瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:善通寺と空海 > 善通寺

弘法大師 善通寺形御影_e0412269_14070061.jpg
善通寺御影 地蔵院

前回は善通寺の弘法大師御影(善通寺御影)について、以下の点を見てきました。
①善通寺には、入唐に際して空海自身が自分を描いた自画像を母親のために残したとされる絵図が鎌倉以前から伝わっていたこと。
②弘法大師信仰が広まるにつれて、弘法大師御影が信仰対象となったこと。
③そのため空海自らが描いたとされる善通寺御影は、霊力が最もあるものとされ上皇等の関心を惹いたこと。
④土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として有名になったこと
⑤善通寺御影の構図は、右奥に釈迦如来が描かれていることが他の弘法大師御影との相違点であること
⑤釈迦如来が描き込まれた理由は、空海の捨身行 の際に、釈迦如来が現れたことに由来すること

つまり、善通寺御影に釈迦如来が描かれるのは、我拝師山での捨身行の際の釈迦如来出現にあるとされてきたのです。今回は、国宝の中に描かれている「善通寺御影」を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。
「一字一仏法法華経序品」

研究者が注目するのは、善通寺所蔵の国宝「一字一仏法法華経序品」(いちじいちぶつほけきょう じょぼん)の見返し絵です。
  このお経は、経文の一字ずつに対応する形で仏像が描かれています。こんな経典スタイルを「経仏交書経」というそうですが、他に類例がない形式の経巻のようです。

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「一字一仏法法華経序品」

文字は上品な和様の楷書体で書かれています。仏坐像の絵は、朱色で下描きし、彩色した後にその輪郭を墨で描いています。

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         「一字一仏法華経序品」

仏は、みな朱色の衣をまとい、白緑の蓮の花上にすわり、背後には白色のまるい光をあらわしています。書風・作風から平安時代中期頃の製作と研究者は考えています。

善通寺市デジタルミュージアム 一字一仏法華経序品 - 善通寺市ホームページ
一字一仏法華経序品と冒頭の見返し絵

その巻頭に描かれているのが「序品見返し絵」です。

紺紙に金銀泥で、影現する釈迦如来と弘法大師を描いたいわゆる「善通寺御影」の一種です。その構図を見ておきましょう。

「一字一仏法法華経序品」レプリカ
「序品見返し絵」(香川県立ミュージアム レプリカ)

①大きな松の木の上に坐っているのが空海で、机上に袈裟、錫杖、法華経などが置かれている。
②その下に池があり、そこに写る自分の姿を空海が描いている。
③背後に五重塔や金堂など善通寺の伽藍がある。
④右上には五岳山中に現れた釈迦如来から光明が放たれている。
  つまり、入唐の際に池に映る自分の姿を自画像に描いて母親に送ったというエピソードを絵画化したもののようです。

善通寺が弘法大師生誕の地を掲げて、大勧進を行った元禄9年(1696)頃に書かれたの『霊仏宝物目録』です。ここには、この経文を弘法大師空海が書写し、仏を母の玉寄姫(たまよりひめ)が描いたと記します。当時は、空海をめぐる家族愛が、大勧進の目玉の出し物であったことは以前にお話ししました。しかし、先ほど見たようにこの経典は、平安時代中期の写経と研究者は考えています。本文に対して冒頭見返の絵は、平安期のものでなく後世に加えられたものです。
この見返り絵について『多度郡屏風浦善通寺之記』は、次のように記します。
 奥之院には瞬目大師并従五位下道長卿御作童形大師の本像を安置す。就中瞬目大師の濫腸を尋に・・(中略)・・・
爰に大師、ある夜庭辺を経行し玉ふ折から、月彩池水に澄て、御姿あざやかにうつりぬれは、かくこそ我姿を絵て、母公にあたへ、告面の孝に替はやと思ひよらせ給う。則遺教経の釈迦如来の遺訓に、我減度之後は、孝を以て成行とすへしと設置し偶頌杯、讃誦して観念ありしに、実に至孝の感応空しからす、五岳の中峰より、本師釈尊影現し玉う。しかりしよりこのかた、いよいよ画像の事を決定し玉ひ、即彼峰に顕れし釈尊の像を、御みつからの姿の上に絵き玉ひて、是をけ母公にあたへ給うへは、まのあたり御対面あるに少しもことならすと、・・・・
  意訳変換しておくと
(善通寺)奥之院には瞬目大師と従五位下(佐伯直)道長卿が作成した童形大師の本像が安置されている。瞬目大師の由来を尋ねると・・・
大師が、ある夜に庭辺を歩いていると、月が池水を照らし、大師の御姿をあざやかに写した。これを見て、自分の姿を絵に描いて、母公に渡して、親孝行に換えようと思った。釈迦如来の遺訓の中に、得度後は、親への孝を務めるために自分の自画像を送り、讃誦したことが伝えられている。これを真似たものであり、実に至孝の為せることである。こうして自画像を描いていると、五岳の中峰から釈迦如来が現れた。そこで、現れた釈尊の姿を、大師は自分の上に描いた。そして、この絵を母公に預けた。

 前回見た道範の「南海流浪記」も、大師が入唐に際に、自らを描いた図を母に預けたと記してありました。両者は、ほぼ同じ内容で、互いに補い合います。ここからは「弘法大師釈迦影現御影」を江戸時代には「弘法人師出釈迦御影」あるいは「出釈迦(しゅっしゃか)大師」と呼んでいたようです。出釈迦寺という寺が近世になって、曼荼羅寺から独立していくのも、このような「出釈迦(しゅっしゃか)大師」の人気の高まりが背景にあったのかもしれません。
 このスタイルの釈迦如来が描き込まれた弘法大師御影は、善通寺を中心に描かれ続けます。
そのため「善通寺御影」とも称されます。ちなみに全国で、善通寺御影スタイルの弘法大師御影が残っているのは27ヶ寺のようです。それは和歌山、京都、大阪、愛媛などに拡がりますが、大部分は香川・岡山です。つまり「備讃瀬戸の北と南側」に局地的に残されていることになります。どうして、このエリアに善通寺御影が分布しているのでしょうか。それは次回に見ていくことにします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」

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善通寺の東院と西院

前回までに東院の「見所?」を紹介しました。今回は善通寺の西院にお参りすることにします。
 始めて善通寺を参拝する人が不思議に思うのは、「どうして東院と西院のふたつに分かれているの?」という疑問のようです。それは、西院の成り立ちから説明できます。

善通寺遠景
善通寺誕生院(御影堂)と東院(金堂と五重塔)香色山より
 佐伯直氏の氏寺として建立されたのが善通寺です。
しかし、佐伯直氏の本流が中央貴族として、平城京や平安京・高野山に居を移すと善通寺は保護者を失うことになります。そのため中世の善通寺は「弘法大師生誕地の聖地」を全面に押し出して、中央の天皇や貴族の保護を受けて存続を図るようになります。その際のアイテムとなったのが「弘法大師御影」で、これが都の弘法大師伝説形成の核になります。
弘法大師御影(善通寺様式)
 このような戦略を推し進めたのが「誕生院」です。
誕生院は、建長元年(1249)に流刑中の高野山の学僧・道範(1178~1252)によって弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 そこに「善通寺中興の祖」といわれる宥範(1270~1352)が入り、諸堂の再建・修理に勤め伽藍整備おこないます。誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたと云われるようになり、その権威を高めていきます。こうして、誕生院が諸院の中で大きな力を持つようになります。ここでは、誕生院は中世になって生まれた宗教施設であること、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院であったことを押さえておきます。

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善通寺一円保絵図の東院と西院
中世の善通寺には30人近くの僧侶がそれぞれ院房をもち、彼らの集団指導体制で運営されていたことは以前にお話ししました。一円保絵図を見ると、善通寺周辺には、その僧侶たちの院房が散在していたことが分かります。東院の北側には「いんしょう(院主)」の院房も見えます。
 そのひとつが誕生院で、善通寺の西側に小さな伽藍が描かれています。後に流れているのが弘田川で、前には用水路があります。これらが多度郡の条里制に沿って流れていることを押さえておきます。
 中世以後は、この誕生院の院主が指導権を握ります。近世の善通寺復興をリードしていくのも誕生院院主です。誕生院は丸亀藩の保護を受けながら近世寺院への脱皮を計り、新たな伽藍を作り上げ「西院」と呼ばれるようになります。その他の院主は、善通寺と誕生院の間の空間に「集住」し、寺院を構えるようになります。こうして、善通寺は次のような3構成が出来上がります。
①古代からの善通寺(東院:伽藍)
②誕生院によって近世になって伽藍が形成された西院
③東院と西院の間の院房寺院群
そして近世の間に進行したことは、①の金堂や五重塔のある東院は「儀式のエリア=セレモニーホール化」し、日常的な宗教活動は誕生院で行われるようになったようです。そのためか今では、八十八ヶ寺の霊場巡りの中には、西院裏の駐車場に車を止めて朱印をいただくと東院の金堂にはお参りせずに、次に向かう人達も見かけます。現在の善通寺の宗教活動の中心は誕生院(西院)で、東院は金堂と五重塔のあるセレモニー空間になっている印象を受けます。

善通寺東院と西院2

誕生院が中心になっていったのは、どうしてでしょうか
それは西院の御影堂の変遷を見てみると分かります。近世前半に書かれた上の善通寺の絵図を見てみましょう。東院の東門から一直線に参道が誕生院に延びています。その延長線上に建立されたのが御影堂です。御影堂の本尊は、弘法大師伝説の核となる弘法大師御影です。そして、その延長線上には、佐伯氏を祀る廟が岡の上に建っていました。これらの配置を整えたのも誕生院でしょう。ちなみに佐伯廟のあった岡は、いまは駐車場となっています。

善通寺誕生院(拡大9
誕生院(西院)拡大図

 この絵図で見るように御影堂は、当初は小さな建物でした。それが近世を通じて何回も建て直されて次のように大型化していきます。
1回目は、方三間から方五間(17世紀中頃)
2回目は、方五間から方六間(17世紀後半)
3回目は、方八間規模(19世紀前期)
2回目の時には、御影の安置場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。17世紀の西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げる動きが見えます。18世紀前期になると、広がった御影堂前に拝所と回廊が設けらます。18世紀後期には、西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置され、十王堂(18世紀後期)、親鸞堂(19世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実整備が行われます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺誕生院(19世紀中頃)

 さらに近代になると、護摩堂・客殿が加わり、数多くのお堂が建ち並ぶ伽藍構成になります。つまり、善通寺の宗教活動は誕生院中心に展開され、東院は儀式の場としてのみ活用されることになったようです。現在でも西院は参拝する度に、新たな建物が加わったりして「成長」している感じを受けます。それに比べると東院は時間が止まった感じがするのも、そんな所からきているのかもしれません。このような西院の原型ができたのが17世紀末だったことを押さえておきます。
1 善通寺 仁王門
西院に入る前に、山門を守る仁王さまを見ておきましょう。
1 善通寺 金剛力士阿形
善通寺西院 金剛杵をとる阿形
  向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。

1 善通寺 金剛力士吽形
善通寺西院 金剛力士吽形 

  左の吽形は、口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開きます。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
修理解体時の時に像内から次のような墨書銘が見つかっています。
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日
ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  ここからは、この仁王さんは南北朝時代のものであることが分かります。
それでは、御影堂にお参りして、戒壇廻りを楽しみ、宝物館を参観してきて下さい。後ほどまたお会いしましょう。
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御影堂の扁額「弘法大師誕生之地」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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善通寺東院の金堂
前回は、金堂や五重塔などの東院伽藍のスター的な存在を見てきました。しかし、これらは近世以後のモノばかりです。善通寺は「空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建した」といわれます。空海の時代のものを見たり、触れたりすることはできないのでしょうか。今回は、古代善通寺の痕跡を探して行きたいと思います。

 まず「調査」していただきたいのは、金堂基壇の石垣です。
現在の金堂は元禄時代に再建されたものであることは前回お話ししました。その時に作られた基壇の石組みの中に、変わった石が紛れ込んでいます。
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善通寺金堂基壇(東側)
基壇の周りを巡って見ると東西南北の面に、それぞれ他とは違う形をした大きな石がいくつか紛れ込んでいます。

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           善通寺金堂基壇(北側)
この石について「新編香川叢書 考古篇」は、次のように記します。

正面・西側・東側に組み込まれた礎石は径65cmの柱座をもち、北側礎石は径60cmの柱座を持つ。西側礎石は周囲に排水溝を持ち心礎と思われる。正面・北・東の3個は高さ1cmの造出の柱座を持つ。西側礎石の大きさは実測すると160×95cmで内径68cm幅およそ2.5cm、深さおよそ1cmの円形の排水溝を彫る。

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      善通寺金堂基壇(西側:1/3は埋まっている)

  もう一度見てみると、確かに、造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。また、大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。これらの石は古代寺院に使われていた礎石のようです。よく見ると、特に西側のものは大型です。これを五重塔の心礎と考える研究者もいるようです。そうだとすると、善通寺には古代から五重塔があったことになります。以上からは次のようなことが推測できます。
①白鳳期に建立された古代の善通寺は中世に焼け落ち、再建された。
②中世に再建された伽藍は、戦国時代に焼け落ちて百年以上放置された。
③元禄年間に再建するときに、伽藍に散在した礎石を基壇に使った
 このように考えると、この礎石は空海時代の金堂に使われていた可能性が高くなります。古代善通寺の痕跡と云えそうです。触って「古代の接触」を確かめてみます。

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「土製仏頭」(善通寺宝物館)

もうひとつ、元禄の再建の時に出てきたものがあります。
宝物館に展示されている「土製仏頭」です。
これは粘土で作られた大きな頭で、見ただけでは仏像の頭部とは見えません。
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        「土製仏頭」(善通寺宝物館)
研究者は「目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭」と推定します。私には、なかなか「白鳳の仏像」とは見えてこないのですが・・。
印相などは分かりませんが、古代の善通寺本尊なので薬師如来なのでしょう。また小さな土製の仏のかけらもいくつかでてきたようです。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれています。
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         「土製仏頭」(善通寺宝物館)
 この「土製仏頭」が古代善通寺の本尊薬師如来であるということを裏付ける資料があります。
 鎌倉時代初期に高野山での党派闘争の責任を問われて讃岐に流刑となった道範は、善通寺に滞在し『南海流浪記』を書き記します。その中で、善通寺金堂のことを次のように記しています。
◎(平安時代に)お寺が焼けたときに本尊なども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある
◎金堂は二層になっているが裳階があるために四層に見える
◎本尊は火災で埋もれていた仏を堀り出した埋仏
ここからは、平安時代に焼けた本堂が鎌倉時代初期までには再建されたこと、そして本尊は「火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏」が安置されていたと記しています。
 その後、戦国時代の兵火で焼け落ち、地中に埋もれていたこと、それが元禄の再建で、掘りだされ保存され、現在に至るという話です。そうだとすれば空海が幼い時に拝んでいた本尊は、この「土製仏頭」のお薬師さまということになります。
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善通寺の白鳳期の瓦(宝物館)

 古代善通寺のものとして宝物館に展示されているのが瓦です。
 藤原京に瓦を供給した三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されていたことは以前にお話ししました。この時代には、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われてました。

善通寺古代瓦の伝播
善通寺瓦の伝播
 仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏は、丸亀平野の寺院造営技術の提供者だったことは以前にお話ししました。その中には7世紀末から8世紀初頭の白鳳期のものもあります。善通寺の建立は、この時期まで遡ることが出来ます。
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善通寺の白鳳瓦

「7世紀末の白鳳瓦」と「善通寺=空海創建説」とは、相容れません。空海が生まれたのは774年のこととされるので、生まれた時には善通寺はあったことになります。考古学的には「善通寺は空海が創建」とは云えないようです。

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善通寺金堂
このことについて五来重は「四国遍路の寺」で、次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。善通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。
 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が31歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。

善通寺の古代寺院としての痕跡の4つ目は、条里制との関係です。
  中世に書かれた善通寺一円保絵図を見てみます。

一円保絵図 テキスト
善通寺一円保絵図(全体)
 右(西)に、五岳の山脈と曼荼羅寺や吉原方面、左に善通寺周辺が描かれます。黒く塗られているのが一円保の水源となる有岡大池でそこから弘田川が条里制に沿って伸びています。左上には2つの出水があり、そこからも用水路が伸びています。ここで、見ておきたいのは多度郡の条里制のラインが描かれていることです。善通寺の境内部分を拡大して見ます。
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善通寺一円保絵図(拡大)
①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。これが五重塔の基壇跡のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されませんでした。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。その後には(E)講堂もあります。
 この絵図には、東院には様々な建築物が描かれています。そして敷地を見ると、4つの条里で囲まれているのが分かります。1辺は約106mですから、4つ分の面積となると212×212mとなります。ここからは善通寺が多度郡の条里の上にきれいに載っていることが分かります。ここからは、条里制整備後に善通寺は建立されたことになります。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里と善通寺・南海道の関係
丸亀平野の条里制は、南海道が先ず測量・造営され、これが基本ラインとなって条里制が整備されていきます。南海道は、多度郡では6里と7里の境界線になり、四国学院の図書館の下を通過していたことは以前にお話ししました。そして、善通寺も三条七里の中に位置します。
古代善通寺地図
   古代善通寺概念図(旧練兵場遺跡調査報告書2022年)
ここに至る経過を整理しておきます。
①7世紀末の南海道の測量・建設 
②南海道に沿う形で条里制測量
③多度郡衙の造営
④佐伯氏の氏寺・善通寺建立
①②③の多度郡における工事は、郡司の佐伯直氏が行ったのでしょう。これ以外にも、白村江の敗北後の城山城造営などにも、佐伯氏は綾氏などと供に動員されていたかもしれません。これらは、中央政府への忠誠を示すためにも必要なことでした。

 最後に、空海が生まれた8世紀後半の善通寺周辺を想像して描いて見ましょう。
岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の郡衙(黒丸枠)と南海道・法勲寺の関係
額坂を下りてきた南海道は、飯野山の南に下りてきます。南海道に接して北側には、正倉がいくつも並んで建っています。これが鵜足郡の郡衙(岸の上遺跡)です。その南には法勲寺が見えます。これが綾氏の氏寺です。南海道は、西の真っ直ぐ伸びていきます。そのかなたには我拝師山が見えます。南海道の両側に、整備中の条里制の公田が広がります。しかし、土器川や金倉川などの周辺は、治水工事が行わず堤防などもないので、幾筋もの川筋がうねるように流れ下り、広大な河川敷となっています。土器川を渡ると那珂郡郡司の氏寺である宝幢寺(宝幢寺池遺跡)が右手に見えてきました。金倉川を渡ると右手に善通寺の五重塔、左手に多度郡の郡衙(善通寺南口遺跡)が見えて来ます。ここが佐伯直氏の拠点です。
 ここからは南海道は、丸亀平野の鵜足・那珂・多度の3つの郡衙を一直線に結んでいたことが分かります。そして、その地の郡司達は郡衙の周辺に氏寺を建立しています。当然、彼らの舘も郡衙や氏寺の周辺にあったことが考えられます。

 今回は、普段は目に見えない以下の古代善通寺の痕跡を見てまわりました。
①金堂礎石
②「土製仏頭」(古代本尊の仏頭?)
③白鳳時代の善通寺瓦
④条里制の中の善通寺境内と南海道や郡衙との関係
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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善通寺五重塔と自衛隊前の道
今回は善通寺街歩き研修会資料の善通寺東院編です。自衛隊の赤煉瓦倉庫から五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が迎えてくれます。
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善通寺南門

この門については、日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていました。近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。高麗門で、開口が高く開いて5,7mもあります。
どうして、こんなに高い門が作られたのでしょうか?
それは11師団の凱旋を迎えるためだったようです。戦場から帰ってきた部隊は、駅前からここまで部隊旗や戦勝旗を掲げてパレードしてやってきます。金堂に向かって帰還報告をして、境内で記念式典が開かれたようです。その際に、この門をくぐる時に、軍旗にお辞儀をさせたり、下ろしたりするのは見苦しいという「美意識」があったようです。
 それも15年戦争とともに戦争が日常化すると、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。
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善通寺東院の金堂
善通寺東院の歴史的な見所ポイントとして、やはり五重塔と金堂は外せません。まず、金堂から見ていきましょう。
  戦国時代に東院は焼け落ちます。そして百年以上も金堂も五重塔もない状態が続きました。世の中が落ち着いきた元禄年間になって、やっと再建の動きが本格化します。金堂は勧進僧の活動などで元禄22年(1699)に棟上されます。そこに安置される本尊が次の課題になります。
DSC04200 善通寺本尊薬師如来
善通寺金堂本尊 薬師如来

ここの本尊は丈六の大きな薬師さんです。誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、京都の仏師との発注についての手紙が残っています。相手の仏師は、全国的にも名前が知られていた運長です。彼は1699年12月「像本体、光背、台座」などについて、デザインや素材から組立費、金箔押しの仕様までの「見積書」を善通寺に提出しています。こんなシステムがあったので、全国の顧客(寺院)を相手に取引が行えたのです。
 善通寺側のOKが出ると、制作にかかります。寄来造りですから分解が可能です。出来上がると、頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されます。その他に台座、光背などの小さな部材もあわせると全部で33ケ仮箱が必要だったようです。京都で梱包作業された箱は、船で大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 この輸送には、運長の弟子が二人ついてきています。彼らが組立設置などの作業もおこなったようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。こうして、金堂に京都で作られた薬師さんが1700年の秋までには、善通寺の金堂に安置されます。以後約320年間、この薬師さんは善通寺を見守り続けています。

1 善通寺本尊3

 お参りのあとに、薬師さんの周りを一周してみて下さい。そして、寄せ木造りの継ぎ目がどこにあるかを探してみてください。300年前の仏師の息づかいが聞こえてくるかも知れません。

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善通寺五重塔(4代目)
一方、五重塔は受難の連続でした。
   善通寺の五重塔も本堂と同じように、戦国時代に焼失します。その後、元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間(19世紀初頭)です。ところが3代目の五重塔は、完成後直後の天保11年(1840)に、落雷を受けて焼失してしまいます。
 その5年後の弘化2年(1845)に着手したのが現在の五重塔です。そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工します。五重塔としては案外若い建物です。
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善通寺東院の金堂と五重塔
どうして完成に60年もかかったのでしょうか?
これは、同時期に建立されていた本山寺の五重塔と同じで、資金が集まらないのです。当時は、勧進をしながら工事を進めます。資金が底を突くと工事はストップします。この繰り返しが続きます。
 この時の五重塔建設の初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。彼は善通寺の前に、39歳で備中国分寺五重塔を完成させたばかりでした。彼にとっては、2つめの五重塔になります。この頃の貫五郎は、中四国で最高の評価を得た宮大工だったようです。彼は同時期に建設中だった金毘羅山の旭社や、岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。

善通寺五重塔2
善通寺五重塔
 貫五郎は、この塔に懸垂工法を採用しました。
この塔の心柱は、五重目から鎖で吊り下げられています。そのため心柱は礎石から60mmの所で浮いています。
善通寺五重塔心柱は浮いている
善通寺五重塔の心柱は6㎝浮いている
この工法は、従来は「昔の大工が地震に強い柔工法を編み出した」とされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して、心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間できるのを防ぐ雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 彼の死にあわせるように、資金不足と幕末の動乱で10年間工事は中断します。世の中が少し落ち着いて、資金が集まった明治10年に工事は再開します。結局、1902(明治35年)になってやっと五重塔の上に宝塔が載せられます。塩飽大工三代によって、この五重塔は建てられたことになります。発願から完成まで62年がかかっています。
 
四国・香川県の塔 善通寺五重塔
外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力があります。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。
芯柱は6本の材を継いで使われています。一番上ががヒノキ材、その下2つがマツ材、そして一番下の3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。

善通寺五重塔3
善通寺五重塔
 各階には床板が張られていますので、階段で上っていくこともできます。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたので、各層で時代の違い違いを見ることができます。
以前に、文化財協会の視察研修でこの五重塔に登る機会がありました。
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善通寺五重塔の柱の奉納者名
 善通寺の五重塔の内部の柱には、寄進者の名前が大きく墨書されていました。その中には、まんのう町の庄屋であった次のような名前も見えました。
真野村の三原谷蔵
吉野上村の新名覚□
近隣の有力者たちも組織的に、この五重塔建立に寄進していたことがうかがえます。その人々の「作善」の積み重ねて完成した塔であることを改めて感じました。

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善通寺の東院と西院
東院境内には、今はほとんど忘れ去られていますが江戸時代には、大きな役割を担っていた神域があります。

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雨乞いの神様である善女龍王を祀る社です。

真言の雨乞祈祷法が讃岐に最初にもたらされたのは善通寺だったようです。17世紀後半に、院内改革のために善通寺院主が高野山から高僧を招いて、研修会を夏に開いていました。その年は大干ばつで雨が降らず人々が困っているのを見て、高僧は「それでは私が善女龍王に祈って進ぜよう」ということになったようです。そして、空海が京都で空海が行った雨乞の修法を行い雨を降らせます。

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善女龍王東院の龍王社
そこで善通寺ではここに龍王社を建立し、善女龍王を祀るようになります。丸亀藩主は旱魃になると善通寺の僧侶に雨乞祈祷を命じます。

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それを見て髙松藩は白峰寺に、多度津藩は弥谷寺を雨乞いのための祈祷寺に指定します。このような各藩の善女龍王信仰の動きを見て、各地の真言宗の主要なお寺が、龍王社を勧進し雨乞い修法行うようになります。こうして讃岐では、善女龍王は雨を降らせる神として知られるようになります。
綾子踊り 善女龍王
雨乞い踊り「綾子踊り」の善女龍王の旗
 善通寺東院の龍王社は、一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。讃岐の善女龍王信仰の原点は、この小社にあります。
善通寺東院伽藍図
善通寺東院の伽藍図(金毘羅参詣名所図会) 金堂の後に龍王社

 空海が雨乞いを祈祷した善女龍王とは、どんな姿をしていたのでしょうか。これには次の3つの姿があるようです。
2善女龍王 神泉苑g
空海の前に現れた子蛇と龍
①子蛇 → 龍  古代
善女龍王 本山寺
本山寺(三豊市)の男神像の善如(女)龍王
②善如龍王 男神像(高野山に伝わる唐の官服姿で服の間から尻尾がのぞく姿)
善女龍王

③善女龍王 女性像(醍醐寺主導で広められたもの)
善通寺東院と西院2

   今回は、金堂や五重塔など目に見える善通寺東院の「見所」を紹介しました。次回は、もう少しデイープに目に見えない東院の見所を紹介しようと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

十返舎一九 四国遍路表紙 200004214_0022_00001

十返舎一九の『金草蛙』第14篇には、四国辺路のことが記されています。
『金草蛙』は文政四年(1831)に初めて刊行されましたが、主人公は千久良坊と延高という2人連が白山などの各地の名所霊場を廻るさまを、その土地の方言を交えながら面白おかしく紹介する旅行記です。その中に四国辺路もあります。
十返舎一九 四国遍路 丸亀入港路
金比羅船で大坂から船で九亀に上陸 十返舎一九「金草」の挿絵

 七十八番道場寺(郷照寺)から四国辺路を始め、時計回りに巡礼し、最後は多度津の道隆寺で終えます。この本には多くの挿図があり、江戸時代の四国辺路のことが描かれています。これが絵図史料として価値を持ちます。

十返舎一九_00006 六十六部
上の絵図は、遠くの民家の屋根の間にひときわ大きな屋根を見せているのが80番の讃岐国分寺のようです。遍路道を向こうからやって来る人物が描かれていますが、特徴的な風体です。大きな笈を背負い、右手に錫杖を持ち、腹前に鉦を付け、頭には大きな天蓋のようなものを被っています。これが六十六部のようです。これだけ大きな笈を背負っているとよく目立ったでしょう。

十返舎一九_00009 六十六部
讃岐の88番大窪寺から阿波の1番霊山寺へ越えたあたりでは、甘酒屋に集まる四国遍路たちが描かれています。ここにも大きな笈を背負い、天蓋のよう帽子を被った六十六部が描かれています。

四国遍路を廻っていた六十六部とは何者なのでしょうか
 御朱印の歴史(1)御朱印の起源-六十六部 | 古今御朱印研究室

「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。
 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らは、次のような姿で史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、西国巡礼や四国遍路のようには、六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地が固定していませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。

 六十六部とは - コトバンク

分からないのは体系的な紙史料がないためです。
残されているのは、彼らの遺した納経帳や札、そして全国津々浦々に点在する供養塔です。特に供養塔(廻国供養塔・廻国塔)は、全国で万を超える数が残っています。その中には、願主の子孫や地域によっていまも祭祀が続けられているものもあります。しかし、大半は、路傍や堂庵の傍ら、墓地の一角で風化に耐えています。六十六部の理解するためには、これらの碑文を一つ一つ訪ねあて、語らせ、その声を書き留める作業が必要でした。
六十六部廻国供養塔 「石に聴く」宮崎県の石塔採訪記/長曽我部光義/著 押川周弘/著 本 : オンライン書店e-hon

それが、近年各地で少しずつ進められてきたようです。今回は、六十六部と四国遍路の関係を見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です
1六十六部の笈
六十六部の笈

徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止されました。しかし、行者は特定の会所に所属し、その支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ることができていたようです。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行っていたようです。具体的には、六十六カ国をまわるというよりも、西国巡礼や各国の国分寺などをまわっています。中には四国遍路を廻っていた六十六部行者もいたようです。
18世紀後半以後になると、六十六カ国をすべて回り終えると結縁記念に石造供養塔を建立するようになります。この供養塔が四国遍路の霊場の境内や遍路道にもあることが、近年の調査で分かってきました。
1 札所の六十六供養塔

讃岐の霊場に残された廻国供養塔の一覧表です。
観音寺、弥谷寺、道隆寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、大窪寺などに残されているようです。境内に記念碑を建立することが認められるには、それだけの貢献があったはずです。例えば堂舎の勧進活動です。また辺路道沿いの廻国供養塔は、廻国行者と地元の人々との間に、深い関係がなければ建てられるものではありません。四国廻国の途中で地域の人々に祈蒔や病気治癒の施しを行い、小庵などに住み着き宗教活動を行ったことも考えられます。日本の各地を廻国し、多くの情報を持つ、廻国行者の存在は四国の寺院や地域住民にとって、大きな利益を得たのかも知れません
1善通寺中世伽藍図
中世の善通寺伽藍図(一円保絵図)
 善通寺五重塔と六十六部の勧進活動
75番善通寺は、古代以来の敷地に七堂伽藍が甍を並べます。しかし、五重塔は焼け落ち、姿が消えていた期間の方が長かったようです。現在の塔は、明治35年に建立されたものですが、その前の塔は、文化元年(1804)の建立になることは以前にお話ししました。
その経緯については「善通寺大搭再興雑記」に、次のように記されています。
先是有唯円者承光歓僧正、志願而留錫伽藍西門内小庵募縁十方其疏幾度千冊以託来請人、或使令(中略)
合力州里既而所集銭穀以擬営建出貸隣人、借者未及返之債之而不獲馬、其余雖非無虚費之謗於幹事共勉也。(中略)
 唯縁所出募縁之疏至今時々自遠方還来、非無小補因記之
「唯縁(円)勧進用此序」
唯縁武州豊嶋郡浅部本村新町遍行寺弟子、号順誉、回国行者、享保十二来年二月九日始勧進事、至享保二十一甲寅年凡経十年孜々勧誘、先是勧進建豊田郡小松尾寺二王門、共事就後始当寺造塔勧進募勧有信檀越造立一箇宝塔之序
(本文は略す)
維時享保第八龍集炎卯初冬穀旦
讃陽多度郡善通寺現住沙門光歓謹誌
  意訳変換しておくと
(五重塔の再建については亨保八年(1723)、これより先に唯円が光歓僧正に勧進を願い出た。唯円は伽藍の西門の内に小庵を建てて、勧進活動を進めその募縁状を十方の参詣の人々に託し、千冊を超える勧進を得た。(中略)
   勧進で集めた銭を穀物を隣人に貸出し、借りたものが返済しても、債権回収に応じないことあった。そのため非難を受けたり虚費の謗うけ、幹事が共に弁済したこともあった。(中略)
 唯円の勧進については、遙か昔のことではあるが、五重塔の再建事業においては小さな事ではないので、あえてこれを記し残すことにする。
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
以上からは、次のようなことが分かります。
①光歓が亨保八年(1723)に「募勧有信檀越造立一箇宝塔序」を作成し、印刷したこと
②その後、唯円が伽藍の西門の内に小庵を建てて、その募縁状を十方の参詣の人々に託した
③約10年で、若干の金額も集まったが、隣人に貸出して返済に応じず、虚費の謗も受けた
④唯円は、善通寺大塔の勧進前には、67番小松尾寺の仁王門の勧進を行っていた

関東からやってきた廻国行者が小松尾寺の仁王門建立の勧進を行い、それを終えて善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして大塔の勧進に10年も携わったというのです。この時の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月になります。計画から約80年余の月日を要したことになります。
十返舎一九 四国遍路 郷照寺
十返舎一九「金草」の挿絵 丸亀上陸

  勧進聖と土木・建設などの勧進活動の関係は?
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は
「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

であったとされます。しかし、「勧進」は見方を変えると、勧進聖の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとにには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていたようです。次第に大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業を請負けおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・苦光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると
「勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得」
とも云えるようです。
 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。勧進聖人は、次第に建築請負業の側面を持つことになります。勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業だけでなく、寺院の堂宇の建設にも威力を発揮しました。善通寺の五重塔再興を請け負った唯縁は、建設請負集団の棟梁であり、資金集めの金融ブローカー的な側面も見えてきます。少し横道にされたようです。六十六部の勧進スタイルを追いかけます。

小松尾寺(大興寺)の仁王門横に大きな石碑が建立されていますが、そこには次のように刻まれています。
本再興仁王尊像並門修覆為廻国中供養
寛政九年己酉十月 十方施主 本願主長崎廻国大助
ここからは唯円が勧進して建立した仁王門を、約70年後の寛政元年(1789)に、長崎の廻国行者の大助が勧進修復したようです。小松尾寺の仁王門は、建立も修復も廻国行者の手によることになります。このように地方有力寺院は、堂宇の改修には勧進というスタイルを採用せざるえない状態にありました。それを取り仕切れる勧進聖は、寺院から見て有用で、使い道があったようです。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

続いて65番 三角寺の観音堂の建立についてみてみましょう。
寛文十三年(1672)八月吉日の本堂(観音堂)建立棟札からは、次のようなことが分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院(仙龍寺)の道正」
②本願は同じく「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清
④導師は地蔵院(観音寺市大野原町の萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことがうかがえます。江戸時代初期の三角寺や奥の院(仙龍寺)には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。
十返舎一九_00010 吉野川沿い
十返舎一九「金草」の挿絵 吉野川を見下ろす

次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間で、「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことがうかがえます。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。
四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国万人講を主催する宗清なる人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、三角寺の活動を下支えしていたしていたのではないでしょうか。勧進と称しているので、諸国を廻国して勧進を行う念仏行者のような人物と研究者は考えているようです。「四国万人講」という組織は、四国辺路の参詣者を対象にした勧進講としておきましょう。
 その後、この宗清が六十八番観音寺にも姿を見せます。
『弘化録』の延宝四年(1676)の項に、次のように記されています。
「八月に宝蔵一宇を建立した。本願は米谷四郎兵街、大工は荻田甚右衛門である。十月に再興の本願は宗清である。」

ここに出てくる宗清は年代的にみて、三角寺棟札の宗清と同一人物と研究者は考えます。三角寺の観音堂の完成後、今度は讃岐の観音寺で勧進活動をしているのです。つまり、三角寺の観音堂の完成から三年後には、観音寺に移り宝蔵を再興しています。宗清の出身は信濃国ですから、彼もやはり廻国行者の一人だと云えます。
観音寺境内図1

観音寺には、勧進僧を受けいれやすい何かがあったのでしょうか。
「弘化録』には、次のような勧進常夜灯の記録が記されています
観音尊常夜の覚
一、銀札八百五拾目なり
古は長崎より生国筑前の者、小林万治と中す者、廻国に参り、観音寺に逗留仕り候にして暫くの間、隔夜を打ち、ならびに本加なども相加え左の銀子調達仕り、観音尊へ常夜灯寄進致したき宿願に付き、有の銀子預け申したしの段申し出候に付き、観音寺八ケ村のその節の役人相談の上にて、観音寺中国川入目銀の内へ借り請けにして、毎年観音寺御用の入目所より立割五歩の利銀百弐拾七匁五歩宛油代へ払い仕り中し来し候。(以下略)
意訳変換すると
一、銀札850目なり
古くは長崎から筑前生まれの者で、小林万治と申す者が、廻国参りにやってきて、観音寺に逗留するようになった。そして、隔夜修行を行うようになり、その成就の際に奉加で得た銀子を、観音堂の常夜灯費用として寄進したい旨を申し出た。この銀子の寄進を受けて、観音寺八ケ村の代表と役人で相談した上で、観音寺中国川入目銀の内へ借り請け金として入れて、毎年観音寺御用の入目所から五歩の利子銀百弐拾七匁五歩を油代として支出することとした。(以下略)
ここからは小林万治という九州の廻国行者が六十八番観音寺に、しばらく逗留して隔夜修行など修行しながら、奉加なども加えて銀札850目を調達して、観音菩薩の常夜灯を寄進したいと申し出たことが分かります。隔夜修行とは、以前にお話ししましたが、ここでは六十六番雲辺寺と六十八番観音寺を夜間に一日ごとに念仏を唱えながら往復して修行する念仏行です。彼以外にも、観音寺に逗留しながら、この行に挑んでいた信者がいたことが他の史料からも分かります。
 小林万治という廻国行者は、 観音寺にしばらくの間、逗留して修行することが許されていたようです。そのお礼の意味もあっての銀子の寄進であったようです。
 以上のように、札所寺院には、六十六部廻国行者や念仏行者などが入り込み修行を行っていたことがわかります。観音寺と雲辺寺は、隔夜行者の修行ゲレンデであり、七宝山は修験者たちの行場でもあったのです。その行場センターを観音寺は果たしていたことになります。そのために、堂宇再興などの際には、御世話になった行者や聖達が勧進ネットワークとなって、多くの財を集めるマシーンとして機能したのでしょう。
志度寺縁起 阿一蘇生部分
志度寺縁起に描かれた志度寺

廻国行者が係わって堂字を建立した例は、86番志度寺にもみられます。
志度寺所蔵の棟札には、次のように記されています。
一、米三十穀、大旦那国主雅楽頭御内方さま教芳院殿也、本願円朝上人総州住人也、今者志度寺部屋二住也、大工ハ備前国山田村住人、藤原大工七右衛文勤之
一、讃州志度寺観音堂、本願円朝法印(花押) 迂慶長九年甲辰十月十三日、寺家衆花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊為弐親成仏
一、慶長九年甲辰十月十三日志度寺観音堂本願者不思議成以縁、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印(花押)
意訳変換しておくと
一、米三十石、大旦那は藩主の生駒親正の奥方さま教芳院殿、本願は円朝で上総州住人である。
円朝は志度寺部屋棲、大工は備前山田村住人の藤原大工七右衛文が勤めた
一、讃州志度寺の観音堂、本願は円朝法印(花押) 慶長九年十月十三日、寺家衆は花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊が参加した
一、慶長九年十月十三日志度寺観音堂 本願は不思議な縁を以て、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印が行う(花押)

中世には志度寺縁起の寺として隆盛を極めた志度寺も、戦国時代には疲弊していたようです。慶長期になって、ようやく、生駒氏の援助でようやく再興が始まります。その手始めとして行われたのが観音堂の再興だったようです。
①大旦那は、生駒親正の夫人
②本願は円朝法印
③寺家衆も花厳坊・常楽坊・西林坊などで、まだ塔頭寺院というには、ほど遠い小さな坊庵の段階のようです
そして本願の円朝は、関東上総国の出身で「不思議の縁をもって、志度寺の部屋に住むようになった」というのです。ここからは、志度寺には定まった住職もいないほど退転していたところに、円朝という関東の廻国僧が訪れ、何らかのの縁を得て、定着したことがうかがえます。
四国霊場の寺院ではありませんが『宇和旧記』の白花山中山寺の項には、次のように記されています。
一、慶長十一年再興、是は奥州二本松産意伯上人、六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿、奉再興、本願奥州二本松産意伯上人、同行重円坊、意教坊、大工者多田村七右衛門也、殊御給人衆、並大小檀那、致進一紙半銭以諸人所集功力如是成就者也、
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
(後略)
意訳変換しておくと
当寺は慶長十一年に再興された。その経緯は奥州二本松の意伯上人が、六十六部廻国で諸国回遊の際に、発起人となったことが棟札に記されている。予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿なども、意伯上人の本願で行われ、同行重円坊、意教坊がこれを助け、大工は、多田村の七右衛門が勤めた。御給人衆は大小檀那衆で、一紙半銭の寄進で多くの信者の功力で成就した。
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
ここからは、奥州の六十六部の意伯上人が、廻国の途中で中山禅寺の再興を発起したことが分かります。同行者が二人いたようで、彼らも六十六部廻国行者で、勧進に協力したのでしょう。この例のように、志度寺の円朝法印や寺家衆の七坊も、伊予中山寺と同じように六十六部廻国行者であったと考えることもできそうです。戦国時代から50年余り経ってを経て、慶長年間頃にはこんなプロセスを経て、各地の寺院は復興されていったのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」

 「大覚寺差止め八か条」で、海岸寺は次のようなキャッチフレーズは差止(使用禁止)となります。
「御誕生之霊跡」「御降誕之霊地」「御初誕之地」「御産生所」

また「弘法大師生誕地」と称していた次のものついても使用停止処分となります。
海岸寺の縁起  奥の院産盥堂の勧進帳  建石之事(丁石) 
案内切出之書付(道案内図)
 
そして「藩の申し渡し」によって、
①産盥の参拝者への公開禁止(没収は免れた)
②産盥堂は「再建」としては認められないが新築することは許された
⑤屏風浦の称号使用禁止(頭書や肩書きとしては許された)
  この2つの決定により「弘法大師=多度津白方生誕」説は、息の根を止められたかというと、そうでもないようです。以後も生き続け、庶民の間には流布され続けたようなのです。その実態を追いかけて見ようと思います。
まず、裁定が出された後の海岸寺の動きを見てみましょう。
  上のような決定が海岸寺に通達されるのが文化十四年(1817)の春3月23日のことです。しかし、海岸寺は申渡し事項を前向きに守ろうとする態度ではなかったようです。翌月の4月4日には「弘法大師生誕地」と書かれた「切出し」(案内図)を配布していたことで、多度津藩からの取調べを受け、始末書を差し出しています。その始末書には
「切出しを旅人たちへ配布したのは、信徒世話人の中の勝手の分らない者が、以前に刷っていたものを配布したものである」

と弁明しています。藩では、その世話人の名前を調べて差出すようにと命じます。それに対しては
「切出しを配布した世話人は、会式の時などは大勢入り込んで世話してくれるので、今になっては名前は分らない」

と弁明を重ねるばかりです。
これに対して藩は、実力行使に出ます。4月8日に縁起と絵図の板木、また大師初誕の像に屏風浦と書いた「切出し」の板木を没収します。同時に、産水の井や浴巾掛の松の建札を取払うように命じています。海岸寺はここでも「畏み奉る旨」の始末書を差し出します。
 ここからは、裁定後の海岸寺の姿勢がうかがえます。同時に海岸寺の信者の中には、裁定について反発する動きがあったのかもしれないと思えます。
 6月13日、海岸寺に対し差止を命じた「條々完了の旨」の通達が多度津藩から丸亀藩を経由して、善通寺に次のように通知されています。
     覚
大師御誕生所一件落着後追々片付候条々                      
一、納経帳ニ産盥堂と認候之儀被差止候事  
一、産盥堂と認有之候 建石書直之義被申渡候事  
一、産盥堂と書付有之雪洞六帳並びに同断認メ之幕二張為取払候之事  
一、産盥堂絵図と板木並びに大師初誕御影板木被取上候事
一、湯手掛松建札並びに二産水ノ並びに建札為取払候之事  
一、海岸寺縁起可取上旨被申渡候処 大覚寺御門跡御用二付差出置候処 今二御差下無之旨海岸寺より申出候事 
 右の通それぞれ取片付相除申候。以上
       (丸亀藩寺社方) 土岐権之襄。
                菅四郎兵衛
誕生院                                                                      

どんなものが海岸寺から没収・撤去されたのかを見ておきましょう
①納経帳に産盥堂と書かれているのを差し止めた
②産盥堂と彫られた建石(標石)を書直すように申し渡した
③産盥堂と書かれた雪洞(ぼんぼり)六帳と幕二張を取り払った
④産盥堂絵図・板木・「大師初誕」と彫られた板木を没収
⑤湯手掛松と産水の建札を取り払った  
⑥海岸寺縁起については、大覚寺に差し出したのでないことが海岸寺から申出があった。
 以上の通り、裁定に従って、没収・撤去した。以上
3月に丸亀藩と多度津藩で協議された内容に従って、「実力行使」が多度津藩の寺社方の立ち会いのもとで行われたようです。一応これで、一歳に方がついたと思われました。このような争論の結果が讃岐の人々には、どのように受け止められたのかを見てみましょう

海岸寺敗訴の裁定が下されてから約10年後の文政11(1828)年に出版された「全讃史」には、次のように記されています。

文化年間に、海岸寺は白方が屏風浦であること、又大師産盥石があり、熊手八幡宮が大師の氏神であることを朝廷に訴え善通寺誕生院と争った。数年にして誕生院は傾きかけた。そこで誕生院は多くの関係者に助力を求めた。そして、一条関白殿下から善通寺が誕生所で、修学所であるとの額を頂いた

  ここには。事実にまったく反することが書かれています。
事実経過をもう一度整理しておくと
①海岸寺が、誕生院を朝廷に訴えたのではなく、誕生院が海岸寺を、丸亀藩へ訴へたのです
②善通寺が藩の援助を受けたのではなく、反対に海岸寺全面敗訴が、多度津藩主の「政治的な圧力」で名目を保つことができたのです
③一条関白が、誕生所の額字を誕生院に寄贈したのは、訴訟後のことです。『全讃史」善通寺の條の中にも次のように記されています。
一条関白従一位左大臣忠良公、賜額字弘法大師誕生之場(八大字)共落款云、文政元年五月二日、開白忠良題

 争論の裁定は文化14年(1817)に終わっています。額が送られたのは文政元(1818)年五月二日のことです。 遠い昔のことではありません。裁定が下されてからわずか10年しか経っていないのに、このような誤りがれっきとした歴史書に載せられたのはなぜでしょうか。
二つのことが考えられます
①報道の自由が保障されていない当時は、真相を知る術がなく流言が飛び交った。積極的に海岸寺に有利な流言をながした集団がいた。それを信じた編者中山城山が『全讃史』に、そのまま記した。もっと云えば「弘法大師生誕地=善通寺」を受けいれられない信者集団がいたということかもしれません。
②編者中山城山が善通寺に悪意を持っていた。

まず①の 「多度津白方=空海誕生地説」を流布した信者集団の母体と広がりを考えます
 確かに善通寺が誕生所であることは、綸旨や院宣に書かれています。しかし、民衆からすれば「綸旨、院宣」が何であるか分らず、その内容も知らない者も多くいたようです。そして、大師は白方で生まれ、白方が屏風浦だと信ずる信者集団がいたということです。このことについては、以前にもお話ししましたので、要点だけを紹介します。
白方を屏風浦と言い、大師は白方で生まれたと言い出した最初のものは「空海混本縁起」のようです。
  ここには次のように空海の出自のことが記されています
 .讃岐多度郡屏風浦に、藤新太夫と申して猟師一人有、其内に阿古屋と申て女一人有ますが(中略)
無程懐人仕給ふ 夫人間は9月半ばの胎内とは申せども、私ならぬ人なれば十三月の御産の紐をとき給う。その時の年号は宝亀5年寅年六月十五日、寅の一天御産の紐をとき給ふ、御子取上げ見給ふに、かけも形も世にすぐれ、うつくしき男子也。然るに此子程なく、夜鳴を仕給ふ事限なし、其時地頭政所村七軒、地頭七人の身の上を聞き、急き子捨よと仰ける、御母其由聞召、我は是四拾のいんに餘りて、子を一人も持たず、人はとも言へかくもあれ捨る事は成るまじきと仰ける、藤新太夫申けるようは、王公に住身のならいなれば捨ずば如何可有やと急き此子を捨よと仰ける、御母此由聞召、金の魚を御夢想たるに依て、御名を金魚丸殿と付て綿(私注、錦か)に包、彼の千暮[ケ原に捨給ふ云々
その後、善通寺の徳道上人に拾われ、善通寺で産湯を使ったので、善通寺を誕生院と呼ぶことになったというのです。しかも父は「藤新太夫」、母は「阿古屋」とします。善通寺の「父・佐伯善通寺、母・阿刀の娘」に真っ向から反する記述です

 一方、母の阿古屋の夢想の中に老僧があらわれます。そして次のように告げるのです。「小兒の夜鳴の声は、母の胎内でいる時からお経を読んでいる声である」と。
 母はよろこんで、白方屏風浦へ迎えて程なく七歳になります。そこで、福寿丸と名を付けかえ、善通寺へ送ったいう風に物語は展開していきます。
この「混本縁起」のあとに「弘法大師四国八拾八箇所山開」(略・山開)が出てきます
勿体なくも讃州多度の郡白方屏風浦佐伯善道様御むつましう御くらし、其時あこや御前の御腹をかり、十三付きの間御もちなされ、賓亀五年六月十五日、寅年寅の月、寅の刻に御たんじょうなされ、あこや御前はしかとだき、せんだん山にすて子なされし。其時せんだん山の師生通りかかり、これふしぎなる御山にあか子なきこへとおもへと法華経よむようにきこゑ、御そばに立より、がんしょくはいし奉れば、日月の如し、御身は佛の如く相見え云々

 この「山開」は読んでみて分かるとおり、分かりやすく卑俗な文句で仮名付きで書かれていて、誰にでも読める物語風になっています。もともとは、先達(山伏)たちが信者に語り聞かせたものと研究者は考えているようです。この「山開」の終りのところには「光明真言の訓読」が付け加えてあります。そして、
ありがたい経文と心得、大師を祀ったお堂の前などで節づけで唱えよ

と先達から教えられたようです。今でも八十八か所の札所では、五人、十人と巡拝者が声をそろえて合掌する姿を見ることがあります。 さらには、神社寺院の縁日などで、この「山開」の
  「百丁くだればすかわさん、くわずのかいにくいわずのいも、年に三度の栗もなる」

のフレーズを称えながら「くわずのいも」を売るものも現れます。まさに「売り言葉」としても使われるようになるのです。
 また四国遍路の順拝者が物乞いをするときには、この「山開」を一流の節で詠じ、鈴を振り戸毎に立ちました。これは「弘法大師生誕=白方屏風浦」の流布宣伝の大きな武器になったようです。こうして、「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、四国遍路によって四国全体にも広げられて行ったようです。
海岸寺が産盥堂を建て「白方海岸寺誕生」広報プロジェクトを進めれば、人が集まってくる素地は十分あったようです。「藩主裁断」という一片の通達で、庶民の信仰を葬り去ることはできなかったようです。

 「弘法大師生誕地」や「屏風浦」が、歴史書にどのように記されているのかもう少し見てみましょう      
讃州府志(延享2(1685)の屏風浦の項目には、次のように記されています
行状記に曰く、屏風浦は弘法大師の生誕地である。五岳山があり、その形は屏風に似ていることから来ている。大師が云う王藻に帰る島のことで、巨樟の影落とす浦である。ここには堂舎があり、三角堂と呼ばれ、大師像が安置されている。その西の山側には、石臼のような石造物があり、これを大師の産盥と称している。また、清水涌く井戸が有る。弘法大師の氏寺と伝えられる(熊手)八幡宮があり、その北側は海である。

ここに記されている建物の位置関係を見てみましょう
①屏風浦は弘法大師生誕地で、五岳山の麓に善通寺がある
②屏風浦の三角寺に大師像が安置されている。(白方の三角寺佛母院のこと)
③弘法大師の産盥があるのが海岸寺奥の院
④弘法大師の氏寺が熊手八幡である。
ここからは『讃州府志』の大師誕生の屏風浦は、善通寺と佛母院と、海岸寺と熊手神社が隣接したエリアにあり、これらの全てが「屏風浦」に位置すると理解していたようです。作者が現地を訪れていないことがうかがえます。現地調査を行い史料を収集した後に、著述するという姿勢はありません。

これらの書物を参考にして、後世に歴史書を書こうとする人たちは迷ったはずです。空海の生誕地、屏風浦の範囲やエリアなどがきちんと書かれている史料がないのです。
  例えば、綾氏一族の香西氏顕彰のために軍記物語を残した香西成次は
①南海治乱記では、善通寺は弘法大師生誕地と記し
②南海通記では、屏風浦は白方だと記します。
このような曖昧さが当時の知識人の間にもあったのです。

話を全讃史の編者・中山城山に戻して、彼が「善通寺に悪意を持っていた」という仮説を検討してみます。
このことについては、弘法大師生誕地をめぐって争論した善通寺と海岸寺の「応援団」に目を向けてみたいと思います。海岸寺の本寺は大覚寺で、法親王が住職される宮門跡の大寺院です。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が目白押しです。
 それに比べて善通寺の本寺である随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡で、讃岐には善通寺以外に末寺はありません。善通寺と海岸寺だけで比べると、善通寺が圧倒するように思えます。しかし、その背景に控える寺社ネットワークを見ると、善通寺は讃岐国内で孤立していることが見えてきます。
 つまり、讃岐において真言系寺社は同門の海岸寺を密かに応援していたことが考えられます。僧侶達は知識人集団で,言論出版に大きな影響力を持っています。大覚寺系の末寺は、海岸寺に有利な世論工作を行っていた節があります。その動きの一翼に「全讃史」の編者もいたと私は考えています。裁定に破れても、海岸寺の「弘法大師生誕地=多度津白方」説を、信じて支援するエネルギーが各所にあったということでしょう。

裁定から80年近く経った明治29年(1896)の3月11日のことです。善通寺の住職が、高野山宗長に次のような要請を書状で依頼しています。
議岐国多度郡白方村  海岸寺
右寺近年切二庶人二封シ弘法大師御誕生所卜称シ居候。既二客歳春該院二於テ開帳セラレシ際 縁起ヲ聞クニ専ラ御誕生所ト唱へ候テ 庶人ヲ惑致居候往昔ヨリ善通寺ハ御誕生所十ル事歴史上ニ於テモ皆人ノ知ル所ナり。
 然ルニ海岸寺二於テ御誕生所ト称シテ 庶人ヲ証惑スル段重々不都合二候 去ル文政十四年度ニモ海岸寺は御誕生所を偽称致候二付嵯峨御所並びに藩政ノ裁決ア仰キ候 未だ海岸寺ハ十数ケ條ヲ以テ差止メラレ候(今其のケ条のいくつかを挙げると)
一 綸旨院宣ニ差障り候条誕生所二紛敷義無之様急度可為無用事
一 産盥卜相唱候石器 庶人へ見セ候義ハ急度可為無用(きっと無用たるべし)
一 湯手掛/松ノ建札並びに産水ノ井建札取払ノ事
明治29年3月11日
            讃岐国多度郡善通寺
            別格本山善通寺住職 佐伯法遵

本宗長者
権太贈正 鼎龍暁段
意訳すると
海岸寺について藩政の頃から禁止されているのにも関わらず、今また産盥と称し信者に参観させるばかりでなく、湯手掛の松や産水並びに木札を建てるようになりました。それだけでなく近年は弘法大師誕生地を公称するようになりました。誕生地が2つもあることは信者を戸惑わせるだけでなく宗祖系譜の乱れにも通じます。
 文政年間の裁判の通り、断固たる処置をとることはもちろん、誕生地を称する事について厳しく禁止させるように指導して頂きたい。なお海岸寺が禁止されている行為を参考のためにいくつか以下に挙げます。
一 善通寺が弘法大師誕生地であるという綸旨院宣に差障りのあることを流布することの禁止
一 産盥称する石造器を信者に拝観させることは禁止
一 湯手掛松や産水ノ井などの建札は禁止

 明治になって新時代が到来したことを背景に、海岸寺が再び「弘法大師=白方生誕説」を流布して、参拝者を招き入れていることが分かります。それだけこの説を支持する信者が多くいたということなのでしょう。
 今では地元では「空海生誕地=善通寺誕生院と多度津白方」が同居しているような感じもします。空海の生誕地がふたつあることを、余り違和感を持たずに受けいれられているような雰囲気がします。信仰というものは、藩主の一片の書状では変えることはできないようです。根強く残る多度津白方生誕説の背景を見ながら、そんなことを感じました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、18世紀末頃から白方の海岸寺が奥の院の整備を進めます。その集客のために流布されたのが「多度津白方=空海誕生地説」で、目玉とされたのが空海が生まれた時に使われたと称される「産盥」でした。
 これに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴します。海岸寺は、自らの主張を譲らずに調停は行き詰まり、京都に舞台を移しての海岸寺と善通寺の本寺間の協議が1年近くにわたって続けられます。
 その結果、下された裁定では、「弘法大師生誕地」などの差し止め請求は認められますが、海岸寺が頑なに主張した「産盥」「屏風浦」「別院(奥の院)」の3つについては、地元のことなので丸亀藩の裁断を改めて仰げという内容でした。海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が全面的に認められることはありませんでした。
 善通寺としては、今度こそ丸亀藩にきちんとした判断と対応を取ってもらわなければならないと考え、対丸亀藩工作を強化します。今回は、京都での調停工作の後を受けて丸亀藩がどのように動いたかに焦点を絞って、善通寺と海岸寺の争論の行方を追ってみたいと思います。
 
  丸亀藩は、善通寺・海岸寺の双方から報告書や史料・弁明書を提出させた上で、審理を行います。そして、使節団が京都から帰ってきて約1ヶ月半後の文化13年(1816)10月15日には、家老・岡織部、岡頼母、佐々九郎兵衛の名前で、多度津藩家老・畑六郎宛につぎのような見解を書面で送っています。意訳のみ紹介します。

此度の一件についての九亀藩の見解を手紙で通達する。
多度津藩白方海岸寺については近年、大師誕生所との縁起を流布しているとの申し立てがあった。善通寺の寺社経営にとって見過ごす事の出来ない状態になっていると丸亀藩寺社役に提訴があった。善通寺誕生所は、綸旨・院宣などから弘法大師の生誕地であることは明白であるとして、海岸寺の流布中止などを求めたが協議は進まなかった。そこで、誕生院は京都随心院御門跡へ提訴し、大覚寺御円跡のもとで妥協点を探った結果、次のような裁定が下りた。
縁起   勧進帳  建石之事   船問屋共ち差出候路案内切出之書付 御誕生之霊跡  御降誕之霊地 御初誕之地 一御産生所

以上の8項目については、海岸寺が使用することを差留にするという決定である。このことについては多度津藩から海岸寺へ仰せつけ頂きたい。随心院からの申渡しは、善通寺誕生院に対しても行われている。先頃誕生院住職が帰国し、その報告書が寺社方に提出されたので、直接面談して内容を確認した。確かに3事項については、地元に関することなので領主による裁断を仰ぐことになっている。何分にも綸旨院宣に触れることなので、今後に紛らわしきことがないように、審理を尽くし裁断したいと思う。
 以上に続けて、丸亀藩主は次のような感想を述べたと書き送っています。   

(丸亀の殿様)へ達御聴候所、
右者事之相決候儀、海岸寺ニ年古くク申触候共畢竟寺説之儀 
誕生院者大師誕生之土地者、綸旨之之中二事明白二相分居候儀二付種々之誕跡も現在二候得、右迄を以不及論。
 既ニ海岸寺答書ニも、誕生院義者大師誕生之霊場二而綸旨院宣等顧然之事者兼而承知候趣書載有之、傍以疾クニも役人共中為差押可申処、左も無之長々及差縫ニ、剰京都迄願出候之様為成行、前段之通為元之御裁断ニ被任候様之及旨儀ニ、於御領法難相済甚以御不快ニ被為思召候。且又明王院海岸寺義茂一宗之儀二而、右様之訳合能ク乍存重キ綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有問敷次第言語道断沙汰之限二付、於御領法巌敷御否被仰付候而も可然筋二候得共、於本山ニも事穏二為 済被下候儀二付、其段御用捨候而可然、
 右二付而前段御領法被任候三ケ条、何れ其侭差置候而者後代至り又候差縫之基二茂可相成、依之産盥者後人之作二相違無之儀一付一旦御取上之L本寺明二院江御預可被置、別館之儀者於海岸寺答書二も其所二而大師降誕有之との儀、尤降誕之所者於京都被差止候得共是以紛敷事二付、右色日も御取上不被置而者相成間敷、屏風浦之儀者往占五山之浦を相唱、大師者右浦之産二而善通寺二紛無之、既・一   公邊汀差出候書面二も屏風浦善通寺与
書載来候儀、右地名者彼ノ邊ノ白方浦迄も惣名二而、海岸寺答書も書載有之候通右浦迄も屏風浦之分内与相見へ、然ルを其銘切付建石等有之候而者右色目者白方二相限可申、右者何れから建置候事哉是以難相済候条早々御取沸可被仰付、猶其節者為見分此方役方も為立會可申候間日限相極候ハ御申越越可有之候。右之趣夫々急便を以   壱岐守様江御申上被越早々御取斗候様   長門守様被仰付候条如斯御座候。以上。   十月十五日。

   超意訳で変換すると
殿様の言われるには
そんなことは決まりきったことではないか。たとえ海岸寺が古くからの言い伝えや文書があると言い触らしていても、それは寺説というだけのことだ。善通寺が誕生所だということは綸旨の中に書かれていることだ。 いろいろな誕生の旧跡というのもあるけれども、そんなことを持ち出すまでもない。海岸寺自身が返答書に「善通寺が大師御誕生の霊跡であることは綸旨、院宣に照して明らかであることは兼々承知しています」と言っているではないか。
 京都まで出向き長々と審理を引き延ばし、このような裁断を仰ぐ結果となったことについては、甚だ不快である。明王院と海岸寺の僧侶については、このような争論を長々と続けること自体、善通寺誕生院が弘法大師誕生の地であるという綸旨に敵対する行為で、僧侶にあるまじき次第で言語道断の限りである。よって厳しく処罰すべきと考えるが、本山からはできる限り穏便に済ませるようにとの口添えもあるので、それを無視することもできまい。
 以上から、丸亀藩に判断をゆだねられた三項目について、次のような案を原則に、正式な裁定を考えていきたい。
 産盥は後世に作られた物で空海の時代のものではないので没収し、本寺である明王院で預かることにする。
別館(奥の院)については、海岸寺の返答書にも「其所二而大師降誕有之」としているので、降誕地を称することは、京都での決定で差止されていることから、破棄処分とする。
屏風浦の呼称については、昔から五岳山の浦のことである。大師はこの浦に産まれたのであり、屏風浦は善通寺であることに疑いはない。すでに提出された書面にも善通寺屏風浦と書かれている。海岸寺の返答書には、この地名は白方浦までもを含むと書かれている。
 ところが屏風浦の名前を彫り込んだ丁石は、白方だけを指している。この丁石を誰が建てたのかは分からないが、早々に取り払い撤去すべきことを申しつける。なおその際には、検分のための役人も立ち会わせ日限を限って行うこと。。
以上のことを急ぎ多度津藩主の壱岐守様へ申し上げるようとり計らうようにと長門守様(丸亀藩主)は仰せつけられになりました。以上

これを読むと、丸亀藩主は海岸寺の活動に対して
「綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有間敷次第言語道断沙汰」

と述べたとあります。「綸旨を無視した僧侶身分にあるまじき次第で、言語道断」と当初から海岸寺に厳しい目を向けていたことが分かります。
 しかし、前々回にお話しした通り、善通寺が海岸寺を丸亀藩に訴え出たときの丸亀藩の動きは、鈍い物でした。それは、善通寺から見れば生ぬるいものと思えたほどです。多度津藩を通じて、海岸寺に訊問をおこなっただけで、あとは寺社関係については両者で話し合え、それでもダメなら本寺に頼めというものでした。つまり、善通寺が期待したように丸亀藩は動かなかったのです。

 それは丸亀藩の立場からすると、この事件がどういう性質のものかについて理解し、確かな見通しを持っていたからとも云えます。
海岸寺を訴えることを、善通寺に勧めた京都の九条家が言うように「丸亀藩が多度津藩に命じれば解決する」というような簡単なものではないのです。善通寺の言うことを聞いて、丸亀藩が一方的な裁定を子藩の多度津藩に押しつければ、多度津藩との関係を悪化させます。この時期、多度津藩は陣屋建設など丸亀藩からの自立化指向を強めていた時です。それは避けたいところです。さらに、海岸寺に一方的な処断を下せば、本寺の嵯峨大覚寺からの反発・反撃も考えられます。京都の大寺を敵に回すということは、小藩の丸亀藩にとっては避けたいところです。
 そこで直接介人することを避け、一旦は善通寺、海岸寺の京都のそれぞれの本寺に委ねます。
 成果が得られず、事件が再び国元の手に返されてきてから、九亀藩は動き出します。この段階を踏んでおけば、どのような裁断を出そうと嵯峨大覚寺は口出しすることはできません。それだけの見通しを丸亀藩の藩主や家老は持っていたようです。そのため京都での調停が中途半端な物になって、丸亀藩で裁断を下して欲しいという正式文書が届くと動きは迅速でした。
 
  調停に参加していた善通寺の僧侶達が帰ってくると、わずか1ヶ月あまりの間に、善通寺と海岸寺から関係文書を提出させ、聞き取り調査を行った上で、丸亀藩主は上のような原案を作成し、多度津藩に示したのです。藩主自らが判断し、原案を示しています。これは家臣達の動きを促すには最高の推進力になります。
示された三項目の処置案の内容を、改めてみてみると
① 産盥は没収し、本寺の明王院で預かる
② 別館(奥の院)は破棄処分。
③ 屏風浦の呼称は、使用禁止。
④「屏風浦」を彫り込んだ丁石は、役人立ち会いの上で日限を決めて撤去。
と、藩主の主導の下に作られた裁定案は、善通寺の全面勝訴、海岸寺の全面敗訴の内容でした。

通知翌日の10月16日、多度津藩の担当者から連絡があり、多度津藩主が江戸在府中のことなので、いますぐには判断できないとの書添が送られてきます。そして、時を置いて多度津藩主京極壱岐守から九亀藩家老岡織部宛に、裁決案について
「今少し寛大にしてやって欲しい」
との自筆の書状が送られてきます。それを藩主長門守へ見せて、相談したところ
「壱岐守殿がそれほどまでにいわれるのを、聞き入れないのもどうか」

との意向を示します。善通寺のことも大切ですか子藩の多度津藩との関係維持はもっと大切なのです。

 そこで家老は、多度津藩に対して改案を示すように求めます。
その多度津藩の改案が送られてきたのが翌年の文化十四年(1817)の春3月23日のことです。それを見てみましょう。
  
本家丸亀藩領内の善通寺村誕生院と大師誕生所の件について、
誕生院から京都本山表へ提訴されたことについて本山嵯峨御所から裁断書を頂きました。綸旨院宣に差障さわる事項について恐れ入ると共に、今後は誕生所と紛らわしいようなことのなきように、次のように申し渡したいと思います。

一 産盥については、御本家の長門守様(丸亀藩主)のから思召しをうけて、新堂を新たに建立したり、関連祭事を行うことはさせません。又生盥と称する石器は、年久しく伝来するというのは後世の作り事なので、参詣者を迷わせないように今後は、人に見せないように保管管理します。(没収回避)



一 建石(丁石)については、根元は道しるべの事で、御本家様から指摘された通りにいたします。すでにあるものについては「屏風ケ浦」の文字を削り、「白方海岸寺道又者白方道」と彫替ます。あらたに建立する場合は、「屏風浦」は決して使いません。

一 別館については、御本家の長門守様(丸亀藩主)の思召をもて「誕生地」と称することは決して行いません。(その代わりに撤去回避)
 これらのことについては、海岸寺はもちろん、本寺の明王院にも心得違いのないように言い聞かせます。
以上。                月  日
これに続いて、明王院と海岸寺から謝罪と恭順の意が次のように記された書状が入っています。
以手紙中達候、然者                     北鴨村 明王院
右末寺海岸寺と誕生院差縫一件二付 此度嵯峨御所から被仰渡御利解書通二而者、綸旨院宣二差障候趣、是迄不心付候段不念之至二候。依之御呵被仰付候。
                                                      白方村海岸寺隠居 快道
右者産盥堂再建、世上へ令流布候勧進帳等之義ニ付、誕生院から被申立 綸旨院宣二差障候趣、此度嵯峨御所ニおゐて御利解書を以被仰渡、彼是両 御上江奉掛御苦労候段不届之至候。依之急度被仰付方茂有之候得共、両本山から事穏之御沙汰茂御座候、格別之御慈悲を以慎被仰付置候。
以上の誓約書を受け取った上で、裁断が次のように下されます。
①明王院と海岸寺はお叱り、海岸寺隠居快道は、謹慎
②産盥は参拝させることは禁止されたが、没収は免れた
③産盥堂は「再建」としては認められないが、新築としては許された
④屏風浦の称号も、単に屏風浦と称することは禁じられた。しかし、頭書きや肩書きは許された
内容的に見ると、先ほどの丸亀藩主が示した素案と比べると、非常に寛大な処置に変更されたという印象を持ちます。善通寺としては、藩主裁定案では「全面勝利」の内容でしたが、最終的には押し返された無念の結果と云うべき内容かも知れません。それでも「大師母公別館菖跡」の称号は禁じられ、
「綸旨院官.差障候條奉相憚、向後誕生所と馴紛敷儀無之様急度相守可申事」

と、根本のところは、押えられています。
  結論から言うと、最終段階での多度津藩領主からの政治的な圧力が効果的であったということになるのでしょうか。以前にもお話ししたように、小藩の多度津藩にとって、経済的な発展のためには多度津港への人とモノの誘致が政策目標のひとつでした。そのために海岸寺が掲げる「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、金比羅詣客を多度津に呼ぶ込むための有力な集客アイテムと考えられていた節があります。つまり、藩は密かに海岸寺の動きを承知し、支援していたことがうかがえます。
 そのような中で、海岸寺を見捨てるわけには行かないという事情もあったようです。海岸寺の集客戦略は、大きなダメージを受けますが息の根を止められた訳ではありません。根強く残る「弘法大師生誕地=多度津白方」説に惹かれて、その後も多くの参拝客が海岸寺の奥の院を訪れたのです。
 今、奥の院を訪ねると、その規模の大きさにびっくりします。
今は奥の院は、四国霊場の番外札所となっていますが、参拝者は決して多くはありません。最初にここを訪ねたときに不思議に思ったのは、なぜこれだけの規模の寺院がここにあるのかということでした。同時に、産盥や産盥堂、産井などの旧蹟らしきものはあるのですが、それを説明する看板はありません。今の四国霊場には、由縁や由来を説明する説明版がいっぱい立っているのに、それが全くないのが謎でした。
しかし、善通寺市史を読んでいて段々と分かってきました。
先達達が口頭で、流布できても文字に書いては「弘法大師生誕地=多度津白方」を主張することは、この争論以後は禁止されていたのです。
 それなら海岸寺奥の院は衰退したかと云えば、ある時期までは相当な信者を集め続けていたようです。次回は、争論が決着した後に「弘法大師生誕地」というキャッチフレーズを封印された海岸寺がどのように生き残りをかけた神社経営を展開していったのかを見てみることにします。
以上をまとめた置くと
①「弘法大師誕生地」を称した海岸寺は、善通寺誕生院に訴えられた
②海岸寺は、善通寺に謝らず反論したが京都での裁定の場に引き出された
③海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力によって「全面敗訴」は避けられた
④「屏風浦の呼称」「産盥」「別館(奥の院)」については、地元の藩主が裁定を下すことになった
⑤丸亀藩主は当初から海岸寺に厳しい目を向けており、海岸寺全面敗訴案を多度津藩に提示した
⑥多度津藩藩主は、それに対して「もう少しお手柔らかに」と親書を送った
⑦その結果最終案は、海岸寺に対して寛大な措置となった。
⑧これは「多度津藩」+「本寺の大覚寺」という政治力を背景にした海岸寺の底力を示したものでもあった。
          以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

 前回は金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」流布・信仰センターとして白方奥の院の整備を進めたこと。それに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に対して「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴したこと。これに対して海岸寺は、自らの主張を譲らずに、調停は行き詰まったことをお話ししました。
 丸亀藩の指導を海岸寺が受けいれることはなかったのです。海岸寺は多度津藩に属していて丸亀藩の主権が及ぶところではありませんでした。
こうなると、善通寺に残された道は、海岸寺の本寺に訴え出て適切な指導をお願いする以外になくなります。
海岸寺の本寺とは、京都嵯峨の大覚寺で超大物寺院です。善通寺が直接交渉できる相手ではありません。善通寺も自分の本寺を通じて、交渉を行うことになります。善通寺の本寺は同じく京都の随心院でした。しかし、本格寺と随心院では格が違います。政治力がまるでちがうのです。例えば、大覚寺と随心院は同じく門跡寺とは言っても
①大覚寺は法親王が住職される宮門跡
②随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡
です。その教団規模も、大覚寺には井関、野路井(二軒)衣笠、三上など十数軒の坊官がいますが、随心院には本間、芝、岡本、長尾の四軒があるだけです。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が多いのに比べて、随心院末寺は善通寺以外にはありません。讃岐国内での影響力も大きな格差があったのです。善通寺には、
「本寺の随心院に頼んでも、嵯峨(大覚寺)と対等の話い合いができるわけでない」

という諦めというか歎きもあったようです。大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が通じるだろうかという疑念でもあります。逆に、海岸寺からすれば本寺同士の交渉ならば、大覚寺が悪いようにはしないという目算もあったようです。ある意味、大船に乗っていられるということでしょうか、それが分かっていたので、海岸寺は国元での善通寺の要求を強く拒むことが出来たのかもしれません。ここまでは、海岸寺の「読み勝」になるようです。
さらに、随心院と大覚寺の間には、善通寺をめぐって古くから反目する気持があったようです。
 それは大覚寺の後宇多法皇が、それまで荒廃していた善通寺の堂塔修理のために、多くの供養田を寄進しました。そのため大覚寺門跡が代々善通寺別当を兼任していたのが、暦応四年(1311)の勅裁により、善通寺が大覚寺を離れて随心院の所属となります。大覚寺には、善通寺を随心院に奪われたという気持ちがあったようです。古いことですが僧侶達は、このような経緯をきちんと学習しています。このため交渉に出てきた大覚寺の僧侶達の中には、随心院や善通寺に対して反感を持つ者もいたようです。

海岸寺との交渉経過は、当事者の詳しい記録が善通寺に残っています。それが善通寺市史に載せられています。
それに従って京都での交渉経過を見ていくことにします。
 文化12年(1815)の末に、京都で本寺同士の随心院と大覚寺の交渉となり、智積院が仲介に入ることになります。善通寺からは、子院の観智院、玉泉院、行願院などが上洛して智積院に滞在します。ここを拠点に、情報収集や関係有力寺院への支援要請を行っていきます。どんな情報が入っていたのかを一部紹介します。
  交渉経過   1816年
1月21日、嵯峨の坊官三上民部が善通寺の交渉団が滞在する智積院に来て、次のように言い残していったと記します。
「誕生所という名目は差止めます。しかし、産盥のことは、御住職のお頼みだから、せいいっぱいやってみるけれども、止めさせられるかどうか分らない。そのうち、明王院、海岸寺が上京して、光照院まで掛合に来ることでしよう」

27日、観智院、三泉院が九条家へ参殿。芝氏とゆるゆる相談。また二条家の人江五郎右衛門方へもまいる。
28日、行願院、玉泉院、所用に付、大坂へ下る。高野へも登山のつもり。
2月朔日、行願院、玉泉院が高野登山。智蔵院に相談して、京都で片付かない場合は、高野山に御厄介をかけることにになると思うので、前もってお聞さおき下さいという意味の「口上書」を、年預坊に差し出す。
2月12日、伊賀国の諦仁師、四国巡拝の途次、善通寺を訪ね、香山と会談、一件について次のような意見を述べる。
江戸の公裁になれば海岸寺は流罪、軽くても追放だろう。このことを海岸寺側の者によく言い聞かせたなら、早く折れて来るのではないか。建石も海岸寺が勝手にたてたものだから、領主に断るまでもなく、本山から言い聞かせて取払うことができるのでないか。嵯峨に、正気があるなら江戸へ出る気遣いはない。

五月朔日 秀明師が次のように伝えます。
「明王院と海岸寺は、産盥のことでは、善通寺の言うことを聞く考えは全くない、『江戸へ出てでも争う』と言っている」

以上から分かることは、大覚寺の支援を受けた海岸寺が石器(産盥)に関しては、決して譲れないと踏ん張っていることです。
今風に云えば「弘法大師生誕地」という「商標」が認められなくなれば、その商標が使われていた商品も販売できなくなるのが当然の法解釈ですが、仏教界ではそれが通らない社会だったようです。

 例えば次のような京都仏教界の空気を示す記録が残されています。
 文化12年(1815)の末、善通寺交渉団の滞在先である智積院に、東寺のすぐ側の隣の実法院が見舞いに来て、次のように話します。
此度之一件、京都二而御落着被成候時ハ、兎角京ハ物件キレイニ不被成候而ハ不宜候。先ツ御勘孝可被成候。江戸工事卜申物ハ誕生院之御格式二而江戸詰メト申時ハ、物入一ケ年百五十金位ハ費べ可申候。其上随分早ク御裁許御座候所、二年ハ掛り可申候。然ル時ハ三百金ハ手軽ク入可申候。其金子之半分位営院エ入候得ハ、手際キレイニ出来可申与奉存候。拙老杯茂毎度江戸掛り合二者参候事故、馬御心得御噂中候

意訳すると
 京都では何でも金を使わないと、物事はきれいに治まらない。江戸での裁定になれば、滞在費だけでも大変で、善通寺の格式からすれば一年に一五〇両の出費になる。早くすむ時でも二年はかかるだろうから三〇〇両、その半分を私方へ納めてくれたら手際よく片附けてあげます

と持ちかけられたようです。それを玉泉院は、日記に何でもないことのように書き留めています。これが当時の「仏教界の相場」であったようです。

 また、争論に決着が付いた後の文政元年(1818)4月16日 に、お世話になった京都の関係者のお礼に、玉泉院が出向いています。たそして、宿舎となった智山へ銀子10枚と進物品を届けています。
また、一条家佐々木大監を訪ねると、大監は、次のように云ったようです。
御礼銀は、上様へは銀二〇枚、外に諸大夫五人、用人二人、六位一人、これらは重役だから相当のお礼が必要だし、下役、奥向の女中などへも心付けをするのでないと、私はようお世話しない。善通寺ではどう考えているのか」

と言う対応ぶりです。そのくらいは持ってこいという言い方のです。玉泉院は「この頃、寺では色々物入り多く、そうそうはお礼銀も差し上げられない」と断っています。京都では金と政治力が幅をきかすことを改めて学んだ善通寺の僧侶達だったようです。 
 幕藩体制のなかで、寺院は土地人民を治めてゆく支配機構の末端組織でした。それは為政者の側に立ち、大小さまざまの世俗的な権力と冨を持っていました。そのために本来の使命である仏法の護持ということを忘れて、実際的な利益に走る気風が京都ではより強く働いていたことがうかがえます。
 事件を金で片附けるという考えは、善通寺の側にもあったようです。
当時、善通寺に香山という老僧がいました。善通寺所蔵の古い書付類から先例を探し出して、書式など考えるのも香山の役目でした。京都滞在の観智院や玉泉院に手紙でいろいろと先例や意見を書き送っていて、それは事件の進展に大きな影響力を与えたようです。世間的な経験も豊かで、末寺の住職達からも信頼されていました。その香山が京都滞在中の観智院と華蔵院に宛てた手紙が残っています。
 嵯峨御所御寄附物と云事、世上の人々如何可有哉と万茶羅、天真沙弥等毎度申出事二候。是も尤なる事に候。しかし、うまうまと行く事ならば、夫れも不苦、七十五日也。
 尤合戦中二ヲ持込候事者、先達而桃陽(出釈迦寺)被中候通、温屯之跡の蕎公切にて、馳走ニハ不相成候。且又此方之腰ヨハク相見へ可申候

意訳すると
「うまくゆくなら、嵯峨へ金を送って事件を善通寺の考え通りに運ばせるのもよいと思う。人がどうこう言うのも、諺どおり七五日だけだと思うが、今は交渉の最中だから、こんなときに○(金)を持込んでも効果はなく、そのうえこちら側の腰が弱いと見抜かれてしまうだろう」

と、饂飩(うどん)と蕎麦に掛けて「金」での解決の方法も示しています。善通寺の側からは、大覚寺がこの交渉を通じて「和解・調停金」を求めているために交渉が長引いていると察していたことがうかがえます。
 交渉に進展がなく、滞在は長引きます。しかし、打切ることも出来ません。
仲介に入っている智積院は、善通寺が破談を主張しても、それをそのまま大覚寺へ通告することはしてくれなかったようです。交渉が長引くにつれて、こちらに向いては善通寺の立場を理解している態度を示し、同じように嵯峨へ向かっては嵯峨の言い分をもっともだと言っているのかもしれないと、善通寺の使節団僧侶たちは疑うようになります。
8月29日、三宮寺と玉泉院(善通寺子院)が智山へ出向き次のように申し入れます。
「きっぱり破談にしたい。嵯峨からの書付は、みながみな海岸寺の申出ばかりを書取り、善通寺から差し出した書類の趣は全く取入れられていない。このようなものには到底請書できない」

「もはや破綻にする外ない」との立場を貫くと、9月5日に妙徳院がやってきて、
「今になって破談というのでは、智山僧正をはじめ、我々も面日を失うことで困ってしまう」

と泣きついてきます。しかし、善通寺としても嵯峨(大覚寺)の提示案では、同意できないことを改めて強く伝えます。そこで調停者の立場も考えて、嵯峨から来た案については、善通寺では知らぬ体にして、なんとか破談だけは取り止め、調停者の面目が立つようにすることになります。こうして、調停書(口達之覺 )を受け取ります。
その内容は次の通りです。
口達之覺    (意訳)                           
昨年12月に、弘法大師御誕生所について差障の件について、小野御殿への書付をお届けした所、当山の僧正承之は気の毒に思い、穏便に取りはからうように小野御殿へ伝えられ、相手方の本山である嵯峨御殿へ取り次ぎました。この度、嵯峨御殿から海岸寺並びに本寺明王院をお呼びになり、次のような決定を伝えました。
一 縁起  一 勧進帳  ― 建石之事   
一 船問屋から差出候案内切出之事
に関しては、國元の丸亀藩に願出ること
一、御誕生之霊跡  一、御降誕生之霊地  一、御初誕之地 
一、御産生所
以上の八ケ條については、海岸寺の使用を差し止めるように申しつけました。
一別館之事  一、産盥之事  一、屏風浦之事
以上の三ケ條については、国元に関わることでなので藩主の裁断を仰ぐように指示しました。決定は以上の通りです。このことについて、ご承知ください。
以上。
文化十三年間八月           智山鑑事 妙徳院 印
讃州 善通寺 御役者中

上の8項目については、使用差し止め処分となりましたが別館之事 、産盥之事 、屏風浦之事」については、国元のことなので藩主の裁断を改めて仰げということです。海岸寺としては、ある意味納得できる内容であったと思われます。しかし、善通寺にとっては何のために京都までやって来たのかという思いの方が強かったかもしれません。
 しかし、後は丸亀藩に任せるほかないのです。
お世話になった関係者への挨拶とお礼を済ませて、高瀬舟で京を去ります。
こうして、、厳蔵一行を乗せた下津丼船が九亀西川口へ着船したの9月22日、夜九ッ時のことでした。その夜は、一行は福島北渚亭に泊まり、翌日に、丸亀家老や寺社奉行など関係者に帰国・経過報告をしています。 
ここから丸亀藩に任された「別館・産盥・屏風浦呼称」の3項目についての裁断に向けた準備が始まります。丸亀藩は、どんな判断を下すのでしょうか。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 



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多度津白方

以前に、善通寺以外に「弘法大師誕生所」と名乗る寺院が多度津白方に現れ「多度津白方=空海誕生地説」を流布するようになったことをお話ししました。そこには中世から近世初頭に弥谷寺を中心に活動した高野山系の阿弥陀信仰・念仏行者たちの影が見えました。彼らが白方のお堂を「仏母院」と改称して流布していたようです。その後、弥谷寺が善通寺の末寺になってからは、弥谷寺や仏母院による流布は一時的に停まります。広報拠点がなくなったからでしょう。しかし、庶民信仰として「多度津白方=空海誕生地説」は根強く広がっていたようです。
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 その信仰を参拝者獲得に積極的に活用しようとするお寺が出てきます。それが海岸寺です。18世紀末頃から海岸寺は「多度津白方=空海誕生地説」を再び流布し、奥の院を空海生誕地として売り出そうとするプロジェクトを開始するのです。
 これは善通寺誕生院にとっては、放置することの出来ない事件です。海岸寺の「第2の空海誕生地」設置計画を止めさせようとします。ここに善通寺と海岸寺が「空海生誕地」をめぐる争論がおきます。それを追って見たいと思います。
テキストは次の二冊です
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻       昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年
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海岸寺奥の院

18世紀後半頃から海岸寺は、次のような由来を主張するようになります。
海岸寺奥院は弘法大師母公の実家があった所で、白方の三角寺仏母院が母公別館である。大師は海岸寺奥院産盥堂で生まれ、その時の産湯に用いたのが石の産盥(うぶたらい)である。

この由来に基づいて、「多度津白方=空海誕生地説」を流布するための信仰・広報センターとして奥の院を新たに建立し、その目玉に空海が生まれた時に使った「産盥」をセールスポイントにした広報作戦を展開し始めます。

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 海岸寺奥の院 産盥堂の産湯井戸
産盥堂再建(実際には新築)の勧進帳の表紙には
讃州白方屏風浦産盥堂再建勧化帳。経納山海岸寺
 
その勘化文には、次のように記します
  夫れ吾海岸寺なる奥院の御影堂は、弘法大師降誕ましませし霊場なり・・・其の洗盥(うぶたらい)なるは、三業諸垢を清めて、現富の益日々新なり・・、
          文化乙歳季夏    現住職  快道誌
 奥院には、産盥堂と染め抜いた幕や雪洞をかかげ、正面に大きな地蔵を建立して、台座石に産盥堂再建と刻します。また産水井(ウブミズノイ)。浴巾掛松(ユテカケノマツ)という立て札を建てます。納組帳には「弘法大師御産生之所也」と書きます。

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海岸寺奥の院の産水井(ウブミズノイ)

 さらに寺への参拝道の要所要所の岐路には「屏風浦道」や「奥院、産盥堂へ何丁」という道しるべを建て、寺の前には「屏風浦」といふ建石を立てます。

このような海岸寺の動きを放置できなくなった善通寺は、次のように丸亀藩に訴えます。
①寛政10(1798)頃、奥州の回国行者金作という者を召抱え、大師御夢想の灸治というのを始めた。しかし、これは不人気で一年ばかりで止んだ。                                  
②「大師御伝記」という書物を、版元は土州一宮(高知一宮神社)ということにして、海岸寺で印刷して売り広めた。この本は空海を「大師ハ讃岐国白方屏風浦猟師とうしん丈夫の子也」として、空海の父を「漁師のとうしん」とする偽書である。しかし、土地の人はよろこんで読み、文句を空で覚えているほどである。
③海岸寺の地名を屏風浦と称し、所々に「屏風浦道」「奥院、産盥堂へ何丁」という建石を立てた。
④白方屏風浦絵図を印刷して「大師降誕之霊地」と書いて売り広めた
⑤二間四方の辻堂のような堂を産盥堂と名付け、箱に入れた石器をかざり、十二銭で旅人に拝ませている。
⑥二間四面の堂を三間四面に立て直し、さらにその前に、二間と六間の礼堂を唐破風付に建てようと計画している。
⑦池を掘って産井と名付け、やはり「勧進帳序」にその功徳を書き立てた。
⑧松を植て浴巾掛(ゆやかけ)之松と称した。
⑨新しく掘った池の近くに子安観音といって菩薩の形にして幼兒を懐いた石像を作り、大師の母君が大師を懐く尊像だと言いふらした。
⑩寛政10(1798)頃に彫刻した大師の童形、御両親の尊像を、礼堂に安置した。
⑪諸国から参拝客が乗り降りする多度津の浜へ建石を立て、大師誕生像に白方屏風浦と記した産盥堂道案内を乗船客に配布するようになった。
  ここからは、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」を流布し、その信仰拠点センターである奥の院の整備を急速に進めていく様子がうかがえます。
どうして18世紀の後半になって、このような動きを展開するようになったのでしょうか。当時の金比羅さんとの関係で見てみましょう。
①18世紀半ばに大坂からの金比羅船が就航し、金比羅詣客が急激に増加します
②18世紀後半には、それに応えるように金毘羅さんのお堂や施設、石段や玉垣、そして街道も整備されます。
③金毘羅さんの周辺の宗教施設は、金比羅参拝客をどのようにして自分の所へ立ち寄らせるかの算段を考えるようになるのがこの時期です。善通寺や弥谷寺の境内整備計画は、その一環として捉えることができることを以前にお話ししました。そして次のような集遊コースが形成されるようになります。 
丸亀港 → 金毘羅さん → 善通寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 丸亀港

金毘羅さんにやってきた、参拝客の多くがこのルートで動き始めます。19世紀に始めに十返舎一九の弥次喜多コンビもこのルートを巡っています。
 海岸寺としては、弥谷寺から白方へ参拝者を導入するためには強力な「集客力のあるアイテム」が必要だったのでしょう。そこで目を付けたのが1世紀前に、弥谷寺や仏母院が流布し、その後に取りやめられた「多度津白方=空海誕生地説」だったようです。これをリニュアルして流布するようになったのです。その拠点として新たに整備されたのが、海岸寺奥の院のようです。

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1815年5月24日 善通寺は海岸寺のやり方を九亀藩へ訴え出ます。それに対して、6月22日 海岸寺から多度津藩へ返答書が差し出されます。どんな返答書なのか見てみましょう。
  海岸寺返答書
一 誕生院は大師御誕生の霊場であることは綸旨院宣から明らかなことは、承知しております。
二 富寺(海岸寺)は往古からの寺説に次のように記します
 「大師の母公が海岸之景色を、常に愛し、この浦に別館を構え、時々遊覧することがあった。あたかも六月十五日の炎天の日に、この別館で大師を降誕されたので、その聖地に一宇を構え、御母公が愛する所ゆえに海岸寺と名付けた。その後、これを信じる者達が、その徳を慕って石を割て産盥を作り、池を掘って産井と名付け、松を植て浴巾掛松と称して、大師初誕の地と呼んできた」 これが古くからの伝来です。

三 産盥堂の再建については、先達の勧進僧の願いを受けて取りかかり、ほぼ完成しています。この勧進方法などについては先達達が自主的に運営していることで、海岸寺は指図していないのでよく分かりません。
 誕生院が産盥堂と申すこの度の建物については「再建」であって、見分して頂ければ分かる通り古来よりあったものです。新しく建立したものではありません。
四 勧進帳に「御誕生之霊場」と記載されていたのも、大師旧跡再建の方便で古くから用いていました。寺説にも往古から「初誕之地」と称してきました。
五 弥谷寺の境内の建石(丁石)のことは、当寺のまったく関与していないことなので分かりません。
六 屏風浦の称号については、古来よりそのように称してきました。旧記にも屏風浦と記しています。それのみならず白方村でも屏風浦と呼んでいます。古い地理では、筆山の麓までも入海であったと伝えられます。また、天霧山の麓の辺りも屏風浦と呼ばれていたと云います。当寺辺りも屏風浦の分内になるのではないかと愚案します。
七 産盥についての善通寺の批判には納得がいきません。これについては、先述した通り古来より寺説にあることです。
亥六月                                     海岸寺

最初に確認しておきたいのは(一)で分かるとおり、海岸寺も「誕生院は大師御誕生の霊場」であることは認めていて、これについて争うつもりはないということです。そのうえで、海岸寺が主張する「寺説」を、どこまで承認するかということが争われることになります。
そして、目にかかるのは善通寺の提訴について強気の反論を行っていることです。最後の方は、「確信犯」とも見える開き直りぶりです。これだけ強気になれるのは、どうしてか私には疑問に思えてきます。それは、追々見えてくることなので、先を急ぎます。
この海岸寺の返答書は、8月19日には、次のようなルートで善通寺に写しが届けられています。
海岸寺 → 多度津藩 → 丸亀藩 → 善通寺 

写しが届いた日に、万福寺、曼茶羅寺、出釈迦寺が善通寺へ集り、海岸寺への反論(再質問状)を作成しています。この問題に対応したのがこの3つの住職たちであったことが分かります。それでは、彼らが作成した反論書を見てみましょう
海岸寺の答書を受けて
1 綸旨院宣等が善通寺にあるにも関わらず、(海岸寺)が「弘法大師生誕地」や「屏風浦」を古来の寺説にあるからと主張することについて
 これは世間の俗説であります。もし仮に古書にそのように書いてあっても綸旨や宣旨に反することは認められません。誕生地がふたつあるはずがありません。また海岸寺が反論書で挙げた根拠史料も妄説で信用なりません。大師降誕之霊場と主張することは、宣旨を軽視した行為で、とうてい認められるものではありません。強く彼地を御誕生所と主張することは 綸旨院宣並びに数百年前からの古い撰述を無視することで、そんなことをすれば海岸寺は信用できないことになります。海岸寺の考えを、今一度お聞き頂きたいと思います。

2 産盥堂は再建であり、新たに建てるものではないと海岸寺は主張しています。しかし、我々は新設・再建のことを言っているのではありません。この建立についての勧進帳序文の不都合を申し立てているのです。

3 屏風浦の称号については、海岸寺は古くから称してきたし、旧記も書かれていると言います。誕生所の証拠もあるという。それならば、確認のためにその旧記の年代を教えいただきたい。追って詳細は伝えます。
4 海岸寺の返答書の中で、屏風浦の地名は旧記に書かれていると主張します。その寺説と由来について申し上げたい。善通寺には綸旨や院宣の中に屏風浦と明記されています。それに対して、海岸寺は我々善通寺に寺説にあるからと反論しています。これには、天地ほどの隔たりがあります。
海岸寺の寺説というのは、信用がならない史料で、偽造・誤り数多く見られます。そのため近郷を始め他國からもこれを疑う人々が数多くあります。そのため海岸寺は「菖跡之実 否不分明候様成行可申哉」と言い出す始末です。このような様を察して、呉々も賢明な判断を出して頂けるようにお願い申し上げます。以上。

これに対して、11月に海岸寺から、屏風浦の名称は、世俗一統住古より称し来たことで、生駒家寄附状にも屏風ヶ浦と書かれているなどの返答書が出されます。また、海岸寺の本寺明王院(道隆寺)が上京し、本山である大覚寺との対応協議と、支援の取り付けを行ったようです。海岸寺に「悪うございました」と謝る姿勢は見えません。臨戦態勢を整えていくようです。

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  こうした中で12月8日 多度津藩家老畑六郎・林勝五郎から、九亀藩岡織部宛に、書状が届きます。そこには
「藩としてはこの度の件について掛合(調停)を離れ、善通寺と海岸寺の本寺明王院(道隆寺)とで話合をさせるのがよいと思う」

という内容が書かれていました。
多度津藩には海岸寺の行為を強く罰するという姿勢は見えません。
海岸寺の「「多度津白方=空海誕生地説」流布プロジェクトを、見て見ぬ振りをしながら影では支援していた節もあります。
 多度津藩は丸亀藩から分離独立した1万石足らずの小藩で、お城や陣屋を持たずに本家の丸亀城内に「寄宿」してきました。ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。若い林求馬時重を家老に登用し、藩政の改善・丸亀藩からの自立化を進めようとします。その手始めが藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って一時的に中断します。善通寺と海岸寺の争論が起きているのは、ちょうどこの時期になります。
 多度津藩は小藩のため家臣団と地主・有力商人、僧侶が密接に交流し、その身分の垣根が低いのも多度津藩の特徴であることは以前にお話ししました。ここからは小説風になります。海岸寺の進めるプロジェクトを、家臣団や重臣達が知らないはずがありません。特に家老の林家は白方の奥に別邸をもっています。その行き帰りに、海岸寺の前を通ったはずです。海岸寺の住職と懇意であったことも考えられます。海岸寺のプロジェクトに対して、了解し密かな支援を送っていたかもしれません。このような状況証拠からすると、多度津藩に海岸寺の行為を罰したり、停止させたりすることはさせたくないという意向があったような気がします。もっと云えば金比羅詣での参拝客が「弘法大師生誕地=多度津白方海岸寺」にも立ち寄ることは、多度津港の発展につながり、ひいては藩の経済力向上にもなる。そのためには海岸寺を守ってやらねばならぬという気持ちの方が強かったのではないでしょうか。

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海岸寺奥の院
 善通寺は九亀藩内にあり、海岸寺とその本寺明王院道隆寺は多度津藩に属していました。
もし、海岸寺が九亀藩内にあれば
「僧侶之身分二有間敷次第、言語道断沙汰之限」
と判断した藩主の考えで、すぐも罰せられたかもしれません。しかし多度津藩の寺であるために、九亀藩の意向もそのままには通用しません。どちらにしても多度津藩は、これ以上は調停・解決へ介入するのは避けたいと丸亀藩に伝えてきたのでのです。
12月12日、このような多度津藩の意向を丸亀藩寺社方から伝えられた善通寺は、関係者会議を開きます。
 招集されたのは末寺の甲山寺満願、観智院兼万福寺光顕、曼茶羅寺光海、出釈迦寺百光、宝城院戒珠、歓喜院光馬、九品院仁全、吉祥寺兼持宝院快心、法楽寺寅了、万恒寺大智等です。善通寺の重要な決定については、末寺院に諮問されていたようです。
 その会で明王院と海岸寺が何の返事もしないことに対して、今後の対策が話し合われます。そしてこれ以上、丸亀藩に厄介をかけるのは申し訳ないので、本山随心院へお願いして、早く決着をつけるように善通寺へ進言します。
 一方、多度津藩の意向を受けた九亀藩からは、この問題解決のために海岸寺の本山明王院と直接掛け合うようにと通達されます。これを受けて善通寺は、使僧を明王院へやりますが
「住職は、播州竜野法帷院へ出かけており、いつ帰院するかは分らない」

という返事でした。明王院道隆寺は、善通寺との直接の協議を避けていたようです。

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海岸寺奥の院
 もう一度事件の経過を振り返って起きましょう
海岸寺を訴えることになった契機は、九条家の家人の次のような申し出でした。
  海岸寺の行為をこのままにしておいてよいのか。このような行為を聞けば京都の本寺嵯峨大覚寺でも、これをそのままに捨ておくことはあるまい。九条家へ申し上げ、九条家から丸亀藩へ頼んでやめさせたらどうか。

 ここに九条家が登場します。九条家は金毘羅の金光院の山下家と名義上の姻戚関係を持つようになり、なにかと金毘羅さんの運営にも口出し、経済的な見返りを要求するようになっていました。金毘羅さんの富くじ開催などはその典型です。問題が発生すると、調停を買って出て礼金をいただくという家人たちがいたようです。
 その助言に従って、丸亀藩に訴え出て、丸亀藩から多度津藩に依頼して、海岸寺の行為を止めさせようとしたのでした。ところが海岸寺は素直に謝罪せず、反論してきます。多度津藩もそれを罰せようとはしません。丸亀藩も、多度津藩は子藩ですが、他藩のことなのでそれ以上の介入は控えたいので、この時点では強権発動には至らず、善通寺と海岸寺の直接の話し合いで解決せよと投げ出した形になります。しかし、善通寺が海岸寺に話し合いのテーブルに着くように求めても、海岸寺は応じないのです。
  当初は九条家の云うように、九亀藩の命令ですぐ解決するものと善通寺は考えていた節があります。しかし、予想しなかった方向に事態は進み、地元では解決できず、舞台を京都へ移し、交渉は2年の歳月がかかることになります。しかもその解決は、善通寺にとっては納得のゆくものではなかったようです。

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海岸寺の不動明王

 これだけ海岸寺が徹底抗戦できたのは、当時の金毘羅参拝客の誘致という多度津藩の政策目標の一環として、海岸寺の進める「多度津白方=空海誕生地説」が位置づけられていたからという気がします。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

 善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか

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善通寺伽藍について 

善通寺の伽藍は、
①古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、
②弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院
の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。

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西院は永禄の戦火で焼けたのか?

善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本陣となります。そして、駐留した三好實休軍の退却時に全焼したことが伝えられています。善通寺の近世は、この被災からの復興の歴史でした。
 その際に、東院の金堂と五重塔の復興に関しては、よく語られるのですが、西院の誕生院伽藍の整備については、あまり知られていません。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
元禄2 年(1689)刊行の『四国徧礼霊場記』に
「西行・道範の比まではむかしの伽藍ありときこへぬれども、今はその跡のみにて.」
「永禄元年兵乱之節 大師御建立之伽藍十八宇多分焼失仕候、其後代々住僧等勧誘之力ヲ以金堂・常行堂・鎮守神祠・御影堂以下漸々致再興」
などと、主要堂塔焼失を伝える文書もありますので、基本的に東院は全焼したようです。しかし、綸旨院宣等の重宝が焼失の免れていることや、本坊(西院)については火災に遭わなかったと考える研究者もいます。この説に従えば、近世初頭の善通寺伽藍は、焼け野原になった東院と、中世以来の建築が存続していた西院とから成っていたといえます。
 
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         善通寺の東院と西院 手前が西院
西院はどのような過程を通じて、現在の姿になったのか?

それは善通寺の中世寺院から近世寺院への脱皮でもありました。
元禄年間より貨幣経済が進展し、地方の大寺院が藩から与えられた寺領収入だけでは経済的に立ち行かなくなって行きます。寺務運営や伽藍修造の財源を民衆の財力、つまり人々のもたらす賽銭・ご開帳に求めなければならなくなります。そのために多くの参詣者を受け入れるための工夫が求められるようになります。

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善通寺西院
なぜ御影堂が大型化していくのか?

 善通寺の西院伽藍では17 世紀に2 度建て替えられた御影堂は、方三間から方五間、方五間から方六間へと、規模を拡大していきます。方六間となった際には、本尊の弘法大師御影を安置する場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。そして、19 世紀前期の建て替え時には方八間規模へグレードアップするのです。
 同時に、17世紀には西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げています。それに引き続き18 世紀前期には、御影堂前に参拝者の増大に対応するための拝所と回廊が設けらます。さらに18 世紀後期には西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置されます。また、十王堂(18 世紀後期)、親鸞堂(19 世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実が次々と行われるのです。
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        善通寺東院と西院の絵図
御影堂の大型化とその前の空間が拡げられたのです
 こうして「新御影堂」が大師信仰の核に位置付けられます。そして御影堂を中心に、参詣空間が整備されていきます。 御影堂は、19 世紀前期の建て替えを経てさらに巨大化します。そして近代には、護摩堂・客殿が建立されます。今の御影堂を中心とする西院の伽藍構成は、17 世紀末まで遡ることができそうです。 

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西院の伽藍整備に生駒藩は、どう関わってたのでしょうか

 生駒藩は、天正15 年(1587)の初代親正(雅楽頭)入封以来、寺領寄進と伽藍造営を通じて善通寺の復興支援を行っています。その際の参考になるのが 下の『西院図』です。東を上にして西院伽藍の建築配置が描かれています。
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  寛永11 年(1634)に西院伽藍を描いた『西院図』の整備計画
 
『西院図』から分かることは? 
①現在進行中の「新御影堂」の修造・整備計画等が朱書で示されていること 
②客殿及び護摩堂の移築計画が描かれていること 
③「古御影堂」と「新御影堂」が生駒藩の有力者の寄進によるものであることが明記されていること 
④弘法大師800 年御忌という大きな節目に際し、御忌当日(3 月21 日)の日付で生駒藩の役人・尾池玄蕃の署名がなされ、善通寺に伝来していること 
が分かります。
 800 年御忌の当日という日を選んで、生駒氏のそれまでの伽藍寄進の実績と、今後の援助計画を明示した図を善通寺へ奉納することで、為政者の立場から、弘法大師信仰の篤さと善通寺を庇護する姿勢を示したものでしょう。もちろんその背景には、有力な地方中核寺院を政治的に掌握し、支配の安定化という思惑もも込めていたでしょう。 
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善通寺においては元禄年間より東院の金堂復興と平行して、西院では御影堂を信仰の中心とする伽藍配置が整えられていったのです。
 
 



 今昔物語 弘法大師修請雨経法降雨語
  今は昔。天下は日照りが続き、すべての植物は枯れ尽きてしまいました。
天皇をはじめ、大臣から一般人民に至るまで皆が歎いていました。そのころ弘法大師という人がいました。
天皇は、弘法大師を召して言いました。
「如何にしたら、この旱魃かんばつを止め雨を降らせて、人々を救うことが出来ようか?」
大師は答えました。
「私の行法に雨を降らす法がございます。」
その言葉を聞いて、天皇は命じました。
「速やかにその法を行うべし。」
大師は、神泉苑で請雨経(しょううきょう)の法を行いました。
七日間、請雨経の法を行っていると、祈雨の壇の右上に五尺くらいの蛇が現れました。
見ると、その蛇は頭上に五寸くらいで金色の蛇を乗せています。
その蛇は、こちらへ近寄ってきて、池に入りました。
その場には、20人の伴僧が居並んでいましたが、
その光景が見えたのは4人の高僧だけでした。

1人の高僧が弘法大師に尋ねました。
「この蛇が現れたことは、何かの前兆なのですか?」
大師は答えました。
「これは天竺の阿耨達智池(あのくだつちいけ)に住む 善如竜王(ぜんにょりゅうおう)が、この神泉苑に通ってきて、請雨経の法の効果を示そうとなさっているのです。」
そうしているうちに、俄かに空は陰り、戌亥の方角(北西)より黒雲が出現し、雨が降ってきました。
その雨は、国じゅうに降り、旱魃は止まったのです。
これ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、
神泉苑で請雨経の法が行われるようになったのです。
請雨経の法が行われると、必ず雨が降りました。
このことは、今まで絶えず行われていると、語り伝えられているのです。

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どこかで聞いたことがあるような・・・。

そういえば・・・そうです。
善通寺の境内の中にありました。
上の写真が善通寺本堂の西側の池の中にある善女龍王社です。
善女龍王 雨乞祈祷」碑が建立されています。

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善通寺は真言のお寺として雨乞祈願の役割が与えられ、干ばつの時には雨乞祈祷が古くから行われてきました。その雨乞祈祷が行われていた舞台がここなのです。この龍王社は、金堂より北西側の方丈池の中に忘れ去られたかのようにポツンとあります。
 この祠については、真言宗の高僧浄厳が、善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子が記された「浄厳大和尚行状記」に、次のように登場します。 
延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、四月二十一日より法華経を講じ、九月九日に満講した。
その夏は炎旱が続き月を越えても雨が降らなかった。和尚は善女龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦したもうこと一千遍、並びにこの陀羅尼を血書して龍王に法施されたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に逗留していた際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されたいます。それが善女龍王のようです。
この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。
調査から貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札が出てきました。それぞれ龍王宮、龍王殿、龍王玉殿と記載された棟札で、最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。国家に公的に認められていた真言の雨乞祈祷法が善通寺にもたらされた時期が分かります。
ちなみに現在の建物は文久元年(1861)に再建されたもので、低い切石基壇上に土台が建っています。わずか一間の本殿と向拝が付いた一間社の平面形式です。見世棚造の向拝部には木造の階(きざはし)が設けられています。柱は角柱。善女神信仰の雨乞い祈願として興味ある建物です。
ここでどんな雨乞祈願が行われたのでしょうか。
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江戸時代の善通寺は、雨乞祈祷寺だった

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められる約八〇件の文書も残されています。そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内善女龍王社で行った雨乞いの記録があります。
それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。それだけ日照りが丸亀平野を襲い、人々を苦しめていたのです。

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空海は、神泉苑で何に雨乞祈祷を行ったのか?

 神泉苑は、京都の二条城南側にあり、かつては二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑でした。桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていました。そして、いつの頃からかこの池にには龍が棲んでいるといわるようになります。
 龍はもともと中国で生まれた空想上の生物で神獣・霊獣の一種です。
中国では皇帝のシンボルでになり、道教の四方神である青龍にも変じました。そして、インドから伝わった八大龍王と習合します。インドの龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るとされました。そこで、雨を降らすためには龍の力を借りることが必要と考えられるようになります。
 さらに平安京を「風水」で観ると、この池は「龍口水」ともいわれ、「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまいます。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だとされました。
 それを知っていて、空海は雨乞をここで行ったのでしょう。
それ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、神泉苑で請雨経の法が行われるようになります。つまり、真言宗による祈雨祈祷が成立し、それが国家規模で各地で展開されていったのです。そういう意味では、今昔物語のこの話は、真言宗の「雨乞祈祷争い勝利宣言」とも読めるのかもしれません。
そして、祈願対象として祀られるようになったのが善如竜王です。

香川県に残る善女龍王は

讃岐の他の寺院でも善如竜王が残る寺院があります
四国霊場本山寺(豊中町本山)は、本堂が国宝になっていますが鎮守堂には左の善女龍王像が安置されています。この堂は墨書銘「天文二年」(1547)が記されていますので、遅くとも16世紀中頃に雨乞祈祷が行われていたようです。
 ちなみに、龍を背負っていない、女性像でないので一見すると善如竜王には見えません。しかし、善女龍王は性別は不明なようです。この像は腰をひねり両袖をひるがえして飛雲上に乗る姿に動きが感じられます。龍に変わる飛雲が雨雲到来と降雨をもたらす象徴とされています。
 また、善女龍王の絵図は多いのですが彫像の作例は非常に珍しい存在で、真言密教関係の像で他に例のないものと評価されています。
像高47.5センチで、製作年代については南北朝時代とされています。

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また、本山寺と関係の深かった威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)にも江戸時代の善女龍王の画幅や木像が残り、雨乞祈祷が行われていたようです。これらにより善女龍王への信仰が民衆にも広く浸透していたことがうかがえます。

 さらに、地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっており、一九世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも聞こえていたことがわかります。 
 このように空海により行われた雨乞祈祷は、その後は、国家による雨乞行事として、各地の真言寺院で行われて行き、その祈りの対象となった善女龍王は雨乞の神様として信仰を集めていったのです。
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