
白川琢磨先生に連続四回の比較宗教社会学のシリーズ講義をお願いしています。今回は、その2回目になります。仲多度や三豊の神仏習合から神仏分離に至る動きが聞けそうです。興味と時間のある方の参加をお待ちします。なお、会場が吉野公民館に変更になっていますのでご注意ください。
白川先生の著書です。


白川先生の著書です。


幕末、風雲急を告げる中、孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、社殿を現在地に新造し、奉迎鎮座されました。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として、②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。③大正3年になって、白峯神社が現在地に遷座したこと④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること
明治の神仏分離で白峯寺は、次の3つのものを失いました。
仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。
今熊野十二所権現の鎮座する林村は、幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏であり、修験道廃止によって、失業となる。五流尊瀧院のみ天台宗の寺院となり、後は全て還俗する。
還俗後、このころ警察官・軍人の職業が生み出されたので、そちらに就業した人も多かったといい、五流伝法院の兄弟は軍人となり高官に出世したと伝える。伝法院も建徳院も大阪のほうに移るともいう。
建徳院(高槻市内藤家)
報恩院(林・新見家)伝法院(大阪市三宅家)
大泉院(林・三宅家)、正寿院(林・内藤家)観了院(林・本多家)、宝良院(林、岡田家)
大願寺(今、宮本家)、西光坊(今、西方寺)串田有南院(今、一等寺)曽原、惣持坊(今、宝寿院)福江杉本坊(今、慈眼院)尾原、仁平寺(今、真浄院)林南之坊(今、大慈院)植松、法華寺(今、蓮華院)浦田神宮寺(禰宜屋敷) 是如院(報恩院の上手)蜜蔵坊(竹田の田の中) 多宝坊(宝良院の下手)宝生坊(木見、惣願寺) 清楽寺(祠官屋敷)
①三重塔の建つ5段ほどの石階から上は五流山伏の所有地②それ以外は熊野神社の所有地
2月 新政府の神仏分離令通達4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請9月 東京行幸冥加として千両を献納。
徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。
多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事
没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」
二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
(『金刀比羅宮史料』第九巻)
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。
意訳すると明治二巳年二月二十九日夜御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
明治2年2月29日夜 本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。以上、八月 金刀比羅宮社務琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所
[境内仏堂]
仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
(『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。
①琴綾宥常(維新時28歳)②松岡調 (維新時38歳)③古川躬行(維新時58歳)
①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」
①伊勢大神の意をもって天照大御神②八幡大神の意をもって誉多和気尊③春日大神の意をもって武雷尊
古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
①18世紀後半から遍路の数は増加傾向を見せ始め②19世紀前半にピークを迎える③明治初期には1/3に激減する
①天保期の巡礼者の増加率は四国遍路の方が大きい②明治維新前の政治的混乱で巡礼者は四国は半減、西国は1/4に激減する③明治になって、西国に回復傾向は見られるが、四国遍路にはみられない。
①神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動による札所の衰退②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
①外来宗教である仏教と日本固有の神に対する信仰を調和・合体させる神仏習合が進んだ②この正当化のために、神はもともとは仏であって衆生を救うために仮に神の姿で日本に出現したという本地垂迹説が広がった。例えば、天照大神の正体(本地)は、実は大日如来だとされた。③この結果、神を祭る神官よりも仏をいただく僧侶の方の立場が強くなる。④こうして江戸時代には、幕藩体制と結びついた寺院が、別当寺・神宮司など呼ばれ神社の管理を行っていた。僧侶が神社を管理していた。
①土佐の仁井田五社は、別当寺である岩本寺が三十七番札所となり、②伊予清水八幡宮については別当をつとめる山麓の寺が栄福寺として五十七番の札所へ③讃岐の琴弾八幡宮は、別当寺の神恵院が六十八番札所へ
「華々しく(?)開始された神葬祭式も、たいして効果があがらず、この時をもって終止符がうたれたと考えたい。」
①雪蹊寺は明治12年、②種間寺・清滝寺は明治13年に③岩本寺も明治22年(1889)
其の僧坊伽藍の荒廃衰残の状 大抵の人は皆慨嘆の声を洩らすのが普通である。(中略)荒廃せる坊中にあつて再興のためによく種々の困難に凌ぎつつある住僧の辛抱強きには驚嘆せざるを得ないんだ。風吹き雨降りし一日、雨滴は本尊前の縁板を流れて居る。予の臥つて居る室の一角の天井板は全く傾いてしまって、それを仰臥して見つめて居ると、将に落ちんとする状がある。杉の帯戸の向かひの座敷は全く跡形なく荒廃し戸を開く事も出来ぬ始末である。日本有数の霊場と日本有数の廃坊を余は室戸崎に於て見るのである。」
「社寺領現在ノ境内ヲ除くノ外一般土地 上知セシツ…」
①石手寺は、 4町6反 → 1町8反②番繁多寺は、4町9畝 → 4反8畝③太山寺は 10町 →約1町です。
「仏像と判断される蔵王権現は祭るに及ず」
寺号ニテ御差支ノ廉モ有之候ハバ 御指揮二従ヒ前上寺卜改寺号仕候ナリトテモ 再興一寺建築願ノ趣御採用ノ程奉懇願候
「故寺号ニテハ差支ノ儀有之候条、前上寺毎号候儀卜心得ベシ」
「二百三十余戸ノ檀中一同(中略)香園寺へ埋葬相頼来候共
遠隔之地ニシテ実二困入夙夜悲難仕候」
「一寺永世維持方法相調ント勉励シ(中略)今年二至り五百円二満ツ(中略)反別五町村中共有地二罷在候 間土地上木共永世寄付仕候条偏二再建之旨奉懇願候]
明治2年 明治天皇の命で、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀。明治6年 白峯寺住職恵日が復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住化。明治8年 白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。明治11年 寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。明治31年 仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。
崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、
白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで占有管理しているのはおかしい、
歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。
明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無い
1 天皇家によって崇徳上皇の御霊を京都へ移され2 明治政府によって土地財産を奪われ3 その結果、お寺は一時的にせよ廃寺となり4 さらに金刀比羅宮によって頓証寺の摂社化と、その宝物の「横取り」された。5 その復活・復興に30年を要したということになるようです。
相模大山の伯耆坊(神奈川)飯縄山飯綱の三郎(長野)比良山次郎坊(滋賀)愛宕山太郎坊(京都)鞍馬山僧正坊(京都)大峰山前鬼坊(奈良)英彦山豊前坊(福岡)
・建永2年(1207) 法然上人松山巡る・治承年間(1177-1180)高倉天皇 青梅・河内村を寺領として寄進・寿永3年(1184) 後白河法皇 青梅・河内の庄を寄進・元歴2年(1185) 源頼朝 備中妹尾郷を寄進・文治2年(1186) 後鳥羽院 丹波国粟村庄、豊前福岡庄を寄進、
源頼朝讃岐国北山本庄を寄進・文地4年(1188) 後鳥羽院 崇徳院25回忌を奉修
頼朝:備前福岡庄を寄進・建久2年(1191) 後白河法皇 頓証寺の建立・寛喜3年(1231) 土御門院 法華経を奉納・建長4年(1252) 後嵯峨院 法華経を奉納 松山郷を寄進・建長6年(1254) 後嵯峨院 西山本新庄(阿野郡山本郷)、津郷、寄進・康元元年(1265) 後嵯峨院 北山本新庄(阿野郡山本郷)を寄進・文永4年(1267) 頓証寺灯篭を建立・應永21年(1414) 後小松帝 御真筆「頓証寺」の扁額を勅納・長禄3年(1459) 後花園院 崇徳院御領神役を定める・天正15年(1587) 生駒雅楽頭近規 白峯寺へ寺領50石寄進・慶長4年(1599) 生駒近規 本堂再建・寛永8年(1631) 生駒高俊 白峯寺の真宝目録を作成・寛永12年(1643) 松平頼重 頓証寺殿を復興・万治4年(1661) 松平頼重 阿弥陀堂に供養料・寛文3年(1663) 崇徳天皇500回忌・延宝8年(1680) 松平頼重 頓証寺殿、勅額門の再建、・元禄2年(1689) 松平頼重 石灯籠2基を頓証寺殿に奉献・宝暦13年(1763) 崇徳天皇600回忌・安永8年(1779) 松平頼真 白峯寺行者堂を再建・文化8年(1811) 松平頼儀 大師堂を再建・文久3年(1863) 崇徳天皇700回忌・慶應2年(1865) 松平頼聰 石灯篭2基御廟前に奉献
1177年 高倉天皇、西山本郷、福江、御供所を寄進1190 源頼朝 稲税を収める
土御門天皇勅額書と以降毎年下向使の儀1244 後嵯峨天皇、荘園(西庄)寄進天正年間 生駒正親 四石五斗年を西庄村と摩尼珠院に寄進。京から神官、僧侶を招請し学問、文学、芸能、医薬を施行初代高松藩主の松平頼重「当山は、旧地といい、かつ、天皇御鎮座所なれば敬い住職たるべし」として京都から中興寺宥詮阿闍梨を召く。1642 松平頼重、摩尼珠院へ四石五斗寄進1701 松平頼常、摩尼珠院へ四石五斗寄進1865 孝明天皇、御撫物を供え
①稚児川に架かっている橋は、洞林院(本坊)の西側に移されている②本堂への参拝ルートは 「洞林院 → 頓証寺 → 本堂」となっている。③現在は本堂の東側にある太師堂は姿がない。
①左側 高屋村の天王社(高屋神社)②右側 神谷村の神谷神社から大門に至る遍路道が描かれてます。
「天性学を好み友安良介に従い 皇典の学を学び、後に松岡氏を継ぎ、多和神社の禰宜(ねぎ)となり、・・・」
金倉川に掛かる普請中の鞘橋を見ては、その美しさを讃えます。内町から小坂までの家の門毎に桜が一本ずつ植えられているのを見て、四、五年経った年の春の日の花をしのび、大門まで登って金毘羅神が去り給うたことを記した立札を見ています。琴陵家を訪ねて、書院の広く美しいのを見て、娘は手をうって喜ぶ。護摩堂・大師堂によって、内には檀一つさへないのを見て涙する妻に対し、かしこきことなりと言って、わが心のおかしさを思う。本宮に詣で、拝殿に上りて拝み奉る。御前の模様、御撫物のみもとのままにて、その外はみなあらたまっているのを見る。白木の丸き打敷のやうなるものに瓶子二なめ置き、又平賀のような器に鯛二つがえ置きて供えている。さて詣でる人々の中には受け入れられない人々もあろうが、己れらはその昔よりはこの上なく尊くかしこく思われた。絵馬堂を見て、下りに諸堂を廻る。観音堂も金堂も、十五堂も、皆仏像をとりのぞきたる跡は、御簾をかけて白幣を立てていた。(中略)金刀比羅宮文書 「松岡調日記抄」
「金毘羅神が去り給うたことを記した立札」
鯛が御供えしているのを見て、参拝者の中には受けいれられないかも知れないが自分にとっては「尊くかしこく」感じられた
いみじきことなり、わがすめらみくにの神社仏堂のうちにて、かかるところはおさおさあらじとぞ思われる
維新の際の神仏分離の「神社取調」とは、「研究」ではないのだよ。「政治」だったのだ。式内神社の指定もまたしかり・・・と・・・
「仏像をもって神体とし、また仏像、仏具を社地に置いている場合はすべて取り除き・・・・」
松岡調 大内、寒川、三木、山田、香川東の五郡吉成好信 黒木茂矩 香川西、阿野。鵜足、那珂の四郡大宮兵部 原石見 三野郡川崎出雲、真屋筑前 豊田郡
松縄村熊野社 神体円石 梵字 仏像仏具は本門寿院へ。伏石村八幡宮 大石太田八幡宮 新しき木像外に厨子入り小仏像、本地堂は大宝院へ。一ノ宮村田村大社 男女木像、鏡三面。
「御神体なき神社には新しい御神体を勧請せよ」
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候
条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
某国某郡某村鎮座 某社1.宮社間数 並大小ノ建物
1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
1.神位
1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書スヘシ
1.社地間数 附地所古今沿革之事
1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
1.造営公私或ハ式年等之別
1.摂社末社の事
1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別 1.社中男女人員
1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
1.同管轄之庁迄距離里数
「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で、付会・でっち上げを行う過程であった」
「伝説による神号で呼んでいるところは神道による神号へ改めよ」
祇園社 → 須賀神社王子権現 → 高津神社妙見社 → 産巣日神社皇子権現社 → 神櫛神社十二社権現社 → 木熊野神社金毘羅権現 → 琴平神社
大川郡では志度町鴨部にあった西光寺ほか十二力寺。木田郡では牟礼村の愛染寺、最勝寺ほか五ヵ寺。小豆郡は土庄町渕崎の神宮寺ほか四力寺。香川郡は香南町の由佐にあった宝蔵寺。綾歌郡では綾南町滝宮にあった竜燈院ほか三ヵ寺。高松市は前田地区の押光寺ほか十四ヵ寺。坂出市が川津町の宝珠院ほか三ヵ寺。丸亀市は土器町の寿命院ほかIヵ寺。仲多度郡は琴平町の金光院ほか一力寺。観音寺市は粟井町の大円坊一力寺のみ。三豊郡では山本村財田大野の阿弥陀院ほか六ヵ寺。
① 平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。② 廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。③ 庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
「薩長の連合がこのまま続くはずがない。近いうちに必ず争いが起きる。それに備えて「四国諸藩をまとめた同盟」を形成しておく必要がある」
①廃仏運動が四国で最も過激に展開した高知藩、②最初は激しい布令が出されたのに、竜頭蛇尾に終わった多度津藩、③一貫して微温的な徳島藩
達従朝廷追々被仰出趣旨に付、此度当管内一宗一ヶ寺に縮合申付候間 良策見込之趣も有之趣大参事中へ申波候間此段可相達事小十月二十八日 民政掛
「我藩は祖先が徳川幕府から減封されたので、幕府に対し始終快よからず思って陰に陽に反対する気風があった。……そのため幕末には土佐藩について倒幕に加わった。・・その後も土佐藩とよしみを持っていこうした。
土佐藩が廃仏を主張するので我が藩もこれに同調したのである。土佐藩に習って廃仏の模範たらんとする意気込みであった……」
奉歎願口上願此度当管内一宗一派一ヶ寺御縮合之儀、被為仰付奉恐入候、然るに至急之儀、甚当惑仕候。何共御報之奉申上様も無御座、右民政御役所に付非常格外之御仁慈を以、今暫御延被成下度候、伏而奉懇願。右之趣宜敷御取繕被仰上可被下候
以上多度津 法中連中
此度 合社寺之趣、被仰出奉恐入候。然るに是迄長々崇敬仕候事、実に痛痛敷奉存候間何卒在来之通成置被下度、偏に一統奉願上候。 此段宣御取成程奉願上候。以上
「合社寺(=一宗一派一ヶ寺への縮合)について、恐れながら申し上げます。長い間、崇敬(信仰)してきたことなので、心が痛む事です。何とぞ従来通りの信仰が許されますように、通達をお取り下げくださるようお願いいたします」
多度津藩は小藩ではあるが、当時は随分勢力を振ったものである。夫は先に土佐藩が西讃岐の本山と云ふ所へ出軍したとき、軍使を発して多度津藩に向背如何を問ふた、此時同藩が其先鋒たらんことを誓った、この故を以て.土佐藩が非常に多度津居を優遇した。これが同藩の幅を利かした所以である。
以上の理由で、土佐の排佛案には、何れも承服した。殊に多度津は排佛の模範を示さんと云ふ意気込みであった。もっとも、阿波藩が溜排論と、又火葬癈止論を出した。ここでまた一言せねばならね。これは多度津藩は、陽明學を奉じたにも拘らず、排佛論を取ったと云ふ所以である、陽明學は陽儒陰佛とも云はるるもので、決して排佛論などの出る所以がない。これは多分、多度津藩が土佐藩の歓心を買んがため、一方から云へば、チト祭上られて居られたのではあるまいかと思はれる。
こうして土佐藩は、極端なる排佛ではなかったが.枝末の多度津藩は、領内一宗一寺に合寺するといふので、隨分極端なものであった。あわせて合寺のみではない、合祀も同時にいい出したのである。ところが合祀については、左程の反抗もないが、合寺については、領民殆んど金部が蜂起せんとした、又寺院側では、模範排佛と云ふので、讃岐金挫の寺院が法輪院と云ふ天台宗の寺に、連口の協議會を開いて、反抗の態度に出んとした。(中略)
しかし、廃仏論は藩全体の意見ではありませんでした。小数の「激論党」が、「土佐の威を借りて主張した少数の意見」だったのです。なので、領内が騒ぎ出すと、「多数党」からの反撃が起こり、結局は廃仏論を撤回することになります。
また「明治維新 神仏分離史料第四巻 611」Pには、当時の憲兵中尉河口秋次氏の次のような証言を載せています。
拙者は常時神官として有力なりし某氏の言を聞く、先高松藩に蘆澤伊織といふ人あり。領内の神官を召集して、皇學漢學武術の三科を研究せしむる弘道館なるものを起こせり。これを丸亀・多度津の二藩が倣って、各弘道館を起せり。讃岐の排佛論は、全くこの弘道館思想の発せしものなり、また日く、多度津蒋の排佛論に對して有力なる反抗を試みしものは、西覚寺常栄、光賢寺幽玄の二師なりし.その一端を云へば、全部の寺院住職打揃ひ、青竹に焔硝を詰め、夫を背に負ひ、以て藩に強訴を為す。若し聴されずんば、自ら藩邸と共に焦土たらんと云ふの策なりし。而して其主唱者が上の二師なりし。又曰くその時藩と寺院の間に介して、円満なる解決をなしめたるものは、同町の丸尾熊造居士なりし云々、
寺院縮合之儀申達候得共、未だ究り候儀には無之、良策見込も有之候はば、可申承内意之事に候間、此段心得違無之様可相達候事閏十月五日 民政掛
「多度津藩の廃仏論は、藩全体の意見ではなく、わずかの過激派の主張した小数意見で、上層部との調整を経て政策化されたものではなかった。そのため領内で騒動を起きそうになると、上層部は急進派を切り捨て、廃仏論を徹回することによって無事落着した」
① 平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。② 廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。③ 庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
「向後御仏祭一切御廃止に相成り候。右に付御祥月御精進日等以後御用捨あらせられ御平日之通り」
覚一、僧は方外之者、世襲俗人と大に異なり、土地山林を占得するの途あるべからず。今日より更に之を禁ずべし。一、御改革に付、寺院寄付之土地山林一円被召上之、堂宇寺院之傍少許之土地山林傍示を改、之を寺付として付与すべし。一 一向宗は僧俗相混、世襲之体を存すると雖も宗俗と同しかるべし。一 僧徒還俗を欲する者 好に任すべし。一 私領或は私産等を以て相当之寺入を欲する者、願に寄り商議すべし右之通被仰付候事午四月二十三日 藩 庁
①一番上が廃物前寺院数で、明治維新時の各宗派の寺院数で、高知藩には合計751の寺院があったことになります。②一番下の存続寺院実数は、廃物運動後に残った寺院数です。真言宗の「245寺 → 44寺」の激減ぶりが目立ちます③その後に他県から移転してきた寺院数をプラスすると現在の寺院数になります。④合計数を見ると751寺あったのが211寺まで激減した事になります。当時の僧侶1239人のうちの大半が還俗したとも云われますし、寺院数で幕末期の約三〇%にまで激減したのです。これは高知が四国で一番廃仏毀釈運動が激しかったと云われる所以でしょう。
①天満寺は藩政初期に蜂須賀蓬庵(家政の隠居後の法名)によって 創建されたものですが、近世を通じて寺勢はふるわなかったようです。②法雲庵は、徳島市にあったときは単伝庵と称し、藩の家老稲田九郎兵衛家の建立した氏寺でした。③室生寺や大善寺も、地蔵寺や鶴林寺の塔頭寺院でした。このように庵室程度の小寺院で、檀家もほとんどなく、徳島藩の家臣や地下の庄屋などの私寺的な存在であったお寺が多かったようです。
一札之事 加判相頼、一札指上申所如件私儀先達而より御寺勧化銀等 毎々差出し不申罷有候二付、万一不宗門二而無之哉 之御疑有之御札し被仰付、御趣意夫々奉恐入、御尤至極二奉存候、然上者以後心底相改め、御寺且又御口?口等之節者外御門徒講中同様、相当之割銀等無違背御請可仕候、尚此上御寺法通り堅く相守可申心底二付、嘉次郎殿一席承知之文化十三子十二月十一日 悦五郎 印孫之丞 印 嘉次郎 印安楽寺様
「(前略)旦那役を以て、夫々寺の仏用、修理、建立を勤めさすべし(中略)僧の勧を不用輩は、能く可遂吟味事(下略)」
「郷中寺社之儀、寺領、社領有之賦又は旦那或氏子等多寺社修理掃除等二至迄相応二可相調(下略)」
「おかしなことよな はりま屋橋で、坊さんかんざし買うを見た」
「出家の儀は別して行状相慎しむべき筈の処、惣じて風儀よろしからず、暮方惰弱にて専ら社務宗学怠り、その甚だしきは破戒に至り候族も少なからず、不埓の至に候、向後猶又きっと穿盤を遂げ、行状善悪の品により不時の移転、進退、曲事仰付けられ候事」
(前略)近年風儀不宜 御制禁等相犯候僧も有之 自然且家者不帰依に相成候得共自分之不徳を不顧 施物相貪 法用勤方差略仕候 趣且諸宗之内郷分は真言多有之所 近頃弟子法緑等申立 若僧へ住職附属仕候様相聞(中略)嗣法付属之儀は器量を相撰み 兼而御法度之通金銭を以後住之契約仕間敷事(後略)」
「游民のもっとも甚しきは 出家にて御座候。其身大厦巨屋の内に安座住り候て、耕織の勤労なく、上にして御蔵の米を麿爛し、下にして衆庶の助力によりて飽食暖衣仕り候上、ややらすれば愚民を欺惑仕り候ては 己が貪欲をばしいままに仕り候。却て国を害し、政を乱し、化を乱し候事また甚しき者に御座候・・(中略)…誠に游民の甚しき者と存じ奉り候……まず行状を乱り法戒を破る者等を一々還俗させ候て、各々その本貫に返し、郷民に仰付けらるべく候」
「寺柄により、自坊をはじめ境内の堂宅に至るまでそれぞれ御作事仰付けられ、広大結構の御仕備え御手に行届きがたく、殊に去冬以来別して右の費莫大の事に候、只今の御時節それぞれ御再建御修理相調ひがたく候に付、寺院は当時留致し置き 追々手狭に取縮め候儀もこれあるべく仏体等は相成るだけ本堂へ移し、堂宇等は当時取毀ち、時節を以て再建の儀も仰付けらるべく、かつ只今熟田の場所等に建て置く寺々も、追々近在中然るべき場所へ御詮議の上移住仰付けられる儀もこれあるべき事」
琴陵宥常像明治維新後の近代日本黎明期に金毘羅大権現を金刀比羅宮と改め、大本宮再営や琴平博覧会を開催し、晩年には海の信仰をつかさどる金比羅宮宮司として日本水難救済会を創設するなど強固な信念で今日の金刀比羅宮の基礎を築いた人物である。
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事,但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、
右之通被 仰出候事
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
神仏分離令が対象としている寺院は、両部神道で祭られている社僧寺院であって、根本仏寺であり神社地でない金毘羅大権現を指すものでない。金毘羅は印度仏法の経典上に現われる神であって、日本の神祇に属する神ではない。
したがって今回の法令によって改廃を受けるものでない
「金毘羅権現は、、わが国の神祇でなく、全く印度の神祇であって、仏教専俗の神である」
「社人共、陽は御趣 意と称し、実は私情を晴らし候様の所業」
「神仏混淆致さざるよう先達って御布告これ有り候所、破仏の御趣意には決してこれ無き処」
①一つは当時、金刀比羅宮内でも時流に乗って平田門下が影響力を増してきて、僧籍維持を主張する普門院への対抗勢力になりつつあったこと。②社会状況が、仏教(寺院)として存続しても僧侶の生活を保障するものではなくなっていたこと。そして、奈良の興福寺の僧侶を真似るように僧籍を離れるのが流行のようにもなっていたこと。③新政府の「御一新」に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、結果としてそれはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにすること④だとすると大権現存続のためには、あえて平田派的な論を用いた方が得策かもしれないこと。⑤加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったのかもしれません。「御一新(神仏分離)」を通じて、山上経営の主導権を確固たるものにして、若きリーダーとして歴史に名を残す。
1 金毘羅大権現は本朝の大国主尊であること。2 象頭山を琴平山と改め、神号は勅裁をいただきたい。3 一山の僧侶は還俗すること。4 勅願所、日本一社の御綸旨(りんじ)、御撫物(なでもの)は、今まで通り認められたい。5 御朱印地であることを考慮していただきたい。
讃岐国那珂郡小松庄琴平山に、御鎮座在りなされ候 金刀比羅大神の御儀は、御代々比類無き御尊崇に依りて、御出格の御沙汰の件々並びに、天朝において御取り扱いの次第等は、別紙に相記し、尊覧に備え奉り候通りに御座候、斯の如く種々容易ならざる朝令を蒙り奉り、御蔭を以て、神威日盛は申すに及ばず、奉仕の者共、神領の商農に至るまで安住罷り在り候儀は、偏に広大無量の、朝恩と冥加至極有り難き幸せと存じ奉り候、然るに方今一方ならざる御時節をも相弁え候上は、安閑罷り在り難し、天恩の万分の一をも報謝奉り度き赤心に御座候処、微力不肖も私聊以其の実行を相顕しがたく、依之会計御役所え御伺い奉り、金壱万両調達奉り度段歎願奉り候処、御隣懲の御沙汰を以て御採用成し下され、重々有り難き幸せに存じ奉り候、且万事広大御仁恕の御趣意に取継り、猶又歎願願い候義は、別紙に相記候御由緒御深く思召なされ、分けて御制外の御沙汰を以て向後、勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り候、然る上は弥以て、皇位赫々国家安泰の御祈祷、一社を挙げて丹精を抽んで奉る可く候、恐惶敬白六月十四日 金光院事琴陵宥常弁事御役所
「勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り」
①三十番神堂
廃止の上、石立社(祭神少彦名神)に充当。②阿弥陀堂
廃止の上、若比売社(祭神須勢理毘売命)に充当。③薬師堂(金堂)
廃止の上、その建物を旭社(祭神伊勢大神・八幡大神・春日大神)に充当。④不動堂
廃止の上、津島神社(祭神建速須佐之男命)に充当。⑤孔雀堂
廃止の上、その建物を天満宮(祭神菅原道真)に充当。⑥摩理支天堂
廃止の上、その建物を常磐神社に充当。⑦毘沙門天堂
伊邪那岐神・伊邪那美神並びに日子神社(祭神事代主神・味組高根神・加夜鳴海神)に充当。⑧多宝塔
廃止の上、その建物は明治三年六月に取り払う。⑨経蔵
廃止の上、その建物は取り払う。⑩大門
左右の金剛力士像を撤去して、建物はそのまま存置。⑪二天門
左右の多聞・持国天像を撤去して、建物はそのまま存置
①真光院、尊勝院 庶務を、②万福院 会計を、③神護院 神札・祭礼④普門院 社領民の滅罪(葬儀)
神護院は退身した上で還俗して社務職として神社に仕えました。万福院は退身して還俗し、山上から去ります。尊勝院と普門院は退身しますが、僧籍からは離れませんでした。
「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘 朱印地除地等 従前之通被下置候所。各藩版籍奉還之末 社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付追テ相当禄制相定、更に蔵米ヲ以テ可下賜事」
「御山変革につき、不用となった三つ壇と仏具類一揃えの寄付を願いたい」
六月五日、梵鐘が227円50銭で榎井村の興泉寺へ売却。七月十一日 雑物什器売却、十八日 仏像売却、十九日 善通寺の誕生院の僧が、両界曼荼羅を金二〇円で買い取った。八月四日 障りありとして残されていた仏像や仏具を境内の裏谷で焼却した。
午前八時から始められて、午後には焼却を終わった。その日の暮れのころ、聞き付けて駆けつけた二、三人の老女が、杖にすがりながら、燃え尽きてちりぢりとなった灰を、つまみとって紙に包み、おし頂いて泣きぬれていた
大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。古義真言宗の御室直末派に属す。山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え○寛延元年(1748) 万灯堂建立。○天保3年(1832) 二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846) 金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ④金堂 廃止し、その建物を旭社へ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去。⑨経蔵 廃止し、その建物を文庫へ⑩大門 左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門へ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称⑯鐘楼 明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
神護院→小教院塾、尊勝院→小教院支塾、万福院→教導係会議所、真光院→教導職講研究所、普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています