
阿波 高越山
高越山は、美しい山容から「阿波富士」と呼ばれ、山岳信仰・修験道の霊山でもありました。この山では神仏混淆の下で、寺と神社が一体化した信仰が行われてきました。今回は、中世の高越寺がどんな宗教的場であったのかを見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 中世における阿波国高越寺の霊場的展開 四国中世史研究NO10 2009年」です。 まず研究者は、高越寺の研究史を次のように振り返ります。
田中善隆氏の成果を次のように整理します。
田中善隆氏の成果を次のように整理します。
⓵信仰の起点を阿波国麻殖郡に拠点をもった阿波忌部の拓殖神話と関連させて理解すること②以後、大師信仰、修験道等が展開した
田中善隆氏の研究は高越山を「忌部修験」という山伏集団の拠点と捉えました。これが現在の定説となっています。これに対して研究者は「超歴史的で、史料的な裏付けからみても虚構といわざるを得ない」とばっさりと切り捨てます。
次に、田中省造氏の研究に対しては、次のように評します。
次に、田中省造氏の研究に対しては、次のように評します。
①「史料を読み込んで推論を丁寧に重ねて高越寺の歴史を描いており、貴重」②しかし、阿波忌部との関係、大師信仰、修験道など、霊場としての性格をとらえるという視点からは「不分明」。
③特に修験道史については、今日の研究状況からすれば疑問がある
さて、研究者の視点は、高越寺には12世紀という古い時期から弘法大師伝承があったのに、どうして四国八十八か所の霊場にならなかったのかという点にあります。
江戸時代前期の四国遍路のガイドブック『四国遍礼霊場記』(元禄2年(1689)は、弘法大師の聖跡巡礼としてまとめられています。その中には、大師による開基と伝えられない霊場や大師堂のない霊場が載せられています。さらに『霊場記』には、札所外の霊場も少数ですが挙げられています。そこには大師の事跡を説くものと、そうでないものとがあり、札所とのはっきりした差別化はみえません。四国遍路の形成のプロセスの中で、大師信仰は必要項目ではなかったようです、何か別の条件のもとでの霊場の取捨選択があったと研究者は考えています。
江戸時代前期の四国遍路のガイドブック『四国遍礼霊場記』(元禄2年(1689)は、弘法大師の聖跡巡礼としてまとめられています。その中には、大師による開基と伝えられない霊場や大師堂のない霊場が載せられています。さらに『霊場記』には、札所外の霊場も少数ですが挙げられています。そこには大師の事跡を説くものと、そうでないものとがあり、札所とのはっきりした差別化はみえません。四国遍路の形成のプロセスの中で、大師信仰は必要項目ではなかったようです、何か別の条件のもとでの霊場の取捨選択があったと研究者は考えています。
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖として知られる聖賢による「高野大師御広伝』(元永元年(1118)で、次のように記されています。
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讚上三州、如在足下。奉造卒塔婆、千今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生,又有御手辿之額、干今相存.
意訳変換しておくと
阿波国の高越山寺は、①弘法大師空海が創建した寺である。空海は法華経をしたためて、この山上の峰に奉納したと伝えられる。頂上からは四方の眺望があり、伊予・讃岐・土佐の三州が足下に望める。卒塔婆を奉納したが今になっても壊れず形が残る。経を埋めた跡は草木が生えず山の額のように見える。
ここには空海が「高越山寺」を建立し、法華経を書写・埋納したと書かれています。弘法大師伝説が地方へ伝わり、四国と東国が修行地として強調されるようになるのは11世紀からとされます。高越寺に大師伝承が現れるのも、そうした時代背景を踏まえてのことなのでしょう。押さえておきたいのは、高越寺の太師伝説はこの史料だけなことです。書き手の聖賢は、阿波に関する情報を得るルートを持っていたことがうかがえます。それが後の聖宝信仰ともからんでくるようです。
弘法大師(高越山蔵)
また、この段階で高越寺が霊場化していたことが別の史料から確認できます。
高越寺には大般若経(保安三年(1123)が伝来しています。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名があります。天台系の教線がこの地に伸びてきていたことがうかがえます。さらに12世紀のものとされる経塚が発見されていて、常滑焼の甕、銅板製経筒(蓋裏に「秦氏女(渡来系秦氏の子孫?)」との線刻)、法幸経を意図したと思われる白紙経巻八巻などの埋納遺物があります。このような状況と大師伝承は同時進行関係にあったようです。以上から12世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は判断します。以上はが、これまでに高越寺について述べられてきた「研究史」になります。
高越寺には大般若経(保安三年(1123)が伝来しています。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名があります。天台系の教線がこの地に伸びてきていたことがうかがえます。さらに12世紀のものとされる経塚が発見されていて、常滑焼の甕、銅板製経筒(蓋裏に「秦氏女(渡来系秦氏の子孫?)」との線刻)、法幸経を意図したと思われる白紙経巻八巻などの埋納遺物があります。このような状況と大師伝承は同時進行関係にあったようです。以上から12世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は判断します。以上はが、これまでに高越寺について述べられてきた「研究史」になります。
次に近世の縁起「摩尼珠山高越寺私記」を見ていくことにします。
「私記」にも大師が高越山にやって来たことが記されています。ここからは「空海来訪」伝承は、その後も長く受け継がれてきたことが分かります。でも、どのように定着していたのかということは何も記されていません。ただ、『高野大師御広伝」と「私記」を直線的に結んで推論しているのに過ぎません。
「私記」にも大師が高越山にやって来たことが記されています。ここからは「空海来訪」伝承は、その後も長く受け継がれてきたことが分かります。でも、どのように定着していたのかということは何も記されていません。ただ、『高野大師御広伝」と「私記」を直線的に結んで推論しているのに過ぎません。
「私記」は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものです。
「私記」自体は失われていますが、幸いなことに『高越寺旧記』という史料に全文が引用されているので、その内容を知ることができます。高越寺は天和2年(1683)、真言宗の大覚寺末寺に編成されます。そのため「私記」は中世から近世への過渡的な段階で書かれたものと言えます。「私記」の構成は、次の通りです。
「私記」自体は失われていますが、幸いなことに『高越寺旧記』という史料に全文が引用されているので、その内容を知ることができます。高越寺は天和2年(1683)、真言宗の大覚寺末寺に編成されます。そのため「私記」は中世から近世への過渡的な段階で書かれたものと言えます。「私記」の構成は、次の通りです。
⓵役行者(役小角)に関する伝承
「天聟天皇御宇、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現 体分身、本地別体千手千限大悲観世音菩薩」、「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
ここには、役行者による開基が記され、蔵王権現(本地仏 千手観音)の山で、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の一つとされたことが記されます。
②弘法大師に関する伝承
「弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参詣此山」、「権現有感応、彿彿而現」
大師が権現の不現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体の彫刻をしたとされている
③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」と、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされています。
④山上を起点にして宗教施設
A「山上伽藍」については、「権現宮一宇、並拝殿是本社也」、「本堂 宇、本尊千手観青」「弘法大師御影堂」の他に、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮といった末社があった。
B 山上から七町下には不動明王を本尊とする石堂があったこと、八町下には、「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮が配置され、「殺生禁断並下馬所」となっているので、ここが聖俗の結界となっていたこと
C 山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現官があったこと。その他、鳥居の所在について記されていること
以上からは、大師が高越山に現れたと書かれていて、大師堂があったことから、17世紀においても高越寺は、大師信仰の霊場であったことがうかがえます。その意味では12世紀からの弘法大師伝説の霊場の性格を引き継いでいたと云えます。しかし、高越寺で最重視されていたのは、弘法大師大師ではなかったようです。高越山では、役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂に祀られています。ここからは、弘法大師よりも役行者の方に重点はあったあったことが分かります。ここでは、17世紀の高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたことを押さえておきます。
それでは高越寺の修験道の霊場としての起点は、どのあたりにあるのでしょうか?
これまでの研究は高越寺所蔵の聖宝像(南北朝~室町時代)を基準にしてきましたが、これは適切な方法ではないと研究者は指摘します。まず取り上げるべきなのは、役行者と蔵王権現とします。役行者は修験道の開祖と信じられていて、修験通と不即不離のイメージがあります。しかし、このようなイメージが形成されるのは、後世になってからです。その過程を見ておきましょう。
⓵「私衆百因縁集』(正嘉元年(1257)に「山臥道尋源.皆役行者始振舞再起」という記載が現れた13世紀以後のこと
②蔵王権現は悪魔降伏のな怒相の像容で知られていますが、役行者との関係が説かれるのは、11世紀頃の成立とされる「今昔物語集』が古い例
③13世紀後半の『沙石集』(弘安六年(1283)や金峰山秘密伝(延元2年(1337)などから後、役行者による感得諄が説かれるようになったこと
④『沙石集』には、吉野山上で役行者の前に現れた釈迦が弥勒に変じ、最後は蔵王権現の「オ
ソロシゲナル御形ヲ現ジ」たと記されていること
⑤「秘密伝」には、役行者が「金山大峰」で「祈末代相応仏尋濁世降魔尊」ところ、まず「大聖釈尊忽然現前、示護法相」、次いで「千眼大悲尊自然即涌現」、さらに「弥勒大悲尊自然影現」と続き、最後に「従盤石中金剛蔵工青黒窓怒像忽然涌出」と現れたこと。つまり、釈迦、千手観音、弥勒の後に蔵王権現が姿を現したこと
⑥「金峰山創草記」(鎌倉末~室町時代の成立)には、蔵王権現の本地仏を「過去=釈迦・現在=千手・未来=弥勒」と記します。ここからは「秘密伝」に現れた仏書薩が蔵王権現の本地仏として定着したことがうかがえます。
13~14世紀頃は、「修験」は山伏の行とされました。
さらには「顕・密・修験三道」(近江同城寺)や「顕・密・修験之二事」(若狭明通寺)というような表現が各地の寺院関係史料にみられます。四国でも、土佐足摺岬の金剛福寺の史料に「顕蜜兼両宗、長修験之道」と記されています。こうした状況からは「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として認知されるようになっていたことがうかがえます。『私衆百因縁集』で「山臥の行道」とあるのも、「道」として体系化・実体化の過程にある修験道のことと研究者は考えています。こうして役行者は、修験道形成の流れの中で山伏に崇拝されるようになり、蔵王権現と緊密な関係をもつようになります。このような状況の中で、蔵王権現感得諄が現れ、されが高越寺に及んで定着したとしておきます。ここで研究者が注目するのは、「私記」には聖宝の伝承が含まれていることです。
高越寺には南北朝~室町時代のものとされ聖宝像があります。
ここからは、中世後期には聖宝信仰があったと考えらます。聖宝は、空海の弟・真雅の弟子で、醍醐寺を開いた高僧で、真言密教小野流の祖とされます。蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平7年(927)には、金峯山に堂を建て、金剛蔵王菩薩を造立したとされる人物です。13世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専斗藪之根本也」と醍醐寺における山伏の祖としてとらえられるようになります。

さらには天台寺門系の史料『山伏帳巻下」(南北朝~室町初期成立か)にも「聖宝醍醐僧正」と記されているので、宗派を越えて崇拝されるようになります。聖宝が信仰対象となるのは、13~14世紀頃のことで、修験道の実体化と並行していることを押さえておきます。高越寺が修験道霊場化という流れの中で、聖宝像も姿を見せるようになるのです。ただし、聖宝は真言宗の高僧で、中世には讃岐出身説がありました。また四国で修行して讃岐に至ったという伝承もあったようです。こうした伝承が、高越寺の聖宝信仰につながっていたと研究者は考えています。そうすると修験道だけでなく、この聖宝像には複合的な背景があったとも考えられます。
さらには「顕・密・修験三道」(近江同城寺)や「顕・密・修験之二事」(若狭明通寺)というような表現が各地の寺院関係史料にみられます。四国でも、土佐足摺岬の金剛福寺の史料に「顕蜜兼両宗、長修験之道」と記されています。こうした状況からは「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として認知されるようになっていたことがうかがえます。『私衆百因縁集』で「山臥の行道」とあるのも、「道」として体系化・実体化の過程にある修験道のことと研究者は考えています。こうして役行者は、修験道形成の流れの中で山伏に崇拝されるようになり、蔵王権現と緊密な関係をもつようになります。このような状況の中で、蔵王権現感得諄が現れ、されが高越寺に及んで定着したとしておきます。ここで研究者が注目するのは、「私記」には聖宝の伝承が含まれていることです。
高越寺には南北朝~室町時代のものとされ聖宝像があります。
ここからは、中世後期には聖宝信仰があったと考えらます。聖宝は、空海の弟・真雅の弟子で、醍醐寺を開いた高僧で、真言密教小野流の祖とされます。蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平7年(927)には、金峯山に堂を建て、金剛蔵王菩薩を造立したとされる人物です。13世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専斗藪之根本也」と醍醐寺における山伏の祖としてとらえられるようになります。

中央が山伏姿の聖宝(理源大師) 右が役行者 (醍醐寺)
さらには天台寺門系の史料『山伏帳巻下」(南北朝~室町初期成立か)にも「聖宝醍醐僧正」と記されているので、宗派を越えて崇拝されるようになります。聖宝が信仰対象となるのは、13~14世紀頃のことで、修験道の実体化と並行していることを押さえておきます。高越寺が修験道霊場化という流れの中で、聖宝像も姿を見せるようになるのです。ただし、聖宝は真言宗の高僧で、中世には讃岐出身説がありました。また四国で修行して讃岐に至ったという伝承もあったようです。こうした伝承が、高越寺の聖宝信仰につながっていたと研究者は考えています。そうすると修験道だけでなく、この聖宝像には複合的な背景があったとも考えられます。
聖宝(高越寺蔵)
聖宝像の存在を、高越寺と修験道当山派とのかかわりに結びつける見解があります。これについては、研究者は否定的です。なぜなら醍醐寺三宝院門跡が当山派を統括するイメージが強いようですが、実際に三宝院が修験道組織を掌握するのは近世になってからのことです。三宝院が山伏と結びつくことはあったかもしれませんが、それを当山派に直結させてとらえるのは、正しい認識ではないというのです。さらにいうなら、中世の聖宝信仰は真言宗だけではありません。天台寺門派にも連なった山伏がいたことが明らかとなっています。近年の研究では、讃岐の雲辺寺や大興寺、金蔵寺などの真言と天台を併せもった信仰だったことが明らかとなっています。したがって、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、その修験道=当山派という形ではないことを押さえておきます。こうしてみてくると、修験道の霊場としての性格に遡れるのは、13世紀頃ということになります。
これを裏付ける霊場としての物証が、「私記」の中に出てくる「中江」(中の郷)です。
摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、中江(中ノ郷)の宗教施設が次のように記されています。
摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、中江(中ノ郷)の宗教施設が次のように記されています。
①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
②からは中ノ郷について、つぎのようなことが分かります。
A「中江」と呼ばれていたことB 地蔵権現社が鎮座していたことC「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
中之郷は表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたり、ここには、近世以降は中善寺があります。

中之郷のアカガシの根元の中世の石造物
また貞治3年(1364)、応永6・16年(1399・1409)、永享3年(1431)の板碑が残っています。ここからは、この地が中世には聖域化していたことがうかがえます。中世の山岳霊場では「中宮」といわれるところが、聖俗の結界所となっています。この中の郷が「結界」とされたのも高越山山上の聖域化が進んだことを示すものです。裏読みすると14世紀には、山麓と山上が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったことになります。こうした状況は、修験道の霊場としての興隆と重なりあって進んでいたことが考えられます。
高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)
それでは14世紀頃の高越寺の山岳霊場としてのランクは、どうだったのでしょうか。それがうかがえるのが「義経記』の「弁慶山門(を)出る事」です。これは14世紀に成立したものとされ、弁慶の四国諸国修行が次のように記されています。
明石の浦より船に乗つて、阿波の国に付(き)て、焼山、つるが峰を拝みて、讃岐の志度の道場、伊予の菅生に出(で)て、土佐の幡多まで拝みけり」
ここには、当時の阿波を代表する霊場として焼山寺(徳島県神山町)、つるが峰(鶴林寺:勝浦町)が記されていますが、高越寺は出てきません。高越寺は霊場としては、焼山寺・鶴林寺・志度寺ほどの知名度をもっていなかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 中世における阿波国高越寺の霊場的展開 四国中世史研究NO10 2009年」
関連記事