
金毘羅大権現松尾寺の観音堂と本尊(讃岐国名勝図会)
場所 まんのう町四条公民会
資料代 200円
内容は、まず金毘羅さんの次の「通説」について検討します。
これに対して、ことひら町史などはどのように記しているのかを見ていきます。金毘羅神は古代に遡るものではなく、近世初頭に登場した流行神であること、それを創り出したのは近世の高野山系の修験者たちだったことなど、今までの通説を伏するものになります。今回は私が講師をつとめます。興味と時間のある方の参加を歓迎します。

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その前に舞台となる金毘羅山上の様子を絵図で見ておきます。
①神仏分離前の幕末の金毘羅大権現の観音堂です。現在は、この地には大国主の姫神三穂津姫を祀る建物があります。神仏分離後に神社風に改められて最近、重文指定を受けました。②その背後に金剛坊とあります。金剛坊は「死しては、天狗になって金毘羅を護らん」と云った宥盛という修験者です。宥盛を金光院では実質的な始祖としてきました。宥盛は神仏分離後は、奥社に奉られています。左の方には大きな絵馬堂 そして籠堂もあります。参拝者達がここで夜を明かしていたことがうかがえます。さて、このお寺は創建時は松尾寺と呼ばれました。観音堂が本堂なので観音信仰のお寺だったようです。観音堂の本尊を見ておきます。平安期の観音像です。頭の 十の観音が抜き取られて、かつては正観音とされていたようです。今は宝物館にいらっしゃいます。明治の神仏分離後も、この本尊を廃仏することはできなかったようです。観音堂の右側は、どうなっているのでしょうか?


金毘羅参詣名所図会に描かれた金毘羅大権現です。
ここでは、本社下の四段坂の一番下の本地堂を押さえておきます。ここが金毘羅神が最初に祀られた所になります。それが、本社の位置に格上げされて、観音堂を押しのけたかっこうになります。また金毘羅神の本地仏は、薬師堂とされました。そのため金堂の位置には薬師堂が建てられます。そして、幕末には大きな金堂として新築され、中には善通寺金堂の薬師さまと変わらない大きさの薬師さまが安置されていました。それは神仏分離後に売却され、金堂はもぬけの空となって旭社と呼ばれるようになります。
もうひとつ押さえておきたいの、二天門です。これは土佐の長宗我部元親が寄進したものです。俗説では、逆(賢)木(さかき)門ともいわれ、一日で大急ぎで立てたので、柱の上下が逆になっているといわれる門です。
金比羅さんについては、かつては上のように説明されてきました。
しかし、香川県史や町史ことひらなどは、このような立場をとりません。それでは現在の研究者は、金毘羅信仰についてどのように考えているのでしょうか? まず、「古い歴史をもつ金毘羅さん」について、見ておきましょう。

流行(はやり)神というのは、それまでになかった神が突然現れて、爆発的に信者をあつめる現象です。この見解を、後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、この立場を継承します。金比羅神が何者であるかは後回しにして、まずこの神がだれによって全国に拡げられたかを見ていくことにします。
当時の松尾山(象頭山)は、どうみられていたのでしょうか。

これは天狗経という経典です。今では偽書とされていますが、当事はよく出回っていました。ここには、各地の有力天狗が列挙されています。そこは天狗信仰の拠点だったということです。先頭に来るのは京都の愛宕天狗です。鞍馬天狗もいます。高野山も天狗の拠点地です。そして、(赤丸)「黒眷属金比羅坊」が出てきます。「白峯相模坊」もでてきます。崇徳上皇が死して天狗になり怨念をはらんとしたのが、白峯です。その崇徳上皇の一番の子分が相模坊です。この下には多くの子天狗たちがいました。ひとつ置いて、象頭山金剛坊とあります。これが後の金光院です。こうして見ると象頭山は、天狗信仰の拠点だったことが見えてきます。
本当に金比羅・象頭山に天狗はいたのでしょうか?
その痕跡を残すのが奥社(厳魂神社(いづたまじんじゃ)です。ここには金剛坊とよばれた宥盛が神となって奉られています。奥社の横は断崖で天狗岩と呼ばれています。そこには、大天狗と烏天狗の面が架けられています。そして高瀬の昔話には上のように記されています。ここからはこの断崖や奥の葵滝などは、天狗信者の行場で各地から多くの人が修行に訪れていたことが分かります。
金刀比羅宮奥の院の天狗岩の天狗面(右が大天狗・左が小天狗)と奥社のお守り
右が団扇を持つ大天狗で、左が羽根がある烏天狗です。大天狗の方が格上になるようです。奥社のお守り袋は、天狗が書かれていて「御本宮守護神」と記されます。これは、ここに神となって奉られているのが天狗の親玉とされる金剛院宥盛なのです。彼は「死しては天となり、金比羅を護らん」といって亡くなったことは先にもお話しした通りです。どこか白峰寺の崇徳上皇の言葉とよく似ています。ここでは宥盛は天狗として、金毘羅宮を護っているということを押さえておきます。それでは、天狗になるためにここに修行しに来た修験者たちは、どんな布教活動を行っていたのでしょうか?
安藤広重の「沼津宿」には、天狗面を背負った行者が描かれています。
左は、金毘羅資料館の、金比羅行者です。箱に天狗面を固定し、注連縄(しめなわ)が張られています。天狗面自体が信仰対象であったことが分かります。天狗面を背負って布教活動を行う修験者を金比羅行者と呼んだようです。
金刀比羅宮には、金比羅行者が亡くなった後に、弟子たちが金毘羅に奉納した天狗面があります。ここからは金比羅行者が天狗面を背負って、全国に布教活動を行っていたが分かります。それでは、どんな布教活動だったのでしょうか?
具体的な布教方法は分かりませんが、布教活動の成果が分かる史料があります。信州の芝生田村の庄屋・政賢の願文です。願文を意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明験を得ることを願う。そのために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する。
願掛け対象は、金毘羅大権現と大天狗・子天狗です。大願の内容は記されていませんが、「毎月十・二十・三十日に火を断つ」という断ち物祈願です。ここで押さえておきたいことは、海とは関係のない長野の山の中の庄屋が金毘羅大権現の信者となっていることです。それは金比羅行者の布教活動の成果であることがうかがえます。このように金毘羅大権現の初期の広がりは海よりも山に多いことが民俗研修者によって明らかにされています。
それでは、金毘羅大権現と、大天狗と子天狗は、どんな関係にあったのでしょうか。

江戸時代中期に金比羅を訪れ、金剛坊に安置されていた金毘羅大権現を拝んだ天野信景は次のように記しています。
讃岐象頭山は金毘羅神の山である。金毘羅神の像は三尺ばかりの坐像で、僧侶姿である。すざましい面貌で、修験者のような頭巾を被っている。手には羽団扇をもつ。その姿は、十二神将の宮毘羅神将とは似ても似つかない。
金光院の公式見解は次のようなものでした。
「金毘羅神は、インドのワニの神格化されたクンピーラである。それが権現したのが宮毘羅神将である」
しかし、これは金光院の公式文書の中に書かれたものです。この説明と実態は違っていたようです。つまり金光院は2つの説明バージョンを持っていて、使い分けていたようです。大名達の保護を受けるようになると、天狗の親玉が金比羅神では都合が悪くなります。そのために金比羅神の由来を聞かれたときに公式版回答マニュアルを作成しています。そこには、インドのガンジス側のワニが神霊化し守護神となったのがクンピーラで、その本地仏は宮毘羅神将だと書かれています。これが公式版です。が、実際の布教用には金比羅神は天狗の親玉と修験者たちは言い伝えていたようです。ダブルスタンダードで対応していたのです。
それが分かるのが、「塩尻」です。
そこで観音堂裏の金剛院にある金毘羅像を拝観したときのことを次のように記します。
僧のような姿で、修験者のような服装をして、手に羽根団扇を持つ。これは宮毘羅神将の姿ではない。死して天狗にならんとした宥盛が自らの姿を刻んだという自造木像を社僧たちは金毘羅神として崇めていたのではないかと私は想像しています。そこでは、「金毘羅大権現=天狗=宥盛」といった「混淆」が進みます。
ちなみに江戸時代後半になると京都の崇徳神社では、崇徳上皇と金毘羅神は同じ天狗だとされ、さらに崇徳上皇=金毘羅大権現という説が広まります。それが、明治になって金毘羅大権現を追放した後に、その身代わりとして崇徳上皇を祭神として金刀比羅宮が迎え入れる導線になるようです。ここまでで、一部終了です。
ここまでは以下のことを押さえておきます。
①金比羅には、中世に遡る史料はないこと
②金毘羅は近世になって登場した流行神であること
③金毘羅神は、宮毘羅神将とはにても似つかない修験者姿であったこと④金毘羅信仰をひろげたのは、天狗信仰をもつ修験者の「金毘羅行者」たちだったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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二天門 多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。
上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか?②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
(表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」(裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。②建立者は金光院の宥雅で、元亀四年(1573)で、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立したこと③本尊の開眼法要の導師を、高野山金剛三昧院の良昌が務めたこと

「宥範僧正 観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ 観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から 元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、


金毘羅大権現 本宮松尾寺本堂 観音堂薬師堂 金毘羅神の本地仏

人形町天明2年(1782)細工人 倉橋清兵衛一家ノ安全

「入天狗道 沙門金剛坊(宥盛)形像(後略)」
某月某日 天狗界に入る

クンピーラ=金毘羅大権現=天狗信仰=山岳信仰=修験者たちの行場・聖地
横綱 京都 愛宕山栄術太郎出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼大関 京都 鞍馬山僧正坊関脇 滋賀 比良山次郎坊小結 福岡 彦山豊前坊出張小結 香川 白峯相模坊前頭 愛媛 石槌法起坊同 奈良 葛城山高天坊同 奈良 大峯菊丈坊同 熊本 肥後阿闍梨同 京都 高雄内供奉同 京都 比叡山法性坊同 鳥取 伯耆大仙清光坊同 滋賀 伊吹山飛行上人同 和歌山 高野山高林坊同 広島 厳島三鬼坊同 滋賀 横川党海坊同 京都 如意ヶ嶽薬師坊同 香川 象頭山金剛坊同 岡山 児島吉祥坊同 福岡 宰府高垣高森坊同 滋賀 竹生島行神坊同 鹿児島 硫黄島ミエビ山王同 鹿児島 硫黄島ホタラ山王同 高知 蹉蛇山放主坊同 香川 五剣山中将坊同 香川 象頭山趣海坊

夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢順かんと欲す、夜深くして天狗来りて翼を休む、十丈の老杉揺いで声ありまた、老杉の頂上里雲片る。夜静かにして神扉燈影微かなり道士山を下って怪語を伝ふ、前宵天狗人を擢んで飛ぶと
江戸の天狗隠者が金毘羅大権現へ大天狗像を奉納しようと、江戸を出発します。天狗像を担いで東海道を歩み始めました。ところが神奈川宿で一泊したところ、翌日には大天狗が岩のような重たさになり、担げなくなってしまいました。
使者はどうすることもできません。神奈川宿にもう一泊滞在することにしました。するとその晩、使者の夢に天狗様が現れ、「この地の飯綱神宮に留まりたいので、この地に私を置いていくように」とお告げがあったそうです。それを聞いた使者はそのまま大綱神社に奉納し、「大天狗の像」で祀られるようになりました。
「塩飽が昔から海の安全を祈願したのは住吉神社で、金毘羅さんは新参者」


金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった。
筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。
1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か),矢一手を奉納。1583 天正11 三十番神社葺替。1584 天正12 10.9長曽我部元親,松尾寺仁王堂を建立。1585 天正13 8.10仙石秀久,松尾寺に制札を下す。10.19仙石秀久,金毘羅へ当物成十石を寄進。
長保3年 1001 藤原実秋、社殿、鳥居を修築。長寛元年 1163 崇徳上皇参拝。元徳3年 1331 宥範 宥範、善通寺誕生院を再興。建武3年 1336 宥範、足利尊氏より櫛梨社地頭職が与えられた。観応元年 1350 別当宥範、当宮神事記。観応3年 1352 別当宥範没。康安2年 1362 足利義詮、寄進状。応安4年 1371 足利義満、寄進状。
「近世以前の金毘羅の史料(歴史)はない」
「金毘羅信仰を考える際の新たな視点と課題」
境内の三十番神社を改築大門建立のための用材を寄進阿弥陀仏千体を寄付、神馬とその飼葉料三十石を寄進,
木馬舎を建立,承応3年 良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の木額を奉納,明暦元年 明本一切経を寄進,万治2年 それを納めるための経蔵を建立寛文8年から4年間 毎年1月10日に灯籠1対ずつ寄進,延宝元年12月 多宝塔を建立寄進
①生駒家の社領寄進の上に,②頼重の手による堂社の建立があって
①長宗我部元親の讃岐支配のための宗教センター建設②生駒家の藩主の側室オナツの系譜による寄進と保護③松平頼重の統治政策の一環としての金毘羅保護
金毘羅のことで発言する場合,必ず触れなくてはならないこととして「海の神金毘羅」という問題がある。これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。金毘羅大権現は海の神であるという信仰は,多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
「専神事祭礼可抽国家安全懇祈」
「宝祚長久之御祈祷,弥無怠慢可被修行」
「祈貴者必得其貴,祈冨者必得其冨,祈寿者必得其寿,祈業者必得其業,及水旱・疾疫,百爾所祈,莫不得其応」
この2つが初期のもので、1863(文久2)年 尾州中須村天野六左ヱ門に至るまで海事関係者からの奉納は、十数回数えられるだけです。その間,他の職種の人達の奉納は150回を越えています。海事関係者のものは,全体の1/10にも満たないことになります。1716(正徳5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭たち奉納の釣燈寵1761(宝暦11)年 大坂小堀屋庄左ヱ門廻船中寄進の釣燈寵
1724(享保 9)年 塩飽牛島の丸尾五左ヱ門が最初で1729(享保14)年 宇多津廻船中奉納のもの
1796(寛政 8年) 大坂西横堀富田屋吉右ヱ門手船金毘羅丸船頭悦蔵奉納
1643(寛永20)年 高松藩船奉行渡辺大和が玄海灘で霊験1694(元禄 7)年 日向国の六兵ヱ佐田の沖で難船を免れた。1715(正徳 5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭が青銅釣燈寵一対奉納1724(享保 9)年 塩飽丸尾家四代五左ヱ門正次が「鯛釣り戎」の額を奉納,
同年 宇多津の廻船中から「翁」の絵馬が献納
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。
①神櫛皇子が、悪魚を討つために讃岐国やってきた②櫛梨山に漂着し、これを祝うため般磐大明神を祀った。③付近には、海に関係する地名がいくつも残っている。④神櫛王は悪魚討伐後、城山に館を構え讃岐国造になった。⑤亡くなった後は、櫛梨山に葬り皇宮大明神と呼ばれる。⑥旅所は旧仲南町の塩入にあり、鳥居が107基あった⑦天正年間に、長宗我部元親の侵入で兵火に会い一切消失

「所由有りて、小松の小堂に閑居し」
元弘年中(1331~)は、誕生院を始めとして堂宇修造にかかり、建武年中(1334~)に東北院から誕生院に移り建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
「大歳神社の北に小路の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」
①全体的に洗練されているのは「綾氏系図』②西海・南海の用字の正確さや文脈の詳細・緻密さ、重厚さから『宥範縁起』の方が古風
悪魚 → 神魚 → 金毘羅神(鰐神)
「仏教では人間に危害を加える悪神を仏教擁護の善神に仕立てあげて、これを祀った。その讃岐版が金毘羅神である」
松尾寺の僧侶は中讃を中心に、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンピーラ信仰を始めた。「実質的には初代金光院院主である宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」

①紀記に、神櫛王は登場するが「悪魚退治伝説」はない。②「讃留霊王の悪魚退治伝説」は、中世に讃岐で作られたローカルストーリーである。③ この伝説が最初に登場するのは『綾氏系図』である。④ 作成目的は讃岐最初の国主・讃留霊王の子孫が綾氏であることを顕彰する役割がある⑤「伝説」であると当時に、綾氏が坂出の福江から川津を経て大束川沿いに綾郡へ進出した「痕跡」も含まれているのではないかと考える研究者もいる。⑦「綾氏の氏寺」と云われる法勲寺が、綾氏の祖先法要の中核寺院であった⑧法勲寺の修験道者が綾氏団結のために、作り出したのが「悪魚退治伝説」ではないか。
①一族の精神的連帯の場として山川町の忌部神社があった
②年に2回は忌部族が集まり定期会合・食事会を開いた
③その仕掛け人は高越山の修験者であった
①下法勲寺山王の讃留霊王塚と讃留霊王神社②東坂元本谷の讃留霊王神社③陶猿尾の讃留霊王塚
(表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」于時元亀四年突酉十一月廿七記之」(裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった
「宥珂(=宥雅)上人様当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、
御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、
故二御一代之 烈に不入云」
宥雅上人は、西長尾城主長尾大隅守高家の甥で、僧門に入ったのがいつだかは分からない。伯父の高家が長宗我部元親と争った際に、高家を加勢したが、戦い不利になり、当山の旧記や宝物を持ち出して泉州の堺へ落ち延びた。このため宥雅は金光院院主の列には入れない
①長宗我部元親の讃岐侵攻時の西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥②長宗我部侵入時に堺に亡命③そのために金光院院主の列伝からは排除された
「宥雅が史料を持ち出したので何も残っていない」
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか?
クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
「薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
①頭巾を被り②左手に念珠、③右手に扇もしくは笏を持ち、④伎楽・伎芸の両脇士を従える
「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ」

①頭巾は五智宝冠に、②左手の念珠は縛索に、③右手の扇または笏は利剣に、④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」

「役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」

新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現

入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
「金毘羅二至ル。(中略)坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた


「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
御寺方之事 往古依神代古式以神職付山内故云御寺方明応六年秋山土佐守泰忠 三十番神奉勧請使加祭御八講


厨子には「開眼主 慧光山本隆寺日政(花押)」と記されています。

一日 熱田大明神 愛知県名古屋 衣 冠二日 諏訪大明神 長野県諏訪 狩人姿二日 広田大服神 兵庫県西宮 黒束帯四日 気比大明神 福井県敦賀 衣 冠五日 気多大明神 石川県羽咋 黒束帯六日 鹿島大明神 茨城県鹿島 神将姿七日 北野天神 京都府葛野 衣冠八日 お七大明神 京都府愛宕 唐 服(女神)九日 貴松大明神 京都府愛宕 鬼神形十日 伊勢大明神 三重県伊勢 黒束帯十一日 八幡大菩薩 京都府鳩峰 僧形十二日 賀茂大明神 ″ 愛宕 黒束帯十三日 松尾大明神 ″ 葛野 黒衣冠十四日 大原野明神 乙訓 唐 服(女神)十五日 春日大明神 奈良県奈良 鹿座十六日 平野大明神 京都府葛野 黒束帯十七日 大比叡大明神 滋賀県滋賀 僧形十八日 小比叡大明神 滋賀県滋賀 大津 白狩衣十九日 聖真子権現 滋賀県滋賀 僧形二十日 客人大明神 滋賀県滋賀 唐服(女神)二十一日 八王子大明神 滋賀県滋賀 黒束帯二十二日 稲荷大明神 京都府紀伊 唐服(女神)二十三日 住吉大明神 大阪府住吉 白衣老形二十四日 祇園大明神 京都市八坂 神将形二十五日 斜眼大明神 京都府談山西麓 黒束帯二十六日 建部大明神 滋賀県瀬田 ″二十七日 三上大明神 滋賀県野洲 ″二十八日 兵主大明神 滋賀県兵主 随身形二十九日 苗鹿(のうか)大明神 滋賀 唐 服(女神)三十日 吉備大明神 岡山県岡山 黒束帯

「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は、三十番神が横を向いている間に十の上に点を入れて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」

第一は、宥盛は金光院の「代僧」で、正式の住職ではない。第二は、宥盛が金光院下坊を相続したとき、その時の合力の報酬として(毎年)百貫文ずつ宥雅に支払することの約束を履行しない。
「洞雲(宥雅)拙者を代僧と申す儀 毛頭其の筋目これ無く候。(中略)
土佐長宗我部入国の節 おひいだされ落墜仕り、其の後仙石権兵衛殿当国御拝領の刻、落墜の質をかくし、寺をもち候はんとは候へとも、当山はむかしより、清僧居り候へば、叶はざる寺の儀二候ヘ、落墜にて居り候儀其の旧例無く候故、堪忍罷り成らず候二付き、拙者師匠宥厳二寺を譲り」
「洞雲(宥雅)は、私のことを「代僧」と呼ぶことについて、毛頭もそのような謂われはありません。(中略)土佐の長宗我部元親が讃岐に入国した際に、宥雅は追い出され堺に亡命しました。その後、仙石殿が讃岐を御拝領した時に、落ちのびたことを隠して、松尾寺を取り返そうとしました。しかし、当山は昔から清僧の管理する寺なので、それは適いませんでした。(長尾氏に加勢して敗れ、)そのまま寺にいることができなくなったので、私(宥盛)や師匠の宥厳に寺を譲り」
長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。然れ共今程は前々の如く、神銭も御座なき由候間、拾貫ツツニ相定め候間、此の上相違有る間敷く候」
「下之坊(金比羅堂)の管理運営については、年に百貫を支払うことで譲渡契約した。ところが近頃は前々のように、神銭が支払われない。(参拝者が少なく賽銭が少ないというので)値下げして十貫で辛抱することにした。ところが、それも宥盛は守らない。
毎年百貫の銭を送る以外に秘密協定として、宥厳の後は、宥雅が院主の座に返り咲く。
年未詳八月八日の生駒讃岐守一正書状によると、宥雅は、豊臣秀吉の時代にも大谷刑部少輔吉継や幸蔵主など秀吉の側近・奥向き筋を利用して、その旨を陳情しています。しかし、その結果は「役銭の出入りばかり」色々いってきたが一正の父親正は承引しなかったと記されています。
「愛宕・白山の神を始め、「殊二者」金毘羅三十番神の罰を蒙であろう」
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。
(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」
1570年 宥雅が松尾山麓の称名院院主となる1571年 現本社の上に三十番社と観音堂(松尾寺本堂)建立1573年 四段坂の下に金比羅堂建立

小松内松王寺(松尾寺)一当手軍勢甲乙人、乱妨狼籍の事。一山林竹木を伐採の事。一百姓に対し謂れざる儀、申し懸ける族の事。右条々、堅く停止せしめ吃んぬ。若し違背の輩これ在るに於いては、成敗を加うべき者なり。価って件の如し。天正十三(1585)年八月十日 秀久(花押)
①1585年十月 10石を「金毘羅」へ寄進、②1586年二月 「金比羅」に社領として30石、
「中群小松郷内松尾村に於いて、高弐拾石末代寄進申し候上は、全く御寺納有るべき者なり」
天正16(1587)年 榎井村で5石が寄進されて計25石、
天正17(1589)年 小松村の興田(新田開発地)5石が寄進。慶長 5(1600)年 関ケ原合戦後に「松尾御神領」として、22石を「院内」において寄進。慶長 6(1601)年 社領四25石5斗が「寺内」で寄進。
最澄が比叡山に建立した日古山王明神、空海が醍醐山に建立した清滝明神、丹仁が三井寺に建てた新羅神は、金毘羅神であり、素戔嗚尊父子である。前略 以上の諸文によってこれを見る時は、即ち金比羅神は、王舎城の毘冨羅山の神主にして、薬師十二神の中には第一なり、十六神の中には第二たり
金毘羅大権現は三国応化の神にて、往古より当山に鎮座したまい、日本一社の神として、他に奥の院又別宮有ること曽てなし、釈尊説法の時に及て、竺上に往現し、
仏法を守護し給い、其後当山に帰り給い、則ち神廟の岩窟に鎮座し給うこと、
一社の神秘にして他に知ることなし、権現自ら木像を刻み給ひそ、内陣の神秘是れ也、代々の伝説によりて開扉すること曽てなし、且師伝の本地は不動明王にて、別当の密伝なり。
余に霊験数多くありといえども人の知るところゆえに略す。云々
金毘羅大権現は、インド・中国・我が国の三国混淆の神にで、古来より当山に鎮座する日本一社の神である。当山以外に他に奥の院や別宮もない。釈尊釈迦が説法したときにインドに現れ、仏法を守護し、その後に当山に帰ってきた。そして今は金毘羅神廟の岩窟に鎮座する。その姿は、秘仏で知る者もいない。権現自ら己の姿を木像に刻み、内陣に奉った。代々伝えられる所によると、開扉されたこともない。なお本地仏は不動明王で、別当の密伝となっていて、見た人はいない。数多くの霊験が伝えられているが、よく知られた話なので略す。云々
①上頭人の侍者であったと思われる下頭に、上頭人とほぼ同格の地位を与えている点、②神前にお供え物を運ぶ女を、女頭人に格上げしている点、③神事関係の記録である「頭人勤人物帳」が、宥盛の時代から書き始められている点
①約束のできた合力の金も送らない②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
それは「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり、山伏の姿で、岩に腰掛けた木像でした。そして自らを「入天狗道沙門」と呼んだのです。

(表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」于時元亀四年突酉十一月廿七記之」(裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」

「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」

宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」
「宥珂(=宥雅)上人様当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
「宥珂(=宥雅)上人様について讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
「小松の小堂に閑居」し、「称明院に入住有」、「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。

「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」(原漢文『南海流浪記』)
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。すると返歌が送られてきた
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある
金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる右之趣大願成就致給ふ乍恐近上金毘羅大権現大天狗小天狗千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う九月廿六日 願主 政賢
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する金毘羅大権現大天狗小天狗神のまことを照し我が大願を成就することを9月26日 願主 政賢
金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」
「天狗信仰の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
「烏天狗を表している」「火焔光背をもち岩座に立っている」「右手に剣(刀)を持つ」「古くは不動明王のように剣と索を持ち、飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。

讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。

「黒は烏につながる」「春属には親族とか一族の意味がある」ことから「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。









①天保四年(1833)12月1日付けの山百姓嘆願書に「従来御当山御神役」を勤めていることと「先年より御門内にて飴商売後(御)免」(琴陵光重『金毘羅信仰』S24)
「・・・この行事は、以前三十番神を祀ったおかり堂(三十番神社)で、五人百姓の関与のもとに行われ、頭人のクライオトシといっていた。また、ここでの行事が、最も重要なものであった」という。さらに、「・・・頭人たちは、血生ぐさい牛革を頭につけられるのをきらった」ともいう。土井久義氏(「金刀比羅宮の宮座について」『日本民俗学』31号)
讃岐琴平 草創期の金比羅神に関しての研究史覚え書き
「宥雅の悪逆、四国に隠れなき候、・・女犯魚鳥を服する身として、まひすの山伏と罷成」
①室町時代 小松庄の琴平山の谷筋の墓所墓寺的な存在(原松尾寺の存在?)②1585(天正13)年の仙石秀久からの禁制はあるが寄進状はなし。別当の金比羅大権現への寄進状あり。③金比羅大権現の勢力(金光院)が、松尾寺全体を席巻する状態?④本地仏十一面観音。
本社前脇に海に向かって建っていた観音堂。この本尊は大麻山の滝寺の本尊を移したもの(?)
前立十一面観音も、麓の小滝寺の本尊。
