借耕牛のことについてお話しすることになったので、改めて「借耕牛の研究」を読んでいます。

関田氏は次のように記します。
借耕牛は、何軒で利用されていたのか?

借耕牛を何軒もの家で使い回して、その結果痩せ細って牛は帰ってきたという話が伝わっていますが本当だったのでしょうか? これを資料で確認しておきます。
上図からは次のような情報が読み取れます。
①昭和28年(第1次調査)では、個人(一戸)利用約36%、共同利用が64%
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


「猪鼻峠を汽車が通過するまでは西讃地方の借耕牛は全部各峠を通っていた。その数,何千頭にものぼり、その当時は県道も開通せざりし故俗にいえる往還を毎日毎日14日~15日位,道も通れぬほど,耕牛が続き牛の腹に釣りたる鈴が終日,チリン,チリンと鳴り続けたるを覚ゆなり」
関田氏は次のように記します。
「当日は一大市場の如く牛群の往来を遠方より望むときは恰もキャラパンの如き壮観を呈すると云ふ」
A 夏は毎年6月1日ころより中日(6月22日)の前日までで、7月3日の半夏の翌日4日まで約1ヶ月間貸借し,4日には必ず返すB 秋は11月1日ころより約2カ月後の俗にいう「おたんや」の翌日返す
秋の場合は、かつては麦の除草に牛を使ってから返すのが常でした。それが昭和30(1955)頃になると、レンタル期間は以下のようになります。
借耕牛のレンタル期間
上表からは次のような情報が読み取れます。
①借りた日は6月7日を中心としてその前後数日間で、6月10日以後になることはなかった。
②夏の返却日は7月2~3日が多く、半夏に田植えの足洗いがおわると返却する。
上表からは次のような情報が読み取れます。
①借りた日は6月7日を中心としてその前後数日間で、6月10日以後になることはなかった。
②夏の返却日は7月2~3日が多く、半夏に田植えの足洗いがおわると返却する。
丸亀平野では満濃池のゆる抜きが6月15日でした。満濃池の水がやってくる前に荒起こしをして、水が入れば代掻き → 田植え → 7月4日の半夏の足洗いとなります。その期間がだいたい6月一杯となります。田植えが終わると、牛は阿波に帰っていきます。
牛耕荒起こし(佐世保市)
秋のレンタルの開始日は11月7日を中心に前後数日間で、11月10月以後にはありません。秋は、稲の収穫が終わった後に、麦を蒔くための田起が行われます。麦まきのための田起こし
秋の返却日には広い幅があります。その中心は12月5日前後ですが、それ以降も相当数が返却されていません。これは麦の牛で中耕を行なってから返すもので、従来は2ヵ月程度のレンタル期間だったようです。それが戦後には1ヶ月程度に、ずいぶんと短くなっています。借耕牛の秋のレンタル期間が短くなった要因は何なのでしょうか?
これは麦まきが終わってからも中耕のために、その後も約1ヵ月借りておくのが経済的かどうかという次のような要因があると研究者は指摘します。
①讃岐の農家は農作業が終了したら飼料費がかかるので、一日でも早く返したい
②農家によっては少し休息させ飼いなおさないと可愛そうだという心理もある
③阿波の貸方農家の心情としては、大切な牛だから仕事がすめば1日でも早く無事な姿をみたい
④反面少しでも飼いなおして、元の状態にもどして返してもらいたい
返却時期の設定については、双方の複雑な思惑や感情があったことを押さえておきます。
阿波では借耕牛は「米牛」と呼ばれました。それはレンタル料として米俵2俵を背中に乗せて帰ってきたからです。これは春秋で、約一石前後になります。


上表のように牛の力量や能力、需給バランスなどによって、価格格差があったようです。

まんのう町明神橋の借耕牛 左右に米俵(60㎏×2)を背負っている。

借耕牛のレンタル料(琴南町誌)
上表のように牛の力量や能力、需給バランスなどによって、価格格差があったようです。
また、米で支払われていたのは明治末期までで、大正末期にはほぼ現金に代わったことは以前にお話ししました。そして昭和14(1939)年に米穀配給統制法が制定されると、米が国家統制下に繰り入れられます。これによって支払いは総て現金払いとなります。つまり、戦後には米俵を背中に積んで阿波に帰る牛の姿は消えていたのです。


借耕牛レンタル料の米から現金への変化時期
借耕牛は、何軒で利用されていたのか?

借耕牛を何軒もの家で使い回して、その結果痩せ細って牛は帰ってきたという話が伝わっていますが本当だったのでしょうか? これを資料で確認しておきます。
上図からは次のような情報が読み取れます。
①昭和28年(第1次調査)では、個人(一戸)利用約36%、共同利用が64%
②昭和32年(第2次調査)では、個人(一戸)利用が24% 共同利用が76%
③2次調査では、3~4戸による共同利用が30%に増えている。
④一戸利用の牛の耕耘面積が6~8反なのに対して、4戸ではその倍近くに増える。
確かに、借耕牛を3~4軒で使い回すことがあったこと、そして耕耘面積も広くなり、牛にとってはハードになることを押さえておきます。
④一戸利用の牛の耕耘面積が6~8反なのに対して、4戸ではその倍近くに増える。
確かに、借耕牛を3~4軒で使い回すことがあったこと、そして耕耘面積も広くなり、牛にとってはハードになることを押さえておきます。
最後に 「借耕牛の研究」の論旨を要約整理しておきます。
①借耕牛は、阿波からの讃岐への「人による出稼 →人畜共稼 →家畜のみの出稼」へと発展ししたもの。
②阿波の 畑作商品作自給農業と、讃岐の水田作副業農業という対照的性格の上に借耕牛は成立した。
③つまり阿波は成牛で生産使役、讃岐は仔牛育成で借耕牛依存という形に発展した
④借耕牛の流通は, 貸方は徳島県三好, 美馬郡で, 借方地帯は香川県の綾歌, 仲多度両郡を中心に東西へ広がった。
④借耕牛の流通は, 貸方は徳島県三好, 美馬郡で, 借方地帯は香川県の綾歌, 仲多度両郡を中心に東西へ広がった。
⑤大正初年には3,000頭、昭和5年には5,000頭, 昭和10~15年の最盛時には8,000~8,500 頭が阿讃の峠を越えた
⑥戦後混乱期には急減したが、昭和30年代になると 3000頭近くに復活した。
⑦借耕牛成立の条件として、 阿波と讃岐の農業事情のちがいの上に, 耕耘時期のずれや、借方の讃岐側の仔牛調教のうまさなどがあげられる。
⑧借耕牛の取引慣行については、 阿讃の両方に家畜業者(博労)の存在が大きい。
⑨全体的には借方の讃岐の利益が大きく、そのリードのもとに取引が行なわれていた。
⑨全体的には借方の讃岐の利益が大きく、そのリードのもとに取引が行なわれていた。
⑩レンタル期間は20~30日で、6月と11月の2回行なわれた。
⑪レンタル料は、昭和32年の平均で夏が5400円, 秋が45000円程度で, 年間米一石と云われた明治以来の価格を堅持していた。
⑫昭和33年頃になると、70%以上の牛が2~4戸の複数農家で共同利用されている。
⑬使用日数は13~15日で,1頭の耕転面積は平均 1~1,2㌶で、共同化が進むにつれて耕作面積も増えている。
⑬使用日数は13~15日で,1頭の耕転面積は平均 1~1,2㌶で、共同化が進むにつれて耕作面積も増えている。
⑭1日の仕事量は65~75万kgm で激役の部類に属する。
⑮借耕期間中の体重減少は、調査によると平均7kgで、おおむね良好な飼養がなされている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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![徳島 1965-1966(昭和40-41年)]藍とデコ - YouTube](https://i.ytimg.com/vi/nq3AtG-4zhs/hqdefault.jpg)









































































































































安楽寺
