瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金毘羅信仰と琴平 > 金毘羅大権現形成史


1 金毘羅 賢木門狛犬1
元親が寄進した賢木門(逆木門) 長宗我部元親の一夜門とされる

讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」

2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
 松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門

この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。

2-18 二天門
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
 二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。

ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。

長宗我部元親と二天門 讃岐国名勝図会
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。
 これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。
 元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。
 ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
 こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。
 元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。
 そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。

これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。

土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
   金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)

しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
二天門棟札 長宗我部元親
長宗我部元親の仁王堂棟札

仁王堂建立の根本史料である棟札の写しがあるので、みておきましょう。表(右側)中央に、次のようにあります。

上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日

そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
  ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか? 
②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。

長宗我部元親 讃岐国名勝図会
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
 この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと

この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
 これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
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 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。



 金毘羅神は近世始めに、西長尾城主の長尾氏出身の宥雅によって、生み出された流行神です。
土佐の長宗我部元親の侵攻の際に宥雅は堺に亡命します。無住となった松尾寺伽藍を元親は、土佐の有力修験者であった南光院(宥厳)に与えて、讃岐支配のための拠点宗教施設にしようとします。元親撤退後も宥厳とその弟子であった宥盛は、金比羅を「修験道=天狗道」の拠点にしていきます。その信仰の中心に据えたのが「金毘羅神」です。中心施設も松尾寺の本堂から「金毘羅堂」へ移っていきます。それまでの本堂観音堂の場所に、金比羅堂が移築拡張されます。それが現在の本殿になります。そして、金比羅神を祀る神社としての金毘羅大権現、その別当寺としての松尾寺という関係が生まれます。この時期には、多くの有力修験者がいて、子院を形成していたようです。その中で最も有力になっていくのが金光院です。宥盛の時代に金光院は、生駒家の力を背景に、その他の子院や三十番社などの宗教勢力と抗争を繰り返しながら、金毘羅における支配権を握っていくことは以前にお話ししました。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗・烏天狗 

このように近世初めの金毘羅は、権力者(長宗我部元親や生駒親正)の保護を受けた有力修験者によって「天狗道の聖地」として形成されたようです。「海の神様」というのは、近世末になって云われ出したことです。金毘羅は、崇徳上皇が天狗となって棲む白峰寺と同じような天狗たちの住処と世間では思われていたことを押さえておきます。
 こうして、「天狗道のメッカ」である金比羅には全国から数多くの天狗(修験者)たちが修行にやってきます。それを育成保護し、組織化したのが金光院宥盛です。彼の下からは有力な修験道の指導者が沢山生まれています。


佐川盆地周辺の城跡
仁淀川と佐川・越知周辺の中世古城跡
 その中に、後に多聞院を開く片岡熊野助がいました。
今回は、この片岡熊野助(初代多聞院)を見ていきたいと思います。
彼の出自については前回見たように、土佐の仁淀川中流域の片岡や黒川を拠点に活動していた国人武将の片岡氏の一族です。

片岡氏 片岡
仁淀川中流の片岡周辺

 『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱(親光)が佐川盆地周辺の実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。 片岡氏は長宗我部元親に帰順することで、佐川盆地の支配権を手に入れ勢力を拡大していきます。
この時期が片岡家にとっての「全盛期」になるようで、片岡一族も長宗我部元親に従って四国平定戦に活躍しています。 そんな中で熊野助は、片岡氏の分家一族である片岡直親の子として、天正14(1586)年に父徳光城で生まれています。
  「南路志」南片岡村の片岡氏系図には、当時の片岡家の棟梁は、熊野助の父の伯父である親光と記します。そして親光の父直光は、長宗我部元親の叔母を妻に迎えています。婚姻関係から見ても、片岡家は長曾我部氏と深いつながりがあったようです。
 ところが四国平定戦の最終局面になって、片岡家には不幸が重なります。
片岡家の棟梁・親光が伊予遠征中に秀吉軍と戦い戦死します。さらに翌年には熊野助の父が、秀吉の九州平定に動員された長宗我部軍として豊後に遠征します。この時の島津軍と戸次川の戦いは、「四国武将の墓場」と言われた戦いで、島津軍の巧妙な戦術で多くの讃岐武将たちも命を落としています。熊野助の父も戦死します。熊野助は、生まれてすぐに一族の棟梁と父を亡くしたようです。その後、片岡家がどのように運営されたのかはよく分かりません。
 転機はそれから14年後の1600年の関ヶ原の戦いです。
長宗我部氏が領地没収となった後に入国するのが、山内氏です。これに対して、旧長宗我部の家臣団や国人武将達は、激しい抵抗を見せます。しかし、これも山内氏によって押さえ込まれていきます。このような中で14歳になっていた熊野助は、どんな道を選んだのでしょうか。
『吾川村史』は、次のように記します。
「熊野助は慶長5(1600)年の山内氏入国後 (中略)
松山へ逃れ、更に仏門に入って、讃岐金比羅別当寺(宥盛)に弟子入りする。大坂夏の陣の際に還俗して片岡民部と名乗り豊臣方へ参戦。生き永らえた彼は、上八川(現伊野町)へ逃げ帰った。その後(略)下八川深瀬で、祈祷師として身をかくし、17年の歳月を隠忍した」
ここには記されていることを補足・要約しておきます。
①関ヶ原の戦い後に、14歳の熊野助は仏門に入り、金毘羅の金光院宥盛に弟子入りしたこと
②そこで宥盛のもとで修験者として「天狗道」や武術を身につけたこと
③1615年に大坂夏の陣が起きると、長宗我部一統と連絡を取り合っていた多聞院は、還俗して片岡民部と名乗り大阪城に入り豊臣方として参戦
④戦後は土佐八川深瀬に祈祷師(修験者)として、17年間潜伏。
⑤1632年に、土佐藩主二代・山内忠義の許可を得て、ふたたび金光院に復帰。
⑤の経緯を『讃州多聞院流片岡家由緒』は、次のように記します。
「宥盛の後を嗣いだ宥睨より、金光院の門外である小坂の地に宏大な宅地を賜わり、なお宥盛より竜樹作の多聞天像を与えられていたほどの愛弟子であったため多聞院と号することとなった。万治二年(1659)4月2日、74歳で逝去した。」

しかし、この史料に対して③④⑤については何も触れていない史料もあります。
多聞院の後世の院主が残した「古老伝旧記」には、次のように記されています。
多聞院元祖片岡熊之助、当地罷越金剛坊宥盛法印之御弟子に罷成、神護院一代之住職も相勤候、其後宥盛法印之御袈裟筋修験相続之事、慶長年中訳有伊予罷越、本国に付土佐国へ帰参、寛永八年宥現法印より使僧を以、土州僧録常通寺と申へ国暇之義被申入候て、則首尾能埓明、当地へ引越、元祖多聞院宥醒法印、寛永八年間十月、土州役人中連判之手形迂今所持候也、当地へ着、新ん坊と申に当分住居、追て唯今之屋敷宥睨法印より御普請有之被下、数代住居不相更代々当地之仕置役相勤候事、具成義別紙に記有之也、
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
意訳変換しておくと
 多聞院元祖の片岡熊之助が当地金比羅にやってきて金剛坊宥盛法印の弟子になった。そして、神護院の一代住職として相勤め、その後は宥盛法印の袈裟筋の修験を相続した。そのような中で、慶長年間に訳あって伊予へ行き、その後本国の土佐国へ帰参した。これに対して宥盛の跡を継いだ宥睨は、寛永8(1631)に使僧を派遣して、土州僧録常通寺へ申し出て、讃岐金毘羅への帰山を申し入れた所、首尾よく受けいれられた。そこで、熊野助は金比羅へ再度やって来ることになった。こうして、熊野助は元祖多聞院宥醒法印と称し、寛永八年間10月、土州の役人から連判手形の発行を受けた上で当地へやってきて、しばらくは新ん坊と呼ばれて生活した。その後、今の屋敷を宥睨法印より新たに普請し与えられた。この屋敷は、数代に渡って代わることなく多聞院が代々に渡って当地の仕置役を相勤ていることは、別紙にも記した通りである。
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
古老伝旧記には、次のことは何も触れられていません
①大阪夏の陣に参戦したこと
②敗戦後に土佐八川で潜伏生活を17年送ったこと
③土佐藩主と親密な関係があったこと
29歳の熊野助が大坂夏の陣に参戦したのかどうかは、分からなくなります。多聞院の子孫にとって、先祖が徳川方と戦ったということを秘めておいた方が無難だと判断したので「訳あって」とぼかしているのかも知れません。しかし、土佐からの帰讃手順については具体的でリアルです。どうとも云えないようです。これについては、置いておくことにして、その他について見ていくことにします。
まず①の熊野助が金毘羅にやって来たのは、どうしてなのでしょうか?
仁淀川上・中流域は、橫倉山を中心に修験者の活動が活発なエリアであったことは以前にお話ししました。そのため有力武将の一族からは、修験者となって指導的な地位についていた者がいたことが史料からもうかがえます。長宗我部元親は、そのブレーンや右筆に修験者たちを組織して使っていたと云われます。彼らは修験者として、四国の聖地や行場を「行道」し修行を積んでいて、四国各地の交通路やさまざまな情報にも通じていました。これは「隠密」としては最適な条件を備えています。
 片岡家の一族の中にも修験者がいたはずです。そんな中で熊野助の今後を考えると、義経が鞍馬寺に預けられ、鞍馬天狗に鍛えられたように、どこかの修験者に預けて一族の再興を願ったことが考えられます。また、金毘羅の松尾寺は土佐出身の南光院(宥厳)が金光院院主として支配していました。宥厳は、幡多郡の修験者を束ねるほどの存在でもあったことは、以前にお話ししました。また、その弟子である宥盛も修験者としては、名声を得るようになっていました。そこで、片岡家の熊野助は、金毘羅金光院にの宥盛に弟子入りすることになったと私は考えています。

②については、金毘羅にやってきた熊野助が、宥盛から何を学んだのかということです。
 師の宥盛は、指導力や育成力もあったようで、全国から彼の下に修験者が集まってきています。そして有能と認めれば「採用・雇用」し、様々なポストも与えています。そのような中でも、熊野助は有能であったようです。そのために、土佐に身を置いていた熊野助は、後に呼び戻されたとしておきましょう。
  
 片岡氏 八川
仁淀川支流の八川深瀬

④大阪籠城戦後に、土佐の八川深瀬に祈祷師(祈祷師)として潜伏したとあります。
前回に見たように片岡氏の拠点は、仁淀川中流域の片岡や黑嶋でした。八川は、その周辺エリアになります。つまり、熊野助は幼年期を過ごした仁淀川中流流域エリアに帰ってきて、山伏として隠れ住んでいたことになります。もしそうなら、それを周囲の山伏たちや住民も知りながら、山内藩に密告することなく守り続けたことになります。

江戸時代後期にまとめられた『南路志』の吾川郡下八川村の条に、片岡家が篤く信仰していた正八幡社には、次のように記されています。
「金幣一振 讃州金毘羅多聞院寄進」
「十二社東宮大明神 右八幡同座弊一振 多聞院寄進」
ここからは、金毘羅の多聞院が下八川村の正八幡社に奉納品を送り続けたいたことが分かります。その背景には、片岡家の出身地であり、金毘羅から帰国した熊野助の活動拠点でもあったのではないかとも考えられます。
それを裏付けるのが、多聞院由緒書の次の記述です
「(範清は)寛永六年四月一日、土佐吾川郡下八川深瀬に誕生」

範清とは、熊野助の実子です。ここからは、潜伏中の熊野助は、下八川深瀬に潜伏し、妻子がいたことが分かります。多聞院の子孫は、先祖の霊に祈るために金幣を寄付していたようです。ちなみに、下八川の氏子達は、今でも「片岡さま」と呼び、なにかと話題が語り継がれていると報告されています。また、片岡家の墓参りをする人もいるようです。
⑤については、山内藩の2代藩主・山内忠義から厚い信頼を熊野助は受けるようになっていたようです。
 藩主や家臣のために祈祷を行うと共に、藩内での配札も許されていたと云います。17年間の潜伏布教活動で、周辺の有力者の信仰を集めると共に、藩主からも信頼を得る存在になっていたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の史料だとされます。
①山内家二代忠義公から熊野助宛の二通の手紙が、片岡家の宝として保存されていること
②寛文頃の桂井素庵の日記には、土佐で滞在する多聞院が、土地の名士と交わっている様子が記録されていること
③「南路志」には、元禄七年の「口上之覚」には、土佐の修験で山内公にお目通りができるのは、金毘羅の多聞院だけとかかれていること
   ここからは、多聞院が金毘羅で要職を務めながらも、土佐山内藩においても藩主の保護を受けて、修験者として大きな力を持っていたことがうかがえます。しかし、その背景に何があったのかはよく分からないようです。どちらにしても、土佐の金毘羅信仰は、多聞院によってこの時期に土佐に持ち込まれたという仮説は立てられそうです。ところが実際にそれを史料裏付けようとすると、なかなかうまくマッチングしません。
片岡家のかつての拠点である仁淀川中流域に、全毘羅信仰が定着したがいつころなのかを追ってみます。
16世紀末の「長宗我部地検帳』には、金毘羅信仰を示す堂社は一つもありません。また江戸時代中期の『土佐州郡志』には、吾川村と高岡郡東分をあわせても、山奥の「用居村」(現・仁淀川町)の条に、「金毘羅堂 在船方村」がひとつあるだけです。さらに、江戸時代後期になっても『南路志』の用居村に、「金毘羅 舟形 木仏 祭礼三月十日」とあって、この時期になっても吾川郡では、ここしか金毘羅はありません。
 ところが昭和6年刊行の竹崎五郎著『高知県神社誌』には、用居集落を含めた池川町には琴平神社が五つあります。周辺で、これほどまとまって琴平神社があるところはありません。池川町は、多聞院ゆかりの下八川方面からは、西へ峠を一つ越えた所になります。
 以上からは、多聞院が江戸時代から自分の出里に金毘羅信仰を広げようとした形跡をみつけることはできません。これは今後の課題としておきましょう。

最後に見ておきたいのが仁淀川流域の修験者を廻る宗教情勢の変化です。
江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、当山派は衰退の道を歩み幕末には土佐から姿を消す事になります。熊野助が属したのは、師宥盛から伝えられた醍醐寺の当山派でした。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。全国の行場を渡り歩く事が出来なくなった修験者は、各派の寺院に所属登録されます。村や街につながれた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになっていきます。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。そのような中で、八川深瀬に潜伏していたのが熊野助だったといえるのかもしれません。

橫倉山
 仁淀川から見る橫倉山

仁淀川中流の修験者の聖地は横倉山です。
安徳天皇伝説が伝える「阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」というのは、いざなぎ流修験道の活動ルートでした。行政的には、「物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町」になるこのルートは、いざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかと私は考えています。そして彼らは醍醐寺に属する「当山派」で、山内藩においては冷遇・圧迫される立場でした。そのため横倉山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。しかし、この山から修験者の姿は消え、後にはこの山が修験の山であったことまで忘れられていきます。熊野助も当山派に身を置く修験者でした。そのような中で、宥盛の後を継いだ院主から「金比羅の修験道について、お前にはまかせるのでやって来ないか」という誘いを受けて応じたと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
連記事
 

 「町史こんぴら」の金毘羅宮の歴史を見ていると、多聞院のことがよく出でてきます。近世の金比羅は、金光院が宗教的領主として支配する幕府の朱印地でした。その意味では金光院院主は、僧侶であると同時に、お殿様でもあったことになります。そして、NO2の地位にあったのが多聞院のようです。
多聞院については、次のようなことが云われています。
①初代金光院院主の宥盛の弟子として、信頼を得ていた片岡熊野助が多聞院初代である。
②片岡熊野助は、長宗我部元親に仕えた土佐の国人武将・片岡家出身である。
③片岡熊野助は、大坂夏の陣の際には還俗して大阪城に入り豊臣方について戦った。
④戦後に土佐に隠れ住み、修験者や祈祷などで生活していた。
⑤隠密生活から17年後に、土佐藩主から赦され、金毘羅に復帰し、多聞院初代となった。

このように片岡熊野助(多聞院)は、若くして宥盛に弟子入りして、修行に励み、その信頼を得て多聞院を宥盛から名告ることを許されます。この多聞院は、金光院に仕える子院の中でも特別な存在で、金毘羅の行政にも大きな影響力を行使しています。そして、江戸期を通じて全国からやってくる天狗道信者の統括・保護や、金毘羅信仰の流布などに関わっています。今回は、この多聞院初代の片岡熊野助の出身地と、片岡氏について見ていくことにします。
テキストは、「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

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仁淀川から見た片岡(越知町)

片岡氏の最初の拠点は、仁淀川中流の越知町片岡にあったようです。
仁淀川は、今では「仁淀ブルー」で、有名になりラフテングや川下りのツアーも行われるようになりました。「永遠のカヌー初心者」である私が川下りを楽しんでいた頃は、ほとんど人に会うことがない静かな川でした。1年に一度は、越知中学校前の沈下橋からスタートして、V字に切れ込む谷を浅野沈下橋・片岡沈下橋を経てあいの里まで、のんびりと下っていました。

DSC08089
上流から見た片岡と沈下橋
その中でも片岡は、沈下橋とともに絵になる光景が拡がり、上陸して集落をよく散策していました。なになく雰囲気のある集落だという印象を持っています。後でもお話ししますが、仁淀川は中世から越知や支流の柳瀬川を通じて川船が遡り、河川交通が盛んに行われた川だったようです。今では、時代の中に置き去りにされたような片岡集落も、かつては川船の寄港する川港として賑わいを見せていたようです。
DSC08090
片岡沈下橋
 この地が片岡氏のスタート地点だったようです。
『片岡物語』には、片岡氏の由来を次のように記します。(現代語要約)

片岡氏 片岡
片岡周辺と法厳城跡

①平家の減亡後に別府氏のもとに身をよせていた坂東大郎経繁が、この地域の土豪矢野和泉守俊武を討って吾川山庄を手中におさめ、出身地上野国の荘片岡の地名をつけた。
②その後、南北朝時代には経繁の子孫である経義・直嗣の兄弟が北朝方として活動した。
③室町前期には片岡直之が黒岩郷代官を務め、その跡を嗣いだ直綱は柴尾城に拠って勢力を拡大した。
④文明16年(1484)に、直光が継ぐと柴尾城を廃して、その上流に黒岩城を築いて拠点とした。
④永正17年(1520)に直光の後をついだ茂光は、翌年の大永元(1531)年に徳光城下にあった台住寺を黒岩城西方の山麓に移して累代の蓄提をとむらう一方、越知に支城清水城を設けて以北の守りとした。
 ここからは、片岡氏が片岡を拠点に勢力を蓄えて、「片岡(宝厳城 → 柴尾城 → 黒岩城」と仁井淀川を遡り、その支流である柳瀬川流域の黒岩方面に勢力をのばそうとしていたことがうかがえます。さらに柳瀬川を遡り南方に進むと豊かな佐川盆地です。ここを片岡氏は目指します。
佐川盆地周辺の城跡
佐川盆地周辺の城跡


しかし、この頃の佐川城(のちに松尾城と改称)には、三野氏(のち中村氏を称す)が拠点を置いていました。さらに
佐川盆地一帯を見渡してみると
①南部の斗賀野城には米森氏
②西部の尾川城には近沢氏
③黒岩城との中間庄田には中山氏
が割拠して、蓮池城主大平氏のもとに属しています。
このような中で天文15年(1546)に、中村の一条氏が大平氏を滅して高岡郡に進出してきます。すると、佐川盆地の国人たちの多くは、一条氏の勢力圏下に組み込まれていきます。これに対して、永隷6年(1562)になると、長宗我部氏が仁淀川東岸の吉良域を奪取して、西進してきます。この結果、仁淀川西岸以西を勢力圏とする一条氏と長宗我部元親は、佐川盆地をめぐって対峙するようになます。

 元亀元年(1570)になると、長宗我部元親は一気に佐川盆地の攻略を進め、片岡氏を初めとする佐川盆地の国人たちはその軍門に下ります。佐川盆地平定後、元親は佐川盆地に重臣の久武内蔵助親直を入れています。久武氏は石ノ尾城(佐川城)を修築して、ここを佐川盆地支配の拠点とします。この際に、黒岩城主の片岡光綱は、それまでの本領を安堵されます。
 元親は、佐川盆地制圧4年後の天正3年(1574)に、公家大名一条氏を征服し、翌年には甲浦城を攻略して土佐一国を統一します。そして四国制覇にのりだしていきます。元親傘下に入った片岡氏以下の佐川盆地の国人たちも、これに従って四国各地に出陣することになります。そして、天正13(1584)年に片岡光綱は、遠征中の伊予国金子陣で戦死します。この年に長宗我部元親は秀吉に降って、土佐一国のみを安堵され、翌年1585年には秀吉の九州征伐に従軍させられます。この時に薩摩島津氏と戦った豊後戸次川の戦いは「四国武将の墓墓」とも云われ、多くの四国の武将が戦死します。片岡光網の子光政(一説甥)も、ここで亡くなっています。片岡氏は連続して、当主を失ったことになります。
 この前後に生まれたのが後の金毘羅の多聞院(幼名片岡熊野助)です。熊野助が生まれたときには、片岡氏は、佐川盆地周辺の有力国人であったことを押さえておきます。

片岡氏がこの地域で大きな勢力を持っていたことを見ておきましょう。
 その所領を示す「片岡分」が高岡・吾川両郡の北部山地から中部丘陵地帯にかけて千町歩余りが『地検帳』に登録されています。その本拠である黒岩城そのものは、検地の対象外とされたようで『地検帳』に記されていませんが、黒岩古城については、次のように記されています。
黒岩古城詰門外タン共二           同(黒岩村)次良大夫居
一 (所)壱反拾七代一分   下屋敷   同じ(片岡分)
ここからは天正18(1590)年に検地が行われた時には、このエリアが古城と呼ばれる廃城になっていたことが分かります。

片岡氏 黒岩城周辺
黒岩城周辺 南を流れるのが仁淀川支流の柳瀬川

この黒岩は現在では黒岩小学校敷地となって、わずかに土塁の一部を残しているだけです。

片岡氏 黒岩居館跡
黒岩城周辺の土地割

 明治前期の地籍図からは、小字「黒岩」の北部にその居館遺構があったことが分かります。その規模は東西南北の最大幅約70mです。これが片岡氏の居館跡と研究者は考えています。
これを裏付けるのが『地検帳』で、黒岩古城(居館跡)について次のように記します。
片岡氏 黒岩地検帳1

ここからは、このエリアが片岡分の「御土居=居館跡」であると記されています。その背後には給主片岡右近が居住する総面積一反四一代一分の屋敷が、またその南には片岡右近に給された総面積四三代一分の屋敷があったことが記されています。この「御土居」が、検地の時点での片岡氏の本拠である居館と研究者は指摘します。
 
『地検帳』は、その他にも片岡氏が多くの土地や要衝の地を手にしていたことを示します。佐川盆地から高知平野に向う出入口にあたる日下川上流河谷の加茂永竹村にの大谷土居ヤシキ(片岡治部給、主居)を片岡分としています。
片岡氏 三野古城跡
三野古城(居館跡)
また、三野古市については次のように記されています。
片岡氏 地検帳2


ここからは、佐川盆地中央部の西佐川にあった三野氏の居城が片岡氏のものになったことが分かります。また、長宗我部氏に亡ぼされた米森氏の居城があった斗賀野も、片岡分に編入されていたことが記されています。
以上を整理して、研究者は次のように指摘します。
「元亀元年に長宗我部氏の軍門に下った片岡氏が、その居城である黒岩城は廃城化されたものの、その東方に「御土居」を構えて本領を安堵されたうえ、さらに佐川盆地中央部や日下川上流河谷にも所領を拡大して、かつてそれぞれの地区を基盤に成長してきた小領主の上居をも支配するようになった。換言すれば、片岡氏は長宗我部氏に降ることによって、かつては片岡氏と措抗する小領主の支配下にあった佐川盆地中央部などへも進出して、この地域最大の地域的領主にまで成長し、長宗我部氏による領国支配の一環を構成するようになった。
『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱が佐川盆地実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。
それでは、佐川エリアに配された久武氏との関係はどうなるのでしょうか。
久武氏は元親の厚い信任を受けていた重臣で、伊予攻略では軍総代に任じられている有力武将です。しかし、『佐川郷地検帳』には、その所領は約4町歩しかありません、ここから研究者は、久武氏の佐川城は片岡氏に対する目付的な機能をもっていたにすぎないと推測します。
長宗我部氏の地域的領主としての地位を片岡氏が握るようになって、発展するのが「黒岩新町」だと研究者は推測します。
片岡氏は長宗我部氏に下ることによって、その居城である黒岩城は廃城になり、封建領主としての独立性は失われます。しかし、その代償として、佐川盆地とその隣接地域の多くを片岡氏は所領に組み込んでいきます。そして、地域的領主としての地位とそれを支える経済基盤を拡大します。こうして片岡氏は、それまで佐川盆地中央部の永野や沖野で開かれていた市場機能を、自らの居館「御土居」のある黒岩新町に吸収統合して、地域の経済的な中心にしようとしたと研究者は推測します。これを裏付ける直接的な史料はないようです。

 片岡氏盛期の黒岩城下が賑わっていたことは、『片岡盛衰記』に次のように記されています。
「今の本村は帯屋町とて南北一筋の町あり、中にも和泉屋勘兵衛とて茶屋あり、其時代は他国入込にて、大坂より遊女杯数多下り、新居浜(仁淀川河口)迄舟通いければ、夜毎にうたいさかもり殊の外賑々しく今に茶園堂と申伝候」
 
意訳変換しておくと
「今の本村は帯屋町と呼ばれて南北一筋の町で、その中には和泉屋勘兵衛の茶屋があった。ここに他国から多くの人々がやって来た。大坂から遊女も数多く下ってきて、新居浜(仁淀川河口)まで川舟が通行していたので、夜毎に宴会が開かれ、謡いや酒盛り開かれ賑々しかった。これが今の茶園堂と伝えられている。

ここからは、佐川までは川船が運航していて「本村」は、その川港として大いに賑わっていたことがうかがえます。
それでは、ここに出てくる「本村」とは、どこのことなのでしょうか
『佐川郷史』は、最初に見た仁井淀川北岸の片岡本村の宝厳城下のこととしています。しかし、先ほど見たように仁淀川が深いV字谷を刻んで東流していて、その北岸には河道に沿った狭い場所があるだけです。「南北一筋の町」が立地するスペースはありません。
そこで研究者は、本村とは黒岩城下について記したものと推察します。
この黒着新町(本町)も、片岡氏の最盛期を築き上げた光網・光政が相次いで戦死した後に作成された『地検帳』検地段階にはやや衰退に向っていたようです。地検帳には町並の南端で、六筆の屋敷地が耕地化され、一筆は空屋敷になっていたことを伝えます。片岡氏の最盛期には、黒岩新町は仁淀川水運を通して、大阪からの遊女たちも多数やって来て賑わいを見せる広域的な川港でした。それが片岡氏の衰退とともにその地位を失い、「大道」をつなぐ周辺の領域内だけの流通エリアをもつ「地方的中心集落」に転化していきます。黒岩新町の衰退は、広い意味では、当時進行しつつあった長宗我部氏の新城下町大高坂建設と密接に結びついていたと研究者は指摘します。
 市場集落の近世化と新設域下町の登場は、地域経済に大きな影響を与えます。小商圏の中心である各地域の市が、大高坂城下町の建設で、その一部分を吸収されていきます。それは、現在の市町の商店街がスロート現象で、県庁所在地などの都市圏に吸い上げられ、衰退化していったのと似ているようにも思えます。
 このように黒岩新町も、江戸時代に入ると急速に衰退し、一面の水田と化してしまいます。
その時期や経過については、よく分かりません。しかし、山内氏入国後の佐川と越知の発達が、黒岩新町の衰退要因のと研究者は考えています。長宗我部氏によって佐川城主に任じられた久武氏がその城下に新市を開設したことは、『佐川郷地検帳』に、次のようになることから裏付けられます。
新市                    本田村
一 (所)弐反弐拾代 出弐反拾四代三歩才下   久武内蔵助給
ここには、「新市」が本田村に作られたことが記されています。この佐川の「新市」は、片岡氏が大きな力を持っていた時には、黒岩新町には適いませんでした。ところが、慶長5年(1600)年の関ケ原合戦後に、長宗我部氏が領国を没収されてその後に山内一豊が入国します。その翌年には一豊の国老格をもって呼ばれた深尾重良が佐川郷一万石の領主として佐川城に入ります。このとき、黒岩村は藩主山内氏の直轄地として深尾氏の領地でした。深尾氏がその城下に現在の佐川町中心市街の前身となる町場を建設した際に、黒岩新町はこの町場に吸収されます。それ以後は佐川が佐川盆地唯一の町場として発達するようになります。
 なお、越知の発達は佐川よりもやや遅れます。
17世紀中葉に推進された土佐藩の殖産興業政策の一環として、仁淀川流域の林産物開発が進められます。その輸送のために仁淀川水運の整備が行なわれた際に、その拠点として町立てが行なわれたのが越知のようです。

以上、戦国時代の片岡氏についてまとめておきます。
①片岡氏は、仁淀川中流の片岡を拠点に、上流に向かって勢力を伸ばし、居城を移して行った。
②戦国時代には、上流の黑嶋に居館を構え、佐川につながる河川交易ルートを押さえて勢力を拡大した。
③片岡氏は長宗我部元親と一条氏の抗争では、長宗我部方の付いて佐川盆地における勢力拡大に成功した。
④その後、片岡氏は長宗我部元親の四国平定戦に従軍し活躍したが、当主を伊予の戦いで亡くした。
⑤また、秀吉の九州平定にも長宗我部軍の一隊として参加し、戸次川の戦いで当主を亡くした。
⑤片岡熊野助が生まれたのは、このような時期で片岡家が長宗我部支配下の国人武将として活動し、その居館のある黑嶋が大いに賑わっていた時期でもあった。

この後、関ヶ原の戦いで豊臣方に付いた長宗我部氏は土佐を没収され、家臣団は離散します。代わって山内氏が新たな領主としてやってきて、長宗我部に仕えていた旧勢力と各地で衝突を繰り返します。このような中で、14歳になっていた片岡熊野助は、土佐を離れ出家し金毘羅にやってきます。そして、金光院宥盛に弟子入りして、修験者としての道を歩み始めるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
DSC03293
金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

DSC03290
天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

DSC03291
      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

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安井金毘羅宮

京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
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しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
 安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
 今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明  崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  ことひら53 H10年」です。
7 安井金毘羅神社jpg

 安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
 崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
 保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
 讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた
「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
7崇徳上皇天狗

これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
謡曲「松山天狗」の舞台は,崇徳上皇が亡くなった讃岐の綾の松山(現坂出市),白峯です。崇徳上皇と親しかった西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。

7 崇徳上皇松山天狗
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。

よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。
 ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」
との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。
院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。
こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。
  やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてきます。
7 崇徳上皇相模坊大権現
模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像

「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。

安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。

意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという

ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。

奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。

と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。

と、馬琴は崇徳帝と金毘羅権現を同一とする考えに賛意を表しています。
7 崇徳上皇讃岐院眷属をして為朝を救う図
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)
②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、
③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。

神櫛王の悪魚退治伝説

  また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
 『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。

研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
船絵馬 海難活動中の天狗達
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)

「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。

  今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
7 和漢三才図絵

江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
7 崇徳上皇天狗

これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行

知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗
②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。

文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。

金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
C-23-1  象頭山12景
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?

7 崇徳上皇天狗の研究
知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。
7 金刀比羅宮 愛宕天狗dakini
ダキニ天

以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります

以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

清少納言 鼓楼と清塚

金毘羅さんの大門の手前に時を告げた鼓楼が建っています。その下に大きな石碑があります。玉垣の向こうにあるのでほとんどの参拝客は、目の前の大門を見上げ、この石碑に気づく人はないようです。  立札には次のように書かれています。
清少納言 鼓楼と清塚立札

ここには清少納言が金毘羅さんで亡くなったこと、その塚が出てきたことを記念して建てられた石碑であることが記されます。清少納言は『枕草子』の作者であり、『源氏物語』を著した紫式部のライバルとして平安朝を代表する才女で、和歌も残しています。どうして阿波と讃岐で清少納言の貴種流離譚が生まれ、彼女の墓が金毘羅に作られたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年です。

 晩年の清少納言は地方をさまよって、亡くなったと云われるようになります。
そのため西日本の各地では彼女のお墓とそれにまつわる「清少納言伝説」が作られるようになります。才女が阿波・讃岐をさすらったというのは、貴種流離譚の一つで、清少納言の他に、小野小町や和泉式部の例があります。実際に彼女たちが地方を流浪したという事実はありません。しかし、物語は作られ広がっていくのです。それは、弘法大師伝説や水戸黄門伝説と同じです。庶民がそれを欲していたのです。
 それでは、才女の貴種流離譚を語ったのはだれでしょうか。
鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳を説くため方便に利用されるようになります。彼女たちを登場させたのは、地方を遊行する説経師や歌比丘尼や高野聖たちでした。その説話の中心拠点が播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺だったようです。式部や小町の貴種流離譚に遅れて登場するのが清少納言です。小野小町と和泉式部と清少納言は才女トリオとして貴種流離譚に取り上げられ、物語として地方にさすらうようになります。これは弘法大師伝説や水戸黄門の諸国漫遊とも似ています。その結果として清少納言が各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。それは、中世から近世にかけてのことだと研究者は考えているようです。清少納言の墓と伝えられる「あま塚」と「清塚」(きよづか)が各地に残るのは、このような背景があるようです。
四国で最も古いとされている清少納言の墓・あま塚は、阿波鳴門にあります。
清少納言 尼塚鳴門

徳島県鳴門市里浦に現存している「あま(天・尼)塚」は、清少納言の墓として広く知られています。ここではその由来が次のように伝えられます。
清少納言は、晩年に父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の領地とされる里浦(鳴門市)に移住した。ところが地元の漁師たちに辱(はずかし)めを受けた清少納言は、それを悲しんで海に身を投げて亡くなってしまった。このあと住民のあいだに目の病気が広まり、清少納言のたたりではないかと恐れられるようになった。住民たちは、清少納言の霊をしずめようと塚を建てた。

「あま塚」の名は、女性を表わす「尼塚」を意味したといわれています。後世になってあま塚のそばに「清少庵」が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養したというのです。

 しかし、あま塚は清少納言の墓ではなく、もともとは別人のものという説もあります。
①ひとつは大アワビをとって海で命を落とした海人(あま。漁民)の男挟磯(おさし)をまつったとする「海人塚」説
②二つ目は、鎌倉時代に島流しの刑に処された土御門上皇をまつったとする「天塚」説です。
ところが江戸時代に入ると、あま塚は清少納言の墓として有名になっていきます。そして、明治以後の皇国史観では②の土御門上皇をまつったとする「天塚」説で戦前までは祀られていたようです。いまでは里浦にある観音寺があま塚を「天塚」という名で管理し、清少納言の墓として一般公開しています。
清少納言 天塚堂

この「あま塚」の①「海人塚」説をもう少し詳しく見ていきましょう
『日本書紀』允恭天皇十四年九月癸丑朔甲子条には、海女男狭磯の玉取伝説が次のように記されています。
允恭天皇が淡路島で狩りをしたが島の神の崇りで獲物はとれなかった。神は明石沖の海底の真珠を要求し、要求が満たされれば獲物はとれると告げた。そこで海底でも息の長く続く海人、男狭磯(おさし)が阿波からよばれて真珠をとることになった。男狭磯は深い海底からに真珠の入った大鮑を胞いて海上に浮かび上がったが、無理をしたためか海上に浮かび上がった時には息絶えていた。天皇は男狭磯の死をいたみ立派な墓をつくった。今もその墓は、阿波にある。

これが男狭磯の玉取伝説です。ここからは古代阿波那賀郡には、潜女(もぐりめ)とよばれる海女の集団がいたことがわかります。また、阿波からは天皇即位の年だけに限って行われる大嘗祭に、いろいろな海の幸を神餞として献上していました。『延喜式』はその産物を、鰻・鰻鮨・細螺・棘甲扇・石花だと記しています。これらはいずれも加工されたもので、アワビ、アワビのすし、小さな巻貝のシタダミ、ウエ、節足動物のカメノテであったようです。これらも那賀郡には、潜女(もぐりめ)たちによって、獲られ加工されたものだったのでしょう。

明治32年に飯田武郷があらわした日本書紀の注釈書『日本書紀通釈』には、次のように記されています。
「或人云、阿波国宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村錫山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り。是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそ云り聞正すへし」

ここからは、里浦の尼塚を里人は男狭磯の基と言い伝えてきたことが分かります。ところが日本書紀を根拠とする尼(海女)塚は、別の伝説に乗っ取られていきます。

清少納言 天塚堂2
徳島県鳴門市 天塚堂と清少納言像

それが清少納言にまつわる次のような伝説です。
清少納言が阿波に向かう途中で嵐にあって、里浦に漂着した。都生まれのひなにはまれな美人ということで、たくさんの漁民が集まってきて情交を迫った。彼女が抵抗したため、 一人の男が彼女を殺して陰部をえぐって、それを海に投げ入れた。それから間もなくその海はイガイが異常にたくさんとれるようになった。彼女が抵抗した際に「見ている者は目がつぶれる」と叫んだことが現実となり、目をやられる漁民が続出した。そこで彼女の怨念を払うため建てた塚が、今もこの地に残っている。
 
この「清少納言復讐伝説」が生まれた背景には、鎌倉初期にできた『古事談』の中の次の説話が、影響を与えているようです。それは、こんな話です。
ある時、若い公達(きんだち)が牛車にのって清少納言の家の前を通りかかった。彼女の屋敷が荒れくずれかかっているのを見て「清少納言もひどいことになったものだ」などと口々に言い合って、鬼のような女法師(清少納言?)が、すだれをかきあげて、「駿馬の骨を買わずにいるのかい」と言ったのを聞いて、公達たちはほうほうの体で逃げていった。
  
ここでは清少納言は「鬼のような女法師」として描かれています。まるで怨霊一歩手前です。清少納言がタタリ神となっていくことが予見されます。また「女法師」から彼女は、晩年は出家して尼になったという物語になっていきます。それが尼(海女)と尼塚が結び付いて、清少納言の尼塚伝説が生まれたと研究者は考えているようです。
どうやら「あま塚」は「海女塚 → 尼塚 → 天塚」と祀る祭神が変化していったことがうかがえます。
尼塚は海のほとりにあったところから、イガイとも結び付くことになります。

清少納言 イガイ
イガイ
二枚貝のイガイ(胎貝)は、吉原貝、似たり貝、姫貝、東海婦人という地方名をもっています。これらの名前からわかるように、イガイの身の形は女性の陰部に似ています。そのため女性の陰部が貝になったのが、イガイという伝説が生まれます。
尼塚の清少納言伝説は、海をはさんだ対岸の兵庫県西宮市にも伝えられています。
そこでは恋のはかなさを嘆いた清少納言は、自らの手で陰部をえぐって海に身を投げたので、陰部がイガイになったいうものです。これは阿波の伝説が伝播したものと研究者は考えているようです。
清少納言の墓所(天塚堂)/徳島鳴門 観音寺(牡丹の寺・清少納言の祈願寺)

鳴門里浦の尼塚伝説は、もともとは日本書紀に記された男狭磯にまつわるものでした。
それが時代が下るにつれて、清少納言に置き換えられ、忘れられていきます。このようなことはよくあることです。寺の境内の池の中島にあった雨乞いの善女龍王が、時代の推移とともに、いつの間にか弁才天として祀られているのをよく目にします。庶民は、常に新しい流行神の登場を望んでいるのです。神様にもスクラップ&ビルドがあったように、伝承にも世代交代があります。それは何もないとこからよりも、今まであったものをリニューアルするという手法がとられます。

 鳴門の尼塚伝説が、清少納言伝説に書き換えられていくプロセスを見ておきます。
鳴門市里浦に伝承された海人男狭磯の玉取伝説は中世になると、となりの讃岐国の志度寺の縁起にとり入れられて志度寺の寺院縁起となります。以前に紹介しましたが、再度そのあらすじを記しておきます。この物語は藤原不比等や、唐王朝の皇帝も登場するスケールの大きいものです。
藤原不比等は父鎌足の冥福を祈って興福寺を建立した。その不比等のもとへ唐の皇帝から華原馨・潤浜石・面向不背の三個の宝玉が送られてくることとなった。宝玉をのせた遣唐舟が志度沖にさしかかると、海は大荒れとなって船は難破した。海神の怒りを鎮めるため、面向不背の玉を海に投げ入れると、海は静かになった。
このことを不比等に報告すると、不比等は宝玉を取り戻す決心をして志度へやってきた。不比等は宝玉を探せないまま、いたずらに三年が過ぎたがこの頃に一人の海女と知り合った。二人の間にはまもなく男の子が生まれた。不比等は宝玉のことを海女に話した。海女は海底から海神に奪われた宝玉を取り返すことに成功したが、胸を切り裂いて傷口に宝玉をかくした時の傷のため、海上に浮かび上がった時には息絶えていた。海女の子の房前は母を弔うため、石塔や経塚を建てたがそれは今も志度寺の境内に残っている
志度寺 玉取伝説浮世絵

                 海女玉取伝説の浮世絵(志度寺縁起)

ここからは日本書紀の阿波の玉取伝説が志度寺縁起にとり入れられていることが分かります。 この縁起の成立は、14世紀前半と研究者は考えているようです。志度寺縁起の玉取伝説は、謡曲にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大織冠」となり、近世には盛んにもてはやされ流布されていきます。また当時の寺では、高野聖たちは説法のため縁起を絵解に使用し、縁日などでは民衆に語り寄進奉納を呼びかけました。こうして志度寺の玉取伝説が有名になります。
 一方で鳴門里浦の尼塚の存在は次第に忘れ去られていきます。
 本来のいわれである玉取伝説は志度寺にうばわれて、古い尼塚が残るだけで、そのいわれもわからなくなったのです。そこで、室町後期~江戸前期の間に、清少納言の尼塚伝説が作り出されたようです。

いままでの経過を整理しておきます
①日本書紀の海女男狭磯の記述から海女(尼)塚が鳴門里浦に作られる
②しかし、その伝来は忘れられ、古墓の海女塚は尼塚と認識されるようになる
③代わって残された尼塚と、晩年は尼となったとされる清少納言が結びつけられる
④鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳をとくための方便に利用されて、説経師や歌比丘尼が地方を遊行して式部や小町の説話を地方に広めていった。
⑤その説話の中心の地が、播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺であった。
⑥式部や小町の貴種流離諄の盛行によって、清少納言までが地方にさすらうこととなった
こうして清少納言は各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。

鳴門里浦の清少納言の尼塚伝説は、江戸時代になって金毘羅さんに伝えられます。
 金刀毘羅宮の「清塚」と呼ばれる石碑の謂われを見ておきましょう
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊してしまいました。するとその夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、
というものでした。そして、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」 
はっとして夢から醒めたさめた大野孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金毘羅大権現の金光院はねんごろに塚を修めたというものです。
 塚石が出てきたから130年後の天保15年(1844)になって、金光院は高松藩士友安三冬の撰、松原義質の標篆、庄野信近の書によって、現在の立派な碑を建てます。
清少納言 石碑

清少納言 碑文


と同時に金毘羅さんお得の広報活動が展開されたようで、3年後の江戸時代後期の弘化4年(1847)に、大坂浪花の人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が出版した「金毘羅参詣名所図絵」の中に、清少納言塚が挿絵入りで次のように紹介されています。

清少納言 金毘羅参拝名所図会

清少納言の墳(一の坂の上、鼓楼の傍にあり。近年墳の辺に碑を建てり)
伝云ふ、往昔宝永の年間(1704~11)、鼓楼造立につき、この墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女の霊あらはれて告げける歌に、うつつなき跡のしるしをたれにかはとはれじなれどありてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて、本のままにさし置かれけるとぞ。清少納言は、 一条院の皇后に任へし官女なり。舎人親王の曾孫通雄、始めて清原の姓を賜ふ。通雄、五世の孫清原元輔の女、ゆえに清字をもってす。少納言は官名なり。長徳・長保年間に著述せし書籍を『枕草子』と号く。紫氏が『源氏物語』と相並びて世に行はる。老後に零落して尼となり、父元輔が住みし家の跡に住みたりしが、後四国に下向しけるとぞ。(後略)

  ここでは老後は零落して尼となって、四国に下ったと記されてます。そして金毘羅でなくなったことにされます。こうして金毘羅は清少納言を迎え入れることになります。


清塚は、幕末には金毘羅さんのあらたな観光名所になっていったようです。
当時は、各地で流行神や新たな名所が作り出され、有名な寺社は参拝客や巡礼客の争奪戦が繰り広げられるようになります。そんな中で金毘羅さんでは金光院を中心に、常に新たな名所や流行神を創出していく努力が続けられていたことは以前にお話ししました。この時期は、金丸座が姿を見せ、金堂工事も最終段階に入り、桜馬場周辺の玉垣なども整備され、金毘羅さんがリニューアルされていく頃でした。そんな中で阿波に伝わる清少納言伝説を金毘羅にも導入し、新たな名所造りを行おうとした戦略が見えてきます。

 ちなみに清少納言の夢を見た大野孝信は他の地に移りましたが、その家は「告げ茶屋」と呼ばれていたと云います。現在の五人百姓、土産物商中条正氏の家の辺りだったようで、中条氏の祖先がここに住むようになり、傍に井戸があったことから屋号を和泉屋と称したと云います。

清少納言伝説 概念図
清少納言伝説の概念図
清少納言伝説

清少納言の伝説についてまとめておきましょう。
清少納言にまつわる三つの伝説地、兵庫県西宮・徳島県鳴門・香川県琴平のうち、中心となるのは鳴門です。鳴門や金毘羅の伝説は鳴門から伝わったものと研究者は考えているようです。西宮の清少納言伝説はイガイによって鳴門と結び付き、琴平の清少納言伝説は古塚によって鳴門と結び付きます。
しかし、鳴門で清少納言の尼塚伝説が生まれたのは、もともとは、尼塚は海女男狭磯の玉取の偉業をたたえてつくられたものです。しかし、玉取伝説が志度寺の縁起にとり入れられて、こちらの方が本家より有名になってしまったために、新たな塚のいわれを説く伝説が必要となって生み出されたも云えます。
いわれ不明の古塚が生き残るために、清少納言が結びつけられ、尼塚を清少納言の墓とする伝説が生まれました。しかし、尼塚を海女男狭磯の墓とする伝説が消えてしまったわけもなかったようです。そういう意味では、尼塚は二つの伝説によって支えられてきたとも云えます。
 清少納言は、各地に自分の塚がつくられて祀られるようになったことをどう考えているのでしょうか。
「それもいいんじゃない、私はかまわないわよ」と云いそうな気もします。日本には楊貴妃の墓まであるのですから清少納言の墓がいくつもいいことにしておきましょう。そうやって庶民は「伝説」を楽しみ「消費」していたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年
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金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。
弁才天画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めた書かれています。ここからは、もともとは春日社に伝わっていたものであることが分かります。
春日社にあった弁才天十五童子像がどうして、金刀比羅宮にあるのでしょうか。今回は、その伝来について見ていきたいと思います。テキストは「羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57」です。

金刀比羅宮の弁財天画を見る前に、弁財天の歴史について簡単に見ておきます
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ヒンズー教の現在のサラスヴァティー(弁才天)

弁財天の起源はインドです。古代インド神話でサラスヴァティーと呼ばれた河の神は、後になると言葉の神ヴァーチュと結び付いて、学問、叡知、音楽の女神となり、最高神ブラフマー(梵天)の妃の一人とされるようになります。それが仏教にとり入れられると、仏教名を弁才天、妙音天、 美音天などと呼ばれるようにます。さらに財宝神であることが強調されるようになると、弁財天と書かれるようになります。神も進化・発展します。その上に、『金光明最勝王経』は、弁才天を美神とか戦闘神であると説き、弓、箭、刀、鉾、斧、長杵、輪、霜索を持つ8つの手があるとします。後世にいろいろな効能が追加されていくのが仏像の常です。二本の手では足らなくなって8本になります。
かつての横綱、若乃花・貴乃花の手形石、意外と小さい - Photo de Mimurotoji Temple, Uji - Tripadvisor

日本で盛んに信仰されるようになるのは、宇賀弁才天です。
水神の白蛇や、その白蛇が発展を遂げて生まれた老翁面蛇体の宇賀神を、頭上に戴くのが宇賀弁財天です。宇賀神は稲荷信仰を混淆して生まれました。稲を担った老翁姿の稲荷神と、水神の蛇が結合したのが宇賀神となるようです。整理しておくと
宇賀神  = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)
宇賀弁才天= 宇賀神     + 弁才天
こうしてとぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く宇賀弁才天が登場してきます。
弁才天と宇賀神

これが鎌倉時代末期のようです。弁才天の化身は蛇や龍とされますが、これはインド・中国の経典にはありません。日本で創作された宇賀弁才天の偽経で説かれるようになったようです。
弁才天3

 初期の宇賀弁才天が8本の手に持つのは『金光明経』に記されるように「鉾、輪、弓、宝珠、剣、棒、鈴(鍵)、箭」と全て武器でした。ところが、次第に「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなり、商人達に爆発的に信仰が広がります。

弁才天には「十五童子」が従います。
これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれます。

弁才天十五童子像3

絹本著色の弁才天十五童子像として代表的なものをあげると、
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)
京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
などがあります。これらの絵に共通する点は、主尊の弁才天と眷属神の十五童子(十六童子の場合もある)を中心に、龍神やその他の神々が描き込まれていることです。
弁才天十五童子像

        大阪府江戸前~中期/17~18世紀
      岩座の弁才天と十五童子を表す立体曼陀羅
弁才天十五童子像2

金刀比羅宮の弁才天画像を見てみましょう
残念ながら画像を手に入れることはできませんでした。あしからず。岩の上に立つ一面六臀の弁才天を中心に天女のまわりを眷属神の十五童子がかためます。画像の上方の五つの円相の中には釈迦・薬師。地蔵。観音。文殊という春日明神の本地仏が描かれています。春日社の祭神の本地仏は、武甕槌命(本地は釈迦)・経津主命(薬師)・天児屋根命(地蔵)・比神(観音)とされます。祭神は一神一殿の同じ形の、同じ大きさの社殿に祀られています。ただ、文殊だけは一社だけ離れて若宮社に祀られています。

弁才天立像
武人的な要素の強い弁才天

日本三弁天と称しているのは、次の3社でした。
近江の都久夫須麻神社
鎌倉の江の島神社
安芸の厳島神社
神社が弁才天信仰の中心となったのは、弁才天が神仏習合したからです。弁才天の頭上には白蛇(宇賀神)と華表(鳥居)がのっています。

弁才天2
白蛇はさらに発展し、老翁面蛇体の宇賀神としてソロデビューしていきます。日本三弁天の神社の影響もあって、春日社でも宇賀弁才天を祀るようになったようです。頭上に、水神・食物神とされる宇賀神をいただく宇賀弁才天を祀ることは、多くの荘園を持つ春日社にとっては大切な要素です。雨が降らないと稲は育ちません。荘園経済の上に基盤を置く春日社にとつては死活問題です。そのため水神である宇賀弁才天を祀るようになったのでしょう。

弁才天画像を春日神社から手に入れたのは松尾寺住職の宥天です。彼の在職期間は、1824~32年まででした。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現を求めていました。そのために、寺社は境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。
金毘羅本社絵図


 金毘羅大権現の別当寺松尾寺では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。毘沙門天は『法華経』、弁才天は「金光明経』、大黒天は『仁王経』の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。
 生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったはずです。足らないのは、弁財天です。宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったという推理が浮かんできます。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて祀られます。そこに祀られたのが春日社から購入した宇賀弁才天画で、三天講の本尊の一つだったようです。

文化十年(1813)には、金毘羅大権現の門前町である金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。
さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天が福徳の仏して、熱心に拝むよようになります。
3分でわかる弁財天とは?】ああっ幸福の弁天さまっ!のご利益や真言|仏像リンク

 弁財天はインドではもともとは川の神、水の神で水辺に生活する神とされていました。そのためいつのまにか雨と関連づけられ雨乞いにも登場するようになります。
松尾寺でも江戸時代には雨乞いが行われています。
宇賀弁才天木像及び弁才天十五童子像画像は、雨乞いにも活躍したようです。奥社からさらに工兵道を進むと、葵の滝があらわれます。ここは普段は一筋の瀧ですが、大雨が降った後は壮観な光景になります。かつては、ここは山伏たちの行場であった所です。私も何度かテントを張って野宿したことがあります。夜になるとムササビが飛び交う羽音がして、天狗が飛び回っているように思えたことを思い出します。
善通寺市デジタルミュージアム 葵の瀧 - 善通寺市ホームページ
葵の瀧

 流れ落ちる屏風岩の下に龍王社の祠が置かれます。ここが金毘羅大権現の祈雨の霊場で修験を重ねた社僧達がここで雨乞いを祈願したと私は考えています。宇賀弁才天が祀られるようになると、水の神である宇賀弁才天も雨乞い祈願の一端を担うようになったのでしょう。

四国のお寺には、かつては雨乞い神の善女龍王が祀られていた祠が、いつのまにか弁財天を祀る祠になっている所がいくつもあります。神様や仏様にも流行廃れがあり、寺社はあらたな神仏の「新人発掘」を行いプロモートの努力を続ける努力をしていたのです。それを怠ると繁栄していた神社もいつの間にか衰退の憂き目にあったようです。そういう意味では、江戸末期の金毘羅大権現の別当たちは、「新人発掘」に怠りがなかった。そのひとつの象徴が三天講の企画であり、そのための宇賀弁才天画の購入であったとしておきます。


以上をまとめておくと
①江戸時代になると商売繁盛の神として宇賀弁才天が信仰を集めるようになる。
②金毘羅大権現の別当金光院も、宇賀弁才天を勧進し三天講の開催を始める
③そのため宇賀弁天の本尊が春日神社から求められ、三天講の縁日の時には開帳されるようになる。
④宇賀弁天は、水神でもあったため雨乞い信仰の神としても信仰を集めるようになる
⑤その結果、それまでの善女龍王竜王に宇賀弁天がとって代わる所も現れた。
⑥江戸時代の庶民派移り気で、寺社も新たな流行神を勧進し信者を惹きつける努力を行っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57
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金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。松岡調の『新撰讃岐風土記』には、次のような金比羅堂の創建棟札が紹介されています。
 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した
③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
宥雅は長尾一族の支援を受けながら松尾寺を新たに建立します。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

長尾城城主の弟であった宥雅は、善通寺で修行して一人前の僧侶になった時、善通寺の末寺で善通寺の奥の院でもあった称名院を任されるようになります。そして善通寺で修行した長尾高広は師から宥の字を受け継ぎ「宥雅」と名乗るようになります。
「讃岐象頭山別当職歴代之記」には

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「仮説」を見ていくことにします
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立
1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
宥雅は、荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。三十番社の祠のそばに観音堂を建立し、1573年の終わりに四段坂の下に金毘羅堂を建立したとします。


絵図で創建当時の松尾寺と金毘羅堂の位置を押さえておきましょう。本堂下の四段坂を拡大した「讃岐国名勝図会」のものを見てみましょう。四段坂 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の四段坂周辺

金堂の竣工に併せて四段坂も石段や玉垣が整備されました。
それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 金毘羅堂はT39の創建された
金毘羅堂と観音堂の位置

今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
『古老伝旧記』には、この本宮について次のように記します。

元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの信仰を集めていたことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったようです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


天狗の羽団扇
狂言で使われる天狗の羽団扇

近世の金比羅は、天狗信仰の中心でもあったようです。金毘羅大権現の別当金光院院主自体が、その教祖でもありました。というわけで、今回は近世の天狗信仰と金毘羅さんの関係を、団扇に着目して見ていきます。テキストは  羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像     ことひら56号(平成13年)です

天狗観は時代によって変化しています。
天狗1

平安時代は烏天狗や小天狗と呼ばれたもので、羽があり、嘴を持つ烏のようなイメージで描かれ、何かと悪さをする存在でした。そして、小物のイメージがあります。

天狗 烏天狗
烏天狗達(小天狗)と仏たち

中世には崇徳上皇のように怨霊が天狗になるとされるようになります。近世には、その中から鞍馬山で義経の守護神となったような大天狗が作り出されます。これが、結果的には天狗の社会的地位の上昇につながったようです。山伏(修験者)たちの中からも、大天狗になることを目指して修行に励む者も現れます。こうして中世初頭には天狗信仰が高まり、各地の霊山で天狗達が活動するようになります。
DSC03290
金刀比羅宮奥社の断崖に懸けられた大天狗と烏天狗

 整理しておくと、天狗には2つの種類があったようです。
ひとつは最初からいた烏天狗で、背中に翼があり、これを使って空を飛びました。近世になって現れるのが大天狗で、こちらは恰幅もよく人間的に描かれるようになります。そして、帯刀し錫杖を持ち、身なりも立派です。大天狗が誕生したのは、戦国時代のことのようです。
狩野永納の「本朝画史』には、鞍馬寺所蔵の鞍馬大僧正坊図について、次のように述べています。
「(大)天狗の形は元信始めてかき出せる故、さる記もあんなるにや。(中略)太平記に、天狗の事を金の鳶などいへる事も見えたれば、古は多く天狗の顔を、鳥の如く嘴を大きく画きしなるべし、今俗人が小天拘といへる形これなり。仮面には胡徳楽のおもて、鼻大なり。また王の鼻とて神社にあるは、猿田彦の面にて、此の面、今の作りざまは天狗の仮面なり」
意訳変換しておくと
「(大)天狗の姿は(狩野)元信が始めて描き出したものである。(中略)
太平記に、天狗のことを「金の鳶」と記したものもあるので、古くは多く天狗の顔を、烏のように嘴を大きく描いていたようである。世間で「小天拘」と呼ばれているのがこれにあたる。大天狗の仮面では胡人の顔立ちのように、鼻が大きい。また「王の鼻」と呼ばれた面が神社にあるは、猿田彦のことである。この今の猿田彦の面は、天狗の仮面と同じ姿になっている」
ここからは次のようなことが分かります。
①大天狗像は狩野元信(1476~1559)が考え出した新タイプの天狗であること
②古くは烏のように嘴が大きく描かれていて、これが「小天狗」だったこと
③大天狗の姿は、猿田彦と混淆していること
狩野元信の描いた僧正坊を見てみましょう

天狗 鞍馬大僧正坊図

左に立つ少年が義経になります。義経の守護神のように描かれています。これが最初に登場した大天狗になるようです。頭巾をつけ、金剛杖を持ち、白髪をたくわえた鼻高の天狗です。何より目立つのは背中の立派な翼です。それでは、団扇はとみると・・・・ありません。確かに羽根があるのなら団扇はなくとも飛べますので、不用と云えばその方が合理的です。羽根のある大天狗に団扇はいらないはずです。ところが「大天狗像」と入れてネット検索すると出てくる写真のほとんどは「羽根 + 団扇」の両方を持っています。これをどう考えればいいのでしょうか?
天狗 大天狗

  これは、後ほど考えることにして、ここでは大天狗の登場の意味を確認しておきます。
 小天狗は、『今昔物語集』では「馬糞鳶」と呼ばれて軽視されていました。中世に能楽とともに発達した狂言の『天狗のよめどり』や『聟入天狗』等では本葉天狗や溝越天狗として登場しますが、こちらも鳶と結び付けられ下等の天狗とされていたようです。飯綱権現の信仰は各地に広まります。その中に登場する烏天狗は、火焔を背負い手には剣と索を持っていますが、狐の上に乗る姿をしていて、「下等の鳶型天狗」の姿から脱け出してはいない感じです。
その中で狩野元信が新たに大天狗を登場させることで、大天狗は鳶や烏の姿を脱して羽団扇で飛行するようになります。これは天狗信仰に「大天狗・小天狗」の併存状態を生み出し、新たな新風を巻き起こすことになります。
狩野元信が登場させたこの大天狗は、滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』に日本の天狗のモデルとして紹介されています。
馬琴は、浮世絵師の勝川春亭に指図をして、「天狗七態」を描かせています。そのうちの「国俗天狗」として紹介された姿を見てみましょう。

天狗 滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』

 ここでも鼻高で頭巾をつけ、金剛杖持ち、刀をさし、背中には立派な翼を持っています。そして、左手は見ると・・・団扇を持っています。つまり、16世紀の狩野元信から滝沢馬琴(1767~1848)の間の時代に、大天狗は団扇を持つようになったことが推察できます。この間になにがあったのでしょうか。江戸後期になると、天狗の羽団扇をめぐて天狗界では論争がおきていたようです。

天狗 平田篤胤

その頃に平田篤胤(1776~1843)は、『幽境聞書』を書いています。
これは天狗小僧寅吉を自宅に滞在させて、寅吉から直接に聞いた話をまとめたものです。その中で篤胤は、羽団扇のことについても次のようなことをあれこれと聞いています
大天狗は皆羽団扇を持っているか
羽団扇には飛行以外に使い道はあるか
羽団扇はどういう鳥の羽根でできているか
この質問に答えて天狗小僧寅吉は、大天狗は翼を捨てた代りに、手にした羽団扇を振って飛び回るようになったとその飛行術を実しやかに言い立てています。ここからはこの時期に天狗界の大天狗は、翼を捨てて団扇で飛ぶという方法に代わったことが分かります。
そんな天狗をめぐる争論が論争が起きていた頃のことです。
平賀源内(1726~79年)が、天狗の髑髏(どくろ)について鑑定を依頼されます。
天狗 『天狗髑髏鑑定縁起

  源内は、その経験を『天狗髑髏鑑定縁起』としてまとめて、次のように述べています。
夫れ和俗の天狗と称するものは、全く魑魅魍魎を指すなれども、定まれる形あるべきもあらず。然るに今世に天狗を描くに、鼻高きは心の高慢鼻にあらはるるを標して大天狗の形とし、又、嘴の長きは、駄口を利きて差出たがる木の葉天狗、溝飛天狗の形状なり。翅ありて草軽をはくは、飛びもしつ歩行もする自由にかたどる。杉の梢に住居すれども、店賃を出さざるは横着者なり。
羽団扇は物いりをいとふ吝薔(りんしょく)に壁す。これ皆画工の思ひ付きにて、実に此の如き物あるにはあらず。
意訳変換しておくと
 天狗と称するものは、すべての魑魅魍魎を指すもので、決まった姿があるはずもない。ところが、昨今の天狗を描く絵には、鼻が高いのは心の高慢が鼻に出ているのだと称して、大天狗の姿とを描く。また嘴の長いのは、無駄口をきいて出しゃばりたがる木の葉天狗や溝飛天狗の姿だという。羽根があって草軽を履くのは、飛びも出来るし、歩行もすることもできることを示している。杉の梢に住居を構えても、家賃を出さないのは横着者だ。羽団扇は物いりを嫌う吝薔(りんしょく)から来ているなど、あげればきりがない。こんなことは全部画家の思ひ付きで、空言で信じるに値しない。彼らのとっては商売のタネにしかすぎない。

源内らしい天下無法ぶりで、羽団扇も含めて天狗に関するものを茶化して、明快に否定しています。この時に持ち込まれた天狗の髑髏は、源内の門人の大場豊水が芝愛宕山の門前を流れる桜川の河原でひろって持ってきたものでした。その顛末を明かすと共に、天狗の髑髏を否定しています。
  天狗についての考察というよりも、天狗に関する諸説を題材にして、本草学・医学のあり方を寓話化した批評文でしょうか。「天狗髑髏圖」はクジラ類の頭骨・上顎を下から見たもの。「ぼうごる すとろいす」はダチョウ(vogel struis、struisvogel、vogelは鳥)、「うにかうる」はユニコーンのことだそうです。
  合理主義者でありながら「天狗などいない」の一言で、「あっしにはかかわりのないことで」とシニカルに済ませられないところが源内らしいところなのでしょう。しかし、一方では大天狗の羽根団扇をめぐっては、各宗派で争論があり、それぞれ独自の道を歩むところも出てきたようです。
天狗 鞍馬

そのひとつが鞍馬寺です。ここは「鞍馬の天狗」で当時から有名でした。
この寺の「鞍馬山曼茶羅」には、中央に昆沙門天を大きく描かれ、その下に配偶神の吉祥天とその子善弐子(ぜんにし)を配します。毘沙門天の両脇には毘沙門天の使わしめとされる百足(むかで)を描かれます。そして毘沙門天の上方に描かれているのが僧正坊と春族の鳥天狗です。僧正坊は頭に小さな頭巾をいただき、袈裟を着けた僧侶の身なりで、手には小さな棕櫚葉団扇を持っています。しかし、背中に翼はありません。「鞍馬山曼茶羅」は、翼を持たない大天狗が羽団扇を使って飛行するという「新思想」から生まれたニュータイプの天狗姿と云えます。つまり、大天狗に翼は要らないという流派になります。
 しかし、多くの天狗信仰集団は「羽団扇 + 翼」を選択したようです。つまり翼を持った上に団扇ももつという姿です。鞍馬派は少数派だったようです。
以上をまとめておくと、鼻高の大天狗は、戦国時代の頃に狩野元信が考え出したものである。これ以降は大天狗と小天狗が並存するようになった。そして、江戸後半になると大天狗は羽団扇をもつようになる。
それでは、羽根団扇をも大天狗はどこから現れてくるのでしょうか?
 天狗経
天狗経
『天狗経』は密教系の俗書『万徳集』に出てくる偽経です。
その冒頭に「南無大天狗小天狗十二八天狗宇摩那天狗数万騎天狩先づ大天狩」と述べた後で、名が知られていた大天狗48の名を挙げています。この中には「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」の名前も見えます。この「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」で、羽団扇をもつ大天狗が最初に姿を表したのではないかという仮説を羽床氏は出します。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現

金毘羅大権現と天狗達(別当金光院)

それは金毘羅大権現の初代院主・金剛坊宥盛の木像に始まったとします。
  江戸時代に金昆羅大権現は天狗信仰で栄えたことは以前にお話ししました。金毘羅大権現として祀られたのは、黒眷族金毘羅坊・象頭山金剛坊の二天狗であったことも天狗経にあった通りです。当時の人々は金毘羅大権現を天狗の山として見ていました。天狗面を背負った行者や信者が面を納めに金毘羅大権現を目指している姿がいくつかの浮世絵には描かれています。
天狗面を背負う行者
金毘羅行者 天狗面の貢納に参拝する姿

近世初頭の小松庄の松尾寺周辺の状況をコンパクトに記して起きます。
 松尾寺は金毘羅大権現の別当寺となつて、金毘羅大権現や三十番神社を祀っていました。三十番神社は暦応年中(1338~)に、甲斐出身の日蓮宗信徒、秋山家が建てたものでした。これについては、秋山家文書の中から寄進の記録が近年報告されています。
 一方、松尾寺は1570年頃に長尾大隅守の一族出身の宥雅が、一族の支援を受けて建立したお寺です。善通寺で修行した宥雅は、師から宥の字をもらつて宥雅と名乗り、善通寺の末寺の大麻山の称名院に入ります。松尾山の山麓に、称明院はありました。松尾山の山頂近くにある屏風岩の下には、滝寺もありましたが、この頃にはすでに廃絶していました。称名院に入った宥雅はここを拠点として、山腹にあつた三十番神社の近くに、廃絶していた滝寺の復興も込めて、新たに松尾寺を創建します。松尾寺の中心は観音堂で、現在の本堂付近に建立されます。

天狗面2カラー
金毘羅大権現に奉納された天狗面

 さらに宥雅は、元亀四年(1573)に、観音堂へ登る石段のかたわらに、金比羅堂を立てます。
この堂に安置されたのは金昆羅王赤如神を祭神とする薬師如来でした。しかし、長宗我部氏の侵攻で、宥雅は寺を捨てて堺に亡命を余儀なくされます。松尾寺には長宗我部元親の信頼の厚かった修験者の南光院が入って、宥厳と名乗り、讃岐平定の鎮守社の役割を担うことになります。宥厳のあとを、高野山から帰ってきた宥盛が継ぎます。宥厳・宥盛によつて、松尾寺は修験道化されていきます。こうして金毘羅信仰の中心である金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、修験道化によって黒眷族金毘羅坊という天狗におきかえられます。
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 初代金光院院主とされている宥盛の業績には大きい物があります。
その一つが松尾寺を修験道の拠点としたことです。彼は天狗信仰に凝り、死後は天狗として転生できるよう願って、次のような文字を自らに模した木像に掘り込んでいます。
「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月」
という文言を彫り込みます。ここには慶長十一年(1606)10月と記されています。そして翌々年に亡くなっています。
 天狗になりたいと願ったのは、天狗が不老不死の生死を超越した存在とされていたからだと研究者は考えているようです。

天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
金毘羅大権現と天狗達

『源平盛衰記』巻八には、次のように記されています。
「諸の智者学匠の、無道心にして騎慢の甚だしきなりこ其の無道心の智者の死すれば、必ず天魔と中す鬼に成り候。其の頭は天狗、身体は人にて左右の堂(生ひたり。前後百歳の事を悟つて通力あり。虚空を飛ぶこと隼の如し、仏法者なるが故に地獄には堕ちず。無道心なる故往生もせず゛必ず死ぬれば天狗道に堕すといへり。末世の僧皆無道心にして胎慢あるが故に、十が八九は必ず天魔にて、八宗の智者は皆天魔となるが故に、これをば天狗と申すなり」
象頭山天狗 飯綱

天狗は地獄にも堕ちず、往生もしない、生死を超越した不老不死の存在であると説かれています。天狗が生死を超えた不老不死の存在であったから宥盛は死後も天狗となって、松尾寺を永代にわたって守護しようと考えたのでしょう。この宥盛木像が、象頭山金剛坊という天狗として祀られることになります。
松尾寺の金毘羅大権現像
金毘羅大権現像(松尾寺)
木像はどんな姿をしていたのでしょうか?
木像を見た江戸中期の国学者、天野信景は『塩尻』に次のように記します。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや

意訳変換しておくと
讃州象頭山は金毘羅を祀る山である。その像は座しいて三尺余で僧形である。すさまじき面貌で、修験者のような頭巾をかぶり、手には羽団扇を持っている。薬師十二将の金毘羅像とは、まったく異なるものであった

「金毘羅山は海の神様で、クンピーラを祀る」というのが、当時の金毘羅大権現の藩に提出した公式見解でした。しかし、実際に祀られていたのは、初代院主宥盛(修験名金剛院)が天狗となった姿だったようです。当時の金毘羅大権現は天狗信仰が中心だったことがうかがえます。

 この木像はどんな霊験があるとされていたのでしょうか?
江戸時代中期の百科辞書である『和漢三才図会』(1715年に、浪華の吉林堂より刊行)には、次のように記されています。
相伝ふ、当山の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

ここからは江戸時代中期には金毘羅大権現は天狗信仰で栄えていたことが分かります。その中心は宥盛木像であって、これを天狗として祀っていたのです。天狗として祀られた宥盛木像の手には、羽団扇がにぎられていました。これは「羽団扇をもつ天狗」としては、一番古いものになるようです。ここから羽床氏は「宥盛のもつ羽団扇が、天狗が羽団扇を使って空を飛ぶという伝説のルーツ」という仮説を提示するのです。
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「丸金」の丸亀団扇

羽団扇をもつ天狗姿が全国にどのように広がっていったのでしょうか?

天明年間(1781~9)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷がとなり合っていました。そのため江戸の留守居役瀬山重嘉は、中津藩の家中より団扇づくりを習って、藩士の副業として奨励します。以来、丸亀の団扇づくりは盛んとなったと伝えられます。丸亀―大阪間を「金毘羅羅舟」が結び、丸亀はその寄港地として繁栄するようになると、丸亀団扇は金毘羅参詣のみやげとして引っ張りだこになります。
 金毘羅大権現の天狗の手には、羽団扇がにぎられトレードマークになっていました。それが金昆羅参詣のみやげとして「丸金」団扇が全国に知られるようになります。それと、同じ時期に。天狗は羽団扇で飛行するという新しい「思想」が広まったのではないかと云うのです。
金毘羅大権現2
金毘羅大権現の足下に仕える天狗達
 
天狗が羽団扇で飛行するという「新思想」は、宥盛の象頭山金剛坊木像がもとになり、金昆羅参詣みやげの丸亀団扇とともに全国に広められたという説です。それを受けいれた富士宮本宮浅間神社の社紋は棕櫚(しゅろ)葉でした。そのためもともとは天狗の団扇は鷹羽団扇だったのが、棕櫚葉団扇が天狗の持物とされるようになったとも推測します。

  富士山を誉めるな。 - オセンタルカの太陽帝国
富士宮本宮浅間神社の社紋

  以上をまとめておくと
①古代の天狗は小天狗(烏天狗)だけで、羽根があって空を飛ぶ悪さ物というイメージであった。
②近世になると大天狗が登場し、天狗の「社会的地位の向上」がもたらされる
③大天狗が羽団扇を持って登場する姿は、金毘羅大権現の金剛坊(宥盛)の木像に由来するのではないか
④金毘羅土産の丸亀団扇と金剛木像が結びつけられて大天狗姿として全国に広がったのではないかい。
天狗の団扇

少し想像力が羽ばたきすぎているような気もしますが、魅力的な説です。特に、天狗信仰の拠点とされている金毘羅と、当時の金剛坊(宥盛)を関連づけて説明した文章には出会ったことがなかったので興味深く読ませてもらいました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像    ことひら56号(平成13年)


 宥雅は、一族の長尾氏の支援を受けながら松尾山(現象頭山)に、松尾寺(金毘羅寺)や金比羅堂を建立します。しかし、それもつかの間、土佐の長宗我部元親の侵入によって宥雅は、新築したばかりの松尾寺を捨てて堺への亡命を余儀なくされます。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していました。そこで土佐足摺の修験者である南光院に松尾寺を任せます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺の住持となります。その際に、元親から与えられた使命は、松尾寺を讃岐支配のための宗教センターとして機能させるようにすることだったようです。そのために宥厳がどのような手を打ったかについては以前に次のようにお話ししました。
①松尾寺から金比羅堂へシフトして、新たな蕃神である金毘羅神の拠点として売り出す
②修験者の「四国総本山」とし、修験者の拠点として修験者の力を利用した布教方法を用いる
宥厳は、もともとは土佐の修験者でしたから修験化路線へのシフト転換が行われたのでしょう。
今回は、南光坊と呼ばれた宥厳の土佐での存在とは、どんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは 高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収です。
南光院 南路志

土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領」
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」
意訳変換しておくと
大隅南光院の祖(宥厳)は、讃州の金毘羅にいたところ、長宗我部元親の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは次のようなことが分かります。
①慶長年中(1596~)に、南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたこと
②長宗我部元親から延光寺を拝領し、金毘羅から土佐に帰国したこと
南光院 延光寺2
四国霊場 延光寺(寺山) 奥の院が南光院

寺山とは延光寺のことで、現在の四国霊場になるようです。この延光寺のことを見てみましょう。
宿毛市延光寺は、四国三十九番札所ですが、修験道当山派の拠点であったようです。
 四国霊場を考える場合には「奥の院を見なければ分からない」というのが私の師匠の口癖です。そのセオリーに従って、延光寺の背後をまずは見ておくことします。この寺の4㎞ほど東に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀るといわれ、雨乞いの時には、里人が登って祈念していたようです。修験者の修行の山であったことが分かります。
そして、延光寺は行場(奥の院)が里下りして、いつの頃かに麓に下りてきたことがうかがえます。
南光院 延光寺1

この貝の森については、次のような話が伝えられます。
 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こします。それがきっかけで、宿毛市平田町の貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡します。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなります。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと
 ここでは16世紀半ばに起きた事件を契機に、当山派から本山派へのシフトが行われたとされているとされますが、これは事実とは異なるようです。当山派の延光寺が衰退していくのは、山内藩による本山派優遇策がとられるようになって以後のようです。

周辺の霊山をもう少し見ておきましょう。 佐川山は幡多郡の旧大正町奥地にあります
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵がいます。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰があります。
 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

 別の見方をすると、霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとってはテリトリー争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。その背後には、地元の武士団があったことが考えられます。それ以前には、地域間の抗争があったことが「山頂での相撲や喧嘩」などからうかがえます。
 このような修験道が地域の中に根付いた中で、南光坊(宥厳)は修験者としての生活と修行を行ってきた人物であることをまず押さえておきます。

宥厳は、土佐では南光院と呼ばれていました。
 南光院は延光寺の奥の院だったようです。その院主なので南光院と呼ばれていたようで、地元では有力な修験者のリーダーでした。それが長宗我部元親の讃岐侵攻の際に、無住となってた松尾寺に呼ばれて管理を任されることになります。
延享四年(1747)に延光寺は、次のような文書を土佐藩の社寺方に差出しています。
「私先祖より代々先達之家筋二て、昔時ハ四国並淡州共五ケ国袈裟先達職二て御座腕」

 昔時というのは元親時代のことなのでしょう。延光寺の先祖は代々(当山派)先達を勤め、かつては四国と淡路の袈裟先達職(リーダー)であったと云います。更に続いて、次のようにも主張しています。
延光寺が宿坊十二を擁した頃は、元親から田地の寄付もなされた。南尊上人の住職時代ころまでは、南光院知行共地高五百五十石であった。

というのです。550石といえば土佐・山内藩家臣団の中でも上位に匹敵する待遇です。元親が四国を制摺るに及んで、南光院もまた四国の修験道のリーダー的立場にあったようです。
  つまり、当時の延光寺は四国の先達のトップを勤めていたというのです。その寺から長宗我部元親が呼び寄せたのが南光院(宥厳)ということになります。ここからは、長宗我部元親が新たに手に入れた金比羅の松尾寺をどんな寺にしようとしていたかがうかがえます。それは「四国鎮撫の総本山」です。そのために選ばれたのが南光院であったとしておきましょう。
 長宗我部元親は、秀吉に敗れ土佐一国の領主となると金比羅から南光院を呼び戻し、延光寺を与えます。そのまま讃岐には捨て置かなかったようです。元親の南光院に対する信頼度がうかがえます。その後、延光寺は慶安四年(1651)の遷化まで、修験兼帯の真言寺とし運営されます。そして修験名は南光院が使われます。
南光院の当時の威勢ぶりを、後の史料から見てみましょう。
 南光院は大峰山中に「土州寺山南光院宿」という宿坊を持っていたようです。それは大峰山小笹(小篠)28宿のうちの第三宿で、二間×三間半粉葺の規模でした。延享五年(1748)藩社寺方の記録には次のように記されています。
「右宿私先祖より代々所持仕腕私邸支配之 山伏共入峯仕腕節此宿二て国家泰平万民快楽祈念仕候」

とあって、古くから大峰山に宿を持ち、それが大峰の峰入りの際に、配下の修験者に利用されていたと、由緒が主張されています。確かに延光寺は、清和天皇の御代に禁中の左近之 桜右近之橘を蘇生せた伝わるように、修験道の拠点として中世以来の歴史を持つ寺であったようです。
南光院 延光寺縁起1
延光寺縁起

  以上を時間系列で並べて見ます
1579年 長宗我部元親が西長尾城を攻略。長尾氏一族の宥雅は堺に亡命     土佐から南光院が呼ばれ、宥厳と改名し松尾寺(金比羅寺)に入る
1585年 長宗我部元親が秀吉に敗れ、土佐に退く
1591年 幡多郡大方町飯積寺から南尊上人(慶長三(1593)年没)延光寺に入院
1600年 南光院が長宗我部元親から寺山(延光寺)拝領し入院。南光院は、それまで自分が持っていた「南光院」を奥の院として、延光寺を修験兼帯の真言寺とする。
1651年 宗院遷化以後は修験兼帯を解き、延光寺から南光院は独立

江戸幕府が確立されると本山・当山派は、幕府や藩の御朱印を求めて争うようになります
  長宗我部家の滅亡、南光院は次第にその勢力を失っていきます。
それは、山内家の本山派優先という宗教政策があったようです。享保十四年(1729)の「土州高岡郡修験道名寄帳」には、次のように記されています。
「御国守松平土佐守豊敷公、播州伽耶院大僧正家之寄同行二て、他之先達江附属之修験壱人も無御座腕」
意訳変換しておくと
「土佐藩では山内豊敷公が、播州(兵庫県)伽耶院大僧正家に帰依しているので、他派の先達(修験者)はひとりもおりません」

と高岡郡等覚院の返答です。等覚院は郡下の院数四三、住一七人、合計60人の修験を支配していたようですが全員が本山派に属していたことが分かります。
文久四年(1864)の江戸役所への霞書札にも「土佐・伽耶院」あります。土佐修験は山内藩の下では、天台宗聖護院末播州伽耶院の下にありました。土佐修験が伽耶院配下の本山派となったのは元和年間、藩主忠義が伽耶院に帰依して、大峰山で柴燈護摩祈祷を行わせたことによるとされます。こうした中で長宗我部元親の保護を受けていた当山派の南光院は、山内藩になると衰退していったようです。
 南光院が大峰山中に宿を持って祈祷所としていたことは、先ほど見ました。ところがそれも荒廃したまま放置されるようになります。
 京醍醐寺三宝院御門跡役人中より再興仕侯様卜度々被申付候得とも 私儀至テ貧僧之儀自力難相叶 寛保元年奉願候処 右再興料として御金弐拾両拝領被為仰付 同三年二大峯登山仕再興仕候
意訳変換しておくと
 京都の醍醐寺三宝院御門跡役人より大峰山中の宿の再興について、度々申付けられていますが、私どもの貧僧には自力で再建することは適いません。寛保元年から奉願再興料として金20両を拝領できるように仰せつけていただければ、大峯登山の宿を再興致します

ここからは、醍醐寺からの度々の再建催促にも「貧僧」であるが故に応じられないこと。再建のために土佐藩からの援助を願い出るものです。南光院の零落ぶりがはっきりとうかがえます。これが寛保三(1743)年のことになります。

 凋落する当山派南光院に代って勢力を増してきたのが本山派龍光院です。
龍光院は、もと中村の一条公御家門で中納言住職で寺領百石寺地一石の祈願所でした。それが長宗我部氏になって寺領百石を取り上げられます。長宗我部家が滅亡し、山内家になると御仕置方支配となり、幕末の嘉永安政期には宿毛、中村、西土佐村、十和村に及ぶ修験41名を支配するようになります。この時に、南光院は18名です。
  中世末期から修験者は、武士勢力に隷属するようになるようです。
それは土佐でも例外ではなかったことが南光院の栄枯盛衰からうかがえます。土佐では、山内藩の宗教政策によって「当山派の衰微、本山派の隆盛」という逆転現象をうみだすことになります。
 同時にこの時期から大峰登山や土佐各霊山での修行もみられなくなったと研究者は考えているようです。大峰修行を忘れた修験は、在地で祈祷や札配布を行うようになります。しかし、近世末には、これら祈祷は人心を惑わすものとされ、明治元年高知藩は次のような禁止令をだしています。
 無レ筋祈祷・冗等不二相成儀ハ、兼々御触示被二御付置‘候処、近年予州石鉄山信仰ノ者有之、御境目ヲ潜り致一参詣甚シキュ至りテハ、同先達卜唱、異粧ノ姿ヲ以琳一徘徊動モスレハ無レ筋祈祷・兇等致シ、愚昧ノ者共ヲ為‘一相惑候 者有レ之趣相聞、不心得ノ至二俣。右等ノ儀ハ、地下役共精々取締可レ致、向後違背ノ者於い有レ之地下役共二至迄可為二越度事
意訳変換しておくと
祈祷などを行う事を禁止することは、以前から通達しているとおりである。ところが近年、伊予の石鎚山信仰の先達達(山伏)が、国境を越えて土佐に潜りこんでくるようになった。甚だしいのは先達と称して、異粧の姿で近隣を徘徊して祈祷を行い、愚昧者たちを一層惑わしている者がいると聞く。このような事は、地方役人の取り締まり不足でもある。今後、違反するものがあれば取り締まりに当たる役人の責任問題でもなる。
 このように石鎚信仰の修験者(山伏)たちの祈願祈祷を取締るように命じています。修験道は、神仏分離政策と共に「廃仏毀釈」される邪教として排除されていくことになります。南光院(宥厳)が院主として修験道化を進めた金毘羅大権現は、神道の神社として生き延びる道を選ぶことになります。南光院が金毘羅を離れてから約270年の年月が経ていました。

 最後に宥厳(南光院)が金毘羅大権現の正史には、どのように扱われているのかを見ておきましょう
 江戸時代後半になると長宗我部に支配され、土佐出身の修験道者に治められていたことは、金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。宥厳は宥雅と同じように、歴代院主の中には含まれていません。
「宿毛市南光院」の画像検索結果
四国霊場延光寺 奥の院の現在の南光院

以上をまとめておくと
①長宗我部元親に呼ばれて金比羅の松尾寺住職となったのが土佐出身の南光院であった。
②彼は讃岐にやってくる前は、「四国の総先達」のトップとも云える存在であった。
③南光院は金比羅では宥厳と改名し、松尾寺の修験化と「四国鎮守の寺」化を進めた。
④長宗我部元親は、晩年の宥厳を土佐に呼び戻し、延光寺を与えた。
⑤延光寺は、長宗我部支配下では保護を受けて多くの寺領と配下の修験者を抱える「山伏寺」であった。
⑥しかし、新たに藩主となった山内家は聖護院との関係を重視し、本山派を保護した
⑦その結果、延光寺(南光院)は衰退していくことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました
高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収
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   1讃州象頭山別当職歴代之記
上の史料は金毘羅大権現の系譜「讃州象頭山別当職歴代之記」です。一番右に、次のように記されています。
宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 
住職凡   応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄凡三百年余歴代系嗣不詳
ここには、松尾寺の初代別当を宥範としています。それから3百年間の歴代別当の系譜は「不詳」とします。そして、三百年後に2番目に挙げられるのが「法印宥遍」とあります。この宥遍という人物は、金毘羅さんの史料には見えない名前です。いったい何者なのでしょうか。それはおいておくとして、歴代の別当職をならべると
初代 宥範 → 2代 宥遍 → 3代 宥厳 → 4代 宥盛 → 5代 宥睨

となるようです。初代の宥範は、以前にも紹介しましたが「善通寺中興の祖」として、中讃地区では著名な人物でした。その宥範が金毘羅大権現の創始者とされたのでしょうか。それを今回は見ていこうと思います。テキストは「羽床雅彦  宥範松尾寺初代別当説は正か否か?  ことひら65号 平成22年」です

 宥雅と松尾寺創建  
松尾寺は16世紀後半に長尾家一族の宥雅が創建した寺でした。そして、その守護神として創始されたのが金毘羅神です。
長らく金刀比羅宮の学芸員を務められた松原秀明氏は、今から40年ほど前に、その著書「金昆羅信仰と修験道」の中で、次のように指摘しています。
「本宮再営棟札」と言われている元亀四年十一月二十七日の象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿の棟札に、
「当寺別当金光院権 少僧都宥雅」と見えている。その裏には「金毘羅堂建立本座鎮座」ともあって、この時はじめて、金毘羅大権現が松尾寺の一角に勧請されたのでないかと考えられる。」
 松原氏は、それまで「再営」とされてきた元亀四年(1573)の日付が記された棟札は、本宮「再営」ではなく「鎮座」で、金昆羅堂が創始された時のものであると主張したのです。さらに、松原秀明氏は「近世以前の史料は、金毘羅宮にはない」と「宣言」します。
印南敏秀氏もその著書の中で、次のように指摘します。
金毘羅の名が最初に登場するのは、元亀四年(1573)の金昆羅宝殿の棟札である。天文16年(1547)まで140年間続いた遣明船で祈られた航海守護の神仏の名が『戊子入明記』(天与清啓著、応仁二年(1468)には記されているが、そのなかには、金毘羅の名は見えない。ここには、住古大明神、伊勢大神宮、厳島大明、伊勢大神宮、厳島神社、不動明など、当時の神仏が列挙されている。金毘羅神は、それまではなく元亀4年ごろに初めて祀られたのかも知れない。
 住吉信仰から金毘羅信仰へ」(『海と列島文化 9 瀬戸内の海人文化』、 一九九一年、小学館発行)
  これは金毘羅宮の歴史は、古代にまで遡るものではないという立場表明です。金毘羅神は、近世になって宥雅によって新たに生み出されたのだという「金毘羅神=近世流行(はやり)神」説が認められるようになります。同時に、金毘羅大権現の形成も近世に始まると考えられるようになりました。16世紀末に松尾山(後の象頭山)に鎮座した金毘羅大権現が流行(はやり)神として急速に、発展していったことになります。
以後、研究者達が取り組んできた課題は次のようなものでした。
①金毘羅神が、いつ、誰によって創り出されたのか
②金毘羅神は、修験者の天狗信仰とどのような関係があるのか
③金毘羅神は、当初は海の神様とは関係がなかったのではないか
④金毘羅信仰の布教を行ったのは誰なのか
  近年に刊行された琴平町の町誌も、このような課題に答えようとする立場から書かれています。このような中で金毘羅神の創出を、讃岐に伝わる神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治の発展系であることを指摘したのが羽床正明氏です。
羽床氏は金毘羅神の創出、金比羅堂建立過程をどのようにみているのでしょうか
金昆羅堂の創建者は宥雅(俗名は長尾高広)です。これは最初に見たように、元亀四年の象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿の棟札で裏付けられます。宥雅はまんのう町長尾に居館を置き、その背後の西長尾城を拠点に勢力を拡大してきた在地武士の長尾大隅守高家の甥(弟?)でした。彼が悪魚退治伝説の「悪魚 + 大魚マカラ + ワニ神クンピーラ」を一つに融合させ、これに「金昆羅王赤如神」という名前を付けて、金昆羅堂を建てて祀ったと羽床氏は考えています。
長尾高広(宥雅)は、空海誕生地とされる善通寺で修行したようです。
そのため「善通寺中興の祖=宥範」の名前から宥の字のついた「宥雅」と名乗るようになります。
称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺は現在の金毘羅宮神田のある「大西山」にあった寺院

そして、善通寺の奥の院であった称名院を任されるようになります。称名院は現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院で、道範の「南海流浪記」にも登場します。道範が訪れた時には九品僧侶の居住する阿弥陀信仰の念仏寺院だったようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅が入ったのは元亀元年(1570)頃と羽床氏は考えます。
1象頭山 地質

 称名寺の谷の上には、松尾山の霊域がありました。
ここは花崗岩の上に安山岩が乗った境で、花崗岩の上は急傾斜となり、窟なども多数あって修験者たちの行場ともなっていたようです。この霊地に宥雅は、新たな寺院を建立します。それを勢力増大著しい長尾氏一族も支援したようです。羽床氏の説を年表化すると以下のようになります。
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂(松尾寺本堂)建立
1573年  四段坂の下に金比羅堂建立
 松尾寺の中腹にあって荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。有名なものは何でも使おうとする姿勢がうかがえます。
 そして三十番社の祠のそばに観音堂(本堂)を建立します。つまり、松尾寺の本尊は観音さまだったようです。その後に、松尾寺の守護神を祀るお堂として建立されたのが金毘羅堂だったと研究者は考えているようです。
境内変遷図1

それでは金比羅堂は、どこに建てられたのでしょうか?
宥雅は「金毘羅王赤如神」は創造しましたが名前けの存在で、神像はつくられず、実際に本尊として祀られたのは薬師如来であったと羽床氏は考えているようです。
 ワニ神クンピーラの「化身」とされたのが宮毘羅大将です。宮毘羅大将が仕えるのは薬師如来です。こうして、金毘羅堂の本尊は、宮毘羅大将をはじめとする薬師十二神将を支配する薬師如来が安置されたようです。

1金毘羅大権現 創建期伽藍配置
現在の本宮がある所は、かつては松尾寺の本堂である観音堂がありました。
観音堂に続く四段坂という急な階段の下の北側に、最初の金毘羅堂は建てられたようです。それが元和九年(1623)には、現在旭社がある所に新たに新金昆羅堂がつくられます。その本尊が薬師如来だったためにいつの間にか薬師堂という呼び名が定着します。そのため「新金昆羅堂→薬師堂」となってしまいます。 新金毘羅堂ができると、それまでの旧金昆羅堂は役行者堂とされ、修験道の創始者役行者が祀られるようになります。ちなみに幕末になると、薬師堂(新金毘羅堂)をさらに大きく立派なものに建て直してすことになり、文化十年(1813)に二万両という寄進により建立されたのが「金堂(現旭社)」になるようです。落慶法要の際には、金堂には立派な薬師如来と薬師十二神将が安置されていたようです。これも明治の廃仏毀釈で、オークションに掛けられ売り払われてしまいました。金刀比羅宮で一番大きな木造建造物の金堂は、明治以後は旭社と呼ばれ、いまはがらんどうになっています。
「金比羅堂 → 薬師堂 → 金堂 → 旭社」の変遷を追いかけ過ぎたようです。話を宥雅にもどしましょう。
 宥雅の松尾寺建立事業に影響を与えた人物が宥範であると、羽床氏は考えます。
 善通寺で修行した宥雅にとって、宥範は憧れのスーパースターです。宥範は、当時の中讃地域においては空海に次ぐ知名度があった僧侶のようです。宥範の弟子の宥源が著した『宥範縁起』を、宥雅は書写しています。宥範が善通寺復興のために勧進僧として、日本各地の寺を訪れ活躍したことをよく知っていました。宥範のように新たな寺を作り出すというのが彼の夢として膨らんだとしておきましょう。それを実行に移すだけのパトロンが彼にはいました。それが西長尾城の長尾一族です。宥雅の松尾山に新たな寺院を建立し、庶民信仰の流行神を祀るという夢が動き出し始めます。
金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「松尾寺=金比羅寺」の開祖にするための「工作」について見てみましょう。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていて、松尾寺や金毘羅の名は出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
意訳変換しておくと
「善通寺の宥範は、姓は岩野氏で、讃州那賀(仲郡)の人である。…そこで、猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。すると、神が現れて日く、「我は天竺の神である、摩但哩(理)神和尚を加持して、霊山の霊力を贈ろう。…その後、宥範は金毘羅(松尾寺)を開き、禅坐し修学に励んだ。そして寛(観)庶三年(1352)七月初朔、83歳で亡くなった」
ここでは、「宥範が「幼年期に松尾寺のある松尾山に登って金比羅神に祈った」ことが加筆挿入されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせるやり方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、書き留められています。「古い反故にされた紙に書かれていたものを写した」というのです。このように宥雅が、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。
 宥雅は松尾寺本堂には十一面観音立像の古仏(平安時代後期)を安置したと羽床氏は考えます。この観音さまは、道範の『南海流浪記』に出てくる称名寺の本尊を移したものであり、もともとは、麓にあった小滝寺(称名寺)の本尊であったとします。
 尊敬する宥範は、かつては称名寺に住んでいたと『宥範縁起』には記されています。
ここから宥雅は、宥範を松尾寺の初代別当とする系譜をつくりだします。そして、現在書院がある所に宥範の墓をつくり、石工に宥範が初代別当であると彫らせます。こうして宥雅による「金光院初代別当=宥範」工作は完了します。
こうして最初に見た「讃州象頭山別当職歴代之記』には、松尾寺の初代別当の宥範であると記されるようになります。ここまでは宥雅の思い通りだったでしょう。四国霊場の多くの寺が、その縁起を「行基開山 弘法大師 中興」とするように、松尾寺も「宥範開山 宥雅中興」とされる筈でした。
羽床雅彦氏は、宥雅によって進められた松尾寺建立計画を次のように整理します
①松尾寺上の房 現本社周辺で三十番社・本堂(観音堂)・金比羅堂
②松尾寺下の房 図書館の上 称名院周辺
 ①と②の上の坊と下の坊を合わせた松尾寺が、宥雅によって新しく姿を見せたのです。
それでは、宥雅が歴代院主の中に入っていないのは何故でしょうか?
文政二年(1819)に書かれた『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)には、次のように記されています。
宥珂(宥雅)上人様
当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳。高家処々取合之節加勢有し之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持レ之、泉州堺へ御落去。故二御一代之列二不入レ云。
意訳変換しておくと
宥雅様は讃岐の西長尾城主である長尾大隅守高家の甥にあたる。金光院に入ったのは、いつか分からないが、土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入し、長尾高家と争った際に、長尾方に加勢したため、戦が不利になると、当山の旧記や宝物の過半を持って、泉州堺へ亡命した。そのため当山の歴代院主には入れていないと云われる。

 ここからは宥雅が建立したばかりの松尾寺を捨て置いて、堺に亡命を余儀なくされたことが分かります。同時に、金毘羅大権現の旧記や宝物の過半を持ち去ったという汚名も着せられています。そのため歴代院主には入れられなかったというのです。
それでは主がいなくなった松尾寺は、どうなったのでしょうか?
土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」

意訳変換しておくと
大隅南光院の祖は、讃州の金毘羅にいたところ、元親公の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは、慶長年中(1596~)に南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたことが分かります。寺山(延光寺)は現在の四国霊場で、土佐の有力な修験道の拠点でした。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は、無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していたことは以前にお話ししました。こうして松尾寺は、元親に従軍していた土佐足摺の修験者である南光院に与えられます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺を元親の讃岐支配のための宗教センターとして機能させていきます。それに協力したのが高野山から帰ってきた宥盛です。宥雅からすれば、南光坊(宥厳)や宥盛は長宗我部氏の軍事力を後ろ盾にして、松尾寺を乗っ取った張本人ということになります。
 慶長五年(1600)元親から延光寺を賜った宥厳は土佐に帰ります。替わって弟子の宥盛が別当になります。慶長十年(1605)宥厳は亡くなり、宥盛は、先師宥厳の冥福書提を祈って如意輪観音像を作っています。
 これに対して宥雅は松尾寺返還を求めて、領主である生駒家に宥盛の非をあげて訴え出ています。
この経過は以前にお話ししましたので省略します。結果は宥盛は生駒家の家臣であった井上四郎右衛門家知の子であったためか、宥雅の訴えは却下されます。宥雅の完全敗訴だったようです。
松尾寺に帰ることができなくなった宥雅のその後は、どうなったのでしょうか?
 羽床雅彦氏は、野原郷(高松市)に移っていた無量寿院に寄留したと考えているようです。この時宥雅は、56才になっています。このような宥雅に対して宥盛は次のように指弾します。
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」

と宥雅を「まひすの山伏なり」と断罪します。
 宥雅との訴訟事件に勝利した宥盛は、強引に琴平山を金毘羅大権現のお山にしていくことに邁進していきます。金毘羅大権現の基礎を作った人物にふさわしい働きぶりです。これが後の正史には評価され、金毘羅大権現の実質的な「創始者」として扱われます。宥盛は、今は神として奥社に祀られます。
 一方、金毘羅神を生み出し、金比羅堂を創建した宥雅は、宥盛を訴えた元院主として断罪され、金毘羅大権現の歴史からは抹殺されていくことになるのです。
以上をまとめると、
①松尾寺初代別当とされる宥範僧正は松尾寺初代別当ではなかった
②松尾寺の初代別当は長尾氏出身の宥雅だった。
③宥雅が宥範を松尾寺初代別当にしたのは、新しく創設された松尾寺や金毘羅堂の箔を付けるために宥範という著名人のネームバリューが欲しかったためだった
④松尾寺を創建した宥雅は、土佐の長宗我部元親の侵入時に堺に亡命した
⑤長宗我部撤退後に、院主となっていた宥盛を訴えて裁判を起こしたが全面敗訴となった
⑥宥盛は後の世から実質的な創始者とされ、宥盛に背いた宥雅は正史から抹殺された。
 宥盛が金毘羅神の創始者であり、金比羅堂の創建者であることは事実のようです。歴史的には、金毘羅大権現の創始者は宥雅だと云えるようです。
 正史は、次のように記されています 
初代宥範 → 二代宥遍 → 三代宥厳 → 四代宥盛   

 しかし、本当の院主は
初代宥雅 → 二代宥厳 → 三代宥盛 → 

とするのが正しい系譜であると研究者は考えているようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献
       「羽床雅彦  宥範松尾寺初代別当説は正か否か?  ことひら65号 平成22年」です
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金毘羅大権現が発展していく礎石となったのが、生駒家時代の寄進地でした。
何回にも分けて金毘羅に寄進された石高は330石になります。
これを他の寺院と比較してみると寄進地が圧倒的に多いのが分かります
①2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石
②3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石
③国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院(善通寺)でも60石程度。
⑤白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの新興宗教団体の「金毘羅大権現」に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツという女性の力があったことを以前にお話ししました。
生駒一正 - Wikipedia
生駒家2代藩主・一正
 
一正の愛したのが於夏(オナツ)です
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を三豊の山下家で産んでいます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 
寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。 金毘羅大権現への寄進・保護を進めたのも於夏とその子ども達です。
オナツと金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか? 
それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。
この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 1613~45年まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。宥睨が金毘羅の院主となった慶長18年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。オナツを中心に強力な「金毘羅大権現の応援団」が生駒藩には形成されていたのです。そのメンバーを確認しましょう。
①2代目・一正未亡人の於夏
②一正とオナツの息子で藩内NO2の石高を持つ筆頭家老・生駒左門
③一正とオナツとの間に生まれた娘山里(?実名不明)(左門の妹)
④於夏の娘山里③が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
⑤於夏の娘山里③の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、外戚山下家の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたのが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進になるようです。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒藩・重臣達の屋敷配置

オナツの娘(山里?)について、生駒記には次のように記されています
家嫡正俊、讃岐守ニ任ジ四品二叙シ家督相続ス。二男左門ハ五千石宛行、家老並ニナル。女子一人猪隈人納言公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル。
意訳すると
生駒家二代一正は、長男正俊を讃岐守に任じ四品を叙任し家督を相続させた。二男左門(正俊異母弟)には、五千石を知行させ家老並に扱った。女子一人(山里?)は、猪隈人納言公忠公に嫁がせたが故ありて高俊の代になって国に戻ってきた。

この様に史書は一正の息女が猪隈大納言へ嫁しことを伝へています。
しかし、「公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル」とあり、京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが「故あって」懐胎したままで讃岐に帰ってきます。なぜ帰ってきたのでしょうか、しかも懐妊状態で?
 前置きが長くなりましたが「謎の女・オナツの娘(山里)」について紹介した文章に出会いましたので紹介したいと思います。
テキストは「山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年」です。
ここには、宮中一の美男子と云われた猪熊大納言公忠卿に嫁した「オナツの娘(山里)」が、なぜ懐胎したままで讃岐に還ってきた理由が明らかにされています。史料を見てみましょう。
幕末の金光院の役人山下盛好の覚書の一文です。

1オナツの娘の離婚理由

意訳して見ましょう
後陽成天皇 慶長十三(1608)年3月、
猪隈侍徒教利(この家は今は絶家となっている。生駒一正侯ノ女、猪隈大納言公忠公に嫁いだと記録にあるのは、この教利の一族のことである)
鳥丸参議光廣公(同家六代目ノ所に見える人物である)
花山院少杵忠長公(同家の系譜からは削除されたのか見えない。今の花山家とは別かもしらない。
徳大寺少特実久公(同家十九代目である)
飛鳥井少将雅賢公(同家十四代目である)
難波少膳宗勝(同家十四代目である)
松本少格宗隆等
以上の者達が共に結んで蕩遊し、密かに宮女五人を誘い出し、これを姦した。(内二人は実承寵幸)
これを知った後陽成天皇は震怒し、
1オナツの娘の離婚理由

家康公の京都所司代・板倉四郎左衛門宗勝に告発し、糾すように求めた。慶長14年(1609)11月に次のような処分が下された。
猪隈教利は斬首 宮女五人を八丈島に流した。宗隆・頼国は硫黄島、忠長を松前(北海道)、雅賢は隠岐、宗勝は伊豆へ流された。光廣・実久の二人は、許しを得て位階を復活させた。この引書は、逸史・続国史略・王代一覧に書かれていることに依った。
  これはなかなかスキャンダラスな内容のようです。いまの週刊誌風に表現すると
イケメン貴族達 宮女5人と乱交バーテイー
 天皇は激怒し 首謀者は斬首
というようなタイトルが飛び交いそうです。

報道には「裏をとる必要」があるので、別の資料にも当たっておきましょう。
「高橋紀比古 江戸初期の宮中の風紀紊乱について 平成元年、歴史読本臨時増刊号 」に、は次のような内容が載せられています。
   徳川幕府が成立し戦国時代の窮乏からは解きはなたれたものの政治から隔離された生活をしいられるようになると公家衆の風紀は著しく弛緩してゆく。宮廷随一の美男子ともてはやされると右近衛権少将猪熊教利は、女官との愛に溺れて素行がおさまらず、慶長十二年(1607)2月に勅勘をこうむり、京から出奔した。一説に相手の女官は後陽成天皇の寵をうけていたという。ところが事件発覚後も宮中の気風はいっこうに改まらず、慶長十四年七月には典薬の兼康備後なる者が手引きをし、参議鳥丸光広・左近衛権中将大炊御門頼国ら公卿と典侍、広橋氏、権典侍中院氏らの女官が、今でいう乱交パーティーをくりひろげた。
この一件を知った後陽成天皇は激怒、公卿の官位を剥奪し、女官をそれそれの実家に帰し禁錮にした。さらに天皇は出奔して行方知れずの猪熊教利を捕縛のうえ乱交に加わった男女ともども極刑に処するよう幕府に求めた。
 これにたいし徳川家康は、同年11月に教利が日向国で逮捕されると、京へ押送させ、兼康備後とともに死刑にした。しかし、天皇の御母新上東門院や女御近衛氏による助名嘆願もあって鳥丸光広、徳大寺実久を無罪。他の公卿、女官を配流とするにとどめた。
   金光院の山下家の文書と現代の歴史学者の説は一致しているようです。一正とオナツの娘(山里)、故あって懐胎したままで讃岐に帰ってきた背景には、こんなスキャンダルに巻き込まれたからのようです。
山下家の記録には、一正とオナツの子ども達が次のように記されています。
  一男ハ生駒左門
西村大屋舗(現在―三豊郡山本町)(山下盛久宅ナリ)ニテ誕生、慶長五子年也
幼名 熊丸卜云、九才ノ時
南無天満大自在天神卜染筆有、今宗運寺(山下盛久建立)ノ什物也
連技家老トナリ五千七十石
寛永十七辰年生駒家没落、作州森美作守侯へ御預、五十人扶持ニテ為方卜有
万治三子年五月九日死去六十一才
体本院雄心全功居士
女子 猪隈大納言公忠卿二嫁ス
(逸史略、続国史略、慶長十四年六月猪隈侍徒斬罪ノ吏有)
有故高俊侯ノ代国二返り有胎ノマヽ一子ヲ生ム 後生駒特監二再嫁ス生駒帯刀ノ継母ナリ
意訳すると
逸史略、続国史略には、慶長十四年六月に猪隈侍徒斬罪となったことが記される
そのため三代高俊侯の時に、懐妊状態で讃岐に帰り、男子を産んだ。その後、生駒特監に再嫁し、生駒帯刀の継母となった
一子ハ生駒河内(猪隈大納言公忠卿の子) 
釆地三千石余被下置、生駒騒動二際シ追放サンル。子孫、高松二有卜云フ
                                (以上、山下家譜)

どうして、一正は娘を公家に嫁がせたのでしょうか?
理由のひとつは、一正が戦国武膊の悲情さ・無常さを充分味って、栄枯盛衰の少ない公家社会へ嫁がせたという説です。生駒家も関ヶ原の戦いでは、父親親正と子の一正は豊臣方と徳川方に引き裂かれました。また、勝ち馬に乗れなかった武人達の末路も見てきました。一正の心の中には「可愛い愛娘は、武将の嫁より宮廷人の嫁へ」と思ったのかもしれません。
第二の理由は、宮廷人(九条家)と姻戚関係を結ぶことで、生駒家の権威を得ようとしたのかもしれません。
しかし、選んだ相手が悪かったようです。こんなトラブルに巻きこまれようとは、おもってもいなかったでしょう。懐妊して讃岐に身も心も疲れ切って帰ってき娘にかける言葉もなかったのではないでしょうか。黙って見守った一正の心配りは父親としての愛情を感じさせるものでした。父なし子として産まれてきた子を自分の養子として育てます。そして後には、家老並みの知行を与えています。また母親となった山里には、家老・生駒格監の後妻として再婚させています。
 こうして、山里は新たな伴侶と幸せに暮らせたかと云えば、そうではなかったようです。
 再婚相手の生駒生駒格監も寛永9(1632)年に亡くなります。この病死については、毒殺説もあるようです。この頃から生駒家では、外戚山下家の権勢に反発する空気が広がっていきます。
それが生駒家騒動につながります。この結果、(山里)につながる人たちは次のような道を歩みます
①継子 帯刀は、松江藩松平家預五十人扶持
②兄 左門(連技家老5070石)は、美作藩森美作守侯へ御預、五十人扶持。万治三子年五月九日死去六十一才
③一子 生駒河内(釆地三千石) 追放サレル。子孫高松二在リト伝ヘラル          (山下家家譜)
この様に山里は、二人の夫、継子、兄、実子と別れ別れになります。彼女の晩年を伝へるものは、何一つ残されていないようです。継子と共に松江へ移ったか、兄と共に作州へ、それとも実子とともに追放され高松近在で余生を送ったのか分かりません。
一正とオナツの娘を「山里」と呼んできましたが、これも実名かどうかも確かには分からないようです。
彼女が、どこで亡くなり、どこに墓があるのかも分かりません。讃岐17万石の大名の息女として、産まれ京都の公家の嫁として旅だって行った頃には、その先にこんな展開が待ち受けているとは思ってもいなかったでしょう。
 母オナツと彼女につながる山下家の血縁が、生駒家の中で外戚として、大きな政治勢力となり、それが新興宗教施設の金毘羅大権現にとっては大きな力となったことを、記しておきたいと思います。
 最後まで、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年

 


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂にあった十一面観音像が迎えてくれます。
11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
DSC01221
         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
DSC01222

この十一面観音が神仏分離以前には、松尾寺の観音堂に安置されていたようです。

2.象頭山山上3 ピンク
本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

私はてっきり、この観音さんが本尊だとおもていたのですが、そうではないようです。江戸末期の『金毘羅参詣名勝図会』には、観音堂の本尊は「聖観音菩薩」で、この「十一面観音」は本尊の「前立て」として安置されていて、「古作」であると記されています。江戸末期には、化仏も失われ、花瓶も失われていたので、前立てとして脇役の位置に甘んじていたようです。

DSC01029観音堂

 さて、本題に入っていきます。観音堂が松尾寺の本堂として最初に創建されたのは戦国時代末でした。十一面観音の方は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会)

ここからは、創建された本堂に、どこからか十一面観音を持ち込んできて、いつの時代からは聖観音とされていたことが分かります。

金毘羅観音堂略図
十一面観応が安置されていた観音堂平面図
 それでは、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。

金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

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滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば

「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」

という説とも矛盾しないというのです。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。

「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説

は、紙一重で生き残っていることになります。実は、これは金比羅神の本地物問題とも関わってくることのようです。そして、研究者が頭を抱えている問題でもあるようです。ここでは十一面観音が滝寺からやって来たということは、認められない立場の研究者の説を見ていくことにします。

称名寺 「琴平町の山城」より
金刀比羅宮神田の上にあった称名寺

十一面観音は、麓の称名寺からやってきたという説もあります。
称名寺の本尊については、道範は何も記していません。江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。

「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

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称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場としても機能していたようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。
 金比羅神を創出し、金比羅堂を建立した宥雅にとって、十一面観音はどうしても手に入れ、安置したい仏でした。なぜなら金比羅神の本地物は、十一面観音とされていたからです。十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について、触れておきます。
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称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺及び金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。
 (表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。
大麻山と象頭山 A
象頭山
松尾寺のある象頭山は霊山で、修験者の行場も数多くあります。
最初に、ここに行場を開いたのは熊野行者であったようで、熊野行者が祀る薬師如来を本尊として松尾寺が開かれたようです。そのため金毘羅堂では「金毘羅王赤如神」を祀っていても、松尾寺の本尊は薬師如来で、それを春族の宮毘羅大将をはじめとする十二神将が守るという形がとられていた研究者は考えているようです。

 しかし、金毘羅神の本地仏は十一面観音なのです。
十一面観音を本尊とする本地堂(観音堂)が新たに必要になります。そのため寛永元(1624)年までには観音堂が、現在の金刀比羅宮本社前脇に建ってられたようです。そして、ここに十一面観音を安置することで、金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立されることになります。
次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

とあって、ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。
 法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような悪魚退治伝説が、伝えられてきました。
 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治伝説
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。宥雅は、西長尾城城主の弟とも甥とも云われます。彼は長尾氏一族の支援を受けて、1573年に松尾寺境内に金毘羅堂を創建します。その数年前の1570年頃には、十一面観音を本尊として祀る松尾寺を、長尾城主の長尾大隅守高家を始めとする一族の支援を得て建てます。
 新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます
 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。
そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には

松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神 
=その本地仏・十一面観音

という図式があったのかもしれません。逆に考えると、十一面観音を本地物とする蕃神を新たな松尾寺の守護神とすることを、提案したのは良昌だったとも小説なら書けそうです。もちろん、悪魚伝説もセットになります。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。
年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584  讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。

以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
  と古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった

最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


5金毘羅大権現 天狗信仰1

 広重の東海道五十三次には、沼津(保永堂版)、四日市(狂歌五十三次)などに、蓋のない箱に、大きい天狗面を入れて、背中に負った山伏姿の人物が描かれています。
5金毘羅大権現 天狗信仰2


竹久夢二の「昼夜帯」、「夢二画集旅の巻」にも、同じような図があるそうです。
天狗面を背負った人たちは、どこに向かっているのでしょうか
藤村作太郎氏は「日本風俗史」の中で、天狗面を金毘羅に奉納しに行く姿だと指摘しています。
確かに、金毘羅大権現(現金刀比羅宮)への天狗絵馬の奉納は多かったようです。幕末に編集された「扁額縮図」には、江戸、下総、紀州などから奉納になった天狗面の絵馬約十点が収められています。その中には、金毘羅権現別当金光院の役人矢野延蔵外二名が奉納したものもあります。彼らが天狗信仰=修験者たちであったことが分かります。

天狗面を背負う行者

天保4年には、仙台の三春屋善七が小天狗の面を奉納しています。

金毘羅への信仰が深かった先祖が、狩場で異相の行者から、その信仰を愛でて授かったもので、種々の奇瑞を起こした面だったようです。私蔵するにはもったいないと、千里の道を越えて、奥州仙台から金毘羅さんにやってきて奉納したとの由緒が付けられています。

DSC01239天狗面

金毘羅大権現の霊験記の最初は、南月堂三著作(明和六年)のものとされます。
5金毘羅大権現 天狗信仰3

この中には翼のある天狗が、左手には羽うちわを、右手には子供の襟首を掴んで雲に乗っている図が見開一ぱいに描かれています。雲は雷雲のようで地上には雨と風をもたらしています。ここからは天狗が雨を降らせる雨乞信仰の対象にもなっていたことがうかがえます。どちらにしても金毘羅さんは、
クンピーラ=金毘羅大権現=天狗信仰=山岳信仰=修験者たちの行場・聖地

という風に当時の人々の中では、つながっていたようです。

江戸時代の「日本大天狗番付表」からは、当時の天狗界の番付が分かります。
5金毘羅大権現 天狗番付

 西の番付表を見てみると・・・
横綱   京都 愛宕山栄術太郎
出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼
大関   京都 鞍馬山僧正坊
関脇   滋賀 比良山次郎坊
小結   福岡 彦山豊前坊
出張小結 香川 白峯相模坊
前頭   愛媛 石槌法起坊
同    奈良 葛城山高天坊
同    奈良 大峯菊丈坊
同    熊本 肥後阿闍梨
同    京都 高雄内供奉
同    京都 比叡山法性坊
同    鳥取 伯耆大仙清光坊
同    滋賀 伊吹山飛行上人
同   和歌山 高野山高林坊
同    広島 厳島三鬼坊
同    滋賀 横川党海坊
同    京都 如意ヶ嶽薬師坊
同    香川 象頭山金剛坊
同    岡山 児島吉祥坊
同    福岡 宰府高垣高森坊
同    滋賀 竹生島行神坊
同   鹿児島 硫黄島ミエビ山王
同   鹿児島 硫黄島ホタラ山王
同    高知 蹉蛇山放主坊
同    香川 五剣山中将坊
同    香川 象頭山趣海坊
  横綱・大関には京都の愛宕山や鞍馬山の名前が見えます。出張小結には、白峯相模坊(坂出市白峰寺)があります。さらに前頭には讃岐から「象頭山金剛坊 五剣山中将坊 象頭山趣海坊」の名前があります。讃岐が天狗信仰が盛んで修験者たちが活発に活動していたことがここからはうかがえます。
 もうひとつ分かることは、象頭山が修験者たちの活動の拠点となっていたことです。金剛坊以外にも趣海坊という名前もあります。白峰寺や五剣山は四国霊場の寺院として、山岳信仰の趣を今に伝えています。しかし、象頭山は明治の神仏分離で修験道が排除されたために、現在の金刀比羅宮の中に天狗信仰を見つけ出すことは難しくなっています。ただ奥社には、金毘羅大権現の開祖とされる修験者の指導者宥盛を神として祀っています。そして宥盛の修行ゲレンデであった奥社の断崖には、天狗面が今でも掛けられていることは以前にお話しした通りです。
5金毘羅大権現 奥社の天狗面
金刀比羅宮奥社の天狗面

 象頭山は、白峰寺や五剣山と並ぶ讃岐の修験者の活動の拠点だったことがうかがえます。ここを拠点に、修験者たちは、善通寺の五岳の我拝師山で捨身修行を行い、七宝山の不動瀧などの行場を経て観音寺までの行場ルートで修行を行っていたようです。これが、西讃地方の「中辺路」ルートであったと私は考えています。近世以前の庶民の四国遍路が成立する以前のプロの修験者による行場巡りでは、象頭山は聖地で霊場であったのです。
天狗像

 霊場江戸初期に善通寺が金毘羅大権現の金光院を、末寺であると山崎藩に訴えています。善通寺の僧侶は金光院を、同じ真言宗の修験道の同類と認識していたことが分かります。彼らは修験者としては修行仲間であったかもしれません。そして、象頭山(大麻山)と五岳という行場を互いに相互に乗り入れていたのかもしれません。

地元の幕末の詩人、日柳燕石は天狗の詩も遺しています。
夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢順かんと欲す、
夜深くして天狗来りて翼を休む、十丈の老杉揺いで声あり
また、老杉の頂上里雲片る。夜静かにして神扉燈影微かなり
道士山を下って怪語を伝ふ、前宵天狗人を擢んで飛ぶ
象頭山の夜は、深い神域の森を天狗が飛び回っているというのです。
私も天狗捜しに何回か夜の金毘羅さんにお参りしました。ソラをゴウー音を立てて飛び交う天狗に出会いましたが、野鳥の会のメンバーに言わせると「それは、ムササビや。金毘羅さんには多いで」とのこと
5金毘羅大権現 天狗伝説9

各地の金毘羅さんは、だれが勧進したのか?
高知県の足摺岬に近い津呂の琴平神社は、もとは、現在の神主の先祖寿徳院が、象頭山を拠点に諸国修行中に、この浦にやってきてた。その際に背負ってきた肩から両翼の生えた山伏像を祀ったのに始まると伝えられています。「両翼の生えた山伏像」とは、金毘羅大権現とも考えられます。
長崎市浦上の金刀比羅神社は、
5金毘羅大権現 長崎の金毘羅大権現

江戸時代は無凡山神宮寺と呼ばれていました。その起源は、寛永元年、島原生れの修験常楽院快晴が、金毘羅大権現を勧進し、真言修験の霊場としたことがはじまりです。その後宝永三年に、瓊杵山山頂の石窟に、飯繩、愛宕の2神を併せて祀ったようです。ここは領主の崇敬受け、庶民の信仰を集め、長崎へ往来する中国人からの献納物も多かったようです。ここでも勧進者は修験者です。
 大坂千日前の法善寺の鎮守も、もともとは愛染明王で、役行者と不動明王と金毘羅を併せて三尊を鎮守としてきました。
象頭山からは御札等を受けて安置していましたが、愛染明王、役行者よりは金毘羅神の方が信者が多くなります。燈寵等を献納する者も多く、金毘羅堂と呼ばれていた時期もあったようです。金比羅神をもたらしたのは、ここでも金比羅行者のようです。
最後に横浜のこんぴらさんを見てみましょう
横浜の大綱金比羅神社には「大天狗の像」が安置されています。
5金毘羅大権現 横浜天狗信仰3

この天狗の伝承は、次のように伝えられています。
 江戸の天狗隠者が金毘羅大権現へ大天狗像を奉納しようと、江戸を出発します。天狗像を担いで東海道を歩み始めました。ところが神奈川宿で一泊したところ、翌日には大天狗が岩のような重たさになり、担げなくなってしまいました。
 使者はどうすることもできません。神奈川宿にもう一泊滞在することにしました。するとその晩、使者の夢に天狗様が現れ、
「この地の飯綱神宮に留まりたいので、この地に私を置いていくように」とお告げがあったそうです。それを聞いた使者はそのまま大綱神社に奉納し、「大天狗の像」で祀られるようになりました。

奉納された大天狗像は「聖天金毘羅合社」として境内末社の扱いを受けて祀られるようになります。つまり、「天狗=金比羅さん」というイメージが当時の人たちにはあったことがわかります。飯縄神社も金毘羅さんも「修験道」と関わりが深く、天狗伝説が色濃いところですから、違和感なく習合し、次第に両神社は切り離せないものになっていきます。ここにも、金比羅行者の活躍と布教活動があったことがうかがえます。

5金毘羅大権現 横浜天狗信仰2

 明治の横浜開港後は、海の神である金毘羅信仰の方が人気が高くなります。そこで飯綱権現と金刀比羅が合祀され、大綱金比羅神社となります。しかし、地元の人々からは「横浜のこんぴらさん」と呼ばれるようになっていったようです。後からやってきた金毘羅さんに飯縄さんは乗っ取られた格好になったようです。境内には山岳信仰のシンボルとも言える「天狗像」が今も建っていて、天狗伝説が語り継がれています。

5金毘羅大権現 横浜天狗信仰4
 
このように金毘羅さんの全国展開は、天狗信仰と金比羅行者によるようです。
海の神様として、塩飽の廻船船乗りが全国に広げたというのは、以前にもお話したようにどうも俗説のようです。17世紀の塩飽船主が信仰したのは、古代以来の摂津の住吉神社です。住吉神社に塩飽から寄進された灯籠を初めとする奉納物は数多く見られますが、金毘羅大権現に寄進されたものは数えるほどしかありません。塩飽の地元に残る記録の中にも
「塩飽が昔から海の安全を祈願したのは住吉神社で、金毘羅さんは新参者」
と記したものがあります。
 「海の神様」と認識されるようになるのは、19世紀になってからです。それが全国的に広がるのは海軍の信仰を受けるようになってからのことになるようです。金毘羅さんの海の神様としての歴史は古くはないようです。
17世紀に金毘羅さんを全国展開させた立役者は、金比羅行者たちでした。そして、そのトレードマークは天狗だったのです。

 参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道

    


4 松尾寺

 琴平町の金丸座の下にある真言宗松尾寺は、現在でも「金毘羅大権現を祀る寺」という看板を掲げています。
松尾寺
明治の神仏分離の際に、象頭山金毘羅大権現の別当寺の金光院や塔頭の僧侶が還俗し、神社化するなかで、松尾寺(普門院)は時流に従わずに金毘羅大権現を仏式で祀り続けようとします。そのため松尾寺と金毘羅宮の間では、明治末に裁判にもなっています。
 神仏分離の廃仏毀釈の際には、山内の諸堂宇にあった仏さんのいくつかが難を逃れて「避難」してきています。その中に、弘法大師坐像があります。調査の結果、この像の内側には造立銘記が発見されました。そこから文保三年(1319)正月に二人の仏師によって作られたことも分かってきました。今回は、この弘法大師座像をみていくことにします。
テキストは 「三好 賢子  松尾寺木造弘法大師坐像について 県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年」です。この報告書を片手に見ていくことにします。 
予備知識として、次の4点を抑えておきます。
①銘がある弘法大師像としては、県内最古のもの
②後世に表面を彩色され、本来の風貌からやや遠のいている
③しかし、まなざしが穏やかで、他の像にはない温和な親しみやすい顔立ちである
④平成21年3月に、県指定有形文化財の指定を受けた。
4 松尾寺弘法大師座像

まずは全体像について、テキストには次のように記されています。
 椅子式の林座に践坐する通例の弘法大師像で、胸をはって上体を起こし、顔は正面を向き、視線をやや下方に落とす。頭部は円頂、後頭部下位はわずかに隆起し、首元はなだらかにつくる。鼻は鼻先の丸みが強く、鼻孔をあらわし、口は小さめで唇も薄く、一文字に結ぶ。
右手は強い角度で屈腎して胸前で五鈷杵をとり、左手は膝上におろして数珠をとる。
着衣は、内から覆肩衣、措、袈裟をまとう。覆肩衣は領を重ね合わし、ゆるくつきあわせて胸元を大きくひらく。腹部中央に祖を結びとめる紐をのぞかせる。左肩にはまわしかけた袈裟をとめる鈎紐をあらわす。
体幹部の正中線からみて頭部はやや左に傾いている。眉はわずかな稜線でうっすらとあらわされ、彩色が落ちた現状では眉の存在を捉えにくい。鼻はそれほど高くなく、鼻先が肉づさのよい団子鼻であり、目が上瞼線をゆるやかに下げ、耳や眉とともに左右非対称であることなどもあって、理想的に整えられた顔というよりは、現実的に存在するかのような人間味をもった顔貌である。 
【品質構造】
 ヒノキ材 寄木造 玉眼嵌入 本堅地彩色仕上げ
 空海の統合性(一)|高橋憲吾のページ -エンサイクロメディア空海-

 空海の肖像(御影)は、「真如親王様」と呼ばれる形式が多いようです。真如親王が書いたと云われる高野山御影堂の根本像のスタイルです。それは、やや右を向いて(画面では向かって左へ顔をむける)椅子式の鉢座に座って、左手に五鈷杵、右手に数珠をとる姿です。
 彫像も真如親王様のスタイルが多いようですが、向きが横ではなく正面を向くものがほとんどです。しかし、彫刻は、生きて永久の瞑想に入ったとする入定信仰を、具体的に意識させるために正面に向けた姿となっていることが多いようです。

4 松尾寺弘法大師座像2
 この像も、着衣方法などは真如親王様と同じで、テキストは次のように解説します。
胸元をひろく開けて覆肩衣を着し、腹部に祐の結び紐をのぞかせ、袈裟は偏祖右肩にまとい、左肩に袈裟をとめる鈎紐をあらわす。また、袈裟は左肩にて懸け留められる部分の下方の端が、左腕外へもたれ、その下にまわされている袈裟(かけ初めの部分)は、下端が右は膝頭にかかって膝下に垂れ込み、左端は膝前に畳まれている。このような左腕にかかる袈裟の処理は、画像・彫像を問わず空海像に共通してみられるものである。
 胸前から左肩にかかる袈裟が上縁を折り返し、その縁端が波うつようにたわむのも、空海像に共通してみられるものだが、本像では、わずかにうねる曲線の表現にとどまる。近い時期のものとして、和歌山遍照寺像や奈良元興寺像と比較してもその違いは明らかである。

 研究者にとって袈裟の表現が気になるようです。
「左肩の袈裟が波打つようにたわむ」表現が乏しく、絵画の描線のような硬さをぬぐいきれないと云うのです。さらに全体を通してみても、衣文や衣の動きには誇張的な表現もないかわりに、メリハリの効いた躍動感も乏しい。動的というよりは静的であり、穏やかにまとめられている」

このような印象を受けるのは、仏師が画像を手本に造ったためではないかと研究者は考えているようです。

  さて、この像の面白いのはここからです。  像の底です。
一木造りではなく、いろいろな木が寄せられて作られている寄木造りあることが、板から見るとよく分かります。内部は空洞で、底が半月型の底板がはめられていたようです。これは、後世にはめられたします。
4 松尾寺弘法大師座像3

その底板を外して中を見ると・・・・
4 松尾寺弘法大師座像4

びっしと文字が書かれています。墨書銘です。そして、この中央付近には、後世に入れられた木製五輪塔が打ちとめられ、その五輪塔の側面にも墨書銘が記されていました。
 まず、体内に書かれた墨書名は見てみましょう。
4 松尾寺弘法大師座像t体内銘4
    
 文字は、像の背面部を、平らに彫り整えたところへ墨書されています。筆は一貫していて、制作当初の造像記とみて間違いないと研究者は判断します。一番右側の一行が「讃岐国 仲郡善福寺 御木願主」と見えます。
ここには次のように記されていました。
 讃岐国 仲郡善福寺 御木願主
     弘法大師御形像壹鉢
右奉為 金輪聖皇天長地久御願圓満 公家安穏 武家泰平常國之事 留守所在庁郡内郷内庄内安楽 寺院繁昌惣一天風口(寫)四海口(温)泰乃至法界衆生平等利益也敬白 
大願主夏衆 偕行慶 偕宗円
文保三年己未正月十四日造立始之
大佛師唐橋法印門弟           
    法眼定祐
   小佛師兵部公定弁
 像の内部の造立銘記を見ていきましょう。
先ほど見たように「讃岐国仲郡 善福寺 御本願主」で始まります。最初にあれ?と思うのは。願主が「善寺」でなく「善寺」なのです。この寺は、角川地名辞典やグーグル検索でも出てきません。史料にも出てこない、私の知らない未知の寺です。こんな寺が中世の仲郡にはあったようです。
 研究者は「讃岐国仲郡善福寺御本願主」は「弘法大師」にかかる修辞句で「善福寺本願主の弘法大師」となるとします。善福寺という寺は弘法大師を本願主とする由緒をもっていたことになります。ここからは、願主は善福寺までは分かりますが、作られた本像がどこへ安置されたのかは分かりません。どうして、善福寺が大師本願寺だという由緒だけを書く必要があるのでしょうか。安置先が書かれないのは不自然です。
 研究者は、銘記の書き振りを再度確認し「讃岐国仲郡」「善福寺」「御本願主」の語句それぞれは間をやや離して記されていることに注目します。そして「讃岐国仲郡善福寺」「善福寺御本願主」と二つの語句を記すところを、「善福寺」の語が重なるのを避けたのではないかという「仮説」を出しています。そして「讃岐国仲郡善福寺、当寺御本願主」と理解し、弘法大師本願の善福寺が、自分の寺に安置したとします。しかし、この善福寺についてはこれ以上は分かりません。

造られた年については「文保三年(1319)己未正月十四日造立始之」とあります。
当時の仲郡や多度郡の宗教界の様子を年表で見ておきましょう。
1300 正安2 3・7 本山寺(現,豊中町)本堂(国宝),造営される.
1307 徳治2 11・- 善通寺の百姓ら,寺領一円保の絵図を携え,本寺随心院へ列参する
1308 延慶1 3・1 金蔵寺,火災にあい,金堂・新御影堂・講堂以下の堂舎が焼失する
   この年 僧宥範,善通寺東北院に入る(贈僧正宥範発心求法縁起)
1310 延慶3 3・- 善通寺蔵銅造阿弥陀如来立像,鋳造される.
1312 正和1 10・8 三野郡本山寺二天像,造り始める.130日で完成
1324 正中1 この年 白峯寺十三重塔.建立される.
1326 嘉暦1 この年 熊手八幡宮(現,多度津町)五輪塔,建立される.
1330 元徳2 4・8 僧隆憲,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院本堂の再建
1336 建武3 2・15 足利尊氏,那珂郡櫛無社地頭職を善通寺誕生院宥範に寄進
1341 暦応4 7・20 守護細川顕氏,宥範に善通寺誕生院住持職を安堵
1338~42      善通寺誕生院宥範,善通寺五重塔などの諸堂を再興

すぐに気がつくのは、現在の四国霊場の本山寺の本堂が建てられ、二天像が造られるなど活発な造営活動を展開しています。それ以上に目立つのが善通寺です。14世紀の前半は、宥範が登場し、善通寺の復興を進めている時です。この弘法大師像が造られたのも、中世の善通寺ルネサンス運動の流れの中でのことのようです。

願主として「大願主夏衆 偕行慶 偕宗円」と記されています。
これについては、研究者は次のように読み取ります
①「大願主夏衆」は「偕行慶」「偕宗円」両者にかかるもので、どこの寺院に属する僧かは分からない。「夏衆」は寺院によって、夏安居の修行僧をさす場合と、諸堂に勤仕する堂衆などのうち、仏への供花の役割を担った偕をさす場合のふたつがある。
②両名は「大願主」であったが、ほか複数の願主もいた可能性もある。願文のいう、公家の安穏、武家の泰平、讃岐国、そして留守所も在庁も、郡、郷、庄内いたるところすべての安楽を願うといった内容は、多くの僧俗が願主となっていたからだと思える。
③本像の造立には、地域の多くの僧侶や信者が関わっていたことが考えられる。
そして、この像が作られた時には、体内に造仏に関係した人々の名を記した納入品などが入れられたと研究者は考えているようです。

4 松尾寺弘法大師座像5

 次にこの像を作った仏師について見てみましょう。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分かりません。

体内からは,木製の五輪塔が出てきました。
4 松尾寺弘法大師座像体内五輪塔4
四本出てきたのではありません。それぞれ別の角度から写しています。一番右側の正面に書かれた文字を見てみましょう。
まず上から梵字五字でキャ、カ、ラ、バ、ア)で、五輪法界真言で。東方のことのようです。
その下に
権大僧都宥盛逆修 善根 

とあります。宥盛と云えば、金毘羅さんの正史が金毘羅大権現の開祖とする人物です。現在の金毘羅宮でも、その功績をたたえて彼を神として、奥社に祀っています。奥社に祀られているのは、宥盛です。
  これが入れられたのは、いつなのでしょうか?
「右側面」には、梵字五字で北方と記され、その下に
慶長九(1604)年甲辰三月廿一日敬白

と記されています。宥盛の活躍した年代とぴったりとあいます。
 これはいったいどういうこと? どうして宥盛の名前が入った五輪塔がでてくるのでしょうか。
五輪塔と一緒に二つ折りにして収められていたのが次の文書です。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4

  これも分かりやすい字体で、私にも読めそうな気がするくらいです。花押と重なっていますが、その上の二文字は宥盛と読めます。研究者は、先ほど見た五輪塔とこの文書の筆跡は同一人物だと判断しています。つまり、宥盛自筆の文書であり、宥盛の花押ということになります。ふたつは、慶長九年(1604)、空海忌日の3月21日に、金光院住職宥盛が書いたものにまちがいないようです。

木製五輪塔の納入文書にの内容を見てみましょう
 敬白真言教主大日如来両部界会一切三宝境界而
 奉採造弘法大師一鉢並三間四面御影堂一宇常山中古開山沙門権大
 僧都法印宥盛令法久住志深而偏咸端権現御前カタメ祈諸佛
 加被権現御前ヒレフス或時権現有御納受神変奇特顕ワル
 誠照不思儀一天是故一拝暫所望起叶悉地壹不崇哉不可仰
 々々々文爰貴賤上下投金銀弥財事春雨之閏似草木
 爰以僧都宥盛無比誓願ヲマシテ堂社佛閣建寺塔
 造佛像常山一カ建立畢如斯留授縁待慈尊成
 道春而已
   于時慶長九甲辰三月廿一口]常山中古開山沙門法印宥盛
                      (花押)
  奉供養佛舎利全粒二世安全所
これを入れたのは、先ほど見たように、象頭山金光院の宥盛です。
弘法大師像に奉採造(彩色)し、併せて三間四間の御影堂を山内に再建したとあります。その際に、宥盛自らが金毘羅大権現の御前で諸仏に祈ったようです。ここからは、弘法大師像が再興(本当は新建立?)された御影堂本尊として開眼されたことが分かります。「奉採造」とあるので、今の表面彩色は、この時に施されたようです。 

この像の足取りを整理しておきましょう
①弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置
②慶長九年(1604)、金光院住職宥盛によって新しく建立された御影堂の本尊として再デビューした。その時にお色直しされた。
ということでしょうか。
次の疑問は、どうして、金毘羅大権現にやってきたのかということです
  「仏像は栄えるお寺に自然と集まる。それは財力のあるお寺なので、集まってきた仏さんたちのお堂をつくることもできる。いまの四国霊場のお寺が良い例ですわ」

というのが私の師匠の言葉です。この大師さんは、善福寺が廃寺となり、勢いの出てきた金光院に移ってきたようです。それが宥盛の時代であったという所が私には引っかかります。
 金光院の宥盛について「復習」し、ひとつのストーリーを考えます。
流行神としての金比羅神を造りだし、金比羅堂を建立したのは、長尾城主の弟と云われる宥雅でした。しかし、宥雅は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命を余儀なくされます。変わって金光院院主の座についたのは、元親に従っていた土佐出身の修験者宥厳でした。土佐勢が引き上げ、宥厳も亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、堺に亡命していた宥雅は、後を継いでいた宥盛を生駒藩に訴えます。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた金比羅堂のお金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。新興勢力の金光院が成り上がっていくためには、山内における「権力闘争」を避けることができなかったことは以前お話ししました。
 このような「闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位が確立して行ったのです。宥盛の金光院を発展させるための闘争心を感じます。当時に「無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った」という宥雅の指弾からは、追放したり、廃寺に追い込んだ寺から仏像・仏具類の「財宝」を「収奪」したことがうかがえます。善福寺から奪ってきた弘法大師像を本尊として、新たな信仰施設を「増設」したのではないかとも思えてきます。
 当時の宥盛の布教活動は、非常に活発なものであったようです。金比羅神は何にでも権化する神なのです。それは、時として弘法大師にも権化したのかもしれません。

  大師堂は明治維新まで境内にあったようです。
志度の多和神社社人で高松藩皇学寮の教授であった松岡調が、金刀比羅宮に参詣したおりのことを『年々日記』に記しています。明治二年(1869)四月十二日条によると、神仏分離で神社化の進む境内を見て
「護摩堂・大師堂なと行見に内に檀一つさへなけれ

と記しています。ここからは大師堂はあったことが分かります。しかし、その中に安置されていた弘法大師像は、この時すでに外へ移されていたようです。「内に檀一つさへなけれ」と堂内は空っぽだったと伝えます。
 松岡調は、翌年には金刀比羅宮の禰宜に就任し、実質的な運営を彼が行うようになります。
明治5年5月になると、県にお伺いを立てて「入札競売を行い、売れ残った仏像・仏具は焼却処分にして宜しいか」と、問い合わせています。そして、県からの許可を得た6月末から仏像仏具などの競売が行われます。
松岡調の『年々日記』の明治5年6月から7月にかけては、次のような記述があります。(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕
6月5日 今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり
7月10日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ   
7月11日 御守所へものセり、十字(時)のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、

7月19日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、
7月21日 御守処へものセり、今日又商人つとひ来て、とかく云のヽしれハ、入札と云事をものして、刀、槍、鎧の類を金三十両にてうり、昨日庁へ書出セしを残置て、其余のか百幅にもあまれるを百八十両にてうり、又大般若経(大箱六百巻)を三十五両にて売りたり、今日にてワか神庫の冗物ハ、大かたに売ハてたり  
    
7月23日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり

 ここには具体的に買手がついたものとして、次のようなものが挙げられています。
①梵鐘が、榎井村の行(法)泉寺へ227円50銭で
②両界曼荼羅が善通寺へ金20両で
③刀、槍、鎧の類が金三十両で落札され
④万燈堂にあった大日入来の銅像は金六百両で
 そして買い手のなかった仏像・仏具類は焼却されます。この中に、松尾寺の弘法大師像は入っていなかったのです。
どのようにして松尾寺にもたらされたのでしょうか?
①松尾寺が入札し、買い受けた
②混乱の中で密かに、松尾寺に運び入れた。
先ほどの入札売買リストの中に弘法大師像はありませんでした。それ以前に、すでに松尾寺に運び込まれていたのかもしれません。
最後に、この座像のたどった道をまとめておきます。
①14世紀に善福寺
②17世紀初頭に金毘羅大権現の金光院へ 
③明治の神仏分離で松尾寺へ
という変遷になるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 三好賢子 松尾寺木造造弘法大師坐像について
    県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年

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 今から40年ほど前の1979(昭和五十四)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。
その指定を記念して、金刀比羅宮から調査報告書三巻が出されました。三冊の報告書は非売品です。図書館で借りだしては眺めるようになり、今では私の愛読書のひとつになりました。

1 金毘羅年表1

この報告書に続いて出されたのが「年表編」です。

 最初、この年表を手にしたとき驚きました。近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。
 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった
筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。
 
DSC01034
そしてこの年表は、次の項目から始まります。      
1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か),矢一手を奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親,松尾寺仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久,松尾寺に制札を下す。
       10.19仙石秀久,金毘羅へ当物成十石を寄進。
                                                                以下略
 それまで金毘羅さんの歴史としては、以下のような事が説かれ、その由緒の古さや崇徳上皇とのつながりをのべてきたものです。それがすっぱりと落とされています。
 それまで書かれていた近世以前の金毘羅大権現の年表
長保3年 1001 藤原実秋、社殿、鳥居を修築。
長寛元年 1163 崇徳上皇参拝。
元徳3年 1331 宥範 宥範、善通寺誕生院を再興。
建武3年 1336 宥範、足利尊氏より櫛梨社地頭職が与えられた。
観応元年 1350 別当宥範、当宮神事記。
観応3年 1352 別当宥範没。
康安2年 1362 足利義詮、寄進状。
応安4年 1371 足利義満、寄進状。
 崇徳上皇との関係も書かれていません。宥範のことにも触れられません。尊氏や義満からの寄進も載せません。これを最初見たときには驚きました。そして、研究者としての「潔さ」と、その出版を認めた金毘羅宮の懐の深さに感心したのを覚えています。
 後で振り返ってみれば金毘羅研究史にとって、ひとつの節目となるのがこの「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」だったように思います。後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、
「近世以前の金毘羅の史料(歴史)はない」
という姿勢をとるようになります。それは「金毘羅神=流行(はやり)神」という視点から金毘羅神を捉え直す潮流とも結びつき、新たな研究成果を生み出すことになりました。今では、金毘羅さんの確実な歴史が分かる資料は近世以後で、それよりの前の史料はない。古代や中世に遡る史料は見つかっていない、というのが定説になったように思います。

DSC01231
 
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここには「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が修験者の金光院宥雅であることが記されています。宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。
 宥雅は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いを加筆します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。これらの史料は、宥雅の偽作であると多くの研究者は考えるようになりました。
200017999_00076本社・旭社

この年表の後記の中で、40年前に松原氏が
「金毘羅信仰を考える際の新たな視点と課題」
として挙げていることを、今回は振り返ってみよう思います。

権力者との関係。特に生駒家と高松松平家の関係を押さえる必要がある
 讃岐に戦国時代の終わりをもたらした生駒家は金毘羅大権現に対して、多くの社領寄進を行っています。何回かに分けて行われた寄進は、他の寺社に比べて数段多く、全部で330石に達します。生駒家菩提寺の法泉寺百石、国分寺や善通寺誕生院でも60石前後です。金毘羅が生駒家から特別に扱われていたようです。
それでは、その理由は何でしょうか。
 後に出されて「町史ことひら」では、その理由として生駒家2代目藩主の側室オナツの存在と、その実家である山下家に通じる系譜が「外戚」として、当時の生駒家で大きな門閥を形成したことを挙げています。また、この門閥が時代の流れに逆行する知行制を進めたことが生駒騒動の原因の一つであると考える研究者も現れています。どちらにしても生駒藩において、時の主流であった門閥の保護支援を受けたことが、金毘羅大権現発展の大きな力になったようです。

200017999_00077本社よりの眺望

松平頼重の寄進
 讃岐が高松・丸亀両藩に分れたあと高松へ入部した松平家も金毘羅保護支援を受け継ぎます。藩祖松平頼重は,社領330石を幕府の朱印地にするための支援を行うと同時に、次のような寄進を立て続けに行います。
境内の三十番神社を改築
大門建立のための用材を寄進
阿弥陀仏千体を寄付、
神馬とその飼葉料三十石を寄進,
そして時を置いて、以下の寄進を行います。
木馬舎を建立,
承応3年 良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の木額を奉納,
明暦元年 明本一切経を寄進,
万治2年 それを納めるための経蔵を建立
寛文8年から4年間 毎年1月10日に灯籠1対ずつ寄進,
延宝元年12月 多宝塔を建立寄進
これは思いつきや単なる信仰心からの寄進ではないように私には思えます。
象頭山に讃岐一の伽藍施設を整備し、庶民の信仰のよりどころとする。さらに全国に売り出し、全国的な規模の寺社に育てていくという宗教戦略が松平頼重の頭の中には最初からあったような気がしてきます。それは、以前お話しした仏生山の建立計画と同じような深さと長期的な視野を感じます。
金毘羅大権現は,
①生駒家の社領寄進の上に,
②頼重の手による堂社の建立があって
他国に誇るべき伽藍出現が実現したと云えるようです。
 松原秀明氏が指摘するように「生駒藩・松平藩を除外して金毘羅のことは考えられない」ことを押さえておきます。
2 金毘羅神を支えたのは「庶民信仰」という通説への疑問
 金毘羅神が庶民信仰によって支えられるのは、流行神となって以後のことです。今見てきたように

権力者の金毘羅大権現保護が原動力
金毘羅大権現発展の原動力は、大名の保護

①長宗我部元親の讃岐支配のための宗教センター建設
②生駒家の藩主の側室オナツの系譜による寄進と保護
③松平頼重の統治政策の一環としての金毘羅保護
上記のような大名からの保護育成政策を受けて、金毘羅大権現は成長して行ったのです。例えば代参や灯籠奉納も最初は、大名たちが行っていたことです。それを、後に大坂や江戸の豪商達が真似るようになり、さらに庶民が真似て「流行神」となって爆発的な拡大につながったという経緯が分かってきました。庶民が形作っていったというよりも、大名が形作った金毘羅信仰のスタイルを、庶民が真似て拡大するという関係であったようです。

金毘羅大権現の成長原動力

3 「海の神様 金毘羅さん」への疑問
  松原氏は「海の神様・金毘羅」についての違和感を、次のように記します。
   金毘羅のことで発言する場合,必ず触れなくてはならないこととして「海の神金毘羅」という問題がある。これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
  金毘羅大権現は海の神であるという信仰は,多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅神は最初から海の神様でなかった?
海の神様が出てこない金毘羅大権現

 例えば17世紀半ばに出された、将軍家の金毘羅大権現への朱印状には、次のように記されています。

「専神事祭礼可抽国家安全懇祈」

宝暦三年に,勅願所になったときの摂政執達状は、次のように記します。
宝祚長久之御祈祷,弥無怠慢可被修行」

朱印状とか摂政執達状とかは「国家安全」「宝祚長久」を祈祷するよう命じるのが本来なので「海上安全」の言葉のないのは当たり前かもしれません。それでは1718(享保三)年に、時の金光院住職宥山が,後々まで残る立派なものを作りたいという考えで,資料を十分用意して,高松藩儒菊池武雅に書かせた縁起書「象頭山金毘羅神祠記」を見てみましょう。
「祈貴者必得其貴,祈冨者必得其冨,祈寿者必得其寿,祈業者必得其業,及水旱・疾疫,百爾所祈,莫不得其応」

ここにも海との関わりを強調するような文言はどこにもありません。
 金光院の日々の活動を記録した「金光院日帳」でも,神前での祈禧は五穀成就と病気平癒の祈願がほとんどです。高松藩からは,毎年末に五穀豊穣祈願のため初穂料銀十枚が寄せられ,正月11日に祈祷修行して札守を指出すのが決まりだったようです。ここでも祈願していたのは「五穀成就」の祈祷です。
  それでは海の安全がいつごろから祈られるようになったのでしょうか? 海洋関係者が奉納した「モノ」から見ておきましょう。

1 金毘羅 奉納品1


 燈寵奉納は?
1716(正徳5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭たち奉納の釣燈寵
1761(宝暦11)年 大坂小堀屋庄左ヱ門廻船中寄進の釣燈寵
この2つが初期のもので、1863(文久2)年 尾州中須村天野六左ヱ門に至るまで海事関係者からの奉納は、十数回数えられるだけです。その間,他の職種の人達の奉納は150回を越えています。海事関係者のものは,全体の1/10にも満たないことになります。
 絵馬奉納は?
1724(享保 9)年 塩飽牛島の丸尾五左ヱ門が最初で
1729(享保14)年 宇多津廻船中奉納のもの
絵馬は燈龍よりも奉納されるのがさらに遅いようです。
DSC01230

 船模型は?
1796(寛政 8年) 大坂西横堀富田屋吉右ヱ門手船金毘羅丸船頭悦蔵奉納
のものが一番古く,あとは嘉永4年,安政4年と、さらに遅いようです。
DSC01234

 「年表」のなかに出てくる「海事関係記事」を時代順に並べると次のようになります
1643(寛永20)年 高松藩船奉行渡辺大和が玄海灘で霊験
1694(元禄 7)年 日向国の六兵ヱ佐田の沖で難船を免れた。
1715(正徳 5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭が青銅釣燈寵一対奉納
1724(享保 9)年 塩飽丸尾家四代五左ヱ門正次が「鯛釣り戎」の額を奉納,
 同年         宇多津の廻船中から「翁」の絵馬が献納
1 金毘羅 船模型小豆島1

小豆島草壁の金毘羅丸の船模型絵図

 以上のように奉納品からは、金毘羅さんと塩飽島民や宇多津の廻船との結び付きが、ある程度は分かります。特に牛島を拠点とした丸尾家の奉納品は早い時期からあるようです。宇多津は中世からの讃岐
NO1の港であったので廻船業が盛んだったのでしょう。

 しかし、海事関係者全体の奉納品の数を見るときに、果たして18世紀以前から金毘羅さんが「海の神様」と呼ばれていたかどうかは疑問が残ります。
海事関係者からの奉納物

享保頃は,ごく一部の人が海の神としての金毘羅の霊験を語っても,まだ金毘羅そのものが全国から広い信仰を集めていたわけではないようです。将来、「海の神となる可能性を秘めていた時代」と研究者は考えているようです。そして19世紀半ば以後に、金毘羅といえば海の神という受け取り方が定着してきたとします。金毘羅は、流行神になったときから海の神としての性格を強くしたととも云えるようです。
1 金毘羅 奉納品2

以上をまとめておきます
金毘羅「庶民信仰・海の神様」説
金毘羅「庶民信仰・海の神様説」への疑問
①「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」には、近世以前の項目は載せられていない。
②これ以後、戦国末期に作り出された金毘羅神が流行神として広がったと考えられるようになってきた。
③金毘羅信仰の発展過程で大切なのは、時の権力者からの保護支援であった
④金毘羅信仰は 長宗我部 → 生駒 → 松平という時の権力者の保護を受けて成長した
⑤これらの権力者の保護なしでは金毘羅信仰の成長発展はなかった。
⑥その意味では「金毘羅信仰は庶民信仰」という定説は疑ってみる必要がある
⑦金毘羅神が「海の神様」として信仰されるようになるのは、案外新しい

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 松原秀明  解説・年表を読むにあたって   
               金毘羅庶民信仰資料集 年表編

DSC04827
 
善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
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 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
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 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P

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    霊山・如意山(公文山)に鎮座する櫛梨神社 
金毘羅さんの鎮座する象頭山の東を金倉川が北に向かって流れていきます。この金倉川を挟んで小高い峰峰が続きます。これが如意山です。この山の麓には中世には荘園の荘官・公文の館があったようで、公文山とも呼ばれています。この山の周辺は、古代中世からひとつの宗教ゾーンを形成していたと「町誌ことひら」は記します。
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 如意山(公文山)の西に伸びる尾根の下に鎮座するのが櫛梨(くしなし)神社です。ここにも「悪魚退治伝説」が伝わっています。前回、讃留霊王に退治された「悪魚」が、改心して「神魚」となり、金毘羅神(クンピーラ)に変身した。そこには宥範から宥雅という高野山密教系の修験者のつながりがあることを前回は紹介しました。その二人の接点が櫛梨神社になるようなのです。今回は、この神社について見てみることにします。
1櫛梨神社

 この櫛梨神社は、讃岐国延喜式内二十四社の一つです。
高松市の田村神社(讃岐国一宮)、三豊市高瀬町の大水上神社(同二宮)と並び称される古大社だとされてきました。大内郡の大水主神社と三宮、四宮の席次を争った形跡があります。古代には、周辺に有力な勢力がいたようです。目の前の霊山として崇められたであろう大麻山(象頭山)山腹には、数多くの初期古墳がありました。善通寺勢力と連合勢力を組んでいたのが、どこかの時点で「吸収合併」されたと私は考えています。それが野田院古墳の出現時ではないかと思います。それ以後も、如意山周辺は丸亀平野南部の一つの政治的宗教的拠点であったようです。中世は、ここは東国出身の薩摩守護になた島津家の荘園になっています。櫛梨神社は、その櫛梨荘の文化センターであったようです。
DSC04658


「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」には、この神社の由緒を次のように記します。
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、
 付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、
櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、
城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。
天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。
   
ここには次のようなことが書かれています
①神櫛皇子が、悪魚を討つために讃岐国やってきた
②櫛梨山に漂着し、これを祝うため般磐大明神を祀った。
③付近には、海に関係する地名がいくつも残っている。
④神櫛王は悪魚討伐後、城山に館を構え讃岐国造になった。⑤亡くなった後は、櫛梨山に葬り皇宮大明神と呼ばれる。
⑥旅所は旧仲南町の塩入にあり、鳥居が107基あった
⑦天正年間に、長宗我部元親の侵入で兵火に会い一切消失
 ここにも讃留霊王(神櫛皇子)の悪魚退治伝説が伝わっています。
それも、皇子の乗った船の漂着地であり、葬ったのが櫛梨山とされています。この伝説が作られた時の人々は、かつてはこのあたりまで海だったのだという意識を持っていたようです。空海生誕伝説の「屏風ヶ浦」の海の近くで空海は生まれたという当時の「地理感覚」と相通じる所がありそうです。
1櫛梨神社32.3jpg

 この神社の讃留霊王伝説で新味なのは「神櫛(醸酒一カムクシ)王を祭(祖先)神」として、その子孫酒部氏族が奉斎した氏神社としている点です。古くは、櫛梨山上の本台(山頂の平坦地)に社殿を構えていたといいいますが、祭神の性格からすると平地にあってしかるべき神社だと研究者は考えているようです。山上には、祠様があっただけで山そのものが神体であるされ、櫛梨山全体が信仰の対象だったのでしょう。
DSC04664

 櫛梨神社には悪魚退治伝説は、史料としては伝わっていないようです。伝えられているのは善通寺誕生院の宥範の縁起の中に書かれているのです。
 2つの【悪魚退治伝説】 
 悪魚退治伝説は、南北朝期の作とされ讃岐藤原氏(綾氏)の系図「綾氏系図」に冒頭に付けられているのが知られてきました。綾氏先祖の英雄譚として、氏族の栄光を飾るものと理解されてきました。そしてこの伝説を作ったのは、文中に出てくる寺名から法勲寺の僧侶であるとされてきたのです。つまり、この『綾氏系図』は、綾氏の有力な氏寺の一つである法勲寺の縁起としての性格をもっているとされてきました。
しかし、近年になって「綾氏系図』よりも古いとされる史料が出てきたようです。それが、高松無量寿院所蔵文書の中にある応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源の『贈僧正宥範発心求法縁起』(=宥範縁起」です。

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 宥範は何者?
 宥範は櫛梨の有力豪族出身で、高野山や各地の寺院で修行を積み、晩年は善通寺復興に手腕を見せ「善通寺中興の祖」と呼ばれた名僧です。この中に、讃留霊公の悪魚退治伝説が語られているようです。
16歳で仏門に入り、高野山などに学び、当時の密教仏教界において、その博学と名声は全国に知られていたようです。善通寺復興に尽力し「中興の祖」と称されています。
 宥範は、各地ので修行を終えて翌嘉暦二年(1327)、讃岐国に帰り、
「所由有りて、小松の小堂に閑居し」
します。そして『妙印抄』三十五巻本の増補を行い3年かかって『妙印抄』八十巻本を完成させ、これを善通寺誕生院に奉じます。念願を果たして、故郷・櫛梨の小堂から象頭山の称明(名)院に移り住んでいます。生まれ故郷の櫛梨の里を、眼下にできる寺に落ち着きたかったのでしょう。こうして、八十巻を越える大著を書き終え、静かに隠退の日々を送ろうとします。しかし、それは周囲が許しませんでした。
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   善通寺中興の祖として 
  当時、善通寺は中世の荒廃の極みにありました。伽藍も荒れ果てていたようです。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
元弘年中(1331~)は、誕生院を始めとして堂宇修造にかかり、
建武年中(1334~)に東北院から誕生院に移り
建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」と研究者は考えているようです。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。「岩野」は宥範の本家筋の人物と考えられるようです。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。その有力パトロンとして、実家の岩野一族の存在が考えられます。
 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧によって奉じられていたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。
 別の研究者次のような見方も示しています
「大歳神社の北に小路の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。その伝記が弟子たちによって書かれるのは自然です。しかし、この「宥範縁起」の中に、どうして「悪魚退治伝説」が含まれているのでしょうか。悪魚と宥範の関係を、どう考えればいいのでしょうか?
宥範縁起(無量寿院系)と綾氏系図(法勲寺系)を比較してみましょう。
1櫛梨神社3233
それぞれの寺運興隆を目的に、作られたものですから、少しずつアレンジがされています。例えば、悪魚の表記は「神魚」と「悪魚」、凱旋地も「高松」と「坂出」のように相違点があります。どちらが、より原典に近いのか研究者もなかなか分からないようです。しかし、強いて云えば
①全体的に洗練されているのは「綾氏系図』
②西海・南海の用字の正確さや文脈の詳細・緻密さ、重厚さから『宥範縁起』の方が古風
と、宥範縁起の中にでてくる「悪魚退治伝説」の方が古いのではないかと「町史ことひら」は考えているようです。
  どちらにしても櫛梨神社に伝えられた悪魚退治伝説は、法勲寺系ではなく、高松の無量寿院系のものであることに変わりはありません。
無量寿院は、宥範が若い頃に密教僧侶として修行をスタートさせたたお寺でもあります。そして、このお寺の由来が悪魚退治伝説ならぬ「神魚伝説」であったようです。
宥範から聞いた神魚伝説は善通寺や櫛梨神社の社僧たちに語り伝えられていくようになります。
そして、櫛梨神社の例祭には、修験者の社僧(山伏)の語る縁起を聞きながら「神魚」や「櫛梨神社」への畏怖と尊崇とを新たにし、胸熱くして家路を急いだのかもしれません。この時にまだ金毘羅神は生まれていません。
 高松から琴平にかけての中讃地区の寺社の中には、似たような悪魚退治伝説がいくつか伝わっています。これらは、社寺縁起の流行する近世初頭に『宥範縁起』をテキストに広がったのではないかと研究者は考えているようです。
 このような中で人々がよく知っている「悪魚」を、神として祀ることを考える修験者があらわれるのです。それが前回お話しした宥雅です。彼は
 悪魚 → 神魚 → 金毘羅神(鰐神)
というストーリーを下敷きにして、金毘羅神を創出し、それを松尾寺の新たな守護神を作りだし、それを祀るための金比羅堂を象頭山に建立したのです。その創出は彼一人のアイデアだったかどうかは分かりません。しかし、金比羅堂建設というのは、支援者や保護者なしではできることではありません。彼は、西長尾城の城主の甥でした。つまり、長尾氏の一族です。当然、背後には長尾氏の支援があったはずです。
 以上、前回の「悪魚が金毘羅神に変身」したお話の補足をまとめておきます。
①中世の公文山周辺は、丸亀平野南部の宗教ゾーンで、そのひとつが櫛梨神社である
②櫛梨神社には「悪魚退治伝説」が伝わるが、これは宥範伝来のものである。
③もともと高松の無量寿院の由来に登場する「神魚」が、そこで修行した宥範によって伝えられレ「宥範縁起」の中に記された
④中世の櫛梨神社では、この悪魚退治伝説が社僧たちによって人々に語られるようになる。
⑤社伝由来の流行で、古い神社ではどこにも社伝が語られるようになり悪魚退治伝説を採用する神社が増える。
⑥これは法勲寺で行われていた「綾氏祖先崇拝」による団結を図る武士団への広がりと同時に、中讃地区での悪魚退治伝説の広がりをうむ
⑦この広がりを下敷きに「悪魚」をモデルに新たな「金毘羅神」が登場してくる
⑧それを進めたのが西長尾城主の甥の修験者宥雅であった。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 第5章 中世の宗教と文化

 
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金毘羅神とは何かと問われると、このように答えなさいと云う問答集が江戸時代初期に金光院院主の手で作られています。そこには、金毘羅とはインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、天部の武将姿に「変身」して仏教を護るようになったと説明されています。 日本にやってきたクンピーラは、薬師如来を護る十二神将の一人とされ、また般若守護十六善神の一人ともな武将姿で現れるようになります。彼は時には、夜叉神王と呼ばれ、夜叉を従え、また時には自らも大夜叉身と変化自由に変身します。仏様たちを護る頼れるスーパーヒーローなのです。 このような内容が、真言密教の難解な教義と共に延々と述べられています。
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「神が人を作ったのではない、人が神を創ったのだ」という有名な言葉からすると、この金毘羅神を創り出した人物の頭の中には、原型があったはずです。「インドの鰐神=クンピーラ」では、あまりに遠い存在です。身近に「あの神様の化身が金毘羅か」と思わせ納得させる「しかけ」があったはずです。
1 クンピーラmaxresdefault

 この謎に迫った研究者たちは、次のような「仮説」を出します

 「仏教では人間に危害を加える悪神を仏教擁護の善神に仕立てあげて、これを祀った。その讃岐版が金毘羅神である」

 松尾寺の僧侶は中讃を中心に、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンピーラ信仰を始めた。

「実質的には初代金光院院主である宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」

「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
 羽床氏「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)
つまり、「讃留霊王伝説に登場する悪魚」が、金毘羅神(クンピーラ)に「変身」したというのです
Древнерусское солнцепоклонство. Прерванная история русов ...
 クンピーラはガンジス河にすむワニの化身とも、南海にすむ巨魚の化身ともいわれ、魚身で蛇形、尾に宝石を蔵していたとされます。金毘羅信仰は中讃の悪退治伝説をベースに作り出されたというのです。30年ほど前に、この文章を読んだときには、何を言っているのか分かりませんでした。今までの金毘羅大権現に関する由緒とは、まったくちがうので受けいれることが出来なかったというのが正直な所かもしれません。しかし、いろいろな資料を読む内に、次第にその内容が私にも理解できるようになってきました。整理の意味も含めてまとめておくことにします。
  讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。

この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。「大魚退治伝説」は、神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族が伝えてきた伝説です。これについては、以前に全文を紹介しましたので省略します。
この伝説については、研究者は次のような点を指摘しています
①紀記に、神櫛王は登場するが「悪魚退治伝説」はない。
②「讃留霊王の悪魚退治伝説」は、中世に讃岐で作られたローカルストーリーである。
③ この伝説が最初に登場するのは『綾氏系図』である。
④ 作成目的は讃岐最初の国主・讃留霊王の子孫が綾氏であることを顕彰する役割がある
⑤「伝説」であると当時に、綾氏が坂出の福江から川津を経て大束川沿いに綾郡へ進出した「痕跡」も含まれているのではないかと考える研究者もいる。
⑦「綾氏の氏寺」と云われる法勲寺が、綾氏の祖先法要の中核寺院であった
⑧法勲寺の修験道者が綾氏団結のために、作り出したのが「悪魚退治伝説」ではないか。
 悪魚伝説が作られた法勲寺跡を見てみましょう。
 現在の法勲寺は昭和になって再建させたものですが、その金堂周辺には大きな礎石がいくつか残っています。また、奈良時代から室町時代までのいろいろの古瓦が出でいますので、奈良時代から室町時代まで寺院がここにあったことが分かります。
 中世になると綾氏の一族は、香西・羽床・大野・福家・西隆寺・豊田・作田・柴野・新居・植松・阿野などの、各地の在郷武士に分かれて活躍します。綾氏から分立した武士をまとめていくためにも、かつてはおなじ綾氏の流れをくむ一族であるという同族意識を持つことは、武士集団にとっては大切なことでした。
 阿波の高越山周辺の忌部氏の「一族結束法」を、以前に次のように紹介しました。
高越山周辺を支配した中世武士集団は、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
ここからは忌部氏の団結のありようが次のように見えてきます
①一族の精神的連帯の場として山川町の忌部神社があった
②年に2回は忌部族が集まり定期会合・食事会を開いた
③その仕掛け人は高越山の修験者であった
阿波忌部氏のような一族団結のしくみを法勲寺(後には島田寺)の社僧(修験者)も作り上げていたはずです。
1 讃留霊王1
それの儀式やしくみを推測して、ストーリー化してみましょう。
 讃留霊王(武卵王)を共通の祖先とする綾氏一族は、毎年法勲寺へ集まってきて会合を開き、食事を共にすることで疑似血縁意識を養います。それに先立つ前に、儀式的な讃留霊王への祭礼儀式が行われます。そのためには聖なる場所やモニュメントが必要です。そこで、法勲寺の僧侶たちは近くの円墳を讃留霊王の墓とします。ここで集まった一族に悪魚退治伝説が語られ、儀式が執り行われます。そして、法勲寺に帰り食事を共にします。こうして自分たちは讃留霊王から始まる綾氏を共通の先祖に持つ一族の一員なのだという思いを武士団の棟梁たちは強くしたのではないでしょうか。こうして、法勲寺を出発点にした悪魚退治伝説は次第に広まります。
①下法勲寺山王の讃留霊王塚と讃留霊王神社
②東坂元本谷の讃留霊王神社
③陶猿尾の讃留霊王塚
②の東坂元本谷には現在、讃留霊王神社が建っています。
③の陶猿尾では、小さな小石を積み上げてつくった讃留霊王塚とよばれる壇状遺構が残ります。そして「讃留霊王(さるれおう)塚」から「猿尾(さるお)」の地名となって残っています。この他にも「讃王(さんおう)様」と呼ばれる祠が各地に残っています。このように悪魚退治伝説は、丸亀平野を中心に各地に広がった形跡があります。
1讃留霊王2

 このような装置を考え、演出したのは法勲寺の修験者たちです
彼らをただの「山伏」と考えるのは、大きな間違いです。彼らの中には、高野山で何年も修行と学問を積んだ高僧たちがいたのです。彼らは全国から集まってくる僧侶と情報交換にある当時最高の知識人でもありました。
「悪魚退治伝説」と「金毘羅神」を結びつけたのは誰でしょうか?
 小松の荘松尾寺(現琴平町)には、法勲寺の真言密教僧侶修験者と親交のある者がいました。法勲寺を中心に広がる悪魚退治の伝説を見て、このが悪魚を善神に仕立てて祀るということを実行に移した修験者です。悪魚退治伝説の舞台は坂出市の福江の海浜ですが、それが法勲寺の僧侶によって内陸の地にもちこまれ、さらに形を変えて象頭山に入っていったのです。それが金毘羅神だというのです。
  推論とだけでお話をしてきましたが、史料的な裏付けをしておきましょう。  金毘羅さんで一番古い史料は元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札です。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ
金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった
と云われてきました。しかし、近年の調査の中で、金毘羅さんにこれより古い史料はないことが明らかとなってきました。これは「再建」ではなく「創建」の棟札と読むべきであると研究者は考えるようになっています。つまり、元亀四年(1573)に金比羅堂が初めて建てられ、そこの新たな本尊として金比羅神が祀られたということです。これが金毘羅神のデビューとなるようです。
それでは棟札の造営主・宥雅とは何者なのでしょうか?
  この宥雅は謎の人物でした。金毘羅堂建立主で、松尾寺別当金光院の初代院主なのに金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物なのです。彼を排除する何らかの理由があるのだろうと研究者は考えてきましたが、よく分かりませんでした。
 宥雅については、文政十二年(1829)の『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)によれば、
宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、
 御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去
 故二御一代之 烈に不入云」
意訳
宥雅上人は、西長尾城主長尾大隅守高家の甥で、僧門に入ったのがいつだかは分からない。伯父の高家が長宗我部元親と争った際に、高家を加勢したが、戦い不利になり、当山の旧記や宝物を持ち出して泉州の堺へ落ち延びた。このため宥雅は金光院院主の列には入れない

 とあって、
①長宗我部元親の讃岐侵攻時の西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥
②長宗我部侵入時に堺に亡命
③そのために金光院院主の列伝からは排除された
と記されています。金毘羅創設記の歴史を語る場合に
「宥雅が史料を持ち出したので何も残っていない」
と今まで云われてきた所以です。
 ここからは長尾家の支援を受けながら金毘羅神を創りだし、金比羅堂を創建した宥雅は、その直後に「亡命」に追い込まれたことが分かります。
その後、高松の無量寿院から宥雅に関する「控訴史料」が見つかります 
堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の院主に復帰しようとして、訴訟を起こすのです。彼にしてみれば、長宗我部がいなくなったのだから自分が建てた金比羅堂に帰って院主に復帰できるはずだという主張です。その際に、控訴史料として自分の正当性を主張するために、いろいろな文書を書写させています。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのです。その結果、宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。このことについては、以前お話ししましたので要約します。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
①「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための文書加筆(偽造)
②松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏として、その垂迹を金毘羅神とする。その際に金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記す。
③「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」など寄進状五通(偽文書)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと泊付けねつ造

この創設工作の中で、宥雅が出会ったのが「神魚」だったのではないかと研究者は考えているようです。
 法勲寺系伝説が「悪魚」としているのに高松の無量寿院の縁起は「神魚」と記しているようです。宥雅は「宥範=金比羅堂開祖」工作を行っている中で、宥範が書き残した「神魚」に出会い、これを金毘羅神を結びつけのではないかというのです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものとします。
 つまり宥雅が参考にしたのは法勲寺の「悪魚退治伝説でなく、それに先行する『宥範縁起』中の無量寿院系の伝説」だとします。そして、宥範の晩年を送った生地の櫛梨神社に伝わる「大魚退治伝説」は、この『宥範縁起』から流伝したものと考えるのです。整理しておきましょう。
①「悪魚退治伝説」は 法勲寺 →  宥雅の金比羅堂
②「神魚伝説」  は 高松の無量寿院の建立縁起 → 宥範 → 宥雅の金比羅堂
ルートは異なりますが、宥雅が金毘羅(クンピーラ)の「発明者」であることには変わりありません。
 金毘羅神とは何かと問われて「神魚(悪魚)が金毘羅神のルーツだ」と答えれば、当時の中讃の人々は納得したのではないでしょうか。何も知らない神を持ち出してきても、民衆は振り向きもしません。信仰の核には「ナルホドナ」と思わせるものが必要なのです。高野山で修行積んだ修験者でもあった宥雅は、そのあたりもよく分かった「山伏」でもあったのです。そして、彼に続く山伏たちは、江戸時代になると数多くの「流行神」を江戸の町で「創作」するようになります。その先駆け的な存在が宥雅であったとしておきましょう。

 宥雅のその後は、どうなったのでしょうか。
これも以前にお話ししましたので結論だけ。生駒家に訴え出て、金毘羅への復帰運動を展開しますが、結局帰国はかなわなかったようです。しかし、彼が控訴のために書写させた文書は残りました。これなければ、金毘羅神がどのように創り出されてきたのかも分からずじまいに終わったのでしょう。
最後にまとめておきます
①讃留霊王の悪魚退治伝説は「綾氏系図」とともに中世に法勲寺の修験者が作成した。
②讃留霊王顕彰のためのイヴェントや儀式も法勲寺の手により行われるようになった
③綾氏を出自とする武家棟梁は、「悪魚退治伝説」で疑似血縁関係を意識し組織化された。
④綾氏系の武士団によって「悪魚退治伝説」は中讃に広がった
⑤新しい宗教施設を象頭山に創設しようとしていた長尾家出身の宥雅は、地元では有名であった「善通寺の中興の祖」とされるる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための工作を行っていた。
⑥その工作過程で高松の無量寿院の建立縁起に登場する「神魚」に出会う
⑦宥雅は「神魚(悪魚)」を金毘羅神として新しい金比羅堂に祀ることにした。
⑧こうして、松尾寺の守護神として「金毘羅神」が招来され、後には本家の松尾寺を凌駕するようになる。
⑨宥雅は、土佐の長宗我部侵攻の際に、堺に亡命した。後に帰国運動を起こすが認められなかった。
⑩自分の創りだした金毘羅神は、長宗我部元親の下で「讃岐の鎮守府」と金光院が管理していくことになる。
⑪時の権力者の宗教政策を担うことを植え付けられた金光院は、生駒・松平と時の支配者との関係をうまくとり、保護を受けて発展していく

以上です おつきあいいただき、ありがとうございました。

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現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。しかし、明治の神仏分離までは金毘羅大権現が祭神でした。それではこの神社に祀られていた金毘羅大権現とは、どんな姿だったのかのでしょうか。金比羅については次のように云われます。
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
つまり、もともとはインドではヒンズーの神様で、それが仏教守護神として薬師十二神将のメンバーの一員となって日本にやってきたものと説明されてきました。
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それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか? 
最も古い薬師十二神将であると言われる薬師寺のお薬師さんを守る十二神将を見てみるとお薬師さんの左手の一番奥にいらっしゃいます。彼の本地仏は弥勒菩薩です。インドでは、彼の家は「象頭山」とされるので、讃岐の大麻山と呼ばれていた山も近世以後は象頭山と呼ばれるようになります。

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確認しておくと以下のようになります。
 クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
 
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十二神将の金比羅(クビラ)大将

しかし、こんぴらさんが祀っていたのは、この金比羅大将とは別物だったようです。松尾寺の本堂の観音堂の後に金比羅堂が戦国末期に、修験者達によって建立されます。
金比羅堂に祀られていた金毘羅大権現像はどんな姿だったのでしょうか?
江戸時代には、金毘羅を拝むことのできませんでした。しかし、特別に許された人には開帳されていたようで、その記録が残っています。
  『塩尻』の著者天野信景は、次のように記します。
金毘羅は薬師十二神将のうちのか宮毘羅(くびら)大将とされるが、現実に存在する金毘羅大権現像は、
薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
  天和二年(1682)岡西惟中の『一時随筆』の中で
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
  延享年間に増田休意は
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
 
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金光院が配布していた金毘羅大権現
幕末頃金毘羅当局者の編んだ『象頭山志調中之能書』のうち「権現之儀形之事」は
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
と、それぞれに金毘羅大権現像を記録しています。これらの史料から分かることはは金毘羅大権現の像は、十二神将の金比羅神とはまったくちがう姿だったことです。その具体的な姿は
①頭巾を被り
②左手に念珠、
③右手に扇もしくは笏を持ち、
④伎楽・伎芸の両脇士を従える
という共通点があったことを記録しています。ここからは江戸時代金比羅山に祀られていた金毘羅大権現像は「今の修験者」「今時之山伏のごと」き姿だったのです。それは役行者像を思い描かせる姿です。

konpiragongen金毘羅大権現
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 
これを裏付けるように『不動霊応記』では
「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ
といった感想が記されています。金毘羅大権現像を見た人が「役行者像とよく似ている」と思っていたことは注目されます。
1円の業者
  記録に残された金毘羅大権現像について、もう少し具体的に見てみましょう。
①頭巾は五智宝冠に、
②左手の念珠は縛索に、
③右手の扇または笏は利剣に、
④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
以上から姿をイメージすると、不動明王とも言えます。確かに金毘羅大権現の本地仏は不動明王とされますので納得がいきます。しかし、役行者像に付属する前鬼・後鬼についてもこれを衿伽羅・制叱迦の二童子とする解釈もあるようです。どちらにしても「役行者と不動明王」の姿はよく似ているのです。
 江戸時代に大坂の金毘羅で最も人気を集めた法善寺でした。
その鎮守堂再建の際に、「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつきます。いわゆる「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。

金毘羅大権現2
 これ以外にも役行者像を金毘羅大権現像と偽る贋開帳が頻繁に起きます。讃岐本社の金毘羅大権現像自体も、役行者像そのものではなかったかと思わせるぐらい似ていたことがうかがえます。ただ、琴平の金毘羅さんには金毘羅大権現以外に、役行者を祀る役行者堂が別にあったようなので、金毘羅大権現イコール役行者と考えるのは、少し気が早いようです。しかし、役行者堂についても『古老伝旧記』では
役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」
と記しています。かつては「役行者堂は金毘羅の古堂」だったというのです。これも注目しておきたいポイントです。
1新羅明神
新羅明神
 この他にも金毘羅大権現の正体を新羅明神に求める研究者もいます。
確かにその姿はよく似ています。役行者は新羅大明神から作り出されたというのです。そうすると次のような進化プロセスが描けます。
新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現
そして、新羅大明神には讃岐・和気氏出身の円珍の影がつきまといます。今も和気氏の氏寺であったとされる金蔵寺には新羅神社が祀られています。和気氏に伝わる新羅大明神の発展型が金毘羅大権現であるという仮説もありそうですが、今は置いておきましょう。
1蔵王権現
このように役行者像に似ている金毘羅大権現像を祀る象頭山ですが、この山は役行者開山との伝承を持ちます。弥生時代から霊山であったようで、中世には山岳信仰で栄えた修験道の行場となります。そのため戦国時代末期の初期の金光院別当は、すべて修験者出身です。

 長宗我部元親に従軍して土佐からやって来て、金光院別当として讃岐における宗教政策を押し進めたのが土佐出身の修験者宥厳です。彼は土佐郡占領下での実績を買われて、長宗我部軍が撤退した後も別当を引き続いて務めます。そして、松尾寺や三十番社との権力闘争を勝ち抜いて行きます。それを支えたの弟弟子に当たる宥盛です。彼は、生駒家と交渉を担当し寄進領を確実に増やすなどの実務能力に長けていたばかりでなく、修験者としても名声が高く、数多くの弟子達を育て各地に金毘羅大権現の種を飛ばすのです。その彼が死期を悟り、自らの姿を木像に刻んだ時に
入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
と彫り込んだと伝えられます。この天狗道に入った金剛坊の木像には、後にいろいろな尾ひれが付けられていきます。例えば、生きながら天狗界に入ったと伝承で有名な崇徳上皇の怨霊が、死去の翌年、永万元年(1165)に、その廟所である白峰から金毘羅に勧請されたとの伝承が作られます。そして金毘羅=崇徳院との解釈が広まっていくのです。それでなくとも修験の山は天狗信仰と結びつきやすいのに、それが一層強列なイメージとなって金毘羅には定着します。「天狗のイラスト」が入った参詣道中案内図が作成され、天狗の面を背負った金毘羅道者が全国各地から金毘羅を目指すのも、このあたりに原因が求められそうなことは以前お話ししたとおりです。
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 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
江戸の初めに四国霊場が戦乱から復興していない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳については以前に紹介しました。彼の『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
ここには、観音堂が本堂で、その奥に金比羅堂があったことが記されます。そして金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。ここで注目したいのは2点です。ひとつは
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
とあることです。つまり安置されている金毘羅大権現像は、この山を開いた人物が自分の姿を掘ったものであると説明されているのです。
 2点目は金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたことです。
つまり、金毘羅堂には金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天が三点セットで祀られていたのです。そして、金毘羅大権現像は金毘羅山を開いた人物が自らの姿を掘ったものであると言い伝えられていたことが分かります。ここまで来ると、それは誰かと問われると「宥盛」でしょう。
さらに『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 ここには金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。以上から金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当の宥盛であったと私は考えています。それをまとめると次のようになります
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。
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神仏分離で金毘羅大権現や仏達は、明治以後はこの山ではいられなくなりました多くの仏像が壊され焼かれたりもしました。
金毘羅堂にあった金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天の三仏トリオは、どうなったのでしょうか。
金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その自作の木像も奥社に密かに祀られているのかもしれません。
それでは脇士の不動明王・毘沙門天はどうなったのでしょうか。この仏たちは数奇な運命を経て、現在は、岡山の西大寺鎮守堂に「亡命」し安置されています。これについては別の機会で触れましたので詳しくはそちらをご覧ください。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
金比羅さんから亡命した西大寺の「金毘羅大権現」(不動明王)
現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。
大物主命は、奈良県桜井市の大神神社(通称、三輪明神)の祭神として有名で、出雲大社の祭神・大国主命の別名とされています。明治になって、大物主命にとって代わられたのは所以を、どんな風に現在の金比羅さんは、説明しているのでしょうか。

金刀比羅宮 大物主尊肖像 崇徳天皇 M35
   天台僧顕真が「山家要略記』に智証大師円珍の『顕密内証義』を引いて、
「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
と、「比叡山・日吉山の地主神は金比羅神」であると記します、
これを受けた神学者の古田兼倶は『神道大意』に次のように記します。
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
と最澄が延暦七年(七八八)比叡山延暦寺を建立する際、その鎮守として奉斎した地主神・日吉大社西本宮の祭神大物主命が金毘羅神だと位置づけます。
  そしてこうした見解は、さらに平田篤胤に受け継がれていきます。「玉欅』の中に
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
 と記します。平田篤胤の明治以後の神道における影響力は大きく、
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
という彼の主張は神仏分離の際には大きな影響力を発揮します。金毘羅大権現が「琴平神社」と改められるのもこの書の影響が大きいようです。   しかし、研究者は、金毘羅以前に大物主が祀られていた史料的証拠は一切ないと云います。
むしろ神道家たちが金毘羅神に大物主を重ねあわせる以前は、象頭山には大物主と関係なく金毘羅神が鎮守として祀られていたのは見てきたとおりです。それを、神道家が逆に『山家要略記』等を根拠に金毘羅神とは実は大物主であったのだと、金毘羅=大物主同体説を主張してきたと研究者は考えているようですようです。

金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
sim (2)金毘羅大権現6

 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

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 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
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つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

 「こんぴらさん」は、江戸時代後半の19世紀になると全国からの参詣者が集まる聖地となります。その一方で、こんぴらさんの鎮座する象頭山も景勝の地としても知られるようになります。その背景には、象頭山を景勝地として売り出すための巧みなプロデユース戦略があったようです。
象頭山を景勝地として売り出すために、どんな戦略をこんぴらさんはとったのでしょうか。それを今回は見ていきましょう。
 金刀比羅宮には、象頭山の十二の景勝をテーマとする詩絵がいくつか残されています。作者によって内容は異なりますが、四季折々のお題は同じで、次の12題です
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 左右桜陣 後前竹囲 前池躍魚 裏谷遊鹿 
 群嶺松雪 幽軒梅月 雲林洪鐘 石淵新浴 
 箸洗清漣 橋廊複道 五百長市 萬農曲水
例えば「運林洪鐘」というテーマで絵と漢詩がセットで作品を構成します。
この場所は、現在の旭社(旧金堂)周辺の境内です。現在の賢木門をくぐって右脇にある遙拝所は、神仏分離以前は鐘楼でした。その鐘が雲のかかった象頭山に鳴り響くシーンが詩と絵画で描かれていくという趣向です。それが全部で12枚でセットになります。
狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」(金刀比羅宮所蔵) 画面上から本社(1659)、鐘楼(1620)、鳥居(1659)、二天門(1660年に改称)、多宝塔(1673)が描かれている。かっこ内は建立年
      狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」
 上絵には画面上から次のような建物が描かれています
本社(1659)
鐘楼(1620)
鳥居(1659)
二天門(1660年に改称)
多宝塔(1673)
(かっこ内は建立年)
いくつかある12景図の中で注目したいのが「象頭山一二景図」です。
この絵は幕府の奥絵師であった狩野安信(1613ー85)と息子の時信(1642ー78)が) 十二景を六幅ずつ描いています。そして、幕府の儒官であった林鳶峰と息子の鳳岡が六景ずつ詠んだ詩が各図に記されています。これだけ見ると、江戸で評判の学者と絵師が、訪れた象頭山の美しさに心打たれて筆をとった合作のように思えます。所がそうではないようです。
 享保三年(一七一八)に高松藩儒の菊池武雅が記した「象頭山金毘羅神祠記(しんしき)」によれば、次のような過程を経て制作されています。
①金光院別当(住職)の宥栄(ゆうえい)が、象頭山の十二景を選んで鳶峰と鳳岡に詩作を依頼
②それとは別に安信と時信に図を依頼
③金毘羅の楽人で書に優れた上左兵衛に命じて各図に林父子の詩を書き写させる。
 鳶峰らが詠んだ詩の原本は、「讃州象頭山十二境」と題する寛文十一年(1671)の詩巻として別に伝来しています。各六詩を自筆したもので、「想像彼境、倣着題体」という奥書から、二人は象頭山を訪れることなく、題に応じて想像しながら詩作したようです。

 一方、やはり金刀比羅宮に伝わる「象頭山十二境図巻」は、高松藩初代お抱え絵師の狩野常屏が描いたもので、安信と時信が描いた十二景とほぼ同じ図が二巻の画巻に収められています。常屏は安信の門人で、安信と金光院の間の取り次ぎ役もしていたようです。「状況証拠」から考えて、この團巻は幕府奥絵師の安信らが江戸にいながら象頭山の景観を描けるよう「参考史料」として常屏が描いて渡したものだと考えられます。この二作品の存在は、先の「神祠記」の記述を裏付けるものになります。
それにしてもなぜ、金毘羅大権現の最高責任者である宥柴は、このような手間をかけてまで「象頭山十二景」をひとつの作品に仕上げようとしたのでしょうか。
当時の金毘羅の境内を取り巻く状況を見てみましょう。
慶安元年(1648)幕府朱印地指定以後に初代高松藩主松平頼重の寄進が続く
万治二年(1659)本社造営をはじめ諸堂の移転や改築が進む。
寛文八年(1668)頼重が以後、毎年棟梁が二基ずつ寄進する
延宝元年(1673)頼重寄進の多宝塔完成
 こうして、金毘羅は頼重の寄進により境内の景観が大きく変わりました。「象頭山十二景図」が描かれたのは、こうした主要な建物の造営・改築をひととおり終えた時期にあたります。そういう目でこの十二景を見ると「雲林洪鐘図」には本社や鐘楼、二天門のほか、頼重寄進によって寄進されたばかりの多宝塔が描かれています。見方を変えれば、この図は完成間もない建物が意識的にとりあげられていることに気がつきます。それは新たに整えられた境内の姿を、詩歌に詠まれる地という伝統的な景勝イメージの中に位置付ける「広告戦略」かもしれません。
 そのために、金光院の別当宥栄は、境内が整ったこの時期に自分の手で象頭山の景勝を12選んだのです。そして「象頭山十二景図」として完成させます。
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その狙いとは、
幕府儒官と奥絵師という当代随一の学者と画家に合作させることで作品の評価を高めることでしょう。そして、変化を遂げた境内と象頭山の素晴らしさ融合させると同時に権威付けようとするねらいがあったのではないでしょうか。
 似たような試みは各地で行われていました。
近江八景や宮島八景などの景勝に習って、全国に無数の八景や十景、十二景が創り出されていました。それらを題林に江戸・京都他で活躍する学者や画家たちに依頼した詩書画作品が数多くのこされています。作品の名声が高まれば、後世の学者や文人たちが詩や歌に詠むことでその景勝地の知名度は広がっていきます。それは、現在の観光地の売出方法にも通じるものがあるようです。
 こうして世に送り出された「象頭山十二景」は、その後も折々に京都五山の学僧や文人たちによって詩画に表され、金毘羅に新たな価値を与え続けました。それは「金毘羅信仰」とはまた違うオーラーを象頭山にもたらすことになります。高名な詩人や歌人の作品の舞台となった金毘羅を訪れたいと思う気持ちと、現在の映画のロケ地の聖地巡りとは相通じる部分もあるように思います。
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 明治維新を迎えて象頭山が琴平山に改名されると、すぐに「琴平十二景」が創られます。神仏分離令により神社に変身した金刀比羅宮は、再び大きく変化させた境内の姿を新たな「お題」によって詠み描かせています。時代の変化にあわせて景勝を創出することが、観光地として生き残っていくひとつの戦略なのです。それを怠り、世間から忘れ去られていく旧跡や名勝は数多くありました。
金刀比羅宮は自らの新しい姿を表現し、時代にあったニューイメージを作り上げてきたようです。そして、その手法は今も受け継がれているように思います

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  参考文献 松岡明子 景勝を創る 金比羅宮と象頭山一二景  香川歴史紀行156P

  

 

     
  幕末の瀬戸内海の芸予諸島を描いた一枚の絵図を見ています。
9639幕末~明治期古地図「宮島 錦帯橋 金毘羅ほか鳥瞰図
この絵は尾道・三原上空から南の瀬戸内海を俯瞰した形で描かれています。

i-img1024x767尾道沖2
下側には山陽道沿いの海岸線と主要な港町が東(左)から下津井・福山・とも(鞆)・尾道・三原と続き、

i-img1024x7宮島
 
竹原・おんど(音戸の瀬戸)を経て広島湾から宮島へと続きます。そして、西(右)端の岩国まで描かれています。

さて、この絵の作者の描きたかったのは何なのでしょうか?
この絵図はこのエリアの4つの名所を紹介するために書かれた絵図のようです。 分かりやすく描きたかった所には、丸い枠の中に地名が書き込まれています。
i-img1024x767-宮島・岩国

それは「宮島」・「岩国錦帯橋」「とも ギョン宮」「こんぴら大権現」のようです。しかし、この絵図で、最も丁寧に描き込まれているのは宮島、その次が錦帯橋ではないでしょうか。鞆と金毘羅大権現は脇役のような印象を受けます。関西人にとって瀬戸内海のナンバーワン名勝は「日本三景」の宮島でした。その宮島に匹敵するほどの参拝客が金毘羅を訪れるようになるのは19世紀になってからのようです。
 今回は大坂の船問屋が乗船客に配布した引札の金毘羅参拝絵図の航路図の変遷から見えてくるを探ってみます。

この絵図は18世紀末に、大坂の船問屋のはりまや伝兵衛が金毘羅船の乗船客に無料で配布した航路図です。
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両面刷りで、表(上)が高砂から金毘羅まで、裏(裏)がとも(鞆)から西の宮島までの海路が示されています。この絵地図の題名は「こんぴら並みやじま船路道中記案内」で、金毘羅と宮島の案内を兼ねていたことが分かります。つまり、18世紀後半の金毘羅の案内図は、宮島と抱き合わせであったようです。この図が出されてからは、各地の宿屋がこのような道中案内を出すようになるのですが、金毘羅単独ではなく宮島や西国巡礼の案内を兼ねた道中記です。
  ちなみにこの時期に何種類も出された「西国霊場並こんぴら道中案内記」の中には、
「さぬきこんぴらへ御さんけいあそばされ候は つりや伊七郎方へ御出被成可被下候、近年新宿多く出来申候てまぎらはしく候ゆへ ねんのため此方より御さしづ奉申上候」
と、金比羅詣での宿の手配依頼を受け付けることが書かれています。
    この時期の金毘羅さんには単独で四国讃岐まで遠方の参拝客を惹きつける知名度がなかったようです。

それが当時の旅ブームの高揚に載って、江戸での金毘羅大権現の知名度が高まる19世紀初頭になると多くの人たちが四国こんぴらさんを目指すようになります。前回見たように、十返舎一九の弥次さん北さんが「続膝栗毛」で金比羅詣でを行うのもこの時期です。そして、19世紀半ば頃から幕末に架けてひとつのピークを迎えるようになります。
そうなると、金比羅詣での客を自分たちの所へも呼び込もうとする動きが各地で出てきます。そのためにおこなうことは、金比羅詣でのついでに、我が地にもお寄りくださいとパンフや地図で呼び掛けることです。こうして、今までにないルートや名所が名乗りをあげてくることになります。
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 この絵図に何が書かれているのかが分かるためには少し時間が必用です。私も最初は戸惑いました。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。しかし、この地図の変わっているのは、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主金屋茂兵衛です。
彼がこの絵図を発行した狙いは、どこにあるのでしょうか。
私には、紀州加田から撫養へ渡り、讃岐の内陸部を通る新しい金毘羅参りのコース開発に力を入れているように思えます。もともと東国からの参拝者は弥次さん・北さんがそうであったように伊勢や高野山参りのついでに、金毘羅さんをめざす人たちが多かったのです。その人達の四国へのスタート地点を大坂から加田に呼び込もうとする目算が見えてくるようです。
さらに時代を経て出された絵図です。

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標題は「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻弁播磨名勝附」となっていて、「加田」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。
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讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。
 この絵を見ていると、地図制作技術が大幅に向上しているのが実感できます。色も鮮やかです。気がかりなのは、紀州加田の金毘羅への道の起点になろうとする戦略はうまく行ったのでしょうか?


さて次は、丸亀に上陸した後で旅籠から渡された絵図です。
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参拝者たちはこの地図を片手にウオークラリーのように、金毘羅さんだけでなく善通寺や弥谷寺などの名所旧跡にも足を運んだのです。いうなれば「讃岐版の金毘羅案内図」ということになるのでしょうか。
標題に「金毘羅並七ケ所霊場/名勝奮跡細見圖」とある通り、絵図の中では描写が写実的で最も細密でできばえがいいものです。絵師の大原東野は、文化元年(1804))に奈良から金毘羅へやってきて、定住していろいろな作品を残しています。それだけでなく「象頭山行程修造之記」を配って募金を行い金毘羅参詣道の修理を行うなど、ボランテイア事業も手がけた人です。彼の奈良の実家は、小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍でもあったようです。
   さて、前回に登場した弥次さん北さんがそうであったように、江戸の参拝者は好奇心が強く「何でも見てやろう・聞いてやろう」と好奇心も強い上に、体力もタフでした。そのため「折角四国まで来たら金毘羅山だけではもったいない」という気持ちが強く、空海伝説の聖地である善通寺や弥谷寺などにも足を運んだことは紹介しました。

 その好奇心を逆手にとって、金毘羅客の呼び込みに成功したお寺が現れます。そのお寺が出した絵図がこれです。
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この絵図も見慣れない構図なので最初は戸惑いました。真ん中の平野のように見えるのは瀬戸内海です。金毘羅が鎮座する奥の象頭山と手前の丸亀の位置が分かると見えてきました。この絵図がアピールしたいのは丸亀と海を挟んで鎮座する喩迦山です。
 備前児島半島の喩迦山蓮台寺は、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないと、巧みな宣伝をはじめます。これが功を奏して参詣客を集めることに成功します。これはその「両参り」用の案内書です。これを帰路の丸亀で見せられた参拝客は喩迦山まで足を伸ばすようになります。そして、次第に往路に喩迦山に立ち寄ってから金毘羅をめざす参拝者も増えるようになります。その結果、弥次・北の時代には室津から出発して小豆島の西で備讃瀬戸を横断していた金毘羅船の航路は、喩迦山の港である田の口港に寄港した後に丸亀に向かうようになるのです。その結果、金毘羅と喩迦山の間では門前町の宿屋や茶屋、土産物屋の間で参詣客の分捕り合戦が演じられるようになり、田引水の信仰や由来が作られ、双方が相手をけなし合う泥試合になっていきます。
これを庶民が表した諺が残っています。
○旨いこと由加はん 嘘をおっしゃる金毘羅さん 
観光誘致の所産の諺として、当時の人々に広まったようです。
塩飽諸島の盆歌に「笠を忘れた由加の茶屋へ空か曇れば思い出す」というフレーズがあるそうです。由加山蓮台寺門前町の昔のにぎわい振りがしのばれます。
 
18世紀までは、伊勢や高野山、宮島の参拝ついでに立ち寄られていた金毘羅さんでした。それが19世紀半ば頃から知名度を上げ「集客力」を高めるようになると、他の「観光地」が金毘羅さんからお客を呼び込もうとする戦略をとるようになっていったのです。
 観光地同士のせめぎ合いは、この時代からあったようです。
関連年表
延享元年 1744 大坂の船問屋に金毘羅参詣船許可。日本最初の客船運航開始
宝暦3年 1753 勅願所になる。
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
明和3年 1766 与謝蕪村、金毘羅滞在し「秋景山水図」を描く
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工。
文化7年 1810 『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』弥次郎兵衛と北八の金毘羅詣で
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠建つ。(太助燈籠のみ)
  多度津港に新湛甫できる。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
嘉永6年 1853 黒船来航。吉田松陰参詣。
嘉永7年 1854 日米和親条約締結。
安政6年 1859 因島金因講、連子塀燈明堂上半分上棟。
  高燈籠の燈籠成就。
   参考文献 町史ことひら第5巻 絵図・写真編66P~

前回は金毘羅神を江戸で広げたのは山伏(天狗)達ではなかったのかという話でした。今回はそれをもう少し進めて、山伏達はどのように流行神として金毘羅神をプロモートしたのかを見ていきたいと思います。
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まず江戸っ子たちの「信仰」について見ておきましょう。
 江戸幕府は、中世以来絶大な力を持っていた寺社勢力を押さえ込む政策を着々と進めます。その結果、お寺は幕府からの保護を受ける代わりに、民衆を支配するための下部機関(寺請け)となってしまいます。民衆側からするとお寺の敷居は、高くなってしまいます。そのため寺院は、民衆信仰の受け皿として機能しなくなります。一方、民衆は 古道具屋の仏像ですら信仰するくらい新しい救いの神仏を渇望していました。そこに、流行神(はやりがみ)が江戸で数多く登場する背景があるようです。
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江戸っ子達は「現世利益」を目的に神社仏閣にお祈りしています。
 その際に、本尊だけでは安心・満足できずに、様々な神仏を同時に拝んでいくというのが庶民の流儀でした。これは、現在の私たちにもつながっています。
 神社・仏閣側でも、人々の要求に応じて舞台を整えます。氏神様は先祖崇拝が主で、病気治癒や悪霊退散などの現世利益の願いには効能を持たないと考えるようになった庶民に対して、新たに「流行神」を勧進し「分業体制」を整えます。例えばお稲荷さんです。各地域の神社の境内に行くと、本殿に向かう参道沿いに稲荷などの新参の神々が祀られているのは、そんな事情があるようです。地神の氏神さまは、それを拒否せず境内に新参の流行神を迎え入れます。
 寺院の場合も、鬼子母神やお地蔵さんなどの機能別の御利益を説く仏さまを境内に迎えるようになります。
境内には「効能」に応じた仏やいろいろなお堂が立ち並ぶようになります。
このような「個人祈願の神仏の多様化」が見られるようになるのは江戸時代の文化・文政期のようです。つまり「神仏が流行するという現象」、言い換えれば「人々の願いに応じて神仏が生まれ流行する」という現象が18世紀後半に生まれるのです。それを研究者は「流行神(はやりがみ)」と呼んでいるようです。それを流行らせたのが「山伏・聖者・行者・巫女」といったプロモーターだったようです。
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 元禄から百年間の流行神の栄枯盛衰を見てみましょう
百年前世上薬師仏尊敬いたし、常高寺の下り途の薬師、今道町寅薬師有、殊の外参詣多くはやらせ、上の山観音仏谷より出て薬師仏参り薄く、上の山繁昌也、夫より熱村七面明神造立せしめ参詣夥鋪、四十年来紀州吉野山上参りはやり行者講私り、毎七月山伏姿と成山上いたし、俗にて何院、何僧都と宮をさつかり異鉢を好む、
 是もそろそろ薄く成、三十年此かた妙興寺二王諸人尊信甚し、又本境寺立像の祖師、常然寺元三大師なと、近年地蔵、観音の事いふへくもなくさかんなり、西国巡礼に中る事、隣遊びに異ならす、十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る。
ここには元禄時代から百年間の「流行神」の移り変わりが辿られています。
「世上薬師仏 → 上の山観音 → 熱村七面明神 →
紀州吉野のはやり行者講→ 妙興寺 → 西国巡礼 → 金毘羅大権現」
と神様の流行があったとふり還ります。
ちなみに、金毘羅神の江戸における広がりも「十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る」ことから、元禄から百年後の19世紀初頭前後が江戸における金毘羅信仰高揚の始まりであったことがうかがえます。
 
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流行神の出現を 弘法清水伝説の場合を見てみましょう
 宝暦六年に下総国古河にて、御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が出てきた。盲人、いざりはこの水に触れると眼があいたり腰が立つたという。この水に手拭を浸すと梵字が現われたりして、さまざまの奇蹟があった。
そこで江戸より参詣の者夥しく、参詣者は、竹の筒に霊水を入れて持ち帰る、道中はそのため群集で大変混雑していたという。そもそもこのように流行したのは、ある出家がこの地を掘ってみよといったので、旱速掘ったらば、清水が湧き出てきたのだという。世間では石に目が出たと噂されて流行したと伝えられている。(喜田遊順『親子草』)
 これは四国霊場のお寺によくある弘法清水伝説と同じ内容です。出家(僧)の言葉で石から清水が湧き出したことから、霊験があると巷間に伝えられて流行りだしたといいます。
流行神の登場の仕方には次のようなパターンがあります。
    ①最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。
    ②たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。
    ③続いて山伏・祈祷し・瞽女続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。
    こうして流行神が生み出されていきます。 それを宣伝していくのが修験者や寺院でした。流行神の出現・流布には、山伏や祈祷師などがプロモーターとして関わっていることが多いのです。
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修験者(行者・山伏)がメシアになった例を見てみましょう。
彼らはいろいろな呪法を行使して祈祷を行ない、一般民衆の帰依を受けることが多かったようです。霊山の行場で修行を経て、山伏が、ふたたび江戸に帰り民衆に接します。その際の荒々しい活力は、人々に霊験あらたかで「救済」の予感を感じさせます。そういった系譜を引く行者たちは、次のように生身の姿で人々に礼拝されることがありました。
 正徳の比、単誓・澄禅といへる両上人有、浄家の律師にて、いづれも生れながら成仏の果を得たる人なり、澄禅上人は俗成しとき、近在の日野と云町に住居ありしが、そこにて出家して、専修念仏の行人となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修怠らず生身の弥陀の来迎ををがみし人也、八年の後富士山より近江へ飛帰りて、同所平子と云山中に胆られたり、

単誓上人
もいづくの人たるをしらず、是は佐渡の国に渡りて、かしこのだんどくせんといふ山中の窟にこもり、千日修行してみだの来迎を拝れけるとぞ、その時窟の中ことぐく金色の浄土に変瑞相様々成し事、木像にて塔の峰の宝蔵に収めあり、
此両上人のちに京都東風谷と云所に住して知音と成往来殊に密也しとぞ、単誓上人は其後相州箱根の山中、塔の峯に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終にかしこにて臨終を遂られける。澄禅上人の終はいかん有けん聞もらす、東風谷の庵室をば、遺命にて焼払けるとぞ、共にかしこきひじりにて、存命の内種々奇特多かりし事は、人口に残りて記にいとまあらずといふ
(『譚海』五)
 ここに登場する単誓・澄禅の二行者は、山岳で厳しい修行を積み、生身の弥陀の来迎を拝んだり、山中の窟を金色の浄土に変ぜしめたりする奇蹟を世に示す霊力を持つようになります。いわば「生れながら成仏の果を得たる人」でした。かれらの出現は、まさに民衆にとってはメシア的な存在で、信仰対象となったのです。
 このように修験者(山伏)の中には、「生き神様」として民衆の信仰を集める人もいたことが分かります。
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一方、山伏たちは、江戸幕府にとってはずいぷんと目障りの存在だったようです。
このことは、寛文年間の次の町触れの禁令の中にもうかがうことができます.
 一、町中山伏、行人之かんはん並にほんてん、自今以後、出し置申間敷事
 一、出家、山伏、行人、願人宿札は不苦候間、宿札はり置可申事
 一、出家、山伏、行人、願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、
 一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用二可仕事
 一、町中にて念仏講題目講出家並に同行とも寄合仕間敷事
 この禁令からは、山伏、行人たち宗教活動に大きな規制がかけられていることが分かります。一方では、こうした町触れが再三再四出されていることは、民衆が行者たちに祈祷を頼んだりして、彼らを日常的に「活用」していたことも分かります。山伏たちは、寺院に直接支配されない民間信仰の指導者だったのです.
  このような中に、天狗面を背負って金毘羅山からやって来た山伏達の姿もあったのではないでしょうか。四国金毘羅山で金光院や多門院の修験道修行を受けた弟子達が江戸でどんな活動を行ったかは、今後の課題となります。
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  江戸庶民の流行神信仰リストとその願掛けの御供えは? 
因幡町庚申堂にはを備よ
  赤坂榎坂の榎に歯の願を掛け楊枝を備ふ
  小石川源覚寺閻魔王に萄罰を備よ
  内藤新宿正受院の奪衣婆王には綿を備ふ
  駒込正行寺内覚宝院霊像にはに蕃根を添備ふ
  浅草鳥越甚内橋に廬の願を掛け甘酒を備よ
  谷中笠森稲荷は願を掛る時先土の団子を備よ
  大願成就の特に米の団子を備ふ
  小石川牛犬神後の牛石塩を備ふ
  代官町往還にある石にも塩を備よ
  所々日蓮宗の寺院にある浄行菩薩の像に願を掛る者は水にて洗よ
芝金地院塔中二玄庵の問魔王には煎豆と茶を備ふ 此別当は甚羨し 我聯として煎豆を好む事甚し 身のすぐれざる時も之を食すれば朧す
四谷鮫ヶ橋の傍へ打し杭を紙につつみて水引を掛けてあり、これ何の願ひなるや末だ知らず、後日所の者に問はん
 永代橋には、歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納めん              『かす札のこと下』
文化文政期ごろの江戸庶民の願掛けリストと、その時のお供え物が一覧表になっています。このうち、地蔵、閻魔、鬼王、奪衣婆、三途川老婆、浄行菩薩などは、寺院の境内にある持仏の一つであり、どれも「粉飾した霊験譚」をつけられて、宣伝された流行神ばかりです。同時に、どんな願をかけているのかを見ると「病気平癒」を祈っているのが多いようです。
 その中でもっとも多かっただのは、眼病でした。
よく知られた江戸の眼病の神は、市谷八幡の境内に祀られていた地主神の「茶の木稲荷」でした。『江戸名所花暦』には、
表門鳥居の内左のかたに、茶の木稲荷と称するあり、俗説に当山に由狐あり、あやまって茶の木にて目を突きたる故に茶を忌むといへり、此神の氏子三ヶ日今以て茶をのまず、又眼をわづらふもの一七日二七日茶をたちて願ひぬれば、すみやかに験ありといふ(中略)
と記され、約一週間茶断ちして祈願すれば、眼病は平癒するといわれていました。

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 歯病も眼病と並んで霊験の対象となっていました。
 歯の神として、江戸で名高かっだのは、おさんの方です。西久保かわらけ町の善長寺に祀られた霊神の一つで、寺の本堂で楊枝を借りて、おさんの方に祈願すると痛が治るとされ、楊枝を求めてきて、おさんの方に納めたようです。
 おさんの方は、『海録』によると、備後国福山城主水野日向守勝成の奥方珊といわれます。彼女は一生、歯痛に苦しみ、臨終の時に誓言して、
「我に祈らば応験あるべし」
と言い残したと伝わります。寛永十一(1634)年に流行だしたと史料に残っています。
このリストを見れば、まさに現世利益の「病気治癒」の神々ばかりが並んでいるのが分かります。

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金毘羅神は「海の安全」の神様といわれ始めます
しかし、この時代に「海の神様」というキャッチコピーでは、江戸っ子には受けいれられなかったと私は思います。金毘羅神はこの時期は「天狗神」として、「病気平癒」などの加持祈祷を担当していたのではないでしょうか。それを担当していたのは山伏達たちだった思うのです。

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 前回までに戦国末期から元禄年間までの百年間に金毘羅山で起きた次のような「変化・成長」を見てきました。
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた
②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった
③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった
④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
 流行神の金毘羅神を勧進して建立された金毘羅堂は、創建から百年後には金光院の修験道僧侶達によって、金毘羅大権現に「成長」していきます。その信仰は17世紀の終わりころには、宮島と並ぶほどのにぎわいを見せるようになります。
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今回のテーマは「金毘羅信仰を広めたのは誰か」ということです。
通説では、次のように云われています。
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」

そうだとすれば、海に関係のない江戸っ子たちに金毘羅信仰が受けいれられていったのは何故でしょう? 彼らにとって海は無縁で「海の神様」に祈願する必要性はありません。
 まず信仰の拡大を示す「モノ」から見ていきましょう。
金毘羅信仰の他国への広まりを示す物としては
①十八世紀に入ると西国大名が参勤交代の折に代参を送るようになる
②庶民から玉垣や灯箭の寄進、経典・書画などの寄付が増加
③他国からの民間人の寄進が元禄時代から始まる。
 (1696)に伊予国宇摩郡中之庄村坂上半兵衛から、
  翌年には別子銅山和泉屋吉左衛門(=大坂住吉家)から銅灯籠
④正徳五年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納
 これが金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりのようです。
⑤享保三年(1718)仏生山腹神社境内(現高松市仏生山町)の人たちが「月参講」をつくって金毘羅へ参詣し、御札をうけて金毘羅大権現を勧請。この時に建てた「金毘羅大権現」の石碑をめぐって紛争が起きます。高松藩が介入し、石碑撤去ということで落着したようですが、この「事件」からは高松藩内に「月参講」ができて、庶民が金毘羅に毎月御参りしていることが分かります。

金毘羅大権現扁額1
金毘羅大権現の扁額(阿波箸蔵寺)
地元讃岐で「金毘羅さん」への信頼を高めたもののひとつが「罪人のもらい受け」です。
罪人の関係者がら依頼があれば、高松・丸亀藩に減刑や放免のための口利き(挨拶)をしているのが史料から分かります。
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、
②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。
③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。
④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
このような丸亀・高松藩への「助命・減刑活動」の成果を目の前にした庶民は、金毘羅さんの威光・神威を強く印象付けられたことでしょう。同時に「ありがたや」と感謝の念を抱き、信仰心へとつながる契機となったのではないでしょうか。
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金毘羅信仰の全国拡大は、江戸における高まりがあるとされます。
 江戸の大名邸に祀られた守護神(その多くは領国内の霊威ある神)を、江戸っ子たちに開放する風習が広がり、久留米藩邸の水天宮のように大きな人気を集める神社も出てきます。虎ノ門外の丸亀京極藩邸の金毘羅も有名になり、縁日の十日には早朝から夕方まで多くの参詣人でにぎわったようです。宝暦七年(1757)以後、丸亀江戸藩邸にある当山御守納所から金毘羅へ初穂金が奉納されていますが、宝暦七年には金一両だったものが、約四半世紀後の、天明元年(1781)には100両、同五年には200両、同八年からは150両が毎年届けられるようになったというのです。江戸における金毘羅信仰の飛躍的な高まりがうかがえます。
 天保二年(一八三一)丸亀藩が新湛甫を築造するに当たって、江戸において「金毘羅宮常夜灯千人講」を結成し、募金を始め、集まった金で新湛甫を完成させ、さらに青銅の常夜灯三基を建立するという成果を収めたのも、このような江戸っ子の金毘羅信仰の高まりが背景にあったようです。
この動きが一層加速するのは、朝廷より「日本一社」の綸旨を下賜された宝暦十年五月二十日てからです。
さらに、安永八年(一七七九)に将軍家へ正・五・九月祈祷の巻数を献上するよう命じられ、幕府祈願所の地位を獲得してます。もちろんこれは、このころ頻発し始めた金毘羅贋開帳を防止するためでもありましたが「将軍さんが祈願する金毘羅大権現を、吾も祈願するなり」という機運につながります。そして、各大名の代参が増加するのも、宝暦のころからです。
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しかし、それだけで遠くの異国神で蕃神である金毘羅大権現への信仰が広がったのでしょうか。
海に関係ない江戸っ子がなぜ、金毘羅大権現を信仰したのか?ということです。別の視点から問い直すと、
江戸庶民は、金毘羅大権現に何を祈願したかということです。
 それは「海上安全」ではありません。金毘羅信仰が全国的に、広まっていくのは十八世紀後半からです。当時の人々の願うことは「強い神威と加護」で、金毘羅神も「流行神」のひとつであったというのが研究者の考えのようです。
この時期の記録には、
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと
丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
という記事などが、病気平癒などの祈祷依頼が多いのです。朝廷や幕府に対しても、主には疫病除けの祈願が中心でした。ちなみに、日本一社の綸旨を下賜されるに至ったきっかけも、京都高松藩留守居より依頼を受けて院の庖療祈祷を行ったことでした。
「加持祈祷」は修験道山伏の得意とするところです。
ここには金毘羅山が「山伏の聖地」だったことが関係しているようです。祈祷を行っていたのは神職ではなく修験道の修行を積んだ僧侶だったはずです。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果
天狗面を背負っている修験者は、何を語っているのか?
広重の作品の中には、当時の金毘羅神の象徴である「天狗面」を背にして東海道を行く姿が彫り込まれています。彼らは霊験あらたかかな金毘羅神の使者(天狗)として、江戸に向かっているのかも知れません。或いは「霊力の充電」のために天狗の聖地である金毘羅山に還っているのかも知れません。
  信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。四国金毘羅山で修行を積んだ修験者たちが江戸や瀬戸の港町でも「布教活動」を行っていたのではないかと、この版画を見ながら私は考えています。

天狗面を背負う行者
金毘羅神は天狗信仰をもつ金比羅行者(修験者)によって広められた

 修験僧は、町中で庶民の中に入り込み病気平癒や悪病退散の加持祈祷を行い信頼を集めます
そして、彼らが先達となって「金毘羅講」が作られていったのではないでしょうか。信者の中に、大店の旦那がいれば、その発願が成就した折には、灯籠などの寄進につながることもあったでしょうし、講のメンバー達が出し合った資金でお堂や灯籠が建立されていったと思います。どちらにしても、何らかの信仰活動が日常的に行われる必要があります。その核(先達)となったのが、金毘羅山から送り込まれた修験者であったと考えます。信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金比羅行者によって寄進された天狗面(金刀比羅宮蔵)

 金毘羅神が、疫病に対して霊験があったことを示した史料を見てみましょう
 願い上げ奉る口上
 一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上
   寛政六寅年   香川郡東百相村の内桜之馬場
     十月          組頭 五郎右衛門
      別所八郎兵衛殿
これは香川郡東百相村(現高松市仏生山町)桜の馬場に住む組頭の五郎右衛門が、庄屋の別所八郎兵衛にあてて金毘羅灯寵の建立を願ったものです。建立の理由は、近くの村に悪病が流行していた時に金毘羅神へ祈願したところ百相村・出作村はその被害にまったく遭わなかった。そのお礼のためというものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
京都愛宕神社の愛宕神社の絵馬

 「悪霊退散」の霊力を信じて金毘羅神に祈願していることが分かります。ここには「海の神様」の神威はでてきません。このような「効能ニュース」は、素早く広がっていきます。現在の難病に悩む人々が「名医」を探すのと同じように「流行神」の中から「霊験あらたかな神」探しが行われていたのです。
 そして「効能」があると「お礼参り」を契機に、信仰を形とするために灯籠やお堂の建立が行われています。こうした「信仰活動」を通じて、金毘羅信仰は拡大していったのでしょう。ちなみに、仏生山のこの灯籠は、その位置を県道の側に移動されましたが今でも残されているようです。
 金毘羅信仰は、さらに信仰の枠を讃岐の東の方へ広がり、やがて寒川郡・大内郡へも伸びていきます。そこは当時、砂糖栽培が軌道に乗り始め好景気に沸いていた地域でした。それが東讃の砂糖関係者による幕末の高灯籠寄進につながっていきます。。
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金刀比羅宮に寄進された天狗面

 金毘羅信仰の高まりは、庶民を四国の金毘羅へ向かわせることになります
実は大名の代参・寄進は、文化・文政ごろから減っていました。しかし、江戸時代中期以降からは庶民の参詣が爆発的に増えるのです。大名の代参・寄進が先鞭をつけた参拝の道に、どっと庶民が押し寄せるようになります。
 当時の庶民の参詣は、個人旅行という形ではありませんでした。
先ほど述べたとおり、信仰を共にする人々が「講を代表しての参拝」という形をとります。そして、順番で選ばれた代表者には講から旅費や参拝費用が提供されます。こうして、富裕層でなくても講のメンバーであれば一生に一度は金毘羅山に御参りできるチャンスが与えられるようになったのです。これが金比羅詣客の増加につながります。ちなみに、参拝できなかった講メンバーへのお土産は、必要不可欠の条件になります。これは現在でも「修学旅行」「新婚旅行」などの際の「餞別とお礼のお土産」いう形で、残っているのかも知れません。

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丸亀のふたつの金毘羅講を見てみましょう
延享元年(1744)讃岐出身の大坂の船宿多田屋新右衛門の金毘羅参詣船を仕立てたいという願いが認められます。以後、大坂方面からの金毘羅参詣客は、丸亀へ上陸することが多くなります。さらに、天保年間の丸亀の新湛甫が完成してからは参詣客が一層増えます。その恩恵に浴したのは丸亀の船宿や商家などの人々です。彼らはそのお礼に玉垣講・灯明講を結成して玉垣や灯明の寄進を行うようになります。この丸亀玉垣講については、金刀比羅神社に次のような記録が残されています。
    丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、
戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・
但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、
一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
  当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛
  金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
とあって、本社正面南側の長い階段の玉垣と内陣の戸帳(20両)を寄進したこと、この講のメンバーは毎年正月と9月の年に2回、およそ180人ほどで参拝に訪れ、その際の賑やかな様を記しています。寄進をお山に取り次いだのは金毘羅門前町の旅館・余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛です。
 玉垣講が実際に寄進した玉垣親柱には「世話方船宿中」と彫られています。そして、人名を見ると船宿主が多いことに気がつきます。
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
この講は、幕末の天保十二年(1841)に結成されて、すぐ六角形青銅灯籠両基を奉納しています。灯明講の寄進した灯籠には、竹屋、油屋、糸屋とか板屋、槌屋、笹屋、指物屋という姓が彫られていて、どんな商売をしているのか想像できて楽しくなります。玉垣講と灯明講は、丸亀城下の金毘羅講ですが、そのメンバーは違っていたようです。
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瀬戸内海の因島浦々講中が寄進した連子塀灯明堂をみてみましょう
この連子塀灯明堂は、一の坂にあり、今も土産物店の並ぶ中に建っています。幕末ころに作られた『稿本 讃岐国名勝図会 金毘羅之部』に
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
と記されています。
「金毘羅宮 灯明堂」の画像検索結果
一ノ坂の途中の左側にある重要有形民俗文化財「灯明堂」で、瀬戸内海の島港の講による寄進らしく、船の下梁を利用して建てられています。当時としては、巨額の経費を必要とするモニュメントです。この燈明堂を寄進した因島浦々講中とは、何者なのでしょうか?
 この講は因島を中心として向島・生口島・佐木島・生名島・弓削島・伯方島・佐島など芸予諸島の人々で構成された講です。メンバーは廻船業・製塩業が多く、階層としては庄屋・組頭・長百姓などが中心となっています。因島の中では、椋浦が最も大きな湊だったようで、この地には、文化二年(1805)10月建立の石製大灯籠が残っていて、当時の瀬戸内海の交易活動で繁栄する因島の島々の経済力を示すものです。
生口島の玄関湊に当たる瀬戸田にも、大きい石灯籠があります。
三原から生口島の瀬戸田へ : レトロな建物を訪ねて

これには住吉・伊勢・厳島などと並んで金毘羅大権現と彫られています。自らの港に船の安全を祈願して大灯籠を建てると、次には「海の神様」として台頭してきた金毘羅山に連子塀灯明堂を寄進するという運びになったようです。経済力と共に強力なリーダーが音頭を取って連子塀灯明堂が寄進されたことを思わせます こうして、瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになっていったようです。
金毘羅神
天狗姿の金毘羅大権現(松尾寺蔵)
このような金毘羅信仰の拡大の核になったのは、ここでも金毘羅の山伏天狗たちではなかったのかと私は思います。
金毘羅山は近世の初めは修験者のメッカで、金光院は多門院の院主たちは、その先達として多くの弟子を育てました。金毘羅山に残る断崖や葵の滝などは、その行場でした。そこを修行ゲレンデとして育った多くの修験者(山伏)は、天狗となって各地に散らばったのです。あるものは江戸へ、あるものは尾道へ。
 尾道の千光寺の境内に残る巨石群は、古代以来の信仰の対象ですし、行者達の行場でもありました。また、真言宗の仏教寺院で足利義教が寄進したとされる三重塔や、山名一族が再建した金堂など、多数の国重要文化財がある護国寺の塔頭の中で大きな力を持っていたのは金剛院という修験僧を院主としています。尾道を拠点として、金毘羅の天狗面を背負った山伏達が沖の島々の船主達に加持祈祷を通じた「布教活動」を行っていた姿を私は想像しています。
 そして、ここでは「海の守り神」というキャッチコピーが使われるようになったではないでしょうか。江戸時代の後半になるまでは、金毘羅大権現は加持祈祷の流行神であったと資料的には言えるようです。
金毘羅神 箸蔵寺
阿波箸蔵寺の金毘羅大権現

参考文献 金毘羅信仰の高まり 町史ことひら 91P
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  戦国末期に建立された金比羅堂が別当を務める金光院の歴代院主の手腕によって、他の諸堂を圧倒する権勢を誇るようになります。17世紀半ばには、幕府から金光院に朱印状が交付されたことで「お山の殿様」としての地位を確立したことを前回は見てきました。
 今回はそれから20年後に起こった事件を見ていくことにします。内容は、追い詰められた三十番社が金光院を幕府に訴えた事件です。結果は、訴えた社人が獄門貼付の厳罰に処せらことで幕を閉じます。
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 内記太夫の控訴までの足取り
 時代は移り世代がひとつ新しくなります。三十番社の相続をめぐって弟・権太夫と争った松太夫の長男徳は幼少の時から金光院主宥睨にかわいがられ、その口添えで京都の吉田家から装束を授けられ、内記太夫の名を与えられます。内記太夫は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなります。しかし、吉田家神道の影響をうけてでしょうか、次第にかつて父が争った叔父の権太夫に近づき、金光院の僧侶の横暴をひそかに幕府に訴えようと考えるようになります。
 内記太夫から相談を受け行動を共にし、後に追放の刑に処せられた与北村の瀬兵衛の口述書が残っています。それによると
1670(寛文十)年6月23日、内記太夫は伊勢参宮を名目にして丸亀を船出し、先発していた権太夫・理兵衛の二人と、大坂平野町徳左衛門方で落ち合います。
27日には与北村の瀬兵衛が到着したので4人で連れ立って堺筋の輿左衛門という分限者を訪ねます。輿左衛門は大坂では指折りの分限者で、江戸にも手筋(于づる)の多い人であったといいます。瀬兵衛は、権太夫に依頼された通りに金毘羅さんの事情を述べ、「今度の訴訟は必ず理運が開けるから……」と、資金的な援助を依頼します。
7月1日、宿の主人徳左衛門の紹介で、京都の人で神道に明るい太郎左衛門を宿に招いて事情を説明し、訴訟の見込みについて尋ねています。太郎左衛門は、次のように応えます。
「金毘羅の義は、院号や山号もあるので神とも仏とも申し難い。そのうえ出家といっても代々支配して来ており、御朱印なども頂戴しているので、訴訟しても勝目は少ないと思う。しかし権現の本地が何であるか調べてみよう」
 この悲観的な意見を聞いて瀬兵衛は訴訟を諦め、一行と別れて帰国したと後に口述しています。
7月17日 内記太夫と権太夫は、堺筋の与左衛門と共に京都に上り、神祇宗家の吉田家に申し出ます。二人は吉田家の指図を受けて訴状をしたため、京都所司代に差し出します。しかし、「この事件はここで解決する問題でないから、江戸へ参るように」と突き返されます。そこで二人は江戸に出て寺社奉行小笠原山城守へ訴状を提出したのです。これが寛文10年8月8日のことでした。

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意訳した訴状の内容を見ながら、背景などを補足していきます。
私どもは讃岐金比羅三十番神社の社人(=神人=下級神職)です。
宮地の中に金光院という出家僧侶がいます。この寺は先年までは下の坊を呼ばれた滅罪寺(=金光院)です。そのため今でも金光院の坊主達は扶持切米を潰し、死人の取扱を行っています。宮地の中に観音堂・薬師堂・釈迦堂があります。これらは金光院が管理していますが、土佐の長宗我部元親の侵攻のの折に、よしみを通じて私どもより奪っていったものです。
 そして賽銭などは金光院が管理するようになりました。賽銭の外にも神楽銭がありますが、これについては私市良太夫が管理していましたが、開帳と称して、私たちが作成した御幣を取り出し、信者に授け、神楽銭までもを理不尽に奪い取り最近は、袖神楽銭のみを与えられている始末です。
  金光院に対して申したいことは、出家が神楽を管轄するという珍奇なことを止め、前々通りに私どもに管理運営を任せて欲しいのです。また、皆のものが納得しない所へ神楽場を建て、袖神楽のみを勤めておりますが、その上に最近は、権現の後方の遠いところへ神楽場を移して、参拝するものも分からない所なので、訪れる人も少なく私どもは飢え死に及ぶような有様です。しかし、両者の神事については今まで通りきちんと勤めております。
①金光院は下の坊と呼ばれる菩提寺であったこと。
②宮地の中には観音堂・薬師堂・釈迦堂があるが、もともとは三十番社が管理していたこと。
③それを、土佐軍の占領時に、長宗我部元親が土佐出身の宥厳を金光院住職に据えてこれらを三十番社から奪っていった。そして今では、これらの賽銭は金光院が管理するようになってしまった。
 とあります。

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  この訴状の中には、三十番社の神職からみた戦国時代末期からの金毘羅山の様子が記されています。それは残された別の史料から推察してきたを裏付ける内容です。つまり、
①からはもともとは金光院は「下の坊」であり「死者のおもむく」広谷墓地の慰霊の寺院であったこと、その位置も観音堂や三十番社のある現金刀比羅神社本殿の位置よりも下にあったらしいこと。
②③からは、諸堂が並立していたがその管理権は、長宗我部元親の占領以前には三十番社にあったということ。長宗我部元親が従軍していた土佐出身の修験僧宥厳を金光院住職に据えて、保護したのを背景に、金光院が山内での権勢を強めたということを裏付けます。訴状は具体的に、金光院が三十番社から奪ったと主張しています。
「町史こんぴら」などには「天正末期に金毘羅山のお山で大変革があったこと。それは金比羅堂の出現で、背後には別当である金光院の台頭がある」と記されていますが、この訴状は、より具体的にそれを裏付ける内容です。「長宗我部占領下の大改革」を、三十番社の立場から見ればこうなるのかもしれません。
 更に訴状は、神楽銭の管理権までを金光院に奪われたことや神楽場の設置場所についての不満を述べた上に「僧侶が神楽を管轄するという奇妙なことは止めさせて欲しい」と金光院の横暴を訴え自分たち神職の経済的な苦境の救済を求めています。
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  生駒家からの寄進が毎年十月十日の祭礼に使われていないことについて
毎年の10月10日・11日の神事について、小松庄四條村の百姓上頭と下頭に、申し分かちて担当してきました。この神事祭礼の経費については生駒一正様より80石の社領の寄進を受け、それを上当・下当の経費に充てて神事を勤めてきました。その後、250石の社領寄進を受け、併せて330石の寄進を受けています。
 ところが、これらを神事に使わないため4ヶ村の百姓達は迷惑を受けておりましたので申し出たところ、金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています。9月から11月までの祭事期間中の賄い額は大きく当人は殊の外迷惑を被っています。古来よりの神事と思い勤めてはおりますが、事によっては神事から退かせていただくことも考えざる得ません。身分の奢りを究め、何軒もの下屋敷を建て、一門には商売をさせ質物を取るありさまです。
10月10日の大祭の経費に関わることが述べられていますが、注目すべき点は、
初期の寄進である生駒一正からの寄進80石は、大祭の経費に充てていたこと、ところがその後の250石については金光院が独占し、大祭経費に使用していないと訴えます。ここからは、三十番社の神官達が
「生駒家の寄進は、金毘羅山の祭事のために寄進されたもので、金光院単独に贈られた物ではない」
という認識を持っていたことが分かります。そして、初期に寄進された80石に関しては、実際に祭事に使われていたようです。
 その後に、申し立てたところ
「金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています」
とありますが、「生駒藩のお袋様」とは生駒一正の側室オナツのことでしょう。オナツは金光院の宥厳と同じく財田の山下家出身で、宥厳とは甥と叔母の関係にありました。オナツが産んだ左門は、この訴状では「生駒藩の殿様」となっていますがこれは誤りで、殿様の異母弟になります。しかし、当時の金毘羅山の山内では「生駒藩のお袋様」と呼ばれていたようで興味深いところです。ここからも「宥厳ーオナツー生駒家」の強いつながりと金光院の権勢がうかがえます。
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漁師の御供えについて
浦々の漁師たちは願をかける際に、肴を両社へ供えることが恒例となっています。これについても、私どもへの御供えを妨げ、寺に取り入れる始末。清僧であれば肴を扱うことは憚られるはずです。
ここからは、この時期から金毘羅山の諸堂へ漁師達の参拝があったことが分かります。同時に「肴を両社へ供えることが恒例」となっていることから金比羅堂と三十番社が同等であったことがうかがえます。
三十番神権現大行事三社の正月の松注連飾りについて
 三十番神権現大行事・三社の正月のお注連はり(しめはり)は、私どもが長年担当して参りまいた。しかし、観音堂・釈迦堂・薬師堂は金光院より沙汰があり、ここ十数年は右三社の注連飾りは金光院が行うことになりました。その際、理不尽にも証文を出させたのに、書物は渡されていません。まさにやみうち的な仕打ちです。金光院の威勢を恐れ仕方なく押印したした次第です。
 最初の表題に注目したいのですが「三十番神権現大行事」であって「金毘羅大権現」大行事ではありません。ここからも、もともとは三十番社が金毘羅山の諸堂管理権を握っていたことがうかがえます。そして金光院の権勢の高まりと共に、証文を書かせて管理権を奪い取っていった経過が記されます。


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新法の押しつけ
以前は年に三度の市の際に、私どもは神前に上がる習わしでしたが、5年ほど前から金光院の許可を得た後に上がるようにと新法を申しつけられ迷惑を被っています。
 先年の閏十月に参拝者があったので神楽所へ参り、袖神楽を行い参拝者から神楽銭を少々いただきました。ところが理不尽にもこれをこちらに渡しません。その上、年に2・3度の市以外は神前に上がらせないと申しつけられ、袖神楽銭も金光院が取ることになってしまいました。
  この時期に金光院により「新法」が作成され、山内に新しいルールが施行されていった分かります。この提訴から約20年前に金光院は、幕府から「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状が与えられました。これは金光院を封建君主とする全山支配する権力が確立されたことを意味します。これを受けて、金光院を「主」、三十番社他の諸門を「従」とする主従体制の法的整備を進めます。それが「新法のおしつけ」という形で現れているようです。
 戦国時代末には三十番社と金比羅堂の「対等」な関係だったのかもしれません。しかし、朱印地のお墨付きをもらった金光院は「主従関係」に法的面でも、儀式的面でも示せる体制づくりを進めます。つまりこの時点で、三十番社は金比羅堂(金毘羅大権現)に奉仕する立場になっていたのです。しかし、訴状からは三十番社の神人たちにそのような「大局観」は読み取れません。「金光院の僧侶は、三十番社の既得権利を奪う無法者」というのが訴状を貫く主張です。
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多門院の重用と布教活動に対する批判
土佐国の浪人で山伏を多門院と名付けて重用し、今までの例にない土佐での金光院勧進を行わせています。このような事に関しても本来は私どもが行うことであるはずなのに、留めおかれて迷惑を受けています。
多門院の重用とその布教活動が批判されています。
少し長くなりますが多門院について、触れておきたいと思います。
多門院というのは、土佐出身の修験僧宥惺(幼名「熊の助」)にはじまる院坊です。宥惺の父は高知県高岡郡南片岡村の片岡八兵衛尚親です。片岡家は長宗我部家と婚姻関係にある有力家で、後には山内家とも懇意な関係を継続します。
 父尚親は、島津討伐を命じられた長宗我部元親に従軍して九州に渡り、「四国武将の墓場」となった豊後・戸次川の戦いで死亡します。父を亡くした片岡熊の助は、土佐出身の宥厳の後を継いで金光院四代となっていた宥盛を頼り、金毘羅山にやって来てその弟子になり宥惺を名乗り、修験道の修行に励んだようです。この時に、宥惺は宥盛のから多聞天像を与えられたので院号は「多聞天」と呼ばれるようになります。
琴平神宮の正史の中にも「慶長11年(1606)片岡民部(熊の助)、多聞院を名のる
と記されています。
 ところが、慶長18(1613)年に宥盛が死亡し、山下家出身の宥睨が院主の座につくと、宥惺は武士ににもどり、金毘羅山を飛び出していきます。彼が向かったのは大阪城でした
彼は長宗我部家に恩義を感じていて、元親の子が大坂城に入るとそこに馳せ参じたのです。そして、「冬・夏の陣」で大暴れします。元和元年(1615)に、大坂方が敗れると宥惺は金毘羅に逃げ帰ってきます。彼は大坂城の戦いでは目立っていたらしく、徳川方の追求の手は厳しく金毘羅山まで伸びてきました。そこで、修験者に姿を変えて土佐まで逃れ、山中や海岸での修行生活を続けます。その結果、宥惺は修験者のリーダーとしても名声を得るようになっていたようです。
 その後16年後の寛永八年(1631)に、宥睨は宥惺を金毘羅山に呼び戻します。
宥睨もかつては、宥盛に仕えていましたので、宥惺とは同じ門下の弟子として周知の間柄だったと私は思います。当時の宥睨は、金光院院主として生駒家の信頼を得て寄進地を増やし、門前町の形成に着手していた時代でした。金毘羅大権現の発展に伴う諸問題の対応に、自らの右腕を期待して宥惺を土佐からリクルートさせたのだと思います。それを示すかのように宥睨は金光院の門外で小坂に広大な宅地を与えられます。これが新たに興された多門院です。
 宥惺は「金刀比羅を修験道の聖地とする」という戦略を持っていたようで、そのために京都の醍醐三宝院の末となる一方、度々大峰山へ行き、行者の修行を重ね人的なネットワークを形成していきます。こうして「修験で立つ多門院」として立場を強化します。そして当山派修験道と金比羅堂の別当を兼務していた金光院に代わって「山伏の義は多門院へ御譲りにあいなり」と、金毘羅山における修験道は多門院が代行していると主張するようになります。それを裏付けるように多門院の記録には、修験道関係者の記述が詳細に残っています。
 訴状の「土佐での金光院勧進」という記述からは、多門院が土佐で「布教活動」を行い成果を挙げている様子がうかがえます。それは宥惺の土佐での「逃亡中の修験生活」の経験を活かした「布教活動」だったのでしょう。その結果、山内家の藩主にお目通りできる修験者は「多門院」のみと言われるようにまでになります。
 また、讃岐山脈を猪ノ鼻峠で越えた箸蔵寺は阿波修験道の聖地でした。これを最初に、金比羅大権現にとりついだのも多門院であったと言われます。箸蔵寺周辺には多門院の弟子たちが多数存在していたことが箸蔵寺側の史料からも分かります。このようなつながりを背景に、箸蔵寺は「金毘羅大権現の奥社」を称するようになっていくのではと私は考えています。
また、「1757(宝暦7)年3月11日 但州(たじま)の山伏20人と俗人が参拝。「堂床」の回廊で初穂を渡す」
など(修験道山伏関係のとの記録が数多く残されていることから、多門院が金毘羅大権現を天狗信仰の聖地として「山伏の参拝」を進める拠点機関としての役割を果たしていたことが分かります。
   確認しておきたいのは、多門院が「土佐から来たよそ者で、もともとは浪人の新参者」だったということです。「新参者が山内で大きな顔をしている」ことへの旧勢力を代表する三十番社の反発がこの条項からは見て取れます。
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 宮林(みやばやし)の管理について
金毘羅山の神域の社叢については、落葉一枚でも取れば悪事のことと申しつけながら、金光院一門に対しては薪材木などを自由に伐らせ、その他にも取り巻きのお気に入り集についても同様のありさまです。
 ここには、神域の社叢管理についての不満が述べられています。かつては、社叢に入って落葉や薪などを取ることが出来たのが「新法」では「悪事」であるとされるようになったようです。これも、当時の丸亀藩や高松藩が進める森林の管理強化という流れと期を同じくする動きのようにみえます。
金光院院主の山下家世襲と横暴に対する批判
十数年前に真光院という下坊主に社領の内の16石を分与しました。我が友共神職は日に日に餓死に及んでいる有様なのに、身内に関しては我が儘次第です。
三十番社より二丁半ほど下に金光院の墓所を設けていますが、これは参拝者の通り道に当たります。権現への社参の際の障害にもなります。取り除きどことなりへ移動させるように申しつけくだされば有り難く存じます。
生駒家の殿様の側室となったオナツの甥で宥睨が金光院に院主になって以後は、山下家が世襲化する時代が続きます。その結果、山下家出身者やその死者への厚遇が批判の対象となります。真光院を新設し分家のように山下家の関係者に継がせたこと、さらに金光院=山下家の墓所を三十番社のすぐ下の参拝者の道筋に設けられていたことが分かります。
 以上 金光院が金比羅町内において我儘の具体的な実例を書き上げました。
私ども先祖より代々、今に到るまで神事祭礼を勤めて参りました。
古くは社壇の中へ僧侶が出入りすることもありませんでした。ところが金光院が年々威勢を増すにつれて私どもをないがしろにし圧迫するという浅ましい姿になりました。このことは数年来訴え出てきました。
 しかし、金光院の威勢に恐れるとともに、道中路銀等にも事欠く次第。ただ打ち過ぎていくばかりで家中は餓死に到るような有様で、乞食のような躰でこの度、参りました。 御慈悲の上、金光院を召し出して、今までの先例通りに行うように申しつけいただければ有り難く存じます。   
   寛文十年戌八月八日 讃岐国金毘羅社人 権太夫判 
                      内記 判
   御奉行様                    
 以上のように、権勢を増す金光院の僧侶に対する三十番社の社人の訴えが綴られています。ここには追い詰められた日々の生活にも困窮した神人の様子が見えます。こうした訴えに対しては、従来は幕府は介入することを避けて、その国の藩主に仲裁させる方法をとっていました。しかし、内記と権太夫の訴状には、京都の吉田家の介添えがあったからでしょうか、寺社奉行は直ちにこれを受理してしまいます。そして金光院に対して、返答書を提出して翌月中に江戸に参府するように通達させたのです。
 訴状の裏書を受けた内記太夫と権太夫は、讃岐に帰って8月27日に高松藩庁にこれを提出します。藩はこれを金光院に送付したので、金毘羅のお山は大騒ぎとなります。
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  訴えられた金光院の対応は?
 金光院は、九月に入って返答書を幕府に提出します。その草案の写しを見ると、極めて調子の高いトーンで次のように反論します。
「金毘羅大権現が主格であり、それに奉仕するのは金光院であって、訴人たちは金光院の家来であり神楽役人で「主従」の「従」に過ぎない」
と「主従関係」にあることを強調しています。
 そして、江戸に反論審問のために出府することになります。そのメンバーは、金光院からは、隠居の宥典が山の事情に通じた真光院を従えて出府、高松藩からは朱印状を幕府から受けた時に尽力した寺社奉行間宮九郎左衛門が同行します。金光院の一行は高松藩の関船を貸し与えられて、瀬戸内海を大坂に渡り東海道を上り21日に江戸へ到着します。宥典は老齢の身での長旅で、持病が再発し、対決の延期を願い出て療養に努めるます。高松藩ではこの間を利用して、両寺社奉行への情報収集と工作を盛んに行っています。
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金光院と権太夫の対決と裁きの結果は?
 10月9日、寺社奉行月番の小笠原山城守の役宅で、金光院と内記太夫の双方を呼び出して、両者の主張が聞き取られます。高松藩の間宮九郎左衛門が審理に先立って「金光院が所持している御朱印状と、両人の訴状の内容が相違しているから、その点を引き合わせてもらいたい」と述べ、朱印状を与えられた時の事情を詳細に説明が行われます。それに続いて双方の問答が行われ証文が提出されますが、対決は単なる形式に過ぎなかったようです。
寺社奉行は即座にその場で、
「内記太夫・権太夫 家来に紛れ無き証文これ有る上は、金光院家来として主人へ逆意を企てた不届者である。両人の者共は、金光院に下しおかれ 何分にも金光院心次第に仕置申し付けよ」
と申し渡されます。つまり
「内記太夫・権太夫は金光院の家来となることに同意した証文に押印している。家来が主人を訴えることは逆意でありゆるされない」
と、神仏の争いには立ち入らずに、封建社会の大義である「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」の大義名分論でこの問題を裁いたのです。

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判決後の二人を待っていたものは? 
内記太夫と権太夫は、「逆賊」としてその場で搦め取られ、高松藩邸の牢舎につながれる身となります。勝利した金光院の一行は、10月15日に江戸を出発し、囚人となった二人を連れて旅を続け11月2日に高松に還ってきます。
 10月9日の審判が下ってからの対応は、幕府の寺社奉行小笠原山城守と、高松藩主松平頼重・金光院別当宥栄・隠居宥典の間で細密な工作が行われたことが、三者間を往復した文書から細部まで分かります。先ず松平頼重が武家の掟に照らして、内記太夫と権太夫の両人は傑獄門の極刑、子供は獄門、その他の者は斬首という方針を決定しています。これを寺社奉行の小笠原山城守が内諾します。一方、金光院別当は一党の減刑を松平頼重公に願い出ます。頼重がこれを容れて罪一等を減じ、小笠原山城守に事後承諾を求めるということシナリオが事前に決められ、その筋書き通りに運ばれたことが分かります。
事件によって引き起こされた金毘羅の山内の動揺をどう収めるか?
金毘羅山の山内では神人側の意見に賛成する人もあり、これまでの金光院の横暴に対してこれを憎む人たちもいたようです。特に僧侶が家来の神人を処罰することについては、宗教的に疑義を抱く人々もありました。そのような動揺を抑えるために金光院と高松藩は処罰に先立って、各寺門を始め、寺下の指導者五十数名の連署連判の誓書を提出させ、忠誠を誓わせています。この誓約書の文面は、金光院の幕府への返答書が正しいことを確認させ、内記太夫と権太夫は逆意を企てたものであることを承認し、以後も金光院に忠誠を尽くすことを誓ったものでした。
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 こうして、11月11日を期して処刑を行うことになります。
高松の獄舎を出た一行は、足軽20人毎に前後を警固され、円座・滝宮を経て金毘羅へ護送されます。一夜を明かした後、翌11日の早朝に金毘羅町内を引き回しの上、金毘羅領と高松領の境に近い狹間村の祓川の松林の中で処刑が行われました。
内記太夫と権太夫は獄門、内記太夫の子二人と権太夫の子三人、権太夫の弟吉左衛門とその子二人、金光院下僕の坂の下六右衛門の九人が斬罪となりました。「反逆の罪は九族に及ぶ」のが封建の掟ですが、子供の中には五歳と七歳、それに乳飲み子も含まれていました。いたいけな子供が親の罪に連座してその細い首を打ち落とされ、枯草が血に染めたのです。金毘羅神も、金毘羅大権現も、釈迦も、不動明王も、十一面観音も、この惨劇を金毘羅山の山上からじっと見下ろしていたのです。
 これは金毘羅山内における権力者が誰であるのかを、劇的に示すことになります。金光院に刃向かう者は「獄門打首」になるということを天下に知らしめたのです。
  金光院の権威を高める「ショック療法」としては、これ以上のものはない劇的なものでした。


しかし、強い処置には副作用が伴います。
処罰された内記太夫と権太夫についての伝承がそれを物語ります。
 内記太夫と権太夫の首は、獄門台に曝されたが、両眼を見開いてその怨みを訴え、長くその眼を閉じなかったと伝えらます。
やがて「祓川には鬼火がともる。松太・権太の眼が光る」という里謡が歌われるようになります。
刑場はいつか権太原と呼ばれるようになり「高松藩士が権太原を通ると、馬が突然狂い出して大怪我をした」という噂が広がります。やがて高松からの金毘羅参詣の道は、権太原を避けてその南を通るようになります。これは菅原道実や崇徳上皇の「悪霊伝説」に見られるパターンと同じです。しかし、内記太夫と権太夫が神として祀られることはありませんでした。
 しかし、内記太夫と権太夫が社人であった大井八幡神社の社人職を嗣いだ金関氏は、ひそかに二人の霊を祀っていたとも伝えられます。
 社人がいなくなった金毘羅さんでは、五人百姓が神役を一時的に代行するようになります。
翌年六月には、その打開のために、白鳥神社の神官猪熊千倉に送って援助を依頼します。そして金毘羅の山下家から二人の子供が選ばれ、白鳥神社に送られて教導を受けさせています。
その際にも、宥典は今後の神人の統制のことを心配して、神役としての神前の手ほどきを受けるだけにとどめ、神道の教えを受けることを固く断るように指示しています。以後、金光院は京都の吉田家と絶縁して、神仏混淆、仏道優先の金毘羅大権現として発展を続けることになります。
 高松藩の寺社奉行間宮九郎左衛門は、この事件の経過を日記風に書きとめ、これの副本を作り、関係者の間で往復した文書の副本をも添えて、後の記録として金光院に贈ります。そのために多くの人が書き写し、数多く残る結果となりました。
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  内記太夫と権太夫の墓は
 高松行の電車が、琴平を出て土器川(祓川)の鉄橋を渡りきった所の左手に墓地がります。その墓地の南の端の線路に一番近い所に、石殿造りの小さい墓が二つある。1㍍余りの石組みの台の上に置かれているのが内記太夫と権太夫の墓です。その墓の前の石の献灯には「松田宮・文久三(1863)年十一月吉祥日」と刻まれています。事件から二百年後の幕末になって建てられたものです。                     
 その墓のそばには、高さ1㍍あまりの石組みの台の上に置かれた全長二㍍余りの立派な宝篋印塔が立っています。この塔は、事件から百年以上経った文化文政ごろ、大金を拠出できる立場にあった人が匿名で建立したと言われます。長い相輪、馬耳風の尾根の線の優美さ、小さい塔身、見事な彫りを見せた請花と反花、人きい塔身の周囲には型通りに六四字の掲が刻まれしその塔身を受ける請花(うけばな)と反花(かえりばな)が美しい塔です。

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   祓川の墓地の説明板には次のように記されています
   慶長年間、王尾市良太夫は大井八幡宮と金毘羅三十番神の兼帯社人であった。
その長男を松太夫といった。寛文十年(1670)八月松太夫の子内記と松太夫の弟権太夫の両名は、金毘羅大権現の経営に関して金光院を相手として訴えを起こした。
幕府の寺社奉行はこれを受理し、その旨を高松藩に伝えた。高松藩は金光院に対して訴人と和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかった。幕府は双方の出府を求め決断所において審判を行った。封建制下の常として内記と権太夫は敗訴となり、寛文十一年(1671)十一月十一日、その一族は高松藩によって、祓川の刑場で処刑された。
その後、金光院においては不幸が相次いで起こりこれを内記等の怨霊のたたりとし、約二百年後の文久三年(1863)十一月処刑地の権太原に慰霊碑を建立して供養した。
とあります。
これを読むと、幕末に建てられた慰霊碑は金光院によって建てられたとありますが、宝篋印塔については何もふれていません。しかし、百年・二百年後の人たちにも、この事件は語り継がれていたことが分かります。
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「びっくりでこ」は獄門頸?
  この後、金毘羅さんのお土産店では「獄門人形」という小さい粘土作りの人形の首が土産物として売られるようになります。この人形は赤・白の一対で、短い棒の先に取り付けられ、白首の方を松太夫、赤首の方を権太夫と呼び、共に両眼を見開いて断末魔の苦しみを現していると言われました。そのころの金毘羅さんの土産物といえば粘土の神鈴と、大門の内側で五人百姓の売っていた糖飴でした。そこに登場した「獄門人形」は「びっくりでこ、こんぴらめかやり」とも呼ばれて参詣客に喜ばれ、人形にまつわる悲話と共に広く各地へ伝えられたようです。
 また、この人形は金毘羅
大芝居に出演した上方の千両役者の立役や悪役の隈取(くまどり=顔の彩色)のきいた顔を現したのが「びっくりでこ」であるとも伝えられます。獄門首か、役者の似顔か、いずれにしても金毘羅商人のたくましい商魂の産物といえるものかもしれません。
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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち         満濃町誌1173P