瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐の雨乞信仰


讃岐雨乞い踊り分布図
佐文綾子踊り周辺の「風流雨乞踊り」分布図
   前回は、綾子踊りが三豊南部の風流雨乞踊りの影響を受けながら成立したのではないかという「仮説」をお話ししました。しかし、実は佐文は、滝宮への踊り込みを行っていた七箇念仏踊りの中心的な村でもありました。それが、どうして新たに綾子踊りを始めたのでしょうか。今回はその背景を考えて行きたいと思います。
 近世はじめの讃岐一国時代の生駒藩では、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、次の5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。
 以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。

滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会

ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りを見ておきましょう。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?

滝宮念仏踊りと龍王院

そのヒントになるのがこの絵です。先ほどの絵と同じ讃岐国名勝図会の挿絵です。
①手前が綾川で、髙松街道の橋が架かっています。橋を渡って直角に滝宮神社に向かいます。ここで注目したいのが表題です。
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
 こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りも雨乞い踊りとして踊られていたのではないことです。それを史料で確認しておきます。

滝宮念仏踊由来 喜田家文書
                喜田家文書(飯山町坂本)
喜田家文書(飯山町坂本)の由来を要約すると次のようになります
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意して欲しいのは、農民達が雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。つまり雨乞成就のお礼踊りという意識なのです。中世や近世では、雨乞い祈祷ができるのは修行を重ねた験のある高僧や山伏たちとされていました。普通の百姓が雨乞い踊りをしても適えられる筈がないというのが、当時の考えです。それが変化するのは江戸時代後半から明治になってからです。

 ここで滝宮念仏踊りについて整理して起きます。
滝宮念仏踊りのシステム
滝宮念仏踊りと滝宮牛頭天皇社とその別当龍燈院の関係
それでは、滝宮に踊り込んでいた七箇村念仏踊りは、どんなものだったのでしょうか。
それを知る手がかりが吉野の郷社である諏訪神社(諏訪大明神)に奉納されている絵図です。
七箇念仏踊 図話題明神念仏絵図
諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)

①は下司で、日月の大団扇を持ち、花笠を被ります。そして同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人がいます。
②その横にはまた花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいます。
③下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれます。
⑤が諏訪神社の拝殿です。その前に2基の赤い大きな台笠が据え付けられます。

この絵を見て感じるのは綾子踊りに非常に似ていることです。この絵は、いつだれが描かせたのでしょうか?
七箇念仏踊 5
         諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)の見物小屋

この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。 
 中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
 このような踊りが衰退していくのは、江戸時代後半からの秋祭りの隆盛があります。秋祭りの主役は、獅子舞やちょうさで、これには家柄に関係なく誰でもが参加できました。そのため次第に「宮座」制のもとに、一般住民が排除された風流踊りは、敬遠されるようになります。 

七箇村念仏踊りが雨乞い踊りではなかったことを示す史料をもうひとつ挙げておきます。

七箇念仏踊り 日照りなので踊らない
        奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、7月17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、踊り奉納を延期したのです。ここからは当時の農民達に、七箇村組踊りが雨乞いのための踊りであるという意識は薄かったことが分かります。あくまで神社に奉納する風流踊りなのです。
それでは七箇念仏踊りは、どのように編成されていたのでしょうか。
七箇村組念仏踊り編成表
七箇念仏踊の編成表 多くの村々に割り当てられている
この表は、文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 縦が割当、横が各村で、次のような事が読み取れます
①真野・東西七箇村、岸の上・塩入・吉野・天領(榎井・五条・苗田)・佐文などが構成メンバーだったこと。
②各村々に役割が割当がされていたこと。
③総勢が2百人を越える大スッタフで構成されていたこと
佐文はこの表では、棒突き10名だけの割当です。ところが40年前の1790年には、七箇村念仏踊りは、東西2つの組がありました。そして、佐文は次のような役割が割り当てられていました。
七箇念仏踊り佐文への役割分担表 1790年
1790年の七箇念仏踊西組の佐文への割当
これを見ると、下司(芸司)も出していますし、小踊りも総て佐文が出していたことが分かります。ここからは西組の踊りの中心は、佐文であったことがうかがえます。ところが約40年後には棒突10人だけになっています。なんらかの理由で、踊り組が1つになり、佐文村に配分されていた割当数が大きく削られたことを示します。その時期と、綾子踊りが踊られ始める時期が重なります。これな何を意味するのでしょうか?
綾子踊 踊った年の記録
尾﨑清甫文書「踊り歳」
尾﨑清甫の残した文書の中に「踊り歳」と題されたものがあります。
これを意訳しておくと
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った
②文久11(?)年6月18日
③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った
④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①綾子踊りを踊ったという記録は、弘化3(1846)年の記録が最初であること。
②の文久11年は、年号的に存在しないこと。文久は3年迄で、その後は慶応なので疑念があること
③の前の①②の記述は、後から書き加えられた形跡があること。
④の明治になっての記録が具体的で、実際に踊られていたようです。
ここからは、綾子踊りが踊られ始めたのは、幕末前後のことであることがうかがえます。1850年代に丸亀藩が刊行した西讃府誌には、綾子踊りのことが詳しく記録されているので、この時点で踊られるようになっていたことは確かです。しかし、それより以前にまで遡らせることは史料的にはできません。そして、その時期は先ほど見たように佐文が七箇念仏踊りから排除されていった時期と重なります。
 以上から次のように私は推察しています。
①佐文村は七箇念仏踊西組の芸司や小踊りをだすなど、中心的な構成メンバーであった。
②それが18世紀末に、不始末を起こし、西組が廃止になり、同時に佐文は警固10名だけになった。
③そこで佐文は、七箇念仏踊りとは別の雨乞踊りを、三豊の風流雨乞踊りを参考にしながら編成して踊るようになった。
④こうして七箇念仏踊りが明治になって、四散解体するなかで佐文は綾子踊りを雨乞踊りとして踊り続けた。
⑤そのため綾子踊りには、三豊の小唄系風流踊りと、滝宮系の念仏踊りがミックスされた「ハイブリッドな風流踊り」として伝えられるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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佐文綾子踊のルーツを探るために、佐文周辺の雨乞踊を見ていきたいと思います。

讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞踊の分布図
    上図からは次のような事が読み取れます
①東讃・髙松地域には、ほとんど分布していないこと → 大川郡の水主神社の存在(?)
②中讃には滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいた風流念仏踊が、いくつか残っていること
③三豊南部には、風流雨乞踊りが集中して残っていること。そして、三豊北部にはないこと。
④中讃の念仏踊系と、三豊の風流系の雨乞踊り境界上に、佐文綾子踊があること
以上からは、佐文綾子踊の成立には、上記の二のエリアの風流踊が影響を与えていることがうかがえます。これをある研究者は、「佐文綾子踊りは、三豊と中讃の雨乞い踊りのハイブリッド種」だと評します。
 以前にお話したように、佐文は滝宮に踊り込んでいた「七箇念仏踊」を構成する中心的な村でした。それが様々な理由で18世紀末頃から次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞踊を取り入れながら、新たな「混成種」を「創作」したのではないかと私も考えるようになりました。  それを裏付ける「証拠」を見ていくことにします。

豊浜町和田の「さいさい踊り」を見ておきましょう。

さいさい踊り 豊浜JPG
さいさい踊(豊浜町和田)
この躍りで、まず注目したいのは隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。そして、歌詞の内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。これは先ほど見た綾子踊の地唄と同じです。流行(はやり)歌が盆踊に取り込められていく過程が見えます。さいさい踊り以外の三豊に残る風流雨乞踊りも、もともとは盆踊りとしておどられていたと研究者は考えています。

それでは、この踊りを伝えたのは誰なのでしょうか?

さいさい踊り 薩摩法師の墓碑
豊浜町和田の道溝集落の壬申岡墓地にある薩摩法師の墓碑

墓碑には、上のように記されています。ここからは、つぎのような過程が見えてきます。

さいさい踊り 伝来


 佐文の西隣の麻(高瀬町)にも、綾子踊りが踊られていました。その由来を見ておきましょう。
  ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。           
沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。

 ここには、江戸時代の後半になって京都から下ってきた貴族の娘・綾子姫が下女と一緒に、当時の風流踊りを元にして綾子踊りを完成させて、麻に伝えたという伝説が記されています。雨乞踊の創作過程で、当時京都や麻周辺で踊られていた風流踊りが取り込まれた過程が見えていきます。言い方を変えると、風流踊が雨乞踊りに転用されたことになります。こうして見ると、前回見たように「綾子踊に恋歌が多いのは、どうしてか?」の応えも、以下のように考えることができます。

風流踊りから盆踊りへ

こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。



それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。

風流踊りの伝来者

A
 滝宮念仏踊りの公式由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされますが、一遍の時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
B佐文綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンですが、これも遍歴の僧です。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。
Dは、先ほど見たとおりです。
ここで由来のはっきりとしている雨乞風流踊りである百石踊りを見ておきましょう。


百石踊の伝来委

兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司
は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?

「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。

百石踊り - marble Roadster2

百石踊りの芸司は、黒い僧服姿

 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?

由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。

以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

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綾子踊は、雨乞い踊りとされてきました。それでは、そこで歌われている地唄は、雨乞いに関係ある歌詞なのでしょうか。実は、歌われている内容は、雨乞いとは関係ない恋の歌が多いようです。
綾子踊りには、どんな地唄が歌われているのかを見ていくことにします。 綾子踊りには、12の地唄があります。その中で「綾子踊」と題された歌を見ておきましょう。

綾子踊り地唄 昭和9年
綾子踊地唄(尾﨑清甫文書 1934年版) 

尾﨑清甫が1934(昭和9)年に、残した「綾子踊」の地唄です。
歌詞の上に踊りの動作が書き込まれています。例えば、最初の「恋をして、恋をして」の所には、「この時に、うちわを高く上げて、真っ直ぐに立て捧げ、左右に振る」。「わんわする」で「ここでうちわを逆手に持ち替えて、腰について左に回る」、その後で「小踊入替」とあります。踊りの所作が細かく書き込まれています。一番を、意訳変換しておくと次のようになります。

綾子踊り地唄
綾子踊の1番
「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。「恋をして 恋をして ヤア わんわする。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。それを親は、夏やせだと思っています。「あじ(ぢ)きなや」です。「アヂキナイ」 とは情けないこと 、あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことです。恋やせなのに、夏やせとはあじけない。人の気持ちが分かっていない、情けないというところでしょうか。2番を見ておきましょう。

綾子踊り地唄2
綾子踊の地唄 2番

2番は①我が恋は夕陽の向こうの海の底の沖の石と歌います。これだけでは意味が取れないので、他の類例を見ておきます。備後地方の田植え歌には「沖の石は、引き潮でも海の底にあって濡れたままで乾く間もない」、千載和歌集には「沖の石は姿を現すことのなく、誰にも見えない秘めた恋」とあります。「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。これを参考に次のように意訳しておきます。

「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

綾子踊りの3番を見ておきましょう。
綾子踊り地唄3番

綾子踊り3番は、我が恋を細谷川の丸木橋に例えます。
これだけでは意味が分からないので、また類例を見ておきましょう。
平家物語には、「なんども踏み返され、袖が濡れる」、和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。転じて自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情が見えて来ます。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するものとして、当時の歌によく使われています。
ここからは「沖の石」や「細谷川の丸木橋」というのは、流行歌のキーワードで、「秘められた恋心」の枕詞だったのです。艶歌の世界で云えば「酒と女と涙と恋と」というところでしょうか。こうしてみると綾子踊りの歌詞には、雨乞いを祈願するようなものはないようです。まさに恋の歌です。

次に花籠を見ておくことにします。
綾子踊り 花籠2
              綾子踊地唄 花籠(尾﨑清甫文書 1934年版)
綾子踊り 鳥籠
花籠の意訳

この歌は、閑吟集(16世紀半ば)の一番最後に出てくる歌のようです。
綾子踊り 花籠 閑吟集

ここには「男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・」「花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性」という幻想的なイメージが浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。実は当時は「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があったようです。そういう視点からもう一度読み返すと、この歌は情事を描いたものと研究者は指摘します。愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、という内容になります。こういう歌が中世の宴会では、喝采をあびていたのです。それが風流歌として流行歌となり、盆踊りとして一晩中踊られていくようになります。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した歌詞が、地唄として踊られているというのが「無形文化財」だと研究者は考えています。


私の綾子踊りに対する疑問の一つが「雨乞い踊りなのに、どうして恋歌が歌われるのか」でした。
その答えを与えてくれたのは、武田明氏の次のような指摘でした。
雨乞いなのに恋の歌

 つまり、雨乞い踊りの歌詞は、もともとは閑吟集のように中世や近世に歌われていた流行歌(恋歌)であったということです。それがどのようにして雨乞い踊りになっていったのでしょうか。それを知るために佐文周辺の風流雨乞い踊を次回は見ていくことにします。

どうして綾子踊りに、風流歌が踊られるのか?


綾子踊り 講演会表紙
郷土史講座でお話ししたことをアップしています。
どうして綾子踊は、国指定になり、ユネスコ登録されたのか。
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と尾﨑清甫文書
西讃府誌は幕末に丸亀藩が編集したもので、各村の庄屋たちに命じて地誌的な情報をレポートとして提出させたものを藩が編纂したのものです。つまり、当時の佐文村の庄屋のレポートにもとづいて書かれています。その中に綾子踊りのことが次のように取り上げられています。
西讃府誌の綾子踊り

これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府誌の綾子踊り記述

西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
「雨乞踊緒書」というのは、佐文の尾﨑清甫の残した文書です。
尾﨑清甫
尾﨑清甫とその文書箱の裏書き
尾﨑清甫は、代議士でもあった増田穣から未生流家元の座を譲られた華道家でもありました。
尾﨑清甫華道免許状
秋峰(増田穣三)から尾﨑清甫(伝次)の華道免許状

尾﨑清甫 華道作品
未生流・尾﨑清甫の荘厳
今から110年前の大正3(1914)年の大旱魃が起こり、途絶えていた綾子踊が踊られます。それを機に、尾﨑清甫は記録を残しはじめ、昭和14年(1939)に集大成しています。

尾﨑清甫史料
尾﨑清甫文書
その中に、踊りの隊形がどのように記されているのかを見ておきましょう。以下が現在のフォーメーションです。

綾子踊り隊形

①女装した6人の小踊り(小学校下級年)
②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。
③その後に太鼓と榊持(拍子)
④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。
⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
綾子踊り4
綾子踊 小踊りと芸司
ここで押さえておきたいのは、綾子踊りの隊形は円形ではないことです。2つのBOXからなることです。讃岐で踊られる「風流小唄系雨乞い踊」は、先祖供養のための盆踊りが雨乞用に「借用」されたものなので、円形隊形が普通であることは以前にお話ししました。そのため綾子踊りの隊形は「ハイブリッド」だと評する研究者もいます。近世後半になって新たに作り出された可能性があります。
尾﨑清甫の残した隊形図を見ておきましょう。
綾子踊り隊列図 尾﨑清甫
尾﨑清甫の綾子踊隊形図
これが西山(にしやま)の山頂直下にあった「りょうもさん(旧三所神社)」に奉納されていたという隊形図です。読み取れることを列挙しておきます
①正面に磐座があり、その背後に「蛇松」がある
②その前に、御饌が置かれ、台笠や善女龍王の幟が立っている。
③その前に、地唄が横に9人並んでいる
④その前に、小踊りが6人×4列=24人
⑤その他の鳴り物も。現在の数よりも多い人数が描かれている
⑥特に、一番後の外踊りは数え切れない多さである。
⑦それを数多くの見物人が取り囲み、警固係が警備している。
実は、尾﨑清甫は3つの隊形を記しています。それは「村踊り」「郡踊り」「国踊り」です。そして、これは「国踊り」とされます。つまり、踊る場所によって、その規模や編成が変えられたことが伝えたかったようです。しかし、綾子踊が村外に出て踊られたことはありません。この記述には、滝宮牛頭天王社に奉納されていた七箇念仏踊りのイメージが尾﨑清甫の頭の中にあったことがうかがえます。先ほど見た「西讃府誌」には「下知(芸司)1人、小踊6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各1人とありました。これが実際の編成だったのです。つまり、この絵は、頭の中の「当為的願望」と私は考えています。しかし、ここからは、小踊りと芸司の位置など現在にそのままつながる所も多いように見えます。ここでは昔の隊形を、綾子踊りが継承していることを押さえておきます。

綾子踊り 入庭図4
綾子踊の入庭 棒と薙刀の問答
今回は、綾子踊の隊形についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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今回は、綾子踊りの団扇・花笠・衣装を見て行くことにします。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河の大念仏の大団扇
風流化のひとつに団扇の大型化があることは以前にお話ししました。
綾子踊りも、芸司や拍子の持つ団扇は大型化しています。

P1250507
綾子踊の芸司と拍子の持つ大団扇(中央)と中団扇(左右)
尾﨑清甫は、団扇について次のように記します。

団扇・台笠寸法 大正
綾子踊 芸司と拍子の団扇寸法
意訳変換しておくと
芸司 大団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺7寸5歩(約52㎝)  横 1尺3寸(39㎝) 柄 6寸(18㎝)
 廻りには色紙を貼り、金銀色で日と月を入れて、その下に「水の廻巻」か、上り龍・下り龍を入れるのもよし。
拍子(榊持ち) 中団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺2寸5歩(約38㎝)  横 9寸(27㎝)   柄 6寸(18㎝)
デザインは、大団扇に同じ。
小踊  女扇子
台笠 (省略)
P1250070

団扇には①月と太陽が貼り付けられています。月と太陽は、修験者の信仰のひとつです。この踊りを伝えたのが聖や修験者などであったことがうかがえます。なお、月・日の下に描かれているのが「水の廻巻」のようですが、今の私にはこれが何なのか分かりません。「雲」と伝えられるので、雨をもたらす「巻雲」と考えていますが、よく分かりません。ちなみに、ユネスコ登録を機に新しく大団扇を新調することになりました。大きさは、尾﨑清甫の言い伝えの通りに発注しました。分かることは、出来るだけつないでいこうとしています。

綾子踊り 雨乞い団扇
綾子踊 外踊(がおどり)の団扇と笠

次に、花笠についての記録を見ておきましょう。



綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊の花笠寸法(尾﨑清甫文書)
意訳変換しておくと
芸司・拍子 
  スワタシ(直径) 1尺5寸5歩(鯨尺 約46㎝)
  3色で飾り付けよ、ただし赤色は使用しないこと
小踊花笠
  スワタシ 1尺2寸5歩(約37㎝)
  ただし、ひなりめんにして両側を折る、そして正面は7寸(21㎝)開ける
小踊の花笠は赤い布を垂らして、正面21㎝開けよという指示です。
P1250029
                   綾子踊小踊の花笠
ポジションによって、被る笠がちがうことを押さえておきます。
花笠
綾子踊に使われる花笠や笠
かつては、花笠や笠も手作りでした。しかし、戦後の高度経済成長の中で、これらを作れる人達がいなくなってしまいます。重要無形文化財に指定されて、団扇や花笠も新調されますが、それらは総て京都の職人の手によるものでした。それから約半世紀の年月が経って、痛みが目立つようになっています。修繕を繰り返しながら使用していますが、それも限界に近づいてきています。これらの新調が課題となっています。最後に衣装を見ておきます。

「村雨乞行列略式」の中の衣装と役割を見ておきましょう。

綾子踊り 入庭
佐文賀茂神社への入庭と幟

綾子踊り 村雨乞行列略式
村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
①最初に来るのが「幟一本」で「佐文雨乞踊」と書かれたものです。それを礼服で持ちます。
②「警固十(六)人」とあります。当初は十人と書かれていたものを六人プラスして「増員」しています。これ以外にも「増員」箇所がいくつかあります。その役割は、「五尺棒を一本持って、周囲四隅の場所を確保すること」で、履き物は草鞋ばきです。
③次が「幟四本」で「一文字笠、羽織袴姿で上り雲龍と下り雲龍」を持ちます。
綾子踊り 警固
四隅で結界を作る警固(佐文賀茂神社)

警固以外に杖突も6人記されています。

P1250665
             村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
④「杖突(つけつき)六人」で「麻の裃で小昭楮、青竹を持て龍王宮を守護するのが任務」
⑤「棒振(ぼうふり)・薙刀振(なぎなたふり)一人」で「赤かえらで刀頭を飾る。衣装は袴襷(たすき)」です。
⑥「台笠一人」で、「神官仕立」で、神職姿で台笠を持つ」
⑦「唐櫃(からひつ)」で、縦横への御供えを二人で担ぎます。これも神職姿です。
⑧「正面幟二本」で「善女龍王」と書かれた二本の幟を拝殿正面に捧げ。一文字笠を被り、裃姿です。
⑥の「台笠一本」については、台笠の下は神聖な霊域で、悪霊や病魔も及ばないところとされました。普通は左右に2本なのですが、ここでは1本になっていることを押さえておきます。ちなみに前回見た「国踊りの絵図(拡大版)」では、台笠は2本描かれています。また、七箇念仏踊りや滝宮念仏踊りの絵図も2本です。しかし、実際には1本であったことが、ここからは分かります。

綾子踊り 台笠・幟
青い台笠が1本 その周囲に幟が林立

⑧の「善女龍王」は、善女龍王と書かれた幟です。人数は4人で「神官仕立」とあります。先ほどの「上り龍・下り龍」の幟の持手は、羽織袴姿でした。同じ幟でも、持ち手の衣装が違うことを押さえておきます。
綾子踊り 善女龍王幟
               綾子踊 善女龍王の幟(佐文賀茂神社)


P1250666 隊列昭和s4芸司
            村雨乞行列略式 NO3(尾﨑清甫文書 昭和14年)

⑨は「螺吹(かいふき)一人」で、法螺貝吹きのことで、「但し、頭巾山伏仕立、袈裟衣で」とあります。かつては頭巾を被った山伏の袈裟姿だったようです。
⑩が「芸司一人」で「花笠・羽織・袴姿で、大団扇を持って踊る」とあります。
風流踊りを伝えたのは、「芸能伝播者」としての山伏や念仏聖達です。綾子踊りの旅の僧が伝えたとされます。その芸能伝播者が「芸司」にあたります。そのため初期の風流踊の芸司の衣装は黒い僧服姿であったと研究者は指摘します。それが江戸時代になると羽織袴姿になり、さらに二本差しで踊るようになります。ここには芸司を務める者の「上昇志向」が見えてきます。風流踊りは、時と共に衣装や持ち物も変化してきたことを押さえておきます。
⑪が「太鼓二人」が続きます。鳴り物の中では太鼓が、一番格が高いとされます。
⑫最後が「拍子二人」で、「但し、羽織袴仕立で、榊に色紙を短冊にして付ける。6尺5寸以上の榊一本を龍王宮へ供えるために持つ。」とあります。そのため「榊持ち」とも呼ばれていたようです。今は、入庭の時には榊を持って入場しますが、踊るときには回収しています。

P1250667 衣装・役割 その他
         村雨乞行列略式 NO4(尾﨑清甫文書 昭和14年)
⑨「鼓(つづみ)二人」の衣装は「裏衣月の裃に、小脇指し姿で、花笠」とあります。「小脇指」を指していることを押さえておきます。
⑩「鉦(かね)二人」は「麻衣に花笠仕立て」で現在も黒い僧服姿です。

綾子踊り 鉦と大踊
綾子踊の鉦(かね)と大踊 鉦は僧侶姿

⑪「笛吹二人」は「花笠・羽織袴で、草履履き」です。太鼓や鼓に比べると「格下」扱いです。
⑫「小踊六人」は「花笠姿で、緋縮綿の水引を八・九寸垂らす。(後筆追加?)。小姫仕立で赤振袖に上着は晒して麻帯、緋縮綿(ひじりめん)に舞子結」
⑬「地唄八人」は「麻の裃に小服で、青竹の杖を持って、一文字笠を被る」とあります。裃姿でも、その材質によって身分差が示されています。
⑭「大踊(おおおどり)」は、「大姫は女仕立で、赤い振袖で上着は晒して、麻の片擂(かすり)で、水のうずらまき模様りの袖留め。帯は女物で花笠を被る。

綾子踊り4
綾子踊の小踊

  以上からは、衣装や笠については、その役割に身分差があって、細かく「差別化」されていたことが分かります。戦後の綾子踊り復活に関わった人たちは、尾﨑清甫の残した記録を参考にしながら、意図をくみ取って、できるだけ見える形で残してきたのだと思います。
今回は、綾子踊の団扇・花笠・衣装についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことが史料に最初に登場するのは、寛平七年(895)の『贈大僧正空海和上伝記』です。それでは、それ以前の「仏教的祈雨」とは、どんなものがあったのでしょうか。研究者は次の4つを挙げます。
①諸大寺での読経
②大極殿での読経
③東大寺での読経
④神泉苑での密教的な修法
この中で先行していたのは、①諸大寺での読経と②大極殿での読経のふたつでした。ふたつの中でも②の大極殿での祈雨の方が有力だったようで、頻繁に行われています。例えば『続日本後紀』を年代順に挙げておくと、承和十二年(845)5月1日、5月3日には2日間延長し、5月5日にはさらに2日間延長して祈雨読経が行われていますいます。この頃は、大極殿で行う事が定着し、他の祈雨修法は見られません。それが約30年ほど続きます。
 大極殿での祈雨に参加するのは天台・真言のほか七大寺を含めた諸宗派の僧でした。
この時期は祈雨について宗派間の抗争が生じることはなく、平穏な状態で行われていました。それが破られるのは、貞観十七年(875)のことです。『三代実録』には同年6月15日の条に、次のようにあります。
(前略)屈六十僧於大極殿 限三箇日 転読大般若経 十五僧於神泉苑 修大雲輪請雨経法 並祈雨也。  (後略)
意訳変換しておくと
(前略)六十人の僧侶が大極殿で三日間、大般若経の転読を行った。一方、十五人の僧侶が神泉苑 で大雲輪請雨経法を修法して祈雨した。(後略)

 ここで初めて大極殿以外の神泉苑で大雲輪請雨経法が15人の僧侶によって修法されています。祈雨に請雨経法が出てくるのは、正史ではこの記事が初見のようです。ここからは、一五人の僧侶は新しい祈雨の修法を持って登場し、その独自性を主張したことが考えられます。これを鎌倉中期成立の『覚禅抄』では、空海の弟である真雅が行ったことにしています。しかし、それよりも速い永久五年(1117)頃の『祈雨日記』には、次のように記します。

 貞観年中種々祈雨事。但以神事無其験云々。僧正真雅大極殿竜尾壇上自不絶香煙祈請。小雨降。

意訳変換しておくと
 貞観年中には、さまざまな祈雨が行われた。但、神事を行ってもその効果はなかったと云う。(空海の弟である)僧正真雅は大極殿の竜尾壇上で香煙を絶やさず修法を行った。その結果、小雨があった。

ここには真雅は大極殿での祈雨に参加していて、神泉苑での祈雨のことは何も触れられません。神泉苑での修法は、この時が初めてで、祈雨の中心はあくまでも大極殿での読経であったようです。そうだとすると当時の東密の第一人者であった真雅は、大極殿への出席を立場上からも優先させるはずです。それがいつの間にか、神泉苑での東密による祈雨の方が次第に盛になります。そのために、この時の修法が真雅の手によるものであったと伝承が変わってきたと研究者は考えています。
貞観17(875)年の15人の僧による神泉苑での修法が、宗派間に波紋を投げかけたようです。
これを契機に、さまざまな祈雨法が各宗派から提案されるようになります。『三代実録』同年6月16日の条には、次のような記事があります。
 申時黒雲四合。俄而微雨。雷数声。小選開響。入夜小雨。即晴。先是有山僧名聖慧。自言。有致雨之法 或人言於右大臣即給二所漬用度紙一千五百張。米五斗。名香等聖慧受取将去。命大臣家人津守宗麻呂監視聖慧之所修。是日宗麻呂還言曰。聖慧於西山最頂排批紙米供天祭地。投体於地 態慰祈請。如此三日。油雲触石。山中遍雨。

意訳変換しておくと
 祈雨修法が行われると黒雲が四方から湧きだし、俄雨が少し降り、雷鳴が何度かとどろいた。次第に雷鳴は小さくなり、夜になって小雨があったが、すぐに晴れた。ここに聖慧という山僧が云うには、雨を降らせる修法があると云う。そこで右大臣は、すぐさま祈祷用の用度紙一千五百張。米五斗、名香などを聖慧に与えた、家人の津守宗麻呂に命じて、聖慧の所業を監視するように命じた。 宗麻呂が還って報告するには、聖慧は西山の頂上に紙米を天地に供え、五体投地して懇ろに祈願した。その結果、この三日間。雨雲がわき上がり、山中は雨模様であった。

 ここからは6月15日の15人の僧侶が神泉苑で祈雨修法に、それに対抗する形で山僧の聖慧が祈雨修法を行っていたことが記されています。
 これに続いて、6月23日の条には次のように記されています。
 古老の言うには、神泉苑には神竜がいて、昔旱勉の時には水をぬいて池を乾かし、鐘太鼓を叩くと雨が降ったという。その言葉に従って、神泉苑の水をぬいて竜舟を浮かべ、鐘・太鼓を叩いて歌舞を行った。

このように、古老の言い伝えによる土俗的方法までも、朝廷は採用しています。効き目のありそうなものは、なんでも採用するという感じです。そこまで旱魃の被害が逼迫していたとも言えそうです。
 以上のように、この年はこれまでになく新たな祈雨修法が行われた年でした。それは、長い厳しい旱魃であったこともありますが、その動きを開いたのは、一五僧による神泉苑での祈雨がきっかけを作ったものと研究者は指摘します。
 2年後の元慶元年(877)も、旱魃の厳しい年でした。
そのためこの年も種々の修法が提案され、様々な方法が取り上げられています。それを『三代実録』で見ておきましょう。
まず初めは、6月14日のことです。

(前略)是日。左弁官権使部桑名吉備麿言。降雨之術。請被給香油紙米等試行之。三日之内。必令有験。於是給二香一斤。油一斗。紙三百張。五色細各五尺。絹一疋。土器等
意訳変換しておくと
(前略)この日、左弁官権使部の桑名吉備麿が自ら、私は降雨之術を会得しているので、香油紙米らを授けて試行させたまえ、されば三日の内に、必ずや験がありと云う。そこで、香一斤・油一斗・紙三百張・五色細各五尺・絹一疋・土器を授けた。

 桑名吉備麿は、自分が降雨の術を持つことを売り込んでいるようで、それに必要な物を要求しています。
さらに6月26日には、次のように記します。

屈伝燈大法師位教日於神泉苑 率廿一僧。修金麹鳥王教法。祈雨也。
意訳変換しておくと
伝燈大法師が神泉苑で、21人の僧侶を率いて。金翅鳥王教法を修法し、祈雨を祈願した。

「金翅鳥王教法」という祈雨修法は、初見です。神泉苑で、それまでにない修法が行われています。しかし、雨が降ったとはありません。これが駄目なら新しい祈雨の登場です。翌日の6月27日には、次のように記します。

遣権律師法橋上人位延寿。正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相於東大寺大仏前 限以三日‐修法祈雨。遂不得嘉満
意訳変換しておくと
 権律師法橋上人位の延寿をして、正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相が東大寺大仏前で 三日間に限って 祈雨修法を行うが、効果はなかった。

 この後には、7月7日から5日間、紫宸殿で百人の僧による大般若経の転読が行われますが、これも、効果はありません。そこで7月13日から、また異なった方法で祈雨が次のように行われます。

 先是。内供奉十禅師伝燈大法師位徳寵言。弟子僧乗縁。有呪験致雨之術 請試令修之。但徴乗縁於武徳殿 限以五日 誦呪祈請。是日。未時暴雨。乍陰乍響。雨沢不洽。
意訳変換しておくと
 内供奉十禅師の伝燈大法師位・徳寵が云うには、弟子僧の乗縁は祈雨の術に優れた術を持っていることを紹介して、試しにやらせてくれれと申し入れてきた。そこで、武徳殿で五日に限って修法を行わせたところ 暴雨になり雨は潤沢に得た。

 ここでも、新たな祈雨法が武徳殿で行われています。これまでは、祈雨と言えば大極殿で大般若経を転読するものと決まっていました。それが一五僧の請雨経法が神泉苑で行われた後は、自薦他薦による新しい修法の売込み合戦とも言うべき様相となっていたことが分かります。これは当然の結果として、祈雨修法をめぐって宗派間の対立・抗争を生み出します。その際に研究者が注目するのは、この時点では神泉苑での祈雨修法が、真言東密だけの独占とはなっていなかったことです。そのために様々な祈雨修法が採用され、実施されたのです。
 『三代実録』元慶四年五月二十日の条には、次のように記します。

(前略)有勅議定。始自廿二日、三ケ日間。於賀茂松尾等社 将修二濯頂経法 為祈雨也。(後略)
意訳変換しておくと
(前略)勅議で22日から三ケ日間、賀茂松尾等社で「濯頂経法」が修法され、祈雨が行われた。(後略)

ここにも「濯頂経法」というこれまでにあまり聞かない祈雨修法が行われています。この後、大雨となりすぎて、逆に神泉苑で濯頂経法を止雨のために修法しています。これらを見ると、この時も祈雨修法のやり方が固定化していなかったことがうかがえます。
 貞観17年から元慶4年にかけての混沌とした様相の後、約十年にわたって仏教的祈雨の記事が出てこなくなります。この間は比較的天候が順調だったのでしょう。次に仏教的祈雨が見られるのは、寛平3年(891)になります。『日本紀略』同年六月十八日の条に、次のように記します。

極大極殿 延屈名僧 令転読大般若経 又於神泉苑 以二律師益信 修請雨経 同日。奉幣三社 
意訳変換しておくと
大極殿で延屈名僧によって大般若経が転読されるとともに、神泉苑で東寺の律師益信によって請雨経法が修せられ、三社に奉納された。

 ここでは、それまでのようないろいろな修法を試すという状況は、見られません。そして、この後は、神泉苑での祈雨は、東密によって独占されていきます。891年に、益信が祈雨を行った時には、すでに神泉苑での祈雨が東密の行うものであるという了解のようなものが、ほぼできあがっていたと研究者は考えています。
これと関連する史料である寛平7(883)年成立の『贈大僧正空海和上伝記』には、次のように記します。

 天長年中有早災 皇帝勅和上 於神泉苑令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任少僧都
意訳変換しておくと
 天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功によって少僧都に任じられた

ここからは、この記事が書かれた寛平7年には、もうすでに空海請雨伝承が成立していたことが分かります。寛平7年は、益信の祈雨より4年後のことになります。伝承成立が、益信の祈雨以前であったと研究者は考えています。真言側は、この空海請雨伝承でもって、自らの神泉苑での祈雨の正当性を朝廷に訴えていったのでしょう。
 しかし、ここではこの時点での伝承の内容は、空海が神泉苑で祈雨を行いそれによって少僧都に任じられたということだけで、それ以上のものではなかったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...
神泉苑
 天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことは、空海の伝記類のほとんどが取り上げています。その伝記類の多くが、祈雨に際して、空海が請雨経法を修したと記します。これが「空海請雨伝承」と一般に呼ばれているものです。
2善女龍王 神泉苑2g

 鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』で、「神泉祈雨事」の部分を見ておきましょう。

 淳和天皇の御宇天長元年に天下大に日でりす。公家勅を下して。大師を以て雨を祈らしめんとす。南都の守敏申て云守敏真言を学して同じう御願を祈らんに、我既に上臆なり。先承りて行ずべしと奏す。是によりて守敏に仰せて是を祈らしむ。七日の中に雨大に降。然どもわづかに京中をうるほし。いまだ洛外に及ぶ事なし。

 重て大師をして神泉苑にして請雨経の法を修せしむ。七日の間 雨更にふらず。あやしみをなし。定に大観じ給ふに守敏呪力を以て、諸竜を水瓶の中に加持し龍たり。但北天竺のさかひ大雪山の北に。無熱池と云池あり。其中に竜王あり。善女と名付。独守敏が鈎召にもれたりと御覧じて公家に申請て。修法二七日のべられ。
  彼竜を神泉苑に勧請し給ふ。真言の奥旨を貴び 祈精の志を感じ 池中に形を現ず。金色の八寸の蛇。長九尺計なる蛇の頂にのれり。実恵。真済。真雅。真紹。堅恵。真暁。真然。此御弟子まのあたりみ給ふ。自余の人みる事あたはず。則此由を奏し給ふ。公家殊に驚嘆せさせ給ひて、和気の真綱を勅使にて、御幣種々の物を以て竜王に供祭せらる。密雲忽にあひたいして、甘雨まさに傍陀たり。三日の間やむ事なし。炎旱の憂へ永く消ぬ。上一大より下四元に至るまで。皆掌を合せ。頭をたれずと云事なし。公家勧賞ををこなはれ。少僧都にならせ給ひき。真言の道、崇めらるゝ事。是よりいよくさかんなり。大師茅草を結びて、竜の形を作り、壇上に立てをこなはせ給ひけるが。法成就の後、聖衆を奉送し給ひけるに、善女竜王をばやがて神泉苑の池に勧請し留奉らせ給ふて、竜花の下生、三会の暁まで、此国を守り、我法を守らせ給へと、御契約有ければ、今に至るまで跡
を留て彼池にすみ給ふ。彼茅草の竜は、聖衆と共に虚にのぼりて、東をさして飛去。尾張国熱田の宮に留まり給ひぬ。彼社の珍事として、今に崇め給へりといへり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞軋にや。大師の言く、此竜王は。本是無熱池の竜王の類なり。慈悲有て人のために害心なし。此池深して竜王住給は七国土を守り給ふべし。若此竜王他界に移り給は七池浅く水すくなくして。国土あれ大さはがん。若然らん時は。我門徒たらん後生の弟子、公家に申さず共、祈精を加へて、竜王を請しとゞめ奉りて、国土をたすくべしといへり。今此所をみるに。水浅く池あせたり。をそらくは竜王他界に移り給へるかと疑がふべし。然ども請雨経の法ををこなはるゝ毎に。掲焉の霊験たえず。いまだ国を捨給はざるに似たり。(後略)
意訳変換しておくと
 淳和天皇治政の天長元(824)年に天下は大旱魃に襲われた。公家は、弘法大師に命じて祈雨祈祷を行わせようとした。すると南都奈良の守敏も真言を学んでいるので、同じく雨乞祈祷を行わせてはどうかと勧めるものがいた。そして準備が既に出来ているということなので、先に守敏に祈祷を行わせた。すると七日後に、雨が大いに降った。しかし。わずかに京中を潤しただけで、洛外に及ぶことはなかった。

 そこで弘法大師に、神泉苑での請雨経の法を行わせた。七日の間、修法を行ったが雨は降らない。どうして降らないのかと怪しんだところ、守敏が呪力で、雨を降らせる諸竜を水瓶の中に閉じ込めていたのだ。しかし、天竺(インド)の境堺の大雪山の北に、無熱池という池あった。その中に竜王がいた。その善女と名付けられた龍は、守敏も捕らえることができないでいた。
2善女龍王 神泉苑g

そこで、その善女龍王を神泉苑に勧請した。すると、真言の奥旨にを貴び、祈祷の志を感じ、池中にその姿を現した。それは、金色の八寸の蛇で、長九尺ほどの蛇の頂に乗っていた。実恵・真済・真雅・真紹・堅恵・真暁・真然などの御弟子たちは、その姿を目の当たりにした。しかし、その他の人々には見ることが出来なかった。すぐにそのさまを、奏上したところ、公家は驚嘆して、和気の真綱を勅使として、御幣など種々の物を竜王に供祭した。すると雲がたちまち広がり、待ち焦がれた慈雨が、三日の間やむ事なく降り続いた。こうして炎旱の憂いは、消え去った。上から下々の者に至るまで、皆な掌を合せ、頭をたれないものはいなかったという。これに対して、朝廷は空海に少僧都を贈られた。
 以後、真言の道が崇められる事は。ますます盛んとなった。大師は茅草を結んで、竜の形を作り、壇上に立て祈雨を行った。祈雨成就後は、善女竜王を神泉苑の池に勧請し、留まらせた。こうして未来永劫の三会の暁まで、この国を守り、我法を守らせ給へと、契約されたので、今に至るまで神泉苑の池に住んでいます。
 また茅草の竜は、聖衆と共に虚空に登って、東をさして飛去り、尾張国熱田の宮に留まるようになったと云う。熱田神宮の珍事として、今も崇拝を集めています。これこそが仏法東漸の先兆で、東海鎮護の奇瑞である。大師の云うには、この竜王は、もともとは無熱池の竜王の類である。しかし、慈悲があり、人のために害心がない。この池は深く、竜王が住めば国土を守ってくれる。もしこの竜王が他界に移ってしまえば池は浅くなり、水は少なくなって、国土は荒れ果て大きな害をもたらすであろう。もし、そうなった時には、我門徒たちは、後生の弟子、公家に申し出ることなく、祈祷を行い、竜王を留め、国土を守るべしと云った。今、この池を見ると、水深は浅くなり、池が荒れています。このままでは、竜王が他界に移ってしまう恐れがある。しかし、請雨経の修法を行う度に。霊験は絶えない。いまだこの国をうち捨てずに、守っていると言える。(後略)
2善女龍王2

 この後は、神泉苑が大変荒れた状態になっているので、早く復旧すべきであると結んでいます。以上をまとめておくと
①天長元(824)年の旱魃の時に、空海と守敏が祈雨において験比べを行うことになった。
②その時に、空海が善如竜王を勧請して雨を降らせた
③神泉苑には今もその竜王が棲むことを説く話
空海請雨伝承は、この話が書かれた鎌倉時代の中頃には内容的にかなりボリュームのあるものになっていたことが分かります。これを、後世の伝記類はそのまま継承します。

 空海請雨伝承が初めて登場した寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』と、比較しておきます。
天長年中有旱 皇帝勅和上 於神泉苑 令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任二少僧都

意訳変換しておくと 
天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功により少僧都に任じられた
ここには、これ以上のことは何も書かれていません。空海と験比べをした守敏の名前も、神泉苑に棲む善如竜王も出てきません。伝説や民話は時代が下れば下るほど、いろいろな物がいろいろな人の思惑で付け加えられていくとされます。空海請雨伝承は、時間の経過とともに内容の上でかなり脚色が加えられ、話が大きく発展していったことを押さえておきます。空海請雨伝承の話の根幹は、天長元年に空海が神泉苑で雨乞を行い、それによって少僧都に任じられたということです。
 この話は、長く史実と考えられてきましたが戦後になって、次のような異論が出されます。
佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します。

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
佐々木氏が言うように、説話の成立にはそれが必要とされた歴史的な背景があったようです。次にその説話成立の背景を探ってみましょう。

 空海による史実としての祈雨は、どのように記されているのか。
 天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話については、研究者から疑問が出されています。しかし、全くの創作とは言えないようです。というのは、空海の祈雨が「日本紀略」にあるからです。『日本紀略』 天長四年五月二十六日の条に次のようにあります。

 命二少僧都空海 請仏舎利裏 礼拝濯浴。亥後天陰雨降。数剋而止。湿地三寸。是則舎利霊験之所感応也。

 意訳変換しておくと
 空海を少僧都を命じる。空海は内裏に仏舎利を請じて、礼拝濯浴した。その結果、天が陰り雨が降った。数刻後に雨は止んだが、地面を三寸ほど湿地とするほどの雨であった。これは舎利の霊験とする所である。

 この内裏で祈雨成就は、空海の偉業の一つとして数えられてもよい史実です。しかし、後世の伝記類はこれを取り上げようとはしません。こちらよりも神泉苑を重視します。それは神泉苑の方がストーリー性があり、ドラマチックな展開で、人々を惹きつける形になっているからかもしれません。神泉苑の請雨伝承は、時間とともに大きく成長していきます。南北朝期に成立した『太平記』では「神泉苑の事」として、さらに多くのモチーフが組み合わされていきます。このように、史実のほうが話としては発展を見ずに、伝承のほうが発展しているところが面白い所です。見方を変えると、後世の伝記類の書き手にとっては、空海が内裏で仏舎利を請じて祈雨を行ったという史実よりも、神泉苑で請雨経法を修したという伝承のほうがより重要だったようです。そこに、この伝承の持つ意味や成立の背景を解く鍵が隠されていると研究者は考えています。
今回はここまでです。以上をまとめておきます。
①天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話が空海請雨伝承として伝わっている。
②これは鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』の「神泉祈雨事」の内容が物語化されたものである。
③しかし、空海請雨伝承が初めて登場する寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』には、僅かな分量で記されているに過ぎない。
④『日本紀略』天長四年五月二十六日の条には、空海の雨乞修法を成功させ、その成功報酬として少僧都に命じられたと短く記す。しかも場所は、内裏である。
⑤後世の弘法大師伝説は、②を取り上げ、④は無視する。
この背景には、真言密教の戦略があったようです。それはまた次回に。

参考文献
藪元昌 善女龍王と清滝権現 雨乞儀礼の成立と展開所収

 

綾子踊り 図書館郷土史講座

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
ユネスコ登録書

風流とは?

文化庁の風流踊りのとらえ方

雨乞い踊りから風流踊りへの転換

西讃府誌の綾子踊り

西讃府誌の綾子踊り記述

綾子踊り歌詞1番

小鼓の意味

閑吟集の花籠

どうして恋の歌が歌われるのか

IMG_0011綾子踊り 綾子

IMG_0009綾子踊り由来
綾子踊り 由緒
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鳥籠
IMG_0015綾子踊り 塩飽船
塩飽船

IMG_0018水の踊り
水の踊り
IMG_0024綾子踊り 地唄
綾子踊り
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絵の提供は石井輝夫氏です。

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尾瀬神社地図
財田川上流にある尾瀬神社

財田川は塩入(まんのう町)の奥に源流があり、野口ダムを流れ落ちた所で大きく流れを西に変えます。ここがまんのう町久保(窪)です。財田川が河川争奪で、ここから上流の流れを金倉川から奪ったとされる地点です。この西側にあるのが尾瀬(おのせ)山です。

尾ノ背寺跡
尾背寺跡

この山には中世には「尾背寺」と呼ばれた山林修行の寺院がありました。修験者や聖達の「写経センター」的な役割を果たしていたことを前回はお話ししました。今回は、その後の近世・近代の尾瀬山のことを見ていくことにします。
 戦後時代の争乱や、金毘羅大権現・金光院の勢力増大の圧迫を受けて、周辺の山林寺院は衰退したようです。尾背寺も近世初頭には退転します。
「善通寺誌」には、
「善通寺、尊烏有印、宇多深町、聖遠寺と尾の背寺を兼務云々」
「朝倉記」には
「文禄のころ(1592~96)尾の背寺寺僧、三野郡勝間村、寺教院へ隠退せり」
ここからは次のようなことが分かります。
②神社の別当を尾背寺の僧侶(修験者)が務めていたこと
③尾瀬神社は神仏混淆で、社僧の管理下に置かれていたこと

 伝えるところでは、拝殿の塗板には次のように記れていたといいます。
A 文禄元年壬辰四月八日、本殿改築、願主・七ケ村氏子中・大工、七弥、
B 慶長十七年壬子年八月九日、一丈四方の拝殿建立、小池・春日・本目、惣氏子中
C 慶長年間に、朝倉生水義景(朝倉家中興の祖)が神官(修験者?)に就任。
ここからは次のような事が分かります。
①文禄・慶長の生駒藩時代に、戦乱で荒廃した尾背寺跡に、本殿改築と拝殿建立が行われ「尾瀬神社」が姿を現した。
②それを勧進したのが朝倉義景で、麓の小池・春日・本目など七箇村住人を氏子として組織した。
③尾背寺から尾瀬神社へ宗教施設が変化した。
その後、元禄年間に山頂の神社を、現在地に遷宮し南向に建立。それがいつのころか本殿の向きが東向に建て替えられた。
しかし、これらを裏付けるものはありません。事実だとすれば、生駒氏の時代になって、退転した尾背寺が神社として、再建されたことになりますが、この辺りのことはよく分かりません。

 改修記録で残されているのは、幕末の次の2点です。
D 安政三年(1856)増田伝左衛門が多治川の山を払い下げられたときに、6m~4mの遙拝殿を、西星谷に建立」

E 慶応三年(1867)に、本社の拝殿が老朽したので、遙拝傳を本社に移し拝殿として建て替えた。
  ここに登場する増田伝左衛門というのは、春日出身の国会議員・増田穣三の一族のようです。増田家には、名前に伝四郎・伝次郎・伝吾などの名前が付けられています。増田家が春日・塩入の奥の山林の払い下げを受けて、山林地主となっていたことがうかがえます。その増田家の寄進で、幕末に、遙拝殿が建立され、それが11年後に本社横に移築されて、拝殿とされています。尾瀬神社の実際の起源は、このあたりであった可能性もあります。

尾瀬神社4
尾瀬神社拝殿

尾瀬神社が人々の信仰を集めるようになるのは幕末になってからのようです。それは、雨乞の神としてリニューアルされたからです。
18世紀に善女龍王が善通寺などに勧進され、丸亀藩の雨乞祈祷寺に指名されます。すると、庶民の間でも、雨乞い祈祷ブームが起き、さまざまな雨乞いが実施されるようになります。
例えば、大川山(まんのう町)では雨乞講形成が次のように進みます。
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる
②頂上には修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる
③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる
④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる
⑤修験者たちは雨乞講を組織し、里の百姓達を組織化した。
⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。
⑧明治の神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進し「ミニ大川神社」を建立した。
⑨それを主導したのは水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。
大川神社は、土器川源流にちかくにあり、その流域の人々を組織していきます。一方、金倉川流域の人々を組織したのが、尾瀬神社の修験者たちだったようです。尾瀬神社にも分社の勧請もあって、明治27年9月には、丸亀市原田町黒島下所に分社が建立されています。

こうして明治になると尾瀬神社の雨乞講が各地に作られて、経済的な基盤が確立して、神社の建物も整備されます。尾瀬信仰の範囲は、西讃一円と徳島県三好郡にも及んだようです。ある意味では、阿波と讃岐の交流の場ともなっていたのです。
尾瀬神社絵図
 明治17年ごろの尾瀬神社大祭日を描いた木版刷絵図

この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①「讃岐国那珂郡尾瀬神社式日」と題され、多くの参拝者で境内が賑わっていること
②本殿・拝殿・大門などが整い、水分社などの摂社がいくつも祀られていたこと
③御盥には柵が設けられ、聖地とされていたこと
④土俵がもうけられ尾瀬相撲が奉納されていたこと。

尾瀬神社 神泉
尾瀬神社 神泉(旧御盥)
尾瀬神社神泉 

この他にも、明治13年9月に「尾瀬神社」と墨筆した掛け軸発行。
明治21年には尾瀬講の木札発行。祭礼もそれまでは、秋一回であったのが、春秋二回行われることになります。祭礼行事としては、
春日、小池、本目の各集落から獅子舞いの奉納
麓の参道登山口の財田川河原では、農具市、植木市開催
などもあり、人々で賑わいます。こうした隆盛は、大正時代から昭和の初めまで続きます。このような隆盛をもたらしたのは、どんな「宗教勢力」だったのでしょうか?
これは讃岐と阿波を結ぶ修験者だったと私は考えています。
①山伏集団の拠点であった箸蔵寺(三好市)の隆盛
②剣山修験集団の円福寺修験者集団
などの動きと連動していたようです。それは、またの機会にするとして・・

隆盛なさまを見せていた尾瀬神社が衰退していくのは、どうしてなのでしょうか。
①雨乞踊りや、行事が「迷信」とされ、行われなくなるのが「合理主義」が農村にも浸透してくる大正・昭和です。
②財田駅から三好に、猪ノ鼻トンネルを抜けて列車が走り始めるのが昭和初めです。
雨乞信仰を支えた尾瀬講が解体し、農民達の組織的な動員力が衰えていきます。同時に、阿讃を結ぶ交易路の要衝にあった尾瀬神社は、鉄道の開通で辺境に「転落」していきます。こうして雨乞祈祷の聖地は、「聖戦」の名の下に進められる日中戦争の泥沼の中で、顧みられなくなり背景に消えていくことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中讃TV 歴史のみ方

中讃ケーブルTVに「歴史のみ方」という番組があります。10分ほどの短いものですが、よく練られた構成だなと思って見ていると、出演依頼がありました。綾踊りの踊りではなく、残された記録について焦点をあてることにして、引き受けることになりました。事前に渡されていた質問と、私が準備していた「回答」をアップしておきます。

尾﨑清甫2
尾﨑清甫と綾子踊りの文書の木箱

Q1尾﨑清甫の残した記録について

DSC02150
綾子踊り関係の尾﨑清甫文書
 ここにあるのは尾﨑清甫が書残した綾子踊りの記録です。これらは3つの時期に書かれたことが年紀から分かります。一番古いのが110年前の1914年(大正3)、そして90年前の1934(昭和9年)、1939年(昭和14)年に書かれています。面白いのは、書かれた年に共に厳しい旱魃に襲われて、綾子踊りが踊られた年にあたります。綾子踊りを踊った年にこれらの記録は書かれています。

Q2 どのような記録が書かれていますか?

綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来由来

最初にの大正9年に①綾子踊由来記などが書かれ、次に1934年に②踊りの構成メンバーや立ち位置(隊列図)などが書かれています。そして最後に1939年に、それらがまとめられ、花笠や団扇の色や寸法などの記録が追加されています。
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊りの各役割ごとの花笠寸法
ちなみにいまもこの寸法や色指定に従って、花笠や団扇・衣装は作られています。

Q3 記録の情報源は、何だったのですか?

西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と綾子踊文書
 地唄の歌詞と薙刀問答については、丸亀藩が幕末に編集した西讃府誌に載せられています。その他の由来などについては、古書を写したり、古老からの話とされています。

Q4 一番古く踊られた記録は、いつですか?
 綾子踊り控え記録では、約210年前の1814(文化11)が一番古い記録になります。その後は、幕末の日照りの年に2回ほど踊られたと記されています。この頃に編集された西讃府誌に綾子踊りのことが記されているので、それまでには踊られるようになっていたことは確かです。
Q5 意外と踊られていないのはどうしてっですか?
雨乞い踊りなので、旱魃に成らないと踊られません。昔は総勢で200人近い人数で踊られたとされます。準備も大変な踊りです。そのため、それまでに祈祷などのいろいろな雨乞いを行って、それでも雨が降らないときに最後の手段として綾子踊りは踊られたようです。毎年、祭礼に踊られる踊りではなかったのです。

Q6 この絵はなんですか
綾子踊り 奉納図佐文誌3
綾子踊り隊形図

綾子踊りの隊形図になります。この絵は、龍王山の山腹に祀られていた「ゴリョウさん」あるいは「リョウモ」さんで、綾子踊りが踊られています。「ゴリョウさん」は「善女龍王」のことで、空海が雨乞いの際に祈った龍王とされています。姿は「龍やへび」の姿で現れます。そのため背景の曲がりくねった松は蛇松と書かれています。そこに龍王社が祀られ、その前で、子踊りや芸司を中心に大勢の踊り手達が踊っています。注意して欲しいのは、その周りを警固の棒持ち達が結界を作って、その外側に多くの人達が取り囲んでいる様子が描かれていることです。基本的には、この隊形や人数を今も受け継いでいます。
1934年)大干魃に付之を写す


Q7 尾﨑清甫が記録を残したのはどうしてか
 
1934年 大干魃付写之 尾﨑清甫
    1934(昭和9)年に綾子踊りが踊られた経緯

彼の文書の一節には次のように記されています。

 「明治以来、世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、綾子踊りを踊ることにも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは今、記録に残しておかないと忘れ去られてしまう危機感があったことがうかがえます。

Q8 1934年に、すでに危機感を持っていたのはどうして?
近代化が進んで昭和になると着物から洋服に着るものが替わりました。同じように迷信的なモノは顧みられなくなり、合理的な見方をする人達が田舎でも増えます。人の心も変わっていったのです。そうすると雨乞いして雨が降ると思う人もだんだん少なくなります。佐文でも旱魃がやってきても、みんながまとまっておどることはできなくなります。このままでは、綾子踊りが消えてしまうと云う危機感があったようです。
綾子踊行列略式(村踊り)

Q 9 尾﨑清甫が記録を残そうとおもったのは?
1934(昭和9)年と、その五年後の1939年の大旱魃の時には、知事が各町村に伝わる雨乞い行事を行うように通達しています。これに従って、佐文村でも新しく団扇や花笠などが整えられ、綾子踊りが踊られます。その結果、雨が降ったようです。その成就祝いとして、村民一同で綾子踊りが踊られます。この時の感動が尾﨑清甫に、記録を残させる原動力になったのではないかと私は思っています。彼は記録を残す理由として、次のような点を記しています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
     綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

病魔に冒される中で、危機感を持って記録を残そうとした尾﨑清甫の願いが伝わってきます。

以上のようなやりとりを想定していたのですが、取材当日は支離滅裂になってしまいました。それをプロデューサーがどうまとめてくれるのか不安と期待で見守っています。放送は6月中の土日に流されるようです。
追伸
中讃ケーブルの歴史番組「歴史のみ方」で綾子踊りを紹介しました。6月中の日曜日に放送されてています。以下のYouTubeからも御覧になれます。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。https://youtu.be/2jnnJV3pfE0

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山本町大野
大野村(三豊市山本町大野)
       
西讃府誌には、佐文綾子踊の後に、豊後小原木踊が次のように紹介されています。
大野村の豊後踊り
大野村の雨乞い踊り「豊後・小原木踊」
「大野村ノ人雨ラ祈ルニ踊リナス。村人上組下組とニツニワカレ、上ナルヲ豊後、下ナルフ小原木卜琥ク」
「先八幡宮、次に樋盥(ひだらい)、次に澱醸(よどしこ)、次に役場と凡そ六処一日になすと云」
ここからは次のようなことが分かります。
①「村人が上組と下組の二つに分かれ」、それぞれが「豊後、小原木」と呼ばれる2組の踊組があったこと
②大野村の八幡宮、樋盥(ひだらい)、澱醸(よどしこ)、役場などの6ヶ所で踊られたこと
 この踊りについては「西讃府志」が完成した1859(安政6年)頃までは、踊られていたことが分かります。しかし、その後いつころまで続いたかなどは分かりません。西讃府誌に残るだけの謎の雨乞踊のようです。
   西讃府誌に載せられている「豊後踏舞(踊り)」の歌を見ていくことにします。

大野村の豊後踏舞
豊後踏舞(西讃府誌)
大野村の豊後踏舞2
              豊後踏舞
大野村の豊後踏舞 佐渡島2

歌詞の内容から、綾子踊、さいさい踊、和田の雨乞踊と同じ系統に属するもので、江戸時代初期までさかのぼると、研究者は考えているようです。
次のように「何々をどりは一をどり」という形式の文句が各歌詞に出てきます。
「豊後のをどりは一をどり」
「札所をどりは一をどり」
「佐渡島をどりは一をどり」
「泉水をどりは一をどり」
「忍びのをどりは一をどり」
「天笠をどりは一をどり」
「小笹をどりは一をどり」
「鐘巻をどりは一をどり」
「本蔵をどりは一をどり」
この形式句は、近世初期の歌謡に良く出てくるスタイルです。
また「うらうら(浦々)」には、
あれに見えしはどこ浦ぞ、音に間えし堺が浦よ、
堺が浦へおし寄せて、ひいめがはかをつもろふよ、
いくさのはかをつもろふよこれ
と同じ形式で讃岐の浦、八嶋の浦が歌われいます。瀬戸内海の繁栄する港町の様子がいくつも歌い込まれています。
 構成・扮装・芸態について、「西讃府志」は次のように記します。

  大野村の豊後踊り 西讃府誌
     「豊後・小原木踊」の芸態について(西讃府誌)
  上文を意訳変換しておくと
(芸態は)3の輪を作り、第一輪の中心に傘宮という大きな傘の上に宮を置いて、そこに造花などを飾って。これを数人が持って立つ。第一輪には「花受」と呼ばれる、7・8歳の童子、40人ほどが花笠を被って、扇を持って、化粧し廻りに立つ。その外側の第二輪には、小踊と呼ばれる12歳から15歳ほどの童子が、麻衣の振袖を着て、女帯を結んで、菅笠に小さな赤い絹地を着けたものを被って、扇子を持って40人ほどが輪になって立つ。その外側の第三輪には、警護として20歳ほどの男数十人が、羽織を着て刀を指して大きな団扇を持って周りに立つ。第二輪と第三輪の間には、太鼓打4人、鉦打2人、出音頭4人、付音頭4人が立つ。太鼓と鉦打は、共に陣笠を被り、半臀(はんひ)の裾に鈴が付いたものを着て、草鞋(わらじ)を履いて脚絆を結ぶ。太鼓は胸に結付けて、両手にバチを持って、歌の曲節に合わせて、輪の周りを走り廻リながら打ち鳴す。音頭(芸司)は、金銀の紙で縁どった大きなハ団扇を持って、その傍らに並立つ。先ず音頭(芸司)が謡い出し、
大野村の豊後踊り3
    「豊後・小原木踊」の芸態について・その2(西讃府誌)
上文を意訳変換しておくと
付音頭も第二句から声を合せて共に歌う。 
 踊り初めの時、「先番板」という踏舞(踊り)の次第を書付けた板を会場に立てる。次に追払(ついはらい)という長刀を持った男二人が進みでて、その場を清め開く。次に、修験者三人が法螺貝を吹き、花受・小踊・警護の手引が一人づつ入場する。中には花受ではあるが兜を被り、上下を着、団扇を持ったものがいる。その時に手引の者は、先に入場して、それぞれの位置を定める。踊り終ると、修験者の法螺貝を合図に退場する。最初に八幡宮、次に樋盥、次に換醜、次に役場、など六ケ所を一日で廻ると云う。
これを見ておどろかされるのは、その編成規模です。
①三重の輪踊りで、「花受40人+子踊40人+警固60人=140人」+芸司・太鼓・鉦・芸司・法螺貝吹きなどを合わせると、150人を越える大編成部隊になります。滝宮に踊り込んでいたい念仏踊りの各組の編成規模と同規模です。風流小歌踊系の雨乞踊としては、最も規模の大きなものであったようです。
②「西讃府志」の説明分量も、佐文綾子踊りと同じくらいの記述分量があります。西讃の風流小歌系雨乞踊として、綾子踊と同じ規模と認識されたいことがうかがえます。

讃岐雨乞い踊り分布図

もういちど讃岐の風流雨乞い踊りの分布図を見ておきましょう。
上図を見ると、讃岐の風流雨乞い踊りが三豊南部に集中していること。その東端が佐文綾子踊であることが分かります。ここからは綾子踊の成立には、三豊の風流踊りがおおきな影響を与えていることがうかがえます。
 以前にお話したように、佐文は「七箇念仏踊り」の主要な一員として、芸司や子踊りも出していました。それが19世紀になると次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞い踊りを取り入れながら、新たな踊りを「創作」したのではないかというのが、今の私の仮説です。

大野の小原木踏舞.J 鐘巻PG

大野の小原木踏舞.2J 鐘巻PG

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 豊後・小原木踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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財田仲
財田中の入樋
三豊市財田町は、財田上、財田中、財田西に分かれていますが、古くはそれぞれ上の村、中の村、西の村と呼ばれていました。そのうちの財田上の村は多度津領で、さいさい踊が伝わっています。一方、財田中の村は丸亀藩で、弥与苗(やとな)踊・八千歳(やちよ)踊・繰り上げ踊が踊られていました。それ今では、財田中の一集落である入樋に伝承されています。
 弥与苗踊は、「いよいよ苗を与える」踊という意味で名付けられたとされます。それに対して八千歳踊・繰り上げ踊は盆踊で、八千歳踊は祝う心もち、繰り上げ踊は歌や踊のテンポが早くなり次第に興が高まる踊りとされます。この三つをまとめて入樋の盆踊りと呼んでいるようです。 踊りはもともとは、旧七月の旧盆で、今は新盆踊として踊られています。雨乞踊りとして踊られるときには、財田川の上流瀬戸の龍王で踊り、それから雨の宮神社、塔金剛(とうきんこう)の五輪塔の前の3か所で踊ったという。今はエリエールゴルフ場の西側に鎮座する高津神社(王子大権現)の坂の下の入樋公民館の前の広場で踊られています。

財田中入樋の高津神社
高津神社(財田中の入樋)
大正10年頃に大西恭造氏が書いた「弥与苗踊略縁起」を筆写したものには、次のように記されています。

抑当村雨乞の由来を訪ぬるに、人皇第六十一代朱雀天皇の御宇近江の国矢上山と言ふ所に娯蛭ありて人を傷つくる事数多なれ共、之を退治する事叶はす。衆人受ひに沈む事幾年なるを知らず。疑に人職冠藤原鎌足公の後胤俵藤人秀郷なる者、日本無双の英雄にて、龍神より百足退治の詔勅を受け、則ち近江路に到り、瀬多橋より容易く退治給ふ事、沿く人の知る所なり。其時龍神より報恩の為秀郷の望みを叶ふべしとありし時、秀郷日く、吾故郷は、動もすれは早魃多し。人民の飲き聞くに忍びず。願はくは月に六度の雨を降らし給はらば、生涯の本望足に過ぎすとありけれは、龍神願の如く永世の契り諾し給ひけり。其時秀郷は上之村谷道(財田上の村・渓道)の城に有り給ふ。之より財田の私雨と言ふことを世に言はるる事となり、且つ川の名を財田(たからだ)川といふ因縁は此時より始まると申し侍るなり。
其後数代を経て長久四年の春、天下大いに旱りして苗代水なし。其時雨の官に於て有徳の行者、三十七日雨を乞へども、更にその験なし。最早重ねて祈る力なしとて心を苦しむ。折柄其の夜、不思議の霊夢を蒙むり、爾等心を砕きて数日雨を乞ふ志薄からきる事天に通せども、村中衆生の願力薄き故に、雨降り難しと言ふ事を論され、それより時を移さず、村民一同踊を奏し御神意を勇め奉らんと思ひて,則ち踊の手と音頭の文を作りて奏し奉りし時、雨大いに降りて豊作を得たり。苗を与ふると言ふ心を直ちに弥与苗踊と名附けたり。此時都の歌人来り居て、此の不思議の霊験に感じて、
財田や何不足なき満つの秋
と詠みしとなり。其の後も早ありし時踊を奏し奉りて、御利生を蒙むる事皆人の知る所なり。依て略縁起如件 大義
    意訳変換しておくと
そもそも当村の雨乞由来を訪ねると、第六十一代朱雀天皇治政(在位930年10月16日 - 946年5月23日)に近江国矢上山というに娯蛭(大むかで)が現れて、多くの人々に危害を与えた。しかし、退治する者が現れず、人々は長年苦しんでいた。そんな中で藤原鎌足公の子孫で俵藤人秀郷という者が、日本無双の英雄として、龍神より百足(むかで)退治の詔勅を受けて近江路に出向いた。そしてついに瀬多橋で退治したことは、衆人の知るところである。この時に、龍神から報恩褒美として秀郷の望みを何でも適えてやろうと言われた。そこで秀郷は、故郷の讃岐財田は、早魃が多く、人々が苦しんでいます。願わくば、月に六回は雨を降らていただければ、生涯の本望ですと答えた。龍神は、この願いを永世の契りとして聞き入れた。この時に秀郷は、上之村谷道(財田上の村・渓道)の城を居城としていた。そこで、財田に降る雨を「財田の私雨(わたくしあめ)」と、世間では呼ぶようになった。また、川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まると伝えられる。

   その後、数代を経て長久四(1043)年の春、天下は大旱魃となり苗代の水もない日照りとなった。
そこで雨の宮で、験のある行者(修験者)が37日も雨乞祈祷を行った。しかし。それもむなしく雨は降らない。もはや重ねて祈る力ないと人々は心痛した。その夜、不思議な霊夢で龍王は次のように告げた。爾(なんじ)等の雨を乞ふ気持ちは天に通じている。しかし、村中のひとりひとりの願力が薄いために、雨が降らないのだ。」と。そこで、村民一同で神意を勇めようと思い、踊の手と音頭の文を作って、踊りを奉納した。すると雨が大いに降って豊作となった。人々はこの踊りに、「苗を与ふる」という思いで、弥与苗踊と名附けた。この時に村に滞在していた都の歌人は、この不思議な霊験に感じて次の歌を詠んだ。
財田や何不足なき満つの秋
その後も旱魃があれば、踊りを奉納して、御利生を蒙むってきたことは誰もが知っている所である。依て略縁起如件 大義
この縁起が書かれた大正時代後半は、讃岐を大旱魃が襲って、県が雨乞い踊りの復活実施を各市町村に通達しています。そこで明治以来、踊られることのなかった雨乞い踊りが各地で復活したことは以前にお話ししました。それを記録に残そうと、新たに由来・伝承が書かれます。それは、山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りでも見た通りです。そのような「創作背景」を押さえた上で、内容を見ていくことにします。
前半 
俵藤太秀郷の近江のむかで退治伝説 → 龍神からの褒美として財田の私雨(わたくしあめ)
 川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まる
後半
大旱魃の際に、修験者の雨乞祈祷だけでは龍神に届かなかった。そこで村民の心を一つにして神に伝えるために、踊りを奉納したこと。これが弥与苗踊と呼ばれるようになったこと。
ここで私が注目するのは、「修験者の雨乞祈祷だけでは雨は降らなかった。そこで村民一同で雨乞いのために踊った」という箇所です。
近世前半では、雨乞祈願の主役は修験者や高僧でした。農民達は、それを見守るだけでした。農民達が行うのは、雨乞成就のお礼踊りの奉納でした。祈祷自体は験のある修験者の行う事で、ただの百姓が龍神に祈願しても聞き届けられるはずがないというのが、当時の宗教観だったようです。それが近世末になると、修験者の祈祷を助けるために、自分たちも雨乞い踊りを踊るというスタイルがここには出てきます。そして、大正期に書かれた「伝書」には、雨乞いを後押しするために、村人もみんなで踊るという風に変化していきます。

弥与苗踊は雨乞踊りとしても踊りますが、盆踊りとしても踊っていました。


真中に太鼓をすえてその周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されたことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたのです。以下のような動きを押さえておきます。

風流雨乞い踊りの変遷図

弥生苗(やよな)踊りについて、「香川県の文化財」(昭和46六年香川県文化財保護協会刊)には、次のように記されています。

香川の文化財

「雨乞の折には四隅にしめなわを引きめぐらし、
踊り子は、蓑笠姿、手に団扇を持つ。
一曲を三回繰り返して六曲を雨の降るまで踊りつづけた

六曲とは次の歌です。
1 人葉(いりは)
ざんぎぎんざと いりょかいぐち いてとせきどをあらたみょや
2 弥与蘭
にしはじぐれの かやがやの雨 音はせぬかや 降りかかる
3 長生(ちょうせい)
ここはどこぞと たずねてみれは たからだやまのふるさとや 
音に聞えしたからだ山に 雨が降る 神の御利生か雨が降る
4 御元(おもと)
春は花さく 夏は橘 菊は九月の中の頃 鶯が小簸小校に巣をかけて ひよこ育てて 飛んで来る
5 糸巻き(いとまき)
たなばたの 朝ひく糸の 数々を 綾や錦を織りおろす 秋が来たかえ 鹿が鳴く なぜに紅葉か花が咲く
6 すくい
ひさしおどれば 花か散る つまおれがさに 露がする
弥生踊り
           弥生苗(やよな)踊り

1・2・3は雨をねがう内容のものですが、4・5・6は四季の風情を叙して、優雅な趣がしますが、雨には関係がありません。

弥与苗踊が終ると、八千歳踊へと移ります。
八千歳音頭
八千歳踊は、俵藤太物語の音頭があり、 ついで繰り上げ(クッリヤゲ)にうつっていきます。入樋の「繰上げ」金毘羅御利生
この歌詞を見ても、近世後期のもので、雨乞いとは関係ない内容です。 「讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」は、次のように記します。
八千歳踊は、舞の手が入り、腰や手首を微妙に使い、足を組む所作まであり、扇と手拭を派手に使って踊る。繰り上げ踊になると、テンポも早く、振りも複雑に派手になり軽快な踊となる。踊手は激しさに息をはずませることになる。繰り上げ踊の歌詞は、金毘羅御利生、鈴木主水、佐倉宗五郎、八百屋お七、和尚亀松、俊徳丸、お礼政次などのが登場し、いかにも盆踊にふさわしい。これらの口説を歌い続けて宵から夜が更けてしまうまで踊り興ずるのが音の風であったという。

「いかにも盆踊にふさわしい」の評の通り、まさに盆踊りなのです。輸踊であることもそれを裏付けます。この踊りは、雨乞踊と盆踊との関係を考える上に重要なヒントを与えてくれます。つまり、高見島の「なもで踊り」と同じように、「盆踊化した雨乞踊り」と研究者は考えているようです。しかし、私はそれは逆で「盆踊りが雨乞い踊化」したと考えています。
 なもで踊りの歌詞はすべて近世のものですが、弥与苗踊の六曲には、中世のものが含まれていますが、綾子踊や和田の雨乞踊、財田上のさいさい踊などよりは、内容的には新しいものと研究者は考えているようです。
弥与苗・八千歳踊に熟練し、伝承に熱心であった大木義武氏は次のように語っています。
自分が二十歳そこそこの頃に香川県全般に大早魃があり、豊田村の池の尻(観音寺市)から雨乞のため入樋の雨乞踊を踊ってくれと請われた。しかし踊ったとて降るとは限らぬからと一旦は断ったが、たって乞われたので行って踊った。真光院という寺の境内で踊ったが、始めの頃は星が空一面に出ていたのに、踊が進むにつれて、雨が降り出した。境内の松の露だろうと思って踊っていたが、ほんとうに雨が降り出したのであった。踊り終って小学校の校長先生宅で休んでいると雨は本降りになってきたc
手伝が来て大変なご馳走になり帰ってきたが、入樋の踊で雨が降ったという評判が高くなり、踊れば五遍に三遍は必ず降るものだという自信のようなものができた。
 ここにも大正時代の旱魃の際に、各地の雨乞い踊りが復興し、他地域からの奉納依頼があったことが分かります。これが踊り手達の自身や誇りとなり、記録や由緒などを残そうとする動きが出てきます。大正の大旱魃は、讃岐の雨乞い踊りの復興運動(ルネサンス)を引き起こしたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 弥与苗踊・八千歳(やちよ)踊  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

讃岐の風流雨乞踊りの伝播について、私は次のような仮説を考えています。
滝宮念仏踊りの変遷

①滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)の別当寺である龍燈院滝宮寺の社僧達は、蘇民将来の札などを配布することで信仰圏を拡げた。
②その際に社僧達(修験者・聖)たちは、祖先供養として念仏踊りを伝えた。
③こうして滝宮周辺では郷を越えた規模で踊組が形成され、郷社などに奉納されるようになった。
④それが牛頭信仰の中心地である滝宮に奉納されるようになった。
⑤生駒藩は、これを保護奨励したために滝宮への踊り込みは、大きなレクレーションとして成長した。
⑥一方、高松初代藩主・松平頼重は、この踊りを統制コントロールし、「雨乞踊り」として整備した。
⑦そのため滝宮念仏踊りは、もともとは風流念仏踊りであったが、次第に雨乞い念仏踊りとされるようになった。

この中で史料がないのが②です。滝宮念仏踊りの由来には次のように伝えられています。
A 菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになった
B 法然上人が雨乞いのための念仏踊りを伝えた
これでは②の「社僧達(修験者・聖)たちが、祖先供養として念仏踊りを伝えた。」という仮説を裏付けることはできません。そこで「迂回ルート」として、滝宮周辺の念仏踊りや風流踊りについて調べています。今回は、讃岐西端の豊浜の和田・姫浜と大野原の田野々に伝わる風流系雨乞踊りを見ていくことにします。テキストは   「和田雨乞踊り・姫浜・田野々雨乞い踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
この3つの雨乞踊は、伝承系統が同じと研究者は考えています。
それはひとりの「芸能伝達者」によって伝えられたとされているからです。どんな人物が、この地にこれらの風流雨乞い踊りを伝えたのでしょうか。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町和田道溝(みちぶち)
和田の道溝集落の壬申岡墓地に、薩摩法師の宝医印塔と墓碑があります。そこには、次のように記されています。
往古夏大旱、和田村庶民之を憂ふ。法師をして祈らしむ。法師はもと薩摩の人。自ら踊り其の村民に教へて雨を祈り、壬生岡に念ずる頃、 これ天乃ち雨ふり、年則ち大いに熟す。

  意訳変換しておくと
昔、大旱魃で和田村の人達が苦しんでいると、薩摩の法師が人々に、踊りを教えて壬生岡で雨乞祈願すると、雨が降り、その年は豊作となった。

ここには薩摩法師が歌と踊りを村人に教えて、雨乞祈願させたのに始まるとあります。そして墓の建立世話人には和田、姫浜、田野々の人々の名前が連なっています。

和田・田野々
和田・姫浜・田野々
 以上からは、3つの雨乞踊りが薩摩法師という廻国聖によって運ばれて来たことが裏付けられます。ただ、この「芸能伝播者」が「薩摩法師」だったかどうかについては疑問があるようです。「薩摩法師」説は、歌の中に次のような「薩摩」という歌があることから来ています。
薩摩

内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。この歌詞を早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性を武田明氏は指摘します。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。どちらにしても、和田、田野々などの踊り歌は、遍歴の「芸能伝達者」によってもたらされたことになります。
①踊りの歌詞が共に、慶長年間に和田にやってきた薩摩法師が伝えたとされること。
②曲目も「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられること。
以上を押さえておきます。
和田風流踊り 西讃府誌
    和田雨乞い踊り(西讃府誌)
和田雨乞い踊りについて、西讃府誌は次のように記します。

姫濱和田ナドニモ雨乞ノ踊舞ァリ、姫濱ナルヲ屋形トイヒ、和田ナルフ雨花卜云、踊ノサマハカハリタルコトナケンド、歌ノ、同ジカラズ。其サマ太鼓扱打八人、花笠ヲカツキ、太鼓を胸二結付、蝶脚(ておい)絆ヲナシ、鞋ヲ着テ輪ヲナシテ廻リ立、コレガ間二音頭ノ者数人交リ立テ、鼓ノ曲節ノマヽニウタフ、サテ其外ノ廻リニ、編笠ヲカプキタルガ、数十人メグリ立テ踊ル。其外二童子敷十人、叉編笠ヲキテメグリ踊ナリ、
 
    意訳変換しておくと
姫浜と和田には雨乞踊りがあり、姫浜のものを屋形踊り、和田のものを雨花踊りと呼ぶ。両者の踊りに違いはないが、歌詞が異なる所はある。芸態は太鼓打8人で、花笠を被り、太鼓を胸二に結びつけ、蝶脚(ておい)絆を着けて、鞋を履いて丸く輪を作る。この間に音頭(歌歌い)数人が入って、太鼓に合わせて歌う。その外廻りには、編笠を被った数十人が囲んで踊る。その外に童子が数十人、編笠を着て踊る。

ここからは 太鼓打が八人、音頭の者数人が中央にまとまり、その外側に数十人が輪を作り、その外に子供たちがまた数十人めぐって、二重の円陣の踊ったことが分かります。これは隊形や歌詞などから、もともとは盆踊りとして踊られていたものであったことが分かります。

和田風流踊の歌詞は、近世初期の歌謡だと研究者は指摘します。
その多くが綾子踊と同じ系統の風流小歌踊の歌詞です。第1章「雨花」のなかには、次のように地元の地名が出てきます。
大谷山にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり。
伊吹の嶋にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり
ここには「大谷山」や「伊吹島」のような地元の地名が出てきて、郷土色を感じさせます。しかし、それ以外には讃岐や三豊の地域性を感じさせるものはありません。各地の港を廻遊する船頭の目から見た「港町ブルース」のような感じです。定住者の目ではなく「旅する者の意識」で歌われていると研究者は指摘します。以下を簡単に見ておくと
第8章の「濃紅」は、寺の小姓との衆道の情調
和田風流踊り 濃紅
第2章の「屋形」・第11章の「めてた」は、屋敷褒めの歌です。
和田風流踊り 11番目立度

「めてた」の中に、次のように「歌連歌」という言葉が出てきます。

こなたのお手いを見てあれは、諸国のさむらひ集りて、弓張りほふ丁、歌連歌、たいこのがくうつ人もあり。

武士が歌連歌に興ずるのは、室町か江戸初期の風俗です。ここからもこの歌詞の時代がうかがえます。また次のような句法は、江戸時代初期の歌謡によく使われたようです。
雨ばなをどりを一をどり一をどり、       (第二章「雨花」)
やかたのをどりを一をどり一をどり、    (第二章「屋形」)
四季のをどりをいぎをどろふや、           (第二章「四季」)
さつまのをどりを一をどり一をどり、    (第五章「薩摩」)
とのこのをどりを一をどり一をどり、    (第九章「御段」)
以上からは、和田の風流踊は中世末から近世にかけて歌われていた風流歌であると研究者は考えています。私が注目するのは、次の記述です。
   (和田の)雨花踊は、雨乞踊というよりも、それ以上に雨乞御礼踊としてよく踊られたという。舞踊の振に舞の手があるといわれ、また子供も交わって踊るはなやいだ気分のものであり、多くの盆踊りと同じく中央に歌い手と囃子がおり、その周囲を踊り手が廻る形である。
ここでは和田の雨花踊は、「①中世の風流踊り → 雨乞御礼踊(成就お礼踊) → 雨乞踊」と変遷してきたことを押さえておきます。

豊浜国友寺
国祐寺(豊浜町台山)
雨乞祈願が行われた国祐寺には、次のような記録が残っています。
第15世松樹院日豊(安永三丙午八月廿六日没)が書き残した「新宮両社建立諸記」に次のように記されています。
宝歴十二壬午五月十六ノ暁ヨリ十八日迄二夜三日台山龍王ニテ雨請ス
同五日廿二日雨請礼踊在之候依之廿日二村之五人頭岡之停兵衛使二而案内申来候而廿一日之昼ヨリ村人足二催領人岡伝兵衛相添寺内之掃除二参申候。(注記「躍子太鼓打昇り持ニハ握飯二ツナラシニ遣シ申候」)
宝歴十二年六月廿五日 雨請之踊在之廿二日之昼五人頭太四郎使二雨申来候掃除人足水打人足如前。
意訳変換しておくと
宝歴十二(1762)年5月16日の暁から18日まで2夜3日に渡って台山の龍王社で雨請を行った。5月22日に雨請成就のお礼踊が行われることになり、20日に五人頭の岡之伝兵衛が、21日昼より国裕寺の寺内の掃除を人足達と行う事を伝えにやってきた。注記、「踊子と太鼓打と幟持には握飯2つを配布すると云った」)
宝歴十二(1762)年6月25日 五人頭の太四郎が使者としてやってきて、雨請踊を22日昼に行う。ついては、掃除人足・水打人足については前例通りと告げた。
台山の龍王社に籠って、雨乞いをして、雨が降ると雨乞成就のお礼として、踊りが踊られています。
明和三戌六月七日雨請踊在之候急之儀二而躍子笠なしにてをどり申候此方二而者宮斗二而済申候八日昼時分より雨ふり申候得共少々斗に而在之候
十日雨請之礼躍在之候
同月十七日之暁より十九日迄ニ二夜三日之雨請也 富山之龍王江籠り申候
六月廿六日礼躍在之候
七月十八日より同廿日迄二夜三日雨請いたし申候―八日七ツ時台山にて躍諸役人中は直に宮江籠申
  意訳変換しておくと
明和三(1783)年6月7日雨乞踊が急遽行われることになり、踊り子の中には、笠がないままで踊った者もいたという。この時には翌日の8日昼頃から雨が降った。しかし、少量であった。
10日に雨乞成就のお礼踊りを行った
6月17日の暁から19日までの2夜3日、当国裕寺の龍王へ籠もり雨乞を行った。
6月26日 (雨が降ったので)お礼踊りを行った
7月18日から20日まで二夜三日、雨請祈願を行った。18日七ツ時に、台山で踊諸役人たちは宮(龍王社)へ籠った。

  ここからは次のような事が分かります。
①18世紀後半に豊浜の和田では、旱魃の時には台山の龍王祠で雨乞いが行われていた
②そして雨が降ると台山の国裕寺の境内で雨乞成就のお礼踊りが奉納されていた
この史料からは、宝暦、明和のころには、国祐寺での雨請祈祷に合わせて、雨乞踊やその御礼踊が盛んに行われいこたことを押さえておきます。

安政五年に脱稿したという丸亀藩の「西讃府志」に「屋形雨花」として歌詞とともに記録せられています。ここからは安政5年頃にも、和田ではこの踊りが盛大に踊られていたことが分かります。古老の話として伝えられる所によると、和田の風流踊は、もとは和田だけでなく、姫浜および田野々の三地区が一体となって、高尾山の龍王祠で行われたと云います。田野々は高尾山の裏側の大野原町五郷の集落になります。龍王を祀る山の裏と表の両方で、善女龍王信仰が根付き、そこで同じ風流踊りが雨乞いお礼踊りとして踊られていたことを押さえておきます。
  1977(昭和52)年11月23日に行われた香川県教育委員会主催の「ふるさとのつどい」の民俗芸能発表会に出演した記録が次のように残されています。
「奉祈雨元祖薩摩法師和田村道溝講中 ①昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟を先頭に押し立てて、青年団員に指導されて、四十名の小学生の踊り子達が一列に入場して来る。踊子の服装は、紺がすりに赤い欅、日本手繊ざあねさんかぶりをし、ボール紙て作ったたつころばちの形の笠をかぶる。そして赤い手おおいに、水色のきやはんをつけて、胸に締太鼓を掛け、二本の檸を持って、その太鼓を打ちつつ踊る。入場の時には、「宿入り」の歌に合わせて入る。歌い手は、ずっと青年団の者(西原芳正氏)が勤めた。先頭に立った幟持ちが、まず会場の中央に幟を持って立ち、その傍に台に乗せた太鼓を置き、一人の男の打手(青年団)が、二本の標を持って構える。その周囲を四十名の踊子達が円陣に並び、左の方へ右廻りに廻りつつ踊る。歌い手は、円陣の外側正面の所に立って歌う。踊りは、太鼓の、カンカン トコトン トントコトントコ トントコトンという一区切りごとに、同じ振りを繰り返してゆく。踊の歌は十二章まであるが、その一章ごとに踊の振りはかわってゆく。また曲打ちというのがあって、太鼓の曲だけとなりそれに踊を合わせるというところもある。
踊子は男女の子連に少し女子青年も交っていたが、昔は男だけで踊り、ゆかた禅がけでたっころばち(たからばち)も紙製ではなく、本物をかぶったという。歌い手も、円陣の外側に立つのではなく、円陣の中であった。
①「昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟」というのは、昭頭家和の大旱魃の年に、県の通達で雨乞祈祷や踊りを復活実施したときに、作られた幟でしょう。
それより前の大正の大旱魃があった大正12年8月には、御礼踊として、以下の順で奉納されています。
①和田浜の高尾山の龍王桐(八大龍王)の前
②台山の龍王祠(国祐寺の西)の前
③壬生(にぶ)岡墓地の薩摩法師宝筐印塔前
④和田小学校の校庭で総踊り
この四場所が踊の場所として昔から一般的だったようです。

  大正12年の大旱魃の時にも、県が雨乞踊りの復活実施を通達しています。そのため明治以来、踊られなくなっていた雨乞踊りが各地で復活したことは、以前にお話ししました。前回お話した山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りもこの時に復活したものです。

大正12年雨乞いの御礼踊に、少年として参加した蔦原寿男氏の言葉が次のように載せられています。
あの時も、たしか二重の輪の踊で、総踊というにふさわしいほどの大勢であった。和田地区は、その中央を流れる吉田川を境に、川東組(雲岡・長谷・道溝・梶谷の各部落)と川西組(太村・大平木・直場・岡の各部落)の二つに分れている。それぞれ60名位の組が、東西の龍王宮に参請し、踊を奉納して下山し、国祐寺で両組が合流し、その西の龍王祠(雨龍神社)に八大龍王の幟を建て、その大前で、踊を奉納、終りに今の豊浜南小学校の校庭で、大円陣を作って踊った。お礼踊であるから近郷近在からの見物人は、秋祭の人出をしのぐ程盛大であった。

  以上 和田風流踊りについてまとめておきます。
①和田・姫浜・田野々の風流踊りは、曲目や歌詞が同じであることから同一系のものであること
②それはどの由来も薩摩(琵琶)法師によって伝えられ、墓標が残されていることからも裏付けられる。
③ここからは廻国の薩摩法師が和田地区に住み着き、祖先供養を行い信者を増やしたこと
④その過程で芸能伝達者として、先祖供養の盆踊りとして風流踊りを伝えたこと。
⑤それが台山の龍王祠でも雨乞成就のお礼踊りに転用され、後には雨乞い踊りへと変化していったこと
風流踊り → 先祖供養の盆踊り → 雨乞成就の返礼踊り → 雨乞踊りへと変遷していく姿が見えてきます。これが財田のさいさい踊りなどをへ影響を与え、佐文綾子踊りへとつながるのではないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年
参考文献 「和田念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」

まんのう町山脇
まんのう町山脇
まんのう町の山脇は、JR土讃線の財田駅の東側に拡がる盆地で、ここには念仏踊りが伝えられています。この念仏踊りがどんな系譜のものだったのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」です。

最初に滝宮念仏踊りをめぐる動きについて、次のように押さえておきます。
①江戸時代を通じて滝宮では「滝宮神社(牛頭天王社)+天満宮+龍燈院滝宮寺」が神仏混淆的な宗教センターを形成し、龍燈寺の社僧が管理運営を行ってきた。
②その布教活動として社僧(修験者)が、蘇民将来のお札などを配布するとともに、祖先供養のために念仏踊りを村々に伝えた。
③社僧達は「芸能運搬者」として、念仏踊りを村々に伝えた。
④村々は連合して踊組を組織し、夏越しの供養に風流盆踊りを惣社に奉納するようになった。
⑤その踊りは牛頭天王信仰と菅原道真の天神信仰の中心でもあった滝宮にも奉納されるようになった。
滝宮への奉納を行っていたのは、次のような踊組でした。
A北条組念仏踊り(坂出市)
B滝宮組念仏踊り(綾歌町)
C坂本組念仏踊り(丸亀市)
D七箇村組念仏踊り(琴平町+まんのう町)
E南鴨組念仏踊り(生駒藩騒動後、讃岐の東西分離後には停止)
これらの地域は、滝宮牛頭天王社の信仰エリアであったことになります。
 さて山脇集落に話を戻します。山脇はこのうちのDの七箇村組に所属していたことが資料から分かります。それがどうして、「山脇念仏踊」を踊り出したのでしょうか?

大正時代に書かれた「念仏踊り略縁起」には、次のように記されています。
抑此の念仏踊は日本念佛の元祖法然上人の始め給ひしものなり。上人御年七十五歳の御時、流罪の御身となりて建永二年二月二十六日護岐の国塩飽の地頭駿河権守高階保速の方に御着。それより日を経て善通寺並に金昆羅権現へ御参詣の働り南の方を眺め給へば紫の雲のたなびく所あり。定めて有縁の霊地ならんと即ち宮田の西光寺へ歩を運ばせ給ひ御滞留。寒くとも袂に入れよ西の風弥陀の国より吹くと思へばと御詠ありて日夜衆生に念仏を動め給へ共其の頃一般の人心信仰の念薄く念仏を唱ふるもの砂かりき。然るに不思議なるかな上人念仏御修業の御徳にて岸石に泉を得給ひ、或は庭前の松に夜な夜な明星天下りて影向し給へり。又其の年夏照り打続き草木将に枯死せんとするに至りて上人日く念仏を唱ふれば必ず雨降るべしと。それより南方山脇と云ふ在所へ歩を運び給ひ、丘上に衆人を集め手踊りに念仏を合し盛に踊らしめたるに忽ち雨降りければ、人々生還の思ひをなして喜悦すること一方ならず。それより念仏踊りと称して後生に永く伝へられ、封建の昔は非常なる格式を与へられ遠く滝宮に至りて踊るを例とせられ、史実に残る西七ケ村の念仏踊り乃ち之れなり。
上人の衆人を集め給ひし丘山は山脇より阿波の国東山に超ゆる街道の畔の南に轟瀧眼下に上讃本線さぬき財田駅更に西方は遠く遂灘眺望絶佳の地にて法然上人をまつる廣場通称念仏場乃ちこの由緒
を樽へる踊り磯祥の地なり。時うつり世は変りて明治の文化開けて幾星霜全く村人より忘れられ
んとせしが、大正の末期古老有志相諮りて比の曲緒ある念仏躍を復活し、上人の御徳を偲ぶことを得たり。では謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませぅ。合掌
  意訳変換しておくと
そもそも、この念仏踊は日本念佛の元祖法然上人が始めたものである。上人75歳の時に、讃岐流罪となって、建永2年2月26日に護岐国塩飽の地頭である駿河権守高階保速の方に到着した。その後に、善通寺や金昆羅権現へ参詣した際に、南方を眺めていると紫の雲のたなびく所が見えた。これは有縁の霊地だろうと、宮田の西光寺(法然堂)までやってきて留まった。
その時の御詠が
寒くとも袂に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思へば
こうして日夜、衆生に念仏を勧めた。しかし、その頃の人々は信仰の念が薄く、念仏を唱ふるものも少なかった。ところが不思議なことに、上人の念仏修業の徳によって、岸石から泉が湧き、庭前の松に夜な夜な明星が天下りて影向したりした。また、その夏は旱魃で草木が枯れ、作物も育たない有様であった。そこで上人は「念仏を唱えれば必ず雨降るべし」と云い。宮田の南方の山脇まで歩を進め、丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。するとたちまち雨が降り、人々生き返る思いと喜悦した。以後、これを念仏踊りと称して後生に永く伝へることにした。
 江戸時代には、高い格式を与えられ滝宮にも奉納されたと伝えられる。史実に残る西七ケ村の念仏踊りがそれである。
上人が衆人を集めた丘山は、山脇から阿波の国東山に続く街道沿いの岡で、南に轟(とどろき)滝、西には土讃本線さぬき財田駅、さらに遠く燧灘まで見える眺望絶佳の地である。この丘が法然上人をまつる廣場(通称念仏場)であり、この由緒を伝える踊り発祥の地である。時は移り、世は変わってこのことは村人から忘れ去られようとしている。そこで大正の末期、古老有志で相談し、由緒ある念仏踊りを復活し、上人の御徳を偲ぶこととした。謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませう。合掌
以上を要約しておくと
①讃岐に流刑となった法然は紫の雲のたなびくのを見て宮田の法然堂(西光寺)に留まった。
②夏の旱魃に法然は山脇の丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。
③するとたちまち雨が降り、これを念仏踊りと称して後生伝へた。
④これが七箇村念仏踊りの起源で、滝宮へも奉納された格式高い念仏踊りである。
⑤忘れ去られようとしていた念仏踊りを大正末年に復活させ、法然上人を偲ぶことにした。
宮田の法然堂
まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
ここでは山脇念仏踊は、法然上人によって始められたことが強調されています。ちなみに雨乞い踊りの由来に登場する伝播者を振り返っておくと、次のようになります。
A 滝宮念仏踊  菅原道真の雨乞成就に感謝して
B 佐文綾子踊  弘法大師が綾子に伝授
C 山脇念仏踊  法然上人
この「伝書」には、念仏踊りの踊り方や下知役の踊り方などの指南書的な内容になっています。大正末年には、昭和9・14年に匹敵する大旱魃が襲ってきました。そのため県などでも為す術がなくて、市町村に雨乞踊りの復活を通達を出しています。こうして何十年ぶりかに復活した雨乞い踊りを残すための踊り方指南書や、持ち物製作手順や由緒書きなどが新たに書かれます。佐文の尾﨑清甫が最初に綾子踊に関する記録を残すのも大正時代のことでした。ここでは、各地で雨乞い踊復活運動が起こり、新たな記録が残されたことを押さえておきます。

この伝書には「法然が山脇で念仏踊りを始めた。」
「念仏踊りの発祥の地が山脇だ。」、
そして山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊に「発展」したのだとされていました。これを検証しておきます。
まず、七箇村組念仏踊りのメンバーを見ると、「旧仲南町 + 旧満濃町の岸の上・真野・吉野 + 旧天領(五条・榎井・苗田・西山」など、数多くの村々の連合体だったことが次の表からは分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

その中で、山脇村に対しても役割や動員人数が割り当てられています。山脇は西七箇村に属しますが、構成メンバーの一員にしか過ぎません。ここからは、山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊りに成長・発展したとは云えないようです。それよりも踊られなくなった七箇念仏踊りを、山脇だけで復活させたと見た方が良さそうです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

   諏訪大明神(真野諏訪神社)に奉納された七箇村組念仏踊

どうして七箇念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか? 
①滝宮牛頭天王社の龍燈寺が廃仏毀釈運動の中で廃寺となり、滝宮念仏踊りの主催者がいなくなった
②七箇念仏踊自体が「天領+丸亀藩+高松藩」領の寄せ集め集団で内紛が絶えなかったこと
以上の理由から七箇念仏踊りは、空中分解してしまいます。そのような中で、西七箇村の最も西で、三豊郡境に接する山脇集落では、自分たちだけで念仏踊りを復活させようとしたのだと研究者は考えています。これは佐文の綾子踊も同じような歩みを辿ります。佐文の場合は、いろいろな騒動を組内で起こし、主要な役割を失っていきます。そのため佐文単独で風流踊系の綾子踊りを導入していたようです。どちらにしても、山脇と佐文という七箇村組の「西方辺境」の二つの集落が、自分たちだけで雨乞踊りを復活させようとしたのです。

龍燈院・滝宮神社
 滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)と天満宮を管理していたのは龍燈院

まんのう町民具館(旧仲南北小学校)の展示室には、山脇念仏踊の鉦がひとつ保存されています。
鉦の縁に「西七ケ村、山脇、香川景親」と彫り込まれています。この鉦の他にも、山脇にはこれと同じ鉦を保管する家が10軒ほどあると聞きます。この鉦からは次のような事が分かります。
①鉦の中側には「池下氏」と墨書があるが、年代がないのでいつのものかは分からない
②鉦の外側に紐をつける耳があり、経の糸を織としてそれに持ち手をつけてある。
③形や大きさは、坂本念仏踊のものと同じもの
なお、七箇念仏踊の「鉦打」は、60人。そのうち山脇が属する西七ケ村には21人が割り当てられています。

以上をまとめておきます
①大正時代に書かれた山脇念仏踊りの由来には、讃岐に流刑となった法然が、旱魃の年に山脇の丘の上に衆人を集めて、念仏踊りを踊らせたと書かれている
②それが山脇念仏踊の始まりで、これが後世に七箇村念仏踊りとして、滝宮へも奉納されるようになったとする。
③しかし、史料的には山脇は七箇念仏踊りの一員に過ぎず、中心的な役割を果たしていたわけではない。
④明治に七箇村組念仏踊が解体した中で、大正期の大旱魃の際に山脇が単独で念仏踊りを復活させたものが現在に継承されていると研究者は考えている。
どちらにしても、明治以後に踊られなくなり、忘れ去られようとしていた讃岐各地の雨乞い踊りが一時的に蘇るのが、大正の大旱魃期でした。県が市町村に、雨乞踊りや祈願の復活実施を指示したのが、そのきっかけです。その結果、多くの村々で雨乞い踊りが復活します。それは山脇や佐文でも同じでした。その際に、きちんとした資料や由来書を残したところが現在にまで継承されているように私には思えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」
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佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞念仏踊りを見ています。今回はまんのう町の大川念仏踊りを見ていくことにします。問題意識としては、この念仏踊りは滝宮念仏踊を簡素化したような感じがするのですが、滝宮への踊り込みはなかったようです。どうして滝宮から呼ばれなかったのかを中心に見ていこうと思います。

大川神社 1
大川権現(神社) 讃岐国名勝図会

 大川念仏踊りは、大川神社(権現)の氏子で組織されています。
大川神社の氏子は、造田村の内田と美合村の川東、中通の三地区にまたがっていました。
大川神社 念仏踊り
大川念仏踊り 大川神社前での奉納
大川念仏踊りは古くは毎年旧暦6月14日に奉納されていました。それ以外にも、日照が続くとすぐに雨乞の念仏踊を行っていたようで、多い年には年に3回も4回も踊った記録があります。そして不思議に踊るごとに御利生の雨が降ったと云います。現在では7月下旬に奉納されています。かつての奉納場所は、以下の通りでした。
①中通八幡神社で八庭
②西桜の龍工神社で八庭
③内田の天川神社で三十三庭
④中通八幡社へ帰って三十三庭
⑤それから中通村の庄屋堀川本家で休み、
⑥夜に大川神社へ登っておこもりをし、翌朝大川神社で二十三庭
⑦近くの山上の龍王祠で三十二庭
⑧下山して勝浦の落合神社で三十三庭
2日間でこれだけ奉納するのはハードワークです。

大川神社 神域図

現在の大川神社 本殿右奥に龍王堂
今は、次のようになっているようです。
①早朝に大川山頂上の大川神社で踊り、
②午後から中通八幡神社、西桜の龍王神社など四か所
もともとは大川神社やその傍の龍王祠に祈る雨乞踊です。その故にかつては晩のうちに大川山へ登り、雨乞の大焚火をして、そこで踊ったようです。

大川神社 龍王社
大川神社(まんのう町)の龍王堂

大川念仏踊は、滝宮系統の念仏踊ですが、滝宮牛頭天王社や天満宮に踊り込みをしていたことはありません。
 奉納していたのは大川権現(神社)です。大川山周辺は、丸亀平野から一望できる霊山で、古代から山岳寺院の中寺廃寺が建立されるなど山岳信仰の霊地でもあったところです。大川権現と呼ばれていたことからも分かるように、修験者(山伏)が社僧として管理する神仏混淆の宗教施設が大川山の頂上にはありました。そして霊山大川山は、修験者たちによって雨乞祈願の霊山とされ、里山の人々の信仰を集めるようになります。

大川神社 本殿東側面
大川神社 旧本殿
由来には、1628(寛永5)年以後の大早魅の時に、生駒藩主の高俊が雨乞のため、大川神社へ鉦鼓38箇(35の普通の鉦と、雌雄二つの親鉦と中踊の持つ鉦と、合せて38箇)を寄進し、念仏踊をはじめさせたとします。以来その日、旧6月14日・15日が奉納日と定めたとされます。

 それを裏付ける鉦が、川東の元庄屋の稲毛家に保管されています。
縦長の木製の箱に収められて、次のように墨書されています。
箱のさしこみの蓋の表に「念佛鐘鼓箱、阿野郡南、川東村」
その裏面に、「念佛鐘鼓拾三挺内、安政五年六月、阿野郡西川東村什物里正稲毛氏」
しかし、今は38箇の鐘は、全部があるわけではないようです。稲毛氏に保存されている鉦には、次のように刻まれています。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、但為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃

    この銘からは、次のようなことが分かります。
①寛永5年に尾池玄蕃が願主となって、雨乞いのため35ヶの鉦を大川権現に寄進したこと
②大川山は当時は権現で修験者(山伏)の管理する神仏混淆の宗教施設であったこと。
③当時の生駒藩の国奉行は、三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛の3人であった。
④願主は尾池玄蕃で、藩主による寄進ではない。
当時の生駒藩を巡る情勢を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 4月より旱魃が例年続きり,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
同年4月 生駒高俊の命により,西島八兵衛・三野四郎左衛門・浅田右京ら白峯寺宝物の目録作成
ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、ため池築造に取りかかった。
④大川権現に、雨乞い用の鼓鐘寄進を行ったのは、満濃池の着工の年でもあった。
⑤難局を乗り切った三奉行に対して、藩主生駒高俊の信任は厚かった。
⑥生駒藩の国奉行の3人の配下の尾池玄蕃が大川権現に、鉦35ヶを雨乞いのために寄進した。

この鐘鼓が寄進された時期というのは、生駒藩存続の危機に当たって、三奉行が就任し、藩政を担当する時期だっただったようです。大川権現に「鐘鼓数三十五」を寄進したのも、このような旱魃の中での祈雨を願ってのことだったのでしょう。ただ注意しておきたいのは、由来には鉦は生駒藩主からの寄進とされていますが、銘文を見る限りは、家臣の尾池玄蕃です。
 寄進された鉦の形も大きさも滝宮系統念仏踊のものと同じで、踊りの内容もほぼ同じです。ここからは大川念仏踊りは、古くからの大川神社の雨乞神とは別に、寛永5年に生駒藩の重臣達によって、新たにここに「移植」されたものと研究者は考えているようです。

大川念仏踊りの歌詞
 南無阿弥陀仏は、
「なむあみど―や」
「なっぼんど―や」
「な―む」
「な―むどんでんどん」
「なむあみどんでんどん」
「な―むで」
などという唱号を、それぞれ鉦を打ちながら十数回位ずつ繰り返しながら唱います。その間々に法螺員吹は、法螺員を吹き込む。こうして一庭を終わります。
その芸態は、滝宮系念仏踊と比べると、かなり簡略化されたものになっていると研究者は評します。滝宮系では中踊は大人の役で、子踊りが十人程参加しますが、それは母親に抱かれて幼児が盛装して、踊の場に参加するだけで実際には踊りません。ところが大川念仏踊は、子踊りがないかわりに、中踊りを子供が勤めます。

滝宮念仏踊と大川念仏踊りには、その由来に次のような相違点があります。
①滝宮念仏踊りは、その起源を菅原道真の雨乞祈祷成就に求める
②大川念仏踊は、生駒藩主高俊が鉦を寄進して、大川山(大川神社)に念仏踊を奉納したことに重点が置かれている
踊りそのものは滝宮系念仏踊であるのに、滝宮には踊り込まずに地元の天川神社や大川神社に奉納する形です。
どうして、大川念仏踊りは滝宮に踊り込みをしなかったのでしょうか? 
それは、滝宮牛頭天王社とその別当寺の龍燈院が認めなかったからだと私は考えています。龍燈院は牛頭天王信仰の神仏混淆の宗教センターで、滝宮を中心に5つの信仰圏(北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組)を持っていました。そのエリアには龍燈院に仕える修験者や聖達が活発に出入りしていました。その布教活動の結果として、これらの地域は念仏踊りを踊るようになり、それを蘇民将来の夏越し夏祭りの際には、滝宮に踊り込むようになっていたのです。踊り込みが許されたのは、滝宮牛頭天王信仰の信仰エリアである北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組だけです。他の信者の踊り込みまで許す必要がありません。
 そういう目で見ると、大川権現は蔵王権現系で、滝宮牛頭天王の修験者とは流派を異にする集団でした。それが生駒藩の寄進を契機に滝宮系の念仏踊りを取り入れても、その踊り込みまでも許す必要はありません。こうして新規導入された大川念仏踊りは、滝宮牛頭天王社に招かれることはなかったのだと私は考えています。

以上をまとめておきます
①大川山は丸亀平野の霊山で、信仰を集める山であった。
②古代には中寺廃寺が国府主導で建立され、讃岐の山岳寺院の拠点として機能した。
③中世には大川権現と呼ばれるようになり、山岳修験の霊地とされ多くの修験者が集まった。
④近世初頭の生駒藩時代に大旱魃が讃岐を襲ったときに、尾池玄蕃は雨乞い用の鉦を大川権現に寄進した。
⑤これは具体的には、滝宮念仏踊りを大川権現に移植させようとする試みでもあった。
⑥こうして大川権現とその周辺の村々では、大川念仏踊りが組織され奉納されるようになった。
⑦しかし、大川権現と滝宮牛頭天王社とは、修験者の宗派がことなり、大川念仏踊りが滝宮に踊り込むことはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 讃岐雨乞踊調査報告書(1979年) 15P 雨乞い踊りの現状」

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讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

 前回は 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」の「念仏踊り」について見ました。今回は「風流小歌踊系」を見ていくことにします。風流小歌踊系の雨乞い踊りは、初期の歌舞伎踊歌を思わせるような小歌が組歌として歌われ、その歌にあわせて踊ります。讃岐に残るものをリストアップすると次のようになります。
綾子踊  まんのう町佐文
弥与苗踊・八千歳踊        財田町入樋   
佐以佐以(さいさい)踊り     財田町石野   
和田雨乞い踊(雨花踊り)     豊浜町和田 
姫浜雨乞い踊 (屋形踊り)    豊浜町姫浜 
田野々雨乞い踊            大野原町田野々
豊後小原木踊              山本町大野 
讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞い踊り分布図
今でも踊られているのは綾子踊、弥与苗踊、さいさい踊、和田雨乞踊、田野々雨乞踊で、その他は踊られなくなっているようです。また小歌踊の分布は、東讃にはほとんどなく讃岐の西部に偏っています。念仏踊が滝宮を中心とする讃岐中央部に集中するのに対して、風流小歌踊は、さらに西の仲多度・三豊地区にかけて分布数が多いことを押さえておきます。この原因として考えられるのは、宗教圏のちがいです。東讃については、与田寺=水主神社の強い信仰圏が中世にはあったことを以前にお話ししました。この影響圏下にあった東讃には、「雨乞い踊り文化」は伝わらなかったのではないかと私は考えていま す。それでは、雨乞い風流踊りを見ていくことにします。綾子踊については、何度も触れていますので省略します。
佐以佐以(さいさい)踊は、財田町石野に伝承する雨乞踊で、次のように伝えられます。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

さいさい踊の起りについてはもう一つの伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

この伝説からは次のようなことがうかがえます。
①財田下に龍光寺という寺があり、龍王を祀っていたこと
②それが川上の戸川の鮎返しの滝付近に移され渓道(谷道)の龍王
と呼ばれるようになったこと
③三豊の詫間から塩商人が入ってきて、猪ノ鼻峠を越えて阿波に塩を運んでいたこと

また、さいさい踊りの歌詞の中には、第六番目に次のような谷道川水踊りというのが出てきます。
谷道の水もひんや 雨降ればにごるひんや 
うき世にすまさに ぬれござさま ござさま
(以下くつべ谷の水もひんや……とつづく)
また、さいさい踊りという歌もあって、次のように歌われます。

あのさいさいは淀川よ よどの水が出て来て 名を流す 水が出て来て名を流す……

雨乞踊の時に簑笠をかぶって踊れと云われていますが、雨を待ちわびて、雨がいつ降っても身も心も準備は出来ていますよと竜神さまに告げているのかも知れません。さいさい踊りが奉納されたのは、渓道(たにみち)神社で、戸川ダムのすぐ上流で、近くには鮎返りの滝があります。
渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道(たにみち)神社
また、佐文や麻は渓道(たにみち)神社の龍王神を勧進して、龍王祠を祀っていたことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りには、さいさい踊りと同じ歌もあるので、両者のつながりが見えて来ます。

財田町にはさいさい踊りの他に、弥与苗(やおなや)踊があります。
弥与苗踊は八千歳踊と共に入樋部落に伝承されています。この縁起には俵藤太秀郷の伝説がついていて、次のように語られています。

昔、俵藤太秀郷は竜神の申しつけで近江の国の比良山にすむ百足を退治しょうとした。その時に秀郷は竜神にむかってわが故郷の讃岐の国の財田は雨が少なくて百姓は早魃に苦しんでいます。もし私がこの百足を退治することが出来たならばどうぞ千魃からわが村を救い給えと祈ってから百足を退治した。竜神はそれ以後、財田には千害が無いようにしてくれた。秀郷は財田の谷道城に長らく居住したが、他村が旱魃続きでも財田だけは降雨に恵まれ、これを財田の私雨(わたくしあめ)とよんでいた。

このような縁起に加えて、今も財田の道の駅がある戸川には俵藤太の墓と伝えるものや、ある家には俵藤太が百足退治に使ったという弓が残っていると云います。弥与苗踊はもともとは、盆踊りとしても踊られていたようです。真中に太鼓をすえて、その周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されていったことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたと研究者は考えています。

豊浜和田雨乞い踊り
和田の雨乞い踊り(観音寺市豊浜町)
豊浜の和田雨乞踊と姫浜雨乞踊を見ておきましょう。
和田と姫浜とは、ともに豊浜町に属していて、田野々は大野原町五郷の山の中にあります。これらの雨乞踊は伝承系統が同じと武田明氏は考えます。和田の雨乞踊の歌詞は、慶長年間に薩摩法師が和田に来てその歌詞を教えたとされます。それを裏付けるように、歌詞は和田も田野々も、「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられます。和田から田野々へ伝わったようです。
和田の道溝集落の壬生が岡の墓地には、薩摩法師の墓があります。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町道溝)
その墓の建立世話人には和田浜、姫浜、和田、田野々の人々の名前が連なっています。法師の信者達だった人達が、供養のために建てたものでしょう。この墓の存在も、雨乞踊の歌が薩摩法師という廻国聖によってもたらされたものであることを裏付けます。しかし、「薩摩法師の伝来説」には、武田明氏は疑問を持っているようです。 
さつま(薩摩)小めろと一夜抱かれて、朝寝して、
おきていのやれ、ぼしゃぼしゃと  
さつま(薩摩)のおどりをひとおどり……
この歌詞には「さつま(薩摩)」が確かに出てきます。これを早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性があるというのです。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。和田、田野々などの歌は、琵琶法師によってもたらされたものとします。芸能運搬者としての琵琶法師ということになります。琵琶法師も広く捉えると遍歴の聖(修験者)になります。
 和田も田野々も、踊るときにはその前の夜が来ると笠揃えをして用意をととのえます。田野々では夜半すぎから部落の中央にそびえる高鈴木の竜王祠まで登ります。夜明けになると踊り始めて、何ケ所かで踊った後に法泉寺で踊り、最後は鎌倉神社で踊ることになっていたようです。

風流小唄系の踊りに詠われている歌詞の内容については、綾子踊りについて詳しく見ました。その中で、次のようにまとめておきました。
①塩飽舟、たまさか、花かご、くずの葉などのように、三豊の小唄系踊りと共通したものがあること
②歌詞は、雨を待ち望むような内容のものはほとんどないこと。
③多いのは恋の歌で、そこに港や船が登場し、まるで瀬戸内海をめぐる「港町ブルース」的な内容であること。
どうして雨乞い踊りの歌なのに、「港町ブルース」的なのでしょうか? それに武田明は次のように答えています。
もともとは雨乞のための歌ではなかったのである。
それが雨乞踊の歌となったのに過ぎないのであった。
私なりに意訳すると「雨乞い風流踊りと分類されてはいるが、もともとは庶民は祖先供養の盆踊唄として歌ってきた。それが雨乞成就のお礼踊りに転用された」ということになります。

最初に見たように雨乞風流小歌踊は、三豊以外にはないようです。
佐文の綾子踊だけが仲多度郡になりますが、佐文は三豊郡との郡境です。これをどう考えればいいのでしょうか。武田明氏は次のように答えます。

このような小歌を伝承し伝播していた者が三豊にいて、それが広く行なわれているうちに雨乞踊として転用されていったのではないかと想像される。そして前述の薩摩法師と伝えているものもそうした伝播者の一人でなかったかと思われる。

  芸能伝達者の琵琶法師によって伝えられた歌と踊りが、先祖供養の盆踊り歌として三豊一円に広がり。それが雨乞踊りに転用されたというのです。卓見だとおもいます。

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滝宮念仏踊りの各組の芸司たち
念仏踊りや綾子踊りでは芸司(ゲイジ・ゲンジ)・下司(ゲジ)が大きな役割を担います。
これについて武田明氏は次のように記します。

芸司は踊りの中でもっとも主役で、滝宮念仏踊では梅鉢の定紋入りの陣羽織を着て錦の袴を穿いた盛装で出て来る。芸司にはその踊り組の中でも最も練達した壮年の男子が務める。芸司は日月を画いた大団扇をひらめかしてゆう躍して、踊り場の中を踊る。それは如何にもわれ一人で踊っているかの様子である。他の踊り手が動きが少ないのに反してこれは異彩を放っている。土地によっては芸司は全体の踊りを指導するというが指導というが、自からが主演者であることを示しているようにも思える。或いは芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えているのではないかとも思われる。

 ここで私が注目するのは「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」という部分です。各念仏踊りの由来は、菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになったと伝えます。しかし、年表を見ればすぐ分かるように、念仏踊りが踊られるようになるのは中世になってからです。菅原道真の時代には念仏踊りはありません。菅原道真伝説は、後世に接ぎ木されたものです。また念仏踊りの起源を法然としますが、これも伝説だと研究者は考えています。45年前に「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」と指摘できる眼力の確かさを感じます。

以前に兵庫県三田市の駒宇佐八幡神社の百石踊の芸司(新発意役)について以前に、次のようにまとめておきました。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
百石踊の芸司 服装は黒染めの僧衣
①衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰までからげ上げる。
②月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。
③踊りが始まる直前に口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊る。
百石踊りの新発意役(芸司)は、実在する人物がいたとされます。それは文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都です。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したことは以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。研究者は注目するのは、次の芸司の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、以下のものを好んで使用したとされます。
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
彼らは人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。民俗芸能にみられる芸司は、本願となって祈祷を行った修験者や聖の姿と研究者は考えています。
 しかし、時代の推移とともに芸司の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る所は少なくなったようです。芸司の服装についても変化しているようです。滝宮念仏踊りで出会った地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

以上からは芸司の服装には次のような変化があったことがうかがえます。
①古いタイプの百石踊の「芸司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で、庄屋の格式衣装
③現在の滝宮念仏踊りの芸司は、陣羽織
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、今は金ぴかの陣羽織に変化してきています。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっているようです。

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滝宮念仏踊りの芸司の陣羽織姿
滝宮念仏踊の中で子供が参加するのを子踊りとよんでいます。
いつ踊りだすのかとみていると、最後まで踊ることなく腰掛けています。どうして踊らないのでしょうか? 武田明氏は次のように記します。
子踊りは菩薩を象徴すると言って、入庭(いりは)の際には芸司の後に立つ。すなわち社前の正面で芸司についで重要な位置である。しかし、いよいよ踊りが始まると、社殿に向って右側の床几に腰を下して踊りのすむまでは動かない。その子供達は紋付き袴の盛装でまだ幼児であるために近親のものがつきそっている。子踊りの名称はありながら踊らない。その上、滝宮念仏踊では子踊りの子供は大人によって肩車をされて入庭するのが古くからの慣習であった。これはおそらくはその子供を神聖なものとして考えて踊りの庭に入るまでは土を踏ませないことにしていたのである。古い信仰の残片がここに伝承されていることを私達は知ることが出来る。滝宮を中心とする地方で肩車のことを方言でナッパイドウと言うが、この行事が早くからこの地方にはあったことを示している。

ただ南鴨念仏踊だけで子踊りが芸司の指図に従って踊っていて、それが特色であるように言われているが、私はかって南鴨念仏踊の保持者であり復興者であった故山地国道氏に聞いたことがある。どうして南鴨だけが子踊りが踊るのですかと言うと、山地氏はいやあれは人数が少ないとさびしいので、ああ言う風にしましたと私に語るのであった。その言葉を信じるとどうも復興した折に、ああ言う風に構成したように思われる。
 善通寺市の吉原念仏踊というのは南鴨の念仏踊の復活以前の型をそのまま移したというが、ここの子踊りは子供は踊らず、ただ団扇で足元だけをナムアミドウの掛声に合せて軽く打つ程度の所作しかしなかった。すなわち踊ることなどはしないという。それを以て見ても南鴨念仏踊の子踊りの所作が古型そのままであると考えることは出来ないのである。

子踊りに所作がなく、踊りの庭に滝宮の例のように肩車をして入って来る。また滝宮ではこれを菩薩の化身と見るということは子踊りの子供自体を考える上において極めて貴重な資料である。おそらく子踊りは神霊の依座と考えていたのである。すなわち子踊りの子供に踊りの最中に神霊の依るのを見て、雨があるかどうかを見ていたのである。子踊りは念仏踊りにおいて古くはそのように重要な意味を持つていたのである。

武田明氏は民俗学者らしく小踊りが踊らない理由を「神霊の依座」として神聖視されていたからとします。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
しかし、七箇村念仏踊りを描いた諏訪大明神念仏踊図(まんのう町諏訪神社)を見ると8人の子踊りは、芸司と共に踊っているように見えます。また、七箇念仏踊りを継承したと思われる佐文の綾子踊りでは、主役は子踊りです。武田氏の説には検討の余地がありそうです。

綾子踊り4
佐文綾子踊りの子踊り

坂出の北条念仏踊には大打物と称する抜刀隊がいます。
その人数は当初は24人で、後には40人に増やされたといいます。どうしてこんな大人数が必要だったのでしょうか。
これについては武田明氏は、次のような「伝説」を紹介しています。

正保年間の念仏踊りの折に七箇村念仏踊は滝官へ奉納のために出掛けて行った。ところが洪水のために滝宮川を渡ることが出来ないでいた。昼時分までも水が引かないので待っていたが、 一方北条念仏踊はその年は七箇組の次番であったのだが待ち切れずに北条組はさきに入庭しようとした。すると、これを見た七箇組の朝倉権之守は急いで河を渡り北条組のさきに入場しようとした事を抗議して子踊り二人を斬るという事件が起った。それから後、警固のために抜刀隊が生れた。

 この話をそのまま信じることはできませんが、武田明氏が注目するのは抜刀隊(大打ち物)の服装と踊りです。頭をしゃぐまにして鉢巻をしめ袴を着て、白足袋で草鞋を履いています。右手には団扇を持ち、左手には太刀を持ちます。そして踊り方は、派手で目立ちます。ここからは抜刀隊(大打ち物)は事件後に新たに警固のために生まれたものではなく、何か「別の芸能」が付加されたものか、もとは滝宮念仏踊とは異なる踊りがあったと武田明は指摘します。
 北条念仏踊には他の念仏踊に見ないもう一つの異なる踊りがあるようです。
それはあとおどり(屁かざみ)と言って、芸司のあとにつづいてゆく者が、おどけた所作をして踊るものです。こうして見ると北条念仏踊は、滝宮念仏踊の一つですが、多少系統を異にすると武田明は指摘します。
 綾子踊り入庭 法螺・小踊り
佐文綾子踊り 山伏姿の法螺貝吹き
法螺貝吹きについては、武田明は次のように記します。
入庭の時には先頭に立って法螺貝を吹きながら行くのである。また、念仏踊りによっては踊りはじめの時に吹くところもある。鉦、筒、鼓ち太鼓などと違って少し場違いな感じがしするものである。法螺貝吹きは念仏踊が修験の影響をうけていることを音持しているのかも知れない。(中略)
 また、念仏踊りでも悪魔降伏のために薙刀を使ってから踊りはじめるのだが、綾子踊では薙刀使いが棒使いが踊りの庭の中央て問答を言い交わす。これはやはり山伏修験がこの踊りに参加していたことを物語るものであろうか。
綾子踊り 棒と薙刀
    薙刀と棒振りの問答と演舞(綾子踊り)
このように滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りと山伏修験との関わりについて、45年前に暗示しています。
これについては、宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」が参考になります。
はなとりおどり・正木の花とり踊り
            はなとり踊り
「はなとり踊り」にも、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に修験者がやっていました。
 はなとり踊りの休憩中には希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。ここからは、はなとり踊が修験者による宗教行事であることが分かります。行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは修験者たちだったことが分かります。里人の不安や願いに応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは修験者たちだったのです。それを民俗学者たちは「芸能伝播者」と呼んでいるようです。

滝宮念仏踊には願成就(ガンジョナリ)という役柄があります。
南鴨念仏踊などでは、この役柄の人が「ガンジョナリヤ」と大声で呼ばわってから踊りが始まります。「雨乞い祈願で、雨が振ってきた。諸願成就したぞ」と大声で叫んでいるようです。そうだとすれば、念仏踊りは雨が降ったための御礼の踊りであったことを示していることになります。
「私雨(わたくしあめ)」ということばが、財田の谷道神社や佐文の綾子踊りの由来には出てきます。 
どんな意味合いで使われているのでしょうか。武田明氏は次のように記します。
旱魃の時に雨が降らなければ村の田畑は枯死する。そこで雨乞い祈願には、その村落共同体のすべての者が力を結集してあたった。雨が降ればその村のみに降ったものとして財田や佐文では「私雨(わたくしあめ)」と呼んだ。この言葉の中には、自分の村だけに降ったという誇りがかくされている。夏の夕立は局地的なもので、これも「私雨(わたくしあめ)」とも呼んでいた。

雨乞い踊りの組織と規模について武田明は、次のように記します。

村に人口がふえてくるにつれて起りはささやかな雨乞踊だったものが次第に大きい規模になっていったことも容易に想像出来る。大きくなっても重要な役割の者はふやすことは難しい。それは芸司(げんじ)のように世襲になっているものもあるし、法螺貝吹きなどのように山伏などの手によらねばならぬものもあった。しかし、外まわりに円陣を作って鉦を鳴らすとか、警固の役の人数はそれ相当に増やすことは出来た。そうすると、分家によって家が増えたり、新しく村入りして来た者があったとしても誰もが参加することが出来た。こうして、もとは少人数であったものが次第に大がかりなものになって来たことが想像される。

 雨乞念仏踊は共同祈願であったためにその村落の結束は非常に強固であった。殊に滝宮へ出向いてゆく踊り組は他の村の踊り組に対して古くは非常な関心を持っていた。そこで争わないように踊りの順番までがはっきりと定められていた。それを破ったというので七箇村組が北条組との間に争いを起したのであった。しかしこのような事件はこれほど大きい事件にならなくても、これに類似した事件は再三起っていたことが記録の上では明らかである。これはどういう事であろうか。やはり踊り組の結束というか、要するに村落共同体の一つの重要な仕事であるだけに他村に対して排他的とは言わないまでも異常な関心を持っていたからであろう。

滝宮への踊り込みを行っていた念仏踊りの各組については、その後の研究で次のようなことが分かっています。
①念仏踊りは、中世に遡るものでもともとは各郷の惣村神社の夏祭りに奉納された先祖供養の盆踊りであった。
②その構成メンバーは宮座制で、惣村を構成する各村毎に役割と人数が配分されていた。
③滝宮への踊り込みの前には、各村々の村社を約1ヶ月かけて巡回して、最後に惣社に奉納された後に滝宮へ踊り込んだ。
④各組は郷を代表するものとしてプライドが高く、争いがつきもので、その度に新たなルールが作られた。
⑤「惣村制+宮座制」で、これをおどることが各村々での存在意味を高まることにつながった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

    以前から探していた冊子を手にすることが出来ました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

今から約45年前に刊行された「讃岐の雨乞い踊」調査報告書です。この巻頭の「雨乞踊りの分布とその特色」は武田明氏によるものです。当時の武田氏が、県下の雨乞い踊りについてどのように考えていたのかがうかがえます。今回はその中から念仏踊りについて見ていくことにします。テキストは「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
最初に武田明氏は、雨乞踊を次の二つに分けます。

① 念仏踊 
南無阿弥陀仏の称号を唱えながら踊るもので、それが訛ってナッパイドウ、ナモデ、ナムアミドウヤなどと唱和しながら踊っているもの

②風流小歌踊 
小歌と思われる歌詞を歌いながらそれにあわせて踊る

そして讃岐に残る念仏踊として、以下を挙げます。
北村組  滝宮北、滝宮萱原、羽床上 羽床 西分 山田 千疋 
七箇組  神野、古野、七箇 十郷 象郷
坂本組  坂本 川西  法勲寺  川津  飯野
北条組    松山 加茂  林田  西庄 金山 坂出
南鴨組  南鴨
吉原組  吉原
美合組  美合
これを地図に落としたものが次の分布図になります。

讃岐雨乞い踊り分布図

ここからは次のようなことが分かります。
①綾歌・仲多度の中讃地方に伝承されている踊りが多いこと
②西部の三豊郡や東部の大川郡や高松地方には念仏踊りは伝承されていないこと。
③特に綾歌郡の綾南町滝宮を中心としたエリアが分布密度が高い。
北村組、七箇村組、坂本組、北条組もかつては滝宮神社と滝宮天満宮に奉納され、「滝宮念仏踊」と総称されていました。しかし、この滝宮念仏踊の組は、現在では踊られなくなった組があったり、滝宮への奉納をしなくなった組もあります。現在、滝宮への奉納を行っているのは、次の通りです。
1組 西分 牛川 羽床上(綾歌郡旧綾上町)
2組 山田上 山田下  (綾歌郡旧綾上町)
3組 羽床下 小野 北村(綾歌郡旧綾南町)
4組 千疋  萱原 北村(綾歌郡旧綾南町)(北村組は二回奉納)
滝宮念仏踊り 御神酒
    滝宮天満宮に奉納された12組の御神酒(西分奴組を含む)

もともとはまんのう町の七箇村組や、坂出の北条組などからも奉納されていましたが、幕末から明治頃には途絶えたようです。また、高松藩以前の生駒藩時代には、多度津の南鴨組や吉原組も滝宮に奉納していたことは以前にお話ししました。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 この分布図を見て武田明氏は「滝宮を中心とした地方に念仏踊の分布が著しいのはどう言う理由からであろうか。」と問いかけます。
その答えとして用意されているのが次の2点です。
①滝宮神社に対する雨乞いの信仰が強力であったこと
②菅原道真の城山の神に祈雨したという伝説にもとづくもの
①については、龍神を祀る山や渕が、一字の祠堂になった例を挙げます。そしてその中にはおかみ〈澪神)を祭礼とするものが多く、非常に古い信仰の姿をとどめていることを指摘します。万葉集巻二の中の出てくる「おかみ」です。
わが里のおかみに言ひて降らしめし
雪のくだけしそこに散りけむ
そして次のように述べます。

このような祈雨の神としての信仰の中心地が讃岐にはいくつかあった。その中でも綾川流域の滝宮の信仰は、もっとも強大であったのである。もともとこの地には北山龍灯院綾川寺という寺があった。そしてこの寺は綾川の深渕に沿うて建っていたのである。この測は古くは蛇渕と言い、龍神が接んでいると信じられていた。また傍に一本の大木があって、龍神がその木に来って龍灯を点ずると言われていた。すなわち非常に強力な龍神信仰を伴なっていたわけである。

滝宮神社・龍燈院
  滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
そして龍灯院綾川寺に伝わる次のような伝説を紹介します。
綾川寺の僧空澄は道真公の帰依僧であった。
菅公が太宰の権師として筑前に向い流されて行く途中で船は風波の難にあって、現在の下笠居の牛鼻浦に寄港した。それを聞くと、空澄は取るものもとりあえず牛鼻浦に行き、遠くへ流されて行く菅公に逢った。菅公は空澄に衣を脱いで与へまた自画像と書写された心経とを与えた。やがて、菅公は筑紫に下向したが、筑紫で死去するや空澄はこれらの遺品を祀って滝宮天満宮を建立したという。綾川寺の傍には、占くからの滝宮神社があるので、滝宮神社と天満宮の三社は何れも南面して並んでいる。
そして、滝宮念仏踊をまず奉納するのは滝宮神社であり、 ついで天満宮に奉納するのである。すなわち滝宮を中心とした念仏踊群がよく発達しているのは龍神の信仰と菅公祈雨の伝説かひろく並び行われた為であると考えられる。

  以上を「意訳要約」しておきます。
①綾川屈折地の羽床のしらが渕から滝宮にかけては、古代からの霊地で信仰の中心地であった。
②そこに中世になって龍灯院綾川寺が建立され、滝宮神社の別当寺となって神仏混淆が進んだ
③龍灯院綾川寺は菅原道真伝説を接ぎ木して、滝宮天満宮の別当職も務めた。
④こうして龍燈院による滝宮神社と天満宮の管理・運営体制が中世に形作られた
ここで押さえておきたいのは、滝宮神社がかつては「滝宮牛頭天王社」と呼ばれていたことです。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院滝宮寺と滝宮(牛頭)神社(讃岐国名勝図会 拡大)

牛頭天王信仰は、京都の八坂神社や姫路の神社がよく知られています。

そこでは修験者たちが各国を廻国して、自分たちの信仰テリトリーで「蘇民将来のお札」や「豊作祈願」「牛馬の安全」などのお札を配布していたことは以前にお話ししました。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
   牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札
中世の龍燈寺と滝宮牛頭天王社の修験者や聖達も、同じように周囲の信仰エリアの信者達にお札を配布する一方で、日常的な接触を持つようになったことが考えられます。中世は西方浄土での極楽浄土を願う念仏が大流行した時代です。その中で、最初に最も多くの信者達を獲得したのは時衆の踊り念仏でした。その結果、いろいろな宗派がこれを真似るようになり、一次は高野山でも時衆の念仏聖が一山を乗っ取るほどの勢いを見せたことは以前にお話ししました。讃岐でもこのような動きが広がります。その拠点の一つとなったのが龍燈院滝宮寺であったのではないかと私は考えています。高野山の真言宗のお寺がどうして「南無阿弥陀仏」を唱えるのかと、最初は私も疑問に思いました。しかし、先ほど見たように高野山自体が時衆の念仏聖達に占領されていた時代です。また近世の四国辺路の遍路達も般若心経ではなく「南無阿弥陀仏」を唱えていたことも分かってきています。龍燈寺の修験者や聖達も教線拡大のために踊り念仏を広めたのではないでしょうか。修験者や聖達は、宗教だけでなく「芸能媒介者」でもあったことは以前にお話ししました。こうして滝宮牛頭天王社の信仰圏には、踊り念仏が定着していきます。そして夏の大祭には、信者達が大挙して踊り組を送り込んでくるようになります。それが先ほど見た坂本組や七箇組・北条組などの踊組になるのです。

滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 ここで注意しておきたいのは、もともとはこれらの踊りは「雨乞い踊り」ではなかったことです。
奈良などの風流踊りの由来には「雨乞成就」のための踊りと記されています。坂本組の由緒書きにも「菅原道真公による雨乞祈願成就へのお礼踊り」のためと記されています。さらに七箇踊りでは「大旱魃で忙しいので念仏踊りは今年は中止する」という年もありました。近世には念仏踊りを踊っている人達には、これが雨乞いのために踊っているという意識はなかったことがうかがえます。
 近世の人々は「竜神に雨乞いを祈願できるのは、修行を積んだ験の高い高僧や修験者」と考えていたようです。何の験もない自分たちが踊って、雨を振らせることなどお恐れ多いことと考えていたはずです。自分たちの力で雨を振らせようとするようになるのは近代以後のことです。農民達は念仏踊りを、祖先供養のために踊っていたと私は考えています。
多度郡 明治22年
南鴨組のメンバーの村々

武田明氏は多度津の南鴨念仏踊についてついて次のように記します。
この組もかっては滝宮へ踊りを奉納していたと言い、今では滝宮念仏踊群の中には人っていないがやはり菅公祈雨の伝説を持っている。すなわち仁和四年(888)の大千魃の折に菅公は城山の神に雨を祈るとともに北鴨道隆寺の理源大師を頼み牛頭天王社に祈祷を命じられたという。すると滞然として雨が降り百姓は菅公の前に集って狂喜乱舞した。これが南鴨念仏踊の起りであると言う。やがて道真公は鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請したが、理源大師を先達として多数の山伏がこの勧誘の行列には加わったという。そしてその折にも踊りの奉納があったと請うが、このような伝承はやはり念仏踊の中には修験の影響があったことを意味している。現に南鴨念仏踊においてはまず貝吹きが法螺の員を山伏の行装で吹くし、また滝宮念仏踊においても員吹きは重要な役割を背負っていることからも明らかである。なお、南鴨念仏踊は現在は南鴨の加茂神社の境内で行なっているが、加茂神社は別雷神を祭神とし、別雷神は降雨をもたらす神として信仰されていたからである。

以上を要約すると
①菅原道真は城山での雨乞い祈祷の際に、多度津道隆寺の理源大師に牛頭天王社への祈祷を命じた
②雨乞い祈願が成就して、狂喜乱舞し踊ったのが南鴨念仏踊りの起源である。
③菅原道真はそのお礼に、鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請した。
④その際には理源大師を先達として多数の山伏が、この勧誘の行列には加わった
⑤以上から念仏踊りには、念仏系修験者や聖達が大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
 
 多度津の南鴨念仏踊が滝宮への踊り込みを行っていたことは史料からも確認できます。それが近世初頭には、中止されます。それはどうしてなのでしょうか?
 生駒藩では龍燈院への保護政策として、各地からの踊り込みを奨励するような動きがあったことは以前にお話ししました。
ところが生駒藩転封以後に讃岐は東西に分割されます。高松藩の初代藩主としてやって来た松平頼重は独自の宗教政策を持っていました。彼は、龍燈寺保護と賑わい創出のために、念仏踊りの踊り込みを許可します。しかし、丸亀藩領となった多度津の南鴨からの踊り込みは、他国領土であるという理由で許さなかったようです。それ以外の4つの組からは「雨乞成就のお礼踊り」という
「大義名分」付で許可されたのです。

善通寺の吉原組の念仏踊について、武田明は次のように記します。

ここにもまた管公城山の神に雨を祈った伝説を付加していて、ここではその干魃の折に吉原の村人が火上山の中腹にある龍王の祠に鉦や太鼓を持ち出して踊ったのがその起りであるという。しかし、ここでは古老の伝えるところによると、古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まったものだと言っている。永らく廃絶していたが今では復興されて現在に至っている。

南鴨組滝宮念仏道具割
 南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
南鴨の念仏組の史料には、構成メンバーの村々の名前と役割分担が記してあります。この中に吉原組もあります。ここからは吉原組も、南鴨組の一員であったことが分かります。先ほど見たように、南鴨や吉原村が丸亀藩に属することになって、滝宮への踊り込みが出来なくなります。そのため南鴨組を構成する村々では、村単独で踊りを残そうとしていたことがうかがえます。そういう意味では「古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まった」という認識は誤っていません。

まんのう町美合中通の念仏踊(大川念仏踊り)は、どの念仏踊よりも素朴だと武田明氏は評します。
香川県琴南町(現まんのう町) 大川念仏踊り 東雲写真館

 この踊りは大川山の頂上で踊り祈雨を祈願してから山を下って中通の八幡宮で踊り、最後には土器川上流の龍神渕の傍で踊って踊り納めることになっている。この踊りも一時は滝宮まで行っていたというがそれは詳かでない。
武田明氏が注目するのは、多度津町高見島のナモデ踊りです。

高見島なもで踊り
多度津町高見島のナモデ踊り

踊り自体が今まで紹介した念仏踊とは、異なっているというのです。
踊りの唱和の中に
ナモデ(テンテレツクテン)ナモデ‥‥
などという言葉があるので、一応は念仏踊の中に入れられているようです。もともと、この踊りは旧盆(旧7月13、14日)に行われていたものです。高見島には浦と浜との二つの集落があって、その集落の中間にある海浜まで来て二つの集落の者が踊っていたようです。まず踊りのはじめに
鹿島の神のかなめ石
と歌い、それからは中央の者が太鼓を打って踊り円陣を作った周囲の者がナモデナモデと囃し立てます。ここで武田明氏が注目するのはせんだんの本の枝を持った者が先頭に立って参加することです。せんだんの木は、盆に訪れて来る精霊のための依代なのかもしれないと武田氏は、次のように推測します。

遠い常陸の国の鹿島の信仰に見える鹿島送りの行事、或いはその年の作物の豊凶や一年間のうらないを告げていた鹿島の言ぶれなどが背景にあってこのような歌詞が海を越えて伝わり、やがてはそれが念仏踊と習合したと云うのです。何れにしても、高見島のナモデ踊りは讃岐の各地に見る念仏踊とは異種のものだ。

 最後に武田明氏は次のような文で閉めます。
ナモデ踊り以外の念仏踊はそのほとんどが法然上人との間に何らかのつながりがあったことを伝えている。滝宮念仏踊では建久四年に法然上人が讃岐に配流された時に念仏修行を里人に説きこの踊りを振りつけしたと伝えている。はたしてそういう事があったかどうかは考察しなければならないが、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら踊る念仏踊が法然上人の念仏修行に結びついてこうした伝説となったものであろう。

これに対して、讃岐叢書民俗編の筆者は、讃岐の念仏踊りの起源は法然上人ではない。それは時衆の一遍の踊り念仏をルーツとするものだという立場に立っています。私も後者を支持します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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佐文誌には、1939(昭和14)年の大干魃の時に青年団が雨乞いのために、金刀比羅宮に参拝して神火を貰い受けてきたことが、白川義則氏の日記として次のように載せられていました。(意訳)。
(1939年)7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)

ここからは金毘羅さんが雨乞祈願先として選択されていることが分かります。そして金毘羅は近世から雨乞の聖地としても農民達の信仰を集めたいたという説もあります。これは本当なのでしょうか?

今回は金刀比羅宮の雨乞祈願について見ていくことにします。
テキストは「前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)」です。
明治維新の神仏分離で、金毘羅さんは大権現という仏式スタイルから金刀比羅宮(神道)へと大きく姿を変えます。同時にそれまでなかった信仰スタイルを打ちだすようになります。それが「海の守り神」というスローガンです。ここで注意しておきたいのは「海の神様」という信仰は、金毘羅大権現時代にはあまり見られなかったことです。これは幕末から近代になって、大きく取り上げられるようになったものであることは以前にお話ししました。特に明治になって琴綾宥常によって設立された「大日本帝国水難救済会」の発展とともに拡がっていきます。ある意味では、明治の金刀比羅宮になってから獲得した信仰エリアともいえます。これと同じようなものが雨乞信仰なのではないかと私は考えています。
金光院の「金光院日帳」で、雨乞いに関する記事を見ていましょう
金光院日記は、金昆羅大権現の金光院の代々の別当が記した一年一冊の公用日記です。宝永5年(1715)から幕末まで続く膨大な記録ですが、公用的な要素が強くて、読んでいてもあまり面白いものではありません。それを研究者は雨乞記事を抜き題して、次のように一覧表化します。
金毘羅大権現への雨乞一覧 江戸時代
江戸時代の金毘羅大権現の雨乞記録(金光院日帳)

一番最初に、正徳3年(1713)7月2日に「那珂郡大庄屋ョリ雨乞願出」とあります。これが最も早い記録のようです。ここからは次のようなことが分かります。
①約百年間で、雨乞事例は15例と少ない。
②近隣の那珂郡や多度郡に限られている他には、高松藩や丸亀藩からも雨乞祈願があるだけであった
③祈願者は、庄屋や奉行・代官・山伏などで、そこには農民の姿は見られない。
これを見ると江戸時代の金毘羅大権現は、雨乞祈願のメッカとしては農民に認知されていなかったことがうかがえます。

以前にお話したように、讃岐各藩では雨乞祈願のための「専属寺院」が次のように指定されていました。
高松藩   白峰寺
丸亀藩   善通寺
多度津藩  弥谷寺
これらの真言宗の寺で、空海によって伝えられた善女(如)龍王を祀り、旱魃時には藩の命で雨乞祈祷を行っていたのです。正式な寺社では、公的な雨乞いが行われ、民間では山伏主導のさまざまな雨乞いが行われる「棲み分け現象」がとられていたことは以前にお話ししました。
 そし、明治時代の雨乞い記事は「名東県高松支庁より祈雨の祈祷を命じられる」と1例あるだけで、明治6年8月10日から17日まで雨乞祈祷が行われているだけです。明治・大正は、このような状況が続きます。
 それが大きく変化するのが1934(昭和9)年です。

 金刀比羅宮雨乞一覧1934年の旱魃
1934年の金刀比羅宮への雨乞祈願 
象頭山麓の村々を中心に、愛媛・高知・岡山など遠方から、雨乞いの祈祷に人々がやって来ています。この背景には、この年に西日本全体が大干魃に襲われたことがあるようです。時の香川県知事が「雨乞祈願」として、善通寺11師団長に大砲を大麻山に向けて発射することを依頼しています。また県知事は、各市町村に雨乞いを行うように通達しています。これを受けてさまざまな雨乞い行事が、旧村ごとに行われます。
この表からは次のような事が読み取れます。
①1934(昭和9)年7月2日から8月18日の間に67の団体からの雨乞祈願参拝があった。
②「祈願者 部落名他」という項目にあるように、祈願者が市町村ではなく「部落(近世の村)」であったこと
③旱魃深刻化する7月初旬から、大川郡・木田郡・香川郡など、香川県東部の村や町から始まった
④地元の仲多度郡からは「7月9日郡家村大林 11日十郷村買田 12日十郷村宮田」が7月中見える。
⑤8月になると、仲多度・三豊・綾歌郡などにも拡がっていくが、すべての村々が雨乞祈願におとづれているわけではない。
⑥佐文集落の名前はないので、この年の旱魃には金刀比羅宮への雨乞祈祷は行っていなかったようです。佐文が初めて金毘羅さんへ神火をもらいに行くのは、1939年からだったことが分かります。
「神火返上日」という欄があります。これはもらって帰った神火の返上日が記されています。神火は、験があってもなくても必ず返上しなければならなかったようです。

金毘羅さんからいただいた神火は、どのようにあつかわれていたのでしょうか? 武田明氏は、次のように記します。
讃岐の大川郡や綾歌郡の村々では雨が降らないとこんぴらのお山に火をもらいに行く。
  昔の村落の生活には若衆組の組織があったから何日も雨が降らぬ日がつづくと、村の衆がよりより相談の上、若衆に火をもらいに行ってもらう。割竹を数本巻いて、長さが一米ばかりのたいまつを作る。竹の中には火縄を入れて尖端にはボロ布などをつける。若衆はそれを持って行き、こんぴらさまの本宮で神前に供えた燈明の火をもらい、我村まで走って帰る。途中で火が消えてはならぬのでリレー式にうけついで、やっとわが村へ帰ると、其の火を村の氏神の燈明にうつして、村の衆一同で祈願をこめる。そうすると雨が浦然と降ってくるのだという。

 「神火」を持ち帰える時の注意は、次の通りでした。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
1939年の大干魃の時には佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいて降雨祈願したことを以前にお話ししました。

以上から私が疑問に思うことを挙げてみます
①明治・大正期に金毘羅さんに雨乞いに訪れる集落はなかったのに、どうして昭和9年になって急増したのか。
 これを解く鍵が1934(昭和9)年の次の写真です。

DSC00556
 盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝(金刀比羅宮)
この写真は1934(昭和14)年7月7日に始まった盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝の模様です。場所は、金刀比羅宮本宮前です。説明文には次のように記されています。
 皇威宣揚と武運長久の祈願祭を行った。遠近各地より参拝者が多く、終日社頭を埋め尽くした。写真は、県下青年団が団旗のもと参拝した時のようす。提供 瀬戸内海歴史民俗資料館)

ここに集まっているのは、武運長久を祈願する各町村の男女青年団員であることが分かります。この時期の日本は、満州事変を起こして終わりの見えない「日中15年戦争」に突き進んでいました。戦争の長期化への対応策のひとつとして政府が推進したのが戦意高揚のための神社への集団参拝です。
DSC01528
金刀比羅宮に奉納された武運長久を祈願する幟

靖国神社や護国神社と共に地方の主要な神社が対象として指定されます。香川県では明治以来、神社庁の拠点があったのは金刀比羅宮でした。そこで、県下からの集団参拝先として選ばれたのが金刀比羅宮になります。その時にこの運動の先頭に立ったのが各集落の青年団でした。この時期の青年団員にとっては、集団参拝と云えば金毘羅さんだったのです。
戦時中の金刀比羅宮日参動員
家族・一族の金刀比羅宮への集団参拝

その結果、県知事が「雨乞祈願」を通達したときに、東讃の青年団の若者達は、金毘羅さんへ集団参拝して「神火」をもらって帰ります。それが青年団ネットワークを通じて、周辺へも広がり青年団による「神火」受領が大幅に増えたと私は考えています。
DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
                     戦時中の金刀比羅宮への集団参拝       
もうひとつの疑問は、それまでの佐文は、財田上の渓道(たにみち)龍王社から「神火」を迎えていました。それがどうして1939年の大干魃からは、金毘羅さんから迎えることに変更されたのか?
これも今説明してきた時流の中で、解けるように思います。
①満州事変後の国威発揚のための集団参拝の強制
②その先頭になって集団参拝を繰り返した青年団
③昭和の2つの大旱魃の際の「雨乞祈願」先として、金毘羅さんの選択
④それまでの雨乞信仰先であった財田上の渓谷龍王社から、金毘羅さんのへ転換

以上をまとめておくと、
①近世から大正時代までは、農民が金毘羅大権現を雨乞信仰先としていた史料はない。
②金毘羅さんが農民達の雨乞信仰の対象となるのは、国家神道のもとでの戦意高揚策が叫ばれるようになった戦前期のことである。
③それを定着させたのは、集団参拝を繰り返していた青年団が金毘羅さんの神火を迎えるようになってからのことである。

こうして見ると庶民信仰としての雨乞祈願が、時の国家神道に転換されたことになります。佐文ではそれまでの渓道龍王は次第に忘れ去られていきます。そして、戦後は金毘羅山からの「神火」のもらい請けだけが語り継がれることになります。

長い間、金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明氏は「金毘羅信仰が庶民信仰」として捉えられることに疑問を持っていました。
そして金毘羅大権現の成長・発展の契機は、次の点に求められると指摘します。
①長宗我部元親の讃岐支配の宗教センターとしての整備
②金光院院主の山下家出身のオナツが時の生駒家の殿様の寵愛を受けたことによる特別な保護
③髙松藩初代藩主松平頼重による保護
④その後の各大名の代参や石造物などの寄進
⑤明治維新でいち早く金毘羅大権現(仏式)から金刀比羅宮(神道)への転身に対する新政府の保護
ここからは時の支配者や政権の保護を受けて、それを庶民達が追認していくという道筋が見えて来ます。庶民信仰の前に権力者の庇護があり、それを利用しながら信仰拡大に結びつけた行った姿が見えてきます。戦前の金毘羅さんへの雨乞祈願にも、そのようなパターンがあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)

  
前回に佐文誌を読んでいると、6月18日に龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)が龍王講によって行われていたことが記されていました。そこからは龍王山は善女龍王の山として雨乞い信仰の山とされていたこと、その山腹に龍王祠が祀られていたこと、それを佐文の中筋の人達を中心に龍王講を組織してお奉りしていたことが分かります。

綾子踊り 入庭図4
綾子踊が奉納された龍王社(踊入始第二図:尾﨑清甫画)

  私は佐文の住人なのですが、龍王(リョウハン)祭りのことは何も知りません。約90年前の戦前のことは人々の記憶からは、さっぱりと消えていくようです。今回は、龍王(リョウハン)とは何者なのかを探って見たいと思います。
香川県の水資源対策課のHPには「鰻淵と龍王社」と題して、次のような話が載せられています。
 むかしむかし、あるところに源左衛門、源三郎という親孝行で信心深い兄弟が住んでいました。ある年の春から夏にかけてのことです。①百日あまりもの長い間、雨が降らず日照りが続き、作物は枯れ、村人達は、たいそう困っておりました。
そこで、その兄弟は、みなを見るにしのびず、話し合って山の峰にこもり、②龍王の神に、七日間雨乞いの祈願をしました。
そして最後の夜、③なんと美しい女神様があらわれて「かの所を掘れば願いは、かなうであろう」と夢のお告げがあったのです。兄弟は不思議なことだと思いながら、さっそくその場所を掘ると、きれいな水がこんこんと湧き出してきました。
兄弟の喜びはたいへんなもので、夜の明けるころまで、一生懸命に拝んでいますと、その中から五色の光がまばゆく輝いたかと思う間に、④小さな黒い鰻が現れて岩の上に登りました。
兄弟はなおも一心に「どうかみなが助かるよう、大雨を降らせてくだされ」と祈り続けました。すると小さい黒い鰻がもとのところに入ったと見る間に、一天にわかにかき曇り、たちまち強い雨が降りだしてきました。雨は田畑をじゅうぶんに潤し、作物はよみがえって、みなは助かりました。
そこで兄弟は、⑤鰻淵の岩の上に、石のほこらを立てて、竜神様をお祭りしたのです。それが「龍王社」で、人々は「おなぎ(うなぎ)さん」と呼んで詣でる者は後を絶たなかったということです。
書かれていることを要約すると
①大干魃の年に、②龍王社に7日間の雨乞い祈願をしたこと
③美しい女神が指定した場所を掘ると、④小さな鰻が現れた
④鰻によってもたらされた雨に感謝して、鰻淵に龍王社を建てて祀った。
「小さなうなぎ」とは、善女龍王伝説の説くところの龍神で、美しい女神とは「善女龍王」のことのようです。近世以後に広がりを見せた善女龍王伝説の系譜が感じられるお話しです。このような説話が讃岐では各地に伝えられています。

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手元にある香川叢書民俗編68pの「雨乞い」記事を開いてみます。
まず出てくるのがオリョウハンマツリ(龍王祭)です。
観音寺市栗井町奥谷には通夜堂があります。
そこでは旧6月11日のオリョウハンマツリ(竜王祭)の宵にお籠りをしていたことが記されています。シンギョウハンをあげたり、お神楽の奉納します。そして龍王(オリヨウハン)を拝み、近くのオミクジバとかうなぎ渕とよばれる渕に行って、お神酒をそそいで祈願をします。このとき黒色のうなぎが姿を見せると雨、白色のうなぎだと晴天が続くとされたようです。ここでは雨乞い祈願と云うより、天気予報のような感じで、積極的な祈願という感じはあまりしません。
 うなぎ渕は、鉈(なた)やのこぎりなどの金物を嫌うとも云われていたようです。今は、7月11日が祭りで、きなこ(黄粉)をまぶしたむすびが出されていたようです。お籠もりとは広辞苑には「神仏に祈願するため、神社や寺にこもること」とあります。その内容については「立待ち」とのみ記されているだけです。これがなんなのかは、今の私には分かりません。

琴南町美合の美霞洞渕では、雨乞祈願のために流れの中の岩や石に小さい棚を設けて龍王(オリヨウハン)を祀り、そこで神主や村人が3日3晩祈願をしたことは、以前にお話ししました。

五色台 大崎の鼻から大崎山園地 | 心はいつも旅気分・らるふの雑記帳
          大崎の鼻からの大槌・小槌島
長尾町長行の当願堂にも龍王(オリヨウハン)が祀つられ、雨乞祈願が行われました。
近くの人々は、このお堂でお籠りをします。伝説では当願は、五色台の沖の小槌島と大槌島の間の海に身を沈めたと伝えられます。この海域は、古代の神櫛王の悪魚退治伝説の舞台でもあったことは以前にお話ししました。船乗りにとっては、ある種の海の神域とされていたミステリーゾーンでした。お籠りをしても雨が降らないと、長行の人々は一斗樽にお神酒を入れて、ここまで出かけます。一斗樽を投げ込むと酒樽は空になって浮き上がってきて、小さい魚が現れます。ここで先達がオクジイレをします。オクジイレというのは先達がお経をあげた後、こよりに一週間ばかりの天候予定を書き込んだものを盆の上に載せ、それをケンザキサンで釣り上げることです。それで釣れたものをあけると雨の降る日がわかったというのです。これも雨乞いと云うよりも、天気占いのような感じがします。
 この行事を主導した「先達」とは、聖や山伏だったのでしょう。
五色台全域が中世では、国分寺の奥の院とされる白峰寺や根来寺の行場であったことは以前にお話ししました。そこには全国から集まってきた廻国行者や聖達が「行道」を行っていました。その中の海の行場が、小槌島と大槌島に突き出す「大崎の鼻」でした。自分の行場へ、先達として信者達を連れてきている聖達の姿が見えてきます。

雨の少ない瀬戸内地方は、水不足に悩まされた地域でもあります。
そのため各地で雨乞祈願が行われました。龍王山という名前は、里の人々からは雨乞祈願の霊地で信仰対象の山であったことを示す痕跡のようです。
 国土地理院の地図検索機能で「龍(竜)王山」を入力すると、全国に68山が出てきます。そのうち岡山県が23で一番多く、次に多いのは広島13、香川5、徳島4と続きます。ことしは辰(たつ)年です。讃岐の5つの龍王山に登ってみようかと考えたりしています。

佐文地形図 ため池
まんのう町佐文の龍王山
続いて「もらい水」です。
これは雨乞いに霊験あらたかな社寺や渕へ代参を出して、そこの水をもらいうけてきます。それを神前に供えたり、池に入れる方法です。もらい水の聖地として信仰対象となっていたいたのは、次のような所です。
まんのう町新目の尾瀬神社
高瀬町羽方の大水上神社
琴南町美合の美霞洞渕
財田町財田上の渓道龍王社
伊予の黒蔵渕
もらい水に出かけるときは、竹筒や桶などにお神酒を入れて行って供え、帰りにお水をいただいてきます。豊中町・大野原町田野々あたりでは、伊予の黒蔵渕へ五升樽と五色の絹糸を持って出かけ、黒蔵渕の近くでお籠りをして、翌朝渕にお神酒をお供えしてお水をいただき、それを持ち帰って池にうつし込んだと伝えられます。
水でなくて火をもらってくることもあったようです。
 近くの社寺からもらってくることもありましたが、近代になってからは金毘羅さんへ出かけることが多くなります。布などを縄状にしたホテ・火縄・スボキなどとよばれるものに神火をいただきます。その時に注意することは
①途中で休むと、そこに雨が降り、自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで運ぶこと
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、蓑笠姿で拝むこと。
 前回に見た佐文誌の白川義則氏の日記には、次のように記されていました。
7月31日(1939(昭和14)年
青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)
 8月3日
朝、(煙草の)乾燥当番だったので少し寝過ぎた。起きてみると待望の雨だ。我等農民だけでなく山野の一木一草まで歓喜雀躍、どうかいつまでも降り続いてもらいたいと祈る。そして⑤今日は龍王講の日だ、中筋講中として龍王山に総参りをする。
 午前十時より(雨乞成就の)御礼のために、⑥先日いただいた御神火を金刀比羅宮に青年団として御返しに行く。今朝の雨で繩が湿って途中で御神火が消えそうになって困難を極めた。
持ち帰った火を龍王山に運び上げ、一人ひとりが持ち寄った藁束を燃やして大きな火を焚いて雨が降ることを祈っています。そして、願いを叶えてくれると雨乞成就のお礼参拝をしています。ちなみに金刀比羅宮に雨乞い参拝するという記録は近世には出てきません。日中15年戦争が始まり、戦時体制が強化する中で、戦勝祈願などのために金刀比羅宮への参拝が村ごと、組織毎に強制されるようになります。そのような流れの中で始まったことで、新しいことのようです。それまでは佐文は、財田上の渓道龍王社から神火を迎えていました。それが国家神道強化の中で金刀比羅宮へと変化したようです。

長尾町の女体山では、頂上に着くと竜王の祠の前で大火を焚きます。
男たちは素裸になって踊りながら竜王さんを抱えて手送りをします。綾上町羽床上では城山神社で大火をたきました。この時に燃やす木は、水の文字の形に組んだとと云います。そして、雨が降るとオカヤシ(お返し?)に行くといって、お神酒やお供えを持って金毘羅さんにお礼お参りに行きました。
  渕に汚物を投じて水神を怒らせ、大いに暴れていただいて雨を振らせる「フチアラシ」という雨乞いの方法もありました。
まんのう町塩入の釜が渕では、村人がコマゴエ(堆肥)をと少々のごぼう種を用意して渕に行きます。渕では神職が祈願中に幾人かの人が渕に入ってごぼう種をまき、続いてコマゴエを入れて渕の中をかき回します。このとき渕の上では獅子舞を奉納しますが、水神さんは金物が嫌いなので、鉦は叩かなくて太鼓だけを打ちます。
 金物が嫌いな水神様を怒らせるために寺の釣鐘をつけるところもありました。
白鳥町福栄の薬師庵
大川町の西教寺
三豊郡豊浜町姫浜の満願寺
釣鐘のほかに水につけるものとしては、次のようなものが報告されています。
白鳥町白鳥神社の石剣
綾上町粉所猿飼神社のご幣
大野原町田野々のオリョウハン石
多度津町高見島の竜王のご神体
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大水上神社(高瀬町羽方)のうなぎ渕

高瀬町羽方の大水上神社のうなぎ渕では、水をかい出すと雨が降るとされました。
選ばれた若衆五名が神社でお籠りをして精進潔斎をしてから水を汲み出す。うなぎが姿を現わすが、それが白色だと晴天、黒色だと雨、かにが出ると大風が吹くとされました。
 塩江町下切の竜王渕は、かなり深いので梯子を三つほどつなぎ合わせて下に降り、バケツや桶でリレー式にかい出していたと云います。この渕の岩には馬踊形のくばみがいくつもありますが、これは竜神さんが馬に乗ってこられたときの馬の足跡だそうです。
その他に紹介されいる雨乞習俗を、要約して載せて起きます。
①高松市亀水町地下のジョウガ渕は、槌の間(大槌・小槌島)につながっているとされ、渕の水をかい出した底の砂地で麦わらを焚いた。
②琴南町美合の海手洗、三木町永代谷の無縁さんなどでも水をかい出すと降雨があった。
③高松市由良町清水神社の甕塚の要を掘り出して洗う
④綾歌郡綾歌町栗熊東や観音寺市粟井町奥谷では神輿をかついで田んばを回る
⑤仁尾町や長尾町塚原のように竜のつくり物を海に流す
⑥大野原町田野々ではオリョウハンヘ行って、祠の前でお神酒とオセンマイを供えて三部経をあげる。そのとき黒い蝶が出てきてお神酒をなめると雨が降るという。
戦前までの讃岐には、いろいろな雨乞習俗がまだまだ残されていたようです。「想定外の大干魃」に対して、県知事が雨乞祈願を行うように通達していたことは以前にお話ししました。襲いかかってくる大干魃に対して、最後は神に祈るしかなかったのです。
 見方を変えると雨乞は、村人が雨を得ようと心を合わせて協力して行う臨時の祭りともいえます。ある意味では、村の団結力や結束力を高める結果をもたらします。これが佐文に綾子踊が残った要因のひとつかもしれません。ちなみに、雨乞祈願で降らた雨を、讃岐では「ワタクシアメ」とよんでいたそうです。なんとなくその響きが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川叢書民俗編68pの「雨乞い」
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 満濃池の第3次嵩上げ工事のきっかけになったのは、2つの大干魃だったようです。今回は、その内の1934(昭和9)年の旱魃について見ていくことにします。テキストは、「炭谷恵副 香川縣の旱魃 ・旱害研究 昭和9年の大旱害を中心として  地理學評論」です。

讃岐には、旱魃記録がどのくらいあるのでしょうか・
研究者が各史料に出てくる旱魃に触れた箇所を抜き出して一覧表化したものが次の表です。

讃岐の旱魃年表 古代
讃岐旱魃年表 古代・中世・近世前半

一番古いのが701年の記録で、全部で81件の旱魃記事があるようです。
ちなみに、仁和4(888)の記録は、菅原道真による雨乞祈祷の時のことになります。これ以後、1457年まで旱魃記録がありません。また。江戸時代初期に満濃池が再築されるきっかけとなった旱魃までも、旱魃記録が非常に少ないようです。これは、この時代に旱魃が少なかったというよりも、古代・中世の文書が少なく、旱魃が記録されていないためと理解した方がよさそうです。

讃岐旱魃年表 近世
         讃岐の旱魃記録一覧  近世後半と近代

 文書がきちんと作成保存されるようになる江戸時代後半になるとコンスタントに、50年毎に10回~15回程度の旱魃記録があります。その中でも、幕末から明治維新の経済的バブル期には、旱魃が4回しか記録されていないようです。明治期に入ると測候所などが整備され、記録はきちんと残されるようになります。
讃岐旱魃年表 近代

ちなみに「1876~1925年」の明治・大正の50年間での旱魃は10回となっています。旱魃は、5年に一度は、讃岐を襲っていたとしておきましょう。

50年毎の旱魃発生回数
讃岐の50年毎の旱魃発生回数

90年前の1934(昭和9)年の旱魃について見ていくことにします。
まず、研究者が示すのは次の「1934年の多度津測候所の降水値データー」です。

1934年の旱魃 香川県
1934年の1日ごとの降水量(多度津測候所)

ここには5月~8月の1日ごとの降水量と天気、そして、一番下に各月の降水量の合計量が記されています。
これを見ると次のような事が分かります。
①5月の降水量が例年の2割、6月が2/3と少なく空梅雨であったこと
②7月には例年を上回る降水量があった
③7月26日以來、9月1日まで36日間の晴天が続いたこと。
グラフ化したものも見ておきましょう。
1934年の降水量比較 香川県
昭和9年の降水量比較

これに伝えられていることを重ねてみます。
①5・6月の雨不足で田植えができない所があったこと。
②7月になっての降水でなんとか取戻すことができた所もあったこと。
③しかし、7月の降水は集中豪雨的なもので、地域性もあり、貯水量を大幅に増やすことにはつながらなかったこと。
④7月末からの快晴が36日に渡って続き、ほとんど雨が降らなかったこと。
灼熱化した水田に、南からの熱風が吹きつけ、蒸発量は例年の2割增になります。水田からは水がなくなり、乾ききり亀裂が縦横に走ります。枯死した水稲は1000㌶を越え、各地で水利紛争が起き、警察署が介入したり新聞記事になったものだけでも50件を越えます。す。

讃岐の大干魃新聞記事 昭和9年
大干魃を伝える香川新報(1934年)

当時の県の干ばつ記録には、次のように記されています。

「七月二十三日、西讃満濃池ハ県下第一ノ貯水池タリ。本日既二池底ヲ露出シ配水不能トナリ、午後十一時、閉門スルノヤムナキニ至ル」(『千ばつの概況と対策』(昭和十年二月)

意訳変換しておくと
7月23日、西讃満濃池は県下第一の貯水池である。その池が本日ついに、池底を見せて配水不能となった。午後11時、水門を閉じることになった」(『千ばつの概況と対策』(昭和十年二月)

この日、知事は千上がった満濃池を視察しています。  しかし、7月末の一時的な降雨で、小康状態となります。それ以後は1ヶ月を越えて雨は降らず、炎天が続き、被害田は2万㌶に達します。

こうしたなかで県や町村は、どんな対応をとったのでしょうか?
7月28日に、県の内務部長名で各市町村長あてに通達された「干害対策二関スル件」には、次のように記されています。

「(旱魃対策については)種々考慮致シヲリ候ヘドモ、適当ナ措置コレ無キタメ、窮余策トシテ今回(善通寺)師団二依頼シ大砲ノ実弾射撃ヲ実施致スベク交渉中ニシテ、近ク実現二至ルベキ事卜存ジ候間」
 
意訳変換しておくと
「(千害については)いろいろと対策を考慮したが、適当な措置は見当たらない。窮余の策として、(善通寺)師団に依頼して大砲の実弾を射撃してもらうように交渉中である。近日中に実現するはずである。お知りおきいただきたい。

1934年雨乞い 大砲射撃
11師団による雨乞い実弾射撃

 私は一度、これを読んでも訳が分かりませんでした。旱魃対策として、どうして大砲を撃つのかが分からなかったのです。当時は「戦争の後には大雨が降る」という言い伝えがあり、それに望みをかけたようです。こうして、翌29日、善通寺師団は県の依頼を受けて山砲12門を摺臼山に並べて、大麻山の地獄谷めがけて一斉射撃を開始します。三百発の予定でしたが、着弾地付近の山の下草が燃え出し、あわてて消火に走ったと伝えます。
 かなわぬ時の神頼みならぬ、為政者は庶民に対して、何らかの対策を取っている姿を見せることが求められます。県知事と師団長の民衆の心を知った連係プレーとしておきましょう。ある意味では、知事達にもそこまで追い詰められているという危機感があったことがうかがえます。
 大砲発射の効果があったのは香川県でなく、徳島県だったようです。
砲撃の翌日、阿讃山脈の向こう側の池田町では大夕立が降ります。早速、池田町の代表者がお神酒を提げて、善通寺師団司令部にお礼言上に来たという笑えない話が伝わっているようです。研究者が徳島地方気象台に真偽の程を確かめると「阿波池田では昭和9年7月29日に4・3㎜、翌20日は49,9㎜の降雨有り」という返答が帰ってきたそうです。 
 
県は「各市町村においては三日間、等火を焚いて雨乞い祈祷をするように」という通達も出しています。
そこで神野村では、満濃池池畔で雨乞い祈祷を行っています。このように、県の雨乞い実施勧告に従って、何年ぶりかの雨乞いが、各村々で行われています。明治以来、踊られることがほとんどなくなっていた佐文の綾子踊りが踊られるのも、この旱魃の時です。それが残された文書の日付から分かります。逆に云うと、県の対策は江戸時代と何ら変わりありません。大干魃に対して、県や村が取れる実効ある対策は皆無だったことがうかがえます。
そんな中で頻発するようになるのが水論(用水をめぐる争い)です。
新聞史上に取り上げられた水論記事を、発生順に一覧化したのが次の表です。
昭和9年香川県水論一覧表1
昭和9年香川県水論一覧表2
1934年 香川県の水論(水争い)一覧表

ここに挙がっている水論は、警察署の調停や新聞紙上に載ったものだけです。これ以外にも小さな水論が各地で起こっていたはずです。この中の一部を、研究者は次のように紹介しています。
(NO38は、一覧表の番号:一部意訳)
以下綾歌郡関係)
  No.38  富熊村と法勲寺村との界にある仁池の配水問題がおこった。法勲寺村の安川部落民は池尻の分水標を固守した。これに對し富熊村農民は大いに憤慨し、百餘名が大擧して同池の閘(ゆる)を抜こうとして水爭ひ起きた。これに対して、滝宮(警察)署の鎭撫によつて22日午前3時半頃に一先(ま)づ解散した。依然紛糾を続けたが、村当局等の調停により其の後解決した。
  No.12  川西村八丈池の水利問題に関してして、水上・岸上部落と池下・本村部落との間には(水利権をめぐって)從來から対立的立場にあつた。それが続く旱天 のため尖鋭化した。幸に11日よりの降雨によって、一旦は自然解決した。併し同池の紛爭はその後8月20日午前8時より大旱魃の後を受けて再起したが、坂出(警察)署員の鎭撫により一先づ解決した。
  No.49  岡田村大字東小津森池 の配水問題は、8月上旬より紛糾し続け次第に激化した。27日午後8時頃よりの組合員の協議も譲らずらず、28日午後8時、用水掛上桶が部落民が發動機を使って引水して他部落との間に問題が起った。これも滝宮警察署によって鎭撫さる。

  No.54  坂本村大字西坂本大束川上流にある播磨横井で水爭いが起きた。その原因は川原と三の池部落は元來大束川の水を用水として居た。ところが本年の旱天のため用水に困窮し、井出に發動機を控へ長さ6、70間 のトタン筒を以て飯野山々麓の田地へ灌水を行っていた。これを(川下の)川津村の人々が見つけ、大擧して押し寄せトタン筒を破壊して両村民の対峙するところとなった。坂出署の出動によつて9月5日手打を行つた。
 
以下 仲多度郡
No.45  8月26日 午前 と午後の2囘 善通寺大麻の農民が金倉川より發動機を以て引水した。これに水下の象郷村民が憤起して大宮橋下の井堰を切ろうとして問題となった。署員によつて鎭撫された後、27日朝も亦不穏となりたるも遂に解決せり。

  Nc.34  筆岡村を流れ る弘田川を字富頭部落が臨時に弘田川橋上流100mの所に横関を作って發動機で引水したため下所部落と問題を生じた。善通寺署員等の鎭撫の結果、この富頭は1日間、下所は2日間の割当で引水することで解決した。
 
No.35  吉原村稗殿大池掛り90町歩の農民は協議の上で8月19日に池のゆる抜きを行つたが、それを上部池農民50名が独占しようとしたために池下部落民と一騒動となろうとした。幸に鎭撫され、殘水を下部落へも引水さすこととなつ て解決した。

三豊郡関係
  No.44  桑山村岡本方面の稻田灌水用出水堀が隣接する本山村小橋附近にある。これを本山村で地下水を發動機を用ひて汲上げるため附近の井水が涸渇することとなり、両村の間が不穏となった。結局30日、井水の涸渇せぬ範囲内での使用する條件にて妥協した。
No.37  麻村岩瀬池の配水下にある上高瀬村の農民婦女子多数がが21日午前3時に大挙して勝間村大字大道の高瀬川に押寄せた。大道部落民が川に接近した竹數中の井戸から發動機で稲田9町歩 の用水を汲上げた結果、上高瀬の稻田に亀裂ができたとして、發動機を据付けた川底へ粘土を塗りって、蓆120枚を敷詰めて下流へ水を送ろうとして、勝間村民との対峙となつたのである。
 
揚水用発動機
 発動機付揚水機(ポンプ)
以上を見ると、多くの事例に登場するのは発動機付揚水機(発動ポンプ)です。
この登場によって、それまでの水争い(水利争議)とは様子が違ってきたことが分かります。それまでは足踏みの揚水機が、讃岐でも数多く使用されていました。
灌漑用 灌水車

足踏み揚水機
ところがこの時期になると発動機付の揚水機(揚水ポンプ)が登場します。揚水ポンプを上流の者が下流に黙って、据え付けたことが問題になって、村同士の対立となっています。「便利な機能を持つ新たな機器の登場が、新たな問題を産む種」になる例とも云えます。その紛争現場に警察官が出向き鎮撫して、手打ちや解決という手順になっています。
 この適切な対応ぶりの背景には、特高課、耕地課などが連絡協議会を開いて、対応策を練っていたことがあるようです。
県は国の指示に従って、日華事変(日中15年戦争)の非常時局下という認識の下に、「互譲相助の精神に基づく水利用」をするよう訓令を発しています。そして積極的に警察が水利争議に関与して、今までの慣行に縛られない解釈・対応をします。そのために大規模な流血の惨事などは、この時にはでていません。それがどんな手順・内容で行われたのかが知りたいところですが、残念ながら新聞記事には、そこまでは記されていません。

 水争いは領土争いと違って、いつまでも対立が継続されるものではありません。
水さえ供給されれば、手を引きます。つまり、雨が十分に降れば、それまでの対立が嘘のように洗い流されたようです。
この時の被害対策として、満濃池の3次嵩上げ工事が計画され始めます。また、佐文では綾子踊りが、この時に踊られ、それを継承していくために、いろいろな記録が作られていくことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献         
炭谷恵副 香川縣の旱魃 ・旱害研究 昭和9年の大旱害を中心として  地理學評論
 辻 唯 之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月 25-61                        
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佐文賀茂神社での練習風景

綾子踊りの概要は次のような流れです。

 薙刀持と棒持が中央に進み出て、口上を述べて薙刀と棒を使い、次いで地唄が座につき、芸司が口上の後歌い出し、踊りが始まります。

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賀茂神社への奉納

芸司は先頭で「日月」を書いた大団扇をひらかして踊り子踊、大踊、側踊の踊り子が並んで踊ります。踊り場の周囲を棒で垣を作り、四方には佐文村雨乞踊と、昇龍と降龍の幟の旗をおし立てた中で、「水の踊り」 「四国船」 「綾子踊」「小津々み」「花寵」 「鳥寵」「たま坂」「六調子」「京絹」「塩飽船」「忍びの踊」「かえり踊り」の十二段の地唄が歌われます。

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佐文綾子踊 芸司と太鼓

囃子は、太鼓、笛、鉦、鼓、法螺貝であって、シンプルで単調な踊りが続きます。ただ眺めていると変化もなく単調で眠くなってきそうです。

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佐文綾子踊(賀茂神社にて)

しかし、伝わる歴史を紐解くと節ぶしに、村人の雨乞いの悲願がこもり、天地の神がみにひと露の雨を降らせ給えと祈る心がにじみ出てくるようにも思えます。終わりに近づくにつれて、テンポが少しは焼くなり踊りは早くなります。

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佐文綾子踊の芸司と小踊り(佐文賀茂神社にて)
  
 尾﨑清甫の残した「綾子踊由来記」には、その由来について次のように書かれています 。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版) 
夫れ佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名則四十九名の事 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 
当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して

綾子踊由来記 それ2
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版)
茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山の噺の内彼の僧は、此旱魃甚だ敷く各地とも困難の折柄当家の水利は如何がと尋ねられし故綾は自分の家には勿論困難なるが 当村としても最早一杓の水さえ無く空しく作物を見殺しにするより外に詮術なし 誠に難儀至極に達し居る旨を答たるに僧は更に今雨が降らば作物は宜布乎(宜しいか)と問わるる故綾は今幸い雨降りたらば作物は申すに及ばず、万民の為喜は何と喩え難き旨を答えたるに 僧は我れ今雨を乞わんと曰ければ 綾は之を怪み 如何程大徳の僧と雖も此の炎天に雨を降らす事は六ヶ敷(むずかし)く想と申しければ 僧の申さるるには如何に炎天なりと雖も 今我言う如く為せば 雨降る事疑いなしとの言なれば綾が貴僧の言は如何なる事なるか 出来得ずんば 何なりとも貴命に従う可しと②僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし。而して其の踊りをするには多くの人を要する故 村内にて雇い来たれとの言に
綾は命の通り人を雇わんと 所々を尋ね廻りしも干ばつの折とて何れも力の及ぶ限り田畑

綾子踊由来記 夫レ版3

作物の枯死を防ぐに忙しく 各家とも不在なれば帰りて其の由を報じつれば僧は更に 然らば此の家には小児幾人なりしやと問わるる故 綾は六人ありと答えければ 然らば其の児六人と汝等夫婦と我れと九人踊るべし 只此の外に親族の者を雇い来たれとの事に 綾は一束奔に兄弟姉妹合わせて四五人呼びたれば、僧は吾先ず立ちて踊る故に 汝等ともに踊るべしとて踊り始め愈々二夜三日の結願の日となりたるとき 僧の言わるるには蓑笠を着て団扇を携えて踊るべしとの言なる故 綾はあやしみ此の炎天に今直に雨降る事など有間敷く 蓑笠とは何の為ぞと中しつれば 僧の言わるるには否決して疑うべからず先ず踊れ而して踊り最中にして雨降り来りとて決して止めるべからず 若し踊りを中止するときは雨人いに少なし故に蓑笠を着して踊り 雨降り来りと雖も踊り終るまで止めることなく大いに踊れとの言いに 綾は仮令如何程の大雨降り来ればとて決して中止申さずと答えければ 先ず小児六人を僧の列におき ③僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き 親類の者に
綾子踊由来記 夫レ版4

太鼓鉦を持たせ其の後に置き 地歌を歌つて大いに踊りたるが 不思議なる哉 踊り央(なかば)にして一天俄に掻き曇り 雨しきりに降り来れば一同は歓喜の声諸共に踊りに踊りたり 雨亦次第に降りしきり篠突く如く大雨の音や、鉦の響きと相和して滝なす如く 勇ましさいわん方なく遂には山谷も流れん計りなりき 茲に踊りも堪え難くなりぬれば太鼓の音は次第に乱れ 終りの一踊りは唯急ぎ急ぎにて前後を忘れ 早め早めの掛声にて人いに踊りに踊りたり 此の雨ありたれば四方の人々馳せ来り 
 我も踊り彼も踊れと四方に立囲い踊りたり 此の因縁に依りて昔も今も側踊りの人数に制限なし 誠に善女龍王の御利生は何に喩えんものもなし
 唯勿体なし恐れ多き事となり 而して綾親子の者は踊り踊りて後に人聖僧に向い 歌または踊りの意味等を詳しく教え給えと乞いつれば 僧は乃詳しく教授し終えて将に立ち帰らんとせられ 綾及び小児等の名残りを惜しむ事尚乳児の慈母に離るるが如しければ 僧いとも哀に思われ 吾れ去りたるとても決して悔ゆる
綾子踊由来記 夫レ版5

事勿れ若し末世に到り如何なる干ばつあるとも 一心に誠を籠めて此の踊りをなせば必ず雨降るべし 然れば末世までも露疑わず 干ばつの時には一心に立願し此の雨乞いを為すべし 此の趣き末代まで伝えよと言い給いて立ち去り 
 後を見送り姿は霞の如く見えけん 因りて彼の聖僧こそは弘法人師なりと言い伝え深く尊び崇めけり 佐文綾子の踊りと言うは此の時より始まりたることにて世人の能く識る所なるが 干ばつの時には必ず此の踊りを行うを例とせり 而して綾子の踊りと称える名も此の因縁によりて名付けられしものなりと云う。
十郷村人字佐文
  尾崎 清甫    写之 印

意訳変換しておくと
佐文村に佐文七名という七軒の蒙族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がても苦しんでいたこその頃、村には綾という女性がいた。ある日、仏道によって、生きとし生けるものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させようと、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んで喫み、色々と話をした。その中で、一千ばつがひどく、各地で苦しんでいる状況だが、綾の家の水利はどううかと尋ねられたので、綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓のよも無いひどい状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾はと答えた。その答えに僧が「私が今、雨を乞いましょう」と言うので、綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨がが降ること間違いなしです」と言うので、綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと田津根香寺歩いたものの旱魃から作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない、帰ってきた綾が、誰もいないことを倍に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねた。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。・降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯があり、昔も今も側踊りの人数に制限はない。
善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。

踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。綾や子どもたちが、赤ん坊が母親から離れがたいように名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。
 見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。
  この由来書は、華道師範であった尾崎清甫氏によって戦前に書き写されたものです。

P1250693
尾崎清甫の残した文書
また、綾子踊りの地唄や踊り編成などの史料は、すべて彼が書き写したり、記録したもので尾崎家に現在でも保存されています。ちなみに「綾子踊り」は三豊の大水上神社周辺の各地域でも「エシマ踊り」として踊られていた形跡はあるのですが、記録として残っているのは佐文地区だけになっていました。それが国の無形文化財指定の決め手になりました。そういう意味でも尾崎氏の功績は大きいと言えます。

 P1250692
尾﨑清甫の文書箱の裏書き

この口上書を読んで気になる点を挙げておきます。

①「聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者遍歴の僧侶」とあります。綾子踊りを伝えたのは遍歴の僧侶(聖・修験者)とされます。
②「僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし」からは、空海の善女龍王信仰に基づく雨乞い踊りであることが分かります。
③「僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き」とあります。ここからは廻国修験者(聖)が、このおどりを綾子夫婦と六人の子ども達に伝授したことが記されています。つまり廻国聖が「芸能伝播者」であったことになります。
「因りて彼の聖僧こそは弘法人師なり」と、弘法大師で伝説に附会されていきます。

百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

風流踊りの芸司について、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊を見ておきましょう。

ここでは芸司は「新発意(新人僧侶)」と呼ばれています。その衣装は、白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧姿です。右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などの祭礼や芸能に関わっていたことは以前にお話ししました。百石踊りや綾子踊りの成立過程に、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
新発意役(芸司)の持ち物を見てみましょう。
百石踊り - marble Roadster2
百石踊の新発意役(芸司)
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す大きな団扇や瓢箪・七夕竹などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べたりします。これは綾子踊りの芸司と同じです。
 しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、派手になっていきます。僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなり、麻の裃から、今では滝宮念仏踊のように金色の裃へと変わっていきました。これも「風流化」のひとつの道です。しかし、被り物・採り物だけは今でも、遊行聖の痕跡を伝えています。それは綾子踊りの芸司も同じです。
以上から綾子踊りの成立については、次のような要素が盛り込まれていることがうかがえます。
①芸能伝播者としての廻国僧(修験者や聖)
②歌われる歌詞の内容は中世の閑吟集にまで遡る
③雨乞い信仰としての善女龍王
④弘法大師伝説
私は最初は、①②から綾子踊りの成立は風流踊りに起源を持つもので、中世にまで遡れるものと考えていました。しかし、③は近世後半、④の弘法大師が伝えたというのも、歌詞内容が閑吟集などに出てくるので、中世の流行(はやり)歌で、弘法大師が教えたものではありません。同時に、弘法大師伝説が讃岐の民衆に拡がるのは案外遅くて、江戸中期以後になるようです。そうすると、この由来が書かれた時期は、案外新しいのではないかと思うようになりました。

イメージ 8
佐文綾子踊(まんのう町佐文 賀茂神社)
もうひとつ疑問なのは、この踊りを伝えられたのは綾子だったはずです。綾子が芸司を務めるの相応しいと私は感じます。ところが綾子は登場しません。どうしてなのでしょうか?
一つの説は、江戸幕府の芸能政策の「女人禁止令」です。中世の風流踊りには女性が登場していました。出雲の阿国の歌舞伎も女性が中心でした。しかし、江戸幕府は風紀上の問題から女性が舞台に上がることを禁止します。神に奉納される踊りなどからも女性が除かれていきます。こうして、綾子も踊りの場から遠ざけられたということは考えられます。

P1250667小踊り
佐文綾子踊の構成人数(尾﨑清甫写)小踊六人とある

もうひとつ私が気になるのが次の記述です。
先ず
小児六人を僧の列におき、僧自ら芸司となりて
左右には綾夫婦を置き
 
親類の者に太鼓鉦を持たせ其の後に置き」
①小児六人とは、小踊り
②は、芸司のあとに中団扇をもって控える拍子2人
③は親類のものが鉦太鼓
 ここからは、綾子踊りの中心部は、綾子の一族によって占有されていたことになります。つまり、この踊りがもともとは村の人々の合意の上に、始まったものでないことがうかがえます。綾子の家族と、親類の者達で踊られ初め、最初は参加していなかった人々は、雨が降りそうになってから参加したというのです。これは村の風流踊りとして根付いたものではなかった、突然に一部の一族によって踊られ始めたことを伝えている気配があることを押さえておきます。また。小踊六人がなぜ女装するかについては何も触れません。

P1250641
綾子踊りの写文書を残した尾﨑清甫
  この由来書をはじめ、綾子踊りの史料は戦前に尾崎清甫によって書き写されたものです。
P1250689奉納年月日
綾子踊り控記録」
その中に「綾子踊り控記録」として、過去に踊られた年月日と記録が次のように記されています。
① 文化十一(1814)年六月十八日踊
② 弘化三(1846)年 午 七月吉日
③ 文久元(1861)年 子 七月二十八日 延期と相成り 八月一日踊る成り。
④ 明治八年 七月六日より大願をかけ、十三日踊願い戻し。又、十五日、十六日、十七日、踊り、二度の願立てをなし、二十二日目の二十七日、又、添願として神官の者より、自願かけ身願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり
⑥ 大正元年 旱魃。それより三ヶ年の旱魃につき、大正三年七月末日に踊り、御利生あり
ここからは次のようなことが分かります。
A 一番古い記録は19世紀初頭であること。
B 江戸時代の記録は日付だけで内容がないこと。
C 明治8年に雨乞いのために、何度も願掛けをして踊られたこと
D 旱魃の度に雨乞い踊りとして踊られた回数は、少ないこと

昭和9年由来書写後記

昭和9年7月16日の実施記録には次のような興味深いことが書かれています。

⑦ 昭和九年七月十六日 旱魅につき加茂神社にて踊る。大字佐文戸数百戸以上なるにつき、踊りの談示和合、難致に依り、北山講中として村雨乞踊りの行列にて、一週間の願を掛け祈念をなし、一週間にて御利生の雨少なし、再願を掛けた後、盆十六日に踊りまた御利生の雨少なし。それより旧七月二十九日大なる雨降り来り、それより俄に諸氏申し立てにより、旧八月朔日にお礼の踊りを執行せり。
仙峰斎  尾崎 清甫 之写置也。
意訳変換しておくと
 昭和9(1934)年7月16日 旱魅になり、加茂神社で踊った。大字佐文は、①戸数百軒以上になって、踊り実施に向けた合意が困難になってきた。②そこで、(佐文全体ではなく)北山講中(組)として村雨乞踊りの行列を一週間行って、願を掛け祈願した。しかし、一週間では御利生の雨は少なかった。そこで、再願を掛け、盆の8月16日に踊ったが、御利生の雨は少なかった。しかし、旧7月29日に恵みの大雨となった。そこで、お礼踊りを奉納しようということになり、旧八月朔日に雨乞い成就のお礼の踊りを(佐文全体で)行った。
  尾崎清甫がこれを書き写し置いた。
この記録は、どこかで聞いた話です。最初に紹介した綾子踊りの「由来口上書」と話の要旨がよく似ています。それは、次のような点です。
綾子踊りの最初は村人は畑仕事に忙しくて踊りには見向きもしなかったこと。そのため、綾子一族のみで踊ったこと。それが大雨を降らしたので、周りの人々もその輪の中に飛び込んで、ひとつになって踊ったこと。

P1250640
文書は最後に「仙峰斎 尾崎清甫 之写置也」とあります。
尾崎清甫氏が原本を書き写したことを示します。しかし、その原本は存在しません。原本がいつ頃書かれたものなか、またどこに保存されたいたのかも分かりません。そうなると、この文書類の中には尾崎清甫氏による「創作」もあったのではないかとも思えてきます。
以上 「綾子踊
由来口上書」を読みながら私が考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊の里 佐文誌

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  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

P1250070
芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
P1250071
鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(滝宮牛頭天王社)

 天保12(1841)年7月に、滝宮念仏踊りをめぐって北条組と那珂郡七カ村との間で争論が起きます。
当時の青海村庄屋渡辺駒之助から大庄屋を通じ高松藩に次のような訴願が提出されています。「天保十二年七月 念仏踊一件留 口上」(『綾・松山史』)です。
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
当村念仏踊当年順年二付、当月二十五日踊人数之者召連、同日早朝滝宮迄罷越居申テ、七ケ村念仏踊済、当村念仏踊候儀ニ付七ケ村村念仏踊済相待居申候所、同日9ツ時分過済ニ付当郡大庄屋中初私共郡中 同役共、人数引継イ入場仕掛候処に付、双方除合(排除)卜相見へ棒突二先フ払ハセ、二王門前へ帰掛候二付、双方除合入場仕候テ踊済候処、大庄屋中ヨリ被申聞候者、御出役所へ先例之通申出仕候哉卜尋御座候二付、踊人数夫々目録今朝組頭ニ持セ御出役所迄相納候段申出候処、尚又右御出役所へ、罷出候様被仰聞ニ付、私義茂七郎同道仕御出役人宿迄罷出申候所、右目録指出候ヘハ則御届相済候義ニテ、前々ヨリ前段御届ハ不仕段御答仕候義二御座候、前々ハ七ケ村踊人数者、前夜ヨリ人込居申候二付、早朝滝宮踊済来候処、当年ハ如何之次第二御座候哉、九ツ過迄も相踊不申二付、当郡踊り人数之者共私共極早朝ヨリ入込相待居申候得共、前願之次第二付大二迷惑仕候、当郡者同日鴨村迄罷帰り、同村ヨリ氏部西庄迄相踊申日割二御座候処、当年ハ右の次第二付一統加茂村迄罷帰候処及暮、其日滝ノ宮計ニテ相済申候、
一 七ケ村念仏踊滝ノ宮踊人数者不残引取、村役人計り右様跡へ相残り居申義二付、私共踊人数引纏罷出申途中ニテ行合候様相成申候、大庄屋中私共罷出候義ハ多人数他郡越踊二参候義二付、右人数召連警固之為罷出候義と相心得罷在候処、七ケ村連も右同様と存候処、右の通踊人数引払候跡へ相残、市立多人数之中ヲ棒突ヲ以片寄可申由、先ヲ払ハセ打通候義、不得其意存申候、当郡ハ多人数引纏入場二相掛候二付、片寄候義も難出来存候得共、当年ハ存不寄義二付、双方除合無難二相済候得共、以後者右様当郡之邪魔致不申様 被仰付置可被下候様 宜奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
今年の滝宮への念仏踊奉納は、当村が順年でしたので、7月25日に踊人数を引き連れて、同日早朝に滝宮に参りました。七ケ村念仏踊が終わった後が当村の念仏踊の順番なので七ケ村念仏踊が終わるのを待っていました。同日9ツ時分過ぎ(13時)にやっと終了し、阿野郡大庄屋をはじめ郡中の役共が、踊衆を引き連れて入場しようとすると、那珂郡の付役人と双方で小競り合いが起きて、棒突に先払をさせて、二王門前へ退場しようとしました。この小競り合いについて踊り奉納終了後に、大庄屋から聞き取り調査があり、先例通り御出役所へ報告することになりました。
 踊り人数などについては、目録で前日に組頭に持参させて出役に届け出るのが決まりです。ところが私(義茂七郎)が役人宿に出向いて問い合わせたところ、目録は提出されていないとのことです。以前は七ケ村も踊人数者を、前夜の内に報告していました。しかし、今年はその報告がありませんでした。そればかりか、(予定時刻を大幅に超えて)九ツ過迄(昼過ぎ)までも踊り続ける始末です。
 当阿野郡の踊り組の者達は、早朝から滝宮にやってきて待機していたのに、大迷惑を蒙りました。
当方の北条踊りは、滝宮への奉納終了後に、その日のうちに鴨村まで帰って、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を例年予定しています。ところが七ケ村の遅延行為のために、加茂(鴨)村まで帰ることが出来ず、この日は滝宮だけになってしまいました。
一 七ケ村念仏踊は踊り終了後に、踊り手たちが残らず退場した後、七ケ村の村役だけが残ったのを確認した上で、私ども北条組は入場しようとしました。大人数の観客の間を入場するために、警固の人数を引き連れています。これは七ケ村組も同じと心得ています。
 私たち北条組が入場しようとすると(七ケ村役員は、市が立つほど多くの人数がひしめく中を棒突を先頭に、打ち払いながら退場しようとしました。そこで入場しようとする北条組と衝突し、小競り合いとなりました。入場中の当方に、除き合いを仕掛けてくるのは、はなはだ迷惑な行為です。以後は、このような当郡の邪魔をするようなことがないように、お上から仰付いただきたい。
宜奉願上候、以上

この「口上」は青海村庄屋から大庄屋を経て、藩に提出されたものです。いわゆる正式文書になります。北条組の言い分は、次の2点にあるようです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊り 那珂郡七ケ村の構成村と役割一覧

第一は、「七ケ村」が定めを守っていない点を指摘しています。
①例年なら前日に踊込人数目録が提出されるはずなのに、今年は届けられていないこと
②「七ケ村」組が、終了時刻を大幅にオーバーしても踊り続けたこと
③そのため北条組の踊りの開始が、午後からになり、当日の滝宮からの帰り掛けに奉納する予定であった鴨・氏部・西庄村の村社への奉納が出来なくなったこと。
つまり、七ケ村のルール違反に、北条組は大迷惑をこうむっていたとします。
第二は、「七ケ村」役人の横暴ぶりを指摘してます。
七ケ村の踊りが終わるのを、いらいらしながら待っていた北条組に対して、七ケ村は謝罪もせずに退場しようとします。しかも「七ケ村」村役人が棒引き(警護人)に先を払わせながら群衆を払い分けて出て行こうとします。それに対して入場しようとする北条組の先頭の棒引きは、応戦しないと責任問題になります。売られた喧嘩は買わなければならないのです。そこで両者のあいだに「除け合い」(小競り合い)が発生します。

この史料からは、次のようなことが分かります。
①七ケ村組と北条組がセットで同年に、滝宮に踊り奉納を行っていたこと
②北条組は七ケ村組の奉納中は別所で待機し、終了後に入場する手はずとなっていたこと
③北条組は、滝宮2社への奉納後に、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を予定していたこと
④棒引き(警護)は、先払役で実際に群衆を払い分けていたこと。
 この北条組の訴えについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは史料が残っていないので分かりません。
 幕末に岸の上村(まんのう町)の庄屋を務めた奈良家には、多くの文書が残っています。
その中に「滝宮念仏踊行事取遺留」には、文政9(1826)年から安政6(1859)年までの、13回にわたる七箇村組念仏踊の記録が綴りこまれています。筆者は、岸上村の庄屋奈良亮助とその子彦助の二人です。この綴りの冒頭には、次のように記されています。

 正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、夜半からの豪雨で、綾川は水嵩の増した。橋のない時代のことで、七箇村組は対岸で水が引くのを待っていた。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた北条念仏踊組が、滝宮神社の境内に入場しようとした。これを川の向こう側から見ていた七箇村組の衆はいきり立った。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、北条組の小踊二人を切り殺した。この事件後、北条組は48人の抜刀隊に警固されて、七箇村組とは順年を変えて踊奉納をすることになった。そして、両踊組の間には根深い対立感情が横たわるようになった。

 私は、これは事実を伝えるもので、警護役というのは、実際に起きた事件を教訓をもとに、各組でつけられていると思っていました。しかし、だんだんとこの記述については、次のような視点から疑念を持つようになりました。
①神前で神の子とされる子踊りの幼児を斬り殺しているにも関わらず、その後も朝倉家が久保宮の神職を続けていること。普通ならば厳罰に処せられるはずである。
②高松藩初代松平頼重が滝宮念仏踊りを復活させるのは、慶安三年(1650)年七月のことで、事件のあった正保二(1645)年には、中断期に当たること。
つまり、この年には高松藩では各念仏踊の滝宮へ奉納は中断していて、踊り込みはなかった時期になります。どうして200年後の七ケ村組の記録は、あえて北条村との関係を悪く記す必要があったのでしょうか。
  奈良家文書の「滝宮念仏踊行事取遺留」には、次のようにも記します。(意訳)
 文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂した。分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れがあった。岩崎平蔵は、「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、これを認めた。しかし、踊組の内には根強い反対意見もあって、岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力が生まれた。
 
 しかし、前回見たように北条組は、寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われています。それは文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からもうかがえます。奈良家文書が記すように「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂」という事実は確認できません。

  天保12(1841)年7月に、北条組が那珂郡七カ村を訴えたことについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは分からないとしました。しかし、次の天保15(1844)年の順年にはある変化が起きています。踊りの奉納日が次のようになっています
①北条組  7月24日
②七箇村組   25日
 ふたつの踊組の奉納日が別の日になっています。また、24日が雨天で、踊奉納ができなかった場合には、北条組は25日の七箇村組の後庭で踊ることとされています。これは、前回の北条組の訴えを受けての高松藩の対応策だったことがうかがえます。
 その次の順年である弘化4年(1847)年を見ておきましょう。
 この順年は、七ケ村念仏踊組は7月14日に大洪水があって、土器川が大破したので、各村社への巡回を中止し、滝宮両社と金毘羅山の奉納踊だけにしています。注目しておきたいのは、久保神社の宮司朝倉石見が、高松藩の命令で笛吹株を召し上げられていることです。代わって真野村から元次郎が担当しています。浅倉石見は、正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時に殺傷事件を起こしたとされる子孫になります。
   以上見てきたように、どうも奈良家文書の念仏踊りの北条組との関係について記した部分については、北条組に残る文書と整合性がとれないものがあるようです。

以上をまとめておきます
①正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、七箇村組と北条念仏踊組の間に殺傷事件があったと奈良家文書は伝えること。
②しかし、これについては高松藩による滝宮念仏踊り復活以前のことで、中断時期にあたり疑問が残ること
③北条組は、寛政6(1794)年に調停書で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われるようになる。
④北条組については、文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からも円滑に運営されていたことがうかがえる。
⑤岸の上の奈良家文書は、「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂し、ひとつが七ケ村の後で踊るようになった」と記すが、史料からは確認できない。
⑥天保12(1841)年7月に、那珂郡七カ村のルール違反を北条組が高松藩に訴える。
⑦その結果、次回からは両者の奉納日が24日と25日に分かれることになった。
⑧またその次の順年には、久保宮の神職の宮座株が没収されている。
 奈良文書の七ケ村組と北条組との諍いについては、綴りの表紙として後世に書かれたものです。19世紀になってからの北条組からの藩への控訴を、過去にまで遡らせて偽作した疑いがあると私は考えるようになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 江戸時代の高松藩では、次の四つの踊組が滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)に風流念仏踊を奉納していました。           奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「賞・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町)   「丑・辰・未・戊」の年
この中の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、全体では3グループで三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。。

前回は、19世紀初頭に起きた北条踊りを巡る争論の調停書を見ながら、北条念仏踊りについて、次のようにまとめておきました。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②これらの10ヶ村で担当役割や人数や各寺社への奉納順が決められていたこと。
③7月25日の滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社25ヶ所へ奉納が行われていたこと
④役割配分や奉納順をめぐって争論が起きたが、それを調停する中で運営ルールが形成されたこと
⑤北条組の主導権を握っていたのは、青海・高屋・神谷村の三ヶ村であったこと
⑥その傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
⑦以上からは、北条念仏踊りは神谷神社周辺の中世在郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったこと
⑧そのプロデュースに、滝宮(牛頭天王)社の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしていたこと

今回は、その後の史料でどんな点が問題になっているのかを見ていくことにします。

坂出 大藪・林田
阿野郡北条 高屋・青海村

調停書が出されて約10年後の文政元(1818)年7月の書簡史料には、次のように記されています。
一筆啓上仕候、然者、滝宮御神事念仏踊当年順番御座候、前倒之通来廿五日踊人数召連滝宮江人込御神事相勤候様仕度奉存候、御苦労二奉存候得共、各様も彼地者勿論郡内御出掛被成可被下候、右為可得其意如此御座候、以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
七月十二日
渡辺与兵衛 様
渡辺七郎左衛門 様
尚々、村々仲満共出勤の義并に出来之幡・笠鉾等、才領与頭相添、来二十四日朝正六ツ時神谷村神社へ相揃候様御触可被下候、又、道橋損の分亡被仰付可被下候、
  意訳変換しておくと
①一筆啓上仕候、滝宮の神事念仏踊の当年の当番に当たっています。つきましては従来通り、7月25日に踊り込み員数を引き連れて、滝宮神前での奉納を相務めるよう準備しております。ご多用な所ではありますが、みなみな様はもちろん、郡内から多くの人がご覧いただけるよう、御案内いたします。以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
なお、村々から参加者や幡・笠鉾など、道具類などについては組頭などが付き添うことになっています。24日早朝六ツ時に、神谷村神社に習合するように触書を廻しています。
又、滝宮に向かう街道や橋などの損傷があれば修繕するように仰せつけ下さい。

滝宮への踊り込みは7月25日です。その2週間前の7月12日に、高屋・神谷・青海の各村庄屋の連名で大庄屋の渡邉家へ送られた書簡です。準備状況と、当日の出発時刻が大庄屋に報告されています。また、滝宮への街道で道路や橋に破損がある場合には、修理するように依頼しています。まさに、村々を挙げて一大イヴェントで、参加者には晴れ姿であったことがうかがえます。

この報告に対しての大庄屋渡辺家からの指示書が次の書簡です。
②以廻申入候、然者、三ケ庄念仏踊当年者順年二付、踊候段申出候、依之先例の通滝宮始村々江各御出勤可有之候、且定例出来り之幟・傘鉾も才領与頭相添、来二十四日正六ツ時神谷氏宮迄御指出可有候并に念仏踊通行の道橋等損有之候ハバ取繕等の分前々の通御取計可有候、
一 先年ヨリ右踊者、三日ニ踊済来候所、近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも無益之失脚不少義二付、当年ヨリ滝宮江者之中入込、未明ヨり踊始候様致度候、兼テ三ケ村江者、右之趣申付御座候、各ニも朝七ツ時迄二御出揃可有之候、為其如此申入候
渡辺与兵衛
七月十四日
鴨   氏部   林田 西庄  江尻   福江 坂出  御供所
右村々政所中

  意訳変換しておくと
③各庄屋からの書簡報告で以下のことを確認した。当年の滝宮への踊り込みは三ケ庄(高屋・神谷・青海)が順年で、先例の通り、滝宮や各村々への村社への奉納準備が進められていること。これについては、従来通りの幟・傘鉾を準備し、これに組頭が従うこと、24日六ツ時(明け方4時)に神谷神社に集合すること、念仏踊が通行する道や橋の修繕整備などを行う事。

一 もともと北条組の念仏踊は、各村社への踊りも含めて3日間で終了していた。それが近年になって4日かかるようになってきた。巡回日数が一日延びると費用も増大する。その対応策として今年からは夜中に滝宮入りして、未明から踊り始めることとする。(そして、滝宮から帰った後で、予定神社の巡回を確実にこなすことにする。)このことについては、かねてより三ケ村へは伝えてある。他の八村の政所(庄屋)も朝七ツ時(午前3時頃)には集合いただきたい。

以上のように、この年は滝宮での念仏踊の日程の短縮が図られたこことを押さえておきます。
現代と江戸の時刻の対応表 | - Japaaan
 
3ケ村庄屋からの書簡を確認した上で、従来と異なる日程変更を申しつけています。
それは、従来からの踊り奉納は次のように決められていました。
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行い、その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社

ところが「近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも・・・」と、3日でおこなっていた巡回が4日かかるようになったようです。これは、各村で行われる風流念仏踊り奉納が、庶民の楽しみでもあり、なかなか「打ち止め」できずに伸びたことが考えられます。
 以前に見たように高松藩から大政所の心得として下された項目の中に、「村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮すること」とありました。渡邉家の大政所は、これを忠実に守ろうとしたようです。そのために、未明3時頃に集合して、滝宮に入って早朝から踊って、阿野郡に帰ってから、その日のうちに奉納先寺社を確実に巡回できるようにしようとしたようです。
 そのため未明から踊り始めること、そのため当日の神谷神社への集合が変更したことの確認を再度、責任村の三ヶ村の庄屋に通達しています。
 ここからは風流念仏踊りが庶民の楽しみで、できるだけ長く踊っていた、見ていたいという気持ちが強かったことがうかがえます。もともとは雨乞いのためではなく、各郷村で踊られていた風流踊りだったのです。人々にとって、楽しみな踊りで雨乞いに関係なく踊られていたからこそ起きることです。雨乞いのために踊られると言い始めるのは、史料では近代になってからです。
それでは、雨乞いはどこが行っていたのでしょうか?
 高松藩の公式な雨乞祈祷寺院は、白峯寺でした。最初に高松藩が白峰寺に雨乞いを命じた記事は、宝暦12年(1762)のものです。雨が降らず「郷中難儀」しているので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。こうして白峯寺には、雨乞い祈願の霊地として善如龍王社が祭られるようになります。
P1150747
白峯寺の善女龍王社

19世紀になると、阿野郡北条の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、白峰寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。そして周辺の村々からの奉納物や寄進物が集まるようになります。
 ここで確認しておきたいのは、北条念仏踊ももともとは雨乞い踊りではなかったということです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊
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滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
関連記事

  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。同時に尾池玄蕃が彼の管理エリアである丸亀平野について、七箇村(まんのう町)や南鴨組のことについて熟知している様子がうかがえます。彼が「能吏」であったことが分かります。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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南鴨念仏踊
南鴨念仏踊組は、かつては滝宮への踊り込みをおこなっていたと伝えられています。しかし、近世の高松藩の関係文書を見ると、南鴨組の念仏踊りが奉納された記録はありません。また南鴨組は、どのくらいの村々によって構成されていたのでしょうか。その辺りを、史料で見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」
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まず、元和2年の多度郡大庄屋の伊次郎兵衛の各庄屋への触書を見ていくことにします。
以上
一筆申入候 乃当年たきノ宮ねんふつ(滝宮念仏)あたりとしの由申候。唯今迄は草木能様に見申し候。ねんふつの儀弥入候て可然かと存候。いかヽ各々被存候哉。御かつてん候はヽ名付所にてんをかけ可給候返事次第吉日以寄相御座候様左右可申候 為其申触候 恐々謹言
           伊次郎兵衛
六月十一日               正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
  意訳変換しておくと
 一筆申入れる。今年は鴨組が滝宮念仏(踊り)奉納の当番年となっている。念仏の踊り込みについて、どう考えているのか、各々の意見をお聞きし、その上で返事したいと思う。ついては、吉日に集まって協議したいと思うので、その触書きを回覧する。 恐々謹言
            伊次郎兵衛
六月十一日                正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
触状の回覧先は次の通りです。
元和2年の次郎兵衛の各庄屋への触書

回覧状が廻された村々の庄屋の一覧になります。これが滝宮念仏踊の鴨組の構成村であったが分かります。その村々を見てみると、北鴨と南鴨だけではありません。白方を除く多度津のほぼ全域と、善通寺から多度郡の最南端の大さ(大麻)までを含んでいます。

多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)

ここからは次のようなことが分かります。
①元和2(1612)年の生駒藩の時代には、鴨組も滝宮牛頭天王(現滝宮神社)への念仏踊りの奉納を行っていたこと。
②踊り込みには当番組があって、何年かに一度順番が回ってくること
③念仏踊り鴨組は、現在の「多度津町 + 善通寺市」の広範な村々で構成されていたこと。
私はこの史料を見るまでは、鴨組の念仏踊りが滝宮に奉納されていたことについては、確証が持てませんでした。しかし、この史料からは生駒藩時代には、鴨組は踊り込みを行っていたことが分かります。同時に、中世の多度郡の中心的な郷社は賀茂神社であったこと。その賀茂神社に、多度郡の有力者が宮座を編成し、念仏踊りを奉納していたことがうかがえます。これは以前にお話した鵜足郡の坂本念仏踊り、那珂郡南部の七箇村念仏踊りと同じです。つまり、中世に起源を持つ風流踊りということになります。

讃岐の郷名
讃岐の古代の郡と郷

 滝宮念仏踊りには、以前にお話ししました。
①滝宮牛頭天王の夏祭りの旧暦7月25日に奉納された踊り念仏であること
②それを差配していたのは、別当寺の龍燈院の社僧であったこと。
③龍燈院は、牛頭天王のお札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を、社僧達が配布し財政基盤としていたこと
④滝宮牛頭天王へ踊りを奉納する各組は、その信者であったこと
もう一度、回覧状の内容を見てみます。
これを見ると従来通りの奉納するというのでなく、どうするかを協議するために事前に集まろうという内容です。ここからは、従来通りの踊り奉納について、異論がでていることがうかがえます。それの原因については、ここからは分かりません。
 次に10年後の元和8(1622)年の入谷外記文書を見ていくことにします。
以上
来二十五日滝之宮へ両鴨村より念仏入候に付郡中としてけいこ(稽古)彼是肝煎肝要に候。為其に申遣候也
(入谷)外記 
七月五日         盛正(花押)
多度郡政所中江
意訳変換しておくと
以上
来月の7月25日は滝宮へ両鴨村が念仏踊りを奉納することになっている。(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要である。そのことを申伝える。

書状の主は「外記」とあります。外記は、生駒藩要職にあって那珂(仲)郡と多度郡の管理権を握っていた入谷外記のことのようです。興泉寺(琴平町)は、当時の那珂郡榎井村の政所を勤めていたとされ、寛永年間(1624~44)の政所文書を伝えます。その中に、寛永6(1629)年滝宮念仏踊で、七箇村組と坂本組との間に起こった先番・後番の争いを扱って和解させた「入谷外記書状」があるようです。どちらにしても入谷外記は、生駒藩の中枢部にいた人物です。その彼が多度津の政所の中江氏に対して「滝宮念仏踊りについて、しっかり準備・練習して奉納せよと」と書状を送っています。ここからは、生駒藩が念仏踊りの奉納に対して、強く肩入れしていたことがうかがえます。別の見方をすると、入谷外記と龍燈院の住職が懇意であったのかもしれません。
 もうひとつ穿った見方をすると、先ほど見たように元和2(1612)年には、滝宮への踊奉納について、不協和音が組内で出ていた気配がありました。それを見越して、入谷外記が龍燈院の住職の依頼を受けて「しっかり準備・練習して奉納せよと」という文書を差し出したのかも知れません。
 入谷外記の達しを受け手の庄屋たちの動きが分かるのが「小山喜介文書(元和8年)です。
尚々御請所御蔵入共に早々十二日に南鴨へ御より候て御談合可有候。くわしくは後々以面可申入候
以上
南鴨念仏之儀に付而けき殿より御状廻申候 左様候へは来十二日に南鴨へ御より候て万事御談合可被成候、外記殿もはじめての儀候間一入念を入候へと被仰侯間其心得尤に候
此廻状名ノ下に皆々判被成候へく侯。 すなはちけき殿御めにかけ可申候  以上
       元八        小山 喜介 (花押)

意訳変換しておくと
今回の念仏踊り奉納について、7月12日に南鴨へ集まって協議したい。詳しくは、後日顔合わせしたときにお伝えする。 以上
南鴨組の念仏踊りについて、外記殿から御状廻が届いた。このことについて12日に南鴨へ集まったときに談合(協議)したい。外記殿も、はじめてのことなので入念に準備・稽古するようにと書き送ってきた。その心遣いはもっともなことだ。なお、この廻状名の下に皆々の判を(花押)を入れて欲しい。これも外記殿に御覧いただくつもりだ。
大庄屋の小山 喜介が触書を廻した一覧表は次の通りです。

小山 喜介が触書を廻した一覧表
「小山喜介文書(元和8年)の庄屋触状の回覧先一覧
多度郡 明治22年
多度郡の村々

   元和2(1612)年の構成メンバーと比べると、白方3村が加わっています。文中の「はじめてのことなので入念に準備・稽古せよ」という指示は、新加入の白方三村への指導を云っているのでしょうか。外記からの指示文書には「(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要」ともありました。ここからは、それまでは白方三村なは、参加していなかったのが、この時点から参加するようになったこと。初めてのことなので「(多度)郡中として稽古せよ」ということになるのかもしれません。
7月12日の会合で決定した各村の「滝宮念仏道具割」を一覧化したものが下図です。
南鴨組滝宮念仏道具割
南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
ここからは次のようなことが分かります。
①鴨組と呼ばれていたが、ほぼ多度郡全域の村々で構成されていたこと。
②各村々に踊り役やその人数が割り当てられていたこと。
③宮座による運営だったこと
④費用は村高に応じて、米高割当が決められていたこと

  「南鴨組」という名称から多度津の南鴨の人達だけによって、編成されていたように思いがちですが、そうではないようです。以前にお話しした坂本組・七箇村組と同じく、かつての郷社に各村の名主達などの有力者が宮座を編成し、奉納されていたことが分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の踊り編成表

多度津町史には南鴨念仏踊りのもともとの奉納先は賀茂神社の摂社牛頭天王だったと記されています。滝宮神社も神仏分離以前は牛頭天王社でした。
牛頭天王と滝宮念仏踊りの関係をもう一度整理しておきます。
①滝宮(牛頭天王)社を管理していたのは、別当寺の龍燈院。
②龍燈院の社僧(山伏)たちは、お札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を周囲の村々で配布していた
③彼らは宗教者であると同時に、芸能保持者で祭りなどのプロデュースを手がけたこと。
④当時讃岐でも大流行していた時衆念仏踊りを祖先供養の盆踊りや祭りの風流踊りにアレンジして、取り入れたのも彼らであること
⑤念仏踊りを滝宮に奉納していた踊組エリアは、滝宮牛頭天王の信仰エリアであったこと
このような関係を多度津周辺に当てはめてみると次のようになります
①中世に復興された道隆寺は、海に開けた交易センターの機能を果たした。
②多くの廻国修行者の拠点となり「学問寺」の役割も果たした。
③高野聖などの真言系の聖が、時衆系阿弥陀信仰をもたらし周辺で民衆の供養を営むようになった
④観音院は、堀江集落の墓地に建立された観音堂に住み着いた聖の活動からスタートした。
⑤播磨の広峯神社は、牛頭天王信仰の中心地であったが、そこから讃岐に廻国修験者(御師)がやってきて、牛頭天王信仰を拡げる。
⑥賀茂神社の中にも牛頭天王の摂社が勧進され、そこに奉納するために念仏踊りがプロデュースされる。
⑦鴨念仏踊りは、丸亀平野の牛頭信仰の拠点である滝宮に奉納されるようになる
     今回はここまでとします。続きは次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」

                        
佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

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一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
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滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 陶の親戚に盆礼参りに行くことを伝えると、「ちょうど滝宮念仏踊りのある日じゃわ。一緒に見に行かんな」と誘われました。実は、私は今まで一度も見たことがないので、いい機会だと思って「連れて行ってください。お願いします」と頼みました。
 今年になって佐文綾子踊りの事務的な御世話をすることになって、いろいろなことを考えるようになりました。この際、滝宮念仏踊りを見ながら、佐文念仏踊りについて考えて見たいと思ったのです。
 昼食を済ませて少し早めに会場に向かいます。

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てっきり、滝宮神社で踊られるものと思っていたら、昼の会場は滝宮天満宮でした。滝宮神社では、朝の8;30から奉納が行われていたようです。炎天下に朝昼のダブルヘッター公演です。演じる方は大変だと思います。
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滝宮天満宮に奉納された御神酒
  拝殿にお参りに行くと各踊組からの御神酒が奉納されてありました。一升瓶は12本あり、1本1本に奉納組の名前が書かれています。12組の踊組が出演することがわかります。例年は、3組ずつの公演なのですが、今回はコロナ開けの特別公演で、惣踊りになるようです。下側に張られたグループ分けの紙を見ると、3組ずつがグループとなって、4公演となるようです。

滝宮念仏踊り 御神酒
滝宮天満宮に奉納された12本の御神酒(西分奴組を含む)
第1組 北村 千疋  萱原
第2組 東分 山田上 山田下
第3組 西村 石川  羽床上
第4組 北村 小野  羽床下
これが江戸時代の「南条組」だったようです。南條組が、今は旧綾南・綾上町の11組に分けて、その中から毎年3組ずつが1グループとして奉納します。そして5年に一度、11組全部で踊る総踊りが行われているようです。滝宮天満宮に奉納されていた12本の御神酒は、「西分組 + 11組の踊組」からのもののようです。
 4年で一巡して、5年目が惣踊りということになります。
 ここでは、「旧南條組=現滝宮念仏踊り」で、それが11組に分かれていること。11組で4グループを作って、そのグループごとで毎年奉納していることを押さえておきます。この11組の念仏踊り組の総称が、現在は「滝宮念仏踊り」と呼ばれているようです。
 別視点から見ると、この11組は中世には滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)の信仰圏下にあったエリアで、踊り念仏が時宗の念仏聖によって伝えられた地域だと私は考えています。
幕末の西讃府誌には、滝宮念仏踊りのことが次のように記されています。(意訳)。
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳の時、①雨乞成就に感謝して、毎年7月25日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、②七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎、異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25日までは、③各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、④瀧宮踊と呼ばれている。

  整理・要約すると次の通りです。
①雨乞い踊りのために踊るとは書いていない。雨乞成就に感謝してとされていること。
②踊りを奉納するのは、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)の4ヶ所だったこと
③滝宮への奉納以前に、地元の各村神社に奉納されて、最後の奉納が滝宮牛頭天皇社であったこと。
④「滝宮念仏踊り」とは書かれていない。「瀧宮の踊り」「滝宮踊」であること

③には、17世紀には踊組は、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)がローテンションで務めていたとあります。七ケ村(那珂郡:まんのう町)と、北條組は今は奉納されていません。
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滝宮天満宮への滝宮念仏踊りの入庭(いりは)

西讃府誌を続いて見ていきます。
 この踊りは、普通の盆踊とは大きな違いがある。⑤下知(芸司)と呼ばれる頭目が、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや(南無阿弥陀仏)」と云いながら曲節に併せて踊る。
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。
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 滝宮念仏踊り 滝宮天満宮への入庭(いりは=入場)
⑤の「下知(芸司)の由来について、見ておきましょう。
 以前にお話した兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊の「頭目」は「新発意(しんほつい)」と呼ばれます。

百石踊り - marble Roadster2
      百石踊の「新発意(しんほつい)」は僧服

新発意(下司)役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧の姿を表したものとされます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」だと研究者は考えています。
 百石踊は僧侶の扮装をした新発意役(新参僧侶)が主導するので、「新発意型」の民俗芸能のグループに分類されるようです。滝宮念仏踊りや綾子踊りも「頭目=下知(芸司)」が指導するので、このグループの風流踊りに分類されます。ちなみに綾子踊りも言い伝えでは、空海が踊りを綾子一族に教えたとされます。空海が「頭目」として踊りを指導したことになります。つまり、このタイプの「頭目=下知(芸司)」とは、もともとは踊りを伝えた「芸能媒介者」は修験者や聖達だったと研究者は考えています。

それは、下司の着ている服装の変化からも裏付けられます。
①古いタイプの百石踊の「下司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で庄屋の格式衣装
③滝宮念仏踊りの下司(芸司)は、現在は陣羽織
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滝宮念仏踊りの入庭 陣羽織姿の下司たち
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、現代は金ぴかの陣羽織に変化してきたことがうかがえます。

隣にやって来た地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

 これを以前の私ならば「昔のままの衣装を引き継ぐのが大原則とちがうんかいなあ」と批判的に見たかもしれません。しかし、いまでは共感的に見ることができます。それは、ユネスコ登録が大きな影響を与えてくれたように思います。
風流踊り ユネスコ登録の考え方
ユネスコ文化遺産と無形文化遺産の違い

ユネスコ無形文化遺産の精神は、
「フリーズドライして、姿を色・形を変えることなく保存に努めよ」ではないようです。
ユネスコ

「無形文化財の変遷過程自体に意味がある。どのように変化しながら受け継がれてきたのかに目を向けるべき」といいます。
ユネスコ無形文化財の理念3

つまり、継承のために変化することに何ら問題はないという立場です。これには私は勇気づけられました。かすりや麻の裃にこだわる必要はないのです。金ぴかの陣羽織の方が「風流」精神にマッチしているのかもしれません。変化を受入れて、継続させていくという方に重心を置いた「保存」を考えていけばいいと思うようになりました。その対応ぶりが綾子踊りの歴史になっていくという考えです。

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「南無阿弥陀仏」幟(滝宮念仏踊り)

法螺貝が吹かれ、太鼓と鉦が鳴らされ、踊りが始まります。
3人の各組の下司が並んでおどりはじめます。西讃府誌には「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。」と記されていますが私には「なもあ~みどうや(南無阿弥陀仏)と聞こえてきます。これは念仏七遍返しといって、次のような文句を七回で繰り返すようです。
お―な―むあ―みどおお―え
お―な―むあ―みどお…え
お―な―むあ―あみどんどんど
は―なむあ―みどお―え
お―なつぼみど―え
は―な―んまいど―え
な―むで ノヽ /ヽ
単調なリズムの中で、下司が大団扇を振り、廻しながら飛び跳ねます。三味線のない単調さが中世的なリズムだと私は感じています。この踊りの原型が一遍や空也の踊り念仏で、それが風流化するなかで念仏踊りに変化していったと研究者は考えているようです。これも風流踊りの変遷のひとつのパターンです。

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下司達の惣踊り(滝宮念仏踊り)

もうひとつ気になるのは、江戸時代に那珂郡七箇村踊りが奉納していた踊りが念仏踊りだったのかという疑問です。
いまは「滝宮念仏踊り」と言われますが、西讃府誌には「瀧宮の踊り」「滝宮踊」とあります。江戸時代前半の史料にも、「滝宮念仏踊り」と表記されているものの方が少ないような気がします。そこで思うのが、ひょっとして、念仏踊りではなく、中には小歌系風流踊りを奉納していた組もあるのではないかという疑問です。特に七箇村の踊りが気になります。
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        滝宮念仏踊りのきらびかな花笠


以前にお話ししたように、国の無形文化財の佐文綾子踊りと七箇村の踊りは、ともに佐文がメンバーとして関わっていて、踊り手の構成が非常に近い関係にあります。七箇村の踊りは、佐文綾子踊りのように小歌系の風流おどりであった可能性があるのではと、私は考えています。つまり、奉納されていた踊りが、すべて念仏踊りではなかったという説です。これは今後の課題となります。
以上、滝宮念仏踊りを見ながら考えたことの一部でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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記念にいただいた滝宮念仏踊りの団扇です。

参考文献   綾川町役場経済課 ◎滝宮の念仏踊りの由来


滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。
(註 現在は県立ミュージアムで補完されているようです。)
専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。

姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
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 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
東京・埼玉へ: Neko_Jarashiのブログ
少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

滝宮念仏踊りの変遷

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するところでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

補足(2024年4月19日)
 今日手元に届いた「まんのう町文化財協会報第18号 令和5年度版」に、香川県教育委員会文化行政課の佐々木涼成氏が「香川県の念仏踊とまんのう町」を寄稿しています。そこには、滝宮神社(牛頭天王社)と別当寺の龍燈院の布教戦略が次のように記されています。
滝宮神社へは島を除く讃岐国十一郡からの奉納があったと伝えられているが、なぜこれほど広範囲の信仰圏を持っていたのだろうか。
寛政年間成立の『讃岐廻遊記』では、念仏踊の成立過程を以下のように書いている。
空海が、千疋の子を産む牛を清水で清めて落命させた。天皇にその話をすると、その場所に滝宮三社(滝宮神社)の違二を命じら  より数多念仏踊」となる。さらに牛の絵が描かれた御守が国中家々に配布された、というものである。伝説の入り混じるこの記述を全て信用することは出来ないが、ここからは、滝宮天王社建立→参詣者の増加と「名主」による組織化→念仏踊の発生 → 御守配布による信仰の更なる普及という過程の中で信仰圏を拡大してきたことが読み取れる。確かに東かがわ市歴史民俗資料館には、庄屋の家から見つかった大量の滝宮牛頭天王社の絵札が収蔵されており(図三)、牛頭天王社からの絵札を社僧や山伏等の宗教者が庄屋へ渡し、各家へ配布していた経路を想定できよう。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

滝宮牛頭天王社の絵札
滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

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滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

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滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

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滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

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滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


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滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。

滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
上の滝宮の念仏踊りに参加していたまんのう町の風流踊組の主演者一覧表を見ると、真野・小松・吉野の郷の村々からの出演者によって分担されていたことが分かります。その総数は二百人を越える大部隊でした。今回は、出演者達がどんな人達だったのかを見ていくことにします。
 表で岸上村の分担人数を見ると「笛吹1・地踊5・鉦打7・棒突2・鑓5・旗2 計22名」となっています。
幕末の岸上村の庄屋・奈良亮助が残した文書には、この時の担当氏名が次のように記されています。

一、笛吹 朝倉石見(久保の宮神職)

一番最初に登場するのは笛吹で、久保の宮宮司が務めています。そして地踊については、次のように記されています。
①一、地踊          彦三郎
②一、同  古来仁左衛門株  助左衛門
③一、同  宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
②については本来は、仁左衛門が持っていた株だが、その権利で今回は助左衛門が出演するということのようです。③は宇兵衛が譲渡した株を熊蔵が手に入れ出演するということでしょう。この史料からは、誰でも出演できたわけではなく、それぞれの家の権利(株)として伝えられてきたことが分かります。つまり、世襲制で代々、決められた役を演じてきたようです。
 一方で、旗・鑓・棒突については、次のように記されています。
一、旗   二本 社面と白籐
一、長柄鑓 五本
一、棒突  三本 
ここには、出演予定者の名前がありません。旗・鑓・棒突については、「人夫」に任せていたので出演予定者名がないようです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神(三島神社)に奉納された念仏踊

 七箇村念仏踊は、夏祭りに踊られる風流踊りで祭礼・娯楽でした。それが各村々の神社をめぐって奉納されたのです。芸司や子踊り・時踊り・笛吹きは、それを演じる村の有力者が、その地位を誇示するという中世以来の宮座に通じる意味合いももっていました。奉納される神社の境内は、村の身分秩序の確認の場であったことになります。
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境内での風流念仏踊りを見物する人々。立ち見席の後ろには、見物桟敷が建てれている。これも宮座の有力者の所有物で、売買の対象にもなった。ここで風流踊りを見物できることがステイタスシンボルでもあった。

 なぜ七箇村念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか?
 それは有力者達だけで踊られる風流踊りが、時代に合わなくなってきたからでしょう。幕末になって発言権を高めた農民達は、自分たちも祭りに参加することを求めます。そして、誰もが平等に参加できる獅子舞や太鼓台(ちょうさ)を秋祭りに登場させるようになります。その結果、有力者達だけで演じられてきた風流踊は奉納されなくなります。そんな中で、近代になって七箇村風流踊を綾子踊りとしてリメイクしたのが佐文なのではないかと私は考えています。そうだとすれば、綾子踊りは七箇村風流踊を継承したものだということになります。
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年
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前回には那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。
①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒藩取りつぶしの後、讃岐が東西二藩に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村 
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと
⑤しかし、19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
 実際の運営は、1組編成になっても次の東西2つの組に分けて行われていたようです。
東組(Aの高松藩の村々) 
西組(B・Cの天領と丸亀藩の村々)
1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。

那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋

この年は、踊組内部の対立が顕在化します。
その発端は、阿野郡北條組の分裂でした。内部分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れます。これに対して岩崎平蔵は、踊組の意見を聞かずに「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、高松藩側の意志を確認しただけで、これを認めます。しかし、意見を求められなかった七箇村組の内には根強い反対意見もありました。岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力の中心が「C 天領の小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)」の庄屋たちでした。天領の庄屋たちは、Aの高松藩の真野・吉野を中心とする運営について揺さぶりをかけてきます。
 それが、各村々の神社への踊り奉納の時に村役人が着る礼服についてです。
その年の最初の寄合の時に、池御領側から次のように申し出がありました。岸の上村の庄屋奈良亮助は、その申出を次のように記録しています。
 右寄合之節 苗田村年寄十右衛門右申出候ハ、先年ハ廿三日買田金毘羅二而上下着用致、
岸上村久保宮二而袴羽織二相成候所、中頃金毘羅二而上下着用致候二付、直二上下二而入庭(いりは)仕来り候得共、是ハ先年之通り袴羽織二而久保宮ヘハ入庭致候ベシと申出候二付、
真野村庄屋三原専助殿被申候ハ、先年ハ如何二御座候哉、拙者共役申併先政所伊左衛門始?、久保宮へ茂上下二而入庭仕来り被成レ居申候由返答有之候所、小松庄四ケ村之内五条・榎井・苗田三ケ村方申出候ハ、何連念仏一定之旧記等御取調之上、先年右古振之通被い成候而可然旨申出候。依之追而旧記取調十六日ニ池之宮而否返答可致旨専助殿申出候而、寄合相済申候段、
 当村組頭庄屋亮介へ申出候。依之亮助右十日夕方内々二而真野村庄屋専助殿へ掛合仕候所、委細専助殿承知有之、何連十六日二池宮二而、買田村庄屋貞彦方へ掛合返答致候条卜返答有之候。
尚又十五日、当村神職朝倉石見右茂、専助殿へ内々掛合仕候。然ル所旧記等根二入取調仕候所、格別委細之義も無之候得ハ、廿三日?礼服等相改候と有之儀ハ無二御座候。右之趣、明十六日池之宮二而買田村へ返答致候卜、専助殿方申出候由、石見方村方庄屋亮助へ串出候義二御座候。
意訳変換しておくと
 真野不動堂で会合の際に、苗田村年寄の十右衛門右が次のような申出を行った。
 もともと23日の買田・金毘羅(池御料を含む)への奉納の時には上下着用で、岸上村の久保宮の奉納の時には、袴羽織着用であった。ところが近年は金毘羅での奉納が上下着用のために、久保宮でも同じように上下着用となってしまった。ついては、久保の宮には先例通りに袴羽織で入庭するようにして欲しいと申出があった。
 これについて真野村庄屋三原専助殿が応えて云うには、先年とはいつのことなのか? 私が大庄屋を務めるようになってからは、久保の宮へは上下で入庭してきたと答えた。これに対して、小松庄四ケ村の五条・榎井・苗田三ケ村方は、旧記の記述を調べた上で、先例古式通りの作法・やり方を行って欲しいとの要望があった。このため旧記を調べて16日に満濃池池之宮での奉納の際に結果を伝えることにして、会合はお開きとなった。

 当村(岸上村)の組頭・藤堂から村方庄屋の奈良亮介へ申出があった。そこで庄屋亮助が10日夕方、内々に真野村庄屋専助殿へ掛合って、専助殿はこれを承知した、買田村庄屋貞彦方と相談した上で、16日の満濃池池宮での奉納の祭に、返答することになった。
 その前日の15日、岸の上村久保宮の神職朝倉石見右茂も、専助殿と内々に協議を行った。それによると旧記等などを調べてみたが、格別に問題点も見つからなかったということで、「23日に礼服に相改候」とは書かれていないとのこと。これを明日、池之宮と買田村庄屋へ返答する、専助殿へ伝えたとのこと。村方庄屋の亮助へも連絡済みである。
歴史編6 男物の羽織 | 着物あきない
羽織袴(平服)と裃(正装)

 池御領天領(五条・榎井・苗田)の庄屋たちは何が不満なのかを整理しておくと
①羽織袴と裃(上下)では、裃の方が「格上」の礼服であったこと。
②「池御料天領・五条村の大井宮」が格上で、「岸上村の久保宮」は格下と、自分たちの神社が格上だ天領の庄屋たちは考えて見下していたこと。
③とろが近年は、久保宮でも上下着用となってしまったことに不満を持つようになった。ついては、「古式通りに」岸上村の久保宮では袴羽織で参加するようにして欲しい
④しかし、記録にはそのようなことは何もかかれていない。
  要は、天領の大井神社と、岸上の久保の宮の上下関係がはっきりと分かる服装にせよと要求したようです。天領池御料民としての自尊心の現れかもしれません。
 封建制とは身分制で、それが目に見える形で確かめられるような「装置・服装」がともないます。儀式の際の服装などは、身分や役割で事細かく決められていました。祭りの境内での席次なども事細かく決められています。そこに参列する村役人の服装も暗黙の決まりがあったのです。
 大庄屋の岩崎平蔵は、この問題の解決を次の踊りが行われる年まで先送りすることとして、1826(文政九)年の踊り奉納は終了します。しかし、天領の庄屋たちはこれで済ませたわけではありませんでした。3年後の1829(文政12)年の念仏踊に向けて手ぐすね引いて待っていたのです
1829年の総触頭を務めることになったのは、岸上村庄屋の奈良亮助でした。
奈良亮助は、和漢の学も修めていた教養人でもあったことは前回お話しました。彼は立派な花押を使用していますし、文章などからも几帳面で、慎重な人柄がうかがえます。後年には満濃池の普請についての実績を残しています。
 当時は、真野村の庄屋は大庄屋の岩崎平蔵が兼帯していました。
そこで奈良亮助は、念仏踊に関してのみの権限で真野村庄屋役を勤め、念仏踊の総触頭となったようです。師匠の岩崎平蔵の下での、その見習いというところでしょうか。
 奈良亮助は、文化5(1808)年の時に総触頭安藤伊左衛門が書き残した「滝宮念仏踊行事取遣留」によって仕事を進めていきます。そのスタートは、7日1日に先例通りの案内状を、買田村庄屋で西領と小松庄の触頭である永原貞彦に送ることから始めています。同時に回状(回覧板)を、高松藩東組の庄屋たちに送って、7月7日に真野不動堂に集まるように通知します。回覧状は次の庄屋たちを起点に、周辺庄屋に回覧されていきます。
吉野上村庄屋岩崎平蔵
四条村庄屋岩井勝蔵
吉野下村庄屋久保東左衛門
七箇村庄屋金堂東左衛門
塩入庄屋小亀弥五郞
 こうして、最初の会合が7月7日に真野不動堂で開かれます。
 この時は丸亀領が藩全体の忌中のため、領民は他領へ出ることを許されていませんでした。そのため丸亀藩の村々(旧仲南町)が滝宮へ踊りに出向くことは許されません。そこで踊りの期日を忌中開けにすることにします。この結果、例年より約半月遅らせて、各村々の神社での踊興行を行うことが決まります。亮助は、その次第と日程を、翌々日の7月9日付で高松の郷会所の村尾浅五郎と安倍久一郎の両元締に報告しています。
そんな中で7月13日、西組の触頭を務める買田村庄屋の永原貞彦が岸上村の奈良亮助を訪ねてきてきます。
 買田村と岸の上村は、丸亀藩と高松藩にそれぞれ属していて、このふたつの村の間に当時は「国境」がありました。国境の買田峠を越えてゆけば、永原宅から奈良亮助の家までは、30分ほどで着く距離です。丸亀藩が忌中で「藩外出入り禁止」中でも、このくらいの行き来は、大目に見られていたようです。永原家はかつては丸山城の城主であったのが帰農して、買田村の庄屋となったと伝えられます。永原貞彦の居宅は、現在の恵光寺の下辺りにありました。西村ジョイの南側のR32号バイパス工事の際には、買田岡下遺跡が出てきています。ここからは、古代郡衙に準ずるような建物群も出てきていて、このあたりが那珂郡南部の開発拠点で、中心地だったことがうかがえます。
永原貞彦がやってきて奈良亮助に、伝えたのは次のような内容です。
 昨日五条村年寄喜三郎 私宅へ参り、前念仏寄合之節(文政九年7月7日不動堂)苗田村重左衛門右、兼而申出候村役人礼服之儀、村寄合談合候処、岸上久保宮二而、古来之通り袴羽織二而入哉、又ハ五条村大井宮二而一統上下用致候哉、両様御掛合之上相究不申、満濃池宮へ笠揃ニモ得罷出不申、尚踊子用意も不仕、其上入用銀等心得二指出・不申由申参候、依い之貞彦喜三郎へ掛合候、久保宮二而袴羽豚二而入候義(何之何年二而御座候哉、佃者共一向覚無い之、勿論念仏一条真野例先二而惣触頭、西(当村、東(岸上、東西社面元、依之古来占廿三日二当村、金毘羅山、岸上真野之所、出帳之村役人上下着用二而仕来リニ御座候由申答候。然ル所喜三郎心再ビ申候義、我等迪も上下着用之義と奉い存居申候処、苗田村重左衛門、弥左衛門共心申候、往古袴羽織二而御座候処、金毘羅山占帰り掛之義故、岸上村役人占挨拶有い之候二付、上下二而入候杯と申義二御座候由、喜三郎占申出候二付、拙者共岸上村役人占挨拶有い之候杯と申義何覚無い之候由申答候。
右様次第二付如何可い仕候哉。今日御内々御相談二罷越候。何連五条村大井宮へ上下二而入候得バ指支無い之哉卜奉い存候間、篤と岩崎氏へも御挨拶之上御返答承知仕度奉い存候。
  意訳変換しておくと
 昨日7月12日、五条村の年寄喜三郎が買田の私の家(永原貞彦)にやってきて、次のような申し出をして帰った。その内容は次の通り。
 前回3年前の文政9年7月7日に、真野不動堂での念仏寄合の際に苗田村の重左衛門から出された村役人の礼服の件についてである。先日の五条村寄合で話し合った結果、岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること、このふたつのが認められないのであれば、満濃池の池の宮での笠揃に参加しない。また踊子も用意しない。その上に、入用銀なども納めないとの申し出であった。
 この申し出を受けて貞彦喜三郎と相談したところ、久保宮での奉納に村役人が袴羽織を着用したことについては、記録のどこにも書かれていないこと、記憶にもないとの返答であった。喜三郎が云うには、我等も久保の宮へ上下着用で参列するという案はどうでしょうかとの提案があった。そこで、苗田村の重左衛門、弥左衛門に、これを伝えて、昔は袴羽織での参列であったが、金毘羅山からの帰り道になるので、岸上村役人から挨拶があり、上下着用となったようだと伝えた。喜三郎からの申出を、岸上村役人から挨拶があったということは、記憶にないと伝えた。
 このような次第なので、どう取り扱っていいのか迷う所である。今日は内々に相談しにやってきたとのこと。五条村大井神社へ上下で参列が認められないのであれば、五条村は念仏踊りに参加しないとのことである。岩崎氏へも相談し、対応を協議したい。
 3年前に棚上げした礼服問題を、天領五条村の庄屋たちは蒸し返してきたのです。 
「岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること」は、先ほど見たように「大井神社を格上として、久保の宮を格下」とするものです。これは池御料を代表しての五条村からの申し出です。ある意味池御料の面目がかかっているようです。
 「参加拒否、脱会もありうる」という強固な申し入れの背後には、池御料の支配役所である倉敷代官所の同意もとりつけていた気配もします。満濃池池御領の3つの村は、満濃池普請のために設けられた天領です。そのために普請行事は、この天領の大庄屋の指揮の下に行われてきました。周辺の庄屋たちの上に立つ存在でした。明治維新に満濃池を再興した長谷川佐太郎も、天領榎井村の大庄屋でした。それだけに自負心が強く、悪く云うと周囲の村々見下し、強引に押し通そうとする風があったようです。
総触頭の奈良亮助は、西組のまとめ役の買田村庄屋・永原彦助に次のように答えています。

 念仏一条ハ拙者引請、殊二当村久保宮へ古来上下二而入来候義ヲ、当年袴羽織二仕坏卜申義、其意難得奉存候。弥(いよいよ)往古袴羽織二而踊来候得ハ、譬(たとえ)如何様村役人?挨拶有之候共、右様相成候義ハ在之間敷、殊二御料所ハ念仏一条二而小松庄貴様触下之義、触頭之貴様二当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。併右様村役人共着用物之義二付、念仏ヲ差支させ御上様御苦労奉い掛候義 甚夕奉二恐入候。左候得共五条村大井宮計上下二仕候義も難二出来へ指合の上一統上下二而出張致候様仕候而如何二御座候哉。左候得バ論も無い之候間、先唐岩崎氏二内談之上、念仏組合之村々と談合可い致候。

意訳変換しておくと
 この度の念仏踊りについては、私が総責任者を引き受けています。岸の上の久保神社への奉納の際には、村役人は古来より上下着用であったのを、当年からは袴羽織に変更せよという申し入れに対して、同意できかねます。もともと昔は袴羽織であったという証拠資料は、どこの村役人がお持ちなのでしょうか? このような文書は見たことがありません。
 満濃池御料所は念仏踊りについては、小松庄の触下、触頭の立場に在り当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。
併せて村役人着用の服装については、念仏踊りに差し障りが出て、御上にお手数をおかけすることになれば、はなはだ恐入いることになります。
 この解決策として、五条村大井神社で上下で参列するように、他の寺社でも総て統一して裃(上下)で参加するようにしたいと考えています。このことについては、岩崎氏に相談した上、念仏組合の村々とも協議したします。

こうして亮介の奔走によって7月16日に、真野村の岩崎平蔵方で高松藩領側の村々の会合が開かれます。
高松領の六ケ村の庄屋が集まって、岩崎平蔵の意見に従って念仏踊興行を行うすべての宮々で、村役人は上下を着用することになります。奈良亮助は早速に、組頭の乙平を買田村の永原貞彦に遣わして、このことを伝えて、西領側と池御料側の同意を求めます。西領側というのが丸亀藩(旧仲南町の七か村と佐文)になります。
 この会合に集まった庄屋たちは、この後に新築された郷会所の落成祝の御歓びを申し上げるために髙松に連れ立って出発しています。翌日17日から大暴風雨となり、五人の庄屋は髙松の郡宿に逼留して天候の回復を待ちます、19日から高松の関係役人宅を回って、郷会所元〆で当用方の中西次兵衛に、今回の念仏踊りの礼服変更について天領からの異議申出があったことを報告して指示を仰いでいます。藩への「報告・連絡・相談」は、庄屋たちにとっては欠かすことの出来ない最重要業務だったことがうかがえます。

7月22日には、買田村庄屋永原貞彦が再び奈良亮助を尋ねて、次のように申入れます。
 念仏一件頃日御掛合被・下候処、早々御返答可い仕筈之処、大風雨二付延引仕候。昨日御料三ヶ村寄合相談仕候処、至極相談相詰り不い申、当年(金毘羅、滝宮計二而相済セ候義、尚亦池之宮二而笠揃之義も無用二仕、八月七日二榎井村興泉寺へ相揃、金毘羅山済せ、直二滝宮へ入込候様仕度段掛合被い下候様、喜三郎右申出候間、大風雨二付所々破損仕居申候二付、何卒御相談被・成可い被い下候。

意訳変換しておくと
 念仏踊りのことについて、いろいろと協議し、早々に御返答を頂いたところですが、今回の大風雨で延期することになりました。昨日、御料三ヶ村(五条・榎井・苗田)の寄合で相談したところ、いろいろな意見が出ましたが、今回については金毘羅と滝宮だけで済ませて、池之宮の笠揃も中止することにしました。8月7日に、榎井村の興泉寺に集合し、金毘羅山へ奉納し、その後すぐに滝宮へ奉納するという段取りです。喜三郎が云うには、大風雨でいろいろなところに被害が出て非常の際なので、今回は以上のように執り行うので了承頂きたいとのことである。

 これを受けて奈良亮助は、組頭滝蔵を岩崎平蔵方に遣わして、貞彦の申し出の内容を伝えます。
その際に、池の宮の笠揃踊だけは実施すべきであるという自分の意見も伝えます。これに対して岩崎平蔵は、池御料の申出通りに村々と相談してまとめるように指示しています。

 奈良亮介には、池御領の次のような「戦略」が分かっていたのでしょう。
①大暴風雨のための臨時対応を口実として、「興泉寺集合→金毘羅奉納→滝宮牛頭社踊り込み」の先例を作ること
②そして「池の宮の笠揃踊 → 各村々の村社を巡っての奉納 → 真野諏訪大明神 →  滝宮牛頭社踊り込み」という従来の手順を破ること。
③榎井村の興泉寺での笠揃踊が先例として、金毘羅奉納を中心とする念仏踊運営にしていくこと
④同時に運営主体を高松藩の真野・吉野郷から、池御領に切り替えていくこと
⑤これは、七箇村念仏踊りの分裂へとつながること

 このような危惧を持っていた奈良亮助は、次のような書状を書いています。
一筆啓上仕候。秋暑強御座候処、弥御安泰可い被い成二御勤・珍重不い斜奉い賀候。
 誠二頃日罷出緩々預二御馳走不い過い之奉い存候。然其節御噺申上候念仏踊一件、再買田村へ滝蔵ヲ以掛合候得共、何分御料所右申出之儀二付、来月7日興泉寺へ相揃候様、当領之処相談致呉候様申越候。右二付私篤と考合仕候処、満濃池之宮二相揃不申候得、当領之分金毘羅児島屋へ相揃候様仕候得如何二御座候哉。若又当年興泉寺へ相揃、後年池之宮へ笠揃無い之候時、榎井村興泉寺へ笠揃仕、夫右金毘羅相踊候杯と申義、例二相成候而不相済・義二奉い存候。夫右金毘羅町内二而相揃候得指支無之哉と奉い存候。如何二御座候哉。乍い憚御賢慮之上御指図可い被い下候。尚又御役所申出如何二御座候哉。是又別紙御一覧之上御加筆可い被。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様
  意訳変換しておくと

一筆啓上仕候。残暑強く暑い日が続きますが、ご健勝のことと思います。ご無沙汰しておりますことをお許しください。この度の念仏踊の一件について、買田村へ滝蔵を遣わして掛合いました。しかし、池御領かっら申出のあった来月7日に榎井村興泉寺で笠揃をおこなうことについては、私たち高松藩の村々にとっては「寝耳に水」です。
 これについて私の対応策を述べさせてもらいます。
満濃池の池之宮に揃うのではなく、私たちも高松藩の村々も金毘羅の児島屋で相揃うのはいかがでしょうか。今回のように、興泉寺で笠揃いを行うことが通例となり、池之宮での笠揃がなくなくなった場合に、金毘羅相踊とは云えなくなります。金毘羅町内に集合して指図を仰ぐという案はいかがでしょうか。忌憚なき御指図を頂きたいと思います。また御役所への申出・報告は如何いたしましょうか。案文を作成しましたので、御一覧いただき加筆をお願いします。。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様

 亮助の手紙も、大庄屋岩崎平蔵の意見を変更することはできなかったようです。
亮助は、岩崎平蔵の加筆・指示を得た次の書状を、高松の郷会所元締に提出しています。

 一筆啓上仕候、然念仏踊来ル廿九日満濃池之宮笠揃仕、夫右一日更り二村々宮々相踊候様相究候段、先日御申出仕候所、御料所占村役人共礼服着用方之義二付彼是申出差支二相成候段、丸亀御領買田村庄屋永原貞彦右掛合御座候得共、前々之仕振二致相違一候義二付而一統難い致二承知、色々取扱候得共相片付不申、然ル処此度之洪水二付、其郡々川長用水方等切損、依い之稲棉両作共砂入水押二相成、百姓共一同致二難儀候義二付、旁三ケ領相談之上、村々宮踊之分致二無田ヅ、来月7日前々之通榎井村興泉寺二相揃、夫占金毘羅相踊、直二滝宮へ入込候様仕度段相究メ申候間、左様御承知可被い下候。右為二御申出‘如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
  意訳変換しておくと
 一筆啓上仕候、念仏踊の7月29日満濃池之宮での笠揃仕について、7月1日から、各村々の神社での奉納が予定されている。先日、申出のあった池御料所の村役人の礼服着用の件について、丸亀領買田村庄屋の永原貞彦から協議申し出があり、従来の服装にもどそうとしたがまとめきれず、いろいろと取扱に苦慮している。
 そのような折に、洪水被害を受けて、郡内の川や用水も被害を受けて、稲棉などの耕地にも土砂や水が入ってしまった。そのため百姓たちは、その対応に追われている。そこで三ケ領で協議した結果、村々の神社への奉納は、今回は中止し、来月7日に、榎井村興泉寺二に合して、金毘羅山に奉納後に、直ちに滝宮へ踊り込む段取りとなった。そのように御承知いただきたい。右為二御申出如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
 

奈良亮助は、高松の郷会所へ書状を差し出した日に、高松藩領の塩入・七箇・吉野上下・四条の各村に回状を出して、8月7日に五条村の興泉寺へ参集するよう案内します。結果的には、池御料の村々の申し入れが、「暴風雨被害への非常措置」を理由にして、全面的に受け入れられたことになります。
 以上の動きを見ると、この決定至るキーパーソンは那珂郡の大庄屋と、高松藩の郷普請方小頭役を兼務する岩崎平蔵であったことがうかがえます。彼の意向が、この決定に大きく作用していたと研究者は指摘します。岩崎平蔵は、念仏踊の伝統を守ることよりも、倉敷代官所の意向や高松藩の立場を優越させてて動く「現実派」だったと云えそうです。
 1829(文政12)の念仏踊は、8月8日に滝宮への御神事奉納の踊りで終了します。しかし、村役人の礼服のことは未解決のままで、次の開催年に持ち越されることになりました。
 奈良亮助は、八月八日付で念仏踊が無事終了したことを郷会所に報告して、波瀾の多かったこの年の念仏踊の総触頭としての任務を締め括っています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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