
旧吉野小学校の前の公民館です。
史談会の御案内です。
前回に続いて伊東悟氏による大久保諶之丞についてのお話しです。大久保諶之丞は、「多度津七福人のドン」と言われる景山甚右衛門との書簡を数多く残しています。今回は二人の交わした書簡に焦点を絞ってのお話しです。そこには従来の四国新道や讃岐鉄道建設をめぐって語られてこなかった内容も聞けるかも知れません。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
①猪ノ鼻の道路開築の願書・見積書、②明治17年10月、高知県官員の新道路線巡視に関する通達の写し、③明治17年11月、琴平で開催された道路開撃の有志集会の議事録、④その他誰之丞の書簡
⑤明治17年11月の道路有志集会の議事録や有志者名簿、巡視委員による高知県巡視や徳島県令による猪ノ鼻巡視の概略、⑥明治17年12月の「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開撃二付願」、⑦明治18年2月13日の三県申合書、高知県における道路開撃願書などの写し、⑧箸蔵道を経由する讃岐・阿波。土佐間の貨物数量調べ、「猪ノ鼻越道路景況調」など
本県三野郡財田上ノ村ヨリ阿州三好郡池田村ニ通スル字猪ノ鼻ノ嶺タルヤ、阿讃両国ノ物産ヲ相輸シ、加之ナラス上ノ高知ヨリ讃ノ多度津二通シ、即チ布多那ヲ横貫スル便道ニシテ、一日モ不可欠ノ要路ナリ、然り而メ我村二隷スル猪鼻嶺壱里余丁ハ岸崎巌窟梗険除窄、為二往復ノ人民困苦ヲ極ム、牛馬モ亦通スル能ハスト雖、此沿道二関係アル土阿ノ諸郡、皆讃卜物産ヲ異ニスルヲ以、互二交換運輸セザルヲ得ス、然ルニ、土ハ海路ノ便悪敷、阿ハ運河アリト雖、海岸二遠隔スルヲ以、其便ヲ得サルヨリ、不得止土着ノ者掌二唾シ脊二汗シテ負担シ得ルモ、運価高貴ナリ、運価高貴ナルノミナラズ、冬季二至テハ寒雪ノタメ、往々凍死スル者アルヲ免ヌヵレズ、実に其惨、且ツ不便筆紙二形シ難シ、今マ果断以テ此嶺ヲ開築セハ、直接二阿讃ノ便益ヲ得ル而已ナラス、閑接二其益ノ波及スルヤ小少二非ル也、不肖等此二意アル数年、然トモ奈セン、資金無ヲ以因、乃遂ニ今日二流ル、遺憾二耐ヘザル処然リト雖トモ、聖世今日ノ運搬旺盛ノ際二当テ、何ゾ傍観坐視、此便道路ヲ度外二置クニ忍ンヤ、故二今般本村々会二附、毎戸人夫ヲ義出シ、早晩開築ノ功ヲ奏セント可決相成候条、今ヨリ阻勉、右開築ニ着手致度候間、伏シテ真クハ、人民便否ノ如何ヲ御洞察御允許相成度、別紙図面目論見書相添、此段奉願上候、以上愛媛県下三野郡財田上ノ村 大久保諶之丞
三野郡財田上ノ村から阿波三好郡池田村に通じる猪ノ鼻嶺は、阿讃両国の物産が行き交う峠で、これに加えて高知から讃岐・多度津に通じる要衝で、一日たりとも欠くことが出来ない要路である。 しかし、上ノ村に属する猪鼻嶺までの1里余の道のりは急傾斜が続き、往来する人々を苦しめ、牛馬の通行もできない。この沿道に関係のある土佐や阿波の諸郡は、讃岐の特産品を手に入れるために、互いに交換運輸をせざるえない。また土佐は海路の便が悪く、阿波は運河が発達しているが、海岸から遠いので、その利益を得るのは一部地域に限られる。そのため人々は掌に唾して背に汗して、物品の輸送を行うがそのコストは高く付いている。輸送コストだけでなく、冬には寒く雪も積もり、輸送中に凍死する者も現れる。実に悲惨で、筆舌に尽くしがたい。今こそ果敢に猪ノ鼻嶺を開鑿し、阿讃の交通の便を開けば、その波及効果は少ないものではない。不肖、私はこの数年、この道の建設に私財を投じて当たってきたが、資金不足のために今になっても完成させることができないでいるのが残念である。明治の世の中となり、運輸面においてもいろいろな発展が見られるようになってきた。ただ傍観坐視するのではなく、この機会に道路開通を果たしたいと願う。そのために、村会で、各家毎に人夫を出し、早期着工に向けての請願を可決した。以上の通り交易面で利便性の向上のために、工事着手に向けてご決断いただけるように、別紙図面目論見書を添えて奉願いたします。以上愛媛県下三野郡財田上ノ村 大久保諶之丞
「土佐伊予ノ両国二跨り東西二大路線即チ川ノ江ヨリ瓜生野高知伊野・須崎等ヲ経テ、吾川高岡両郡間二流ルヽ仁淀川二沿ヒ別枝二至リ久万町ヲ経テ松山ニ達スルノ国道を開修」
「此旅行二付道路之事ニハ一層ノ感ヲ憤起シタル事アリ」
8月19日 播州から測量技師を招いて猪ノ鼻・谷(渓)道の測量開始9月 8日 道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く10月4日 道路の件で池田に出張。
諶之丞の熱意に共鳴し理解した田辺県令(知事)は、すでに高知・松山間の国道計画は走り出しており、諶之丞の構想では、それに徳島県を巻き込むことになることから、地元阿波池田三好郡の武田党三郡長の賛同を得て、下から徳島県令酒井明を動かすことが肝要であることを説いた。武田部長は物事の呑み込みが早く行動力もある名郡長であったからである。田辺県令は、県下の熱心な道路推進者を動かして武田郡長のところへやるからそれに合わせて諶之丞も行くように、あとは諶之丞の説得と武田郡長の考え次第だと諶之丞に下駄を預けた。諶之丞が三好郡役所で武田郡長に会う日程に合わせて県下の有力人物を武田郡長のもとに派遣する約束。先ず諶之丞が武田郡長に会って自分の道路構想を説き同調してもらうこと、そして折りよく田辺県令の内意を受けた高知県下の二人が訪れる段取りとなった。
尚此度者、殊の外意外ニ幸福ヲ得タル義二て、四方山の御咄アリ、帰村次第万語此頃者、道路開撃事業二付、軟掌御中へ彼是御手数相供、厚ク御配慮二預り、万々実二好都合二御座候、予而御噂申上候官員御中ハ日割ヨリ一日速着相成、琴平二於而少シク残念之廉もアリタレトモ、昨夜箸山ニテ御泊、充分下拙の考慮ヲ開伸、且ツ昨日者琴平ヨリ箸蔵迄同行、実地充分二吐露、大二見込モ被相立候趣二候、さて今般見積り之開菫事業者、真二未曽有ノ大工事ニシテ、今此時憤発従事、身命ヲ抱ツトモ、是非此功ヲ奏セスンハアルヘカラズ、而メ過日来御高配被降候猪ノ鼻開鑿願、大至急差出サステハ其都合ノあしき事アリ、依テ願書今二通並ニ目論見書三通、至急御認置可被降、図面者明日帰村次第、御衛へ参上、御相談可申上候、次ニ目論見書へ小字記入不被成方、却而よろしく、番号ノミ御記入可被下候明治17年十月三十一日朝 箸山二て 誰之丞篠崎嘉太治殿
この度の視察のことについては、期待した以上の成果が挙げられそうである。積もる話もあるが帰り次第に伝えたい。道路開撃事業について、数々のお手数と配慮をいただいていることが、好結果につながっている。感謝したい。高知からの視察団は予定よりも一日早く到着した。琴平では少残念なこともあったが、宿舎では、私の計画案を充分にお聞きいただいた。また昨日は、琴平から箸蔵寺まで同行し、測量結果などのデーターを示しながら現地説明を行った。大いに見込ありとの意を得た。さて今回の見積開鑿事業者について、未曽有の大工事になるので、憤発して従事し、身命をかけて取り組む決意の者でなければならない。先日にお見せした猪ノ鼻開鑿願について、至急に提出するのは不都合なことが出てきました。そのため願書と目論見書三通を、至急作成していただきたい。図面については、明日に私が帰村次第、持参し相談するつもりです。なお計画案への小字の記入は必要ありません。番号だけ書き入れて下さい。
①猪ノ鼻開鑿願書は、この時点では提出されていなかったため、至急提出しようとしていること②村戸長篠崎嘉太治と頻繁に情報を交換や協議を行いながら、対応をすすめていること。つまり、大久保諶之丞のスタンドプレーではなくチームプレーとして進められていること。③猪ノ鼻開鑿願書を提出することで、猪ノ鼻ルートを有利にしようと考えていたこと
大久保ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開鑿計画(高知・川之江ルート)を拡大して多度津・丸亀路線を入れ、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとしてこの計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。こうして見てくるとひとつの疑問がわいてきます。
「知行合一」で「心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を生み出す。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多い。よって先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。」
「居宅、座敷、竃場、湯殿、作男部屋、雪隠、釣屋、懇屋、牛屋、薪屋、油絞屋、勝手門、土蔵三棟など三百坪に及ぶ屋敷」
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」
戸長の大久保甚之丞殿より何度も辞職願が提出されているが、村民一同より辞めないで続けてくれるように、何度もお願してきた。同氏は資性才敏にして、村内の利益を第一に考え、村民を保護安堵させてくれていりので、我々一同お蔭で助かっています。元来同氏は、役員(人)となることは不本意で好まないところですが、村内が選ぶので命用されます。そのたびに上司に辞任届を出しますが承諾されず、村民もひたすらこれを推戴して、ついに今日に至った次第です。先年農民の暴動(讃岐血税一揆)は、役員(人)と見れば問答無用で居宅を放火し、その人物の如何を論じない。同氏もその災害に罹った。一揆が突然だったために、焼き討ちを止めるいとまがなく遺憾極まりない。大久保家の家族は、先年の暴動に懲りて吏職を嫌うようになりました。奉職している諶之丞氏は、不本意だが村民の情実を汲みとつて勉励してくれています。村民において、同氏に報いる義務なくしては、実に相済まない。そのため以下の条件を約し連判するものである。万一、条約に背いた者は、村内一同より罰責する。
第一条村民大久保氏を推戴して戸長となつている以上はその指揮に間違いなく従います。いやしくも意見があれば直ちに忠告をし、親睦補佐して、利害を共にし憂楽を同じくすること。
第二条万一、先年のごとき奸民暴挙、官吏を傷害することがあって、大久保氏をも禍いしようとすれば、村民一同相率いて居宅家族を囲統守護して、乱暴の者は即刻排除すること。
第三条万一、乱民暴動を防ぎ切れず居宅が毀わされ焼かれたときには、村民一同その居宅の新築費用を助成すること。右三条硬く守り決して違背しません。
大久保諶之丞は 大久保諶之丞は日暮のカラス森をめがけて飛んで行く
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」
明治14年9月、三豊郡長明治16年11月~17年3月まで、仲多度郡長を兼務、後任の福家清太郎が明治18年3月 ~23年11月まで再び仲多度郡長明治23年11~ 再度三豊郡長に転出、明治32年~37年 市政を施いた丸亀市の初代市長就任、
私(豊田元良)は明治九年ころから四国の道路が狭く曲折しており、金刀比羅宮への参拝者に不便であるため、四国を貫通する道路開通の必要性を認識し、金刀比羅宮司深見速雄や禰宜琴陵宥常にその計画を語った。その手順は、まず多度津・琴平間の道路を開通させてモデルを示し、次第に四国に広げていくというものであった。測量調査も始めていたが、明治10年の西南の役で、中断やむなきにいたった。明治14年に私が三野豊田郡長になり、その年の11月に郡内巡回で財田村を訪れた時に、初めて大久保諶之丞と会った。その時に四国新道の計画を述べると、諶之丞は手を打って賛同し、握手してその成功を誓い合い、さらに猪ノ鼻峠をともに視察した。
そこで、私は金刀比羅宮司から新道工費二万円の寄付の約束を取り付けるとともに、愛媛県知事関新平へ願書を提出する準備を進めた。一方、諶之丞には徳島県三好郡長武田覚三、高知県知事田辺良顕と面会し、賛同を求めるよう指示し、四国新道開整に向けて行動を開始した。
①金比羅への参拝者の便をはかるために、琴平を中心とする四国縦貫道路開通を目的としたこと。
②その第一段階として、多度津・琴平間から着手する計画だったこと。③その財政的支援を金刀比羅宮の宮司や禰宜から取り付けていたこと④多度津・琴平間以外の路線については、どこまで具体的な考えがあったかは不明
郡長巡回、学事道徳ヲ述ノ件ヲ懇話シ、且勧業二注ロスル体ナリ
明治十四年ノ頃、豊田元良氏ノ三野豊田郡長二任セラルヽヤ、夙ニ親交ヲ呈シ施政ノ方針ヲ翼賛シ、勧業・教育ノ事柄ニツキ、渾テ援助ヲ呈セザルナク、豊田氏モ亦深ク氏ガ身心ヲ公益二注クノ人タルヲ重ンジタリ、故二氏ノ意見トシテハ呈出セルモノハ大二注意ヲ払ヒテ荀モスルコトナカリキ、故二今氏ノ手記ニツイテ見ルモ、親交イト厚ク、来往モ亦頻繁ナリ、而メ一トシテ世益二関セサルハナカリキ、
星移り歳替り明治十六年ノ春二至り四国新道開鑿ノ件ヲ談議ス、豊田氏案ヲ叩イテ大二賛助ノ意ヲ表シ、直接卜間接トヲ問ハズ助カスベキコトヲ折言ヒタリ、爰二於テ氏力意志確固不抜ノ決意ヲ為セリ、爾後時ノ愛媛県令関新平氏二賛助ヲ求メ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏ニモ賛助ノ誠ヲ折言ハレ、大二氏ガ意志ヲ安ンセシムルニ至レリ、
明治14年頃に、豊田元良氏が三野豊田郡長に任じられると、二人の親交は急速に深まった。大久保諶之丞は、豊田郡長の施政方針を理解し、勧業・教育の政策実現に能力を発揮した。豊田氏は、公益のために活動する人物を重んじたので、諶之丞が提出する意見書などには、大いに注意をはらい、見過ごすことがなかった。今になって大久保諶之丞の手記を見てみると、二人の親交が厚く、頻繁に会っていたことが分かる。
こうして、明治16年の春になり、四国新道開鑿のことが話題に上ると、大久保諶之丞は豊田氏案を聞いて、大いに賛助の意を示し、直接・間接を問わず助力することを申し出た。ここに諶之丞爰の四国新道にかける意志は確固たるものになった。こうして、愛媛県令関新平氏に賛助をもとめ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏にも賛助を求め、この二人の賛意をえることができた。
「殖産興業に関する様々な事業を構想し、あるものは実行に移し、またあるものは実現ぜず、中途で終わったものも多くあった」
世間は豊田元良を評して「大言壮語の御問屋」と云う。突拍子もない空想家という言葉も当たらぬことはない。確かに元良先生は、細心綿密という人物ではない。しかし、その言葉は20年後を予測したものであり、その行動は4半世紀後のことを考えた上でのことに過ぎない。我はむしろ豊田先生の大言壮語に驚く讃岐人の器量の小ささを感じる。(中略)
前略豊田元良先生の説かれた吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋のような構想も、西洋人に言わせれば規模の小さいものである。豊田元良先生にはもっとスケールの大きな世間があっと驚くような大々事業を提唱して欲しい。今や日本はアジアの絶海の孤島ではないのだ。ユーラシア大陸がわが日本の領土に入るようなときには、黒竜江に水力発電所を建設し、中国・朝鮮の工業発展の振興に尽くす。これこそが豊田先生にふさわしい大事業である。余生を大陸経営に尽くして欲しい。
⑥阿波昼間から尾野瀬山を経てのまんのう町春日への差土山ルート⑦昼間から石仏越のまんのう町山脇への石仏越ルート
明治八、九年ノ頃、高田倉松ナル人(仲多度郡四ヶ村)ノ人卜親交アリ、時々去来ノ際、同村ノ隣地仲多度郡十郷村字山脇ヨリ本郡財田上ノ村太古木嶺ヲ経テ徳島県三好郡箸蔵寺二至ル賽道ヲ開修スルノ計二及ヒ、遂二同氏及高田氏卜率先シテ主唱者トナリ、費用ノ大半ハ氏ガ私財ヲ以テ之レニ投ジ、余ハ賽者及有志者ノ義捐二訴へ、明治十四年ノ頃二成功ヲ看ルニ至リシナリ、然レドモコノ道路タルヤ、名ハ箸蔵寺参拝者ノ便二供セシニ過キスト雖、更二支道ヲ本村二開キ、従来ノ胞庖力式ノ難路ヲ削平、勾配ヲ附シ、稽人馬交通ノ用二資セシナリ、故二阿讃両国商買ノ歓喜ヤ知ルベキナリ、之レ氏ガ道路開鑿二於ケル趣味卜効見卜併セテ感受セシモノナラン、故ニ後年氏ガ四国新道ノ企ヲ為ス、 一二爰に胚胎セルモノナルヲ見ルニ足ラン乎、
明治八、九年頃、大久保諶之丞は高田倉松(仲多度郡四ヶ村)と親交ができて、行き来する間柄となった。二人は協議して、仲多度郡十郷村字山脇から財田上ノ村太古木嶺を経て、徳島県三好郡箸蔵寺に至る山道を開修することになった。大久保諶之丞と高田氏は、率先して主唱者となり、費用の大半は大久保諶之氏が私財をなげうってまかない、足らずは寄進や有志者の寄付を充てた。こうして、明治14年頃に、完成にこぎ着けた。これまでの箸蔵街道は箸蔵寺参拝者の参拝道に過ぎなかったが、支道を本村に開き、従来の難路削平し、勾配を緩やかにして、人馬が通れる街道とした。これによって阿讃両国の交流は円滑になり、商人の悦びは大きかった。このことからは、大久保諶之丞氏の「趣味」が道路開鑿であったことが知れる。ここに後年の四国新道に向かう胚胎が見える。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る(26)
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、商旅の便に役立っている。
勧進は教化と作善に名をかりた事業資金と教団の生活資金の獲得
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」
1 開拓予定地の洞爺湖畔の主要部分が風致林として貸付対象からはずされていたこと2 第一次移住団の入植後三年続けて大霜により大不凶に見舞われたこと、3 送り出し側の諶之丞が讃岐新道や讃岐鉄道の請願、愛媛県会議員と身辺に重要な仕事をかかえていたこと。
明治20年7月15日「今日長船ぬけて居ず」、8月13日「長船、岩田分を戸割致し」
虻田郡向洞爺の移民は、明治20年に初めて愛媛県下(当時は香川県を併合)からの農民21戸75人(男39人女36人)で移住し開墾に従事している。翌21年に移住した者は9戸40人(男23人女17)人で向洞爺、「ケップチ」、「ホロノツプ」の3ケ所に散居しており、開墾地は併せて43町町4畝歩、耕牛2頭、耕馬5頭で、その他の農具を用いて開墾を行っている。本年もまた不幸にも霜害を被り、馬鈴薯は三分ノ作であるが、その他はほとんど収穫がない。移民管理者及室蘭郡役所も奨励慰撫を怠らないようにしており、14戸を除いて「移住の意志が挫けないように頑張ると云っている。」と報告されている。
「20年の先発者連中は、それまでの三ヶ年連年の凶作でいろいろ負債を負っています。昨年の豊作分の収穫物は、借金を返すのに足るか足らないかになりそうです。」
見送り人は数百にも達した。琴平町枡久桜で神官宮崎康斐氏の手により霊鳩の絵像を渡され、移住団一同はそろって金刀比羅神社に参拝し、本殿で金幣式を執行。社務所で酒飯の饗応を受け、讃岐鉄道琴平駅で豊田元良ほか各郷里の立会人と別れ、特別切符で多度津港塩田回漕店で休息。その後、那珂多度郡書記、多度津町役場職員の送辞、豊田元良から一同へ贈物を受取、大滝丸に乗り込んだ。大久保諶之丞、二十三年四月二日「北海道移住者出発の景況
昨年の農作は移住以来初めての好結果を得ました。その原因を分析すると、昨年は季候が非常に温暖で、積雪も前年に比べると数寸少なく、その結果、消雪も意外に早くて、作付も早く出来ました。秋の降霜も前年に比べれば約三十日も遅く、その結果、作付したものは種類を問わず皆豊熟しました。また今年の季候も昨年同様で降雪もわずかで、目下の季候は順当で本年も豊作を得る事は疑いありません。以上の次第に付、移民等も本地において農業で前進の目的を達すべしと大いに奮発し心を起こして勉強罷在候に付、開墾も大いに進歩するであろうと楽しみにしています。昨年の周旋で移住した者達は、実に僥倖な年に移住しましたので先発隊とちがい困難の情を知らずに、速に生計の途に付いておりますのでご安心下さい。昨年の移住民の中で、実に見込なき人物もおります。(これは稲田君より報告済みだと思いますので申しません)。先発者連中は、それまでの三ヶ年連年の凶作でいろいろ負債を負っていますので、昨年の収穫物は負債を償却するに足るか足らないかになりそうです。以下略
「私居宅、四開梁に桁行七間、南手へ五間、東手へ四間、両様共、尾ひさし付き、何年の頃取建候や、手暦相わかり難く候得共、余程、年古く相見え・…:」
「慶応三年。朗徹候江戸に在り。11月16日。迅速上京の命を蒙りしも、時恰も病獅に在りしを以て、漸く少癒を得て、十二月二十一日、江戸を発し、翌四年(明治元年)正月四日、池鯉鮒駅に至る頃、京都騒擾の報を得、急行して江州柏原駅に到るや、宿病復に発して進むを得ず。乃ち同駅附近清滝村の所領に入りで病を療する数日、同月十五日、京都に入りで西陣本條寺に宿す。時に京都鎮静に帰し、王政維新に際会す。』
『悪政の罪は、土肥大作にある。小身者が出世して藩政を専断したことに原因がある。大作を斬るべし』
死傷人氏名 `一、土肥大作方極浅手 土肥大作土肥大作方に寄留書生深手 三橋伝四郎同 佐治与一郎同 百々 英夫深手 田中 鍛浅手 守武政一郎二、五十一人組方(氏名略)即死 三名深手 四名浅手 五名極浅手 一名
三橋伝四郎去る十日、土肥大作宅江寄宿申、多人数暴人、及刃傷候趣、尚可承札義有之候に付、於自宅相慎可罷在候之事。 辛未(明治四年)七月十二日 県庁
「七月十日夜、土肥大作方にて不慮之儀有之、翌十一日、知事様より御内々金十両、養生料として被下、尤御住宅にて御家令、堀田清四郎より大塚一格迄渡に相成、同人を以御請中上候」辛未 七月二十五日
明治20年3月26日 戸長の井上典平からの北海道開拓移住依頼を承諾。28日 自宅を出発して丸亀郡役所に寄って生田公より激励を受け、南條町・旅館「筆の山」に泊まる。その道すがら大和屋にて目出度酒肴をなめ、買物を済ませ、人力車で中府に至る。丸亀堀ばたにて支度。団長の三橋政之君に粗菓献上、代価は30銭、宿代は3銭。牛之助と一緒であった。29日「筆の海」で拵えして、午前9時より郡役所で荷造。10時20分生田君より餞別15円23銭を受取る。牛之助と別れ、11時より築島で郡長及び諸係の諸君各村戸長等より離杯を賜わる。花火が上がり、歓声が轟き天を動かした。午後3時 丸亀港より平辰丸へ乗船し神戸へ。
30日 午前3時 神戸港着。駒屋庄五郎方泊。31日 正午 神戸港から大汽船「新潟丸」(長さ70間、横9間)に乗船。4月1日 午後4時 横浜港着。船内二泊。3日 正午 横浜港出発。4日 正午 陸前の萩の浜港に着。大森平助方に宿泊。5日 午前5時 萩の浜港出発。6日 午前6時 函館港着。内田利平方に四泊
10日 午後6時 函館港から「矢越丸」に乗船。「開拓秘録」では、百トン位の小蒸気船「矢越丸」とある。11日午前7時 紋瞥着。小野貫一郎方へ。さらに、長流川沿いを辿って壮瞥の小野の支宿に到着。13日 三橋政之の指示で、「湖水南を開削に着手す」。滝裏で、倉庫仮小屋工事に着手。28日 新倉庫上棟。大も荷物も収容。
「初年20年は四郡にて23戸の移民にして、そのうち豊田郡から移住せし者独身者二名は移住後間もなく失踪帰国す。残る21戸の内にても同居同産の者あり。一戸体裁をなしたるものは17戸ばかり。21年は8戸ばかり、22年は坂下孫二、大西鉄造、23年は稲田君初め貴兄の御周旋にて移せし者のみ」
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。
その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)
1917(大正6年) 12月に「塩入線鉄道期成同盟会」をつくり貴衆両院へ請願書提出した。仲多度多度郡に於ては郡会議員を実業会員として発足し、徳島県関係方面との連絡を取る必要ありとして会長堀家嘉造、副会長三谷九八、松浦英治、重田熊次郎、増田一良(本人)と出発の際、加治寿衛吉氏加わり一行六名塩入越を為し徳島県昼間村に至り村長に面談。共に足代村長を訪い相携えて箸蔵寺に至る。住職大いに悦び昼食の饗応を受け小憩、此の寺を辞し吉野川を渡り、池田町に至り嶋田町長と会談を為し、徳島県諸氏と別れ猪の鼻峠を越え琴平町に帰着、夕食を共にし別れる。
此の旨、在京増田代議士に之通告す。
1903(M36)年 八重山銀行設立(黒川橋東詰)社長に一郎就任。
1911年 讃岐電気軌道株式会社のが設立発起人に、増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前がる。
1921年 七箇・十郷村に初めて電力を供給した塩入水力電気株式会設立社設立も、一良・譲三が中心となって行っている。
老木の木 昭和39年6月増田一良撰
吾が邸内の北隅に数百年を経たると思われる榎木の老木あり。周囲2丈余。其根東西に張り出すこと四間余。緑濃く繁茂空を掩い樹勢旺盛にして其枝広く四方に延び、特に北方の枝先地に垂れ、吾幼少の頃、枝先より登り遊びたることあり。
6年前その枝が倒れ折れ垣塀二間を破壊し、裏の畑地に横たわる。その木にて基盤3面を取り、余りは木を挽いて板と為す。其後南方に出たる枝折れ、続いて北の方、東の方の枝も折れ、西向の枝のみ生残り居りしが。昭和38年風も無きに東方の折れ株が朽ち落ちると間もなく生き残りの西方の枝(周囲1丈一寸)の付け根より6丈ほどの處にて西北と西南とに分岐し居りしが大音響と共に付け根の處より裂け折れ、西南の枝は向こうの部屋の屋根の棟木と母屋を折り枝先向庭の地に付き、西方の枝は垣塀の屋根を壊し藪際の畑地にその枝先を付け茲に長く家の目標となりし老木も遂に其終わりとなる。
付記
往年増田穣三氏若かりし時、呉服商を営み居りしを以てわが妹の婚衣買い求め為、呉服仕込みの京都行に同行。帰途穣三氏が曾て師事したる大阪の日柳三船先生訪問にも同行。三船先生は元那珂郡榎井村の出身にして維新の際勤王家として素名を知られたる日柳燕石先生の男にして大阪府参事官をつとめ大阪に住せり。種々談を重ねるうち先生曾て吾家に来りしことあり。巨木榎に及び其時古翠軒という家の号を書き与えらる。今吾居室に掲げある大きな額が夫れである。
1858 安政5年 増田譲三と田岡泰が七箇村春日に生る。
1873 明治6年 7月22日 増田一良(いちろ)生
1884 明治17年3月 大久保彦三郎により財田上ノ村に開設されたばかりの忠誠塾入塾。
1887 明治20年大久保彦三郎が京都に開設した尽誠舎入学
その後、駒場農林学校に進学。(卒業後の経歴が不明)
1890 明治23年6月 七箇村役場(旧東小学校)開庁
1897 明治30年 春日地区で、増田穣三等の浄瑠璃に合わせて寄せ芝居を上演披露し好評。
1899 明治32年3月 第5回県会議員 増田穣三が初当選(41歳)
4月 増田穣三第二代七箇村長に就任(41歳)
1902 明治35年3月 増田一良(29歳)が七筒村会議員となる。
以後20年間村議を務める。
1903 明治36年9月 増田一良、仲多度郡会議員に当選。
以後大正8年まで連続四期当選
1903 明治36年 黒川橋の東に八重山銀行設立。社長に増田一郎就任。副社長:大西豊照(帆山)ほか七名の重役格と業務執行者森川直太郎によって営業
1906 明治39年3月 増田穣三 七箇村村長退任
9月 第3回県会議員選挙に増田穣三出馬せず
1911 明治44年9月 讃岐電気軌道株式会社が設立。
発起人に、仲多度郡の増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
3月 増田正一が七箇村村議に選出され、助役に就任。
1912 明治45年5月 第11回衆議院議員選挙で増田穣三初当選。
1914 大正3年 7月 七箇村長に増田正一就任(譲三・一良の従兄弟)
1915 大正4年 3月衆議院議員総選挙で白川友一と共に増田穣三再選。
5月 白川友一代議員と大浦内相が収賄で高松高裁へ告訴され「大浦事件」へ
9月 第9回県会議員選挙に増田一良初出馬するも428票で次点。1917 大正6年12月 塩入線鉄道速成会総会で土讃線の速成を貴衆両院へ請願書提出。
1919 大正8年 9月 県会議員選挙で増田一良初当選(46歳)
1920 大正9年 4月 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1921 大正10年 増田一良 穣三らと共に塩入水力電気株式会社設立。
1923 大正12年5月 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1924 大正13年5月 山下谷次 香川選挙区より衆議院議員初当選
1926 大正15年 七箇村会議員選挙実施 増田一良は2位当選
1934 昭和9年 9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1935 昭和10年11月 土讃線全面開通(三縄~豊永間が開業)
1937 昭和12年増田一良村長の呼びかけで生前に増田穣三の銅像建立
1938 昭和13年 山下谷次の銅像建立(十郷村会の決議で大口に)
1939 昭和14年2月 増田穣三 高松で死去(82) 七箇村村葬。
1943 昭和18年2月 増田一良が第9代目村長に再度就任。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建される。
1977 昭和52年9月12日 増田一良104歳で永眠。
嘉永2年(1849) 財田村奥屋谷の素封家に生まれる幼年より陽明学を学ぶ。弟はは尽誠学舎創設者の彦三郎。慶應2年(1866) 父森冶の後妻の娘タメと結婚。(17歳)明治3年(1870) 満濃池の改修工事に参加し土木技術習得
明治5年(1872) 財田村役場に勤務(村長代行的役割)(23歳)
村内の子弟を山梨県に派遣し、養蚕業の技術を地元に根付かる。明治6年(1873) 「西讃竹槍騒動」で自分の家を襲われ焼失同年戸長(村長)に任命される明治11年(1878)猪ノ鼻峠から阿波に続く「新がけ」道を完成、すべて地元負担で建設。これが「四国新道」構想の端緒。明治12年(1879)三野豊田郡役所の勧業係となり、谷道開発・修繕に従事。コレラの全国的な流行に対し、医師の養成計画「育医講」を作り、奨学金給付。育英資金は村民120名の講から拠出。明治17年(1884) 四国新道期成同盟を結成。明治18年(1885) 吉野川からの導水を提唱、請願書提出明治19年(1886) 金刀比羅宮神事場にて四国新道開削起工式。明治20年(1887) 讃岐鉄道の請願委員の一人として書名。明治21年(1888) 愛媛県会議員就任(40歳)明治22年(1889) 讃岐鉄道開通式で、「瀬戸大橋」構想発表。明治23年(1890) 讃岐阿波新道完成。明治24年(1891) 県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ。
2月14日尿毒症を併発し死亡。
政治家としての活動期間は僅か3年です。。年譜から見えてくること
晩年、四国新道建設のための工事費工面のために注ぎ込んだ私財は、当時の金額で6500円。そのため父祖よりの蓄えと、田畑、山林のほとんどが人手に渡っていたと云います。残された家族は三度の食事にも窮したとも伝えらます。
1 大久保諶之丞は、田岡泰や増田穣三よりも一回り年長。明治維新を19歳で迎えている。2 幕末の志士と同じく陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけている。3 23歳の時に「西讃竹槍一揆」の一揆集団に、地主層と見なされ自分の家を焼き討ちされている。この事件の彼に与えた影響は大きかったのではないか。4 その影響からか村経営の指導的な立場に立つと、農民の生活を豊かにするためにの改善策を、真剣に考える。そして養蚕業の移植・北海道移民・講組織による医師養成等、いろいろなアイデアを実行して行く行動力と使命感がうかがえる。5 その際に、四国新道起工式でプロモートした「鍬踊り」のようにユーモアや面白さも持ち合わせており、使命感が強いだけの堅いイメージではない。それが人々を結びつけていく武器となったようだ。6 また四国新道建設推進のために、高知まで出向き、初見の高知知事の協力をとりつけるなど要人の懐に飛び込んで、味方につけていく「人たらし」の力も持っていた。7 しかし、県会議員、在職年数わずか3年。議会での質問中の殉死である。