カテゴリ: 霊山・修験道・廻国行者・高野聖
飛鳥よりも早く豊前「秦王国」には仏教が伝わっていた。
秦王国には飛鳥よりも早く仏教が伝わっていたと考える研究者がいます。まず、五来重氏は次のように考えています。
①『彦山縁起』には、英彦山の開山を仏教公伝(538)より早い、継体天皇二十五年甲寅(534)に、北魏の僧善正が開山したと記すこと。②『彦山縁起』が典拠とする『熊野権現御垂逃縁起』(『熊野縁起』)には、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、最初は彦山に天降って、その後に彦山から伊予の石鉄山、 ついで淡路の遊鶴羽岳、さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山ヘ移った
③彦山への飛来は、『彦山縁起』のいう「継体天皇二十五年甲寅」こと。
以上を根拠にして、仏教公伝以前に彦山に仏教が入ったとする伝承について、次のように記します。
「私は修験道史の立場からは、欽明天皇七年戊午(588年)の仏教公伝よりはやく、民間ベースの仏教伝来があったものと推定せざるを得ない」「民間ベースの仏教伝来」の例として、『日本霊異記』(上巻28話)の、役小角が新羅に渡ったとあること、「彦山縁起』に、役小角が唐とも往来したとある例がある」「これは無名の修行者の往来があったことを、役小角の名で語ったもの」で、「彦山は半島にちかい立地条件にめぐまれて、朝鮮へはたやすく往来できた」「無名の修行者」が、仏教公伝より早く、仏教を彦山にもちこんむことも可能であった。朝鮮への仏教渡来は、「道人」が伝えている。そのため列島への豊前への仏教伝来も「道人」といわれる日本の優婆塞・禅師・聖などの民間宗教者によって行われ、仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して・占星術・易占・託宣をおこなったものとおもわれ、仏教・陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入った」
と推測します。
中野幡能は、仏教伝来を彦山に限定せず、豊国全般に公伝以前に仏教は入っていたとして、次のように記します。
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」として、「少なくとも5~6世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と原始神道と仏教が融合している事実がみられる」
用明天皇二年(587)に、豊国法師が参内していることから、6世紀末には「九州最古の寺院」が、「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていて、」「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して6世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に入ったものではあるまいか」
このように、五来・中野の両氏は、仏教公伝以前に、豊前に仏教が入ったと見ています。
それではどうして、飛鳥よりも先に豊前に仏教が入ったのでしょうか。
中野幡能は、豊前の「秦氏と新羅人の関係」があったからと考えています。「秦氏と新羅人の関係」とは、具体的には秦王国の存在です。豊前に秦王国があったこと、つまり、倭国の中にあった朝鮮人の国の存在が、仏教公伝に先がけて仏教がいち早く人った理由というのです。
仏教には、「伽藍仏教」と「私宅仏教」があります。
鎮護国家にかかわる公的な仏教は「伽藍仏教」で、蘇我馬子が受け入れようとしたのは「伽藍仏教」です。馬子は「伽藍仏教」の僧や尼を必要としたので、法師寺を建て、受戒した僧・尼を養成しようとしています。こうした馬子の仏教観に対し、豊国の法師の仏教は、「私宅仏教(草堂仏教)」で、巫女の伝統を受けつぐ「道人」的法師であっようです。だから、病気治療などに活躍する、現世利益的な個人的要素が強かったと研究者は考えています。
田村同澄は、次のように記します。
「宮廷に豊国法師が迎え入れられたのは、九州の豊前地方には、後に医術によって文武天皇から賞せられた法蓮がいたように、朝鮮系の高度の文化が根を張っており、したがって医術の名声が速く大和にまで及んでいた」
法蓮は、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当で、英彦山や国東六郷満山で修行したと伝えられる修験者的な人物です。
宝亀8年(777年)に託宣によって八幡神が出家受戒した時には、その戒師を務めて、宇佐市近辺にいくつもの史跡・伝承を残しています。『続日本紀』の大宝三年(703)9月25日条は、次のように記します。
宝亀8年(777年)に託宣によって八幡神が出家受戒した時には、その戒師を務めて、宇佐市近辺にいくつもの史跡・伝承を残しています。『続日本紀』の大宝三年(703)9月25日条は、次のように記します。
史料A 施僧法蓮豊前國野冊町。褒霊術也(僧の法蓮に豊前国の野四十町を施す。医術を褒めたるなり)
史料B 養老五年(七二一)六月三日条、詔曰。沙門法蓮、心住禅枝、行居法梁。尤精霊術、済治民苦。善哉若人、何不二褒賞。其僧三等以上親、賜宇佐君姓
意訳変換しておくと
詔して曰く。「沙門法蓮は、心は禅枝に住し、行は法梁に居り。尤も医術に精しく、民の苦しみを済ひ治む。善き哉。若き人、何ぞ褒賞せざらむ。その僧の三等以上の親に、宇佐君の姓を賜ふ」)
史料Aからは医学的な功績として豊前国の野40町を賜ったこと、史料Bからは、その親族に宇佐君姓が与えられことが記されています。このような記述からは仏教公伝・仏教私伝以前に北部九州へ仏教が伝来していた可能性を裏付けます。法蓮は九州の山中に修行し、独自に得度して僧となり、山中に岩屋を構え、独特の巫術で医療をおこなっていました。また『八幡宇佐宮御託宣集』『彦山流記』『豊鐘善鳴録』などでは、法蓮は山岳修験の霊場彦山と宇佐八幡神の仲介をした人物とされています。そして法蓮を彦山を中心に活動した山岳仏教の祖とする多くの伝承が生れます。一方、法蓮は用明天皇の病気治療のため入内した豊国法師、あるいは雄略天皇不予の際に入内したとされる豊国奇巫の系譜を引く人物であったと次のように考える研究者もいます。
豊国法師の伝統を受けついだ代表的な僧が、法蓮であったから、彼の医術は特に「監」と書かれたのだが、法蓮は、薬をまったく用いなかったのではない。薬だけでなく巫術も用いたから、単なる「医者」でなく「巫医」なのだ。法蓮が用いた薬に、香春岳の竜骨(石灰岩)がある。「竜骨」を薬として用いる術は、豊国奇巫・豊国法師がおこない、その秘術を法蓮が受けついでいた。このような豊国の僧(法師)の実態は、仏教公伝以前に秦王国に入っていた仏教が、巫術的なものであったことを示しており、豊国奇巫ー豊国法師―僧法蓮には、一貫した結びつきがある。
『日本書紀』(敏達天皇12年(584)には、百済から持ってきた仏像二体のための「修行者」を、「鞍部村主司馬達等」らに探させ、播磨国にいた「僧還俗」の「高句麗の恵便」をみつけた、とあります。ここからも仏教公伝以前に、渡来人が「私宅仏教」の本尊を飛鳥で礼拝していた可能性が見えて来ます。司馬達等は、法師を探し出す役を馬子から命じられ、恵便の一番弟子として娘の島(善信尼)を入門させています。ここからは司馬達等は、公伝以前に入った「私宅仏教」の信仰者であったことがうかがえます。
司馬達等(止)を、『扶桑略記』は「大唐漢人」、『元亨釈書』は「南梁人」と記します。しかし、日本古典文学大系『日本書紀・下』の補注には、「一般に漢人は必ずしも中国からの渡来者ではなく、大部分は百済から来たものであるから」「大唐」、「南梁」の人とするのは「当らない」とあります。「司馬」などの二字姓は、百済・高句麗にもあるので、扶余系の渡来人と研究者は考えています。
このように大和の飛鳥の地でも、私宅に仏像を安置して礼拝していた人たちはいて、彼らは百済系渡来人でした。それに対して、秦上国の「私宅仏教」は、新羅・加羅系渡来人によるものです。
新羅の「伽藍仏教」は、六世紀前半の法興上のとき以後になるので、それより百年ほど前の訥祗王の時代に、すでに新羅には「私宅仏教」は入っていたことになります。この「私宅仏教」は、私宅に窟室を作り、窟室に仏像・経典などを置いて、礼拝します。窟室、つまり洞窟は、新羅に最初に仏教を伝えた僧墨胡子を「安置」したというので、祖師の洞窟修行の姿が、礼拝の対象だったことがうかがえます。
仏教公伝以前に仏教が入ったという彦山の『彦山流記』(建暦三年〈1212〉成立)は、次のように記します。
震国の「王子晋」は、舟で豊前国田河郡大津邑に着き、香春明神の香春岳に住もうとしたが、「狭小」だったので、香春より広い彦山の「磐窟」の上に天降り、四十九箇の洞窟に、「御正然」を分けた『彦山流記』『彦山縁起』も、法蓮も玉屋谷の般若窟に住み、その他の修行者も、彦山四十九窟の洞窟を寺とした。
このは伝承に出てくる王子晋・法蓮は、窟室の墨胡子と重なり、新羅の「私宅仏教」の窟室信仰に結びついていたことが見えて来ます。仏教公伝以前に入った秦王国の仏教は、彦山の仏教や法蓮の信仰につながっていることを、『彦山流記』の伝承は語ってくれます。
彦山四十九窟 牛窟
彦山四十九窟は、豊前・豊後。筑前にまたがる彦山を中心に分布しています。これについて、中野幡能は、次のように記します。
「個々の宮寺を窟又は岩屋という」修験の霊山は、「他には豊後国の六郷山しかなく」、筑前宝満山にも「四十八嘔」があるが、この「岨」は、吉野の大峯の「宿」と同じ意で、彦山や六郷山の宮寺を「窟」というのとちがう。そして、新羅の慶州の「南山の五十五ヶ寺の寺院が、一ヵ寺ずつ、寺号を名乗っている」のは、六郷山の「窟又は岩屋」が「一々山号寺号をもっている」のと「似て」おり、「六郷山の原型」は、「新羅の慶州南山」とみられる。「その意味では彦山四十九窟も、慶州南山のあり方と全く同じ方式とみてよい」
求菩提山(くぼてんやま)
宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と深くかかわる修験の求菩提山も、石窟がたいへん多いところです。
主要な霊場が窟なのも新羅の南山の岩窟の仏教信仰と共通しています。彦山四十九窟は法蓮伝承と結びついていますが、六郷山の山岳寺院も、法蓮が初代別当であった弥勒寺の別当に所属しています。ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっていることになります。しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、それ以前に新羅に入っていた「私宅(草庵)仏教」と結びついています。新羅の「私宅仏教」は、高句麗の「道人」の暴胡子や阿道が新羅に来て、毛礼の家で拡めたされます。
『後漢書』東夷列伝の高句麗の条には、次のように記します。
其国東有大穴、号隧神。亦以十月迎而祭之
『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、
其国東有大穴、名隧穴。十月国中大会迎隧神。還於国東上祭之、置木隧於神坐。
『宋史』列伝の高麗の条には、
国東有穴 号歳神。常以十月望甲迎祭。
大穴を、「終神・隧穴・歳神」などと呼んでいたようです。これについて上橋寛は、『魏志』東夷伝高句麗の条の「隧穴」に、「置木隧於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、木隧を豊饒を祈る木枠のようなものと解釈します。
新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)
そして新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)を祭る大和の穴師兵主神社の祭神が、御食津(みけつ)神で神体が日矛であることから、御食津神を歳神、神体の日矛を木隧という説を出しています。洞窟に「木隧を置いて神坐す」というのは、家の中に「窟室」を作り、仏像を置くのことと重なります。終神・歳神の本隧が、仏像に姿を変えたのです。高句麗の民間信仰に仏教が習合したと研究者は考えています。これが高句麗の「私宅仏教」が新羅に入ったことになります。
ここでは天之日矛(日槍)を、木隧と見立てていますが、天之日矛を祭る穴師兵主神社は、穴師山にありました。
穴師山は弓月嶽とも云います。そうだとすれば、秦氏の始祖の弓月君と穴師兵主神社があった弓月嶽に関連性があったことになります。弓月嶽・弓月君・秦氏の関係は、朝鮮の洞窟での神祭りが、秦氏の穴師兵主神社でもおこなわれ、一方、仏教化して、新羅の窟室信仰が、彦山・六郷山の洞窟信仰になったと研究者は推測します。
穴師の「穴」も、「大穴」での祭と無関係ではありません。
穴師兵主神社の祭神の天之日矛は、『日本書紀』の垂仁天皇条には、「近江国の吾名邑に入りて暫く住む」とあり、「穴」地名と関わりがあるようです。近江の「吾名邑」は、『和名抄』の「坂田郡阿那郷」に比定する説もあります。阿那郷は宇佐八幡宮が官社化した後には、祭神にした息長帯比売(神功皇后)の息長氏の本拠地になります。息長帯比売は『古事記』には、祖を天之日矛としていて、新羅王子に系譜を結びつけています。この天之日矛や息長帯比売にかかわる地名に、「穴師」「吾名邑」「阿那郷」があることから、穴・窟の信仰は、泰王国の信仰と深くかかわっていると研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
① 公伝以前の仏教と高句麗での穴の中で神を祀る儀礼が、習合する
② 私宅に窟室を作り仏像を安置して、木隧の代りに拝むようになった。
③ 仏教と朝鮮の民間信仰が習合した形で、新羅の仏教は民間に浸透した。
『三国史記』『三国遺事』には、次のような事が記されています。
新羅に人った仏教は、王都の慶州にもひろまり、法興王は仏教を受け入れようとした。ところがこれに貴族の大半が反対した。
ここからは、最初に新羅に入った仏教は、一般庶民サイドの上俗信仰と習合した仏教であったことが分かります。わが国に公伝した仏教も、飛鳥の場合には「私宅仏教」の信者であった百済系渡来人が受容します。公伝以前から仏教信者であった鞍部は、雄略朝に渡来し、高市郡の桃原・真神原に住んでいました。その時、鞍部と共に衣縫部も来ていますが、『日本書紀』は、崇峻天皇元年(588)に、次のように記します。
「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊して、始めて法興寺を造る」
ここでは最初に伽藍仏教の寺院を建てた地を「真神原」といっています。衣縫造は鞍部村主と同じに、「私宅仏教」の信者であり、この私宅を「伽藍仏教」の伽輛(寺)にし、法興寺(飛鳥寺)を創建したと研究者は指摘します。
この飛鳥の寺地について、田村園澄は次のように述べます。
真神原と呼ばれたこの地には、飛鳥寺の創建以前から槻の林があった。飛鳥寺の造営のため一部は伐採され、土地は拓かれて寺地となったが、なお飛鳥寺の西の槻の林は残されていた。槻の林は、元来はこの地に居住していた飛鳥衣縫氏の祭祀の場であり、すなわち宗教的な聖地であったと思われる。朝鮮半島において、原始時代に樹木崇拝が行われていた。樹木の繁茂する林は神聖な場所であり、巫峨信仰の本拠でもあった。新羅仏教史において、早い時期に建立された寺のなかに、林に関連した事例がある。すなわち慶州の興輪寺は天鏡林が、同じく四天王寺は神遊林が、寺の根源であったと考えられる。図式的にいえば、仏教伝来以前の樹木崇拝の聖地に、仏教の寺院が建てられ、そして巫現が僧尼になったことになる。
飛鳥衣縫氏が真神原で祀っていた神については、よく分かりませんが異国の神だった気配がします。その後に、真神原を人手した蘇我馬子は、この地に別の「他国神」のための伽藍を建てます。新羅の寺院建立の例からすると、宗教的聖地が寺地になるのは自然なことです。飛鳥寺の場合、その寺地は「国神」の聖地ではなく、朝鮮半島系の神の聖地であったと研究者は考えています。
飛鳥に公式に入った伽藍仏教の伽藍(寺院)を建てた地が、もともとは百済からの渡来人が祀っていた神の聖地であったことになります。それは渡来して来た朝鮮人の信仰の上に、「大唐神」「他国神」の信仰が「接ぎ木」されたとも云えます。
このように大和の場合も、仏教公伝以前から仏教は、飛鳥の渡来人の居住地区に、「私宅仏教」として入ってきたようです。しかし、飛鳥の場合は限られた狭い地域でした。それに対して、豊前に入った仏教は、秦王国の全域に拡がります。そのため仏教公伝のころには、道人的法師団(豊国法師)が形成されるまでになっていたのでしょう。この「豊国法師」の仏教は、土俗信仰や民間道教信仰と習合したもので、「豊国奇巫」が「豊国法師」になったと研究者は考えています。
九州の初期寺院は、大宰府のある筑前に多く創建されていいはずです。しかし、筑前よりも、豊前に初期寺院が多いのをどう考えればいいのでしょうか。これは今見てきたように、仏教公伝以前から、豊前には民間ベースで、新羅の私宅仏教が普及していたからでしょう。白鴎時代に作られた寺院跡からも、新羅系遺物が多く出土してくるのもそれを裏付けます。
以上述べたように、わが国に仏教信仰が一番早く人ったのは、秦王国の地であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 仏教が一番早く入った「秦王国」 秦氏の研究
阿波高越山 地神の忌部氏の祖先神の上に、蔵王権現が勧進された高越山
阿波高越山
阿波の修験道のはじまりは、高越山とされます。高越山修験とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、今までにも触れてきたのですが、今回は「阿波の修験道 徳島の研究6(1982年) 236P」をテキストにして見ていくことにします。
阿波の修験道のはじまりは、高越山とされます。高越山修験とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、今までにも触れてきたのですが、今回は「阿波の修験道 徳島の研究6(1982年) 236P」をテキストにして見ていくことにします。
高越寺の宥尊が記述した「摩尼珠山高越寺私記」の高越寺旧記(1665(寛文五)年には次のように記します。
「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」
これに続く部分を要約しておきます。
①役行者が大和国の吉野蔵王権現と一体分身の聖山として、千手観音として高越山を開いたこと。②高越山が一国一峰の山として開かれたこと。③弘法大師が修業し、二個の木像を彫ったこと。④聖宝僧正が修業したその模様。⑤本山の伽藍、仏像などの五項目についての記録
②の内容をもう少し詳しく見てみると、
役行者行力勇猛、達人神通、自在権化、故感二権化奇瑞、攀上此峯 択地造壇柴燈、 阿祗備行者、有衆生済度志、廻国毎国開二阿祗禰峯、其数六十六箇所、名之謂一国一峯、摩尼珠山配其云々。
意訳変換しておくと
役行者は行力勇猛で、人と神と仏を行き来し、自在に権化(変身)することができた。そこで権化や奇瑞のためには、霊峰にのぼり、その峯の上に護摩壇を築き柴燈を焚いた。 阿祗備行者は衆生救済の志を持ち、全国を廻国し国ごとに阿祗禰峯を開いた。その数は六十六箇所におよび、これを一国一峯、摩尼珠山と呼ぶ。
江戸時代初めには、高越山は以上のように自らの存在を主張していたようです。ここには阿祗爾行者が全国の名山を修験道の山として開いたことが述べられています。全国「六十六山」を「一国一峰」として開いたともあります。修験道も、全国的にその勢力を伸ばす戦略として、大峰山への人山勧誘を行うと供に、教勢拡大のために地方にも霊山を開いて、手近に登って修業のできる「名山」を開拓していたようです。しかし、いつごろから高越山が修験道の拠点となったかについてはよく分かりません。史料的に追いかけることが出来るのは、もっと後になってからのようです。
高越山の南北朝時代の動きが分かる史料を見ておきましょう。
高越山の麓に高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。その中の最も古いものが、1364(貞治三年)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す(名簿)」ということです。檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していたことが分かります。高越山周辺は修験道の聖地となり、熊野行者などの修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたとしておきます。
高越山文書からは、高越山の修験道が空海・聖宝を崇める真言修験であったことが分かります。
そのため阿波の修験道は、ほとんどが当山派に属して一枚岩の団結があったと思われがちです。しかし、どうもそうではないようです。組張り(霞・檀家区域)の確保・争奪のために、各勢力に分かれて争っていた気配があるようです。
高越山と他の山・神社の争いについて、次のような話があります。
麻植郡川田町から名西郡神山町へ越える山道がある。この間の山の峰々に山の上では見られない吉野川流域の石が散在している。これは神山の上一宮大粟神社の祭神大宜都比売命が夫である伊予の三島神社の祭神大山祗に会うために神鹿に乗って行くのを、高越山の蔵王権現が嫉妬して吉野川の石を投げたからだという。今もその氏子たちは仲が悪く、神山と川田は通婚しないという。
もう一つは、大滝山と高越山とが、吉野川を挟んで大争闘をした時に、お互に岩の投げ合いをし、両方の山の岩がまったく入れ換わるまで投げ尽してしまったという。
このふたつの説話は、高越山修験道の置かれた状況を物語っていると研究者は深読みします。 この説話からは、阿波一国が単純に当山派に統一されたとは思えません。
南北朝の頃の阿波は、中央の政争の影響をそのまま受けます。
吉野川流域の平野部は、北朝方の管領細川氏の勢力圏です。それに対して剣山を中央にして、東西にのびる山岳地帯には南朝方についた勢力がいました。
そのエリアを見ると東端は一宮城の小笠原氏で、南朝の勢力は鮎喰川をさか上り、川井峠を越えて木屋平に入ります。さらに保賀山峠から一宇に入り、小島峠を越えて祖谷の菅生に至り、祖谷の山岳地帯に広がっていました。
小笠原氏の一宮城(神山町・大日寺背後)
そのエリアを見ると東端は一宮城の小笠原氏で、南朝の勢力は鮎喰川をさか上り、川井峠を越えて木屋平に入ります。さらに保賀山峠から一宇に入り、小島峠を越えて祖谷の菅生に至り、祖谷の山岳地帯に広がっていました。
祖谷の小島峠
祖谷から、さらに中津山、国見山の山脈を越え銅山川沿いに伊予の南朝方へと連らなっていましす。この山岳地帯を往来しながら連絡を取ったのは修験者(山伏)たちだったとされます。彼らは秘密の文書を髪に結い込んで、伊予の西端の三崎半島まで平野に下りることなく、山中を進んでたどり着くことができたと云います。これが修験の修行の道だったのかもしれません。あるいは熊野行者が開いた参拝道だったのかもしれません。四国各地の霊山と行場を結ぶネットワークが、この時代にはあったことを押さえておきます。それをプロの修験者を辿ると「大辺路・中辺路・小辺路」と呼ばれ、近世には「四国辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
どちらにしても、南北朝の政治勢力と阿波の修験道は結びつきます。
これは土佐の長宗我部元親が修験者勢力をブレーンとして身近に置くことにもつながります。そのブレーンの中にいた修験者が、金毘羅大権現の松尾寺を任されることになるのです。話が逸れてしまいました。元に戻ります。
これは土佐の長宗我部元親が修験者勢力をブレーンとして身近に置くことにもつながります。そのブレーンの中にいた修験者が、金毘羅大権現の松尾寺を任されることになるのです。話が逸れてしまいました。元に戻ります。
吉野川からの高越山
高越山は、山容が美しい山です。
里から見て「おむすび山」に見える山を見上げて、人々は生活し、次第にそれを霊山と崇めるようになるというのが柳田國男の説です。それが素直に、うなづけます。人々が信仰する霊山は、支配者の祈願所にもなります。支配者の信仰を受けるようになると、いろいろな保護と特権を与えらます。南北朝の頃には、中央政権の足利氏や管領細川氏の保護を受けて教勢を拡大させます。これに対して神山の焼山寺の修験道が反抗するようになります。また近世になると新しく開山された剣山修験道が高越山に対立して活動するようになります。この対立は宗派的な対立と云うよりも山岳部と平野部のちがいによる経済的状況の反映だと研究者は指摘します。
その対立の図式は、高越山と吉野川をはさんで北側の讃岐との境にある大滝山修験道との関係で見ておきましょう。
大滝山は南朝勢力下にあったと云われますが、それを示す証拠はないようです。同じ阿讃山系の城王山には新田氏が拠城を置いて、伊笠山周辺を往来したといわれますが、その南朝勢力が西の大滝山まで及んだとかどうかは分からないと研究者は考えています。大滝山修験者と高越山は宗派的対立よりも、その間に拡がる吉野川流域の霞場(檀那区域)をめぐって対立していたとします。 ここでは、阿波の修験道の勢力構図は、高越山を中心に、それを取りまく諸山の山伏たちの対立として形成されていったことを押さえておきます。
最初に見た高越寺の寺僧宥尊の「摩尼珠山高越私記」(1665年)には、次のように記されていました。
「役行者=大和国の吉野蔵王権現」一体分身で、
「千手千眼大悲観世菩薩」が本尊
これと忌部氏の祖先神を「本地垂述」させることに、この書のねらいはあったようです。しかし、これスムーズに進まなかったようです。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」には、次のように記されています。(要約)
「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」
ここからは次のようなことが分かります。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説②非主流派は、「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏を祖神を地神
「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったとううことが分かります。しかし、こうした争いも蔵王権現優位のうちに定着します。これも山伏修験道の道場としての性格だと研究者は考えています。同時に、忌部伝説を信仰する勢力がこの時期の高野山にはいたことを押さえておきます。
粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」には次のように記します。
吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。
意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、さらに早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。
ここには吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だったとします。まさに高越山の由緒書きは、忌部氏褒賞物語でもあるようです。
ここには忌部信仰をすすめる修験者たちの思惑があったことがうかがえます。この忌部氏の祖を祀るのが、忌部神社であり、高越神社です。高越寺、高越神社ともに高越修験道の寺社として、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっていました。このように従来は、中世の忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされてきました。
ここには忌部信仰をすすめる修験者たちの思惑があったことがうかがえます。この忌部氏の祖を祀るのが、忌部神社であり、高越神社です。高越寺、高越神社ともに高越修験道の寺社として、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっていました。このように従来は、中世の忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされてきました。
忌部一族を名乗る20程の小集団は、忌部神社を中心とした小豪族たちでした。彼らは集団、婚姻などによって同族的結合をつよめていきます。その際に、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもつようになります。こうして擬制的血縁関係を育て、結びついていったようです。
鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いていたと云います。そのうちの一回は、忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。そこで正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。ここからも忌部神社は忌部一族の結束の場としての聖地だったことがうかがえます。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
彼らが残した記録をもとにして、高越山修験集団は語られてきました。私も「高越山は忌部修験道のメッカ」と書いたこともあります。しかし、これについては近年、疑問が投げかけられていることは以前にお話した通りです。
鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いていたと云います。そのうちの一回は、忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。そこで正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。ここからも忌部神社は忌部一族の結束の場としての聖地だったことがうかがえます。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
彼らが残した記録をもとにして、高越山修験集団は語られてきました。私も「高越山は忌部修験道のメッカ」と書いたこともあります。しかし、これについては近年、疑問が投げかけられていることは以前にお話した通りです。
以上をまとめておきます。
①高越山は山容もよく、古代から甘南備山として信仰対象の霊山とされてきた。
②もともと高越山には、忌部一族の祖先神が奉られていた。
③そこへ役行者が吉野の蔵王権現を勧進し、千手観音として高越山を開山した。
④そのため地主神としての忌部氏の祖先神との間には、その後もギクシャクした関係が残った。
④鎌倉時代になると高越山の麓には、熊野詣での先達を行う熊野行者が集住するようになり、修験者の一大勢力が形成されるようになった。
⑤彼らは忌部一族と結びつくことによって勢力を拡大した。
⑥このような高越山修験の拡大は、大瀧山の修験者勢力などとテリトリー(霞)をめぐる対立をもたらした。
⑦これらを宗派対立と捉えるよりも、信徒集団をめぐる対立と捉えた方がいいと研究者は考えている。
⑧南北朝時代の抗争もその範疇である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「阿波の修験道 徳島の研究6(1982年) 236P」
関連記事中世の阿波 祖谷の山岳武士と峠道
中四国の霊山12 徳島の高越山は忌部修験道のメッカだった
「阿波の霊山高越山=忌部修験の聖地」についての批判説を見ておく
中世の寺院 修験者・聖たちによる寺院の民衆化は、どのように進められたのか
阿波剣山の開山 木屋平の龍光寺と祖谷の円福寺について(補足版)
近世半ばまでの阿波の修験者たちは、高越山を中心に動いていたことを前回は見ました。そのような中で近世半ばになると剣山が開山されます。剣山は高越山に比べて高く、広く、地形も複雑で、行場となるべき所が数多くある修行ゲレンデです。修験道場としては、最適で多くの山伏を一時に多く受け入れることができました。人気の修行地となった剣山は急速に発展して、先進の高越山をしのぐようになります。こうして近世の阿波の山伏修験道は高越山・剣山の二大修験センターを道場として、阿波だけでなく、四国・淡路・備前など近国に剣山講・高越講を組織して発展することになります。今回は剣山開山を進めた木屋平の龍光寺と、祖谷の円福寺について、今まで紹介できなかったことを見ていくことにします。
テキストは「 阿波の山岳信仰 徳島の研究6(1982年) 236P」です。
テキストは「 阿波の山岳信仰 徳島の研究6(1982年) 236P」です。
剣山は、古くから開山された山ではないようです。18世紀によって修験者が活動を始めた山で、剣山と呼ばれるようになったのも開山後のことです。それまでは「太郎笈」「立石山」「篠山」と地元では呼ばれていたようです。それが修験者によって開山されると、それらしき山名の「剣」と呼ばれるようになったことは以前にお話ししました。
剣山の開山については、次の東西ふたつ寺の開山活動がありました。そして、それぞれの寺が次のような「登山基地」を開設します。
剣山の開山については、次の東西ふたつ寺の開山活動がありました。そして、それぞれの寺が次のような「登山基地」を開設します。
①東側の木屋平村の龍光寺が、富士の池に②西側の祖谷村菅生の円福寺が見ノ(蓑)越に
木屋平村の長福院龍光寺
まず龍光寺について見ていくことにします。『阿波志』に次のように記します。
「(木屋)平村谷口名に在り、平安大覚寺に隷す。旧長福寺と称す。大永二年(532)重造する。享保二年(1717) 今の名に改む。其の甚だしくは遠からざるを以って、剣祠を祀る」
意訳変換しておくと
「龍光寺は木屋平村の谷口名にある寺で、京都の大覚寺に属す。旧名は長福寺で、大永二年(532)の建立である。それが享保二年(1717)に、今の名に改められた。この寺では、それほど古くからではないが剣(神社)祠を祀る別当職を務めている。」
龍光寺は、享保二年(1717)までは長福寺と呼ばれていました。
長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つとされます。
江戸時代に入ると長福寺(龍光寺)は、剣山修験を立て「剣山開発」プロジェクトを進めるようになります。その一環が、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名でした。修験者(山伏)たちの好む「龍」の字を入れた「龍光寺」への寺名変更は、忌部十八坊からの独立宣言だったと研究者は考えています。
江戸時代に入ると長福寺(龍光寺)は、剣山修験を立て「剣山開発」プロジェクトを進めるようになります。その一環が、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名でした。修験者(山伏)たちの好む「龍」の字を入れた「龍光寺」への寺名変更は、忌部十八坊からの独立宣言だったと研究者は考えています。
龍光寺への寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクします。
修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」や「篠山」は、どこにでもある平凡な山名です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は軌道に乗ります。
ところが後世の『阿波名勝案内』には、次のように記します。
「弘仁五年(八一四)弘法大師の開基にかかり、利剣山長福寺と号す。伝え言ふ安徳天皇の蒙塵に当り、当寺に行在所を設け以って安全を祈り、平国盛一族中剃染して竜光房と名づけ、寺号をも龍光寺と改む。剣権現の本寺。」
意訳変換しておくと
「弘仁五年(814)に弘法大師が開基し、利剣山長福寺と号する。伝え聞くところに拠ると源平合戦で安徳天皇が当地に落ちのびてきた際には、当寺に行在所を設けた。その際に、平国盛は天皇の安全を祈って、一族が剃髪して竜光房と名乗り、寺号を龍光寺と改めた。剣山権現社(神社)の本寺(別当寺)である。」
ここでは平国盛の「平家落人伝説」が付け加えられています。そして、安徳天皇伝説ともリンクさせます。こういう手法は、修験者や山伏の特異とする所です。ここでは、次のような伝説が付け加えられています。
①空海開基で、長福寺と号した。②平家伝説を取り込み、平国盛が剃髪して竜光房と名乗ったので、寺号も龍光寺と改めたこと。
龍光寺は、剣山頂上の法蔵岩直下の剣神社の管理権を持っていました。その北側斜面の石灰岩の岩穴や岩稜が修行場でした。その剣修行のベースキャンプとして建設されたのが八合目の藤の池の「富士(藤)の池本坊」です。ここが山頂の剱祠の祀る剱山本宮になります。こうして多くの参拝信者を集めるようになり、龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
文化9年の木屋平村の権現
龍光寺が別当寺であった剣神社(剣山本宮)を見ておきましょう。
その「由緒」には、次のように記します。(要約)
「元暦二年(1185)平家没落当時、平家の家人である田口左衛門尉成直は、父の阿波国主紀民部成長と相談して、安徳天皇一行を長門の壇浦より、伊予大三島へ落ちのびさせて、その後伊予と阿波の山路を伝って祖谷山に導き入れた。その後、木屋平村に遷幸したと伝える。後世になって、祖谷山・木屋平二村の平家遺臣の子孫は相談して、富士の池を仮の行在所とした。また平家の再興を祈って、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。これが剣山大権現の呼称の由来とされ、以後はこの山を剣山と称するようになった。(中略)仏教の伝来とともに修験道の霊場となり、南北朝時代阿波山岳武士の本拠地となった龍光寺は、大同三年(808)僧行基の開基とされる。」
ここに書かれていることを要約すると
①安徳天皇一行は、壇ノ浦から大三島を経て祖谷に落ちのびてきて、最後に木屋平村に遷幸した。
②平家の子孫は、平家の再興を祈って富士(藤)の池を仮の行在所とし、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。
③龍光寺の開祖は行基である。
もともと平家落人伝説と安徳天皇伝説は、祖谷地方に伝えられたものです。それを「安徳天皇が木屋平村に遷幸」として、伝説の本家取りをしています。先ほど見たように、龍光寺が剣山を開山し、権現さまを奉ったのは18世紀になってからです。また富士の池を開発したのは、さらに後のことになります。
文化9年木屋平村の宗教景観
徳島氏方面の平野部から剣山に登るには、木屋平を目指しました。
そのため東側表口として木屋平は賑わったようです。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
そのため東側表口として木屋平は賑わったようです。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院
昔はもっとあったとようです。西側の拠点円福寺翼下一万人といわれる先達よりもはるかに多くの修験者を、龍光寺は支配下に持っていたことを押さえておきます。
円福寺(東祖谷山村菅生)
剣山修験の西の拠点は、東祖谷山村菅生の円福寺でした。
円福寺は菅生氏の氏寺で、この寺も「忌部十八坊」の一つとされます。現在本尊とするのは江戸時代の作といわれる不動明王(剣山大権現)です。しかし、「阿波誌」に「元禄中(1688~1703)繹元梁、重造阿弥陀像を安ず」とあります。ここからは、もともとは本尊は阿弥陀如来であったことが分かります。それがどこかの時点で、修験者の守り仏ともされる不動明王に入れ替えられたようです。それは、この寺に住持した修験者が行ったことと私は考えています。
円福寺のもともとの本尊 阿弥陀如来像
木屋平の龍光寺が富士の池に登攀センターを建設したように、円福寺も見ノ(蓑)越に、不動堂を建立します。
見ノ越の剣山円福寺
これが現在の「見ノ越の円福寺」のスタートになります。本尊は安徳天皇像を剣山大権現として祀り、両側に弘法大師像と供利迦羅明王像を配します。見ノ越の円福寺は、もともとは菅生の円福寺の不動堂として建立されました。ところが貞光側からの、見ノ越への登山道が整備されると、先達に引き連れられた信者達は、このルートを使って見ノ越の円福寺にやって来るようになります。それまで祖谷経由のルートは、距離が長いので利用者が少なくなります。その結果、参拝者が立ち寄らなくなった本家の菅生・円福寺は衰退していきます。こうして、現在では円福寺と云えば見ノ越の寺を指すようになったようです。 神仏混淆化で円福寺が別当として管理していたのが剣神社(旧剣権現)です。
この神社は、見ノ越の駐車場から長い階段を登った上にある神社です。剣神社のHPには、その由緒が次のように記されています。
この神社は、見ノ越の駐車場から長い階段を登った上にある神社です。剣神社のHPには、その由緒が次のように記されています。
「口碑に仁和時代へ九世紀末)」の創立。祖谷山開拓の際に、大山祗命を勧進して祖谷山の総鎮守とする。寿永年中(1185)、源平合戦に敗れた平家の一族が安徳天皇を奉じて祖谷の地にのがれ来たり、平家再興の祈願のため安徳天皇の『深そぎの御毛』と『紅剣』を大山祗命の御社に奉納。以来剣山と呼ばれ、神社も剣神社と称されるようになった。」
現在のHPには、別当寺の西福寺の管理下にあったことは一言も触れられていません。もともとは円福寺の社僧が管理する剣権現だったことを押さえておきます。剣神社の先達(出験者)たちも信者を連れて剣山北面の「鎖の行場」「不動の岩屋」「鶴の舞」「千筋の手水鉢」「引日舞」「蟻の塔渡り」などの行場で修業します。ちなみに剣神社の本社が、御塔石(おとうせき)を御神体とする大剣神社(おおつるぎじんじゃ)になるようです。
伴信友の『残桜記』には、大剣神社のことが次のように記されています。(意訳)
東祖谷山村と菅生の境界になる剣山頂上に鎮座する剣神社のある所は、木屋平村のものとも、また東祖谷山村のものとも云われ諍いが起きる原因となっていた。そこで明治初年頃に、美馬麻植郡の神職が剣神社の祭典に出社した際に、拝殿の中央に線を引き、これを境界とした。そして線の内側にあったものを、それぞれの村が収入した。その後、明治九年に郡界標石が建設され、以来今まで木屋平村のものとされていた山上の剣神社は祖谷山村に属することになった。
ここからは、拝殿の中央に線を引いて境界として、両者が共同管理していた時期があったことが分かります。これを剣神社をめぐる祖谷の円福寺と木屋平の龍光寺の対立とみることも出来ます。しかし、研究者は次のような別の視点を教えてくれます。
当山派・本山派共に大峰山を聖地として共有している。金峰山は金剛界を、熊野三山は胎蔵界を現わし、その中心である大峰山はこの二つを統一する一乗両部の峰であり、画部不二の曼陀羅の霊地である。そこで両派とも大峰山に結縁することを本願とする。こうした両派の発想と剣山頂上を聖地として共有しようとする阿波修験道の意図と等しい。
龍光寺と円福寺は競い合い、対立を含みながらも、剣山を聖地とする修験者の行場をともに運営していたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿波の山岳信仰 徳島の研究6(1982年) 236P
関連記事
剣山信仰の拠点である見ノ越の円福寺は、もともとは菅生にあった。
四国辺路の「大辺路・中辺路・小辺路」研究史を見ておく
四国遍路形成史の問題として「大辺路、中辺路・小辺路」があります。熊野参拝道と同じように四国辺路にも、大・中・小の辺路ルートがあったことが指摘され、これが四国遍路につながって行くのではないかと研究者は考えているようです。今回は、この3つの辺路ルートについての研究史を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」です。
大辺路・中辺路・小辺路の存在を最初に指摘したのは、近藤喜博です。
伊予の浄土寺の本堂厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
浄土寺の落書き(赤外線撮影)
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国中辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることが分かります。このような「四国中辺路」と書かれた落書きが、讃岐の国分寺や土佐一之宮からも見つかっています。
この落書きの「四国中辺路」について、近藤喜博はの「四国遍路(桜風社1971年)」で、次のように記します。
この落書きの「四国中辺路」について、近藤喜博はの「四国遍路(桜風社1971年)」で、次のように記します。
古きはしらず、上に示した室町時代の四国遍路資料に、四国中遍路なるものが見えてていたことである。即ち四国中辺路(大永年間) 讃岐・国分寺楽書四国中辺路(永世年間) 同上四国仲遍路(慶安年間) 伊予円明寺納札とあるのがそれである。時期の多少の不同はあるにしても、この中遍路とは、霊場八十八ケ所のほぼ半分の札所を巡拝することを指すのであるのか。それとも四国の中央部を横断するミチの存在を指したものなのか、熊野路には、大辺路に対して中辺路が存在していたことに考慮してくると、海辺迂回の道に対して中辺路といった、ある短距離コースの存在が思われぬでもない。四国海辺を廻る大廻りの道は困難を伴う関係から、比較的近い道として中辺路が通じたのではなかったろうか。
ここでは土佐から伊予松山に貫ける道を示し、このルートが中辺路としてふさわしいとします。近藤氏は熊野に大辺路、中辺路があるように、四国にも、次のふたつの大・中辺路があったとします。
①足摺岬を大きく廻るコースを大辺路②土佐の中央部から伊予・松山に至るコースを中辺路
①が足摺大回りルートで、②はショートカット・コースになるとしておきます。
宮崎忍勝『四国遍路』(朱鷺書房1985年)
宮崎忍勝氏は『四国遍路』(25P)で、49番札所の伊予・浄土寺の本堂厨子の墨書落書に書かれた「中辺路」について、次のように記します。
この「四国中邊路」とあるのは、ほかの落書にも「四国中」とあるので、四国の「中邊路(なかへじ)」ということではなく、四国中にある全体の邊路(へじ)を意味する。四国遍路の起源はこのように、四国の山岳、海辺に点在する辺地すなわち霊験所にとどまって、文字通り言語に絶す厳しい修行をしながら、また次の辺路(修行地)に移ってゆく、この辺路修行の辺路がいつのまにか「へんろ」と読まれるようになり、近世に入ると「遍路」と文字まで変わってしまったのである。
ここでは「四国中 邊路」と解釈し、邊路(へじ)とは、ルートでなく四国の修行地や霊地の場所のこととします。熊野路の「大辺路」、「中辺路」のような道ではなく、四国全体の辺路(修行地)が中辺路だというのです。
土佐民俗36号(土佐民俗学会)
高木啓夫は『土佐民俗』46号 1987年)に「南無弘法大師縁起―弘法人師とその呪術・その1」を発表し、その中で大遍路・中遍路・小遍路について、次のように解釈します。
①南無弘法大師縁起に、高野山参詣を33回することが四国遍路一度に相当するとの記載があること②ここから小遍路とは高野山三十三度のこと③「逆打ち七度が大遍路」
つまり遍路の回数によって大遍路・小遍路を分類したのです。しかし、中遍路については何も触れられていません。その後「土佐民俗」49号 1987年)の「大遍路・中遍路・小遍路考」で、次のように記されています。
「遍路一度仕タル輩ハ、タトエ十悪五ジャクの罪アルトモ、高野ノ山工三十三度参リタルニ当タルモノナリ」
の記述によって、高野山へ三十三度参詣した者を、四国遍路一度に相当するとして「小遍路」と称する。次に順打ちの道順での四国遍路二十一回するまでを「中遍路」と称する。次に、この中遍路三十一回を成就した上で、逆打ち七度の四国遍路をなした者、或はなそうとして巡礼している者を「大遍路」と称する。
ここでの解釈を要約しておくと、次のようになります。
①小遍路とは高野山へ33度の参詣②中遍路は順打ち21度の四国遍路③大遍路は中遍路21度と逆打ち7度
つまり高野山の参詣と逆打ちを関連づけて、遍路する場所と回数に重点をおいた説で、単に四国の札所だけを巡るものでなく、高野山も含めて考えるべきだとしました。
五来重氏は『遊行と巡礼』(角川書店、1989年、119P)で、室戸岬の周辺を例に挙げて次のように記します。
辺路修行というのは、海岸にこのような巌があれば、これに抱きつくようにして旋遍行道したもので、これが小行道である。これに対して(室戸岬の)東寺と西寺の間を廻ることは中行道になろう。そしてこのような海岸の巌や、海の見える山上の巌を行道しながら、四国全体を廻ることが大行道で、これが四国辺路修行の四国遍路であったと、私は考えている。
つまり辺路修行の規模(距離)の長短が基準で、小辺路はひとつの行場、中辺路がいくつかの行場をめぐるもの、そして四国全体を廻る大行道の辺地修行が四国遍路とします。
頼富本宏『四国遍路とはなにか」(角川学芸出版、1990)は、「四国中辺路」について次のように記します。
遍路者を規定する言葉として、多くは「四国中辺路」や「四州中辺路」などという表現が用いられる。この場合の「中辺路」とは熊野参詣にみられる「大辺路」「中辺路」「小辺路」とは異なり、むしろ「四国の中(の道場)を辺路する」という意味であろう。なわち複数霊場を順に打つシステムとして、先に完成した四国観音順礼が四国の遍路の複数化に貢献したと考えられる。なおこの場合の「辺路」は「辺地」を修行する当初の辺路修行とは相違して「順礼」と同義とみなしてよい。
ここでは四国中辺路とは「四国中の霊場を辺路する」の意味で、四国全体を巡る「四国中、辺路」ということになります。
21世紀になって四国霊場のユネスコ登録を見据えて、霊場の調査研究が急速に進められ、各県から報告書が何冊も出され、研究成果が飛躍的に向上しました。その成果を背景に、あらたな説が出されるようになります。その代表的な報告書が「四国八十八ケ所霊場成立試論―大辺路・中辺路・小辺路の考察を中心として」 愛媛大学 四国辺路と世界の巡礼」研究会編」です。その論旨を見ていくことにします。
①霊場に残された墨書落書について、従来から論争のあった「四国、中辺路」か「四国中、辺路」について、「四国、中辺路」と結論づけます。②中辺路は八十八ケ寺巡り、大辺路は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものとします。③小辺路についてはよく分からないが、阿波一国参り、十ケ所参り、五ケ所参りなどの地域限定版の遍路があったことの可能性を指摘します。
ここでは小辺路とは、小地域を巡る規模の小さな辺路という考えが示されます。そして16世紀前半期の墨書落書きの「中辺路」の関係について、次のように指摘します。
①室町時代の落書きに見る「中辺路」は八十八ケ所成立前夜のこと②大師信仰を背景に、霊場を巡る「辺路」が誕生したこと③それはアマチュアの在家信者も行える「辺路(中辺路)」であったこと④それに対してプロ修行者の「辺地修行」は「大辺路」であったこと
これは「室町時代後期=八十八ケ所成立説」になります。
四国遍路の八十八 の札所の成立時期については、従来は次の3つがありました。
①室町時代前期説②近世初期説③正徳年間(1711-1716)以降説、
①については高知県土佐郡本川村越裏門地蔵堂の鰐口の裏側には「大旦那村所八十八ヶ所文明三(1471年)天右志願者時三月一日」とあります。
裏門地蔵堂の鰐口
ここから室町時代の 1471 年(文明 3)以前に、八十八カ所が成立していたとされてきました。しかし、この鰐口については、近年の詳細な調査によって「八十八カ所」と読めないことが明らかにされています。①説は成立しないようです。③は、1689 年(元禄 2)刊行の『四国遍礼霊場記』には 94 の霊場が載せられていることです。その一方で、正徳年間以降の各種霊場案内記には、霊場の数は88 になっています。そのため札所の数が88 になるのは正徳年間以降であろうとする説です。しかし、この説も近年の研究によって『四国遍礼霊場記』には名所や霊験地も載せられ、それらを除外すると霊場数は88 となることが明らかにされていて、③説も成り立ち難いと研究者は考えているようです。そうなると、最も有力な説は②の「近世初期説」になります。
そのような中で先ほど見た「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史は「室町時代後期=八十八ケ所成立説」をとります。この点は、一度置いておいて研究史をもう少し見ておくことにします。
寺内浩は「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』第五号、四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和2年、17P)で、 次のような批判を行っています。「中辺路」は八十八ケ所巡り、「大辺路」は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものであって、むしろ奥深い山へ踏み込むことが多かった」として、「小辺路」はのちに各地で何ケ所参りと呼ばれるようになる地域的な巡礼としている。このうち、大辺路・中辺路については基本的に支持できるが、小辺路については賛成できない。同じ辺路なのに大辺路・中辺路は四国を巡り歩くが、小辺路だけ特定の地域しか巡らないとするのは疑問である。(中略)大辺路と中辺路の違いが、訪れる聖地・霊験地の数にあるならば、小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべきであろう。
ここでは「小辺路が特定の地域しか巡らないとするのは疑問」「小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべき」と指摘します。
その上で小島博巳氏は、六十六部の本納経所の阿波・太竜寺、土佐・竹林寺、伊予・大宝寺、讃岐・善通寺を結ぶ行程のようなものが小辺路ではないかとの説を提示します。
これらの先行研究史の検討の上に、武田和昭は次のような見解を述べます。
①「大辺路・中辺路・小辺路」がみられるのは、1688(元禄元)年刊行の『御伝記』が初出であること。そして『御伝記』は『根本縁起』(慶長頃制作)を元にして制作されたもの。
②『根本縁起』には「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあり、大・中・小辺路は見られない。「大辺路・中辺路・小辺路」の文言は『御伝記』の作者やその周辺の人達の造語と考えられる。
③胡光氏の「中辺路は八十八ケ所、大辺路はそれを上回る規模の大きなもの、小辺路は小地域の辺路」の解釈は、澄禅、真念、『御伝記』などの史料から裏付けれる
④小辺路については1730(享保十五)年写本の『弘法大師御停記』に「大遍路七度、中遍路二十一度、小辺路と申して七ケ所の納る」とあり、小辺路について「七ケ所辺路」と記していることからも、胡氏の説が裏付けられる。
⑤しかし、室町後期の墨書は「四国辺路」と「四国中辺路」に分けられ、大辺路、小辺路はみられない。
⑥「四国中辺路」は、『根本縁起』に「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあるので、辺路よりも中辺路の方が距離や規模が大きい
⑦『御伝記』の「大辺路・中辺路・小辺路」の「中辺路」と室町後期の墨書「中辺路」とは成立過程が異質。
以上から八十八ケ所の成立を室町時代後期に遡らせることは、現段階での辺路資料からは難しいと武田和昭は考えているようです。
以上、「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史を通じて、四国遍路の成立時期を探ってみました。その結果、現在では四国遍路の成立については2つの説があることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」
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中世の志度道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの一大根拠地であった。
志度寺縁起
志度寺には貴重な縁起絵巻が何巻もあることは以前にお話ししました。この絵巻が開帳などで公開され、そこで絵解きが行われていたようです。志度寺には勧進聖集団があって寺院の修造建築のために村々を勧進してまわったと研究者は考えています。彼らの活動を、今回は見ていくことにします。テキストは「谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸」です。
この本の中で谷原博信氏は、次のように指摘します。
「志度寺に伝わる縁起文を見ると唱導を通して金銭や品物を調達し、寺の経済の力となった下級の聖たちの存在のあったことが読みとれる。・この寺には七つもの縁起があって、いずれも仏教的な作善を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると教説したようだ。
白杖童子蘇生縁起
「白杖童子蘇生縁起」のエッセンスを見ておきましょう。
「白杖童子蘇生縁起」のエッセンスを見ておきましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につられ、閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうちに「一堂建立」の願いごとが判明した。閻魔王は感嘆して「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」こういうことで童子は蘇生の機会を得て、この世に生還した。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生した。
要点を整理しておくと
①京都の童子・白杖、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた
①京都の童子・白杖、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた
②貧しいながら童子は、お寺建立の大願を持ちお金を貯めていた
③閻魔大王のもとに行ったときに、そのことが評価され、この世に蘇らされた
④白杖は志度寺を建立し、極楽往生を遂げた。
③閻魔大王のもとに行ったときに、そのことが評価され、この世に蘇らされた
④白杖は志度寺を建立し、極楽往生を遂げた。
さて、この縁起がどのようなとき、どのような所で語られていたのでしょうか?
志度寺の十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵の開示が行われ絵解きが行われていたと研究者は推測します。そこには庶民に囚果応報を説くとともに、寺に対する経済的援助(寄進)が目的であったというのです。前世に犯したたかも知れない悪因をまぬかれる「滅罪」ためには、仏教的作善をすることが求められました。それは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などです。
「白杖童子蘇生縁起」では、貧しい童子が造寺という大業を成したことが説かれています。
「童子にできるのなら、あなたにもできないはずはない。どんな形でもいいのです。そうすれば、現在の禍いや、来世の世の地獄の責苦からのがれることができますよ」
という勧進僧の声が聞こえてきそうです。
「白杖童子蘇生縁起」では、貧しい童子が造寺という大業を成したことが説かれています。
「童子にできるのなら、あなたにもできないはずはない。どんな形でもいいのです。そうすれば、現在の禍いや、来世の世の地獄の責苦からのがれることができますよ」
という勧進僧の声が聞こえてきそうです。
志度寺縁起や縁起文も、それを目的に作られたものでしょう。そう考えると、志度寺の周りには、こうした物語を持ち歩いた唱導聖が沢山いたことになります。これは志度寺だけでなく、中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていたのです。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
志度の道場が、伊予の石手寺とともに修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼といったいわゆる民間宗教者の四国における一大根拠地であったことを押さえておきます。
志度寺は「閻魔王の氏寺」ともされてきました。そのため「死度(寺)」とも書かれます。
志度寺は「閻魔王の氏寺」ともされてきました。そのため「死度(寺)」とも書かれます。
死の世界と現世との境(マージナル)にあって、補陀落信仰に支えられた寺でした。6月16日には、讃岐屈指の大市が開かれて、近隣の人々が参拝を兼ねてやってきて、賑わったようです。志度寺の前は海で、その向こうは小豆島内海や池田です。そのため海を越えて、小豆嶋からも志度寺の市にやってきて、農具や渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めて帰ったと云います。特に島では樒の葉は、必ずこの市で買い求めたようです。逆に、志度寺周辺からは多くの人々が、小豆島の島八十八所巡りの信者として訪れていたようです。島の内海や池田の札所の石造物には、志度周辺の地名が数多く残されています。
どちらにしても志度寺の信仰圈は、小豆島にまでおよび、内陸部にあっては東讃岐を広く拡がっていました。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいます。逆に、先達達に引き連れられて、四国側の人々は海を渡って、小豆島遍路を巡礼していたのです。その先達を勤めたのも勧進僧たちだったと私は考えています。
盆の九日には、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
十日に参ると万日参りの功徳があるとされます。この日には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来る人達がいました。参詣者は、これを買って背中にさしたり、手に持って家に返ります。これに先祖の霊が乗りうつっていると伝えられます。別の視点で見ると、先祖の乗り移った樒を、志度寺まで迎えに来たとも云えます。そのため帰り道で、樒を地面などに置くことは厳禁でした。その樒は、盆の間は家の仏壇に供えて盆が終わる15日が来ると海へ流します。つまり、先祖を海に送るのです。ここからも志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。
以上をまとめておきます。
①志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていた。
②そこでは仏教的な作善で、蘇りも、極楽往生もできると説教されるようになった。
③そのため志度の道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの下級の民間宗教者の一大根拠地となっていった。
④彼らは開帳や市には、縁起や絵巻で民衆教化を行って、勧進活動を進めた。
⑤そのため志度寺には、絵巻物が何巻も残っている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸⑤そのため志度寺には、絵巻物が何巻も残っている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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剣山信仰の拠点である見ノ越の円福寺は、もともとは菅生にあった。
見ノ越の剣山円福寺(神仏分離前の鳥居が残る)
現在の四国剣山の登山基地は、登山リフトがある見ノ越で、多くのお土産店や食堂などが建ち並んでいます。この地を開いたのは、円福寺の修験者たちだったことを前回は見ました。円福寺は別当寺として、剣神社を管轄下においていました。円福寺と剣神社は、神仏混淆下では円福寺の社僧によって、管理されていました。そして、見ノ越には、剣山円福寺と剣神社しかありませんでした。そのため、見ノ越周辺に広大な寺社域を持っていました。
今回は、剣山開山以前の円福寺を見ていくことにします。テキストは、「東祖谷山村誌601P 剣山円福寺」です。円福寺には寺伝はありませんが、その所伝によれば、次のように伝えられているようです。
①剣山円福寺は、菅生(すげおい)の円福寺の不動堂として出発し②龍光寺の剣山開山と同じ時期に、菅生の円福寺も見ノ越に進出した③東の木屋平の拠点が龍光寺、西の見ノ越の拠点が円福寺として、剣山信仰の根拠となった④現在の本尊は安徳帝像を剣山大権現として祀り、その右脇に弘法大師像、左脇には倶利迦羅明王像を安置
この言い伝えを参考にしながら、円福寺の歴史を見ていくことにします。
残された仏像などから創建はかなり早く、遅くとも鎌倉時代までさかのぼるものと研究者は考えています。この寺は南北朝時代に土豪菅生氏の氏寺として創建され、室町時代には「忌部十八坊」の一として活躍したとされます。寺名に福の字のつくのが十八坊の特徴と云われます。円福寺の現在の管理者は井川町地福寺(これも十八坊の一)となっていますが、その頃には、すでに関係があったようです。しかし、中世の歴史は資料に裏付けられたものではありません。
「忌部十八坊」説は、高越山を中心とする忌部修験や十八坊の存在を前提とし、「当為的願望」による記述が重ねられてきました。しかし、それが根本史料によって確認されたものではないという批判が出されていることは以前にお話ししました。ここでは安易に「忌部十八坊」と結びつけることは避けておきます。
『阿波志』は、菅生・円福寺について「小剣祠(剣神社)を管す」と記します。
ここからは円福寺が剣神社を所管し、その社僧であったことが分かります。これは剣神社と同じ見ノ越にある剣山円福寺の所伝に「当寺は菅生の円福寺の不動堂として発足した」と一致します。
ここでは、菅生・円福寺がもともとは剣神社と剣山円福寺を管理する立場にあったことを押さえておきます。
菅生の円福寺の仏像を「東祖谷山村誌620P」を、参考にしながら見ていくことにします。
弘法大師座像(祖谷山菅生の円福寺)
本堂の須弥壇には、弘法大師坐像が安置されています。左手に珠数をとり、右手に五鈷を握る普通の姿で、像高41㎝。寄木造りではあるが内刳(うちくり)はなく彩色がほどこされています。八の字につりあげた眉、ひきしまった顔、両肩から胸にかけての肉どりに若々しい姿です。 一般に弘法大師像は、時代が下るにしたがって老僧風に造られるとされています。この像、は若々しい感じなので、室町時代にさかのぼると研究者は考えています。 なお、座裏面に次のように墨書銘があります。
享保四年八月吉日 京都仏師造之 千安政六年末吉良日彩色」
ここからは、享保四(1719)年に、京都の仏師によって座が造られ、安政六年(1859)に彩色されたことが分かります。この弘法大師座像からは、室町時代には祖谷に弘法大師信仰が伝えられ、この像が信仰対象になっていたことが分かります。
次に阿弥陀堂本尊の阿弥陀如来立像です。この「阿波志」に出てくる像とされるものです。
阿弥陀如来(菅生西福寺の阿弥陀堂)
像高79㎝、寄木造り、内刳、上眼で、漆箔は前半身と後半身とで様子が変っています。前半身は後補、両袖部には、エナメルのようなものが塗られていますが、これも近年のものと研究者は指摘します。全体を見ると飽満な体躯や繁雑な衣文等からみて室町時代の作、光背は舟形光背で114㎝高、台座47㎝高、ともに江戸時代の後補と研究者は考えています。以上からこの寺の中世に遡る弘法大師坐像や阿弥陀如来からは、「弘法大師信仰 + 浄土阿弥陀信仰」が祖谷山に拡がっていたことがうかがえます。そして、これらを伝えたのは、念仏聖達や廻国の修験者たちであったはずです。その教線の元には、井川町の地福寺があったのではないかと私は考えています。
この像の左右に、脇侍として、不動、昆沙門の両像が置かれています。像高は不動像が27、5㎝と小さいのに対して毘沙門天は71㎝と左右の像のバランスがとれていません。ともに一木造り・彩色ですが、別人の作で、ありあわせのものを代用したものと研究者は推測します。
なお阿弥陀堂には、賓頭盧(びんずる)像、像高71㎝、一木造り・内刳がなく彫眼、彩色のユーモラスな作品があるようです。
菅生の円福寺の今の本尊は、江戸時代の作品である不動明王像(剣山大権現)です。
しかし、これは当初からの本尊ではないようです。それは『阿波志』に、次のように記されているからです。
円福寺 祖山菅生名に在り 元禄中繹元梁重造す 阿弥陀像を安ず
ここからは、菅生・円福寺は元禄年間には、菅生にあって阿弥陀如来像(室町時代)が本尊であったことが分かります。この阿弥陀如来像は、今は境内の阿弥陀堂に安置されている像のようです。
菅生西福寺の阿弥陀堂
阿弥陀堂は、宝形造の堅牢な造りです。このお堂には阿弥陀像の外に、賓頭盧(びんずる)像もありますが、なぜか阿弥陀堂自体は部落の管理となっています。以上の経緯を推察すると次のようになります。
①中世のことはよく分からないが菅生円福寺は、元禄時代に再建された。
②その時の本尊は、念仏信仰に基づく阿弥陀如来であった。
③その後、修験者たちの活動が活発化し、祖谷山側からの剣山開山の前線基地となり、本尊も不動明王に替えられた。
④その間に地元信者との軋轢があり、以前の本尊は新たに建立された阿弥陀堂に移されることになった。
元禄年間(1688~1704)に、『阿波志』は、元梁という僧によって菅生・円福寺が再建されたとあることは、先ほど見たとおりです。しかし、再建者・元梁の墓は、この寺にはありません。
宥尊上人以降の歴代住職の名は、次のように伝えられます。
「①宥尊上人―②澄性上人―③恵照上人―④宥照上人―⑤稟善上人―⑥井川泰明―⑦法龍上人―⑧宣寛上人」
しかし、江戸期のもので境内にあるのは、次の2基だけのようです。
「享和元年(1801)九月三日寂 阿閣梨宥尊上人「安政四年(1857)巳九月十八日 阿閣梨法印宥照上人」
それも19世紀になってからの墓です。近世前半の墓はないのです。
これをどう考えればいいのでしょうか?
以上を整理して私なりに推察すると次のようになります。
①中世に、西福寺は菅生氏の氏寺として建立された。
②その後、念仏聖によって、阿弥陀信仰が流布され、阿弥陀如来が安置され、同時に弘法大師信仰も持ち込まれた。
③戦国期の動乱で、荒廃した伽藍を元禄時代に元梁が再建し、阿弥陀如来を本尊とした。
④その後、修験者たちの活動が活発化し、本尊が不道明王とされた。
⑤さらに修験者たちは木屋平の龍光寺の剣山開山の成功をみて、見ノ越に、新たな西福寺を建立し、剣参拝登山の拠点とした。
剣山円福寺は、幕末頃には本寺筋の菅生の円福寺よりも繁盛する寺となります。
明治の神仏分離令によって、神仏混交を体現者する修験道は、厳しい状況に追い込まれました。しかし、剣山の円福寺と龍光寺は、それを逆手にとって、先達の任命権などを得て、時前の組織化に乗りだします。こうして生まれた新たな先達たちが新客を勧誘し、先達として信者達を連れてくるようになったのです。つまり組織拡大が実現したのです。剣山円福寺傘下の先達は一万人を越え、香川、愛媛、岡山の信者も含んでいます。
明治の神仏分離令によって、神仏混交を体現者する修験道は、厳しい状況に追い込まれました。しかし、剣山の円福寺と龍光寺は、それを逆手にとって、先達の任命権などを得て、時前の組織化に乗りだします。こうして生まれた新たな先達たちが新客を勧誘し、先達として信者達を連れてくるようになったのです。つまり組織拡大が実現したのです。剣山円福寺傘下の先達は一万人を越え、香川、愛媛、岡山の信者も含んでいます。
ところが明治以後の円福寺の阿波の先達は、三好、美馬両郡に集中して、麻植郡以東の人が始どいません。これは、藤ノ池の龍光寺と参拝客を分けあう紳士協定を結んだからのようです。つまり
①円福寺 三好・美馬郡の先達②龍光寺 麻植郡以東の先達
そして、①の先達達が讃岐・伊予・岡山への布教活動を展開し、信者を獲得していったようです。①の先達(修験者)の拠点が池田の箸蔵寺になります。箸蔵寺が、近代になって隆盛を誇るのも、円福寺の剣山信仰と結びついて、発展したことが考えられるようです。
そして明治維新をむかえると、見ノ越を中心とする登山ルートの開発もあって、出先の剣山円福寺の方が主になり、本家の菅生・円福寺は荒廃するようになります。こうして、明治から昭和にかけては専住の住職のいない時期も続くようになります。その期間は、井川町地福寺が兼務しています。こうしてみると、円福寺は井川町の地福寺の末寺的な存在であったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「東祖谷山村誌601P 剣山円福寺」
剣山開山 祖谷山村の円福寺
阿波石堂山 お塔石と石堂をみながら修験者たちの活動を考える
剣山開山 祖谷山からの剣山参拝ルートを開いた円福寺
以前に、剣山開山について次のようにまとめました
①剣山は近世前半以前には信仰対象の山ではなかったこと
②近世後半になって剣山を開山したのは、木屋平側の龍光寺の修験者であったこと
③これに続いて見ノ越側の円福寺が開かれ、2つの山岳寺院が先達修験者を組織し、多くの信者達の参拝登山が行われるようになったこと
これについては、龍光寺は史料的にも押さえましたが、円福寺の場合は、それが出来ていませんでした。今回は祖谷側からの剣山開山を進めたとされる円福寺を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌583P 山岳信仰」です。
東祖谷山村誌
『阿波志』は、江戸時代の剣山について次のように記します。(要約)
「大剣山 四季の中、春はわずかで消え、夏は長くない。それ故、人は敢て登らない。西は美馬郡菅生名をへだたること四里、南は那賀郡岩倉を、へだたること六里ほど、東は麻植郡茗荷(みょうが)名をへだたること二里、この間人家もなく、登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。茗荷名からの道に渓があり、これを垢離取(こりとり)川と言う。登山者はここで必ず水浴し、下界のけがれをはらう。その上を不動坂という。不動石像が渓中にあって、時には水没してみえない。(中略)頂上近くの平坦な所を神将と言う。春には赤や自の草花が咲き乱れる。これを過ぎれば、頂上となり、石があって宝蔵という。西南に二石あり太郎笈、次郎笈と言う。三百歩行くと削って造ったと思われる石があり不動石という。その下に渓谷がある。これらの谷は大小の剣が交わっているかのようである。
この中には、コリトリや不動坂など熊野や大峯の山岳聖地を模した名前が出てきます。また、剣山のことを、別名小篠(こざさ)とよびましたが、これは修験の行場に由来する命名です。さらに、龍光寺の藤の池本坊の祭日は、熊野の那智神社と同じ、7月14・15日です。ここからは、剣山を開山したのが修験者たちで、彼らは熊野や吉野の修験修行場のコピー版を、この地に開こうとしていたことがうかがえます。また「登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。」とありますので、この時点では富士の池や見ノ越に登山宿泊施設は、まだなかったようです。
剣山に当時の人々は、どんな姿で登っていたのでしょうか?
文化、文政の頃の永井精古の『阿波国見聞記』には次のような律詩が載せられています。
法螺贅裏艦山人白布杉清不帯塵霊秀所鐘斉仰止侍天雙剣五雲新
剣山と次郎笈(拡大) 祖谷山絵巻
ここからは法螺貝ををふき、白装束に身を包んだ一行が、剣山への山道を登る様が映写されています。これは、山伏を先達とする参拝登山で、『勧進帳』の源義経、弁慶一行の行脚姿に似ていたかもしれません。
異本阿波史には、次のように記されています。
この山の御神体と崇む。別に社等なし。ここに古えより剣を納む。この巌に立あり。風雨これをおかせどもいささかも錆びず。誠に神宝の霊剣なり。六月七月諸人参詣多し。菅生名より五里、この間に人家なし。夜に出て夜に帰ると言う。その余、木屋平山より参詣の道あり。諸人多くはこれより登る。
意訳変換しておくと
この山(剣山)自体を御神体として崇む。これといった社殿はなどはない。ここに昔、剣を納めたという。また、ここには剣のように立つの巌がある。風雨に侵されても、いささかも錆びない。誠に神宝の霊剣である。六月七月には、多くの人たちが参詣する。その際に、菅生名から五里の間に人家はないので、夜に出て、夜に帰る強行軍だと言う。その他には、木屋平山側から参詣の道があり、多くの人は、こちら側の道を利用する。
大剣岩と大剣神社
剣山の大剣岩
ここには、山頂の法蔵岩のことは何も触れられません。出てくるのは大剣岩で、これが御神体だとします、そして社殿はない。宿泊施設もないと記します。見ノ越の円福寺は出てきません。つまり、これが書かれたのは、見ノ越に宿泊施設も兼ねた(剣山)円福寺が出来る以前のことのようです。円福寺の寺伝には、次のように記されています。
安徳帝の御遺勅に「朕が帯びていた剣は清浄の高山に納め守護すべし」と宣いになったので、御剣を当山(石立山)に納め、剣山大権現と勧請まします」とあります。ここには、近世になって語られるようになった平家伝説に附会したかたちで、安徳天皇の剣を埋めた霊山=剣山」として記されています。
大正十一年刊の『麻植郡誌』は「安徳天皇と剣山」の項に、次のような伝承を載せています。
平国盛は安徳帝を奉じて、屋島を逃れ阿波に入り、元暦2(1185)年の大晦日に祖谷に入って阿佐にお泊まりになった。ある時、剣山に登って武運長久を祈り、剣を祀らんとされたが、その時丁度岩が口を開く様に割れたので、そこに御剣を納めた。すると、岩は又口を閉した。この時までこの山を石立山と呼んでいたのであるが、それからは剣山と呼ぶことになった。剣を納めた岩を宝蔵石と呼んでいる。剣山の絶頂は平家の馬場という広い草原になっていて、鈴竹という竹が群生している。椛に竹の葉を横断して、点線状の穴のあいているものがある。これを里人は馬の歯形笹と呼んで、龍の駒が鳴んだものだと珍重するのである。又、 一説には安徳天皇の馬であるとも言う。(一部訂正)」
「(頂)上は樹木なく一円小笹原なり、晴天には必ず龍馬出てここに遊ぶ、この笹を食うという。毛色赤くして二歳駒程なり、今これを見る人多し。(要約)」
晴天の時には、剣の山頂には「龍馬」が現れて、山頂に生えている笹を食む。その馬は二歳の若駒で、これを見た人は多いと云うのです。
剣山頂の法蔵岩
これに対して、元木直洲の『燈下録』(文化9(1812)年)は、「剣山=平家伝説」説を否定して、次のような説を現します。(意訳・要約)
剣山に祀られた剣は、阿波の国霊、大宜都比売神を殺した素蓋鳴命のものだ。木屋平口から剣山に登る途中には、竜光寺の坊と思われる庵があって、そこに住む老人が、更に奥院に参詣することが許されるかどうかを神様に伺って参拝者に示すというのである。
ここには、剣山に埋められた剣は安徳天皇のものではなくて、素蓋鳴命のものだとされています。ここで注目しておきたいのが、前述の『阿波志』にも「敢てこの庵から婦人は更に奥に進まない」と記されていることです。人々の信仰の対象となる山は、日頃から人々の立ち入りを許さない山でもありました。だから、登山には神による許可が必要でした。その入山許可を与えたのが龍光寺だと記します。剣山が円福寺、竜光寺の指導の下に山伏(修験者)にって開かれたことがここからもうかがえます。
剣山が、先達・山伏たちが信者を連れてくる「集団登山」として、龍光寺と円福寺やが剣山信仰の拠点として栄えてきたことを押さえておきます。
夫婦池方面から丸笹・見ノ越方面(祖谷山絵巻)
明治維新の神仏分離で、霊山剣山の地位が動揺した時期がありました。
維新政府の神仏分離令発布と、山伏禁止令が出されたからです。これによって、熊野、那智、大峰などの修験者聖地の威令が衰え、聖護院や醍醐寺の統制力が弱まっていきます。これに対して、円福寺や龍光寺の山伏たちは、逆境を逆手にとっていきます。それまでは、中央の修験本山の許可によった山伏修験者の大先達、先達等の位階の任命権を、自分たちが握ろうとしたのです。そして、円福寺と龍光寺は中央から独立し、拠り所を失った山伏達を再組織して、剣山信仰へと導いたのです。
円福寺に残る明治15年文書には、次のように記されています。
何某 何房(赤地金襴紫何 級輪袈裟着用許可能事年号月日真言宗剣山 円福寺主 権少講義何某右者許容書これは袈裟着用の許可文(認可状)の形式で、この形式に基づいて、袈裟を発行していたことが分かります。別に、次のようなものがある。許可次第第一 明治十五年六月二百五十枚用意 先達免状渡第二 同年初テ三十枚用意 近士戒第三 同右同枚 法名院号許可第四 同百枚用意 大先達許客証第五 同二十枚用意 袈裟許可仕也右五ヶ御許可仕事別義何組長或副長申付仕能事御宝剣御巻物等ハ勤功之次第二依而被渡仕也明治十五午年定
ここからは明治15年に、円福寺が上記のような規定をつくり、免状・院号・先達書・袈裟許可書など作成し、先達や信者に与えたことが分かります。つまり、これらの証明書や許可状の発行権を持っていたのです。
剣山円福寺
円福寺の護摩祈祷や剣神社の祭りには、どんな行事が行われていたのでしょうか?
東祖谷山村誌には、剣神社の最高位の先達であった元老大顧間の森本長一氏の次のような話が載せられています。
円福寺の境内には、一坪ばかり石を築いた小高い所があり、この上を護摩の建火場として、僧侶がこれに向って経文を唱える。周囲には先達を始め、多数の参詣人が白装束で立っている。護摩の焚木には、その者の住所、名前、千支、性別が記されてあり、桧でできているが、それにシキミの葉を添えて、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずるのである。護摩を焚く間、先達の免状としてある木札すなわち絵符をその先につけた杖は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。絵符は杖につけやすいように下駄状の歯が着いており、歯には中央に穴があいているので、それに杖を差しこんで紐で結びつけるのである。円福寺の護摩法要戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守としたことがあったそうだ。現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。御神水は何年おいてもくさらない水で、これを飲むと無病息災、病気の人も不思議と回復するという。これを神棚に祀ったりもする。
円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多いそうだが、剣神社の信者もそうで、戦前には香川から獅子舞もやってきたそうだ。
剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。講中には例えば、森本長一氏の場合、森本会という組織をつくっておられる。先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣するのである。森本会には二人の女性の先達がいるそうだが、神社全体では十人内外の女性先達がいる。行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。
要点を整理しておくと
①円福寺の境内で護摩祈祷が行われ、周囲に先達や多数の参詣人が白装束で参加した。
②護摩の焚木(檜)に、参加者の住所、名前、千支、性別が記して、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずる
③護摩を焚く間、先達免状の木札(絵符をその先につけた杖)は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。(先達の叙任式を兼ねていた)
④戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守とした
⑤現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。
⑥円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。
⑦円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多く、戦前には香川から獅子舞もやってきた。
⑧剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。
⑨先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。
⑩先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣する。
最後に剣山の主な行場を、次のように挙げています。
鎖の行場鉄の鎖が滝にそって降されており、それを握って滝を下る修行をする。不動の岩屋洞穴の中に不動尊を祀ってあるが、その不動尊に水が落ちている。夏でも一般の人なら十分間と中に入っておれない冷たさだという。鶴の舞鶴が翼を広げ、胸を張った姿の様に岩が張りだしており、そこを廻るのである。千筋の手水鉢水が流れて岩が縦に割れ、たくさんの筋状になっている。それを降りるのである。引臼舞引臼状をした岩を廻るのである。蟻の塔渡り足場の岩が刻みこんであり、そこに左右の足を突込んで廻る。もし左右の足の位置を間違えれば出発点にもどってやりなおすしかないという。
以上をまとめておきます。
①江戸時代後半になって、木屋平の龍光寺の修験者たちによって剣山は開山され、富士の池を通じて、多くの参拝登山者が先達たちに率いられてやって来るようになった。
②祖谷側では菅生の円福寺が見ノ越を拠点に大剣神社を神体とする石鎚信仰を広めた。
③龍光寺と円福寺は、信者テリトリーを分割して、共存共栄関係にあった。
④明治の神仏分離や山伏禁止令の中でも、両寺は教勢を失わずに信者達を集め続けた。
⑤こうして見ノ越の円福寺は、本家の菅生・円福寺を凌駕するに至った
こうして、見ノ越の円福寺は明治の神仏分離以後も剣山の見ノ越側の拠点として繁栄を続けることになります。ところで、江戸時代後半になって見ノ越に現れた円福寺は、もともとはどこにあったお寺なのでしょうか。それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世の阿波 祖谷の山岳武士と峠道
旧東祖谷村の峠
阿波の剣山西方に拡がる祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきました。今回は中世の祖谷地方が、どんなルートで外界とつながっていたか見ていこうと思います。それは、熊野修験者たちの活動ルートとおもわれるからです。
テキストは「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」です。
阿波の剣山の東南に拡がる祖谷地方には、平家の落人伝説が残っています。まずは、源平の屋島合戦に敗れた平國盛は、どんなルートを使って祖谷渓に落ちのびたかを見ていくことにします。
平国盛は清盛の甥にあたる
手東愛次郎は「阿波史」で、次のように記します。
寿永二年讃州八島(屋島)の軍破れしかば門脇宰相平國盛兵百人計り語ひて(安徳))皇を供奉す、同國志度の浦に走り遂に大内郡水主村に移り、数日あって阿州大山を打越え十二月晦日祖谷の谷に到り大枝の荘巖の内にて越年し云々。
意訳変換しておくと
寿永二(1183)年讃岐屋島の壇ノ浦の戦いで敗れた平氏の門脇宰相平國盛は兵百人ばかりで(安徳)天皇を供奉し、志度浦に逃れ、そこから大内郡水主村に移り、数日後には大坂峠を越えて、阿波に入り、12月晦日に祖谷に到り、大枝で越年した。
「阿州大山(大坂峠)を打越え 十二月晦日祖谷の谷に到り」とあります。古代の南海道は、阿波と讃岐を往復するのには大坂越が使われていました。阿波に上陸した源義経も、屋島侵攻時には、この峠を越えています。
とありますが兵百人が軍団姿のままで落ちのびたとは思えません。東讃は、すでに義経配下に入った武士団の支配下です。「勧進帳」に描かれた弁慶・義経一行のように修験者姿にでも変装しておちのびたのかもしれません。平國盛は阿波に入ると、吉野川を東に遡ります。
井ノ内ー水の口峠の祖谷古道の復活記事
研究者は、以下のような祖谷への4つのルートを挙げます。①三好郡井川町辻から、井ノ内谷を南に越え、水の口峠を経て、寒峰を横切って東祖谷山大枝へ②吉野川上流の三名方面から、国見山を経て後山へ③池田から漆川(しつかわ)を経て、中津山を越えて田ノ内へ④三好郡三加茂から桟敷峠を越えて、深渕・落合峠を越えて落合へ
これらが当時の吉野川方流域からの祖谷地方への交通路と考えられます。④の落合峠越は後世の人々が、生活必需品として讃岐の塩と山の物産を交換した「塩の道」であったことは以前にお話ししました。
文化十二(1815)年の「阿波志」は、「祖谷に到る経路几そ五」と祖谷への5つのルートを挙げています。
①小島(おじま)峠②水ノ口峠③栗ヶ峰経由④榎の渡しから吉野川を横切って下名に出るもの⑤有瀬(あるせ)から土佐への街道ヘ出るもの
これらのコースを見るとどれも、必ず千mを越える峠を越えなければなりません。それが永い間、秘境として古い文化を今に伝えることができた要因のひとつかもしれません。
源平合戦から約50年後の元弘二年(1332)、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王が土佐に流されます。
翌年に鎌倉が新田義貞によって陥落したので京に召還されます。これを知らずに、皇妃唐歌姫(からうたひめ)は親王を慕って追いかけ、西祖谷山を経て土佐に入ります。そして親王が京に帰られたことを聞き、京に戻ろうとしますが、帰途に西祖谷山の吾橋で亡くなったという物語があります。ここからは土佐への往還は、古代の紀貫之が京への帰還時に使った阿波沖を伝っての海路とともに、吉野川東側の山路のルートがあったことがうかがえます。
このとき皇妃唐歌姫の土佐ルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
讃州引田より大山(大麻峠)を越え、吉野川に沿ひ、三好郡松尾村の山峯より中津山に登り、峯伝いに西祖谷の田の内名に下り、一宇名を経て更に吾橋名の南山を越え、有瀬名に出て土佐の杖立山に入る。
ルートを確認すると次のようになります。
讃岐引田港 → 大麻峠 → 松尾村 → 中津山 → 西祖谷田の内 → 一宇 → 吾橋の南山 → 有瀬 → 土佐杖立山」
吉野川沿いの道ではなく、人家のない峰を伝って、いくつもの峠を越えて土佐をめざしています。この辺りの吉野川は大歩危・小歩危に代表されように切り立った断崖が続きます。そのため川沿いのルートは開けていなかったようです。吉野川の東側の山峰の稜線を歩いて渡っていく「縦走」形式だったことがうかがえます。それが時代の進むにつれて、山腹を横切るトラバース道や、河の断崖などを開撃して道が通じるようになります。ここでは、古代・中世は、山嶺の尾根を使っていたのが、時代がたつと山腹の利用や川沿いルートが登場するようになることを押さえておきます。
これらの山岳道を開いたのは、熊野行者のような人達だったのかもしれません。熊野詣でに檀那達を先達していた熊野行者達の存在が浮かんできます。山岳交通路が大いに利用されるようになるのが、南北朝の時代です。山岳武士達は、この交通路通じて情報連絡を取り合うようになります。
祖谷の中津山(松尾川と祖谷川に挟まれた山)
祖谷と土佐を結ぶルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
祖谷の中津山を越え、土佐に入らんと心ざし、中津峯へ登り玉ふ、昔は中津の峯ばいに往末せしとて、今に古道と言ふ其形ち残れり。
ここからは、中津山の山腹八合目に祖谷から土佐への古い古道があったことが分かります。私が気になるのは、これらの「土佐古道」が阿波エリアでは吉野川を渡っている気配がないのです。これは、中世においては、吉野川沿いの道が整備されていなかったので、その東の中津山や国見山を越えて行くしかなかったことが考えられます。
古い時代には東祖谷山から土佐に出るには、これとは別に「と越」と「躄(いざり)峠」が使われていました。
天狗峠(躄峠)
四国で最も高位置にある躄峠は、現在は天狗峠と地図には表記されています。「躄(イザリ)峠」という表記は、峠名は適切でないとして、国土地理院は平成11年発行の地図から「天狗峠」に変更しました。私の持っている地図は、もちろん躄峠と書かれています。古い山中間は今でも、昔の名前で呼んでいます。この峠は、生活道よりも煙草や焼酎の闇ル-トとして,地元の人々の記憶に残っているようです。天狗(躄)峠の地蔵尊
この峠には「奉納地蔵」と刻まれた無年紀の地蔵尊が京柱峠の方角に向いて立つとされます。一揆の首謀者の一人である円之助を供養するために立てられたと地元ではされているようですが、残念ながら私は、この地蔵には記憶がありません。 躄峠からは稜線沿いに西に進むと矢筈峠を越えて、上板山へと続きます。上板山は、いざなぎ流物部修験の拠点であったことは以前にお話ししました。物部と祖谷は、通婚圏内で、いろいろな交流が行われていたことがうかがえます。さらに物部川を下れば、土佐へつながります。
後には、新居屋(にいや)から小川・樫尾を通って、京柱峠を越えて大豊へ出る道が利用されるようになります。
これが現在のR439(酷道よさく)の原型になる交通路です。吉野川の支流・南小川を京橋峠の源流部から下って行くと、大歩危小歩危から延びてきた吉野川本流と交わるところが、大豊や豊永です。そこには熊野行者の拠点として機能していた定福寺や、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺などがあります。これらの熊野信仰の拠点の寺社は、戦国時代に土佐の長宗我部元親が西阿波に侵攻するときには、その手助けを務め、保護を受けていることは以前にお話ししました。
ちなみに戦後直後の京柱峠・谷道峠・蹙峠について徳島大学の教授だった福井好行氏は「東祖谷山村に於ける交通路の變遷」で次のように記します。
これが現在のR439(酷道よさく)の原型になる交通路です。吉野川の支流・南小川を京橋峠の源流部から下って行くと、大歩危小歩危から延びてきた吉野川本流と交わるところが、大豊や豊永です。そこには熊野行者の拠点として機能していた定福寺や、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺などがあります。これらの熊野信仰の拠点の寺社は、戦国時代に土佐の長宗我部元親が西阿波に侵攻するときには、その手助けを務め、保護を受けていることは以前にお話ししました。
ちなみに戦後直後の京柱峠・谷道峠・蹙峠について徳島大学の教授だった福井好行氏は「東祖谷山村に於ける交通路の變遷」で次のように記します。
(これらの高知とを結ぶ峠は)荒廃し,僅かに闇商入が「ドブロク」を仕入れ、煙草を出す闇道となり、比較的低い京柱峠も仙人が通る位のものとなつた。
ここでは祖谷地方は、中世には躄峠や京橋峠を通じて、土佐と通じていて、熊野詣での修験者たちが利用する交通路であったこと、それを長宗我部元親は利用し、阿波・讃岐への侵攻を行ったこと。戦後には、これらの峠は人が利用することもなく荒れ果てていたことを押さえておきます。
東祖谷山の久保名・菅生名の人々が、最も利用したのは次の2ルートでした。
A 小島(おじま)峠から貞光へ出る11里の道B 見ノ越峠 名頃ヘ出て、現在の剣山への登山基地となっている見の越を越えて麻植郡木屋平に向う道
この二つの道は南北朝時代の阿波山岳武士の連絡路でもあったようです。特にAの小島峠経由は、平坦地が広く開け、人々も多く住み、生産物も多くて物産の交換も盛んに行われます。人々の往来が多く、最も利用度が高かったのもこの峠のようです。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」には、その道順が次のように記されています。
「郡里・吉野川を渡つて一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」
阿波では承久の乱後に、小笠原長清が阿波国の守護となります。小笠原氏は三好郡池田を拠点にして、後には「三好」氏を名乗り、土着して阿波一国を支配するようになります。三好氏は、南北朝の争いのときには南朝に味方して戦い、阿波山岳武士の一方の旗頭として戦います。しかし、足利方の細川頼之が四国探題として阿波に来ると、これに従うようになります。その後は、戦国時代の終りごろまで阿波・淡路を実質的に支配することになります。
細川氏は守護といっても完全に支配したのは讃岐だけだったようです。
阿波では三好氏(小笠原氏)が自由に切り廻していたようです。そういう中で祖谷山は、深い山々に閉ざされたエリアで三好氏(前小笠原氏)の命なども及ばなかったようです。
阿波では三好氏(小笠原氏)が自由に切り廻していたようです。そういう中で祖谷山は、深い山々に閉ざされたエリアで三好氏(前小笠原氏)の命なども及ばなかったようです。
祖谷地方の有力者は、どのように勢力を固めたのでしょうか?
そのヒントは、隠居制度にあると研究者は考えています。隠居というのは長子に嫁をもらうと、老人が別に家を建てて別居するものです。親は長男に嫁をもらうと跡を譲り、自分は二・三男をひきいて他所へ入植し、新しく開墾して、二男のために耕地を作る。二男を独立させ、その生活を安定させやがて老いて死んでゆく、そのため死場所はたいてい末子の家でした。これを隠居分家といっています。後には開墾できる場所が少くなって、老人は隠居するだけで、二男・三男を率いて開墾することはなくなりますが、祖谷山地方ではこのようにして、新しい「村」は生まれたようです。
東祖谷の菅生(すげおい)・久保・西山・落合・奥ノ井・栗枝渡・大枝・阿佐・釣井(つるい)・今井・小祖谷の十二名は、小さいながら村落共同体を形成していました。そこには各名と同じ姓をもつ中心的な家がありました。今になっては、地名が先だったのか、氏名が土地につけられたのか、あるいは、最初の開発者と、後の名主が血統の上でつながっているのかどうかも分かりません。
これらの中世の名主は、山岳武士として南朝に就きました。
そして、次のように平家の落人伝説と絡み合って伝えられるようになります。
①阿佐氏は平敦盛の次男國盛が屋島から逃れて此処に来て住みついたという系図をもち、大小二つのの赤旗を伝えている②久保氏も國盛の子孫と名のるので、阿佐氏の分家③西山氏は俵藤太の子孫、④奥ノ井も俵氏が名主、⑤菅生氏は新羅二郎の子孫
「山岳武士」という言葉が最初に出てくるのは、明治44年の手東愛次郎の「阿波史」145Pで次のように記されています。(意訳)
足利尊氏に従った細川氏の頼春は、諸所で戦ったが延元元年に兄の和氏と共に、阿波に下って阿波の国衆を従えた。しかし。美馬・三好の山岳武士たちの中には、なかなか従わない者がいて抵抗と続けた。延元四年に新田義助が伊予にやってきて活動を始めると、これに呼応して阿波の山岳武士たちの動きも活発化した。しかし、義助が急病で亡くなってからは、細川頼春は体制を整えて反攻に移り、山岳武士のリーダー的な存在であった池田の大西氏を調略し、更に兵を西に進めて伊予に入り、伊予軍を大いに破った。こうして、阿波の山岳武士の勢いも衰へてしまった。
これが以後の郷土研究書の定番フレーズになって、「山岳武士」という言葉が一人歩きするようになります。しかし、このストーリー由来は、史料的には裏付けられておらず、よく分かりません。つまり、裏付けのない「物語」なのです。
南北朝期の阿波武士の動向について「阿府志」巻17は、次のように記します。
初めて細川律師定騨、讃州に攻め来るについて阿波國板東・板西などは細川に来従せり、大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の末までも後醍醐天皇御方也、時に頼春初めて阿波郡秋月の縣立の家にありて国政を行ふ、従うもあり不従もあり、不従は攻めけり、
意訳変換しておくと
細川律師定騨(頼春)が讃州に侵攻し、さらに阿波國板東・板西を勢力下におさめた。大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の後醍醐天皇方であった。そこで頼春は、阿波郡秋月に拠点をおいて国政を行ふ。従うもいたが、従わない者もいて、従わないものに対しては、攻めた。
「従うもあり不従もあり、不従は攻めけり」とあるので、細川氏の阿波国経営が決して容易に実現したものではないことがうかがえます。また「阿波史」には、反細川氏の「山岳武士」として、次のような勢力が登場します。
①三好郡池田の大西城を根拠に、守護小笠原義盛②祖谷山には源平両氏の残党③麻植郡木屋平村の木屋平氏④三好郡佐馬地村白地には大西氏⑤名東郡一宮城には小笠原宮内大輔⑥麻植郡一宇には、「木地屋」よ呼ばれ、轆轤(ろくろ))使って漆器の材料を作った部族(木地師)⑦木屋平の三木氏は、阿波忌部の系統で祖神天日鷲命の神裔とされます。⑧東西祖谷山には、菅生左兵衛尉・渡辺宮内丞で、菅生家は池田の小笠原の一族で、祖谷山におけるリーダー的な役割を果たしたとされます。
正平年間阿波の南朝の中心人物は、小笠原頼清でした。頼清は父義盛が興國元(1340)年、細川方に従ったことが不満で、 一族より離れて南朝吉野方に従って、田井庄を拠点としていました。田井庄は山城谷にあって阿波と伊予南軍の重要な連絡点で、やがて吉野から九州へ至る連絡ポイントの役割も果たすようになります。
阿波の南朝方と熊野吉野との連絡を担当したのが、熊野の修験者達でした。彼らの拠点として機能したの次のような熊野系の寺社だったということは以前にお話ししました。
阿波の南朝方と熊野吉野との連絡を担当したのが、熊野の修験者達でした。彼らの拠点として機能したの次のような熊野系の寺社だったということは以前にお話ししました。
高越山 → 伊予新宮の熊野神社 → 伊予の三角寺→ 土佐の豊楽寺
伊予方面への熊野信仰の伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(四国霊場六十五番札所)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達は、新宮の熊野社を拠点に川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
その要因のひとつが、淡路、阿波、伊予、土佐の熊野行者を勢力下においたことだと研究者は考えています。
正平11年の栗野三位中将の袖判のある綸旨には、次のように記します。
灘目椿泊は那賀、海部の境也、海深くして舟繋りよし、何風にも能泊也、椿水崎(蒲田岬)は海部の内也、紀州白井の水崎へ十里也(南海治乱記)
意訳変換しておくと
阿波の椿泊は、那賀、海部郡の境にあたる。港は海深く、船が多く停泊できる上に、どんな方向からの風が吹いていても入港可能でである。向こう岸の蒲田岬は海部郡になる。ここからは紀州白井の水崎へは十里ほどである(南海治乱記)
淡路の沼島は、阿波小笠原一族の小笠原刑部、小笠原美濃守が、紀伊吉野と四国を結ぶ海上輸送の拠点としていたことはよく知られています。阿波側の海上拠点だったのが、ここに登場する蒲生田岬の椿泊です。椿泊の湾外の野々島、加島(舞子島)には防備のため広大堅固な城があったようです。阿波小松島も阿波水軍の重要な根拠地でした。阿波東部の宮方総帥・一宮成宗は、この椿泊水軍と小松島水軍を味方とした事で、紀伊を後背地として持久戦に堪えれたと研究者は考えています。また、椿泊に上陸した熊野行者たちは、吉野方の諜報・連絡要員として、阿波の山岳ルートを使って伊予に向かいます。
「史料綜覧」巻六751Pの南朝・正平22年(1367) 北朝貞治六年十二月十七日の条には、
征西府、阿波人菅生大炊助ノ忠節ヲ賞ス
とあり、阿波の菅生大炊助が瀬戸内海にまで進出して活躍しことが記されています。これも阿波、淡路や熊野の水軍の力が背後にあったからこそでしょう。
以前に見たように、熊野水軍の船団は熊野行者を水先案内人として、瀬戸内海を行き来していました。熊野行者達は、そのような瀬戸内海交易活動や対外貿易を通じる中で、拠点地を開いて行きます。それが吉備児島の五流修験(新熊野修験)であり、芸予諸島の大三島神社の社僧集団でした。このようなネットワークの一部として、阿波の山岳武士達も活動を行っていたと私は考えています。
豊永の小笠原氏は、先祖が阿波の小笠原氏と同族の甲斐源氏出身の小笠原氏であるとします。
それが、地名にちなんて豊永と姓をかえます。豊永小笠原氏が下土居城の麓にたてた居館の趾に、氏神松尾神社が鎮座します。ここで豊永小笠原氏が、阿波の小笠原氏を始め山岳武士と共にその防備を固めたと東祖谷山村史は記します。豊永氏が南朝吉野方の背後を押さえていたので、国境を接した祖谷山でも阿波山岳武士が三十有余年の間、勢力を保持できたというのです。同時に、ここには熊野信仰の拠点施設の豊楽寺があったことは以前にお話ししました。
以上をまとめておきます。
①祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきた。
②それは、周囲の高い山々に囲まれたすり鉢状の地形に起因する。
③それが有利に働いたのが南北朝時代で、祖谷地方の国侍たちは南朝吉野方に与して、半世紀あまり抵抗を続けた。
④それが可能だったのは、西阿波の山岳地帯を結ぶ峠越えの交通路であった。
⑤これは熊野行者たちが熊野詣でのためにも使用した山岳道で、拠点には熊野神社などが勧進され、サービスを提供していた。
⑥南朝吉野方は、熊野神社系の修験者を味方にして、彼らによって情報・命令を伝え、一体的な軍事行動を取ろうとした。
⑦こうして南朝吉野方は、紀伊・淡路・阿波・伊予・九州を結ぶ山岳連絡網(道)を形成するようになり、そこを熊野行者達が活発に生きするようになった。
⑧このようにして結びつけられた土豪集を、近代になって阿波では「山岳武士」とよび、皇国史観の中で神聖化されるようになった。
⑨南海治乱記などでは「山岳武士=修験道的僧兵」と捉えている節もある。祖谷の土豪勢力と修験道が切っても切り離せない関係にあったことがうかがえる。
⑩近世の土佐の長宗我部元親がブレーン(書紀・連絡)集団として、修験者たちを厚遇していたことにつながる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」
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以上をまとめておきます。
①祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきた。
②それは、周囲の高い山々に囲まれたすり鉢状の地形に起因する。
③それが有利に働いたのが南北朝時代で、祖谷地方の国侍たちは南朝吉野方に与して、半世紀あまり抵抗を続けた。
④それが可能だったのは、西阿波の山岳地帯を結ぶ峠越えの交通路であった。
⑤これは熊野行者たちが熊野詣でのためにも使用した山岳道で、拠点には熊野神社などが勧進され、サービスを提供していた。
⑥南朝吉野方は、熊野神社系の修験者を味方にして、彼らによって情報・命令を伝え、一体的な軍事行動を取ろうとした。
⑦こうして南朝吉野方は、紀伊・淡路・阿波・伊予・九州を結ぶ山岳連絡網(道)を形成するようになり、そこを熊野行者達が活発に生きするようになった。
⑧このようにして結びつけられた土豪集を、近代になって阿波では「山岳武士」とよび、皇国史観の中で神聖化されるようになった。
⑨南海治乱記などでは「山岳武士=修験道的僧兵」と捉えている節もある。祖谷の土豪勢力と修験道が切っても切り離せない関係にあったことがうかがえる。
⑩近世の土佐の長宗我部元親がブレーン(書紀・連絡)集団として、修験者たちを厚遇していたことにつながる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」
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三好市山城町の妖怪街道は、修験者たちによって語られた話で結ばれている。
中四国の霊山15 土佐の熊野権現の勧進と修験者
中四国の霊山14 高知の高板山は、いざなぎ流物部修験の聖地だった
中世讃岐の仁尾 仁尾浦商人の営業圈は土佐まで伸びていた
愛媛の熊野信仰 先達と檀那の関係は
阿波石堂山 お塔石と石堂をみながら修験者たちの活動を考える
石堂山
前回までは、阿波石堂山が神仏分離以前は山岳信仰の霊山として、修験者たちが活動し、多くの信者が大祭には訪れていたことを押さえました。そして、実際に石堂神社から白滝山までの道を歩いて見ました。今回は、その続きで白滝山から石堂山までの道を行きます。笹道の中の稜線歩き 正面は矢筈山
白滝山と石堂山を結ぶ稜線は、ダテカンバやミズナラ類の広葉樹の疎林帯ですが、落葉後のこの季節は展望も開け、絶景の稜線歩きが楽しめます。しかも道はアップダウンが少なく、笹の絨毯の中の山道歩きです。体力を失った老人には、何よりのプレゼントです。ときおり開けた笹の原が現れて、視界を広げてくれます。正面が石堂山
「石堂山 0,7㎞ 白滝山0,8㎞」とあります。中間地点の道標になります。
「絶頂に石あり削成する如し 高さ十二丈許り 南高く北低し 石扉あり之を覆う 因て名づけて石堂と曰う」
意訳変換しておくと
石堂山の頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにもある。南側の方が高く、北側の方が低い。石の扉があってこれを覆う。よって石堂と呼ばれている。
ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんで巨石があり、北側の方が高い。
②巨石には空間があり、石の扉もあるので石堂と呼ばれている
御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。
お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。
修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
北側から見た石堂
この石堂が「大工石小屋」で、この山は石堂山と呼ばれるようになったことが分かります。同時にこれは、「巨石」という存在だけでなく「宗教的遺跡」だったことがうかがえます。それは、後で考えることにして、前に進みます。 石堂と御塔石(石堂山直下の稜線上の宗教遺跡)
石堂(大工石小屋)からひとつコルを越えると、次の巨石が姿を見せます。お塔石(おとういし:右下祠あり) 後が矢筈山
山伏たちが好みそうな天に突き刺す巨石です。高さ約8mの方尖塔状の巨石です。これが御塔(おとう)石で、石堂神社の神体と崇められてきたようです。その奥に見えるのが矢筈(やはず)山で、石堂神社の奥の院とされていました。御塔石の石祠
御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。
石堂山からのお塔岩(左中央:その向こうは石堂神社への稜線)
先ほど見た阿波志には「絶頂に石あり 削成する如し」と石堂のことが記されていました。修験者にとって石堂山の「絶頂」は、石堂と御塔石で、現在の山頂にはあまり関心をもっていなかったことがうかがえます。お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。
修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
①有用な鉱石が出てくる。②修行に適した行場がある。③本草綱目に出てくる漢方薬の材料となる食物の自生地である
①③については、以前にお話ししたので、今回は②について考えて見ます。最初にここにやってきた修験者が、天を突き刺すようなお塔岩を見てどう思ったのでしょうか。実は、石鎚山の行場にも、お塔岩があります。
石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分
これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。
今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。
修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
伊豫之高根 石鎚山圖繪(1934年発行)
以前に紹介した戦前の石鎚山絵図です。左が瓶が森、右が石鎚山で、中央を流れるのが西の川になります。左の瓶が森を拡大して見ます。石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分
これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。
石鎚山圖繪(1934年発行)の右・石鎚山の部分
今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。
修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、②山頂近くの高い木、岩③滝は天界への道、④奈落の底まで通じる火口、断崖(瀧)⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界とされました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったようです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされます。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。神々との出会いや、心身を清められることを願って、人々は先達に率いられてお山にやってきたのです。そのためには、いくつも行場で関門をくぐる必要がありました。
土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。
高板山の行場の霊像
像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
高板山(こうのいたやま)
いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。
高板山の行場の霊像
像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
①捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)②セリ岩(向きでないと通れないほど狭い)③地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)④四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所
ちなみに、滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。
それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。
高板山 臍くぐり岩
石鎚山や高板山を見ていると、石堂山の石堂やお塔石なども信仰対象物であると同時に、行場でもあったことがうかがえます。それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分
この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。そして、巨岩にはそれぞれ名前がつけられています。固有名詞で呼ばれていたのです。
三ツ木村と川井村の「宗教施設」
ここからは、木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。同じようなことが、風呂塔から奥の院の矢筈山にかけてを仰ぎ見る半田町のソラの集落にも云えるようです。そこにはいくつもの行場と信仰対象物があって「石堂大権現三十六王子」を形成していたと私は考えています。それが神仏分離とともに、修験道が解体していく中で、石堂山の行場や聖地も忘れ去られていったのでしょう。そんなことを考えながら石堂山の頂上にやってきました。
石堂山山頂
しかし、宗教的な意味合いが感じられるものはありません。修験者にとって、石堂山の「絶頂」は、石堂であり、お塔石であったことを再確認します。
さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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阿波石堂山 石堂神社の裏には白竜神を祀る磐座群があった
現在の石堂神社は1200mの稜線に東面して鎮座しています。もともとこの地は、半田と木屋平を結ぶ峠道が通じていたようです。そこに石堂山の遙拝地であり、参拝登山の前泊地として整備されたのが現在の石堂神社の「祖型」だと私は推察しています。県道304号からアップダウンの厳しいダートの道を越えてくると、開けた空間が現れホッとしました。東向きに鎮座する本堂にお参りして、腰を下ろして考えます。
スチールの鳥居が白く輝く石堂神社
かつて石堂山は、明治維新の神仏分離までは、石堂大権現と呼ばれていました。金比羅大権現と同じように、修験者が信仰する霊山で、行場や頂上には様々な神々が祀られていました。
石堂神社からの石堂大権現の霊山
そのエリアは、風呂塔 → 火上山 → 白滝山 → 石堂山 → 矢筈山を含む一円だったようです。このエリアを修験者たちは行場として活動していたようです。ここで修行を積んで験を高めた修験者たちは、各地に出向いて信仰・医療・広報活動を行い、信者を増やし、講を組織します。そして、夏の大祭には先達として信者達を連れて、本山の石堂大権現に参拝登攀に訪れるようになります。それは石鎚参拝登山と同じです。石鎚参拝登山でも、前神寺や横峰寺など拠点となった山岳寺院がありました。同じように、石堂大権現の拠点寺となったのが井川町の地福寺であり、半田町の多門寺であることを前回にお話ししました。 先達山伏は、連れて来た信者達を石堂山山頂近くの「お塔石」まで導かなければなりません。そのためには参拝道の整備ととともに、山頂付近で宿泊のできる施設が必要になります。それはできれば、朝日を浴びる東向きの稜線上にあることがふさわしかったはずです。そういう意味では、この神社の位置はピッタリのロケーションです。
明るく開けた石堂神社の神域
石堂神社拝殿横の祠と祀られている祭神
しかし、拝殿横の小さな祠には、次のような神々が祀られています。①白竜神 (百米先の山中に祭る)②役行者神変(えんのぎょうじゃ じんべん)大菩薩③大山祇命
どうやらこの三神が石堂大権現時代の祭神だったようです。神仏分離によって本殿から追い出され、ここに祀られるようになったのでしょう。
役行者(えんのぎょうじゃ)
②の役行者は修験道の開祖とされる人物で、「神変」は没後千年以上の後に寛政2年(1799年)に光格天皇から送られた諡号です。
③の大山祇命(オオヤマツミ)の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味で、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られています。石堂大権現に祭る神としては相応しい神です。
問題は①の白竜神です。竜は龍神伝説や善女龍王伝説などから雨乞いとからんで信仰されることがあるようですが、讃岐と違って阿波では雨乞い伝説はあまり聞きません。考えられるのは、「白滝山」から転じたもので、白滝山に祀られていた神ではないのかと私は考えています。「百米先の山中に祭る」とあるので、早速行って見ることにします。
持っていく物を調えて、参拝道の入口に立つ鳥居をくぐります。もみじの紅葉が迎えてくれます。
最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。
石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。
白竜神を祀る磐座(いわくら)群
石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
天狗姿で描かれた金毘羅大権現
修験者は天狗になるために修行をしていたともいわれます。そのため天狗信仰の強かった金毘羅大権現では、金毘羅神は天狗姿で描かれているものもあります。修験者にとって天狗は、憧れの存在でした。霊山に宿る仏達(右)と天狗たち(左)
聖なる山々に棲む天狗が集って集会を開くのが「磐座の広場」でした。決められた岩の上に、決められた天狗たちが座するとされました。修験者には、この磐座群に多くの天狗達が座っていたのが見えたのかもしれません。それを絵にしてイメージ化したものが金毘羅大権現にも残っています。 金毘羅大権現と天狗達(金毘羅大権現の別当金光院が出していた)
つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。
つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。
ここから③の三角点までは、標高差100mほどの上りが続きます。しかし、南側が大規模に伐採中なので展望が開けます。
南側の山陵の黒笠山から津志獄へと落ちていく稜線がくっきりと見えます。
黒笠山から津志獄方面の稜線
いったん平坦になった展望のきく稜線が終わって、ひとのぼりすると③の三角点(1335、4m)があります。
三角点(1335、4m)
この三角点の点名は「石小屋」です。この附近に、籠堂的な岩屋があったのかもしれません。
この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。
この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。
林道分岐まで2㎞とあります。分岐から石堂神社までが1㎞でしたから、石堂神社から1㎞地点になります。
小さな二重山陵がつづく
この附近は南側(左)がミズナラやダケカンバの広葉樹、北側(右)が檜やモミなどの針葉樹が続きます。その間に小さな二重稜線が見られます。これは矢筈山の西側稜線にも続いています。 二重稜線とは、稜線が二重に並走し,中間に凹地が出来ている地形で、時に沼沢地や湿地などを生み出します。そのため変化のある風景や植物環境が楽しめたりします。
標高1400mあたりまでくると大きなブナが迎えてくれました。
ブナの木
この山でブナに出会えるとは思っていなかったので、嬉しくなって周辺の大きなブナを探して見ました。石堂山の大ブナ紹介です。④のあたりが大きなブナがあるところで標高1400mあたりの稜線になります。④からは急登になって、南側からトラバースするようにして白滝山のすぐ南の稜線に出て行きます。そこにあるのが⑥の道標です。
白滝山と石堂山の分岐点。(林道まで3㎞:
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
笹の中の歩きやすい稜線を少し歩くと白滝山の頂上です。
白滝山頂上
白滝山頂上
白滝山頂上は灌木に囲まれて、展望はいまひとつです。あまり特徴のない山のように思えますが、地図や記録などをみると周辺には断崖や
切り立った岩場があるようです。これらを修験者たちは「瀧」と呼びました。そんな場所は水が流れて居なくても「瀧」で行場だったのです。白滝山周辺も、白い石灰岩の岩場があり「白滝」と呼ばれていたと私は考えています。つまり、石堂山系の中の行場のひとつであったのです。そして、この山から北に続く火上山では、修験者たちが修行の節目に大きな護摩祈祷を行った山であることは以前にお話ししました。
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11月の連休は快晴続きで、9月末のような夏日の日が続きました。体力も回復してきたので、久しぶりに稜線を歩きたくなり、あっちこっちの山々に出没しました。前回紹介した石堂山にも行ってきたので、その報告記を残しておきます。この山は明治の神仏分離までは「石堂大権現」と呼ばれ、修験者たちの修行の場で、霊山・聖地でした。
石堂山直下の 「お塔石」
頂上直下の 「お塔石」がご神体です。また、山名の由来ともなった石室(大工小屋石:石堂)もあります。「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には多くの白衣の行者たちが、この霊山をめざしたことが記されています。彼らが最初に目指したのが、つるぎ町半田と木屋平の稜線上に鎮座する石堂神社です。グーグルに「石堂神社」と入れると、半田町経由の県道304号でのアプローチルートが提示されます。指示されるとおり、国道192号から県道257号に入り、半田川沿いに南下します。このエリアは、かつて端山88ヶ所巡礼のお堂巡りに通った道です。見慣れたお堂に挨拶しながら高清で県道258号へ右折して半田川上流部へと入っていきます。上喜来・葛城線案内図(昭和55年5月5日作成)
以前に端山巡礼中に見つけた43年前の住宅地図です。①は白滝山を詠んだ歌です。
八千代の在の人々は
仰げば高き白滝の映える緑のその中に小浜長兵衛 埋けたる金が
年に一度は枝々に 黄金の色の花咲かす
このエリアの人々が見上げる山が白滝山で、信仰の山でもあり、「黄金伝説」も語り継がれていたようです。実際の白滝山は③の方向になります。石堂山は、白滝山の向こうになるので里からは見えないようです。
②は石堂神社です。上喜来集落の岩稜の上に建っていたようです。
⑥の井浦堂の奥のに当たるようですが、位置は私には分かりません。この神社は、稜線上にある石堂神社の霊を分霊して勧進した分社であることは推察できます。里の人達が白滝山や石堂山を信仰の山としていたことが、この地図からもうかがえます。
⑥の井浦堂の奥のに当たるようですが、位置は私には分かりません。この神社は、稜線上にある石堂神社の霊を分霊して勧進した分社であることは推察できます。里の人達が白滝山や石堂山を信仰の山としていたことが、この地図からもうかがえます。
⑦には「まゆ集荷場」とあります。
現在の公民館になっている建物です。ここからは1980年頃までは、各家々で養蚕が行われ、それが集められる集荷場があったということです。蚕が飼われていたと云うことは、周辺の畑には桑の木が植えられていたことになります。また、各家々を見ると「養鶏場」とかかれた所が目立ちます。そして、いまも谷をつめたソラの集落の家には鶏舎が建ち並ぶ姿が見えます。煙草・ミツマタ・養蚕などさまざまな方法で生活を支えてきたことがうかがえます。
現在の公民館になっている建物です。ここからは1980年頃までは、各家々で養蚕が行われ、それが集められる集荷場があったということです。蚕が飼われていたと云うことは、周辺の畑には桑の木が植えられていたことになります。また、各家々を見ると「養鶏場」とかかれた所が目立ちます。そして、いまも谷をつめたソラの集落の家には鶏舎が建ち並ぶ姿が見えます。煙草・ミツマタ・養蚕などさまざまな方法で生活を支えてきたことがうかがえます。
この地図を見て不思議に思うのは、多門寺が見えないことです。
多門寺には室町時代と伝えられる庭と、本尊の毘沙門天が祀られています。古くからの山岳信仰の拠点で、この地域の宗教センターで会ったことがうかがえます。
土々瀧への分岐点の旅館?
私の持っている少ない情報で推察すると、次の二点が浮かんできました。
多門寺の本堂と庭
風呂塔・土々瀧への分岐点
多門寺の奥の院である土々瀧の灌頂院への分岐手前の橋の上までやってきました。ここで道標を確認して、左側を見ると目に見えてきたのが次の建物でした。土々瀧への分岐点の旅館?
謎の旅館
旅館の窓のような印象を受けます。旅館だとすると、どうしてこんなところに旅館が建っていたのでしょうか。謎の旅館(?)の正面側
私の持っている少ない情報で推察すると、次の二点が浮かんできました。
①石堂大権現(神社)への信者達の参拝登攀のための宿②多門寺の奥の院灌頂院への信者達の宿
謎の旅館としておきます。ご存じの方がいらっしゃったらお教え下さい。さらに県道258号を登っていきます。
ここも端山巡礼で御世話になったソラのお堂です。これらのお堂を整備し、庚申信仰を拡げ、庚申講を組織していったのも修験者たちでした。
霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)などの念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動をおこなうようになります。阿波の高越山や石堂山周辺が、その代表です。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していきます。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、そのテリトリーを示すものではないかと私は考えています。
四眠堂(つるぎ町半田紙屋)
紙屋集落の四眠堂が道の下に見えてきます。ここも端山巡礼で御世話になったソラのお堂です。これらのお堂を整備し、庚申信仰を拡げ、庚申講を組織していったのも修験者たちでした。
霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)などの念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動をおこなうようになります。阿波の高越山や石堂山周辺が、その代表です。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していきます。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、そのテリトリーを示すものではないかと私は考えています。
端山四国霊場68番 四眠堂
四眠堂の前を「導き給え 教え給え 授けたまえ」と唱えながら通過して行きます。半田川から離れて上りが急になってくると県道304号に変わります。しかし、県道表示の標識は私は一本も見ませんでした。意識しなければ何号線を走っているのかを、気にすることはありません。鶏舎を越えた急登の上に現れたのがこのお堂。半田小谷の庚申堂
半田小谷の庚申堂グーグルには「庚申堂」で出てきます。
高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったと考える研究者もいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたのです。その核となったのがこのようなお堂だったのです。
最後の民家
上に登っていくほどに県道304号は整備され、走りやすくなります。植林された暗い杉林から出ると開けた空間に出ました。ススキが秋の風に揺らぐ中にあったのがこの民家です。周囲は畑だったようです。人は住んでいませんが、周辺は草刈りがされて管理されています。「古民家マニア」でもあるので拝見させていただきます。庭先から眺める白滝山
庭先からの吉野川方面
この庭先を借りて、お茶を沸かして一服させていただきました。西に白滝山が、北に吉野川から讃岐の龍王・大川、東に友納山や高越山が望めます。素晴らしいロケーションです。そしてここで生活してきた人達の歴史について、いろいろと想像しました。そんな時に思い出したのが、穴吹でも一番山深い内田集落を訪れた時のことです。一宇峠から下りて、集落入口にある樫平神社でお参りをして内田集落に上がっていきました。めざす民家は、屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味でしょう。この民家を訪ねたのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。先祖は剣周辺で行を積んでいた修験道でなかったのかと思えます。
村里に住み着いた修験者のことを里山伏と呼ぶことは先ほど述べました。彼らは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
この家の先祖をそんな山伏とすれば、ひとつの物語になりそうな気もしてきます。稜線に鎮座する石堂大権現を護りながら、奥の院である矢筈山から御神体である石堂山のお塔岩、そして断崖の白滝山の行場、護摩炊きが山頂で行われた火揚げ山を行場として活動する修験者の姿が描けそうな気もします。
矢筈山から風呂塔までの石堂大権現の行場エリア
ないのは私の才能だけかもしれません。次回はテントを持ってきて、酒を飲みながら「沈思黙考」しようと考えています。「現場」に自分を置いて、考えるのが一番なのです。
この民家を後にすると最後のヘアピンを越えると、道は一直線に稜線に駆け上っていきます。その北側斜面は大規模な伐採中で視界が開け、大パノラマが楽しめる高山ドライブロードです。
村里に住み着いた修験者のことを里山伏と呼ぶことは先ほど述べました。彼らは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
この家の先祖をそんな山伏とすれば、ひとつの物語になりそうな気もしてきます。稜線に鎮座する石堂大権現を護りながら、奥の院である矢筈山から御神体である石堂山のお塔岩、そして断崖の白滝山の行場、護摩炊きが山頂で行われた火揚げ山を行場として活動する修験者の姿が描けそうな気もします。
矢筈山から風呂塔までの石堂大権現の行場エリア
ないのは私の才能だけかもしれません。次回はテントを持ってきて、酒を飲みながら「沈思黙考」しようと考えています。「現場」に自分を置いて、考えるのが一番なのです。
この民家を後にすると最後のヘアピンを越えると、道は一直線に稜線に駆け上っていきます。その北側斜面は大規模な伐採中で視界が開け、大パノラマが楽しめる高山ドライブロードです。
県道304号をたどって石堂神社へ
稜線手前に石堂神社への入口がありました。
県道304号の石堂神社入口
石堂神社への看板
ここからは1㎞少々アップダウンのきついダートが続きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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迎えてくれたのは、私が大好きな唐松の紅葉。これだけでも、やってきた甲斐があります。なかなか緊張感のあるダートも時間にすればわずかです。標高1200mの稜線上の石堂神社
たどりついた石堂神社。背後の木々は、紅葉を落としている最中でした。拝殿から鳥居方向
半田からは寄り道をしながらも1時間あまりでやってきました。私にとっては、快適な山岳ドライブでした。これから紅葉の中の稜線プロムナードの始まりです。それはまた次回に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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地福寺(井川町井内)
以前に、地福寺と修験者の関係を、次のようにまとめました。①祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと②馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと③地福寺は、剣山信仰の拠点として多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
③に関して、剣山は近世後半になって、木屋平の龍光寺と、井川の地福寺によって競うように開山されたことは以前にお話ししました。見ノ越の剣神社やその別当寺として開かれた円福寺を、剣山の「前線基地」として開いたのは地福寺でした。
地福寺は、箸蔵寺とも緊密な関係にあって、その配下の修験者たちは讃岐に信者たちを組織し「かすみ」としていたようです。そのため讃岐の信者達は、地福寺を通じて見ノ越の円福寺に参拝し、そこを拠点に剣山での行場巡りをしていました。そのため見ノ越の円福寺には、讃岐の人達が残した玉垣が数多く残っています。丸亀・三豊平野からの剣山参詣の修験者たちの拠点は、次のようなものであったと私は考えています。
地福寺が見ノ越の円福寺の別当寺であることを示す
地福寺は、箸蔵寺とも緊密な関係にあって、その配下の修験者たちは讃岐に信者たちを組織し「かすみ」としていたようです。そのため讃岐の信者達は、地福寺を通じて見ノ越の円福寺に参拝し、そこを拠点に剣山での行場巡りをしていました。そのため見ノ越の円福寺には、讃岐の人達が残した玉垣が数多く残っています。丸亀・三豊平野からの剣山参詣の修験者たちの拠点は、次のようなものであったと私は考えています。
①金毘羅大権現の多聞院 → ②阿波池田の箸蔵寺 →そして、この拠点を結ぶ形で西讃地方の剣山詣では行われていたのではないかと推測します。
③井川の地福寺 → ④見ノ越の円福寺」
それでは③の地福寺が剣山を開山する以前に、行場とし、霊山としていたのはどこなのでしょうか。
それが石堂山だったと私は考えています。
石堂山山頂
石堂山は、つるぎ町一宇と三好市半田町の境界上にあります。
石堂山のお塔岩
頂上近くにある 「お塔石」をご神体とする信仰の山です。石鎚の行場巡りにもこんな石の塔があったことを思い出します。修験者たちがいかにも、このみそうな行場です。
石堂山のお塔岩の祠
お塔岩の下には、小さな祠が祀られていました。この下はすぱっと切れ落ちています。ここで捨身の行が行われていたのでしょう。
阿波志(文化年間)には、次のように記されています。
「絶頂に石あり削成する如し高さ十二丈許り南高く北低し石扉あり之を覆う因て名づけて石堂と曰う」意訳変換しておくと
頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにも達する、北側の方が低く、石の空間があるので石堂と呼ばれている。
石堂山の石堂
ここからは、次のようなことが分かります。
ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんだ巨石が並んで建っている。
②その内の北側の方には、石に空間があるので石堂と呼ばれている
大工小屋石
つまり石堂山には山名の由来ともなった石室(大工小屋石)があり、昔から修験道の聖地でもあったようです。「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には白衣の行者多数の登山者が、この霊山をめざした記されています。
また石室から西方に少し進むと、御塔(おとう)石とよばれる高さ約8mの方尖塔状の巨石がそびえます。これが石堂神社の神体です。また石堂山の南方尾根続きの矢筈(やはず)山は奥院とされていました。この山もかつては石堂大権現と呼ばれ、剣山を中心とした修験道場の一つで、夏には山伏たちが柴灯護摩を修行した行場であったのです。
石堂山方面からの白滝山
白滝山(しらたきやま 標高1,526m) は、東側の頂上直下附近は、石灰岩の断崖や崩壊跡が見られます。修験者たちは、断崖や洞窟を異界との接合点と考えて、このような場所を行場として行道や瞑想を行いました。白滝山周辺の断崖は、行場であったと私は考えています。
白滝山山頂
白滝山からさらに北に稜線を進むと火打山です。
火上山・火山・焼ケ山というのは、修験者たちが修行の区切りに大きな火を焚いて護摩供養を行った山です。石堂山からは東に流れる吉野川が瀬戸内海に注ぎ込む姿が見えます。火打山で焚いた護摩火は海を行く船にも見えたはずです。
火打山につながる「風呂塔」も、修験者たちが名付けた山名だと思うのですが、それが何に由来するのかは私には分かりません。しかし、この山も修験者たちの活動する行場があったと思います。こうして見ると、このエリアは次のような修験者たちの霊地・霊山だったことがうかがえます。
「風呂塔 → 火上山(護摩場) → 白滝山(瀧行場) → 石堂山(本山) →矢筈山(奥の院)」から
ここを行場のテリトリーとしていたのは、多門寺(つるぎ町半田上喜来)が考えられます。
多門寺(つるぎ町半田上喜来)
このお寺は今でも土々瀧にある奥の院で、定期的な護摩法要を行い、多くの信者を各地から集めています。広範囲の信者がいて、かつての信徒集団の広がりが垣間見えます。この寺が山伏寺として石堂神社の別当を務めたいたと推測しているのですが、史料はありません。また、最初に述べた地福寺からも、水の口峠や桟敷峠を越えれば、風呂塔に至ります。つまり、地福寺が見ノ越を中心に剣山を開山する以前は、地福寺も石堂山を霊山として、その周辺の行場での活動を行っていたというのが今の私の仮説です。
東面して鎮座する石堂神社
この神社も神仏分離以前には、石堂大権現と呼ばれていたようです。そして夏には、山伏たちが柴灯護摩を修行していたのです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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京都大学蔵の来田文書(天文14年1545)には、丸亀平野の熊野行者の残した次のような「道者職売券」があります。
「右の①御道者、②代々知行候と雖も、急用有るに依りて米弐百石、③堺伊勢屋四郎衛門に永代替え渡し申す処、実正明白也」
意訳変換しておくと
「右の御道者(熊野行者)は、②代々にわたって以下の知行(かすみ)を所有してきたが、急用に物入りとなったので米二百石で、堺伊勢屋四郎衛門に永代に渡って売り渡すことになった。実正明白也」
①「右の御道者」とは、熊野三山に所属する山伏で熊野道者(行者)のことです。
熊野牛王(護王ごおう)
熊野道者は熊野信仰護符の熊野牛王(護王ごおう)を配って全国を廻国していました。熊野行者の行動範囲や信者組織は「なわばり化」して、財産となり売買の対象にもなっていたことは以前にお話ししました。それは「知行」とか「かすみ」と呼ばれるようになります。熊野行者たちも、時代が下ると熊野を離れ有力者を中心に元締めのような組織が形成されるようになります。この史料で登場するのが③「堺の伊勢屋四郎衛門」です。この売買証文は②「代々知行候と雖も、急用有るに依りて米式百石」とあるので、自分の「かすみ」を「米2百石」で「永代替え渡し(売買)したことが分かります。
それでは、売り買いの対象となった「かすみ」はどこなのでしょうか?この文書のはじめに、次のような地名が出てきます。
一、岡田里一円一、しもとい(?)の一円一、吉野里一円から、 池の内(満濃池跡の村)……大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺、三井之上、碑殿と続いて一 山しなのしよう里(山階、庄)一円。一、見井(三井)の里一円。……此の外、里数の附け落ち候へども我等知行の分は永々御知行有るべく候」
出てくる「かすみ(なわばり」を示しておくと、
①鵜足郡の岡田(丸亀市綾歌町)②那珂郡の吉野・池の内(まんのう町)③多度郡の大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺(善通寺)④三井の上、碑殿・山階、庄、三井一円(多度津町)
残念ながら 「しもとい(?)」は私には分かりません。教えて頂けるとありがたいです。(コメント欄で、次のようにおしえていただきました。
しもとい ですが、鵜足郡土居村ではないでしょうか。市井では「しもどい」とも言われていたと西讃府志にあるそうです(コトバンク出展)
ここからは、阿野郡土居町→ 鵜足郡岡田 → まんのう→善通寺→多度津と、この熊野行者が丸亀平野一円の信者の家を一軒一軒門付けしていたことがうかがえます。ここで気になるのが、以前にお話しした牛頭権現のお札を配っていた滝宮牛頭天王(滝宮神社)へ念仏踊りを奉納していたエリア(坂本周辺・綾北條・綾南條・那珂郡七箇と重ならないことです。熊野行者と滝宮牛頭天王の社僧たちは、テリトリーを「棲み分け」ていたのかもしれません。
このように遊行者は、熊野道者だけではありませんでした。
A 高野山の護摩の灰を持った高野聖(弥谷寺拠点)B 念仏札を渡す時衆(宇多津の郷照寺拠点)C 伊勢神官の御師D 牛頭天王のお札を配る社僧(滝宮神社(滝宮の牛頭天王拠点)拠点E 金昆羅道者 (近世以降の金毘羅大権現)
などへと、さまざまに姿を変えながら讃岐の里に現れます。
振り返れば古代の仏教は、鎮護国家仏教で国家や貴族を対象としたもので、庶民は対象外でした。古代の国分寺や有力者の氏寺は、庶民の現世利益や祖先供養には見向きもしませんでした。官寺や大寺の手から見棄てられた庶民達に救いの手を差し伸べたのは、廻国の遊行者だったことは以前にお話ししました。つまり、中世の庶民は、廻国遊行者によって始めて仏教と出会ったことになります。
この証文が出された天文14年(1545)という時代は、戦国時代のまっただ中です。戦乱の中で熊野詣が困難になって、熊野行者達の経済基盤が崩されていたとされます。熊野行者の丸亀平野での活動が停滞していく中で、次なる遊行者が登場してきます。彼らの活動を、多度津で見ていくことにします。テキストは「多度津町史914P 村の寺」です。
多度津葛原の浄蓮寺の由緒を、多度津町史は次のように記します。
葛原下所に一人の行者がどこからかやってきた。村外れの高園と言う少し高みに小さな家を建て、村の死人の世話をし墓守りをして、いつしか村人となった。鉢破れという地名はこれと関係があるかもしれない。その人は一代で終わった。人々はそのような者を待ち望むようになっていた。後、村の有力者の身寄りの者と称するものが、その家に寄食して、お念仏の教えを広め始めた。そしてみんなの合力を得て庵を建てた。それが葛原の浄蓮寺の起源で、その人は播州の赤松円心の子孫の田中可貞である。
ここからは次のようなことが分かります。
①行者が葛原下所に定着し、死人供養と墓守を行うようになった②その後、有力者の家に寄宿した行人が念仏信仰を広めた③村人が合力して建てた庵が浄蓮寺の起源である。④葛原には念仏阿弥陀信仰の信者がいたこと。これが賀茂神社の念仏踊りにつながること。
お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺・弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここからは、念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてきます。多度津の聖達の拠点であった道隆寺を見ておきます。
地蔵鼻堀江村浜にあり。ここ山もなく岳もなく只平砂磯なるに海中に出張る事夥し。東は乃生(のお)岬、西は箱の岬を見通す。弘法大師作地蔵尊を安置す。芳々以って名高しと。されば砂磯の突出甚だ長かりしならんも自然の風波に浚はれて遂に其の跡を失ふに至り、地蔵尊は避して八幡神社境内南東隅にあり。牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現存し参詣者多し。
意訳変換しておくと
地蔵鼻の堀江村に浜がある。ここには山もなく岳もなく、砂浜が平磯となって海に突きだしている。ここからは、東の乃生(のお)岬、西の箱の岬(庄内半島)が見通せる。そして、弘法大師自作の地蔵尊が安置されていて、信仰を集めている。しかし、風波に洗われて、地蔵尊が埋まってしまうこともあった。そこで、地蔵尊を近くの(弘浜)八幡神社境内の南東隅に移した。これは、牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現在でも参詣者が多い。。
道隆寺と堀江湊の中世復元図
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江は海に突き出した浜(砂州)の上にあった。
②砂州の戦端に、弘法大師自作の地蔵尊が立っていた
③近くには弘浜八幡神社があった。
①の砂洲は桜川河口から東に伸びていたもので、川を流れてきた土砂が、潮流の関係で堆積してできたものと研究者は考えています。どちらにしても地形復元すると、道隆寺のすぐ北側までは海が入り込んできていたことが分かります。ここでは古代の堀江の海岸は、桜川河口から東に伸びる砂丘のような岬と、そこから一文字堤防のように東に伸びる砂州の間に、切れ目があり、背後に潟湖をあったようです。
また、高野山の高僧が讃岐流刑中に著した「南海流浪記」宝治2年(1248)の記に、善通寺の「瞬目大師御影」の模写のために京都から派遣された仏師の到着を次のように記します。
「仏師四月五日出京、九日堀江津に下着す」
仏師は4月5日に京都を出発して、海路で讃岐に向かい9日に、堀江港に到着しています。ここから13世紀半ばの多度郡の港は、堀江だったことがうかがえます。古代の多度郡の湊は、弘田川河口の白方湾でした。それが堆積作用で使用できなくなった中世になると多度郡の湊として機能するようになるのが堀江です。その堀江湊の管理センターが道隆寺です。
①中世の堀江湊は、地頭の堀江氏(本西氏)が管理していた。②13世紀末に衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」の交易ネットワークの一拠点として繁栄した。⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。⑧西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。⑨道隆寺には、廻国行者や聖達がの拠点として、塩飽から庄内半島にかけての寺社を末寺化した。
こうして道隆寺を拠点とする高野山の念仏聖達は周辺の村々への「布教活動」を行うようになります。
堀江の墓地について、多度津町史は次のように記します。
堀江の墓地について、多度津町史は次のように記します。
堀江集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。(中略)堀江の観音堂堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏は(かつては)すぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。(弘浜八幡)宮と墓と寺(観音院)と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江集落の墓地が海際の砂州に作られ、そこに観音堂が建てられたこと
②それが後には、現在の観音院に発展していったこと
③神仏混淆時代には、神社も鎮霊施設として墓地周辺にあったこと
ここでは先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスを押さえておきます。
堀江の墓域と観音院の関係と同じような形が見えるのが、多度津の摩尼院や多聞院です。多度津町史は次のように指摘します(要約)。
①桜川の川口近くの両側は須賀(洲家)という昔の洲で、中世の死体の捨て場であった。②念仏信仰の普及と共に、そこが「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになった。③桜川の北側(現JR多度津工場)あたりにには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」。④極楽橋の南の袂に観音堂、その観音堂から発展したのが摩尼院や多門院。
ちなみに摩尼院の本尊は、地蔵の石仏のようです。石仏が本尊と云うこと自体が、先祖供養の民間信仰から生まれた「庶民の寺」から発展したお寺だと多度津町史は指摘します。
ここでは、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であることを押さえておきます。
ここでは、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であることを押さえておきます。
摩尼院(多度津)
最後に、道隆寺を拠点とした念仏聖達の活動をまとめておきます。
⑩高野山系の念仏聖達は、道隆寺を拠点に周辺の村々に阿弥陀信仰を拡げ信者を獲得するようになった。
⑪念仏聖の中には、村々の埋葬や祖先供養を行いながら庵を開き定着するものも表れた。
⑫その活動拠点が、多度津の観音院・摩尼院・多門院、そして葛原の浄蓮寺である。
⑬念仏聖は、高野山では時宗化しており、讃岐でも踊り念仏を通じて阿弥陀信仰を拡げるという手法を用いた。
⑭そのため多度津周辺では、踊り念仏が盆踊りなどで踊られるようになった。
⑮それが伝わっているのが賀茂神社の念仏踊りである。
加茂念仏踊り
高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者
高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者
の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。
参考文献
四国霊場岩屋寺調査報告書 仙人窟は祖先供養の霊地であった
仙人窟は、『一遍聖絵』にも描かれていて、修験者たちが岩籠もりや祈りの場としていた行場のひとつと考えられてきました。しかし、実際にここが調査対象になったことはありませんでした。ユネスコ登録に向けた霊場調査で、この窟も発掘調査の手が入ったようです。その報告書を見ていくことにします。テキストは、「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺発掘調査の成果(仙人窟:58P)2022年3月 愛媛県教育委員会」です
①不動堂(現本堂)の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。②鉦鼓を持っている阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。③阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、④飛来の仏と呼ばれている。近くに⑤仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。
ここからは、次のようなことが分かります。
①不動堂(本堂)の岩窟には銅製仏像が安置されていること
②この仏像は鉦鼓を持っているのに阿弥陀如来とされていること
③これに対して、澄禅は懐疑的であること
④誰が安置したか分からず、飛来の仏とされていること
⑤阿弥陀窟の左側に仙人窟があり、「法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所」とされていたこと。
②この仏像は鉦鼓を持っているのに阿弥陀如来とされていること
③これに対して、澄禅は懐疑的であること
④誰が安置したか分からず、飛来の仏とされていること
⑤阿弥陀窟の左側に仙人窟があり、「法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所」とされていたこと。
ここで確認しておきたいのは、現在の仙人堂と仙人窟は別の窟であることです。
岩屋寺 仙人堂と仙人窟
仙人窟の位置を最初に確認します。
①金剛界峰から南面して、阿弥陀堂に並んで開口②本堂からの比高は約4m、奥行は最大で約2,9m、幅約4、3m、高さは約2、1m。③岩壁沿いに細い行道が10mほど続いていて、通路のようになっている
岩屋寺仙人窟への行道
金剛界峰の裾部からは、かつての山林修行者の行道が一部残っているようです。この山全体が「小辺路」で行場だったことは以前にお話ししました。そのような行道の中のひとつの窟が仙人窟のようです。
1 8世紀の須恵器の壺蓋2・3 中世後期(15~16世紀代)の土師器質の皿4 鹿角製の竿(完形品)5 大量のこけら経・笹塔婆
遺物1は、須恵器の壺蓋です。
上図の黒い部分で全体の4分の1ほどが出ています。つまみ部分がありません。これについて研究者は次のように記します。
外面の3分の1より上は回転ヘラ削りにより器面が整えられ、天井部付近はケズリ後ナデが施されている。外部外而3分の1よリ下と内面は回転ナデによって調整される。口縁部径は復元で14。3㎝、高さは残存部で4。5㎝を測る。天井部から体部にかけての屈曲は鈍角で緩やかで、口縁端部はやや尖り気味におさまり、接地面はわずかに平坦面を有する。内外面ともに浅黄橙色を呈し、胎土は混和剤が少なく、精良である。時期は8世紀代に属するものと考えられる。
2・3は土師質土器の皿です。
造りは精良で、全体に歪みがない。復元口縁部径は13。2㎝、底径は5。8㎝、器高は3。2㎝で小型。内外ともに横ナデによって器面が整えられ、底部は回転糸切り痕が明瞭に残る。時期は、松山平野の土器との比較から中世後期(15~16世紀代)のもの
4は鹿角製竿(さお)の完形品です。
全長16。3㎝、最大幅1。95㎝、最大厚0。6㎝で、上端と下端が薄く、中ほどが厚くなっています。全体が良く磨かれて丁寧に仕上げられています。時期の特定は難しく、同時に出土した土器年代から古代~中世と幅を持たせています。
仙人窟からはこけら経・笹塔婆2421点が出ています。その内訳は、次の通りです
①経典を書写したこけら経が505点②六字名号などを書いた笹塔婆415点③内容不明等の墨書などの断簡1501点④残存状況は、完全系60点、頭部407点、下部57点、断片1897点
こけら経・笹塔婆については元興寺極楽坊から発見されたものが有名です。
「水野正好先生の古稀をお祝いする会2003年8月2日発行】15頁の「経木・経石発掘」には、次のように記します。
(-前略-)『大乗院寺社雑事記』には、こうした柿経書写の様子をこと細かく「春菊丸の追善のために柿経5670本つくり供養。うち5550本は文明9年5月14日の誕生日から当年(明応元年)7月25日死去の日まで、春菊丸がこの世にあった日数の柿経、120本は当年3月25日より死去の日まで、病に臥せた120日間分。柿経に書写した経は法華経は8巻・・・地蔵本願経3巻、阿弥陀経・・・。柿経は曽木200枚余、6切に5本ずつとる」と書きのこしてくれている。死者の追善供養としての柿経の写経であり、在世の日数に病
臥の日数を加えて法華経以下の経を写しているのである。
こけら板墨書 妙法蓮華經 富森冬永奉納 一束(箍外れの3枚を含む)
・時代 室町時代1498年(明応七年十一月十一日)銘
・直径 約21.5㎝(こけら板1枚の長さ約26.3㎝ 幅 約1.6㎝ 厚さ 約0.03㎝)
・説明 薄く剥(は)いだヒノキの板約2,000枚に墨で1行17字の妙法蓮華經を書写したもの。重ねて、巻末を中心にして円筒形に巻き込み、上・下を竹の箍(たが)で締めつけているが、下の箍は現在は銅線で補修されている。
法華経は8巻4,091行あり、このこけら経は、2束1セットの1束と見られる。
法華経は8巻4,091行あり、このこけら経は、2束1セットの1束と見られる。
元興寺極楽堂の天井裏に、はかつて柿経を納めたカマスがあったようです。
岩屋寺の仙人窟から出てきた笹塔婆を見ておきましょう。
笹塔婆は仏の名前や短い仏教の文言を書いて供養やまじないに用いた木簡です。岩屋寺出土の笹塔婆には
①「南無阿弥陀仏」の六字名号
②「大日如来」「勝蔵仏」などの阿弥陀仏以外の名号
③「キリーク・ナン・ボク」「キリーク・サ・サク」
などの梵字が書写されています。圧倒的に多いのは「南無阿弥陀」です。また「キリーク・ナン・ボク」は、阿弥陀如来の梵字種子に「南無仏」を梵字化した「ナン・ボク」を付加したものと研究者は考えています。そうすると「キリーク・サ・サク」の阿弥陀三尊梵三種子と合わせて、この洞窟のとなりに祀られている「洞中弥陀」との関係があったことがうかがえます。どちらにしても、阿弥陀信仰の色合いが強いことを押さえておきます。
①「南無阿弥陀仏」の六字名号
②「大日如来」「勝蔵仏」などの阿弥陀仏以外の名号
③「キリーク・ナン・ボク」「キリーク・サ・サク」
などの梵字が書写されています。圧倒的に多いのは「南無阿弥陀」です。また「キリーク・ナン・ボク」は、阿弥陀如来の梵字種子に「南無仏」を梵字化した「ナン・ボク」を付加したものと研究者は考えています。そうすると「キリーク・サ・サク」の阿弥陀三尊梵三種子と合わせて、この洞窟のとなりに祀られている「洞中弥陀」との関係があったことがうかがえます。どちらにしても、阿弥陀信仰の色合いが強いことを押さえておきます。
岩屋寺のこけら経・笹塔婆は、
いつころ奉納されたものなのでしょうか?上の分類・編年表に岩屋寺こけら経・笹塔婆の分類を照会すると、「松浦・原旧分類」のIa類とⅦa類に対応するので、15世紀後半~16紀頃のものと研究者は判断します。また、それを補強するものとして、岩屋寺のこけら経や笹塔婆の多くが片面写経であること、字体が近世まで下らないことがあります。
以上からは中世後期のこの岩窟では、士師質土器皿を持ち込んで、宗教的行為や柿経・笹塔婆の奉納などに活発に岩窟を利用していたことがうかがえます。
それでは、8世紀代の須恵器が仙人窟に持ち込まれていることを、どう考えればいいのでしょうか?
岩屋寺は、長く第41番札所大賓寺の奥之院とされてきました。そのため岩屋寺の縁起は、ほとんどが江戸時代以降のものです。最も古いものは鎌倉時代に描かれた『一遍聖絵』の詞書になります。そこには、空海以前には、地主神として仙人が生活していたとと、次のように記します。
「仙人は又土佐国の女人なり、観音の効験をあふきてこの巌窟にこもり…(中略)・…又四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十二所の霊嘱あり。斗藪の行者霊験をいのる砌なり」
ここからは岩屋寺が創建される以前より、土佐国出身の女性の仙人が修行を行う霊地であったと伝わっていたようです。こういう伝えが残されていることは、岩屋寺周辺の岩窟では、行者らの修行が岩屋寺創建より前から行われていたことがうかがえます。
また、この岩窟は生活するには不便な場所です。床面は水平ではなく、斜めに傾いています。その上、開口部以外は天井は低く、狭いので日常的な生活の場には適さない空間です。しかも水場からは遠く離れています。以上から、今回出土した須恵器は、日常的生活用ではなく、岩窟内での宗教的行為のために持ち込まれたものと研究者は考えています。
ここから出土した8世紀の須恵器の器種は壺の蓋です。
形から見て頸の短い短頸壺とセットとなる蓋で、その用途は日常生活の貯蔵容器として用いられる他に、この時期には蔵骨器として用いられていたと研究者は指摘します。その用例は愛媛県でも何例かあるようです。
上図は松山市かいなご3号墳周辺から出土した蔵骨器で、完全な形で、8世紀~9世紀中葉のものとされています。仙人窟の須恵器土器も蔵骨器として使用されていたと研究者は推測します。それを補強するのが『一遍聖絵』の詞書「仙人利生のために遺骨をとゝめ給ふ」という記述です。ここからは、古代~中世の岩屋寺では何らかの形で遺骨が祀られていたことがうかがえます。8世紀に蔵骨器として使用されたものとすれば、霊窟での祖先供養と結びついて考えることができます。
上図は松山市かいなご3号墳周辺から出土した蔵骨器で、完全な形で、8世紀~9世紀中葉のものとされています。仙人窟の須恵器土器も蔵骨器として使用されていたと研究者は推測します。それを補強するのが『一遍聖絵』の詞書「仙人利生のために遺骨をとゝめ給ふ」という記述です。ここからは、古代~中世の岩屋寺では何らかの形で遺骨が祀られていたことがうかがえます。8世紀に蔵骨器として使用されたものとすれば、霊窟での祖先供養と結びついて考えることができます。
最後に、鹿角製竿について見ておきましょう。
先ほど見たように、中世後期の仙人窟では、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われていたことが想定できます。しかし、その際に鹿角製竿がどのように使われていたのかというのは、よく分かりません。他でもこけら経と竿、土師質土器と竿を用いた祭祀行為の例はないようです。廻らなくなった頭を叩いて無理矢理に出してみると「行者などの人々の出入りが比較的多かったので、修行などの際に鹿角製竿を落とした」くらいしかおもいつきません。しかし、仙人修行の地である神聖な霊窟に落とし物をしてそのままにする修験者がいるでしょうか。しかも、これは完形品で、廃棄されたとも考えられません。
一方、8世紀代には須恵器の壺蓋が蔵骨器として用いられていた可能性があることは見てきた通りです。
ここからは、鹿角製竿も人骨とともに蔵骨器内に納められた副葬品であると研究者は推測します。熊本県益城町阿高の「阿高貝塚」の古墳から出土した蔵骨器には、骨製の竿が副葬されているようです。ここでは「鹿角製竿は蔵骨器の中に入れられた副葬品」説をとっておきます
一方、8世紀代には須恵器の壺蓋が蔵骨器として用いられていた可能性があることは見てきた通りです。
ここからは、鹿角製竿も人骨とともに蔵骨器内に納められた副葬品であると研究者は推測します。熊本県益城町阿高の「阿高貝塚」の古墳から出土した蔵骨器には、骨製の竿が副葬されているようです。ここでは「鹿角製竿は蔵骨器の中に入れられた副葬品」説をとっておきます
以上から、仙人窟で行われてきた宗教儀式を年代順に追ってみるると次のようになります。
①奈良時代8世紀に、死霊の赴く山として骨蔵器に骨が納められ埋葬された
②空海以前には、土佐出身の仙人が住み、観音信仰の霊地や行場とされていた。
③そこに熊野行者が入り込み、大那智社・一の王子・二の王子などを勧進した
④その後、高野聖がやってきて阿弥陀信仰をもたらし、祖先供養の霊地にした。
⑤高野聖は、高野山の守護神である丹生社や高野社を勧進するとともに、弘法大師信仰を拡げた。
⑥同時に祖先供養のために、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われた
⑦戦国時代16世紀の岩屋寺は、山林修行者の行場であると同時に、高野聖(念仏聖)たちによって里人の祖先供養の霊場の性格を強め、人々の信仰を集めた
⑧高野聖の活躍による弘法大師信仰の高まりを背景に、建立されたのが大師堂である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「発掘調査の成果(仙人窟) 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺(58P) 2022年3月 愛媛県教育委員会」
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四国霊場浄土寺・土佐一之宮・讃岐国分寺の落書きから見えてくる高野聖の四国辺路
今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。
土佐神社(神仏分離前は札所だった)
30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。
同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師 為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。
千手観音立像(国分寺)
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。同行五人 大永八(1528)年五月廿日①□□谷上院穏□
同行五人 大永八年五月廿日四州中辺路同行三人六月廿□日 三位慶□
①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。
讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。
①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
天福寺
天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。
次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識」左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」更に右側外側に「享禄五季」、更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。
金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)第31長老 良識(讃州之人)第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。
以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。
以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「武田和昭 辺路者の落書き 四国へんろの歴史59P」
近世の修験者たちは、どのようにして村々に定着したのか?
前々回に、伊予の四国霊場八坂寺について、次の点を押さえました。
①熊野十二社を勧進し、熊野先達業務をおこなっていたこと②周辺に広い霞(信者テリトリー)をもち、広範囲の檀那を擁していたこと
それが近世になって熊野詣でが衰退すると、石鎚詣での先達に転進して活躍するようになり、信者を再組織していきます。これが八坂寺の中世から近世への変化に対する生き残り策であったようです。
今回は、山伏(修験者)たちが、中世から近世への時代変化に対して、どのように対応して生き残っていったのかをを見ていくことにします。テキストは「近藤祐介 熊野参詣の衰退とその背景」です。
熊野詣での衰退要因については、研究者は次のように考えています。
16世紀における戦乱の拡大は参詣者の減少をもたらし、さらに戦乱による交通路の不通によって、熊野先達業務は廃業に追い込まれた。15世紀末以降、熊野先達は檀那であった国人領主層の没落などを受けて、新たに村々の百姓との結びつきを深め、彼らを檀那として組織するようになった。しかし、戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化していったと考えられる。
それでは熊野先達業務が不調になっていく中で、先達を務めた来た山伏たちは、生き残る道をどこに見つけたのでしょうか。それについて修験道研究では、次のような事が指摘されています。
①戦国期には山伏の村落への定住が始まったこと②そして山伏が庶民への呪術的宗教活動を盛んに行うようになったこと
つまり、近世の山伏たちは、生活圏を町場から村へと移し、檀那(信者)もそれまでの武士領主層から村々の百姓へと軸足を移したというのです。それでは山伏は新たに住み着いた村々で、どんな「営業活動」を行ったのでしょうか?
北条家朱印状写の中の「年行事古書之写」を見ていくことにします。これは永禄13年(1585)に、小田原玉瀧坊に対して後北条氏から出された「修験役」に関する文書です。玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は次の通りです。
〔史料五〕北条家虎朱印状写34)(「本山御門主被定置○年行事職之事丸之有ハ役ニ立たさる也 十一之御目録」一、伊勢熊野社参仏詣一、巡礼破衣綴一、注連祓・辻勧請一、家(堅カ守)一、釜注連一、地祭一 葬式跡祓一、棚勧請一、宮勧請一、月待・日待・虫送・神送一、札・守・年中巻数右十一之巻、被定置通リ、不可有相違候、若不依何宗ニ違乱之輩有之者、急度可申付者也、注連祓致陰家ニ(ママ)者有之者、縦令雖為真言・天台何宗、修験役任先例可申付者也、仍而定如件、永禄十三(1570)年八月十九日長純「○時之寺社奉行与申伝ニ候」玉瀧坊
近世に書写された史料ですが、ここには近世初頭の山伏の年間行事が挙げられています。
このことから修験者の役割は、次の4つに分類できそうです。
①伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、
②家や土地の汚れを祓(はら)う行為③葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、④守札等の配札行為、
一番目に「伊勢・熊野社参仏詣」とあります。これが、伊勢や熊野への先達業務です。ここからは、戦国時代になっても山伏が伊勢・熊野などの諸寺社への先達業務を行っていたことが分かります。ここで注意しておきたいのは、「伊勢・熊野」とあるように、熊野に限定されていない点です。その他の有名寺院にも先達を務めたり、代参を行っていたことがうかがえます。
しかし、残りの活動を見てみると「注連祓」「釜注連」「地祭」「宮勧進」などが並びます。これらは村の鎮守の宗教行事のようです。また。 「葬式跡祓」とあるので、山伏が村人の葬儀にも関係していたことが分かります。
「月待・日待・虫送・神送」は、近世の村の年中行事として定着していくものです。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
「札・守・年中巻数」は、護符や守り札のことでしょう。
これらも山伏たちによって、村々に配布されていたのです。こうして見ると、近世に現れる村社や村祭り・年中行事をプロデュースしたのは山伏であったことが分かります。風流踊りや念仏踊りを伝えたのも、山伏たちだったと私は考えています。
ここでは、山伏は、「イエ」や個人に依頼され祈祷を行うだけでなく、近世になって現れた村の鎮守(村社)の運営や年中行事などにも関わっていたことを押さえておきます。
越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
これは金剛院空我という人物によって著された呪術作法集で、寛文年間(1661~73)に、書かれたものとされます。その内容は、喉に刺さった魚の骨を取る呪法や犬に噛まれない呪法などの現世利から始まり、堂社の建立や祭礼、読経、託宣な169の祈祷作法が記されています。 当時の村に住む山伏が、村人の要望に応えて多種多様な祈祷活動をしていたことが見えてきます。村人から求められれば、なんでも祈祷しています。それは、歯痛から腰痛などの痛み退散祈祷からはじまって、雨乞い、までなんでもござれです。このような活動を通じて、山伏たちは、村の指導者たちからの信頼を得たのでしょう。こうして山伏の村落への定住は、彼らに新たな役割をあたえていきます。
例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。
例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。
天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。そして伊予では、熊野詣から石鎚参拝に転化したことは、以前にお話ししました。その背景について、考えておきましょう。
近世の熊野参詣は、参加者が数人程度の小規模なものになっていきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。
こうした中で、新たな熊野参詣の方法が採られていくようになります。
天正16年(1588)に古河公方家臣の簗田氏の一族・簗田助縄という人物から、武蔵国赤岩新宿の修験寺院大泉坊に対して出された判物を見ておきましょう。
簗田助縄判物諸社江代官任入候事一、大峯少護摩之事一、宇佐八幡代官之事一、八幡八幡代官之事一、伊勢へ代官之事一、愛宕代官之事一、出雲代官之事一、熊野ヘ代官之事一、多賀へ代官之事一、熱田へ代官之事右、偏任入候、来年ハ慥ニ一途可及禮候、尚鮎川可申届候、以上戊子六月廿一日 助縄(花押)大泉坊
ここには「諸社江代官任入候事」とあります。ここからは、簗田助縄が大泉坊に対して、こららの寺社への代参を依頼ていることが分かります。吉野の大峯から、豊後の宇佐八幡宮まで全国各地の有力神社へが列記され、その中に熊野神社の名前もあります。この時期、武将達は「代参」という形で地方の有力寺社に祈願していたのです。これを研究者は、次のように指摘します。
①「大泉坊が民間信仰の総合出張所=地域の宗教センター的役割を果たしていた②大泉坊に代参を依頼した背景には、簗田氏というよりは、むしろそこに集う民衆の要請があった
ここでは、戦国期には直接参詣に赴くことができない信者の要請を請けて、山伏が代参という形で地方の諸寺社を参詣するということが行われていたことを押さえておきます。人々の熊野に対する信仰は、代参という形に変化したも云えます。
以上をまとめておくと
なぜ中世後期に熊野参詣が停滞・衰退したのか、
①15世紀末(戦国期)ころから山伏たちは、村々への定着とともに、村人を檀那とするようになった。
②山伏は、村人の要請に応えていろいろな祈祷や祭礼を、行うようになった。
③一方で熊野参詣は、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより実施が困難になっていく。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
⑤代参は熊野だけでなく、全国の有力神社が対象で、熊野はそのなかのひとつにすぎなくなった。
⑥その結果、熊野参詣の停滞・衰退が生みだされた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近藤祐介 熊野参詣の衰退とその背景
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戦国期の仏教 禅宗は教線拡大の際に、霊山信仰や神祗信仰、死者供養などを取り込んだ
戦国時代において真宗興正派が讃岐で急速に教線を拡大したことを見てきました。その背景として、阿波三好氏の保護・支援を安楽寺(美馬市郡里)や常光寺(三木町)が受けたからだということを仮説として述べてきました。今回は、室町・戦国期の禅宗寺院が地方展開の際に、どのような教宣活動を行っていたのかを見ていくことにします。テキストは 「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」です。
戦国期の仏教について、戦後の研究で定説化されているのは次の三点です。
①法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、 一遍などを開祖とする「鎌倉新仏教」の教団は戦国期に全国的な展開を遂げ、「鎌倉新仏教」の「旧仏教」に対する優位が築かれたこと。②戦国大名の登場により寺院・僧侶らの行動が大きな統制と組織的支配をうけるようになったこと③「鎌倉新仏教」の中には、宗教王国の樹立を指向する一向一揆、法華一揆などが現れたが、織田信長・豊臣秀吉の統一政権樹立により圧伏されたこと
②については、近世仏教が内面の信仰よりも外面を重視するものへと「形式化」したという指摘もあります。これが近世仏教「堕落」論へとつながります。この立場は、一向一揆や日蓮宗が織田信長に屈したということを受けて、仏教界が統一政権へ全面的に従属するに至ったという通説の裏付けともなってきました。江戸時代の檀家制度がキリンタン信仰の取り締りという面から始まり、幕府の信仰統制策へ寺院・僧侶が荷担していくという、近世仏教「堕落」論に有力な根拠を与えています。ここでは、現在の通説が「戦国仏教の終局は、統一政権への従属・形骸化」だったとされていることを押さえておきます。
それでは禅宗は、全国展開をどのように進めたのでしょうか? その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
南北朝以後に発展した禅宗としては、次の2つが有名です。
①栄西(1141~1215)がもたらした臨済宗②道元(1200~1253)がもたらした曹洞宗
臨済宗は鎌倉や京都で幕府と結びついて五山・十刹(じゅせつ)制度のもとに発展します。曹洞宗は道元の開いた永平寺を基点とし、榮山紹瑾(1268~1325)やその弟子たちの手で北陸、関東、東海をはじめ、全国に展開します。しかし、臨済宗や曹洞宗は、一局集中型でなく多元的で、臨済宗にも早くから地方に展開していった流派もありました。曹洞宗にも宏智派のように五山の一翼となる流派もありました。むしろ五山・十刹の制度によって展開する「叢林」と、地方展開を遂げる「林下」との2つのベクトルがあったと研究者は考えています。
室町期以降の禅宗の地方展開を、要約すると次のようになります。
①戦国大名や国人領主らも武士階層による帰依・保護が大きな力となっていること②地域に根ざした神祗信仰、密教的要素の色濃い信仰や、現世利益希求を包み込んで受容されたこと、③授戒会・血脈の授与などを通じて師檀関係や、葬祭へ積極的な地方の禅寺形成の核になっていること
これらの三要素が地方に禅寺が建立される際のエネルギーになったと研究者は考えています。それでは、この3つの要因を具体的に見ていくことにします。
大名や国人らが禅僧に帰依した事例は数多くあります。
禅僧自身が武士層出身者であり、大名や国人の家中のブレーンとして活動していた例もあります。ここからは、大名や国人らが帰依して、その家族・家中の武士やその家族、次に領内の住民たちが帰依するという連鎖反応があったことがうかがえます。
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)の場合を見ておきましょう。ここでは領主長野業尚(のりひさ)が曇英慧応(えおう:1424~1504)に帰依し、禅宗寺院の長年寺を建立します。文亀元(1501)年の長年寺開堂の仏事の際に、曇英慧応の記した香語「春日山林泉開山曇英禅師語録」が残されています。そこには、長野業尚を筆頭に、嫡子憲業(のりなり)や庶子の金刺明尚、母松畝止貞、家臣下田家吉とその一門や親族、さらには隣人たちの名前が記されています。長年寺の建立に一族が尽力していたことが分かります。
また、禅僧たちは、檀越・保護者となった武士層と日常的な交流をもっていました。
遠江国佐野郡(静岡県掛川市)で活動した禅僧・松堂高盛(こうせい:1431~1505)を見ておきましょう。彼は、原田荘寺田郷の「藤原氏」の出身と自ら記しています。掛川市寺島に円通院(廃寺)を開いて、この地方への曹洞禅の教線拡大を計ります。
松堂高盛は、飯田荘戸和田郷の藤原通信(みちのぶ)・通種(みちたね)兄弟の母の十三回忌法要を依頼されています。また通種とは、和歌を通じての交流もあったようです。同じ「藤原氏」という同族関係(擬制的同族関係?)が、松堂の禅僧としての活動を支えていたことがうかがえます。
拠点とする円通院が兵火に焼失し際には、浜名郡可美村増楽(ぞうら)の増楽寺住持が、松堂を見舞っています。松堂は縁をもとめて河勾荘の東漸寺(当市成子町)に避難しています。翌年の正月に円通院に帰山する際には、七言、五十句の長詩をつくり、諸檀那へ感謝しています。松堂は宿泊した性禅寺をはじめ聖寿寺・増楽寺・大洞院に謝意を表しています。(『円通松堂禅師語録』三)
また禅僧は地域のいろいろな宗教活動にも関わっています。
松堂高盛は、遠江国山名郡油山(ゆさん)寺(静岡県袋井市)の薬師如来に祈って、自分の病の治癒を祈願しています。そのために法華経一千券の読誦を誓った「性音」という僧侶が行った法会に参加し、「看読法華経一千部窯都婆」を建立しています。ここからは、彼が約信仰や法華信仰の持ち主であったことがうかがえます。
一族や家臣らの帰依は、大名や国人領主家中の結束を強める効果をもたらします。
例えば下総国結城氏の制定した『結城氏法度:九四条』は、結城政朝(まさとも)の忌日に家中で寄合や宴会を行うことを禁止した条項です。この条項では、家中による忌日の精進が、政朝の堕地獄や成仏に関わるから禁止するのではなく、結城家中が亡き主君の忌日にも無関心なほど不統一だと思われてはならからだ、これを定めた理由が説明されています。先祖供養よりも、家臣や領内民心の統一のために先代結城政朝の忌日を設けているのです。
ここで思い出すのが以前にお話した日蓮宗本門寺(三豊市三野町)に残る秋山氏の置文です。そこには次のような指示がありました。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
10月13日は日蓮上人の命日法要です。②では、この日には何があっても一族挙げて祭事に取り組めと命じています。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたことがうかがえます。③では地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸イヴェントを催せと指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたことが分かります。
16世紀に日本で宣教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人フランシスコ・カブラルは、ローマ教国宛ての報告書翰で次のように述べています。(1571年9月5日付書簡)
「今ある最良の布教者は領主や『殿』たちである。……彼らがある教えを奉じるよう彼ら(領民)にいえば、それに簡単に従い、それまで信奉していた教えを、通常は捨ててしまう。一方彼らが他の教えに帰依するための許可を与えないときには、彼ら(領民)は如何に望んでいてもそれに帰依することはしない」
ここからは領主の信仰自体が、戦国期には家中や領民に大きな影響力をもっていたことが分かります。このような認識があったからこそイエズス会は、トップダウン方式の「上から(支配者へ)の布教活動」を最優先させ、高山右近や小西行長などの大名改宗にとりくんだのでしょう。
新仏教の側も大名や国人領主などに完全に従属し、領主支配に協力するだけの存在ではなかったようです。
先ほど見た上野国室田長年寺は、パトロンの長野憲業から、たとえ重罪の者であろうと門中に入った者には成敗を加えないという不入の制札(境内の安全を保障する掟)を得ています。こうした、アジール(駆け込み寺)としての治外法権を保障された制札は、禅宗寺院には珍しくないようです。
また多賀谷氏が開基した常陸国下妻(茨城県下妻市)多宝院住持の独峰存雄(どくほうそんゆう)については、次のような史料が残されています。
パトロンの多賀谷重経(しげつね)が斬刑にしようとした罪人の助命を請願して許されなかったた。そのため独峰存雄は、この罪人を得度させて共に出奔した。これに対して重経は、再三の帰還要請を行っていますが、なかなか応じなかった。
こうした僧侶の領主に対する抵抗は、他にも事例があります。中世寺院の「駆け込み寺(アジール)」としての側面で、住持は世俗の権力者に対してある程度の自立性を持っていたと研究者は考えています。
禅僧たちの伝道・教化が、どのようにして行われていたのかを見ていくことにします。
禅僧立ちも、神仏習合を説き、土着の信仰を受けいれつつ教線を拡大していたようです。臨済宗でも、曹洞宗宗でも祈祷・回向(えこう)の際には、天部をはじめとして日本国内の各地で信仰される神祗が勧請されています。これは神仏習合の思潮に合わせた動きです。
榮山和尚清規
鎌倉末期に作成された「榮山和尚清規」巻之下、「年中行事第三」には、次のような神々が招聘・登場しています。
①正月元日の法事は、梵天・帝釈・四大天王はじめ「日本国中大小神祗」や土地神など②起請文(神仏への誓約書)を記す際に誓約の対象とされていた神々③天照大神④「七曜九曜二十八宿」など陰陽道の神格⑤「王城鎮守諸大明神」⑥白山権現
これらの神への祈りが、禅宗寺院でも行われていたのです。神仏習合や、密教的観念が禅宗の中でも取り入れられていたことが分かります。地方への展開の際には、霊山信仰や、現地の有力神祗信仰を取り込んでいたことを押さえておきます。
こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。
こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。
示現寺
その中の源翁心昭(げんのうしんしょう:1329~1400)の示現寺の開山活動を見ておきましょう。白衣の老翁の夢告により霊山に登ったところ、山の神と名乗る夢中で見た白衣の老翁に会い、麓の空海開創と称する「古寺」に人院した。
これを整理要約すると
①夢のお告げに従って霊山に登った → 源翁心昭が山林修行者で廻国修験者あったこと②「山の神=地主神」から霊山管理権を譲り受け③空海開創の「古寺」に入った → 弘法大師信仰の持主であったこと
この陸奥国示現寺(じげんじ:福島県喜多方市)開創の伝承は、地域の信仰との関わりをよく伝えています。源翁の関わった寺院は、例外なく霊山信仰が伝わっています。昔から修験者たちの拠点としての歴史のある寺院です。例えば、
鳥取県の退休寺は伯者大山の大川信仰との福島県慶徳寺や示現寺は飯豊山信仰との山形県鶴岡正法寺は羽黒修験との
こうした地域の霊山信仰に参画できたのは、初期の禅僧たちが厳しい入峰修行などを経て身につけ、修験能力があったからです。ここからは中世末から近世にかけて隆盛を迎える修験と、禅宗との密接な関わりがうかがえます。
如仲天誾
東海地方の曹洞宗教線拡大に大きな役割を果たした如仲天誾(じょうちゅうてんぎん:1365~1437)です。
彼は、信濃国(長野県)上田の海野氏の出身です。9歳で仏門に入り、越前龍澤寺の梅山聞本の許で修行後に、遠江国で、崇信寺、大洞院、可睡斎、近江に洞寿院などを開創します。数多くの弟子を輩出し、騒動宗教線拡大に多くの業績を残しています
彼も隠棲の場所を探して山野を放浪する廻国修験者でもあったようです。不思議な老人の導きと夢告とにより至った場所に大洞院(静岡県周智郡)を開いたという逸話があります。また大洞院にいた時代、夜更けに「神人」の姿でやってきた竜が受戒を受け、解脱の叶った礼に「峨泉」を施したため、皆が用いる塩水の温泉が湧き出したも伝えられます。ここにも霊山信仰や井戸伝説が語られています。これらの伝承は、禅僧たちが地域の庶民信仰や霊山信仰と関わりながら廻国修験者として教線を拡大していったことを伝えています。
先ほど触れた松堂高盛の場合にも、遠江国原田荘本郷の長福寺(静岡県掛川市)は、パトロンである原頼景らの尽力により再興されました。大日如来の開眼法要に「長福寺大目安座点眼」と題する法語が残っています。そこには「日本大小神祗」、八幡大菩薩、白山権現、遠江国一官の祭神や土地の神などが登場してきます。ここにも、禅僧の色濃い神仏習合や山林修験者の信仰がうかがえます。
禅宗の神仏習合の思潮は、禅僧たちが残した切紙からも分かるようです。
切紙とは、教義の伝授などで用いられるもので、師匠から弟子に秘密異に伝授するために一枚の小紙片に、伝授する旨を記し、弟子に与えるものです。石川県永光寺(ようこうじ)所蔵の「罰書亀鑑(ばっしょきかん)」には仏教の戒律の一つ、「妄語」戒を守る際の誓約の対象に、仏祖とともに「日本国大小神祗」や白山権現などの諸神祗があげられています。他にも「住吉五箇条切紙」「白山妙理切紙」などがあります。
禅宗の教線拡大の力となったものの一つに、葬祭活動や、信徒とのの結縁を行う授戒会(じゅかいえ)があります。
最初に見た松堂高盛は、信徒の葬儀法要に際して下矩法語を作成しています。その中にはパトロンである国人領主原氏に対するものがあります。それだけでなく農民層に対するものも含まれています。例えば「道円禅門」のように「農夫」としての56年の生涯が記されているものや、「祐慶禅尼」のように村人としての52年間の人生が記されていて、「農務」に従事していた人達が登場します。
乾坤院
愛知県乾坤院(けんこんいん)の「血詠衆」と題する帳簿や「小師帳」は、15世紀後期の授戒会の実情が記されています。その中の受戒者は水野氏のような武士層の一族からその従者、農民、酒屋・紺屋・大工などの商人、職人や女性など階層・身分の人々が登場します。
また近江の大名浅井氏の菩提寺徳昌寺(滋賀県長浜市)には、16世紀中頃の授戒会のありさまを伝える「当時前住教代戒帳」が伝わります。そこには浅井氏当主の内室をはじめとする一族、井関、北村、今井、岩手、河毛、速水などの家臣、在地武士層の一族、女性たちが参加していたことが分かります。これらの「授戒会帳」は近世以降一般的となる過去帳の原型と研究者は考えています。こうした葬祭・授戒活動を禅僧は、主催していたのです。
埼玉県東松山市正法寺に伝わる元亀四(1573)年7月1日付の「引道(導)相承之大事」が残っています。これは密教で行う口訣(くけつ)とよく似た印信(秘法伝授を証明する文書)です。葬礼の際の祭式である引導の伝授が行われていたことが分かります。禅僧にとって葬祭は、大事な活動となっていたことが分かります。
戦国時代には、僧侶による葬礼・法要が重要な習俗として浸透していたようです。
イエズス会宣教師ジョアン・フェルナンデスはキリシタンたちの行った豪華な葬式が「異教徒」にも大きな衝撃を与えたことを、次のように報告しています。
「彼らは死者のために祈り、祭式を行うことに非常に熱心であり、その資力のない者達は、僧侶を呼び盛大な消費を行うために借金をするほどです。それは魂の不滅を確信しているからそうするわけではなくて、古くからの習慣であるためであり、世俗的な評判のためである」、1561年10月8日書翰、
ルイス・フロイスは1565年1月20日の書翰で、次のように報告しています
「日本人は、大部分が死後には何も残らないと確信しており、子孫による名声において自分が永続することを望んでいるので、何をおいても尊重し、彼らの幸福の大きな部分としているものの一つは、死んだ時に行われる葬儀の壮麗と華美とにある」
ここからは次のようなことが記されています。
①当時の日本人が葬儀の壮麗さと華美を求めてること。②そのためには金に糸目をつけないこと③その理由は「子孫が名声を得ることで、自分が永続することを望んでいる」で「世俗的な評判」第1に求めていたこと
僧侶らが取り仕切る葬礼は一般人に至るまで広く習慣として行き渡っていたことがうかがえます。前回に、律宗西大寺教団が中世に死者を供来うようになったことを見ました。それが戦国期には、新仏教の禅宗や浄土真宗などにも拡がっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」
中世の仏教 律宗僧は、どのようにして葬儀に関わるようになったのか
中世の仏教 律宗僧は、どのようにして葬儀に関わるようになったのか
今では日本の仏教は「葬式仏教」とまで云われ、僧侶が葬儀に関わるのは当たり前とされています。しかし、古代では僧侶が葬儀に関わることは、タブーだったようです。そういう意味では、中世になって律僧が葬送に従事するというのは、「大革新」だったようです。その転換が、どのようにして進んだのかを、今回は見ていくことにします。
テキストは「松尾剛次 躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動 142P」です。
テキストは「松尾剛次 躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動 142P」です。
古代・中世の興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺などの官僧たちは、「穢れ忌避」が求められていたので、葬儀にはアンタッチャブルでした。穢れには、死穢(しえ)、産穢(さんえ)などがありました。死穢というのは、死体に触れたり、死体と同座したりすることにより起こる穢れです。それに触れる(=触穢)と30日間は、謹慎生活を送る必要がありました。というのも、触穢れは伝染すると考えられていたのです。そのため他人に伝染させないために、穢れが消える期間、謹慎生活を送らねばならなかったようです。
穢れ忌避については『延喜式』に穢れ規定が神事従事に関わるものとして載せられています。
ここからは本来は、神事従事の規定だったことが分かります。ところが十世紀以後、神仏習合が進むと、寺院にも鎮守の神社が併設されるようになり、官僧たちも神前読経に従事するようになります。その結果、官僧も穢れ忌避が義務化されるになったようです。つまり、僧侶は死体に近づけない、触れないということになります。
『今昔物語集』巻13第20話は、次のように記します。
比叡山東塔の広清という僧が京に下り、 一条の北辺の堂で病死します。その死体は「弟子ありて、近き辺に棄て置かれ」ます。その「墓所」からは毎晩『法華経』を諦す声がした。弟子はこれを聞いて、遺骸を山の中の清いところに移しますが、そこでも声が聞こえた。
この物語からは、比叡山で学んだ僧で、弟子がいる立場の者でも、きちんとした葬送もなされず、死体が「近き辺に棄て置かれ」たというのです。この扱いが特別だったのではないようです。
『今昔物語集』巻28第17話には、次のような話が収められています。
藤原道長の御読経を勤めた奈良興福寺の僧が、毒キノコを食べて死んだ。哀れに思った藤原道長から葬料を賜って、立派な葬式をしてもらった。それを聞いた藤原道長の御読経僧の一人で、東大寺の某は、次のように嘆いた「恥をみなくてすんだのはうらやましいことだが、自分などが死んだら大路に捨てられてしまうだろう」。
栄華を極めた藤原道長に連なる興福寺や東大寺の僧でも、有力僧でなければ、仲間に葬送をしてもらえず、道に棄てられる恐れは十分あったことがうかがえます。
どうして、お寺のお坊さんが亡くなった師匠や同僚を丁寧に埋葬しないのでしょうか?
その背景にあったのは、葬送費用の問題だけではなく、官僧たちが死穢を避けるために死体に近づけなかったことがあります。死体に近づくというのは死穢で「30日間の謹慎生活」だったことは最初に見ました。悪くすると官僧(高級国家公務員)としての地位を失うことにもなります。供来をしたくてもできない体制下に置かれていたようです。これだけ見ると古代における僧侶というのは、先端の思想・知識・技術者集団であったが、庶民とはほど遠い存在だったことが分かります。彼らは庶民の平安や冥福を祈る存在ではなかったことを押さえておきます。
それが中世になると、葬送を願う庶民に対して、死穢を憚りつつ、慈悲のために葬送に従事する僧侶の話が出てくるようになります。
鎌倉前期成立の鴨長明『発心集』巻4第10話には、次のような話があります。
ある偉い僧侶が日吉神社に百日参拝の願を掛けたが、80日目の参拝の途中に、亡くなった母親の葬送ができずに泣いている独り身の女性に出会った。あわれに思って葬送をしてやった後で、穢れねをはばかりつつ日吉神社を参拝したところ、日吉神が現れて僧の慈悲をほめて、参拝を認めた。
ここには、葬式を望む人、慈悲のために穢れを憚らず葬式を行う僧侶、さらには慈悲のために穢れ忌避のタブーを犯す僧侶がいたことが分かります。それを日吉神も誉めています。こうして、死者をともらい、冥福を祈る僧侶が現れてきます。
この際に官僧であったかどうかは重要でした。
というのも、官僧たちには、死穢などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは最初にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な違いを生むことになります。
伊勢岩田の円明寺(廃寺、津市岩田)の覚乗の話を見ておきましょう。
覚乗は伊勢弘正寺(伊勢市楠部)で受けた伊勢神官の神のお告げによって円明寺に住むことになります。ある日、彼は、神を尊ぶあまり、御神体を見たくて、円明寺から伊勢神官へ百日間参拝する誓いをたてます。ところが、結願の日になって、斎官の料地を通り過ぎた時に旅人の死者に出会ってしまいます。覚乗は、死者の関係者から引導をたのまれ、葬送の導師をつとめます。その後、宮川の畔に到着したところ、一老翁が出てきて、「あなたは今、葬送を行ったではないですか。死穢に汚染されているのに、神官に参拝しようとするのは、どういうことですか」といった。それに対して、覚乗は次のように答えたという。「清浄の戒は汚染しないのです。それなのに、末世に相応して、いったん円明寺に帰れというのですか」。その問答が終らないうちに、白衣の童子が、どこからともなく現れて歌を詠み、「これからは円明寺から来るものは穢れないものとする」と言って影のように消えた
「三宝院旧記14」『大日本史料』6ー24、868P
先ほども見たとおり官僧は、葬送に関与したものは、神事などに携わるためには三十日間謹慎する必要がありました。ところが律僧の場合は、「清浄の戒は汚染なし」という論理により、死穢を恐れずに、厳しい禁忌を求める伊勢神官にすら参詣したというのです。
「清浄の戒は汚染なし」、これを言い換えれば、我らは日々厳しく戒律を護持しており、それがバリアーとなってさまざまの穢れから守られているのだ、ということになります。この主張こそが死穢を乗り越える論理になります。この一老翁と覚乗との問答には、厳しい戒律を守り続けていた律僧たちが、葬送従事とのはざまで、戒律を守ることをどのように考えていたかを示しています。彼らは、律僧として厳格な戒律を守った生活を行っていました。戒律を守ることは、社会的な救済活動を阻害するどころか、戒律が穢れから守ってくれているんだと考えていたことが分かります。この史料では、そうした主張を伊勢神官の神も認めたことになっています。
この物語の持つ意味をもう少し別の視点で見ておきましょう。
ここでは神は「円明寺から来るもの=叡尊教団の僧侶集団」を、穢れていないと認めています。別の言葉で言うと叡尊教団の律僧たち全体が、「清浄の戒は汚染なし」とされたのです。これは穢れのタブーから解き放たれたことを意味します。
説話などに、この話の類型が出てきますが、逆に見ると神仏習合の時代においては、僧侶が葬送に従事しながら、死穢の謹慎期間を守らずに神社に参詣することはタブーだったことを現しています。
「清浄の戒は汚染なし」という論理が、葬送などの穢れに関わる活動を律宗僧が行うことを可能したことを押さえておきます。これは、穢れの恐れがある活動に、律僧たちが教団として従事していく扉を開いたのです。
叡尊教団の律僧たちは、斎戒衆という組織をつくります。
そして、斎戒衆に葬送、非人救済といった穢れに関わる実務を専門に扱わせるようになります。この斎戒衆というのは、俗人でありながらも、斎戒を護持する人びとであり、俗人と律僧との境界人でした。律僧たちが、関与しにくい活動、例えば戒律で禁止されているお金に関することなどに従事します。こうした組織を作ったことにも、官僧が穢れに触れるとして忌避した葬送活動に、組織として取り組もうとした律僧たちの決意を見ることが出来ます。
そして、斎戒衆に葬送、非人救済といった穢れに関わる実務を専門に扱わせるようになります。この斎戒衆というのは、俗人でありながらも、斎戒を護持する人びとであり、俗人と律僧との境界人でした。律僧たちが、関与しにくい活動、例えば戒律で禁止されているお金に関することなどに従事します。こうした組織を作ったことにも、官僧が穢れに触れるとして忌避した葬送活動に、組織として取り組もうとした律僧たちの決意を見ることが出来ます。
以上を整理して起きます
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、私たちには穢れも病原体も関係ないという流儀が出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「松尾剛次 躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動 142P」です。
讃岐の熊野信仰 室町時代には讃岐の熊野信者の名簿が売り買いされていた
中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。
熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。
熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのもにも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修験者としての修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。
那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事合人貫文 地下一族共一円ニて候へく候、右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件うり主 勝達房道秀(花押)文亀元年峙卯月二十五日買主 実報院
意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲るニて候へく候、この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件うり主 勝達房道秀(花押)文亀元年峙卯月二十五日買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた実方院について、見ておきましょう。
室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。
実方院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院跡(現在は那智大社の宿泊所)
実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでも那智山の経営維持は皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切っります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。
この一覧表からは次のようなことが分かります。
①最初の檀那売券発行は弘安3年(1280)で、鎌倉時代の終わりの13世紀末以前から、讃岐でも熊野詣でが行われていたこと。
②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀には、継続して発行が行われていること。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ないこと。特に三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた武士集団です。有力な武士団を東讃では旦那に持っていたことが分かります。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、熊野信仰の流布の拠点となっていました。東讃から次第に西に拡がったということがうかがえます。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったとされます。その中には熊野先達を務めるものもいたようです。
⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が毎年のように出されています。さきほど見た文書です。
最初の霞(エリア)は、「中郡スエ王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)には、「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」を抵当に入れて借金したようです。
以上からは、勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持っていたことは以前にお話ししました。この時代に姿を見せる真言宗の寺院の多くは、彼らによって建立されたと研究者は考えているようです。
つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが
次の表です。
次の表です。
ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは、髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと地区ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。そういう意味では、善通寺市内の熊野神社は熊野行者の活動モニュメントでもあり、善通寺が全国の行場の聖地として認知されていたことの証拠のようにも思えてきます。
木熊野神社(善通寺市仲村)
佐伯氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして、11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、王子権現・熊野神社として記されるものが、数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。
讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。その中で早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)とされます。次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)には、熊野から勧請され長徳寺の鎮守となっています。その後、鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、およそ69社もの熊野関係の神社があったようです。
伊予では、古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社です。
ここの神輿鏡銘には、貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘があります。鎌倉時代初期には勧請されていたことが分かります。この神社から銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ラインを伸ばしていったことが考えられます。新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、立ち寄られた聖地であったようです。
阿波の場合は南部の那賀郡と古野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
それでは讃岐はどうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。
先ほど挙げた讃岐の熊野系神社43社のうち確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社 元久~承元(1204~12 98年)ころ②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いように見えます。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。こうして見ると熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)による場合があることになります。
以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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高野聖西行 京から讃岐修行への旅程を山家集で追いかける
前回は西行が23歳で出家し、高野聖としての勧進活動を行いながら、32歳の時には、高野山の先達に連れられて大峯山で百日にわたる本格的な修験道の修行を経ていることを見ました。今回は、50歳になった西行が讃岐にやってきた時の旅程を、山家集の歌で見ていきたいと思います。テキストは「佐藤恒雄 西行四国行脚の旅程について 香川大学学術情報リポジトリ」です
讃岐への出発に先立って、西行は京都賀茂社に参拝奉幣しています。
そのかみまいりつかうまつりけるならひに,世をのがれてのちも,かもにまいりけり,としたかくなりて,四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬこともやとて,仁安二(1167)年十月十日の夜まいり,幣まいらせけり,うちへもいらぬ事なれば,たなうのやしろにとりつぎて,まいらせ給へとて,心ざしけるに,このまの月ほのぼのに,つねよりも神さび,あはれにおばえてよみける。
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095)
意訳変換しておくと
世を捨て出家してからも鴨神社への神参りをおこなっていた。四国への修行に出向くに際して,還って来れないこともあるかもしれないと考えて,1167(仁安二)年十月十日の夜に参り,幣を奉納した。社殿へも入らずに、社務所に取り次いで参らせてもらおうと思っていると、その間に月がほのぼのと登り、いつもより神さび,あはれに思えたので一句詠んだ。
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095)
西行の讃岐出発については,1167(仁安2)年説と翌年3年説の両説があるようです。その期間は、次のようないろいろな異説があるようです。
A 短いのは一冬を過しただけでの3ヶ月の旅B 讃岐を拠点にして生活し、宮島に詣でていると考えると、短くとも2、3年の「旅」C 九州筑紫まで讃岐から出向いたとすると10年
西行東下りの図
①の歌が詠まれた10月10日に賀茂神社を参拝しています。その際に「四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬことも・・」とあります。定説では「崇徳上皇の墓参と慰霊」のためとされますが、「四国で修行」することが出発前から予定されていたことがうかがえます。崇徳上皇の慰霊に讃岐にやって来て、そのまま居着いてしまったとする説もあるようですが、私はそうではないと思います。同僚の高野聖達から讃岐の善通寺や弥谷寺のことについて、情報を仕入れた上で紹介状なども書いて貰っていたかもしれません。もうひとつ踏み込んで推測するなら、善通寺の伽藍事業のための勧進活動のために、西行が呼ばれたということも推測できます。西行は高野聖で、生活費は勧進活動から得ていたことを想起すれば、そんなことも考えられます。「修行と勧進を兼ねた長期滞在」が出発当初から予定されていたと、ここではしておきます。
鴨神社への参拝した旧暦10月10日(新暦では11月中頃)直後に、西行は京を出発したようです。
山家集には、道筋や航路については何も触れられていません。残された歌から詠まれた場所をたどるしかありません。
法然を乗せて鳥羽の川湊を離れる船(法然上人絵伝 巻34第2段)
参考になるのは、約40年後に讃岐流刑になる法然のたどった航路が絵図に描かれていることです。法然は、京の鳥羽から川船に乗って、淀川を下り,兵庫湊(神戸)→ 高砂 → 室津 → 塩飽 というルートをとていることは以前にお話ししました。
法然を乗せて鳥羽の川湊を離れる船(法然上人絵伝 巻34第2段)
参考になるのは、約40年後に讃岐流刑になる法然のたどった航路が絵図に描かれていることです。法然は、京の鳥羽から川船に乗って、淀川を下り,兵庫湊(神戸)→ 高砂 → 室津 → 塩飽 というルートをとていることは以前にお話ししました。
西行は、山城国美豆野から明石を経て,播磨路に入り,野中の清水に立ち寄って,飾磨か室津あたりの港に入ったようです。それは、以下の歌から推察できます。
西の国の方へ修行してまかり待けるに,みづの(美豆野)と申所にく小しならひたる同行の侍けるが,したしきものゝ例ならぬ事侍とて,く小せぎりければ
意訳変換しておくと
西国へ修行しにいくのに,摂津の美津濃という所で、同行予定の僧待ち合わせをしていた。しかし、近親者の病気で遅れることになり、その時に作った歌が
②やましろのみづのみくさにつながれて こまものう捌こみゆる旅哉(1103)
②の歌詞書の「くしならひたる同行」というのは同僚の西住のことのようです。みずの(美豆野)で落ち合って、同行する予定になっていました。ところが近親者の病気というアクシデントで、それができなくなったようです。ここからも旅の目的は「西国修行」であったことが裏付けられます。
高野聖の姿
西行の廻国は、歌人西行の名声が高まるにつれて美化されていきます。
そのために西行は、旅から旅へ「一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけです。しかも、それは修行と勧進のための廻国(旅)です。
その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
高野聖には大師像の入った笈が必需品だったのです。笈を負う形に似ているというので、高野聖は「田龜(たがめ)」とも呼ばれたようです。西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせると研究者は指摘します。
意訳変換しておくと津の国にやまもとゝ申所にて,人をまちて日かずへければ③なにとなくみやこのかたときくそらは むつましくてぞながめられける(1135)
摂津の山本で人を待って日数がたっていくさまを一句
ここの出てくる「津(摂津)の国の山本」が,板木では「あかし(明石)に」とあるようです。地名をがちがうのです。これについては、西住から再度同行する旨の連絡を受けた西行が,迫ってくる西住を明石で待っていた時の詠作であると研究者は考えています。
書写山
明石からは陸路をたどって、姫路の書写山へ二人で参拝しています。
はりまの書写へまいるとて,野中のし水をみける事,ひとむかしになりにけり,としへてのち,修行すとてとをりけるに,おなじさまにてかはらざりければ④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096)
意訳変換しておくと
播磨の書写山へ参拝した。野中の清水を最初に見てから,年月が経ち遠い昔になった。しかし、年月を経て,修行地に向かうために立ち寄ったのだが,同じ様で風景は替わらないのにことを見て④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096)
都を出発したのは旧暦10月10日で、新暦では11月中頃のことになります。法然の場合は順調に船で進んで室津まで10日ほどかかっています。西行は、待ち人がいてなお多くの日数を費やしています。そうすると12月になっていた可能性があります。12月になると強い北西の偏西風が瀬戸内海を吹き抜けるようになり、中世瀬戸内海航路を行き交う船は「冬期運航停止」状態になります。そのため西行達も明石からは陸路山陽道をたどったようです。
書写山は、修験者や廻国行者たちの拠点寺院でもありました。
彼らを保護することは、勧進活動の際には大きな力となります。「GIVE &take」の関係にあったのです。「播磨の書写山へ参拝した」とありますが、西行達はここで何日か宿泊したのかもしれません。笈を負った高野聖の西行の宿泊を、書写山は快く迎えたはずです。ここで同行の西住は都へ帰ることになったようです。
彼らを保護することは、勧進活動の際には大きな力となります。「GIVE &take」の関係にあったのです。「播磨の書写山へ参拝した」とありますが、西行達はここで何日か宿泊したのかもしれません。笈を負った高野聖の西行の宿泊を、書写山は快く迎えたはずです。ここで同行の西住は都へ帰ることになったようです。
四国の方へく、してまかりたりける同行,みやこへかへりけるに⑤かへりゆく人のこゝろを思ふにも はなれがたきは都なりけり(1097)
ひとりみをきて,かへりまかりなんずるこそあほれに,いつかみやこへはかへるべきなど申ければ⑥柴のいほのしばしみやこへかへらじと おもはんだにもあはれなるべし (1098)
⑤と⑥の歌については,ここまで同行してきた西住との別れを詠っているようです。西行と西住は,摂津の山本か播磨の明石で落ち合い,播磨路を同行しただけのようです。その後は、飾磨か室津から西行だけが乗船します。初冬の荒れる海の波が収まるのを待って船は出されたのでしょう。西住と別れ,船上の人となった西行は,瀬戸内海の本州岸に沿って西下し,備前牛窓の瀬戸を通り,小島(児島)までやってきます。
吉備児島は島だった
近世以後、「児島湾干拓」で児島湾は埋め立てられて児島は陸続きになりました。
しかし、古代吉備の時代からここには、「吉備の穴海」と呼ばれる多島海が拡がっていていました。児島は、当時は「小島」と書かれていますが、東西10キロ、南北10キロもある大きな島で、山陽側とはつながっておらず、島でした。波が高かったためか児島湾に入り、児島の北側に上陸しています。
児島のことを山家集は、次のように記します。
児島のことを山家集は、次のように記します。
西国へ修行してまかりけるをり,こじま(児島)と申所に八幡のいはゝれたまひたりけるに,こもりたりけり,としへて又そのやしろを見けるに,松どものふるきになりたりけるをみて⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371)
意訳変換しておくと
西国修行に行くのに,かつて修行のために籠もった児島の八幡宮に参拝した。その社の松が古く味わいがあったのを見て一句、⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371)
ここからは、西行はかつて児島にやって来て、この八幡神社周辺で籠もり修行を行っていたことが分かります。児島は熊野行者の拠点で「新熊野」と呼ばれた五流修験の拠点でもありました。五流修験の行者は、ここを拠点に熊野水軍の船に乗り込み、その水先案内人を務めて行場のネットワーク化を進めていきます。そして、塩飽や芸予諸島の大三島などを勢力下に置くことは以前にお話ししました。書写山から五流修験と、高野聖である西行らしい足取りです。
児島の五流修験(新熊野)
次にやって来るのが児島の南側の渋川海岸です。
備前国に小嶋と中嶋にわたりたりけるに,あみ申物とる所は,をのをのわれわれしめて,ながきさは(棹)にふくろをつけてたてわたすなり,そのさはのたてはじめをば,一のさはとぞなづけたる,なかにとしたかきあま人のたてそむるなり,たつるとて申なることばきゝ侍しこそ,なみだこばれて,申ばかりなくおぼえてよみける⑧たてそむるあみとるうらのはつさほは つみのなかにもすく“れたるこひ (1372)
意訳変換しておくと
備前国の小嶋(児島)に渡ってきた。「あみ」というものをとる所は,それぞれの猟場が決まっていて,海中に長い棹に袋をつけて長く立てる。その棹の立て始めを,「一の棹」と呼ぶ。年とった海民が立て始めたという。「たつる」という言葉を聞いて涙がこぼれてきて一句詠んだ⑧立て初むるあみとる浦の初竿は つみのなかにもすくれたるかな (1372)
「あみ」は、「海糖、醤蝦」と書く小さなエビのようです。コマセとも呼ばれるようで、それを採って生業としている漁師たちを「海人(あま)」と表現しています。海中に竿を立てて採る漁法を見て、「涙がこぼれた」というのはどうしてなのでしょうか? それが「つみ」という言葉と関係があると研究者は考えています。「つみ」とは何なのでしょうか?
次の渋川海岸でも「つみ」が登場します。
ひゞ(日比),しぶかほ(渋川)と申す方へまはりて,四国のかたへわたらんとしけるに,風あしくてほどへけり,しぶかはのうらと申所に,おさなきものどものあまたものをひろひけるを,とひければ,つみと申物ひろふなりと申けるをきゝて⑨をりたちてうらたにひろふあまのこは つみよりつみをならふなりけり(1373)
意訳変換しておくと
日比,渋川というところまでやってきて,四国へ渡ろうとしたが,強風で船が出ず渡れない。渋川の浦で風待ちしていると,幼い子ども達が何かを海岸で拾っている。それは何かと聞いてみると,「つみ」というものを拾っているという。それを聞いて一句。⑨を(降)りたちてうら(浦)にひろふあま(海民)のこ(子)は つみよりつみ(罪?)をなら(習)ふなりけり
ここにも「つみ」が登場します。浜辺で拾うと書いているので、貝のようです。当時すでに「罪」という言葉は使われているようですが、ひらがななので「積み」か、「摘み」かもしれません。先ほど句には「つみの中にもすぐれたるかな」とあったので、「採って積まれた海の幸」かとも研究者は推測します。
「玉野市史」に次のように記します。
「扁平な九い蓋のような貝で、浅い海底の砂泥のなかにいる。最近は姿を見ない。」
地元では、「つみ」とは「ツブ」と伝わっているようです。
「蓮の葉カンパン」とよばれる屈平で、丸い海中生物のことで、蓮根を輪明りにした感じで5つの小さな穴があいているヒトデに近い棘皮動物だと伝わるようです。これを、かつては、子供たちがひろって遊んでいたようです。
「蓮の葉カンパン」とよばれる屈平で、丸い海中生物のことで、蓮根を輪明りにした感じで5つの小さな穴があいているヒトデに近い棘皮動物だと伝わるようです。これを、かつては、子供たちがひろって遊んでいたようです。
西行は、地元の発音を「つみ」と、ひらがなで表記しているので、その正体は分かりません。しかし、「つみからつみを習う」とすれば、「貝から罪を習う」という流れになります。漁師の子供たちは、貝を拾っているうちに、「殺生」という罪を習い覚えることを、西行は憂えたのでしょうか?。あるいは、貝や魚を採ることも「殺生」だと気づかずに生きていることを歌にしたでしょうか。 よく分かりません。
渋川海岸からの備讃瀬戸 大槌・子槌とその向こうに五色台
「つみ」という言葉を入れた歌には、もうひとつ次の歌があります。
真鍋と申す島に、京より商人どもの下りて、やうやうの「つみ」のものなどをあきなひて、また塩飽の島に渡りて、商はんする由、申しけるを聞きて、
真鍋より塩飽へ通ふ商人はつみを買ひにて渡るなりけり
意訳変換しておくと
讃岐と安芸の間の真鍋島という島には、京よりやってきた商人たちが船から下りて、様々な「つみ」などを商う。そして、それを仕入れて塩飽島に渡って、商売することを聞いてて、真鍋から塩飽へ通う商人は「つみ」を、買って渡るという
ここの出てくる「つみ」とは、なんなのでしょうか
「やうやう」とは「様々」で、「色々な」という意味でしょう。とすれば沢山の種類の貝「摘み」か「積み」か、大量に採れる海産物のようです。塩飽附近で、たくさんとれる「つみ」を買いに船で真鍋島から商人が船で塩飽に通っているということになります。私は、最初はそう思って、「塩飽が周辺の流通センターの機能を果たしていた裏付け資料」と納得していました。しかし、西行は「言葉遊び」をしているのかも知れないと、思うようにもなりました。先ほど見たように「つみ」を「罪」と重ねているようにも思えるのです。どちらにしても、「つみ」については私はよく分かりません。今回は、讃岐を目の前にした児島の渋川海岸で終わりたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐藤恒雄 西行四国行脚の旅程について 香川大学学術情報リポジトリ
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西行 (1118-1190) は、平安時代末期の人で、歌人として知られています。
もともと武家の生まれで、佐藤義清という本名を持つ西行は、朝廷警護の役人として鳥羽院に仕えていました。武芸はもちろん、和歌にも秀でていた若者だったようです。それが23 歳のときに突然出家・隠者します。出家後は京都周辺や高野山などでの修行生活を送ります。また、東北・四国など全国各地を放浪する旅に出て、行く先々で西行伝説が伝え残されるようになります。彼の和歌は、勅撰和歌集にもたくさん入集し、自撰歌集(『山家集』)も有名で、歌人として後世の人達からも支持されてきました。そのために、風雅の人として、和歌の才能を備えた人物という評が一般化し、宗教人としての西行の存在が取り上げられることはあまりありません。
西行
西行は、高野山で修行し、勧進僧として生計を立てていたことを以前にお話ししました。
西行の旅も、後の芭蕉のように作品作りのためではなく、勧進のため、仕事のための旅であった研究者は考えるようになっています。今回は、西行が吉野山で修験者としての活動も行っていたことを見ていくことにします。
西行が高野山に住むようになったのは1149年(32歳)の時からのようです。
当時の高野山は、祈祷の密教的な法力を得るためにも修験的修行は不可欠とされていました。そのため高野山の僧侶の中にも修験を行うものもたくさんいました。西行は、遅ればせながら、自分も修行してみたいと思ったようです。空海の修行などを絵図で見ると、ひとりで修行を行っています。しかし、修験者集団を見ると分かるように、先達という山伏が集団を率いて指導するのが一般的です。何の作法も知らずして山に入っても修行にはなりません。守るべきことや作法は、先達から手移し、口移して伝えられていきます。
天台宗には今も「千日回峰」というのがあります。修験道は、山に登ること自体が修行であり、滝に打たれ、川の中に入って、心身共に解脱させるのだから、きびしい修行になります。
『西行一生涯草紙』には「大峯入山」と題した一章があります。
そこには、西行の修行に至る経過が次のように記されています。
大峯に入らんと思う程に、宗南坊、「入らせ給え」、大峯の秘処どもを拝ませ申すべき由、申されければ、悦びて、入りたりける。
意訳変換しておくと
大峰山で修行を行いたいと思っていると、宗南坊という修験道の先達が「それでは、一緒に行くか、大峰山の秘かな霊地や行場を拝ませてあげよう」と、快くすすめてくれたので、「悦んで」入山した。
ここからは高野山の僧侶を先達に、何人もの人達が集団で大峯山での修行に、柿渋を塗った紙の衣に着替えて向かった経過が分かります。
修験道は邪念を排除して、精進潔斎に徹するのが修行です。そのためにはなによりも体力が必要でした。しかし、西行には体力に自信はありません。そこで人山に際して、先達の宗南坊に次のような注文をつけます。
「とてもすべてをやり通せないかもしれないので、何事も免じて下さるなら、お供したい」
と嘆願しています。それにで宗南坊が何と応えたかは記されていません。
入山後のことを『古今著聞集』に、西行は次のように記します。
宗南坊に頼んだのに、行法は容赦なく、きびしかった。一緒に行った人たちよりも痛めつけられた。そこで涙を流して云った。「我はもとより苦行を求めたわけでも、利得を願おうとするものでもない。ただ、結縁のためとだけ思って参加した。それに対して、この仕打ちはひどい。先達とはこうも船慢な職だとは知らず、身を粉にして、心をくだくのは悔しい」
それに対して、宗南坊は次のように云った。
「修行する上人は、みな難行苦行してきた。木を伐り、水を汲み、地獄の苦しみを味わうこともある。食べるものも少なくして、飢えも忍ぶこと、餓鬼のかなしなも味わうこともある」
「結縁」とは「ケチエン」と読むようです。仏道に入る機縁をつくることです。西行が参加したこのときの修行は「百日同心合力」で、同行の修行者と行動を共に、百日間を生き延び、修行を重ねるものでした。西行は、説教されて、
「まことに愚痴にして、この心知らざりけり」と悟ります。
大峯山 行場配置図
大峯山での修行は、行場が決められていました。
山上ヶ岳の頂上での「覗き」の修行は、絶壁の上から綱で身体を支えて祈祷する命がけのもので、今でもおこなわれています。修験道は、この大峯山の南北の山稜を修行の場として、谷底の川では、「水垢離」と称して、裸体のまま身体をひたし、滝があれば「みそぎ」と称して、裸体を落下する水に打たせ、心身解脱の境地に徹します。
西行は、この修行のことを、次のような歌に残しています。
御岳よりさう(生)の岩屋へ参りたるに、露もらぬ岩屋も袖はぬれけると聞かずばいかにあやしからまし
「笙ノ窟」は大峰七十五靡(なびき)の62番目の行場で、「役の行者」の修行したところと伝えられています。そのため平安時代から名僧・知識人が数多く参籠修行しています。この窟は、修験者にとっては最も名高い聖地であったようです。そこに、西行も身を置いて修行しようです。
西行物語絵巻 笙の窟で修行する西行
大峯山での「百日同心合力」を記した『西行一生涯草紙』には、行場の地名は書かれていますが、歩いた順路で書かれてはいません。「山案内記ではなく、歌集」なのです。歌心が主で、山行案内のために書かれた文章ではないのです。「深山の宿」「千草の岳」「屏風ヶ岳」「二重ノ滝」「仙の洞」「笙の岩屋」という順にでてきます。これは、線では結べません。
八経ケ岳
「千車の岳(八経ケ岳)」では、紅葉を歌にしています。
分けてゆく色のみならず木末さへ千草の岳は心そみけり
修行も半ばを過ぎ、きびしさにも馴れてきたのでしょうか。木々が色付いていく姿を眺める心境がうかがえます。
大峯山の修行のハイライトは「行者還り」だったようです。
「行者還り」は、山上ヶ岳から南へ約1日の行程で、1546のピークですが、その手前の稜線が起伏のはげしい試練の山路です。
『山家集』については、次のように記されています。
行者還り、稚児の泊りにつづきたる宿なり。春の山伏は、屏風立てと申す所を平らかに過ぎんことを固く思ひて、行者稚兒の泊りにても思ひわづらふなるべし。屏風にや心を立てて思ひけむ行者は還り稚児は泊りぬ
南の熊野の方から登ってきた行者たちのなかには、ここから戻った(還った)者もあったようです。
『古今著聞集』には「西行法師難行苦行事」と書かれているのは、このあたりのようです。この前文に「春の山伏は」とあります。ここからは、修行は春から「百日」の修行だったことがうかがえます。
三重ノ滝
『山家集』の歌には、「三重ノ滝を拝みける」とあるので、もっと南の上北山村の方まで行っているようです。三重ノ滝は「前鬼の裏行場」とよばれる大峯山脈の東側の谷間にあります。滝は「垢離取場」の奥で、ここへゆくには、釈迦ヶ岳から5時間ほど下らなければなりません。
『西行一生涯草紙』は、このときの心境を次のように記します。、
三重ノ滝を拝みけるこそ、御行の効ありて、罪障は消滅して、早く菩薩の岸に近づく心地して、人聖明上の降伏の御まなじりを拝み、身に積もる言葉の罪も洗はれて心澄みける三かさねの滝
「みかさね」は、上中下―3つの滝の形容で、滝はそれを浴びて瞑想する「みそぎ」の場です。「垢離」とは心身の垢を落として浄めることです。このあと、「笙の岩屋」へ行っています。その途中にあるのが「百二十の宿々」です。西行は大峯山脈の稜線の方から東へ下って、この滝で修行しています。
大峯山 深仙の宿
その証拠に、釈迦ヶ岳の南にある「深仙の宿」で、夜の感慨を詠っています。大峯のしんせん(深仙)と申すところにて、月を見て詠める。深き山に澄みける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし嶺の上も同じ月こそ照らすらめ所がらなるあはれなるべし
月という存在を、改めてありがたく思っています。西行が「月」に格別な思いを抱きはじめたのは、この大峯修行のときからと研究者は指摘します。それまでは、それほど月は心に食い入らなかったというのです。
「笹の宿」では、次のように詠っています。
「笹の宿」では、次のように詠っています。
庵さす草の枕にともなひて笹の露にも宿る月かな
ここでは秋の月を讃えています。
修行で野宿をすれば、月が唯一のなぐさめとなります。「西行の月への開眼は大峯修行の中で生まれた」と研究者は指摘します。百日つづいた修行は、季節も春から初夏へと移っていきます。旅も終わりに近づいたようです。
修行で野宿をすれば、月が唯一のなぐさめとなります。「西行の月への開眼は大峯修行の中で生まれた」と研究者は指摘します。百日つづいた修行は、季節も春から初夏へと移っていきます。旅も終わりに近づいたようです。
小笹の泊りと申す所に、露の繁かりけれぎ、分けきつる小笹の露にそぼちつつほしぞわづらふ墨染の袖
ここまでやってきた、墨染の袖の汚れに、改めて気づいたようです。
露もらぬ岩屋も袖は濡れけると聞かずばいかにあやしからまし
この岩屋とは、思い出に残る笙の岩屋のことでしょう。山腹に深くえぐられた巨大な穴、風雨はしのげる自然の洞穴はひろく深い窟。西行も、ここで生命を終えてもいい、と思ったようです。後世に書かれたものを読むと、西行はこの修行でひどく疲れたようです。しかし、先達はそれも許してはくれません。
「心ならず出て、つらなりて、行く程に、大和の国も近くなりて…」里へ出てしまった。それまで
心ならずも同行の人々と一緒に山を下ります。大和国の里が近くなり別れが近づいたとき、皆泣き出した。そのとき作ったのが、次の歌です。
去りともとなほ逢ふことをたのむかな死出の山路を越えぬわかれは
「百日修行」の同行者は、何人いたのでしょうか。「きびしい修行はさせないでほしい」と最初は嘆願していた西行でした。それが結果として、修験道の真髄を知ったようです。『西行物語』では、大峯修行の話は載せていません。しかし、それより古い『西行一生涯草紙』では、最後に修験道の功徳について、次のように記します。
先達の御足を洗ひて、金剛秘密、座禅人定の秘事を伝え、恭敬礼拝の故に、安養浄上の望みを遂げなんと覚え、おのおの柿の衣の袖が返るばかりに涙を流して、故り散りになる暁、「ぬえ」の鳴きける声を心細く聞きて、
さらぬだに世のはかなきを思ふ身にぬえ鳴きわたるあけぼのの空
「ぬえ」とは夜になると、不気味な声で鳴く鳥で正体不明の生き物とされていました。人間の口笛のようでもあり、夜の森の中で聞くと、さびしさが極まる声です。百日の修行をした最後に、この鳥の声を聞いて、ふたたび浮き世に戻ってきた気持を表現していると研究者は評します。ちなみに、鵺(ぬえ)は、トラツグミで今は正体も分かっています。
「山家集」には、大峯での修行の際に作られた歌がかなり載せられています。
しかし、それが何歳頃のことかは分かりません。大峯山は吉野山の南につづく山稜です。先に大峯で修行します。その結果、北側の吉野山を再認識したようです。西行にとって大峯山は修行の場でしたが、吉野山は後に庵をつくって住む安住の地となります。
以上をまとめておくと
①1149年 西行は32歳で高野山に住んで、高野聖として勧進活動に従事した。
②高野山の密教修験者を先達とする、大峯山で修行に参加することになった。
③これは大峯山の行場を南から北へと抜けて行くもので「百日同心合力」とよばれる行であった。
④初めは厳しくで弱音を吐いていた西行は、次第に克服して修験のもつ魅力を感じるようになった
以上のように、西行は「高野聖 + 勧進僧 + 修験者 + 弘法大師信仰」を持った僧侶であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 岡田喜秋 西行の旅路 秀作社出版 2005年
西行は高野聖でもあった
四国霊場三角寺奥の院 仙龍寺繁盛の背景を絵図から考えると
金光山仙龍寺
金光山仙龍寺は、四国八十八箇所の札場霊場ではありません。しかし、17世紀に書かれた澄禅「四国辺路日記」、真念「四国邊路道指南』、寂本「四国霊場記」などにも紹介されています。プロの宗教者である修験者たちの行場にあった山岳寺院は、近世になると「四国遍路」となり、札所寺院廻りに姿を変えていきます。それにつれて、山の奥にあった霊場は里山に下りてきます。そして、行場は「奥の院」と呼ばれるようになり、訪れる人は少なくなっていきます。ところが仙龍寺は現在に至るまで、多くの参拝者を集め続けている「奥の院・別院」なのです。それを示すのが、かつては400人が泊まった大きな宿坊です。これだけの施設を作り出していく背景は、どこにあったのでしょうか。仙龍寺の宿坊
図書館で最近に出版された三角寺と仙龍寺の調査報告書を見つけました。今回は、その中に紹介されている仙龍寺の絵図を見ながら、その歴史を追いかけて行きたいと思います。テキストは「今付 賢司 仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」です。
仙龍寺堂内入口
弘法大師信仰が高まりを見せるようになると、善通寺の弘法大師御影のように、その遺品には霊力があり、何事も適えてくれると説かれるようになります。こうして弘法大師の遺品が人を惹きつけるようになります。
澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺の弘法大師遺品について次のように記します。
峠から木の枝に取付テ下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院(仙龍寺)は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。ここに弘法大師が18歳の時に、自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
ここからは仙龍寺は大師自作の弘法大師像が本尊で、鈴や硯も宝物として安置されていたことが分かります。中には、三角寺にお参りすることが目的ではなく、仙龍寺の「自作大師像」にお参りすることが目的の人達もいたようです。そのためには法皇山脈のピークの平石山(標高825m)の地蔵峠(標高765m)を越えて行かねばなりませんでした。これが「伊予一番の難苦」で、横峰寺の登りよりもしんどかったようです
報告書には仙龍寺の景観を描いた両帖、絵図類が以下の6つ紹介されています。
①寛政12年(1800)「四国遍祀名所図会」の図版「金光山」②江戸時代後期、西丈「中国四国名所旧跡図」収録の直筆画③弘化元年(1844)松浦武四郎「四同遍路道中雑誌」④明治2年(1869)半井梧奄『愛媛面影』の図版「仙龍寺」)⑤明治時代後期「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」⑥大正~昭和時代頃「金光山奥之院仙龍寺」
これは、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)の遍路記を、翌年に書写したとされるもので仙龍寺の挿絵がはいっています。ここには、仙龍寺への参道として次のようなものが描き込まれています
①三角寺からの地蔵峠②雲辺寺道との分岐点となる大久保村③仙龍寺まで7丁の地点にある不動堂④そこから急勾配の難所となる後藤玄鉄塚⑤道の左右に見える護摩窟、釈迦岳、加持水、来迎滝、道案内の標石、手洗水
などが細かく描き込まれ臨場感あふれる景観になっています。
山道を下った仙龍寺の境内では、懸造の本堂と庫裏、蟹渕(橋下の川)、鎮守社、阿弥陀堂、仙人堂などが並びます。崖沿いに建てられた高楼造りの仙龍寺本堂を中心に、深山の清滝、三角寺からの険しい奥院道の景観まで、江戸時代後期の仙龍寺の景観をうかがい知れる貴重な絵画史料と研究者は評します。
「四国遍礼名所図会」の本文は次の通りです
是より仙龍寺迄八十町、樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし。庵本尊不動尊を安置す、是より寺迄七丁、壱町毎に標石有り。後藤玄鉄塚道の右の上にあり、護摩窟道の左の下、釈迦岳右に見ゆる大成岳なり、加持水 道の右にあり、来迎滝橋より拝す、蟹渕 橋の下の川をいふ也。金光山仙龍寺 入口廊下本堂庫裡懸崖作り、本堂本尊弘法大師。毎夜五ツ時に開帳あり、大師御修行の霊地なり、本尊自作の大師也。大師四十二歳時一刀三礼に御作り給ふ尊像也、一度参詣の輩ハ五逆十悪を除給ふとの御誓願也。終夜大師を拝し夜を明す、阿弥陀堂 庫裡の上にあり。仙人堂 廊下の前に有り。
意訳変換しておくと
三角寺から龍寺までは八十町、樹木が生い茂り、高山の岩稜が険しい所を下っていく。難所で筆舌に尽くしがたい。不動尊を安置する庵から仙龍寺までは七丁、1町毎に標石がある。後藤玄鉄塚は、道の右の上にある。護摩窟は、道の左の下にある。釈迦岳の右に見えるのが大成岳。加持水は、 来迎滝橋より参拝できる。蟹渕は、橋の下の川のこと。
金光山仙龍寺の入口廊下と本堂・庫裡は懸崖作りである。本堂本尊は弘法大師で、毎夜五ツ時(8時)に開帳する。ここは大師修行の霊地なので本尊は、大師自作の大師像である。大師が42歳の時に、この地を訪れ―刀三礼で作られたという尊像である。一度参詣した人達は、五逆十悪が取り除かれるという誓願がある。終夜大師を拝して夜を明す。阿弥陀堂は、庫裡の上にあり。仙人堂は、廊下の前にある。
ここで私が注目するのは、次のような点です。
①それまで大師18の時の自作本尊弘法大師像が42歳になっていること②8時開帳で終夜開帳され、参拝者が夜通しの通夜を行っていること
①については「厄除け」信仰が高まると、「厄除け大師」として信仰されるようになったようです。そのため大師の年齢が18歳から42歳へと変更されたようです。
②については参拝者の目的は、本尊「大師自作の大師像」にお参りするためです。その開帳時刻は、夜8時だったのです。そのためには、仙龍寺で夜を過ごさなければなりません。多くの「信者の「通夜」ために準備されたのが宿坊だったのでしょう。それを無料で仙龍寺は提供します。これは参拝者を惹きつける経営戦略としては大ヒットだったようです。以後、仙龍寺の伽藍は整備され宿坊は巨大化していくようになります。それが絵図に描かれた川の上に建つ懸崖作りの本堂や宿坊なのでしょう。仙龍寺は、本尊の弘法大師像の霊力と巧みな営業戦略で、山の中の奥の院でありながら多くの参拝客を近世を通じて集め続けたようです。
大和国の仏絵師西丈が描いた彩色画帖「中国四国名所旧跡図」
(愛媛県歴史文化博物館蔵)
この絵図は一番下に「与州三角寺奥院金光山仙龍寺図」とあり、東西南北の方位が表記されています。城壁のような岩壁の上に横長の楼閣のような白い漆喰壁の建物(本堂、通夜堂、庫裏)が並び立ち、まるでお城のような印象を受けます。その廊下の四つの窓には全部で9人の人物が見えます。
その奥に瓦葺入母屋の屋根の大きな建物が二軒あります。張り出した岸上に瓦葺人母屋の屋根の漆喰塗り連子格子窓の建物があります。
渓流の向こう側の西の文字のある左側の場面には岩場が広がり、さらに一段上がった崖上の端には、桧皮葺入母屋屋根の社のような建物があります。これがかつての行場の象徴である仙人堂なのでしょう。その前に小さな小屋があります。西側崖と東側崖の間には川があり、上流から水が勢いよく流れ、手前には屋根付き橋の大鼓橋が掛っています。川沿いには石垣をもつ瓦葺の建物が建っています。奥にも屋根のない太鼓橋が掛り、橋のたもとには石塔が建っています。
松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」1844年(松浦武四郎記念館蔵)
松浦武四郎は雅号を北海道人(ほっかいどうじん)と称し、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた人物です。彼も仙龍寺にやって来て、次のような記録とスケッチを残しています。
金光山遍照院仙龍寺従三角寺五十六丁。則三角寺奥院と云。阿州三好郡也。本尊は弘法大師四十弐才厄除之自作の御像也。夜二開帳する故二遍路之衆皆此処へ来リー宿し而参詣す。燈明せん壱人前拾貳銅ヅツ也。本堂、客殿皆千尋の懸産二建侍て風景筆状なし易からず。大師修行之窟本堂の東二在。此所二而大師三七日護摩修行あられし由也。其時龍王:出て大師二対顔セしとかや。中二自然の御手判と云もの有り。是を押而巌石の御判とて参詣之人二背ぐ、尚其外山内二いろいろ各窟名石等多し。八丁もどり峠の茶屋に至り、しばし村道二行て金川村越えて内野村越而坂有。
意訳変換しておくと
金光山遍照院仙龍寺は、三角寺より五十六丁で、三角寺奥院と云う。阿波三好郡になる。本尊は弘法大師42才の時の厄除の自作御像である。夜に開帳するので、遍路衆は皆ここでー宿して参詣する。燈明銭として、一人十二銭支払う。本堂、客殿など懸崖の上に建ち風景は筆舌に表しがたい。 大師修行の窟は本堂の東にある。ここで大師は三七日護摩修行を行ったという。その時に龍王が出て大師と向かい合ったという。この窟の中には、大師の自然の御手判とされるものもある。この他にも各窟には名石が多い。八丁もどって峠の茶屋に帰り、しばらく村道を行くと金川村を越えて内野村越の坂に出る。
松浦武四郎は、仙龍寺について「阿波三好郡にあり」としていますが、伊予新宮の間違いです。この地が阿波・讃岐・伊予の国境に位置し、他国者にとっては分かりにくかったようです。他に押さえておきたいことを挙げておくと
①本尊は弘法大師42歳の厄除け自作像であること、18歳作ではないこと。②夜に開帳するので「遍路之衆」はみなここで1泊すること③照明代に一人12銭必要であること
三角寺道と雲辺寺道の分岐点となる大久保村付近から仙龍寺までの険しい山道の様子、清滝、崖沿いの舞台造りの諸堂が簡略なスケッチで描かれています。描画はやや詳細さに欠けるが、仙龍寺の全体の雰囲気をよく捉えていると研究者は評します。
幕末期の地誌である半井梧巻『愛媛面影』(慶応2年(1866)
ここには図版とともに、次のように記載されています。。
ここには図版とともに、次のように記載されています。。
仙龍寺 馬立村にあり。奥院と名づく。空海四十二歳の時の像ありと云ふ。山に依りて構へたる楼閣仙境といふべし。
左手に切り立つ崖沿いの懸造りの建物(本堂、通夜堂)と深い渓谷がに描かれています。空からの落雁、長い柱の上に建つ舞台から景色を眺めている人物なども描き込まれ、まさしく深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観です。
明治7年(1874)『伊予国地理図誌』
ここにも仙龍寺の記述と絵があります。仙龍寺図には、渓谷に掛かる橋や懸造の建物、そして反対側には清滝が描かれ、次のように記されています。
ここにも仙龍寺の記述と絵があります。仙龍寺図には、渓谷に掛かる橋や懸造の建物、そして反対側には清滝が描かれ、次のように記されています。
馬立村仙龍寺 真言宗 法道仙人ノ開基ニシテ嵯峨天皇御代弘仁五年空海ノ再興ナリ 険崖二傍テ結構セル楼閣ノ壮観管ド又比類無シ 本堂十四間六間 客殿十二問四間 境域山ヲ帯デ南北五町東西九十間清滝 仙龍寺ノ境域ニ在リ
明治末の仙龍寺について、三好廣大「四国霊場案内記」(明治44年(1911年)を見てみましょう。この小冊子は、毎年5万部以上印刷されて四国巡拝する人に配布されたもので、四国土産として知人に四国巡拝を推奨してもらうために作成された案内記だったようです。その中に仙龍寺は次のように紹介されています。
奥の院へ五十八丁、登りが三十二丁で、頂上を三角寺峠と云ふて瀬戸内海は一視線内に映じ、山には立木もなく一帯の草原で気も晴々します、峠から二十六丁の下りで、此の間の道筋は石を畳み上八丁下ると不動堂のある所に宿屋あり。こヽまで打戻りですから荷物は預け行くもよろしいが、多くの人は荷を寺まで持て行きて通夜することとする。寺には毎夜護摩修行があり、本尊の御開帳があり、住職の御説法があります。寺には風呂の設けもありて参詣者に入浴を得させます奥の院 金光山 仙龍寺(同郡新立村)本尊は大師四十二歳の御時、厄除祈願を込めさせられ、一刀三祀の御自作を安置します。昔高野山は女人禁制でしたが、当寺では女人の高野山として、女人の参詣が自由に出来ました故、今に女人成仏の霊場と伝へて、日々数多の参詣通夜する人があります。御本尊を作大師と申されまして、悪贔退散厄除の秘符を受くる者が沢山あります。
ここには奥の院道の三角寺峠から見た瀬戸内海の眺望や草原風景の素晴らしさ、石畳道、打戻りの地点の不動堂にも宿屋があったことが記されます。また、打戻りの際に荷物を宿屋に預けず仙龍寺まで持参せよとアドヴァイスしています。
注目したいのは、毎夜に本尊弘法大師像の御開帳があり、そこで護摩修行が行われること、入浴接待が受けられ宿泊費用は無料であったことなどです。そのため百十年ほど前の明治末になっても仙龍寺で通夜する遍路が多かったことが分かります。
明治10年(1877)に幼少期の村上審月は、祖父に連れられて四国遍路を行っています。その時の様子を後年に「四国遍路(『四国文学』第2巻1号、明治43年(1910)に次のように綴っています。
三角寺の奥の院で非常な優待を受けて、深い谷に臨んだ京の清水の舞台の様な高楼に泊らされたが其晩非常の大風雨で山岳鳴動して寝て居る高楼は地震の様に揺いで恐ろしくて寝られず下の仏殿に通夜をしていた多数の遍路の汚い中へ母等と共に下りて通夜をしたことがあつた。
三角寺奥の院にある高楼に通されたのですが、晩に大風雨となり、地震のように揺らぐ高楼で寝られません。そこで多数の遍路と仏殿で通夜したことが記されています。高楼の宿泊部屋とは別に、階下の仏殿で通夜する遍路が数多くいたことが分かります。仏殿は無料の宿泊所である通夜堂として遍路に開放され、いろいろな遍路がいたことがうかがえます。
番外札所の仙龍寺であったが多くの参拝者を集めている理由をまとめておきます。
①本尊弘法大師像が大師自らが厄除祈願を込めて自作されたものであること
②毎日夜に本尊を開帳し、参詣者に仙龍寺での通夜を許したこと、
③通夜施設として、大きな宿坊を準備し無料で提供したことや、風呂の接待も行ったこと
④「女人の高野山」として女人の参詣ができたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「三角寺と仙龍寺の歴史 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」
四国霊場三角寺 三角寺の名前は、空海が龍神を封じ込めた三角護摩壇に由来する
四国霊場の三角寺と、その奥院とされる仙龍寺建立の母胎になったのは、熊野行者であることは以前に次のようにお話ししました。
①阿波に入った熊野行者は吉野川を遡り、旧新宮村の熊野神社を拠点とする。②さらに吉野川支流の銅山川を遡り、仙龍寺を行場として開く③そして、三角寺を拠点に妻鳥(めんどり)修験者集団を形成し、瀬戸内海側に進出していく。
熊野神社(旧新宮村)
①の旧新宮村の熊野神社は「四国第一大霊験権現」とされ、四国の熊野信仰第一の霊場として栄えました。旧新宮村の熊野神社は縁起によると、大同2年(807)に紀伊国新宮から勧請されたと伝えます。熊野信仰拡大の拠点と考えられる神社です。
新宮の熊野神宮に残された棟札を見ておきましょう。
永禄5年(1562) 「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵」、慶長15年(1610)「大阿閣梨三角寺□処」、元禄2年(1689) 「遷宮導師三角寺阿閣梨倉典」宝永7年(1710) 「遷宮導師三角寺権大僧都法印盛弘」延享3年(1746) 「遷宮導師三角寺大阿閣梨瑞真」天明2年(1782) 「遷宮導師三角寺現住弘弁」天明6年(1786)「遷宮導師三角寺現主一如」文化14年(1817)「三角寺当職一如」文政7年(1824)「遷宮導師三角寺上人重如」嘉永2年(1849)「遷宮師三角寺法印権大僧都円心」
熊野神社の棟札には、遷宮導師として三角寺住持の名前があります。
遷宮とは、新築や修理の際に一時的に神社の本殿などご神体を移すことで、その導師をつとめるのは最高責任者です。ここからは神仏分離以前には、新宮熊野神社は三角寺の社僧の管理下に置かれ、社僧(修験者)達によって運営されていたことが分かります。近世の旧新宮村や阿波西部の三好郡の社寺も山川村も同じような状況にあったことが推測できます。これは、多度津の道隆寺が多度津から荘内半島、そして塩飽に至る寺社の遷宮導師を務め、備讃瀬戸エリアを自己の影響下に置いていたのと同じような光景です。三角寺は「四国第一大霊験権現」である新宮の熊野神社を管理下に置くことで、広い宗教的なネットワークや信者を持っていたことがうかがえます。
熊野神社(旧新宮村)
『熊野那智大社文書』の「潮崎稜威主文書」永正2年(1505)3月20日には、次のように記されています。
「熊野先達は妻鳥三角寺、法花寺、檀那は地下一族」
近年、三角寺の文殊菩薩騎獅子像の胎内から墨書が発見されたことは以前にお話ししました。
この像は、文禄2(1593)年に三角寺住僧の乗慶が施主となり、薩摩出身の仏師が制作したものです。研究者が注目するのは、この墨書の中に「四国辺路之供養」の文字があることです。ここからは、かつて熊野先達として活動していた妻鳥三角寺の修験者たちが16世紀後半には「四国辺路」を行っていたことが分かります。かつての熊野先達を務めていた修験者が、巡礼先を「四国辺路」へと換えながら山岳修行を続けている姿が見えてきます。そのような修験者たちが三角寺周辺には数多くいて、彼らが旧新宮村から山川村周辺の熊野信仰エリアを影響下に置いていたということになります。
今日の本題に入ります。
三角寺の由来となった「三角」とは、何を表しているのでしょうか?
三角寺の縁起は、次のように伝えます。
弘法大師が巡錫、本尊十一面観音と不動明王像を彫刻し、更に境内に三角の護摩壇を築き、21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して降伏護摩の秘法を修行。三角の池はその遺跡で、寺号を三角寺と称するようになった
修験道や密教では、護摩祈祷を行います。普通は四角に護摩壇は組まれます。これは「国家の安泰と万民の福祉を祈念」するためのものです。ところが、弘法大師はここでは「三角の護摩壇」を築いています。これは、呪誼や降伏など、悪いものを鎮め、封じ込めるときのもので、特別な護摩壇です。
護摩壇各種
何を封じ込めるために空海は三角護摩壇を築いたのでしょうか。『四国偏礼霊場記』の三角寺の挿絵を見てみましょう。三角寺背後に竜玉山(龍王山)があります。龍王山と言えば「善女龍王」の龍の住む山です。龍はすなわち水神です。水源神として龍王がまつられ、その本地を十一面観音とします。龍王は荒れやすく「取扱注意」の神なので、これを鎮めるための三角の護摩壇が作られた。その結果、水を与え、農耕を護る水神(龍)となったという信仰がもともとあったのでしょう。これが弘法大師と結びついて、この縁起ができたと研究者は考えています。
そうすると三角寺の縁起には、弘法大師が悪い龍を退治・降参させて、農民のために水を出しましょうと約束させたという処が脱落していることになります。それを補って考えるべきだと研究者は言うのです。
三角寺 三角池の碑文
『四国偏礼霊場記』の挿絵をもう一度見てみましょう。本堂の前に「三角嶋」があります。これが三角の護摩壇に由来するようです。しかし、現在はここには龍王ではなくて、弁天さんを祀られています。現在の三角寺の弁天さんからは、龍(水神)につながるものは見えて来ません。
三角池に祀られた弁天(三角寺)
それでは龍神信仰は、どこに行ったのでしょうか?
仙龍寺
遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)で、三角寺と仙龍寺を見ておきましょう。
此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ。三十余町上り漸行至ル。三角寺 本堂東向、本尊十一面観音。前庭ノ紅葉無類ノ名木也じ寺主ハ四十斗ノイ曽也。是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。堂ノ前ヲ通テ坂ヲ上ル。辺路修行者ノ中ニモ此奥院へ参詣スルハ希也卜云ガ、誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。峠二至テ又深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景二於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事二十余町ニシテ谷底ニ至ル。扱、奥院ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、寺像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。昔ヨリケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハー日モ堪忍不成卜也。其夜爰に二宿ス。以上、伊予象国分十六ケ所ノ札成就ス。
意訳変換しておくと
三角寺は伊予第一の長い坂が続く大難所である。ゆっくりと30町ほど登っていくと到着する。三角寺の本堂は東向で、本尊は十一面観音。前庭の紅葉は無類の名木である。寺主は四十歳ほどの僧侶である。ここから奥院は大山を越えて50町である。堂の前を通って。坂を上がって行く。辺路修行者の中でも、奥院へ参詣する者はあまりいないという。そのためか人が通るような道ではない。ただ所々に草結びの印があり、これを道しるべの代わりとして山坂をたどり登る。峠からは今度は深し谷底へ釣瓶落としのように下って行く。小石混じりの赤土の道、鳥も留まらないような巌石の間から枯木が生出ている様は桂景ではあるが、下って行くには難渋である。木の枝に取付て下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。こここには弘法大師が18歳の時に、やって来て自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。寺は、巌上に建つ懸崖造りである。ここには乗念という本結切の禅門僧が住持している。昔ながらの無知無能の道心者のようで、「六字ノ念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は、堪忍ならず」と、言って憚らず、阿弥陀念仏信仰に敵意をむき出しにしている。その夜は、ここに宿泊した。以上で伊予国分十六ケ所の札所を成就した。
ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀中頃には、三角寺から仙龍寺への参道を歩く「辺路者」は少なく、道は荒れていた。
②弘法大師の自像・鈴・硯などが安置され、早い時期から弘法大師伝説が伝わっていたこと。
③御影堂は「石上の二間四面」で、伽藍は小規模なものであったこと
④住持は禅宗僧侶が一人であり、念仏信仰に敵意を持っていたこと
⑤伽藍全体は小さく、住持も一人で、この時期の仙龍寺は衰退していたこと
ちなみに作者の澄禅は、高野山の念仏聖で各札所では念仏を唱えていたことは以前にお話ししました。「念仏禁止令」を広言する仙龍寺の禅宗僧侶を苦々しく思っていたことがうかがえます。
ここからは奥院が辺路修行の霊場で、修行者は仙人堂で滝行や窟寵りをしていたことが分かります。そして、仙龍寺には弘法大師伝説が早くから伝えられていました。そして仙龍寺の経営者達は、最初に見たように熊野行者であった妻鳥修験者たちです。彼らは時代が下ると、仙龍寺までは遠く険しいので、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本尊十一面観音を下ろします。これが三角寺へと発展していくようです。
こうして生まれた三角寺には最初は、「三角嶋」が作られ空海による龍王封じ込め伝説が語られたのかも知れません。しかし、もともとは仙龍寺を舞台とした伝説のために三角寺では根付かなかったようです。三角嶋は、いまでは善女龍王にかわって弁天さま祀られていることは前述したとおりです。
仙龍寺
一方、行場の方も仙人堂を仙龍寺として独立します。そして、谷川の岩壁の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化します。仙龍寺の大師は、今は作大師として米作の神となっているのは、水源信仰の「変化形」のひとつと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①吉野川の支流銅山川一帯には、古くから熊野行者が入り込み新宮の熊野神社を拠点に活動を展開した。
②銅山川上流の行場に開かれて仙龍寺には水神信仰があり、それが弘法大師伝説を通じて龍神信仰と結びついた。
③そのため仙龍寺には、弘法大師が三角の護摩壇で龍神を封じ込めたという言い伝えが生まれた。
④その後、本寺が仙龍寺から里に下ろされ、三角寺と名付けられたが、龍神を封じ込めた三角護摩壇という言い伝えは、伝わらなかった。
⑤そのため現在の三角寺には「三角嶋」はあるが、そこには龍神でなく弁天が祀られている。
参考文献
三角寺調査報告書 愛媛県教育委員会2022年
三角寺調査報告書 愛媛県教育委員会2022年
ソラの集落の庚申信仰 庚申講を組織し、庚申塔を建てたのは修験者(山伏)たちだった
三好市三野町田野々の庚申塔
阿波のソラの集落のお堂めぐりをしていると、必ず出会うのが庚申塔です。田野々の集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
庚申塔には、いろいろな姿の青面金剛像や三猿が彫られていて、見ていて楽しくなります。だんだんと庚申塔に出会うのも楽しみになってきました。青面金剛が彫られた庚申塔(田野々)
ソラの集落では、お堂の近くに庚申塔が残ります。これは江戸時代後半頃から明治頃に流行した庚申信仰の痕跡のようです。「庚申祭者名簿」(庚申講のメンバー)
集落の信者たちが「庚申講」を組織して、60日に一度の庚申待ちをお堂で行っていたことを示します。そして彼らが庚申塔を建てたのです。それが流行神としてもっとも盛んになるのが幕末期のようです。そこで、今回は改めて庚申信仰と庚申塔、そして青面金剛について、見ていきたいと思います。テキストは「五来重 石の文化」です。
なぜ「庚申待」をするかについては、道教の立場から「三尸虫説」が説かれてきました。
三尸虫
人間の体には三尸虫というものが潜んでいて、それが庚申の夜には人間が寝ている間に、身体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告する。そうするとたいていの人間は天帝の罰をうける。
庚申待のいわれ
そこで寝ずに起きいれば、三尸虫は抜け出せない。そのためには講を作って、一晩中、話をしたり歌をうたったりしているのがよいということになります。この種の庚申待は、祀るべき神も仏もないので「庚申を守る」・「守庚申」と云われました。話だけでも退屈するので詩や歌をつくり、管弦の遊びもします。俗に「長話は庚中の晩」とも云われるようになります。江戸時代の町方のでの庚申待の様子。真剣に祈っているのは2人だけ
町方の富裕層の間では中国からの流行神の影響を受けて、60日に一度徹夜で夜を明かすことが広がったこと、そして後には、宗教行事でも何でもなく、ご馳走食べての夜更かし、長話の口実になったようです。確かに町方では、そうだったかもしれません。
しかし、この説明ではソラの村での庚申信仰の広がりや熱心な信仰の姿を説明しきれません。
町方の富裕層の間では中国からの流行神の影響を受けて、60日に一度徹夜で夜を明かすことが広がったこと、そして後には、宗教行事でも何でもなく、ご馳走食べての夜更かし、長話の口実になったようです。確かに町方では、そうだったかもしれません。
しかし、この説明ではソラの村での庚申信仰の広がりや熱心な信仰の姿を説明しきれません。
『女庭訓宝文庫』より「庚申待ちの事」
これに対して庶民信仰の「荒魂の祭」で「祖神祭りの変形」という視点から五来重氏は次のように捉えます。
もともと古代から日待(ひまち)や月待(月待ち)の徹夜の祭が、庶民の間にはありました。
①日の出を待って夜明かしする行事を「日待」、②決まった月齢の夜に集まり、月の出を拝む行事を「月待」
それを修験者たちは庚申待に「再編成」していきます。「日待・月待」が「庚申待」に姿を変えていく過程には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭が前提としてあったこと。それが「荒神 → 庚申」へと転化されること。
青面金剛(太田記念美術館)
そして、最後に庚申待の神を仏教化して、忿怒形の青面金剛として登場させます。「日待」「月待」は、もともとはなんだったのでしょうか?
日待は農耕の守護神として正月・5月・9月に太陽を祀っていました。これが後になると伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であったことを示します。月待ちで7月23日に夜の月をまつるのもお盆の魂祭の一部で、荒魂の祭で、夜待(夜祀り)です。
庚申待が先祖祭の痕跡を残すのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりすることからうかがえます。これが庚申念仏といわれるもので、信州などでは庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしているようです。
庚申講の祭壇(長野県)
庚申講は、どんな風に行われていたのでしょうか。 庚申講の流れを、見ておきましょう。
①庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
②全員が集まると御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめます。
③それから講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」
(オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ)
を108回唱えます。
唱えるときには、立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。これは、六十日間の罪穢れを懺悔する意味があるとされます。これは大変なので後には、一人の羽織を天井から紐で吊り下げておいて、これを引いて上下させ、礼拝に代えるようになります。しかし、どこの庚申帚でも、この「拝み」があったようです。これは庚申本尊(青面金剛)に懺悔することによって、災いから護ってもらえると信じたからでしょう。
唱えるときには、立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。これは、六十日間の罪穢れを懺悔する意味があるとされます。これは大変なので後には、一人の羽織を天井から紐で吊り下げておいて、これを引いて上下させ、礼拝に代えるようになります。しかし、どこの庚申帚でも、この「拝み」があったようです。これは庚申本尊(青面金剛)に懺悔することによって、災いから護ってもらえると信じたからでしょう。
祭壇正面に掲げられる青面金剛
庚申塔の青面金剛と構成要素
これは先祖祭の精進潔斎にも共通するものです。もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈っていました。それが「荒魂→荒神」として祀るようになります。さにこれを山伏が「荒神(こうじん)→ 庚申(こうしん)」として、修験道的な青面金剛童子に代えたと研究者は考えているようです。最後に「申上げ」として、南無阿弥陀仏の念仏を21回ずつ3度となえます。念仏を唱えることに研究者は注目します。
これは念仏行者や聖などの修験者による「念仏布教の成果」ともとれます。中世後半には霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)など野念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動を展開していたことは以前にお話ししました。阿波の高越山や、讃岐の弥谷寺などはその代表でしょう。伊予新宮の熊野神社や仙龍寺や三角寺などを拠点とする修験者たちもそうだったかもしれません。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していく原動力になったのではないかと、私は考えています。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、テリトリーを示すのではないかという思いです。
庚申講と念仏の関係を報告した書
また、庚申講で念仏が唱えられる意味は、念仏講が庚申講が結合したことを示しています。これによって庚申講は遠い先祖と近い祖霊の両方を祀ることになります。1年に庚申の日はだいたい6回まわってきますが、十数年に一度、7回庚申の日がまわってくる年があります。この年を「七庚申」と呼ぶようです。七庚申年を迎えると念仏によって供養された祖霊が、神になったことをしめすために、「弔い切り塔婆」である庚申塔婆が建てられるようになります。「弔い切り(上げ)」というのは、年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないという庶民信仰です。
これと庚申塔出現の過程を簡単にまとめておきます。
①神になった祖霊神は、神道式のヒモロギ(常磐木の梢と皮のついたままの枝)で祀られる。
①神になった祖霊神は、神道式のヒモロギ(常磐木の梢と皮のついたままの枝)で祀られる。
②これを仏教や修験道は塔婆と呼び、庚申塔婆へと変化する
③やがて塔婆は「板碑」(いたび)になり、これに青面金剛が浮彫された庚申石塔が登場する。
簡略化すると次のようになるのでしょうか。
「ヒモロギ → 塔婆 → 庚申塔婆 → 板碑 → 青面金剛の庚申塔」
庚申信仰が庶民に広く、深く浸透していった背景を見ていきました。
そこには念仏聖や高野聖などの修験者の存在が浮かび上がってきます。
それを五来重氏は「石の文化」の中で、次のようにも記します。
庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。そして、この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのです。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。しかしこの庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、青面金剛を書いた板碑形庚申塔になったものと、私は理解している。そして、庚申信仰を次のように捉えます。
①庚申信仰は、仏教でも神道でも道教でもない素朴な庶民信仰を基盤に持つ。②庚申信仰は修験道を媒介として、仏教、神道、陰陽道に結合する③修験道は、庚申信仰の神をまつるのに、仏教も神道も道教も混合して、すこしも嫌わない④庚申信仰の青面金剛や庚申真言も山伏がをつくりあげた。
以上からすると、ソラの集落に残る庚申塔は、修験者(山伏)たちによって広げられたということになります。『修験宗神道神社印信』にも、次のように記します。
庚申待大事 無所不至印ヲツコシンレイコシンレイ マイタリ マイタリ ソワカ諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽摩利支天印 宝瓶印ヲンマリシエイ ソワカ
各地の庚申講では、この印信を受けている所が多いようです。これは、山伏がもたらしたものであることが分かります。ここからも庚申信仰を村々に担ってきたのが山伏たちであることが裏付けられます。
庶民の願いである「現世利益と来世安楽・祖先供養」などを、受け止めたのが、聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのが高野聖であったことが分かります。庚申信仰も、彼らが組織していったことがうかがえます。
高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。
修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったとする研究者も数多くいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たし、庚申講も彼らによって組織されたとしておきます。
しかし、解けない謎はまだあります。阿波のソラの集落にはお堂があり、そこで庚申待ちが行われ、庚申塔が数多く見られます。ところが讃岐の里の集落にはお堂も、庚申塔もあまりありません。庚申信仰の痕跡が余り見られないのです。これはどうしてなのでしょうか?
庚申信仰が庶民に流行するのは、江戸時代後期になってからです。それをもたらしたのは修験者(山伏)でした。そこで、私は次の2つの背景を考えています。①阿波では高越山・箸蔵山など修験者勢力が強かった。②讃岐が浄土真宗王国となり、修験者たちの活動が制限された。
讃岐では真宗興正寺派のお寺が多く、活発な活動を展開します。真宗は「鬼神信ずるべからず」という方針を打ち出すので、庚申さまの信者となることは排斥されたことが考えられます。つまり熱心な真宗信者は、庚申信仰を受けいれなかったという説です。
そんなことを考えながらのソラの集落への原付ツーリングは続きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 五来重 石の文化
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 五来重 石の文化
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原付ツーリング 新宮の旧西庄小学校は木造で、神社と同居していた
塩塚高原展望台
阿波の小歩危から白川谷川沿いに原付スクーターで、林道を詰めて塩塚高原までやってきました。
展望台より東方 剣から三嶺への稜線も望める 下は駐車場
この日は快晴。東は三嶺から剣山に続く稜線、西は手箱や筒上山まで姿を見せています。ここでおにぎりの昼食。ススキの塩塚高原を走り抜けていきます。
愛媛県川の四国中央市新宮町の田之内集落に下りてきました。
積み上げられた石垣の上に白壁の土蔵が建ちます
愛媛県川の四国中央市新宮町の田之内集落に下りてきました。
積み上げられた石垣の上に白壁の土蔵が建ちます
田之内集落
家の周りを緑濃いお茶畑が囲みます。その向こうには法皇山脈の山脈(やまなみ)が東西に走ります。ここで生産された茶葉の買付に、仁尾から商人たちが入ってきていたことが史料からは分かります。 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で伊予や土佐・阿波のソラの集落に入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたことは以前にお話ししました。お茶が栽培されているソラの集落のエリアが、仁尾の行商人たちの活動エリアでした。
ぽつんぽつんとある家を見ながら下りていくと、前方に空色のお堂が見えて来ました。お堂が「おいでおいで」と呼んでいます。
田之上堂
正面に立って眺めてみます。空色の屋根で壁があって閉鎖型です。羽根を広げて飛び立ちそうで、軽みがあって格好いいお堂です。周囲には、庚申塔は見つけられませんでした。田之内堂の内部
扉が開いたので中に入って、光明真言を唱えてお参りさせていただきます。そして、ここに導いていたことに感謝。田之内堂の鐘
その後、外の縁台に腰掛けて、ボケーとします。こんな時にいろいろな思いが湧いてきます。この時間を大切にしたいと思っています。グーグルにでている「大西神社」を探しながら林道を下りていきます。
鳥居の前には、こんな光景が広がっていました。
旧西庄小学校入口(新宮町)
すると現れたのが、この建物です。それまで地図上では、小学校があることに気づいていなかったので、一瞬驚きました。神社に行くにしても、校庭を通らないと行けないようです。坂を下りていきます。鳥居の前には、こんな光景が広がっていました。
旧西庄小学校と狛犬
神社の境内と校庭が「共有化」されています。狛犬が校舎を守っているようにも見えました。秋の日差しをあびて、校舎が輝いています。今でも子ども達の声が聞こえてきそうです。
旧西庄小学校講堂と稲茎(大西)神社拝殿
鳥居から見ると、拝殿と講堂が仲良く並んで建っています。ソラの集落をめぐっていると郷社的な神社の近くに、小学校が建てられているのを目にしますが、これは典型的な「小学校校庭=神社境内」の例です。そして、美しく調和しています。手入れも良くされているので見ていても気持ちがいいです。ホクホクした気分になれます。
下にある二階建ての建物が校舎なのでしょう。教室が3つ上下に並んでいます。
上が講堂なのでしょう。
校舎と講堂は、渡り廊下で結ばれています。木の香りがいまでもしてきそうです。
神社にお参りにいきます。
校舎と講堂は、渡り廊下で結ばれています。木の香りがいまでもしてきそうです。
神社にお参りにいきます。
稲茎神社
拝殿は、明治になって周囲の小社を合祀した際に建立されたものなのでしょうか、近代的な雰囲気がします。お参りした後で、後の本殿に廻ります。明治の神仏分離以前には、この神社も別当寺の社僧によって祀られていたはずですが、その別当寺がどこだったのかは私には分かります。ただ気になったのは、グーグルにはこの神社は大西神社と記されています。
しかし、鳥居や拝殿の扁額は「稲茎」神社と記されています。大西神社は、摂社です。稲茎神社は、前々回に紹介した新宮町上村の安楽寺の隣にもありました。「状況証拠」から推測すると、安楽寺が両方の稲茎神社の別当寺であったことがうかがえます。そして、上村には神社と安楽寺がセットであり、すぐ近くに寺内小学校がありました。神社と小学校の「併設」という点でも似通っています。
しかし、鳥居や拝殿の扁額は「稲茎」神社と記されています。大西神社は、摂社です。稲茎神社は、前々回に紹介した新宮町上村の安楽寺の隣にもありました。「状況証拠」から推測すると、安楽寺が両方の稲茎神社の別当寺であったことがうかがえます。そして、上村には神社と安楽寺がセットであり、すぐ近くに寺内小学校がありました。神社と小学校の「併設」という点でも似通っています。
校舎の入口には、こんなモザイク絵が掲げられていました。閉校時に子ども達が、制作したものなのでしょう。この小学校と神社は、私の印象に強く残りました。
四国中央市新宮町上山の木造校舎と寺と神社を訪ねて、修験者の痕跡をさぐる。
伊予新宮上村のハゼ
熊野行者の痕跡と庚申塔を求めて、阿波山城から伊予新宮へのソラの集落めぐりを続けています。その中で出会った新宮の木造校舎を2つ紹介したいと思います。ひとつは、四国中央市新宮町上山の安楽寺を目指せして原付スクーターを走らせていた時に出会った校舎です。
伊予新宮上村の寺内
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
旧寺内小学校
門碑には「寺内小学校」とあります。安楽寺の「寺内」という名称なのでしょう。バイクを下りて、運動場から拝見させていただきます。
旧寺内小学校
石垣の上に赤い屋根の校舎が長く伸びます。教室が6つあるようなので、1年生から6年生の教室が一列に並んでいるようです。里山の緑と赤い屋根がよく似合います。旧寺内小学校
正面に廻ってみます。校舎のすぐ裏側を町道が抜けています。
はい忘れ物やで、と母親が道路側の窓から忘れ物を渡すようなシーンが思いかびます。
グーグルで見ると「新宮少年の家 寺内分館」と記されています。今は、少年の家の施設として使われているようです。手入れも行き届いています。
こんな素敵な雰囲気の中に身を置いていると、ここで子ども達が元気に活動していた頃のことを、想像せずにはいられません。しばし、いつものようにボケーとしていました。
ここを訪ねたのは、この上にある安楽寺にお参りするためです。
安楽寺本堂
近づいて気づいたのは、軒下に一面の彫刻があることです。何が彫られているのでしょうか?お参りを済ませた後に、拝見させていただきます。軒下に彫られた雲龍
龍と雲です。四方の軒下を龍がうねっているのです。
東側軒下
ゆっくりと四方をめぐって、龍の動きを見ます。正面
宮大工の真剣さと遊び心が随所に感じられます。この時の宮大工は、楽しみながら彫っているのもよくわかります。腕が進みすぎて怖かったのではないでしょうか。説明版を見てみると、幕末の作品のようです。住職からの依頼に応えたのか、自ら申し出て住職が快よく許したのか、持てる力を存分に発揮しています。決して精緻で技術的に高いとは云えないかも知れませんが、その表現意欲は伝わってきます。見ていて気持ちのいい作品です。こんな思いもかけない「宝物」に出会えるので、ソラの集落の寺社めぐりは止められません。縁台に腰掛けて、のんびりと雲龍を眺めてポットに入れたお茶を飲みます。私にとっての「豊かな時」です。
さて、本来の業務に戻ります。庚申塔捜しです。本堂の前には、いくつものお地蔵さんなどの石仏が並んでいます。しかし、ここにはありません。
本堂前の庚申塔(一番右側)
ありました。境内の一番外れになります。
庚申塔
庚申塔は、青面金剛が三猿の上に立つ姿が刻まれています。 青面金剛が邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いています。また、どくろを首や胸に掛けたりもします。彩色される時は、青い肌に塗られます。青は、釈迦の前世に関係しているとされます。そして青面金剛の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像がいます。
安楽寺の庚申塔
庚申塔があるということは、ここで庚申の夜に、寝ないで夜を明かす庚申待が行われていたことになります。60日に一度訪れる庚申の日に、集落の人達が庚申待をおこなっていた証です。今は、地蔵さんに主役を奪われていますが、2ヶ月に一度やって来る庚申待は、集落にとっては大きな意味のある行事でした。ここで光明真言が何千回も唱えられ、その後にいろいろなことが語られ、噂話や昔話なども伝わっていったのです。
隣の泉田集落の庚申塔
この庚申信仰をソラの集落に広げたのが修験者たちだったと、私は考えています。
修験者たちは、庚申講を組織し、庚申の日にはお堂に集い光明真言を唱える集会をリードすることを通じて、集落そのものを自分の「かすみ(テリトリー)」としていきます。こうして修験者たちの密度が高かった西阿波や伊予宇摩地方は、今でもお堂が残り、その傍らに庚申塔も立っていることが多いのです。安楽寺にも庚申塔はありました。
では、讃岐ではお堂や庚申塔をあまり見かけないのはどうしてでしょうか?
それは浄土真宗の広がりと関係あると私は思っています。浄土真宗は、他力本願のもと六寺名号を唱えることを主眼としますので、庚申待などは「邪教」として排除されます。江戸時代になって、寺院制度が固まってくると、浄土真宗の教えが民衆レベルにまで広まるにつれて、讃岐では庚申信仰は衰退したと私は考えています。
安楽寺の隣の茎室神社
安楽寺の隣には、大きな銀杏と拝殿が見えます。道一つ挟んで神社が鎮座しています。
立派な拝殿です。後にまわりこんで社殿にお参りします。
近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。
この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。
この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
①吉野川沿いに張り込んだ熊野行者が、この周辺の行場で修行を行い、定着してお堂を構えた。
②谷川の水量が豊かな土地が開かれ、そこに神社が勧進され、周辺の郷社へ成長した。
③有力な修験者が村から招かれ、安楽寺が建立され、神社の管理も行う神仏混淆体制が形成された。
④安楽寺の歴代住職は密教系修験者で、「熊野信仰+修験道+弘法大師信仰」の持ち主でもあった。
⑤彼らは代々、三角寺や雲辺寺、萩原寺などの密教系寺院とのつながりを保ち、大般若経写経などにも関わっていた。
こんなことを考えながら「寺内」の里を離れました。岡の上から振り返ると、お寺と神社と学校が合わさった場所であることが分かります。小学校をどこに建てるのかは、地元の関心が高く政治問題化します。その中で宗教的・文化的な地域のセンターであった寺内が選ばれたのでしょう。郷社的な地域の中核寺院のそばに小学校が建てられているというパターンは、ソラの集落ではよく見かける光景です。
寺内地区の上は、茶畑と白壁の家
これで寺内ともお別れだと思っていると、もうひとつ驚きが用意されていました。泉田の高灯籠
目の前に現れたのがこの建物です。まるで燈台のようです。今まで見てきたソラの灯籠の中では、最大のものです。どうして、ここにこんな大きな灯籠が作られ、灯りを灯したのでしょうか。それは、ソラの集落の燈台の役割を果たしたのではないでしょうか。寺内はお寺があり、神社のあるところですが谷状になっていて、外からはよく見えません。泉田からの眺望
しかし、ここは尾根の先端部で周囲からはよく見えます。「心の支えとなるお寺と寺院があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰が自然と湧いてきたのかもしれません。こんなことを繰り返しながらソラ集落めぐりを原付バイクで行っている今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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ソラの集落の庚申信仰 庚申講を組織し、庚申塔を建てたのは修験者(山伏)たちだった
三好市山城町の旧三名村は、江戸時代は三名士によって支配されていた。
原付スクーターでの野鹿池山ツーリング報告記の二回目です。
前回は、次のことを押さえました
①阿波西部の吉野川の支流域が古くからの熊野行者の活動領域であり、熊野詣での参拝ルートでもあったこと。②讃岐の仁尾商人が塩や綿を行商しにやってきて、帰りに茶葉を持ち帰ったこと。つまり、讃岐との間に「塩・綿と茶葉との道」が開かれていたこと。③その交易活動を熊野修験者たちが支援していたこと。④そのため密教系修験者間のネットワークが讃岐西部と阿波西部では結ばれていたこと。
妖怪街道にあった説明版
ここには次のようなことが記されています。①土佐との国境防備のために、山城町の藤川谷川沿いに三人の郷士が配置されたこと②それが上名・下名・西宇に置かれたので、併せて三名村と呼ばれたこと③藤川谷川も、上名を治めた藤川氏の名前に由来すること
ナルホドなあと感心する一方で、これだけでは簡略すぎてよく分かりません。帰ってきて調べたことをメモ代わりに残しておきます。参考文献は、「三好郡山城町三名士について 阿波郷土研究発表会紀要第24号」です。
三名士とは、旧三名村(山城町)の次の三氏です。
①下名(しもみよう)村の大黒氏(藩制時代高200石)②上名(かみみよう)村の藤川氏(高200石)及び③西宇村の西宇氏(高150石)
①下名の大黒氏は、渡辺源五綱の末流だと称します。
吉野川の土佐との国境に接するのが下名です。ここには南北朝時代の争乱期の建武年中(14世紀中頃)に渡辺武俊が大黒山に来て、大黒源蔵と名乗って細川讃岐守頼春に仕えます。それから約二百年後に、その子孫の武信が天正5年(1577)に、土佐から阿波へ進攻してきた長宗我部元親に服して、先陣となって、田尾城(現・山城町)攻めに加わって戦死をとげています。
②上名の藤川氏は、工藤和泉守祐親が貞和5年(1349)に深間山に来ています。
藤川氏も南北朝時代に讃岐の細川頼春に仕え、貞治6年(1367)没しています。その子孫の次郎大夫の妻が、勝瑞城主の三好長治の末女であったため、その縁により長の字を賜わって長祐と改め、藤川姓を名乗ります。その子の長盛は、三好長治の命令で、讃岐の西長尾城(まんのう町)を攻略しています。三好氏の有力武将として、讃岐制圧に活躍した人物のようです。
③西宇の西宇氏は、井手刑部以氏が建武年中(1535頃)に西宇山へやって来ます。
これも細川頼春に仕え、西宇氏と改めたとします。その子孫である本家は天正10年(1582)中富川の戦で勇名を馳せ、重清城主大西頼武から武の字を賜わって、武元と改名しています。
以上から三氏共に南北朝時代に、この地にやって来て讃岐守護の細川頼春に仕えたと聞き取り調査に答えています。しかし、考えて見ると南北朝時代は阿波の山間部は、熊野行者の活動で南朝勢力が強かった所です。そこで北朝の細川頼春に仕えたと云うこと自体が、私にはよく分からないところです。また、この動乱期に何れもが来歴しているのも妙な印象を受けます。もともと、土豪勢力であったとする方が自然な感じがします。
そのような中で、下名の大黑氏は長宗我部元親の先兵として阿波攻略に働いたことが記されます。他の二氏もこの時期には、土佐軍に服従しなければ生き残れなかったはずです。
秀吉の四国平定後に長宗我部元親は土佐一国に封じ込められ、阿波には蜂須賀家政が阿波に入国してきます。
蜂須賀氏は四国平定戦で活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後の論功行賞で、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされました。土佐の長宗我部は、秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である讃岐の生駒と阿波の蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。
それを裏付けるように髙松城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されていることは以前にお話ししました。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が土佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。
それを裏付けるように髙松城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されていることは以前にお話ししました。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が土佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。
このような中で蜂須賀氏も、土佐国境周辺の防備をどうするかという課題が出てきます。
そこでだされた方策を、「各家成立書」には次のように記します。
天正14年(1586)三好郡山城谷往来の者共御下知に相隨わざるに付、三名士3名の者へ相鎮め候様仰付られ、罷り起し、方便を以て降参仕らせ、人質等を捕え申し候所、御満足に思召され、山城谷高50石(西宇氏)(黒川名高100石・藤川氏、白川名高50石・大黒氏)御加増下し置かれ、御結構の御意の上、猶以て御境目御押として、御鉄炮の者30人三名士へ御指添、猶又急手の節は近山の者共召寄せ下知仕るべく、御隣国異変の節は油断なく御注進申上ぐべき旨仰付られ候。年始御礼の儀は3人の内、打代り1人は御押に居残り、2人渭津へ罷出で候様仰付られ、御礼の儀は御居間に於て1人立ち申上候。其時御境目静謐やと御尋ね遊ばされ、猶以て御境目相寄るべき旨の御意、年々御例に罷成候。
意訳変換しておくと
天正14年(1586)三好郡の山城谷周辺の土豪たちの中には、蜂須賀家の命に従わないものもいた。そこで、有力者な三名士に鎮圧を命じたところ、武力によらずに従えさせ、人質を出すことについても合意した。この処置について、藩主は満足し、山城谷高50石(西宇氏)(黒川名高100石・藤川氏、白川名高50石・大黒氏)を加増し、御境目御押として、鉄炮衆30人の指揮権を三名士へ預け、緊急の場合には近山の者たちを招集し、指揮する権限を与えた。さらに、隣国土佐に不穏な動きがあった場合には、藩主に注進することを命じた。年始御礼の儀には、3人の内の1人は地元に居残り、2人が渭津へやってきて、御居間で1人立て、「其時御境目静謐や」と藩主が訊ねると「猶以て御境目相寄るべき旨の御意」と、答えるのが年頭行事となっていた。(各家成立書)
ここからは、大歩危の土佐国境附近の政務の実権を三名士が藩主から委任されたことが分かります。当時は、九州平定に続く朝鮮出兵が予定されていて、軍事支出の増大が避けられない状態でした。そこで、池田城には家老格を配置しますが、土佐との国境防備のためには新たな負担はかけない。つまり、警備とパトロールに重点を置いた方策をとることにします。そのためには地域の有力土豪を取り立て、そこに自治的な権利や武装権を与えて運用する。いざという時には、土豪層の動員力でゲリラ的な抵抗を行い時間を稼ぐという戦略です。こうして阿波藩は、3氏を召し出して、従来の持掛名(もちがかりみよう)の所領安堵を約束し、高取り武士として所遇することになったようです。
その任務は、次の通りです
A境目御押御用(さかいめおんおさえごよう・土佐国境警備)B村内の治安・政務C吉野川の流木御用
上名の藤川家成立書の3代藤川助兵衛長知の項(寛文元(1661)頃)には次のように記されています。
三名の儀(三名士)は以前より、百姓奉公人に相限らず、譜代家来同断に、不埓の事などこれ有り候節は、手錠・追込・追放など勝手次第に取行い、死罪なども御届申上げず候所、家来大吉盗賊仕り、讃州へ立退き候に付、彼地へ付届け仕り召捕り申候。尤も他国騒がせ候儀故、其節相窺い候所、庭生の者に候故、心の侭に仕る可き旨仰付られ候由、坂崎与兵衛より申し来り、大吉討首に仕り候。右与兵衛書面所持仕り罷在り候。其砌より以後死罪などの儀は、相窺い候様仰付られ候
意訳変換しておくと
三名士については、百姓や奉公人だけに限らず、譜代家来も不埓の事があった時には、手錠・追込・追放など「勝手次第」の措置を取ることができた。死罪なども藩に届けることなく実施できた。例えば、家来の中に盗賊となったものが、讃州へ亡命した時には、追っ手を差し向け召捕ったこともある。この時には、他国にまで騒ぎが広まり、国境防備に隙ができてはならないとの配慮も有り、討首に処せられた。これ以後については、死罪などの処置については、藩に相談するようにとの指導があった。
三名士は、初めは高取りで、無足諸奉行の待遇でした。
それが次のように時代を経るに従って、待遇が改善されていきます。
明暦2年(1656) 大西城番中村美作近照の失脚によって、長江縫殿助・長坂三郎左ヱ門の支配下へ。明和3年(1766) 格式が池田士と同格へ寛政12年(1800) 池田士・三名士とも与士(くみし・平士)へ
三名士から藩主に鷹狩に用いる三名特産の鷂(はいたか)を献上していたことが史料には残っています。
鷂(はいたか)
鷂は鷹の一種で、雌は中形で「はいたか」と呼び、鷹狩りに使われる種として人気がありました。慶長年間に初めて鷂を献上したところ、蜂須賀家政よりおほめの書状を頂戴し、以来毎年秋には網懸鷂を献上して、代々の藩主から礼状をいただいています。網懸鷂のことが三名村史には、次のように記されています。
「三名士の鷹の確保は、藤川氏は上名六呂木(本ドヤ・イソドヤ)その新宅は平のネヅキ、西宇氏は粟山と国見山との2箇所、大黒氏は西祖谷の鶏足山であった」「タカの捕え方は網懸候鷂(はいたか)と書かれているが、これはおとりを上空から見やすい個所につなぎ、その傍にカスミ網をはるのであって、オトリの鳥が上空を飛ぶタカの目に入ると、タカは急降下し小鳥に襲いかかろうとし、カスミ網にひっかかるのである」
藤川氏所蔵の古文書は、これを裏付けるものです。
NO1は、9月18日(年不詳)で慶長9年(1604)~寛永11年(1634)の隼献上書状(礼状)、
NO2は10月3日(年不詳)で、同年代のものと推定される鷂(はいたか)献上書状(礼状)
已上隼一居到来令祝着候自愛不少候尚数川与三左衛門かたより可申候謹言9月18日 千松(花押)藤川隼人とのへ
已上鷂壱居到来 令自愛祝着不少候猶数川 与三左衛門かたより可申候10月3日 千松(花押)上名藤川 隼人とのへ
中世には武家の間でも鷹代わりが行われるようになります。
信長、秀吉、家康はみんな鷹狩が大好きでした。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』にも書かれています。それが引き続き江戸時代になっても大名たちの間では流行していました。
鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられました。その中でも人気があったのがハイタカです。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。羽根の色が毛更りして見事なものを、土佐国境近くの山で捕らえられ、しばらく飼育・調教して殿様に献上します。鷹狩りの殿様であれば、これは他の大名との鷹狩りの際に、自慢の種となります。三名からの鷹の献上は、殿様に「特殊贈答品」として喜ばれたのでしょう。あるいはハイタカの飼育・調教を通じて、三名士の関係者が、藩主の近くに仕え、藩主に接近していく姿があったのかもしれません。
最後に三名士の残した墓碑を見ておくことにします。
三名士の藤川・大黒・西宇の3家は、他に例がないほどの規模と構造の墓碑を造立し続けています。それが今に至るまで整然と管理されているようです。墓碑は、古代の古墳と同じくステイタス・シンボルでもあります。埋葬された人物の権威の象徴であり、権力の誇示でもありました。そういう目で、研究者は三氏の墓碑群を調査報告しています。三氏の墓地はそれぞれ旧屋敷周辺に、下表のように存在するようです。
三名士の各家の墓石群
三名士の各家の墓石群
墓は1基ごとに、平な青石を積み重ねて造ったもので、大きさは、1,5m四方、高さ50~80cmの台座に五輪塔や石塔を建てあるものが種です。しかし、台座だけで墓碑のないものも、かなりあるようです。造立されたものが倒壊などによって亡失された記録はないようです。台座だけというのは、阿波のソラの集落には珍しいことではありません。青石の石組み自体が信仰対象で、古い時代には神社の祠や社としても使われていたことは以前にお話ししました。敢えて、名前を表に出さないという考えもあったようです。保存状態は良好で、碑面の剥落もほとんどないと報告されています。
墓の造立年代を表にしたのが次の表です。
①三名士に任命された後、明治になるまで歴代の当主の墓碑が屋敷周辺に造立し続けられたこと②大黒家の墓は、明和以降の造立であること。これは大黒山から、吉野川沿岸へ下名に移ったのがこの時期であること
以上を整理しておきます。
①大歩危から野鹿池山への稜線は、阿波と土佐の国境線でその北側は旧三名村とよばれた。
②その由来は、蜂須賀藩が土佐との国境監視などを、土地の有力土豪の三氏(三名)に自治権を与えて任せるという国境防備システムを採用したためである。
③そのため、下名・上名・西宇地域の各土豪が三名士と呼ばれて、蜂須賀家に登用された。
④国境警備のために武装権や警察権などを得た三名は、地元ではある意味、小領主として君臨した。
⑤彼らの屋敷などは残ってはいないが、そこには江戸時代の当主の墓碑が累々と造立され並んでいる。
⑤彼らの屋敷などは残ってはいないが、そこには江戸時代の当主の墓碑が累々と造立され並んでいる。
ここで私が関心が湧いてくるのが、次のような点です
①ひとつは三名士と宗教の関係です。彼らが何宗を信仰し、どんな宗教政策をとっていたのか。②三名士の館跡がどこにあったのか
①については、このエリアが「塩・綿と茶葉の道」で、讃岐の仁尾と結ばれ、仁尾商人が行商で入ってきた痕跡があることです。それが、三名士の承認や保護を得たために、国外の仁尾商人の営業活動が可能であったのではないかということです。同時に、宗教的には前回見たように修験者たちは、活発に讃岐の寺社との交流を行っていたことがうかがえます。これも「三名士特区」であったから可能ではなかったのかということです。
②については、現地に出向いて見たのですがよく分かりませんでした。今後の課題としておきます。知っている方がいらしたらそのことが書かれている資料をご紹介下さい。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
三好市山城町の妖怪街道は、修験者たちによって語られた話で結ばれている。
妖怪街道の子泣き爺
台風通過直後に野鹿野山に原付バイクツーリングをしました。大歩危の遊覧船乗場を過ぎて、藤川谷川に沿って原付を走らせます。台風直後で川にはホワイトウオーター状態で、勢いがあります。本流を流れる川は濁っていますが、支流の藤川谷川に入ると台風直後の増水にもかかわらず透明です。この川沿いの県道272号線は、いまは「妖怪街道」として知名度を上げています。
街道の最初に登場する看板は「歩危の山爺」です。
この物語は、村に危害を加える妖怪を退治したのは「讃岐からきた山伏」とされています。ここからは、讃岐の山伏がこの附近まで入ってきて行場で修行したり、布教活動を行っていたことがうかがえます。
この物語は、村に危害を加える妖怪を退治したのは「讃岐からきた山伏」とされています。ここからは、讃岐の山伏がこの附近まで入ってきて行場で修行したり、布教活動を行っていたことがうかがえます。
妖怪街道の山向こうの土佐本山町には、神としてまつられた高野聖の次のような記録が残っています。
宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。ヨモン(衛門)四郎トユウ山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキをくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置きのをつにツキ ヘび石に ツカイノすがたを のこしとをのたにゑ きたりひじリト祭ハ 右ノ神ナリわきに けさころも うめをくわかれ 下関にありきち三トユウナリ門脇氏わかミヤハチマント祭ツルイニ ヽンメヲ引キ八ダイ流尾 清上二すべし(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年)
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、奥大田へやって来た。そこに杖を置いて木能津に着いて、蛇石に誓い鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。聖が祀ったのは 右ノ神である。その脇の袈裟や衣も埋めた。分家は下関にある吉三という家である。子孫たちは門脇氏の若宮八幡を祀り、井戸(釣井)に注連縄を引き、八大龍王を清浄して祀ること
この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」と祀ったと記されています。
土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社と研究者は考えています。ここからは、本山にやって来た高野聖が自分の形見をのこして、それを聖神として祀ったことが分かります。
聖真子(ひじりまご)
この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑の跡があとが斜面いっぱいに残っていたと云います。その畑の一番上に、袈裟と衣を埋めたというのです。そこには聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)が残っているようです。ちなみに四国遍路の祖とされるは衛門三郎です。衛門四郎は、洒落のようにも思えてきます。
本山町付近では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行の跡だった研究者は考えています。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。彼らの先達として最初に、この地域に入ってきたのは熊野行者のようです。
熊野行者の吉野川沿いの初期布教ルートとして、次のようなルートが考えられる事は以前にお話ししました。全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行の跡だった研究者は考えています。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。彼らの先達として最初に、この地域に入ってきたのは熊野行者のようです。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社を勧進し拠点化②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き③仙龍寺から里下りして、瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。④一方、土佐へは北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。
熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。例えば、讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。
野鹿池の龍神
話を元に返すと、妖怪街道と呼ばれる藤川谷川流域には、このような妖怪好きの山伏がいたのかも知れません。
彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつも話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた、面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通の話題があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。
近世の村に定住した山伏の業務一覧
今回訪れた妖怪ポイントの中で、一番印象的だった赤子渕を見ておきましょう。
車道から旧街道に入っていきます。この街道は青石が河床から丁寧に積み重ねられて、丈夫にできています。ソラの集落に続く道を確保するために、昔の人達が時間をかけて作ったものなのでしょう。同じような石組みが、畠や神社の石垣にも見られます。それが青石なのがこの地域の特色のように思います。五分も登ると瀧が見えてきました。
赤子渕
台風直後なので水量も多く、白く輝き迫力があります。滝壺を巻くように道は付けられています。これは難工事だったとおもいます。そこに赤子の像が立ってました。
なにかシュールで、おかしみも感じました。瀧は爆音で、大泣き状態です。滝上には橋がかかっています。この山道と橋が完成したときには、この上に続くソラの集落の人達は成就感と嬉しさに満ちあふれて、未來への希望が見えて来たことでしょう。いろいろなことを考えながらしばらく瀧を見ていました。
「赤子渕」が登場する昔話は、いくつもあるようです。
愛媛県城川町の三滝渓谷自然公園内にもアカゴ淵があります。ここでは、つぎのような話が伝えられています。
むかしむかし、赤子渕は生活に困り生まれた子を養うことができなくなった親が子を流す秘密の場だった。何人もの赤子が流されたという。その恨みがこの淵の底に集まり真っ赤に染め、夕暮れ時になると赤子の淋しそうな泣き声が淵の底やその周囲から聞こえてくるという。
信州飯田城主の落城物語では、赤子渕が次のように伝えられます。
天正10年2月(1585)織田信長は、宿敵甲斐の武田氏打倒の軍をついに動かした。飯田城主の坂西氏は、木曽谷へ落ち延びて再起をはかろうと、わずかな手勢と夫人と幼児を伴って城を脱出した。しかし逃げる途中で敵の伏兵に襲われ、家臣の久保田・竹村の2人に幼児延千代を預け息絶えた。延千代を預かった2人は、笠松峠を越して黒川を渡り、山路を南下したが青立ちの沢に迷い込んでしまった。若君延千代は空腹と疲れで虫の息となり、ついに息が絶えてしまった。その後、この辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった。「赤子なる淵に散り込む紅つつじ昔語れば なみだ流るる」
赤子渕に共通するのは、最後のオチが「赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった」という点です。その前のストーリーは各地域でアレンジされて、新たなものに変形されていきます。
藤川谷川流域のソラの集落・ 旧三名村上名(かみみょう)に上がっていきます。
上名の茶畑
近づいてみると茶畑です。旧三名村はお茶の産地として有名で、緑の茶場が急斜面を覆います。それが緑に輝いています。山城町上名の平賀神社
中世の讃岐の仁尾と土佐や西阿波のソラの集落は「塩とお茶の道」で結ばれていたことは以前にお話ししました。
仁尾商人たちは讃岐山脈や四国山地を越えて、土佐や阿波のソラの集落にやってきて、日常的な交易活動を行っていました。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、そこで生産された塩は、讃岐山脈を越えて、阿波西部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていました。その帰りに運ばれてきたの茶です。仁尾で売られた人気商品の碁石茶は、土佐・阿波の山間部から仕入れたものでした。
食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。
古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡昼間に入り、そこから剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。その東の三名では、仁尾商人たちが、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたのです。
古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡昼間に入り、そこから剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。その東の三名では、仁尾商人たちが、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたのです。
山城町三名周辺は、仁尾商人の商業圏であったことになります。
そのために「先達」として、讃岐の山伏が入り込んできていたことも考えられます。取引がうまくいく度に、仁尾商人たちは、山伏たちのお堂になにがしのものを寄進したのかもしれません。
それは、天正2年(1574)11月、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳に、長宗我部元親とともに仁尾商人の名前があることからも裏付けられます。
そのために「先達」として、讃岐の山伏が入り込んできていたことも考えられます。取引がうまくいく度に、仁尾商人たちは、山伏たちのお堂になにがしのものを寄進したのかもしれません。
それは、天正2年(1574)11月、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳に、長宗我部元親とともに仁尾商人の名前があることからも裏付けられます。
豊楽寺御堂奉加帳
最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が見えます。
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場で国宝の本堂を持つ本山寺(三豊市)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
本山寺は、もともとは牛頭大明神を祀る八坂神社系の修験者が別当を務めるお寺でした。この系統のお寺や神社は、馬借たちのよう牛馬を扱う運輸関係者の信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたと研究者は考えています。
四国霊場で国宝の本堂を持つ本山寺(三豊市)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
本山寺の本尊は馬頭観音
本山寺は、もともとは牛頭大明神を祀る八坂神社系の修験者が別当を務めるお寺でした。この系統のお寺や神社は、馬借たちのよう牛馬を扱う運輸関係者の信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたと研究者は考えています。
山城町上名の茶畑
「塩とお茶の街道」を、整理しておきます。①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷や阿波三名などに頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域や阿波三名などの山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
今は山城町の茶葉が仁尾に、もたらされることはなくなりました。
しかし、明治半ばまでは「塩と茶の道」は、仁尾と三名村など阿波西部を結び、そこには仁尾商人の活動が見られたようです。それとリンクする形で、ソラの修験者たちと仁尾の覚城寺などは修験道によって結びつけられていたとしておきます。
しかし、明治半ばまでは「塩と茶の道」は、仁尾と三名村など阿波西部を結び、そこには仁尾商人の活動が見られたようです。それとリンクする形で、ソラの修験者たちと仁尾の覚城寺などは修験道によって結びつけられていたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男 中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界関連記事
近世の修験者たちは、どのようにして村々に定着したのか?
中世讃岐の仁尾 仁尾浦商人の営業圈は土佐まで伸びていた
阿讃交流史 讃岐山脈の峠を越えた塩・綿
中世の熊野・伊勢詣 巡礼者は、どんな所に泊まっていたのか?
愛媛の熊野信仰 先達と檀那の関係は
阿波のソラの集落 井川町井内の野住の民家と原付徘徊
井川町井内の野住妙見神社の鳥居からの眺め
前回は野住地区の子安観音堂と妙見神社に参拝しに行きました。妙見神社に参拝し、「日本一急勾配な石段」を下りて、鳥居で再度休憩します。ここからの風景は私にとっては絶景です。いろいろな「文化」が見えてきて、眺めていても飽きません。鳥居から続く畠の石段も年月をかけて積まれたものでしょう。それは、この石段も同じだし、以前に見た大久保神社の社殿を守る石積みの鞘堂も同じです。石を積み続けて生活を守ってきたことが少しづつ私にも見えてきます。
阿波のソラの集落は、古い民家の宝庫です。
二百年を越える家が、沢山残っています。この妙見神社の下にも、古い家があります。中瀧家です。この家には「永代家系記録 本中瀧家」という記録が残されています。
二百年を越える家が、沢山残っています。この妙見神社の下にも、古い家があります。中瀧家です。この家には「永代家系記録 本中瀧家」という記録が残されています。
永代家系記録 本中瀧家
ここには、次のように記されています。①初代始祖は高知県赤滝の武士で、この地域を最初に開いたこと②弘法大師の「野に住み山に暮れなんとも弘法の塩をひろめん」との言葉から、中瀧一族が居住した土地を「野住」と名付けたこと
この家は、代々は農家で、1970年頃までは煙草をつくっていました。最初の開拓者のために山林主でもありました。
主屋は「六8畳」といわれる「四間取り」プランです。
中瀧家間取り図
住みやすくリフォームはされていますが、濡縁あたりは昔の姿を残しています。伊助(文化7年(1810)正月5日亡)の言い伝えによると、この主屋は安永2年(1773)の建築と伝えられているようです。そうだとすると、約250年前のものになります。 中瀧家には、独自の茅場があり、茅は納屋に置いたり、敷地奥にある茅小屋に保管していたといいます。しかし、昭和42年(1967)にトタンで巻いたようです。その後、内部も改装されていますが、ナカノマの天井は、板を置いただけの「オキ天井」で残っているようです。カマヤ(台所)は、竹の半割を敷き詰め、オクドがあり、その外部には土桶が設置されていました。
野住の民家と畠
野住集落は、土佐からやって来た武士が帰農し、山を開いて住み着いた場所で、その一族の始祖とされた人達が約250年前に建てたのがこの家になるようです。そして、自分たちの開墾した所を誇りを持って「野住」と名付けて生活してきたのです。そこに、笈を背負った修験者がやってきて、彼らを信者として坊や堂を開いたというストリーが考えられます。そこに、遠くから参拝者が訪れるようになる次のようなプロセスを考えてみました。①井内には剣山信仰の拠点であった地福寺があり、「剣山先達」などのために修験者を雇用した。②剣山修行中に寝食を共にした里人と修験者の間には強い人間関係が結ばれるようになる。③先達(修験者)は、信者の里にお札を持って、年に何回か出向いていた。④そこでさまざまな祈祷などを依頼されることもあった。こうして井内の修験者と、剣山信仰の里が結ばれるようになり、先達の坊や神社にも遠くから参拝者が訪れるようになった。
グーグルマップルで見ると「薬師岡のケヤキ」で出ていました。
さっそく原付を走らせます。
さっそく原付を走らせます。
①野住妙見神社が開拓前の原生林を守り②安産信仰の子安観音が右の袂守り、③ケヤキの脇に祀られているお薬師さんが左袂りとして、地区民の信仰対象となり保存されてきた。
まさに神木が巨樹なるが由縁です。この地が開かれる以前から、この岡に立ち、この地の開拓のさまを見守り続けてきたようです。ソラの集落には、刻まれたひとひとつの歴史がこんな形で残されていることを教えてくれた井内の野住でした。ここに導いてくれた神々に感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 井川の民家 郷土史研究発表会紀要44号
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参考文献 井川の民家 郷土史研究発表会紀要44号
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三好市井川町井内の郷社・馬岡新田神社の本殿は権現造りである
三好市井川町井内の大久保神社の社殿は、石割造りだった
阿波のソラの民家と神社 井川町井内の妙見神社の石段は、這わないと登れなかった
阿波のソラの民家と神社 井川町井内の妙見神社の石段は、這わないと登れなかった
①井内谷川沿いに祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと②郷社であった馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと③地福寺は、近世後半には剣山信仰の拠点として、多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、あらたな庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
今回も修験者の痕跡を探して、井岡の西川の集落を廻って見ることにします。馬岡新田神社の石段に腰掛けながら次の行き先を考えます。グーグル地図で見ると、この少し奥に斉南寺があります。なんの予備知識もないまま、この寺を訪れることにします。
山斜面に広がる井内のソラの集落
谷沿いの街道を離れ、旧傾斜のジグザクヘアピンをいくつも越えるとソラの集落の一番上まで上がってきました。周辺を見回すと、お寺らしい建物が見えてきたので近づいていきます。
普通の民家とお堂が渡し廊下で結ばれているようです。
斉南坊本堂
斉南坊本堂
斉南寺ではなく済南坊のようです。廻国の修験者たちが、その土地に定住し、根付いていくためにはいくつかの関門を越えて行く必要がありました。その一例が前回に大久保集落で見た出羽三山から子安観音を笈に背負ってやってきた修験者です。彼は、子安観音を本尊として、安産祈願を行い信者を獲得し、庵を建てて定住していきました。
次に目指したのが野住地区の子安観音です。
斉南坊本堂
この済南坊は、一見すると農家です。農家の離れにお堂がくっついているような印象を受けました。周りには、耕された畑が開かれています。ここに坊が開かれるまでにどんなストーリーがあったのでしょうか。ひとつの物語が書けそうな気もしてきます。ボケーとして、ここからの風景を眺めていました。次に目指したのが野住地区の子安観音です。
「野に住む」、改めていい地名だなと思いました。ここにも修験者の痕跡が見えてきます。①室町時代の子安観音を本尊として、遠方からの信者もお参りにきていること②弘法大師伝説があり「たとえ野に住み山に暮れ果てようとも、弘法の徳を顕さん」から「野住」の地名がつけられたこと。
妙見さんは、北極星を神格化した妙見菩薩に対する信仰で、眼病に良くきくという妙見法 という修法が行われました。これを得意としたのが修験者(天狗)たちです。妙見さんの鎮守の森の下に小さな鳥居が見えました。これは鳥居から参拝道を上るのが作法ということで、下に一旦下りました。登り口は畠の石段が続きます。
道から鳥居を見上げてびっくり。
妙見神社の石段の登り口
野住の妙見神社の鳥居と階段
階段の傾斜が尋常ではないのです。立って上ることが出来ません。鳥居前では、中央部はオーバーハング気味です。なんとか這いながら鳥居まで上ります。そして振り返ってみます。
「よう来たな。ここで一服していきまえ」
と狛犬の声が聞こえてきたような気がしました。私は「この階段は日本一きつい階段とちがいますか?」と問うと、別の狛犬が三好市井川町井内の大久保神社には廻国六十六部碑と、石割造りの鞘堂があった
バス停 井内思い出前(旧井内小学校前)
井川町井川の修験者の痕跡を訊ねての原付ツーリングの続きで、今回は大久保集落を目指します。「井内思い出前」と付けられた井内小学校跡のバス停から、下久保のヒガンザクラを越えて、ジグザグの道を登っていきます。
ここから眺めると井内地区が高低差のある大きなきなソラの集落であることが改めて分かります。見てきて飽きない風景です。この彼岸桜が咲く頃に、また訪れたいと思いました。
下久保からの井内の眺め
へピンカーブを曲がる度に、見える風景が変わっていくのを楽しみながら上へ上へと上っていきます。
大久保からの風景
すこし傾斜が緩やかになり開けた場所に出てきました。ここが大久保集落のようです。大久保神社遠景
中央には、ソラの集落には珍しい田んぼが広がり、稲が実りの季節を迎えています。稲穂のゆらぐ田んぼのそばに、大きな椋の老木が立っています。白い建物は集会所のようです。近づいてみるとその神木の根元に、薄く割った青石(緑泥片岩)が3面を積み上げられ、寄り添うように建てられていました。
大きな神木と割った石をそのまま使う野積みからは、素朴で力強い印象を受けます。その青石に守られるように、中に小さな本殿が静かに鎮座しています。時間が止まったような穏やかな風景です。
大久保神社平面図(井川町)
この拝殿は鞘堂を兼ねた建物で、壁3面を青石で約2,5m の高さに積み上げ、木造の小屋組に波トタンの屋根を載せています。正面に格子の建具が入り、中に小さな本殿が祀られています。
稲穂越の田んぼの向こうの上に、白い大きなトタン葺きの民家が見えます。この地域を開いた有力者の屋敷かも知れないなと思って、帰宅後に調べてみるとまさにその通りでした。井川町で最も古い屋敷とされる阿佐家の屋敷でした。
「井川町の民家 阿波学会研究紀要44号」には、次のように記されています。(要約)
①阿佐家は、永禄年間(1558~70)に、祖谷より出てきた平家の末孫阿佐家の分家②江戸時代には庄屋を補佐する阿佐五人組の筆頭をつとめた家で、屋号の「オモテ」は、部落の中心に家があったことに由来
③屋敷の構えは、東から上屋、蔵、主屋、葉タバコの収納小屋、納屋、畜舎などが線上に配置④主屋は1980年に茅葺き屋根からトタン葺きになり、その時に大幅改造された。⑤その際に1680年ごろの棟札を確認
外観はトタン葺きになって改造されていますが、ここから見ると風格を持った大農家の面影をよく残しています。この社の石段に座って、眺めていると時間が止まったような気がしてきます。
阿佐家母屋の間取り
阿佐家の家紋は「丸にアゲハ」で、氏神は前回見た馬岡新田神社で、阿佐一党の墓は若宮神社にあります。しかし、もともとはこの社が阿佐家の氏神であったと私は考えています。一族の信仰のために、井内川から運び上げた板状石を、祖先や一族が積み重ねて作られたものが現在にまで至っているのかもしれません。そして、その前の田んぼには稲穂が揺れていました。
ここで注目したいのは、神木の下に六十六部の「日本廻国」碑が建っていることです。
六十六部は、日本全国66ケ国を廻って経典を収める廻国の修験者です。それがどうして、大久保に留まっていたのでしょうか。それは、井内エリアには修験者や山伏などを惹きつけるものがあったからでしょう。具体的には、地福寺です。地福寺は、近世後半になって剣山に円福寺を開き、木屋平の龍光寺とともに剣山信仰の拠点として栄えるようになったことは、以前にお話ししました。
剣山信仰は、立山信仰や出羽三山信仰と同じく、先達が必要でした。また、信者たちの里に出向いて、お札を配布し、その年の剣山参拝を勧める誘引活動も必要でした。そのためには多くの修験者たちを配下におく必要があります。ここには修験者の雇用需要があったのです。全国を廻国する六十六部や山伏にとっては、剣山の地福寺や龍光寺にいけば、「雇用チャンス」があったことになります。また、同じ江戸後期には「金毘羅の奥社」と名乗りをあげた箸蔵寺も活発な布教活動を行っています。阿波のこの周辺は、廻国の六十六部たちにとっては、「仕事場」の多いエリアであったようです。もうひとつ、修験者の痕跡が残る所を訊ねておきます。
剣山信仰は、立山信仰や出羽三山信仰と同じく、先達が必要でした。また、信者たちの里に出向いて、お札を配布し、その年の剣山参拝を勧める誘引活動も必要でした。そのためには多くの修験者たちを配下におく必要があります。ここには修験者の雇用需要があったのです。全国を廻国する六十六部や山伏にとっては、剣山の地福寺や龍光寺にいけば、「雇用チャンス」があったことになります。また、同じ江戸後期には「金毘羅の奥社」と名乗りをあげた箸蔵寺も活発な布教活動を行っています。阿波のこの周辺は、廻国の六十六部たちにとっては、「仕事場」の多いエリアであったようです。もうひとつ、修験者の痕跡が残る所を訊ねておきます。
修験者の笈(仏がん)(法輪寺 山梨市)
細野集落には、「羽州(出羽)の仏がん」と呼ばれるものが残されています。その説明版には、次のように記されています。
①幕末から明治初めに、出羽三山から廻国修験者がこの地にやって来て定着していたこと。②羽州の修験者は、子安観音像を仏がん(笈)に入れてやってきたこと③そして、妊婦の家を廻って安産祈祷を行っていたこと④彼のもたらした観音さまと笈が、地域の信仰を集め、死後は庵として残ったこと
子安観音と仏がんが安置されている庵(井内の細川集落)
ここからも出羽三山からの修験者が、この地にやって来て定住していたことが分かります。彼は、持参した子安観音に安産祈願の祈祷を行いながら、一方では地福寺に「雇用」されて、剣山参拝の先達をやっていたと私は考えています。修験者と笈(仏がん)
信仰を集めた修験者(山伏)の入定塚は、信仰対象になりました。
修験者の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。ここでは、それが仏がんになります。さらに庶民の願望をかなえる神として、石造物が作られたりもします。しかし、これは「流行(はやり)神」です。数年もたてば、忘れられて路傍の石と化すことが多かったのです。川崎大師のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれなことです。
修験者の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。ここでは、それが仏がんになります。さらに庶民の願望をかなえる神として、石造物が作られたりもします。しかし、これは「流行(はやり)神」です。数年もたてば、忘れられて路傍の石と化すことが多かったのです。川崎大師のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれなことです。
全国にある大師堂の多くが、弘法大師伝説を持った高野聖の遊行の跡だったと研究者は指摘します。彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られて、すべてのことが「弘法大師」の行ったこととして伝えられるようになります。こうして「弘法大師伝説」が生まれ続けることになります。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と同じです。
しかし、ここではお堂が作られ信仰対象となり守られています。先ほど見た大久保の六十六部碑もそうです。井内を初めとする剣周辺エリアには、多くの修験者たちが全国からやって来て集落に定着し、地元の人達の信仰を集めるようになっていたのでしょう。ある意味、修験者や聖にとっては居心地のいいところだったのかもしれません。同時に、地福寺の剣山信仰の「先達」として活動するという「副業」もあったと私は考えています。
細川神社
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築 井川町の民家
阿波学会研究紀要44号
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三好市井川町井内の郷社・馬岡新田神社の本殿は権現造りである
馬岡新田神社の石垣と玉垣
前回は剣山信仰の拠点となった地福寺にお参りしました。地福寺の参拝を済ませて井内川の対岸を見ると、高く積み上げられた石垣に玉垣。それを覆うような大きな鎮守の森が見えます。これが地福寺が別当を務めていた馬岡新田神社のようです。行ってみることにします。ここまで導いていただいた感謝の気持ちを込めてお参りします。お参りした後で、振り返って一枚撮影するのが私の「流儀」です。
拝殿から振り返った一枚
川筋・街道筋に沿って鎮座する神社であることが改めて分かります。祖谷や剣山参拝に向かう人達も、ここで安全祈願をしてから出立していたことでしょう。拝殿で参拝した後は、本殿を拝見させていただきます。境内の横に廻っていくと見えてきます。拝殿と本殿
一見して分かるのがただの本殿ではないようです。本殿と拝殿を別棟に並べる権現造りで、その間を幣殿と渡り廊で結んでいます。近づいてみます。
馬岡新田神社 本殿
本殿は明治16年(1883)建立で、当初は桧皮葺の建物でした
が、昭和28年(1953)に銅板に葺(ふ)き替えられました。
屋根が賑やかな作りになっています。入母屋造の正面に千鳥破風が置かれ、さらに唐破風向拝が付けられています。これは手が込んでいます。宮大工が腕を楽しんで振るっている様子が伝わってきます。そんな環境の中で、作業に当たることができたのでしょう。
馬岡新田神社の本殿は、権現造り徳島県の寺社様式は圧倒的に流造様式が多いようです。
その中で井川町の「三社の杜(もり)」の神社には、あえて権現造りが用いられています。吉野川対岸の三好町にも権現造が4社あるようですから、この地域だけの特徴と研究者は考えているようです。
流造と権現造その中で井川町の「三社の杜(もり)」の神社には、あえて権現造りが用いられています。吉野川対岸の三好町にも権現造が4社あるようですから、この地域だけの特徴と研究者は考えているようです。
本殿でもうひとつ研究者が注目するのは、組物の肘木と頭貫の木鼻部分です。
そこには彫刻がなく角材が、そのまま使用しています。これも社寺建築では、あまり見られないことです。そういう意味では、権現造りの採用とともに、「既存様式への挑戦」を大工は挑んでいたいたのかも知れません。
そこには彫刻がなく角材が、そのまま使用しています。これも社寺建築では、あまり見られないことです。そういう意味では、権現造りの採用とともに、「既存様式への挑戦」を大工は挑んでいたいたのかも知れません。
帰ってきて調べると、馬岡新田神社以外の「三社の杜」の他の2社も、同じ時期に、同じような造りで作られているようです。棟札には、大工名は千葉春太(太刀野村)と佐賀山重平と記されています。三社の杜の社殿群は、明治前期に同じ大工の手によって連続して建てられたものなのです。明治16年以降に、太刀野村からやってきた腕のいい宮大工は、ここに腰を落ち着けて今までにないものを作ってやろうという意欲を秘めて、取りかかったのでしょう。箸蔵寺の堂舎が重文指定を受けていることを考えると、この社殿類は次の候補にもなり得るものだと私は考えています。
本殿のデーターを載せておきます。
木造 桁行三間 梁間二間 入母屋造 正面千鳥破風付 向拝一間唐破風 銅板葺 〈明治16年(1883)〉身舎-円柱 腰長押 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(寸切り) 台輪(留め) 三手先(直線肘木) 腰組二手先(直線肘木) 二軒繁垂木向拝-角柱 虹梁型頭貫木鼻(寸切り) 出三斗 中備彫刻蟇股 手挟 刎高欄四方切目縁(透彫) 隅行脇障子(彫刻) 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床千木-置千木垂直切 堅魚木-3本(千鳥及び唐破風部の各1本含む)
馬岡新田神社 本殿平面図
それは「三社の杜」の神社の祭礼からもうかがえます。
この馬岡新田神社は、井川町内では最も古い神社のようです。
この神社は『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「波尓移麻比弥神社」に比定される式内社の論社になります。論社は他に、美馬市脇町北庄に波爾移麻比禰神社があります。もともとは、波尓移麻比弥神社と称し、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)を祀っていたようです。
農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)
埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした「糞」です。「糞」に象徴される土の神としておきましょう。
埴安姫命
埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした「糞」です。「糞」に象徴される土の神としておきましょう。
埴安姫命
同時に出した尿は、水の神で「罔象女神」で、式内社「彌都波能賣神社」に相当します。その論社は、馬岡新田神社の北200mに鎮座する武大神社になります。この2つと、そして馬岡新田神社の境内南側にある八幡神社をあわせて「三社の杜(森)」と呼ばれているようです。
地福寺は、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったとされます。境内の鐘楼前の岩壁には不動明王が祀られ、そこには今も野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
この寺は、井内だけでなく、祖谷にも多くの有力者を檀家としてもち、剣山西域に広大な寺領を持っていたこと、そして近世後半に、剣山見残しに大剣神社と円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺となるなど、活発な修験活動を行っていたことは前回にお話しした通りです。 地福寺が別当寺で社僧として、「三社の杜」の神社群を管理運営していたのです。それは地福寺に残された大般若経からもうかがえます。地福寺が井内や祖谷の宗教センターであったこと、三社の杜は神仏混淆の時代には、その宗教施設の一部であったことを押さえておきます。
それは「三社の杜」の神社の祭礼からもうかがえます。
秋の祭日では、元禄の頃から、先規奉公人5組、鉄砲4人、外に15名の警固のうちに始められます。本殿の祭礼後、旅所までの御旅が始まります。道中は300mですが、神事場の神事を含めると往復4時間をかけて、昔の大名行列を偲ばせる盛大な行列が進みます。
三社宮の祭礼行事は、「頭屋(とうや)組」によって行われます。井内谷の頭屋組は次の6組に分かれています。
奥組の東…馬場、平、岩坂、桜、知行の各集落奥組の西…荒倉、駒倉、下影、野住(上・下)の各集落中組の東…大久保、下久保、馬路、倉石、松舟、向の各集落中組の西…坊、中津、吉木、上西ノ浦、下西ノ浦の各集落下組の東…流堂、吹(上・下)、正夫(上・下)、大森の各集落下組の西…杉ノ木、尾越、段地、安田、三樫尾の各集落
頭屋組は東西が一つのセットで、奥(東西)・中(東西)・下(東西)の順に3年で一巡します。上表のように各頭屋組はそれぞれ5、6集落で構成されていて、その中の一つの集落が輪番で頭屋に当たります。実際に自分の集落に頭屋が回ってくるのは、十数年に一度です。地元の人達にとって頭屋に当たることは栄誉なこととされてきたようです。
頭屋組からは正頭人2名(東西各1名)、副頭人2名(東西各1名)、天狗(猿田彦)1名、宰領1名、炊事人6名(東西各3名)の計12名の「お役」が選出されます。
氏子総代は上記地域の氏子全体から徳望のあつい人が選ばれる(定員10名)。氏子総代は宮司を助けて三社の維持経営に当たり、例大祭の際には氏子を代表して玉串を奉納したり、「お旅」(神輿渡御)のお供をしたりします。
ここからは、次のようなことが分かります。
①「三社の杜」の3つの神社が井内郷全体の住民を氏子とする郷社制の上に成り立っている。
②頭家組の組み分けなどに、中世の宮座の名残が色濃く残る。
③頭家は、各集落を代表する有力者が宮座を組織して運営した。
明治の神仏分離前までは地福寺が別当寺であったことを考えると、この祭りをプロデュースしたのは、修験者であることが12人のお役の中に「天狗」がいることからも裏付けられます。
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参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
岡島隆夫・高橋晋一 井内谷三社宮の祭礼について
阿波学会研究紀要44号
三好市井川町の地福寺 剣山見ノ越の円福寺を創建し、剣山信仰を広めた寺
原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡