瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 四国遍路の寺

高越山11
阿波 高越山
高越山は、美しい山容から「阿波富士」と呼ばれ、山岳信仰・修験道の霊山でもありました。この山では神仏混淆の下で、寺と神社が一体化した信仰が行われてきました。今回は、中世の高越寺がどんな宗教的場であったのかを見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 中世における阿波国高越寺の霊場的展開 四国中世史研究NO10 2009年」です。
 まず研究者は、高越寺の研究史を次のように振り返ります。
田中善隆氏の成果を次のように整理します。
⓵信仰の起点を阿波国麻殖郡に拠点をもった阿波忌部の拓殖神話と関連させて理解すること
②以後、大師信仰、修験道等が展開した
田中善隆氏の研究は高越山を「忌部修験」という山伏集団の拠点と捉えました。これが現在の定説となっています。これに対して研究者は「超歴史的で、史料的な裏付けからみても虚構といわざるを得ない」とばっさりと切り捨てます。
次に、田中省造氏の研究に対しては、次のように評します。
①「史料を読み込んで推論を丁寧に重ねて高越寺の歴史を描いており、貴重」
②しかし、阿波忌部との関係、大師信仰、修験道など、霊場としての性格をとらえるという視点からは「不分明」。
③特に修験道史については、今日の研究状況からすれば疑問がある
さて、研究者の視点は、高越寺には12世紀という古い時期から弘法大師伝承があったのに、どうして四国八十八か所の霊場にならなかったのかという点にあります。
江戸時代前期の四国遍路のガイドブック『四国遍礼霊場記』(元禄2年(1689)は、弘法大師の聖跡巡礼としてまとめられています。その中には、大師による開基と伝えられない霊場や大師堂のない霊場が載せられています。さらに『霊場記』には、札所外の霊場も少数ですが挙げられています。そこには大師の事跡を説くものと、そうでないものとがあり、札所とのはっきりした差別化はみえません。四国遍路の形成のプロセスの中で、大師信仰は必要項目ではなかったようです、何か別の条件のもとでの霊場の取捨選択があったと研究者は考えています。
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖として知られる聖賢による「高野大師御広伝』(元永元年(1118)で、次のように記されています。

阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讚上三州、如在足下。奉造卒塔婆、千今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生,又有御手辿之額、干今相存.

意訳変換しておくと
阿波国の高越山寺は、①弘法大師空海が創建した寺である。空海は法華経をしたためて、この山上の峰に奉納したと伝えられる。頂上からは四方の眺望があり、伊予・讃岐・土佐の三州が足下に望める。卒塔婆を奉納したが今になっても壊れず形が残る。経を埋めた跡は草木が生えず山の額のように見える。

ここには空海が「高越山寺」を建立し、法華経を書写・埋納したと書かれています。弘法大師伝説が地方へ伝わり、四国と東国が修行地として強調されるようになるのは11世紀からとされます。高越寺に大師伝承が現れるのも、そうした時代背景を踏まえてのことなのでしょう。押さえておきたいのは、高越寺の太師伝説はこの史料だけなことです。書き手の聖賢は、阿波に関する情報を得るルートを持っていたことがうかがえます。それが後の聖宝信仰ともからんでくるようです。
弘法大師 高越山
弘法大師(高越山蔵)

また、この段階で高越寺が霊場化していたことが別の史料から確認できます。
高越寺には大般若経(保安三年(1123)が伝来しています。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名があります。天台系の教線がこの地に伸びてきていたことがうかがえます。さらに12世紀のものとされる経塚が発見されていて、常滑焼の甕、銅板製経筒(蓋裏に「秦氏女(渡来系秦氏の子孫?)」との線刻)、法幸経を意図したと思われる白紙経巻八巻などの埋納遺物があります。このような状況と大師伝承は同時進行関係にあったようです。以上から12世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は判断します。以上はが、これまでに高越寺について述べられてきた「研究史」になります。
次に近世の縁起「摩尼珠山高越寺私記」を見ていくことにします。
「私記」にも大師が高越山にやって来たことが記されています。ここからは「空海来訪」伝承は、その後も長く受け継がれてきたことが分かります。でも、どのように定着していたのかということは何も記されていません。ただ、『高野大師御広伝」と「私記」を直線的に結んで推論しているのに過ぎません。

「私記」は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものです。
「私記」自体は失われていますが、幸いなことに『高越寺旧記』という史料に全文が引用されているので、その内容を知ることができます。高越寺は天和2年(1683)、真言宗の大覚寺末寺に編成されます。そのため「私記」は中世から近世への過渡的な段階で書かれたものと言えます。「私記」の構成は、次の通りです。
⓵役行者(役小角)に関する伝承
「天聟天皇御宇、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現 体分身、本地別体千手千限大悲観世音菩薩」、「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」

ここには、役行者による開基が記され、蔵王権現(本地仏 千手観音)の山で、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の一つとされたことが記されます。

②弘法大師に関する伝承
「弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参詣此山」、「権現有感応、彿彿而現」
大師が権現の不現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体の彫刻をしたとされている

③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」と、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされています。

④山上を起点にして宗教施設
A「山上伽藍」については、「権現宮一宇、並拝殿是本社也」、「本堂 宇、本尊千手観青」「弘法大師御影堂」の他に、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮といった末社があった。
B 山上から七町下には不動明王を本尊とする石堂があったこと、八町下には、「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮が配置され、「殺生禁断並下馬所」となっているので、ここが聖俗の結界となっていたこと
C 山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現官があったこと。その他、鳥居の所在について記されていること
以上からは、大師が高越山に現れたと書かれていて、大師堂があったことから、17世紀においても高越寺は、大師信仰の霊場であったことがうかがえます。その意味では12世紀からの弘法大師伝説の霊場の性格を引き継いでいたと云えます。しかし、高越寺で最重視されていたのは、弘法大師大師ではなかったようです。高越山では、役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂に祀られています。ここからは、弘法大師よりも役行者の方に重点はあったあったことが分かります。ここでは、17世紀の高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたことを押さえておきます。

それでは高越寺の修験道の霊場としての起点は、どのあたりにあるのでしょうか?
これまでの研究は高越寺所蔵の聖宝像(南北朝~室町時代)を基準にしてきましたが、これは適切な方法ではないと研究者は指摘します。まず取り上げるべきなのは、役行者と蔵王権現とします。役行者は修験道の開祖と信じられていて、修験通と不即不離のイメージがあります。しかし、このようなイメージが形成されるのは、後世になってからです。その過程を見ておきましょう。

役行者伝説の成立過程

⓵「私衆百因縁集』(正嘉元年(1257)に「山臥道尋源.皆役行者始振舞再起」という記載が現れた13世紀以後のこと
②蔵王権現は悪魔降伏のな怒相の像容で知られていますが、役行者との関係が説かれるのは、11世紀頃の成立とされる「今昔物語集』が古い例
③13世紀後半の『沙石集』(弘安六年(1283)や金峰山秘密伝(延元2年(1337)などから後、役行者による感得諄が説かれるようになったこと
④『沙石集』には、吉野山上で役行者の前に現れた釈迦が弥勒に変じ、最後は蔵王権現の「オ
ソロシゲナル御形ヲ現ジ」たと記されていること
⑤「秘密伝」には、役行者が「金山大峰」で「祈末代相応仏尋濁世降魔尊」ところ、まず「大聖釈尊忽然現前、示護法相」、次いで「千眼大悲尊自然即涌現」、さらに「弥勒大悲尊自然影現」と続き、最後に「従盤石中金剛蔵工青黒窓怒像忽然涌出」と現れたこと。つまり、釈迦、千手観音、弥勒の後に蔵王権現が姿を現したこと
⑥「金峰山創草記」(鎌倉末~室町時代の成立)には、蔵王権現の本地仏を「過去=釈迦・現在=千手・未来=弥勒」と記します。ここからは「秘密伝」に現れた仏書薩が蔵王権現の本地仏として定着したことがうかがえます。

13~14世紀頃は、「修験」は山伏の行とされました。
さらには「顕・密・修験三道」(近江同城寺)や「顕・密・修験之二事」(若狭明通寺)というような表現が各地の寺院関係史料にみられます。四国でも、土佐足摺岬の金剛福寺の史料に「顕蜜兼両宗、長修験之道」と記されています。こうした状況からは「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として認知されるようになっていたことがうかがえます。『私衆百因縁集』で「山臥の行道」とあるのも、「道」として体系化・実体化の過程にある修験道のことと研究者は考えています。こうして役行者は、修験道形成の流れの中で山伏に崇拝されるようになり、蔵王権現と緊密な関係をもつようになります。このような状況の中で、蔵王権現感得諄が現れ、されが高越寺に及んで定着したとしておきます。ここで研究者が注目するのは、「私記」には聖宝の伝承が含まれていることです。

高越寺には南北朝~室町時代のものとされ聖宝像があります。
聖宝像(高越寺)
ここからは、中世後期には聖宝信仰があったと考えらます。聖宝は、空海の弟・真雅の弟子で、醍醐寺を開いた高僧で、真言密教小野流の祖とされます。蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平7年(927)には、金峯山に堂を建て、金剛蔵王菩薩を造立したとされる人物です。13世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専斗藪之根本也」と醍醐寺における山伏の祖としてとらえられるようになります。

聖宝(理源大師)NO3 吉野での山林修行と蛇退治伝説 : 瀬戸の島から
中央が山伏姿の聖宝(理源大師) 右が役行者 (醍醐寺)

さらには天台寺門系の史料『山伏帳巻下」(南北朝~室町初期成立か)にも「聖宝醍醐僧正」と記されているので、宗派を越えて崇拝されるようになります。聖宝が信仰対象となるのは、13~14世紀頃のことで、修験道の実体化と並行していることを押さえておきます。高越寺が修験道霊場化という流れの中で、聖宝像も姿を見せるようになるのです。ただし、聖宝は真言宗の高僧で、中世には讃岐出身説がありました。また四国で修行して讃岐に至ったという伝承もあったようです。こうした伝承が、高越寺の聖宝信仰につながっていたと研究者は考えています。そうすると修験道だけでなく、この聖宝像には複合的な背景があったとも考えられます。
聖宝図 高越山
聖宝(高越寺蔵)
 聖宝像の存在を、高越寺と修験道当山派とのかかわりに結びつける見解があります。
これについては、研究者は否定的です。なぜなら醍醐寺三宝院門跡が当山派を統括するイメージが強いようですが、実際に三宝院が修験道組織を掌握するのは近世になってからのことです。三宝院が山伏と結びつくことはあったかもしれませんが、それを当山派に直結させてとらえるのは、正しい認識ではないというのです。さらにいうなら、中世の聖宝信仰は真言宗だけではありません。天台寺門派にも連なった山伏がいたことが明らかとなっています。近年の研究では、讃岐の雲辺寺や大興寺、金蔵寺などの真言と天台を併せもった信仰だったことが明らかとなっています。したがって、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、その修験道=当山派という形ではないことを押さえておきます。こうしてみてくると、修験道の霊場としての性格に遡れるのは、13世紀頃ということになります。
これを裏付ける霊場としての物証が、「私記」の中に出てくる「中江」(中の郷)です。
 摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、中江(中ノ郷)の宗教施設が次のように記されています。
①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂
②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」
③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
②からは中ノ郷について、つぎのようなことが分かります。
A「中江」と呼ばれていたこと
B 地蔵権現社が鎮座していたこと
C「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
高越山マップ

 中之郷は表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたり、ここには、近世以降は中善寺があります。

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中之郷のアカガシの根元の中世の石造物
また貞治3年(1364)、応永6・16年(1399・1409)、永享3年(1431)の板碑が残っています。ここからは、この地が中世には聖域化していたことがうかがえます。中世の山岳霊場では「中宮」といわれるところが、聖俗の結界所となっています。この中の郷が「結界」とされたのも高越山山上の聖域化が進んだことを示すものです。裏読みすると14世紀には、山麓と山上が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったことになります。こうした状況は、修験道の霊場としての興隆と重なりあって進んでいたことが考えられます。
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高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)

それでは14世紀頃の高越寺の山岳霊場としてのランクは、どうだったのでしょうか。それがうかがえるのが「義経記』の「弁慶山門(を)出る事」です。これは14世紀に成立したものとされ、弁慶の四国諸国修行が次のように記されています。

明石の浦より船に乗つて、阿波の国に付(き)て、焼山、つるが峰を拝みて、讃岐の志度の道場、伊予の菅生に出(で)て、土佐の幡多まで拝みけり」

ここには、当時の阿波を代表する霊場として焼山寺(徳島県神山町)、つるが峰(鶴林寺:勝浦町)が記されていますが、高越寺は出てきません。高越寺は霊場としては、焼山寺・鶴林寺・志度寺ほどの知名度をもっていなかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 中世における阿波国高越寺の霊場的展開 四国中世史研究NO10 2009年」
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四国遍路形成史の問題として「大辺路、中辺路・小辺路」があります。熊野参拝道と同じように四国辺路にも、大・中・小の辺路ルートがあったことが指摘され、これが四国遍路につながって行くのではないかと研究者は考えているようです。今回は、この3つの辺路ルートについての研究史を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」です。

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 大辺路・中辺路・小辺路の存在を最初に指摘したのは、近藤喜博です。
伊予の浄土寺の本堂厨子には、
室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線撮影)
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国中辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることが分かります。このような「四国中辺路」と書かれた落書きが、讃岐の国分寺や土佐一之宮からも見つかっています。
この落書きの「四国中辺路」について、近藤喜博はの「四国遍路(桜風社1971年)」で、次のように記します。

四国遍路(近藤喜博 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
古きはしらず、上に示した室町時代の四国遍路資料に、四国中遍路なるものが見えてていたことである。即ち
四国辺路(大永年間) 讃岐・国分寺楽書
四国辺路(永世年間)  同上
四国遍路(慶安年間)  伊予円明寺納札
とあるのがそれである。時期の多少の不同はあるにしても、この中遍路とは、霊場八十八ケ所のほぼ半分の札所を巡拝することを指すのであるのか。それとも四国の中央部を横断するミチの存在を指したものなのか、熊野路には、大辺路に対して中辺路が存在していたことに考慮してくると、海辺迂回の道に対して中辺路といった、ある短距離コースの存在が思われぬでもない。四国海辺を廻る大廻りの道は困難を伴う関係から、比較的近い道として中辺路が通じたのではなかったろうか。

ここでは土佐から伊予松山に貫ける道を示し、このルートが中辺路としてふさわしいとします。近藤氏は熊野に大辺路、中辺路があるように、四国にも、次のふたつの大・中辺路があったとします。
①足摺岬を大きく廻るコースを大辺路
②土佐の中央部から伊予・松山に至るコースを中辺路
①が足摺大回りルートで、②はショートカット・コースになるとしておきます。

Amazon.co.jp: 四国遍路: 歴史とこころ : 宮崎 忍勝: 本
宮崎忍勝『四国遍路』(朱鷺書房1985年)

宮崎忍勝氏は『四国遍路』(25P)で、49番札所の伊予・浄土寺の本堂厨子の墨書落書に書かれた「中辺路」について、次のように記します。

この「四国中邊路」とあるのは、ほかの落書にも「四国中」とあるので、四国の「中邊路(なかへじ)」ということではなく、四国中にある全体の邊路(へじ)を意味する。四国遍路の起源はこのように、四国の山岳、海辺に点在する辺地すなわち霊験所にとどまって、文字通り言語に絶す厳しい修行をしながら、また次の辺路(修行地)に移ってゆく、この辺路修行の辺路がいつのまにか「へんろ」と読まれるようになり、近世に入ると「遍路」と文字まで変わってしまったのである。

ここでは「四国中 邊路」と解釈し、邊路(へじ)とは、ルートでなく四国の修行地や霊地の場所のこととします。熊野路の「大辺路」、「中辺路」のような道ではなく、四国全体の辺路(修行地)が中辺路だというのです。
土佐民俗 第36号(1981) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
土佐民俗36号(土佐民俗学会)

高木啓夫は『土佐民俗』46号 1987年)に「南無弘法大師縁起―弘法人師とその呪術・その1」を発表し、その中で大遍路・中遍路・小遍路について、次のように解釈します。
①南無弘法大師縁起に、高野山参詣を33回することが四国遍路一度に相当するとの記載があること
②ここから小遍路とは高野山三十三度のこと
③「逆打ち七度が大遍路」
つまり遍路の回数によって大遍路・小遍路を分類したのです。しかし、中遍路については何も触れられていません。その後「土佐民俗」49号 1987年)の「大遍路・中遍路・小遍路考」で、次のように記されています。

「遍路一度仕タル輩ハ、タトエ十悪五ジャクの罪アルトモ、高野ノ山工三十三度参リタルニ当タルモノナリ」
の記述によって、高野山へ三十三度参詣した者を、四国遍路一度に相当するとして「小遍路」と称する。次に順打ちの道順での四国遍路二十一回するまでを「中遍路」と称する。次に、この中遍路三十一回を成就した上で、逆打ち七度の四国遍路をなした者、或はなそうとして巡礼している者を「大遍路」と称する。

ここでの解釈を要約しておくと、次のようになります。
①小遍路とは高野山へ33度の参詣
②中遍路は順打ち21度の四国遍路
③大遍路は中遍路21度と逆打ち7度
つまり高野山の参詣と逆打ちを関連づけて、遍路する場所と回数に重点をおいた説で、単に四国の札所だけを巡るものでなく、高野山も含めて考えるべきだとしました。

遊行と巡礼 (角川選書 192) | 五来 重 |本 | 通販 | Amazon

 五来重氏は『遊行と巡礼』(角川書店、1989年、119P)で、室戸岬の周辺を例に挙げて次のように記します。

辺路修行というのは、海岸にこのような巌があれば、これに抱きつくようにして旋遍行道したもので、これが小行道である。これに対して(室戸岬の)東寺と西寺の間を廻ることは中行道になろう。そしてこのような海岸の巌や、海の見える山上の巌を行道しながら、四国全体を廻ることが大行道で、これが四国辺路修行の四国遍路であったと、私は考えている。

つまり辺路修行の規模(距離)の長短が基準で、小辺路はひとつの行場、中辺路がいくつかの行場をめぐるもの、そして四国全体を廻る大行道の辺地修行が四国遍路とします。

四国遍路とはなにか」頼富本宏 [角川選書] - KADOKAWA

頼富本宏『四国遍路とはなにか」(角川学芸出版、1990)は、「四国中辺路」について次のように記します

遍路者を規定する言葉として、多くは「四国中辺路」や「四州中辺路」などという表現が用いられる。この場合の「中辺路」とは熊野参詣にみられる「大辺路」「中辺路」「小辺路」とは異なり、むしろ「四国の中(の道場)を辺路する」という意味であろう。なわち複数霊場を順に打つシステムとして、先に完成した四国観音順礼が四国の遍路の複数化に貢献したと考えられる。なおこの場合の「辺路」は「辺地」を修行する当初の辺路修行とは相違して「順礼」と同義とみなしてよい。

ここでは四国中辺路とは「四国中の霊場を辺路する」の意味で、四国全体を巡る「四国中、辺路」ということになります。
 

   
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21世紀になって四国霊場のユネスコ登録を見据えて、霊場の調査研究が急速に進められ、各県から報告書が何冊も出され、研究成果が飛躍的に向上しました。その成果を背景に、あらたな説が出されるようになります。その代表的な報告書が「四国八十八ケ所霊場成立試論―大辺路・中辺路・小辺路の考察を中心として」 愛媛大学 四国辺路と世界の巡礼」研究会編」です。その論旨を見ていくことにします。
①霊場に残された墨書落書について、従来から論争のあった「四国、中辺路」か「四国中、辺路」について、「四国、中辺路」と結論づけます。
②中辺路は八十八ケ寺巡り、大辺路は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものとします。
③小辺路についてはよく分からないが、阿波一国参り、十ケ所参り、五ケ所参りなどの地域限定版の遍路があったことの可能性を指摘します。
ここでは小辺路とは、小地域を巡る規模の小さな辺路という考えが示されます。そして16世紀前半期の墨書落書きの「中辺路」の関係について、次のように指摘します。
①室町時代の落書きに見る「中辺路」は八十八ケ所成立前夜のこと
②大師信仰を背景に、霊場を巡る「辺路」が誕生したこと
③それはアマチュアの在家信者も行える「辺路(中辺路)」であったこと
④それに対してプロ修行者の「辺地修行」は「大辺路」であったこと
これは「室町時代後期=八十八ケ所成立説」になります。
 四国遍路の八十八 の札所の成立時期については、従来は次の3つがありました。
①室町時代前期説
②近世初期説
③正徳年間(1711-1716)以降説、
①については高知県土佐郡本川村越裏門地蔵堂の鰐口の裏側には「大旦那村所八十八ヶ所文明三(1471年)天右志願者時三月一日」とあります。

鰐口の図解
裏門地蔵堂の鰐口
ここから室町時代の 1471 年(文明 3)以前に、八十八カ所が成立していたとされてきました。しかし、この鰐口については、近年の詳細な調査によって「八十八カ所」と読めないことが明らかにされています。①説は成立しないようです。
③は、1689 年(元禄 2)刊行の『四国遍礼霊場記』には 94 の霊場が載せられていることです。その一方で、正徳年間以降の各種霊場案内記には、霊場の数は88 になっています。そのため札所の数が88 になるのは正徳年間以降であろうとする説です。しかし、この説も近年の研究によって『四国遍礼霊場記』には名所や霊験地も載せられ、それらを除外すると霊場数は88 となることが明らかにされていて、③説も成り立ち難いと研究者は考えているようです。そうなると、最も有力な説は②の「近世初期説」になります。
 そのような中で先ほど見た「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史は「室町時代後期=八十八ケ所成立説」をとります。この点は、一度置いておいて研究史をもう少し見ておくことにします。

寺内浩は「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』第五号、四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和2年、17P)で、 次のような批判を行っています。
「中辺路」は八十八ケ所巡り、「大辺路」は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものであって、むしろ奥深い山へ踏み込むことが多かった」として、「小辺路」はのちに各地で何ケ所参りと呼ばれるようになる地域的な巡礼としている。このうち、大辺路・中辺路については基本的に支持できるが、小辺路については賛成できない。同じ辺路なのに大辺路・中辺路は四国を巡り歩くが、小辺路だけ特定の地域しか巡らないとするのは疑問である。
 (中略)大辺路と中辺路の違いが、訪れる聖地・霊験地の数にあるならば、小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべきであろう。
ここでは「小辺路が特定の地域しか巡らないとするのは疑問」「小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべき」と指摘します。
 その上で小島博巳氏は、六十六部の本納経所の阿波・太竜寺、土佐・竹林寺、伊予・大宝寺、讃岐・善通寺を結ぶ行程のようなものが小辺路ではないかとの説を提示します。

これらの先行研究史の検討の上に、武田和昭は次のような見解を述べます。
①「大辺路・中辺路・小辺路」がみられるのは、1688(元禄元)年刊行の『御伝記』が初出であること。そして『御伝記』は『根本縁起』(慶長頃制作)を元にして制作されたもの。
②『根本縁起』には「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあり、大・中・小辺路は見られない。「大辺路・中辺路・小辺路」の文言は『御伝記』の作者やその周辺の人達の造語と考えられる。
③胡光氏の「中辺路は八十八ケ所、大辺路はそれを上回る規模の大きなもの、小辺路は小地域の辺路」の解釈は、澄禅、真念、『御伝記』などの史料から裏付けれる
④小辺路については1730(享保十五)年写本の『弘法大師御停記』に「大遍路七度、中遍路二十一度、小辺路と申して七ケ所の納る」とあり、小辺路について「七ケ所辺路」と記していることからも、胡氏の説が裏付けられる。
⑤しかし、室町後期の墨書は「四国辺路」と「四国中辺路」に分けられ、大辺路、小辺路はみられない。
⑥「四国中辺路」は、『根本縁起』に「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあるので、辺路よりも中辺路の方が距離や規模が大きい
⑦『御伝記』の「大辺路・中辺路・小辺路」の「中辺路」と室町後期の墨書「中辺路」とは成立過程が異質。
以上から八十八ケ所の成立を室町時代後期に遡らせることは、現段階での辺路資料からは難しいと武田和昭は考えているようです。
以上、「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史を通じて、四国遍路の成立時期を探ってみました。その結果、現在では四国遍路の成立については2つの説があることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」
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仙人窟は、『一遍聖絵』にも描かれていて、修験者たちが岩籠もりや祈りの場としていた行場のひとつと考えられてきました。しかし、実際にここが調査対象になったことはありませんでした。ユネスコ登録に向けた霊場調査で、この窟も発掘調査の手が入ったようです。その報告書を見ていくことにします。テキストは、「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺発掘調査の成果(仙人窟:58P)2022年3月 愛媛県教育委員会」です
まず澄禅の四国遍礼霊場記に「仙人窟」がどのように書かれているか見ておきましょう。

岩屋寺 仙人窟と仙人堂
 
①不動堂(現本堂)の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。②鉦鼓を持っている阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。③阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、④飛来の仏と呼ばれている。近くに⑤仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。

ここからは、次のようなことが分かります。
①不動堂(本堂)の岩窟には銅製仏像が安置されていること
②この仏像は鉦鼓を持っているのに阿弥陀如来とされていること
③これに対して、澄禅は懐疑的であること
④誰が安置したか分からず、飛来の仏とされていること
⑤阿弥陀窟の左側に仙人窟があり、「法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所」とされていたこと。
ここで確認しておきたいのは、現在の仙人堂と仙人窟は別の窟であることです。
岩屋寺 仙人窟と仙人堂2
岩屋寺 仙人堂と仙人窟

仙人窟の位置を最初に確認します。

①金剛界峰から南面して、阿弥陀堂に並んで開口
②本堂からの比高は約4m、奥行は最大で約2,9m、幅約4、3m、高さは約2、1m。
③岩壁沿いに細い行道が10mほど続いていて、通路のようになっている
岩屋寺 仙人窟への行道跡
岩屋寺仙人窟への行道

金剛界峰の裾部からは、かつての山林修行者の行道が一部残っているようです。この山全体が「小辺路」で行場だったことは以前にお話ししました。そのような行道の中のひとつの窟が仙人窟のようです。

発掘調査の結果、仙人窟からは次のような遺物が出てきています。

岩屋寺 仙人窟の遺物2
1 8世紀の須恵器の壺蓋
2・3 中世後期(15~16世紀代)の土師器質の皿
4 鹿角製の竿(完形品) 
5 大量のこけら経・笹塔婆
岩屋寺 仙人窟の遺物
岩屋寺仙人窟からの出土品

これらの遺物から何が分かるのか、順番に見ていくことにします。
遺物1は、須恵器の壺蓋です。
上図の黒い部分で全体の4分の1ほどが出ています。つまみ部分がありません。これについて研究者は次のように記します。

外面の3分の1より上は回転ヘラ削りにより器面が整えられ、天井部付近はケズリ後ナデが施されている。外部外而3分の1よリ下と内面は回転ナデによって調整される。口縁部径は復元で14。3㎝、高さは残存部で4。5㎝を測る。天井部から体部にかけての屈曲は鈍角で緩やかで、口縁端部はやや尖り気味におさまり、接地面はわずかに平坦面を有する。内外面ともに浅黄橙色を呈し、胎土は混和剤が少なく、精良である。時期は8世紀代に属するものと考えられる。 

2・3は土師質土器の皿です。
造りは精良で、全体に歪みがない。復元口縁部径は13。2㎝、底径は5。8㎝、器高は3。2㎝で小型。内外ともに横ナデによって器面が整えられ、底部は回転糸切り痕が明瞭に残る。時期は、松山平野の土器との比較から中世後期(15~16世紀代)のもの

4は鹿角製竿(さお)の完形品です。
全長16。3㎝、最大幅1。95㎝、最大厚0。6㎝で、上端と下端が薄く、中ほどが厚くなっています。全体が良く磨かれて丁寧に仕上げられています。時期の特定は難しく、同時に出土した土器年代から古代~中世と幅を持たせています。

遺物1はⅣ層1面、 2はⅢ層、3は表面採集、4はⅣ層からの出土になるようです。このほか、Ⅲ層からは大量のこけら経と笹塔婆が出土しています。これを次に見ておきましょう。

岩屋寺 こけら経出土状態
岩屋寺のこけら経出土状態
仙人窟からはこけら経・笹塔婆2421点が出ています。その内訳は、次の通りです
①経典を書写したこけら経が505点
②六字名号などを書いた笹塔婆415点
③内容不明等の墨書などの断簡1501点
④残存状況は、完全系60点、頭部407点、下部57点、断片1897点
岩屋寺こけら経1
岩屋寺出土のこけら経

こけら経・笹塔婆については元興寺極楽坊から発見されたものが有名です。
「水野正好先生の古稀をお祝いする会2003年8月2日発行】15頁の「経木・経石発掘」には、次のように記します。
 (-前略-)『大乗院寺社雑事記』には、こうした柿経書写の様子をこと細かく「春菊丸の追善のために柿経5670本つくり供養。うち5550本は文明9年5月14日の誕生日から当年(明応元年)7月25日死去の日まで、春菊丸がこの世にあった日数の柿経、120本は当年3月25日より死去の日まで、病に臥せた120日間分。柿経に書写した経は法華経は8巻・・・地蔵本願経3巻、阿弥陀経・・・。柿経は曽木200枚余、6切に5本ずつとる」と書きのこしてくれている。
死者の追善供養としての柿経の写経であり、在世の日数に病
臥の日数を加えて法華経以下の経を写しているのである。
敦賀市のこけら経: 一乗学アカデミー
こけら板墨書  妙法蓮華經  富森冬永奉納  一束(箍外れの3枚を含む)
・時代 室町時代1498年(明応七年十一月十一日)銘
・直径 約21.5㎝(こけら板1枚の長さ約26.3㎝ 幅 約1.6㎝ 厚さ 約0.03㎝)
・説明 薄く剥(は)いだヒノキの板約2,000枚に墨で1行17字の妙法蓮華經を書写したもの。重ねて、巻末を中心にして円筒形に巻き込み、上・下を竹の箍(たが)で締めつけているが、下の箍は現在は銅線で補修されている。
法華経は8巻4,091行あり、このこけら経は、2束1セットの1束と見られる。

元興寺極楽堂の天井裏に、はかつて柿経を納めたカマスがあったようです。

岩屋寺の仙人窟から出てきた笹塔婆を見ておきましょう
世良田諏訪下遺跡出土の笹塔婆等 附 出土土器一括 - 太田市ホームページ(文化財課)
笹塔婆は仏の名前や短い仏教の文言を書いて供養やまじないに用いた木簡です。岩屋寺出土の笹塔婆には
①「南無阿弥陀仏」の六字名号
②「大日如来」「勝蔵仏」などの阿弥陀仏以外の名号
③「キリーク・ナン・ボク」「キリーク・サ・サク」
などの梵字が書写されています。圧倒的に多いのは「南無阿弥陀」です。また「キリーク・ナン・ボク」は、阿弥陀如来の梵字種子に「南無仏」を梵字化した「ナン・ボク」を付加したものと研究者は考えています。そうすると「キリーク・サ・サク」の阿弥陀三尊梵三種子と合わせて、この洞窟のとなりに祀られている「洞中弥陀」との関係があったことがうかがえます。どちらにしても、阿弥陀信仰の色合いが強いことを押さえておきます。
岩屋寺のこけら経・笹塔婆は、
いつころ奉納されたものなのでしょうか?

岩屋寺 こけら経分類
岩屋寺 こけら経編年表

上の分類・編年表に岩屋寺こけら経・笹塔婆の分類を照会すると、「松浦・原旧分類」のIa類とⅦa類に対応するので、15世紀後半~16紀頃のものと研究者は判断します。また、それを補強するものとして、岩屋寺のこけら経や笹塔婆の多くが片面写経であること、字体が近世まで下らないことがあります。
以上からは中世後期のこの岩窟では、士師質土器皿を持ち込んで、宗教的行為や柿経・笹塔婆の奉納などに活発に岩窟を利用していたことがうかがえます。
それでは、8世紀代の須恵器が仙人窟に持ち込まれていることを、どう考えればいいのでしょうか?
岩屋寺は、長く第41番札所大賓寺の奥之院とされてきました。そのため岩屋寺の縁起は、ほとんどが江戸時代以降のものです。最も古いものは鎌倉時代に描かれた『一遍聖絵』の詞書になります。そこには、空海以前には、地主神として仙人が生活していたとと、次のように記します。

「仙人は又土佐国の女人なり、観音の効験をあふきてこの巌窟にこもり…(中略)・…又四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十二所の霊嘱あり。斗藪の行者霊験をいのる砌なり」

 ここからは岩屋寺が創建される以前より、土佐国出身の女性の仙人が修行を行う霊地であったと伝わっていたようです。こういう伝えが残されていることは、岩屋寺周辺の岩窟では、行者らの修行が岩屋寺創建より前から行われていたことがうかがえます。
 また、この岩窟は生活するには不便な場所です。床面は水平ではなく、斜めに傾いています。その上、開口部以外は天井は低く、狭いので日常的な生活の場には適さない空間です。しかも水場からは遠く離れています。以上から、今回出土した須恵器は、日常的生活用ではなく、岩窟内での宗教的行為のために持ち込まれたものと研究者は考えています。
ここから出土した8世紀の須恵器の器種は壺の蓋です。
形から見て頸の短い短頸壺とセットとなる蓋で、その用途は日常生活の貯蔵容器として用いられる他に、この時期には蔵骨器として用いられていたと研究者は指摘します。その用例は愛媛県でも何例かあるようです。
岩屋寺 松山市の骨蔵器

上図は松山市かいなご3号墳周辺から出土した蔵骨器で、完全な形で、8世紀~9世紀中葉のものとされています。仙人窟の須恵器土器も蔵骨器として使用されていたと研究者は推測します。それを補強するのが『一遍聖絵』の詞書「仙人利生のために遺骨をとゝめ給ふ」という記述です。ここからは、古代~中世の岩屋寺では何らかの形で遺骨が祀られていたことがうかがえます。8世紀に蔵骨器として使用されたものとすれば、霊窟での祖先供養と結びついて考えることができます。
最後に、鹿角製竿について見ておきましょう。
先ほど見たように、中世後期の仙人窟では、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われていたことが想定できます。しかし、その際に鹿角製竿がどのように使われていたのかというのは、よく分かりません。他でもこけら経と竿、土師質土器と竿を用いた祭祀行為の例はないようです。廻らなくなった頭を叩いて無理矢理に出してみると「行者などの人々の出入りが比較的多かったので、修行などの際に鹿角製竿を落とした」くらいしかおもいつきません。しかし、仙人修行の地である神聖な霊窟に落とし物をしてそのままにする修験者がいるでしょうか。しかも、これは完形品で、廃棄されたとも考えられません。
 一方、8世紀代には須恵器の壺蓋が蔵骨器として用いられていた可能性があることは見てきた通りです。
ここからは、鹿角製竿も人骨とともに蔵骨器内に納められた副葬品であると研究者は推測します。熊本県益城町阿高の「阿高貝塚」の古墳から出土した蔵骨器には、骨製の竿が副葬されているようです。ここでは「鹿角製竿は蔵骨器の中に入れられた副葬品」説をとっておきます

以上から、仙人窟で行われてきた宗教儀式を年代順に追ってみるると次のようになります。
①奈良時代8世紀に、死霊の赴く山として骨蔵器に骨が納められ埋葬された
②空海以前には、土佐出身の仙人が住み、観音信仰の霊地や行場とされていた。
③そこに熊野行者が入り込み、大那智社・一の王子・二の王子などを勧進した
④その後、高野聖がやってきて阿弥陀信仰をもたらし、祖先供養の霊地にした。
⑤高野聖は、高野山の守護神である丹生社や高野社を勧進するとともに、弘法大師信仰を拡げた。
⑥同時に祖先供養のために、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われた
⑦戦国時代16世紀の岩屋寺は、山林修行者の行場であると同時に、高野聖(念仏聖)たちによって里人の祖先供養の霊場の性格を強め、人々の信仰を集めた
⑧高野聖の活躍による弘法大師信仰の高まりを背景に、建立されたのが大師堂である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「発掘調査の成果(仙人窟) 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺(58P) 2022年3月 愛媛県教育委員会」
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 前回は、寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺の絵図を見ました。それから約110年後の寛政12年(1800)に、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛が遍路記をあらわしました。

岩屋寺
岩屋寺(四国遍礼名所図会:1801年)
それを、翌年に書写したのが『四国遍祀名所図会』です。ここには各札所の景観が写実的に描いた俯瞰図が挿入されています。今回は 『四国遍祀名所図会』で、18世紀末の岩屋寺を見ていくことにします。そして、元禄時代の四国遍礼霊場記と比べて、岩屋寺がどう変化しているのか、また変わらなかったのかを探っていきます。テキストは、「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。
『四国遍礼名所図会』の右側から見ていくことにします。 
  岩屋寺 四国遍礼名所図会右
岩屋寺(四国遍礼名所図会 右側)
麓の川から見ていきます。これが直瀬川のようで、両岸に民家がいくつか描かれ、その周りには水田や畑地が拡がります。直瀬川に架かる橋を渡ると、参道の右側に①「龍池社」が鎮座、直進すると鳥居があり、その先に「水天宮」が鎮座します。その横には方形の池(ミタラシ)があり、本文中では「御手洗池」とされています。さらに参道を進んでいくと、右手に小さな平坦部があり、中央に虚空蔵堂が建ちます。その奥の岩窟内には「アカ(阿伽)井」、堂のそばには「菩提樹」が描かれています。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年右上
岩屋寺本堂周辺(四国遍礼名所図会)

 さらに参道を進むと断崖直下の石段に至り、それを上ると、横に長い平坦部が広がる。平坦部左側 には石垣の上にL字状の建物があり、絵図にはありませんが、本文中には「茶堂」とあります。右側には岩壁に埋まるような形でL宇状の建物があります。位置や規模から本坊と研究者は推測します。この建物の手前部分の1階は、門のように通り抜けることが可能な構造となっています。ここを潜り抜け、岩壁沿いに右に進むと「鈴掛松」という松の大木、「求聞持堂」、そして石造物(形状から宝筐印塔?)が描かれています。
 本坊のすぐ奥には、本堂からせり出した舞台の柱が並んでいて、この柱のさらに奥に「オクノイン」と称される岩窟があります。岩窟内部の描写は何もありません。しかし本文には「石ノ大師」「石堂不動明王」が安置され、「阿伽井」もあったと記します。
 一番上の段には本堂(旧不動明王堂)が並びます。大師堂の舞台から16段の梯子が岩峰に向かって架けられていて、登り切った先に岩窟には④仙人堂が建っています。

岩屋寺 仙人堂と不動堂
『一遍聖絵』に描かれた不動堂(本堂)と仙人堂

中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
本堂石仏不動明王 大師御作、
大師堂 本堂よりろうかにて行、十六梯本常の橡より上ル、仙人堂 洞二建し也。法花仙人安置、長ケ五尺斗リの如し、舎利塔 仙人堂の傍二有リ、洞の阿弥陀 仙人堂の上にあり、洞の中にあみだ尊有り、洞塔婆合利堂の上ニあり、奥院 本堂の下より入窟也 寺より案内出ル、石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王 右の奥ノ院内二あり、竜燈楼本堂ノ前二有、方丈、茶堂爰にて支度、虚空蔵堂 茶堂より下りり左へ少し入、普提樹 堂の傍に有り、阿伽井 堂の裏二窟の内に有り、少し下る。水天宮 右手に有り、御手洗川 水天宮の傍にあり、不二門、竜池社 道の左へ少し入有り。
仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の手前少し行有り、流霞橋 是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
意訳変換しておくと
本堂(不動堂)の石仏は不動明王で、弘法大師作
大師堂 本堂から回廊でつながっていている。本堂から梯子で上ると仙人堂で、洞窟の中に建っている。ここに法花(法華)仙人が安置され、五尺ほどの舎利塔が仙人堂のかたわりにある。洞の阿弥陀は、仙人堂の上にある。洞の中に阿弥陀像が安置されていている。洞塔婆は舎利堂の上にあり、奥院 本堂の下より、寺より案内で入窟する。石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王は、奥ノ院内にある。竜燈楼は本堂前、方丈、茶堂もある。
 虚空蔵堂は、堂より下り左へ少し入るとあり、普提樹が傍にある。阿伽井は、堂の裏の窟内にあり、少し下る。水天宮は参道の右手にあり、御手洗川は水天宮の傍にある。不二門、竜池社は道の左から少し入ったところにある。
 仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の少し手前にあり、流霞橋は十丁斗り行った古岩屋にある。堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
岩屋寺右側を終わって、左側に移ります。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左
         岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左下
        岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
 2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年左上

左に進むと「逼割(せりわり)岩」の入口で、両側には1棟ずつ建物が描かれています。
岩屋寺 白山権現行場入口
 看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)

本文中には「傍二大師堂。休所有り」とあるので右が大師堂、左が休所のようです。岩壁入口には鳥居が建ち、「逼割(せりわり)岩」を抜けて登った先には、21段の梯子があります。その頂上に鎮座するのが「白山社」です。そして、中央に「高祖社」、その先に「別山社」が鎮座します。「四国遍礼霊場記」では「白山権現 → 別山権現 → 高祖社」の並び順でしたから、鎮座位置が変更されています。また、いままでは、3つの飛び抜けた岩峰に描かれてた祠は、白山社のみが切り立っていて、他の2社はそれほどでもありません。どうしたのでしょうか?
岩屋寺 3
四国遍礼霊場記の岩屋寺 3社の鎮座場所が異なる

 ここから先の道は、曲がり口に鳥居があり、その先の岩壁の上に「大ナチ(那智)社」が建っています。次の曲がり角に鳥居があり、その先に「一ノ王子」が鎮座しています。「一ノ王子」の先は直線的な道が続き、道の真ん中に「龍灯松」という松の大木があり、その右手に「龍池」が描かれています。本文に「是より岩屋寺入口なり」とあるので、このあたりから寺域と遍路道の境界とされていたようです。
岩屋寺 二の王子跡推定地
 二の王子社と大那智社跡推定地
『四国偏礼霊場記(霊場記)』と『四國遍礼名所図会(図会)』には111年後の時間差があります。建物配置や規模に違いがあります。どちらにしても、江戸時代前期の霊場記と、百年後の図会の岩屋寺を比べると、境内の堂宇の数・規模は増加していたことが見えて来ます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」

岩屋寺 上空写真 
岩屋寺
  以前に、岩屋寺で一遍の修行が、どのように描かれているかを見ました。それを最初に振り返っておきます。
『一遍聖絵』には中世岩屋寺の2つの景色が描かれています
A 不動堂と仙人堂
B 「せりわり禅定」の風景

岩屋寺 仙人堂と不動堂
A 岩屋寺不動堂と仙人堂(一遍聖絵)

Aから見ておくと、不動堂は岩峰下の平地に建ていて、その背後には梯子が架けられています。梯子を登った先に、埋め込まれるような形で懸け造りの仙人堂が見えます。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
岩屋寺の奥の院 
Bの奥の院の逼割(せりわり)風景は、3つに分かれた岩峰の頂部のそれぞれに社祠が建ち、このうち最も高い白山権現には梯子が架けられています。建物の大きさに違いはありませんが、白山権現だけが屋根が入母屋状、残りの2基は切妻です。『一遍聖絵』は修行の風景や不動堂を強調して描いていて、実際の位置関係や景観をどの程度反映していたかはよく分からないと最近の研究者は考えるようになっているようです。ここに描かれたA・Bの2つが中世岩屋寺境内の中心的な要素だったことがうかがえます。絵図には描かれていませんが、詞書には次のように記されています。
「…又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現し給へる跡あり、三十三所の霊幅あり、斗藪の行者霊験をいのる嗣なり…(中略)…其所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置してたてまつる、すなはち、大師練行の古跡、喩伽薫修の幅壇ならひに御作の影像、すかたをかへすして此の地になをのこれり」

意訳変換しておくと
「…この他にも、四十九院の岩屋があり、父母の極楽往生を供養する跡があり、三十三所の霊場があり、斗藪の行者(山林修行者)が霊験を祈る祠となっている。…(中略)
 又、高野大師御作の不動尊を安置する堂舎がある。以上のように、
この地は弘法大師練行の古跡であり、大師修行の痕跡である護摩炉壇・御作の影像などが、昔から姿を変えずに残っている霊場である。
 
ここには鎌倉時代の岩屋寺には、弘法大師製作とされる不動明王等の像や、大師修行の痕跡である護摩炉壇・大師自作の御影があったと記されています。また、父母が極楽浄土へ至ることを仙人が祈る49の岩屋、修験者の行場として三十三の霊窟があったようです。以上から中世の岩屋寺が一遍の他にも各種の山林修験者がこの地で修行に励んでいたこと、霊験を祈る場、祖先供養の聖地として人々の信仰を集め霊山として機能していたことを押さえておきます。

岩屋寺測量図拡大
現在の岩屋寺伽藍配置
次に17世紀末の寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺を見ていくことにします。
テキストは「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。

岩屋寺 四国霊場記宝暦2年
岩屋寺(四国遍礼霊場記)

まず高野山の僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に記された岩屋寺を見ていきます。
猶是より山中霊気の立を御覧じて分入、岩日を踏奥院をひらき玉ふ。岩屋寺といふ。
海岸山岩屋寺 浮大部
此寺、名にあへる岩のすがた竜幡り虎路るごとしとし。奇怪いふにやは及ぶり壁立の岩稜の出たるやうなる下に堂宇を作り、堂より室皆谷にかかり岩を軒とす。竃などは岩宇覆へるゆへに別にやねをせず。本堂不動明王石像大師の御作、太子堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけてのぼる。此はしご大師のかけ玉ふむかしのまゝといへり。岩上に仙人堂を立、像は大師の御作、法華経を侍するがゆへに法華仙人といふ、大師の時代まで此山に住せしと聞へたり。其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に卒都婆あり、むかしよリー基にて大師二親の為に立玉ふといふ。一本はいつとなくかたむきありしが、延宝三年四月十二日すぐに立なをり、紙かと見ゆる札付たり。鳥ならではかよはざる所なればいかなる人もあやしみあへり。同七年大風吹て其一基は見へずなんぬ。今は一本あり其下に塔あり仙人の舎利塔といふ。
不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼓を持、是を阿弥陀といふ。凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。
岩屋寺 金剛界岩壁2
岩屋寺本堂背後の断崖

意訳変換しておくと
   浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。

岩屋寺 2

本堂(不動堂)の不動明王石像は空海の作。本堂から②大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。

岩屋寺 仙人堂への階段
仙人堂への梯子

 ③岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、④卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。⑤仙人の舎利塔と呼ぶ。
 不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。⑥阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに⑦仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。      

岩屋寺 四国遍礼霊場記
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の右側拡大

「岩屋寺図」の右側から確認すると
A 龍女池を通って参道をいく
B 二段の平場があり、下の段には二軒を廊下でつないだ堂舎(寺)
C 上の段には廊下でつながれた①不動堂(現本堂)と②大師堂、丹生社、高野社、その後ろに岩壁
D 不動堂の上の③仙人堂には、大師作の法華仙人像
E 仙人堂の上の岩窟には⑥「アミタ」と表記され阿弥陀立像。手に征鼓を持つ長四尺余の銅製の阿弥陀像で飛来仏
F 阿弥陀の左の岩の奥に④卒塔婆が二基。その下にある塔が仙人の舎利塔。
G 岩窟の「仙人窟」には、こけら経が描かれている

岩屋寺 不動堂
本堂背後の仙人窟とアミダ窟

この金剛界断崖には、この他にも「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があるようです。窟だらけの断崖をよく見ると、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。この行道について、
享保4年(1719)に菅生海岸両山寺務の法印雲秀が記した「岩屋寺略縁起」(『久万町誌資料集』1969)は、寺側の記録として次のように記します。

一、胎蔵界嵩は南二王門の上
一、四十九院は本堂より七人町北に当て四十九峯あり。
一、人葉峰魏の事
一、鈴高明王峰      一、不拾山阿弥陀峰
一、白山権現峰      一、別山権現峰
一、高祖権現峰      一、古岩屋権現峰
これらの峰を命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐったのでしょう。これも「辺路修行」で行道巡礼の痕跡と研究者は考えています。
ここでいままでに出てきた信仰物の出現背景を考えておきます。
Aの龍池からは、弘法大師の善女龍王伝説に基づく雨乞い信仰がすでにこの時点で、根付いていたことが分かります。ここからは旱魃の時には、修験者に率いられた里の農民達がやってきて雨乞い祈願を行ったことがうかがえます。雨乞いは、里人の信仰を組織する契機となったでしょう。
岩屋寺 大師堂
岩屋寺大師堂
①の大師堂は、弘法大師信仰の象徴です。
一遍も「弘法大師の修行した行場で修行したい」という願いがあったことは、以前にお話ししました。一遍の時代から、この行場には弘法大師信仰がもたらされていたことが分かります。  岩屋寺が弘法大師開祖とされる由縁かも知れません。

岩屋寺 中国四国名所旧跡 本堂
     岩屋寺の本堂と仙人堂「中国四国名所旧跡」(幕末)
②は『四国偏礼霊場記』には、「本堂」ではなく「不動」と書かれています。不動は、修験者の守護神とされ、修験者たちが最も身近において信仰した仏です。それが本堂とされていることは、ここが修験者の行場であったことを物語ります。

岩屋寺 丹生・高野社
岩屋寺の丹生・高野社

大師堂の左には、丹生・高野社が並んでいます。

丹羽社は高野山の守護神・丹生都比売神社のことでしょう。これは高野山の守護神です。このふたつの神社を勧進したのは、高野山系の修験者(高野聖)だったはずです。彼らが弘法大師信仰と共に、このふたつの高野山守護神をもたらしたのでしょう。これらは、中世にはなかったものです。大師堂と供に、高野聖の「活動成果」といえるのかもしれません。

さらに簡素な門を抜けて少し進んだ左手に「イキ木ソトバ」があります。
塔婆変遷 五来重
塔婆の変遷(五来重)

この生木卒塔婆が現代でいうところの「梢付塔婆」(杉塔婆)と研究者は考えています。
IMG_0397.JPG
「梢付塔婆」(杉塔婆)

「イキ木ソトバと書かれた枠の外に小枝状の線が描写される」と研究者は指摘しますが、私にはよくわかりません。どちらにしても卒塔婆は、祖先供養に関わるものです。岩屋寺が中世には「死霊供養の山」として機能していたことがうかがえます。讃岐の弥谷寺と同じような環境が見えて来ます。
 さらに道を進むと右側に「一ノ王子」、「ニノ王子」と熊野王子信仰に関わる社祠が建ち並んでいます。大那智社とともに、これらは熊野信仰をもつ山林修験者によって勧進されたことがうかがえます。

③の仙人堂は、空海がやって来る前までの地主神だった仙人を祀っています。
熊野信者達が阿波の行場にやって来たときに、先住の地主神達との抗争・和解を経て、霊場を行場化した話が四国霊場札所には、良く伝わっています。ここからは先住の地主神から、山岳修行者(空海含む)に行場の譲渡が行われたことがうかがえます。その山岳修行集団は、熊野行者だったと私は考えています。
④の飛来仏と伝わる阿弥陀は、念仏聖(高野聖)の痕跡でしょう。
以前にお話したように、 一遍の踊り念仏の民衆教化はすざましい威力を発揮し、民衆への阿弥陀信仰流布に大きな力となりました。その結果、祖霊供養を本務とする高野聖たちが時宗化していまします。高野山自体が阿弥陀信仰の拠点となった時期があるのです。その結果、高野聖が拠点とした行場にも阿弥陀仏が登場します。これは讃岐の弥谷寺の阿弥陀仏の登場と同じです。

岩屋寺 阿弥陀仏銅像
岩屋寺のアミダ岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像
 ④は現在も岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像のようで、17世紀には知られていたようです。
ここからは岩屋寺は霊場として次のような信仰の積み重ねがあったことが分かります。
①地主神として仙人信仰 
②熊野行者達のもたらした熊野信仰
③高野聖がもたらした弘法大師と阿弥陀信仰 → 祖先供養
次に挿絵の左部分を見ていくことにします。

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左部分
此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへんて伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへん
      意訳変換しておくと

岩屋寺 白山権現行場入口
「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」の入口(岩屋寺)
奥に進むと、⑦せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは30尺ぐらいだ。21段の梯子を懸けて登る。上には、⑧鉄で作った白山権現社が鎮座している。
岩屋寺 白山権現鎖場1
白山権現への辺路

その右に屹立する岩の頂きに⑨別山社、続く岩の頭に⑩高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
①白山権現社、⑤別山社、高祖権現社(一遍上人絵伝)
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。
「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
岩屋寺 白山権現社1
白山権現社(岩屋寺)

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左P

もう一度、奥の院の白山権現が描かれた左Pを見ておきます。
下からみていくと、まず描かれているのは「勝手」と記されたに社祠です。これは吉野大社明神の一つ、「勝手神社(明神)」のことのようです。吉野系の修験者の勧進でしょう。ここから少し進むと、道が二股に分かれて、右に進むと「セリワリ」、左に進むと山道を登っていくこととなります。右は道に「セリワリ」と記され、左右には岩壁が描かれます。ここを進むと小規模な岩峰があって、その頂上が3つにわかれています。頂部にはそれぞれ社祠が建ち、右から「白山権現」、中央に「別山権現」、左に「高祖権現」と記されています。白山権現へは21段の梯子によって登れるようになっており、岩屋寺の奥之院の中心的存在であったことがうかがえます。
岩屋寺 白山権現
岩屋寺 せりわり禅定と白山権現(数字は標高)

 少し戻って二股に分かれた道を左に進んでいくと、左手に「子守」と記された社祠があります。
「子守」には熊野本宮大社第八殿・子守官の系統と吉野水分神社を総本社とする水分神の系統がありますが、先に出てきた吉野系の「勝手神社」との関係をふまえれば、後者の吉野系統に属するものと研究者は考えています。
 さらに遍路道を進んでいくと、右手に社祠があり、「大那智」と記されています。名称から、熊野三山の一つである熊野那智大社の系統神社と推測できます。その先には道の左手に鳥居が建ち、鳥居を潜り抜けたところに再び「一ノ王子」の社祠が鎮座しています。ここからは、熊野行者達の活動がうかがえます。
 このあたりで大部分の描写は終わっていますが、「アミダ峯」が絵図の上端に描かれています。これがどの山を指すのかは分かりません。なお、絵図には描かれないものの、本文中では白山権現を中心とする奥之院周辺には、勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠が建ち並んでいたとの記述があります。絵図に描かれる以上に建物があったことがうかがえます。
以上のように、江戸時代前期と、中世の『一遍聖絵』に描かれた岩屋寺を比較すると、さまざまな山岳修行者の行場という性格に変化はないようです。その中で異なる点として次の二点を研究者は指摘します。
①近世になって大師堂が建立されていること。
②高野山の守護神である高野社や丹生社も、中世段階ではなかったこと
③この間に高野系修験者や聖たちの影響力が大きくなったこと。
 建物等の施設が増加する一方で、日が当たらなくなっているのが岩屋や霊窟です。
一遍が訪れたころの岩屋寺には数十を数える岩屋や霊窟が機能していました。それが江戸中期の元禄期には、阿弥陀や卒塔婆の安置された窟や仙人窟が描かれているだけで、本文中にはでてきません。中世の頃と比べると、岩屋・霊窟での祈りや修行が希薄になっていると研究者は考えています。
 四国遍礼霊場記が書かれた17世紀末には、白山系、弘法大師系のほか、熊野や大峰系の山岳信仰に関わる堂舎や祠が立ち並んでいたことが分かります。修験者にとって「行」とは実践で、彼らにとっては経典や宗派にあまりこだわりがなかったようです。近代以前の岩屋寺は、神仏混淆下で、いろいろな宗派の修験者の行場として「共存共栄」していたとしておきます。

岩屋寺 金剛巌の岩壁
岩屋寺の金剛巌の断崖
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会
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四国霊場には、次のようないくつもの信仰が積み重なって、現在があると研究者は考えているようです。
①仏教以前の地主神信仰
②熊野行者がもたらした熊野信仰 + 天台系修験信仰
③六十六部がもたらした法華信仰
④廻国の高野聖がもたらした阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰
 例えば、②と④の熊野信仰と弘法大師信仰を併せ持っていたのが讃岐の与田寺の増吽でした。彼は、熊野行者として熊野詣を何回も行う熊野信仰の持ち主であると同時に、真言僧侶として弘法大師信仰を広めたことは以前にお話ししました。そして、彼らが歩いた「熊野参詣道」に、六十六部や高野聖などは入ってきて、四国辺路道へとつながっていくと研究者は考えているようです。
瀬戸の島から - 2022年06月
讃岐国分寺前を行く六十六部(十返舎一九「金草」の挿絵)
前回は、四国霊場札所に残された落書きから高野聖が、先達として四国辺路を行っていたことを見ました。その中には、讃岐の良識のように、若いときには四国辺路者として、老いては六十六部として白峰寺に経筒を奉納する高野聖(行人)もいました。今回は、六十六部の奉納した経筒銘文を見ていくことにします。  テキストは    「武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P」です。
まず、永徳四年(1384)相模鶴岡八幡宮金銅納札で、銘文の見方を「学習」しましょう。

相模鶴岡八幡宮金銅納札
 相模鶴岡八幡宮金銅納札

  ①の中央行を主文として、各項目が左右行に振り分けられています。
真ん中の①「奉納妙典一国六十六部」は奉納内容で、「妙典妙法蓮華経を一国六十六部」奉納すること
②右の「十羅刹女」③左「三十番神」は、法華経の守護神名
④「永徳牢」「卯月日」は奉納年月。
⑤ の「相州鎌倉聖源坊」は左右の「驫丘」「八幡宮」ともに、奉納者の名で「鶴岡八幡宮」は「聖源坊」の所属組織
⑥の「檀那」「守正」は経典奉納の檀那となった人物名
以上をまとめると、永徳4(1384)年4月、守正が檀那として、鎌倉鶴岡八幡宮の聖源坊が「相国六十六部」として、法華経巻を奉納したことをしめす「納経札」のようです。どこに奉納したのかは記されていません。
 研究者が注目するのは①の「奉納妙典一国六十六部」です。「廻国六十六部」でないのです。これは「略式化」されたもので、写経巻六十六部を、「全国廻国」ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと研究者は考えているようです。
 法華経を書写・荘厳して定められた寺社に納めることは、平安時代から始まっています。それが六十六部の法華経巻を書写し、全国を巡歴して奉納する納経スタイルへと発展していきます。そのような流れから考えると、「一国六十六部」は、全国廻国奉納を行うようになる前段階のことかも知れません。
研究者が注目するのは、奉納者の鶴岡八幡宮所属とされる「聖源坊」です。六十六部として、全国を廻国した人物は「…坊」「…房」という名乗りが多いのですが、これは、山伏や修験を示すものです。ここからは、中世の六十六部聖は、その前身を古代の山岳修験者、特に法華経を信仰する聖だったことがうかがえます。
以上のことを次のようにまとめておきます。
この六十六部奉納札は、鶴岡八幡宮に帰属する法華信仰を持つ山岳修行者「聖源坊」によって、檀那「守正」を後援者として行われた、巡礼納経の遺品である。
讃岐の白峰寺(西院)の高野聖・良識が納めた経筒を見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
先ほどの応用編になります
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
内容については、以前にお話したので省略します。⑤の良識については、讃岐国分寺に残した落書きから次のようなことが分かっています。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、高野山金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
この2つの例で、経筒の表記方法について「実習」したので、各地の経筒を実際に見ていきましょう。

島根県大田市南八幡宮の鉄塔
大田市南八幡宮の鉄塔
島根県大田市南八幡宮の鉄塔からは、数多くの経筒が発見されています。
ここからは経筒が168、銅板に奉納事由を記した納札が7枚、45個一括の経石、伴出遺物として懸仏、飾金具、鉄製品、泥塔、土器、銭貨が鉄塔に納められていました。大半は経筒で、六十六部関係遺品です。

永正十三天(1516)の経筒Aを見ておきましょう。
野州田野住僧本願天快坊小聖
十羅利女        寿叶円
奉納大乗妙典六十六部之内一部所
三十番神 檀那   秀叶敬白
永正十三天(1516)三月古日 

「奉納大乗妙典六十六部之内一部所」とあります。ここからは大乗妙典(法華経)を経筒に納入して埋納したことが分かります。『法華経』の別名称である経王、一乗妙典などと刻されたものもありますが、奉納経名は、ほとんどが「法華経」です。しかし、『法華経』以外の経典が納められていることがあります。
弘法大師信仰に関わるものとして経筒Bには、次のように記されています。
四所明神 土州之住侶
(パク)奉納理趣経六十六部本願圓意
辺照大師
天文二年(1533)今月日
ここからは次のようなことが分かります。
①奉納されているのは「法華経」ではなく、「理趣経」で真言宗で重要視される経典。
②「辺照大師」は、遍照金剛(南無大師遍照金剛)のことで、弘法大師
③四所明神とは高野四所明神のことで、高野・丹生・厳島・気比の四神で、高野山の鎮守のこと
以上から、「本願園意」は、高野山の大師信仰を持った真言系の六十六部で、土佐の僧侶であったことが分かります。
もうひとつ真言系の経筒Cには、次のように記されています。
□□□□□①幸禅定尼逆修為
十羅刹女 ②高野山住弘賢
奉納大乗一国④六十六部
三十番神 天文十五年(1546)正月吉日

①からは「□幸禅定尼」が願主で、彼女が生前に功を積むための逆修として奉納が行われたこと。
②は実際に、諸国66ケ国を廻行し、法華経を納めた六十六部(奉納者)の名前です。ここには「高野山住弘賢」とあるので、弘賢が高野山に属し人物であったことは間違いありません。願主の依頼を受けて全国を六十六部として「代参」していたことが分かります。
宮城県牡鹿町長渡浜出土の経筒には、次のように記されています。
十羅刹女 ①紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部 沙門②良源行人
三十番神 ③大永八年(1528)八月吉日 白
    ④施主藤原氏貞義
           大野宮房
ここからは④「施主藤原氏貞義・大野宮房」の代参者六十六部として、①「紀州高野山谷上の②良源行人」が全国に法華経を納めていたことが分かります。研究者が注目するのは、「沙門良源行人」の所属の①「紀州高野山谷上」であることです。
新庄村の六十六部廻国碑

前回見た伊予の49番浄土寺の本堂内の本尊厨子の落書きには、次のように記されていました。
金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国

四国辺路者である善空も、所属は「(紀州高野山)谷上」となっています。高野山の「谷上」には、行人方の寺院がいくつかあったエリアで、ここに四国辺路や六十六部を行う行人(聖・廻国修行者)がいたことは以前にお話ししました。それは「良源行人」という文言からも裏付けられます。
 つまり、高野の聖達の中には、全国から施主の依頼を請ければ、六十六部となって、六十六ケ国に経典を奉納していたことになります。それが終れば、また元の行人に還ったのでしょう。行人は、見た目には修験(山伏)と変わりません。ここでは、高野聖が四国辺路以前から六十六部として、廻国奉納していたことを押さえておきます。

島根県大田市大田出土の経筒Dを見ておきましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄上三部経六十六部
子□
祈諸会維 天文十八年(1549)今月吉
ここでは越前の在家入道は、浄土三部経(『無量寿経』、『観無景寿経』、『阿弥陀経』)を奉納しています。ここからは、彼が阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。法華経と同じように、浄土三部経を奉納する在家入道もいたようです。

栃木県都賀郡岩船町小野寺出土の経筒には、次のように記されています。
開      合
奉書写阿弥陀経 六巻四十八願文 十二光仏仏発願文 宝号百遍 為善光寺四十八度 参詣供養大乗妙典 百部奉読誦酬此等 功徳合力助成口那 等頓證仏呆無凝者也 本願道祐敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
意訳変換しておくと
阿弥陀経六巻四十八を写経し、願文十二光仏仏を発願し 宝号百遍を唱えて善光寺に48回参拝した。供養のために大乗妙典百部を奉読誦酬した。功徳を合力し助成したまえ。頓證仏呆無凝者也 本願道祐 敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
ここからは本願の道祐も、強い阿弥陀信仰の持ち主だったことが分かります。
島根県大田市大田出土の経筒Eには、次のように記されています
十羅刹女  四国土州番之住本願
十穀
(バク)奉納大来妙典六十六部内
三十番神  宣阿弥陀
     光一禅尼
享禄四年(1531)今月吉日

ここからは、宣阿弥陀仏と名前からして浄土系の人物です。また「十穀」とあるので「木食」であったようです。そうだとすれば、木食が六十六部になって奉納していたことになります
以上のように六十六部の中には、高野聖や木食もいたし、真言系や浄土系の人物もいたことを押さえておきます。六十六部は、各国の霊場に奉納する経筒(経典)を通ぶ行者(代参者)という性格をを持っていたようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
六十六部
 六十六部が四国辺路の成立・展開に何らかの関わりがあったとする説が出されています。
岡本桂典氏は「奉納経筒よりみた四国人十八ケ所の成立」(1984)の中で次のように記します。
①全国的に知られる室町時代の六十六部の奉納経筒は168点で、その中で四国に関わるものは12点。
②この中には『法華経』ではなく、真言宗が重視する『理趣経』が奉納され、弘法大師に関係する四所明神(高野山守護神)、辺(遍)照金剛などの言葉が記されている。これらは、四国辺路に関係する六十六部が奉納したものである。
②「本川村越裏門の文明三年(1471)銘の鰐口の「村所八十八カ所」と記されているので、四国八十八ケ所成立は室町時代中期頃まで遡れる。
③49番浄土寺や80番国分寺には「南無大師遍照金剛」という辺路落書がある。これは六十六部の奉納経筒に形式が似ている。
④以上より、四国八十八ケ所の成立には、真言系の廻国聖が関与した。その結果、六十六部の霊場が四国八十八ケ所に転化した。
 この岡本氏の説は、発表以後ほとんど取り上げられることはなかったようです。しかし、六十六部の研究が進むにつれて、再評価する研究者が増えているようです。ただ、問題点は、六十六部というのは、六十六ケ国の各国一ケ所に奉納することが原則です。それでは四国には、霊場が四ケ所しか成立しません。このままでは、四国八十八ケ所という霊場が、どのようにして形成されたかのプロセスは説明できません。そこで研究者が注目するのが、最初に見た永徳四年(1384相模鶴岡八幡宮金銅納札の「奉納妙典一国六十六部相州鎌倉聖源坊」です。ここには「一国六十六部」とあります。
千葉県成田市八代出土の経筒には、次のように記します。
十羅利女 紀州之住快賢上人
(釈迦坐像)奉納経王一国十二部
三十番神 当年今月吉日
ここでは「一国十二部」とあり、さらにこの他にも「一国三部」、「一国六部」などが、数多くあることが分かってきました。

「一国六十六部」は、写経巻六十六部を一国内に縮小して奉納するもので、全国廻国ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと解釈できます。この説に従えば「一国十二部」というのは、国内十二ケ所の霊場(札所)に奉納したということになります。こうした一国六十六部聖などによって、 一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ、その結果、四国の霊場(札所)の多数化が形成されていったことが考えられます。しかし、仮説であってそれを裏付ける史料は、まだないようです。
 ただ『字和旧記』の「白花山中山寺」の項には、次のように記します。
「‥・六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、・・・・。右意趣者、奉納壱國六十六部、御経供養者也。・。」

明暦三年(1657)の「蕨国家文書」には、次のように記します。

諸国より四国辺路仕者、弘法大師之掟を以、阿波之国鶴林寺より日記を受け、本堂横堂一国切に札を納申也

同文書の万治2(1659)年には

担又四国辺路と申四国を廻り候節、弘法大師之掟にて、 一国切に札を納申候、土佐之国を仕舞、伊予へ人り、壱番に御庄観自在寺にて札初・・・

  意訳変換しておくと
諸国からの四国辺路者は、弘法大師の定めた掟として、阿波国鶴林寺より日記(納経札?)を受け、本堂や横堂(大師堂?)に一国の札所が終わる旅に札を納める。

四国辺路が四国を巡礼廻国する時には、弘法大師の定めた掟として、 一国が終わる度に、札を納める。土佐国が終わり、伊予へ入ると、(伊予の)1番である観自在寺にて札を納める・・・
ここからは、土佐や伊予などで国毎に札納めが行われていたことが分かります。このことは元禄9年(1697)の寂本『四国遍礼手鑑』に、国毎に札所番号が1番から記されている名残とも見えます。真念が『四国辺路道指南』で、札所番号が付ける以前は、国毎に始めと終わりがあったことがうかがえます。これは、六十六部が一国毎に霊場の多数化を図ったとする説とも矛盾しません。

1 札所の六十六供養塔
讃岐の霊場に残された六十六部の廻国供養塔の一覧表

 これを補強するのが最初に見た白峯寺の六十六部の奉納経筒です。
これは白峰寺という四国八十八ケ所霊場から初めて出てきた経筒で、讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでした。彼は若いときには「四国中辺路」として、讃岐国分寺に落書きを残していたことは前回に見た通りです。これは「高野山の行人が六十六部として、四国の霊場化を推進した」という説を保証するものと研究者は考えているようです。
038-1観音寺市古川町・古川東墓地DSC08843
六十六部慰霊墓地(観音寺市古川町・古川東墓地)

  以上をまとめておくと
①14世紀から六十六部によって、霊場に法華経を奉納することが行われた。
②発願者がパトロンなり、法華経を写経させ、全国66ヶ国の霊場に納める信仰スタイルであった。
③これを代参者としておこなったのが六十六部といわれる廻国行者であった。
④六十六部を務めた廻国行者には、高野聖もいた。
⑤六十六部には、全国廻国ばかりでなく、一国の霊場六十六ヶ所に奉納するスタイルもあった。
⑥その結果、一国六十六部聖などによって、一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ
⑦それが四国辺路にもちこまれると、四国の霊場(札所)の多数化が進み、四国辺路のネットワークが形成されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P
関連記事

  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

四国遍礼霊場記

寂本の『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には、大興寺が次のように記されています。
「小松尾山大興寺、此寺(弘法)大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり。其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠、
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
意訳変換しておくと
小松尾山大興寺は、弘法大師によって開かれとされる。古くは七堂伽藍がそろっていたが、現在は礎石のみが残っている。かつては天台・真言密教の兼宗で、隆盛を極め学僧が蝗のように群をなして集まったという。豊田郡小松尾村に寺があるので、小松尾寺とも呼び、山号としている。
 本尊は薬師如来、脇士は不動と毘沙門立像で長四尺、これらは皆、弘法大師の御作である。
熊野十二神の本地仏はそれぞれ長三尺二寸で、湛慶作。
本堂の右に鎮守である熊野権現の祠、
左に弘法大師の御影堂、大師像は堪慶作。
ここに天台大師の御影もあり、醍醐勝覚の裏書がある。
大興寺と書かれた扁額は、従三位藤原朝臣経朝が文永四丁卯歳七月廿二日丁未に書いたもので、裏書もある。経朝は世尊寺家でm行成八世の孫と伝えられる。ここからは、かつてのこの寺の繁栄ぶりを垣間見ることができる。近頃までは、宝塔・鐘楼もあったという。

  内容を要約しておきます。
大興寺 四国遍礼霊場記

A 弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
B 隆盛を極めた時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の学問寺であった。
C 本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守である②熊野権現の祠、
D 本堂の左(本堂に向って右側)に③御影堂(大師堂)
E 大師堂には弘法大師と天台大師の両像が安置。
F 別当寺の④本興寺は、本堂(薬師堂)の下の段にあった

熊野権現とその本地仏・薬師如来を安置する①本堂(薬師堂)が上の段にあって、別当寺(大興寺)は、一団低い所にあります。ここからは、太興寺の社僧たちが、熊野権現に奉仕する宗教施設であったことがうかがえます。ここでは、神仏混淆下の中世の大興寺が熊野権現を中心とする宗教施設であったことを押さえておきます。

 さて、今日は③の大師堂(御影堂)に安置されている弘法大師と天台大師のふたつの像について見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭  熊野信仰と弘法大師像」  四国へんろの歴史33P」です。

まずは天台大師坐像(像高73、9㎝)から見ていくことにします。
大興寺 天台大師
天台大師坐像(大興寺)
天台大師とは?
天台大師智顗(ちぎ)は、中国のお釈迦さまと云われ、隋の煬帝から深く尊敬され、「智者」の名を贈られた僧侶です。浙江省の天台山で修行し、そこで亡くなったので、天台大師とも呼ばれます。天台とは、天帝が住んでいる天の紫微宮(しびきゅう)〈北極星を中心とした星座〉を守る上台、中台、下台の三つの星を意味し、天台山は聖地として信仰されていました。
 天台大師は、インドから伝えられた膨大な経典を、ひとつひとつ調べて整理し、その中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であるとします。法華三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、最澄の目にとまります。最澄は、桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後に日本天台宗を開きます。天台宗では、天台大師を高祖、最澄(伝教大師)を宗祖と呼んで、仏壇に二人の画像をかかげます。
この天台大師坐像の胎内には、次のような墨書が記されています。

建治弐年□子八月 
大願主勝覚 
金剛仏子 
大檀那大夫公 
    房長 
大仏師法橋
    仏慶
次に、弘法大師座像(像高72、5㎝)を見ていくことにします。
6大興寺5弘法大師
弘法大師座像(大興寺)
弘法大師像にも、次のような墨書があります。
体部背面の内側部
建治弐年丙子八月日
大願主勝覚生年□
大檀那広田成願□
大仏師法橋仏慶
 東大寺末流

讃州大興寺
別の箇所
建治式年歳次丙子八月二日大願主勝覚
生年四拾五  山林斗藪修行者 金剛仏子
大檀那讃岐国多度郡住人 広田成願房
(体部前面材の内側部)
丹慶法印弟子
大仏師仏慶
東大寺流
 讚岐国豊田郡大興寺
ここからは次のようなことが分かります。
①造立は鎌倉時代後期の建治二年(1276)で、両像は一緒に作られたセット像であること、そのため像高も同じ大きさ。
②大願主は勝覚
③仏師は東大寺流を名乗る大仏師仏慶、
④大檀那は天台大師像は房長、弘法大師像は広円の成願
 両像の発注者(大願主)の勝覚とは、何者なのでしょうか?
彼の「肩書き」は、「山林斗藪修行者金剛仏子」とあります。山林斗藪修行者とは、山伏(修験者)のことです。つまり、ふたつの像の発注者の金剛仏子勝覚は、「金剛仏子」という言葉から熊野系の山伏だったことがうかがえます。そうだとすると、勝覚は「弘法大師信仰 + 熊野信仰」の持ち主で、彼の中でこの二つの信仰が融合されていたことになります。
 ここで確認しておきたいのは、「弘法大師信仰」と「熊野信仰」が、この寺にやって来たのは、どちらが先なのかと云うことです。それは、今まで見てきたように、大興寺は中世に、熊野神社の別当として、熊野行者達によって再興された別当寺です。信仰の中心にあったのは熊野信仰で、熊野行者達がそれを担っていました。
ここでは、大興寺に最初に入ってきたのは熊野信仰だった押さえておきます。熊野行者は、もともとは天台系の修験者でした。その後の出現順は、次の通りです

①熊野行者(天台系修験者)
②天台・真言の両宗兼備の修験者(聖)
③真言系の熊野行者(修験者)

 天台系の熊野行者から真言系の熊野行者への移行が大興寺でも行われたことがうかがえます。
 寂本の『四国徊礼霊場記』の中には、次のようにありました。

「大興寺が隆盛を誇った時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の=学問寺であった。」

願主の勝覚は「台密二教(天台・真言)の=学問寺(大興寺)」で学んだと考えるのが自然です。しかし、「金剛仏子勝覚」とあります。「金剛」は真言系僧侶の象徴です。彼は、真言系修験者であったことは、先ほど見たとおりです。しかし、同時に、天台大師の坐像も奉納しています。彼が天台宗についてもリスペクトしていたことが分かります。勝覚の信仰世界は「弘法大師信仰 + 熊野信仰 + 天台信仰」が融合された世界だったとしておきます。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊の薬師如来 那智本宮の本地仏

 ちなみに、讃岐の雲辺寺や道隆寺・金倉寺なども学問寺でした。修験者や聖・学問僧が全国から頻繁にやってきては修行としての写経を行っています。そして、どこもが台密二教(天台・真言)の=学問寺だったと、寺歴や縁起で伝えます。これをどう考えればいいのでしょうか? ここまでを整理してみます。
①古代・中世の熊野信仰は天台系が主流であった。
②そこへ室町時代になると真言系の熊野勧進聖や先達が出てくる。その象徴が醍醐寺開祖の聖宝。
③大興寺に所属した勝覚は、天台大師と弘法大師の両像の大願主となっている。
④ここからは、勝覚が天台、真言の両宗兼備の僧であったことが分かる。
研究者は「両宗兼備の熊野山伏から真言系の熊野山伏が成立」すると考えているようです。
「①熊野行者 → ②天台系修験者 → ③天台・真言の両宗兼備の僧 → ④真言系の熊野山伏」

という出現プロセスがあったというのです。つまり、「熊野信仰と弘法大師信仰」が融合し、結びつくのは、③のような修験者たちによって行われたことになります。太興寺は、それまで熊野信仰を中心に宗教活動を行っていました。それが建治二年(1276)に、弘法大師像が造られたころには、「熊野信仰 + 弘法大師」信仰の二つの中心をもつ宗教施設へと移行していたことがうかがえます。その後に戦乱などで熊野信仰が衰退しすると、熊野信仰から弘法大師信仰へと重心を移していきます。そして、近世半ばになると四国霊場札所へと「脱皮・変身」していくと研究者は考えています。
大興寺の弘法大師と天台大師の二つの坐像は、そのようなことを垣間見せてくれる像のようです。

大興寺 天台大師.2JPG
天台大師坐像(大興寺)
以上をまとめておくと
①大興寺は、古代寺院として開かれたが中世には退転した。
②それを再興したのは、熊野行者達で熊野権現信仰を中心に、別当寺として大興寺を再建した。
③そこでは熊野権現へ社僧の社僧達が奉仕するという神仏混淆の管理運営が行われた。
④社僧達は、熊野行者で修験者でもあり、山岳修行を活発に行う一方、熊野先達なども務めた。
⑤同時に、「天台・真言の両宗兼備」の学問寺として、山岳寺院ネットワークの拠点として、活発な交流をおこなった。
⑥そうした中で14世紀初めの勝覚は天台、真言の両宗兼備の山伏として、弘法大師と天台大師の二つの坐像を奉納した。
⑦これは大興寺が「熊野信仰と弘法大師信仰」の両足で立っていくその後の方向性を示すものでもあった。
⑧近世になって熊野信仰が衰退すると、大興寺は四国霊場札所として生きる道を選択した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ
参考文献

 2 大興寺全景近代
1902年の大興寺伽藍図 小松尾山不動光院大興寺とある
大興寺は、地元では小松尾寺と呼ばれていました。それが今は、大興寺となっています。どうして、小松尾寺から大興寺に名前が変わったのでしょうか。今回は、寺名が近年になって「変更」された背景を探って行きたいと思います。
もともとこの寺は大興寺と呼ばれていたようです。それは、字名として「大興寺」という地名が残っていることから分かります。ところが、大興寺という字名は、現在地ではありません。下の大興寺周辺の字切図を見てください。

6大興寺周辺の字切地図 
大興寺周辺の古地名(字切図)

国道377号沿いに④「大興寺」や⑥「鐘鋳原」の小字名が見えます。ここからは次の事が推察できます
A もともとの大興寺は、国道377号沿いの「大興寺」にあったこと
B 「鐘鋳原」で出張してきた鋳物師集団によって、大興寺の鐘が作られたこと
これを裏付けるように旧大興寺跡推定地からは、白鳳期の十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土しています。旧大興寺は、白鳳時代の古代寺院で、国道377号沿いにあったことを押さえておきます。

DSC02082
旧大興寺跡から望む三豊平野と七宝山

  古代氏寺はパトロンの氏族が衰退していくと、寺も退転していきます。
旧大興寺も、同じような道を歩んだようです。それを再興していくのが中世の勧進聖たちです。大興寺に関する中世の資料は、ほとんどありません。中世の遺品としては、次のようなものがあります
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれています。京の高官藤原経朝が奉納したものとされます。そうだとすると、鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたことになります。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるので、誇張とばかりは云えません。
 これ以外の中世史料はないのですが、次のような「状況証拠」は得られます。
寺の由来に次のようにあります。

熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここにはこの寺が、熊野三所(本宮・那智・新宮)権現の鎮護のための別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は、熊野権現の本地仏です。

大興寺 四国遍礼霊場記
太興寺(四国遍礼霊場記)
上の四国遍礼霊場記の挿絵では、石段正面に①の薬師堂があって、その両脇に②大師堂と③熊野権現が並んで祀られています。そして、それに奉仕するかのように④大興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が大興寺だったことが裏付けられます。太興寺の社僧たちによって、熊野権現が神仏混淆状態で信仰されていたことがうかがえます。

6大興寺薬師本尊2g
大興寺の本尊・薬師如来 薬師如来は熊野本宮の本地仏

以上から、中世の大興寺は、熊野権現社とその本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたとしておきます。そして、周辺にはいくつもの坊や子院があったのです。
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
慶長2年(1597)の棟札には、次のように記されています。
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」
「諸堂大破而瑕(仮)堂建立」
ここからは「諸堂大破した後に仮堂を建立」されたこと。願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」だったことが分かります。

6大興寺周辺の字切地図 

先ほどの字切図に残る字名で⑦「泉上坊」を探すと、それは現在の大興寺周辺にあります。つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、彼らは退転した旧大興寺を、自分たちの坊の近くに移動させて仮堂を再建したと研究者は考えています。古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭の生駒藩時代ということになります。
 「移転再興」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とは、どんな性格の宗教者だったのでしょうか?
それを考える材料は、次の2点です。
①「近世の大興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
ここからは、真言系密教修験者の姿が想像できます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺(山伏寺)だったようです。ここからは、大興寺を支える宗教者が、中世の熊野行者から真言系密教修験者へと移り替わったことがうかがえます。ちなみにこの時期の金毘羅大権現では、修験者宥盛によって金光院が勢力を拡大している頃で、高野山系の真言密教修験者たちが活発に動いていた時代です。
移転し、仮堂を建てた所の地名が小松尾でした。
中世や近世では、お寺を呼ぶ際に地名で呼ぶことがよくありました。移転した大興寺も地元では「小松尾寺」と呼ばれるようになります。近世はじめの史料を見てみましょう。
①澄禅『四国辺路日記』に「小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。(以下略)」。
②真念「四国辺路道指南』に「小松尾山、東むき、豊田郡辻村、本尊薬師、坐長二尺五寸、大師御作」
③寂本「四国遍礼霊場記』には、「小松尾山大興寺」
④詠歌には「植置し小松尾寺をながむれば法のおしへの風ぞふきぬる」
など、17世紀後半の案内記はすべて、小松尾寺として登場します。
  しかし、大興寺所蔵の公的文書に「小松尾寺」が使われている例はないようです。確かに江戸時代前期の真念などの案内記「小松尾寺」と表記されていました。しかし、寂本は「豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。」と記しています。小松尾村にある寺だから「小松尾寺」と呼ばれていると云うのです。
 以上から、小松尾寺は通称地名で、古来からの「大興寺」が正式な名称であったと研究者は考えています。近世・近代を通じて「小松尾寺」と「大興寺」という2つの寺名が並立して使用されてきたのです。ここからは私の想像です。

 万博も終わった頃に、国道377号のバイパス工事化が行われ、新たに「小松尾寺」への道標が掲げられた。これに対して大興寺側からクレームが出された。当寺の正式名称は「大興寺」である。勝手に、「小松尾寺」という看板を出すのは如何なものか。今回は甘受するが、次回の改修時には「大興寺」とするように善処していただきたい。これを受けて公官庁の文書では「小松尾寺」に替わって正式名称「大興寺」が用いられるようになった。

これは、あくまで私の創作話です。悪しからず。

以上をまとめておきます。
①この地には白鳳時代の古代寺院として大興寺が建立された。
②中世になると退転した大興寺に、熊野行者達が熊野神社を勧進し、その別当寺として再建した。
③中世の大興寺は神仏混淆下で、熊野行者達が管理・運営を行った。
④大興寺の熊野行者は、熊野詣での先達を務める一方で、山林修行者として雲辺寺や萩原寺(大野原町)・道隆寺(多度津)などの山岳寺院とのネットワークを結び活発な活動を展開した。
⑤しかし、戦乱の中で熊野先達業務が行えなくなり、熊野行者の活動が衰退し、大興寺も衰退する。
⑥退転していた道隆寺を現在地に移転させ、仮堂を建立したのは勧進修験者である。
⑦移転地が「小松尾」と呼ばれる地名だったので、近世には小松尾寺と呼ばれるようになった。
⑧戦後になって、正式名称「大興寺」に「統一」させた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年

   前回お話ししたように行場は孤立したものではなく、一定の行が終わると次の行場へと移っていくものでした。修行地から次の修行地へのルートが辺路と呼ばれ、四国辺路へとつながっていくと研究者は考えているようです。今回は古代・中世の四国辺路とはどんなものであったのかを史料で見ていくことにします。テキストは、「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」です。

12世紀前半に作られた『今昔物語集』には仏教説話がたくさん収録されています。その中には四国での辺路修行を伝える物もあります。『今昔物語集』31の14、「通四国辺地僧行不知所被打」は、次のように始まります。

今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也、其の僧共、其(そこ)を廻けるに、思ひ懸けず山に踏入にけり。深き山に迷ひにければ、海辺に出む事を願ひけり。

意訳変換しておくと
 今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちがある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。

 ここには「仏道の修行をする僧」が、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っている姿が記されています。

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後白河法皇撰『梁塵秘抄』巻2の300には、次のように記されています。  
 われらが修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ、常に踏む

板笈(いたおい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
笈(おい)と修行者
ここからは、笈を背負つた修行者がその衣を潮水に濡らしながら、四国の海辺の道を巡り、次の修行地をめざしている姿が記されています。確かに阿波日和佐の薬王寺を打ち終えて、室戸へ向かう海岸沿いの道は、海浜の砂浜を歩いていたようです。太平洋から荒波が打ち寄せる海岸を、波に打たれながら、砂に足を取られながらの難行の旅を続ける姿が見えてきます。
『梁塵秘抄』巻2の298には、次のようにも記します
聖の住所はどこどこぞ
大峯  葛城  石の槌(石鎚)
箕面よ 勝尾よ 播磨の書写の山
南は熊野の那知  新官
ここには、畿内の有名な山岳修行地とともに石の鎚(石鎚山)があげられています。石鎚山も古くから修験者の行場であったことが分かります。ちなみに石鎚山と並ぶ阿波剣山の開山は近世後期で、それまでは修験者たちの信仰対象でなかったことは、以前にお話ししました。
続いて『梁塵秘抄』巻2の310には、次のように記します。
四方の霊験所は
伊豆の走湯  信濃の戸隠  駿河の富士の山
伯者の大山  丹後の成相とか
土佐の室戸  讃岐の志度の道場とこそ聞け
ここには、四国の霊山はでてきません。出てくるのは、土佐の室戸と讃岐の志度の海の道場(行場)です。修験者の「人気行場リスト」には、霊山とともに海の行場があったことが分かります。
それでは「海の行場」では、どんな修行が行われていたのでしょうか
 海の行場を見る場合に「補陀落信仰」との関係が重要になってくるようです。「補陀落信仰」の行場痕跡が残る札所として、室戸岬の24番最御崎寺、足摺岬の38番金剛福寺、そして補陀落山の山号を持つ86番志度寺を見ていくことにします。
 補陀落信仰とは『華厳経』などに説かれる観音信仰のひとつです。善財童子が補陀落山で観音菩薩に出会ったとされます。ここから補陀落山が観音菩薩の住む浄土で、それは南の海の彼方にあるとされました。玄奘の西域の中には、補陀落山という観音浄土は、南インドの海上にあるとされています。それが、中国に伝わってくると、普(補)陀落は中国浙江省舟山群島の島々だとされ、観音信仰のメッカとなります。これが日本では、熊野とされるようになります。
 『梁塵秘抄』巻第2の37に、次のように記されています。

「観音大悲は船筏、補陀落海にぞ うかべたる、善根求める人し有らば、来せて渡さむ極楽へ」

ここからは観音浄土の補堕落へ船筏で渡海するための聖地が、各地に現れていたことが分かります。その初めは、熊野三山の那智山でした。平安時代後期になると阿弥陀の極楽浄土や弥勒の都率浄土などへの往生信仰が盛んになります。それにつれて観音浄土への信仰も高まりをみせ、那智山が「補陀落山の東の門」の入口とされます。そのため、多くの行者が熊野那智浦から船筏に乗って補陀落渡海します。これが四国にも伝わります。
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観音浄土めざしての補陀落渡海
補堕落渡海の場所として選ばれたのは、大海に突きだした岬でした。
その点では、四国の室戸と足摺は、補堕落渡海のイメージにぴったりとする場所だったのでしょう。34番札所の最御崎寺が所在する室戸崎に御厨洞と呼ばれる大きな洞窟があります。ここは空海修行地として伝えられ、当時から有名だったようです。『梁塵秘抄』巻2の348には「‥・御厨の最御崎、金剛浄土の連余波」とあるので、平安時代後期には、霊場として名が知られていたことが分かります。
 『南路志』には、次のように記されています。

「補陀落山に通じて、常に彼の山に渡ることを得ん、窟内にまた本尊あり、西域光明国如意輪馬璃聖像なり」

ここからは室戸の洞窟が、補陀落山への人口と考えられていたことが分かります。ここにはかつて石造如意輪観音が安置されていました。

室戸 石造如意輪観音
如意輪観音半跏像(国重要文化財 最御崎寺)

この観音さまを「平安時代後期の優美な像で、異国の補陀落を想起させるには、まことにふさわしい像」と研究者は評します。この如意輪観音像は澄禅『四国辺路日記』には、御厨洞に安置されていたことが記されていて、補陀落信仰に関わるものと研究者は考えています。
 室戸は、以前にお話ししたように空海修行地として有名で、修験者には人気の行場だったようです。そこで行われたのは「行道」でした。行道とは、どんなことをしたのでしょうか?
① 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回るのも行道。(小行道)
② 円空は伊吹山の「平等(行道)岩」で、百日の「行道」を行っている。
③ 「窟籠もり、木食、断食」が、行道と併行して行われる場合もある。
④ 断食をしてそのまま死んでいく。これが「入定」。
⑤ 辺路修行終了後に、観音菩薩浄土の補陀落に向かって船に乗って海に乗り出すのが補陀落渡海
  一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。
小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。四国をめぐるような場合は「大行道」です。こうして、行道を重ねて行くと、大行道から四国遍路に発展していくと研究者は考えているようです。

 室戸岬で行われていた「行道」について、五来重は次のように記します。
室戸の東寺・西寺
① 室戸には、室戸岬に東寺(最御崎寺)、行当岬に西寺(金剛福寺)があった。
② 西寺の行当(道)岬は、今は不動岩と呼ばれている所で、そこで「小行道」が行われていた。
③ 西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩(行当(道)岬)の行道が「小行道」。
④ 行道の東と西と考えて東寺・西寺と呼ばれ、平安時代は東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
 密教では金胎両部一体だと言葉では言われます。それを辺路修行では、言葉や頭でなく躰で実践します。それは実際に両方を命がけで歩いて行道するのが修行です。こうして、西寺を拠点に行道岬に行って、金剛界とされる不動岩の周りを何百回も真言を唱えながら周り、さらには、不動明王の見守る中で海に向かって瞑想する。これを何日も繰り返す。これが「小行道」だったと研究者は考えています。さらに「中行道」は、東寺(最御崎寺)との間を何回も往復「行道」することになります。
   東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
    
 弘法大師行状絵詞に描かれた空海の修行姿を見ておきましょう。

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金剛定(頂)寺に現れた魔物たちと瞑想中の空海
詞書には次のように記します。
  室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
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楠に仏を彫り込む空海

ここには、室戸での修行のために金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺と行場は遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、岩籠もりを行っていたことがうかがえます。
  辺路修行では、修行の折り目折り目には、神に捧げるために不滅の聖なる火を焚きました。五来重の説を要約すると次のようになります。
① 阿波の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。だから焼山寺と呼ばれるようになった。焼山寺が辺路修行の聖地であったことをしめす事例である。
②  室戸岬でも辺路修行者によって不滅の火が燃やされた。そこに、後に建立されたのが東寺。
③ 聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。後には観音信仰や補陀落伝説と結びついた。
④ これが後の山伏たちの柴灯護摩の起源になる。
⑤ 山の上や岬で焚かれた火は、海民たちの目印となり、燈台の役割も果たし信仰対象にもなる。
⑥  辺路の寺に残る龍燈伝説は、辺路修行者が燃やした火
⑦ 柳田国男は「龍燈松伝説」で、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだとしているが、これは誤り。
こうした行を重ねた後に、観音菩薩の浄土とされる南方海上に船出していったのです。
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) | ひとでなしの猫

 足摺岬の38番金剛福寺にも補陀落信仰の痕跡が残ります。
この寺には嵯峨天皇の勅額とされる「補陀落東門(補阿洛東門ふだらくとうもん)」が残されています。

金剛福寺 補陀落門
勅額とされる補陀落東門
これは、弘仁13年(822)に、空海が金剛福寺を開創した当時に嵯峨天皇より賜ったものと伝えられます。
また『土佐国雌陀山縁起』(享禄五年:1532)の金剛福寺の縁起は、次のように記します。

平安時代中期の長保年間(999~04)頃に賀東上人が補陀落渡海のために難行、苦行の末に徳を積んで、その時をまっていた。ところが弟子の日円坊が奇瑞によって、先に渡海してしまった。上人は五体投地し涙を流したと

 ここからも足摺岬が補陀落渡海のための「辺路修行地」であったことが分かります。
 鎌倉時代の『とわずがたり』の乾元元年(1302)は次のように記します。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく坊主もなし、ただ修行者、行かきかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。
ここからは、この頃の足招岬(金剛福寺)が観音菩薩が安置される本堂があるだけで、それを管理する住職も不在で、修行者や廻国者が修行を行う行場だったことが分かります。
その後、南北朝時代の暦応五年(1342)に現本尊が造立されます。

木造千手観音立像及び両脇侍立像(県⑨) - 土佐清水市

千手観音立像(秘仏)
檜材による寄木造りで、平成の修理の際に像内から発見された墨書銘から暦応5年(1342)の作と断定。
この本尊は熊野の補陀落山寺と同じ三面千手観音です。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀落山寺の三面千手観音
ここからは、熊野行者によって補陀落信仰が持ち込まれたことがうかがえます。こうして、足摺岬には補陀落渡海を目指す行者が集まる修行地になっていきます。このため中世には足摺岬周辺には、修験者たちが色濃く分布し、独自の宗教圏を形作って行くようになります。その中から現れるのが南光院です。南光院は、戦国時代に長宗我部元親のブレーンとなって、讃岐の松尾寺金光院(金毘羅大権現)の管理運営を任されます。
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志度寺の扁額「補陀落山」
86番札所の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。
しかし、この寺が補堕落渡海の修行地であったことを示す直接的な史料はないようです。
『志度道場縁起文」7巻の内の『御衣本縁起』の冒頭部分を見ておきましょう。
近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、推古天皇33年の時に、凡菌子尼法名智法が草庵に引き入れ安置した。その後、24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音やまします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。この仏師は土師黒王丸で、閻魔大王の化身でぁり、薗子尼は文殊書薩の化身であった。

P1120221志度寺 十一面観音
志度寺の本尊十一面観音
ここからは、志度寺本尊の十一面観音が補陀落信仰と深く結びついていいることが分かります。しかし、この志度浦から補陀落渡海を行った記録は見つかっていないようです。
P1120223
          志度寺の本尊十一面観音
  以上、補陀落渡海の痕跡を残す四国の行場と四国霊場の関係を見てきました。これ以外にも、讃岐には海上に筏を浮かべて瞑想修行を行っていた修行者がいたことを伝える記録が、いくつかの霊場札所に残っています。例えば、空海誕生地説の異説を持つ海岸寺(多度津町白方)や、宇多津の郷照寺などです。これらと補陀落渡海とを直接に結びつけることは出来ないかも知れませんが、海での修行の一つの形態として、突き出た半島の岩壁の上なども、行場の最適地とされていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」
関連記事

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
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延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

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出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

八坂寺境内図1
八坂寺伽藍

現在の八坂寺の伽藍は、次のように5つのエリアに区分できます。
①遍路道から山内までを含む導入空間(A区)
②本堂や大師堂、熊野十三社権現堂等の建ち並ぶ参拝空間(B区)
③庫裡・納経所が建ち並ぶ経営空間(C区)
④歴代住職墓を含む墓域(D区)
⑤本堂等の背後の広範囲にひろがる霊園区域(E区)
A区の遍路道は、緩やかな登り坂となっていて、山門前で遍路道を横切るように流れる小河川の上にはコンクリート製の橋がかかります。

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八坂寺山門

この橋を基礎として東西に長い単層式の山門が建ちます。山門左右には道標が1基ずつ並び、左は明治23年建立、右は紀年銘はありませんが、碑文から「徳有衛門道標」であり、江戸時代後期の建立とされます。
四国霊場第47番札所・八坂寺 | きっといつかは全国制覇!郵便貯金の旅
八坂寺 石段下からB区を見上げた景観

B区は山門から続く石畳の参道を約20m進み、2つの石段を登った先に広がる本堂などが建ち並ぶ平坦部です。ここは地形状況から、さらに3つに小区分できます
①本堂や大師堂の建つ平坦部B1
②平坦部B1の東側の低い位置にある鐘楼が建つ狭小な平坦部B2
③平坦部B1・2の南側の「いやさか不動尊」の鎮座する平坦部B4
①のBlは南北に長い長方形の敷地で、北から熊野十三社権現本殿・拝殿、本堂、閻魔堂、大師堂が並びます。また、多くの石造物が配されており、中でも大師堂眼前の層塔は鎌倉時代のもので、松山市有形文化財にも指定されてます。

 平坦部内の最も奥まった西端付近に造られた基壇の上にいやさか不動尊が鎮座してます。これは修験の寺として栄えた八坂寺特有のエリアで、毎年4月には全国から修験者が集まり、「柴燈大護摩供火生三昧火渡修行」が行われる場所です。

第47番霊場八坂寺炎の大祭2019 : 門前の小僧の遍路と坂本屋日記
八坂寺 いやさか不動尊
C区は、納経所や便益施設などが建ち並ぶ経営空間です。
ここは2つに区分できます
①参道の北側に広がる納経所等の建つ平坦部C1
②大部分が駐車場となっている平坦部B3
平坦部C1は、南北に長い長方形で、南北約26m、東西約20m、そのほとんど全体を納経所が占めています。
D区は参道を挟んで南側に位置する歴代住職墓等が安置される墓域です。
平坦部全体に歴代住職墓が建ち並んでいますが、中世の宝医印塔も鎮座し、市の指定文化財となっています。
E区は本堂等の背後に広がる広大な霊園区域です。背後の丘陵を大きく切り開き、いくつもの平坦部を造り出して霊園としていています。霊園からは松山平野南部を一望することができ、天気が良ければ浄土寺方面まで見渡すことができるようです。現在の八坂寺の伽藍を見てきました。
次に八坂寺の古景観を復元してみましょう。
八坂寺の古景観を描いた絵図は、次の2つです。
①元禄2年(1689)の『四國偏礼霊場記』    江戸時代前期、
②寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』  江戸時代後期
①の『四國偏礼霊場記』から見ていくことにします。

八坂寺 四国遍路日記1
これを見ると現在の八坂寺のとは、大きく異なっています。ここに描かれているのは、本堂と鎮守、鐘楼堂だけです。それ以外の建物はありません。大師堂もありません。もう少し詳しく見ていきましょう。遍路道から橋を渡って続く参道の正面にあるのは「鎮守」です。本堂はそこから離れた左方に描かれています。鎮守と本堂を比べて見ると、大きさからしても、建っている位置からしても、八坂寺の中心的な施設は、鎮守であったことがうかがえます。この鎮守は八坂寺の性格からしても「熊野十二社権現」でしょう。ここには二十五間の長床があったとされます。しかし、「大師の遺烈きこゆることなし」とあるので、八坂寺の退転時期の姿が描かれているようです。先ほど見たように、境内の入口には橋を土台に山門が建っています。この絵にも、同じく小河川が流れて、板橋がありますが山門はありません。板橋の右下には「□(本?)坊」があります。

次に江戸時代後半の『四国遍礼名所図会』を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍礼名所図会1800年

境内には上下に2つの平坦部があます。上段に②熊野権現と③大師堂と④石造物4基が描かれています。このうちの層塔は、今も大師堂横に鎮座する市指定有形文化財の層塔とされます。『四國偏礼霊場記』で、本堂のあった所に大師堂が建っています。一方で、今は本堂がある平坦部の中心には、鎮守(熊野権現社)が鎮座しています。本堂周辺の建物配置は、現代とは大きく違っていたことを押さえておきます。
 下段の平坦部の中心付近には鐘楼堂があります。その他の建物はなにも見えません。ただ右端に建物屋根の一部が見えます。これが⑥庫裡などの施設かもしれません。平坦部から続くやや長い石段を降ると、参道を横切る小河川に⑤石橋が架かっていますが、山門はありません。どちらにしても、この小川にかかる橋が、遍路道と境内域の境界であったのは間違いないようです。板橋の先には⑦藤棚が描かれ、その先には門を構え、土塀によって区画された敷地の内部に建物が描かれています。江戸次第初期の『四國偏礼霊場記」で「□坊」とされた付近です。本文詞書に「南光院」と記されているので、八坂寺に関係する子院のようです。伽藍背後には2つの山の連なりが描かれ、谷には「鉢クボ」と記されています。これは衛門三郎の御鉢を砕いたとされる「鉢クボ」が記されています。この時期には、八坂寺が「衛門三郎発心の聖地」を主張するようになっていたことがうかがえます。

 現在の境内と異なる点を、研究者は次のように挙げます。
①江戸後期までの絵図では「熊野十二社権現」が境内の中心に描かれること
②現在は本堂が中心へと変わり、熊野十二社権現は向かって右手に移動していること
③大師堂と熊野十二社権現の間にあった石造物群も現在は大師堂前に移設されていること
④古絵図では鐘楼堂と庫裡が同一平坦部の上にあるが、現在は、鐘楼堂は本堂等のすぐ下の狭い平坦部に、庫裡等はさらに一段下の平坦部にある。

 このような変化がいつ頃に現れたのかを、古写真から見ていくことにします。
『四国霊場名勝記』は明治42年(1909)に刊行された遍路記集です。

八坂寺 明治

これには八坂寺の石段下から撮影された写真が掲載されてます。写真中央の石段を登りきった所に左右一対の灯籠が建ち、その奥に熊野十二社権現が写っています。その右には、建物がわずかに写ってます。また、十二社権現の左には大師堂と思われる瓦茸の建物が見えます。

大正十年(1921)刊行の写真集『四国八十八ヶ所写真帖 完』を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年

一番手前が大師堂が位置し、次に熊野十二社権現、一番奥に小規模なお堂と、三棟の建物が並んでいます。大師堂前には一対の円柱状の寄付石が見えます。大師堂は現在よりもかなり東側にあるようです。その向拝の形は、今の大師堂とよく似ていることを押さえておきます。

昭和11年(1936)刊行の『四国霊場大観』には、2枚の写真が掲載されています。
八坂寺一二社権現

1枚目は熊野十二社権現を正面から撮影したものです。この写真からは次のことが分かります。
①熊野十二社権現は茅茸建物
②写真下部に、参道の石段が写っていること
③写真左端に、大師堂前に建つ寄付石が写っていること
②からは1936年時点でも、十二社権現が、石段を登りきった正面に鎮座していたこと
③からは大師堂は写っていないがこれまでと同じ位置にあったこと。

2枚目は「本堂」の写真です。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂 1936年
十二社権現や大師堂に比べると、やや小ぶりな瓦葺のお堂です。向拝部の下に、石製の線香立てがあるのが確認できます。写真左端には茅葺の熊野十二社権現の茅葺きの屋根が写り込んでいます。ここからは、『四国霊場名勝記』や『四国八十八ヶ所写真帖 完』で熊野十三社権現右側に写っていた建物が本堂であったことが分かります。
 この本堂で研究者が注目するのは、現在の熊野十二社権現堂拝殿とよく似ていることです。現在の拝殿は、この本堂を転用したものと研究者は推測します。そうだとすると本堂から拝殿へと、その性格は変わりましたが、近世に建てられた八坂寺の建築物を今に伝える唯一のものになります。
 以上から、明治・大正・昭和の古写真に写された伽藍レイアウトと、近世後期の『『四国遍礼名所図会』を比べると、大師堂の位置や本堂出現などの変化はありますが、建物配置にに大きな変化ないとようです。そういう意味では、昭和初期までは八坂寺は江戸時代後期の景観をよく残していたことが分かります。そうすると、現在の境内地に至る伽藍整備やそれに伴う造成工事はそれ以後に行われたこととなります。
その過程を、国土地理院等撮影の空中写真で見ていくことにします。
八坂寺1947年空中写真

写真1は昭和22年(1947)に米軍によって撮影された空中写真です。これを見ると境内の周囲は樹木によって囲われ、周辺は田んぼや畑が広がっています。境内の中心には3つの建造物が見えます。これが北から本堂、熊野十二社権現、大師堂なのでしょう。建物の規模感や配置は、1936年の『四国八十八ヶ所写真帖 完』のものと、あまり変化していないようです。本堂の北東側には本坊と思われる建物が写ってます。  ここからは戦前から戦後にかけては、八坂寺境内に大きな変化はなかったことがうかがえます。

写真2は1962年に国土地理院によって撮影された空中写真です。
八坂寺1962年

境内が樹木に囲われ、周辺には田畑が広がるという点に変わりはありません。建物ははっきりとは分かりませんが本堂や本坊は見えます。高度経済成長期の前までは、八坂寺境内に変化はあまりみられません。
写真3は1975年2月24日の国土地理院撮影の空中写真です。
八坂寺1975年
ここにきて境内が次のように大きく様変わりしていることが見えてきます。
①本堂と大師堂に大きな違いが見える
②中心にあった熊野十二社権現が姿を消し、新たな大きな建物が出現している。
③これが現在の本堂で、昭和47(1972)年起工、昭和59年竣工である。
ここからは、白く大きな建物は、建設途中の本堂であることが分かります。そして、それまでの本堂が熊野十二社権現拝殿になったようです。
④樹木に包まれていた本堂西側や大師堂の西や南側が大きく切り開かれたこと
⑤これと並行して霊園区域の造成が開始されたこと

写真4は1975年10月6日の国土地理院の空中写真です。
八坂寺1975年12月

ここでは大師堂に変化があります。もともとは大師堂は、本堂と接し、平坦部の東側に建っていました。それが本堂との間に隙間が設けられ、2月の空中写真で確認された西側に拡張された空間に建物が移動後退してます。このほか、霊園区域はさらに広範囲にわたって造成工事が進められています。
そして現在の八坂寺の伽藍です。

八坂寺 現在

境内地の中心に、大きな本堂があり、その北側に熊野十二社権現拝殿、南に大師堂が並びます。もともとは東寄りにあった本堂と大師堂は、西側に後退し、両堂の前面に広い空間が現れています。

以上、現在の八坂寺伽藍変遷についてまとめると、次の通りです。
八坂寺は、もともとは熊野十二社権現に仕える修験者たちの別当寺でした。そのため信仰の中心は熊野信仰にありました。それを物語るのが伽藍の中心に鎮座していた「鎮守(熊野十二社権現)です。これに比べると本堂は、その横に置かれた小規模なものに過ぎませんでした。しかし、近世後半になると熊野信仰が衰退し、代わって寺院経営の上で四国巡礼の占める割合が高くなってきます。そのために、四国札所としてしての伽藍整備へと修正が行われ、大師堂が建立されたりします。しかし、それでも熊野十二社権現の位置は変わりませんでした。
 明治の神仏分離で、寺院経営は大きな打撃を受けますが、熊野十二社権現は名前を変えただけでそのまま存続します。そして、明治・大正・昭和と受け継がれ、敗戦後までは境内景観は江戸時代尾張の姿が維持されてきました。それが大きく変化するのは、高度経済成長後の1972年に本堂整備が始まってからです。これを契機に本堂を中心とした伽藍整備が進められます。同時に背後の岡には、墓地の大規模造成工事が行われ、姿を大きく変えていくことになります。現在の八坂寺の伽藍配置が出来上がったのは、1970年代になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献。
   八坂寺の古景観     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺32P 愛媛県教育委員会2023年
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前々回に、伊予の四国霊場八坂寺について、次の点を押さえました。
①熊野十二社を勧進し、熊野先達業務をおこなっていたこと
②周辺に広い霞(信者テリトリー)をもち、広範囲の檀那を擁していたこと
それが近世になって熊野詣でが衰退すると、石鎚詣での先達に転進して活躍するようになり、信者を再組織していきます。これが八坂寺の中世から近世への変化に対する生き残り策であったようです。
 今回は、山伏(修験者)たちが、中世から近世への時代変化に対して、どのように対応して生き残っていったのかをを見ていくことにします。テキストは「近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景」です。

熊野詣での衰退要因については、研究者は次のように考えています。

16世紀における戦乱の拡大は参詣者の減少をもたらし、さらに戦乱による交通路の不通によって、熊野先達業務は廃業に追い込まれた。15世紀末以降、熊野先達は檀那であった国人領主層の没落などを受けて、新たに村々の百姓との結びつきを深め、彼らを檀那として組織するようになった。しかし、戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化していったと考えられる。

 それでは熊野先達業務が不調になっていく中で、先達を務めた来た山伏たちは、生き残る道をどこに見つけたのでしょうか。それについて修験道研究では、次のような事が指摘されています。
①戦国期には山伏の村落への定住が始まったこと
②そして山伏が庶民への呪術的宗教活動を盛んに行うようになったこと
 つまり、近世の山伏たちは、生活圏を町場から村へと移し、檀那(信者)もそれまでの武士領主層から村々の百姓へと軸足を移したというのです。それでは山伏は新たに住み着いた村々で、どんな「営業活動」を行ったのでしょうか?
北条家朱印状写の中の「年行事古書之写」を見ていくことにします。これは永禄13年(1585)に、小田原玉瀧坊に対して後北条氏から出された「修験役」に関する文書です。玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は次の通りです。
〔史料五〕北条家虎朱印状写34)(「本山御門主被定置
○年行事職之事丸之有ハ役ニ立たさる也 十一之御目録」
一、伊勢熊野社参仏詣
一、巡礼破衣綴
一、注連祓・辻勧請
一、家(堅カ守)
一、釜注連
一、地祭
一  葬式跡祓
一、棚勧請
一、宮勧請
一、月待・日待・虫送・神送
一、札・守・年中巻数
右十一之巻、被定置通リ、不可有相違候、若不依何宗ニ違乱之輩有之者、急度可申付者也、注連祓致陰家ニ(ママ)者有之者、縦令雖為真言・天台何宗、修験役任先例可申付者也、仍而定如件、
永禄十三(1570)年八月十九日長純
「○時之寺社奉行与申伝ニ候」
玉瀧坊
 近世に書写された史料ですが、ここには近世初頭の山伏の年間行事が挙げられています。

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このことから修験者の役割は、次の4つに分類できそうです。
①伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、
②家や土地の汚れを祓(はら)う行為
③葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、
④守札等の配札行為、
一番目に「伊勢・熊野社参仏詣」とあります。これが、伊勢や熊野への先達業務です。ここからは、戦国時代になっても山伏が伊勢・熊野などの諸寺社への先達業務を行っていたことが分かります。ここで注意しておきたいのは、「伊勢・熊野」とあるように、熊野に限定されていない点です。その他の有名寺院にも先達を務めたり、代参を行っていたことがうかがえます。
 しかし、残りの活動を見てみると「注連祓」「釜注連」「地祭」「宮勧進」などが並びます。これらは村の鎮守の宗教行事のようです。また。 「葬式跡祓」とあるので、山伏が村人の葬儀にも関係していたことが分かります。
 「月待・日待・虫送・神送」は、近世の村の年中行事として定着していくものです。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
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「札・守・年中巻数」は、護符や守り札のことでしょう。

これらも山伏たちによって、村々に配布されていたのです。こうして見ると、近世に現れる村社や村祭り・年中行事をプロデュースしたのは山伏であったことが分かります。風流踊りや念仏踊りを伝えたのも、山伏たちだったと私は考えています。
ここでは、山伏は、「イエ」や個人に依頼され祈祷を行うだけでなく、近世になって現れた村の鎮守(村社)の運営や年中行事などにも関わっていたことを押さえておきます。

Amazon.co.jp: 近世修験道文書―越後修験伝法十二巻 : 宮家 準: 本
越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
これは金剛院空我という人物によって著された呪術作法集で、寛文年間(1661~73)に、書かれたものとされます。その内容は、喉に刺さった魚の骨を取る呪法や犬に噛まれない呪法などの現世利から始まり、堂社の建立や祭礼、読経、託宣な169の祈祷作法が記されています。 当時の村に住む山伏が、村人の要望に応えて多種多様な祈祷活動をしていたことが見えてきます。村人から求められれば、なんでも祈祷しています。それは、歯痛から腰痛などの痛み退散祈祷からはじまって、雨乞い、までなんでもござれです。このような活動を通じて、山伏たちは、村の指導者たちからの信頼を得たのでしょう。こうして山伏の村落への定住は、彼らに新たな役割をあたえていきます。
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例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。

 天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。

ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。そして伊予では、熊野詣から石鎚参拝に転化したことは、以前にお話ししました。その背景について、考えておきましょう。
 近世の熊野参詣は、参加者が数人程度の小規模なものになっていきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。

こうした中で、新たな熊野参詣の方法が採られていくようになります。
天正16年(1588)に古河公方家臣の簗田氏の一族・簗田助縄という人物から、武蔵国赤岩新宿の修験寺院大泉坊に対して出された判物を見ておきましょう。
簗田助縄判物諸社江代官任入候事
一、大峯少護摩之事
一、宇佐八幡代官之事
一、八幡八幡代官之事
一、伊勢へ代官之事
一、愛宕代官之事
一、出雲代官之事
一、熊野ヘ代官之事
一、多賀へ代官之事
一、熱田へ代官之事
右、偏任入候、来年ハ慥ニ一途可及禮候、尚鮎川可申届候、以上
   戊子六月廿一日 助縄(花押)
大泉坊
ここには「諸社江代官任入候事」とあります。ここからは、簗田助縄が大泉坊に対して、こららの寺社への代参を依頼ていることが分かります。吉野の大峯から、豊後の宇佐八幡宮まで全国各地の有力神社へが列記され、その中に熊野神社の名前もあります。この時期、武将達は「代参」という形で地方の有力寺社に祈願していたのです。これを研究者は、次のように指摘します。
①「大泉坊が民間信仰の総合出張所=地域の宗教センター的役割を果たしていた
②大泉坊に代参を依頼した背景には、簗田氏というよりは、むしろそこに集う民衆の要請があった
ここでは、戦国期には直接参詣に赴くことができない信者の要請を請けて、山伏が代参という形で地方の諸寺社を参詣するということが行われていたことを押さえておきます。人々の熊野に対する信仰は、代参という形に変化したも云えます。
以上をまとめておくと
なぜ中世後期に熊野参詣が停滞・衰退したのか、
①15世紀末(戦国期)ころから山伏たちは、村々への定着とともに、村人を檀那とするようになった。
②山伏は、村人の要請に応えていろいろな祈祷や祭礼を、行うようになった。
③一方で熊野参詣は、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより実施が困難になっていく。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
⑤代参は熊野だけでなく、全国の有力神社が対象で、熊野はそのなかのひとつにすぎなくなった。
⑥その結果、熊野参詣の停滞・衰退が生みだされた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景
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弘法大師と衛門三郎の像です - 神山町、杖杉庵の写真 - トリップアドバイザー
弘法大師と衛門三郎(徳島県杖杉庵)

弘法大師伝説の中で、有名なものが遍路の元祖とされる衛門三郎伝説です。
これは四国八十八筒所霊場51番石手寺の「石手寺刻板」(予州安養寺霊宝山来)に、天長8年(831)のこととして記載されています。真念の『四国遍礼功徳記』に、次のように記されています。(意訳)

予州浮穴郡の右衛門三郎は貪欲無道で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに割ってしまう。その後、8人の子が次々に亡くなり、それが僧(実は弘法大師)への悪事の報いであると悟った衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に旅立つ。21回の遍路で、ついに阿波国の焼山寺(四国霊場第12番)の麓で、臨終に大師と出あい、伊予の領主河野家に生まれ変わることを願う。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせた。その後、河野家にその石を握った子が生まれる。その子は成長して河野家を継ぎ、安養寺を再興して、神社を多く立て、その石を納めて石手寺と寺名を改めた。

「四国辺路日記」の「石手寺」項には、次のように記されています。

「扱、右ノ八坂寺繁昌ノ御、河野殿ヨリモ執シ思テ、衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル.毎日本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ怪貪放逸ノ者也」

意訳変換しておくと
「八坂寺の繁昌に対しては、太守河野殿からも保護援助があり、衛門三郎という云者を掃除のために八坂寺に付置き、毎日本社の長床の塵を払わせた。この男は天下無双の悪人で怪貪放逸の者であった」

ここには、衛門三郎のことを大守河野殿の下人で「本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ」=「石手寺の熊野十二社権現の掃除番」=「長床衆(修験者)」と記します。また、石手寺に伝わる衛門三郎伝説は熊野信仰隆盛の中で作られたもので、衛門三郎伝説に八坂寺、焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられる寺院があらわれるのは当然のことです。もともとは衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰の由来でした。それが江戸時代に「大師一尊化」が進むと、四国遍路の由来を説明する説話に作りかえられたと研究者は考えています。
衛門三郎伝説は、現在の八坂寺の縁起には詳しくふれられていません。
しかし、八坂寺には2種類の「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が残されています。これはかつては八坂寺が、弘法人師と衛門三郎の伝説を重要視して積極的に流布していた証拠とも云えます。今回は、八坂寺の2種類の刷り物「弘法大師と衛門三郎」を見ていくことにします。テキストは、今村 賢司   「弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺 衛門三郎A
「弘法大師と衛門三郎」の刷り物A
 八坂寺版「弘法大師と衛門三郎」の刷り物Aを見ておきましょう。
この大きさは縦82,5㎝ 横33㎝ 軸鼻含37㎝で、
右側に「大師修行御影 八坂寺」と記された修行姿の弘法大師像が立姿で左側に衛門三郎像が座って描かれています。朱印が押されているのが、右上側に札所番号印「四十七番」と宝印(菊桐重ね紋)、下部に寺印・山号印「熊野山妙見院」です。銘文は次のように記します。
【銘文l
四国拝祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
大師二十一遍目 御たいめん(対面)
なされ候時姿
弘仁六乙未より
安永五申迄
千八十六星至ル
何が描かれているかを、研究者は次のように説明します。
①右側の弘法大師は「修行大師像」は立像で、大師の視線の先には「衛門三郎」がいて、寄り添うような構図である。
②大師は法衣姿で墨の等身、垂領、有襴、袈裟を巻いてかける。頭巾(立帽子)を被り、右手に杖、
左手に念珠、脚絆を巻き、草韓をはく.穏やかな表情
③衛門三郎像は磐座に腰かけ、巡礼姿で正面を向く。長髪、額に彼、眉毛や目がさがり、虚ろなまなざし、頬がこけ、髭を生やし、口をへの字に曲げる。胸前には首から紐を掛けた「札はさみ」とと、左手で負俵を抱えているて、右手に杖(自然木)、足に脚絆を巻き、草軽(足半)をはく。
④衛門三郎は札挟み、負俵、杖、足半などの巡礼用具を身に着けているが、菅笠は描かれていない。
⑤彩色されていなので、白装束かどうかは分からない。巡礼者が衣服の上に着る袖無しの笈摺も描かれていない。
この刷り物の舞台は、いつ頃のものなのでしょうか
銘文に、次のようにあります。
「四国舞祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
「大師廿一遍日御たいめん(対面)なされ候時姿
ここからは、伊予国松山の八塚衛門三郎が四国巡拝21遍目に弘法人師に対面した時の姿が描かれていることが分かります。そのためか、弘法大師と再会を果たした衛門三郎は疲弊して後悔に満ちた表情で、懺悔の念を全身で表しています。
 衛門三郎が弘法大師と対面した場所は、徳島の焼山寺の麓にある番外霊場の杉杖庵(徳島県名西郡神山町)とされます。阿波でも「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が発行され、そこには同じように衛門三郎と大師が再会する場面が描かれています。同じ刷り物が八坂寺でも摺られていたことを押さえておきます。
銘文にある「弘仁六乙未る安永五申迄千八十六星至ル」について、見ておきましょう。。
 安永元年(1772)に鋳造された八坂寺の梵鐘銘には「四州四十七番札所予州松府城南 高祖弘法大師霊刹」とあります。しかし、それ以前の八坂寺史料には弘法大師は出てきません。出てくるのは熊野信仰なのです。ここから八坂寺が自らを四国霊場の札所として称するようになったのは近世半ばになってからと研究者は指摘します。
 八坂寺の木札や梵鐘銘などからは、この頃に八坂寺の伽藍整備や寺史整理が行われていたことが分かります。熊野信仰の影響を受けた修験寺院であった八坂寺は、この時期に四国八十八箇所霊場の札所へと、立ち位置を移していったようです。そのような中で、弘法大師と衛門三郎ゆかりの霊場であることを強く主張するようになります。この刷り物Aは、そうした背景のもとで製作されたものと研究者は考えています。
それでは刷り物Aの製作時期は、いつなのでしょうか。
この点について手がかりを与えてくれるのが、今回の調査で発見された下の版木です。
八坂寺版木 弘法大師
弘法大師修行御影の版木
 先ほど見た「弘法大師と衛門三郎」の刷り物の右側の弘法大師立姿と、瓜二つです。大きさも一致するようです。とすると、この版木から先ほどの刷り物Aは摺られていたことになります。つまり、刷り物Aは、一体型の版木ではなく、2つの版木を組み合わせて刷られたのです。ちなみに、左側の衛門三郎像の版木は見つかっていないようです。
表面は「大師修行御影 八坂寺」と刻まれ、
裏面は「文政七申年九月吉祥日 四国第四拾七番熊野山八坂寺什物判」と墨書
ここからは、文政7年(1824)に彫られた版木であることが分かります。以上から「刷り物A」は、八坂寺所蔵の「大師修行御影」版木で、文政7年(1824)以降に摺られたと云えそうです。
こうして八坂寺で摺られた「弘法大師と衛門三郎」の版画は、参拝土産と売られたり、修験者によって配布されたことが考えられます。どちらにしても、八坂寺にとっては、非常に重要な版木であったはずです。それが、幕末には姿を見せていたことを押さえておきます。

八坂寺 衛門三郎B
「弘法大師と衛門三郎」刷り物B

もう一枚の「弘法大師と衛門三郎」刷り物Bを見ておきましょう。
大きさは縦36㎝横26,3㎝です。構図は先ほど見た「刷り物A」とほぼ同じです。銘文及び絵像の内容を見ておきましょう。
伊豫国下浮穴郡恵原郷ノ産ニテ八ッ束右エ門三郎ハ当山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ為菩提請願ノ四國八十八ヶ所順逆舞礼遍路ヲ始ム姿ナリ 満願シテ同國旧領主河野伊豫ノ守ニ二度生レ替ル人餘此二略ス
弘仁六乙未年
意訳変換しておくと
伊豫国下浮穴郡恵原郷生まれの八ッ束衛門三郎は、当山八坂寺で、弘法大師の御教喩を受けて、善道に立直り改心して四國八十八ヶ所巡礼遍路を始めた。その姿を描いている。満願適い伊予の旧領主河野守に生まれ変わることがでした。その他のことは省略する。
弘仁六乙未年
構図を見ておきます
刷り物Aと構図や装束は、ほとんど同じです。異なるの次の2点です
①衛門三郎の表情が、衛門三郎像が発心して四国遍路を始めようとする姿なので、険しい決意の表情で描かれている
②首から掛ける札挟みは「札バセ」と書かれている。

刷り物Bは刷り物Aに比べると、衛門三郎伝説が次のようにより詳しく記されています。
①「八ツ束右工門三郎」は伊予国下浮穴郡恵原の出身である
②当山(八坂寺)で、弘法大師が衛門三郎に対して教え諭した。
③衛門三郎は善道に立ち直り発心した
④菩提請願のために四国八十八箇所を順打ち・逆打ちして拝礼した
⑤刷り物Aは、衛門三郎が遍路を始める姿である
⑥衛門三郎は願いが満たされ、伊予国領主河野伊予守に生まれ変わった

文末に「その他は略した」と記されています。省略された点を補足すると次の通りです。
①貪欲無道の衛門三郎の性格
②大師の托鉢を拒んだこと
③大師の鉢が割れた後に衛門三郎の人人の子が亡くなること
④弘法大師への悪事の報いであると悟ること
⑤四国遍路を21回行ったこと
⑥焼山寺の麓で大師と再会したこと
⑦臨終の衛門三郎は、大師か為石を手に握らされたこと
⑧安養寺から石手寺と改称したこと。
八坂寺に関係しない細部のストーリーが省略されています。八坂寺が舞台となる部分だけを切り取っているのです。八坂寺にとって、焼山寺の麓(杖杉庵)や石手寺の話は必要ないのです。中でも、研究者は注目するのは「当山山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ」とあることです。衛門三郎は、当山(八坂寺)で弘法大師の教えと導きによって四国遍路を始めたと主張されています。つまり八坂寺自身が「衛門三郎の発心の旧跡」であると云っているのです。この認識の上で八坂寺は、刷り物を発行していたのです。刷り物Bは、衛門三郎が発心して遍路を始める姿であることを押さえておきます。
 刷り物Bの制作時期についての手がかりは、銘文に「下浮穴郡」とあることです。
ここからは、下浮穴郡が発足する明治11年(1878)以降のものであることが分かります。明治になって神仏分離後の八坂寺が四国霊場の札所として衛門三郎発心の旧跡であること主張し、それを広めていたことが分かります。
 同じような資料として、研究者が挙げるのが調査で確認された版木の「大師堂再造勧進状」(明治期)です。その冒頭に次のように記されています。
「夫当山ハ四国八拾八箇所霊場順拝開祖八束右衛門三郎初発心奮跡ナリ」

大師堂再建にあたって、八坂寺が衛門三郎発心の旧跡であることが主張されています。また、納経印にも次のように刻されています。

「奉納経   弘法大師宝前 四国八十八(ヶ)所順舞遍路開基 八(ッ)津(ヶ)右ヱ門二(ママ)破心旧跡 事務所」

この勧進状にも、八坂寺は衛門三郎発心の旧跡と記されています。その一方で、熊野権現については何も触れていません。明治になって、八坂寺の縁起の中心が熊野権現から衛門三郎に変更されていくプロセスが見えてくるようです。
 以前に八坂寺の縁起はよく分からないことをお話ししました。
江戸時代初期には、八坂寺は、衛門三郎発心の旧跡とは書かれていません。ところが明治12年(1885)の「寺院明細帳」には「四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右工門三郎初発心ノ旧跡所也」と記さています。そして、明治・大正時代の案内記には、これが定番になっていきます。こうした背景には、明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年(1872)に修験宗廃止令が出されて修験道が禁止されたことがあるようです。近代の八坂寺は、熊野信仰よりも四国八十八箇所霊場の札所寺院として立ちゆくことを戦略とします。そして、その中心に「衛門三郎発心の旧跡」という縁起を据えたのです。そうすることで、衛門三郎伝説の始まりの聖地として、より多くの遍路や参詣者を誘い、大師堂再建などの勧進などにも役立てようとしたのでしょう。江戸時代末の刷り物Aから明治のBへの変化は、そのような八坂寺の戦略変化を反映したものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①八坂寺はもともとは、熊野信仰の影響が強い修験寺院であった。
②八坂寺は、ふたつの「弘法大師と衛門三郎」の刷り物を発行している
③刷り物Aは、八坂寺に残る文政7年銘「大師修行御影」版本から刷られたもので、江戸時代後期の製作と考えられる。
④刷り物Aは、遍路の参拝土産や、修験者が配布することで広められた
⑤明治になると、八坂寺は神仏分離政策で熊野神社を奪われた。そのため寺の存在意義を四国霊場に移した経営戦略をとるようになった。
⑥その一環が、「衛門三郎発心の旧跡」という主張で
⑦これに合わせて、刷り物Bは戒心した衛門三郎が八坂寺から遍路に出立するものへと解釈変更が行われた。
⑧それが昭和以降は「衛門三郎から役行者」へと移り変わる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
今村 賢司(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)
「 弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年
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八坂寺 大正10年
八坂寺 大正10年
澄禅『四国遍路日記」(1653)では、八坂寺については次のようなことが記されています。
①熊野信仰の篤かった妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てたという由緒
②これが衰微して二十五間長床であった熊野権現の社殿は、今は小社となっていること
③妻帯の山伏が寺に住していること。

 ここで押さえておきたいのは、①の八坂寺境内の熊野十二社権現は「妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てた」と記されていることです。そして、社伝は「二十五間の長床」であったと記します。ここからは、その社伝の別当として熊野権現を管理し、八坂寺が作られたということがうかがえます。

それでは、現在は八坂寺の創建や縁起については、どのように語られているのでしょうか?

先達教典 四国八十八ヶ所霊場会編集発行□「先達必携」改題(文化、民俗)|売買されたオークション情報、ヤフオク! の商品情報をアーカイブ公開 -  オークファン(aucfan.com)
「先達経典」
「先達経典」(四国八十八ケ所霊場会2006)の記述を要約すると次のようになります。
①真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は修験道の開祖役行者小角。大宝元年(701)
②御詠歌「花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ」
③遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。
④飛鳥時代の大宝元年、勅願で伊予国司、越智玉興公が堂塔を建立
⑤このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とした。
⑥弘法大師がこの寺で修法し、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。
⑦本尊の阿弥陀如来坐像は、恵心僧都源信(942~1017)の作
⑧その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。
⑨このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えた。
⑩天正年間の兵火で焼失し、末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。
⑪現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡
①からは、開基は「修験道の開祖役行者小角」で、
④からは「伊予国司、越智玉興公が堂塔建立」
⑥からは、弘法大師再興
とされていることが分かります。ここには、熊野権現を還元した「長者妙見尼」は登場しません。

現在伝えられ寺史は、どのようにして生まれてきたのでしょうか?
手がかりを与えてくれるのが八坂寺に残る次の縁起木札3枚です。この内の2枚は安永5年(1776)に八坂寺住持宥瑞によって作成されたことが銘文から分かります。1枚目は八坂寺の創建に関わる木札です。

八坂寺 創建木札
八坂寺 創建木札
創建・中興の2枚は、縦約80㎝と縦長で、そこに書かれた文字も大きいものです。また、よく見ると、上部に釘穴があります。ここからは、この木札が堂内などに掛けられて参拝者への説明版となっていたことが推測できます。内容を見ておきましょう。
     【八坂寺 縁起木札(創建)244P
(表)
抑当伽藍者仁皇四十二代文武天皇大宝元辛丑年、
紀州熊野権現依証誠大菩薩教勅、太古当国前大守小千伊予守
三位玉興創建也、今到安永五丙申及千八十六年、
(裏)
法印有瑞記
意訳変換しておくと
八坂寺の伽藍は文武天皇の大宝元(701)年に、紀州熊野権現の証誠大菩薩の教勅を受けて、国司の伊予守越知玉興が創建したものである。これは今から1086年前のことになる。
ここには、熊野権現の勧進が奈良時代まで遡り、しかも勧進したのは国司の越智玉興とされています。

2枚目は、弘法大師中興のことが記されています。

八坂寺 中興木札
八坂寺 弘法大師中興木札
(表)
仁皇五十一代嵯峨天皇弘仁六乙来年、弘法大師以当伽藍
四国八十八所第四十七香之道場中興車創給、到テ当安永五二及九百七十二年
(裏)
宥瑞新革
弘仁6年(815)に弘法大師が、この伽藍を四国八十八所第四十七番道場として中興草創したことが記されます。この時期は、弘法大師大師信仰が民衆にも広がり、四国遍路が増えていく時期です。

3枚目の縁起木札を見ておきましょう。
この木札は長辺38,5㎝の小ぶりな板で、釘穴もありません。しかし、分かりやすい書体で書かれているので、やはり参詣者らに掲示されたものと研究者は考えています。

八坂寺縁起木札
(表)
抑当伽藍者、仁皇四十二代文武天
皇大宝元年辛丑、紀州熊野権
①現証誠大菩薩依教勅、大古
当日前大守小千伊予守正三位
玉興公創建也、
②天正の頃兵火の禍に懸りて伽藍
諸堂末社僧坊拾弐ヶ院塔頭
一時のけむりとなり、其時権現の
神体焼そんじさせたまふ、③分散の
之神体取集此内へ奉納り置
ものなり、深秘して奉拝之事
なかれ、可恐可恐、前書之旨天正之頃
焼失といゑ共碇したる旧記無之、
只伝来而己、しかれ共神体拝
見之処焼失止しき事なり、
3枚目の「縁起木札」は、作成年次、作成者ともに分かりません。
内容的には
①大宝元年(701)熊野権現証誠大菩薩の教勅によって小千伊予守三位工興が創建したこと
②こに加えてに、天正年間に兵火にかかり伽藍諸堂や僧坊十二ケ院塔頭が焼失したこと
③焼損で分散していた神体を取り集め納置したところ、実際に焼失したことが確かめられたこと
3枚の木札と、近世はじめの四国遍路記などを比べて見ると、
近世初頭は、創建者は「熊野信仰の篤かった妙見尼という長者」で、「越智玉興」は創建者として出てきませんでした。それが、近世中頃になると創建者が「越智玉興」とされるようになります。「越智(河野)玉興」は、飛鳥時代の伝説上の人物で、物部姓越智氏一門河野氏の祖とされます。八坂寺は江戸時代半ばに創建者を、地域の長者・妙見尼から、河野氏祖先に変更したようです。以後は、八坂寺の草創は越智氏と伝えられていきます。
明治の神仏分離と、続く修験者禁止令によって八坂寺は、境内の熊野権現の管理権を失うなど大きな打撃を受けたようです。 

八坂寺 明治五年明細帳
八坂寺 明治5年明細帳

明治5年(1872)に住職の宥意(八坂文瀧)によって石鉄県に明細帳が提出されています。
この明細帳には、八坂寺の沿革、宥意や寺族の履歴、境内地などが記されています。また末寺の東林山林光院光明寺、見滝山長泉寺金剛院のことも記されているので、八坂寺や末寺に関する基本史料となります。内容を見ておきましょう。
古儀真言宗修験当山派
石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺邑
御直末別納中本寺
一大本寺西京醍醐三宝院官   熊野山八阪寺
開宗祖師理源大師
当山開基大宝元幸十歳也、当辛申歳迄千百七十四年相成日、為信仰当国旧太守小千伊予守従三位玉興公創建也、後弘仁乙来年弘法大師四国八十八ヶ所第四十七番霊場草創給、後四州乱軍之側懸兵火寺誌世代不詳、乍併五輪石碑等数々雖有之文字一切無之故年暦相分不申候也、良而天正五丁丑歳宥覚法印当寺中古、住職夫十四世相続申候、当住右同寺産而天保五乙未得度、同九戊戊四度加行、併護摩秘法執行、弘化二丙午歳大峯入峯、執行灌頂、次本寺継目、次人先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣昇進仕候、同三丁未載右県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印江随身修験現法降魔壱千座満行、次一宗秘法相伝、其後一派宗学執行寺格者本寺直末別納別触紫衣之寺格也、
第十五世当住 宥意 千申五十載(歳)
第十六世二代 有同寺産而元治元甲子得度、明治三曖午
修験最勝忠印七壇加行丼護摩秘法執行也、
第十六世二代 宥教 壬申二十載
右同県管轄旧松府音羽町天台宗修験旧上蔵院良山妹
養母アイ 壬申六十載
宇和島県管轄浮穴郡大南邑同宗西願寺学応妹
〈別触紫衣之寺格也〉       妻 ハシメ 壬中三十九載
右八坂寺宥意妹    妹 エイ  二十四載
以上五人内(修験二人 女三人)
境内 壱町八反七畝四歩
  意訳変換しておくと
古儀真言宗修験当山派に属し、御直末(醍醐三宝院)の中本寺であり、石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺村にある。大本寺西京醍醐三宝院で   熊野山八阪寺
醍醐寺の開宗祖師理源大師で、当山の開基は大宝元(701)年十歳のことである。これは、1174千前のことになる。創建は伊予国司越知玉興公であり、後の弘仁年間に弘法大師が四国八十八ヶ所第四十七番霊場として中興草創した。その後、四国騒乱時に兵火に係り記録文書が焼失して寺史についてはよく分からない。五輪石など石碑は数々あるが文字が一切なく、これからも年代が分からない。天正年間に宥覚法印が当寺を中興し、十四世住職を相続した。そして天保五年に得度、その後四度の加行、護摩秘法を執行。、弘化二年には吉野大峯にも入峯し灌頂を受けてた。引き続き修行に精進し、大先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣に昇進した。また県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印で修験現法降魔壱千座を満行し、一宗秘法を相伝。その後、宗学執行寺格は本寺直末別納となり紫衣之寺格となった。(以後略)
ここからは、八坂寺の歴代住職が吉野大峯入山を重ねて行い、当山派醍醐寺三宝院の中本寺として、伊予でも寺格の高い山伏寺であったことが記されています。
八坂寺 妙見権現
飯綱権現(八坂寺)
ここに記されたことを寺史沿革に絞って要約すると次の通りです。
①大宝元年(701)越知玉興による開基
②弘仁6年(815)弘法大師による四国八十八箇所第四十七番霊場としての草創
③戦国期における兵火による焼失
 研究者が指摘するのは、ここに書かれているの内容や文体は、先ほど見た創建木札によく似ていることです。明治5年明細帳の作成の際には、この木札を参考に、当時の住職宥意(八坂文瀧)が書いた可能性が高いようです。つまり、近世半ばに木札として八坂寺に掲げられていた創建・中興などの記事が、明治になってそのまま県への報告書の中に取り込まれ、その後の寺史となっていたことがうかがえます。
 なお越智氏を開基や再興時の檀那とする例は、浄瑠璃寺でも見られるようです。聞いたこともない「妙見尼という長者」よりも「古代の伊予国司」とされる越知玉興の名前の方が相応しいとされたのでしょう。地域的に受容されていた歴史観が、寺院の縁起に取り込まれたと云えそうです。ちなみに、木札に記された縁起内容は、八坂寺に残された近世古文書からは確認できないようです。

八坂寺 獅子像
獅子像(八坂寺)
   以上をまとめておくと
①八坂寺は中世には、熊野権現信仰が中心で、その別当寺として八坂寺があり、社僧(山伏)が管理していた
②その創建については、「妙見尼という長者」の熊野権現勧進に始まると近世はじめにはされていた。
③しかし、近世半ばになると八坂寺が真言系修験の醍醐三宝院の中本寺となることで、醍醐寺に関係する空海・役行者・理源大師(聖宝)が開基や中興者として登場するようになる。
④そのような中で、河野氏の祖とされる越知玉興の開基ともされるようになる。
⑤明治になって寺史沿革提出を求められた八坂寺住職は、境内に掲げられていたこれらの開基・中興者たちの木札を参考に、沿革を記して提出した。
⑥それが、その後の八坂寺の寺史の原型となった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


八坂寺一二社権現
八坂寺の鎮守だった熊野十二社権現
前回は八坂寺の歴史を大まかに見ました。その中で私が興味を持ったのは、八坂寺が熊野行者や石鎚先達として指導的な役割を務める修験者(山伏)たちの寺であったということです。今回は、「八坂寺=修験者の寺」という視点から見ていくことにします。テキストは「四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。
熊野神社が鎮守として祀られている伊予の霊場を挙げてみましょう。
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
多くの霊場札所に、熊野信仰の痕跡が残ることが分かります。ここから「四国辺路」の成立には、熊野信仰が大きく影響したと研究者は考えています。霊場札所が熊野行者によって、開かれたという説です。
熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を地域で果たしたのではないかとも考えます。こうして熊野信仰の拠点寺院に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成されるという考えです。その典型として注目されるの八坂寺ということになります。
 近世始めに書かれた澄禅の『四国遍路日記』(承応2年(1653)には、八坂寺本堂に安置されていたという阿弥陀如来像に関わる由緒や、寺院自体の創建伝承・沿革などについては何も触れていません。記述の中心は、境内にあったの鎮守の熊野十二所権現で、次のように記されていました。
①八坂村の長者てあった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、熊野三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の中心は鎮守(熊野三山)で、右手に小ぶりな本堂が並んでいたこと
ここからは地元の長者によって熊野神社がこの地に勧進されたこと、そして、神社の別当として熊野先達を行う修験者がいたこと。さらに長床があったとすれば、熊野行者達の信仰センターの役割も果たし、この地域の熊野信仰の中心地であったこと、などがうかがえます。つまり中世の八坂寺の信仰の中心は熊野権現社で、多くの熊野行者が活動し、その周りには廻国の高野聖や念仏聖なども「寄宿」していたことが推測できます。
 これを裏付けるのが熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券です。
ここには近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。さらに、『四国遍路日記』には、八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったとも記されています。

  熊野先達の活動が衰退するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。「戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような中で熊野先達たちは、活路をどこに求めたのでしょうか。
「熊野先達=熊野行者=修験者=山伏」たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を武士層から、村の有力者へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供する道を探ります。その内容は有名な霊山への「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。そして地元に受け入れられて、定着し里寺を起こす者も現れます。
 同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。具体的には四国巡礼や石鎚参拝の先達業務です。つまり、中世に熊野先達を勤めていた八坂寺の修験者たちは、近世には四国辺路修行や石鎚参拝の先達を務めるようになったのです。
 石鎚参拝の先達を勤める八坂寺の住持たちの姿を史料で見ておきましょう。
「石鉄(石鎚)山先達所惣名帳」(延宝4年(1676)前神寺文書)には、浄瑠璃寺村の「大坊」の「快常法印」が石鉄山先達の一人として挙げられます。浄瑠璃寺の中興に、元禄年間に活躍した快賢がいます。「快」の字が共通するので「大坊」も浄瑠璃寺のことを指すと研究者は考えています。江戸後期までに石鉄山の先達としての地位は、浄瑠璃寺から八坂寺へと移行します。それが八坂寺所蔵の古文書・古記録で次のように確かめられます。

「石鉄山先達名寄井檀那村帳」(文化6年(1809)は、を見ておきましょう。
これは道後地域の石鉄山先達や檀那村の記録です。そこに八坂寺が先達として記されています。

八坂寺 「石鉄山先達名寄井檀那村帳」
八坂寺の石鉄(石鎚)山先達の檀那村一覧
そして八坂寺の檀那村として、次の村々が挙げられます。

窪野村、久谷村、浄瑠璃寺村、恵原町村、西野村、上野村、小村、南高井村、北高井村、東方村、河原分、
大洲領麻生分西高尾田

 ここに出てくる檀那村は、文化5年(1808)に八坂寺に奉納された『大般若経』(聖教1~10)の施主の居住地と重なります。

八坂寺 大般若経
八坂寺 大般若経
石鎚参拝を通じて養われた先達としての師檀関係は強く、『大般若経』の勧進などでも大きな働きをしています。また、石鉄山先達の同僚である不動院(伊予郡松前村)、円通寺(久米郡樋口村)、和気寺(温泉郡衣山村)などは、文化5年の鐘楼堂再建供養にも出仕ていることが木札から分かります。八坂寺は、石鉄山先達のネットワークに支えられていた「山伏寺」だったのです。

八坂寺 天明8年(1788)明細帳 山伏
        天明8年(1788)明細帳 山伏八坂寺とある
 近世の八坂寺は醍醐寺三宝院末の当山方真言修験宗に属していたことが史料からも確認できます。

八坂寺 醍醐寺末寺
「醍醐三宝院御門主末院真言修験宗 八坂寺」とある

醍醐寺三宝院は、空海の弟真雅の弟子理源大師(聖宝)の開祖とされ、真言系修験者の拠点寺院でした。そのため近世の八坂寺縁起の中には、理源大師を開祖とするものもあります。八坂寺住持は、修験者として吉野への峰入りも行い、石鎚先達としても活動していたことになります。

以上をまとめておくと
①中世の八坂寺は熊野神社を勧進し、伊予松山地域における熊野信仰センターとして機能した
②八坂寺の住持は修験者で、熊野先達として檀那達を熊野詣でに誘引した。
③戦国時代に戦乱で熊野信仰が衰えると、里寺として地域に根付く運営方法を模索した
④その一環として、四国辺路や石鎚参拝の先達として活動を始め、信者ネットワークを形成した。
⑤そのため信者は、地元に留まらず土佐や大洲まで傘下に入れるようになった。
⑥こうして近世の八坂寺は「熊野信仰 + 石鎚参拝 + 四国霊場」の信仰センターとして機能した。

三角寺も八坂寺とおなじような動きをしていたことは、以前にお話ししました。三角寺ももともとは熊野先達で、それが四国辺路への先達活動を行うようになります。そして、周辺に多くの修験者や廻国行者を抱え込んでいきます。そして彼らがお札を持って、信者ネットワークの村々を巡るようになります。そのためこれらの寺には、いろいろな札の版木が残っています。同時に、讃岐の与田寺で見たように工房的なものもあり、僧侶の職人がいろいろな信仰工芸品を作成していました。それが八坂寺にも残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 図書館を覗いて見ると、今年の5月に出されたばかりの八坂寺の調査報告書が入っていました。八坂寺は熊野信仰との関わりが深い寺で、私にとっては興味のある四国霊場のひとつです。早速に借りだして、読んでみました。まずは八坂寺の歴史の概略を読書メモとして載せておきます。テキストは、四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺/愛媛県松山市【四国八十八ヶ所霊場】第47番札所 – Bilde av Yasaka Temple i Matsuyama -  Tripadvisor

熊野山妙見院八坂寺は、松山市浄瑠璃町にある真言宗醍醐派の四国霊場第47番札所で、本尊は阿弥陀如来です。
この寺の歴史について、地名辞典(平凡社1980)には、次のように記します。
「寺伝では、河野玉興の創建で、右衛門三郎の発心した所、古くは八王子と称したという。残存の堂字は安政四年(1857)の再建で、本尊は坐像で高さ80㎝、面相の引き締まった張り、納衣の深い衣紋に特色をもち、鎌倉時代の作と推定される。なお、境内には、高さ2mの宝医印塔がある。ともに市の文化財」
 
「熊野山」や「八王子」などからは、古くからの熊野行者の活動がうかがえます。
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
本尊阿弥陀如来坐像について「文化財保護委員会1964」は次のように記します。
「鎌倉末乃至南北朝期も早いころの特色の顕者なもので、このころの等身如来像の作例として県下でも出色の作品とおもわれる。今日髪部に群青を塗り、また肉身の漆箔をあらためて、若千像容を損じているが、その大容は造像時のままで、両手先、裳先までよく当初のものを残している。像容も整つて、この頃の作風を代表する作例といい得る」

これを受けて、木造阿弥陀如来坐像は、翌年に愛媛県指定有形文化財に指定、1968年には鎌倉時代の層塔と宝筐印塔が松山市指定有形文化財に指定されています。

中世の史料に記された八坂寺を見ていくことにします。
寺伝では、創建は河野氏と伝えられますが、中世にこの地域を勢力下に置いていたのは河野氏の家臣平岡氏です。平岡氏は、浮穴郡荏原の郷を拠点として、荏原城を築いたとされます。跡荏原城は。中心部の方形郭(南北70m、東西60m)とそれをとりまく土塁、堀からなる中世居館跡です。また、第46番札所の浄瑠璃寺境内には、最後の城主平岡通侍の墓と伝えられる五輪塔があることも、平岡氏が浄瑠璃寺を菩提寺としていたことを裏付けます。一方、八坂寺について中世の記録類は何もないようです。ただ、八坂寺境内には鎌倉時代の宝医印塔や層塔があるので、この時代から寺院があったことは確かのようです。

八坂寺層塔
八坂寺層塔

江戸時代の四国遍路の出版物や地誌には、八坂寺はどのように書かれているのかを見ておきましょう。
最古の遍路記される登禅「四国辺路日記」(1653)には、次のように記されています。
八坂寺 熊野権現勧請也。昔ハ三山権現立ナラビ王フ故二廿五間ノ長床ニテ在ケルト也っ是モ今ハ小社也。本寺堂ハ本尊阿弥陀ナリ。昔此国二長者在、熊野権現ノ霊験新ナル事ヲ承及ンデ三年ン続テ参詣シタリ。其上トテモノ事二我本国工勧請シ奉度ヨシ祈申ケレバ、尤御移り可参由御咤宣在ケレバ、悦デ則八坂村二宮殿ヲ立テ勧請シ奉シ也。是故二熊野山八坂寺妙見院卜号。院号ハ長者ノ尼公ノ号トカヤ。今ハ是モ衰微シテ寺ニハ妻帯ノ山伏住持セリ。是ヨリ十町斗往テ円満寺卜云真言宗ニー宿ス。十四日、寺ヲ立テ十五町往テ西林寺二至ル。
 
    意訳変換しておくと
八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

16世紀半ばの八坂寺の注目ポイントを挙げておくと・・。
①熊野権現を勧請され、昔は熊野三山権現が立ち並んで、25間の長床があったこと
②熊野山八坂寺妙見院と号し、住持は妻帯の山伏であったこと

新宮熊野神社【長床】の大イチョウ: billの悠々Life
新宮熊野神社の長床

真念の『四国邊路道指南』(貞享4年1687)には、八坂寺が次のように記されています。
四十七番八坂寺 平地、ひがしむき。うきあな郡やさか村。正面ハ此寺のちんじゆ也、札所は南。本尊阿弥陀 座長三尺、恵心作。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺迄一里。
意訳変換しておくと
四十七番八坂寺は、平地に東向きに建っている。浮孔郡八坂村。正面は、この寺の鎮守社であり、札所は南にある。本尊は阿弥陀で、座長三尺、恵心作である。。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺まで一里。

正面にある鎮守社は、熊野三社を祀ったものでしょう。しかし、熊野信仰については、何も触れられません。代わって、本尊阿弥陀は恵心作の秘仏とされ、御詠歌が初めて紹介されています。
高野山・高僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)には、境内図とともに次のように記します。
熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村
当寺本尊阿弥陀如来恵心の作也といふ。是を以てこれをおもふに、此寺廃毀する事そのかみにあり。今大師の遺烈きこゆることなし。恵心の僧都は大師の後およそ三百年に及べり。むかしの本尊は鳥有となれるにや。今尚法義おとろへたりときこゆ。古堂清風冷しく僻御蔓草緑なり。
 意訳変換しておくと
山号は熊谷山で妙見院八坂寺 浮穴部八坂村にある。当寺の本尊阿弥陀如来は恵心の作と云う。ここから考えるに、この寺は一度退転したようだ。弘法大師のことが何も伝わっていない。恵心は、弘法大師のおよそ三百年後の人物である。昔の本尊は、どうしたのか? この寺が昔に比べて衰えたと云う。古堂に清風冷しく吹き込み、御蔓草緑なり。

気になるのが山号が「熊谷山」となっていることです。熊野山という山号ではありません。また熊野権現の勧進の話も出てきません。絵図を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍路日記1
高僧寂本の『四国偏礼霊場記』
浄瑠璃寺からやってくると右手の垣根の向こうに本坊があります。橋を渡って、まっすぐに参道を登っていくと迎えてくれるのが高床社殿の①「鎮守」です。ここには熊野三社が祀られていて、その前に25間の長床が建っていたと「四国辺路日記」にはありました。そして、左手に本堂があります。よく見ると、縁側があって三間×三間の入母屋造です。大師堂は、まだ姿を見せていません。

近世初期の2つ記録には、次のようなことが記されていました。
①八坂村の長者であった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の正面に大きな熊野十二社があって、右手に小ぶりな本堂があったこと、
④つまり信仰の中心は熊野権現社であったこと
⑤八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったこと。
また、熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券に近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。
寛政12年(1800)に阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)が遍路記残しています。翌年にこれを書写したとされる『四国遍礼名所図会』には、写実的に描いた鳥厳図が載せれ次のように記します。
四拾七番熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村 西林寺迄―里
本尊ハ阿弥陀仏、恵心の作と云。恵心ハ大師の後凡三百年程也、此義不詳。
花を見て歌よむ人ハ八さかでらさん仏ぜうのゑんとこそ聞
本社熊野権現、御本地仏阿弥陀仏 恵心僧都作、御長三尺坐像 大師堂本社後の山二有、右衛門三郎大師の御鉢を砕きし所ゆえに鉢久保谷といふ,
八坂寺 四国遍礼名所図会1800年
八坂寺 四国遍礼名所図会
挿絵を見ておきましょう。
石段を上った先に山門はなく、垣根で囲ったた平場があって、その中央奥に、入母屋造の鐘楼堂があります。さらに石段を上った石垣上の平場ある瓦葺で宝形の建物が大師堂、その横のひときわ大きな茅葺入母屋造建物が熊野権現社。その間に層塔などの石造物が並びます。熊野権現社を本社とし、本地仏を恵心作の阿弥陀仏とする神仏習合の様子が見えて来ます。
 ここで注意しておきたいのは、本堂がなくなって大師堂となっていることです。これをどう考えればいいのでしょうか。増加する遍路に対応して大師堂が建立されたが、財政的問題で本堂は作られなかったのでしょうか。そうだとすれば、当寺の住持にとっては本堂よりも大師堂の方が優先したことになります。
 またはじめて、右衛間三郎伝説の鉢久保が紹介され、挿絵にも描き込まれています。この伝説が一般に知られるようになるのは、この時期からのようです。新たな観光名所が「創造」されて、参拝客を呼び込む名所となっていくプロセスが見えてきます。

単行本(実用) <<地理・地誌・紀行>> 四国遍路道中雑誌 carnegiecycling.com.au

松浦武四郎の四国遍路紀行文である『四国遍路道中雑誌』(
天保7年(1836)には、次のように記されています。
田道しばし行而八坂村 門前三茶店有。門内茶堂有。丼二しゆろう堂等有。四十七番熊谷山妙見院八坂寺 従四十六番八丁。同郡八坂村。当山開基は弘法大師なれども、一度廃寺となりしを恵心僧都再建し給ひしとかや。本尊恵心の作の阿弥陀如来座像也。御長三尺、恵心僧都は大師入定後三百年なるよし。其こと寺の縁記〔起〕二委敷出たり。境内二 大師堂 并二 鎮守十二社権現との宮等有。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺 さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
しばらく行而門前二茶店有 止宿する二よろし。
       意訳変換しておくと
田んぼ道をしばらくいくと八坂村で、 門前に三軒茶店がある。門内にも茶堂があり、鐘楼堂がある。四十七番熊谷山妙見院八坂寺は、四十六番からは八丁の距離で、同郡八坂村にある。この寺の開基は弘法大師であるが、廃寺となていたのを恵心僧都が再建したと云う。本尊は恵心作の阿弥陀如来座像で、御長三尺。恵心僧都は、大師入定後三百年後の人である。それについては寺の縁記に詳しく述べられている。境内には、大師堂 并に 鎮守十二社権現などの宮がある。。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
門前茶店があり、止宿もできる。

松浦武四郎は、開基を弘法大師、恵心僧都の再建としています。境内の建物については、大師堂、鎮守十二社権現には触れますが、本堂があったとは書いていません。他の史料からも、八坂寺の大師堂は19世紀初頭にはあったことが確認できます。これに対して熊野十二社権現や鎮守は必ず明記されています。神仏習合下の八坂寺の様子がうかがえます。
2013.7.7 石鎚神社先達会符 拝受 | 旅する石鎚信仰者

江戸時代後半の八坂寺の住持は、熊野先達としてよりも 石鎚山参拝の先達として重要な役割を果たすようになっていたようです。この時期の八坂神社の繁栄は、石鎚参拝ネットワークの先達としての立場からもたらされたことが分かってきました。これについては、また別の機会にお話しします。

明治以後の史料に書かれた八坂寺を見ていくことにします。
修験と関係の深く神仏混淆下にあった八坂寺では、明治の神仏分離や修験禁止令によって、大きな打撃を受けたことが推測できます。
「明治12年 寺院明細帳」(『松山市史料集』1985)には、八坂寺について、次のような建物が記されています。
愛媛県管下伊予国下浮穴郡浄瑠璃寺村寺字北浦
高野山金剛峯寺末 真言宗古義宗  八阪(坂)寺
一、本尊 妙見大菩薩
一、由緒 当山現見ハ樹木生茂り有ル所二、北辰妙見大菩薩降臨シマシゝテ、霊験新ナリ旧大(大)守小千伊予守従三位王興公ノ創建也、子時文武天皇勅願所卜勅アリ、四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右エ門三郎初発心ノ旧跡所也、亦大友旧城南ノ傍二阿弥陀ゲナルト字有之所二安置給フ、弥陀仏大師当山ヲ四国第四十七番霊場ニナシ本地仏二移伝ス、筆記有之也、
一、堂宇 長四間九合、横三間五合
一、前拝 長三間三合、横壱間弐合
一、サヤ橋 長壱間三合、横壱間
一、境内 弐百六拾壱坪        官有地
一、境内仏堂 弐宇
本地堂
本尊 阿弥陀如来
由来 不詳
建物 長四間九合、横四間六合
 大師堂
本尊 弘法大師
由来 不詳
建物 弐間四間
前拝 長壱間三合、横壱間
一、信徒 七百人
一、管轄庁迄 三里拾丁
以上

ここからは明治時代前期の八坂寺には本地堂、前拝のある大師堂の2棟があり、山門はなく、サヤ橋が架かっていたことが分かります。熊野鎮守社は神仏分離策で、本地堂となったようです。本尊は妙見大菩薩、本地堂の本尊は阿弥陀如来、大師堂には弘法大師像を安置されます。八坂寺は小千玉興の創建で、八ッ束右エ門三郎発心の旧跡としています。
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明治27年(1894)に官脇通赫の『伊予温故録』(松山向陽社発行)には、次のように記されています。
浄瑠璃寺村字北浦に在り熊谷山妙見院と云ふ。由緒に云ふ。越智玉興の創建にして八束右衛門三郎発心の旧跡なり。四国巡拝四十七番の札所たり。旧跡俗談に云ふ。古へは八王寺と号せし由。鎮守熊野十二社伽藍にて荏原郷は寺領なりしか、其の後焼失して断絶す。後ち又た再興し、修験相続して一世を経るいつの頃よりか八坂寺と改めたりと云ふ。越智王興創建、八束右衛門三郎発心旧跡地、俗談として修験寺院となり、
意訳変換しておくと
(八坂寺は)浄瑠璃寺村の北浦にあってあって、熊谷山妙見院と云う。由緒では、越智玉興の創建で八束右衛門三郎発心の旧跡と伝える。四国巡拝四十七番の札所である。。旧跡俗談には次のように伝える。古くは八王寺と号し、鎮守熊野十二社の伽藍で荏原郷は寺領であったが、その後に焼失して断絶した。再興された後は、修験者が相続して行く内に、いつの頃からか八坂寺と改められたと云う。

ここでは、もともとは熊野十二社が中心で、その別当寺が八王寺と呼ばれた。それが退転して、修験者による再建された後に、八坂寺と名前が変わったと記されていることを押さえておきます。
明治28年(1895)の得能通義による『古蹟遊覧 四國名所誌』には次のように記されています。
  ◎第四十七礼拝場八坂寺
同(浮穴)郡八坂にあり平地堂東向 ○詠歌
花を見て歌よむ人は八坂寺 さんぶつ浄の縁とこそきけ
熊野谷山妙見院と号す。役小角の創建にして散位乎致宿祢玉興、文武元丁酉年建立の伽藍なり。役行者八坂を切開き、道橋を造る道場なりと本尊阿弥陀仏は熊野権現の本地なるが故、弘法大師の安置し給ふに依て大師を中興とす。長元七年八月暴風起り、為に伽藍炎上灰儘す。今の本尊は恵心僧都の作なり。一遍上人自筆の三部経を収め給。奥の院は▲是より百丁高嶽あり。俗に御嶽と唱へ、霊験多き所なり。
  ◎熊野峯
浮穴郡久谷村にあり険祖なる高山にして其頂に三祠あり熊野権現降臨の垂跡なり。右に金剛蔵王権
現左に神饒速日命大小市命を祭れり麓の谷間に窪野あり。一遍上人修行の霊嶽なり。熊山の名称姦に始りぬと伊予旧跡砂に見る此寺昔時は八王寺とも言、此寺より西林寺迄一里其道筋に荏原町村中程ヘ七丁此村に右衛門三郎古跡八塚鉢窪等の遺跡あり。
ここには本尊の弥陀仏は熊野権現の本地仏としています。そしてあらたに、一遍自筆の三部経、奥の院の記事が書き加えられます。近世や近代に、始めて登場する内容は信用性に欠けることは、以前にお話ししました。
明治42(1909年9の『四国霊場名勝記』は、明治期に四国霊場を撮影した一番古い写真集になるようです。

八坂寺 明治
八坂寺 四国霊場名勝記(1909年)

左手前に手水舎、その向こうの石階段を登った正面に茅葺の建物、その左に瓦茸の建物が写っています。それぞれ熊野十二社権現社、大師堂のようです。明治後期の八坂寺境内の様子がわかる貴重な写真です。
大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』の写真を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年
八坂寺の大師堂 大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』
ここには切妻造向軒唐破風瓦葺の大師堂、茅葺十二社権現、瓦葺本堂の並びの写真が載せられています。

昭和11年(1936)の『四国霊場大観』には、八坂寺について次の3枚の捨身を掲載しています。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂(入母屋造瓦葺)
八坂寺文殊院本堂
衛門三郎旧跡文殊院本堂
八坂寺一二社権現
茅葺の十二社権現
最後に「先達経典』(四国八十八ケ所霊場会2006)の八坂寺についての記述を紹介して終わります。
現在、真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は役行者小角。大宝元年(701)御詠歌は、
花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ
浄瑠璃寺から北へ約1㎞近い八坂寺との間は田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、千三百年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697~707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁六年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942~1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えたが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが立ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約八千躯祀られている。

私が興味を抱いたポイントは
①熊野先達が早くから活動し、熊野十二社を勧進したこと
②その別当寺が八坂寺で、寺の中心は熊野十二社であったこと。
③そのため熊野十二社にくらべると本堂や大師堂は小さかったこと
④17世紀中頃の住持は、妻子持ちの山伏であったこと
⑤18世紀以降は、浄瑠璃寺に代わってこの地域の石鎚山信仰の中心的な役割を担い、先達として活躍する山伏でもあったこと。
⑥それが明治以後の山伏禁止令で、山伏色を消さざる得なくなったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年
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 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
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前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのもにも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修験者としての修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。
那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。
実方院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院跡 - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
実方院跡(現在は那智大社の宿泊所)

実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでも那智山の経営維持は皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切っります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順にまとめたのが表1です。
熊野大社文書1
熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)
この一覧表からは次のようなことが分かります。
①最初の檀那売券発行は弘安3年(1280)で、鎌倉時代の終わりの13世紀末以前から、讃岐でも熊野詣でが行われていたこと。
②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀には、継続して発行が行われていること。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ないこと。特に三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた武士集団です。有力な武士団を東讃では旦那に持っていたことが分かります。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、熊野信仰の流布の拠点となっていました。東讃から次第に西に拡がったということがうかがえます。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったとされます。その中には熊野先達を務めるものもいたようです。
⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が毎年のように出されています。さきほど見た文書です。
  最初の霞(エリア)は、「中郡スエ王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)には、「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」を抵当に入れて借金したようです。            
 以上からは、勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持っていたことは以前にお話ししました。この時代に姿を見せる真言宗の寺院の多くは、彼らによって建立されたと研究者は考えているようです。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが
次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは、髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと地区ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。そういう意味では、善通寺市内の熊野神社は熊野行者の活動モニュメントでもあり、善通寺が全国の行場の聖地として認知されていたことの証拠のようにも思えてきます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
佐伯氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして、11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、王子権現・熊野神社として記されるものが、数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。その中で早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)とされます。次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)には、熊野から勧請され長徳寺の鎮守となっています。その後、鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、およそ69社もの熊野関係の神社があったようです。
伊予では、古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社です。
ここの神輿鏡銘には、貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘があります。鎌倉時代初期には勧請されていたことが分かります。この神社から銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ラインを伸ばしていったことが考えられます。新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、立ち寄られた聖地であったようです。

阿波の場合は南部の那賀郡と古野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐はどうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。
 先ほど挙げた讃岐の熊野系神社43社のうち確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いように見えます。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。こうして見ると熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)による場合があることになります。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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西行 (1118-1190) は、平安時代末期の人で、歌人として知られています。
 もともと武家の生まれで、佐藤義清という本名を持つ西行は、朝廷警護の役人として鳥羽院に仕えていました。武芸はもちろん、和歌にも秀でていた若者だったようです。それが23 歳のときに突然出家・隠者します。出家後は京都周辺や高野山などでの修行生活を送ります。また、東北・四国など全国各地を放浪する旅に出て、行く先々で西行伝説が伝え残されるようになります。彼の和歌は、勅撰和歌集にもたくさん入集し、自撰歌集(『山家集』)も有名で、歌人として後世の人達からも支持されてきました。そのために、風雅の人として、和歌の才能を備えた人物という評が一般化し、宗教人としての西行の存在が取り上げられることはあまりありません。

西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
西行

 西行は、高野山で修行し、勧進僧として生計を立てていたことを以前にお話ししました。
西行の旅も、後の芭蕉のように作品作りのためではなく、勧進のため、仕事のための旅であった研究者は考えるようになっています。今回は、西行が吉野山で修験者としての活動も行っていたことを見ていくことにします。

西行が高野山に住むようになったのは1149年(32歳)の時からのようです。
当時の高野山は、祈祷の密教的な法力を得るためにも修験的修行は不可欠とされていました。そのため高野山の僧侶の中にも修験を行うものもたくさんいました。西行は、遅ればせながら、自分も修行してみたいと思ったようです。空海の修行などを絵図で見ると、ひとりで修行を行っています。しかし、修験者集団を見ると分かるように、先達という山伏が集団を率いて指導するのが一般的です。何の作法も知らずして山に入っても修行にはなりません。守るべきことや作法は、先達から手移し、口移して伝えられていきます。
 天台宗には今も「千日回峰」というのがあります。修験道は、山に登ること自体が修行であり、滝に打たれ、川の中に入って、心身共に解脱させるのだから、きびしい修行になります。

新解・山家

『西行一生涯草紙』には「大峯入山」と題した一章があります。

そこには、西行の修行に至る経過が次のように記されています。

  大峯に入らんと思う程に、宗南坊、「入らせ給え」、大峯の秘処どもを拝ませ申すべき由、申されければ、悦びて、入りたりける。

意訳変換しておくと

大峰山で修行を行いたいと思っていると、宗南坊という修験道の先達が「それでは、一緒に行くか、大峰山の秘かな霊地や行場を拝ませてあげよう」と、快くすすめてくれたので、「悦んで」入山した。

ここからは高野山の僧侶を先達に、何人もの人達が集団で大峯山での修行に、柿渋を塗った紙の衣に着替えて向かった経過が分かります。
 修験道は邪念を排除して、精進潔斎に徹するのが修行です。そのためにはなによりも体力が必要でした。しかし、西行には体力に自信はありません。そこで人山に際して、先達の宗南坊に次のような注文をつけます。
「とてもすべてをやり通せないかもしれないので、何事も免じて下さるなら、お供したい」

と嘆願しています。それにで宗南坊が何と応えたかは記されていません。
入山後のことを『古今著聞集』に、西行は次のように記します。
宗南坊に頼んだのに、行法は容赦なく、きびしかった。一緒に行った人たちよりも痛めつけられた。そこで涙を流して云った。
「我はもとより苦行を求めたわけでも、利得を願おうとするものでもない。ただ、結縁のためとだけ思って参加した。それに対して、この仕打ちはひどい。先達とはこうも船慢な職だとは知らず、身を粉にして、心をくだくのは悔しい」
それに対して、宗南坊は次のように云った。

「修行する上人は、みな難行苦行してきた。木を伐り、水を汲み、地獄の苦しみを味わうこともある。食べるものも少なくして、飢えも忍ぶこと、餓鬼のかなしなも味わうこともある」

「結縁」とは「ケチエン」と読むようです。仏道に入る機縁をつくることです。西行が参加したこのときの修行は「百日同心合力」で、同行の修行者と行動を共に、百日間を生き延び、修行を重ねるものでした。西行は、説教されて、
「まことに愚痴にして、この心知らざりけり」と悟ります。
「この苦行に懲りて西行は、二度と修行に参加しませんでした」と思いきや、そうではなかったようです。西行はその後も何度も、吉野山や熊野の山路を歩いています。修験道の荒行の中に、何かを見いだしたようです。

大峯山修験者行場
大峯山 行場配置図

 大峯山での修行は、行場が決められていました。  
 山上ヶ岳の頂上での「覗き」の修行は、絶壁の上から綱で身体を支えて祈祷する命がけのもので、今でもおこなわれています。修験道は、この大峯山の南北の山稜を修行の場として、谷底の川では、「水垢離」と称して、裸体のまま身体をひたし、滝があれば「みそぎ」と称して、裸体を落下する水に打たせ、心身解脱の境地に徹します。
西行は、この修行のことを、次のような歌に残しています。
御岳よりさう(生)の岩屋へ参りたるに、

露もらぬ岩屋も袖はぬれけると
聞かずばいかにあやしからまし
大峯山 笙の窟
大峯山 笙の窟
  「笙ノ窟」は大峰七十五靡(なびき)の62番目の行場で、「役の行者」の修行したところと伝えられています。そのため平安時代から名僧・知識人が数多く参籠修行しています。この窟は、修験者にとっては最も名高い聖地であったようです。そこに、西行も身を置いて修行しようです。

西行絵巻物物語
西行物語絵巻 笙の窟で修行する西行

大峯山での「百日同心合力」を記した『西行一生涯草紙』には、行場の地名は書かれていますが、歩いた順路で書かれてはいません。「山案内記ではなく、歌集」なのです。歌心が主で、山行案内のために書かれた文章ではないのです。「深山の宿」「千草の岳」「屏風ヶ岳」「二重ノ滝」「仙の洞」「笙の岩屋」という順にでてきます。これは、線では結べません。
八経ケ岳
八経ケ岳
「千車の岳(八経ケ岳)」では、紅葉を歌にしています。
分けてゆく色のみならず木末さへ
千草の岳は心そみけり
修行も半ばを過ぎ、きびしさにも馴れてきたのでしょうか。木々が色付いていく姿を眺める心境がうかがえます。
大峯山の修行のハイライトは「行者還り」だったようです。
「行者還り」は、山上ヶ岳から南へ約1日の行程で、1546のピークですが、その手前の稜線が起伏のはげしい試練の山路です。
『山家集』については、次のように記されています。
行者還り、稚児の泊りにつづきたる宿なり。春の山伏は、屏風立てと申す所を平らかに過ぎんことを固く思ひて、行者稚兒の泊りにても思ひわづらふなるべし。

屏風にや心を立てて思ひけむ
行者は還り稚児は泊りぬ

南の熊野の方から登ってきた行者たちのなかには、ここから戻った(還った)者もあったようです。
『古今著聞集』には「西行法師難行苦行事」と書かれているのは、このあたりのようです。この前文に「春の山伏は」とあります。ここからは、修行は春から「百日」の修行だったことがうかがえます。

千手滝(北山川)~奈良 吉野 大峰 前鬼三重滝【場所 アクセス・行き方 詳細】 | 〜水の秘境〜
三重ノ滝
 『山家集』の歌には、「三重ノ滝を拝みける」とあるので、もっと南の上北山村の方まで行っているようです。三重ノ滝は「前鬼の裏行場」とよばれる大峯山脈の東側の谷間にあります。滝は「垢離取場」の奥で、ここへゆくには、釈迦ヶ岳から5時間ほど下らなければなりません。
『西行一生涯草紙』は、このときの心境を次のように記します。、
三重ノ滝を拝みけるこそ、御行の効ありて、罪障は消滅して、早く菩薩の岸に近づく心地して、人聖明上の降伏の御まなじりを拝み、
身に積もる言葉の罪も洗はれて
心澄みける三かさねの滝

「みかさね」は、上中下―3つの滝の形容で、滝はそれを浴びて瞑想する「みそぎ」の場です。「垢離」とは心身の垢を落として浄めることです。このあと、「笙の岩屋」へ行っています。その途中にあるのが「百二十の宿々」です。西行は大峯山脈の稜線の方から東へ下って、この滝で修行しています。
大峰山の聖地深仙で修験のまねごとを | 隠居の『飛騨の山とある日』
大峯山 深仙の宿
その証拠に、釈迦ヶ岳の南にある「深仙の宿」で、夜の感慨を詠っています。
大峯のしんせん(深仙)と申すところにて、月を見て詠める。
深き山に澄みける月を見ざりせば
思ひ出もなき我が身ならまし

嶺の上も同じ月こそ照らすらめ
所がらなるあはれなるべし
月という存在を、改めてありがたく思っています。西行が「月」に格別な思いを抱きはじめたのは、この大峯修行のときからと研究者は指摘します。それまでは、それほど月は心に食い入らなかったというのです。
「笹の宿」では、次のように詠っています。
庵さす草の枕にともなひて
笹の露にも宿る月かな
ここでは秋の月を讃えています。
修行で野宿をすれば、月が唯一のなぐさめとなります。「西行の月への開眼は大峯修行の中で生まれた」と研究者は指摘します。百日つづいた修行は、季節も春から初夏へと移っていきます。旅も終わりに近づいたようです。
小笹の泊りと申す所に、露の繁かりけれぎ、
分けきつる小笹の露にそぼちつつ
ほしぞわづらふ墨染の袖
ここまでやってきた、墨染の袖の汚れに、改めて気づいたようです。
露もらぬ岩屋も袖は濡れけると
聞かずばいかにあやしからまし
この岩屋とは、思い出に残る笙の岩屋のことでしょう。山腹に深くえぐられた巨大な穴、風雨はしのげる自然の洞穴はひろく深い窟。西行も、ここで生命を終えてもいい、と思ったようです。後世に書かれたものを読むと、西行はこの修行でひどく疲れたようです。しかし、先達はそれも許してはくれません。

「心ならず出て、つらなりて、行く程に、大和の国も近くなりて…」里へ出てしまった。それまで

心ならずも同行の人々と一緒に山を下ります。大和国の里が近くなり別れが近づいたとき、皆泣き出した。そのとき作ったのが、次の歌です。
去りともとなほ逢ふことをたのむかな
死出の山路を越えぬわかれは
「百日修行」の同行者は、何人いたのでしょうか。「きびしい修行はさせないでほしい」と最初は嘆願していた西行でした。それが結果として、修験道の真髄を知ったようです。『西行物語』では、大峯修行の話は載せていません。しかし、それより古い『西行一生涯草紙』では、最後に修験道の功徳について、次のように記します。

先達の御足を洗ひて、金剛秘密、座禅人定の秘事を伝え、恭敬礼拝の故に、安養浄上の望みを遂げなんと覚え、おのおの柿の衣の袖が返るばかりに涙を流して、故り散りになる暁、「ぬえ」の鳴きける声を心細く聞きて、
さらぬだに世のはかなきを思ふ身に
ぬえ鳴きわたるあけぼのの空
「ぬえ」とは夜になると、不気味な声で鳴く鳥で正体不明の生き物とされていました。人間の口笛のようでもあり、夜の森の中で聞くと、さびしさが極まる声です。百日の修行をした最後に、この鳥の声を聞いて、ふたたび浮き世に戻ってきた気持を表現していると研究者は評します。ちなみに、鵺(ぬえ)は、トラツグミで今は正体も分かっています。
「山家集」には、大峯での修行の際に作られた歌がかなり載せられています。
しかし、それが何歳頃のことかは分かりません。大峯山は吉野山の南につづく山稜です。先に大峯で修行します。その結果、北側の吉野山を再認識したようです。西行にとって大峯山は修行の場でしたが、吉野山は後に庵をつくって住む安住の地となります。

以上をまとめておくと
①1149年 西行は32歳で高野山に住んで、高野聖として勧進活動に従事した。
②高野山の密教修験者を先達とする、大峯山で修行に参加することになった。
③これは大峯山の行場を南から北へと抜けて行くもので「百日同心合力」とよばれる行であった。
④初めは厳しくで弱音を吐いていた西行は、次第に克服して修験のもつ魅力を感じるようになった

以上のように、西行は「高野聖 + 勧進僧 + 修験者 + 弘法大師信仰」を持った僧侶であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  岡田喜秋 西行の旅路 秀作社出版 2005年


三角寺の調査報告書(2022年)の中には、葬送関係の版木が4点紹介されています。曳覆(ひきおおい)曼荼羅図・敷曼荼羅図・死人枕幡図など葬送時に用いられるものの版木です。曳覆曼荼羅は死者の上に掛ける曼荼羅、敷曼荼羅は死者の下に敷く曼荼羅で、どちらも死者を送るときに使われたものです。版木があると言うことは、それを三角寺で摺って「販売」していたことになります。これらの版木を、今回は見ていくことにします。
三角寺 敷曼荼羅
三角寺の「敷曼曼荼羅図」
三角寺の「敷曼曼荼羅図」(版木58表而、図4)には、左側にその使い方が次のように記されています。
「棺の底にこれを敷き、その上に土砂を入れ、その上に亡者を入れ、又その上に土砂をかけ、その上に曳き覆いをひくべし。土砂は光明真言百遍となえて入るべし。但し授り申さぬ人はとなえ申まじき事。」

意訳変換しておくと
まず棺の底に敷曼荼羅を敷き、土砂をかけ、死者を納め、またその上に土砂をかけて曳覆曼荼羅で覆うこと。土砂は、光明真言を百回唱えながら入れること。ただし、加持祈祷を受けていない人は、唱えないこと。

使用手順を整理しておきます。
①棺の底に敷曼荼羅を敷き、土砂をかける。
②死者を納め、その上にまた土砂をかけて、曳覆曼荼羅で覆う
③この時に用いる土砂は、光明真言を百回により加持祈祷されたものをかける。
④ただし、加持祈祷を受けていない人は、唱えないこと。
ここからは、底に敷くものと、死者に上からかけるふたつの曼荼羅が必要だったことが分かります。その曼荼羅の版木が残されていることになります。
三角寺 曳覆高野秘密曼荼羅
曳覆高野秘密曼荼羅図(三角寺)
上からかける曳覆曼荼羅図(版木59)は、五輪塔形の中にいろいろな真言が記されています。
これらの真言で死者を成仏させることを願ったようです。死者とともに火葬されるものなので、遺品は残りません。しかし、版木が全国で20例ほど見つかっています。真言の種類や記す箇所・方向などで、様々な種類に分類できるようです。三角寺版では、火輪部に大威徳心中心呪・不動明王小呪・決定往生浄土真言・馬頭観青真言が記されています。このスタイルの曼荼羅図は、あまりないと研究者は指摘します。このような曳覆曼荼羅が後に経帷子(死装束)に変化していきます。
一魁斎 正敏@浮世絵スキー&狼の護符マニア on Twitter:  "「季刊・銀花/第36号」の御札特集に滋賀県・石山寺さんの版で良く似たものが「曳覆五輪塔」(正確には五輪塔形曳覆曼荼羅)の名称で掲載されていますが、亡者の棺の中に入れて覆うのに用いるそうです。…  "
大宝寺の五輪塔形曳覆曼荼羅

五輪塔形曳覆曼荼羅の版木からは、何が分かるのでしょうか?
 
版木のデザインは、密教と阿弥陀信仰が融合してキリークが加わり、さらに大日如来の三味形としての五輪塔と一体化します。そして、五輪が五体を表す形になったようです。それが鎌倉時代末の事だとされます。
五輪塔形曳覆曼荼羅版木(広島県の指定文化財)/広島県府中市
青目寺(広島県府中市)

 葬儀用の曼荼羅版木が、三角寺に残されていることからはどんなこと考えられるのを最後にまとめておきます。
①死霊に対する鎮魂意識が広がった中世に、滅罪供養に積極的に取り組んだのは高野の時宗系念仏聖(高野聖)であった。
②高野聖は、阿弥陀・念仏信仰のもとに極楽浄土への道を示し、そのためのアイテムとして引導袈裟を「販売」するようになる。
④江戸幕府の禁令によって高野山を追放された念仏聖先は、定着先を探して地方にやってくる。
⑤その受け入れ先となったのが、荒廃していた四国霊場や、滅罪供養のお堂などであった。
⑥葬儀用の曳覆曼荼羅(引導袈裟)などの版木が残っている寺院は、高野聖が定着し滅罪寺院の機能を果たしていたことがうかがえる。
つまり、多くの宗教者(修験者・聖・六十六部など)を周辺に抱え込んでいた寺院と言うことになります

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献
参考文献
「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(103P)版木 ⑤葬儀関係」


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
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仙龍寺 三角寺奥の院1800年
仙龍寺「四国遍祀名所図会」(1800年)
前回は、19世紀初頭から明治末までの仙龍寺を描いた絵図を見ました。そして、仙龍寺の繁盛の要因を次のようにまとめました。
①本尊弘法大師像が大師自作され、信者の崇拝を集めたこと
②本尊開帳を夜8時として、参詣者に通夜を許したこと、
③通夜施設として、通夜堂を開放し無料で提供したことや、風呂の無料接待も行ったこと
④「女人高野山」として女人の参詣を認めたこと
  こうして明治末期になっても、仙龍寺には多くの参拝者がやってきて通夜を送っていました。その隆盛は大正から昭和になっても続いたようです。今回は、それを大正時代に描かれた「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」で見ていくことにします。

最初にこの版画のデータなどを見ておきましょう。
①一枚刷(洋紙銅版墨刷)。縦26㎝、横36、5㎝。
②上部中央枠内に右横書きで「伊豫国宇摩郡興之院仙龍密寺境内之略図」
仙龍寺 大正期 仙龍密寺境内之略図

構図は次の通り
①絵図中央 仙龍寺境内の本堂、通夜堂、庫裏の高楼建物
②上部(北側) 三角寺からの峠越えの険しい山道である三角寺奥院道と清滝周辺
③下部(南側) 境内を流れる清滝川と蟹淵、銅山川周辺まで
よく見ると、参道、境内、清滝などには参詣者の姿が書き加えられています。そして左下枠内に、仙龍寺の由緒文が記されています。
本図の作者については、左端に「岡山博進館彫刻部」とあります。
同じく岡山博進館彫刻部作成の鋼版絵図「第41番霊場龍光寺境内之図」があります。これには「明治35年(1902)(高橋義長刻成)」と制作年と作者があります。しかし、仙龍寺のものには、作成年の記載はありません。そこで、研究者は次のように推測します。
①霊場札所寺院では、明治30年代に参拝記念土産品として境内を描いた銅版画作成がブームとなったこと
②仙龍寺では、明治後期に裏山に新四国霊場を開設して清滝への参道整備が行われてこと。絵図中に清滝付近に参拝者の姿と清滝の不動尊と見られる仏像が描かれているので、この参道整備後に描かれたものと考えられること。
③現地調査を踏まえて、不動堂・茶所付近に描かれた「八丁」と刻まれた大きな標石は願主中務茂兵衛によって明治34年(1901)建立の遍路道標石であること。
④境内の大地蔵に通じる石段は大正6年(1918)、上段の玉垣が大正7年(1917)に整備されているが、これらが絵図には描かれていないこと。
以上から、描かれている景観年代は明治34年以降~大正4年以前とします。
次に絵図をA~Fのエリアに区分して細部を見ていくことにします。
仙龍寺中心部 大正時代 
       仙龍寺(境内・伽藍の中心部)
①【本堂】 宝形造瓦葺き。現在の本堂は近代に改修
②【通夜堂】 入母屋造瓦葺き懸崖造。現在の通夜堂は昭和12年に大改築)
③【庫裡】 入母屋造草葺き。懸崖造で煙突あり
④【瀧澤宮】 切妻造瓦葺き、空海が封じ込めた龍神
⑤【客殿】 入母屋造草葺き
⑥【納屋】 寄棟造草葺き
⑦【待暁庵】 入母屋造瓦葺き
⑧【花苑】
⑨【廟所】
⑩【蟹淵】 現在の蟹淵はコンクリート製アーチの下を流れる
⑪【橋】 現在はコンクリート屋根なし橋
⑫【清滝川】 銅山川の支流
⑬【夫婦岩】 現在は新宮ダムに沈む
⑭【銅山川】 吉野川の支流
⑮【渡舟】 両岸に綱掛けて渡舟で往来
仙龍寺境内 大正時代
境内エリア
【天堂】 六角堂。瓦葺き
【四社明神】 高野山の鎮守として祀られる四柱の神
【橋】 屋根付き。現在は屋根なしの無明橋(昭和47年再建)
【手洗所】 切妻造瓦葺き、清浄水
【鐘楼堂】 入母屋造瓦茸き
【茶所】 切妻造瓦葺き。現在なし
【仙人堂】 宝形造瓦葺き
【本地堂】 宝形造瓦葺き、現在は弥勒堂
【釈迦ノ滝】【釈迦ノ岳】
仙龍寺上部 大正時代
三角寺奥院道・不動堂周辺
【玄哲坂】 標石「後藤玄哲坂」現存
【不動堂】 入母屋造瓦茸き、現在は宝形造瓦葺き
【茶所】 切妻造瓦葺きの建物2棟)
【八丁】 入母屋造瓦葺きの建物は現存せず。隣の「八丁」標石は願主中務茂兵衛義による明治34年建立の遍路道標石
【護摩ノ岩屋】護摩窟。現在は入口に「大師修行趾護摩岩窟」の標石、仙龍寺本尊弘法大師の石仏安置、

これを見ていると、描かれている範囲が広く、建造物や名所旧跡の注記もあって、明治後期の仙龍寺の様子がよく分かります。

仙龍寺 由緒文大正
仙龍寺の由緒文
図中の由緒文を見ておきましょう。
抑金光山仙龍寺は世人常に称して奥の院と云ふ其由来を尋るに延暦十二年弘法大師二十一歳の御時始めて此地に法道仙人と避近し此山の附嘱を受け玉ひ 其後鎮護国家の秘教を停んが為に入唐遊ばされ御婦朝の後人皇五十二代 嵯峨天皇の御宇弘仁六年大師六七の厄運に当たり再び此山に踏りて岩窟に息災の護摩壇を築き三七日の間厄難消除の秘法を修し遂に金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し玉ひ猶末代の衆生結縁の為にとて御自作の肖像を安置し且瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守となし―字の梵刹を御草創あり
乃(スナハチ)誓願して曰く 争末歩を此山に運んて我形像を拝する輩は我三密の加持力を以て諸の厄難及び一切の障りを除き四重五逆の重罪を減し有縁の浄土に送らんと加之(シカノミナラズ)此岩窟の梵文を篤して守護(マモリ)とし受持講供する者は永穀を害する一切の悪贔を除き五穀成就の大利益を得せしめ玉ふ
 蓋当山は大師入定留身の高野山に模し芳縁を近きに結び利益を普く及し玉ふ善巧方便なれば古より女人の参詣を遮せざる故に営山を女人の高野四国の奥の院と中停て四時登嶺の人絶ることなし現営二世の両益を家る男女枚琴に追あらず是れ偏に我大師三密の加持力と当山勝地の霊徳なるに由る
動「草創の縁由を録して十方有縁の信者に示すと云爾但し当山は諸國より日々参籠する人絶ることなければ毎夜本尊の開扉並に説教の修行あり
    意訳変換しておくと
金光山仙龍寺は、奥の院と呼ばれるが、その由緒は延暦12年弘法大師21歳の時に、始めてこの地を訪れ、法道仙人と出会って、当山を譲り受けた。(弘法人師一回日巡錫)。
その後鎮護国家の秘教を学ぶために入唐し、帰国後の嵯峨天皇の弘仁六(815)年、大師六七の厄運(42歳)の時に再び、当山にやってきて、岩窟に息災の護摩壇を築き37日の間厄難消除の秘法を行い、金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し、末代の衆生結縁の為にと自作の肖像を安置した。さらに瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守とした。(弘法大師二回目巡錫)

 そして、次のように誓願された。当山にやって来て私が彫った自像を礼拝すれば、三密の加持力で厄難や一切の障りを除き、四重五逆の重罪を減じて、有縁の浄土に往生できる。それに加えて、この岩窟の岩窟の梵文を信仰し守護(マモリ)とする者は穀物を害する一切の悪霊を除き、五穀成就の大利益を与える。
 当山は弘法大師入定の高野山に模してきたが、古より女人の参詣を認め、「高野、四国の奥の院」とも伝えられてきた。いつも参詣人が絶えることなく現当二世の両益を受けることができる。数えきれない男女の参詣者は、偏に弘法大師の三密の加持力と当山の霊徳によるものである。また、当山派、諸国よりの参籠者が多いため、毎夜本尊の御開帳と説教の修行を行っている。
由緒文に出てくる場所を、絵図で挙げると次のようになります
法道仙人関係は【仙人堂】【法道仙人登天地】
弘法大師関係は【本堂】【瀧澤宮】【護摩ノ岩屋】
遍路・参詣者関係は【通夜堂】

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた仙龍寺(19世紀中頃)

由緒文から見える仙龍寺の特色について、研究者は次のように整理します。
2016年四国逆打ち遍路3日目その2「65番三角寺~61番香園寺、別格13番仙龍寺~12番延命寺」 気ままに過ごす。さんのお遍路道中記 四国八十八箇所  お遍路ポータル
仙龍寺入口正面

①奥院の位置付け
三角寺の奥之院とせず「四国の奥之院」としています。現在は「四国総奥之院」と称しています。四国総奥之院の称号は、寛永15年(1638)に後陽成天皇の第二皇子で嵯峨大覚寺門跡尊性法親王が参詣し、帰京後に大覚寺末として賜ったことに始まるとされています。しかし、今では多くの研究者は、これは偽書と考えています。根本史料となる澄禅「四国辺路日記」、真念『四国邊路道指南』、「四国遍謹名所図会」には「奥院」、寂本「四国霊場記」には「当寺(三角寺)の奥院」と表記されています。江戸時代の四国遍路案内記には、どれも「四国総奥之院」とは記されていないことを押さえておきます。
 寛政5年(1793)の〔大覚寺門跡奉行連署書状〕からは三角寺末寺だった仙龍寺が大覚寺門跡直末となったことが分かります。三角寺を離れた仙龍寺は、明治以降になると「四国の奥之院」を名のるようになったようです。そのためこの絵図にも、三角寺の奥之院とは書かれていないと研究者は指摘します。

四国中央巡り7】オススメ!幽玄の世界『奥の院 仙龍寺』 : 【エヒメン】愛媛県男子の諸々
仙龍寺入口(土足禁止)

②弘法大師の修行地と厄除け大師
三角寺奥之院、四国の奥之院として明治後期には「女人高野」と称された仙龍寺。由緒文には、弘法大師は入唐前の延暦13年、21歳の時に法道仙人に出会い、当山を譲り受け、帰国後の弘仁6年(815)の42歳時に仙龍寺へ登山して修法したとされています。つまり伝説上では、法道仙人ゆかりの聖地で弘法大師が2度も修行した山岳霊場が仙龍寺であったというのです。
 本尊の弘法大師像は大師42歳の厄運にあたり厄除けと虫除け五穀豊穣の秘法を修して自作の肖像を安置したもので「厄除け大師」、「虫除け大師」として多くの人達のから信仰されてきました。

  遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺のことを次のように記します。
奥院(仙龍寺)ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、自像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。

ここには弘法大師が「自像ヲ彫刻」したのは18歳の時と記されています。そして弘法大師が再度ここを訪れたとはどこにも記されていません。ところが江戸時代後半になると、弘法大師は2回訪れ、42歳の時に自像を彫ったことになります。この背景には当時の厄除信仰の拡大策として、大師の年齢を18歳から厄年の42歳に「変更」したと研究者は考えています。「厄除大師」へのリニュアル策です。このような「機転」が寺院経営には必要なのでしょう。庶民が求める「流行神」を積極的に取り入れていくことが四国霊場の寺には求められていたともいえます。こうして四国霊場札所の多くが、その由来に弘法大師42歳の時に開山・中興されたする寺が多くなります。
仙龍寺 松村武四郎
仙龍寺(松浦武四郎)
 四国八十八箇所の霊場にお参りするときには、最初に本堂の本尊に礼拝します。
その後で、大師堂の弘法大師像にお参りするというのが習いとなっています。ところが仙龍寺の場合は、本堂の本尊が大師自作とされる弘法大師像なのです。これは弘法大師信仰の信者にとって、何にも代えがたい信仰対象となります。善通寺誕生院が江戸時代になって「弘法大師空海の生誕地」として、弘法大師稚児像や父母像を信仰対象として参拝者を集めるのと同じような動きを感じます。
③女人高野
仙龍寺は高野山を摸したが女人禁制とせずに、古より女人の参詣を遮らず「女人高野山」と称されたと由緒文には記されています。しかし、江戸時代の真念などの四国遍路案内記には女人高野の記述は見られません。それが見えるようになるのは江戸時代後期になってからのことです。遍路日記には女性の遍路が仙龍寺に参ると高野山に参詣したのと同じ価値があると考えていたことが記されています。
 安政3年(1856)に三角寺道(四国中央市中曽根町)に建てられた遍路道標石には次のように記します。
(大師像)(手印)遍ん路道 是ヨリ 三角寺三十丁
奥之院八十八丁  (略) 施主 当初 観音講女連中

「施主 当所 観音講女連中」とあるので、道標の設置者が観音講を母体とした女性であることが分かります。ちなみに三角寺の本尊十一面観世音菩薩像なので、それにちなんだ講名のようです。
仙龍寺の「女人高野」について触れたものを見ておきましょう。
 明治41年(1908)の知久泰盛『四国人拾八ケ所霊場案内記」には次のように記されています。
昔、高野山は女人禁制なりしが当山は女人高野と申して女人の参詣自由なりし故、今は女人成仏の霊場と伝へて日々参詣者群集す

明治43年(1910)の此村庄助『四国霊場八十八ヶ所遍路獨案内』

「本奥の院を一に女人高野と云ふて、女人参詣殊に多し」

ここからは明治後期には、女人参詣で賑わい、女人高野と称されていたことが分かります。
 ここでは、江戸時代前半の史料からは、仙龍寺が「女人参拝」を認めていたことは示せないこと。「高野高野」と言われ女性参拝者が急増するのは明治以後のことを押さえておきます。

金光山仙龍寺弘法大師空海座像(四国別格二十霊場第十三番) / 黒崎書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
弘法大師(仙龍寺)

私が最も興味があるのは、毎夜の本尊御開帳と通夜堂です。
仙龍寺の本尊は、弘法大師自作の大師像でした。それは弘法大師信仰の信者にとっては最高の「聖遺物」です。是非ともお参りしたいという吸引力があります。しかも、この本尊開帳はいつの頃からか夜8時の開帳となりました。そのために三角寺からの険しい山道を登り下って、仙龍寺で「通夜」する必要がありました。
 これに対して仙龍寺は通夜堂を宿泊所として開放したのです。この通夜での共通体験は強烈だったようです。それまでの艱難困苦の山道を越えてきた事への成就感や、信仰する「お大師さん」の手彫り本尊を開帳でき、そのまま夜の護摩行に参加し、朝まで語り通す。これは、現在で云うなら中高年の登山の山小屋体験とも似ています。女性達にとっては非日常的で、貴重な体験だったはずです。四国巡礼者以外にも多くの信者が仙龍寺に参拝にやって来るようになった背景が分かるような気がしてきます。

文政三(1820)年に、ここを訪れた土佐の新井頼助は次のように記します。
日参通夜の衆、老若男女其数不知、我等一所の通夜五百人計。御燈明銭を上げよという。御開帳銭を上げよという。米壱升たき申に拾文。御守は虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・

意訳変換しておくと
仙龍寺に日参通夜をした老若男女の数は数え切れない。私たちと一緒に通夜したのは五百人ばかり。その人たちが「御燈明銭を上げよ。御開帳銭を上げよ。」と連呼する。米1升焚いたのが拾文。御守は、虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・今晩の人々からはにて七百貫目の銭が、この寺に納るはずだ・・・

 一晩のお勤めをしたひとが500人ということは、貸切バスだと10台以上分の人数です。この日は、お大師さんの縁日の翌日ですが、お大師様の正御影供(2月21日)や前夜の通夜衆はもっと集まっていたはずです。
 現在の仙龍寺にお参りすると、その建造物群に驚かされます。なんでこれだけ大きな建物があるのか、以前からの私の疑問でした。しかし、この様を見ると、2月の寒中にこれだけの人達が集まって、一夜を超す施設が必要であったことが分かります。また、それを支えるだけの浄財を集まるシステムもあったことがうかがえます。

 明治期の仙龍寺には、夜の本尊開帳後に服部錢海が講話を行って、弘法大師信仰を鼓舞したと伝えられます。これに共鳴する先達達も現れ、「仙龍寺支援隊」とも云えるグループが生まれるようです。

仙龍寺 中務(司)茂兵衛
中務(司)茂兵衛

そのひとりが中務(司)茂兵衛(なかつかさもへえ)のようです。
彼は弘化2年(1845)4月30日に周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)で生まれ、22歳頃に周防大島を出奔します。そして明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝します。その数279回と言われます。この巡拝回数は歩き遍路最多記録で、今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とされます。茂兵衛は42歳(明治19年(1886)、88度目の巡拝の頃から標石建立を始めます。標石は確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されています。
中務(司)茂兵衛と仙龍寺は、縁が深かったようです。彼の建てた標石221基中の10基(阿波3・土佐0・伊予5・讃岐2)に、仙龍寺への参詣通夜を勧誘した文が刻まれ、愛媛以外の県にまで配置しています。中務茂兵衛は、仙龍寺の「応援団員」と云えそうです。それも相当の熱が入っています。
参考までに奥院仙龍寺まで八丁地点に建てられた標石の刻文を見ておきましょう。
三角寺 中務(司)茂兵衛標石
       奥の院 是より五十八丁
毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り 霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び 現当二世の利益を受く遍し                    中司義教謹識
明治36年(1903)に四国巡礼198度目を記念して三角寺道(四国中央市中之庄町)に建てた遍路道標石は
「金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿リ 四国巡拝の制に盤参詣して御縁を結び現当二世乃利益を受く遍し」

明治37年(1904)に四国巡礼202度mを記念して64番前神寺の参道(西条市洲之内甲)に建てた遍路道標石には
「金光山仙龍寺ハ厄除弘法大師御自作の尊像□て毎夜開帳阿り四國巡拝の輩には参話して御縁を結び現当二世之利益を受くべし」

このように明治後期に建てられた中務茂兵衛の遍路道標石には、仙龍寺への参詣を誘う「宣伝広告」が記されています。仙龍寺は茂兵衛の定宿でなじみの深い札所であったことがわかっています。ここからは、中務茂兵衛のような仙龍寺を支援・応援する先達グループがいたことがうかがえます。それがさらなる参拝者の増加につながったようです。
仙龍寺宿坊2
仙龍寺宿坊
最後に戦後の仙龍寺の様子を見ておきましょう。
 昭和35年(1960)の紫雲荘橋本徹馬『四国遍路記』には、通夜に要する経費は一人前25円で有料であったこと、風呂や食事への不満、人手不足で肝心なご開帳が中止となったことなどが記されています。宿泊環境が整備されると、それまでの宿泊無料の通夜堂から有料の宿泊施設(宿坊)へと「転換」することが多いようです。そのような流れが仙龍寺にもあったようです。
 昭和37年(1962)の荒木戒空『巡拝案内 遍路の杖』には、仙龍寺の宿泊収容数は300名迄と記されています。ちなみに前後の札所の65番三角寺が100名、66番雲辺寺が50名(通夜堂完備)ですから、仙龍寺の宿坊が飛び抜けて大きかったことが分かります。その規模の大きさは、毎夜開帳された本尊弘法大師像への信仰(すなわち厄除け弘法大師への信仰)が盛んであったこと示すもの研究者は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」

      四国別格13番 仙龍寺
金光山仙龍寺
金光山仙龍寺は、四国八十八箇所の札場霊場ではありません。しかし、17世紀に書かれた澄禅「四国辺路日記」、真念「四国邊路道指南』、寂本「四国霊場記」などにも紹介されています。プロの宗教者である修験者たちの行場にあった山岳寺院は、近世になると「四国遍路」となり、札所寺院廻りに姿を変えていきます。それにつれて、山の奥にあった霊場は里山に下りてきます。そして、行場は「奥の院」と呼ばれるようになり、訪れる人は少なくなっていきます。ところが仙龍寺は現在に至るまで、多くの参拝者を集め続けている「奥の院・別院」なのです。それを示すのが、かつては400人が泊まった大きな宿坊です。これだけの施設を作り出していく背景は、どこにあったのでしょうか。
仙龍寺宿坊
仙龍寺の宿坊
図書館で最近に出版された三角寺と仙龍寺の調査報告書を見つけました。今回は、その中に紹介されている仙龍寺の絵図を見ながら、その歴史を追いかけて行きたいと思います。
テキストは「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」です。
奥之院仙龍寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仙龍寺堂内入口

  弘法大師信仰が高まりを見せるようになると、善通寺の弘法大師御影のように、その遺品には霊力があり、何事も適えてくれると説かれるようになります。こうして弘法大師の遺品が人を惹きつけるようになります。
  澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺の弘法大師遺品について次のように記します。
 峠から木の枝に取付テ下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院(仙龍寺)は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。ここに弘法大師が18歳の時に、自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 
 ここからは仙龍寺は大師自作の弘法大師像が本尊で、鈴や硯も宝物として安置されていたことが分かります。中には、三角寺にお参りすることが目的ではなく、仙龍寺の「自作大師像」にお参りすることが目的の人達もいたようです。そのためには法皇山脈のピークの平石山(標高825m)の地蔵峠(標高765m)を越えて行かねばなりませんでした。これが「伊予一番の難苦」で、横峰寺の登りよりもしんどかったようです
報告書には仙龍寺の景観を描いた両帖、絵図類が以下の6つ紹介されています。
①寛政12年(1800)「四国遍祀名所図会」の図版「金光山」
②江戸時代後期、西丈「中国四国名所旧跡図」収録の直筆画
③弘化元年(1844)松浦武四郎「四同遍路道中雑誌」
④明治2年(1869)半井梧奄『愛媛面影』の図版「仙龍寺」)
⑤明治時代後期「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」
⑥大正~昭和時代頃「金光山奥之院仙龍寺」
仙龍寺 三角寺奥の院1800年
①の「四国遍礼名所図会」1800年 (個人蔵)
これは、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)の遍路記を、翌年に書写したとされるもので仙龍寺の挿絵がはいっています。ここには、仙龍寺への参道として次のようなものが描き込まれています
①三角寺からの地蔵峠
②雲辺寺道との分岐点となる大久保村
③仙龍寺まで7丁の地点にある不動堂
④そこから急勾配の難所となる後藤玄鉄塚
⑤道の左右に見える護摩窟、釈迦岳、加持水、来迎滝、道案内の標石、手洗水
などが細かく描き込まれ臨場感あふれる景観になっています。
山道を下った仙龍寺の境内では、懸造の本堂と庫裏、蟹渕(橋下の川)、鎮守社、阿弥陀堂、仙人堂などが並びます。崖沿いに建てられた高楼造りの仙龍寺本堂を中心に、深山の清滝、三角寺からの険しい奥院道の景観まで、江戸時代後期の仙龍寺の景観をうかがい知れる貴重な絵画史料と研究者は評します。
「四国遍礼名所図会」の本文は次の通りです
  是より仙龍寺迄八十町、樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし。庵本尊不動尊を安置す、是より寺迄七丁、壱町毎に標石有り。後藤玄鉄塚道の右の上にあり、護摩窟道の左の下、釈迦岳右に見ゆる大成岳なり、
加持水 道の右にあり、来迎滝橋より拝す、蟹渕 橋の下の川をいふ也。金光山仙龍寺 入口廊下本堂庫裡懸崖作り、本堂本尊弘法大師。毎夜五ツ時に開帳あり、大師御修行の霊地なり、本尊自作の大師也。大師四十二歳時一刀三礼に御作り給ふ尊像也、一度参詣の輩ハ五逆十悪を除給ふとの御誓願也。終夜大師を拝し夜を明す、阿弥陀堂 庫裡の上にあり。仙人堂 廊下の前に有り。
意訳変換しておくと
  三角寺から龍寺までは八十町、樹木が生い茂り、高山の岩稜が険しい所を下っていく。難所で筆舌に尽くしがたい。不動尊を安置する庵から仙龍寺までは七丁、1町毎に標石がある。後藤玄鉄塚は、道の右の上にある。護摩窟は、道の左の下にある。釈迦岳の右に見えるのが大成岳。
加持水は、 来迎滝橋より参拝できる。蟹渕は、橋の下の川のこと。
 金光山仙龍寺の入口廊下と本堂・庫裡は懸崖作りである。本堂本尊は弘法大師で、毎夜五ツ時(8時)に開帳する。ここは大師修行の霊地なので本尊は、大師自作の大師像である。大師が42歳の時に、この地を訪れ―刀三礼で作られたという尊像である。一度参詣した人達は、五逆十悪が取り除かれるという誓願がある。終夜大師を拝して夜を明す。阿弥陀堂は、庫裡の上にあり。仙人堂は、廊下の前にある。
ここで私が注目するのは、次のような点です。
①それまで大師18の時の自作本尊弘法大師像が42歳になっていること
②8時開帳で終夜開帳され、参拝者が夜通しの通夜を行っていること
①については「厄除け」信仰が高まると、「厄除け大師」として信仰されるようになったようです。そのため大師の年齢が18歳から42歳へと変更されたようです。
②については参拝者の目的は、本尊「大師自作の大師像」にお参りするためです。その開帳時刻は、夜8時だったのです。そのためには、仙龍寺で夜を過ごさなければなりません。多くの「信者の「通夜」ために準備されたのが宿坊だったのでしょう。それを無料で仙龍寺は提供します。これは参拝者を惹きつける経営戦略としては大ヒットだったようです。以後、仙龍寺の伽藍は整備され宿坊は巨大化していくようになります。それが絵図に描かれた川の上に建つ懸崖作りの本堂や宿坊なのでしょう。仙龍寺は、本尊の弘法大師像の霊力と巧みな営業戦略で、山の中の奥の院でありながら多くの参拝客を近世を通じて集め続けたようです。

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた彩色画帖「中国四国名所旧跡図」
(愛媛県歴史文化博物館蔵)
この絵図は一番下に「与州三角寺奥院金光山仙龍寺図」とあり、東西南北の方位が表記されています。城壁のような岩壁の上に横長の楼閣のような白い漆喰壁の建物(本堂、通夜堂、庫裏)が並び立ち、まるでお城のような印象を受けます。その廊下の四つの窓には全部で9人の人物が見えます。
その奥に瓦葺入母屋の屋根の大きな建物が二軒あります。張り出した岸上に瓦葺人母屋の屋根の漆喰塗り連子格子窓の建物があります。
 渓流の向こう側の西の文字のある左側の場面には岩場が広がり、さらに一段上がった崖上の端には、桧皮葺入母屋屋根の社のような建物があります。これがかつての行場の象徴である仙人堂なのでしょう。その前に小さな小屋があります。西側崖と東側崖の間には川があり、上流から水が勢いよく流れ、手前には屋根付き橋の大鼓橋が掛っています。川沿いには石垣をもつ瓦葺の建物が建っています。奥にも屋根のない太鼓橋が掛り、橋のたもとには石塔が建っています。

仙龍寺 松村武四郎

松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」1844年(松浦武四郎記念館蔵)
 松浦武四郎は雅号を北海道人(ほっかいどうじん)と称し、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた人物です。彼も仙龍寺にやって来て、次のような記録とスケッチを残しています。
金光山遍照院仙龍寺
従三角寺五十六丁。則三角寺奥院と云。阿州三好郡也。本尊は弘法大師四十弐才厄除之自作の御像也。夜二開帳する故二遍路之衆皆此処へ来リー宿し而参詣す。燈明せん壱人前拾貳銅ヅツ也。本堂、客殿皆千尋の懸産二建侍て風景筆状なし易からず。大師修行之窟本堂の東二在。此所二而大師三七日護摩修行あられし由也。其時龍王:出て大師二対顔セしとかや。中二自然の御手判と云もの有り。是を押而巌石の御判とて参詣之人二背ぐ、尚其外山内二いろいろ各窟名石等多し。八丁もどり峠の茶屋に至り、しばし村道二行て金川村越えて内野村越而坂有。
意訳変換しておくと

金光山遍照院仙龍寺は、三角寺より五十六丁で、三角寺奥院と云う。阿波三好郡になる。本尊は弘法大師42才の時の厄除の自作御像である。夜に開帳するので、遍路衆は皆ここでー宿して参詣する。燈明銭として、一人十二銭支払う。本堂、客殿など懸崖の上に建ち風景は筆舌に表しがたい。 大師修行の窟は本堂の東にある。ここで大師は三七日護摩修行を行ったという。その時に龍王が出て大師と向かい合ったという。この窟の中には、大師の自然の御手判とされるものもある。この他にも各窟には名石が多い。八丁もどって峠の茶屋に帰り、しばらく村道を行くと金川村を越えて内野村越の坂に出る。

 松浦武四郎は、仙龍寺について「阿波三好郡にあり」としていますが、伊予新宮の間違いです。この地が阿波・讃岐・伊予の国境に位置し、他国者にとっては分かりにくかったようです。他に押さえておきたいことを挙げておくと
①本尊は弘法大師42歳の厄除け自作像であること、18歳作ではないこと。
②夜に開帳するので「遍路之衆」はみなここで1泊すること
③照明代に一人12銭必要であること

三角寺道と雲辺寺道の分岐点となる大久保村付近から仙龍寺までの険しい山道の様子、清滝、崖沿いの舞台造りの諸堂が簡略なスケッチで描かれています。描画はやや詳細さに欠けるが、仙龍寺の全体の雰囲気をよく捉えていると研究者は評します。

仙龍寺 明治2年
幕末期の地誌である半井梧巻『愛媛面影』(慶応2年(1866)
ここには図版とともに、次のように記載されています。。

仙龍寺 馬立村にあり。奥院と名づく。空海四十二歳の時の像ありと云ふ。山に依りて構へたる楼閣仙境といふべし。

左手に切り立つ崖沿いの懸造りの建物(本堂、通夜堂)と深い渓谷がに描かれています。空からの落雁、長い柱の上に建つ舞台から景色を眺めている人物なども描き込まれ、まさしく深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観です。
仙龍寺 『伊予国地理図誌

明治7年(1874)『伊予国地理図誌』
ここにも仙龍寺の記述と絵があります。仙龍寺図には、渓谷に掛かる橋や懸造の建物、そして反対側には清滝が描かれ、次のように記されています。
馬立村
仙龍寺 真言宗 法道仙人ノ開基ニシテ嵯峨天皇御代弘仁五年空海ノ再興ナリ 険崖二傍テ結構セル楼閣ノ壮観管ド又比類無シ 本堂十四間六間 客殿十二問四間 境域山ヲ帯デ南北五町東西九十間
清滝 仙龍寺ノ境域ニ在リ
明治末の仙龍寺について、三好廣大「四国霊場案内記」(明治44年(1911年)を見てみましょう。この小冊子は、毎年5万部以上印刷されて四国巡拝する人に配布されたもので、四国土産として知人に四国巡拝を推奨してもらうために作成された案内記だったようです。その中に仙龍寺は次のように紹介されています。

 奥の院へ五十八丁、登りが三十二丁で、頂上を三角寺峠と云ふて瀬戸内海は一視線内に映じ、山には立木もなく一帯の草原で気も晴々します、峠から二十六丁の下りで、此の間の道筋は石を畳み上八丁下ると不動堂のある所に宿屋あり。こヽまで打戻りですから荷物は預け行くもよろしいが、多くの人は荷を寺まで持て行きて通夜することとする。寺には毎夜護摩修行があり、本尊の御開帳があり、住職の御説法があります。寺には風呂の設けもありて参詣者に入浴を得させます
  奥の院 金光山 仙龍寺(同郡新立村)
本尊は大師四十二歳の御時、厄除祈願を込めさせられ、一刀三祀の御自作を安置します。昔高野山は女人禁制でしたが、当寺では女人の高野山として、女人の参詣が自由に出来ました故、今に女人成仏の霊場と伝へて、日々数多の参詣通夜する人があります。御本尊を作大師と申されまして、悪贔退散厄除の秘符を受くる者が沢山あります。
ここには奥の院道の三角寺峠から見た瀬戸内海の眺望や草原風景の素晴らしさ、石畳道、打戻りの地点の不動堂にも宿屋があったことが記されます。また、打戻りの際に荷物を宿屋に預けず仙龍寺まで持参せよとアドヴァイスしています。
 注目したいのは、毎夜に本尊弘法大師像の御開帳があり、そこで護摩修行が行われること、入浴接待が受けられ宿泊費用は無料であったことなどです。そのため百十年ほど前の明治末になっても仙龍寺で通夜する遍路が多かったことが分かります。
明治10年(1877)に幼少期の村上審月は、祖父に連れられて四国遍路を行っています。その時の様子を後年に「四国遍路(『四国文学』第2巻1号、明治43年(1910)に次のように綴っています。

三角寺の奥の院で非常な優待を受けて、深い谷に臨んだ京の清水の舞台の様な高楼に泊らされたが其晩非常の大風雨で山岳鳴動して寝て居る高楼は地震の様に揺いで恐ろしくて寝られず下の仏殿に通夜をしていた多数の遍路の汚い中へ母等と共に下りて通夜をしたことがあつた。

三角寺奥の院にある高楼に通されたのですが、晩に大風雨となり、地震のように揺らぐ高楼で寝られません。そこで多数の遍路と仏殿で通夜したことが記されています。高楼の宿泊部屋とは別に、階下の仏殿で通夜する遍路が数多くいたことが分かります。仏殿は無料の宿泊所である通夜堂として遍路に開放され、いろいろな遍路がいたことがうかがえます。

 番外札所の仙龍寺であったが多くの参拝者を集めている理由をまとめておきます。
①本尊弘法大師像が大師自らが厄除祈願を込めて自作されたものであること
②毎日夜に本尊を開帳し、参詣者に仙龍寺での通夜を許したこと、
③通夜施設として、大きな宿坊を準備し無料で提供したことや、風呂の接待も行ったこと
④「女人の高野山」として女人の参詣ができたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「三角寺と仙龍寺の歴史 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」      

四国霊場の三角寺と、その奥院とされる仙龍寺建立の母胎になったのは、熊野行者であることは以前に次のようにお話ししました。
①阿波に入った熊野行者は吉野川を遡り、旧新宮村の熊野神社を拠点とする。
②さらに吉野川支流の銅山川を遡り、仙龍寺を行場として開く
③そして、三角寺を拠点に妻鳥(めんどり)修験者集団を形成し、瀬戸内海側に進出していく。
これらの動きを史料で補強しておきます。

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熊野神社(旧新宮村)

①の旧新宮村の熊野神社は「四国第一大霊験権現」とされ、四国の熊野信仰第一の霊場として栄えました。旧新宮村の熊野神社は縁起によると、大同2年(807)に紀伊国新宮から勧請されたと伝えます。熊野信仰拡大の拠点と考えられる神社です。
新宮の熊野神宮に残された棟札を見ておきましょう。
永禄5年(1562) 「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵」、
慶長15年(1610)「大阿閣梨三角寺□処」、
元禄2年(1689) 「遷宮導師三角寺阿閣梨倉典」
宝永7年(1710) 「遷宮導師三角寺権大僧都法印盛弘」
延享3年(1746) 「遷宮導師三角寺大阿閣梨瑞真」
天明2年(1782) 「遷宮導師三角寺現住弘弁」
天明6年(1786)「遷宮導師三角寺現主一如」
文化14年(1817)「三角寺当職一如」
文政7年(1824)「遷宮導師三角寺上人重如」
嘉永2年(1849)「遷宮師三角寺法印権大僧都円心」
熊野神社の棟札には、遷宮導師として三角寺住持の名前があります。
  遷宮とは、新築や修理の際に一時的に神社の本殿などご神体を移すことで、その導師をつとめるのは最高責任者です。ここからは神仏分離以前には、新宮熊野神社は三角寺の社僧の管理下に置かれ、社僧(修験者)達によって運営されていたことが分かります。近世の旧新宮村や阿波西部の三好郡の社寺も山川村も同じような状況にあったことが推測できます。これは、多度津の道隆寺が多度津から荘内半島、そして塩飽に至る寺社の遷宮導師を務め、備讃瀬戸エリアを自己の影響下に置いていたのと同じような光景です。三角寺は「四国第一大霊験権現」である新宮の熊野神社を管理下に置くことで、広い宗教的なネットワークや信者を持っていたことがうかがえます。
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熊野神社(旧新宮村)
『熊野那智大社文書』の「潮崎稜威主文書」永正2年(1505)3月20日には、次のように記されています。
「熊野先達は妻鳥三角寺、法花寺、檀那は地下一族」

「米良文書」にも「熊野先達には妻鳥三角寺、法花寺」と記されています。ここからは、三角寺は熊野信仰の先達をつとめたいたことが分かります。

1三角寺 文殊菩薩 胎内名

近年、三角寺の文殊菩薩騎獅子像の胎内から墨書が発見されたことは以前にお話ししました。
この像は、文禄2(1593)年に三角寺住僧の乗慶が施主となり、薩摩出身の仏師が制作したものです。研究者が注目するのは、この墨書の中に「四国辺路之供養」の文字があることです。ここからは、かつて熊野先達として活動していた妻鳥三角寺の修験者たちが16世紀後半には「四国辺路」を行っていたことが分かります。かつての熊野先達を務めていた修験者が、巡礼先を「四国辺路」へと換えながら山岳修行を続けている姿が見えてきます。そのような修験者たちが三角寺周辺には数多くいて、彼らが旧新宮村から山川村周辺の熊野信仰エリアを影響下に置いていたということになります。

今日の本題に入ります。
三角寺の由来となった「三角」とは、何を表しているのでしょうか?
 三角寺の縁起は、次のように伝えます。

弘法大師が巡錫、本尊十一面観音と不動明王像を彫刻し、更に境内に三角の護摩壇を築き、21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して降伏護摩の秘法を修行。三角の池はその遺跡で、寺号を三角寺と称するようになった

 修験道や密教では、護摩祈祷を行います。普通は四角に護摩壇は組まれます。これは「国家の安泰と万民の福祉を祈念」するためのものです。ところが、弘法大師はここでは「三角の護摩壇」を築いています。これは、呪誼や降伏など、悪いものを鎮め、封じ込めるときのもので、特別な護摩壇です。

三角寺 三角護摩壇
護摩壇各種
何を封じ込めるために空海は三角護摩壇を築いたのでしょうか。『四国偏礼霊場記』の三角寺の挿絵を見てみましょう。

三角寺 四国遍礼霊場記
『四国偏礼霊場記』の三角寺
 
三角寺背後に竜玉山(龍王山)があります。龍王山と言えば「善女龍王」の龍の住む山です。龍はすなわち水神です。水源神として龍王がまつられ、その本地を十一面観音とします。龍王は荒れやすく「取扱注意」の神なので、これを鎮めるための三角の護摩壇が作られた。その結果、水を与え、農耕を護る水神(龍)となったという信仰がもともとあったのでしょう。これが弘法大師と結びついて、この縁起ができたと研究者は考えています。
 そうすると三角寺の縁起には、弘法大師が悪い龍を退治・降参させて、農民のために水を出しましょうと約束させたという処が脱落していることになります。それを補って考えるべきだと研究者は言うのです。
三角寺 三角護摩壇2
三角寺 三角池の碑文

 『四国偏礼霊場記』の挿絵をもう一度見てみましょう。本堂の前に「三角嶋」があります。これが三角の護摩壇に由来するようです。しかし、現在はここには龍王ではなくて、弁天さんを祀られています。現在の三角寺の弁天さんからは、龍(水神)につながるものは見えて来ません。
1三角寺の護摩壇跡
三角池に祀られた弁天(三角寺)

  それでは龍神信仰は、どこに行ったのでしょうか?
龍王山の向こう側にあるのが仙龍寺になります。

仙龍寺 三角寺奥の院
仙龍寺
遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)で、三角寺と仙龍寺を見ておきましょう。
此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ。三十余町上り漸行至ル。
三角寺 本堂東向、本尊十一面観音。前庭ノ紅葉無類ノ名木也じ寺主ハ四十斗ノイ曽也。是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。堂ノ前ヲ通テ坂ヲ上ル。辺路修行者ノ中ニモ此奥院へ参詣スルハ希也卜云ガ、誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。峠二至テ又深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景二於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事二十余町ニシテ谷底ニ至ル。扱、奥院ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、寺像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。昔ヨリケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハー日モ堪忍不成卜也。其夜爰に二宿ス。以上、伊予象国分十六ケ所ノ札成就ス。
  意訳変換しておくと
三角寺は伊予第一の長い坂が続く大難所である。ゆっくりと30町ほど登っていくと到着する。
三角寺の本堂は東向で、本尊は十一面観音。前庭の紅葉は無類の名木である。寺主は四十歳ほどの僧侶である。ここから奥院は大山を越えて50町である。堂の前を通って。坂を上がって行く。辺路修行者の中でも、奥院へ参詣する者はあまりいないという。そのためか人が通るような道ではない。ただ所々に草結びの印があり、これを道しるべの代わりとして山坂をたどり登る。峠からは今度は深し谷底へ釣瓶落としのように下って行く。小石混じりの赤土の道、鳥も留まらないような巌石の間から枯木が生出ている様は桂景ではあるが、下って行くには難渋である。
 木の枝に取付て下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。こここには弘法大師が18歳の時に、やって来て自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 寺は、巌上に建つ懸崖造りである。ここには乗念という本結切の禅門僧が住持している。昔ながらの無知無能の道心者のようで、「六字ノ念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は、堪忍ならず」と、言って憚らず、阿弥陀念仏信仰に敵意をむき出しにしている。その夜は、ここに宿泊した。以上で伊予国分十六ケ所の札所を成就した。

ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀中頃には、三角寺から仙龍寺への参道を歩く「辺路者」は少なく、道は荒れていた。
②弘法大師の自像・鈴・硯などが安置され、早い時期から弘法大師伝説が伝わっていたこと。
③御影堂は「石上の二間四面」で、伽藍は小規模なものであったこと
④住持は禅宗僧侶が一人であり、念仏信仰に敵意を持っていたこと
⑤伽藍全体は小さく、住持も一人で、この時期の仙龍寺は衰退していたこと
ちなみに作者の澄禅は、高野山の念仏聖で各札所では念仏を唱えていたことは以前にお話ししました。「念仏禁止令」を広言する仙龍寺の禅宗僧侶を苦々しく思っていたことがうかがえます。
三角寺奥院 仙龍寺 松浦武四郎
仙龍寺 

 ここからは奥院が辺路修行の霊場で、修行者は仙人堂で滝行や窟寵りをしていたことが分かります。そして、仙龍寺には弘法大師伝説が早くから伝えられていました。そして仙龍寺の経営者達は、最初に見たように熊野行者であった妻鳥修験者たちです。彼らは時代が下ると、仙龍寺までは遠く険しいので、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本尊十一面観音を下ろします。これが三角寺へと発展していくようです。
 こうして生まれた三角寺には最初は、「三角嶋」が作られ空海による龍王封じ込め伝説が語られたのかも知れません。しかし、もともとは仙龍寺を舞台とした伝説のために三角寺では根付かなかったようです。三角嶋は、いまでは善女龍王にかわって弁天さま祀られていることは前述したとおりです。
三角寺 奥の院仙龍寺
仙龍寺 
一方、行場の方も仙人堂を仙龍寺として独立します。
そして、谷川の岩壁の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化します。仙龍寺の大師は、今は作大師として米作の神となっているのは、水源信仰の「変化形」のひとつと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①吉野川の支流銅山川一帯には、古くから熊野行者が入り込み新宮の熊野神社を拠点に活動を展開した。
②銅山川上流の行場に開かれて仙龍寺には水神信仰があり、それが弘法大師伝説を通じて龍神信仰と結びついた。
③そのため仙龍寺には、弘法大師が三角の護摩壇で龍神を封じ込めたという言い伝えが生まれた。
④その後、本寺が仙龍寺から里に下ろされ、三角寺と名付けられたが、龍神を封じ込めた三角護摩壇という言い伝えは、伝わらなかった。
⑤そのため現在の三角寺には「三角嶋」はあるが、そこには龍神でなく弁天が祀られている。
参考文献
三角寺調査報告書 愛媛県教育委員会2022年

納経帳の歴史について、以前に次のようにまとめました。
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこないこと。
②納経帳を早くから残しているのは六十六部であること。
③四国遍路は、六十六部の影響を受けて、18世紀の後半から納経帳を持ち始めたこと。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったことと、納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
六十六部 納経帳最御崎寺
明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が残した納経帳
土佐室戸の最御崎寺の本尊や正式名称・山号などが記される

 世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部が現れます。彼らは大量の納経帳を残していますが、そこからは次のような活動状況が分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
④四国霊場は、ほとんどすべてを廻っている
金泉寺・大麻比古神社の納経
                明和6年(1769)に六十六部廻国聖が残した納経帳
書かれている内容は次の通りです。
右が金泉寺
「奉納大乘妙典/本尊釈迦如来/阿州龜光山/金泉寺/行者丈」、日付は「九月八日」
左が大麻比古神社
「奉納/阿波一国一宮/大麻彦神別當/霊山寺/行者丈」、
日付は「丑ノ九月八日」
中央の宝印は「弌乘院」 左下は「竺和山」
六十六たちは、どんな経典を納めていたのでしょうか?
納経帳には、奉納した経名、本尊名、寺院名などが墨書や印判で記されています。納経帳に記された奉納経名を見てみると、18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。さらに1760年代以降になると、奉納経名も記載されなくなります。
長崎街道49~大乗妙典六十六部塔とお地蔵様と | 長崎ディープ ブログ

この変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経する寺社数が100以下だった時期ならともかく、巡礼する寺社数が700近くに増えると、それも難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなります。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯をたどるようです。
   六十六部の残した納経帳から白峯寺に関する部分を研究者が一覧表にしたのが下図です
白峯寺 六十六部の納経帳
白峯寺に関する六十六部納経帳の記述内容一覧
期間は、正徳元年(1711)から明治15年までの納経帳です。。
最初の正徳元年の納経帳には、洞林院が出てきます。洞林院は、近世始めに生駒家の支持を受けて、白峰寺一山の支配権を握った院房です。院主別名のもとで、勧進方式で伽藍の整備を進めて、白峰寺を復興します。「洞林院者本尊千手観音也」とあるので、洞林院の本尊は千手観音であったであったことが分かります。

白峯寺 十一面観音
白峯寺の十一面観音菩薩

次に宝暦3年(1753)の納経帳には、「崇徳院陵廟所 綾松山白峰寺役人」と記されています。
崇徳院陵とのつながりが強調されています。ちなみに、もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししました。白峰寺が、そのお株を横取りしているように見えます。
約30年後の天明2年(1782)には「千手院宝前」として「千手院」という寺名が登場します。
これは一山の本尊である千手観音をさすようです。以後は版木押しの「本堂千手院」という名称が数多く見られます。そして、江戸時代を通して、「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」を強調して、それをセールスポイントにしていたような印象を受けます。
明治を向かえると、版木で押された内容は次のように目まぐるしく変化していきます。
明治7年までは 「奉納経 本堂千手院宝前 崇徳天皇御廟所 讃州白峯寺 政所」
明治9年 「崇徳帝御陵所」
明治10年 「奉納経 四国第八十一番霊場 本尊千手観音大悲殿 讃州白峯寺執事」
明治15年 「奉納経 本尊千手大悲閣 讃岐国白峯寺」
このように頻繁に納経印の内容が変化します。これは以前にお話しした明治維新の神仏分離・廃仏毀釈に伴う、白峯寺の混乱を反映しているようです。
明治元年には、崇徳上皇の御霊が京都に新設された新御陵に移されます。その結果、「崇徳天皇御廟所 政所」とは名のれなくなり、「御陵所」にせざるえなくなります。
明治6年には、白峯寺住職が還俗して崇徳帝山陵陵掌となり、寺が無住となります。そのため急遽洲崎寺から橘渓道を招いて住職につきます。明治11年には、頓證寺が事比羅宮(金刀比羅官)によって摂社化されて、建物や所属の物品が事比羅宮に移管されてしまいます。この時に多くの宝物品が事比羅宮に移されたます。この時期の出来事については『神仏分離資料』に詳しく記されていて、以前にも紹介しました。
以上、六十六部が残した納経帳で白峰神社について書かれた部分を歴史順に見てきました。ここからは、江戸時代の白峯寺が 「崇徳天皇御廟所 政所」を寺のセールスポイントしていたことが分かります。それだけに、明治の神仏分離で「御廟所→御陵」となり、寺から完全に分離されたことは大きな打撃であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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現在の四国遍路は、次のような三段階を経て形成されたと研究者は考えるようになっています。
①古代 
熊野行者や聖などの行者による山岳修行の行場開発  (空海の参加)
②中世 
行場に行者堂などの小規模な宗教施設が現れ、それをむすぶ「四国辺路」の形成
③近世 
真念などにより札所が定められ、遍路道が整備され、札所をめぐる「四国遍路」への転進

①の古代の「行場」について、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
阿国大滝嶽に踏り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す
(中略)
或るときは金巌に登って雪に遇うて次凛たり。或るときは石峯(石鎚)に跨がって根を絶って轄軒たり。
ここからは阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山で弘法大師が修行したことが分かります。これらの場所には、現在は21番太龍寺、24番最御崎寺、60番横峰寺(石鎚山遥拝所)があり、弘法大師と直接関わる行場であったこと云えます。

DSC04629
土佐室戸崎での空海の修行

 四国霊場の札所の縁起は、ほとんどが空海によって開かれたと伝えます。しかし、空海以前に阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山などでは、すでに行者たちが山岳修行を行っていました。若き空海は、彼らに習ってその中に身を投じたに過ぎません。中世になってやってきた高野聖などが弘法大師伝説を「接ぎ木」していったようです。
   平安時代末期頃になると『今昔物語集』や『梁塵秘抄』には、「四国の辺地」修行を題材にした話が出てきます。
そこに描かれた海辺を巡る修行の道は、現在の四国辺路の原形になるようです。ここには、各行場が海沿いに結ばれてネットワーク化していく姿がイメージできます。それでは、山岳寺院のネットワーク化はどのように進められたのでしょうか。今回は、中世の山岳寺院が「四国辺路」としてつながっていく道筋を見ていくことにします。テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年 141P」です
和歌山・本宮/熊野古道】山伏と歩く熊野古道(大峰奥駈道)・貸切ツアー・小学生よりOK・初心者歓迎 | アクティビティジャパン
熊野街道と行者
鎌倉~室町時代中期には、全国的に熊野信仰が隆盛した時代です。
札所寺院の中には、熊野神社を鎮守とすることが多いようです。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
愛媛県の熊野神社 修験者が勧進したと伝える神社多い

そのため四国辺路の成立・展開には熊野行者が深く関わっていたという「四国辺路=熊野信仰起源説」が早くから出されていました。 しかし、熊野行者がどのように四国辺路に関わっていたのか、それを具体的に示す史料が見つかっていませんでした。つまり弘法大師信仰と熊野行者との関係について、両者をどう繋ぐ具体的史料がなかったということです。

増吽

 そのような中で、両者をつなぐ存在として注目されるようになったのが「増吽僧正」です。
増吽は「熊野信仰 + 真言僧 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経センター所長」など、いくつもの顔を持つ修験系真言僧者であったことは、以前にお話ししました。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽とつながる修験者の活動エリア

 増吽は讃岐大内郡の与田寺や水主神社を本拠とする熊野行者でもありました。例えば、熊野参詣に際しては讃岐から阿讃山脈を越え、吉野川を渡り、南下して牟岐や海部などの阿波南部の港から海路で紀州の田辺や白浜に着き、そこから熊野へ向かっています。四国内に本拠を置く熊野先達は、俗人の信者を引き連れ、熊野に向かいます。この参詣ルートが、後の四国辺路の道につながると研究者は考えています。また、これらのエリアの真言系僧侶(修験者)とは、大般若経の書写活動を通じてつながっていました。

弘法大師 善通寺御影
「善通寺式の弘法大師御影」 
我拝師山での捨身修行伝説に基づいて雲に乗った釈迦が背後に描かれている

 増吽の信仰は多様で、大師信仰も強かったようです。
彼は絵もうまく、彼の作とされる「善通寺式御影」形式の弘法大師の御影が各地に残されています。この御影を通じて弥勒信仰や入定信仰などを弘め、「弘法大師は生きて私たちと供にある」という信仰につながったと研究者は考えています。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)

 四国には、増吽のような信仰の姿を持つ真言宗寺院に属した熊野先達が数多くいたことが次第に分かってきました。彼等によって四国に入定信仰・弥勒信仰を基盤とする弘法大師仰が広げられたようです。そして、真言系熊野先達の寺院間は、大般若経の書写や勧進活動を通じてネットワーク化されていきます。この時期の山岳寺院は孤立していたわけでなく、寺院間の繋がりが形成されていたようです。こうした熊野信仰と弘法大師信仰とのつながりは、室町時代中期までには出来上がっていたようです。しかし、そこに四国辺路の痕跡はまだ見ることはできません。それが見えてくるのは16世紀の室町時代後期になってからです。

医王寺本堂内厨子 文化遺産オンライン
浄土寺本堂の本尊厨子
愛媛県の49番浄土寺本堂の本尊厨子に、次のような落書が残されています。
四国辺路美?
四国中辺路同行五人
えち     のうち
せんの  阿州名東住人
くに   大永七年七月六日
一せう
のちう  書写山泉□□□□□
人ひさ  大永七年七月 吉日
の小四郎
南無大師遍照金剛(守護)
意訳変換しておくと
四国辺路の中辺路ルートを、次の同行五人で巡礼中である
えち     のうち せんの  阿州名東住人 くに 
 大永七年(1527)七月六日

(巡礼メンバー)は「のちう  書写山(姫路の修験寺)の泉□□□□□ 人ひさ」である。
大永七年(1527)七月 吉日   の小四郎
南無大師遍照金剛(弘法大師)の守護が得られますように
ここからは、次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)前後には、浄土寺の本尊厨子が完成していたこと
②そこに「四国辺路」巡礼者の一団が「参拝記念」に、相次いで落書きを残したこと。
③巡礼者の一団のメンバーには、越前や阿波名東の住人、姫路書写山の僧侶などいたこと。彼らが「四国辺路」の中辺路ルートを巡礼していたこと
南無大師遍照金剛とあるので、弘法大師信仰を持っていたこと

閑古鳥旅行社 - 浄土寺本堂、浄土寺多宝塔
浄土寺本堂
さらに翌年には次のような落書きが書き込まれています。
金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四日
金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年五月九日
左恵 同行二人大永八年八月八日
意訳変換しておくと
高野山金剛峯寺の谷上惣職の善空 大永八年五月四日
高野山金剛□□満□□□□□□同行六人  大永八年五月九日
左恵  同行二人         大永八年八月八日
ここからは次のようなことが分かります。
①高野山の僧侶が四国辺路を行っていること
②また2番目の僧侶は「同行六人」とあるので、先達として参加している可能性があること。
 また讃岐国分寺の本尊にも同じ様な落書があって、そこには「南無大師遍照金剛」とともに「南無阿弥陀仏」とも書かれています。
以上からは、次のようなことが分かります。
①室町時代後期(16世紀前期)には「四国辺路」が行われていたこと
②四国辺路には、高野山の僧侶(高野聖)が先達として参加していたこと
②四国辺路を行っていた人たちは、弘法大師信仰と阿弥陀念仏信仰の持ち主だったこと
現在の私たちの感覚からすると「四国遍路」「阿弥陀信仰」は違和感を持つかも知れません。が、当時は高野山の聖集団自体が時宗化して阿弥陀信仰一色に染まっていた時代です。弥谷寺も阿弥陀信仰流布の拠点となっていたことは以前にお話ししました。四国の山岳寺院も、多くが阿弥陀信仰を受入ていたようです。

この頃に四国辺路を行っていた人たちとは、どんな人たちだったのでしょうか?ここで研究者が注目するのが、当時活発な宗教活動をしていた六十六部です。
経筒とは - コトバンク
経筒

16世紀頃に、六十六部が奉納した経筒を見ていくことにします。
この時期の経筒は、全国各地で見つかっています。まんのう町の金剛院(種)からも多くの経筒が発掘されているのは、以前にお話ししました。全国を廻国し、国分寺や一宮に逗留し、お経を書写し、それを経筒に入れて経塚に埋めます。それが終わると次の目的地へ去って行きます。書写するお経によっては、何ヶ月も近く逗留することもあったようです。

陶製経筒外容器(まんのう町金剛寺裏山の経塚出土)

それでは、六十六部は、どんなお経を書写したのでしょうか?
 六十六部の奉納したお経は、釈迦信仰に基づいて『法華経』を奉納すると考えられますが、どうもそうとは限らないようです。残された経筒の銘文には、意外にも弘法大師信仰に基づくものや、念仏信仰に基づものがみられるようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
廻国六十六部
島根県大田市大田南八幡宮出土の経筒には、次のように記されています。
四所明神土州之住侶
(バク)奉納理趣経六十六部本願同意
辺照大師
天文二(1533)年今月日  
ここからは、土佐の四所明神の僧侶が六十六部廻りに訪れた島根県太田市で、『法華経』ではなく、真言宗で重要視される『理趣経』を書写奉納しています。さらに「辺照(遍照)大師」とありますが、これは「南無大師遍照金剛」のことで、弘法大師になります。ここからは六十六部巡礼を行っている「土佐の四所明神の住僧」は、真言僧侶で弘法大師信仰を持っていたことが分かります。
島根県:コレクション しまねの宝もの(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / フォトしまね / 170号)
大田南八幡宮(島根県太田市)の銅製経筒

さらに別の経筒には、次のように記されています。
□□□□□幸禅定尼逆修為
十羅刹女 高野山住弘賢
奉納大乗一国六十六部
三十番神 天文十五年正月吉日
ここからは、天文15年(1546)に高野山に住している弘賢が廻国六十六部のために奉納したものです。高野山の僧とは記していないので聖かもしれません。当時の高野聖は、ほとんどが阿弥陀信仰と弘法大師信仰を併せ持っていました。
次に念仏信仰について書かれた経筒を見てみましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄土三部経六十六部
子□
祈諸会維天文十八年今月吉
越前の在家入道は天文18年(1549)に「無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の浄土三部経を奉納しています。これは浄土阿弥陀信仰の根本経です。このように六十六部は『法華経』だけでなく密教や浄土教の経典も奉納していることが分かります。

次に宮城県牡鹿郡牡鹿町長渡浜出土の経筒を、見ておきましょう。
十羅刹女 紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部沙門良源行人
三十番神 大永八年人月吉日 白
施主藤原氏貞義
大野宮房
この納経者は、高野山谷上で行人方に属した良源で、彼が六十六部となって日本廻国していたことが分かります。行人とあるので高野聖だったようです。高野山を本拠とする聖たちも六十六部として、廻国していたことが分かります。
2.コラム:経塚と経筒

経筒の奉納方法
 先に見た愛媛県の浄土寺本尊厨子の落書にも「高野山谷上の善空」とありました。彼も六十六部だった可能性があります。つまり高野山の行人が六十六部となり、四国を巡っていたか、あるいは四国辺路の先達となっていたことになります。ここに「四国辺路」と「六十六部」をつなぐ糸が見えてきます。

2公式山3
善通寺の裏山香色山山頂の経塚

今までのところをまとめておきます。
①16世紀前半の高野山は時衆化した高野聖が席巻し、高野山の多くの寺院が南無阿弥陀仏をとなえ念仏化していた。
②浄土寺や国分寺の落書からみて、高野山の行人や高野山を本拠とする六十六部、さらに高野聖が数多く四国に流人していた
③以上から弘法大師信仰と念仏信仰を持った高野聖や廻国の六十六部などによって、四国辺路の原形は形成された。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献      武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P


四国霊場弥谷寺における中世の念仏聖たちの活動を以前に見ましたが、その中で高野聖たちの果たした役割がよく分からないとの指摘を受けました。そこで、五来重「高野聖」の読書メモ的な要約を載せておきたいと思います。テキストは、五来重『増補 高野聖』と「愛媛県史 四国遍路の普及」です。
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弘法大師信仰を地方に広げていくのに活躍したのが高野聖(こうやひじり)たちです。彼らの果たした役割を、明らかにしたのが五来重の「高野聖」です。この本の中で聖の起源を次のように記します。

「原始宗教者の『日知り』から名づけられたもの」で、『ひじり』は原始的な宗教者一般の名称であった

 聖の中は、呪力を身につけるための山林修行と、身の汚れをはらうための苦行を行います。これが聖の山林への隠遁性と苦修練行の苦行性につながります。
 原始宗教では、死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路を続けると考えられていたようです。これを生前に果たしておこうという考え、彼らは巡礼を行います。そのために、聖の特性として回遊(廻国)性が加わります。
 こうして隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術に用いられるようになります。これは民衆からすれば、聖は呪術性のある特別な存在をおもわれるようになります。
その他に、聖には次のような特性があると指摘します。
①妻帯や生産などの世俗生活を営む世俗性
②集団をなして作善をする集団性
③寺や仏像をつくるための勧進をする勧進性
④勧進の手段として行う説経や祭文などの語り物と、絵解きと踊り念仏や念仏狂言などの唱導を行う唱導性
 こうして、聖たちは、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつ者として歴史に現れてくるようになります。高野聖もこのなかのひとつの集団になるようです。
 聖は、古代から存在していたことを、谷口廣之氏は次のように述べています
「四国は、霊山信仰や補陀落信仰などの重層する信仰の地であり、遊行する聖たちの頭陀行の地であった。四国遍路成立以前に四国の地は彼らによって踏み固められていったのであった。しかしそれぞれの信仰の要素は多様であって、まだ弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではない。」

 「現在では四国霊場は空海弘法大師によって開かれた」というのが当たり前に云われています。しかし、歴史家たちはそうは考えていないようです。空海以前から聖(修験者・行者)たちは霊山で修行を行っていて、その集団の中に若き日の空海も身を投じたという見方をします。また、空海以後も四国の地を遊行した聖たちは、蔵王信仰・熊野信仰・観音信仰・阿弥陀信仰・時衆信仰などそれぞれの信仰に基づいた修行をしていたようで、弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけでありませんでした。
阿波の板碑
高野

聖たちの中で、高野聖が登場するのは、平安中期以降のことだとされます。

もともと高野山では、信仰心のある隠遁者が集まり、出家せずに聖として半僧半俗の生活をしていた者がいたようです。そのような中で、正暦5年(994年)に高野山は大火に見舞われます。その復興を図るために僧定誉(じょうよ)が、聖を勧進集団に組織したのが高野聖の始まりとされるようです。
 その後は、次のような集団が、高野聖として活発な活動を展開します。
①教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)などの真言念仏集団による小田原聖・往生院谷聖
②中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)
③禅的信仰を加味した萱堂(かやどう)聖
④時宗聖集団を形成した千手院谷聖の諸集団
 高野聖の主な活動は、勧進でした。
 古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園をもち、これが経済基盤となっていました。しかし、平安中期になって律令体制が崩壊すると、荘園からの収入が思うように得られなくなります。寺院経営には、伽藍や法会の維持、僧供料など多くの資金が必要です。それが得れなくなった多くの古代寺院は退転していきました。生き残っていくためには、新たな収入源を確保する必要に迫られます。その一つの方法が、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の確保です。こうして全国に散らばった聖は、布教とともに勧進にかかわりるようになります。
 例えば讃岐の霊場弥谷寺に先ず根付いたのが阿弥陀信仰であり、その後の伽藍配置には時衆念仏信仰の影響が見られることは、以前にお話ししました。これも高野聖の一流派である②の五室聖や④の千手谷聖の活動が背景にあったことがうかがえます。彼らは里の郷村への阿弥陀念仏信仰を流布しながら、先祖供養のために「イヤダニ詣り」を勧めたのです。それが現在の弥谷寺に、磨崖五輪塔や地蔵形墓標として残ります。同時に、信者を高野山の勧進活動へと導いていきます。高野山には、高野聖が全国から勧進して集まった資金が流れ込むことになります。
西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
関東・平泉に勧進のために下る西行 西行も高野聖であった
 高野聖は、「高野山が日本の先祖供養の中心地」であることを、説話説教によって信者に広げます。
そして高野山への納骨参詣を誘引します。各地を回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運ぶようになります。さらに納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供するようになります。このように高野聖は、高野山での役割は、宗教よりも生活を担うことで、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等にを担当します。こうして、高野聖は、高野山の台所を支える階級となっていきます。別の見方をすると、高野山という仏教教団の上部構造は学問僧たちでした。しかし、それを支えた下部構造は、学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を果たした高野聖たちであったと云えそうです。
勧進とは - コトバンク
勧進集団

 高野山奥の院への杉木立の参道に建ち並ぶ戦国武将や大名達の墓は、ある意味では高野聖の活動の証と云えるのかも知れません。高野山の堂塔・院坊の再興と修復、仏像の造立と法会の維持、あるいは山僧の資糧などは、高野聖の勧進によって支えられていたのです。
君は勧進上人を知っているか?|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)
勧進や高野山詣りを担当する高野聖の活動は、庶民との密接なかかわりによって成り立つものでした。そのために彼らは、足まめに担当諸国を廻国し、人集めのために唱導や芸能も行いました。次第に庶民に迎合して、世俗化する傾向が生まれるのも自然の成り行きです。高野聖の世俗化した姿は「非事吏(ひじり)」などと書かれて卑しめられたり、宿借聖とか夜道怪(やどうかい)などと呼ばれて、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」とか「人のおかた(妻女)とる高野聖」と後ろ指を指されていたことが分かります。高野聖は、人々から俗悪な下僧と卑しられるようになっていったのです。
高野聖とは - コトバンク
高野聖
 やがて呉服聖といわれるような商行為や隠密まではたらくようになり、本来の姿を大きく逸脱していくようになります。高野聖のこうした世俗性が俗悪化につながり、中世末期には世間の指弾を受けるようになり、堕落した高野聖は消滅していきます。

やまだくんのせかい: 江戸門付
聖たちのその後

高野山内部での「真言原理主義運動」が高野聖を追い出した
真言密教として出発した高野山でしたが、中世には浄土往生と念仏信仰のメッカとなっていました。鎌倉時代の高野山は、念仏聖が群がり集まり、念仏信仰の中心拠点となっていて、それを高野聖たちが担って全国に拡散したのです。ところが室町時代になると、「真言復帰の原理主義」運動が起き、その巻き返しが着々と進んでいきます。室町時代半ばの15世紀末ごろからは、自発的に高野聖の中には「真言帰人」を行う者も現れるようになります。そして江戸時代になると慶長11年(1606年)年に将軍の命として、全ての高野聖は時宗を改めて真言宗に帰人し、四度加行(しどけぎょう)(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡素な真言宗の入信儀式)を受けるよう命じられます。これが高野聖の歴史に終止符をうつことになります。
画像をクリックすると、拡大する。 第一巻 52 【前へ : 目次 : 次へ】 願人 - 【願人坊主  がんにんぼうず】は、江戸時代に存在した大道芸人の一種。穢多・非人に連なる賎民であるが、形式上は寺社奉行の管轄下にあったので、町奉行は扱いにくかった  ...
願人

高野聖の弘法大師信仰流布に果たした役割を研究はどのように捉えているのかを見ておきましょう。
 五来重氏は、高野聖の役割について次のように述べています。

 高野聖は、奈良時代以来、庶民信仰を管理した民間宗教者としての聖を追求するなかで姿をあらわしたものであった。これらの聖は念仏もすれば真言もとなえ、法華経を読み大般若経を転読し、神祗を崇拝し苦行もするという、宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者であった。実に弘法大師信仰に宗派がないということは、このような精神風土の上に成立したものであることがわかる。それは弘法 大師の偉大さとして説かれるけれども、弘法大師を偉大ならしめるのは庶民の精神構造であった。これを知らなければ高野山がなぜ宗派を越えた日本総菩提所になったのか、また弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて高く信仰されるのか、という疑問を解くことはできない。
   
ここには高野聖が「宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者」で、その性格は「庶民の精神構造」に起因するとします。だから「弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて信仰」され、弘法大師一尊化への道が開かれると考えているようです。
日本遊行宗教論(真野俊和 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 また真野俊和氏は、次のように述べます。
さまざまな形態の弘法大師信仰を各地にもち伝えたひとつの大きな勢力に、12世紀頃からあらわれて中世末頃まではなばなしい活躍をした高野聖がある。中世の高野聖たちはまた、高野山そのものが現世の浄土であり、人は死後そこに骨を納めることによって仏となるという信仰をもって民衆の心の内に入りこみ、高野山納骨という習俗を全国にひろめた。弘法大師誕生の地である四国はこんな高野聖にとっては最も活躍しやすい場でもあったろう。四国霊場の遍照一尊化という風潮も、以上の歴史的文脈のなかでとらえねばならない。そしてまた中世期高野聖の活動による大師信仰の普及をとおして、四国遍路の宗教思想は形づくられ、また全国に普及していったはずだ。なぜなら弥勒下生思想のもとでの不死・死滅の大師、復活する大師、そして霊能高く偉大な奇跡を行いうる存在としての大師のイメージは、現実の「同行二人」の信仰のもとに彼らとともに巡歴して苦難を分がちあい、かつさまざまな霊験を遍路たちにもたらす大師像と、その輪郭はあまりにもくっきりと重なりあってくるからである。ここに現れる、影のごとくにして遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴する大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかをさし示すことは難しいが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出現した観念であるにちがいない。

ここでは研究者は、次の2点を指摘します。
①高野聖の活動を通して四国霊場の弘法大師一尊化という風潮が形成されたこと、
②中世高野聖によって大師信仰が普及し、それを通して四国遍路の宗教思想が形づくられて全国に普及したこと
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 谷口廣之氏は、次のように述べています。
現在でも八十八ヶ所を巡拝した遍路たちは御礼参りと称して高野山に参詣するが、高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたのであろう。もちろん四国を遊行した聖は高野聖だけでなく、六十六部といった法華経行者や修験の徒などその種類は多い。しかし遍照一尊化への四国霊場の統一は彼らの活躍を抜きに考えられないだろう。

ここでは、次のことが指摘されています。
①高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたこと
②弘法大師信仰と遍照一尊化一色へ四国霊場を染め上げていったのは、高野聖の活動なしには考えられないこと
 以上を整理すると、次のようになります。
①高野聖の宗教宗派にこだわらない布教活動が、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたこと
③高野聖の地道な活動を通して、弘法大師信仰は地方の隅々にまで浸透していき、四国霊場の弘法大師一尊化の風潮が強められていったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献
       五来重『増補 高野聖』
「愛媛県史 四国遍路の普及」

女体山
大窪寺から女体山への四国の道をたどると奥の院
「四国遍礼霊場記」(寂本 1689年)には、大窪寺の奥の院のことが次のように記されています。
(前略) 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。

D『四国遍礼名所図会』(1800)には、次のように記されています。
奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀後半には、本堂から18町(約2㎞)登った岩屋に奥の院があり、阿弥陀と観音が安置されていたこと
②弘法大師虚空蔵求聞持法修行地とされ、井戸があったこと。
③それから約110年後の18世紀末には、訪れる人もなく荒れ果てていたこと。

大窪寺 奥の院
大窪寺奥の院
 大窪寺境内から四国の道に導かれて約2 kmほど登ると奥の院に着きます。お堂とは思えないような建物が岩壁を背負って建っています。現在の奥の院の建物は、屋根はトタン葺き、内部は十畳ほどの畳敷の奥に岩窟があり、堂は岩窟に取り付くように建てられています。両側の壁はコンクリートブロックで岩窟と連結されています。

大窪寺奥の院 内側
大窪寺奥の院の内側
畳敷の奥の岩窟は、三段になっていて、上段に1体、中段に3体、下段に2体、全部で6体に石仏たちが安置されています。前面には祭壇が設けられ、かつては行が行われていたことがうかがえます。この6体の石仏について、研究者が調査報告しています。今回は、この報告を見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」です。

奥の院の堂内に安置された石仏たちを見ていきましょう。
大窪寺奥の院 石仏配置
大窪寺奥の院の石仏
(1)阿弥陀如来坐像 砂岩製  高さ38.5cm、幅29cm、奥行25.5cm
一番上に上に安置されているのが阿弥陀如来坐像のようです。研究者は次のように指摘します。

大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座と一石で製作されており、背面は蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。
脚部前面の一部が欠失しており、蓮華座の一部も欠損しているが、欠損部は石仏横に置かれている。印は定印を結び、肉醤が小さく、髪際中央部のラインが上方に切れ込んでいる。また、白眉、三道を表現している。
 (2)十―面観世音菩薩坐像 砂岩製  高さ37cm、幅29cm、奥行25.5cm

大窪寺奥の院 十一面観世音
中段左側の十一面観世音菩薩坐像
研究者の指摘は次の通りです。
阿弥陀如来と同じく、丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座も阿弥陀如来坐像と同じく、一石で製作されており、背面には蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。左手は、水瓶を持たず、直接蓮華を持っており、右手は掌を正面に向けた思惟印を結んでいる。蓮華の花部は三弁の簡易な形態を示してる。頭部は、上下三段に突起があり、上段に3つ、中段に2つ、下段に5つの合計10個認められ、正面の顔面を含めて十一面を表現している。体の特徴としては、首から肘にかけて傾斜して広がり、両肘部が胴部の最大幅となる。三道、条吊、腎釧、腕釧、右足を表現している。

(3)弘法大師坐像 砂岩製  高さ37.5cm、幅29.5cm、奥行き25.5cm
大窪寺奥の院 弘法大師
ふたつの弘法大師像

中段右側に安置されている小さい弘法大師坐像(3)です。阿弥陀如来と同じように、丸彫仏で背面の表現は見られませんが、背面には刺突状の工具痕が見えるようです。左手には数珠、右手には金剛杵を持っていて、弘法大師坐像のお決まりのポーズです。よく見ると、金剛杵を斜めに持っています。
(4)弘法大師坐像 砂岩製 高さ57.5cm、幅40cm、奥行き30.5cm
中段の真ん中に置かれた大きい弘法大師坐像(4)です。丸彫仏で、背面には法衣を表現しています。左手には数珠、右手には金剛杵を持つ、弘法大師坐像の一般型です。3の小さな弘法大師坐像とちがうのは、金剛杵を水平気味に持っていることだと研究者は指摘します。
(5)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ37cm、幅20.5cm、奥行10.5cm

大窪寺奥の院 地蔵菩薩
下段の左側に安置されている地蔵菩薩立像(5)で、舟形光背型を背負っています。
これについては研究者は次のように指摘します。
簡略化された蓮華座が特徴的で、地蔵菩薩を半肉彫で表現している。目と口は線刻で簡易的に表現されている。両手は突線で簡易的に表現されており、腹前で合掌している。衣文の装は斜め方向の線刻で表現されている。像の周囲には刺突状の工具痕が残るが、光背形の縁辺部は幅1.5cm~2 cmで工具痕は認められない。

「突線で表現された両手、簡易で特徴的な蓮華座、正面の像の周囲に残る刺突状の工具痕」という特徴から、研究者は16世紀末~17世紀前半の特徴が見えるといいます。線刻による小さな目、口の表現などは、高知県に多く、讃岐では見つかっていないタイプだと云います。
 この石仏が作られた16世紀末~17世紀前半は、讃岐では生駒氏によって戦国の争乱に終止符が打たれて、生駒氏の保護を受けた弥谷寺などでは復興が始まる時期になります。以前お話しした弥谷寺では、採掘された天霧石で、大きな五輪塔が造られ、生駒氏の墓標として髙松の菩提寺などに運び出されています。ここからは大窪寺が、生駒氏の保護を受けられずに、独自の信仰集団を背後に持っていたことをうかがえます。大窪寺には独特の舟形光背型石仏が持ち込まれていることになります。


(6)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ49cm、幅28cm、奥行き16cm
大窪寺奥の院 地蔵菩薩6


下段右側に安置されている地蔵菩薩立像(6)になります。形は左側と同じで舟形光背型ですが、直線的な立ち上がりで、角部の屈曲のが五角形です。半肉彫の地蔵菩薩を掘りだしたスペースは光背幅の1/3程度です。このタイプのものは19世紀ごろの特徴だと研究者は指摘します。下の蓮華座は、近世の丸彫石仏や近世五輪塔の蓮華座に共通する精級なものです。蓮華座下の突出部のスペースが広く、稜線によって3面に仕上げている点も特徴的なようです。

この地蔵菩薩には、次のような文字が掘られています。
右側「嘉永庚戊戊夏日 為先祖代々諸霊菩提」
左側「岩屋再営 施主 柿谷 澤女」
突出部正面に「幻主 慈心代」
ここからは、この石仏を寄進したのは、柿谷に住む澤女で、岩屋再営とあることから奥の院の堂宇の再建を行い、先祖供養のために嘉永3年(1850)に造立したことが分かります。「幻主」が何かしら気になる表現です。「奥の院の仮庵主である慈心代」という意味と研究者は考えているようです。慈心は、「大窪寺記録」には、第27代住持として記載がある人物ですが、位牌はなく、いつ亡くなったかなどは分かりません。位牌がない場合に考えられるのは、転院や退院した住持かもしれないということです。また、柿谷は地名のようですが、周辺にはない地名です。四国内で探すと、阿波国に柿谷という地名があるようですが、よく分かりません。
 どちらにしても、幕末に奥の院の堂宇が大窪寺の住職の手で行われ、その成就モニュメントしてこの地蔵菩薩が寄進されたようです。

大窪寺奥の院の石仏2
大窪寺奥の院の石仏

以上から奥の院堂内の石仏について、研究者は次のように考えているようです。
①阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は法量がほぼ同じであること
②阿弥陀如来坐像(1)と十一面観世音書薩坐像(2)の蓮華座が類似すること
③3基ともに背面を省略することなどのの共通点がみられること
以上から、この3体の石仏は、同時期に作られたものと考えます。そして製作時期については、近世のものであるとします。中世のものではないというのです。
 私は元禄2年(1689)『四国偏礼霊場記』に、「奥院あり岩窟なり、・…本尊阿弥陀・観音也」と記されているので、これが奥の院にある現在の阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)を指しているものと思っていました。そして中世に製作されたものと思っていたのですが、研究者は、「(現)石仏を指している可能性はあるが、時期の特定が難しいため、現時点で断定はできない。」と慎重な判断をします。
④ふたつある大小の弘法大師坐像(3)(4)は、法量・形態・特徴が異なるので製作時期がちがう。製作時期の先後関係も現時点では判然としないと、これも慎重です。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像(5)は、16世紀後半~17世紀前半の特徴があり、似たような様式の者が高知県には多くあるようですが、香川県内では見られない珍しいタイプになるようです。これは、大窪寺の信者や属した寺社ネットワークを考える際に興味深い材料となります。
以上の材料をどのように判断すればいいのでしょうか?

  奥の院には、現在は6つの石仏が安置されていることになります。
大窪寺奥の院 石仏配置

 その配置をもう一度確認しておきます。私が注目したいのは、一番上段に安置されているのが①阿弥陀如来だと云うことです。そして、その下に十一面観音と弘法大師像2体、一番下に地蔵菩薩という配置になります。これと同じような石仏のレイアウトが、以前紹介した弥谷寺の獅子の岩屋にあったことを思い出します。
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が彫りだされています。
P1150148
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏レイアウト

壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 その手前に、弘法大師・母玉依御前・父佐伯田公、その前に大型の弘法大師像があります。ここにも弘法大師像は大小2つありました。
P1150157
        弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏
側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。しかし、ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、研究者は大日如来ではなく地蔵菩薩と考えるようになっています。つまり、弥谷寺の獅子の岩屋の仏たちは「阿弥陀如来+弘法大師2体+弘法大師の父母、+地蔵菩薩」という構成メンバーになります。これは大窪寺奥の院の仏たちとメンバーも配置よく似ています。
 ここからは、大窪寺においても次のような宗教的な変遷があったことが推測できます。
①念仏聖や高野聖たちによる浄土=阿弥陀信仰
②志度寺・長尾寺など同じ観音信仰
③近世になっての弘法大師信仰
江戸時代になって、本山=末寺関係が強化されることによって、大窪寺も高野山の影響を強く受け、その管理下に入っていくようになります。同時に、四国霊場の札所としての地位が確立するにつれて、次第に①阿弥陀信仰は払拭されていきます。しかし、伽藍から遠く離れた奥の院では、阿弥陀仏が一番上に祀られ、礼拝されていたと私は考えています。幕末になって、大窪寺の住職が奥の院を修復し、地蔵菩薩を新たに安置する時にも、最上段の阿弥陀仏の位置を動かすことはなかったのでしょう。
冒頭でD『四国遍礼名所図会』(1800)には、「奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。」と記されていること紹介しました。しかし、大窪寺の住職が奥の院を改修し、新たに地蔵菩薩を寄進しているとすれば、奥の院は大窪寺のルーツとして忘れられていたわけではなかったことになります。

以上をまとめておくと
①大窪寺奥の院には、弘法大師が虚空蔵求聞持法の修行を行ったという伝説がある。
②奥の院には、現在6体の石仏が安置されている。
③この6体の中で、阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は、同時代のもので中世に遡ることはない。
④ふたつある大小の弘法大師坐像も先後をつけることは出来ないが近世のものである。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像2体のうちの(5)は、16世紀後半~17世紀前半のもので、土佐タイプに似ていて、讃岐では珍しいものである。
以上から奥の院には、時代順に 阿弥陀・地蔵信仰 → 観音信仰 → 弘法大師信仰のモニュメントとして、これらの石仏が安置されたと私は考えています。
88番 大窪寺 奥の院 胎蔵峯寺 全景 御影 御朱印 案内八丁とある) 案内 登り 案内 休憩所から下を見る 内部 脇の地蔵尊 脇の地蔵尊  四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ1 四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ2 タイトルに戻る 遍路の目次に戻る 四国八 ...
大窪寺奥の院胎蔵峰寺の本尊は、阿弥陀如来

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」

  大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷図
前回は、大窪寺の江戸時代の伽藍変遷を残された絵図から見てきました。その結果、本堂の位置は動いていないけれども、阿弥陀堂や大師堂などその他の建造物は江戸時代前半と、後半では移動していることが分かりました。今回は、現存する大窪寺の堂宇を見ていくことにします。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置図
テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」です。
大窪寺 本堂上空図
大窪寺の本堂と多宝塔(奥殿)

まずは 本堂・中堂・奥殿です
大窪寺の本堂は、正面に立って見ると分からないのですが上から見ると変わったレイアウトをしていることが分かります。本堂の後に奥殿(多宝塔形式)があり、中殿が二つの建物を繋いでいます。つまり三段構えになっている念入りな本堂です。この配置は前回に見た江戸時代の絵図には出てきませんので古いものではなく、明治33年(1900)の火災後に姿を見せた建物のようです。飛鳥様式が残るとされる本尊の薬師如来が座っているのは、奥の多宝塔です。

4大窪寺薬師正面
飛鳥様式の残る薬師如来坐像(大窪寺)

このお薬師さんは、薬壷のかわりに法螺貝をもっています。これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものなのでしょう。『四国辺賂日記』には、「弘法大師所持の法螺と錫杖がある」と書いてあります。が弘法大師所持の法螺を、お薬師さんが持っているのかどうかは分かりません。
   多宝塔の薬師如来坐像を礼拝するのは、中堂からになります。本堂と中堂が礼堂的な役目をし、後方の奥殿(多宝塔)が内陣的な役目を果たしていることになります。
大窪寺 本堂平面図
大窪寺本堂・中堂・奥殿(多宝塔)の平面図
本堂をもう少し詳しく見ておきましょう
本堂は、奥殿の礼堂としての機能を持ち、正面二間を土足で礼拝部、奥三間を法要時の着座作法の外陣として使用されていたようです。そのため内部には本尊がないようです。本堂と奥殿とを繋ぐ中殿は、本堂背面の中央間に合わせて桁行三間を接続、中央に法要具足を配置して、奥堂本尊を礼拝することになります。
本堂・中堂・奥殿は、明治33年(1900)に本堂が焼失した後に新築されたものです。
前回見たように江戸時代に書かれた『四国偏礼霊場記』(承応2年,1689)、『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年1854)には、本堂しか描かれてなかったのは見てきた通りです。ただ、次のように記されていました。
「四国遍路日記」(承応2年,1653)に
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。
『四国偏礼霊場記』に
多宝塔去寛文の初めまでありしかど倒れたり。
これらの記事から明治の再建新築の際に、多宝塔の再建が計画され、参拝や法要時の利便を考えて本堂と一体の拡張新築となったと研究者は考えているようです。
 本堂の構造について、研究者は次のように指摘します。
本堂は向拝から正面二間分の外礼堂までは、軸部・組物に伝統的な様式を採用しているが、後方三間では中堂も含めて、柱が直接桁を受けて組物を省略、奥堂平面では正面は三間とする。側面は四間、内部四天柱内須弥壇を置かず後方にずらし、周囲に畳敷きを採用、当初から軒下張り出し部を作り位牌壇を設けるなど、内部の構成は本堂としての機能が優先している。また上層組物は三手先組みにするなど、本来の様式から少し違うものに変更されている箇所が見られる。近代化を図るなかでの伝統建築の保全。活用の一形態を示しており、今後の一指針となり得るものである。

大窪寺 もみじやイチョウの紅葉 四国八十八ヶ所結願の寺と初詣 さぬき市 - あははライフ   
大窪寺 旧太子堂(現納経所)

旧大師堂は、昭和になって境内西側に新たに現在の大師堂が建設されたので、納経所に改められたようです。
『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年,1854)に描かれている大師堂と同じ位置にあります。
明治33年の大火で、大窪寺は本堂以外にもほとんどの堂宇を失ったようです。旧太子堂も、その後に再建されたものです。
研究者は大師堂について次のように指摘します。
背面軒下に仏壇、来迎柱が半丸柱、内部頭貫の省略と、近世から近代への変化が見られる。納経所に改装された際には各部補修や改変があったようである。内部後方の間仕切りや、外部サッシヘの変更、床組みの改修等が行われているが、その他軸部。組物・天丼や背面仏壇廻りは明治再建のものであろう。


大窪寺阿弥陀堂

阿弥陀堂も本堂・旧大師堂と同じように明治33年(1900)に焼失し、再建されたもののようです。
『四国遍礼名所図会』では建物は描かれていますが、本文中では「護摩堂、本堂に並ぶ」とあって、阿弥陀堂が出てきません。のちの『讃岐国名勝図会』では、再び「アミダ堂」となっています。高野山での念仏聖の追放と阿弥陀信仰弾圧が地方にも影響をもたらしていたのでしょうか。何かしらの「勢力争い」の気配はしますが、よく分かりません。
大窪寺 阿弥陀堂
大窪寺阿弥陀堂(調査報告書より)
研究者は次のように指摘します。
建物は、向拝に組物を組み、母屋正面中央間内法に虹梁を入れて諸折桟唐戸で装飾性を高めてはいるが、母屋柱上は側桁を直接受け、内部天丼も悼縁天丼など、比較的簡素な建物である。柱の大面取や建具、向拝廻り垂木の扱いなど、大師堂より近世の様式が窺われる建物である。
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大窪寺二天門

二天門は明治の大火から唯一免れた建物のようです。
大窪寺  讃岐国名勝図解
『讃岐国名勝図会』(1854年)
『四国遍礼名所図会』(1800年)に描かれている楼門と同じように見えます。『讃岐国名勝図会』には二王門の表記があります。絵図資料からは、この建物が『四国遍礼名所図会』(1800年)が書かれる以前に建てられたいたことを示します。
研究者は、次のような時代的特徴を指摘し、建立年代を示します。
①上部側廻りが吹き放し
②中央柱間貫に吊り環状の金具があり
③正面中央間柱内側に撞木吊り金具状のものが残る。
④正面腰貫が入れられてない
以上から、寺伝にいう明和4年(1767)には二天門が建立され、梵鐘が吊られた可能性もあるとします。しかし、細部の様式からは18世紀の中期建立は想定しにくく、どちらかというと19世紀になって建てられたといってもでもおかしくない建物だと考えているようです。
現在の二天門の上層には外部柱間装置の痕跡が見られません。それは、当初から梵鐘を吊ることを想定して建立されているからです。すでにそれまであった門に仮に鐘を釣り込んで、後に新たに建造された可能性もあると指摘します。
大窪寺 二天門
大窪寺二天門
二天門の組物については、次のように述べています。
下層組物は側廻り柱上に大斗を置いて、四周縁葛を受ける絵様肘木を乗せている。正背面中央間頭貫下正面には「龍」、背面には「獅子」の持ち送りが入る。その他中央仕切り上の虹梁中央に暮股を入れ、正背面中央間の頭貫上に天丼桁を受ける斗を置くのみである。上層柱上は平三斗組み、実肘木で、側桁を受けている。両妻は化粧母屋桁下、前包み水切り上に三斗組み、実肘木を組み、化粧母屋と同高に虹梁、中央は大瓶束のみとして棟木を受ける。

第88番大窪寺(おおくぼじ)

かつて女体山には年に2回はテントとシュラフをザックに担いで、長尾側から登っていました。山頂の東屋で「野宿」したことも何度かあります。この山が修験者たちの行場であったことは、山を歩いているとうすうすは感じるようになってきました。しかし、私の中では、それと麓の大窪寺がなかなかつながらなかったのです。
 整備された四国の道を通って南側の大窪寺に下りていくと、見事なもみじの紅葉が迎えてくれたことを思い出します。しかし、その伽藍は威風堂々として、若い頃の私は違和感を覚えたものです。その原因がこの寺の堂宇が二天門を除いて、ほとんどが近代になって作られたものであることに気づいたのは最近のことです。明治の大火で大窪寺は、ほとんどを失っているのです。その後の再建計画と復興への動きを知りたくなりました。しかし、手元にはその史料はありません。・・・

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」

  医王山大窪寺絵図
大窪寺絵図

 大窪寺の創建とその歴史については、よく分からないようです
『大窪寺縁起』には奈良時代の養老元年(717年)に行基の開創であり、平安時代になり、弘仁六年(815)に弘法大師が現在の地に再興したとされます。「行基創建=空海中興というのは、由来が分からないと云うことや」と私の師匠は教えてくれました。根本史料となる古代・中世の史料はないようです。
 弘法大師の弟子である真済が跡を継ぐと、寺域は百町四方、寺坊は百宇を数え、外門は寒川郡奥山村・石田村、阿波国阿波郡大影村、美馬郡五所野村にあったと、広大な寺域を保有していたと近世の史料は記しますが、これも信じるに足りません。現在の寺域や旧寺域とされる場所からは、中世の古瓦が出土していますが、古代にさかのぼるものはないようです。冒頭に示した「大窪寺絵図」も、これが実際の大窪寺を描いたものとは研究者は考えていません。
 しかし、以前に紹介したように香川県歴史博物館が行った総合調査では、次のことが分かっています。
①本尊の薬師如来坐像が飛鳥・天平様式で、平安時代前期のものであること
②弘法大師伝来とされる鉄錫杖が平安時代初期のものであること
ここからは大窪寺の創建が平安時代初期にまで遡れるの可能性は出てきたようです。しかし、本尊や聖遺物などは後世の「伝来品」である可能性もあるので、確定ではありません。弥谷寺・白峰寺などに比べると中世の史料が決定的に少ないのです。
4大窪寺薬師正面
薬師如来坐像(大窪寺本尊)

今回は、江戸時代に大窪寺を訪れた巡礼者が記録した4つの史料に大窪寺が、どんな風に記されているのかを見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会」です。
近世になると、四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、大窪寺に関する記述が出てきます。その代表的なものが以下の4つです。
A『四国辺路日記』 (澄禅 承応二年:1653)
B『四国辺路道指南』 (真念 貞享四年:1687)
C『四国偏礼霊場記」 (寂本 元禄二年:1689)
D『四国遍礼名所図会』 (寛政十二年  :1800)  
Aから順番に見ていくことにします。   
四国辺路日記 : 瀬戸の島から
  
A『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来 堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同大師五筆ノ旧訳ノ仁王経在り、紺紙金泥也。扱、此寺ニー宿ス。中ノ刻ヨリ雨降ル。十三日、寺ヲ立テ谷河二付テ下ル、山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也。タドリくテー里斗往テ長野卜云所二至ル、愛迄讃岐ノ分也。次ニ尾隠云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリー里行関所在、又一里行テ山中ヲ離テ広キ所二出ヅ。切畑(ママ)迄五里也。以上讃州一国十三ヶ所ノ札成就事。

  意訳変換しておくと
大窪寺の本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが半ば破損している。この寺も昔は七堂伽藍が備わり、十二の坊があったが、今は午縁所で本坊だけで住職はいない。また、弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経があり、紺紙に金泥で書かれている。
 この寺に一泊した。申ノ刻(三時頃)から雨になった。十三日に、寺を出発して谷河沿いに下って行ったが山中は細道で谷底なので、闇夜で道に迷ってしまった。ようやく一里ほど下って長野という所についた。ここまでが讃岐分で、次の尾隠からは阿波分になる。ここからー里程行くと関所がある、また一里行くと山中を抜けて開た所に出た。切畑(ママ)迄五里である。以上讃州一国十三ヶ所ノ札所詣りを成就した。
ここからは境内については、次のようなことが分かります。
①本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが破損状態
②昔は七堂伽藍、12坊があったが、今は本坊だけで住職はいない。
③弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経
①②の境内についての記述は、昔は七堂伽藍を誇っていたが今は本堂だけで、境内の西側に塔があるが、損壊していることが記されているだけです。 近世初頭の大窪寺は、まだ荒れていたことが分かります。生駒氏の援助を受けた讃岐の霊場が、復興の道を歩み出していた中で、大窪寺は遅れをとっていたのかもしれません。ただ、寺に宿泊したとありますので、阿波・土佐ののように「退転」という状態ではなかったようです。
四国お遍路|結願後のお礼参りとは?

澄禅の『四国辺路日記』の大窪寺の記述は、私たちの感覚からすると違和感があります。
それは、大窪寺が結願ではなく、阿波の切幡寺に向けて遍路を続ける姿が記されているからです。澄禅は、十七番の井戸寺から始めて、吉野川右岸の札所をめぐり、阿波から土佐、伊予、讃岐と現在とほぼ同じ順でめぐっています。そして、大窪寺から山を越えて阿波の吉野川左岸の十番から一番に通打ちして、一番霊山寺を結願としています。『四国辺路日記』では、霊山寺が結願寺となっています。
 また、現在のように阿波一番霊山寺を打ち始めとする者も、大窪寺で結願しても、そこがゴールとは考えられていなかったようです。阿波と讃岐の国境の山を越えて、十番の切幡寺から一番の霊山寺まで戻って帰るべきものとされていたようです。一番から十番まではすでに参拝しているのですが、もういっぺん大窪寺から逆打ちをして帰っています。つまり一番切幡寺から始めて、切幡寺で終わるべきものだとされていたようです。このように大窪寺が結願寺であるという認識は、この当時にはなかったことが分かります。それでは、いつごろから大窪寺が結願寺とされるようになったのでしょうか。それについては、また別の機会に・・・
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B『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
八十八番大窪寺 山地、堂南むき。寒川郡。本尊薬師 坐三尺、大師御作。
なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
これより阿州きりはた寺まで五里。
○ながの村、これまで壱里さぬき分。
○大かけ村、これより阿州分。
○犬のはか村○ひかひだに村、番所、切手あらたむ。大くぼじ(より)これまで山路、谷川あまたあり。是よりきりはたじまで壱里。
意訳変換しておくと
八十八番大窪寺は山中にあり、本堂は南むき。寒川郡。本尊は薬師坐像で三尺、大師御作と伝えられる。
ご詠歌は なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
この寺から阿州切幡寺まで5里。○長野村ま2里で、そこまでが讃岐分。○大かけ村からは阿州分。○犬のはか村○ひかひだに村に番所があって、切手(手形)が点検される。大窪寺からここまでは山路で、谷川越が数多くある。ここから切幡寺までは壱里。
ここにも本堂だけしか出てきません。その他の建造物には、何も触れていません。澄禅の「辺路日記」から約30年ほど経っていますが、大窪寺の復興は、まだ進んでいなかったようにうかがえます。しかし、2年後の寂本の記録を見ると、そうとも云えないのです。

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C「四国遍礼霊場記」(寂本 元禄二年:1689)
    医王山大窪寺遍照光院
此寺は行基菩薩ひらき玉ふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給ヘリ。本尊は薬師如来座像長参尺に大師作り玉ふ、阿弥陀堂はもと如法堂也、是は寒川の郡幹藤原元正の立る所也。鎮守権現丼弁才天祠あり。大師堂、国のかみ吉家公建立し、民戸をわけて付られしとなりっ鐘楼鐘長四尺五寸、是も吉家の寄進なり。多宝塔去寛文の初までありしかど朴れたり。むかしは寺中四十二宇門拾を接へたりと、皆旧墟有。奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のぼる、本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独古をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。又大師いき木を率都婆にあそばされ、文字もあざやかにありしを、五十年以前、野火こゝに入て、いまは本かれぬるとなり。本堂より五町東に弁才天有。此寺むかし隆なりし時、四方の門遠く相隔れり、東西南北数十町とかや、今に其しるしありと也。
 
意訳変換しておくと
  この寺は行基菩薩の開山とされる。その後、弘法大師が中興して密教布教の道場となった。
本尊は薬師如来座像で、参尺あり、弘法大師作と云う。阿弥陀堂は、もともとは如法堂だったもので、これは寒川郡の郡幹藤原元正の建立した建物である。鎮守権現弁才天祠がある。大師堂は、国守吉家公が建立し、民戸を併せて寄進した。鐘楼の鐘は長四尺五寸、これも吉家の寄進である。多宝塔は寛文初め頃まではあったが、今は倒壊して失われた。むかしは寺中に四十二の堂舎があったというが、皆旧墟となっている。
 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。大師は、生木を率都婆にして、文字を残した。これもあざやかに残っていたが、50年前に山火事で、この木も枯れてしまった。本堂から五町ほど東に弁才天がある。この寺が、かつて隆盛を誇った時には、四方の門は、遠く離れたところにあって、伽藍は東西南北数十町もあったという。今もその痕跡が残っている。
ここからは次のようなことが分かります。
①阿弥陀堂はもと如法堂だった。
②境内の東に鎮守権現と弁才天が祀られている
③国守吉家公寄進の大師堂と鐘楼がある。
④寛文期までは多宝塔があったが今は壊れている
⑤境内から十八町上ったところに奥院があり、弘法大師が虚空蔵求聞持法行った跡である

ここには、国守吉家の寄進を受けて大師堂や鐘楼などが整備されたと記されています。しかし、国司古家や寒川郡の郡司藤座元正については、どういう人物なのか、よくわからないようです。東西南北に数十町を隔てて山門跡があるとか、多宝塔も寛文年間(1661~73年)まではあった、寺中四十二坊があったとも云いますがそれを裏付ける史料はないようです。冒頭の絵図をもとに、かつての隆盛ぶりがかたられていた気配がします。
大窪寺奥の院までは四国の道が整備されている

ここで始めて奥の院のことが出てきます。
 弘法大師が虚空蔵求聞持法を修行したと記します。弘法大師が阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を修行したことは史料的にも裏付けられます。大学をドロップアウト(或いは卒業)した空海が善通寺に帰省し、そこから阿波の大滝嶽や室戸岬に行くには、大窪寺を通ったことは考えられます。その時には熊野行者たちによって、修行ゲレンデとなっていた女体山周辺で、若き空海も修行した可能性はあるかもしれません。大窪寺の発祥は、行者が奥の院を聞いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本尊を下ろしてきて本堂を建てたということでしょうか。

大窪寺奥の院胎蔵峰寺 | kagawa1000seeのブログ
大窪寺奥の院 

奥の院については、岩壁を背にして、一間と二間の内陣に三間四方の外陣が張り出しています。中には、多くの石仏があります。内陣には、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。

大窪寺 奥の院の石仏
大窪寺奥の院の石仏

 奥の院は発祥地になりますので、奥の院の本尊阿弥陀が下におりだとすれは、阿弥陀堂がこの寺の根本になります。弥谷寺でもお話ししましたが、中世の高野山は全山が時衆の念仏僧侶に席巻されたような時代がありました。そのため高野聖たちは、浄土=阿弥陀信仰を各地で広めていきます。弥谷寺でも初期に造られた磨崖仏は阿弥陀三尊像でした。ここでも高野山系の念仏聖の痕跡が見えてきます。
 歴史のある寺院は、時代や社会変化や宗教的な流行に応じて本尊を換えていきます。行場を開いたのは熊野行者、その後にやって来た高野聖たちが念仏と阿弥陀信仰と弘法大師信仰を持ち込みます。弥谷寺の本坊は遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。その後、いろいろな坊の修験者たちやお堂が分離併合されて、現在の伽藍配置になったと研究者は考えています。 ここで押さえておきたいことは、奥の院の本尊は阿弥陀如来であったこと。それが下ろされて阿弥陀堂が建立されていることです。
 たどり着いた結願寺|お遍路オンライン:四国八十八ヶ所のガイド&体験記
本堂背後に見える岩場に奥の院はあります。

 奥の院には「逼割禅定」の行場と洞窟があります。
寺の後ろに聳える女体山と矢筈山は、洞窟が多いところです。大きな岩窟がお寺の背後の峰に見えていて、行場としては絶好の山です。女体山の東部には虎丸山を中心に三山行道の行場があります。虎丸山は標高373mで高くはありませんが瀬戸内海が見渡せる景色のいいところです。その麓に、水主神社の奥の院があります。ここも熊野行者たちによって開かれた霊山で、別当寺としての与田寺の修験者たちの拠点でした。増吽は、ここを拠点にして写経センターを運営し、広域的な勧進活動や熊野詣でを行っていたことは以前にお話ししました。増吽を中心とする、修験ネットワークは備中や阿波にも伸びていて、讃岐では白峰寺や仁尾での勧進活動を行っています。中世の大窪寺は、そのような与田寺のネットワークの中にあったのではないかと私は考えています。
 増吽には「①熊野詣での先達 + ②書経センターの所長 + ③勧進僧 + ④ 弘法大師信仰」などの多面的な面がありました。増吽や廻国の高野聖などによって、弘法大師信仰がもたらされ、奥の院に空海修行の伝承が生まれるのは自然な流れです。

「四国偏礼霊場記」には、奥の院について「大師(空海)いき木(生木)を卒都婆にあそばされ」とあります。
卒塔婆は、もともとは生木を立てたようです。現在でも、生木塔婆あるいは二股塔婆といって、枝の出たものや皮のついた生木をもって塔婆にする場合もあります。これは、神道からすると、神の依代として神簸を立てたのが変形したものです。そういうまつり方をしていたことがここからは分かります。また、生木に仏を彫り込むのも修験者たちのやり方です。それを空海が行ったと記します。
大窪寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の大窪寺挿絵

寂本による「四国偏礼霊場記」の本文中には、本堂とともに、阿弥陀堂(元は如法堂)、鎮守・弁才天、大師堂、鐘楼、多宝塔などが出てきます。挿図からは次のようなことが分かります。
①本堂(薬師)は現在の位置にあるが、大師堂や弁才天は本堂の東側に、阿弥陀堂は本堂の西側に描かれていること。
②現在の本坊の位置に遍照光院と記されていること
③阿弥陀堂の西側に「塔跡」と記されていること。これが寛文の初めごろまであったと本文中に書かれている多宝塔跡のことか?
④現在は本堂の東側にある阿弥陀堂が、西側にあったこと
⑤この絵図では鎮守・弁才天は、境内には描かれていないこと。

D『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)        
八十八番医王山遍照院大窪寺 切幡寺へ五里霊山寺へ
当山は行基菩薩の開山とされ、その後に弘法大師が復興してと言われる。
詠歌、南無薬師しょびやうなかれと願ひつゝまいれる人ハあふくぼのてら
本堂の本尊は薬師如来座像で二尺、大師のお手製である。護摩堂は本堂に並んであり、大師堂は本堂の前にある。奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
谷川が数多くある。五名村に一宿。
十六日 雨天の中を出立。長野村の分岐を右に行くと切幡寺、左が讃岐の白鳥道になる、山坂、仁井の山村の分岐は左が本道であるが、大雨の時は右を選んで、川沿いに行くこと、谷川、新川村の分岐から白鳥へ十六丁。馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、塩屋川、と歩いて引田町で一宿。
閏四月十七日 日和がよい中を出発。引田町の浜辺を通って行くと、一里沖にふたつ並ぶ通念島が見える。小川を渡り、馬宿村の浜辺を通過する。坂本村から大坂峠への坂に懸る、途中の不動尊坂中に滝がある。讃岐・阿波の国境に峠がある。阿波板野郡、大師堂にも峠がある。峠より徳島城・麻植郡など南方一円の展望が開ける。大坂村に番所がある。切手(通行手形)が改められる。大寺村に荷物を置いて霊山寺え行って、再びここまで帰って来る。

ここからは次のようなことが分かります。
①本堂に並んで、今まで阿弥陀堂があったところが護摩堂になっていること。これは一時的なことで、幕末には現在と同じ阿弥陀堂にもどっています。
②本堂の前に大師堂があること。
②奥院は、ほとんど人が通らず荒れていること。
江戸時代の後半になると、修験者の活動も衰えて奥の院は、訪れる行者もいなくなっていたのがうかがえます。
大窪寺 四国遍礼名所図会
大窪寺 四国遍礼名所図会(1800年)

「四国遍礼名所図会」には、遍路道から階段を上った二天門を抜け、さらに階段を上がったところの奥側に本堂とその東側に並ぶ護摩堂、前面に位置する大師堂が描かれています。また、本堂の西側には、一段上がった石垣の上にあるのが鐘楼のようです。大師堂と護摩堂は屋根の形から見て茅葺か藁葺に見えます。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後に讃岐国名勝図会(1854年)の大窪寺を見ておきましょう


大窪寺  讃岐国名勝図解

護摩堂が再び阿弥陀堂に還っています。それ以外には四国遍礼名所図会と変化はないようです。

大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷表

大窪寺の伽藍配置の変遷についてまとめておきます。
①本堂は、移動はしていない
②しかし「四国偏礼霊場記」に描かれた17世紀中葉ごろの伽藍と「四国遍礼名所図会」に描かれた18世紀末ごろの伽藍配置は、相当異なっていて、境内で堂字の移動があったことががうかがる。
③大師堂は、本堂の東側にあったものが西側へ移動している
④阿弥陀堂も本堂の西側にあったものが、護摩堂と名前を変えて本堂東側に移動している
⑤ただし、建物自体が移動しているものか、名称・機能のみが移動したのかは分からない。
 以上のように江戸時代前期と後期にの間に、伽藍配置に変動があるようですが、寺域については大きく変化はないようです。現在の大師堂が寺域の西側に新設されたこと以外は、近世後期の境内のレイアウトが現在まで受け継がれていると研究者は考えています。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会
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鳥坂峠の上池(右)と大池(左) 背後は我拝師山
鳥坂峠は古来から丸亀平野と三野平野を結ぶ重要な峠です。鳥坂峠の手前で、伊予街道と分かれて弥谷寺に伸びる遍路道が分岐して、歓喜池(上池)の堤防を北に伸びていきます。

善通寺市デジタルミュージアム讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 善通寺市ホームページ

上池の堤防を渡りきった所に、かつての遍路宿があり、その庭に大きな地蔵さんが立っています。

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上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)
初めてこの地蔵に出会った時には、びっくりしました。大きいのです。讃岐の中では一番大きな地蔵さまのように思います。なんで、こんなところにこんな大きな地蔵さんが立っているの?という最初の出会いで思った疑問でした。
なかなかこの答え見つけられずにいたのですが、弥谷寺調査報告書2015年を読んでいると、この謎がやっと解けてきました。そこには、弥谷寺の経営戦略があったようです。今回は、どうして碑殿町の歓喜池(上池)のほとりに大きな地蔵が建てられたのかを見ていくことにします。
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 上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)

碑殿の上池に大地蔵は、いつ、だれによって建てられたのでしょうか?
寛政2年(1790)2月に、碑殿村の片山半左衛門は、次のような寄進状を残しています。
「上池之北山下畑の分畝有、残らず右地蔵尊御敷地、永代差し上ケ申し候」(「片山半左衛門寄進状」、文書1-15-55)、

意訳変換しておくと
「上池の北山下の畑地は、残らず地蔵尊御敷地として、永代寄進いたします。」

ここからは大地蔵の敷地を1790年に、片山半左衛門が寄進したことが分かります。このころから地蔵尊建立のための準備が進められていたようです。3年後の寛政5年に弥谷寺へ、常住寺から「上池尻石樋の西東」にある田1畝27歩(高3斗1升3合)が「永代譲り渡す田地」として、次のような文書が提出されています。

「此の度地蔵田二成され度思し召し二て、御所望の由仰せ聞かされ、至極御尤もの御儀二付き、早速御譲り申す」

ここからは弥谷寺の要望によって「地蔵田」が寄附されていることが分かります。この地蔵田に課せられる藩からの「諸役掛り物」は、弥谷寺が納めることになっています。以上から寛政5(1793)年には石地蔵菩薩は、現在地に姿を見せていたと研究者は考えています。

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大地蔵の台座側面

地蔵菩薩立像は花崗岩製で、高さが約3m、台座・台石と合わせると約4,9mになります。台石には次のように記されています。
(正面) 歓喜墜
(左面) 五名の戒名 泊浦宮本清二郎
(右面) 六名の戒名 与島岡崎
ここからは塩飽本島の泊浦の宮本氏と坂出市与島の岡崎氏が、この大地蔵を奉納したことが分かります。彼らは塩飽の有力人名衆になるようです。
 この地蔵菩薩立像は、『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))に、次のように記されています。
「穴薬師堂門を出て左手にあり、是より左へ山路を行。石地蔵尊 長二丈斗の石仏麓にあり」

弥谷寺 初地菩薩
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には、地蔵菩薩立像が描かれていて、右横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」と記されています。
この「初地」とは、菩薩の修行段階である十地(じゅうじ)の第一位のことで、十地とは「歓喜地・離啓地・発光地・焔慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地。法雲地」で、「初地」とは、「歓喜地(かんぎじ)」のことになるようです。
また「弥谷寺全図」に描かれた「初地菩薩」の横に3間×4間の入り母屋造りの建物が見えます。よく見ると、正面には2間の扉が描かれているように見えます。お堂や庵のようにも見えますが、これが弥谷寺が建てた接待所だったようです。

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なお現在、地蔵菩薩立像(大地蔵)の横にある建物は、地元での聞き取りからは、旧雨峯小学校であったことが分かっているようです。私は遍路宿とばかり思っていましたが先入観でした。

この地蔵菩薩立像の前には、灯籠が1基建てられています。
灯籠竿部に刻銘文があり、寛政12年(1800)に亡くなった真蓮栄範信士の供養灯籠で、享和元年(1801)に造立されています。刻銘文には、「弥谷寺現住無縛代」とあり、無縛は弥谷寺中興第八世(1807寂)です。ここからは18世紀後半には、弥谷寺の影響範囲がここまで及んでいたことがうかがえます。

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この大地蔵は、単独で作られたものではなく、新たな接待所のシンボルモニュメントとして建立されたようです。
寛政4(1792)年3月に、碑殿村の上池尻に接待所を設置することが弥谷寺から多度津藩に願いでられています。
「往来の四国辺路え茶施し申し願い出」(「続故事謂」、「諸願書控。文書2-104-4)

とあるので、弥谷寺が参拝者へのサービス提供のために、遍路道の整備や接待所などの設置などに務めていたことがうかがえます。その接待所の前に設置されたのが大地蔵になるようです。接待所の敷地に課せられる年貢は、弥谷寺から納めることになっています。接待所と大地蔵の建立は弥谷寺の手で進められたことが分かります。
 接待所と大地蔵が建てられてから60年近く経った安政4年(1857)になると、その管理と世話が問題となります。そこで弥谷寺住職の維那は、碑殿村役所と茶堂庵講中へ次のような依頼をしています。「地蔵守之書付入」、文書1-17-40)。
上池の「大仏地蔵尊」は先の住職菩提林が造立し、碑殿村の勘蔵に田地を譲って「香華」の世話させていた。ところが田地を売り払って年を経るに随って世話が疎かになっている。そこで、このたび弥谷寺が管理することにする。就いては、その世話を「同所茶堂庵講中」に世話を頼みたいたい」

ここからは、安政4(1851)年頃には、接待所は茶堂庵と呼ばれて、それを維持するために「茶堂庵講中」が組織されていたことが分かります。
この背景には18世紀末ころから金毘羅大権現の伽藍整備が進み、東国からの金毘羅詣で急増することがあります。金毘羅船で丸亀港にやってきた参拝客は金比羅を往復するだけでなく、善通寺や弥谷寺・海岸寺など「七ケ寺めぐり」をするのが一般的になります。これには巧みな参拝者誘引のための手法があったことは、以前にお話ししました。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
丸亀港にやってきた参拝客に配布された案内図

 18世紀末から金比羅船で丸亀や多度津港にやってくる金比羅詣客は急増していきます。その参拝客を金比羅だけでなく自分の所へも導いてこようと周辺の寺社は、あの手この手の広報戦略を駆使します。例えば、丸亀港に降り立った参拝客に配布された案内図は「金比羅参拝図」とは記されていません。「丸亀・金比羅・善通寺・弥谷寺参拝」と表題が書かれ、この4つの社寺をめぐるルートが描かれています。
丸亀街道 E27 ことひら5pg

 この案内地図を手にして金比羅詣でにやって来た弥次喜多コンビも弥谷寺に参拝しています。そして、天霧山を下って海岸寺・道隆寺を経て丸亀港から帰路に就いています。 また、東北からやって来た人の中には「伊勢神宮 + 高野山 + 金比羅 + 宮島厳島神社 + 西国三十三ヶ寺巡礼」という参拝の旅を行っている人も多かったようです。今のように目的地だけを目指すというものではなく、「金比羅詣でも四国巡礼も宮島もこの際ついでに、まとめて参拝」という感じなのです。そのような庶民の参拝気質を見込んで、「呼び物」と「参拝道」を整備すれば、人はやってくるというのが当時の寺社の広告戦略です。それを弥谷寺の住職たちは見抜いていたといえるかもしれません。

善通寺・弥谷寺
五重塔があるのが善通寺 そこから弥谷寺への遍路道が見える

 金比羅までやってきた参拝客をいかにして、自分の所まで誘引するのか。それがあらたな名所作りであり、シンボルモニュメントを登場させることであったようです。その一環として弥谷寺の住職が取り組んだのが、伊予街道から分岐する遍路道の整備であり、その分岐点近くに弥谷寺直営の接待所を設置し、そこに大きな地蔵をモニュメントとして建立するというプランだったようです。このプランはこれだけでは留まりません。さらに大きな仕掛けを考えていたようです。

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弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ曼荼羅寺道

天保11(1840)年の「続故事諄」には、次のように記されています。
「東、碑殿坂を以て十地の位に当たる、今此の盤石上の石仏を安置する所なり、則ち初地歓喜の像なり」
意訳変換しておくと
「東の碑殿坂が十地の位に当たる。今、この盤石上には石仏が安置されている、それが初地歓喜の地蔵菩薩である」

ここには碑殿の上池は弥谷寺まで「十地の位」に当たる場所なので、ここにスタート地点として「石像地蔵菩薩(初地歓喜像)」が造立されていると記されています。

また「剣五山弥谷寺記」には、次のように記されています。
「前住菩堤林及び法嗣霊苗、嘗つて行基の意を原ね、碑殿歓喜池の上の石像地蔵より、法雲橋頭に至るまど、離垢発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す、(中略)、
僅かに第十地に金剛拳菩薩を建て、以て其の梗概を示すのみ、二天門内丈六の鋳像、即ち此れなり」
意訳変換しておくと
「弥谷寺の前住職・菩堤林とその法嗣霊苗は、かつての行基の意を汲んで、碑殿歓喜池(上池)の石像地蔵より、弥谷寺境内の法雲橋頭に至るまで、離垢発光等の諸位の仏像を遍路道の路傍に安置して、十地の道しるべにしようと考えた。(中略)、しかし、第十地に金剛拳菩薩を建てただけに終わった。二天門内の丈六の鋳像がそれである。」
ここからは弥谷寺の住職によって、碑殿の石像菩薩から弥谷寺境内の法雲橋までの間の遍路道に、十の仏像を安置するプランがあったことが分かります。しかし「剣五山弥谷寺記」の書かれた弘化3年(1846)には、弥谷寺の境内の第十地に金剛拳菩薩(丈六の鋳像)が残されているだけだと記します。丈六の鋳像が、現在の金剛拳菩薩のようです。

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潅頂川にかかる法雲橋(弥谷寺)

つまり上池の大地蔵は、弥谷寺境内にある金剛挙菩薩とセットで建立されたものだというのです。
それをまとめてみると
①上池の巨大地蔵(石地蔵菩薩)から弥谷寺までの遍路道に、十の仏像を安置する計画があった
②そのスタート(初地)が歓喜池(上池)で、第十地(ゴール)が弥谷寺境内の金剛拳菩薩である。

これは鳥坂峠で伊予街道と分かれた遍路道の整備計画でもありました。今に残る金剛挙菩薩と石地蔵菩薩とは、その計画のスタート地点とゴール地点に立っていることになります。しかし、なぜこんなの大きな仏像を建立したのでしょうか?                      
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金剛挙菩薩
次に弥谷寺境内の金剛挙菩薩を見てみることにしましょう。
この菩薩は「大日如来」として建立されたものが、いつの間にか金剛挙菩薩とされてしまったようです。その理由はよく分かりません。とにかく建立に向けた動きを追ってみます。

「銘曰く、寛政三辛亥起首願主先師菩堤林文化八辛来年成就幻住法印零苗代、鋳物師紀州住人蜂屋薩摩塚源政勝、右年号並びに時代、仏像の脇これそ記すなり」

とあって、住職菩堤林が寛政3年(1791)に建立のための募金活動に取りかかり、20年ほど後の、文化8年(1811)に完成したことが分かります。

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金剛拳菩薩(最初は大日如来として建立された)

弥谷寺には、寛政元年(1789)の 「灌頂仏募縁疏」の版木が残っています。
これは住持の菩提林によって書かれた大日如来造立のための募金趣意書に当たります。そこには次のように記されています。

弥谷寺の灌頂川の法雲橋の西の大岩の上には、かつては一丈六尺の金銅の大日如来があった。それを「第十地ノ菩薩」として再建を行いたい

 この再建のために、菩堤林と講中が勧進を行おうとした趣意書の版木です。この版木には寛政元年正月と記されているので、大日如来の造立の動きは寛政元年に始まっていたことが分かります。

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              金剛拳菩薩
また「五山弥谷寺記』には、次のように記されています


「碑殿歓喜地の上より法雲橋の頭に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す。」
意訳変換しておくと
「碑殿の歓喜池が初地にあたり、弥谷寺の法雲橋に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を遍路道沿いに安置し、十地の階級を示したい。」

「讚岐剣御山弥谷寺全図」には「東入口初地菩薩石像一丈六尺」とあります。
弥谷寺 初地菩薩
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた初地菩薩

初地は別名「歓喜地」で、そこから第十地「法雲地」に至るまでに、十地各地に仏像を安置する計画があったことになります。しかし、今あるのは先ほど見た「初地」として碑殿の上池に「初地菩薩」、第十地「法雲地」とされる「法雲橋」の金剛拳菩薩だけです。

弥谷寺 金剛拳菩薩jpg
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた丈六金仏(金剛拳菩薩)
 「金剛拳菩薩」は寛政3年(1791)に募金活動が始まり、完成したのは、文化8年(1811)ですから22年かかっています。
ふたつの間には仏像が造立された気配はないので、十仏像を設置するという計画は頓挫したようです。また、「法雲橋_|と「金剛拳菩薩」の間にあった「二天門」は、昭和6年(1931)の「諸堂建立年鑑」によれば文政12年(1829)に再建されています。この計画の一環として建立された可能性を研究者は指摘します。
弥谷寺 参道変遷
金剛拳菩薩の出現で変更された参道 

 「金剛拳菩薩」は、もともとは大日菩薩として建立されたことが資料で確認できます。
完成前年の8年の「灌頂仏再建三百人講」や、文政2年(1819)の「四国巡拝日記」では、大日如来と記しています。ところがそれから約30年後の弘化3年(1840)の記録には「金剛拳菩薩」と記されています。つまり大日如来として作られたが、その後に金剛拳菩薩へと変更されたことになります。その理由については、私にはよく分かりません。
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弥谷寺に残された史料の中に、「灌頂仏再建三百人講」があります。これは文化7年8月に弥谷寺の維綱がまとめたもので、大日如来(金剛拳菩薩)建立の経緯が次のように記されています。
「丈六の金仏を再建せんと思へとも、衣鉢乏しく少なくして自力に及びかたし、故に善男善女を勧進して、三百人講をいとなみ、此の浄財を以て大日尊を再建し奉らんと希ふ」(中略)
「此の尊に帰依して浄財を郷ち、早く再建の願いを遂げ、万代不朽の巨益を成就せしめん輩ハ、現世にハ子孫繁昌し福徳豊穣にして、快楽自在ならん、当来にハ摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率任意往生せん、猶又施主家の姓名先祖の法名等大日尊の蓮座に彫り付け、永代毎歳の灌頂に廻向するなり」
意訳変換しておくと
「丈六の金仏(大日如来)を再建したいと願っても、資金に乏しく自力ではできない。そこで善男善女を勧進して三百人講を組織し、その寄付で大日尊を再建しようと計画した」(中略)
「この大日尊に帰依して浄財を寄進し、再建の願いが実現したあかつきには、万代不朽の巨益を手にした者達は、子孫繁昌し福徳豊穣で、快楽自在となろう。そして来世では摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率で必ず往生する。さらに施主家の姓名先祖の法名などを大日尊の蓮座に彫り付け、永代に渡って毎年、灌頂廻向を行うことを約束する」
ここからは、三百人の寄附によって「丈六の金仏」を再建すること、寄附者の現世の御利益を説くとともに、その名を大日如来の「蓮座」に記すとしています。この大日如来の再建には銀25貫600目が必要であったようです。この序文に続けて大見村から始まって、多度津藩・丸亀藩の村々からの寄進者の名が記されています。施主一人前で金1両です。一番多いのは大見村庄屋の大井助左衛門の7人前で、次いで4人前の大見村の三谷恒右衛門。同三谷甚之丞。同三谷源六。同辻市郎右衛門となっています。その他はほとんどが一人前であり、二人で一人前の場合もあります。これらを郡ごと、村ごとに施主人前に整理したのが下表です。

弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
一番多いのは地元の大見村の77人前、次いで隣村の松崎村の42人前で、郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。全体で271人前となっています。施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。「三百人講」だったので、目標金額は300両です。それには達しなかったようですが、目標の9割を越える金額を集めています。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。
 完成した大日如来の像や蓮弁等には、先ほど見たように寄進者の名前等が刻まれています。
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以上をまとめておきます。
①18世紀末に、弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ遍路道の整備が行われ、伊予街道との分岐点近くに接待所と大地蔵が姿を現した。
②ここには仏像造立という宗教意味だけでなく、弥谷寺の経営戦略があった。
③それは金比羅参りの参詣者を、善通寺を経て弥谷寺へ誘導するという広報戦略の一環だった。
④その広報戦略の目玉として考えられたのが、上池をスタートとしてゴールの弥谷寺までに十の仏像を安置するプランであった。
⑤そのスタートに初地地蔵、ゴールに金剛拳菩薩が建立された。
⑦金銅制の金剛拳菩薩は、三野郡を中心とする富裕層の寄付金によって建立された。
⑧しかし、残りの仏像は資金難で建立されることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 弥谷寺調査報告書2015年 香川県教育委員会
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献


江戸時代の村々の動きを見ていると、山伏の動きが視野の中に入ってきます。盆踊りや風流踊り、雨乞い、獅子舞などを村に持込プロデユースしたのも、山伏だったようです。時には、神社の神主の役割も果たしています。村役人の庄屋さんの相談相手でもあったような感じもします。村々で山伏は、どんな役割を果たし、待遇を受けていたのかについて興味を持っています。そのような中で、宇和島藩での山伏について記した文章に出会いましたので紹介します。
テキストは「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」です 

宇和地方では山伏のことを「お山さん」と親しみを込めて呼んでいたようです。
それでは、宇和地方には、「お山さん」がどのくらい、どこに住んでいたのでしょうか。明治3年6月宇和島藩戸口調査(宇和島図書館蔵)によると、宇和地帯における修験・山伏は、宇和島藩だけで880人になります。これは神官・僧侶の人数よりも修験・山伏の方が多かったようです。各村落における分布状況は、宇和島図書館蔵の「天保五年午二月津島組宗門人高」によると、山伏は家数112軒に1人の割でいたことが分かります。比較のために土佐を見ると、江戸時代の初めには250人、幕末には150人位の修験者がいたことが史料から分かります。宇和島藩のお隣の土佐幡多郡を見ると、修験者の数は
本山派の龍光院に属する40人
当山派の南光院に属する20人
です。土佐藩と比べると石高や人口からしても、宇和島藩の880人は非常に多いことになります。どうして、こんなに多くの修験者たちが村々にいたのでしょうか。山高く、海深い宇和地方では、自然崇拝に根ざした山岳信仰の信者が多かったとしても、その比率が高いように感じます。その背景を、研究者は次のように推察します。
①宇和地方は、密教系寺院が領主祈祷寺院として栄えたこと
②対岸の九州国東半島の六郷満山寺院群の影響を受けて、それに匹敵する仏教文化地帯となっていたこと
③中世以来、土佐からの熊野行者の流入が見られ、修験者文化が根付いていたこと
それでは、宇和地方の修験者たちが、どのような形で地域に定着し、根付いたのか、また何を生業にして生活していたのか、山岳信仰の布教方法はどんなものだったのかなどを見ていきます。

最初は、鬼北町の日吉神社の別当を勤めていた金蔵院です。
 日吉神社は、道の駅「日吉夢産地」の北1㎞ほどの小高い丘の上に鎮座します。日吉の氏神として古くからの信仰を集めてきた鎮守さんです。もともとの元宮は、下鍵山の大神山山腹にあったと伝えられます。大神山はこのエリアの交通の要衝であったようで、近世初めに日吉神社は、日吉の地に下りてきたようです。日吉神社の神主は、神社の下にある山本家で、屋号は宮本(ミヤモト)というようです。旧九月二十日秋の大祭のヨイ祭の夜には、神主の家で大神楽がう舞われます。そのためこの家は、床も天井も神楽堂式で高く、とりはずし自由という珍しい構造だったようです。

愛媛県 日吉村 牛鬼(うしおに) 2007.11.11 : すう写真館
日吉神社の牛鬼
 一方、別当職にあったのが金蔵院の松岡家でした。

つまり、日吉神社の神官は山本家、山伏は松岡家という関係だったようです。金剛院も神職の家と同じように、日吉神社の下にあったようです。
「天保十五年四月上鍵山村仏閣修験世代改帳」には、次のように記されています。
  一、堂一軒
    但一丈四方            
    天井仏壇前格子戸二枚 杉戸二枚
    後板囲芽葺           
    宝暦元(1751)年建之
中略
  一、本尊
   弘法大師 座像石仏・長一尺
   千手観音 立像木像・長八寸         ・
   不動明王 立像木仏・長五寸
   庚申立像石仏・長七寸
   鰐口 一個

さらに松岡正志氏所蔵の「松岡家系」による松岡家由緒には、次のように記されています。

 藤原秀郷御在関東之時常州松岡留廉洸其子孫相続住手彼地意外松岡為氏後年至元亀天正之間天下大乱於干戈之中松岡氏族悉敗当此時数氏之家譜等悉之失矣。于時長院志学之歳也。漂泊而来遊手当国惣拾弐器学修験号増長院住于下鎗山村里人其才器推之為村長不得止許之爰有芝氏女迎之室生三男子及老年遂於下鏑山村終士人呼其地長院家地云又呼墓基長院之伝墓跡今猶在同村峠云所
意訳変換しておくと
 藤原秀郷が関東を支配していた頃、常州松岡には廉洸やその子孫がいて、その地を支配相続してきた。元亀・天正年間になって天下大乱となり、松岡一族は戦乱の中で敗者となり、家は途絶えた。この時に長院は十歳を超えたばかりであった。漂泊・来遊し修験者となった長院は、修行のために当地の下鎗山村にやってきた。里人は彼の才器を見て村長になることを求め、長院はこれを受けた。こうして長院は芝氏の娘を嫁に迎え、三男子を得た。老年になっては下鏑山村の終士人と呼ばれた。そして、この地は長院の土地と云われるようになった。長院の墓は今も村峠にあるという。

 ここからは、関東からやって来た修験者が村人に迎え入れられ、土地の有力者の娘を娶り、村の宗教的な指導者に成長していく過程が記されています。そして、次のような後継者の名前が記されます。
  元祖    昌院  年月日相知不 中侯                       
 二代実子 光鏡院  年月日相知不申候一
 三代実子 本復院  年月日相知不申候                        
 四代実子 大宝院  年月日同断
 五代実子 金蔵院安重 権大僧都大越家 延宝四(1677)年七月十九日滅
 六代実子 天勝院  官位同断 元禄十四年五月一日滅
 七代実子 金蔵院  官位右同断 享保五年一月十五日滅
 八代実子 天勝院大徳  官位右同断 元文元年七月十六日入峯 明和八年十月二十七日滅
 九代養子 光徳院安勝  官位右同断 寛延四年七月十六日入峯 寛政七年五月十八日滅
 十代実子卜大龍院安定  官位右同断 天明元年七月十六日入峯 寛政八年十一月二十七日滅
 十一代養子 光鏡院安隆  官位右同断 享和三年七月十六日入峯 嘉永六年六月二十四日滅
 なお十二代以降は他の資料によると次の通りである。
 十二代 天正院安経  天保十一年七月十三日入峯
 十三代 金蔵院安伝  万延元年七月十六日入峯 明治三十九年十一月八日滅
 十四代 真龍院安臭  大正三年一月二十日滅
ここからは松岡家が、金蔵院(鬼北町日吉)を守りながら17世紀末から大正期まで山伏を業としていたことが分かります。
 五代金蔵院安重は、権大僧都とあるので大峯に33度の峯入を果たしています。この地区の修験者(真言僧侶)の指導的な地位にあったことがうかがえます。その長男嘉右衛門は。母方の家系をつぎ上鍵山村庄屋職を勤めていますが、母方の姓芝氏を後に松岡姓に改めているようです。三男某は、吉田に移住して同じく松岡を名乗り、俗に吉田松岡を名乗り、吉田の名家となっています。
 日吉村の金蔵院が庄屋芝氏と縁故関係をもち、後には長男が芝氏を継いで、芝氏を松岡姓に改め、兄は庄屋職、弟は山伏職を世襲したことが金蔵院の史料から分かります。庄屋の家から嫁を貰うということからも、当時の山伏の社会的地位の高さがうかがえます。

外部からやってきたよそ者を、こんなふうに村の人たちはリスペクトを以て受けいれたのでしょうか?
  お隣の土佐は、遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。俗聖などの中にも土佐で、生を終える者も多かったようです。やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものがあります。また、熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしています。そのような影響が宇和にも及んでいて、熊野行者や高野聖など定着をリスペクトをもって迎え入れたとしておきましょう。

    次に法性院(旧城辺町字緑中大道 土居氏)を見てみましょう。
 一、大本山聖護院末 寛文三(1663)年正月十五旧 清徳開山             
 ニ、境内一三畝一歩  但年貢此高 一斗四升五合
 三、祈祷檀家 三百十二軒                            
 四、由緒 真宗寺末山称名寺は延宝年中廃寺となっていたが、本尊を智恵光寺に移したものを、後檀家の農夫市之助が一寺創立した。
 五、世代(城辺町真宝寺蔵過去帳による)                      
   龍泉寺殿前吏部良山常清大居士 寛永六年三月二十四日寂
   権大僧都清徳法印 享保六(1721)年七月二十八日
  同権大僧都海見法印 延享二年四月二十三日           
  同権大僧都義寛法印 宝暦十一年七月十五日
  同権大僧都義海法印 文化二年五月十四日
  同権大僧都義顕法印 天保三年九月一日
  同権大僧都義徳法印 安政五年十二月二日         
  同権大僧都法性院義快法印 明治三十一年十月九日
  同権小僧都法蔵院清胤 大正六年九月十五日
17世紀後半に開山された本山派の聖護院に属する山伏寺院のようです。320戸の檀家を持ちます。18世紀前半には権大僧都の位を得ているので、活発な修験活動が行われていたことがうかがえます。

観音岳(愛南町)再訪20191022 / KIRINさんの篠山の活動データ | YAMAP / ヤマップ
観音岳(斗巍山)

 このお寺のあった御荘平野の北に、どっしりとした山容でそびえるのが観音岳(斗巍山)です。

この山は「北斗信仰」の霊山だったようです。その信仰を担っていたのが法性院を中心とした修験者たちで、御荘平野周辺では相当の信者を持っていたようです。法性院に伝わる「斗巍(観音岳)権現由来記」には、次のように記されています。
 抑此斗巍山ノ由来ヲタズヌレバ何レノ時 何ノ人乃開基卜云フコトヲ知ラ不。世俗二云フ戸木山モコヘ阿ルベケレドモトギノ音ヲ以ツラツラ考フル 爾斗巍ハ字茂ルシ如印トナレ。斗北斗ナリ。論給フ日北辰又大文志二日北極是也。
 巍ハ高キナリ。集韻二高ク大ナル見ヘリ。此峯二観世音ヲ安置シテトギ山一云フヲ以ツテ見口口、往昔開運ヲ祈ルニ此峯二北斗ヲ勧請シ奉ルニ北辰日星ノ擁護ヲ蒙ハ志願ヲ遂ケソナルベシ。北斗垂迫ノ感徳広大ナルヲ以ツテ御本地観世音菩薩ヲ安置シ奉ルナルベシ。
 経二日夕観世音菩薩威神シカ巍々如是卜。是ハ観音ノ威神カハ広大円満ナリテ無膜大悲心ナル義也。然ハ則北斗尊星ノ加護力与観音ノ大悲カト共二巍4トシテ広大ナル事斗巍ノ文字能ク当ルナルベシ。
 北斗星垂述アルヲ以ツテ権現ノ義亦可【口】因茲自今以後斗巍権現卜奉崇然シテ微運ノ人ハ正心滅意ニテ開運ヲ祈ラバ感応アルコト疑ナシ。尤感応ノ成否ハ信心ノ厚薄二依り利益ノ遅速ハ渇仰ノ浅深二従フ事ナレバ疎略ニシテ神仏ヲノ疑フベカラズ
 開運ヲ祈ル法
 何レノ処ノ人モ此ノ山ノ方二向ツテ毎朝早朝二清浄ノ水ニテ中水ヲ遣フ時
 開運印
定メ 大指ヲ伸恵ノ五指ヲ以ツテ左ノ大指ヲ握り指頭ヲ少シ出シ是ヲ北斗尊星ニナソラヘテ額二当テー心二販命北斗尊星予が運ヲ開カセ玉ヘト心ノ内ニテ至心二念ジテ左ノ掌ノ内二在ル滴ヲ戴テ嘗ル也已上
意訳変換しておくと
 斗巍山(観音岳)の由来については、いつ、だれが開山したかについては分からない。しかし、世間に伝わる話をつなぎ合わせて考えると「斗巍」という文字は「茂」という如印となる。これは「北斗」のことである。
 ある書には「北辰は北極也」と記されている。「巍」は高いことである。集韻には高くとは「大」とも見える。この高峯に観世音菩薩を安置して「巍山」と呼ぶ。往昔から開運を祈る時には、この峯に北斗を勧請して奉まつると北辰日星の加護を受けて、志願を遂げることができると云われる。北斗の感徳は広大であるので、本地観世音菩薩を安置するべし。
 2日後の夕に観世音菩薩は威神を巍々如是と発揮する。これは観音の威神で、広大円満で無膜大悲心である。さあ、北斗尊の加護力と観音の大悲カを共に受け、広大な斗巍の文字を受け止めるべし。
 北斗星の垂述が権現の来訪である。そして今ここから斗巍権現となって微運の人にも正心滅意に開運を祈れば効果疑いなしである。もっとも感応のあるなしは、信心の厚薄による。利益の遅速は渇仰の浅深によるものであれば、効果がないと神仏を疑ってはならない。
 開運を祈る法
 この山の方角に向かって、毎朝早朝に清められた水で中水を行うときに、開運印を決めておき大指を五指で左の大指を握り指頭を少し出して、これを北斗尊星になぞらえて額に当てー心に「北斗尊星よ 私が運を開かせたまえ」と心の内にで念じて、左の掌の中にある滴を戴くこと。以上

ここからは、当時の山伏達が北斗信仰を、どのようにひろげていったのかが分かります。夜空にかがやく北斗星と、その真下に高く大きくそびえる霊山・観音岳。霊山と観音信仰とを結びつけて、そこに「行とまじない」のスパイスを隠し味にして、民衆の信仰心を刺激した山伏達のやりかたはあざやかです。とくに「開運印」などという特殊な印を教えたことも民衆にとってはたまらなく魅力的におもえたでしょう。
天文編 | 知恵ブクロウ&amp;生きものハンドブック | シリーズ | ECOZZERIA 大丸有 サステイナブルポータル
最後に、旧一本松村で研究者が見つけた資料から、山伏の活躍を見ておきましょう。

歴メシを愉しむ(63)】&lt;br&gt;今年の「夏越の祓」~アマビエと鱧で疫病封じ | 丸ごと小泉武夫 食マガジン

 夏越祓は6月26日に行なわれていたようで、期日の入った夏越祓護符が残っています。また歯痛には揚枝守を出しています。これは揚枝守と朱印した護符内に、木製の揚枝を入れてあります。歯痛のときは、この揚枝で痛い歯をつつくと歯痛がとまるといって配布していたようです。諸病安産にも、守札を出しており、山伏たちは阿弥陀信仰も盛んに弘めていたことが推測できます。

旧城辺町の加古那山当山寺の記録には、次のように記されています。
    中用 庄や 又惣 あげ日まち事
  一、山日待
  一、家祈祷 二体分  蔵米引おこし 壱典
  一、ふま 六升六合
  一、札米 一斗二升
        (以下略)
    五人組 清八・幸助・五郎・伝六
     役人  団右衛門
     横目  孫左衛門
        永代売渡証文
   申年十一月 日
     僧都村 正応院
     同   五人組岩治郎
     甲子講御世話方

「あげ日待」「山日待」について、歴史事典には次のように記されています。
「御日待」のことで、前夜から身を清めて、寝ないで日の出を待って拝むこと。「まち」は元来神のそばにいることであったが、のち待つに転意した。日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもので、1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的。講を作り部落で共通の飲食をします。

これは庚申信仰とも重なり、庚申講として組織されることもあったようです。村々で行われていた、御日待や甲子講にも山伏たちは関わっていたことがこの史料からは分かります。
市民ハイキング 篠山 ( 1065m 高知県宿毛市・愛媛県愛南町) 2014年4月25日(金) 晴れ しらかわ 記 天気予報では一日中晴れ。  早朝5時30分に丸亀を出発。 松山自動車道、宇和島道路、R4を通り、篠山トンネルを抜けて直ぐ左折し、狭い車道を ...

篠山は、土佐と伊予の両方から信仰を集めていた霊山でした。

 旧一本松村正木では、篠山権現に6月1日から8月1日まで「篠山権現の日参詣り」といって毎日登拝していました。部落の中から交替で、毎日二人が五穀豊熟・家内安全のため登山します。大きな杓子をかついで行き、「ナンマイドーナンマイドー(南無阿弥陀仏)」唱えながらとリレーします。2ヶ月の期間中に、2~3回は廻ってきたようです。そして、最後の日の8月1日に当たった人は火縄をもって登り、篠山神社神官から火をもらい下山して、各部落に火を分けます。部落では、タイマツにその火をともし各家に分け、最後にタイマツを焼いて終りです。これを火送り行事といいます。
 城辺町緑では8月1日に二人組で代参して、篠山の火を貰って、その火で村中を松明を持って廻っていたと云います。篠山権現も山伏が管理運営していたのです。篠山
篠山稜線上の国境碑
  以上をまとめておくと 
①宇和藩には幕末には880人の山伏がいて、さまざまな宗教活動を行っていた。
②中には、吉野や熊野での修行を積んで修験者として高い地位にある者もいた。
③山伏として高位の位を持つ者は、村社などの神社の別当を勤め、村でも有力者になっていた。
④ある山伏寺では、観音岳を「北斗信仰」の聖地として霊山化し、多くの信者を得ていた。
⑤篠山権現は、宇和地方の人々を集めた霊山で、ここを管理していたのも山伏寺であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」
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参考文献 愛媛県史

 



以前に備中新見荘から高梁川を下って、舟で京都に帰る荘園管理人(僧侶)の帰路ルートを追いかけました。今回は中世の山陽道を旅した僧侶の記録を見てみましょう。 テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。
山陽道斑鳩宿

播磨国斑鳩荘(兵庫県太子町・龍野市)は、法隆寺のもっとも重要な荘園でした。
延徳二年(1490)、法隆寺の僧快訓(かいくん)がこの斑鳩荘に向かう旅をはじめます。快訓は政所として赴任することになったのです。その旅路を「当時在荘日記」には次のように記されています。
僧快は、大和の斑鳩を発って、大和川沿いに河内に入り、山本(八尾市)で、持参した昼の弁当を食べています。その日の夜は、天王寺宿(に宿泊。宿泊料は700文、庭敷銭(にわしきせん)は100文とあります。庭敷銭とは、庭の占有料という意味で、荷の保管料のようです。翌朝、宿で朝食が用意され、快訓には30文、雑用のために従っている下僕たちには25文の食事が出されています。

斑鳩寺 クチコミ・アクセス・営業時間|たつの・揖保川・御津【フォートラベル】
太子町の斑鳩寺
二日目は、天王寺から舟で大阪湾を横切り、西宮宿で昼休み。休憩料は500文、庭敷銭は50文です。宿泊料に比べると休息料が高いような気もします。宿で昼飯をとっていますが、やはり身分に応じて30文と25文のランク分けされた食事が出されています。その日は、兵庫宿(神戸市兵庫区)まで行き、宿をとります。ここの宿泊料は、前回利用したときには700文だったが、値上がりして800文になっていた、ただし庭敷銭、翌朝の朝食代などは値上がりしていなかったことまで記します。
以下の旅程を見てみると次のように記します。
3日目は、大蔵谷宿(明石市)で昼休みし、加古川宿で宿泊、
4日目は国府(姫路市)で昼休みし、その日の夕方に竜野に到着しています。細かな経費は下表のとおりです。
山陽道 宿賃一覧表

これを見ると、宿泊料、食事代などは、全行程ほぼ同額なことが分かります。快訓の旅行記録から、この時代の山陽道では、どこの宿に泊まっても、同じような経費で同じようなサービスが受けられる、というシステムができていたことが分かります。
 中世後期の陸上交通をささえるインフラやシステムについては、まだ分からないことの方が多いようです。「関所が乱立してスムーズな交通が妨げられていた」ように思いがちですが、この記録を見る限りは、案外に快適な旅ができたようです。

   中世山陽道の宿は、どんな人が経営していたのでしょうか?。
朝日新聞デジタル:世界記憶遺産が描く荘園の騒動 矢野荘 - 兵庫 - 地域

播磨西部の現在の相生市に矢野荘がありました。
ここは東寺の荘園で、その史料が「東寺百合文書」の中に残されているので、研究が進んでいるようです。この荘園を山陽道が通っていて、隣の荘園に二木宿がありました。この宿を拠点とした小川氏という一族を追いかけて見ようと思います。小川氏は、南禅寺領矢野別名の荘官を務める武士で、同時に金融活動も行っていたようです。
小川氏の活動とは、どんなものだったのでしょうか? 
 守護赤松氏がとなりの東寺領矢野荘に、いろいろな目的で人夫役を賦課してきたときには、同荘の荘官に代わって守護の使者と減免の折衝をしています。ときには命じられた数の人夫を雇って差し出したりもしています。矢野荘自身が必要とする人夫を集めることもしています。(「東寺百合文書」)。いわゆる人足のとりまとめ的な役割を果たしていたことが分かります。
 そんなことができたのは、小川氏か宿を拠点に持ち、「宿周辺の非農民の流動性のたかい労働力を掌握」していたからできることだと研究者は考えているようです。つまり、一声かけると何十人もの人夫を集めることの出来る顔役であったということなのでしょう。即座に多くの人夫を集めることができる力は、交通・運輸業者としての武器になります。それが小川氏の蓄財の源だったとしておきましょう。
小川氏と交通のかかわりは、それだけではないようです。
 二木宿には時宗の道場がありました。時宗の道場は、安濃津や、東海道の萱津(愛知県海部郡甚目寺町)、下津(同稲沢市)などの例が示すように、旅行者の宿泊所として使われていました。ただの宿泊所ではなく将軍の宿所として利用されることも多く、宿泊所としてはランクの高いものだったようです。二木宿の道場も、格の高い宿泊所だったと推測できます。
 あるとき二木宿の遊行上人(時宗の僧)が勧進活動をはじめます。道場を維持するための勧進だったのかもしれません。このとき小川氏は、周辺の荘園をまわって勧進への協力を求めています。ここからは、二木宿の道場(宿泊所)は、小川氏の保護を受けて維持されていたと研究者は考えいます。小川氏が時宗の保護者であると同時に、宿泊所のオーナーであった可能性も出てきます。
 周辺の人夫を掌握し、宿泊所を維持する、そして金融業を営むほどの財力。これが室町時代の「宿の長者」だったようです。
小川氏と同じような存在は斑鳩荘もいました。斑鳩荘六ヵ村の一つ宿村も山陽道の宿です。

山陽道斑鳩荘マップ1

斑鳩宿と呼ばれていたこの宿の長者は、円山氏でした。
円山氏は、宿の守護神である戎社の裏手に屋敷を構え、宿村を中心に土地を集積する有力者でもあったようです。円山真久は、永正十三年(1516)に行われた斑鳩寺の築地修理のときには、守護や守護代の五倍もの奉加銭を出しています。もともと円山氏は、荘内の人間ではなく、十六世紀になるまでは斑鳩荘の名主職ももってはいなかったようです。それが円山真久は斑鳩寺や、聖霊権現社や斑鳩荘の鎮守稗田神社の修理にも多額の寄進を行い、その功績によって太子講という斑鳩荘の侍衆たちによって構成される講への参加資格を認められます。鎮守の祭礼や造営にお金を出すことは、地域での身分序列を形成・確認するための格好の機会でした。円山氏は、このセオリー通りを利用して「上昇」していきます。円山氏の財力も二木宿の小川氏と同じように山陽道の交通・運輸にかかわることによって獲得されたものと研究者は考えいます。
 円山氏の姻戚関係を知る史料が残されています。
永禄十年(1567)に作成された円山真久(河内守・二徳)の譲状(「安田文書」)によれば、彼には、「妙林・揖保殿・香山殿・神吉殿・平位殿・小入」の六人の娘がいました。揖保と平位は斑鳩の西方、神吉はずっと東方の加古川あたりの、いずれも山陽道に沿った土地の地名です。円山真久は山陽道の交易によって交流を深めたそれぞれの土地の土豪たちに、娘たちを嫁がせていたことがうかがえます。神古郷の近くには加古川宿があるので、神古氏も宿支配関係者だった可能性があると研究者は考えています。
龍野醤油の祖・円尾家の新資料を発見 龍野歴史文化資料館で公開 兵庫 - 産経ニュース
竜野醤油の祖 安政2(1855)年制作の「円尾家当主肖像画」

 研究者が注目するのは、近世脇坂藩の城下町龍野(兵庫県龍野市)の竜野醤油の祖で豪商円尾氏の先祖についてです。
円尾家文書には、円尾氏の初代孫右衛門は、林田川をはさんで斑鳩宿と向かいあう弘山宿の出身であり、二代目孫右衛門(弘治二年〈1556〉生)の母は、「円山河内守」の娘だったと記します。記載された年代からすれば、この円山河内守は、斑鳩宿の円山真久のことのようです。二代目の母が真久の6人のうちのどの娘であるかは分かりませんが、斑鳩宿と弘山宿の有力者同士が縁戚関係にあったことが分かります。さらに真久は東寺領矢野荘の又代官職も手に入れ、矢野荘に土地も所有するようになります。
  
   法隆寺の快訓の播磨への赴任旅程では、どこの宿でもほぼ同額で同じようなサービスを受けられたことを見ました。
こんなシステムができあがっていた背景には、宿の長者同士が婚姻関係などで結ばれた情報交換のネットワークがあったことがうかがえます。そのネットワークが、山陽道沿いの広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していたと研究者は考えいます。

小川氏や円山氏のような宿の長者たちが旅館も経営していたことを見てきました。旅館の経営もただ寐る場所を提供するだけでなく、多角的サービスを提供していたようです。
興福寺大乗院門跡尋尊の日記『大乗院寺事記』の延徳二年(1490)十一月四日条には次のように記されています。
  先年、興福寺の衆徒超昇寺の被官で奈良西御門の住人宇治次郎は、運搬中の高荷を京都・奈良間の宇治で奪われた。近日になってこの高荷を引いていた馬が宇治の旅館扇屋の所有する馬であったことを知った超昇寺は、次郎と扇屋が結託して荷をかすめ取ったのではないかと疑ったのであろう、扇屋を捕らえ、次郎とともに拘禁してしまったという。

以上を整理しておくと次のようになります。
①宇治次郎は、京都と奈良の間の運輸に従事していた馬借である。
②宇治次郎の馬は個人持ちでなく、宇治の旅館扇屋所有の馬で、それを借りて営業していた。
③宇治次郎と宇治の旅館扇屋は結託して、荷主の荷物を奪われたと称してくすねた。
④これを疑った超昇寺被官の奈良西御門が扇屋と次郎を拘禁した
  ここからは、宇治の旅館扇屋が旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけはなく、馬を持ち馬借を雇い運輸システムの中に組み込まれた存在であったことが分かります。
奈良の転害大路1
平城京の転害大路は東大寺から西に伸びていた

 奈良の転害大路は京都方面から奈良に入ってきたときの入口にあたり、鎌倉時代の終わりにはすでに多くの旅館が営業していました。
室町時代の中ごろには鯛屋、烏帽子屋、泉屋などの旅館が営業していました。戦国時代になると、旅館業以外の商売にも手を広げていたようです。たとえば、天文十一年(1542)十一月、伊勢貞孝が将軍足利義晴の名代として春日社に代参したときには、転害大路の旅館腹巻屋に、300~400人もの随行者を連れて宿泊しています。この腹巻屋は金融業や酒造業を営む富商でもあったようです(『多聞院日記』天文11年11月15日条ほか)。

奈良の転害大路
転害門

旅館の活動は商売だけではありません。
京都と奈良のちょうど中間に位置する奈島宿(京都府城陽市)には魚屋という屋号の旅館がありました。この魚屋の亭主孫三郎はについて、
「康富記」は次のように記します。
「奈島や木津あたりにある大炊寮惣持院領の年貢米を請け取って、大膳職に渡している人物」
探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -3 道標「梨間の宿」・梨間賀茂神社・深廣寺 | 遊心六中記 - 楽天ブログ

京都の近郊には、一つの所領といっても一ヵ所にまとまって存在しているのではなく、耕地があちこちに点在している型の所領が多く、年貢を集めるのも容易ではなかったようです。南山城各地に散らばっている大炊寮領の年貢のとりまとめを、魚屋が請け負っていたというのです。これも多数の馬や人夫、近隣の同業者との連絡網などがあって、はじめて可能なことです。
旅館のこうした機能に、地域的の権力者が目をつけないはずがありません。
播磨の二木宿の長者小川氏は、室町時代にすでに守護赤松氏の被官となっています。そして、みずから赤松氏の人夫催促使を勤めてもいます。人夫の元締めのような存在である小川氏を催促使とし取り込んでおいたほうが領国経営には有益だったのでしょう。

 十六世紀のはじめごろ、摂津の西宮宿には橘屋という旅館がありました。
    天文十二年(1543)、西官の近傍の久代村(兵庫県川西市)に池田氏から段銭が課されます。池田氏とは池田城に拠って北摂津を支配していた国人です。段銭賦課の名目は分かりませんが、おそらく毎年賦課されていた定例の段銭だと研究者は考えいます。暮れになって、段銭奉行の使者田舟五郎兵衛が徴収にまわり、久代村は段銭のほか奉行や奏者への礼銭など合わせて12貫余を納入しています。納入の場所は「西宮橘屋」です。翌年の記録にも、屋号は記されていませんが「西官へ納めた」と記されています(「久代村旧記」)。
ここからは、池田氏の使節は段銭徴収のために領内の村々を巡っていったのではないことが分かります。旅館にやってきて、近くの村々から段銭を持参させていたのです。領内に自前の在地支配の拠点をもたない池田氏は、保護する旅館を利用して、そこで納税業務を処理していたのです。旅館が「納税臨時出張サービス」的な役割を果たしています。旅館にはこのような準公的な顔もあったようです。

以上をまとめておきます
①中世後半のの山陽道には「宿の長者」が経営する旅館が姿を見せるようになった
②「宿の長者」は旅館経営以外にも、人夫の募集や馬借など多角経営を行い金融業者に成長して行く者もいた。
③彼らは街道沿いの同業者と婚姻関係などを通じて人的ネットワークを形成し、広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していった。
④「宿の長者」の持つ力に着目した戦国大名達は彼らを取り込み、支配拠点として利用するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。


 院政期に法皇や中央貴族たちの間で爆発的な流行を見せた熊野巡礼は、鎌倉時代になると各地の武士の間でも行われるようになります。さらに南北朝以後になると、北は陸奥から南は薩摩・大隅にいたるまでの多くの武士、都市民、農民、漁民たちが熊野に向かうようになります。貴族たちのきらびやかな参詣の例があまり知られていないためか、院政期の熊野詣に比べると影が薄いようです。しかし、いろいろな階層の人々の間に熊野巡礼が広まり、「蟻の熊野詣」といわれるような状況が現れるようになるのは、むしろ中世後半だったのです。そんな熊野詣で姿が一遍絵図には、何カ所にも描かれています。

一遍絵図 太宰府帰参3
一遍絵図 市女笠・白壺装束姿の熊野詣での旅姿

巡礼者たちは自分たちの力だけで熊野に向かったのではありません。
そこには熊野の修験者たちがつくりあげた巡礼の旅の安全を保障するシステムがありました。厳しい山岳修行による霊力獲得の信仰と、海の向こうの観音浄上で永遠に生きようという補陀落信仰の結びついたのが熊野信仰です。この信仰は、紀伊半島の山岳が本州最南端の海に落ち込む熊野という地に誕生しました。そこには修験者、時衆、聖など呪術的で、いくぶんいかがわしさも漂わせたいろいろな宗教者たちが集まり、そして各地に散って行きました。
 彼らは先達と呼ばれ、それぞれの地域において、人々に熊野の霊験あらたかなることを説いて信者とします。さらに獲得した信者を熊野参詣に勧誘するという活動を展開するようになります。先達は、信者との間に生涯にわたる師檀契約を結び、それは子孫にまで受け継がれていきました。
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熊野には、三山と総称される本官、新宮、那智山の三つの聖地がありました。
それぞれの聖地には御師と呼ばれる人々がいます。彼らは参詣者を自分の坊に宿泊させ、滞在中の食事の世話や、聖地での道案内などを行います。
中世の熊野御師としては、本宮の高坊や音無坊、那智の廊之坊などがよく知られています。
各地の先達は、それぞれに特定の御師と契約を結んで、三山にやってくると、馴染みの御師に参詣者の世話を任せます。先達とは、今日風にいえばツアー・コンダクターの役割を果たしていました。本山周辺の旅館と専属契約を結んだツアコンたちの案内によって、全国からやって来る熊野参詣者の旅が可能だったとも云えます。

熊野御師 尊称院

 先達と檀那の関係がツアコンと違うのは、両者には師弟関係以上のものがあったことです。
信者は何ヶ月にもわたる旅路の中で、先達の毎日の姿を見て畏敬の念を抱くようになります。信者たちが先達を怖れていたことをうかがえる文書も残っています。しかも契約制ではありません。一度結ばれた関係は死ぬまで続きます。破棄できないのです。死んでも子孫に世襲されていきます。
 信者たちの精神世界において先達の占める割合は大きかったのです。熊野参拝に同行した先達を信頼した檀那は、パトロンとして庵や院を建立し、先達を院主として向かえるようにもなります。こうして熊野行者が熊野神を勧進し、彼らが院主として住み着く山伏寺(山岳寺院)が四国の聖地や行場に姿を見せるようになります。それが四国霊場に発展していく、という筋書きのようです。 この場合、行場だった奥の院には不動明王が、里下りした里寺には薬師如来が本尊として祀られるというパターンが多いようです。
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豊楽寺の薬師堂 
熊野詣での巡礼者は、どんな施設に宿泊したのでしょうか。
 土佐の熊野参拝ルートの一つとして考えられているのが、現在の国道32号線のルートです。このルートには豊永の豊楽寺や新宮の熊野神社に代表されるように、熊野系寺社が点在します。これは、初期の熊野行者の土佐への進出ルートであったことを物語るようです。熊野詣でには、このルート沿いある寺社が宿泊所として利用されたようです。熊野神社や山岳寺院は、熊野詣での宿泊所でもあり、修験者の交流所や情報交換所の機能も持っていたことになります。吉野川沿い撫養まで出て、そこから熊野に渡ったことが考えれます。
豊楽寺釈迦如来坐像(彫刻) | 大豊ナビ
豊楽寺の薬師如来
 この他にも修験者や禅僧のように諸国を遍歴する宗教者を宿泊させる施設として「接待所」とよばれる建物があったようです。また、四国八十八ヵ所巡礼路沿いに「旦過」という地名が多く残されています。旦過とは、もともとは禅寺で遍歴修行中の雲水を宿泊させる施設でした。それが聖地巡礼者や行商人のための簡易宿泊所も指すようになったようです。

滝沢王子
滝沢王子 

熊野参詣の場合には、参詣路のあちこちに「王子」と呼ばれる祠がいまでも残っています。
南部王子(和歌山県日高郡南部町)の故地近くには、今は丹川地蔵堂と呼ばれる小さな堂が建っています。熊野参詣路にも巡礼者のための「旦過」があったことがうかがえます。先達に率いられて熊野を目指す信者たちも、こうしたお堂を利用していたようです。
終わりかけの梅の花(熊野古道紀伊路 切目駅~紀伊田辺駅) / よもぎもちさんの熊野古道紀伊路その3の活動日記 | YAMAP / ヤマップ
丹川(旦過)地蔵堂
接待所も旦過もお堂のような粗末な建物で、旅行者の世話をする人もいなかったはずです。これが四国遍路の遍路小屋に受け継がれて行くのかもしれません。どちらにしても風呂に入って、布団に寐て、ご馳走を食べてと云う寺社詣でとは、ほど遠い設備や環境でした。熊野詣では修行であり、苦行の性格が強かったとしておきましょう。

一方では、中世後期には常時営業している旅館も登場してきます。
それは伊勢参詣路に多く見られます。鎌倉時代になると神仏混淆が進む中で、伊勢神宮自らが「伊勢の神は熊野権現と同体である」との主張するようになります。民衆に広がった極楽往生願望を伊勢が吸収する説が広められます。その結果、鎌倉中後期以後、難路のつづく熊野参詣より簡単にお参りの出来る伊勢は、急速に参詣者を拡大していくようになります。
 室町中期の禅僧太極の日記には、備州の村民たちが共同で米穀を拠出し、それを運用した利潤で伊勢参詣の旅費に充てようとしていたところ、運用を委ねられていた者が私的に流用してしまったという記録が残っています(『碧山日録』寛正三年八月九日条)。
 ここからは、岡山の農村社会でも伊勢参詣の講が結ばれていたことが分かります。
室町時代には、足利義満、義持ら将軍が盛んに伊勢参詣を行います。
将軍等が伊勢参りを行うと、京都の貴族、武士、僧侶の間で拡がり伊勢講がつくられるようになります。熊野詣でに、取って代わる流行です。伊勢外宮の門前の山田(伊勢市)には、御師たちの経営する宿坊が軒を連ねるようになります。
日本人の原風景Ⅱお伊勢参りと熊野詣 - 株式会社かまくら春秋社

どうして伊勢参りに人気が出たのでしょうか
  熊野参詣には難路を歩くという苦行的要素があり、参詣者にもそれを期待するようなところがありました。先達も宗教的威厳に満ちた「怖い人」で、修行的でした。それに対して、伊勢参宮は観光的な要素が強かったようです。また後発組の伊勢参詣路には、整った宿泊施設が用意されるようになります。お堂や寺社の接待所に泊まるのとは違った楽な旅ができたようです

室町期の伊勢参詣を記した太極の参詣記録を見てみましょう。『碧山日録』
長禄三年(1459)春、太極は伊勢参詣に出かけます。太極は京都・東福寺の僧ですが、五山の禅林の中では、それほど高位の僧ではないようです。伊勢行きに同行したのは、若い四人の弟子たちです。
京都から琵琶湖岸の松本津(滋賀県大津市)に出、
舟で対岸の矢橋(同草津市)に渡ったのち陸路で草津に到着、旅館で昼食をとります。ここで瀬田橋周りのルートを騎馬で追いかけてきた一族の武士たちと合流しています。その日の宿泊は近江の水口(同甲賀郡水口町)です。
翌日は雨の中、鈴鹿山を越えて坂下(鈴鹿郡関町)に出ますが、疲労のために急遽、窪田(同津市)の茶店で宿泊しています。
翌日は雨も止み、茶店で馬を借りて、遅れを取り戻すかのように、一気に山田まで行きます。伊勢神宮では、外宮、内官に参拝をすませると、山田での宿泊はわずか一泊で帰途につきます。
復路の初日は安濃津(津市)、二日めは水回の旅館に宿泊しますが、太極は足をすっかり痛めてしまい、水口で馬を借りて草津に到着しています。舟で松本津に渡ると再び馬を借りて、京都に帰着しています。

 ここからは参詣路上に宿泊場所や食事を提供したり、馬を貸し出したりする旅館があったことが分かります。もちろん馬子つきです。
江戸時代のお伊勢参りの浮世絵に出てくる光景が、いち早く生まれていたことがうかがえます。
江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬 | 粋なカエサル

江戸時代のお伊勢参り 馬子の曳く馬に3人乗り

太極の旅より37年前、応永29年(1422)に中原康富ら下級貴族たちの仲間が伊勢に参詣しています。『康富記』
初日は昼食が坂下、宿泊は窪田。
2日めは昼食が飛両(三重県一志し郡三雲町肥留)、
宿泊は山田。
帰路の初日は窪田で昼食、坂下で宿泊。
3日めは水口で昼食、草津で宿泊。
太極の旅程と比べると休憩地、宿泊地ともによく似ています。その他の伊勢参詣の記録をみても、旅程は同じです。ここからは、室町半ばには伊勢参詣には、定まった旅程のパターンが成立していて、参詣客をあてこんだ宿場が形成されていたと研究者は指摘します。

伊勢詣で 御師宿の客引き
伊勢御師の宿の出迎え(江戸時代)
室町時代には、宿の予約システムもあったようです。
永享二年(1430)2月、前管領畠山満家の家臣が奈良を訪れ、定宿である転害大路(奈良市)の旅館藤丸に宿を取ろうとしたところ、

「きょうは伊勢参詣の旅人が泊まるという先約がある」

という理由で断られてしまいます。(『建内記』永享二年二月二十三日条)。結局伊勢参詣の客は来ず、宿泊を断られた畠山の家臣たちは怒って藤丸になぐり込み、大路の住人を巻き込んだ刃傷事件になります。ここで研究者が注目するのは、伊勢参詣の旅人が何日も前から、藤丸に宿泊の希望を告げていたということです。室町時代の中ごろ、旅館に宿泊予約をしておくというシステムがすでに成立していたことがうかがえます。
 どんな人々が旅館を経営していたのでしょうか。
鎌倉時代の史料に、宿の長者と呼ばれる者がでてきます。網野善彦氏は宿の長者を次のように記します
「宿の在家を支配し、宿に住む遊女、愧儡子などの非農業民を統轄していた者」

長者自身が旅館の経営者でもあったようです。
『吾妻鏡』建久元年(1190)十月の源頼朝上洛記事には、
頼朝の父義朝は、東国と京都を行き来するたびに美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)の女長者大炊の家に宿泊していた。それが縁で大炊は義朝の愛人となっていたことが記されています。
また文和二年(1353)、南朝軍に京都を攻略され、美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)まで落ちのびた足利義詮も長者の家を宿泊所としています。ここからは宿の長者の家が旅行者の宿として利用されていたことが分かります。

    そういう目で金刀比羅宮を見ると、近世に成立した門前町に宿を開いたのは、金比羅信仰を広めた天狗信仰の山伏(修験者)=先達たちが多かったようです。彼らは各地で獲得した信者を、自分の宿の常客としたのかもしれません。金比羅にも熊野・伊勢信仰につながるシステムが継承されていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



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  東大寺の大仏造については国家プロジェクトとして越えなければならない壁がいくつもありました。その中で教科書でも取り上げられるのが、東北からの金の産出報告です。しかし、下の表を見れば分かるように、金の使用量は440㎏にすぎません。金は銅像の表面に鍍金(メッキ)されたので、この程度の量です。それに比べて仏像本体となる銅やすすの量は、それよりもはるかに多くの量が必要とされたことが分かります。これの銅の多くは、秦氏によって採掘された「西海の国々」から運ばれてきました。

大仏造営 資材一覧
 この表の中で水銀2,5トンとあります。水銀はなんのために使われたのでしょうか?
金を塗装するためには「アマルガム」を使った技法が用いられてきました。これは、水銀とほかの金属とを混ぜ合わせた合金のことです。水銀は常温では液体の金属なので、個体と混ざって粘性のあるペースト状になります。水銀に金を触れさせると、金は溶けるように水銀と一体化して、 ドロドロとした半液状の 「金アマルガム」となります。

大仏造営 金アマルガム2

  これを大仏本体に塗り付けて火であぶると、沸点の違いにより金アマルガムから水銀だけが蒸発して、最後に金だけが薄く残ります。この技法は、金が水銀に溶けて消えていくように見えるので古来日本では「滅金(めっきん)」と呼ばれ、これが「メッキ」という言葉の語源となったようです。奈良の大仏も、この金アマルガム法によって金の塗装がなされています。

大仏造営 金アマルガム1

先ほど見たように、金440kg、水銀2500kgもの量が使われ約5年の歳月を費やしてようやく塗装作業を完遂させています。
  
東京都鍍金工業組合のHPには、大仏鍍金工程が次のように記されています。
①延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅を使用
②次に鋳凌い工程で,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げる。
③鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,表面に塗金が行なわれた。
大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるので,鋳かけ,鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれたことが分かります。。
  用いた材料について延暦僧録には、次のように記されています。
「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉塗御体如件」

 これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったことが分かります。これは金と水銀を1:5の比率混合になります。このアマルガムを塗って加熱します。この塗金(滅金)作業に5年の歳月を要しています。これは水銀中毒をともなう危険な作業でした。
大仏鋳造は749年に完成し,752年, 孝謙天皇に大仏開眼供養会が行なわれています。大仏の金メッキは,この開眼供養の後に行われています。それは大仏が大仏殿の中に安置された状態になります。
 金メッキが行なわれはじめてから,塗金の仕事をする人々に原因不明の病気がはやりだします。

大仏造営 金アマルガム3

2500kgもの水銀をわざわざ火であぶって蒸発させ、空気中に放出しまくっているのです。ましてや金の塗装作業を開始したのは、すでに大仏殿が完成して、大仏はその内部に安置された後のことになります。気化した水銀は屋内に充満し、水銀ミストサウナのような作業現場となっていたことが想像できます。
 気化した水銀の危険性を知っている私たちからすれば、奈良の大仏に施した「金アマルガム法」による塗装作業は、水銀中毒の発生が起きうる危険な作業現場だったことになります。こうした作業を5年も続けていたので、大仏造立に関わった人々が次々と水銀中毒の病に倒れて命を落としていきます。さらに、大気中や地中を通じての飲料水の水銀汚染により平城京全域にまでその被害が拡大していった可能性もあります。
  当時の人たちは水銀中毒については何も知りません。
反対に古代中国では、水銀は不老不死の効力があると信じられていました。秦の始皇帝は水銀を含んだ薬を常用していたと伝えられます。また始皇帝陵の石室の周辺には水銀の川が造られているとも伝えられます。「水銀=不老不死の妙薬」説は、朝鮮半島を通じて日本にも伝わり、秦氏はその信者であったとも云われます。

加藤謙吉は次のように述べています。
「アマルガム鍍金法が一般化するのは、主として仏像制作に鍍金が必要とされていたことによる。したがって仏工は鍍金法に習熟していることが不可欠となる」
「彼らの仏工としての技術が朱砂・水銀の利用に端を発していると推察できょう」
佐藤任氏は、次のように述べています。
「奈良の大仏鋳造で、金と水銀のアマルガムをつくって像に塗り、熱して水銀をとばし、黄金色の像を造る冶金技法は、それ自体また一種の錬金術であったといえる」

「錬金術」を「錬丹術」というのは、丹生(水銀)を用いる術だからです。このアマルガム錬金技術を伝来していたのが秦の民です。錬丹術は不老不死の丹薬を作り、用いる術で、常世信仰にもとづく秘法でした。秦氏系の赤染氏が常世氏に名を変えたのは、大仏鋳造の塗金にかかわって、黄金に輝く大仏に常世を見たからだとされます。この鍍金に必要な丹生・水銀の採取にかかわったのも秦の民です。

大仏造営 辰砂
辰砂
市毛勲氏は「新版 朱の考古学』で、次のように記します。
「金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であったと思われる。国家事業としての盧舎那大仏造立であったから、辰砂探索の必要性は平城京貴族にも広く知られていた」

と書き、『万葉集』の次の歌を示します。
大神朝臣奥守の報へ噴ふ歌一首
仏造る 真朱足らずは 水たまる
    池川の朝臣が 鼻の上を掘れ (三八四一)
穂積朝臣の和(こた)ふる歌一首
何所にそ 真朱掘る岳 薦畳 平群の朝臣が、
           畳の上を穿れ  (三八四三)
この二つの歌からは、大仏造立のための真朱(辰砂)の採掘が行われていたことがうかがえます。 
辰砂の鉱床は赤いので、山師(修験者)はこの露頭を探して採掘します。平群朝臣は赤鼻、池田の朝臣は水鼻汁、つまり辰砂の露頭と水銀の浸出を意味するようです。平城京貴族が万葉集歌に辰砂を詠み込んだ背景には、当時の慮舎那大仏鍍金と言う国家プロジェクトが話題になっていたからでしょう。
丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

  辰砂(朱砂・真朱)は、硫化水銀鉱のことで、中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されてきました。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになります。辰砂を 約600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが知られていました。
        硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄

 魏志倭人伝の邪馬台国には「其山 丹有」と記されています。
古墳内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていて呪術的な用途があったようです。辰砂(朱砂)の産地については、中央構造線沿いに産地が限られていて、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていたようです。それ以外には、四国にも辰砂(朱砂・真朱)の生産地があったようです。

大仏造営 辰砂分布図jpg

伊予の辰砂採掘に秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。

伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の人・従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣されたこと
②大山安倍小殿小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  ここには愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓秦氏を名乗ってきたが、父方の姓へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。いろいろなことが見えてきて面白いのですが、ここでは辰砂に焦点を絞ります。

渡来集団秦氏の特徴


 伊予国は文武二年(698)9月に朱砂を中央政府に献上していることが『続日本紀』には記されています。
また愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)の父野川鉱山(日吉鉱山・双葉鉱山)では1952年まで水銀・朱砂の採掘・製錬を行われていました。伊予には、この他に朱砂(水銀鉱)が発見されたという記録がないので、旧日吉村の水銀鉱が『続日本紀』に、登場する鉱山なのではないかとされています。
 伊予国の新居(にいい)郡は、大同四年(809)に嵯峨天皇の諱の『神野』を避けて郡名を神野から新居に改めたものです。
辰砂(朱砂)坑を意味する名称に『仁井』(ニイ)があります。『和名抄』の古写本である東急本や伊勢本は、新居郡所管の郷の一つに『丹上郷』を記しています。これらの郡名・郷名は、朱砂採掘に関わりがあったことがうかがえます。

技能集団としての秦氏

松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。
伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

  以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘を行っていたことにしておきましょう。

 先ほどの疑問点だった「阿倍小殿小鎌」の子孫が、父方の姓を名乗らず、母方の「秦」を名乗り、百年以上たって、ようやく父方の姓を名乗るようになったのか、について研究者は次のように推測します。
①伊予国の「朱砂」採掘は、以前から秦の民が行っていた。
②そのため「伊豫国に遺して、朱砂を採らしむ」と命じられた安倍小殿小鎌は、在地の「秦首が女を要る」必要があった。
③伊予の朱砂の採取も秦の民が行っていたので、秦の民の統率氏族の小鎌の子は、「安倍小殿」を名乗るよりも「秦」を名乗った方が都合がよかった。
④在地で有利な「秦」を百年あまり名乗っていたが、「安倍」という名門に結びついた方が「朝臣」を名のれるのでれ有利と考えるようになった
⑤そこで、一族が秦氏から安部氏への改姓願いを申請した
この記事からうかがえるのは、7世紀半ばの大化年間に中央から辰砂の採掘責任者が派遣されていることです。つまり、その時点で中央政権が「朱砂」の採掘を管理していたことになります。そして、その実質的な採掘権を秦氏が握っていたと云うことです。

 愛媛県喜多郡(大洲市)の金山出石寺の出石山周辺は、金・銀、銅・硫化鉄・水銀が出土し、三菱鉱業が採掘していました。出石山近くには、今も水銀鉱の跡があることは以前にお話ししました。

列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)  日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。 | 日本列島, 日本, 国
 肱川流域・大洲・八幡浜には丹生神社・穴師神社が点在します。
これらは辰砂採取の神として祀られたもので、大洲市の山付平地には古代砂採取址と思われる洞穴と、朱砂の神〈穴御前)を祀る小祠があったと伝えられます。伊予の各地で秦氏が辰砂(朱砂)を採取し、水銀を作り出していたことがうかがえます。

土佐の丹生と秦の民は?
土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がいます。また、長岡郡には仁平元年(1151)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえます。さらに幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)の土佐郡泰泉寺の地名も秦氏に関連するもののようで、秦氏集団の痕跡がうかがえます。これらの分布地域と重なる形で、
吾川郡池川町土居
長岡郡大豊町穴内
土佐郡土佐山村土佐山
などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されていました。
 ニウの名を持つ中村市入田(にうた:旧幡多郡共同村)の地で採取された土壌からは、0、0006%という水銀含有値が報告されています。土佐にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など辰砂採掘とかかわる地名が残ります。その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つことが報告されています。
秦神社 - Shrine

土佐の長宗我部氏は秦河勝の子孫と称します。
高知市鷹匠町の秦神社は、祭神は長宗我部元親です。長宗我部氏の云われ、山城国稲荷神社の禰宜であった秦伊呂具の子孫が信濃国更級郡小谷郷(長野県更埴市)に移り、稲荷山に治田神社(「ハタ」が「ハルタ」になった)を祀っていました。平安時代の終り頃に、秦氏が住む上佐国長岡郡宗部郷(南国市)へ移住し、地名をとって長宗我部氏を称し、領主にまで成り上っていきます。この由緒からは、信濃から未知の土佐へ、秦氏ネツトワークを頼って移住してきたということになります。元親の父が養育された幡多郡は「波多国」といわれ、「旧事本紀』の「国造本紀」は、
波多同造。瑞籠朝の御世に天韓襲命を神の教示に依て、国造に定め賜ふ」
とあります。祖を「天韓襲命」と「韓」を用いていることからも、「波多国」は泰氏の国であることが分かります。
秦泉寺廃寺出土の軒瓦(高知県教育委員会) / 天地人堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 高知市中秦泉寺に秦泉寺廃寺跡があります。
旧上佐郡下の唯一の奈良時代の寺で、『高知県の地名』は、「この寺は古代土佐にいた泰氏建立の寺」という説があると記します。地名の北秦泉寺には古墳時代後期の秦泉寺古墳群があり、須恵器が出土しています。秦泉寺廃寺跡の地は、字を「鍛冶屋ガ内」といわれている扇状地です。
土佐同安芸郡丹生郷については、『土佐幽考』は次のように記されています。
「今号入河内是也。入者丹生也。在丹生河内之章也。比河蓋丹生郷河也」

『日本地理志料』は
「按図有・大井・吉井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑。其縁海称丹生浦、即其地也」

この地は現在の安芸市東部、伊尾木川流域になります。松円壽男はこの丹生郷で採取した試料から0,0003%の水銀が、検出されたことを報告しています。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏と丹生の関係については
讃岐では大内・三木・山田・香川・多度・鵜足などに秦氏・秦人・秦人部・秦部など秦系氏族が濃密な分布します。大内部には「和名抄」に「入野(にゅうの)」の郷名があります。東急本や伊勢本は「にふのや」の訓を施しています。『平家物語』は「丹生屋」と記します。同郷の比定地とされる香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、0,0003%という水銀含有値が析出されています。
 入野郷には寛弘元年(1004)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を記します。この戸籍が必ずしも当時の住人の実態を伝えているか疑わしい点もあるようですが、入野郷が秦氏の集住地であったことはうかがえます。
2 讃岐秦氏2
   以上、秦氏につながる地名から辰砂採掘との関連を研究者は列記します。「地名史料」は不確かなものが多くそのまま信用できるモノではありません。しかし、先端技術を持つ秦氏がどうして、四国の奥地にまでその痕跡を残しているかを考える際に、辰砂などの鉱物資源の採掘のために秦氏集団がやってきて採掘のための集落を形成していたというストーリーは説得力があるように思えます。その前史として、鉱脈や露頭捜しに修験者たちが山に入り、その発見が報告されると集団がやってきて採掘が始まる。そして守護神が勧進される。同時に、有力な鉱山産地には国家からの官吏も派遣され、鉱山経営や生産物の管理も行われていたことはうかがえます。
 ちなみにある考古学者は三豊母神山も有力な辰砂生産地で、その生産に携わっていた戸長たちの墓が母神山古墳群であるという説を書いていたのを思い出しました。秦氏の活動パターンは広域で多種多様であったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


仏像の種類:虚空蔵菩薩とは】知恵の四次元ポケット!空海の生みの親、虚空蔵菩薩の梵字真言など|仏像リンク
若き日の空海が大学をドロップアウトして、信仰の道へと入っていくきっかけは「虚空蔵求聞持法」の修得にあったとされます。それはドロップアウト後の空海の行動からも分かります。空海は、四国の大瀧山や室戸で「虚空蔵求聞持法」の修得修行を開始するのです。この時の空海には、まだ密教の全体像が見えてはいません。その入口に立ったばかりなのです。そこに至るまでの導き手になったのが秦氏出身の僧侶です。虚空蔵求聞持法の伝来に秦氏が深く関わってきたことについては、以前にお話ししました。今回は虚空蔵菩薩信仰を「鉱山開発」の視点から見ていこうと思います。テキストは大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363Pです。

「虚空蔵」と名前のつく山と鉱山の関係を一覧したものを見ておきましょう。
虚空蔵尊(徳島県阿南市大竜寺山)水銀鉱.
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺)含銅黄鉄鉱.
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)金鉱.
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)鉢ケ嶺。マンガン鉱。
虚空蔵山(岡山県浅目郡里庄)銅山がある。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野丹生川)水銀、銀を産する波佐見鉱山がある。
虚空蔵酋獄(鹿児島県串木野市)一斤ケ野金山(黄金、黄鉄鉱、輝銀鉱)
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂 金星山明星輪寺)金、銀、銅、水銀。
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山 金剛証寺)カンラン石、 ハンレイ岩で、鋼、クロームコバルト、鉄、ニツケルをふくむ山.
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)銅山ら
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)鉄鉱ヽ砂鉄
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)銀山川があり、銅山
虚空蔵山(宮城県伊共郡丸森町大帳)山麓に金山部落
虚空蔵山(山形県米沢市)十日野鉱山
虚空蔵寺(岩手県気仙郡店丹・五葉山)平泉の藤原氏時代、伊達氏時代の最高の金の産地で、平泉の金色堂の黄金は、みなここの産金によるという.
虚空蔵尊(青森県岩木山百沢村)鉄鉱.
虚空蔵宮(金井神社 栃木県下都賀郡金井町)「この楽落を小金井郷といふ。この地名小金の湧き出づる井戸に通ずる語源なり」

  ここからは、虚空蔵山と名のつく山の近くには、鉱山があったことが分かります。
 谷有二氏は、「虚空蔵」と鉱山の例を次のように紹介しています。
「埼玉県秩父黒谷の金山遺跡からも、室町時代とおぼしき一寸人分の銅製虚空蔵書薩が掘り出されて」
「和銅山に、往時のものと推定出来る露天掘り跡が、二本の溝のような形で山麓の和銅沢に向かって急谷に落ち込んでいる。和銅山の東側一帯は金山と呼ばれ、選鉱場、精錬所跡からは銅滓、火皿の大きい朝鮮式煙管(キセル)とともに虚空蔵蔵が掘り出された。現在、附近には五ヵ所八本の坑道が明確に残っているが、全部ノミによる掘進坑で、三〇〇~五〇〇年前のものとみられる。江戸時代はもちろん近くは明治38年まで掘り続けるれた」

「上州武尊山麓薄根川沿いで鉄を採つた金山の一峰を虚空蔵山とする。その虚空蔵菩薩縁起では、平安時代の天長一四年に空海が同地で修行したことに始まるとあるが、この『縁起』そのものは戦国時代の永禄11年に書かれたものなので、歴史は相当古いことがわかる」

「東北の例として、「山形県出羽三山の北に1090mの虚空蔵岳がある。山麓を昔から砂金採掘で知られた立谷沢がぐるりと半周するだけでなく、今も山腹には大中島、東山など金銀銅を出す鉱山が働いて、一ッ目伝承もからむ」

「山形県上山市の西2㎞も355mの虚空蔵山がある」が、上山市の南側の「蔵王連峰山形側は金属地帯で(中略)鉱山が目白押しにならぶ」

「宮城県の栗原町と花山村との境にある1404mの虚空蔵山は、それこそ鉱物の真上に乗つたような感覚だ。福島県の蔵の町として知られる喜多方周辺も、鉱物に恵まれていて、ここにも虚空蔵森(304m)」があり、「六世紀のタタラ遺跡が発見された新潟県笹神付にも虚空蔵山があり砂鉄の存在を示している。岐阜県の名山として有名な高賀三山の一峰瓢岳にも虚空蔵尊が祭られているが、これは山麓の銅山と関連がある」

以上からは、虚空蔵信仰の山は鉱山であったようです。別の見方をすると、鉱山がある山が「虚空蔵菩山」と呼ばれるようになったということかもしれません。それには、どんなプロセスがあったのでしょうか?
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 唵のブログ
佐野賢治は「虚空蔵菩薩信仰の研究」で、虚空蔵信仰と鉱山の関係を次のように指摘します。     
「山形県南陽市の吉野鉱山などは『白鷹の虚空蔵さま』の南麓流域にあり、虚空蔵信仰と鉱山の関係を物語る」
「白鷹山北麓の山辺町作谷沢の諏訪神社本殿内には「一つ目小僧」の絵像か描かれ、この地区に炭焼藤太、小野小町伝説、鉱物・鉱山関係の地名や鉄津・鉄製懸仏が残ることからも、古代における産鉄の地であったことは確かであり、虚空蔵信仰関係では作谷沢の館野には虚空蔵山 、西黒森山の麓には『虚空蔵風穴』があり、地中から冷風が吹き出している。また、桜地蔵と呼ばれる岩には虚空蔵菩薩と考えられる磨崖仏が彫られている。このように「白鷹虚空蔵さま」山麓は鉱山地帯であり、その伝承を現在まで濃厚に伝えている鉱山に関係する伝承の豊富な地区である」

そして次のように指摘します
「全国の虚空蔵関係寺院、虚空蔵菩薩像の分析から虚空蔵信仰を主に荷担したのは当山派修験」
虚空蔵菩薩信仰の研究―日本的仏教受容と仏教民俗学 | 佐野 賢治 |本 | 通販 | Amazon

 ここからは、鉱山開発を担った集団が信仰したのが虚空蔵菩薩であり、その信仰の中心には修験者たちがいたというのです。修験者の当山派は醍醐寺を中心とした真言宗の寺院です。宗派の祖は弘法人師空海で、中興の祖は理源大師で、二人ともに讃岐出身とされます。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」とするのものが多いようです。

 空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、弘法大師が土佐国の室戸岬で虚空蔵求聞持法を行じていた時、口の中に入ってきたというものと同じでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは、関係がありそうです
星の信仰―妙見・虚空蔵 | 賢治, 佐野 |本 | 通販 | Amazon

星神信仰については、次の2つの流れがあるようです
1密教的系統(尊星法=天台、北斗法=真吾)
 ①北斗星を祀る密教系の法
 ②①から派生した妙見信仰
 ③虚空蔵求聞持法に拠る虚空蔵信仰から派生した明星信仰
2陰陽道系統(安倍晴明→土御門神道)

このうち秦の民が信仰したのは、もともとは③の星神信仰だったようです。それが後世になると②の妙見信仰と混淆していきます。その結果、秦氏の星神信仰は妙見信仰になっていったようです。秦氏の妙見信仰と星神信仰を見ておきましょう。
妙見信仰 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市

それでは妙見信仰とは、いつ誰が伝来したのでしょうか
研究者は次のように指摘します。
「妙見信仰がわが国に伝来したのは、六~七世紀の中頃と考えられる。伝来当初の妙見信仰は畿内の南河内地方など帰化人と関係深い地方で信仰されていたようであるが、次第に京畿内の大衆間に深く浸透していった」

妙見信仰は朝鮮半島からの渡来人によって、仏教伝来と同じ時期にもたらされたようです。「帰化人」とありますが、もっと具体的に云うと、秦の民になるようです。
妙見信仰の史的考察 | 中西 用康 |本 | 通販 | Amazon

 秦氏の妙見信仰を考えるときに取り上げられるのが、河内国茨田部の秦氏の祀る「細(星)屋神社」(寝屋川市茶町・太秦)です。
 この神社は、『延喜式』神名帳に載る茨田郡細屋神社に比定される神社です。しかし、今は小さな祠となって近くの八幡神社の境内に移されています。
星屋神社


泰氏の子孫と称する寝屋川市の西島家文書には「星屋」と称していることからも、渡来した秦氏が天体崇拝思想から、星神を祀ったものと研究者は考えているようです。
 この神社はもともとは「星屋神社」で、妙見信仰による神社だったようです。神社の境内にある案内板にも次のように記されています。
「祭神は秦村の記録に、天神・星屋・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祭ったと考えられます」

なぜ、星を祭る神社が秦村にあるのでしょうか。その理山は、古代の鍛冶屋と星辰信仰は深い関係にありました。この地にやってきた秦氏が鍛冶や鋳造業に関わる先端技術者集団で、彼らが信仰していたのが星神だったと考えられます。
細屋神社 : 神社参詣 - 大阪府 - 寝屋川市 : 御中主 - 社寺探訪
移築される前の細屋神社(現在は近くの八幡神社に移築)

現在のこの地区の産土神は八幡神社で、近くに大きな本殿や拝殿が鎮座しています。しかし、もとともはこの地は、秦氏の拠点でその氏神として建立されていたのは細屋(星屋)神社だったようです。現在に至る変遷を考えて見ましょう。
①この地に朝鮮半島からやって来た秦の人々は、当時の先端産業である鍛冶関係であった。
②鉱山・鍛冶関係者は星神を祀つていたから、この地に星(細)屋神社を建立した
③後代にこの地の住民は農民化し、それに伴って農民が信仰する八幡神社を産上神にした
④そのため茨田郡の式内社の五社に入っていたのに、八幡神社の摂社になり細屋神社と呼ばれるようになった

『河内名所図会』には、後鳥羽上阜が諸州の名匠を徴して刀剣を造らせたとき、秦村の鍛冶匠秦行綱が、第一に選ばれたとあります。秦村の字鍛冶屋垣内には、秦行綱宅址があります。中世には刀鍛冶へと発展していたことが分かります。
 細屋(星屋・星天宮)神社の伝承には、境内の樹を伐り草を刈ると腹痛をおこすが、秦村・太泰付(現在の寝屋川市大字秦・大字太秦)の人だけには障りがないといわれてきたようです。これもこの神社が泰氏系の神社であったことを示しているようです。秦氏と星信仰と妙見・虚空蔵信仰の関係がかすかに見えてきました。もともとの星(細)屋神社は、鍛冶関係の秦の民が氏神として祀っていた「妙見神」であったことを押さえておきましょう。
番外編】妙見寺(板東妙見信仰の祖) : 大江戸写真館(霊場巡礼編)
妙見信仰と鉱山・鍛冶業とは、どんな関係があったのでしょうか?
鉱山師は妙見=北極星で、天から金属を降らせたと信じていたようです。いくつかの例を挙げてみましょう。
①「金の島=佐渡」の金北山の隣に妙見山
②甲斐の武田氏の軍資金の半ばをまかなった大菩薩山域の妙見ノ頭は、そのものが金山の守護神
③新潟県栃尾市と長岡市境にある戊辰戦争古戦場の榎峠を、妙見山と呼びますが、東には金倉山、半蔵金山がつらなっていています。それは金属の存在を暗示しています。

西日本の岡山県の妙見山を見てみましょう。
日本霊異記には、千年前の鉱夫の悲惨な姿を次のように記します。
「美作国英田部内二官ノ鉄ヲ取ル山有り」
「暗キ穴二居テ、個へ恨ム。生長シ時ヨリ今ロニ至ルマデ、コノ哀ミニ過ギタルハ無シ」
このあたりは鉄が掘られなくなった後も銅、水銀を産するので鉱毒災害も起きていたことがうかがえます。
 岡山市から旭川をさかのぼった赤磐郡金川(御津町)近くにも妙見山があります。ここでは水銀、銅が採れました。苅田、軽部の金属を示すカリ、カル地名と山口吹屋が、それに妙見山があります。また、吉備地方には温羅(カラ)と呼ばれた鬼が左目に矢を受けてたおされる伝承が長く語り伝えられている。これも「一つ目」の変形パターンかも知れません。
 兵庫県養父郡の妙見山(1142m)一帯には金をとった跡があります。その南麓には今もアンチモン等の鉱物が採れて足坂、中瀬などの鉱山が集まり、金山峠は、その昔の運搬路を示すようです。こののあたりも古くは軽部郷と呼ばれていました。
 豊臣家の台所をまかなった金は、大阪府豊能郡能勢町一帯から採られました。今でも妙見鉱山には磁鉄鉱床がありますが、ここの歴史は古く多田源氏の祖・源義仲が砂金を掘って源氏の基礎を築いたといわれます。ここにも蛇の伝説、行基にからまる昆陽池の一ツ目魚伝承、妙見山(662m)がそろってあります。
 どこも鉱山関係者の信仰や言い伝えですが、妙見信仰を持った修験者の影が見えます。以上の記述からも、妙見信仰は
①村に居住する鍛冶職の「小鍛冶」
②鉱山の採鉱、金属精錬の「大鍛冶」
と関係があることがうかがえます。秦の民が信仰する虚空蔵信仰と妙見信仰は結びついていたのは、秦の民の職業と関係しているからのようです。
北斗七星: Fractal Underground Studio
まとめてみると
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神である
③彼らは妙見=北極星を、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われることになる
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになる。

このようにしてみると四国の行場と云われる霊山にも鉱山が多かった理由が分かるような気もしてきます。そして、空海の四国での修行場にも丹生(水銀)鉱山との関係がうかがえることは以前にお話ししました。その媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかというのです。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれた、さまざまな技術をもつた工人集団がいました。彼らが信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。そして、この信仰は主に一般の定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、秦氏の信仰した八幡神・稲荷神・白山神などは、周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
      大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363P
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  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
楽天市場】しめ縄 茅の輪 【蘇民将来子孫家門】 直径17cm:神棚・神祭具 宮忠 楽天市場支店
しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。
実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。
こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
  意訳変換しておくと
海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。
青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー
  たとえば常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。
ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々
意訳変換しておくと
息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。

『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。
神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。
日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか
  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。
  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

これは現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。また小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいるようです。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんのなのでしょうか?     
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。
古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 

 日の平山…立岩山…市間山…立岩ダム 2015/12/20
六十六部の札所寺院への勧進活動を以前に追いかけました。今回はエリアを、66番大興寺周辺に特定して、見ていくことにします。テキストは 武田和昭 「四国辺路」納経帳の起源 四国辺路の形成過程所収」です。
四国八十八カ所巡り 第67番札所大興寺 第66番札所雲辺寺 そしてやっぱり讃岐うどん | あるがまま

まずは66番大興寺の仁王門から始めましょう。
この仁王門は、以前にお話ししたように関東からやってきた唯円という廻国行者によって建立されたようです。善通寺の「善通寺大搭再興雑記」には、唯円のことが次のように記されています。(意訳のみ))
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12(1727)年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
 ここからは唯円が、小松尾寺の仁王門建立の勧進業績を買われて、善通寺五重塔の勧進活動に携わるようになったことが分かります。唯円は廻国行者で、六十六部であった可能性が高いと研究者は考えているようです。
 唯円の再築から60年後に、この仁王門は改修されています。
その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国
    金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。
2 大興寺 仁王像

仁王像は鎌倉時代初期に造られた物で像高2mを超す大きな像で、現在は香川県指定文化財です。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者であったことを、この仁王たちは見ていたのでしょう。 大興寺には廻国行者(六十六部)たちが、仏像や建物について勧進活動をして、その経営を支えていた歴史があるようです。
2 大興寺全景近代

大興寺の境内南側には、次のような六十六部に関する石塔が2基建立されているようです。
廻国供養塔
     宝暦七丁丑四月日
奉一字一石大乗妙典日本廻国供養
     中□□口巴
        □□古兵衛武啓
(六十六部廻国塔)
     安永十辛丑
奉納大乗妙典六十六部日本廻国
     三月良辰日
  修行者行本 俗名河内村□□朋有兵衛門

宝暦七年(1757)と安永十年(1781)の廻国供養搭です。前者の古兵衛武啓は大興寺に近い地元の人物で、後者も地元の河内村の人物です。この他にも本堂横には、石造地蔵書薩台座に亨保六年、長州萩の六十六部廻者行者の名前が見あります。これらの供養塔からは廻国行者と合わせ、大興寺を中心にして、六十六部廻国行者の活動が活発だったことがうかがえます。
六部殺し(ろくぶごろし)【ゆっくり朗読】 - 怖い話ネット【厳選まとめ】

六十七番大興寺の周辺には、六十六の活動が遍路沿いにもみることができるようです。
大興寺から辺路道を66番雲辺寺に向かっていくと、柞田川の支流をせき止めた岩鍋池の大きな堰堤と、その向こうに式内社の粟井神社が見えてきます。岩鍋池堰堤手前の道路沿いに、小さな庵が建っています。これが土仏観音という庵です。
1土仏観音

この庵には「土仏緑起」(享保15年)という縁起が残されています。そこには、次のように記されています。
 合田利兵衛正照という栗井村の住人が父母孝養、二世安楽を願い、享保六年(1721)正月に日本廻国の旅に出た。五躯の仏像を入れた笈を背負い、錫杖を持ち、諸国を押鉦を鳴らしながら、「国々島々残らず回り」、納経霊地730余ケ所、 二千日を掛けて廻り帰村した。廻国の途中、上野国で観音菩薩の頭部を掘り出し、その後江戸で勧進して資金を得て体部を造り、当地に持ち帰り、庵を建立したという。

ここからは、次のようなことが分かります。
①享保年間(18世紀前半)の合田利兵衛が5年間の六十六部廻国修行を行った。
②途中、上野国で掘り出した観音像の頭部修理するために、江戸中を念仏の鉦を叩き二銭ずつの勧進を2年間行った。
③35両を集め、江戸の大仏師性雲に修理してもらい観音寺まで背負って持ち帰った
④その観音像を安置し、四国遍路のために土仏庵を建立した
 ここに祀られている観音様は上野国生まれで、江戸修理され、ここに持ち帰られたものが安置されていることになります。同時に、この庵は、四国遍路の接待のための場として造られたことが分かります。
2土仏観音


ちなみに 合田利兵衛正照が廻国行に旅立った享保六年(1721)正月です。先ほど見た唯円が67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を始める前後と重なり合います。小説的に想像力を膨らませると、唯円が大興寺に小庵を構え勧進活動を起こしていく様を、合田利兵衛正照は見ていたのかも知れません。もっと云えば、唯円のもとに通い教えを受けていた可能性もあります。それが彼を、六十六部として全国廻国に向かわせたというストーリーは考えられます。栗井村の住人が六十六部廻国行者となり、廻国修行を行っていたことを押さえておきます。
土仏観音院

この土仏庵の周辺には、いくつかの石碑や地蔵が建ち並んでいます。その中に享保六(1721)年に「濃州土器群妻木村求清房」という廻国行者が建てた地蔵菩薩があります。さらに彼が関わった享保五年~六年に建立された丁石も残されているようです。
ここからも亨保の初め頃、栗井の地に他国からやってきた廻国行者が住み着き、その人物と土地の合田利兵衛正照との間に何らかの関係が生まれ育ち、正照が廻国行者となったと考えることもできそうです。
1白藤大師堂

さらに遍路道を粟井に向かって進んでいくと、集落の入口に白藤大師堂があります。
ここにも3基の六十六部廻国供養塔が建っています。
  六十六部廻国塔
明和四(1767)丁亥天十一月吉良日
天下泰平
(種子)奉納大乗妙典六十六部日本廻国塔
国土安全
出羽国最上村山郡
   常接待建立十方施主 寒河江村願主覚心
  (地蔵菩薩台座名)
奉納大乗妙典六十六部日本廻国十方施主
万人講供養羽州村山郡寒河江村願主覚心法師
明和九(1772)辰天七月二十四日
  (六十六部廻国供養塔)
天下泰平 安政六己未 摂州武庫郡鳴尾村 清順
奉納大乗妙典日本廻国供養塔
日月清明 三月古日 世話人 奥谷講中
ここには「円誉覚心禅定門霊  安永五(1776)内申五月二十六日 行年六十一歳」の墓碑もあります。ここに出てくる覚心とは何者なのでしょうか?
白藤大師堂 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com

『粟井村誌』(昭和25年刊)には、覚心のことが次のように記されています。
覚心は出羽国村山郡寒河江村の生まれで、四国八十八ケ所を数十回も辺路した廻国行者である。覚心は雲辺寺から麓の粟井まで随分と距離があり、さらに人家もなく辺路の人々が苦労していることから、粟井村の庄屋に願い出て村から寄進された土地に宝磨五(1755)年に庵を、同7年に大師堂を建立した。その後は、そこで辺路の人々に接待が行われるようになった
ここからは現在の山形県寒河江村市からやってきた六十六部廻国行者の覚心が四国遍路を何十回も行う中で、何らかの縁を得て、粟井村に留まるようになったことがうかがえます。そして、彼は地元の有力者に働きかけ庵や大師堂を建立し、遍路のために提供したようです。後には、ここが接待の拠点となっていったのでしょう。私は、雨露をしのぐ庵などは、地元の人たちの発案で行われたものと、思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。ここにも外部からやって来た「有能」の人たちの発案と働きかけがあって実現したものであったことが分かります。

覚心という廻国行者は、戒名「誉」の係字がありますから、浄土系念仏行者のようです。覚心のような人物によって、周囲の村々に念仏講などが広がっていくのかもしれません。なお覚心は粟井村に来る前に、屋島壇ノ浦の大楽寺にも廻国塔(宝暦13年)を建立しているようです。

 さらにこの地域に、その他にも六十六部廻国行者の存在のがうかがえる者が残されています。白藤大師堂から少し下った所に立つ地蔵菩薩台石には、次のように掘り込まれています。
  享保九年  (梵字)遍路 六部 札供養 十一月二十一日

ここからは享保9(1724)年に遍路と六十六部廻国行者の札供養が行なわれたことが分かります。札供養とは、どんなことか私には分かりません。研究者は辺路や六十六部が納めた札を、この石塔の下に納めて供養を行ったと考えているようです。ここからも、四国遍路とともに数多くの六十六部廻国行者が、粟井の地を通過していたことがうかがえます。
十返舎一九_00006 六十六部

十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

紹介してきた太興寺周辺の六十六部の活動を、時系列に年表化してみましょう
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 地元粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の辺路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っていることが分かってきます。土仏庵から白藤大師堂の間には、宝永7年(1710)の六十六部の廻国供養塔が残されているので、かなり早い時期から粟井の谷には六十六部廻国行者が、入り込んできていたことがうかがえます。
 大興寺という札所で仁王門の勧進活動を行い、札所寺院に利益を与え、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵など進出していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
焼津市/横山九郎右衛門の六十六部廻国関係資料
六十六部の笈(焼津市六十六部関係資料)

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

近在の町誌などには江戸時代の四国遍路の往来手形がよく載せられています。それを見ると、村の庄屋か寺院が発給したもので、その内容は、巡礼者氏名、目的、所属宗旨(禁教対応のため)、非常時の事、発行者、宛先が順番に記され定型化したものになっています。これに見慣れていたために、四国遍路の往来手形は当初から地元の庄屋や寺院が発行してきたものと思っていましたが、どうもそうではないようです。今回は、往来手形の変遷を追いかけてみようとおもいます。
テキストは 「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」です
 私が最初に四国遍路の往来手形の発行について、疑問に思ったのは、澄禅『四国辺路日記』にでてくる徳島城下の持明院の次の記述です。
持明院 願成寺トテ真言ノ本寺也。予ハ高野山宝亀院ノ状ヲ持テ持明院二着ク、依是持明院ヨリ四国辺路ノ廻リ手形ヲ請取テ、廿五日ニ発足ス。
意訳変換しておくと
持明院は願成寺も云い真言宗の大寺である。私は事前に高野山の宝亀院に行って紹介状をもらって、それをもって持明院に行った。持明院で四国辺路の廻手形を受け取って、7月25日に出発した。

ここからは澄禅が四国辺路のために、まず高野山に行き、宝亀院の許可書もらって、それを持明院に提出して廻り手形をもらていることが分かります。ここで疑問に思ったのが、四国遍路のためには、持明院の発行手形(往来手形)が必要なのかということです。そんな疑問は、ほったらかしにしてていたのですが、持明院の発行した「廻り手形」(往来手形)の実物がでてきたようです。この手形には、明暦四年(1658)と記され「大滝山持明院」という寺名も書かれています。現在のところ、四国辺路の往来手形として最古のもののようです。大きさは縦17㎝×横35、5㎝)だといいます。
    1 持明院 四国遍路往来手形
明暦4年の四国辺路往来手形 徳島持明院発行

坊主壱人俗二人已上合三人
四国辺路二罷越し関々御番所
無相連御通し可被成候一宿猶以
可被加御慈悲候乃為後日如件
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
四国中関々御番所
御本行中
意訳しておくと
坊主一人と俗二人、合計三人
四国辺路に巡礼したいので関所・番所を通していただくこと、これまで通りの一宿の便宜と慈悲をいただけるようお願いしたします。
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
この書状が澄神『四国辺路日記』に出てくる「四国辺路の廻り手形」のようです。当時は「往来手形」ではなく「廻り手形」と呼ばれたようです。一番最初の行には、次のように記されています。
坊主一人と俗人二の合計三人が四国辺路するので関所・呑所を問題なく通し、また宿も慈悲をもってお願いしたい」

坊主とは、おそらく先達的役割の僧、2人はそれに従う俗人でしょう。かつての熊野詣の参拝と同じように先達に連れられての四国遍路のようです。宛所は「四国中関々御番所」とあるのが四国各藩の関所・番所です。これに著名しているのが阿波の大滝山持明院の快義になります。
 この書状の筆跡を詳しく検証した研究者は、中央下部のAゾーンのみ別筆だと指摘します。Bゾーンは、それぞれの国の代表寺に署名だけをすればいいように、前もって寺院名と法印が書かれていたようです。ここからは澄禅『四国辺路日記』に記されたとおり、持明院で廻り手形が発行されていたことが確認できます。
 そして、他の3国の発行寺院は次の通りです。
土佐の五台山竹林寺
伊予の石手寺
讃岐の綾松山(坂出)白峯寺
この3寺が代表して、保証していたようです。
 江戸時代初期の四国遍路廻りの手形発行は、地元の庄屋やお寺では発行できず、各国の代表寺院が発行していたようです。手形の発行・運営システムの謎がひとつ解けたようです。
 ここで私が疑問に思うのはには、土佐の竹林寺や伊予の石手寺は、それぞれの国を代表するような霊場寺院ですが、讃岐がどうして白峰寺なのでしょうか。普通に考えると、讃岐の場合は善通寺になるとおもうのですが白峰寺が選ばれています。同時の社格なのでしょうか、それとも善通寺が当時はまだ戦乱の荒廃状態から立ち直っていなかったからでしょうか。当時の善通寺のお膝もとでは「空海=多度津白方生誕説」が流布されていましたが、これに反撃もしていません。善通寺の寺勢が弱まっていたのかもしれません。
 もうひとつの疑問は、廻り手形の発行が持明院という札所寺院ではないことです。どうして霊山寺のような札所寺院が選ばれなかったのでしょうか。さらに、どうして阿波の寺院が四国の総代表寺院になるのでしょうか? これらの疑問を抱えながら先に進んで行くことにします。
この書状を作成した持明院について『阿波名所図会』で見てみましょう。
1 持明院 阿波名所図会
持明院
 持明院は徳島城下の眉山山麓の寺町にあった真言宗の大寺だったようです。大滝山建治寺と号し、創建は不詳、三好氏城下勝瑞に建立され、蜂須賀氏入部に伴い、眉山中腹に移転されます。江戸期にはおおむね100石の寺領を有しています。阿波名所図會では山腹には滝、観音堂、祇園社、行者堂、三十三所観音堂、八祖堂、坊舎、十宜亭、大塔などがあり、山下には仁王門、本堂(本尊薬師如来)、方丈、庫裏、天神社、絵馬堂、八幡宮などがあったようです。徳島の寺町を代表する大寺であったことがうかがえます。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
持明寺
次いで『阿波誌』をみてみましょう。
持明院 亦寺街隷山城大覚寺、旧在勝瑞村、釈宥秀置、三好氏捨十八貫文地七段、管寺十五、蔵金錫及馨、天正中命移薬師像二、一自勝瑞移安方丈、 一自名西郡建治寺彩作堂安之、山名大滝(中略)封禄百石又賜四石五斗、慶長三年命改造以宿行人、十三年膀禁楽採樵及取土石、至今用旧瓦故瓦頭有建治三字。

  意訳変換しておくと
持明院は隷山城大覚寺ともいい、旧在勝瑞村にあった。かつては、三好氏が捨十八貫と土地七段を寄進し、十五の末寺を持ち栄えた。天正年間に勝瑞にあった持明院と、名西郡の建治寺を現在地に移して新たな堂舎を建立し、山名を大滝山持明院建治寺とした。(中略)
封禄は百石と四石五斗を賜った。慶長三年に藩の命によって寺の改造が行われ行人宿となった。慶長十三年には周辺の神域や山林から木を切ることや土石を採取することが禁止された。今でも旧瓦には瓦頭に有建治の三字が使われている
ここからは、天正年間に勝瑞にあった持明院と名西郡の建治寺を現在地に移して、大滝山持明院建治寺としたこと。慶長三年(1598)には、命によって寺の改造が行われ、行人の宿にしたことなどが分かります。この中で、慶長三年に寺を改造して行人の宿としたことは、重要だと研究者は指摘します。ここに出てくる「行人」とは、四国辺路に関わる行人と研究者は考えているようです。
 これに関連して阿波藩の蜂須賀家政は、同じ年の6月12日に駅路寺の制を、次のように定めています。
 当寺之儀、往還旅人為一宿、令建立候之条、専慈悲可為肝要、或辺路之輩、或不寄出家侍百姓、行暮一宿於相望者、可有似相之馳走事(以下略)
  意訳変換しておくと
駅路寺については、往還の旅行者が一宿できるように建立したものなので慈悲の心で運用することが肝要である。辺路、僧侶、侍、百姓などが行き暮れて、一宿を望む者がいれば慈悲をもって一宿の世話をすること

 こうして阿波藩内に長谷寺・長楽寺、瑞連寺・安楽寺など八ケ寺を駅路寺として定めています。そして持明院が、その管理センターに指定されたようです。つまり、持明院は徳島城下町にやって来る県外からの旅行者の相談窓口であり、臨時宿泊所であり、四国遍路のパスポート発行所にも指定されたようです。同時に、こんな措置が藩によってとられるということは徳島城下にも、数多くの辺路がやってきて宿泊所などの問題が起きていたことがうかがえます。
徳島の歴史スポット大滝山

ついでに持明院のその後も見ておきましょう。
 江戸期には藩の保護を受け、寺領もあり、寺院経営は安定していたようです。この寺の三重塔は城下のシンボルタワーとしても親しまれていました。しかし、幕末には寺院の世俗化とともに多くの伽藍を維持する経費が膨れ、困窮するようになります。それにとどめを刺したのが、明治の神仏分離です。藩主の蜂須賀家が公式祭祀を神式に改め、藩の保護がなくなります。さらには寺領も廃止され、明治4年には廃寺となります。藩主の菩提樹だったので檀家を持ちませんでした。そのため、藩主がいなくなると経営破綻するのは当然の成り行きでした。ただ神仏分離で祇園社は、八坂神社と改称され現在に残ったようです。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
残された三重塔は空襲で焼け落ちるまでシンボルタワーだった

次に徳島県の第5番地蔵寺の往来手形(写し)を見てみましょう
一、此辺路生国薩摩鹿児島之住居にて、佐竹源左衛門上下之五人之内壱人ハ山伏、真言宗四国中海陸道筋御番所宿等無疑通為被申、各御判形破遊可被ド候、以上
延宝四年(1676)辰ノ卯十七日
与州石手寺(印影)   雲龍(花押影)
讃州善通寺 宥謙(花押影)
讃州白峯寺 圭典(花押影)
阿州地蔵寺
同州太龍寺
土州東寺(最御崎寺)
同州五台山
同州足摺山
意訳変換しておくと
この辺路(遍路)は薩摩鹿児島の住人で、佐竹源左衛門以下五名で、その内の一人は山伏(先達)である。真言宗の四国中海陸道筋(四国遍路)の番所や宿でお疑いのないように申し上げる。
以上

研究者によると、この書状は石手寺が発行したものの写しのようです。延宝四年(1676)に鹿児島から来た佐竹源左衛門ら五人(内一人の山伏が先達?)は「四国中海陸道筋御番所宿等」を許可した通行書を持っています。詳しく見ると四国の内、つぎの八ヶ寺の名前が記されています。
讃岐は普通寺と白峯寺
阿波は地蔵寺と太龍寺
土佐は東寺(最御崎寺)・五台山一竹林寺)・足摺山(金剛福寺)
これが通行と宿の安全を保証するものなのでしょう。
ここからは推理ですが、薩摩からやってきた五人は、山伏姿の先達に誘引されて舟で九州から伊予に上陸したのでしょう。それが宇和島あたりなのか松山あたりなのかは分かりません。そして、まずは松山の石手寺で、この書状(パスポート)を受けて讃岐へ入り、善通寺と白峰寺で花押をもらいます。その後、大窪寺を経て阿波に入り地蔵寺で花押をもらったのでしょう。その際に、地蔵寺の担当僧侶が写しとったものが残ったと考えられます。それから彼らは土佐廻り、土佐の三ケ寺でも署判を請けたのでしょう。
 ここで疑問なのは、さきほどの明暦四年(1658)から18年しか経っていないのですが、持明院がパスポート発行業務から姿を消しています。どうしてなのでしょうか。
 この間に、札所寺院に含まれない持明院が除外されるようになったようです。また、讃岐では新たに善通寺が登場しています。讃岐に最初に上陸して、四国遍路を始める場合に、最初に廻り手形を発給するのはどこなのかなど、新たな疑問もわいてきます。これらの疑問が解かれるためには、江戸時代初期の往来手形が新たに発見される必要がありそうです。

往来手形の定型化が、どのようにすすんだのかを見ておきましょう。
元禄7年(1694)の讃岐一国詣りの往来手形です
上嶋山越智心三郎、讃岐辺路仕申候、宗旨之代者代々真言宗二而、王至森寺旦那紛無御座候、留り宿所々御番処、無相違御通被成可被下候、為其一札如件
元禄七年 与州新居郡上嶋山村庄ヤ
                 戌正月24日 彦太郎
所々御番所
村々御庄岸中
意訳変換しておくと
上嶋山の越智心三郎が讃岐辺路(讃岐一国のみの巡礼)を行います。この者の宗旨代々真言宗で、王至森寺の旦那(檀家)であることに間違いはありません。つきましては、宿所使用や番所通過について、これまでのように配慮いただけるようお願い申し上げます
元禄七年 与州(伊予)新居郡上嶋山村庄屋
これは、新居郡上嶋山村の庄屋発行の往来手形で、「讃岐辺路仕申中候」とありますので讃岐一国のみの遍路です。「遍路」ではなく「辺路」という言葉が使われています。この時代まで「辺路」という言葉は生きていたようです。新居郡上嶋山村は、小藩小松藩の4つの村のうちのひとつです。

その約20年後の正徳2(1712)年の往来千形です
往来手形之事
一、予州松山領野間郡波止町、治有衛門喜兵衛九郎右衛門と申者以上三人、今度四国辺路二罷出候、宗旨之儀三人共二代々禅宗、寺者同町瑞光寺檀那紛無御座候、所々御番所無相違通可被下候、尤行暮中候節者宿之儀被仰付可被下候、若同行之内病死仕候ハゝ、早速御取置被仰付可下候、為其往来証文如件
正徳二年辰年六月十七日 予州野間郡波止浜
古川七二郎 同村庄屋 長野半蔵
御国々御番所
意訳変換しておくと
伊予松山領野間郡波止町の治有衛門・喜兵衛・九郎右衛門の三人が、今度四国辺路に出ることになりました。宗旨は三人共に代々禅宗で、同町の瑞光寺の檀家であることに間違いありません。各御番所で無事に通過許可していただけるよう、また、行き暮れた際には宿についても便宜を図ってくださるようお願い致します。もし同行者の中から病死する者が出た場合には、往来証文にあるようにお取り扱い下さい。

これも村の庄屋が発給したものですが、はじめて「往来手形」という言葉が登場します。そして当事者、目的、宗旨の事、発行者、非常時の事、発行者、宛先が順番に明示されるようになります。これで定型化のバージョンの完成手前ということでしょうか。
さらに40年後の宝暦二年(1753)年のものをみてみましょう
往来切手寺請之事
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
右之者儀、代々真言宗二而当院旦那紛無之候、此度四国辺路二罷出申候間、所御番所船川渡無相違御通シ可被下候、行暮候節、一宿等被仰附可被下、若シ此者共儀何方二而病死等致候共、其所ニテ任御国法、御慈悲之に、御収置被卜候国元へ御附届二不及申候、乃而往来寺請一札如件
讃州香川郡西原村
       真光寺 印
宝暦ニ申正月十五日
国々御番所中様
所々御庄屋中様
右之通相違無御座候二付奥書如件
同国同所庄屋    松田慶右衛門 印
正月十五日
意訳変換しておくと
往来切手(往来手形)の寺発行証明書について
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
これらの者は、代々真言宗で、当院の檀家であることを証明します。この度、四国辺路に出ることになりましたので、各所の番所や船川渡などの通過を許可していただけるようお願い致します。また行き暮れた際には、一宿の配慮をいただければと思います。もしこの者たちの中から病死者などが出た場合には、その地の御国法で御慈悲にもとづいて処置して下さい。国元へ届ける必要はございません。往来寺請一札(往来手形)についてはかくの如し
讃州香川郡西原村   真光寺 印
40年前のバージョンに比べると 病死などの時には「其所の国法」によって任され、国許には届ける必要は無いとのことが加わりました。以後の往来手形は、これで定型化します。ここからは、発給する側の庄屋の書面箱なかに、四国遍路の往来手形が定形様式として保存されていたことがうかがえます。当時の庄屋たちの対応力や書類管理能力の高さを感じる一コマです。
以上から往来手形発行の変遷をみると、次のようになるようです。
①初めは徳島城下の持明院が発給していた
②やがて八十八ケ所の特定の8寺院となり
③元禄ころからは庄屋や檀那寺がとなる
内容的にも最初は関所・番所の無事通過と宿の便宜でした。それが宗旨や檀那寺の明示、病死した際の処置などが加わり、17世紀半ばには定型化したことが分かります。
 江戸時代は、各国ごとに定法があり、人々の移動はなかなかに難しかったとされます。しかし伊勢参りや金昆羅参りなどを口実にすると案外簡単に許可が下りたようです。四国辺路も「信仰上の理由」で申請すると、往来手形があれば四国を巡ることが許されたようです。元禄時代頃から檀那寺や庄屋が往来手形の発給を行うようになります。それは、檀家制度の充実が背景にあるのでしょう。そのような中で、徳島の持明寺の四国遍路の廻り手形発給の役割は、無用になっていったとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」

 
三角寺(65番)さんかくじ | マイカーお遍路

 四国八十八ヶ所霊場第六十五番札所の三角寺(四国中央市)の文殊菩薩騎獅像には、胎内に「四国辺路」の言葉があるようです。この像は文禄二年(1592)造立なので、早い時期の四国辺路の字句になります。この像が造られた時期の三角寺や四国辺路を研究者は、どのように考えているのでしょうか見ていくことにします。テキストは「武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程所収」  です
1三角寺 文殊菩薩 胎内名

文殊菩薩像について、研究者は次のように報告します。
本像は獅子に来る文殊菩薩像、いわゆる騎獅文殊像で、像高八〇・センチメートル、獅子の高さ六八・二センチメートル、体長八八・四センチメートルである。まず像容をみると、頭部に宝冠(欠失)を戴き、右手を前に出し、何か(剣か)を握るようにし、左手も前に出して同じく何か(経巻か)を執るように造られ、右足を上に結珈践坐する。

三角寺 文殊菩薩騎獅子像
文殊菩薩騎像(三角寺)
上半身には条錦を着け、下半身には裳をまとうが、条錦を右肩に懸けており、着衣法は通例とは異なる

三角寺 文殊菩薩坐像の獅子像
騎獅文殊像の獅子像(三角寺)
獅子は四肢を伸ばし立つ。口を開け、大きく両日を見開き、頭部にはたて髪が表されている。文殊苦薩像の構造をみると、体部は前後に矧ぎ合わせ、これに両層から先を矧ぎつけるが、両手とも肘の部分で矧ぐ。頭部は差し首とし、面部の前面部を別材で矧ぎつけ限や日を彫る。膝前は横に一材としている。獅子は胴部、前脚部、後脚部、頭部の四つに大きく分けられる。
研究者は、文殊菩薩像・獅子ともに造形的にはあまりすぐれたものとはいえず、着衣法にも問題点があることなどから地元で造られた像とします。そして、専門の仏師の手によるものではなく、修験者などによって彫られたものと考えているようです。しかし、お宝は胎内から見つかりました。

三角寺 文殊菩薩騎 体内jpg
騎獅文殊像の胎内銘文

次に胎内から見つかった銘文を見てみましょう。
                              
丈殊像の胸部内側と膝部の底部に、次のような墨書を研究者は見つけます。
蓮花木三阿已巳さ□□名主城大夫
かすがい十六妻鳥の下彦―郎子の年
             同二親タメ
四国辺路之供養二如此山里諸旦那那勧進 殊辺路衆勤め候
(梵字)南無大聖文殊師利菩薩施主本願三角寺住仙乗慶(花押)    四十六歳申年
先師勢恵法印 道香妙法二親タメ也 此佐字始正月十六日来九月一日成就也。仏子者生国九州薩摩意乗院 其以後四国与州宇摩之郡東口法花寺
おの本                                佐意(花押)
  意訳変換しておくと
この像が造られたのは四国辺路の供養のためである。造立に当たっては、この里山(三角寺周辺地域?)の諸旦那が勧進した、特に辺路衆が関与した。施主本願は、 三角寺の僧である乗慶(四十六歳)で、先師の勢恵法印、道香妙法二親のためであり、正月に始めて9月1日に成就した。仏師は薩摩の意乗院の出身で、その後に伊予国宇摩郡東口の法花寺に住した佐意である。

ここからは次のようなことが分かります。
①この騎獅文殊像が四国辺路供養のために作れたこと
②寄進者は三角寺周辺の檀那たちで、辺路衆(修験者)が勧進活動を
行った。
③施主は三角寺住持の乗慶で、その師である勢恵と道香に奉納するものであった。
④仏師は最初は薩摩の意乗院で、その後は法花寺の佐意が引き継いだ。
③の「勢恵」は、新宮村の熊野神社の永禄5年(1562)の棟札(『新宮村誌』歴史・行政編1998年)に「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵修之」とみえます。ここからは、三角寺住持が新宮熊野神社の遷宮の導師を勤めていたことが分かります。銅山川流域では熊野信仰と三角寺が深い関わりを持っていたことを研究者は指摘します。

仏師の佐意が住持を勤めた法花寺は、現在はないようです。
しかし、三角寺の東麓ある浄土真宗東本願寺の西向山法花院正善寺の縁起には、次のようなことが記されています。

当寺開来之儀は、日向国延岡領、右近殿御内、山川刑部大輔五郎左工門国秀と申す者、永禄年中当地へ罷越し候節、同人檀檀寺の永蔵坊と中す者、秘仏を負い四州霊場順拝の発心にて、五郎左エ門と同道にて、自然当地に住居と相成り候て、右永蔵坊儀始めて当寺を取立て申候儀に御座候申し伝へ云々。

これを先ほどの胎内墨書と比べて見ると、次の点がよく似ていることに気づきます。
①仏師の佐意の出身地が「薩摩と日向」、建立した寺院が「法花院と法花寺」のちがいはありますが、
②三角寺に近いことや、四国辺路のことが書かれていて内容が似通っている
三角寺 文殊菩薩騎 体内墨書jpg

胎内銘の残り部分を見ておきましょう
阿巳代官六介  同寿延御取持日那     丑年四十一 如房
同奥院慶祐住持                同お宮六歳子年
同弟子中納・同少納吾五郎大夫
本願三角寺住呂    為現善安穏後生善処也
文禄二季 九月一日仏子佐意   六十二歳辰之年
ここには、奥院の住持慶祐や、その下には弟子の中納言・少納言が登場します。ここに出てくる奥院というのは、仙龍寺のことです。
以前にもお話したように、この仙龍寺は本来の行場に近く、古くから弘法人師の信仰がみられる所です。承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記』のなかにも詳しく記されていて、札所寺院ではありませんでしたが、四国辺路にとっては特に重要な寺であったようです。そのためか澄禅もわざわざここを訪れています。そして、ここでは念仏を唱えることはまかりならんと、山伏の住持から威圧されたことを記しています。ここからは澄禅が訪れた頃には、仙龍寺では他の霊場に先駆けて、「脱念仏運動」が展開していた気配が感じられます。

四国別格13番 仙龍寺

 仙龍寺の本尊である弘法人師像は、南北朝時代~室町時代にまで迎るものとされ、弘法大師が自ら彫刻したと伝えるにふさわしい像と研究者は指摘します。また弟子の名前として出てくる中納言・少納言という呼称も、いかにも山伏(修験者)らしい雰囲気です。仙龍寺が里の妻鳥修験集団の拠点であったことがうかがえます。
最後に文禄二年(1593)九月一日、仏子(師)佐意、六十三歳とあります。ここからは、この像が文禄二年の戦国時代末期に作られたことが分かります。秀吉が天下を統一し、朝鮮半島に兵を送り込んでいた時代になります。
仙龍寺 クチコミ・アクセス・営業時間|四国中央【フォートラベル】

「四国辺路」という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代になってからです。

先例としては弘安年間(1278~)の醍醐寺文書や正応四年(1291)神奈川県八菅神社の碑伝があります。
室町時代後期になると次のような例が出てきます。
永正十年(1513) 讃岐国分寺の本尊落書
大永五年(1525) 伊予浄土寺の本尊厨子落書き
永禄十年(1567) 伊予石手寺の落書き
天正十九年(1591)土佐佐久礼の辺路成就碑
以上のように中世にまで遡れる「四国辺路」の例は、多くはありません。三角寺の文殊菩薩騎獅像は、これらに続くものになるようです。

 澄禅『四国辺路日記』の三角寺の項には、文殊菩薩騎獅像について何も記されていません。
しかし、澄禅より三十数年後の元禄二年(1689)刊の真念『四国遍礼霊場記」には
「もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢、竜王等種々の宮堂相並ぶときこへたり」

とあるので、かつては三角寺に文殊堂があったようです。この像は、その文殊堂に安置されていたことになります。では、どうして文殊菩薩は祀られたのかを研究者は考えます。今のところは、それを解く鍵は見つかっていないようです。ただ、この像が造られた16世紀後半は、秀吉の天下から家康の天下へとおおきく世の中が変わっていく時代です。そのようななかで、四国辺路もプロが行う修行的な辺路から、アマチュアが参加する遍路への転換期でした。「説経苅萱」「高野の巻」のように、四国辺路に関する縁起が作られ、功徳が説かれ始めた頃です。このような中での新たな取り組みの一環だったのではないかと研究者は考えているようです。
Ο χρήστης 奈良国立博物館 Nara National Museum, Japan στο Twitter:  "【忍性展】重要文化財「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」般若寺のご本尊に期間限定でお出ましいただきました!後醍醐天皇の護持僧、文観の発願による文殊像です。展示は8/11まで。  #鎌倉 #奈良 #仏像 ...
「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」重要文化財
いままで信仰してきた神や仏に変わって、新しい時代の神仏の登場が待ち望まれるようになります。それは、讃岐の金比羅(琴平)を、とりまく状況と変わらなかったのかも知れません。新たな「流行(はやり)神」の創出という庶民の期待に応じて、宥雅は金毘羅神を創造しました。それは当時の四国辺路をとりまく僧侶や修験者(山伏)の共通課題だったのかもしれません。
 世の中が安定してくる元禄時代になると、庶民が四国遍路にやって来るようになえいます。三角寺の文殊菩薩騎獅像がつくられるのは、その前史に位置づけられるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程

1澄禅 種子集
澄禅の種字集

 澄禅については梵字研究者で、「湯島の浄厳和尚、高城の慈雲尊者飲光と並び称される智山の学匠」とも云われてきました。私もその説にもとづいて、彼を高野山のエリート学僧と位置づけ紹介してきました。しかし、これには異論もあるようです。今回は、澄禅の本当の姿に迫ってみようと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
 澄禅の履歴については『続日本高僧伝』や『智積院誌』などにも記されています。しかし、面白いのは澄禅の師である運廠が寛文九年(1669)に記した『端林集』巻九「十如是臨本跋」のようです。
法師澄禅。世姓菱苅氏。肥後国求麻郡人。幼薙染受戒、習喩珈宗。年及進共。負笈人洛。寓綱積之僧房。而篭講論之席。磨義学之鋒者十有余年。業成帰本国。大守接待優渥。郷里以栄之。然禅以為累潜逃出国境。白号悔。一鉢一錫。行李粛然。名山霊区、無不遍歴。禅自少小精思悉之学。尤梵書
(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  意訳変換しておくと
法師澄禅は、菱苅氏の姓で肥後の球磨郡に生まれた。幼なくして出家受戒して、喩珈宗(密教)を学んだ。成長して笈を背負って入洛し、僧坊に入り、義学を十数年学んだ。業成り肥後に帰り、大守から庇護を受け優遇され、郷里でも評判であった。然し、思うところあって、国を出て国境を越えて、悔と号すようになる。そして一鉢一錫と行李の旅姿で、名山霊区を遍く遍歴した。澄禅は若くして悉雲に詳しく、その中でも特に梵書を得意とした(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  当時、師の運廠は澄禅よりもひとつ年下ですが、すでに僧としての位は高く、承応2年5月には、42歳で智山の第一座となっています。偶然かどうか澄禅が四国辺路に出たのは、その翌年7月のことになるようです。

 この文書自体は、澄禅が57歳の時の記事です。ここで研究者が注目するのは、澄禅のことを「法師澄禅」と記していることです。「法師」という位については、「大法師真念」と呼ばれた四国辺路中興とされる真念がいます。これについて浅井證善師は、次のように指摘します。
「地蔵尊と一基碑は、ともに大法師真念とあって、阿閣梨真念ではないから、真念は真言僧として加行および伝法潅頂は受けていなかったとものと思われる。まさに聖として一生を過ごしたのである」

 法師澄禅も同様だったのではないかと研究者は考えているようです。それには、澄禅が笈を背負って智積院を訪れ寓居し、修学後に帰国するも落ち着くことなく、「一鉢一錫の旅を名山霊区を遍歴した」という記述があります。ここからは澄禅は、遊行を好む聖のような存在で、一つの鉢と一つの錫杖を持ち、各地の修行地や霊場を巡る廻国修行僧としての一面があったことが分かります。
  これまでのエリート学僧というイメージを取り払って、廻国修行僧と澄禅を位置づけて、研究者は『四国辺路日記』を改めて見直していきます。
 承応2年(1653)という江戸前期は、四国辺路はまだまだ厳しい苦行の辺路行でした。澄禅をエリート学僧と捉えていたときには、その彼がどうして四国辺路にでかけるの?という疑問がありました。しかし、澄禅を廻国修行・聖的な遊行僧としてみるならば、四国辺路は当然の行為として理解できます。

 『四国辺路日記』の冒頭には
「和歌山から船に乗って四国に向かう時、高野の小田原行人衆とともに行動を共にし、さらに足摺近辺で高野・吉野の辺路衆と出会い涙を流して再会を喜びあつた」

と記します。その四国辺路の行人衆とも以前からの人間関係があったことが分かります。また
「往テ宿ヲ借リタレバ、坊主憚貪第一ニテ ワヤクヲ云テ追出ス」
「其夜ヲ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間、枕モ敷兼タリ」
などの記述からは、辺路の厳しさを体験しながらも、その苦難や苦みを味わいつつ辺路している様子が伝わってきます。その姿に澄禅の僧としての生き方がうかがえます。伽藍の奥の閉じこもる学僧とは、ひと味違う印象を受けます。
 また澄禅は、いくつかの札所寺院で「読経念仏した」と記しています。ここからは、澄禅は念仏を信仰する念仏行者であったともうかがえます。確かに悉曇や梵書に優れていたのでしょうが、ある一面では念仏信仰や遊行聖的要素をも合わせ持っていたと研究者は考えているようです。これが当時の真言僧の重層性なのかもしれません。

1澄禅の悉曇連声集
澄禅の『悉曇連声集』

 澄禅の著書には『悉曇連声集』『四十九院種子集』などがあります。どれも梵字の書法に関する著書で、学僧とも云えそうです。比較のために当時の梵語の代表的な学僧と比較してみましょう。
 当時、悉曇学者として著名だったのは河内延命寺の浄厳だったようです。彼は、新安祥寺流を開き、各地で貞一ご教学の講義を行い、著作も『三教指帰私考』『光明真言観誦要門』など密教に係わる教義を著し、数多くの弟子がいます。
 また慈雲尊者は『十善法語』など真言教学の数多くの著作があり、弟子も数百人に及ぶとされます。澄禅を浄厳・慈雲と比較することには、やや無理があるようです。澄禅は学匠というよりも、梵字の能書家だったと研究者は考えているようです。
 彼は、法師澄禅として、各地の名山の修行場や霊場を巡り歩く遊行僧としても活躍し、江戸時代初期ころの四国辺路を訪れ、「四国辺路日記」を書き残し、その様子を明らかにしてくれているということでしょうか。
「澄禅」の画像検索結果
 
澄禅が四国辺路で出会った友人達は元落武者?
 澄禅は四国辺路の中で数多くの人たちに出合ています。その中で高野山の友人たちの再会の場面が何度か出てきます。ここでは、元落武者だった人たちに焦点を当てて見てみましょう。 
土佐・大日寺近辺の菩提寺ので出会いです。
爰に水石老卜云遁世者在り、コノ人元来石田治部少輔三成近習ノ侍雨森四郎兵衛卜云人ナリ。三成切腹ノ時共ニ切腹被申ケルヲ、家康公御感被成、切腹ヲ御免在テ、三成ノ首ヲ雨森二被下。其後落髪シテ高野山二上り、文殊院ニテ仏事ナド執行、ソノ儘奥院十石卜人二属テ一心不乱二君ノ後生菩提ヲ吊。三年シテ其時由緒在テ土州ニ下り。
  意訳変換すると
ここには水石老という遁世者がいた。この人はもともとは、石田三成の近習侍で雨森四郎兵衛と云う人である。関ヶ原の戦い後に三成が切腹した時に、共に切腹を申しつかっていたが、家康公の免謝で、切腹を免れ、三成の首は雨森に下された。その後、剃髪して高野山に上がり、文殊院で仏事に従い、そのまま奥院の十石上人(十穀聖)となって木食修行を行い、一心不乱に三成公の菩提をともらっていたが、3年後に縁があって土佐に下った。

もう一人は土佐国分寺の手前の円島寺という所に宿泊し時に出会った旧知です。
   住持八十余ノ老僧也。此僧ハ前ノ太守長曽我部殿普代相伝ノ侍也。幼少ヨリ出家シテ高野ニモ住山シタルト夜モスガラ昔物語ドモセラレタリ。天性大上戸ニテ自酌ニテ数盃汲ルル也。大笑。其夜ハ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間枕ヲ敷兼タリ。
意訳変換しておくと
   この住持は八十歳を越える老僧である。この僧は以前は、長曽我部殿の普代家臣であった人である。幼少の時に出家して高野で修行を行っていた人なので、夜がふけるまで昔物語をした。天性の酒好きで自酌で数盃を飲み干すして、大笑する。その夜は大雨で古寺の軒からは雨もろが止まらず枕を敷きかねる有様だった。

 長宗我部氏の旧家臣の多くは大坂夏の陣や冬の陣にも参加しています。そのため戦後には「戦犯」として追求され各地に落武者として逃げ込んでいます。ある者は修験者に姿を変え、金毘羅大権現に逃げ込み、時の別当宥盛に拾われたものもいます。ある者は四国の山深い奥に入って行ったものもいるようです。
  一つのストトーリーが湧いてきます。
土佐の円島寺で再開した老住持も、長宗我部の取りつぶし後に出家して高野山に上がり、真言宗を学び故郷土佐の小さな寺に住まいを得たのではないでしょうか。澄禅と酒を酌み交わしながら高野山の思い出話などに話が弾んだようです。しかし、その生活はまことに厳しいものだったのでしょう。大坂夏の陣や冬の陣からは、40年近い歳月が経っていますが、こうした落武者系の高野聖を受けいれた寺院が各地にあったことが分かります。武士の出家と高野山とは、深いつながりがあったようです。高野山に出家後しばらくの間、修行に励み、やがてそれぞれ縁を得て地方に落ち着いていく姿が見えてきます。これが地方仏教の一面を表しているのかも知れません。そして彼らが高野聖として「弘法大師伝説や阿弥陀念仏信仰」を運んできたのかもしれません。
伊予・今治では
神供寺二一宿ス。此院主ハ空泉坊トテ高野山二久ク住山シテ古義ノ学者、金剛三味結衆ナリキ。予ガ旧友ナレバ終夜物語シ休息ス

今治の一ノ宮の近くでは、
新屋敷卜云所二右ノ社僧天養山保寿寺卜云寺在り。寺主ハ高野山ニテ数年学セラレタル僧也。予ガ旧友ナレバ申ノ刻ヨリ此寺二一宿ス。

とあり、澄禅と旧知の間柄の人物もいます。澄禅は四国辺路を行う中で、かつての旧知の友を頼って訪れたのでしょう。札所以外の四国内の寺院にも、高野山と関わりを持った僧侶が数多くいたようです。
 前回に見たように澄禅は、善通寺では泊まっていませんが、金毘羅大権現の真光院には7月12日から三泊しています。当時は、金毘羅大権現の別当寺は金光院で、これに5つの子院が仕えるという組織形態でした。運営を行っていたのは社僧たちで、有力な社僧は高野山で学んだ真言密教僧侶です。ここにも澄禅と同じ釜の飯を食べた高野山の「同窓生」がいたようです。その同窓生の計らいで、澄禅は本堂奥の秘仏も拝観しています。これについてはまた別の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①澄禅は真念と同じように、真言僧として加行および伝法潅頂は受けておらず、聖であった。
②澄禅を廻国修行僧と位置づけて、『四国辺路日記』を改めて見直す必要がある
③澄禅は四国内の寺院や小庵などに、高野山と係わりを持つ僧と再開している 彼らは念仏僧、い わゆる高野聖であった可能性がある。
④澄禅も聖として、高野山を何度も往復し訪れていた可能性がある。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。

1澄禅 種子集
             澄禅の種子字

澄禅は、サンスクリット語の研究で知られた学僧で、僧侶としても高い地位にあった人物です。今で云うと大学の副学長か学部長クラスの人物であったと私は考えています。そのため彼の残した四国辺路日記には、要点がピシリと短い言葉で記されていて小気味いいほどです。彼は、訪れた各札所で本堂や諸堂の位置や様式、本尊のことや、対応した住持のことまで記しています。今回は各社寺の景観に焦点を絞って見ていくことにします。
   テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。以前に阿波の札所については、見ましたので今回は土佐から始めます


東寺(最御崎寺)
 本堂ハ九間四面二南向也。本尊虚空蔵菩薩、左右二二点ノ像在。
 堂ノ左二宝搭有。何モ近年太守ノ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ、
津寺  本堂西向、本尊地蔵杵薩。是モ太守ヨリ再興ニテ結構ナリ。
西寺 (金剛頂寺)堂塔伽藍・寺領以下東寺二同ジ。
神峰寺 本堂三間四面、本尊十一面観音也
大日寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。是モ太守ヨリ近キ比修造
国分寺 寺領三百石、寺家六坊有り 近年堂塔破損シタルヲ太守ヨ
リ修理
シ給フ。
一宮
  宮殿・楼門・鳥居マデ高大広博ナル入社也。前太守長曽我部殿修
造セラレ
シタル儘也。当守護侍従殿時々修理ヲ加ラルルト云。
五台山 
本堂ハ太守ヨリ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ 塔ハ当主宥厳上
人ノ造立ナリ。鐘楼・御影堂・仁王堂・山王権現ノ社、何モ太
守ノ願ナリ。
禅師峰寺 本堂南向、本尊十 面観音。二王門在り。
高福寺 玄関・方丈ノカカリ禅宗ノ寺立テ也
種間寺  本堂東向、本尊葉師。是も再興在テ新キ堂也
清滝寺  是再興有テ結構也。寺は真言宗。寺中六坊在
青龍寺
頂上二不動堂在リシガ先年野火ノ余焔二焼失シタリ。然ヲ本堂
再興ノ時、大守ヨリ小倉庄助方二被仰付新Hノ五社 南向横二双
ビテ四社サエフ 一社ハ少高キ所二山ノ上二立、何モ去年太守ヨ
リ造営
セラレテ結構也。

足摺山 内陣二横額二当寺諸伽帝ハ従四位上行徒従来上佐守源朝臣忠
義為武連長久祈願成就弁再興也卜五筆横二書タリ
寺 山  二王門・鏡楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ此大守ヨリ再興在テ
 結構ナリ
観自在寺  本堂南向、本尊薬師如来。寺号はハ相違セリ。
稲荷ノ社  田中二在り小キ社ナリ。
仏木寺   本堂東向。本尊金剛界大H如来座像五尺斗
明石寺
本堂朽傾テ本尊ハ小キ薬師堂二移テ在り。源光山延寿院卜云。
寺主ハ無ク上ノ坊卜云山伏住セリ
菅生山
本堂間四面、二王門・鐘楼・経蔵・御形堂・護摩堂・鎖守ノ社
双、堅同広博ナル大伽藍也
岩屋寺 本堂三間四面、本尊不動明王
浄瑠璃寺 昔ハ大伽藍ナレドモ今ハ衰微シテ小キ寺一軒在り。
八坂寺 昔ハ三山権現立ナラビ玉フ故二十五間ノ長床ニテ在ケルト
  也。是モ今ハ小社也。
西林寺 本堂三間四面、本尊十一面観音、
浄土寺 此本堂零落シタリシヲ、(中略)十方旦那を勧テ再興シタル也。
繁多寺 本堂・二王門モ雨タマラズ、塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極
ノ躰ナリ。
石手寺
本社ハ熊野二所権現、十余間ノ長床在り。ツヅイテ本堂在
り。本尊文殊菩薩。三重塔・御影堂・二王門、与州無双ノ
大伽藍
也。
大山寺  本堂九間四面、本尊十一面観音也。少下テ五仏堂在り悉朽
  傾テ在。
円明寺 本堂南向、本尊阿弥陀。
延命寺 本尊不動明王、堂ハ小キ草堂、寺モ小庵也。
三島ノ宮 本地大日卜在ドモ大通智勝仏ナリ
泰山寺 寺ハ南向、寺主ハ無シ、番衆二俗人モ居ル也。
人幡宮 本地弥陀。
佐礼山 本堂東向、本尊千手観音也。
国分寺 本堂南向、本尊薬師。寺楼、庭上前栽誠ニ国分寺卜可云様
ナリ。
一ノ宮 本地十一面観音也。
香園寺 本堂南向。本尊金界大日如来。寺ハ在ドモ住持無シ。
横峰寺 本堂南向、本尊大国如来。又権現ノ社在り。
古祥寺 本尊毘沙門天。寺は退転シタリ
前神寺 是は石槌山ノ坊也
三角寺 本堂東向、本尊十一面観青。前庭ノ紅葉無類ノ名木也。
雲辺寺 本堂ヲ近年阿波守殿ヨリ再興在テ結構ナリ。
小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。
観音寺 本堂南向、本尊正観音。
琴弾八幡宮 南向、本地阿弥陀如来。
持宝院 本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。
弥谷寺 寺ハ南向、持仏堂ハ、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サ
三間半奥ヘハ九尺。
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。
出釈迦山 是昔ノ堂ノ跡ナリ。
甲山寺 本堂東向、本尊薬師如来。
善通寺 本堂ハ御影堂、又五間四面ノ護摩堂在り。昔繁昌ノ時分ハ
之二続タルト成。
金蔵寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)古ハ七堂伽藍ノ所也、四方築
地ノ跡今二有。
道降寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)昔ハ七堂伽藍ノ所ナリ。(中略)本
堂・護摩堂由々敷様也。
道場寺 本尊阿弥陀、寺ハ時宗也。
崇徳天皇 今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。
国分寺 白牛山千手院、本堂九間四面、本尊千手観音也、丈六ノ像
也。傍二薬師在り、鐘楼在。寺領百石ニテ美々舗躰也。
白峯寺    当山ハ智証・弘法大師ノ開基、五岳山中随一也             
根来寺    青峰、本尊千手観音、五舟ノ一ツナリ。                      
一ノ宮    社壇モ鳥居モ南向.                                        
屋島寺    千手観青ヲ造本堂一安置シ給う                           
八栗寺    本堂ハ南向、本尊千手観音                               
志度寺    本尊十一面観音、本堂南向                                
長尾寺    本堂南向、本尊正観音也`                                  
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。
是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二 坊在シガ、今ハ午縁所ニテ
本坊斗在

以上を国別に整理すると、次のようになります。
澄禅による四国88所の近世寺院状況

国別に見ると次のような事が云えます。
①阿波と伊予の札所寺院の荒廃が著しいこと
 阿波については以前にもお話ししたように23ケ寺の内の12ケ寺、伊予では26ケ寺中9ケ寺が、退転もしくは小庵の如き有様でした。特に阿波の十楽寺か井戸寺までの周辺の寺院が厳しい状況にあったようです。荒廃した寺院は、無住であったり、山伏などが仮住まいをしている状況だったようです。

②土佐と讃岐の寺院については「結構也」と表現しています。
つまり本堂・護摩堂などの諸堂字が整備されていたようです。澄禅から見ても真言寺院としての機能が果たされていると思えたのでしょう。特に土佐の場合、「太守ヨリ再興ニテ結構ナリ」という表現がいくつも見られます。戦国時代には長宗我部の領地として、他国からの侵入を受けなかったこともあります。また、江戸時代に入って山内一豊が高知城を築いて初代の土佐藩主となり、続く忠義の時代には、元和の改革など藩政の引き締めを行うとともに、野中兼山を起用して新川開発や土木事業・殖産興業の推進しました。その中で他国に先駆けて社寺の修築・造営を積極的に推進したことが、澄禅の記録にも反映しているようです。土佐の札所にとって、山内忠義の存在は大きいようです。
又太守ハ無二無三ノ信心者ニテ、殊二真言家ヲ帰依シ玉フト云。

ここからは、忠義がとりわけ真言宗を信仰していたことが分かります。

讃岐の場合は、なぜか各寺院の景観についてはあまり詳しく記していません。
そのため寺社についてよく分かりませんが、次のような評価が見えます。
サスガ大師以下名匠降誕在シ国ナル故二密徒ノ形儀厳重也。(中略)
其外所々寺院何モ堂塔伽藍結構ニテ、例時勤行丁重ナリ。
真言宗寺院としての構えと寺の勤めも申し分ない、結構な寺院であるとしています。ここからはその他の寺院の多くも伽藍が整備されていたと研究者は考えているようです。
『讃岐国名勝図会』などには、讃岐の有力寺院は生駒侯の再興を伝えるものが数多く見られます。
例えば金毘羅宮・善通寺・国分寺・屋鳥寺・長尾寺などに対して、
生駒氏は生駒記には、次のように記されています。
「殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも寄付し、長宗我部焼失の場を造営して、いよいよ太平の基願う」

民心の心を落ち着けるためにも、生駒氏は地域の有名寺院の保護・復興に取り組んだとされます。
さらに生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重について、
寛文九年の『御領分中宮出来同寺々出来』は、次のような宗教政策を記しています。
金蔵寺
然るに右同年、御影堂・本堂・山王之社並寺院、松平讃岐守頼重再興、加之寺領高式拾石被付与事。
国分寺
慶長年中、生駒讃岐守一正被再興伽監棟数合十六宇、只今在之事。
白峯寺
寺領高百拾斗、内六拾石は天正年中生駒雅楽頭近規寄進。至干今寺納仕候折紙有之。内拾石ハ万治年中松平讃岐守頼重寄進折紙有之。内四拾石は寛文年中同源頼重寄付折紙有之事。
やってきた藩主の宗教政策によって、領内の四国辺路の札所も戦乱からの復興にスピードの差が出たようです。

最後に研究者は、御影堂(大師堂)に焦点を当てます。
御影堂が記されているのは焼山寺・恩山寺・鶴林寺・太龍寺・五台寺山・菅生山・石手寺・善通寺の九ケ所のみです。札所以外では三角寺奥院・海岸寺・仏母院・金毘羅金光院の四ヶ所だけです。これをどう考えればいいのでしょうか。弘法大師信仰と弘法大師像を祀る御影堂
(大師堂)はリンクしていると考えられます。弘法大師信仰があるから大師王は建立されます。この時代に大師堂が普及していなかった葉池を考えると
①弘法大師信仰がまだ、四国霊場には波及していなかった
②弘法大師信仰は広がっていたが、御影堂という形では表現されていなかった
③御影堂がなくても弘法大師像が本堂に安置され、大師信仰が行われていた
これは、各札所の弘法大師像の造立年代が、重要な決め手になってくるのでしょう。どちらにしても「大師信仰」は、熊野信仰や阿弥陀信仰、念仏信仰に比べると、後からやってきて接ぎ木されたような印象を持たされる札所が多いように私は考えています。

以上をまとめると、次のことが言えよう。
①四国のうち、阿波と伊予国は「堂舎悉退転シテ草堂ノミ」とか「寺ハ退転シテ小庵」のように、寺が荒廃している様子が数多く記されている。そこに念仏聖や山伏などが住み着いて、辺路に応対していた。 
②一方、土佐は藩主山内氏、讃岐は藩主生駒氏、藩主松平氏などが積極的に復興に尽力したため、「結構」な寺として密教の行儀がなされている。
③弘法大師を安置する御影堂は、わずか九ケ寺しかみられない。その後、真念『四国辺路道指南』では飛躍的に増加している。この間に弘法大師に対する信仰がより一層盛んになったことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献
     「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」

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  四国辺路についての最初の巡礼記録は澄禅の「四国辺路日記」です
真言宗のエリート学僧である澄禅については、以前にお話ししましたので説明を省略します。今回は彼が、どんな所に宿泊したかに焦点を当てて見ていこうと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
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 承応2年(1652)7月18日に高野山を出発した澄禅は、次の日には和歌山の「一四郎宿」で宿を取り、20日に舟に乗りますが、波が高く23日まで舟の中で逗留を余儀なくされています。24日になって、ようやく徳島城下町に到着し、持明院の世話になります。この寺で廻手形をもらって、藤井寺から始めた方がいいとの助言ももらっています。
 そして、夏の盛りの7月25日に、四国辺路の旅を始めます。私は、澄禅は一人辺路だと思っていたのですが、研究者は同行者が複数いた可能性を指摘します。
四国辺路道指南 (2)
            四国辺路指南の挿絵

最初に、澄禅が宿泊した場所を挙げておきましょう。
七月二十五日       サンチ村の民家                       
二十六日           焼山寺                               
二十七日           民家                                 
二十八日           恩山寺近くの民家                     
二十九日           鶴林寺寺家の愛染院                   
二十日             不明(大龍寺か)                       
八月一日           河辺の民家                           
二日               貧しき民家(室戸の海岸 夜を明しかねたり)  
三日               浅河の地蔵寺(本山派の山伏)           
四日               千光寺(真言宗)                           
五日               野根の大師堂(辺路屋)                     
六日               漁家(漁翁に請う)                         
七日               東寺(終夜談話し旅の倦怠を安む)           
八日               民家(西寺の麓)                           
九日               民家か(神の峰の麓、タウノ浜)             
十日               民家(赤野という土地)                     
十一日             菩提寺(水石老という遁世者)               
十二日             田島寺(八十余の老僧)                     
十三日             安養院(蓮池町)
十四日    安養院(蓮池町)
十五日    安養院(蓮池町)
十六日    安養院(蓮池町)
十七日    安養院(蓮池町)
十八日             安養院(蓮池町)
十九日             五台山(宥厳上人)
二十日    五台山(宥厳上人)
二十一日   五台山(宥厳上人)
二十二日   五台山(宥厳上人)
二十三日           五台山(宥厳上人)
二十四日          民家か(秋山という所)   
二十五日           民家か(新村という所)                    
二十六日           青竜寺                             
二十七日           漁夫の小屋                               
ニト八日           常賢寺(禅寺)                             
二十九日           民家か(窪川という所)                    
三十日             随生寺(土井村 真言寺)                  
九月一日           民家(武知という所)                       
二日               見善寺(真崎・禅寺)                       
三日               民家か(ヲツキ村)                         
四日               金剛福寺  (足摺岬)                               
五日               金剛福寺  (足摺岬)                                         
六日               金剛福寺                                         
七日               正善寺(川口・浄十宗)                     
八日               月山(内山永久寺同行)                     
九日               滝巌寺(真言宗)                           
十日               浄土寺(宿毛)                             
十一日             民家(城辺という所)                       
十二日             民屋(ハタジという所)                     
十三日             民屋(ハタジという所)                                          
十四日             今西伝介宅(宇和島)                        
卜五日             慶宝寺(真言寺)                           
十六日             庄屋清有衛門宅(戸坂)                     
十七日             瑞安寺(真言寺)この寺で休息。             
十八日             瑞安寺(真言寺)この寺で休息                             
十九日             仁兵衛宅(中田)                  
二十日             宿に留まる(仁兵衛宅か)           
二十 日            菅生山本坊                       
二十二日                                            
二十三日           円満寺(真百寺)                   
二十四日           武智仁兵衛(久米村)               
二十五日           三木寺(松山)                     
二十六日           道後温泉に湯治                
二十七日           民家(浅波)                       
二十八日           神供寺(今治)                     
二十九日           泰山寺                           
十月一日           民家か(中村)                     
二日               保寿寺(住職が旧知の友)           
三日               ″   (横峯寺に行く)                
四日                     (横峯寺に行く)                            
五日               浦ノ堂寺(真三[寺一               
六日            興願寺(真言寺)           
七日               三角寺奥の院(仙龍寺)
八日          雲辺寺                         
九日          本山寺か                       
十日          辺路屋(弥谷寺の近く)           
十一日       仏母院   (多度津白方)                      
十二日       真光院(金毘羅宮)               
十三日       真光院(金毘羅宮)                               
十四日       真光院(金毘羅宮)                                
十五日       明王院(道隆寺)                 
十六日       国分寺                          
十七日        白峯寺                         
十八日      実相坊(高松)                   
十九日            八栗寺                         
二十日           八栗寺 (雨天のため)                 
二十一日    民家(古市)                      
二十二日     大窪寺                          
二十三日     民屋(法輪寺の近く)              
二十四日       (雨天のため)                
二十五日     地蔵寺                          
二十六日   阿波出港                                       
二十七日   舟          
二十八日   和歌山着  

 以上のように真夏の7月25日に徳島を出発して、秋も深まる10月26日まで91日間の四国辺路です。この間の宿泊した所を見てみると、次の69ヶ所になるようです。
①寺院40ヶ所(59泊)
②民家27ヶ所(29泊)
③辺路宿三ケ所(12泊)
1澄禅 種子集
            澄禅の種子字

①の澄禅の泊まった寺院から見ていきましょう

澄禅は、種子字研究のエリート学僧で中央でも知られた存在でしたので、四国にも高野山ネットワークを通じての知人が多かったようです。高知の五台山やその周辺では、知人の寺を訪ね長逗留し、疲れを取っています。宿泊した寺は、ほとんどが真言宗です。しかし、禅寺(2ケ所)や浄土宗(1ケ所)にも宿泊しています。宿を必要とした所に真言宗の寺院がなければ、宗派を超えて世話になったようです。
 宿泊した40ケ寺の内、八十八ケ所の札所寺院は17ケ寺です。その中で讃岐が七ケ寺と特に多いのは、札所寺院の戦乱からの復興が早かったことと関係があるのでしょう。
四国辺路道指南の準備物

③の「辺路屋」について見ておきましょう。
阿波・海部では、
海部の大師堂二札ヲ納ム。是ハ辺路屋也。
(海部の大師堂に札を納めた。これは辺路屋である。)
土佐に入ってまもない野根では、
是ヲ渡リテ野根ノ大師堂トテ辺路屋在り、道心者壱人住持セリ。此二一宿ス。
これを渡ると野根の大師堂で、これが辺路屋である。堂守がひとりで管理している。ここに一泊した
伊予宇和島では、
追手ノ門外ニ大師堂在り。是辺路家ナリ
讃岐持宝院(本山寺)から弥谷寺の途中には
「弥谷寺ノ麓 辺路屋二一宿ス」

と「辺路屋」が登場してきます。辺路屋とは正式の旅籠ではなく、大師堂(弘法大師を祀つた堂)で、そこには、辺路が自由に宿泊できたようです。土佐の野根の大師堂には、「道心者」がいて、御堂を管理していたことが分かります。この時期には辺路沿いに大師堂が建てられ、そこが「善根宿」のような機能を果たすようになっていたことがうかがえます。これから30年後の真念『四国辺路道指南』には、大師堂・地蔵堂・業師堂など63ケ所も記されています。この間に御堂兼宿泊施設は、急激に増加したことが分かります。
次に②の民家を宿とした場合を見てみましょう。
澄禅は、四国辺路の約4割を民家で宿泊してるようです。修験者などの辺路修行者であれば、野宿などの方法もとっていたはずですが、エリート学僧の澄禅には、野宿はふさわしくない行為だったのかも知れません。
「澄禅」の画像検索結果

どんな民家に泊まっているのかを見てみましょう。
阿波焼山寺から恩山寺の途中では、
 焼山寺から三里あまりを行くと、白雨が降ってきたので、民家に立寄って一宿することにした
つぎに阿波一ノ宮の付近では、
 一里ほど行くうちに日が暮れてきたので、サンチ村という所の民屋に一宿することにした。夫婦が殊の外情が深く終夜の饗応も殷懃であった。

ここからは、その日が暮れてくると適当に、周辺で宿を寺や民家に求めたことがうかがえます。ただ宿賃などの礼金などについては、まったく記していません。 いろいろな民家に泊まっていて、
薬王寺から室戸への海沿いの道中では、次のような記述もあります。
貧キ民家二一宿ス。 一夜ヲ明シ兼タリ

 一夜を明かしかねるほど「ボロ屋」の世話になっています。「貧しき民家」の主が宿を貸すという行為にビックリしてしまいます。「接待の心」だけでは、説明しきれないものがあるような気がしてきます。ここでも澄禅は、これ以上は何も記していません。

伊予・宇和島付近では、
共夜ハ宇和島本町三丁目 今西伝介卜云人ノ所二宿ス。此仁ハ齢六十余ノ男也。無ニノ後生願ヒテ、辺路修行ノ者トサエ云バ何モ宿ヲ借ルルト也。若キ時分ヨリ奉公人ニテ、今二扶持ヲ家テ居ル人ナリ。

とあり、宇和島本町の今西伝介なる人物は「辺路修行者」は、誰にでも宿を貸したと記します。その行為の背景には「後生願ヒ」があるとします。来世に極楽往生を願うことなのでしょう。ここにも高野の念仏聖たちの影響が見え隠れします。阿弥陀信仰に基づくものなのでしょうが、辺路に宿を貸すことが、自らの後生極楽の願いが叶うという教えが説かれていたことがうかがえます。
「四国辺路道しるべ」の画像検索結果
  伊予・卯の町では
此所ノ庄屋清有衛門ト云人ノ所二宿ス。此清有衛門ハ四国ニモ無隠、後生願ナリ、辺路モ数度シタル人ナリ。高野山小円原湯ノ谷詔書提檀那也。

とあり、この地の庄屋の清有衛門も「後生願」で、辺路たちを泊めていたようです。彼は「四国辺路」も数度経験していたようです。澄禅の時代には、すでに庄屋などの俗人が何度も四国辺路に出ていたことが分かります。そして高野山の「小円原湯ノ谷詔書」を掲げていたと記します。四国辺路の後には、高野山にも参詣を済ませていることがうかがえます。ここにも、高野聖たちの活動が見え隠れします。しかも「旦那」という宇句からは、その関係が深かったようです。
「四国辺路道しるべ」の画像検索結果
 
伊予・松山の浄土寺の近くでは
その夜は久米村の武知仁兵衛という家に宿泊した。この御仁は無類の後生願ひで正直な方であった。浄土寺の大門前で行逢って、是非とも今宵は、わが家に一宿していただきたいと云い、末の刻になってその宿へ行ってみると、居間や台所は百姓の構えである。しかし、それより上は三間×七間の書院で、その設えぶりに驚き入った。奥ノ間には持仏堂があり、阿弥陀・大師御影、両親の位牌などが綺麗に安置されている。
 
 浄土寺近くに住む武智仁兵衛という人は、地主クラスの人で経済的には裕福だったようです。浄土寺の門前で出会った澄禅たちを自分の家に招いて「接待」を行っています。持仏堂に祀られているものを見ると「阿弥陀如来+弘法大師+後生願」なので、その信仰形態が弘法大師信仰と阿弥陀信信仰だったことがうかがえます。ここにも、高野聖の活動と同時に、江戸時代初期の松山周辺の庄屋クラスの信仰形態の一端がうかがえます。これらの高野聖の活動拠点のひとつが石手寺だったのかも知れません。
四国八十八ケ所辺路の開創縁起ともいうべき『弘法大師空海根本縁起」のなかに、次のように記されています。
 辺路する人に道能教、又は一夜の宿を借たる友は三毒内外のわへ不浄を通れず、命長遠にして思事叶なり、

 辺路する人に「道能教=道を教えたり」、 一夜の宿を貸せば命が長遠になり思いごとが叶うというのです。室戸に続く海岸の「貧しき民家」の主人も、後生極楽などを願ったのものかも知れません。この頃には右衛門三郎のことも知られていて、弘法大師が四国を巡っているという弘法大師伝説も流布していたようです。辺路者の中に弘法大師がいて、宿を求めているかも知れない、そうだとすれば弘法大師に一夜を貸すことが後生極楽に結び付くという功利的な信仰もあったのかもしれません。
  横峰寺と吉祥寺の間では、
  新屋敷村二甚右衛門卜云人在り、信心第一ノ仁也。寺二来テ明朝斎食ヲ私宅ニテ参セ度トムルル故、五日ニハ甚右街門宿へ行テ斎ヲ行テ則発足ス。
意訳変換しておくと
  新屋敷村に甚右衛門という人がいて、この人は信心第一の御仁である。寺にやってきて明朝の斎食を私宅で摂って欲しいと云われる。そこで翌日五日に甚右街門宿へ行て、朝食を摂ってから出発した。

 ここでは、寺までやって来て食事へ招いています。澄禅が「高野山のエライ坊さん」と紹介されていたのかも知れませんが、善根宿や接待ということが、すでに行われていたようです。しかし、食事などの接待があったことを澄禅が記しているのは伊予だけです。右衛門三郎が伊予でいち早く流布し、定着していたのかも知れません。
「松山の円明寺」の画像検索結果

 伊予・松山の円明寺付近では、次のような記述が現れます。
  此道四五里ノ間ハ 辺路修行ノ者二宿貸サズ

53番札所円明寺は松山北部にあり、道後地区での最後の札所になります。次の54番延命寺は今治です。
「澄禅」の画像検索結果

この松山から今治の間では、「辺路修行ノ者二宿貸サズ」というしきたりがあったと記します。その背景は、宗教的な対立からの排除意識があったのではないかと私は考えています。高縄山を霊山とする半島は、ひとつの修験道の新興エリアを形成していたようです。例えば、近世に盛んになる石鎚参拝登山に対しても背を向けます。この半島には石鎚参拝を行わない集落が沢山あったようです。それは、別の修験道の山伏たちの霞(テリトリー)であったためでしょう。高縄半島の西側では、四国辺路の修験者に対してもライバル意識をむき出しにする勢力下にあったとしておきましょう。

以上、澄禅がどんなどころに泊まったかについて見てきました。
それを研究者は各国別に次のようにまとめます。
①阿波では札所を含め寺院の宿泊は少なく、民家に多く宿泊していす。これは、阿波の寺院が戦国時代からの復興が遅れ、荒廃状態のままであったことによる。
②土佐では札所寺院をはじめ寺院の宿泊が多い。特に住持のもてなしが丁寧なことを強調している。そして土佐の辺路の国柄を、
儒学専ラ麻ニシア政道厳重ナリ。仏法繁昌ノ顕密ノ学匠多、真言僧徒三百余輩、大途新義ノ学衆也、

と藩主山内氏を称え、そして真言仏教が盛んなことを記している。
③伊予は民家の宿泊が多い。これも阿波と同様に、寺院の復興が遅れていたためであろう。伊予の国柄への澄禅の評は、次のようになかなか厳しい。
慈悲心薄貪欲厚、女ハ殊二邪見也。又男女共二希二仏道二思人タル者ハ信心専深シ。偏二後生ヲ願フ是モ上方ノ様也。

全体的には慈悲心に欠けるとして、稀には信心深い者がいるとします。おそらく字和島の今西伝介や庄屋清右衛門などを思い出したのかもしれません。そして「後生願い」が「上方の様」であると記します。上方で盛んだった西国三十三ケ所のことと比較しているのかも知れません。
④讃岐は、藩主による寺院の復興が進んでいたので、寺院の宿泊が多い。なかでも札所寺院が七ケ寺もあります。
最後に全体をまとめておきます。
①宿泊場所は、民家であるか寺院であるかは、旅の状況に合わせていたらしいが、特に阿波から土佐室戸までの間は厳しいものがあった。
②寺院の場合は真言宗が多い。しかし、真言寺が無い場合は他宗の寺でも厭わない。
③旧知の友を頼って宿泊することがまま見られる。
④民家の場合は、貧しき民家と庄屋クラスの富裕な場合がある。この時代に、すでに善根宿という概念が生じていた。善根を施す根拠は、「後生善処」と考えられていた。また食事の接待も行われているが、ごく稀である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院
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勧善寺 遠景
勧善寺(神山町)
 
徳島県神山町に、勧善寺という寺院があります。
ここには、南北朝時代末期に書写された大般若経が伝えられていて、今でも転読儀礼に用いられているようです。
「大般若経」の画像検索結果
大般若経が保管されている箱(勧善寺のものではありません)

大般若経は全部揃うと600巻にもなる大巻のお経です。
これが疫病封じなどにも効き目があるとされ、これを読経することで様々な禍を封じ込めることができるとされました。そこで、地方の社寺でもこれを備えるようとする所が出てきます。その際の方法としてとられたのが、多くの僧侶が参加する勧進書写方式です。元締めとなる僧侶が、周辺地域の寺院に協力を求めます。さらに各国修験の折りに、各地の修行場知り合った僧侶にも協力依頼を行います。こうして、何十人という僧侶の参加協力を得て、大般若経は完成していったようです。
「大般若経 転読」の画像検索結果

 600巻を全部読経すると大変なので「転読」というスタイルがとられます。お経を上から下に扇子のように開いて、閉じることを繰り返し、読経したことにします。この時に、お経から起きる風が「般若の風」と云われて霊験あらたかなものとされたようです。こうして、般若心経を揃えて「般若の風」を地域に吹かせることが、その寺社のステイタスシンボルになりますし、書経に参加したり、主催することで僧侶の名声にもつながります。この時代に讃岐で活躍した善通寺復興の祖宥範や、東讃の増吽も勧進僧であり、書写ネットワークの中心にいた人物でもあったようです。
勧善寺 地図

  神山町の「勧善寺大般若経」の成立背景を見ておきましょう。
この経典はもともとは、柚宮八幡宮(現在の二之宮八幡神社)に奉納されたものです。写経所は大粟山を中心としたいくつかの寺社で、写経期間は至徳四(1387~89)の足かけ三年でおこなわれたようです。上の地図が写経に参加した周辺寺社を示したもので、「大栗山」(神山町)の外にも吉野川下流や鮎喰川下流の寺社も参加していつのが分かります。さらには讃岐やその他の地域にも広がっています。書写ネットワークの中心にいた人物の人徳でしょうか。
 大粟山の鎮守とされる上一宮と神宮寺のような地域の有力な寺社もありますが、「坊」と記された小規模寺院(村堂?)も含まれています。ここからはいろいろな寺社等が、写経事業と通じて結びつけられていたことが分かります。また具体的な個人名としては宴隆のように、全国の行場を修行して四国辺路修行を行ったような修験者(山伏)も参加しています。そして、これらの地域をを結びつけ「地域間交流の接着剤」の役割を果たしていたのが辺路修行者や山伏であったようです。このお寺もかつては、そんな拠点のひとつとして機能していたのでしょう

勧善寺大般若経」208巻
勧善寺大般若経 巻208の奥書

その中で注目されるのが巻208の奥書で、次のようなに記されています
(尾題前)
宴氏房宴隆(書写名)
(尾題後)
嘉慶二年初月十六日般若並十六善神
末流、瀧山千日、大峰・葛木両峯斗藪、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼水木石、天壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者、為法界四恩令加善云々、
後日将続之人々(梵字ア)(梵字ビ)(梵字ラ)(梵字ウン)(梵字ケン)」金剛資某云々、熊野山長床末衆

これは嘉慶二年(1388)の年紀がある奥書で、筆者は宴氏房宴隆と記されます。彼は「三宝院末流」の「熊野山長床末衆」(山伏)で、今までの自分の修行遍歴を、次のように記しています。
①瀧山千日
②大峯(大峰山)・葛木(葛城山)両峯斗藪
③西国観音三十三所
④海岸大辺路(四国大辺路?)
⑤所々巡礼水木石(?)
 宴隆は以上のような修行遍歴を積んだ上で、この地にやって来て大般若経の書写に参加したと云うのです。この中で注目しておきたいのは④「海岸大辺路」です。これは「海岸=四国」で、後の四国遍路の原型となる「四国大辺路」を指しているようです。熊野行者の修行場リストには、「両山・四国辺路十斗藪」「滝山千日籠」や「両山斗藪、瀧山千日、笙巌屈冬籠、四国辺路、三十三ケ所諸国巡礼」と記されることが多いようです。大峰・葛城山系での山林修行と「四国辺路」はセットとなっていたこと、さらに、「観音三十三ケ所諸国巡礼」も、彼らの必須修行ノルマであったことが、ここからはうかがえます。
勧善寺 巻210
        勧善寺大般若経 巻210の奥書

 同じ大般若経の巻201に「宴氏房宴隆金剛資」とあり、巻206・210にも「金剛資宴氏房」とあります。末尾部分にある「金剛資某」は、宴氏房宴隆のことで同一人物のようです。
 彼の所属寺院として「三宝院末流」の「熊野山長床衆」と表記されています。三宝院とは醍醐寺三宝院のことで近世には、修験道当山派の拠点となる寺院です。熊野山長床衆の「長床」とは、護摩壇の別称で、いつしか山伏達の拠点とする堂舎を指すようになります。ここからは宴隆が醍醐寺三宝院の末寺である熊野山長床衆の一員であると名乗ってことになります。彼は熊野行者で、醍醐寺の僧侶でもあったことが分かります。
宴隆がかかわった巻について見ていきましょう。
宴隆の名前が記されているのは巻201~206、208、210の8巻のようです。その中で巻201・204の2巻は、経文と奥書が同筆なので、宴隆自身が写経したようです。しかし他の6巻は、経文と奥書の筆跡が異なるようです。そこで研究者が注目するのが、巻202・210の奥書です。そこには次のように記されています。
(巻202)
宴氏房宴降
宇嘉慶元年霜月一日  後見仁(人)光明真言 澄弘三十八
(巻210)
金剛資宴氏房
於阿州板西郡吉祥寺書写畢 右筆侍従房禅齊
ここでは前者には「後見仁(人)」として澄弘が、後者には「右筆」として侍従房禅斉がそれぞれ名を連ねています。ここからは宴降の呼びかけ(勧進)に澄弘や禅斉が賛同(結縁)し、経巻を書写・本納したことがうかがえます。しかも、巻210は「板西郡吉祥寺(現在の板野町西部」で、大粟山(神山町)の外で書写されています。ここからは宴隆が大栗山に留まっているのでなく、阿波国内を移動して活動していたことが分かります。巻208以外にも、経文と宴隆による奥書の筆跡が違う巻があります。これらは二巻と同じような写経形態がとられたようです。
 以上からは、宴隆は自分で写経を行うとともに、書写勧進も行うなど、大般若経書写事業に深くかかわっていたことがうかがえます。
「焼山寺」の画像検索結果
焼山寺

  大粟山と焼山寺
 宴隆が大栗山(神山町)の住人だったかどうかは分かりません。しかし、熊野長床衆であることから、熊野行者として熊野と阿波の間を往来していたことは確かです。先達活動を行っていたかも知れません。そのため彼の活動範囲は広く、地域間を結ぶ「接着剤」としての役割を呆たしていたと研究者は考えているようです。
  
 もうひとつの謎は宴隆の出自です。
彼はこの地出身ではなく、外から入り込んだ可能性があるようです。そうだとすると、どうして大栗山にやってきたのでしょうかそこで周辺を見回すと、四国霊場十二番札所の焼山寺があります。この寺は大栗山の山ひとつ東にあります。
 「阿波国大龍寺縁起」(13世紀後半以降の成立)には、「悉地成就之霊所」を求めた空海が、「遂阿波国到焼山麓」で修行を行ったとされる聖地で、そのため弘法大師伝説の聖地として、修験者には憧れの地になっていたようです。
「焼山寺虚空蔵菩薩」の画像検索結果
焼山寺の大師像

 また、『義経記」(14世紀成立)の「弁慶山門(を)出る事」に、弁慶が阿波の「焼山、つるが峰」を拝んだとあります。ここからもこの山が阿波国でも有数の霊山としても知られていたことがうかがえます。
焼山寺の性格を考える上で参考になるのが、同寺所蔵「某袖判下文」正中二年(1325)です。
(袖判)
下 焼山寺免事
 合 田式段内 一段 一段 権現新免 虚空蔵免
 蔵王権現上山内寄来山畠内古房□東、任先例、
蔵王権現為敷地指堺打渡之畢、但於四至堺者使者等先度補任状有之、右、令停止万雑公事、可致御祈蒔之忠勤之状如件、
正中二年二月 日                                     宗秀
ここには焼山寺に対し、田一反に賦課される万雑公事の免除と祈祷の命令が行われています。田の内訳は「権現新免」「虚空蔵新免」の各一反です。この文書に蔵王権現堂のことが記されていることから、新たに免田が設定された「権現」は蔵王権現だと分かります。このように14世紀の焼山寺では、 信仰の核は蔵王権現と虚空蔵菩薩であったことがうかがえます。現在もこの寺の本尊は虚空蔵菩薩で、焼山寺山にある奥の院に祀られているのは蔵王権現です。
「焼山寺奥の院」の画像検索結果
焼山寺奥の院 蔵王権現を祀る
 蔵王権現が、役小角とセットで修験者の信仰を集めるようになるのは、古代のことではなく中世になってからのことです。それは役行者が中世以降に修験道の開祖に仮託された後のことです。同時に蔵王権現の信仰は、山岳修行僧と深くかかわっています。
2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
         焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩

 また、虚空蔵菩薩については、空海がその著『三教指帰』において、若い頃に虚空蔵求聞持法を修したと記しています。そこから焼山寺の信仰対象として定着してきたのでしょう。真言宗では弘法大師にならって虚空蔵求聞持法を行う山岳修行者が多かったようです。こうして虚空蔵菩薩信仰と修験道の関係も深くなっていったようです。

以上から鎌倉時代後期頃の焼山寺には
「弘法大師 + 蔵上権現 + 虚空蔵菩薩」

といった信仰対象が並立する霊山としても有名であったようです。このような聖地は醍醐寺三宝院流の山伏である宴隆を惹きつける聖地であったのかもしれません。

勧善寺 と焼山寺地図
  さらに、ここには熊野信仰の痕跡も残ります
焼山寺には鎌倉末期から室町時代にかけての熊野系懸仏が伝来します。ここからは熊野行者の活動がうかがえます。また近世初頭の澄禅の「四国辺路日記」には、焼山寺は「鎮守は熊野権現」と記されます。
 以上のような、焼山寺に残る熊野信仰の痕跡は、宴隆のような熊野行者の活動の反映かも知れません。そうだとすれば巻208奥書は、熊野行者の活動の一例と云えます。
宴隆がたどった道、すなわち大栗山と熊野を結ぶルートはどのようなものであったのでしょうか。
 中世阿波の熊野信仰のは、吉野川水運と深く関係していると研究者は指摘します。大栗山は、吉野川の支流である鮎喰川の上流域になります。この川が大栗山と外部の世界をつなぐ道であったようです。勧善寺所蔵大般若経の巻321奥吉には「倉本下市」とありますが、これは鮎喰川下流、現在の徳島市蔵本町周辺に立地した市と研究者は考えているようです。国産・大陸産の陶磁器をはじめ、豊富な出土遺物により、鎌倉時代後期から南北朝時代における阿波の流通の様相が知られる中島田遺跡は、この市と関連する集落のようです。こうしたことから、鮎喰川は人や物資の往来の道としても機能していたと考えられます。

 大般若経の成立時期から約半世紀を経た天文21年(1552)の「阿波国念行者修験道法度」を見てみましょう
この史料は、阿波国北部の一九か寺(坊)に所属した「念行者」といわれる有力山伏の結合組織があったことを示すものです。これらの山伏は熊野先達でもあり、それぞれの所属する寺院(坊)は熊野信仰にかかわったものが少なくないとされます。従来は、寺院(坊)の分布が古野川下流域を中心にあることが強調されてきました。

勧善寺 地図
 しかし、視点を変えて大栗山との関連という視点でみていくと、鮎喰川流域の密度が高いことに気付きます。下流から挙げると、田宮妙福寺、蔵本川谷寺、矢野千秋房、 一之宮岡之房、大栗阿弥陀寺の五か寺(坊)があります。これは、鮎喰川やその沿岸が熊野信仰の道でもあったことを反映しているようです。当然、そこは熊野系山伏らの活動でもあったのでしょう。
以上からも、大栗山への熊野信仰の浸透に、鮎喰川の果たした役割は大きいといえます。そして、
大栗山―鮎喰川―吉野川―紀伊水道―紀伊半島

というコースが、宴隆のたどった道であったことになります。

神山町に残る勧善寺所蔵大般若経巻208奥書は、当時の熊野行者の活動と熊野信仰の浸透、それが四国霊場焼山寺に与えた影響を考える上での根本資料であることが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義
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現在の金山神社(旧金山権現)
79番天皇寺の寺伝は、空海との関係を次のように記します
 空海が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ閼伽井(八十場の清水)を汲んで大師に給仕し、この山の仏法を守るようにと宝珠を預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋め、荒廃していた堂舎を再興し、その寺を摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と号した。

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 金山神社内に残された瓦

 また大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置した。そして、金山ノ薬師は札所となり、それらの霊験著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛した。
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金山神社

ここからは次のようなことが分かります。
①これは金山権現(摩尼珠院妙成就寺)の由緒で、天皇寺のものではないこと
②金山権現は、もともとは金山の上の現在地にあり、金山権現が札所であったこと
③権現を祀るのは修験者たちで、ここが修験者たちの行場であり、聖地であったこと
 ここからは現在の天皇寺と金山権現とは、まったく別の寺院であったことがうかがえます。どこかで「株取り」されたか「接ぎ木」されたようです。それを史料で見ていきたいと思います。
   テキストは 「五来重 天皇寺 四国遍路の寺」です
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金山神社の敷地内の瑠璃光寺

まず、金山の麓の79番天皇寺高照院を見ておきましょう。
本尊は十一面観音、御詠歌は
「十楽の浮世の中を尋ぬべし 天皇さへもさすらひぞある」

崇徳上皇が白峰で亡くなられて、死骸をしばらく八十場の清水に漬けて腐敗を防いだという伝承から作られているようです。

「浮世には十楽というものがあるそうだが、十楽をすべて全うできる天皇でさえも こういうところをさすらったのだ」

という風に解すようです。ここには、天皇の御遺勅を八十場の水に浸したという伝えが歌われています。そうしておいて、京都に通知し、指示を仰ぎます。その結果、勅許によってこの地で荼毘に付すということになったようです。遺骸を安置したところに白峰宮という神社が建てられ、後に別当寺として摩尼珠院妙成就寺ができたようです。神仏混淆の時代ですから神社を管理したのは、社僧達で修験者たちでした。
西庄 天皇社と金山権現2
①天皇社と④金山権現(讃岐国名勝図会)

さて、現在の天皇寺です。
 グーグル地図で見ると、このお寺の西にあるのが崇徳上皇の遺骸を清水に浸けて保存したという③八十場の清水です。金山からわき出る清水が途切れることなく流れだし、夏場はここで名物のところてんが食べれます。その光景は、何十年も変わらないままです。

八十八ところてん清水屋(香川県坂出市の創業200余年

 現在は広場に金山権現がまつられていて、金山がもともとの信仰対象であったことがうかがえます。そして八十場の水源に当たる金山(181m)に、当時の本社があったようです。弘法大師に金山権現が現れて舎利を与えたというので、④金華山摩尼珠院と呼ばれていたようです。これが、札所としてはもともとのもとの山号です。そして「金華山摩尼珠院」は、奥の院であると同時に、札所であり、寺地であったようです。
Yasoba Gushing Spring 8 - 坂出市、八十場の湧泉の写真 - トリップアドバイザー
八十場の湧き水

17世紀半ばの澄禅の『四国辺路日記』には、次のように記されています。
まず、讃留霊王(神櫛王)伝説がでてきます。
悪魚退治伝説 八十場
悪魚退治伝説の八十場霊水を飲んでの蘇りシーン(讃岐国名勝図会)

神櫛王が八十余人の兵とともに悪魚を退治した時に、魚の毒気に当てられたのを、八十場の霊水で蘇生させたシーンです。その後、弘法大師がこの八十場の泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王を祀ったが高照院の起源と紹介します。ここからは、金山が霊山で、そこからわき出る八十場の霊水が古くから信仰対象であったことが分かります。

八十八水 第四巻所収画像000022
八十場
ここで金山の霊山への道を、「仮説」も含めて簡単に辿っておくことにします。
①新石器時代の金山は、かんかん石(サヌカイト)の産地で、「石器工房」があった。サヌカイトは瀬戸大橋の橋脚となった塩飽の島沿いに岡山方面にも運ばれている。サヌカイト分配センターであった。
②稲作が始まると、金山からわき出る豊富な用水は、下流域の稲作の水源とされ、集落から信仰の山とされるようになる
③周辺には、綾氏に連なる古代豪族のものとされる醍醐山古墳群など大きな横穴式石室を持つ古墳群が集中する。
④金山の西側(現坂出市街)は、古代の鵜足郡の津があり、綾氏の鵜足郡進出の拠点ともなった。
⑤同時に、古代瀬戸内海の交易湊でもあり、金山は航海の目印として、「海の民」の信仰対象でもあった。

 このように農耕民や海の民から信仰対象とされていた金山に、熊野行者がやってきて霊山として開山します。それが金山権現です。権現とは、修験者が開山した霊山であることを表す言葉です。その宗教施設は、もともとは現在の金山権現が安置されている場所でした。そして、麓の八十場の清水も霊地化していきます。金山の上と麓にふたつの宗教施設が現れたとしておきましょう。
 これを後の弘法大師伝説では、次のように伝えます。

「八十場の泉の水源に薬師如来の石像を安置して、これを闘伽井(水場)とした」

後に崇徳上皇がここで崩御したので、この寺の別名が天皇寺となります。
以上を整理すると、金山権現と八十場の清水には次のような信仰が積み重ねられていることがうかがえます。
①稲作の水源信仰
②海の民の航海安全信仰
③神櫛王伝説
④弘法大師伝説
⑤崇徳上皇伝説
 このようないろいろな信仰や伝説が、行場で修行する修験者や高野聖たちによって、時代と共に付け加えられていったと私は考えています。
  天皇寺が高照院と呼ばれるのも、かつてこの寺が金山の中腹にあったころに、その常夜灯が海から見え燈台の役割を果たしたからだとある研究者は指摘します。確かに、ここから東北に白峰山と五色台も見え、備讃瀬戸を行き交う舟も木陰から見えます。

1天皇寺
白峰宮と天皇寺は隣接している。
澄禅の『四国辺路日記』には、天皇寺と金山権現の関係が次のように記されています。

世間流布ノ日記ニハ如此ナレドモ、大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也。実ハ天皇ハ人皇七十五代ニテ渡セ玉ヘバ、大師ニハ三百余年後也。天皇崩御ノ後、子細在テ玉体ヲ此八十蘇ノ水二三十七日ヒタシ奉ケル也。其跡ナレバ此所二宮殿ヲ立テ神卜本崇、門客人ニハ源為義・同為朝力影像ヲ造シテ守護神トス。御本堂ニハ十一面観音ヲ安置ス。其他七堂伽藍ノ数ケ寺立、 三千貰ノ領地ヲ寄。此寺繁昌シテ金山薬師ハ在テ無ガ如二成シ時、子細由緒ヲモ不知 辺路修行ノ者ドモガ此寺ヲ札所卜思ヒ巡礼シタルガ初卜成、今アヤマリテ来卜也。当寺ハ金花山悉地成就寺摩尼珠院卜云。今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。

意訳変換しておきましょう。
世間では71番札所は天皇寺とされている。しかし、弘法大師が定めた札所は金山薬師(権現)である。崇徳上皇は弘法大師よりは、300年も後の人である。崇徳上皇が亡くなったときに、子細あって玉体(遺体)をこの八十場の水に37日、浸して保管した。その跡なので、ここに神社が建てられ、神として祀るようになった。その別当寺が成就寺摩尼珠院であった。参拝者の中には源為義・為朝の像を造って守護神として寄進するものも現れた。その別当寺の本堂には、十一面観音が安置され、七堂伽藍が揃い、三千貫の寺領を持つ大寺となった。
 この寺が繁昌すると、山の上の金山薬師は在て無きが如しとなり、子細も由緒も忘れられてしまった。辺路修行の修験者や聖も、この寺を札所と思いこんで、巡礼するようになる始末となった。しかし、この寺もいつしか退転(衰退)して今は、民家の屋敷となっている。
ここで澄禅が記していることを、要約すると次の通りです。
①四国辺路の元々の札所は、薬師如来を祀る金山権現であった。
②それが里の八十場の近くに崇徳上皇を祀る成就寺摩尼珠院が現れ、いつしかそこが札所となった。
③成就寺摩尼珠院(金山権現)が衰退すると、 巡礼者たちは隣接する天皇寺に参詣するようになり、金山権現は忘れ去られた。
つまり次の両者は、まったく別の宗教組織であったことが分かります。
金山権現  金華山摩尼珠院 
崇徳天皇社 別当成就寺摩尼珠院  → 別当天皇寺 
どちらも摩尼珠院であったために混同がおこったようです。悪意に捉えると、現在でも後進企業が先行企業を追いかける場合に使う方法です。先行者の名前と混同させることによって「利益」をあげようとする手法ともいえます。この結果、山の上の金山権現を参拝するものはいなくなり、「成就寺摩尼珠院」を札所として納札する巡礼者が増えたというのです。そして摩尼珠院が「退転」すると、隣接していた天皇寺が札所を兼ねるようになったと云うのです。

崇徳天皇社・天皇寺
成就寺摩尼珠院と天皇社(讃岐国名勝図会)
金山権現 → 別当摩尼珠院 → 天皇寺 の関係を、今はどのように説明されているのでしょうか。ウィキペディアには、次のように記されています。

  寛元2年(1244年)後嵯峨天皇の宣旨により崇徳天皇社は再建され、摩尼珠院はその別当職に任じられ崇徳院永代供養の寺という役割を担わされた。そして、いつの頃か札所は金山ノ薬師から崇徳天皇社とその別当摩尼珠院となった。ゆえに人はみな摩尼珠院を「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれるようになった。また、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。

 金山薬師は「議岐国名勝図会」では、現在地に金山権現と記されています。 以上からは戦国期から近世初頭にかけては、まだ四国霊場の札所は、流動的であったことが分かります。同時に中世における金山権現の宗教的な意味合いは、はるかに大きかったことがうかがえます。坂出地区の中世の宗教的な拠点は、金山権現だったと私は考えています。それが、白峰寺が別院・子院の「行人(山伏・僧兵)」などを擁して巨大化すると、その勢力を失っていったのではないかと推察できます。
高照院天皇寺(四国第七十九番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
天皇寺 背後は金山

ここからは私の「仮説」です。
この周辺には、修験道復興の祖でもあり、醍醐寺の祖ともされる聖宝(理源大師)の痕跡が残ります。それを挙げると
①聖通寺山の聖通寺。この寺は聖宝の学問寺とされ、「聖通寺」も「聖宝」に由来すると云います。
②聖宝誕生の地としての本島と沙弥島。この二つは明治初期に生誕地を廻って裁判で争っています。その時の和解案は「聖通寺は、母の漂着地、本島は出生地」です。
③さらに聖通寺や金山、城山にかけては修験者の行場とみられる巨石や岩屋が点在します。
④ここからは本島 → 沙弥島 → 金山権現 → 三谷寺にかけての行場ゾーンが存在したことが考えられます。それが、聖宝に関係する醍醐寺系の当山派の修験者であり、高野聖達であった。
以上が私の「仮説(妄想?)」です。
 それは、以前にお話しした観音寺と善通寺を結ぶ七宝山の行場のようなものだったのではないかと考えます。その拠点の役割を果たしたのが
①宇多津の聖通寺
②坂出の金山権現
③城山の南側の三谷寺(丸亀市飯山町三谷)
であったのではなかろうか思っています。
 そのような中で疑問に思えてくるのが、聖通寺がどうして四国霊場の札所にならなかったのかということです。
この寺は、立地条件や修験者の拠点であったこと、歴史性などからしてもその条件に適う寺だと思うのですが、選ばれることはありませんでした。このエリアから選ばれてのは郷照寺です。この寺は、時宗念仏聖など、聖集団の拠点でした。この辺りの経緯が今の私には見えてきません。
   以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五重等 四国遍路の寺 天皇寺
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