四国新道開鑿起因」では、豊田は明治9年という早い段階に、四国新道の必要を認識し、行動を開始していた自分で述べています。それを史料的に確認することはできません。
「追想録」には、豊田元良のことを次のように記します。
「殖産興業に関する様々な事業を構想し、あるものは実行に移し、またあるものは実現ぜず、中途で終わったものも多くあった」

この中には吉野川疎水計画など規模が壮大で夢のような計画も多くあったようです。大言壮語と評される豊田が、四国新道の構想を抱いていたことは大いに考えられます。また、諶之丞も満濃池再築に若い頃に参加して以来、建設・土木技術を身につけ、上ノ村周辺の道路整備を行ってきたことは前回に見たとおりです。豊田元良の夢のような構想に、大久保諶之丞がすぐに惹きつけられたことは考えられます。すでに諶之丞は、財田上ノ村と関わりの深い阿波・讃岐間の道路修開築等に取り組んでいました。
 そんな中で豊田元良と出会い「四国新道構想」を聞かされたのではないでしょうか。それは、いままで、自分がやって来た新道建設のゴールが多度津にあること、さらに猪ノ鼻を経て阿波・土佐へ伸びていく四国新道構想へとつながっていくことが見えてきたことを意味します。それは、財田上ノ村を中心とした地域に限られていた諶之丞の視野と活動を四国全体へと広げるものとなったのかもしれません。大久保諶之丞は、自分が開いてきた道の意味と、これから自分が為すべきことをあらためて知ります。それは「啓示」であったかもしれません。豊田元良との出会いが諶之丞に与えた影響は大きかったと私は考えています。
 諶之丞は、この構想をさらに多度津から瀬戸内海に橋を架けて、四国と岡山を結ぶという「夢の大橋」構想へと育てていくことになります。

最後に、豊田元良の人物像についてもう少し見ておくことにします。
  明治末に香川で出帆された「浅岡留吉『現代讃岐人物評論 一名・讃岐紳士の半面』宮脇開益堂、1904年。」には、次のように評されています。
大久保諶之丞と豊田元良

意訳変換しておくと

     前丸亀市長 豊田元良
世間は豊田元良を評して「大言壮語の御問屋」と云う。
突拍子もない空想家という言葉も当たらぬことはない。
確かに元良先生は、細心綿密という人物ではない。しかし、その言葉は20年後を予測したものであり、その行動は4半世紀後のことを考えた上でのことに過ぎない。我はむしろ豊田先生の大言壮語に驚く讃岐人の器量の小ささを感じる。(中略)

大久保諶之丞と豊田元良2

前略
豊田元良先生の説かれた吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋のような構想も、西洋人に言わせれば規模の小さいものである。豊田元良先生にはもっとスケールの大きな世間があっと驚くような大々事業を提唱して欲しい。今や日本はアジアの絶海の孤島ではないのだ。ユーラシア大陸がわが日本の領土に入るようなときには、黒竜江に水力発電所を建設し、中国・朝鮮の工業発展の振興に尽くす。これこそが豊田先生にふさわしい大事業である。余生を大陸経営に尽くして欲しい。
これが書かれたのは日露戦争が勃発する1904年のことです。この年に豊田元良は丸亀市長を退いています。ある意味、全ての官暦を終えた時点での地元ジャーナリストによる人物評価になります。
最初に、世間の人たちは豊田のことを「大言壮語の卸問屋」、「絶大突飛の空想家」と否定的にみていたことが分かります。確かに細心綿密の人ではなかったようです。しかし、親分肌で、長い郡長時代に信頼できる「子分」を、数多くかかえた政治的な実力者であったことは確かなようです。
 彼は四国新道以外にも、「吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋説」のような構想も持っていて、常々周囲に語っていたことが分かります。この筆者は、これらの構想を豊田元良の着想だとしています。
豊田元良と親密で、行動を共にすることの多かった大久保諶之丞も、常々にこのような大言壮語を聞かされていたのでしょう。吉野川疎水事業や瀬戸内海架橋構想説も、後に大久保諶之丞の口から形を変えて語られるようになるのかもしれません。
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞は、財田上ノ村周辺の新たな道路建設や整備を継続的に行っていた
②明治14年に三豊郡長に赴任してきた豊田元良は、大久保諶之丞の仕事ぶりや活動に注目し目をかけるようになった。
③明治16年に四国新道構想が豊田元良から語られると、大久保諶之丞はそれを「啓示」と受け止め実現のために一心に活動を開始した。その背後には郡長豊田元良の支援があった。
④大久保諶之丞の情熱と能力・行動力を認めた豊田元良は、戸長や県会議員へと抜擢していく。

大久保諶之丞の四国新道建設計画の根回しや交渉については、ひとりの村の役人や指導者の能力を超えるものがあると常々感じていました。それを従来の伝記は「諶之丞=スーパーマン」として描くことでカリスマ性を持たせてきたように思えます。しかし、郡長の豊田元良の構想・指示のもとに大久保諶之丞が「特任大使」として動いたとすれば話は納得しやすくなります。後に郡長の紹介状があるので、県令や地域の要人も会ってくれるし、交渉ができるのです。個人の交渉だけで県の要人が動けるモノではありません。
 この報告書は新たな視点を提供してくれました。感謝


大久保諶之丞3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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  大久保諶之丞が22歳(明治三年)の時に、幕末に決壊してそのまま放置されていた満濃池が約20年ぶりに再築されます。この大工事に大久保諶之丞は参加しています。そこで見たものは、長谷川佐太郎指揮下に行われる大土木工事であり、最新の土木技術でした。若き日の大久保諶之丞にとって、この時に見聞きしたことは強く印象に残ったようです。

 諶之丞が生まれた財田上ノ村戸川は、三豊市財田町の道の駅周辺になります。現在は、ここを国道32号線と土讃線が並んで通過し、戸川の南で讃岐山脈をトンネルで抜けています。これだけ見ると、戸川は「阿波街道の要衝」だったする文献がありますが、史料を確認するとそうとも云えないようです。
4 阿波国絵図3     5
阿波国絵図
例えば、1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図を見てみると、箸蔵街道も阿波街道も描かれていません。描かれているのは次の2ルートです。
⑥阿波昼間から尾野瀬山を経てのまんのう町春日への差土山ルート
⑦昼間から石仏越のまんのう町山脇への石仏越ルート
阿讃国境地形図 1700 昼間拠点

近世初頭の阿波側の拠点は昼間で、そこから讃岐側に伸びているのは春日と山脇です。
阿讃国境 山脇と戸川 天保国絵図
天保国絵図 石仏越のルートが財田上ノ村とつながっている

これが変化するのは、箸蔵寺が勃興して後のことです。箸蔵寺は修験者たちの活動で「金毘羅山の奥の院」と称して、近世後半以後に急速に教勢を伸ばしていきます。そして、先達たちが讃岐でも活発な活動を行い、箸蔵への誘引のために丁石や道しるべを建立すると同時に、参拝道の整備を行います。同時に街道を旅する人たちに無償の宿の提供なども行うなどのサービス提供を行います。この結果、参拝客の増大とともに参拝道の整備が進み、差土山ルートや石仏越ルートを凌駕するようになっていきます。そして箸蔵街道はそれまでの石仏越ルートに取って代わって、西讃地域における交通量NO1の街道に成長して行くようになります。
 もともとの箸蔵街道はまんのう町山脇から荒戸へ出て、太鼓木から石仏山に登り、二軒茶屋から箸蔵寺へ通じる道です。財田上ノ村は、石仏山への支線ルートを開き戸川をもうひとつの讃岐側の入口とします。こうして戸川は、それまでの水車の村から物流の人馬や、箸蔵寺への参詣者が往来し、阿波との交流が盛んな土地へと成長して行きます。
 それに拍車を掛けたのが明治維新です。江戸時代の阿波は原則は鎖国政策をとり、公的には讃岐との自由な商業活動は認めてはいませんでした。しかし、番所もなかったので往来は自由だったようです。明治維新になって、自由な往来が認められるようになると、阿讃山脈を越えての人とモノの移動が急速に増えます。大久保家資料の中にも、財田上ノ村と阿州間での綿代金支払いを巡る係争に関する文書や、明治三年の阿波から讃岐への煙草運送に係る運上金免除を求める嘆願書などが残されています。ここからは、明治になって急速に戸川が成長して行く様子が見えてきます。同時にその成長が、阿波との関係の深まりの中で遂げらたこともうかがえます。大久保諶之丞が19歳で明治維新を向かえた頃の上ノ村の様子とは、こんなものだったと私は考えています。若い彼にとって、地域発展(勧業)の鍵は、阿波との関係強化にある、そのためには近代的な道路整備が必要であるという認識が早くからあったとしておきましょう。
 諶之丞は、財田上ノ村周辺で、多数の道路修繕や新たな道路開設工事を、自力で行うようになります。つまり、四国新道建設以前に、彼の道路建設は始まっていたのです。諶之丞が明治18年に提出した「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、彼が手掛けた7件の道路工事を次のように挙げています。
大久保諶之丞の開通させた道路

   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」から

その経緯について「大久保諶之丞君(土木之部)」(24)には、次のように記されています。
明治八、九年ノ頃、高田倉松ナル人(仲多度郡四ヶ村)ノ人卜親交アリ、時々去来ノ際、同村ノ隣地仲多度郡十郷村字山脇ヨリ本郡財田上ノ村太古木嶺ヲ経テ徳島県三好郡箸蔵寺二至ル賽道ヲ開修スルノ計二及ヒ、遂二同氏及高田氏卜率先シテ主唱者トナリ、費用ノ大半ハ氏ガ私財ヲ以テ之レニ投ジ、余ハ賽者及有志者ノ義捐二訴へ、明治十四年ノ頃二成功ヲ看ルニ至リシナリ、然レドモコノ道路タルヤ、名ハ箸蔵寺参拝者ノ便二供セシニ過キスト雖、更二支道ヲ本村二開キ、従来ノ胞庖力式ノ難路ヲ削平、勾配ヲ附シ、稽人馬交通ノ用二資セシナリ、故二阿讃両国商買ノ歓喜ヤ知ルベキナリ、之レ氏ガ道路開鑿二於ケル趣味卜効見卜併セテ感受セシモノナラン、故ニ後年氏ガ四国新道ノ企ヲ為ス、 一二爰に胚胎セルモノナルヲ見ルニ足ラン乎、

意訳変換しておくと
明治八、九年頃、大久保諶之丞は高田倉松(仲多度郡四ヶ村)と親交ができて、行き来する間柄となった。二人は協議して、仲多度郡十郷村字山脇から財田上ノ村太古木嶺を経て、徳島県三好郡箸蔵寺に至る山道を開修することになった。大久保諶之丞と高田氏は、率先して主唱者となり、費用の大半は大久保諶之氏が私財をなげうってまかない、足らずは寄進や有志者の寄付を充てた。こうして、明治14年頃に、完成にこぎ着けた。これまでの箸蔵街道は箸蔵寺参拝者の参拝道に過ぎなかったが、支道を本村に開き、従来の難路削平し、勾配を緩やかにして、人馬が通れる街道とした。これによって阿讃両国の交流は円滑になり、商人の悦びは大きかった。このことからは、大久保諶之丞氏の「趣味」が道路開鑿であったことが知れる。ここに後年の四国新道に向かう胚胎が見える。

  ここに述べられているのは、諶之丞と高田倉松が協力して開いた箸蔵参詣道のことのようです。
大久保家資料には、この新開道を描いたと思われる「箸蔵さんけい山越新開道路略図」という木版刷の絵図が残されています。
大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
「箸蔵さんけい山越新開道路略図」

旧箸蔵街道が尾根沿いに曲がりくねって描かれているのに対して、新たに開かれた新開道が太く直線的に描かれています。尾根上ではなく山腹を直線的に水平に開いたことがうかがえます。

 高田倉松について詳しいことは分かりませんが、大久保家資料には高田倉松の書状が残されており、諶之丞の日記にも度々登場してきます。また、明治13年の「讃岐国三野豊田両郡地誌略全」の財田上ノ村の項にも、次のような記述があります。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る(26)

意訳変換しておくと
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、商旅の便に役立っている。

  ここには、諶之丞によって渓道の交通の便が改善されたことが特筆されています。
さらに「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、「猪ノ鼻にも明治十六年ヨり道路を開築中」と記されています。
諶之丞の日記には、明治十四年十月三日「猪の鼻道荒見分」テ)、同十五年五月十八日「猪の鼻道路見分」(器)などの記述が見ます。ここからは、この頃には猪ノ鼻開鑿に着手しつつあったことうかがえます。後に、この猪ノ鼻を四国新道が通ることになります。逆の言い方をすると、以前から工事を進めていた猪ノ鼻ルートを、大久保諶之丞が四国新道計画に取り込んだとも云えます。
 以上のように、箸蔵道や渓道など、阿波への交通路を重視して、諶之丞が道路の修開築を行っていたことが確認できます。ここには「新道路開設が趣味」と書かれていますが、それだけで片付けることはできません。確かに讃岐山脈越えの峠道の整備は、大久保諶之丞の先見の明をしめすものといえそうです。それでは、これに類するような活動は他になかったのでしょうか。
 以前に土器川源流近くの阿讃峠・三頭越の金毘羅街道整備をを行った「道造り坊主=智典」を紹介しました。
 彼は生涯を金毘羅街道の整備に捧げていますが、見方を変えると「街道整備請負人のボス」という性格も見えてきました。例えば彼は明治三年段階で、「阿波の打越峠 + 多度津街道 + 三頭越」の3ケ所の大規模な工事現場を持っていました。彼は土木工事の棟梁でもあったのです。
  「勧進」を経済的視点から見ると次のように意訳できるようです。
勧進は教化と作善に名をかりた事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。智典の金毘羅街道の整備にも、そのような気配が漂います。

  金毘羅街道整備の意義は?
金毘羅神は、文化文政期(1804~)の全国的な経済発展に支えられて、流行神的な金毘羅神へと成長していきます。全国各地からの参詣客が金毘羅に集り、豪華な献納物が境内に溢れ、長い参道の要所を飾るようになります。金山寺町の紅燈のゆらめき、金丸座の芝居興行と、繁栄を極めた金毘羅にも課題はありました。街道の未整備と荒廃という問題です。
嘉永6年(1853)の春、吉田松陰が金毘羅大権現にやって来ます。彼は多度津に上陸して金毘羅大権現に参拝し、その日のうちに多度津から船で帰っています。その日記帳の一節に次のように書き残しています。
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」
 
幕末から明治にかけて、金刀比羅宮の課題は街道整備にあったようです。それをいち早く認識した山間部の地域リーダーたちは、阿波と道路整備を「地域起こしの起爆剤」と捉えたようです。財田上ノ村の大久保諶之丞の戦略も、これらの先進地の動きに学んだものであった云えそうです。
 もうひとつ気になるのは箸蔵寺の思惑と動きです。
箸蔵寺は「金毘羅山の奥の院」と称して、多くの山伏たちを擁し、讃岐にも先達として送り込んでいました。彼らは讃岐側に多くの山伏たちが定着し、布教活動とともに箸蔵寺への参拝道整備にも日常的に関わります。三豊の伊予街道を歩いていると、金毘羅標識と並んで箸蔵寺への標識となる燈籠や丁石が今でも数多く残っています。このように箸蔵街道は、信仰の道でもありました。諶之丞と協力して新たに箸蔵参詣道(水平道)を開いた高田倉松という人物も、箸蔵寺の山伏関係の有力者ではなかったのかと、私は想像しています。それを裏付ける史料はありません。
 以上をまとめておくと
①幕末から明治にかけて、阿讃山脈越の峠道の新たな整備が各地で行われるようになった。
②それは増える人とモノへの対応や、金毘羅参拝者の誘致など、地域振興策の一部として行われた。
③財田上ノ村若き指導者・大久保諶之丞も、そうした時代の動きに対応するように周辺街道の整備を行っていた。
④それが四国新道構想へとつながっていく。
四国新道構想は、何もないところから生まれたのではなく、それまでの地道な取組の上に提唱されたものあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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大久保諶之丞4
大久保諶之丞 瀬戸大橋公園
大久保諶之丞の関係資料が香川県立ミュージアムに寄託されたようです。木箱何箱にもなる膨大なものです。この中には、四国新道建設に尽力し、瀬戸大橋構想を唱えた先駆者としても知られる大久保諶之丞に関する資料が多く残されています。諶之丞のことを知る根本史料になります。この資料に関わった研究者の調査報告書を見て行きたいと思います。テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞 財田上ノ村
財田上ノ村
大久保諶之丞以前の大久保家について
大久保家は、三野郡財田①上ノ村(現三豊市財田町)の豪農だったと伝えられます。生家は、財田町の道の駅をさらに国道32号沿い登っていった左側にありました。今は、小さな公園となっていて碑文が立っています。
大久保諶之丞生家記念碑
大久保諶之丞生家に立つ記念碑

大久保家の系譜としては、墓碑や位牌から寛政五年(1793)没の権左衛門、甚平、与三治、森治、諶之丞と継承されていった所までは辿れるようです。これに対して、大久保家資料で年号が分かるものを古い順に並べると、次のようになります。
①享保2年(1717)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は市右衛門
②享保14年(1729)の「覚」で、宛名は権助
③延享四年(1747)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は「大久保 権左衛門殿」
③の権左衛門が寛政五(1793)年の墓石に名前のある権左衛門と同一人物のようです。そして、①②の市右衛門や権助は権左衛門の先代に当るようです。彼らが大久保諶之丞の祖先ということになるとしておきましょう。
 以後の大久保家資料には、田畑の売買証文などが多く残っています。ここからは、江戸時代中期以降に大久保家が、土地集積を進めていった様子がうかがえます。

大久保諶之丞の墓
大久保諶之丞の墓 

大久保家が江戸時代に村役人を務めていたかどうかは分かりません。
しかし、明治初年には大久保森治が「調子役」を務めているので、それ以前から村内の有力者の一人であったことはうかがえます。また大久保家は、安政6年(1859)に多度津藩から財田上ノ村にあった御用水車請負を命じられています。明治になってからも、諶之丞の兄の菊治が分家として水車を利用して油店を経営し、御用地と呼ばれています。
  以上から私の気になる点を見ておきます。
①上ノ村が多度津藩に所属していたこと。
以前にお話したように、幕末の多度津藩は小藩ながら四国では珍しく藩を挙げての「富国強兵」策に取り組んだ藩です。「陣屋建設 + 多度津湛甫(港)」=軍事力近代化へと、藩内の富裕層を巻き込んだ体制改革が行われ、新規事業なども起こされていきます。そんな中で、新たな産業として注目されたのが水車です。財田川から水を引き入れた水車が有力者によって作られ、投資先となっていたようです。その権利を大久保家は入手していたことが分かります。
 大久保家を庄屋としている文献もありますが、私はそうは思いません。江戸後期になって水車請負などの新規事業に参入することにして、台頭してきた家ではないかと考えています。父の森冶が「調子役」を務めていたので「庄屋」出身とする本もあります。しかし、明治初頭の村の役人には、なり手がいなかったともいわれます。江戸時代の村役人のように、権威で村衆を押さえ込むことができなくなった地域では、村役人は新政府と村人の板挟みになり、苦労したようです。そのため旧庄屋層は役人になるのを避けるようになります。例えば、榎井村の庄屋であった長谷川佐太郎も戸長に任命されていますが、これをすぐに辞退しています。
 庄屋層にかわって村の指導者となったのが、その次の有力者層でした。大久保森治もこのような新興勢力の有力者で面倒見のいい人物だったことが想像できます。村のために活動する父を太助ながら諶之丞は、若き日をおくったのではないでしょうか。

 江戸時代の大久保家で研究者が注目するのは、諶之丞の曾祖父・大久保長松(直信)と祖父大久保与三治です。
ふたりはともに、二十四輩巡拝の旅をしています。二十四輩巡拝とは、浄土真宗の開祖親鸞の高弟二十四人の旧跡を巡拝することです。大久保長松の巡拝について、明治22年(1889)12月、東京滞在中の大久保諶之丞へ宛てて兄菊治が送った手紙の別紙に、次のように記します。
「文化十三子年六月十八日卒
帰真釈西流信士霊 此人仏法深重思、高祖聖人二十四輩巡拝出立メ、哀哉何国ノ土ヤ我ヲ待ラン、奥州先台田尻村ニテ死去ス、俗名大久保長松 直信コト明治廿二年迄七拾四年ニナル」
意訳変換しておくと
「文化十三(1816)子年六月十八日死亡
帰真釈西流信士霊 この人は仏法に深く帰依し、高祖聖人二十四輩の巡拝の旅に出立したが、哀しきかな奥州の仙台田尻村で亡くなった。俗名大久保長松(直信) 明治廿二年の74年前のことである。 

ここからは大久保長松が文化13年(1816)に、二十四輩巡拝の旅の途中、奥州仙台田尻村で死亡したことが分かります。その4年後の文政三年(1820)に、与三治が二十四輩巡拝を行っていることが残された寺院の宝印や縁起の摺物などを綴った冊子から分かります。与三治は、この時に仙台田尻村も訪れているので、長松を弔う旅であったのでしょう。
 ここからは大久保家には、親鸞を祖とする浄土真宗に対する厚い信仰心が根付いていたことがうかがえます。尽誠学園創業者である諶之丞の弟の彦三郎が、若い頃に浄土真宗の信心を持ち教宣活動を行うのも、この辺りに源がありそうです。この旅からもうひとつうかがえるとすれば、大久保家が19世紀初頭には長期旅行を行えるだけの経済力のある家であったことです。
大久保諶之丞 3
琴平公園の大久保諶之丞

大久保護之丞の経歴 について、見ておきましょう。
大久保諶之丞 大久保家年表1
大久保諶之丞 大久保家年表2

大久保諶之丞は嘉永二年(1849)、大久保森治とソノの三男として生まれています。明治維新を19歳で迎えたことになります。彼は、山脇の塾に通い陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけたようです。
 明治5年(1872)に父親が里長を退いた後に、村吏を拝命していますが、それ以前の諶之丞については、詳しいことは分かりません。資料からは、父・森治の下で、使いや名代として仕事を手伝っていたらしいことうかがえます。
明治三年には、長谷川佐太郎の満濃池再築に参加し、最新の土木建築技術に接したようです。この時に、身近に長谷川佐太郎が姿をみて、土木工事の差配ぶりや、その姿に影響を受けたと私は考えています。

 その後、明治5年5月に、香川県第七十区(財田上ノ村。財田中ノ村。神田村)の村役人に任命されます。明治6年の職務分課では「学校・土木・費用」を担当していたことが分かります。新政府のもとで、文明開化のために働いていると思っていた矢先に、民衆が彼の家を焼き討ちする事件が起きます。この年、新政府の方針に不満を抱く民衆たちが学校や役場・指導者の家などを打ち壊した讃州竹槍騒動です。村役人を務めていた諶之丞宅も焼き討ちに遭い、焼失しています。焼かれた家跡を見て諶之丞は、何を考えたのでしょうか。彼は八月ごろに辞職を願い出て、受理されています。民衆の怒りが新政府や自分に向けられた経験を、彼はこの時にしたのです。
その後の役職を一覧にしておきましよう。
明治8年4月、名東県第二十三大区六図  小区二等副戸長
同年 11月 香川県第十一大区六小区戸長を拝命
明治10年五月戸長解職を願い出てるが、村民から慰留され、翌年の11月まで戸長留任
明治12年7月学区世話掛
   同年8月三野豊田郡勧業掛
明治13年6月学務委員
明治15年9月勧業世話係
明治17年  愛媛県農談会員に選出。四国新道構想実現へ向けて活動開始
明治19年 四国新道起工 12月には、財田上ノ村外一ヶ村戸長を
命ぜられ、辞退したものの、結局戸長を引き受ける
明治20年3月 三橋政之率いる移民団が北海道へ向けて出発。以後、北海道移住奨励に取り組む
     6月 讃岐鉄道会社にヨる鉄道建設着工のために東京へ請願上京
明治20年8月、四国新道讃岐分の工事悉皆請負を知事より命じられ、同時に戸長を辞職
以後、諶之丞は私財をなげうち、借財までして四国新道開通に尽力。
明治21年3月 愛媛県会議員に当選
明治22年1月 分県を果たした香川県会議員に選ばれ、
明治24四年12月に高松の議場で死去

諶之丞の家族についても、報告書は触れています。
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

諶之丞の兄弟には、長男菊治、次男実之助、長女コトミ、四男与三七、二女キヌ、三女サダ、五男彦三郎がいます。母ソノは五男彦三郎出生の翌年に亡くなって、森治は後妻リセを迎えています。
諶之丞の兄弟たちを簡単に見ておきましょう。
①長男菊治は分家して財田上ノ村戸川に油店を営み、明治15年には戸川郵便局も開設します。
②次男実之助は元治元年(1864)に20歳で死去。
③四男与三七は、仁尾の吉田家へ養子となっています。
④五男彦三郎は、東京の三島中洲の二松学舎に学び、明治20年京都で尽誠舎を開塾します。
後に彦三郎は病気ために京都から引き上げ、讃岐で尽誠学園を開きます。大久保家の兄弟たちは筆まめで、互いに音信のやりとりを頻繁に行っています。特に末の弟彦三郎と諶之丞は、離れた生活を送っていたこともあってか音信のやりとりが多く、そこには兄弟愛が感じられます。
 諶之丞は慶応二(1866)年に17歳で、大久保利吉の娘タメと結婚し、同年に長女キクヱが生まれています。
その後の明治16年には、同村の伊藤家から柚太郎(後に柚太郎、衡平と改名)を婿養子に迎え、キクヱと結婚させ、翌年には孫の豪が生まれます。大久保家資料には、孫の豪の代までの資料が含まれているようです。
大久保諶之丞 彦三郎
真ん中が諶之丞 右が弟彦三郎 左が養子柚太郎

諶之丞の名前の表記については、明治12年以前の資料には、自筆も含めて、いずれも「甚之丞(丈)」と記されています。明治13年4月頃から、「諶之丞」の表記が使われ始めます。この頃に「甚」の字を「諶」に改めたヨうです。また諶之丞は「直男」という別称も使っています。「直」は大久保家の通字で、父森治は「直次」、兄菊治は「直道」、弟彦三郎は「直之」を称していました。
大久保諶之丞2
北海道洞爺湖町の大久保諶之丞像
諶之丞没後の大久保家について
 大久保諶之丞は明治24年(1891)県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ運び込まれ、2月14日に尿毒症を併発し死亡します。それを追うかのように、2年後には養子の衡平も亡くなります。兄菊治の援助を受けながら、キクヱが大久保家を切り盛りしてしたようです。大久保家には、諶之丞の多額の負債が残されていました。大久保家の資産高を記した資料を見ると、明治25年4月には15町9畝2歩あった小作地が、明治26年には、6町1反4畝19歩の半分以下に激減しています。ここからは、土地を売って借金の返済に充てたことがうかがえます。また、借金返済のために頼母子講も実施していたと伝えられます。
また、大久保菊治の経営する油店も多額の負債をかかえていました。
そのため明治32年には親族会議を開き、負債の返済計画を立てるとともに、親族の共同経営とすることにします。最終的には油店の経営を大久保本家が引き取っています。そのため、大久保菊治や油店、戸川郵便局に関する資料も一部、大久保家資料に含まれているようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
大久保諶之丞の残した金銭出納帳

このほか、諶之丞亡き後の妻キクヱは、財田村処女会長などを務め、日露戦争時には、救性のための募金活動を行うなど、社会事業に取り組んでいます。また、孫の大久保豪は、財田村会議員を務め、大久保彦三郎が創設した尽誠舎の経営にも携わました。そのため尽誠舎の経営に関する書簡類も残されています。
大久保諶之丞への書簡
大久保諶之丞に宛てられた書簡
大久保家に残された資料は、点数934件、 13190点で、県立ミュージアムに寄託された時には14の木箱に分けて収められていたようです。この中には、大久保諶之丞が取り組んだ四国新道関係の資料がまとまっているほか、諶之丞宛の書簡類も残されています。特に明治19年以降、数が多くなっているようです。この背景には四国新道事業に取り組む中で人間関係が広がり、手紙のやりとりが多くなったことが考えられます。手紙の中には、三野豊田郡長豊田元良や多度津戸長大久保正史、多度津の豪商であった景山甚右衛門からの手紙も多く残されていて、諶之丞と親しく交際し、協力し合っていた様子がうかがえます。
 また香川県土木課の監督官や諶之丞のもとで工事を担当していた人物、愛媛・高知・徳島の新道工事関係者などからの手紙も多く含まれており、四国新道工事の具体的な状況がうかがえます。また、以前にお話しした北海道移民関係の資料なども数多く含まれています。
  次回は、この史料を見ながら大久保諶之丞が四国新道の建設に向けて動き出す様子を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
  テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
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  江戸時代の讃岐では、次の4つの系統の雨乞信仰が行われていたようです。
①善通寺など真言系寺院での善女龍王信仰
②村々を越えた念仏踊り系の滝宮念仏踊り
③山伏たちによる龍が住むという山や川渕での龍神信仰
④各村々での風流踊(盆踊り)が雨乞い踊りとして踊られる風流踊り系の雨乞い
今回は①の善女龍王の三野郡における拡大過程について見ていきたいと思います。テキストは、 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」です。
2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図

善女(如)龍王については、以前に次のようにまとめておきました。
①空海が神泉苑で、善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王の姿は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、高野山では唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、新たな祈雨神として清滝権現を創造した。
⑥醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑦さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し流布させた
⑧その結果、それまでは男性とされたいた善如(女)龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

善女龍王
女性化した善女龍王

 善如龍王が善女龍王になったのは、醍醐寺の布教戦略があったようです。しかし、高野山では、その後も唐風官人の男神の「善女(如)龍王」が描かれています。こうして、国家による祈雨祈願は真言僧侶が善女龍王に対しておこなうという作法が出来上がります。これを受けて江戸時代になると、各藩主は真言寺院に祈雨祈願を命じることが多くなります。祈祷の際には、善女龍王に祈願するのでその姿を描いた絵図が必要になります。絵図を掲げて、その前で護摩が焚かれたのでしょう。そのため善女龍王信仰を行っていた寺には、その絵図や像が残されていることになります。
善女龍王 本山寺
本山寺の善女龍王像
国宝本堂を持つ本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像が伝わっています。  見て分かるのは女神ではなく男神です。先ほどお話したように、善女龍王の姿は歴史の中で次のように変遷します。
①小蛇
②唐服官人の男神          (高野山系)
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系)
  ②の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ここにあるのは木像で3Dなのです。木像善女龍王像は、全国でも非常に珍しいもののようです。
5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像
 本山寺の善女龍王像を見ておきましょう。
①腰をひねり、唐服の両袖をひるがえして動きがある
②悟空のように飛雲(きんとんうん)に、乗っている。
③向かって左に、龍の尻尾が見える。
  この彫像は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元年1145)が描いたとされる善女龍王とよく似ているように見えます。
  研究者はこの善女龍王像を次のように評価しています。
 像容は、桧の寄木造であり眼は玉眼がん入である。光背は三方火焔付き輪光で、台座は、須弥座の上に岩座及び雲座を重ねてある。顔は青く長いひげをつけ、爪の長い左手には宝珠を持つ。服装の表面は全面に装飾があり、緑青・金泥で描かれた文様などによく彩色が残っている。
上に乗る本像の形姿は動勢が巧みに表現され、また載金、金泥盛上手法などを交えた入念な彩色などに小像ながら当代の彫像としては佳品として評価できる。像高47.5センチで製作年代については南北朝時代と思われる。
  研究者は14世紀の南北朝時代のものとします。そこまで遡れるのでしょうか。
善女龍王安置 本山寺鎮守堂
本山寺鎮守社
この善女龍王像が安置されていたのが鎮守堂です。
昭和の解体修理で、棟木・肘木から「天文十二年」 「天文十六年」の墨書がでてきました。ここからは、鎮守社が1543(天文十二年)年着手、1547(天文十六年)年の建立であることが明らかになりました。解体前は江戸時代のものとされていたのですが、室町時代末期の当初材を残す中世以来の伝統様式を踏まえた建築物なのです。その後、大修理が1714(正徳四年)年に実施きれたようです。
 香川県内の国・県指定の木造建造物は46棟あるそうですが、この守堂は9番目に古いことになります。善女龍王像は、この建物にずっと安置されてきたようです。
 とすると、善通寺で善女龍王が勧進されて雨乞祈願が行われるのは17世紀後半のことですから、それ以前に本山寺では善女龍王信仰がてあったことになります。私は善女龍王信仰の流れとして、高野山から善通寺に真言僧侶によって持ち込まれ、善通寺を拠点に三豊の本山寺や威徳院に広がったと考えていたのですが、そうではないことになります。善通寺以前に、本山寺には南北朝時代に善女龍王が勧進されていたのです。
善女龍王 威徳院
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)にも、紙本著色善女龍王画幅が伝来しています。
これも男神の善女龍王です。威徳院と本山寺は、何人もの住職が兼帯したり転住・隠居して、深いつながりがありました。  室町時代末期には、本山寺では善女龍王に雨を祈る修法が行われていたことは見てきましたが、それが住職の兼帯などを通じて、威徳院へと広がったことが推察できます。
 文化十三(1816)年成立の「讃州三野郡上勝間村山王権現社並所々構社遷宮社職書上帳」には、下勝間村の威徳院の上の三野氏の居城跡とされる城山には、石製の善女龍三社が祀られていて、

「雨乞之節仮屋相営祈雨法執行仕候」

と記されています。祈雨祈願の際には、ここに仮屋が建てられて雨乞いが行われていたことが分かります。勝間地区には威徳院によって善女龍王社が勧請され、その周囲にも信仰が広まっていたようです。
   岩瀬池に善女龍王伝説が付け加えられたりするのも、威徳院周辺に善女龍王信仰の広がりを物語るものなのでしょう。
威徳院の末寺である地蔵寺には、善女龍王の勧進記録があります。そこには、次のように記されています。
善女龍王勧進記 地蔵院
善女龍王勧請記 (文化7(1810年 地蔵寺)
善女龍王勧請記                                       
当国上勝間村地蔵寺主智秀阿遮梨耶一日与村民相議而日、財田郷上之村善女龍王者中之村伊舎那院之所司而当国中之擁護神也、霊験異他而古今祈雨効験掲焉、如響應音焉、幸八山頂有龍神勧請の古跡願於此所建小社勧請、潤道龍王以為此村鎮護恒致渇仰永蒙炎早消除五穀成就之利益実、諸人歓喜一同来告如是、予日善哉此事也遂不日如誓焉、記以胎之後世云維文化七年庚午林鐘十八日
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
意訳変換しておくと
①上勝間村の地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。すでに⑤龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。⑥潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。

ここからは、次のようなことが分かります。
①地蔵寺住職が文化七年(1810)に②財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したこと。
③これは伊舎那院管理下のもので、④祈雨祈願に効力があること
⑤それ以前に上勝間では八つ山に竜神の小社が建立されていたこと
⑥その上に⑥渓道龍王を勧進してパワーアップを図ったこと
 威徳院に関係する寺院や末寺では、本寺に習って善女龍王の勧進が進められていたようです。同時に、財田の伊舎那院管理下の渓道龍王が祈雨祈願に効力があると近隣の村ではされていたことがうかがえます。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王

 この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったと記されています。
善女龍王 般若心経 地蔵院
 この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。

善女龍王 地蔵院
地蔵寺には像高19㎝の小さな木造「善女龍王像」が伝来しています。これも男神の善女龍王像で、飛雲の台座に立つ像です。両手先・右足先・尾が欠損しています。顎髭をたくわえ、やや笑みを浮かべた柔和な面相をしています。像は唐服をまとい、その両腕の肘あたりに広がるフリル様の表現が本山寺のものと似ているような気もします。ところがこの善女龍王像の特徴は、左腰に刀を差しているのです。これは初めて見ましょう。この像が文化年間に財田から勧請された時に造られ、八ツ山の社に安置されていたものかもしれません。

  本山寺・威徳院・地蔵院に伝わる善女龍王についてまとめておきます。
1 本山寺の善女龍王は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元1145)によく似て、高野山の影響を受けた早い時期のものである。
2 本山寺周辺では室町時代末期には、善女龍王信仰が村われていた
3 威徳院には、紙本著色善女龍王画幅がある。
4 威徳院と本山寺は、住職が転住(隠居)または兼帯し、深い関係にあった。そのため本山寺から善女龍王信仰は伝わってきたと考えられる。
5 威徳院周辺には善女龍王を祀った祠もあり、19世紀初頭には高瀬地区で善女龍王信仰が広がっていた
6 威徳院の末寺(隠居寺)である地蔵院は、善女龍王を勧進した記録があり、小さな木像も伝わる。
7 この木像は、佩刀している善女龍王像で全国的にも例がない。高瀬地方での「地方的変容」を遂げた像でる。
以上からは、三野郡の善女龍王信仰は南北朝時代に本山寺で始まり、それが本末関係を通じて威徳院や地蔵院に広がっていたことが考えられる。ここからは善女龍王の招来ルートは、善通寺を通すことなく高野山から本山寺に直接的に伝来したことがうかがえます。その間には、独自のルートがあり、高野聖などの廻国聖の動きが考えられます。
5善通寺22

 善女龍王信仰は土着的な雨乞祈願にも影響を与え、「善女龍王」の幟を立てて、風流踊りを雨乞いとして踊る村も出てきます。
それが大水上神社(二宮神社)に奉納されていた雨乞い踊りの「エシマ踊り」です。これは那珂郡佐文へ麻地区を経由して伝わります。佐文に伝わる綾子踊りに、善女龍王の幟が立てられるのは、このような経緯があるようです。
イメージ 11
綾子踊りに立てられる善女龍王の幟(まんのう町佐文賀茂神社)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」

     さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)

 前回は、威徳院の歴史について次のような仮説を立てて見ました。
威徳院には史料的に中世に遡るものはない。戦国時代になってから道隆寺の末寺として建立されたのをスタートにする。それが生駒時代に藩の保護を受け、周囲の新田台地
の開発を進め伽藍を整備し西讃の教学センターとして大きな地位を占めるようになった

 ある意味、象頭山の松尾寺金光院と似ています。松尾寺も近世初頭に創建された新興寺院でした。それが、金毘羅神という流行神を祀り、天狗信仰の聖地となることで多くの修験者を集めるようになります。そして、金比羅で修行した修験者が各地に分散し、金比羅講を開き信者を組織し、彼らが先達として金比羅詣でを進めるようになります。金比羅の出発は「海の神様」ではなく、「天狗信仰の聖地」であったのです。同じような動きが高瀬の新田台地でも起こっていたと私は考えています。

「威徳院に近世以前の歴史はない」云いましたが、この寺には中世の絵図がいくつも伝わっています。これらをどう考えるかが次の問題になってきます。
威徳院調査報告書の中世絵画を見ていくことにします。
威徳院には、絵画や書跡の掛幅、屏風、扁額など135点が保存されているようです。その中には、奈良国立博物館に保管されている威徳院所蔵の中世仏画四件を含みます。その内訳を見ると、絵画90件、書跡45五件と、絵画が全体の約2/3を占めます。その伝来は、高野山や、住職の兼帯などが行われた本山寺(三豊市豊中町)からもたらされたものが多いのが特徴のようです。
この中で中世に遡るのは次の九件です。
①南北朝時代に描かれた「不動明王二童子像」
②室町時代の作として、「十三仏図」
③「十一面観音像」
④「愛染明王像」
⑤「三千仏図」
⑥「仏涅槃図」
⑦「弘法大師像」
⑧「荒神像」

大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)には①「不動明王二童子像」と②「十三仏図」を「宝物」として冒頭に記しています。ここからは、この2つが威徳院にとって特に重要な仏画と位置付けられていたことが分かります。

① 不動明王二童子像(南北朝時代(十四世紀)から報告書を片手に見ていきます。
威徳院不動明王

 右手に剣、左手に頴索を持って語々座に結珈践坐する不動明王です。頭頂に蓮華を載せ、髪を総髪にして左前に弁髪を垂らし、両眼を見開いて上歯で下唇を噛みしめています。いわゆる弘法大師様と呼ばれる図像です。背後の迦楼羅炎は、朱と金泥で全身を覆うように表され、激しい火焔が台座の下に写っているのが見えます。不動明王の肉身は群青で、頭髪や眉は金泥で線描されています。
脇侍の二童子は、床に置かれた方形の台座上に立ちます。向かって右が衿掲羅童子で、右手に蓮華、左手に独鈷杵を持ち、肉身を白色に近い明るい色の顔料で塗り、頭髪は墨の細線で描かれていて黒髪の雰囲気がよく出ています。
左が制吐迦童子で、右手に宝棒、左手に三鈷杵を握ります。躰は全身が朱色で、頭部の巻毛は金髪です。おおらかさも感じられ、制作時期は南北朝時代、十四世紀頃と研究者は考えているようです。
県内にある不動明王画像の中でも古作の一つになるようです。大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)では弘法大師筆と伝えられ「宝物第一号」とさています。大正時代には、この「不動明王二童子像」が最重要宝物として扱われていたようです。
 不動明王は修験者の守護神です。
修験者は笈の中に小さな不動さまを入れて各地を修行しました。そして、適地を見つけると小屋掛けし庵を結びます。その行場に人気が集まると訪れる行者も多くなり、寺へと発展していきます。
現在の四国霊場の多くは、このように行者たちの行場から生まれたお寺が数多くあります。行場には不動さまが祀られていました。山の上にの行場近くにあったお寺は、近世になると麓に下りてきます。本山寺などはその典型であることは以前にお話ししました。行場は奥の院として残り、そこには不動さまが今でも祀られていることが多いようです。
ここからは不動さまを祀っている寺院はかつては行場を持つ山岳(海洋)寺院であったことが推察できます。
この不動さまを「宝物第一号」としていた威徳院にも、そのような側面があったことが考えられます。それは、前回もお話ししたように山号が「七宝山」であることからもうかがえます。七宝山は「辺路修行」の聖地でした。そこにかつては寺院があったり、七宝山を霊山とするお寺は、この山号を用いています。それは本山寺も延命院もおなじです。 この不動さまが中世の時代から威徳院にあったかどうかは、不明です。
威徳院十三仏図2

②「十三仏図」(室町時代(十四世紀)は三豊市の有形文化財に指定されています。
中世には、死者追善のために十三回の忌日ごとに供養を行う十三仏信仰が広がっていました。そのために描かれたのがこの仏画のようです。十三仏信仰は、鎌倉時代に中国から伝来した十王信仰をもとに、各王に本地仏を定め、忌日も増えるなどして南北朝時代頃に成立します。それぞれの忌日と本地仏は、次の通りです。
初七日忌-不動明王、
二七日忌-釈迦如来、
三七日忌-文殊菩薩、
四七日忌-普賢菩薩、
五七日忌-地蔵菩薩、
六七日忌-弥勒菩薩、
七七日忌-薬師如来、
百ヶ日忌―観音菩薩、
一周忌-勢至菩薩、
三回忌-阿弥陀如来、
七回忌-阿問如来、
十三回忌-大日如来、
三十三回忌-虚空蔵菩薩
威徳院十三仏図

威徳院の「十三仏図」は、各仏を上のように配置して、それぞれに仏の名称のほか、十王の名と忌日を二行で墨書しています。
 室町時代以降の十三仏図では、忌日順に本尊が並ぶのが多いのですが、この図は各尊像の順番が交錯する複雑な配置になっています。これは、「画面中央に位置する阿弥陀三尊や釈迦三尊などのまとまりを意識した構図とも考えられ、類例の少ない図像」と報告書は指摘します。
 それ以外の特徴としては、通常は虚空に浮かぶ蓮華座上に仏たちをを描くことが多いのですが、この図は文殊・普賢菩薩が獅子と象に騎座します。また各仏の下には、岩座や水波などの自然景が描かれます。この絵図の制作時期は、室町時代前半、十四世紀と推定されているようです。
 しかし威徳院への伝来は、18世紀以後になるようです。
なぜなら巻留の墨書に、十八世紀前半にはこの絵図は高野山雨宝院の真辨が所蔵していたこと記されているからです。それが後年、何らかの形で威徳院に伝えられたようです。この絵図が伝えられる人脈ネットワークが威徳院と高野山雨宝院の間にはあったことになります。

威徳院十一面観音像

③十一面観音像 縦100,5㎝ 横39㎝ 室町時代(十五世紀)
「十一面観音像」は、錫杖を持って立つ十一面観音の両脇に、難陀龍王と雨宝童子が配されるスタイルです。頭上に十一面を戴せて、右手首に念珠を巻いて錫杖を持ち、左手に水瓶を持って立ちます。その下側に両手で宝珠を捧げ持つ難陀龍王、宝珠と宝棒を持つ雨宝童子の二脇侍が描かれます。このような十一面観音三尊像スタイルは、奈良・長谷寺の本尊と同じで、長谷式十一面観音と呼ばれます。県内では、長谷式の十一面観音画像は非情にめずらしいようです。秘仏とされる威徳院の本尊も長谷式十一面観音像で、難陀龍王、雨宝童子の脇侍が附属する三尊像です。この図も本尊との関連性が考えられます。報告書の記述を見てみましょう
 十一面観音は、肉身を金泥で塗り、肉身線を朱の鉄線描で描き起こす。顔貌は、正面向きでやや平板化した印象もあるが、衣や光背の文様はのびやかな墨線で破綻なく描かれる。
脇侍の二尊はごく細い線で眉や頭髪を描き、顔は墨や朱などを使って表情豊かに描かれており、室町時代十五世紀に、優れた技量を持つ画家によって描かれたものと考えられる。巻留および箱の銘文から、十九世紀の前半と文久三年(1862)に、遍空と密道の二人の住職の手でそれぞれ修復されたことがわかる。
威徳院愛染明王像
④愛染明王像 縦104、2㎝横41、3㎝ 室町時代(十五世紀)
 愛染明王は、人々が愛欲、煩悩に向かう心を浄化して悟りへと導く明王です。息災、調伏、敬愛などを祈願する愛染法の本尊として信仰を集めたようで、香川県内にも数多く残されています。。
 この図は、中央に、宝瓶の上の蓮華座に結珈鉄坐する一面三目六腎の愛染明王が描かれます。その上には環路の下がった天蓋、床上には宝瓶から湧き出した宝玉や貝殻を描かれます。明王の六腎は、第一手の左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵、第二手の左手に弓、右手に矢、第三手の左手に蓮華が握られ、右手は金剛拳です。髪は怒りの怒髪で、獅子冠を戴せています。教典通りの絵柄です。
 報告書を見てみましょう
粗めの画絹の上に、愛染明王は肉身を朱で塗り、肉身線を細い墨線で描くが、描写は全体にやや硬く形式化がみられる。台座等も含めて截金の使用は見られず、衣の文様も金泥と彩色によって截金文様風に描いており、画風から、室町時代、十五世紀の制作と考えられる。巻留には、智証大師筆とする墨書があり、威徳院でも重要な仏画の一つとして伝来したものと考えられる。

⑤ 三千仏図 三幅 南北朝~室町時代(十四世紀)
 三千仏図は、過去・現在・未来に現れる諸尊の仏名を唱えることで、罪を傲悔し、功徳を得ようとする仏名会(仏名懺悔会)の本尊です。これも巻留に、宝暦五年(1755)に住職の周峯が高野山で求めたことが記されています。18世紀半ばまでは高野山に伝来していたものが、その後威徳院に伝来したことが分かります。
威徳院仏涅槃図幅

⑥ 仏涅槃図幅 縦140、9㎝ 横108,8㎝ (十五世紀)
 釈迦は、その生涯を沙羅双樹の下で終えます。釈迦入滅の情景を描いたのが仏涅槃図です。この図は、中央に右腕を枕にして宝床に横臥する釈迦を描かれます。その周りに釈迦の死を聞いて集まり、嘆き悲しむ諸菩薩や仏弟子、様々な動物たち会衆の姿があります。画面向かって左上には、知らせを聞いて天上界から飛来する釈迦の母摩耶夫人の姿も見えます。この構図が鎌倉時代以降に主流となった定形版のようです。
 仏涅槃図は、涅槃会の本尊として用いられるので、大きな寺院には必ず備えられていました。
  この図とほぼ同じものが、覚城院(三豊市仁尾町)、地福寺(丸亀市広島)などのいくつかの真言宗寺院に伝来しています。ここからは同一の絵師、または工房で制作された可能性があります。 室町時代以降、地方寺院では宗教行事のために「仏画需要」が高まります。それを受けて、絵所などで粉本を用いた仏画を数多く制作し、供給していたことがうかがえます。
 
 地福寺本の紙背には、次のように記されています。
文明三/辛/卯/十月十五日/絵所/加賀守主計/彩圓終焉屹

ここからは文明三年(1472)に絵所の絵師、加賀守主計が描いたことが分かります。威徳院のものも同じ工房で作られたとすると、十五世紀後半に加賀守主計の絵所か、またはそれに近い位置にいた絵師によって描かれたことが推測できます。加賀守主計については、史料では室町時代に、京都で活動した加賀守(加賀)を名乗る絵師がいたことが分かっているようです。
 高野山の寺院を兼帯する威徳院住職が高野山で求めて持ち帰ったのを周辺の僧侶が見て、「うちにもあれと同じものを求めてきてくらんやろか」と依頼する姿が浮かんできます。 
 この仏画にも紙背に宝永年間(1704~11)と文化11年(1805)の二度にわたって修復が行われたことを示す墨書銘があるようです。

威徳院弘法大師

⑦ 弘法大師像   室町時代(16世紀)
 画面向かって左斜めを向き、右手に五鈷杵、左手に念珠を持って背のある椅子に坐す弘法大師の姿が描かれます。その背後に、山間から姿を現した釈迦如来が描かれています。「善通寺御影」とよばれる弘法大師像です。高野山で描かれた弘法大師像には釈迦如来は描かれていません。ところが讃岐で描かれたものには、釈迦如来が描かれるようになります。
どうしてなのでしょうか?
 空海が四国の山中で修行をしていた時に、釈迦如来が雲に乗じて現れたという説話を絵画化したものとされます。鎌倉時代に讃岐に留配された僧道範が著した「南海流浪記」に、善通寺で釈迦如来の姿が描かれた空海自筆の大師像を見たという記述があります。ここからこのスタイルは「善通寺御影」と呼ばれるようになったようです。
 この様式は香川県内には、多くの作例があります。その背後には、与田寺の増吽の布教活動と重なることが指摘されています。つまり、この善通寺御影があるところは、増吽の組織していたネットワークに組み込まれていたと研究者は考えているようです。増吽の性格は「熊野信仰 + 勧進僧 + 書写ネットワークの元締め + 高野聖 + 弘法大師信仰」といくつもの要素が絡み合ってることは以前にお話ししました。そのようなネットワークの中に威徳院も組み込まれていたことがうかがえます。
 今に伝わる「善通寺御影」の作例は、どれもほぼ同じ図様です。そこからは原本となるものを、写し継いで、増吽の工房などで多数の画像を描いたことが想像できます。報告書の記述を見てみましょう。
本図は釈迦如来の描写も含めて、明快な墨線と彩色で描かれるのが特徴である。釈迦如来や岩山などの描写にやや形式化した硬さも認められることから、制作時期は十六世紀、室町時代後期と推定される。紙背の墨書から、仏涅槃図と同じ時期に修復が行われていることがわかる。
威徳院荒神像

⑧ 荒神像 縦70,2㎝ 横38、8㎝  室町時代(十五世紀)
 荒神は、仏教経典の中に出てきません。神仏習合思想や俗信的信仰の中から生まれたものです。荒神には、次の3つタイプがいます
A 相好柔和な如来荒神、
B 八面八(六)腎の夜叉羅刹形である三宝荒神
C 宝珠と宝輪を持つ俗体形で子島寺の真興が感得したという子島荒神
この荒神は、B三宝荒神を描いたもののようです。報告書を見てみましょう。
 本面の左右に脇面、頭上に五面を戴いた八面で、いずれも怒髪の忿怒形で怒る姿が描かれている。第一手は胸前で合掌し、第二手は左手に宝輪、右手に羂索、第三手は左手に弓、右手に矢、第四手は左手に三叉戟、右手に三鈷戟を持ち、火焔を背にして荷葉座に坐す。
荒神の肉身は朱で塗り、輪郭は肥痩のある墨線で描く。持物の一部や座具の縁には截金を施し、頭髪や眉を金泥で筋描きするほか、装身具や衣の文様なども金泥で描く。粗い目の画絹に素朴だが伸びのある描線で描かれており、火焔などの彩色には細やかな輦しも見られる。制作時期は、室町時代、十五世紀前半と考えられ、県内でも類例がほとんど見られない中世の荒神画像として貴重である。

  威徳院に伝わる中世仏画を見てきました。ここから推測できることを挙げておきます
①江戸時代の威徳院の住職は、高野山のお寺と兼帯する者が増え。その関係からか高野山からの伝来を伝えるものがいくつかある。
②「十三仏図」「仏涅槃図」「弘法大師像」「荒神像」「十一面観音像」などは、年間の宗教行事の「開帳」のために必要なもので、後世に必要に応じて購入伝来した可能性が高い
③「不動明王二童子像」「愛染明王像」などは、密教系修験道に関係するもので、威徳院の本源的な姿を伝えている。

   以上から威徳院に残された中世仏画類が威徳院の中世の歴史を伝えるものとは、必ずしもいえないことがうかがえます。「威徳院近世出現説」を葬り去ることはできません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 威徳院勝造寺の調査報告書が平成11年に出ています。この調査書を見ながら威徳院の歴史を見ていきたいと思います。報告書は最初に次のことを予備知識として確認しています
①威徳院は山号を七宝山、寺号を勝造寺
②江戸時代は大覚寺派で、その後東寺真言宗で現在は真言宗善通寺派の寺院
③江戸時代初めの生駒藩時代には、讃岐十五箇院の一つ
④澄禅の記した『四国遍路日記』(1653年)では讃岐六院家の一つとされる
⑤本尊は十一面観音で、中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えている。

寺号が七宝山とあることに注意しておきたいとおもいます。七宝山は、このエリアの霊山で行場の続く「小辺路」があった山です。観音寺縁起には、観音寺から始まって仁尾まで7つの行場があり、五岳の我拝師山と結ばれる「小辺路」があったことが記されていました。中世にはここを多くの修験者たちが行き交った形跡が残ります。行場近くには、寺院ができます。それが時代ととともに里に下ってきます。その典型が本山寺です。本山寺もかつては七宝山の山中にあったお寺が、14世紀前後に現在地に移り本堂伽藍を構えました。七宝山から里下りしてきた寺には山号を「七宝山」とする所が多いようです。これはかつては、七宝山を霊山として、奥社がそこにあった痕跡だと私は考えています。もしかしたら威徳院も、そのような性格をもっていたのかもしれません。
 
 威徳院勝造寺の寺暦を『七賓山威徳院由来』(天和元年(1682)で見ていきます。
ここには威徳院開基について二説が併記されています。
一つは弘仁12年(822頃)に空海が四国巡遊のおりに草坊があって、そこにとどまり修行をしたのが始まりというものです。
もう一つは寛平元年(889)、弘法大師有縁の地に三間四面の堂宇を建立したのを始まりとするものです。
しかし、その後257年間は不詳とします。
 どちらにしても真言宗のお寺らしく空海伝説を創建説話に持ちます。
久安二年(1146)秋に浄賢法印が威徳院住職となったと記し、その後、良尚をはじめ何人かの住職の名前を挙げますが、その後は
「二百三十四年間ノ史実、住職ノ人林不分明

とします。つまり、威徳院は、創建から南北朝期から天正期までの「歴史は不詳」なのです。
ところが良尚が、一次資料に別の時代に登場するのです。
威徳院と関係の深い本山寺の聖教の中の奥書に、次のような記録が残されています。
「永正十二年乙亥正月二十一日讃州勝蔵寺威徳院住持良尚法印書写本悉破損故今住侶慧丁写之」

また威徳院にある聖教の奥書にも、次のような書き込みがあります。
「永正十二年乙亥正月廿一日於勝蔵寺書之自萩原地蔵院此本申請或人書写之以後令苦労写之也右筆良尚」)

ここからは永正十二年(1515)に威徳院住持として良尚という人物がいたことが分かります。
また良尚は「本山寺龍響血脈」には、慶長二年(1597)に威徳院住職となったとされる秀憲の2代前の人物としても登場します。ここからは良尚は16世紀後半頃の戦国時代の人物の可能性が高いと研究者は考えているようです。つまり「威徳院由来」に13世紀末~14世紀初の人として登場した良尚は、威徳院の歴史を古く見せるための作為だったようです。

 こうしてみてくると威徳院には、古代中世の歴史はなく、16世紀後半になって姿を現してきた「新興寺院」の可能性があることになります。しかし、最初に⑥で見たように、この寺には中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えています。これをどう考えればいいのでしょうか。これはまた別の機会に考えることにして、先を急ぎます

  威徳院は、どのようにしてこの地に姿を現したのでしょうか。
   威徳院由来に実在が信じられる住職名が並び出すのは天正十年(1582)の良田法印からです。その後、慶長二年(1592)からは秀憲法印が住職になったと記します。
『威徳院由来』には良田・秀憲について、次のように述べています。
道隆寺ヨリ当院ヲ兼帯ストモ云ヘリ」

 突然に、ここで道隆寺が登場します。道隆寺とは四国霊場で、当時は中世の多度郡港である堀江湊の「港湾管理センター + 修学センター」としても機能していました。海の向こう側の児島五流の影響を受けて、塩飽諸島や詫間・庄内半島などの多くの寺社を末寺として、備讃瀬戸への教線ライン伸ばしていた寺院です。その道隆寺の僧侶が、威徳院の住職を「兼帯」していたというのです。にわかには信じられませんでした。

  ところが『道隆寺温故記』を見ると、良田・秀憲の二人の住職が実在していたことが分かります。そして、次のような行事に登場しています。(良田は田と表記されている)
永禄十一戌辰年(1568)冬十月廿六日、雄(秀雄)、入寂。良田、補院主焉。
天正三乙亥年(1575)春三月十八日、塩飽正覚院本堂入仏供養導師、田(良田)、執行焉。
天正拾壬午年(一五八二)夏卯月廿七日、鴨大明神、田、遷宮導師執行畢焉。
天正十六戊子年(一五八八)春三月十九日、多度津観音堂入仏導師、田、修之。
天正十六戊子年秋九月五日、多他須。宮遷宮導師、田、執行焉。
天正十七己丑年(一五八九)秋九月十七日、堀江春日大明神、田、遷宮導師墨 焉。
天正十八庚寅年(一五九〇)冬十月廿一日、葛原八幡宮、田、遷宮導師畢焉。
天正廿壬辰年(一五九二)夏六月十五日、白方海岸寺大師堂入仏導師、田、令執行畢。
文禄元壬辰年(一五九二)冬十一月日、田、移住塩飽正覚院兼帯常寺。
文禄五丙申年(一五九六)、(中略)于時、田、捕白方八幡宮神鉢破壊、即彫夫 木、厳八躯尊像、以擬旧記、令安坐、開眼導師畢。
文禄五丙申暦夏六月八日、鴨大明神遷宮導師、田、執行焉。
慶長一于酉年(一五九七)秋八月八日、金倉寺本堂薬師如来開眼供養導師同前。
慶長四己亥年(一五九九)秋八月十四日、下金倉八幡宮、田、遷宮導師令執行畢焉。
慶長六辛丑年(1602)夏五月十四日、堀江弘演八幡宮、遷宮導師同前。
慶長十乙巳年(1605)春二月廿二日、粟嶋(粟島)常社大明神遷宮導師、田、令執行畢。
慶長十乙巳稔冬十二月十六日、田、於塩飽終焉。同月廿二日、秀憲、補道隆寺院主焉。
慶長十二丁未暦(1607)秋八月十三日、葛原郷八幡宮遷宮導師、憲(
秀憲)、執行焉。
慶長十五庚戌年(1610)秋九月九日、堀江弘漬八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
慶長十六辛亥暦(1611)冬十月宿曜日、憲、入院濯頂焉。
元和二丙辰年(1616)秋八月吉日、堀江八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳年(1617)秋八月九日、粟嶋八幡遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳暦秋八月九日、粟嶋聖徳太子入仏導師、憲、令執行畢焉。
元和三丁巳年秋九月廿日、津森村天神、憲、遷宮令執行畢焉。
元和六庚申年(1623)夏卯月廿六日、憲、白方海岸寺大師堂入仏導師令執行焉。
元和九発亥年(1623)閏八月朔日、葛原八幡宮、憲、遷宮導師令執行畢焉。
寛永二乙丑(1625)九月、葛原八幡宮釣殿、供養導師秀憲修行。
寛永四丁卯年(1627)三月廿三日、憲、入寂
ここからは次のようなことが分かります。
①永禄11戌辰年(1568)に雄(秀雄)が亡くなり、代わって良田が道隆寺の住職に就任。
②道隆寺と本末関係を結ぶ寺社が島嶼部では塩飽や粟島、内陸では下金倉・葛原八幡までのびている。海に伸びる教線ラインを道隆寺は持っていた
③末寺の寺社の遷宮や供養には、良田が自ら出掛け、導師を勤めている。
④良田が導師を勤めているのは1605年までで、以後は秀憲に代わっている
⑤道隆寺側の資料には、良田・秀憲が威徳院を兼帯していたことは触れられていない

ここで良田の道隆寺住職の在任期間を確認しておきます。
良田は永禄11年(1568)に道隆寺三十世となって、慶長十年(1605)に亡くなっています。威徳院由来には良田の在職期間は天正十年(1582)から慶長二年(1592)までとなっていました。在任期間にズレはありますが、良田が道隆寺の住職を16世紀後半に務めていたことは史料から裏付けられます。

 良田の名は、天正頃の人として古刹島田寺(丸亀市飯山町)十二世としても名前が見えます。この人物については、よく分かりませんが生駒親正によって再興された弘憲寺(高松市)開祖良純につながる人物で、高野山金剛三昧院に縁のある人と研究者は考えているようです。これも同一人物の可能性があります。
 
本島の正覚院に伝わる『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。
天正三年(1575)二月十八日  道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏
供養導師を勤める。
天正十八年(1590)年    秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年  道隆寺の良田が正覚寺に移り、道
隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日  良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は、物流センターの塩飽への参入拡大です。そのために本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し、本島で生活するようになったというのです。

以上を整理すると良田は、道隆寺の住職で、飯山の島田寺・本島の正覚寺・威徳院を兼帯していたことになります。つまり、後の記録に「兼帯」していたことをこれだけ記録されているのですから人望のある僧侶であったことがうかがえます。同時に、良田の時代に道隆寺の寺勢が急速に拡大したようです。道隆寺の教線拡大政策の一環として、その教勢ラインが三野郡の勝間郷にもおよぶようになったのが良田の時代だった、そして、道隆寺の支援で、威徳院が下勝間の地に姿を現すようになったとしておきます。

  16世紀後半の威徳院をとりまく三野郡の情勢は激変期でした。
天霧城主香川氏家臣→長宗我部元親→生駒親正→生駒一正と支配者が交替していきます。秋山・三野文書からは1560年代の三野地方は、天霧山城主の香川氏に対して、阿波三好勢力が伸びてきて、一時的に香川氏は天霧城を退城したことが分かります。それでも香川氏は、三野氏や秋山氏に感状をだし、土地給付も行っています。ここからは、香川氏が滅亡したわけではなく、一定の勢力をもってとどまっているたことがうかがえます。1577年には秋山帰来氏への土地給付をおこなってるので、この頃までには香川氏の勢力が回復していたようです。
 この時期は、阿波三好氏側に麻や二宮の近藤氏がついていました。そのため香川氏の家臣団である秋山氏などとの間で小競り合いが続いていたことが史料からは分かります。三好氏の勢力範囲は麻から佐俣・二宮ラインまで及んでいたことになります。そのため各武士団の氏寺は、小競り合いの際に焼き討ちの対象となったかもしれません。三野氏の菩提寺とされる柞原寺も、このような中で一時的には衰退したことが考えられます。その宗教的な空白地に道隆寺は進出してきたとしておきましょう。
 道隆寺の教線の伸張ルートとして考えられるのは、以下の2つです。
①道隆寺 → 白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院
②道隆寺 → 白方海岸寺 → 粟島  → 三野湾 → 威徳院
 その原動力はなんでしょうか。
経済的には、瀬戸内海の交易の富でしょう。道隆寺は、堀江港の管理センターの役割を果たし、本島や粟島、庄内半島の末寺もネットワークに組み込んでいました。そこから上がる富がありました。
人的なエネルギーはなんでしょうか。これは児島五流修験の人的パワーだったと私は考えています。児島五流の布教戦略については、何度もお話ししましたのでここでは省略します。
 五流修験(新熊野)と道隆寺は強い結びつきがあったようです。
五流修験の影響を受けた道隆寺やその末寺であった白方海岸寺、仏母院などは、空海=白方誕生説を近世初頭には流布していたことは以前にお話ししました。ここからは高野山系の弘法大師伝説とはちがう別系譜のお話が伝わっていたことが分かります。善通寺と道隆寺は中世には、別系統に属する寺院であったことを押さえておきます。

  道隆寺グループを率いる良田の課題は、新しい支配者である生駒氏との間に、良好な関係を取り結ぶことでした。
それに良田は成功したようです。
天正十五(1587)年に、生駒親正が藩主としてやって来ると、国内安定策の一環として、以下の真言宗の古刹寺院を「讃岐十五箇院」を定めてを保護します。
一、虚空蔵院与田寺 (東束かがわ市) 
二、宝蔵院極楽寺 (さぬき市) 
三、無量寿院随順寺 (高松市) 
四、地蔵院香西寺 (高松市) 
五、千手院国分寺 (国分寺町) 
六、洞林院白峰寺 (坂出市) 
七、遍照光院法薫寺(飯山町) 
ハ、宝光院聖通寺 (宇多津町) 
九、明王院道隆寺 (多度津町) 
十、威徳院勝造寺 (高瀬町) 
十二 持宝院本山寺(豊中町) 
十二、延命院勝楽寺(豊中町) 
十三、覚城院不動護国寺 (仁尾町) 
十四、伊舎那院如意輪寺 (財田町) 
十五、地蔵院萩原寺 (大野原町)

ここには、道隆寺も威徳院も含まれています。
このリストを見て感じるのは、三豊の寺院の比率が高いことです。
6/15が三豊の寺院です。それがどうしてなのか、今の私には分かりません。この中に威徳院も含まれています。また、威徳院と住職が兼帯することになる本山寺や延命院・伊舎那院も含まれています。
もうひとつ気づくのは、普通は寺院の名称は山号・寺号・院号の順序で表記されます。ところが上の表記では、寺号と院号を入れ替えて山号・院号・寺号の表記になっています。院号が重視されているようです。
  
  そして、関ヶ原の戦いの翌年には、新領主となった一正から、威徳院は寺内林を持つことが認められます。
戦国時代末期の激変期に、良田は道隆寺住職として、兼務する寺や末寺の経営を担当し、その中で生駒家の保護を受けることに成功しています。そこには一正の信頼を得て奉行として働いていた三野郡出身の三野氏の存在が大きかったのではないかと思います。三野氏が地元の威徳院の保護を何らかの形で一正に進言したことは考えられます。
 しかし、 先ほども見たように『威徳院由来』は、良田ではなく秀憲を威徳院中興(創建)と位置づけ、高く評価します。逆に良田を「過小評価」したいようです。
 威徳院には、浄賢からはじまり勢深、勢胤、賢真、亮賢、良尚、宥尚秀憲の八人の肖像を描いた画幅「威徳院住職図」一幅があります。そこには、それぞれの命日が以下のように記されます。
中興開山浄賢七月廿九日
勢深二月五日
勢胤四月朔日
賢真五月廿八日
亮賢十月廿七日
良尚八月八日
宥尚九月六日/
秀憲三月廿三日」
ここにも良田は描かれていません。
  良田の後を継いだ秀憲を見てみましょう
道隆寺の記録に、秀憲は、多度郡堀江村の生まれで、慶長十(1605)年に道隆寺31世となり、寛永四年(1627)に入寂とあります。威徳院の記録には、
「威徳院・明王院(道隆寺)兼帯。堀江村出身、加茂にて命終」

と記します。ここからは、良田に続く秀憲も、道隆寺との兼帯です。
分かりやすく云うと「末寺」であったのでしょう。
その後の威徳院の動きを見ておきましょう。
慶長十六(1611)年には、生駒藩が高松に19か寺を集めて行った論議興行に、威徳院の寺名があります。このころには西讃地域での地位を確立したようです。
 丸亀藩山崎家からも寛永十九(1642)年に、生駒家寄進の寺領高20石が安堵されています。この高は西讃では一番多く、次に来る興昌寺が6石6斗のなので、当時の威徳院の寺勢が強さがうかがえます。そして、前回お話ししたように下勝間の新田台地の開発を着々と進めて寺領を増やして行きます。元禄十二(1699)には43石の寺領を持ち、最終的には寺領高150石に達します。これが威徳院の隆盛の経済的な基盤となります。
 
萬治二年(1659)に住職となったのが宥印法印です。
彼は金毘羅の金光院からやってきたようです。 金比羅神を祀る金光院の僧侶は「宥」の字をもらい受けます。慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金毘羅大権現の金光院の院主を勤めた宥睨のもとで修行し、高野山で学んだようです。金光院の院主たちは、山下家の出身地である財田周辺の才ある若者を預かり、見所有りと見抜くと高野山に送り込み学ばせて、人材を育成したようです。そのひとりが宥印だったのでしょう。有印は、出身地の中ノ村伊舎那院(三豊市財田町)と高野山善性院を兼務し、貞享元年(1684)高野山の善性院で入寂しています。
 高野山善性院は讃岐出身の僧侶と関わりが深かったようで、文政~天保頃の本山寺聖教にも本山寺住職体円などがこの寺と関係があったようです。高野山のお寺と兼帯する僧侶は、讃岐には他にも数多く見られます。
『威徳院由来』は宥印法印の口述を、弟子の宥宣が記したものです。その中で宥宣は、宥印を威徳院興隆の人としています。
それを裏付けるために、周辺の末寺の寺社の棟札銘などに残る宥印の名前を探してみましょう。
寛文三年(1663)八月九日 熊岡八幡宮「再興正八幡宮」棟札銘
「遷宮供養導師本寺勝同村威徳院権大僧都法印宥印
寛文五年(1665)九月二十三日 「建立大明神」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
同年同月             「建立八幡宮」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
寛文六年(1666)四月五日「建立新田大明神拝殿幣殿」棟札銘
   「遷宮導師勝間威徳院住持権大僧都法印宥印
寛文七年(1667))三月  「建立大瞬神宮」棟札銘
   「遷宮導師権大僧都法印宥印」(24)。
寛文七年(一六六七)    詫間村善性院「天満宮」棟札銘
   「遷宮井供養導師勝同村威徳院住持権大僧都法印宥印
ここからは威徳院の住職が周辺の神社の導師を勤めていることが分かります。地域における地盤も固まってきたようです。また、『威徳院由来』には宥印について、次のように記されています。
「当院住職中、的場寺大池及西谷上池ヲ新二掘り築ケリ」

的場の寺大池や西谷上池などの新しいため池築造も行っています。これは新田開発とセットになったものです。

  また有印以後は、威徳院は高野山との関係を強めていきます。
それと反比例するかのように道隆寺との関係が薄くなっていきます。これをどう見ればいいのでしょうか。
 これと同じような動きを見せるのが弥谷寺でした。弥谷寺は、近世初頭までは白方の仏母院などと「空海=白方誕生説」を流布していたのですが、高野山との関係が深まるにつれて、善通寺寄りの立場を取るようになります。同じような動きが威徳院にもあったのかもしれません。その切り替えを行ったのが高野山で学んだ有印だったのではないでしょうか。

以上をまとめておくと
①威徳院には、古代・中世に遡る歴史はない。
②威徳院は16世紀後半に道隆寺の教線拡大策として、三野郡に新たに建立(再興)された寺院である。
③道隆寺は「海に伸びる寺」として備讃瀬戸の島々の寺社を末寺に置き、そこから海上交易の富を吸い上げるシステムを作り、隆盛期を迎えていた。
④道隆寺はその経済力と、五流修験の人材で、白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院 → 本山寺と教線ラインを伸ばした。
⑤旧香川氏の重臣で、生駒家にリクルートされた三野氏を通じて、道隆寺は生駒家に食い込むことに成功し、関係する威徳院や本山寺などを生駒家の保護下に置くことに成功した
⑥威徳院は、下勝間の新田台地の開発を積極的に行い多くの寺領を拓いた。これが近世の威徳院の経済基盤となった。
⑦道隆寺の末寺として建立された威徳院は、17世紀半ば以降に高野山との関係を深めるにつれて、道隆寺との関係を清算していく。そして本山寺や延命園との関係を深めながら三豊地区の真言衆の中心センターとしての役割を果たすようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   威徳院調査報告書 田井 静明威徳院について  香川県ミュージアム紀要NO2


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