最初に見た美合の落合橋の欄干です。向こうに見えているのが谷川うどんになります。この橋は、勝浦からの道と三頭峠からの道の合流点に架かっていて、借耕牛の往来した道とされます。その橋に、さきほどの阿讃君レリーフやこの切絵風デザインが施されています。これを計画・実行した設計者に私は尊敬と感謝の念を抱きます。それでは、どうして借耕牛が讃岐にやってくるようになったのでしょうか。次に、このことについて見ておきましょう。
まず仲多度郡では、牛はどのくらい普及していたのかを見ておきましょう。幕末に丸亀藩が編集した西讃府史には、各村の農家戸数・水田面積・牛や馬の数が、各村ごとに記されています。これを数字化したのが上表です。
①一番上の那珂郡を見ると、牛825、馬100、合計925頭。これを農家戸数で割ると牛馬の普及率は45,9%になります。②多度郡はもっと低くて、38,8%。③仲多度全体では約4割。残りの6割の農家には、牛や馬がいなかったことになります。④三豊全体の平均値は約40%。
讃岐には「五反農家」という言葉がありますが、仲多度郡の一戸辺りの耕地面積を見ると4反未満です。ここからは零細農家が多く、牛や馬を飼うことはできなかったことが考えられます。牛のいない家が、代掻きの時に牛が欲しいと思うのは当然でしょう。牛のレンタル需要があったとしておきます。
次に、送り手の阿波側を見ておきましょう。
次に、送り手の阿波側を見ておきましょう。
阿波池田の東側に井川町があります。井川スキー場のあるところです。そのスキー場の奥にあるのが腕山放牧場です。
阿波のソラの集落には、このような放牧地が山の上にありました。夏はここで放牧するので飼料などは不用です。そのため古くから牛馬の普及率が高かったようです。ここでは阿波の美馬郡や三好郡は、放牧地があって牛の飼育に適していたことを押さえておきます。そしてソラの牛馬は、山を下りて里で運送や田起こし、代掻きなど阿波の中で出稼ぎを行っていたようです。
阿波のソラの集落には、このような放牧地が山の上にありました。夏はここで放牧するので飼料などは不用です。そのため古くから牛馬の普及率が高かったようです。ここでは阿波の美馬郡や三好郡は、放牧地があって牛の飼育に適していたことを押さえておきます。そしてソラの牛馬は、山を下りて里で運送や田起こし、代掻きなど阿波の中で出稼ぎを行っていたようです。
この表は井内谷村の牛馬・農家数牛馬所有数を年代毎にしめしてたものです。井内谷村(旧井川町・現在の三好市)は、先ほど見た腕山牧場の下にあるソラに近い集落です。左が年代推移です。
①明和7年(1770)年に329頭だったのが40年後の文化年間には712頭に倍増しています。
②その背景は、藍栽培による好景気がありました。藍栽培が本格化するのが明和時期(1770年)で、これ以後に牛馬の数が急増したことがうかがえます。
③藍運搬などの需要増に答えたのが、ソラの農家だったようです。牛馬所有率を見ると、9割の農家が牛を飼っていたことになります。大正や昭和には、減少しますがそれでも7割近い家が牛か馬を飼っていたことが分かります。
④讃岐仲多度の牛の保有率は4割でした。それにくらべると阿波の保有率は高かったことを押さえておきます。
①明和7年(1770)年に329頭だったのが40年後の文化年間には712頭に倍増しています。
②その背景は、藍栽培による好景気がありました。藍栽培が本格化するのが明和時期(1770年)で、これ以後に牛馬の数が急増したことがうかがえます。
③藍運搬などの需要増に答えたのが、ソラの農家だったようです。牛馬所有率を見ると、9割の農家が牛を飼っていたことになります。大正や昭和には、減少しますがそれでも7割近い家が牛か馬を飼っていたことが分かります。
④讃岐仲多度の牛の保有率は4割でした。それにくらべると阿波の保有率は高かったことを押さえておきます。
讃岐への借耕牛が本格化するのは、明治後半になってからのようです。その背景を考えたいと思います。
阿波の特産品と云えば藍でした。
①ところが、明治34年からの合成藍が輸入解禁になって衰退します。その結果、藍栽培に従事していた牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
②代わって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
③葉煙草の高級品を生産したのがソラの集落です。葉煙草には牛堆肥が最良です。そのため、ソラの農家は牛を飼うことを止めません。牛肥確保のために頭数を増やす農家も出てきます。
④しかし、その出稼ぎ先は阿波にはありません。
藍の衰退による「役牛大量失業 + 葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。阿波の牛は、あらたな働き場を求めていたのです。その受け入れ先となったのが、讃岐でした。以上をまとめておきます。
阿波の特産品と云えば藍でした。
①ところが、明治34年からの合成藍が輸入解禁になって衰退します。その結果、藍栽培に従事していた牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
②代わって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
③葉煙草の高級品を生産したのがソラの集落です。葉煙草には牛堆肥が最良です。そのため、ソラの農家は牛を飼うことを止めません。牛肥確保のために頭数を増やす農家も出てきます。
④しかし、その出稼ぎ先は阿波にはありません。
藍の衰退による「役牛大量失業 + 葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。阿波の牛は、あらたな働き場を求めていたのです。その受け入れ先となったのが、讃岐でした。以上をまとめておきます。
①阿波のソラの集落には広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。それに対して、讃岐は近世になると刈敷や燃料薪などの入会権の設定されて、それまでの牧場が消えていくことは以前にお話ししました。そのため牛や馬にたべさせる飼料が手に入りません。
②また讃岐の農家は、零細農家で牛馬を飼うゆとりはありません。
③このような中で、幸いしたのが田植え時期のズレです。上図の通り美馬や三好地方の田植は5月です。一方、丸亀平野の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったのです。
②また讃岐の農家は、零細農家で牛馬を飼うゆとりはありません。
③このような中で、幸いしたのが田植え時期のズレです。上図の通り美馬や三好地方の田植は5月です。一方、丸亀平野の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったのです。
これは阿波藩が幕府に提出するために作成した阿波国図です。
まんのう町に関係する峠を拡大しています。位置関係を確認すると ①吉野川 ②大滝山 ③大川山 ④三好郡・美馬郡 ⑤赤い線が街道 大川山から東側は、美馬の郡里から各方面に伸びる峠道。 例えば、勝浦への峠道には大川山の東側の西側は三好郡からの峠道で旧仲南へ 何が書いてあるのか、ひっくり返して見ておきましょう。
⑥真鈴峠には「滝の奥より、讃岐国勝浦村へ十丁 「牛馬道」とあります。それに対して、二双越は、淵野村まで二里「牛馬不通」、三頭越えも同じく「牛馬不通」と記されています。三頭越が整備されるのは幕末、明治になってからで、それまでは牛や馬は通れない悪路であったことが分かります。どちらにしても、まんのう町には、江戸時代から阿波との間にいくともの峠道があったことが分かります。
まんのう町に関係する峠を拡大しています。位置関係を確認すると ①吉野川 ②大滝山 ③大川山 ④三好郡・美馬郡 ⑤赤い線が街道 大川山から東側は、美馬の郡里から各方面に伸びる峠道。 例えば、勝浦への峠道には大川山の東側の西側は三好郡からの峠道で旧仲南へ 何が書いてあるのか、ひっくり返して見ておきましょう。
⑥真鈴峠には「滝の奥より、讃岐国勝浦村へ十丁 「牛馬道」とあります。それに対して、二双越は、淵野村まで二里「牛馬不通」、三頭越えも同じく「牛馬不通」と記されています。三頭越が整備されるのは幕末、明治になってからで、それまでは牛や馬は通れない悪路であったことが分かります。どちらにしても、まんのう町には、江戸時代から阿波との間にいくともの峠道があったことが分かります。
左側が讃岐の受入集落名(峠名)です。
①昭和5~10年には、夏秋合わせて8250頭の牛がレンタルされています。②多い順は、1美合 2岩部 3猪ノ鼻(戸川・道の駅) 4 清水口 5 塩入 となります。
②ここからは美合と塩入を合わせると3000頭を越える牛がまんのう町にやってきていたことになります。借耕牛の1/3は、まんのう町に入ってきていたことを押さえておきます。
③右段を見てください。それが戦後の昭和33年には、約1/3に激減しています。この理由は時間があれば考えることにします。
次に、牛たちが阿波のどこからやってきたかを見ておきましょう。
この図は1935(昭和10年)の牛の供給源と、讃岐のレンタル先を示したものです。編目エリアは100頭以上、斜線エリアは50~100頭の牛を送り出したり、受けいれたりしている村々です。ここからは次のような事が分かります。
①借耕牛の送り出し側は、美馬・三好のソラの集落であったこと。最盛期4000頭の内の9割は美馬・三好郡からの牛です。中でもソラの集落からやってくる牛が多かったことが分かります。
②阿波東部には借耕牛は見られない。同時にも讃岐の大川郡は空白地帯である
①借耕牛の送り出し側は、美馬・三好のソラの集落であったこと。最盛期4000頭の内の9割は美馬・三好郡からの牛です。中でもソラの集落からやってくる牛が多かったことが分かります。
②阿波東部には借耕牛は見られない。同時にも讃岐の大川郡は空白地帯である
③借耕牛の通過は、岩部(塩江)→髙松平野 美合→坂出・丸亀 塩入・山脇・猪ノ鼻 → 丸亀・三豊
ここで押さえておきたいのは、借耕牛は阿波全体から送り出されていたのではなく、阿波西部の三好・美馬郡に限られることです。さらにそのなかでもソラの集落からやってくる牛が多かったことを押さえておきます。
ここで押さえておきたいのは、借耕牛は阿波全体から送り出されていたのではなく、阿波西部の三好・美馬郡に限られることです。さらにそのなかでもソラの集落からやってくる牛が多かったことを押さえておきます。
もうひとつ注目しておきたいのは髙松沖の女木島からも借耕牛は送り出されていたようです。
石垣でかこまれた坂道を牛が歩いています。ここは女木島のとなりの男木島です。この島は、古くから島全体が牧場とされてきました。島ですから放し飼いができます。また坂が多く、放し飼いの牛は坂を登り降りし、足腰が丈夫で強く、しかも人なつっこくて、よく云うことを聞くので農耕牛としては借り手に人気があったようです。
こちらは女木島の牛です。髙松から借耕牛が帰ってきた所です。
後には女木島の石垣に囲まれた家が見えます。船が着くと「ハイヨッ」の掛け声で、揺れる船から板を渡って慣れた様子で、牛たちは下りて浪打際をパシャパシャ・・と歩いています。このように男木・女木島と髙松周辺の農家では、早くから借耕牛システムがあったのではないか、そこに明治になって阿波の牛が参入してきたのではないかと私は考えています。
ここで借耕牛の起源について、考えて起きます。
後には女木島の石垣に囲まれた家が見えます。船が着くと「ハイヨッ」の掛け声で、揺れる船から板を渡って慣れた様子で、牛たちは下りて浪打際をパシャパシャ・・と歩いています。このように男木・女木島と髙松周辺の農家では、早くから借耕牛システムがあったのではないか、そこに明治になって阿波の牛が参入してきたのではないかと私は考えています。
ここで借耕牛の起源について、考えて起きます。
ひとつは江戸後期説です。これはサトウキビを石臼で絞るために、大型の阿波の牛がやってきたというものです。ここで注意しておきたいのは、田畑を耕すためにやってきたのではないことです。その数も僅かなものです。もうひとつは、明治以後説です。
「藍栽培不振 + 葉煙草栽培の拡大」にともない牛の飼育数は減りませんが、役牛としての働き場はなくなります。そこに目を付けたのが讃岐の博労(ばくろ)たちです。
「阿波の牛を飼っている農家を一軒一軒訪ねては、6月10日に讃岐の美合まで牛を連れてきてくれんか。そうすれば賃貸料が入るようにするから」
と委任を取り付け、讃岐の借り主との間を取り持ったのではないかと私は考えています。明治は、移動の自由、営業の自由が認められ、県境を牛がレンタルのために越えることも何ら問題はありません。
髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。
旧琴南の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを許すことはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業のの自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。
旧琴南の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを許すことはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業のの自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。
例えば「讃岐男に阿波女」という諺が残っています。確かに、旧仲南の財田川沿いの集落には、阿波から牛の背中に乗って、嫁いできたという女性が昭和の時代には、数多くいました。しかし、江戸時代には高松藩は、藩を超えた男女の結婚は、上の「走人協定」で許していません。琴南町誌には、密に阿波の女性と結婚してたカップルが藩の手によって引き離されて、女性が阿波に追放される話がいくつか残されています。
借耕牛の増加には、次のような背景があった私は考えています。
①明治になって「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになって、峠越えの経済活動が正式に認められたこと②阿波の藍産業の衰退による役牛の大量失業
どうして借耕牛は讃岐に来なくなったのか?
耕耘機の登場です。こうして牛は水田からは姿を消していきます。
1960年代になっても、山間部の狭い谷田では牛耕が行われ、借耕牛も活躍していたようですが、峠を歩いて越えることはなくなります。トラックに乗せられて借耕牛は運ばれます。
最後に、牛が越えた峠は古代からの阿讃の文化交流の道であったことを見ておきましょう。
①弥生時代には讃岐の塩が阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていました。その交換品として、何かが阿波からもたらされたはずです。善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が出ています。塩の交換品として朱が運び込まれていたと研究者は考えています。
②弘安寺跡(まんのう町四条の薬師堂)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われています。
1960年代になっても、山間部の狭い谷田では牛耕が行われ、借耕牛も活躍していたようですが、峠を歩いて越えることはなくなります。トラックに乗せられて借耕牛は運ばれます。
最後に、牛が越えた峠は古代からの阿讃の文化交流の道であったことを見ておきましょう。
①弥生時代には讃岐の塩が阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていました。その交換品として、何かが阿波からもたらされたはずです。善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が出ています。塩の交換品として朱が運び込まれていたと研究者は考えています。
②弘安寺跡(まんのう町四条の薬師堂)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われています。
瀬戸内海の港や島々は、海を通じて人とモノと文化が行き来しました。それに対して、美合や塩入は阿讃交流の拠点でさまざまなものが行き交う拠点であったのです。そのような視点が今は忘れ去られています。阿讃の峠越えの文化交流をもう一度、見直す必要えがあると私は考えています。そのひとつのきっかけを与えてくれたのが借耕牛でした。最後に、参考文献を紹介しておきます。
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