瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐古代史 > 讃岐の古代寺院

秦王国1
豊前の秦王国
秦王国には飛鳥よりも早く仏教が伝わっていたと考える研究者がいます。まず、五来重氏は次のように考えています。
①『彦山縁起』には、英彦山の開山を仏教公伝(538)より早い、継体天皇二十五年甲寅(534)に、北魏の僧善正が開山したと記すこと。
②『彦山縁起』が典拠とする『熊野権現御垂逃縁起』(『熊野縁起』)には、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、最初は彦山に天降って、その後に彦山から伊予の石鉄山、 ついで淡路の遊鶴羽岳、さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山ヘ移った
③彦山への飛来は、『彦山縁起』のいう「継体天皇二十五年甲寅」こと。
以上を根拠にして、仏教公伝以前に彦山に仏教が入ったとする伝承について、次のように記します。
「私は修験道史の立場からは、欽明天皇七年戊午(588年)の仏教公伝よりはやく、民間ベースの仏教伝来があったものと推定せざるを得ない」

「民間ベースの仏教伝来」の例として、『日本霊異記』(上巻28話)の、役小角が新羅に渡ったとあること、「彦山縁起』に、役小角が唐とも往来したとある例がある」
「これは無名の修行者の往来があったことを、役小角の名で語ったもの」で、「彦山は半島にちかい立地条件にめぐまれて、朝鮮へはたやすく往来できた」
「無名の修行者」が、仏教公伝より早く、仏教を彦山にもちこんむことも可能であった。

 朝鮮への仏教渡来は、「道人」が伝えている。そのため列島への豊前への仏教伝来も「道人」といわれる日本の優婆塞・禅師・聖などの民間宗教者によって行われ、仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して・占星術・易占・託宣をおこなったものとおもわれ、仏教・陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入った」
と推測します。
中野幡能は、仏教伝来を彦山に限定せず、豊国全般に公伝以前に仏教は入っていたとして、次のように記します。
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」として、「少なくとも5~6世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と原始神道と仏教が融合している事実がみられる」

 用明天皇二年(587)に、豊国法師が参内していることから、6世紀末には「九州最古の寺院」が、「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていて、」「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して6世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に入ったものではあるまいか」

このように、五来・中野の両氏は、仏教公伝以前に、豊前に仏教が入ったと見ています。
それではどうして、飛鳥よりも先に豊前に仏教が入ったのでしょうか。
中野幡能は、豊前の「秦氏と新羅人の関係」があったからと考えています。「秦氏と新羅人の関係」とは、具体的には秦王国の存在です。豊前に秦王国があったこと、つまり、倭国の中にあった朝鮮人の国の存在が、仏教公伝に先がけて仏教がいち早く人った理由というのです。
仏教には、「伽藍仏教」と「私宅仏教」があります。
鎮護国家にかかわる公的な仏教は「伽藍仏教」で、蘇我馬子が受け入れようとしたのは「伽藍仏教」です。馬子は「伽藍仏教」の僧や尼を必要としたので、法師寺を建て、受戒した僧・尼を養成しようとしています。こうした馬子の仏教観に対し、豊国の法師の仏教は、「私宅仏教(草堂仏教)」で、巫女の伝統を受けつぐ「道人」的法師であっようです。だから、病気治療などに活躍する、現世利益的な個人的要素が強かったと研究者は考えています。
田村同澄は、次のように記します。
「宮廷に豊国法師が迎え入れられたのは、九州の豊前地方には、後に医術によって文武天皇から賞せられた法蓮がいたように、朝鮮系の高度の文化が根を張っており、したがって医術の名声が速く大和にまで及んでいた」
 
 法蓮は、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当で、英彦山や国東六郷満山で修行したと伝えられる修験者的な人物です。
宝亀8年(777年)に託宣によって八幡神が出家受戒した時には、その戒師を務めて、宇佐市近辺にいくつもの史跡・伝承を残しています。『続日本紀』の大宝三年(703)9月25日条は、次のように記します。
史料A 施僧法蓮豊前國野冊町。褒霊術也
(僧の法蓮に豊前国の野四十町を施す。医術を褒めたるなり)
史料B 養老五年(七二一)六月三日条、
詔曰。沙門法蓮、心住禅枝、行居法梁。尤精霊術、済治民苦。善哉若人、何不二褒賞。其僧三等以上親、賜宇佐君姓
意訳変換しておくと
詔して曰く。「沙門法蓮は、心は禅枝に住し、行は法梁に居り。尤も医術に精しく、民の苦しみを済ひ治む。善き哉。若き人、何ぞ褒賞せざらむ。その僧の三等以上の親に、宇佐君の姓を賜ふ」)

史料Aからは医学的な功績として豊前国の野40町を賜ったこと、史料Bからは、その親族に宇佐君姓が与えられことが記されています。このような記述からは仏教公伝・仏教私伝以前に北部九州へ仏教が伝来していた可能性を裏付けます。法蓮は九州の山中に修行し、独自に得度して僧となり、山中に岩屋を構え、独特の巫術で医療をおこなっていました。また『八幡宇佐宮御託宣集』『彦山流記』『豊鐘善鳴録』などでは、法蓮は山岳修験の霊場彦山と宇佐八幡神の仲介をした人物とされています。そして法蓮を彦山を中心に活動した山岳仏教の祖とする多くの伝承が生れます。一方、法蓮は用明天皇の病気治療のため入内した豊国法師、あるいは雄略天皇不予の際に入内したとされる豊国奇巫の系譜を引く人物であったと次のように考える研究者もいます。
 豊国法師の伝統を受けついだ代表的な僧が、法蓮であったから、彼の医術は特に「監」と書かれたのだが、法蓮は、薬をまったく用いなかったのではない。薬だけでなく巫術も用いたから、単なる「医者」でなく「巫医」なのだ。法蓮が用いた薬に、香春岳の竜骨(石灰岩)がある。「竜骨」を薬として用いる術は、豊国奇巫・豊国法師がおこない、その秘術を法蓮が受けついでいた。このような豊国の僧(法師)の実態は、仏教公伝以前に秦王国に入っていた仏教が、巫術的なものであったことを示しており、豊国奇巫ー豊国法師―僧法蓮には、一貫した結びつきがある。

 『日本書紀』(敏達天皇12年(584)には、百済から持ってきた仏像二体のための「修行者」を、「鞍部村主司馬達等」らに探させ、播磨国にいた「僧還俗」の「高句麗の恵便」をみつけた、とあります。ここからも仏教公伝以前に、渡来人が「私宅仏教」の本尊を飛鳥で礼拝していた可能性が見えて来ます。司馬達等は、法師を探し出す役を馬子から命じられ、恵便の一番弟子として娘の島(善信尼)を入門させています。ここからは司馬達等は、公伝以前に入った「私宅仏教」の信仰者であったことがうかがえます。
 司馬達等(止)を、『扶桑略記』は「大唐漢人」、『元亨釈書』は「南梁人」と記します。しかし、日本古典文学大系『日本書紀・下』の補注には、「一般に漢人は必ずしも中国からの渡来者ではなく、大部分は百済から来たものであるから」「大唐」、「南梁」の人とするのは「当らない」とあります。「司馬」などの二字姓は、百済・高句麗にもあるので、扶余系の渡来人と研究者は考えています。
 このように大和の飛鳥の地でも、私宅に仏像を安置して礼拝していた人たちはいて、彼らは百済系渡来人でした。それに対して、秦上国の「私宅仏教」は、新羅・加羅系渡来人によるものです。
新羅の「伽藍仏教」は、六世紀前半の法興上のとき以後になるので、それより百年ほど前の訥祗王の時代に、すでに新羅には「私宅仏教」は入っていたことになります。この「私宅仏教」は、私宅に窟室を作り、窟室に仏像・経典などを置いて、礼拝します。窟室、つまり洞窟は、新羅に最初に仏教を伝えた僧墨胡子を「安置」したというので、祖師の洞窟修行の姿が、礼拝の対象だったことがうかがえます。
仏教公伝以前に仏教が入ったという彦山の『彦山流記』(建暦三年〈1212〉成立)は、次のように記します。
震国の「王子晋」は、舟で豊前国田河郡大津邑に着き、香春明神の香春岳に住もうとしたが、「狭小」だったので、香春より広い彦山の「磐窟」の上に天降り、四十九箇の洞窟に、「御正然」を分けた
『彦山流記』『彦山縁起』も、法蓮も玉屋谷の般若窟に住み、その他の修行者も、彦山四十九窟の洞窟を寺とした。
このは伝承に出てくる王子晋・法蓮は、窟室の墨胡子と重なり、新羅の「私宅仏教」の窟室信仰に結びついていたことが見えて来ます。仏教公伝以前に入った秦王国の仏教は、彦山の仏教や法蓮の信仰につながっていることを、『彦山流記』の伝承は語ってくれます。

玉屋神社 in 英彦山(9) - 耳納の神々
彦山四十九窟 牛窟

彦山四十九窟は、豊前・豊後。筑前にまたがる彦山を中心に分布しています。
これについて、中野幡能は、次のように記します。
「個々の宮寺を窟又は岩屋という」修験の霊山は、「他には豊後国の六郷山しかなく」、筑前宝満山にも「四十八嘔」があるが、この「岨」は、吉野の大峯の「宿」と同じ意で、彦山や六郷山の宮寺を「窟」というのとちがう。
そして、新羅の慶州の「南山の五十五ヶ寺の寺院が、一ヵ寺ずつ、寺号を名乗っている」のは、六郷山の「窟又は岩屋」が「一々山号寺号をもっている」のと「似て」おり、「六郷山の原型」は、「新羅の慶州南山」とみられる。「その意味では彦山四十九窟も、慶州南山のあり方と全く同じ方式とみてよい」
求菩提山 (くぼてさん):782m - 山と溪谷オンライン
求菩提山(くぼてんやま)

宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と深くかかわる修験の求菩提山も、石窟がたいへん多いところです。
主要な霊場が窟なのも新羅の南山の岩窟の仏教信仰と共通しています。彦山四十九窟は法蓮伝承と結びついていますが、六郷山の山岳寺院も、法蓮が初代別当であった弥勒寺の別当に所属しています。ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっていることになります。しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、それ以前に新羅に入っていた「私宅(草庵)仏教」と結びついています。新羅の「私宅仏教」は、高句麗の「道人」の暴胡子や阿道が新羅に来て、毛礼の家で拡めたされます。
 『後漢書』東夷列伝の高句麗の条には、次のように記します。
其国東有大穴、号隧神。亦以十月迎而祭之

『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、
其国東有大穴、名隧穴。十月国中大会迎隧神。還於国東上祭之、置木隧於神坐。

『宋史』列伝の高麗の条には、
国東有穴 号歳神。常以十月望甲迎祭。

大穴を、「終神・隧穴・歳神」などと呼んでいたようです。これについて上橋寛は、『魏志』東夷伝高句麗の条の「隧穴」に、「置木隧於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、木隧を豊饒を祈る木枠のようなものと解釈します。

アメノヒボコ
新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)
そして新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)を祭る大和の穴師兵主神社の祭神が、御食津(みけつ)神で神体が日矛であることから、御食津神を歳神、神体の日矛を木隧という説を出しています。
洞窟に「木隧を置いて神坐す」というのは、家の中に「窟室」を作り、仏像を置くのことと重なります。終神・歳神の本隧が、仏像に姿を変えたのです。高句麗の民間信仰に仏教が習合したと研究者は考えています。これが高句麗の「私宅仏教」が新羅に入ったことになります。
ここでは天之日矛(日槍)を、木隧と見立てていますが、天之日矛を祭る穴師兵主神社は、穴師山にありました。
穴師山は弓月嶽とも云います。そうだとすれば、秦氏の始祖の弓月君と穴師兵主神社があった弓月嶽に関連性があったことになります。弓月嶽・弓月君・秦氏の関係は、朝鮮の洞窟での神祭りが、秦氏の穴師兵主神社でもおこなわれ、一方、仏教化して、新羅の窟室信仰が、彦山・六郷山の洞窟信仰になったと研究者は推測します。
 穴師の「穴」も、「大穴」での祭と無関係ではありません。
穴師兵主神社の祭神の天之日矛は、『日本書紀』の垂仁天皇条には、「近江国の吾名邑に入りて暫く住む」とあり、「穴」地名と関わりがあるようです。近江の「吾名邑」は、『和名抄』の「坂田郡阿那郷」に比定する説もあります。阿那郷は宇佐八幡宮が官社化した後には、祭神にした息長帯比売(神功皇后)の息長氏の本拠地になります。息長帯比売は『古事記』には、祖を天之日矛としていて、新羅王子に系譜を結びつけています。この天之日矛や息長帯比売にかかわる地名に、「穴師」「吾名邑」「阿那郷」があることから、穴・窟の信仰は、泰王国の信仰と深くかかわっていると研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
① 公伝以前の仏教と高句麗での穴の中で神を祀る儀礼が、習合する
② 私宅に窟室を作り仏像を安置して、木隧の代りに拝むようになった。
③ 仏教と朝鮮の民間信仰が習合した形で、新羅の仏教は民間に浸透した。
『三国史記』『三国遺事』には、次のような事が記されています。
新羅に人った仏教は、王都の慶州にもひろまり、法興王は仏教を受け入れようとした。ところがこれに貴族の大半が反対した。

ここからは、最初に新羅に入った仏教は、一般庶民サイドの上俗信仰と習合した仏教であったことが分かります。わが国に公伝した仏教も、飛鳥の場合には「私宅仏教」の信者であった百済系渡来人が受容します。公伝以前から仏教信者であった鞍部は、雄略朝に渡来し、高市郡の桃原・真神原に住んでいました。その時、鞍部と共に衣縫部も来ていますが、『日本書紀』は、崇峻天皇元年(588)に、次のように記します。
「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊して、始めて法興寺を造る」

ここでは最初に伽藍仏教の寺院を建てた地を「真神原」といっています。衣縫造は鞍部村主と同じに、「私宅仏教」の信者であり、この私宅を「伽藍仏教」の伽輛(寺)にし、法興寺(飛鳥寺)を創建したと研究者は指摘します。
この飛鳥の寺地について、田村園澄は次のように述べます。

真神原と呼ばれたこの地には、飛鳥寺の創建以前から槻の林があった。飛鳥寺の造営のため一部は伐採され、土地は拓かれて寺地となったが、なお飛鳥寺の西の槻の林は残されていた。槻の林は、元来はこの地に居住していた飛鳥衣縫氏の祭祀の場であり、すなわち宗教的な聖地であったと思われる。朝鮮半島において、原始時代に樹木崇拝が行われていた。樹木の繁茂する林は神聖な場所であり、巫峨信仰の本拠でもあった。新羅仏教史において、早い時期に建立された寺のなかに、林に関連した事例がある。すなわち慶州の興輪寺は天鏡林が、同じく四天王寺は神遊林が、寺の根源であったと考えられる。図式的にいえば、仏教伝来以前の樹木崇拝の聖地に、仏教の寺院が建てられ、そして巫現が僧尼になったことになる。

飛鳥衣縫氏が真神原で祀っていた神については、よく分かりませんが異国の神だった気配がします。その後に、真神原を人手した蘇我馬子は、この地に別の「他国神」のための伽藍を建てます。新羅の寺院建立の例からすると、宗教的聖地が寺地になるのは自然なことです。飛鳥寺の場合、その寺地は「国神」の聖地ではなく、朝鮮半島系の神の聖地であったと研究者は考えています。
  飛鳥に公式に入った伽藍仏教の伽藍(寺院)を建てた地が、もともとは百済からの渡来人が祀っていた神の聖地であったことになります。それは渡来して来た朝鮮人の信仰の上に、「大唐神」「他国神」の信仰が「接ぎ木」されたとも云えます。
このように大和の場合も、仏教公伝以前から仏教は、飛鳥の渡来人の居住地区に、「私宅仏教」として入ってきたようです。しかし、飛鳥の場合は限られた狭い地域でした。それに対して、豊前に入った仏教は、秦王国の全域に拡がります。そのため仏教公伝のころには、道人的法師団(豊国法師)が形成されるまでになっていたのでしょう。この「豊国法師」の仏教は、土俗信仰や民間道教信仰と習合したもので、「豊国奇巫」が「豊国法師」になったと研究者は考えています。
 九州の初期寺院は、大宰府のある筑前に多く創建されていいはずです。しかし、筑前よりも、豊前に初期寺院が多いのをどう考えればいいのでしょうか。これは今見てきたように、仏教公伝以前から、豊前には民間ベースで、新羅の私宅仏教が普及していたからでしょう。白鴎時代に作られた寺院跡からも、新羅系遺物が多く出土してくるのもそれを裏付けます。
以上述べたように、わが国に仏教信仰が一番早く人ったのは、秦王国の地であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 仏教が一番早く入った「秦王国」 秦氏の研究

善通寺宝物館蔵の「一円保絵図」(1307年)には、曼荼羅寺が描かれています。
一円保絵図 5
善通寺一円保絵図(1307年)

ここに描かれているのが東寺の善通寺の一円保(寺領)です。善通寺を中心に、北東は四国学院、南は「子供とおとなの病院」あたりまでを含みます。よく見ると、西側の吉原郷には曼荼羅寺周辺や鳥坂あたりにまでに飛び地があること、曼荼羅寺は我拝師山の麓に描かれ、その寺の周辺には集落が形成されていることなどが見て取れます。

善通寺一円保の位置
一円保絵図の曼荼羅寺周辺部分
曼荼羅寺周辺を拡大してみると、次のような事が見えてきます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
一円保絵図の曼荼羅寺周辺(拡大)

①まんたら(曼荼羅)寺周辺にも条里制地割が見え、30軒近くの集落を形成していること
②曼荼羅寺周辺には、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」「小森」「畠五丁」と註があること。
③火山周辺には、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」と註があること
④一番西側(右)の「よしわらかしら(吉原頭)」が、現在の鳥坂峠の手前辺りであること。

①②の曼荼羅寺周辺については、ここが「小森」と呼ばれ、「畠五丁」ほどの耕地が開かれ、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」の領地であったことがうかがえます。
③火山の麓にも集落があって、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」という宗教施設とがあり、「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」であったようです。
④の「よしわらかしら(吉原頭)」にも集落がありますが、このエリアの条里制地割の方向が他と違っていることを押さえておきます。
なお、我拝師山周辺に山林修行者の宗教施設らしきものは見当たりません。それはこの一円保絵図が水争いの控訴史料として描かれたためで、それ以外の要素は排除したためと研究者は考えています。

一円保絵図 曼荼羅寺6

善通寺一円保を地図上に置いた資料
  ここで私が注目したいのは、④の「よしわらかしら(吉原頭)」の条里制ラインがズレていることですです。
曼荼羅寺周辺も多度郡の条里制地割ラインとは、異なっていることが見て取れます。この条里制地割のズレについて見ていくことにします。資料とするのは次のふたつです。
A「讃岐善通曼荼羅寺寺領注進状」(1145(久安元)年(1145)
B「善通寺一円保絵図」(1307(徳治2)年
Aには多度郡条里地割の坪付呼称が記され、さらに曼荼羅寺の坪ごとの土地利用状況が記されています。この2つの資料を元に曼荼羅寺周辺の小区画条里坪付けを研究者が復元したのが下図です。

上側が多度郡条里プランで、下が曼荼羅寺寺領になります。
多度郡条里制と曼荼羅寺

ここからは次のようなことが分かります。

①曼荼羅寺周辺の地割(下側)と、一円保絵図の多度郡条里プラン(上側)がズレていること
②曼荼羅寺周辺の地割が東西の坪幅が狭まく描かれていること。
ここからは、先ほど見たように吉原頭以外の曼荼羅寺周辺でも、多度郡条里プランとのズレがあることが分かります。つまり吉原郷には、独自に引かれた条里プランがあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 具体的には曼荼羅寺周辺の地割が、いつ頃、どんな経緯で引かれたのかということです。それを考えるために、7世紀後半に讃岐で行われた大規模公共事業をみておきます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加していくことがヤマト政権に認められ、郡司などへの登用条件となりました。地方の有力豪族達は、ある意味で中央政府の進める大土木行事の協力度合いで、政権への忠誠心が試されたのです。これは秀吉や家康の天下普請に似ているかもしれません。讃岐では、次のような有力豪族が郡司の座を獲得します。
①阿野郡の綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城や陶に須恵器生産地帯をつくり、都に提供すること実績を強調。
②三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯で生産した瓦を、藤原京に大量に提供し、技術力をアピール
③多度郡の佐伯氏は、従来の国造の地位を土台に、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示す。
 この時代の地方の土木工事は、郡司や地方有力者が担いました。そうすると多度郡条里制の施行工事も、周辺の有力豪族の手によって行われたはずです。多度郡南部の善通寺周辺を担当したのは佐伯氏でしょう。そして、我拝師山北側の吉原郷を担当したのがX氏としておきます。X氏は、前回述べたように古墳時代には、青龍古墳や巨石墳の大塚池古墳を築いた系譜につながる一族が考えられます。

一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図を取り巻く郷
私は曼荼羅寺とその周辺条里制の関係について、次のように推測しています。
①7世紀末の多度郡条里制地割ラインが引かれて、その工事を周辺の有力者が担当する。
②その際に、工事が容易な地帯が優先され、河川敷や台地は除外された。
③除外された台地部分に曼荼羅寺周辺のエリアも含まれていた。
④その後、吉原郷のX氏は氏寺である曼荼羅寺を建立した。
⑤さらに寺域周辺の台地の耕地開発すすめ、そこに独自の条里制地割を行った。

平地で造成がしやすいエリアから条里制地割工事は始められ、中世になっても丸亀平野では達成比率は60%程度だったということは以前にお話ししました。一挙に、条里制地割工事は行われたわけではないのです。台地状で工事が困難な曼荼羅寺周辺は開発が遅れたとことが考えられます。ちなみに曼荼羅寺周辺の南北方向の「小区画異方位地割」の範囲は、現状の水田化に適さない傾斜地の広がりとも一致するようです。
 我拝師山のふもとの吉原郷の台地に現れた曼荼羅寺のその後を姿を見ておきましょう。 
11世紀半ばの曼荼羅寺の退転ぶりを、勧進聖善芳は次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺に滞在しました。ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
ここからはそれ以前に「五間四面の瓦葺の講堂・多宝塔・別堂」などの伽藍が揃った寺院があったことが分かります。その退転ぶりを見て善芳は涙を流し、何とかならぬものかと自問します。そこで善芳は国司に勧進協力を申し入れ、その協力をとりつけ用材寄進を得ます。その資金を持って安芸国に渡って、材木を買付けて、講堂一宇の改修造建立を果たしたと記します。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動です。
以上を仮説も含めてまとめておくと
①善通寺エリアの佐伯氏とは別に、吉原郷には有力豪族X氏がいた。
②X氏の氏寺が古代寺院の曼荼羅寺である。
③律令体制の解体と共に、郡司クラスの地方豪族は衰退し、曼荼羅寺も退転した。
④退転していた曼荼羅寺を、11世紀後半に復興したのが遍歴の勧進聖たちであった。
⑤その後の曼荼羅寺は、悪党からの押領から逃れるために東寺の末寺となった。
⑥東寺は、善通寺と曼荼羅寺を一体化して末寺(荘園)として管理したので、「善通・曼荼羅両寺」よ呼ばれるようになった。

曼荼羅寺の古代変遷

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P





智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(智証大師) 金倉寺蔵  

円珍(智証大師)は因支首(いなぎのおびと)氏の出身です。因支首氏は改姓を許され後には、和気公を名乗るようになります。その系図が、『円珍系図(和気公系図)』と呼ばれている和気公氏の系図になります。この系図は、円珍の手もとにあったもので、それには円珍の書き入れもされて圓城寺に残りました。そのため『円珍俗姓系図』とも『大師御系図』とも呼ばれます。家系図ではもっとも古いものの一つで、国宝に指定されています。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 この系図には讃岐古代史を考える上では多くの情報が含まれています。この円珍系図について詳しく述べているのが佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。この本も私の師匠から「これくらいは読んどかんといかんわな」と云われて、いただいたままで「積読(つんどく)」状態になっていたものです。これを引っ張り出して見ていくことにします。 今回は、改姓申請に関わって発行された文書を中心に、因支首氏(後の和気公)のことを見ていきます。

 菅原道真が讃岐守としてやってくる20年前の貞観八年(866)10月27日のことです。
那珂郡の人である因支首秋主・道麻呂・宅主らと、多度郡の因支首純雄・国益・臣足・男綱・文武・陶道ら九人は、和気公の氏姓を賜わります。この記事が載っている『三代実録』には、賜姓された人名につづけて、「其先 武国凝別皇子之苗裔也」とだけしか記されていません。ここからは秋主らが、どんな理由で氏姓を改めることを申請したのかは分かりません。ところが、因支首氏の改姓関わる文書が、もうひとつ伝えられています。
それが貞観九年(867)二月十六日付に、 当時の讃岐国司であった藤原有年が 「讃岐国戸籍帳」1巻の見返し(表紙裏)に記したものです。
讃岐国司解
有年申文
有年申文」です。国司の介(次官)である藤原有年が草仮名で事情を説明した申文です。
讃岐国司解3


この申文は「讃岐国司解」という解文の前に添えられています。
内容的には次のような意味になるようです。

「因支首氏の改姓人名禄の提出について、これはどのようにしたらよいか、官に申しあげよう。ご覧になられる程度と思う。そもそも刑大史の言葉によって下付することにしたので、出し賜うことにする。問題はないであろう」

「讃岐国司解」には「讃岐国印」が押されていて、まぎれもなく正式の文書です。因支首氏のうち和気公氏へと改姓した人物の名前を報告する文書であるこの「讃岐国司解」は、讃岐守の進言にしたがって太政官に提出されなかったようです。

讃岐国司解2
讃岐国司解

讃岐国司解には、賜姓請願のいきさつだけでなく、因支首から和気公に改氏姓したのは、上記の九名の者にとどまらず、那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三姻と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三姻のあわせて六親族であったことも記されています。この讃岐国司解に記されている人名と続柄とによって、研究者が作成した系図を見てみましょう。
  円珍系図 那珂郡
那珂郡の因支首氏
円珍系図2
 多度郡の因支首氏

この系図の中にみえる人名で、傍線を引いた7名は  『三代実録』貞観八年十月二十七日戊成条の賜姓記事に記されている人々です。確認しておくと
(一)の那珂郡の親族には、道麻呂・宅主・秋主
(二)の多度郡の親族では国益・男綱・臣足・純男
しかし国司が中央に送った「讃岐国司解」には、那珂郡では
道麻呂の親族8名、
道麻呂の弟である宅主の親族6名、
それに子がいないという金布の親族1名、
多度郡では
国益の親族17名、
国益の弟である男綱の親族5名
国益の従父弟である臣足の親族6名、
あわせて43名に賜姓がおよんでいます。
 ここからは、一族意識を持った因首氏が那珂郡に3軒、多度郡に3軒いたことが分かります。因支首氏は、金蔵寺を創建した氏族とされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。この周辺からは稲城北遺跡のように正倉を伴う郡衙に準ずる遺跡も出てきています。金蔵寺周辺から永井・稲城北にかけての那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったとされています。
 また、円珍家系図の中に記された父宅成は、善通寺を拠点とする佐伯氏から妻を娶っていたとも云われます。因首氏と佐伯氏は姻戚関係にあったようです。そのため因首氏は、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったと各町誌などには書かれています。その因首氏の実態がうかがい知れる根本史料になります。

「讃岐国司解」には改姓者の人数が、43名も記されているのに、どうして『三代実録』には9名しかいないのでしょうか。
大倉粂馬氏は、「讃岐国解文の研究」と題する論文で、この疑問について次のような解釈を示しています。
「貞観八年十月発表せられたる賜姓の人名と翌九年二月の国解人名録とが合致せざるは何故なりや」

そして、次のような答えを出しています。

太政官では、遠くさかのぼって大同二年(807)の改姓請願書を採用し、これに現在戸主である秋主、および純雄の両名を加えて賜姓を行なったものであろう。また賜姓者九名のうちの文武・陶道の両名は、貞観年間に、おそらく死亡絶家となっていたものであろう。大同年間、国益・道麻呂の時に申告したものであったので、そのまま賜姓にあずかったものと認めてよいであろう

 ここでは二つの史料の間に時間的格差ができて、その間に「死亡絶家」になった家や、新たに生まれた人物が出てきたので食い違いが生じたとします。納得の出来る説明です。
それでは、正史に記載されている賜姓記事の人数と、実際の賜姓者の数が大きく増えていることをどう考えればいいのでしょうか?
改氏姓を認可する「太政官符」には、戸主だけの人名だけした記されていなかったようです。
賜姓にあずかるすべての人々、すなわちその戸の家族全員の人名は列記されていなかったことが他の史料から分かってきました。
改姓申請の手続きは次のように行われたと研究者は考えているようです。
①多度郡の秋生がとりまとめて、一族の戸主の連名で、郡司・国司に申請した。
②申請が受理されると中央政府からの「太政官符」をうけた「民部省符」が、国府に届く
③国司は、改氏姓の認可が下ったことを、多度・那珂郡の郡司を通して、各因支首氏の戸主たちに伝達する。
④同時に、郡司は改氏姓に該当する戸口全員の人名を府中の国府に報告する。
⑤それににもとづいて国府は記録し、太政官に申告する
こう考えると『三代実録』の賜姓記事にみえる人名と、「讃岐国司解」の改姓者歴名に記載されている人名との食い違いについての疑問は解けます。
 『三代実録』の賜姓記事にあげられている那珂郡の秋主・道麿(道麻呂)・宅主の三名と、多度郡の純雄・国益・臣足・男縄・文武・陶道の六名は、それぞれの因支首一族の戸主だったのです。
「讃岐国司解」の改姓者歴名の記載にもとづいて研究者が作成した系図をもう一度見てみましょう。
円珍系図2

道麻呂(道麿)・宅主・国益・男綱(男縄)・臣足は、それぞれの親族の筆頭にあげられています。
円珍系図 那珂郡

那珂郡の秋主は、円珍の祖父道麻呂と親属関係にあり、また多度郡の純雄(純男)は、国益の孫になります。秋主や純雄(純男)が、因支首から和気公への改氏姓を請願した人物だと研究者は考えているようです。また、申請時の貞観当時の戸主であったので『三代実録』の賜姓記事には、それぞれの郡の筆頭にあげられているようです。

「讃岐国司解」は、四十三名の改氏姓者の人名を掲げたうえで、次のようなことを書き加えています。
右被民部省去貞観八年十一月四日符称。太政官去十月廿七日符称。得彼国解称。管那珂多度郡司解状称。秋主等解状称。謹案太政官去大同二年二月廿三日符称。右大臣宣。奉勅。諸氏雑姓概多錯謬。或宗異姓同。本源難弁。或嫌賤仮貴。枝派無別。此雨不正。豊称実録撰定之後何更刊改。宜下検故記。請改姓輩。限今年内任令中申畢上者。諸国承知。依宣行之者。国依符旨下知諸郡愛祖父国益。道麻呂等。検拠実録進下本系帳。丼請改姓状蜘復案旧跡。
 依太政官延暦十八年十二月十九日符旨。共伊予別公等。具注下為同宗之由抑即十九年七月十日進上之実。而報符未下。祖耶己没。秋主等幸荷継絶之恩勅。久悲素情之未允。加以因支両字。義理無憑。別公本姓亦渉忌諄当今聖明照臨。昆虫需恩。望請。幸被言上忍尾五世孫少初位上身之苗裔在此部者。皆拠元祖所封郡名。賜和気公姓。将始栄千後代者。郡司引検旧記所申有道。働請国裁者。国司覆審。所陳不虚。謹請官裁者。右大臣宣。奉勅。依請者。省宜承知。依宣行者。国宜承知。依件行之者。具録下千預二改姓・之人等爽名い言上如件。謹解。
意訳変換しておくと
右の通り民部省が貞観八年十一月四日に発行した符。太政官が十月廿七日の符。讃岐国府発行の解。管轄する那珂多度郡司の状。秋主等なの解状について。太政官大同二年二月廿三日符には、右大臣が奉勅し次のように記されている。
 さまざまな諸氏の雑姓が多く錯謬し。異姓も多く本源を判断するのは困難である。或いは、賤を嫌い貴を尊び、系譜の枝派は分別なく、不正も行われるようになった。実録撰定後に、何度も改訂を行ったが、改姓を申請する者が絶えない。そこで今回に限り、今年内に申請を行った者については受け付けることを諸国に通知した。その通知を受けて諸郡に通達したところ、祖父国益・道麻呂等が実録の本系帳に基づいて、改姓申請書を提出してきた。
 太政官延暦十八年十二月十九日符の趣旨に従って、伊予別公などと因支首氏は同宗であると、同十九年七月十日に申請してきた。しかし、これは認められなかった。
 申請した祖父が亡くなり、孫の秋主の世代になっても改姓が認められなかったことは、未だに悲しみに絶えられない。別公(和気公)の本姓を名乗ることを切に願う。「昆虫」すら天皇の「霧恩」を願っている。忍尾の五世孫の子孫たちで、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願する。
 このように申請された書状は、郡司が引検し、国司が審査し、推敲訂正し、謹んで中央に送られ、右大臣が奉勅した。ここにおいて申請書は認可され、改姓が成就することなった。
 引用された「太政官符」によると、改姓を希望する者は、大同二年内に申請するように命じられていたことが分かります。この命令が出されたのは、延暦18年(799)12月29日です。そこで本系帳を提出させることを命じてから『新撰姓氏録』として京畿内の諸氏族だけの本系帳が集成されるまでの過程で、改氏姓のために生じる混乱や、煩雑さをさけるためにとられた措置であったと研究者は考えています。
 因支首氏は、「讃岐国司解」に記されているように、延暦18年12月29日の本系帳提出の命令にしたがって、翌年の延暦19年8月10日に、本系帳を提出します。さらに大同2年2月23日の改姓に関する太政官の命令にもとづいて、秋主の祖父宅主の兄である道麻呂、および純雄(純男)の祖父である国益らが、本系帳とともに改姓申請を行います。ところが、この時の道麻呂らの改姓申請に対する認可は下りなかったようです。
そこで60年後に孫の世代になる秋主らが再度申請します。
「久悲二素情之未フ允」しみ、「昆虫」すら天皇の「霧恩」っていることを、切々と訴えます。そして「忍尾五世孫少初位上身之苗裔」で、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願したのです。
 秋主らが改氏姓の申請をしたのは、貞観七年(865)頃ころだったようです。こうして貞観八年(866)10月27日に、秋主らへの改氏姓認可が下ります。祖父世代の道麻呂らが改氏姓の申請をしてから数えると60年近い歳月が経っていたことになります。

実はこれに先駆ける4年前に、空海の一族である佐伯直氏も改姓と本貫移動をを申請しています
 その時の記録が『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。ここからは、佐伯直氏の成功を参考に、助言などを得ながら改姓申請が行われたことが考えれます。

以前にもお話ししたように、この時期は讃岐でもかつての国造の流れを汲む郡司達の改姓・本貫変更が目白押しでした。その背景としては、当時の地方貴族を取り巻く状況悪化が指摘できます。律令体制の行き詰まりが進み、郡司などの地方貴族の中間搾取マージンが先細りしていきます。代わって、あらたに新興有力層が台頭し、郡司などの徴税業務は困難になるばかりです。そういう中で、将来に不安を感じた地方貴族の中には、改姓や本貫移動によって、京に出て中央貴族に成ろうとする者が増えます。そのために経済力を高め。売官などで官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海やその弟真雅が中央で活躍したのを梃子にして、甥の佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が「貞観三年記録」です。ここにはどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
 「貞観三年記録」の前半には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。
 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1空海系図2
空海系図

 これを因支首氏と比較してすぐ気がつくのは、佐伯氏の場合には空海の世代からは、位階をみんな持っていることです。しかも地方の有力者としては、異例の五位や六位が目白押しです。加えて、空海の身内は、佐伯直氏の本家ではなく傍系です。
 一方、因支首氏には官位が記されていません。政府の正式文書に官位が記されていないと云うことは官位を記することが出来なかった、すなわち「無冠」であったことになります。無冠では、官職を得ることは出来ません。因支首氏は、郡司をだせる家柄ではなかったようです。
また、佐伯直氏の場合は、改姓と共に平安京に本貫を移すことが許されています。
つまり、晴れて中央貴族の仲間入りを果たしたことになります。それ以前から佐伯直氏一族の中には、中央官僚として活躍していたものもいたようです。この背景には「売官制度」もあったのでしょうが、それだけの経済力を佐伯直氏は併せて持っていたことがうかがえます。 
 一方、それに比べて、因支首氏の場合は和気氏への改姓許可のみで京への本貫移動については何も触れられていません。本貫が移されることはなかったようです。
 佐伯直氏と因支首氏(和気)の氏寺の比較を行っておきましょう。
  佐伯氏は白鳳時代に、南海道が伸びてくる前に仲村廃寺建立しています。そして、南海道とともに条里制が施行されると、新たな氏寺を条里制に沿った形で建立します。その大きさは条里制の四坊を合わせた境内の広さです。この規模の古代寺院は讃岐では、国分寺以外にはありません。突出した経済力を佐伯直氏が持っていたことを示します。

IMG_3923
金倉寺

  一方因支首氏の氏寺とされるのが金倉寺です。
  この寺は、円珍の祖父である和気通善が、宝亀五年(774)に、自分の居宅に開いたので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じパターンです。これは近世になってからの所説です。先ほど系図で見たように、円珍の祖父は道麻呂です。また、この寺からは古代瓦などは、見つかっていないようです。
因支首氏から和気公へ改姓申請が受理された当時の因支首一族の状況をまとめておくと
①全員が位階を持っていない。因支首氏は郡司を出していた家柄ではない。
②改姓のみで本貫は移されていない
③因支首氏は古代寺院を建立した形跡がない。
  ここからは、因支首氏が古代寺院を自力で建立できるまでの一族ではなかったこと、旧国造や郡司の家柄でもなかったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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天日槍(あめのひぼこ)を祭る出石神社の流域を流れるのが円山川です。その支流・穴見川沿いの三宅集落に慈等寺があります。この寺の下の斜面が三宅廃寺跡になります。すぐ近くには、式内社の大壬生部兵主(おおみぶべひょうず)神社や中嶋神社が鎮座しています。渡来系秦氏の痕跡が色濃く残る地域です。
 三宅廃寺は田嶋守の末裔として但馬国造家を名乗る三宅氏によって建立された寺院で、この地域では最も古い白鳳寺院と位置づけられています。発掘調査によって、隣接する西側の山斜面から瓦窯が発見され、他地域の寺院との瓦の比較ができる貴重な資料を提供してくれます。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦
但馬国府・国分寺館ニュースより

但馬地方の古代瓦と同笵関係にあるものや、コピーされたと考えられるものがいくつも見つかっています。例えば、海を越えた新羅のデザインがストレートに持ち込まれているものがあります。また前回に見たまんのう町の弘安寺跡から出てきた瓦と、よく似たものが三宅廃寺からも出てきています。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦2

但馬の古代寺院は中央や畿内からも影響を受けていますが、新羅や讃岐からの影響も受けているようです。つまり、「中央から地方へ」だけでなく「地方同士の交流」が頻繁に行われていたことがうかがえます。これは中央中心に語られていた古代史に、別の視点を与えてくれます。瓦を通じた交流については、その背後には、秦部氏の存在が見え隠れします。今回は弘安寺の瓦と但馬三宅廃寺の瓦を比較していくことにします。
テキストは   蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

三宅廃寺の軒丸瓦の中に無文の外区の中に、弁端の丸い9枚の単弁を飾るものがあります。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦3

この瓦は畿内の大寺院の系譜ではなく、地方起源とされてきましたが、その起源がどこかは分かりませんでした。それが讃岐からの影響を受けた瓦であることが分かってきました。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦4
左2つが三宅廃寺、右が徳島県の郡里廃寺(立光寺)のもの
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

まんのう町弘安寺の瓦で郡里廃寺と同笵瓦
三宅廃寺とまんのう町弘安寺の瓦の比較を行うと、弁の数が違いますので一目見て同笵ではないのは分かります。しかし、両者の間には断面形状や細部に共通点があると研究者は考えます。それを踏まえた上で、三宅廃寺の瓦が讃岐起源であることを指摘したのが上原真人氏です。
上原氏は讃岐極楽寺や弘安寺の細単弁軒丸瓦と三宅廃寺の関係を次のように指摘します。
①蓮子の配列
蓮子は2列もしくは3列に同心円状に配されることが多いが、 2つの型式は、方形あるいは格子状に配されるという特徴を持つ。
②花弁形状
 単弁に分類されるが、弁端の丸い花弁は中心が窪み、そこに端の九い子葉を一本配するもので、この時期に最も一般的な単弁形式である山田寺式とは異なり、弁の形状は川原寺式軒丸瓦の複弁を2つに分割したものに近い。
③間弁の形状
 間弁の両端は互いに連結して弁区を取り巻く形になっており、外側に傾斜して外区を形成する。鋸歯文を巡らせる場合は、この外区に大柄な文様を巡らせる。
④周緑の形状・・・・間弁の外周に低い平縁を巡らす。
⑤氾の立体感。・・・抱全体が凹凸の激しい作りとなっている。
⑥圏線の省略・・・・蓮子周環、中房圏線等の細部の作りを省略している。
以上から三宅廃寺と弘安寺の瓦は、どちらも川原寺式軒瓦の系譜から派生した単弁形式がベースにあると指摘します。さらに次のように述べています。

「祖型以来の花弁の印象をよく残している反面、細部の造りには省略が見られる」

 実際の木型製作過程では、造瓦工人の手間を減らすために省略が行われたというのです。周縁部や蓮子の配列は特徴的で、木型制作者とその工人集団の個性がうかがえるようです。それでは、この「省略」がおこなわれたのは、どこの工房なのでしょうか?

軒丸瓦の系譜関係を整理したのが下の第17図です。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺起源の軒丸瓦の系譜図

横軸X形式の変遷について、次のように研究者は次のように述べています。
①善通寺(KA101A)は川原寺式以降の複弁8弁蓮華文に花弁を分割して単弁16弁としたもので、3重の蓮子配列、三角縁の鋸歯文などは、その名残りである
②Xl(KA101A他)の蓮子を省略してX2(KA101B他)が作られた。
③X2の花弁内の子葉省略してX3(ZN101他)が連続的に作り出された
④X ll(TM105)については、X1~3の変化と比べると、蓮子数の減少、弁数の減少(15弁)など原型式との落差が大きく、田村廃寺の中でX3をもとにして作られた
縦軸Yについては
①Y1(KA102、GK101他)についてはXlの要素を改変して作り出したとする方向
②Y2(GK102他)がまず存在し、Xlの要素を取り入れて作り出した
どちらにしてもYlが作られた後、これを省略してY3(三宅廃寺出土瓦)につながっていくという流れになります。讃岐の軒丸瓦が但馬の三宅廃寺に影響を与えていることになります。

XY両形式ともに、Xl~X3、Y1.Y3には、形式の変化に次のような一定の規則性があります
①氾(木型)が連続的に変化する型式群
②文様の変化が固有の寺院内でのみ起きる形式群
これらの変化には、背後に改作した工人グルーの存在がうかがえます。
①は広い範囲での生産活動を念頭に置いて、組織的かつ継続に仕える木型が作られた
②は、①がもたらされた寺院で、そのコピー版瓦が作られた
次に研究者は、①のベースとなった木型を製作した拠点瓦窯がどこにあったを推測します。
①の工人をかかえる地域(寺院)を、X1とY1の両方の形式を持つまんのう町の弘安寺がまず候補に挙げます。さらに後継の型式を引き継ぎ、周辺寺院や瓦窯に瓦製品供給や、氾の提供を行なったことが確認できる善通寺と仲村廃寺を加えて、この3ヶ寺がグループのが丸亀平野の瓦工房の核であると研究者は指摘します。
善通寺の軒平瓦系譜
善通寺起源の平瓦の系譜
 同じように軒平瓦の展開系譜について見てみても善通寺、仲村廃寺の軒丸瓦だけが、扁行唐草文軒平瓦との共伴します。この2カ寺で、他寺に先がけて扁行唐草文形式が登場しています。ここからは平瓦の製造でも、善通寺を中心とする佐伯氏周辺の工人たちの活動が先行していたことがうかがえます。

善通寺の木型は他の寺院建立に貸し出された
善通寺・仲村廃寺グループが最初に使用した軒平瓦ZN203の木型は、 各地の寺や工房に貸し出されています。この木型は、奈良時代以降のものとされる善通寺出土の瓦と同笵の均正唐草文様平瓦で、土佐山田町の加茂ハイタノクボ遺跡からも出土しているので、その後もかなり長い期間にわたっていろいろな所を移動していることがうかがえます。
さらに、木型だけでなく工人も移動していたと研究者は考えているようです。
善通寺、仲村廃寺での瓦製造が最も早く、善通寺周辺を中心に工人集団の活動は継続します。その一方で、木枠を持って、各地へ出造りに赴いたと研究者は考えています。その裏付けは次回にするとして・・

 このように佐伯氏の元に工人集団が組織され、いくつもの木型が作られ、それがスットクされ、求めに応じて木型だけでなく工人の派遣にまで応じる体制ができていたことが浮かび上がってきます。中央からの技術提供や工人派遣という道だけでなく、当時の地方有力者は一族意識や地縁関係などで遠くの集団とも結びつき、人とモノとのやりとりを行っていたことが分かります。
 そのための交易路や航路を通じて、交易なども活発におこなわれていたことが推測できます。
 佐伯氏は、外港として多度津白方を交易港として瀬戸内海交易を活発に行っていた気配があることは以前にお話ししました。佐伯氏の財力の多くが、その瀬戸内海交易に支えられていたと考える研究者もいます。寺院建立に関する関係技術やノウハウも、佐伯氏の「交易品」の一部であったのかもしれないと私は考えています。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。
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まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦は、同じ木型(同笵)からつくられたものが次の3つの古代寺院から見つかっています。
① 阿波国美馬郡郡里廃寺
②さぬき市極楽寺
③さぬき市上高岡廃寺
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺が郡里廃寺のこと

上図を見れば分かるとおり、同笵瓦ですから同じデザイン文様で、同じおおきさです。ひとつの木型(同笵)が4つの寺院の間を移動し、使い回されてことになります。研究者が実際に手に取り比べると、傷の有無や摩耗度などから木型が使われた順番まで分かるようです。
 木型の使用順番について、次のように研究者は考えています。
①弘安寺の丸瓦がもっとも立体感があり、ついで郡里廃寺例となり、極楽寺の瓦は平面的になっている。
②彫りの深さを引き出しているのは弘安寺と郡里廃寺である
③さらに、両者を比べると郡里廃寺の瓦の方が蓮子や花弁がやや膨らんでおり、微妙に木型を彫り整えている。
以上から弘安寺 → 郡里廃寺 → 極楽寺の順で木型が使用されたと研究者は推測します。

この木型がどのようにしてまんのう町にもたらされて、どこの瓦窯で焼かれたのかなど興味は尽きませんが、それに応える史料はありません。
まずは各寺の同笵の白鳳瓦を見ていきましょう
弘安寺出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」
弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      阿波美馬の郡里廃寺の瓦 上側中央が同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、古代寺院建立者同士の何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ

  郡里廃寺の近くには、終末期の横穴式古墳群があります。
これが郡里廃寺の造営者の系譜につながると考えられてきました。さらに、その古墳が段ノ塚穴型石室と呼ばれ、美馬地域独特のタイプの石室です。墓は集団によって、差異がみられるものです。逆に墓のちがいは、氏族集団のちがいともいえます。つまり、美馬地方には阿波の中で独特の氏族集団がいたことがうかがえます。

段の塚穴

この横穴式石室の違いから阿波三国説が唱えられてきたようです。
律令にみられる粟・長の国以外に美馬郡周辺に一つの国があったのではないかというのです。段ノ塚穴は、王国の首長墓にふさわしい古墳なのです。
 しかし、美馬郡周辺のことは古代の阿波の記録にほとんど登場しません。東に隣接する麻植郡とは大きなちがいです。麻植郡は阿波忌部氏の本拠地として、たびたび登場します。しかし、横穴式石室では,規模,築造数などから美馬郡の方がはるかに凌駕する質と量をもっています。そういう意味では、 段ノ塚穴型石室は大和朝廷とはあまり関係のない一つの氏族集団の墓だったのかもしれません。ところが、その勢力が阿波最古の寺院である郡里廃寺を建立するのです。中央との関係が薄いとされる氏族が、どのようにして建立したのでしょうか。また、造営したのは、どんな氏族なのでしょうか?
この寺の造営氏族については次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②もうひとつは、讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  どちらにしても佐伯氏の氏寺だとされているようです。
ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。
「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 美馬の古代文明が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 しかし前回、まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説をお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏に建立された寺院です。
美馬郡の佐伯氏が讃岐の佐伯氏と、同族としての意識された氏族同士であり、古墳時代以降連綿と交流が続けられてきた氏族であるとすれば、阿波で最初の寺院建立に讃岐の佐伯氏が協力したとも考えられます。
 極楽寺は、さぬき市寒川町石田にあって、寒川郡や大内郡の有力な氏族であった讃岐氏の建立した寺院とされています。
讃岐氏は、このお寺以外にも石井廃寺、願興寺、白鳥廃寺などを建立したとされ、一族の活発な活動がうかがえます。発掘調査によって、単弁蓮花文軒丸瓦6型式が出土していますが。その中のGK101はGK102とともに初期のモデルのようです。
研究者は次のように指摘します。
「他寺の同笵瓦と比べると、平板的で粘土の抜きが十分でなく、 しかも間弁の部分では撫でて整えた印象があります。胎土には石英粒が混じっていて、須恵質の堅い焼き」

弘安寺同笵瓦関係図
弘安寺と同笵瓦の関係図

以上からは同笵の木型は、弘安寺で最初に使われ阿波郡里廃寺から
さぬき市の極楽寺へと伝わっていったことになります。それでは、弘安寺で木型が作られたのでしょうか? それだけの先進性を弘安寺は持っていたのでしょうか? 研究者は、そうは考えないようです。
上の図で弘安寺の瓦に先行する善通寺の瓦を見て下さい。同笵ではありませんが、共通点も多いようです。弁の数を減らし省略化し、製造方法を簡略化したモノが弘安寺の瓦だと研究者は考えています。つまり、この木型が作ったのは善通寺造営に関わった集団だったというのです。善通寺の瓦を祖型とする系譜を研究者は次のような図で表しています。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
ここからは善通寺が丸亀平野や東讃の古代寺院建立に、技術提供する立場にあったことが分かります。同時に瓦の木型を提供された側には、善通寺の造営者の佐伯氏との間に、なんらかの「友好関係」や「一族関係」があったことがうかがえます。
それでは、木型を提供した佐伯氏と提供された豪族間の緊密な関係は、どのようにして生まれたのでしょうか?
佐伯氏と因支氏等の場合は、多度郡と那珂郡というお隣関係で、丸亀平野一帯の開発や金倉川の治水・灌漑めぐる日常的な利害の中から生まれてきたものなのでしょう。それが、まんのう町への弘安寺建立になった可能性はあります。
東讃の讃岐氏などの旧国造家とされる有力氏族との関係は、前代以来連綿と続いた様々な交渉事の結果と推測できます。彼らは、白村江の敗北後の危機感の中で、屋島寺や城山の築城や南海道建設など、共通の目標に向けて仕事を進める立場に置かれました。その中で対立から協調・協力関係へと進んだ豪族たちも出てきたのではないでしょうか。
 阿波郡里廃寺の造営主体と見られる佐伯氏については、同族関係に加え、両地域の間で、弥生から古墳時代を通じて文化的交流がさかんであったことが挙げられます。

白鳳から奈良時代前期にかけての時期は、各地で寺院の建立が活発化した時代です。
 高い技術を必要とする造寺造仏のための人材や資材を、地方の造営氏族が自前で準備し、調達できたとは研究者は考えません。確かに飛鳥時代は、蘇我本宗家や上宮王家などに代表される政権中枢の有力氏族の下にだけ技術者集団が独占的に組織され、その支援がなければ寺院の建立はできませんでした。そのためかつては、瓦のデザインだけで有力豪族や有力寺院とのつながりを類推することに終始していた時代がありました。例えば、法隆寺で使われた瓦と同じデザインの瓦が故郷の寺院で用いられていることが、郷土愛を刺激した時代があったのです。
 しかし、7世紀中葉から8世紀初頭のわずか半世紀の間に400カ寺もの白鳳寺院が建立された背景には、 もっと複雑で多元的な動員の形態があったと研究者は考えるようになっています。 
 藤原京に建立された小山廃寺の造営に際しての動員について、近江俊秀氏は次のように指摘します。

瓦工は供給する建物単位で組織され、量の生産とともに解体される。さらに、個々の瓦工は同時期に生産を行なうのではなく、伽藍の造営順に従って、時期を違えて生産を行なうとしている。自前の工人が専従で造営に携わるので.建てものごとの速やかな動員によって建立がなった

これは多くの寺が密集し、幾通りもの工人集団が存在した畿内だからできたことです。地方豪族の佐伯氏が小山廃寺のようなスケールで工人を招集し、造営ができたとは思えません。しかし、善通寺周辺の工人の動向からは、地方にも工人や資材を準備し、供給する機能が整備されてきていたと研究者は考えています。瓦などの木型をはじめ供給する側と、される側の独自の繋がりのなかで地方寺院の建立が行われていたようです。
 もう少し具体的に云うと善通寺を建立した佐伯氏は、その時に蓄積した寺院建立技術を周辺の一族や有力豪族にも提供したということです。その木型が弘安寺 → 阿波の郡里廃寺 → 東讃の極楽寺などに提供され、使い回されたということでしょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで一      香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年
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 前回は、文献史料で弘安寺のことを知ることが難しいことを確認しました。弘安寺廃寺に迫るために残されたモノは、礎石と心礎跡と古代瓦の3つです。現在の考古学は、これらを材料にどのように迫っていくのかを追いかけて見たいと思います。テキストは「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です。

発掘調査報告書で最初に示されるのは、「周辺遺跡」と「復元地形」です。弘安寺周辺の遺跡を見てみましょう。

弘安寺周辺地遺跡図

①土器川を越えた東側に安造田古墳群があります。
この古墳群は後期古墳(6世紀代)に作られたものです。その中で「日本唯一のモザイク玉」が出土した安造田東3号墳は、6世紀末の飛鳥時代にできた短い前方部を持つ帆立貝式古墳です。
安造田三号墳モザイク玉調査報告会(まんのう町) - 善通寺市ホームページ
安造田東3号墳のモザイク玉
 
古代寺院の近くには、終末期の大型横穴式石室を持つ古墳がある場合が多いようです。例えば、善通寺王国では、大墓山古墳や菊塚古墳のように古墳後期の大型石室をもつ古墳を造営していた有力豪族(佐伯直氏)が、7世紀半ば以後に古代寺院を建立し始めます。
安造田東3号墳の調査報告書は、次のように記します。

古代における人々の活躍の場は、古墳や古代寺院の分布が示すように、九亀平野では満濃町北部が最奥とみられる。当地域には大規模な古墳の築造は行われておらず、弘安寺が羽間から長炭周辺に小規模な群集墳を築いた集団によつて建立されたと考えれば、この寺院の成り立ちは、この地の古代史を知る上で非常に興味深い。

  安造田東3号墳を造営した氏族集団が、弘安寺を建立したと考えているようです。しかし、古代寺院を建立するにしては、安造田東3号墳をはじめとする首長墓は小型です。 この財力でほんまに氏寺を建てられるのか?という疑問が私には残ります。
善通寺、仲村廃寺の周辺には、王墓山や菊塚古墳のような横穴式石室を持つ後期の大型首長墓があります。しかし、ここでは 安造田古墳群の延長線上に白鳳寺院の建立や、郡領氏族の形成が行なわれたというエリアではないようです。

 研究者が注目するのが古墳時代後期の集落跡、吉野下秀石遺跡です。
員 嚇 ・0 委 け

この遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、弘安寺の東500mに位置します。この遺跡からは、出土した14棟の竪穴住居の全てに竃があるという統一性が見られ、時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強い住居群ということです。この時期、地域の開発がにわかに活発化したことがうかがえます。同時に、時期的には安造田東3号墳の造営と重なります。
 吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の開発集団で、彼らのリーダーが日本唯一のモザイク玉」を持って眠っていた安造田東3号墳の首長というストーリーは描けそうです。急速な開発と変革がこの地で起こっていたとしておきましょう。

開発という視点から、 もう少し弘安寺の立地を考えてみよう
考古学的手法では「復元地形」を用います。つまり、当時の地形がどんなものであったのかを地質図などで復元するのです。そのセオリーに従って、地質図を見ると次のようなことが分かります。

弘安寺周辺地質図2
弘安寺廃寺周辺の旧河川跡
①土器川が、木崎を扇頂に扇状地を形成し、吉野には網状河川が幾筋にも流れている。
②吉野は土器川の氾濫原で、洪水時には遊水池で低湿地地帯であった。
③弘安寺は土器川の氾濫原の西側の扇状地上の微髙地に立地している。
土器川が吉野地区に湾入していた痕跡を現場で見てみましょう。
 丸亀市方面からほぼ真っ直ぐに南下してきた県道「善通寺ー満濃線」は、マルナカまんのう店付近で東へ大きく屈曲するようになります。これが旧土器川が西側へ湾入した流路のうちの、最もわかりやすい痕跡だと報告書は指摘します。それを裏付ける地名が「吉野」で「葦の野」 (湿地帯)だとします。また、この屈曲箇所付近に 「川滝」の地名があります。これも河川があったことをうかわせます。さらに、旧吉野小学校南側の県道の道路敷は蛇行しています。これも土器川の流路であったことを示すものだと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと「吉野」は「葦の野」で、洪水時には土器川の流路のひとつが流れ込み遊水池状態で湿地であったとしておきます。
次に金倉川を見ておきましょう。
 「カレンズ」ベーカリーの南に「水戸」があり、現在はここが満濃池用水の取水口となっています。金倉川の本流は、ここで大きく南西方へ直角に曲げられて象頭山方向に向かいます。一方、満濃池用水(旧支流)は直進して、満濃中学校の西側を通過した後に、祓川橋付近で土器川に近接するか、あるいは満濃中学校の南約250mから西へ湾流する状態を示しています。ここからは、、金倉川も土器川の吉野の湾入地域に流れ込んでいたことがうかがえます。つまり、吉野エリアは土器川と金倉川の二つの川の遊水池のような状態だったことになります。 このように吉野は、ふたつの川の影響を強く受けた地域で「葦の野」であったことがうかがえます。

吉野下秀石遺跡周辺は、条里制にもとずく規格性のある土地区画が試みられた痕跡が見られます。
旧満濃町役場西側の県道満濃善通寺線を基軸として、東方へ約200m間隔で設けられた直線状の土地区画が読み取れます。ただし、南北方向の区画線が不整いです。ここからは、吉野の条里制工事は開始されたが完成に至らなかったと研究者は考えているようです。
吉野下秀石遺跡報告書は次のように記します。
「本遺跡周辺は土地条件に恵まれた地域とは言い難く、むしろ大規模な耕地開発にはより多大な労力を要する地域」そのため
条里地割分布域の縁辺部に位置する」


弘安寺周辺の条里制復元図を見てみましょう。
弘安寺周辺条里制

これを先ほどの地質図と重ね合わせて見てみると次のようなことが分かります。
①土器川の氾濫原・遊水池である吉野エリアは条里制施行は施行されていない。
②ただ吉野地区にも条里制施行の痕跡は認められる。
③条里制が施行されているのは、四条エリアでその周辺縁に弘安寺は立地している。
④弘安寺は、四条や吉野の開発拠点に建立された寺院である。
先ほど見た吉野下秀石遺跡は、6世紀後半に開発が始まっていますが、7世紀末になって行われた条里制施行エリアには入れられていません。土器川の氾濫原の開発は、なかなか難しかったようです。吉野下秀石遺跡の西方約500mある弘安寺も、これとよく似た立地条件が類推ができると研究者は考えています。

弘安寺周辺を現在の丸亀平野の灌漑システムの視点から見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
③が吉野の水戸 満濃池用水の金倉川からの取水口
弘安寺は④の周辺

江戸時代の満濃池用水路を見ると、先ほど見た吉野の水戸が金倉川からの丸亀平野への取水口として重要な役割を果たしていることが分かります。近世の西嶋八兵衛の満濃池再建工事は、「満濃池築造 + 土器川・金倉川の治水工事(ルート変更と固定化) + 用水路網整備」の3つがセットで行われています。古代に満濃池が作られたとしたら同じような課題が、立ちはだかったはずです。満濃池の築造と灌漑網整備はセットなのです。いわば「古代丸亀平野総合開発」なのです。それを古代において後押ししたのは、国の進める条里制施行でしょう。
満濃池 水戸大横井
近世の水戸の取水口 手前が金倉川本流 向こう側が満濃池分水

 古代において、開発が早くから進んだ弘田川、金倉川流域では、しばしば氾濫に見舞われていたことが発掘調査からも分かってきました。これを押さえるためには、金倉川の水量調節が不可欠です。そのためにも上流の満濃池築造は大きい意味を持つことになります。9世紀初頭に、多度郡郡司の佐伯直氏が一族出身の空海の讃岐への一時帰還を朝廷に願い出ているのは、国の事業として満濃池の完成を図ろうとしたこと、丸亀平野全般の開発事業に関わっていたという背景があったのでしょう。満濃池が最初に姿を見せたのは8世紀初頭とされます。つまり、それ以前から佐伯直氏は、継続的にこの事業に関わっていたことがうかがえます。幼い真魚(空海幼名)も、一族の「丸亀平野南部開発総合計画」に奮戦する一族の活動を、見聞きしていたのかも知れません。

丸亀平野条里制と古代の満濃池水路
丸亀平野の条里制と満濃池用水網 ①が吉野の水戸


 以上から四条・吉野地区と佐伯氏の関係を、次のように推測しておきます。
①吉野下秀石遺跡に6世紀後半に、開拓集団を送り込んだのは佐伯直一族
②7世紀末の条里制施行時に、「吉野地区総合開発」を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
③9世紀に空海による満濃池再築を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
つまり、古墳時代後半以後、佐伯直氏は金倉上流域に対しても、その影響力を伸ばしていたのです。そして、吉野地区の水戸を押さえることで、金倉川の治水とその下流に新たな入植地を確保して、急速な開発を行ったと考えられます。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
      弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)

そういう視点で、弘安寺についてもう一度見てみましょう。
弘安寺の建立は7世紀後半の白鳳時代になります。それは、条里制施工工事が丸亀平野の一番奥の四条地区に及び満濃池が姿を現す直前です。これらの開発拠点地が、四条地区でした。四条地区は急速に耕地が拡大し人口も増えたことが予想されます。そのような中で成長した有力者が、本拠地の近くに建立したのが弘安寺廃寺だと私は考えています。
 その造営主体として考えられるのは、次のような氏族です。
①安造田東3号墳の首長系譜につながる一族
②善通寺の佐伯直氏が送り込んだ入植者集団(佐伯直氏の分家)
③佐伯直氏と姻戚関係にあった因首氏

①の場合にも、善通寺王国の緩やかな連合体の中にあったと思われるので佐伯直氏の支援があったことは考えられます。③の場合も、因首氏は那珂郡に多くの権益を持っていましたから、吉野・四条からの用水路整備には、佐伯氏と共通の利害関係があったはずです。佐伯直氏と因首氏の共同開発プロジェクトとして進められ、最後には空海を担ぎ出すことによって国営事業に発展させて完成させたとも考えられます。
 満濃池築造後は、用水路を含めて維持管理が大切なことは、残された近世の満濃池史料が伝えるところです。
古代も同様であったはずです。その満濃池管理の拠点の役割を果たしたのが弘安寺ではないのかと私は考えています。港の管理を僧侶が受け持ち、寺院が港の管理センターの役割を果たしたように、新たに作られた用水路を寺院に担当させるというのが当時のひとつのやり方でした。水戸の取水口管理や用水配分などは、弘安寺の僧侶が行っていたのではないかと思っています。
そういう意味では、弘安寺は遊水池であった吉野地区の開発センターであり、満濃池の管理センターでもあったと云えます。墾田私有令以後は、多くの開発田をもつ経済力のある寺院となり本寺の善通寺を支えたのかもしれません。

ちなみに、この開発計画のその後をうかがわせる遺跡も出てきています。
買 田 岡 下 遺 跡

 琴平の「西村ショイ」の南側のバイパス工事にともなう発掘調査が行われた買田岡下遺跡です。
買田岡下遺跡 地図

ここからは、平安時代の掘立柱建造物が同時期に20棟近くも並んでいました。
買田岡下遺 郡衙的配置
    買田岡下遺跡の準郡衙的建造物配置図 一番下

 出土遺品や建造物の並びからこれを「準郡衙」的な遺跡と研究者は考えています。丸亀平野の条里制の最南端地区で、どうしてこのような施設が出てきたのか不思議でした。しかし、弘安寺周辺で7~9世紀に行われていた開発プロジェクトからすれば、その延長線上に買田岡下遺跡の「準郡衙」が現れたということになります。

以上をまとめておくと
①丸亀平野の最奧部にあたる吉野地区は、扇状地の扇頂直下の網状河川部にあたり、洪水時には遊水池となる湿原地帯であった。
②そこに古墳時代の後期以後に、入植が進んだ。その首長たちが造営したのが安造田古墳群である。
③7世紀後半に、丸亀平野にも条里制施行が始まると四条地区の開発が本格化した。
④四条地区の有力者は、佐伯氏の支援を受けながら「四条・吉野総合開発計画」を進めた。
⑤それは治水・灌漑のための「満濃池築造・用水路網整備・土器川金倉川治水」であった。
⑥そのモニュメントして建立されたのが弘安寺であり、後には満濃池の管理センターの役割も担った。
⑦四条地区の条里制整備は進んだが、吉野地区は何度もの洪水の被害を受けて完成には至らなかった。
⑧弘安寺周辺の四条地区には、満濃池の用水路網を握り、丸亀平野南部を押さえる有力者の存在がうかがえる。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキスト
  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

弘安寺跡 薬師堂
まんのう町四条本村の公民館と立薬師堂
 まんのう町四条本村の公民館と並んで立薬師堂が祀られています。お堂は1mほどの土壇の上に方二軒で南面して建っています。

弘安寺 礎石1
弘安寺廃寺 礎石

土壇に上がって薬師堂の西側を回り込んでいくと、大きな石が置かれています。これが古代寺院「弘安寺」の礎石です。1937年のお堂改築の時に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあると云います。さらに裏側(北側)に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられています。
DSC00923
弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

これらの4つの礎石は移動されずに、そのままの位置にあるようです。礎石間の距離は2,1mです。

弘安寺 塔心跡
弘安寺廃寺(原薬師堂)の塔心(手水石)
 薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が手水石として置かれています。塔の心礎だったようで、中央に径55㎝、深さ15㎝で柄穴があります。この塔心は、この位置に移動されて手水石となっているので、もとあった場所は分かりません。塔があった所は分からないということです。薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があります。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と研究者は考えています。それは布目瓦が出土したエリアとも一致するようです。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区の条里方向とは一致しません。西に15度傾いています。ここから弘安寺は、条里制以前の白鳳時代に建立された古代寺院とされます。

弘安寺について書かれた文章を、戦前の讃岐史淡に見つけました。
讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
讃岐史淡
讃岐史淡は、琴平の草薙金四郎が1936年から1949年まで発行した郷土史研究雑誌です。それを3冊に復刻したものが刊行されています。これも私の師匠から「もっと、勉強せえよ」との励ましとともにいただいて、何年も「積読(つんどく)」状態になっていたものです。やっと開いて見ていて見つけたのが 「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」です。戦前に弘安寺のことが、書かれた文書はほとんどないので、読書メモ代わりに現代文に意訳変換してたものを以下にアップしておきます。
DSC00924
立薬師堂(まんのう町四条本村)
仲多度郡四條村弘安寺に就いて    田所眉東
愚息を見途り早めに琴平の定宿に入り、草薙金四郎氏を訪ねた。話が四條村の立薬師のことになって、翌日に立薬師に詣でた。立薬師は昔は弘安寺と云ったようである。この弘安寺は医王山浄願院城福寺の末寺となっているが、その際の昭和四年十二月十二日に、両寺の本末決定のための提出明細帳(同五年十二月廿五日許可)には、次のように記されている。
中に本尊薬師立像 行基作三尺六寸
口碑に依れば大同年間、弘法大師の創立弘安寺と称し往古七堂伽藍備はりたるも、天正年間長曾我部の兵火に羅り、遂に復興するに至らす小堂を備へ、本尊を安置したるを当山末寺なりし城福寺獨り存して維持し今日に及びたるものなり。
これ以外の立証資料として、
全讃史に 「弘安寺行基創立本拿薬師如来。今則慶篤小庵」
玉藻集には「薬師一宇方二間四條村弘安寺本箪行基菩薩作」
地元の伝えでは「大門観音堂あり。」
浄願院の文書中には、弘安寺のことが次のように記されている。
「薬師堂弐間四面瓦葺.薬師如来行基之御作、境内東西八間、市北拾間、右弘安寺前々より浄願院支配なきあり。」
「讃岐国中郡有西楽寺一宇改称医王院なり」
当山先師手数の書始めに臀王山西楽寺□□院大同二歳建立内伽藍八丁四方宛二御免地二有之候所 長曾我部燒討相成共後追々致断絶大同年中より寛文迄之累代先佳一墓ニ相約改宥存代寛文ニ城福寺浄願院興右有宥存代より中興一世給也当山先師年敷法印宥存  元禄七戊より百六拾七戊より百六拾五歳也
以上の記述については、浄願院と弘安寺を混同しているところがあり、正確なものではない。弘安寺は、もともとは境内方八町あったと伝わっている。
以上から分かるように、文献史料からは確かな手がかりを得ることはできない。弘安寺の遺物として確かなものは、本堂下の土壇や塔婆石のみである。
弘安寺は、後世には何かの事情で墓地になっていたようで、この墓地の南側に溝があり、それに添って小道がある。その南側に宅地(644ノ第二地番)があり、その間に自然の区画がある。
 これを伽藍配置の南限として、宅地(699地番)と畑地(648地番)の間の畦線と官地(642ノ内地番)の西側の道路の彎曲の頂点を南北に見通し、以上の並行線を北に延長じ道路696ノ8の地面)東北.西北両隅に近い道路の交又点を見通し、最も自然のままの彎曲線を見定め墓(648八)南添の道路と並行に東西に線を引けば、赤丸でかこんだ長方形のエリアを得ることができる。この範囲は東西両側線か40間になるので、南北両側線の長さも自然と決まる。そうすれば塔の土壇は、西塔が建っていた位置と推測できる。何んの伝説もないので、東塔はなかったようだ。そうすると墓地(648番地)辺りに、中門があったことになる。どちらにしても、塔の土壇を廻廊の内へ入れなければ伽藍配置は描けない。
 出土古瓦の文様から、弘安寺は「薬師寺式」を基本として計画したものであろう。
薬師寺食堂の調査(平城第500 次調査) 現地説明会 配布資料(2013/1/26)
薬師寺式伽藍

もとより田舎の事なので、建立にかかったものの、その一部だけしか完成しなかったのかもしれない。畑地(696ノ8)の北側まで、古瓦の破片が散見する。墓地(648)の南側道より約30間位南に離れた田地に大門の地名が残っているのが、南大門の名残であろう。これで弘安寺は平野の真ん中に、南面して建っていたことが分かる。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
出土した古瓦を見ておこう。
立薬師には甲・乙の2つの古瓦が残されている。甲は誰が見ても「白鳳期」のものである。乙は奈良期のものと云いたい所だが、今は平安初期としておこう。この二つの鼓瓦(軒丸瓦)を、突きつけられては、弘安寺は弘法大師によって建立されたとは云えなくなる。なぜなら弘安寺が姿を現したのは白鳳時代の7世紀後半で、空海が登場するよりも百年近く前のことになるからだ。大師が生まれる前に、この寺は出来ていた。大師建立など云うのは、大師の高徳を敬慕するよも勧進開山のためであろう。

 瓦の裏文様も種々ある。採取した瓦の破片の中には、奈良末期や平安中期のものもたくさんある。縄文様のものは、片面に布目もある。鎌倉時代の瓦はまだ出てこないが、室町時代末のものは、少数ではあるが出てくる。ここからは、この寺院が室町後期までは、なんとか存続していたことがうかがえる。

弘安寺礎石2
立薬師堂と礎石 古代の弘安寺の礎石がそのまま使用されている

土壇の上の塔礎石をもう一度見ておこう。
 礎石の中には元のままの位置にあって、その上に今も薬師堂の柱が載っているものもある。特に北側の4つの礎石の位置は、動かされていないようだ。両端の礎石の距離は15尺(約4、5m)ある。南側は、床下が暗くてよく分からない。その中の西側にある礎石は、東西径6尺南北径3三尺9寸で、これが一番大きい。その中央に今は手洗鉢となっている心礎があったのであろう。心礎以外には加工したものは、今のところ見当たらない。
弘安寺 塔心跡
手水石となっている塔心跡

室町末の唐卓瓦がわずかに出ているので、この寺院の廃絶時期が推察できる。
 弘安寺の廃絶は、長曾我部の兵火と文書史料は記すが、それは巷で伝えられる長曾我部兵火説と同じで事実ではない。弘安寺は何度も火災にあったことが、出てくる燒瓦から分かる。寺院の振興は、それを支える信者集団の有無にある。弘安寺は平安期には火災にあって、再建されている。しかし、鎌倉期には遺物が少なくなる。。ここからは寺運の盛衰がうかがえる。弘安寺には白鳳期の鼓瓦(軒丸瓦)がある。
 弘安寺からさほど遠くない所に讃岐忌部氏の祖神を祀る大麻神社が鎮座する。
その背後の大麻山には、積石塚古墳が数多く造営されている。これらの経済力を持った氏族が氏寺として弘安寺を建立したものと思う。このような豪族の勢力の衰退が中世になって衰退し、弘安寺が廃絶したと考える。

以上が約80年前の研究者の弘安寺廃寺に関する記述です。ここから読み取れることをまとめておくと次のようになります。
①文献史料には、弘安寺について記した同時代史料はない
②弘安寺廃寺の伽藍について、1町(108m)四方の大きさを想定
③塔は西塔だけで、現在の土壇上に建っていたと想定
④手水石は、かつての西塔の心礎でかつては、土壇上の礎石群の真ん中にあったものが、現在地に下ろされ手水石として利用されていると推測。
⑤出土した瓦から創建は、白鳳時代まで遡り、廃絶は室町時代末とされる。
⑥造営氏族は、大麻神社を氏神として祀る讃岐忌部氏を想定。

ここからは、文献史料からは弘安寺の歴史に迫ることはできないようです。考古学的な手法で迫るほかありません。 弘安寺の軒丸瓦については、以前にもお話ししたように、以下の古代寺院から出てきたものと同じ木型が使われていることが分かっています
①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺は美馬町の郡里廃寺のこと
次回は、この瓦を通して弘安寺の歴史に迫ってみましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」

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大仏造営 知識寺模型
知識寺復元模型 河内国大県郡
大仏造営という国家プロジェクトを進める上で、聖武天皇が参考にした寺があるとされます。そこには「知識」によって盧舎那仏の大仏が造営され、そして運営されていたので知識寺と呼ばれていました。その姿に感銘した聖武天皇が国家的な規模に拡大しての大仏造営を決意するきっかけとなったと云うのです。今回は大仏発願に、秦氏がどのように関わっていたのかを見ていきます。テキストは 大和岩雄 続秦氏の研究203Pです。
大仏造立の発端になったのが河内の知識寺です。    
聖武天皇が大仏造立を発願したのは、河内国大県郡の知識寺の盧舎那大仏を拝した後のことです。それを『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月二十七日条の左大臣橘諸兄の宣命には、次のように記します。
去にし辰年河内国大県郡の知識寺に坐す盧舎那仏を礼み奉りて、則ち朕も造り奉らむと思へども、え為さざりし間に、豊前国宇佐郡に坐す広幡の八幡大神に申し賜へ、勅りたまはく。「神我天神。地祗を率ゐいざなひて必ず成し奉らむ。事立つに有らず、鋼の湯を水と成し、我が身を草木土に交へて障る事無くなさむ」と勅り賜ひながら成りぬれば、歓しみ貴みなも念ひたまふる。

   意訳変換しておくと
去る年に河内の大県郡の知識寺に安置された盧舎那仏を参拝して、朕も大仏を造ろうと思ったが適わなかった。そうする内に豊前国宇佐郡の八幡大神が次のように申し出てきた。「神我天神。地祗を率いて必ず成し遂げる。鋼の湯を水として、我が身を草木土に交へてもどんな障害も越えて成就させると念じた。

「去にし辰年」は天平12年(740)年のことで、この年二月に難波に行幸しているので、その時に立寄ったようです。ここにはその時に、河内国大県郡の知識寺の虜舎那仏を見て「朕も造り奉らむ」と聖武天皇は発願したと記されています。

大仏造営 知識寺石神社の境内にある心柱礎石
石神社の境内にある知識寺の心柱礎石
盧舎那仏があった知識寺とは、どんな寺だったのでしょうか。
まず名前の「知識」のことを見ておきましょう。私たちが今使っている知識とは、別の概念になるようです。ここでは「善知識」の略で、僧尼の勧化に応じて仏事に結縁のため財力や労力を提供し、その功徳にあずかろうとする人たちことを指します。五来重氏は次のように指摘します。
「東大寺大仏のモデルとなった河内知識寺は、その名のごとく勧進によって造立されたもので、『扶桑略記』(応徳三年六月)には『長六丈観音立像』とあって、五丈三尺五寸の東大寺大仏より大きい。もっとも平安末の『日遊』には『和太、河二、江三』とあって、東大寺大仏より小さいが近江世喜寺(関寺)のより大きくて、日本第二の大仏であった」

 ここで「和大・河二・江三」と出てくるのは、次の通りです。
「和」は大和の東大寺
「河」は河内の知識寺
「江」は近江の関寺
この記述からも平安末には、知識寺の盧舎那仏も「日本第二の大仏」だったことが分かります。つまり、ドラゴンボールに登場する「元気玉」のように生きとし生けるもののエネルギーを少しずつ分けて貰って、大きなパワーを作り出し「作善」を行うと云う宗教空間が知識寺にはあったようです。そのコミューン的な空間と、安置された大仏に聖武天皇は共感し、国家的なレベルでの建設を決意したということでしょうか。
 「造法華寺金堂所解」(天平宝字五年(761)には、知識寺から法華寺に銅を十二両運んだことが記されています。
天平勝宝四年(752)4月9日に東大寺の大仏開眼供養を行っているので大仏造立の十年後のことになります。東大寺でなく法華寺の寺仏製作のために、知識寺から銅を運んでいます。ここからは知識寺は、金知識衆に依って銅や鋼や水銀などが多量にストックされていたことがうかがえます。

大仏造営 知識寺
南河内の知識寺(太平寺廃寺跡)
知識寺(太平寺廃寺跡)について、もう少し詳しく見ておきます。

  この寺は7世紀後半に茨田宿禰を中心とした「知識衆」によって創建されたと伝えられます。河内国大県郡(柏原市)の太平寺廃寺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘され、ここが知識寺跡とされています。知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石は、石神社に残されています。この礎石から推定される塔の高さは50mの大塔だったとする説もあります。知識寺は今はありませんが、その跡は柏原市大県の高尾山麓にあり、後に大平寺が建立されました。

知識寺のある高尾山麓は古墳時代以後に渡来系秦氏の定住したエリアで、秦忌寸・高尾忌寸・大里史・常世(赤染)連・茨旧連などの秦氏系氏族の居住地域です。「大里史」の「大里郷」は大県郡の郡家の所在地で、高尾山の西麓にあたります。
続日本紀』天平勝宝八年(756)1月25日条に、考謙天阜が大仏造立のお礼に知識・山下・人里・三宅・家原・鳥坂等の七寺に参拝したとあります。
『和名抄』の大里郷は「大県の里」の意で、志幾大県主の居住地です。『柏原市史』『大阪府の地名』(『日本歴史地名人系28、平凡社』は、大県主・大里史・赤染氏らを、この郷の出身者と記します。大里史は『姓氏録』は秦氏とします。三宅氏や三宅氏の祖新羅王子天之日矛と、秦氏・秦の民の間には深い関係があります。ここに三宅寺があるのも秦氏との関係なのでしょう。
 知識寺の南にある家原寺は観心寺の廃寺跡とされ、秦忌寸の私寺と推測されます。
家原寺の近くにはには五世紀後半から六世紀後半にかけて築造された「太平寺古墳群」があります。六世紀後半に築造された第二号墳の石室奥壁中央の二体の人物像が、赤色顔料で描かれています。この赤色顔料はこの地に居た赤染氏との関係を研究者は推測します。丹生などの水銀製錬技術者集団であったことがうかがえます。

大仏造営 知識寺地図2
 河内六寺 左北北 すぐ南に大和川が流れていた
このように河内六寺はすべて知識寺(柏原市太平寺)の周辺にあります。
五寺は秦氏系氏族か秦氏と関係の深い氏寺です。彼らは知識衆でも金知識衆であり、彼らの財力と技術が知識寺の盧舎那大仏造立の背景にはあったようです。この大仏を参拝して聖武天皇は大仏造立を決意したのです。そのため孝謙女帝も知識寺と知識寺を含む七寺に、大仏造立完成の御礼参りをしています。この知識寺のある地は、河内国へ移住してきた秦集団が本拠地にした大県の地になります。彼らが鉄工から銅工になって知識寺の盧舎那大仏を造り、その大仏を拝した聖武天皇が、さらに大きな慮舎那大仏造立の発願に至るというプロセスになります。
 朝鮮半島から渡来した秦氏の日本での本貫は、豊前の香春山や宇佐神宮の周辺でした。そこは銅を産出し、鋳造技術者も多く抱えていました。彼らが高尾山に拠点を構え、そこに当時の最先端技術で今までに見たことのないような大仏を8世紀初頭には造立していたようです。
渡来集団秦氏の特徴

ここまでをまとめておきましょう
①大和川が河内に流れ出す髙尾山山麓には、古墳時代から秦氏のコロニーが置かれた。
②彼らは様々は面で最先端技術を持つハイテク集団で、大規模古墳の造営や治水灌漑にも力を発揮してきた
③彼らは豊前の「秦王国」で融合された「新羅仏教 + 八幡神」の信者であり、一族毎に氏神を建立していた。
④その中には豊前での銅製法の技術を活かし「金知識衆」の力で造立された盧舎那仏大仏を安置する寺院もあった。
⑤その仏像と「知識」のコミューン力に感銘を受けたのが聖武天皇である
東大寺大仏建立の理由ー聖武天皇のいう「菩薩の精神」とは | 北河原公敬 | テンミニッツTV

聖武天皇がこの地までやってきたのは、どうしてなのでしょうか。

それは、信頼するだれかのアドバイスを受けてのことだったと思われます。研究者は、そこまで踏み込んで推察しています。
聖武天皇に知識寺参拝をすすめたのは、どんな人物なのでしょうか
秦忌寸朝元と秦下嶋麻呂の二人を研究者は考えているようです。

まず秦朝元について見てみましょう。
朝元は父の弁正が大宝二年(702)の遣唐船で入唐し、現地女性と結婚して中国で生まれたハーフです。父の弁正と兄の朝慶は唐で亡くなり、二男の朝元のみ養老二年(718)の遣唐船で帰国します。『続日本紀』養老三年四月九日条に、秦朝元に「忌寸の姓を賜ふ。」とあります。
 
『続日本紀 二』(岩波書店版)は補注で、次のように記します。
「(前略)朝元のみ、養老二年に帰国した遣唐使に伴われ、十数歳の時日本へ戻ったらしい。医術の専門家であるが、その修得は在唐中に行われたらしい。また中国生まれで漢語に堪能だったので、語学の専門家としても評価されていた」

父と兄を失ない、母国語も充分話せない15歳の少年が、帰国して1年の養老3年4月に「忌寸」の賜姓を受けています。これは異例です。3年6月に皇太子(後に聖武天皇)は、「初めて朝政を聴く」とあります。元正女帝から皇太子執政に移る3カ月前に、朝元が「忌寸」賜姓を受けていることと、その後の朝元の出世ぶりを見ると、聖武天皇の意向で、中国生まれの孤児の少年のすぐれた才能を見抜いての忌寸賜姓なのかもしれません。若き英才発掘を行ったとしておきましょう。
その後の秦朝元の栄達ぶりを追っておきましょう。
『続日本紀』の養老五年(721)正月二十七日条は、秦朝元が17歳で、すでに従六位下で、医術において「学業に優遊し、師範とあるに堪ふる者」と正史に書かれて、賞賜を得ています。
天平二年(730)2月には、中国語に堪能であったから、通訳養成の任を命じられ、中国語の教授になっており、翌年(731)には外従五位下に昇叙し、唐に赴き、玄宗皇帝から父の縁故から厚遇され、天平七年に帰国し、外従五位上に昇進しています。生まれ故郷の唐は朝元が少年時代をすごした地であり、二年間の滞在期間には皇帝にも会っています。天皇勅命での唐滞在が公務であったことは、帰田後に昇進していることが証しています。
 聖武天皇の寵臣であったことは『続日本紀』天平十八年(746)2月5日条に、次のようにあることからもうかがえます。

正四位上藤原朝臣仲麻呂を式部卿とす。従四位下紀朝臣麻路を民部卿。外従五位上秦忌寸朝元を主計頭

ここからは746年に朝元が図書頭から主計頭へ移動しているのが分かります。今で云えば部省から財務省の移動ということになります。この背景を加藤謙吉は、次のように推測します。

「秦氏が朝廷のクラ(蔵)と密接にかかわる立場にあつたことは間違いない。ただそれは秦氏が渡来系氏族に共通するクラの管理に不可欠の高度な計数処理能力を有することとあわせて、この氏がクラに収蔵されるミツキの貢納担当者であったことに起因するとみられる。すなわち朝廷のクラの管掌は、ミツキの貢納というこの氏の基本的な職務から派生した発展的形態として理解すべきであろう」

 非農民の秦の民(秦人)の貢納物は、秦氏を通して朝廷のクラヘ入れられます。
大仏造立にあたっては、大量の銅・水銀。金などの資材と、購入のための資金を必要としました。そのような重要な役職を任せられる能力を、秦氏出自の朝元がもっていたから任命されたのであろう。信頼する人物を抜擢して主計頭に就けたのでしょう。

聖武天皇が知識寺に行幸した740(天平12)年は、朝元が図書頭に任命された天平9年から3年後です。以上の状況証拠から秦氏らによる度合那大仏を本尊にした河内の大県にある知識寺を、聖武天皇に知らせたのは秦朝元と推測します。         

聖武天皇に知識寺行幸をすすめたと推測できる人物がもう一人います。秦下嶋麻呂です。
  聖武天皇は740年2月に河内の大県郡の知識寺を参拝し、その年12月に恭仁宮への新都造営を開始しています。『続日本紀』天平十四年(742)8月5日条に、次のように記されています。

「造官録正八位下秦下嶋麻呂に従四位下を授け、大秦公の姓、丼せて銭一百貫、 絶一百疋、布二百端、綿二百亀を賜ふ。大宮の垣を築けるを以てなり。

「大宮」とは恭仁官のことです。
 これを見ると秦下嶋麻呂は「大宮の垣」を作っただけで「正八位下の造宮録」から十四階級も特進して「従四位下」に異例の特進を果たしています。さら大秦公の姓も与えられています。垣を作ったということ以外に隠された理由があったと勘ぐりたくなります。他の秦氏にはない嶋麻呂の家のみに「大秦公」なのも特別扱いです。
嶋麻昌については、特進後の天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進しています。地震の際の恭仁宮の復旧にあたっていることが分かります。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったのでしょう。造宮にかかわる仕事が本職の嶋麻呂は、二年後の天平十九年二月に長門守に任命されます。この九月から大仏の鋳造が始まります。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
大仏造営長登銅山跡

 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。銅の産出国である長門に秦氏一族の嶋麻呂が長門守として任命されているのです。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂が長門守任命と研究者は考えているようです。
ここからは、天平十四年正月の「十四階級特進」という嶋麻呂の栄進も彼が秦氏で、大仏造立にかかわっていたことが背景にあることがうかがえます。以上のような状況証拠を重ねて研究者は次のように推測します。
 朝元は、中国で生まれ中国育ちだった。そのため、河内国人県郡の秦氏・秦の民らが「金知識」になって、盧舎那大仏を本尊にした寺(知識寺)があることは知っていても、天皇を案内するほど河内の秦氏系知識衆と親しくなく、地理も知らなかった。そのために河内国出身で友人であった造官録の秦下嶋麻呂に、天皇の案内と天皇の宿泊場所、また知識寺にかかわった地元の知識衆に対する交渉などを、朝元は嶋麻呂に依頼した。聖武天皇に大仏造立を決意させた知識寺行幸の功労者が嶋麻呂だったから、官の垣を作らせて、そのことを理由に異例の栄進と褒賞になった。
以上が知識寺の盧舎那大仏のことを天皇に知らせたのは朝元で、行幸の実行の功労者は嶋麻呂という説です。

朝元と嶋麻呂が聖武天皇の寵臣だったことは、次の事実から裏付けられます。
藤原不比等の次男の北家と三男の式家が、なぜか朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしています。当時最大の実力家で皇后も出す藤原本宗家の嫁に、秦氏の朝元と嶋麻呂の娘がなっているのは、2人が聖武天皇の寵臣であったことが最大の理由だと云うのです。
 喜田貞吉や林屋辰二郎は、藤原氏が朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしたのは、二人が巨富をもつ財産家だったからと推論しています。藤原氏が彼らの娘を嫁にした理由として、とりあえず次のふたつをあげておきましょう。
第一に二人が聖武天皇の信任の厚い人物(特に朝元)であったこと、
第二に朝元は資産がなくても主計頭として財務を握っており、嶋麻呂は秦氏集団のボスになっていたこと
朝元、嶋麻呂の朝廷に置ける位置と、秦氏の財力を見ると、縁を結ぶことは将来の藤原氏にとっては利益があると思ったからでしょう。それは大仏造立のプロセスで、秦氏と秦氏が統率する泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力を見せつけられたことも要因のひとつであったかもしれません。「この集団は有能で使える! 損はない」ということでしょう。

技能集団としての秦氏

  以上から聖武天皇の大仏造営については、その動機や実行段階においても秦氏の思惑や協力が強く働いていることを見てきました

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 大和岩雄 続秦氏の研究203P
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田村廃寺周辺図

丸亀市の百十四銀行城西支店の南側からは上図のように、古瓦が数多く採取されていて、寺院を連想させる「塔の本・塔の前・ゴンゴン堂(鐘楼)」などの地名も残るので古代寺院があったことは確実だとされていますが、伽藍の発掘調査は行われていません。そのような中で、20年ほど前に旧国道11号の拡張工事と、城西支店新築工事に伴う発掘調査が行われました。今回見ていくのは、黒いベルト地帯で城西支店の道路拡張部分に当たります。
田村廃寺 上空写真3

発掘現場は道路に沿った細長いエリアだったようです。それを北側と南側のふたつに区切って調査が行われました。発掘図面で、田村遺跡の変遷を見ておきましょう。記号区分は次の通りです。
SB:掘立柱住居・SA:柵列跡・SP:柱穴・SE:井戸・SK:土坑跡・SD:溝跡・SX:性格不明

田村廃寺 道路発掘エリア


このエリアから出て来たもので驚かされたのがSK03は梵鐘鋳造遺構です
 この土坑からは十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が一緒に出てきていますので、平安時代終わりごろにここで梵鐘が鋳造されたようです。SK03から読み取れることを挙げてみましょう。
①SK03は、田村廃寺の伽藍範囲内にあったこと
②鋳物技術者がやってきて「出吹」によって田村廃寺の梵鐘を鋳造したこと
③なんども梵鐘が作られた跡はなく、1回限りの操業であったこと
④土坑の大きさから、高さ60cm程度の小形の鐘であったこと
 田村廃寺から依頼を受けて、やってきてここで鐘を作った技術者集団とはどんな集団だったのでしょうか。この鐘が作られた古代末期は鋳物師集団の再編成が行われる「鋳造史における一大空白期」のようです。SK03はこの空白期の終わりごろにあたるようです。

田村廃寺 梵鐘鋳造図
  もう少し詳しく田村遺跡梵鐘鋳造遺構(SKO3)を見てみましょう。
①SK03は一辺約2mの方形で、深さ約70cmの土坑である。
②鋳造の終わった直後に埋められたこと
③埋土中から平安時代後期ごろの十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、この時期に梵鐘鋳造が行われ、廃棄された
④瓦類とともに梵鐘の鋳型が出土していて、ほとんどが外型の破片であること
以上から、ここで作られた梵鐘は高さ約60cmほどの小形のものと報告書は指摘します。
田村廃寺 梵鐘鋳造例3

構造についても見ておきましょう。
①鋳型を設置するための定盤と呼ばれる円形の粘土の基礎が良好に残っている
②定盤は高温の青銅に触れているため、黒色に変色している。
③定盤の中央には直径5cmの穴が開けられていて、鳥目と呼ばれる鋳型を固定するためのものであると、同時に鋳造の際に湯回りをよくするためのガス抜きの穴の役割もしていた
④定盤の東側の部分が崩壊しているのは、できあがった梵鐘を、鋳型を壊したあとに、一旦東側に傾け、そこから引っ張り上げたため
田村廃寺 梵鐘鋳造例5

各地の梵鐘鋳造遺構に目を向けてみましょう
①梵鐘鋳造遺構の最初の発見は、1963年に神戸市須磨区明神町で、梵鐘の撞座とみられる鋳型が採集されたのが最初
②1971年に福井県福井市の篠尾廃寺跡で竜頭の鋳型が出土していたが、最初は仏像の鋳型とされていた。それが梵鐘の鋳型と分かるのは1977年になってから。
③1980年代後半から各地で見つかるようになっているが、古代には畿内を中心とする地域に集中するのに対し、中世以降になると全国的に分布していく傾向がある
先ほども述べたように、古代から中世にかけての約2世紀間は、鋳造された梵鐘が極端に少なく、鋳造史における空白期間であるとされているようです。この期間に、河内鋳物師を代表とする鋳物師集団の編成と地方の職能民の活動が開始されたとされます。
田村廃寺 梵鐘4

梵鐘の鋳造のためには、鋳型を設置する土坑と、材料である銅を溶かす溶解炉が必要です。田村遺跡からは、鋳型を設置する鋳造土坑(SK03)は出てきましたが、溶解炉は出てきていません。しかし、南側の(SXOl・02)から大量の被熱した粘土塊および瓦類が出土しているので、これが溶解炉だったと研究者は考えているようです。
鋳造土坑の平面プランについては、古代においては一辺が約2mの方形OR隅丸方形で、中世以降になると不整形なものに変化していくとされているようです。この基準からすると田村遺跡のものは、鋳造土坑は古代の鐘に分類されることになります。
鋳造土坑の大きさや深さは、梵鐘の大きさに比例するので、いろいろです。一番大きいものは、奈良の東大寺境内から出てきた一辺が7m、深さ4m以上という巨大なものもあるようです。


梵鐘の鋳造には、10世紀後葉(977年鋳造の井上恒一氏蔵鐘)から12世紀中葉(1160年鋳造の世尊廃寺鐘)の約180年間が「空白の期間」とされます。それが終わりを迎えて新たな活動が始まる背景を挙げておくと
①現存する平安時代末~鎌倉時代にかけての梵鐘の大部分が河内系鋳物師の作品であること
②河内鋳物師を中核とした中世鋳物師組織の編成が12世紀後半に行われる
③このころから畿内および地方において、独自の鋳物師集団が新たに成立すること
これを「消費者」の面から見ると、次のような点が考えられます
①念仏や写経、経塚造営などに始まる勧進上人(いわゆる聖)の活躍
②末法思想の普及
③多くの階層の支持を得て、寺院や仏像の修造
④勧進聖によす橋梁・道路・港湾の改修や土地の開発
梵鐘の鋳造もこのような事業の一つとして組み込まれていたとされます。その時期が11世紀後半から12世紀ごろで、勧進上人の関与する事例が多いようです。
有限会社 渡辺梵鐘(渡辺梵鐘)・梵鐘製作・修理

以上を背景に、田村遺跡の梵鐘鋳造遺構を振り返ってみましょう。
田村廃寺で鐘が作られたのは平安時代後期です。まさにこの空白期間の終わりに近い時期にあたります。この時期には、まだ讃岐では独自に梵鐘を鋳造できるだけの技術・設備はなかったようです。そのため「出吹」が行われたのでしょう。この時期は河内系鋳物師が全国へ展開していった時期と重なります。こんなストーリーが考えられます。
①三野の宗吉瓦窯から藤原京へ宮殿用の瓦が船で運ばれていくの見える頃のこと(7世紀末)
②那珂郡の海岸線に近い微髙地に有力者の氏寺の建立が始まった。
③先行する佐伯の善通寺に学びながら三重塔をもつ田村廃寺が姿を現した。
④この地は那珂郡の湊である中津にも近く、港のシンボルタワーとしても機能するようになった
⑤田村廃寺の完成後まもなくして、古代のハイウエーである南海道が東から伸びてきた。
⑦南海道は鵜足郡の郡衙法勲寺(岸の上遺跡)と那珂郡の宝幢寺(郡家)と善通寺の郡衙(善通寺南遺跡)を一直線に結ぶ幅8mの「高速道路」であった。
⑧南海道に直交して郡境が引かれ、それに平行して条里制ラインが引かれた。
⑨各郡の郡司や有力者達は、これらの工事を割り当てられた。
⑩ところが田村廃寺や宝幢寺は、南海道が姿を現す前に出来上がっていた。
⑪そのため伽藍や参道方向が条里制の方向とはずれてしまうことになった。
⑫そこで財力のある善通寺の佐伯氏は、最初に建った仲村廃寺(伝道寺)に代わって、新たに条里制に沿った形で新しい寺院を建立した。これを善通寺と名付けた。
⑬財力のない宝幢寺や田村廃寺の檀那は、そのままの伽藍方位で放置した。
⑭田村廃寺を建立した一族は、中津を基盤として瀬戸内海交易でも利益を上げ、その後も何度も改修・瓦替え工事を行ってこの寺を維持した。そのため道隆寺や金倉寺とならぶ寺勢をたもつことができた。
⑮しかし、古代末になると次第に一族は力を失い、改修もあまりされなくなった。
⑯代わって寺を守ったのは勧進聖たちであった。塩飽を目の前にする田村廃寺は、瀬戸内海交易の拠点としても機能し、そこには多くの勧進(高野)聖達が寄宿するようになった。
⑰そして、かれらはこのてらのための勧進活動を行うようになる。
⑱その一環として、高野山からやってきたある高野聖の提案で新しく鐘楼を勧進で寄進することになった。
⑲高野聖のネットワークで呼ばれたのが河内の鋳物師達だった。
⑳当時、河内の鋳物師達は呼ばれれば積極的に地方に出て行って、現地で鐘を作ることを始めていた。そして、市場と需要と保護者さえいれば、そこにそのまま留まり、定住化することもあった。

以上、田村廃寺にも河内系鋳物師が出吹にやってきたという物語でした
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   田村遺跡1 2004年3月 県道高松丸亀線改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 


讃岐の古代寺院 法隆寺は、讃岐にどんな影響を与えたのか : 瀬戸の島から

壬申の乱前後の7世紀後葉~末葉になると、讃岐でも仏教寺院が姿を見せ始める頃になります。この時期の寺院の建立者たちは、首長層や郡司に任命されるような有力者です。丸亀平野周辺でその氏族を挙げると
①坂出の下川津遺跡を拠点とする勢力
②善通寺の佐伯氏の氏寺である伝導寺(仲村廃寺)・善通寺
③宗吉瓦工場を創業した丸部氏の妙音寺
④南海道に沿った那珂郡郡家の宝幢寺
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式伽藍配置と法起寺式伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦の系統の瓦類が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦が出てきます。田村廃寺も、前回お話ししたように創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは伽藍配置として、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

古代寺院の寺域のほとんどは、条里型地割の一町(約109m)を単位とします。そして、伽藍方向も丸亀平野条里型地割(N30°W前後)に沿った形で建立されています。しかし、条里型地割が行われる前に建立された寺院は、この基準に合わないものも出てきています。例えば、善通寺に先立つ佐伯氏の氏寺とされる伝導寺(仲村廃寺)では、ほぼ真北を指す伽藍配置で、丸亀平野の条里制とは一致しません。その後、伝道寺は奈良時代に消失し、あらためて南西500mの所に現在の善通寺を佐伯氏は建立します。この善通寺の寺域は条里型地割に沿っている上に、面積は216m×216mで4倍の広さになります。
 丸亀市の宝幢寺池にあった宝幢寺も、那珂郡郡家に近く南海道のすぐ北に建立されています。これも伽藍方向は伝道寺と同じように条里制地割ラインと一致しません。そして、田村廃寺の周辺の遺構である区画溝や掘立柱建物跡も真北を向いて作られています。つまり、条里制ラインとは合わないということです。
ここからは、田村廃寺の創建は、条里型地割工事が行われるよりも早かったということが想定されます。
丸亀平野で条里型地割の工事が開始されるのは、 7世紀末葉~8世紀初頭の時期とされます。地割は、まず南海道がひかれて、南海道を基準に郡界がひかれ、条里制もひかれたことが明らかにされています。鵜足郡と那珂郡、多度郡などの郡界線も南海道を基準にして直交方向にひかれています。そして、以前にお話ししたように四国学院大学構内遺跡・池の上(丸亀市飯山町)からは南海道の側溝とされる溝跡がでてきています。
 この南海道を基準とした土地区画である条里制は、国家側からしてみれば、班田収授法に象徴される各種税徴収の前提としての土地管理政策です。実際、少なくとも8世紀後半以降は、条里プランにもとづいて土地管理がなされていることも明らかにされています。
 その一方で、条里型地割の施行は耕作地のみならず、宅地や建築物の再編成をも促していることが分かってきました。新たに家を建てたり、寺を建てたりする際には条里制の方向に沿って建築せよという「行政指導」が行われていたようです。それが国家意思でした。
 伝道寺建立からわずかの期間で、条里制に沿う形で新たに善通寺を建立した佐伯氏は、地方豪族として国家意思に忠実であることを示そうとしたのかも知れません。これを時系列に並べて見ると次のようになります。
   ①妙音寺 → ②伝道寺(仲村廃寺)→③田村廃寺→④南海道・条里制工事 → ⑤善通寺

①②③は南海道や条里制の前に、すでに建立されていたことになります。
 稲木北遺跡からは、条里型地割工事の直後に作られた計画的に配置された大型建物跡群が出てきました。
これは郡衙的なレベルの建物群です。それまで宅地としては利用されていなかった所に、条里型地割工事が行われ、そして建てられています。これも「国家意思」に沿った「建築群再編成」の一端かもしれません。そして、田村遺跡からも、条里型地割の工事が行われてすぐに建てられた集落が出てきました。ところが、田村廃寺周辺に条里制施行後に建てられた建物は、条里制ラインには沿っていないのです。どうしてなのでしょうか? 国家意思への反逆を現しているのでしょうか? まさか・・・

田村廃寺周辺の条里制を見ておきましょう

田村廃寺周辺条里制
           丸亀平野の条里制

現在の⑥丸亀城がある亀山が鵜足郡と那珂郡の境界となります。那珂郡はそこから西に1条から6条まで条が続きます。多度郡と那珂郡の境界は真っ白で、条里制が実施されていません。これが旧金倉川の氾濫原とされます。
田村廃寺は那珂郡二条二十三里七ノ坪に位置することになります。
田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れ、空白地帯となっています。これは、平池方面から流れ込んでくる旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。さらに東側をよく見ると、蓮池にかけても空白地帯があります。しかし、ここは旧河道ではなく微髙地で、田村廃寺が立地していた所になります。どうして、田村廃寺のまわりは条里制の空白地帯なのでしょうか。

条里制が作られた後も、それに沿って建物が建てられなかったのでしょうか?
田村遺跡の土地利用の転換点は7世紀末葉だと報告書は指摘します。
その背景には、古代寺院である田村廃寺の登場があるようです。この前と後では大きく異なってきます。寺域内にある建物跡Ⅱ・Ⅲ群は、田村廃寺の創建と共に建てられた関連施設とします。そのため、田村廃寺に主軸方位をそろえます。
田村廃寺周辺条里制と不整合
          田村廃寺周辺の地割ライン
上図は、丸亀平野条里型地割と建物跡Ⅱ群(N20°W前後)・建物跡Ⅲ群(ほぼ真北)と方位が同じ地割を描き出したものです。ここからはつぎのようなことが分かります。
① 田村廃寺推定地には、真北を向く地割(点線部)がある。これが田村廃寺の寺域である。
② 建物跡Ⅱ群と同じ地割は、田村廃寺の北側にもある。
③ 丸亀平野条里型地割は、田村廃寺の寺域の北側にはない。(条里制空白部)
ここからは田村廃寺の北側には、丸亀平野の条里型地割とはちがう地割があること、その地割に沿って建物跡Ⅱ群は建てられていたことが分かります。そうすると田村廃寺の北側の地割は、建物跡Ⅱ群が建てられる前の7世紀末葉頃には出来上がっていたことになります。
 この地割りエリアを「田村北型地割」と報告書は名付けます。

田村北型地割 ・・・田村廃寺伽藍の北側で認められる、N20°W前後の地割

それでは田村北型地割は、いつ頃、どのような経緯で成立したのでしょうか
まず押さえなければならないことは、7世紀末葉というのは丸亀平野に南海道がひかれ、それを基準に条里型地割の施行開始時期でもあることです。つまり、田村廃寺が早いか、南海道の出現が早いかを、もう一度確認しておく必要があります。
①田村北型地割の成立が7世紀後葉以前に遡ることが確認されれば、この地割は条里型地割に先行する地割という位置づけになる。
②丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降であるならば、下川津遺跡と同様(大久保1990)、何らかの制約を受けたために、周囲の条里型地割とは異なった、いわば、変則条里型地割が作られたことになる。
これを明らかにするために、「まな板」の上に載せるのが次のような7世紀後葉以前の状況です。
①田村遺跡でから出てきた建物跡は、ばらつきが多く、田村北型地割との関連は想定できないこと
②極めて散在的に分布し、地割の規制を受けて配置されているような斉一性はないこと
ここからは、この時期に地割はなかったことがうかがえます。報告書は「現状では、田村北型地割の成立は丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降に求めるほかはない。」と記します。つまり、田村北型地割は条里制よりも早いとは云えないというのです。

一方、この調査からは、調査エリア内で7世紀末葉頃に建物跡配置上の再編成が行われていることが分かっています。そして、主軸方位等に向かって斉一性の高い建物跡群(建物跡Ⅱ群)が建てられています。これは、稲木遺跡・金蔵寺下所遺跡などで見られる「条里制工事を行った後の建築物の再編成」という現象と同じです。つまり、「7世紀末葉頃の土地利用上の画期」とは「地割施行に基づく集落の再編成」という点で、丸亀平野の各地で見られる現象なのです。それが条里制に沿ったものではなく、変則条里型地割(田村北型地割)に沿ったものだったのです。
  これを報告書は、次のように記します。
「田村北型地割とは、丸亀平野条里型地割が何らかの制約を受けることで生じた、変則条里型地割であると認識する。」

 以上から分かったことを整理しておきます
①丸亀平野条里型地割は、7世紀末葉頃には田村遺跡近辺で行われていた
②田村廃寺周辺では、「何らかの制約」を受けて丸亀平野条里型地割と異なる地割が作られたこと
「何らかの制約」とは一体何なのでしょうか。
それが田村廃寺の存在だと報告書は指摘します。
①主軸方位が真北である田村廃寺の伽藍配置
②N-30°W前後である丸亀平野条里型地割
これが同一平面上に置かれれば、どこかで不整合が生じます。不整合を解消するためには、地割の方位を変更させる必要がでてきます。もちろん、田村廃寺との不整合を無視し、新たな基準となる丸亀平野条里型地割を優先させることは出来たでしょう。しかし、条里制施行が行われたのは、田村廃寺が出来たばかりの時期でもありました。田村廃寺を建立した氏族にとって、田村廃寺へ続く参拝道は大きな意味を持っていたはずです。参道を重視するために条里制施行外エリアとして、田村廃止の伽藍に沿った地割を残した。その施行責任者は、この寺を建立した氏族にあったと私は思います。これが変則条里型地割(田村北型地割)の出現背景だと報告書は記します。

 7世紀に讃岐で行われた大規模公共事業を挙げて見ると次のようなものが浮かんできます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加して、いくことがヤマト政権に認められる道でした。郡司たちは、ある意味で政権への忠誠心を試されていたのです。綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城を築くことによって実力を示し、郡司としての職にあることで勢力を拡大していきます。三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯を操業させ、藤原京に大量の瓦を提供することで、地盤を強化します。善通寺の佐伯氏は、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示します。まさに、この時代の地方の土木工事は郡司や地方有力者が担ったのです。
 田村廃寺を建立したばかりの氏族に選べる選択肢は、次のどちらかでした
①佐伯氏のように新たな寺院を「国家意思」の条里制ラインに沿って建立する
②田村廃寺周辺は、条里制ラインとはちがう「変則条里型地割」にして、参道を維持する
そして、取られた選択は②だったと報告書は考えているようです。

     
丸亀平野の古代の建物跡群は、条里制ラインがひかれる7世紀後葉以前と7世紀末葉以後とでは建築者の意識が大きく異なることがうかがえます。条里制がひかれる前の建物跡は、その軸をそろえる意識があまりありません。しかし、南海道が走り、条里制が敷かれる 7世紀末葉頃からは、向きを揃えるようになります。これは、ある意味では「国家意思」が目に見える形で住民にまで及んできたと云えます。これもひとつの律令国家の出現の形なのかも知れません。
まとめておくと
①南海道・条里制の出現以前は丸亀平野では建築物の向きはバラバラであった
②それが南海道通り、条里制が施行されると、それに沿ったように建築物は建てられるようになる③そこには条里制工事が終わると、その更地に条里制に沿った公共建築物群が建てられるという「建築物の再編成」さえ行われている。
④このため郡司なども氏寺や居館は、この条里制ラインに沿って建てるようになる。
⑤しかし、南海道が現れる前にすでに建立されていた寺院は周囲の条里制と不整合ラインができていまった。

古代那珂郡には次の3つの古代寺院があったとされます。
①田村廃寺(丸亀市田村町)
②宝幢寺跡(丸亀市郡家町)
③弘安寺(まんのう町四条)
②③は塔の心礎や礎石が動かされずにそのまま残り、だいたいの伽藍範囲も想像することができます。しかし①の田村廃寺は、私にはなかなか見えてこない古代寺院です。
田村廃寺鴟尾

田村廃寺跡とされるエリアからは、白鳳時代の瓦、塔楚、鴟尾などがでてきていますので、古代寺院があったことはまちがいないようです。しかし、正式な発掘は行われてないようです。そのためきちんと書かれたものはみたことがありませんでした。
 図書館で発掘調査書の棚を眺めていると「田村遺跡」と題されたものが3冊ほど見つかりました。その中から今回は、丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築の際の発掘調査報告書を見ていきたいと思います。タイトルはなぜか「田村廃寺」ではなく「田村遺跡」です。廃寺跡が直接に発掘されたようではないようです。どんなものが出てきて、何が分かったのかを見てみましょう。

いつものように復元地形から見ていきます
田村廃寺周辺地質津

 田村廃寺のある辺りは、土器川と金倉川が暴れる龍のように流れを幾度も変えながら形成された沖積地です。土器川と金倉川は流路が定まらず、たびたび変化していたことが、グーグルや地図からもうかがえます。田村遺跡のすぐ東側にも旧河道の痕跡があり、蓮池はこの旧河道上に作られています。

田村廃寺周辺条里制

 また、田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れています。これも、旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。この東西のふたつの旧河道に挟まれた田村遺跡は、中州状の微高地上に立地したことが推測できます。これを裏付けるかのように、田村遺跡周辺では、集落跡が緩やかな「く」の字状を描き、南北に細長く分布しています。これは蓮池の基であつた旧河道によって形成された自然堤防の上に、住居が築かれてきたことを示しているようです。

田村廃寺全景
右手空き地が城西支店 正面に丸亀城
田村廃寺の想定伽藍範囲を地図で見ておきましょう。
  報告書は廃寺に関係ある地名を挙げて、地図上に落として次のように示してくれます。

田村廃寺伽藍周辺地名
 田村町字道東一七四七番地に「塔の本」             
 田村町字道東一七五〇番地に「瓦塚」
 田村町字道東一七五五番地に「ゴンゴン堂」(鐘楼?)
 田村町字道東一六五三番地に「塔の前」
 田村町字道東一六五六番地に「舞台」
 田村町字道東一七一八番地に「塚タンボ」
  この地図からは田村廃寺は、城西支店の南側に、塔があり、伽藍が広がっていたことがうかがえます。
田村廃寺瓦1

この付近からは、白鳳時代から平安時代にかけての、八葉複弁蓮花文軒丸瓦や、十二葉・十五葉細弁蓮花文軒丸瓦、布目平瓦などが採集されています。発掘されていないので伽藍配置は分かりませんが、周辺の古代寺院と同じ規模の方一町(109m)の寺域をもっていたとされます。丸亀平野の条里復元図をみると、田村廃寺は那珂郡二条二〇里七ノ坪に位置することになります。

田村廃寺跡と道路を挟んであるのが 田村番神社です。
甲府からやって来た西遷御家人の秋山氏が法華信仰に基づいて、田村廃寺跡に日蓮宗の寺院を建立し、その番社(守護神)として三十番社をお寺の西北に勧進したと伝えられる神社です。この神社については以前にお話ししましたので、深入りしませんが、この境内には大きな手水石があります。これは、明治35(1902)年ころ、この南方の耕地から掘り出されたと伝えられます。塔の心礎のようです。

田村廃寺礎石

 この礎石は、楕円形の花降岩の自然石で、高さ約82㎝、上部は縦約135㎝、横約120m、下部は縦約220m、横約188mの大きさで、上面ほぼ中央に、直径45㎝、深さ約6㎝の柱座が彫られています。柱座の大きさから、塔は三重塔だったのではないかと説明案には書かれています。この塔心礎は、発見されたときには番神祠から南の当時の四国新道東側に移されて、石灯寵の台石に使用されていました。今は、田村番神祠境内に移されて、手水鉢として使用されています。

田村廃寺塔心礎説明版

 この礎石があったのが先ほどの地図で見た「塔の本」あたりになるようです。この心礎の上に三重塔が建っていたとしておきましょう。
田村廃寺 出土瓦一覧

城西支店の発掘調査からは、6つのタイプの軒丸瓦が出てきています
城西支店の敷地は、伽藍の北端にあたるようです。築地塀が出てきたことが寺の北限を示します。ここからは修築に伴って、それまで使用されてきた瓦の廃棄場所になっていたようで、多くの瓦が出てきています。出土した瓦を6つに分類した観察表です。
田村廃寺 軒丸瓦出土瓦一覧

報告書は、以下の表のように時代区分します

田村廃寺軒丸瓦古代
TM102 八葉複弁蓮華文軒丸瓦は中房が大く、彫りの深い複弁を巡らせ、周縁は三角縁で素文である。中房は1+8+4の蓮子をもつ。白鳳期

田村廃寺 軒丸瓦2
TM103八葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁が三角縁となり線鋸歯文をもっている。奈良時代初期
TM107十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦 胎土はやや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期
田村廃寺 軒丸瓦3
TM105一五葉細素弁蓮華文軒丸瓦。TM107を反転した文様であり、この退化型の文様で奈良時代と考える。
TM108六葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁素文で蓮弁は平坦化し花弁の仕切り線を持たない退化傾向
TM106十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦。田村廃寺の最終期の文様瓦と考えられ、遺物から10世紀頃までと推定される。
これらの軒丸瓦と軒平瓦、平瓦がどのようなセット関係で使われていたのかを次のように報告書は記します。
Ⅰ期は白鳳期で、 
I期aは重圏文軒丸瓦TM101
I期bは八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102と二重弧文軒平瓦1201、平瓦は斜格子(方形)の叩きTM401A、丸瓦は行基葺き瓦がセット関係
  Ⅱ期は白鳳期末から奈良初期で、 
Ⅱ期aは、八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103と平瓦はTM402A・BとTM403Al、丸瓦は玉縁のある丸瓦がセット関係にあたる。
Ⅱ期bは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文軒二瓦TM202、平瓦はTM401BとTM401Cがセット関係。
私が気になるのは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文妻平瓦TM20です。

善通寺同笵瓦 傷の進行
善通寺Z101と同笵木型で作られた瓦に現れた傷の進行状況

 十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107は、善通寺出土(Z101)と同笵で白鳳期末とされます。よく見ると、善通寺の瓦と比べると傷が大きくなっています。木版の痛みが使用に耐えかねて傷みが進行しているのです。それにもかかわらず使い続けています。
使用順は、善通寺の瓦より後に、田村廃寺の瓦は作られたことになります。そして、田村廃寺で使われたのは奈良時代初期と研究者は考えているようです。ちなみに、この木型はこのあと土佐の秦泉寺に運ばれて、そこでの瓦造りに使用されています。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯(三野町)
 瓦技術者集団が善通寺創建が終わった後に、田村廃寺にやって来たのでしょうか。それとも善通寺周辺の窯で焼かれたものが運ばれてきたのでしょうか。善通寺には三野の宗吉瓦「工場」から運ばれたものも使われていたようですが、ここでは三野から運ばれた瓦は出てこないようです。
宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦
 以前にお話したように、讃岐の古代寺院建設のパイオニアは三野郡丸部氏による妙音寺です。この瓦は三野町の宗吉瓦窯で焼かれています。同時に、宗吉瓦窯は鳥坂を越えた善通寺にも瓦を提供しています。そうしながら藤原京の宮殿の瓦を焼く最新鋭の瓦大工場へと成長して行きます。瓦を提供した丸部氏と提供された善通寺の佐伯氏は「友好関係」にあったことがうかがえます。それでは、田村廃寺を建立した氏族とは、どんな有力者だったのでしょうか? 一応、因首氏を第1候補としてしておきましょう。

1 讃岐古代瓦

 道草をしてしまいました。話を元に戻します。
Ⅲ期は奈良時代で、十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM105と平瓦TM403A2とTM403Bl・B2がセット関係にある。特に平瓦TM403BlとB2の出土量は多い。

Ⅳ期は奈良時代から平安時代で、六葉複弁蓮華文軒丸瓦TM108と平瓦TM403A3・A4が対応する。寺院の捕修瓦と思われる。

V期は平安時代で、十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106とTM403B3・B4・B5が対応する。セット関係にある軒丸瓦・丸瓦・平瓦はいずれも小型化する。平瓦の出土量が多い。10世紀代の瓦とみている。

以上を整理しておきましょう
①田村廃寺は、白鳳期に重圏文軒丸瓦TM101や川原寺式の八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102、二重弧文軒平瓦TM201によって中心伽藍が整備された。
②白鳳期末から奈良時代初期にかけて、補修瓦として八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103や善通寺から十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107や扁行唐草文軒平瓦TM202が搬入された。
③この瓦の文様に影響を受けた十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM104が田村廃寺独自の文様瓦として展開し寺域内が整備された。
④この間の補修瓦として六葉蓮華文軒丸瓦TM108等がある。
⑤衰退期を経て十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106を使って田村廃寺が再興される。
13世紀頃には廃絶した
宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原寺式軒丸瓦
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式か法起寺式の伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦がよく出てきます。田村廃寺も創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

白鳳時代の7世紀末に姿を見せた田村廃寺は何度もの修復を受けながらも10世紀には一時衰退しますが、その後に再興され13世紀に廃絶したようです。古代の寺院は氏寺として建立されます。パトロンである建立氏族が衰退すると、氏寺は廃絶する運命にありました。13世紀と云えば古代から中世への時代の転換期です。平家方の拠点であった讃岐には、源平合戦の後は「占領軍」として数多くの西遷御家人たちがやってきます。その中に、三野郡の日蓮宗本門寺を拠点とする秋山氏がいました。秋山氏は、三野に拠点を構える前は、那珂郡に一時拠点を置いたとされます。
『仲多度郡史』『讃岐国名勝図会』などには、
「田村廃寺の跡に、弘安年中に来讃した秋山泰忠が、久遠院法華寺を建立したが、正中二年(1325)、故ありて三野郡高瀬郷に移し、高永山久遠院と号し、法華寺また大坊と称して今も盛大なり」

とあります。古代寺院の遺構跡に日蓮宗のお寺を秋山氏が建立したというのですが、この伽藍跡からは鎌倉時代の古瓦は出てきません。

以上をまとめておくと
①田村廃寺は、東を蓮池を流れていた旧土器川と、西側を平池を流れていた旧金倉川に挟まれた微髙地の上に建立された。ここには弥生時代からの集落の痕跡が残されている。
②出土した瓦からは白鳳時代(7世紀末)に建立され、13世紀に廃絶したことが分かる。
③その間に何度も瓦の葺き替え作業が行われており、修復が繰り返されている
④瓦の一部は、善通寺との同版瓦があり佐伯氏との関係がうかがえる。
⑤伽藍配置は分からないが、百十四銀行城西支店の建物から北側の築地塀が出てきたので、ここを北限とする108m四方が伽藍と想定される。
⑥「塔の元」「塔の前」という地名が残るので、この辺りに塔が建っていたことが想定できる
⑦塔の礎石もこのあたりから明治に掘り出され、今は番社の手水石となっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   田村遺跡 丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築にともなう発掘調査報告書
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岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の法勲寺と岸の上遺跡(郡衙?)の位置関係
   七世紀後半は、全国各地に氏寺が造営され、急速に仏教が各地に広まっていった時期です。
丸亀平野を見ても、古代寺院が次のように登場してきます。
     寺院名 建立者  郡衙遺跡候補
①鵜足郡 法勲寺  綾氏?    岸の上遺跡(飯山町)
②那珂郡 宝幢寺 不明   郡家周辺(不明)
③多度郡 仲村廃寺(善通寺)佐伯氏         善通寺南遺跡
④三野郡  妙音寺 丸部氏         不明
と、今まで見たこともないような甍を載せた金堂や、天を指す五重塔が姿を見せるようになります。仏教が伝来してから約1世紀を経て、仏教は讃岐でも受けいれられるようになったようです。しかし、この時期の地方寺院は、郡司層を中心とする有力豪族が造営した氏寺で庶民が近づくことも出来なかったようです。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
正倉が何棟も出てきて鵜足郡衙の可能性が高い。はるかには善通寺の五岳が望める
 讃岐の地方豪族は、どんな信仰をベースにして仏教を受けいれたのでしょうか。今回は、地方豪族の仏教受容について、見ていくことにします。
 仏教は、祖先に対する追善供養という形で、この国では受容されました。それは中央の蘇我氏と物部氏の崇仏排仏論争を見るとよく分かります。仏は「蕃神」、すなわち外来神として認識されていたようです。この時点では、仏教の難しい教理は問題にされません。例えば、仏像についてもいろいろな仏像が造られますが、当時の人々が阿弥陀像と薬師像、観音菩薩像のちがいを理解していたかと問われると疑問です。
 このことは仏像だけでなく、寺院においても同じです。戦後の発掘で、わが国最初の寺院である飛鳥寺の塔跡の心礎から出てきたのは、武器・武具・馬具です。これは、古墳の石室から出てくるものと変わりありません。最新の技術を用いて建てられた五重塔は、古墳に代わる埋葬施設として捉えられていたことがうかがえます。
 寺院が祖先信仰と結びついて建立されていることについては、『日本書紀』推古天皇二年(594)二月丙寅朔条に、次のように記されています。
詔二皇太子及大臣丿令興隆三宝是時、諸臣連等各為二君親之恩競造二仏舎丿即是謂寺焉。
  意訳変換すると
皇太子や大臣に三宝(仏像・仏典・僧侶)を敬うように勅が出され、諸臣連たちは基礎祝うように、「君親之恩=祖先供養」のために競うように仏舎を建立した。これが寺院である。

 ここで注目したいのは「諸臣連等」が競って、寺院を造営する目的です。
それは「為二君親之恩」で「祖先供養」のためだというのです。飛鳥での寺院建立も、当時は氏族の祖先信仰に基づいて行われていたことを押さえておきます。
 祖先崇拝のために建立された寺院は、氏寺として子孫が寺を管理し、祈りを捧げることになります。蘇我氏の法興寺に、馬子の子善徳が寺司となっているのは、その例でしょう。同じように『日本霊異記』下巻第二十三話には、大伴氏の寺院建立が次のように記されています。
 大伴連忍勝者 信濃国小県郡嬢里人也 大伴連等 同心其里中作堂 為二氏之寺 忍勝為欲写二大般若経一発願集物一 剃二除鬘髪著二袈裟 受戒修道 常二住彼堂 
 
意訳変換しておくと
 大伴連忍勝は信濃国小県郡嬢里の人である。大伴連一族は、その里に堂を作り氏寺とした。忍勝は大般若経を書写することを発願し、剃髪し袈裟を付け、受戒修道し、常にこの堂に住むようになった。
ここからは、信濃の大伴氏の一族が「氏之寺」を建立し、大伴連忍勝が僧侶となったことが分かります。巨費をかけて作った寺院は、一族の財産でもあります。当然、一族の者が管理することになります。そして、寺院が一族結集の場にもなっていきます。檀越が一族であることは、蘇我氏と法興寺(飛鳥寺)の場合と同じです。
飛鳥と讃岐も、寺院の建立の目的は同じであったと考えられます。
祖先信仰とは、一族の繁栄を祖霊に祈願する信仰でもあります。
当然、その一族の長に当たるものが祀るべき地位にあった方が何かと都合は良かったのでしょう。これらの史料からは、仏像も寺院も、それまでの先祖供養や祖先信仰と深く結びついていることが分かります。そのやり方は、いままでの祖先崇拝に仏教のもつ追善供養という側面を重ね合わせ形で行われたようです。
 古代の豪族層は、どうして祖先信仰を重視したのでしょうか。
 高取正男氏は、このことについて次のように述べます。

「固有信仰の祖型として抽出されている死霊と祖霊の関係とは、死者の霊魂は死んでから一定の期間中はそれぞれの個性を保って近親者に臨むが、一定の期間を過ぎると個性を失ってしまう。そしてその後は漠然とした死者霊の没個性的な習合体としてのいわゆる祖霊に組み込み、その繁栄を保証するものとなる。」

 つまり、地方の豪族達は、自分につながる父や母などの霊を先祖霊に組み込みながら疑似共同体意識を養って、団結のきずな(精神的紐帯)としてきました。そこに、伝統的な神祇信仰ではなく、蕃神の仏教が新たに用いられることになったようです。
 その要因は、いくつか考えられます。その一つはこの国の人々の「外来の新規なものへの好奇心と崇拝」かもしれません。金色に輝く仏像や、甍を載せた朱色の仏教伽藍は宗教モニュメントは、彼らの心を惹きつけるものだったでしょう。弥生時代の先祖が光り輝く青銅器を祭器とし、卑弥呼が鏡を愛したように、白鳳人は仏像を愛したとしておきましょう。仏教にはいままでの日本の神々を越える宗教的な呪術力があると思うのは当然かも知れません。讃岐の豪族の仏教受容も、こんな背景の上にあったと私は考えています。しかし、仏教受容はこれだけが理由ではありません。
1日本霊異記

『日本霊異記』には、地方寺院の建立に関する史料が載っています。ここでは、伊予と讃岐の史料を見ておくことにします。

② 上巻第十七縁には、伊予の越智氏の氏寺建立の経緯が次のように記されています。
伊予国越知郡大領之先祖越智直 当為救百済・ 遣到運之時 唐兵所福 至其唐国・ 我八人同住洲 偉得ニ観音菩薩像・ 信敬尊重 八人同ン心 窃裁二松本・以為二一舟・ 奉謂二其像 安二置舟上 各立二誓願・ 念二彼観音・ 是随西風・ 直来筑紫 朝庭聞之召 間□状 天皇忽衿 令中所レ楽 於ン是越智直言 立郡欲仕 天皇許可 然後建郡造寺 即置二其像・(以下略)

意訳変換しておくと
伊予国越知郡大領の先祖は越智直である。彼は百済救援軍の一員として朝鮮半島に従軍し、敗れて唐軍の捕虜となり、唐に連行された。そこで観音菩薩像に深く帰依するようになった。帰国の際には、その観音像を船上に安置し、無事に帰国できるように誓願し、観音像に念じた。そのためか西風に恵まれ筑紫に着くことができた。これを聞いた朝廷は彼を召して、天皇直々にねぎらった。越智は直言し、新たな郡が欲しいと願うと、天皇はそれを許した。そこで、新郡作り、寺を建て、観音菩薩像を安置した。
  ここからは越知氏の祖先が捕虜となっていた唐から観音菩薩を持って帰国し、新たに郡を作り郡司となり、氏寺を作り観音菩薩を本尊としたことが記されます。これが古代伊予の有力豪族となる越智氏の由来になります。
1田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)

「下巻第二十六縁」には、讃岐三木郡の田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)が登場します。
意訳変換したものを、見てみましょう。
三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺?)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたもの帳消しにしたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取った。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、三木寺や東大寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。しかし、ここからは、仏教が地方の豪族層に浸透している様子がうかがえます。

古代讃岐三木郡

 広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。
ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。
彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。
夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。現在の始覚寺本堂の前に,塔の礎石が残っていて、その上に石塔が据えられています。

整理すると、小屋県主宮手=三木郡の郡司で、その氏寺が三木寺であったと云うのです。そこに嫁いでいったのが広虫女ということになります。
 例えば、善通寺周辺を見ると、付近に郡衛遺跡や有力な古墳(群)があります。
これらを作ったのは空海の祖先である佐伯氏と考えられます。その延長線上に、仲村廃寺や善通寺も建立されたのでしょう。多度郡でも「地方寺院は郡司層を中心とする地方豪族によって建立された」と云えるようです。特に三木寺のように、郡名と同じ名前をもつ「郡名寺院」は、郡司層による建立と考える研究者が多いようです。さらには、郡司の建立した寺院が国分寺に転用された例も報告されています。

四国学院側 条里6条と7条ライン
多度郡衙跡とされる生野本町遺跡

  最近の丸亀平野の発掘調査からも、法勲寺周辺からは、正倉群を伴い鵜足郡の郡衙跡と考えられる岸の上遺跡や、善通寺の南からも多度郡衙跡とされる遺跡が発見されました。ここからも7世紀後半から建立された寺院の建立者が郡司層を中心とする地方豪族であるが分かります。
 郡衛遺跡の近くにある寺院は、「郡衛」と密接な位置関係にあることから、これらの寺院が「評・郡衛」の公の寺(郡寺)としての性格を持っていたとする説も出てきました。しかし、地方寺院が公的な性格を持つかどうかについては意見の相違があるようです。地方寺院の性格を「氏寺」と考えるか「郡寺」と考えるかということになります。
 考古学の立場からは、次のように説明がされているようです。
  「地方豪族にとっては、仏教を受容することは国家との結合を強め、その機構の中でより有利な地位(例えば授位)を得ることが出来たものと想像される。
   本来、在地における祭祀行為の主導権を握るとされる郡司層は、旧来の地縁的・族制的な農耕儀礼的祭祀から脱却し新たな地域内の精神的支配を確立する意味においても、この新来の祭祀の形態の導入に積極的に取り組んだものと思われる」
地方豪族にとって寺院建立は祖先信仰だけにとどまらない次のようなメリットがあったことを指摘しています
①国家との結合を強め、目に見える形でそれを周囲に示すモニュメントになった
②国家への忠誠度を示すリトマス試験紙の役割
③それまでの儀礼祭祀に代わる新たな祭礼リーダーとして、支配権強化にもつながった。
  これは古墳時代に、首長達が新たに前方後円墳儀礼を一斉に取り入
れたことと似ているものがあるのかもしれません。
DSC03655
善通寺の古代の塑像頭部(本尊?)
 こうして見ると佐伯氏が、仲村廃寺を善通寺王国の中心地のすぐ近くに最初は造立したのが、すぐに場所換えて現在の善通寺の位置に移動してくる理由も分かるような気がしてきます。
最後に仲村廃寺から善通寺への「移転」について、私の仮説を記して起きます。
①善通寺王国の首長は、旧練兵場遺跡を拠点に、前方後円墳を有岡の谷に何代にもわたって築き続けた
②律令時代には多度郡司の佐伯氏として、旧練兵場遺跡の東端に仲村廃寺を建立した。
③しかし、これは氏寺的な性格が強く、「郡司」としての機能にはふさわしくなかった。
④それは南海道の設置以前に建立されたため条里制ラインに合致しないものでもあった。
⑤そこで、佐伯氏は条里制に合致した形で「多度郡寺」としてふさわしい寺を現在地に建立した。それが善通寺である。
亡命百済僧の活動

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    三船隆之 日本古代地方寺院の成立 306p

写経 藤原宮子経典

 前回は経巻写経のプロセスを見てみました。そこには、組織として動く写経プロ集団の存在がありました。記録文書にしっかりと残されて、ひとつひとつの作業が管理されていることが分かりました。国家機能の一端が少し見えてきた気もします。
 さて、今回は、写経所で働いている文字のプロ達の別の姿を見てみようと思います。正倉院には、彼らの給料前借り申請書や、病休願い申請書までのこっているようです。彼らの人間臭い浦の姿を見てみましょう。
写経 給料を支払う
  布施(給料)を支払う
 経巻は出来上がりましたが、案主(監督官)の仕事が終わったわけではありません。例えば経師などへの布施(給料)の支払いが終わっていません。布施の支給額は、それまで記録してきた手実帳(勤務時間記録)にもとづいて算出されます。経師、校生・装黄(表具師)の作業時間を記録した手実帳が、正しいかどうかチェックします。案主は、その数字を各経師ごとに集計します。そして、総労働時間量を算出しています。
 つぎに案主が作るのが「布施申請解(ふせしんせいげ)」です。これは、経師たちに支給する物品を造東大寺司に請求するための文書です。まず案(下書き)を書き、修正を加えてから正文を作成します。布施は、布で支給される場合と銭貨で支給される場合とがありました。布施が布で支給される場合、布を細かく切り分けることを避けるために、できるだけ一端(写経所で布施にあてられる布には、四丈二尺で一端のものと、四丈で一端のものとがあった.)単位になるように操作がなされています。この操作は、なかなか面倒だったようです。知恵の働かせどころだったようです。そのプロセスは次の通りです
①請求書である「布施申請解(ふせしんせいげ)」を造東大寺司に提出
②太政官経由で、発願主である内裏に布施物の支払請求
③内裏から布施物が造東大寺司に送られ、写経所に回送
造東大寺司政所
  こうして内裏からの現物か銭が届けられ、これが布施(給料)として支払われたようです。

  役所から借金する
 平城京では銭の流通が盛んで、経師たちの生活も「貨幣経済の浸透」に巻き込まれていたようです。彼らは、布施だけでは生活が送れなくなると、月借銭(げつしゃくせん)という高利貸に手を出しています。これは、官庁が運営する高利貸しのようなもので、上司に申し込むシステムです。国家が運営しているのです。
 正倉院文書には、百数十通もの月借銭解(借銭帳)が残っています。千年を経た借金帳を公開されるのは、あの世にいる人間にとっては心外な事かも知れませんが、当時の勤務状況や生活を知る上では貴重な史料です。その中の借銭書を見てみましょう。
  ある経師が宝亀三(772)年4月13日に、借金を申し込んだ時の月借銭解です。

写経 月借銭解(継文)

巧清成謹解 申請借銭事
合議五百文  利毎百一月十二文
ここからは、借金を申し込んだのは巧清成であることが分かります。借用希望令額は500文で、これを100文あたり月12文の利息で借りたいと上司に申し込んでいます。月1割の利子ですから今だと「悪徳金融業者」とされそうですが、当時はこれが標準だったようです。質物なしで、給料日に元利をそろえて返済するとし、「證」(証人)を二人立てています。
丈面に朱の合点がつけられ、末尾に朱筆で、次のように記されます
「員(かず)に依りて下し充てよ」

これは、借金申し込みにが審査でパスして、貸し付けられることになったことを示しているようです。最後に未筆で、2ヶ月後の6月23日に元金500文と2ヶ月分の利息130文を返済したことが注記されています。

写経 給料前借り
 この月借銭解で研究者が注目するのは、質物なしで返済を給料日に行っている点です。
これは、別の視点で見ると将来支給される布施を質物の代わりにしたい、と希望していることです。このような返済方法が、普通に行われていたようです。そうなるとこれは給料の前借りということになります。借金前借りは、この時代から行われていたようです。なんだか楽しくなります。
 別の月借銭解の史料には、借金希望金額が一貫文で、家とその土地を質物として一ヶ月間の借用を希望しているものもあります。もし返済できなければ、家と土地を失うことになります。その時には、一家の生活はどうなるのでしょうか。家族離散もあったのかもしれません。
 古代から給料の前借りはあったし、取り立てを廻るトラブルや事件もあったようです。もの悲しい気持ちにもなってきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社

  中世の修験者を追いかけていると讃岐水主神社の増吽に行き着き、彼が勧進僧侶として大般若経など写経に関わっていることを知りました。彼は、写経ネットワークの中心にいたことが、勧進を進める上での大きな力となってきたと思うようになりました。しかし、具体的に写経とはどんな風に進められていたのか、なかなかイメージが掴めません。そんな中で図書館で出会ったのが「古代の日本 文字のある風景」です。ここには、奈良時代に国家の政策として進められた写経事業が分かりやすくイラスト入りで説明されています。今回は、それを見ていこうと思います。時代は違いますが、奈良時代の写経事業の様子を見ていこうと思います。

 奈良時代の仏教を押し進めてきた聖武天皇の母は、藤原宮子(みやこ)という女性でした。
写経 藤原宮子系図

彼女は、藤原不比等の長女で、光明天皇の母ちがいの姉にあたり、文武天皇(軽皇子)の夫人として、大宝元(701)年に首(おびと)親王(聖武天皇)を産んでいます。
宮子が亡くなったのは、天平勝宝六(754)年7月19日のことです。正確な年齢はわかりませんが、七十歳前後だったようです。聖武はこの時54歳です。聖武天皇は、この二年前に東大寺の大仏開限会を成功させたあとも、東大寺や国分寺の造営をはじめ、仏教興隆に力を注いでいきます。聖武が没するのは天平勝宝八(756)歳5月2日ですから、母を失った2年後に亡くなります。
写経 藤原宮子像jpg
聖武天皇の母で、不比等の娘である藤原宮子

 藤原宮子が没すると、その直後から、造東大寺司の管轄下にあつた写経所で、梵網経(ぼんもうきょう)100部200巻(一部は上下三巻からなる)など1700巻の大量の写経事業が始められす。これらの書写事業は、宮子追悼のためのものであったようです。


大文化事業である写経行事は、どのようにして行われたのでしょうか?
奈良時代の律令国家には、律令の定めで公的な機関として「写経所」がありました。そこで、国家公務員が大量の経典を写経していました。いわゆる写経のプロ達がいたわけです。正倉院文書には700人を越える写経生の名前があるようです。写経生となるためには試字試験に合格しなければなりません。漢字に早くから親しむ環境が必要だったのでしょうか、その名前から判断すると渡来人やその子孫が大多数のようです。空海の母親の実家である阿刀氏も多くの写経生を輩出しています。写経生になると写経所に出勤して、官給の浄衣をまとい、配給の紙・筆・墨を受け、礼仏師が誦する経を聞き、仏前にたく香を嗅ぎながら筆を執り写経にいそしんだようです。

当時は経巻需要はうなぎ登りでした。全国に展開した国分寺や国分尼寺にも多くの経典が必要です。鎮護国家として仏教の教義的な基礎を支えるために、また、さまざまな仏事に供するためにも、経巻は不可欠です。
 写経所では、写経事業を進める上で事務帳簿を作り、上級官庁の造東大寺司などと文書でやりとりします。その結果、写経所の政所(事務局)には「写経所文書」といわれる文書類が残され、それが正倉院にしまい込まれることになります。正倉院文書の中で、もっとも多くの分量を占めるのが、この写経所文書のようです。この文書の研究が進むにつれて、写経事業がどのように進められていったのか、その実態が明らかになってきました。
 藤原宮子の追善のための写経された経巻の制作過程を見ていくことにしましょう。梵網経は、今では中国で作られた偽経とされますが、この当時には、鳩摩羅什の訳と信じられ、大乗戒の基本的な経典として尊重されていたようです。
写経の準備をする
写経事業は、写経所に対して、GOサインが下りることから始まります。この時には、平勝宝六(754)年7月14日の飯高笠目(ひだかのかさめ)によって指示されています。飯高笠目とは、伊勢同飯高郡から都に出て、長く内裏に勤めていた女性のようです。当時の孝謙天皇に仕える高位の宮廷女官ともいえるのでしょうか。そうだとすると、この写経事業の真の発願主は、孝謙天皇であった可能性が高いようです。孝謙天皇の意を受けて、飯高笠目が写経の指示を与えたとしておきましょう。
写経に至るプロセスを見てみましょう。
①写経所は、写経指示を受けると、筆・墨・紙などの必要物資の見積もりを作成して、上級官庁の造東大寺司に提出
②造東大寺司は、必要経費や必要物資を写経の発願主に請求
③発願主から経費や物資が造東大手司を経由して写経所に送られてくる
④7月25日に、写経用の経紙(色紙336張・穀紙3905張)と凡紙309帳が内裏から運び込まれた。これを櫃(木箱)に入れて運ばれ、写経所の責任者が立ち会って確認した上で、受け取った。
⑤その2日後に、筆と墨が納入された。
巻物は、どのようにして作られたのか
 運び込まれた紙の中で一番多い穀紙(かじかみ)とは、楮(コウゾ)の繊維で作った紙です。写経所に連び込まれた経紙は、1枚ずつバラバラの状態です。これが、案主の上馬養によって、装黄(そうおう) (=表具師)に割り当てられます。これを記録し帳簿も残っています。表具師達は、割り当てられた経紙を「継」「打」「界」の 3工程をへて、経文を書き写せる状態に仕上げ、書写用の巻物にしていきます。
「継」は、20枚の経紙を、大豆糊と刷毛で貼り継いでいく作業
「打」は継いだ紙を巻物にして、それを紙などで包んでたたく作業
「界」は、「継」「打」の工程をへた巻物に、定規を使って罫紙を引く作業
その後、巻物の右端に三分の一の大きさの紙を端継として貼って、それに仮の軸を付ければ、この段階での装満の作業は終わりです
写経1 準備


   写経を指示する
 経師たちに書写を始めさせる前に、大切なものをそろえる必要があります。それは、写すべきテキストです。テキストは「本経」と呼ばれていたようです。案主(写経責任者)は、この写経事業にかかわる経師の数や、それぞれの従事予定期間などを考えあわせて、必要な本経の数を割り出し、それを事前に集めておく必要がありました。案主の犬馬養は、写経所に備えられている梵網経の数を調べ、不足分は、梵網経を所持している寺院などに借りだしを依頼したのでしょう。これに応えて、外嶋(そとしま)院という法車寺の附属施設から本経九巻が届けられた送状が残っています。
 本経が必要部数だけそろうと、案主は、経師たちに筆や塁などとともに、書写用の巻物と本経とをセットで渡しています。これが7月18から8月5日にかけておこなわれたことも記録から分かります。

写経2 指示

この写経事業には、全部で51人の経師が動員されています。案主の上馬養は、「充紙筆墨帳」という帳簿に、何月何日に、どの経師に上下巻それそれ何巻ずつわたしたのか、筆は何本わたしたのかなどを記録しながら、この作業を監督しています。
 上馬養はこれとは別に「充本帳」という帳簿も作っています。こちらには、本経の支給巻数を管理・把握するための帳簿です。このように、案主は、充紙筆墨帳・充本帳という二つの帳簿で、経師たちの作業の内容と進行状況を把握していたことが分かります。

  このシーンは案主が、充本帳と充紙筆是帳に記録しながら、経師たちに書写を指示している場面が描かれています。経師を呼び出して指示を与えます。「長く座って足がしびれる」という表現がみえるので、経師紙は、円座に正座して書写していたようです。

経文を書き写す     

写経所には、経師(きょうし)・装黄(そうおう)・校正与などの写経にかかわる作業に直接従事する人々のほかに、事務を収りしきっていた案主や、雑使・仕丁などの事務作業にかかわる人々もいました。彼らは、家族のもとを離れて、写経所内に建てられていた宿所に長期にわたって寝泊まりしながら、連日、日の出から日没までの長時間、仕事をし続けています。
 このうち「縁の下の力持ち」的な雑使と仕丁についても、研究者は視線を注ぎます。
雑使と仕丁には、衣服や食料などのさまざまな点で経師・装満・校生と待遇に差が付けられていたことが分かります。
 雑使は、案主のもとで、文字通りさまざまな仕事を行いました。案主の手助け、造東大寺司や他の官司などへの連絡、よそから物品を受け取ってくること、市に物品を買い出しに行って運んでくることなどです。
仕丁は、律令の規定では、地方の郷(五〇戸からなる末端の地方行政単位)から 2人ずつ、三年交替で中央に送られて労役に服するものです。中央に集められた仕丁たちは、各官司にわりふられ、そこの仕事に従事しました。写経所では、食事の調理、風呂焚き、物品の運搬、案主の手伝い、その他さまざまな雑務を行っています。装填の仕事である「打」の作業を行うこともあったようです。 経師から雑使までは、ときどき休みを収って家族のもとに帰ることができましたが、地方から出てきている仕丁たちは、「一時帰休」なんてことはできません。ずっと写経所に泊まり込んだままでした。
 経師たちの仕事をみてみましょう。
写経3 書き写し

本経(テキスト)と、書写用の巻物、筆、墨などを案主から受け収った経師たちは、さっそく写経にとりかかります。具体的なことは分かりませんが、下纏(したまき=文字の位置の見当をつけながら、同時に吸取紙の役割も呆たす用具)をあてながら写経したようです。
 作業量については、
①筆の速い経師で 1日に5900字程度、
②おそいものでも2300字ぐらいで、
③平均して一日に2700字ほどを写しています。
奈良朝写経の謹直な字体で、長期間作業を続けていたことを思い浮かべると、かなりたいへんな作業だったと思えます。根気と精神的な緊張感が求められる作業です。いや、作業ではなく仏への奉仕・祈りと考えていたのかも知れません。

経師たちには、食料のほかに、布施(給料)が布(調布=調として徴収された布)、または銭貨が支給されていました。この布施は、時間給ではなく出来高払いでした。そのため多くの布施を受け取ろうとすると、それだけたくさん写経しなければならず、当然労働時間も長くなります。
写経 物資支給状況

 しかし、ただ早く多く書写すればよいとわかではありません。誤字・脱字・脱行に自分で気付いて訂正すればペナルティーはありませんでしたが、それを見逃して後の校正作業で見つかるとペナルティーが科せられたました。給料天引きで布施から差し引かれたようです。

書写が終わると経師達は、本経と共に案主に提出します。この時に残った紙や墨なども記録され返却されています。案主は、受け取ると、これを貼り継いで手実(しゅじつ)帳という記録簿を作っています。そして、その記載に誤りがないかを、提出された経巻や他の帳簿類と突き合わせながらチェックしています。

硯は装飾のあまりない円面硯が用いられたようです。書き誤ったときには、刀子(小刀)で削って訂正しました。そのため机の上には、硯・筆・墨・水滴・刀子などが置かれていたはずです。
 作業の一段落ごとに、書写した経巻と本経は一緒に返却します。この時、経師は自分の仕事量を記した手実(記録)もいつしょに提出しています。案主は、手実を貼り継いで継文とし、その内容を充本帳や充紙筆墨帳などつきあわせてチェックします。細かい点検が行われていることに、驚かされます。

経師による書写が終わると、つぎは校正です。  
写経4 校正

案主に提出された経巻は、すぐに校生による校正作業にまわされます。この写経事業の校正作業は八月四日からはじまり、八月八日に終了しています。チェックしたのは7800になります。これに従事した校生は7人で、初校と再校の2回行われています。案主の上馬養や呉原生人も、校正作業に従事していたようです。
 史料によると、校生たちの 一日あたりの校正紙数は平均して約230張です。一張には、 行17字25行として425字程度が書かれています。そうすると400字詰め原稿用紙約250枚程度になります。今の小説一冊分ほどでしょうか、かなりの作業量です。校正は相当なスピードで行われたことがうかがえます。校正で誤りが見つかるとペナルティーが科されることなっていました。その基準も決められています。
 校正が終わると、校生たちは本経と書写された経巻をまとめて案主に返します。これには、勘出状(校正結果の報告書)が添えられていたようです。案主は、提出された経巻や校帳その他の帳簿類をここでもチェックします。

   経巻に仕立てる                         
写経5 経巻

脱落や誤字の校正作業が終わると、いよいよ経巻に仕上げる最後の工程です。この工程には、ふたたび装黄(表具師)が登場します。記録帳簿よると、仕上げ作業は8月4日から始められています。校正の開始日も同じ日でから、校正がすんだ巻物から流れ作業のようにどんどんまわされてきたことが分かります。作業は8月7日に終了したようです。仕上げの終わった経巻は、案主のもとに返されます。
案主は、経巻を題師にまわして題を書き込ませす。
出来上がった経巻にタイトルを買い込むのは、名誉であると同時に緊張感のある仕事だったでしょう。経師の中で、特にすぐれたものが担当したようです。
 こうして藤原道子追悼の経典写経事業は完了します。
この経過を見て、まず気づくのが組織化された集団がプロとして作業に当たっていることです。写経所という組織が、律令という国家体系に基づいてとして整備されたもので、その国家組織を一部分とりだして見ているような気がしてきます。同時に文書が国家管理手法として大きな役割を果たしていると云うことです。

参考文献
「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社

  中世寺社 遙任国司

十~十一世紀になると摂関政治の下で、国司の守に地方行政を委任する受領請負制が始まります。こうして受領と呼ばれた国司が、自分の家族や家臣らを任地に派遣し、自分はその国に出向かずに、摂関家の家司として仕えるようになります。これを遙任(ようにん)国司と呼んでいます。京都周辺の要所には「受領の蔵」として、任地からの富が運び込まれます。こうして受領層による地方行政が行われるようになります。
 地方では、介・禄などの旧国司らは、受領の派遣する「負名」の下で、国衛の職員化します。これが留守所です。荒廃した郡司制も再編され、彼らが郡や院などの納税を在庁名として請け負うようになります。こうして受領の身内や家来が国使や収納使などとなって在地にやってきて、新しい郡司や名主からの徴税を請け負うようになります。
日本史(27) 「地方政治の展開と武士① ~受領と負名~ 」 〇今回のポイント ①10 世紀以降、律

 このようなもとで、地方の国分寺や郡寺、式内神社などは、どうなったのでしょうか?
それを今回は見ていこうと思います。テキストは   井原今朝男     中世寺院と民衆中世社会の時代的特質 です
中世寺社 新任国司テキスト『国務条事』

平安時代文書集『朝野群載』巻22の「国務条事(国務条々事)」新任国司が赴任旅行から、着任、執務開始、日常政務に及ぶ決まり事、ノウハウ、心得などを42ヶ条にわたり、事細かくまとめたもの。

国司が最初に任国にやって来たときには、その国の神社への参拝が行われ国司神拝が行われていました。

讃岐に国司としてやって来た菅原道真も、国内の寺院や神社が誰の氏寺や氏神であるのかは頭に入れていたようです。それは、国司にとって押さえておくべき職務内容だったのかもしれません。そのため十世紀中葉までは、式内社神社の修理や式年遷宮なども国司の手で行われていました。
 ところが、11世紀には受領遥任制になって、国司がやってこなくなると国司神拝は、次第に行われなくなります。それにつれて国分寺や郡寺・寺社の修理も部分的になり、荒廃する所が多くなります。
承徳三年(1099)因幡国司平時範が因幡の宇倍社・惣社に参拝した記録が『時範記』です。
11世紀末というと受領遥任制が一般化している時代です。それなのに、時範はわざわざ任国の因幡国に下向しています。どうしてでしょうか?
 それは、国司が任地にやって来ず、国鎮守や惣社に参拝しないことや寺社が荒廃しているのに放置したままでにしておくことへの強い反発と不信が在庁官人には溜まっていたからだと研究者は考えているようです。それを解消するための国入りだったようです。
 因幡国ではその20年後に、藤原宗成が因幡守に就任します。やはり「九箇年間未だ下向せしめず」という有様で、国分寺をはじめ国内寺社の荒廃は放置されたままだったようです。国人らは「恐れ有るの由申し合うと云々」と、一致して因幡にやってきて国司神拝することを求めています。
 元永二年(1119)九年目になって、ようやく目代を派遣して初任神拝を実施します。それでも在庁らの不満は大きく不満は収まりません。そこで「国一宮」での臨時祭を行うため、国司宗成は直々に下向することにします。それでも「任終の秋に臨み初めての下向、衆人は不受の気有り」という雰囲気だったと伝えます(『中右記』)。
このように11世紀になり遙任国司の時代になると、都からやってこず、地方の神を祀らない「遙任=不在国司」のもとで、地方の寺社は荒廃するところがでてきていたようです。

11世紀、地方寺社の対応は、どうだったのでしょうか
 上野国では国司の事務引継書である『上野国交替実録帳』(長元三年(1030)が残っています。そこには、国司は国内の寺社を位階に応じて管理・登録しています。例えば山円郡では、
正一位美和名神社
那波郡では二位火雷明神社
三位委文明神社
の三つが登記されています。つまり、全部の式内社を管理保護するのを止めて、ランク付けをして階層の高い神社を保護するという方式に変えたと言えます。もちろん位階の高い神社は、当時の国衙留守所の有力豪族の氏寺や氏神が選ばれたことでしょう。
新国司と旧国司の職務引継ぎの際のやりとりを見てみましょう
 新しく国司となった良任は、神社・学校・寺院の仏像や礼服、祭器などが破損したり、なくなったりしているとし「其由如何」と質問しています。前任国司は、代々の国司の実情を引き継いできたのであって
「当任の間公平を存せんがため多く修造を加えた」

と反論しています。その例として、
甘楽都正一位の抜鉾大明神が30年一度の造替で万寿二年(1025)改造の年に相当していたので玉殿と御垣を新造した。勢多郡の正一位赤城明神社も七年一度の大修造の都市だったので、万寿四年(1027)に修造した

ことを挙げています。
  ここからは、国内の式内社の内で一の宮・二の宮・三の宮あたりまでは、国司の命により、式年祭毎に建替が行われていたことが分かります。讃岐でも、一宮神社(高松)や二宮神社(三豊市)は坂出の府中国府の管理下に置かれて、定期的な修造が行われていたことが考えられます。

 さて上総国に戻ってみると、国分寺尼寺の仏像などが破損しているという指摘についても、前任国司は次のように反論します。
「これ当任の解怠に非ず」
「既に数代に及ぶ」
「損失は年に積もり修造を尽し難し」
つまり、「それは、私の責任ではない。数代前の国司の代からすでに、壊れており放置されており修繕の手も及ばない」というのです。そして、自分は国司として、国分寺と定額寺の修理や彩色を行い、破損の内十分の二、三を過ぎるほど「随分之功」を挙げたと主張しています。
 ここからは、それまでは国司が管理修繕していた地方の寺社の中には、定期的な修繕が行われずに放置され衰退化していた所が増えていたことが分かります。

 そして上総国の新任国司は次のように記します
 金光明寺の十一面観音像は長保三年(1001)五月十九日の官符で前々司平重義が造像して安置した。定額寺の放光寺は、氏人の申請で定額寺より除いた。法林寺の金堂は人延三年(九七五)七月一日の大風で顛倒し、講堂は長徳元年(995)十一月十日野火で焼失した。弘輪寺、慈広寺など定額寺の実情は長和三年(1014)、寛仁四年(1020)、万寿元年(1024)の歴代国司の「交替日記(記録)」を、そのまま引き継いだ

  ここからは国分寺や地方定額寺の管理修繕は、事実上放棄されて荒廃にまかされていたことが分かります。

  このように11世紀の藤原道長・頼通政権下では、受領国司は国内寺社を管理し、修造年期の基準に基づいて修理していくことができなくなっていたようです。これでは、国司の国内諸社の巡回は行えません。
 しかし、律令体制の下では「政事=祭事」です。
地方の有力神社や寺院での祭礼や神事がなくては「政(祀)事」が行えません。そこで、考え出されたのが特定の郡内神社を指定して、「国内第一の霊社」とか「一宮」「二宮」などの呼称を与え、「国鎮守」「郡鎮守」として参詣することで国司神拝を合理化することでした。
DSC04278

 また儀式も最勝講や仁王会、修正会など最重要な護国法会だけを実施し、国衛や国分寺の周辺にその分社を集めて惣社とします。こうして国府近くに「惣社」が新たに作られることになります。これが総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)で、地方の神社の祭神を集めて祀った(= 合祀)神社のことです。岡山には総社市という地名が残ります。讃岐には、国府の外港と考えられる坂出市林田町に総社神社があります。
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惣社神社 坂出市林田町
 
こうして、一宮や二宮神社以外は、それぞれ在庁の在郷豪族に管理をまかせます。
ある意味、国内運営の宗教的な負担金を削減し、遙任国司の取り分を増やしたということにしておきましょう。  受領国司がやってきた場合も惣社と、有力な神社だけに神拝することで済ませ、国内への諸神ヘの巡回を行うことはなくなります。こうして因幡国では、国府に近い宇倍社が元永二年(1119)には「一宮」と呼ばれるようになります。国一宮の出現は、国によって地域差があったようです。
 讃岐の場合も、国府の外港の林田港に総社が置かれ、高松の田村神社が一宮神社に指定されていくのも、このような背景があったようです。田村神社は、国府にも近いし、秦氏の氏寺とされていますので、その背後に在庁豪族としての秦氏の力もあったのでしょう。しかし、三豊の大水上神社が二宮とされたのは、どうしてなのでしょうか? この神社は二宮川の源流に鎮座し、弥生時代の青銅器も流域からはいくつも出土しています。古代以来の聖地だったことは分かるのですが、それを支えた豪族(氏神とした氏族)となると、よく分かりません。手がかりは、流域の古墳後期の大型石室をもつ古墳や古代寺院妙音寺を建立した勢力です。これを「丸部部臣(わにべのおみ)氏」と考える研究者もいるようです。どちらにしても、この時期に大水上神社が二宮に指定された背景には有力豪族の存在があったと思うのです。 
万寿二年(1025)東国疫病の流行で、上野国では郡司七人が死去したり、佐渡では百余人が死亡しています。
 当時は疫病は、地方神をないがしろにした祟りであると云われました。国司は、疫病退散のために任地に向かい儀式を行うことが求められます。そうしなければ職務怠慢と責任問題になります。
 甲斐守藤原公業は「祈願のため、勧農のため」に三月二十四日任国に下向しています。(『小右記』)。
 上野では康和二年(1100)雨が降らず早魃で庶民が苦しみます。上野介藤原敦基は、日代平周真を甘楽郡の抜鉾社に派遣し、宝剣を奉納して、「甘膏を牛漢に仰せ」と漢祭によって「十句之雨」を祈願しています(『本朝続文粋』)。
源氏物語: 2007年3月

 諸国での護国法会は国司の義務でした。
そのため特定の寺社を選んで祈願するようになります。この抜鉾社が中世には、上野国一宮貫前神社になります。
相模では国司橘輔政・藤原惟親の代には、国分寺の砂金や資財を国衛財政のために借用したままで、修繕が行われずに荒廃する一方になります。(『小右記』)。
四国第80番霊場 讃岐国分寺は特別史跡でもある - Pass Hunter
讃岐国分寺(復元模型)

国分寺は国によって、荒廃の度合いの格差が大きかったようです。
院政期なると、国府周辺の郡に国一宮、国衛、惣社、国分寺などが。それぞれ地方の実情にあわせて整備されていくようになります。国衙の政(祀まつりごと)のために、宗教的な施設や舞台は必要なのです。こうして、国鎮守や護国法会の最勝講・仁王会、流鏑馬、般若会などの年中行事が整備された舞台で行われるようになります。
 国衛には次のような関係書類が残されています。
「神社下符毎年員数事、仏寺同前」
国内神社員事、国寺事」
「神社仏寺免田事」
この「国内寺社」「国寺」が、国衛在庁が管理していた寺社になるようです。ここで注意しておきたいのは、ここに登録されている寺社は、古代の式内社とは異なると云うことです。新しい中世的な国内寺社秩序に基づいて、登録されたものになっています。
 讃岐の場合だと、延喜式内神社28社の全てが「国内寺社」として把握されたわけでありません。国府の管理下から離れた神社は、氏神とした豪族達の衰退と共に、姿を消して行きます。そして明治になって式内社神社捜しが行われるまでは、忘れ去られてしまった神社もありました。
四国・香川県高松市・讃岐国一宮 田村神社 | 奥宮

 以上をまとめておくと、
①かつて各国の一宮神社は、院政権力によって全国一律に画一的に整備されたものとされてきた。
②しかし、延喜式には式内神社をクラス分けした記録はない。
③「一宮制」「一宮惣社制」は、最初からあったものではなく、現在の一宮や二宮は、中世になって格付けされたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
井原今朝男     中世寺院と民衆 中世社会の時代的特質 所収


DSC00279

宝憧寺の伽藍は、近世に池となってその底に埋もれていきました。しかし、冬には水が抜かれて池干しされると、いろいろなものが採集されているようです。瓦破片以外に、池から出てきたものを今回は見ていくことにします。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘

まずは、銅製水煙片です。
水煙は五重塔の尖端に付けられた相輪の一部分で火焔状をした装飾です。1977年に塔心礎より約30m東から出てきているようです。
宝憧寺 水煙破片

 心礎に加えて水煙の一部が出てきたことで、ここに塔が建つていたことを補強するものになります。


梵鐘鋳型と同撞座の鋳型も出てきています
 1976年に宝憧寺池の東側にある堤防の内側から発見されました。梵鐘の鋳型片など40数点の破片で、それを復原すると梵鐘の鋳型であることが分かりました。鐘の内径は約53㎝で、この鋳型で鋳た梵鐘の外径は約50㎝余りだったと推定されます。鋳型があるということは、出来上がった鐘が運ばれてきたのではなく、鋳物師が現地になってきて宝憧寺の近くで、梵鐘を造ったということなのでしょうか。
 鐘の鋳型と同時に撞座の鋳型も見つかっています。撞座は八葉複弁蓮華文で、直径9㎝で弁間に間弁がなく、雄蕊帯には莉が略されているようです。研究者によると「十五世紀前半のもの」されています。古代寺院のものではありませんが、15世紀前半まで宝幢寺が活動を行っていたことが分かります。また、讃岐の鋳物師が造った可能性も指摘されています。

 十一面観音木像    今は国分寺町の鷲峰寺に
 金倉寺にある記録「当寺末寺之事」の項目の中に宝撞寺のことを次のように記されています。
 一、此寺は清和天皇貞観年中(859)智証大師開基にて 自作の聖観音を以て安置の精舎也。即大師開基十七檀輪中の其一にて堂塔僧院数多こ校あり候所、永正、天文の争乱に伽藍残らず破壊仕り、其寺跡用水池と相成宝瞳寺池と云う。今池中大塔の礎一つ相二戮古瓦等多御座候バ  

ー、十一面観音木像 右は宝鐘寺池中より掘出し候て、郡家村社内に相納これあり候所、其後御城下 西新通町秋田屋三右衛門彩光を加えヘ 鵜足郡川原村神宮寺へ移し、これを安置す。
前半部については、前回にも紹介しましたの省略します。後半部のみ意訳すると
十一面観音木像は、宝鐘寺の池の中より掘出し、郡家村社内に保管していた。その後、丸亀城下 西新通町秋田屋三右衛門が彩光を加えヘ、鵜足郡川原村神宮寺へ移し、安置した。

ここからは、江戸時代に土手の土中から観音さまが現れたことが記されています。丸亀城下の職人が採色し、丸亀市飯山町坂本の旧川原村の神宮寺へ安置したとあります。しかし、現在はここにはありません。
神宮寺は明治の神仏分離で廃寺となり、本寺である国分寺町の鷲峰寺に移されました。
鷲峰寺 じゅうぶじ 高松市国分寺町 – 静地巡礼
鷲峰寺
 
鷲峰寺は鎌倉時代に、西大寺流律宗の拠点して再興されたお寺のようです。鎌倉時代作とされる四天王像が収蔵庫にいらっしゃいます。興福寺北円堂に安置されている四天王像をモデルにして作られているとされ、像の大きさは1mくらいであまり大きいものではありません。少し穏やかめの四天王という印象です。四天王像とともに安置されているのが十一面観音像です。これが宝憧寺から掘り出された「泥吹観音」のようです。
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  収蔵庫の扉口から拝ませていただくと、左胸前に水瓶を持つ立像姿です。室町時代中期か後期の作とされる等身大の美しい観音さまです。信者の方は「ごみ吹観音」「泥吹観音」と親しみを込めて呼んでいるそうです。それは、池中から掘り出され神宮寺に安置されたときからのニックネームだったようです。

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 なぜ土の中に埋められていたのでしょうか。
滋賀県の渡岸寺の国宝十一面観音も、織田・浅井の兵火の際、信者が地中に埋めて難を逃れたと伝えられます。戦乱の中で仏様をお守りする一つの方法が土中に埋めるという方法だったのかもしれません。
 阿波の三好氏か土佐の長宗我部の侵攻の際に、一時的に埋められたのでしょう。しかし、お寺は廃寺となり、観音さまはそのまま土中に放置されたのが、江戸時代になって掘り出されてということなのでしょうか。この観音さまが室町時代の作ととするなら、それまでは宝幢寺は存続していたことになります。
  薬師如来像
 宝憧寺池築造の時に出土したようで、現在は重元の照光寺に安置されているようです。高さ50㎝の木像の薬師如来で、その後に補修され今では、金箔の美しい像となっていると云います。薬師さまと一緒に現れた子持薬帥の石仏と手洗鉢も昭光寺にあるようです。

  石造観音像と石仏
 明治40年ころに宝憧寺池の北堤にある水門の東方約70mの池中から出てきたと伝えられています。長福寺(現在廃寺)へ安置されたようです。掘り出した石像は、二体の観音座像で、いずれも高さ38㎝です。同時に掘り出した光背のある石仏は、重元にあ墓地の六地蔵の傍らに安置されているようです。

宝幢寺池周辺から出てきた仏達や遺物を見ると、戦国時代に至るまで宝幢寺が宗教活動を行っていたことが分かります。
戦乱で荒廃した宝憧寺が復興されることはありませんでした。そして、江戸時代になり土器川の氾濫原の新田開発が進むにつれて、水不足が深刻化し用水確保が急務となります。そして、荒廃したまま放置されていた寺域がため池化されることになったようです。
  
 神野神社前から真っ直ぐに伸びる参道を東に行くと皇子宮に至ります。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑

ここには「小笠原家顕彰碑」(1968年建立)が建っています。江戸時代に宝憧寺池を築いた時、そこにあった皇子宮をこの地に移すため、土地と移築費および維持費として八反余の田を寄進した小笠原家に感謝の意を表したものです。見てみましょう。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑2
       小笠原家顕彰碑
 小笠原家は、元備前小串乙岡山巾南辺での城主であったが、応永年中(1394)当郡家郷三千石を領し名主として領家に住し、爾来地方文化政治経済の開発に貢献した。殊に宝憧寺廃寺跡に溜池を築造するに当り、宝瞳寺鎮守神皇子神社も亦池中に埋没するにつき、寛文十二年(1672)小笠原与右衛門景吉自費で八代荒神の側に新に社地を卜し、移築費と維持費として下記の土地を永代寄進されたが、大東亜戦争後の農地解放によりすべて解放された。
 惟うに斯くの如く小笠原家の恩恵は永く当代に及び稗益する所実に大である。依って郷土の人々挙って往事の遺徳を追慕し、共に相謀りて碑を建て 茲にその功績を顕彰する。
  昭和四十三年四月 (世話人、建設者略)
 小笠原家は、戦国末期の仙石秀久のころは在野にあったようです。松平初代頼重の時代には、召されて郷侍となり十石を支給されます。その後、周辺荒地の開墾などの功により加増され26石となります。その後、高松領、丸亀領、金刀比羅社領地の境改めの役を申し付けられたり、那珂郡の大政所(大庄屋)を勤めるなど、江戸時代は郡家の名家だったようです。
 明治維新には郡家小里正であったため、明治4年9月の旧藩知事松平頼聡の在国嘆願のため東讃より起こった騒動で家を焼かれます。さらに2年後には三豊郡から起こった血税一揆によって、新築したばかりの家をまた焼かれてしまいます。維新後の目まぐるしく変わる世の中にあって、小笠原家は戸長として村のため力を尽くしたようです。戦後になって顕彰碑が建てられています。

 ここからは、今の皇子神社は宝幢寺池の敷地内にあったのが、池の建設に伴い現在地に移動してきたことが分かります。宝憧寺池建設の中心的な役割を担ったのも小田原家であったようです。

以上をまとめたおくと
①宝幢寺池周辺からは、旧宝幢寺の仏像や遺物が数多く出ていている。
②青銅製の水煙破片は、塔の相輪の一部と考えられ五重塔があったことを補強する
③鐘鋳型は14世紀前後のものであり、宝憧寺の鐘が周辺で作られたことをうかがわせる。
④現在、鷲峰寺に安置される室町時代の十一面観音は宝憧寺にあったもので、この時期の宗教的活動を証明ずける
⑤神野神社の御旅所である皇子神社は、宝憧寺池築造の際に現在地に移転してきたものである。
⑥宝幢寺池築造には、後に大庄屋を勤める小笠原氏の関与がうかがえる

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
丸亀市史
直井武久 丸亀の歴史散歩 1982年

 南海道 八条池と宝幢寺池

宝幢寺池は丸亀市の郡家にあります。3つの池がパズルのように組み合わさって四角い形をしています。その南を南海道が通過しています。宝憧寺池の下池は、冬になり池干しのために水が抜かれると、塔心礎の大きな石が現れます。
宝憧寺 心礎遠景

ここには、古代寺院があったようです。それがいつの時代かに廃寺になり水田化されていたのを17世紀になって、池が築造されることによって池底に沈んだようです。昔から宝幢寺と呼ばれていたので、出来上がった池も宝幢寺池と呼ばれるようになります。この池から出土したもの、池を築造する際に移転したものなど探りながら、宝憧寺について見ていくことにします。
  DSC00285

 金倉寺の古記録(香川県文化財保護調査会『 史跡名勝天然記念物調査報告第11所収』 には、宝憧寺のことが次のように記されています。
「此寺者清和天皇貞観年中 智證大師開基ニテ 自作之聖観音所安置之精舎也、即大師開基十七檀輪中ノ其十一二而堂塔僧院数多有之侯所 天文争乱二伽藍不残破壊仕り 基跡用水池卜相成宝瞳寺池卜云今池中二大塔礎石―ツ相残 り、古瓦箸多御座候」
意訳しておくと
この寺は清和天皇貞観年中(859年~877)に智證大師が開基し、自作の聖観音菩薩を安置した。つまり智証大師が開いた十七の寺院の中の十一番目の堂塔で僧院も数多くあった。しかし、天文年間の争乱で伽藍は残ず破壊された。その後、寺院跡は用水池となって宝瞳寺池と呼ばれるようになった。今この池の中には大塔礎石がひとつ残っている。また古瓦も数多くある。
 
ここからは次のようなことが分かります。
①宝憧寺は貞観年中(9世紀後半)に智證大師作の観音菩薩を本尊として建立され、
②天文年間 (1552~ 1554)に「伽藍は残らず破壊」され戦国乱世 に荒廃した。
③天明5(1785)に里正小笠原輿衛門によって宝瞳寺跡に溜池が築かれ、礎石が残る
しかし、出土した瓦は、四重孤文軒平瓦、複弁蓮華文軒丸瓦などで、奈良時代前期や白鳳時代のものです。古代の郡司レベルの豪族達の氏寺として建立されたと考えるのが妥当のようです。智証大師以前に作られた古代寺院のようです。
DSC00276

文献資料では、宝憧寺があった中世の郡家郷は、
①15世紀半ばの鎌倉時代に後嵯峨上皇預となり
②嘉元4(1506)年『御領目録』には、前右衛門督親氏卿の所領
と中央の権門勢家の荘園となっていたことが分かります。そのような情勢を伝える地名として、郡家小学校周辺には『 地頭 』『 領家 』などの地名が残ります。
これらの資料を受けて宝幢寺について、丸亀市史は次のように記します
白鳳時代に創建された寺で、創建されてから800有余年にわたって繁栄したが、永禄元年(1558)、阿波の三好実休が讃岐を支配下に置こうとして、多度・三野・豊田の三郡を領有していた香川之景を攻めて那珂郡に侵入した永禄合戦の際に兵火にかかり、再興に至らずついに廃寺となった。
 慶長年間に宝憧寺池、続いて寛永9年(1672)に上池(辻池)が築造された」
とあります。
これだけの予備知識を持って、現場に行ってみましょう
宝憧寺 心礎近景

冬になって水が抜かれて池干しされると、宝憧寺上池には大きな石が水の中から姿を現します。 かつて放置されていた礎石類も今は、心礎周辺に配置されています。礎石は動かせても、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺塔心礎

 この石は花嵩岩の自然石で、最大南北185㎝、東西約230㎝、高さ約67㎝の大きなもので、池の築造の際に動かせなかったというのも分かります。しかし、古代の建立時には、ここまで運んできています。考えられることは
①近世の灌漑水掛かりのエリアから集められる労働力では動かすことは出来なかったが、古代の郡司クラスの有力者の動員できる労働力では移動可能であった
②古代には、渡来人系の専業技術者集団がいて、少人数でも移動させることの出来る技術や工具を持っていた。
③近世の人たちには、移動させたり利用する意図がなかった。人柱のように、水に沈めた方が自然であった。
まあ、頭の体操はこのくらいにしておきましょう。

断面図を見れば分かるように、平坦にされた上面に柱座が彫られ、その中央にU字型に舎利孔がうがたれています。段の部分を舎利を入れた心孔の蓋と考えると、二重式心礎ではなく、三重式心礎になるようです。心礎上面には、排水溝も掘られています。
 心礎の設置工法は、飛鳥時代は地下式心礎、白鳳時代は地表に露出する工法が一般的と云われているようです。宝幢寺の心礎は、心礎上面が池の外側の水田面より約50㎜、現地表面より70㎜ほど高いので地表に出ていたことがうかがえます。心礎の設置状況や形状からは、白鳳時代の特徴をよく示す心礎で、建立当時から動かされた形跡はないと研究者は考えているようです。

調査報告書には、トレンチを入れた調査の結果を次のように記します
宝憧寺 トレンチ
  
①心礎を中心として土壇が広がり、その上面にはおびただしい河原石が散らばっている
②土壇は、上池からの通水のために、二箇所で掘削されている
③その上面も、築堤以来の土手改修などによって、何度も大規模に削平されている。
④土壇上が良質の粘質土のため壁土やカマド用に、地元民が土取りを行ってきた痕跡がある。
以上によって、旧地表面は完全に失われていたようです。
伽藍の形式は分かったのでしょうか?
①土壇は、東西方向の長さが90m。南北方向は、北辺のみ確認できた。
②仁池や上池の池中からも瓦片が多数でてくることから、寺域は2つの池にも及んでいた
③伽藍形状は方形か、南北に長い矩形
④伽藍配置については、部分的な発掘のために分からない。
⑤上壇の南北方向の軸は、N20°Wで、丸亀平野の条里遺構N50°Wと大きくズレがある。
⑥土壇は、5層からなっていて土壇として造成された第1層と第2層は、粘質土に河原石を混ぜて固めたもので、県下には類例のないものである
⑦塔心礎以外に礎石はない。
現在心礎の周りに並べられている礎石群は、その後の堤防工事などで出てきた者を無作為に並べてあるようです。

昭和15年発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告第 11』 には、次のような記載があります
金堂は基壇と思しき土壇あって東西約25米 、南北約20米である。塔婆は基壇と思しき土壇 あって東西約15米、南北も同 じく約15米である。心礎を中心として瓦礫が散在 している。金堂と塔婆の間隔は10米、金堂より東方20米 、塔婆より西方20米 にて寺域が終わっている。

80年前の戦前に書かれたこの報告書には、塔心礎の東に金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと以下のような配置を推定しています。その根拠は、古瓦の分布密度から心礎から南へ中門・南大門が建っているとの推察です。

南海道 宝幢寺推定伽藍図

 もし法隆寺式の伽藍配置とすれば、塔跡の東に金堂の土壇があるはずです。しかし、1980年の発掘調査では、土壇の跡を発見することはできなかったようです。そのために丸亀市史は、伽藍配置は「不明」としています。

 戦前は、古代寺院を中央の大寺の分寺として捉えようとする傾向が郷土史家には強かったようです。そのため
「宝幢寺は、那珂郡の郡司庁の所在地であったし、法隆寺の荘園でもあったので、その分寺が建てられたものと思われる。」

と考えられていたようです。今は、東大寺が讃岐に置いたのは拠点で、寺院と呼べるものではなかったことが分かっています。代わって白鳳時代の寺院建築には、壬申の乱以後の政治情勢が色濃く反映していると研究者は考えるようになっています。つまり地方の有力豪族の論功行賞の一環として古代寺院の建設が認められるようになり、争って地方の有力豪族が建立を始めたというストーリーです。そうだとすると考えなければならないのは、次のような点です
①郡家に宝幢寺を氏寺として建立した地域有力者とは何者か?
②彼らの祖先の古墳時代の首長墓はどこにあるのか?
③どのようにして古代寺院の建築技術集団を招いたのか。
④周辺の有力者とは、どんな関係が結ばれていたのか(善通寺の佐伯氏 金蔵寺の因岐首氏)
⑤多度郡や鵜足郡では、古代寺院と郡衙と南海道はセットで配置されているが那珂郡ではどうなのか
  これらを課題としながら出てきた見てみましょう
宝憧寺池、仁池などから出てきた瓦には次のようなものがあるようです。
 ●八葉複弁蓮華文軒丸瓦(奈良時代)
 ●四重弧文軒平瓦(白鳳時代)
 ●均正唐草文軒平瓦
  ・そのほか多数の布目平瓦
宝憧寺 出土瓦1


これらの瓦は、どこで焼かれ宝憧寺まで運ばれてきたのでしょうか
その一部は、鳥坂峠を越えた三豊市三野町の宗吉瓦窯跡で焼かれたことが分かってきました。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯跡

宗吉瓦窯は、初めての瓦葺き宮殿である藤原京に瓦を供給するために作られた最新鋭のハイテク工場だったことは以前にもお話ししました。その窯跡からは,いろいろな種類の瓦が出土 しています。その中の軒丸瓦は、単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので,これは三豊市の豊中町の妙音寺のものと同笵でした。
また8号瓦窯からは、重弧文軒平瓦,凸面布目平瓦などが出土し,その中の軒瓦が宝幢寺跡から見つかっていた瓦と同笵であることが分かっています。つまり、三野町の宗吉瓦窯で焼かれた瓦が、妙音寺や宝幢寺に運ばれて使われていたということになります。
宝憧寺 軒丸瓦

これまでの調査からは、次のような事が言えるようです。
①宗吉瓦窯は、在地有力氏族によって造営された妙音寺や宝幢寺跡の屋瓦を生産する瓦窯として作られた
②その後,藤原宮所用瓦を生産することになり、多くの瓦窯が増設された。
③そこでは藤原京用に,軒丸瓦6278B,軒平瓦6647Dの同笵瓦が生産された
また、宗吉瓦窯から南500mには古墳時代後期に操業を開始した瓦谷古窯や7世紀前半から8世紀初頭にかけて操業した三野古窯跡群などの須恵器窯が先行して操業していたことが前提条件 になっていたと研究者は考えているようです。
 つまり、三豊湾沿岸東部は7世紀前半から8世紀初頭にかけて,讃岐で最大の須恵器生産地であったのです。そのような中で、須恵器生産エリアを支配下に置く有力者が、自分の本拠地に氏寺を造営することになります。その際に、瓦技術者を誘致すると共に。それまでの須恵器工人を組込むことによって、自分の氏寺用の瓦生産を行ったようです。その結果、完成するのが豊中町の妙音寺です。これが7世紀半ばから末にかけてだったことが出土瓦から分かるようです。そして、この寺院建立を行ったのは、壬申の乱で一族に功績者が出た丸部氏だと研究者は考えているようです。
当時の氏寺建立は郡司クラスの地方豪族のステイタスシンボルでした。
空海の佐伯家や智証大師の因岐首氏を見ても分かるとおり、地方豪族の夢は中央政府の官人となることでした。そのステップが寺院建立であったのです。ある意味、古墳時代の首長たちがそのシンボルである前方後円墳を競って築いたのと似ているかもしれません。
 丸部氏の氏寺建立を見て、多度郡や那珂郡の郡司達も氏寺建立に動き始めます。その際に協力を求めたのが、すでに寺院を完成させている丸部氏です。彼を通じていろいろな技術者集団との連絡を行ったのかもしれません。そして、実績のある宗吉瓦工場へ瓦を発注したことが考えられます。
 瓦は三野町からどのようにして運ばれてきたのでしょうか。
  大日峠越えの南海道が整備されるのは8世紀初頭で、まだできていません。鳥坂峠越えの道を、人が担いで運んだのでしょうか。
三野 宗吉遺跡1

考えられるのは、舟を使った運搬です。以前にもお話しした通り、当時の宗吉瓦窯跡は、三豊湾がすぐ近くにまで湾入してきていました。そこで舟で多度津の堀江港か、土器川河口まで運んだことは考えられます。その輸送実績が、藤原京用の瓦受注につながったのかもしれません。どちらにして、古代の宝幢寺や善通寺の瓦は三豊から運ばれてきたことを押さえておきたいと思います。
ここからは隣接する郡司(有力豪族)間の協力関係がうかがえます
 当時は白村江の敗北や壬申の乱など、軍事的な緊張が続く中でその対応策として、城山や屋島に朝鮮式山城が築かれ、軍道的な性格として南海道の工事も始まろうとしていました。これらの工事をになったのは各郡の郡司だちです。かれらは、府中の国府に定期的に出仕もしていたようです。
そのため軍事的緊張下での大土木工事は、地方有力者の求心力を高めるベクトルとして働いたのでないでしょうか。
各郡の郡司と氏寺を次のように想定しておきましょう。
多度郡の佐伯氏  氏寺は 仲村廃寺・善通寺
三野郡の丸部氏      妙音寺
那珂郡の因岐首氏     宝憧寺
鵜足郡の綾氏       法勲寺
彼らは、緊密な関係にありそれが氏寺造営にも活かされたとしておきましょう。今回は、宝憧寺の瓦までです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
小 笠 原 好 彦 藤原宮の造営と屋瓦生産地  日本考古学第16号
丸亀市教育委員会  宝憧寺跡発掘調査報告書1980年

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1 讃岐古代寺院分布図
讃岐の古代寺院に使われていた瓦は、法隆寺瓦の流れをくむものが多いようです。どうして、讃岐には法隆寺の影響が色濃く及んでいるのでしょうか。そこからスタートしてみることにします。
法隆寺資材帳にみえる庄倉
   法隆寺資財帳には、天平19年(747年)から翌年にかけて奥書があり、その当時の法隆寺の総ての財産が詳しく書き出されています。そこには、全国にあった法隆寺の庄倉も記されています。まずは法峰寺の庄倉を列記した部分を見てみましょう。
1 法隆寺庄倉1
   『資財帳』には、法隆寺の庄倉のあった郡が上のように記されます。後から2番目の讃岐を見てみると「讃岐国十三處」とあり、13の庄倉があったことが分かります。

1 法隆寺庄倉 讃岐
設置された郡名として挙げられているのが
大内郡、三木郡、山田郡、河野郡、鵜足郡、那阿郡、多度郡、三野郡

の8郡です。特に那珂郡には3つ庄倉があったようです。お隣の伊予を見ると14です。そして、阿波・土佐にはありません。瀬戸内海に集中しているようですが安芸や周防などには ありません。庄倉史料を地図に落としていくと次のようになります。
1 法隆寺庄倉 3讃岐

どうして、讃岐・伊予に法隆寺の庄倉が、数多く設置されたのでしょうか。 松原弘宣氏は次のように記します。
① 4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②それを裏付けるものとして、斉明天皇が西征の際に、二ヵ月にも渡って、道後平野に滞在していることをが挙げられる。
③これは伊予松山が、当時の政情不安定な北九州を睨んでの前線基地的役割を果たしていた
確かに庄倉は、畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートとされる
摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後
に沿って置かれているようです。
伊予松山の久米氏の果たした役割は?
このルートの中で大きな役割を果たしたのが、道後平野を押さえていたのが久米直氏です。久米氏はいち早く畿内王権と結びつき、久米国造として大王近持氏族へと発展していきます。その立役者が伊予来日部小楯で、彼には、山部連の姓が新たに賜姓されます。これを契機に、久米直と大和の山部連の間に、「擬似的同族意識」が形成され、これが法隆寺との関係に発展していくと松原弘宣氏は考えているようです。

 法隆寺のある奈良県平群郡夜摩郷(=山部郷)や、法隆寺最大の所領がある播磨国西部には山部氏がいます。
山部氏は、法隆寺と関係の深い豪族です。例えば、法隆寺に献納された「命過幡」に寄進者としての山部連氏が見えます。ここからは、
伊予久米郡の久米氏=山部連 ー 大和国夜摩郷 ー 法隆寺
という繋がりがあったことがうかがえます。
 法隆寺が讃岐・伊予国に庄倉を設置することができたのは、大伴氏の力が大きい多いと研究者は考えているようです
それは、当時の「擬似的血縁関係=同族意識」の力によるようです。伊予国で大きな勢力を占めた久米氏と大伴氏は同族とされます。また、多度郡の佐伯氏も大伴氏を祖先を同じくするという同族意識を持っていたことは以前にもお話ししました。つまり、
大伴氏ー大和の山部氏ー伊予の久米氏ー讃岐多度郡の佐伯氏

は、同族関係にあると当時の人たちは信じていました。この「同族幻想」が大伴氏による法隆寺庄倉の設置に、大きな役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 庄倉は、どんな性格の施設だったのでしょうか。
『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』の庄の記載に、その手がかりとなる記録があるようです。大安寺の庄倉のあった地名が次のように列挙されます。
大倭国五處
一在十市郡千代郷 一在高市郡古寺所 一在山辺郡波多蘇麻 一在式下郡屋所 一在添上郡瓦屋
山背国三處
相楽郡二廠、一泉木屋阪井暑埴二町、東大路、西薬師吝木屋南白井一段許遇、北於大河之限、一棚會瓦屋、東谷上、西路、南川、北甫大家野之限、乙訓郡處。在山前郷
摂津国一處
在西成郡長汲郷庄内雄二町、東田、西海即船津、南百姓家、北路之限
 この記事の中で注目したいのが「瓦屋所」「瓦屋」です。
これは造瓦所と研究者は考えているようです。つまり、庄倉には付属施設として瓦を製造する窯を持っていたことがうかがえます。周辺の地方豪族が氏寺を建立する場合には、ここで作られた瓦が提供されたことが考えられます。
 その他「園地」「木屋所」「船津」の名称が見えます。これからは園地や木工製造所や「湊」の存在がうかがえます。こうした庄倉について、鬼頭清明氏は次のように指摘します。
「懇田を直接の庄園成立の舞台とするのではなく、庄倉における稲を中心とする動産の出挙、交易を媒介に経営されたという点で初期庄園より一層古い『庄』経営であったと思われる」

 つまり、庄倉とは必要な物資を交易で調達・集積し、それらを本寺へ運送する地域の集積運搬の拠点だったと研究者は考えているようです。
次に法隆寺の庄倉と、地域豪族の関係を探ってみましょう。
1 讃岐古代瓦

 鬼頭清明氏は法隆寺の伽藍の中で、7世紀に建立された西院伽藍の瓦に注目します。特に、軒瓦-複弁蓮華文軒丸瓦と忍冬唐草文軒平瓦で、法隆寺式と呼ばれている瓦です。この瓦文様と同じ瓦を使用した寺院址が伊予・讃岐の法隆寺庄倉の周辺から出てくるようです。
「法隆寺式軒瓦の分布は、大勢として資財帳の伝える庄倉・水田等の分布と対応関係にあるとみてよい」

と鬼頭清明氏は記します。法隆寺の庄倉を拠点に、讃岐には法隆寺式軒瓦を用いた古代寺院がひろまっていったようです。
讃岐の古代寺院から、法隆寺と同じ型から作られた瓦や同系列の瓦が出てくることをどのように考えたらいいのでしょうか。
 古代寺院建立は、伽藍配置から設計図、木組み、瓦、相輪、仏像政策などハイテクの塊で、地方豪族が単独で行えるものではありませんでした。瓦を初め寺院造営に必要なあらゆる技術が法隆寺などの巨大寺院か中央致権から提供されていたと研究者は考えているようです。
 天武・持統政権は古墳時代の前方後円墳のように、どの豪族にも寺院建立を許したわけではありません。中央政権の許可があって寺院は建立できるものでした。そうなると瓦を載せた本堂や五重塔は威信財としての機能を発揮するようになります。有力な地方豪族は、中央政府の許可を得て争って寺院建立を行うようになりますが、誰にでも認められたわけではなかったことは押さえておきます。
 最先端のハイテク技術を伴う寺院建立には、いろいろな技術の「地方移転」なしではできないことです。技術移転がどのように行われたをうかがうことの出来る「痕跡」が瓦のデザインになるようです。瓦文様にもランクがあって、誰でも自由にデザインを選べたようではないようです。地方豪族の寺院には、同時代の中央寺院に使用されていた瓦デザインは使用されていません。「型落ち」瓦が使われるのが通常なのです。どの瓦を使っているかで、建立した地方豪族のランクも分かるシステムになっていたようです。瓦を比較することで、いろいろなことが見えてくるようです。
 少し寄り道しました。法隆寺系の瓦が讃岐に多いことから何が分かるのかという点に話をもどします。
まず、瓦作りの技術者が大和から讃岐にやって来たことが考えられます
「造瓦技術の移動」=「造瓦工人の移動」があったはずです。法隆寺側が、讃岐に工人を派遣したか、または技術を法隆寺で修得した工人が、そのまま讃岐にやってきたかのどちらかでしょう。その拠点になったのが庄倉施設と考えられます。庄倉は税の貢納だけでなく、大和との人とモノの行き来が頻繁に行われていた先進文化の交流センターということになります。

古代讃岐や伊予が大和と密接なつながりをもっていたことは、出土する古瓦のデザインからも分かるようです。
讃岐で使われている瓦文様を次に見ていくことにしましょう。
 讃岐では、壬申の乱前後のから寺院造営が始まります。
初期の寺院創建時の瓦デザインは、どれも古新羅系の軒丸瓦と共通デザインです。例えば、宝寿寺の単弁無子葉蓮華文瓦等は、そのルーツは大和豊浦寺の瓦に求められると研究者は考えているようです。

1 讃岐古代瓦
初期寺院に続く第2グループの寺院の瓦を見てみると
②多度郡の仲村廃寺では、大和の川原寺創建時の瓦や法隆寺式の瓦にデザインのルーツがあるようです。
③寒川郡石井廃寺は、大和の石川精舎跡出土瓦と文様構成がよく似ています。
1 讃岐古代瓦no源流 大和山田寺
③香川郡の坂田廃寺、河野郡の開法寺、寒川郡の下り松廃寺、山田郡の宝寿寺、三野郡の妙音寺等では大和の山田寺系の軒丸瓦が出土しています。
第3グループに使用されている瓦を見てみましょう。
1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
④7世紀後半の藤原京宿造営の前後には、藤原京の宮殿用軒瓦とによく似た軒瓦が寒川郡、三木郡、山田郡、香川郡等十九ヶ寺で使われています。この時期には三野郡宗吉瓦窯跡では、藤原宮所用瓦が当時の最先端技術を使った大工場で生産され、船で藤原京に運ばれていたことが分かっています。
1 讃岐古代瓦no源流 法隆寺
④『法隆寺資材帳』の庄倉があった所からは、那珂郡の宝輪寺跡、多度郡の仲村廃寺、善通寺、三野郡の道音寺の四ヵ寺から法隆寺式の軒瓦が出土しています。
⑤7世紀中頃の国分寺造営の頃には、阿野郡の讃岐国分寺、国分尼寺や山田郡の拝師廃寺で出土する軒瓦は、平城宮址や法隆寺所用の瓦とデザインがよく似ています。これは伊予も同じです。
1 愛媛県の法隆寺瓦

 瓦のデザインが地方へ伝わる場合には、つぎの3つのケースが考えられます。
①技術者が道具を持参して現地に赴き指導する場合、
②道具は不持参で現地謝達する場合、
③現地の須恵器工人等窯業経験のある人達を畿内の瓦工房に呼んで技術を習得させて帰国させ地方に瓦工技術を拡める場合
このような伝播スタイルの違いによって、微妙にデザインの変化がおきてくると研究者は考えているようです。
 法隆寺の庄倉と周辺の地方豪族には、次のような関係があったことが推測できます。
①法隆寺と庄倉のあいだで物と人との交流が頻繁に行われたいたこと
②交易ルート上の地方豪族が大伴氏を祖とする同族意識で結ばれていたこと
③地方豪族の古代寺院建立に法隆寺ネットワークに参加する中央豪族の協力があったこと
それでは、これを多度郡の郡長であった佐伯氏にあてはめて考えて見ることにします。
最初に見たように、那珂郡と多度郡には法隆寺の庄倉が4つあったことが「資財帳」からは分かっています。この庄倉と「法隆寺ー佐伯氏」に絞り込んで考えてみましょう。
①4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②讃岐の丸亀平野において、その拠点となったのが丸亀平野の佐伯氏であった。
③大伴氏 ー 大和・山部氏 ー 伊予・久米氏 ー 讃岐・佐伯氏 ー 播磨・佐伯氏
という大伴一族という同族意識を背景に、この交易ルート沿いに法隆寺の庄倉が置かれる。
④多度郡には多度津周辺に法隆寺の庄倉が置かれた。
⑤そこから佐伯氏は、先進文化や技術を吸収し、寺院造営技術も手に入れた
このような佐伯家の活動の背景には、海運活動を活発に行っていたことがあったと考えられます。善通寺に居館を構える佐伯氏は、弘田川を通じてその河口に「外港」である多度津港(白方津)を管理下にしていたとされます。これは、佐伯氏の祖先が有岡に大墓山古墳などの前方後円墳群を作り続けていた時代からのことです。

 『延喜式』では、四国は南海道に位置づけられ、京と各国との行程を次のように記します。
  阿波国 行程上九日、下五日、海路十一日。
  讃岐国 行程上十二日、下六日、海路十二日。
  伊像国 行程上十六日、下八日、海路十四日。
  土佐国 行程上世五日、下十八日、海路廿五日。
 と記されています。これは平安京への日程ですが、平城京への行程も、ほぼ同じ日数で貢納物を運んでいたようです。多度郡の佐伯氏の場合は、国の調庸は府中にある国衙に集められて国津より積み出されたようです。しかし、法隆寺への貢納物は、おそらく多度津(白方湊)から船で運ばれていたと研究者は考えているようです。
そして、畿内の終着港は古代の住ノ江港です。
住吉神社と住吉津

空海の父である佐伯田公は、このような海運活動を展開し、畿内と結びついていた人物であったことが考えられます。そして、住ノ江港には佐伯氏の別邸があり、そこには倉庫群も建ち並び、瀬戸内海を舞台に活発な海上交易活動を展開していたと考えることも出来そうです。
 そうだとすれば、空海の父田公は位階を持たずに、空海の弟たちの代になって位階を手ににいれるようになるもの頷けます。そこには佐伯家の傍流でありながら交易活動で急速に経済力を付け台頭してきた田公の姿が見えてきます。
1 阿刀氏の本貫地

その活動の中で、摂津を拠点とする阿刀氏の娘と婚姻関係を結び、真魚(空海)が産まれた物語も現実味をもった話になってくるように思えます。
 今回は、佐伯家の海上交易活動が4世紀頃までに遡る可能性があることを、法隆寺の資財帳に残された庄倉から探ってみました。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
松原弘宣 法隆寺と伊予・讃岐の関係 古代瀬戸内海の地域社会所収 吉川弘文館
鬼頭晴明 法隆寺の庄倉と軒瓦の分布 古代研究11(1977年) 

  
3

讃岐国司藤原経高は、なぜ寺領の集中、一円化を行ったのでしょうか。
 平安時代の末の11世紀後半になると律令制度の解体に対して、中央政府は租税改革を行い増税政策を展開します。それまでなかった畠地への課税、在家役の徴収などの新たな課税が地方では行われるようになります。これは、善通寺のようなわずかな寺領からの収入に頼り、国衛の支配に対しても弱い立場にある地方寺院にとっては、この新しい課税政策はおおきな打撃となったようです。
 善通・曼荼羅寺の本寺である東寺も、国に干渉して末寺寺領を保護するほどの力はありません。そればかりか本寺維持のために善通寺などの末寺からの年貢収奪に力をそそいでいたことは、前回に見たとおりです。また善通寺や曼荼羅寺としても、寺領耕作農民の年貢怠納や「労働力不足」に悩んでいました。
 一方、讃岐にやって来た良心的な国司の立場からすると、租税の取り立てだけがその役目ではありません。国内の寺社を保護し、興隆を図ることも国司の大切な勤めです。まして善通寺のような空海ゆかりの寺です。準官寺として国の安泰を祈る役目を担っている寺院を、衰退させることは重大な職務怠慢にもなりかねません。
3善通寺4images
このような中で打開策として実施されたのが善通寺寺領の一円化です。
 これは古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。この一円寺領の状態を示すのが久安元年(1145)十二月に国・郡の役人と善通寺の僧が作成して国衛に報告した善通・曼荼羅寺寺領注進状です。
 東寺末寺 善通曼荼羅両寺事
 口口中村・弘田・吉原三箇郷内口口口口口口
 口口口口段二百二十歩
 常荒二段   (荒廃してしまった畑)
 畠六十八町二段百八十歩
 作麦三十七町九段百口口歩
 口口丁九段
 常荒十九丁四段  
 河成一丁三段    (河成=川洲になってしまった田畠)
 四至(境界)   (東西南北四方の境界)
 限良田郷堺 
 限口口郷堺
 西限三野郷堺 
 限中津井北堺
在家拾五家   (一円保の耕作担当農家15軒=労働力)
 仲村郷 正方 智円 近貞 国貞 清成 正宗 清武 喜楽 嬬
 弘田郷 貞方 末時
 吉原郷 貞行 近成 円方 真房
 善通寺
    仲村郷五十九丁五段
    田代二十丁三段六十歩
    見作九丁九段百八十歩
    年荒十丁三段二百三十歩   (年荒=休耕地)
    畠三十八丁七段百二十歩
    作麦十九丁一段三百歩
    年荒十四丁二段六十歩
    河成四段百八十歩
    在家九家
 三条
  七里
  二坪一丁七  公田二段半見作也 年荒七段半  作大貞末
  三坪一丁七  公田定見作四段 年荒六段    作大正方
  四坪一丁七  公田定見作 年荒一段
        畠七段 作麦六段        作大正方
     (中 略)
  十七、一丁  本堂敷地 (三条七里17坪)
  十八、一丁  同 敷地
  十九、一丁  同 敷地
  廿、 一丁  同 敷地
    (中 略)
    八里
二坪一丁  公田定年荒      作人友重
三,一丁  公田八反年荒     在所為貞
      畠二反麦之
四、一丁  公田七反見作一反年荒六反 作人友重
      畠三反年荒
    (中 略)
 右、件の寺領田畠、去閏十月十五日御庁宣に依れば、件の二箇所先例に任せ本寺に付し其の沙汰せしむ可きの状、宣する所件の如し者(ということであるので)、寺家使相共に注進せしむる所件の如し、
久安元年十二月 日 
       図師秦正清
       郡司綾貞方在判
       寺使僧胤口在判
             国使
                大橡綾真保在判
                散位中原知行在判
 この史料には何郡何条何里何坪と記されていることと、多度郡の条里制が明らかになっていますので、記された耕地場所が分かります。この注進状に記された耕地の条里呼称を、坪ごとの作人と合わせて条理の上にあらわすと次の図のようになります。
この史料と図から分かることをまとめてみましょう。
3善通寺HPTIMAGE

①史料には三条七里17~20坪が「本堂敷地」とあります。絵図で見ると敷地は4坪で212㍍×212㍍の2町四方の面積が善通寺の伽藍であったことになります。現在の約2倍の伽藍だったことが分かります。
②散在していた寺領が、三条七里の善通寺と六条八里の曼荼羅寺の周辺に集められたことがよく分かります。
③坪の中に記入されているのが住人ではなく耕作者です
④寺領の中に仲村と弘田郷の境があるので、仲村・弘田・吉原の三つの郷にまたがっています。
⑤境界(四至)は、東は良田郷、西は三野郡、北は中津井北、南は生野郷に接しています。
⑥吉原郷の六条八里十八坪、方一町の本堂敷地が曼荼羅寺。
⑦一円保の田地面積を合計すると三七町三段一八〇歩。
⑧「常荒二段」とあるのは、荒廃して耕作できなくなった田地。
⑨畑地は総面積六八町二段一八〇歩で、常荒一九丁四段、その他氾濫などで川洲になってしまった田畠(川成)が一町三段あります。各坪は大部分が、田と畠の両方を含んでいます。この時代は、全ての土地が水田化されてはいません。畑作地が多く残っていたことが分かります。
⑩年荒と記されている所は休耕地。この時代は灌漑未整備や農業技術が未発達で連作ができなかったため、ある期間休耕にする必用があったようです。
⑪善通・曼荼羅寺領の場合、休耕しているのは田が21町八段あまり、畠が20町五段もあります。
⑫実際に作付されて収穫のあった見作地は、田が14町三段ほど、畠が28町一段です。
⑬在家一五家とあるのは、寺領域に住家をもつ農民が15五家あり、彼らに課せられる在家役が善通寺に納入されていたようです。
 一円化寺領のねらいは? 
 一円化された寺領をみると、土地と労働力がセットになって寺のまわりに配置されたことが分かります。これがもたらすプラス面としては、次の2点が考えられます。
①分散していた寺領が、国司の権力によって善通寺と曼荼羅寺の周辺に集められて支配がしやすくなった
②田畠数も増加し、15軒の農家も土地に付属して、徴収も行いやすくなった。 
これだけ見ると、これを実施した讃岐国司に善通寺は大感謝したと思われます。
その思惑通りに進んだのでしょうか?
善通・曼荼羅寺が置かれていた困難な状況は寺領一円化によって一挙に解消したのでしょうか。事態はそれほど簡単ではないようです。
 久寿三年(1156)五月に国衛に差し出した文書のなかで、善通・曼荼羅寺所司は散在寺領の時と一円寺領の時との地子物の徴収について、
「右件の仏事料物等、一円に補せられざる時に於いては、寺領夏秋の時、検注を以て地子物を勤仕せしむ。而るに一円せらる後は、彼の起請田官物の内を以て勤仕せしめ来る処に」

と述べています。一円化が行われる以前の散在寺領の時は、寺領を夏と秋の二回調査して年貢の額を決めて徴収していたが、一円化された後は、起請田から徴収された官物の内から納入されるようになったというのです。官物とは、国衛が支配下の公領から徴収する租税、起請田とは、官物の徴収責任者がそこからの官物の納入を神仏に誓って(起請して)請け負った田地のことです。
 つまり、一円化寺領からの地子物の徴収は、直接善通寺あるいは東寺によって行われるのではなく、国衛が、起請田として定めた田地(これが一円寺領とされたもの)から官物を徴収し、その内から一定額を寺に地子物として送ってくるということのようです。善通寺は徴税作業に直接に関わることがなくなったのです。
 そうすると、善通・曼荼羅両寺の周辺に集められた土地は、名目的には寺領とよばれていますが、租税・課役の徴収などの実質的支配は国衛によって行われていたようです。これは寺領いうものの、実態は公領です。寺領の面積が拡大したようにみえるのも、実は国衛が善通寺に渡す官物の額が従来の寺領地子額に見合うように、起請田の広さをを設定したためではないかと研究者は考えているようです。

保延四年(1228)に讃岐国司藤原経高は、国司の権限によって、散在寺領を移し替えて両寺の周辺にまとめました。その目的を整理すると
①寺領を寺周辺の一定地域にまとめて設定することで、
②その地域内に住居を持つ住民に課せられる在家役を寺側に納めさせて、
③寺家の修理・雑役不足の問題を解決し、
④農民に対する支配力の弱い善通寺による年貢徴収に代わって、国衛が寺領耕作農民から徴収した官物のうちの一定額を年貢として善通寺に送付する
⑤以上の「改革」で善通寺の財政を安定させようとした
⑥国衛が間に入ることによって、本寺(京都東寺)の過重な収奪をコントロールしようとした
以上の一円化政策について、研究者は
「善通寺と曼荼羅寺が追い込められていた状況を打開する適切な措置」

であった評価します。後の鎌倉時代にはこの一円化が善通・曼荼羅寺の中心寺領の基本的枠組となっていくのです。

 しかし一円化政策は、次の二つの大きな問題があったようです。
①寺の収入は、善通・曼荼羅寺が直接一円寺領を耕作している農民から地子を取り立てるのではなく、国衛が徴収した官物のなかから寺側と約束した額を取り分けて送ってくるという形で得られたこと。

 これは国司が代わり国衛が約束を守らず、納入物を送ってこなければ、その収入は途絶えてしまうことになります。

②一円化政策は、国司の権限によって行われたことです。中央政府の法令ではありません。彼のあとに就任した国司が、違う考えを持っていたら、同じく国司の権限によって、一円寺領を解消することもできます。

この問題はまもなく現実のものとなったようです。
 経高の次の国司は、一円化政策を引き継ぎました。しかし、その次の代の国司は、政策を変更し、一円寺領を解消し、もとの散在寺領に返してしまいました。久寿三年の解状で、善通・曼荼羅寺所司は、引用した文章に続けて次のように言っています。

「散在せらるるの間、その沙汰無きの間、もっとも仏威絶えるに似たり、ここに一円を留め散在さるれば、本の如く彼の留記帳顕然なり。件の地子物を以て勤仕せしめんと欲す。」

 一円化政策が取り止めになり、国衛からの納入物の送付という沙汰(処置)が無くなった善通・曼荼羅寺は、寺の留記帳(資財帳)に記載されている元の散在寺領から地子物を徴収しようとしました。しかし寺領一円化の間に、寺は徴税に関わっていませんでした。ふたたび散在した寺領に対する寺の支配力はすっかり弱まっていました。
 さらに、一円寺領が取り消されて寺の周辺が元の公領にもどったため、寺領の中に生活していることで寺に与えられていた15家の百姓の労働力が得られなくなります。逆に寺の周辺に居住する僧たちに公領在家役がかかってくるようになります。このため僧たちの多くが、重い負担に堪えかねて逃亡して、残ったわずかの住僧たちによって仏事が営まれる有様になります。この様子を善通・曼荼羅寺所司たちは、
「上件の条々非例の事、国衛の焉めには畿ならずと雖も、御寺の焉めには三百余歳を経し恒例の諸仏事等まで欠怠せるの故、最も愁うべく悲しむべし

 これらの在家役や国役は国衛にとっては、何ほどの額ではないけれども、寺にとっては三百余年も続いた仏事ができなくなってしまうほどの打撃なのだと、非痛な叫びをあげ、悲憤をつのらせています。
 僧侶達は「末法の時代」に入ったという時代認識がありました。自分たちの善通寺を取り巻く状況こそが「世も末」に思えたはずです。前回にお話ししたように、その現実への悲憤と逃避のために、香色山山頂に経塚は埋められたのかもしれません。
 このように設置当初の一円保は、国司交代の度に設置と廃止を繰り返します。これが制度として定着するのは、もう少し時間が必用でした。
 この頃、平安時代も終わりに近づき、都では平氏が保元の乱(1156))、平治の乱(1159)に勝利して、ライバルの源氏を倒し、栄華の道を進もうとしていました。そして讃岐国では、善通寺が、本寺と国衛の支配の間にはさまれて、苦難の道を歩んでいたのです。

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参考文献 平安時代の善通寺の姿 善通寺史所収


     
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 古代善通寺王国の中心であった旧練兵場遺跡の背後にピラミダカルな美しい山容で立つのが香色山です。古代の人々は、この山と背後に重なる五つの峰を五岳(ごがく)山と呼び聖域として見てきたようです。「香色山遺跡群調査」では、この山頂に弥生時代後期の集団墓と平安時代の経塚群が報告されています。
今回は古代末期(11世紀後半)の経塚について見ていこうと思います。
 善通寺の駐車場の後から整備された遊歩道を15分も登れば、山頂に立つことができます。展望は素晴らしく善通寺の東西の伽藍や、その向こうに真っ直ぐに讃岐富士に向かって伸びていく条里制の跡の道路が見えます。戦前は、11師団が丸見えなので「軍事機密」防衛のために一般人は、この頂上には立つことが許されなかったと言われますが、それが納得できる展望です。

DSC01063
山頂は木が茂っていないために、風や雨による土砂の流れ出し、至る所に岩盤が露出しています。そして「聖地」らしくいろいろな石造物が建てられています。例えば、空海の生家・佐伯氏の祖廟碑もあります。これも興味深いのですが、今回は素通りして、不動明王と愛染金剛王に目を向けます。
この二明王の後の石碑には次のような内容が刻まれています。
「再埋経画之銘併序(再び経画を痙(埋)めるの銘並びに序)として、「寛政壬子(1792)二月にこの地を掘削した際に、経石の中から嚢に納められた銀製経画三点が偶然発見された。嚢が壊れていたものは経画も傷んでいたが、賓が無事なものは経画も完全に残されていた。その大きさは径三寸(約9cm)・長さ一尺(約30cm)である。同年六月に再び同じ場所に埋め戻し、像(二明王像)をこの上に安置した。」
と刻まれ、碑銘奥書きには
「寛政壬子秋九月・誕生院権僧正寛充誌」
とあります。

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 ここからは江戸時代にここから「経塚」らしきものがすでに「出土」していたこと、それを誕生院の僧正が埋め戻し、その上にこの二つ明王様を建てたことが分かります。平成8年になって、土砂の流出で激しくなり遺跡の状態が危惧されたために発掘調査が行われました。その結果、4つの経塚が出土しました。
2公式山.4jpg

経塚とは仏教における末法思想による危機感から、仏教経典を後世に伝え残すことを目的に、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡です。見晴らしの良い丘陵上や神社仏閣など聖地とされる場所に造られるので、そのような場所では数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。この近くでは、まんのう町の金剛院で数多くの経塚(鎌倉)が発掘されています。

2公式山
善通寺の西に連なる五岳山 一番手前が香色山
 この調査で4つの経塚が山頂で確認されました。
そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には十二世紀前半の経筒が納められていて、上の石郭からは十二世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。調査の結果、この経塚は善通寺の関係者が平安時代の後半頃に造営したもので、下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」であると研究者は考えているようです。こんな上下2段スタイルは全国初のようです。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
2公式山3
香色山1号経塚
調査報告書には副葬品について、次のように記します
経筒  
経筒には銅を鋳製して作る銅鋳製経筒と、銅板を丸めて作る鋼板製経筒の2種類がある。今回発見された経筒は鋼板製経筒の典型的な例であるとともに、銅鋳製経筒と比べて小形のものの多い鋼板製経筒の中にあって、銅板の厚いこと・作りの丁寧なこと・紐の精巧なことなど、屈指の鋼板製経筒と言うことができる。
なかでも鉦の精巧さは注目に値する。一般的には、銅鋳製・鋼板製を問わず、宝珠形の鉦が付くが、本経筒例では、宝珠の下に受花と反花を置く本格的な宝珠鉦となる。これは時代の古さを示すとともに、この後に四国の経塚に流行する火災宝珠鉦経筒の先駆けをなすものとして注目される。
太刀  
経塚の副納品にはしばしば刀剣類を見ることができる。
その多くは刃渡り30cm以下の短刀である。今回も短刀はたくさん発見されているが、中に太刀が含まれている。経塚からの太刀の出土はきわめてまれで、今までに岡山県小山経塚、広島県宮地川経塚、兵庫県江ノ上経塚と出土地不明の奈良博所蔵品の4例が知られるだけである。瀬戸内沿岸の経塚に特徴的な副納品であることが知られるとともに、四国では初めての出土例となる。
  いずれの出土例にあってもU字形に折り曲げられていることが注目される。
副納品の構成  
一般的な経塚の副納品としては、鏡・合子・銭貨などが知られる。ところがこの香色山経塚の下部石郭においては、鉄製の太刀と短刀だけという特殊なあり方が注目される。副納品用と思われる副郭内にも短刀が重なって置かれるのみであった。他に有機質の副納品のあった可能性は考慮しなければいけないが、太刀の出土も見られるところから、利器に重点を置いた副納品構成が伺われる。あるいは願主なり檀越なりの在俗者の性格に関わる特殊性と考えることもできる。

  報告書は
①  経筒の精巧さを指摘し「屈指の鋼板製経筒」とします
② 副葬品に太刀があったこと、それも折り曲げられれていること 
③ 以上から有力な願主の存在がうかがえるとする。
 
2公式山2
香色山山頂に、このような経塚を造った時代は?
 古代善通寺には創建当時、四町四方の境内に金堂や大塔、講堂、法華堂、西塔、護摩堂その他、四十九の僧房があったといわれています。ところが十一世紀末頃になると、前回にお話ししたように
①本寺の京都東寺による収奪
②讃岐国衛による負担強化
で、善通寺は圧迫を受けるようになり、それまでの繁栄に大きく影が差すようになりました。
 天永三(1112)年)、善通寺の門外不出の太鼓一面が国衛によって会料の名目で押収されてしまいます。この時に善通寺所司が本寺の京都東寺に宛てた報告の最後には
「世は已に末世に及び、仏法凌遅すと雖も、大師の御遺跡法燈の光未だ消えず」
と記しています。この後、寺は土地や農民に対する支配力を失って行きます。やがて貴族の世から武家政権に支配権が移つり、古代の秩序が崩れていき、その上に立っていた古代寺院は衰退していくことになります。
DSC01048
この経塚群は、この混乱期にあたる平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「一等聖域」という歴史的環境から、
「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」
と研究者は記します。
  この時期は、善通寺周辺に勢力を置いていた佐伯一族や善通寺の僧侶達にとっては、先ほど見たように悲憤な状態にありました。この社会的な混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」としてとらえる僧侶や貴族は多かったようです。
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 経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて香色山山頂に経塚を築いた集団の当時の心情は、悲しみや怒り、或いは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。この山に登って来て、自らの書写した経典を経塚に埋めた人々の思いはどんな物であったのか。未来のために、あるいは現世のために聖地である香色山山頂に経塚を造り続けたのでは、そんな時代背景があるようです。
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参考文献 香色山経塚 調査報告書
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11世紀の初めに藤原道長が
この世をば我世とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば
 と、藤原家の威勢を詠んだ同じ年の五月十三日に、善通寺の政安という僧が、四ヶ条の請願を京都の東寺に提出しています。その請願書から当時の善通寺の姿がぼんやりとみえてきます。最初に
「讃岐国多度郡善通寺 寺司解し申し請う(お願い申し上げる)本寺裁の事」
とあります。ここからは東寺が善通寺の本寺となっていることが分かります。東寺は弘仁十四年(823)に嵯峨天皇より空海が賜わり、高野山とならんで真言密教の根本道場とした寺です。京都駅の南西にあり、新幹線からも日本一の高い五重塔が見えますし、「見仏記」ファンには見逃すことの出来ない仏さんの宝庫です。どうして善通寺が当時の末寺になったのかは、よく分からないようです。まあ、東寺は空海が真言密教の根本道場として定めた寺ですし、善通寺はその大師が誕生した寺ですから、本末関係が生まれても不自然ではないでしょう。
DSC01210
 善通寺は官寺化されていた。         
政安の東寺への請願書の第二条には、
  「右の寺(善通寺)代々の国掌御任の中、二十八箇寺の内として、国定によって公役を勤行す」
とあります。この頃は、国司が定めた公役を行う寺院が讃岐には28あり、善通寺もその一つだと言っています。古代の寺院は鎮護国家ですから、その使命は、国家の安泰と繁栄を祈ることです。そのため聖武天皇は奈良の都に大仏を建立し、全国に国分寺と国分尼寺を設置しました。天皇や国家によって建てられ国家の保護をうける寺院を官寺といいます。平安時代になると、国分寺だけでなく、地方豪族が建てた私寺が官寺に準ずる地位を与えられ、鎮護国家の祈祷を命じられる例が多くなりました。これを定額(じょうがく)寺というようです。
 善通寺は、初めは空海の生家・佐伯氏が建立した氏寺でした。
それを空海が整備再建したとされています。つまり、佐伯氏の私寺としてスタートした善通寺が、この時点では準官寺の扱いを受けるようになっていたようです。これには本寺の東寺の強力な後押しがあったのかもしれません。平安時代の中期から後期にかけて、政界や宗教界に空海の親戚筋の人が出ていることからも善通寺は大きな力を持って活動していたことがうかがえます。
DSC01214
「国定によって公役を勤行」とありますがが、課せられた「公役」とはどんなものだったのでしょうか?
まずは、「国家安泰、鎮護国家」の祈祷を勤行することです。善通寺も、平安時代や鎌倉時代の文書に、
「就中(とりわけ)、当国殊に雨を祈らしめ給うに、此の御寺の霊験掲焉なり(いちじるしい)。掲って代々の国吏皆帰依致さしむ」
「代々の国掌(国司)御祈祷の拗(その場所)、国土人民福田成熟の霊験地なり。これに由って、国郡共に仏事ならびに修理を勤仕せしめ給う所なり」
といった文言が見えます。ここからは讃岐国内の祈雨や豊作の祈祷を行って霊験があり、国司や民衆の信仰をうけていたと自ら述べています。
 この公役には、他にもいろいろな雑役が含まれていたようです。善通寺はそれらの負担を「本寺の勢いに依って」免除されていました。ところが、去年(寛仁元年)、国司がほかの寺々と同じように雑役を課してきたので、もとのように免除になるように本寺の東寺の力で取り計らってもらいたいというのが、政安の申請書の2番目のお願いです。
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中央の有力寺院と地方寺院が本末関係を結んだ場合、プラスの面とマイナスの面があったようです。
 プラスの面をあげれば、この場合のように本寺の力で、租税免除などの特権を手に入れたり、国司の横暴を排除することもできる場合がありました。地方の寺院は、課税やその他の点で国司の支配を強く受けます。しかし国司は中央政府から与えられている権限によって支配しているわけですから、地方寺院が直接国司と交渉しても、その支配を変えさせたり排除したりすることはできません。やはり朝廷にも大きな影響力をもっている東寺や興福寺などの大寺院に頼って、中央政府-国家に働きかけてもらうのが、要求を実現する早道だったようです。善通寺の要請の多くが、朝廷や国に対してではなく、まず本寺の東寺に宛てて出されているのは、そんな事情があるようです。

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 東寺への申請書の第一条と第三条には善通寺の寺領のことが記されています。
当時の善通寺の寺領は、多度郡と隣の那珂郡に散らばっていたようです。これらの寺領がどのようにして成立したのかは分かりません。考えられるのは建立した佐伯一族からの寄進です。寄進された土地は、もともとは租税がかかっていましたが、定額寺に認められ、国の保護を受け、仏事や修理のために寺領の租税が免除されるようになっていたようです。
当時、善通寺は寺領から年貢として二〇石あまりを徴収していたことが史料から分かります。ところがこの政安の申請書によると、
寺領を耕作している農民たちは、年貢を納めなければならないという心がない。ある農民などは、一町の田地を耕作していながら地子は全く納めていないという有様である
と記しています。
 善通寺領の田畠の耕作は、寺直属の下人に農具を与えて耕作をさせるというような直接経営ではなかったようです。寺領の周辺に住む農民に田地を預けて作らせる預作(小作のこと)だったようです。そのため農民たちは国衛領の農民で、公領の田地を耕作しており、そのかたわら善通寺の寺領も小作していたのです。その結果、荘園領主直属の小作人ではなく、自立性の強い農民だったことがうかがえます。善通寺領への年貢を、なかなか納めなかったのもそんな背景があったようです。

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善通寺の寺司である政安の申請状は、第四条で次のように請願しています。
善通寺は讃岐国内で一、二と言われる寺で、建立の堂塔房舎の景観は他の寺より勝っている。が、田畠の地子が乏しいため、雑役を勤める下人は一人もいないという実状である。そこで本寺から国に頼んで、浮浪人を二〇人ほどを寺に下し給わって寺の修理や雑役に使うことができるようにしていただきたい

という内容です。
 善通寺の伽藍が讃岐でNO1を争うほどに整備されていたことが、ここからはうかがえます。創建から300年近くを経て、準官寺化されここまでは順調な発展ぶりだったようです。
 しかし、問題もあったようです。当時は善通寺が、農民から年貢を取りたてる事はできますが、彼らを雑役に使うことはできませんでした。だから必要な雑役人(労働力)は賃金を払って雇わなければなりません。そのためには年貢が入らなければ、それもできないということになります。そこで申請書の第四条のポイントは、寺で自由に使える労働力が欲しい。東寺の方から二十人ほどの浮浪人を使えるように讃岐国府に働きかけて欲しいというものでした。
以上、寛仁二年(1018)の政安の東寺宛ての解状(申請書)からは次のようなことが分かりました
①善通寺が、東寺の末寺として、また国の準官寺として発展してきたこと、
②寺領耕作の農民の年貢怠納や、寺の修理や雑役のために働く雑役人の不足に悩まされていた
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 平安時代の善通寺では、どんな仏事が行われていたのでしょうか?
 先ほどの申請書から約40年後の天喜四年(1056)に善通寺の役僧たちが作成した「善通寺田畠迪子支配状」が残されています。ここでの「支配」とは、仕事を配分するという意味です。「田畠迪子支配状」とは、年貢を仏神事料や修理料などに配分してそれぞれの勤めを行わせるために作成されたもので「予算配分書」的な文書のようです。ここからは当時の善通寺で行われていた仏事の様子がうかがえます。どんな仏教イヴェントが行われていたのが見ていきましょう。
免田地子米ならびに畠迪子物等を以て仏神事を勤修すべき支配勘文の事 
合(計) 四十八石六斗  
田地地子(年貢) 米三十二石二斗  
畠地子(年貢) 十六石四斗
  
修理料  十六石九斗 
道観聖人忌日料 五斗
「予算配分書」ですから仏事や修理の費用として配分される田のと畠の地子(年貢)の総額が最初に記されています。収入総額四八石六斗のうちの、一六石九斗が修理料に充てられ、残りが仏事の費用に充てられています。田地の迪子(年貢)は三二石二斗で、40年前が二〇石でしたから約1,6倍に増えています。「寺領内の未墾地の開発が進んだ」「新しく田地の寄進や買得などがあった」としておきます。畠も田地も開発が進められて、耕地面積も大幅に増加したようです。  
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①「春秋大門会 祭料一石三斗 毎月八日御仏供六斗 定灯油一斗八升」
 春秋大門会祭というのは、春と秋の二季に南大門あたりで行われていた祭りとしか推測のしようがありません。毎月八日の御仏供六斗、常燈油一斗八升(各一年分)が計上されています。四月八日がお釈迦様の誕生日なので、供物を捧げ、燈明を点していたようです。
②「 大師御忌料 二石 二斗仏供 八斗八大師御霊供八前科 一石僧供御酒料」
 空海の入定は承和二年(835)三月二十一日で、この大師御忌日の法会は、大師ゆかりの善通寺にとって最も重要な行事であったはずです。東寺ではこの日、御影供といって大師の画像(御影)を供養する法会が行われるようです。善通寺でも、二斗の仏供は大師直筆と伝えられるいわゆる瞬目の御影に供えられていたのかもしれません。
 次の「八大師」もよく分かりませが、研究者は
「真言密教を伝えた伝持八祖、竜猛、竜智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海の八祖」
ことと推測します。真言宗寺院では、八祖の霊前に各一斗ずつ八斗の供物を今でも行うようです。一石の僧供は、仏事を勤めた僧に対する費用で、御酒料の名目で出されています。それに似たようなことが行われていたのでしょう。
④「修正月料四石五斗 三箇日夜料
    一石大餅百枚料 燈油一升五合直三斗
    一石八斗僧供料」四回
    一石五斗導師御布施
修正会ですが、これは年の始めに天下太平・五穀豊穣・万民快楽などを祈願する法会で、元日から三日間ないし七日間行われたようです。善通寺では三日の夜に行われ、その間の仏供として大餅百枚(地子一石)、燈明(燈油一升五合、地子三斗で購入)が供えられています。勤仕の僧への供養料が一度について五斗、別に食費として粥料一斗、計一石八斗、法会全体を首座として主導する大導師の御布施が一石、初夜の導師の御布施五斗、総計四石五斗が修正月料として計上されています。

⑤  御八講料八石五斗 五斗仏供十坏料 講師御布施八石
 御八講というのは法華八講のことで、法華経八巻を朝と夕に一巻ずつ、四日問にわたって講説したようです。講師は八人で、その御布施が一石ずつ計八石、仏供は五斗を8つに分けて盛って供えたようです。
⑥  二八月三箇日夜 不断念仏料三石六斗 仏供料三斗十二坏料 僧供料三石
絶間なく称名念仏を唱え続けることを不断念仏というようです。そのための行事が二月と八月にそれぞれ三日間行われています。その費用として、仏供料三斗、僧供料三石、別に非時料つまり食事料三斗が支出されています。
⑦ 西方会料七石 一石法花(華)経一部直巳畠 
  五斗阿弥陀仏ならびに同経直巳畠地子
  仏供一石 講師布施一石 講師五斗 楽所ならびに御人等録物三石
西方会というのは、その名称からして西方極楽浄土を祈念する仏事だろうと研究者はいいます。この行事のために、法華経一部が畠迪子一石、阿弥陀仏像と阿弥陀経が畠迪子五斗で購入されています。この時期に新しく始められた仏事のようです。仏供一石、講師布施一石と五斗のほかに楽所や舞人などに対する録物三石が支出されています。ここからは、当時の善通寺には「楽団」があり音楽や舞を伴ったにぎやかな行事が、新たに生み出されていたようです。「伽藍が讃岐で1,2位」と言われるくらいに立派なことと合わせて、仏事も充実しており、衆目を集める寺院であったことがうかがえます。

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最後に次のような起請文がついています
右、免田地子ならびに畠地子等支配定むる所の起請件の如し、賦剋田見作畠見作増減有る時に於ては、相計って勤修に立用すべし、寺家司この例を以て永く惜留すること無く之を行え、若し留貪の司有らば住持三宝大師聖霊護法天等澄明を垂れんか、若し起請に誤らずして仏神事を勤修する司は、世々生々福徳寿命を身に受け、後生は必ず三会期に値遇せしめん、後々の司この旨を存じて、
敢て違失せざれ、故に起請す、
    天喜四年十二月五日 
     住僧  在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     証成大行事
      大麻(おおあさ)大明神
      雲気(くもげ)明神
      塔立(とうりゅう)明神
      蕪津(かぶらつ)明神
     判
 件の地子物等、支配起請勘文に任せ在地司ならびに氏人等澄を加署す、
     勘済使綾  在判
     惣大国造綾 在判
文末に「故(ことされに)に起請す」とあるのは、この配分に不公平がないこと、この配分を受けたものは怠りなく仏神事を勤修することを神仏に誓ったことばです。当時の起請文の最後につけられる常套句です。証成大行事としてあげられている大麻大明神ほか四柱の神々は、その誓いをうけて確かなものとする神々です。

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大麻神社と雲気神社は、式内社として善通寺の南に鎮座する神社です。
 同時にこのうち大麻大明神、雲気明神、蕪津明神は大歳明神、広浜明神と共に善通寺の鎮守神で、五社明神として境内の大楠の下に今でも祭られています。ここには仏教がこの地に現れる以前の「神々の連合」が垣間見える気もします。つまり、佐伯氏の勢力範囲が大麻神社や雲気神社にまで及んでいたことを物語るのではないか。ここは、古墳時代のこの地の豪族連合の合同神祭りが行われていた聖地で、そこに仏教寺院が建立されたのではないかという妄想を私は抱いています。
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参考文献 平安時代の善通寺 善通寺史所収

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王墓山の墳丘の麓にある箱形石棺  
「古代善通寺の王家の谷=有岡」に、王墓山と菊塚の横穴式石室を持つふたつの前方後円墳が相次いで造られたのが6世紀後半のことでした。しかし、それに続く前方後円墳を、この有岡エリアで見つけることはできません。なぜ、古墳は築かれなくなったのでしょうか?
 その理由に研究者たちは、次の2点を挙げます
①646年に出された「大化の薄葬令」で墳墓築造に規制されたこと
②仏教が葬送思想や埋葬方法の形を変えて行った
こうして古墳は時代遅れの施設とされたようです。変わって地方の豪族達が競うように建立をはじめるのが仏教寺院です。

古墳時代末期に横穴式の大型古墳群がある地域には、必ずと言ってよいほど古代寺院が存在する」

と研究者は言います。各地の豪族は、権力や富の象徴であり地域統治のシンボルであった古墳築造事業を寺院建立事業へと変えていったのです。
古墳から寺院へ
古墳から古代寺院へ
 それでは豪族達は、自分の好きなスタイルの寺院建築様式や、仏像モデルを発注できたのでしょうか。
そうではなかったようです。前方後円墳と同じく寺院も、中央政権の許可なく建立できるものではありませんでした。寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては、作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていました。中央政府の認可と援助なくしては、寺院は作れなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す威信財として機能します。
 前方後円墳がヤマト政権に許された首長しか建設できなかったこと、その大きさなどにもルールがあったことが分かってきています。つまり、前方後円墳は地方の首長の「格差」を目に見える形で示すシンボルモニュメントの役割を果たしてもいたと言えます。このような中央政府による「威信財(仏教寺院)」管理で地方豪族をコントロールするという手法は、寺院建立でも引き続いて行われます。

3妙音寺の瓦

 例えば壬申の乱の勝利に貢献した村国男依〔むらくにのおより〕は死に際して、最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、氏寺の建立を許され下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立は認められています。地方豪族が氏寺を建てたいと思うようになった背景には、寺を建てることで、さらなる次の中央官僚組織への進出というステップにを窺うという目論見が見え隠れします。
3宗吉瓦2

 その例が、多度郡のお隣の三野郡で丸部氏が讃岐最初の古代寺院を建立するプロセスです。丸部氏は、天武朝で進められる藤原京造営に際して「最新新鋭瓦工場=宗吉瓦窯跡」を建設し、瓦を供出するという卓越した技術力を発揮します。中央政府は「論功行賞」として、丸部氏が氏寺を建設する事を認めます。こうして、讃岐で一番最初の古代寺院・妙音寺(三豊市・豊中町)が、姿を見せるのです。これを手本にして、佐伯氏の氏寺の建立は始まったと私は考えています。

佐伯氏の氏寺建立のプロセスを見ていきましょう。

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伝導寺跡(仲村廃寺)
  佐伯氏の最初の氏寺は  伝導寺(仲村廃寺)
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、考古学が明らかにした答えとは異なるようです。善通寺の前に佐伯氏によって建立された別の寺院(Before善通寺)が明らかにされています。その伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。
 発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。

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仲村廃寺の軒丸瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。瓦の一部は、先ほど紹介した丸部氏の宗吉瓦窯で作られたものが鳥坂峠を越えて運ばれてきているようです。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。
ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。
この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
ここまでは、有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したと受けいれやすい話です。

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墓地の中に散在する仲村廃寺の礎石

 ところが話をややこしくするのが、時を置かずにもうひとつの寺を建て始めるのです。
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善通寺の軒丸瓦
それが現在の善通寺の本堂と五重塔のある東院に建立された古代寺院です。そして、善通寺東院伽藍内からも伝導寺と同じ時期の瓦が出てくるのです。中には伝導寺と同じ型で模様が付けられたものも出てきます。これをどう考えればいいのでしょうか。考えられることは
①伝導寺も善通寺伽藍の創建も白鳳時代で、同時代に並立した。
 しかし、伝導寺と現在の善通寺東院は、直線にすると300㍍しか離れていません。佐伯氏がこんな近い所に、ふたつの寺を同時に建立したのでしょうか。前回に紹介した大墓山古墳と菊塚古墳は非常に隣接した時代に造営されたことをお話ししました。そして、被葬者は佐伯一族の中の有力一族の関係にあったのではないかという推察をしました。ここでも、本家と親家のような関係にある人物がそれぞれ氏寺を建立したという仮説もだせますが・・・何か不自然です。

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仲村廃寺の礎石
②白鳳時代に伝導寺が建立されたが短期間で廃寺になり、今の伽藍の場所に移転した
 善通寺伽藍内で発見された白鳳時代の瓦は、廃寺とした伝導寺から再利用のために運ばれ使われた。この仮説には、移転の原因を明らかにする必要があります。
.1善通寺地図 古代pg
  伝導寺の南にあった3つの遺跡を見てみましょう。 
  ①生野本町遺跡は、善通寺西高校のグランド整備に伴う発掘調査で出てきた遺跡です。
溝状遺構により区画された一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。遺跡の存続期間は7世紀後葉~8世紀前葉であり、官衛的な様相が強い遺跡である。

  ②生野本町遺跡の南 100mに は生野南口遺跡が 位置する。
ここでは 8世紀前葉~中葉に属する床面積40㎡を越える庇付大型建物跡1棟、杯蓋を利用した転用硯1点が出土している。生野本町遺跡に近接し、公的な様相が窺えることから、両遺跡の有機的な関係が推測できる。
 そして、文献学的な推定からこの付近には南海道が通っていたとする次のような説がありました。
南海道は、多度郡条里地割における6里と7里の里界線沿いが有力な推定ラインである。13世紀代の善通寺文書には、五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載されてる。
 
 ③これを裏付ける考古学的な発見が、四国学院大学構内遺跡から出てきました。
この遺跡は、南海道推定ライン上にあるのですが、そこから併行して延びる2条の溝状遺構が見つかりました。時期的には7世紀末~8世紀初頭で、この2条の溝状遺構は南海道の道路側溝である可能性が高いようです。また、ここからは伝導寺で使われた同じ瓦がいくつか出てきています 。  
この3つの遺跡について述べられているキーワードを、取り出して並べてみましょう。
①7世紀後半という同時代に同じ微高地の位置するひとまとまりの施設
②計画的に並んだ同じ大きさの大型建物群
 → 官衛的な様相が強い遺跡
③延床400㎡の大型建築物
 → 地方権力の拠点?
④遺跡の間を南海道が通っていた           
 → 多度郡の郡衛が近くにあるはず
⑤伝導寺の瓦が出土
  → 佐伯氏の氏寺・伝導寺の建設資材の保管・管理
⑥どの建築物も短期間で消滅
これらを「有機的な関係」という言葉でつなぎ合わせると、出てくる結論は何でしょうか?
それは、四国学院キャンパスから南にかけての微髙地に多度郡の郡衛施設があったということ、そして、佐伯氏の館もこの周辺にあったということでしょう。
それを研究者は次のような言葉で述べます
   この様相は、官衛や豪族による地域支配のため新たに遺跡や施設が形成されたり、既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡とみると整合的である。

要は、研究者も、7世紀後半には多度郡の郡衛がここにあったと考えているようです。
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以上から7世紀後半の善通寺の姿をイメージしてみましょう。
 条里制の区割りが行われた丸亀平野を東から一直線に、飯山方面から五岳を目指して南海道が伸びてきます。それは四国学院大学キャンパスの図書館あたりを通過してさらに、西へ伸びて行きます。その南海道の北側に、大きな集落(旧練兵場遺跡)が広がり、その集落の東端に、この地域で初めての古代寺院・伝導寺が姿を現します。そこから600㍍ほど南を南海道は西に向けて通過します。南海道に隣接するように北側には倉庫群(四国学院遺跡)が立ち、南側には多度郡の郡衛とその付属施設が並びます。そして、その周囲のどこかに佐伯氏の館があった・・・

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多度郡の郡衛の北に姿を現した古代寺院。これは甍を載せた今までに見たことのないような大きな建造物で、中には目にもまばゆい異国の神が鎮座します。古墳に代わる新たなモニュメントとしては最適だったはずです。佐伯の威信は高まります。

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佐伯氏の居館は、どこにあったのでしょうか?
  従来説は、
  ①佐伯氏の氏寺は現在の善通寺伽藍で、佐伯氏の居館は現在の西院であった
 
でした。  しかし、以上の発掘調査の成果を総合すると

  ②佐伯氏の最初の氏寺である伝導寺が建立され頃、佐伯氏の拠点は生野本町遺跡付近(四国学院の南)にあった

  ③そして伝導寺の廃絶と善通寺伽藍への移転に伴い、佐伯氏の活動の拠点も今の誕生院の場所へ移動した と考えられるようになっているようです。
 ここで、残された問題に帰ります。
なぜ伝導寺が短期間で廃棄されたのかです。
 この問題を解くヒントが、実は3つの遺跡の中に隠されています。それは、
「④三つの遺跡の建築物は、建てられて短期間で姿を消している。
ということです。これは伝導寺とおなじです。何があったのでしょうか?
7世紀後半の南海沖地震の影響は?
災害歴史の研究が進むにつれて
「白鳳時代半ばを過ぎた頃、四国地方は大地震による大きな被害を受けた」

という説が近年出されています。
「日本書紀」の巻二九、天武十三年(678)10月14日の記録に
「山は崩れ、川がこつぜんと起った。もろもろの国、郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺の塔、神社など、破壊の類は数えきれない。人民のほか馬、牛、羊、豚、犬、鶏がはなはだしく死傷した。このとき伊予温泉は埋没して出なかった。土佐の国の田50余万頃が没して海となった。古老はこんなにも地が動いたことは、いまだかつて無かったことだと言った。」
とあります。
 続いて十一月三日には
「土佐の国司が、大潮が高く陸に上がり海水がただよった。このため調(税)を運ぶ船が多く流失したと知らせてきた。」
ともあり、10月14日の地震により発生した津波の被害の報告のようです。7世紀後半に何回か大きな地震が起きていたようです。「伊予」「土佐」でも大きな被害が出ていることから、讃岐の善通寺市付近でも、戦後の南海地震と同じような被害があったのではないかと研究者は考えています。
 伝導寺が姿を見せた頃は、佐伯氏の居館は生野町本町遺跡付近にあった?
 先ほど見てきたように、この遺跡は白鳳時代の初め頃(七世紀後半)に成立し、白鳳時代末頃(八世紀初め頃)には廃絶しています。寺の移転に併せるように現在の西院に佐伯の居館も移転したようです。これも同じ地震被害に関連するものではないか、と研究者は推測します。確かに、戦後の南海地震規模と同規模の揺れなら善通寺にも被害があったでしょう。実際に多度津からの金毘羅街道の永井集落に立っていた鳥居は根元からポキンと折れています。建立されたばかりの寺院に、大きな被害が出たことは考えられます。
王墓山古墳や菊塚古墳の報告書には、大地震によると考えられる石室の変形が見られるとしています。善通寺市周辺における奈良時代以降の大地震の記録は残っていませんから、これらも白鳳時代の大地震によるものではないかといいます。
 こうした白鳳の南海大地震の被害を受けて、佐伯家の主がその対策をシャーマンに占なわせた結果、新しい場所に寺も本宅も移動して再出発せよという神託が下されたというSTORYも充分に考えられるとおもうのですが・・・・
  以上が現時点での伝道寺短期廃棄説の仮説です。これにて一件落着!と言いたいところなのですが、そうはいかないようです。
伝導寺跡からは平安時代後期の瓦が出土するのです。これをどう考えればいいのでしょうか?
普通に考えれば、この寺は平安末期まで存続していたということになります。しかし、寺として存続していたのなら瓦が別な場所で再利用されることはありません。とりあえず次のように解釈しているようです
「奈良時代の移転に伴い伝導寺が廃絶した後、平安時代後期になって伝道寺跡に再び善通寺の関連施設が置かれたのではないか」

しかし、今後の発掘次第では「解釈」は変わっていくことでしょう。

   以上をまとめておくと次のようになります。
①7世紀後半に佐伯氏は、初めての氏寺・伝導寺を建立した
②この建立には三野郡の丸部氏の協力があった
③伝導寺建立後に南海道が整備された。
④現四国学院大学の図書館付近を東西に南海道は走っていた
⑤その付近には、多度郡の郡衛や付属施設が建ち並び、佐伯氏の館も周辺にあった。
⑥しかし、天武十三年(678)10月14日の「天武の南海大地震記録」によって大被害を受けた
⑦そのため建立されたばかりの伝導寺や郡衛・館も廃棄された。
⑧そして、新寺を現在の善通寺東院に、郡衛・館を現在の西院に移動した
これが空海が生まれる半世紀前のこの地域の姿だと私は考えています。  
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

 讃岐で一番古い寺院と云えば? 
昔は、国府の置かれた府中の開法寺が讃岐で一番古いと云われていた時期もあったようですが、今では妙音寺が讃岐最古の古代寺院とされているようです。妙音寺と聞いても、馴染みがありませんが、地元では宝積院と呼ばれています。四国霊場第70番本山寺の奥の院でもあります。
まずは現場に足を運んでみましょう。
 四国霊場本山寺は国宝の本堂と明治の五重の塔で知られていますが、その奥の院と言われる妙音寺まで足を伸ばす人はあまりいません。本山寺が平地に建つ寺とすれば、妙音寺は丘の上に建つ寺という印象を受けます。「広々とした沃野が展開し、そこには条里制の遺跡が現在している」というイメージではありません。妙音寺の北側の尾根上では、古墳や8世紀代の遺物を出土した茶ノ岡遺跡やがあることから、低い平な尾根の上に古代集落が存在したようです。
「香川県妙音寺」の画像検索結果
さて、古代寺院を攻める場合には瓦が武器になりますが、古代瓦は私のような素人にとってはなかなか分かりにくので簡単に要約します
①妙音寺出土の軒丸瓦は6種7型式が出てくる
②この中で一番古いものは十一葉素弁蓮華文軒丸瓦M0101モデルの「高句麗系」のデザイン
③このM0101モデルは、大和・豊浦寺出土瓦とデザインが似ている
④作成時期は「瓦当の薄作りや、丸瓦を瓦当頂部で接合するといった技法の特徴は7世紀前半的だが、文様の構成や畿内での原型式からの変容が著しい点」
を考えると年代的には、630年代末~670年代頃の作成が考えられるようです。つまり壬申の乱に先行する形で建立が進められたことになります。
続いて登場するタイプが軒丸瓦MO102A ・ B型式とM0103型式です。
 これらは百済大寺で最初に使われた「山田寺式」の系譜に連なる瓦です。
ところで、これらの軒丸瓦はどこで生産されていたのでしょうか?
妙音寺の瓦は隣の三野町の宗吉瓦窯で焼かれていましたが、そこでは藤原京の宮殿造営のための瓦も同時に焼いていたのです。つまり妙音寺用のM0102A・Bや同103モデルは藤原宮軒丸瓦6278B型の瓦と同じ場所で同じ時期に作られていたことになります。
 妙音寺から出土した瓦は、650~670年代の幅の始まり、90年代にほぼ終了したと考えられるようです。ここから建立もこの時期のこととなります。瓦が年代をきめます。
 妙音寺の創建時に高句麗式と山田寺式の新旧の2つの瓦が使われていることをどう考えればいいのでしょうか。
新旧の瓦に年代差があるのは、出来上がった建物毎に瓦を焼いて、葺いていったということでしょう。古代寺院の建設は、まず本尊を安置する金堂から着手するのが通例です。そうだとすれば、最初の「高句麗系」瓦は金堂に、次いで「山田寺式」瓦はその後に出来上がった塔や回廊・中門に葺かれたこと。その場合、垂木先瓦や隅木先瓦が使われているので、塔が建立されていたと研究者は見ています。讃岐で垂木先・隅木先瓦が出土した寺院は妙音寺のみで、讃岐最古の寺院にふさわしい荘厳がされたようです。
なぜ地方豪族達は、競うように寺院を建立し始めたのでしょうか? 
  その謎解きのために目を美濃国の周辺に移してみましょう。
壬申の乱後に成立した天武朝になると、各地域の豪族はステイタスシンボルとして寺院建立が進められます。その背景は、地域で確立した強大な生産力でしたが、さらなる目的は官僚機構への参入でした。そのモデルが美濃の川原寺式軒瓦を持つ古代寺院です。美濃地域の古代寺院の建立は7世紀中頃に始まり、最初は3か寺ほどでした。尾張・伊勢の場合も同様です。ところが7世紀後半になると、川原寺式軒瓦で葺かれた寺が一挙に17か寺にも急増するのです。この傾向は尾張西部や伊勢北部の美濃に隣接する地域でも見られます。これは一体何が起こったのでしょうか?
  
それは壬申の乱に関係があるようです。
 天武天皇の壬申の乱の勝利への思いは強く、戦いに貢献した功臣への酬いは、さまざまな功賞として表されました。その論功は持統天皇へ、さらに奈良時代に至っても功臣の子々にまで及びました。例えば、乱でもっとも活躍が目立つ村国男依〔むらくにのおより〕は死に際し最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立を認めたのです。美濃や周辺の豪族による造寺に至るプロセスには、壬申の乱の論功行賞を契機として寺院を建立し、さらなる次のステップである央官僚組織への進出を窺うという地方豪族の目論見が見え隠れします。
 このような中で讃岐の三豊の豪族も藤原京造営への瓦供出という卓越した技術力を発揮し「論功行賞」として妙音寺の造営を認められたのではないでしょうか。
ちなみに、かつての前方後円墳と同じく寺院も中央政権の許可無く造営できるものではありませんでした。また寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていたとされます。どちらにしても中央政府の認可と援助なくしては寺院はできなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す物として機能します。

この時代は白村江敗北で、大量の百済人亡命者が日本列島にやってきた時代でもありました。
亡命百済人の活躍

彼らの持つ先進技術が律令国家建設に用いられていきます。それは、地方豪族の氏寺建設にも活用されたと研究者は考えています。

亡命百済僧の活動

妙音寺の瓦は、どんなモデルなの
妙音寺の周辺には忌部神社があり「古代阿波との関係の深い忌部氏によって開かれた」というのが伝承です。果たしてそうなのでしょうか。讃岐で他の豪族に魁けて、仏教寺院の建立をなしえる技術と力を持った氏族とは?
 先ほど、これらの瓦は宗吉瓦窯で生産されたこと、その中でも創建期第2段階に生産されたM0103モデルは藤原宮式の影響を受けていることを述べました。研究者は、そこから進めて「藤原造宮事業への参画を契機に妙音寺は完成した」と見るのです。

 「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 妙音寺の創建第1段階の「高句麗系」瓦は、畿内では「型落ち」のデザインでした。
そして第2段階の妙音寺の所用瓦も最新形式の藤原宮式でなく、デザイン系譜としては時代遅れの「山田寺式」なのです。藤原京に船で運ばれるのは最新モデルで、地元の妙音寺に運ばれるのは型落ちモデルということになります。これは何を物語るのでしょうか。
 こうした現象は、政権中枢を構成する畿内勢力とその外縁地域との技術伝播のあり方を物語るもののなのでしょう。もっとストレートに言えば畿内と機内外(讃岐)との「格差政策」の一貫なのかも知れません。
 三野の宗吉瓦窯を経営する氏族と妙音寺を建立した氏族は同じ氏族であった可能性が高いと研究者は考えています。それにも関わらず中央政権は、讃岐在住の氏族への論功行賞として妙音寺に最新式の藤原宮式瓦の使用を許さなかったと研究者は考えています。

「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 


  
参考文献
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

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中寺廃寺遊歩道
中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。
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中寺廃寺Cゾーン

あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

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中寺廃寺石組遺構
後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。、
仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、
あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
にも見えます。 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していた例もあります。
 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として記載されているのが「石塔」です。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。
 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為のようです。
山に登って、ケルンを積むのも「作善」とも言えるようです。わたしも色々なところで石を積み無意識に「作善」してきたことになるのかもしれません。
さて、この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。
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中寺廃寺石組遺構
 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けた累積結果と考えられるようです。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」であることです。
『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。
ここでは、祈りと宴会が行われていた? 

そう理解すると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。
 春の予祝行事である、その年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、あるいは山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣し、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていったと考えたくなります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。
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 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

中寺廃寺について、分からないこと、分かったこと 

中寺廃寺は大川山に近い山の中にある「山林寺院」として「国史跡」に指定されています。しかし、地上に残るものを見てもその「ありがたさ」が私にはもうひとつ理解できません。そこで自分の疑問に自分で答える「Q&A」を作って見ました。
 なおこの寺の現況については以前に紹介しましたのでこちらをご覧ください。

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大川山からのぞむ中寺廃寺

Q1 中寺廃寺が、大川山の奥に建立されたのはどうして

 大川山(標高1043m)は。丸亀平野から見るとなだらかな讃岐山脈の上にとびだすピダミダカルな頂が特徴的でよくわかる山です。この山は、天平6年(734)の国司による雨乞伝説を持ち、県指定無形文化財となった念仏踊りを伝える大川神社が山頂に鎮座します。讃岐国の霊山・霊峰と呼ぶのにふさわしい山です。
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B地区 割拝殿跡から望む大川山
聖なる山を仰ぎ見る「山岳信仰」と山林寺院は切り離せません。
仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきました。
比叡山延暦寺と日吉大社の関係をはじめとして、「山林寺」に隣接して土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られています。中寺廃寺は、大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所としてスタートしたと考えられます。
大川山を遙拝するなら、どうして山頂に寺院は建てられなかったの?
 大川山が聖なる山で、中寺廃寺はその遙拝所だったからです。
霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚があっても、山林寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。
 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、生活不能な山頂に建てる必要はないのです。
 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀、
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。

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B地区 割拝殿と僧坊 ここからは大川山が仰ぎ見えます

Q3 古い密教法具の破片からは何が分かるの? 

 中寺廃寺跡からは、銅製の密教法具である錫杖や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。これらの法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。このことから寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。
 空海によって密教がもたらされる以前の非体系的な密教知識を「雑多な密教」という意味を込めて「雑密」と呼びます。その雑密の行者達の修行が、行われていたことを示します。
 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶がいました。空海も彼らの影響を受けて「大学」をドロップアウトして、その中に身を投じていきます。ここから出土した壊れた密教法具の破片は、厳しい自然環境の中、呪力修得に向け厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているように思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

若き日の空海(真魚)の山林修行は?

山林仏教の修行者となった青年空海は、二十四歳の時、自らの出家宣言として書き上げた「三教指帰』の序文で次のように述べています。
「ここに一の沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。その経に説かく、「もし人、法によって(正しく)この真言一百万遍を誦せば、すなわち一切の教法の文義(文章と意味)暗記することを得」と。
 ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて、飛頷を讃燧に望み(大変努力して、阿国(現在の徳島県)大滝嶽にのぼりよじ、土州(現在の高知県)室戸崎に勤念す谷、響きを惜しまず、明星(金星)来影す(姿を現す)。        (『定本弘法大師全集』七、四一頁)
空海は求聞持法をおこなった場所として具体的に地名を挙げているのは「大滝嶽」「室戸崎」だけですが、辺路修行として他の四国の聖山・聖地で行った可能性はあります。空海は、正式な得度や度牒を得ない私度僧の立場でこの修行をおこなっていたようです。
 当時、南都仏教の学解僧を中心とする大きな存在があった一方で、山林に入って一定期間大自然と一体化する山林修行や、求聞持法のような古密教的な修行法を重視する実践系の仏教集団が形成されていたのです。むしろ、両者の要素を兼ね備えた僧が周りの尊敬を集められたのです。。
 空海が四国の海辺や山岳が求聞持法の修行地として選んだことは、のちに続く密教山岳僧に大きな影響をもたらします。空海が中国からもたらした体系的な密教の実践エリアとして、この地が選ばれるようになります。空海を始祖の一人とする辺地修行と密接に結びつく聖地となっていくのです。それが平安後期から鎌倉期にかけて「弘法大師信仰」によって統一され、次第に「四国遍路」として体系化されることになります。ここはそんな空間のひとつだったのかもしれません。

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A地区 本堂と塔がある中寺廃寺の中枢地区です

中寺廃寺は、いつごろ存続した山林寺院なのですか

この寺院の活動期は次のような3期に分類されているようです。
  1 8世紀後半~9世紀  大川山信仰と修行場
 尾根の先端B地区において、行者たちの利用が始まります。。この時期には建物跡は確認できません。遺構が残らないような簡易施設で「山中修行場」として機能した時期で、B地区は遙拝書として機能していました。
  2 10世紀~  伽藍出現と維持期
谷の一番奥で標高が一番高いA地区に塔・仏堂が姿を現し、B地区では仏堂・僧房が、C地区おいて石組に遺構群が作られる時期です。この時期は、機能が異なるA・B・Cの3つの空間が愛並び、谷を囲んで向かい合う山林寺院として整った時期です。これには、讃岐国衙や国分寺も関わっているようです。
  3 12世紀以降 消滅期 
各地区から建物遺構が見られなくなる時期です。平安時代末期のこの時期に中寺廃寺は衰退・廃絶したと考えられます。
つまり、空海が活躍する9世紀後半以前から、ここは行場として修験者たちが活動する聖地になっていたようです。そして、平安時代が終わるに併せるかのように破棄され忘れ去られていきました。
国司として赴任した菅原道真は、この寺の存在を知っていたのですか?
 道真が着任した仁和2年(886)の夏のことです。
国府の北にある蓮池の蓮の花が真っ盛りでした。土地の長老が「この蓮は元慶(877 - 84年)以来葉ばかりで花が咲かなかったが、仁和の世になると、花も葉も元気になった」と云います。蓮は仏教ではシンボル花なので道真は「池の蓮花を採取して「部内二十八寺」に分捨する」ように提案すると、役人は喜んで香油なども加えて「東西供養」したといいます。[『菅家文草』巻4、262]。
「部内二十八寺」とは、讃岐の国衙が管理する寺28寺です。
ここから、9世後半の讃岐国には、28もの寺院が活動していたことが分かります。これは、考古学的に存在が確認されている白鳳期の讃岐の古代寺院の数と、ほぼ一致します。古代豪族によって白鳳期に建立された氏寺は、200年後にもほぼ存続していたようです。
 菅原道真が、讃岐国にある寺院数を知っていたのは、古代寺院が各国の国守の管轄下にあったからです。寺院に属する僧侶は、国家が直接管理した東大寺、下野薬師寺、筑前観世音寺に設けた三つの戒壇で受戒(合格し採用)した官僧であり、国家公務員でした。その動向や、彼らが居住する寺院の実態を、国守が把握するのは職務のひとつでもあったようです。
 菅原道真がカウントした「讃岐28ヶ寺」のなかに、この中寺廃寺が含まれているかどうかは、年代的に微妙なところです。9世紀後半は、中寺廃寺の本堂や塔が姿を見えるかどうかのラインのようです。
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A地区 本堂から塔跡の礎石を見下ろします
この寺の造営や維持管理に、讃岐国府は関わっていたのですか?
 繰り返しになりますが、古代律令国家においては、個人が出家し得度することは国家が承認しなければ認められませんでした。僧侶は国家公務員として、鎮護国家を祈願しました。祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会に参加します。一方で、僧は
「清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」
することが国家から求められのです。これが国家公務員としての僧侶の本分のひとつでした。
 9世紀後半の光仁・桓武政権は、僧侶の「浄行禅師による山林修行」を奨励します。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要なことであるとされていたのです
 国家は「僧侶が清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」するための施設整備を行うことになります。このような動きの中で10世紀になると、国衙の手によって山林寺院が整えられていくようになります。大川山信仰や行場としてスタートした中寺廃寺に、本堂や塔があらわれるのもこの時期です。
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僧侶は勝手に山岳修行を行うことはできなかったのですか?

 養老「僧尼令」禅行条は、官僧が修行のために山に入る場合の手続きについて、次のように規定しています。
1地方の僧尼の場合は、国司・郡司を経て、太政官に申請し、許可を公文書でもらうこと。
2その修行山居の場所を、国郡は把握しておくこと。勝手に他に移動してはならない。
 この条件さえ満たせば、官寺に属する僧侶でも山岳修行は可能でした。
また、修行と同時に「僧としての栄達の道」でもあったのです。ここで修行した「法力の高い高僧」が祈雨祈念などを行い、成功すれば権力の近くに進む道が開けたのです。
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山中に山寺を建立する理由は「山岳修行」だけですか? 

 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くに立地します。
古代山林寺院が国境近くに立地する例は、中寺廃寺以外にも、
比叡山延暦寺(山背・近江国境)
大知波峠廃寺(三河・遠江国境)
旧金剛寺  (摂津・丹波国境)
などの数多く見られようです。
国境は、国衙が直接管理すべき場所でした。古代山林寺院の多くが、国境近くに立地するのは、国衙の国境管理機能と関連があるようです。さらに讃岐山脈の稜線を西に辿れば、
尾野瀬寺(旧仲南町)→ 中蓮寺(旧財田町)→ 雲辺寺(旧大野原町)
と阿讃山脈稜線沿いに山岳寺院が続きます。中寺廃寺は当時の行場ネットワークを通じて、他の山岳・山林寺院と結びついていたのかもしれません。これを後の四国霊場の原初的な姿とイメージすることもできます。

遺構や出土物からは、どんなことが分かるのですか?

 A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であるようです。ここにも造営に当たって讃岐国衙の「管理コントロール」が働いていたことがうかがえます。
また、塔心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。そのために赤みを強く帯びています。つまり、地鎮・鎮壇具として埋納するための須恵器は、国衙がこの寺用に作らせた特注品が使われているようです。
小説なら「空海、地元の中寺廃寺で修行する」というテーマで、讃岐にやって来た菅原道真の時代に割拝殿が作られることになり、それを国司である道真が「空海が若き日に修行した寺院」と伝え聞いて、特注制の陶磁器などの制作を命じて、空海由来の寺院として整えられていくたというストーリーが書けそうな材料はそろいます。

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また、B地区で出土した灰粕陶と見間違える多口瓶も、わざわざ播磨の工房に特注して作らせた可能性が高いようです。
 つまり、10世紀の中寺廃寺には、仏具として荘厳性の強い多口瓶を、わざわざ西播磨から取り寄る立場の僧侶がいたことになります。中寺廃寺は、単なる人里離れた山寺ではないことはここからも分かります。この寺は讃岐国衙や讃岐国分寺とストレートに結びついていた寺院なのです。
参考文献
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集
加納裕之  空海の生きた時代の山林寺院「中寺廃寺跡」

                          
                          
                                    


        

 国分寺-古代寺院を彷彿とさせるお寺

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 四国の各県の国分寺と一の宮は、みんな札所になっています。六十六部は、神社である一の宮も全部回ったので、そういう伝統が遍路にも残ったということでしょう。
日本全国六十六か国の一の宮を回る伝統が、四国では四か国の一の宮を回ることになりました。そして、幸いなことに四国は四か国とも旧国分寺の境内をそのまま使って新しい国分寺ができています。
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伊予の国分寺の場合は、いまは薬師さんの薬師寺だけが残って、伽藍跡としては100メートルほど離れた人家の間に、塔の礎石が残っているだけです。讃岐の場合は、自然環境もすっかりそのまま残りました。しかし、創建寺の金堂と塔は残っておりません。講堂があった位置に現在の国分寺の本堂があります。もっとも、その本堂は鎌倉時代の建物です。
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 国分寺が衰えた理由は簡単でして、国家が造ったものは国家が面倒を見きれなくなるとつぶれてしまいます。ここに官寺大寺の盛衰の大きな原因があります。
 国家によって建てられ、国家によって保護され、国家によって維持されたものは、国家の保護がなくなれば衰えてしまいます。それと同じことは国分寺の場合にもいえます。国分寺は国費によって建てられ、国々の国司が国衛稲(国司のところに収納する租税)の一部を国分寺と国分尼寺に分けていました。佐渡や若狭の場合は全く跡形もなくなって、別なところに国分寺という名前のお寺が造られました。幸いなことに、四国の場合は、昔の寺他の近く、もしくはもとあった場所にあります。

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 奈良西大寺の指導下に、本堂は再建されました。

中世の讃岐国分寺は、権力と結び付きを強くした真言宗を堕落したものと見なし、南都(奈良)西大寺の叡尊から始まる教団(真言律宗)とのつながりを強めていきます。南都西光寺は仏教の根本である戒律を重んじ、真言律宗の大きな課題として各地の国分寺復興に積極的に取り組みます。その、再建方法が資金や資材を広く集める勧進(かんじん)という方法でした。こうして、西大寺の指導下に、讃岐国分寺の本堂は再建されます。再建場所は、8世紀の講堂礎石の上でした。それは、真言律宗の「原理主義」を体現したものかもしれません。本堂は、豪快な木組みによる高く広い空間を作る、簡素な折衷様で、南都の技による建築の流れをみることができます。
 この時期は寺社の再興・創建が相次ぎ、多くの堂塔や社殿が建てられました。讃岐に現存する建築としては、讃岐国分寺本堂・観音寺本堂・本山寺本堂・屋島寺本堂などがあります。これらは折衷様(せっちゅうよう)あるいは新和様(しんわよう)と呼ばます。東大寺の再建や鎌倉の禅宗寺院などで取り入れられた新たな技術と様式が、従来の和様と融合してできた様式です。その建設には多数の職人が必要で、畿内から来たと思われる棟梁や上級の職人の下で地元の職人が働き、新たな技術と様式を地元の職人たちは吸収していったのでしょう。
 屋根に葺かれる瓦も、それまでの青味がかった灰色から黒色の燻し瓦へと変わっていきます。軒丸瓦の文様は、それまでの蓮華文から三つ巴文へと変わっていきます。こうした変化は、地元の瓦職人たちが担いました。    

 讃岐の国分寺は、そのたたづまいがよく残りました。

 金堂と七重塔さえあったら奈良時代の国分寺もこういう状態ではなかったかとおもわれるぐらい、たたずまいがよく残りました。礎石も金堂と塔の礎石はほとんど完全に残っています。
 本尊は本来は釈迦如来だったはずです。
ところが、鎌倉時代に復興したときに国分寺の千手院だけが残って、講堂跡にできたのが現在の千手観音を本尊とする国分寺の本堂です。古代寺院だったということもあって、たいていのお寺は境内の主要な場所に庫裡を堂々と建てたりするのに、ここの国分寺の場合は、お寺の管理をする庫裡や納経所などは築地塀の外に控えめに配置されています。
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ご詠歌は
「四を分け野山を凌ぎ寺々に 記れる人を助けましませ」で
国分寺を読み込んで、「四を分け」と家っています。
四つの国を分けて遍路が野山の苦しみをしのぎながら寺々をめぐっている、訪れた人をそれぞれの寺の本尊さんが助けてあげてください、という意味だとかもいます。
幼稚なようですが、味わってみるとなかなか味のある歌です。

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聖武天皇の発願で天平十三年(741))国分寺建立の勅によって、国中一四一か寺ずつの金光明四天王護四之寺と法華滅罪寺が建てられました。これは家大寺と法華寺の関係にもなります。いずれも国家を守護するということを目的にしてできたものです。
 国分寺の建立は、天平九年(737)以降の疫病と国作を鎮めるためだとされています。庖疸の流行は、藤原四家がそれぞれ当主を失ってしまうくらいの疫病でした。それを鎮めるためだとされています。
 が、実際は良弁らの建言で、中国が大雲寺を国々に建てたのに依って、国家統一を目指したものでしょう。その結果、各国に一つずつ国分寺を建て、中央の奈良に東大寺を建てたのです。
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 各国の国分寺の本尊は釈迦如来です。

梵網経に読かれているように盧舎那仏を中心にして、その周りに百億の出生の釈迦がいるとすれば、盧舎那仏を中心とする一つのヒエラルヒーというか、一つの組織ができます。
 西国直二郎先生は、これが目的だったという説を出して、梵網経をそのまま東大寺と国分寺の関係に広げています,現在では、それに添えて法華経による死者の魂の滅罪を願ったのが国分尼寺だということに落ちついています。
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 国分寺は本尊の釈迦牟尼像一丈六尺と大般若経六百巻を供えました。
大般若経は、国家的な災い、たとえば災害や怨言を鎮めたりする力かあるというので、各国の国分寺に大般若経六百巻を供えるように命令しています。国分寺建立の記には、本尊を納める金堂と七重塔を造り、「金光明最勝王経」と「読華経」とを供えて、これを読誦しなさいということも記されています。
 しかも、造る場所は「好処を選べ」と命令しています。
土地によって場所が違いますが、だれが見てもいい場所を選びなさいということで、奸処が選ばれました。しかし、旧址がそのまま現在の国分寺として保存された例はあまり多くありません。
その中では讃岐国分寺と土佐四分寺と阿波国分寺はよく残されていて、四国の場合は四か寺とも八十八か所の霊場になっています。
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 現在の讃岐国分寺は、山を北に背負って南に開いた位置にあります。
しかも、境内の外に出ると淵ケ池という大きな池まであって、かりに人家がなかったら極楽の姿を呈するような場所です。背後の山は国府台という丘陵で、もう少し北に行くと五色合があります。

縁起には、大蛇退治の読が出てきます。

聖武天皇の勅願で行基菩薩が開基となって建立された、千手観音を本尊としたとありますが、実際には釈迦如家を本尊です。のちに弘法大師が中興したといっているのは、霊場としての意味をもたせるためでしょう。
 ただ、ここは弘法大師が生まれたところからあまり遠くなく、讃岐国府にも近いので来たことはあったかもしれません。司馬遼太郎氏は『空海の風景』の中で、弘法大師がここへ来たと書いていますが、そういう想像をさせるような場所でもあります。
 本尊は弘法大師が修補したとされています。
現在の本尊は平安時代末期ぐらいのものだとおもいます。しかし、一木ですから、中期のものかもしれません。
 国分寺に関しては次のような伝説があります。安原淵に大蛇がいて人々をとって食べた。戸継三郎という者が大蛇退治に出かけたが、大蛇が銅鐘を頭に載せて浮き上がってくるので、なかなかしとめることができない。そこで千手観音を念じたら退治することができたので、鐘を大蛇から取って国分寺に納めたということになっています。
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国分寺の縁起の半分は鐘の由来に割かれています

 国分寺の奈良時代の銅鐘は重要文化財に指定されています。
 この鐘を慶長十四年(1609)に高松藩主生駒一正が高松城の時鐘(時を知らせるための鐘)にしたところ、鐘の崇りがあったので、国分寺に戻されたという記録があって、実際に国分寺に戻っています。
 慶長十四年二月の「高松城に鐘を納めよ」という文書と、三月の「鐘を返すから受け取れ。そのかおり領主の煩いを治すように祈りなさい」という文書があるので、鐘を国分寺から高松城にもっていったら、生駒一正が病気になってしまって、鐘の崇りだと考えて返したことが証明されます。したがって、これは縁起でも伝説でもなくて事実です。
 そのころの武士たちは縁起をかつぎました。
豊臣秀吉も善光寺如来を京都へ移したら病気になったので、すぐ返したという事実があります。
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  国分寺は五色合の南の国府台の南麓にあります。

 古代国分寺の旧地を占める閑寂な境内です。広い境内に点在する奈良時代の礎石と亭々たる古松が美しく、旧国分寺の七重塔の礎石十五個と金堂の礎石三十三個は、いずれも奈良時代の巨大な礎石です。どこの国分寺も七重塔を復興したところはありませんが、讃岐の国分寺の場合は石造七重塔があります。鎌倉時代には領主のあつい保護があったようで、金堂も石造七重塔も鎌倉時代です。
 ただし、慶長年間以前の古文書がないので、庇護者の名前はわかりません。
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 鐘松には重要文化財の奈良時代の銀鎖が残っています。
金堂跡の東に地蔵堂、その東の築地塀の外に、庫裡、納経所、大師堂があります。
金堂址と池を隔てた講堂址に建てられた現国分寺千手院の本堂は、九間四面の鎌倉時代の建築です。本尊は一木造の平安時代の十一面千手観音です。

 このお寺は板壁に遍路の落書があるので有名です。
しかし、これは一般に公開しておりません。松山の円明寺の銅板納札は「四国仲遍路」と書いてありますが、国分寺の落書は平安時代以来使われている辺路を使って「四国中辺路」と書いてあります。
 紀州の中辺路もこの字を使っているので、もとは遍路を辺路と呼んだことは明らかです。やがて道路という文字の言まで「ヘンロ」と読まれ、さらに八十八か所を全部回るということから「遍路」と変わります。そうなると、「ヘジ」ではなくて「ヘンロ」と読むようになったのです。
 国分寺の落書は、永正十年(1513)のほかに、大永年(一五二八)、天文七年(一五三八)、弘治三年(一五五七)があるので、室町時代ごろになってから出てきます。
辺路が海岸の修行であるのに対して、中辺路は内陸の修行を意味しているという説を完全な定説とするわけにはいきませんが、紀州の中辺路も内陸の修行を中辺路といっていますから、この落書の場合も内陸の修行と解釈できるかとおもいます。


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金倉寺
金蔵寺の本尊は薬師如来です。
古代寺院の本尊は、薬師如来が非常に多いようです。八十八か所のうちで、海岸のお寺約三十か所の本尊が薬師さんです。その理由は、海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を肋けてくれる神かやってくるという信仰があったからです。ここには熊野信仰との神仏混淆が背景にあるようです。薬師如来と熊野行者の活動は重なり合う部分が多いようです。熊野行者が背負ってきた薬師如来がそのまま本尊になっていることが多いようです。金倉寺も道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来です。
ご詠歌は
「まことにもしんぶつそう(神仏僧)を開くれば 真言加持の不思議なりけり」
でなんだかよくわからない御詠歌です。「しんぶつそう」は神仏憎という字を当てるほかないようです。

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金倉寺境内
 金倉寺に行って、南の門から入ると広揚があります。
左に八幡さん、右に弁天さんがあって、突き当たりが薬師さんをまつっている本堂です。それに対して、向かって右に常行堂の庫裡(納経所)、左に鬼子母神堂と大師堂があります。善通寺あるいは善光寺に同じく東向きに大師堂があって、十字に交差する伽藍配置です。

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太子堂

大師堂には、弘法大師像と智証大師像を安置しています。

金倉寺は、弘法大師のお姉さんが嫁いだ和気氏(因支首氏)の氏寺だということになっています。
善通寺の空海の佐伯家と、金蔵寺の和気家は近隣の豪族同士、婚姻関係で結ばれていたことになります。また、境内には隣接し新羅神社も鎮座し、渡来系の性格がうかがえます。

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新羅神社
そこに生まれたのが智証大師円珍ですから、智証大師は弘法大師の甥ということになります。しかし、智証大師が開いた天台宗寺門派では、弘法大師の甥とはいっていません。そのあたりに天台宗のこだわりがありそうです。

 金倉寺には「金蔵寺文書」が残っています。
 この文書は中世文書だけでも約百通あります。これも『香川叢書』に入っていますが、「金蔵寺縁起条書案」という金倉寺の縁起を箇条書きにした下書きが残っていました。それによると8世紀に金輪如意を彫刻して道場を建て、自在王堂と称しました。その大願主は景行天皇十三代の子孫の道善という人で、智証大師の祖父になります。そのため、最初は金倉寺とは呼ばずに道善寺と呼んだというのです。しかし、当時の正式文書からは円珍の祖父は、道麻呂であったことが分かります。

円珍系図1

智証大師(円珍)と天台宗の関係は?

 伝教大師のお弟子さんの義真は渡来人で、伝教大師が入唐したときに通訳をした人です。この人が比叡山の第一代目の座主になります。智証大師はそこへ入って出家して円珍と称します。
 そのうち846年に入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、858年に帰朝します。そして、和気宅成の奏上によって、仁方元年に和気道善が建てた自在王堂の敷地三十二町歩を賜って、859年に道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。これは中世の文書ですから、確実性が高いと考えられます。
 智証大師は寛平三年(894)に79歳で入寂しました。
 
智証大師像 圓城寺

円珍坐像 卵型の頭がトレードマーク

実は「金蔵寺文書」は金倉寺にはありません。

どういう経過をたどったかわかりませんが、高野山の金剛三昧院に所蔵されています。そのほか、応水入年(1402)に薬師如来の開帳が行われたということも出てきます。この時の開帳のときに、本尊さんから胎内仏が出たようです。
「金蔵寺衆徒某目安案」によると、鎌倉時代末期の徳治三年(1308)3月1日の火災で、金堂、新御影堂、講堂以下が焼けています。したがって、金堂の薬師如来が出現したと書いてあるのは、本尊が焼けてしまって、胎内から腹頷りの金銅の薬師如来が現れたことをいっているのでしょう。

 善通寺の本尊も薬師如来です。

善通寺の現在の本尊は室町時代の作ですが、創建時の薬師如来は白鳳期の塑像です。泥で造った薬師如来ですから、首が落ちてしまって、白鳳期の特徴をもった塑像の上面だけが残りました。かなり大きなものです。白鳳期のものは塑像が多くて、大和の当麻寺の金堂の本尊の弥勒如来もご面相が非常によく似た白鳳期の塑像です。

 薬師といっても、弥勒と同じようなお顔をしています。
塑像の白鳳期仏はほかにもたくさんあります。観音さんだといわれている大和の岡寺の本尊さんも塑像です。その胎内に、今は奈良博物館に陳列されている白鳳期の作品として、いちばん愛らしい仏様が入っていました。焼けたりして塑像が崩れると、その中から金銅製の飛鳥仏や白鳳期仏が出てくることがあります。「金蔵寺文書」の記録も、それを指しているのだと考えられます。

 応永十七年の「金蔵寺評定衆連署起請文」では、師衆、親子、兄弟の偏頗を禁じています。えこひいきをしてぱならないといっているので、弘法大師の肉親が高野山で寺務別当として経済的な事柄を扱ったのと同じように、肉親による寺務が行われたことが想像されます。
 智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写

円珍坐像(江戸時代の模写)
起請文の中で、神様に熊野三所権現と若王子があることも注意すべきものです。

評定衆は十か院坊にわたっているので、三十か寺か五十か寺かわかりませんが、かなり多くの院坊を擁していたことが考えられます。
 先達、御子(巫)、承仕、番匠、加行法師、寺宗門徒など、お寺の使役者が挙がっているので、山伏や童子か隷属していたこともわかります。
 享禄三年(1530)前後の「綸旨案」では、金倉上下庄が国威寺領であったことが分かります。
京都の国威寺の荘園として讃岐に金倉寺があって、円満院門跡の支配を受けていました。さらに、同じ天台宗の三十三所の一つの長命寺と関係があったことも出ています。
円珍系図1

円珍系図 (俗名広雄 父は宅成 祖父は道麻呂)
 
智証大師の祖父は和気道麻呂(通善)について
 宝亀五年(774)に、この寺を開いたのは智証大師の祖父和気通善なので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じことです。しかし、通善は道善の誤りでしよう。
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金倉寺前の道しるべ

 醍醐天皇が金倉寺と改め、南北ハ町・東西目町の境内に百三十二坊あったという伝承もありますか、これではあまりにも大きすぎるような気もします。のちに南北朝、永正、天文の争乱で縮小・衰退していたのを保護したのが高松藩主の松平頼重です。
金蔵寺
金倉寺
 金倉寺の大師堂の前のところに、平安時代末期から鎌倉時代初期ぐらいの多宝塔が残っています。
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白鳳期の古代寺院善通寺と空海
善通寺は、空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建したといわれてきました。
しかし、近頃の発掘によりその説は覆されているようです。まず、発掘調査で白鳳にさかのぼる善通寺の前身寺院が明らかとなってきました。中村廃寺と呼ばれてきたものです。行って見ましょう。

古代善通寺地図
古代善通寺周辺の復元地形
聖母幼稚園の西側、つまり善食の南側に墓地があります。
近世には伝導寺という寺院があり、その墓地だけが残っています。

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その墓地の中に入っていくと、大きな石があります。
これが礎石のようです。もともとここにあったものではなく、後に墓地があったここに集められてきたようです。

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この墓地の北側からは白鳳期の瓦も出ており、8世紀には中村廃寺と呼ばれてきた古代寺院があったようです。

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この北側は、農事試験場から国立病院に続く地域で弥生時代から連続して、住居跡が密集していたことが分かっています。この集団の首長は、甘南備山の大麻山の頂上付近に野田院古墳を造営し、その後の継承者は茶臼山から善通寺地域の「王家の谷」とも言える有岡に、前方後円墳の首長墓を
丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳
と連続して造っていきます。寺院が建立され始めると、いち早くこの地に古代寺院を作り上げていきます。彼らは時代を経るに従って、首長から国造へと成長していきます。それが佐伯家なのでしょう。

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 そうだとすれば、真魚(空海の幼名)が生まれたときに善通寺の前身寺院(中村廃寺)はすでに姿を見せていたことになります。しかし、この寺院は火災にあったのでしょうか、
最近は南海沖地震規模の大地震によるという説もでています。原因は分かりませんが短期間で放棄されます。そして、現在の善通寺の東院に再建されるのです。
 
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 白鳳時代の寺院は平安時代の半ばには焼け落ちたようです。
 その後の平安時代後期には、本寺の東寺と国衙政治の圧迫を受けて善通寺は困窮状態に陥っていたことが文献研究で明らかになっています。
鎌倉時代に讃岐に流刑になった道範は『南海流浪記』で善通寺のことを次のように書き記しています。
「お寺が焼けたときに本尊さんなども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」
「金堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見える」
「本尊は火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏だ」
とありますので鎌倉時代初期までには、新しく再建されたことが分かります。
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善通寺東院 赤門
この金堂も永禄元年1558の三好実休の兵火で焼け落ちます。しかし、当時は戦国時代の戦乱期で約140年近くは再建されず、善通寺には金堂がない時代が続きました。
 それが再建されるのは元禄の落ち着いた世の中になってからです。
この時に、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので高い基壇になりました。基壇部側面には大同2年(807)の創建当初の白鳳期のものとおもわれる石が使われているといいます。見に行きましょう。

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本堂基壇に近づいていくと・・・

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確かに造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。
大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。
他にも探してみると、

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 4個の礎石があるのが分かります。この基壇の中には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにもおもえてきました。
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丸亀藩の保護を受けて元禄年間に金堂の復興工事が始まります。

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その際に敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊としていたかけらが幾つもでてきました。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれていました。
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最後に善通寺という寺名について
五来重:四国遍路の寺は次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。普通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。

 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。
弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいま厳島神社に残っていますが、おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。


まんのう町中寺廃寺跡を江畑道より歩く

教育委員会のTさんに「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」と言われて、翌日、天候も良かったので原付バイクで江畑道の登山口を目指す。

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春日と内田を結ぶ中讃南部大規模農道を走って行くと江畑に「中寺廃寺」の道標が上がっている。この道を金倉川源流に沿って登っていく。 すると塩入から伸びてきている林道と合流する。これを左に曲がり砂防ダムに架かる橋を越えて奥へ入って行く。

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しばらくすると20台は駐車できそうな駐車場が左手に見えてくる。そこから尾根にとりついていく。
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しばらくは急勾配が続くが、もともとは江畑からの大山参拝道であり、南斜面の大平集落を経て阿波との交易路であった道で、旧満濃町と仲南町の町境でもあったためしっかりとした道で歩きやすい。迷い込み易いところには標識がある。
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 高度が上がると大きな松の木が多くなるが、この辺りはかつては松茸の本場であった所。この時期にこの付近の山に入って、「誰何」されたことがある。苦い思い出だ。
しかし、今は下草が刈られない松林に松茸は生えない。松茸狩りの地元の人にも出会わない。出会う確率が高いのは猪かもしれない。
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 傾きが緩やかになると標高700㍍付近。
展望はきかないが気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れる。私の使っている地形図は何十年も前のものだから高圧線が書き込まれていて、現在地確認の際のランドマークタワーの役割を果たしてくれる。しかし、最近の地形図には「安全保障」上のため政府からの要請で記入されなくなったと聞く。何か釈然としない。
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そんなことを考えながら歩いていると柞野から道の合流点と出会う。
柞野にも立派な広い駐車場が作られ、ここまでの道も整備された。流石「国指定史跡」になっただけはある。
そして、すぐに分岐点。まずは、展望台を目指す。
最後の急登の階段を登ると・・
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 ここからの展望は素晴らしい。

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燧灘の伊吹島から象頭山の向こうの荘内半島、
そして眼下に横たわる満濃池、讃岐平野の神なびく山である飯野山

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さらに、東は屋島から高松空港。
「讃岐山脈随一の展望を誇る」と説明板に書かれていたが、そうかもしれない。展望台も新築されたばかりで気持ちいい。ここにシュラフとコッフェルを持ってきて「野宿」したら気持ちいいだろうなと思ってしまう。
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展望を楽しんだ後は、中寺廃寺の遺構めぐり。
その前に準備してきたペーパーと説明板で復習。
 この辺りは、「中寺」「信が原」「鐘が窪」「松地(=末寺)谷」という寺院関係の地名が残るなど、大川七坊といわれる寺院が山中にあったと地元では言い伝えられてきた。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、中寺廃寺跡は長らく幻の寺院であった。
昭和56年以後の調査で、その存在が明らかとなってきた。
  中寺廃寺跡とは、展望台の周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっている平場群の総称で、東南東に開いた谷を囲む「仏」「祈り」「願」の3つのゾーンからなる。
創建時期は山岳仏教草創期である9世紀にまでさかのぼるとされている。
まずは遺跡の中で一番最初に開かれたとされる「祈り」ゾーンへと向かう。
やって来たのは展望台から東に張り出した尾根の平坦部。土盛り部分が見えてきた。

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ここから出てきた礎石建物跡は5×3間(10.3×6.0m)で、その中央方1間にも礎石がある点が珍しい。このため、仏堂ではなく、礎石配列から割拝殿と考えられる。ここから見上げる大川山の姿は美しい。
割拝殿とは???
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こんな風に真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようだ。
この建物の東西には平場があるが、一方の平場は本殿の跡であり、一方の平場は参詣場所と考えられる。
 その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡とされている。
僧侶達は、ここに寝起きして大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げられたのだろうか。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中には重なってきた。
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僧の住居跡とされる掘立柱建物跡2棟部分だ。
遺構跡は、埋め戻されて保護されている。松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かう。
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ここには南面して、仏堂と塔があった。
標高高723m地点で、3間(5.4m)×3間(5.4m)の礎石建物跡で、強固に盛土された上に礎石が置かれていた。心礎の真下からは、長胴甕が置かれ、周囲が赤く焼かれた壺5個が出土している。この塔を建てる際に行われた地鎮・鎮檀具鎮のためのものであろうとされている。塔跡礎石は和泉砂岩製で、成形されていない不定形なままの自然石である。同じような石が付近の谷にごろごろしているため山中の自然石を礎石として用いられたようだ。遺構保護のため、遺構には盛土を行い礎石建物については元の礎石によく似た石で礎石の位置を表す方法で保存されているという。
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礎石に腰掛けて、想像力を最大限に羽ばたかせてみるが、千年前のこの山中にこんな塔が立っていたとは、なかなか想像できない。
どんな勢力が背景にいたのか。
僧侶はどんな生活を送っていたのか。
地元勢力との関係は? 
金剛院や尾瀬寺との関係は?
分からないことが多く、????が頭の中を飛び交う。
ヒントは、この塔跡と仏堂跡の配置が讃岐国分寺と相似関係にあり、国分寺勢力との関係が考えられているようだ。西国の国分寺を再興した大和西大寺の律宗の影の影響下にあったのだろうか。出土品も西播磨産の須恵器多口瓶や中国の越州青磁椀などの高級品も出土しており、平安期においてはこの地域では有力な山岳寺院であったようだ。
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そしてやって来たのがお手洗い。
なんとバイオトイレです。高い山の山小屋ではよく見るが、まんのう町で経験するのは初めて。一時的な避難所の役割も兼ねているようだ。
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ここまでは稜線上の中寺駐車場からコンクリート道が続いており、非常時には車両も入って来れる。
しかし、落葉の今は、この通り。
落葉の絨毯だ。
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手洗い場から中寺道を南へ少し歩くと「願いゾーン」への道標と看板がある。ここから急な斜面をジクザクに5分ほど下りていくと・・
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落葉の積もった説明板が見えてきた。
石積遺構は、この猪柵の向こう側のようだが・・・
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なんとか柵を乗り越えて入れた平坦地には、至る所に石積遺構が見える。古代山岳寺院では、寺域内に祭祀的な場所があったそうです。
当時は、ここから谷を隔てて、谷向かいの拝殿や塔を見渡せた。そのため寺院の一部である石塔でだとされる。
平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。民衆が大川山への参拝の折に訪れ、ここに石を積んで石塔を作り、祈った場所ということになるのだろうか。
どちらにしても、後の時代の人たちが立ち入ることなく時代を経た場所で、平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所なのかもしれない。霊力のない私には難しいが・・
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近隣の尾瀬寺廃寺の遺構よりも、山岳寺院の姿がより鮮やかにイメージできる場所だった。
なお、中寺廃寺を起源とする寺院として『琴南町誌』198には、次の寺院が紹介されている。
 浄楽寺:丸亀市垂水町
藤田山城守頼雄、天台宗に属し塩入に開く。その子西園が永禄年中(1559-)に浄土真宗に改宗。9代日正円の時に現位置に移転。塩入地区の伝承によると浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも塩入には浄楽寺の門徒が二十数件ある。
 願誓寺:丸亀市垂水町
天文年間(1532-)沙門連海が江畑に浄土真宗の庵をむすぶ。江畑 地区の伝承によると願成寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも江 畑には願成寺の門徒が十数件ある。
 永覚寺:綾歌郡綾川町東分甲
「永覚寺縁起」によると永覚寺の開基空円(大和の法蔵寺)が天禄2年(971)に大川宮の別当職をしたと伝えている。まんのう町中通に 所在したが、天正年間に火災にあい現在の土地に移る。現在でも琴南地区には永覚寺の門徒が多い。
 称名寺:まんのう町内田
大川中寺の一坊で杵野の松地にあったが造田に移ったとされる。長禄年間(1457-)に浄土真宗に改宗し 内田に移転する。琴南地区の伝 承によると 浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。
 教法寺:徳島県三好郡東みよし市足代
大平地区の伝承によると、もともと中寺にあったが、大平の庵に移り、その後現在の場所に移ったとされる。
紅葉のいい季節に登れたことに感謝しつつ山を下りた。

 まんのう町に白鳳期の古代寺院跡があるという。

弘安寺周辺地遺跡図

にわかには信じられなかった。調べて見ると、香川県史にも、新編満濃町誌にも触れられている。そして、礎石と白鳳期の瓦が出土していると書かれている。これは行かねばなるまい。地図で当たりをつけながら四条小学校の西周辺の道を原付バイクで散策。目標は四条本村の薬師堂。すぐそばに公民館も同居と聞いていたが、なかなかわかりにくい。
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薬師堂 まんのう町四条本村

細い道を入り込んでいくと、それらしき空間が開けてきた。高さ1㍍の土壇の上に薬師堂が建てられている。方二間の南面する薬師堂の西側に回り込んでいくと、大きな石が不規則に置かれている。これが古代寺院「弘安寺」の礎石のようだ。1937年に、お堂を改築する際に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあるという。

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 さらに裏側に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられている。移動されなかったと思われるの四つ礎石についてみると、土壇場にあった旧建物は南面してわずかに西に向いている。礎石間の距離は2,1㍍である。これが本堂跡だろうか。

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薬師堂の下の礎石

以下 満濃町誌によると (満濃町誌107P) 

薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が置かれている。塔の心礎であったと思わる。中央に径55㎝、深さ15㎝ の柄穴がある。しかし、塔の位置は確認することができない。

弘安寺 塔心跡
弘安寺 塔心跡

 薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があるそうだ。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と考えられ、布目瓦が出土した範囲とも一致する。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区に見られる条里の方向とは一致せず、西に15度傾いている。このことからこの寺の建立は、条里制以前の白鳳時代にまでさかのぼると考えられる。
 本尊の薬師如来は、像高131㎝ 一木作りで大きく内ぐりが施された立像である。各部に大修理が加えられているが、胸のあたりから腹部に流れる衣文の線が整って美しく、古調を漂わせている。
 弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
  弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
           
 境内から出土した瓦のなかには、十六葉単弁蓮華文軒瓦瓦(径19㎝)など、法隆寺系の白鳳時代の瓦が含まれている。
この中で興味深いのは、ここから出土した軒丸瓦とおなじ木型で作られた瓦が以下の寺院から見つかっていることです。

弘安寺軒丸瓦の同氾

①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
これらの寺院ら出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が、弘安寺でも使われていたようです。さらに、木型の使用順も弘安寺が一番早く、①②③と木型が使い回されていたことが分かっています。弘安寺とこれらの寺院、造営氏族との関係がどうなっていたのかが次の課題となっているようです。それはまたの機会にすることにして・・


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もうひとつこの立薬師堂で見ておきたいものがあります。
立薬師本堂左には小さなお堂があり、そこには古い石造物が安置されています。
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 弘安寺跡 十三仏笠塔婆
柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
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弘安寺跡 十三仏笠塔婆
 塔身の高さは58㎝、幅と奥行は28㎝で二段組の台座40㎝の上に立つ。笠と五輪塔の空輪が乗せられて総高は142㎝
この石造物は、中世の16世紀初頭の石造物になるようです。その時代まで、ここには古代創建の寺院が存続していたのでしょうか。そうだとすれば、法然がやってきた13世紀にも、この弘安寺はあったことになります。多分、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことでしょう。しかし、法然の記録には、この寺院のことは出てきません。小松荘で彼が拠点としてのは、別のお寺であったことは、以前にお話ししました。
 四条本町周辺には、条里制施行に先行する7世紀後半の白鳳神社があり、16世紀近くまで存続していたとしておきましょう。四条本町が、このエリアの中心だったことがうかがえます。

白鳳期の丸亀平野南部において、古代寺院を建立した古代豪族とは?
善通寺では,有岡古墳群から古代寺院の「善通寺」建立へと続く佐伯氏の存在が思い浮かぶ。この地域の古代寺院を建立するだけの力を持った豪族とはだれか?

満濃町誌は因首氏(改名後は和気氏)だと次のように推論しています。

 本尊の薬師如来については、枇杷(びわ)の大木を刻んで造ったという『讃留霊王皇胤記』島田本に見られる和気氏の枇杷伝説に付会した伝承がある。また、木徳の和気氏が弘安寺以来の大旦那であったことが語り継がれている。
現在薬師堂に伝わる記録の中にも「和気氏が常に多額の金を寄付して第一の大旦那であった」ことを示す記事がある。この寺は、和気氏の氏寺として建立されたとも考えられる。
 一般の家屋が平床の掘立小屋で、藁や板で屋根を葺いていた当時、弘安寺の瓦が金毘羅山を背景にしてそびえ立つ姿は、美しい一幅の絵であったであろう。仏教は、すぐれた仏教文化の広がりという形で満濃町にも浸透した。

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