讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明 長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門
この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。
松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門
この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
二天門 多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。
ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。
これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。
土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。
金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)
しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。
土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。
金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)
しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日
そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか?②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと
この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明 長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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