瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金刀比羅宮の歴史 > 近世初頭 金毘羅大権現への成長

金毘羅領の成立    県史
上の表は『新編香川叢書・史料篇・』に収められた金毘羅大権現別当金光院への寄進地一覧です。ここからは次のような情報が読み取れます。
①金光院への寄進は、関ヶ原の戦い後の慶長12(1607)年に、生駒家3代の当主たちによって行われた。
②慶安元(1648)年に、生駒家の寄進地が幕府朱印地330石に統合されたこと。
③寛文13(1673)年に、松平頼重が三条村(丸亀市三条町)に50石を寄進した。
②の社領330石を統合したのは、初代髙松藩藩主の松平頼重です。
③については、金刀比羅宮史料八巻には、次のように記します。
寛文十三(1673)発丑年霊元天皇御宇
 一、正月十日讃岐高松城主松平讃岐守頼重、那珂郡三条村に於て、御供領、不体仏堂領、神馬領として、高五十石を献ず  
ここからは1673年に松平頼重が、仲郡三条村で神馬料高30石・千休仏頷10石・御供田10石、合計50石を寄進したことが分かります。この中の「御供田(ごくでん、おともだ、おくだなど)」とは、神仏に供えるお米(神饌米)を栽培するために使われた田んぼのことです。
 三条村は、もともとは木徳村の中の「三条免場」と呼ばれた所です。ここには元和四年三月に生駒正悛から寄進されていた23石5斗の社領がありました。それに並んだ所に、頼重は50石の土地を寄進したようです。そのため後世になると「三条村の御供田」とか「三条村の朱印地」と呼ばれるようになります。
今回は③の松平頼重が寄進した三条村の御供田と寺領を見ていくことにします。テキストは「丸亀の歴史散歩」237Pです。
 
金刀比羅街道 与北茶屋 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 与北茶屋と皇宮神社(美屋)と御供田
この絵図からは次のような情報が読み取れます。
①金毘羅街道沿いに与北の茶屋があったこと
②手前が与北の皇宮(美屋)神社の社叢と社人の家があること
③左隅に「金ヒラ(金毘羅) 御供田」と書かれて、松並木道が続いていること
この三条の御供田は、どのあたりにあったのでしょうか。金刀比羅宮に残された地図を見てみましょう。
金刀比羅宮寺領 三条御供田2
          三条御経田絵図(金刀比羅宮蔵)  伊与勢池が見える
この絵図には、右隅に伊予勢池が書き込まれています。この池の東側から北に向けて一帯が寺領と御供田があったことが分かります。それを簡略図で表すと次のようになります。
金刀比羅宮の寺領 丸亀三条
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①寺領(金光院に寄進)がA~Hと南北にならんでいたこと。
②その中のEが御供田であったこと。
③伊予勢池の南側が、三条村(現丸亀市)と与北村(現善通寺市)の境界であったこと。
④広さは数町歩(数㌶)
③はかつては、髙松藩と松亀藩の境界でもありました。ここでは、松平頼重は自藩の一番西の三条村の土地を金毘羅に寄進したこと、その土地は伊予勢を水源としていたこと、寺領の中の一部(E)が御供田だったことを押さえておきます。

御供田(図のE)を耕作していたのが香西氏です。その子孫の方が次のように述べています。

 御供田が他と異なる点は濯漑用水である。この付近の田は通常伊予勢池と桝池の水を使用するのであるが、社領地はその外に与北にある買田池の水も引くことができた。御供田はさらに買田池の寸ノ水までも使えることになっていた。寸ノ水というのは池底に残る少量の水のことで、一般の濯漑用水には使用せず、旱魅の際に翌年の種籾を採るためにのみ使われるものであった。
 旱天で御供田に買田池の水を入れなければならなくなった場合には、与北部落の人々とともに早朝から水路に立ち、池から水が流れ出せば赤い旗を立て、水の流れに従って旗を下流へ次々に掲げ、御供田へ水を引く。夕方、八反歩の御供田が満水となれば、逆に順次水上へ 旗を倒して終了となる。この日には終日、赤い旗が買田池までの水路に立ち並んだ。日照りが続く時には「水一升金一升」といわれるほど、水は農家にとって貴重であったので、亀裂している隣接の田に水が盗まれないよう監視したのである。
 最後に赤い旗が並んだの場1939年大旱魃の時だったようです。
御供田は金毘羅宮の神前に供える稲穂を献納したので、耕作には特別の配慮が払われた。
図のEの土地には昭和の初め頃まで松の大木が東側に四本、西側木徳町との境に五、六本並んでいたようです。昔はもっと多く、北側にもあって東・北・西の三方を囲んでいたと伝えられます。
  御供田は神に供える稲を作るために穢れをきらいました。 「金毘羅山名所図絵」には、御供田について次のように記します。
御供田 金刀比羅宮社領地と御供 金毘羅参詣名所図絵

御供田  高松太守御寄附五十石 六十三石
 御神田 三条村にあり。東西北の三おもては、なみまつにてかこめり。扨、田うゝるとて、地をかへすに、牛のくそましりなむことをいミて、しりに、ふごといふものをつけり。また並松には、しめ繩引はへて、年おひたるかきりの女をつとひてかく。よのつねのこやしをもちゆる事なく、象頭山の下草をかりて、こやしにかへ用ゆ。もとより秋さくのミにして、あたしものをうゆる事なし。

意訳変換しておくと

御供田  高松藩主(松平頼重)公の御寄附五十石 六十三石
御神田は、三条村にある。東西北の三面は、松並木に囲まれている。神に奉納する扨を収穫するために、田植えの時に、耕しするときにも、牛の糞が入ることを忌み、牛の尻に「ふご」をつける。また松並木には、しめ繩を引いて、年寄りの女を集めて田植えを行う。人糞や堆肥を使うことはなく、象頭山の下草を刈敷として肥やしにして用いる。もちろん一回だけの耕作で、二毛作は行わない。
雪の色を うはひて見ゆる 真しらかの おうなかうゝる みとしろの小田   青 野
守糸に題いろ糸や 御山の露の したゝりに 名物三八餅 苗田村ニアリ    碧 松
鐘の声 また幽かなり 春の旅  
ここからは次のような情報が読み取れます。
①穢れを嫌うために、代かき時の牛の尻には「ふご」をつける。
②堆肥は使わずに、象頭山から刈ってきた刈敷の芝草が使用された。
③田植えの日には周囲の松の木に注連縄を張り巡らし、近村からも老婆の参集を求めた。
④耕作は神に捧げる稲だけで、二毛作はしない

秋になると、収穫に先立ちよく稔った稲穂を一反に、一束ずつ集め、支配人が羽織袴に威儀を正して金毘羅宮へ奉献し、その後で社領地の米と同じ様にお山蔵へ納めました。お山蔵は善通寺街道に沿う地図上のM点にあったようです。
 現在の伊予勢周辺をGoogleマップで見ておきましょう。
御供田 金刀比羅宮社領地と御供2
丸亀市三条町伊予勢池 
伊予勢池と中池の東側に寺領と御供田が南北に並んでいたことになります。それは髙松藩と丸亀藩の境界でもありました。また、一帯は条里制跡が良く残っています。「三条」自体が、那珂郡の三条にあたります。三条は上図の東側のと西側の赤いラインに挟まれたエリアになります。条里制復元図を見ておきましょう。
三条の金刀比羅寺領 珂郡条里三条14里
那珂郡条里三条附近復元図
この復元図では19坪が、御供田だったことになります。そして伊予勢池の南側の実線には、余剰帯があります。余剰帯がともなう条里は、かつてそこが「大道」であったことが各地から報告されています。
この余剰帯を東にたった飯山の岸の上遺跡、西に辿った四国学院遺跡からも余剰帯が出てきています。これは東西に一直線につながります。このラインが古代の南海道だと近年の発掘調査は語るようになっています。

南海道 金倉川
那珂郡三条十四里が南海道
南海道 郡家
 郡家の古代寺院の宝幢寺跡の南を通過している南海道
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「丸亀の歴史散歩」237P
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松平頼重像
初代髙松藩主 松平頼重
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重がやってきます。21歳の若殿でした。頼重は光圀の兄で、将軍家光の従兄弟に当たります。しかし、事情があって父からは水子とせよと云われたのを側近達が隠して、京都天龍寺の塔頭慈済院に預けます。そこで出家する筈でしたが、将軍家光の従兄弟と云うことで大名に取り立てられ、讃岐高松12万石の城主となります。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、優秀な宗教ブレーンも抱えていました。そんな中でとられたのが次のような寺社政策です。

松平頼重の宗教政策

有力な宗教勢力がある地域には、それに対する対抗勢力を保護して育てようとしています。ここでは、金比羅が松平頼重にとっては粛正対象とはならなかったこと。善通寺牽制のために新興勢力の金毘羅を積極的に保護育成していこうとする意図が一貫してあったことを押さえておきます。

生駒騒動で生駒藩が藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることを命じます。
そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。放置しておくと後世に水利権問題を引き起こす原因になります。そこで幕府は用水分線図を作っています。この絵図は明治維新になって再確認のために書き直された絵図です。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
満濃池水掛村々之図(1870年) 朱が髙松藩 草色が丸亀藩 白が多度津藩
領地が色分けされているので確認しておきます。
①土器川と金倉川は白で示されています。この2つの川は「放水路」の役割で用水路ではありませんでした。②水色が主要な用水路です。③桃色が髙松藩 ④草色が丸亀藩 ⑤白が多度津藩です。丸亀城の南は髙松藩領であったことが改めて分かります。ここで注目してほしいのが赤い部分です。これが金比羅寺領です。その金倉川東岸に置かれたのが満濃池池の領と呼ばれた天領です。満濃池築造から10年足らずで、堤防からの水盛りがひどくなり、修理依頼が幕府に求められます。そこで幕府は満濃池の修理代捻出のための天領をここに起きます。拡大して見ます。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領
天領は、北から五条・榎井・苗田の三ヶ村です。そして、満濃池普請は代々、榎井村の庄屋が取り仕切ることになります。天領の庄屋は一段格が高いとされるようになります。このような中で、松平頼重が行ったのが金毘羅領の朱印地化です。

1648年 幕府の金光院への朱印状

松平頼重の働きかけで、1648年に幕府から下された朱印状です。ここからは金毘羅寺領の合計は330石であったことが改めて確認できます。その内の260石近くは、五条・榎井・苗田など天領に分散していたことが分かります。朱印地化が認められると次に松平頼重は、ばらばらにあった寄進地をひとつにまとめる土地交換作業を行います。これも権益が髙松藩・丸亀藩・天領に関わってくるので誰もがやりたがらない作業ですが、これを若殿様はやりきります。

金毘羅領 延宝の土地交換(1675)
1675年 松平頼重によって行われた金毘羅寺領の土地交換図

その結果、姿を現したのが先ほど見た赤い部分のひとまとまりになった金毘羅寺領330石なのです。金毘羅から見れば、松平頼重さまさまです。金毘羅領の朱印化には、これ以外に政治的な意味がありました。それは金毘羅における金光院の絶対的な地位が確立したことです。言い換えると、金光院主が小領主として、この朱印地を納めることを幕府から認められることになったのです。金光院の横暴を訴えた三十番社の神職は、「君主を訴えた逆賊」として幕府から獄門さらし首の評定を受け、土器川の河川敷で一族が処刑されています。金光院院主に逆らうことは出来なくなったことを世間に知らしめる事件でした。

松平頼重の建物類の寄進を歴史順に並べてみました。
  
松平頼重の寄進

元禄年間の前に、これだけの伽藍が整った宗教施設は讃岐にはなかったと思います。例えば善通寺は、戦国期に金堂も五重塔も焼け落ちて、東院は更地状態で、金堂再建は1700年のことです。金毘羅の隆盛とは対照的です。この中の大門と阿弥陀堂と宝塔(多宝塔)の幕末の姿を讃岐国名勝図会で見ておきましょう。
大門前・普門院・清塚・鼓楼 讃岐国名勝図会

讃岐国名勝図会(1854)の幕末の大門周辺です。大門の前まで民家が並んでいます。門前町に時を告げる鼓楼があり、清少納言の記念碑も建っています。正面が松平頼重寄進の大門になります。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会2
金堂(1845年竣工)と、この時に移転された二天門
金堂(現旭社)下にあった松平頼重が寄進した多宝塔です。高野山の大塔のコピーだとされます。これは神仏分離で姿を消します。金堂は1845年に30年近くを経て完成しました。ここには本尊として金光院の本地仏である薬師如来が安置されていました。そのため薬師堂とも呼ばれていました。神仏分離後は、仏教的なものは取り払われ、旭社と呼ばれ集会施設などにつかわれてきました。
 これが先ほど見た長宗我部元親寄進の二天門です。もともとは金堂の前にあったのですが、金堂建設の時にここに移築されたようです。参道が石段・石畳化され、玉垣・燈籠がならんで描かれています。金毘羅さんの参道石造物化は金堂建設の周辺整備事業として進められます。そして、御影石に囲まれた「白い空間」が19世紀半ばに現れます。それまで玉垣などは主に塗られた木像物だったようです。白い石造物に囲まれた空間は人々には目新しく、新たな参拝客を生む原動力になります。そのような伽藍群の先駆けとして、大門や大塔は登場したのです。

  松平頼重の建築物以外の寄進物一覧を見ておきましょう。
松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金光院への寄進物一覧
一番下の石灯籠は、毎年のように一対が寄進していた時期があります。次のような太刀や兜も寄進されています。
4344104-57松平頼重
         松平頼重寄進太刀(讃岐国名勝図会)
4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
松平頼重寄進兜
以上を整理すると次のようになります。

松平頼重の保護が金毘羅信仰の広がりへ

つまり、庶民信仰の広がりが金毘羅信仰を支えたのではなく、松平頼重の保護で整備された伽藍が、物見高い庶民の参拝をもたらしたと考えた方がよさそうです。

金毘羅発展の原動力は庶民ではなく殿様

さらに遡れば金毘羅信仰の成長は、先ほど見てきたとおり長宗我部元親や、生駒藩の保護が大きな意味を持っていました。その上に松平頼重の保護があり、17世紀後半に基礎が確立したとも云えます。
こうして殿様達の継続的な保護を受けて、金毘羅は成長していきます。
松平頼重の時代に姿を見せた金毘羅門前町を描いたのが「金毘羅大祭図屏風」です。
金毘羅大祭屏風図5
         金毘羅大祭行列屏風図(18世紀初頭)

ここに区切りがあって6隻2曲の屏風図です。
①右から髙松街道がやってきて新町・ 金倉川にかかる鞘橋・内町・札場を経て、大門へと続きます。
②その間に、次のような街道が合流してきます。新町で丸亀街道・鞘橋手前で阿波街道、鞘橋を渡って多度津街道、坂下で伊予街道です。
③街道沿いに家が並んで門前町が形成されていたことが分かります。
④ちなみに新町は、先ほど見たように松平頼重の土地交換であらたに金光院が手に入れたところに開けた町なので新町です。
⑤新町の背後はまだ田んぼが拡がっています。
⑥新町の天領の榎井との境界には木戸があります。
⑦金毘羅門前町の基礎を築いたのは、生駒藩時代に移住した人々でした。その中には全国からやってきて修行し、その後金光院に仕えた人々もいました。その多くは旅館や商店や酒造業を経営して「重立(おもだち)」と呼ばれました。重立が互選し、金光院の承認によって町年寄が決定し、町政を行うシステムが出来上がります。一番右側の部分を拡大して見ましょう。

金毘羅大祭屏風図とうどん屋

①大祭(おとうか)の馬に乗った頭人が木戸をくぐろうとしています。
②ここが金毘羅寺領と榎井村の境です。現在の土讃線の踏切の少し西側になります。
③この木戸のすぐそばに、後に移ってくるのが興泉寺さんです。
④木戸を抜けた所にうどん屋が見えます。当時のうどん屋さんはこのような招牌(しょうはい)を軒下に吊していました。よく見ると招牌が見えます。これが讃岐で確認できる最初のうどん屋さんです。うどんは空海が持ち帰って広めたというのは俗説です。醤油が発明されて今のような食べ方になります。17世紀初頭の元禄時代には、うどん屋さんがあったことを示す「根本史料」です。
⑤ここに石造りの鳥居があります。合流しているのが丸亀街道です。
⑥新町の街並みを見ると屋根は板葺で瓦葺きの屋根はありません。早くから開けた内町は瓦葺きが多いのとは対照的です。構造も入口から入るとすぐ裏に抜けてしまいます。そしてその背後は田んぼが続くのどかな景色です。
 この絵図からは、金毘羅神が登場して百年あまりの元禄時代になると、何もなかった金毘羅は四国一の門前町に成長していたことが分かります。そしてここは、どこの藩にも属さない、天領でもない「朱印地」だったのです。「都市の空気は農奴を自由にする」ということばがありますが、周辺農村からの逃散や、全国からの廻国者・流れ者を受けいれる「自由都市」的な門前町でした。その基礎がこの時代には出来上がっていたことを押さえておきます。

最後に、最初に見た従来の金毘羅大権現の見方について、県史や町史ことひらの見方を対比させておきます。


金毘羅=海の神様・庶民信仰説への疑義

新しい「金毘羅信仰」観

左が20世紀までの金毘羅とすれば、右が21世紀の金毘羅観になっていくのでしょう。その上に、今後の金毘羅の成長・発展はあるのだと私は思っています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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丸亀の西教寺で「金毘羅神の誕生とその後」というテーマでお話しした内容の第4部です。

HPTIMAGE
今回は生駒家の金光院への特別な保護の影に、於夏という女性の存在があったことを見ていくことにします。
生駒家系図と於夏

長宗我部元親が讃岐から撤退して、土佐一国に封印されるのが1585年です。土佐勢の讃岐支配は7年で終わりを迎えます。新たな支配者として秀吉が送り込んできたのが生駒親正・一正親子です。生駒家の支配は生駒騒動まで約半世紀に及びます。この間に讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世の幕開けを迎えることになります。そういう意味では生駒家というのは讃岐にとっては大きな意味があると思うのですが、余り取り上げられません。
 ちなみに関ヶ原の戦いでは、高松城の父親正は豊臣方へ、丸亀城の一正は家康方について生き残りを図ります。戦後は、徳川方に付いた一正は、居城もそれまでの丸亀城から高松城に移して、正式な藩主になります。その後の正俊が若くして亡くなると、幼君の高俊が藩主となります。高俊の母は、藤堂高虎の幼女でした。つまり高俊は藤堂高虎が祖父になります。そのために高虎が後ろ盾となって生駒藩を護るということになります。そのためにやってきたのが西嶋八兵衛です。西嶋八兵衛は満濃池を作りにやって来たのではないのです。藤堂家の目付としてやってきたのです。話が脇に逸れそうなので元に戻します

生駒藩は、それまでの寺社の既得権利を基本的には認めます。そして、保護を与えて民心を掌握していきます。
その中で生駒藩時代の寄進地が多い寺社ベスト7を挙げると上のようになります。
生駒藩寄進ベスト7

金光院は330石とダントツです。生駒家の菩提寺の3倍です。どうしてこんなに多くの寄進地を得ることが出来たのでしょうか。もうひとつ、生駒家の寄進先が松尾寺ではありません。別当の金光院になっていることを押さえておきます。この時点では、松尾山の主役は、観音信仰の松尾寺から金毘羅信仰の金光院に移っていたことがうかがえます。
 生駒家が金光院に土地を寄進したのは、いつ頃なのかを年表で見ておきましょう。
生駒家の金光院寄進

関ヶ原の戦いで家康方についた一正が藩主となります。一正はその直後に3回寄進しています。その合計は123石です。関ヶ原の戦いで勝ち組に就いて生き残ったことへの戦勝御礼という性格かも知れません。これだけなら他の寺社と比べて突出しているという感じはしません。しかし、一正が亡くなると正俊も幼君の高俊も、金光院への寄進を続けています。しかも、その寄進高が正俊は約150石、高俊は100石と多いことが目を引きます。ここでは、三代で合計330国が金光院に寄進されたことを押さえておきます。なぜ、これだけの石高が金光院に寄進されたのでしょうか。それはそれだけの利用価値・存在価値がある寺院であったがひとつ、それとそこには於夏という女性の存在があったようです。関ヶ原の戦いがあった年に、於夏は一正の子左門を産んでいます。於夏とは何者なのでしょうか?

山下家の於夏と

①於夏は三豊市の財田西の土佐出身の土豪山下家の娘です。長宗我部元親とともにやってきて財田に土着した豪族と私は考えています。
②於夏は藩主の一正に見初められ側室に上がり、左門を生みます。これが関ヶ原の戦いの時です。於夏の兄は、後に出家して宋雲と名乗り、宋雲寺(三豊市山本町)を建立し住職となります。金光院とこの寺は、深く結びつけられるようになります。
③於夏の弟は河内村(三豊市山本町)に分家して富豪となります。この分家の出身者が宥睨です。彼が金光院院主になります。つまり、金光院院主と於夏は山下家の伯母と甥という血縁関係で結ばれていたことになります。そして、於夏は生駒家で次のような最大の閥族を形成します。
生駒家の於夏の閥族

これは生駒藩時代の高松城の重臣達の屋敷配置図です。
ここで於夏の閥族を見ておきます。
③生駒左門 一正とオナツの息子で藩内 5000の石の筆頭家老です。
於夏には娘がいました。左門の妹になります、名前は分かりません。
①その娘が公家に嫁いで身ごもったまま出戻って出産したのが生駒隼人(一正の養子)
②於夏の娘の再婚相手が生駒将監(左門の義弟)
こうして一正なき後の藩政を牛耳るようになるのが、この於夏の閥族になります。その時期に、金光院への100石を越える大型寄進が二度行われています。それは、山下家という伯母と甥という於夏と金光院院主の宥睨の関係が強い影響を及ぼしていたことが考えられます。生駒家の破格の寄進の背景には、山下家の於夏の存在があったとしておきます。どちらにしても金光院は、讃岐の寺社では他を圧倒する330石という寄進地を持っていたことを押さえておきます。これが金光院発展の経済基盤になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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金毘羅大権現が発展していく礎石となったのが、生駒家時代の寄進地でした。
何回にも分けて金毘羅に寄進された石高は330石になります。
これを他の寺院と比較してみると寄進地が圧倒的に多いのが分かります
①2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石
②3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石
③国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院(善通寺)でも60石程度。
⑤白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの新興宗教団体の「金毘羅大権現」に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツという女性の力があったことを以前にお話ししました。

生駒一正 - Wikipedia
生駒家2代藩主・一正
 
一正の愛したのが於夏(オナツ)です
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を三豊の山下家で産んでいます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 
寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。 金毘羅大権現への寄進・保護を進めたのも於夏とその子ども達です。
オナツと金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか? 
それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。
この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 1613~45年まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。宥睨が金毘羅の院主となった慶長18年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。オナツを中心に強力な「金毘羅大権現の応援団」が生駒藩には形成されていたのです。そのメンバーを確認しましょう。
①2代目・一正未亡人の於夏
②一正とオナツの息子で藩内NO2の石高を持つ筆頭家老・生駒左門
③一正とオナツとの間に生まれた娘山里(?実名不明)(左門の妹)
④於夏の娘山里③が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
⑤於夏の娘山里③の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、外戚山下家の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたのが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進になるようです。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒藩・重臣達の屋敷配置

オナツの娘(山里?)について、生駒記には次のように記されています
家嫡正俊、讃岐守ニ任ジ四品二叙シ家督相続ス。二男左門ハ五千石宛行、家老並ニナル。女子一人猪隈人納言公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル。
意訳すると
生駒家二代一正は、長男正俊を讃岐守に任じ四品を叙任し家督を相続させた。二男左門(正俊異母弟)には、五千石を知行させ家老並に扱った。女子一人(山里?)は、猪隈人納言公忠公に嫁がせたが故ありて高俊の代になって国に戻ってきた。

この様に史書は一正の息女が猪隈大納言へ嫁しことを伝へています。
しかし、「公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル」とあり、京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが「故あって」懐胎したままで讃岐に帰ってきます。なぜ帰ってきたのでしょうか、しかも懐妊状態で?
 前置きが長くなりましたが「謎の女・オナツの娘(山里)」について紹介した文章に出会いましたので紹介したいと思います。
テキストは「山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年」です。
ここには、宮中一の美男子と云われた猪熊大納言公忠卿に嫁した「オナツの娘(山里)」が、なぜ懐胎したままで讃岐に還ってきた理由が明らかにされています。史料を見てみましょう。
幕末の金光院の役人山下盛好の覚書の一文です。

1オナツの娘の離婚理由

意訳して見ましょう
後陽成天皇 慶長十三(1608)年3月、
猪隈侍徒教利(この家は今は絶家となっている。生駒一正侯ノ女、猪隈大納言公忠公に嫁いだと記録にあるのは、この教利の一族のことである)
鳥丸参議光廣公(同家六代目ノ所に見える人物である)
花山院少杵忠長公(同家の系譜からは削除されたのか見えない。今の花山家とは別かもしらない。
徳大寺少特実久公(同家十九代目である)
飛鳥井少将雅賢公(同家十四代目である)
難波少膳宗勝(同家十四代目である)
松本少格宗隆等
以上の者達が共に結んで蕩遊し、密かに宮女五人を誘い出し、これを姦した。(内二人は実承寵幸)
これを知った後陽成天皇は震怒し、
1オナツの娘の離婚理由

家康公の京都所司代・板倉四郎左衛門宗勝に告発し、糾すように求めた。慶長14年(1609)11月に次のような処分が下された。
猪隈教利は斬首 宮女五人を八丈島に流した。宗隆・頼国は硫黄島、忠長を松前(北海道)、雅賢は隠岐、宗勝は伊豆へ流された。光廣・実久の二人は、許しを得て位階を復活させた。この引書は、逸史・続国史略・王代一覧に書かれていることに依った。
  これはなかなかスキャンダラスな内容のようです。いまの週刊誌風に表現すると
イケメン貴族達 宮女5人と乱交バーテイー
 天皇は激怒し 首謀者は斬首
というようなタイトルが飛び交いそうです。

報道には「裏をとる必要」があるので、別の資料にも当たっておきましょう。
「高橋紀比古 江戸初期の宮中の風紀紊乱について 平成元年、歴史読本臨時増刊号 」に、は次のような内容が載せられています。
   徳川幕府が成立し戦国時代の窮乏からは解きはなたれたものの政治から隔離された生活をしいられるようになると公家衆の風紀は著しく弛緩してゆく。宮廷随一の美男子ともてはやされると右近衛権少将猪熊教利は、女官との愛に溺れて素行がおさまらず、慶長十二年(1607)2月に勅勘をこうむり、京から出奔した。一説に相手の女官は後陽成天皇の寵をうけていたという。ところが事件発覚後も宮中の気風はいっこうに改まらず、慶長十四年七月には典薬の兼康備後なる者が手引きをし、参議鳥丸光広・左近衛権中将大炊御門頼国ら公卿と典侍、広橋氏、権典侍中院氏らの女官が、今でいう乱交パーティーをくりひろげた。
この一件を知った後陽成天皇は激怒、公卿の官位を剥奪し、女官をそれそれの実家に帰し禁錮にした。さらに天皇は出奔して行方知れずの猪熊教利を捕縛のうえ乱交に加わった男女ともども極刑に処するよう幕府に求めた。
 これにたいし徳川家康は、同年11月に教利が日向国で逮捕されると、京へ押送させ、兼康備後とともに死刑にした。しかし、天皇の御母新上東門院や女御近衛氏による助名嘆願もあって鳥丸光広、徳大寺実久を無罪。他の公卿、女官を配流とするにとどめた。
   金光院の山下家の文書と現代の歴史学者の説は一致しているようです。一正とオナツの娘(山里)、故あって懐胎したままで讃岐に帰ってきた背景には、こんなスキャンダルに巻き込まれたからのようです。
山下家の記録には、一正とオナツの子ども達が次のように記されています。
  一男は生駒左門
西村大屋舗(現在―三豊郡山本町)(山下盛久宅ナリ)ニテ誕生、慶長五子年也
幼名 熊丸卜云、九才ノ時
南無天満大自在天神卜染筆有、今宗運寺(山下盛久建立)ノ什物也
連技家老トナリ五千七十石
寛永十七辰年生駒家没落、作州森美作守侯へ御預、五十人扶持ニテ為方卜有
万治三子年五月九日死去六十一才
体本院雄心全功居士
女子 猪隈大納言公忠卿二嫁ス
(逸史略、続国史略、慶長十四年六月猪隈侍徒斬罪ノ吏有)
有故高俊侯ノ代国二返り有胎ノマヽ一子ヲ生ム 後生駒特監二再嫁ス生駒帯刀ノ継母ナリ
意訳すると
逸史略、続国史略には、慶長十四年六月に猪隈侍徒斬罪となったことが記される
そのため三代高俊侯の時に、懐妊状態で讃岐に帰り、男子を産んだ。その後、生駒特監に再嫁し、生駒帯刀の継母となった
一子ハ生駒河内(猪隈大納言公忠卿の子) 
釆地三千石余被下置、生駒騒動二際シ追放サンル。子孫、高松二有卜云フ
                                (以上、山下家譜)
どうして、一正は娘を公家に嫁がせたのでしょうか?
理由のひとつは、一正が戦国武膊の悲情さ・無常さを充分味って、栄枯盛衰の少ない公家社会へ嫁がせたという説です。生駒家も関ヶ原の戦いでは、父親親正と子の一正は豊臣方と徳川方に引き裂かれました。また、勝ち馬に乗れなかった武人達の末路も見てきました。一正の心の中には「可愛い愛娘は、武将の嫁より宮廷人の嫁へ」と思ったのかもしれません。
第二の理由は、宮廷人(九条家)と姻戚関係を結ぶことで、生駒家の権威を得ようとしたのかもしれません。
しかし、選んだ相手が悪かったようです。こんなトラブルに巻きこまれようとは、おもってもいなかったでしょう。懐妊して讃岐に身も心も疲れ切って帰ってき娘にかける言葉もなかったのではないでしょうか。黙って見守った一正の心配りは父親としての愛情を感じさせるものでした。父なし子として産まれてきた子を自分の養子として育てます。そして後には、家老並みの知行を与えています。また母親となった山里には、家老・生駒格監の後妻として再婚させています。
 こうして、山里は新たな伴侶と幸せに暮らせたかと云えば、そうではなかったようです。
 再婚相手の生駒生駒格監も寛永9(1632)年に亡くなります。この病死については、毒殺説もあるようです。この頃から生駒家では、外戚山下家の権勢に反発する空気が広がっていきます。
それが生駒家騒動につながります。この結果、(山里)につながる人たちは次のような道を歩みます
①継子 帯刀は、松江藩松平家預五十人扶持
②兄 左門(連技家老5070石)は、美作藩森美作守侯へ御預、五十人扶持。万治三子年五月九日死去六十一才
③一子 生駒河内(釆地三千石) 追放サレル。子孫高松二在リト伝ヘラル          
                                (山下家家譜)
この様に山里は、二人の夫、継子、兄、実子と別れ別れになります。彼女の晩年を伝へるものは、何一つ残されていないようです。継子と共に松江へ移ったか、兄と共に作州へ、それとも実子とともに追放され高松近在で余生を送ったのか分かりません。
一正とオナツの娘を「山里」と呼んできましたが、これも実名かどうかも確かには分からないようです。
彼女が、どこで亡くなり、どこに墓があるのかも分かりません。讃岐17万石の大名の息女として、産まれ京都の公家の嫁として旅だって行った頃には、その先にこんな展開が待ち受けているとは思ってもいなかったでしょう。
 母オナツと彼女につながる山下家の血縁が、生駒家の中で外戚として、大きな政治勢力となり、それが新興宗教施設の金毘羅大権現にとっては大きな力となったことを、記しておきたいと思います。
 最後まで、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年

 

DSC04827
 
善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
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 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
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 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P

金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
sim (2)金毘羅大権現6

 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

C-23-1 (1)
 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
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つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

  戦国末期に建立された金比羅堂が別当を務める金光院の歴代院主の手腕によって、他の諸堂を圧倒する権勢を誇るようになります。17世紀半ばには、幕府から金光院に朱印状が交付されたことで「お山の殿様」としての地位を確立したことを前回は見てきました。
 今回はそれから20年後に起こった事件を見ていくことにします。内容は、追い詰められた三十番社が金光院を幕府に訴えた事件です。結果は、訴えた社人が獄門貼付の厳罰に処せらことで幕を閉じます。
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 内記太夫の控訴までの足取り
 時代は移り世代がひとつ新しくなります。三十番社の相続をめぐって弟・権太夫と争った松太夫の長男徳は幼少の時から金光院主宥睨にかわいがられ、その口添えで京都の吉田家から装束を授けられ、内記太夫の名を与えられます。内記太夫は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなります。しかし、吉田家神道の影響をうけてでしょうか、次第にかつて父が争った叔父の権太夫に近づき、金光院の僧侶の横暴をひそかに幕府に訴えようと考えるようになります。
 内記太夫から相談を受け行動を共にし、後に追放の刑に処せられた与北村の瀬兵衛の口述書が残っています。それによると
1670(寛文十)年6月23日、内記太夫は伊勢参宮を名目にして丸亀を船出し、先発していた権太夫・理兵衛の二人と、大坂平野町徳左衛門方で落ち合います。
27日には与北村の瀬兵衛が到着したので4人で連れ立って堺筋の輿左衛門という分限者を訪ねます。輿左衛門は大坂では指折りの分限者で、江戸にも手筋(于づる)の多い人であったといいます。瀬兵衛は、権太夫に依頼された通りに金毘羅さんの事情を述べ、「今度の訴訟は必ず理運が開けるから……」と、資金的な援助を依頼します。
7月1日、宿の主人徳左衛門の紹介で、京都の人で神道に明るい太郎左衛門を宿に招いて事情を説明し、訴訟の見込みについて尋ねています。太郎左衛門は、次のように応えます。
「金毘羅の義は、院号や山号もあるので神とも仏とも申し難い。そのうえ出家といっても代々支配して来ており、御朱印なども頂戴しているので、訴訟しても勝目は少ないと思う。しかし権現の本地が何であるか調べてみよう」
 この悲観的な意見を聞いて瀬兵衛は訴訟を諦め、一行と別れて帰国したと後に口述しています。
7月17日 内記太夫と権太夫は、堺筋の与左衛門と共に京都に上り、神祇宗家の吉田家に申し出ます。二人は吉田家の指図を受けて訴状をしたため、京都所司代に差し出します。しかし、「この事件はここで解決する問題でないから、江戸へ参るように」と突き返されます。そこで二人は江戸に出て寺社奉行小笠原山城守へ訴状を提出したのです。これが寛文10年8月8日のことでした。

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意訳した訴状の内容を見ながら、背景などを補足していきます。
私どもは讃岐金比羅三十番神社の社人(=神人=下級神職)です。
宮地の中に金光院という出家僧侶がいます。この寺は先年までは下の坊を呼ばれた滅罪寺(=金光院)です。そのため今でも金光院の坊主達は扶持切米を潰し、死人の取扱を行っています。宮地の中に観音堂・薬師堂・釈迦堂があります。これらは金光院が管理していますが、土佐の長宗我部元親の侵攻のの折に、よしみを通じて私どもより奪っていったものです。
 そして賽銭などは金光院が管理するようになりました。賽銭の外にも神楽銭がありますが、これについては私市良太夫が管理していましたが、開帳と称して、私たちが作成した御幣を取り出し、信者に授け、神楽銭までもを理不尽に奪い取り最近は、袖神楽銭のみを与えられている始末です。
  金光院に対して申したいことは、出家が神楽を管轄するという珍奇なことを止め、前々通りに私どもに管理運営を任せて欲しいのです。また、皆のものが納得しない所へ神楽場を建て、袖神楽のみを勤めておりますが、その上に最近は、権現の後方の遠いところへ神楽場を移して、参拝するものも分からない所なので、訪れる人も少なく私どもは飢え死に及ぶような有様です。しかし、両者の神事については今まで通りきちんと勤めております。
①金光院は下の坊と呼ばれる菩提寺であったこと。
②宮地の中には観音堂・薬師堂・釈迦堂があるが、もともとは三十番社が管理していたこと。
③それを、土佐軍の占領時に、長宗我部元親が土佐出身の宥厳を金光院住職に据えてこれらを三十番社から奪っていった。そして今では、これらの賽銭は金光院が管理するようになってしまった。
 とあります。

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  この訴状の中には、三十番社の神職からみた戦国時代末期からの金毘羅山の様子が記されています。それは残された別の史料から推察してきたを裏付ける内容です。つまり、
①からはもともとは金光院は「下の坊」であり「死者のおもむく」広谷墓地の慰霊の寺院であったこと、その位置も観音堂や三十番社のある現金刀比羅神社本殿の位置よりも下にあったらしいこと。
②③からは、諸堂が並立していたがその管理権は、長宗我部元親の占領以前には三十番社にあったということ。長宗我部元親が従軍していた土佐出身の修験僧宥厳を金光院住職に据えて、保護したのを背景に、金光院が山内での権勢を強めたということを裏付けます。訴状は具体的に、金光院が三十番社から奪ったと主張しています。
「町史こんぴら」などには「天正末期に金毘羅山のお山で大変革があったこと。それは金比羅堂の出現で、背後には別当である金光院の台頭がある」と記されていますが、この訴状は、より具体的にそれを裏付ける内容です。「長宗我部占領下の大改革」を、三十番社の立場から見ればこうなるのかもしれません。
 更に訴状は、神楽銭の管理権までを金光院に奪われたことや神楽場の設置場所についての不満を述べた上に「僧侶が神楽を管轄するという奇妙なことは止めさせて欲しい」と金光院の横暴を訴え自分たち神職の経済的な苦境の救済を求めています。
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  生駒家からの寄進が毎年十月十日の祭礼に使われていないことについて
毎年の10月10日・11日の神事について、小松庄四條村の百姓上頭と下頭に、申し分かちて担当してきました。この神事祭礼の経費については生駒一正様より80石の社領の寄進を受け、それを上当・下当の経費に充てて神事を勤めてきました。その後、250石の社領寄進を受け、併せて330石の寄進を受けています。
 ところが、これらを神事に使わないため4ヶ村の百姓達は迷惑を受けておりましたので申し出たところ、金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています。9月から11月までの祭事期間中の賄い額は大きく当人は殊の外迷惑を被っています。古来よりの神事と思い勤めてはおりますが、事によっては神事から退かせていただくことも考えざる得ません。身分の奢りを究め、何軒もの下屋敷を建て、一門には商売をさせ質物を取るありさまです。
10月10日の大祭の経費に関わることが述べられていますが、注目すべき点は、
初期の寄進である生駒一正からの寄進80石は、大祭の経費に充てていたこと、ところがその後の250石については金光院が独占し、大祭経費に使用していないと訴えます。ここからは、三十番社の神官達が
「生駒家の寄進は、金毘羅山の祭事のために寄進されたもので、金光院単独に贈られた物ではない」
という認識を持っていたことが分かります。そして、初期に寄進された80石に関しては、実際に祭事に使われていたようです。
 その後に、申し立てたところ
「金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています」
とありますが、「生駒藩のお袋様」とは生駒一正の側室オナツのことでしょう。オナツは金光院の宥厳と同じく財田の山下家出身で、宥厳とは甥と叔母の関係にありました。オナツが産んだ左門は、この訴状では「生駒藩の殿様」となっていますがこれは誤りで、殿様の異母弟になります。しかし、当時の金毘羅山の山内では「生駒藩のお袋様」と呼ばれていたようで興味深いところです。ここからも「宥厳ーオナツー生駒家」の強いつながりと金光院の権勢がうかがえます。
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漁師の御供えについて
浦々の漁師たちは願をかける際に、肴を両社へ供えることが恒例となっています。これについても、私どもへの御供えを妨げ、寺に取り入れる始末。清僧であれば肴を扱うことは憚られるはずです。
ここからは、この時期から金毘羅山の諸堂へ漁師達の参拝があったことが分かります。同時に「肴を両社へ供えることが恒例」となっていることから金比羅堂と三十番社が同等であったことがうかがえます。
三十番神権現大行事三社の正月の松注連飾りについて
 三十番神権現大行事・三社の正月のお注連はり(しめはり)は、私どもが長年担当して参りまいた。しかし、観音堂・釈迦堂・薬師堂は金光院より沙汰があり、ここ十数年は右三社の注連飾りは金光院が行うことになりました。その際、理不尽にも証文を出させたのに、書物は渡されていません。まさにやみうち的な仕打ちです。金光院の威勢を恐れ仕方なく押印したした次第です。
 最初の表題に注目したいのですが「三十番神権現大行事」であって「金毘羅大権現」大行事ではありません。ここからも、もともとは三十番社が金毘羅山の諸堂管理権を握っていたことがうかがえます。そして金光院の権勢の高まりと共に、証文を書かせて管理権を奪い取っていった経過が記されます。


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新法の押しつけ
以前は年に三度の市の際に、私どもは神前に上がる習わしでしたが、5年ほど前から金光院の許可を得た後に上がるようにと新法を申しつけられ迷惑を被っています。
 先年の閏十月に参拝者があったので神楽所へ参り、袖神楽を行い参拝者から神楽銭を少々いただきました。ところが理不尽にもこれをこちらに渡しません。その上、年に2・3度の市以外は神前に上がらせないと申しつけられ、袖神楽銭も金光院が取ることになってしまいました。
  この時期に金光院により「新法」が作成され、山内に新しいルールが施行されていった分かります。この提訴から約20年前に金光院は、幕府から「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状が与えられました。これは金光院を封建君主とする全山支配する権力が確立されたことを意味します。これを受けて、金光院を「主」、三十番社他の諸門を「従」とする主従体制の法的整備を進めます。それが「新法のおしつけ」という形で現れているようです。
 戦国時代末には三十番社と金比羅堂の「対等」な関係だったのかもしれません。しかし、朱印地のお墨付きをもらった金光院は「主従関係」に法的面でも、儀式的面でも示せる体制づくりを進めます。つまりこの時点で、三十番社は金比羅堂(金毘羅大権現)に奉仕する立場になっていたのです。しかし、訴状からは三十番社の神人たちにそのような「大局観」は読み取れません。「金光院の僧侶は、三十番社の既得権利を奪う無法者」というのが訴状を貫く主張です。
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多門院の重用と布教活動に対する批判
土佐国の浪人で山伏を多門院と名付けて重用し、今までの例にない土佐での金光院勧進を行わせています。このような事に関しても本来は私どもが行うことであるはずなのに、留めおかれて迷惑を受けています。
多門院の重用とその布教活動が批判されています。
少し長くなりますが多門院について、触れておきたいと思います。
多門院というのは、土佐出身の修験僧宥惺(幼名「熊の助」)にはじまる院坊です。宥惺の父は高知県高岡郡南片岡村の片岡八兵衛尚親です。片岡家は長宗我部家と婚姻関係にある有力家で、後には山内家とも懇意な関係を継続します。
 父尚親は、島津討伐を命じられた長宗我部元親に従軍して九州に渡り、「四国武将の墓場」となった豊後・戸次川の戦いで死亡します。父を亡くした片岡熊の助は、土佐出身の宥厳の後を継いで金光院四代となっていた宥盛を頼り、金毘羅山にやって来てその弟子になり宥惺を名乗り、修験道の修行に励んだようです。この時に、宥惺は宥盛のから多聞天像を与えられたので院号は「多聞天」と呼ばれるようになります。
琴平神宮の正史の中にも「慶長11年(1606)片岡民部(熊の助)、多聞院を名のる
と記されています。
 ところが、慶長18(1613)年に宥盛が死亡し、山下家出身の宥睨が院主の座につくと、宥惺は武士ににもどり、金毘羅山を飛び出していきます。彼が向かったのは大阪城でした
彼は長宗我部家に恩義を感じていて、元親の子が大坂城に入るとそこに馳せ参じたのです。そして、「冬・夏の陣」で大暴れします。元和元年(1615)に、大坂方が敗れると宥惺は金毘羅に逃げ帰ってきます。彼は大坂城の戦いでは目立っていたらしく、徳川方の追求の手は厳しく金毘羅山まで伸びてきました。そこで、修験者に姿を変えて土佐まで逃れ、山中や海岸での修行生活を続けます。その結果、宥惺は修験者のリーダーとしても名声を得るようになっていたようです。
 その後16年後の寛永八年(1631)に、宥睨は宥惺を金毘羅山に呼び戻します。
宥睨もかつては、宥盛に仕えていましたので、宥惺とは同じ門下の弟子として周知の間柄だったと私は思います。当時の宥睨は、金光院院主として生駒家の信頼を得て寄進地を増やし、門前町の形成に着手していた時代でした。金毘羅大権現の発展に伴う諸問題の対応に、自らの右腕を期待して宥惺を土佐からリクルートさせたのだと思います。それを示すかのように宥睨は金光院の門外で小坂に広大な宅地を与えられます。これが新たに興された多門院です。
 宥惺は「金刀比羅を修験道の聖地とする」という戦略を持っていたようで、そのために京都の醍醐三宝院の末となる一方、度々大峰山へ行き、行者の修行を重ね人的なネットワークを形成していきます。こうして「修験で立つ多門院」として立場を強化します。そして当山派修験道と金比羅堂の別当を兼務していた金光院に代わって「山伏の義は多門院へ御譲りにあいなり」と、金毘羅山における修験道は多門院が代行していると主張するようになります。それを裏付けるように多門院の記録には、修験道関係者の記述が詳細に残っています。
 訴状の「土佐での金光院勧進」という記述からは、多門院が土佐で「布教活動」を行い成果を挙げている様子がうかがえます。それは宥惺の土佐での「逃亡中の修験生活」の経験を活かした「布教活動」だったのでしょう。その結果、山内家の藩主にお目通りできる修験者は「多門院」のみと言われるようにまでになります。
 また、讃岐山脈を猪ノ鼻峠で越えた箸蔵寺は阿波修験道の聖地でした。これを最初に、金比羅大権現にとりついだのも多門院であったと言われます。箸蔵寺周辺には多門院の弟子たちが多数存在していたことが箸蔵寺側の史料からも分かります。このようなつながりを背景に、箸蔵寺は「金毘羅大権現の奥社」を称するようになっていくのではと私は考えています。
また、「1757(宝暦7)年3月11日 但州(たじま)の山伏20人と俗人が参拝。「堂床」の回廊で初穂を渡す」
など(修験道山伏関係のとの記録が数多く残されていることから、多門院が金毘羅大権現を天狗信仰の聖地として「山伏の参拝」を進める拠点機関としての役割を果たしていたことが分かります。
   確認しておきたいのは、多門院が「土佐から来たよそ者で、もともとは浪人の新参者」だったということです。「新参者が山内で大きな顔をしている」ことへの旧勢力を代表する三十番社の反発がこの条項からは見て取れます。
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 宮林(みやばやし)の管理について
金毘羅山の神域の社叢については、落葉一枚でも取れば悪事のことと申しつけながら、金光院一門に対しては薪材木などを自由に伐らせ、その他にも取り巻きのお気に入り集についても同様のありさまです。
 ここには、神域の社叢管理についての不満が述べられています。かつては、社叢に入って落葉や薪などを取ることが出来たのが「新法」では「悪事」であるとされるようになったようです。これも、当時の丸亀藩や高松藩が進める森林の管理強化という流れと期を同じくする動きのようにみえます。
金光院院主の山下家世襲と横暴に対する批判
十数年前に真光院という下坊主に社領の内の16石を分与しました。我が友共神職は日に日に餓死に及んでいる有様なのに、身内に関しては我が儘次第です。
三十番社より二丁半ほど下に金光院の墓所を設けていますが、これは参拝者の通り道に当たります。権現への社参の際の障害にもなります。取り除きどことなりへ移動させるように申しつけくだされば有り難く存じます。
生駒家の殿様の側室となったオナツの甥で宥睨が金光院に院主になって以後は、山下家が世襲化する時代が続きます。その結果、山下家出身者やその死者への厚遇が批判の対象となります。真光院を新設し分家のように山下家の関係者に継がせたこと、さらに金光院=山下家の墓所を三十番社のすぐ下の参拝者の道筋に設けられていたことが分かります。
 以上 金光院が金比羅町内において我儘の具体的な実例を書き上げました。
私ども先祖より代々、今に到るまで神事祭礼を勤めて参りました。
古くは社壇の中へ僧侶が出入りすることもありませんでした。ところが金光院が年々威勢を増すにつれて私どもをないがしろにし圧迫するという浅ましい姿になりました。このことは数年来訴え出てきました。
 しかし、金光院の威勢に恐れるとともに、道中路銀等にも事欠く次第。ただ打ち過ぎていくばかりで家中は餓死に到るような有様で、乞食のような躰でこの度、参りました。 御慈悲の上、金光院を召し出して、今までの先例通りに行うように申しつけいただければ有り難く存じます。   
   寛文十年戌八月八日 讃岐国金毘羅社人 権太夫判 
                      内記 判
   御奉行様                    
 以上のように、権勢を増す金光院の僧侶に対する三十番社の社人の訴えが綴られています。ここには追い詰められた日々の生活にも困窮した神人の様子が見えます。こうした訴えに対しては、従来は幕府は介入することを避けて、その国の藩主に仲裁させる方法をとっていました。しかし、内記と権太夫の訴状には、京都の吉田家の介添えがあったからでしょうか、寺社奉行は直ちにこれを受理してしまいます。そして金光院に対して、返答書を提出して翌月中に江戸に参府するように通達させたのです。
 訴状の裏書を受けた内記太夫と権太夫は、讃岐に帰って8月27日に高松藩庁にこれを提出します。藩はこれを金光院に送付したので、金毘羅のお山は大騒ぎとなります。
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  訴えられた金光院の対応は?
 金光院は、九月に入って返答書を幕府に提出します。その草案の写しを見ると、極めて調子の高いトーンで次のように反論します。
「金毘羅大権現が主格であり、それに奉仕するのは金光院であって、訴人たちは金光院の家来であり神楽役人で「主従」の「従」に過ぎない」
と「主従関係」にあることを強調しています。
 そして、江戸に反論審問のために出府することになります。そのメンバーは、金光院からは、隠居の宥典が山の事情に通じた真光院を従えて出府、高松藩からは朱印状を幕府から受けた時に尽力した寺社奉行間宮九郎左衛門が同行します。金光院の一行は高松藩の関船を貸し与えられて、瀬戸内海を大坂に渡り東海道を上り21日に江戸へ到着します。宥典は老齢の身での長旅で、持病が再発し、対決の延期を願い出て療養に努めるます。高松藩ではこの間を利用して、両寺社奉行への情報収集と工作を盛んに行っています。
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金光院と権太夫の対決と裁きの結果は?
 10月9日、寺社奉行月番の小笠原山城守の役宅で、金光院と内記太夫の双方を呼び出して、両者の主張が聞き取られます。高松藩の間宮九郎左衛門が審理に先立って「金光院が所持している御朱印状と、両人の訴状の内容が相違しているから、その点を引き合わせてもらいたい」と述べ、朱印状を与えられた時の事情を詳細に説明が行われます。それに続いて双方の問答が行われ証文が提出されますが、対決は単なる形式に過ぎなかったようです。
寺社奉行は即座にその場で、
「内記太夫・権太夫 家来に紛れ無き証文これ有る上は、金光院家来として主人へ逆意を企てた不届者である。両人の者共は、金光院に下しおかれ 何分にも金光院心次第に仕置申し付けよ」
と申し渡されます。つまり
「内記太夫・権太夫は金光院の家来となることに同意した証文に押印している。家来が主人を訴えることは逆意でありゆるされない」
と、神仏の争いには立ち入らずに、封建社会の大義である「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」の大義名分論でこの問題を裁いたのです。

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判決後の二人を待っていたものは? 
内記太夫と権太夫は、「逆賊」としてその場で搦め取られ、高松藩邸の牢舎につながれる身となります。勝利した金光院の一行は、10月15日に江戸を出発し、囚人となった二人を連れて旅を続け11月2日に高松に還ってきます。
 10月9日の審判が下ってからの対応は、幕府の寺社奉行小笠原山城守と、高松藩主松平頼重・金光院別当宥栄・隠居宥典の間で細密な工作が行われたことが、三者間を往復した文書から細部まで分かります。先ず松平頼重が武家の掟に照らして、内記太夫と権太夫の両人は傑獄門の極刑、子供は獄門、その他の者は斬首という方針を決定しています。これを寺社奉行の小笠原山城守が内諾します。一方、金光院別当は一党の減刑を松平頼重公に願い出ます。頼重がこれを容れて罪一等を減じ、小笠原山城守に事後承諾を求めるということシナリオが事前に決められ、その筋書き通りに運ばれたことが分かります。
事件によって引き起こされた金毘羅の山内の動揺をどう収めるか?
金毘羅山の山内では神人側の意見に賛成する人もあり、これまでの金光院の横暴に対してこれを憎む人たちもいたようです。特に僧侶が家来の神人を処罰することについては、宗教的に疑義を抱く人々もありました。そのような動揺を抑えるために金光院と高松藩は処罰に先立って、各寺門を始め、寺下の指導者五十数名の連署連判の誓書を提出させ、忠誠を誓わせています。この誓約書の文面は、金光院の幕府への返答書が正しいことを確認させ、内記太夫と権太夫は逆意を企てたものであることを承認し、以後も金光院に忠誠を尽くすことを誓ったものでした。
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 こうして、11月11日を期して処刑を行うことになります。
高松の獄舎を出た一行は、足軽20人毎に前後を警固され、円座・滝宮を経て金毘羅へ護送されます。一夜を明かした後、翌11日の早朝に金毘羅町内を引き回しの上、金毘羅領と高松領の境に近い狹間村の祓川の松林の中で処刑が行われました。
内記太夫と権太夫は獄門、内記太夫の子二人と権太夫の子三人、権太夫の弟吉左衛門とその子二人、金光院下僕の坂の下六右衛門の九人が斬罪となりました。「反逆の罪は九族に及ぶ」のが封建の掟ですが、子供の中には五歳と七歳、それに乳飲み子も含まれていました。いたいけな子供が親の罪に連座してその細い首を打ち落とされ、枯草が血に染めたのです。金毘羅神も、金毘羅大権現も、釈迦も、不動明王も、十一面観音も、この惨劇を金毘羅山の山上からじっと見下ろしていたのです。
 これは金毘羅山内における権力者が誰であるのかを、劇的に示すことになります。金光院に刃向かう者は「獄門打首」になるということを天下に知らしめたのです。
  金光院の権威を高める「ショック療法」としては、これ以上のものはない劇的なものでした。


しかし、強い処置には副作用が伴います。
処罰された内記太夫と権太夫についての伝承がそれを物語ります。
 内記太夫と権太夫の首は、獄門台に曝されたが、両眼を見開いてその怨みを訴え、長くその眼を閉じなかったと伝えらます。
やがて「祓川には鬼火がともる。松太・権太の眼が光る」という里謡が歌われるようになります。
刑場はいつか権太原と呼ばれるようになり「高松藩士が権太原を通ると、馬が突然狂い出して大怪我をした」という噂が広がります。やがて高松からの金毘羅参詣の道は、権太原を避けてその南を通るようになります。これは菅原道実や崇徳上皇の「悪霊伝説」に見られるパターンと同じです。しかし、内記太夫と権太夫が神として祀られることはありませんでした。
 しかし、内記太夫と権太夫が社人であった大井八幡神社の社人職を嗣いだ金関氏は、ひそかに二人の霊を祀っていたとも伝えられます。
 社人がいなくなった金毘羅さんでは、五人百姓が神役を一時的に代行するようになります。
翌年六月には、その打開のために、白鳥神社の神官猪熊千倉に送って援助を依頼します。そして金毘羅の山下家から二人の子供が選ばれ、白鳥神社に送られて教導を受けさせています。
その際にも、宥典は今後の神人の統制のことを心配して、神役としての神前の手ほどきを受けるだけにとどめ、神道の教えを受けることを固く断るように指示しています。以後、金光院は京都の吉田家と絶縁して、神仏混淆、仏道優先の金毘羅大権現として発展を続けることになります。
 高松藩の寺社奉行間宮九郎左衛門は、この事件の経過を日記風に書きとめ、これの副本を作り、関係者の間で往復した文書の副本をも添えて、後の記録として金光院に贈ります。そのために多くの人が書き写し、数多く残る結果となりました。
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  内記太夫と権太夫の墓は
 高松行の電車が、琴平を出て土器川(祓川)の鉄橋を渡りきった所の左手に墓地がります。その墓地の南の端の線路に一番近い所に、石殿造りの小さい墓が二つある。1㍍余りの石組みの台の上に置かれているのが内記太夫と権太夫の墓です。その墓の前の石の献灯には「松田宮・文久三(1863)年十一月吉祥日」と刻まれています。事件から二百年後の幕末になって建てられたものです。                     
 その墓のそばには、高さ1㍍あまりの石組みの台の上に置かれた全長二㍍余りの立派な宝篋印塔が立っています。この塔は、事件から百年以上経った文化文政ごろ、大金を拠出できる立場にあった人が匿名で建立したと言われます。長い相輪、馬耳風の尾根の線の優美さ、小さい塔身、見事な彫りを見せた請花と反花、人きい塔身の周囲には型通りに六四字の掲が刻まれしその塔身を受ける請花(うけばな)と反花(かえりばな)が美しい塔です。

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   祓川の墓地の説明板には次のように記されています
   慶長年間、王尾市良太夫は大井八幡宮と金毘羅三十番神の兼帯社人であった。
その長男を松太夫といった。寛文十年(1670)八月松太夫の子内記と松太夫の弟権太夫の両名は、金毘羅大権現の経営に関して金光院を相手として訴えを起こした。
幕府の寺社奉行はこれを受理し、その旨を高松藩に伝えた。高松藩は金光院に対して訴人と和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかった。幕府は双方の出府を求め決断所において審判を行った。封建制下の常として内記と権太夫は敗訴となり、寛文十一年(1671)十一月十一日、その一族は高松藩によって、祓川の刑場で処刑された。
その後、金光院においては不幸が相次いで起こりこれを内記等の怨霊のたたりとし、約二百年後の文久三年(1863)十一月処刑地の権太原に慰霊碑を建立して供養した。
とあります。
これを読むと、幕末に建てられた慰霊碑は金光院によって建てられたとありますが、宝篋印塔については何もふれていません。しかし、百年・二百年後の人たちにも、この事件は語り継がれていたことが分かります。
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「びっくりでこ」は獄門頸?
  この後、金毘羅さんのお土産店では「獄門人形」という小さい粘土作りの人形の首が土産物として売られるようになります。この人形は赤・白の一対で、短い棒の先に取り付けられ、白首の方を松太夫、赤首の方を権太夫と呼び、共に両眼を見開いて断末魔の苦しみを現していると言われました。そのころの金毘羅さんの土産物といえば粘土の神鈴と、大門の内側で五人百姓の売っていた糖飴でした。そこに登場した「獄門人形」は「びっくりでこ、こんぴらめかやり」とも呼ばれて参詣客に喜ばれ、人形にまつわる悲話と共に広く各地へ伝えられたようです。
 また、この人形は金毘羅
大芝居に出演した上方の千両役者の立役や悪役の隈取(くまどり=顔の彩色)のきいた顔を現したのが「びっくりでこ」であるとも伝えられます。獄門首か、役者の似顔か、いずれにしても金毘羅商人のたくましい商魂の産物といえるものかもしれません。
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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち         満濃町誌1173P

戦国時代末期の金毘羅山内は?
 そこには観音堂・釈迦堂・金比羅堂・三十番社・松尾寺などの諸堂が建ち並び並立する状態でした。その中心は観音さまを本尊とする観音堂=松尾寺でした。そして、この観音堂を守る守護神が三十番社だったようです。
正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保年間 江戸時代初期の金毘羅大権現の宗教空間
そのような中で地元の有力武将である長尾氏出身の修験僧・宥雅が一族の支援を受けて、観音堂の下に金比羅堂を建立します。そこには、讃留霊王の悪魚退治伝説から作り出された守護神・金毘羅神が祀つられるようになります。そして、宥雅はこの金比羅堂の別当として、金光院を開きます。これが金毘羅大権現のスタートです。
 ところで「別当」(べっとう)は、なんなのでしょうか?
 平安末期からの神仏習合では「神が仏を守る」「神が仏に仕える」という「仏が主で、神が従」という考えが広がります。具体的な例としては、東大寺を守るために宇佐から勧進された八幡神が挙げられます。そして、神社を管理するために寺が置かれるようになり、神前読経など神社の祭祀を仏式で行うようになります。その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだのです。ここから別当の居る寺を、別当寺と呼ぶようになります。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同じです。
 別当とは、すなわち「別に当たる」であり
「仏に仕えるのが本職である僧侶が、神職の仕事も兼務する」
という意味になるのでしょうか。
 次第に「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて、僧侶が入り込み渾然一体となっていきます。こうして神社で最も権力をもつのは別当(僧侶)であり、宮司はその下に置かれるようになっていきます。
 神道においては、祭神は偶像崇拝ではありません。
つまり目に見えないのです。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝します。別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなし、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝できることになります。神社側にもメリットが多かったのです。
別当が置かれたからといって、その神社が仏式になったということではありません。
宮司は神式に則った祭祀を行い、別当は本地仏に対して仏式で勤行する「分業」が行われたのです。信者は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行ったのです。つまり、お経を唱えながら、神事祭礼が行われたのです。こんなことは神仏分離以前は、普通の信仰形態だったのです。明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなります。
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金比羅堂の別当であった金光院住職・宥盛の戦略は?
   関ヶ原の戦いが終わって、幕藩体制が整えられていくころに金比羅堂の別当となったのは金光院住職の宥盛でした。彼は、仙石権兵衛・生駒親正・一正・正俊の歴代領主から社領の寄進を受け、金毘羅さんの経済的基盤を確立します。
宥盛が背負った課題のひとつが金比羅堂の祭礼を創出することでした。
金比羅堂は宥雅によって建てられたもので、招来したインドの蕃神金比羅神を祀った新来の神でしたので、信者集団が組織されていませんでした。そこで、宥盛が行ったのが三十番社の祭祀を、金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」して祭礼儀式を整えることです。三十番社からすれば、御八講の神事・祭礼を金比羅堂に奪われていくことになります。これに対して、三十番社の社人たちの金光院に対する不満は、次第に高まっていきますい。

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宥盛を鉄砲で殺そうとした三十番社の社人・才太夫  
 金毘羅宮の縁起によると
「金毘羅大権現が入定した廓窟の中に仏舎利と金写の法華経が龍め置かれている」

と伝えられます。この法華経の守り神として三十番神が祀られ、その神殿が観音堂の近くに建てられていました。才太夫は、この三十番神社の社人を勤めていました。生駒家のバックアップを受けた金光院の宥盛の勢いが強くなり、祭祀の改変整備などで三十番社の立場は弱くなり、その収入も減少していきます。つまり、台頭する金毘羅堂、衰退する三十番社という構図です。
 こうした不満が爆発したのが慶長年間、生駒一正が藩主であった頃(1610頃)のことです。
才太夫は、金光院から大権現社に参詣しようとして参道を進んでいた宥盛に鉄砲を射ちかけたのです。が、暗殺未遂に終わり、宥盛を倒すことはできませんでした。才太夫は宥盛の手の者によって捕えられ、一族や関係者の人々と共に高松へ送られて生駒家の手で斬罪に処せられます。今風に言うと
「神に仕える社人による仏に仕える僧侶への殺人未遂事件」
です。
なぜ、殺意を抱くほどに才太夫は、宥盛を憎んでいたのでしょう。ここには、三十番社と金光院との対立が背景にあったようです。

正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保時代の宗教的空間 ①大夫屋敷が神職王尾家

新たに三十番社の社人となった王尾氏について 

この事件で、三十番神の神事を勤める社人がいなくなってしまいました。そこで宥盛は、五條村の大井八幡神社の社人であった王尾市良太夫を、三十番神の神役を兼帯させることにします。
 市良太夫は、長男の松太夫が十四歳の時に妻を失いましたが、数人の子供があったので後妻を迎えます。やがてこの後妻に権太夫・吉左衛門などの子供が生まれるのです。市良太夫は病いのために亡くなる直前に、複雑な家庭の将来を考えてこまごまとした遺言状をしたため、遺産の分配についても指示します。しかし、後妻の子である権太夫が成人すると、遺産の相続について先妻の子である松太夫との間に争いが起きてしまいます。

弟に訴えられた兄・松太郎
 才太夫事件から約40年近く経った1646(正保三)年6月29日、成人した権太夫は目安(訴状)に起請文を添えて兄松太夫を金光院に訴え出ます。この訴訟関係の資料が残っているので、その詳細がある程度分かります。それを見ていくことにしましょう。
 争いの第一は、三十番神の神役の相続問題です。
 松太夫の訴状は、父市良太夫の譲状の内容を詳細に書いてます。そして、幼少であった権太夫のことについては市良太夫が、次のように遺言した記します。
「権太夫の義は、太夫と成るか坊主となるかもわからないから、若し太夫となったならば、三十番神様の神楽(かぐら)を勤めさせるようにしてほしい」

これに対して、弟権太夫は「宥睨様へ継目の御礼を申上候 跡職にて相違御座無く候」と、当時の金光院住職の宥睨に対して「自分が三十番社の正統な後継者である」と反論しています。
争いの第二は、大井八幡神社の神主職など、小松荘の各神社の社頭の神楽と市立の権利と、その収入の分配です。
争いの第三は、父・市良太夫の遺産の分配をめぐるものです。
 この訴状と口答書からは、三十番社の神職である松太夫や権太夫が山内において次第に勢力を失って、生活が苦しくなっていっている様子がうかがえます。訴状の文面からは、兄弟が仇敵のように憎しみ合って、相手を非難攻撃し、妥協のできなくなっていく姿がうかがえます。二人は、互いに相手を攻撃することによって金光院の宥睨に取り入ろうという卑屈な態度をとり続け、兄弟争いで三十番社の神人としての立場を失うことに気付いていないようです。
 この争いは、4年間の和解調定作業を経て、慶安2年6月21日に次のような和解案が成立します。
①松太夫と権太夫が共に三十番神の神役を勤めること
②大井八幡神社の神主職や、市良太夫の遺産相続の解決。
しかし、松太夫と権太夫など王尾一族が骨肉の争いを続けている4年間の内に、彼らの立場は根底的なところ変化していたのです。それは生駒藩から高松松平藩・松平頼重に主導権が移り替わっていたのです。
 当時の高松藩の宗教政策を見てみましょう。
1642年(寛永十九)年に初代高松藩主として讃岐にやってきた松平頼重は、金毘羅さんのために社領の朱印状を幕府から貰い受けることに尽力します。当時の幕府は、各地の寺院や神社が保存している大名からの社領や寺領の寄進状に基づいて朱印状を与え、将軍の代替りごとに書き改めてこれを確認する方法をとるようになっていました。
 そこで1646(正保三)年、金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を願い出ます。当時は、神仏習合の中で時代で社領と寺領の区別が明らかでなく、また多くの塔頭が並ぶ大きな寺院では、どの院が朱印状を受け取るのかなどをめぐって全国各地で紛争になることがありました。そこで幕府は松平頼重に対して次のように指示しています。
金毘羅の寺家・俗家・領内の者に異議のないことを確かめて、更に願い出るよう

これを受けて高松藩は、藩の寺社奉行間宮九郎左衛門を金毘羅に派遣して、御朱印状を受けることについての異議の有無を確認させます。
 その時期は、松太夫と権太夫が骨肉の争いを繰り返していた時に当たります。
正保3年 1646 金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を提出。
正保3年 1646 王尾松太夫、権太夫の三十番社等の相続争いの提訴
慶安元年 1648 幕府より330石の朱印状を受け取る。
慶安2年 1649 松太夫と権太夫の訴訟事件が和解成立
寛文10年1670 王尾松太夫、権太夫が江戸に出て訴状を提出
冷静に考えれば、彼らが主張すべきことは次の2点でした。
①松尾寺の本来の守護神は三十番社であること、
②金毘羅神は新参の神であること
この2点を主張し、神人の立場を守ることが賢明な策だったと云えます。例えそこまでは望めなくても、ある程度の留保条件をつけて朱印状を金光院が受けとることを認めることだったのかもしれません。しかし、それは一族が骨肉の争いを繰り広げる中では、神職集団として一致団結して金光院に対応することは望むべくもありませんでした。松太夫と権太夫は、調停者の金光院の歓心をかうために連判状に調印します。こうして三十番社は、金毘羅大権現の別当である金光院の家来であることを誓約します。これは結果的に、今まで金毘羅堂(金光院)と共有していた松尾寺の守護神の座を奪われたことになります。

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金光院が金毘羅山のお山の大将に
 この作業を受けて、頼重は金毘羅山の一門が金光院の家来であることを認めさせ、主要な人々の連判状をとって、正保四年に幕府の寺社奉行に提出します。翌年の1648(慶安元)年に宥典が金光院別当となり、その継目の挨拶に江戸に出府することになります。この時、頼重は家老彦坂繊謬を同行させ、寺社奉行に働きかけ「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状を受け取らせています。これは、金光院が封建君主として金毘羅山の全山を支配する権力であることが幕府に認められたことを意味します。 
 和解した松太夫と権太夫の兄弟は、揃って三十番神の神役を勤めることになります。
しかし、その地位は金光院の完全な支配下に置かれ、いろいろな圧迫を受けて三十番社の衰退と共に収入も次第に減少します。20年後に  松太夫の長男徳(内記太夫)は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなりますが、金光院の圧迫にと横暴に腹を据えかねて幕府を訴えるのです。しかし「それは主君を訴えた従者」として「逆賊」あつかにされ獄門貼付の厳罰に処せられる結果となります。それはまた次回に・・・

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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち              満濃町誌1173P

 近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
高松藩初代藩主 松平頼重
寛永19年(1642)に東讃岐12万石の領主となった高松藩主松平頼重は、家康の孫に当たり、家光とは従兄弟、そして弟が光圀という徳川家の御三家の出身です。彼は、初代藩主として金毘羅を保護し、金毘羅領330石を朱印地にすることに尽力しました。領主としても、代拝も含めると17回の金比羅参拝が記録されています。特に、幕府から朱印地に認められた年の八月には、参拝して一泊しています。

讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
金毘羅周辺地図

松平頼重が金毘羅大権現に祈願のための願文をささげたことは二回あるようです。
1回目は寛文五年(1665) 養女大姫の安産を祈ったものです。大姫は頼重の父徳川頼房の娘女でしたが、頼重の養女となり将軍徳川家綱の命によって、熊本藩主の細川綱利に嫁していました。
2回目は寛文十一年(1671)に、次のような願文を金光院に出しています。

「今度参勤を遂げ、心中祈願相叶い、悉地成就せしめ、帰国致すに於いては、直ちに宝前に参詣し奉るべきなり」

「心中所願」とは、当時の頼重は病みがちで、隠居願いのことだったようです。二年後に、隠居が許されると頼重は、江戸から帰藩すると直ちに金毘羅大権現へ参拝しています。これより先延宝元年(1673)正月に、頼重は社領50石を三条村から割いて寄進しています。このときの寄進状は次のとおりです。
供田 松平頼重寄進
松平頼重寄進の御供田50石(那珂郡三条村)

 那珂郡三条村において、本高の外興高を以て五拾石の事、金毘羅大権現神供料・千鉢仏堂料井びに神馬料として、これを寄進せしめ詑んぬ。全く収納有るべきの状、件の如し。

50石の内訳は、神供料が10石、千体仏堂料10石、神馬料30石でした。三条村に住んでいた善左衛門に耕作が命じられています。

決壊中の満濃池
金比羅領(赤)と天領池御料の3村(白)

 前回お話ししたように朱印地金毘羅領330石の土地は、生駒時代に十数回にわたって寄進されたものです。そのため土地は飛び地でした。満濃池の池御料として天領の苗田村・榎井村・五条村と、境界が入り組んでいたようです。
天領池御料
天領池御料と金毘羅寺領(明治維新拡大図)

そのため松平頼重の肝煎で、金毘羅大権現の寺領(「院内廻り」)周囲に集められることになります。これは頼重の指示があったからこそ、できたことです。現在金刀比羅宮には、この時の絵図の写しが残っています。その絵図には、幕府寺社奉行三名の裏判が押されています。

この中に金毘羅領分は「院内(境内の周囲)廻りへ片付ける」ようにとの指示が書き込まれています。

つまり、天領3村の中に飛び地として分散していた土地を金毘羅領内にまとめようとしたようです。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
       金比羅領(赤)と天領池御料の3村(黄色)
この
結果、榎井村では一町ほどの土地が金毘羅へ、金毘羅領に遠い四條村の場合はすべて池領へ移っています。そして、全体ではほぼ同じ面積、石高が交換されています。おそらく、金毘羅に有利な形で、境界も定まったと思われます。これは、天領と金毘羅大権現の土地交換という難しい作業でした。実施に向けては、時の幕府の重役達の内々の同意を取り付けることが前提になります。これが出来るのは、親藩高松藩主としての頼重の政治力を抜きにしてはできなかったことでしょう。
 実施に当たっては、次のような要人が立ち会っています。
高松藩から大横目・代官・郡奉行と大庄屋
丸亀藩から大横目・郡奉行と庄屋
池御料からは代官・庄屋
金毘羅からは多聞院と山下弥右衛門ら町年寄
これも、後に禍根を残さない配慮でしょう。この結果、朱印地の寺領は、金倉川を越えた東側にも広がることになります。

金毘羅全図 宝暦5(1755)年
金毘羅神社絵図(宝暦5年 18世紀後半) 鞘橋から東が新町

この時に、金倉川の東側で得た現在の「新町」については、「古老伝旧記」に次のように記されています。

「地替相調い候て町並に家も立ち候」

地替(土地交換)で得た土地に家が建ち街並みとなっていることが分かります。高松街道沿いに榎井方面に向かって家々が並び立つようになり、門前町の発展に大きく寄与することになります。これも頼重の金毘羅に果たした大きな業績のひとつです。
一の橋・鞘橋
金倉川に架かる鞘橋と、それに続く新町

松平頼重の寄進で境内は、どのように姿を変えたのでしょうか?
 松平頼重は、多くの寄進を金毘羅山にしています。建築物だけを数え上げると
正保二年(1645)三十番神社の修復を初めとして、
慶安三年(1650)神馬屋の新築、
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立と
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。

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頼重寄進の仁王門(大門)

松平頼重の金毘羅大権現への寄進物を一覧表化したものを見ておきましょう。
松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

例えば一番下の石灯籠をみると、寛文8年から11年までの四年間に、毎年正月に石灯寵を二基ずつ、
延宝元年と同3年にも石灯寵を5月に二基寄進しています。こうして松平頼重の多くの寄進によって、境内は面目を一新します。同時に高松藩の殿様の厚い信心を受けていると評判になったはずです。整備された境内の堂舎は人々の目を楽しませ、殿様の寄進建築物・灯籠として話題になり、参拝者の数を増やしていったのではないでしょうか。

DSC04053石灯籠(頼重寄進)


松平頼重は、自分が身につけた刀や甲冑なども寄進しています。
それが讃岐国名勝図会に、次のように載せられています。

4344104-58松平頼重
松平頼重寄進の太刀

4344104-57松平頼重
松平頼重公寄進の太刀

4344104-56讃岐国名勝図会
           松平頼重公寄進の長刀

4344104-49福山城主阿倍氏甲冑
          松平頼重公寄進の馬具

4344104-48讃岐国名勝図会
          松平頼重公寄進の鎧

4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
        松平頼重公寄進の鎧(左側)
ちなみに讃岐国名勝図会の挿絵は、若き日の松岡調が担当したとされます。そうだとすれば、讃岐国名勝図会が発刊される1850年代に、松岡調は金刀比羅宮にやってきて、これらを描いたことになります。
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讃岐国名勝図会の裏表紙裏には「真景 松岡信正(調)模」と記されている
ちなみに、神仏分離後に松岡調は金刀比羅宮の禰宜として、仏式の金毘羅大権現から神道の金刀比羅宮への変身を進めていくことになるのは以前にお話ししました。

日本史賢兄賢弟

 頼重の弟が水戸光圀です。
光圀は弟である自分が水戸本家を継いだことについて儒教的孝徳意識から「不義」感を持っていたと言われます。そこで、兄頼重の実子の綱方、綱條を自分の養子として、水戸藩の家督は綱條に継がせます。一方、兄頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に幕府より隠居を認められ高松に帰ってきます。そして、真っ先に、金毘羅山に参拝し、報告しています。
 頼重は病気と闘いながら元禄8年(1695年)に没します。これ以後、金毘羅山は頼重が寄進したものを財産として、大きな発展がはじまるのです。

関連画像
頼重の眠る高松松平家菩提寺 仏生山(高松市)

   
琴平 本庄・新庄2
中世末期の琴平

 戦国時代末期・天正年間の象頭山のお山では、松尾寺を中心に三十番神社などの諸社が建ち並び、そこに新参者の金毘羅堂が割り込んでくるという神仏・諸堂の雑居状態でした。人々は金倉川の東側に広がる中世以来の小松庄に生活していて、金毘羅山の麓には「門前町」は、まだ姿を見せていませんでした。
 豊臣秀吉の天下統一の動きが進む中で、讃岐の領主は、仙石氏から尾藤氏、そして生駒氏へと目まぐるしく変っていきます。この中で、金毘羅山内では新参者の金毘羅神・金光院がその中心的地位につくといった大変革が進んで行きます。その変革の中心にいたのが金光院院主の宥盛や宥睨であったことを、前回までに見てきました。
 宥睨は、実家の叔母オナツが生駒家二代目の一正の側室に入り、左門という男子を出産するという「運と縁」を授かります。甥と叔母という縁を活かし、生駒家からの寄進を幾度も重ねて得ることに成功します。それは最終的には330石という石高になります。これは、他の神社仏閣への寄進高と比べるとダントツであることは以前にお話ししました。


生駒正俊の家紋「生駒車」とは?香川の丸亀城を守りたかった戦国武将 | | お役立ち!季節の耳より情報局

生駒正俊
 このような中で、第三代藩主になった生駒正俊は、金毘羅支配の方針にといえる「条々」を慶長十八年に出します。
一 金毘羅寺高、諸役免許せしむ事、付けたり、荒れひらき同前の事
一 城山勝名寺、前々の如く寄進せしむ事
一 金毘羅新町に於いて、他国より罷り越し候者の儀、諸公事緩め置き候間、
  住宅仕り候様二申し付けらるべき事
一 神役前々の如く申し付けらるべき事
一 先の金光院定めの如く万法度堅く申し付けらるべき事 右条々永代相違有る間敷き者なり
意訳変換しておくと

 金毘羅寺(金光院)の寺領、諸役免許の件、荒地開墾についても従前通りの権利を認めること。
一 城山勝名寺については、以前通りに寄進すること。
一 金毘羅新町で他国からやってきた商人が商売を行う事      
  住宅を建てて住み着くこと
一 神役についえは従来通り申し付けることができること事
一 従来のように金光院が定めた法は、今後も継続されること
 以上の件について、永代相違有る間敷き者なり
ここからは、生駒正俊が寺高・諸役の免除、城山勝名寺領の寄進、金毘羅への商人などの移住奨励、神役負課、金光院の院領内の裁量権を従来通りに認めたことが分かります。
 ある意味では、金毘羅山域に対してある種の「治外法権」が認められていたといえます。特に研究者が注目するのは、、金毘羅門前への「他国よりの移住奨励策」が認められている点です。これが金毘羅領が門前街として発達していく重要な条件になります。

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   35年もの間、金光院住職を勤めてきた宥睨に、最後の荒波が押し寄せます。
それは生駒騒動の結果、生駒家が矢島へ転封になってしまうのです。宥睨は理解ある大切なパトロンを失います。そして、新たな領主との関係を作ることが求められることになります。その交渉相手が初代高松藩として水戸からやって来た松平頼重だったのです。これは、宥睨にとっては幸いなことでした。

讃岐高松藩 初代藩主松平頼重は、どうして真宗興正派を保護したのか : 瀬戸の島から
松平頼重
 頼重は、生駒家の宗教政策を基本的に継承し、金毘羅山の既得権を認めます。

そして、当時幕府が行っていた全国の神社仏閣の朱印地認定作業に、金毘羅山の登録申請を行うのです。頼重の配慮、努力によって、慶安元年(1648))三月十七日に幕府からの朱印状を得ます。 
『徳川実紀』に
「先代御朱印給はらざる寺社領、こたび願いにより新たにたまふもの百八十二

とあるように、このとき朱印状を与えられたのは金光院だけでなく、全国の寺社領が対象でした。その182の寺社の中のひとつに、金毘羅山も登録されたと言うことです。
朱印状の内容はは次の通りです。
讃岐国那珂郡小松庄金毘羅権現領
同郡五条村内百三拾四石八斗余、
榎内村の内四拾八石壱斗余、
苗田村の内五拾石、
木徳村内弐拾三石五斗、
社中七拾三石五斗、都合参百三拾石事、
先規に任せこれを寄付し詑んぬ。全く社納すべし。
并びに山林竹木諸役等免除、有り来たりの如く
いよいよ弥相違有るべからず。
てへれば、神事祭礼を専らとし、天下安泰の懇祈を抽んずべきの状、件の如し。
    慶安元年二月廿四日
  御朱印  別当金光院

決壊中の満濃池
明治維新時の天領池御料と金毘羅寺領
朱印料として認められ他のは、金毘羅領と、その金倉川の東岸の3つの村に飛び地としてある土地でモザイク的なものでした。三つの村が寺領となったのではありません。これらは生駒藩時代に寄進された物です。これらを総て併せた330石が朱印地として認められたことになります。

金毘羅山を代表して朱印状を受けたのは金光院でした。
朱印状が渡される前年には、これを金光院が受け取ることについての賛否が山内で問われたようです。後に金光院を訴え獄門にされる三十番社の神職が起こした訴訟資料には、次のように記されています。
正保三年大猷院様御時代、金光院住僧宥睨御目見相済み候以後、御朱印の義 安藤右京進殿松平出雲守殿御両人ヘ讃岐守取り遣り仕り候処、当地に於いて相煩い、讃州へ着き、程なく宥睨相果て申し候間、其の讃岐守申し付け候は、後住宥典義御朱印の御訴訟申し上ぐべく候間、彼の山の寺家・俗家、領内下々迄後住宥典に申し分これ有る間敷哉、山の由来詮義仕るべきの由、讃州へ申し遣わし、彼の山穿繋仕り候処、
一山の者共家来にてこれ無き者一人も御座無く候。
門下の寺中弟子等其の外双び立ちたる者、連判の手形に仕り、彼の内記・権太夫連判届きに付き、連判致させ所持仕り、其の節江  府へ持参仕り、(後略)
意訳変換しておくと
正保三年に大猷院様(松平頼重)の時代に、金光院の宥睨との初会見した。その後に(金毘羅大権現の)朱印状については、松平頼重公が安藤右京進殿・松平出雲守殿へ取り次いだ。その結果、当地に出向いて調査確認を行ったが、その後程なくして宥睨が亡くなってしまった。松平頼重公の申し付けは、その跡を継いだ宥典の時に、御朱印についての訴訟が起こりました。その前に金毘羅山中の寺家・俗家、領内下々に至るまで、宥典が金毘羅全山の最高責任者であることを確認しています。山の者総てが、金光院の家来で、そうでないものは一人もいません。そのことについては、門下の寺社関係者たち総ての連判の手形も取っています。そして、現在控訴人となっている内記・権太夫も連判状に記銘しています。それは今回、江戸に持参予定です。

ここからは次のようなことが分かります。
①正保三年(1646)12月に、金光院宥睨が亡くなり宥典が継ぎいだこと、
②正保四年に朱印状を金光院が受け取ることについての賛否が問われたこと
③その結果、「一山の者」全員が金光院が金毘羅山の主人として受け取ることに賛成したこと
④それを「連判の手形」として署名したこと
これは、中世以来の松尾寺・三十番社・金比羅堂等の諸寺諸堂の並立状態が終わったことを意味するものです。ここに正式に、金光院が金比羅領の「お山の大将」としての地位が確認され、金光院の権勢が確立したことを示します。
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  同時に金光院院主が、330石の寄進地を含む「お山の領主」になったことを意味します。
それは、讃岐国は松平家と京極家、塩飽の「人名」に加えて、金毘羅山という新しい「領主」の誕生と言えるかもしれません。金光院院主は、宗教的な存在としてだけでなく、金比羅領の「殿様」として政治的な存在として、この地に形成されていく金比羅門前町を治めていくことにもなるのです。
この時すでに宥睨は亡く、院主は宥典に交代していました。
 宥睨は生駒家から得た寄進地を、幕府の朱印地に格上することに成功したわけです。そういう意味では、宥睨が金毘羅山に果たした役割は大きく「金毘羅山の大恩人」として、江戸時代に書かれた書物では大きく評価されることになります。それが宥睨の実家である
山下家が金光院住職の地位を世襲化することにつながるようです。以上をまとめておきます。
金光院の支配権確立まで

①近世初頭の 象頭山は、さまざまな宗教施設の混淆状態にあった。
②そこに長尾家出身の僧宥雅が、守護神として金毘羅神を造りだし、そのお堂を建立した。
③長宗我部元親はこの地を占領すると、土佐から有力な修験者を招き、松尾寺の管理運営を任せた。
④こうして、金毘羅は丸亀平野の拠点宗教センターに改装された。
⑤当時の松尾寺は、天狗信仰の修験者たちの拠点で、彼らがいくつもの院坊をもち管理するようになった。
⑥その中で最も有力になったのが宥盛の金光院であった。
⑦金光院は、生駒家に姻戚関係をもつ院主の元で寄進地を次々と増やして行った。
⑧生駒家転封後の高松藩初代藩主・松平頼重は、金光院への保護を継続した。
⑨松平頼重によって、金光院の寺領は朱印地となり、その領主として金光院が認められた。

こうして見ると、近世初頭に流行神としてして登場した金毘羅神が急速な成長を遂げるのは、長宗我部元親・生駒藩・松平頼重という支配者達の保護を受けてきたことが大きな要因であることが分かります。
ここからは金毘羅信仰を「庶民信仰」として捉える従来の考えに対する疑問が生まれてきます。時の支配者の寄進・保護を受けて経済基盤を調え、伽藍整備を行い、その後に庶民達がやってくるようになったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
最終改訂2024/11/29
町史ことひら

参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~
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 前回までは、戦国末の天正年間に金毘羅大権現の基礎を確立した宥盛の手腕について見てきました。その中で疑問に思ったのは、生駒藩が金毘羅に度重なる寄進をおこなった理由です。その背景を探ってみることにします。
そこには、オナツという女性の存在が浮かび上がってきます。

Amazon.co.jp: ※生駒家法名 生駒主殿親道 江戸旗本 雅楽頭親正→高松城主讃岐守一正→左近太夫正俊→壱岐守高俊・・高清・・親興・・正親等資料古文書  : おもちゃ
              生駒家法名 初代が親正・二代が一正
天正15年(1587)8月、前任の仙石氏・尾藤氏が一年にも満たない間に改易された後に、讃岐国領主として入ってきたのが生駒親正(62歳)一正(33歳)親子です。この生駒家の下で讃岐の国は戦国時代の荒廃から抜け出す道を歩み出していくことになります。次の戦いに備えて、引田・高松・丸亀の3つの城の造作が進められます。そのような国づくりの中で、関ヶ原の戦いを迎えることになります。生駒家も「生き残り戦術」として信州の真田家と同じように、父親正が豊臣方へ、子一正が家康方につき戦うことになります。結果は豊臣方の敗北で、父親正は蟄居を余儀なくされ、実権を握った一正は戦後に丸亀城から高松城に拠点を移し、新しい国づくりを継続していきます。

一正の愛したオナツとその子左門
生駒藩主の肖像画|由利本荘市公式ウェブサイト さん
生駒一正

 一方、男盛りの一正は讃岐入国後に於夏(オナツ:三野郡財田西ノ村の土豪山下盛勝の息女)を側室としていました。オナツは一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門(正房)と称すようになり、元服後に腹違いの兄・京極家第三代の高俊に仕えることになります。寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。

それでは、オナツと金毘羅を結ぶ糸はどこにあったのでしょうか?
   それはオナツの実家である財田村の山下家に求められます。山下家は戦国時代に一条家(現四万十市)に仕えていた武将のようです。主家の一条家が長宗我部元親に滅ぼされた後に財田にやって来て、勢力を養ったと伝えられます。財田において長宗我部と戦ったとの言い伝えが残っていないことから、親長宗我部派であり、土佐軍と共にやって来て「占領軍たる長宗我部軍の在地化」した勢力のひとつと考える研究者もいるようです。とにかく戦国の世を生き抜いた財田の武将・山下盛郷が山下氏の始祖でになるようです。
 山下家の二代目が盛勝(オナツの父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久でオナツの兄です、父と同様、郷司となり西ノ村で知行200石支給されます。
しかし、彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、オナツの弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この盛光の息子が宥睨です。宥睨は、宥盛死後にその後を継いで金毘羅の院主となります。
つまり、生駒藩の殿様である一正の寵愛を受けるオナツと、当時の宥睨は姻戚関係では「甥と叔母」という関係にあったわけです。
宥睨の弟・盛包は兄宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)ごろに、河内村の屋敷を引き払って金毘羅の門前町に移ってきます。この家が金光院住職里家の大山下となります。そして、後には山下家が金光院院主の座を「世襲」していくことになります。その方法は、山下家の一族から英才を選んで、院主につけるというものでした。
オナツの甥・宥睨を支える血脈の形成
こうして慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨には、出里の山下家の叔母オナツを中心とする心強い「応援団」がいたようです。そのメンバーを確認しましょう。
生駒藩では一正は慶長十五(1610)年に亡くなっていますが、
①一正の未亡人オナツ
②オナツの息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門、
③一正との間に生まれていた息女、
④③の息女の夫生駒将監
⑤③と④の長男生駒河内
など山下家ゆかりの人が大きな権勢を誇っていた時期なのです。これが金毘羅への度重なる寄進と後援につながったようです。

 山下家の宥睨と宥盛の関係は?
宥盛(在職慶長五年~十八年)は、金毘羅大権現の基礎を築き、象頭山の守護神・金剛坊として奥社に祀られている人物ですが、宥睨とも姻戚関係がありました。それを見ておきましょう。
 宥盛の父は井上四郎右衛門家知といい、生駒家家臣で東讃川鍋村で四〇〇石を知行していました。宥盛が出家したので弟である井上家之が跡を継ぎますが、天和元年(1618)大坂夏の陣で討死にしてしまいます。弟・家之の妻は、三野郡詫間町の山地右京進の娘です。そして、その姉は詫間の山地家からオナツの弟の盛光のもとに嫁ぎ宥睨を産むのです。
 なかなかややこしいのですが、宥盛にとって宥睨は「弟の妻の姉の息子」という義理の甥関係になるのでしょうか。どちらにしても、両者には婚姻関係があります。このような姻戚関係も宥睨が金光院住職となる際には、力を発揮したのかもしれません。もちろん、オナツを通じての生駒家の後押しが金毘羅に対してあったはずです。同時に、宥盛も宥睨の背後にあるオナツを中心とする山下家の「血」の力に「期待」していたはずです。それに応えるだけの成果を、挙げたからこそ宥盛は次期院主に宥睨を指名したのだと私は思います。
 
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さて、生駒藩の寄進時期とオナツのに関係する事項を並べて、
        「色眼鏡」をかけて見てみましょう
天正15年(1587)8月、生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子が入国。
天正15年(1587)生駒親正、松尾村20石寄進。
天正16年(1588)生駒一正、榎井25石寄進。
天正17年(1589)生駒一正、小松村5石寄進。
         一正がオナツを側室とする。
慶長 5年(1600)オナツが実家(財田西ノ村)で一正の子・左門を出産
慶長 5年(1600)生駒一正、院内31石寄進。関が原の戦い
慶長 6年(1601)生駒一正、金毘羅42石寄進。
   生駒一正、三十番神社改築。
慶長 8年(1603)観音堂改築 丸亀城竣工。
慶長12年(1607)生駒一正、高篠村30石、真野10石、買田村10石、真野5石寄進。
慶長15年(1610)一正死亡 正俊が生駒家継承
慶長18年(1613)オナツの甥・宥睨が金光院の住職就任(以後32年間)
慶長18年(1613)生駒正俊、寄進状。
元和 4年(1618)生駒正俊、院内73石、苗田村50石、木徳村23石、寄進。
元和 6年(1620)生駒正俊、鐘楼堂建立。
この頃、オナツの産んだ左門は、腹違いの兄の京極家第三代高俊に仕えるようになる。
元和 7年(1621)正俊が36歳で死去 生駒高俊が幼くして継承、五条村へ100石寄進。
元和 8年(1622)生駒高俊、寄進。合計330石となる。
寛永17年(1640)お家騒動(生駒騒動)発生、生駒家は出羽国矢島へ配流
     (1645)金光院院主 宥睨死亡
①第1期は、天正年間です。生駒家の入国の天正十五(1587)年1月24日から始まり、3年連続します。田地の所在場所は、松尾村・江内村(榎井村)・小松村と象頭山の山麓のかつての小松庄に集中します。しかし、これは国内安堵のためであり、他の神社仏閣と比べて飛び抜けているという印象は受けません。
②第2期は、慶長年間前半です。関ヶ原の戦の後に集中します。これは、一正が実権を握り戦勝への御礼と「オナツの男 子出産祝い」ではないでしょうか。この辺りからオナツの意向を感じます。
③第3期は、慶長年間後半です。オナツからの宥睨への「院主就任祝い」ではないでしょうか。
④第4期は、元和年間です。第三代の正俊が急死した後の、弔意の性格と同時に、オナツにすれば息子左門が元服し 家禄に付くことが出来た返礼もこめられているのでは?
以上、私の大胆な推察(独断)でした。
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改めて生駒家の寄進高を見て思うのは?
①生駒家の金毘羅に対する330石という寄進は、ずば抜けて多くトップです。
②2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石で、これは三好実休の時代からの寄進で例外的です。
③3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石です。
④国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院でも60石程度。
⑤仙石家からは100石の寄巡をうけていた白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥以下、屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの金毘羅神に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツの力もあったのでしょうが、それだけで説明できることはできなようです。

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参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~

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