瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近代史 > 讃岐鉄道物語

大久保諶之丞と景山甚右衛門
注意 いつもと会場が違っています。グーグルで確認してください。
旧吉野小学校の前の公民館です。

史談会の御案内です。
前回に続いて伊東悟氏による大久保諶之丞についてのお話しです。大久保諶之丞は、「多度津七福人のドン」と言われる景山甚右衛門との書簡を数多く残しています。今回は二人の交わした書簡に焦点を絞ってのお話しです。そこには従来の四国新道や讃岐鉄道建設をめぐって語られてこなかった内容も聞けるかも知れません。興味と時間のある方の来場を歓迎します。

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地元の研究者を招いて、小さな講演会兼学習会を2ヶ月に一度開いています。今回のテーマは「讃岐鉄道と明治の近代化」です。講師の松井さんは、社会人として香川大学の大学院に入られて、このテーマについて研究を重ねて論文を出された方です。濃いお話が聞けるはずです。会場はまんのう中学校に隣接する建物です。興味があり、時間的に都合の付く方の参加を歓迎します。

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暗夜行路

第一世界大戦の前年の1913(大正2)年2月、志賀直哉は尾道から船で、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。

そのころの直哉は、父親との不仲から尾道で一人住しをしていました。30歳だった彼は、次のように記します。

『二月、長篇の草稿二百枚に達す。気分転換のため琴平、高松、屋島を旅行』

この旅行を基に書かれたのが「暗夜行路」前編の第2の4です。この中で、主人公(時任謙作)は、尾道から船で多度津にやってきます。「暗夜行路」は私小説ではありませんが、小説の主人公の讃岐路は、ほぼ事実に近いと研究者は考えています。今回は、暗夜航路に描かれた多度津を当時の写真や資料で再現してみたいと思います。
瀬戸内商船航路案内.2JPG

まず、暗夜行路に描かれている多度津の部分を見ておきましょう。
「①多度津の波止場には波が打ちつけていた。②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。③丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊いていると其男に追いつかれそうなので、③彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
もう其男もついて来なかった。④郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、⑤直ぐ近い停車場へ行った。
 ⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」
多度津について触れているのは、これだけです。この記述に基づいて桟橋から駅までの当時の光景(文中番号①~⑦)を、見ていくことにします。
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多度津港出帆案内(1955年) 鞆・尾道への定期便もある

①多度津の波止場には波が打ちつけていた。
前回に見たように、明治の多度津は大阪商船の定期船がいくつも寄港していました。多度津は高松をしのぐ「四国の玄関」的な港でした。多度津港にいけば「船はどこにもでている」とまで云われたようです。中世塩飽の廻船の伝統を受け継ぐ港とも云えるかも知れません。
 
 瀬戸内海航路図2
瀬戸内商船の航路図(予讃線・山陽線開通後)
多度津港は尾道や福山・鞆など備後や安芸の港とも、定期船で結ばれていました。当時、尾道で生活していた志賀直哉は、精神的にも落ち込むことが多かったようで、気分転換に多度津行きの定期船に飛び乗ったとしておきましょう。

尾道港
尾道港(昭和初期)
 尾道からの定期船は、どんな船だったのでしょうか?

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。多度津桟橋に停泊する二艘の客船が写されています。前側の船をよく見ると「をのみち丸」と船名が見えます。こんな船で、志賀直哉は多度津にやってきたようです。

 多度津の波止場は、日露戦争後に改修されたばかりでした。
天保時代に作られた多度津湛甫の外側に外港を造って、そこに桟橋を延ばして、大型船も横付けできるようになっていました。平面図と写真で、当時の多度津港を見ておきましょう。
1911年多度津港
明治末に改修された多度津 旧湛甫の外側に外港を設け桟橋設置

暗夜行路には「②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。」と記します。

1911年多度津港 新港工事
外港の工事中写真 旧湛甫には和船が数多く停泊している

 旅客船が汽船化するのは明治初期ですが、瀬戸内海では小型貨物船は大正になっても和船が根強く活躍していたことは以前にお話ししました。第一次大戦前年になっても、多度津港には和船が数多く停泊していたことが裏付けられます。

1920年 多度津港
多度津港(1920年頃 東浜の埋立地に家が建っている)
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。
暗夜行路③「丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。」

多度津外港の桟橋2
多度津外港の浮き桟橋 引き潮時には、堤防には急な坂となる
浮き桟橋から一文字堤防への坂を登って、東突堤の付け根から東浜の桜川沿いの道を急ぎ足であるいて、郵便局までやってきます。

多度津港 グーグル
現在の旧桟橋と旧多度津駅周辺

郵便局は商工会議所の隣に、現在地もあります。このあたりは、ずらりと旅館が軒を並べて客を引いていたようです。
多度津在郷風土記
「在郷風土記 鎌田茂市著」には、次のように記します。
 大玄関には、何々講中御指定宿などと書いた大きい金看板が何枚も吊してあり、入口には長さ2m・胴回り3mにも及ぶ大提灯がつるされ、それに、筆太く、「阿ハ亀」「なさひや」など宿屋名が書かれてあった。
 団体客などの時は莚をしいて道の方まで下駄や、ぞうりを並べてあるのを見たことがある。夕やみのせまって来る頃になると、大阪商船の赤帽が、哀調を帯びた声で「大阪・神戸、行きますエー」と言い乍ら、町筋を歩いたものである。
 また、こんな話を古老から聞いたことがある。多度津の旅館全部ではないだろうが、泊り客に、この出帆案内のふれ込みが来てから、急いで熱々の料理を出す。客は心せくのと、何しろ熱々の料理で手がつけられないので、食べずに出てしまう。後は丸もうけとなる仕組みだとか。ウソかほんとかは知らない。
 主人公は、並ぶ旅館街で郵便局の窓から顔を出していた閑そうな局員に道を尋ねています。どんな道順を教えたのかが私には気になる所です。郵便局から少し北に進むと、高松信用金庫の支店が建っています。ここには、多度津で最も名の知れた料亭旅館「花菱(びし)がありました。

花びし2
多度津駅前の「旅館回送業花菱(はなびし)

多度津に船でやって来た上客は、この旅館を利用したようです。花菱の向こうに見える2階建ての洋館が初代の多度津駅です。花菱と多度津駅の間は、どうなっていたのでしょうか?

花びし 桜川側裏口
多度津の旅館・花菱の裏側 桜川に渡船が係留されている
多度津駅側から見た花菱です。宿の前には立派な木造船(渡船)が舫われています。駅前の一等地に建つ旅館だったことがうかがえます。

多度津駅 渡船
初代多度津駅前の桜川と日露戦争出征兵士を載せた渡船(明治37年 

渡船には、兵士達がびっしりと座って乗船しています。外港ができる以前は、大型船は着岸できなかったので、多度津駅についた11師団の兵士達は、ここで渡船に乗り換えて、沖に停泊する輸送船に乗り移ったようです。「一太郎やーい」に登場する兵士達も、こんな渡船に乗って、戦場に向かったのかも知れません。

明治の多度津地図
1889年 開業当時の多度津駅周辺地図(外港はない)

 志賀直哉は、花菱の前を通って、金毘羅橋(こんぴらばし)を渡って多度津駅にやってきたようです。当時の多度津駅を見ておきましょう。
DSC00296多度津駅
初代多度津駅
初代の多度津駅は、1889年5月に琴平ー丸亀路線の開業時に建てられた洋風2階建ての建物でした。
初代多度津駅平面図
初代多度津駅平面図(右1階・左2階)
1階が駅、2階は讃岐鉄道の本社として利用されます。

P1240958初代多度津駅

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅復元模型(多度津町立資料館)
ここから丸亀・琴平に向けて列車が出発していきました。そして、ある意味では終着駅でもありました。
多度津駅 明治の
明治22年地図 多度津が終着駅 予讃線はまだない

P1240910 初代多度津駅

DSC00303多度津駅構内 明治30年
初代多度津駅のホーム
 志賀直哉が多度津にやって来たのは、大正2年(1913)2月でした。
この年の12月には、初代多度津駅は観音寺までの開通に伴い現在地に移転します。したがって、志賀直哉が見た当時の多度津駅は、移転直前の旧多度津駅だということになります。初代度津駅は浜多度津駅と改称され、その後に敷地は国鉄四国病院用地となり、さらに現在の町民会館(サクラート)となっています。

暗夜行路の多度津駅の部分を、もう一度見ておきましょう。
⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」

⑥からは1Fの待合室には、ストーブが盛んに燃やされていたことが分かります。「⑦普通より少し小さい汽車」というのは、讃岐鉄道の客車は「マッチ箱」と呼ばれたように、小さかったこと、機関車も、ドイツでは構内作業用に使われていた小形車が輸入されたことは以前にお話ししました。それが、国有化後も使用されていたようです。

讃岐鉄道の貴賓車
        讃岐鉄道の貴賓車
暗夜行路に登場する多度津は、尾道から金毘羅に参詣にするための乗り換え港と駅しか出てきません。しかし、そこに登場する施設は、日本が明治維新後の近代化の中で到達したひとつの位置を示しているようにも思えました。

JR多度津工場
初代多度津跡のJR多度津工場

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ちらし寿司さんHP
https://www5b.biglobe.ne.jp/~t-kamada/
https://tkamada.web.fc2.com/
大変参考になりました。
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  今から99年前の1923(大正12)年5月21日に、琴平-財田間の鉄道が開通しました。
琴平駅2
財田への延長と供に姿を現した金刀比羅停留所(現琴平駅)
開通を祝する当時の新聞を見ておきましょう。(現代語意訳)
徳島へ・高知へ 一歩を進めた四国縦断鉄道 
琴平・讃岐財田間8里は今日開通 総工費130万円
香川・徳島の握手は大正16年頃の予定。 (以下本文)
 土讃線琴平財田間8里は21日開通となったがこの工事は大正9年3月に起工し、第一工区琴平塩入間四里と大麻の分岐点から琴平新駅まで一哩は京都市西松組が土工橋梁等を25万余円で請負い10年6月に竣工。また第ニ工区塩入・財田間三里九分も同組が43万円で請負、10年2月起工し11年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の最初の主任三原技手後の主任は佐藤技手であった。
 工事の内の橋梁は第一金倉川60尺2連、第二金倉川60尺1連・照井川40尺2連・財田川65尺5連・多治川50尺1連などが大きい方である。切り通しの最高は十郷大口の55尺、山脇の165間などで8ケ所あった。盛土の最高は財田川付近にある。
ここからは、総工費が130万円で3年間の工期の末に、琴平ー財田間が完成したこと、その区間の橋梁や切通部分などが分かります。

 財田に向かう乗客は①新琴平駅で列車を乗り換える。琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ、岸の上を経て真野に抜けて行く。この間は、少し登りで、田園の中を南に進む。左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入り、福良見を過ぎ十郷村字帆山にある②塩入駅に着く。塩入駅は、西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道につながる交通要衝の地に作られている。この駅から満濃池へは東へ約1,7㎞、七箇村の福良見・照井・春日・本目へはわずかである。この附近の産物は木炭薪米穀類である。
 塩入駅からさらに西に向かい十郷村を横断し、後山・大口を経て大口川を越える。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上り、③17mの高い切通し④高い築堤の上を走りつつ、⑤橋上から眺めも良い財田川を渡り、約300mの長い切取しを過ぎて山脇に入る。帰来川を渡ると間もなく財田村字荒戸にある⑥讃岐財田駅に着く…(以下略)
 番号をつけた部分を補足しておきます。

DSC01471
1923年完成の金刀比羅停車場(琴平駅)
①の新琴平駅が現在の琴平駅です。それまでは、現在の琴参閣の所にあったものが琴平市街を抜けるために、現在地に移動してきました。
この駅の建築費は13万円で、総工費の1/10は、この駅舎の建築費にあたります。西日本では有数の立派な駅だったようです。
塩入駅

②の塩入駅周辺では、東山峠を越えて阿波昼間との里道が開通したばかりでした。そのため阿波との関係の深い宿場街的な塩入の名前がつけられます。阿波を後背地として、阿波の人達の利用も考えていたようです。
③の切通しは、山内うどんの西側の追上と黒川駅までの区間です。ここから出た土砂がトロッコで塩入駅方面に運ばれ線路が敷かれていきます。
琴平駅~黒川駅周辺> JR四国 鉄道のある風景
黒川駅(黒川築堤の上に戦後できた駅)
④の高い築堤には、現在は黒川駅があります。ちなみに黒川駅が、ここに姿を現すのは戦後のことです。

土讃線財田川鉄橋
黒川鉄橋
⑤は、黒川鉄橋で当時としては最新技術の賜で巨費が投じられました。同じ時期に作られた琴電琴平線の土器川橋梁や香東川橋梁は、旧来の石積スタイルの橋脚がもちいられていますが、ここではコンクリート橋脚がすでに使われています。それが現役で今も使われています。

土讃線・讃岐財田駅-さいきの駅舎訪問
讃岐財田駅
⑥の財田(さいだ)駅が終着駅でした。郵便や鉄道荷物も扱うので、職員の数は45人もいたようです。池田方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えるようになります。その宿場として財田の戸川は、発展していきます。同じように、塩入街道を通じて阿波を後背地に持つ塩入も、この時期に発展します。阿波の人とモノが塩入駅を利用するようになったからです。
 開通当時の時刻表を見てみましょう。
琴平発の始発が5時47分、その列車が財田駅に到着するのが6時10分。折り返し始発便として6時25分に出発します。一日6便の折り返し運転で、琴平と讃岐財田が30分程度で結ばれました。
 これによって、樅の木峠を越えていた馬車は廃業になります。追上や黒川の茶屋も店終いです。交通システムの大変革が起きたのです。
  1923年に財田まで鉄道が延び、現在の琴平・塩入・財田の3つの駅が開業しました。来年は、その百周年になります。20世紀の鉄道の時代から自動車の時代への転換を、これらの駅は見守り続けて来たのかもしれません。
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新猪ノ鼻トンネル 阿波側出口の池田町西山込野

 国道32号の新しい猪ノ鼻トンネルが開通して、阿波方面へのルートが大幅に短縮されました。このトンネルを使うと、今までヘアピンカーブの連続だった峠道を通ることなく、一直線のトンネルを10分足らずで一気に通り抜けることができます。夏はトンネル内は涼しくて、フルスロットルで走っていると肌寒くなるほどです。いつものように阿波と讃岐を結ぶ峠道の散策のために、トンネルを込野で下り旧32号を箸蔵寺方面に原付を走らせます。

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旧R32号に立つ坪尻駅への看板
ここには、坪尻駅への看板が立っています。この入口から急な坂道を下っていくと、土讃線の坪尻駅です。

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JR坪尻駅入口のバス停
土讃線が開通した昭和の初めには、この周辺の集落の人たちもこの道を使って坪尻駅へ向かっていたのでしょう。ここを通り過ぎて、箸蔵寺への道に入ったところに展望台があります。P1160169
秘境駅坪尻駅が見える展望台
「撮鉄」ファンのために地元の人たちが、設置したのでしょうか。
かつて、写真撮影に夢中になった「撮鉄」ファンが滑落死したことがあるようです。そのために地元の人たちによって設置された展望台のようです。
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こんな看板もあります。そうです。命が一番大切です。写真を撮るのに命懸けになって、命を失ってはいけません。その通りと相づちを打ち、地元の人に感謝しながら展望台に上がります。

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坪尻駅
いい景色です。込野集落のソラの家との高低差がよく分かります。周辺人たちは、この高低差を上り下りして、列車を利用していました。

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坪尻駅
ズームアップすると駅舎と線路がよく見えます。向こう側が猪ノ鼻トンネルの出口で讃岐側です。ここから眺めているといってみたくなりました。予定を変更して、坪尻駅に向かいます。この変わり身の早さというか、いい加減さというか、我ながら尻軽と思います。

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込野からの坪尻駅への入口 看板には1㎞と表示あり
今回は傾斜の緩やかな込野からアプローチします。入口から1㎞15分ほどの下りです。
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込野から坪尻駅への道
道は整備されていて、ゆるやかな下り道です。込野の人たちが列車利用のために使った道のようです。しっかりとしています。

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坪尻駅
鮎苦谷川(あゆくるしたに)の沢音が聞こえ、沢に向かってどんどん下りていきます。そして平地になると、森の中から突然のように坪尻駅が姿を見せました。駅の周りは線路があるだけで、他には何もありません。ここにはもともとは、駅はなかたようです。駅の登場は、戦後になってからのことで、それは猪ノ鼻トンネルと大きな関わりがあります。
 1923(大正12)年5月21日に、土讃線は、琴平から讃岐財田駅までが開通します。
 猪ノ鼻トンネル(延長3,845m)は1922年10月に着工します。この工事は、7年後の1929(昭和4)年4月に開通しています。開通当時は中央本線の笹子トンネル(明治36年開通、=4656m)に次いで全国第2位の長さを誇る長大トンネルで、郷土の誇りでもあったようです。工事中に死者10人、負傷者2000人の犠牲者を出す「土讃線最大の難工事」でもありました。

猪ノ鼻隧道琴平方坑口附近(国道23号線と猪ノ鼻トンネル)
 猪ノ鼻トンネル琴平方坑口附近(国道32号線と猪ノ鼻トンネル)

  当時の香川新報は、開通の喜びを次のように伝えてきます。
見出し (現代表記に改めた)
『岩切通し、猪の鼻の巌を貫き、歳月を閲する7年、海抜2千尺の高峯をぬきて阿讃の連絡完成す』
『明治、大正、昭和と元号三転の間に、何と日本の交通機関は急テンポで目まぐるしく回転したことであろうか。わずか60年の音、倶利加羅紋々の雲助共によってエイホーの掛声勇ましく東海道五十三次を早きも十余日、増水の御難に逢へば二十数日を要した。それがわずかに十時間のうたた寝の夢一つ終らぬ間にもう着こうという変り方である。全くスピードの時代と言はなければならない。しかるに我が四国は山多くして、鉄道に恵まれず、四国循環線、縦貫線共にその一部の開通を見たのみである。予讃の両地はかろうじて鉄道連絡が可能であるが、阿土、予上の間は重畳たる四国アルプスの連山に遮られて、今日文字通り岩切り通し山を抜き、断崖をめぐりて延長9哩1分、距離遠からずと雖も、瞼峻猪の鼻峠を貫きて、完全なる阿讃の連絡が完成したのである。まさに四国交通の幹線の一部をなすのであるとともに、中国、山陰、阪神方面二の連絡に力強き一歩を進めたものと言える。空にプロペラのうなりをきく自然征服の時を迎へても、羊腸の如き峻坂を攀づるにあらざれば越すに越されぬ猪の鼻の瞼を、一瞬にして乗り切る事が可能となったのである。特に香川、徳島両県人にとっても感慨深くも万限りなき歓びであると言はなければならない。
興奮気味に、土讃線の阿波池田までの開通を報じています。財田駅から池田までは、約20㎞には6年と6ヶ月の年月を要したことになります。
 讃岐財田駅から佃駅間の建設概要を見ておきましょう。
土讃線 財田・佃駅建設概要

線路ノ状勢
本区間線路ハ香川県三豊郡財田村地内既設讃岐財田停車場ノ南端多度津起点弐拾四粁百九拾七米八二二起り 南進シ右折左転シテ起伏セル数多ノ山脚ヲ開撃三戸川隧道(延長二百弐拾七米九〇)ヲ貫キ土佐街道(国道)卜併進シ登尾ニ至り鋼飯桁径間七米六弐フ架シテ土佐街道(国道)ヲ越へ谷道川二鋼飯桁径間九米壱四フ架設シ進デ阿讃ノ国境猪之鼻ノ崚険二(延長参粁八百四拾五米〇九)四国第一ノ大隧道ヲ穿ッテ徳島県三好郡箸蔵村地内二入り州津川二鋼飯桁径間拾八米三フ架シ左折漸ドシテ坪尻隧道(延長武百九拾五米七弐)フ穿チ右折左転シテ 坪尻二出デ茲に坪尻信号場(多度津起点参拾壱粁八百九拾米)ヲ設置シ疏水隧道フ設ケテ州津川ヲ付換へ左転シテ馬ノ背隧道(延長弐百参拾七
米参八)及落隧道(延長弐百六拾八米五六)フ貫キ右折シテ落橋梁鋼飯桁径間九米壱四、式連フ架シ箸蔵隧道(延長百弐拾四米七弐)ヲ穿チ猶漸下シテ箸蔵橋梁鋼鋲桁径間九米壱四、壱連、六米壱、壱連フ架シ左転シ太円隧道(延長参百拾八米八五)及井関隧道(延長参百拾参米八弐)ヲ貫キ蔵谷二至り疏水隧道フ設ケ蔵谷隧道(延長百四拾弐米八参)フ穿チ左折シテ国道卜並進シ字東州津ノ部落ヲ過ギ土佐街道(国道)二跨線橋フ設ケ三好郡箸蔵村字州津地内ニ至り箸蔵停車場(多度津起点参拾五粁百参拾米)ヲ設置シ山麓二沿ヒテ東進右転シテ昼間町地内二入り尚山麓二沿ヒ汐入川フ渡ルニ鋼鋲桁径間拾八米参、四連、拾式米弐、壱連フ架設シ一大環状ヲ画キテ右転シ昼間町ヲ横断スル処撫養街道二跨線橋ヲ設ケ南道シテ吉野川沿岸ノ平圃二出テ吉野川ニハ鋼飯桁径間拾八米、参拾六連構鋼桁(スルー型)径間六拾壱米、四連(延長五百七拾壱米弐)ノ一大橋梁フ架シ辻町二入り右転シテ徳島街道フ横断シ此処二佃信号場(多度津起点参拾八粁五百参拾八米九八)フ設置シテ徳島線二連絡ス
此間線路延長 八哩七拾弐鎖八拾九節四分(拾四粁参百四拾壱米壱五)
最急勾配   四拾分ノ壱(千分ノ弐拾五)
曲線最小半径 拾五鎖(参百米突)
工事竣功   昭和四年四月
線路実延長  拾四粁参百四拾壱米
最小半径   参百米
猪ノ鼻トンネルと坪尻信号所のところだけを、意訳変換しておくと

阿讃の国境である猪之鼻峠には四国最大のトンネルを通し、三好郡箸蔵村に抜ける。そして、州津川に架橋し、左折して坪尻隧道(延長武195m)を通して、右折左転して、坪尻にでる。ここに坪尻信号場(多度津起点31、890㎞)を設置して、疏水隧道を設けて、州津川(鮎苦谷川)を付け替えて左転して・・

ここからは次のようなことが分かります。
①坪尻駅は猪ノ鼻トンネルの次のトンネルである坪尻隧道の出口にあること
②ここは、もともとは鮎苦谷の川底で、そこにトンネル掘削で出た残土処理場として、埋め立てられ更地となった。
③開通時には停車場(駅)はなく、信号所(通過待合所)が作られた

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JR土讃線 坪尻トンネル出口方面
トンネル工事中は、飯場などの施設がここには建ち並んでいたようです。工事が終わると、それらも撤去されます。そして、ここは「信号所」として、列車の待合所となります。しかし、駅ではないので常客の乗り降りは出来ません。地元住民にとっては、線路は通って、列車は見えるのにそれを利用できない状態が戦後まで続きます。それが地元の要請で、駅が設置されたのが1950年になります。ここでは、坪尻駅が戦後に新設された新駅であることを押さえておきます。

P1160380
左が本線、右が駅への導入線

 この駅はスイッチバックの駅として有名です

その理由として、急勾配克服のために導入されたと書かれた本もあります。しかし、それは誤りのようです。スイッチバック採用の原因は
次の通りです
①もともとここが川を埋め立てる難工事の末に確保された場所であったこと
②トンネルの出口にあったこと
以上の理由から2本の線路が併行して確保できる広さに限界があった
ためのようです。つまりスイッチバックは、行き違いの待避線路用で
急勾配対策ではなかったことになります。
P1160366
坪尻駅通過列車の時刻表 「停車」ではありません。
今、この駅のホームに入り込んでくるのは、一日に数本だけの普通列車と、四国真ん中千年物語の観光列車だけです。多くの特急列車は谷底の坪尻駅の本線を走り抜けていきます。それは信号所だったころの坪尻駅に先祖返りしているようにも思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



P1160383
木屋床への山道
坪尻駅には
 
P1160367
木屋床方面の入口に残された家屋
P1160368


明治時代の小学校の修学旅行とは、どんなものであったのでしょうか
それを教えてくれる文章を見つけましたので紹介します。テキストは「和田仁   象郷尋常小学校の修学旅行と運動会  ことひら53 H10年」です。まず、小学校の修学旅行はいつごろから始まったのでしょうか。
高松高等小学校の初期の修学旅行について見てみましょう。
修学旅行 高松高等小学校

高松の高等小学校は五番丁にありました。現在に中央公園にあたり、石碑が建てられています。
修学旅行 高松高等小学校2

荒井とみ三『高松今昔記』(第二巻)に、「三泊四日の修学旅行」の題で、次のような徳田弘氏の思い出話しが載せられていますので要約して紹介します。
 高等小学校の二年(12、3歳)の年、明治32年1月の真冬に高松から琴平を経て、観音寺・詫間・多度津・丸亀を回って帰校する三泊四日の修学旅行に出かけています。全員が男子です。今のように乗物を利用するスケジユ―ルとは違って、
「足並演習の規模をひろげたような汽車旅行と徒歩をおりまぜた、キツイ修学旅行」

であった。足並演習というのは、兵隊の行軍に似てるところから名付けられた用語で、遠くまで自分の足で歩くことをモットーにした「遠足」のことである。
「キツイ足並演習」の実態は?
DSC01272
明治20年代の讃岐鉄道の多度津駅
讃岐の鉄道は、讃岐鉄道会社が明治22年、琴平・多度津・丸亀間で開業したのが始まりです。その8年後の明治30年に丸亀から高松にまで延長されます。この修学旅行が行われたのは高松延長後、まだ二年と経っていなかった時期です。鉄道延長が修学旅行実施計画の契機になっていたようです。以後も、新しく鉄道が開通すると、その方面へ行先が代わっていくことから推測できます。

徳田少年一行の修学旅行コースを辿ってみます。
西浜の高松駅から汽車に乗って琴平へ向かった。生徒の大部分は、はじめての汽車旅行であった。琴平に到着すると、こんぴらさんに参詣して「芳橘」(内町の敷島旅館?)という宿屋に泊まった。夜になって降り出した雨が翌朝もあがらなかったので、宿屋の番頭が子どもたちに退屈しのぎの落語を語って聞かせてくれた。そのうち氷雨もあがったので、少し予定には遅れたが、琴平を出発し、観音寺の町まで足並演習をした。乗り物を利用しようにも、この二つの町の間には電車もバスも通っていなかった」

高松駅 西浜
西浜の初代高松駅(明治末の地図)
ここからは西浜にあった初代に高松駅(現盲学校周辺)から汽車に乗ったことが分かります。西浜は江戸時代は岩清尾八幡の社領でしたから明治になっても田んぼが広がっていました。そこに西から線路が伸びてきて田んぼの真ん中に新しい駅ができたようです。それを描いているのが下の絵です。
高松の宮脇駅
高松市西浜の初代高松駅

ここから汽車に乗って終点の琴平まで汽車で行っています。琴平・多度津・観音寺間に鉄道が開通するのは、第一次大戦の始まる大正三(1914年)12月のことです。琴平から観音寺は歩くしかなかったのです。

「竹の皮でつくった、いわゆる″皮ぞうり″をはいてドンドン歩いた。和服だから靴なぞははいていない。金持ちの息子は麻裏ぞうりだったが、そのうち、みんな足のウラが痛くなってきた。それでも歩いた。大変な修学旅行である」。

季節は1月で真冬です。一団は琴平から善通寺を経て、大日峠を越えるコースを選んでいます。三豊と丸亀平野を結ぶ大日峠・鳥坂峠・伊予見峠は、冬は西風が強く今でも雪が積もって大渋滞が発生することがあります。この時も峠手前から「猛吹雪」となります。
 そのころの旅行者のいでたちは
「みんな日清戦争の出征兵士が、外とうを、タテに長く丸太ん棒のようにまるめて両端をヒモでしばって肩にかけていたように、赤ゲット筒を肩から背中へ斜めにくくりつけていた。私たちもそのとき筒状にまるめた赤ゲットを肩にかけ、 一方の肩には弁当を包んだ白いふろしきをタスキがけにしていたが、吹きつける雪にさからいながら、その赤ゲットをひろげて頭から、すっぽりかぶり、目玉だけ出して、ベソをかきながら、吹雪の行進をつづけ」、観音寺の町に着いたときは、「もうとっぶりと暮れ果てて」いた
と記します。
 高瀬から豊中を経て観音寺まで「雪中行軍」となったようです。

翌日も強い西風が吹き荒れていたので、観音寺から海岸線づたいに歩いて仁尾に出て名所の平石を見物する予定であったのをやめて、詫間へ抜けて多度津へ直行し、3泊目の宿を取っています。
多度津駅 明治の
明治末の国土地理院地図 多度津以西に線路は伸びていないのと、多度津駅が港に接してあることに注目

 3日目は桃陵公園で遊び、多度津から乗車するのかと思えば、さらに丸亀まで歩き、市内を見物して、.丸亀から汽車に乗って高松へ帰り着いています。

学校としては、これが初めての修学旅行だようです。
が、「キツイ足並演習」+「雪中行軍」+「経験不足」で難行軍となったようです。修学旅行は、「キツイ足並演習」であり「自分の足で遠くまで歩く遠足」からスタートしていることを押さえておきます。

 象郷尋常小学校(琴平)の修学旅行を見てみましょう。
象郷(ぞうご)村は1890年に苗田村(のうだむら)と上櫛梨村(かみくしなしむら)、下櫛梨村(しもくしなしむら)が合併してできた村です。「象郷尋常高等小学校沿革史」には、修学旅行のことも書かれています。象郷小学校で修学旅行が始まったのは、明治33年からです。先ほど見た高松高等小学校の実施の翌年になります。この時期に、県下の小学校では修学旅行が始まったのがうかがえます。
 象郷小学校にはこの時は高等科がなく、尋常小学校就業年数は4年でしたから卒業旅行のような形で実施されたようです。卒業生28人は、明治32(1899)年2月21日、高松市への一日修学旅行を行います。
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       明治40年のスタンプの入った琴平駅
当時の琴平駅は終点で、現在のロイヤルホテル琴参閣一帯にありました。ここから汽車に乗り、高松に着くと、栗林公園や公園内の県立博物館(32年2月開館・現在の商工奨励館)、師範学校(高松市天神前)、高松電灯会社(内町、28年設立)などを見物しています。参加者のほとんどは初めての高松旅行であったようで、目を丸くして見物していたことが想像できます。

 「沿革史」を編纂した校長三井興三郎は次のように記しています。
「此時初メテ修学旅行ヲナセシ由、本校児童ノ幸福実二従来ノ児童二倍スルヲ知ルニ足ル」

翌年も卒業生30人が同じコースで実施されます。その後二年間はなぜか実施されていません。再開されるのは日露戦争が始まった37年6月です。行先は多度津・詫間です。
多度津 明治24年桜川埋め立て概況
明治24年 多度津駅の裏側が港であった

どうして多度津や詫間なの?と疑問に思えます。
旅行目的には次のように記されています。
目的トスル所ハ、日露戦役ニツキ第十一師団出征ノ歓送(見送リ)

当時、善通寺第十一師団や丸亀歩兵第十二聯隊の兵士は、多度津港か詫間港から船出していました。国定教科書に取り上げられた「一太郎ヤあーい」の母の見送りもこの年の8月27日の多度津港でのことを教材化したものであることは以前にお話ししました。
一太郎やーい : 広浅雑学独言
出征する息子を見送る母
善通寺の兵士が詫間へ出るには鳥坂峠を越えて、大見村(現三野町)経由の道を行軍しています。出征兵士の見送りとリンクされることで、中止されていた修学旅行が復活したのかも知れません。学校行事が国家意識の涵養と結びつけられていく過程が見えてきます。

多度津港7
多度津港

 修学旅行の一行は多度津へ出ていますが、汽車に乗ったという説明はありませんから「足並演習」で、多度津街道の「魚道」を利用したのでしょう。観音寺に向けての予讃線は、まだありません。そこで「汽船ノ力ヲかリ(借り)テ」詫間に向かっています。
多度津近代集遊図

当時の多度津港は、大型船が入港できる讃岐の拠点港で丸亀港や高松港を凌駕していました。蒸気船となった金毘羅船や各地から神戸・大阪に向かう客船も寄港し、尾道や鞆との間にも旅客船が就航していました。まさに四国の玄関口として機能していた黄金期に当たります。

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多度津港の出港時刻表 神戸・大阪・鞆・尾道へと航路が開かれていた
 ここから小型の蒸気船をチャーターして詫間を目指したようです。ところが慣れない児童たちは「悉ク」船酔いしてしまったようです。
「翌日、元気旧二復セシヲ以テ、粟島航海学校(明治十年設立)ヲ参観」

粟島は目と鼻の先ですが「然ルニ児童悉ク酔ヒ、遂二帰校ノ予定ヲ変更」し、もう一泊することになっってしまいます。こうして出征兵士を「翌日又歓送(見送り)シテ帰」路につきます。詫間から鳥坂峠越えならば象郷小学校まで約20㎞になります。こうして2泊3日の「本校創立以来ノ大旅行」は、多くのハプニングを乗り越えて修了します。
讃岐鉄道多度津駅2
初代多度津駅 西はすぐに多度津港

復活したその後の修学旅行を見ておきましょう。
明治39(1906)年正月、高等科と尋常科4年の78人が校長と4人の職員に引率されて、高松・八栗・屋島への修学旅行を行っています。この時の費用は25銭、ほかに「米五合」持参の旅です。最初に紹介した高松高等小学校の場合が一円でした。
讃岐鉄道 開業時時刻表(明治22年
明治22年開通当時の讃岐鉄道時刻表 終点は丸亀駅

 当時鉄道運賃は、並車両利用で1マイル1銭5厘です。琴平・高松間は27マイルなので「27マイル×1,5銭=片道約40銭」という計算になります。割引運賃だったとしても、ほかに宿泊料なども必要です。全額で25銭というのは、割安感があります。
翌年の明治40(1907)年2月は、高等科卒業生は観音寺へ1泊2日の修学旅行を実施しています。この時も予讃線未開通なので汽車利用なしの「足並演習」です。

年度が改まった四月には、高等科三・四年の男子が箸蔵・池田方面に2泊3日の修学旅行を実施しています。琴平ー池田間の土讃線が開通するのは昭和になってからなので、この時も大久保諶之丞が開いた四国新道を徒歩で越えての「キツイ修学旅行」だったはずです。
高等科二年男子は1泊2日で、琴南町の大川山登山。高等科1年と高等科女子と尋常科三・四年は滝宮地方に1泊2日の旅行。残り尋常科1・2年は大麻山に日帰りの遠足が行われています。全て徒歩です。

明治40(1907)年は4月に、尋常科三・四年と高等科女子が汽車で中津公園に日帰りの旅行。5月には高等科2年以上の男子が詫間・仁尾・観音寺へ2泊3日の「足並演習」です。

四国連絡時刻表(明治36年7月朝日新聞付録より抜粋)
明治36年の時刻表 左が尾道=多度津航路利用

明治43(1910)年4月には、初めて海を越えて3泊4日で岡山方面に出掛けています。
この時にどのようにして瀬戸内海を越えたのでしょうか。
宇高連絡船の開通はこの年6月12日のことで、4月にはまだ就航していません。多度津からのチャーター船を利用したのでしょうか。どちらにしても宇高連絡船就航前の岡山行きです。時代のひとつ先を修学旅行も目指していたようです。

高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)

以後は、尋常科の修学旅行は1泊2日で高松・屋島へ、高等科は3泊4日で岡山地方へ行くのが、定例コースとなっていきます。
例外として大正5(1916)年4月に、日帰りで川之江の奥ノ院へ、翌々年の五月には2泊3日で別子銅山への修学旅行を行っています。これも鉄道年表を見ると、大正5年に予讃線が川之江まで延長したことによるものだと推測できます。
多度津駅 2代目
予讃線が延長され、多度津駅も移動

こうしてみると、宇高連絡船就航や予讃線の延長などによって、鉄道や船を利用して遠距離への旅行が可能になったことと修学旅行の行き先も関係していることがうかがえます。それでも修学旅行には歩くことがつきものでした。荒井とみ三さんは次のように指摘します。
「歩け歩けの旅行」を、学校側は修学旅行と呼び、家庭では遠足といい、新聞記事では兵隊の行軍あつかいに、「足並演習」の字を使っていた

修学旅行の教育目的が、単に社会見学というだけでなく、身体の鍛練や忍耐力の養成と、さらには国家意識の涵養におかれていたことを押さえておきます。それが高度経済成長期になってバスによる観光旅行に重点を移しすぎたときに「原点復帰」をめざし「遠くまで歩く遠足」復活が叫ばれることにもなったようです
大正・昭和になると、伊勢神宮の参拝を兼ねた「参宮旅行」が主流になります。
その先駆けとなる「天皇陵巡拝旅行」が明治44(1911)年8月に行われています。これは、学校単位の実施ではなく、香川県教育会が主催して県下一般から参加者を募ったもので、総勢76人が大阪・奈良県内の御陵を巡拝しています。指導的な教員のモニター旅行のようなものです。
さらに昭和3(1928)年に御大礼の後、京都御所の拝観が許されるようになります。これ以後は、伊勢、奈良に加えて京阪神も含め、5泊か6泊の修学旅行が多くなります。その背景には「整備された鉄道網 + 旅行費負担ができる保護者の経済力向上 + 皇国史観と天皇制高揚」などがあったようです。これも戦時体制下体制が強まる昭和15(1940)年には「修学旅行制限」の通達が出され、全国的に中止されるようになります。
讃岐鉄道多度津駅M22年
初代多度津駅
以上をまとめておきます
①明治期の遠足や修学旅行は「キツイ足並演習」で、一部に開通した汽車が利用された
②日露戦争時には戦意高揚のために多度津や詫間に行き、出征兵士を見送る修学旅行も行われた。
③修学旅行の行き先は、宇高連絡船や予讃線の延長などの交通網の整備が敏感に反映され変化している。
④昭和になると整備された鉄道・客船網を使って、畿内への5、6泊の修学旅行が始まる
⑤ここには「伊勢神宮 + 天皇陵巡り + 京都御所拝観」などの天皇制を体感させ国民意識の高揚をはかるという当時の国民教育の目標が、それを下支えしていた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「和田仁   象郷尋常小学校の修学旅行と運動会  ことひら53 H10年」

  新しいことは当分の間は書けそうにないので、これまでにまんのう町報のために書いてきた原稿を転載することにします。悪しからず。今回は、100年前の琴平以南の土讃線延長工事についてです。

琴平駅から南の土讃線建設は、どこから始まったか?                
今から130年前の1889(明治22)年5月21日に、丸亀・琴平間で「陸蒸気」が走り始めます。四国で2番目の鉄道開通でした。多度津駅構内での式典に参列した財田の県会議員・大久保諶之丞は祝辞の最後を
「(鉄道)を四州一巡スルニ至ラシメバ、貨多ヲ加へ運送便ヲ得ルヤ必セリ、是ノ時二当テ塩飽諸島ヲ橋台トナシ山陽鉄道二架橋連結セシ」

と未来への大きな「夢と課題」を語りました。しかし、その後の鉄道は琴平から南にはなかなか伸びません。高知への路線が決定して、線路建設が始まるのは第一次世界大戦が終わって2年後の1920(大正12)年4月3日)のことです。琴平までの鉄道開業から30年以上の年月が経っていました。
 開業時の琴平駅は現在の琴参閣ホテルにあり、ここが終点駅でした。土讃線が琴平を通過するには線路を琴平市街の東側に移し、新しい駅舎を作る必要がありました。そこで、ルート変更が行われます。現在の大麻神社前の踏切から左にカーブして金倉川を渡り、直進した所に新駅が建てられることになります。ところが、ここに問題が起きます。当時、認可を受けていた高松ー琴平を結ぶ「コトデン」の線路と交差するのです。そこで、その解決策として土讃線を土盛りして、コトデンの線路の上を高架させる策がとられます。このために、新琴平駅と金倉川までの区間は高く土盛りする必要が出てきました。

コトデン 土讃線交差
コトデンの線路を跨ぐ土讃線高架 後は象頭山

琴平駅と土讃線の土盛り用土砂は、どこから運ばれてきたの?
 当時の新聞「香川新報」には着工後6ケ月たった進捗状況を
「工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。新駅から旧線の分岐点である大麻までの工事は、来月下旬頃に着工予定」

と記されています。また1年経った5月30日の記事には
「鉄路の土盛はほとんど全部終えて、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りし既に大部分埋立てられている」

とあります。  つまり、工事の起点は三坂山であったことが分かります。
まんのう町三坂山切通
まんのう町三坂山切通 ここから盛土はトロッコ列車で琴平駅方面に運ばれた
さて、それでは「三坂山」とはどこにあるのでしょうか?
三坂山は、土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する南西側の小さい丘のような山で、すぐ東側を金倉川が流れています。この山の裾の三坂山踏切に立ち琴平方面を眺めてみると、まっすぐに線路が琴平に向かってゆるやかに下って行くのが見えます。ここを切り崩した土砂で整備した上に土讃線のレールは敷かれていったのです。そして、琴平駅もここから「豆機関車」で運ばれた土砂で土盛りされた上に建っているのです。ちょうど百年前の話になります。
 また新聞には
「塩入・財田間の工事も京都の西松組が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷いて手押土運車で土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である」

 確かにかつては「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。
まんのう町三坂山踏切
三坂山踏切からの象頭山

工事開始から4年目の春、琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。
1919 大正8年9月 実測開始 
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1920 大正 9年4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 大正12年5月21日
1923 大正12年5月21日 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
 


金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
鷲羽山からの四国方面の眺望 

江戸時代の下津井の北前肥料問屋は、下津井鉄道の誕生に重要な役割を果していることを、前回は見ました。今回は、どのようにして北前肥料問屋が、回船業者に変身したかを最初に見ていこうと思います。
IMG_8105下津井より広島方面」

 近世の北前肥料問屋は、完全な仲継問屋でした。北前船の積荷としてもたらされたニシン粕を預って、委託販売し、これを内陸部の綿花栽培農家に売りさばいて利益を上げていました。しかし、明治になって棉花、藍などは、輸入商品によって農家に大きな打撃をもたらし、下津井の北前肥料問屋の経済基盤を突き崩します。先を見た北前船肥料問屋の中には、西洋式帆船を購入し回船業者に転じる道を選ぶものが現れます。
img000038小下津井
江戸時代の下津井湊
その時期は日露戦争前のようです。経営方式は、近代海運企業のコモンキャリアー(con!rnon carrler)ではなく、自己の荷物を自己の持船で運び、運賃と商利をあわせとるプライベイトキャリアー(private carrler)の形態を採っていたと研究者は指摘します。この方式は、もともと北前船の経営方式でした。

1907年12月末日に、下津井を船籍港とする船舶は第五表の通りです。
下津井 港の船

ここからは次のような事が分かります。
①洋式帆船11隻、和式石数帆船2隻が下津井港と長浜港(大畠)に船籍を置いていること
②下津井の回船問屋所有の洋式帆船は、スクーナーかトップスルスクーナー型であること
③建造年月は、日清戦争後に集中していること
④建造地は地元もあるが、長崎や伊予・筑前・紀伊など県外への発注もあること
⑤洋式帆船所有者の家は、ほとんどが下津井鉄道の大株主であること
ここからは、洋式帆船を使った回船業で蓄積した資本が下津井鉄道建設の経済的基盤になっていることが分かります。
 洋式帆船所有者には、次の2種類の船主たちがいました。
①近世の北前肥料問屋より転じた者
( 岩津、三宅、中西、古西など)
②大畠の商家・酒造業出身で、明治になって回船業に進出してきた者(渡辺、永山、毛利)
 彼らが当時の下津井の経済界の有力者といえるようです。
     
200017999_00045下津井2


 下津井鉄道建設の動機は、宇野・高松航路へのライバル意識であったことは前回にお話ししました。下津井・丸亀間の四国連絡航路を残したいという危機感と願いが彼らの団結をもたらし、地方鉄道の建設を実現させたのです。
それでは営業成績はどうだったのでしょうか。
 まず下津井・丸亀間航路を見ておきましょう。この航路は、第一次世界大戦が始まる1914年3月から運行を開始します。しかし、賞業成績は振るわず、汽船および関係物件全部を田中汽船合資会比(塩飽本島)に譲渡し、これと連帯運輸契約を結んで、1922年1月には営業中止に追い込まれます。再びこの航路を系列会社として、経営を再開させるのは昭和になってからです。
   次に鉄道部門を見てみましょう。

下津井鉄道5
 下津井鉄道は、直接に岡山市には乗り入れていません。
国有化された宇野線との接続駅である茶屋町が終着駅でした。茶町は当時は小さな集落で、集客力のある施設もありません。単に距離的、地形的に最も近い駅として、接続駅に選ばれたにすぎませんでした。そのため茶川町まできた乗客は、ここで宇野線に乗りかえて岡山に行くか、馬車か人力車で倉敷に出るかのどちらかのコースをとらざるえません。つまり、下津井鉄道は直接に岡山市や倉敷市に乗り入れていないために、利益が上がりにくい鉄道だったのです。
下津井鉄道建設8

 このために倉敷・岡山方面への連絡能力の向上が求められました
 このため試みられたのが茶屋町・倉敷間6,4㎞の軽便鉄道免許申請でした。まだ下津井鉄道が運転を始める前の1013年9月23日に免許申請して、翌年11月6日に認可されています。しかし、問題は資金です。会社は設立当初に資本金30万円を集め、1913年には、資金不足のために20万円の優先株による増資をすでに実施していました。倉敷へ路線延長には、増資額14万円が必要との見積もりが出されます。しかし、これを調達するだけの力は、地元にはなかったようです。認可免許については、申請期限の延期が繰り返された末に、1916年5月22日の三度目の延期願が却下されてます。そして1ヶ月後の6月22日官報に免許失効の公示が掲載されました。

下津井鉄道建設6

 当時の会社の努力は第九回営業報告書(大正五年度上期)に、次のように記されています。 
乗客貨物ノ誘致吸収二対シ種々努カシ、貨物賃ノ割引又ハ督励金割戻金等ノ奨励法ヲ行ヒ一面天城倉敷間ノ人力車連絡ヲ開キ、且ツ期末春陽二際シテハ団体、遊客ノ募集ヲ行ヒ専心注意ヲ怠ラザルモ……
意訳しておくと
貨客誘致のために努力を行った。貨物に関しては割引や払戻金制度を導入し、取扱貨物の増加を図った。また、天城駅と倉敷の間には人力車を配置した。また、行楽シーズンには団体や行楽客の募集を行うなどの利用促進を図ったが・・・・

 結果としては、収益増には結びつかなかったようです。
下津井鉄道

開業から10年を経た1925年、会社は次のような改善計画を鉄道省へ申請します。
 弊社下津井町茶屋町間鉄道ハ 運輸営業開始以後拾数年ヲ経テ 此ノ間鉄道ノ起終点ナル下津井港及茶屋町ハ勿論沿線ノ各町村二於ケル時勢二伴フ文化ノ発達ハ異常ニシテ、加フルニ近時下津井港及対岸ナル丸亀港間二連絡期成同盟会成立シ 岡山方面ヨリ弊社線ヲ経テ丸亀方面ノ連絡運輸二対シ時間ノ短縮、輸送方ノ増大頻繁ヲ要スルニ至リ候二付テハ鉄道軌間ノ拡張及電化工事等時勢に順応セル施設ヲ致度別紙申請仕候也▽

意訳すると
弊社下津井鉄道は、営業開始以来10数年を経ました。この間に下津井港や茶屋町はもちのんのこと、沿線の発展は著しいものがあります。加えて下津井・丸亀港間の連絡期成同盟も設立され、岡山方面から弊社路線を使って丸亀方面への連絡については、時間短縮や輸送量の増大が求められるようになっています。このような情勢に応じて鉄道軌間の拡張と電化工事など時勢にマッチした施設への変更を別紙の通り申請いたします。

ここからは
①下津井港と丸亀港に「連絡期成同盟会」が結成され、航路と鉄道の利用促進運動が行われていたこと
②下津井鉄道が「鉄道軌間ノ拡張及電化工事」の申請をしていること
が分かります。
「電化計画」について、申請書ではその狙いを次のように具体的に述べています。
(前略) 乗客漸次幅接シ殊二其ノ全乗客ノ大部分ハ岡山間ノモノニシテ此レガ省線茶屋町駅二於ケル乗替ハ 非常ナル困難且ツ相当ノ時間ヲ浪費シ乗客ノ不便甚ダシキヲ以テ御省御管理ニ係る宇野線茶屋町岡山間二於テ之レヲ電化施設ヲナシ弊社地方鉄道電車ヲ乗入レ運転致度 本計画ノ施設二関シテハ万事御省ノ御規則並びに御指定遵守仕ル可ク侯 間特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被成ド度此脚御願奉候也
意訳しておくと
(前略) 下津井鉄道の利用者は、次第に増えてきました。しかし、その乗客のほとんどは岡山行きのために終点の茶屋町で下りて、宇野線に乗り換えなくてはなりません。そのため不便な上に大きな時間の浪費となっています。
 つきましては、鉄道省管理下の宇野線茶屋町と岡山間を電化して、弊社の電車を乗入運転できるようにしたいのです。本計画の施設整備については、鉄道省の運行規則を遵守いたします。本計画について、特別の御詮議していただき許可されるようお願い申し上げます。

ここから分かる具体的な計画と狙いを、まとめると次のようになります。
①下津井鉄道の軌間を現行の762㎜から1067㎜に拡張して、鉄道省線の宇野線と同一にする
②同時に、鉄道省宇野線の岡山駅までも、電化して電車運転を行なう
③そして、下津井鉄道の電車が鉄道省の線路と架線を使って岡山駅に乗り入れる
というものだったようです。
 宇野線岡山・茶屋町間を下津井鉄道の手で電化し、岡山までの直通運転を計るとともに、四国連絡ルートとしての機能大改善を計ろうとするものです。ここには、会社側の決意が感じられます。電気供給は中国水力電気より行なわれるものと予定だったようです。問題は、鉄道省の対応と資金集めだと予想できます。

鉄道省の対応から見ていきましょう
 申請書を受けた鉄道省監督局は監督局長名で、1925年2月16日で関係各局の意見を聞いています。これに対する各局の意見は次のようなものでした。
   運輸局意見 
宇野線ハ国有鉄道ノ本州線卜四国線トノ連絡幹線ナルヲ以テ 之二他鉄道ノ回数多キ電車ヲ乗入セシムルガ如キハ将来運輸上二支障ヲ及ボスコト大ナルベキヲ以テ本件ハ承認セザルコト致度

   工務局意見 運輸局卜同意見
   電気局意見 
省ニテ岡山・宇野間ヲ電化シ茶屋町・岡山間二会社車両ヲ乗入レシムル方技術上便利卜認ムルモ差当り同線ヲ電化スルノ計画ナシ

ここからは次のような事が分かります。
①運輸局、工務局は、下津井鉄道の乗り入れを認めることは、宇野線の輸送容量からして「将来運輸上二支障」になることを挙げて反対しています
②電気局は独自の意見を出し、電化をするならば宇野線全線の電化を鉄道省自らの手によって行なうべきであるとします。そして、乗入れは便利と認めるが、今のところその計画はないと回答しています。
 当時の鉄道省線の電化は、東京付近の電車区間と信越本線の碓氷峠越え以外には、なかったようです。東京・小田原間、大船・横須賀間の工事が進行中で、全国的な電化が始まったにすぎません。そのような中で、山陽本線が電化されていないのに、その支線の宇野線の電化などは計画にもなかったはずです。鉄道省側の立場としては、下津井鉄道の申請を認めることは、ありませんでした。
 監督局では1926年4月21日付で下津井鉄道に次のように照会します。(監鉄第七六三号二)
 客年一月二十二日付工事方法変更並省線乗入運転二関スル申請中省線乗入運転二付テハ承認ナキモ軌道改良工事ハ尚遂行ノ意志ヲ有セラルルヤ何分ノ回報相成度

これに下津井鉄道は、4月20日付で次のように回答しています。
去月12日付監鉄第七六三号ニヲ以テ御照会相成候件左二御答仕候 省線乗入運転方承認不可ノ場合ハ弊社ノ軌道改良工事ハ到底遂行出来難キ状態二御座候 間可然御処理相成度候
宇野線への乗入許可が下りない場合は、軌道工事も中止するという回答です。こうして下津井鉄道の岡山乗入計画は挫折します。もしこの計画が認可されたとしても、その資金60万円を増資で集めることは、難しかったのではないでしょうか。
 会社は、方針を転換して、岡山方面への乗入れバス路線を開くという次善策で打開していきます。
 1924年11月29日に、下津井・岡山間・碑田・田ノロ間・茶屋町・倉敷間の三路線についてバス営業免許を申請していました。これが翌年1925年2月26日、茶屋町・倉敷間を除いて認可されます。この区間が認められなかったのは倉敷鉄道免許線(倉敷・茶屋町間)と重複したからのようです。会社のバス事業への進出は、下津井ー岡山間・下津井ー倉敷間、田ノロー彦崎間に、バス営業者が現われたのに対する対抗策で、鉄道の岡山乗入計画も、これに刺激されたのかもしれません。
 このバス路線は1925年3月より営業を開始します。これによって、岡山方面への直通運転は達成されたことになりますが、当時のバス輸送能力は貧弱でした。また鉄道の輸送能力の改善は、それ以後は手が付けられずに放置されます。戦後のバスの発達によって、運行回数が少なく乗換えの必要な鉄道は、不便な乗り物として利用者を減らしていくことになったようです。

以上をまとめておきます
①下津井鉄道は、下津井と丸亀市の株主の持株が全体の過半を占める。
②建設目的は、山陽線との連絡だけでなく、下津井・丸亀間航路を維持しようとする意図があった。
③大株主の多くが下津井の回船業者と内陸部の水田地主から成長した織物業者であった。
④下津井鉄道の建設動機は、鉄道院宇野線の開業と宇高連絡航路開設に対する対抗策だった。⑤下津井鉄道の建設を可能としたのは、軽便鉄道法施行だった。
⑥開業後の経営困難打開のために、宇野線へ直通電車を乗入れを計画するが挫折した
 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  


下津井鉄道5

下津井鉄道の設立については、白川友一が深く関わっていたので以前に触れたことがあります。今回、その成立過程について書かれた論文に出会いましたので紹介したいと思います。テキストは青木栄一「下津井鉄道の成立とその性格」 地方紙研究97号 1969年です。
 瀬戸大橋の岡山県側のスタートは、鷲羽山のを掘り抜いたトンネルです。トンネルを抜けると青い瀬戸内海が広がり、瀬戸大橋が四国へと空と海の間を続いていきます。その西側に下津井港が見えます。この港のかつての繁栄ぶりをしのぶものは数少なくなってしまいました。しかし、この港は北前船の寄港地として、金比羅船の発着港として近世には大いに栄えていました。
 そして、港には財を成す商人たちが数多くいました。その子孫たちが明治末に、下津井から児島を経て、茶町までの鉄道を引きます。その建設過程を見ていきたいと思います。
下津井鉄道以前に、児島鉄道が設立されたが・・・
 実は下津井鉄道が設立される以前に、児島までの鉄道計画があったようです。その動きをまず見ておきましょう。
 山陽鉄道が兵庫県との境の船坂峠越えて岡山県内に伸びてくるのは日清戦争前の1891年です。西進する山陽線を待ち受けるかのように1893年11月、「児島鉄道」という私設鉄道が山陽鉄道倉敷駅から児島湾の味野までの仮免許申請を出しています。これが児島半島に鉄道路線を伸ばそうとする最初の試みだったようです。
この児島鉄道について「日本鉄道史」は次のように記します。 
 児島[南北]鉄道ハ、明治二十六年二月岡山県児島郡野崎定次郎外十一名ノ発起二係り、資本金十七万円ヲ以テ倉敷ヨリ、味野二至ル十二哩余ノ距離二軌図二幄六吋ノ軽便鉄道ヲ敷設セントスルモノナリシカ、陸軍省ノ意見ハ定規ノ軌間ナラザレバ免許スヘカラズト消フニ在リシカハ、普通鉄道ノ計画二改メ、資本金ヲニ十八万円二増加シ、同年十一月仮免状ヲ受ケ会社ノ位置ヲ倉敷町二定メ、大橋平右衛門外二名ヲ取締役トシ、片山精吾外二名ヲ監査役トシ互選ヲ以テ大橋平右衛門ヲ社長トシ、ニ十九年三月六日免許状ヲ受ケタリ、
 同年五月大橋平右衛門辞シ、取締役佐藤栄八之二代り、三十年四月取締役藤本清兵衛又之二代り、十月取締役鳩山和夫又之二代リテ社長卜為ル、是ヨリ先二十九年四月中備鉄道発起人ハ倉敷ヨリ高梁二至ルニ十一哩ノ仮免状ヲ受ケクリ、該線ハ吉備鉄道トノ競願二係ルモノテビア初児島鉄道発起人二於テ延長ノ意アリシモ、当時児島鉄道ハ末夕免許状ヲ得ザリシカバ別二中備鉄道ヲ発起シ、吉備鉄道二対抗シ仮免状ヲ受クルニ至レリ、而シテ児島鉄道ハ中備鉄道卜合併ヲ約シ三十年五月資本金ヲ四十五万円トシ、倉敷高梁間延長敷設ヲ願出テ中備鉄道ハ合併二異議ナキ旨ヲ副申シタリ、同年十一月児島鉄道ハ仮免状ヲ受ケ三十一年六月社名ヲ南北鉄道卜改称シ、十二月十九日免許状ヲ受ケタリ、是年九月社長鳩山和夫取締役ヲ辞シ十一月取締役堀田連太郎之二代り社長卜為り、三十二年堀田連太郎亦辞シ取締役渾大防益三郎之二代レリ、而シテ会社ハ二十年度二於テ資本金ヲ増加シタルモ、
 当時財界不振ノ為旧株七万円ノ払込ヲ為シタル外残余ノ払込困難卜為り、新株募集ノ成績亦不良ニシ、建設資金ヲ挙クルコト能ハズ、斯クシテ三十三年二至り工事竣工期限ハ己二切迫セントシ、前途ノ希望確実ナラザルニ由り、寧口事業ヲ廃止スルニ若カズトシ、株主総会の決議ヲ以テ三十三年九月二十六日会社ハ解散ヲ遂ケタリ▽
 ここからは次のような事が分かります
①日清戦争直前に、西進する山陽鉄道を迎えるかのように多くの地方鉄道が作られた
② 児島でも塩田・繊維業など地元の有力者が倉敷からの鉄道建設を計画した。
③しかし、予定した軌道は狭すぎて免許が下りず、資本金の大幅増額を迫られた
④その後も、社内役員交代が続き経営の一貫性がなく経済不況のため資金が集まらず設立後7年目に解散
ということになっています。
  ここに登場する人物の中で、野崎定次郎と渾大防益三郎はともに児島郡の出身です。野崎定次郎は味野の塩田王と呼ばれた野崎家の分家で味野町長をつとめ、味野紡績所の創設に参画しています。渾大防益三郎は、下村の出身で下村紡績所、児島蚕業会社、児島養貝会社の創立など、繊維業を中心に幅広い活動を行なっています。地元の経済界の有力者により鉄道計画が進められたようですが、不景気と資金力不足で挫折したようです。
下津井鉄道1

 明治42年以前の山陽地方の鉄道申請は第一表の通りです。
岡山・広島、山口の三県内では私設鉄道として全部で12件、10社の仮免許が出されています。しかし、このうち開業までこぎつけたのは岡山・津山間を結んだ中国鉄道だけです。当時の私設鉄道条令(後の私設鉄道法)にパスする鉄道建設のためには
「沿線地域社会の資本調達力が小さすぎたため」

と研究者は考えているようです。児島鉄道も例外ではなかったようです。鉄道建設ブームに乗って、免許申請は行ったけれども資金不足で開業には至らなかったという地方鉄道が多かったようです。

  児島鉄道が頓挫して10年後の明治末の1910年に「軽便鉄道法」が施行されます。
この法律は、小規模な鉄道建設を奨励するために出された法律で、企業の形態、軌間寸法、勾配、曲線の制限、諸施設や車両設備に関する規定が今までよりも大幅に緩められます。今で云う「規制緩和」による民間鉄道建設の奨励策でした。翌年1911年には、国会議員になったばかりの白川友一の活躍などで「軽便鉄道補助法」も成立し、政府よる補助金支給も受けられるようになります。このような政府の支援策を受けて、各地で再度鉄道建設ブームが起きます。
下津井鉄道が建設免許を得たのも1910年のことです。
これには「規制緩和」や「補助金支給」が得られるようになったこともありますが、下津井鉄道の建設の「刺激剤」となったものがあります。それが岡山・宇野線の開業です。この開業は、下津井にとっては大きな脅威となりました。それまでの四国側の海の玄関は、金毘羅参り船の出入りする丸亀や多度津でした。そして、岡山側の拠点は下津井港が大きな役割を果たし、多くの人の参拝客の寄港地として栄えてきたのです。しかし、宇野線の開通と高松航路は、それまでの人の流れを大きく変えることになります。下津井の有力者に、危機意識が生まれます。この緊張感を背景に、下津井鉄道は計画されたと研究者は考えているようです。
ライバル・ルート宇野線の開業に至る経過を見ておきましょう。
1901年3月鉄道敷設法の敷設予定線となり
1904年1月 山陽鉄道が岡山・宇野間の仮免許状獲得
1906年11月山陽鉄道が岡山・宇野区間の本免許状獲得
1907年山陽鉄道が国有化され、政府の手によって着工
1910年6月 国有の宇野線が開業

 山陽鉄道は岡山港からの四国連絡をスムーズにするために、系列下の山陽汽船による高松航路の運行を1903年3月から始めます。そして山陽鉄道の国有化と同時に連絡線も国有となり、運行ルートも岡山・高松から宇野・高松間に変更します。新しい四国連絡港として寒村にすぎなかった宇野が選ばれたのは、岡山からの線路勾配が最も緩やかな路線を選定だからとされています。(最急標準勾配10パーミル)。
 岡山・宇野線の鉄道開業と宇野・高松航路の開設は、それまでの四国連絡港としての下津井港の地位を失うことになります。
   下津井鉄道の成立とその建設意図は?
 宇野線が開通した1910年11月に、下津井鉄道は軽便鉄道法により、
「岡山県児島郡下津井町大字下津井字西ノ脇ヲ起点トシ、同郡赤崎村、味野町、小田村、郷内村、藤戸村、興除村ヲ経テ、同県都窪郡茶屋町大字帯江新田字蟹取川内二至ル間」

の12マイル(21㎞)の免許を受けます。国有鉄道の宇野線の茶町駅から分岐して、児島を通り、鷲羽山を抜けて下津井港までのコースになります。
 免許申請者は下津井町の中西七太郎、荻野東一郎、赤崎村の山本五三郎の3名で、発起人として連署した者は、166名にものぼります。免許申請書は、予定路線の経路のみを示した簡単なもののようです。免許申請書を受付けて、これを鉄道院に送った岡山県知事谷口留五郎は内閣総理大臣桂太郎あての1910年10月11日付副申書で、次のように記します。
本線敷設ノ暁二於テハ本県ノ南部及四国トノ聯絡運輸交通ノ便不紗有益ナル事業卜相認メ候条 至急御認可相成様致シ度意見二候間
と四国連絡の意義を強調していますが、作文的な文章で実質的内容は何も記されていません。
下津井鉄道2

 免許申請書に署名した発起人の地域別内訳を見ておきましょう
①一番多いのが対岸の丸亀市48名であること
②下津井と丸亀を併せると全体の半分になること。
③「児島鉄道」の際に中心となった味野(児島)が少ない
下津井と丸亀からの出資者が多いようです。


岡山の鉄道会社に丸亀の人たちが、なぜ出資しているのでしょうか。
「下津井鉄道の建設意図が単に児島半島内の交通改善のみを目的としたものではない。近世以来繁栄してきた下津井・丸亀間の連絡航路を鉄道建設によって維持しようとする意図」

があったと研究者は考えているようです。
 当時の地方鉄道の免許申請書には、発起人は関係市町村の市町村長、議員など公職にある人物の名前を並べたものが多いようです。 そのため発起人の分布と、実際に出資した株主や重役の分布とは一致しないのです。下津井鉄道の場合も同じような傾向がみられるようです。つまり「建設には総論賛成、しかし金は出さない」という人たちが多かったということです。
 下津井鉄道の場合も、申請人となった三名は、中西が下津井町長、荻野が同助役、山本が岡山県会議員というメンバーです。会社発足後に株主として名はありますが、経営者としての中心人物とはなっていません。
発起人は、下津井鉄道の経営をどのように考えていたのでしょうか
免許申請書に添付された「下津井軽便鉄道収支目論見表」を見てみましょう。
下津井鉄道3

これによると年間の旅客収入49640円・貨物収入18750円が見込まれています。その根拠はまったく分かりませんが、この表からは旅客収入中心の鉄道経営を考えていたことがわかります。
 下津井鉄道の二代目社長・永山久吉はその回顧録「下電と私」の中で初代社長白川友一の十三回忌(1953年3月)の際に読みあげた追悼文を採録して、次のように記します。

旧幕時代より中国、四国の連絡は五挺立て押し切り渡航船によって、丸亀・下津井関の連絡が唯一のものでありました。交通機関の進歩に伴い、宇野線建設、宇野、高松間を鉄道省によって、連絡が出来ることになったので、丸亀、下津井の有志に衝撃を与え、両地の有志は互に手を握って、下津井・茶屋町間の軽便鉄道敷設を思い立ったのであります。私があなたに始めてお目にかかったのは、明治44年4月中旬でありました。

 ここからは、下津井鉄道建設の動機の一つとなったのが宇野線の開業にあったことが裏付けられます。高松・宇野ルートに、顧客を取られるという危機感がバネになっていたのです。

 下津井鉄道の第一回営業報告書の株主名簿(1912年4月30日現在)から株主351名の地域的分布を示したのが表4になります。
総株数6000株(50円株)で、一株25五円です。
下津井鉄道4

 ここからは、次のような事が分かります。
①地元株主の比率が高く岡山・香川県以外の株主は2人だけ
②零細株主が多く、9株以下の株主が351名の株主中202名を占めた。
③持株数の多い株主は下津井町と丸亀市に集中し、全株数の過半を占める。
 下津井鉄道の地元株主の占める比率は、他の地方鉄道に比べてもはるかに高いようです。ここからは地元の人たちが少しずつお金を出し合って株式を購入し、下津井鉄道を誕生させたことがうかがえます。その動機には宇野・高松ルートの出現に対する危機感と対抗意識が働いていたことがここからもうかがえます。鉄道建設で下津井・丸亀間航路を維持しようとする姿勢が見えてきます。

 最後に大株主の経済的基盤を見ておきましょう。
(●印は重役)

白川友一3
旧下津井駅前の白川友一像

●白川友一 (420株、香川県仲多度郡)
 南村(現丸亀市)の素封家(地主)白川家の養嗣子で県会議員を歴任し、日露戦争後、満州、朝鮮において、土木請負業、通運業、貿易業などによって財を築いた。明治末期には衆議院議員に当選、中央政界にも活動した。軽便鉄道補助法の成立にも尽力しています。
白川友一
白川友一

●中西七太郎(303株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「高七」の当主で、明治期には紡績業、九州の炭鉱業に進出するとともに回船業者をも兼ね、明治後期における下津井最大の富豪と称されていた。当時下津井町長であった。
●荻野休次郎(208株、下津井町)
 近世末より明治前期にかけて北前肥料問屋を対象とした金融、倉庫業を営んでいた荻野屋の一族で最もあとまで繁栄していた東荻野家の当主。荻野屋は近世末には備前藩の融通方を勤め、下津井最大の素封家であったが、明治期には衰頑の傾向にあった。
 岩津先太(200株、下津井町)
近世以来の北前肥料問屋豊後屋の当主で、米の仲買を兼ね、米専門の回船業者として活動した。
●中塚勘一郎(150株、小田村)
 小田村の地主で、織物業も営んでいた。
 西尾甚太郎(130株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋の家で、吹上村(下津井四ヶ浦のIつ)の庄屋の家柄であった。当時はすでに家作経営を主とし、下津井郵便局長の職にあった。
●三宅万五郎(122株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「湊屋」の当主で、明治期には回船業者「永徳」となり、のち被服製造業にも進出した。児島銀行の経営者の一人であった。
●片山徳次郎(115株、小田村)
 小田村稗田の地主で、織物業をも営んでいた。
●荻野岩太郎(102株、下津井町)
 荻野家の分家花荻野家の当主。元の北前肥料問屋を対象とした倉庫業を営んでいた。
 中西林蔵(102株、下津井町)
「高七」の分家で明治末期には回船業者、北洋漁業者として活動
黒瀬元五郎(100株、丸亀市)
 丸亀の地主で近世末には下津井の荻野家より養嗣子が出されていて、血縁関係にある。
●秋山文治郎(80株、藤戸村)
 藤戸村天城の地主で、児島銀行の経営者の一人であった。
●渡辺来蔵(77株、下津井町)
  下津井町大畠の素封家で、当時主として酒造業を営んでいた。
 岡村万吉(70株、下津井町)
  鮮魚問屋「味万」の当主
 西原陣三郎(70株、味野町)
  味野町の地主で、織物業も営んでいた。
 柘野文六(70株、小田村)
  小田村小川の地主で、織物業を営んでいた。
 古西政次郎(60株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「西徳」の当主で、明治後期には、回船業者となり、のちに米穀商を兼ねた。
 亀山政三(55株、岡山市)
  質屋、精米業を営んでいた。
  ●永山久吉(54株、下津井町)
下津井町大畠の素封家で父久平は酒造業で財を成したが、久吉は回船業者として活動し、一方足袋製造にものり出して自己の回船業を利用して、販路を拡張した。下津井鉄道創立後社内における地位の向上に努め、昭和期 初頭には鉄道の実質的リーダーとなり、1937年、白川友一辞任の後をうけて社長に就任した。
 岡万次郎(五二株、下津井町)
  下津井町田之浦の素封家で酒造業を営んでいた。

 大株主リストを見ると分かるのは、下津井鉄道の大株主には
①下津井町の回船業者、酒造業者の系統
②小田村・味野町の地主・織物業者の系統
のふたつのグループがあったこと。そして、かつての北前交易で財を為した北前肥料問屋が、この時点でも経済力を維持し、重要な役割を演じていることです。彼らの危機意識と経済力と危機意識が対岸の丸亀の白川友一を巻き込んで、下津井鉄道建設の原動力になっていったようです。
おつきあいいただき、ありがとうございました
参考文献
青木栄一「下津井鉄道の成立とその性格」
              地方紙研究97号 1969年


琴平に3番目に乗り入れた琴電(コトデン)

第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は3番目に乗り入れてきた琴電(コトデン)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック
1899                   讃岐鉄道が丸亀ー琴平間で開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 琴参(コトサン)善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1929  3月15日 琴電(コトデン)が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄(コトキュウ)坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線が小歩危でつながり、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
宇高連絡船の就航が、琴電誕生のきっかけに 
 明治末に高松と岡山県の宇野港を結ぶ宇高航路が開設されると、高松は四国の玄関口として、人が集まるようになります。それまでの大阪から丸亀や多度津の港に上陸して金比羅さんを目指すという流れから、大阪から鉄道で岡山を経由して宇高連絡線で四国の玄関口高松へ入るという流れが主流になります。それが、高松から門前町琴平を直接結ぶ鉄道建設の気運につながります。
イメージ 1
1920年代の高松港と連絡船
地元主導による会社設立
 大正9年(1920)に県内の有力者大西虎之介や、四国水力発電の社長景山甚右衛門らが中心となって電気鉄道の免許を得ます。しかし、その後の戦後恐慌や関東大震災による経済の混乱で資本が集まりません。実際に会社を設立したのは大正13年(1924)7月になってからでした。当時の『香川新報』は
「資本金五百萬円の琴高電鉄具体化す。其の内四百萬円は発起人が引き受け(後略)」
と長らく棚上げとなっていた琴高電鉄(後の琴電)の着工の目処が着いたことを報じています。設立時の発起人を見てみると、
大西虎之介・景山甚右衛門・鎌田勝太郎らが名前を通ね、創立準備委員も大西虎之介、井上耕作、蓮井藤吉、細渓宗一、細渓宗次郎、加藤謙吉、鎌田勝太郎、景山甚右衛門、竹内秀輔、武田謙、中村実、中村新太郎、中村健一、熊田長造、福沢桃介、合田房太郎、安達賢、寒川桓貞、木村淳、三輪繁太郎、瀬尾等、広瀬小三郎
であり、地元主導がうかがえます。そして、資本金500万円の内の8割に当たる400万円をこの発起人が出資することになります。先行する3つの電車会社と、資本力が違うし経営も安定します。
 この設立発起人の中に福沢桃介の名前が見えます。彼は福沢諭吉の娘婿で「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門が四国水力電気の再スタートの際に「三顧の礼」をとって形だけではあるが社長として迎え入れた経緯があります。ここでも「名前を貸した」程度で、その他の人たちは地元の有力者です。この辺りが「外部資本」が中心となった琴参(コトサン)との違うところでしょうか。
「讃岐の阪急電鉄」をめざした琴電
 琴平電鉄は、先行する高松電気軌道、東讃電気軌道が軌道線であったのに対して、当初から本格的な高速電気鉄道として着工されます。
 先行する讃岐の3つの電気軌道電車と比べると、設備が一つ上のランクで立派な設備をもち「讃岐の阪急」といわれたようです。
 例えば、軌間は広軌(1435mm)を採用し、架線電圧は当時の地方鉄道としては珍しく1500Vを採用しています。架線柱はボオル結構式四角鉄柱が採用され、銀色に輝く架線柱の連なる様子は人目を惹きました。畑田変電所には1500V用としては、我が国初のドイツ・シーメンス社製の600kW水銀整流器が2台設置されました。鉄橋は日本橋梁製のプレートガーダー橋、各駅のプラットホームはコンクリート造でした。
 各駅の建築に際しては、社長の大西虎之助が自分の目で阪急、南海、阪神を視察しています。そして、栗林公園駅は南海の羽衣駅、挿頭丘駅は阪急の仁川駅を参考にして、当時としては讃岐では今まで見たことのないような都会的なセンスの駅舎が姿を現します。
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「乗降客で賑わう滝宮駅」ではありません。「電車見物」で賑わっているようです。

 車両は全て新品で、汽車製造会社製の1000形及び日本車輛製の3000形を各5両、さらに、昭和3年(1928)には加藤車輛製の5000形を購入しています。当時としては最新鋭の半鋼製ボギー車で、機器類も制御器、パンタグラフは米国・ウエスチングハウス社、ブレーキはスイス・クノール社、モーターはドイツ・アルゲマイネ社製というように舶来品を多数装備しています。当時の地方私鉄電車としては、ランクが相当高い車両で、乗客が履物を脱いで乗車したという話もも残っています。そして、高松~琴平間を当時の省線(国鉄)よりも40分も短い1時間前後で走り「高速鉄道」「立派な設備」というイメージを利用者に植え付けるのに貢献しました。琴平電鉄は「讃岐の阪急」をめざしたのです。
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 琴平に伸びてきた琴電の線路は、6年前に南に延びた省線(鉄道省の鉄道=国鉄)の土讃線と終着駅手間でクロスします。このために、土讃線は金倉川から新琴平駅までは高く土盛りされ土讃線の下を琴電が通るように事前に設計されていたようです。
琴電の開通
大正15年(1926)12月21日に栗林公園~滝宮間が開業
昭和 2年(1927)3月15日には滝宮~琴平間、
        4月22日には栗林公園~高松間が開業
琴平全線(31㎞)が開通します。
駅は高松、栗林公園、太田、仏生山、一宮、円座、岡本、挿頭丘、畑田、陶、滝宮、羽床、栗熊、岡田、羽間、榎井、琴平の17ヵ所。全区間の運賃は65銭でした。

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 琴電琴平駅

 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れたのは昭和2年(1927)3月15日の春の日でした。沿線の駅舎は、阪急などの駅舎を参考にしたと前述しましたが、終着駅の琴平駅だけは別格でした。この駅だけは、地元の高松工芸高校建築科の建築家に、門前町にふさわしい駅舎を依頼しました。それが、金倉川と高灯籠の間のスペースに姿を見せたのです。この地は、金倉川の洪水で護岸が流された所を整備して確保した所です。
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この写真は、修学旅行で琴平に宿泊した小学生達を宿の主人が琴電琴平駅のホームまで見送りに来ているシーンだそうです。壺井栄の「二十四の瞳」の中にも、遠足で小豆島の子ども達が金比羅宮に参拝するシーンがあったような記憶があります(?)
多角化経営を目指す琴電の手法は?
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しかし、琴電の経営は厳しかったようです。沿線は内陸部の田園地帯で人口が少なかったことや、昭和初期の金融恐慌なども重なり、開業後は業績不調が続きます。このため会社は沿線の祭事等の開催に合わせて運賃割引を行ったり、女給仕が生ビールや洋食を販売する納涼電車を走らせたり、挿頭丘と滝宮に開設した納涼余興場を売り出し、乗客を増やそうとあの手この手の営業活動を行います。

また、阪急の商売に習って、岡本駅の隣に遊園地を作ったり、郊外駅周辺での住宅団地の造成など沿線開発にも取り組みました。
 また琴平電鉄は、電力会社として配電事業の認可を受けており、沿線周辺への電力供給を行えました。そのため、鉄道沿線に沿って事業を営んでいた岡田電燈株式会社を買収し、会社収益の大きな支えとします。
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戦時下に、電車会社3社を統合し、高松琴電気鉄道が誕生

 日中戦争が勃発し、戦時体制が色濃くなった昭和13年(1938)8月、鉄道・バス会社の整理統合をはかるため陸上交通事業調整法が成立します。金刀比羅宮の門前町琴平は、4つの鉄道が集中し鉄道過密状にあったため「交通事業調整委員会」での審議の結果、この法律の適用地域に指定されます。
 その結果、政策的に鉄道会社の統合が促進されます。
まず、配電統制令によって鉄道に先行して各社の電力部門が統合され、四国配電株式会社(後の四国電力)が発足し、各社はやむなくドル箱だった電力事業を失います。電力事業を分離した四国水力は解散し、鉄道部門はバス会社と統合し讃岐電鉄となります。
 昭和18年(1943)11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合し、高松琴電気鉄道が誕生します。社長には琴平電鉄の社長であった大西虎之介が就任しました。
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高松空襲と琴電
 昭和20年(1945)7月4日未明、高松空襲により高松市内線全線と、市外線の栗林公園前~瓦町間は壊滅的な被害を受けます。琴平線の車両は避難して無事でしたが、長尾・志度線の車両は20形、30形、50形、散水車100形など6両が全焼します。本社の社屋は焼失を免れますが、琴電高松(瓦町)駅舎が半壊、今橋駅舎、出晴駅舎は全焼し、今橋の変電所と車庫も焼夷弾で被災します。
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10角形という珍しい形だった河原町駅の空襲後の姿 この後、蘇り駅舎として使用 

色々な会社の電車が琴電にやって来るようになった背景は?

 終戦後、復興の動きが増すにつれ電車の利用者は急激に増加します。しかし、車両は戦災などで不足してました。しかも、物資不足で車両を増備したくてもメーカーの生産能力は低下しています。絶対的に車両が不足している上に、新車両を購入できる目処もなかったのです。そこで運輸省が音頭をとって、新車を優先的に都市部の大手電鉄へ割り当てます。その代わりに、新車の割り当てを受けた大手私鉄は地方私鉄に中古の代替車両を提供する仕組みが作られます。
 琴電でも新車のモハ63系電車の割り当てを受けた東武鉄道から昭和22年(1947)に3両の電車の供出を受けます。これを皮切りに、東急と山陽電鉄、さらには国鉄からも車両提供を受けています。
 しかし、終戦直後の混雑はあまりにも激しかったため、供出車だけでは足りずに国鉄から戦災で焼けた貨車を6両を購入し「客車に改造」して走らせました。貨車を電車に改造したこの車両11000形には一般客から「乗客を貨物扱いしている」という批判もあったようですが、「歩くよりは、電車に乗れた方がいい」という声の方が当時は強かったようです。
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この貨車改造車の1000形は昭和23年(1948)8月から約3年7ヵ月間使用されました。この時期を「戦後の混乱期」と呼ぶのも頷けます。

琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代

 1889年に丸亀ー琴平間にマッチ箱のような小さな客車4両の汽車が走り始めます。しかし、以後30年間、土讃線は南に伸びることはありませんでした。第一次世界大戦後にやっと財田までの延長工事が始まります。そして、今から約百年前の1920年代は、琴平に次々と電車が乗り込んでくるようになります。琴平には4つの鉄道駅が並立する時代を迎えるのです。その過程を見ていきましょう。
日露戦争後の讃岐では、電気軌通会社の設立が次のように行われます
1908 明治四十二年十月 高松電気軌道が設立。
1909 明治四十三年五月 東讃電気軌道が設立
1910 明治四十四年九月 讃岐電気軌道(後のコトサン)が設立
しかし、琴平までの開業は、第一次世界大戦後のことになります。
それをまず年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 土讃線 琴平-土佐山田間の路線決定
1920  2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」の認可状交付
1920  4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1922 10月22日 琴平参拝電車の丸亀-善通寺間の開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 コトサン善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1924 10月 9日 コトサン 善通寺-多度津間の開業
1928  1月22日 コトサン 丸亀-坂出間が開通して全線開業
1929  3月15日 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄 坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線開通、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
  琴平への乗り入れの順番で、3つの電車会社を見ていくことにしましょう。まずはコトサンです。
 国鉄の財田までの延長に伴い、土讃線は琴平市街の東を迂回するルートになり、新駅も建設されます。創業以来、30年以上使われてきた旧琴平駅は廃止されます。その旧駅舎に隣接して、コトサンの新琴平駅が建設され、3ヶ月後にチンチン電車の終着駅となります。

コトサンが開業までに18年もかかった背景は?

讃岐電気軌道表紙
讃岐電気軌道株式会社設立趣意書(1904年)

  琴平参宮電鉄(コトサン)が、営業申請したときの社名は「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。その趣意書には次のように記されています。
讃岐電気軌道設立趣意書2
讃岐電気軌道の設立趣意書
予定の運行経路図です。
讃岐電気軌道株式会社1
讃岐電気軌道の敷設予定図(朱線部)
讃岐電気軌道予定図 琴平
琴平・善通寺間の路線予定表
讃岐電気軌道 善通寺
善通寺周辺の路線予定図

予定運行経路です。線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。善通寺を拡大して見ます。予定の電車軌道は朱で書かれています。生野から善通寺駅前通りを抜けて金倉寺へと抜けています。気がつくのは、多度津への路線がないこと、駅前通りを通過していることです。これは、騎兵隊(四国学院大学)から馬が怯えるという理由で、路線変更になったと言われています。

開業が1922年ですから、開業までに18年の時が流れています。この間に、一体何があったのでしょうか?
 この会社の発起人に名前を通ねた人達を見ておきましょう。
讃岐電気軌道 特許状 増田穣三
讃岐電気軌道の「特許状」に名前を連ねる人達

讃岐鉄道特許
丸亀市の生田丈太郎、
仲多度郡の増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・
景山甚右衛門・掘家虎造、
綾歌郡の鎌田勝太郎
木田郡の大場長平・久保彦太郎、
大川郡の松家徳二 蓮井藤吉、
三豊郡の小野麟吾
  ここには「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門や代議員の堀家虎造・坂出の鎌田家など資産家達が顔を並べています。一方で、増田一良・増田穣三の七箇村春日の増田家の従兄弟二人の名前も見えます。増田穣三は、当時は政治的には七箇村村長と県会議長を兼務する立場でした。そして実業界では、西讃電灯の社長として、電灯会社の発電所を金倉寺駅に隣接する所に建設中でもありました。そのふたりが電気鉄道の設立発揮人として名前を連ねています。「電気軌道」に対して、電力を供給する立場として設立の旗振り役を果たしたと私は考えています。
 この会社の営業免許を得た後の動きは不可解です。
讃岐電気軌道特許状3
讃岐電気軌道の特許譲渡状
讃岐電気軌道特許状4
電力供給の特許状の譲渡状
電力供給の特許状の発起人総代は、増田穣三と大場長平です。ここからも増田穣三が中心的な役割を果たしていたことがうかがえます。

ここからは得たばかりの営業免許を、翌年に堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家六名に譲渡していることが分かります。その結果、創立総会も大阪で行われた上、本社も大阪市東区に置かれます。しかも、株式の第一回払込時に、地元株主の株数は全体の二割程度でしかなかったようです。つまり、開業する意志がなく、営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないかともおもわれます。
 その後の営業免許は、初代社長才賀藤吉の死去とともに、三重県の竹内文平とその一族に相続され、その後も高知県の江渕喜三郎、広島県桑田公太郎などの手を渡っていきます。大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
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多度津 土讃線を跨ぐコトサンのさよなら電車
コトサンの琴平駅について
 大正11(1922) 10月22日 丸亀-善通寺間の開業にこぎ着けます。翌年の8月には琴平まで線路が伸びてきます。コトサンと土讃線と四国新道は、3本が善通寺の風折あたりから条里制に沿って、真っ直ぐ南に並んで琴平に入ってきます。
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手前からチンチン電車のコトサン・その向こうに土讃線・讃岐新道が並んで走る
そして、コトサンの琴平駅は、現在のロイヤルホテル・琴参閣の場所で、南向きに新築されました。その隣には、3ヶ月前の5月までは国鉄の琴平駅として営業していた駅舎がありました。この年の土讃線の財田までの延長に伴い現琴平駅に移転したのでもぬけの殻状態でした。
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国鉄の旧琴平駅(現在の琴参閣周辺) 隣接してコトサン琴平駅はあった

そのため旧琴平駅舎一帯が空地となりました。 このことは事前に分かっていたのでコトサンでは、時の鉄道大臣・元田肇あてにこの廃駅舎と線路用地一切の払下願書を提出しています。しかし、なぜか琴参電鉄と琴平町との再三の払い下げ申請も、結局は実現しませんでした。
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コトサンの終点琴平駅
コトサンヘの社名変更
 
 開通に合わせて会社申請時の「讃岐電気軌道株式会社」から「琴平参宮電鉄株式会社」への社名変更を行います。大正11(1922)年11月10日に金刀比羅宮へ、次のような社名改称趣意書を提出して、賛同を求めています。(意訳)
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開業当時のコトサンの琴平駅 
 香川県の鉄道旅客数は、金刀比羅宮参詣者が大きな割合を占めている。讃岐を代表するのは金刀比羅宮であり、讃岐すなわち金刀比羅宮というつながりは、わが国の国民の脳裏に深く浸透している所で、琴平という地名はわが国民の意識に広く深く浸透している。我社業は中讃の要枢に交通機関経営を行うもので、従来の官線鉄道は多度津を迂回することにより時間と費用を余分に掛けていた。これを、本社の琴平への直通軌道によっていちじるしく節減できることになる。年々歳々千万の乗客は必ず我軌道を選び利用するようになるであろう。我社の前途洋々として未来に開けている。
 伊勢に参宮電車あり、高野に高野鉄道、日光に日光電気鉄道、その他、西大寺軌道、豊川鉄道、富士身延鉄道、成田電車、太宰府軌道、熱田電車、能勢電車、宇佐参宮鉄道など、有名な神社仏閣には参拝鉄道があり、その地域の基点となる地名を採って、其社に冠している。金刀比羅参りの軌道も同じである。金刀比羅宮と極めて密接深甚なる歴史的関係を有する丸亀市を起点とせる軌道を経営する我社は、従来の社名を琴平参宮電鉄株式会社と改称し、以て神徳の宏大無辺とともに社運の隆昌発展を期せんとす。
  『琴平参宮電鉄六十年史』
これに対して、金毘羅宮は「願了承」の回答を直ちに行っています。
こうして、金刀比羅宮の社名に冠した琴参電鉄は、丸亀ー坂出間の全路線が開通します。
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昭和38年廃業2ヶ月前のコトサン坂出駅 JR坂出駅構内から
その後の年間利用乗客数は?
昭和3年(1928)には     387万人
第二次世界大戦勃発の1939年には569万人
本土空襲が始まった1944年には 832万人
戦時下においては、「武運長久」を祈って神社仏閣への参拝が半ば強制され、陸海空の将兵とその家族たちの金比羅参拝の列がひきもきらない日々が続きます。まさに金比羅山参拝の足として活躍しました。
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昭和30年頃の善通寺赤門前 右が丸亀 左(直進)が多度津へ

 そして戦後は、復員、引揚者や食糧不足のヤミ物資を求める旅客で電車は毎日超満員となる姿が日常的に見られるようになります。1947年には、1468万人の利用者をマークします。
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善通寺赤門駅北側  ここが多度津と丸亀の分岐駅

しかし、世の中が落ち着きを取り戻し、道路事情も良くなって路線バスが普及するのに伴い、電車の利用者は年を追って落ち込みます。高度経済成長のスタートとなる1960年には、年間四八四万人と、ピーク時の三分の一に激減。その結果、1963年9月15日、交通手段をバスに転換することにより、40年の長きにわたって庶民の足として親しまれたコトサン電車は廃止されました。そして、コトサンと国鉄の旧琴平駅の敷地には現在は、琴参閣ホテルが建っています。
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コトサン さよなら電車

参考文献 町史 ことひら







土讃線が琴平から讃岐財田駅まで伸びたのはいつ? 

1889明治22年5月21日に、丸亀・琴平を結ぶ讃岐鉄道が開通します。多度津駅構内での式典に参列した大久保諶之丞は祝辞を述べ「鉄道四国循環と瀬戸大橋架橋構想」を披露します。そして、8年後には高松へと線路は延びていきます。
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右下に豆機関車が終点琴平駅に煙をあげて走っているのが描かれている

 しかし、琴平から南へ線路は伸びていくのは約30年後の大正年間になってからです。まずは、琴平ー讃岐財田間が始まります。そして、それが猪ノ鼻トンネルを越えて池田へとつながり、さらに大歩危の渓谷を越えて土佐とつながっていきます。それは昭和の初めのことになります。土讃線の進捗状況をまずは年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 琴平-土佐山田間の路線決定
1919 9月 実測開始 
1920 2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」に免許状の交付。しかし第一次世界大戦の不況下で着工は大幅遅延
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催
1920 4月3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 5月21日 琴平-讃岐財田間開通 琴平駅が移転。
1929 昭和4年4月28日 財田-阿波池田間完成。
1935 11月28日 小歩危でつながり、全通。
 路線決定から測量を経て、起工式が行われ着工するのが1920年4月3日でした。その日を間近に控えた琴平では、祝賀のための準備が進められています。当時の新聞は、次のように伝えています。
大正9年(1920年)3月29日付け 土讃鉄道起工決定せる余興と装飾プラン(意訳)
琴平町での土讃鉄道起工祝賀については、理事者を始め一般町民も含めて準備にいそしんでいる。宴会は1日午後1時より町立公会堂で開かれ、鉄道院総裁を始め朝野の有力者300名を招待している。そのための余興及町内の装飾は次のようなものが準備中である
一曰より三曰間煙花百発打揚げ
一曰より三曰間東西両券芸妓手踊
一曰は公会堂、二曰は琴平駅前に花相撲
一曰 昼小学生の国旗行列・夜提灯行列
三曰 本社支局主催のマラソン競争
一曰より三曰間 町内各戸丸金印入の旗を町内的に立て軒提灯を出す
前記の内祝賀宴会は晴雨に拘らず行ふも其他は雨天順延す
坂町の装飾は松の枝に短冊を附し軒下に吊す
内町は町の所に構造電気を作り夫れに千燭光の電燈を点す
小松町は町内軒から軒へ万国旗を廻す
通町は上組は花の棚中組下組は花章
神明町も桜の花傘
金沢町は桜の腹這,
新町旭町は桜の大造花

 花火に・芸子の踊り・マラソン・国旗や提灯行列、そして街毎の趣向を凝らした飾り付けと、祝賀式を盛り上げようとするプログラムが目白押しです。そして、当日の起工式の様子は次のように奉じられています。
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着工記念行事 屋台と芸子さんのパレード?
 
大正9年(1920年)4月3日付け 起工祝賀会
美を尽くした土讃鉄道起工祝賀会は、春雨煙る琴平の名物呼物のマラソソ競争は三日に挙行 
琴平町は一日午後一時より町立公会堂にて土讃鉄道起工祝賀会が開かれた。公園入口は線門を設け「祝鉄道起工」の扁額を掲げ、公会堂前には高く万国旗を掲げ、その入口は丸金の旗を交叉し、堂内には無数の万国旗を蜘線手に吊り、沢原町長の式辞・来賓の祝辞があり、式は終了した。それより会場を琴平座に移し、宴に入り東西両券芸妓の手踊数番が舞われた。その後、散会したのは午後四時なりし。

 工事はどこを起点にスタートしたの?

 こうして4月3日に、工事は着工します。工事を請け負ったのは京都の西松組でした。工事は、どこから進められたのでしょうか?
着工から半年あまり経った進捗状況を次のように伝えています。
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三坂山踏切からの象頭山と土讃線

 大正九年(1920)10月13日付け 土讃線鉄道工事進捗 
土讃線の延長工事は、三坂山から七箇村帆山新駅までの一里半(約6㎞)の工事は、すでに八分程度は終わっている。三坂峠西端から琴平新駅構内までの工事も半分程度は終了している。工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。また、新駅から旧線の分岐点である大麻の工事は、来月下旬頃に着工予定である。
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土讃線の切通作業とトロッコによる土砂の運搬

 この記事からは「三坂山」が起点になっていることが分かります。ここを起点に線路の土盛り用の土砂を「トロッコや豆機関車」で、それぞれ東西に運んで線路を延ばしているようです。そして、新琴平駅から北の旧線路との分岐までは、この時点では未着工で、「来月下旬に着工予定」とされています。
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さて、それでは「三坂山」とはどこでしょうか?

三坂山は、琴平の東南の土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する辺りの南側にある小さい丘のような山です。すぐ東側を金倉川が流れています。ここは、丸亀平野の南端にもあたり、目の前には平野が広がり、かなたに讃岐富士(飯野山)が見通せる眺めのいい所です。
 現在、この山の裾を走る土讃線に立つと、この三坂山の先端を削って線路を通したことが分かります。その際に、削り取られた土砂が随時伸びていく線路を「トロッコや豆機関車」で運ばれたのです。 「一挙両得」の賢い工法です。
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着工から1年あまり経過した進捗状況を見てみましょう

大正10年(1921年)五月三〇日付け 土讃鉄道工事進捗、
土讃鉄道琴平・財田の5里の工事は、京都の西松組が請負って、昨年3月に起工し、この10月竣工予定である。鉄路の土盛と築堤及橋梁台は殆ど全部終えて、目下の所、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りしている。既に大部分埋立たてられており七月中には竣工予定である。
 また、塩入・財田間約四哩の土工も西松線が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷手押土運車を運転して土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である。
 ここからは「新琴平駅の土盛り作業」が行われていることが分かります。そう言えば、現在の琴平駅は、琴電琴平駅方面から見ると、道が緩やかに上がっています。これは、もともとの自然立地ではなく、この時に「土盛り」作業をして高くしたようです。その土は、三坂山の切通しから「豆機関車」で運ばれてきたものだったのです。

なぜ琴平駅は土盛りし、高くする必要があったのでしょうか?

 コトデンとの関係だったようです。
土讃線の着工前の1919年9月、高松の大西虎之助、多度津の景山甚右衛門、坂出の鎌田勝太郎ら県内の財界人によって高松-琴平間の「電気鉄道敷設免許申請=コトデン」が出され、翌年二月に免許状の交付されます。路線図を見ると、土讃線の新琴平駅とコトデン琴平駅の手前で両線がクロスすることになります。つまり、両線のどちらかを高架させる必要があったのです。そのために土讃線を土盛りして、その下にコトデンを通過させるという案が出されたのではないでしょうか。
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土讃線の下をくぐるコトデン電車 このために琴平駅から北は土盛りされた

その結果、土讃線の新琴平駅は土盛りして高くして、北から入線する線路を迎え入れる構造に設計されたと考えられます。
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「農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定」 

新聞記事の後半で、面白いのはこれです。確かに香川用水が確保される前は「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。当時の様子がよく分かります。
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一直線に描き込まれた土讃線と新駅。

そして、工事開始から4年目の春、

琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。

大正12年(1923年)5月21日開業 琴平-財田開通記念間開業  土讃鉄道琴平財田間開通記念版 
徳島へ=高知へ=一歩を進めた四国縦断鉄道
琴平・讃岐財田間は今日開通 香川・徳島の握手は大正十六年頃の予定。
 総工費百三十万円 土讃線琴平財田間8里は21日開通となった。この工事は大正9年3月に起工し、第1工区琴平・塩入間と大麻の分岐点から琴平新駅までは京都市西松組が25万余円で請負い10年6月に竣工。
 また第2工区塩入・財田間も同組が四十三万円で請負い10年2月起工し11年年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設や琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の主任三原技手で、途中から佐藤技手に引き継がれた。
 新線は善通寺町大麻の大麻神社前の旧線分岐からスタートして、阿讃国道を横切って東進し、金倉川を横切って琴平山を右手に眺めつつ横瀬の橋上を走って、昨年11月に移転した榎井村の新琴平駅へ到着する。
 この新駅は平屋建てであるが米国式洋風の建物で工費は13万円。これは新線総工賃の1割に当たる。まさに関西以西においてはまれに見る建物である。琴平駅の跨線橋はこの4月に工賃2万円で竣工した。
 
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旧線の分岐点となった大麻神社前の踏切です。それまでは右傾斜していたのが左傾斜に変わりました。ちなみに右側の道路は、旧コトサン電車の路線跡です

総工費130万円の内訳で分かるのは、一割13万円が新琴平駅舎、第1区間(琴平・塩入)が25万円・第2区間(塩入・財田)が43万円・琴平駅の跨線橋が2万円です。
 新琴平駅が「関西以西においてはまれに見る建物」として金比羅さんにふさわしい駅舎として特別扱いで建造されたようです。また、財田川や多治川の鉄橋や大口や山脇の長い切り通し区間があった第2区間の方が経費がかかっています。
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移転した新琴平駅

さらに、琴平以南の土讃線沿線を次のように紹介します。

新琴平駅から財田に向かう乗客は列車を乗り換えて、琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ岸の上を経て真野に達す此間二里半程少し登りつつ田の中を南行する。
左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入、り福良見を過ぎ十郷村字帆山にある塩入駅に着く。この塩入駅は、里道を西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道に達するので便利の地である。この駅から満濃池へは、東方十五六町の距離で七箇村の福良見・照井・春日・本目へは距離がわずかである。
 附近の産物は木炭薪米穀類である。塩入駅から西に向かい十郷村を横断し後山大口を経て大口川を越える。この間は約二哩。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上りつつ五十五尺の高い切取や高い築堤の上を走りつつ、橋上から眺めも良い財田川を渡り百六十五間の長い切取を過ぎて一哩程進んで西向し山脇に入る。多治川を渡ると間もなく三豊郡財田村字荒戸にある讃岐財田駅に着く…(以下略)
これを読むと沿線沿いの風景が百年前の風景とあまり変わらないようにも思えてきます。
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財田川に架かる土讃線鉄橋工事

開通当時の時刻表は
下り
琴平発 
五時47分▲七時六分▲十時廿五分▲十二時五十分▲四時五十分▲七時廿五分 
塩入発
五時五十五分▲七時廿八分▲十時五十分▲一時八分▲五時十二分▲七時四十三分
讃岐財田着 
六時十分▲七時四十五分▲十一時八分▲一時廿三分▲五時三十分▲七時五十九上り列車
讃岐財田発 
六時25分▲八時廿分▲十一時四十分▲三時三十分▲六時▲八時二十分
塩入発 
六時四十分▲八時三十五分▲十二時二分▲三時五十二分▲六時一五分▲八時三十九琴平着 六時53分▲八時四十八分▲十二時十六分▲四時六分▲六時二十八分▲八時55分

 一日6便の折り返し運転のようです。琴平・讃岐財田が30分程度で結ばれました。これによって財田駅は終着駅・ターミナル駅としての機能をもつ駅として賑わうようになります。人ばかりでなく、郵便も荷物も駅は扱います。この時期の財田駅の駅員数は45名と記録にはあります。池田・高知方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えたのです。その「宿場街」として財田の戸川はさらに発展していきます。
 しかし、それはつかの間の繁栄でした。6年後に猪ノ鼻トンネルが完成し、池田への鉄路が開かれると財田駅は終着駅から通過駅へと変わります。人々は列車に乗ったまま財田を通過して行くようになるのです。
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盛土された新線を善通寺に向けて走る蒸気機関車 後には象頭山

 香川県で最初に汽車が走ったのはどこ?

景山甚右衛門.jポスターpg

 
多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。
 
 明治 18 年(1885 年)、多度津~神戸間の定期航路の船主であった神戸の三城弥七と、多度津の豪商大隅屋の五代目景山甚右衛門が中心になって、具体的な構想が公表されます。

景山甚右衛門1
多度津資料館
全国各地で鉄道敷設の機運が高まるなか、明治20(1887)年5月24日に次のような「讃岐鉄道会社」設立の申請が、内閣総理大臣・伊藤博文に提出されています。
  『讃岐鉄道起業目論見書』(現代文に意訳))
1 名称は讃岐鉄道会社、愛媛県下の丸亀通町103番地に設置
2 線路は丸亀を起点に、中府村、津ノ森、今津、下金倉、多度郡北鴨、道福寺、多度津庄、葛原、金蔵寺、稲木、上吉田、生野、大麻を経て那珂郡琴平村に至る。
(第3、4 省略)
5 発起人の氏名住処及び発起人引受ノ株数(省略)は次の通り
 ・川口 正衛 大阪府下東区横堀壱丁目十九番地 
        讃岐国那珂郡丸亀通町百三番地寄留
 ・谷崎新五郎 大阪府下西区薩摩堀南九番地   
        同国同郡同処寄留
 ・辻 宗兵衛 大阪府下東区本町壱丁目四番地  
        同国同郡同処寄留
 ・近渾 弥助 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀松屋町拾四番地
 ・太田 岩造 同県同国同郡宗古町八四番地
 ・金子 数平 同県同国同郡敗町三拾弐番地
 ・氏家喜兵衛 同県同国同郡中府村四百九拾四番地
 ・島居貞兵衛 同県同国同郡地方村四百三拾九番地
 ・冨羽 政吉 同県同国同郡演町拾三番地
 ・景山甚右衛門 同県同国多度郡多度津村百三拾八番地
 ・丸尾 熊造 同県同国同郡同村四拾六番地
 ・大久保正史 同県同国同郡同村九百五九番地
 ・仁井粂吉郎 同県同国那珂郡琴平村弐百拾六番地
 ・福岡清五郎 同県同国同郡同村百八拾四番地
  二奸喜三郎 同県同国同郡同村六百弐拾弐番地
 ・大久保諶之丞 同県同国三野郡財田上ノ村百三拾三番地
発起人引受株金は 株式三百株 金高三万円也 
合計金 15万円也
   (「鉄道院文書」 讃岐鉄道の部
松井政行氏は、この出資者たちを次の3グループに分類します。
①大坂の資産家グループ
②多度津の「多度津七福人」グループ
③先年に大久保諶之丞よって組織された「四国新道グループ」
そして、設立申請までの動きを、次のように指摘します。
①鉄道建設を積極的に働きかけたのは、大阪グループ
②「多度津七福人」グループは受身的
③そこで四国新道建設を実現させた地元の資産家を引き入れた
④そして、大阪グループに対応するために景山甚右衛門を担いだ。
つまり、景山甚右衛門が讃岐鉄道建設を発案し、先頭に立って実現させていったというのは後世に書かれた「物語」のようです。

この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。
ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです。この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
順調な滑り出しのようです。しかし、ここからが大変だったようです。地元の人たちの強硬な抗議に合うのです。真っ向から反対したのは旅館と土産物などを商う商売人であり、次に人力車の車夫たちでした。
鉄道建設に、地元はどうして反対したのでしょうか

  明治28年8月10日付けの『東京日日新聞』の記事(意訳)には、次のような背景が書かれています
全国各地からの金刀比羅神社へ参詣者は、たいていは金刀比羅町に一泊するか、昼食をとっていた。また、土産物等を買い整へるなど、同町は参詣人の落とすお金で非常に賑わっていた。ところが大久保諶之丞によって四国新道が開通し、人力車で丸亀・多度津から一日で往復することができるようになって以来は、兎角客足が止まらず、同町の商売人、旅人宿等は大不景気に見舞われている。
 その上に、鉄道が出来れば、同町はたちまち衰微していくかもしれないという不安が高まっている。このため同町の住民一同は、鉄道会社の株主などにならないのは勿論のこと、鉄道の敷地にも一寸の土地といえども決して売り渡さず、飽くまで反対・妨害しようと協議中なりと伝えられる。
  参拝客の利便性向上よりも、自分たちの利益優先というのはこの時代にも見られるようです。鉄道に反対したのは琴平の人たちばかりではなく、門前町善通寺や、港町多度津も同じような雰囲気だったようです。新しい鉄道会社が周りの温かい支援を受けて生まれたとは言えません。  
最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした
 この時代に発行された『こんぴら参り道中安全』という旅行ガイドブックには、丸亀・多度津港に上陸した参拝客が人力車を利用する際に、次のような警告文が載せられています。 
丸亀、多度津の港から琴平までの運賃は片道 15 銭、上下(往復のこと)25 銭である。そして雨の火とか夜中は 3 銭の割増しを必要とする。が、車夫のなかには、酒手・わらじ代・蝋燭代等を客に強要するくせの悪い者も相当いるから用心すべし。万一、こうした不心得者にあった場合は宿屋に申し出るように・
 急速に人力車が普及し、金比羅詣でに利用する人たちが増えていることが分かります。鉄道開通一年後の明治 23 年の高松市の記録によると、高松市内だけで
「人力車営業人 420 名、車夫 603 名、車両台数 641 台」

とあります。香川県全体では何千台もの人力車があったようです。こんな中で、鉄道会社の計画が聞こえてきたのですから、車夫や馬方連中が「メシの喰い上げだ!」とさわぎだしすのも分かるような気がします。
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旧琴平駅前風景 日露戦争の戦勝報告の金比羅参りの将軍を待つ車夫達

 地元多度津では、「汽車が走ると飯の喰い上げだ」と、景山宅へ押し掛け「焼き払ってやる」と意気巻く一幕もありました。「景山コレラで死ねばよい・・」というような歌も流行ったようです。

景山甚右衛門4
 後世に書かれた評伝の中には、工事現場の陣頭指揮にあたった景山甚右衛門が、常に用心棒を連れ、腰に銃剣を釣るして、巻脚絆に地下足袋姿で臨んだと伝えるもののあります。しかし、これも俗説のようです。当時の甚右衛門の足取りを記録で見ると、彼は名東県の県議として松山に長期滞在しています。当時の地元での不穏な空気を察して、工事中には多度津に帰っていないことが分かります。どちらにしても景山甚右衛門は、鉄道開通後に人力車夫や馬方を路線工夫に採用するという案も出して問題の解決を図っています。このあたりも実務的な手腕がうかがえます。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収です。
 認可を受けて2ヶ月後の明治21年4月10日に琴平村下川原で起工式が行われています。そして、突貫工事で翌年の3 月8日には多度津~琴平間を、14 日には多度津~丸亀間の工事を完成させます。わずか1年間という短期間で工事を完成させることができたのは、用地買収がスムーズに進んだことが挙げられます。それはなぜでしょうか?
 それは、琴平から多度津の線路用地が「旧四条川」の川原で、田畑でなかったためだと丸亀市史は云います。土讃線と四国新道(現国道319号)は、江戸時代初期に人工河川の金倉川へ付け替えた旧四条川の旧道跡で耕作に適さないところを買収している。この時代まで田畑となっていなかったために用地買収がスムーズに進んだというのです。
もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。
 さて讃岐鉄道の機関車は、どこからやってきたのでしょうか。
もちろんこの時代には、国産機関車はありません。先進国から輸入するしかないのです。讃岐鐡道の蒸気機関車はドイツ製です。会社は、開業日を明治 22年(1889 年)の4月1日と決めます。そしてB 型タンク機関車3両、車31両、貨車12両をドイツ帝国のホーヘンツォレルン社(Hohenzollern)に発注します。
 ところが、機関車や客車・貨車を乗せたドイツからの船便がなかなか多度津の港に姿を見せません。 会社の幹部達は、海の彼方から機関車等を積んだ船が現れるのを、今日か明日かと待ちわびます。ようやく、船が到着したのが3月15日。当初の開業予定日には間に合いません。
 それから箱詰めの機関車や客車、部品の積み下ろし作業が始まり、器械場で組み立て作業に移ります。昼夜兼行の作業で、4月末には組立工事が完了し、5月始めから全線で連日試運転が繰り返されました。結局、開業日は5月23日とされ、約2ケ月遅れとなりました。
当日の23日には、四国初めての汽車が、多度津駅をあとに琴平駅へ向かって黒煙を吹きあげ勇ましく動き出したのです。 
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
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1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった

動輪が2 つの小さなタンク機関車で、当時のヨーロッパ諸国では駅構内の客車や貨車の入れ換え専用に使われていたものでした。「機関車トーマス」よりも小さくて可愛い機関車だったのです。
 讃岐鉄道は8年後の明治30年(1897年)、路線の高松までの延長に伴い、新たな機関車の導入が必要になります。このときも開業時と同じ機関車を10両発注しようとして、ドイツのホーエンツォレルン社に問い合わせています。同社では重役達が

「入れ換え専用の機関車を一度に 10両も発注する“讃岐鐡道”は大会社に違いない。ついでに本線用の大型機関車も購入して頂きたい。」

と、数名の技師とともに営業担当者も派遣してきました。
 ところが・・??  
多度津港へ上陸してみると、ドイツ人の技師達は我が目を疑って立ち尽くします。街も小さければ、鉄道も小さく、入れ換え用の小さな機関車が本線で列車を引っ張って走っているではありませんか・・。 もちろん、大型機関車の契約は一両も取れなかったことは云うまでもありません。それが19世紀末の日本という国の姿だったのです。
機関車メーカのホーエンツォレルン社は北ドイツのデュッセルドル(Düsseldorf)にある会社。デュッセルドルフは、ライン河に面する美しい街だそうです。

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 導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車
 開通式典での大久保諶之丞の祝辞は? 
 明治22年(1889)五月二十三日、讃岐鉄道は晴れて開業の運びとなりました。開業の式典は多度津・丸亀・琴平の三か所、祝賀式典は琴平の虎屋旅館で行われました。多度津駅構内での式典に参列したのが発起人の一人、大久保諶之丞です。彼は次のように祝辞をのべ、最後に「瀬戸大橋架橋構想」を披露します。(意訳)
「今後は、この讃岐鉄道を高松に向けて延長させ、阿讃国境の山を貫いて吉野川の沿岸に線路を敷きき、徳島・高知に至る。
もう一方は、ここから西へ向かい伊予の山川を貫き、土佐の西部を巡り、高知にたどり着く。そうして四国一巡できるようになれば、人も貨物も増加し運送便も増えることは必定である。この時には、塩飽諸島を橋台そして山陽鉄道に架橋連結して、風波の心配なく(中略)
まさに南来北行東奔西走、瞬時を費せず、国利民福これより大きな事はない。(後略)」
と「大風呂敷」を広げるのです。それは人々の夢として語られ続けます。
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当時は愛媛県の県会議員だった大久保諶之丞 この後、四国新道開通に尽力

開通式当日の人々の熱狂ぶりは・・・ 

 開通式典は、琴平の虎屋旅館で開催されましたが参列者には無賃の乗車券が案内状に同封されました。煙火(花火)50 発が初夏の空に打ち上げられ、沿線には見物客が詰めかけます。処女列車には、多度津小学校の児童20人が招かれました。陸蒸気への乗り方がわからず、下駄を脱いだり、窓から入ったりと大騒ぎだったといいます。

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白銀の讃岐路の鉄路を客車を押して進む豆機関車 遠くに讃岐富士

  ハイカラの英国式帽子に洋服姿の車掌が笛を吹くと黒煙を吹きあげて陸蒸気は小さいマッチ箱の客車や貨車を引っ張り動き始めます。
満載の試乗客を喜ばせ、見守る人たちは目をみはりました。

汽車に乗れない人々も「今日は仕事休んで陸蒸気見にいかんか。」と朝から晩まで、遠方から弁当持参で汽車場(駅)や沿線へ見物人が殺到して、待合所を見たり、路線や駅員の動作までじーっと見つめます。汽車が着きかけると、ワァッと駅へ押し寄せて来て乗り降りする人を不思議そうに見ます。子供は沿線を駆け競べ、道通る人は立ち止まり、家の中から飛び出し、遠くの者は仕事をやめて駆け寄ります。だれもが初めて見る陸蒸気に見入るばかりでした。まさに、目に見える形で明治(近代文化)が四国にやってきたのです。大きなカルチャーショックだったでしょう。 
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多度津駅構内の小さな機関車とマッチ箱の客車

  開業当時の讃岐鉄道は、

社長の三城弥七(明治 24 年 3 月まで在職)以下77名の人員で、車両は例のドイツ製の可愛い機関車3両、客車31両、貨車11両でスタートします。客車は「マッチ箱」と呼ばれた定員20人の小さなもので、四両編成の客貨混合列車で運転されました。
 停車場は丸亀・多度津・吉田(同年六月十五日から「善通寺」と改称)と琴平の四か所で、丸亀から琴平行きが「上り」、反対に琴平から多度津・丸亀行きは「下り」で、現在とは逆でした。金刀比羅宮への参拝が「上り」なのです。ここにも「讃岐鉄道」が「参宮鉄道」であったこと示しています。
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明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

明治の多度津地図

本社は桜川の横、現在の多度津町民会館(サクラート多度津)の場所にありました。かつての陣屋跡になります。
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開業当時の多度津駅
桜川に向かって西向きの二階建てで、一階が多度津駅、二階が本社でした。

花びし2
料亭「花びし」の背後に描かれた多度津駅
花びしの絵図には、桜川を隔てて初代の多度津駅が描かれています。
これを見ると初代の多度津駅は船を降りた人がすぐに鉄道に乗り換えられるよう、港の目の前に建設されていたことが分かります。

旧土讃線跡
旧土讃線
 ホームは、行き止まり構造の頭端式で、丸亀行きと琴平行きの二つの線路が並走して東に伸びて、旧水産高校のあたりで二つに分かれていました。丸亀行きの線路はそこからほぼ一直線に走り、堀江4丁目付近で現在線と合流します。一方、琴平方面への線路は大きく南へカーブし、予讃線や県道を横切って多度津自動車学校の方へ伸びていきます。 初代の多度津駅は、予讃線が西に伸ばす際に、現在地に移転します。
一方、初代の琴平駅も現在地ではありませんでした。神明町(今の琴平ロイヤルホテル・琴参閣付近)にありました。当時の運行時刻表によると

時刻表(明治22年7月14日朝日新聞付録
琴平-善通寺は10分、
善通寺-多度津は15分、
多度津-丸亀10分、
これに待合時間などを加えて上りが片道48分、下りが50分で、一日8往復に運行ダイヤでした。
運行運賃は?
上等・中等・下等の三段階に区分されていました。
丸亀-琴平間は上等33銭、中等22銭、下等11銭、
そのころの白米1升の値段は3銭でした。

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高松延長後の駅長達
 
讃岐鉄道は、開業から8年後の明治三十年(一八九七)二月二十一日に丸亀-高松間を延長開業します。
それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
上等のお客さまはそのままご乗車を。
中等のお客様は降りてお歩きを。
下等のお客様は降りて車の後を押して下さい。

約130年前の日本の姿です。こんな姿を経ながら現在の日本があります。
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明治29年 高松延長に伴う土器川鉄橋工事現場 背後は寺町?

   土讃線開通と増田穣三
「土讃線ルート」の決定には、増田穣三が大きな政治力を発揮したとされている。
その一例として次の新聞記事を見てみよう  
 「四国の群像69 増田穣三 土讃線ルートに政治的手腕」
              (朝日新聞1981年7月19日)
ドドーン、ドン」空に花火がこだまし、芸者の手踊りや花相撲が繰り広げられ、夜のちょうちん行列に琴平の町は三日間にわたる祝賀行事でにぎわった。香川県内の土讃線琴平-讃岐町田間の起工式があった大正9(1920)年4月1日のことだ。当時土讃線のルート決定に際し、以下の3案を巡り激しい陳情合戦が展開された。
1 高松から清水越えで徳島県脇町ー池田に至るルート。
2 西讃の観音寺ー池田間。
3 中間の琴平ー池田の現路線
それぞれの関係町村は地元選出国会議員を先頭に徳島県側の町村と連携し、鉄道院・国会へあの手この手の猛運動を続けた。それが現在の路線に決まった裏に。仲南町出身の増田穣三の政治的手腕が大きく影響した。
 中略  
増田穣三は、香川県議になって住居を高松市に移し、第十三代県議会議長を務める。次いで衆院議員へと、舞台が大きくなるにつれ、策士ぶりを発揮した。土讃線のルート決定に先立つ明治32,3年ごろ、徳島ー池田間の軽便鉄道敷設権を、徳島県出身の内務大臣らが取得した。これが実現すれぱ、香川県からの土讃線ルートも大きな影響を受けた。そこで、善通寺にあった旧陸軍十一師団の乃木希典師団長に「徳島ー池田軽便鉄道敷設に異議を唱えて欲しい」と申し入れた。
 土讃線が琴平ー池田ルートに決まった理由の一つに善通寺第十一師団と金刀比羅の存在が挙げられる。それだけに、軍部の意向をくんだ増田穣三の政治判断がルート決定に大きな影響を与えた。
 と、当時の路線決定の経緯を紹介した上で「現路線に決まった裏に、増田穣三の政治的手腕が大きく影響」と評価している。

 この記事の下敷きになっているのが従兄弟の増田一良(いちろ)によって語られた回顧談である。

 増田一良は、譲三の15歳年下の従兄弟になる。
二人は旧仲南町春日出身で、一良が増田家本家、穣三はその分家の跡継ぎの関係だ。一良は譲三の後ろ姿を追いかけるように、七箇村村会議員を経て村長・県会議員へと進み、地域の発展に貢献した。さらに譲三が師範であった未生流の活花や浄瑠璃の弟子でもあり、ふたりのつながりは、地縁・血縁的なもの以上に深いものがあった。
 その増田一良が、晩年に増田穣三について語った回顧談が仲南町史に収められている。土讃線誘致に関する部分を見てみよう。  

「塩入駅名の弁」(仲南町史1008P)で、増田一良は次のように述べている

土讃鉄道の建設については激烈なる競争運動あり。当時の記憶をたどり述べんと思う。
此の鉄道には3線の候補ありて、東讃方面は高松から清水峠を経て徳島県脇町に出て西、池田に至る線、仲讃としては多度津琴平間既成鉄道あるを以て琴平町を起点とて塩入越を経て池田町に至る線、又、西讃に於ては観音寺町より曼陀越を経て池田町に至る線にして、何れも帝国議会及鉄道院に請願陳情、国会議員間も亦、百方手を尽したるものにして東讃は高松選出田中定吉代議士を基とし、東讃選出代議士外有志、中讃にありては仲多度郡選出増田穣三代議士を首とし綾歌郡選出大林森次郎代議士及丸亀市選出加治寿衛吉代議士外有志、西讃に於ては三豊郡選出松田三徳代議士を首として、元代議士高橋松斉氏、観吉寺町長西山影氏外有志等、特に松田氏の如き所属政党を脱し鉄道院総裁後勝新平伯の傘下に走るなど、激烈な誘致合戦の末に、現路線に決定した。
 この回顧談にはいくつかの疑問点が出てくる。それを洗い出してみよう。

 第一に「土讃線」誘致合戦が行われた時期はいつなのか

1889 明治22年5月 讃岐鉄道琴平~多度津開通 
1890 高松・阿波脇町間の鉄道建設計画で実地調査の結果、
   脇町線建設は困難との調査報告が柴原知事より提出(讃岐日報) 
1893 鉄道院が線路調査に際して、高松-箸蔵間は猪鼻線として計上
1912 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 
1914 徳島線が延長し池田まで開通し、阿波池田駅設置。
12月二個師団増設案成立のために大浦内相が政友会議員に買収工作実施
1915 3月 第12回衆議院議員総選挙で大浦内相による選挙干渉激化
    白川友一・増田穣三共に当選後に大浦事件に関わり逮捕・拘束
    9月 第9回県会議員選挙実施 増田一良 次点で落選   
1916 1月 白川友一衆議院議員の当選無効確定し補充選挙実施
1917 12月 塩入線鉄道期成同盟会をつくり貴衆両院へ請願書提出
 塩入線の速成を貴衆両院へ請願書提出することとなり塩入線鉄道期成同盟会をつくり会長に堀家嘉道副会長に沢原頁岩を選定した。(町史)
1919 3月 琴平-土佐山田間が鉄道敷設法第一期線に編入=路線決定
   9月 県会議員選挙で増田一良初当選
1920 1月 実測開始、豊永を境とし、土讃北線は多度津建設事務所担当
  4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)

この年表からは
1917年に塩入線鉄道期成同盟会設立、
1919年には路線決定、
1920年工事開始という動きが分かる。すると誘致合戦が行われたのは1917年前後から本格的に動き始めたようだ。  

 まず路線決定を行う鉄道省の思惑を見ていきたい。

 鉄道省は琴平起点の土讃線ルート(財田猪ノ鼻線)を早い時期から本命と考えていた。その背景には、
第1に、1889年に鉄道が琴平まで延びていること。
第2に、第11師団が善通寺に置かれていること。
第3に、池田ー財田間がもっとも山間部が短く、かつトンネルの長さも短くてすむこと
第4に、四国新道沿いであり工事にも利便性が高いこと
など、外のルートにくらべて優位性が高く早い段階からこのルートを「既定路線」として考えていたようだ。それを裏付ける記述がまんのう町周辺の町誌にいくつか見いだせる。
例えば財田町誌には、琴平まで鉄道が開通した段階で「四国新道」沿いに池田に通じる「猪ノ鼻ルート」建設が当然とされており、そのための誘致運動を行った記録はない。増田穣三や一良が行ったという塩入ルートに関しては「そのような誘致運動があったことは、仲南町誌を見て知った」と記されている。
 また三好町誌や池田町誌にも1914年に開通した徳島線が、池田で土讃線と結ばれることは当然と考えられていたことが記されている。三好側が七箇村塩入と箸蔵を結ぶ塩入ルート建設運動を働きかけた見当たらない。

 仲多度に設立されたという「塩入線鉄道期成同盟会」も、

「塩入線」と名付けた運動団体の存在を示す当時の新聞記事や資料などから私は見つけ出すことが出来ない。その名前があるのは仲南町誌のみである。鉄道促進運動を担った仲多度地区の議員達は「猪ノ鼻ルート」を念頭に置いて運動を行っていたように見える。誘致運動で「塩入ルート」を考えていたのはごく一部だったのではないか。 

最後に、誘致運動が佳境であった1917年前後の増田穣三の置かれていた政治的な状況を見ておこう。

譲三は、前々年に衆議院議員総選挙後の大浦事件に関わり白川友一等と共に逮捕・拘束されている。白川友一は議員を失職。その後、穣三は不起訴には終わったが同僚の政友会の議員を政府資金を用いて買収を行ったという事実は残った。政友会の同僚議員の目は冷たかった。このような中で表立った政治活動を行うことは難しく「政治的謹慎状態」が続いていた。そして、次期総選挙には出馬せずに政界からの引退という道を選ぶことになる。このような中で「塩入線誘致運動」の先頭に立って旗振りを行う状況にはなかったと思われる。
 つまり「塩入線誘致合戦」に増田穣三が積極的に動ける状態ではなかった。一良も1915年の県議会初挑戦では落選しており、誘致運動が展開された時期には県議会議員ではない。
 以上のような背景を考慮に入れると「塩入線鉄道期成同盟会」→ 増田一良 → 増田穣三 を通じて誘致運動が増田穣三を中心に推し進められたという状況は考えにくい。  

増田穣三が乃木希典に土讃線建設について要望陳情を行ったという話について

  乃木希典は1889年(明治32)年に善通寺第11師団長に就任。一方、増田穣三は3月に県会議員に初当選し、4月に七箇村長にも就任している。穣三は七箇村村長として、設置が決まったばかりの善通寺第十一師団の練兵場建設に「援助隊」募り派遣した。その助力に対して師団より村長宛の感謝状をもらっている。各施設の建設が進む中で、師団長として陸軍中将乃木希典が任地に善通寺に赴任する。この時期、穣三は県議会の副議長や参事議員を務めており、公的な行事で乃木師団長と出会うこともあり顔見知りとなっていたことは考えられる。
 土讃線に関する陳情が行われたとすればこの時期であるが、前述したようにこれは土讃線誘致運動の時期よりも十数年早い段階のことである。土讃線誘致にからんで乃木希典に陳情を行ったということないようである。しかも、陳情を行ったのは土讃線のことではなく、徳島線に関することである。   
増田一良が回顧している徳島ー池田軽便鉄道敷設権について見ておきたい。
此時最も難問題として起たのは徳島県出身の元内務大臣、芳川顕正伯の主唱によって徳島、池田間に軽便鉄道敷設権が認可されたことだ。これ実現すれば香川県よりの三線ともその影が薄くなり大いなる影響を及ぼすことが考えられる。そのためこれを打破する事が最も重要となった。しかし貴衆両院通過成立したものを取消す事は勅命によるか参謀本部の異議による外道なく窮余の考として堀家、三谷、松浦、増田等共に第十一師団を訪つれ参謀長に面談協力を求めた。しかし、乃木閣下は軍人が政治に容喙するは良くないとの信念を待ち、「吾々は何共申上兼ぬるか資格を離れ個人としては高知との短距離の結び付は固より望む所である」との事にて期待した回答を得ることは出来なかった。また、これも増田代議士へ報告せり。
 其後伝聞する所によれば乃木中将上京となり参謀本部の抗議によりたる者か徳島池田間軽便鉄道は実現を見す沙汰止となれり。
  一良の回顧談の「此時最も難問題として起た・・・」の部分は「塩入線誘致運動」に続けて載せられている。最後の部分が「また、これも増田代議士へ報告せり。」で終わっているために塩入線誘致の際のことと誤解されやすいが、これは乃木師団長在任中のことであり、誘致運動佳境の十数年前のエピソードである。
 しかも、内容は徳島線の軽便鉄道敷設権認可に関わることである。その後、徳島線は1914年に池田まで開通しており、土讃線の路線決定に影響を及ぼす要因とはなっていない。あるとすれば池田で土讃線と結ばれるというのが鉄道院の既定路線であったということである。
 長々と述べてきたが以上から推察すると、「増田穣三が土讃線のルート決定に大きな政治力を発揮した」「塩入線誘致運動を進めた」ということを裏付ける史料は、穣三の従兄弟の増田一良が「仲南町誌」作成の際に語ったことに基づくものに限られるようだ。「塩入ルート」が、路線検討の対象となったかどうかは、今後の検討課題としたい。  

  一良は自分の回顧を次のように閉めている

欺の如くして獲得したるものにして塩入と云う名の広く知れ渡りたる関係上、福良見、小池、春日の三部落を隔たて一里以上離れたる十郷村帆山に設置されたる駅の名を塩入と名づけたるは増田穣三の銅像を駅構内に設置と共に意義を得たるものにして適当なる所置と信す。
 尚ほ塩入線の決定に附ては第十一師団の軍事上の観点と金毘羅宮の所在地琴平町を起点とする所に潜在の大なる力のありたる事を認むべきと思ふ茲に其経過関係の概要を述べて参考に資す。                     増田一良回顧談 昭和四十年六月

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