瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 四国遍路の寺

増吽 与田寺

  讃岐大川郡の与田寺の増吽は、天皇から「大師(弘法大師)ノ再誕」とまで称えられ、戦前は弘法大師に次いで讃岐を代表する高僧と高い評価を受けていたようです。戦後は、忘れ去られてような存在になっていますが、再評価の動きがあるようです。どうして、彼が再評価されるようになったのかも含めて、見ていきたいと思います。
増吽
 増吽上人(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)
まずは、 香川県史の増吽(ぞううん)に関する記述を挙げてみましょう
①増吽は、貞治丑年(1366)、大内部与出郷西村(現大内町)に生まれた。
②父は、不詳。母は、蘇我氏の末、安芸左衛門九郎盛正の女と伝える。
③幼くして、当時、水主(みずし)神社の別当寺であった薬師院神宮寺(与田寺)に入寺した。
④薬師院の住僧増慧法印に師事して竜徳坊と称した。
⑤高野山・東寺に真言密教を学び、教学に秀でると共に画像彫刻もよくしたという。
⑥水主寺の寺伝によると、増吽は、師である増慧が河野郡北条の天皇別院であった摩尼珠院に移ったので後住となり、薬師院を改めて虚空蔵菩院神宮寺(与田寺)とした。
増吽も高野山で真言密教を学んでいるようです。そして、仏像彫刻や仏画にも秀でていたようです。そのため彼の描いた弘法大師像が数多く残されています。しかし、彼の若い頃のことは、よく分からないようです。
増吽 与田寺2


増吽は、明徳二年(1391)に虚空蔵院(現与田寺)の住職となります。このお寺の「由緒」には、末寺として次のような寺院を記します
 下野小股(小俣)の会同院・同国小山の会削袖寺
 武蔵国高橋虚空蔵院
 尾張国冥福寺・
 播磨国無最寄院・
 備中国清氷山惣持院・同日女生山性椋院・
 備前国安寄院・阿波国虚空蔵院・
 同国談義所黒田寺・
 同順良骨寺・
 小豆島北山宝生院など国外21か寺、
 そして、大内・寒川郡に100か寺というのです。
 また「御領分中宮由来、同寺々由来」には、これらとは別に、宝生院末寺21、安寿院末寺等20、惣持院末寺50、性徳院末寺20、無量寿院末寺15、阿波の虚空蔵院末寺3とあって、末寺を全部合わせると104か寺と記します。
 この「由来」の成立は、寛永年間といわれ、寺社の本末関係がまだ明確になっていない時期です。この内容は誇大であり、自称が大部分であったと研究者は考えているようです。しかし、これら名が挙げられた寺は、増吽が関係した寺々であることに間違いはないと言います。それらは、増吽が修業や再興修造するなど、何らかの関係があった寺だと云うのです。そうだとすると、まさに偉大な勧進僧だったことになります。
 
水主神社の近くに若王子(東かがわ市与田山)という寺院があります。
ここには応永六年(1399)から応永九年にかけて書写された「大般若経』があり、そこには次のように記されています。
「若王寺大般若経』
外題実、歳空蔵院住持 金資増吽生年三十七、升亮勝一局増範、応永九年三月三十日、敬以三諮日夜功労乎、常一日写也、右筆真海六十九 明通一房増稔、子時応永六年己卯正月十一日立筆始、自陣二
  応永九年三月三十日の年紀を持つ巻に、増吽と噌範の名前があります。増吽は「天王寺大般若経」の書写にも、増範らとともに重要な役割を果たしています。
 この「大般若経』は若王子権現の常什の為に赤松前出羽守顕則が願主となって筆写されたもののようです。写経には、与田山・水主近在の僧侶を中心に、讃岐国三木郡や遠く若狭・薩摩国の僧侶たちが参加しています。
白鳥町誌に記された関わった写経者名一覧を見てみましょう
  一 国外からの写経者と認められるもの
   阿波国板西郡 宥真房(小野流)
   若狭国遠敷郡神宮寺   円玄房
    同  上      伊勢公
   阿 波 国 河 嶋   良吽房
   播磨国一乗寺  竜泉房増真
   薩摩国日置惣持院   円海
   越後・国上寺  円海
   阿波国名西郡  尊恵
   阿波国葛(萱力)嶋荘   覚舜(禅密系の僧か)
   阿波国萱嶋荘吉成   勢舜(禅密系の僧か)
   阿波国秋月荘  禅意
   阿波国板西郡建長寺   天海(禅密系の僧か)
    同  上      玉巷(禅密系の僧か)
   阿波国板西下荘  口口(不詳)
   摂津国多田荘清澄寺   良祐(三宝院流)
   (播  磨  国)   赤松顕則(範力) (願主)
  二 讃岐国内のうち大内郡外からのものと認められるもの
   三木郡氷上村長楽寺   教義
   三木郡田中郷     観照
   三木郡毎平(堂平力)   豊後公
  三 水主神社関係者と認められるもの
   虚 空 蔵 院   増吽
     同  上      増範
     同  上      増楡
   薬師堂般若坊  (不明)
   薬   師   堂   覚舜
   与田郷東大谷 増祐
   大   水   主   良闇
     同  上      小輔
   大水主無動寺  賢真
   大水主円光寺  定全
   大水主中(仲) 善寺  良啓
   金 剛 寺 坊 主   (不明)
  四 尼僧と認められるもの
              知栄尼
              法智禅尼
  五 与田山若王子関係者と認められるもの
   当山住人当寺住職   増光
   王 住 呂   増円
   下山長福寺   詠海
    同 上      真海
   長福寺東琳社   (不詳)
六 その他(若王寺・水主神社の住僧が大部分と思われる)
   相三郎丸  戒乗  教賢  教忍  玉泉坊
   賢実  源禅  孝斉  慈範  慈明  信照
   実仙  重賢  成鏝  成範  増任  増継
   増快  増信  増元  増意  増珍  増明
   増門  増(?) 朝等  了舜坊呈賢  等畦
   入野中山(某) 念尊 本乗 法林寺(表
   明通  祐光  宥慧  良恵  良成
   良仁  良尊  亮全  了海

 まず感じるのは、写経に関わっている僧侶の数が多いことです。これだけの数の書経スタッフがいたことに、びっくりします。そして参加者のエリアが広いことです。この写経には、当時37歳で虚空蔵院院主だった増吽も参加しています。それは巻一に、弟子二人とともに名前があることからも分かります。しかし、分担筆写から見ると、増吽は、この写経勧進にあまり主体的に関わっていないと研究者は考えているようです。この書写は幡磨の一乗寺増真が中心となって行われたようです。
次に、目が行くのは、阿波国の僧侶の多さです。
大内郡と地理的にも近いこともあるでしょう。当時の人々は、南海道の大坂峠を頻繁に行き来していたようで、阿讃山脈の険しい峠越えは、気軽な旅程だったかもしれません。参加者の拠点名を見ると吉野川沿いの寺院です。中でも宥真は40巻を書写しています。国外者では最も多い巻数になるようです。

なぜ、この大般若経は播磨の赤松氏が願主となっているのでしょうか?
「若王子大権現縁起」によると、鎌倉末期の元弘年中(1331~34)、大塔宮護良親王が赤松則祐・岡本武蔵坊の両人を連れて大内郡にやってきて、在地武士の佐伯季国の協力を得て虎丸山に一城を構えたと記されています。そして滞在の間に、親王が大般若経五〇巻を筆写して若王子権現に奉祀したとされます。赤松氏に縁のある者が鎌倉幕府討滅の軍勢を催すため大内郡にやってきて、同時に、若王子に戦勝祈願を行ったと解しておきましょう。
 それから約70年後のことになります。
奥書の年紀を見ると、応永八(1401)年三月五日、播磨国一乗寺の住僧増真は、巻四百二十五を書写し終えています。ついで、翌六日、巻四百十六を摂津国河南辺北条多田荘清澄寺の良祐が、そして、七日には巻四百四十九を赤松顕則がそれぞれ写経して筆を置いています。この三人は日を合わせるように、若王子権現にやってきて、同時期に経巻を筆写し終えているのです。一乗寺の増真と清澄寺の良祐は、播磨国守護赤松氏の所領にあるお寺です。赤松氏とその勢力基盤であった土地の住僧が、3人そろってやって来て大般若経を寄進したのは、どうも「戦勝祈願」だったようです。それを70年前の先祖の例にならって、行ったようです。
 増吽から話が逸れたようですが、ここで確認しておきたいのは、水主神社や与田寺周辺には、大勢の書写スタッフが存在し、それを取り巻くように広い範囲の支援ネットワークが形成されていたことです。
これがどのようにして、形作られていったのかが次の課題です。
 増吽の名を高めた最大の功労者は、彼の直弟子(詳しく見ると増慧の相弟子に当たるので弟弟子?)である増範であったようです。
少し回り道になりますが、増範について見ていきます。
 増範は、応永六(1399)年の若王子権現の大般若経書写のときは、34歳の働き盛りです。当時は、虚空蔵院にいて高墜房と称していました。この時に増吽は、37歳で同院住職を勤めています。増範は、その後まもない時期に上洛したようです。増吽の名声を高めたとされる応永十九(1412)年の北野社一切経の奥書によれば、覚蔵増範と署名しています。
  増範が北野社覚蔵坊主となって、この一切経書写供養会を主催したと研究者は考えているようです。
覚蔵坊は、写経会が行われる北野経王堂の管理と運営を執り仕切っていたようです。したがって、増範が、写経会に際して願主となって主催したことになります。その時も、虚空蔵院の増吽とその一門が参加しています。多度津の道隆寺第22世・23世の良秀・賢秀らの門下を始め、讃岐から35人が加勢しています。摂津からは20人の僧侶が参加し、そのエリアは山城・和泉など畿内から北は越後、南は九州諸国にいたる25国にもおよびます。それだけの人脈を増範は持っていたようです。しかし、これは増吽によって培われた人脈だったのかもしれません。そうだとすると増範の出世は、増吽によりもたらされたものと言えるかもしれません。
増範の業績で特筆すべきは『北野社一切経』の書写事業と勧進です。
mizmiz a Twitter: "経王堂  足利義満が三十三間堂の倍の長さで建て、江戸時代まで存在してたらしい!この立面が衝撃的で調べてたら石山修武も日記で同じこと言ってたw  https://t.co/Zc0CN9AzXe… "

 北野社経王堂は、応永八(1422)年に足利義満が建立したものです。ここでは明徳二(1391)年に起こった明徳の乱における戦死者を弔うために、将軍が主催して万部経読誦会が行われるのが恒例になっていました。「北野社一切経」は、この行事のために新たに書写されることになったようです。増範は北野社万部経会の経奉行として、実際の経営にもあたっていました。当然のことながら増範は「北野社一切経」の大願主で、多くの経巻に大願主や大勧進として名前が記されています。
 この事業は、応水19(1412)年12月17日から8月15日までの五カ月間にわたって書写し、執筆者は越後・尾張・伊勢・但馬・出科・近江・丹波・讃岐・河波・肥前和泉・摂津・大和・河内・紀伊・播磨・淡路・備前・備後・美作・日向の国々の僧侶などの百数十名が参加する大事業でした。このために大内郡の水主神社の書写社僧スタッフや全国ネットワークがこの時にも活躍したはずです。
 北野社の一切経五千五百帖が調ったのは、応永十九年のことです。この功績によって彼は、この後北野経王堂(願成就寺)住持となり、年々盛んになっていく万部経読誦会の経営に当ることになります。このような増範の異例とも云うべき出世には、讃岐東分郡守護代の安富氏の後援と管領細川氏の支援があったと研究者は考えているようです。
増範の出世を踏まえて、増吽のことに立ち返えりましょう。
 北野社一切経奥書の増吽の肩書には、
「讃州崇徳院住 僧都 増吽」

と記されています。ここからは増吽が白峯崇徳院(頓証寺)に「栄転」していたことが分かります。時は応永十九年三月十七日のことです。翌年の崇徳院250年遠忌法要の導師に、増吽が選ばれたためのようです。この時には、讃岐に流刑となっていた高野山の学僧宥範は、赦されて讃岐にはいません。増吽をおいて適任者はいなかったようです。
これが、増吽の讃岐一国に知名度を飛躍的に高めるイヴェントになります。増吽は、崇徳院の法要を無事済ませ、虚空蔵院へ帰ってきます。それを追うように、後小松院から任僧正位の吉報があったと研究者は考えているようです。このような増吽の出世には、弟弟子の増範と同じように讃岐東分郡守護代の安富氏の後援があったようです。

 15世紀初頭の応永年間の大内郡は、水主神社を中心として仏神事が盛んに行われて宗教的にも隆盛であったようで、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。これらの環境は形成には、安富氏の力があったとしておきましょう。

「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範のほかにも、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。
良仁は「讃州大内部与出虚空蔵院筆良仁」や
   「讃州大内郡大水主社良仁」
賢真は「讃州大内虚空蔵院賢真」
   「讃州大内大水主社住僧賢真」
と名乗っていて、虚空蔵院とも大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で虚空蔵院が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していたのです。
旅 809 水主神社 (東かがわ市): ハッシー27のブログ

社僧の名前だけでなく、大水主社が書写場所であったことが分かる記録もあります。

ここからは、当時の大水主社は、多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことがうかがえます。それを形作っていったのが増吽ではないかと研究者は考えているようです。
増吽と写経集団
水主神社の「外陣大般若経』巻第二百七十は「水主、千光寺如法道場」で書写されたと記されます。この奥書からは、大水主社にも如法道場が設けられていたことが分かります。さらに想像力を働かせると、水主・千光寺如法道場は書写スクールの機能を果たしていたのではないかという仮説になります。讃岐だけでなく、隣国の阿波からやってきた僧侶達が水主神社で修行し、経衆(書経スタッフ)として帰国していく。そして、別当寺の増吽や増範の依頼があれば、割り当てられた巻を書経して水主神社に届ける。そんな書経ネットワークの存在が見えてくる気がします。この写経集団は増吽を先達として、水主神社を拠点としていたのでしょう。
水主神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
水主神社

もう一度、増範のいる北野社に自を向けましょう。
 北野社万部経会は1万部を千人の僧が読経する経会のようです。北野社一切経会とともに幕府にとって重要な年中行事でした。この万部経会に使用する経本は、毎年新写して僧侶達に頒布したとされます。この毎年新写される法華教を、増吽率いる経衆が書写していたのかもしれません。これも仮説です。
次に注目したいのは、増件が率いる経衆の誕生過程です。
大水主社のある水主地区は本宮・虎丸山(新宮山)・那智山に囲まれています。ここに増件が熊野三山を勧請したと伝えられます。ここからは増件が熊野系勧進僧であったこと、つまり熊野信仰を強く持っていた修験者という姿が垣間見えてきます。高野山で学んだのですから当然のことかもしれません。このことについては、また別の機会にします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
水主三山 虎丸山

 参考文献   
唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       
香川史学1989年

 増吽には4つの顔があることを以前に確認しました。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
今回は④について見ていきたいと思います。
増吽の幼年期について、諸史料には次のように記します。

幼年期から利発な増吽に目をつけたのが、近くの水生神社神宮寺薬師院(与田寺)の増慧法師で、弟子入りさせた。増吽は、仏典などの学習に優れた才能を発揮する一方、画才にも並外れたものをもっていた。

与田寺には、増吽の画力を伝える次のような民話が語り継がれています。
むかし、中筋村与田寺に、絵の上手な金若(かなわか)と呼ぶ小僧さんがおりました。この小僧は、お経よりも絵の方が上手でありました。ある日、お経がすんだので、またすきな絵を住職さまの居ないときに描き始めました。
 不動尊の絵を書きあげたとき、ふいに住職さんが帰ってまいりましたので見つけられたら大変と急いで畳の下にその不動尊の絵をかくしました。さて用事が終わると、多勢の小僧たちと室に入ってみると、室内いつぱいに煙がたちこめて畳が焼けているので驚いて水をかけ畳をあげてみると、つい今の先にかいた不動尊の火焔で焼けたということがわかりました。この金若(かなわか)が後の与田寺の中興の祖といわれる増吽です
まるで一休さんと雪舟の話をミックスしたような話です。増吽の描いた仏画が見事だったために後に語られるようになった話なのでしょう。
 この他にも増吽の描いた馬は、夜が来ると絵から出来て、周辺の田畑を走り回り悪さをするので百姓達から苦情を受けた。半信半疑に住職達が、見張っていると夜になると本当に絵馬は額を抜け出して行ったという話もあります。この伝説は有名で、今でも与田寺境内の不動尊堂の絵額として、掲げられているといいます。 増吽の作品が与田寺には残っています。
 山桜の板を材料に日天、月天、梵天、風天など十二天の像を彫った版木12枚です。
この版木は完全な形で伝えられ、応永十四年(1407)に増吽が開版したとの銘もあり、県の有形文化財に指定されています。この版で刷られた作品は「与田寺版」と呼ばれて、全国のお寺に残っているようです。見てみましょう。
十二天
十二天
その前に十二天の「存在理由」を押さえておきましょう
仏教の世界では、8つの方角と上下をつかさどる神に、日・月の神を加えた十二尊を十二天と呼びます。室町時代の初頭には、肉筆の仏画の代用となるような大判の仏教版画の制作がさかんになり、幅広い需要に応えるようになります。

十二天屏風 国宝

 この絵は案外大きい物で、屏風に表装され残っている所があるようです。増吽作と云われる与田寺版の風神を見てみましょう
十二点 風神 与田寺版

風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。
神宮寺とは、水主神社に対しての神宮寺(別当寺)のことでしょう。ここでも神仏混交体制が進んでいたようです。制作日となっている3月21日という日は、弘法大師の入定の日になります。高野山で学んだ増吽は、この日を選んで奉納したのでしょう。ここからは増吽の弘法大師に対する信仰がうかがえます。
 この十二天版木の制作目的は、仏法を護持するためのものです。
それを制作したのは聖宥です。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために充実したスタッフがいて、大般若経書写の際などにはフル稼働したと私は考えています。そのような体制を作り上げた大締め(先達)が増吽だったのです。

 研究者は風天図の構図を見て次のように記します。

「月天が真横に表されており、特徴的であるが、これは詫間勝賀が建久二年(1191)に描いた京都東寺本に近い」

ここからも、増吽が京都の東寺を初めとする寺院の仏画類を「調査・研究」していたことがうかがえます。これと同じ十二天版木は、備中の霊山寺(岡山県浅口郡里庄町)にあります。また、増吽が描いたといわれる十二天画像は岡山県英田郡英田町の長福寺にも伝えられています。

増吽の作品のなかで各地の寺院に残っているのが弘法大師画像です。

空海像 高野山と善通寺の2つの様式
弘法大師像の2つのタイプ

大師御影は、高野山の真如親王の筆と伝えられるものが一般的です。右方斜面向きにして、右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て、左手に念珠を持ちになり、胸を開いて、椅子に安座する姿です。これを真如様式とよびます。
これに対して、善通寺様式と呼ばれるものがあります。これについて南海流浪記には次のように記します。

「影の上に山端,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」

意訳変換しておきましょう。
影(弘法大師)の上に山端と佛形(釈迦如来)が書き加えられた弘法大師御影がある。
これは讃州善通寺で御影に書き加えられるようになったものだと云われ、所々の寺にある。その起こりは、讃州多度郡の屏風浦は、弘法大師の誕生地にあたる。この姿は、海岸浦の松は尋常の姿ではなく、丹青の綵を交え、屏風を立てたように見える。そのためにこの名前で呼ばれるようになった。この地は景勝地で霊山でもあるために、大師が修行している際に、弧峯の上の片雲の中に、釈迦如来が現れた。大師は歓喜のあまりに、その姿を写し留めたという。そこからこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽(出釈迦)ともなずけたのである。

空海の捨身行 我拝師山
善通寺様式御影 安元年(一四四四)頃京都・智積院
京都智績院の善通寺御影 右後ろに釈迦如来が現れている

空海の捨身行を受けて、御影の左上に釈迦如来が描かれるようになったというのです。
この様式の御影の軸表紙には「善通寺形大師」と記されています。これが「善通寺形御影」と称されるようになります。その中で上の京都・智積院蔵の善通寺式御影の裏面に次のように記されています。
奉施人弘法大師御影壱鋪讃岐同④多度津之御影供一衆流通物(中略)
高祖末資之阿闍梨(増吽)本写大師二伝之正影令施入当津之流通物者也(中略)
③阿闍梨七十九而書之
②文安元年四月仏誕生日 ①大願主平野弾正忠暁月願尭書□啓
①大願主平野弾正が、母妙厳の兜率天住生を願い、
②文安元(1444)年の四月八日に寄進したこと。
③本文に添えて「阿闍梨(増吽)七十九面書之」とあること
④「多度津の御影供一衆」による奉納物であったこと。
「高祖末資の阿闍梨」とは増吽のこととされます。そうだとすれば、この善通寺式御影は文安元年(1444)に増吽が79歳で描いたことになります。増吽が直接に筆を執ったのではなく、制作に関しての指示・指導を行ったと研究者は考えているようです。それなら増吽不在でも、機能する工房が与田寺にはあったことになります。
④の「多度津の御影供一衆」とは、道隆寺を中心とする「結衆」が考えれます。
道隆寺も、塩飽や庄内半島に末寺を数多く持ち、備讃瀬戸南岸の交易権に大きな影響力を持っていた寺院であったことは以前にお話ししました。ここにも結衆(書写集団や仏画工房)などがあったことがうかがえます。道隆寺などの備讃瀬戸に影響力を持つ寺院群とのネットワークを、増吽は持っていたようです。彼らを結びつけるものが熊野信仰であり、後には弘法大師信仰だったと私は考えています。
ここからは与田寺に拠点を持つ増吽が瀬戸内海や阿波方面にまで教線を伸ばしていたうかがえます。増吽の活動は、仁尾や白峯寺・備中・備前に伸びていたようですが、多度津にも及んでいたことを押さえておきます。
 描かれているお姿を見ておきましょう。
後頭部が盛り上がって顔は少し上を向いています。後頭部が大きいのは「異才」の証しとされていたようで、高僧像には後頭部が盛り上がって描かれることが多いようです。
研究者は次のように記します。

衣文線の起筆に特徴があり、描線に力強さが感じられる。肉身や衣文のぼかしは控えめで、彩色は誇張なく穏やかにまとめられている。色の肉身が肉感的で、口の上下にうっすらと髭の剃りあとを残す。裏に貼られた施入状には「讃岐国多度津之御影供一衆流通物」とある。

 絵絹の縁を白線と朱線で囲むのはあまり例がないようで、増吽の描いたとされる善通寺タイプの御影にもいくつかのタイプがあったことが分かります。増吽一人によるものではなく、与田寺工房の作品と考えた方がよさそうです。
岡山・法万寺旧蔵の善通寺式御影の軸本内に、次のような墨書があったといいます。

本修補高祖弘法大師尊像絵、備前国瓶井山先住増吽僧正真筆、
後花園院御宇鳳徳年画、古軸増吽自賛曰、宛如身、有之、元来此尊容備前牧石郷法万寺什宝央、有故同国岡山大工町大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚収領之、至迂今 伝当寺、古苫記云、慶長十六年一月二十一日共後宥伝、寛永十四年今年法輪寺僧全修覆、天保三壬辰十一月日修補 施主瓦町高田屋清吉 母 表具師石園町住人江長い左衛門利之

意訳変換しておきましょう。
本寺に伝わる弘法大師尊像絵は、備前国瓶井山の先住である増吽僧正の真筆である。後花園院御宇鳳徳(宝徳)年間に描かれたもので、古軸には増吽の自賛があり次のように記されていた。
宛如身、有之、もともとこの弘法大師御影は備前牧石郷法万寺にあったものであるが故あって、岡山大工町の大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚の下に修められた。それから当寺に伝わってきた。(以下略)
備前瓶井山(みかいさん)とは、安住院のことのようです。
安住院住持だった増吽が宝徳年間(1449~52)に、この善通寺式御影を描いたというのです。この寺院も増吽が住持を勤めたと伝わっているようです。確かに「瓶井山禅光寺安住院縁起』(享保十年(1725)には、同寺は応永2年に増吽中興とされ、さらに増吽自筆の書簡が二通所蔵されています。この軸木の墨書の記述内容を裏付けます
  以上の例が示すように善通寺式御影には、増吽が深く関与していることが分かります。この他の善通寺式御影にも、増吽筆の伝承を持つものがあります。

善通寺御影 仁尾覚城寺
仁尾・覚城寺の善通寺様弘法大師像
仁尾町の覚城院本には裏面に「増吽増正筆」と墨書されています。そして覚城院は室町時代の応永年間に増吽が再興したと伝え、書簡も残されています。この図は増吽が直接関与したものなのでしょう。同時に、そこには熊野勢力の浸透がうかがえます。
この弘法大師像について三好賢子氏は次のように評します。
肉身は薄墨で描いて宍(しし)色に塗り、衣は輪郭を墨、衣文線を茶色で描き、朱でぼかす。五鈷杵、水瓶、椅子の金具は金泥を塗る。全体に描線が細く、五鈷杵の形状や数珠などの細部も丁寧に描かれており、善通寺御影のなかでは優品と言える。旧箱書に「出釈迦大師御影、増吽僧正筆」と墨書される。覚城院には増吽による応永三十三年(1426)の再興願文「覚城院縁起」と書状がのこされ、増吽との直接的関係がうかがえる。平成九年度の修理により、画は絹目が非常に粗く、裏面からの黄土とみられる顔料の塗り込みによって安定が図られていることが確認されている。
増吽と岡山方面をつなげるのは何でしょうか。
岡山の増吽について調べている前田幹氏は、岡山県には「善通寺形御影」が伝わっている寺院が数十ヵ寺あると云います。そして「善通寺形御影」がある寺は、必ずといってよいほど増吽の足跡が見つかるようです。
 これらの「善通寺形御影」については、私は最初は善通寺の工房で作られていたものと考えていました。しかし、次第に与田寺の工房で作られてものではないかと思うようになりました。書写や版木を作り仏画が作られていた与田寺の工房で、「善通寺形御影」も作られ、熊野水軍の定期船によって、備讃瀬戸一円の寺院に供給されたと考えるのが自然のように思えてくるのです。
 同時に、以前にもお話ししたように当時は

熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 

という熊野修験者のテリトリー拡大の時期でもあります。それは、熊野水軍の瀬戸内海進出とも密接に結びついていました。このような動きの中で、増吽の備讃瀬戸沿岸への勧進活動があり、その結果として真言系の山伏寺に「善通寺形御影」が残っていると私は考えています。
 増吽の岡山方面で活動は、彼の人生の後半期に当たるようです。讃岐で十二天版木の開版や大般若経の書写活動を行ったのは、増吽三十歳代のことです。それが岡山を中心とする備讃瀬戸での活動は五十歳近くになってからというのが定説のようです。

増吽筆とされる善通寺様式の空海御影が讃岐や岡山の真言寺院に、多く残されているのはどうしてでしょうか?
それは善通寺寺式御影を用いて弘法大師信仰を広めたと研究者は考えているようです。

善通寺御影 香川県立ミュージアム
香川県立ミュージアム本の善通寺様弘法大師像
弘法大師御影 県立ミュージアム版
上図の拡大版
この弘法大師像について、三好賢子氏は次のように評します。

画は綿糸に節を多くもつ。肉身は朱線で描いて宍色に塗り、衣は、輪郭、文線ともに墨で描き、その描線は太く強い。鋭さをもつ目は虹彩を赤茶色とし、上瞼と目頭、目尻を群でぼかす。過去の修理に際し、柚木から天保三年(1832)の墨書銘が確認されている。それによれば、もと備前の法万寺にあったもので、先住増吽よる宝徳年間(一四四九~五二)の真筆で、増吽自らが旧軸に「如生身(あたかも生身のごとし)」と賛を記していたという。眉が太髪と顎の剃り跡をのこして生身性を強く感じさせ、善通寺御影の遺例のなかでも異彩を放っている。

香川県立ミュージアム本の弘法大師像には、顎髭や日髭が描かれています。さらに智積院本には都率三会のことが記されており、普通寺式御影には、人定信仰・弥勒信仰が影響を与えているとされます。これは、以前にお話しした通り「同行二人」や四国遍路の入定信仰の伝播や流布という面から重要な意味を持ってくると研究者は考えているようです。

以上、十二天版木や善通寺式御影から、増吽が弘法大師信仰に厚かつたことを見てきました。増吽が関与した虚空蔵院(与田寺)、白峯寺、覚城院、無量寿院は、どれも真言宗寺院ですので当然のことかもしれません。
以上をまとめておきましょう。
①増吽には、熊野信仰 + 弘法大師信仰のふたつの側面がある。
②増吽の当時の課題は、熊野信仰と弘法大師信仰を備讃瀬戸エリアに広げることであった
③増吽は与田寺にあった「書経センター + 仏画工房」の「所長」でもあった。
④大般若経の書経や弘法大師御影配布を通じて、寺院の勧進活動を展開した
⑤それは、熊野水軍の瀬戸内海交易活動を援助することにもつながった
⑥増吽が勧進した寺院ネットワークは、熊野詣でのルート拠点としても機能した。
⑦増吽が復興した水主の熊野三所権現は、四国の熊野詣での拠点としても繁栄するようになった
⑧同時に引田湊は、讃岐東端の熊野への出発港として機能した。
⑨四国辺路は、このような熊野詣でルートを「転用」することから始まった。
⑩金毘羅詣でが盛んになるまで、四国遍路の受入湊が引田港であったのは、そのような歴史的経過がある。
後半は、多分に仮説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
三好賢子 香川県立ミュージアム 弘法大師空海生誕1250年記念特別展
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貴族の専有物であった古代寺院が、どのように民衆化していくのかを修験者や聖の視点から見ていこうと思います。空海・最澄の登場によって、平安時代になるとそれまでの都市仏教から、山深い山岳に巨大な寺院を建立されるようになります。
この時期の山岳寺院には、次のような特徴があると云われます。
①規模が比較的大きいこと
②山岳を修行の場とする密教寺院であること
③国家を鎮護し貴族の安穏を祈る国家的または貴族的仏教
役小角 - Wikiwand

11世紀を過ぎるころから、それまでの寺院の枠組みを越えて修行する山岳修行者=修験者・山伏が現れます。彼らは修行集団を形成し、諸国の霊山をめぐるようになります。諸国の名山とはたとえば12世紀に著された『梁塵秘抄』に見える七高山です。

他方、寺院の枠組みを越えて活動するもう一つの僧侶集団が形成されてきます。
高野聖とは - コトバンク

僧侶の中では最下層に属し、半僧半俗的な性格を持つ聖集団です。
彼等は庶民を日常生活の苦難から救済し、仏教を広めるとともに、民衆から生活の糧を得て社会活動を行い、堂塔を建立するための勧進活動を行うようになります。
 つまり、寺院の枠組みを越えた集団である「修験者・山伏と勧進聖」が姿を現すようになったのです。ともすれば寺院のなかに閉じこもり、国家や有力貴族のためだけに活動していた仏教寺院を、民衆救済へ変化させていったのが「修験者・山伏と勧進聖」になるようです。
修験者と勧進聖の役割
修験者は信仰を深めるために厳しい修行を行うとともに、人々を組織して先達となって霊山・寺院へ誘引するようになります。それの一つが四国八十八所や西国三十三所巡礼へとつながっていきます。
 また彼らは民衆救済のひとつの形として、農業技術、土木事業、医療活動などの社会活動も行います。
勧進活動 行基
行基菩薩勧進帳 鶴林寺 文明八年(1486)
鶴林寺の開基は寺伝では聖徳太子ですが「六禅衆供田寄進状」(『鎌倉遺文』)には「当寺本願行基菩薩」とあり、行基菩薩が開いたとされます。中世では行基開創伝承もあったようです。この本勧進帳は行基坐像の胎内から発見されたもので、勧進により行基像が造像されたことがわかります。これによると、文明18年から勧進から始り、多数の人々の勧進により造像されたようです。

彼らがどれだけ大きな勢力を持っていたかは、鎌倉時代初期の重源の狭山池の改修や東大寺再建事業からもうかがえます。
勧進 狭山池勧進碑
狭山池重源改修碑 大阪府立狭山池博物館 建仁二年(1202)
古墳時代に築造された狭山池は、古くは行基も、池の修復を行っています。鎌倉時代初期に東大寺大勧進職であった重源も、彼の業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に狭山池を修復したとの記載があります。平成五年(1993)の改修工事中に、重源の改修工事記念碑が発見されました。重源が勧進活動により修復を行ったことが記されています。

勧進僧の活動の一つは、念仏聖を中心とした民衆の「死後」の恐怖からの救済でした。古代仏教は葬儀とは無縁の存在でした。その意味で民衆信仰としての「葬送」は、新時代の仏教民衆化の要になりました。死者への葬送儀礼に関わった宗派の僧侶が民衆からの信頼と支持を得ることになります。平安時代初期には、死者への葬送儀礼の作法は、道教の影響が大きかったようです。それが次第に仏教儀礼へと代わっていくのは念仏聖たちによる社会活動の結果です。

納骨塔元興寺 鎌含時代
納骨塔 元興寺 鎌含時代・室町時代
納骨は、死者供養の一種で、法華堂や三味堂などに奉納されました。元興寺寺も納骨寺院の一つであり、納骨容器である五輪塔以外に、宝珠医印塔や層塔などのもありますがすべて小型の木製です。中に骨を入れ、堂内の柱などに打ちつけられました。
戦場の陣僧
戦場の陣僧

その例を時宗僧侶の活動から見てみましょう。
時宗僧侶達は、「陣僧」と呼ばれ、戦場にでて人々の救済に尽くすようになります。鎌倉幕府減亡の元弘三年(1333)五月二八日付けの時宗道場・藤沢清浄光寺の他阿の手紙は、時宗僧侶の働きを、次のように記しています。
鎌倉は大騒ぎですが、道場は閑散としています。合戦前、寺に足繁く通ってきた武士たちは戦場にいます。城の中も攻める側も念仏で満ちていて、捕縛されて頸を討たれる武士に念仏を唱えさせ成仏させました。

ここからは、時宗僧が「陣僧」として戦場に残らず出かけたため、寺は閑散としていたことが分かります。合戦前には敵味方なく時宗寺院に通ってきた武士達が、戦場では殺し合いながら念仏を唱えています。首を討たれる武士にも念仏を唱えさせ、浄土に送っています。彼らが敵味方分かつことなく死の際で活動していたことが分かります。
時宗一遍

一遍を開祖とする時衆僧は「南無阿弥陀仏」の名号を唱え遊行したました。
日常を臨終と心得て念仏信仰をつらぬくスタイルは、合戦で死と隣り合わせになる武士と共感を持って受けいれられたようです。聖らは、戦場で傷を負ったものに、息絶える前に念仏を10回唱えさせて極楽浄土にいけると安心させ、往生の姿を看取ります。
時宗陣僧の活動をもう少し見ておきましょう
 河内金剛山の楠木正成討伐軍に加わり捕縛された佐介貞俊は、頸を打たれる前に、十念を勧める聖に腰刀を鎌倉の妻子のもとへ届けるように頼みます。そして十念を高唱して頸を刻ねられます。聖が届けた形見の刀で、妻は自刃します。それが『太平記』で語られています。
 応永七年(1400)の信州川中島での小笠原長秀と村上満信らの合戦を記した『大塔物語』を見てみましょう。
大塔物語

ここには、善光寺などの時衆僧らが切腹などで死の間際にあるものに十念をさずけています。合戦がおわると戦場に散らばる屍をあつめて葬り、卒塔婆をたてて供養し、戦場の様子を一族に報告したと記します。戦いを見届け、絶命するものに念仏を勧め、打たれた頸をもらいうけ、遺言とともに形見の品を遺族に届け、敵味方なく遺体をかたづけて供養し、塔婆をたててこれを悼む。
 ここには、戦場の一部始終を見届ける役回りを果たす陣僧の姿があります。彼らの語りが文字に姿をかえ、『太平記』『大塔物語』をはじめとする軍記物語に詳細に描き込まれることとなったと研究者は考えているようです。
  同時に、このような活動を行い死者を供養する姿に、武士達は共感と支持を持つようになります死者の魂と、どのように関わっていくのかが鎌倉新宗教のひとつの課題でもあったようです。

中世寺院の民衆化
中世になり律令体制が解体すると、国家や貴族に寄生していた中世寺院は、経営困難に陥ります。つまり国衛領や荘国による維持が困難になったのです。そのような中で、武士・土豪さらには一般民衆へと支持母体をシフトしていく道が探られます。それは結果として、中世寺院自体の武士化や民衆化を招くことになります。

DSC03402
一遍絵図

 寺院の周辺に民衆が居住し様々な奉仕を行っていたことは、一遍絵図を見ているとよく分かります。
時代が下がるにつれて寺院内へ僧侶または俗人として民衆自身が入り込むようになります。それまで寺院の上層僧侶が行っていた法会も、一部民衆が担うようになります。例えば、兵庫県東播地方の天台宗寺院に見られる追灘会(鬼追い式)が、戦国期には付近の民衆が経済的に負担し、行事にも参加するようになっていきます。これは「中世寺院の民衆化」現象なのでしょう。
追儺会(鬼追い式)|興福寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント

「民衆化」現象は、最初は寺院と民衆をつなぐ修験者山伏や念仏僧などの勧進聖から始まり、次第に中世寺院自体が民衆化していくという形をとります。
それが最も象徴的に現れたのが戦国時代末の戦乱期でした。
 戦国時代末になると、中世寺院では修行者山伏・聖集団が寺内で大きな地位を占めるようになります。そして、彼らは寺院周辺に生活する武士や民衆と寺院との間にも密接な関係を作り上げていきます。戦乱で寺領を失い、兵火で伽藍が焼かれた場合も、立ち直って行く原動力は、寺院内部では下層とされた修験者や勧進聖たちでした。彼らによる勧進活動が行われない寺院は、再建されることなく姿を消して行ったのです。まさに修験者や勧進僧が活躍しなければ、寺が再建されることはなかったのです。彼らの存在意義は否応なく高まります。
そういう意味では戦国時代末期は、中世寺院が最も民衆化した時期でもあったようです。
ところがこのように民衆化した寺院を一変させたのが、信長・秀吉・家康によつて進められた寺社政策です。
信長に寺領を奪われた中世寺院は、秀吉からそれまでの寺領のうち数分一の朱印地を返されたのに過ぎません。また中世寺院は、寺院周辺の民衆との関係を断ち切られます。さらに寺院内での修験者山伏や勧進聖の地位が低められたり排除されたり、また彼等の社会的な活動も大きく制限されます。これは中世前期の「本来」の寺院の姿に戻させるという意図があったかもしれませんが、修験者たちは経済的には困難な状態が続き、近世の間ずっと長期衰退状態が続きます。
他方、民衆と寺院との関係では巡礼・参詣などという信仰上の関係はそのまま続き、寺院経済の重要な支えとなっていきます。このように近世の中世寺院は戦国時代末期の姿で近世化したのではなく、かなり大きく変化させた形で近世化したとものであると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館
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「

    中世寺院 一遍絵図湯屋
  一遍絵図を見ていると上のような建物が描かれていました。
右からはね釣瓶で井戸から水を汲み上げているようです。その左に五右衛門風呂のような窯が据えられて童が薪をくべています。屋根の上からは、煙が立っています。校倉造りの白い壁の建物が湯殿なのでしょうか。中世の大寺院には湯屋があったようです。それでは、湯屋は寺院にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
中世湯屋 上醍醐西谷湯屋

まず、湯屋と風呂のちがいについて確認しておきます。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
が本来の語義です。今とは違って、風呂が蒸気をあびるサウナだったようです。しかし、このふたつは早くから混じりあって、温室・浴堂などの言葉も使われるようになります。

中世湯屋 上醍醐西谷湯屋差図
  風俗史家の下川耿史さんは、湯屋について次のように述べます。
  「仏教では汚れを洗い流すことは御仏に仕える者の務めとする、沐浴の功徳が説かれていました。そのため寺院にとって不可欠な七つの伽藍には、浴堂も数えられています。それが揃うことで、初めて七堂伽藍といわれるほど、重要な意味を持っていたのです。実際に、東大寺には大湯屋と称される浴室が設けられていて、修行としての入浴と衆生救済の一環としての入浴が行われていました。これが、日本人が自然に湧き出している温泉以外の場所で入浴した、最初の事例なのです」

中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋2
東大寺の『大湯屋』

 大寺院には、戒律の中に月に二回湯を沸かして入浴することが定められていた所もありました。衛生面とともに、穢れを祓う潔斎の意味が大きかったようです。そのため湯屋は聖なる場でもあり、僧団の集団決定を行う集会の場にもなります。
中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋
東大寺の湯船
  
 大寺院は、構成員がフラットな平等関係ではなく、階層化された身分社会でした。そこでは入浴についても、身分秩序を守って湯を使うことになっていたようです。金剛寺・大山寺・鰐淵寺などには、湯屋を使う際のルールが残されています。また東福寺や東大寺二月堂などの湯屋内部には、そのルールを明記した札が掲げられていました。その中で、最も重要なものは「入浴順番」だったようです。それために建仁三年(1203)には、入浴の順序をめぐって比叡山の学生と堂衆が「闘争」を引き起こしています。(『天台座主記』)。

湯屋の様子を、本願寺の基礎を築いた覚如の一代記を描いた『慕帰絵詞』で見てみましょう。

中世寺院 慕帰絵詞

舞台は、美貌の少年覚如を興福寺に奪われまいと衆徒が鎧・弓矢で武装して守る三井寺南瀧院です。保護をうけた摂津国の坊舎では、部屋の奥に幕を垂らした湯屋があり、外では僧が薪を切り、童が火の番をしています。風呂焚きは童の仕事だったようです。
中世寺院 慕帰絵詞部分

浴室は湯を施す場として重視され、世俗の人々との接点の場として重視されていました。
中世湯屋 3

 中世の寺院では寺僧が湯浴みするだけでなく、寺辺の住民や有縁の俗人などに利用させるようになります。
これを「施浴・功徳風呂」とよびます。そうなると湯を沸かす回数も増えます。風呂を沸かすのには、大量の薪がいります。そのためには経費がかかります。経費に充てるために、有力者が湯料として所領を寄進し、その収入で湯を沸かす例も出てきます。建久四年(1193)の「礼阿弥陀仏田地寄進状」(東大寺成巻文書第九一巻)は、東大寺大湯屋のために湯田が寄進されたことを示す史料です。
 庶民に開放された湯屋を見ていきましょう
下野国足利荘の足利氏菩提寺堀内御堂(鑁阿ばんな寺)があります。
仁治二年(1241)二月、足利義氏は氏寺の堀内御堂での一族の忌日供養や大師講の時に「六齋日の湯」の興行をきめています。これは荘園や御厨の寄合で行い、郷ごとに薪三駄を引木として徴収することを公文所に命じています。郷から供出された薪でわかした湯が、郷住人の入浴に使われたわけで、堀内御堂は住人の保養センター的役割を果たします。粋な計らいです。周辺住民には歓迎されたことでしょう。
宮津市聟恩寺には、現在では手水鉢となっている鎌倉時代の湯船が残っています。

中世湯屋 宮津市聟恩寺湯船

今は手水鉢になっていますが、これが湯船だったようです。かつては、下から薪がくべられていたのでしょう。銘文には「十方檀那之合力」によって湯船が興法寺という寺院に設置されたと刻まれています。これも周辺住人を対象にした湯の例です。
 
村の湯屋は、病を治し、心をいやす場になっていたようです。
『今昔物語集』の三河守大江定基(寂照)の出家話には、次のような話があります。
五台山に参詣して湯施行を人々に行っていたところ、きたならしい女性が子どもを抱き、犬を連れて寂照のもとにやってきた。人々はいやがって追い払おうしたので、寂照は食べ物を与えて帰そうとしたところ、女性は「私には瘡があってつらいので、湯浴みしようとやってきたのです。お湯の功徳を私にいただけませぬか。」という。追われたのちにこつそりと子供。犬と湯浴みさせたものの追いかけてみると、スーッと姿を消していた。実は女性は文殊菩薩であったという。

ここからは聖者は、呼ばずともかたわらにそっと現れるものと考えられていたことがうかがえます。ここで注意しておきたいのは、カサブタで皮膚を犯された女性も湯屋に入ることができ、湯浴みは病を治すと考えられていたことです。また、尼寺法華寺では光明皇后がらい病者の垢を擦る話が伝えられ、中世には広く知られた話になっていたようです。
 らい病救済を積極的に行った奈良西大寺の律宗僧侶たちです。
その長老覚乗は信徒に「葬式に関わった後は穢れていないか」と問われて、清浄な戒律を守っている者は汚れないと答えます。このとき、白衣の童子があらわれて、それを認めて去ったと伝えられます。童子を神の使いとすると、律僧の行動はケガレに敏感な神祇からも認められた行為だったようです。
 こうして湯屋は身が清められて、聖なるものが出現する清浄な場と考えられるようになります。
そのため湯屋は僧侶たちの集会の場として使われるようになります。湯屋で決められたことは、清浄な場で話し合いの末に出した結論とされます。その決定は、僧集団の行動を一つにするにために、重要な役割を果たすようになります。裸のつきあいは、この時代から大切だったようです。
やがて南北朝期になると、時宗の京都六条道場では入浴者に料理が出されるようなります。
こうなると入浴とご馳走がセットになって、寺院の風呂は「休息・娯楽の場」の役割を濃くしていきます。戦国期の時宗寺院では歌・音楽を禁ずる禁制が出されています。禁止されると云うことは、逆読みすると、そのようなことが行われていたということになります。この時期の時宗寺院は、限りなく遊芸を提供する施設で旅宿化していたことがうかがえます。
中世湯屋 諏訪遊楽図

 こんなことが背景に有るのでしょう。美作国塩湯郷の永禄11年(1568)の地頭の掟には、湯屋造営は地下人の役で毎年春秋に興行すべきこととし、湯屋の管理をするものは湯旅人の役銭を徴収すべしと定めています。ここには、湯施行の姿とはちがった、現在に通じる湯治・娯楽としての湯が姿を見せていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①寺院の湯屋は、沐浴として穢れをはらう場ととして七堂伽藍の一つで重要な建築物であった。
②そのため湯屋は特別な施設として、集会などにも使用された
③中世になると周辺住民にも開放され、寺院の庶民化の一翼をになう施設になっていく。
④湯屋施設の維持のために、有力者が寄進を行ったりするようになる。
⑤時宗寺院では、入浴と料理がセットになり娯楽的な施設も登場してくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館


  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
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丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
DSC07605
大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
5善通寺
善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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同行二人 蓑笠

  私が持っている笠にも同行二人(どうぎょうににん)と書かれています。「同行二人」とは、お遍路さんがお大師さんと二人づれという意味と教えられました。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。そして、遍路で使われる杖には弘法大師が宿ると言われています。そのため杖は大切に扱うように教えられます。
 それでは「同行二人」という考え方は、いつ頃どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  「同行二人」のことを説明するときに語られるのが、右衛門三郎のお話です。この話を最初に見ておきましょう。
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

   翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれました。その子は左手を固く握って開こうとしません。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたといいます。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっています。


同行二人 右衛門三郎伝説

右衛門三郎伝説の「石」は現在も石手寺(松山市)に奉られているようです。また、松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか)」が今も点在しています。右衛門三郎伝説は、近世になって石手寺の高野の念仏聖たちによって作られたと研究者は考えているようです。
この話が四国遍路の始まりと先達は語ります。
ここには、亡き子の菩提を弔い、悪業を悔い、大師にわびるための巡礼という回向を重ねることにより、やがて大師にめぐり合えるという話です。これが大師が今も四国を回っておられ、一心にお四国めぐりをするうち、いずれかどこかで大師に巡りあえるという信仰になります。つまり弘法大師は、今も四国霊場を巡礼すると同時に、巡礼者達を見守っているという「同行二人」信仰につながっていくのでしょう。
 そのためには、弘法大師は今もなお生き続けているという信仰が前提となります。
それは「弥勒入定信仰」から生み出されたもののようです。同行二人の基になる弥勒入定信仰を探ってみようと思います。テキストは武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程  です。

 右衛門三郎伝説以前の「同行二人」信仰について見てみましょう。
元禄三年(1690)の真念「四国遍礼功徳記」賛録は、次のように記されています
 遍礼(遍路)の事、或人のいへるに、大師の御記文(御遺告)
とて伝ふるに、身を高野の樹下にとどめ、魂を都率の雲上にあそばしめ、所々の遺跡を検知して、日々の影向をかずかずとあり。
 此文世の人信じあへる事にて、人々の口耳にとどまる事となんぬ。御遺跡へは大師、日々御影向あるにより、八十八ケ所の内いづれにてぞは大師にあひ奉といひなせるは、此よりなりと予江戸にありし時、ある人のいふをきけば、四国遍礼すれば大師にかならずあひ奉ると聞しにより、
 われ遍礼せし時、日々心をかけて、けふはけふは待しに、二十一日にてありしに、あんのごとく大師にあひ奉りこそ有がたけれと、手をあわせてかたりける。予いか様のすがたにてましましけるやといひければ、くろきぬの衣をめしけると覚え、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へ征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、ただ目を閉じ拝み奉る計にてすぎぬとなり、此たぐひ又おほし。
意訳変換しておきましょう
遍礼(遍路)のことについて、ある人から聞いた話によると、大師の残した文書には、身は高野の地に留めるが、魂は都率の雲上に遊び、四国の遺跡(霊場)を、日々巡り訪ねると書かれている。
この文章を信じる人たちによって、世に広められめられたようだ。大師が今も四国辺路を廻っているのなら、四国辺路すれば必ず弘法大師にあえるというのはここから来ているのだと思うようになった。真念が江戸にいた時に、弘法大師に会うために四国辺路した人から次のような話を聞いた。
 今日こそ、今日こそ出会えるかと心待ちに願っていたが、ついに21日目に弘法大師に出合うことができたという。まことに有難いことで、手を合わせて語りかけたという。真念が「どんな姿をなさっていましたか」と聞くと、「黒い衣を着て、征鼓を首にかけ、念仏を唱えられていました。征鼓は見えましたが、御顔は見えませんでした。ただ目を閉じ、拝んでいただき過ぎていかれました。」と言う。これはたぐいなく貴いことである。

 ここからは『御遺告』にあるように
「身は高野山の樹下に留めているが、魂は都率の雲上におられ、御遺跡(四国霊場)には日々御影向(巡礼)する」

ので「四国辺路すれば八十八ケ所の内のいずれかで弘法大師に出合える」と主張しています。これが弥勒下生信仰・人定信仰のようです。四国辺路には、古代・中世の弥勒信仰や弘法大師人定信仰が大きく影響していると、研究者は考えているようです。
次に進む前に、弥勒信仰の予習メモを見ておきます。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

兜率天(とそつてん)は、仏教の宇宙観にある天上界の一つで、欲界の第四番目の世界です。ここに住むのが弥勒菩薩です。上の図では一番上のゾーンになるようです。弥勒菩薩の登場は、お釈迦様の滅後56億7000万年後とされています。長くて待てない、との思いから弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)が生まれます。輪廻転生を繰り返して成仏を待つより、兜率天へ往生し弥勒菩薩から直接教えを聞く方が早道である、との考え方から兜率天往生の信仰がさかんになったようです。兜率天は弥勒菩薩の浄土として描かれることもありますが、天界は輪廻する世界のひとつですから、阿弥陀様の極楽浄土とはちがいます。浄土は、そこで成仏することができる究極の世界で、寿命は永遠です。兜率天は成仏できる世界ではなく、寿命に限りがあります。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

 古代新羅では、弥勒信仰が盛んだったようです。そのため新羅系の渡来人の中には信者が多く、大きな影響力を持っていたようです。また花浪集団の組織化や「聖徳太子伝説」などとも関わりがあったとされます。空海が生まれた時代にも、弥勒信仰が受けいれられていたようです。それが平安時代の後半から”兜率天へ行こう”の弥勒信仰から”極楽へ行こう”の阿弥陀信仰へと仏教界の流れは変わっていくようです。
仏像の種類:弥勒菩薩・弥勒如来とは】56億7千万年後に降臨する未来の救世主! | 仏像リンク

次に、弘法大師に弥勒信仰がどのように関わっているのかを見ていきましょう。
弘法大師と弥勒信仰との関係は『三教指帰』の中に、すでに見られます。それが高野山の弥勒浄上説や弘法大師入定説などへ展開し、弘法大師伝説へと成長して行きます。

① 弘法大師は『三教指帰』巻下「仮名乞児論」のなかで次のように記しています。
 所以に慈悲の聖帝(弥勒菩薩)、終を小したまう日、丁寧に補処の儲君、旧徳の受殊等に顧命して、印璽を慈尊(弥勒)に授け、撫民を摂臣に教ゆ、(中略)
余、忽に微旨を承って、馬に林ひ、車に脂して装束して道を取り、陰陽(道教)を論ぜず、都史(兜率天)の京に向かう。
とあり、若き日の空海が陰陽の道を進まず、弥勒菩薩がいる兜率天に向かったと、儒教・道教・仏教の中から仏教を選んだ理由を述べています。ここからは空海が弥勒菩薩の上生信仰(じょうしょうしんこう)を持っていたことが分かります。

②「性霊集』巻八「藤左近将監、先枇のために。七の斎を設くる願文」には、
所謂大師、異人ならむや 阿糾哩也 摩訶味鉾紺冒地薩錘(弥勒菩薩)即ち是也。法界宮に住して人日の徳を輔け、都史殿(兜率天)に居して能寂の風を扇ぐ。尊位は昔満じたれども権に辰宮に冊す。元元を子として塗炭を抜済す。無為の主宰、誰か敢えて名け言はむ。伏して推みれば、従四位下藤氏、担には四徳を蛍きて、晩、三宝を崇む。朝に閻浮を厭ひ、夕に都率(兜率)を願う。身は花と共に落ちつれども、心は香と将に飛ぶ。
とあり、「朝に閻浮(この世)を厭い、タベには都率天を願う」と、弥勒信仰を述べ、兜率上生を願っていたことが分かります。
同行二人 遺告

③『御遺告二十五箇条』「後生の末世の弟子、祖師の恩を報進すべき縁起第十七条に
吾れ、閉眼の後には必ず、まさに兜率天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後には必ず慈尊と御共に下生し、祗候して吾が先跡を問うべし。

とあります。これは弘法大師自身が、兜率天に往生し五十六億七千万年後に弥勒とともに下生して、自から修行した地を訪れるという意味ととれます。ここでは、弘法大師自身が兜率天に上生し、弥勒の下生とともに弘法大師も下生すると云っています。『御遺告』は、現在では後世に書かれたものというのが定説になっていますが、かつては承和三年(835)3月15日付けで、弘法大師入定の一週間前に弟子に与えた遺戒とされ、権威と効力をもってきました。

  やがて人定後170年後ころになると弘法大師は、生きたまま高野山に入定しているという信仰が登場してきます。
④『栄華物語』に道長が高野に参議した時のことが、次のように記されています。
 高野に参らせ給ひては、大師の御人定の様を覗き見奉らせ給へば、御髪青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、鮮かに見えたり、御色のあはひなどぞ、珍かなるや。ただ眠り給へると見ゆり。あはれに弥勒の出世龍花三会の朝にこそは驚かせ給はめと見えさせ
意訳変換しておくと
 高野山に参拝し、弘法大師の入定の様子を覗き見させていただいた。髪は青々(黒々)として、着ている衣は塵もついておらず、煤けてもおらず鮮やかに見え、そのお顔の色など、生きているかのようで、眠られているように見えた。弥勒の出世(下生)の時には、目覚めるであろうと思われるほどである。

 ここでは実際に、大師入定の堂を開いてその姿を見たという設定で、その様子が記述されています。ドキメンタリーではなく「物語」なので、許される記述としておきましょう。その姿は「まるで生きているように眠っていて、弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現すであろうことが記されています。
⑤ 康和五年(1103)   十一月の高野山大塔供養願文には
「紀州高野山者、弘法大師延暦年中、入唐求法之後、帰朝解純之時、遙隔万岨遠投三鈷、為値慈尊(弥勒菩薩)之出世、久結禅座而人定之地也」

というように、弥勒下生を願うために大師は、入定したというように変化していきます。
⑥康和六年(1104)に没した経範の『大師御行状集記』では、
「吾入定後、必住兜率他天、可待弥勒慈尊出世、五十六億余之後、必慈尊下生之時、出定祗候、可問吾先跡」

と記されます。ここではいろいろな経過を経て、弥勒信仰から弘法大師の入定説が成立したことが記されています。
⑦これに関連して、町旧市立国際版画美術館本の弘法大師図の賛文を研究者は比較検討します。
我昔遇薩錘 親悉伝印明 発無比誓願 陪辺地異域 昼夜万民 住普賢悲願 肉身証三味 待慈氏下生

読み下し変換すると
「我れ(弘法大師)は昔、薩睡(師)に遇い、親(まのあ)たりに、悉く印明を受け、無比の願いを発して、辺地やあらゆる場所において、昼夜の別なく万民を救済し、普賢菩薩の慈悲に住し、肉身のまま一味に入って、弥勒苦薩の下生を待つ」

ここでも弘法大師が五十六億七千万年後の弥勒菩薩の下生を待つとされています。
 
⑧これに関連して、鎌倉時代作の三重・大生院本弘法大師図には、次のように記されています。
卜后於高野之樹下 遊神於都率之雲上  不?日々之影向 検知処々之遺跡

書き下し変換すると
「高野山奥院に住居し、兜率天に遊神し、日々影向し、各地の遺跡を検知す」
意訳すると
「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知(巡礼)する」

となるのでしょうか。これが室町・江戸時代を通して弘法大師御形に、常套句として見られるようになります。この文は「日々影向文」と言われるものです。この起源については、
⑨ 賢宝(1333~98)の『弘法大師行状要集』第五に、
興然閣梨自筆記云、或御筆丈云、卜居於高野樹下。心神雖遊兜率天上 不?間日々之影向。検知処々遺跡、云々東寺定額勝実 善通寺別当下向讃州。件下有此御筆文ム。勝実閑梨岨醐頼昭アサリ弟子也。

とあり、寛治年中(1078~94)に、東寺の定額僧勝実が善通寺の別当として讃岐に勤務したときに、善通寺で大師御筆の「日々影向文」をみたと記します。
⑩ さらに『阿波国太龍寺縁起』には、
卜居於之□□高野樹下 遊神於都率之雲上。庶貨坐会之雲。不閉日々之影向。移大滝之月。検知処々之遺跡。

とあり、兜率天の雲上にありながら、大瀧山に移る月を見るように、四国霊場を今も見守っていると記します。この縁起は承和3年の真然選とされますが、それをそのまま信じることはできないようです。

以上から「日々影向文」は、『御遺告』などに基づき成立したことがが分かります。
これが盛んに使われ出すのは鎌倉時代中期になってからのようです。そして興然(1121~1203)や勝実などのことを考慮すれば、平安時代後期には、「日々影向文」は知られていたようです。「日々影向文」を記した『阿波国大龍寺縁起』が、21番札所の縁起となっていることは「処々の遺跡を検知」という信仰、つまり弘法大師が聖跡を巡るという信仰と同じ地平に建っていることを示します。
 以上から「弥勒下生の時、人定を出て、私の旧跡(四国霊場)をたずねよう」とすることは、『御遺吉』から展開してきたものであることが分かります。
 弥勒下生説は、弥勒が下生する時に弘法大師も高野山奥院の人定から出て、自らが修行した旧跡をたずねるというのです。しかし、これでは、弘法大師に逢うためには、五十六億七千万年後の弥勒下生の時まで待たなくてはなりません。
Discover 4 弥勒菩薩 | 仏像フィギュアのイスムウェブショップ

 そこで、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えるという説が登場してきます。
 熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者にとって、弘法大師の聖跡を廻る目的の一つは「日々影向文」にあるように弘法大師に出会うことでした。これが大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることに発展したのではないでしょうか。近世になって庶民が辺路巡りをするようになると、その傾向が益々強いものになります。その要望に応えて「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出しいったと研究者は考えているようです。

真念『四国偏礼功徳記』贅録の内容を再確認してみましょう              
 八十八ケ所霊場を巡る目的の一つに、弘法大師の遺跡(八十八ケ所霊場)を巡ることにより、大師に逢い奉ることが記されています。真念は、辺路の意義をしっかりと認識していたことは間違いありません。その背景や起源にある、弥勒下生信仰や人定信仰を継承していたとも言えます。
 このような弘法大師と弥勒との関係は、弘法大師の本地は弥勒菩薩だという考えを生み出します。
つまり弘法大師=弥勒菩薩説の始まりです。
ここから新たな弘法大師像が作り出されます。通常の弘法大師図は右手に金剛杵、左手に数珠を持ちます。しかし、弘法大師=弥勒菩薩説では左手に弥勒菩薩の持物である五輪塔が載せられます。こうしたスタイルの弘法大師像が江戸時代中期頃に作られるようになります。これが弘法大師の弥勒信仰の最終的な展開と研究者は考えているようです。
同行二人 密教の弥勒菩薩

四国霊場の中に、弥勒信仰はどのように残されているのでしょうか。
14番常楽寺は八十八ヶ所の中で唯一、本尊が弥勒菩薩です。その像高は八寸と云いますから30㎝足らずで、本尊としては本当に小さい仏様です。詳しい緑起などもなく、その来歴は不明のようです。
51番石手寺には、大師堂に隣接して弥勒堂があります。そこに安置される弥勒菩蔭坐像は、鎌倉末~南北朝ころの作とされ、この時期の弥勒信仰の四国への広がりを知ることができます。
65番三角寺は慈尊院と呼ばれ、境内に御堂があり、等身に近い弥勒如来が安置されています。ここでも、弥勒に対する信仰が一時期は大きなものがあったことがうかがえます。
讃岐に入って69番観音寺には、やはり弥勒菩薩が安置された弥勒堂があります。寂本『四国偏礼霊場記』の境内図にも描かれていて、現在もほぼ変わらぬ位置に建っています。
77番道隆寺には寂本『四国偏礼霊場記』の中に弥勒堂が描かれていますが、現在は弥勒像はありません。
 以上のように霊場寺院には、弥勒菩薩信仰の痕跡が残るのはわずかです。これ以外にも本堂や大師堂などの諸堂内に、弥勒菩薩の像があるはずです。例えば、竹林寺の大日如来坐像とされる宝冠を戴く像は、専門家は弥勒菩薩(如来)と考えています。八十八ケ所寺院でも弥勒信仰が広がっていた時期があるようですが、それは大きな流れにはならなかったようです。
弥勒信仰に基づく、弘法大師入定信仰を広めたのは誰なのでしょうか。
多くの研究者は、それは高野聖(こうやのひじり)達であったと考えているようです。高野聖にとって、四国の地に弘法大師人定説を広めることは、さほど難しいことではなかったかもしれません。
その例として、研究者は平安時代の歌人として著名な西行を挙げます。
彼を高野聖として位置づけたのは、五来重氏です。それは西行の「回国性・勧進・世俗性」などの特性を根拠としますが、重要なことは彼が長く高野山に滞住していたことです。仁安3 年(1168)十月、西行が讃岐を訪れた目的は、以前にお話ししたように崇徳上皇の墓前に詣でることと、弘法大師師誕生地や所縁地を訪ねることでした。
 実際に、西行は我拝師山で捨身行を行い、近くに庵を構えて何年も修行生活を送っています。そこには、弘法大師が幼いときに修行したところで自分も修行しているという思いが記されています。すでにこの頃には、高野山では弘法大師人定説が広がっていて、「日々影向文」のことも西行は知っていたはずです。弘法大師信仰者の西行にとって、弘法大師の聖跡地に詣でることは、重要な修行のひとつであったのでしょう。

  高野聖ではありませんが高野山と根求寺との紛争から責任をとり、仁治3年(1242 )に讃岐に流された高僧の道範も善通寺の傍らの庵に住みつきます。そして、弘法大師の聖跡や各地の真言宗寺院を訪ねています。
 このように高野山との直接的な交流の中で、弘法大師人定信仰は讃岐をはじめ四国内の諸国に、高野聖を通じて浸透したと研究者は考えているようです。

以上をまとめておきます
①弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)を空海は受けいれていた
②空海死後に高野山は「56億年の弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現す」という弥勒下生説を流布するようになる。
③そして弘法大師は亡くなったのではない。弥勒下生を願うために大師は、入定したとする
④「日々影向文」=「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知する」
 という「弘法大師=四国辺路巡礼現在進行形説」が生み出される
⑤そこでは、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えると云われるようになる。
⑥熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者が弘法大師に出会うために、大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることになる。
⑦「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出す。
⑧弘法大師伝説として新たな展開を示すようになった

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献   武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程 

 山の神仏-吉野・熊野・高野 │ 大阪市立美術館

四国霊場の形成前史に熊野行者が関わっていたとされます。
平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」には次のように記します。
 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は 伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

ここからは、仏教修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたうです。同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、次のように記します。

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
意訳変換しておくと

われらの四国修行の様は、忍辱袈裟(にんにくのけさ=あらゆる侮辱や迫害に耐え忍び、恨みを持たない精神性を、身を守る法衣)を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく破れ、四国の辺地を常に歩くことだ

ここからは修行者が笈を背負い、衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたと記します。平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場は、次のような所です。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」という風につながって行くと研究者は考えているようです。
 
修験者等の行場巡りによる四国辺路形成の痕跡


行者(修験者)が修行を行う行場は、四国だけだったのでしょうか
そうではないようです。『梁塵秘抄』巻二の二百九十八には次のように記されています。

聖の住所はどこどこぞ、大峰 葛城 石の槌(石鎚)、箕輪よ勝尾よ、播磨の書写、南は熊野の那智新宮

とあり、大峰山・葛城山・石鎚山・箕面山、書写山・熊野などの霊山で「山岳修行」を行っていたようです。行場を求めて遍歴する一環として、四国の石鎚山などにもやって来ていたようです。同時に、四国の海辺を廻る辺地修行も行います。若き空海もその群れの中に身を投じ、阿波の大瀧山や土佐の室戸で辺地修行を行ったのでしょう。空海が始めたわけではなく、空海もその中の一人であったと考える方が現実には近いようです。

 平安時代後期ころから熊野信仰が隆盛を迎えます。

熊野三山の本地仏

それまでも熊野行者の中には、四国の辺地修行を行う者はいました。彼らは足摺岬の金剛福寺や室戸の最御崎寺など、太平洋につきだした岬を、観音信仰に伴う補陀落信仰の絶好の聖地とするようになります。そこには、多くの修行者が集まってくるようになります。補陀落信仰は、インド南端の観音菩薩が住む浄上に起源があるようです。わが国では平安時代に、熊野那智が補陀落とされ、熊野信仰の中で重要な位置を占めるようになります。このような熊野信仰の影響が、四国八十八ヶ所霊場の中に見いだせると研究者は指摘します。

本地垂迹資料便覧

もともと、熊野信仰は天台系が主流であつたようです。
それは寛治四年(1090)に、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めたのが園城寺の増誉で、初代の熊野三山の検校に任じられたからです。これ以降、熊野一山の検校は園城寺系の聖護院の高僧が補任されることとになり、上皇の熊野御幸の先達を務めるのが慣習化します。ところが中世の記録『熊野那智人社文書』には熊野先達のなかに、真言宗寺院や札所寺院に属する者も以下のように見られます。
①阿波 平等寺の治部、太龍寺の秀信、順成寺
②讃岐 一の宮の持宝坊、向峯寺の先達
③伊予 繁多寺の先達、香園寺の先達、大山寺の先達、三角寺(めんどり先達)、実報寺
  これらの寺院は真言密教系寺院です。先達を勤めたのは、それらの寺院に所属していた熊野先達でしょう。すると彼らは、熊野信仰を持つ熊野先達であり、同時に弘法大師信仰も持ち合わせていたと考えられます。このような信仰形態が南北朝時代から室町時代には、珍しいことではなかったようです。

四国八十八ケ所霊場の成立に、熊野信仰はどんな役割を果たしたのでしょうか。
 熊野信仰と88ヶ所霊場の関係について、最初に指摘したのは近藤喜博氏です。彼は、霊場寺院のなかに熊野神社を鎮守とする例が多くみられることことを取り上げます。そこから四国辺路の形成には、中世の熊野信仰が強く関わっていることを明らかにしました。
現存の四国八十八ケ所霊場に熊野信仰の痕跡を探ってみましょう。
 熊野行者が行場にやって来て修行を続け、そこが聖地となり、庵や寺が出来るときに本尊とともに客神として熊野神社を祀ったことが考えられます。熊野神社が鎮守として祀られている霊場を挙げてみましょう。
徳島県では
1番霊山寺、5番地蔵寺(熊野神社が鎮守)
7番十楽寺(近在に熊野神社)
8番熊谷寺(縁起に熊野権現権現が登場)
12番焼山寺(境内に熊野神社)
20番鶴林寺(熊野神社が鎮守)
の6ヶ寺があります。
このうち焼山寺は、平安時代後期の虚空蔵菩薩を本尊とします。
焼山寺 虚空蔵菩薩
焼山寺の虚空蔵菩薩
この像は素人ぽい仏で、修験者が修行の一環として制作したことがうかがえます。また焼山寺には熊野神社が境内にあります。さらに室町時代の懸仏も数面ありますが、それらは熊野十二所権現を表したものとされています。これらからもこの寺は、熊野行者の痕跡が色濃く残る寺といえます。
 また、以前にお話ししたように竹林寺は、紀伊からやってきた豪族の寄進した灯籠が残るなど、紀伊熊野との関連を伝えます。
高知県では
24番最御崎寺(補陀落渡海の道場)
26番金剛頂寺、35五番清滝寺、37番岩本寺、
38番金剛福寺(補陀落渡海の道場)、
39番延光寺
このうち、最御崎寺と金剛福寺は、熊野信仰にみられる補陀落渡海が考えられています。補陀落渡海とは補陀落信仰に基づくものです。補陀落とは『華厳経』に、インドの南海岸にあるという補陀落山という観音菩薩の住む浄土と考えられていました。やがて観音信仰の広がりとともに、中国の普陀山が擬せられて観音浄土としての補陀落霊場が作られ、補陀落信仰が隆盛になります。
 それがわが国伝わると、浄土信仰の隆盛とともに熊野那智山が「補陀落山の東門」と言われるように補陀落信仰のメッカとなります。
513 補陀落渡海 – KAGAWA GALLERY-歴史館

こうして仏教伝来以前の海上他界と観音信仰が那智で重なり合い補陀落信仰が成立します。つまり海の彼方に常世と、袖陀落観音が習合したのです。こうして、その「実践行」として熊野那智から船に乗り、観音浄土である補陀洛山へ往生し、生まれ変わりそこで永遠に生きるというのが補陀落渡海のようです。

浜の宮王子 補陀落渡海の境地 | 落人の夜話

 この熊野那智の補陀落信仰の影響を受けたのが、土佐室戸の金剛頂寺と足摺岬の38番金剛福寺です。
中世には、足招岬から補陀落渡海したという記録がいくつもみられます。さらに金剛福寺の本尊(暦応五年(1342)は、熊野の補陀洛山寺の本尊千手観音と同じ三面千手観音です。明らかに熊野信仰の影響があるようです。
愛媛県では
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
このうち八坂寺に近い文殊院は右衛門三郎伝説の地で、石手寺も右衛門三郎に深く係わる寺です。この石手寺には右衛門三郎伝説を記した石手寺刻板が所蔵されるなど、伊予における熊野信仰が強く見られる寺院です。
香川県では
66番雲辺寺
67番太興寺 (熊野神社が鎮守)
70番本山寺、71番弥谷寺、78番郷照寺(境内に熊野神社)、
84番屋島寺 (境内に熊野神社)
86番志度寺(補陀落渡海の行場)
このうち屋島寺は熊野神社を鎮守社としていて、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺です。
さらに近世初期の「熊野本地絵巻」が所蔵されています。この種の熊野本地絵巻は、熊野比丘尼が絵解きしたといわれますので、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に「血の池」という池も残りますので、熊野比丘尼の存在を暗示しているようです。
 志度寺は土佐の金剛福寺や最御崎寺のように、大海原を望むというわけではありませんが、北側には瀬戸内の海を間近に控え、補陀落渡海の行場とされてきました。やはり熊野信仰が基になっていたようです。
以上、四国八十八ケ所霊場寺院にみられる熊野信仰について、みてきました。これらを背景に、研究者が推測するのは「熊野修験者の修行ルート」や「熊野先達の熊野への参詣ルート」です。熊野信仰の痕跡の残る霊場は、四国の各地から熊野への参詣ルート上にある拠点で、それが四国辺路の原形になったのではないかという仮説を提示します。
熊野修験者といえば、厳しい修行者というイメージを持ちます。
しかし『熊野那智大社文書』(応永14(1407)の行政房有慶日那売券に「高松の一族」とあり、また仁尾の覚城院文書の増吽書状には
「経衆は二十人(中略)伶人両三人」

とあるように、中世の熊野修験者は、先達として多くの信者などを引き連れて熊野参拝を生業としていました。自らの修行とは別に、檀那(信者)とともに行動し、時には熊野まで直行することなく檀那の求めに応じて、様々の寺院や神社に参拝していたのです。
 四国の熊野先達のなかには、弘法大師信仰を持った者もかなりいたようです。そうだとすれば熊野への道すがら、弘法大師の聖跡あるいは真言宗寺院に参拝しながら熊野を目指したと思われます。これが弘法大師信仰を広めることにもつながります。民衆への弘法大師信仰の流布は、こんな形で進められたのではないでしょうか。

四国霊場の成立に熊野信仰が関係していたとするなら、弘法大師と熊野信仰の接点が前提になります。
熊野垂迹神曼荼羅図(乙本) 文化遺産オンライン

その具体的な例として、研究者は愛媛・明石寺の熊野垂迹曼荼羅を挙げます。この図は図の中央に、八葉蓮弁形に熊野の神々の垂迹神が配置されます。その中央には新宮と那智あり、その周囲に本宮と五所王子と、四所明神のうちの勧請十五所と一万・十万宮が巡らされています。上部には那智の滝や摂社などが山の中に描かれ、下部には熊野諸王子とともに北野天神や八幡大菩薩などが描かれています。複雑な信仰の実態がうかがえます。
 ここで研究者が注目するのは、図上部の「役の行者」に相対するように、弘法大師が描かれていることです。
このような例は、香川・六万寺の熊野曼荼羅図(南北朝時代)にもみられます。六万寺は真言宗としての歴史を持ち、八十五番八栗寺を奥院とする四国辺路とは深い寺院です。この図に描かれる弘法大師は、明石寺本や西明寺本に比べるとずいぶん大きくなっています。椅子の形状や水瓶・沓などはいわゆる「真如親王様」の姿です。ここに描かれた弘法大師は、数多くの尊の中の一尊とは違って、弘法大師そのものの存在を主張していると研究者は指摘します。
熊野曼荼羅図
.このように熊野曼荼羅の図中に弘法大師が描かれることが、南北朝時代から現れます。
この頃から熊野信仰と弘法大師信仰との接点が、熊野曼荼羅のなかにも見られるようになります。鎌倉時代の熊野曼荼羅には、弘法人師は描かれていません。しかし、室町時代ころからの弘法人師が現れます。ここからは熊野信仰の中に、弘法大師信仰が何らかの形で影響を与えていると考えられます。
札所寺院の中に、熊野信仰と弘法大師伝説の展開が具体的な形で残る例は、少ないようです。しかし八番熊谷寺の弘法大師像も永享3年(1431)の造立で、しかも鎮守が熊野権現なので、焼山寺と同じ過程を歩んだと考えられます。
以上から札所寺院の中に、弘法大師信仰をもった熊野先達がかなりいたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①「四国辺路の成立や展開には、熊野信仰が大きく影響した」は、研究者の間では定説となっている。
②それは霊場札所の鎮守に熊野神社が多いことからもうかがえる。
③そこからは霊場札所が熊野行者によって、開かれたことをうかがわさせる
④熊野行者は、熊野先達も勤めており熊野参拝の際には、ルート上の熊野先達の拠点を利用した。
⑤これが四国辺路の原型となったのではないか。
⑥また、熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を果たしていた。
⑦こうして四国辺路を中心に熊野信仰に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成される。

熊野行者の拠点であった寺院が、熊野への参詣ルート上の宿泊地などとして重要な役割を果たしていたという仮説は私にとっては興味深いものでした。

  参考文献 武田和昭   四国の辺地修行から熊野信仰ヘ 四国辺路の形成過程所収

五流 明治初頭の新熊野十二所権現

 江戸時代の五流一山は、本山派修験として聖護院に所属していましたが、実質的には岡山藩の宗教政策に支配されるようになります。今回は岡山藩と五流修験の関係を見ていきます。
岡山藩は、寺院を淘汰し、神社を整理するという独自の宗教政策を展開します。
この結果、五流一山でも、諸興寺、是如院、神宮寺、密蔵坊、多宝坊、惣堂大明神などが廃絶させられます。その後に吉備津彦神社の神主藤原朝臣光隆の義弟、大守隠岐橡が熊野権現の祠官として任用され、熊野権現境内の清楽寺跡に居宅を与えられます。そしてそれまでは社官・三昧僧・供僧が勤めていた御社の鍵の管理、年間六度の開扉ならびに遷宮、御社の掃除などの社役を勤めることになります。そのために神宮寺と是如院が還俗し、下禰宜となり下役として仕えます。
 岡山藩によって、五流を中心とする修験者、修理寺院である大願寺、祠官及び下禰宜の三者が奉仕する体制が作り出されたことになります。
そして寛文九年(1669)には、池田光政から次の折紙が出されています。
備前国児島郡林村之内高百六拾石、同郡宗津村之内高三拾石都合高百九拾石令寄附詑、全可社納也        
  寛文九年三月廿五日、光政公御在判
  惣山伏中 大守隠岐橡 大願寺 
ここからは五流が岡山藩の宗教政策の管理下に置かれたことが分かります。吉備津彦神社の神官を受けいれることで、五流の相対的な地位の低下につながりました。しかし、岡山藩の宗教政策は「飴と鞭」を巧みに使い分けています。ムチばかりではなく、保護も与えます。
五流 東山東照宮
玉井東照宮
 岡山藩の五流修験への保護を示す行事を見てみましょう。
正保元年(1644)池田光政が東山に勧請した玉井東照宮の祭礼・権現祭です。この祭礼で五流修験の建徳院が重要な役割を演じます。祭礼は東照宮勧請の翌年の正保二年(1645)九月十七日から初まっていますが、その中心は東山(岡山市)の東照宮から御旅所迄の御神幸です。この行列に寛文八年(1668)から五流修験を代表して建徳院が、岡山の多数の山伏を伴って参加するようになります。しかも五流の代表者が「権現同道」と叫ばないと行列が動かなかったくらい、重要な役割を演じていたようです。これは円満院が池田光政の島取藩時代の祈祷寺院で、移封と共に岡山に移されています。そのため円満院やその支配寺院である建徳院が重視されたことからきているようです。
 この他にも岡山藩では、五流修験の春秋の葛城・大峯修行や聖護院門跡の峰入への参加の際には、その都度銀子を与えています。また、後には春秋の峰入修行の護摩供に際して、池田家の家運長久の祈念も依頼するようになります。岡山藩は、硬軟織り交えた巧みな寺社政策を展開し、管理下に置いていったことが分かります。

五流 本山
五流本山

近世中期から後期にかけての五流一山の状況を見ておきましょう。
五流 絵図

 岡山藩の寺社抑止政策もあり江戸時代中頃の五流山では、諸院の多くが廃絶し、由伽山・有南院・清田八幡宮など関連社寺も離脱していきました。この結果、五流山は熊野権現を中心として林村内のみでこじんまりとまとまるという運営方法をとらざるを得なくなります。
五流 熊野十二所神社本社3

 その伽藍を見ると、本社は正保四年(1647)十一月池田光政の寄進になる第一殿・第二殿・第四殿・第五殿及び満山護法社。
五流 三殿

明応元年(1492)天誉再建の第三殿から成り、その近くに長床・観音堂・鐘楼などがあり、本社左脇には祠官屋敷、その左隣には大願寺が並びます。
五流 長床
焼失前の長床

 本社の裏につらなる蟻峰山の登山口には、宝永二年(1705)建立の地主神福岡明神の祠がありました。福岡明神には宝永六年に廃止された惣堂大明神の御正体も安置されます。この福岡明神は公卿覚養院が管理し、九月七日には合祀された惣堂大明神の祭典を行なっていたようです。
五流 山伏寺判明図

 山内には塩飽本島の吉祥院をのぞく五流五院、公卿・譜代と称する修験者の家来などの屋敷がありました。その数は、寛文年間には山伏十七戸、譜代二十八戸を数えました。中世の繁栄ぶりから比べると、その縮小ぶりがうかがえます。
 木見の諸興寺跡にはわずかに薬師・毘沙門の小堂を残すのみとなり、有南院と共に分派し、山内には譜代の葬式寺の真浄院のみが存続していたようです。ここを拠点とした修験者達はいずれも妻子と自分達で葬儀を行なっていました。
  
近世期の五流一山の年間行事を見ておきましょう
正月朔日、三月三日、五月五日、六月十五日、七月七日、九月九日の六回の御戸開の祭礼がありました。これらは早朝寅の刻に熊野権現の社殿を開扉し、供物をそなえ祈願などしたうえで中の刻に閉めるものです。八月七日・八日の一山の祭礼の際の八日、及び八月十五日にも開扉されます。この他では、夏九旬の間は熊野権現に夏供花が行なわれます。月毎の行事には、
毎月朔日 権現出仕御宝前誦経
七日 役行者講・権現御本地縁日・権現騰
十七日 御託寥・連歌講
十八日 権現出仕読経
二十八日 荒神講
の行事がありました。この時には、まず福岡明神に登り、そこから蟻峰山の峰伝いに弁財天・熊山・タコラ山(最高峰)・石鎚山をへて山を下り、毘沙門屏・七福神・諸興寺跡・頼仁親王御陵・稲荷社(森池上)から由伽山に到り、根引・行者の井戸・木見・薬師庵をへて福南山にのぼり妙見宮を拝します。それから、熊坂地蔵・熊野道・清田八幡宮をまわって長床に帰るという行程です。さすがは峰歩きで鍛えた山伏たちです。健脚だったようです。
 このうちの蟻峰山からタコラ山にかけては、金剛蔵王権現と大峯八大金剛童子がまつられていました。しかし、この時代には、まだ蟻峰山と福南山を金剛界・胎蔵界になぞらえたり、山内に宿や鼻をもうけることはなかったようです。ただ蟻峰山麓の毘沙門堂上には胎内くぐり、毘沙門堂そばには弘法大師の磨崖仏や不動の種子を刻んだ岩などが、描かれているようです。 
   五流修験では、次第に霞内の檀那からの布施が重要な財源になっていたことは、以前にも見ました。もう一度近世の各院の霞の範囲については、確認しておきましょう。
尊滝院  備前国松山。伊賀国(天正年間肥前・肥後の霞を失ったので、享保十六年聖護院門跡から新たに与えられた。
太法院  美作 備前、伯者(宝永二年の霞状)
建徳院  備前岡山並びに四十八ヶ寺、美作の一部
報恩院  伊予国一円。安芸国豊田郡、
     豊後国大野郡(文化六年の霞状)
伝法院  讃岐国、伊予国
吉祥院  塩飽七島、備中国松山除(宝永元年の霞状)
  このうち吉祥院は塩飽人名領の塩飽本島にあったので、宝永六年(1709)以来、池田藩の特別の許可を得て、扶持米(当時は三石、文化年間は十石)を送られるようになったようです。
 室町時代の霞(テリトリー)と比べるとは、変化があります。
伝法院が讃岐と伊予をテリトリーとしてしていたようです。旧山本町市には、地神(荒神さん)は
「備中児島からやってくる山伏たちが祀るようになったもので、ここに庵などが建てられお札などが配布された」
と記されています。三豊には、五流修験の伝法院の修験者たちがやってきてきた痕跡が残っています。
霞の授与に際しては、本山の京都聖護院門跡からその院に霞状が与えられます。
加えて岡山藩の寺社奉行と霞所在の郡奉行にも通達が行われます。これに基づいて、霞内に頭襟頭を置き、その下に組頭を配して平修験を統轄する組織が作り上げていました。これらの役職の任命は、霞を所持する五流各院が行ないますが、その手順は郡奉行にとどけると共に、そこから藩の寺社奉行に報告するという形が必要でした。また、霞内の修験者の先達号や僧官は五流から出しています。ただし権大僧都以上の僧官については、五流から輩出する権限はなかったようで、聖護院に仲介しする形をとっています。
 近世中末期になると、いくつかの院では霞の他に講を組織して、信者の獲得・掌握を行うようになります。
たとえば「寛政三年(1791)九月吉日報恩院現住宣誉」との奥書のある講員名簿「摂州浪華、当院帰依山上惣講中」には48の講とその先達名が記されています。
 また近世中期以降に、吉野の大峯山寺を支配した八島役講の一つに、堺の五流があります。これも近世期には五流一山と密接な関係を持っていたようです。この他にも現在岡山から広島にかけての村々で見られる山上講も近世中期頃に五流修験が組織化されたものと研究者は考えているようです。
 五流一山は早くから大山を修行の道場として重視し、霞内の修験者にも大山先達の免許・補任を出しています。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、中世の修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして伯耆大山(大仙)を、修行ゲレンデとしました。
 江戸時代に修験者の移動が規制されるようになると、五流修験は大山を公認行場として認められるようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。大山は五流修験とっては、修行の「ホームグラウンド」だったのです。そして、かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く姿が見られるようになります。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになります。この先達を勤めた山伏たちを先祖とする寺社が備中や備後には、かつては数多くありました。
 
 ここで五流修験の特徴を押さえておきましょう
五流修験のテリトリー拡大


 修験者の拠点は、行場の近くに形成されるのが普通です。しかし、五流修験は、熊野神社の社領に分祠されたのが始まりです。そのために行場が近くにありません。そのため五流修験は、熊野や大峯さらに大山・石鎚・小豆島などで修行せざるを得なかったようです。さらには瀬戸内海沿岸に新たな行場を求めて進出していきます。そして、そこに熊野権現を分社し、活動の拠点を確保していきます。それが、以前にお話しした塩飽本島の吉祥院や芸予諸島大三島の大山祇神社であったのでしょう。五流流修験が瀬戸内海沿岸の紀州・中国・四国・九州にかけて広範なテリトリーを持つようになったのは、このように外に向わざるを得ないベクトルがあったと研究者は考えているようです。
 もうひとつは、背後に熊野水軍の瀬戸内海進出があったことです。

五流修験の後に熊野水軍あり

熊野水軍は備讃瀬戸の戦略的要衝である児島を押さえた上で、瀬戸内海全域の展開を行います。その水軍の偵察・情報収集部隊の役割を果たしたのが五流修験であったようです。そして、交易拠点に庵を開き、伝道活動の拠点とすると共に、熊野水軍の「支店」としても機能するようになります。修験者たちは、熊野詣でへの導引とともに、営業マンであったのかもしれません。これは、当時の有力寺社の瀬戸内海交易のパターンでもありました。五流修験の後に、熊野水軍ありということにしておきましょう。
  このこととが中世期の五流修験に大きな影響をおよぼしているとこ研究者は考えているようです。

近世期にも五流一山は、本山派修験内で特別の位置を与えられていたようです。
たとえば天保年間筆写の「本山近代先達次第」には、熊野三山検校宮三井長吏・聖護院御門跡の一品法親王を筆頭にして、熊野三山奉行若王子僧正、院室の住心院・積善院・伽耶院、豊前の求菩提山・筑前の竃門山の両座主があげられています。
 このあとに備前児島五流の報恩院・尊滝院・太法院・伝法院・建徳院・智蓮光院・塩飽の吉祥院がいずれも山号は新熊野山、長床宿老として記されています。
 さらにこれに続いて諸国の大先達・年行事・准年行事、御直院が記され、最後に別段をもうけて、児島公卿として一老附宝良院・覚城院・正寿院・宝乗院・大泉院・太法院付常住院・南滝院・観了院・千寿院・報恩院付本城院・尊滝院付青雲院・常楽院・備前矢掛一流公卿智教院、讃岐丸亀内伝法院下威徳院、同塩飽島吉祥院下真滝院があげられているのです。本山派修験内でこれだけの院が一括して所属し、しかも院室・座主につぐ位置を占めている例はないようです。ここからも五流一山が本山派内で別格視されていたと研究者は考えているようです。
 五流修験は本山派内で重要視された背景は、何なのでしょうか。
それは、聖護院門跡の御一代の御大峰・役行者千年忌・千百年忌、本山派修験の春の葛城・秋の大峯の峰入にあたって、五流修験が重要な役割をはたしていたことによるようです。例えば、聖護院門跡の一世一度の峰入では、五流修験のものが峰中修行の秘儀である小木、関伽の作法を門跡に伝授する指南役を勤めています。こうした門跡の峰入の供奉に際しては、岡山藩からの援助を受け、衣裳も権現祭の際に着用する藩のものを借りています。またそれに先立って、必ずホームゲレンデの伯者大山で修行をしたようです。
以上をまとめておきましょう
①近世には岡山藩の宗教政策により「規制と保護」を受けるようになった。
②林村の熊野権現ついては神職の介入を受けるようになり、五流修験、大願寺、祠官の三者が共同して奉仕するようになった。
③由加山の管理権を失い、多くの寺院が退転した
④五流修験は規模を縮小したものの、依然として中国・四国に霞を持ち比較的安定した宗教活動を展開していた。
参考文献

   讃州七宝山縁起 観音寺

 前回に続いて、観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』を見ていくことにします。前半を読んで分かったことは、
①「是釈迦伝法の跡、慈尊説法之砌なり」と、弥勒信仰が濃厚に感じられること
②八幡大菩薩がやって来て、さらに弘法大師が修行した所であることから、八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身とすること
③八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊し弘法大師が誕生したので、弘法大師は八幡大菩薩の再誕であるとすること。
ここからは、先にやって来た八幡信仰に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしていることがうかがえます。そして、その筆を執った人物として、弘法大師信仰の影響を受けた高野山系の密教修験者の影が見えてきます。
 今回は『讃州七宝山縁起』の後半部を読んでいくことにします。
その中に七宝山の行道(修行場)のことも記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには「大師為七宝山修行之初宿」と記され、七宝山が行場であったことが分かります。それでは「初宿」とは何なのでしょうか。先に進んでいきましょう。

七宝山縁起 行道ルート
意訳すると
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山七ケ寺巡礼
ここからは次のようなことが分かります。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=小辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には7つの行場と拠点があった
   当時の辺路修行とは、どんなものだったのでしょうか。
五来重氏は、次のように指摘します。
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道とは、神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる木の周りを一日中、何十回も廻ること。
3 それぞれの行場で、窟籠もり、木食、行道をする修験者(僧侶)がいた。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。
5 海に入って死んでいく補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。
6 お寺が建つ以前のことだから、建物はないので窟に籠もった。
7 弘法大師が修行したと伝わると、その跡を慕って修行者がやってくる。
8 鎌倉時代の終わりのころまでは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 修行者が多くなると小屋のようなものが建つ。そして寺やお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
10 やがて留守居が住職化するとお寺になり、行道ネットワークの拠点となり、積極的な「広報活動」を行うようになる。
七宝山 修験道 四国学54
         七宝山七ヶ寺巡礼の起点だった観音寺(四国学院空海カフェ2)
 ここからは観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる修行ルートは「小辺路」が形成されつつあったことがうかがえます。        
プロの修行者がやってきて「七宝山七ヶ寺巡礼」が盛んになりつつあったとしておきましょう。周囲を見ると、中讃には善通寺や弥谷寺・海岸寺・道隆寺などを結ぶ「七ケ寺巡り」がありました。高松から東讃には根来寺から志度寺・長尾寺等を結ぶ「七観音巡り」が近世初頭にはあったようです。これらの地域にあった「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。中世の修験者は、それらを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったのかもしれません。近世になると素人が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。その際に、危険な行場や奥の院は次第に除外され、麓や里にある本寺が札所になって現在の四国霊場めぐりが形作られていったようです。そして、それは行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくという形に変わって行きます。
七宝山の山の中にあったという行場とお寺(お堂?)を探ってみましょう。
観音寺が初宿で、第二の宿は稲積とあります。 
七宝山 修験道 四国学院1
   天空の鳥居は、七宝山七ケ寺巡礼 第二宿の穂積二天八王子社(四国学院空海カフェ2)
七宝山の一番北側に、山頂に方墳が載ったように見える山が稲積山です。ここはには、「天空の鳥居」で有名になった式内社・高屋神社の奥社があります。稲積とは、この神社周辺でしょう。ここからの燧灘と川之江に続く海岸線は絶景です。周辺には「嶽」と呼ばれる断崖があちらこちらにあります。西方に広がる燧灘は、西方浄土へ続く海です。念仏行者達にとっては最高の行場ゲレンデだったでしょう。全国から修験者たちがやってきそうな所です。
 
 稲積の行場は山だけではありません。室本の江甫草山(つくも)の海岸には海に向かって開く窟があるようです。
七宝山 江甫草山行場洞窟

「金毘羅参詣名所図会」(弘化4年(1847)には、江甫草山について絵図を載せ、次のように記しています
 江甫草山椋本村にあり、有明の浜より磯づたひ、行程僅かにして至る。麓に椋本の魚家多し。
行人之窟 行者ここに来って修行する事時々ありといふ。実に世塵をはらひて、ただ波濤の音、松のかぜ、千鳥・鴎のこえの他、耳に聴くことのなき幽地なり。
行道場 右に同じ。地蔵・不動・役行者などの石像を置けり。
そこには2つの洞窟が描かれています。拡大してみましょう。

七宝山 江甫草山行場洞窟拡大

 右側が「行人ノ窟」、左側が「鳩ノ窟」と描かれています。
「行人」は「行道する人」で修験者が籠もる窟でしょう。「鳩ノ窟」の周辺には、鳩らしき鳥が飛んでいます。これが「鳩の窟」いわれなのでしょうか。洞窟前を漕いでいく舟と比較しても、かなり大きな窟であることが分かります。ここは燧灘に直面する窟です。窟の上の磐に座り、沈みゆく夕陽を眺めながら阿弥陀経を唱えれば、西方浄土が見えてきたのかもしれません。高野の念仏聖達の行場としては、ふさわしい所であったでしょう。

七宝山 修験道 四国学院2
七宝山七ケ寺巡礼 (四国学院空海カフェ2)
 この洞窟と稲積山の行場を、一日に何度も廻行する行道が行われていたと私は考えています。
 第三宿は「経の滝」とあります。

七宝山 不動の瀧

これは豊中町岡本の不動の滝でしょう。雨が降った後は落差50mほどの滝になりますが、雨が少ない讃岐では水のない「瀧」であるときの方が多いようです。そのために揚水用のモーターが常備されています。スイッチを入れると瀧は落ちてきます。
 ここには不動明王が祀られ、古くからの修行の地であったようです。
 第四の宿は興隆寺です。
ここは以前にお話したように、四国札所・本山寺の奥の院とされています。
七宝山興隆寺

鎌倉時代後期から室町時代の五輪塔や宝灰印塔が、数多く残されています。
七宝山興隆寺不動明王
不動明王の磨崖仏

その中には上のような不動明王もあり、密教寺院で修験者たちの拠点であったことが分かります。出士した瓦は鎌倉時代のものなので、遅くとも鎌倉時代には、かなりの規模の寺院であったことがうかがえます。国宝の本山寺本堂が14世紀初頭のものですから、そのころに本山寺は、七宝山の麓から現在地に移ったと推察できます。しかし、七宝山の山号だけは変わっていません。
 ここに多く残されている五輪塔や宝灰印塔は、七宝山で修験を行った人たちが残したものと考えることも出来そうです。
 第五の宿は、岩屋寺です。

七宝山岩屋寺

七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。ここにも岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。
七宝山岩屋寺2
岩屋寺の岩屋(窟)

  こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
 さて、第六宿の神宮寺です。この寺については、確定が難しいようです。
 寺伝から三豊市詫間町の神正院に比定されるようです。
七宝山 三崎神社

神正院は、荘内半島先端にある三崎神社の別当寺であったことは間違いなく、そのため神宮寺と呼ばれていました。問題は、観音寺から岩屋寺までは七宝山沿いにあったルートから大きく外れるという点にあります。
紫陽花が見ごろの荘内半島(紫雲出山・三崎半島)へ / すぎちゃん(^-^)vさんの粟島(香川県)・荘内半島(三崎半島)の活動日記 | YAMAP /  ヤマップ
庄内半島の先にある三崎神社
 しかし、海の辺路である庄内半島の先端に行場が置かれていたと考えるなら「遠くても近い道」だったはずです。33日間で廻行するとすれば、ひとつの行場で4~5日は留まって行を行っていたと考えられます。讃岐西端の海に突き出た庄内半島の先端は行場で、その中宮寺が神正院だったとしておきましょう。ちなみに神宮寺神正院も古くから、七宝山の起源に関わる寺院とされてきたようです。

6つの拠点寺院の紹介の後、縁起は、七宝山の由来が述べられます。
七宝山 七宝山命名の由来
意訳すると
七宝山には九つの秘密の穴があり、弘法大師が大同年間(806~)に七種の秘宝をここに納めた。弥勒が出世する時、弘法大師が高野山奥院の出て、ここに秘蔵した宝を開き、弥勒の御前に持参することになっている。それゆえに七宝山と呼ぶ。
 琴弾八幡大菩薩は垂迹のはじめに、日証上人と問答した。日証上人の本地は釈迦如来で、大菩薩の本地は阿弥陀如来で、これは報身・応身の二身の上地である。
 ここには七宝山には弘法大師が7つの宝をおさめたので「七宝山」と呼ばれるようになったこと。そして、その宝は弥勒の御前に持参することになっていることが記されています。ここにも弥勒信仰がうかがえます。弘法大師の入定信仰が、この地にも伝わり、広められていたことが分かります。その背後には、やはり高野聖的な修験者の影が見えます。

そして、ゴールである我拝師山については、次のように記します。
七宝山縁起5 我拝師山

意訳すると
弘法大師高野大師行状図画 捨身
 我拝師山とは、弘法大師が捨身行で身を投げたときに、釈迦如来が現れ、これを救ったことに由来する。善通寺の鎮守は八幡で、本地は阿弥陀如来であることから結宿とされ、また釈迦・阿弥陀の二尊の土地である。
また当山(観音寺)は西の初宿で金剛界を表す。東の我拝師山は結宿で胎蔵界を表しす。その間は観音の峰で、これは南方の袖陀落山を示す。 つまり、観音寺ある琴弾山周辺は、金胎不二(金剛界と胎蔵界)の観音浄土なのである
(後略)
徳治二年丙午九月三日書写丁
  但他年朧之
  安置之蓮祐
   最後に徳治二年九月三日に書写が終了したと記します。

ここには「当山為鉢、西初宿、為金剛界峯。東は結宿、胎蔵界の義を表す。中は不二惣鉢観音の峰也。是即南方補陀落山を表す」とあります。これを整理すると、次のような構図が見えてきます
①琴弾山(観音寺)は、西の初宿で金剛界
②我拝師山(曼荼羅寺)、東は結宿で胎蔵界
③その間に横たわるのが七宝山(観音の峰)で、これが補陀落山を表している
となるようです。これは、どういうことなのでしょう。
 もう一度、空海が修行したと伝えられる室戸岬周辺を見てみましょう。
七宝山 行当岬と室戸岬

①室戸岬に東寺(最御崎寺)
②行当岬に西寺(金剛頂寺)
の東西の札所寺院があります。平安時代はその両方を合わせ金剛窓寺と呼んでいたようです。岬で火を焚いた場所につくられたのが最御崎寺(東寺)で、西の行当岬は「行道」岬です。行当岬の不動岩の下に二つの洞窟があります。今は、不動さんを祀って「波切不動」になっています。ここには次の二つの行道があったようです。
①10㎞隔たった西寺と東寺を往復する行道を「中行道」
②不動岩の行道めぐる「小行道」
③四国全体の海岸を回るのが「大行道」
です。
室戸の東西の二つの行場のあり方を、七宝山に移して考えるとどうでしょうか?
 観音寺の行場が江甫草山の「行人ノ窟」や「鳩ノ窟」だったのかもしれません。そうだとすると稲積山の「断崖=瀧」を結ぶルートが「小行道」になります。そして、観音寺と我拝師山を結ぶルートが「中行道」だったことが考えられます。
 二つの寺の間あるいは二つの山の間をめぐる行道があります。足摺岬の場合は、西の金剛福寺のある山は金剛界です。東の足摺岬の灯台の下には、胎蔵窟と呼ばれる洞窟があります。金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているようです。その両方を行道する必要があります。密教では、全ては金胎両部一体だと説かれますが、辺路修行の場合は、頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで廻道して一体になることを目指したようです。
  「金胎不二」と難解な言葉で記されていますが、当時の密教修験者たちにとっては「目指すべき目標」とされた最重要キーワードだったのです。ある意味では、修験者たちを勧誘するための「常套句」であり「殺し文句」であったとしておきましょう。
 このように七宝山や庄内半島は、辺地修行ルートだったようです。

結宿として登場する我拝師山は、すでに有名な行場でした。
それは先ほど見たように、弘法大師が幼年の頃に捨身行を行い、釈迦如来がそれを助けたという話が広がっていたからです。高野聖でもあった西行は、我拝師山にやってきて3年間も庵に籠もり、修行を行っています。
西行の『山家集』の「曼荼羅寺の行道どころ」には、次のように記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経書き手うづませおはしましたる山の嶺なり。ほうの卒塔婆一丈ばかりなる壇つきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、だんも二重につかまばされたり。のぼるはどのあやうさ、ことに大事なり。かまへてはひまはりつかで廻りあはむ、ことの契ぞ、たのもしか。きびしき山の、ちかひ見るにも。
                                         
 このことは以前にお話ししましたので省略します。
さらに、高野山の内紛騒動で讃岐に流刑となった道範も「南海流浪記」の中で、我拝師山の行場について触れています。弘法大師信仰が広がる中で、我拝師山は全国の修験者たちから注目される行場となり霊山となっていたようです。それを背景として、曼荼羅寺の台頭があったのかもしれません。
 『讃州七宝山縁起』が書かれた頃の観音寺の戦略は、
①観音寺を我拝師山のような全国的な行場として売り出す。
②そのために「八幡信仰 + 空海伝説」を広げる。
③同時に新たな「中辺路」ルートを売り出す。
④そのために観音寺を起点として「七宝山+庄内半島」の行場を整備⑤そして、ゴールを人気有名修行場の我拝師山につなげる

 我拝師山の頂上からは、真っ直ぐに伸びていく庄内半島と、その最高峰紫雲出山が一望できます。さらに西には、「観音の峰」で、補陀落山と記された七宝山が横たわります。全国から我拝師山にやってきた修験者たちは、それは眺めながらここでの修行が終われば、弘法大師が七宝を納めたという山にも行ってみようかと思うようになったのかもしれません。
 ここで疑問に思うのは、弥谷寺の存在です。
七宝山中辺路ルートには、弥谷寺が含まれていません。何故でしょうか?
 これは弥谷寺は、別の修験者達のグループであったと私は考えています。以前にもお話しした通り、弥谷寺とその麓の白方の海岸寺は、善通寺とは別の「空海白方生誕説」を説いていた時期があります。ここからは、善通寺と弥谷寺は系統の違う別の修験者グループだったことがうかがえます。そのために、善通寺と観音寺を七宝山を介して結ぶ「小辺路」ルートには入っていなかったのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、七宝山を経て我拝師山にいたる行道(修行場)のことが記されている
②それによると7つの拠点を33日間で「行峰=行道=小辺路」する修行ルートであった
③このルートは出発の観音寺が金剛界で、ゴールの善通寺五岳の我拝師山が胎蔵界とされた④中世には、このルートは「中辺路」とされ、全国の修行者の行場ルートになっていた。
⑤その結果、各行場の近くには、拠点寺院や庵が姿を見えるようになった。
⑥それらのお寺は、今でも山号は「七宝山」として残っている。例えば、七宝山観音寺、七宝山本山寺、七宝山延命寺など・・・・
⑦これらの行場を結ぶ中辺路ルートは、近世には廃れた。
⑧代わって、素人達の「四国巡礼」の札所巡りのお寺に姿を変えていくことになる。
ここからは、中世の行者達による「中辺路」ルートが、現在の四国遍路道へと姿を変えていく変遷が見えてくるような気がします。

  参考文献
武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所  4                                     四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年

IMG_9764

六十八番神恵院、六十九番観音寺は琴弾山の麓の境内に、ふたつの札所が同居しています。そして山上には、神仏分離以前の琴弾宮が鎮座する神と仏の霊地です。以前に見たように、二つのお寺の仏像からは、平安時代前期にはかなりの規模の寺院があったことがうかがえます。『讃州七宝山縁起』は、観音寺や琴弾宮の縁起で、八幡大菩薩や弘法大師のことなどが記されています。また、行道(修行場)のことも記されています。
まずは、弘法大師伝説と行場に焦点を当てながら『讃州七宝山縁起』を読んでみることにします。
 『讃州七宝山縁起』の奥書には「徳治二年九月二日書写了」とあり、鎌倉時代末期の徳治二年(1306)に書写されたことを伝えます。
七宝山縁起1
意訳して見ましょう
 ①讃州七宝山縁起
            鎮守 八幡大菩薩
            修行 弘法大師
 当山は、十方如来の常住し、三世諸仏が遊戯し、善神が番々に守る霊山である。星宿は夜々この地に加護する。是は釈迦伝法の跡であり、慈尊説法の聖地である。一度、この地を踏めば、三悪道に帰ることはなく、一度この山に詣でれば、必ずや三会の暁に遭うことができる。八幡大菩薩が影向し、弘法大師が修行を行ったことにより、大師と大菩薩は、同体分身の身であり、それは世々の契約なのである。
 
それゆえ大祖権現(八幡大菩薩)は、詫宣文に次のように云う。我は真言興起し、往生極楽薩垂する本地真言の祖師である。権現大神の通り、一切衆生を為し、四無量心を起こし、三毒を興さず。これは一子慈悲にして、成三宝興隆の念を成ずる。邪見の念を生ぜず。かくの如く無量劫は五智金剛杵と独鈷法身の形に付属するは普賢薩錘中の天竺善悪畏者が我なりと云々。
 同じ日本国の御詫宣にも云う。汝は知るか。
 我は唐国の大毘廬遮那の化身である。日本国の大日普賢妙の吉祥でもある。宇佐宮は我の第一弟子の釈迦如来である。第二弟子は、大分宮に入定している多宝如来である。第三弟子は八幡大菩薩戒(普賢)・定(大日)・恵(文殊)に付属する故に筥崎といい。本地は阿弥陀如来観音勢至であると云々。
観音寺が聖地であることを述べた後に続くのは、「八幡大菩薩と弘法大師」です。八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身であることが説かれます。八幡神と弘法大師の関係は、京都神護寺の僧形八幡神像が弘法大師と八幡神がお互いの姿を描いたという「互いの御影」として伝わっているようです。それを踏まえた上で、この縁起では八幡神と弘法大師が「同伴分身」と、さらに強い関係になっています。
 先にあった八幡信仰に、後からやって来た弘法大師伝説が接ぎ木されているようです。それは14世紀初頭には、行われていたことが分かります。それでは、弘法大師伝説を附会したのは、どんなひとたちなのでしょうか。それは後に見るとして、先を読んでいきましょう。

七宝山縁起3

②宇佐宮 人皇三十代欽明天皇 治三十二年 
最初は、豊前国宇佐郡菱潟嶺小倉山に、三歳の小児に権化して現れ八幡の宝号を示させた。当初の宝号は、日本人皇第十六代誉田天皇(応神)広幡八幡之大神であった。宇佐神宮禰宜の辛嶋勝波豆米之時詫宣の日記には 吾の名護国霊験威力神通大自在王菩薩と記される。ここから八幡大菩薩と呼ばれるようになった。

ここには八幡神の由来が書かれています。注意したいのは、出自が豊前の宇佐の小倉山(宇佐八幡)に始まりることを、強く主張していることです。その他に勧進された分社との本末争いが背景には、あったようです。
観音寺琴弾神社絵図

③次四十二代文武天皇御宇大宝三年(703) 大菩薩手自出 
次四十二代文武天皇御宇大宝三年 大大菩薩手自出 鎮西宇佐社壇、留光蔚当山八葉之宝嶺。是併感応利生之姿、斎度無双之神也 従九州之空白雲如虹之聳 懸当山。彼白雲之下巨海之上 当宮山麓梅脇之海辺、有一艘之船。
 船之中有琴音。其音高仁志天、 楡通嶺松。彼時当山峯本目有止住上人。諱日証 奇問之。御詫宣云。汝釈迦再誕、我是八幡大菩薩也 為近帝都 従宇佐来。而此国可仏法流布之霊地。於茲守護朝家、可蔚異国云々。
意訳しておくと
 大宝三年(703)に八幡大菩薩は鎮西の宇佐八幡宮を出て、当山(観音寺)の八葉の宝峯に留まった。その時には、九州の空から白雲が虹のようにたなびき、琴弾山にかかった。白雲の下の海を一艘の舟が現れ、宮の峯の麓の梅脇浜に着いた。その船からは琴の音が聞こえ、天にも届くほどで、音色は松林と嶺を通り抜けた。
 この時に当山に住上していた日証上人は、怪しみ問うた。当山に古くから止住する日証上人がその船に向かい問うと「汝は釈迦の再誕 我は八幡大菩薩である。帝都に行こうとしたが、ここは仏法流布の地であるので、ここに留まり、国家を守護し、異国を闘閥したい」と云う。
ここでは八幡神が、観音寺にやってきた理由が詳しく述べられます。
この由来に基づいて、以前に紹介した「琴弾宮絵縁起」は書かれているようです。 面白いのは、この八幡信仰に弘法大師伝説を「接木」するために書かれた次の部分です。

④次四十九代光仁天皇御宇 宝亀四年(773)七月、大師父母夢見。
 宝亀四年に弘法大師の父母が、善通寺の館の西に八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊した。そして、同五年6月15日に弘法大師が誕生した。弘法大師は、八幡大菩薩の再誕である。

弘法大師が八幡神の再誕という説は、初めて聞く話です。
その後は、弘法大師が延暦23年(804)、31歳の時に肥前国松浦郡田浦から唐に向けて船出することから始まり、長安で恵果和尚から両部の混頂を受け、金・胎の両界曼荼羅や法具・経典などを持ち帰るいきさつが、ほぼ史実に基づいて記されています。このあたりからは、高野山での教育を受けた真言密教系の僧侶(修験者)によって書かれたことがうかがえます。
弘法大師が唐から帰朝後に讃岐に帰って、何を行ったと記されるのか?
 大同元年(804)に弘法大師は唐から帰朝し、太宰府にしばらく留り、その後上洛し、朝廷に上表した後、讃岐に帰った。その際に琴弾八幡宮に参詣した。八幡大菩薩の御詫宣によって神宮寺を建立し、観音寺と号した。金堂の本尊・薬師如来と四天王像を造立し、本堂には同身の大日・薬師・観音像を安置した。

ここには、弘法大師が唐から帰朝後に、観音寺の再建を行い、諸仏を自らの手で彫り上げたと記されます。弘法大師により再建されたことが強調されます。ちなみに、ここに記されている諸仏の多くは、今も観音寺にいらっしゃいます。
観音寺 薬師如来坐像

今はお参りする人が少なくなった薬師堂の薬師如来は確かに丈六の薬師如来坐像です。膝前は後から補修されたものですが、頭・体部は平安時代の11世紀初頭のものとされます。大日如来坐像は12世紀とされます。
観音寺 四天王

四天王は一木造りで、邪鬼と共木とした古風な造りで、やはり十世紀末期とみられています。この縁起の制作者は、観音寺の事情に詳しい人物であることがうかがえます。漂泊の時宗の連歌師が、頼まれて即興で作った縁起ではありません。

そして、次に出てくるのが七宝山が修行場であることです。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
元々、観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿でのために精舎を建立し、石塔49基を起立した事に始まるという。しからば、その仏塔は何のために作られたのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が作った。すなわち異国降伏の請願のために作られたものである。

 この中に出てくる「石塔49基」とは、都卒天の内院にある四十九院のことだと研究者は考えているようです。つまり、ここにも弥勒信仰がみられます。そして、弘法大師手作りという四天王像は、平安時代中期のものとされます。この頃が、観音寺の創建にあたるようです。
以上をまとめたおきます。
①七宝山観音寺と琴弾八幡宮との縁起には、弥勒信仰が濃厚に感じられる。
②先に定着した八幡信仰の上に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしている
七宝山にあった行場については、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
       武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所
                              四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年
























 岩屋寺 白山権現1
 
   どこの札所か分かるな?
と、若い頃にこの絵を見せられたときには、私には分かりませんでした。当時は四国遍路は一度は済ませていましたが、こんな霊場は見たことありませんでした。最初の霊場巡りは、朱印状を集めることが目的化していたこともあるのでしょうか、思い出せないのです。それもそのはずです。この光景は、普通に札所や遍路道を歩いていては見えてこない風景なのです。それは、行場(奥の院)の光景なのです
岩屋寺 上空写真

  ドローンから撮影した菅生岩屋(岩屋寺)の全貌になります。山中から突き出す三本の岩柱が確かに見えます。ロッククライマーの登攀意欲を刺激しそうな光景です。そう言えばロッククライマーと修験者は、指向が似ているのかもしれません。高く切り立つ峰を見ると登りたくて仕方なくなるようです。
  修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていたようです。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の間にあるのが「霊山」というイメージでしょうか。そして、神や仏は霊山の山上の空中や地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道(水が流れない断崖絶壁も瀧)
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったようです。
 そういう目で、この光景を見るとまさに霊山にふさわしいとこです。①や②がそろっています。そこによじ登り、天界への入口に近づくことが修行になります。ここにやって来た修験者たちは、これらの峰の頂上に置かれた祠を「捨身」し、命がけでめざしたのでしょう。

岩屋寺 白山権現拡大番号入り1

晩秋の空にそびえる三つの岩峰。デフォルメもありますが、こんな風に見えたのでしょう。
一番右が①白山権現を祀る岩峰です。その背後には横跛のように、②白雲がたなびきます。この雲は高野山(第二第四段)や熊野新宮・那智(第三第一段)などでてくるようです。研究者は
「一種の「瑞雲」で、この地が霊地・聖地であること示す指標の一つ」

と指摘します。
そそり立つとなりの岩峰の頂上にも、⑤小さな祠があります。朱塗りの柱と山裾の紅葉とマッチして彩りを添えます。その前に平伏する修験者がいます。
 樹木を見ると、強い風のためでしょうか、一方に変形しているようです。実際に見ないと書けない図柄です。詞書にあるように
「斗薮(煩悩をはらって修行に励むこと)の行者霊験を祈る」

にふさわしい聖地です。
 そこに頂上に向けて③はしごが掛けられています。急な梯子を上る修行は、命がけです。こうした荒行によって、山岳修行者は、飛ぶ鳥を祈り落とすほどの験力を得ると信じられていました。「やいば(すさまじい)の験者」の誕生です。今のアクションゲームで云うと、ダンジョンでボスキャラと戦うことによって、自分のエネルギーを増やして行くようなものかもしれません。
 はしごの下の④白装束の人たちは、伏し拝んでいるようにも見えます。荒行を行う人たちをスーパーマンとして崇めているようにも見えます
聖戒は、 一遍の菅生の岩屋参籠の目的が、「遁世の素意」を祈るところにあったと記します。
「遁世の素意」とは何でしょうか。それは、「衆生を利益せん」という「おもひ」(第一第四段)としておきましょう。そのためには自ら全国各地に足を運ばねばなりません。当然、強靱な体力と胆力が求められます。今で云う足腰と心のトレーニングが必要です。
 こうした修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとしたとしておきましょう。前回にお話しした土佐の女人仙人や空海はその良き先例だったのかもしれません。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得た研究者は考えているようです。
岩屋寺 白山権現はしご1

そうだとすれば、梯子を登っているのは 一遍と聖戒ということになります。
聖戒が登場するのは、修験者の修行には「付き人」が必要であったと前回お話しした通りです。詞書にも
「この時、聖戒ばかり随逐したてまつりて、閑伽(水)をくみて閑谷の月をになひ給へば、つま木をたづねて暮山(ぼざん)の雲をひろひなどして行化(ぎょうげ)をたすけたてまつる」

とあります。
もう一度、梯子を上る一遍と聖戒を見てみましょう。

岩屋寺と上黒岩岩陰遺跡 --- 巨石巡礼 |||

その姿や顔付きからすると、前が聖戒、後が一遍のようです。
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」展に行ってきました。 - 仏像ファン的古寺巡礼

しかし、両者のキャリアの相違からすれば、熟練者の一遍が先になって先導するのが普通なのではと思えてきます。聖戒は一遍の息子とも弟とも甥とも云われています。そして一遍の太宰府再訪につき従い、その後の信州善光寺参籠にも従っています。その時の絵柄は、一遍の後にしたがう姿でした。しかし、ここではなぜか聖戒が先です。穿った見方をするなら、聖戒は師の一遍を語りながら、実はさりげなく自分の立場を視覚的に印象づけようとしていたのかもしれないと思えたりもします。
 研究者の中には、聖戒を「ことさら消極的、控え目」な人柄とする人もいるようですが、そうとばかりには私には思えない所もあります。この絵図の立ち位置は、自身を一遍の念仏思想の伝法、後継者として位置づけているようにも私には見えます。
岩屋寺 白山権現2

   一遍絵図に、異界への入口とされそうな行場が至る所にみえます。行場と行場を結ぶ「行道」があり、修験者たちが「辺路修行」をしていたことがうかがえます。室戸岬のような所では、海岸に烏帽子岩のような岩や洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をします。その痕跡が海辺の霊場の奥の院には見られます。そのような回遊・周回的な行道がここにもあったようです。
 例えば、真ん中の峰の頂上の社の前には白装束の行者が、平伏して一心に祈っているような姿が見えます。その隣の頂きにも社があります。これにはそれぞれの神が祀られ、そこに毎日祈りを捧げる「千日行」的な行が行われていたと研究者は考えているようです。つまり、「一回お参りしたら、それでお終い」ではないのです。何日も参籠を繰り返す「行道」を行っていたのです。

岩屋寺 白山権現への鍵
白山権現行場への鍵

現在でも納経所に申し出てれば、せりわり禅定への扉の鍵を渡され、白山権現を祀る峰にはお参りすることができるようです。
岩屋寺 白山権現行場入口
 
門の右には「白山妙理大菩薩芹せり割行場」という看板がかかっています。この向こうが芹割です。
岩屋寺 白山権現芹割行場

   押しつぶされそうな狭い抜けて割りを抜けて行きます。まさに異界への入口の光景です。
「岩屋寺開山法華仙人が弘法大師に法力を見せんとして大岩石を割って通った跡」
とも伝えられているようです。

岩屋寺 白山権現鎖場1

   その先にはいくつかの鎖場が続き、最後に梯子がかけれています。
岩屋寺 白山権現行場はしご21

最後の階段は天空の異界に通じるはしごに見えました。
岩屋寺 白山権現社1

階段を登り切ると、白山大権現をお祀りする祠が見えてきます。
岩屋寺 白山権現上空から

一遍聖絵の社は、柱は朱塗りでしたが、今の社は白く輝いています。この白山権現の祠の前に 一遍も平伏し、称名念仏を唱え続けたのでしょう。ここが天界に一番近い入口ということになるのでしょうか。

 一遍のように、自己のために行を行う人たち以外に、他人のために行を行う修験者たちもいたようです。
神仏混淆の時代には、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師に権化して現れます。一つの決まつたかたちでは、民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身権化します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるようです。ある意味、仏も神も専業化が求められます。
 そういう中から「辺路修行」が生まれて、海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、神が代償に要求する方法は命がけの行なのです。
漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり21日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけて、豊漁が実現するのです。
しかし、それは誰もができるわけではありません。そこで登場してくるのが「代理祈願」です。本人に代わって、霊山に行って行を行い願掛けを行うのです。つまり、自分のための修行と同時に、プロの宗教者(修験者)が、霊験のある霊場にはやってきて何十日にもわたる「代理祈願」を行うようになります。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が行場に、お堂を開き、それがお寺に発展し、さらに里に下った由来をもつ札所がいくつもあります。岩屋寺と大宝寺の関係も奥の院と里寺(本寺)の関係のようです。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、断崖の峰を歩き、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そういう背景があったようです。
「遍路」のもとの言葉が、「辺路」だと研究者は考えるようになっています。
 四国でも紀伊・熊野同じように辺路修行が行われていました。そこに青年時代の空海がやってきて修行を行いました。そういう意味からすると、四国遍路は、弘法大師が歩いたところを歩くのだ、と単純には言えないのかもしれません。むしろ辺路という四国をめぐる古代宗教があって、その辺路を青年空海も歩いたと考えた方がよさそうな気がしてきます。
  一遍から段々離れて行ってしまいました。それだけ、この岩屋が魅力的な所なのだとしておきましょう。菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そこに、 一遍も身を投じたのです。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
長島尚道 一遍 読み解き事典 柏書房

信州の善光寺から帰った後のことを一遍聖絵は、次のように伝えます。

同年秋のころ、予州窪寺といふところに青苔緑羅の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す。四儀(行住坐臥)の勤行さはりなく、三とせの春秋をおくりむかへ給ふ。彼の時、己心領解(独自のさとり)の法門とて、七言の頌(漢詩)をつくりて、本尊のかたはらのかきにかけたまへり。

ここからは、次のようなことが分かります。
①信州善光寺から帰った一遍は、文永八年(1271)の秋、窪寺(松山市窪野町北谷)に庵を構えた。
②「閑室」の東壁に、信州善光寺で書き写した「二河白道図」を本尊としてかけた。
③人々と交わることなく、 一人でもつぱら念仏を称える修行を行った。 
④四儀(行住坐臥)の勤行を、3年間行った。
⑤「十一不二頌」を作り、これを本尊である「二河白道図」の横にかけた。
一遍 窪寺1

窪寺は現在の四国霊場浄瑠璃寺の直ぐ近くにあったようです。その寺は今はなく、そこには石碑だけが残っています。ここはいまは彼岸花が有名で秋のシーズンには多くの人が訪れています。岩屋寺からの歩き遍路が、彼岸花に埋まった遍路道の坂を落ちていく姿は絵になります。
 一遍の父通広は、浮穴郡拝志郷別府(現重信町)の別府荘に所領があり「別所殿」とも呼ばれていたと云います。その別府荘の重信川を挟んだ対岸に窪寺はあります。
③には「交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す」とありますが、世俗とのなにかしらのつながりを私は感じてしまいます。
⑤の「十一不二頌」とは何でしょうか?
 一遍独自の安心の境地を表す文字だったようです。同時に「二河白道図」を頌(褒め歌)でもあった次のような語句だったようです。
「十劫正覚衆生界」
十劫という遥か昔に、法蔵菩薩が正しいさとりを得て阿弥陀仏になったのは、すべての人々を救い、極楽浄上に往生させるという本願を成就したからである。
「一念往生弥陀国」
人々は一度「南無阿弥陀仏」と称えれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができる。
「十一不二証無生」
十劫の昔に、法蔵菩薩がさとりを得て阿弥陀仏となったことと、今、人々が一度「南無阿弥陀仏」と称えて極楽浄土に往生することとは、時間を超越して同時であり、このことは生死を超えたさとりの世界を表している。
「国界平等坐大会」
一度の念仏によって、阿弥陀仏の極楽浄土とこの世は同じ(平等)になり、この世にあっても、人々は阿弥陀仏が教えを説く大会に坐ることができる。

こうして一遍は文永十年(1273)25歳のとき、「十一不二頌」に示される「己心領解(独自のさとり)の法門」に達します。そして、窪寺の閑室を後に、さらに石槌山系の奥深く分け入り、そこから岩屋寺(菅生の岩屋:愛媛県久万高原町)に向います。

一遍 窪寺2

一遍が称名念仏に専念した窪寺念仏堂跡には、次のような碑が建っています。
 身をすつる すつる心を すてつれば
 おもいなき世に すみそめの袖
                一遍
この句は、1280年(弘安3年)奥州の江刺の郡(岩手県北上市)に、一遍の祖父河野道信のお墓参りをしたときに詠んだといわれるものです。河野通信は、承久の乱(1221年)で破れ、奥州平泉に流されて亡くなっていました。その時の供来讃歌です。

なぜ 一遍は修行の場として「菅生の岩屋」を選んだのでしょうか?
それは、一遍が空海を崇敬していたからでしょう。そのために「弘法人師練行の古跡」である岩屋寺を選んだと私は考えています。  
「一遍聖絵」巻 2 の一遍が岩屋寺の前身である菅生の岩屋に参籠した時の詞書に次のように記します。

「其所に又一の堂舎あり、高野(弘法)大師御作の不動尊を安置したてまつる、すなはち(弘法)大師練行の古跡、瑜伽薫修の炉壇ならびに御作の影像すがたをかへずして此地になをのこれり」

ここから弘法大師の菅生の岩屋参籠の伝承は鎌倉時代後期までに成立していたことが分かります。

  しかし研究者が指摘するのは、弘法大師の伝承は 1 つの堂舎(不動堂)の由来に関わって付属的に述べあものにすぎないという天です。「一遍聖絵」には菅生の岩屋は「観音影現の霊地、仙人練行の古跡なり」とも記します。ここからは、この岩屋の聖地性は「観音霊場であり、仙人練行の古跡」で、弘法大師信仰によって語られるものではなかったというのです。ところが近世になると、承応 2 年(1653)の澄禅『四国遍路日記』に岩屋寺の逼割岩の由来が「昔大師此山ヲ開キ玉フ時仙人出テ、我ハ此山ノ主也、ソツジニハ難開ト云」と記されるように、聖地としての性格が弘法大師信仰に「接ぎ木」されてに変容していきます。

菅生の岩屋に入ったのは七月、聖戒の助けを得て、翌年早々まで約半年間ここで修行し、本尊不動のもとで正覚を得ることができたいいます。 『一遍聖絵』の「菅生の岩屋」の記述のうち、後半の「仙人練行の古跡」は岩屋寺の縁起になっています。
そこには菅生の岩屋と桜にまつわる縁起も記されています。
  この御堂に廂をさしそへたりけるほどに、炎上の事ありけるに、本堂はやけずして、後の廂ばかり焼けにけり。其の後、又、回禄あり。同舎ことごとく灰燼となるに、本尊ならびに三種宝物はともにとびいで給ひて、まへなる桜の木にのぼり給へり。又、次に炎上ありけるに、本尊は又とびいで給ひて、同木にまします。御堂は焼けにけり。三種宝物は灰燼の中にのこりて、やけたる物とも見えず。鐘・錫杖のひびき、昔にかはる事なかりけり。此の桜木は、本尊出現し給ひし時の朽木の、ふたたび生え出て枝さし花さける木なり。されば、仏法最初の伽藍、霊験希有の本尊なり。
意訳しておくと 
 この洞窟の御堂に廂(ひさし)を指して木造建物にしたところ何度も火災にあった。しかし、本堂は燃えず、廂は焼失してしまった。その後、修復したが、今度はことごとく灰燼となった。それでも、本尊や三種宝物は洞窟から飛び出して、前の桜の木に登って難を避けた。
 又、次に炎が上があった時も、本尊は桜の木にとびのいて難を避けたが御堂は焼けた。三種宝物は灰燼から出てきたが、焼けたようには見えなかった。鐘・錫杖の響きは、昔に変わることがなかった。この桜木は、本尊が現れたときに古木が枯れたものが、ふたたび生え出て枝を伸ばし花を咲かせるようになったものである。まさに、霊験あらたかな本尊といえよう。
 
ここからは、岩屋の神木は桜だということがうかがえます。
前回に時衆と桜の関係について触れ、浄土教の広まりと同じように、桜も広く親しみのあるものになっていくことを次のようにお話ししました。
①桜が『古今和歌集』の季語や枕詞に使われるようになり、西行は、臨終の際、桜の歌を詠んでいること。
②役行者を始祖にした修験道は、桜を神木とするようになること
③源信の『往生要集』に基づいた浄土教が絵画化され、生死の象徴としての桜が描かれるようになること
④社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、高野聖が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。
 こうして、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴になっていきます。この由来は、桜のシンボライズ化が岩屋寺にも浸透していたことをうかがわせます。
ここにやってきていた修行者達は、どんな人たちだったのでしょうか。
まず挙げられるのは、熊野や吉野のプロの修験者たちです。また、一遍のように空海を慕う高野山の念仏聖たちも多かったはずです。例えば西行も高野の念仏聖でいわゆる「高野聖(こうやのひじり)」です。彼は崇徳上皇の慰霊のために讃岐を訪れたと云われますが、その後は善通寺の五岳の我拝師山に庵を構えて、3年間の修行を行っています。そして、空海が「捨身」した行場に通っています。ここからは、当時の念仏聖たちも修験行を行っていたことが分かります。言い方を変えると念仏聖達は、阿弥陀信仰や浄土信仰を持つと同時に真言密教の実践者であり修験者だったのです。現在の私たちからすると、南無阿弥陀仏と修験者たちは、別物と分けて考えてしまいますが、それは非歴史的な見方のようです。それが当時の高野山の「流行」だったのです。高野山自体が浄土信仰の拠点となっていたようです。
 もう一度確認しておきたいのは、ここにやって来ているのはプロの修験者たちであるということです。
  いまのお遍路さんのように、勤行して、お札をおさめて、朱印をもらって、去っていくというスタイルではありません。行場で何日間も修行を行うのです。あるときには行場から行場へと渡りながら周囲の行場を「辺路」したりもしています。この修行はひとりではできません。それを支える付き人が必要なのです。空海も付き人を従えての修行だった研究者は考えているようです。一遍も聖戒の支援を受けながら行場に入って行きます。

 菅生の岩屋の右から見ていきましょう
岩屋寺 仙人堂

右側には洞窟の②仙人堂と①不動堂(本堂)が断崖を背景に描かれています。修験者は小さな不動明王を守護神として、肌身離さず持ち歩いていました。行場では不動さまを目に見えるところに安置して、荒行を行ったとも云われます。そのため行場から発展した霊場の本尊は不動明王というのが相場のようです。この行場も修験者たちによって開かれたのでしょう。不動堂の上に、投入堂のように岩にはめ込まれたように建っているのが仙人堂です。ここは仙人窟という大きな洞窟の外側にお堂が作られています。中国敦煌の莫高窟の岩窟寺院のような構造です。不動堂と仙人堂は、はしごで結ばれているようです。

 この仙人堂の由来を 一遍絵図は、次のように記します。

 「仙人は又土佐国の女人なり。観音の効験をあふぎて、この巌窟にこもり、五障の女身を厭離して一乗妙典を読誦しけるが、法華三昧成就して飛行自在の依身をえたり。或時は普賢・文殊来現し、或時は地蔵・弥勒影護し給しによりて、彼影現尊にしたがひて、をのをの其所の名をあらはせり。又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十三所の霊崛あり、斗藪の行者霊験をいのる砌なり。」

意訳しておくと
 仙人は土佐国の女人である。観音の効験あると聞いてこの巌窟に寵り、五障のある女身を捨てて、経典を読誦し修行に励み、法華三昧を成就して、自由に飛行することができるようになった。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている。又、ここにはその他にも四十九院の岩屋あり、父母が極楽を現した跡が残っている。33ケ霊窟は修験者がの行場である。

ここからは次のようなことが分かります。
①法華経を読誦して、法華経の行が完成させ、飛行術を身につけた女人の仙人がいた。
②仙人をす普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っているのが仙人堂であった
③四十九院は父母が極楽浄土へ渡ることを祈る阿弥陀信仰の霊場であった
④三十三霊場は修験者の行場であった
このように、岩壁全体が霊地としてひとつの世界を形成していたようです。

岩屋寺 金剛界岩壁
 
「一遍聖絵」の詞書には三十三ケ所の霊岨」について、「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。ここからは、仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。
 これらの窟がある岩峰は金剛界とされていたようです。ここは岩壁で仙人窟以外にも阿弥陀窟や「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟が掘られ、当時は窟だらけの岩壁だったようで、よく見ていくと窟と窟をつなぐ道(はしご)があったと研究者は考えているようです。これを命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐる修行(行道)が行われていたようです。

さて、それではこの絵図の景観は現在のどこに当たるのでしょうか?
 まず全体図を上空から見ておきましょう。

岩屋寺 菅生の岩屋上空図
岩屋寺の金剛界と不動堂
絵図の②不動堂は①金剛界と呼ばれる岩壁の一番下に建っています。現在の岩屋寺の伽藍もその周辺にあります。そして、この岩壁に多くの窟が開かれていたことになります。その左側の岩稜が胎蔵界とされていたようです。
岩屋寺 不動堂
岩屋寺の不動堂
  下から見上げるとこんな景観になります。長年の風雨で窟そのものが崩れたりしていて、明瞭なものは少なくなっていますが、多くの窟がならんでいたことは写真からもうかがえます。
不動堂は、いまでも岩壁の下に建っています。
一遍絵図と同じ場所です。上の方には、目玉のように開けられて窟が2つ見えます。私は、あれが仙人窟かとおもったのですが、そうではないようです。それではどこにあるのでしょう?
 不動堂の奥にはしごが見えます。これを登ってたところが仙人窟のようです。 一遍絵図は、デフォルメがあるようです。

岩屋寺 不動堂3

 現在の不動堂から仙人窟へ続くはしごです。このはしごは自由に登れますので仙人窟へ上がることは出来ます。
一遍絵図を拡大して、もういちど見てみましょう。

岩屋寺 不動堂2

不動堂の中には二人の僧侶がいます。その顔付きから、手前が一遍、その向こうが聖戒のようです。机上に経典らしきものが置かれています。詞書には 一遍が聖戒に「経教を亀鏡(ききょう)として真宗の口決(くけつ)をさづけた」とありますので、その場面のようです。絵師は、聖戒の書いた詞書の内容を踏まえた上で作画していることが分かります。不動堂と、仙人となった土佐の女人像を安置する仙人堂との間には、道はありません。仙人は空を飛べるから必要がないのでしょうか。そんなことはありません。長い梯子がかけられています。そこを上っている人がいます。前の人が振り返って後の人を気遣っているようです。これが聖戒で、後が一遍のようです。一つの画面の中に同じ人物が何度も登場します。「巻物忍法!異時同図の術」です。ちがう時間の出来事が同一場面に収められています。

  菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そして、空海伝説が高野山から広がり出すと、修験者や念仏聖達もこの地を聖なる修行地として目指すようになったようです。そこに、 一遍も身を投じたのです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

一宮寺 現況境内図

 調査報告書によると、一宮寺には本堂・仁王門・大師堂・菩薩堂に合わせて48の仏さんたちがいらっしゃるようです。制作年代で分けると、平安時代1、鎌倉時代1、江戸時代46(台座のみ2点含む)となるようです。安政3年(1856)の「大宝院記録」でチェックしながらお堂ごとにみていきましょう。
一宮寺 見どころ - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 本堂
本尊の聖観音さまは、秘仏のため未開扉ですのでお目にかかることはできません。高松周辺の四国霊場には観音さまを本尊としている所が多いようです。戦乱の世が終わり、世の中が落ち着いてきた承応2年(1653)に、四国辺路を訪れたのが澄禅の『四国辺路日記』承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
「社壇モ鳥居モ南向」と、札所は神社であったようです。お寺の姿は記されていません。
「四国遍路日記」には、「長尾寺」について次のように記します。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」
ここからは「国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺・長尾寺」が「讃岐七観音」のネットワークを形成していたことが分かります。中讃の善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような観音霊場ネットワークがあったようです。しかし、そこに一宮寺は入っていません。どうしてでしょうか。疑問としておいて先に進みましょう。
 生まれたばかりの金毘羅大権現も、この時期には観音信仰の拠点を目指していた形跡があります。江戸時代初期の讃岐における観音信仰ブームがうかがえるようです。

 本尊脇侍には不動明王像と毘沙門天像がいらっしゃいます。
このふたつの天部の仏様は「大宝院記録」には「京都仏師赤尾右京」の作と記されるので、京都の仏師に依頼して作成されたもののようです。その依頼主は、高松藩初代藩主の松平頼重だったようです。延宝7(1679)年前後に、松平頼重は一宮寺の再興を行っています。本堂再興に伴いふたつの天部の仏様も発注されたようです。
 松平頼重の寺社保護については、政策的なねらいが隠されていることは、以前にも長尾寺や根来寺についてお話ししたときに触れました。この寺については、一宮神社(田村大明神)から、この時に分離させているようです。いわば「神仏分離」を行ったことがうかがえます。一宮寺は寺領などの寄進を受けますが、一宮神社の別当職は失ったのです。そして、四国霊場札所に専念することになったようです。こうして、現在地に本堂が松平頼重の手により再興(新築?)されることになったとしておきましょう。
 
 
香川県高松市「一宮寺」観光途中に立ち寄った巡礼第八十三
2 仁王門
「大宝院記録」には、仁王門の阿吽仁王像は「京都仏師赤尾右京作」と記されています。先ほど見た本堂の天部の仏達も「赤尾右京」でした。一宮寺再興の仏達を一手に引き受けて、一門で作ったことがうかがえます。同時に、この時期に一宮寺は新たに「新築=創建」されたとも考えられます。
一宮寺 仁王像
一宮寺 大師堂 - 高松市、一宮寺の写真 - トリップアドバイザー
3 大師堂
明治になって書かれた「大宝院記録」には大師堂は「祖師堂」と記されています。そして、そこには本尊の弘法大師空海像・金剛界大日如来像のふたつの仏像があったことを記すのみです。それが今では、いろいろな仏が安置されています。明治になってからやって来た仏のようです。「仏は寺勢の強い寺に移動する」の言葉通りです。
一宮寺 弘法大師座像

本尊の弘法大師空海像は、江戸時代中ごろの作のようです。
この時代に庶民の間にも弘法大師伝説が広がり、弘法大師信仰が高まっていきます。そのため各霊場でも大師堂が作られ弘法大師像が安置されるようになります。その時流の中で作られたようです。

「大宝院記録」には厨子入りの薬師如来像があったことが記されます。しかし、これは今ある薬師さんとは違っていると研究者は次のように指摘します。

一宮寺 薬師如来像

 現存の薬師如来坐像(写真20)を見てみましょう。蓮華座に座り、輝く火炎に照らされた若々しい薬師さんです。
像底には次のような朱漆銘があります。
一宮寺 薬師如来像墨書

弘法大師の御作を讃州(讃岐)香東郡石清尾浄光院中興開基の阿閣梨増快が再興した像であると記し、延宝3年(1675)秋の年号があります。

香東郡石清尾浄光院とは、石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院のことです。そこからやってきた仏で「後世の移入像」のようです。この他、歓喜天像を納めている丸厨子底面にも石清尾浄光院の名前が記されています。これも「浄光院旧像」のようです。そして、この仏達には制作者の「赤尾右京法橋」のほかに「栄朝」「栄秀」「右衛門」などの仏師達の名前が記されているのです。
 
これをどう考えればいいのでしょうか。京都の「赤尾右京法橋」一門は、次のものを手がけていたことになります。
①一宮寺の本尊脇侍の不動明王像と毘沙門天像
②一宮寺の仁王門の阿吽両像
③石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院の歓喜天像丸厨子
さらに志度寺などの讃岐の有力寺院の造像にその名が見られるようです。名代の仏師として高松藩との関係が長く続いたことがうかがえます。「赤尾右京」は、松平頼重から信頼された「御用達仏師」であったようです。
どうして石清尾社神宮寺の仏達が一宮寺にやってきたのでしょうか。
明治の神仏分離政策は石清尾八幡神社の姿を大きく変えました。それまであった多宝塔や仏像も撤去されます。その際に、多くの仏像は関係寺院に分散して安置されたと研究者は考えているようです。
 愛染明王像も石清尾社神宮寺からやってきたと考えられているようです。明治の「大宝院記録」に記されていないので、神仏分離・廃仏毀釈運動が落ち着いた頃に、一宮寺に移されて来たようです。
岩清尾八幡にあった愛染明王像を見てみましょう。
一宮寺 愛染明王像

 台座軸木を受ける材に「大仏師内匠」の墨書があり、作者仏師は佐々木内匠と分かります。
一宮寺 愛染明王像墨書

 松平頼重は、白峯寺像・志度寺にも愛染明王像を寄進していますが、それも「大仏師内匠」に発注したものであることが分かっています。
愛染明王 白峰寺
白峰寺の愛染明王像

これらと一宮寺の愛染明王像を比較して、研究者は次のように指摘します。
①一宮の像は獅子冠上の五鈷杵ではなく、反花座上の宝珠あるいは舎利容器であること
②腹前の右足首から垂れる裳端の表現が大きな撓みをあらわすことなく、通例的な表現に留まっていること
③獅子冠の獅子頭部には丈があり、前二像のやや扁平な感の強いものとは異なる造形感覚であるこ
④光背ホゾ部にみえる「一」が、もし造像の順番を示し、かつ石清尾八幡社神宮寺から移入された他像が存することを考慮すれば、本像も石清尾社に関わるものであることが考えられる。
そして、全体的な印象として
「白峰寺・志度寺の二像を圧するような迫力ある造形の印象は、原初像として風格に起源する」
と研究者は考えているようです。
  つまり、ここから分かることは
①松平頼重は京都の仏師「大仏師内匠」に愛染明王像を3体発注した
②それは石清尾八幡社神宮寺浄光院と白峰寺と志度寺に寄進された
③一宮寺の愛染明王像は、石清尾八幡社神宮寺浄光院のものが神仏分離の際に移動してきたものと考えられる
④しれは、3体の愛染明王像の中で最初に作られたもので、最も迫力を感じる作品である。
ということになるようです。京都で制作された愛染明王像は、どのようにして運ばれ、各寺院に納入されたのでしょうか。
高松藩の専用船が使われたのでしょうか
一度高松城に運びこまれ、松平頼重が検分して、それぞれの寄進先を決めたのでしょうか。
一番できあがりの良いとされるものが岩清尾八幡に寄進されたのは、どうしてなのでしょうか
いろいろな疑問が湧いてきて楽しくなります。

この他にも大師堂には2つの不動明王がいらっしゃいます。
一宮寺 不動明王 平安期

ひとつは、平安時代後期のものと考えられる不動さまです(写真121、122、123)です。体部は「前後二材矧ぎで、頭部は後補」で、底面は塞がれていないので、足ホゾが前面材から両足とも刻み出していることが見えます。この不動さまも「移入された客仏」のようです。

もうひとつは鎌倉時代12世紀の不動さまです。
一宮寺 不動明王 鎌倉期

前代風をよく伝えるもので、頭体幹部を一材から彫りだしたもので、両足首から先を後補です。表情や穏やかな作風で、「優品の不動明王像の一躯」と評価されています。


4 菩薩堂
この堂は「大宝院記録」には「阿弥陀堂」と記されています。
由緒には「先住霊算」が「復旧之志」により勧進して、阿弥陀如来二十五菩薩像を再興したとします。ここも長尾寺と同じく中世には高野山系の念仏聖によって阿弥陀信仰が広まっていたことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来g

  この阿弥陀如来(写真126)の台座には「彫刻人 京仏工 赤尾右京亮 橘栄□」とあり、台座内には
「寛政四(1792)子年 九月 光孝天皇後胤 定朝法印三十一世也 赤尾右京亮作」

と記されいます。またしても「赤尾右京」に発注しています。世代を超えて、同じ工房に発注しているのは、それだけの信頼関係があったと同時に、「赤尾右京」が名代の仏師として評判もよかったことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来2g

この阿弥陀さまは、着衣のひだが流れるように深く刻まれています。顔立ちは鎌倉時代風で、イケメンです。「近世の佳作のひとつ」と評価も高いようです。
 菩薩堂には、この他にも五大明王像(不動明王像と軍茶利明王像を欠く)の三像がありますが、文化2年(1805)の制作年と仏師「京大仏師 赤尾右京」の台座内墨書が見つかっています。さらに仏師「赤尾右京」工房との関係が増えました。近世京仏師が、地方からの造像注文にどのように応えていたのか興味のあるところです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

 一宮寺周辺の「都市圏活断層図」
上の地図は一宮寺周辺の「都市圏活断層図」です。
地図上の東部(右側)に網掛けがされていますが、この部分が安定した扇状地上にあることを示します。一方、西側(左)は香東川の沖積低地になります。一宮神社(田村神社)や一宮寺は、この扇状地の端に立地していることが分かります。
一宮寺 香東川流路

一宮寺の西側約1 kmには香東川が北流しています。
香東川は近世初めまで一宮寺の南側の香川町付近で東西に分岐し、高松市北西部の紫雲山の東西で北流し現在の高松港付近から瀬戸内海に流れ出していました。近世初頭に高松藩主生駒家の客臣(藤堂高虎が派遣)の西島八兵衛により、東側の流路を堰き止め、西側に一本化したとされます。それ以後は香東川はほぼ現在の流路となったようです。
野原・高松・屋島復元地形図

 そのため流路が替わってもかつての川床にあたる一宮町、鹿角町、田村町などには多くの伏流水が地下を流れています。一宮寺の北東部にも「花ノ井」という出水があります。これらの出水を利用して、近世以降には、稲作を中心とする水田農耕が盛んな地域であったようです。
⛩田村神社|香川県高松市 - 八百万の神

  一宮寺のすぐ西には、扇状地と沖積低地との境があることを押さえておきましょう。
一宮寺 周辺遺跡図
地図はクリックで拡大します
 一宮寺周辺の歴史的環境を見ておきましょう
約1,7km南東の⑦百相(もまい)坂遺跡からは、弥生時代後期前葉の遺物が少量出土した溝状遺構が確認されていますが集落は確認されていません。約3km北方の③上天神遺跡や太田下・須川遺跡では自然河川や灌漑用の水路などが確認されています。特に上天神遺跡では朱を保管したと考えられる土器が、大田下・須川遺跡では壺形土器の頸部に鹿の線刻が施されたものが出土しているので、このあたりに大規模な集落があったことがうかがえます。
 古墳時代には、一宮寺よりも東側や南東側に、古墳や集落があったようです。れは西側が先ほど見たように香東川の氾濫原であったためでしょう。
 ⑨百相坂遺跡の南側の独立丘陵の山頂部には、全長51mの前方後円墳である⑩船岡山古墳があります。この古墳から出土したとされる到抜式石棺が地元の浅野小学校にあり、埴輪片も採集されています。また、船岡山古墳の丘陵から旧国道193号線を挟んで南東には、⑪船岡古墳があり、横穴式石室の一部とされる石組みが残っています。このように、古墳時代には地域の有力者の存在がうかがえます。
 古墳時代の集落としては、一宮寺の北東約1,5kmの⑤大田原高須遺跡で古墳時代後期の竪穴式住居や自然河川、灌漑用の水路と考えられる溝状遺構などが見つかっていて、大規模な集落があったことがうかがえます。これら古墳の主達の基盤とした集落と考えられます。また、④大田下・須川遺跡からも5世紀の須恵器を伴う竪穴住居跡などが見つかっていて、古墳時代に継続して集落があったことがうかがえます。
これらから一宮寺の東側の大規模な扇状地は、古くから開発の進んだ地帯だったと研究者は考えているようです。一宮寺が東側が扇状地、西側が沖積低地にあたり、いわば地質の変換点にあたる所に立地していることが改めて納得できます。
この地域を開いた首長墓と見なされる古墳群を築いたのは讃岐秦氏だと研究者は考えているようです。
秦氏の本拠地は「原里」で百相郷も含みます。中間郷も秦氏の重要な拠点で、『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の支配エリアであったようです。
 その秦氏の歴代の盟主墳墓が双方中円墳の船岡山古墳で、石枕付石棺が出土しています。また直径20mほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳(6~7世紀)

へと推移したと考えられます。
田村神社 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 
原郷には、秦氏によってまつられた田村神社(一宮)が鎮座します。
祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神です。その女神が「花の井」の出水で、祀られ豊穣の祈りが捧げられてきたのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力の高まりによって律令体制下では讃岐一宮に「格上げ」されていったと研究者は考えているようです。
ちなみに一宮寺は最初から田村神社の別当寺ではなかったようです。
 秦氏の氏寺として作られた古代の氏寺でもないようです。秦氏の氏寺は、別の所に建立されていたからです。百相坂遺跡の北側には舟山神社があります。この社殿南西部には、礎石と云われる大きな石が残っています。これが ⑧百相廃寺跡と云われ、奈良時代の複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦なども出土しています。この寺が秦氏の氏寺のようです。
船山神社 - 香川県高松市 - 八百万のかみのやしろ巡り
舟山神社境内にある百相廃寺の鐘楼跡碑と説明版

この百相廃寺が中世の神仏混淆の結果、一宮である田村神社と結び付いて神宮寺となります。先ほども云った通り、ここは今は船山神社ですが、地元では神宮寺の名で親しまれており、バス停の名前はいまも神宮寺のままです。田村神社の神宮寺(別当寺)は、もともとは百相廃寺であったことを確認しておきます。
船山神社 (香川県高松市仏生山町甲 神社 / 神社・寺) - グルコミ
舟山神社

 一宮寺縁起について
一宮寺は、真言宗御室派に属し、山号は神皇山、院号は大宝院。聖観世音菩薩を本尊とします。創建については、安政三年(1857)の『大宝院記録』(古文書・古記録 番外)や『四国霊場一宮寺大宝院興隆会設立趣意書』『順礼大師縁起』などがありますが、すべて近代以降のものです。その内容を概観しておきます。
①創建は奈良時代初期の大宝年間で、院号も年号を取って「大宝院」としたこと
②和銅年間に諸国一宮の整備に伴い、伽藍の修築などが行われたこと、
③弘法大師が滞在中にみずから聖観音を彫ったことから法相宗から真言宗へ改宗したこと
④戦国時代の天正年間に兵火により堂塔ことごとく焼失したこと
⑤その後中興の祖である宥勢大徳により、伽藍等が再建された
と伝えます。しかし、①②については古代瓦の出土もありませんし、一次資料も、遺物もありません。近世以前のことは分かりません。

 近世史料に見える一宮寺
 近世になり四国辺路から四国遍路へとリニューアルするに従って、中世のプロの修験者による辺路修行から、素人による札所巡礼に姿を変えるにつれて参拝者増え始めます。そして四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、一宮寺に関する記述が見られるようになります。
それらの大衆向けの巡礼パンフレットに一宮寺がどのように紹介されているのかを見ながら、伽藍レイアウトも見ていきましょう。
まず『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
夫ヨリ北エ二里斗往テ高松二至。ここハ松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石ノ城下也。此京兆(松平頼重)ハ水戸中納言頼房卿ノ長子也、家康公の為ニハ孫也。黄門舎兄ノ亜相ヨリ早誕生在リシ故、此京兆ヲ幼少ヨリ洛西ノ天龍寺ニ預ケ置テ世二披露シ玉ハズ、?ルヲ家光公聞及玉テ召出テ当国ヲ拝領也。
 京兆ハ成ノ年ニテ当年ハ三十一歳成ガ、中々利根発明ニテ政道二無レ私、万民ヲ撫育シテ下賤ノ苦楽ヲ能知り玉フト也。当国白峯寺以下ノ札所二旧記二倍シテ皆新地ヲ寄附セラル。当時ハ在府也。家老ハ彦坂織部ノ正、其外谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人老中評定衆也
 祈願所ハ天台宗喜楽院卜云、水戸ヨリ国道ニテ入国也。城下二寺ヲ立テ置ル也
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。
  意訳しておくと
一宮寺は社壇も鳥居も南向きで、本地は正観音である。
ここから北へ2里行くと高松に至る。ここは松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石の城下である。この殿様は水戸中納言頼房卿の長男で、家康公の孫にあたり、水戸黄門の兄である。黄門さまよりも早く誕生されたので、幼少の時に京都の天龍寺に預けて世間には披露しなかった。これを家光公が伝え聞いて讃岐高松領を与えた。京兆(松平頼重)は当年31歳になるが、中々利発で政道にも私心なく、万民を慰撫し、下賤の苦楽をよく知っているという。
 当国の白峯寺などの札所に、旧来の倍に当たるような寺領を寄進している。当時は江戸に参勤交替中で不在であった。家老は彦坂織部ノ正、その他、谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人が老中評定衆である。祈願所は天台宗喜楽院という。水戸から入国して、城下に寺を建立した。
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
澄禅の「四国辺路日記」の時代には、一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺になっていました。綾氏の衰退と共に氏寺の百相寺も廃絶したのに、代わったのでしょう。
 境内の記述は「社壇も鳥居も南向き」と田村神社に関する記述があり、神仏混淆の姿を自然に受け止めています。そして「本地正観音也」と一宮寺の本尊に触れるだけです。ここからは、本堂の姿は見えてきません。社殿に安置されていたのかとも思えてもきます。
 この時期は以前にもお話ししたように、阿波の霊場は本堂もなく仮堂に仏様の破片が積まれ、修験者や虚無僧が堂守として居住していた札所がいくつもあったことを澄禅は見てきています。彼は当事のエリート学識層で観察視点や表記はぶれません。一貫した記述です。そこからすると、この時代に本堂はなかったのではないかという「仮説」も出てくるように思います。
 同時に、当事の高松藩の情勢分析なども的確にされています。高松から屋島への潮の満ち引きによって変わる街道紹介も的確です。澄禅の知識人としての洞察力や表現力がうかがえます。

澄禅から約30年後にやってきた真念の『四国遍路道指南』(貞享四年:1687)には次のように記されます
七十三番一之宮 平地、堂はひがしむき。かゞハ郡一宮村。
本尊正観音立三尺五寸、大師御作。
詠歌 さぬき一の宮の御まへにあふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
是より屋島寺迄三里。但仏生山へかくるときハ、一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下へ行バ、一宮より屋島寺まで四里有也。
○かのつの村○大田村、八幡、標石有。○ふせいしむら、八まん宮.○まつなわ村、行て大池有、堤を行。○北村、三十番神宮有、過て小川有。○ゑびす村○春日村○かた本村。これより屋島寺十八町、坂、地蔵堂有。
意訳すると
七十三番一之宮寺は平地に、堂は東向きに建つ。香川郡一宮村にあり、本尊は正観音立で三尺五寸の弘法大師御作である。
詠歌 さぬき一の宮の御まへに あふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
ここから屋島寺までは三里。仏生山へ立ち寄るときには一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下を経由すれば、一宮より屋島寺まで四里になる。
○かのつ(鹿角)の村○大田村、八幡、の標石がある。○ふせいしむら(伏石村)、八まん(八幡)宮.○まつなわ(松縄)村、を行くと大池があり、その堤を通って行く。○北村には三十番神宮があり、そこを過ぎると小川がある。○ゑびす村○春日村○かた本(潟元)村に至ると、これより屋島寺は18町で、坂に地蔵堂がある。
 ここには「堂はひがしむき」とのみあり、東向きの本堂があったことが記されています。澄禅巡礼後に、このお堂が造られたのではないでしょうか。
 「大宝院記録」(安政三年:1857)には、延宝7年(1679)に高松松平家により、田村神社の第一別当寺を解職され、寺領を新たに寄進されたことが記されています。これは松平氏による「神仏分離」がおこなわれたことを意味します。他国の一ノ宮が、明治の神仏分離で別当寺が切り離されたのに対して、近世初頭に「神仏分離」が行われていたとも云えます。その際に、高松藩初代藩主の松平頼重は寺領を与えると同時に、一宮神社の隣接した現在地にお堂を建立したとも考えられます。
松平頼重の宗教政策をいくつか挙げると
①金毘羅大権現の保護育成と朱印領地化、そして全国展開支援
②菩提樹としての仏生山法然堂の建立と保護
③高松城下町の鎮守岩瀬尾八幡の保護
④真宗興正寺派との姻戚関係と連携保護
⑤根来寺・長尾寺などの天台宗改修と保護
これらには政策的・戦略的な狙いをもった宗教手段が執られていたことがうかがえます。一宮と一宮寺の分離にも、何かしらの思惑や政策的なねらいがあったはずだと穿った見方をしたくなります。
寂本の「四国遍礼霊場記」(元禄二年:1689)を見てみましょう
蓮華山一宮寺大宝院
当寺の啓迪年祀久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号す、即猿田彦の命なり。
或は人王第七孝霊天皇の御子とも云、貞観九年御位をすゝめらる。宮は寺の前別に屋敷を構へたり。松樹しげく、木立物ふりにたり。左に花の井といふ名水あり。寺の本尊聖観音立像長三尺五寸.。寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。
意訳しておくと
当寺の歴史は久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号し、猿田彦命を祀っている。
あるいは人王第七孝霊天皇の御子とも云い、貞観九年御位している。宮は寺の前に別に屋敷を構へている。松の樹が繁り、木立が覆って鎮守の森となっている。左に花の井といふ名水(出水)がある。寺の本尊は聖観音立像長三尺五寸。境内には別に稲荷社があり、前に鐘楼もある。
一宮寺 寂本の挿絵見取図
  寂本の挿絵見取図を見てみましょう。
「寺の前別に屋敷を構えたり。」とあるとおり、田村神社(田村大明神)の境内とは別に一宮寺の境内が整えられてきています。また、「寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。」とあるとおり、境内には本堂(大宝院)の他に稲荷社があり、鐘楼が描かれています。
もう少し詳しく見てみましょう
①一宮寺には田村大明神(田村神社)との間に道があり、門は2ヶ所に設置され、南側の門の方がやや広いようです。これが現在の仁王門のようです。
②大宝院と書かれた建造物が東向きなので、これが本堂のようです。
③その北側と南側にも建造物がありますが、これについては、なにも記述はありません。
④境内南東部に稲荷と注記のある祠があるので、これが稲荷社と分かります。
⑤その前面灯籠に挟まれた建物がありますので、これが鐘楼のようです。
⑥境内の塀は竹垣のようで、土塀のようなものはありません。それに比べて、田村神社の周りの塀は立派なように見えます。高松藩の田村神社と一宮寺への「格差政策」のようにも思えてきます。
⑦田村大明神北西隅の外側の一官寺との間の道沿いに小堂があり、花ノ井と書かれています。これが花ノ井出水のようです。
 ここからは田村神社と一宮寺の全体的なレイアウトは、現在と変わらないことが分かります。しかし、一宮寺境内に今ある御陵などの石造物や地蔵堂や菩薩堂は、描かれていません。この時期には、まだなかったとしておきましょう。
3『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)
八拾参番一之宮 蓮花山大宝院
香川郡一宮村 屋島へ三リ、仏生山へまわりて五リ
詠歌 さぬき一の宮のみまへにあふぎて神の心をたれかしらゆふ
本社田村大明神、祭神猿田彦命、宝蔵、本堂本尊聖観音立像 御長三尺五寸、大師の御作、大師堂 方丈の脇にあり。
一の宮町、此所にて一宿.
二十三日 雨天出立 仏生山町、一ノ宮より是迄十八丁。惣門、十二堂、蓮池、仏生山
法然寺、釈迦堂 本尊の涅槃 大師像仏也 常念仏也 上にあり 諸堂多し。是より八島迄三里余、片本村、此所二て一宿。
二十四日 雨天出立 潟本村、此所より八島迄十八町。庵麓にあり 平杖泉  坂半ばにあり、大雨に濁ず 水に不増不減なし くわずの梨子 泉の次にあり 深き古事あり、畳石 薄き石たたみの如し、故号す、念仏石 大師御彫刻の六文字梵語あり 仁王門南面山と額有り、南谷の筆なり。

「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)の挿図を見ていきましょう。一宮寺 四国遍礼名所図会1800

一之宮(田村神社)との間の道に建屋に連続するように門が描かれ、道沿いは土塀で、その他は柵でうなもので囲まれています。
①仁王門から入ると、正面奥に東向きの本堂と思われる堂があります。
②その南側(左)には鳥居と小さな祠があり、稲荷社のようです。
③境内の北側には比較的大きな建物が3並んであります。最も本堂に近い位置にある小堂は、本文に「大師堂方丈の脇にあり」とある大師堂のようです。その他の建物は、本文に記載がありません。④は鐘が吊されているようなので、位置的にも鐘楼のようです
その他は、書院や庫裏など一宮寺の経営を所管する施設としておきましょう。

田村神社については、松並木の参道が南へ伸び、鳥居も南側の街道沿いにあります。鳥居の近くには狛犬も立派な灯籠も見えます。このころには現在と同じように、南側を通る街道からの参道が整備されていたことが分かります。


一宮寺には安政三年(1857)に高松藩へ提出した「真言宗香川郡一ノ宮村大宝院記録」という文献が伝わっています。
 当時の境内にあった建造物や所蔵什物の一覧で、二部以上作成し、一部は役所へ提出し、残りは控えとして保管されていたようです。今は原本は行方不明で、昭和時代にコピーされたものが一部残っているようです。そこには安政三年段階の建造物として、次のようなものが挙げられています。
本門(仁王門)、本堂、阿弥陀堂、祖師堂(大師堂)、稲荷明神
稲荷社、地蔵堂、薬師堂、鐘楼堂、茶堂、書院、庫裏、大蔵、納屋、路次門、建家
 このうち地蔵堂と薬師堂はなくなり、その本尊であった地蔵菩薩と薬師如来は、本堂におさめられています。茶堂、大蔵、納屋、路次門、建家は今はありません。石造物として孝霊天皇石塔と宝医印塔という記載がありますから四国遍礼名所図会が描かれた寛政12年から安政3年までの間に、これらの石造物が移設されたようです。

 棟札等から見える一宮寺の空間構成
一宮寺には本堂の修繕と客殿の建立の棟札2点が残されています。す。これによると、本堂は明治34年(1901)7月に修繕されているので、それ以前の建立だったことが分かります。修繕にあたっては、檀家衆が講を組織して援助しています。また、客殿は文久三年(1863)2月16日の幕末に建立されたことが棟札に記載されています。しかし、安政三年(1857)の大宝院記録には客殿についての記載がないので、この時に新規に建立されたもののようです。建立にあたっては、寒川郡鶴羽村(現在のさぬき市津田町鶴羽)の大工が施工していることが分かります。

ここまでをまとめて研究者は、次のように指摘しています
①一宮寺の縁起では、法相宗の寺院として大宝年間に創建され、田村神社の別当寺として伽藍が整備されたのを、弘法大師がやってきて本尊が安置された際に真言宗に改宗されたとします。これは、他の札所と同じように、江戸時代の大師伝説や大師信仰の高まりが背景にある
②一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺として機能していた。近世初頭までは他の一ノ宮と同じく、一ノ宮が札所であった
③しかし、一宮寺所蔵の「大宝院記録」では、延宝七年(1679)に高松松平家により別当寺を解職された。田村大明神(一宮神社)の管理からは切り離され、札所寺院として機能するようになった。
④このことは、他の一ノ宮の状況とは異なるもので、四国遍路の中では特異な例です。結果的に、明治の神仏分離の影響を最小限に抑えることができた「一宮寺」と言える。
⑤明治維新後は、他の札所と同様に経営状態が厳しい時代もあり、 曼茶羅寺や善通寺の影響を多く受けた。
一宮寺 建造物変遷表
 現代の一宮寺
現在、一宮寺は、上の表の通り境内には仁王門、手水、鐘楼、本堂、大師堂、納経所などの施設のほかに、平成18年(2006)に新たに建立された護摩堂が本堂の北側にあります。本堂の南側には稲荷堂という小さな祠がありますが、これは近世の絵図に描かれていた稲荷社です。境内の南側には小規模の庭園があり、中島を巡るように池が設置されている。中島には凝灰岩製の中世の石塔がありますが、いつごろからこの場所にあったのかについては分からないようです。
一宮寺 現況境内図

現在の一宮寺の諸堂の建立年を見ておきましょう。
仁王門は明治9年ごろ
大師堂は大正年間
大師堂の裏側の相の間及び礼堂は昭和30年
境内南西にある菩薩堂は昭和3年
多くは、近代以降に整備されたものです。境内に南端のコンクリート製の建造物は三密会館と呼ばれ、各種会合や講座等を行う会場として利用されていますが、元々は宿坊として建てられたものののようです。
一宮寺と遍路
記録によれば、境内の建造物の一つとして
「藁葺一建家壱軒(桁行五間/梁行弐間壱尺)
但し四国順拝之遍路共江近村ろ接待仕候節、貸渡候、尚又遍路共寺内等二而、俄二相煩申候節、先不取敢相休せ、急難ヲ相救申候場所二引除申候」

とあり、遍路のための接待施設があったようです。
ほかにも、鐘楼そばの墓地には「一心法印」という墓石があります。裏側には「石州遍路」と刻まれているので、石州から遍路に来た僧侶の墓であることがわかります。
 今まで、私はこの寺を明治の神仏分離で、一宮神社から分離されたものと思い込んでいました、そうではないことが分かりました。感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

                                                                
2014(平成26)年は、空海が四国霊場を開創して1200年目になる年とされ、各札所では御本尊の御開帳や宝物の公開、特別法要など様々な記念行事が行われました。
どうして、2014年が四国霊場開設記念の年になるのでしょうか?
 霊場会は
「空海が815年(弘仁6)、42歳の厄年に四国霊場を開創し、2014年(平成26)が1200年とされる」

といいますがその根拠は何なのでしょうか?よくわからないまま私も各イヴェントに参加していたのですが改めてその理由が分かる文章に出会いましたので紹介します。テキストは 「大本敬久 弘法大師空海と四国遍路開創伝承 ちくま新書四国遍路の世界所収」です。
1四国霊場1200年記念

 815年(弘仁六)、空海が42歳の厄年のときに四国霊場を開創したという伝承が2014年(平成二十六)の千二百年祭の根拠になっているようです。確かに四国八十八ヶ寺のうち、815年を創建年とするのは13ヶ寺あります。それ以前に創建されたとされる寺院でも、弘仁六年に修行等で空海が訪れたという伝承を持つ札所は十ヶ寺あります。つまり、815(弘仁六)年の空海伝承が伝わる寺院は23ヶ寺で全体の約四分の一がこの年に、空海が訪れたことを伝承に持つことになります。ただし、これはあくまで寺伝、縁起で語られる年代で、歴史的事実かどうかはすぐには判断できません。
お遍路を悩む前に必読!霊場住職に聞く『へんろの魅力と心構え』 | LINEトラベルjp 旅行ガイド

815年(弘仁六)に空海が数え年で42歳だったのは、どうして分かるのでしょうか
空海がいつ生まれたかを明確に示す一次史料はないようです。しかし、空海の没年については  朝廷の公的記録である『続日本後紀』には
①空海の没年が835年(承和三)年3月21日であること、
②その時の年齢が63歳であったこと(数え年で)
は詳しく書かれています。そこに記された没年齢により、誕生年を逆算すると774年(宝亀5)となり、774年が生誕年となります。しかし、空海の弟子真済(しんぜい)が著したとされる「空海僧都伝」には、没年が62歳とされています。両者には1年の差異があることになります。
 空海生誕の宝亀四年説、宝亀五年説の二つの説については、もうひとつの有力資料が決め手となるようです。
それは空海の漢詩文集「性霊集(しょうりょうしゅう)」の中におさめられた空海自作の詩「中寿感興詩」に
「嵯余五八歳」(ああ、私は四十歳〔五×八=四十〕になった)

とあります。ここに具体的な年や日付は記されていませんが、最澄が813年11月25日付で書いた泰範宛書簡の中に、空海がこの詩(「五八の詩」)を送ってきたことが記されいてます。ここからは813年に40(数え年なので実年齢は39歳)の寿を迎えたことが分かります。813年-39歳=774(宝亀5)年となります。これが宝亀五年誕生説の主な根拠のようです。現在では、この説が定着しています。つまり、815年(弘仁六)に空海は数え年で42歳であったことが史料的には類推できるようです。 その1200年後は2014年になります。
室戸青年大師像。弘法大師・空海が修行したと言われる室戸岬に建つ
室戸岬の青年空海像

 ただし、平安時代初期の根本史料である『日本後紀』・『日本紀略』を見ても815年に空海が四国霊場を開創したという記述はもちろんありません。
815(弘仁6)年の空海の活動記録として確定できるものは、
一月に陸奥守として赴任する小野琴守に餞別歌を送り、渤海使の王孝廉からの書状の返事を書いたこと、
四月に弟子の康守を東国に派遣し密教経典の流布を依頼したこと、
十月に式部丞仲守のために先父の周忌の願文を作ったこと
が『性霊集』や空海の書簡を集成した『高野雑筆集』に見えるだけです。空海が四国を巡拝した史料はないのです。
1四国遍路 空海と性霊集

ただこの年のこととして『性霊集』巻九に、次のような文章があります。
「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉暉る応き文」
ここからは密教経典の写経を勧め、密教を広く広げようとしていたことがうかがえます。4月5日に東国で活躍していた僧侶の徳一(とくいつ)に協力を要請した手紙も『高野雑筆集』に収められています。
1四国遍路 空海と徳一

徳一は若い頃は奈良東大寺で学び、会津地方に拠点を移して活躍し、茨城県筑波山の中禅寺、福島県磐梯町の慧日寺等の東回約七十ヶ寺の開基とされます。徳一は「三一権実争論」での最澄との論争で有名な僧侶です。彼は南都仏教、特に法相宗の立場で天台教学を批判し、返す刀で空海に対してもその教学への疑間をまとめた『真言宗未決文』を著しているように活発な活動を展開しています。この頃は天台宗や真言宗など諸宗間の論争が高まり、それに刺激されて各宗派の布教活動も盛んになった時期のようです。
空海が四国霊場を開創したとされる弘仁六年は、東国をはじめ全国に真言密教を広めようと活動していた時期でもあるようです。
 見てきたように、当時の史料からは空海が四国に渡って寺院や霊場を開創した記述は確認できません。「空海42歳厄年 四国霊場開創説」を史実として実証することは難しいようです。しかし、空海が真言宗を広める活動を本格的に開始した年とは、いえるかもしれません。
四国八十八ヶ所霊場のはじまりと歴史

四国霊場=空海四十二歳厄年開創伝承は、どのように生まれたか?

これまでの四国霊場開創記念式典の様子を見てみましょう。
開創千年は江戸時代後期の1814年(文化11)になります。しかし、この時に何らかの記念事業が行われた史料はないようです。なにも行われなかったと云っていいようです。ここからは、200年前には、815年(弘仁六)に空海が四国八十八ヶ所を開いたという話は、広く知られた伝承ではなかったことがうかがえます。幕末から明治時代以降に定着した伝承のようです。
「空海42歳厄年 四国霊場開創説」は、どのように定着して行ったのでしょうか?
四国八十八ヶ所の札所寺院を巡ってみると、1964年(昭和39)の開創千百五十年記念や1914年(大正3)の千百年記念で建立、寄進された石造物や奉納物が多いことに気づかされます。
  出版物にも開創を記念して刊行されたものがいくつもあります。
たとえば1914年に三好廣太が著した案内記『四国遍路 同行二人』には、翌年の「四国霊場御開基一千百年」を記念して、この本で得た利益で遍路道に道標を建立しようとしていたことが記されています。この案内記は版を重ね 1925年(昭和10)には21版となっています。広く長く利用されて普及したようです。ここからは弘仁六年開創の伝承が大正時代には定着し、昭和初期にかけて広まっていたことがわかります。
টুইটারে (一社)四国八十八ヶ所霊場会(公式): "「お大師さまと歩む四国遍路」3日目 須磨寺〜淡路島  須磨寺さまで小池猊下をはじめ皆様にお世話になりました。また朝に改めて信者さんと一緒に参拝させていただきました。 今、出発しました。淡路島を目指して  ...
真言宗豊山派の管長を務めた小林正盛の『四国順礼』(1932年刊)によると、
愛媛県松山市にある第五十番札所繁多寺住職の丹生屋隆道らが1907年(明治40)に巡拝した時には、札所寺院の連合組織はなかったと記します。これを結成することが丹生屋たちの願いであり、この年の巡拝の際に住職たちと会う中で多くの賛同を得たようです。この動きが連合組織「四国霊場会(連合会)」の結成につながります。
 真言宗の専門誌『六大新報』五百五十号によると、
「開創事業は四国の各霊場同士の融和をはかり、内外に千年以上にわたる弘法大師の事績や霊徳を広めようと意図」

したようで、1911年7月に香川県の善通寺で「第一回四国霊場連合大会」が開催されています。この時に3年後の1914年(大正3)に「開創一千百年記念大法会修行」の実施が決議されます。翌年の五月には愛媛県の石手寺で第2国連合大会が開かれ、記念法会の具体的な実施案を全会一致で決議します。このように開創千百年の記念事業は、設立されたばかりの四国霊場会によって企画実行されたイヴェントだったようです。
 1914年の第一回の開創事業行事を見てみましょう
2月1日の総供養により開幕し、5月21日までの2ヶ月にわたり多くの霊場で御開帳や宝物展覧会などさまざまな企画が実施されています。例えば
室戸市の最御崎寺では記念事業として護摩堂を総工費二千円で建築
愛媛県浄土寺では境内を修繕して仁王門を再建
石手寺では記念法会や寺宝の展覧会を行うなどして境内には立錐の余地がない程ほど参拝者が多く大きな盛り上がりを見せます。
 それまで霊場間の横のつながりは、ほとんどなかったようです。しかし、このようなイヴェントに協同で連携してとりくむことで、各霊場寺院間に連帯が産まれていきます。同時に境内の修繕や新たなモニュメントが作られていきました。
満濃池を見つめる弘法大師像 - まんのう町、神野寺の写真 - トリップアドバイザー
満濃池神野寺の空海像

香川県の満濃池のほとりの四国霊場別格寺院の神野寺に、本山寺の住職が音頭を取って空海の大きな石像が建てられるのも、この時のことのようです。このように開創千百年を契機として、四国霊場が近代的再編を遂げることができたと研究者は考えているようです。 この四国霊場会が、戦後に「四国八十八ヶ所霊場会」へ発展していきます。
 四国霊場会が開設当初に取り組んだ「開創千百年記念行事」が、その結果として弘仁六年の「空海四十二歳厄年 開創伝承」が定着することにつながったようです。

ただし、弘仁六年開創伝承はそれよりも前の1877(明治10)年代には四国霊場の案内記や由来書に出てきています。明治10年代は、廃仏毀釈による各札所の荒廃が一段落し、は再興に向けた動きが活発になった頃です。新しい時代の四国遍路の出発点となるべき時期で、その機運を現すように多くの案内記や縁起が出版されています。
 周防大島出身で280回も四国を巡拝した中務茂兵衛は『四国霊場略縁起道中記大成』(1882年刊)の序文に
「夫四国人十八箇所拝礼の権興(はじまりの意)ハ往昔嵯峨天皇の御宇弘仁年 中真言開祖弘法大師四拾二歳の御時末世衆生済度の験力を興し(中略)梵字を建立」

と、空海が42歳の時に八十八ヶ所を建立したことをが記しています。このような42歳開創説は明治時代以降には称えられ始め、1914年の千百年記念で定着したといえるようです。

八十八番札所大窪寺の幕末の縁起には、行基菩薩が開基、弘仁年間に四十二歳の弘法人師が再興し、八十八番札所にしたとあります。
ここからは四国霊場を42歳の大師が開創したという伝承は、幕末までは産まれていたことがうかがえます。しかし、それがどの時期まで遡ることができるかは分かりません。
秘境徳島、四国88カ所寺巡り(薬王寺・太龍寺)』阿南・日和佐・海陽・那賀(徳島県)の旅行記・ブログ by Yumingさん【フォートラベル】
 厄払いの寺として有名な徳島日和佐の薬王寺

四十二歳の厄年の習俗、慣習は江戸時代以降に定着した新しい風習です。
一般的には厄年は男性二十五歳、四十二歳とか、女性十九歳、三十三歳とされます。徳川将軍家でも、厄払いのため寺院に参詣することが始まるのが1700年代の半ばのことになるようです。11代将軍の徳川家斉が25歳や42歳の厄年の厄除けのために関東の川崎大師平間寺(へいけんじ)に参詣するようになります。それに影響された庶民が四二(「死に」)や三三(「散々」)の厄年の時に厄を落とそうと社寺参詣が広まっていきます。このように厄払いが庶民の間に定着していくのは江戸時代の中期から後期です。つまり、空海が42歳の厄年の時に四国霊場を開創したというのは、「厄年習俗」の歴史から考えても江戸時代後期以降に成立した伝承だといえるようです。
1四国遍路 薬王寺厄坂

四国霊場の中には徳島・日和佐の薬王寺のように厄払いの寺として売り出している寺が数多くあります。薬王寺では、厄年に準じた階段を作り、厄払いのシンボルにしている所もあります。厄払いの風俗が四国にも定着してきた時期に、「四十二歳の厄年に空海が四国霊場を開いた」というのは、新たなセールスポイントになったでしょう。ある意味42歳でないと、その「商品価値」は下がってしまします。そこへ42歳の男達が厄除けにお参りするというのは、何かしら説得力があるように思えてきます。
四国八十八ヶ所霊場会公認のバッジ - お遍路コンシェルジュ~ひょいと遍路へ 晴れきってゐる

 これも弘法大師伝説が生み出したもののひとつかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     大本敬久 弘法大師空海と四国遍路開創伝承 ちくま新書四国遍路の世界所収

  
現代の四国遍路では、札所の本堂・大師堂の前で読経を行うのが霊場会の作法となっているようです。そして、
開経、懺悔文、三帰、三境、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、般若心経、本尊真言、光明真言、大師宝号、回向(えこう)文

の順で唱えていきます。この中で般若心経は外すことができないものとされます。私も巡礼の際には、にわか信者になって般若心経をお勤めしてきました。しかし、般若心経は江戸時代初めには、唱えられていなかったようです。
おきらく道場 続・お遍路本

1687年(貞享四)の真念『四国辺路道指南」には、仏前勤行について
「本尊・大師・太神官・鎮守、惣じて日本大小神祗・天子・将軍・国主・主君。父母・師長・六親眷属」などに礼拝し、「男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

とあります。ここには光明真言や大師宝号を唱え、御詠歌を詠むとはありますが、般若心経には全く触れられていません。
これに変化が現れるのは19世紀になってからです。1814年(文化11)に刊行された『四国編路御詠歌道中記全』は、札所の本尊図と御詠歌を中心とした簡単な案内書です。そこには、遍路の効能を書いた序文の次に、「紙札打やうの事」とあり、その後に十三仏真言、般若心経、十句観音経、懺悔文が載せられています。今のところこれが般若心経を載せる最も古い案内書のようです。しかし、一般には広がっていなかったようです。般若心経を唱える人はわずかだったのです。 
明治時代の仏前勤行
明治になると1868(明治元)に神仏分離令が発布され、 各国の一宮などの神社が札所から排除されて、八十八の札所はすべて寺院となります。 一方で、廃仏毀釈運動の高まりの中で住職が還元していなくなり廃寺になった札所も少なくなかったようです。さらに3年後には、寺社領上知令が出されて、今まで持っていた寺領が新政府に没収されます。明治初年は、四国遍路だけでなく日本の仏教界にとって経済的な打撃も与えました。
 このような中で仏教側からの建直しと「反攻」機運も出てきます。
札所の多くが属する真言宗では檀信徒への布教・教化を積極的に進めていくために、在家勤行法則を制定します。これまで真言宗では布教や教化はあまり重要視されていませんでした。しかし、神仏分離・廃仏毀釈という今までにない危機のなかで、檀信徒に対して真言宗の教えをわかりやすく説く必要が認識されたようです。こうして1880年に真言宗各派が東京に集まって第一回布教会議が開かれます。、そこで作成されたのが「在家勤行法則」(著述人・三条両乗禅)のようです。
東寺 真言宗 在家勤行法則』京都みやげ経本 - 川辺秀美の「流行らない読書」

この「在家勤行法則」は、次のようなもので構成されています。
懺悔文、三帰、三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、光明真言、大師宝号・真言安心和讃・光明真言和讃・回向文」
からなっています。見れば分かるように、これから2つの和讃を除くと、現在の四国遍路の仏前勤行になります。どうやら明治の「在家勤行法則」が原型になっているようです。しかし、ここにはまだ般若心経はありません。
明治になると、江戸時代までのものとはちがった新しい四国遍路案内書が次々に登場してくるようになります。
1四国遍路案内一覧

この表は一番左が出版された年で、明治以降に刊行された案内書の仏前近郊主なものを並べたものです。右のページの二番目が般若心経の列ですが、その数はそれほど多くありません。昭和の戦後になってからのものには、般若心経が入っているようです。

1四国遍路 勤行法則pg

明治の遍路者は実際には、どのような仏前勤行を行っていたのでしょうか。
1902年(明治35)に遍路に出た菅菊太郎の巡拝記を紹介した「佐藤久光『四国猿と蟹蜘蛛の明治大正四国霊場巡拝記』岩田書院、2018」には、
「遍路者は、祈念文、懺悔文、三竟、三党、十善戒、光明真言、大師宝号、十三仏真言によって「一通りお勤が済む」が、丁寧な者は般若心経、観音経、真言安心和讃、光明真言和讃、弘法大師和讃などを唱える」

と書かれているようです。ここからは祈念文から十三仏真言までが「標準」で、般若心経を唱えるのは丁寧な遍路者に限られていたことが分かります。
お経をよむ|遍路道(歩き遍路ブログ)

十大正時代以降の仏前勤行は?
明治の仏前勤行は、般若心経が唱えられることはあっても一般的ではなかったようです。大正時代になっても状況は変わりませんが、研究者が注目するのが1910(大正9)に出された丹生屋隆道編『四国八十八ヶ所』です。この本の著作兼発行人は50番札所繁多寺の住職さんです。そして発行所は、四国霊場連合会となっています。ここにも「勤行法則」の中に、般若心経はありません。序文には、1918年の第6回四国霊場連合大会の決議によって、この案内書を作成したとあります。四国霊場連合会は、明治末年の1911年(明治44)に第一回大会を善通寺で開催して、活動を開始していたようです。そして、第一次世界大戦後の大正時代には、まだ般若心経は入っていないことが分かります。

昭和になると、安田寛明『四国遍路のすゝめ』のように仏前勤行に般若心経を含める案もありますが少数派です。そう言えば、山頭火などの巡礼記録を見ても般若心経は出てこない気がします。
それでは、いつから今のように般若心経が唱えられるようになったのでしょうか。それは、どうやら戦後になってからのようです。

白衣姿の遍路が登場するのはいつ頃から?
般若心経とならんで遍路の必需品とさえるようになった白衣は、いつ頃からのものなのでしょうか。真念の『四国辺路道指南』には、やはり白衣は登場しません。
1四国遍路 江戸時代の遍路姿

江戸時代後期の『四国遍礼名所図会』や『中国四国名所旧跡図』(上図)に描かれた遍路者も紺、縞、格子の着物を着ているようです。
88箇所遍路

幕末に書かれた喜多川守貞の『近世風俗志』(『守貞漫稿』)には、四国遍路について、次のように記されています。
「阿州以下四国八十八ヶ所の弘法人師に詣すを云ふ。京坂往々これあり。江戸にこれなし。もつとも病人等多し。扮定まりなし。また僧者これなし」

 「扮定まりなし」とあるおで、決まった装束はなかったことが分かります。それは、明治に入っても変わりません。
愛媛県松山市野忽那(のぐつな)島の宇佐八幡神社に1884年(明治17)に奉納された絵馬には四国遍路の道中の様子が描かれています。男性が5名、女性が12名(うち子供2名)みえます。着物は、全員が縞模様や格子など柄物です。
1四国遍路 meizino 遍路姿

上の写真は、愛媛県西予市宇和町の山田大師堂に奉納された明治時代の四国遍路の記念写真です。これも全員が着物姿で白衣ではありません。このように、明治になっても遍路者は白衣を身につけていません。
白衣がみられるようになるのは昭和になってからのようです。
旧制松山高等学校教授の三並良は、
「青々した畑の間を巡礼が白衣でゆく姿がチラ/ヽと見え、鈴の音が聞える」
(三並良「巡拝を読む」『遍路』1932一九三二)
旅行作家の島浪男も
「お遍路さんに二組三組出会ふ。白い脚絆に白い手甲、着物はもとより白く、荷物を負ふた肩緒も白い」
(島浪男『四国遍路』宝文館、1930)と書いています。1936年(昭和11)に遍路に出た女性は、
「当時は先達以外に、白衣を着る人はいなかった」
(印南敏秀「戦前の女四国遍路」『技と形と心の伝承文化』慶友社、2003)と述べています。
「四国巡拝の手引」(1932年)に
「服装は平常着の儘にて、特に白衣などを新調する必要なし、但し白衣の清浄で巡る御希望ならばそれも結構です」

とあります。ここからは戦前は先達は別として、普通の遍路が白衣を着るのは珍しいものだったようです。




 戦後に社会が落ち着いてくる昭和20年代後半になると遍路に出る者が再び、増えてきます。
1953年(昭和28)に出された案内書『四国順礼 南無大師』(四国霊場参拝奉賛会)の「巡拝用品」にはまだ白衣はみえません。
岩波写真文庫の平均価格は511円|ヤフオク!等の岩波写真文庫のオークション売買情報は63件が掲載されています

1956年の岩波写真文庫『四国遍路』(岩波書店)には札所や遍路者の写真が数多く収められていますが、遍路者の約半分が白衣姿のようです。
1四国遍路姿 岩波

そして高度経済成長が始まる1960年代始めに出された案内書『巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店)には、
「四国は今に白衣姿が一番多く、次いでハイキング姿です」

と紹介されます。いよいよ白衣の流行の時代がやって来たようです。こうしてみると、白衣が普及するのは思っていたよりも新しいようです。昭和の高度経済成長時代に、貸切バスで先達さんに連れられた遍路の団体から流行が始まったのかもしれません。先達さんだけが着ていた白衣が、かっこよかったのかもしれません。あるいは、先達さんの勧めがあったのかもしれません。どちらにしても白衣も般若心経も案外新しく戦後になって定着したもののようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界 ちくま新書



四国遍路を正式に行おうとすると、納経帳、般若心経、白衣は必需品のようです。白衣を身につけ、本堂と大師堂で般若心経を唱え、納経帳に納経印をもらうというのがお決まりの作法のようになっています。これは、いつからそうなったのでしょうか。
今回は遍路スタイルの変遷について見ていきたいと思います。
テキストは「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界」所収 ちくま新書」です
四国遍路の世界(筑摩書房) [電子書籍]
最初の四国遍路のガイドブックといわれる真念『四国辺路道指南(みちしるべ)』1687年刊の冒頭には、遍路者へのさまざまな注意書があり、納め札、笠、杖、脚絆などについては詳しく書かれています。しかし「納経帳、般若心経、白衣」のことは、どこにも触れられていません。当たり前なので触れなかったのではなかったようです。真念の時代の遍路者は、白衣を着ず、納経帳を持たず、般若心経も唱えていなかったようです。では、いつころからこれらは普及したのでしょうか。
天保11年(1840)四国八十八ヶ所の納経帳 | 古今御朱印研究室
天保8年の納経帳

今回は納経帳について見ていきたいと思います
寺社に経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状を納経状といい、それらを集めて帳面にしたものが納経帳と呼ばれます。ここで注意したいのは「経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状」が納経状であるということです。つまり、経典を納めない者には、出されることは元来はなかったのです。

御朱印の歴史(1)御朱印の起源-六十六部 | 古今御朱印研究室
 
この「納経帳」を最初に採用したのは「六十六部」のようです。
六十六部とは、日本全国六十六ヶ国を巡り、各国の有力寺社(決まってなくて随意の寺社)に法華経を本納するという巡礼者のことのようです。六十六部の納経状の最も古いものは12世紀のものが知られていますが、中世の六十六部の納経状は数も少ないようです。つまり中世に六十六部巡礼者の数も多くなかったのです。 それが世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部の活動が行われていたことが大量に残された納経帳からうかがえます。彼らの活動状況はからは次のようなことが分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
と、長期間をかけて各国を回るようになり、その数も急増したことが分かります。
一之輔独演会 花見の仇討ち - garadanikki

どんな経典が納められていたのでしょうか?納経帳に記された奉納経典についてみてみると
18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。そして1760年代以降になると、奉納経典は記載されなくなったようです。
焼津市/横山九郎右衛門の六十六部廻国関係資料
六十六部の残した納経帳

納経帳の書かれた奉納経典の変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経寺社数が100以下の限られていた時期ならともかく、巡礼する寺社数が増えるにつれ、難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなったようです。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯を研究者は考えているようです。
四国69番 観音寺〈文政8年〉
文政8年の納経帳 讃岐観音寺

四国の札所の納経帳は、六十六部の納経帳のスタイルを真似たものとして登場するようです。
六十六部が四国を巡った際に、札所にもあわせて納経します。すると六十六部の巡礼者は四国札所の納経帳が出来上がることになります。そこには四国の札所の多くに納経したことが記されています。これはあくまで六十六部の納経帳であり、四国遍路の納経帳ではありませんでした。しかし、これを見た遍路の中に「あれええな、わしも作ろう、朱印を集めよう」と思う者が出てきたのでしょう。 

四国八十八ヶ所の納経帳は、いつごろから登場するのでしょうか
四国遍路者の納経帳で、今のところ最も古いとされているのが1753(宝暦3年)のものです。18世紀後半になると四国遍路の巡礼者も納経帳を持って四国をを巡るようになったようです。
中古】満願達成 重ね印 四国霊場八十八ヶ所 明治16年 弘法大師誕生1200年 淡路島七福神 納経帳 御朱印帳 御影帳 まとめて /お遍路巡礼札所  の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

どうしてこの時期に納経帳が普及するのでしょうか?
第1の理由は、納経帳の持つ魅力だと研究者は考えているようです。
納経帳には各寺社の本尊や祭神が大書されてあり、単なる書類綴りとは異なって諸国の神仏を集めた「神名帳」としての意味を持っていました。納経帳は、各札所を廻った証であるとともに、神聖なもの、ご利益をもたらすものと人々は考えていたようです。

19世紀初期に大坂で、四国遍路の普及につとめた菱垣元道は、四国遍路の入門書と納経帳がセットになった『四国道中手引案内納経帳』を作り、五万冊以上を無料配布します。そこには、次のような事が記されています
①納経帳を持って遍路をすると、持たない場合に比べて功徳が七倍になる
②納経帳を一枚ずつ水に人れて飲むと流行病にかからない
③納経帳を死後棺桶に人れると極楽往生できる
などの効用が説かれています。ここまで言われると納経帳はありがいものに思えてきます。納経帳は、神聖でありがたく、効能があるものとされるようになったのです。

納経帳普及の理由の第2は、 18世紀後半になると経典を奉納しなくても納経印がもらえるようになったことです。
真念の時代の四国遍路では、八十八の寺社にお札は納めてはいたが、経典を納める慣習はなかったようです。先ほどの六十六部の所でも触れましたが、当時は、経典を奉納しないと納経印がもらえなかったのです。納経印をもらうために、大量の経典を写経したり、買ったり出来る人は限られています。そこまでして納経帳をつくる遍路者はいなかったでしょう。しかし、18世紀後半になると、納経料さえ払えば納経印がもらえるようになります。この変化が巡礼者の多くが納経帳を持つようになった背景ではないかと研究者は考えているようです。

まとめておくと、
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこない。
②実際に納経を行っていた六十六部は「納経帳」を残している。
③四国遍路の四国遍路の納経帳は、六十六部の納経帳から生まれ、18世紀の後半から四国遍路者の間に普及した。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったこと
⑤納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界所収 ちくま新書」です

 「大覚寺差止め八か条」で、海岸寺は次のようなキャッチフレーズは差止(使用禁止)となります。
「御誕生之霊跡」「御降誕之霊地」「御初誕之地」「御産生所」

また「弘法大師生誕地」と称していた次のものついても使用停止処分となります。
海岸寺の縁起  奥の院産盥堂の勧進帳  建石之事(丁石) 
案内切出之書付(道案内図)
 
そして「藩の申し渡し」によって、
①産盥の参拝者への公開禁止(没収は免れた)
②産盥堂は「再建」としては認められないが新築することは許された
⑤屏風浦の称号使用禁止(頭書や肩書きとしては許された)
  この2つの決定により「弘法大師=多度津白方生誕」説は、息の根を止められたかというと、そうでもないようです。以後も生き続け、庶民の間には流布され続けたようなのです。その実態を追いかけて見ようと思います。
まず、裁定が出された後の海岸寺の動きを見てみましょう。
  上のような決定が海岸寺に通達されるのが文化十四年(1817)の春3月23日のことです。しかし、海岸寺は申渡し事項を前向きに守ろうとする態度ではなかったようです。翌月の4月4日には「弘法大師生誕地」と書かれた「切出し」(案内図)を配布していたことで、多度津藩からの取調べを受け、始末書を差し出しています。その始末書には
「切出しを旅人たちへ配布したのは、信徒世話人の中の勝手の分らない者が、以前に刷っていたものを配布したものである」

と弁明しています。藩では、その世話人の名前を調べて差出すようにと命じます。それに対しては
「切出しを配布した世話人は、会式の時などは大勢入り込んで世話してくれるので、今になっては名前は分らない」

と弁明を重ねるばかりです。
これに対して藩は、実力行使に出ます。4月8日に縁起と絵図の板木、また大師初誕の像に屏風浦と書いた「切出し」の板木を没収します。同時に、産水の井や浴巾掛の松の建札を取払うように命じています。海岸寺はここでも「畏み奉る旨」の始末書を差し出します。
 ここからは、裁定後の海岸寺の姿勢がうかがえます。同時に海岸寺の信者の中には、裁定について反発する動きがあったのかもしれないと思えます。
 6月13日、海岸寺に対し差止を命じた「條々完了の旨」の通達が多度津藩から丸亀藩を経由して、善通寺に次のように通知されています。
     覚
大師御誕生所一件落着後追々片付候条々                      
一、納経帳ニ産盥堂と認候之儀被差止候事  
一、産盥堂と認有之候 建石書直之義被申渡候事  
一、産盥堂と書付有之雪洞六帳並びに同断認メ之幕二張為取払候之事  
一、産盥堂絵図と板木並びに大師初誕御影板木被取上候事
一、湯手掛松建札並びに二産水ノ並びに建札為取払候之事  
一、海岸寺縁起可取上旨被申渡候処 大覚寺御門跡御用二付差出置候処 今二御差下無之旨海岸寺より申出候事 
 右の通それぞれ取片付相除申候。以上
       (丸亀藩寺社方) 土岐権之襄。
                菅四郎兵衛
誕生院                                                                      

どんなものが海岸寺から没収・撤去されたのかを見ておきましょう
①納経帳に産盥堂と書かれているのを差し止めた
②産盥堂と彫られた建石(標石)を書直すように申し渡した
③産盥堂と書かれた雪洞(ぼんぼり)六帳と幕二張を取り払った
④産盥堂絵図・板木・「大師初誕」と彫られた板木を没収
⑤湯手掛松と産水の建札を取り払った  
⑥海岸寺縁起については、大覚寺に差し出したのでないことが海岸寺から申出があった。
 以上の通り、裁定に従って、没収・撤去した。以上
3月に丸亀藩と多度津藩で協議された内容に従って、「実力行使」が多度津藩の寺社方の立ち会いのもとで行われたようです。一応これで、一歳に方がついたと思われました。このような争論の結果が讃岐の人々には、どのように受け止められたのかを見てみましょう

海岸寺敗訴の裁定が下されてから約10年後の文政11(1828)年に出版された「全讃史」には、次のように記されています。

文化年間に、海岸寺は白方が屏風浦であること、又大師産盥石があり、熊手八幡宮が大師の氏神であることを朝廷に訴え善通寺誕生院と争った。数年にして誕生院は傾きかけた。そこで誕生院は多くの関係者に助力を求めた。そして、一条関白殿下から善通寺が誕生所で、修学所であるとの額を頂いた

  ここには。事実にまったく反することが書かれています。
事実経過をもう一度整理しておくと
①海岸寺が、誕生院を朝廷に訴えたのではなく、誕生院が海岸寺を、丸亀藩へ訴へたのです
②善通寺が藩の援助を受けたのではなく、反対に海岸寺全面敗訴が、多度津藩主の「政治的な圧力」で名目を保つことができたのです
③一条関白が、誕生所の額字を誕生院に寄贈したのは、訴訟後のことです。『全讃史」善通寺の條の中にも次のように記されています。
一条関白従一位左大臣忠良公、賜額字弘法大師誕生之場(八大字)共落款云、文政元年五月二日、開白忠良題

 争論の裁定は文化14年(1817)に終わっています。額が送られたのは文政元(1818)年五月二日のことです。 遠い昔のことではありません。裁定が下されてからわずか10年しか経っていないのに、このような誤りがれっきとした歴史書に載せられたのはなぜでしょうか。
二つのことが考えられます
①報道の自由が保障されていない当時は、真相を知る術がなく流言が飛び交った。積極的に海岸寺に有利な流言をながした集団がいた。それを信じた編者中山城山が『全讃史』に、そのまま記した。もっと云えば「弘法大師生誕地=善通寺」を受けいれられない信者集団がいたということかもしれません。
②編者中山城山が善通寺に悪意を持っていた。

まず①の 「多度津白方=空海誕生地説」を流布した信者集団の母体と広がりを考えます
 確かに善通寺が誕生所であることは、綸旨や院宣に書かれています。しかし、民衆からすれば「綸旨、院宣」が何であるか分らず、その内容も知らない者も多くいたようです。そして、大師は白方で生まれ、白方が屏風浦だと信ずる信者集団がいたということです。このことについては、以前にもお話ししましたので、要点だけを紹介します。
白方を屏風浦と言い、大師は白方で生まれたと言い出した最初のものは「空海混本縁起」のようです。
  ここには次のように空海の出自のことが記されています
 .讃岐多度郡屏風浦に、藤新太夫と申して猟師一人有、其内に阿古屋と申て女一人有ますが(中略)
無程懐人仕給ふ 夫人間は9月半ばの胎内とは申せども、私ならぬ人なれば十三月の御産の紐をとき給う。その時の年号は宝亀5年寅年六月十五日、寅の一天御産の紐をとき給ふ、御子取上げ見給ふに、かけも形も世にすぐれ、うつくしき男子也。然るに此子程なく、夜鳴を仕給ふ事限なし、其時地頭政所村七軒、地頭七人の身の上を聞き、急き子捨よと仰ける、御母其由聞召、我は是四拾のいんに餘りて、子を一人も持たず、人はとも言へかくもあれ捨る事は成るまじきと仰ける、藤新太夫申けるようは、王公に住身のならいなれば捨ずば如何可有やと急き此子を捨よと仰ける、御母此由聞召、金の魚を御夢想たるに依て、御名を金魚丸殿と付て綿(私注、錦か)に包、彼の千暮[ケ原に捨給ふ云々
その後、善通寺の徳道上人に拾われ、善通寺で産湯を使ったので、善通寺を誕生院と呼ぶことになったというのです。しかも父は「藤新太夫」、母は「阿古屋」とします。善通寺の「父・佐伯善通寺、母・阿刀の娘」に真っ向から反する記述です

 一方、母の阿古屋の夢想の中に老僧があらわれます。そして次のように告げるのです。「小兒の夜鳴の声は、母の胎内でいる時からお経を読んでいる声である」と。
 母はよろこんで、白方屏風浦へ迎えて程なく七歳になります。そこで、福寿丸と名を付けかえ、善通寺へ送ったいう風に物語は展開していきます。
この「混本縁起」のあとに「弘法大師四国八拾八箇所山開」(略・山開)が出てきます
勿体なくも讃州多度の郡白方屏風浦に佐伯善道様御むつましう御くらし、其時あこや御前の御腹をかり、十三付きの間御もちなされ、賓亀五年六月十五日、寅年寅の月、寅の刻に御たんじょうなされ、あこや御前はしかとだき、せんだん山にすて子なされし。其時せんだん山の師生通りかかり、これふしぎなる御山にあか子なきこへとおもへと法華経よむようにきこゑ、御そばに立より、がんしょくはいし奉れば、日月の如し、御身は佛の如く相見え云々

 この「山開」は読んでみて分かるとおり、分かりやすく卑俗な文句で仮名付きで書かれていて、誰にでも読める物語風になっています。もともとは、先達(山伏)たちが信者に語り聞かせたものと研究者は考えているようです。この「山開」の終りのところには「光明真言の訓読」が付け加えてあります。そして、
ありがたい経文と心得、大師を祀ったお堂の前などで節づけで唱えよ

と先達から教えられたようです。今でも八十八か所の札所では、五人、十人と巡拝者が声をそろえて合掌する姿を見ることがあります。 さらには、神社寺院の縁日などで、この「山開」の
  「百丁くだればすかわさん、くわずのかいにくいわずのいも、年に三度の栗もなる」

のフレーズを称えながら「くわずのいも」を売るものも現れます。まさに「売り言葉」としても使われるようになるのです。
 また四国遍路の順拝者が物乞いをするときには、この「山開」を一流の節で詠じ、鈴を振り戸毎に立ちました。これは「弘法大師生誕=白方屏風浦」の流布宣伝の大きな武器になったようです。こうして、「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、四国遍路によって四国全体にも広げられて行ったようです。
海岸寺が産盥堂を建て「白方海岸寺誕生」広報プロジェクトを進めれば、人が集まってくる素地は十分あったようです。「藩主裁断」という一片の通達で、庶民の信仰を葬り去ることはできなかったようです。

 「弘法大師生誕地」や「屏風浦」が、歴史書にどのように記されているのかもう少し見てみましょう      
讃州府志(延享2(1685)の屏風浦の項目には、次のように記されています
行状記に曰く、屏風浦は弘法大師の生誕地である。五岳山があり、その形は屏風に似ていることから来ている。大師が云う王藻に帰る島のことで、巨樟の影落とす浦である。ここには堂舎があり、三角堂と呼ばれ、大師像が安置されている。その西の山側には、石臼のような石造物があり、これを大師の産盥と称している。また、清水涌く井戸が有る。弘法大師の氏寺と伝えられる(熊手)八幡宮があり、その北側は海である。

ここに記されている建物の位置関係を見てみましょう
①屏風浦は弘法大師生誕地で、五岳山の麓に善通寺がある
②屏風浦の三角寺に大師像が安置されている。(白方の三角寺佛母院のこと)
③弘法大師の産盥があるのが海岸寺奥の院
④弘法大師の氏寺が熊手八幡である。
ここからは『讃州府志』の大師誕生の屏風浦は、善通寺と佛母院と、海岸寺と熊手神社が隣接したエリアにあり、これらの全てが「屏風浦」に位置すると理解していたようです。作者が現地を訪れていないことがうかがえます。現地調査を行い史料を収集した後に、著述するという姿勢はありません。

これらの書物を参考にして、後世に歴史書を書こうとする人たちは迷ったはずです。空海の生誕地、屏風浦の範囲やエリアなどがきちんと書かれている史料がないのです。
  例えば、綾氏一族の香西氏顕彰のために軍記物語を残した香西成次は
①南海治乱記では、善通寺は弘法大師生誕地と記し
②南海通記では、屏風浦は白方だと記します。
このような曖昧さが当時の知識人の間にもあったのです。

話を全讃史の編者・中山城山に戻して、彼が「善通寺に悪意を持っていた」という仮説を検討してみます。
このことについては、弘法大師生誕地をめぐって争論した善通寺と海岸寺の「応援団」に目を向けてみたいと思います。海岸寺の本寺は大覚寺で、法親王が住職される宮門跡の大寺院です。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が目白押しです。
 それに比べて善通寺の本寺である随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡で、讃岐には善通寺以外に末寺はありません。善通寺と海岸寺だけで比べると、善通寺が圧倒するように思えます。しかし、その背景に控える寺社ネットワークを見ると、善通寺は讃岐国内で孤立していることが見えてきます。
 つまり、讃岐において真言系寺社は同門の海岸寺を密かに応援していたことが考えられます。僧侶達は知識人集団で,言論出版に大きな影響力を持っています。大覚寺系の末寺は、海岸寺に有利な世論工作を行っていた節があります。その動きの一翼に「全讃史」の編者もいたと私は考えています。裁定に破れても、海岸寺の「弘法大師生誕地=多度津白方」説を、信じて支援するエネルギーが各所にあったということでしょう。

裁定から80年近く経った明治29年(1896)の3月11日のことです。善通寺の住職が、高野山宗長に次のような要請を書状で依頼しています。
議岐国多度郡白方村  海岸寺
右寺近年切二庶人二封シ弘法大師御誕生所卜称シ居候。既二客歳春該院二於テ開帳セラレシ際 縁起ヲ聞クニ専ラ御誕生所ト唱へ候テ 庶人ヲ惑致居候往昔ヨリ善通寺ハ御誕生所十ル事歴史上ニ於テモ皆人ノ知ル所ナり。
 然ルニ海岸寺二於テ御誕生所ト称シテ 庶人ヲ証惑スル段重々不都合二候 去ル文政十四年度ニモ海岸寺は御誕生所を偽称致候二付嵯峨御所並びに藩政ノ裁決ア仰キ候 未だ海岸寺ハ十数ケ條ヲ以テ差止メラレ候(今其のケ条のいくつかを挙げると)
一 綸旨院宣ニ差障り候条誕生所二紛敷義無之様急度可為無用事
一 産盥卜相唱候石器 庶人へ見セ候義ハ急度可為無用(きっと無用たるべし)
一 湯手掛/松ノ建札並びに産水ノ井建札取払ノ事
明治29年3月11日
            讃岐国多度郡善通寺
            別格本山善通寺住職 佐伯法遵

本宗長者
権太贈正 鼎龍暁段
意訳すると
海岸寺について藩政の頃から禁止されているのにも関わらず、今また産盥と称し信者に参観させるばかりでなく、湯手掛の松や産水並びに木札を建てるようになりました。それだけでなく近年は弘法大師誕生地を公称するようになりました。誕生地が2つもあることは信者を戸惑わせるだけでなく宗祖系譜の乱れにも通じます。
 文政年間の裁判の通り、断固たる処置をとることはもちろん、誕生地を称する事について厳しく禁止させるように指導して頂きたい。なお海岸寺が禁止されている行為を参考のためにいくつか以下に挙げます。
一 善通寺が弘法大師誕生地であるという綸旨院宣に差障りのあることを流布することの禁止
一 産盥称する石造器を信者に拝観させることは禁止
一 湯手掛松や産水ノ井などの建札は禁止

 明治になって新時代が到来したことを背景に、海岸寺が再び「弘法大師=白方生誕説」を流布して、参拝者を招き入れていることが分かります。それだけこの説を支持する信者が多くいたということなのでしょう。
 今では地元では「空海生誕地=善通寺誕生院と多度津白方」が同居しているような感じもします。空海の生誕地がふたつあることを、余り違和感を持たずに受けいれられているような雰囲気がします。信仰というものは、藩主の一片の書状では変えることはできないようです。根強く残る多度津白方生誕説の背景を見ながら、そんなことを感じました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、18世紀末頃から白方の海岸寺が奥の院の整備を進めます。その集客のために流布されたのが「多度津白方=空海誕生地説」で、目玉とされたのが空海が生まれた時に使われたと称される「産盥」でした。
 これに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴します。海岸寺は、自らの主張を譲らずに調停は行き詰まり、京都に舞台を移しての海岸寺と善通寺の本寺間の協議が1年近くにわたって続けられます。
 その結果、下された裁定では、「弘法大師生誕地」などの差し止め請求は認められますが、海岸寺が頑なに主張した「産盥」「屏風浦」「別院(奥の院)」の3つについては、地元のことなので丸亀藩の裁断を改めて仰げという内容でした。海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が全面的に認められることはありませんでした。
 善通寺としては、今度こそ丸亀藩にきちんとした判断と対応を取ってもらわなければならないと考え、対丸亀藩工作を強化します。今回は、京都での調停工作の後を受けて丸亀藩がどのように動いたかに焦点を絞って、善通寺と海岸寺の争論の行方を追ってみたいと思います。
 
  丸亀藩は、善通寺・海岸寺の双方から報告書や史料・弁明書を提出させた上で、審理を行います。そして、使節団が京都から帰ってきて約1ヶ月半後の文化13年(1816)10月15日には、家老・岡織部、岡頼母、佐々九郎兵衛の名前で、多度津藩家老・畑六郎宛につぎのような見解を書面で送っています。意訳のみ紹介します。

此度の一件についての九亀藩の見解を手紙で通達する。
多度津藩白方海岸寺については近年、大師誕生所との縁起を流布しているとの申し立てがあった。善通寺の寺社経営にとって見過ごす事の出来ない状態になっていると丸亀藩寺社役に提訴があった。善通寺誕生所は、綸旨・院宣などから弘法大師の生誕地であることは明白であるとして、海岸寺の流布中止などを求めたが協議は進まなかった。そこで、誕生院は京都随心院御門跡へ提訴し、大覚寺御円跡のもとで妥協点を探った結果、次のような裁定が下りた。
縁起   勧進帳  建石之事   船問屋共ち差出候路案内切出之書付 御誕生之霊跡  御降誕之霊地 御初誕之地 一御産生所

以上の8項目については、海岸寺が使用することを差留にするという決定である。このことについては多度津藩から海岸寺へ仰せつけ頂きたい。随心院からの申渡しは、善通寺誕生院に対しても行われている。先頃誕生院住職が帰国し、その報告書が寺社方に提出されたので、直接面談して内容を確認した。確かに3事項については、地元に関することなので領主による裁断を仰ぐことになっている。何分にも綸旨院宣に触れることなので、今後に紛らわしきことがないように、審理を尽くし裁断したいと思う。
 以上に続けて、丸亀藩主は次のような感想を述べたと書き送っています。   

(丸亀の殿様)へ達御聴候所、
右者事之相決候儀、海岸寺ニ年古くク申触候共畢竟寺説之儀 
誕生院者大師誕生之土地者、綸旨之之中二事明白二相分居候儀二付種々之誕跡も現在二候得、右迄を以不及論。
 既ニ海岸寺答書ニも、誕生院義者大師誕生之霊場二而綸旨院宣等顧然之事者兼而承知候趣書載有之、傍以疾クニも役人共中為差押可申処、左も無之長々及差縫ニ、剰京都迄願出候之様為成行、前段之通為元之御裁断ニ被任候様之及旨儀ニ、於御領法難相済甚以御不快ニ被為思召候。且又明王院海岸寺義茂一宗之儀二而、右様之訳合能ク乍存重キ綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有問敷次第言語道断沙汰之限二付、於御領法巌敷御否被仰付候而も可然筋二候得共、於本山ニも事穏二為 済被下候儀二付、其段御用捨候而可然、
 右二付而前段御領法被任候三ケ条、何れ其侭差置候而者後代至り又候差縫之基二茂可相成、依之産盥者後人之作二相違無之儀一付一旦御取上之L本寺明二院江御預可被置、別館之儀者於海岸寺答書二も其所二而大師降誕有之との儀、尤降誕之所者於京都被差止候得共是以紛敷事二付、右色日も御取上不被置而者相成間敷、屏風浦之儀者往占五山之浦を相唱、大師者右浦之産二而善通寺二紛無之、既・一   公邊汀差出候書面二も屏風浦善通寺与
書載来候儀、右地名者彼ノ邊ノ白方浦迄も惣名二而、海岸寺答書も書載有之候通右浦迄も屏風浦之分内与相見へ、然ルを其銘切付建石等有之候而者右色目者白方二相限可申、右者何れから建置候事哉是以難相済候条早々御取沸可被仰付、猶其節者為見分此方役方も為立會可申候間日限相極候ハ御申越越可有之候。右之趣夫々急便を以   壱岐守様江御申上被越早々御取斗候様   長門守様被仰付候条如斯御座候。以上。   十月十五日。

   超意訳で変換すると
殿様の言われるには
そんなことは決まりきったことではないか。たとえ海岸寺が古くからの言い伝えや文書があると言い触らしていても、それは寺説というだけのことだ。善通寺が誕生所だということは綸旨の中に書かれていることだ。 いろいろな誕生の旧跡というのもあるけれども、そんなことを持ち出すまでもない。海岸寺自身が返答書に「善通寺が大師御誕生の霊跡であることは綸旨、院宣に照して明らかであることは兼々承知しています」と言っているではないか。
 京都まで出向き長々と審理を引き延ばし、このような裁断を仰ぐ結果となったことについては、甚だ不快である。明王院と海岸寺の僧侶については、このような争論を長々と続けること自体、善通寺誕生院が弘法大師誕生の地であるという綸旨に敵対する行為で、僧侶にあるまじき次第で言語道断の限りである。よって厳しく処罰すべきと考えるが、本山からはできる限り穏便に済ませるようにとの口添えもあるので、それを無視することもできまい。
 以上から、丸亀藩に判断をゆだねられた三項目について、次のような案を原則に、正式な裁定を考えていきたい。
 産盥は後世に作られた物で空海の時代のものではないので没収し、本寺である明王院で預かることにする。
別館(奥の院)については、海岸寺の返答書にも「其所二而大師降誕有之」としているので、降誕地を称することは、京都での決定で差止されていることから、破棄処分とする。
屏風浦の呼称については、昔から五岳山の浦のことである。大師はこの浦に産まれたのであり、屏風浦は善通寺であることに疑いはない。すでに提出された書面にも善通寺屏風浦と書かれている。海岸寺の返答書には、この地名は白方浦までもを含むと書かれている。
 ところが屏風浦の名前を彫り込んだ丁石は、白方だけを指している。この丁石を誰が建てたのかは分からないが、早々に取り払い撤去すべきことを申しつける。なおその際には、検分のための役人も立ち会わせ日限を限って行うこと。。
以上のことを急ぎ多度津藩主の壱岐守様へ申し上げるようとり計らうようにと長門守様(丸亀藩主)は仰せつけられになりました。以上

これを読むと、丸亀藩主は海岸寺の活動に対して
「綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有間敷次第言語道断沙汰」

と述べたとあります。「綸旨を無視した僧侶身分にあるまじき次第で、言語道断」と当初から海岸寺に厳しい目を向けていたことが分かります。
 しかし、前々回にお話しした通り、善通寺が海岸寺を丸亀藩に訴え出たときの丸亀藩の動きは、鈍い物でした。それは、善通寺から見れば生ぬるいものと思えたほどです。多度津藩を通じて、海岸寺に訊問をおこなっただけで、あとは寺社関係については両者で話し合え、それでもダメなら本寺に頼めというものでした。つまり、善通寺が期待したように丸亀藩は動かなかったのです。

 それは丸亀藩の立場からすると、この事件がどういう性質のものかについて理解し、確かな見通しを持っていたからとも云えます。
海岸寺を訴えることを、善通寺に勧めた京都の九条家が言うように「丸亀藩が多度津藩に命じれば解決する」というような簡単なものではないのです。善通寺の言うことを聞いて、丸亀藩が一方的な裁定を子藩の多度津藩に押しつければ、多度津藩との関係を悪化させます。この時期、多度津藩は陣屋建設など丸亀藩からの自立化指向を強めていた時です。それは避けたいところです。さらに、海岸寺に一方的な処断を下せば、本寺の嵯峨大覚寺からの反発・反撃も考えられます。京都の大寺を敵に回すということは、小藩の丸亀藩にとっては避けたいところです。
 そこで直接介人することを避け、一旦は善通寺、海岸寺の京都のそれぞれの本寺に委ねます。
 成果が得られず、事件が再び国元の手に返されてきてから、九亀藩は動き出します。この段階を踏んでおけば、どのような裁断を出そうと嵯峨大覚寺は口出しすることはできません。それだけの見通しを丸亀藩の藩主や家老は持っていたようです。そのため京都での調停が中途半端な物になって、丸亀藩で裁断を下して欲しいという正式文書が届くと動きは迅速でした。
 
  調停に参加していた善通寺の僧侶達が帰ってくると、わずか1ヶ月あまりの間に、善通寺と海岸寺から関係文書を提出させ、聞き取り調査を行った上で、丸亀藩主は上のような原案を作成し、多度津藩に示したのです。藩主自らが判断し、原案を示しています。これは家臣達の動きを促すには最高の推進力になります。
示された三項目の処置案の内容を、改めてみてみると
① 産盥は没収し、本寺の明王院で預かる
② 別館(奥の院)は破棄処分。
③ 屏風浦の呼称は、使用禁止。
④「屏風浦」を彫り込んだ丁石は、役人立ち会いの上で日限を決めて撤去。
と、藩主の主導の下に作られた裁定案は、善通寺の全面勝訴、海岸寺の全面敗訴の内容でした。

通知翌日の10月16日、多度津藩の担当者から連絡があり、多度津藩主が江戸在府中のことなので、いますぐには判断できないとの書添が送られてきます。そして、時を置いて多度津藩主京極壱岐守から九亀藩家老岡織部宛に、裁決案について
「今少し寛大にしてやって欲しい」
との自筆の書状が送られてきます。それを藩主長門守へ見せて、相談したところ
「壱岐守殿がそれほどまでにいわれるのを、聞き入れないのもどうか」

との意向を示します。善通寺のことも大切ですか子藩の多度津藩との関係維持はもっと大切なのです。

 そこで家老は、多度津藩に対して改案を示すように求めます。
その多度津藩の改案が送られてきたのが翌年の文化十四年(1817)の春3月23日のことです。それを見てみましょう。
  
本家丸亀藩領内の善通寺村誕生院と大師誕生所の件について、
誕生院から京都本山表へ提訴されたことについて本山嵯峨御所から裁断書を頂きました。綸旨院宣に差障さわる事項について恐れ入ると共に、今後は誕生所と紛らわしいようなことのなきように、次のように申し渡したいと思います。

一 産盥については、御本家の長門守様(丸亀藩主)のから思召しをうけて、新堂を新たに建立したり、関連祭事を行うことはさせません。又生盥と称する石器は、年久しく伝来するというのは後世の作り事なので、参詣者を迷わせないように今後は、人に見せないように保管管理します。(没収回避)



一 建石(丁石)については、根元は道しるべの事で、御本家様から指摘された通りにいたします。すでにあるものについては「屏風ケ浦」の文字を削り、「白方海岸寺道又者白方道」と彫替ます。あらたに建立する場合は、「屏風浦」は決して使いません。

一 別館については、御本家の長門守様(丸亀藩主)の思召をもて「誕生地」と称することは決して行いません。(その代わりに撤去回避)
 これらのことについては、海岸寺はもちろん、本寺の明王院にも心得違いのないように言い聞かせます。
以上。                月  日
これに続いて、明王院と海岸寺から謝罪と恭順の意が次のように記された書状が入っています。
以手紙中達候、然者                     北鴨村 明王院
右末寺海岸寺と誕生院差縫一件二付 此度嵯峨御所から被仰渡御利解書通二而者、綸旨院宣二差障候趣、是迄不心付候段不念之至二候。依之御呵被仰付候。
                                                      白方村海岸寺隠居 快道
右者産盥堂再建、世上へ令流布候勧進帳等之義ニ付、誕生院から被申立 綸旨院宣二差障候趣、此度嵯峨御所ニおゐて御利解書を以被仰渡、彼是両 御上江奉掛御苦労候段不届之至候。依之急度被仰付方茂有之候得共、両本山から事穏之御沙汰茂御座候、格別之御慈悲を以慎被仰付置候。
以上の誓約書を受け取った上で、裁断が次のように下されます。
①明王院と海岸寺はお叱り、海岸寺隠居快道は、謹慎
②産盥は参拝させることは禁止されたが、没収は免れた
③産盥堂は「再建」としては認められないが、新築としては許された
④屏風浦の称号も、単に屏風浦と称することは禁じられた。しかし、頭書きや肩書きは許された
内容的に見ると、先ほどの丸亀藩主が示した素案と比べると、非常に寛大な処置に変更されたという印象を持ちます。善通寺としては、藩主裁定案では「全面勝利」の内容でしたが、最終的には押し返された無念の結果と云うべき内容かも知れません。それでも「大師母公別館菖跡」の称号は禁じられ、
「綸旨院官.差障候條奉相憚、向後誕生所と馴紛敷儀無之様急度相守可申事」

と、根本のところは、押えられています。
  結論から言うと、最終段階での多度津藩領主からの政治的な圧力が効果的であったということになるのでしょうか。以前にもお話ししたように、小藩の多度津藩にとって、経済的な発展のためには多度津港への人とモノの誘致が政策目標のひとつでした。そのために海岸寺が掲げる「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、金比羅詣客を多度津に呼ぶ込むための有力な集客アイテムと考えられていた節があります。つまり、藩は密かに海岸寺の動きを承知し、支援していたことがうかがえます。
 そのような中で、海岸寺を見捨てるわけには行かないという事情もあったようです。海岸寺の集客戦略は、大きなダメージを受けますが息の根を止められた訳ではありません。根強く残る「弘法大師生誕地=多度津白方」説に惹かれて、その後も多くの参拝客が海岸寺の奥の院を訪れたのです。
 今、奥の院を訪ねると、その規模の大きさにびっくりします。
今は奥の院は、四国霊場の番外札所となっていますが、参拝者は決して多くはありません。最初にここを訪ねたときに不思議に思ったのは、なぜこれだけの規模の寺院がここにあるのかということでした。同時に、産盥や産盥堂、産井などの旧蹟らしきものはあるのですが、それを説明する看板はありません。今の四国霊場には、由縁や由来を説明する説明版がいっぱい立っているのに、それが全くないのが謎でした。
しかし、善通寺市史を読んでいて段々と分かってきました。
先達達が口頭で、流布できても文字に書いては「弘法大師生誕地=多度津白方」を主張することは、この争論以後は禁止されていたのです。
 それなら海岸寺奥の院は衰退したかと云えば、ある時期までは相当な信者を集め続けていたようです。次回は、争論が決着した後に「弘法大師生誕地」というキャッチフレーズを封印された海岸寺がどのように生き残りをかけた神社経営を展開していったのかを見てみることにします。
以上をまとめた置くと
①「弘法大師誕生地」を称した海岸寺は、善通寺誕生院に訴えられた
②海岸寺は、善通寺に謝らず反論したが京都での裁定の場に引き出された
③海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力によって「全面敗訴」は避けられた
④「屏風浦の呼称」「産盥」「別館(奥の院)」については、地元の藩主が裁定を下すことになった
⑤丸亀藩主は当初から海岸寺に厳しい目を向けており、海岸寺全面敗訴案を多度津藩に提示した
⑥多度津藩藩主は、それに対して「もう少しお手柔らかに」と親書を送った
⑦その結果最終案は、海岸寺に対して寛大な措置となった。
⑧これは「多度津藩」+「本寺の大覚寺」という政治力を背景にした海岸寺の底力を示したものでもあった。
          以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

 前回は金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」流布・信仰センターとして白方奥の院の整備を進めたこと。それに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に対して「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴したこと。これに対して海岸寺は、自らの主張を譲らずに、調停は行き詰まったことをお話ししました。
 丸亀藩の指導を海岸寺が受けいれることはなかったのです。海岸寺は多度津藩に属していて丸亀藩の主権が及ぶところではありませんでした。
こうなると、善通寺に残された道は、海岸寺の本寺に訴え出て適切な指導をお願いする以外になくなります。
海岸寺の本寺とは、京都嵯峨の大覚寺で超大物寺院です。善通寺が直接交渉できる相手ではありません。善通寺も自分の本寺を通じて、交渉を行うことになります。善通寺の本寺は同じく京都の随心院でした。しかし、本格寺と随心院では格が違います。政治力がまるでちがうのです。例えば、大覚寺と随心院は同じく門跡寺とは言っても
①大覚寺は法親王が住職される宮門跡
②随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡
です。その教団規模も、大覚寺には井関、野路井(二軒)衣笠、三上など十数軒の坊官がいますが、随心院には本間、芝、岡本、長尾の四軒があるだけです。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が多いのに比べて、随心院末寺は善通寺以外にはありません。讃岐国内での影響力も大きな格差があったのです。善通寺には、
「本寺の随心院に頼んでも、嵯峨(大覚寺)と対等の話い合いができるわけでない」

という諦めというか歎きもあったようです。大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が通じるだろうかという疑念でもあります。逆に、海岸寺からすれば本寺同士の交渉ならば、大覚寺が悪いようにはしないという目算もあったようです。ある意味、大船に乗っていられるということでしょうか、それが分かっていたので、海岸寺は国元での善通寺の要求を強く拒むことが出来たのかもしれません。ここまでは、海岸寺の「読み勝」になるようです。
さらに、随心院と大覚寺の間には、善通寺をめぐって古くから反目する気持があったようです。
 それは大覚寺の後宇多法皇が、それまで荒廃していた善通寺の堂塔修理のために、多くの供養田を寄進しました。そのため大覚寺門跡が代々善通寺別当を兼任していたのが、暦応四年(1311)の勅裁により、善通寺が大覚寺を離れて随心院の所属となります。大覚寺には、善通寺を随心院に奪われたという気持ちがあったようです。古いことですが僧侶達は、このような経緯をきちんと学習しています。このため交渉に出てきた大覚寺の僧侶達の中には、随心院や善通寺に対して反感を持つ者もいたようです。

海岸寺との交渉経過は、当事者の詳しい記録が善通寺に残っています。それが善通寺市史に載せられています。
それに従って京都での交渉経過を見ていくことにします。
 文化12年(1815)の末に、京都で本寺同士の随心院と大覚寺の交渉となり、智積院が仲介に入ることになります。善通寺からは、子院の観智院、玉泉院、行願院などが上洛して智積院に滞在します。ここを拠点に、情報収集や関係有力寺院への支援要請を行っていきます。どんな情報が入っていたのかを一部紹介します。
  交渉経過   1816年
1月21日、嵯峨の坊官三上民部が善通寺の交渉団が滞在する智積院に来て、次のように言い残していったと記します。
「誕生所という名目は差止めます。しかし、産盥のことは、御住職のお頼みだから、せいいっぱいやってみるけれども、止めさせられるかどうか分らない。そのうち、明王院、海岸寺が上京して、光照院まで掛合に来ることでしよう」

27日、観智院、三泉院が九条家へ参殿。芝氏とゆるゆる相談。また二条家の人江五郎右衛門方へもまいる。
28日、行願院、玉泉院、所用に付、大坂へ下る。高野へも登山のつもり。
2月朔日、行願院、玉泉院が高野登山。智蔵院に相談して、京都で片付かない場合は、高野山に御厄介をかけることにになると思うので、前もってお聞さおき下さいという意味の「口上書」を、年預坊に差し出す。
2月12日、伊賀国の諦仁師、四国巡拝の途次、善通寺を訪ね、香山と会談、一件について次のような意見を述べる。
江戸の公裁になれば海岸寺は流罪、軽くても追放だろう。このことを海岸寺側の者によく言い聞かせたなら、早く折れて来るのではないか。建石も海岸寺が勝手にたてたものだから、領主に断るまでもなく、本山から言い聞かせて取払うことができるのでないか。嵯峨に、正気があるなら江戸へ出る気遣いはない。

五月朔日 秀明師が次のように伝えます。
「明王院と海岸寺は、産盥のことでは、善通寺の言うことを聞く考えは全くない、『江戸へ出てでも争う』と言っている」

以上から分かることは、大覚寺の支援を受けた海岸寺が石器(産盥)に関しては、決して譲れないと踏ん張っていることです。
今風に云えば「弘法大師生誕地」という「商標」が認められなくなれば、その商標が使われていた商品も販売できなくなるのが当然の法解釈ですが、仏教界ではそれが通らない社会だったようです。

 例えば次のような京都仏教界の空気を示す記録が残されています。
 文化12年(1815)の末、善通寺交渉団の滞在先である智積院に、東寺のすぐ側の隣の実法院が見舞いに来て、次のように話します。
此度之一件、京都二而御落着被成候時ハ、兎角京ハ物件キレイニ不被成候而ハ不宜候。先ツ御勘孝可被成候。江戸工事卜申物ハ誕生院之御格式二而江戸詰メト申時ハ、物入一ケ年百五十金位ハ費べ可申候。其上随分早ク御裁許御座候所、二年ハ掛り可申候。然ル時ハ三百金ハ手軽ク入可申候。其金子之半分位営院エ入候得ハ、手際キレイニ出来可申与奉存候。拙老杯茂毎度江戸掛り合二者参候事故、馬御心得御噂中候

意訳すると
 京都では何でも金を使わないと、物事はきれいに治まらない。江戸での裁定になれば、滞在費だけでも大変で、善通寺の格式からすれば一年に一五〇両の出費になる。早くすむ時でも二年はかかるだろうから三〇〇両、その半分を私方へ納めてくれたら手際よく片附けてあげます

と持ちかけられたようです。それを玉泉院は、日記に何でもないことのように書き留めています。これが当時の「仏教界の相場」であったようです。

 また、争論に決着が付いた後の文政元年(1818)4月16日 に、お世話になった京都の関係者のお礼に、玉泉院が出向いています。たそして、宿舎となった智山へ銀子10枚と進物品を届けています。
また、一条家佐々木大監を訪ねると、大監は、次のように云ったようです。
御礼銀は、上様へは銀二〇枚、外に諸大夫五人、用人二人、六位一人、これらは重役だから相当のお礼が必要だし、下役、奥向の女中などへも心付けをするのでないと、私はようお世話しない。善通寺ではどう考えているのか」

と言う対応ぶりです。そのくらいは持ってこいという言い方のです。玉泉院は「この頃、寺では色々物入り多く、そうそうはお礼銀も差し上げられない」と断っています。京都では金と政治力が幅をきかすことを改めて学んだ善通寺の僧侶達だったようです。 
 幕藩体制のなかで、寺院は土地人民を治めてゆく支配機構の末端組織でした。それは為政者の側に立ち、大小さまざまの世俗的な権力と冨を持っていました。そのために本来の使命である仏法の護持ということを忘れて、実際的な利益に走る気風が京都ではより強く働いていたことがうかがえます。
 事件を金で片附けるという考えは、善通寺の側にもあったようです。
当時、善通寺に香山という老僧がいました。善通寺所蔵の古い書付類から先例を探し出して、書式など考えるのも香山の役目でした。京都滞在の観智院や玉泉院に手紙でいろいろと先例や意見を書き送っていて、それは事件の進展に大きな影響力を与えたようです。世間的な経験も豊かで、末寺の住職達からも信頼されていました。その香山が京都滞在中の観智院と華蔵院に宛てた手紙が残っています。
 嵯峨御所御寄附物と云事、世上の人々如何可有哉と万茶羅、天真沙弥等毎度申出事二候。是も尤なる事に候。しかし、うまうまと行く事ならば、夫れも不苦、七十五日也。
 尤合戦中二〇ヲ持込候事者、先達而桃陽(出釈迦寺)被中候通、温屯之跡の蕎公切にて、馳走ニハ不相成候。且又此方之腰ヨハク相見へ可申候

意訳すると
「うまくゆくなら、嵯峨へ金を送って事件を善通寺の考え通りに運ばせるのもよいと思う。人がどうこう言うのも、諺どおり七五日だけだと思うが、今は交渉の最中だから、こんなときに○(金)を持込んでも効果はなく、そのうえこちら側の腰が弱いと見抜かれてしまうだろう」

と、饂飩(うどん)と蕎麦に掛けて「金」での解決の方法も示しています。善通寺の側からは、大覚寺がこの交渉を通じて「和解・調停金」を求めているために交渉が長引いていると察していたことがうかがえます。
 交渉に進展がなく、滞在は長引きます。しかし、打切ることも出来ません。
仲介に入っている智積院は、善通寺が破談を主張しても、それをそのまま大覚寺へ通告することはしてくれなかったようです。交渉が長引くにつれて、こちらに向いては善通寺の立場を理解している態度を示し、同じように嵯峨へ向かっては嵯峨の言い分をもっともだと言っているのかもしれないと、善通寺の使節団僧侶たちは疑うようになります。
8月29日、三宮寺と玉泉院(善通寺子院)が智山へ出向き次のように申し入れます。
「きっぱり破談にしたい。嵯峨からの書付は、みながみな海岸寺の申出ばかりを書取り、善通寺から差し出した書類の趣は全く取入れられていない。このようなものには到底請書できない」

「もはや破綻にする外ない」との立場を貫くと、9月5日に妙徳院がやってきて、
「今になって破談というのでは、智山僧正をはじめ、我々も面日を失うことで困ってしまう」

と泣きついてきます。しかし、善通寺としても嵯峨(大覚寺)の提示案では、同意できないことを改めて強く伝えます。そこで調停者の立場も考えて、嵯峨から来た案については、善通寺では知らぬ体にして、なんとか破談だけは取り止め、調停者の面目が立つようにすることになります。こうして、調停書(口達之覺 )を受け取ります。
その内容は次の通りです。
口達之覺    (意訳)                           
昨年12月に、弘法大師御誕生所について差障の件について、小野御殿への書付をお届けした所、当山の僧正承之は気の毒に思い、穏便に取りはからうように小野御殿へ伝えられ、相手方の本山である嵯峨御殿へ取り次ぎました。この度、嵯峨御殿から海岸寺並びに本寺明王院をお呼びになり、次のような決定を伝えました。
一 縁起  一 勧進帳  ― 建石之事   
一 船問屋から差出候案内切出之事
に関しては、國元の丸亀藩に願出ること
一、御誕生之霊跡  一、御降誕生之霊地  一、御初誕之地 
一、御産生所
以上の八ケ條については、海岸寺の使用を差し止めるように申しつけました。
一別館之事  一、産盥之事  一、屏風浦之事
以上の三ケ條については、国元に関わることでなので藩主の裁断を仰ぐように指示しました。決定は以上の通りです。このことについて、ご承知ください。
以上。
文化十三年間八月           智山鑑事 妙徳院 印
讃州 善通寺 御役者中

上の8項目については、使用差し止め処分となりましたが「別館之事 、産盥之事 、屏風浦之事」については、国元のことなので藩主の裁断を改めて仰げということです。海岸寺としては、ある意味納得できる内容であったと思われます。しかし、善通寺にとっては何のために京都までやって来たのかという思いの方が強かったかもしれません。
 しかし、後は丸亀藩に任せるほかないのです。
お世話になった関係者への挨拶とお礼を済ませて、高瀬舟で京を去ります。
こうして、、厳蔵一行を乗せた下津丼船が九亀西川口へ着船したの9月22日、夜九ッ時のことでした。その夜は、一行は福島北渚亭に泊まり、翌日に、丸亀家老や寺社奉行など関係者に帰国・経過報告をしています。 
ここから丸亀藩に任された「別館・産盥・屏風浦呼称」の3項目についての裁断に向けた準備が始まります。丸亀藩は、どんな判断を下すのでしょうか。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 



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多度津白方

以前に、善通寺以外に「弘法大師誕生所」と名乗る寺院が多度津白方に現れ「多度津白方=空海誕生地説」を流布するようになったことをお話ししました。そこには中世から近世初頭に弥谷寺を中心に活動した高野山系の阿弥陀信仰・念仏行者たちの影が見えました。彼らが白方のお堂を「仏母院」と改称して流布していたようです。その後、弥谷寺が善通寺の末寺になってからは、弥谷寺や仏母院による流布は一時的に停まります。広報拠点がなくなったからでしょう。しかし、庶民信仰として「多度津白方=空海誕生地説」は根強く広がっていたようです。
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 その信仰を参拝者獲得に積極的に活用しようとするお寺が出てきます。それが海岸寺です。18世紀末頃から海岸寺は「多度津白方=空海誕生地説」を再び流布し、奥の院を空海生誕地として売り出そうとするプロジェクトを開始するのです。
 これは善通寺誕生院にとっては、放置することの出来ない事件です。海岸寺の「第2の空海誕生地」設置計画を止めさせようとします。ここに善通寺と海岸寺が「空海生誕地」をめぐる争論がおきます。それを追って見たいと思います。
テキストは次の二冊です
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻       昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年
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海岸寺奥の院

18世紀後半頃から海岸寺は、次のような由来を主張するようになります。
海岸寺奥院は弘法大師母公の実家があった所で、白方の三角寺仏母院が母公別館である。大師は海岸寺奥院産盥堂で生まれ、その時の産湯に用いたのが石の産盥(うぶたらい)である。

この由来に基づいて、「多度津白方=空海誕生地説」を流布するための信仰・広報センターとして奥の院を新たに建立し、その目玉に空海が生まれた時に使った「産盥」をセールスポイントにした広報作戦を展開し始めます。

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 海岸寺奥の院 産盥堂の産湯井戸
産盥堂再建(実際には新築)の勧進帳の表紙には
讃州白方屏風浦産盥堂再建勧化帳。経納山海岸寺
 
その勘化文には、次のように記します
  夫れ吾海岸寺なる奥院の御影堂は、弘法大師降誕ましませし霊場なり・・・其の洗盥(うぶたらい)なるは、三業諸垢を清めて、現富の益日々新なり・・、
          文化乙歳季夏    現住職  快道誌
 奥院には、産盥堂と染め抜いた幕や雪洞をかかげ、正面に大きな地蔵を建立して、台座石に産盥堂再建と刻します。また産水井(ウブミズノイ)。浴巾掛松(ユテカケノマツ)という立て札を建てます。納組帳には「弘法大師御産生之所也」と書きます。

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海岸寺奥の院の産水井(ウブミズノイ)

 さらに寺への参拝道の要所要所の岐路には「屏風浦道」や「奥院、産盥堂へ何丁」という道しるべを建て、寺の前には「屏風浦」といふ建石を立てます。

このような海岸寺の動きを放置できなくなった善通寺は、次のように丸亀藩に訴えます。
①寛政10(1798)頃、奥州の回国行者金作という者を召抱え、大師御夢想の灸治というのを始めた。しかし、これは不人気で一年ばかりで止んだ。                                  
②「大師御伝記」という書物を、版元は土州一宮(高知一宮神社)ということにして、海岸寺で印刷して売り広めた。この本は空海を「大師ハ讃岐国白方屏風浦猟師とうしん丈夫の子也」として、空海の父を「漁師のとうしん」とする偽書である。しかし、土地の人はよろこんで読み、文句を空で覚えているほどである。
③海岸寺の地名を屏風浦と称し、所々に「屏風浦道」「奥院、産盥堂へ何丁」という建石を立てた。
④白方屏風浦絵図を印刷して「大師降誕之霊地」と書いて売り広めた
⑤二間四方の辻堂のような堂を産盥堂と名付け、箱に入れた石器をかざり、十二銭で旅人に拝ませている。
⑥二間四面の堂を三間四面に立て直し、さらにその前に、二間と六間の礼堂を唐破風付に建てようと計画している。
⑦池を掘って産井と名付け、やはり「勧進帳序」にその功徳を書き立てた。
⑧松を植て浴巾掛(ゆやかけ)之松と称した。
⑨新しく掘った池の近くに子安観音といって菩薩の形にして幼兒を懐いた石像を作り、大師の母君が大師を懐く尊像だと言いふらした。
⑩寛政10(1798)頃に彫刻した大師の童形、御両親の尊像を、礼堂に安置した。
⑪諸国から参拝客が乗り降りする多度津の浜へ建石を立て、大師誕生像に白方屏風浦と記した産盥堂道案内を乗船客に配布するようになった。
  ここからは、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」を流布し、その信仰拠点センターである奥の院の整備を急速に進めていく様子がうかがえます。
どうして18世紀の後半になって、このような動きを展開するようになったのでしょうか。当時の金比羅さんとの関係で見てみましょう。
①18世紀半ばに大坂からの金比羅船が就航し、金比羅詣客が急激に増加します
②18世紀後半には、それに応えるように金毘羅さんのお堂や施設、石段や玉垣、そして街道も整備されます。
③金毘羅さんの周辺の宗教施設は、金比羅参拝客をどのようにして自分の所へ立ち寄らせるかの算段を考えるようになるのがこの時期です。善通寺や弥谷寺の境内整備計画は、その一環として捉えることができることを以前にお話ししました。そして次のような集遊コースが形成されるようになります。 
丸亀港 → 金毘羅さん → 善通寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 丸亀港

金毘羅さんにやってきた、参拝客の多くがこのルートで動き始めます。19世紀に始めに十返舎一九の弥次喜多コンビもこのルートを巡っています。
 海岸寺としては、弥谷寺から白方へ参拝者を導入するためには強力な「集客力のあるアイテム」が必要だったのでしょう。そこで目を付けたのが1世紀前に、弥谷寺や仏母院が流布し、その後に取りやめられた「多度津白方=空海誕生地説」だったようです。これをリニュアルして流布するようになったのです。その拠点として新たに整備されたのが、海岸寺奥の院のようです。

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1815年5月24日 善通寺は海岸寺のやり方を九亀藩へ訴え出ます。それに対して、6月22日 海岸寺から多度津藩へ返答書が差し出されます。どんな返答書なのか見てみましょう。
  海岸寺返答書
一 誕生院は大師御誕生の霊場であることは綸旨院宣から明らかなことは、承知しております。
二 富寺(海岸寺)は往古からの寺説に次のように記します
 「大師の母公が海岸之景色を、常に愛し、この浦に別館を構え、時々遊覧することがあった。あたかも六月十五日の炎天の日に、この別館で大師を降誕されたので、その聖地に一宇を構え、御母公が愛する所ゆえに海岸寺と名付けた。その後、これを信じる者達が、その徳を慕って石を割て産盥を作り、池を掘って産井と名付け、松を植て浴巾掛松と称して、大師初誕の地と呼んできた」 これが古くからの伝来です。

三 産盥堂の再建については、先達の勧進僧の願いを受けて取りかかり、ほぼ完成しています。この勧進方法などについては先達達が自主的に運営していることで、海岸寺は指図していないのでよく分かりません。
 誕生院が産盥堂と申すこの度の建物については「再建」であって、見分して頂ければ分かる通り古来よりあったものです。新しく建立したものではありません。
四 勧進帳に「御誕生之霊場」と記載されていたのも、大師旧跡再建の方便で古くから用いていました。寺説にも往古から「初誕之地」と称してきました。
五 弥谷寺の境内の建石(丁石)のことは、当寺のまったく関与していないことなので分かりません。
六 屏風浦の称号については、古来よりそのように称してきました。旧記にも屏風浦と記しています。それのみならず白方村でも屏風浦と呼んでいます。古い地理では、筆山の麓までも入海であったと伝えられます。また、天霧山の麓の辺りも屏風浦と呼ばれていたと云います。当寺辺りも屏風浦の分内になるのではないかと愚案します。
七 産盥についての善通寺の批判には納得がいきません。これについては、先述した通り古来より寺説にあることです。
亥六月                                     海岸寺

最初に確認しておきたいのは(一)で分かるとおり、海岸寺も「誕生院は大師御誕生の霊場」であることは認めていて、これについて争うつもりはないということです。そのうえで、海岸寺が主張する「寺説」を、どこまで承認するかということが争われることになります。
そして、目にかかるのは善通寺の提訴について強気の反論を行っていることです。最後の方は、「確信犯」とも見える開き直りぶりです。これだけ強気になれるのは、どうしてか私には疑問に思えてきます。それは、追々見えてくることなので、先を急ぎます。
この海岸寺の返答書は、8月19日には、次のようなルートで善通寺に写しが届けられています。
海岸寺 → 多度津藩 → 丸亀藩 → 善通寺 

写しが届いた日に、万福寺、曼茶羅寺、出釈迦寺が善通寺へ集り、海岸寺への反論(再質問状)を作成しています。この問題に対応したのがこの3つの住職たちであったことが分かります。それでは、彼らが作成した反論書を見てみましょう
海岸寺の答書を受けて
1 綸旨院宣等が善通寺にあるにも関わらず、(海岸寺)が「弘法大師生誕地」や「屏風浦」を古来の寺説にあるからと主張することについて
 これは世間の俗説であります。もし仮に古書にそのように書いてあっても綸旨や宣旨に反することは認められません。誕生地がふたつあるはずがありません。また海岸寺が反論書で挙げた根拠史料も妄説で信用なりません。大師降誕之霊場と主張することは、宣旨を軽視した行為で、とうてい認められるものではありません。強く彼地を御誕生所と主張することは 綸旨院宣並びに数百年前からの古い撰述を無視することで、そんなことをすれば海岸寺は信用できないことになります。海岸寺の考えを、今一度お聞き頂きたいと思います。

2 産盥堂は再建であり、新たに建てるものではないと海岸寺は主張しています。しかし、我々は新設・再建のことを言っているのではありません。この建立についての勧進帳序文の不都合を申し立てているのです。

3 屏風浦の称号については、海岸寺は古くから称してきたし、旧記も書かれていると言います。誕生所の証拠もあるという。それならば、確認のためにその旧記の年代を教えいただきたい。追って詳細は伝えます。
4 海岸寺の返答書の中で、屏風浦の地名は旧記に書かれていると主張します。その寺説と由来について申し上げたい。善通寺には綸旨や院宣の中に屏風浦と明記されています。それに対して、海岸寺は我々善通寺に寺説にあるからと反論しています。これには、天地ほどの隔たりがあります。
海岸寺の寺説というのは、信用がならない史料で、偽造・誤り数多く見られます。そのため近郷を始め他國からもこれを疑う人々が数多くあります。そのため海岸寺は「菖跡之実 否不分明候様成行可申哉」と言い出す始末です。このような様を察して、呉々も賢明な判断を出して頂けるようにお願い申し上げます。以上。

これに対して、11月に海岸寺から、屏風浦の名称は、世俗一統住古より称し来たことで、生駒家寄附状にも屏風ヶ浦と書かれているなどの返答書が出されます。また、海岸寺の本寺明王院(道隆寺)が上京し、本山である大覚寺との対応協議と、支援の取り付けを行ったようです。海岸寺に「悪うございました」と謝る姿勢は見えません。臨戦態勢を整えていくようです。

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  こうした中で12月8日 多度津藩家老畑六郎・林勝五郎から、九亀藩岡織部宛に、書状が届きます。そこには
「藩としてはこの度の件について掛合(調停)を離れ、善通寺と海岸寺の本寺明王院(道隆寺)とで話合をさせるのがよいと思う」

という内容が書かれていました。
多度津藩には海岸寺の行為を強く罰するという姿勢は見えません。
海岸寺の「「多度津白方=空海誕生地説」流布プロジェクトを、見て見ぬ振りをしながら影では支援していた節もあります。
 多度津藩は丸亀藩から分離独立した1万石足らずの小藩で、お城や陣屋を持たずに本家の丸亀城内に「寄宿」してきました。ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。若い林求馬時重を家老に登用し、藩政の改善・丸亀藩からの自立化を進めようとします。その手始めが藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って一時的に中断します。善通寺と海岸寺の争論が起きているのは、ちょうどこの時期になります。
 多度津藩は小藩のため家臣団と地主・有力商人、僧侶が密接に交流し、その身分の垣根が低いのも多度津藩の特徴であることは以前にお話ししました。ここからは小説風になります。海岸寺の進めるプロジェクトを、家臣団や重臣達が知らないはずがありません。特に家老の林家は白方の奥に別邸をもっています。その行き帰りに、海岸寺の前を通ったはずです。海岸寺の住職と懇意であったことも考えられます。海岸寺のプロジェクトに対して、了解し密かな支援を送っていたかもしれません。このような状況証拠からすると、多度津藩に海岸寺の行為を罰したり、停止させたりすることはさせたくないという意向があったような気がします。もっと云えば金比羅詣での参拝客が「弘法大師生誕地=多度津白方海岸寺」にも立ち寄ることは、多度津港の発展につながり、ひいては藩の経済力向上にもなる。そのためには海岸寺を守ってやらねばならぬという気持ちの方が強かったのではないでしょうか。

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海岸寺奥の院
 善通寺は九亀藩内にあり、海岸寺とその本寺明王院道隆寺は多度津藩に属していました。
もし、海岸寺が九亀藩内にあれば
「僧侶之身分二有間敷次第、言語道断沙汰之限」
と判断した藩主の考えで、すぐも罰せられたかもしれません。しかし多度津藩の寺であるために、九亀藩の意向もそのままには通用しません。どちらにしても多度津藩は、これ以上は調停・解決へ介入するのは避けたいと丸亀藩に伝えてきたのでのです。
12月12日、このような多度津藩の意向を丸亀藩寺社方から伝えられた善通寺は、関係者会議を開きます。
 招集されたのは末寺の甲山寺満願、観智院兼万福寺光顕、曼茶羅寺光海、出釈迦寺百光、宝城院戒珠、歓喜院光馬、九品院仁全、吉祥寺兼持宝院快心、法楽寺寅了、万恒寺大智等です。善通寺の重要な決定については、末寺院に諮問されていたようです。
 その会で明王院と海岸寺が何の返事もしないことに対して、今後の対策が話し合われます。そしてこれ以上、丸亀藩に厄介をかけるのは申し訳ないので、本山随心院へお願いして、早く決着をつけるように善通寺へ進言します。
 一方、多度津藩の意向を受けた九亀藩からは、この問題解決のために海岸寺の本山明王院と直接掛け合うようにと通達されます。これを受けて善通寺は、使僧を明王院へやりますが
「住職は、播州竜野法帷院へ出かけており、いつ帰院するかは分らない」

という返事でした。明王院道隆寺は、善通寺との直接の協議を避けていたようです。

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海岸寺奥の院
 もう一度事件の経過を振り返って起きましょう
海岸寺を訴えることになった契機は、九条家の家人の次のような申し出でした。
  海岸寺の行為をこのままにしておいてよいのか。このような行為を聞けば京都の本寺嵯峨大覚寺でも、これをそのままに捨ておくことはあるまい。九条家へ申し上げ、九条家から丸亀藩へ頼んでやめさせたらどうか。

 ここに九条家が登場します。九条家は金毘羅の金光院の山下家と名義上の姻戚関係を持つようになり、なにかと金毘羅さんの運営にも口出し、経済的な見返りを要求するようになっていました。金毘羅さんの富くじ開催などはその典型です。問題が発生すると、調停を買って出て礼金をいただくという家人たちがいたようです。
 その助言に従って、丸亀藩に訴え出て、丸亀藩から多度津藩に依頼して、海岸寺の行為を止めさせようとしたのでした。ところが海岸寺は素直に謝罪せず、反論してきます。多度津藩もそれを罰せようとはしません。丸亀藩も、多度津藩は子藩ですが、他藩のことなのでそれ以上の介入は控えたいので、この時点では強権発動には至らず、善通寺と海岸寺の直接の話し合いで解決せよと投げ出した形になります。しかし、善通寺が海岸寺に話し合いのテーブルに着くように求めても、海岸寺は応じないのです。
  当初は九条家の云うように、九亀藩の命令ですぐ解決するものと善通寺は考えていた節があります。しかし、予想しなかった方向に事態は進み、地元では解決できず、舞台を京都へ移し、交渉は2年の歳月がかかることになります。しかもその解決は、善通寺にとっては納得のゆくものではなかったようです。

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海岸寺の不動明王

 これだけ海岸寺が徹底抗戦できたのは、当時の金毘羅参拝客の誘致という多度津藩の政策目標の一環として、海岸寺の進める「多度津白方=空海誕生地説」が位置づけられていたからという気がします。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

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阿弥陀三尊の磨崖仏(弥谷寺本堂下)

四国霊場第71番札所の弥谷寺は、死霊が赴く「イヤダニマヰリ」の習俗が残る寺として紹介されてきました。昭和の時代に弥谷寺を紹介した記事には、どれも死霊が生者に背負われて弥谷に参る様子が描かれ、NHKの新日本紀行にも取り上げられていた記憶があります。私にとっては
「弥谷寺=死霊の集まる山=イヤダニマヰリ(詣り)」

という図式が刷り込まれていました。
 ところが最近の弥谷寺を紹介した記事には、「イヤダニマヰリ」に触れたものが殆ど見られません。これも「流行」なのかなと思っていると、どうもそうではないようです。「イヤダニマヰリ」そのものの立場が揺らいでいるようです。

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イヤダニマイリをめぐって、何が問題になっているのかを見てみることにしましょう。
テキストは「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。
  柳田民俗学は
「死者の霊魂は里に程近い山に籠る」
という祖霊観を掲げています。
このテーゼを証明するための数多くの民俗学的な調査が各地で行われてきました。そのような中で戦後の1950年代に、死霊の集まる山=「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町の民俗学者、武田明氏です。この研究は、柳田民俗学の死霊・祖霊観を立証する例として評価されるようになります。

Amazon.co.jp: 日本人の死霊観―四国民俗誌: 武田明: 本
  1999年刊行の『日本民俗大辞典』には「「イヤダニマヰリ」として、次のように解説されています。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野町と仲多度郡多度津町にまたがる標高382メートルの山で、300メートル付近に四国八十八ヵ所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行なわれた。
 特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。
 山中を死者の行く他界と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼を実修するところに、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うてサンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まっている。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる。」
弥谷寺が祖霊参りの山として定着したかのような中で、「異議あり」と名乗りを上げる研究者が出てきます。
日本民俗学 第233号 Bulletin of the Folklore Society of Japan NIHON ...

2003年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノートです。
森氏は、「イヤダニマイリ」の習俗がこれだけきちんと分かるのなら、どうして今までの研究書は触れてこなかったのかという疑問から始めます。確かに戦前の『香川縣史第二版』(1909年)や中山城山の『國諄 全讃史』(1937年)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917年)には、「イヤダニマイリ」の記述は何も載せられていません。
 その理由を、それまでは地元ではなかったものを「死霊の集まる山」にアレンジして発表したからだと、次のように指摘します。

「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を発表したから」

 そして、武田氏の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細に検討していきます。その結果として、弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗概念はなかったと結論づけます。
  そして、柳田民俗学の祖霊観を実証するために、様々なデータが組み合わされた作為的な研究であると指摘します。これは弥谷参りだけでなく、他の事例も含めた民俗学全体の研究方法への批判も含んでいました。
日本村落信仰論( 赤田 光男 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の ...

このような批判の上に、新たな視点から弥谷参りに取り組んだのが赤田光男氏です。
もともと、武田氏の弥谷参りの研究は両墓制との関連が重要ポイントでした。両墓制とは、
「死体を埋葬する墓地とは別の場所に、石塔を建てる墓地を設ける墓制」

のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者を「詣り墓」と呼び、弥谷参りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、栗島といった島嶼部一帯に見られます。この地域では、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼びますが、両墓制が強く残る地域でした。
  武田説を、簡潔にまとめておくと次のようになります。
古来、この地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であったのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰えていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないか
 
これに対して、赤田光男は、
「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがいえるかもしれないが、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場としていたか疑問が多い」

としてます。そして、荘内半島の箱集落(約225戸)について平成3年(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした全戸調査を行います。その結果、次のような事を明らかにします。
①初七日に死霊を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧2月13から15日)に弥谷山に行くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、
②オヤママイリ(弥谷参り)については、詣り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和25,6年(1950,1)頃、廃止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となった
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の九品浄土に彫られた南無阿弥陀仏

 一方で、武田説には欠けていた弥谷寺の歴史的研究も進めます。そして境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察していきます。
結局、荘内半島・箱集落の霊魂祭祀の場の変遷は、
①原始古代においては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚
②中世においては、浦島太郎の墓伝説をともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山
③近世においてはラントウ内の家型石厨子や詣墓石碑
④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(拝墓)
の4段階を経ていることを明らかにします。
 この赤田説では、弥谷山は「中世」に霊魂祭祀の場として登場してきたことになります。その背景を次のように指摘します。

「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される」

ここには南北朝時代以後に讃岐守護代として天霧城を拠点に勢力を野伸ばした香川氏と関係を持ち、その菩提寺となることによって弥谷寺は寺勢を伸ばしたと、在地勢力との関係を重視します。
以上から赤田説をまとめると
①弥谷参りと両墓制は、分離して取り扱うべきである
②弥谷参りという習俗の背後に、天霧領主・香川氏の影響力があった
つまり、武田氏の示したように弥谷寺詣りは古代からの祖先神祀りに、仏教が後からやって来て組織化されたものではなく、弥谷寺が中世に作り出したものであるとします。
ここまで来ると、次の射程に入ってくるのが「死霊、さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という柳田民俗学の命題そのものです。このテーゼは、柳田國男が戦後直後(1946年)に「先祖の話」で定式化したものです。
柳田國男著「新訂 先祖の話」

これに対して歴史学者の中には
「定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべきだ」

という考えも出てきているようです。
 例えば、赤田氏は次のように述べています。
「身体から離脱した霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答えは今のところない。」

控えめな指摘ですが、ここには柳田民俗学の祖霊信仰が古代に遡るという命題への疑義がうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

佐藤弘夫は、この問題に正面から答えようとして、次のように指摘します
「柳田國男が論じ、多くの研究者が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17世紀~)に、初めて形成される思想だった」

 山に祖霊が宿るというのは古代以来のものではないと、柳田民俗学への疑義をはっきと打ち出した上で、それが近世以降の歴史的なものであると主張します。
 佐藤氏の到達した地点からは、次の新たな課題が見えてきます。
弥谷寺の祖霊信仰が古代まで遡るものでないとすれば、それでは中世の弥谷信仰とは何であったのかという疑問です。
この疑問に応えようと現在の研究者は、調査研究を続けているようです。
今後の弥谷寺研究の課題の方向性を探ると次のようになるようです。
①中世に祖霊信仰を広げた宗教勢力とはなんであったのか。
②その宗教者たちと弥谷寺の関係は、どうであったのか
③どのような過程を経て、祖霊信仰の霊山から真言密教の霊場へと弥谷寺は変身をとげたのか
 ここには、武田氏によって戦後華々しく打ち出された古代以来の祖霊信仰の霊山としての弥谷さんの姿はないようです。ひとつの仮説が
研究によって批判・検証され克服されていく姿がここにはあります。
それが歴史学の発展につながるようです。

参考文献テキスト
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
③仁王門 ⑩九品浄土
承応2年(1653)、澄禅は弥谷寺を訪れ、境内の様子を「四国遍路日記」に次のように書きとどめています。
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ (後略)

意訳しておきましょう
剣五山千手院(弥谷寺)は、坂の登口に仁王門があり、ここから少し上がった石面に仏像や五輪塔が数知れず彫りつけられている。自然石を掘った階段を上って寺の庭に上がっていく。寺は南向きで持仏堂は西向きで、岩穴に差し掛かって建っている。奥の穴は九尺、高さは人の頭が当たらないくらいで、非常に強固に作られている。仏壇の一間奥に四尺ほど彫り込んで、五つの如来を掘り出している。中尊大師の木造の左右には、藤新太夫夫婦(空海の父母)を石像で切り出している。

ここからは持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていたことが分かります。この寺では、「空海=多度津白方生誕説」を流布していたようです。
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多度津白方屏風ヶ浦 鎮守の森は熊手八幡神社

弥谷寺の参拝を終えた、澄禅は天霧山を越えて多度津の屏風ヶ浦に下って行きます。白方は、弥谷寺の奥社で海の修行場(補陀洛渡海)であったと伝えられます。そこで、次のように記します。

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此浦ハ白砂汗々タルニー群ノ松原在り、其中二御影堂在り、寺ハ海岸寺卜云。門ノ外に産ノ宮トテ石ノ社在、洲崎に産湯ヲ引セ申タル盥トテ外は方二内ハ丸切タル石ノ盥在。波打ギワニ御年少テオサナ遊ビシ玉シ所在。(中略)
夫ヨリ五町斗往テ藤新大夫ノ住シ三角屋敷在、是大師御誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲ八幡山三角寺仏母院卜云。(後略)
意訳すると
この白方の浦は、白砂敷き詰められたような上に松林が続き、その中に御影堂が建つ。この寺を海岸寺と云う。門の外には、産ノ宮として石の社がある。(空海出生の際に)の産湯を使ったという盥(たらい)は、外側は方形で、内側は遠景の石の盥であった。白方の波打際は、空海が年少の時によく遊んだと伝えられている。(中略)
それより五町(500m)いくと藤新大夫が住んでいた三角屋敷がある。ここが弘法大師誕生地であり、御影堂がある。童形像は、十歳の時の姿だと云う。この寺を八幡山三角寺仏母院という。(後略)
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と記しています。ここには、白方屏風ヶ浦には弘法大師が産湯をつかった盥や幼少期の大師が遊んだという海岸寺があり、さらに近くの三角寺仏母院が藤新大夫の屋敷で、そこが大師の誕生地であるというのです。
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澄禅が弥谷寺や海岸寺を訪れた17世紀半ばには
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説

が、この地域で流布されていたことが分かります。

 一方、善通寺は誕生院が空海の生誕地で、父は佐伯氏、母は阿刀氏の女としてきました。
善通寺の存在証明のひとつが「空海=善通寺誕生院」生誕説です。それに真っ向から挑戦するかのような異説が、目の前の白方や弥谷寺で流布されていたことになります。そして、日記の内容からみて、澄禅自身も真面目に、そのことを信じていたように思えます。

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仏母院

 「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説は、いつころから誰によって、ひろめられていたのでしょうか。
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を説く弘法大師伝は、次の3つです。
1、『弘法大師空海根本縁起』(個人蔵)
2、説経『苅萱』「高野巻」
3、版本『奉弘法大師御伝記』(善通寺蔵)
この内、もっともよく知られているのが『説経苅萱』「高野巻」で、内容は次の通りです。
弘法大師の母御と申は、此の国の人にてましまさず、国を申さば大唐本地の帝の御娘なるが、余なる帝に御祝言あるが、三国一の悪女とあつて、父御の方へお送りある。本地の帝きこしめし、空船に作り籠め、西の海にぞお流しある。日本を指いて流れ寄り、爰に四国讃岐の国、白方屏風が浦、とうしん太夫と申す釣人が、唐と日本の潮境、ちくらが沖と申すにて、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女なり。とうしん太夫が養子におなりあつたと申、又は下の下女にお使ひあつたと申、御名をばあこう御前と申すなり。
奇想天外な話で、修験者の山伏が語りそうな内容ですが意訳すると
弘法大師の母上は、実はこの国人ではありません。唐の皇帝の娘に当たる人なのです。一度は結婚しますが「三国一の悪女」と評されて、父の皇帝の下へ送り返されます。父はこれを知り、空船を作って娘を載せて、西の海(東?)に流しました。船は日本を指して流れ寄り、四国讃岐の国、白方屏風が浦に漂着します。それを、釣人のとうしん太夫がみつけ、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女が乗っていたのです。二人は夫婦になり、妻の名前はあこう御前と呼ばれるようになります。

この後は、男の子をもうけ金魚丸(空海のこと)と名付けられます。しかし、夜泣きが激しく七浦七里に迷惑がかかるので、あこう御前とともに四国辺路に出ます。
「その数は八十八所とこそ聞こえたれ、さてこそ四国辺土(辺路)とは、八十八か所とは申すなり」

ここには霊場の数が88と明記されています。これが「四国辺路八十八ケ所」の文言の最古礼では四国辺路の研究では、注目されるところです。それ以前に「88ヶ所」は出てこないということは、88ヶ所霊場の成立は、この書の書かれた寛永8年(1631)からそんなに遡らないと研究者は考えているようです。
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 この説経『苅萱』には、次のような伝本があるようです。
1、絵入写本「せつきやうかるかや」(サントリー美術館蔵)
2、寛永8年(1631)刊。しやうるりや喜衛門版「せつきやうかるかや」
3、寛文初年頃刊。江戸版木屋彦右衛門版「かるかや道心」
そして、この3つを比較検証すると「空海=多度津白方生誕説」を説く『苅萱』「高野巻」の成立以前に、四国には弘法大師伝記がすでにあったようです。それが『弘法大師空海根本縁起』(以下、『根本縁起』)です。この縁起は元禄12年(1699)、高野山千手院谷西方院の真教が写したものが伝わっていて、次のような文章から始まります。
四国讃岐の多度郡白方屏風が浦に藤新太夫と申す猟師有り、其の内に阿こやと申す女人座り、未四十歳のいんに入迄、子なき事を悲しみ、俄かに善根を為さばやと思い、我心をすくわし、すぐ成る針に餌をさし、縁に任て魚を釣る、万のものに代をかえ、貧なるを供養し、或は堂社仏閣を建立し、則此願成就し、津の国中山寺に参り三七日籠り、男子二而も女子二而も、子種を壱人授てたひ給ヘと深く祈誓を申したる、(後略)

ここでは「あこや御前=唐の皇帝娘」には触れられずに、
藤新太夫が夫婦で、讃岐国白方屏風ケ浦で空海が誕生した。その後、夜泣きが激しくせんゆうが原に捨てられるが、善通寺の徳道上人に拾われ、修行し、そして唐に渡り恵果和尚に出会う。やがて天竺にも行くが、 ここで文殊菩薩との長い問答が繰返されます。修行の後、唐の国から讃岐国屏風ケ浦に帰り着く。

ここまでは「高野巻」とよく似た所が多く、両者の間に深い関係が見て取れます。続いて弘法大師帰朝後のことについて、「高野巻」は弘法大師の母のことに話が移りますが、これは『慈専院縁起』の踏襲です。
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 一方、『根本縁起』は
四国辺路を弘法大師が建立し、辺路を三十三度、中辺路を七度巡り、そして讃岐の大名香川氏(弥谷寺に近い天霧城主)も元結を切って、中辺路を二十一度行い、最後には極楽浄土に往生したと云います。さらに伊予の右衛門三郎も二十一度の辺路を行い、望み通り川野(河野)の家に生まれることができたと記します。そして縁起の末尾には、四国辺路を巡る功徳を有り難く説いています。
 この最後に次のように記します
「此縁起を一度聴聞すれば高野山ヘー度の参詣にあたる也。これを聴聞する輩は毎日南無大師遍豪金剛と唱れば、現世あんおん後生善三世の師、七世の父母迄も成仏する事無疑。」

研究者はここに出てくる「聴聞」という文言に注目し、この縁起が「語りもの」の台本であると指摘します。この「根本縁起』は、弘法大師の一代記と四国辺路の功徳を説いた「語りもの」で、四国辺路の開創縁起ともいえるようです。

それでは、この『根本縁起』の制作に関わったのはどんな人たちなのでしょうか。
①中山寺や徳道上人のことなどがみられ、西国三十三所縁起との関係も密接である
②善通寺や讃岐の大名香川氏、伊予の右衛門三郎など四国のことが詳しくしるされている
③高野山との関係がうかがえる。
④阿弥陀如来・極楽・念仏に関することも記述が多い。
以上のような「状況証拠」から、まず第一候補は、四国在地(弥谷寺や白方周辺)の高野山系の念仏聖が挙げられます。

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熊手八幡神社
第2候補は、高野山系の修験者たちです。
中世多度津の堀江湊の港湾管理センターの役割を果たしていたとされる道隆寺の『道隆寺温故記』(47)には、白方の熊手八幡官(文禄5年(1596)に関する次のような記事があります。
大師入定之後、熊手自慕大師之徳、途跨海波逆流紀川、留慈尊院。今南山巡院々、朝日護摩薫煙無絶。遠期三会、衛護密教云々。

ここには、熊手神社の熊手が大師の徳を慕って瀬戸内海を渡り、紀川を遡り、慈尊院へ留まり、さらに高野山の寺々を巡っているというのです。
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白方の熊手八幡神社
『高野春秋』元禄5年(1692)8月7日には、次のようにあります。
「行人順寺八幡在此寺。少々奉仰御立寄。紀公云、八幡者何乎。答日。熊手二而候。」

ここからは熊手は行人方(修験者・山伏)の管掌するところであったことが分かります。なお熊手八幡は今も白方に鎮座しています。そして、この神社の別当寺が仏母院であったようです。
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仏母院

 仏母院は寺伝では、永禄頃に大善坊という山伏(修験者)によって再興されたと伝えられ、山伏寺で修験者との関係が濃い寺です。ここからは、白方屏風ヶ浦と高野山との交流は念仏聖(時衆系高野聖)にだけでなく行人(山伏)グループによっても行われていたことがうかがえます。 
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仏母院
では、この『根本縁起』は、いつ作られたのでしょうか。
戦国時代頃の弥谷寺周辺をみると、永禄元年(1558)に善通寺の伽藍が焼失し、善通寺の東院は灰塵に帰します。この火災により、善通寺の勢力は一時的にせよ寺勢を失ったようです。この間隙をぬって、白方屏風ケ浦や仏母院、熊手八幡、さらに弥谷寺周辺の念仏聖や山伏などが弘法大師誕生地を白方屏風浦とし、とうしん太夫とあこや御前を両親とする異端の弘法大師伝(『根本縁起』)を作り上げたと研究者は考えているようです。
 その状況証拠資料として、『道隆寺温故記』には、次のような動きが記されています。
①天正20年(1592)には「白方海岸寺大師堂入仏供養」
②文禄5年(1596)には弘法大師が創建したと伝えられる白方(熊手)八幡を再興
ここからは、生駒藩支配下のこの頃に白方屏風ケ浦周辺で新たな弘法大師信仰が興ったことがうかがえます。その中心的な寺院が弥谷寺であったと研究者は考えているようです。弥谷寺には、中世から続く時衆系高野聖や高野山と関わりを行人(山伏)などが各院坊にいたことは、前回に見た通りです。

 そして、弥谷寺を中心に作られていた『根本縁起』の一部(弘法大師伝)が説経『苅萱』に取り込まれ、「高野巻」が成立すると研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと次のようになります。
①永禄~天正年間頃、弥谷寺や白方屏風ケ浦周辺の念仏聖や行人(山伏)など高野関わりを持つ人物によって異端の弘法大師伝(『根本縁起』)が作られた。
②高野山系の念仏行者や山伏は、それを各地で語り、弘法大師の偉大さと四国辺路の功徳を広めた
③その中心的役割を果たしたのは、とうしん太夫夫婦が安置された弥谷寺であった。
④当時の弥谷寺は、時衆系高野聖が活発な活動を展開していた
 
それでは 澄禅が訪れた17世紀半ばに持仏堂に安置されていた藤新太夫夫婦の石像は、その後どうなったのでしょうか。
その後の真念などの案内記には、この石造について触れたものはありません。17世紀末までには、取り除かれたようです。どうやら弥谷寺は異端である「空海多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を破棄し、正統派の「空海善通寺誕生院生誕説」をとるようになったことがうかがえます。その「路線変更」には、どんな背景があったのでしょうか?
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 弥谷寺調査報告書」所収

 
弥谷寺2
弥谷寺仁王門
四国霊場第71番札所・弥谷寺は八十八ケ所霊場の中でも、霊山らしい雰囲気がするお寺です。ここには大師が修行したと伝えられる窟があり、岩壁には阿弥陀三尊像をはじめとして南無阿弥陀仏の六字名号、五輪塔、梵字などが数多く刻まれています。

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阿弥陀三尊(弥谷寺本堂下の磨崖仏)
さらに近世初頭には異端の弘法大師伝を流布するなど、善通寺とは別系統の僧侶集団がいたことがうかがえます。その僧侶集団は、以前お話しした宇多津の郷照寺と同じ、高野山の時衆念仏系の高野聖たちであったようです。
弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の磨崖仏の下には「南無阿弥陀仏」の六文名号
彼らの弥谷寺での活動ぶりを追ってみることにしましょう。
テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 ―室町時代後期から江戸時代初期の展開―弥谷寺調査報告書」所収です。

弥谷寺の古代の仏たちが語るものは
弥谷寺の寺名が史料で確認されるのは鎌倉時代に入ってからですが、仏像の中には、それよりも古いものがいくつかあります。
まず木造吉祥天立像
弥谷寺 吉祥天立像
(像高59.1センチメートル)はヒノキ材による一本造りで、10世紀末期ころとされ最古のものです。
 『大見村史』掲載の地蔵菩薩立像(2)(像高不明)も10世紀後半頃まで遡る古像ですが、造立当初から弥谷寺にあったかどうかは分かりません。仏像は移動するものなのです。寺勢の強い寺には、自然に仏像の方から集まってくることは以前お話ししました。
次に古いのが鎮守とされている11世紀前半頃の蛇王大権現です。

弥谷寺 深沙大将椅像
蛇王大権現(深沙大将椅像?)
像高138.5㎝のほぼ等身の像で、全国的にも珍しい像容の蛇王大権現として注目されます。この像は、どうした訳か近代になるまで蔵王権現として伝えられてきたようです。蔵王権現は、弥谷寺の縁起に登場し深く関わる権現さんです。山岳信仰の拠点として、蔵王権現を祀るのは当然のことだったのでしょう。吉野山や石鎚山に関わりのある後世の熊野行者たちの影が見えてきます。多度津の白方や道隆寺には、備中児島の五流修験を通じて、熊野行者たちの活動が見えることは以前にお話ししました。彼らがもたらしたことが考えられます。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

 かつてはこの像は深沙大将像とされていました。しかし、この像の扁額には「蛇王権現」と記されています。また修験者たちが進行する役行者の像が登場するのは、12世紀以後のことです。役行者像が登場する前の熊野行者たちの信仰対象が蛇王権現だったと研究者は考えています。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

これらの古代の仏像たちから、弥谷寺の創建は平安時代中期、10世紀後半頃と考えられ、その後、古代寺院として整備されるのが12世紀に入ってからのようです。ただ当初の本尊千手観音が現存しないことや建物の遺構などが明確でないことから、これ以上のことは分かりません。しかし、本尊が千手観音であったことや讃岐という地域性を考慮すれば、真言系の密教寺院として創建されたことは間違いないようです。それは熊野系の行者によると研究者は考えています。注意したいのは、創建に善通寺勢力の関わりは見られないという点です。

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磨崖に彫られたキリク文字(弥谷寺本堂下)

次に文献史料から弥谷寺を見てみましょう。
南海流浪記- Google Books
南海流浪記
鎌倉時代前期、仁治4年(1243)高野山のエリート僧であった道範が、内部抗争で罪を問われ讃岐に流されてきます。彼は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。例えば善通寺に近い三豊市高瀬町麻地区の法蓮寺の本尊阿弥陀三尊立像は、宝治2年(1248)に造立されています。状況から見て、道範の影響があったと考えられているようです。

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弥谷寺磨崖に彫られた石仏や五輪塔(レーザー撮影)
 弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄』に「弥谷上人」とあるものの詳しいことは分かりません。本堂下の磨崖阿弥陀三尊像が鎌倉時代の制作とするなら、これも道範の影響かもしれません。どちらにしても弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。

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弥谷寺本堂下の磨崖

 時衆と阿弥陀信仰、南無阿弥陀仏は関連性が強いこと、それを担ったのが高野山の時衆系高野聖たちであったことを以前にお話ししました。
時衆思想の痕跡が弥谷寺に、どのような形で残されているのでしょうか。
まず(1)六字名号(南無阿弥陀仏)です。

弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体

弥谷寺本堂の周辺は凝灰岩がむき出して、大きな壁面がいたるところにあります。ここに阿弥陀三尊仏像が半肉彫りされ、その周辺に「南無阿弥陀仏」の六字の名号が彫られていたようです。しかし、柔らかい凝灰岩のため風蝕が激しく、その多くが読み取れなくなっています。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑩が九品浄土で釈迦三尊の下に南無阿弥陀仏が9つ彫られていた

研究者は、ここに刻まれた六字名号を、さらに深く見ていきます。
まず、その書体ですが弥谷寺の六字名号と同じような書体が、徳島県の名号板碑にも見られるようです。板野郡辻見堂の名号板碑(正和4年 1315)は、蓮台の上に南無阿弥陀仏の名号が楷書体で力強く刻まれています。名号板碑には名号、阿弥陀仏号、一仏房号を刻んだものが多いようですが、この種のものは時衆に関わるもので時衆系板碑と呼ばれるようです。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏

 また絵画では滋賀・高宮寺の他阿上人真教像の傍らには同様の書体の名号が書かれています。ここからこれらの書体は「時衆二祖真教様」と称され、時衆の二祖真教上人が始めたものとされています。弥谷寺のものも、時衆の六字名号の書体と研究者は考えているようです。
 以上から弥谷寺の六字名号は、時衆に関わる人物の手になるとみて間違いないようです。香川県内にはこの種の遺品は、わずかに出釈迦山捨身ケ嶽と屋島寺参道に自然石の「時宗二祖真教様」の六字名号がだけが残されているようです。

続いて、時衆の二河白道思想と弥谷寺の関係です。                         
明和6年(1769)の『多度津公御領分寺社縁起』の「讃州三野郡。剣五山弥谷寺故事譚」には、次のような記事があります。
一-、御願堂之事
東ノ御堂 亦云東院  本尊撥遣釈迦  行基作
多宝塔  名中尊院  本尊盧舎那仏  同作
西ノ御堂 又云西院  本尊引阿弥陀  同作
(中略)
此地に就て弥陀・釈迦二仏の尊像を造して、撥遣引接の教主として東西の峯におゐて、各七間の梵宇構へて二仏を安置し、蓮華山八国寺と号して、一夏の間、菩薩愛に安居し玉ふ、(以下略)
山内現在之堂社仏像等の事
一、大悲心院 一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
ここからは、かつての弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていたことが分かります。そして、その仏像が戦国時代の争乱から逃れて本堂に安置されていたと読み取れます。
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弥谷寺本堂からの東の峰
残念ながら、この釈迦と阿弥陀の二尊は今はありませんが、江戸時代中期頃まではあったことが分かります。この「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」については、中国・吾時代の善導大師の『観経四帖疏』「散善義」(『大正蔵』37巻。272頁)に次のように説かれているようです。

弥谷寺 時衆二河白道図
 旅人(往生者)が西に向かって百千里の旅をすると、まもなく水火の二河に至る。水の河は衆生の憎しみに、火の河は衆生貪愛に喩えられます。やがて幅四、五寸の細い白道があるが、道には水火が押し寄せ、そして後ろからは群賊悪獣が追いかけてくる。旅人はためらうが、東岸に釈迦、西岸に阿弥陀がおり、白道を渡るようにとの励ます声がある。旅人はその声を信じ白道をわたり往生できた。」

これを法然上人が『選択本願念仏集』(『大正蔵』83巻・11頁)で引用したことから、浄土宗では特に重視されるようになります。これを絵画化したものが、いわゆる「二河白道図」です。
 これが、やがて一遍上人の目に留まります。文永8年(1271)春、信濃の善光寺に参詣した際に二河白道図に出会い、以後はこれを本尊として、日々を送ったと伝えられます。
 『遍上人語録』は次のように説きます。

「水と火の二河は我々の心である。二つの河に犯されることがないのは名号である。白道は南無阿弥陀仏のことである。」

一遍上人は、伊予窪寺で二河白道図を掲げ、三年間の念仏を行い「十一不二掲」を感得します。ここからも分かる通り、この教えは時衆の根幹をなすもので、その後の時衆に大きな影響をあたえるようになります。そして
「現世における撥遣釈迦、来世における来迎阿弥陀」

の思想は、時衆の中で重要な教えになります。
弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、まさに二河白道図を現実化したものといえます。その上に、先ほど見た六字名号と重ねると、弥谷寺は時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。

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潅頂川にかかる橋

 現在の境内で、灌頂川と称されている細い川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたと研究者は考えているようです。
 この思想がいつ頃、弥谷寺に伝わったのかは、『多度津公御領分寺社縁起』の記事から、戦国時代以前であることは間違いないようです。もう少し絞り込むと、六字名号などから推察して室町時代前期以降と研究者は考えているようです。室町時代の弥谷寺は、時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたようです。

時衆の影響を伝える船石名号 
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
④が南無阿弥陀仏が彫られた舟形名号                       
弥谷寺境内には鎌倉時代から現在に至るまで塔や墓石などが数多く造られて、境内全体が仏の世界を表しています。その中で、仁王門の近くに建立されている高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物に研究者は注目します。
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仁王門の上の「船墓(舟石名号)」
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舟形名号
私が見ると表面は剥落して、原型も分からない石に見えます。レーザー撮影された写真が次のものです。
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             舟形名号
確かに五輪塔が浮かび上がっています。形式からみて、室町時代頃と研究者は考えています。 この石造物については寛成12(1800)年の『四国遍礼名所図会』には、次のように記されています。
「船石名号 長一丈斗の石にあり。六字名号ほり(彫)給う」

さらに江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されていることが確認できます。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。つまり「船ハカ」(墓)の表面には五輪塔の右側に「南無阿弥陀仏」の六名名号が彫られていたようです。
 「船石名号」という呼び方は耳慣れない言葉ですが、これについては説経『苅萱』「高野巻」につぎのような記事があります。空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のことです。

社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内よりも六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、舟の船杜に彫り付け給ふによって、船板の名号と申なり。

とあり、留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。県下の天福寺には版本船板名号が残されています。

弥谷寺 板本船板名号

大きな蓮台の上に、やはり「時衆二祖真教様」の六字名号が船形光背とともにみられ、「空海」と御手判があり、その上下にキリークとアの梵字と掲があります。これらの遺品は、空海筆銘六字名号として、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。
以上から、弥谷寺の船石名号の石造物は、「高野巻」に記される船板名号を石造に代えて建立した物のようです。
今は、六字名号は見えなくなっていますが、書体は本堂横の壁面と同様に「時衆二祖真教様」であったのでしょう。そしてかすかに見える五輪塔は真言(密教)と念仏の混淆を表し、そこには弘法大師信仰がうかがえます。これも時衆思想がこの寺に大きな影響を与えていた痕跡のひとつのようです。
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弥谷寺本堂横の磨崖に彫られた五輪塔
 弘法大師信仰と阿弥陀信仰の念仏を一体化させたのは、どんな僧侶たちだったのでしょうか? 

弥谷寺 高野聖

『説経苅萱』「高野巻」については、時衆系の高野聖が関わったことが分かってきているようです。弥谷寺の船石名号も時衆系高野聖の活動の痕跡と考えられるようです。
  次の3つは、出現時期が室町時代末期に重なり合います。
①弥谷寺の船石名号
②愛媛県・観自在寺の船板名号の版木
③「高野巻」
ここからは、研究者は次のように考えています。

この頃に弘法大師空海作の船板名号が時衆系高野聖の手によって創作されたこと、さらに、それが弥谷寺の石造船石名号に「発展」した。

ここにも時衆の影響が濃厚に見られます。そして、弘法大師信仰と念仏信仰の両方を持った存在として、時衆系高野聖が浮かび上がってきます。室町時代の弥谷寺には、時衆系高野聖がいて、高野山との直接的な関係があったことが推察されます。
弥谷寺 高野聖2
一遍と弟子たち
それではいつ頃、弥谷寺に時衆思想が伝わってきたのでしょうか
 阿波の板碑が正和4年(1315)頃に作られているので、14世紀前半には阿波には時衆思想が及んでいるようです。また高野山奥院の康永3年(1344)の名号板碑は阿波から運ばれたと考えられています。それを行ったのは高野聖だとされていて、四国と高野山との間には時衆思想の交流があったことが分かります。

また、弥谷寺のある天霧山周辺から採掘された石材(天霧石)を用いて鎌倉時代末期の石造層塔(35)が高野山に建立されています。これは、讃岐(弥谷寺)と高野山との人とモノの直接的交流があったことを示します。
紀伊天野社多宝塔
高野四社明神図
 逆に、弥谷寺には室町時代初期の絹本著色高野四社明神図が伝来されています。高野四社明神とは高野山の鎮守四神(高野・丹生・気比・厳島)で、高野山独自のものであり弥谷寺には関係のないものです。この図が何時、誰によって持ち寄られたのかは分かりません。しかし、状況証拠はこの明神図をもたらしたのも高野聖であることを示しているようです。物の動きからは、高野山と弥谷寺が深く結ばれていたことがうかがえます。
 古くから高野聖は、高野山に納骨を信者に勧めました。

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弥谷寺水場近くのキリク文字
 澄禅の『四国辺路日記』には弥谷寺について次のように記されています。
「其下二岩穴在、爰に死骨ヲ納ル也。水向ノ舟ハ中ニキリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」

 ここからは近世以前から納骨の風習があったことが分かります。ここには「キリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」と阿弥陀如来と空海が結びつけられています。つまり念仏信仰と弘法大師信仰が結合されているのです。これも、時衆系高野聖の「流儀」です。


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本堂横磨崖の五輪塔 穴は納骨場所でもあった
 弥谷寺の磨崖五輪塔については、三輪塔の地輪や水輪部に方形の穴を穿つて、死骨を納めたことが澄禅の記事に出てきます。
これがいつの時代に始まるのかは、高野の聖たちが弥谷寺を拠点に活動を始めたのがいつなのか、とリンクすることのようです。
以上から弥谷寺における納骨の風習も、高野山の時衆系高野聖がもたらしたのではないかと研究者は考えているようです。以上をまとめておきます。

弥谷寺の阿弥陀浄土への道
①平安時代中期に真言密教の寺院として弥谷寺が創建された。
②その後、南北朝時代頃に高野山との直接的な交流が行われるようになった
③当時の高野山は時衆念仏聖に占領され、弥谷寺も善通寺の「別所」として念仏聖の拠点となった
④室町時代になり時衆系高野聖によって、弘法大師信仰と念仏信仰が持ち込まれ、浄土教的寺院(念仏信仰)へと変貌した。
⑤時衆の二河白道思想などから「弥谷=死霊が集まる霊地」としての信仰が形成されていく
⑥念仏聖(行人達)は「寄人」として村々の堂や庵を拠点に、宗教的活動を展開し「弥谷=阿弥陀浄土」観を拡げた。
⑤このような念仏聖の活動が、周辺住民を「弥谷参り」へと向かわせる原動力となった。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。    2024年11月20日改訂版
 参考文献 
武田和昭  弥谷寺と四国辺路  弥谷寺調査報告書

 四国遍路の形成過程については、次の2段階に分けて考えるのが一般的になっているようです。
①近世前の修験者等による行場巡りとしての四国辺路形成
②近世後の庶民による四国霊場88ヶ寺巡礼巡り
  ①の近世以前を、さらに細分化すると次のようになるようです。
③平安時代後期から鎌倉時代には『今昔物語集」や『梁塵秘抄』などに四国の海辺を巡る辺地修行や山岳修行が出てくる
④室町時代前期には熊野信仰に伴う参詣、修行のルートが確認される。
⑤室町時代後期になると、四十九番浄土寺の本尊厨子や八十番國分寺本尊像に「南無大師遍照金剛」や「南無阿弥陀仏」の落書がみられ、弘法大師信仰とともに念仏信仰も盛んであったことが分かります。
⑥江戸時代初期、承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記」には、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」とあり、各札所で念仏が唱えられていたらしい。

ここからは戦国期から江戸時代初期の「四国辺路」では、熊野信仰や六十六部、時宗に加えても念仏信仰が盛んに行われていたことが分かります。今から考えると、真言宗のお寺で「南無阿弥陀仏」の念仏が称えられていたことに、何かしら違和感を感じてしまいます。どんな風に阿弥陀信仰の念仏と霊場が混淆していたのでしょうか。

1 郷照寺3

七十八番札所郷照寺(宇多津町)で見てみることにしましょう。
 郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。このあたりに秘事法門が多いといわれるのは、念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものと研究者は考えているようです。そのため庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は、それらもなくなり大師信仰だけになっています。

1 郷照寺1

 縁起は、後世のものらしく霊亀年間(715ー17)に行基菩薩が開いたと伝えます。そして、弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいます。が、現在は時宗です。
そして、一遍上人の関係を伝えています。
一遍は四国の松山の人で、16年に及ぶ最後の遊行の際には、善通寺に参拝して郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡っていますので、ここを通ったことは確かです。また最後の遊行を前にして、自分の郷里に帰ったこともはっきりしています。正応二年(1289)8月末に亡くなっています。

1 郷照寺踊り念仏
一遍絵図の中の踊り念仏

郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。
それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は
「おどりはね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

です。これはまさに、一遍上人の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には時宗の影響下にあったことがうかがえます。
1 郷照寺踊り念仏2
          一遍絵図の中の踊り念仏

 郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。
南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺

これは、江戸時代初期頃の縦六七・ニ㎝、横一九・七㎝、厚さ三・七㎝のもので、表面に「時衆二祖真教様」の書体で大きく「南無阿弥陀仏」と書かれています。その下に「承和元(834)年三月十五日書之空海」とあります。そのまま受け取ると、弘法大師が高野山奥院に入定する前年に書いたことになります。空海真筆を強調しているようです。
 裏面上部には、椅子に坐わす弘法大師像、その背後に山岳中から影現する釈迦如来が刻まれます。その下に「讃岐国屏風浦誕生院」とあるので善通寺御影堂本尊を表していることになるようです。
 つまり表面の空海筆銘の六字名号と裏面の弘法大師像とを合わせれば、まさに弘法大師信仰と念仏信仰が合体した版本となるようです。その意味では貴重な物かもしれません。
 研究者が注目するのは、郷照寺の版木と、ほぼ同じ頃に造られた「空海筆銘六字名号」の版木が四十番観自在寺、五十一番石手寺、五十二番大山寺、八十一番白峯寺などにもあることです。弘法大師に関わる念仏信仰の拠点がどうも札所寺院であったようなのです。

空海と六字名号の関係について、もう少し見ていくことにしましょう。
鎌倉時代末期の『一遍聖絵』巻二に
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字名号の印板をとどめ、五濁常没の本尊としたまへり。
 
とあり、弘法大師が六字の名号を版木に刻んだとしています。一遍上人は時衆の開祖です。そして『一遍聖絵』は、一遍上人の弟、聖戒などが関わっていますので、時衆の影響が大きいとされます。
 また「四国辺土(遍路)八十八ケ所」の文言が記される説経『苅萱』「高野巻」には、弘法大師が入唐する際、宇佐八幡宮に参詣すると火炎の中から六字の名号が現れ、これを船板名号と称し、御神体として舟に彫りつけ無事に唐に渡ったと記します。「高野巻」は高野聖たちが深く関与したことは、すでに明らかにされているようです(真野俊和一「日本遊行宗教論』)
このふたつのことから弘法大師と念仏信仰(六字名号)の混淆の仕掛け人は
①時衆が深く関わっている
②時衆系高野聖の存在も大きい
ことが分かります。
 空海が開いた高野山は真言密教の聖地です。
しかし、時代と共に様々な流派を取り入れていきます。平安時代後期から覚鑁(かくばん・1095~1143))や明遍(みょうへん・1142~1324)などが現れ真言念仏や念仏を盛んにしています。
  覚鑁については、新義真言宗 総本山根来寺のHPでは「真言の教えの中興者として、次のように評価しています。
銅像 覚鑁
 
 興教大師(覚鑁)の時代は、真言宗は事相の興隆とともに多くの流派が林立し、修法に関して一部で混乱がみられました。こうした実状に悩んだ興教大師は、遍く諸流を学びかつ相承して、真言の法門の「源底」を求め、真言密教の秘奥を究められました。現在でも興教大師は、「大伝法院流」の祖として崇あがめられています。
  興教大師の教えの本質は、弘法大師の教えの継承・発展にあり、あくまでもその目標は「即身成仏」の実現にありました。しかしそれだけではなく興教大師は、当時興隆しつつあった浄土往生思想を真言密教の枠組みの中に見事に活かし、真言密教の立場からの正しい弥陀信仰のあり方を示されました。  興教大師は、高野山の独立を達成され、教学の振興をはかり、文字通り真言宗団を中興されたのです。

  室町時代になると、高野聖の多くが時宗化します。
そして、念仏を唱える時宗系高野聖の勢力が増し、高野山の念仏化が進んだようです。つまり、当時は真言の総本山である高野山で「南無阿弥陀仏」が称えられていたのです。その後、慶長十一年(1606)幕府の命により、高野聖の真言宗加入が行われます。(五来重「高野聖」)
1 郷照寺4

 もう一度、版本に話を戻します。
これが郷照寺で造られたのか、また他から持ち寄られたのかは分かりません。しかし、郷照寺の寺歴からすると、郷照寺で作られ所蔵されていた可能性が高いと研究者は考えているようです。どちらにしても、弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を広めたことに間違いはないようです。時宗系念仏聖の存在がうかがえます。
 この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろなプロの宗教者が巡っていたことが明らかになっています。この中で近世の四国遍路への展開・発展に大きく関わったのは高野山の行人や時宗経系念仏聖のようです。彼らには弘法大師信仰を持ちながら、念仏行や念仏踊りを踊るという二面性(?)があったようです。
 江戸時代前期、貞享四年(1687)頃に真念によって『四国辺路道指南』が刊行されます。そこには
「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

と記されています。ここにはもう念仏信仰はみられません。真言宗本来の光明真言を唱えています。南無阿弥陀仏の念仏は「追放」され、弘法大師の一尊化が確立している様子がうかがえます。江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。
 郷照寺の版木からは、弘法大師信仰の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。同時に、この版木は中世の四国辺路から近世の四国遍路への橋渡し的な意味を、持つものかもしれないと思えるようになりました。

武田和昭 四国遍路における弘法大師信仰と阿弥陀信仰   空海の足音四国へんろ展 所収

1 白峰寺古図

かつて、第八十一番札所白峯寺の「白峯山古図」を見ながら、この寺の近世の変貌ぶりを追いかけたことがあります。それを最初に確認しておくと
①中世の白峰寺は「白峯衆徒21ヶ寺」の数多くの伽藍や塔が立ち並んでいた。
②そして、多くの院坊の連合体が白峰寺を形成していた。
③ところが元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、「白峯衆徒21ヶ寺、内18ヶ寺は退転」し、「寺地は山畠となる」と記されている。
④多くの伽藍や塔の姿は近世に初頭に姿を消し、3坊のみが存続した
⑤その中で、元禄以前には本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて白峰寺の本坊となった。
以上からは「白峯衆徒21ヶ寺」は、近世最初に淘汰され、その中で洞林院が本坊として生き残ったということになります。その間に何が起こったのでしょうか。金毘羅さんの金光院のように、各院坊間の権力闘争が、ここでも起こったのでしょうか。

 そんな中で見つけたのが「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」という小文です。これをテキストに「白峰山古図」をもう一度眺めてみることにします。松岡氏は次のように述べています。
「境内図を見る際には、制作年代や作者だけでなく、何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても,意識しながら読み解くことが必要」

という立場から、この古図と向き合います。そして、次のように指摘します。

「白峰山や稚児ヶ嶽、松山津などの自然景の中に、白峯寺の伽藍と崇徳院御廟などのほか、周辺の寺社や村、参道も含めて描かれている。境内をみると、三重塔や洞林院、楽屋、別所、金堂、大門など今はない建物が数多く描かれる。
 一方で、江戸時代前期に初代高松藩主松平頼重の寄進で再建・建立された阿弥陀堂や客殿の姿はない。同じく頼重が造営した頓證寺殿の特徴的な建物も、「御本社」の名称で今とは異なる社殿が描かれている。」

 建物の名称や外観・配置などが、江戸時代前期のものと一致しないことから、この絵は、さらに時代を遡る中世の景観を描いたものとします。
 この図の箱には、永徳二年(1382)の火災以前のものを描いたものであるという墨書があります。
しかし、画面には、応永21年(1414)に後小松天皇から下された「頓證寺勅額」(重要文化財)を掲げる勅額門が描かれています。歴史的な整合性がなく、少し首を傾げざるえないところもあるようです。それだけに、この絵がいつの時代を描いたものなのかについての判断は慎重にならざるえないようです。つまり「作為」があるのです。

白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
 この絵の作者や描かれた時代については分かりませんが、研究者は次のように指摘します。
①懸崖や海岸線をデフォルメしながら複雑な地形を破綻なくまとめていること
②平板化せず奥行きのある構図や、樹木など細部の描き方、目ののった画絹が使われていること
①からは高い技量をもつ絵師の存在
②からは、制作時期は江戸時代前期と研究者は推察します。つまり、箱書きにあるように中世に書かれた物ではないということです。江戸時代になって、中世の様子を描いているということになります。

画中には人物が一人も描かれていません。
建物と自然景観が丁寧に描かれています。その結果、静かな落ち着きのある雰囲気が漂います。まるで、霊地の威厳を表す社寺曼荼羅のようです。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰山古図 拡大図

そういう視点でこの絵を眺めると、白峯寺の周辺には雲井御所、鼓岡、崇徳天皇と記された二か所の社殿(現在の高家神社・青海神社)のほか、松浦や綾川など崇徳院由来の地が全て描かれているのに気付きます。どうやらこの絵の作者が目指したものは、崇徳院ゆかりの霊跡に囲まれ、廟所と一体のとなった聖地としての白峯寺の姿であったようです。それは「白峯寺縁起」に「霊験かきつくしかたき」と記される白峰寺の往古の景観を、江戸時代になって復原的に描いたものと研究者は指摘します。

制作者の意図を、別の視点から探してみましょう。
白峰山一帯を俯瞰するように整然と描いた図は、一見すると記録に基づいて境内の様子を忠実に描いたように思えます。しかし、詳しく見ると、いくつかの作為(主張)があるようです。  例えば、中世の白峯寺には多くの子院があり、戦国期には21か寺あったと伝えられます。

白峯寺 四国遍礼霊場記2

『四国偏礼霊場記』白峰寺(1689年)

元禄2年(1689)に寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図には、洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったことが分かります。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 (本堂周辺部の拡大)

ところが、中世の白峰山を描いたというこの絵に注記があるのは洞林院だけです。伽藍の間に見える数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかな「格差」が付けられています。洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したようです。その際に、同院の由緒を示すための文書などが作成されたと推測されます。そして慶長九年(1604)以降、洞林院が白峯寺において中心的な役割を担って行くようになったことが棟札から読み取れます。

  松岡氏が最初に述べていた
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵は、
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
ということになりそうです。さらに推察を加えるとすれば、そのような主張をする必要が洞林院にあった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? それは、別の機会にするとして・・先を急ぎます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
もうひとつ注目したい所は、画面左端の北峰に描かれた馬頭院です。
馬頭院については、江戸時代後期の作とされる絵図に「馬頭院跡」と記されています。また、大正15年(1926)に写された「白峯寺開基由来帳」(鎌田共済会郷土博物館蔵)にも「破壊地」として馬頭院を「当寺末寺」とする記述がみえます。しかし、他の史料には載っていない寺院です。ところがこの絵の中には馬頭院は描かれています。馬頭院は、洞林院以外に描かれる唯一の子院です。しかも離れた地であるにも関わらず描き込まれています。そこには何らかの意図や目的があったはずです。それが何なのかは、今は分かりません。「馬頭院跡」という、忘れ去られたこの子院が、この絵図を読み解く手がかりとなる可能性があるのかもしれません。
最後に、四国遍路との関わりからこの絵を見てみましょう。
この古図には遍路が歩いたと思われる道の一部が次のように描かれています。

1 白峰寺古図2$pg
①画面中央下の高屋村から白峯寺に続く道
②本堂前から画面右上へと続く道(史跡「根香寺道」)
③神谷明神の背後に延びる道、
あくまでも白峯寺への参道として描かれたのでしょうが、中世や近世の遍路道の姿を伝える貴重な絵画史料となるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

2愛媛霊山 皿が嶺jpg

 久万町の皿ヶ嶺山頂には、竜神の池があり雨乞いの聖地となっていました。
松山市窪野町から皿ヶ嶺・井内峠を経て石鎚山に至る行者道には、三六王子の石像が置かれています。ここも熊野行者の行場の一つだったようです。上畑野川の宝作にある大岳・中岳・小岳・権現岳も霊山で、大岳には行者のこもったという洞穴、権現岳には石鎚権現が祀つられています。

 旧広田村の豊峰権現山(440m)は「西の石鎚」とも呼ばれます。
2愛媛霊山 豊峰権現山2

石鎚山をまねて「一の鎖」「二の鎖」「三の鎖」が付けられ、山頂に豊峰神社(蔵王権現)が祀られています。石鎚信仰の行者たちが講員を組織して、地元につくた行場ゲレンデのようです。近くの白糸の滝は、冬の「寒垢離」の行場となっています。ここは石鎚講の先達を務めた山伏たちの修行ゲレンデもあったようです。
 
1 熊野信仰 出石寺3

 長浜町の南にそびえる出石山(金山-820m)について、

『伊予温故録』は
「世人は此出石寺山を矢野々神山なりといふ説多し 元と此山も矢野郷の内にして往古は此山に神を祭りたる故に矢野々神山とは稱せしなるへし 後ちには神祭も衰へ社殿も朽ち果てたる折柄 佛法の盛んなる世となり遂ひに此寺を建立する。」
意訳すると
「この山は、かつては矢野々神山と呼ばれていたという。矢野郷の神を祭っていいたので矢野々神山と云われたが、次第に神祭も衰へ社殿も朽ち果てた。仏教が盛んなる世となり、ここに寺院が建立されるに至ったという。

 この山も、もともとは霊山であったところへ、真言密教の修験者がやってきて出石寺が建立されたようです。そして山名も矢野々神山から出石寺山へと代わったようです。

1 熊野信仰 出石寺1

 この寺のもう一つの由来は、『宇和旧記』所収の「出石寺縁起」で、
養老年間に磯崎浦(現保内町)のひとりの漁師(翁)が、突然大地からわきでた千手観音、地蔵菩薩の像を見つけて、出石寺を創建したとというものです。また弘法大師修行の地ともされ、出石寺は信仰の霊域として山上に大伽藍を擁するようになります。

  なぜ、こんな山の上に寺院が建立されたのでしょうか。
①古代以来の霊山で、庶民の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝であること。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったようです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
1 熊野信仰 出石寺2

 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。

 出石寺の観音様の縁日は、四月と八月の一八日でした。
出石寺の望める地の人たちは、出石講を作って多くの人がお参りしたようです。大洲地方には
「おすなや つくなや おいづし詣りのべんとがしゃげらや 梅ぼしはだかで 飛び出さや」

というの民謡があるそうです。お弁当持参で人々は山を登ってきましたが、大洲市上須戒の打越部落の人は、やってくる参拝客に湯茶・杖・草履の接待をしました。
 
南予の山の名で多いのは、権現山です。
地図を見ると、南予には至る所に「権現山」が見えます。それだけ山伏たちの活動が活発であったことを物語っているようです。霊山とされていた権現山を列挙しておきます。
① 大洲市の神南山は古来、神南備山(かんなび)ともいい、文字どおり神の鎮座する霊山とされてきたようです。霊山は、修験者の行場となり、山岳寺院が現れ山岳信仰の拠点となっていきます。
② 大洲市森山の拝竜権現は、毎年三月三日に人身御供をしなければ、村にタタリをなすと伝えられます。
② 八幡浜市向灘地区の権現山(364m)は、天明六年(1786)に石鎚権現を勧請した西石鎚神社があり、雨乞いに霊験があるとされます。
④ 瀬戸町三机丸山の権現山(360m)にも蔵王権現の分霊を祀る石鎚神社があります。
⑤ 宇和町田之筋の大判山も石鎚権現を祀ります。
7月1日山麓にある窪部落の人々は、酒一升と煮豆を持って山頂に登り、石鎚権現を拝んでおこもりする。この大判山には、天狗が住み、月の1・15・28日に登ると難にあうといわれます。
⑥ 宇和島市の薬師谷奥の権現山に山高神社(大山積命、須之男命など合祀)があり、かつて麓の薬師谷の岩戸滝あたりで禊ぎをして登ってきたようです。宇和島市には大浦の権現山や三浦半島にも権現山があります。
⑦三浦半島の権現山(489m)は、嶽山とか嶽権現ともいい、その山頂に嶽神社が祀られます。
1 熊野信仰 三浦半島嶽神社

もともとは、明星寺と呼ばれていたようです。
貞和二年(1346)、九州の英彦山から一宮が電光のように飛来し、梨浦保福寺に入ったと寛永11年(1634)の棟札の裏に記されています。九州の修験道場英彦山の修験者たちの布教活動の跡がうかがえます。海を通じて、九州からの修験者も入り込んできているようです。
 一方、ここでも平家の落人伝説としてのオタケジョロの伝承があります。嶽山の祭りは今は廃れましたが、「嶽相撲」は近年まで残っていました。ふもとにある三浦大内、下波結出、津島町北灘国永の三地区が毎年、会場を廻り持ちで準備し、旧正月に開かれていたと云います。近世には、周辺の漁師達が漁事祈祷などを嶽山で盛んに行ったようです。漁師達にとって、この山は「山立て」でもあったのす。その祈祷を行っていたのが修験者(山伏)たちだったのでしょう。
 西海半島にも権現山がそびえています。この山には大蛇とか角のない山牛という怪獣が棲むと伝えられます。この山も漁民の霊山です。

 四国西南地域の山岳信仰のメッカは、篠山権現のようです
1 熊野信仰 篠山1

1065mの篠山にある篠山神社・観世音寺(現在廃寺)には、鰐口鐘の銘が伝わっています。そこには正長~応仁の年号があって、篠山信仰が中世からのものであることが分かります。
 伽藍開基記には「山上設(二)熊野三所権現廟(一)」

とあります。麓の正木御在所登山口の石燈籠に「篠山三所大権現」と刻まれているので、熊野系の山岳信仰であったこと分かります。
1 熊野信仰 篠山2

 明治初年の神仏分離で廃止された観世音寺は、態野系山伏の拠点だったようです。一方、山頂の篠山権現は、正木村(現一本松町)庄屋の蕨岡家が神職を勤めていました。篠山権現は、別当寺の観世音寺が明治2年に廃寺となったあと、篠山神社(祭神は伊弉冉命・事解之男命・速玉之男命等)と称して存続します。
 篠山権現の創始伝承は、次のような話が伝わっています。
 あるとき、熊野権現の神火が飛来し、蕨岡家の庭の老樟に輝いたので、その神を篠山にお祀りした。その老樟に篠山に棲む天狗がきて、蕨岡家の当主助之丞をからかった。助之丞がおこり天狗の翼を射落として、隠した。こまった天狗は、翼と引き換えに永代庄屋の家を盗難から守るという約束をして山にかえったという。これから当家には盗賊が入らず。「戸たてず庄屋」と呼ばれるにいたった。

ここからは次のような事がうかがえます。
①「熊野権現の神火」「天狗」などから、熊野行者の活動が篠山方面まで及んでいた
②蕨岡家自体が熊野行者出身か、
③あるいは蕨岡家が熊野行者との密接な関係があり「先達ー檀那」関係にあった可能性
④篠山先住の天狗(地神)を退治して、熊野信仰が取って代わったこと。
ここには、天狗にみたてた篠山の修験者(山伏)と蕨岡家の交流のありさまが描かれています。
1 熊野信仰 篠32

この伝承については、次のような別の話もあるようです。
弘法大師が蕨岡家に滞留し篠山権現で修行を行った。長逗留になったので、大師のたびたびまたいだ敷居には大師の霊が宿った。そのためこの敷居をまたいで盗みに入るものはいない。そこで「戸たてず」となった

 ここには、弘法大師伝説が付け加えられています。弘法大師が四国で流布されるようになるのは近世になってからです。四国遍路は、中世の修験者たちのプロの行場をつなぐ「辺路修行」から、近世の素人による札場巡りの四国巡礼に発展変化していきます。篠山も足摺から南予へ抜けていく四国遍路道のコースに入ったことによって、弘法大師一尊化の波が及んだことがうかがえます。

1 熊野信仰 篠山6

篠山を地元の人たちは、オササゴンゲンと親しみを込めて呼びます。
火災除、盗難除、農作病除、漁業・海上の守護神として庶民の信仰を広く集めました。3・6・10月の各18日には「オササマツリ」が開かれ、多くの登拝者がやってきたようです。
3月は正木村の蕨岡氏と土佐の山北村庄屋が主催して、観世音寺を開帳します。(安政五年の田原明章の篠山紀行)。6月は、火縄で神火を持って帰り虫送りを行います。ふもとの正木地区では6月1日から2か月間は、輪番で二人ずつが篠山日参をし五穀豊穣を祈願していたといいます。10月は、花取り踊りが奉納されました。
 年末には蕨岡家から三升一臼の鏡餅とお神酒が神社に献上されたようです。
 篠山山麓では、石鎚山と同様に産の忌みが厳しく守られ、お産後12日間火を別にし、一般家人の立入りを禁止していたようです。10月に行われる花取り踊りの関係者も9日間、別火、水垢離を行って参加しています。修験の行場で管理体制がしっかりしていた篠山では、こうした忌みやタブー(禁忌)の伝承が濃くまといついているようです。

赤星山のウマシ(美し)美
里から見る赤星山

 伊予の瀬戸内海から見える霊山は、水神・竜神や農業神を祀る山岳信仰の対象となっていることが多いようです。これに対して南予地域の宇和海側は、漁場から目印(アテという)となるべき山々に、山伏たちが熊野系や石鎚系などの権現サマを祀っていることが多いと研究者は指摘します。以前に石鎚信仰についてはお話しましたので、石鎚以外の霊山を東から見ていくことにしましょう。
  霊山巡礼に出かける前に、霊山とはどんなところなのかを確認しておきましょう。
山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
 漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。これは山が航海の目標になったからです。このように里や船から姿を仰ぎ見える山は霊山として、古代から信仰の対象になりました。そして、霊山は聖なるエリアの「不入山」で里人が普段は入れない山であったようです。そこに入ることを許されたのは、行場で修行を行う「聖(ひじり)」だけでした。

中世に成ると真言密教と山岳信仰が結びつき、修験者たちが行場を求めて山に入るようになります。
彼らにとって霊山は、天上や地下にあるとされた「聖地への入口=関門」でした。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、地下にいるとされました。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝
これらは天界への道とされました。一方、地下の聖界への入口は
④奈落の底まで通じるかと思われる火口や断崖
⑤深く遠くつづく鍾乳洞、風穴
このような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、人々におそれられてきた所です。ところが修験者たちは、こんな場所を行場としました。なぜならここが聖域への関門であり、異界への入口だったからです。
 聖界の入口には番人として、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などがいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。
 境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。そのような場所に分け入って、修行をおこなう修験者(山伏)は、人々から畏敬の念を持って見られたのです。 それでは東から伊予の霊山を見ていきましょう。

 東予地域の霊山
 瀬戸内海に面して中央構造線沿いに東西に伸びる法皇山脈・赤石山脈の盟主の山々は、古くから甘南備山として宇摩郡内の人たちの信仰対象となってきたようです。
2愛媛霊山 愛媛の霊山信仰No1 豊受山

 法皇山脈の一番東に位置する豊受山(1247m)は、オトイコサンと親しく呼ばれ、もとは豊岡山と呼んでいたようです。

この山は、その名の通り豊受姫(伊勢の外宮に祀る五穀の神)を祀っていて、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されてきました。もともとは、水神を祀り五穀豊穣を祈る山であったのが、伊勢信仰が近世に入ってきて「豊岡山 → 豊受姫」に山名が変えられたようです。祭儀を行う主が神社名や山名を変えるのは良くあることのようです。石鎚山や剣山という名前も近世になっての名前のようです。

2愛媛霊山 豊受神社
豊受山の豊受神社

しかし、祭礼や祈願する内容は代わりません。民衆にとって、神社の名前などはどうでも良いことだったのでしょう。旧暦六月と九月の一三日の夏祭と秋祭の二回は、小さな丸団子(春は小麦団子、秋は米団子)を供えて、豊作を祈り、感謝します。
2愛媛霊山 豊受山風穴
豊受山の風穴

この山の頂上の奥社の西側には、長さ65mもの風穴があります。ここからは夏でも冷たい風が吹き出しています。やまじ風はここから吹き出すと信じられ、そこに団子を投げ入れて風が吹き出ないように祈願しました。団子の数は、一年の日数と同じ365個が供えられました。これをホカイに納めて一荷とします。
 この風穴も先述したように「洞窟・風穴は地下の聖界への入口」です。修験者たちの行場であったことがうかがえます。以前は九州、中国地方からも、このやまに参拝者があったと云います。この山が見える宇摩郡内では西は土居町中村から、東は伊予三島市東寒川、南は同市富郷の広範囲にわたって、多数の氏子があり、参拝者も多く、七荷半もの供物があがったようです。
2愛媛霊山 赤星からの豊受山
赤石山から豊受山への稜線

 祭礼に、里の信者を山に導いてくるのは先達です。
彼らは里にいた山伏たちです。遠く九州や中国地方からも参拝者があったというのも、そこから信者を誘引してくる先達の存在があったからこそなのです。石鎚講のような組織があったことがうかがえます。

伊予三島市史には、次のような「豊受さんと翠波様の伝説」が紹介されています。
豊受山に坐す豊受姫は、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されていた。東の翠波峰には、水波之女神がお住まいになり、水の神さまとして信仰されていた。豊受山には里の人たちが夏と秋に登り、盛大なお祭をして参拝者が後を絶たなかったが、翠波峰は旱のときに雨乞祭をするほかは参拝者がなかった。翠波峰の神さまは何かと寂しくなり、作物が良く出来ているのは私が水を授けているからなので、私の方が力があるのにと、豊受山の後ろの穴の風の神に話をした。
それを伝え聞いた豊受の神は、寒川から西の方ではたくさんの谷川が流れていて、翠波の神に世話になることなどない、とご立腹になり、それを翠波の神さまに申し入れた。そのため、お二人の仲は悪くなり、いつしか冷たい風が吹き始めた。
しかし、豊受山と翠波峰の中間の鷹取山に鷹取彦命という美男の神がおられ、お二方の対立を心配して仲裁されたので、女神たちは元のように仲良く暮らすようになった。
というハッピーエンドの話です。
しかし、これには別バージョンもあります。
それは豊受神と翠波神が戦い、豊受神は敗れ、焼き殺されたというのです。しかし、その時、豊受神は村中に雨を降らせたので、村人は亡くなった日を命日と定め、豊受山で雨乞いをしたと伝えられ、以来雨乞い踊りをすることになった、と「愛媛県の地名」に書かれているようです。こちらは、雨乞いの山として由来を伝えています。

 豊受山の西の赤星山では、明星の神を祀る祭礼が旧六月一日に行われていました。
カタクリ・ アケボノツツジ | nagiのブログ
赤星山頂手前の石祠
    山頂手前の石祠には、星の紋を付けた赤星大権現が祀られています。山岳信仰の修験者たちは、仏や菩薩が仮(=権)に姿を変えて日本の神として現れた姿を権現と呼び山の頂などに祀りました。権現が祀られてること自体が、山岳修行の行場であったことを示しています。
境内に祀る新仏像 | 九州石鎚大権現社公式サイト
石鎚蔵王権現

 伝説では、次のようにその由来が伝えられています。
宇摩郡の大領越智玉澄が大山祇神を勧請しようとしました。
しかし、やまじ風が吹き、船が遭難しそうになります。
その時に、この山の頂に星が輝き、海にその明かりが映ります。すると荒れた海が鎮まった。以来この山を赤星山、海を火映灘(燧灘)と呼ぶようになった

 法皇山系はやまじ風が吹き下ろし、沖行く船はこれに悩まされたようです。先ほど見た豊受山ににも風穴神社がありましたが、赤星大権現は風を鎮める神だったのでしょう。近世後半以後に金毘羅大権現が海の神様として「海難防止」の霊験を独占化するまでは、各地に航海安全を祈る山があったのです。

高縄半島の霊山には、熊野信仰の影響を受けた黒滝神社があります。
2愛媛霊山 黒滝神社遙拝所
里の黒滝神社遙拝所

東三方ケ森(1233m)の峰つづき、東面する丹原町田滝の権現山にある黒滝神社は、戦争の弾丸除けとか徴兵除けの神として道前地方の人たちの密かな信仰を集めてきた山です。雨乞踊りとしての御簾踊りも伝わっています。この社に泊まると夜半に、笛、太鼓の音(カミカグラ)が聞こえてくると云います。

 この黒滝サンと石鎚サンが石の投げ比べをした話は、広く知られています。
黒滝サンの投げた石は、石鎚山の頂上にまで届いたが、石鎚サンの投げた石は田滝まで(あるいは田野の綾延神社の馬場まで)しか達しなかった。

というのです。このような二つの山の争いが伝わる背景には、その山を霊山とする修験者たちの勢力争いが背景にあることが多いようです。黒滝神社の氏子である田滝の人は、石鎚山には登らないというしきたりが伝わっていたようです。近世以後の石鎚信仰と熊野信仰の対抗関係が反映した伝承と愛媛県史は記しています。

 熊野信仰は紀伊水軍の活躍と共に、古くから瀬戸内海沿岸に広がっています。大三島の大山祇神社にも中世には、熊野行者の活動が見られる事は以前にお話ししました。芸予諸島を拠点に高縄半島にも多くの熊野行者が入り込んで定着していたようです。

高縄半島の重信町山之内の雨滝龍神社は、雨乞の神として知られています。
雨滝龍神社 (愛媛県東温市山之内 神社 / 神社・寺) - グルコミ
もともとは明神ケ森の山上に鎮座していましたが文明四年(1472)に現在地に下りてきたと云います。ここも近くの俵飛山福見寺とともに熊野修験道の行場でした。

 玉川町の楢原(奈良原)山(1042m)も、修験道場でした。
楢原山・古権現山へ行こう!

  この山は、丹原の西山興隆寺と北条の高縄山を結ぶラインの中間ほどに位置します。丹原の興隆寺から、田滝の黒瀧神社と東三方ヶ森と楢原山を経由し、高縄寺に至る山道は、修験者の修行の道だったようです。山頂の奈良原神社は、もともとは古権現と呼ぶあたりに奈良原権現として鎮座していたと云います。

2愛媛霊山 楢原(奈良原)山jpg

 この山には長慶天星の潜行伝説があります
南朝の長慶天皇(後村上天皇の第一皇子)が、北朝軍に追われたときに、牛(黄牛)や馬に乗りついで千疋峠を越えて楢原山に落ち延びてきたと云うのです。熊野は南朝方について戦い敗れます。平家の武者伝説がるところには、不思議と熊野神社が勧進されています。
『愛媛面影』によると、
「嶺上に蔵王権現を祀り、牛馬を護らす神也とて農民信仰して詣人多し」
とあり、その神像は
「人間が牛に後向きに乗った姿」
「衣冠束帯を着けアベ牛の背に跨らせ給ふ」
という姿と伝えられます。この伝説から近世には「牛馬の守護神」としての農民たちの信仰を集めるようになったようです。
美人の湯と神秘の森をもつ楢原山で古をめぐる旅/愛媛県今治市 ...

この長慶天皇に係わる伝説は、山麓に住む木地師が各地で広めた伝承のようです。松山市の石手川流域の伝説には、落人が追手の目を欺くため牛の背に後向きで乗り、牛を後さがりに歩かせて、水ヶ峠方面から、楢原山へ逃げたという話もあるようです。
この山は蒼社川の水源で、山頂の手前には水分神社があります。
愛媛県今治市玉川-楢原山=奈良原山、鈍川温泉、 : 写真日記

これは奈良県の吉野水分神社を勧請してきたもので、水源の神として祀られたようです。この山は農業、牛馬、水源の神として高縄半島の農民の信仰をあつめ、雨乞い祈祷も山頂で行われてきました。
 別当をつとめた畑寺の光林寺の記録によると、楢原山は鎌倉時代から修験者の行場で、文保年間(1317~19)には、奈良原神社及びその傍らの蓮華寺(光林寺末寺・現在廃寺)には38人の行者が常住していたとされます。厳しい山岳修験道の霊山であったようです。同時に、高縄半島の森林資源を管理・所有する立場にあったことがうかがえます。中世の山岳寺院が広大な伽藍を整備できた経済力の背景は豊かな森林資源を持っていたからだと云われます。上方での戦乱で焼け落ちた寺院や街並みの復興に各地から切り出された木材が瀬戸内海を通じて運ばれていったのです。それを管理所有していたのが山岳寺院だったとしておきましょう。
  ここからは昭和9年(1934年)夏、雨乞いのために社殿周辺の清掃を行っていたところ、盛土が崩れ、開いた穴から二重の瓶に覆われた九輪の塔が出てきました。平安時代末期の全長71、5㎝.の銅宝塔で、他にも青白磁の小壺、銅鏡、中国の古銭などが出土しています。何らかの信仰行事の際に、埋められたものだと考えられています。これだけ貴重なものを大量に埋めて祈願する宗教的な力が、この寺にはあったことが分かります。

参考文献 愛媛県史
2愛媛霊山 奈良原神社経塚碑

  前回は鶴林寺から太龍寺の中世の遍路道が、紀伊熊野の海賊衆の支援を受けて作られたことをお話ししました。ここに残された四国で一番古い丁石からは、中世の「古四国霊場」の姿が垣間見ることができました。さて、今回は鶴林寺と道隆寺の発掘調査から分かってきたことを見ていきたいと思います。
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 鶴林寺は、標高505mの鶴林寺山の山頂部にあります。
今は樹木が茂り、視界は眺望が余り効きませんが、南北方向に開け、北は勝浦川、南は那賀川を流れる二つの川を見下ろすことができたはずです。つまり、里からはよく見え山で、古代から霊山として崇められていたことがうかがえます。

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 境内は、南西方向から北東方向へ延びる尾根線上に位置し、東西約200m、尾根頂部を平らに造成して、境内を作りだしています。詳細測量で、寺院建物群が建つ平坦面の他に、本堂から南東側斜面には階段状に数段の平坦面があったことが分かりました。今は、この平坦面に建物はありませんが、もともとはお堂などが建っていたようです。
元禄2年(1689)の僧寂本の『四国徊礼霊場記』の挿絵を見てみましょう。
ここには、北室院(現、忠霊殿)を含め六力寺の子院が描かれています(図3)。
四国徊礼霊場記 鶴林寺
右側から仁王門をくぐって参道が延びてきて突き当たりを上がると本堂があります。本堂に延びる道の反対側に下って行くと上から、北室院・不動院・愛染院・宝積院・東蔵院、そして谷を隔てて「水神」を祀る石室院が見えます。どの塔頭も修験者の院主の存在を暗示します。ここからこの鶴林寺がもともとは、真言密教系の修験者の山岳寺院であったことがうかがえます。発掘調査からは、次のような事が明らかになりました。
①北側(参道右側)の子院跡は後世の開墾等で攪乱され礎石等の遺構は見つからなかった。
②「宝積院跡」では、斜面下段側に盛土造成した下から、焼土を多量に含む土坑、柱穴二ヵ 所が見つかった
③遺構からは14世紀頃の土師器坏片・小皿片が出土した。
③東蔵院からは、南北方向の石垣状の石積が出てきた。
④「石室院跡」では、東西に細長い建物礎石(11m×7m)と床石が出てきた(図4)。それは『四国徊礼霊場記』の挿絵の建物によく似ている。
⑤各トレンチ内からは、古代の須恵器壹片・中世陶器(備前甕・揺り鉢)・青磁碗片等、明の青花磁器と思われる小片も出土した。
鶴林寺石室院

以上から、鶴林寺の前身の古代山岳寺院にあたると研究者は考えているようです。山岳寺院の果たした役割については、以前お話ししましたので省略します。
鶴林寺3

 太龍寺も、標高約500mの東西方向に延びる尾根線上に伽藍があります。
参道は北側からは谷筋を利用した遍路道が、東側からは尾根線を利用した旧遍路道「かも道」が太龍寺に延びていました。また、太龍寺からは「南の舎心(捨身)」の岩場を通り、次の22番札所平等寺への遍路道「いわや道」「平等寺道」が東に続きます。

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 精密測量の結果、仁王門から境内西端の子院跡までの約500mの東西に長い境内で、九段の平坦面があり、そこに多くの建物群があったことが明らかとなっています。
 寂本『四国偏礼霊場記』の挿絵(図5)と現在の建物配置を比べてみましょう。
太龍寺伽藍

この寺は、空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺となっています。14世紀後半の太龍寺縁起には
「鎌倉末期ごろには太龍寺には滝があった」
「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」
  と密教系縁起らしく大法螺を吹いていますが、瀧があったことは事実のようです。
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。また絵図左上には「南舎心」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。本堂を挟んで「南の舎心」と「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)があったことが分かります。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。修験者たちは、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。その中に空海の姿があったのかもしれません。
中央下には「瀧」が描かれています。
これがもともとの「大瀧寺」の由来になったと研究者は指摘します。『阿波国太龍寺縁起』には
「南の舎心」+「北の舎心」+「大瀧の岩屋」を併せて「三重之霊窟」

と記しています。
太龍寺 大瀧跡

 さて元に戻って、現在の伽藍配置と『四国偏礼霊場記』の挿絵を比べると変化点は、次の2点だけのようです。
①七子院が明治に全て山下に移転した
②貞享元年(1684)建立の三重塔が、昭和34年に愛媛県四国中央市の興願寺に移築
太龍寺は『歴代録』にあるように焼失と、再建を繰り返してきましたが、建物配置の上では17世紀のものが今も同じ位置にあることが分かります。つまり、この挿絵に描かれている景観が現在まで保たれているのです。
 中世のプロの修験者たちの修行の拠点であった霊場が、近世には素人の巡礼の札所に変身していきます。そのため伽藍配置や位置までもが変化していることが分かってきました。そういう中で中世からの伽藍配置がそのまま残されているという意味では、非常に貴重な場所と云えそうです。
 太龍寺では、建造物群に使用されている石材についても調査が行われています。
 このお寺の礎石や石段など石造物には、石灰岩(大理石)が多く使われています。太龍寺山には東西方向にいくつかの石灰岩の岩脈が走り、南北に延びる遍路道がその岩脈を数カ所で横切っているようです。そのため大正時代から昭和の初めにかけて「阿波の大理石」として採掘され、国会議事堂の建設にも使われました。そのため絵図に描かれた「大瀧」周辺は、セメント採石場に売却され瀧や岩屋は消えてしまいました。残っていれば空海修行の「大瀧」として、観光資源にもなったかもしれません。残念です。
 この寺での大理石の使用例を見ると、明治10(1877)年建造の大師堂や御影堂(御廟)の基壇や礎石に使われているほか、多宝塔の基礎や礎石、相輪楳の基壇にも使われています。多宝塔の建築年代は文久元年(1861)、相輪楳が文化十三年(1816)建立なので、大理石を建築資材として用いるようになったのは、江戸時代後期まで遡ることになります。
 この石材の採掘場は、太龍寺境内から約2㎞南東方向に延びる遍路道「いわや道」沿いにあったことが発掘調査から明らかとなっています。石材の採掘・切出しの手法などから、江戸時代の作業場とされ、丁場には削り取られた大量の石灰岩の屑のほか、一辺90㎝角の未製品石材が残っていました。この丁場に残された石材は、境内建造物に使用されている石材と一致するようです。
 遍路との関係では、文献・伝承で太龍寺山裾の水井村で良質の石灰岩の岩脈を発見したのは、寛政年間(1789~1802)に遍路として、当地を訪れた彦根藩の竹内勘兵衛という人物とされているようです。そうだとすれば、石灰製造技術や大理石の切出し技術も遍路が四国に伝えた文化・技術一つと云えそうです。

1四国遍路日記
 
 17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料です。
この中には、阿波の霊場が戦乱の傷跡から立ち直れずに、伽藍が焼け落ち残った本堂もぼろぼろで、仏像も壊れたままうち捨てられている姿が何ケ寺も出てくることを以前にお話ししました。
 そのような中で、鶴林寺と太龍寺は別格で、大寺院の風格を失っていないようです。17世紀半ばの二つのお寺の様子を見てみましょう。
    鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。
 
本堂も本尊も立派で、緒堂が立ち並んでいて、住職は「上人」です。他の寺院のように無住であったり、山伏や禅僧が住み着いた住職とは格が違うという雰囲気が伝わってきます。
そして「寺領百石、寺家六万」と記します。檀家が6万というのはオーバーにしても、他の札所が困窮しているなかで大寺らしい伽藍を維持できてていた数少ない寺院だったようです。
それでは大龍寺は、どうだったのでしょうか? 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石 六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
 
  ここからは大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。
同じ山岳寺院であった焼山寺と比べててみましょう
      12番 焼山寺
本堂五間四面東向 本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。

意訳すると
 本堂五間四面で東面し、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔は瓦葺き屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、熊野権現が祀られている。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代が慶安3年に再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。

 ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。かつての栄華はみえません。

なぜ那賀川の北と南にある鶴林寺と太龍寺は、戦国時代を生き抜き、近世に寺勢をつないでいけたのでしょうか。同じ山岳寺院でありながら衰退した焼山寺との「格差」は、どこにあったのでしょうか。これが澄禅の『四国辺路日記』を読みながら涌いてきた疑問のひとつです。考えられるのは戦国時代の混乱の中でも、ふたつの寺には大きな伽藍を維持できる自前の経済基盤があったということでしょう。次に、その基盤とは何かということになります。
私は、それは森林資源ではなかったのかと今は考えています。シナリオは次の通りです。
①古代の山岳寺院が国府によって建立された理由の一つに周囲の森林資源の管理があった
②山岳寺院は広大なエリアの森林資源を自己の支配下に置くようになる。
③中世に那賀川流域にやってきた熊野海賊(海の武士団)は、海上交易活動も行った。
④その最大の地場商品が木材であった。
⑤そのため熊野武士たちは、森林資源エリアをもつ山岳寺院と関係を深める
⑥有力者の保護を受け、木材販売で利益を上げた山岳寺院は山上に広大な伽藍を建立する
⑦室町時代には三好氏などと良好な関係を維持し、木材を堺港市場に提供し戦乱の中でも経済的な打撃を受けなかった。
⑧地元の武士団からも攻撃を受けることは無かった。
以上のような想像はできます。しかし、焼山寺ととの「格差」の理由は説明できません。
どちらにしても、鶴林寺と太龍寺は中世から近世にかけて、寺勢を維持し伽藍を保持し続けたようです。つまり、中性的な景観を良く残している寺であることになります。それは「古四国巡礼」の原型とも云えるようです。
参考文献
早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場  
                                                      四国霊場と山岳信仰 岩田書院

                                                    
「四国遍路形成史 山岳信仰の後に、弘法大師伝説はやってきた」の中で、四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが現在の定説になっていると紹介しました。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
それでは、四国霊場の成立を考古学者たちは、どのように考えているのでしょう。
今回のテキストは、「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」四国霊場と山岳信仰 岩田書院です。
 阿波徳島藩により描かれた「阿波国大絵図」寛永十八年(1641)を見てみましょう

太龍寺 阿波国絵図
東側から俯瞰した構図で、中央を左奥から手前中央に流れるのが那賀川になるようです。その那賀川の両側の山の上には伽藍が見えます。
右(北側)が、20番札所の鶴林寺で、
左(南側)の二層の建物が描かれているのが太龍寺
です。そして、各村々の名前が記され、それをつなぐ道も赤く描かれています。ふたつの寺院をつなぐ道も見えます。これは札所寺院と札所寺院をつなぐ道(遍路道)を描いたものしては、最古のもののようです。山岳寺院を結ぶネットワークが早くからあったことがうかがえます。
 地図上に見える「かも道」は賀茂村(現、加戊町)から太龍寺の参詣道です。現在の遍路道以前の「古遍路道」で、中世にまでさかのぼることが分かってきました。
太龍寺 かも道

勝浦川から鶴林寺への参拝道である「鶴林寺道」には、南北朝期の町石(明徳二年(1391)が11基が残されています。つまり、南北朝時代には、鶴林寺への参拝道が整備されていたことを示します。
誰によって整備されたかは後ほど見ることにして、もう少しこの丁石を見ていきます。この丁石は「無傷」ではありません。近世になって「遍路」のための丁石として再利用され、全ての町石に新しい丁数が刻まれたのです。
   例えば明徳二年造立銘の「十二町」の丁石は、他の面に「五丁」と刻まれています。(写真1)
太龍寺 鶴林寺丁石

南北朝期の丁石が、いつ遍路道の丁石に転用され、新たな丁数が彫られたのかは分かりません。一つの手がかりとして、鶴林寺に参詣する別ルート(勝浦町棚野集落からの参詣道)には、地元の福良与兵衛により道の整備とともに建てられた享保3年(1718)銘の丁石が立ち並びます。この道の整備と併せて、周辺部の遍路道も整備されたようです。その際に南北朝期の町石にも、新しい丁数が彫られて転用されたと研究者は考えているようです。

 南北朝期の町石は、四国では鶴林寺と太龍寺への参詣道(遍路道)の二ヵ所でしか見つかっていません。

太龍寺 鶴林寺道2

このことは、中世から山岳寺院であったと云われる鶴林寺や太龍寺のルーツを考える上では重要な材料になるようです。
 例えば、この丁石がどこで作られたかを探ると、地元で作られたものではないことが分かってきました。丁石は、兵庫県の六甲山系花岡岩「御影石」が使われていたのです。わざわざ船に乗せて、大阪湾から紀伊水道・四国東海岸をめぐる物資の流通ルートに乗って運ばれてきたようです。この背後からは、当時の人とモノの流れがうかがえます。
 鶴林寺の遍路道の八丁石の背面には、願主の名前が刻まれています
  「七町 貞治五年 六月廿四日 真道願主 清原氏賓」

願主の清原氏実とは何者でしょうか
この人物が、鶴林寺への参拝道の整備を行った信者の一人のようです。彼は、観応二年(1351)に那賀川下流南岸の阿南市宝田町から長生町にかけての竹原荘の地頭職に赴任していた周参見(清原姓)氏とされます。紀伊側の資料から、紀州牟婁郡で熊野水軍を率いた海の武士団(熊野海賊衆)の棟梁だったことが分かります。清原氏実の名は「泉福寺文書」に、文和三年(1354)竹原荘への土地の寄進に関わる文書にも出てくるようです。
   つまり、この八丁石は紀伊熊野からやって来て、竹原荘地頭職になった清原氏実によって寄進されたものということになります。さらに、阿南市那賀川町の三昧庵にある町石にも「十二町」「清原氏賓」の銘が刻まれています〔勝浦郡志〕。
 中世の那賀川河口には熊野からやってきた武士団(海賊)が拠点を構え、精力を上流に伸ばしていたことがうかがえます。

太龍寺 鶴林寺道

 少し想像力を飛躍させ、筆を走らせてみます。
海賊衆は、古代の「海の民」が分業した軍事勢力で、平時は船団をもち交易活動も行います。那賀川流域は木材の産地で、古代から奈良や京都の運ばれ、寺院建築などに用いられていました。阿波を拠点に畿内に勢力を伸ばす三好氏の経済基盤は、堺港における木材販売でした。阿波における木材販売の占める位置は、大きかったのです。紀伊熊野も木材の産地です。そこからやってきた清原氏実は、那賀川流域の森林価値を充分に分かっていたはずです。
 それを己の手中に収めるための方策を考えたはずです。
古代に森林管理センターとして機能するようになったのは、国府の建てた山岳寺院です。山岳寺院の経済的な役割については、以前に「仲寺廃寺」でお話しましたので省略します。
 勢力のある山岳寺院はいくつもの坊を列ね、大学として、医療センターなど様々は機能を持っていました。紀伊からやってきた外来勢力の清原氏実も、地元に根付いていくためには鶴林寺や太龍寺のもつ力を利用することを考えたはずです。
 もしかしたら、これらの寺院の僧侶の中には熊野修験者として阿波に定着した一族出身の僧侶もいたかもしれません。どちらにしても残された丁石からは、熊野海賊衆と那賀川流域の山岳寺院との関係が見えてきます。
太龍寺 地図

丁石以外にも紀伊の海賊(海の武士団)棟梁と目される「願主清原氏実」が残した痕跡としては、次のようなものがあるようです
①観応2年(1351)に竹原荘の地頭職を得た安宅氏が文和3年(1354)に再興したと伝えられる泉八幡宮、
②泉八幡宮周辺の本庄城跡
③泰地氏の城館跡と考えられている中郷城跡(泰地城)
 紀伊の小山家文書や安宅家文書など中には、小松島市・阿南市周辺の所領地名も記されています。
ここからは次のような事が分かります。
①那賀川流域では、熊野海賊衆と呼ばれた紀南武士が河口を中心に活動していた。
②彼らは、荘園支配以外にも海上交易を活発に行っていた。
③彼は鶴林寺や太龍寺などの山岳寺院を保護・信仰していた
④山岳寺院は熊野行者の活動拠点でもあった。
四国霊場成立前の那賀川流域には、政治・軍事組織として熊野海賊の姿と、宗教的な存在としての熊野修験者の姿が重なって見えてきます。
 太龍寺への古遍路道を見てみましょう 
太龍寺 かも道

太龍寺への現在の遍路道は、阿南市大井町から那賀川を渡り、水井から若杉集落を通過し太龍寺に至るルート②です。
しかし、中世の道は、阿南市加茂町から参拝する道「かも道」でした。貞享四年(1687)に真念が著した『四国辺路道指南』には、次のように紹介されています。
「これより太龍寺まで一里半、道は近道なり。師御行脚のすじは、加茂村、其のほど二里、旧跡も有り」
この中の「旧跡」とあるのが、南北朝期に建てられた町石と研究者は考えているようです。この「かも道」に建つ[太龍寺の丁石]は、鶴林寺の町石と同形式のものが19基残っています。その内の41丁石には[貞治六年 願主 道円]と刻まれています。そして、この願主の道円も紀州の人と言われます。
  「かも道」からは、発掘調査で経塚と考えられる列石を伴うマウンドが出土し、
①経筒の外容器に使った12世紀頃の東播磨系須恵器甕片
②室町時代の「阿波型板碑≒正面に阿弥陀如来を線刻」
が38丁石のすぐそばの斜面から出土しています
東播磨の須恵器甕も丁石と一緒に船で運ばれてきたのでしょう。
太龍寺 遍路道発掘

 同じように播磨産の石造物を、この周辺で探すと
①海陽町の木内家墓所の、正面に半浮き彫りの地蔵菩薩を配し、石柱上部に二線をめぐらした石造物
②由岐町の「九州型板碑」と呼ばれる形式の板碑も、六甲山系の花崗岩使用
③徳島県東海岸沿の六甲山系の花岡岩を石材とする五輪塔をはじめ多くの石造物
があるようです。
  ここから
「鶴林寺や太龍寺の参詣道に播磨から持ち込まれた町石は、紀伊水道の海上交通路を抑えた熊野水軍との関わりの中でもたらされたもの」
と研究者は考えているようです。

太龍寺 遍路道
最初に紹介した「四国霊場2段階成立説」を、最後に再度確認しましょう。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
  つまり、ここに示されているのは①の段階です。そして、鶴林寺や太龍寺の南北朝の丁石や「かも道」は、中世の辺路巡礼の遺物と研究者は考えているようです。
 那賀川流域に熊野海賊の支配エリアがあり、その保護を山岳寺院が受けていたこと、そして山岳寺院は熊野行者たち山岳修験者の宗教的な拠点として機能していたことを示しているようです。
参考文献
「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」
                四国霊場と山岳信仰 岩田書院

 「四国遍路を世界遺産に!」というスローガンの下に、遺蹟や遍路道の調査が進められ、その調査報告書もたくさん出されるようになりました。同時に四国の各大学でも四国霊場に関する文献研究が進められ、その成果が論文となって出されています。
それでは、研究者たちは、四国遍路の成立をどのように考えているのでしょうか。  その到達点をのぞいてみましょう。
テキストは、胡光「山岳信仰と四国遍路」「四国遍路と山岳信仰」所収 岩田書院です。

 四国遍路と言えば、お大師さんの遺蹟を訪ね、本堂と大師堂にお参りする巡礼方法です。お遍路さんが「同行二人」や「南無大師遍照金剛」の文字を身にまとう姿が直ぐに思い浮かびます。しかし、このような装束も戦後のものであること研究者によって明らかになってきました。
 そして、いろいろな山岳信仰が先にあって、江戸中期から明治時代にかけて大師堂が建てられるようになります。つまり、大師信仰は霊場には後からやってきたと研究者は考えているようです。例えば、現在の四国霊場を見ても、真言宗以外のいろいろな宗派が含まれています。
  【資料1】現在の四国霊場八十八ヶ所
真言宗79 真言律宗 1  天台宗 4  時宗 1
臨済宗 2 曹洞宗 1
大師信仰に関係のない宗派がなぜ霊場になっているのでしょうか。
①真言密教系修験者によって開かれてお寺さんが、後に改宗した
②修験者が行場とする山岳宗教の拠点寺院に、弘法大師信仰が後から持ち込まれた
の二つが考えられます
明治の神仏分離以前には、次の神社も札所に含まれていました。
 近代(明治維新)の札所変更(数字は札所番号)
③一宮 → 大日寺  ? 一宮 → 善楽寺 
?五社大明神 → 岩本寺 ?稲荷宮 → 龍光寺 
55 三島宮→南光坊 57 八幡宮→栄福寺 62一宮→宝寿寺 
68 琴弾八幡宮→神恵院  83 一宮→一宮寺
   ここからも札所を「弘法大師伝説」や「旧蹟」だけで、とらえることはできないことが分かります。最近は四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが定説のようです。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする

それでは、四国霊場を成立させたのは誰なのでしょうか
それは、山岳信仰に関わる修験者たちだったようです。
  四国遍路に関わる古い文献は、平安時代木の『今古物語集』と「梁庫秘抄』です。
『今昔物語集』(平安時代12世紀初)には、
「四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬にうちなされたる。」
「今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也。其の僧共、其を廻けるに思ひ不懸ず山に踏入にけり。深き山に迷にければ、浜の辺に出む事を願ひけり。」
意訳すると
今は昔、仏の道を行う三人の僧が一緒に、四国の辺地と云われる伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺を廻っていました。その僧たちは辺路を廻っているときに。思いもかけずに深い山に踏み入り、道に迷ってしまいました。浜の方に出たいと願い・・・」
 ここからは、仏の道を修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と呼んでいたことが分かります。
四国辺路1

 辺地(路)の様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』です。
「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ。」
とあります。
「忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負」うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたことが分かります。

四国辺路3 

 鎌倉時代初期の戦記物語である『保元物語』にも「仁安三年(1168)の秋のころ、

「西行法師諸国修行しけるが、四国の辺地を巡見の時、讃岐国に渡(り)」とか、「此西行は四国辺路を巡見せし」とあります

 このように平安・鎌倉時代の「四国辺地(路)」に、プロの宗教者である修行僧が修行ゲレンデを求めてやってきていたのです。このような中に、若き日の空海の姿もあったのかもしれません。
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「四国辺路(遍路)」(ヘンロ、もしくはヘジ)の文字が最初に登場するのは、「醍醐寺文書」です。
  【資料5】「仏名院所司目安案」(醍醐寺文書、鎌倉時代、弘安年間(1278~88))
一 不住院主坊事者、修験之習 両山斗敷、滝山千日、坐巌窟冬籠、四国辺路 三十三所、諸国巡巡礼遂共芸、
「(前文略)四国辺路、三十三所諸国巡礼(下略)」
この中では、修験の習いとして挙げられているのが次の3つです。
①山岳修行
②西国33ヶ所巡礼
③四国辺路
 ここからは修験者たちが修行のために、全国各地の霊山で修行を重ねると同時に、西国33ケ寺観音霊場や四国辺路にもやって来くるなど「諸国巡礼」を行っていたことがうかがえます。これらの「巡礼」は、写経などと同じ修行の一貫でした。四国辺路は修験者にとっては、自分の修行や霊力アップのためには是非行ってみたい聖地でもあったのでしょう。

神奈川県の碑伝【資料6】にも、熊野本宮長床衆の修行のひとつとして「四国辺路」が次のように記されています。
  神奈川県「八青神社碑伝」(鎌倉時代正応四年(1291)
秋峯者松田僧先連、小野余流、両山四国辺路斗敷、余伽三密行人、金剛仏子阿閣梨長喜八度 □庵、正応四年辛卯九月七日、小野、滝山千日籠、熊野本宮長床[衆]竹重寺別当生年八十一法印権人僧部顕秀初度以上三人
  ここからは13世紀末に、熊野の修験者(長床衆)が、修行のために四国辺路にやってきていることが分かります。
 南北朝時代になると、四国側の史料にも、熊野修験者の修行のひとつに「海岸大辺路」が見られるようになります。
  徳島県「勧善寺人般若経奥書」(南北朝時代、嘉慶2年1388)
嘉慶弐年初月十六日、般若菩薩、十六善神、三宝院末流、滝山千日、大峰葛木両峰斗敷、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼、水木石、人壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者為法界四恩令加善云々…熊野山長床末衆

  ここでも大峰山や葛城山や観音三十三霊場と併せて「海岸大辺路」が修行場として選ばれています。「海岸大辺路」というのは、熊野の辺路も考えられますが、「四国辺路」の可能性の方が強いと研究者は考えているようです。
 ここでも「熊野山長床床衆」が登場します。熊野信仰の修験者が四国で、辺路修行を行っていたことは確かなようです。
 そして、南北朝時代までは、四国辺路の史料に空海の名前は出てきません。では、熊野信仰の修行場に大師信仰を加えていったのは、誰なのでしょうか

研究者の間で注目されているのが、増吽僧正です。
増吽は、現在の香川県東かがわ市与田寺を本拠として、讃岐・備前・備中などの荒れ果てた寺院を次々に復興再興し、弘法大師の再来と言われた名僧です。中央にも名が知れ、熊野へも度々の参詣していますし、地元をはじめ四国各地へ熊野三社の勧請を行っている記録が残ります。
 熊野とかかわりの深い増吽は、大師信仰に何らかの関わりがあったのではないでしょうか

四国辺路3 弘法大師
研究者が注目するのが「善通寺御影」と呼ばれる大師像です。鎌倉時代の善通寺にあつたと紹介されたことから名づけられたもので、大師が釈迦如来に出会って悟りを開く様子が描かれていいます。この絵図が、増吽が活動した讃岐と吉備の寺には、よく残つているのです。
 これらの「善通寺御影」の裏書には、増吽の名が記されているものがあります。ここからはの図像を使って、わかりやすく民衆にも大師信仰を語ったのではないかという推察ができます。そうだとすれば、修験者の辺路修行から民衆の八十八ヶ所遍路への転換ポイントを果たしたひとりが増吽ということになります。
   
大師信仰が「四国辺路」に見え出すのは、中世末期の戦国時代になってからのようです。
現在の札所には、約500年前の室町時代の落書きが残っている所があります
讃岐国分寺(80番札所)本尊の下身の落書に
「弘治三丁巳(1558)六月二八日、四国中遍路 同行二人」
「大永八年(1528)五月二十日安芸宮嶋宮之浦同行四人 南無大師遍照金剛」(永正十年(1513)四国中辺路」
とあります。落書きを残した四国中辺路を巡る修験者の姿が見えてきます。そして、注目したいのは「同行二人」「南無大師遍照金剛」と弘法大師伝説とつながる言葉が見えます。彼らには自分たちが弘法大師と共に、その旧跡を歩いているという実感があったことがうかがえます。つまり、ここにきて初めて弘法大師の姿が見えてくるのです。
16世紀に残された落書きで、研究者が注目するのは「四国中辺路(遍路)」という言葉です。
「中辺路」とは、一体何なのでしょうか?
  時代は下って、江戸・元禄期の案内記「弘法大師御伝記」元禄元年(1688)に
四国八十八ヶ所の札所を立て、坂の数四百八十八坂、川数四百八十八瀬、惣て四百八十八里、大辺路七度、中辺路二十一度、小辺路三十三度成る、

と四国八十八寺霊場が登場し「大辺路」「中辺路」「小辺路」と三種類の辺路が記されています。ここからは、四国遍路が八十八ヶ所となるには、大辺路・中辺路・小辺路という熊野信仰からの影響があったことがうかがえます。
  また同じ年に出版された『奉納四国中辺路之日記』(元禄元年(1688)には
合八十八ケ所 道四百八十八里、川四百八十八川、坂四百八十八坂、空[海](印)
元禄元年土州一宮 長吉飛騨守藤原
  とあります。表題が「四国中辺路之日記』ですから「八十八ヶ所巡礼=中辺路」とされていたことが分かります。
それでは、「大辺路」とは何なのでしょうか。
澄禅『四国辺路日記』を読むNO1 江戸時代初めの阿波の四国霊場は ...

四国遍路を確立したとされる真念より早い承応三年(1653)の澄禅『四国辺路日記」(仙台塩竃神社蔵)には、八十八ヶ所は登場しますが番付はありません。そして、八十八ヶ所に大三島の大山祗神社や石鎚山が含まれています。さらに奥の院や金毘羅大権現など八十八ケ所以外の寺社も入っています。そして、真念の遍路道よりはるかに道程が長いのです。これが「大辺路」で、中世の辺路修行の名残をとどめるものではないのかと研究者は考えているようです。.
 そして、澄禅が記すように、修行のプロが修行した危険な場所は、時と共に避けられるようになります。そして、素人の巡礼者は「八十八ヶ所=中辺路」のみを巡るようになっていったのではないかというのです。
四國遍禮道指南 全訳注』(眞念,稲田 道彦):講談社学術文庫|講談社 ...

 道標や遍路宿を創設して、最初の四国遍路ガイドブックを版行した真念は、大坂寺嶋の高野聖と云われます。その著作中には、空海生誕地を多度津の海岸寺周辺とする不適切な「世間流布ノ日記」に対して怒りを表現していることは以前お話ししました。
 「空海=多度津海岸寺生誕説」は、真念の案内記『四国辺路道指南』とほぼ同時期に土佐一宮で出版されています。善通寺文書の中には、これらの土佐一宮で出された「日記」(ガイドブック)が、実質的には讃岐海岸寺(香川県多度津町)が刊行し、石手寺周辺(愛媛県松山市)で販売したものだと記す包紙が残っています。海岸寺は、江戸時代に大師誕生地の名称をめぐって善通寺と争う古利です。
  ここからは、八十八ヶ所の形成記には、真念たち高野聖とは別のグループが海岸寺や土佐一宮にあって、ともに異なる主張で八十八ヶ所を広めていったと研究者は考えているようです。つまり、八十八ヶ寺のメンバーは、まだ確定はしていなかったのです。
 この背後には、真念のような高野聖や真言系修験者の動きが見えます。弘法大師大師伝説が、しっかりと霊場に根を下ろし始めたことも分かります。
 以上をまとめておきます。

四国霊場の形成過程
                    四国霊場の形成過程

ここからは「四国辺路」の時代には、あくまでプロの修験者たちの行場であり、すべての霊場が弘法大師伝説を持っていたのではないことが分かります。それが16世紀頃から弘法大師伝説が四国辺路に加えられていき、17世紀になって「四国遍路」が形作られていくことになるようです。
最後に「四国八十八ヶ所」の「八十八」という数字は何に由来すると研究者は考えているのでしょうか。
「八十八所」の初見は、室町時代後期の高知県本川村鰐口の記録とされてきましたが、内田九州男氏によって疑問視されて以後は定説ではなくなっています。江戸時代の真念は、八十八の由来について「煩悩説、厄年説、仏数説」などを出しています。
四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳 ...
弟子の寂本はその著書の 【資料15】寂本『四国偏礼霊場記』(江戸時代、元禄2年(1689)で
  八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院ハ大師出生の霊霊跡にして、偏礼の事も是より起れるかし、故に今は此院を始めとす、

 と「八十八の次第はさだかならず」とします。いまから300年前には、すでに分からなかったのです。
  それでは、今の研究者たちはどう推理するのでしょうか。
注目するのは、熊野九十九王子との関連です。
  これまで見てきたように、四国霊場と熊野は深い関係にあります。そこで、八十八ヶ所の成立にも、熊野の影響が強いのではないかと研究者は考えます。そして「八十八」と「熊野」を結びつける物を挙げていくと、姿を現すのが熊野本宮の「牛王宝印」だというのです。これは中世や近世の起請文にも使用されたもので、当時はよく知られたシンボルマークでした。

四国辺路4 師
 
「熊野山宝印」と書かれたカラス文字のカラスの数は八十八羽です。熊野先達によって神札としても広められたので、民衆にも広く受け入れられていました。同時に「八十八」は、信仰的な数字としてのイメージもあったようです。これを証明する文献史料は、今のところありません。あくまで仮説のようです。しかし、私にとては魅力的に感じる仮説です。

四国辺路4 熊野牛王

 おつきあいいただき、ありがとうございました。

 応仁の乱が始まった翌年の9月に前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、中村と上方の間を堺港を利用して何度も往復しています。そのため堺を支配する細川氏との関わりも深かったようで、『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。

「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

 一条氏の急速な台頭の背景には、日明貿易に参入し、巨大な利益を上げていたという説があるようです。一条氏の日明貿易の実態について探ってみることにします。

一条氏を祀る一條神社 本社拝殿と天神社(四万十市)

まず一条氏対明貿易参加説です。
この説は戦前の昭和十年(1935)に野村晋域氏が「戦国時代に於ける土佐中村の発達」で、発表されました。この論文では、次の2点が指摘されました。
①土佐一条氏が対明貿易に参加していたこと
②土佐中村の外港下田が遣明船の寄港地であったこと
  その根拠として示されたのが一条氏が巨大な貿易船を作っているということでした。
その貿易船について、少し詳しく見ておきます。
 天文五年(1536)四月に貿易船建造のために一条氏が土佐国幡多郡から木材を切り出している史料が見つかったようです。しかし、一条氏に貿易船建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラーであった板原次郎左衛門は、この依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如上人は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。この結果。天文6年(1537)年三月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったことが見え隠れします。
日明貿易1

中世の交易船

 中村で船の組み立てが終了すると、板原次郎左衛門は艤装のために船を紀州に廻航しています。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如上人は堺まで出向き密かに見物しています。この船は上人にとっても意味のある船だったようです。こうして、一条氏は堺の技術力で貿易船を建造しているのです。

日明貿易3

この時期から日明貿易で手に入れたと考えられる品々を毎年朝廷に貢納するようになります。
さらに、一条氏は平均子疋を朝廷に献金し、一万疋を出して官位を得ようともしています。つまり一条氏の経済力の向上が見られるというのです。このような史料や状況証拠をもとに
「貿易船建造の史料での確認 + 経済力の向上」= 一条氏の対明貿易参加説

が出されることになったようです。
 戦後に出された「高知県史 古代中世編』でも
「一条氏は大坂の石山本願寺や堺と緊密な連絡を保ちながら、日明貿易に関与していたのであろう」

と、石山本願寺と堺商人などと共に対明貿易に参加したと推論します。これが定説でした。
09-05-15 土佐一條公家行列「藤祭り」

これに対して一条氏対明貿易不参加説が戦後になって出されます。
小松氏は
「下田港で唐船は造ったらしいが、貿易は中途挫折してゐる」

として、一条氏の対明貿易不参加説を示します。。
 小松氏に続いて下村敷氏も『戦国・織豊期の社会と文化』で
「対明貿易で手に入れたとされる珍しい外国商品は堺の商人によって、土佐国に販売されたものである」

と小松氏の説を補強します。つまり、天文期には、土佐中村はすでに堺の商圏に入っており、外国商品は一条氏が対明貿易で得たものではないという考え方です。
 これに対して『中村市史』は
「土佐一条氏は対明貿易船の実際経営に当る堺商人と関係を結んでいたことを思えば、堺商人を介して対明貿易に関与したことは十分考えられる」

とします。裏付けとして、天文九年正月一条氏から石山本願寺の当主に贈った唐犬や、朝廷への献上品を挙げて参加説を支持しました。
どちらかというと、地元の高知は関与説のようです。
 しかし、下村氏はその後の論文で、堺商人を大内派と細川派に分けて考察し、天文八年四月に渡海した遣明船のうち、1・2号船の二隻は博多商人が担当し、3号船は
「堺衆でも大内氏と結んでいた片山与三衛門・池永宗巴・同新兵衛・盛田新左衛門などが乗船、細川方の堺衆木屋宗観・小西宗左衛門などが計画していた土佐中村建造の渡唐船は、この時ついに渡海しなかった」

ことを明らかにします。『中村市史』が裏付けとする天文8年7の朝廷への献上品、さらに天文9年正月、一条氏が鐙如上人に贈ったとされる唐犬などは、天文8年4月に遣明船によってもたらされたものではなかったのです。これで、一条氏が対明貿易に関与したとする論拠が崩れました。
現在では、一条氏対明貿易不参加説をとる研究者の方が多いようです。その根拠を見ておきましょう。
第一に一条氏が堺商人と共に参加していれば、もっと多くの外国商品が中村市場に出廻り、朝廷へも多種類の品物が献納されたはずであると研究者は考えているようです。貿易船を運用していたにしては、もたらされている貿易品が少なすぎるということです。
 勘合による遣明船の輸出入品は、輸出品は刀剣・鎧・硫黄・銅を主とし、扇・蒔絵・屏風・硯・漆器などがあり、輸入品は銅銭を主とし、生糸・高級織物・錦・書籍などでした。これらの流通が中村周辺では見られないようです。

日明貿易2
第二は、貿易船の乗組員です。
天文8年4月に五島奈留浦より渡海した遣明船の乗組員は
①1号船 官員15人・商人112人・水主58人・合計185人
②2号船 官員 5人・商人 95人・水主40人・合計140人
③3号船 官員 6人・商人 90人・水主38人・合計134人
となっています。相当数の商人・水主を確保しなければならないことが分かります。さらに明国への進物の経費・勘合請料の支払もあります。これらの費用の一部は乗船料・荷駄料から支払われるとしても、一隻の請料は巨額の費用が必要でした。そのため貿易船は、多くの商人が資金を出し合って運営されたいました。また帰国後の輸入品販売のための市場確保も課題です。このような山積みされた課題に一条氏が対応できたのでしょうか? 
 先ほど見た貿易船の建造や水夫(かこ)にしても、堺や紀伊に頼らなければなりませんでした。博多や堺に割って入る形で一条氏が参入できたと考える研究者は少ないようです。
一条教房|中村めぐり

 一条氏が貿易に関与していないとすれば、朝廷や貴族たちに進物した外国商品は、どこから得たのでしょうか
この時期になるとは堺の商人が土佐にやって来るようになります。
琉球との交易の際に、立ち寄ることが多くなったようです。つまり、土佐は堺の交易圏だったのです。その際に、対明貿易で仕入れた商品がもたらされたと研究者は考えているようです。
 それ以外にも一条氏と大内氏の姻戚関係が成立し、大内義興の女が一条房冬に嫁いで、大永四年若君を出産しています。後にはその若君が、大内氏に迎えられ義隆の養嗣子となり晴持として元服します。彼は天文12年5月月に20歳で亡くなりますが、大内晴持の実家は一条氏です。大内家と一条家は強い姻戚関係で結ばれていました。そのため大内義興・義隆父子は、博多商人が遣明貿易でもたらした珍しい高価な品物を、一条氏に進呈したことは十分考えられます。
 つまり一条氏が手に入れた中国からの舶来品は、堺商人や大内氏を通じて手に入れたものだとします。

土佐国 大日本輿地便覧 坤 ダウンロード販売 / 地図のご購入は「地図の ...

また一条氏が南蛮物を手に入れる手段としては、琉球船の来港がありました。琉球船は土佐清水に入港し、そこに南蛮の品々を下ろしていたようです。この交易活動の背後にも、大内氏の支援があったようです。
 このように、一条氏が朝廷や三条西実隆・鐙如上人らに進物とした外国商品は、堺の商人によって土佐へもたらされたものや、当時婚姻関係で結ばれていた大内氏から送られた物が多かったのではないかと研究者は考えているようです。
参考文献
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年

中世は宗教が科学の役割を果たしていました。武力や技術、医療なども宗教と深く結びついていました。そのため人々にとって神仏は、身近な存在でした。すべては神仏で説明されたのです。
そんな中で、上皇や貴族たちから始まった熊野信仰は、鎌倉時代になると、皇族や貴族をまねて地方の武士たちも熊野に参詣するようになります。そして、後には富裕層も参加するようになり、次第にさまざまな階層の人々に受け入れられ、全国に広がったようです。
熊野信仰は、どのようにして各地に広がったのでしょうかに

 「瀬戸内海交通路を通じた霊場の系列化により浸透した」

と研究者は考えているようです。
熊野水軍に代表されるように古代からの熊野の海上交易ルート沿いに熊野領荘園の設置や熊野権現の勧進が行われます。しかし、それだけでは熊野詣を行う原動力にはなりません。身近で熊野に行こうと働きかけてくれる人物が必要です。それが熊野先達でした。
熊野先達の果たした役割を見ておきましょう。
先達の指示した精進潔斎を行って、参拝者(檀那)は熊野に出発します。先達は道中の道案内、関所、渡船、宿泊などの世話を行ないます。船で紀伊について熊野詣道に入ってからは、熊野王子などの霊地で拝礼や垢離などの導師を勤め、帰路や帰還後の作法を取り仕切ります。これだけ見ると現在の団来旅行のインストラクターのようですが、これは先達の職務の一部でしかありません。さらに先達は参詣をできない人の喜捨を熊野にとどける「代参」も行います。つまり、参拝しない信徒も抱えているのです。そして、熊野に参詣したり、寄進する人(信者)を「檀那」と呼んでいました。
 熊野にやってきた檀那や先達を受け入れ、宿泊、祈祷、山内案内などに従事したのが御師です。
先達は檀那を熊野に導くと、御師あてに檀那の在所、氏名、自己の在所、名前、提出年月日などを記した願文を提出しました。その形式は、次のようなものです。
     上野国高山修理亮重行(花押)
一    応安五年三月四日
一   道先達金峯山別当民部律師
一   那智山御師六角堂弁法眼
 この願文は応安五年に、上野国高山の檀那の修理亮重行が、大和の先達・金峰山別当民部律師を仲介として、那智山御師六角堂弁法眼に提出したものです。このように願文は、本来は熊野に到着した際、檀那が先達・御師を介して熊野権現に祈願をとりついでもらうために提出する祈祷依頼状でした。ところがこの願文には、今後は必ずこの御師のもとに来ることを契約した内容も含まれています。それだけでなく、この先達が導いた檀那、その檀那の一族のものにも同様のことが義務づけられるようになります。そのため後には、願文とあわせて系図が提出させられ、御師は檀那の系図を作って保管するようになります。
つまり「願文提出」は、先達と檀那との契約関係ともいえるのです。今と違うのは神仏を介して成立していることです。熊野本宮の神前で御師・先達・檀那により交わされたもので、熊野権現への誓約という形で行われています。つまり神をバックにする御師・先達と、ただの人間の契約で対等なものではありません。契約を破れば、神仏から罰せられることになります。しかも契約は一代かぎりでないのです。子孫まで拘束するものであったことが文書から分かります。
  こうして以後は、子孫に至るまで「檀那・先達と御師」との結びつきが続くことになります。こうした御師と先達・檀那の関係を「師檀関係」と呼んでいるようです。願文は先達・檀那が署判して御師に提出する師檀関係の締結を示す契約状の性格をもつようになります。

 熊野の御師は、どんな風に全国の檀那を「登録管理」していたのでしょうか?
 熊野では、鎌倉時代から室町時代初期までは、檀那を一族単位で掌握していたようです。それが後には、在所単位に移っていきます。「那智山社法格式書」に、諸大名・諸氏は名字・氏・系図にもとづき、町人・百姓は生縁の在所によるとあるように、古くは、在地領主は一族単位で掌握されていたことが分かります。東北、関東など、在地領主の支配力が強い地域では、一族引きの形がとられたようです。ここからは、同じ地域に住む一族が一緒に、熊野詣をしていたことがうかがえます。
 御師にとっては師檀関係を結んだ檀那や先達は、他の御師へ鞍替えは出来ないシステムだったので、まさに永遠の「常客」です。このリストを持っている限り、参拝客が熊野にやって来てた場合には、宿泊料や取次料が入ってきます。そのため檀那リストは貴重な財産とされるようになります。
 御師は、檀那・先達の願文を保存し、さらに名簿や檀那の系図なども作って大切に保管するようになります。そしてやがてこれらの檀那・先達リストは譲渡や売買の対象としたり、借金の抵当となるのです。これは、そこに名前の記されている檀那や先達の意志と関係なく、御師の間で行なわれ、変更後にこのことを檀那や先達には知らせていたようです。現在の旅館がこんなことをやれば、怒りをかうでしょう。
 その際、御師の間ではのちの紛争を防ぐために檀那や先達の譲渡状、売買や借金に関する文書が取りかわされています。その上で、相手方に願文や檀那・先達リストが渡されています。
現在熊野の那智大社と本宮大社には、御師文書と呼ばれるこれらの文書が一括して保存されているようです。このうち那智大社所蔵のものは、『熊野那智大社文書』全六巻にまとめられています。
 この中にある「願文・願文帳・檀那譲状・檀那売券・借銭状・先達や檀那の名簿」をもとにして研究者は、各地の能野先達や檀那の活動を明らかにしているようです
その中の先達が「檀那権」を譲渡・売買した譲状を見てみましょう
これは、先達が親子・師弟などの間で檀那を無償で譲渡するものです。
    永譲渡檀那事
  合 上野国 玉村保住人讃岐公
  右件檀那者、京尊之相伝也 然聞所譲渡于玄善房実也、但後日証文之状如件、
   永仁七年卯月十七日                  京尊花押
 これは先達の京尊が上野国見桃保(群馬県玉村町)の檀那讃岐公を玄善房に譲渡したものです。
最初に「永譲渡檀那事」とあります。「永」が文頭に記されているのは、「期間限定のレンタル譲渡」もあったからです。その場合には、レンタル期間が記されています。
 ここからは 参拝者(檀那) ー 熊野先達 ー 熊野の御師という関係(師檀関係)を、先達たちも互いに譲渡・売買していたことが分かります。 
 熊野先達を勤めた人たちは、どんな人だったのか
  先達は山伏だったと研究者は云います。石鎚山や中国地方の大山などの山岳霊場で修行する一方で、自分の拠点周辺の住民などを熊野へ引導しました。その途上、彼らは道筋にある神社や社寺などに泊まることもあったようで、その手続きや宗教儀礼なども執り行います。また。檀那の代理として参詣したり、礼を配ったりするなど、日常的に檀那と深くつなかっていました。今私たちが考える団体旅行のインストラクターとは、まったく違ったものです。ある意味、先達は檀那の信仰を菅理する立場で、師匠でもあり、怖れられる存在でもあったようです。13世紀の説話集「沙石集」からは、檀那が先達に畏怖の念を抱いていたことがうかがえます。
先達は檀那の信仰に深く関わり、その代償として利益を得ています。
だから、檀那との関係が動産化し譲渡や売買の対象となったと研究者は考えているようです。
徳島県吉野川市鴨島町の仙光寺所蔵の古文書は、地方の熊野先達に関する貴重な文書が残っています。そこには「十川先達」という熊野先達の名前が出てきます。彼は「柿原別当」という師匠について修験活動を行う山伏でした。彼の活動歴を残された文書から見てみると、周辺の先達から檀那株を買ったり、いろいろな手段で檀那を増やし、活動・経済基盤を固めている様子が次のように見えてきます。
① 14世紀には吉野川市鴨島・川島町が、檀那の分布域であった。
② 15世紀には柿原別当から石井町、吉野川市鴨島町の檀那を買い取った。
③ 16世紀初頭には、鴨島町西部に新たな檀那をもつようになる
④ さらに、鳴門市や徳島市、美波町、三好市などの檀那が散在するようになる。
このように、鴨島を中心に霞(かすみ)と呼ばれるテリトリーを拡大し、広域的に活動するようになります。ところで、檀那株を買った先の「柿原別当」は、もともは十川先達の師匠であったようです。ここからは十川先達が師匠から自立し、川島町を拠点に檀那を増やした。そして師匠の「柿原別当」が引退すると、その檀那株を譲り受けたという筋書きが描けそうです。
  熊野詣には、どれほどの費用が必要だったのでしょうか?
 吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達の残した史料から、参詣の費用について見てみましょう。
 白地城(三好市)の城主として名高い武将である大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げたものが残っています。
熊野三山御師え渡日記  大西覚用
 熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書のうち)


ここからは次のような先達と檀那の関係が見えてきます。

檀那 大西覚用 ー 十川先達 - 御師という師檀関係

覚用がこのときに、自分自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって参詣したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは3745万8750円で、大変な高額です。これは、御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。こちらについての記録は内容ですが、地域の有力武士団の棟梁クラスは、このくらいの「参拝料」を収めていたようです。商人たちは参詣講を組織し、グループで参詣していたようなので、こんな高額にはならなかったのかもしれません。しかし、一般庶民の手の出る者ではありません。近世の伊勢詣でや、金毘羅詣でとは違って庶民性は薄いようです。ところが、こんな方法ではなく、信心の強い人は物乞いをしながら熊野へ向かった人もいたようです。参詣に要する経費はさまざまであったということになるのでしょうか。
 どちらにしても紀伊からやってきた熊野修験者たちが四国各地に定着し、多くの檀那を確保して熊野詣でに参道していたようです。


四国霊場の結願寺である大窪寺本堂に安置される本尊、木造薬師如来坐像は20年ほど前に修理が行われ、その際に学術調査も実施されようです。その報告書には修理前と修理後の姿が載せられています。
3大窪寺薬師如来坐像1
大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
この姿を見てまず思ったのがなにか飛鳥仏のような感じ・・・
それと右手の指が折り曲げられて「おいでおいで」をしているように私には見えました。それと、座高が高そう、逆に言うと頭が小さいのでしょうか、胴が長いのでしょうか。
全体から受ける印象は、明るく、田舎っぽく、のほほんとして感じです。見ていると何となくほのぼのした気持ちにさせてくれます。
こんな印象を受けるお薬師さんの調査報告書を見ていきます。
1 基礎データ 総高 170,8㎝ 像高89,3㎝
2 本体、カヤ材  螺髪、ヒノキ材。
3 構造 一木造り、彫眼。
 報告書は「本体材は、半径70㎝以上の丸太を十文字に四分割した「四分一(しぶいち)」材であると云います。このお薬師さんは、左腕の前腕部をのぞくと、その他の部分は、縦一材から掘り出されたものだということです。右手も、後から付けられたものではないのです。頭や胴と一緒に、一つの木から掘り出されたようです。4等分した材から、生み出されたのですから直径140㎝以上のカヤの大木ということになります。

 そして、この仏さんは大手術を受けているようです。
「両脚付け根より少し上の位置で胴部を輪切り」
にされているというのです。切目は「正面では腹部下寄りから左袖口(地付きより一五・六㎝の高さ)」の所にあるようです。どうして?
 疑問は置いておいて、前に進みます。
4大窪寺薬師背面
         大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
 後姿を見ると、肩から背中に、虫に食べられた穴が至る所に見えます。修理では、虫穴をふさぐとともに、虫損を受けてへこんだ彫刻を、木屎漆で補足したようです。

4大窪寺薬師底面

 底を見ると、平ノミで平らに削られています。寄木造りでなく、一木造りなのがよく分かります。 中央に円穴(直径八・二㎝、深さ1・0㎝)が開けられています。何のためなのでしょうか? これもよく分かりません。

4大窪寺薬師頭部
      大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)

それでは、専門家の解説を聞かせてもらいましょう。
 本像は、頭部が小さく、上半身の伸びやかな体つきを示す。
両肘の左右への張り出しは小さく、ポーズにはいくぶん硬さも感じられるが、上半身を反り気味にして胸を張った姿勢には威厳がある。肉身部・衣部ともに彫刻面の抑揚は少ないが、肉身部は要所を彫り込んで、引き締めている。
   肉馨は低く、螺髪の額へのかぶりも少ない。
面貌は、眼瞼裂を少しうねらせ、口もとを引き締める。その表情には、端厳な趣とほのぼのとした明るさが感じられる。顔面の造形は、曲面と曲面の境目を明瞭に区切った硬い彫り口を示す。
両目は、まぶたのふくらみがごく少なく、目頭では浅く彫り出された上下の眼瞼裂が重なり、蒙古裴があらわされる。
鼻は、角のたった硬い形が印象的である。鼻梁は下端まで平らに削られ、その左右の稜線は眉の稜線とつながる。プロフィールでは、鋭角に尖った鼻先と、下唇を突き出した「受け口」の輪郭が印象的である。

4大窪寺薬師側面
 
 本体と共木より彫出された右手も、特徴的な形を示す。
一般に如来像の右手は、掌を正面に向けて立て、全指を伸ばす形にあらわされることが多い。これに対し、本像の右手は、第二指以下の指先をほぼ直角に揃えて屈し、第一指も少し前方に差し出して、手のひらの前の小空間を包み込むような形にあらわされる。手のひらも厚く、手指も太く、重たげな造形を示す。
着衣は、肉身に密着するように、総じて薄手にあらわされる
背面では、左肩より垂れる袖衣末端部に、左肘の出をあらわしたとみられるコブ状の隆起がつくられる。しかし、この隆起は、左側面から見ると、左腕の輪郭より後方に位置しており、左肘とは関係しない不思議なふくらみになっている。そこに、肉身どこれを包む着衣との関係を現実的にあらわそうとする意識をもちながら、それを合理的な立体に表現しきれなかった、作者のジレンマが看取される。円錐台状に裾を拡げた脊部の造形にも、同じような不自然さを指摘することができよう。
   衣部の彫刻面は、総じて起伏が小さい。
衣文の断面には丸みが少なく、平坦な段差状の表現が目だつ。ことに右肩や背面では、圭角だった硬い表現がみられる。これに対し、腹部や両脚部では、やや角を丸めた段差状の衣文線と、稜線を立てた衣文線とを交互に配した衣文表現がみられる。
4大窪寺薬師正面
修理を終えて新しい台座に座った薬師如来

全体を押さえた上で、自分流に今度は見ていきます
やはり、頭は小さいようです。全体のバランスから見てもそう見えます。お顔の特徴は鼻です。
①「鼻梁を平らに削り、その左右に両眉り続く稜線を立てる鼻の形」②「おいでおいで」の右手
は、法隆寺の銅造観音菩薩立像(伝金堂薬師如来脇侍、月光菩薩)など、飛鳥時代後期に同じような特徴を持った仏さんがいらっしゃるようです。第1印象として飛鳥仏のようだと感じたのは、的外れでもなかったようです。
 このお薬師さんの特徴的な鼻や右手のスタイルは、当時の法隆寺再建期(670~711年)に造られた「童顔童形」像と似ている所があると研究者は考えているようです。
 その一方で
「頭が小さく腹部を引き締めた体つき、胸を張った堂々とした姿勢、肉身の起伏を意識した着衣の表現」

などは、薬師寺金堂の銅造薬師如来坐像など天平時代(710~784年)の仏たちにも似ているとします。つまり、この仏さんは全体として天平様式を基礎にしながら、細かいところは飛鳥時代後期から天平時代後期にかけてのさまざまな要素を含み込んでいると研究者は考えているようです。

 このお薬師さんは、カヤの大木が使われています。
奈良の都では、針葉樹を使った木彫像は唐招提寺の天平後期の仏像群のように、8世紀後半からあらわれるようです。そんなことも考え合わせると、この仏さんが造られたのは、8世紀半ば以降になるようです。讃岐の豪族たちが次々と氏寺を建立し、聖武天皇が国分寺建設に取りかかる時代です。その時代に、讃岐の地で造られた
「部分的に飛鳥の雰囲気を残す、保守的な作風」

を残す仏さんと云えるようです。
 そのためか、着衣の一部には不合理な表現ありますが、顎を引き、胸を張って威儀を正した姿にもかかわらず、明るくのどかでおおらかな印象をうけるのでしょう。
4飛鳥仏ぽい地方仏

 このお薬師さんのもつ「保守的な作風、明朗な雰囲気、段差状の硬い衣文表現」とよく似たものを探すと、多田寺(福井県)の十一面観音菩薩立像(図5)や円満寺(和歌山県)の十一面観音菩薩立像(図6)があるようです。これらも地方で造られた仏たちです。

どうして「大手術」されたのか
 この仏は「縦一材の一木造り」です。それが胴部を輪切りにされていることは最初に触れました。切断面は、写真では見えませんが左袖口を通り、胴部を一周しているようです。研究者は、次のような理由を挙げます。
 ①切断面を境に、上半身の向きや傾きを調整する
 ②切断面を削り込んで、上半身の長さを短縮する
 ③切断面より像内にある節や枝などを除去する
 ④切断面より像内に小空間を設け、像内納入品を納める
 ①②は外観上のことです。③④は内部構造に関わる理由です。頭が小さくて、胴が長すぎるためバランスをとるために切断したというのが私の仮説なのですが、それも今となっては分かりません。

このお薬師さんの伝来は?
  最後に、この仏がどうして大窪寺にいらっしゃるのかを考えておきます。
まず、最初に考えられるのが「伝来説」です。
この仏像が造られたのが奈良時代の8世紀半ば頃とすると、それは讃岐に山岳密教寺院が姿を現す前になります。大窪寺が姿を現す以前に、このお薬師さんは作られていたことになります。どこかの氏寺に本尊としてあったものが、後世の大窪寺の隆盛の中で伝来したことが考えられます。つまり、この仏は大窪寺のために作られた仏ではないことになります。
もうひとつは、大窪寺の起源を8世紀半ばまで辿れるとすることです。まんのう町の国指定中寺廃寺は、空海の時代に活動を行っていたことが発掘調査から分かってきています。同じように、大窪寺もその時代まで遡ることが出来れば、本尊薬師如来は建立以来のものとすることができます。それが可能かどうか見ておきましょう。
①本尊の薬師如来が、奈良時代後期か平安時代前期とみるれること
②弘法大師所持の伝来を持つ鉄の錫杖も、平安時代前半期に遡ること①②を、大窪寺の創建時期のものと考えると、空海の山林修行時代と同時代のものとなります。この他にも阿弥陀如来立像は11世紀、四天王像四体は11世紀末頃の作と見ることができるようです。
 以上からすると大窪寺は、平安時代初期には、かなりの規模の山岳寺院であり、平安時代後期には、さらに発展していたと考えることは出来そうです。
この大窪寺の伽藍の立地をみると、寺の背後には大きく女体山が迫っています。そこには行場であった窟から形成された奥院があり、蔵王権現なども祀られています。澄禅『四国辺路日記』には、
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。是も昔は七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同法螺在り.同大師五筆ノ旧訳ノ仁仁王経在り、紺紙金泥也。

とある。また寂本「四国偏礼霊場記』には、
此寺は行基吉薩ひらき給うふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給へり。本尊薬師如来座像長二尺に大師作り玉ふ。阿弥陀堂はもと如法堂也。
(中略)多宝塔、去寛文の初までありしかど壊れれたり。むかしは寺中四二宇門塙を接へたりと、皆旧墟有。
(中略)奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のはる。本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独鈷をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。また大師いき木を率都婆にあそばされ、また字もあざやかにありしを、五十年以前、野火ここに人て、いまは木かれぬるとなり¨(以下略)

とあり、七常伽藍が整い、四十二宇もある大寺であったが、現在(元禄時代)では、その多くが旧蹟を残すのみであると記します。そして本堂から十八町の所に奥院があり、弘法人師が求聞持を修したところであるとします。
 さらに大窪寺には、江戸時代前期ころに描かれたとみられる「医王山之図」が残されています。図を見ると、右下部に大門が描かれ、上に向かうと中門四天王に・御影堂・鏡楼・経堂・毘沙門堂・阿弥陀堂・大塔・塔・孔雀堂が続き、薬師堂(本堂)に至たる緒堂が描かれます。その右にもおびただしし数の堂宇が描かれている。これは子院を表しているようです。これだけの僧侶(修験者)がいたことになります。
 図の上部は山岳部であるが、そこには『四国遍礼霊場記』に記されていた独鈷水、奥院とともに弁才天、蔵王権現、青龍権現が山中に散在しています。これは江戸時代以前の大窪寺の景観を示しているようです。
 ここには背後の山に、奥院をはじめとする蔵王権現、青龍権現などが祀られ、さらに岩窟も描かれていることです。これは大窪寺が山岳修験の修行の場であったことを物語っています。女体山という呼称も、栃木県男体山との対比が連想され、いかにも山岳宗教の霊山であることを主張しているようです。
 残された遺物などと併せて考えると、山岳修行の地として弘法人師の時代まで遡ることができると研究者は考えているようです。

 そんな説を読みながらもう一度大窪寺の薬師如来を見ていると、ウルトラマンに見えてきました。ウルトラマンは仏像のお顔を模したものと聞きました。飛鳥仏と天平仏がミックスされたような讃岐で作られた薬師如来坐像が大窪寺にはあります。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 松田誠一郎    大窪寺本尊の薬師如来坐像について
       香川県歴史博物館 調査報告書第三巻2007年

 
DSC01386多度津街道1
 城下町丸亀の港は、上方や中国筋からの金比羅詣で参拝客が多く上陸するところでした。とりわけ、下津井と丸亀間は中国地方と四国地方を結ぶ上で距離が短く、その上、島も多いので安全性が高く往来する船が多かったようです。そして、陸に上がると丸亀から金毘羅の間は、整備された丸亀街道で結ばれていました。そのような地理的な好条件を背景に、丸亀藩は金毘羅参拝客の呼び込み政策を積極的にとります。
 真念の『道指南』には、
「摂州大坂より讃岐丸亀へ渡海の時ハ、立売堀丸亀屋又左衛門・同藤兵衛かたにて渡り様可相尋。白銀弐匁、丸亀まで船賃、但海上五拾里。」
とあります。丸亀に船で渡たる時には、大坂の立堀売丸亀屋又左衛門あるいは丸亀屋藤兵衛に相談をするようにと案内しています。
 天保7年(1836)3月、丸亀に着船した武蔵国中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、持参の寺往来手形を番所へ出し、さらに1人前世話料として銭105文ずつを差し出して、丸亀西平山町の備前屋の世話で次のような「(船)揚り切手」を手に入れています。
     覚貫
武州旗羅郡中奈良村重蔵同行弐人
右当地着船仕、往来手形所持見届ヶ船揚申處相違無御座候、已上
  天保七年    讃州丸亀
    丙申      吉岡惣八 印
   三月七日占百五十(日)之内
 四ヶ国御番所衆中
DSC01232
 
同じ年に四国遍路した松浦武四郎は次のように記します、
「下津井の湊に(中略)船を求て海上七里、船賃七十弐文、切手銭十三文、毎夜出船有、渡海し、(中略)
故此四国の内二而頓死、病死等二而も有而は、其所の例を受べき手形を持、別て此丸亀二而船上り切手と云るものをもらひ行ことなり。其切手は上陸の上問屋に行、船改所二国元の寺、往来を書認めもらふこと也。右之代銭八十五文也。此の船揚りを持たざるものは、土州甲の浦の番所等二而甚陸ケ敷云て通さゞること也。故二遍路の衆は皆失念なく此湊ニ揚り切手を取行かるべし。」

 彼は下津井港から船で丸亀港にやって来ています。その船賃は72文・切手銭13文を支払います。その上に遍路途上で亡くなった場合に備えて「死手形」が必要だといいます。特に、丸亀港で「揚り船切手」を手に入れておくことがポイントであると強調しています。これは、以前お話ししたように、土佐藩は遍路の長逗留や遍路乞食の活動防止策として入国の際に「上り船切手」の提示を求めるようになっていました。これがないと入国を認めなかったのです。
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 金比羅参拝の拠点となる丸亀は当時、多くの参拝客が大坂からやってきました。しかし、東国から金毘羅参拝客は、「一生に一度のことだから、伊勢も宮島も金比羅も四国遍路もすべて一緒に、この際に巡ってやろう」と考えている人たちも多かったのです。金比羅詣客と四国遍路を明確に区分することは出来ないようです。
 さて丸亀で船から上陸した四国遍路をめざす人たちは、多度津の七十八番道場寺から札打ちを始めたようです。幕末の嘉永・安政期になると東国から伊勢や高野山・熊野を経てやってきた人たちは紀州加太浦を経て志度港に上陸し、高松からの参詣道を利用するルートが多く使われるようになります。そのため、志度寺を札打ち始めとする遍路も増えます。
1丸亀城
丸亀城と城下町と港 
天明年間(1781~89)に成立したといわれる丸亀藩法制の「古法便覧」の中に、下のような公設の遍路屋についての史料があります。  
一、遍路屋事、元文五さる十一月、役中より覚書を以御伺候所被仰付、西平山熊野屋孫兵衛明地所望いたし、弐間・五間之長屋建る右代銀七百目、入札落に成り申也、宿守居へ候事、
一、遍路屋は町会所所持也(中略)
一 遍路家は町内三浦より建候也
元文5年(1740)11月に、丸亀藩の許可を受け、城下町中と三浦地区によって、丸亀城下の西平山に遍路屋が建てられたことや、そこには宿守りが置かれ、町会所が運営に当たっていたとことが分かります。
230七箇所参り

さらに翌年7月には、藩から三浦地区に次のような運営規則が通達されています。
一廻国辺路(遍路)人宿
 右往来手形寺手形相改相違無之候晋一夜泊可差置、依勝手逗留頼候共、二夜与指置申間敷事
一木賃壱人前宵越三拾銭以下可取候、其外ハ取間鋪事
一米塩味噌等調候ハゝ外方高直二無之様二仕売可申事
     (中略)
一辺路人之中病人成者貧賤之者ハ別而いたはり可申事
一船二而来候ハゝ川口二おゐて往来手形出させ見届相違無之候ハ二番所江其段相断船方可揚、出船之節茂右同様二可相心得事     (後略) (「丸亀城下御定目」)
意訳すると
①遍路屋では往来手形、寺請手形を改め間違いがなければ一泊を限りに認めること、身勝手な頼みなで連泊させないこと。
②木賃は一人30文以下、米一塩・味噌などは他の店より高く売らないこと
③遍路のうち病人や貧窮の者には格別にいたわること
④舟でやってきた者は川口で往来手形を改め、問題がなければ川口の番所へ報告してその者を上陸, させること、出船のときも同様にするよう心得る
など細かく定められてます。米・塩などについても暴利を得ることを禁じるなど遍路に対する「お接待マインド」がうかがえます。。
 この定目(規則)は町奉行からて大年寄を通じ、丸亀城内14の町内の21の年寄と、三浦の3人の庄屋通達して、それぞれの請け判がとられています。城内全体に周知させています。
丸亀地形図
 この2年後の1744年には、大阪江戸堀の明石屋によって金比羅参拝船が運行を開始します。金比羅船が追い風に帆を上げて、大挙してやってくる時代が幕明けるのです。その流れに乗って四国遍路もやってきます。丸亀藩は金毘羅参拝客の誘致に積極的に動いていますが、四国遍路に関しても目配りしていることがうかがえます。そして、その姿勢は「お接待マインド」で、排斥の姿勢ではなかったようです。

4北前船

高松藩の物乞い禁止令               
高松城下の様子を知るものとして、文化12年(1815)8月に、町年寄に藩が出した次のような史料があります。
廻国並びに四国辺路(遍路)之類、御城下江大込候義兼而停止之事二候所、近頃猥り二町方江大込、就中他所乞喰辺路之類多入込、托鉢致候様二相聞候、向後右様之類惣而他国者与見受物貰之類江一向手之内之合カヲも遣申間敷候、畢竟町方二而托鉢有之候故、多入込候義と相見候開堅相守可申候、若心得違之者も有之托鉢於遣者、屹度咎可申付候、(後略)
(「高松町年寄御用留(抄)」)
意訳すると次のようになります。
従来から遍路の城下への入り込みは禁じているが、近頃乞食や遍路が城下に多く入り込んで盛んに托鉢をしていると聴く。今後は乞食遍路の類や他国者で物乞いをする者に対しては、一切布施をしてはならない。もし心得違いの者がいれば、今後は罰する
という達しです。この達しの末文には、この達しの趣旨はすでに天明5年(1785)や寛政7年(1795)にも触れ達しているが、それにもかかわらず、近年心得違いの者もあって徹底していないので重ねて通達すること、本家は言うまでもなく裏だな・借家に至るまで趣旨を徹底するようにと、厳しく申し渡しています。
 ここからは18世紀末から19世紀にかけて金比羅参りや四国遍路が盛んになるにつれて、四国に「滞留」し、高松周辺でも「遍路乞食」をするものが増えていることが分かります。これは当時の四国各藩の抱える共通の問題だったようです。

4弁財天Ueno_junks
 しかし、その対応策はそれぞれの藩で異なりました。
最も強硬策をとったのが土佐藩で入国制限から、大地震の後は入国禁止へと進みます。そして、それは明治後にも引き継がれ高知県では、遍路排斥が地方行政の手によって進められたのです。
 ところが阿波や讃岐は「遍路乞食」の禁止通達は何度も出されるのですが、土佐のように入国制限や禁止策までには居たらないのです。そのため現場の村役人が対応に苦慮していることを窺わせる史料が阿波藩などには残っています。
 逆に阿波藩や讃岐では、なぜ遍路排斥を行わなかったのかというのが次の疑問点となります。
しかし、現在の私にはそれに答える材料はありません。あしからず・・・
 参考文献 「四国遍路のあゆみ」
    平成12年度遍路文化の学術整理報告書

     
3松尾峠1から

宇和島藩と小山関所
 土佐の西端の宿毛と伊予の国境に松尾峠があり、そこには土佐藩の松尾坂番所(宿毛口・松尾番所)と宇和島藩の小山番所が設置され、入出国者に目を光らせていました。天保7年(1836)に四国遍路をした武蔵国幡羅郡中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、小山番所の手続きについて次のように記しています。

「伊予国入口御番所、小山村二宇和島御城主御高十万石、伊達遠江守様御番所口上り切手・往来御改、其上被仰渡候趣左二 辺路(遍路)道斗通べし、脇道ハ相成不申、当御領分日数七日限り、止宿ハ相対二而宿取、若し差支候節ハ村々庄屋へ相懸り、泊り可申長」

と、切手改めの上、脇道を通らずに遍路道のみを通行して7日以内に藩領内を通過するように申し渡されています。土佐藩と同じような規制があったようです。25日、彦兵衛は、この切手を東多田番所で差出しています。宇和島藩領内の通過に要したのは4日でした。

3松尾番所跡.32jpg


元縁10年(1697)8月の宇和島藩が東多田番所宛てに通達した「定」の第4項には、
「辺路(遍路)之儀ハ其所から之手形証文を改、槌成事二候ハヘ通可申事」
とあって、手形証文(切手)を検査して、確かであれば通行させよ命じています。ここには遍路の通行に関しては制限していないようです。ただ、第1項には、次のようにあります。
「番所之事、御領中江出入之者可為相改事二候、天下往還之旅人相留候事ニ無之候、然れども御領ハ往来之道筋と申二者無之候、若土佐国江相通由断候ハバ、道筋を承、小山樫谷之内へ通り手形遣可相通事」

ここからは、土佐へ行く一般の旅人には、「通り手形」(通行証・切手)を番所で発行していたようです。先ほど見た天保7年(1836)の野中彦兵衛の場合には、遍路にも切手を発行し、通行日数制限を行っていますから土佐に習って、幕末が近づくに従って遍路に対するも取り締まりが厳しくしなっていったことがうかがえます。

3小山番所跡
 同じ年に四国遍路を行ったのが松浦武四郎です。彼も
「東たゞ村、村端、番所、宇和島領是限り也。此處二而出入のものを改(め)り。
(中略)此領分廿一里を七日の内に通らざるものは陸奥ケ敷(ムツカシク)云う也」
と、「領内通過7日」とされていたことが記され、先ほどの史料内容を裏付けるものになっています。
3松尾番所跡2

 大洲藩の規制は? 
大洲藩に入ると、鳥坂番所があります。この番所はもとは鳥坂峠にありましたが天保年間に久保に移ってきます。先ほど見た野中彦兵衛や松浦武四郎も、この番所を通過したはずなのですが、彼らの記録には、一言も触れていません。大洲藩領には霊場札所は一か所もないので、「通過地点」という感じだったのでしょうか。
安永5年(1776)11月に藩が村役人心得として大洲藩が通達した書付写しの一部です。
(前略)
一、虚無僧其外廻国辺路(遍路)浪人体之旅人、従公儀被仰出候趣、猶又急度可相守事  
 附、村々により辺路(遍路)宿相究候事、延享二丑ノ年停止申触候得共、今以村により有之様二相聞候、向後急度差留候、間取り小百姓共不同無之様宿可申付事、
 はり札ニ、辺路定宿之儀、先年伺之上無拠聞届ケ置候村々ハ只今迄之通たるへき事
(後略)            (「上吾川宮内家文書」)
ここには領内の村々においては遍路宿を営むことは禁止していたはずだか、近年その筋の許可もなく勝手に遍路等の旅人に宿を提供する者がでてきているとようだ。延享2年(1745)に禁止されたことであり、重ねて禁止の旨を徹底するようにと命じています。なお許可済みの遍路宿については従前通りであると、小さな紙札に書かれてこの文書に貼り付けられていると記されています。
 封建時代は移動の自由も、営業活動の自由もありませんでしたから勝手に遍路宿を営むことも許されなかったようです。

3四国遍路道
  松山藩の遍路寛大策と道後温泉
鴇田峠(ひわだ)を境に大洲藩領から松山藩領久万山に入ります。
天保14年(1843)阿波名西郡上山村の前庄屋粟飯原権左衛門一行は、次のような通行切手を与えられていました。
   覚
遍路街道之外
久万山日数五日切
阿州名西郡上山村権左衛門十二人
         松山領久万山
   辰三月六日    改所 印

この文章は「不可入遍路街道之外」で「入るべからず」が省略されています。つまり、久万山の通過には、遍路道のほか脇道に入らないことと5日の日数制限があったことが分かります。
同じようなものには「松山領野間郡県村庄屋越智家史料』にもあります。この切手を発行した改所は『海南四州紀行』の一節に、「坂ヲ越テニ名二至り出店、即チ改役所ヲ兼貿」とあり、松山藩領に入る手前の浮穴郡二名村に改役所があったと記します。 なお、久万山とは、今は久万高原一帯を指し、古くは久万郷ともいい、大半は松山藩領でしたが、一部の二名村などは大洲藩領でした。

3松尾峠から2
 三(見)坂峠を越えて松山城下に近づきます。
四国遍路の記録を残した遍路達が必ず触れているのが道後温泉のことです。この温泉には遍路優待の定めが古くからあったようです。名湯と知られた道後に入れることは、長い旅をしてきた遍路達にとっては何よりの楽しみであったようです。
道後温泉郷に止宿する遍路の数は多かったようです。

3松山
 元禄15年(1702)編集の「玉の石」(道後最古の観光案内書、著者は僧曇海)には、
「四国遍路、七ヵ所参、三十三番じゅんれい、同行幾人にても勝手次第一宿するなり」

とあります。ここからは、四国遍路や七ヵ所参り、松山西国巡礼の人々には、道後で自由に一宿できる「特別待遇」があったようです。 遍路が優遇されたことについては、『伊予道後温泉略案内』(宝暦から明和年間〈1751~72〉には、
「遍路は3日間は湯銭いらず」
とあり、元禄5年(1692)の松山城下某の『四国遍路日記』にも
「遍路ハ三日でゆせんをとらず」
とあります。
江戸時代中期までは、四国遍路は3日までは湯銭が免除されていようです。「ただ風呂」だったのです。3日を越えての湯治になると「一まわり」(6日)24文、燈明銭12文を支払わねばならない規定です。
 ところが、幕末になってくると、この遍路に対する優待制度も終わります
明王院公布の定書には、次のように変化します。
「四国遍路や通りかかりの者は3日間に限って止宿湯治を許可、また遍路ののほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許す」
 ここには遍路でも身なりの良くない「遍路乞食」は「養生湯」のみの入浴に制限されるようになります。その背景には、四国遍路自体の「質的変化」があったようです。すなわち、職業的遍路や故郷のムラを追われる形で死出の旅路をたどる病気遍路の大量出現などです。これに対して、一般の湯治客からの苦情もあったようです。このころになると湯治宿と遍路宿の「差別化」も進み、遍路が一般旅館に泊まることは難しくなったことがうかがえます。

3道後温泉

 幕末の世情騒然の時期になると、松山藩でも遍路や旅人に対して警戒心を強めるようになります。 
 文久2年(1862)には、郡方への取り締まり心得の中で、
「遍路体穏成(たしかなる)者ハ宿致させ候共、村役人江申届取計可申」
とあり、遍路で確かな者には一宿を与えてよいが、必ず届け出するよう求めています。また、城下へのよそ者の立ち入りについても規制を強化しています。同年5月の布告では、他国からの長逗留者を取り締まることに加え、遍路については
「古来より御免之遍路道ハ遍路者止宿之儀、前々御法も有之候儀二付、猥ケ間敷(みだりがましき)儀無之様可致事」
と従来からの法を守るように求めます。 同じ年の6月には
「商人並びに遍路物真似師風之者共、猥二御城下徘徊為致間敷候」
と承認や遍路の城下での自由な活動を禁じます。そして
「無宿並に札取二無之遍路乞食之類者、直二追払可申事」
と、順拝納札をしない遍路風の乞食などは追い払うよう厳しく命じています。松山でも土佐と同じく「遍路乞食」が増えていたのを、幕末の混乱期になると危機意識から排外意識が高まり遍路排除の機運の方向へ動いたことが分かります。

4小松藩1

  小松藩の会所日記に記された四国遍路
伊予小松藩領1万石の「会所日記」は、色々な意味で貴重な資料です。小松藩は農村16か村、享保17年の人口が11,200人、推定戸数が2,570戸前後で、丸亀藩の支藩である多度津藩と同規模の藩です。

4小松藩2
小松藩の「会所日記」によっていろいろなことが分かってきました。例えば、ここには領民からの伊勢参りや四国遍路への参拝許可記録が残されています。それを見てみると
19世紀の40年間の小松藩の遠隔参詣者総数は5,593人でその内訳は、
伊勢参宮1,700
四国遍路1,925人、
厳島参詣1,835人
でこの三つで大部分をしめていること事が分かります。年平均140名程度がこれらの遠隔参拝に出ていたことになります。ところが、万延元年(1860)には、一人の参宮・遍路・厳島参りいません。これはどうしてでしょうか。たぶんうち続く不作で農村荒廃し、藩が「参詣禁止令」を出したと考えられます。
4小松藩3
四国遍路に出かける季節は?
 参詣時期については、宝暦の末(1764)までは、参宮・遍路は田植え後が多かったのですが、天保の初め(1830)になると、年初めと田植え後がほぼ並びます。それ以降幕末までは、年初に旅立つようになっています。田植え後から年初めへと旅立ちの時期が移動した理由は今のところ分かりません。
 農民は金毘羅参拝よりも四国遍路に出かける方が圧倒的に多かったようです。その時期は閑期に集中し、農繁期に激減するという季節的特徴があったようです。また、年によって増減があります。凶作等の場合は、藩の参詣統制が強化され、時には全面的禁止になる場合もあったようです。例えば享保17年(1732)、伊予は飢饉による大きな被害を受けますが、小松藩でもわずか1万石の小藩から仙人足らずの餓死者を出しています。人口の1/10にあたります。あった。飢饉のあった年の「会所日記」には、遠隔参詣者として一人の記載もありません。4年後になってやっよ一人の名前が記されるようになります。ここにも凶作・飢饉の影響がうかがえます。天保4年は(1833)は不作で米価が高騰した年ですが、翌年の参詣総数は77名と例年の半分になっています。
 これに対して、豊作後の文化9年(1812)には270余名を数える人たちが参拝願いを出しています。このように農民を中心とする近世の参詣は、作物の豊凶・農村の景況に強く左右されていたことが分かります。
4小松藩5

以上、伊予の各藩の遍路対応策を見てきましたが土佐藩に比べると寛容な感じがします。特に松山藩の道後温泉への「無料入湯」などは、他には見られない優遇策です。このため松山周辺には数多くの「遍路乞食」が「不法滞在」していたことがうかがえます。そして、幕末の対外的な緊張関係が高まると世の中は排外的な動きを強め、遍路に対しても排除・排斥の方向へ動き出していったことが分かります。

参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書

 土佐は遍路にとっては「厳しい国」だったといわれるようです。
その理由として、挙げられるのが次の3点です。
①札所の数が少ないので道のりが長いこと、
②大河や海岸線が長く難路が多いこと、
③藩の取り締まりが他国・他藩とべて厳しかったこと
土佐藩には早くから厳しい通関規則があって、国境通過の厳しく制限されていました。しかし、四国遍路などの巡礼には特例を設けていたようです。寛文4年(1664)の布告を見ると
「辺路は其身自国の切手見届け、吟味の上にて通し申すべき事(三谷家文書)」
とあって、手続きも寛大にして通行を認めていたようです。
  元禄3年(1690)の道番所定書では、遍路が入出国できる関所を次のように限定するようになります。
 辺路(遍路)は其身之国手形見届札所順路二候条、甲ノ浦口・宿毛口から入可申事。其外之通口方ハ堅可指止。右東西弐ヶ所之番所方添へ手形を出し、出国之節番人受取置通可中事。 右元禄三午三月晦日 (「憲章簿」辺路之部―)
甲浦口から入境して西に向かうのを順行、
その反対に宿毛口から入境して東に向かうのを逆行
と呼び、このふたつの関所以外からは遍路は土佐に入ることは「堅可指止」と禁止とします。しかし、国手形さえ持っていれば入国を認め「添手形」を発行したことは変わりません。国手形というのは、生地の身分証明書のようなもので、これさえ持っていたら甲浦の番所で添手形(通行許可証)を付けてもらって、土佐国内を巡拝して、宿毛口(松尾坂)番所で添手形を返却すればよかったようです。
  寛延2年(1749)5月2日の定書には
「四国辺路日数百日迄之暇聞届申定」
とあり
「右は詮議之上今日相極、向後右日数願書にも相記載候様、先遣役へ申付置候事」
とあります。
ここからは、藩当局が藩内の人々の四国遍路日数の上限を百日以内に制限していたことが分かります。つまり、土佐の人が四国遍路をする場合は百日以内で帰ってくることを義務づけられていたのです。
享保4年(1719)12月、郷浦・町方に対し次のような改め方を指示します。
他国から入来候辺路(遍路)・六拾六部等改様之事
 右は甲浦、松尾坂両於番所往来切手・宗旨于形見届之上、疑敷者二而無之候ハ犬番人共から可申聞趣は、辺路札所国中之順路従是凡七拾八里有之間、今日から日数三拾日限可被通候。尤一宿之村々二而、庄屋・老改之日次を請可通候。素脇道通り候儀は堅法度二候。(中略)
ここからは、他国からの遍路が甲浦・松尾坂番所から入国する際に、番人から申し渡されたことは、
①土佐藩領内の通過日数を入国から30日以内とする
②遍路途上で一宿した村々では所持の切手に、庄屋から日付と著名、判形をもらう、素通り法度(厳禁)
③日数の遅延とか無益の滞留・脇道の通過などは禁止
という3点です。
土佐領内の滞在日数やルートが新たに指定されています。
こうして土佐藩の遍路取り締まりは強化されていきます    
寛文3年(1663)以降、土佐藩では遍路に対する規制として、出入国改め方、通過日数制限や日時改め方の遵守、脇道通行の禁止、無切手者の取り締まりなどを、繰り返し布令がでています。それだけ問題が多発していたことがうかがえます。そして文政年間以降になると、藩から出される通達はますます細かく、厳しい方向に向かうようになります
 文政2年(1819)には、四国遍路や七ヶ所遍路の出立・帰郷の際に趣向を催すことや、遍路に対する堂社・居宅・道筋においての接待なども、禁止されるようになります。
「時節柄を省みず不心得・不埓な行い」
と、云われるようになります。もっとも遍路順路での托鉢に対して、1銭あるいは握り米等を与えることは、昔からの「せったい」なので差し支えないとしています。
遍路の「多様化」 脇街道に出没する「遍路乞食」
 遍路の通る道は、東の甲浦口と西の宿毛口の指定された街道に限られていました。しかし、遍路の中にはこの規則を無視して他の脇道へ潜行する者も出てきます。信仰的な巡礼よりも生きていくための「物乞いや商売」に重きを置く遍路が現れていたのです。そのため土佐藩は脇道の通行を禁止する通達を、たびたび出しています。何度も出されると云うことは、禁令が守られていなかったことを示します。
天保5年(1834)3月の郡奉行布筈には
「潜行する遍路については、隣村の庄屋と詮議のうえ、問題の無い者へは入国禁止を言い含めて近くの国境より追放せよ」
などの対処法が指示されています。
その年の11月には、一般領民に次のような布令が出されています
遍路の風体をした者が各地に姿を見せ奇妙な行動をしている。医師のまねごと、占い師めいた仕業で庶民の悩みに乗じて金銭を詐取する者がある。弘法大師の灸点などと唱えて人心を惑わす者もある。これは風教の上にも甚だ好ましからとであるから、遍路道はいうに及ばず、脇道であっても取り締まりを厳重にするように」
領民に注意を促したものですが、医師・占い師・灸師の真似事を行う遍路がいたことがうかがえます。遍路姿の「多様な職業人」が村々に入り込むようになっていたのです。
天保7年5月には、
遍路を装って潜入し強盗に変じて治安を乱す者がある、疑わしき者は即刻召し捕りを命じるように
との戒告が出されています。
天保9年(1838)4月には、遍路の激しい流入による社会不安や混雑を防ぐために、取り締まりを厳重にし、他国遍路の入国については、その条件を次のように明確にします。
       覚
四国辺路之儀は元来宿願之子細に依而国々霊場令順拝事にて、往古より御作法を以て通入被仰付置候処、近年右唱計にて専ら乞食同様之族余計入込み、動は不法之儀有之不而己、老幼並病体之者共数百人行掛り令病死、実に御厄介不絶事に候間、猶又此度詮議之上別紙之通廉々相改様被仰付候条、聊か他念無之様改方之作配可有候。已上
   他国辺路之事
生国往来手形、並納経、其余四国路外之者御船揚り切手持参之事。
路銭相応持参之事。
六拾六部廻国之儀は東叡山御定目、並三ッ道具所持之者。
右夫々所持不致者は通し人不相成、右之外病症顕然にて歩行確に不相調者、並老極幼年者共壱人立罷越候者勿論通入不相成、 (後略)     (天保九年)
 ここには近年、遍路と称して乞食同様の者が多く入り込み、不法を働く者のほか老人年少者、病気の遍路が立ち寄って数百人の死者が出るなど、在所に迷惑がかかる者が増加した。そこで今後は、次のものを持っていない場合は入国させない。
①生国往来手形と納経、四国外の者については船揚り切手を所持していること、
②相応の路銀を持っていること。
③六十六部廻国者は東叡山御定目、三ッ道具を所持している者
そのほかに、病症があるものや歩行困難な者や老人や極年少者の単独遍路、身分不相応な所持品を持つ者も通さない。
以上のことをが道番所と郷民に通達されています。幕末が近づくにつれて遍路取り締まりはますます厳しくなっていきます。

四国遍路では、城下町は遍路は通過禁止でした。
例えば真念の「道指南』でも、
「かうち(高知)城下町入口に橋あり。山田橋といふ。次番所有、往来手形改。もし城下にとどまる時は、番所より庄屋へさしづにて、やどをかる。」
とあって、宿を借りる場合には、庄屋の許可がいることが記されています。一般的には、札所は城下周辺にあるので、城下そのものは迂回して通過していたようです。これは、松山以外のその他の城下町も同様です。
城下町の中にあるお寺は、札所にはなっていません。遍路道は城下町を通らないで迂回します。ここからは、城下町が成立した後に遍路ルートは整備されたことがうかがえます。
高知城下が遍路往来禁止になっていた史料です。
「御家中並に町方四箇村において、夜分辺路(遍路)体の者見逢候はば生国の往来切手、並に日次等相改め、疑敷箇条於有之は勿論、疑敷個条無之とも夜分往来又は町端等にて臥り居り候者共は、手寄りの町郷庄屋へ預置き其旨相達し申尽事。但し本文の者夜分五ッ時(午後八時)より内に見逢はぱ日次等相改め、御作法の日数も過ぎ申さず、図らず道に踏迷ひ候て夜に入り申す様の儀、疑敷事跡相見えず候はば、街道の方へ追払ひ申すべく候事」。
  ここには城下において夜に遍路を見た場合には、小国往来手形や日次(宿泊履歴帳)をチェックし、疑いの有無にかかわらず最寄りの町役人宅に連行せよとあります。夜間の高知城下町への遍路の侵入は厳しくチェックされていたようです。
土佐国境の番所手続きを遍路道中記で見てみましょう。
天保7年(1836)遍路の武蔵国中奈良村の野中彦兵衛は、土佐に入り「土佐之国御関所甲ノ浦東股御番所右三月十四日頂戴仕候」
と甲浦の番所で切手と日付帳面を貰い受け、土佐国を遍路します。
その土佐通過の切手及び日付帳面には次のように記録されています。
     切手(印)
 武州旗羅郡中奈良村
一、遍路弐人       彦兵衛
             重蔵
 但し、三月十四日甲ノ浦東股於御番所二相改今日右日数三十日限り松尾坂江参着之筈
右之通委細中含メ候条、尤村々二猶又念入相改メ可申候、尤札所順路之義者御法度之旨申聞候也
 申ノ三月十四日
        和田惣右衛門 印
  甲浦右松尾坂通迄
    順路道筋庄屋衆中(印) 
  覚
 右弐人 三月十四日
  伏越御番所口入也
        北川逸平 印
     入切手弐数也
 右弐人 三月十五日
        出申候 佐貴演
  佐貴ノ演村 同所庄屋寺田房五郎
   (以下略)
 末尾の(以下略)のあとには、前の部分と同様に「右弐人」に「出足の日付」、「庄屋姓名の自署」が順番に、土佐を出る4月22日まで並んでいます。以前見たように土佐藩領内を通過する遍路は、当日宿泊地の村役人(庄屋)の承認印をもらわなければならないという通達が守られていたことが分かります。
そして「右御日附帳面を申四月廿二日ハッ時、松尾坂御番所へ上ル」とあって、彦兵衛は切手と帳面を宿毛国境にある松尾坂番所に差し出して、土佐国を通過し、伊予国に入っていったことが分かります。
 もう一つの例を見ておきましょう。
文化元年(1804)の伊予久谷村円福寺の僧英仙による紀行記録『海南四州紀行』です
これには英仙と弟子の胎仙は土佐甲浦の番所で、役人から右の照暗状(手形・切手・証明書)というものを渡されます。後は自分で小紙6枚を、日限書に綴じ添えます。それを毎日、道筋にあたるそれぞれの村の庄屋へ行って、日付を書き込んでもらいながら遍路を続けています。
右二人出足 五月廿四日 白浜
右二人出足 同廿五日 椎名村
右二人出足 同廿六日 羽根村
(中略)
右二人出足 六月八日 姫ノ井
右二人出足 同九日  宿毛浦
といった記録が並びます。5月23日に甲浦番所から土佐に入国し、6月9日に宿毛の番所に着き、添え手形を返して出国しています。土佐通過に要した日数は17日です。土佐藩の「通過制限日数」の上限は30日でしたから、天候等にも恵まれれば20日以内では通過できたようです。日数制限は、必要日数の倍くらいに定められていたようです。
 ペリーがやって来た翌年、嘉永7年(1854)11月4日、西日本に大地震が発生し、高知には大きな被害をもたらします。
幕末の南海大地震です。このため土佐藩では、四国遍路をはじめ他国人の入国を禁じる措置をとります。その年の11月14日付けの藩通達には
此度之大変(大地震)のために往還の道路が大破し、遍路などが通行しがたいので遍路の入った所の村役人は覚書を添えて、各村々順送りで最寄りの国境から遍路を送り出すように
と命じています。
 こうした措置はしばらく続いたようです。
「藤井此蔵一生記」の文久2年(1862)の条に、藤井此蔵の娘しほが、この年3月10日に6人連れで四国遍路をして、4月9日に30日振二帰村した記事には、
「去る嘉永七寅歳十一月大地震より、土州へは辺路(遍路)一圓入れ不申、只今にては三国漫路に相成候て。歎ヶ敷事也。」
と記し、地震から8年経っても土佐への入国禁止措置がまだ続いていたことが分かります。この期間は土佐を除く「三国漫路」だったようです。

  四国遍路の対応に苦慮し「遍路排斥策」を採っていた土佐藩にとっては、大地震は「遍路入国の全面禁止」策を打ち出す契機になったのかもしれません。土佐藩は地震被害を理由に、その後もなかなか遍路の入国再開を許さないのです。このような動きは明治維新後も続きます。土佐藩内部にあった四国遍路遍路排斥論は、明治になっても役人に引き継がれていったようです。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書

 江戸時代には「移動の自由」はありませんでしたから、自由に旅することは出来ませんでした。移動は制限されていたのです。しかし、伊勢参りや金比羅参りなど、社寺参詣については「聖なる行為」として寛容だったようです。人々は、参詣にかこつけてぞくぞく国を出るようになります。それが江戸末期の「ええじゃないか」につながっていきます。金比羅詣でが大賑わいになる18世紀後半には、四国遍路にも農民・町人等などの庶民が数多くやってくるようになります。
それでも、社寺参詣への旅立ちには数々の「障害」がありました。
例えば農閑期以外の旅立ちは許されませんし、貢納未納者、負債者等には認められません。日数制限・人数数制限などの「規制」が多くの藩で採られていたようです。特に江戸後半になると各藩の財政は「火の車」状態で、四国遍路への旅立ち制限も強化され、ついには全面禁止に踏み切る藩も出てきます。しかし、抜け道はいろいろあったようです。
 受けいれ側の四国各藩の「遍路対応策」を見ていくことにします。それでは最初は、阿波藩からスタートです
 遍路に寛大な阿波藩
 次の史料は阿波藩が出した、貞享4年(1687)7月28日付けの書付の一節です。
一 他国右参辺路人同行之内相煩候欺(中略)
辺路(遍路)人之儀 寺請状井四国之内於何国同行之内病死仕候共為同行取置 其所之奉行不及申庄屋五人与村人へも六ヶ敷事懸間敷候(中略)
寺持之出家外ハ俗人男女又者道心法主或ハ百人之内九拾人も貧賤之町人土民 殊更其内奥州九州辺からも罷越候 路銀丈夫二不持鉢二相見辺路之内於所々乞食仕四国廻り候様二相見へ候へは待合候得とも路銀丈夫二不持候ヘバ至其時難儀可仕候(中略)
此度之趣急度改候而自古之辺路修行之障二成候ハバ環而如何に候(後略) (「阿淡御条目 百」 貞享四年)
 これは、徳島藩が病気遍路などについての取り扱いを示したもので、病人の村方滞在や病死遍路の取り扱いについて、地方に迷惑が及ばない程度の処置を示しています。現実には病死した遍路を夜間ひそかに隣村内に遺棄したことが多かったようです。
 また、遍路の9割は「貧窮の町人や土民であり、路銀の持参も僅かだから、そのうちには乞食となって四国廻りをするものも少なくない」と藩が見ていたことが分かります。        
 大坂から渡海してくる遍路については、藩から業務委託されている絨屋弥三右衛門と阿波屋勘左衛門が遍路手形を発行することになっていたようですが、中には「不法入国者」もあったようです。 正規の関所を通らずに入国してくる遍路は、「棄民」的な故郷から疎外された遍路たちでした。諸藩からすれば最も入国させたくない存在であったはずです。しかし、同時にこの種の遍路を冷遇しすぎると、藩内の良からぬ情報を他藩に広められたり、場合によっては悪評が公儀に知れわたることも怖れなければなりません。そのためには、江戸時代の前半には、ある程度の遍路に対する優遇策を採った藩もあります。
御国中へ他所右罷越候辺路病気にて郷中滞留仕罷有節向後日数十日過候者応日数壱人に壱人扶持宛可被下置候条被得其意此段兼而可被申付候(後略)
 (「阿淡御条目 百」元禄三年)
ここには、他国からやってきた遍路が阿波藩領で病気になったら、郷中に10日以上滞留した場合は、看病人に対し日数に応じて1人に壱人扶持を与えると記されています。そして本文では、事実海部郡奥浦での病死遍路の看病に対する扶持を与えるよう命じているようです。藩による「遍路救済事業」が行われています。
 
しかし、他国遍路に対して寛大な措置を指示する藩に対して、遍路に対応する現場の町役人からは困惑の様子がうかがえる史料があります。下の史料は、宝永5年(1708)6月の藩通達です。十七番井戸寺と十八番恩山寺の間で、徳島城下を通過する遍路の処置について、二軒屋の町役人が行った問い合わせに対する藩側の回答です。
諸国右参候 四国修行(遍路)人宿借り申度旨願候へとも借シ不申候ヘバ 往還之道二笈等指置何ケと横領申候 右様之義如何仕哉と弐軒屋年寄五人与笹部忠介方へ申出候 故杉浦吉右衛門粟田仁右ヱ門申談廻国之修行宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候 右修行人本之庄屋又ハ大坂之宿主等往来手形所持仕者之義ハ一宿之宿ヲハかし 右様之手形ヲも不持者ハ宿借シ不申様二可有御座哉と宝永五子ノ六月廿三日山田織部殿へ相伺候

この史料の舞台は、徳島城下の南端にあたる二軒屋で、南の郷村部から城下町への出入口になります。戦前までは木賃宿などが数多くあった所です。古くから遍路たちもこの付近に宿泊することが多かったようです。ここで「四国修行人(遍路)宿借り申度旨」の願いというのは、遍路宿への宿泊のことではなく、民家への「善根宿」の提供を遍路が願い出ていることを述べているようです。町民が善根宿を拒否すれば、民家の軒先などで仮宿をしたり、物品の横領など悪業を働く遍路もあって、その取締りに困っているので、処置を藩に問合せたようです。現場の町役人が期待したのは、「厳しく取り締まり立ち退きさせよ」という内容を期待したはずです。
 ところが、藩の回答は意に反したものでした。
「宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候」として、往来手形を所持してる遍路には「一宿之宿ヲハかし」と、善根宿を提供せよとの内容です。そして、手形のない遍路には宿を貸さないようにと答えるのみです。これでは、町役人は困ったはずです。無手形の遍路に対する取締まり強化を求めたのに「無手形遍路に宿を貸してはならない」というだけでは、何の解決策にもならないからです。これでは、現場の責任者に悪質な遍路の取り締まりや排除はできません。
 なぜ徳島藩は、遍路に対して強力な取締り策をとらなかったのでしょうか? となりの土佐藩は抑制策や厳しい取り締まりを行っています。阿波藩と土佐藩の遍路対策は対照的です。

   阿波番所の遍路チェックは?
天保年間になると金毘羅詣客が激増します。大坂から金比羅船でやってくる参拝客は、丸亀に上陸して、金毘羅街道を歩き始めます。その中に、天保7年(1836)3月7日に、丸亀に上陸して金比羅には向かわずに遍路路を歩きはじめた男がいました。武蔵国旗羅郡中奈良村の野中彦兵衛です。彼は丸亀から東に向かって遍路を始めます。その動きを追ってみましょう。
 彼は讃岐の大窪寺に参拝すると、讃岐坂本を越えて、大坂口の阿波番所で入国審査を受けます。その際のことを次のように記しています。
「阿州境 大坂、右大坂二おいて松平阿波守様御役所有之、国往来・丸亀上り切手、御引合せ御吟味之上」
と諸切手改めの上で、
「如此二御添書被下通る、阿州出ル時差上可申御事」
と出身国・氏名・日時・番所名の記された簡単な添え書きをもらったと記しています。
 御印 覚
 武州旗羅郡中奈良村
 男弐人    重蔵
        彦兵衛
 申三月九日改メ
       大坂口 御番所(御印)
そして、3月14日に宍喰で阿波から出国する際に
「阿州御番所大坂口から頂戴仕ル御切手、申ノ三月十四日志々具ゑ(宍喰)の御関所へ上ケテ通ル」
と記し、大坂番所で渡された切手(添え書き)を、宍喰番所に提出して通過しています。今の出入国申請書にあたる書類なのかもしれません。宍喰にある土佐と阿波の境目の番所は「古目御番所」
と呼ばれていました。
大坂口の番所に関しては、江戸後期のものと思われる次のような興味深い文書があります
 高松藩と境を接する大坂(口)番所を控えた板野郡吹圧呵の組頭庄屋吉田次郎兵衛は、郡代奉行に宛てた遍路取り締まり強化策を、次のように願い出ています。
近年四国辺路体之者御国へ入込、専徘徊仕、随而土州表之義は路銀無之辺路は御境目紘之上、直に追返候趣に候、右に付御国へ立帰り前段之懸りに候得は、辺路体之内には盗賊も紛込候義も可有之候、依之所々御境目等におゐて路銀無之乞食之辺路、老若男女不限直に追返し候様、於然は盗賊究りにも罷成、自然と減じ可申候条、究り方之義存寄可申上旨被仰付奉畏乍恐左に奉申上候
          (年不詳)
  意訳すると
近ごろ四国遍路の入国が激増しているが、土佐藩では国境の番所で路銀を持たない遍路を追い返し入国させないため、阿波国に滞留する始末である。その中には盗賊が紛れ込んだりしている状況も生まれている。土佐が行っているように、境目番所でも路銀を持たない乞食遍路についてはどうか。そうすれば盗賊も自然に減少するであろう。と土佐と同じような厳しい対応を求めています。具体的には以下の3点です。
一 御境目往来筋住居仕居申百姓共へ 逸々被仰渡乞食辺路体之者見及候節直に 追返候様兼而被仰付置度御事
一、山手村々五人組共へ被仰忖、月々相廻り制道仕候様被仰忖度御事
一、村々番乞食共往来筋並抜道等相考、乞食体之者又は胡乱成体之者行逢候節、御境目迄追戻し候様被仰忖度御事、大坂口御番所讃州より四国辺路通り筋に而御座候へは、四国辺路に相紛、乞食体之者入込申様に相聞へ申候、右御番所におゐて念を入相改候様被仰忖度御事
右之通究り方山手村々へ被仰忖候はゝ自然と薄さ可申と奉存候に忖右之段奉申上候(後略)
                   (年不詳)
要点は
①境目や往来筋の百姓たちに、乞食で遍路の体裁をした者を追い返すよう前もって命じておくこと、
②山手の村々の五人百姓へは月々見回りを強化して、道筋をよく抑えさせること、
③村々の番には乞食の体裁をした者や胡乱(うろん)者に行き会ったら境目まで追い戻すように命じ、大坂口番所にても念を入れて遍路改めをおこなうこと
 ここからは当時の阿波では悪質なニセ遍路も横行していたようで、藩境に設置されていた番所では、村役人たちもその処置に対して「もう少し強硬な対応を」という意見を持っていたことが分かります。
   このように幕末が近づくにつれて遍路の数も多くなり、さまざまな人たちが遍路として流入してくるようになったことが分かります。これに対して、阿波藩は土佐藩のようになかなか強硬策打ち出さなかったようです。そのため現場の役人からは「もっと強い措置を!」を求める声が上がっていたようです。

次回は、阿波とは対照的に対遍路強硬策をとった土佐藩を見ていくことにします。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書


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明治初期の四国遍路の停滞要因は次の2点だと云われています。
①神仏分離令と廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
前回は①について見てみましたので、今回は②について見ていこうと思います。3土佐史料
明治維新後、地方行政は四国遍路をどのようにあつかったのでしょうか。
それを見ていくの参考になるのが『近世土佐遍路史料」です。これは個人が集めた資料を謄写版刷りしたもので、まさに「明治前期の遍路事件簿」とも言えるものです。この資料集を見ていくことにしましょう。
 明治初めの高知藩では、遍路に対するそれまでの政策を踏襲しています。例えば、遍路の出入りは東の甲浦口と西の松尾坂口に制限し、その他の国境を通るのは許していません。
  (明治元年)十一月廿三日
 四十杖之上 向後御国禁足 立川口御堺目方追払
       紀州有田郡黒井村 忠口
       信州水内郡柳本村 口蔵
       予州仁井郡大吹村百姓 政口娘つる
右は四国霊場為順拝今十月阿州路方地名不存御堺目を潜り入来 追々欠連二相成袖乞等を以罷越中岸本浦二おゐて被差押段重御国法相背不埓之至二付如此①           (当罰者縮帳)
この史料は明治元年(1868)の秋に、伊予土佐街道の笹ヶ峰越を超えて、土佐の立川に入って袖乞い(物乞い)しながら遍路を続けていた3人の遍路についての処置報告です。捕まって杖打ち40回の体罰を受けたうえで、立川口から伊予へ国外追放となっています。

 続いて明治2年と明治5年の事件を見てみましょう。
  (明治二年)十二月七日
  一 死鉢無別儀
       播州揖東郡太田村 善口郎
右者今十二月四日病気之鉢二而長浜村往還端二罷在 同村五人頭作次行掛り同礼蔵後家ふぢ方へ連行医療を受遣ス中 
翌朝相果候旨届出於地下掛合之者共為遂吟味処右善口郎義 四国霊場順拝御境目を忍入来 順路中病気相発趣右病中及発言旨申出於存命は遂吟味当罰被仰付筈之処令死失二付如此  (当罰者縮帳)
  (明治五年)二月十三日
 四十笞罰申付筈ノ所 廃失者二付被差免本県へ被差返
遍路が長浜村(現高知市)の道ばたで行き倒れになったというものですが、調べてみると「四国霊場順拝御境目を忍入」と、「不法入国者」であったことが分かったようです。本来は「四十笞罰」ですが病人のために免じて国外追放にしたようです。決められた関所以外から入った者は、笞罰の上に国外追放になっていたようです。
   阿州妙道郡榎本東口郎伜
            道学寺弟子 口坊
   紀州有田郡土居村 芳江衛門娘 口江
       勢州桑名 立花屋勘口娘 し口
病気二有之右四国霊場為順拝罷越於諸々袖乞致し貰受品長浜村神社におゐて炊仕成致す処火不始末を以 右社為及焼亡段不念之至二付如是           (罰帳)
 これは、阿波と紀伊の3人の遍路が長浜村の神社において袖乞いでもらったものを炊事したところ、火の不始末によって神社を焼失させたという内容です。遍路が神社などに、たむろすることは問題になっていたようで、一宮神社(現在の土佐神社)から土佐藩に、遍路が社内に勝手に泊まったり火を焚いたりすることに対して、「立入禁止」にしてよいかと聞き合わせる伺書も残っているようです。一宮の場合は、江戸時代末までは三十番札所でしたし、城下町近郊という立地条件からも、物乞いをする遍路が集まりやすかったようです。
次は明治元年と明治7年の「犯罪」事件です。
  (明治元年)七月四日
 百杖両腕焼印之上 重テ御国禁足
 松尾坂御境目方追払
      御国禁足者 予州宇和島郡平磯村 久蔵
右は去ル丑年以来霊場順拝として都合三度御国内江忍入時二禁足を以御境目占追払被仰付といへとも又候入来り 於山田村二被差押処右順拝中今六月佐喜浜井佐古郷二おゐて麦三升余盗取代束而拾六匁余二売捌其他手結浦人家二忍入金壱両三歩壱朱盗取右金銭令所持罷在段禁足之身柄をも不顧
度々御境目を犯し剰令盗業事共重々不届之至二付如此
                   (当罰者縮帳)
これは霊場巡拝を理由に、三度密入国を繰り返しては、その都度追い払われてきた伊予宇和島の久蔵という男が、懲りずに高知県に入り込んで麦3升余りを盗んで売りさばいたり、金1両3歩1朱を盗み取ったりしたため、杖打ち百回のうえ両腕に焼き印を入れて以後入国を禁じたと報告されています。
 「自分儀七歳ノ節父母二連ラレ四国地順拝致シ居り八才ノ節途中二於テ両親共病死致シ 夫ヨリ辺路鉢二相成住所不定諸所浪々中 本年六月中御当国へ立込ミ山分筋二於テ功能無之丸薬ヲ取拵へ愚民ヲ惑カシ 諸所二於テ價三円計りノ丸薬売渡シ候事右之通相違不申上候   以上
   明治七年十一月  喜口元口吉」
 「伊予国松山産 無籍人 喜口元口吉
功能ナキ丸薬ヲ売利徳ヲ得ル者雑犯律違令重キニ擬シ
懲役四十日」⑥                (罪按)
この明治7年の史料は、両親が病死し身寄りのなくなった伊予松山生まれの喜口元口吉という男が遍路姿て効能のない丸薬を売ったため、懲役に科したというものです。この場合は、自らの犯罪のために遍路という習俗・信仰を利用していたともいえます。結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになったかもしれません。
行政による遍路抑制策
 明治3年(1870)10月14日に、六十六部を禁止する太政官布告が出されます。中世以来の回国巡礼である十六部の禁止は、米銭などの施し物を乞う行為が乞食と同様に考えられた結果だと云われます。この禁止令は、各地方の巡礼対策に大きな影響を及ぼします。続いて同月28日には虚無僧が禁止され、翌年11月9日には僧侶の托鉢が禁止されます。托鉢については、明治14年になって、解除されますが、近代国家をめざす日本の指導者層からすれば、袖乞いはもちろん托鉢も物乞いをして歩く行為に変わりはなく、
「文明国家にふさわしくない禁止すべき野蛮な行為」
と思われていたようです。
こうした中で四国各県の行政当局は、遍路に対しどういう対策をとったのでしょうか
高知県では、明治5年2月に、次のような禁止令を出しています
「遍路乞食体ノ者ハ所在村役人二於テ之ヲ国境ヨリ追放チ且ツ人民タルモノ総ヘテ右体ノ者へ施物等ヲナスモノアルヲ禁ズ」
此節他県管轄遍路乞食体ノ者入来徘徊致シ候趣ニ付 戸長以下什長二至迄精々遂不審印鑑所持不致者ハ戸長作配ヲ以最寄御境目ヨリ追払之首尾有之筈
但捕卒巡卒共見逢次第取計候時ハ戸長へ引渡 右同断作配ノ筈窮民礼不願受者袖乞不相成候二付 当県他県ノ無差別縦令遍路体ノ者タリトモ右札所持不致者へ食物米銭等総テ手ノ内ノ施致シ候議 決而不相成旨諸所へ掲示可致事⑧
                  (高知県史料三)
内容を確認しておくと
①県内を徘徊する遍路・乞食体の者のうち印鑑を持だない者は、戸長以下が最も近い県境から県外に追放せよ
②袖乞いをする者のために「窮民礼」を発行し、これを持たない者の物乞い行為を禁止する
しかし「窮民礼」が、どこがどのようにして発行していたのかは記されていません。
同じ年の秋、香川県からも同じような内容のものが出されています
  仏法に沈溺するの情より、遷路乞食等ヘー銭半椀の小恵を施し乞食等も亦甘んじて小恵に安んじ、更に改心の期なし。却て害を招く基と相成、甚以宜しからざる儀に付、今後右等小恵を施し候儀堅く不相成、万一右の令にそむく者これあるにおいては、爾後其者厄介に申付儀もこれ有るべく候条、何も心得違いこれなき様致すべき事。

家に袖乞いにやってきた遍路に施物を与えた場合は、その者の厄介に申し付けるというのです。、これが当時各地でとられた方策のようです。京都府や埼玉県でも同様の事例があります。明治5年6月の『広島新聞』6号には、埼玉県の農業某が食を乞うて来た者に施しをなし、かつ軒下に止宿せしめた廉によりその者を厄介として申し付けられたという事例が挙げられています。
3土佐史料2
 明治6年4月と11月には、愛媛県からは次のような布告が出されています。
  明治六年四月
  愛媛県布達番外 正副深戸長エ
遍路物貰等之儀ハ夫テ不相成段兼テ御布達ニモ相成居候處 此節二至テモ猶旧習ヲ存シ四国順拝杯卜唱へ人之門二立テ食ヲ乞ノ類全ク野慢ノ弊風ニテ其醜態不可云モノ也、又食ヲ与ルモノハ佛説之所謂後生之為坏卜心得候ハ必竟姑息ノ私情ニシテ 却テ人民保護ノ障碍タル事無論二候 條深々ノ長タル者此理ヲ篤卜了解シ、遍夕管内ノ人民二説諭シ、向後屹度心得違無之様厚ク注意致シ、
右義ノ者ハ見富り次第速カニ呵責放逐シテ片時モ管内二置ヘカラス、モシ食ヲ興ル者ハ送り付ノ入用等出費中付且品ニョリ屹度可及沙汰候條此旨蓬々無洩可鯛示候、尤右等ノ儀ハ医長戸長ノ責二候條説諭於不行届ハ其役前ノ落度タル可キ者也

①遍路物貰(ものもらい)については度々、禁止令を出してきたがいまだに後を絶たない
②家々の門に立って食を乞う行為は「野慢ノ弊風」、後生のためなどと考えて食物を与えるのは「姑息ノ私情」であり、「人民保護ノ障碍タル事」である
③区長・戸長に対しては、遍路に食を与える者があれば県外へ送り出す際の負担を申し付けよ、
④与えた品物によっては厳しく取り調べを行え
と通達を守らせようとしています。しかし、その結果はかんばしくなかったようです。わずか7ヶ月後には、次のような通達が出されています
  明治六年十一月三十日  愛媛県布達第百三拾九号
本年四月番外ヲ以遍路物貰ノ儀及告諭置候處今以徘徊致候者有之、右ハ全ク姑息ヲ以食物等與ヘ候者有之ヨリ立入候儀二付 以后一銭一飯卜雖遍路乞食二與フル者ハ厳重二捜索シ兼テ相達候通原籍へ送り立候 人足ヲ始総テノ旅費ヲ為差出可中且原籍無之向ハ其家工附籍可申付候事
ここには、一銭一飯といえども遍路物貰いに施しをする者に対しては、遍路を送り帰すための一切の費用をを負担させる。それだけではなく、遍路が原籍のない放浪者であった場合は、その家に「附籍」を申しつけるという風に変化しています。4月のものに比べると文章全体にかなり強い調子が読み取れます。その家の戸籍入れるというのは、香川県の「厄介」よりも厳しい措置のように思えます。
 同様の布達は、翌年(1874)3月にも出されます。さらに12月には
「乞食物貰ノ儀二付旧県以来毎々相達候次第有之、猶又昨六年四月布達ノ趣モ有之候處自然等閑に相成此節往々徘徊致哉二相聞以ノ外ノ事二候」
と記して、去年の4月に通達をを出しているにもかかわらず遍路を称する物貰いが徘徊しているとして、よそから来る遍路を追い払うことの必要性と、施しを行う者への処罰を重ねて強調しています。
 何度も同じ禁止令が出されるのは、それが守られていない証拠であることを歴史文書は教えてくれます。ここでも当局の禁止にもかかわらず遍路に対して施しを続ける者が極めて多かったことがうかがえます。長い歴史の中で育まれた「おせったい」の心は、通達では禁止できなかったようです。付候事
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  行政の遍路抑圧策に答える民間の動き
四国各県の行政機関は、強硬な遍路対策を取ったにもかかわらず、多くの人々によって遍路に対する施しは続けられてきたことを見てきました。しかし、『近世土佐遍路資料』あったように盗みを行う遍路、ニセの丸薬を売りつける遍路などは地元民の眉をひそめさせたであろうし、結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになりました。地方行政当局が遍路に対して強硬な政策をとった背景には、知らない人物が村に入り込むことによる治安悪化を恐れる地元民衆からの、一定の支持があったも考えられます。
 明治9年(1876)、高知県日高村の植田直吉は、大小区公撰民会に次のような議案を提出します。
「辺路物乞イ風体ノ者ハ時態二不都合ノ所業」とし、さらに「遍路風体の者たちもいったんは御布告(明治5年の禁令か?)で姿を消したが、また近ごろ各地にあらわれ始めている。彼らは村はずれの川原や堂社にたむろして、昼間は家々をまわって米や金を乞うては、ついでに家の中をうかがい、病人でもあれば占いや祈祷などでとりいろうとする。また夜になると作物を盗もうとする泥棒同様の者も少なくない。今後この区内ではそのような者たちをいっさい近づけないようにすれば、やがて自然と立ち退くだろう。」
という意味のことを述べたうえで、最後にこう結びます。
「禍ヲ招カサル先キニ安寧取締ノ覚悟肝要タルヘキ衆議希望シ候也」
これはムラの治安維持を求る村民の側からの遍路排斥の動きです。
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このような動きは愛媛県でも見られます。
    定   愛媛県県村
遍路乞食其他物貰へ金穀食物等相与へざるは勿論、宿泊等決て致させ申まじく、万々一此約定を犯すものは近隣より直責し大井分署へ引出すものとす。若し物貰来た其場に居る申は共に引出可申。又強談する場合に至りては、近隣或は組合にても村内のものへ呼掛、共に尽力し、立退かざるときは速に警察へ連絡すべし。其者出頭せざれば分署へ急報し警官の指揮を受くべきものとす。⑩
    乞食施興禁過規約 愛媛県桑村郡宮之内村
                  明治十九年六月
第三條 遍路乞食二ハ金銭米麦ハ勿論何品ヲ問ハスー切施与セサルモノトス
第四條 前条ノ約二違ヒ施与セシモノアルヲ見留タルトキハ直チニ組長二申告スルモノトス
第五條 規約二違ヒ米麦物品施与セシムルモノアルトキハ違約者二於テロ施人身分二係ル諸費一切ヲ負複弁償セシムルモノトス
第七條 違約者無資カユシテ諸費弁償シ能ハサル者ハ金額ノ多寡二応シー日己上五日以内力役セシメ之ヲ償シムルモノトス
第九條 遍路乞食体ノ者村内二徘徊スルヲ目撃スルトキハ速二戸長役場又ハ分署又ハ巡回ノ巡査二申告スルモノトス
ここには、地方行政当局の意を「忖度」した村の指導者が「遍路排除」運動を指導しているのがうかがえます。これらは村民からの同意を得たのでしょう。その内容は「遍路乞食」にお金や食物を与えないように申し合わせるとともに、遍路に対する警察の介入を積極的に求めているのが注目されます。特に県村では、施しを行たり宿泊させたりした者に対して、隣近所の者がその責任を問うて警察に引き出すとしています。宮の内村では、違反者が弁償としての費用を出せない場合は力仕事を課すとあります。これらの決議や規約がどこまで厳密に守られたかについては分かりませんが、四国巡礼の遍路にとっては「世知辛い世の中になった」と感じたことでしょう。
      高知県「土陽新聞』の遍路排斥論
明治半ばを過ぎると、維新の混乱が収まるとともに猛威を振るった廃仏毀釈の嵐も過ぎ去り、四国を訪れる遍路は次第に回復してきました。しかし遍路の増加は、地域によっては大きな問題になっていきます。そのことを示しているのが、明治19年(1886)5月に3日間にわたって高知県の『上陽新聞』に連載された「遍路拒斥すべし」と題し、遍路の拒絶・排斥し物乞いを追い払うことを強く求めた次のような論説です。
 まず冒頭で「遍路乞巧拒攘論」を持出さし事態は切迫しているとして
「遍路には相応に旅金をもって身成も一通整へて来るもあれども、其れにしても真に祈願の為めに来るは少く。つまらぬ事にて来るもの多きことなり。、 其の大半は旅金も携へず穢き身成にて朝より晩まで他人の家に食を乞ふて廻り。巡拝も祈願も何んの其の主(もっぱ)らは四方八方を食ひめぐるに在り。」
と、遍路の大半が祈願のためではなく物乞いであると主張します。
そして遍路がやって来る弊害を3点挙げます。
まず、甚だ危険なるは悪病の蔓延を媒介すること是なり。特にコレラ病の如きは尤も不潔に取り付き易き先生にして遍路のごとき者が績々他県より侵入し来るときは之れを蔓延せしむること必然の勢なり。」
次に、他人の家に食を乞ひ得る所不十分にして糊口に難渋するに至っては、変じて強盗となり強盗と為り極めて凶悪の行いを為す者あり。(中略)是れ第二の大害也。」

さらに「老体の者や幼弱の者は或は食に尽きて餓死すえうものもあるべく。或は病に罹りて病死するもあるべく。寒中に於ては凍死する者も間々之れあり。概して行倒れと云ふ者が多く有ることなり。ソシテ其の行き倒れがあれば必ず戸長場の厄介と為る。戸長の厄介は即ち人民の迷惑なり損害なり。是れ第三の大害なり。」
要約すると
①伝染病の媒介
②強盗などの発生、治安の悪化
③行き倒れの処置の問題
この3点から遍路が大きな社会不安の根源になるというのです。
 では、どうしたらいいというのでしょうか?  対策として挙げるのは次の4点です
①「県下の各町村津々浦々までいづれも其の町、村、津、浦、の申合せを為し彼の遍路に対しては一切何物をも恵与せざることと致し。
②「町村津浦の國道とか蘇道とかに富たる處を除き其他へは遍路乞食は一切立入らしめざること」
 遍路がやって来ても、食を乞う所も身を置く所もないような状態して、これを2・3年続ければやがて来なくなるだろうします。
③県境付近い巡査に命じて他県から侵入しようとする遍路物乞いを捕えて先の事情を告げ、
「公然の道路を往来する人の自由なれば敢て威権を以つて汝等を遮るにはあらざれども迂闊に往くなれば却って困るやうになるだらうから成る可くならば往かないが宜しからふ」
と説得させる。・・・是れ第三の方法なり。」
④四国内にとどまらず日本の大政府に法律を作り、遍路なり何なり卒然他人の門内に侵入して食物其他の物品を乞ふことを制止させられんことを欲する也。」
以上4点を解決策として主張します。
 そして最後に、
「今の遍路乞巧の如きは宜しく拒斥すべし逐攘すべし。由し彼等に於て益々土佐の国を鬼國などと評すれば評するに任かすべし。遍路輩に物を与へざるが為めに鬼の名を受くるが如ぎこ我が土佐の國の一向頓着せざる所なり。」
と、断固たる口調で遍路の排斥を繰り返します。
これが新聞の「社説」として載せられます。

 これを載せた『上陽新聞』とは、どういう新聞なのでしょうか?
当時、自由民権運動を推進した政社として立志社は有名です。その出版部門から「海南雑誌」と『土陽雑誌」という啓蒙雑誌が出されていました。この2誌を統合して明治10年(1877)から新たに発行されたのが「土陽新聞』です。民権思想を盛り込んだ刊行物としての水準は高く、高知の人々の政治的自覚を促す上で大きな役割を果たしたとされます。
 その誌面に載せられたこの論説は、4面から構成される紙面の第1面下段にあります。紙面上からも力を入れて書いた文章であることがうかがえます。無署名ですので誰が書いたかは分かりませんがこの新聞の主筆として専ら筆を執っていたのは、『東洋大日本国国憲按』の起草で知られる民権家植木枝盛(1857~1892)です。状況的には、彼が書いた可能性が高いと思えます。少なくとも植木枝盛の同意の上に書かれたものであるとは云えます。

 自由民権運動の中核的な新聞だけに、筆者は貧民が多数発生するような当時の社会自体の問題についても言及しています。しかし、施しを乞うて生活する遍路について、
「強壮にして働きを為せば出来る者が食を乞うて来たからと云って恵与するが如きは決して宜しからざることなり。又初めより他人を的にして食を乞ふで廻るが如き者をば、之れに何も与へざれば止めるやうに為るべけれども与ふるときは、何時迄も他人を的にして乞食を止めず。」
と記し、遍路の大半は怠惰から慟かない者だという考えが見て取れます。この筆者の排斥論には「働こうとしない」人々に対する嫌悪感が根底にあるようです。
 「働かず者、食うべからず」という「論理」は、日本の近代化を指導した知識人階級に共通する意識だったようです。ここには「弱者」への視線はありません。
 食を乞いつつ旅を続けた人々について、真野俊和氏は次のように述べています。
「私たちの文化のなかで、かつて乞食とは単なる貧民のことではなかった。(中略)
定住農民の対極にあって独自の文化の創造者でもあった。その意味で彼らの存在はまさに文化英雄の名にふさわしい。(中略)
しかし、遍路であれその他の巡礼であれ、あるいは旅芸人・渡り職人であれ、旅の中で食を乞う流民たちは、近代社会の中ではもはや厄介者にすぎない存在になりつつあった。

論説掲載のちょうど1か月前、4月9日の『朝野新聞』は「浪遊者処分法」を制定して乞食を北海道に送りこんで、土地開墾を行わせる案が検討中であると報じています。これを先の論説と併せて考えると「浮遊民の有効活用で近代国家建設」というシナリオを、時の政府は考えていたことが見えてきます。

県による遍路に対する取り締まりの実行                  
 もう一度、「土陽新聞』の論説にもどりましょう。この提言に対して、どんな反応があったのか。それについては5月22日「上陽新聞」雑報の欄に、
「遍路拒斥すべし乞巧逐攘すべしとは、本社の痛論する處なるが、聴くところによれば我高知警察署に於ても、今度各警察署及び交番所の巡査に命じ、物乞いの徒は見当たり次第に之を所轄警察署に連れ来り一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は十日留置き、其の集る本籍へ追ひ返すことにせられしとか、誠に斯くの如くなれは、今後懸下に此奴等の跡を絶つに至ることにて頗ぶる結構なる次第也」
と、掲載から1か月もしないうちに警察が積極的に動き出したことを伝えています。4日後の5月26日には、
「本県警察署にて遍路乞食の徒は残らす本籍に追ひ返さるることになりし由、前号の紙上に記載せし、いよいよ昨日より之を宣行あることとなりて、現に高知警察署乃一手にて同日東西へ護送せられし分二百名にも及ひしと云ふ」
と報じています。これが事実だとすれば、かなり厳しい措置がとられたことになります。おりしも京都・東京では、この時期に同時進行で虚無僧の取り締まりが行われていました。
 遍路に対する取り締まりは、その後も後も続いたらしく、明治23年5月27日の『上陽新聞』では、
「客月廿日より三十日まで県下各警察署並びに分署に於て取扱ひたる遍路乞食放還者にして県内市町村役場へ交付し若しくは国境より放還したる人員は、合計273人」
と伝えています。その10年余り後の明治34年3月21日にも「本年2月1日より十日迄各警察署に於て追ひ払ひたる遍路乞食の数381人」
という記事が見えます。
 これについてある研究者は
「明治の歴史の暗い断面を覗かせるものだ。これを仮に、高知県内の当時の乞食遍路の総数に近いものとし、また四国の平均値と仮定すれ四国全体でで1100名~1500名以上となる」
と推測しています。
 高知県から遍路物乞いを一掃するという目的の下に始まった編組排斥運動ですが、本当に効果があったのでしょうか。
 明治34年(1901)2月21日には、次のような記事が載せられています。
「是迄市外柳原のほとりに露を敷寝の草枕で敢果なき夢を結び居たる遍路乞食は其数5名程度なりしが此の程に至り滅多に頭数が殖えたるにより、昨日或物好きが数へ見たるに正しく31人ありたり、警察署にて遍路狩りを執行し日数も未だ経たざるに斯く多人数となったるは抑も何ゆゑにや」
と、警察が遍路狩りを行って、まだ間もないにもかかわらず、高知市郊外の柳原に集まる遍路の数が31名に増加したのはどうしたことかという疑問を呈する記事が載っています。
 さらに同年12月24日の記事には、
「愛知県丹羽郡岩倉町酒井鍬吉といふは、四国辺路となりて合力を乞ひながら歩き廻る中、県下長岡郡某村駐在巡査の遍路狩りの獲物となりし処、此奴遍路の僻に仲々理屈をこねる奴にて
阿方(あなた)は何故に私の旅行を妨げますか。旅行は私の自由で御坐ります
と云張り後免警察署に連れ来られし後も頑として不服を唱ふる所により種々申聞たるも聴かす出高の上検事局及び警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でた」
とあり、反発する遍路も現れ、警察も手を焼いている様子を伝えてます。これを見ると、遍路取り締まりの効果があがっているとはいえないようです。

その後、遍路に対する取り締まりは、どうなったのでしょうか?
以前紹介した高群逸枝は『娘巡礼記』(1918年)の中には、遍路の取り締まりについて次のような話が出てきます。彼女と同行の伊東老人が、高知県の三十九番延光寺の経営する木賃宿に、同宿6人で滞在するこになったときのことです。
「彼等の云ふ所では、遍路する者は幾らお金持ちでも日に七軒以上修業しなければ、信心家とは云へないさうな。而も其の事は法律上からは禁ぜられて有る。
四国を十何回巡ったという愛知の人は、次のように語る。
「それは、出雲へ参拝の途であった。ふと或る家で修業してゐると、巡査に見付かつて逃げるに逃げられず遂に捕まって了ひ、暫らく警察署に留置され、或る処に護送され、一週間馬鹿馬鹿しい目にあわされた事が有ったことだ。
 又宿毛でも同じ目に合ひ伊予境まで追ひやられた事もある。そこで信心と法律とは矛盾してる形だから変だ。つまり四国遍路のお修業は公然の秘密になつてゐる。」
ここでいう修業とは、托鉢のことのようです。
徳島県では、二十番鶴林寺の山を下りた二人が村の人に宿を尋ねると善根宿を行っている農家を紹介してくれたのですが、そこの親切そうなお爺さんは、
「此頃警察が八釜(やかま)しくなりまして善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められますからお気の毒だが納屋でよろしいか。」
と、声を低めて言うのである。

 遍路旅の終わり、九州に渡るために愛媛県八幡浜の木賃宿に滞在中に、二人は実際に「遍路狩り」に遭遇しています。その時の様子を、高群は次のように詳細に記録しています。
 しばらくさわいでゐるうちに階下で警官の声がする。
 老人と娘?然うか。一寸来いと云って呉れ」
 二階から下へよび出され見ると二人の巡査さんで有る。
一人は上り口に腰掛け、一人は土間に立っている。
『ナニ此の娘?此りやお前の孫か。原籍氏名を述べろ』
まるで罪人扱ひだ。
 (中略)
『娘、お前は何の為め出て来た』
大喝が私の方にまはつて来た。
「心願が御座いまして」
『名は? もう一度云って見ろ』
「逸枝と申します」
二人はジロジロ私を見てゐたが暫くすると、
コラ遍路。お前達は何か。矢つ張り遍路姿か」 
此度はお爺さんに切尖(きっさき)が向く。
「へえ、お大師さまに詣るのだから遍路姿でなくちや仕方ありません」
「馬鹿、遍路と云ったが何うした。貴様腹を立てたんか。
幾ら身分は有っても遍路ぢや」
「オイ詰まらない。行かう」
二人はサツサと出て行って了った。
私も其屋二階に引返した。
 何だか滑稽なやうな。
でも彼れが警官の職責かなぞ思って、微笑んでゐると、お爺さんはプンプン腹を立てている
 「人を罪人だと思ってやがるが何だ あの横柄な態度は」
    (中略)
「けふは遍路狩だつせ。何人も警察ひかれたや云ひまつせ」
 浮かれ節屋さんが帰って来て、一同に告げ知らせる。
其晩は、道理で盲女の遍路さん遂々捕つて回置場へひかれたと云ふ事が分った。捕ったが最後国境まで護送されて追つ払ひとなるのだと皆が話している。
逸枝と二人の警官とのやりとりは、話がかみ合っていなくて漫才のやりとりのようで面白いのですが、遍路取り締まりの生々しい様子がうかい知れます。これは10月23日のことですが、この年は7月から米騒動が起きて、寺内正毅内閣が崩壊しています。愛媛県下でも8月には郡中町(現伊予市)の騒動を最初として何件かの暴動が続いていました。八幡浜でも小さな騒擾があったようなので、警察も治安維持に神経を遣っていたことが分かります。
 
 昭和になって書かれた遍路記からは、取り締まりに遭遇したという記述は見られなくなります。
遍路の取り締まりがいつまで続いたかはよく分かりません。しかし、地方行政機関による一連の政策が明治前期の四国遍路停滞の一つの大きな原因となり、後の時代まで継続的に行なわれていたことは事実のようです。
   いまでは「お接待の心でおもてなし」と行政が音頭取りをしています。しかし、かつては行政は、四国遍路に対する圧迫・取り締まりを行っていたという事実も知っておいてよいでしょう。


慶応4年(1868)9月に元号を明治と改元、欧米の文化・制度を積極的に取り入れて、明治維新の大変革が始まります。封建制度が崩れて藩境の関所が取り除かれたことは、手形無しでどこでも自由に通行できる時代がやってきたことを意味します。「移動の自由」を庶民が手に入れたのです。ところが、明治前期には遍路の数は減少して一時的に停滞期を迎えます。どうしてでしょうか?
 遍路の動向を知るために、幾つかの札所に残る過去帳から1,345名の遍路を抽出してグラフにまとめたものを見てみましょう
2グラフ1
このグラフからは次のようなことが読み取れます
①18世紀後半から遍路の数は増加傾向を見せ始め
②19世紀前半にピークを迎える
③明治初期には1/3に激減する
 2グラフ12
西国巡礼の数を比較してみると、次のような事が分かります
①天保期の巡礼者の増加率は四国遍路の方が大きい
②明治維新前の政治的混乱で巡礼者は四国は半減、西国は1/4に激減する
③明治になって、西国に回復傾向は見られるが、四国遍路にはみられない。
この2つのグラフから分かることは、明治前期はしばらく停滞の時期が続いていたということです

明治前期の遍路の停滞の要因は何だったのでしょうか?
それは、次の2点のようです。
①神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
  今回は①の神仏分離・廃仏毀釈運動が札所に与えたダメージを見ていくことにしましょう。
 遍路行の第一の目的は、言うまでもなく札所において読経・納経し、札を納めることでしょう。いまの寺社ブームも、納経帳と朱印帳がなければ、これほどまでには成長しなかったかもしれません。納経・朱印を目的に多くの若者達が各地の寺社を訪れる時代がやって来ています。もし、その寺社が「明日から朱印は押せないよ」と云われれば、人気寺社を訪れる朱印マニアの人たちはがっかりすると同時に、参拝客も激減することが予想できます。
 明治維新には、そんな状況が現れたと云うことです。
その原因は「廃仏毀釈」です。札所の多くが衰退したり、廃寺となって一時的に消滅してしまったのです。やってきた巡礼者は納経も朱印ももらえません。神仏分離については、以前にお話ししましたので簡略に記しておきます
①外来宗教である仏教と日本固有の神に対する信仰を調和・合体させる神仏習合が進んだ
②この正当化のために、神はもともとは仏であって衆生を救うために仮に神の姿で日本に出現したという本地垂迹説が広がった。例えば、天照大神の正体(本地)は、実は大日如来だとされた。
③この結果、神を祭る神官よりも仏をいただく僧侶の方の立場が強くなる。
④こうして江戸時代には、幕藩体制と結びついた寺院が、別当寺・神宮司など呼ばれ神社の管理を行っていた。僧侶が神社を管理していた。
 ところが、幕藩体制の崩壊・明治政府の成立とともに一変します。明治政府は近代国家の出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を取り、天皇の神権的権威のもとに神道の国教化を掲げます。
その最初の政策が「神仏分離」だったのです。
 まず、神社にいた別当や社僧としての僧侶を認めません。
彼らの還俗と僧位僧官の返上を求めたのです。これに真っ先に答えたのが奈良の興福寺の僧侶達です。一斉に春日大社の神職に変身します。うち捨てられた興福寺は、廃寺のような存在となって荒れ果てていたことは有名です。
 これに続いて、讃岐の金毘羅大権現の社僧も神官になり、琴平神社と名前を改め、大権現は追放します。このように僧侶達が雪崩を打って神官になった結果、神宮寺などは廃寺になる所が数多く現れたのです。
土佐で神社が札所だった所は?
元禄2年(1689)に刊行された寂本の『四国偏礼霊場記』には、札所として「仁井田五社」「石清水八幡宮」「琴弾八幡宮」など神社名が記されています。また近藤喜博氏は、神仏習合的色合いの濃かった札所として、一番・二十七番・三十番・三十七番・四十一番・五十五番・五十七番・六十番・六十四番・六十八番の10か所を挙げています。これらの札所は神仏分離で、今までは神社とその別当寺が一体化していたのが分離されます。そして、寺院である別当寺が正式な札所なります。例えば
①土佐の仁井田五社は、別当寺である岩本寺が三十七番札所となり、
②伊予清水八幡宮については別当をつとめる山麓の寺が栄福寺として五十七番の札所へ
③讃岐の琴弾八幡宮は、別当寺の神恵院が六十八番札所へ
こうして現在のような、八十八ヶ所の札所が全ては寺院で構成されるようになります。それでは高知と愛媛の状況を見てみましょう。

  廃仏毀釈の展開と札所 高知県の場合
土佐藩は、比較的規模の大きな寺院は檀家が少なく、藩主の保護のもとで広い寺領を持っていました。大きな寺は庶民的性格を持っていなかったのです。四国遍路の札所でも、堂塔が壊れたりすると、檀家である藩主の手によって修理が行われています。
 ところが維新後、高知藩の「社寺係」となった国学者北川茂長は、きわめて強力な廃仏政策をとります。まず明治3年(1870)に廃仏的意図を持って、寺院から土地山林を没収し、僧侶の還俗を要請する布告を出します。さらに旧藩主山内家自身が、それまでの仏葬祭をすべて神葬祭に変更するのです。山内家の菩提寺として寺領100石を有していた真如寺は還俗し、神官として教導職をつとめるようになります。殿様の菩提寺が廃寺になります。
 これを見て士族のほとんどが神葬祭に転向し、庶民に対しても神葬祭が勧められます。真如寺の跡地は神式葬祭場になってしまします。このような風潮の中で廃絶する寺院が続出し、土佐国内の寺院総数615の約3/4にあたる439寺が廃寺になるのです。
 四国遍路の札所については、土佐16か寺中、津照寺、大日寺、善楽寺、種間寺、清瀧寺、延光寺の7か寺から廃寺の届出が出されます。届け出のない札所も、実質的には廃寺に近いものもだったようです。
明治4年に高知藩では、神葬祭を広め、あわせて廃寺となって失業した僧侶を救済するために、彼らを「神葬祭式取扱」に任命して神葬祭を行わせています。しかし、翌年5年9月には一斉に罷免しています。これについて、ある研究者は次のように記しています。
「華々しく(?)開始された神葬祭式も、たいして効果があがらず、この時をもって終止符がうたれたと考えたい。」
このころから高知県における廃仏の動きは収束していったようです。どちらにしても神仏分離の展開で、札所の寺院が廃寺状態で機能しなくなっていたのは事実のようです。
 明治11(1878)になって島根県から来た遍路の小須賀おもとの納経帳を見ると、そこには二十五番「旧津寺」、三十五番「旧清瀧寺」とあるので、まだこれらの寺が廃寺のままであったことが分かります。三十三番は高福寺(雪蹊寺の古称)となっていますが、ここも廃寺同然になっていたようで、納経事務を竹林寺で代行しています。
 これら寺院の名称が復活していくのは明治10年代以降です。
①雪蹊寺は明治12年、
②種間寺・清滝寺は明治13年に
③岩本寺も明治22年(1889)
に一応の復興にこぎ着けたようです。

讃岐の七十六番金倉寺で、このころ広がった霊験話を紹介しましょう。
明治10年に、不自由な両足で四国遍路を回っていた男が讃岐の金蔵寺で、突然に足が直り、立って歩けるようになります。この男は、和歌山県の北岡増次で、その霊験話はたちまち四国各地に広まります。その後も彼は遍路を続け、四国中の善根宿などで歓待を受けます。その彼が翌年に金蔵寺に送った手紙には、善根宿は土佐が最も熱心なことや、土佐では位牌を焼き捨ててなくなった家が多いので仏法のありがたさを説いて位牌を作り、私戒名を授けたことなどが記されています。
ここからも、過激な廃仏毀釈の熱狂が冷めた後の土佐の反動がうかがえます。しかし、廃物の動きが収まった後も、その傷跡はかなり後の時代まで残ったようです。
例えば、明治40年,室戸岬の最御崎寺を訪れ滞在した小林雨峯は、この寺の衰退ぶりを嘆いて、日記に次のように書き残しています。
其の僧坊伽藍の荒廃衰残の状 大抵の人は皆慨嘆の声を洩らすのが普通である。(中略)
荒廃せる坊中にあつて再興のためによく種々の困難に凌ぎつつある住僧の辛抱強きには驚嘆せざるを得ないんだ。風吹き雨降りし一日、雨滴は本尊前の縁板を流れて居る。予の臥つて居る室の一角の天井板は全く傾いてしまって、それを仰臥して見つめて居ると、将に落ちんとする状がある。
杉の帯戸の向かひの座敷は全く跡形なく荒廃し戸を開く事も出来ぬ始末である。日本有数の霊場と日本有数の廃坊を余は室戸崎に於て見るのである。」
廃仏の嵐が過ぎ去っても、寺院の復興は一朝一夕にできなかったことが分かります。明治の時代を通じ、各札所で経済的に厳しい状況が続いていたのです。
 平成の時代になってようやく解決に至った「三十番札所の問題」
これも神仏分離・廃仏毀釈がおおもとの原因でした。江戸時代に出版された遍路関係の著作物によると、もともと三十番札所は「土佐国の一宮」、すなわち高鴨大明神社(現在の土佐神社)でした。その別当寺として神宮寺と長福寺(善楽寺)があったようです。ところが神仏分離で、まず神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とする措置がとられます。そのため、ふたつあった別当寺が両方ともなくなってしまいました。
 そこで善楽寺の本尊は二十九番国分寺に合祀され、三十番の納経は国分寺で兼ねることになったのです。ところが明治9年(1876)に安楽寺(高知市洞ヶ島町)が旧善楽寺の本尊を国分寺から移して、ここを三十番の札所とします。
 昭和になると一宮村の有志連中が旧善楽寺跡に善楽寺(高知市一宮)を再興して三十番札所とします。その結果、ふたつの三十番札所が並立することになってしまいました。こうして、両寺の間で三十番札所をめぐる争いが起こり、長い間、高知を訪れる多くの遍路を迷わせてきたのす。この問題はが解決したのは、平成の代になってからでした。三十番札所は善楽寺、安楽寺はその奥の院ということで決着したようです。

 愛媛県の状況   明治初期の札所の経済的な困窮
愛媛県における神仏分離・廃仏毀釈の動きは土佐に比べるとはるかに穏健に進められました。しかし、六十二番宝寿寺のように檀家を持ちながら一宮神社と分離後に廃寺とされ、明治10年になって再興されたという札所もあります。
 ここでは明治期の札所を経済的な側面から見てみましょう
 上知令によって寺領は没収され、札所を経済的困窮に追い込まれます。例えば上知については、明治4年(1871)に
「社寺領現在ノ境内ヲ除くノ外一般土地 上知セシツ…」
という命令が出されます。さらに、地租改正の際には境内付属地までを含めた上知が命令されます。明治4年の旧松山藩領寺院の上知記録を見ると、寺領の推移は次のようになります。
①石手寺は、 4町6反 → 1町8反
②番繁多寺は、4町9畝 →   4反8畝
③太山寺は 10町   →約1町です。
②③は1/10になっています。それまでムラの庄屋と同じ位の田んぼを持っていた大寺院が、持っている田畑を政府に奪われたのです。経済基盤を失い、今までのような財政運営が出来なくなり困窮化する札所が続出するのは当然です。

 また、檀家のいない寺は廃寺にすべしという命令が出されます。
五十五番南光坊は、大三島神社の神宮寺で檀家は持ちませんでした。そのため4・5軒の家に頼んで檀家になってもらい廃寺をまぬがれたと云います。栄福寺も住職が還俗していなくなり、なんとか新しい住職がやって来ますが、寄付を頼む檀家がなく、茶碗や鍋さえ整わないという時期があったといいます。
 四十六番浄瑠璃寺では、住職が庫裡の裏を畑にして芋などを植えてしのいでいたが、とうとう耐え切れず出て行ってしまい、無住になったので檀家総代が建物を管理し、葬式や法事の際には近所の寺から僧侶に来てもらっていたと云います。遍路が納経を頼みに来た時には、近所に住んでいた総代が出て行って朱印を押したそうです。このような経済的な困窮が札所を襲い、後継者もいなくなってしまいます。
 石鎚信仰の中核だった前神寺・横峰寺と廃仏毀釈
 愛媛で最も大きな打撃を受けたのは、六十番横峰寺・六十四番前神寺のふたつの札所でしょう。江戸時代半ば以降、石鎚山の別当職を争ってきた両寺ですが、金毘羅大権現と同じく「石鎚大権現は神にはあらず」という明治政府の前に廃寺の憂き目を見ることになります。
 前神寺の札所の特徴は、石鎚修験道の核として蔵王権現を祀ってきました。ところが明治3年(1870)の神祇官通達で
「仏像と判断される蔵王権現は祭るに及ず」
という決定を受け取ります。つまり、蔵王権現を祭る前神寺の存在そのものが否定されたのです。これに対して住職は、権現像を山上に安置して庶民の信仰維持を図り、行政に抵抗します。ところがその最中の明治5年に本堂と庫裡が火災で消失しています。そこで無住になっていた末寺の医王院に移り、権現像は封印して地元の戸長に預けられました。3年後には、県から正式に廃寺通達が送られてきます。これに対して、寺側は裁判を起こして抵抗しますが決定は変わりませんでした。
しかし、その後も檀家総代から寺の存続を求める嘆願書が提出され続けます。明治12年には檀家は協議の上で「前神寺復旧出願」を提出します。これには180余戸の檀家の祖霊祭祀に支障が出ていることや六十四番札所としての数百年来の信仰の問題などを述べたうえで、次のように記されます
寺号ニテ御差支ノ廉モ有之候ハバ 御指揮二従ヒ前上寺卜改寺号仕候ナリトテモ 再興一寺建築願ノ趣御採用ノ程奉懇願候
これに対して県は
「故寺号ニテハ差支ノ儀有之候条、前上寺毎号候儀卜心得ベシ」
と回答し、前神寺では許さないが前上寺なら許そうという条件で再興が認められます。そこで、現在地にとりあえず前上寺(ぜんじょうじ)という名称で再建します。前神寺にもどるのは、それから10年後のことです。
 横峰寺も石鎚神社西遥拝所横峰社となって、廃寺になってしまいます。
檀家は六十一番香園寺の檀家とされます。六十番札所がなくなってしまったので、同じ小松町の平野部にある清楽寺に札所が移されました。そのためこの時期の納経帳には、六十番札所として清楽寺の印が押されているようです。
 横峰寺も前神寺と同じ時期の明治10年に地元の檀家総代より再建願いが出されます。そこには
「二百三十余戸ノ檀中一同(中略)香園寺へ埋葬相頼来候共 
遠隔之地ニシテ実二困入夙夜悲難仕候」
と記されて、香園寺が村から遠すぎるために葬式の際などに大変困っていることを訴えています。そのうえで、
「一寺永世維持方法相調ント勉励シ(中略)今年二至り五百円二満ツ(中略)反別五町村中共有地二罷在候 間土地上木共永世寄付仕候条偏二再建之旨奉懇願候]
と、寄付金を集めて、村の共有地も寄付すつもりなので、ぜひとも寺の再建を認めて欲しい訴えています。
 こうして翌年には、愛媛県令から再興を認める決定を引き出します。横峰寺は、明治13年にまずは大峰寺という名称で復活します。その後の清楽寺との協定で、清楽寺は前札所ということになり、六十番札所は山の上に戻ってきました。横峰寺の旧称に復帰するには、さらに30年近くの年月が必要でした

以上、神仏分離が札所に与えたダメージを土佐と伊予について見てきました。この打撃のために札所は廃寺になったり、無住となって札所の機能が果たせなくなった所が数多く出てきたようです。それが明治初期の四国遍路の激減につながったというのがまとめになるのでしょうか。
  讃岐や阿波にの神仏分離政策については以下の関連記事をご覧ください。タグ「讃岐の神仏分離」
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
        平成12年度遍路文化の学術整理報告書
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2高群逸枝
  高群逸枝が娘時代に四国遍路を行っていることを知りました。彼女が日本の「女性史学」の創設者であり、詩人でもあったくらいの知識しか持ち合わせていなかったので、大正時代に若い女性がなんで、四国遍路なの?というのが最初の感想でした。
その疑問に答える前に彼女の生い立ちを見ておきましょう。
 
2高群逸枝2
 生い立ちから遍路行まで 観音の子として誕生
高群逸枝(1894~1964)は、熊本市南郊の農村で、小学校の校長を務める勝太郎、登代夫妻の長女として日清戦争が始まる年に生まれます。夫妻には3人の男の子が生まれましたが、いずれも育たなかったたようです。そこで、一姫二太郎式の考えから、筑後大和郡の清水観音に女児出生の願をかけます。勝太郎夫妻の願い聞き届けられ、天は初観音の縁日(正月十八日)の女児を授けます。こうして生まれた逸枝は父母から
「観音の子とよばれ、その待遇を受けて育つ男」
として育てられたようです。
 逸枝は、学校長を務める父の転勤で農山村を転々としながら育ちます。母登代は、結婚してから夫に学問の手ほどきを受け、塾生に教えるほどの素養の持主だったようです。幼い娘には、昔話や物語を語り聞かせたといいます。逸枝の「夢みる人」という資質は、母に負うところが多かったようです。
最初に簡単な年譜を示しておきます
1909年 熊本県立熊本師範学校女子部入学
1910年 師範学校退学
1912年 熊本女学校4年に編入
1913年 熊本女学校修了。鐘淵紡績に女工として就職
1914年 西砥用尋常高等小学校の代用教員に就任。
   のち、父が校長をしている佐俣小学校へ転属
1916年 父と共に払川小学校へ転属。橋本憲三と文通を開始
1917年 教職を辞職し、熊本市専念寺で新聞記者修行に専念
1918年 四国巡礼に出発。九州日日新聞に『娘巡礼記』を連載
1919年 九州新聞で『愛の黎明』を、大阪朝日新聞に破調短歌を投稿。憲三と婚約
1920年 上京。世田ケ谷村の軽部家に寄宿。母の登代が死去
1921年 『新小説』4月号に長篇詩『日月の上に』掲載。熊本県八代郡弥次海岸に転居
1922年 再び上京
1927年 父の勝太郎が死去
1930年 平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成、『婦人戦線』を創刊

最初の疑問「なぜ若い女性が四国遍路に出かけることになったのか?」にもどりましょう。
  逸枝が満23歳を迎えた大正6年(1917)、ヨーロッパでは第一次大戦のまっただ中でロシア革命が勃発する年になります。日本が戦争景気で好景気に沸いていた時期でもあります。この年に、後に夫になる橋本憲三との出会い、その恋愛問題に悩むことになります。一方秋には、教職を辞して、九州日日新聞社に入って新聞記者になろうとしますが失敗。「一週間も二週間も食べない」と自伝に記すほどの窮乏生活に陥ってしまいます。
①日に三度血書を届けたというH青年からの求愛
②恋愛関係にあった憲三との仲のこじれ
③転職の失敗
などの問題が渦巻いて、どうにもならなくなったようです。
「憲三からは冷やかにあしらわれ、H青年からは逃げきれず、職なく、飢え、人生と生活とのいっさいに追いつめられた敗北からの捨身の脱出」とも、「無銭旅行の、生死さえも運命の手にゆだねる出発」
と自伝には記されています。まさに「戦局打開」のための「転戦」が四国巡礼だったのかもしれません

 逸枝は、最初は花山院の御遺蹟である西国三十三ヶ所の巡礼を最初は考えたようですが、立案過程で経済的な理由から、より近場の四国八十八ヶ所になったようです。御詠歌だの御和讃だのを見せられると、その気になって胸が躍り、和讃の一節を参考に四国遍路の準備を始めます。先達から宿の心得も聞きます。
 和讃の一節
 麻の衣にあじろがさ
 背に荷俵三衣のふくろ
 足中草履をめし給ひ
 首にかけたる札ばさみ
 縦6寸に幅2寸
 金剛杖を右につき
 左のみ手に数珠を持ち

 準備した遍路の旅装、携帯品
 一、つま折れの菅笠               |
 一、おひづる(背には亦条を入る)
 一、脚絆、足袋、草鞄、手貫
 一、札挾み(縦6寸巾2寸)
 一 袋((紙インク、ペン、書籍、着更、小刀、印、諸雑品)
そして、彼女なりの次のような「出発の哲学」を掲げます。
「刻々の推移に不安をもこたず、
欲するものを率直にもとめ、
拒まれれば去り、
生命に執着しない。」
これを胸にして四国に向けて出発します。それは 大正7年(1918)の6月のことでした。
 
2高群逸枝24

一笠一杖、四国に向かう  
 堀場清子氏は、この旅立ちを
「無」に立って出てしまう 「捨身」で人生をきりひらく』
と評します。
「無」に立って出てしまう……こうした捨身の行為を逸枝は生涯に何度も敢行して人生をきりひらき、自伝の中で『出発哲学』とそれを名付けている。だがその決然たる信念とはうらはらに、巡礼初日の彼女は、ハンカチを顔にあて、好奇の目や囁きの間をぬけていく。沿道の人々は彼女を暖くもてなし、巡礼になるような人じゃないと不審がり、由ある家の家出娘だろうから保護せねばと相談したりする。」
 周りの好奇な視線や質問に対しては、こんな話をしたようです。
「私が生まれる時に母が、観音様に『此子を丈夫に成長さして下さいましたら屹度(きっと)一人で巡礼いたさせますから』と誓った事(その前幾人もの子供がみんな亡くなつたから)を話した。此れは事実である。私の母は大の観音様信心である。」
と逸枝は答えるようになります。そして、豊後を目指す道筋での彼女は、こんな歌を詠んでいます。
 さびしさは 肥後と豊後の 国ざかい 
       境の谷の 夕ぐれのみち
 そして四国目指して前に進んで行くにつれて、胆がすわっていきます。意気軒昂と歩いていると夕暮れ、一人の老翁に呼び止められます。それが伊藤宮次老人でした。
2娘遍路
熊本から別府までの行程
大正7年(1918)6月4日、熊本の寄寓先の専念寺を出発し、大阿蘇の連山を目に歩き始めます。
6月4日 熊本出発。途中、歳を18と偽る。大津泊。
6月5日 立野、梅原広一宅泊。
6月6日~阿蘇郡坂梨村浄土寺2泊。坂本元令様に感謝。
6月8日~竹田、新高野山(瑞泉寺)にて宿泊を断られ、岡本村狭田、古谷芳次郎宅2泊。
6月10日~東大野村中井田、伊藤宮次(伊東宮治)老人(73歳)に出会い、同宅長期滞在。老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と理解し、女王さまのように扱われる。しかも、四国への同行を申し出る。サンチョパンサの登場。
7月9日~伊東老人と中井田から汽車で大分に向かう。大分市塩九升町、伊東老人の親戚、阿部宗秋宅。
逸枝は、伊東老人との出会いをこんなふうに記しています。
見知らぬ国の山路にはかなく行き暮れた旅の娘に、温い一夜を恵んでくれた孤独の老人(73歳)が、夢に観世音のお告げを得たとて、繊弱い処女を護るべく私に従い、共にへめぐった四国八十八ヶ所、四百里、行乞と野宿の一百日の思い出を、昨日のことのようにも思い出す止とができる。 
老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と思い込み、女王さまのように扱います。そして、四国への同行を申し出るのです。実際、この伊藤老人は同行中には
彼女に対して主従の礼をとり、炊事にも手を出させず、一緒に食事をとらなかった。荷物は一人で背負い、彼女には修業(行)させず、会計をつかさどり、宿に着けば、まず塩で彼女の足をもむ
ほど誠実に逸枝の面倒をみたようです。私に言わせれば、若き娘のドンキホーテーとサンチョパンセのような関係にも思えてきます。
 この伊藤老人との出会いとその後を、河野信子氏は次のように記します。
高群逸枝は巡礼の過程で、なま身のままで、土地のひとびとの幻想をさそいだしてしまったようだ。(中略)九州山地の街道で、以後同行することになる伊藤老人にであい、観音の化身と思い込まれてしまった。また、その地の近郷近在のひとぴとは、彼女の杖にふれると病気がなおる信じてあつまってきた。本人にとっては、地から湧きでたような珍事にはちがいないが、私には察しがつく。おそらく、少女高群逸枝の全身からあふれでる雰囲気が、(中略)霊気を漂わせていたことであろう。
  こうして「若き教祖とその老僕」の四国巡礼の旅が始まります。
肥後から豊後までの徒歩行で、遍路の記を寄せるとして新聞社から「前借り」としてもらった稿料10円もすでに使い果たしていました。しかし、彼女の前に進む決意は萎えません。
「妾は飽くまで八十八ヶ所の難を踏破せばならぬ。」
「行かう、行かねばならぬ。無一文でも行かねばならぬ。八十八ヶ所の霊場、わが為に輝きてある」
ジャンヌダルクかドンキホーテか迷うような姿に、私には思えます。
九州から船で八幡浜へ
7月14日  午前3時大分出航。佐賀関経由の「宇和島丸」にて八幡浜入港。この地の大黒山吉蔵寺(当時衰微していた37番岩本寺から3500円で本尊と納経の版を買い取り、37番札所の権利を得たとされる)を訪問、1泊。
7月15日  逆打ちとして43番明石寺を目指して出発。なぜ逆打ちとしたかの理由は語られない。道を間違えて大窪越えの難路で、野宿。
 逆打ちで伊予の地を南に
「四国来るー四国来る 眼前に聳立する是れ四国の山にあらずや。九州か四国か四国か九州か、故郷か旅か故郷か。胸轟かすひまも無く佐田岬から八幡浜へ、上陸は午前十一時頃」
とあり、佐賀関経由の宇和島運輸の汽船「宇和島丸」で初めて四国の地を踏む娘らしい感動が伝わってきます。
  八幡浜で一泊して、7月15日が四国遍路のスタート日になります。
 なぜか「逆打巡礼」で、四十三番の明石寺をめざします。なぜ逆コースを選んだのかは何も触れられていません。初日から道に迷います。仕方がないので大窪越えの難路をたどることになり、急坂蕗で疲れ果てたうえに、初日から野宿となります。その様子を、次のように記します
凸凹の石多き草地に野宿する。石を掘り出し、毛布を敷き、草鞄を脱ぎ、脚絆を解けば、足の痛みが襲ってきて一歩も歩けない。看物を被って蚊を防ぎ眠る。初めは昏々として深く、次にしだいに苦しくなる。目覚めれば、蟻、毛虫の類もじやもじゃとと私の上をを這いまわっている。
着物も髪も露でシトシトだ。
月が寂しく風は哀しく、ああ私はいったいどうしてここに坐つているのか。この月、この風、熊本やいかに。これから先何百里、かよわい私に出来る事であらうか。
ああ泣いて行かう。いえ、花を摘んで歌つていかう。
足は痛いが立たねばならぬ。
み仏よ助け給ひてよ。
道は一すじ、疲れは疲れを生み、目を上げるとまるで世界が黄色になつてグルく廻転している様だ。
(1918年7月15日大窪越えにて)
 次の日も野宿と前途の多難を予想させまする。
  野宿も大変、食事も粗末、加えて難路の連続。そこへ柏坂の難所。
「山に山あり、峯に峯あり。越えもて行くほどに、おりしもあれ、銀雨くずれきたりて、天地花のごと哄笑す。請うらくは駿馬と鞭をあたえよ」という急坂を、
「此所を柏坂と云ふ。急坂二十六町、風が非常に荒く吹さ出した。汁も熱もすっくり吹き放され且笠や侠まで吹き捲くられる。面白い!風に御して坂道を飛び下る。髪を旗のやうに吹きなびかせつつ、快活に飛び行く私を、お爺さんはハラハラした顔付で見送り乍ら杖を力に下って来られる」
と笑い飛ばしながら通り過ぎて行きます。
そして、四十番観自在寺では本堂での通夜、
「本堂の大きな古い円柱が月光の中に寂然と立ってゐる。虫が鳴く、風が響く、世界は宇宙は、人は、私は、みんな夢だ、夢の様駱。」
との感慨に浸る。
 逆打ちの土佐から阿波への道。
ここで逸枝は約2か月もの日数を費やし、その間様々な体験を重ね、若い感性で見聞を広めています。
その行程と主な出来事は次のようになります。
7月16日 卯之町経由で43番明石寺を巡拝。歯長峠の山中、小屋を見つけて軒下で野宿。
7月17日~42番仏木寺、41番龍光寺を巡拝して宇和島到着。(約17kmの歩行)個人宅泊。雨天のため連泊。
7月21日 宇和島出発。柏坂の手前、畑地村にて野宿。(約20kmの歩行)
7月22日 雨中の柏坂越え。初めて海を見る。夕刻40番観自在寺到着。夜が更けるまで光明真言を唱え、本堂軒下に通夜。
7月23日 深浦という一小港に至る。「大和丸」という蒸気船で土佐片島港(宿毛)まで乗船。恐ろしき遍路の目(注1)に出会う。39番延光寺拝礼。門前の寺山屋という木賃宿に宿泊。翌日は風雨強く連泊。
7月28日~延光寺→市野瀬→大岐→足摺(38番金剛福寺)→大岐→市野瀬の打戻りに4日かかり。市野瀬1泊、大岐2泊。7月31日に真念庵到着。
8月2日 市野瀬を出発し、伊豆田越えをして、四万十川を渡船で渡って、入野の浜にでる。この狂波怒涛に、残してきた恋人の思いを重ねる。この浜で野宿。
3日 土佐佐賀を通過し、単調な歩行でお爺さんを困らせたり、熊井のトンネルの反響で遊んだり、…。岩本寺の手前で野宿。
4日 37番岩本寺を参拝。仁井田村平串(土讃線仁井田駅の近く?)の宿屋に宿泊。
5日~七子峠を登り、下りは不動が滝(滝に不動尊を安置)ルートで、土佐久礼で宿泊。
6日 須崎から36番青龍寺まで船便を利用しようとしたが、時間が合わず須崎にて宿泊。ルートは記述なく、36番青龍寺に参拝したとの記述もなし、高岡(土佐市)にて2泊。
10日 35番清滝寺を参拝。
11日 福島から渡船で36番青龍寺を参拝。夕刻34番種間寺を参拝。宿も満室で断られ、寺の通夜も断られるが、大師堂できちんと腰掛けて一睡もせずに夜明かしする。
12日 33番雪渓寺参拝。種崎の渡船で浦戸湾を渡る。
13日、三里村(高知市内)吹井屋に宿泊。たった2kmしか歩いていない。 
14日、32番禅師峰寺、31番竹林寺を参拝、市内の本屋で長居したりして、五台山村の大前屋宿泊。お爺さんに用事ができて、長逗留。
28日 高知を出立。逗留中にお爺さんだけで30番善楽寺、29番国分寺を納経していたので、直接28番大日寺を参拝。赤岡を過ぎ、夜須の遍路宿に宿泊。
29日 風雨の中を出立するが、体調が悪く安芸の手前の町で宿泊。この日、親切なお爺さんとは撫養(鳴門)で別れ、一人旅することを決心する。
30日 安芸川の橋が落ちていて、2里上流の橋まで迂回。27番神峰寺のふもとの坂元屋に宿泊。
31日 27番神峰寺を参拝。宿がなく、金剛頂寺手前の浜で野宿
9月1日 26番金剛頂寺、25番津照寺を経て、砂浜を歩き、山によじ登り24番最御崎寺を参拝。山を下り有るか無きかの道を辿るが、お爺さんが疲れ果て、また野宿。雨に降られ仮小屋に避難するが、雨漏りひどく、涙も出ない。
土佐の遍路道をゆく中で見えてくるものは?
土佐は「50町1里」(一般に36町1里)で、他国と基準がちがうのです。土佐を行く遍路達が辟易とし、苦渋、疲労困悠もするのは、土佐の距離基準が他国とはちがうのです。
「市瀬(市野瀬)出初日は大岐に一泊、此所から足摺山へは四里だと云ふ。但し五十町一里での四里である。(中略)一寸の休息もしないで、打ち通しに大岐まで帰り着いたのが午後九時何分、宿の人達は、驚愕する。なぜなら、弱々しい私が山坂越を八里(三十六町一里に換算して十一里四町)歩き通したと云ふ事が実際不思議」
だと人々が驚いたと記されています。
「足摺岬の金剛福寺へ参る時には、大岐からの往復八里を飛ぶように歩いて、老人を弱らせています。土佐の旅では
『愛せねばならぬ、愛せねばならぬ一切は私の愛人だ…』
と、一心不乱に念じながら歩いたといいます。長い道のりを、ゆき会うすべての人々にむかって、「一切愛」の実践を試みながら彼女は苦しい旅を続けています。
 土佐の遍路道は、川が多く、川を渡ることにも難渋しています。
雨のため舟渡しもできず川止めをされたり、橋の決壊で迂回させられたりなどして、なす術もなく日数を重ねるしかありません。
「濁流滔々として、渡らるべくも見えざれど、熟練せる船頭により難なく対岸に着くを得たるは幸ひだった。
とも記します。そして9月19日には、とうとう
「四国は川がうるさくて困る。少し荒い雨が降っても川止めだ。まるで昔の旅行同然」
だと嘆きだします。
   ただ、雨での足止めが、多くの遍路や地元の人との接触のきっかけとなっています。
 遍路同士で話すと
「方々の国から集まつてゐるだけに言葉が大変面白い。(中略)殊に四国に入って初めて聞いた『哺うし』だの『あいあい』だのたまらなく懐かしい響きが、こもって聞こえくる。」
と言葉への感覚が磨かれていきます。

山頭火32
 そして土佐の自然に感動しています。
快絶!白浪高く天に躍りて飛沫濠々雲煙の如し。
何ぞ其の壮絶なる嗚呼何ぞ其の暫く無言、
わが身直に狂濤に接す。
あはや!足土を離れて、飛ばんとす其間髪をいれず、
『何を?』お爺さんに引止められ愕然として我に返り、
太平洋の狂波怒濤と自分の魂が一致した瞬間に恐ろしさを感じる
伊藤老人の静かな寝姿に
海と夕やみと、七十三の萎びた老人の亡骸の寝姿と一私は静かな落ちついた心で『死』を考えていた。
 昭和4年記の「遍路の秋」で逸枝は、四国遍路の思い出を次のように記しています。
「四国の秋は美しい。私はうはには、忘れがたいものが多い。いつか折りがあったら、またぜひ行ってみたいとおもっている。こんどはたれとも連れ立たずに独りで。そしてやはり遍路になって。」
 
若い娘にとって、宿は苦労の連続でした。
 娘と云うことで断られたこともしばしばです。そんな中で見つけた遍路宿は、
「此宿こそ如何にも蛆が湧いてゐさうな不快な宿である。寧ろ海辺の野宿のほうがいいと思うほどで、入浴もせず、食事も取らず、お茶も水も駄目の夜を過ごす。
真野俊和氏は、当時の遍路宿について次のように記します
「往時の遍路宿・木賃宿のすさまじさは、全部が全部ではないにしてもたいへんなものだったようだ。(中略) 遍路宿は木代の最低が8銭から、高いのは25銭ぐらいまでのひらきがあったという。こんな最低クラスの木賃宿も二人は当然のことながら何回かとまりあわせた。」
「此頃警察が八釜(やかま)しくなりまして、善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められます。お気の毒だが納屋でよろしいか」と聞かれて、うなずくと農家の老爺に案内された所は、厩と隣接しており、異臭が鼻をつく宿であったりもします。
なんでも見てやろう、何でも一度は受けいれようとする姿勢でのぞむと見えてくるのは
  まず、「遍路の墓」の見方が変わってきます。
「遍路墓でことにあわれなのは、道中、あるいは丘辺、あるいは渚辺の土まんじゅうの上などに、ただ笠杖などの差し置かれてある光景である。さらにあわれなのは、現実に生命の終わる日までたえず巡礼をつづけているお遍路さんたちのことだろう。」と日記に記します。
『あゝ遍路の墓 何と云ふ懐かしい美し墓の姿であろう。
永久に黙然として爾来数知れずその前を通り行く遍路の群を眺めて立つてゐ。」
「遍路のみ墓よ、さらば静かにおはせ。生より死へ…有為より無為へ…道は一路で有るを。」
「あゝ大悟徹底とは大なる諦めで有る事を、今に及んで知る事が出来た。」
遍路道の傍らの墓に対しても、視線を配りリスペクトする力が養われていきます。
  その2は、お大師様にまつわる伝説の多さに対する驚きと興味です。
それらを細かく、時に粗らくとり上げて
「何れその中に八十八ヶ所中の伝説一切を詳しく調べた上で折を見て書くことにしよう」
と若者らしい学究的な意欲も見せます。また、生意気な娘らしい言葉も並べます。一方で、逸枝は
「わが求むるものは愛なり。妾は今まで非常に苦悶しぬ。(中略)妾は一切 に愛せられつつ楽く茲にあり。」
との高みに達していきます。

9月 阿波から瀬戸内へ
2日、尻水村にて宿泊。
3日、宍喰の善根宿に宿泊。
4日、四方原村(阿波海南駅近く)に宿泊。名にし負う阿波の八坂八浜を越え、牟岐の先に宿泊。6日、23番薬王寺参拝、近くの旅館に宿泊。
7日 新野町豊田(現阿南市)、木元徳三宅に宿泊。
8日~ 高群が一人旅をすると漏らしたため、お爺さんが怒って、高群を宿に残してどこかへいってしまう。
11日、20番鶴林寺の手前までいったお爺さんが戻ってくる。
19日 22番平等寺参拝。さらにあえぎつつ登り21番大龍寺の奥の院に至る。那珂川の渡船(現在は橋がある)が川止めであろうと言われ同所て宿泊。
20日21番大龍寺を参拝。さらに20番鶴林寺を参拝。山を降りて農家の納屋にて眠れぬ一夜を過ごす。
21日~28日、19番立江寺を参拝。
「朝から晩まで歩き続けに続けて18番恩山寺から1番へ一瀉千里、其間に有名な12番焼山寺の山道も極めて無事に抜けてしまった。」とだけ28日の記事に記して、その間の詳細な行程は記録されていない。
29日、引田を朝早く出発し、夕方88番大窪寺参拝、寺を下りて宿泊。
30日、4里半歩いて87番長尾寺を参拝。さらに歩くととがった八栗山、平坦な屋島を見る。
10月1日 86番志度寺参詣の記述なし。85番八栗寺の山を登り、84番屋島寺を参拝。高松手前の木賃宿に宿泊。(83番から72番に関する記述なし)
6日 71番弥谷寺を参拝。長居している間に、お爺さんを見失う。お爺さんは、高群が先に行ったものと思い、先を急いだ。その日、別々に宿を取るが、翌朝、無事再会。(70番から50番に関する記述なし)
14日、今治を出発し3ケ所の札所を巡拝。菊間の町を抜けて、「あさましき家」に宿泊。
翌日は道後の旅人宿ではお遍路さんお断りと宿泊を断られ、「また汚い宿」に宿泊。
16日、51番石手寺、50番繁多寺、49番浄土寺、等6ケ所を参拝し、泥濘の三坂峠を越える。
17日 45番岩屋寺を参拝、畑の川という宿駅(現在の民宿和佐路あたり)に宿泊。
18日、44番大宝寺を参拝、本願成就。最初に野宿した滑稽な思い出がふと胸に浮ぶ。
    行かう!行かう!行かねばならぬ。私の厳かな戦場に。
19日 内子の近くの善根宿に宿泊。
20日 八幡浜に向かう途中、女の乞食遍路に出会い、金を無心され、残っていた10銭を喜捨。
    残金は1銭5厘となった。八幡浜の三津山という木賃宿に滞在。
24日、11時ごろ御荘丸という汽船の三等室で八幡浜を出航。佐賀関に上陸し、宿泊。しばらく大分で休養する。
12日 中井田の伊東老人宅に戻っている。
18日 この日、阿蘇を歩いている。
20日 熊本に帰着。

  結願に向けて瀬戸路を行く  
 南四国路の難渋に比べて、瀬戸内に入ってからの遍路行は比較的順調に進んだようです。
 秋風ふかくなりて、道も寂しくなりぬ。寺のあまたを経めぐり、石多き谷をわたり、日没寺の垣根の輝きに心ひかれなどするほどもなくて、讃岐なり。伊予なり。屋島に源平餅を食うべ、高松の木賃宿に虱を漁り、根香山のほとりに崇徳上皇の遺跡を訪ね、十月十四日ともなりぬれば、今治の町を出でて、松山街道をたどる。菊間町を過ぐれば海なり

 10月18日、今回の本願成就となる四十四番大宝寺に詣でて、八十八ヶ所を打ち納め、「夢の様な長旅もいよいよお了ひだ」と記し、この遍路行で出会った人々を回想しています。
 此度の旅行は色んな人々を私に見せてくれた。易者だの僧侶だの浮れ節屋だの煙管の棹がへだの鋳掛屋だの一様々な人々が住んでゐるものだ。
(中略)京都の人(中略)にお会ひした。その人からは色々な世間物語りも聞かされたし、般若心経だの十一面観世音陀羅尼経だの頂いた。六十位の人で発句に趣味を有たれてゐなさるさうな。其外数々のお寺を巡るうちには、色々な若い僧侶の人にお会ひしたり、可なりに複雑な詩の様な事件が私を追つかけたりしたが、振り返る事なく流るゝ様に、それが旅人の常で有る。可憐な少女や慕はしい老尼や懐かしい婦人や、然うした人々とも残る処なく、すっぱりと別れて了った。
 讃岐では、崇徳帝の御遺跡地及御陵にも参拝し、善通寺から金毘羅さまにもお詣りしたが、其帰りの汽車の中では芸者の方とも近づきになった。世間には実に色んな人々が住んで居る。そして其人々は各自に色んな思想界なり、道徳界なりを形造っては生きてゐるのだ。(中略)
兎に角面白い世の中である。
  出発したときの混沌としたカオスを突き抜けたようです。生きていく勇気をもらった四国遍路だったのでしょう。逸枝自身も
「私はこの遍路によって、心身の鍛練を得たことが多い。」
と述べています。
  大正7年(1918)、老翁と連れ立った白無垢の遍路姿の娘が四国の地を歩く。無からの出発という若い彼女の感性が多くのものを吸収していきました。一度きりの遍路でした。しかし、後々になっても遍路にかかわる思いを綴っていることからも、彼女の遍路に関する思いが強かったことがうかがえます。
 『九州日日新聞』に掲載された「娘巡礼記」の評判は、どうだったのでしょうか?
24歳のうら若き女性が時に野宿をし、
「冷えてコツコツの御飯に生の食塩では、食うにも何も咽喉を通らない苦労の旅」
は評判となり、105回の連載道中記となります。これで逸枝の名も知られるようになります。
 逸枝が橋本憲三と双方の両親の祝福をうけて約婚したのは、遍路行の翌年の春でした。この夫妻の二人三脚の生活が、後の逸枝の大作を生むことになります。
逸枝が四国の遍路路を歩いたのは、一回限りでした。けれど遍路への思いはやみがたかったようです。機会があればいつでも旅に出ることを望んでいたといいます。諸般の事情が許さなかったのです。

 昭和13年(1938)に出版された「お遍路」には、次のように記されています
どんな不信な者でも、足ひとたび四国に入れば遍路愛の雰囲気だけは感ぜずにはいられまい。ここでは乞食同様のみすぼらしい人であろうが、癩胤で不当な虐げを受けている人であろうが、勝ち誇った富家のお嬢さんであろうが、互いになんの隔たりもなく、出会う時には必ず半合掌の礼をする。これは淡々たる一視平等の現われで、世間的な義理や人情の所産ではない。」と云い、最後に「遍路には祖互愛念平等愛と犠牲愛との三つが、現に完全に行はれてゐる。」と結んでいます

参考文献
参考文献 平成12年度 遍路文化の学術整理報告書「四国遍路のあゆみ」
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1山頭火
 種田山頭火(1882~1940)は、少年期に母が自殺します。それがその後の人生に大きく影を落としました。そこから生れた「原罪」意識は、根が深ければ深いほど、悲しみは深く、そこから抜け出すことは難しかったようです。彼は二度にわたり四国遍路に旅だっていますが、母の位牌を背にしての遍路でした。その軌跡をたどってみましょう。
その前に、山頭火について「復習」しておきましょう。          
 種田山頭火は山口県生まれで、旧制山口中学校を卒業し、早稲田大学文学科に入学します。しかし、母親の自殺以来、次第に家が乱れ家運が傾くとともに、山頭火自身も心身に変調をきたすようになります。そのため卒業4か月前に退学・帰省し、父とともに酒造業を始めます。明治の地方の有力者にとって「酒の蔵本」というのは「憧れ」であったようです。
その後の経過を年表的に辿ってみましょう。
明治44年(1911)酒造業は失敗し、一家は離散。山頭火は、妻子とともに文学の友を頼って熊本で額縁店を開業しますが、酒色に溺れ東京に出たりしています。

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大正3年(1914)から小豆島出身の荻原井泉水(図表3-2-6)に師事して、自由律俳句誌『層雲』に投稿を繰り返えすようになります。当時、この雑誌のスター的な存在が尾崎放哉でした。
大正13年(1924)、感ずるところあって熊本の曹洞宗報恩寺望月義畷諏尚につき禅を修行、
大正14年 出家得度し、耕畝と名づけられます。
大正14年 熊本県鹿本郡植木町の観音堂守を命ぜられ赴任します。しかし、1年2か月で、行乞流転の旅に出ます。この年は大正から昭和へと年号が替わった時で、
1尾崎放哉
尊敬する尾崎放哉が小豆島で亡くなった年でもありました。
尾崎放哉は東大出のエリート行員でしたが酒で失敗し、職を転々と替わるようになり、最後は死に場所を求めて荻原井泉水をたよって小豆島にやってきます。そんな放哉を、井泉水は檀那寺の西光寺の庵のひとつ「南郷庵」に住まわせ面倒をみます。
1尾崎放哉.j22peg
放哉は、ここで死に際の命が最後に輝くかのように「入れ物がない 手で受ける」など多くの優れた歌を残します。最後のものが「海も暮れきる」です。井泉水は「弟子」に当たる放哉と山頭火を次のような言葉で評しています。
放哉は、晩年をひたすら坐りつづけて一歩も門外に出ず、
山頭は歩きつづけて老を迎えた。
11山頭火
山頭火は大正15年(1926)から昭和14年(1939)までの間、九州・山陽・山陰・四国地方から遠く木曽路、北陸路、東北地方までと広範囲の行乞・遍歴の旅を行っています。この旅について、山頭火は次のように語ります。
 私は元来旅がすきです、あてのない旅、気兼ねのいらない自由な旅に自分の後半生をゆだねてしまった。人に迷惑をかけず隅の方で小さく呼吸してゐる。これが現在の私です。まあいわば『イボ』のやうな存在です、癌になれば大いに迷惑をかけるが小さな『イボ』なれば迷惑にならないと思ふ
分け入っても分け入っても青い山   
笠にとんぼをとまらせてあるく
だまって今日の草靫をはく
ほとほととして木の葉なる
 これがいまの生活です、
一種の性格破産者とも思ってゐる、
しかし自然を心ゆくまで見て歩くうち芭蕉、
一茶に通じるものを感じるが二人の境地に達するまでには至らない
私には山田洋次が生み出した「男はつらいよ」の寅さんに通じるものがあるように思えてきたりします。ここには先ほど見た「兄弟子」の尾崎放哉の「生き方、死にざま」が深く影響しているように思えます。小豆島を訪ね放哉の「死にざま」と残した作品を確認して、自分のこれからの生き方を見据えたのではないでしょうか。
1山頭火32323
山頭火が松山にやって来たのは?
昭和14(1939)10月1日、弟子に当たる野村朱鱗洞(図表3-2-6)の墓参と、四国遍路のために山頭火は松山にやって来ます。松山への旅立ちの朝に、次のように知人に語ったと伝えられます。
 山頭火が旅立ちの荷物の整理をしていた。そのとき、風呂敷の中から真白い布に包んだ小さいものが畳の上に落ちた。彼はそれを両手で拾い上げ、拝むようにした。それは山頭火の自殺した母の位牌であった。彼は「わしは長い旅に出る時は、いつもこの位牌を負うて母と共に旅をしていた」と言い、彼が11歳の3月6日のことを「その日、わしらは近所の子供たちと、裏の方の納屋で芝居ごっこをして遊んでいた。ところが母屋の方がさわがしいので走って行ってみると、お母さんが、井戸からひきあげられて、筵をかけられていた。僕は母に抱きついて、どんなに叫んでも母は歯をくいしばってて冷たい体となり、返事がなかった。その時の恨めしそうな顔が、澄太君まだ時々幻のように浮かんでくるのだよ。母は33歳だった。」
 この母の死に対して、金子兜太氏は、
「少年期に、母を理不尽に失った(奪われたというべきだろう)ものの喪失感の激しさを思うわけだが、その死の理由が痛ましく、そのうえ死体を目撃していれば、それはどうしようもない酷さの記憶と重なる。からだの芯が裂かれているような、それこそ痛覚を超えた真昼のような状態-それだけに激痛と虚脱がたえず意識されているような状態にちがいない。」
と述べています。
 山頭火の母への想いを、彼の日記に見てみましょう。
 昭和13年の母の命日には
「亡母四十七回忌、かなしい。さびしい供養、彼女は定めて(月並の文句で云えば)草葉の蔭で私のために泣いているだらう。うどん供えて、母よ、わたくしもいただきます」
 翌年の四国遍路に旅立つ昭和14年には、
「転一歩 母の四十八回忌、読経しつつ香の立ちのぼるけむりを見ていると、四十八年の悪夢が渦巻くようで、限りなき悔恨にうたれる。」
と書き残されています。母の死に対する想いの強さが伝わってきます。
母の位牌を背に、山頭火の行き着く先は四国でした。
昭和十四年の秋、山頭火は生涯最後の旅に出発します。それが二回目の四国遍路でした。最初の四国遍路は昭和2年~3年のことで、中国、四国、九州地方一円の前後7年間にわたる壮絶な行乞大旅行のひとこまでした。この時には四国八十八ヶ所をすべて順拝したようです。しかし、残念なことに彼自身の手で、その記録が焼かれています。そのため詳しい足跡は分かりません。ちなみに先述した俳友尾崎放哉の墓参のために小豆島を訪れているのもこの時のことのようです。
 ヨーロッパではヒットラーのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まっていた昭和14年(1939)10月に、種田山頭火が松山にやって来ます。地元紙『海南新聞』は「俳僧種田山頭火 飄然俳都を訪問 故野村朱鱗洞氏墓に参詣」の見出しで次のように報じています。
 中央俳壇層雲派の験将として、最近その名を謳われている漂泊の老僧種田山頭火氏が去る一日へいぜんと俳都松山をおとづれ、弟子の昭和町松山高商教授高橋光洵斎氏宅にわらぢを脱いでいる。氏はかつて明治末葉のホトトギス派爛熟期に自由律俳句を高唱し、また本社俳壇の選者と十六吟社を主宰していた故野村朱鱗洞氏と同志で、日本俳壇の新運動に従事してゐた。(中略)
佛門に帰依して諸国巡禧と俳諧に安住の地を求めて居る、来松の動機も同志朱鱗洞氏の霊を慰めるためで二日石手寺の墓所を訪ひ今は亡き親友の前に心からの回向を捧げた。8日頃まで滞在のうえ高橋教授と四国巡禧の旅に出護する予定である。
 新聞では「故野村朱鱗洞氏墓に参詣」と書かれていますが、実際には石手寺の過去帳には朱鱗洞の記録はなく墓も分からなかったようです。そこで、山頭火はささやかな自然石の墓の前に立ち、「ここで拝んでおきましょう」と言って礼拝したようです。
 その後、朱鱗洞の墓探しが始まり、新立の阿扶持墓地にあることがわかり、小雨降る中を山頭火、は墓参りを改めて行ったようです。その時の様子が書き残っています。
 山頭火が置き忘れていた遍路笠と杖を持って家を出たのが夜の十時半頃だった。雨気を孕んだ険悪な空模様である。高橋の門前までくると、暗闇の中から「ぬっ」と酩酊して体を扱いかねるような格好で山頭火が現れた。近寄って墓が見付かったことを告げると、右手を高く挙げ「よかった、ありがとう」と云った。座敷へ上り経過を話すと、山頭火は感動のためかむしろ険しい顔付きをしていた。明朝、墓詣りをしてから出立するとばかり思っていたところ、「いや、僕はこれから詣ります。そしてその足で遍路に出ます」と云って、帯をしめ直しはじめた。もう十一時を過ぎているし雨模様でもあるのにと皆んなで止めたが、山頭火はこうと決めたら変改する人ではないと思って、遍路荷を背負い笠をかぶって外へ出た。山頭火はその恰好がおかしいと笑った。高橋さんも袋を一つ肩にして私に続いた。山頭火は奥さんに別れを告げて、杖をついて出てきた。
 (中略)山頭火から線香を受けとり墓に手向け、山頭火がチンチンと鉦をたたき、三人で般若心経を誦えた。何分にも真暗なので目には見えなかったけれども、山頭火は朱鱗洞のお墓のあたまをゴシゴシと何度も何度も撫ぜさすり、涙をこぼしている気配が私に伝わってきたのでした。
 その後、三人は、雨の降りしきる中を松山駅へと向かいます。着いたのが10月6日の夜中の午前1時10分だったようです。
その墓参の日(6月5日)発行の『海南新聞』の記事の一節には
「また氏は酒も好物だといふ木賃を払ってあまれば酒に換へて陶然となる、世の中にも慾望を断ったものが飲む酒の味はまた格別だと云っている」
と酒好きの山頭火の一面も報じています。
   山頭火の四国へんろ道中記
 この時の四国遍路は10月6日に松山を出発し、1ヶ月後の11月16日に高知で挫折することになります。その記録である『四国へんろ日記』は、11月1日に撫養を出発して、徳島に入ろうとする日から始まっています。つまり、出発から1ヶ月間のことが書かれていません。松山を出てからの遍路模様を『ひともよう』で追ってみると次のようになるようです。
 10月8日、山頭火は六十一番香園寺で、俳句誌『層雲』(昭和14年11月号)に次のような近況を報告しています。
「伊予小松よりーお元気でせうか、私は今幾十年ぶりで四国の土をふみました。松山でやっと朱鱗洞君の墓を見出しました、層雲原稿としてお目にかけます。」
松山から今治を経て伊予西条に向かっていたようです。
10月14日に香園寺を出た山頭火は、後から追ってきた高橋一洵らとともに伊予西条を訪ね、また各地の札所を巡っています。
19日には讃岐の本山寺から知人に次のような便りを出します。
「おかげで巡拝の旅を続けてをります、三角寺で高橋さんとも別れてからは遍路らしくなって毎日歩いてをります、雨中の雲辺寺拝登は苦しかっただけ、また感銘ふかいものがありました、その日の一句、
「雲がちぎれると 山門ほのかに」
上り下り五里の間、誰にも逢ひませんでした。、句はたくさん出来ますけれど自信のあるものはなかなか生れてくれまん。おはがき二通ありがたく拝見いたしました。奥様へもお子さま方へもよろしく、そのうちまた、
(本山寺にて 種田生)」
 ここからは、三角寺から阿讃国境の雲辺寺を越えて讃岐路に入り、10月19日には三豊の本山寺にいたことが分かります。

山頭火32
10月21日 小豆島に渡っています。
前回訪問から10年余を経ています。尾崎放哉への報告を兼ねた墓参だったのでしょう。翌朝、山頭火は放哉が死を迎えた南郷庵の背後の広い墓地を「大空放哉居士」の墓を求めて歩きます。やっと見つけた墓の裏には、次のように刻まれていました。
「居士は鳥取市の人尾崎秀雄、某会社の要職に在ること多年、後其の妻と財とを捨てて托鉢を以って行願とす。流浪して此島に来り南郷庵を守る、常に句作を好み俳三昧に入れり、放哉は其俳号也 哉は其俳号也 享年四十二歳」 
 師の荻原井泉水が5行書きで彫らせたものです。
死に場所を小豆島に求め、小さな庵で海を見つめながら「暮れ」きった放哉。これを見て山頭火は、何を感じ、何を思ったのでしょうか。

1尾崎放哉.j2peg

 山頭火の最後の旅行となる四国遍路では、僧形で托鉢し喜捨を受けたり、友情の宿に恵まれ、路銀を与えられたりしてきた自分を責めて、僧形を捨て、無帽で、あわせ一枚にヘコ帯という乞食姿で遍路の旅を行います。命を捨てる覚悟で「柳ちるもとの乞食になてて歩く」覚悟を固めたようです。南郷庵では次の句を残しています。
   風ふけばどこからともなく生きてゐててふてふ
   死をひしひしと水のうまさかな
そして、阿波に入ってから「四国へんろ日記」を記し始めます。それを一覧にすると次のようになります。
月日 天候 遍路中の山頭火の心情などを示すことば       距離 宿泊地  
11/1  晴 (宿)旅のわびしさせつなさを感ぜしめるに十分 7里 小松島      
11.2 快晴 風呂なし。(昨夜も)水で体を拭いたが肌寒を感ず8里 星越山麓
11.3  晴(宿)夜具も賄もよかった。(風呂)うれしかった。8里 牟岐  
11.4  雨   どしや降り、吹きまくる烈風。お鮨一皿接待。6里 甲の浦
11.5  快晴  行乞のむつかしさ。行乞に自信をなくしてしまった。5里 佐喜浜 
11. 6 曇・時雨 室戸岬は真に大観。(亀を見に)婆さん、ありがとう。6里室戸    
11.7  快晴 (宿)待遇も悪くない。求むるものは与へられる   4里 羽根 
11.8  晴一曇 (今日こそアルコールなし)よく食べ、よく寝た。 6里 伊尾木
11.9  曇一雨 (よい宿)きれいで、しんせつでしづかでまじめで。13里 和食
11.10  晴   母子から十銭玉頂戴。この十銭が私を野宿から助けてくれた
      (郵便局)期待したものはなかった。がっかりしたい  8里 高知
11.11  晴  人さまざま、世さまざま。身心のむなしさを感じる。      高知
11.12  晴  歩いても歩いても、何を見ても何を見てもなぐさまない。 高知
11.13  晴  食べて泊るほどいただくまで、3時まで行乞。            高知
11.14     澄太君からも緑平老からも…どうしてだよりがないの 高知
11.15  快晴 明日からは野に臥し山で寝なければならないだらう。 高知
11.16  晴一曇 思ひあきらめて松山へいそぐ、製材所の倉庫で寝る。8里 越智  
11.17 曇一時雨 行けるところまで行く心がまへでー。    4里 川口(善根)  
11.18   快晴 山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ。行乞。4里 川口(善根)
11.19  快晴  宿屋といふ宿屋ではみな断られた。   7里 落出(大師堂)  
11.20   晴   五日ぶりの宿、五日ぶりの風呂、よい宿のよい風呂。6里 久万
11.21      人のなさけにほだされて旅のつかれが一時に出た。 松山(友宅)  

この工程表を見ながら気付いたことを挙げていきましょう
①10月21日に小豆島を出た10日後には、大窪寺から阿波に入り小松島までやってきたことが分かります。その後は順調に進み室戸岬を越えて、高知に入っています。ところが高知で6連泊して動かなくなります。どうしてでしょうか。
②彼が酒を飲まなかったのは11月8日だけのようです。「今日こそアルコールなし よく食べ、よく寝た」とありますから。死に向かって歩き続けるという覚悟でも酒だけは手放せなかったのです。これも放哉と同じです。
③無一文で遍路に出ていますので「行乞」で喜捨を頂かないと宿賃も酒代も出ません。「行乞」(托鉢?)を行いながらの遍路旅です。しかし、11月5には「行乞に自信をなくしてしまった。」と記します。
「遍路宿の宿銭はどこも木賃30銭に米5合、米を持っていないと50銭払はなければならない」
と記されています。つまり「宿賃80銭+酒代」を「行乞」(托鉢?)で得なければ遍路は続けられなかったもです。野宿はほとんどしてないので「収入」は毎日あったのでしょう。しかし、「行乞」はやりたくないというのがホンネです。11月10日の
「(郵便局)期待したものはなかった。がっかりした」
というのは、郵便局留めで送られてくるはずの期待したもの(金銭)が届いていなかったことの反応のようです。高知で「行乞」をしながら待ちますが「待金来たらず」でした。そこで遍路を中断し、土佐街道を松山に向かう道を選ぶのです。このあたりが山頭火らしい弱さで、私が好きなところです。
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このあたりのことを大山澄太氏は次のように記しています
この旅は世間からは、ほいとう(乞食)扱いにされ、宿にも泊りにくい五十八歳の老廃人の旅と見るべきである。筆致は淡々としているが、よく味読すると、涙の出るような修行日記である。彼は
この旅で心を練り、ずい分と、体を鍛えさせられている。果たせるかな土佐路に入ってからいよいよ貰いが少くなり、行乞の自信を失った、頼むというハガキを、柳川の緑平と、広島の澄太に出した。高知郵便局留置と言うので、二人は彼の言うて来た日に着くように為替を切って送金したのであるが、彼の足が予定よりも早すぎて、高知に四日滞在してそれを待ったがなかなか着かない。そこでへんろを中止して仁淀渓谷を逆って久万から松山へと道を急いだのであった。
こうして山頭火は、遍路道をショートカットし久万経由で松山を目指します。
その途中の川口では、それまでの「行乞」の倍近い1升5合の米が短期間で集まるのです。彼は上機嫌で
「山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ。」
と詠います。これは、今は川口の仁淀川の支流に句碑となって建っています。遍路ルートを離れた所の方が遍路には優しかったようです。こうして山頭火の2回目の四国遍路は終わります。
この旅が彼に作らせた句をいくつか抜き出してみましょう
香園寺   朝焼けのうつくしさおわかれする
      秋空ただよふ雲の一人となる
太平洋に面して 
      石ころそのまま墓にしてある松のよろしさ
      ひなたまぶしく飯ばかりの飯を
野宿    寝ても覚めても夜が長い瀬の音
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松山に帰ってきた山頭火は、関係者によって整えられた「一草庵」に住むことになります。
遍路行の翌年(昭和15年)母の命日の3月6日の日記には
「亡母第四十九回忌、……仏前にかしこまって、焼香謳経、母よ、不孝者を赦して下さい」
と記しています。ある研究者は
「この克明に記録された日記の底流として貫かれているものは、母の自殺の痛恨である。(中略)
十一歳の山頭火に仮借容赦もなく焙印されたこの痛ましい原風景は、捨てても捨てても捨て切れない。焼いた日記は灰となって一陣の風に消散烏有、痕をとどめないが、この惨絶の原風景はいよいよ鮮明である」
と評します。
 山|頭火の書き残した『短豊』には、
「私はどんなに見下げられても平気だ、私は人間とて無能無力であることを自覚してゐるから、何のねうちもない自分であることを悟っているから。」
「山頭火よ、愚にかへれ、愚を守れ、愚におちつけ!
「愚を守る一貧乏におちつく 無能無力に安んずる おのれにかへるー」
などの言葉があります。この中には「愚」という言葉がよく使われています。この言葉は山頭火が自分自身に呼びかけたものかもしれません。だとすれば、2回目の四国遍路は、禅僧の僧形をかなぐり捨て、その恩恵をも拒み、真に「愚」に生きようとして、「愚」に徹しきれなかった遍路行脚ではなかったのかとも思えてきます。
 山頭火の日記は、四国遍路の終わった翌年の昭和15年10月6日で終わっています。そして5日後の11日、「伊予の国で死にたい」と言った願い通りに、念願の松山の地で死を迎えます。
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 自由律俳句運動をひっぱって行った尾崎放哉と種田山頭火
二人に共通するのは、酒のために家族に捨られ、身の置き場がなくなり流浪の道をたどらざる得なくなったことです。そして死に場所を放哉は、小豆島に、山頭火は四国・松山に求めたのです。それを黙って受けいれる懐の深さが、小豆島や松山にはあったのだと私は思っています。それが最後の輝きを発するチャンスを二人にあたえたのです。それは、四国遍路の「おせったい」の心に通じるものかもしれないと思うようになったこの頃です。
参考文献 平成12年度 遍路文化の学術整理報告書「四国遍路のあゆみ」
  

      

         
1四国遍路日記

17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料のようです。
  まずは澄禅という人物について、見ていきましょう。
 澄禅(1613-1680)は、江戸時代の初期に生まれて元禄を前に68歳で亡くなっています。その期間は大坂夏の陣の辺りから、天下泰平の元禄の手前の当たります。彼は肥後国球磨郡の人で、20歳頃に京都智積院の学寮に入り仏道修行を積みます。一時、肥後に里に帰り地蔵院を継ぎますが、太守の接待や檀家とのやりとりなどにストレスを感じ「煩わし」として、ひそかに郷里を逃れます。そして学業に精進する道を選びます。ここからは、世事に疎く名利を厭う、彼の生き方がうかがえます。
1澄禅 種子集

 澄禅の種子字
 再び上洛したて澄禅は、梵語学の研究に打ち込みます。
そして、刷毛書梵字の祖といわれるまでになり、『悉曇愚紗』2巻をはじめ多くの著作を残しています。また、僧侶階層でも門下数千と伝えられる運敞能化の高弟、智積院第一座もつとめていたようです。ここからは、彼が中央でも名が知れた学僧であったことが分かります。
そのような中、澄禅は智積院第一座(学頭)の地位にありながら四国巡礼に旅立って行きます。
41歳のことでした。そして、1653年7月18日から10月28日までの100日間にわたる詳細な遍路紀行を残します。
 この日記は、宮城県の塩竃神社の文庫の中から写本が発見されました。その巻末に、徳田氏が正徳4年(1714)に写して「右八洛東智積院ノ中雪ノ寮、知等庵主悔焉房澄禅大徳ノ日記也」と書き加えられています。ここからこの日記が、澄禅のこした「四国巡礼日記」であることがわかります。またこの日記の写本奉納記朱印等から、もともとは江戸期の古書収集家村井古巌の収書中にあったものが、実弟の忠著によって、天明6年(1786)冬に塩竃神社に奉納されたことがわかります。
 この日記は、澄禅という当時としては最高レベルの学識豊かな真言僧によって書かれています。そして伝来も確認できる一級史料のようです。そのため研究者は
「内容もまた豊富で、四国遍路記の白眉とも言うべく、江戸時代前期の四国遍路に実態を最もよく伝えるのみならず、関連部門の史料としても価値のあるもの」
と評価しています。
  この日記を読んでいるといろいろな気になる事が出てきます。
17世紀半ばの霊場の姿が、どんなものだったのかに焦点をあてて見ていきます。
 高野山を7月18日に出発して、和歌山から淡路島を平癒して、24日に徳島の持明院(現廃寺、跡に常慶院滝薬師)に到着しています。そこで、四国遍路の廻り手形を受け取ると共に、霊山寺(一番)から回るより井土(戸)寺(十七番)からスタートした方が良いとのアドヴァイスをもらっています。
 澄禅は、真言宗の高僧でしたから各地の真言寺院からの特別な「保護や支援」を受けていることが分かります。当時の一般の一般遍路衆と比べると、比較にならい好条件だったようです。城下町の持明院に泊り四国遍路の手形を受け、いろいろな情報を受けています。宿泊だけでなく、大師御影像の開帳や、霊宝類の拝観といった面にも、特別の配慮に預かったことが分かります。
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 それでは巡礼第1日目に訪れた霊場の姿を見てみましょう。
 澄禅の遍路は徳島市から始まっていますが、先ほど見たように回る順番は持明院のアドバイスを聞いて、一番霊山寺からでなく、井土寺(十七番井戸寺)から打ち始めています。井戸寺までは、伊予街道(国道192号とほぼ並行)を行ったようです。
   17番 井土寺
堂舎悉(コトゴト)ク退転シテ昔ノ(礎)ノミ残リ、二間四面ノ草堂在、是本堂也。本尊薬師如来也。寺ハクズ家浅マシキ躰也。住持ノ僧ノ無礼野鄙ナル様難述言語。
堂舎悉(コトゴト)ク退転とあります。【退転】を広辞苑で調べてみます。
〔仏〕修行して得た境地を失って、低い境地に転落すること。
澄禅は「退転」を、この意味で使っているようです。
 昔の礎石だけが残り、小さな草葺きのお堂が本堂であり、そこに薬師如来が安置されている。寺は荒れ果て、住職は「無礼野卑で言語に尽くしがたし」と記します。真言宗のエリート学僧である澄禅の怒りをかうような事件が起きたのかも知れません。この記録には住職に関する記述も記されていますので注意しながら見ていくことにします。
 最初に訪れた霊場がこの様でした。彼にとってはショックだったかも知れません。
昔の礎石があるので、それなりに歴史のあったお寺だったようです。しかし、
「
寺ハクズ(屑家 浅マシキ躰(体)」だったのです。
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続いては16番観音寺です。
本尊千手観音 是モ悉ク退転ス。少(ママ)キ 草堂ノ軒端 朽落テ棟柱傾タル在、是其形斗也。昔ノ寺ノ旧跡ト見ヘテ 畠ノ中ニ大ナル石共ナラ(並)へテ在、所ノ者ニ問エハ イツ比より様ニ成シヤラン、シカト不存、堂ハ百性(姓)共談合シテ 時々修理ヲ仕ヨシ。
ここもことごとく「退転」状態です。小さな草葺堂の軒は朽ち落ちて柱も傾いています。昔の寺の跡らしき礎石が畑の中に並んでいます。近くにいた人に聞いても「いつ頃からこんな状態になったのか分からない、お堂は百姓たちと相談して、時々修理している」とのこと。そして、住職については何も記しません。記されていないのは、基本的に無住で住職がいないということのようです。 巡礼を初めて2つの霊場を訪れた結果がこれです。
15番 国分寺に向かいます
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本尊薬師、少キ草堂是モ梁棟朽落テ 仏像モ尊躰不具也。昔ノ堂ノ跡ト見ヘテ六七間四面三尺余ノ石トモナラヘテ在、哀ナル躰也。
かつての国分寺も、小さなお堂の梁や軒が朽ち果てています。仏像も壊れ、手足がありません。昔の堂跡を見ると、大きな礎石が並んでいるのが哀れになってくると記します。
14番 常楽寺、
本尊弥勒菩薩 是モ少(小)キ草堂也。
ここまで来ると口数も少なくなるように記述も少なくなってきます。ここも小さなお堂に弥勒菩薩が座っています。無住で住職はおらず、荒れ寺であったようです。35年後の『四国偏礼霊場記』にも
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず」
と書かれているので、その後も住職がいなかったようです。

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13番一ノ宮(大日寺)
松竹ノ茂タル中ニ東向ニ立玉(給)ヘリ、前ニ五間斗(ばかり)ノソリ橋在リ、拝殿ハ左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。
 一ノ宮とありますが、阿波一宮は大麻山にありますので、村の一宮です。その一宮の別当寺が大日寺だったようです。ここではじめて「殿閣結構」と、まともな伽藍が出てきます。
 澄禅から30年後の寂本『四国徧禮霊場記』(1689年)でも、
常楽寺は「茅堂の傍一菴」
国分寺は「小堂一宇」
観音寺は「堂舎廃毀」などと
荒れた様子が記されています。
現在の国分寺のように、古い礎石が本堂の周囲に並ぶ風景が、どの寺にも見えたのです。傾き架けた本堂と呼ぶにはあまりに小さな草庵に本尊だけが安置され、住職もいない姿だったようです。
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 なぜ、この寺だけが伽藍が整っていたのでしょうか?
それは一宮神社の別当寺であったことが考えられます。檀家を持たず寺領も失った霊場が荒れたままで放置された状態にあったのに対して、神仏習合下では神社の別当寺にたいしては村人達は信仰を捧げ、伽藍を維持したのではないかと私は考えています。
初日に廻った5ケ寺の内、四ヶ寺までが「退転」状態でした。一日が終わって、宿に入ったときに、澄禅はどんな思いでいたのでしょうか。ある意味、呆然としたのではないでしょうか?。
 翌日7月26日 遍路2日目の澄禅を追いかけます。

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11番 藤井寺
本堂東向本尊薬師如来 地景尤殊勝也。二王門朽ウセテ礎ノミ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礎モ残テ所々ニ見タリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天二菩薩十二神二王ナトノ像、朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ。庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内より法師形ノ者一人出テ 仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス。
本堂は東向きで本尊は薬師如来、ロケーションは素晴らしい。仁王門は朽ちて礎石だけが残る。鐘楼や本堂の礎石も所々に残っている。残った本堂の隅に二天・菩薩・十二神将・仁王などの仏像の破片が山のように積んである。朽ちるままに放置してきたので、廃屋がつぶれるように、このお寺もつぶれてしまった。庭の隅に小さな庵があり、そこから一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいという。訪れた人たちが勧進していた。
 泰平の時代になって半世紀が経っていますが、藤井寺に復興の兆しはささやかなものでした。法師が一人のみで小庵に住んで、この寺を守っていたようです。
 それから35年後に書かれた『四国偏礼霊場記』では、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。この間に復興が進んだようです。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興したのかもしれません。そうすると、その寺は禅宗になります。
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藤井寺から遍路転がしと言われる急坂を登って山上の焼山寺へ向かいます。
    12番 焼山寺
本堂五間四面東向本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。
 本堂五間四面で、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔はかわらぶきの屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、守護神は熊野権現だ。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代法師が再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。
ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。

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恩山寺
 大道より右ノ谷エ入事五町斗ニシテ 二王門在リ、夫より二町斗リ行テ寺在、
寺より右坂ヲ一町斗上テ本堂ニ至ル。本堂南向本尊薬師如来、右ノ方ニ御影堂在、其傍五輪ノ石塔ノコケムシタル在、此ハ大師ノ御母儀ノ御石塔也。地景殊勝ナル霊地也。寺ハ真言宗也。坊主ハ留主也。
この寺は仁王門があり、本堂・御影堂などがそろっており、住職もいたようです。山上の寺院は兵火を避けられたようです。

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  立江寺
本堂東向本尊地蔵菩薩、寺ハ西向、坊主ハ出世無学ノ僧ナレトモ 世間利発ニシテ冨貴第一也。堂モ寺モ破損シタルヲ此僧再興セラレシト也。堂寺ノ躰誠ニ無能サウ也。
住職は無学だが「世間利発で富貴第一」と記します。真言宗のエリート僧侶である澄禅から見ればそう見えたのでしょう。しかし、壊れていた堂や寺を再興させた手腕はなかなかだと、その経営手腕を認めているように思えます。故郷のお寺の経営に嫌気がさして飛び出した彼には、できない芸当だったかもしれません。どちらにしても、独力で復興の道をたどっていたのがこの寺のようです。
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  鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。
 寺領百石の大寺らしい伽藍だったようです。本尊も立派ですし、本堂・御影堂・鎮守社・鐘楼も備わっていたようです。
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大龍寺 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
  大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。焼山寺との格差が、どうしてつけられたのか気になるところです。

平等寺
本堂南向二間四面本尊薬師如来、寺ハ在家様也 坊主□□ 。 

平等寺は「在家のよう」と記され、お堂やその他については何も記されていません。
薬王寺

本尊薬師本堂南向。先年焔上ノ後再興スル 人無フシテ今ニコヤ(小屋)カケ也。
二王門焼テ 二(仁)王ハ 本堂ノコヤノ内ニ在、寺モ南向 是ハ再興在テ結構成。

この寺は火災にあったばかりで、再興途上にあったようです。仁王門は焼けて仁王像は、本堂の中の仮小屋に保存してある。庫裡は再興が終わっていたようです。
 
一方、恩山寺、鶴林寺、太龍寺は寺観が整っているような様子が伝わって来ます。薬王寺は火災で仮設の本堂であることが記されていますが、庫裏は再興されていたようです。

薬王寺からは長い海岸線を歩いて、土佐の室戸岬を目指します。
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讃岐の大窪寺から再び阿波に帰ってきた澄禅の姿を、10番切幡寺から霊山寺まで追って見ます。
  10番 切幡寺
本堂南向本尊三如来、二王門鐘樓在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ。
切幡寺は、本堂・仁王門と鐘楼は残っていたようです。そして、住職は妻帯の山伏だったと記します。修験者が誰もいなくなった霊場に留まり、住職化していく姿はこの時代の自国霊場にはよくあったようです。ここでも山伏と遍路の関係が垣間見れるようです。 

9番 法輪寺
本尊三如来、堂舎寺院悉退転シテ小キ草堂ノミ在リ。
    三如来とは「釈迦・弥陀・薬師」の3つの如来のことのようです。ここも「小キ草堂」で住職はいません。
  8番 熊谷寺
 普明山本堂南向本尊千手観音、春日大明神ノ御作ト云。像形四十二臂ノ上ニ又千手有リ、普通ノ像ニ相違セリ。昔ハ當寺繁昌ノ時ハ佛前ニテ法花(法華)ノ千部ヲ読誦シテ 其上ニテ開帳シケルト也。近年ハ衰微シテ毎年開帳スル也 ト住持ノ僧開帳セラル拝之。内陣ニ大師御筆草字ノ額在リ、熊谷寺ト在リ、誠ニ裏ハ朽タリ。二王門在リ、二王ハ是モ大師御作ナリ。
 このお寺では、法華千部読誦による開帳が行われていたようです。これを何年かに一度やっていたけれども、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していた記されます。
 法華経を読誦する行者は、あえて山林に入って苦行しました。鎮守は熊野社と八幡社なので修験によって維持された霊場であることがうかがえます。ここにも熊野修験者の影が見えます。

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  7番 十楽寺
是モ悉ク退転ス。堂モ形斗、本尊阿弥陁如来 御首シ斗在リ。(7)
「堂モ形斗」とあるので、形ばかりのお堂のようです。本尊の阿弥陀如来は「御首斗在リ」とありますので、首のところしかなかったようです。現在の十楽寺には立派な本尊さんがありますから、よそから古いものをいただいてきたということになるようです。ここからは、仏像もあっちこっちに移動していることが分かります。
 ちなみに、三十五年ほど後の『四国偏礼雲場記』には、このお寺はかなり復興して立派だと記されています。澄禅の時代は戦乱が収まっても、まだ遍路をするような十分な余裕がなかったようです。それが元禄年間が近づいてくると、遍路も多くなり、復興も軌道に乗り始めてきたことが分かります。
  6番 安楽寺、
駅路山浄土院本尊薬師如来、寺主有リ。
  5番 地蔵寺
無尽山荘厳院、本堂南向本尊地蔵菩薩、寺ハ二町斗東ニ有リ。當寺ハ阿州半国ノ法燈ナリ。昔ハ門中ニ三千坊在リ、今モ七十余ケ寺在ル也。本堂護摩堂各殿 庭前ノ掛リ高大廣博ナル様也。當住持慈悲深重ニテ善根興隆ノ志尤モ深シ。寺領ハ少分ナレトモ天性ノ福力ニテ自由ノ躰也。(5)
  4番 黒谷寺、
本尊大日如来、堂舎悉零落シタルヲ當所ニ大冨貴ノ俗有リ 杢兵衛ト云、此仁ハ無二ノ信心者ニテ近年再興シテ堂ヲ結構ニシタルト也。
  3番 金泉寺、
本堂南向本尊寺三如来ト云トモ 釈迦ノ像斗在リ、寺ハ住持在リ。(3)
 
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2番 極楽寺、
本堂東向本尊阿弥陁、寺ハ退転シテ小庵ニ 堂守ノ禅門在リ。(2)
  ここも退転して小庵に堂守の禅宗僧侶が住み着いていたようです。阿弥陀さまと禅僧の取り合わせを研究者は次のように考えているようです。
「禅門というと禅僧のように聞こえますが、実は雲水系の放浪者です。中世には雲水のかたちをした放浪者がたいへん多くて、たとえば放下という者が念仏踊をして歩きました。本来は「ホウゲ」ですが、遊行者としては放下あるいは放下僧と呼んでいます。こういう僧が放浪しながら回っていって、住みよいところがあるとそこに定住したのです。
  (中略))
  『四国偏礼霊場記』によると、「いつの比よりか、禅門の人住せり」とあるので、本来は阿弥陀堂であったところに禅門が住んでいたようです。ここはそういう小さなお堂が霊場となった例で、その都度、希望者が堂守りとして住み込んでいます。このように雲水が、本堂と庫裡を建てて住職をすれば禅宗寺院になったはずです。ところが、札所は大師信仰ですから、現在は高野山言言宗に属する言言宗の寺院となっています。
  1番  霊山寺、
本堂南向本尊釈迦如来、寺ニハ僧在。

讃岐の大窪寺から讃岐山脈を越えて、切幡寺に入り霊山寺でゴールになったようです。
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澄禅の日記から各霊場の建物を見てみて分かることは、阿波の札所は「退転」=荒れ果てている寺が多かったということです。
阿波の二十三の霊場中の十二か寺が「退転」状態で、無住の寺もあります。
なぜこんなに荒れていたのでしょうか?
その理由として考えられるのが戦国時代の被災でしょう。土佐の長宗我部元親による天正(1573~92)の兵火で焼失したことが考えられます。寺伝等によると、霊山寺、極楽寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、法輪寺、藤井寺、大日寺(一ノ宮)、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、太龍寺、平等寺の十六か寺が被災しています 。吉野川下流域は長宗我部侵入時と、秀吉軍の侵入期の2度に渡って戦場となりました。特に、澄禅が最初に回った井戸寺から一ノ宮にかけては、四国征圧の命を受けて、侵入してきた羽柴秀長との一宮城の攻防(1585)で主戦場になったあたりになります。この地域にあった寺の被害は甚大だったことが想像できます。
 江戸時代なって戦乱が収まって、半世紀たっていますがほとんどの寺が放置されたままで復興がすすんでいない状態です。また、寺により復興がすすんでいる立江寺や黒谷寺は「民間資本の導入」という形で進められていたようで、この辺りがお隣の讃岐とは違うところです。
 讃岐は、戦国末に秀吉から支配を任された生駒氏が保護政策を行い、格式を持つと考えられた寺社に寺領を寄進し、復興を援助していきます。その保護政策を、後からやって来る領主達も踏襲した結果、戦乱からの復興が早かったようです。阿波は、蜂須賀家の「復援助計画」がなく、この時点では「放置」されたようです。
 さて、土佐の状態はどうだったのでしょうか。それはまた次回にするとして・・・
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もう一つは、寺のあり方です。
 古代に国家によって作られた国分寺は、中世にはほとんどが荒廃します。
国家が面倒をみなくなると維持できないのです。例えば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。同じように、権力者なり町豪なりが一人で建てたお寺も、大檀那が死んだり、その家が没落したりすると、どうなるか。それは廃藩置県後の各藩の菩提寺の姿を見れば分かります。
 つまり、檀家が組織されず、地域の人々の支援も受けられな寺は、復興の道が開けなかったのでしょう。その点、近世に「道場」を中心に寺が組織された浄土真宗の信徒には、「我々のお寺」という意識が信徒に強く、焼け落ちたまま放置される寺はなかったようです。これが近世はじめの四国霊場の姿のようです。
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もうひとつ私が感じることは、中世の辺路修行の拠点としての機能が霊場からなくなっていることです。
澄禅は真言高僧ですが密教系の修験者ではありません。そのために行場を廻って行道をした気配はありません。行場である奧の院を訪れた様子も見られません。ある意味、現在の霊場巡りと一緒で、お寺を廻っているのです。ここからはプロの修験者が修行のために行場をめぐるという中世的な雰囲気はなくなっています。澄禅の後からは、四国巡礼を行う高野山の僧侶が何人も現れ案内書が出され、道しるべも整備されていきます。そして、それに導かれて素人の遍路達が四国巡礼を歩むようになるのが元禄年間のです。その機運にのって、霊場は復興していくようです

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4大龍寺11

空海が阿波の大瀧山にやってきたころには、すでに修行を行っていた先行者がいました。空海が四国における行者のパイオニアではありません。空海は修行者の群れの中に身を投じた若き行者でした。
 当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。
4 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も焼山寺山や大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。
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仏教以前の人たちは、洞窟をどのように見ていたのでしょうか?
 古代の人々は、洞窟は死者の荒魂が出入りする他界への通路(関門)と信じていました。その関門を守るために悪魔、毒龍、毒蛇、鬼などが住むとされてきました。
 『本朝法華験記』(上巻十四話)の「志摩国窟洞宿雲浄法師」は、熊野から志摩への辺路をゆく途中で、海岸の大岩洞に一夜宿り、大毒蛇に呑まれかけた話です。このとき岩洞は、生臭かったとあります。それは、沖縄や南西諸島の海岸洞窟が、風葬洞窟にもちいられたことを思い起こさせます。洞窟に悪魔、悪霊とそのシンボル化された毒龍、毒蛇が住むという説話には、古代原始葬法の追憶と残像があると研究者は考えているようです。
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 また、洞窟が黄泉に通じる関門であったことを思い出させます。
有名な『出雲国風土記』(出雲郡宇賀郷の条)の「脳(なづき)の磯」の「黄泉(よみ)の穴」の伝承です。その遺蹟とされる猪目洞窟(島根県平田市猪目)からは舟型木棺が出土しています。このように古代の洞窟観は黄泉への通路であり、毒龍や毒蛇が住むと思われていたのです。
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そこへ行者達は入っていって、じっと座って禅譲しているのです。
これを見た人たちは
「行者達が、何らかのスーパーパワーで魑魅魍魎を封じ込めたに違いない、彼らは強力な呪力を持つに違いない」
と信じるようになったのかもしれません。窟龍り修行者を支持し、信者が集まってくるようになることは、近世にも見られます。
 しかし、原始修験道の孤独な修行者の窟龍りは、その信者たちによって寺院が建立されると忘れられ、ただ毒龍を封じ込めたという伝承だけが残ります。そして、それが無名の修行者であれば、「それは弘法大師であった」という縁起になっていったようです。
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太龍寺は、青年時代の空海が求聞持法修行をした山と研究者も考えているようです。
ただ空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺で、山も太龍寺山(602メートル)になっています。いつ山名は変わったのでしょうか? それは後で考えるとして・・

4太龍寺縁起表紙
太龍寺縁起は東寺の賢宝の著した『弘法大師行状要集』応安七年(1374)に引用されているので、これ以前の作であることは確かなようです。
 この中には
「鎌倉末期ごろには太龍寺には滝があった」
と記されています。瀧を落ちる「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」と密教的縁起らしく大法螺を吹いていますが・・
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
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 その理由は先述したように
「龍を封じ込めたという窟は、山麓や海辺の人々からおそれられた洞窟に修行者が寵って、龍を恩寵神にした」

という言い伝えがあったからでしょう。
しかし、それが忘れられて「龍の窟」の名だけがのこったようです。この寺はこの「龍の窟」によって寺名をつけていますから「弘法大師窟龍り」の伝承は、かなり後まであったようです。 
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   現在のこのお寺の山号は「舎心」山で、舎心というのは心を緩めるという意味です。
 しかし、鎌倉時代にの『阿波国太龍寺縁起』には「捨身」山と記されています。もともとは、身を捨てるほうの捨身だということがわかります。前回の我拝師山でも述べましたが、捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。これが「捨身」行です。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。
 空海が、この山でも捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出てきます。
観ずるに夫れ当山の為体、嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。
即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。

「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には「龍の窟」が出ていましたが、今はありません。セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまったようです。

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 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が、いつの間にか舎心山(心を休める山)となってしまったようです。この山で虚空蔵求聞持法を修したことは、空海自筆の「三教指帰』にも記されています。現在、太龍寺には本堂の南に立派な求聞持堂があります。

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 行場をもう少し絞り込んでみましょう。
それは、「南の舎心」「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)と研究者は考えているようです。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。
太龍寺伽藍

 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。これは焼山寺三面大黒天の岩からしても、考えられる事のようです。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。
 また絵図左上には「南捨身」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。ここから空海は、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。
また、中央下には「大瀧」が描かれています。
『阿波国太龍寺縁起』には「三重之霊窟」と書かれています。
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研究者は、今はなくなってしまった洞窟と、そこで行われた「行道」についてを次のように推論しています。
「龍の窟」は、上下に三段に三窟があったものとおもわれ、それは石灰岩質の崖にはよくできる窟である。おそらくその傍か内部を大滝が落ちていたので、「大瀧嶽」の名があったものとおもわれる。しかしカルスト地帯の常として水脈が変化すると滝は涸れ、龍の窟だけのこったために、大瀧嶽は太龍寺となったろうというのが、私の結論である。

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 研究者は「瀧」にこだわっているようですが、古代の行場は水が流れてなくても断崖絶壁を「瀧」と呼んで地中の異界へ通じる関門=行場と考えていました。だから水が流れる流れないにこだわる必用はないように私は思っています。
さらに、この寺の奧の院と大龍寺山について次のように述べます。
この寺の奥之院は補陀落山といって、太龍寺山の最高峰である。この補陀落山からは太平洋が足下に一望できる。これが辺路修行の寺の重要な条件であり、この山の中腹に南舎心岩も龍の窟もある。南舎心岩の上からは東方に紀伊水道が望まれ、橘港の島々が見える。
 したがってこの岩の上で求聞持法を修すれば、東方の空に虚空蔵菩薩のシンボルである、明星(明星天子)を拝することができよう。このように海を拝み、明星を拝むことのできる山は、辺路信仰と山岳信仰の結合をしめすものとかんがえられる。太龍寺の奥之院が補陀落山であることは、その痕跡の一つとみとめることができる。
 おそらくここで修せられた昔の求聞持法は、龍の窟を出て、南舎心岩に登って、虚空蔵菩薩の真言を一万遍唱えて、夜明けには明星を拝して、その後に舎心岩の南の大巌塊の崖の上から海を拝し、次いで補陀落山に登って南方補陀落浄土を拝んでから、龍の窟に帰ったであろう。
 南舎心岩の南の大巌塊は、南側が直立の崖で、覗きの行ができそうな所であるから、『阿波国太龍寺縁起』にある空海の捨身行は、ここからかもしれないという気がする。この崖の上から大きな島が見えるが、これは牟岐港の沖の大島とおもわれる。この島は天禄三年(九七二)の『空也誄』に、出てくる湯島(紀伊水道の伊島説があるが、これは土佐から遠い)にあたる。
 まさに太龍寺の補陀落山から拝む補陀落観音浄土であったろう。
 このように「窟龍り」の洞窟である「龍の窟」と、求聞持法の禅定地である大滝寺山山頂をめぐる行道ルートが示されます。同時に山頂が補陀落山であり、海の彼方に補陀落観音浄土の島もみえるようです。
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    求聞持法に欠かせないもうひとつが聖火です。
 求聞持法は「行道」修行と「火を焚く」修行がセットになっていたことは、前々回の焼山寺山の所でお話ししました。古代の行者達は、不滅の聖なる火を「海の神」に捧げるために焚きました。
 その痕跡が、この山にも龍燈伝説として残っています。
柳田国男の『神樹篇』に「龍燈松伝説」には、この山について次のような一節があります。
 阿波那賀郡見能林村の津峰権現と、同郡加茂谷村舎身山大龍寺との両所は、何れも除夜の晩に山の頂上へ龍燈が上った(阿州奇事雑話) 大龍寺にはおかかと云ふ山中第一の名木があったのを、大仏殿建立の為に豊太閤の時に伐ったと言へば、今では其龍燈も昔話であろう。
 太龍寺に大杉に龍燈が上るという話は、昔は有名だったようです。この杉は弘法大師の杖が成長したという杖立伝説もあったようです。ここには空海の辺路修行と龍燈の関係がうかがえます。
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 もともとは、辺路修行者が海の彼方の常世に向かって聖火を献じました。
ところが、時代が下って「常世」を龍神(海神)の都、龍宮とするようになって、この聖火は龍神に献ずる燈となっていきます。
 空海修行のころには、常世は法華経信仰や密教信仰の影響で龍神になっていたようです。この火は求聞持法修行が行われている霊山では、百日間は消すことはなかったとされます。毎日、霊山に燃やされる聖火を、麓の人々はどんな気持ちで仰ぎ見たでしょうか。
 沖の漁夫や航海者は、夜はこの火を望むことができました。そのような山の峰や巨木は昼には、航海や漁の目印になります。漁夫や航海者は、この火によって修行者の存在を知って参詣し、加護を願うとともに、危難にはこの聖火を念じるようになったというSTORYを考える事が出来ます。実際に、嵐に遭って助かった船は、土佐の青龍寺奥之院のある岬の不動尊に碇を献上しています。
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 原始の海洋宗教では、修行者が海の彼方の龍神のために燈を献ずることでした。それは海辺の洞窟や岬の上で柴を焚くことから、燈龍と呼ばれ、後の常夜燈やお燈明に「変身」していきます。そのような火が焚かれなくなると、危難のときの幻の火に変化し、また龍神の献ずる火があったという話に転換したようです。
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空海という名前についての違和感
 かつて空海という名前を、西安に再建されたばかりの青竜寺で現地の管理人に紙に書いて示したときに、驚いたような顔で「人の名前か?」と問い直されたことを思い出します。当時の中国の人たちにとって「空海」という沙弥名は、掟破りの変な沙弥名に思えたようです。確かに、空海という名前は僧侶の名前としては異質です。
 空海も最初からこの沙弥名を名乗っていたようではないようです。古い大師伝である「金剛峯寺建立修行縁起』に、空海がはじめ無空と称し、次いで教海と名乗り、また如空といったのちに、最後に空海と改めたとあります。その背景には、この大龍寺山や室戸岬で空と海を対象としての四国辺路修行の果てで、空海が選んだ沙弥名と考えれば、彼にふさわしいとも思えてきます。

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以上 今回の要点をまとめておきます
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道=「窟龍り」の禅定 + 神木・神岩の廻り
3 虚空蔵求聞持法= 行道 + 聖火(→龍燈伝説へ)
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族

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    焼山寺の御詠歌は
後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも
 
です。苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。

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 ここには「遍路転がし」の辛さを「死出や三途のなんじよ(難所)=「苦行」と捉えているようです。この詠歌を思い出しながら、昔の遍路も「遍路転がし」を登ったのでしょう。
   しかし今は「四国の道」として整備され、たいへん歩きやすい自然遊歩道です。山歩きに慣れた人なら「遍路転がし」というのは、大げさな表現に聞こえるかも知れません。

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まずは、この寺の縁起を見てみましょう

 弘仁五年(814)に空海がこの山に登ろうとしたとき、毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山と呼んだという。空海が虚空蔵求聞持法を修すると、この火は消えて霊地となった。
 そこでこの山を摩盧山(まろさん)と名づけ、寺を焼山寺といった。摩盧とは梵語水輪の義、すなわち火伏の意味であるという。この毒龍を空海が封じた岩窟があり、その岩頭に空海は三面大黒天を彫刻して祀った、
とあります。

91横倉山
縁起の中にある「全山火の海」を、どう考えればいいのでしょうか。
奥之院の山頂からは、紀淡海峡の海が真東に見えます。この山頂で火を燃やせば海峡航行の船からも見えることになります。燈寵杉も龍燈杉、龍燈松も、現実には山頂の石上や岩窟の中で聖火を焚いたものと研究者は考えています。
 これが辺路信仰では、海中の龍神が山上の霊仏に燈明を献ずるという伝承に変化します。実際には修行者は、この聖火を常世の海神「根の国の祖霊」に献じていたのです。
 このような聖火は『三教指帰』(序)に、

望ム 飛炎ヲ於鑚燧  (燧を鑽る=すいをきる)火打道具を打ち合わせて火を発する。

とあるように、鑚燧で火をきり出し、大きな炎を上げたのです。そのためには、キャンプファイヤーのようにかなりの柴や丸太を積んだことでしょう。柴燈(さいとう)護摩というのは、この聖火を焚く方式が、修験道儀礼の中にのこったものと考えられます。ここから龍神の清浄な聖火なので斎燈(さいとう)と呼ばれ、薪に則して柴燈(さいとう)と書かれるよになったと研究者は言います。

2焼山寺4 奥の院へ

焼山寺の縁起は、
毒龍として表現していますが、これはインドの降魔の説話や絵によったものです。
これは、一面では煩悩雑念の克服、解脱をあらわしたものでしょう。
「毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山」
というのは、行者達の聖火のことと研究者は考えているようです。
さらに「毒龍」を岩窟に封じ込めたというのは、もともと山人(先行宗教者?=地主神)が住んでいた岩窟を空海に譲り、他の窟に移らせたという事実が背景にあるのではないかも指摘します。
 つまり、山人=毒舵の長の龍王が龍王窟に住んでいたのを、これを空海に譲って他に移った。その移ったところが奥之院にちかい不動窟で、今は崩落して浅くなった岩棚窟と、毒龍を封じたという岩の裂け目のような狭い窟がある。そこに三面大黒天が祀られているというのです。つまり、これが先住者であり、地主神であるということになるようです。
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  権現を山頂に祀った行者達は、そこで山が焼けてるようにみえるくらい火を焚いたようです。
  なんのために山頂で火を燃やしたのでしょうか?
 当時の修行は、火を焚くことが1つの条件だったようです。例えば、求聞持法の修行を行うためには節目では、火を焚くことが求められました。だから火を焚かなければ修行になりません。つまり、求聞持法と火を焚くということは一体化していたわけです。
 もともと火を焚くのは、海の神に捧げるためでした。
そのために海の向こうの神仏に届かなければなりません。大きな火を焚けば焚くほど、遠いところからみえて、海の神が喜ばれると思っていたようです。また、火を焚く場所は、よく目立つ岬の突端や岬の洞窟、霊山の頂上などが選ばれました。
 しかし、いつでもどこでも焚くのではなく、重大な修行や祭にだけ焚いたようです。そして、次第にその意味も、煩悩を焼尽するとか、自身火葬をするとか、災厄を焼きはらうというように変化していきます。しかし、柴を積みあげて焚き、遠くからも見える方式は変わりません。これを遠くから見たとき、山が焼けているように見えたから、この山は焼山の名がついたと研究者は解釈しているようです。
 焼山寺山の山頂には、いまは祠もあり、樹木が繁っています。しかし、聖火を焚いた時代は、まわりの樹を伐って山頂を裸にして、四方から見通せるようにして炊きあげたのではないでしょうか。時代を経て、聖火を焚かなくなると、山中の高い木に燈龍をあげたり、石燈龍の常夜燈に形が変わって行ったようです。
 このような柴燈による海の聖火は、平安時代まではさかんであったようです。空海も室戸崎、大瀧嶽やこの焼山寺山でも、節目節目には山頂で火を焚いたのです。それが変質して、今の焼山寺の「縁起」に伝わっているのかも知れません。
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 行者たちの聖火は海の神達に捧げられたものでした。
が、沖行く船からもよく見えました。それはまさに山が燃えているように思えたかも知れません。夜間に紀淡海峡から西を見ると焼山寺の火が見え、東を見ると紀伊の犬嗚山七宝滝寺の上にある燈明の火が見えるので、これを目印に舟は航海するようになります。もう一つ、北のほうの淡路の光山千火寺の常夜灯も航海の目印になったようです。
 しかし、最初は航海者のために火を焚いたわけではなかったようです。海の神に棒げるために焚いた火が、たまたま航海者の目印になって航海を安全にしたのです。のちにはそれが目的になって、やがて常夜灯が現れ、灯台になっていくようです。 金毘羅信仰の「海の神様」も象頭山の奥社の灯りを目印とした船乗り達の信仰が支えとなったのかも知れません。
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 以上を整理すると、
①辺路修行者が求聞持法修行をすることと、「飛炎ヲ於鑚燧ニ望み」聖火を焚くこととは同じ修行プロセスだった。
②そのため焼山寺山の山頂に求聞持法本尊の虚空蔵菩薩を祀つり、山頂で聖火をを焚いた。そのため焼山と呼ばれるようになった
③時代を経るにつれて求聞持法(経典)だけを重んじ、聖火(火を焚くこと=実践)を軽んずるようになった。
 そして聖火信仰は柴燈護摩として修験道儀礼にのみ残った
④「焼山」は、船乗り達の航海の目印となり信仰を集めるお寺も現れた
 

2焼山寺龍王窟

それでは、焼山寺山の行場を、一巡してみることにしましょう。
 焼山寺山の洞窟は龍王窟といい、かなり大きな窟があります。          
大瀧寺の「龍の窟」とおなじように、焼山寺とは谷をへだてた向山の中腹にある北向きの窟です。正面の幅は12メートルで、高さ2,5メートル、奥行は4メートルで、中央に禅定石とおもわれる長方形の台石が据えられています。その上に、いまは小祠が祀られています。 
2焼山寺龍王窟 
 かつては、行場の近くの洞窟が行者達の居住地域でした。現在のような本堂や諸堂、庫裡などはありません。山と洞窟と巌石、巌壁だけがあり、その中で修行者は行を重ねたのです。
 そうすると、この龍王窟は高さ30メートルほどの大きな岩壁の下に開口していて、その上から尾根道を山頂の奥之院に通ずる道と、谷道をいまの焼山寺まで出て、そこから急坂を奥之院に登る道とがあることがわかります。
 しかし寺のなかった時代には、この尾根道と谷道をつないで、龍王窟と奥之院を周回する行道路があったこと見えてきます。この道を周回しながら辺路修行をおこなっていたようです。
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さらにこの辺路は、閉じられたものではありませんでした。
 以前に、阿波の忌部修験のメッカである高越山を紹介しました。その高越山の中世文書『阿波国摩尼珠山高越寺私記』によれば、この寺は役行者の開山で、弘法大師求聞持法修行の山であるとして、次のように続けます。
 密祖弘法大師 有秘法修働願望 参拝此山 (中略)
故ニ虚空蔵求聞持法一百万遍呪、日夜精進誦得大悉地 
刻彫尊木像 是行者ノ形像ト大師ノ御影也 其像巍トシテ 而安座セリ也
 とあって、空海伝説を語ると共に、その後も求聞持法の霊場であったことを記します。つまり、焼山寺と高越山、そして讃岐の第八十八番大窪寺や阿波の大瀧寺をつなぐ求聞持法修行の道があったことが見えてきます。これらの山は、空海が求聞持法を修行し、火も焚いた霊山だった可能性があると研究者は考えているようです。それが、四国遍路への道へと繋がって行くのかも知れません。

2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩
  約三百年前の江戸時代初めの「四国霊場記」には焼山寺は、次のように書かれています。
 奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是より十町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は、現在は不動尊を祀っています。奥の院までは、十町(1㎞)では行けません。もっと長いでしょう。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。

2焼山寺5
 弥山が頂上で蔵王権現が祀られているといいます。しかし、お寺では、もとは虚空蔵菩薩を祀ったといっています。そして、今の本堂の本尊は虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩が本尊のお寺では、虚空蔵求文法の行が行われたと研究者は考えているようです。
また寺に所蔵される正中二年(1325)の文書には、次のように記されています。
  焼山寺免事
   合 田弐反内 壱反権現新免   在 鍋
          壱反虚空蔵新免  坪 石
 蔵王権現上山内寄来山畠内 古房野東任先例 
 蔵王権現為敷地 指堺打渡之畢但於四至堺者使者等先度補任状有之
 右令停止万雑公事可致御 祈勝之忠勤之状如件
    正中二年二月 日
  宗秀奉
 ここからは当時、寺には修験の守護神・蔵王権現も祀られていたことが分かります。現在の奥社に祀られているのは蔵王権現です。蔵王権現を祀るのは、吉野金峯山の真言系の修験者達と言われます。天台系の熊野修験者が多かった阿波では、この寺は少数派だったのかも知れません。

2焼山寺3

 しかし、「十二所さん」と呼ばれる小堂にある十数面の懸仏は、専門家によると
「熊野曼荼羅式のもので、南北朝・室町時代を降らない」
とします。熊野や吉野の修験者が共に、修行に励んでいたのかも知れません。どちらにしても、鎌倉時代には焼山寺にすでに修験道が浸透していて、南北朝・室町時代にも修験者達が活発に活動していたことがうかがえます。以上をまとめておきます。
①この山は霊山として地元の人々の信仰を集める山であった
②そこに空海伝説が付け加えられ、獄像菩薩・蔵王権現が祀られて修験者の山となった
③中世を通じて修験者の修行の山として機能した。
2焼山寺5 奥の院へ
江戸時代になると阿波蜂須賀家からの寄進を受けて、伽藍は整備されていったようです。
そして、霊山として周辺の里人の信仰をあつめて、季節の節目の祭礼には麓からの参拝者も集めていたようです。
 江戸時代後半に、この寺は大きな変動の時を迎えます
 近世後半に龍光寺が忌部十六坊から自立して剣山修験を「開発」します。すると、その剣講の有力寺院として、焼山寺や柳の水庵の修験関係者が協力するようになります。それは、この地方に剣山先達や剣山関係世話人などが他地方に比べると、圧倒的に多かったことからも分かります。
文化九年(1812)元木蘆洲によって書かれた「燈下録」には、剣山について次の様な記事があります。
 剣山は木屋平山龍光寺の奥山なり・・・(中略)
樹木なき所より臨み見れば、東は高越山、奥野明神の峯見ゆる二峯の間より逼に焼山寺山の弥山さし出たところ・・・ 

剣山の頂上はかつて「小篠」と呼ばれていたようで、この小篠に対して焼山寺山は弥山という立場であったようです。焼山寺と同じく神山町にあり、焼山寺の下寺的存在であった柳の水庵には剣山登山第一の鳥居がありました。これには、この地が剣参拝へのスタート地点であるという意味合いがあったようです。
 こうして、焼山寺周辺の修験者たちは周辺の村々を周り、剣講を作り、多くの信者を伴って剣登山参拝の先達を務めたのです。彼らの存在なくしては、剣山に多くの信者達が参拝する事はなかったでしょう。
2焼山寺12番 焼山寺 奥の院 弥山権現
 しかし、奇妙な現象が起きます。剣山登山が盛大になればなるほど、焼山寺山に登る人は少なくなったようです。つまり、焼山寺山の霊山としての価値は下落したということになるのでしょうか。新たに霊山化した剣に吸い上げられていくストロー化現象が起きたとも言えます。
 こうして、焼き山寺は藤井寺から登ってくる遍路以外は、参拝者がいない霊山になっていったようです。地元の修験者達は剣講の先達として、信者達を剣山に送り込み続けたのでした。この寺の周辺に、近代に至るまで多くの修験者(剣先達)がいたのは、そんな背景があるようです。
2焼山寺9

参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族所収 131P
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近世後期の剣山修験道については

虚空蔵菩薩についてはこちらを

 

              
1横倉山
仁淀川からのぞむ橫倉山
 土佐の霊峰といわれる横倉山(774㍍)は高知市の西にあり、安徳天皇御陵参考地とされます。以前に安徳天皇伝説が
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町(横倉山)
へと土佐の霊山をつなぐように伝えられている事。このルートを使って宗教活動を行っていたのが、物部いざなぎの修験者達ではなかったのかという仮説をお話ししました。
今回は、その伝説の終着地点(?)の横倉山を見ていきたいと思います。
 阿波祖谷より国境尾根を越えて、土佐の物部に入り、物部川と仁淀川沿いに歩くと横倉山にやってきます。安徳帝は、横倉山で正治二年九月八日 二十三で崩御したと伝えられます。
1 横倉山R2ss
橫倉山
この山の祭祀遺跡は、安徳帝行在所説に付会されること多く、山号ミタケ山も御嶽と表記されています。まず、安徳帝以前の山の様子を見ておきましょう。
 安徳帝以前から修験の山であったとするのが「八幡荘伝承記」で、次のように記します。
土佐国司惟宗朝臣永厚の子康弘の次男経基は、この一帯で別府の氏姓を称して勢力を拡大していた。経基は大昆羅祖蔵権現を尊び山伏修行をしていた。天暦八年六月別府荘奥山谷深く登りつつ本尊を鎮座すべく決心した。そして家人為右衛門及び喜全坊を、大和へ上らせ、自らも大昆羅坊・山律坊と称した。そして山頂で天神の詔を聞いたのである。
天神は「みだりにこの山には人誰も入るものでなく、吾ただいま降りて天地の礼法を伝ふ」として祭地と祭神を告げる。
 そこで、次のように神仏を祀った 
①桜に柏の木の森があって、日向の滝と称する東の嶽には、大日大乗不動明王・紀国日前大明神を
②檜の森があって日室の滝と称する中央(南)には、紀国日像神とて天照大神の荒御魂の分霊・本尊大日如来を
③水無滝のある西嶽には阿波の人津御魂神・大田氏神・薬師如来をこれら三滝大権現、三滝三聖大権現を祀ったのは天徳元年十二月であった。
  ここには、ミタキ山は三嶽山と表記し、横倉山祭祀の始まりと伝えます。11世紀半ばに修験道関係の仏が祀られ、修行の場となったと言うのです。今は、本宮西方の住吉社のある嶽を黒嶽とよんでいます。しかし「御嶽神社記」には
「黒嶽に安徳帝の念持仏の不動像と鏡を納めた」
と黒嶽の名が出てきます。どちらにしても、これが「三嶽勧請伝承」です。ここからは安徳天皇が葬られたとする時代よりも2世紀ほど早い時点で、この山は修験者達によって開かれていたことになります。

 横倉山のことを金峯山とも呼びます。
 吉野の金峯山は空海が修行した霊山です。また、醍醐寺を開いた聖宝も金峰山で修行しました。吉野は弥勒にはじまる法相宗の道場でしたから末法思想が盛んになると、その奥の金峰山は弥勒下生の地とされるようになります。そして藤原道長など貴族の間で御岳詣が盛んに行われます。道長は、修験で知られた観修に祈祷をさせてもいます。

1横倉山蔵王権現立像 2
 
 金峰山には、金剛蔵王権現がまつられました。
 これが平安末になると、金剛蔵王権現を役小角が金峰山上の岩から導き出したと神格とする信仰を生み出します。こうして、金峰山には山上・安禅・山下の蔵王堂、石蔵寺・一乗寺などの寺院が建立され、白河上皇・堀河上皇・鳥羽上皇らが御幸するようになります。
 後には、この山で修行した修験者達が各地に散らばり、霊山を開き蔵王権現を祀るようになります。横倉山も、吉野金剛山で修行を積んだ修験者が、大きな影響力を持った時代があったようです。そのために、この山も金峰山と呼ばれるようになったのでしょう。それを資料的に見ておきましょう。「土陽淵岳誌」延享三年(一七四六)に

 里人曰く権現尤霊験アリテ 怒ヲ発スレハ山必鳴ルト云 曰自古伝ヘテ 此山二金石ヲ伏ス  金気抑彭シテ外へ発セサレハ 則震動雷ノ如シト云ヘリ

と「金石ヲ伏ス  金気抑彭」と金峯山についての伝承があります。
文政八年(1825)「横倉山考証記」には、金峯山御岩屋御宝殿と記した各棟札が以下のように伝えられています。
文明十六年(一四八四)横倉蔵王権現宮
天正十一年(一五八三)ざわうごんげん(=蔵王権現)
元禄十七年(一七〇四)社家改記録に「蔵王権現神体大小五但シ唐金」「唐金ノ如ク 鏡ナル像ヲ鋳タル」
と蔵王権現像が作られた事が記されています。

橫倉宮3
橫倉宮の鳥居
「八幡荘伝承記」による金峯山勧請由来は、次のように記します。

「文明十四年(1482)別府十二社権現宮 三嶽山総山焼はげとなりたる時焼失し 新宮建立、同十六年大和国金峯山権現を勧請」

ここからは、横倉山に金峯山蔵王権現がやって来たのは天明16年(1484)で、そのきっかけは、2年前の「焼はげ=大火」の原因を占った結果「金峯山を勧請すべき」と出たからのようです。
 ちなみに横倉権現は現在は、横倉宮となっていて、現地の説明版には次のようにあります。

橫倉宮4
祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流れ造りです。由緒は正治二年(1200)八月八日、安徳天皇は二十三歳で山の上の行宮で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年九月八日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祭る。
 歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1897)頃の改築で、以前は横倉権現と言ったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月二十三日天皇崩御七百五十年祭の時に横倉宮と改められた。
  ここには安徳天皇以前のことには、触れられていません。そして、安徳帝を祀る神社が安置された事からスタートします。ちなみに安徳天皇を12世紀の時点で祀った事は、残された根本文書には何も記されていないことになります。そして最後に、明治の神仏分離に触れています。ここからは蔵王権現は、明治の神仏分離によって安徳天皇を祀る神社に「変身=リニューアル」されたことが分かります。もともとは、橫倉宮には蔵王権現が祀られていたのです。
 「歴史の重層性」を、改めて思い知らされます。そして、明治以後の神道界では金峯山という名前も、避けられるようになり横倉山が「正式名称」となったようです。

1横倉zinnzya 下社山4
             横倉神社(下宮)

 麓にある横倉神社(下宮)を見てみましょう。

下宮は南北社二つあり、北社を金峯神社と称していました。明治の神仏分離後に、横倉神社と改称し、明治14年に南社の横倉大権現を合祀して現在に至っています。文禄四年の「金峯山御岩屋御宝殿」棟札は、頂上本宮にあったものですが、この棟札からは、この頃までは横倉山を金峯山と呼んでいたことが分かります。
横倉権現の痕跡をもう少し探してみましょう
1横倉山蔵王権現立像 吉野金峰山寺
吉野金剛山寺の蔵王権現
 山上の本宮が鎮座する崖下の岩屋からは、古銭や興矢根などが多く発見されています。ここからは、金峯山信仰と密接な関係があったことがうかがえます。
さらに、ここには檜材一木造の「木造蔵王権現立像」(高さ55㎝)が今に伝えられています。蔵王像は全国的にも珍しいもので、県下では唯一のものです。研究者は次のように評します。

「その表情も力強い忿怒の表現を見せ、古拙ではあるが形制よりして藤原時代に遡るもので、平安末修験道造像の古例として注目されている」

(高知県文化財調査報告書11集・文化庁文部技官倉田文作氏)と評する逸品です。この蔵王像は、横倉山の金峯山信仰が古くからあったことを示します。
1横倉山 杉原神社 熊野
橫倉宮
残されたその他の修験関係の遺品としては、次のようなものがあります。
①蔵王権現の本地仏である釈迦如来を表現した銅板線刻如来鏡像(平安後期作)
②蔵王権現立像と一連の天部形立像・男神倚座像・騎馬神像
③線刻地蔵菩薩鏡像(大平神社蔵)
④懸仏9面(鎌倉時代~南北朝時代)
⑤修験の行場に置かれた鉄剣(鎌倉時代)
⑥中国宋の湖州鏡(大平神社蔵)
⑦経塚関係の遺物として経筒(平安後期~鎌倉時代)
⑧経筒の外容器の陶器、副納品の土器
これらを見ても、安徳天皇伝説につらなるものはないようです。

1横倉神社

 蔵王権現に遅れて勧進されたのが熊野権現です。「八幡荘伝承記」には、次のように記します。

別府氏十代高盛は延暦寺に詣で仏事を修し、嘉承二年(1107)帰国、坊名を然天坊崇真と号す。永久二年(1114)二月紀州熊野宮に参詣し権現尊勧請、四月末帰国し仮の宮を造り納め、保延三年(1137七)吾川山荘高峰別院(現黒森山という)に安置した。

「高吾北文化史」には治承三年(1179)蓮池家綱が建立した別府十二社権現と、熊野権現とが文安元年(1444)に合祭されて横倉山大権現宮と改称したと記します。

81横倉山

以上から横倉山には、三嶽大権現、熊野権現、金峯山蔵王権現が順番に勧進され安置されていたことが分かります。
年代記銘がある最古のものは保安三年(1122)の経筒です。これを、基準に前後の事項を、資料から拾い年代順にまとめてみます。
天暦九年(955)経基家人為右衛門・喜全坊を大和へ
天徳元年(959)東西中の三嶽に神仏勧請、三嶽大権現と称す
永久二年(1114)高盛が熊野に詣り、熊野権現勧請仮宮に奉置
保安三年(1122)本宮に経筒を奉ず
保延三年(1217)熊野権現吾川山荘高峰別院に納む(黒森山)
治承三年(1179)蓮池家 綱別府十二社権現を三嶽山に建立
文治元年(1185)安徳帝横倉山へ
正治二年(1200)安徳帝崩御
文安元年(1444)別府十二社権現、高峰別院熊野権現とを合祭
文明十四年(1482)三嶽山焼け別府十二社権現焼失
文明十六年(1484)大和金峯山権現勧請
天正三年(1575) 別府山延命院横倉寺建立
 この年表からは安徳帝以前から横倉山は、信仰の山で修験者の活動拠点であったことが改めて分かります。そこへ吉野の金峰山の蔵王権現、ついて熊野権現が勧請されたのです。

1横倉山s
橫倉山の平家穴

しかし、いつのころからかこの山から修験者の姿は消え、安徳天皇伝説が急速に広がり始めます。
それでは横倉山で修験者が活動したのは、いつ頃までだったのでしょうか?
 源平の争い、南北朝時代など中世は戦乱が相続き、人々が不安におののいた時代でした。そんな時に、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えます。さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されます。源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからなのでしょう。土佐も同様で、修験者の活躍できる機会がいろいろな方面に広がっていました。長宗我部元親も修験者達を側近に用いて、情報収集や外交、教育などのブレーンとして活用していた事が知られています。
1横倉山.3jpg
かむと獄石鎚神社

江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、保護を失った当山派は幕末には土佐から姿を消す事になります。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとしました。こうして修験者達は全国の行場を渡り歩く事が出来なくなります。各派の寺院に所属登録され、村や街に根付いた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになるのです。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。
1横倉山 安徳天皇伝説4
橫倉宮
以下は私の仮説です。
 このような中で大きな打撃を受けたのが物部いざなぎ流の修験者たちではなかったでしょうか。
安徳天皇伝説が伝わる
「  阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」
は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町のルート
はいざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかという仮説を最初にお話ししました。
 この仮説の上に立つと江戸幕府の修験道法度は、修験者の各地遊行を禁止するものでした。この結果、物部修験者の活動は大きな制約を受けたはずです。それまで、頻繁に行き来していた物部と横倉の修験道ルートが閉鎖されたとすれば、横倉山の修験道の衰退は理解できます。
91横倉山
橫倉山からの展望 左が仁淀川
この山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。がこの山が修験の山であったことは忘れられていきます。
 明治の神仏分離で、このお山は大きく姿を変えたのはお話ししました。
明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかるとして修験道を廃止します。そして修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。全国各地の修験者が依拠した諸山の社寺でも、神社に主導権をにぎられていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。

1横倉山4

 国家神道のもとでこの山は、安徳天皇伝説で染め上げられていく事になります。

 

 
虚空蔵山7

虚空蔵山(こくぞうさん) 675mは土佐市、須崎市、佐川町の境にまたがり、どこからみても形のよく、眺望も素晴らしい山です。こんな山は古代から甘南備(カンナビ)山として崇拝されてきました。
霊山は、死後は死霊として山岳に帰り、清められて祖霊からさらに川神になって帰ってくる山でした。
年間の行事をとって見てると、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんど甘南備山と関係しています。山やそこにいるとされた神霊は、里人の一生にまた農耕生活に大きな影響を与えてきました。

虚空蔵山9
 山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。
山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。
これは山が航海の目標になったからです。中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳は、航海の目標として崇められた山として有名です。この虚空蔵山は「土佐の開聞岳」として、東シナ海を越えた交易ネットワークのひとつの拠点「燈台」の役割を果たしていたのではないかと私は考えています。
虚空像山1
 この山には次のような「徐福伝説」が伝わります。
 その昔、不老長寿の妙薬を求めて、秦の始王帝が日本の国の仙人が住んでいるという、不老長寿の地にある霊山に部下を遣した。暴風雨に遭い土佐の宇佐に漂着した彼らは、この虚空蔵山に登って祈願したが仙人には会えず、携えていた宝を埋めて紀州へ向けて去って行った。その宝は「朝日さす夕日輝く椿のもとにある」と伝えられる

遠い昔の蓬莱山の伝説が「埋められたお宝」と共に今に伝わります。
仏教が伝わる以前は、この山は何と呼ばれていたのか、今になっては知りようもありません。
虚空像山2
古代から霊山として信仰されてきた山に、仏がやって来るとどうなるのか?
この山の三角点のすぐそばに虚空蔵菩薩が祀つられています。虚空蔵山という名前は、弘法大師がこの山に虚空蔵菩薩を祀ったという由来から来ているようです。

それでは虚空像菩薩とは、どんな仏さんだったのでしょうか?
仏教の概説書には、虚空像菩薩は地蔵菩薩とペアの菩薩から説明がはじまります。
地蔵菩薩  大地を表す「地」と「蔵」
虚空蔵菩薩 無限の知恵と慈悲が収まっている蔵(貯蔵庫)
虚空蔵菩薩は、人々の願いを叶えるために、それらを蔵から取り出して与えてくれる、とっても優しい菩薩さまと云ったところです
そして、空海によって中国から密教がもたらされる前から、無限の記憶力を得て、仏の知恵を体得できるという「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」の本尊とされるようになります。

虚空蔵菩薩2
神護寺の虚空蔵菩薩
 しかし、虚空蔵菩薩を信仰していたのは、百済からの渡来集団の秦氏のようです。
秦氏の信仰の中から虚空蔵菩薩は、次のように生み出されたと研究者は考えています。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

 鉱山集団の秦氏一族が信仰してきたのが妙見神で、その信仰の中から虚空蔵求菩薩は生まれます。それが修験道の中に取り込まれていきます。こうして虚空蔵菩薩は、吉野山で真言系の山岳修行者が守護仏とされるようになります。虚空蔵菩薩信仰を持った山岳修行者から空海は、虚空蔵求聞持法を学んだことになります。それは当然、秦氏系の僧侶であったことが考えられます。また、伊勢の朝熊山をはじめ当山派の修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としている所が多いようです。土佐の霊山は、熊野系の本山派の修験者達によって開かれたところが多いことを前回はお話ししましたが、この山は虚空像菩薩をお祀りしているので真言系当山派の拠点であったことがうかがえます。

虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩
霊山は時代と共にリニューアルされて姿を変えていきます。
 この山の山上一帯には、石鎚神社への鉄鎖、石室の通夜堂、御手洗池、弘法大師の岩屋などがあります。その他、精進ヶ岩、クロウ嶽、神武天皇のいたオオネギ(王が畝に来たの意)、附心の滝など、神と仏のワンダーワールドなお山です。
 山の形は双耳峰なので鉾ヶ峰とも呼ばれ、西峰に石鎚神社、東峰に虚空蔵菩薩が鎮座します。虚空蔵堂は、頂上近い崖下にあって、広い境内には通夜堂、変事があれば必ず揺るぐという大きな揺るぎ石もあります。戸波村史には、本尊は一尺五寸の木立像。文政七年(1824)の棟札あり、伊勢朝熊山より勧請されたといいます。ここにも、当山派の修験者(山伏)達の姿が垣間見れます。

虚空蔵山10

西方峯には、石鎚神社が勧進されています。

これは石鎚信仰が盛んになる近世以後に安置されたようです。土佐の石鎚参拝は、仁淀町の安居渓谷を経て手箱山・丸滝山を経てのルートが一般的でした。このルートを経て、近世末期から近代には、先達に導かれて多くの信者達が、お山開きには参拝に訪れました。そして、信者達は自分たちの地域で石鎚山がよく見える山の山頂に遙拝所を開き、石鎚権現(蔵王権現)を勧進するようになります。この山にもある石鎚神社も、そのような経緯を経ているようです。
虚空像山の石鎚権現2

 虚空蔵山の八合目あたりの平坦地をシオリガ峠と呼びます。
海辺から担ってきた塩を求めて、塩市がここで開かれていたからだとも、戦国時代は草刈場で、その争奪戦のあったところだともいわれています。しかし、名前の由来は、このシオリガ峠が土佐市から佐川方面への主要往還であったことから、道祖神として柴折峠が本来の語意だと研究者は考えているようです。
 縁日は春秋の彼岸中日で春を大祭とし、かつては近郊はもちろん、窪川町・葉山村・室戸方面からの参詣者もあったそうです。麓下の家々は縁者知人を招いての酒宴で賑わったといいます。

虚空像山4
しおりとうげ

 虚空蔵堂では「大世の引き分け」と称する作占いが行われていました。
 紙片に早稲、中稲、晩稲などと記して祈祷・数珠三昧をして、数珠に付着した品種を植付作柄としました。いただいた護符を田畑に立て、また堂床の土を持ち帰り田畑に入れます。こんな慣習からか、お参りした人たちの世間話から稲作が話題となるのは自然で、知り合いになった参拝者の家を、後日訪ねて行き種籾を交換したそうです。このような中から生まれた高知生まれの品種が「虚空蔵」・「福七」だそうです。
 またこの山は、雨乞祈念の場ともされています。里人が「虚空蔵は百姓神、作神、作仏」だというように作神的な性格がうかがえます。これは山上の地蔵信仰と共通するようです。

虚空像山の石鎚権現
 
虚空蔵山の第二の性格は祖霊信仰です
 麓下の集落では旧七月十六日を虚空蔵の夏祭りが行われていました。夕方になると老若男女が山を登り、山頂に立っつと眼下四方に盆のホーカイ火(送り火)が数限りなく揺れてみえたそうです。その揺れる灯り見ながら霊を送ったといいます。
 中腹にある静神部落の明治28年生れのお爺さんは、次のように話していたそうです。

「小さい頃、盆の十三、十四、十五日の夕方には仏さんを迎えに行くと言って、松明をもやし山に登った。十六日は仏を見送るのだといって、松明を持たずに登った」

十六日登山は仏送
であったようです。
この山には、いろいろな風習が他にも伝わっていたようです。
 秋彼岸には彼岸講といい、永野地区では十軒前後で講を作り、その宿元が代参する習慣がありました。その夜は山頂のシキビを手折り持ち帰り、トーヤの床にさし、燈明を燈じ、講組の者が集まって小酒宴を開いたそうです。
 卯月八日にも、頂上で茶をいたくために山に登りました。節分には年替りの日として、一年間の加護の礼と翌年の庇護を願うて登ります。信者であれば一度は命拾いできるといい、彼岸前日から当日にはかつては青年団が登山、キャンプをしていたそうです。これもかつて村人が通夜堂で寵った風習の延長だったのかもしれません。
 ここには仏教以前の霊山への祭礼の形が、見え隠れしているようです。里人が霊山と崇めていた所へ、聖や修験者たちが仏を勧進し、宗教的な重層性を重ねていったことがうかがえます。なお、本堂の虚空蔵仏は丑寅(鬼門)の方に向いて立っているそうです。

虚空蔵山8

参考文献 大山・石鎚と西国修験道所収  高木啓夫     土佐の山岳信仰
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高峰神社
 かつては、山それ自体に神霊が坐し、その聖なる地を不入(いらず)といい、鬱蒼とした茂みが村々のあちこちにありました。明治元年の神仏分離令の際に、村々の神社を「取調報告」するようにとの通達が全国に出されます。しかし、神社と言っても山そのものを信仰していた村では、本殿も拝殿も御神体もありません。これに対して土佐藩は
神体無キ神社等ハ、向後鏡・幣ノ内ヲ以神体卜致シ可レ奉祭候事
と鏡・幣を今後は身体とせよ通達しています。同時に、小さな祠や神社は集めて合祀するように指示しています。
例えば旧幡多郡敷地村五社神社は、
「五社大明神 無宮 右勧請年歴不相知 山を祭り来」
と神社明細帳にあります。また旧土佐郡土佐山村菖蒲の山祗神社は近辺の山神八社を合祀したもので、いずれも「古来以 神林祭之」のように山を神として祀っていたのです。
 このように、特定の神体も安置せず山そのものを拝んできた姿をみることができます。それは山に対する最も素朴な信仰の形でした。
黒尊渓谷6

山の神霊はいろいろな姿となって現れます。
旧幡多郡西土佐村黒尊山では、次のような「桃源郷」が物語られていました。
黒尊山の神は大蛇で霊験ありよく願を叶えていた。
元禄の頃という。農夫、一羽の山鳥を追って宮林に入り、なおも追いゆくと一つの楼門に至り、宮殿は金銀の壁、琥珀の欄干、陣口の簾、五色の玉の庭のいさごを敷きつめていた。
 黒尊神は農夫の常々黒尊山を崇拝するを労い饗応の善美を尽し、巻物一巻を授け、決して他言せざる由を告げる。里に帰ってその巻物の事を問われて、すべてを口外してしまう。とたちまち農夫乱心し躍り上りて
「我こそ黒尊の神なり、おのれ人に洩すな堅く申含めしを早くも人に語りしか」と大いに怒り掻き消すごとく行方知れずになったという。
黒尊渓谷2
白髪の老翁も山神の化身としてよく語られます。土佐郡本山町白髪山の神は
背長七尺有余 御眼ハ日月ノ如ク輝キ 御鼻ハ殆高ク 御顔色赤面ニテ 左ノ御手二鉾ヲ持 右ノ御手二三ツ。亦逆木ノ杖ヲ突キ 巌上孤立チ給フ 御容鉢実恐シキ尊像
であり、猟神的性格をみせます。
3黒尊渓谷
工石山は雨乞信仰の霊山のようです。
各地に工石山という名前が付いた山があります。例えば旧土佐郡土佐山村高川前工石山、同村中切中工石山、旧長岡郡本山町奥工石山ですが、これらの山には雨乞伝承があります。例えば前工石山では
「妙タイト申大岩有 之右岩ノ内二三尺四方斗雨露之不掛所有之、其所ヲ左ノ通相唱候由、妙タイヒジリ権現、無宮神体無之」
と伝えられます。奥工石山も
「雨乞霊験あり 汚すことあれば神怒にあう」と言います。
5黒尊渓谷
 土佐は「海の国」ですから、高山の巨岩が光り輝いて舟を導いた因縁を語る話が多く伝わります。また、神聖な山(カンナビ山)を拝んでいた遥拝所が祭地となった所も多くあります。先ほど述べた前工石山や中工石山も、もともとは奥工石山の遥拝所であったようです。土佐町の三宝山も本川村稲叢山の遙拝所だったと言います。しかし、時の流れとともにいつの間にか、本山の方の祭祀伝承は忘れられ、遥拝所があたかも昔からの祭地であったごとく思われるようになります。
 石鎚神社勧請地も土佐の各地にありますが、その多くはかつてあった高峰から麓へと下ろされています。鉄鎖だけが山頂で錆びたままになっているという姿が各地で見られます。
  それは近世になって山岳修行を忘れて、里に留まり加持祈祷に専念した修験者の姿にダブって見えてきます。

幡多郡100景1
 次に県西部に多い「地蔵を祀る霊山」を見てみましょう。
  旧幡多郡十和村高森山にも地蔵が祀られていました。旧三月、七月二十四日を縁日として、大人相撲がありました。シメアゲと称して、土俵の注連縄を取り除く時に三人組合せの相撲が取られたようです。三人相撲は、起源は神相撲で、神に捧げられたものあったのでしょう。また神社からいただいた幣を田畑の地神に立てます。これを「鎮めの地蔵」とよんでいたようです。
幡多郡100景3
  佐川山は幡多郡大正町奥地にあり、この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵があります。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 これらの山々のさらに奥地の高岡郡祷原町雨包山、星ケ森にはエビス像があり、やはり作神信仰がみられます。祷原地方は、社家掛橋家を中心に橘家神道の盛んな地方ですので、地蔵信仰の作神的要素がエビス神と結合していたものと、研究者は考えているようです。
黒尊渓谷4
 地蔵由来はさらに発展・変化を見せるようになります。
佐川山ではいつの頃からか、山が荒れに荒れ、死者など不吉なことの続くと、毎月二十四日をモソビ・或いはタテビ(休日)と呼んで、山仕事一切を休みとするようになります。もしこの禁を犯せば、山の怪に遭うといわれ、この日は地蔵さんが獣を自由に遊ばす日だとされるようになります。毎月二十日の山ノ神祭りよりも地蔵の崇りを畏れ、この日は炭竃の火を見る時は、事業所(営林署)に勧請している地蔵に線香をあげ許しを乞うてからでないと竃に近寄らなかったと伝えられています。

五在所の峯
 旧高岡郡窪川町と幡多郡佐賀町の境に五在所の峰があります。
ここには修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。矢のあとがあることから「矢負の地蔵」とも呼ばれていました。この山はもともとは不入山で、小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は修験や両部の祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。
 昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
高峰神社2
 土佐にも豊作祈願の対象となる穀霊信仰の山々が多いようです
穂掛けの風習と稲作を司る神の伝承が豊富に伝わるのは旧土佐町芥川の三宝山高峰神社です。三宝山と名がつけば稲作信仰があると見てまず間違いないと研究者はいいます。
稲が稔ると祈願成就の供物として、引き抜いたままの稲穂を社殿に吊り掛ける「掛穂」の風習がこの神社には残っています。今では高知は、ビニールハウス全盛ですのでハウスの床土を持ってきて拝殿下に撒く人もいます。掛穂については次のような伝承が伝えられています。
 いつの頃か芥川主水なる者、猪猿多くて作を損なうので作小屋を山中に造り、夜夜に猪猿を追い払っていた。ある深更に小屋の棟から大きな足が下ってきた。主水これを弓矢で射んとしたところ、我は三宝山に仕える者であるが、この山の大神は作物豊熟守護し給う神であるから、もうここに来る必要はないと告げ、鐘、太鼓を響かせて山上に去って行った。
 主水は伏拝して直に帰宅し再び作小屋に来ることもなかった。さて秋の穫り入れ頃に来てみると猪猿の害少しもなく豊作であったので、その初穂を山頂の大檜に掛け献じた。これより年々大歳の夜に掛穂をする風が生じた。
高峰神社3
こうして
「御社ハ無之シテ大三輪神社ノ如ク 只御山一体ヲ社トシテ 各遥拝ヲシタリ 又大檜ヲ神体卜祭リタリトソ」
といわれ豊受神を祀りはじめたと記されます。
 この高峰神社は、旧本川村稲叢山を本宮としています。
 稲叢山については次のような話が伝えられます
夏は雨と霧に隠れて樹木茂りて闇く、冬は雪降りて常に白く、村人これを不入山とも呼ぶ。もし入る者あれば七日の精進が必要であった。当時、高峰神社は、稲叢山の遥拝所であったが、養老年間のことという二百歳まで生きた十郎、九郎、粟丸の三兄弟が稲叢山の神々を勧請したという。
 またある年大いに不作で三宝山に参り立願したところ、老人どこからともなく現れ、「粟一升を汲み切りにして蒔けよ、すれば秋には三石三斗三升穫れよう。その返礼には粟の神楽を致すべし、其の神楽の法は、清浄な所に竃を築き三升炊ぎの羽釜に三升三合三勺の粟をコシキに入れ 十二返洗って蒸し、湯のわき上る時に神々を招けば神等勇み給う」と告げて姿を消したという。
 ここから三升三合三勺を穫った時は、必ず粟神楽を奉納したと伝えます。この竃を築いた所が芥川の竃森といいます。 稲叢山の名称は稲に似た草の自生するためとされ、これが稲叢山の神々や山人の食料でした。
高峰神社4
さらに次のように続けます
 ある年に栗ノ木部落の住人太郎平なる者、これを刈取らんと鎌かけるや、たちまちに山は鳴動して暗闇となり、大いなる翁が現れて鎌を奪ったという。それより鎌取り山神と申して祀り栞ノ木に小社を建立したという。
 安芸郡下の藤右衛門なる者、ある年に半分ほど稲刈りをしたが平年の半分ほどしかない。加治子米の減量を願い出たが許されず稲穂と鎌を持って三宝山に詣でたところ、老翁現われその鎌を片手に叢中に消えて行った。家に帰ると刈り残した稲は重く垂れて満作になっていたという。それ故か、毎月三日の日の出時に鎌の手を休めば朝日のごとく栄え、三宝山に詣る者一生食物に不自由せずという。
 以上の伝承で注意したいのは、鎌が物語られていることです。これは恐らく鍋釜の釜からの付会伝承で、湯の沸いた時に神を招くのは、湯立の信仰に基づくものと研究者は考えているようです。
鉢が森2
旧香北町鉢ケ森は安徳帝伝説の地ですが、帝の兜の鉢を埋めた話が伝わります。
 山の主とよぶ妖怪変化を鎮めるために「兜の鉢」を埋め山祇命草野姫命を奉祀したというのです。ここには「兜の鉢」が祭祀具として語られています。
また安徳帝御陵参考地の横倉山に接する高岡郡仁淀村都にも帝の奉持されたという釜跡があります。これら釜や鉢は、湯立祈祷用の祭具であったと研究者は考えているようです。

鉢が森大権現1
これら伝承地の峰々へと続く香美郡物部村では、今でも湯立の卜占と清祓が行われているからです。そこには
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へと四国山地の山々を湯立を伴った宗教者が移動していったことがうかがえます。それは恐らく物部地方のいざなぎ流と密接な関係ある一団だったのではないかと研究者は考えているようです。彼らが、これら山々の村人たちの山への信仰に大きな影響を与えたようです。阿波祖谷から土佐横倉山に至る安徳帝潜幸伝説の残る山々は、特定の宗教者達で結ばれた信仰の道だったのかもしれません。
黒尊渓谷8

参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収 

 

                 
                    

石鎚山お山開き6
   「お山迎え」 石鎚から帰って     
お山開きの山上での興奮を胸にして、講員達は里に帰ってきます。石鎚参りに行った人たちを、村の人たちはどのように迎えたのでしょうか。
石鎚講ではお山から帰ってくる人たちを迎えることを「お山迎え」といったそうです。
 まずは、出発するときに無事をお祈りした氏神やその他末社に、お礼参りをします。また村人の加持祈祷をして廻る事もあったようです。各地の事例を見てみましょう。
 今治市北新町などでは、石鎚登拝からもどるとその足でまず大浜八幡神社か吹揚神社に参拝しました。その後、浅川海岸で家族たちの出迎えを受けました。そこで「お山迎え」の酒盛りをして解散する習いだったようです。

石鎚山お山開き5
越智郡菊間町では、氏神加茂神社の秋祭のお供馬の鞍を付けた飾り馬で、今治まで出迎えたと云います。参拝者達が帰ってくることを知らせる法螺貝が鳴ると、村人も出迎え、一行からお加持(祈祷)をしてもらったり、土産をもらったと云います。
 石鎚登拝に門注連をして出発することは以前に述べましたが、帰ってくるとこれを取り外したようです。門注連を外さないと足の疲れがとれぬと伝えられました。
石鎚大権現2
 石鎚登拝者は村に帰ってくると、神社参拝にお礼参りをして、それから村内の祈祷をして廻っています。その際には、草履を脱がないで、そのまま座敷口から上がり、裏口に通り抜けると、家が清められ悪事災難を退散させると信じられていたようです。神社と、村周りの祈祷が終わった後で、酒宴をして解散するのが一般的でした。
 小部では、氏神に家族がご馳走を運び、ここで登拝者一同が酒盛りをしました。これを「精進落し」と云いました。伊予郡砥部町川井では、先達の家で「お別れ講」をしたといいます。
石鎚山蔵王権現5
以上、出発から帰村までをまとめてみると
 1 出発時に必ず氏神に参拝して行くこと。
 2 帰村時にも氏神に参拝し、村人の加持祈祷をして廻ること。
 3 特定の場所(親戚、神社、先達家、村境)まで食物を用意して出迎え、そこで共同飯食すること。

お山参りの効力は?
  修験者は加持祈祷によって、いろいろな願いを叶えられるパワーを持つ「天狗」というイメージを生み出してきました。しかし、そのパワーは里で暮らしていると次第に低下してきます。パワーを上げてレベルアップしていくためには、神聖な行場での修行が不可欠とされました。そこからは、行場から帰ってきたばかりの修験者が一番パワーポイントが高くて「成就力」もあると考えられるようになります。こうして江戸などでは、修行帰りの修験者が聖者視され「流行神」として崇められる例が数多く現れました。

石鎚山数珠1
このような風潮の中で、霊山石鎚に参拝登山してきた人たちにも霊力があると云われるようになります。
そのため登拝者を聖者として出迎え、里人がこれに跨いでもらったり、加持祈祷や家の清祓をしてもらったりするようになります。例えば登拝者がお山がけした草履にも呪力があるとされるようになります。その草履をはいたままで田の畦を踏んでもらうと作物がよくできるとか、オゴロ(もぐら)除けになる、種蒔きするとよいと伝わります。また草履で身痛いところを撫でたり、出入口に吊して悪病災難除けの呪物とした家もあるようです。面白いのは、お山に登った草履を履けば、水虫が治るという伝えまであるのです。

石鎚山修験者1
石鎚土産と呪物は?
 このように参拝登拝者や身につけていたものが効能があるとすれば、石鎚山の御札だけでなくありがたいお土産も買って帰ろうとするのは、自然の成り行きです。
石鎚土産としては、「お山柴」と「助け猿」が定番だったようです。
お山柴はシャクナゲのことで、登拝者は必ずこれを土産に持ち帰り、神札とともに竹に挾んで田畑に立てました。これが虫除けになります。家の出入口に吊すと魔除けになったようです。
石鎚山お土産お助猿
 助け猿
助け猿は、縫いぐるみの小猿で子どもの背につけたり、家の出入口に吊して災難除けとしたようです。伊予郡中川原では、男の子が生まれると、十五歳になれば登拝すると願掛けして、この猿を石鎚山より請けてもどり、願解きのときに倍にしてもどしていたといいます。ちなみに猿は石鎚山のお使いだと言う人もいます。
 お助猿は戦後になってもお土産として人気があったようで、石鎚山近くの学校に通っていた人の作文には
「その時期が近づくとお猿さんの形をしたお守りの『助け猿』をたくさん作って、小遣い稼ぎをしていた」
と書かれています。『病気が去る』とか『魔除け』として、買って帰る人が多かったようです。参拝した人々が、自分の腰に三つ、四つ、助け猿を付けて歩いているのを覚えていると云います
石鎚山朱印1
 また、当時の石鎚登山の拠点であった伊予小松駅周辺で戦後に売られていたお土産については、次のような記憶が書き留められています
 「お山開きのときには、駅前通りの店舗のほとんどが、土産物売場を設置していましたし、出店もたくさん並んでいたことを、よく憶えています。出店の前を通った男の子が、『おいちゃん、ニッケ(クスノキの樹皮を乾燥させてつくった飴)ちょうだい。』とねだっていた光景が思い出されます。

 漢方薬もお土産として売られていました。
 陀羅尼助とは、俗にオヤマダラスケとかダラスケと呼んで胃腸薬、強壮剤、痛みどめの漢方薬だったようです。黒っぽい塊で、修行僧が長ったらしい陀羅尼経文を読むときに、口に含んで睡魔を追い払ったところから言われだした名前だと云います。ここには、お寺や先達が漢方薬を作り販売していたことがうかがえます。そして、その漢方やニッケの材料を集め、お助猿を作っていたのは、今宮や黒川などの石鎚街道沿いの集落の人たちだったようです。
山伏信仰1
 山伏の中には、元禄期の別子山村に来た南光院快盛法印のように病人に薬草を施して治癒するものもいました。
 また、南予の一本松町では、歯の痛みに「楊枝守」と朱印した護符内に木製の楊枝を入れたものを山伏が売っていました。歯が痛むとき、この楊枝で痛い歯をつつくと歯痛が止まるというのです。
 山伏がよく口にする呪文に「アビラウンケンソワカ」があります。久万町直瀬では、子どもが虫歯で泣くと、お婆ちゃんがまじないにいに
「秋風は冬の初めに吹くものよ、秋すぎて、冬の初めの下枯れの霜枯れ竹には虫の子もなしアビラウンケンソワカ」
とか呪文を唱えたようです。
 また、まむしが多い山に入るときには
「この山に錦まだらの虫おらば、奥山の乙姫に言い聞かすぞよ アビラウンケンソワカ」
という呪文もあったようです。何か、こんなのを聞いていると楽しくなってきます。物語の世界に入って行けそうです。
登山口となる石鎚神社本宮
  戦後になると、小松駅前で下山してきた修験者の中には札を売る者もいたようです。
「修験者は見物人の最前列にいた私に小さな木のお札を示して、『このお札を身に付けていると何が起こっても守ってくれる。』と言って、その木札をタオルで私の額に巻きつけました。そして突然『ヤーッ』と大きな気合いとともに手刀で私の頭を打つまねをしました。私はびっくりして身を縮めて固く目を閉じてしまいましたが、恐る恐る目を開けてタオルを取ってもらうと、額に挟んでいた小さな木札が真っ二つに割れていました。私が唖然としていると、修験者は、『お札があなたを守ったんですよ。』と言いました。見物していた大人たちは納得したのかどうか分かりませんが、お札はどんどん売れました。
      以上のような聞き取りが残されています。「データベース『えひめの記憶』えひめ、昭和の記憶 (平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業) 第1章 昭和の町並みをたどる」より

1 石鎚信仰が石鎚講を通じて、そのネットワークを広げて信者を増大させていくシステムを確立したこと
2 明治の神仏分離の混乱を乗り越えて、大正期には予讃線開通もあり、より広くからの信者をあつめるようになったこと
3 地域に根ざした石鎚講は、宗教的な側面だけでなく社会的なボランテイア活動も行い地域を支えたこと
そんなことが見えてきました。 
IMG_6636


参考文献 森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚山と西国修験道所収
                                       

 


       
現在の黒瀬ダム周辺
           「伊豫之高根 石鎚山圖繪」(昭和9年発行)
 各地から集まった石鎚参拝をめざす講員は、里前神寺(現石鎚神社)や香園寺を基点にして、いろいろなルートで常住(成就)社をめざしました。どのルートをとっても最終的には西条川上流の河口(こうぐち)集落へと集まってきます。ロープウエイができるまでは、ここが登山バスの終点で、ここから成就社に向けて歩き始めました。
石鎚古道 今宮道と黒川宿の入口の河口
水祓所、三碧橋が架かる前の河口橋 ここが今宮道と黒川道のスタート地点
河口からは
  ①西条藩領である尾根を登る今宮道と(前神寺・極楽寺信徒)
  ②小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)
のどちらかをたどって常住(現在の成就社)に向かいました。
さて、お山開きに集まってきた参拝者たちは、どこに泊まったのでしょうか。
最初に見たように、12000人近くの参拝者が三日間で山頂を目指しているのです。宿泊所は成就にいくつかの宿坊があるだけです。 これを引き受けたのが「季節宿」だったようです。いわばお山開中の「民宿」です。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
 季節宿が開いたのは、今宮・黒川登山道筋の黒川と今宮部落です。
 各地からやってくる講中は泊まる宿を決めていて、毎年決まって定期的に訪れるので、宿の入口に講札を打ちつけて目印にしていました。宿になる民家は、有力者の家で石鎚参りの宿にふさわしく、間取りも三間並列型で、襖を取り払えば大広間に一変するような家でした。宿に到着した講中は、旅装を解くとオツトメにかかります。会符・鈴・法螺貝・数珠・もば(海藻)などを床の間(権現様を祀る)に置き、先達の唱導にて勤行をなし、その後に白衣を脱いで休息します。

石鎚山今宮3
今宮の大きな廃屋
 民宿は米持参で昔から「一山八合」といわれます。一泊して登拝をするに必用な分量です。一人四食分で一食1,5合で二合余ります。これが宿へのお礼米になりました。水田のない黒川や今川では、この余米が貴重でした。食事は一汁一菜の簡素なものだったようです。
石鎚山今宮2
 ちなみに、今宮・黒川の季節宿はその後も参拝者達を迎え続け栄えます。もっとも賑わった大正8年には今宮集落では、「全戸数36戸(人口178人)中,11軒の宿屋があった」とあり,小学校の分校もあったようです。そしてお山開き中の10日間に1万人を越える宿泊者があったといいます。
石鎚山黒川集落1
 私が最初に、この登山道を通ったときに、今宮は廃墟になっていました。そして不思議に思ったものです。こんな山の中に、どうしてこんな大きな家があったのだろう?と、
しかし、交通ルートの変更があった場合には沿線の商業施設は大きな影響を受けるのは、歴史が示すとおりです。東の川から成就へのロープウエイ開設が、人の流れを大きく変えました。歩いて成就を目指す参拝客は、ほとんどいなくなったのです。そして、今宮の家屋は自然に帰っています。
石鎚山お山開き2
江戸時代の石鎚山のお山開き お上りとお下りとは?
  お上りとは、冬の間、里前山寺に下りていた本尊の蔵王権現を頂上に上げるて開張することです。旧五月晦日に前神寺から仏像三鉢を唐櫃に納めて、成就社に遷します。そして翌日の朝に弥山に奉安するのです。このとき信者たちは、仏像を奪い合い熱狂的な信仰世界を山上に展開するのです。

蔵王権現
 石鎚の本尊だった蔵王権現

 仏像奉遷は道中奉行が差配しましたが、土佐の信者が供奉して行なうのが古式の慣行でした。また道中奉行は、石鉄山御用会符一号を所持する伊藤家(天徳院)が世襲していました。
 弥山に開帳された蔵王権現(石鎚権現)を前にして、大自然の中(天上に近い霊域)で、心ゆくまで加護を直接的に請けられるのです。信者にとっては、何にも代えがたい空間に身を置く喜びを感じる瞬間です。
石鎚山お山開き8
  お山開きの最終日のお下り行事(下山)は、仏像を弥山から本寺に遷す行事です。
仏像が里前神寺の山門に到着すると、長い参道に信者たちは土下座して「走り込み」を待ちます。仏像を納めた唐櫃が信者の頭上を通り抜けてゆくと、そのとき信者は合掌念仏をして、奉迎します。この前神寺お山開き行事は、形を変えながらも神仏分離後の石鎚神社に継承されているようです。
石鎚山お山開き4

「お上り」を体験した俳人の坂上羨鳥は、『花橘』に、次のように記しています。
一七日の精進清火の前行を修め奥前神寺(成就)に通夜。
晦日は塔の禅定方百町斗南ノ嵩二行、高サ十六丈余の岩窟の塔、大師(空海)暫時祈玉ふて湧出となり。頂に苔むす諸木露にしやれ魔風昼夜をはかず。此外密所数多を詣る。
極楽を汲か岩洩る苔清水 羨鳥 
朔日前宵丑ノ刻、別当先達貴賤ともに白衣を着し、かけまくも縄の厚、続松手毎に燈、一同高音に御名を唱。空天に響、気も魂もそぞろくるはしく、木の根菅の根取付くなど所々の王子に読経。弥山間近き小笹原、夜明しとこそ云ル 岩戸原明を待って、ものいはじと臍る数十丈の鉄の鎖掌に冷て南無南無南無を観念せしは何にたとへん。
やんごとなく頂上に禅定宝殿御尊像を拝し、空澄渡る朝気色所々の山海雲下にミゆ。つみもむくいもただ消然たる心の底如意満足しかならむ。
此涼し現未新に無垢世界 羨鳥
 この文章を見ると、上りの前々日に成就の奧前神寺の宿坊に泊まっています。お上りに参加するためには、成就社の近くに前泊しなければならなかったのです。それが今宮や黒川の季節宿が繁盛した理由でした。
翌日は空海が修行した「塔の禅定」の下の「岩窟の塔」を訪れています。これが石鎚三十六王子のひとつでもある天柱金剛石のことでしょう。
石鎚山 天柱金剛石
言葉を添えて意訳してみると
「お上り」当日である。夜明け前、別当先達貴賤を問わず白衣を着た多くの信者が縄でつながれた本尊を高みへと誘っていく。暗闇の中、松明を持ち、高く真言を唱える声が、天空に響く。
気持ちが高揚し、魂が揺り動かされる。行く道の神木の根に鎮座する王子にその都度、読経しながら隊列は進む。
空が白み、弥山(石鎚)が間近に見えてくる笹原に出た。ここが夜明け峠だ。
そして、覆い被さるような岩稜に架けられた数十丈の鉄鎖を登る。手は冷やされるが、心は熱く「南無南無南無」を唱えるのみ。この瞬間を何に喩えられようか
無事に安置された蔵王権現に祈念し、そして空澄み渡る朝の冷気の中から雲下に見える山海をながめる。罪も報いもただ消えゆき、心の底には満ち足りた思いで満たされる。
 羨鳥は熱心な仏教信者で深く仏道に帰依していたようです。石鎚登拝を「補陀落」と感じています。「雪解る高根の方か補陀落か」(『高根』元禄十四年刊)の句を残している事からも分かります。
石鎚山開山3

 石鎚山上の自然の「大劇場」で展開されるドラマは、非日常的で宗教的な情熱を沸き立たせるものだったのでしょう。この興奮と感激は忘れがたいものとなったはずです。だから、信者となり、そして先達として、この霊山に通い続ける人々を生み続けたのでしょう。
 こうして、石鎚は劇場化するとともに霊山としての神秘性を高めて云ったのかも知れません。
石鎚山お山開き9

次回は、石鎚参拝登山から帰った人たちを待っていたものは何かを見てみようと思います

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
絵図は「
旅する石鎚信仰者」https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

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