「南無阿弥陀仏」の六字は、六字名号といわれ、これを唱えると極楽往生ができるとして、浄土教系諸宗派では大切にされてきました。ここでは六字名号が仏のように蓮台に載っています。名号が本尊であることを示しています。六字名号を重視する浄土真宗では、これを「名号本尊」と呼びます。浄土真宗では、宗祖親鸞は六字名号、八字名号、十字名号などを書いていますが、その中でも特に十字名号を重視していたことは以前にお話ししました。その後、室町時代になって真宗教団を大きく発展させた蓮如は、十字名号よりも六字名号を重視するようになります。この名号も、そのような蓮如以後の流れの延長上にあるものと研究者は考えています。
親鸞はどうして、阿弥陀仏を本尊として祀ることを止めさせたのでしょうか。
それは「従来の浄土教が説く「観仏」「見仏」を仮象として退け、抽象化された文字を使用することで、如来の色相を完全に否定するため」に、目に見える仏でなく名号を用いるようになったとされます。ある意味では「偶像崇拝禁止」的なものだったと私は思っています。ところが、この六字名号は少し変わっています。
阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 (蓮華部と「佛」部の拡大)
よく見ると筆画の中に、仏や礼拝者の姿が描かれています。さらによく見ると、南無阿弥陀仏の小さな文字をつないで蓮台は表現されています。抽象的な「南無阿弥陀仏」の文字には、仏の絵を当てはめ、具象的な蓮台は抽象的文字で表すという手法です。浄土真宗教団には「偶像崇拝禁止」的な「教義の純粋性」を追求するという動きが当時はあったはずです。その方向とはちがうベクトルが働いているように思えます。これをどう考えればいいのでしょうか。もうひとつの疑問は、この制作者が「伝空海筆」と伝わっていることです。空海と南無阿弥陀仏は、ミスマッチのように思えるのですが・・・これをどう考えればいいのでしょうか。
それは「従来の浄土教が説く「観仏」「見仏」を仮象として退け、抽象化された文字を使用することで、如来の色相を完全に否定するため」に、目に見える仏でなく名号を用いるようになったとされます。ある意味では「偶像崇拝禁止」的なものだったと私は思っています。ところが、この六字名号は少し変わっています。
阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 (蓮華部と「佛」部の拡大)
よく見ると筆画の中に、仏や礼拝者の姿が描かれています。さらによく見ると、南無阿弥陀仏の小さな文字をつないで蓮台は表現されています。抽象的な「南無阿弥陀仏」の文字には、仏の絵を当てはめ、具象的な蓮台は抽象的文字で表すという手法です。浄土真宗教団には「偶像崇拝禁止」的な「教義の純粋性」を追求するという動きが当時はあったはずです。その方向とはちがうベクトルが働いているように思えます。これをどう考えればいいのでしょうか。もうひとつの疑問は、この制作者が「伝空海筆」と伝わっていることです。空海と南無阿弥陀仏は、ミスマッチのように思えるのですが・・・これをどう考えればいいのでしょうか。
こちらも蓮の花の蓮台に南無阿弥陀仏が載っている浄土真宗の名号本尊の形式です。よく見ると南無阿弥陀仏の各文字の筆画は蓮弁によって表現されています。中でも「無」は、蓮の花そのものをイメージさせるものです。
伝承筆者は高弁とされています。
高弁は、明恵上人の名でよく知られている鎌倉時代の僧です。彼は京都栂尾の高山寺を拠点にしながら華厳宗を復興し、貴族層からも広く信仰を集めます。但し、高弁の立場は「旧仏教の改革派」で、戒律の遵守や修行を重視して、他力を説く専修念仏を激しく非難しています。特に法然の死後に出された『選択本願念仏集』に対しては「催邪輸」と「推邪輪荘厳記』を著して激しく批判を加えています。また、高弁は阿弥陀よりも釈迦や弥勒に対する信仰が中心であったようです。そんな彼の名が六字名号の筆者名に付けられているのが不可解と研究者は評します。庶民信仰の雑食性の中で、著名な高僧の一人として明恵房高弁の名が引き出されてきたもので、実制作年代は江戸時代と研究者は考えています。
「空海と南無阿弥陀仏=浄土信仰は、ミスマッチ」と、先ほどは云いましたが、歴史的に見るとそうではない時期があったようです。それを見ておきましょう。
白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。
白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。
この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。このように「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっています。
天福寺(高松市)の版木船板名号を見ておきましょう。
天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられます。同様のものが高野山不動院にもあるようです。
天福寺(高松市)の版木船板名号を見ておきましょう。
天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられます。同様のものが高野山不動院にもあるようです。
また天福寺にはこれとは別の六字名号の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。ここでは、空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあることを押さえておきます。浄土真宗のお寺にはないのです。
空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』は、次のように記します。日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、
意訳変換しておくと
弘法大師は唐に渡るのを待つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。
ここからは、中国に渡る前の空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。
どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。そして、近世になって天狗信仰を持つ修験者によって開かれた金毘羅大権現も同じです。
空海のサインが記された六字名号
金毘羅大権現に空海筆とされる六字名号が残っているのは、当時の象頭山におおくの高野山系の念仏聖がいたことの痕跡としておきます。
同時に、当時の寺院はいろいろな宗派が併存していたようです。それを髙松の仏生山法然寺で見ておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武田 和昭 四国辺路と白峯寺 調査報告書2013年 141P
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空海のサインが記された六字名号
金毘羅大権現に空海筆とされる六字名号が残っているのは、当時の象頭山におおくの高野山系の念仏聖がいたことの痕跡としておきます。
同時に、当時の寺院はいろいろな宗派が併存していたようです。それを髙松の仏生山法然寺で見ておきましょう。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』には次のように記されています。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。
ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。こういう中で、金毘羅大権現の別当金光院にも空海伝とされる六字名号が伝わるようになった。それを用いて念仏聖達は、布教活動を行っていたとしておきます。
以上をまとめておきます。
以上をまとめておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武田 和昭 四国辺路と白峯寺 調査報告書2013年 141P
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