瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金毘羅信仰と琴平 > 金毘羅大権現繁盛記

丸金

金刀比羅宮のシンボルとして使われているのが金の字のまわりを、丸で囲った「丸金」紋です。この「九金紋」が、いつ頃から、どういう事情で使われ出したのかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 丸金紋の由来 ―金昆羅大権現の紋について― ことひら 平成11年」です。
丸亀うちわ(まるがめうちわ)の特徴 や歴史- KOGEI JAPAN(コウゲイジャパン)

「丸金紋」を全国に広めたのが丸亀団扇だと云われます。
赤い和紙を張った団扇に、黒字で「丸金」とかかれたものです。これが金毘羅参詣の土産として、九亀藩の下級武士の内職で作られ始めたとされます。その経緯は、天明年間(1781~88)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷が隣合せであったことが縁になりました。隣同士と云うことで、江戸の留守居役瀬山四郎兵衛重嘉が、中津藩の家中より団扇づくりを習います。それを江戸屋敷の家中の副業として奨励したのが丸亀団扇の起こりと伝えられます。
 幕末に九亀藩の作成した『西讃府志』によると、安政年間(1854~59)には、年産80万本に達したと記されています。その頃の金昆羅信仰は、文化・文政(1804~29)の頃には全国的な拡大を終えて、天保(1830~)の頃には「丸金か京六か」という諺を生み出しています。京六とは京都六条にあった東本願寺のことで、金刀比羅宮とともに信仰の地として大いに栄えました。

金刀比羅宮で「丸金」紋が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

丸金鬼瓦2

松尾寺の金堂(薬師堂=現在の旭社)には、唐破風の上の鬼瓦に、「金」の古字の「丸金紋」が載っています。

丸金 旭社瓦

この鬼瓦とセットで使用されていた軒平瓦も、金刀比羅宮の学芸参考館に陳列されています。「金」の略字の両脇に、唐草文を均整に配した優美なもので、黒い釉薬が鳥羽玉色の光沢をはなっています。説明には、瓦の重量が支えきれずに鋼板葺きに、葺きかえられた時に下ろされたと記されています。旭社(松尾寺金堂=薬師堂)の屋根が重すぎて、銅板葺きで完成したのは天保十一年(1840)の秋です。

金刀比羅宮大注連縄会 活動状況 - 高松市浅野校区コミュニティの公式ホームページです。

金刀比羅宮に奉納された絵馬に「丸金紋」がみられるようになるのは、19世紀後半からで、次のようなものに見えるようになります。
宝物館の絵馬図の中に「丸金紋」を縁の飾り金具として使った天狗の絵馬
②万延元年(1860)奉納の「彫市作文身侠客図」絵馬
③安政四年(1857)宥盛の大僧正追贈を祝って奉納された品の中
④明治11年(1878)再建の本宮の「丸金紋」
⑤神輿の紋も、江戸末期は巴紋だったのが、明治以後に丸金紋に変更。
 丸金文は、金毘羅大権現の創建当初から用いられていたと思っていましたが、どうもそうではないようです。残された史料から分かることは、19世紀になって使われはじめ、その起源は金毘羅参詣の土産の団扇にあって、「丸」は丸亀の丸であるという説が説得力を持つように思えてきます。

金刀比羅宮 丸金紋の起源
金刀比羅宮の丸金紋の起源
 九亀団扇が「丸金紋」を全国に広めたことは確かなようで、赤い紙に黒く「丸金紋」がかかれた団扇は、江戸時代の図案としては斬新なもので人気があったようです。また当時の旅は徒歩でしたから、軽い団扇は土産としても適していました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち
 近世前半の金刀比羅官は「海の神様」よりも、修験者によって支えられた天狗信仰で栄えていました。
 松尾寺住職の宥盛は修験者で、亡くなった後は天狗になって象頭山金剛坊として祀られていました。その眷属の黒眷属金昆羅坊も全国の修験者の信仰対象でした。また、讃岐に流された崇徳上皇は、怨霊化して天狗になったたと信じられ、京都の安井金刀比羅宮などでは「崇徳上皇=天狗=金昆羅神」とされるようになります。数多く作られた金昆羅案内図の中には、天狗面や天狗の持物の羽団扇が描かれたものがあります。大天狗は翼をもたないかわりに、手にした羽団扇を使って空を飛ぶとされたことは以前にお話ししました。

天狗の団扇
天狗信仰と団扇(うちわ)

金刀比羅官では「丸金紋」以前には、天狗の持物の羽団扇が紋として使われたようです。
天狗の紋に羽団扇を使ったのは、富士浅問神社大宮司家の富士氏に始まるようです。富士氏の紋が棕櫚の葉であり、富士には大天狗の富士太郎、別名陀羅尼坊がすむとされました。そのため社紋であった「棕櫚葉」が流用されて、よそでも天狗の紋に棕櫚葉が使われるようになります。そして、次第に棕櫚葉団扇と鷹の羽団扇が混用され、天狗の紋としては棕櫚葉団扇の方が多くなります。しかし、狂言などではいまでも、鷹の羽の羽団扇が使われているようです。

天狗の羽団扇
狂言に用いられる天狗の持つ羽団扇

金刀比羅官で棕櫚葉団扇が、使用された背景を整理しておきます
①「金毘羅神=天狗」である。
②大天狗は羽団扇を使って空を飛ぶ
①②からもともとは、金刀比羅宮でも棕櫚葉(しゅろのは)団扇の紋が使われていたようです。ところが金昆羅参詣みやげの「丸金紋」の方が全国的に有名になります。そうすると金刀比羅宮でも、これを金比羅の紋として使うようになります。
棕櫚(すろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
棕櫚葉団扇

 一方、天狗信仰では、天狗の紋と棕櫚葉団扇が広く普及しています。そこで天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現では、棕櫚葉団扇もそのまま使用します。棕櫚葉団扇の紋は、金昆羅案内図や金刀比羅宮に奉納された絵馬などに使われています。棕櫚葉団扇は金刀比羅官の紋というよりは、 一般的な天狗の紋として使われたことを押さえておきます。
棕櫚葉団扇の紋だけは、金刀比羅官だと特定することはできません。
 これに対して「丸金紋」の方は、金刀比羅官だと特定できます。こちらの方がシンボルマークとしては機能的です。そのために19世紀中頃以後は、「丸金紋」が盛んに使われるようになります。
 丸金紋3様
丸金紋・巴紋・棕櫚葉団扇
棕櫚葉団扇と同じく、普遍性のある紋として使われたのが、巴紋であった。
江戸末期の金刀比羅宮の神興の紋は巴紋でした。旭社(松尾寺の金堂)の屋根にも、巴紋が使われています。巴紋は神社仏閣などで普遍的に使われた紋で、金刀比羅宮でもその伝統にのっとって、巴紋を使用したのでしょう。
巴 - Wikipedia
巴(ともえ)紋

巴紋の起源は、弓を引く時に使う鞆(とも)であったとされています。

丸金紋と巴紋 鞆とは
弓を引く時に使う鞆(とも)
昔の朝廷では、古代宮中行事の追難儀礼を行っていました。方相氏という四つ目の大鬼の姿をした者が、鉾と楯を持って現れて、鉾で楯を打ったのを合図にして、一斉に桑の弓、蓬の矢、桃の枝などで塩鬼を追い払う所作をします。桑の弓や蓬の矢は、古代中国で男子出産を祝って使われた呪具で、これで天地四方を射ることにより、その子が将来に雄飛できるよう祈ったのです。
 日本でも弓矢を使った呪術は「源氏物語」夕顔の巻に出てきます。
源氏の君は、家来に怨霊を退散させるために弓の弦を鳴らさせているし、承久本『北野天神縁起』によると出産の際に物怪退散を願って弓の弦を鳴らす呪禁師が描かれています。
ここからは、弓は悪魔を追い払う呪具で、弓を引く時に使う鞆にも悪魔を追い払う力が宿ると考えられていたことが分かります。こうして、神社仏閣の屋根では巴紋の瓦が使われるようになります。

讃岐地方でも鎌倉時代になると、神社仏閣の屋根で巴紋の瓦が葺かれるようになります。

金毘羅の丸金紋
金刀比羅宮の3つの紋の由来
棕櫚葉団扇は天狗の、巳紋は神社仏閣の、それぞれ普遍的な紋でした。そのため別当松尾寺や金刀比羅宮でも、その伝統に従ってこの二つの紋を用いました。
 これに対して、金昆羅参詣みやげの九亀団扇から生まれた「丸金紋」は、金刀比羅宮を特定するオリジナルな紋です。金刀比羅宮で「丸金」が使われ出すのは、19世紀中頃の天保年間あたりからです。それより先行する頃に、九亀団扇の「丸金紋」は生まれていたことになります。

  まとめておくと
①金毘羅大権現は天狗信仰が中核だったために、シンボルマークとして天狗団扇を使っていた
②別当寺の松尾寺は、寺社の伝統として巴紋を使用した
③19世紀になって、金比羅土産として丸亀産の丸金団扇によって丸金紋は全国的な知名度を得る
④以後は、金刀比羅宮独自マークとして、丸金紋がトレードマークとなり、天狗団扇や巴紋はあまり使われなくなった。
丸金紋 虎の門金刀比羅宮
東京虎の門の金刀比羅宮の納経帳
しかし、虎の門の金刀比羅宮の納経帳には、いまでも天狗団扇が丸金紋と一緒に入れられていました。これは金毘羅信仰が天狗信仰であった痕跡かもしれません。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「羽床正明 丸金紋の由来 金昆羅大権現の紋について  ことひら 平成11年」




西高野街道を歩く その4(河内長野駅前~三日市町) | 河内長野おじさんの道楽
高野街道の河内国三日市宿
高野街道の河内国三日市宿は、高野山への参拝客の利用する宿場駅として繁栄してきた街です。ここには金毘羅参拝客をめぐって、紀州加太とライバル関係にあったことが残された史料からは分かります。どうして加太と三日市が対立関係になったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは 北川央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者 ことひら52 H9年です。

河内平野には、四本の高野山への参詣道があります。
まず一番東側には、京都府八幡市の石清水八幡宮を起点に枚方市に入り、生駒山脈の西山麓を南北に真っ直ぐ、交野市・寝屋川市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市と通過し、そこから藤井寺市・羽曳野市・富田林市を経て河内長野市に到るのが東高野街道です。
金毘羅参拝 高野山街道

2番目は西高野街道で、堺市の大小路を起点に、大阪狭山市を通過し、河内長野市の長野町で東高野街道と合流します。
この東高野・西高野の二本の間に、中(上)高野・下高野の二街道があります。中高野街道は、大阪市天王寺区の四天王寺南から奈良へと向かう亀瀬越大和街道(奈良街道)の平野で分岐し、松原市・美原町・大阪狭山市を経内長野市の楠町で西高野街道と合流します。
 このコースの起点である平野は、平安時代初頭に征夷大将軍として覚法法親王が久安四年(1148)六月に高野山を参詣した時に利用した道と推定され、四本の中では最も古くから高野山参詣に利用された道のようです。
最後の下高野街道は、四天王寺を起点として、天王寺区から阿倍野区・東住吉区を経て松原市に入り、堺市・美原町を通過して大阪狭山市の狭山で中高野街道に合流します。もともとは中高野街道の枝道であったと研究者は考えているようです。
高野街道|街道歩きの旅

河内長野市の長野町で最終的に一本となった高野街道は、紀見峠を越えて和歌山県の橋本市に入り、そこから高野山上へと向います。三日市宿(河内長野市三日市町)は、河内と紀伊との国境紀見峠から三里手前にあり、享和元年(1801)刊行の秋里離島著『河内名所図会』は、その賑いが次のように記されています。
三日市駅
京師・難波よりの高野街道なり。旅舎多くありて、日の斜めなる頃より、出女の目さむるばかりに化粧して、河内島の着ものに忍ぶ染の施襴美しく、往きかふ人の袖引き、袂をとどめて、 一夜の侍女となならはしる事、むかしよりの風俗とかや)
意訳変換しておくと
京都・難波からの高野街道の途上にある。旅籠が数多く有り、日が傾き始めると、遊女達が目が覚めるほどの化粧をして、河内島の着物に忍ぶ染の帯を巻いて、往きかふ人の袖を引く。 一夜の侍女となる習いは、むかしからの風俗だという。

金毘羅街道 高野街道三日市
赤く囲まれたのが三日市町

この賑わいは大阪や京都からの高野山参りだけがもたらしたものではないことが近年明らかになってきました。
三日市には、関東・東北など東国から人たちが押しかけるようになっていたのです。伊勢参りを終えた東国の人たちは、その後に次のようなコースをめぐっているのが分かってきました。
①奈良・大坂・京都の市中見物を行い、中山道を辿る「伊勢参宮モデルルート」と、
②伊勢参宮の後は一番那智山から32番谷汲山まで西国三十三ヶ所の巡礼を行ない、中山道を復路とする「伊勢 十 西国巡礼ルート」

さらに金毘羅信仰が高まる19世紀になると、これに金毘羅や安芸の宮島を加えた次のようなコースも登場するようになります。
③「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現」
④「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現 + 宮島」
西国巡礼をともなうコースは、西国巡礼の途中で四国に渡り、金毘羅参詣を行います。そして、再び西国巡礼の旅に復帰するというコースを設定する必要があります。そのため四国への渡海地としては、播磨国の高砂、室津、あるいは備前国児島半島の下津丼、下村に限られていたことが分かっています。
金毘羅船 航海図C13

 一方、西国巡礼を行わない場合は、児島半島の下村・田ノロの他、備前の片上や、大坂から乗船するケースが多かったようです。西国巡礼をおこなうにしても、行わないにしても三日市宿を利用していたのです。そのため伊勢参りや金比羅参りが増えれば増えるほど三日市を利用する客も増えたのです。

ところが19世紀半ばになると様子が変わってきます
新たな金比羅参拝ルートが開かれるのです。それが紀州加太~阿波撫養ルートです。このルートによって三日市宿は、大きな打撃を受けるようになったようです。それを示す史料を見てみましょう
 嘉永五年(1852)2月16日付で、河州錦部郡三日市駅の駅役人武兵衛と庄屋五兵衛・安右衛門の二人が連名で大坂西町奉行所に次のような願いを提出しています

一、当駅之儀者過半旅籠屋井往来稼仕候而、往古から御用向相勤来候駅所二御座候、外二助成二可相成儀一切無御座候、然ル処、東国筋から伊勢参宮、夫から大和名所を廻り、紀州高野山から大坂江罷出、讃州金毘羅江参拝仕候旅人者、悉く先年から当駅ヲ通行仕候処へ、近年高野山から紀州加太浦、夫から阿州むや江新規之渡海船ノ持、四国路から金毘羅江之道法取縮メ、又当駅大坂江掛り、播州路江之本道之道法者相延し、判摺招之絵図面・道中記を新規二諸国江相弘メ、右二付、西国・中国・四国路之旅人も、金毘羅からむ・かた浦江渡り、高野山、夫から大和名所廻り・伊勢参宮仕、京・大坂江仕道、播州路から国元江罷帰り申候、右様諸国参詣仕候旅人之向者、多分新規之閑道江罷通り、高野山本道之当駅者御用通り而己二相成、実々困窮仕詰、難渋之駅所ニ成候、乍恐御憐察奉願上候、

意訳変換しておくと
 三日市駅は、ほとんどの者が旅籠屋や往来稼で暮らしています。古くから駅として御用を勤め、嘆願などをしたことはありませんでした。かつては、東国からのお伊勢参りの人たちは、大和名所を廻り紀州高野山から当駅を通って大坂へ出て、讃岐金毘羅へ参拝していました。ところが近年になって、紀州加太浦と阿州撫養に新たに渡海船が開設され、撫養から金毘羅までの道のりを短く宣伝し、当駅から大坂や播州路への本道の距離を長く記した絵図面・道中記を新規に摺って諸国に広める始末です。そのため西国・中国・四国路の旅人までが、金毘羅から加太浦へ渡り、高野山から大和名所廻りや伊勢参りを行い、京・大坂を通って播州路から国元へ帰るコースを取るようになってしまいました。このように、諸国参詣の旅人が新規の閑道を利用し、高野山本道である当駅を通らないようになって、誠に困窮しております。つきましては・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①三日市宿は、かつては東国から伊勢参りを終えた人たちが、奈良や京都の名所巡りをしたのち高野山に詣で、それから大坂に出て金毘羅参詣に向かうコースの駅として大きな賑いがあった。
②ところが、19世紀になって紀伊の加太浦から阿波国撫養へと向かう渡海船が就航し、金比羅参りの新ルートが開かれた。
③加太浦ルートの業者は、撫養と金比羅間の距離を実際より短く記し、逆に三日市コースを実際の距離よりも長く刷り込んだ絵図・案内記を使って、全国に宣伝し、利用客を拡大した。そのため三日市を利用する旅行者が激減し、大きな打撃を受けている。

ここからも三日市ルートが本道で、これに後から加太ー撫養コースが新規参入してきたことが分かります。無料で配布されたという絵地図を見てみましょう
金毘羅船 高野山より紀州加田越四國札所本道筋並

 「高野山より紀州加田越四國札所本道筋並二讃州金毘羅近道順路」です。高野山から紀州加太からの金毘羅への参拝案内で「近道順路」と記されています。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。
この地図の特徴は、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田(加太)」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 確かに、この地図を見ると山陽道を進むよりも撫養からの四国道を進んだ方が近そうです。また、風待ち船待ちで欠航や大幅な遅れのあった大阪からの金毘羅船よりも。加太ー撫養間の航路の方が短く、船酔いを怖れる人たちにとっては安心できたかも知れません。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主である金屋茂兵衛です。彼や粉川寺の僧侶達のプロデュースで「加太ー撫養」振興計画が展開されていたようです。
さらに時代を経て出された「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」です。
金毘羅航海図 加太撫養1

表題から「近道」がなくなりました。「行政指導」があったのでしょうか。これも「加田(加太)」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み、法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。 屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。この絵を見ていると、四国遍路も意識していることがうかがえます。「加太=撫養」コースは、金毘羅詣でや四国遍路達によって利用されるようになっていきます。
 江戸時代のも新興観光地(霊場・名勝)と、既存の観光地の旅行客の争奪戦が展開されていたことが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  北川 央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者  ことひら52 H9年


金毘羅船 航海図C4

前回に金毘羅船の航路が19世紀前半に、①→②→③のように変更されていることを見ました。
①初期は、室津から小豆島を東に見て高松沖から四国の海岸沿いに丸亀へ
②19世紀半ばからは、室津から牛窓沖を通過し、それから備讃瀬戸を縦断するコール
③室津から下津井半島の日比・田の口・下村を経由して丸亀へ
このコース変更の背景として考えられる事を挙げてみると
①下津井半島の五流修験が広めた「金比羅・喩伽山の両詣り」で喩伽山参りの人々の増加
②19世紀前半からの金毘羅船の大型化
などですが、その他にも原因があることを指摘する文章に出会いました。今回はそれを見ていきます。テキストは「羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問  ことひら68 H25年」です
金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛 道頓堀で金毘羅船に乗りこむ弥次喜多

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)には、弥次喜多コンビが夜半に道頓堀から乗った金毘羅船は、早朝に木津川河口に下ってきて、早朝に順風を得て出港します。室津で一夜を過ごし、その後は順風に恵まれて三日半で丸亀港に着いています。しかし、こんなにスムーズに行くのは珍しい方だったようです。

三谷敏雄「飯田佐兵衛の金毘羅参詣記」(『ことひら』四十一号、昭和61年)には嘉永三年(1850)の正月に武蔵国文蔵村の飯田佐兵衛が仲間11人と金比羅参りをしたときの記録が報告されています。当時は金比羅参りだけでなく、いろいろな聖地を一緒に巡礼するのが常でした。彼らの巡礼地を見てみると、東海道を下って伊勢神宮に参詣し、更に大阪・四国にも足を伸ばし、帰りには京都見物を行って中山道を通って帰村しています。この二ヶ月半を『伊勢参詣日記帳』という道中記にまとめています。この道中記には、金毘羅船について次のように記されています。
 佐兵衛一行は大阪から高砂に行き「つりや伊七郎」方で「同所より二日夜丸亀迄船を頼む、上下(往復料金)壱貫弐百文にて頼む、百八文ふとん一枚」を支払って金毘羅船に乗船しようとします。ところが「三、四日、殊の外逆風」で船が出せません。そこで船賃の払い戻しを要求するのですが、返金されたのは「四百八拾文舟銭。剰返請取。」と支払額の40%程度でした。全額返金に応じないことに憤慨して「金ひら参詣ニハ 決而舟二のるべからず」と、金比羅参拝には、決して船を利用するなと書いています。その後、彼らは岡山県まで歩いて行って、下津井から船に乗って対岸の四国に渡っています。
IMG_8095下村浦
下村湊

    西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、次のように記されています。
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」

意訳変換しておくと
「三月一日に船中に泊り、翌日二日に漕ぎだしたが、昼ハッ時分に、風が強く吹きだし、波も高くなり、乗客はみんな船酔いに苦しめられ、難渋した。ようやく四ッ時に風が静まり、人々は人心地をついた次第である」

「風浪が強くなる中を、21日七ッ時に乗船し、24日七ッ時に丸亀に到着するまで、三夜三日の内船中に閉じ込められ、乗客達は大変難渋した。

 同じ頃に金毘羅大権現に参詣した江戸羽田のろうそく商、井筒屋卯兵衛の手記にも、良く似たことが書かれています。
卯兵衛は「金毘羅出船会所大和や(大和屋)弥三郎、丸亀迄詣用付舟賃九匁ふとん壱枚百六十四文払」と、前回に紹介した道頓堀川岸の大和屋弥三郎方で金昆羅船を頼み、「是より舟一り半程下りて富島町と申す所へ船をつなぐ」が、「六日朝南風にて出帆できず」と船を出すことが出来ず、「是より舟を上り、大和屋船賃を取り返しに行く」と船賃の一部を払い戻して貰い、陸路を岡山県まで歩いています。
 そして、次のようなコースで丸亀に向かいます
二月四日に牛窓村の「ちうちん屋」に泊り、
五日には喩伽大権現に参詣して、下津半島・下村の「油屋藤右衛門」方で百四文を払って乗船し、
六日の四ツ半頃に丸亀港に着き、船宿「あみや為次郎」方で弁当を整え、丸亀街道を歩いて金毘羅大権現に行き参詣した。再び丸亀「あみや」に戻って
六日昼より七日昼までの間逗留し、九ツ時に「あみや」を出立して船に乗り、七ツ頃に対岸の田の口港に着いています。
金毘羅船 航海図C10
上方から丸亀までの船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していました。近世の金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々

 金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。

IMG_8108象頭山遠望
下津井半島からの象頭山遠望

 下津井からの丸亀間は、西北の風は追い風となります。上方からの船が欠航になっても、下津井からの船は丸亀湊に入港できたようです。
金毘羅船 田の口・下村

 児島半島には喩伽山大権現(蓮台寺)があつて、金毘羅大権現と喩伽山を「両参り」すると効験は倍増すると五流の修験者たちは宣伝します。喩伽大権現に近い田の口港は、両参りする人々で賑わうようになります。
IMG_8098由加山
喩伽山大権現(蓮台寺)

これに対抗して下村の船宿「油屋藤右衛門」方では「毎日出船」と天気に左右されない通常運行を売り物にして客を獲得しようとします。下津井半島には、日々、田の口、下村、下津井と4つの湊が金比羅船をだして、互いにサービス競争を行っていました。上方からの運賃に比べると1/5程度でリーズナブルでした。また、小形の金毘羅船にはトイレがありませんでした。弥次喜多は、苫の外から海に向かって用を足しています。女性参拝客が増えるに随って、最短で海を渡ろうとする人たちも増えたのかも知れません。

IMG_8105下津井より広島方面」
下津井半島からの四国方面遠望
 こうして江戸時代末期には、欠航や船酔いを避けて上方からではなく、海上最短距離になる下津井からの渡船に活躍の舞台が開けてきたようです。大阪と丸亀を結ぶ金毘羅船が「毎日出船」を売り物にすることができるようになつたのは、明治になって蒸気船が出現して天候の影響をうけなくなってのことのようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

   以上をまとめておくと
①上方からの金毘羅船は順風だと3泊4日で、丸亀港に着くことができた
②しかし、北西の季節風が強くなる冬は逆風となり、欠航が多くなった。
③出発前の欠航や途中での欠航でも料金が全額払い戻されることはなくトラブルの原因となった
④江戸時代末期になると参拝客は、金毘羅船の欠点を避けて、陸路で下津井半島まで行き、そこから海上最短距離で丸亀や多度津を目指す者が増えた。
⑤そこには、五流修験者の喩伽山信仰策もあった。
⑥この結果、下津井半島の田の口や下村、下津井は金比羅渡船のでる港町として栄えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ 回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら

DSC01362
 
「象頭山祭礼図屏風」に描かれた遍路達が物語るものは?
 「象頭山祭礼図屏風」は、十月十日の金毘羅大会式の当日を描いた六曲一双の大きな屏風です。神前に出仕する上頭・下頭の行列が、参詣客の詰めかけた境内の諸堂、芝居・見世物等で賑わう町方の様子とともに描かれています。元禄年間の17世紀末に描かれたもので、文献の乏しい時代の絵画史料としては、かけがえのないものです。研究者によると、この中に遍路姿の参拝客が合計で10人描かれているといいます。
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 戦国時代の荒廃からまだ立ち直っていない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
 それから約30年後の元禄二年(1689)版行の『四国遍礼霊場記』には
「金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州(讃岐)の壮観、名望の霊区なれば、遍礼の人、当山に往詣せずといふ事なし
とあります。ここからも金比羅詣でにやってきた人たちが、善通寺や弥谷寺・海岸寺の「七箇所参り」=「ミニ版の四国巡礼」を行っていたように、遍路たちも金毘羅大権現にお参りに来ていたことが分かります。元禄年間に、金比羅さんの大祭に四国遍路の姿が描かれていても不思議ではないようです。今でも、金比羅さんでは歩き遍路の姿を時々見かけます。

大祭5
西国巡礼者は金毘羅大権現にもお参りしていた
 四国遍路が西国巡礼の影響をうけて笈摺を着用することになったのもこの頃のようですから、「象頭山祭礼図屏風」に四国八十ハケ所を巡拝する遍路が描かれていても不思議ではないようです。
 さて、西国巡礼者達がその巡礼の途中で金毘羅に立ち寄るようになるのは19世紀初頭前後からのようです。そして金毘羅参詣が西国巡礼中の一つのコースとして定番化します。西国巡礼の途中で、足を伸ばして四国に渡り金毘羅にも参っていくようになるのです。
IMG_8108象頭山遠望
江戸時代の巡礼者達は、札所から札所へと番付順に忠実に巡礼を続けるだけでなく、危険を回避するためにたとえ番付が逆になろうとも迂回をしたり、巡礼途中で高野山等の有名な寺社へ立ち寄ったりします。さらには、大坂市中で芝居見物して長逗留する人たちまでいました。私たちが考えるようなストイックな遍路姿とは異なる、非常に生き生きとした貪欲な巡礼者像が見えてきます。
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 東国からやってきた伊勢・西国巡礼の社寺参詣ルートは?
①「伊勢 十 西国巡礼ルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、一番青岸渡寺より順次西国三十三所霊場を巡り、中山道を復路とする
②「伊勢参宮モデルルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、伊勢より奈良・大坂・京都の社寺を巡り、中山道を復路とする
の二つが基本コースだったようです。これに次のようなオプションルートが加えられます。
③金毘羅参詣を加えた「普及型」、
④安芸の宮島、岩国の錦帯橋見物を加えた「拡張型」
  ここからは東国からの参詣旅行者が伊勢神宮や西国札所、あるいは高野山・金毘羅・善光寺等の有名諸社寺を一つの巨大ルートとして旅していた分かります。これらのルートの中に金毘羅や四国遍路も入っていたのです。
z金毘羅大権現参拝絵図 航海図

西国巡礼者の道中記から金毘羅参詣ルートを見てみると
9割以上が金毘羅までやってきているようです。西国巡礼者の金比羅詣でのコースは、播磨の高砂の船宿の用意した金比羅船で丸亀へ渡り、丸亀からは丸亀街道を金毘羅へと向かいます。その場合も金毘羅参詣だけ済まして四国をあとにしたのはわずかです。多くは空海の生誕地で四国霊場の聖地善通寺や弥谷寺をも併せて参拝し再び丸亀に戻っています。
13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛

以前お話しした十返舎一九の弥次喜多コンビの歩いたコースです。これは「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」と題された道中案内図が何種類も残っていることとからも裏付けできます。
 
230七箇所参り
喩伽山蓮台寺と金毘羅大権現の両参り
 丸亀に戻った巡礼者達は、再び船に乗りこみます。
IMG_8101

向かう港は、児島半島の下津井・田ノロや牛窓・赤穂、そして室津が多かったようです。この中で特に多いのが児島半島へ渡っている西国巡礼者が多いのです。児島半島に彼らを引きつけるものがあったからです。それが楡伽山蓮台寺でした。金毘羅に参った西国巡礼者の半分は、行きか帰りかいずれかに喩伽山に参詣しています。

IMG_8098由加山
喩伽山蓮台寺は、心流修験と称された修験道本山派内の有力集団が、その本拠児島半島に勧請した熊野三山のうち那習山に比定された寺院で、ここも金毘羅さんと同じく修験者達のメッカでした。彼らは
金比羅参詣だけでは「片参り」に過ぎず、金毘羅参詣者は必ず楡伽山へも参詣せねば本当の功徳は得られぬ
と喧伝するようになります。
 この「両参り」用の道中案内図が「象頭山楡伽山両社参詣道名所旧跡絵図」です。こうした宣伝が効いたのか、多くの金毘羅参詣者か行きか帰りに必ず児島半島を通過して行くようになります。後には、これを見て阿波の箸蔵も「金比羅さんの奥社」を称え「両参り」を宣伝するようになり、参拝客を急増させることに成功したことは、以前にお話ししたとおりです。
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 東国からの西国三十三所巡礼者は、その巡礼の途中で四国に渡り金毘羅参詣を行っていたことをお話ししました。彼らは播磨の高砂からコースを外れて讃岐丸亀に渡った訳ですが、金比羅詣が終われば、西国巡礼ルートに戻らなければなりません。
それではどこで「巡礼ルートに復帰」したのでしょうか? 
それは西国巡礼で一番西の札所になる第二十七番札所書写山円教寺です。児島半島の蓮台寺に「両参り」を済ませた後には、姫路の書写山へと足を進めました。東国からの西国巡礼者のルートを確認しておくと次のようになります。
①東海道で伊勢神宮へ
②高野山へ
③西国巡礼ルート開始 
④高砂から丸亀へ金比羅船で金毘羅大権現へ
⑤善通寺七ケ寺巡礼
⑥丸亀から児島半島の蓮台寺へ
⑦山陽道を経て姫路・書写山へ
という回遊ルートを巡っていたようです。 
また、西国巡礼を行わずに金比羅詣でや四国遍路を行う人たちもいました。彼らのとったコースは以前紹介したように和歌山から阿波の撫養に渡り、金毘羅をめざしたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1
どちらにしても、私たちが現在行っているひとつの目的地を目指す短期間旅行とは、スタイルがちがうのです。四国遍路にしても札所だけを訪れるのではなく周辺の神社仏閣を、貪欲に訪れていることが分かります。現在の「旅行」感覚で見ていると、見えてこないものがいっぱいあります。
参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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  阿波の酒井弥蔵のこんぴらさんと箸蔵寺の両参りについて
   前回に続いて金比羅詣が200回を越えた阿波の酒井弥蔵についてです。研究者は彼の金毘羅詣が3月21日と10月12日に集中してることを指摘し、前者が善通寺の百味講にあたり、先祖供養のためにお参りしていたことを明らかにしました。言うならば、彼にとってこの日は、善通寺にお参りしたついでの、金比羅参拝という気持ちだったのかも知れません。


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それでは弥蔵が10月12日に、こんぴらさんを参拝したのはどうしてでしょうか?
すぐに思い浮かぶのは、10月10日~12日は地元では「お十(とう)かさん」と呼ばれるこんぴらさんの大祭であることです。これは、金毘羅神がお山にやって来る近世以前の守護神であった三十番社の祭礼である日蓮の命日10月10日を、記念する祭礼がもともとの行事であったようです。

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 どうして祭りの最後の日にお参りに来ているのでしょうか
実は、その翌日に彼が参拝しているのが阿波の箸蔵寺なのです。
弥蔵は、大祭の最後の日にこんぴらさんにお参りして、翌日に箸蔵寺に詣でることを毎年のように繰り返していたのです。ここには、どんな理由があるのでしょうか?
このこんぴらさんの例祭について 『讃岐国名勝図会』には、次のような記されています。
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)
御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せずこの両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
  『宇野忠春記』という本には
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
と書かれていると記されます。
 この箸を洗った「箸洗谷」については、 『金毘羅参詣名所図会』には、
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護  神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
   と記されています。ここから「箸洗谷=箸洗池」だったことが分かります。そして、『讃岐国名勝図会』では洗った箸は
「何所へやらんはこびける」
とあいまいな表現でしたが『金毘羅参詣名所図会』では、
  箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
と記されています。はっきりと「箸蔵寺のある箸蔵谷」へと運ばれると記されています。このように、金毘羅の祭礼で使われた祭具は、箸蔵寺に運ばれたと当時の人は信じていたのです。
images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
なぜ箸蔵寺へ運ばれなければならなかったのでしょうか?
箸蔵寺の縁起『宝珠山真光院箸蔵寺開基略縁起』の中には、
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。
薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。 
この縁起は空海と金毘羅大権現を一度に登場させて、箸蔵の由来を説きます。まるで歌舞伎の名乗りの舞台のようです。 
①善通寺で修行中の空海は、山の上空に立つ金色の雲を見て当地にやって来ます。
②そこで金毘羅大権現と出会い自らを名乗り「効能」を説きます。
③その際に自分は「海中等の急難を救わん為に象頭山」いるが、「彼所(象頭山)へ日夜眷属往来して只今帰る所也」と象頭山にはいるが、本来の居場所はここであるというのです。
④金毘羅大権現は空海に、当山に寺院の建立と金毘羅宮で使用した箸などの奉納を求めます。 
⑤それを聞いて、空海はこの地に箸蔵寺を開山します。
⑥こうして、箸蔵寺は古来より金毘羅の奥之院として知られるようになった
以上が骨子です。
 しかし、象頭山における金毘羅大権現の創出自体が近世以後のものです。空海の時代に「金毘羅大権現」という存在自体が生み出されていません。また、この由来が「海中等の急難を救わん為」とすることなどからも、金毘羅信仰の高揚期の近世後半に作られたものであることがうかがえます。
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 同時に、この由来には空海と金毘羅大権現の問答を通じて、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥社であり非常に関係が深いことが語られています。
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
を唱えるようになります。また、自らの金毘羅大権現の開帳を行い、何度も本家のこんぴらさんに訴えられた文書が残っています。この文書を見ると、岡山の喩迦山と同じく「こんぴらさんと両参り」は、箸蔵寺の「押しかけ女房」的な感じが私にはします。
 少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
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彼がこんぴらさんにお参りした10月11日〜12日は、金毘羅の例祭が行われる日でした。そして当時は、金毘羅の例祭において箸蔵寺は非常に重要な役割を果たしていると考えられていたこと、、また箸蔵寺は金毘羅の奥之院とされていたこと。こうした信仰的な繋がりを信じていたから、弥蔵はこんぴらさんの大祭が終わる10月12日にこんぴらさんをお参りし、箸がこんぴらさんからやってくる箸蔵寺をその翌日に参詣したのでしょう。
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 ここには、前回にこんぴらさんと善通寺を併せて同日に参拝した理由とは、違う理由がるようです。吉野川中流の半田に住む弥蔵にとって、信仰の原点は地元の箸蔵寺への信仰心から始まったのかも知れません。それが「こんぴらさんの奥社」という箸蔵寺のスローガンにによって、その本山であるこんぴらさんに信仰心が向かうようになり、そしてさらに、弘法大師生誕の地として善通寺に向かい、弘法大師信仰へと歩みだして行ったのかもしれません。どちらにしても、この時代の庶民の信仰が「神も仏も一緒」の流行神的な要素が強く、ひとつの神社仏閣に一新に祈りを捧げるというものではなかったことは分かってきました。
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参考文献   鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 

京都精華大学紀要44号

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以前にも紹介した讃岐の金毘羅宮の「元禄祭礼図屛風」で、歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋について、説明不足だと指摘されました。その部分のみを補足します。

DSC01342 鞘橋 こりとり


 この屛風図は右隻は金倉川を真ん中にして、鞘橋を渡る「頭人行列」を始めとして金毘羅参りで賑わう参道の光景を描いています。まずは、鞘橋付近の情景です。
DSC01344 鞘橋 コリトリ


金倉川で身を清めて山上へ参拝を済ませます。その後は、精進落としのお楽しみです。内町から南の金山寺の道に入っていくと・・
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金倉川の河畔には、歌舞伎や相撲・見世物などの小屋が六座描かれており、道も溢れんばかりの賑わいぶりを見せています。よく見ると川沿いに建てられた曲芸などの見世物小屋が二本の御幣をたてるだけで、寂しげな感じがします。それに対して、道を隔てた西側は歌舞伎や人形芝居・相撲興行の小屋は共に槍を横たえた櫓を上げ、看板も掲げた立派なものです。
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 黒い幕を張った人形芝居の小屋が描かれています。
地方興行ということで、周囲を竹矢来で囲んだ小屋で、櫓の下の鼠木戸の部分だけが板塀です。そのため後ろ側の囲いの横には、木戸銭を払わずに鐘の隙間から覗き見をする人がいます。舞台は櫓の正面には、位置していないように見えますが研究者によれば、絵師が舞台を描こうとしたための構図上の問題とされます。小屋の中には桟敷席らしきものはありません。見物人は土間に腰を下ろして舞台を見上げています。舞台は平側を正面にした建物の中央部分に切妻の屋根をのせたような形になっています。
 人形が出ている手摺は二段です。全体の手摺の形式は「西鶴諸国はなし」のものとよく似ていると専門家は指摘します。
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 舞台を数えると八体の武者人形が出ています。さらに「本手摺」の前に「前手摺」には、二体の人形が出ています。上手と下手には山の装置が置かれていて、人形は中央部に出ているようです。
低い手摺を使用する場合には、地面を掘り下げることもあったようです。
『尾陽戯場事始』に
「享保二丁酉より戌年頃 稲荷社内にて稽古浄瑠璃といふ事はじまり 手摺一重にひきくして 地を掘り通し 其中にて人形をつかへり 尤人形の数 五つ六つに限る」

とあります。浄瑠璃にも地面を掘って低い手摺を使ったことが分かります。

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   金山寺町は、元禄時代には精進落としの街として、芝居小屋や人形小屋・相撲興行・見世物小屋が立ち並ぶ空間として繁盛するようになります。そして百年後にはここに常設小屋の金丸座が姿を現すことになります。
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  元禄祭礼図屏風の全体像については、こちらで紹介しました。
      
 参考文献
 人形舞台史研究会編、「人形浄瑠璃舞台史 第二章 古浄瑠璃、義太夫節併行時代」

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 今から二百年ほど前の文化年間の江戸では「旅」ブームが湧き上がっていました。
その中で大ベストセラーになったのが『東海道中膝栗毛』です。この売り上げに気をよくした版元は、続編の執筆を十返舎一九に依頼します。こうして、一九は、主人公の弥次郎兵衛と北八をそのまま使って、大坂から讃岐金毘羅へと向かわせる道中記を一気に書き上げ、翌年の文化七年(1810)に刊行します。それが『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』です。

13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
  十返舎一九『金毘羅参詣続膝栗毛初編」の弥次さん北さんを描いた挿絵

 これに刺激されて全国的な金毘羅参詣が湧き上がって行きます。この本は、その後も版を重ねて読まれますが、明治以後はあまり顧みられなくなってしまったようです。
 この本で弥次・北コンビの金比羅詣の様子を追って見ましょう。
『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次郎兵衛と北八は、江戸を出発して途中数々の滑稽な失敗を重ねながら、大坂は長町にたどり着き長い道中を終えます。そこで二人は帰国の旅支度を始めるのですが、たまたま相宿になった五太平という関東者から金比羅詣を誘われます。その誘いに乗り、足を伸ばして金毘羅参詣に赴くという設定で物語は始まります。
 ここに、弥次郎兵衛・北八なるもの、伊勢参りの刷毛(はけ)ついでに、浪花長町に来り逗留し、既に帰国の用意なしけるところに、相宿(あいやど)に野州の人の由、(名は五太平)泊り合わせたるが金毘羅参詣に赴くとて、一人旅なれば、この弥次郎・北八をも同道せんと勧むる。
 両人幸いのこととは思いながら、路用金乏しければと断わりたつるを、かの人聞きて、その段は気遣いなし、もしも不足のことあらば、償わんとの約束にて、讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」
船頭「左様じゃわいな。」
五太平「そんだらハァ、許さっしゃりまし、ここの施主殿に会いますべい。わしどもハァ、金毘羅様へ行ぐのだが、船賃サァいくら積んだしますべい。」
船宿の亭主「ハイ、おいくたり様じゃな。」
五太平「三人同志でござる。」
船宿の亭主「ハイ、お一人前、船賃雑用とも、拾八匁(じゅうはちもんめ)づつでござりますわいな。」
五太平「あんだちぅ、ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
船宿の亭主「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
五太平「それだァとってむげちない、主(にし)達ゃァあじょうするのし。」
弥次郎兵衛「ハテ、お前(おめぇ)、定値段といやぁ如才はあんめえ。」
五太平「あるほど、金毘羅様へ心ざしだァ、あじょうすべい。」
 と、打ちがえより金取り出し、船賃を払う。弥次郎・北八も同じく払いて、
北八「モシ、船はどこから乗りやすね。」
 船頭は讃州者
船頭「浜へ下りさんせ。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、一気に出(づ)るわいな。サアサア、皆連(つ)んのうてごんせ、ごんせ。」
 と、このうち船には、がたひしと揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえ、苫(とま)を吹きかけると、水子(かこ)どもは布団、敷物、何かをめいめいに運び入れると、船宿の店先から勝手口まで居並びたる旅人、皆々うち連れて、だんだんと、その船に乗り移る。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり。」
菓子売り「菓子んい、んかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆、船賃サえいかいネヤ、コレ、そこの親がたち殿、えっとそっちゃのねきへついて居ざらんせ。」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい。」
 と、人を跨いで向こうへ座る。弥次郎・北八も同じく座ると、遠州の人「エレハイ、どな達も胡座(あづ)組みなさい。乗り合いだァ、お互いにけけれ(心)安くせずにャァ。時に船頭どん、船はハイ、いづ出るのだャァ。」
船頭「いんま、あただ(急)に出(づ)るわいの。」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。コレハあなた方、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、いてお出でなされませ。」
 と、もやい綱を解きて、船へ放り込むと、船頭共竿さして船を廻す。このうち、川岸通りには時の太鼓、「どんどん、どどん」。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹、「がらがら、がらがら」と、このうち船はだんだんと下へさがる。
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           大坂の船宿の引札(広告) 明治期
私が読んでいて気になった点を挙げていきます。
1 弥次・北八コンビの当初の目的は「伊勢参りの刷毛(はけ)」でした。その、ついでに金毘羅詣でをすることになります。
もともと東国からの金比羅詣客は、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったようです。この時期に残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。弥次喜多も「伊勢参りの刷毛(はけ)のついでの金毘羅詣」だったのです。
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 大坂から丸亀の航路図 下が山陽道で左下が大坂 上が四国で右上が丸亀

 金比羅船の運行はいつ頃から始まるの?
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
       参詣船渡海入割願書人
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相腹之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申 候将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷井代 参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
    金光院様御役人衆中様
延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請です。申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ参拝船の運航許可を求めています。ここでは、金毘羅船は「参詣船」と書かれています。
 内容は、金毘羅詣の人々は、海上通路が不便で困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるようにしたと目的が述べられます。加えて荷物だけでなく、大小の封状も届けるといいます。そして万一難船、破船があっても「御山(金毘羅)」には迷惑をかけないとします。
  こうして、18世紀半ばに金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」といわれます。以後、金毘羅参詣渡海船は年を追う毎に繁昌します。
135721十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』
運行開始の3年後に金毘羅門前の旅籠「虎屋」は新築します。
その造作が「分限不相応」とされ当局から一時閉門になる事件が起きます。これも大坂の船問屋多田屋と虎屋が結んで、多田屋の客を虎屋へ送り込むようになって急増した宿泊客への対応をめぐる結果ではなかったのかと言われます。
 享和二年(一八〇二)若狭の船問屋古河泰教が参詣した時の紀行文にも「多田屋の相宿が虎屋」と記されています。後に多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納しり。絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っており、金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。こんな関係から金比羅舟の舵取りや水夫には、讃岐出身者が多かったようです。
 しかし、多田屋は幕末には衰退し、それに代わって台頭してきたのが平野屋です。
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これは「平野屋グループ」の引札(広告ちらし)です。
大坂で平野屋の船に乗った客は、丸亀では備前屋藤蔵が出迎え、金毘羅・内町の虎屋惣右衛門方へ送り届けていたことが分かります。参拝客は大坂の船宿まで行けば、後は自動的に金毘羅まで行けるシステムが出来上がっていたようです。
 そして平野屋の店や船だけでなく、丸亀の備前崖、金毘羅の虎屋も山に平の字印の看板を出しておりひとつの「観光グループ」を形成していたようです。
さて弥次喜多コンビの船宿大黒屋の主人との船賃交渉です
船宿の亭主が「お一人前、船賃雑用ともで18匁(もんめ)」というと
「ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
と値切り交渉が始まるのかと思ったら船宿の亭主は
「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
と軽くいなします。
 ここには、値下げによる価格競争を防ぐ智慧があります。同時に、運行開始から70年余りで運営が運行ルールが定められシステム化していることがうかがえます。

こうして弥次喜多は「丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋」と行灯を掲げた船宿に行き、船賃・雑用込み一八匁の約束で、讃州船の人となります。
当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
下の絵は「続膝栗毛」に載せられた挿絵です。川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。
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 彼らが乗り込んだ金毘羅船は、苫(とま)屋根をふく程度の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
「金毘羅膝栗毛」の四年前になる文化三年(1806)に刊行された『筑紫紀行』にも、大坂での乗船風景が載せられています。やはり船上は、まだ屋形ではありません。弥次喜多が載った船と同じくように「苫掛け」だったことがわかります。
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 上の絵は、それから50年近く後の幕末に出版された『金毘羅参詣名所図会』に出てくる金毘羅船です。船には垣立が装備され、本格的な渡海船に成長しています。ここからは文化から弘化までの四〇年の間に、苫掛けから総屋形に発展していったことがうかがえます。この時期は、江戸の金毘羅信仰が最も高揚した時期とも重なります。東国からの乗船者の急増への対応がこのような形になったのではないでしょうか。ちなみに広重の「日本湊尽」の丸亀の船も、総屋形の金毘羅船として描かれています。
金毘羅船の航路を追ってみましょう。道頓堀から夜に出航します 
  船は暗くなった戌の刻(午後八時前後)に道頓堀を出船して淀川を下ります。
夜中の暗いときに出て行きますが、淀川を下っている間は、揺れもなく貸し布団で快適に眠れたのかも知れません。
寅の刻(午前四時前後)に河口から沖に乗り出します。順風を受けて日の出のころには兵庫沖を通過します。
はや木津川口に至れば、夜も子(ね)の刻ばかりになりぬ。
 ここに風待ちして夜明けなば、乗り出ださんと、船頭・水子もしばらく休息のていに、船中もひそまり、おのが様々、もたれ合うて居眠るもあり。あるいは肘枕あるは荷物包ようのものに、頭をもたせて打ち伏しけるが、
 やがて、寅の刻(午前4時)にもやあらんと思う頃、船頭・水子どもにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱引き上げなどして、今や沖に乗り出でんとする様子に、船中皆々目を覚まし、船端に顔差し出し、手水使いて象頭山の方を伏し拝む。
弥次郎・北八もともに遙拝して、
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 かく興じつつ船出を寿(ことぶき)、彼これうち語るうち、早くも沖に走り出し、船頭がヨウソロ、ヨウソロの声勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るごとく、はや日の出でたる頃は、兵庫の沖にぞ到りける。(大坂よりこの所まで十里)
 ここにて四方を見渡せば、東の方に続き、甲山(かぶとやま)、摩耶山(まやさん)、丹生のやま、鉄塊(てっかい)が峯なんど目前に鮮やかなり。
    仙人の住むかは知らず霞より 吐き出したる鉄塊が峯
 また、陸地(くがじ)には西の宮、御影(みかげ)、神戸、須磨なんどいう、浦々里々見渡されて、眺望の景色はいうばかりなし。
和田の岬、烏(からす)岬といえるを廻る頃は、牛の刻ばかりなん。
このとき、にわかに風変わりたりとて、帆綱引き換え、楫(かじ)取り直し、真切走りということをなして走るほどに、船中には野州の人、船に酔いたるにや心もち悪しきとて、色青ざめ、鉢巻きして、・・・・・
113574淡路・舞子浜
淡路島と舞子浜の間を明石海峡に向けて進む金比羅舟
神戸・須磨と船中からの眺めを楽しみながら正午ころに和田岬にさしかかります。
ところが急に逆風・大風に変わり、水子たちは、帆に斜めに風を受けながらジグザグに前進する「真切り走り」の航法を取ります。その間の船酔いから、同行の五太平が死んでしまうというハプニングが起こります。ようやく波も静まり、夜になって室津に上陸します。
 室津は
「西国諸侯方の船出し給う所にて、播州一箇の繁昌の地なれば、商家みな土蔵づくりの軒を並べて建ち続けり」
という賑わう港町で、ここでも女郎達の誘いを受けます。
13576室津の女郎
室津の色町の女
しかし、船中で急死した五太平の弔いが先です。お寺を探すのですが死人が「往来手形」を持っていないためにひと苦労します。ようやく死者を無事にともらい船に還った二人は
酒肴をとりよせ、船頭・水子ども相手にして、その夜は寝もやらず飲み明かしける。
    死ぬものは貧乏なれやこれからは 船に追風の富貴自在なれ
 かく祝い直して、既に夜明けなれば、船頭・水子ども船中を洗い清め、修験者を呼び来たりて不浄除けの祈祷をなし・・・
   室津から丸亀までの船中は順風満帆の瀬戸内クルージング
 翌日、修験者によって清められた船で室津を出航します。
135725 ■金毘羅参詣 続膝栗毛. 室津jpg
室津港
朝の追風(おいて)に帆かけて、この湊口を乗り出し、早くも備前の大多婦(おおたぶ)の沖に至りける。(播州室よりこの所まで五里)
 海中には小豆島の見えたるに、
景色の実入りもよしや小豆島 
       たはらころびに寝ながらぞ見る

 それより牛窓前という辺りを行くほどに、八島(屋島)の矢くり(八栗)が獄、南の方に鋭く聳(そび)え、讃岐の小冨士手にとるごとく、下津井の浦見えわたり、海中には飯山石島など、すべてこの辺り小島多く、景色佳麗(かれい)、いわんかたなし。その日申(さる)の刻過ぎたると思う頃、讃岐の国丸亀の川口にぞ着きたりける。(室よりこの所まで二十三里に近し)
 龍宮へ行く浦島にあらねども 
           乗り合うせたる丸亀の舟
 
折節、汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り、弥次郎兵衛・北八は、大物屋(だいもつや)といえる旅籠屋に宿る。これは船頭の宅のよし、案内に任せてここに入り、始めて安堵の思いをなしたりける。
 室津からは順風満帆の瀬戸内海クルージングです。幕末から明治に船で日本にやって来た西洋人達が楽しんだ「船から移りゆく景観(シークエンス)」を楽しみます。備前大多婦沖に入ってくると南に小豆島、北に牛窓が見えてきます。そして、讃岐方面には八島(屋島)・八粟獄を望み、甘南備山の讃岐の小富士が少しずつ近づいてきます。まさに島々の景色佳麗を賞でながらの船旅です。
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備前から見た青野山・飯野山と備讃瀬戸
金比羅詣での人気のひとつに、「船旅の魅力」があったようです。
日頃乗ったことのない船に乗って瀬戸内海を渡って行くという経験は得がたい経験でした。しかも、自分の足で歩かなくても船に乗っていれば丸亀に運んでくれるのです。これは、東海道や中山道を旅するのとは違いました。この辺りの魅力を挿絵入りで書き込んでいます。旅行記としても及第点が与えられます。



丸亀港は遠浅で干潮時は入港出来なかった?
「続膝栗毛」は、丸亀港への入港の模様を次のように述べています。
「その日中の刻過ぎ(午後三時ころ)、丸亀河口(に到着したが干潮で港には入れなかった。満潮を待って、暮れ頃に港に乗り入れて上陸した」

   丸亀河口(土器川河口)の舟入に満潮を待って入港したと記します。弥次北がやって来たときに、丸亀の新港である「福島湛甫」は、出来上がっていなかったのでしょうか?
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福島湛甫 
丸亀市史には、福島湛甫について次のように記されています。
文化三年(一八〇六)、福島町北岸に船舶の停泊所をつくり、福島湛甫と称した。その規模は、東西六一間(約一〇九・八び)、南北五〇間(約九〇び)、東側に一八開(約三二・四び)の入り口を設けた。水深は満潮時に一丈余であった。場所は、現在丸亀港にかかる京極大橋の西橋脚の付近である。
 従来は、福島町の東岸の石垣に船が繋留されていたが福島湛甫へ完成により、丸亀港の航行が容易となったばかりでなく、上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅寵、土産物屋などが急増し福島町は賑わった。
 干潮でも入港できる福島湛甫は1806年に出来上がっています。「続膝栗毛」の刊行は、その4年後です。これをどう考えればいいのでしょうか? 
 十返舎一九は、福島湛甫の完成を知らずに、完成前の自分の経験と情報で丸亀上陸の部分を書いたのでしょうか。
彼は、「続膝栗毛」の巻頭で次のように述べています。
「予、若年の頃、浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したり・・・」
「予、彼の地理行程のあらましは知得した」
と若い頃に一度金毘参りをしたことがあることを述べた上で、けれども全てを知っている訳ではないと断っています。福島湛甫の竣工という「最新情報」を知らずに書いたようです。

弥次喜多が上陸した丸亀の港は、どこにあったのでしょうか?
丸亀城下町比較地図41


丸亀城の外堀は、東は東汐入川で、西は外堀より分かれた堀によって海につながっていました。そして、東西の両汐入川の川口が港となっていたようです。港は河口のために、年とともに浅くなっていきました。江戸時代初期の山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。つまり、近世初期における丸亀港は、東汐入川の河口が港だったようです。

丸亀市東河口 元禄版
 また17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす
  網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」
御供所の川口に上陸した旅客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。ここからもこのころまでは東川口が丸亀の港であったことが分かります。


丸亀城下町 土器川との関係

弥次喜多の乗った金比羅舟は、潮待ちしたことを次のように記します
「汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り

ということは、旧来の東川口の港のことを示しています。
そして、この船の船頭の自宅である大物屋という旅籠屋に入ったところで上巻は終わります。
DSC01089丸亀旧港

「丸亀繁昌記は、東河口の賑わいぶりを次のように記します。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがたい象頭山金毘羅へ向かう海の道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。ここで一泊して、弥次喜多は金毘羅へ向かいます。
その模様は、また次回に・・

10 

  

  前回までに、金毘羅信仰が18世紀末から江戸で高揚したことをお話ししました。今回は、それを背景に、江戸で作られた金比羅講が丸亀に大きな銅灯籠を寄進するまでの経過を見ていくことにしましょう。

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正面が丸亀城 右が福島港 左が新堀港 
五代藩主京極高中の時代の文化三年(1806)に完成した福島湛甫が、金毘羅参詣客の上陸湊として賑わっていました。福島湛甫は、東西六一間、南北五〇間の船泊で規模としては相当大きいものではあったわけなんですが、30年経つと「手狭なという状況」になってきたようです。それだけ、瀬戸内海各地からの金毘羅船が増えたということでしょう。 加えて、新京橋の架橋で通町船泊の繋留が出来なくなるということも重なり、丸亀港は再びオーバーユース状態になりました。
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1806年完成の福島湛甫
 
福島湛甫が手狭化した背景は?
 それは参拝客の急増にあります。参拝客増加の理由は、18世紀後半の「日本一社の綸旨」にひとつのきっかけが求められるようです。文化から文政年間に印刷された讃岐の名所案内図の数の増加ぶりに「綸旨」の効果がうかがえます。また、江戸における金毘羅信仰の高まりといった動きも無視できません。
大名の江戸藩邸では、勧請していた自国の霊験あらたかな神社を庶民に公開していました。丸亀藩邸でも、金毘羅社の開帳日である各月の十日には早朝から夕方まで参詣人が群集したようです。藩邸の金毘羅山御守納所への初穂金が金毘羅に届けられていますが、最初に届けられた宝暦七年(1757)は一両でした。それが20年後の天明元年(1778)には百両、同五年には二百両、が届けられるようになり、これ以後は幕末まで毎年百五十両とどけられています。
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この信仰の高まりを、港築造や灯寵建立の利用して「民間資金での公共工事」を実現させようとする智慧者が現れます。
 天保二年(1831)、丸亀の「通町 柏屋団治」や宿屋業者・土産物業者らの五人が発起引請人として、「西川口波戸東手」へ新堀湛甫の築港を藩へ願い出ます。彼らは町の年寄で、この人たちの願出を受けて、灯寵建立、湊の修築の費用を調達するのに大きな役割を果たしたのが、京極藩江戸留守居役の瀬山登という人です。彼が残した記録は「湛甫新堀漫筆」として、丸亀図書館に残っています。
   町年寄からの築造願いは、次のような内容でした
 金毘羅山への諸国参詣人が日増しに多くなり、浜方も益々繁盛し商売も順調であるのも偏に国恩のお陰と有り難く思っております。この繁盛について、旅舟の入津が多いのですが、湊が手狭で、舟も乗り大老幼も難儀しているようです。
そこで、西川口御番所のあたり波戸束手へ湛甫を造れば湊も広くなり、城下の見渡しもよく、諸国への評判、浜方繁栄の基にもと存じます。それで私どもが発起人として考えたことを申し上げたく存じます。
 
ということで、彼らの工事に向けたプランを示します。
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     左が新堀港 江戸からの大きな青銅製灯籠が3つ並ぶ

そこには、具体的な資金集めの方法も記されています。
灯明料は舟持共からの寄付でまかなう。こうすれば闇夜でもまして不案内の旅舟などの出入りに大いに役立つ。そして、舟持からの寄付の取り方は、舟の大小を千石船に換算して船数五万艘と見積もって一石一銭ずつ一度限りの寄付を募る。もっともも対象は廻船だけのつもりである。
 寄付の取立方法は、江戸では金毘羅への信仰の厚い本所ニッ目塩原太助に頼み、銀子は江戸屋敷にて預かっていただく。大坂・兵庫は講元世話人共から頼んだ問屋で取り立ててもらい銀子は大坂屋敷にて預かっていただく。当地では役所にて預かっていただくようにお願いしたい。
という内容のものであります。
 外様で弱小藩の丸亀藩は、財政危機状態で資金はありません。それを知った上で発起人の「町年寄」たちは、藩の財政に頼らない資金集めの方法まで提案しています。それは今風に言うと「民間資金の導入による公共土木工事の推進」の手法と言えるのかも知れません。
 まずは、廻船業者からの寄附を募ります。     
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 大まかなプランとして、当時の全国の大小の船を千石船に換算するとおよそ五万艘になると計算します。そして、船一石につき一銭を一度限り寄附してもらう。千石船一艘について十匁になります。全国の廻船業者にこの趣旨を説明し寄附を依頼するというもので「海の神様 金毘羅さん」という信仰心を、うまく利用したやり方です。
藩は自分の腹が痛まないプランですから、さっそくこれを取り上げ幕府の勘定奉行村垣淡路守へ伺い出ます。
これに対して幕府は認可の意向を示したので、丸亀藩は藩主名で次のような正式の伺書(計画書)を提出します。
城下の湛甫の儀は、いつ頃出来と申す年暦も相知れ申さず。
前々より領分廻米諸産物廻し方、専ら相弁来侯処、近来金毘羅参詣の旅船多く入り込み、別て三月十日会式の節は、繋船充満仕り用弁差し支え、諸国廻船一同混雑仕り、風波の節は凌方難渋仕り候二付き、城下町人共湛甫新たに箇所増願出申候 右の通り領分廻米等差支候儀は、湛甫全場狭故の儀に御座侯間、有来侯振り合ヲ以て、一ケ所取建侯、用弁差し支えもこれ無く、諸廻米風波凌二も罷り成り都合宜く御座侯間、相成るべく儀二御座侯バ、別紙絵図面の通り申し付け度く存じ奉り侯、尤も城下の儀二付き差し障りは勿論、他領迄も差し支え相成り侯筋、御座無く侯、此の段御内慮伺い奉り侯、以上
 十月廿六日             京極長門守高朗
この結果、翌11月に幕府の承諾が得られます。記録には、お世話になった
「老中勝手かかり水野出羽守・勘定奉行村垣淡路守ら一六人に贈り物を携えお礼のあいさつをした」
と記されています。
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 丸亀藩は、翌年(1832)三月から築造工事に取りかかる準備を進めます。
工事の具体的計画を立て、大庄屋・庄屋を呼び寄せ意見等を聞き、各郡に下記の通り人足を割り当てます。
那珂組  7486人  善通寺組 9480人 
上高瀬組16659人  比地組  7802人 
中洲組  9633人  和田組 10129人 
大野原組 1427人  福田原組 116人
 庄内組  1015人  人足計 63743人
 人足扶持については、初め福島湛甫の時と同額で予算を組んでいました。が、交渉の結果、物価上昇なども加味して人足賃金が引き上げられ、一人一日米一升、別に菜代一匁となります。また、新港の石垣普請を請け負った城下の平野屋利助からの次のような願出が出ています。
「新堀普請用の石は塩飽島から取り寄せ、一〇〇石積み一般分五、六匁で予算は組まれているが、、このころは塩飽産の石は値上がりしている。安く手に入る丸亀領分の石を買い取るようにしてほしい」
 着工した天保4年(1833)には、天保の大飢饉が起こり、翌年には各地で米騒動が発生しています。また、翌年には多度津藩の新湛甫も起工します。不況時の公共事業で、雇用チャンスや景気の刺激にもなったようです。港建設費用は2000両で済みました。当時、建立されていた金毘羅大権現の金堂3万両に比べれば、小規模な「公共事業」のように思えます。
 こうして新堀港の工事本体は、スムーズに行われ翌年の天保四年には完成します。
湛甫は東西八〇間、南北四〇間、西側に一五間の出入口、満潮時の水深一丈六尺でした。周囲には埋め立て地をつくり、その外法は東西一町五三間、南北一町三五間で、これを新堀湛甫と呼んだと「旧丸亀藩事蹟」に記されています。

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 太助灯籠

ところが苦労したのは銅灯寵でした。 
 天保3年三月、丸亀の町年寄の発起人らは江戸に行きます。
 話は前後しますがこれより数年前、江戸本所相生町(墨田区両国二丁目)の塩原太助が金比羅参詣に来て通町の柏屋団治方(四国銀行の所)で泊まった時のことです。団治がこの話を太助に持ち出したところ大いに賛成してくれてました。そこで、柏屋団治たちは早速に塩原太助を尋ねます。ところが丸亀で灯籠寄進の話をした二代目塩原太助は既に亡く、三代目太助の世となっていたのです。三代目太助は
「講の世話はできないが八十両を五ヵ年間に出そう
と約束してくれました。
灯籠寄進の話を太助の知人などを頼って話したところ、拒む者、意外にも賛成してくれる人などさまざまだったようです。藩の江戸屋敷でも力を入れ、瀬山登らが中心となり、丸亀藩に出入りする江戸の町人、伊勢屋兵衛、河内屋伝兵衛、三島屋半七、林屋半六、三河屋善助の五人を世話役として協議します。
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そして、銅灯籠寄進のために千人講の設立案を作ります。
①一人一ヵ月百文ずつ五ヵ年掛ける。(米の値段からみて、当時の一両は約六千六百文に当たるので五ヵ年では〇・九両になる)  
②一人で何口加入してもよい。
③三十人以上世話してくれた人には、五ヵ年のうちに1回金比羅参詣をしてもらう。その費用として三両差し上げる。
このの規約を世話人を定め「讃州丸亀平山海上永代常夜燈講」として加入者を募ります。ちょうどこの頃に、大久保今助という男が浅草観音へ献納する金灯龍一基をあつらえ大門通り伊勢屋万之助方で完成させていました。ところが、あまりに大きすぎるために寄進先から差し留めらされ困っていることが伝わります。これを交渉によって二四〇両で購入することにしたのです。これが現在の「太助灯籠」になります。
千人講の募金集めはどうだったのでしょうか
 講開きから一か月後の五月十日までの集金高は、三〇両三朱と一八九文でした。その後は、毎月四〇両前後で、年末までの合計319両です。翌年の天保四年には、加入者も増え、毎月五〇両前後で推移します。

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 講主の伊勢屋喜兵衛の見積もりは次のとおりでした。
講加入者数 2400人 五か年の講金2150両 
必要経費 灯寵      1135両 
     新堀湛甫ヘ   1015両 
ほかに御供え初穂料など    50両
 新堀湛甫の工事経費は2000両とされていましたので、これでは約900両余の不足となります。そこで講の勧誘に、力を入れることにします。
 天保五年には、金毘羅参詣の廻船の便を利用して、240両で購入した灯籠を積込み、金毘羅へ送り出します。収入伝票には「船頭らに祝儀五両」の記録があります。そして、盆前には伊勢屋喜兵衛ら三人が丸亀へ赴き、実地見聞を行い、十月朔日棟上、会式(金毘羅大祭)を見学後に十二月帰府しています。
 青銅の台座に1400人に近い人名が刻まれ、鎖のある竿の部分に「天保九年十月吉日江戸講中」とあります。台石に二ヵ所と燈龍の竿の所に江戸講中とあるので、「江戸講中燈龍」あるいは「金毘羅青銅燈寵」と名付けられました。そして、近年は最高八十両を寄進した塩原太助の名をとり「太助燈寵」とも呼ばれようになっています。
しかし、気になるのは竿の部分の年号が「天保九年十月吉日江戸講中」とあることです。天保五年に建立したのち、講中の人名その他を補足し同九年に再建したのでしょうか?

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 天保四年八月に新堀湛甫は完成し、翌年には1基だけですが巨大な銅灯籠が建ちました。
計画当初は「灯龍12基建立」を予定していましたが、千人講の募金活動で集められる資金では、無理なことがわかります。そこで、天保七年に家老本庄七郎右衛門らの意見を受けて、三基建立に大幅に減らすことになります。残り二基の建立については、人名の刻み、建立などにさらに年月を要するとして、天保八年から同十三年までの五か年間の延長願と収支見積調書を藩役人へ提出しています。
天保八年には五年間の講の期限が来ます。
そこで集まった金額で、燈寵を2基を注文します。
燈寵は丸亀藩江戸屋敷出入りの大工大和屋和助を棟梁とし、鋳工は江戸の森田屋仁右衛門と鋳鉄の盛んな武州川口(埼玉県川口市)の名門永瀬文右衛門藤原富次、その子喜一郎に発注します。
嘉永三年(一八五〇)末に三基目の灯寵ができあがります。
しかし、不足品が多く、延包一三個に分け丸亀へ積み出したのは嘉永六年五月になります。さらに、残務整理や関係者への慰労などがが終わるのは文久二年(1862)になりました。天保3年から始まったこの大事業は、結局32年の歳月を要したことになります。
これに対して、発注から何年も経つのに残りの灯籠が丸亀に送られてこないことへの不審に思う空気が広がり、江戸表の担当者たちへの不信感となっていったようです。

   江戸詰藩士の瀬山登も建立に尽力します
しかし、なかなか到着しない灯籠について、いろいろな噂が飛び交うようになります。「湛甫新堀漫筆」の最後の部分では、彼は不本意な思いを吐露しつつ事業をふりかえっています。そこには長引く事業に対して地元丸亀では「寄付金を横領したとの悪評」が立っていたことをうかがうことができます。その無念さを慰労するかのように太助灯籠の前には彼の銅像が据えられています。
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 幕末に3基据えられた、灯龍は今では一基が残っているだけです。
あとの2基は、太平洋戦争の時に「戦争遂行のための金属供出」で溶かされたようです。残っている一基には、その中央に最大の金額八〇両を最初に寄付した塩源太助の名前が大きく鋳込まれており「太助灯龍」と呼ばれるにふさわしい体裁を見せています。
   丸亀の新堀港や太助灯龍は「江戸千人講」の江戸町人の資力を中心として、丸亀まち年寄柏屋団治ら五人を発起人として、丸亀藩の事業として建立されたということになるようです。
 どちらにせよ丸亀湊は、この新港の完成によって、岡山から上方さらにそれ以東の金毘羅参詣客や北前船などが一層利用することとなり、これまで以上の繁栄を見せるようになります。また、同時期に、完成した多度津湊は、瀬戸内海の備後以西の国々からの金毘羅参詣客を集めるようになり、多度津街道は急速に整備されていくことになります。

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  ◇ 最後に太助灯籠をじっくりと眺めてみましょう
 この灯籠は青銅製です。三段の台座の上に基盤・竿・中台・火袋・笠・宝珠からなり、全長五・二八㍍台石を合わせると地上約六・六㍍にもなる大型の灯籠です。港に出入りする船の目じるしとして、燈台の役割も果たしたことでしょう。
 仰ぎ見ると、五葉の請花に支えられて伏鉢に空高く大きな火焔を三方に宝珠は載っています。笠は円くふくらみをもつ八面で、末端の龍首は海上をにらみ、二本の牙が大きくそり反りっています。下には風鐸が風に揺れます。
 火袋は八面格子で、内部がよく見えます。戦後直後までは、電球が収められ、近所の人が暗くなると点灯していたようです。火袋を受ける中台は八角形で、丸亀らしく各側面に天狗の団扇を浮き出させています。
竿の北面には「天保九年戊戌十月吉日」、下に「江戸講中」とあります。しかし、括れているためか下からは見えにくいのです。
基盤の下には青銅製の三段の台座が、花圈岩の三段の台石の上に載っています。この台座には1380人の寄附者・世話人らの名と住所などが刻まれています。今は姿を消した他の二基は一1444人と約1000人であったそうです。まさに千人講により寄進された銅灯籠と呼ばれる所以です。
参考文献 新堀と銅灯籠 丸亀市史276P
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              丸亀新堀湛甫と太助銅灯寵の年表 
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
寛政元年 1789 絵馬堂上棟。 寛政の改革~4年間。
寛政3年 1791 高松の御用達中より真鍮の釣燈籠奉納。
寛政5年 1793 江戸高松上屋敷に金毘羅大権現を勧請。
寛政6年 1794 円山応挙、壁画を画く。小林一茶参詣。
         多度津鶴橋に鳥居建立。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 金堂建築の計画。丸亀福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化7年 1810 宝塔下の坂道普請。太鼓堂修繕普請。
文化10年1813 金堂起工式。
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
文政7年 1824 茶屋、旅籠の区分決定。
文政11年1828 琉球人、生野村に石燈籠寄進献立。
文政12年1829 摂津芥川に燈籠建立。鞘橋普請。
天保2年 1831 丸亀の年寄が湛甫構築と灯寵建立を藩へ願出た。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保5年 1834 米騒動、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 箸蔵寺で贋開帳。芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠完成。多度津新湛甫完成
  多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。

10 

 前回は金毘羅信仰の高まりが金比羅講の結成につながり、寄進物が増えていく様子を見てみました。その信仰の広がりと高まりの背景に山伏(修験者)達の布教活動があったのではないかということを指摘しました。
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 大坂湊のスタート 天保山
今回は熱烈な金毘羅信仰「ファン」を見てみましょう。
江戸の人山田桂翁が、天保二年(1831)71歳の時に書き上げた「宝暦現来集」には、天明のころ両国薬研堀に初めて金毘羅社を祀った元船頭の金毘羅金兵衛という男のことが載っています。その金毘羅金兵衛という名前からも熱烈な金毘羅信者であったことが想像できます。こう言う人物が何人も現れてきたようです。
 金毘羅山の境内には、金毘羅参拝を何度も行った人の記念碑が建てられています。まず、それを見ていきましょう。
寛政五年(1793)伊予国松山の吉岡屋伝左衛門が100回参詣
天保十三年(1843)作州津山船頭町の高松屋虎蔵(川船の船頭?)が61度の参詣
安政元年(1854)信州安曇郡柏原村から33度の参詣を果たした中島平兵、
万延元年(1860)松山の亀吉は人に頼まれて千度の代参
万延元年 参州吉田宿から30度目の参詣したかつらぎ源治、
文久四年(1864)松山から火物断ちして15度の参詣を遂げた岩井屋亀吉。
金毘羅山に回数を重ねて何度も参拝する「金毘羅山の熱狂的ファン」が出現しています。今でも似たような碑文を、四国霊場のお寺の境内で見ることがあります。一般の参拝客が増える中で、強い信仰心を持ち参拝回数を競うように増やし、それを誇りとして碑文に残しているようです。現在の「ギネス記録に挑戦!」といったノリでしょうか。

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難波湊を出航して
大坂の高額寄進者、廻船問屋西村屋愛助の場合は?
 当時の金毘羅大権現は、薬師堂を金堂に立て替える大規模工事が文化10年(1813)から始まっていました。それに伴い寄進を求める動きが活発化していた時期でもあります。それに応えていく信者の代表が大坂の廻船問屋の西村屋愛助です。
彼の名が最初に見えるのは、江戸と大坂で同志を募って天保十二年春に奉納した銑鉄水溜の銘文の中に刻まれています。しかし、この水溜は、戦時中の戦争遂行のための金属供出で溶かされ、弾薬に姿を変えてしまいました。それ以外で、彼の名前の残るものを挙げてみると
天保13年月 金堂の用材橡105本を奥州秋田から丸亀へ廻送。
天保14年 「潮川神事場碑」の裏に讃岐の大庄屋クラスの人々と名前あり。弘化4年(1847) 五月に100両を、続いて11月に150両を献納
金堂が完成するのは、着工から30年以上経った1845年のことでした。愛助のような熱烈な信者がいたからこそ総工費三万両という大事業であった金堂が完成にこぎ着けることができたのでしょう。全国の金比羅講と共に、裕福で熱心な信者の人々によっても金毘羅信仰は支えられていたことが分かります。
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文人旅行客が残した参拝日記(道中記)から分かることは?
各地での金比羅講の成立と共に、講から送り込まれる金比羅詣での人たちが増えていきます。そして、参拝よりも「旅」に重きをおく「旅行者」も増えます。例えば「弥次さん・喜多さん」のような個人客も混ざってきます。彼らは信仰としての参拝というよりも、物見遊山・レジャーとしての参拝の色彩が強いようです。そして、裕福でゆとりをもった目、何でも見てやろうという好奇心の目で周囲を眺めながら、その様子を日記(旅行記)に記す人が現れます。
 承応二年(1653)の澄禅の「四国遍路日記」や元禄二年(1689)刊の「四国徊礼霊場記」にも
「……金毘羅は、順礼の数にあらすといえとも、当州の壮観、名望の霊区なれは、遍礼の人、当山には詣せすという事なし……」
と記されているように、四国巡礼の人々も善通寺参拝のついでに金毘羅まで足を伸ばすことが多かったようです。当時の人たちにとっては神も仏も関係なかったのです。さて、参詣者の数が増え始めるのは享保年間(1716~)のあたりからです。年表を見ると、この時期に急速に諸堂が整備されていったことが分かります。
享保7年 1722 文殊・普賢像、釈迦堂へ安置。
享保8年 1723 神前不動像、愛染不動像出来る。新町鳥居普請。
享保15年1730 観音堂開帳
享保17年1732 広谷墓地に閻魔堂建立。享保の大飢饉。
享保18年1733 龍王社造立
1730年の33年ぶりの観音堂の開帳に向けての整備計画が行われことが分かります。それが、また人々を惹きつける要因になります。
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東国からの金毘羅参拝者が増えるのはいつから?
文政11年(1828)鹿児島の郷士右田此右衛門一行は、伊勢参宮の途上に金毘羅に参詣し「……参銭の音絶ゆるひまなく・…」と記しています。参拝客の落とす賽銭も増えます。
また、九州の豊前中津藩や肥後熊本藩、筑後柳川藩などの藩士らの出張願いなどには、神社、特に金毘羅への参詣を希望する者が多かったことが史料に残っています。
安政二(1855)出羽の清河八郎は、旅行記『西遊草』に次のように記します。
「……金毘羅は、数年この方、天下に信仰しない者はなく、伊勢の大神宮同様に、人々が遠国から参拝に集まり、その上船頭たちが、大そう尊崇する
……数十年前までは、これほど盛んなこともなかったのであるが、近頃おいおい繁昌するようになった。…金毘羅と肩を並べている神仏は、伊勢を除いては、浅草と善光寺であろう……」と。
  ここには、金毘羅信仰が「数十年前までは、これほど盛んなこともなかった」と述べられています。つまり、18世紀の末頃までは金比羅詣で客は、伊勢神宮などに比べるとはるかに少なかったというのです。
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それでは、いつ頃から伊勢と肩を並べるほどに参拝者が増えたのでしょうか?
 18世紀に書かれた東国発の伊勢神宮への参拝道中記である宝永三年(1706)の「西国道中記」、宝暦十三年(1763)の「西国巡礼道中細記」と享和三年(1803)のを見てみましょう。すると一番最後の19世紀なって書かれた「西国巡礼道中細記」だけが、伊勢参拝後に金毘羅にも参詣しているのが分かります。関東地方からの参詣者が増加するのは、私が思っていた時期よりも遅く文政期以後(1818~)のようです。参拝者の急増を追い風に、金毘羅山の金堂は着工したのかもしれません。
 もうひとつ注目しておきたいのは、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったことです。残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。
  ここから、「東日本から金毘羅宮へ参詣するようになるのは、19世紀初頭年前後からという結論が出される」と研究者は言います。

113574淡路・舞子浜

 讃岐は巡礼スタンプラリーのメッカ? 
東国の人々が、金毘羅参詣を行うようになってくるのは、19世紀の文化・文政期になってからといいました。それは東国に限らず、全国的に「旅行する」ということが盛んになってくるのが、宝暦から天明ごろだったことも合致します。このころから、「四国八十八ヶ所巡礼」「西国三十三ヶ所巡拝」「伊勢参宮」などの聖域・聖地を巡る人々が増えているのです。讃岐においても巡礼に関する記事が庄屋に残史料の中に見られるようになります
       願上げ奉る口上
 一私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、これに依り二・三ヶ年以来申し合わせ少々の講結び御座候 而何卒道印石灯寵建立仕り度存じ奉り候、則場所・絵図相添え指し出し候間、
願の通り相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、
願上げ奉り候、以上
 文化七午年   香川郡東大野村百姓     半五郎 金七
    政所交左衛門殿
これは、高松の大野村百姓の半五郎と金七が政所(大庄屋)の文左衛門にあてて願い出た文書です。そこには半五郎らの家の近くで、仏生山へ参詣した後に金毘羅へ向かっている遠方からの旅人が、道に迷って困っている事例が多く出てきている。そこで道標・石灯籠を建立したいと庄屋に願い出ています。
 庄屋・藩の許可がないと灯籠も建てられないという江戸時代の一面を映し出していますが、ここで注目したいのは仏生山に参拝した後、金毘羅へ向かう遠方からの旅人が多数いるという内容です。
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四国霊場でもない仏生山に遠方からの旅人が参拝するのはなぜ?
 法然寺へ参詣するという動きは、法然上人の五百五十回忌の宝暦十一年に、法然上人の遺跡として、二十五霊場が指定されます。これ以後、法然信者による聖地巡礼が始まります。高松藩主松平頼重により菩提樹として整備された仏生山法然寺は、その札所の二番目に指定されます。ちなみに最後の二十五番目は京都の大谷知恩院のようです。この時期は、その二十五番霊場巡りが知られるようになり巡礼者も増えていたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1

 こんなことを知った上で、当時の瀬戸内海をはさんだ讃岐と山陽道を描いた絵図を見てみると別の見方が浮かんで来ます。讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、金毘羅あり、そして法然上人ゆかりの遺跡があり「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族になっていったのかもしれません。
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参考文献 旅行者から見る金毘羅信仰 町史ことひら97P

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ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ

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 ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。

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 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された仏教寺院の金堂として、建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
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清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
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 金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
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   高灯寵の建造  

 このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。 
高灯籠の事
 右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
   年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」

ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」
で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
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 この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。
これだけの募金が集められた経済力の源は何だったのでしょうか?
 東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが
弘化元年(一八四四) 一七五〇町、
嘉永元年(一八四八)二〇四二町、
安政三年(一八五六)三二二〇町、
安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
 
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総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。

工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。
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 上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。
 この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。
もう少しワイドに見てみましょう。

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日清戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう 
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右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保諶之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
 鳥居と大きな木に注目して下さい。

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丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。

丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。
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1900年前後の高灯籠周辺は空き地

土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。
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大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
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その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
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参考文献 町史 ことひら 

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金比羅芝居小屋の建設と運営に、遊女達の果たした役割は? 

金比羅門前町 金山寺町周辺
天保九年(1838)に、茶町が密集していた金山寺町は大きな火災にみまわれます。残された被害記録から当時の町屋の様子が分かります。
それによると、この町筋の総家数は八四軒で、その内茶屋・酌取女旦雇宿は二十三軒です。他の記録では三十二軒ともあります。他に金光院家中四軒、大工四軒、明家(明屋)六軒、茶屋用の座敷三つ、油場一つ、酒蔵一軒、その他四二軒です。
この町筋の1/3が茶屋・酌取女旦雇宿(=遊女をおく茶屋)だったことが分かります。
      掛け小屋時代の仮設の金比羅金山寺町の芝居小屋

金比羅では表向きは「遊女」は存在せず「酌取女」と書かれました。
酌取女をおく宿が茶屋で、置かない宿は旅籠と区別されます。表通りに面して茶屋・酌取女日雇宿が多く、それは間口が狭く、奥行の深い「うなぎ床」の建物でした。そして仮設の芝居小屋は、茶の並ぶ金山寺の裏通りにありました。金山山町の茶屋と芝居小屋は、背中合わせの位置関係だったのです。

 また表通りの茶屋・酌取女日雇宿は「水帳付」とされている者が多く、賃貸ではなく屋敷自体の所有者でした。茶屋の主人は、建物も自前の檀那が多かったのです。ここからも茶屋・酌取女日雇宿の繁盛ぶりがうかがえます。 
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2、芝居小屋建設に茶屋は、どのように関わっていったか

 かつては、役人や一部の商人のみの町であった金山寺町は、天保期を境に芝居小屋・富くじ小屋といった「悪所」が立ち現れ大変貌を遂げ、茶屋・酌取女旦雇宿を大きく成長させます。むしろ茶屋が町と芝居小屋をもりたてていく存在になったともいえます。
そして芝居小屋 + 富くじ + 遊女 の相乗効果で繁栄のピークを迎えます。
常設の芝居小屋建設の過程で、茶屋と遊女はどのような関わりを持ったのでしょうか?
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芝居小屋建設をリードしたのは、茶屋の主人達でした。 

 それまで、年三回の芝居興行の度に立て替えられていた仮芝居小屋を、瓦葺の定小屋として金山寺町に建てたいという願いを、町方の者が組頭に提出したのは、天保五年(1834)十二月のことです。この願書に対して、翌年二月五日高松藩より金光院へ許可が下ります。
 それを受けて金光院は、芝居小屋建設に伴う「引請人」と「差添大」という役職を町方の者に命じます。
「町方」からは、どんな人たちが選ばれたのでしょうか
まず差添人の「麦屋」は内町の茶屋、そして花屋も茶屋です。つまり、遊女達を置く茶屋の旦那衆が主体となって芝居小屋建設は進めれたことが分かります。

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 九月には小屋の上棟で完成をみ、十月にはこけら落としの興行を行っています。芝居小屋の完成を間近に九月一日には、町中で「砂持」の祝いをしたとあります。
芝居定小屋土地上ヶ申候。付、今明日砂持初り、芸子・おやま・茶や之若者共いろいろ之出立晶、町中賑々敷踊り廻り砂持候斜
と、芸子・おやまが町中を賑やかに踊り祝ったことが記されています。定小屋建設が町の人々、特に茶屋連中にとって大きな期待をもって迎えられた様子がうかがえます。芝居の存在は彼らにとって「渡世一助」のものであり、芝居と門前町の繁栄は両者不可欠なものと当時の彼らは考えていたようです。

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芝居の興業も茶屋・旅寵屋連中が主体となっています。
常設小屋のこけら落としの興業者の最後に名前がある「大和屋久太郎」は、文政七年の「申渡」に「旅人引受人」として任命されている人物ですが、ここでは「芝居興行の勧進元」としての役割も担っています。つまり、今風に言うと旅館組合(=茶屋組合)が芝居小屋の建設、そして興行勧進元としての役割を担っていたのです。

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芝居見学は、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーで

 芝居見物座席の買取予約用に用いたとされる「金毘羅大芝居奥場図噺」によると、平場桝席の上には当時一流の旅寵・茶屋の屋号の書込みがありました。これはあらかじめ茶屋・旅寵屋別に座席の販売が行われていたことを意味します。現代と同様、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーが存在したということです。また芝居興行の際に配るパンフレットにも、「茶屋茂木屋/新町」などと茶屋・旅寵屋の広告などが掲載されています。
 このように茶屋と芝居小屋の関係は非常に密接だったのです。
茶屋は参詣客に宿と食事と遊女を提供する場所であると同時に、芝居小屋を作り、芝居勧進元を務め、見物席を売るプレイガイドとしての役割をも担っていたのです。

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 遊女には、どのような徴収金が課せられていたのでしょうか。
まず、金毘羅の遊女の徴収金は大きくわけて二種類ありました。
一つは 「刎銀」です。これは、遊女たちの稼ぎの一部を天引きしたものです。酌取女・おやまの稼ぎの2%が「刎銀」としてまず宿場方へ、次に年寄、そして多田屋次兵衛へと渡る徴収制度です。宿場方(町方役人)が茶屋を通して遊女の稼ぎの一部を取り立てているのです。これは「宿場積金」として芝居興行だけでなく町の財政全般に組み込まれました。この「宿場積金」については、慶応二年(一八六六)の記録からは内町・金山寺町からの遊女からの天引きが、つまり刎銀が収入部分の大半を占めているのです。イメージ 6
二つめは「雑用銀」で、遊女一人一人に対する「人頭税」です。
「旅人引請人」である大和屋久太郎によって置屋から徴収されています。この支出部をみてみると、支出七〇貫余のうち、芝居関係費用が約三三貫にもなっています。宿場にとって芝居は大きな負担でもあったのです。
 「宿場積金指出牒」に詳細記載のある十四年間のうち黒字利益のあった年は、わずか六年だけでです。後は赤字を出しながら芝居興行を続けているのです。金比羅門前町に参拝客を寄せるためには、赤字続きでも芝居興行をうつほかはなかったのです。その赤字補填は、遊女達への徴収金で支払われていたのです。このあたりの事情は、現在の金比羅大芝居と共通する部分がありそうです。
「街興し」のためのイヴェントが、赤字を重ねて行政が補填する。しかし、利益を得ている人たちもいるので止められない。江戸時代は、遊女から天引きされたお金が補填に使われていたのです。
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遊女たちが影の存在として支えた金比羅大芝居

 茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけでなく、芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席の販売を担うまでのマルチな営業活動を繰り広げています。そこで働く遊女達も、種々の負担金を通して、芝居小屋の経営、ひいては門前町自体の財政をも支えていたわけです。
「こんぴらさん」と親しまれ、讃岐が誇るこの一大観光地も、江戸時代に遡れば、それを大きく支えていたのは茶屋・遊女たちといった陰の存在と言えるのかもしれません。

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 金毘羅の遊女の変遷をたどってみると・・・

①町の一角に参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
以上四つの時期に区切ることができます。前回①~③を見ました
今日は④高級芸者の活躍する弘化~慶応期を見て行きます。
元禄以来、取り締まってきた酌取女に対して緩和策がだされます。慶応四年(明治元、1868)には、町方の茶汲女(酌取女)の徘徊について、
近村の神仏詣や遊楽は日帰り、
船場までの客見送り一夜泊り
大雨のときは一日限りの日延べが許されます。
ここからは遊女が参拝客を多度津や丸亀の港まで見送って、そこで何泊も逗留している実態があったことがうかがえます。その背景には、参詣客からのさまざまな要望や、遊客獲得のためにそうせざるをえなかった事情があったのでしょう。こうして、当局側の妥協策が積み重ねられます。
御開帳に芸子百五十人のパレード
 万延元年(1860)に行われた金毘羅大権現御開帳の「御開帳記録」には、遊女屋花屋房蔵が次のような記録を残しています。 
内町はねりものなく、大キなる鳥居と玉垣を拵へ、山桜の拵ものをそこくへ結付、其内へ町内の芸子舞子不残、三味線飯太飯笛小きうなどを携へ囃子立て、町中を歩行 町内の若い衆は、こんじやう二桜の花盛りの揃え着もの着る、
是もぽっちは札之前二同じ、此時芸子百五十人斗り居候
茶屋の並ぶ内町衆は、町内の芸子が残らず参加し、三味線や太鼓・笛などで囃し立てパレードしたとあります。ここには酌取女・飯盛女ではなく、新しく「芸子」「舞子」の登場がします。その数芸子百五十人という多くの人数が記されているのです。
 「金比羅 名妓」の画像検索結果

この「芸子」を、酌取女とどう区別すれば良いのでしょうか?

「金比羅 遊å\³ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ
「芸者」は、広く酒席や宴席で遊芸を売る女性とされています。事実、幕末江戸には芸で身を立て自分で稼いで生きる自立自存の「町芸者」(芸子)が多くいました。金毘羅の「芸子」の中にも、昨日紹介した廓番付などから、江戸のように高い芸を身につけた女性と酌取女同格の者、両種の「芸子」が共存していたのではないでしょうか。
幕末の金毘羅は名妓が多く、それが文人の手によって描かれています。
 文久二年(1864)、西讃観音寺の入江、上杉、桃の舎ぬしの三人が、金比羅参詣ののち芳橘楼に宿り遊んだ「象の山ふ心」という作品があります。ここには歌舞音曲に秀でた小楽、小さへ、雛松、小かやなどの芸妓が登場します。
 また、榎井村の詩人で勤王の志としても知られる日柳燕石や高杉晋作などと共に酒席に侍り、尊王攘夷に一役かった勤王芸者と呼ばれる女性の存在も確認できます。

 明治二年(一八六九)十一月六日、もと幕府の騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁を歴任し、のち朝野新聞社長となった成島柳北は「航薇日記」の中で、
「此地の女校書は東京の人に多く接したれば衣服も粗ならず。歌もやゝ東京に近き所あり」
と訪問地金毘羅の芸妓の印象を語っています。
 関連画像
 「遊廓」については「悪所」としての文化的な立場から論じる研究が進んできました。この説は「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」としています。
 悪所=遊所を文化創造の発信源説です。

金比羅門前町も、このような芸者が多数いて座敷遊びの土壌があったことが、金比羅舟船などの唄が生み出された背景なのでしょう。
   金比羅舟船は元々は金刀比羅宮の参詣客相手に座敷で歌われた騒ぎ唄の一種でした。 騒ぎ唄とは江戸時代に、遊里で三味線や太鼓ではやしたてて、うたったにぎやかな歌のことです。転じて、広く宴席でうたう歌になります。
琴平のお座敷芸子衆の金毘羅船舟の小気味よいテンポ、情景豊かに詠まれた歌詞、 お座敷遊びとしての面白さが、この唄の魅力です。金比羅参拝を終えて、精進落としで茶屋で芸子と遊んだ富豪達が地元に帰り、大坂や京都のお座敷で演じて見せて、それが全国に繋がったのではないでしょうか?

琴平の稲荷神社 
遊郭といえば、稲荷神社。性病(梅毒)の予防に稲荷が効果があると信じられていました。

参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
       

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金比羅の街に、遊女達が現れたのはいつ頃でしょう?

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近世の金比羅の街は、金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの宗教都市として繁栄するようになります。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、浮き世の憂さを落としたのです。それにつれて遊郭や遊女の記録も現れるようになります。
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金比羅の街にいつ頃、遊女達が現れたのかをまず見てみましょう
 遊女に関する記録が初めて見えるのは元禄年間です。
元禄二年(1689)四月七日の法度請書に
遊女之宿堅停止 若相背かは可為重罪事」
禁止令が出されています。禁止令が出されると言うことは、遊女が存在したと言うことです。元禄期になって、遊女取締りが見えはじめるのは、金毘羅信仰の盛り上がりで門前町が発展してきたことが背景にあります。そして、遊女の存在が門前町を監督する金光院当局の取締対象となり始めたのでしょう。

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金比羅奉納絵馬 大願成就

  享保期、多聞院日記の書写者であった山下盛好は、覚書に
「三月・六月・十月の会式には参詣客殊に多く、市中賑わいとして遊女が入込み、それが済むと追払ったが、丸亀街道に当たる苗田村には風呂屋といって置屋もあり、遊女は忍び忍び横町を駕でやって来た
というような記録を残しています。町方に出没する遊女に当局側も手を焼いていたようです。
 享保13年(1728)6月6日、金光院当局は町年寄を呼び上げ、再度遊女取締強化を命じています。しかし、同15年3月6日の条には
「御当地近在遊女 野郎常に徘徊仕り」
「其外町方茶屋共留女これ有り、参詣者を引留め候」
とありあす。遊女を追放することはできなかったようです。
 
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寛政元年10月9日の「日記」には
「町方遊女杯厳申付、折々町廻り相廻候」
とあるように、役人を巡視させ監視させますが、同年11月25日の条には
中村屋宇七、岡野屋新吉、幟屋たく、右三人之内江 遊女隠置相知レ戸申付候
と、宿屋の中に遊女を隠し置くところがでてきます。
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享和2年(1802)春、金毘羅参詣を記した旅日記『筑紫紀行』の中で、旅人菱谷平七が金毘羅の町の様子について
「此所には遊女、芸子なんと大坂より来りゐるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものもあそぶなり」
と記しているように、金毘羅はこの頃から、金毘羅信仰の高まりとともに一大遊興地の側面を見せはじめています。以上から、金光院当局は、何度も禁止令を出し遊女取締を打ち出しますが、あまり効果があがらなかったようです。 

  「遊女」から「酌取女」「飯盛女」とへの呼称変更

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こうして文政期になると、遊女を一切認めない方針で治安維持に努めてきた当局側か、もはや「金毘羅には遊女がいます」という黙認の形をとらざるをえない状況になってきます。
 まず、呼称の変更です。それまでの「遊女」という表現から、「酌取女」「飯盛女」といった呼称に変えます。「遊女」という露骨な表現を避け、「酌取女」「飯盛女」といった一見売春とはかけ離れた下働に従事する女性を想像させるこの呼称をあえて使用します。

文政6年(1823)2月2日夜、遊女の殺害事件が起きます。

場所は内町糸屋金蔵方で、同町金屋庄太郎召遣の酌取女ゑんが高松藩の一ノ宮村百姓与四郎弟鉄蔵(当時無宿)に殺されたのです。犯人は六日後に自首。遺体は、ゑんの故郷京都より実父と親類が貰い受け、2月20日には一件落着となりました。
 しかし、このこの事件は大きなスキャンダルとなり、金光院当局側に相当なダメージを与えたようです。というのもこの後、金光院側から町方へ酌取女のことで厳しい達が出されるのです。

それが「文政七申三月酌取女雇人茶屋同宿一同へ申渡 並請書且同年十月追願請書通」として残っています。そこには、今までの触達にないいくつかの条項が盛り込まれています。 
「此度願出之内(中略)酌取女雇入候 茶屋井酌取女差置候宿 此度連印之人名。相限り申度段願之通御聞届有之候」「酌取女雇入候宿屋。向後茶屋と呼、酌取女不入雇宿屋 旅篭屋と名付候様申渡候」
とあり、酌取女を置く宿を「茶屋」として、当局側か遊女宿の存在を認めたのですこうして酌取女を置く「茶屋」が急速に増えます。

当時、金比羅全町で茶屋は95軒ありました。
①金山寺町には、全体の約三九%の三七軒、
②内町は約三五%の三三軒、
金山寺町と内町両町だけで全体の 約七四%の茶屋がありました。仮に一軒に三人の酌取女がいたとすれば、両町においては二百人を超える酌取女が働いていたということになります。文政年間には、他の職業から遊女宿に転業するものも増え、金山寺町と内町は遊女宿が軒を並べて繁盛するのです。
  文政7年の「申渡」は、それまでの「遊女禁止策」に代わって、制限を加えながらも当局側か遊女宿の存在を認めたもので、金毘羅の遊女史におけるターニングポイントとなりました。
 
天保年間の全国遊郭番付には、金毘羅門前があります。

「諸国遊所見立角力並に直段附」によると讃岐金毘羅では、上妓・下妓の二種類のランク付けがあったようで、上妓は二十五匁、下妓は四匁の値段が記されています。 これを米に換算すると、だいたい上は四斗七合弱、下は六升七合弱に当たるようです。相当なランク差です。
それでは「上妓」とは、どんな存在だったのでしょうか?
 天保3年(1832)9月、当時金毘羅の名奴ともてはやされた小占という遊女がいました。彼女が、高松藩儒久家暢斎の宴席へ招かれるという「事件」が起きます。。これは大きな話題となりました。
 この頃すでに、売春を必ずしも商売とせず、芸でもって身をたてる芸妓がいたようです。先の廓番付にみられる値段の格差など考えれば、遊女の中でも参詣客の層にあわせた細分化されたランク付けがあったのでしょう。

麦湯のå\³ã€‚麦茶を提供する「麦湯店」の看板娘(『十二ケ月の内 六月門涼』渓斎英泉 画)の拡大画像

天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。この定小屋は、当時市立ての際に行われていた富くじの開札場も兼ね備えていたともいわれます。茶屋・富くじ・芝居といった三大遊所の確立は、ますます金毘羅の賑わいに拍車をかけました。
 天保4年(1833)2月、高松藩の取締役人は酌取女に対し、芝居小屋での舞の稽古を許可しています。さらに、
「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」
とあるように、酌取女の服装に対しても寛大な態度を示しています。
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花下遊女図 江戸新吉原講中よりの金比羅さんへの寄進絵馬

遊女をめぐる事件
 いくらかの自由を与えられた酌取女の行動は、前にも増して周囲の若者へ刺激となります。1842年の天領三ヶ所を中心とした騒動は、倉敷代官所まであやうく巻き込みそうになるほどの大きな問題に発展します。事の起こりは、周辺天領から
「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので、倉敷代官所へ訴え出る」
という動きでした。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に行きます。結局、長谷川の機転のよさで、もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得ることになりました。 その時の長谷川の金毘羅町方手代にむかって
「繁栄すると自分たち御料も自然と賑わうのだから、なんとか訴える連中をなだめましょう」
と言っています。当時の近隣村々の上層部の本音がかいまみえます。
 この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換する形で一応騒動は決着をみています。
江戸時代のタバコ

 行動の自由を少しずつ許された金毘羅の遊女が引き起こす問題は、周囲に様々な波紋を広げました。しかし、それに対する当局側の姿勢は、「門前町繁栄のための保護」という形に近っかたようです。上層部の保護のもと、天保期、金毘羅の遊女は門前町とともに繁栄のピークを迎えます。
この続きは次回へ
参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
 
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  金比羅舟々は、いつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?


金毘羅船々(こんぴらふねふね)
 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ♪ 
まわれば 四国は讃州(さんしゅう)
那珂の郡(なかのごおり) 
象頭山(ぞうずさん)
金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん) 
一度まわれば♫ 
小さい頃は「お池に帆掛けて」と信じて唄っていました。
追い風に帆を上げてと言う意味だと知ったのは、ずーっと後のことです。そう言えば「赤とんぼ」も「負われて見たのはいつの日か・・」を「追われて・・」と、故郷を追われる唄と思っていた私です。
 金毘羅船で賑わう多度æ´\湊 
幕末に金比羅船で賑わった多度津港

歌詞を確認しておきましょう。

金毘羅船々
金毘羅(こんぴら)とは四国讃岐(香川県)にある金毘羅大権現のことです。明治以前の神仏混淆時代には金毘羅大権現と称していました。
追風に帆かけて
進む方向に吹く追い風のこと。風を帆に受けて順風満帆のこと。
金比羅船が帆を上げて、大阪湾を出航して、四国讃岐へ向かう様です。
シュラシュシュシュ
船が速く進む様子です。シュラは修羅で、巨石など重い物を載せて引く、そりの形の運搬具かけたという人もいます。
四国は讃州那珂の郡
那珂郡(なかのごおり=なかぐん)は、讃岐の古代郡名で、現在の丸亀市、琴平町一帯です。
象頭山
象頭山(ぞうずさん)は、金比羅神(クンピーラ)を祀る山です。山容が象の頭を思わせることからついたというのは俗説です。どう眺めても像には見えてきません。信仰上の命名なのです。古くは大麻神社の鎮座する大麻山と呼ばれていました。象頭山は、金比羅神が近世に流行神と登場してからの呼び名です。
大坂からの玄関口となっていた丸亀の湊
大坂からの玄関口 丸亀港

さて、この歌はいつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?

この歌の成立年代については、元禄説と幕末説の二説があります。
①元禄説は金毘羅船の起点となった大坂港で歌い出された
②幕末説は、金毘羅信仰の庶民化が進んだ頃に金毘羅参詣客を相手に歌われた宣伝唄や座敷唄から起こった
それでは、この歌の発生地はどこでしょう?
これについても大坂説と金毘羅説の二説があります。
大坂説は、金毘羅船の出発地であること、
金比羅説の論拠としては、金毘羅信仰の大衆化と参詣客増加の時期、金毘羅の町における宿屋や茶屋の発達時期などがあげられます。

2.この唄の性格は?

「金比羅船」の画像検索結果
これも、
①金毘羅船の船中で参詣客相手に歌われた宣伝唄説
②金毘羅の酒席で参詣客相手に歌われた座敷唄説
の二説があります。
宣伝唄説は、夜間航行が多かった当時の金比羅船で舵取は、常に眠気ざましと他の乗組員に絶えず自分の存在を知らせて安心感を与えるために歌を歌い続けることが義務づけられていました。そのため、舵取りは港々の流行唄をできるだけ多く仕入れて櫓漕ぎ唄にしていったと言われます。つまり、瀬戸内海を行く金比羅船の中で唄われたものというのですが・・・。
 
IMG_8072難波天保山
 
しかし、文化七年(1710)刊の十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』にも
「ゆたゆたと船はさはかぬ象頭山云々」

と書かれ、シュラシュシュとは形容されていません。元禄前後から文化・文政期までの流行唄を集めた歌謡集にも、この唄は登場しません。大坂や金毘羅船の寄港地でも、この唄が伝承されていないのです。そして、大阪=宣伝唄説は、史料に乏しいのです。
 ここから、この歌は地元金毘羅を中心とした限られた地域において、最初は歌われたものと考えられます。

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金毘羅門前町に賑わいぶりと遊芸のようすをのぞいてみましょう。
元禄期の「金毘羅祭礼図屏風」には、門前町の賑わいぶりとともに、参詣客相手の諸芸能の催しや店で三味線を弾く女性も描かれています。文政七年(一八二四)の記録には「茶屋酌取日雇宿、九十六軒」と記され、金毘羅門前町における遊芸と茶屋の発達ぶりがを窺い知れます。
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文化三年(1806)刊の菱屋平七の『筑紫紀行』には
「此所には遊女、芸子なお大坂より来りぬるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものも遊ぶなり」
とあります。弘化二年(1845)の二宮如水の金毘羅参詣記録にも
「近き日と間に旅ゐせる人々、浮かれて御阿をよびて三味線の琴ひかせ、歌はせなど、夜もすがらゑらき遊べるは、耳姦しきまでになん」
と書き留められています。
金毘羅芝居定小屋が完成するのもこの時期です。
 金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの形で発展し、金毘羅という門前町が繁栄していたのです。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、この唄を唄い遊び日々の浮き世の憂さを落としたのかもしれません。
「金比羅船」の画像検索結果

4.「金毘羅船々」の発生

 明治元年(1868)6月太政官達によって金毘羅大権現は琴平神社、そして金刀比羅宮に改称されますから歌詞の中に「金毘羅大権現」が出てくるこの唄は、それ以前に出来上がっていたことになります。
 この唄は明治元年までの間に、金毘羅の茶屋などで芸妓たちが参詣客を相手に歌った座敷の騒ぎ唄として生まれたのでしょう。
 歌詞の中の「廻れば四国は」と「一度廻れば」の部分も、芸者や参詣客が、座敷遊びで畳の上を回りながら、この唄を歌っていたことが記録には見えます。

「金比羅船」の画像検索結果

「金毘羅船々」の普及

 明治2年から琴平で四国十三藩による四国会議が開催され、各藩の公議人らか親睦を図るために宴会が盛んに開かれます。また、明治12年3月から6月にかけては琴平山大博覧会が開催されます。このようなイベントを通じて琴平や丸亀・多度津などでは盛んに歌われたと思われます。これが全国に広がるきっかけとなったようです。
 明治25年刊の『西洋楽譜日本俗曲集』には「金毘羅船」が紹介されます。明治27年頃の地方民謡流行期には、香川県の代表的民謡として全国的に紹介されています。これも「金毘羅船々」が全国で唄われるきっかけとなりました。
る。
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 しかし、もともと参詣客相手の御座敷の騒ぎ唄から自然発生的に起こったものです。歌詞もシンプルで、歌謡としては今一つでした。そこで昭和3年頃に新民謡運動が盛んになると、地元の俳人大西一外氏が二番以下の歌詞を追補して新民謡「金毘羅船々」が誕生します。この新民謡「金毘羅船々」は、昭和十年代の広沢虎造の浪曲「森の石松、次郎長代参」の大流行によって、さらに多くの人に唄われるようになります。こうして、この唄は全国区の民謡へと成長していったのです。
 以上のようにこの唄の歴史は、幕末から明治にかけて生まれたもので、案外新しいものなのです。
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参考文献 溝渕 利博 金毘羅庶民歌謡の研究

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