前回は新羅救出戦争に出兵した倭軍が白村江で敗北し、多くの兵士が捕虜となり、唐で奴隷などとして長年の抑留生活を送ったこと、そのなかに伊予軍の越知直氏がいたことを見ました。今回は、捕虜とならずに帰国した「(備後国)三谷郡大領の先祖」を見ていくことにします。テキストは「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。

白村江の戦い 大型の唐軍船に立ち向かう小型の倭軍船
663年8月27・28日 白村江で倭軍水軍は大敗北9月7日 周留城は唐軍に降伏 百済王族・貴族・将軍など多くの百済人は、残存日本軍が集結していた「弖礼城」(所在地未詳)に敗走。9月25日 撤退する倭軍船に便乗し、倭に亡命。
敗軍を救護し、収容する博多湾はパニック状態へ。
中大兄皇子らは敗北の衝撃に動揺するなかで、大本営の長津宮に敗軍の将や亡命百済高官を集め、軍を解散し、飛鳥へと引き上げていきます。多数の亡命百済人が中大兄ら政府首脳に従ったようです。一方、全国各地から動員された評造軍も解散を告げられて、それぞれ国毎に生存者をまとめて帰郷の途につきます。それは傷ついた心と躰と引きずりながら、傷病者を連れての長く辛い旅路だったでしょう。
百済救援派遣軍に動員された人名として史料に残る人達を一覧表にしたのが下表です。
百済救援派遣軍に動員された人名として史料に残る人達を一覧表にしたのが下表です。
この中の⑰には、名前は分かりませんが出身地が備後国三谷郡の評造(後の郡司)が記されています。
三谷郡は現在の広島県三次市の南東部にあたります。ここに登場する「三谷郡の大領(郡司のトップ)の先祖」について、仏教説話集『日本霊異記』上巻7縁には、次のように記します。
三谷郡は現在の広島県三次市の南東部にあたります。ここに登場する「三谷郡の大領(郡司のトップ)の先祖」について、仏教説話集『日本霊異記』上巻7縁には、次のように記します。
亀の命を贖ひ生を放ちて現報を得亀に助らるる縁 第七禅師弘済は,百済国の人なり。百済の乱(百済救出戦争)の時に当りて,備後国三谷郡の大領の先祖,百済を救はむが為に軍旅に遣さるる時に,誓願を発して言(申)さく「もし平に還来らば,諸の神祇の為に伽藍を造立て多諸くの寺を起らむ」とまうす。遂に災難を免れ,すなはち禅師を請へて相共に還来り三谷寺を造る。其の禅師の伽藍と諸の寺とを造立てたる所以なり。道俗観て,共に為に欽敬ふ。
意訳変換しておくと
亀の命を救って、放生の結果、亀に助けられた話 第七①禅師弘済は,百済国の人である。②備後国三谷郡の大領の先祖は,百済救援戦争の派遣軍として動員された際に、「もし無事に帰国することができれば,諸々の神祇のために伽藍を造立て寺院を建立する」と誓願した。 その結果、災難を免れ,③禅師を伴って帰国し、三谷寺を建立した。百済から亡命禅師が伽藍と諸寺を周辺にも造立した。人々は,これを見て崇拝した。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①僧侶弘済は、百済滅亡の際に倭にやってきた亡命百済人(渡来人)であること
②備後国三谷郡の大領の先祖(三谷氏)は,百済救援戦争に動員され白村江で敗残兵となったこと
③三谷氏は帰国中に、ひとりの亡命百済僧に出会い仏教に帰依したこと
④三谷氏は、禅師に、誓願通り氏寺建立を次のように依頼した
「是非、私の故郷『三谷』に来ていただきたい。私は出陣に当たって無事帰還できたら伽藍を立てると産土神に誓願した。産土神のお陰で生還できた。三谷に寺院を建立し、住持になってくれまいか」
⑤「遂に災難を免る。即ち禅師を請うけて、相共に還り来る」とあるので、 百済僧弘済は、見知らぬ三谷を終の棲家にする決意をしたこと。
「(三谷)大領の先祖」が率いた評造軍の軍士の全員が生きて故郷の土を踏めたわけではないでしょう。多くの兵士たちが異国に眠ったままになりました。戦死・行方不明の兵士の家族は泣き崩れ、長く悲嘆に暮れたことでしょう。遺族に僧弘済は、懇ろに仏の功徳を説いて励まします。『日本霊異記』には、「三谷寺は、其の禅師の造立する所の伽藍なり。道俗観て共に欽敬を為す」とあるので、彼らの信仰を得たようです。実は、この話はここまでは「前振り」なのです。本当のテーマは、救った亀に助けられるという浦島太郎のような「放生」にあります。回り道になりますが、後半も見ておくことにします。
禅師尊き像を造らむが為に,京に上り財を売る。既に金と丹との等き物を買得て,難破の津に還到る。時に海の辺の人大なる亀四口を売る。禅師人に勧へて買ひて放たしむ。すなはち人の舟を借り,童子二人を将て共に乗りて海を度る。日晩れ夜深けて舟人欲を起し,備前の骨嶋の辺に行到りて,童子等を取りて海の中に擲入る。然うして後に禅師に告げて云はく「速に海に入るべし」といふ。師教化ふといへども賊なほ許さず。茲に願を発して海の中に入る。水腰に及ぶ時に石を以ちて脚に当つ。其の暁に見れば,亀負へり。其の備中の浦にして,海の辺に其の亀,三頷きて去る。是れ放てる亀の恩を報ゆるかと疑ふ。時に賊等六人,其の寺に金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師憐愍びて刑罰を加へず。仏を造り塔を厳り,供養し巳りぬ。後に海の辺に住みて往き来る人を化ふ。春秋八十有余のとしに卒ぬ。畜生すらなほ恩を忘れず,返りて恩を報ゆ。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。
意訳変換しておくと
そこで禅師は、尊き仏像を本尊として安置するために,④京に上って、材料となる金と丹を買い入れて,難破の津までもどってきた。すると海辺で大きな亀四匹を売っていた。禅師は、これを買って放生した。その後、難波の津から船乗りを雇って、童子二人を連れて瀬戸内海に出港した。日が暮れて、夜深けになり備前の骨嶋(?)の辺に至ったところで、船乗りが悪心を起して,童子等を海の中に放り込んだ。そして、禅師に「おまえも海に入れ」と迫った。師は教え諭したが賊は許さない。そこで、願を発して海の中に入った。すると腰が水に浸かるまでに、足を何かが支えた。よく見ると亀の甲羅に立っていた。そのまま亀に背負われ④備中の浦の海の辺に送られた。これは放生した亀の恩のお礼であろう。その後、賊等六人は,その寺に盗んだ金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師は憐愍して、この罰を問わなかった。こうして仏像を造り、塔を建て、供養を重ねた。瀬戸内海や出雲の海の辺に住む⑤「海の民」たちと往来を重ね、教化を奨めた。禅師弘済は、八十有余で亡くなった。畜生の亀でさえ恩を忘れず,恩を返そうとする。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。
この物語の本題は、難波で捕らわれていた亀を買って放生したところ、備前で海賊に変身した船頭に海に突き落とされ時に、亀が甲羅に載せて備中の浜辺まで運んで無事帰郷できた、という因果応報譚を伝えることにあるようです。しかし、ここではそれは置いて三谷氏の氏寺を見ていくことにします。
①寺町廃寺 ②寺町廃寺跡に瓦を供給していた大当瓦窯跡 ③上山手廃寺跡(向江田町)
寺町廃寺は三次市の東南部にあります。寺町廃寺については次のような事が分かっています。
寺町廃寺は三次市の東南部にあります。寺町廃寺については次のような事が分かっています。
①基壇の装飾にせん塼(レンガ)が使われていること②創建時瓦は、素弁軒丸瓦であること③これらは同時期の百済寺院に類似していること④寺町廃寺の同笵瓦が、その北北西1,5㎞の大当瓦窯跡で焼かれたこと⑤同笵の素弁軒丸瓦は備中国賀陽郡の栢(かや=伽耶)寺廃寺跡からも出土⑥備中の栢寺の笵が寺町廃寺の笵に転用されていること
寺町廃寺 金堂基壇装飾に百済式の塼(レンガ)が使われている
金堂や塔の基壇には一番下に塼(せん)を立て並べて、その上
に塼や瓦を積み上げる工法が用いられています。こうした構築方法は日本列島の寺院には例がないようです。これも百済工法の「直移植」と研究者は考えています。
寺町廃寺 金堂基壇に高度な版築技術が用いられていること
金堂の建物を支える基壇は,土を交互に積み重ねて突
き固める「版築工法」が用いられています。この工法は当時は中国や百済の工法で、日本では飛鳥周辺地域の寺院のみで使用されてものです。寺町廃寺跡の造営には、百済亡命技術者によって先端技術が導入されたことが分かります。

地方の古代寺院としては唯一唐三彩の破片が出ていること
寺町廃寺 金堂跡と塔跡の石積階段
以上からは、備中栢(伽耶)寺や三谷廃寺は、百済亡命者の技術者集団によって建立されたと研究者は判断します。
また先ほど見たように、弘済は飛鳥京まで出かけて、金や丹を購入しています。
ここで注意しておくのは「本尊購入」ではないことです。手に入れたのは資材で、本尊本体を製作したのが三谷郡周辺に定着した百済技術者集団であったことと研究者は考えています。また海賊化した船頭に襲われた弘済らを、亀が運んだのは「備中」の海浜でした。ここからは、弘済と備中栢寺との繋がりが見えてきます。それを裏付けるのが寺町廃寺をはじめ備中・備後地域の古代寺院跡には独特の水切瓦が使われていることです。

備中備中栢寺廃寺と寺町廃寺の軒丸瓦の共通性=共通の技術者集団
この地域に百済系寺院建立技術を移植し、水切瓦を使った亡命百済僧や技術者集団がいたと研究者は推測します。ここからは、弘済はひとりでではなく、造寺・造瓦・造仏の技術者集団たちとともに亡命した亡命百済技術者集団が7世紀後半の備中や備後には形成されていたことがうかがえます。このような集団は周辺の讃岐や伊予など、百済救援戦争に従軍したエリアでも見られたことなのかもしれません。例えば、讃岐の朝鮮式山城の城山城や屋嶋城を築城したのも、亡命百済石工集団や築造集団が技術者集団として、それを佐伯直氏や綾氏などの評造が支えたことが考えられます。
寺町廃寺 全国の法起寺式伽藍配置の寺院跡の中で、最も遺存状態が良好な寺院跡
寺町廃寺跡の伽藍プラン
寺町廃寺跡の伽藍プランは上図のように,伽藍中軸線から左右同じ距離になる位置に,金堂と塔の壁が
位置します。また、塔よりも規模が大きな金堂側の回廊を,塔側の回廊よりも一間分 (柱と柱の間隔)ほど外に広げた位置に配置しています。これは中門から入った時に中軸線上から講堂を見た時に塔・金堂・回廊の視覚的なバランスを創り出すためだと研究者は考えています。こうした設計手法は法隆寺西院伽藍と同じです。つまり670 年に焼失した法隆寺の再建に採用された設計手法が,同時期に創建された寺町廃寺跡にもそのまま用いられていることになります。もう一歩踏み込んで云うと、法隆寺西院と
につながりのある技術者集団が寺町廃寺創建に関わっていたことになります。
寺町廃寺(法起寺様式)は、塔から金堂中心に変遷する過渡期の伽藍様式
三谷寺=寺町廃寺とすると、従来の地方の仏教寺院の建立手続きも見直す必要が出てきます。 従来は、地方寺院は地方豪族(評造・郡司)には、建立技術がなく中央の認可や支援を受けて建立された、早くから氏寺を建立できた勢力の背後には、ヤマト政権との強いつながりがあったとされてきました。しかし、寺町廃寺を見ると三谷氏が亡命百済人集団と結びついて、独力で寺院を建立していたことが分かります。これをどう考えればいいのでしょうか。
「中央とのつながり」以外にも、亡命百済集団には単独で寺院を建立し、運営して行くだけのネットワークがあったことになります。これらの技術者集団が、備中や備後にいくつもの古代人を建立したでのです。同じような動きは四国にもあった可能性はあります。中央とのつながりだけに目を向けていては、見逃すものがあるような気がします。
弘済は三谷寺で、どんな仏の教えを説いたのでしょうか。
百済という国が滅びる姿を自分の目で見て体験した弘済は、さまざまな悲劇と人間の運命を心に刻んだはずです。そして命を失った人達への供養、殺生忌避を誓ったのではないかと研究者は推測します。同時に弘済らは、仏教技術を生活技術へと転用して(たとえば道橋・灌漑・建築)、地域社会の生活向上に寄与したでしょう。弘済は、いろいろなかたちで備北地域の地域文化の形成に貢献したことが考えられます。これが地域の仏教受容のひとつの形かもしれません。
以上をせいりしておきます。
①備後三谷郡の郡司(大領)の先祖は、百済救援戦争に動員されて評造として、一族や地域の有力者を従えて博多に集結した。
②そして派遣部隊に編成され朝鮮半島南部伽耶に渡った。
③彼らは水軍でなく陸戦部隊だったので白村江の海戦には参加せず、捕虜となることなく帰国することができた。
④帰国の際に、百済人僧侶を三谷郡に連れ帰り、氏寺の建立を依頼した。
⑤百済人僧侶は、周辺の亡命百済人技術者や備中の栢(伽耶)寺廃寺や畿内の亡命集団とのネットワークを使って、三谷寺=寺町廃寺を造営した。
⑥この寺は、亡命してきたばかりの技術者集団によって造営されたために百済色の非常に強いものとなった。
⑦7世紀の地方寺院の中には、ヤマト政権の支援や認可なしで、渡来人によって建立された寺院があったことを寺町廃寺は示している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
百済という国が滅びる姿を自分の目で見て体験した弘済は、さまざまな悲劇と人間の運命を心に刻んだはずです。そして命を失った人達への供養、殺生忌避を誓ったのではないかと研究者は推測します。同時に弘済らは、仏教技術を生活技術へと転用して(たとえば道橋・灌漑・建築)、地域社会の生活向上に寄与したでしょう。弘済は、いろいろなかたちで備北地域の地域文化の形成に貢献したことが考えられます。これが地域の仏教受容のひとつの形かもしれません。
以上をせいりしておきます。
①備後三谷郡の郡司(大領)の先祖は、百済救援戦争に動員されて評造として、一族や地域の有力者を従えて博多に集結した。
②そして派遣部隊に編成され朝鮮半島南部伽耶に渡った。
③彼らは水軍でなく陸戦部隊だったので白村江の海戦には参加せず、捕虜となることなく帰国することができた。
④帰国の際に、百済人僧侶を三谷郡に連れ帰り、氏寺の建立を依頼した。
⑤百済人僧侶は、周辺の亡命百済人技術者や備中の栢(伽耶)寺廃寺や畿内の亡命集団とのネットワークを使って、三谷寺=寺町廃寺を造営した。
⑥この寺は、亡命してきたばかりの技術者集団によって造営されたために百済色の非常に強いものとなった。
⑦7世紀の地方寺院の中には、ヤマト政権の支援や認可なしで、渡来人によって建立された寺院があったことを寺町廃寺は示している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
関連記事
関連記事



















































































































































































































































































































































































































