神護景雲二2(768)年二月、筑前国怡土城成。讃岐国寒川郡人外正八位下韓鐵師部毘登毛人、韓鍛師部牛養等壱百弐拾七人 賜姓坂本臣
意訳変換しておくと
神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。
この文書を一体のものとすると、奈良時代の768年に怡土城の完成の論功行賞として、寒川郡の韓鍛冶部の一族127人に坂本姓が朝廷より下賜されたということになります。
ここに出てくる「韓鍛冶部(からのかぬちべ)とは何なのでしょうか?
ここに出てくる「韓鍛冶部(からのかぬちべ)とは何なのでしょうか?
日本大百科全書(ニッポニカ)には、次のように記されています。韓鍛冶部は韓土渡来の鍛冶部、すなわち渡来系の新技術を有する鍛冶職集団の称。倭鍛冶部(やまとのかぬちべ)に対する。『古事記』応神段に、手人韓鍛名は卓素(たくそ)なる者を百済から貢上した、とあるのが早い例で、以後数多く渡来したらしく、その分布は大和、近江、丹波、播磨、紀伊、讃岐の諸国に及ぶ。これらのなかには官位を得たり、日本姓に改姓を認められたり、郡の大領(長官)として巨富を蓄えたりする者も現れたから、韓・倭の別もしだいに不分明となった。[黛 弘道]」
ここからは次のようなことが分かります。
①韓鍛冶部は、刃物、鎌・斧、鍬、刀など、金属製造や軍事に係わる渡来系の技術者・軍事(?)集団であったこと
②各地に分散し、一部が讃岐にいたこと
③それが改姓して、渡来人としての素性が分からなくなったこと
韓鍛冶部は律令時代になると、兵部省の造兵司(ツワモノツクリノツカサ)の「雑工戸」と、宮内省鍛冶司(タンヤシ)の「鍛戸(カジヘ)」として二つの省に配置されています。また令外官として諸国に置かれた鋳銭司(ジュセンシ)で銭の鋳造(無文銭・和銅銭等)、あるいは諸寺院の仏像・仏具の鋳造にも携わるようになります。例えば聖武天皇の盧舎那仏造営の際の鋳造技術者として大鋳物師の柿本小玉、高市連真麻呂も韓鍛冶部の出身だったようです。
①韓鍛冶部は、刃物、鎌・斧、鍬、刀など、金属製造や軍事に係わる渡来系の技術者・軍事(?)集団であったこと
②各地に分散し、一部が讃岐にいたこと
③それが改姓して、渡来人としての素性が分からなくなったこと
韓鍛冶部は律令時代になると、兵部省の造兵司(ツワモノツクリノツカサ)の「雑工戸」と、宮内省鍛冶司(タンヤシ)の「鍛戸(カジヘ)」として二つの省に配置されています。また令外官として諸国に置かれた鋳銭司(ジュセンシ)で銭の鋳造(無文銭・和銅銭等)、あるいは諸寺院の仏像・仏具の鋳造にも携わるようになります。例えば聖武天皇の盧舎那仏造営の際の鋳造技術者として大鋳物師の柿本小玉、高市連真麻呂も韓鍛冶部の出身だったようです。
5世紀頃に、朝鮮半島からの渡来人によってさまざまなハイテク技術がもたらされます。
その中の鉄製兵器や農工具部門を担当した集団としておきます。
その中の鉄製兵器や農工具部門を担当した集団としておきます。
渡来人の技術者集団
彼らの他にも漢氏の指揮下に、錦織部・陶部(スエベ)・鞍作部(クラツクリベ)等の品部(シナベ)がいたようです。それが律令国家の下では、品部の中から必要な部分を「律令制の品部」として残し、特に軍事的に重要なものを「雑戸(ゾウコ)」として制度化します。品部、雑戸は共に良民なのですが、雑戸は品部ほどの自由は無く、世襲の技術をもって朝廷に仕え、職種に応じた特殊な姓を付けられ(例:忍海手人、朝妻金作など)、特別な戸籍(雑戸籍)に編入されていました。奈良時代には何回か雑戸の身分からの解放が行われますが、その技能の世襲は強制されています。。以上の予備知識を持った上で、改めて讃岐寒川の韓鐵師部の一族を見ていくことにします。
神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。
これに予備知識を加えて読み解くと、次のようになります。
①改姓前は韓鐵師毘登(からかぬちのひと)毛人なので、韓半島からの渡来人で、鍛冶技術者集団として寒川郡に定着していたこと。
②火山産の石棺製造には鉄工具が必要であったが、これに韓鐵師部一族が関わっていた可能性
③768年の筑紫の怡土城の築城に寒川郡の韓鐵師部たち127人が出向いて働き、その功績として坂本姓を得たこと
④讃岐の韓鐵師部がわざわざ筑前まで動員されているので、彼らには特別のハイテク技術があり、その専門性を買われてのこと。具体的には築城に使用する金属工具
⑤リーダーの毘登毛人や牛養などは、正八位下の官位をもっていること。
⑥一族127人が改姓していること。この数は、空海の出身氏族の佐伯直氏や智証の因支首氏と比べると各段に多いこと。つまり大きな勢力を持つ一族であったこと。
どうして韓鐵師部から坂本臣に改姓したのでしょうか?
当時の改姓は申請を受けて、それを朝廷が系譜を調査した上で、相応しいと認められた場合に改姓が許されていたこと以前にお話ししました。坂本臣は武内(建内)宿禰の子である紀角(木角)宿禰から出た紀(木)臣の同族とされます。坂本臣は、和泉国坂本郷を本拠として、讃岐国ともかかわりが深かったようです。また、「新撰姓氏録」和泉国皇別には「建内宿禰男紀角宿繭之後也」とあり、紀辛梶(きのからかじ)臣がいます。呼称からも坂本臣の本拠と鍛冶集団との関係がたどれます。そして、佐伯氏が佐伯宿禰に改姓したように、今後の一族のために有利になるような氏姓を選んだ結果が坂本臣だったとしておきます。
実は、坂本臣に改賜姓した「韓鐵氏毘登毛人」と同一人物らしき者が12年後に別の史料に出てきます。宝亀11年(780)成立の『西大寺私財帳記帳』の「田薗山野図」讃岐国二巻には、次のように記します。
「寒川郡盬(塩)山,白施紅、坂本毛人所献、在内印」
ここには寒川郡の製塩用の燃料伐採の用地である塩山(汐木山)を西大寺に坂本毛人が献じたことが記されています。ここに登場する坂本毛人は、12年前に改姓した韓鐵師部の毘登毛人と同一人物である可能性が高いようです。そうだとすれば坂本氏は、製鉄・鍛冶のための山も持っていたようです。
同時に、ここからは寒川郡では西大寺の管理下で製塩が行われていたことが分かります。製塩には濃縮した海水を煮詰めるために最終工程で大量の薪が必要だったことは以前にお話ししました。そのために廻りの山々は、伐採されはげ山化していきます。薪の確保が生産継続の重要な経営ポイントでした。そのために坂本氏が汐木山を西大寺に献上したのでしょう。西大寺と坂本臣の密接な関係がうかがえます。この製塩場の管理や、奈良西大寺までの輸送も坂本臣が担当していたのかもしれません。
先ほど見たように神護景雲2年(768年)に改賜姓した一族は、127人にもなります。ここからは坂本氏が讃岐国寒川郡を拠点として、奈良の西大寺に塩山を寄進するなど相当な勢力をもった集団だったことが分かります。韓鐵師部の毘登毛人は。祖先の渡来から長い月日を経て、本来の鍛治を中心とした生き方から、坂本臣へと改姓し、製塩や瀬戸内海交易へと「事業転換」を測ろうとしていたのかも知れません。
「東讃の代表的な国造系豪族は、凡直(おおしのあたい)氏です。
彼らも791(延暦10)年に凡直千継が改称を申請しています。その時の申請書には次のように記します。
凡直の先祖は星直で敏達天皇の時に国造の業を継ぎ紗抜大押直(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜りました。ところが、庚午年籍の編成時に一部は凡直と記すようになり、星直の子孫は讃岐直と凡直に分かれてしまいました。そこで先祖の業に因んで讃岐公の姓を賜りたい。
この申請が認められ21戸が讃岐公に改姓認可されています。讃岐公氏は中央貴族に転身し、平安時代に明法博士を輩出します。讃岐永直は明法博士となり、836(承和3)年に永成、当世らとともに朝臣姓を賜与されています。讃岐永直は大宝律令の注釈書である『令義解』の編纂にも携わりました。
このように奈良時代になると、讃岐の豪族達の改姓や本貫地の変更申請が次のように数多く見られます。
791 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
864 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
867 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
867 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)
この背景には、郡衙機能が弱体化し「中間搾取」が少なくなり、郡司などの地方役人の役得が大幅に減ったことが背景にあることは以前にお話ししました。彼らは、別の「収入源」の確保に血眼を挙げていたのです。それと世渡りに有利な氏姓への改姓はリンクするようです。
最後に寒川の渡来人・韓鍛冶部がもたらした鍛冶技術とはどんなものだったのでしょうか。
残念ながらそれが分かる史料も考古学的な遺跡もありません。ただ、仏生山の髙松市立病院の「萩前・一本木遺跡」からは、多くの鉄製品などが出土しています。
萩前・一本木遺跡
ここは琴電の仏生山駅の前で農業試験場ほ場内だったところで、直ぐ北側を南海道が通り、古墳時代後期の首長居館や大集落が展開していたことが分かりました。

ここからは次のようなことが分かります。
残念ながらそれが分かる史料も考古学的な遺跡もありません。ただ、仏生山の髙松市立病院の「萩前・一本木遺跡」からは、多くの鉄製品などが出土しています。
萩前・一本木遺跡
ここは琴電の仏生山駅の前で農業試験場ほ場内だったところで、直ぐ北側を南海道が通り、古墳時代後期の首長居館や大集落が展開していたことが分かりました。

萩前・一本木遺跡(仏生山駅南 髙松市立病院)出土の鍛冶製品
ここからは次のようなことが分かります。
①古代の鉄器の種類の豊富さからは、加工用具として重要な役割を持っていたこと。②鉄器なしでは、生産できないものがたくさんあったこと③厚手の鉄塊は、鉄素材として朝鮮半島から持ち込まれ流通していたこと④鉄器のメンテナンスのために砥石が使われていたこと⑤鋳造の際に使用した円礫の鉄床石がでてくる
このような製鉄・鍛冶技術によって生み出された鉄製品が、髙松平野の開拓に使用されたのでしょう。

逆に言うと、このようなハイテク技術者集団を配下に持たない勢力は、取り残されたということになります。 韓鐵師部のような渡来人のハイテク技術者集団を招き入れたり、傘下に置くことが地方の有力豪族にとっては死活問題になってきます。以前に製鉄技術と秦氏・ヤマト政権をめぐる動きを次のようにまとめました。

逆に言うと、このようなハイテク技術者集団を配下に持たない勢力は、取り残されたということになります。 韓鐵師部のような渡来人のハイテク技術者集団を招き入れたり、傘下に置くことが地方の有力豪族にとっては死活問題になってきます。以前に製鉄技術と秦氏・ヤマト政権をめぐる動きを次のようにまとめました。
ヤマト政権は製鉄技術者集団である秦氏を配下に置いて、河内湖周辺の開発を行った。
「秦氏= 韓鐵師部」と考える研究者もいます。そういう視点で、仏生山周辺を見ておきましょう。
史料からは、讃岐の各郡にいたことが分かります。特に濃密なのが髙松平野の香川郡です。
香川郡の遺跡を見ておきましょう。
仏生山の南の万塚古墳群や周辺の後期群集墳は秦氏一族のものと研究者は考えています。また、一宮神社(田村神社)も、もともとは秦氏の氏寺だったとされます。そうすると仏生山駅の前の古墳時代後期の居館跡も秦氏のものと考えるのが自然です。秦氏は、ヤマト政権の傘下で、最新の土木技術や農工具で河内湖の開拓を進めたように、髙松平野の開発を進めたことが見えてきます。それと最初に見た寒川郡の韓鍛冶部の一族127人は、同族意識を持っていたとしておきます。
「秦氏= 韓鐵師部」と考える研究者もいます。そういう視点で、仏生山周辺を見ておきましょう。
史料からは、讃岐の各郡にいたことが分かります。特に濃密なのが髙松平野の香川郡です。
香川郡の遺跡を見ておきましょう。
仏生山の南の万塚古墳群や周辺の後期群集墳は秦氏一族のものと研究者は考えています。また、一宮神社(田村神社)も、もともとは秦氏の氏寺だったとされます。そうすると仏生山駅の前の古墳時代後期の居館跡も秦氏のものと考えるのが自然です。秦氏は、ヤマト政権の傘下で、最新の土木技術や農工具で河内湖の開拓を進めたように、髙松平野の開発を進めたことが見えてきます。それと最初に見た寒川郡の韓鍛冶部の一族127人は、同族意識を持っていたとしておきます。
古墳時代後期の豪族居館
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 村上恭通 古墳時代の鍛冶 最新の研究成果から見た髙松の状況
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