前回は百済救援戦争にむけて地方の評造(元国造)たちが大きな役割を果たしたことを見ました。今回は、その後の白村江の敗北で多くの捕虜が発生し、長い抑留生活を余儀なくされていたことを見ていくことにします。テキストは、「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。
まず白村江への航路を、伊予の越知直氏の体験通じて物語り風にして記しておきます。
越知氏の「大領の先祖」は、一族の軍士たちとともに出陣前に、産土神(大三島?)に武運長久と無事生還を祈願した。生きて帰ることが出来たら産土神のために伽藍を建立することを誓った。そして、準備した船で集結地の筑紫に向けて出港した。軍士たちの家族・親族、「評(後の郡)」の住民のすべてが無事生還を祈って船を見送った。それは『万葉集』防人歌のシーンと同じように「別離の悲歎」が詠い踊られた。その中には、大王の前で出陣前に軍事氏族の大伴氏が詠い、佐伯氏が舞ったという次のような久米歌が演じられたかもしれない。「おおきみ大王のへ辺にこそ死なめ、顧みはせじ」(大伴家持)「今日よりは顧みなくて大王のしこ醜 のみたて御楯と出で立つ我は」(防人歌)船は国宰駐在地(国府)に集合し、他の伊予の評造軍とともに伊予総領に引率されて博多長津宮の大本営に集結した。西日本中心にら同じように国宰に引率された評造軍が続々と集結する博多湾岸には、軍士たちを収容する小屋やテントが建ち並んだ。武器・軍粮の梱包が積み上げられ、湾内には軍船がひしめきあう。陸上では近隣諸国から動員された人夫や炊出しの女性たちがせわしく立ち働き、海浜では激しい戦時訓練が行われていた。
白村江に至る道
天智2(663)年 3 月 全軍が渡海完了して5ヶ月後のことです。半島南部に展開していた日本軍は、唐・新羅の周留城包囲網を打破して、一挙に反転攻勢に出ようとします。そのため全軍が集結して、錦江河口白村江に陣取る唐軍軍船集団に決戦を挑みます。籠城する百済復興軍も日本軍の攻撃に呼応して討って出ました。これが史上名高い「白村江の戦い」です。日本書紀は次のように記します。
*(8 月17日) 賊の将軍(新羅の将軍)は州柔城(百済復興軍の本拠)を囲み、大唐の将軍は軍船 170 艘を率いて白村江に陣取った。*(8 月27日)倭国の軍船うち最初に到着したものと大唐の軍船が出会って戦争に なった。倭国軍は負けて退却して、大唐は守りを固めた。*(8 月28日) 日本の諸々の将軍と百済王豊璋は状況を観ずに、語り合って言った 。「我らが先に戦争を仕掛ければ、彼らは自然と退却するでしょう」と*①倭国軍は統率が乱れながら兵卒を率いて進んだ。大唐軍は陣を硬くして 、左右から船を挟んで囲んで攻めた。須臾之際(あっという間に)、倭国軍は破れた。水に落ちて溺れて死ぬ者が多かった。
②(倭軍の軍船)は舳先と船尾を回旋させることができなかった。朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが戦死した。この時、百済王の豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去った。*(9 月7日) 百済の州柔城(ツヌサシ)が唐に降伏した。
*佐平余自信、立率木素貴子、谷那晋首、憶礼福留と一般人民は弖礼城についた。翌日、船を出して倭へむかった。
中国文献の『旧唐書・劉仁軌伝』は次のように記します。
水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆(倭軍)大潰せり。余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。
8 月27・28 日 日に、倭軍ははじめて唐水軍と対戦し、瞬時のうちに壊滅的敗北をしています。倭軍の兵船 400 艘が焼き払われ、炎と煙が天を焦がし、血と炎で海は朱に染まった。「倭衆は・・一時に並びて降りれりと『旧唐書』は記します。ここからは大量の捕虜が出てきたことが分かります。
両軍の戦力比較
この時の敗因としては、兵力量の差、軍船の大きさの差、兵器体系の差など、いくつもの敗因をあげることができます。
研究者が注目するのは『日本書紀』からうかがえる両軍の命令系統と戦術の差です。バラバラに突進する小型の倭軍兵船は「争先」「乱伍」と表記します。それに対して整然とした鉄壁の陣形で迎え撃ち、囲い込んで殲滅する唐軍巨大兵船(「堅陣」)。ここからは、組織的な訓練を十分に積み、一糸乱れずに動く東軍と、統一的な訓練を受けなかった雑多な編成の日本軍のバラバラな動きが対照的に描かれています。
「②船の舳先と船尾を回旋させることができなかった」という記述からは、倭軍船には舵もなかったことがうかがえます。この戦いを経験した評造たちは、軍事力の編成・訓練システムなどを含めて、倭軍の後進性を躰で味わったことになります。「大東亜戦争」の無謀性を痛感した世代と同じ体験に似ているようにも思えてきます。海に投げ出された何千もの軍士が溺れ死んでいく中で、味方の残存兵船に救出され者もいたようです。しかし、戦場に取り残された多くの軍兵は唐の捕虜となります。
その後、長い抑留生活から帰国できたことがわかる兵士の一覧表を見ていくことにします。
日本書紀には唐・新羅の捕虜となって何年か後に帰国した人々の記事が、天武13年(684)から慶雲四年(707)にかけて四例出てきます。それらを一覧表にしたのが次の表です。
「②船の舳先と船尾を回旋させることができなかった」という記述からは、倭軍船には舵もなかったことがうかがえます。この戦いを経験した評造たちは、軍事力の編成・訓練システムなどを含めて、倭軍の後進性を躰で味わったことになります。「大東亜戦争」の無謀性を痛感した世代と同じ体験に似ているようにも思えてきます。海に投げ出された何千もの軍士が溺れ死んでいく中で、味方の残存兵船に救出され者もいたようです。しかし、戦場に取り残された多くの軍兵は唐の捕虜となります。
その後、長い抑留生活から帰国できたことがわかる兵士の一覧表を見ていくことにします。
日本書紀には唐・新羅の捕虜となって何年か後に帰国した人々の記事が、天武13年(684)から慶雲四年(707)にかけて四例出てきます。それらを一覧表にしたのが次の表です。
捕虜解放され帰国したことが史料に残る動員兵士の氏名と出身地
この表から帰国した指揮官や兵士の本貫地を見てみると次のような情報が読み取れます。
①陸奥・筑後・肥前・備中・備後・讃岐・伊予・土佐で、陸奥・筑紫を除けばすべて西日本地域に集中②特に北九州~瀬戸内の出身者が目立ち、異国での労苦に対して課役の免除など恩典を得ている
ここからは、広範囲に多くの人達が百済救援戦争に動員されていたことが分かります。同時に、讃岐であれば、綾氏や佐伯直氏などの評造(元国造、後の郡司)クラスのメンバーは、ほとんどが従軍したことがうかがえます。
まず⑭の讃岐出身の「錦部刀良(にしこりのとら)について見ておきましょう。(新編丸亀市史)
彼には姓はなく、讃岐国那賀郡の人とのみ記します。錦部氏は百済からの渡来人系氏族で、綾や錦織りの職人として大王に仕えた錦織部(錦部)と関係する人物のようです。刀良の場合は、無姓なので部民だったようです。彼について『続日本紀』巻第三、文武天皇の慶雲4年5月(707年)は次のように記します。
刀良ほか2名に、各(おのおの)衣と塩・穀とを賜ふ。初め百済(くだら)を救ひしとき、官軍利あらず。刀良ら、唐の兵の虜(とりこ)にせられ、没して官戸(奴隷)と作(な)り、?(四十)餘年を歴(へ)て免されぬ。刀良、是に至りて我が使(遣唐使)粟田(あはた)朝臣真人(まひと)らに遇ひて、随ひて帰朝す。その勤苦を憐みて、此の賜有り
意訳変換しておくと
刀良ほか2名に衣と塩・籾を賜った。昔、百済を救うために派兵した。(663年)、官軍は不利で、(刀良たちは)唐軍の捕虜となり、賤民の官戸とされ、四十年あまりを経て、ようやく解放された。刀良はここに至って、わが国の遣唐使粟田朝臣真人らに会い、彼らについて帰朝した。その勤めの苦労を憐んで、この賜り物があった
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日唐国交回復後に、唐に派遣された遣唐使・粟田真人が慶雲元年7月(704年)に唐から帰国した
②その時に白村江で捕虜となった讃岐出身の錦部刀良を伴って帰国した
③刀良は、軍丁(いくさよろず)として、動員され伊予惣領軍に従軍した可能性がある。
④20歳で従軍したとしたら40年近い月日が流れているので60歳だったことになる。
⑤その抑留生活への褒賞は、わずかの衣と塩・穀のみであった。
これが刀良についての記録のすべてです。
前回に「備中国風土記』逸文を紹介しました。そこには、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記していました。
前回に「備中国風土記』逸文を紹介しました。そこには、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記していました。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
ここからはヤマトの大王が現地行幸で、多くの豪族と人民を戦争に徴発したことが伝えられています。
讃岐那珂郡の錦部刀良も、このように動員され多度郡の評造佐伯直氏の配下などで軍丁として行動を共にしていて捕虜となったことが考えられます。
⑱の越知直ら8名については、仏教説話集『日本霊異記』は次のように記します。(要約)
伊予国越智郡の大領(郡司のトップ)の先祖である越智直は白村江の戦いに参加し、唐軍に捕われある島に同族八人とともに抑留された。彼らは観音信仰に目覚め菩薩像に、「舟を造り、帰国できるように」と祈願した。その結果、西風に乗って無事到着することができた。政府が事情を天皇に報告すると、天皇はこれを憐れに思って彼らの願いを聞いた。そこで越智直は新しい郡をつくり、そこを治めたいと申し出た。天皇はこれを許可し、彼を大領に(郡司のトップ)に任じた。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①越智直は大領の先祖とされているので越智郡内の有力豪族で評造であった。
②越智氏は小市国造の系譜をもつので、兵士として参加したのではなく、一族や農民を率いた指揮官として従軍した
③越智氏は「海の民」で紀氏と結びついていたので、水軍兵力として従軍して海戦に参加したこと
④越知氏はもともとは氏神信仰者であったが、捕虜抑留という危機打開のために仏教に加護を求めた。
⑤そのため越智郡の支配維持・再編のためのシンボルとして仏教寺院を建立したこと。
越智直の「直」とは、善通寺の佐伯直と同じで、地方豪族に与えられることの多かった姓です。
越智氏は、伊予五国造の小市氏以来の在地豪族で、その後も「郡司、大領従八位上越智直広国」(天平八年〈738〉伊予国正税帳)など、後に郡司を世襲していることが分かります。ここに出てくる主人公は、その先祖にあたりるようです。越智氏は高縄半島とその周辺一帯の島嶼部を勢力エリアとしていました。天武政権で国県制から律令的国郡制への移行が進む中で、帰国した越知直を新しく設置した越智郡の大領に任じたことになります。

越智氏は、伊予五国造の小市氏以来の在地豪族で、その後も「郡司、大領従八位上越智直広国」(天平八年〈738〉伊予国正税帳)など、後に郡司を世襲していることが分かります。ここに出てくる主人公は、その先祖にあたりるようです。越智氏は高縄半島とその周辺一帯の島嶼部を勢力エリアとしていました。天武政権で国県制から律令的国郡制への移行が進む中で、帰国した越知直を新しく設置した越智郡の大領に任じたことになります。

越知直が無事に帰国できたのは、観音像を信仰したご利益のためだったと『日本霊異記』は説きます。
観音さまは、災難を除いて幸福を招くという典型的な仏です。このように『日本霊異記』には、郡司たちの仏教信心の話が数多く入っています。その中でも氏寺を建立する例が多いようです。当時は、郡司達は争って氏寺を建立していた時期で、白鳳瓦を屋根に乗せて輝く伽藍が地方にも姿を見せ始めた頃になります。これは古墳時代の前方後円墳と同じく支配者のシンボルモニュメントでもありました。新たなモニュメントは、過去の神話から脱皮して新しい支配権を確立するための装置として機能します。こうして地方でも仏教導入が進んで行きます。その契機が越知氏の場合は、他国での戦争捕虜と抑留生活という苦難の中で手にしたものだされます。どちらにしても、越知直の体験や功績は、白村江の敗北 → 唐での抑留生活 → 帰国と越智郡設立 → 氏寺建立として伝えられ、それが先祖の功績顕彰するために、氏寺の縁起として伝えたものなのでしょう。それが『日本霊異記』に載せられたとしておきます。
観音さまは、災難を除いて幸福を招くという典型的な仏です。このように『日本霊異記』には、郡司たちの仏教信心の話が数多く入っています。その中でも氏寺を建立する例が多いようです。当時は、郡司達は争って氏寺を建立していた時期で、白鳳瓦を屋根に乗せて輝く伽藍が地方にも姿を見せ始めた頃になります。これは古墳時代の前方後円墳と同じく支配者のシンボルモニュメントでもありました。新たなモニュメントは、過去の神話から脱皮して新しい支配権を確立するための装置として機能します。こうして地方でも仏教導入が進んで行きます。その契機が越知氏の場合は、他国での戦争捕虜と抑留生活という苦難の中で手にしたものだされます。どちらにしても、越知直の体験や功績は、白村江の敗北 → 唐での抑留生活 → 帰国と越智郡設立 → 氏寺建立として伝えられ、それが先祖の功績顕彰するために、氏寺の縁起として伝えたものなのでしょう。それが『日本霊異記』に載せられたとしておきます。
白村江の敗北という巨大な危機感は、「倭から日本へ」の政治革新エネルギーへと昇華されていきます。それが古代律令体制を産み出す原動力になったと研究者は考えています。地方では地方行政機構が革新され、国郡里(郷)制へと変化していくことになります。集団で捕虜生活を送った越知氏一族は、唐の巨大さと先進性を自分の目で見て帰ってきたのです。ヤマト政権の進める次のような戦後政策を理解し、支持する心の準備ができていたでしょう
①瀬戸内海防備のための朝鮮式山城の建設など防備体制強化
②軍団移動のための大道建設(南海道整備)
③進んだ文化・技術を導入するための渡来人の積極的な受入
④大量の人民徴兵のための個別人身支配体制(戸籍制度+土地制度整備)
⑤自らが郡司に就任し、郡衙などの施設を建設し政府の新政策を地方で担う心構え
⑥新文化の象徴である仏教信仰と、ステイタスシンボルとしての氏寺建立
身を以て敗戦体験をした評造たちは「新国家の建設」にむけて、これらの新政策の実現に向けて協力したとも考えられます。我が国の戦後民主主義が、悲惨な戦争教訓の上に立って推し進められたことを思い出させます。私は元国造であった綾氏や佐伯直氏も百済救援戦争に従軍し、敗戦を体験していると考えています。
総勢数万におよぶ軍団は「官費支給兵(GI)ではありませんでした。食糧から武具まで兵士自弁兵でした。そのため兵士を徴発された地域にも大きな負担となったはずです。そのことがそれまでの氏族的支配を動揺させ、新たな律令的支配を受容せざるをえない状況をつくりあげていったと研究者は考えています。ここでは、白村江の敗北は、九州だけでなく、瀬戸内海一円の国々において律令制国家を作り出していくプラス要因として働いたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
愛媛県史 越智直・日下部猴之子最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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