瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近代史 > 讃岐の神仏分離

白峯寺 近世建築物群

白峯寺には近世の建築物が15棟あります。この内の9つの建物が2017年7月にまとめて重文指定を受けています。特に、先ほど見た頓証寺の5棟は同時期に高松藩主松平頼重によって建てられています。こうして見ると白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には現状の体裁を整えていたことが分かります。
幕末にペリーがやって来た頃の白峯寺を見ておきましょう。

白峯寺 讃岐国名勝図会
白峯寺(讃岐国名勝図会 1853年)
見ていただくと分かるように主要な建物はほとんど変わっていません。言い換えると、白峯寺は200年以上前の姿をそのまま現在に伝える寺院と云うことになります。これが多くの建物が一括して重文化財に指定される決め手にもなりました。ちなみに、この絵図を書いたのが松岡調です。神仏分離の際に金刀比羅宮の責任者となる人物です。後ほど、詳しく見ることにして、ここでは前に進みます。             
 明治維新とともに出された神仏分離令で、その被害を香川県で最も大きな被害を受けたのが白峯寺です。どのような大嵐が白峯寺を襲ったのかを見ていくことにします。

京都の白峯神社
白峯神社(京都今出川)
まずこの写真から見ていくことにします。白峯神社とあります。
いったいどこにある白峯神社なのでしょうか。これは京都の白峯神社です。堀川通りと今出川通りの交叉点附近の一等地に、もと公家の邸宅跡に新しく作られた神社です。ここに明治初年に、白峰山から崇徳院の御霊は明治天皇の命で移されました。そのためこのような碑が建っています。白峯神社のHPの由来には次のように記されています。

幕末、風雲急を告げる中、孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、社殿を現在地に新造し、奉迎鎮座されました。 

つまり、今は崇徳院の御霊は今はここに移されているということになります。どんな経緯で、白峯山からここにみたまが移されたのでしょうか?
 明治元年(1868)3月に新政府は神仏分離令を出します。その影響を最も早く蒙るのが白峯寺です。

白峯寺 神仏分離2

②4月に明治天皇の名によって、白峯寺の崇徳院の御霊を京都へ移すことが発表されます。その背景には幕末の混乱した情勢があったようです。「崇徳上皇の怨霊が社会不安を引き起こしている」という噂や、新政府への反乱分子が崇徳上皇の怨霊を担ぎ上げて蜂起しようとしている噂が拡がります。③こうして8月26日に、天皇の勅使が30隻余りの船団で坂出港にやってきます。勅使団は、高松藩の警護も含めると400人に及ぶ一行でした。白峯寺にやってきて、頓證寺の御真影と愛用の笙を受け取り、それを神輿に移して、翌日に下山します。これに対して、白峯寺は何も出来ません。事前に儀式に参加したい旨を伝えますが許されませんでした。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。
 28日に神輿と勅使一行は高松藩主の御用船「飛龍丸」で、京都にむけて出港します。こうして白峯陵は「もぬけの空」となってしまいます。これは白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。これが白峯寺への最初の一撃でした。

これに追い打ちをかけたのが明治4年(1871)年の上知(あげち)令です。
上知令というのは、寺院が持っていた寺領を収して国有化することです。大寺院にとっては、これは経済基盤を全て失うことになります。これに対して、奈良の興福寺の僧侶達は春日神社の神官に転職していきます。残された伽藍や仏像は、がらくたのように売り払われ、五重塔も売り晴らされる解体寸前になります。このような状況が伝わると、全国の神仏混淆の僧侶達も不安になって、還俗して神官になるものが続出します。このような中で明治6年、白峯寺の住職も、陵墓墓守に転職します。その背景には白峯寺は、檀家を持たない祈祷系寺院で、今後の寺院将来に不安を感じたのでしょう。自分も住職から皇室の墓守へという決断になったのでしょう。この結果、白峯寺は住職がいなくなってしまいます。当時の新政府の方針は、寺院削減でした。無住職・無檀家の寺院はどんどん取り潰していくというものでした。住職がいなくなった白峰寺はこうして廃寺となってしまいます。
 そして明治8年には、当時の白峯陵の管理者は、陵墓周辺に仏教寺院があるのは環境に宜しくないと、白峯寺の建物群を取り払って更地にするように県に求めています。もし、これが認められていれば現在の白峯寺はなかったことになります。

その3年後の明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。
金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「もぬけの空」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。
 それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮の摂社として管理下に置こうとします。
これを提言し実行したのが松岡調(みつぐ)だと私は考えています。

松岡調 神仏分離

彼は200石取りの高松藩士の4男として生まれ、才覚を買われて20歳の時に志度神社へ養子に入ります。②若いときには、先ほど見た讃岐国名勝図会の挿絵を担当しています。③そして高松藩の藩校の教授に就任します。④明治維新に神仏分離令が出されると、東讃から高松にかけての担当エリア五郡の「神社取調」の調査を担当しています。この調査は各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんなものが祀られているのかを報告するものでした。そのため各神社の宝物類はすべて頭の中に入れていたようです。その彼が請われて、金刀比羅宮の禰宜職に就任したのです。この調査活動を通じて、彼は頓證寺にどんなお宝があるかも知っていたはずです。その松岡調がさきほどの文書を起草したと私は考えています。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。
この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。
金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として、②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること

こうして、明治になって白峯寺は住職がいなくなって廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。白峰寺は、このままでは姿を消していきそうになります。
 このような白峯寺の危機に対して立ち上がっていったのが地元の人達でした。

頓證寺返還運動

 白峰寺の麓の松山村などの住人たちは、白峯寺復活のために明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡に提出しています。この時には、当時の国の方針が寺院削減だったので、県は認めません。②しかし、M11年頃になると時流が変化します。明治政府は神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策を許可するようになります。そのような動きの中で、新しい住職を迎えることが許可され、牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、白峰寺に入ります。③橘新住職は、地元の支援者と協議しながら金刀比羅宮への反撃を準備します。その一つが裁判に訴えることでした。明治17年に白峯寺勝利の判決が下るのですが、金刀比羅宮は、これに従いません。
 禰宜の松岡調の抵抗があったようです。ところが日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島で、政府や軍の許可なく神道布教を行ったことが問題になり、松岡調は1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。その翌年に、高屋・青海村の住人達は、頓證寺の返還願いを県に提出しています。それが認められるのが2年後の1898(明治31)年になります。そうすると金刀比羅宮は、祭神である崇徳院をまつる宗教施設がなくなってしまいました。そこで、本社と奥社の間に、新たな神社を建立します。これが現在の、金刀比羅宮の白峯神社です。

金刀比羅宮の白峰寺創建

現在のお札には金刀比羅宮白峯神社と書かれています

しかし、金刀比羅宮は総てを返還したのではないようです。
返還したのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、金刀比羅宮に移された宝物の多くが頓證寺にはもどっていないのです。その代表が奈与竹(なよたけ)物語の絵巻です。
重文なよたけ物語

 なよ竹物語は、鎌倉後期の後嵯峨院の時代に、春の蹴鞠(けまり)を見物に来ていた人妻を、後嵯峨院に見初めます。その人妻は悩んだ末に院の寵(ちょう)を受け入れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け入れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらすというストーリーで、鎌倉時代になってできた物語のひとうのパターンです。白峯寺は、後嵯峨院の勅願所でもあったようで、そのような機縁で、絵巻が伝えられたと研究者は考えています。これは、金刀比羅宮蔵のままです。
 白峯寺の地元の青年団では、戦後も引渡を求めていますが金毘羅山の回答は、次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。
 文化財の保管・展示を考える場合に、国際的な流れとしては、その文化財がもともとあったところに返すのが原則という考え方が国際的な流れとなりつつあります。そのためルーブルや大英博物館に対して、各国からの返還要求が出されています。このような流れの中で、この問題も考える必要があるのではないかと私は思っています。

明治の神仏分離で白峯寺は、次の3つのものを失いました。


白峰寺のダメージ

そして一時的には廃寺となり、残された建物も神域にふさわしくないと取り壊しが建議されたこともありました。それを救ったのが地元の人達でした。その結果、白峯寺には江戸時代の建物が15棟、そのままの姿で残されることになりました。その内の9棟が重文指定、将来の国宝候補となっています。江戸時代の建物がこれだけ一括して残っていること、そしてその伽藍レイアウトがほとんど変わっていないことことは、非常に希有な寺院です。これらは明治の住職や地元の人達の運動によって、後世に伝えられたことに感謝したいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

 満願寺全景
                                                          
愛媛県朝倉村の「金毘羅山 満願寺」は、不思議なお寺です。
いまでも境内に金毘羅さんの神殿や本殿があります。ここには神仏分離がなかったかのような伽藍配置を今でも見ることが出来ます。
満願寺狛犬

 川の手前には、お寺なのに狛犬が向かえてくれます。 
満願寺鳥居

    その向こうには鳥居が見えてきます。
満願寺本堂

 境内には薬師堂や不動明王を祀るお堂があり、熊野信仰以来の修験の寺であることがうかがえます。
満願寺階段

  さらに上に登っていくと・・・
満願寺金毘羅

  現れるのは金比羅堂です。
満願寺本殿

   裏側に回って本殿を見ると、造りは神社です。お寺の敷地の中に金比羅神社があります。このお寺に神仏分離はなかったのでしょうか。別の見方で云うと、神仏分離をこの寺はどうくぐり抜けたのでしょうか。それを語る物語に出会いましたので紹介します。

テキストは神仏分離こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村) 成重芙美子 ことひら52 H9年です。

明治になったとたん、新政府がおかしなお触れをだした。
「何、今からは、仏さんより神さんの方が位が上になる?」
「それに、神仏を別々に祭れじゃと?仲よう、いっしょにござるものを、なぜ別にせんならん?」
なんぼ、頭をひねって考えても、だあれも訳が分からんかった。そのうち、
「日本は大昔から神の国じゃけれ、寺はいらん、仏もいらん。神さんだけにしろ…ということじや」
誰が言い出したんやら、これが、たちまち全国にひろまって、蜂の巣をつついたような騒ぎになってしもた。
「ちがう、ちがう。神社と寺院を別の場所に、分けて祭れば良いのじゃ」
政府はあわてて説明のお触れをだしたが、もう手遅れよ。
気の早い地方では、ひとつ残らず寺をこわし、仏壇やいはいを大川に投げすてた。仏像も仏具も焼き払い、おじぞうさんも、土手の下積み石にしてしもた。
となりの高知県でも、ようけの家が、葬式や法事の仏式をやめて神式に改めた。
  さあ‥‥朝倉のこんぴらさんのことじゃ。
同じ境内に、満願寺ちゅうお寺もあるので、檀徒衆は気が気でない。よそのうわさを聞くたびに集まった。
「お上のお触れにさかろうちゃいかん。早うこんぴらと寺を分けろ」
「おう、神さんが上になったんじゃけれ、寺をこわせ」
「いや、こんぴらを退けろ」
しろんごろん言い合うのを、時の住職、恭恵さんはまあまあと押しとどめ、
「仏教が伝来してこの方、寺をこわせ、神仏いっしょはいかんじゃの、国が命令したことは一ぺんもありません。これは何かの間違いです。考えても見なされ。今まで、病気や災難からお守り下された神社や寺を、わがらの勝手でよそへ移せると思いなさるか。罰があたりますぞ。それに」
と、そばの寺社総代に目を向けられた。
「寺とこんぴらを分けたら、第一、経営が成り立ちますま い?
 それは、あなたが一番ようご存じのはず」
総代はうなずいた。
「はい、分かっとります。ほじゃけんど、おとがめがあったら、どないにされますぞ?わしらは、それが、いっち、おとろしい」
「その時の責めはわたしが負います。皆の衆は心配せんでよろしい。とにかく、神仏はどちらも大切。上も下もありません。両方存続さすことを考えてくだされ」
恭恵さんは、きっぱりと言われた。
それからというもの、何ぞええ思案はないものかと、寝ても覚めても思うておられた。あちこち人をやって調べもされた。すると、もともと政府の趣旨をはき違えて起きたことじゃ。地方、地方の役人により、だいぶん方針や程度に差があった。伊予はかなりゆるやかなようじやつた。
恭恵さんは望みをすてず、あせる壇徒衆に、
「もうちっと、がまんがまん」
ほしたら、明治二年になって具体的な通知があった。
やっぱり、寺と神社を分けろという。それも直ちにせいちゅうのよ。いよいよ正念場じゃ。
恭恵さんはうす暗い本堂にすわり、ご本尊の薬師如来に一心に祈られた。
「なむ、神仏ともにお祭りできる良い知恵をお授け下され」
後ろでは寺社総代はじめ、主だった壇徒らが、神妙にねんぶつを唱える。その中に石工の弥平次もおった。
「‥・・!?」
恭恵さんに、パッとひらめきがあった。
すっくと立ち上がり、ご本尊を背にして言われた。
「み仏の教えに、方便、という言葉があります。そこで、こんぴら宮には、しばらくお隠れ願うて、満願寺に前へ出てもらいましょう。丁石の(金毘羅本殿へ00丁)を(不動殿大門へ00丁)と彫りなおすのです。さあ、せわしゅうなりましたぞ。みなさん、手をかしてくだされ」
なんと― 恭恵さんは、大日如来の化身である。(不動明王)を奉じて、理不尽な国の政策に立ち向かわれた。
この方は、宇宙でいちばん偉いお方で、
「仏教に敵対するものは許さんぞっ」
と言うて、あのように恐い形相をしてござるのよ。

石工の弥平次は…。
寺から帰るなり、何事か弟子に指図した。弟子たちは、あわただしく、あちこちに分かれて走った。
やがて、おおぜいの石工仲間が、それぞれ弟子を引き連れかけつけた。
「ほいさ、ほいさ」
村の若い衆らが、道々から丁石を集め、荷車に積みやってきた。

弥平次は、ふかぶかと頭を下げて言うた。
「この五基の丁石(金毘羅へ00丁)を消して、(不動殿へ00丁)と彫りなおしたい。こんぴらの一大事じゃ。ぜひ力をかしてくれや」
仲間が言うた。
「親方のため、こんぴらさんのためなら、何でもやらしてもらいます。そいで、いつまでに、また彫り方は?」
「期日は明朝、彫り方はすずり彫りじゃ。
「ええっ、明朝? しかもすずり彫りー そりゃあ、むりぞのもし。
 なんぼ親方の頼みでも、でけん相談じゃ。時間が足らん」
弥平次は首をふった。
「いいや、わしの言うとおりにしたら必ずできる。まず、石面を削りつぶして、もとの字を消せ。その時まわりの縁を残すんじゃ。すずり彫りになろが? それから字を彫れ。しんどなったら交替せい。とにかく一本の石にいつも二人はかかっとれ」
「なあるほど…それならできるかも知れんのう」
「よっしゃ、やろうじゃないか。これで、こんぴらさんがお救いできるなら、石工みょうりにつきるぞ」
「おう、やろやろ」
そうと決まったら、ちょいとの間も惜しい。いそいで丁石を、仕事場に一基、残りの三基は前の道にならべた。
「ほんなら、わしが一番乗り!」
元気なものらが石にとびついた。

そのころ、こんぴら本殿でも大さわぎじゃった。
こんぴら権現の像を脇へ移し、わきの不動明王を正面に…
つまり場所の入れ替えをしよったんよ。
なにしろ、大切なお像じゃ。いためたら取り返しがつかん。
大工のとうりょうも、手伝う若い衆も一生懸命じゃった。
足場をかため、力じまんがお像を抱きかかえた。
「なうまく、さんまんだ、ばさらだん、さんだ…」
恭恵さんは、じゅずを押しもんで念じた。
ようよう、無事、不動明王が正面に祭られた。
ローソクに灯をともして見上げると、右目をカッと見開き、くちびるをグッとかみしめた。
おとろしいお顔が、皆にはこの上なく頼もしゅう拝めた。

門前では相変わらず、カッツンカッツン、ノミ音が勇ましかった。
炊きだしの握り飯も交替でほうばった。
たくさんの提灯に灯がともされる頃、ようよう、もとの字が消せた。これから本番。弥平次が気合いを入れた。
「ええか?急ぐいうても、ええ加減な仕事はするな。末代まで残るものぞ」
ひとりは上から、ひとりは横から、カッツンカッツン。
- ノミがちびたら、かじ屋に走って焼きを入れ直した。
なんぼ交替でも人数に限りがある。夜の更けるとともに皆だんだん疲れがでてきた。
(朝までにできろか?)
その不安を打ち消すように、誰かが般若心経を唱えだした。
すると、手待ちのものらの大唱和となった。
「かんじぃざい、ぼうさつ、ぎょうじん、はんにゃ…」
それに力を得て、ノミ音が勢いを取りもどした。
「できたっ」
五基の丁石が彫り上がったとき、朝日が山の端を離れた。
みなの顔がぱっとかがやいた。
さわやかな、こんぴらの里の夜明けじゃ。
丁石を積んだ荷車が走り去る。境内が掃き清められる。
恭恵さんは、静かにみなの衆と役人を待った‥‥。

現在、あのときの一基(不動殿大門へ三十丁)が、 一夜彫り石として、仁王門のそばに大事に据えられとる。じゃが、これらを語る人はもう誰もおらん。身の丈七尺五寸の仁王さんだけが知ってござるのよ、のう……。 おしまい

物語はおしまいなのですが、境内の建築物は「おしまい」ではありません。金比羅堂の上には、まだ堂宇があるのです。
満願寺大師堂への参道

  金毘羅神社から、さらに参道をのぼっていくと

満願寺大師堂

  現れたのは大師堂です

  全景図を見ると、この寺は、今は満願寺という寺院ですが金毘羅の神殿や本殿が境内の中にあります。神仏分離以前の神仏混淆の姿を維持した宗教施設ともいえます。
その成り立ちを考えると
「熊野信仰 + 修験道(不動明王) + 弘法大師信仰 + 金毘羅信仰」と時代とともにその時代の流行の信仰を受入て混淆してきたことがうかがえます。 


  近世のはじめに金比羅大権現を厄除け守護神として勧請し、神仏混交の寺として修験山伏のてによって創建されたのでしょう。明治期の廃仏稀釈で一時期廃寺になったようですが、再建されたときには神仏分離以前の形を維持したようです。そこには信徒の根強い信仰が支えになったのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
成重芙美子 こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村)  ことひら52 H9年

哲学者の梅原猛は「廃仏毀釈という神殺し」という次のような文章を山陽新聞に寄稿しています。(要旨)
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
 江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。
「神々の殺害」という廃仏毀釈が五流一山に、どのように襲いかかったのかをみてみることにします
熊野神社(倉敷市児島) (10月27日) : 夢民谷住人の日記4
現在の児島 熊野神社

 五流一山は、神道の熊野神社と仏教の五流修験に分割されます。
神社には神職として旧祠官の大守有太と還俗した大願寺の宮本右藤太、下禰宜の高見弥三郎の三名が奉仕することになります。そして五流修験は神社からは追放されます。追放された修験者たちは、旧観音堂を本堂(現本地堂)として、吉祥院、智蓮光院、太法院、尊滝院、伝法院、建徳院、報恩院で一山を再形成します。これが現在の三重の塔のエリアになります。さらに明治6年には神社は、郷内村を氏子圈とする郷社熊野神社と名前を変えます。

五流 明治初頭の新熊野十二所権現
明治初年頃の五流一山

 一方修験者は、明治五年の修験道廃止後は聖護院を本寺として天台宗寺門派に所属することになります。
神仏分離で、五流の5院や公卿12院は壊滅状態になったようです。
田辺進、「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」2005には、次のように記されます。
 今熊野十二所権現の鎮座する林村は、幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏であり、修験道廃止によって、失業となる。五流尊瀧院のみ天台宗の寺院となり、後は全て還俗する。
 還俗後、このころ警察官・軍人の職業が生み出されたので、そちらに就業した人も多かったといい、五流伝法院の兄弟は軍人となり高官に出世したと伝える。伝法院も建徳院も大阪のほうに移るともいう。

 「幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏」とあります。中世から比べると規模は縮小していたとはいえ、1/3近くの住民が山伏を生業としていたことがわかります。神仏分離で警察官や軍人に「転業」した人たちが多かったようです。

 修験者(山伏)関係の寺院を地図上で確認しておきましょう。
 五流 山伏寺判明図
  五流;
  建徳院(高槻市内藤家)
  報恩院(林・新見家)
  伝法院(大阪市三宅家)
八院:
  大泉院(林・三宅家)、正寿院(林・内藤家)
  観了院(林・本多家)、宝良院(林、岡田家)
非座衆35ヶ寺
  大願寺(今、宮本家)、西光坊(今、西方寺)串田
  有南院(今、一等寺)曽原、惣持坊(今、宝寿院)福江
  杉本坊(今、慈眼院)尾原、仁平寺(今、真浄院)林
  南之坊(今、大慈院)植松、法華寺(今、蓮華院)浦田
  神宮寺(禰宜屋敷) 是如院(報恩院の上手)
  蜜蔵坊(竹田の田の中)  多宝坊(宝良院の下手)
  宝生坊(木見、惣願寺)  清楽寺(祠官屋敷)
かつての五流長床衆の寺院跡を見ておきましょう。
五流 絵図

十二所権現本社の西側にあったのが大願寺です。今はなにもありませんが「中国名所圖會」巻之2「熊野神社全図」で、その姿を想像することはできます。「本社と別当寺」という関係がうかがえる絵図です。
明治の神仏分離で大願寺は廃寺になり、住職は神職となり、明治10年頃まで仕えたようです。明治7年桜井小学校が旧大願寺に新設され、旧大願寺客殿及や長床は教室として使用されます。そのためここには、旧学校跡の石碑が建っています。
五流 大願寺跡

大願寺の南は行者池で、その中島が桜井塚です。
今は陸続きになっています。この中島が、後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王の御墓所(「備前紀」)だとされます。石造十三重塔は、供養塔と云われ、初重の軸部(鎌倉中期)だけでしたが、皇国史観が高まる明治末になって、現在のように十三重石塔に再建されたものです。
五流 供養塔拡大部

◆後鳥羽上皇供養宝塔(重文):
 三重塔南にある供養塔です。承久の乱で流刑となっていた桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王が 、父後鳥羽上皇一周忌供養のために仁治元年(1240)に建立したと伝えられます。かつては覆屋(御廟)を建て、一切経を納めた経蔵が付設されていたと云います。
五流 後鳥羽上皇御影塔
 

真浄院:(旧五流報恩院)
明治23年、かつての五流報恩院の土地建物を譲り受けて、移転したようです。報恩院の敷地は広かったようで、真浄院の敷地は、その南側1/3程度になるようです。寺号は「備前記」では「新熊野山仁平寺」、「備陽国誌」では「金光山妙音寺真浄院」とあります。現在、この寺は「金光山妙音寺真浄院」と公称します。「仁平寺」とは、十二所権現非座衆35ヶ寺中に見える寺号でなので、十二所権現の社僧の流れを汲む寺院のようです。
 
◆大仙智明権現:

五流 大仙智明権現

五流太法院跡の南の一画に大仙(大山)智明大権現の堂宇があります。太法院跡の西側には、多くの地蔵石仏が並びます。先述したように近世になると、五流修験の山伏が先達となって信者を伯耆大山に登拝する風習が盛んになります。その際の登拝許可などは五流山伏が握っていました。そのため各地から五流の山伏寺に、登拝許可を受けに来ました。こうした大山と五流山伏との関係から、大山智明権現が五流に勧請されたようです。智明権現の本地は、大山寺本尊地蔵菩薩になるようです。
覚城院も山伏廃止令で廃寺となったようです。
五流 覚城院

しかし、児島四国88ヶ所第53番札所が大願寺から移され、そのため覚城院堂宇は天台宗阿弥陀庵として、現在まで存続しました。本尊は阿弥陀如来坐像で、元の覚城院本尊と伝えられます。覚城院は明治維新まで十二所権現裏(北)にある福岡山に鎮座する福岡明神の別當でもあったようです。
寺院エリアの残る「新熊野十二所権現三重塔」を見ておきましょう。
五流 本山
右が三重の塔 左が長床(焼失)

熊野十二所権現社の長床前広場の東・段上に鐘楼・役行者堂と並んでいます。一辺4.3m、総高21.5m(青銅製相輪6.8m)の三重塔で、応仁の乱で焼失したものを、別当大願寺天誉上人によって、再興されます。しかし、安永から天明年中(1781-89)に倒壊したようです。それを、別当大願寺湛海が願主となり、文政3年(1820)に再興したものです。この時期には、善通寺の五重塔や金毘羅大権現の旭社も建立中であった時期になります。寺社の建築ラッシュの時代です。
  この塔の背後の上段には本地堂があります。
五流 日本第一熊野大権現本堂

かつては、「本堂、権現堂、観音堂」とも呼ばれていたようで、十一面観音立像を安置されています。大願寺廃寺になって、ここに遷されたようです。
五流 熊野十二所神社本社
長床が焼失して、さえぎるものがなくなった本社

神社エリアを見ておきましょう。
十二所権現の社殿です。
向かって左から、第三殿、第一殿、第ニ殿、第四殿、第五殿、第六殿となるようです。
五流 熊野十二所神社本社3

第1殿は春日造で第2殿と同規模、
第3殿は桁行3間梁間2間の入母屋造、
五流 三殿

第4殿及び第5殿は4間社流造、第2殿は明応元年(1492)の再建で重文(正面1間側面2間、春日造、正面1間向拝付設)
五流 第6殿

一番右側の第6殿は、1間社流造で、他の社伝よりも小振りです。
第2殿以外は、池田光政により正保4年(1647)再建とされますが、天保11年(1840)再建との古記録もあり、様式上からは天保11年再建とする方が妥当と研究者は考えているようです。
なお、現在、神社側の説明版には「熊野神社祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神」とあります。ここには熊野の神達の名前はありません。それ以外にも記紀の神々(アマテラス、ニニギなど)が祭神として祀られているようです。
これだけを見ると、最初に挙げた梅原猛の「廃仏毀釈は、神々の殺害
」であったという言葉に真実みが出てくるように私には思えてきます。
五流 長床

 本殿の前にあった長床。
 長床は修験道場で、享保年中(1716-35)の再建と伝えられていました。瓦には、室町期のものが多く使われていて、室町期の建築を再興したものであろうとされていたようです。明和5年(1768)の再建との記録があるとも云われていたようです。13間×3間の長大な建築で、中央右2間が通路で、拝殿も兼ねます。
長床で、社殿は隠されていましたが焼失後は社殿が剥き出しになっていました。この方が開放的でよいと言う人もいますが、どうでしょうか。 
明治維新の神仏分離で次のような境界線が引かれたようです
①三重塔の建つ5段ほどの石階から上は五流山伏の所有地
②それ以外は熊野神社の所有地
この分割ラインでは、長床は神社の所有地の上に建っています。しかし、その機能上から建物は五流山伏の所有とされてきました。そのため、神社側は長床を拝殿として使用するため、五流側から「借用」という形をとってきたそうです。
 平成19年に再建されますが、以前の姿とは全く違う「近代的スタイル」の建築物になっています。

 参考文献
神 仏 分 離 あるいは 廃 仏 毀 釈備前新熊野十二所権現(五流修備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院・尊瀧院三重塔)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm

 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
塩入から 満濃池 神野神社 神野寺 久保神社 御神事場 金刀比羅宮へ - 楽しく遍路

神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。
金刀比羅宮 | 令和2年 累代別当及歴代宮司墓前祭
金毘羅大権現累代別当及び金刀比羅宮歴代宮司の墓域

このことからも琴陵宥常の古川躬行に対する想いがうかがえます。若い宥常が京都で古川躬行に出会ったことが、金毘羅さんを仏閣から神社へと変えていくための頼りになる指導者を得ることにつながりました。古川躬行の晩年を琴平で過ごしてもらい、出来るだけの加護をしたいという気持ちで、三度目の招聘を行ったのでしょう。ある意味、恩返しのような気持ちもあったと私は考えています。
   墓所については、神仏分離に難局に対して立ち向かった最大の貢献者(功労者)に対する礼のように思えます。「琴陵宥常にとって最大級の畏敬の表現」と研究者は考えているようです。

     参考文献   西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会


慶応4年(1868)9月に元号を明治と改元、欧米の文化・制度を積極的に取り入れて、明治維新の大変革が始まります。封建制度が崩れて藩境の関所が取り除かれたことは、手形無しでどこでも自由に通行できる時代がやってきたことを意味します。「移動の自由」を庶民が手に入れたのです。ところが、明治前期には遍路の数は減少して一時的に停滞期を迎えます。どうしてでしょうか?
 遍路の動向を知るために、幾つかの札所に残る過去帳から1,345名の遍路を抽出してグラフにまとめたものを見てみましょう
2グラフ1
このグラフからは次のようなことが読み取れます
①18世紀後半から遍路の数は増加傾向を見せ始め
②19世紀前半にピークを迎える
③明治初期には1/3に激減する
 2グラフ12
西国巡礼の数を比較してみると、次のような事が分かります
①天保期の巡礼者の増加率は四国遍路の方が大きい
②明治維新前の政治的混乱で巡礼者は四国は半減、西国は1/4に激減する
③明治になって、西国に回復傾向は見られるが、四国遍路にはみられない。
この2つのグラフから分かることは、明治前期はしばらく停滞の時期が続いていたということです

明治前期の遍路の停滞の要因は何だったのでしょうか?
それは、次の2点のようです。
①神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
  今回は①の神仏分離・廃仏毀釈運動が札所に与えたダメージを見ていくことにしましょう。
 遍路行の第一の目的は、言うまでもなく札所において読経・納経し、札を納めることでしょう。いまの寺社ブームも、納経帳と朱印帳がなければ、これほどまでには成長しなかったかもしれません。納経・朱印を目的に多くの若者達が各地の寺社を訪れる時代がやって来ています。もし、その寺社が「明日から朱印は押せないよ」と云われれば、人気寺社を訪れる朱印マニアの人たちはがっかりすると同時に、参拝客も激減することが予想できます。
 明治維新には、そんな状況が現れたと云うことです。
その原因は「廃仏毀釈」です。札所の多くが衰退したり、廃寺となって一時的に消滅してしまったのです。やってきた巡礼者は納経も朱印ももらえません。神仏分離については、以前にお話ししましたので簡略に記しておきます
①外来宗教である仏教と日本固有の神に対する信仰を調和・合体させる神仏習合が進んだ
②この正当化のために、神はもともとは仏であって衆生を救うために仮に神の姿で日本に出現したという本地垂迹説が広がった。例えば、天照大神の正体(本地)は、実は大日如来だとされた。
③この結果、神を祭る神官よりも仏をいただく僧侶の方の立場が強くなる。
④こうして江戸時代には、幕藩体制と結びついた寺院が、別当寺・神宮司など呼ばれ神社の管理を行っていた。僧侶が神社を管理していた。
 ところが、幕藩体制の崩壊・明治政府の成立とともに一変します。明治政府は近代国家の出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を取り、天皇の神権的権威のもとに神道の国教化を掲げます。
その最初の政策が「神仏分離」だったのです。
 まず、神社にいた別当や社僧としての僧侶を認めません。
彼らの還俗と僧位僧官の返上を求めたのです。これに真っ先に答えたのが奈良の興福寺の僧侶達です。一斉に春日大社の神職に変身します。うち捨てられた興福寺は、廃寺のような存在となって荒れ果てていたことは有名です。
 これに続いて、讃岐の金毘羅大権現の社僧も神官になり、琴平神社と名前を改め、大権現は追放します。このように僧侶達が雪崩を打って神官になった結果、神宮寺などは廃寺になる所が数多く現れたのです。
土佐で神社が札所だった所は?
元禄2年(1689)に刊行された寂本の『四国偏礼霊場記』には、札所として「仁井田五社」「石清水八幡宮」「琴弾八幡宮」など神社名が記されています。また近藤喜博氏は、神仏習合的色合いの濃かった札所として、一番・二十七番・三十番・三十七番・四十一番・五十五番・五十七番・六十番・六十四番・六十八番の10か所を挙げています。これらの札所は神仏分離で、今までは神社とその別当寺が一体化していたのが分離されます。そして、寺院である別当寺が正式な札所なります。例えば
①土佐の仁井田五社は、別当寺である岩本寺が三十七番札所となり、
②伊予清水八幡宮については別当をつとめる山麓の寺が栄福寺として五十七番の札所へ
③讃岐の琴弾八幡宮は、別当寺の神恵院が六十八番札所へ
こうして現在のような、八十八ヶ所の札所が全ては寺院で構成されるようになります。それでは高知と愛媛の状況を見てみましょう。

  廃仏毀釈の展開と札所 高知県の場合
土佐藩は、比較的規模の大きな寺院は檀家が少なく、藩主の保護のもとで広い寺領を持っていました。大きな寺は庶民的性格を持っていなかったのです。四国遍路の札所でも、堂塔が壊れたりすると、檀家である藩主の手によって修理が行われています。
 ところが維新後、高知藩の「社寺係」となった国学者北川茂長は、きわめて強力な廃仏政策をとります。まず明治3年(1870)に廃仏的意図を持って、寺院から土地山林を没収し、僧侶の還俗を要請する布告を出します。さらに旧藩主山内家自身が、それまでの仏葬祭をすべて神葬祭に変更するのです。山内家の菩提寺として寺領100石を有していた真如寺は還俗し、神官として教導職をつとめるようになります。殿様の菩提寺が廃寺になります。
 これを見て士族のほとんどが神葬祭に転向し、庶民に対しても神葬祭が勧められます。真如寺の跡地は神式葬祭場になってしまします。このような風潮の中で廃絶する寺院が続出し、土佐国内の寺院総数615の約3/4にあたる439寺が廃寺になるのです。
 四国遍路の札所については、土佐16か寺中、津照寺、大日寺、善楽寺、種間寺、清瀧寺、延光寺の7か寺から廃寺の届出が出されます。届け出のない札所も、実質的には廃寺に近いものもだったようです。
明治4年に高知藩では、神葬祭を広め、あわせて廃寺となって失業した僧侶を救済するために、彼らを「神葬祭式取扱」に任命して神葬祭を行わせています。しかし、翌年5年9月には一斉に罷免しています。これについて、ある研究者は次のように記しています。
「華々しく(?)開始された神葬祭式も、たいして効果があがらず、この時をもって終止符がうたれたと考えたい。」
このころから高知県における廃仏の動きは収束していったようです。どちらにしても神仏分離の展開で、札所の寺院が廃寺状態で機能しなくなっていたのは事実のようです。
 明治11(1878)になって島根県から来た遍路の小須賀おもとの納経帳を見ると、そこには二十五番「旧津寺」、三十五番「旧清瀧寺」とあるので、まだこれらの寺が廃寺のままであったことが分かります。三十三番は高福寺(雪蹊寺の古称)となっていますが、ここも廃寺同然になっていたようで、納経事務を竹林寺で代行しています。
 これら寺院の名称が復活していくのは明治10年代以降です。
①雪蹊寺は明治12年、
②種間寺・清滝寺は明治13年に
③岩本寺も明治22年(1889)
に一応の復興にこぎ着けたようです。

讃岐の七十六番金倉寺で、このころ広がった霊験話を紹介しましょう。
明治10年に、不自由な両足で四国遍路を回っていた男が讃岐の金蔵寺で、突然に足が直り、立って歩けるようになります。この男は、和歌山県の北岡増次で、その霊験話はたちまち四国各地に広まります。その後も彼は遍路を続け、四国中の善根宿などで歓待を受けます。その彼が翌年に金蔵寺に送った手紙には、善根宿は土佐が最も熱心なことや、土佐では位牌を焼き捨ててなくなった家が多いので仏法のありがたさを説いて位牌を作り、私戒名を授けたことなどが記されています。
ここからも、過激な廃仏毀釈の熱狂が冷めた後の土佐の反動がうかがえます。しかし、廃物の動きが収まった後も、その傷跡はかなり後の時代まで残ったようです。
例えば、明治40年,室戸岬の最御崎寺を訪れ滞在した小林雨峯は、この寺の衰退ぶりを嘆いて、日記に次のように書き残しています。
其の僧坊伽藍の荒廃衰残の状 大抵の人は皆慨嘆の声を洩らすのが普通である。(中略)
荒廃せる坊中にあつて再興のためによく種々の困難に凌ぎつつある住僧の辛抱強きには驚嘆せざるを得ないんだ。風吹き雨降りし一日、雨滴は本尊前の縁板を流れて居る。予の臥つて居る室の一角の天井板は全く傾いてしまって、それを仰臥して見つめて居ると、将に落ちんとする状がある。
杉の帯戸の向かひの座敷は全く跡形なく荒廃し戸を開く事も出来ぬ始末である。日本有数の霊場と日本有数の廃坊を余は室戸崎に於て見るのである。」
廃仏の嵐が過ぎ去っても、寺院の復興は一朝一夕にできなかったことが分かります。明治の時代を通じ、各札所で経済的に厳しい状況が続いていたのです。
 平成の時代になってようやく解決に至った「三十番札所の問題」
これも神仏分離・廃仏毀釈がおおもとの原因でした。江戸時代に出版された遍路関係の著作物によると、もともと三十番札所は「土佐国の一宮」、すなわち高鴨大明神社(現在の土佐神社)でした。その別当寺として神宮寺と長福寺(善楽寺)があったようです。ところが神仏分離で、まず神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とする措置がとられます。そのため、ふたつあった別当寺が両方ともなくなってしまいました。
 そこで善楽寺の本尊は二十九番国分寺に合祀され、三十番の納経は国分寺で兼ねることになったのです。ところが明治9年(1876)に安楽寺(高知市洞ヶ島町)が旧善楽寺の本尊を国分寺から移して、ここを三十番の札所とします。
 昭和になると一宮村の有志連中が旧善楽寺跡に善楽寺(高知市一宮)を再興して三十番札所とします。その結果、ふたつの三十番札所が並立することになってしまいました。こうして、両寺の間で三十番札所をめぐる争いが起こり、長い間、高知を訪れる多くの遍路を迷わせてきたのす。この問題はが解決したのは、平成の代になってからでした。三十番札所は善楽寺、安楽寺はその奥の院ということで決着したようです。

 愛媛県の状況   明治初期の札所の経済的な困窮
愛媛県における神仏分離・廃仏毀釈の動きは土佐に比べるとはるかに穏健に進められました。しかし、六十二番宝寿寺のように檀家を持ちながら一宮神社と分離後に廃寺とされ、明治10年になって再興されたという札所もあります。
 ここでは明治期の札所を経済的な側面から見てみましょう
 上知令によって寺領は没収され、札所を経済的困窮に追い込まれます。例えば上知については、明治4年(1871)に
「社寺領現在ノ境内ヲ除くノ外一般土地 上知セシツ…」
という命令が出されます。さらに、地租改正の際には境内付属地までを含めた上知が命令されます。明治4年の旧松山藩領寺院の上知記録を見ると、寺領の推移は次のようになります。
①石手寺は、 4町6反 → 1町8反
②番繁多寺は、4町9畝 →   4反8畝
③太山寺は 10町   →約1町です。
②③は1/10になっています。それまでムラの庄屋と同じ位の田んぼを持っていた大寺院が、持っている田畑を政府に奪われたのです。経済基盤を失い、今までのような財政運営が出来なくなり困窮化する札所が続出するのは当然です。

 また、檀家のいない寺は廃寺にすべしという命令が出されます。
五十五番南光坊は、大三島神社の神宮寺で檀家は持ちませんでした。そのため4・5軒の家に頼んで檀家になってもらい廃寺をまぬがれたと云います。栄福寺も住職が還俗していなくなり、なんとか新しい住職がやって来ますが、寄付を頼む檀家がなく、茶碗や鍋さえ整わないという時期があったといいます。
 四十六番浄瑠璃寺では、住職が庫裡の裏を畑にして芋などを植えてしのいでいたが、とうとう耐え切れず出て行ってしまい、無住になったので檀家総代が建物を管理し、葬式や法事の際には近所の寺から僧侶に来てもらっていたと云います。遍路が納経を頼みに来た時には、近所に住んでいた総代が出て行って朱印を押したそうです。このような経済的な困窮が札所を襲い、後継者もいなくなってしまいます。
 石鎚信仰の中核だった前神寺・横峰寺と廃仏毀釈
 愛媛で最も大きな打撃を受けたのは、六十番横峰寺・六十四番前神寺のふたつの札所でしょう。江戸時代半ば以降、石鎚山の別当職を争ってきた両寺ですが、金毘羅大権現と同じく「石鎚大権現は神にはあらず」という明治政府の前に廃寺の憂き目を見ることになります。
 前神寺の札所の特徴は、石鎚修験道の核として蔵王権現を祀ってきました。ところが明治3年(1870)の神祇官通達で
「仏像と判断される蔵王権現は祭るに及ず」
という決定を受け取ります。つまり、蔵王権現を祭る前神寺の存在そのものが否定されたのです。これに対して住職は、権現像を山上に安置して庶民の信仰維持を図り、行政に抵抗します。ところがその最中の明治5年に本堂と庫裡が火災で消失しています。そこで無住になっていた末寺の医王院に移り、権現像は封印して地元の戸長に預けられました。3年後には、県から正式に廃寺通達が送られてきます。これに対して、寺側は裁判を起こして抵抗しますが決定は変わりませんでした。
しかし、その後も檀家総代から寺の存続を求める嘆願書が提出され続けます。明治12年には檀家は協議の上で「前神寺復旧出願」を提出します。これには180余戸の檀家の祖霊祭祀に支障が出ていることや六十四番札所としての数百年来の信仰の問題などを述べたうえで、次のように記されます
寺号ニテ御差支ノ廉モ有之候ハバ 御指揮二従ヒ前寺卜改寺号仕候ナリトテモ 再興一寺建築願ノ趣御採用ノ程奉懇願候
これに対して県は
「故寺号ニテハ差支ノ儀有之候条、前寺毎号候儀卜心得ベシ」
と回答し、前神寺では許さないが前上寺なら許そうという条件で再興が認められます。そこで、現在地にとりあえず前上寺(ぜんじょうじ)という名称で再建します。前神寺にもどるのは、それから10年後のことです。
 横峰寺も石鎚神社西遥拝所横峰社となって、廃寺になってしまいます。
檀家は六十一番香園寺の檀家とされます。六十番札所がなくなってしまったので、同じ小松町の平野部にある清楽寺に札所が移されました。そのためこの時期の納経帳には、六十番札所として清楽寺の印が押されているようです。
 横峰寺も前神寺と同じ時期の明治10年に地元の檀家総代より再建願いが出されます。そこには
「二百三十余戸ノ檀中一同(中略)香園寺へ埋葬相頼来候共 
遠隔之地ニシテ実二困入夙夜悲難仕候」
と記されて、香園寺が村から遠すぎるために葬式の際などに大変困っていることを訴えています。そのうえで、
「一寺永世維持方法相調ント勉励シ(中略)今年二至り五百円二満ツ(中略)反別五町村中共有地二罷在候 間土地上木共永世寄付仕候条偏二再建之旨奉懇願候]
と、寄付金を集めて、村の共有地も寄付すつもりなので、ぜひとも寺の再建を認めて欲しい訴えています。
 こうして翌年には、愛媛県令から再興を認める決定を引き出します。横峰寺は、明治13年にまずは大峰寺という名称で復活します。その後の清楽寺との協定で、清楽寺は前札所ということになり、六十番札所は山の上に戻ってきました。横峰寺の旧称に復帰するには、さらに30年近くの年月が必要でした

以上、神仏分離が札所に与えたダメージを土佐と伊予について見てきました。この打撃のために札所は廃寺になったり、無住となって札所の機能が果たせなくなった所が数多く出てきたようです。それが明治初期の四国遍路の激減につながったというのがまとめになるのでしょうか。
  讃岐や阿波にの神仏分離政策については以下の関連記事をご覧ください。タグ「讃岐の神仏分離」
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
        平成12年度遍路文化の学術整理報告書
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白峯寺の境内には、崇徳院白峯御陵の御霊を廟として祀るために、後白河法王によって頓証寺が建立されていました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、寄進されてきました。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。これは神仏習合の下では、白峯寺により守られてきました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのでしょうか?

siramine19讃岐國名勝図会:明治維新直前の景観
維新直前の白峰寺(讃岐国名勝図絵)
最初に白峰寺をめぐる年表を見ておきましょう
明治2年 明治天皇の命で、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀。
明治6年 白峯寺住職恵日が復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住化。
明治8年 白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。
明治11年 寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。
明治31年 仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。
崇徳上皇陵

  明治元年(1868)三月に新政府によって出された神仏分離令については、讃岐の神仏混淆の各寺院は、何が起きているのか分からず、当初は模様眺めであったようです。金毘羅大権現社のように、別当自らが京都にのぼって打開策を探ると云うのは特異な行動でした。模様眺めの白峰寺にとって寝耳に水のような知らせが届きます。
新政府の神祇科は、御陵を宮内省の管轄に移し、御霊を京都へ移すというのです。

崇徳上皇
崇徳上皇
 京都の今出川通りの西に廟を造営して、崇徳上皇の御霊はここに祀るというのです。これは、白峰陵の御霊を京都の新しい神社に移すということです。
   崇徳上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から受け取るために京都から勅使がやってきて「奉還」されることになります。しかし、白峰寺は何も出来ません。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。事前に遷還に奉仕したいと願いも許されませんでした。こうして勅使を載せた御用船が、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことでした。

京都の崇徳天皇廟
           京都の崇徳天皇廳 

約七百年余にわたって崇拝の対象となっていた崇徳上皇の御霊がなくなるということは、白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。
  さらに追い打ちをかけるように明治4年には寺領上知令が出されます。
これにより境内以外の寺領は国家に没収されることになります。これは、中世以来の朱印地を全て失う事でした。この間に、脇坊の僧侶の中には寺を廃寺として、寺院の土地、建物を私有化する者も現れます。財政基盤をなくし、白峰寺の将来を考えたのか当時の白峯寺住職・恵日は、明治6年10月に還俗して、隣の崇徳天皇白峯御陵の陵掌に転身します。僧侶から神職になったのです。このため白峰寺は住職がいない無住寺院となります。明治5年の太政官布告234号で「無檀家・無住寺院は廃寺」の通達が出ていましたので、主をなくした白峰寺は廃寺となってしまいます。

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頓証寺

  四国巡礼の札所がこんなありさまになったのを、なげき立ち上がったのは講中、信徒たちです。彼らは明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡大区長片山高義あてに出します。これに対して大区長はすぐに名東県令(当時は愛媛と合併)古賀定雄に取りつなぎます。当時は、廃寺になった各地の札所からの復興要望が出されていたようです。また、中央政府も神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策がとられるようになっていたために直ちに聞き届けられます。その結果、明治11年には牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、無住となっていた白峰寺に入ります。
 神霊奉還後の頓証寺を見ておきましょう。
中央に崇徳上皇宸筆とされる「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されていました。これは、流石に京都からやってきた勅使も持って行かなかったようです。

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       頓証寺の中央に奉られる崇徳天皇

頓証寺には、中央に崇徳天皇、向かって右側に十一面観世音菩薩、右側に山ノ神相模坊(天狗)を祀っが祀られていました。この姿は神社ではなく、仏舎であったことを物語っています。御陵は宮内省に属して、白峯寺の管轄を離れ、陵掌の守るところとなっていました。が、頓証寺は寺号であったので、白峯寺の一部として依然その管轄下にあったのです。

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左に(白峰)相模大権現(白峰の天狗)
ところが、第三の災難が白峰寺にふりかかってきます。
明治11年、金刀比羅宮の禰宜松岡調から頓証寺を神社して、金刀比羅宮の摂社とするが願い出られたのです。これに対して、県や国の担当者は、白峯寺への現地調査も聞き取りも行わずに、机上で頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この時から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。

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頓証寺の相模(白峰)大権現(天狗)
こうして頓証寺は金刀比羅宮の摂社とされ、白峯寺から「所有権」が金刀比羅宮に移ってしまいました。
これが明治11年4月13日のことです。この時に白峯寺の宝物は、上下二棟の倉庫に納められていました。上の倉には准勅封として帝に関する宝物を納め、さらに下の倉には白峯寺に関するものが納められていました。上の倉は、頓証寺を摂社化した金刀比羅宮が引き継ぐことになります。そして、残りが寺側の所有となったのです。これは、現代風に云えば「資産乗っ取り」と云えます。

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崇徳上皇白峰御陵
  なぜこのようなことを県や国担当者は許したのでしょうか。
担当者が事情に通じてなくて、軽はずみに判断したためとも云われます。しかし、私にはそれをすんなりと信じる事は出来ません。なぜなら、この時期の金刀比羅宮の禰宜職は松岡調なのです。彼が讃岐の神仏分離の立役者であったことは、以前触れましたので省きます。松岡貢と白峰寺の接点としては次の点があげられます。
①松岡調が若いころの1850年代に「讃岐国名勝図絵」の挿絵を担当し、白峰寺も描いていること。
②明治の神仏分離の際には、「神社取調」調査の担当者として、白峰寺を担当していること
以上から、白峰寺と頓
頓寺の事情と頓証寺が保管する「宝物」は周知していたはずです。そして当時の彼は讃岐神道界のリーダー的な存在として発言権を高めていました。同時の彼が禰宜を務める金刀比羅宮は、香川の神道界の中心的な立場にもありました。彼の手回しで「頓証寺の白峯神社化と摂社化が進められ、宝物は金刀比羅宮のものとするという手順」案が作成されたと私は考えています。そして、当局への根回しも行われていたのではないでしょうか。

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白峯御陵への階段
 当時の松岡調の提言は、おそらく次のようなものだったでしょう。

崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、

というようなものだったのではないでしょうか。
この結果、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が金刀比羅宮に移されることになったのです。同時に金刀比羅宮では崇徳上皇が祭神として祀られるようになります。

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白峰御陵

廃仏毀釈の嵐が弱まると、白峯寺の渓導住職や信徒らは、頓証寺の復興計画を立てます。
そして、白峰神社(旧頓証寺)の返還を金刀比羅宮に求めるようになります。こうして、金刀比羅宮への反撃が始まったのです。しかし、協議では解決できないと見るや、金刀比羅宮を訴訟します。その言い分は、次の通りです。

白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで占有管理しているのはおかしい、


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白峰御陵

 明治17年に裁判所は、白峯寺勝訴の判断を下します。
その後も、いろいろなやりとりが金刀比羅宮との間で行われますが、明治28年に松岡調が大陸における布教事件で失脚して後の明治31年9月に、県の命令で、白峯神社は白峰寺に返還されることになります。こうして金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、頓証寺として元の仏堂にもどすことができたのです。
 このため金刀比羅宮には祭神とした崇徳上皇を祀る神社がなくなってしまいました。そこで、本社から奥社への参道沿いの現在地に「白峯神社」が「創建」されたようです。

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「崇徳上皇陵」ではなく「白峰陵」

 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から頓証寺は変換されましたが、問題は残りました。金刀比羅宮は、摂社とした頓証寺から多くの宝物を持ち去っていました。その宝物の変換を白峰寺は要求します
白峯寺の言い分は、
歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。

一方の金刀比羅宮の言い分は、
明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無い

ということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつきませんでした。その結果、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物の多くが金比羅宮に残されたのです。その代表例が下の重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」です。

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 昭和40年にもこの問題がぶり返し、地元の青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるというのが歴史家の考えのようです。

なよ竹物語
 
 最後に明治の神仏分離政策が白峰寺に与えたダメージは
1 天皇家によって崇徳上皇の御霊を京都へ移され
2 明治政府によって土地財産を奪われ
3 その結果、お寺は一時的にせよ廃寺となり
4 さらに金刀比羅宮によって頓証寺の摂社化と、その宝物の「横取り」された。
5 その復活・復興に30年を要したということになるようです。

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白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図 中世の白峰寺周辺 江戸時代になって描かれたもの 
「どこの霊場かわかるな?」
と聞かれて、この図絵を初めて見せられ時に、私は戸惑いました。ヒントをあげるわ、讃岐の霊場や」と云われて、ますます分からなくなりました。
まず、青い水面が海とすれば、直立した岩壁の上に伽藍があります。そして、その伽藍から瀧が直接に海に落ち込んでいるようにもみえます。さらに、丸い聖なる甘南備山の下にいくつもの建築物が並び、山上には2つの塔も見えます。海と岩壁と山上の伽藍と云えば屋島寺かな、とも思いましたが、山上のドーム型の山の姿が屋島ではありません。
 瀧があるので・・・これが稚児の瀧なら・・??白峰寺・・?
「よう分かったな。これが中世の白峰寺の姿や
しかし、すんなりと受けいれることができませんでした。私の中にある白峰の姿とは、遠く離れているからです。ひとつひとつ疑問を挙げていきながら、師匠に教わったことを記していきます。
Q1稚児の瀧の下にあるのが青海神社とすれば、青海の部落はこの時代には海の中にあったということになり不自然でしょう?
A1昔の絵図に、デフォルメはつきもの。手前の半島の先端が高屋の雌・雄山でその向こうが松山の津と見てみ。湾が深くまで入り込んでいるのが「青海」や。これが近世に開拓されて青海村が生まれる。
Q2 そしたら、手前の青い帯は綾川ですか。白峰の下の谷にも塔が見えますが、こんな所にお寺があったんですか?
A2 これは神谷神社や。神も仏も一緒やった時代には、神社に神宮寺がくついて、その塔があっても別に変ではないからな。それと、白峰寺の中の一部のように描かれているので、神谷神社は中世には白峰寺と強い関係があったとは考えられるわな。
Q3 山上に建物がたくさん見えます。三重塔も左右にふたつありますが、こんなに多くの建物が中世にはあったんですか?
A3 あったと主張するために描かれたのかもしれんわなあ。しかし、考古学的な調査からも白峰寺にはいくつもの院坊があったことがわかる。
      
 
白峯寺境内建物分布図
  白峰寺境内測量図 多くの子院跡があったことが分かる          

見放された私は、絵図をもう一度見ながら山上の部分にズームインしてみます。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
        白峰寺古図(山上拡大図)

右下の中門を入るとここに白峰寺の金堂があります。境内の中に白い十三重の石塔が二つ並んで建っているようです。これが重文の東西2つの十三重塔でしょうか。その背後には、建物が何棟も見えます。この付近にも子院があったようです。さらに進むと谷川が流れています。これが稚児川です。この川はここからすぐ下で滝となって断崖を落ちていきます。それが稚児の滝で、周辺は昔から修験者の行場でした。その周辺に修験者がたちがお堂を開き、いくつもの寺院へと成長したことがうかがえます。

 稚児川にかかるアーチ状の木橋を渡ると左手に「御本社」と記された寺院があります。これが崇徳上皇陵(白峯陵・保元の乱で配流)を守るための廟堂として中世に建立された頓証寺のようです。こう見ると橋の位置は現在とは違っています。参道を真っ直ぐに登っていくと本堂です。そして、その左奥に三重塔。右手には三王七社が祀られています。まさに神仏混淆のお山です。そして、背後の白峰山には権現が祀られています。ここでは、この山が崇徳上皇慰霊の聖地であると同時に、修験道の聖地であったことを押さえておきます。白峰大権現のことを少し見ておきます。

相模坊
「相模坊(さがんぼう:白峰大権現)」 

白峰山には
「相模坊(さがんぼう)」という天狗が住んでいるという伝承があります。
上田秋成は、この天狗を崇徳院に仕えるものとして雨月物語に登場させています。崇徳院の霊を慰め鎮守するため讃岐の地へやって来て“白峯相模坊”となったというのです。

白峯寺 雨月物語
 雨月物語の中の白峯相模坊

日本の各地には色々な天狗伝承が伝わっていますが、その中でも白峯相模坊は有名で、
相模大山の伯耆坊(神奈川)
飯縄山飯綱の三郎(長野)
比良山次郎坊(滋賀)
愛宕山太郎坊(京都)
鞍馬山僧正坊(京都)
大峰山前鬼坊(奈良)
英彦山豊前坊(福岡)
とともに、日本八大天狗の一に数えられていました。天狗=修験者ですから、この地が修験者たち聖地で、数多くの山伏が周辺の辺路ルートで修行を行っていたのでしょう。

白峰大権現
白峰寺頓証寺の白峰大権現のお札
 
 いまは山の神は相模坊という天狗だといって、相模坊天狗をまつっています。
これが奥の院でしょう。相模坊という天狗は、山の神様でもあります。それと恨みを抱いて魔縁になった崇徳上皇とが、いつしか一つになったようです。謡曲でも相模坊と崇徳上皇を別にしたり一緒にしたりしています。山伏達はこんな「創作物語」が大好きです。天狗の話になると、脇道に話がそれてしまいます。もとの道に戻りましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
                白峰寺古図(拡大図) 白峰大権現と本堂
本堂からは右に路が続いています。これは、かつては根香寺へと続く遍路道でもあったようです。そして、本坊の洞林院は中世には、本堂の東側にあったことが分かります。

中世の白峰寺がなぜ、これほどの伽藍を形成できたのでしょうか? 
1191年(建久2)に崇徳上皇陵の祟りをおそれて慰霊のために御影堂が建立されます。以後、白峰寺は御影堂(=頓証寺)を新たな信仰の場として、そこに寄せられた近在の所領を経済基盤として、中世的な転換を行っていきます。それを中世から近世の寄進関係を一覧表にすると・・
・建永2年(1207) 法然上人松山巡る 
・治承年間(1177-1180)高倉天皇 青梅・河内村を寺領として寄進
・寿永3年(1184) 後白河法皇 青梅・河内の庄を寄進
・元歴2年(1185) 源頼朝 備中妹尾郷を寄進
・文治2年(1186) 後鳥羽院 丹波国粟村庄、豊前福岡庄を寄進、
         源頼朝讃岐国北山本庄を寄進
・文地4年(1188)  後鳥羽院 崇徳院25回忌を奉修 
                       頼朝:備前福岡庄を寄進
・建久2年(1191)  後白河法皇 頓証寺の建立
・寛喜3年(1231)  土御門院 法華経を奉納
・建長4年(1252)  後嵯峨院 法華経を奉納 松山郷を寄進
・建長6年(1254)  後嵯峨院 西山本新庄(阿野郡山本郷)、津郷、寄進 
・康元元年(1265) 後嵯峨院 北山本新庄(阿野郡山本郷)を寄進
・文永4年(1267)  頓証寺灯篭を建立
・應永21年(1414)  後小松帝 御真筆「頓証寺」の扁額を勅納
・長禄3年(1459)  後花園院 崇徳院御領神役を定める
・天正15年(1587)  生駒雅楽頭近規 白峯寺へ寺領50石寄進
・慶長4年(1599)  生駒近規 本堂再建
・寛永8年(1631)  生駒高俊 白峯寺の真宝目録を作成
・寛永12年(1643)  松平頼重 頓証寺殿を復興
・万治4年(1661)  松平頼重 阿弥陀堂に供養料
・寛文3年(1663)  崇徳天皇500回忌 
・延宝8年(1680)  松平頼重 頓証寺殿、勅額門の再建、
・元禄2年(1689)  松平頼重 石灯籠2基を頓証寺殿に奉献
・宝暦13年(1763)  崇徳天皇600回忌
・安永8年(1779)  松平頼真 白峯寺行者堂を再建
・文化8年(1811)  松平頼儀 大師堂を再建
・文久3年(1863)  崇徳天皇700回忌 
・慶應2年(1865)  松平頼聰 石灯篭2基御廟前に奉献
また、土地関係の寄進は次のようになります
1177年 高倉天皇、西山本郷、福江、御供所を寄進 
1190  源頼朝 稲税を収める
      土御門天皇勅額書と以降毎年下向使の儀
1244  後嵯峨天皇、荘園(西庄)寄進
天正年間  生駒正親 四石五斗年を西庄村と摩尼珠院に寄進。
  京から神官、僧侶を招請し学問、文学、芸能、医薬を施行
初代高松藩主の松平頼重「当山は、旧地といい、かつ、天皇御鎮座所なれば敬い住職たるべし」として京都から中興寺宥詮阿闍梨を召く。
1642  松平頼重、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1701  松平頼常、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1865  孝明天皇、御撫物を供え
 菅原道真と同じように、崇徳上皇は、早いうちから怨霊と化したことが京都の貴族たちの間で信じられていました。西行の来讃もその霊を鎮めることが目的の一つと言われます。このため御影堂=頓証寺の建設と整備は、京都の貴族たちの肝入りで行われます。その結果、京都の影響を受けてた石造物や舞台道具が白峰寺周辺には残っています。このお寺の伽藍や寄進物には「都貴族による崇徳慰霊」という成立事情が反映されているようです。

  
白峯寺 四国遍礼霊場記2

元禄2年(1689)四国遍礼霊場記の白峰寺
この絵図は、四国遍礼霊場記に描かれた白峯寺です。高松松平藩の保護下に、山内には多くの脇坊があり、諸堂が立ち並び、近世はじめの伽藍と変わりないように見えます。しかし、二つの三重塔は見当たりません。そして「塔跡」と記されています。近世初頭にあった三重塔はこの時にはなくなっていたようです。崇徳上皇をまつる「頓証寺」は周りに玉垣(?)がめぐらされて神社化しているようです。
 幕末にはどうなるのでしょうか? 四国遍礼名所図会(1800年)から見ていくことにします

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峰寺(四国遍礼名所図会 1800年)
この図会から読み取れることを、あげておくと
①稚児川に架かっている橋は、洞林院(本坊)の西側に移されている
②本堂への参拝ルートは 「洞林院 → 頓証寺 → 本堂」となっている。
③現在は本堂の東側にある太師堂は姿がない。 

幕末の弘化4年(1847)に出された金毘羅参詣名所圖會には、次の三枚の白峰寺関係の絵図が載せられています。
 
siramine16 金毘羅参詣名所圖會1(白峯山大門)
絵図④ 白峯山大門(金毘羅参詣名所圖會)
1枚目には、白峰寺の大門に至る2つの遍路道が記されています。
①左側 高屋村の天王社(高屋神社)
②右側 神谷村の神谷神社から大門に至る遍路道が描かれてます。
 今は②のルートは忘れ去られていますが、このルートがあったことを押さえておきます。

白峯寺 金毘羅参詣名所図会(1847)3
本坊洞林院
2枚目です。先ほどの白峰寺古図では、本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて本坊となっている姿が描かれます。洞林院が中世末から近世初頭に、山上での主導権を握り「本坊」と呼ばれるようになったことがわかります。
siramine18 金毘羅参詣名所圖會3(白峯本堂・崇徳天皇御廟)
          図⑥ 白峯本堂・崇徳天皇御廟 
そして3枚目です。左下に崇徳上皇陵領が描かれ、その下に「上皇本社(頓証寺)」が神社として鎮座しています。参道は、上に向かって真っ直ぐと伸びていて、白峰寺の本堂が迎えてくれます。その東側に並ぶのは大子堂のようです。霊場としての伽藍整備も整っているようですが、近世初頭に見えた多くの伽藍や塔の姿はありません。その姿は大きく変わっています。元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、白峯衆徒21ヶ寺で、内18ヶ寺は退転し、寺地は山畠となると記されています。この間に白峰寺では、大きな変動があったようです。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

白峰寺(讃岐國名勝図会)
  そしてこれが「讃岐國名勝図会」に描かれた明治維新直前の白峰寺の姿です。
最初に見た江戸初期の絵図と見比べてみると、印象が大きく違います。現在の姿に近いのです。それは山上の本堂から東に、お堂や塔が伸びていたのがなくなり、根香寺へつながる遍路道も消えています。本堂に御参りすると再び同じ参道を帰って来ないと根香寺には行けなくなっています。
 改めて江戸時代初期の伽藍配置と参道を見てみましょう。
siramine16_11

ピンクのルートが江戸初期の遍路道です。一番左の本堂前からスタートします。このルート沿いには、金堂の洞林寺を始め、多くの坊や諸堂が立ち並んでいたことが分かります。しかし、今は自然に帰りその跡も分からない所が増えました。このピンクの道は、行場であった奥の院を抜けて、根香寺につながっていました。それが、幕末には現在の緑ルートになっていたようです。

siramine44 白峯山境内実測図
白峰寺に明治の神仏分離の風は、どのように吹いたのでしょうか。
讃岐の寺院の中でもっとも「影響=被害」を受けたのは、白峰寺だと云われます。
白峯寺の境内の頓証寺は、後白河法皇が崇徳上皇の霊を祀るため平安末期に建立したものです。これは神仏混淆の下では白峯寺の僧侶たちによって管理されてきました。そして、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、ここに寄進されてきたことは先述した通りです。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのかを次回は見ていきたいと思います。
siramine16_23

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  明治を迎える直前に新政府から出された神仏分離令によって、各藩では神社の御神体チェックが始まります。その後の「神社取調」に示された項目に従って各神社の「身元調べ」が行われたことを前回はお話しました。その調査スタッフの中心メンバーが松岡調(みつぎ)でした。今回はこの人物について見ていきたいと思います。
彼は、高松藩士・佐野衛士の四男として天保9年(1830)生まれています。
友安三冬(良介)から国学、中村尚輔から和歌、森良敬から絵画を学ぶとあり、平田神学や水戸学とのつながりはみられません。
  「天性学を好み友安良介に従い 皇典の学を学び、後に松岡氏を継ぎ、多和神社の禰宜(ねぎ)となり、・・・」
とあり、20歳の時に多和神社に養子に入り、36歳で養父の松岡寛房を継いで神主に就任します。
多和神社 (香川県さぬき市志度 神社 / 神社・寺) - グルコミ
多和神社は、志度寺の守護神の八幡神を祀る神社で「多和八幡宮」と呼ばれ、
志度寺の境内に隣接していたようです。しかし、15世紀後半に志度寺とともに焼失します。江戸時代になって、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺と同時に再興されますが、場所は現在地に移転します。高松藩からの保護を受けると同時に、港町として賑わう志度の氏子達の信心も集め、経済基盤もしっかりとした神社であったようです。現在は式内神社とされますが、この指定経過には問題が残るようです。
多和神社
 
松岡調が多和八幡宮の神主となった頃は、明治維新の嵐が四国にも吹きつけ、高松藩が「賊敵」として土佐藩などに占領される時期でもありました。このような激動の中で、明治2年(1869)に高松藩の家老の推薦を受けて藩校・皇学寮の教授に就任します。
 時を同じくして、新政府は、神仏分離令を出し、そのために「御神体チェック」や「神社取締」作業をおこなうことを矢継ぎ早に各藩に通達します。讃岐において、これらの作業の中心的な存在として活動したのが藩校教授に就任したばかりの松岡調でした。その後の調査経過については、前回にお話ししましたので省略します。

 以後、松岡調は東讃から高松にかけての担当エリア五郡の神社についての「神社取調」を進めます。各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんな文書や絵図などがあるかを頭の中に入れていきます。今なら研究者にとっては絶好のフィルドワークです。神社・仏閣に出向いて、そこに保管・保存されている文書や絵図類を「強制力」を行使して見る事が出来るのです。現在の研究者にとってはうらやましいと思う人も入りかも知れません。この2年間あまりの経験は、彼を研究者として大きく成長さる契機となったと私は考えています。この経験が神道界のみならず、文化財や郷土史などの面でも第一人者としての立場を築く事になったようです。

 神社取調が一段落した明治3年の春、桜の季節に松岡調は、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣しています。
そして、金毘羅大権現の仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子を細かく日記に記していますので見てみましょう。
 金倉川に掛かる普請中の鞘橋を見ては、その美しさを讃えます。内町から小坂までの家の門毎に桜が一本ずつ植えられているのを見て、四、五年経った年の春の日の花をしのび、大門まで登って金毘羅神が去り給うたことを記した立札を見ています。
 琴陵家を訪ねて、書院の広く美しいのを見て、娘は手をうって喜ぶ。護摩堂・大師堂によって、内には檀一つさへないのを見て涙する妻に対し、かしこきことなりと言って、わが心のおかしさを思う。
本宮に詣で、拝殿に上りて拝み奉る。御前の模様、御撫物のみもとのままにて、その外はみなあらたまっているのを見る。白木の丸き打敷のやうなるものに瓶子二なめ置き、又平賀のような器に鯛二つがえ置きて供えている。さて詣でる人々の中には受け入れられない人々もあろうが、己れらはその昔よりはこの上なく尊くかしこく思われた。
 絵馬堂を見て、下りに諸堂を廻る。観音堂も金堂も、十五堂も、皆仏像をとりのぞきたる跡は、御簾をかけて白幣を立てていた。(中略)     
      金刀比羅宮文書 「松岡調日記抄」
  高松街道を徒歩か人力車でやって来たのでしょう。大門には
「金毘羅神が去り給うたことを記した立札」
があったと記します。
神仏分離によって山号は象頭山から金毘羅山へ、社号は金毘羅大権現から金刀比羅宮へと「転身」したことを告げる告知文を読んだのでしょう。そして、旧金光院であった琴陵家を訪ね、書院で接待を受けた事を記します。
この時の当主は琴陵宥常(ありつね)で、松岡調よりも十歳若い若者でした。
維新の際には、上京し神祇科との交渉を重ね金毘羅大権現の存続のための働きかけを行い、金刀比羅宮として生き残る道を開いた若き指導者でした。それから、着々と改革を推し進めていました。宥常については前回にお話ししましたので省略します。
   本宮に参拝すると
が御供えしているのを見て、参拝者の中には受けいれられないかも知れないが自分にとっては「尊くかしこく」感じられた
と述懐します。
金刀比羅宮の仏閣の時代には生魚が御供えされるということは考えられなかったことでしょう。ここに「神仏分離」の新時代の到来を感じたのかも知れません。帰りに見た金堂(現旭社)なども仏像が取り除かれ、御簾がかけられ御幣がたててあった記します。

 松岡調が、東讃・高松地区の神社の「神仏分離」を行っている間に、金刀比羅宮でも改革が進んでいたようです。
 この時の琴平訪問は、「面接」のようなものだったのかも知れません。翌年の1月から彼は、藩校の教授を兼務しながら、ここで禰宜として勤める事になります。それは以後、23年間続く事になるのです。松岡調は、翌年に禰宜就任に当たって次のように述べています
 いみじきことなり、わがすめらみくにの神社仏堂のうちにて、かかるところはおさおさあらじとぞ思われる
当日の彼の日記には 月給20円を受け取ったと記しています。

 翌々年の3月に政府が任命した深見速雄が鹿児島より宮司として赴任してくると、そのもとで宥常が社務職として、松岡調が禰宜として金刀比羅宮の改革を推し進めていく事になります。若い指導者の下で、金刀比羅宮は新たな輝きを放ち始めるのです。

琴陵宥常と松岡調と神仏分離の年表
1857 10月22日宥常18歳で 第19代金光院別当に就任
1868
 3月13日 明治政府が神仏分離令を通達
 4月21日 金光院宥常は、嘆願のために上京
 6月14日 金光院宥常は京都で還俗し、琴陵宥常と改名
       神祇官からの達書で神号は「金刀比羅宮」
 8月18日 宥常に社務職付与 しかし宥常が求めた大宮司は許されず
 10月28日 多度津藩が「藩内一宗一寺」統合案発表。
       領民の反対運動が高まる。
1869 2月 琴陵宥常が京都での陳情活動を終えて1年ぶりに帰讃
              神祇伯白川家の古川躬行が琴平到着、以後逗留して改革指導
 2月5日  松岡調が「御神体検査」メンバーにとして「神社取調」開始
1871 1月 5日 「社寺領上知令」が出され、社寺領を上知(没収)
     4月12日 松岡調が、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣
     6月    金刀比羅宮は事比羅宮となり国幣小社に列せられる
1872 1月27日 事比羅宮の祢宜に松岡調が就任   以降23年間、禰宜
     3月21日 事比羅宮は県庁の指示で職員を三十数人にまで削減
1873 6月      仏像・仏具の処分開始 ~7月まで
1874 3月    鹿児島より深見速雄が宮司として赴任

その後の松岡調
松岡調

 神仏分離にともなう讃岐の神社仏閣の調査・研究によって、松岡調は古典考証学や考古学に通じ、さらには東京大学に遊学し、研究活動を深めました。仕事を通じて日本各地に出張して学者・文人たちと交わり、各地の典籍・書画・考古遺物の蒐集・調査、讃岐郷土史の研究などを深化させていきます。1885年には、多和神社内の自邸に蔵を建てて「香木舎」と命名し、自分が集めた典籍や事物を保管します。これが現在の多和文庫につながります。
 しかし、日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島において、政府や軍の許可なく神道布教を図ったことが問題になり、1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。
 文久4年(1864年)から死の直前まで書かれた『年々日記』は、讃岐における廃仏毀釈・神道国教化の動きを知る上での根本史料です。しかし、残念ながら一般公開されていません。これが讃岐の神仏分離の研究を進める上では大きな障害となっているように私には思えます。
  それともうひとつ讃岐式内社の「選定」めぐる経緯に関しては、問題があると思います。選定の責任者として歴史考証・史料批判等も行わず松岡家が社家を勤める神社を多和神社として、指定したと後世に云われても仕方のない手順が取られているように思います。研究者らしからぬ対応ぶりです。多くの功績を残した人物ですが、晩節を汚したと云われても仕方がないように思えます。
 これに対してはこんな声も聞こえてきそうです。
維新の際の神仏分離の「神社取調」とは、「研究」ではないのだよ。「政治」だったのだ。式内神社の指定もまたしかり・・・と・・・

 明治と年号が変わる直前の慶応4年の3月に新政府から神仏分離令が出されます。この一連の通達を受けて、丸亀藩や高松藩はどのように対応したのでしょうか? 新政府の通達を見ると
「仏像をもって神体とし、また仏像、仏具を社地に置いている場合はすべて取り除き・・・・」
とあります。
 この通達をうけた各藩が先ず行わなければならなかったのは何でしょうか?
それは「神社の御神体のチェック」ということになります。まずは、何を御神体として祀っているのかを確認しなければ、取り除くかどうかも判断できません。こうして明治2年2月5日、「御神体検査」を行う実行メンバーが招集され、八日には打合会が開かれ辞令が公布されます。そして、担当エリアと担当者が次のように決まります。
松岡調   大内、寒川、三木、山田、香川東の五郡
吉成好信 黒木茂矩 香川西、阿野。鵜足、那珂の四郡
大宮兵部 原石見  三野郡
川崎出雲、真屋筑前 豊田郡
 東讃から高松にかけて五郡をひとりで担当する松岡調がリーダー的存在だったようです。彼らに課せられた「御神体チェック」は、先祖が大切に本殿の奥深くに祀ってきた御神体を白日の下にさらすということです。これは、当時の人々にとっては、まさしく恐れを知らぬ行為と思われても仕方がありません。検査官」を見守る人々は、恐怖と不安で眺めていたでしょう。御神体のベールをはがそうとする「検査官」を、敵意のこもった目でみる人もいたかも知れません。調査に当たった人たちもお役目とはいえ、相当の胆力が求められたように思います。御一新の世の中だからこそ出来たことかも知れません。
 さて「御神体チェック」は、どのように行われたのでしょうか?
松岡調が残した高松市周辺の神社の調査記録を見てみましょう。
松縄村熊野社 神体円石 梵字 仏像仏具は本門寿院へ。
伏石村八幡宮 大石
太田八幡宮  新しき木像外に厨子入り小仏像、本地堂は大宝院へ。
一ノ宮村田村大社 男女木像、鏡三面。
 ここからは御神体として、神像、鏡、石、仏像・鏡などが納められていたことが分かります。仏像・仏具類は近くの寺院へ移しています。粗略に扱ったり、集めて燃やすなどの「廃仏」的な行為は、行っていません。これは、小豆島巡礼の八幡さんに祀られていた仏さんが神仏分離で、近くの新しくお堂に移されていたり、かつて四国巡礼の札所で会った観音寺の琴弾神社にあった仏さんが、観音寺の境内に移されているのは、この時の検査チェックの結果だということが分かります。一宮の田村神社には、仏さんは祀られていなかったようです。
 この他にも、棟札などの古いものを入れてあるところもあります。また神像にも木像、立像、坐像、男神、女神と実にさまざまな御神体が出てきました。「御一新」の名の下に社殿の奥深くから引き出され白日のもとにさらされた神々もびっくりしたでしょう。
 こうして御神体が仏像などであった場合は、取り除かれました。
すると御神体がなくなる神社が出てきます。そこで新政府は、明治二年(1869)5月
「御神体なき神社には新しい御神体を勧請せよ」
という通達を出しています。この時に、新しくご神体を調えた神社も多かったようです。
  調査が進められている中で、さらなる通達がやってきます。
【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候 
条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
 某国某郡某村鎮座 某社
1.宮社間数 並大小ノ建物
1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
1.神位
1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書スヘシ
1.社地間数 附地所古今沿革之事
1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
1.造営公私或ハ式年等之別
1.摂社末社の事
1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別 1.社中男女人員
1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
1.同管轄之庁迄距離里数
ここには、示された項目に従って、藩内の神社すべてを調査して12月までに提出せよという内容です。これが「神社取調」と呼ばれる作業になります。

神社取調ひな形様式2 M15年茨城県

項目を見れば、神社については、社殿の間取りや大きさから始まり、いつ勧進してきたのか、新旧の社号、神社の歴史沿革、勅願所の有無、社領の石高、さらには神官については神職の職名や、僧侶からの還俗者であるかどうか、他社との兼務有無など多岐にわたっています。
 これは、新政府の神祇科が進めようとする神社のランク付け(神社位階)や延喜式の式内神社指定の根本資料になるものでした。この作成を行う事になったのが「御神体チェック」作業を行っていた7人のメンバー達でした。彼らはすでに、主な神社には出向いて調査を行っていました。さらに各神社に通達を出し、これらの項目についての回答を求めると供に、再度出向いて確認も行ったはずです。彼らは調査権を行使できる立場にあったのです。彼らは、讃岐の神社の実態データーを握ったことになります。そして、神社の専門家に育っていきます。

神社取調帳 徳島県
 さて、調査される側の立場に立って見ましょう。
この調査票が送られてきた神社は、どう対応したのでしょうか。
 神職がいた神社は対応ができたでしょうが、神職がいない「村の鎮守さま」などはどうしたのでしょうか。村の庄屋層たちが集まって、協議したでしょう。しかし、村の鎮守のような小さな神社は、歴史・沿革などは分からないこと多かったようです。にもかかわらず、藩からは期限を切って提出を求められてきます。提出しなければ神社として認められないのです。存続のためには「創り出す」ほかありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれた所も多かったようです。極めて短期間に、この「調書」は作成されたようです。そのため
「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で、付会・でっち上げを行う過程であった」
と指摘する研究者もいます。
こうして、提出期限までの約2ヶ月の間に、各神社の「取調」書が作成され新政府の神祇科(じんぎ)に送られました。この作業に従事したメンバーは讃岐の神社について最も精通している人物たちに成長していきます。なかでもその後の神道界の権威になるのが松岡調です。彼については次回に見ていく事にして、先を急ぎます。
 明治三年11月には政府から
「伝説による神号で呼んでいるところは神道による神号へ改めよ」
という通達が来ます。
この結果「伝説神号」とされた次のような神社名が新しい名前に改められます。
祇園社    → 須賀神社
王子権現   → 高津神社
妙見社    → 産巣日神社
皇子権現社  → 神櫛神社
十二社権現社 → 木熊野神社
金毘羅権現  → 琴平神社
こうして、讃岐の二十六の神社に新しい神号が与えられます。
4-Z6-25-2復飾取調書上帳
調査が進んでいくと、金毘羅大権現がたどった道と同じような道を歩む寺院が出てきます。つまり、神社の別当寺の僧侶が還俗し、神主となるという対応です。
その結果、次のような別当寺が廃寺となります。
大川郡では志度町鴨部にあった西光寺ほか十二力寺。
木田郡では牟礼村の愛染寺、最勝寺ほか五ヵ寺。
小豆郡は土庄町渕崎の神宮寺ほか四力寺。
香川郡は香南町の由佐にあった宝蔵寺。
綾歌郡では綾南町滝宮にあった竜燈院ほか三ヵ寺。
高松市は前田地区の押光寺ほか十四ヵ寺。
坂出市が川津町の宝珠院ほか三ヵ寺。
丸亀市は土器町の寿命院ほかIヵ寺。
仲多度郡は琴平町の金光院ほか一力寺。
観音寺市は粟井町の大円坊一力寺のみ。
三豊郡では山本村財田大野の阿弥陀院ほか六ヵ寺。
   讃岐全体では総数で六十一力寺が廃寺となりました。  しかし、この数は高知と比べると1/8程度の数です。
どうして、讃岐では廃寺となる寺院が少なかったのでしょうか。
  それは還俗する僧侶の数が少なかったからです。高知では全体の2/3近い僧侶が還俗する「雪崩現象」が起きましたが讃岐ではそれが見られません。その原因を考えて見ましょう。 
 以前にも示しましたが神仏分離令を契機として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がって廃寺が多く出た藩には、次の共通する3つの要因があります。
平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
①については、讃岐の神社・仏閣の調査メンバーは、平田神学信奉者ではなく過激な「廃仏毀釈」行動はとっていません。神社に祀ってあった仏像などへの対応ぶりからも、それはうかがえます。
②丸亀藩の最後の殿様は、明治政府の「華族は神道式の葬儀・墓石」という指示にもかかわらず国元の墓は仏教式を用いています。ここからも神道強制には批判的な立場であったことが分かります。高松藩も神仏分離は行うが「廃仏毀釈」まで踏み込もうとする姿勢は見られません。
③については、前回にお話ししたように小藩の多度津藩では「一藩一宗位置寺院」という過激な寺院削減縮小案が初期には出されますが、領民挙げての反対を受けて、撤回に追い込まれています。
つまり「廃仏毀釈」の火の手が大きく上がっていく条件にはなかったようです。
 さらに、加えるなら讃岐は真宗王国で浄土真宗のお寺が8割を越えます。
特に、高松藩は婚姻関係を何重にも結んでいた西本願寺興正寺派のお寺を保護してきた経緯があります。興正寺派のお寺のネットワークは宗学研究や講活動などでも活発な日常活動をを行っており、宗教的な情熱をもつ僧侶も多かったようです。これらが多度津藩の「一藩一宗位置寺院」への反対運動を支援したりもしています。
 さらに、中央においても東西本願寺は新政府への奉納金などを通じて、深いつながりをすでに作っていました。神仏分離の際には、真宗エリアの地域には新政府は配慮を行ったといわれます。こうした要因が、讃岐で廃仏毀釈運動が広がらなかった要因と私は考えています。
「神社取調」が終わった後の村では、今までと違う光景が見られるようになります。
例えば、村の八幡神社とその別当寺は隣接して、一体のもとして住職さんが祭礼を行っていました。しかし、神社とお寺の間には、垣根や玉垣などの人工的な境界が作られ分離されていきます。また、お寺の目の前の神社の祭礼を行うのは、他の村に住む神主さんがやってきて行うという光景が見られるようになるのです。

     琴平に置かれた四国会議とは?
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明治の神仏分離令で「象頭山から金刀比羅山」に変更
四国にあった十三の藩は、明治維新後に諸藩の情報交換・連絡調整という名目で「四国会議」という定期的な会合を開くようになります。この会議をリードしたのは土佐藩でした。土佐藩の現状分析としては

「薩長の連合がこのまま続くはずがない。近いうちに必ず争いが起きる。それに備えて「四国諸藩をまとめた同盟」を形成しておく必要がある」
と考えていたようです。
金刀比羅宮3
 その戦略下に四国十三藩に呼び掛けて「四国会議」が開かれる事になりました。
 場所は「四国の道は金毘羅さんに通じる」という交通の利便性や、旧天領であったことの中立性、大阪・京都への利便性、そして、土佐軍が駐屯していたことなどから琴平に自然に決まったようです。そのため琴平には、各藩からは「代表団」がやって来て、各旅館に駐在する事になります。代表団が夜な夜な繰り広げたどんちゃん騒ぎの記録が、地元の旅館などには残っていて、これはこれで読んでいて面白いのです。「会議は踊る」という言葉がありますが、四国会議は「会議の前に飲み、会議の後に詠い・・」という感じです。それはまた別の機会にして・・・・
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 ここではいろいろな情報交換が行われています。
例えば、神仏分離令に対しての各藩の対応なども報告されて情報が共有化されます。
その中で「廃仏棄釈運動」への対応タイプを整理すると
①廃仏運動が四国で最も過激に展開した高知藩
②最初は激しい布令が出されたのに、竜頭蛇尾に終わった多度津藩
③一貫して微温的な徳島藩
の三藩が特徴的な動きでした。
前回は、この内の①の高知藩の過激な動きを見ましたので、
今日は弱小1万石の多度津藩の動きを見ていくことにします。
 多度津藩は、丸亀京極家の分藩で一万石という小藩です。

多度津陣屋2
 それまで親藩の丸亀藩のお城の中に間借り住まいしていた殿様が、幕末になって多度津に陣屋を構え、その勢いで小藩にふさわしくないような大きな港を多度津に完成させてしまいます。
porttadotsu多度津
これが多度津湛甫と呼ばれる新港です。この新港は西回りの九州や北前航路からの金毘羅参拝客を惹き付けて、人とモノと金が流れ込むようになり、大盛況となります。このような経済活況を背景に多度津藩は、小藩にもかかわらず兵制改革を行い近代的軍隊を持つようになります。そして、幕末には土佐軍と行動を共にし戦果を挙げます。こうして明治の御一新に、小藩ですがその存在意味を果たしていこうとする意欲が家中には生まれてきます。

多度津陣屋5
多度津陣屋(模型)
神仏分離令が出されると、多度津藩は次のような改革案を発表します。
             達
従朝廷追々被仰出趣旨に付、此度当管内一宗一ヶ寺縮合申付候間 良策見込之趣も有之趣大参事中へ申波候間此段可相達事小
    十月二十八日          民政掛
  その内容は、藩内の寺院を整理・統合して「藩内一宗一寺」にするというものです。つまり、各宗派は一つにして、他は廃寺にするという超過激な内容です。本家藩の丸亀藩や高松藩は模様眺めなのに、なぜ多度津藩は素早く過激な廃仏政策案を実施しようとしたのでしょうか

DSC01386多度津街道1
 西からの金毘羅参りの受入港となった多度津から金毘羅へ伸びる街道図
多度津藩の家臣で四国会議にも出席していた人物は、次のように回顧しています。
「我藩は祖先が徳川幕府から減封されたので、幕府に対し始終快よからず思って陰に陽に反対する気風があった。……そのため幕末には土佐藩について倒幕に加わった。・・その後も土佐藩とよしみを持っていこうした。
土佐藩が廃仏を主張するので我が藩もこれに同調したのである。土佐藩に習って廃仏の模範たらんとする意気込みであった……」

 つまり、見習うべきは土佐藩であって、土佐藩が寺院整理政策を実施しているので、多度津藩も時流に乗りおくれまいと「一宗一ヶ寺に縮合」案を出したというのです。それもあったでしょうが、ここでも寺領没収=財政収入源の確保という経済的な側面もあったように私は思います。しかし、高知藩のようにはすんなりとは進みませんでした。

tadotujinya_01讃岐多度津陣屋
 藩の過激な布令に対しては、まず藩内の寺院からの存続要求運動が展開されます。
     奉歎願口上願                        
此度当管内一宗一派一ヶ寺御縮合之儀、被為仰付奉恐入候、
然るに至急之儀、甚当惑仕候。何共御報之奉申上様も無御座、右民政御役所に付非常格外之御仁慈を以、今暫御延被成下度候、伏而奉懇願。右之趣宜敷御取繕被仰上可被下候 
以上
                                     多度津 法中連中
 ここにはに「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に各寺院が当惑していること、今は殿様がいないので、非常に格外(重要)なことなので今しばらく延期して欲しいこと請願しています。
 さらに、檀家である領民達も次のような嘆願書を提出します。
 此度 合社寺之趣、被仰出奉恐入候。然るに是迄長々崇敬仕候事、実に痛痛敷奉存候間何卒在来之通成置被下度、偏に一統奉願上候。 此段宣御取成程奉願上候。以上
  意訳すると
「合社寺(=一宗一派一ヶ寺への縮合)について、恐れながら申し上げます。長い間、崇敬(信仰)してきたことなので、心が痛む事です。何とぞ従来通りの信仰が許されますように、通達をお取り下げくださるようお願いいたします」

 と、領民達は改革案を取り下げることを求めています。寺院の嘆願書よりも一歩踏み込んだ内容です。百姓等は、自分たちの寺を守ろうと立ち上がっていることが伝わって来ます。この辺りが高知藩とは違うところです。高知の農民達は、真言宗が多数をしめる寺院を守ろうとはしませんでした。ところが多度津の農民は浄土真宗の多い自分たちの寺を守ろうとしています。この辺りに、真言宗と浄土真宗の日常における宗教活動の差があったのかもしれません。
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多度津藩の当時の担当者であった後の元香川県代議士伊東一郎氏の回顧談をもう一度見てみましょう
 多度津藩は小藩ではあるが、当時は随分勢力を振ったものである。夫は先に土佐藩が西讃岐の本山と云ふ所へ出軍したとき、軍使を発して多度津藩に向背如何を問ふた、此時同藩が其先鋒たらんことを誓った、この故を以て.土佐藩が非常に多度津居を優遇した。これが同藩の幅を利かした所以である。
 以上の理由で、土佐の排佛案には、何れも承服した。殊に多度津は排佛の模範を示さんと云ふ意気込みであった。もっとも、阿波藩が溜排論と、又火葬癈止論を出した。ここでまた一言せねばならね。これは多度津藩は、陽明學を奉じたにも拘らず、排佛論を取ったと云ふ所以である、陽明學は陽儒陰佛とも云はるるもので、決して排佛論などの出る所以がない。これは多分、多度津藩が土佐藩の歓心を買んがため、一方から云へば、チト祭上られて居られたのではあるまいかと思はれる。
 こうして土佐藩は、極端なる排佛ではなかったが.枝末の多度津藩は、領内一宗一寺に合寺するといふので、隨分極端なものであった。あわせて合寺のみではない、合祀も同時にいい出したのである。ところが合祀については、左程の反抗もないが、合寺については、領民殆んど金部が蜂起せんとした、又寺院側では、模範排佛と云ふので、讃岐金挫の寺院が法輪院と云ふ天台宗の寺に、連口の協議會を開いて、反抗の態度に出んとした。(中略)

 しかし、廃仏論は藩全体の意見ではありませんでした。小数の「激論党」が、「土佐の威を借りて主張した少数の意見」だったのです。なので、領内が騒ぎ出すと、「多数党」からの反撃が起こり、結局は廃仏論を撤回することになります。
また「明治維新 神仏分離史料第四巻 611」Pには、当時の憲兵中尉河口秋次氏の次のような証言を載せています。
拙者は常時神官として有力なりし某氏の言を聞く、先高松藩に蘆澤伊織といふ人あり。領内の神官を召集して、皇學漢學武術の三科を研究せしむる弘道館なるものを起こせり。これを丸亀・多度津の二藩が倣って、各弘道館を起せり。讃岐の排佛論は、全くこの弘道館思想の発せしものなり、
また日く、多度津蒋の排佛論に對して有力なる反抗を試みしものは、西覚寺常栄、光賢寺幽玄の二師なりし.その一端を云へば、全部の寺院住職打揃ひ、青竹に焔硝を詰め、夫を背に負ひ、以て藩に強訴を為す。若し聴されずんば、自ら藩邸と共に焦土たらんと云ふの策なりし。而して其主唱者が上の二師なりし。
又曰くその時藩と寺院の間に介して、円満なる解決をなしめたるものは、同町の丸尾熊造居士なりし云々、
 ここには西覚寺常栄と光賢寺幽玄が中心になって「全住職が「青竹爆弾」を背負って強訴」するとテロ行為まで考えていた事が分かります。そして、反対の中心にあったのは「西覚寺(丸亀市綾歌町岡田)の常栄と光賢寺(琴平町苗田)の幽玄」と記されています。この二人は多度津藩内の僧侶ではありません。隣接する丸亀藩の僧侶が「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に反対し支援しているのです。藩を超えた真宗興正寺派の支援を受けていたようです。
 
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 強行手段に訴えても廃仏政策の撤廃を要求するという動きは、下層民だけでなく、庄屋・富商層の支持も得ていました。このような団結した領民と僧侶の要求に対して、廃仏政策を強行するということは、農民一揆を誘発させる可能性もあります。それは小藩の多度津藩の幹部達にとっては、絶対に避けなければならないことです。こうして、寺院の統合縮小案は撤回されます。
多度津藩紋
そして、次のような告示を藩内に出します。
寺院縮合之儀申達候得共、未だ究り候儀には無之、良策見込も有之候はば、可申承内意之事に候間、此段心得違無之様可相達候事
   閏十月五日            民政掛
以上のように、寺院統合案については調査・研究不足な点もあるので撤回する。他の良策を検討するので、心得違いをして軽はずみな行動を起こさないようにという内容でした。
こうして多度津藩は、実にあっさり寺院縮小案を撤回したのです。
 研究者は、これについて次のように指摘します。
「多度津藩の廃仏論は、藩全体の意見ではなく、わずかの過激派の主張した小数意見で、上層部との調整を経て政策化されたものではなかった。そのため領内で騒動を起きそうになると、上層部は急進派を切り捨て、廃仏論を徹回することによって無事落着した」
 このように多度津藩の場合は、藩内の一部少数の過激派が、高知藩という雄藩の傘の下にで、新政府の信頼を得ようと、「藩内一宗一寺」案を出します。しかし、それは土佐藩の歓心を買いたいという弱小藩の苦しい立場を代弁する行為であったのかもしれません。
参考文献
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 
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新政府によって出された神仏分離令を発火点として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がっていく藩には共通する3つの要因が揃っているように思います。
平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
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この3つの視点で、高知藩を見ていきましょう。
まず①についてですが、幕末の高知藩には、寺社係であった北川茂長などをはじめ、平田篤胤の門下生や同調者が多かったようです。藩の宗教政策の担当者が平田派同調者であったことは、明治政府の神仏分離令をきっかけにして、政府の意図を越えた過激な廃仏運動を政策化し実行していくことにつながります。
②については、幕末以前に廃仏政策を実行していた藩主達がいます。
 例えば水戸藩では、徳川斉昭と彰考館関係者が次のような廃仏運動を藩内で推進します。常磐山東照宮をはじめ神社は全て唯一神道に改め、一村一社制の採用、宗門改め廃止、氏子帳作成、僧侶・修験の還俗、家臣の仏葬などの廃止、神儒折衷の葬祭式の採用、廃寺、村々の辻堂小祀石仏庚申塚などの廃棄、梵鐘の徴収などが行われ、年中行事の中に東照宮・光圀・楠正成・天智天皇を祀る行事などが組み入れられて行きました。処分寺数は190ケ寺で、寛文年中の1/5程度ですが神仏分離・廃仏を通して神道への統合を試みています。これは明治の廃仏・神道化への先鞭と云える運動でした。この政策は行き過ぎたものとして、幕府による斉昭の処分で 頓挫しますが、水戸学に影響を受けた領主の中は、このような動きに心情的に共感する者もあったようです。
 さて、高知藩の場合はどうだったのでしょうか。
 高知藩でも執政として野中兼山が行った改革の中に、南学の奨励策がありました。その一貫として寺院、僧侶の淘汰をすすめ、寺院の数を減らしています。これは寺院削減、寺領没収など財政政策ともリンクしていたようです。そのような「廃仏経験」を持っていた高知藩では、当時の領主にも抵抗感はなかったようです。
 さらに領主である山内家で、明治3年11月10日に次の文書を、菩提寺に通達します。
「向後御仏祭一切御廃止に相成り候。右に付御祥月御精進日等以後御用捨あらせられ御平日之通り」
 「仏式祭礼は一切廃止とするので、精進日など行事は行わない」と、まさに絶縁宣言です。これで、山内家と菩提寺であった真如寺、要法寺、称名寺との仏縁は絶たれます。そしてこの菩提寺の住職の中からは、直ちに神職に転じて、後の高知県の神道界の指導者に転じていく者も現れます。殿様は明治4年2月には、「葬祭心得書」を示して、領民に仏葬から神葬に改めることも奨励しています。
 ここには殿様が廃仏毀釈の流れに反対し、棹さす動きを見せる事は考えられません。急進的な担当者の廃仏毀釈案がすぐにでも実行されていく体制が高知藩には整っていたようです。
 こうして版籍奉還後の明治3年(1870)4月2日に藩は、次のような布告を出します。
     覚    
一、僧は方外之者、世襲俗人と大に異なり、土地山林を占得するの途あるべからず。今日より更に之を禁ずべし。
一、御改革に付、寺院寄付之土地山林一円被召上之、堂宇寺院之傍少許之土地山林傍示を改、之を寺付として付与すべし。
一 一向宗は僧俗相混、世襲之体を存すると雖も宗俗と同しかるべし。            
一 僧徒還俗を欲する者 好に任すべし。               
一 私領或は私産等を以て相当之寺入を欲する者、願に寄り商議すべし
右之通被仰付候事午四月二十三日         藩 庁
 この史料は、文章上には「廃仏」という言葉は出てきません。しかし「僧は・・・土地山林を占得するの途あるべからず」と僧侶の土地の所有を禁止し、寺地の没収や境内の縮小を宣言します。また、一向宗は妻帯を許しているが、僧侶であるとして例外扱いをしないこと、僧侶の還俗を奨励する内容になっています。
 こうして藩からの保護と、経済的基盤を失った寺院は、住職が未来に希望を持てなくなり次々と還俗して主がいなくなり廃寺となります。その状況を数字で示すと次の表のようになります。

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この表の見方は
①一番上が廃物前寺院数で、明治維新時の各宗派の寺院数で、高知藩には合計751の寺院があったことになります。
②一番下の存続寺院実数は、廃物運動後に残った寺院数です。真言宗の「245寺 → 44寺」の激減ぶりが目立ちます
③その後に他県から移転してきた寺院数をプラスすると現在の寺院数になります。
④合計数を見ると751寺あったのが211寺まで激減した事になります。
 当時の僧侶1239人のうちの大半が還俗したとも云われますし、寺院数で幕末期の約三〇%にまで激減したのです。これは高知が四国で一番廃仏毀釈運動が激しかったと云われる所以でしょう。
 高知県の廃仏運動のその後は?
 江戸時代を通じてお寺は「葬式仏教化した」と批判を受けますが、寺院と檀家である庶民は意外に強く結ばれていたことを、知らされることが起きます。旦那寺がないのは、一般庶民にとって葬式や法事に当たって不便なのです。元領主は神道に改修し、神道式の葬儀を行えと云いのこして東京へと去りましたが、庶民にとっては慣れ親しんだ宗派がいいという声は高まります。つまり廃仏毀釈の反動化といいましょうか揺り戻し現象が起きるのです。
 高知県としてもそれを放置でず、寺院再興策を取るようなります。それでもまだ不足で、寺院のない町村があったり、僧侶がいないという現状を打開するために、県外の寺院、僧侶を誘致するより方法が取られます。県外からの寺院の誘致は、明治4年からはじまり、埼玉県北足立郡与野町から高知市一宮に移ってきた真言宗智山派の善楽寺を第一陣として、大正15年に幡多郡白田川村に真言宗智山派の観音寺が転入してきたことで終わっています。これら県外転入寺院のうち、徳島県からの移転が七か寺でもっとも多いようです。
 どんなお寺が徳島からやってきたのでしょうか?
①天満寺は藩政初期に蜂須賀蓬庵(家政の隠居後の法名)によって 創建されたものですが、近世を通じて寺勢はふるわなかったようです。
②法雲庵は、徳島市にあったときは単伝庵と称し、藩の家老稲田九郎兵衛家の建立した氏寺でした。
③室生寺や大善寺も、地蔵寺や鶴林寺の塔頭寺院でした。
このように庵室程度の小寺院で、檀家もほとんどなく、徳島藩の家臣や地下の庄屋などの私寺的な存在であったお寺が多かったようです。
高知県では過激な廃仏毀釈運動で、その後の寺院数の不足状態を招きました。
これに対して、徳島県では廃仏棄釈が発生しなかったので、ほとんどの寺院が存続しました。その結果、檀家の少ないお寺は自然淘汰され、廃寺化かすすんでいったようです。この七か寺は、そのようなかで新天地を高知に求めたチャレンジャーだったようです。高知県におけるお寺不足が、これら寺院にとって唯一の活路であったのかもしれません。そのような見方をすれば、高知県が他県の寺院を受入て救済するということになったといえるのかもしれません。

三好昭一郎 四国各藩における廃仏毀釈の展開 幕末の多度津藩 所収

幕末期における仏教への不満や批判が高まった背景は?
 明治維新に「神仏分離」が廃仏毀釈運動へと過激化した背景には、寺院僧侶への反発・批判があったようです。それがどうして生まれてきたのかを徳島藩と高知藩の史料に探って見ましょう。
鐘楼

 江戸時代の寺院の財政的基盤を見ると、
檀家制度、寺請制度によって、お寺は地域住民と深く結びつくようになります。人びとはお寺に宗門帳に登録してもらう引き替えに、法要などで多額の布施や寄進をしました。また寺院の修復などには、賦役や寄進が求められたようです。寺のなかにはこうして得た金を高利で人に貸すなどの副業をするものも出てきます。記録には、借金が返せなくなった農民の土地や屋敷をうばったり、妻子を奴婢として使うなどの例も見られるようになります。
 藩主の菩提寺ともなれば、寺院は禄を与えられ、藩主の家族に準じる扱いをうけました。多くの藩では菩提寺は一つではなく、いくつかの宗派にまたがって数か寺ありました。これは藩主が他家から養子をむかえたり、身分の高いところから奥方を迎えたりして、実家の宗派に気を使う必要があったためです。また、家臣の菩提寺にもその身分に応じて格式がありました。
一方、村々にある寺院も、その多くがかなりの寺領をもつ地主的性格の側面があり、さらに檀家からの勧化銀や葬祭時の臨時収入もありました。そのため寺院経営は安定していたようで、一般の農民よりも遙かに裕福だったようです。イメージとしては、庄屋の家に並ぶ豊かさという感じがします。
 次に寺院の社会的な地位を見ると、
宗門改や戸籍編製など任務を与えられることによって、寺院は宗教的な教化活動よりもむしろ村支配のため末端行政機関としての機能を果たしていました。徳川の泰平が続くにつれて、かつて一向一揆の先頭に立ちむしろ旗を振った一向宗のお寺の住職の末裔達も、官僚的な性格を強め、安定した生活に安座するような風潮が強まってきたようです。そして、村の住職さんは庄屋などの村役人たちと同じく、地域における社会的な地位も高かったようです。
img_0_m安楽寺
馬町の安楽寺山門

 例えば徳島藩の美馬町に安楽寺があります。
この寺は、西本願寺興正寺派に属し、戦国時代から近世にかけて讃岐山脈を越えて土器川・綾川沿いに布教団を送り込み「讃岐への浄土真宗布教センター」の役割を果たした寺院です。そのため、数多くの末寺を中讃地方に持っていました。
そこに次のような文書があります。
 一札之事     加判相頼、一札指上申所如件
                                                         
私儀先達而より御寺勧化銀等 毎々差出し不申罷有候二付、
万一不宗門二而無之哉 之御疑有之御札し被仰付、御趣意夫々奉恐入、御尤至極二奉存候、然上者以後心底相改め、御寺且又御口?口等之節者外御門徒講中同様、相当之割銀等無違背御請可仕候、尚此上御寺法通り堅く相守可申心底二付、嘉次郎殿一席承知之      
  文化十三子十二月十一日                   悦五郎 印
                                                      孫之丞 印                                      嘉次郎 印
安楽寺様
 この史料は、檀家(信徒)である3人の百姓が檀家料としての勧化銀が納められていないことを認め、「以後心底相改」て、今後は寺の定めを堅く守る所存であることを仲立人を立てて誓って押印しています。
その際に、寺の切り札になっているのは「不宗門」処分です
つまり、寺籍から除籍されることは戸籍がなくなることで、日常生活に差し支えが出るばかりかキリシタンとして取り調べられる可能性も出てきます。それは命も危うくなるということです。宗門改業務などを背景に、お寺が檀家に対して、どれだけ強い立場にあったかをよく示している史料です。
宗門人別帳1
 寺院の信徒への「動員権」は、慶長一八年(1613)の「宗門御制法」に由来します。
「(前略)旦那役を以て、夫々寺の仏用、修理、建立を勤めさすべし
(中略)僧の勧を不用輩は、能く可遂吟味事(下略)」
とされ、お寺の建立や修理などは旦那(信徒)たちの義務としています。そして、僧侶の指示に従わない者は、処罰の対象とすることが明記されています。ここからは、江戸時代のお寺は、お寺の用事のためには信徒達を法的に動員できるようになります。当時の寺の建立や修繕は、募金やボランテイアではなく義務だったようです。

檀家制度

 幕府の「宗門御制法」を受けて、徳島藩では「御代官之被仰出覚」が享保七年(1722)に出されています。
「郷中寺社之儀、寺領、社領有之賦又は旦那或氏子等多寺社修理掃除等二至迄相応二可相調(下略)」
と郡奉行に触書が出されます。これは、村のお寺や神社の修理・掃除などに檀家や氏子の動員を強制できることを認めるものです。中にはこれを拡大解釈して、寺の田畑の管理・運営を檀家に任せるお寺も現れます。これは専門用語では「賦役の強制」で「労働地代」にあたるもので、「農民からの中間搾取を寺院に認める」ことだと研究者は云います。

江戸時代のお葬式

 僧侶の世俗化に拍車をかけることになった要因の一つに、貧しい庶民が、その子弟を出家させようとする風潮があったようです。
t_tikurinji44土佐竹林寺

例えば、高知藩の五台山竹林寺の脇坊である南坊の僧純信と、長江の鋳掛屋新平の娘お馬とのロマンスです。
これはペリーが浦賀にやって来た翌年の安政二年(1855)のことで、「よさこい節」に
「おかしなことよな はりま屋橋で、坊さんかんざし買うを見た」
として歌われ有名になりました。これも「寺院や僧侶の世俗化の氷山の一角が露見」したと言えるのかも知れません。
 これに対して高知藩では、藩内寺院へ次のような警告を出しています。
「出家の儀は別して行状相慎しむべき筈の処、惣じて風儀よろしからず
 暮方惰弱にて専ら社務宗学怠り、その甚だしきは破戒に至り候族も少なからず、不埓の至に候、向後猶又きっと穿盤を遂げ、行状善悪の品により不時の移転、進退、曲事仰付けられ候事」
 このような状況は、徳島藩においてもあったようで、天保十年(1839)に「諸寺院僧侶風儀取究申達書」に次のようにあります
(前略)近年風儀不宜 御制禁等相犯候僧も有之 自然且家者不帰依に相成候 
 得共自分之不徳を不顧 施物相貪 法用勤方差略仕候 趣且諸宗之内郷分は真言多有之所 近頃弟子法緑等申立 若僧へ住職附属仕候様相聞
 (中略)嗣法付属之儀は器量を相撰み 兼而御法度之通金銭を以後住之契約仕間敷事(後略)」
意訳すると「ここには近頃は風儀が良くない僧侶が増え、禁制を犯す者までいる。その者達は自分の不徳を顧みず施しを相貪り、法要は簡略化する始末である。阿波では真言宗寺院が多いが、近頃では弟子登録の際に、若僧(経験や知識の十分でない僧侶)を申請する者がいる聞く。(中略)
後継者指名の際には、器量を優先し、禁止されている賄賂などを受け取ることがないように改めて通達する。」
 真言宗は妻帯を認めていないので、住職に子どもはいません。そのため住職は世襲制ではなく、後継者を選ぶ必用がありました。それが金銭によって決定されていると指摘し、そんなことのないようにという通達が出されているのです。住職の地位がお金のやりとりで決められているという風潮が、人々の噂となり、批判・不満の対象となるのは当然かもしれません。幕末のお寺さんや、お坊さんには、きびしい世間の目が向けられていたようです。
 
c高知 明年間刊「都名所圖會」巻1の伽藍図
 これに拍車をかけたのが、当時の社会・経済状況です。
高知藩にその例を見てみましょう。
馬詰彦右衛門という下級藩士が「游民論」を天保一四年(1843)に書いています。そのなかに「出家並びに寺社の事」という一文があります。
游民のもっとも甚しきは 出家にて御座候。其身大厦巨屋の内に安座住り候て、耕織の勤労なく、上にして御蔵の米を麿爛し、下にして衆庶の助力によりて飽食暖衣仕り候上、ややらすれば愚民を欺惑仕り候ては 己が貪欲をばしいままに仕り候。却て国を害し、政を乱し、化を乱し候事また甚しき者に御座候・・(中略)…誠に游民の甚しき者と存じ奉り候……
 まず行状を乱り法戒を破る者等を一々還俗させ候て、各々その本貫に返し、郷民に仰付けらるべく候」
坊主の妖怪
と厳しく僧侶を弾劾する意見書を、藩に提出しています。
この主張は、僧侶たちの世俗化を批判し、破戒僧の処分を要求するものです。この時点では、まだ「廃仏思想」には至っていませんが、「法戒を破る僧侶の還俗」を主張しています
これは後の、神仏分離令につながるものを感じます。
馬詰彦右衛門のような意見を持つ者が潜在的に数多くいたことが明治の「御一新」の際に、「神仏分離令」を発火点にして「廃仏毀釈」へとつながっていくのかもしれません。
妖怪 大坊主

当時の経済状況を、藩の財政危機と寺院政策という視点から見ておきましょう。
 最初に見てきたように、信徒達は旦那としてお寺に奉仕する義務を課せられていました。それは「農民からの中間搾取」とも言えるもので、百姓達にとって次第に、その負担を重く感じるようになっていました。そのような中で幕末期における天明・天保の大ききんをはじめ、たびたびの大凶作のために百姓一揆が各地に頻発します。江戸初期の「寺院修覆などは檀家の負担において行わせる」という寺院政策自体に無理が来ていたようです。今であれば国会で「農民救済」のため改革案が審議され、二百年以上守られてきた祖法が修正される道もあります。しかし、当時の幕府や各藩にはそのような柔軟性はありませんでした。各藩が行ったのは、農民からの貢租増収を図るために、寺院の風紀是正指導と圧迫強化策だったようです。
安政の大地震の被害

 ペリー来航後の動乱期の日本は安政の大地震とよばれる地震が各地で連発します。
高知藩も甚大な被害を受けたようで、安政2年に藩内の寺院に対して対応策として次のような通達を出しています。
「寺柄により、自坊をはじめ境内の堂宅に至るまでそれぞれ御作事仰付けられ、広大結構の御仕備え御手に行届きがたく、殊に去冬以来別して右の費莫大の事に候、只今の御時節それぞれ御再建御修理相調ひがたく候に付、寺院は当時留致し置き 追々手狭に取縮め候儀もこれあるべく仏体等は相成るだけ本堂へ移し、堂宇等は当時取毀ち、時節を以て再建の儀も仰付けらるべく、
かつ只今熟田の場所等に建て置く寺々も、追々近在中然るべき場所へ御詮議の上移住仰付けられる儀もこれあるべき事」
2絵金筆 安政大地震絵本大変記
ここには、地震被害が甚大で、各寺院において境内や堂宇の復旧のために、農民達に多くの「作事(賦役)」が課せられていること、しかし、被害の規模が大きく今だ十分でなく、費用もかさんでおり、今の時点での再建復旧は無理であること、そのため寺院は現状保存として、将来的には縮小することも考えなければならない。また、各堂の仏像は本堂へ移し、壊れた堂宇は取り除き、時期を見て再建することを考えるべきである。また、水田にできる場所に建っている寺院については、近くの適当な場所に移ることを申しつける場合もある。」
安政の大地震の被害にあった寺院の復旧対策に、農民達が動員され過重な負担となっていることに対して、農民保護や藩財政建て直し上からもブレーキをかける内容です。
images安政の大地震の

 以上のように、明治維新後の神仏分離令が政府の思惑越えて廃仏棄釈運動にまで、拡大してい背景には、幕末期の寺院をめぐる人々の不満があったことがひとつの要因であったようです。
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 幕末の多度津藩所収

11_5110051宥常

 金比羅さんの一ノ坂の階段を登っていくと大門の手前右手奥に、神職姿の銅像が立っています。木札には次のように記されています。

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琴陵宥常像
明治維新後の近代日本黎明期に金毘羅大権現を金刀比羅宮と改め、大本宮再営や琴平博覧会を開催し、晩年には海の信仰をつかさどる金比羅宮宮司として日本水難救済会を創設するなど強固な信念で今日の金刀比羅宮の基礎を築いた人物である。
この人が明治維新期の金毘羅大権現の最高責任者だったようです。どのようにして、「金毘羅大権現を金刀比羅宮」と改めたのか、宥常を中心に金毘羅さんの神仏分離の模様を見ていくことにします。
kotohira04琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]

金毘羅大権現は金光院の院主が「お山の殿様」でした。
 金刀比羅宮は神仏習合の社で、最高責任者である別当は社僧(しゃそう)と呼ばれる僧侶でした。そのため妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。幕末の金光院院主は宥黙で、優れた別当ではありましたが病弱でした。そこで早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
koto-oka金刀比羅宮 - 琴陵宥常像
 琴陵宥常肖像画 高橋由一作
山下家一族の中に宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常(僧籍では、ゆうじょう)で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。
宥常は明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま順当に別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わろうとしていました。「御一新」の嵐は、そんな宥常の金毘羅大権現をも包み込むことになります
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 神仏分離は明治政府の手によって祭政一致と神祇官再興、全国の神社、神職の神祇官付属を定めた布告にはじまります。
○太政官布告 慶応四年(1868)3月13日
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、
同官ヘ願立候様可相心得候事,但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事 
ここには王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官を再興することを布告し、「追追諸社御取調」と、追って各神社の「取調」が実施されることが予告されています。ちなみに、この布告が出されたのは「五箇条の御誓文発布」の前日にあたります。この時、江戸城の無血開城への折衝が大詰めを迎えています。
 また、3ケ月前の正月17日に、新政府は官制を発布して、太政官のもとに七科を置いて政務を分担させる中央行政組織を発表していますが、その七科の筆頭に神祗科が置かれていました。そして神祇事務総督には明治天皇の外祖父にあたる人物が就任します。つまり、神祇科は、他の行政諸官庁を管轄するポストであったわけです。太政官布告を追いかけるかのように4日後には、事務局から次の通達が全国に通達されます

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○神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応4年3月17日
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
ここには「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候」とあり、別当寺の僧職による祭礼が禁止されると同時に、復飾(一度僧籍にはいった者が、もとの俗人にもどること。還俗すること)が命じられています。また「僧位僧官を返上し・・・衣服ハ神職の衣服で勤仕」するようにと、具体的な指示も出ています。
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それまでの神仏混淆の下では、金毘羅大権現は金光院の支配下にありました。
つまり金光院別当の真言僧侶が神を祭祀、社領・財政を管理、本堂を営繕、人事を差配してきたのです。それは村々に鎮座する神社と別当寺(中宮寺)の関係でも同じでした。
急かすかのように10日後には「神仏分離」の通達が出されます 
○神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、
右之通被 仰出候事
ここでは神名に「権現」「明神」「菩薩」などの仏教的用語を使用している神社名を改めると供に、ご神体を仏像としている神社は仏像を取り除くべきこと、また、本地仏・鰐口・梵鐘などの仏具を神社から取り外し、神社と寺院と判然と区別するよう命じます。
  そして、一週間後には再び次の太政官符が出される念の入りようです。○太政官達 慶応四年閏四月四日
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、
当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
ここでは神仏混淆の禁止の再確認と、別当・社僧に還俗を命じ、神主または社人と名称を変え、神道に転じよとの布告が出され、還俗しないものは神社への出入りは禁止とし、立ち退くように求めています。また祭礼の際には、烏帽子をかぶり白差貫を着用するなど神職の服装を求めています。 四月十九日には、神職の者の家族に至るまで、仏教式の葬祭をやめ、神道式の葬祭を行うよう命じるのです。
 明治政府は、江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策を進めます。そして、神社の中から仏教的な要素を取り除くために、神仏分離政策を早急に、しかも強力に実施しようとします。
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このような性急で過激とも思われる新政府の「御一新」を、金毘羅さんではどううけとめたのでしょうか。
  大権現を称していた金毘羅さんの対応を姿を見てみましょう。
 金毘羅さんでも中世以来の本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   金光院松尾寺もその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆が行われていました。現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地だったのです。そして金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務を取り仕切っていました。

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 このような中で新政府の通達は、金光院を初めとする僧職達に対して、還俗して神職になるか、お山を下りるかの二者選択を迫るものだったいえます。
神仏分離の布告を受けた金光院では、別当宥常が脇坊や重役を集めて協議を続けます。この会議をリードしたのは普門院の院主宥暁でした。彼は、江戸深川の永代寺の住職を勤め終わり、高野山に登って数年間修業を積んだ学僧で、名望もありました。彼が主張したのは、
神仏分離令が対象としている寺院は、両部神道で祭られている社僧寺院であって、根本仏寺であり神社地でない金毘羅大権現を指すものでない。金毘羅は印度仏法の経典上に現われる神であって、日本の神祇に属する神ではない。
したがって今回の法令によって改廃を受けるものでない
というもので、この意見が重役達のほとんどが賛意を表したと云います。
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 そこで四月二十一日、金光院別当宥常は、役人山下周馬、寺中普門院宥暁を従えて、嘆願のために上京します。 そして綾小路・甘露寺の両執奏家へ、
「金毘羅権現は、、わが国の神祇でなく、全く印度の神祇であって、仏教専俗の神である」
旨を上申するのです。
 しかし上京した宥常を待っていたのは、「御一新基金御用」の名目での新政府への一万両の献納要請でした。宥常は、受けいれるほかなく献納を申し出て、六月十五日までに五〇〇〇両を調達し、残りの五〇〇〇両は三か年間に調達する旨の上申書を提出します。
 廃仏毀釈の運動へ 
 明治政府の神仏分離の政策は、これまで僧侶の風下に置かれていた神官達が、この時とばかりに政府の政策に追随し、さらにこれを越えて廃仏毀釈の運動へと進んでいきます。明治元年四月十日、政府は布告を発して、
「社人共、陽は御趣 意と称し、実は私情を晴らし候様の所業」
が御政道の妨げを生じると、その心得違いを戒め、さらに、同年九月十八日には、
「神仏混淆致さざるよう先達って御布告これ有り候所、破仏の御趣意には決してこれ無き処」
と行き過ぎた廃仏毀釈にブレーキをかける布告を出しています。
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 このように若き金光院別当宥常が陳情のために滞在した京都は、その廃仏毀釈の真っ只中でした。
宥常が頼りとした猶父である綾小路家は、実はその立場を利用して神仏分離を厳しく実施しようとする側だったのです。綾小路家の役人であった山田・平田・熊谷はその中心人物で、彼等の立場から見れば、宥常が提出した上申書は、大勢を知らない井の中の蛙としか見えません。神仏分離を強行しようとする彼らからみると伊勢の皇太神宮に匹敵する参詣者があり、日本一社として朝廷の尊い信仰を受け、仏教面では真言宗の一無本寺に過ぎない金毘羅大権現を、神仏分離政策から外すことなど絶対に認められないことだったのです。

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 神仏分離は着々と実行に移され、京都の公郷家出身の僧侶が多かった奈良の興福寺は僧侶全員が還俗して春日神社の神官となり、興福寺は無住の寺となって、西大寺や唐招提寺が管理するするようになったとの話が伝わってきます。
 鎌倉岡八幡宮では、境内にあった真言宗寺院の塔頭の僧侶が全員還俗して神官となり、総神主と称するようになります。
 王政復古のおひざもとであった京都では、神仏分離・廃仏毀釈が進行し二條城内に設けられた京都府庁の台座には、道端の石地蔵を集めて石垣が組まれます。寺院の廃合や整理も激しく、一般の末寺や大寺院内の塔頭などで廃寺となるものが多くでていました。

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 京都にいた宥常は、こういう空気に接して「現実」を知ります。
 政府の方針や廃仏毀釈という現実に逆らって、金毘羅大権現を仏教専属の神社として維持していくことが難しと思うようになってきたようです。それを加速させる次のような風も吹き始めます。
①一つは当時、金刀比羅宮内でも時流に乗って平田門下が影響力を増してきて、僧籍維持を主張する普門院への対抗勢力になりつつあったこと。
②社会状況が、仏教(寺院)として存続しても僧侶の生活を保障するものではなくなっていたこと。そして、奈良の興福寺の僧侶を真似るように僧籍を離れるのが流行のようにもなっていたこと。
③新政府の「御一新」に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、結果としてそれはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにすること
④だとすると大権現存続のためには、あえて平田派的な論を用いた方が得策かもしれないこと。
⑤加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったのかもしれません。「御一新(神仏分離)」を通じて、山上経営の主導権を確固たるものにして、若きリーダーとして歴史に名を残す。
若い宥常の判断と、その後の行動は早かったようです。彼は政府の神仏分離政策に従って改革を行い、神社として存続を図り、引き続いて繁栄する道を選ぶべ道を選択します。つまり、彼は京都で今までの方針を転回させるのです。
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  明治元年五月、宥常は上申書を政府に提出します。
そして、政府の神仏分離の方針に従うことを告げ、次の条々について御伺いを立てます。
1 金毘羅大権現は本朝の大国主尊であること。
2 象頭山を琴平山と改め、神号は勅裁をいただきたい。
3 一山の僧侶は還俗すること。
4 勅願所、日本一社の御綸旨(りんじ)、御撫物(なでもの)は、今まで通り認められたい。
5 御朱印地であることを考慮していただきたい。
 こうして6月14日、金光院宥常は京都で還俗します。金光院最後の住職となった宥常(ゆうじよう)は琴陵宥常(ことおかありつね)と改名と改めることを、願い出て許されます。そして金毘羅大権現の新たな神号は「勅裁を蒙(こうむ)りたい」と願い出たとおり、神祇官からの達書でに「金刀比羅宮」と改められます。
 こうして、新政府との交渉によって金毘羅大権現が金刀比羅神社として、存続できる道を開くことはできました。次にやるべきことは、その社格と、自らの地位の確保です。8月14日、琴陵宥常は、金刀比羅宮を勅裁神社の列に加え、宥常を大宮司に補任されたいと次のように願い出ます。
   宥常の歎願奉り候口上の覚                            
 讃岐国那珂郡小松庄琴平山に、御鎮座在りなされ候 金刀比羅大神の御儀は、御代々比類無き御尊崇に依りて、御出格の御沙汰の件々並びに、天朝において御取り扱いの次第等は、別紙に相記し、尊覧に備え奉り候通りに御座候、斯の如く種々容易ならざる朝令を蒙り奉り、御蔭を以て、神威日盛は申すに及ばず、奉仕の者共、神領の商農に至るまで安住罷り在り候儀は、偏に広大無量の、朝恩と冥加至極有り難き幸せと存じ奉り候、
 然るに方今一方ならざる御時節をも相弁え候上は、安閑罷り在り難し、天恩の万分の一をも報謝奉り度き赤心に御座候処、微力不肖も私聊以其の実行を相顕しがたく、依之会計御役所え御伺い奉り、金壱万両調達奉り度段歎願奉り候処、御隣懲の御沙汰を以て御採用成し下され、重々有り難き
幸せに存じ奉り候、且万事広大御仁恕の御趣意に取継り、猶又歎願願い候義は、別紙に相記候御由緒御深く思召なされ、分けて御制外の御沙汰を以て向後、勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り候、然る上は弥以て、皇位赫々国家安泰の御祈祷、一社を挙げて丹精を抽んで奉る可く候、恐惶敬白
    六月十四日          金光院事琴陵宥常
   弁事御役所
ここにはもう象頭山も金毘羅大権現も現れません。山は琴平山、主神は金刀比羅大神とリニューアルした名称が表記されます。また金刀比羅宮の由緒については「別所に相記」して提出したとあります。どのような内容だったかが気になるのですが、私の手元にこの時に提出した文書はありません。推察するに、先の上申書で「金毘羅大権現は本朝の大国主尊である」としたので、大国主尊を主神とする神々の系譜が、この間に調えられたようです。
 ちなみに、「神社取調」の提出は、金刀比羅宮だけでなく全ての神社に求められました。
そのために村々の役人や神職は苦労したようです。当時の庶民は自分たちの「村の鎮守」に誰を祀っているのか、どんな神々を祀っているのかに関心はなく、祭礼を行っていました。
  由緒が分かるのは式内社や、建立者がはっきした氏神様などほんのわずかでした。そこへ新政府からおまえの村の神社の由緒書きを提出せよと命じられたのです。ないものは提出できないとは言えません。提出しなければ神社として認められず、邪教として扱われ存続できないのです。
 ここに神仏分離政策のもうひとつの意味があります。
仏教よりも否定されたりされなければならなかったのは、民俗信仰だったのかもしれません。それまで民衆が信仰してきた修験道や巫女(シャーマン)などの民間宗教や、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが「廃仏」とともに「毀釈」されて行くことになります。そういう意味では民衆の生活態度や地域の生活秩序が再編成されてゆくスタートだったと言えるのかも知れません。別の視点で見ると、国家が村の祠や小社を有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとに線引きしたとみることもできます。この結果、民衆に根付いていた多くの信仰が邪教として、排斥されていくことになります。
「神社取調」に対応したのは、村役人や神職(大半が僧侶から神職に転身した人たち)だったのではないか私は推測します。
彼らは、村に伝わる伝承をかき集め「村の鎮守」の由緒書きを作ったのではないでしょうか。なにもないところから由緒書きを作らなければならなかった神社もあったかもしれません。「真摯」な「考証」にも関わらず「不明」な神社も多いと云う記録も残っています。
  その「由緒」を明らかにできなかった神社の方が多かったようです。しかし、提出しなければならない。そうなると、創り出す他ありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれていったのでしょう。ある研究者は「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で社で、付会・でっち上げを行う過程」であったとも云っています。確かに、急に提出期限も限られたものなので、今の私たちから見ると「拙速・乱造」と思えるものもあるように思います。話が横道にそれました、これについては、また別の機会にして・・・
 宥常の嘆願書に戻ります。
 宥常は、新政府の求めに応じて一万両を納めたことに続いて、
「勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り」
と、大宮司のポストに就くことを嘆願します。この歎願書に次いで、八月十三日に重ねて歎願書を提出し、勅裁の神社の件は認可されます。しかし、大宮司就任は許されませんでした。8月17日に従五位下を授けられ、翌8月18日付けで、改めて社務職を仰せ付けられます。
 結局、「宮司に仰せつけられたい」という願いは聞き届けられず、明治6年3月には、鹿児島より深見速雄が宮司として赴任して来ることになります。宥常が宮司に任命されたのは、14年後の明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月のことでした。(松原秀明氏『金毘羅信仰資料集』)それまでの宥常は金比羅宮のトップではなかったことになります。
  こうして宥常の京都での新政府との交渉は1年間に及びました。
この交渉が地元金比羅山内の僧侶達と連絡・合意を取りながら進めたとは思えません。宥常と側近者で決定され進められたようです。このため「寺院から神社へ、僧侶から神職への転身」を、普門院や尊勝院の反神仏分離派の院主達がスムーズに受けいれてくれるとは限りませんでした。若き宥常の「決断と実行」が試されることになります。
  明治2年(1869)二月、琴陵宥常は1年ぶりに讃岐に帰ってきます。と同時に、神祇伯白川家の古実家古川躬行が琴平に到着、以後逗留して改革を指導することになります。いわば改革のお目付役であり、実質責任者となります。

金毘羅山多宝塔2
 金毘羅大権現関係の建築物は、次の様に改められていきました。
①三十番神堂
 廃止の上、石立社(祭神少彦名神)に充当。
②阿弥陀堂
 廃止の上、若比売社(祭神須勢理毘売命)に充当。
③薬師堂(金堂)
 廃止の上、その建物を旭社(祭神伊勢大神・八幡大神・春日大神)に充当。
④不動堂
 廃止の上、津島神社(祭神建速須佐之男命)に充当。
⑤孔雀堂
 廃止の上、その建物を天満宮(祭神菅原道真)に充当。
⑥摩理支天堂
 廃止の上、その建物を常磐神社に充当。
⑦毘沙門天堂
 伊邪那岐神・伊邪那美神並びに日子神社(祭神事代主神・味組高根神・加夜鳴海神)に充当。
⑧多宝塔
 廃止の上、その建物は明治三年六月に取り払う。
⑨経蔵
 廃止の上、その建物は取り払う。
⑩大門
 左右の金剛力士像を撤去して、建物はそのまま存置。
⑪二天門
 左右の多聞・持国天像を撤去して、建物はそのまま存置
金毘羅山旭社金堂

次に組織改革と人員整理です
 まず、旧体制である江戸時代末の金光院の組織を見ておきましょう
別当寺は象頭山松尾寺金光院で、金光院主は当時二百数十名の役人を使用し、寺領をもつ領主的な存在で「お山の殿様」と呼ばれていました。役人の内、僧籍にあったのは20数名程度だったようです。そして5人の役僧が「寺中」と呼ばれる脇坊の住職として、次のような分業体制をとっていました。
①真光院、尊勝院 庶務を、
②万福院   会計を、
③神護院   神札・祭礼
④普門院   社領民の滅罪(葬儀)
この内、④普門院は山上の外の現在の琴平公会堂にありました。
  宥常は、僧籍にあった二十数人への還俗を断行します。その上で、旧脇坊を次のように処置します。
神護院は退身した上で還俗して社務職として神社に仕えました。万福院は退身して還俗し、山上から去ります。尊勝院と普門院は退身しますが、僧籍からは離れませんでした。
先にも述べたように神仏分離に、最も反対していたのは普門院の院主宥暁と尊称院院主でした。
彼らは、宥常の進める改革策を受けいれることは出来なかったようです。還俗に対しても激しく抵抗しました。普門院は大門の外(現金刀比羅公会堂)にあって、松尾寺の檀家の葬祭などを取り仕切っていたので、普門院の院生宥暁に、先祖代々の尊牌とその香花料として徳米一〇石の田地を与えて仏籍に残る道を選ばせます。その後、普門院は京都仁和寺内階明寺の直末寺院となり松尾寺と称するようになり、金比羅公会堂の下の現在地に境内を移します。しかし、これは普門院の意向に従うものではなかったようです。後に普門院は、金刀比羅宮を裁判に訴え争うことになります。

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 組織改革と同時に、人員整理も行います
改革前には、僧俗合わせて300人近い職員がいたのを、明治4年の冬には約80人とし、県からの指示で翌年にはさらに、30人程度まで人員は削減されます。 それは、財政収入減へ対応でもあり、「社寺領上知令」とも関わります。
  それまで金毘羅大権現の金光院院主は、寺領朱印地330石の領主で、領主に対する租税は免除され、そこから得られる収益は全て祭司・供養・社殿の修繕費用に充てられました。
  ところが明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。
「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘 朱印地除地等 従前之通被下置候所。各藩版籍奉還之末 社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付追テ相当禄制相定、更に蔵米ヲ以テ可下賜事」
ここにはすでに版籍奉還が行われ、各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知(没収)」すべきである。それにより失われた特権については、追って蔵米にて補償する予定である、とされています。

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  ちなみに京都の南禅寺界隈の別荘庭園群は、神仏分離令や社寺上知令によって、広大な敷地を持っていた南禅寺の土地の大部分が民間へ払い下げられます。それを山縣有朋や財閥の野村家など、政財界の人々がステータスとして競って別邸を建てたものです。あの綺麗な景色の中に、寺社と明治政府の攻防が隠れているようです。
 ここからは神仏分離に、経済的な側面があったことを、改めて気付かされます。この結果、経済基盤を失い衰退していった寺院も多いのです。この措置とリンクさせて、財政収入の激減が予想される社寺への「職員削減」を命じたようです。

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 そのような中で、明治5年4月3日、鵜足郡内田村の吉田寺住職真道房から金刀比羅宮に対して、
「御山変革につき、不用となった三つ壇と仏具類一揃えの寄付を願いたい」
との申し出がありました。宥常はこれを許しています。この頃から、金毘羅大権現の仏像や仏具や什器などの処分が注目されるようになったようです。
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   聖観音立像 (金刀比羅宮 宝物館蔵)
改革によって取り除かれた仏像・仏具の処分が明治5年6月から始められます。その記録を見てみましょう。
六月五日、梵鐘が227円50銭で榎井村の興泉寺へ売却。
七月十一日 雑物什器売却、
  十八日 仏像売却、
  十九日 善通寺の誕生院の僧が、両界曼荼羅を金二〇円で買い取った。
 八月四日 障りありとして残されていた仏像や仏具を境内の裏谷で焼却した。
午前八時から始められて、午後には焼却を終わった。その日の暮れのころ、聞き付けて駆けつけた二、三人の老女が、杖にすがりながら、燃え尽きてちりぢりとなった灰を、つまみとって紙に包み、おし頂いて泣きぬれていた

と記録されています。
 のこされた仏像は、長櫃(ながびつ)にいれて裏谷へ隠してあった聖観音立像と、不動明王立像の2体だけでした。現在、この2体は宝物館に展示されています。金毘羅さんの神仏分離の激動を見守った仏と言えるのかも知れません。
 そして、立ち上る煙を宥常はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
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参考文献 神仏分離令と金刀比羅宮 ことひら町史441P


  明治以前の金毘羅さんの姿を見てみましょう。
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 明治以前の神社は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)のもとで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   インドからやって来た番神クンピーラ(金毘羅神)を権現としたので金毘羅大権現と呼ばれていました。そして象頭山は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。

これは幕末の「金毘羅参詣名所圖會」に見る金毘羅さんの姿です。
金毘羅本殿周辺1
大門から続く参道と石段を登ってきた参拝客が目にするのは、左下の金堂(現旭社)です。そして、参道は右に折れて仁王門をくぐって、最後の石段を登って本社へ至ります。山内の建物を挙げると次のようになります
 大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり
本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。
古義真言宗の御室直末派に属す。
山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
この説明文だけを読むと、金毘羅さんが神社とは思えません。また当時の建築物群も、神社と云うよりも仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったようです。
 この絵図だけ見ると、どの建築物が一番立派に見えますか?
金毘羅山多宝塔2
これは誰が見ても中段の金堂が立派です。
幕末に清水次郎長の代参で金毘羅さんに参拝した森の石松は、この金堂を右上の本殿と勘違いして、この上にある本殿まで行かずに帰ったことになっています。そのために、帰り道で事件に巻き込まれ殺されたと語られています。それが、納得できるほどこの建物は立派です。同時の参拝記録にも賛辞の言葉が数多く記されています。

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 この建物は以前にも紹介しましたが幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。そして、ここに納められたのが薬師さまでした。それ以外にも堂内には、数多くの仏達が安置されたいたのです。金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。しかし、今は堂内はからっぽです。
   目を転じて手前を見ると塔が建っています。多宝塔を記されているようです。別の角度から見てみましょう。
金毘羅山旭社金堂

★「讃岐名所圖會」にみる金堂と多宝塔
さきほどの金堂を別の角度から俯瞰した絵図です。参道には、蟻の子のように人々が描かれています。正面に金堂(現旭社)、そして右へ進むと長宗我部元親の寄進したと云われる二天門が参拝客を迎えます。そして、参道の両側には灯籠が並びます。今の金毘羅さんの姿とちがうのは・・? 右手に塔があります。よく見ると多宝塔と読めます。これは今はありません。ここには神馬が奉納されています。明治以前の金毘羅さんが仏教的な伽藍配置であったことを再確認して、先に進みましょう。
まず、明治以前の建物群の配置図を確認しましょう
konpira_genroku 元禄末頃境内図:
元禄末頃(1704)境内図
元禄末頃の作と推定される「金毘羅祭礼屏風図」の配置と参道です
   ①昔の参道(点線)は、普門院の門の所に大門がありました
   ②脇坊中前土手を通り、本坊の大庭の中を通り、築山の道を抜け
    ③宥範上人の墓の付近を通り、鐘楼堂仁王門に出て
    ④本地堂其の他末社の前を通り、神前に至るルートでした。
 ○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。
 ○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。
 ○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。
このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え
 ○寛延元年(1748)  万灯堂建立。
 ○天保3年(1832)  二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846)  金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
そして明治の神仏分離以後の配置図です
明治13年神仏分離後
    
    神仏分離・廃仏毀釈によって、どう姿が変わったのかを確認します。
    ①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
    ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
    ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
    ④金堂    廃止し、その建物を旭社
    ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
    ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
    ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
    ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去
    ⑨経蔵   廃止し、その建物を文庫へ
    ⑩大門   左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
    ⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門
    ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
    ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
    ⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
    ⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
    ⑯鐘楼   明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ 
    ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
    ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
    松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡が読み取れます。そして、金光院、金堂、大門などは転用されています。なかでも明治の宗教政策の様相がうかがえるのが5つあった門院の転用用途です。
    神護院→小教院塾、
    尊勝院→小教院支塾、
    万福院→教導係会議所、
    真光院→教導職講研究所、
    普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています
    崇敬講社扱所以外では、讃岐における神道の指導センターとしての役割を忠実に実行したようです。 現在では、下の現在の境内図に見られるように坊舎跡は取り払われ、宝物館や公園になっています。  
     
konpira_genzai2002年境内図
2002年境内図
こうして仏教的な伽藍は、神社へと姿を変えたのですがそこには、おおきな痛みを伴いました。神仏分離が金毘羅大権現になにをもたらしどう変えていったのかを、次回は当時の金光院主に焦点を当てながら考えていきたいと思います。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  関連記事 金堂(旭社)についてはこちらへ 


参考文献(HP) 讃岐象頭山金毘羅大権現多宝塔(象頭山松尾寺多宝塔)
    

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