武田明とその著書(多度津資料館展示)
前回は武田明が柳田國男に出会うまでを次のようにまとめました。
①武田明は「多度津七福神」と称された多度津の産業資本家の次男として生まれたこと
②旧制多度津中学から慶応大学に進み折口信夫の下で国文学を学んだこと
③その後、柳田國男の木曜会のメンバーとして各地の調査活動を行い、研究者としての技量やネットワークを形成したこと
④大学院卒業は東京で研究者としての道を歩もうとしたが、兄の出征で讃岐に帰ることになった。
1938(昭和13)年3月、武田明は慶応大学大学院を修了します。そして、地元多度津に帰ってきて、高松高等女学校の教員になります。武田にとつては木曜会や民話伝承の会に後ろ髪を引かれながらの帰郷でだったかもしれません。しかし、それが讃岐民俗研究会の発足につながっていきます。今回は、柳田国男が開いた民俗学が、讃岐で武田明によってどのように根を下ろしていくのかを追いかけてみることにします。テキストは 「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
1930 年前後は,柳田國男が産み出した民俗学が民間伝承の会を中心に,全国の郷土研究の団体が組織化されていった時期のようです。
その一つの例として北九州・小倉で活動した小倉郷土会を見ておきましょう。 この会について重信幸彦氏は、次のように述べます。「知の実践のかたちとローカリティ 『人文学報』第118号 2021年 11 月」(京都大学人文科学研究所)」(要約)
①この会は,小倉の耳鼻科医・曽田共助をパトロンとして,サロンのように開放されたその自宅を拠点に活動していた。
②1935年から各地の郷土研究の運動をオルグし始めた柳田國男と民間伝承の会とも深い関わりを持つようになる。
③この小倉郷土会を柳田國男の側から見ると,あたかも民俗学の九州支店の一つになったように見えるかもしれない。
④しかし,そのローカルな運動のありようを見ると,小倉郷土会の同人達にとって民俗学は,文学、文献史学,考古学などとともに,あくまでも実践の選択肢の一つに過ぎなかった。
⑤同人達は,民俗学に関心を寄せるとともに,しばしば短詩型文学・小説等の実作に関わり,また考古学に関心を寄せた。
⑥そして雑誌『豊前』を発行し,そこを一つの場として小倉に関わる近世資料を翻刻共有し,同人同士の座談記録により互いの関心を登録し,また小倉の幕末維新から明治期の記憶をたどる「古老」たちの声を記録した。
⑦それらは当時の柳田の民俗学の範疇には入らない,しかし小倉郷土会には欠かせない活動実践であった。
ここで注意しておかなければならないのは、「柳田國男の民俗学の全国展開」という視点ばかりで見ると、見落としてしまうものが出てくるということです。この時代の地方には地域には根ざした歴史や考古学・文学などにわたる運動の広がりがありました。そこに柳田たちの運動が着地し、同調者を増やしていったという風に見る視点が必要だと研究者は指摘します。
旧制中学校など地元で中等教育を受け,場合によっては上京して大学まで出て故郷に戻ってくる若者が出てきます。彼らは文字を自在に操る力を身につけた者たちで、仕事を持ちながらも運動を続けていく気力と能力を持っていました。彼らの関心は多種多様で、領域横断的です。そのため地域に分散する知的な人々を結びつけるための一つの方法として、「中央」の人や組織を,自分たちのローカルな運動の資源として使うことも多々ありました。こんな視点に立って研究者は、武田明と讃岐民俗研究会を見ていきます。
兄の友人・和気周一を、民俗学へ勧誘
武田が讃岐に帰ってくる2年前の『民間伝承』第10号に、「三宅周一」の入会が記されています。三宅周一は、後に和気周一として讃岐民俗研究会や香川民俗学会の中心人物の一人として活躍する人物です。彼は、多度津生まれで武田明のお兄さんの同級生で、寺の息子でした。そのため、多度津の名望家同士のぼっちゃん同士で、早くからの知り合いでした。和気の入会については、武田明が和気周一に、民間伝承の会(民俗学)の話をして、それに興味を持った和気が入会したと研究者は推測します。入会後、和気は1937(昭和12)年2月の『民間伝承』に丸亀市中津の末子相続について初投稿しています。これに対して、編集部は次のようなコメントを載せています。
「讃岐に末子相続のあることは初めて知りました。今日学会で色々の意味から重要視されて居る問題です。充分御調査の上具体的な詳細な発表をされることを熱望して居ます(編集部)」
雑誌『民間伝承』への投稿に、編集部からの返信を受ける例は少なかったようです。ここにも武田明の存在が背後にうかがえると研究者は考えています。
須藤功「宮本常一 人間の生涯は発見の歴史であるべし』(ミネルヴァ書房、2022年P279~P281)には、日本観光文化研究所への各地域の協力者が引用されています。その中で四国と岡山県の人名を挙げると次のように記します。
香川県 市原輝士 武田明 和気周一 眞鍋稔徳島県 多田傳三高知県 坂本正夫 橋詰延寿 釣井龍宏愛媛県 森正史 山口常助 村上節太郎岡山県 角田直一 土井卓二 三浦秀宥 佐藤米司
香川県の協力者は4名です。その中に武田明と和気周一の名前があります。ここからは、二人は早くから宮本常一とも協力関係にあったことが分かります。
1936(昭和11)年11月には、塩田茂が民間伝承の会に入会します。
塩田は、『讃岐民俗』第2号で「恵比寿まはしの歌」を投稿しています。これも、武田明の働きかけがあったようです。さらに、後に讃岐民俗研究会の世話人となる川野正雄は、民間伝承の会に入会していませんが、柳田國男から紹介で知り合ったようです。
1938(昭和13年12月『民間伝承』4巻3号では、「民俗語彙の収集を」と題した会員だよりに、武田明は近況を次のように記します。
「当地の三宅(和気)周一君と連絡の上、九月から仲多度、三豊両郡の民俗語彙を採集致して居ります。高松高女では国漢作文を受持ってゐますので、鈴木棠三君の川越高女の例にならひ昔話の採集をやらせて見度いと思ひます。(多度津 武田明)」
ここからは次のようなことが分かります。
①帰郷した武田明が、9月から和気とともに民俗語彙の採集を始める予定であること。
②川越高等女学校の鈴木棠三の実践例を参考にして、高松高等女学校の生徒に昔話の採集を行わせる構想があること
川越高等女学校の鈴木棠三が生徒に昔話の採集を行わせていたことを、木曜会での報告で武田明は知っていたようです。女学生に昔話の採集を行わせるという方式は、丸亀女学校でも行われました。この結果、多くの女性民話採集者が生まれていくことになります。これが讃岐民俗研究会の財産のひとつになっていきます。
同じ号には、香川から「石川知夫」が入会したことが記されています。
石川知夫は、讃岐民俗研究会の世話人をしていた石川和夫の誤植のようです。石川和夫は、「讃岐民俗』第一号で、讃岐民俗研究会発足に関して、次のような文章を投稿しています。
「去る十一月初以来度々武田明君から、座談的に民俗学の話を聴いた。君は中学時代からこの方面に趣味を持たれていたさうだがとても熱心である。そしてただ君自身が熱心であるだけでなく、周囲の人達をその中に溶け込ませるだけの高い熱度を有する。常には無口な君も、談一度び民俗学に及ぶやなかなかの雄弁家である。」
ここからも武田明が帰郷し、讃岐民俗研究会を発足させよううという呼び掛け、座談会に石川が賛同し、民間伝承の会にも参加していく筋道がうかがえます。
研究者は、消印が1938(昭和13)年11月19日付けの武田明が柳田國男に宛てた葉書への柳田の返信(瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)を紹介します。そこには以下のように書かれています。
「會を御作り被成候よし悦ばしき御たよりと存じ候 今月一ぱいなら何か書いて差し上げられさうに候 雑誌及含の名ハやはり多くの人の気分でおつけ被成る候がよろしく候 木曜會の人に相談してもよいが會ハ二十七日には又よいのが見つかるとはきまらず候」
意訳変換しておくと
(讃岐民俗研究会)を発足させるという嬉しい便りをいただきました。今月中なら私も何か書いて寄稿できます。 雑誌の名前は、多くの人の意見を聞きながらつけるのいいでしょう。木曜会の人達に相談してもいいのですが、27日までに良い名前が見つかるがどうかは分かりません。
ここからは次のようなことが分かります。
①武田明が讃岐民俗研究会の発足に向けて雑誌や会の名前等について、柳田國男に相談をしたこと。
②柳田は、それを悦び、寄稿を申し出ていること
③雑誌名決定については、自分たちで考えるようにと、遠回しに遠慮していること
④柳田は、東京の木曜会のメンバーもこのことを伝えていること。
そして、柳田は創刊号に「ぢんだら沼記事」を寄せています。それはこの葉書の返事に応えたものと研究者は考えています。
1939(昭和14)年1月『民間伝承』四巻四号の会員だよりには、讃岐民俗研究会発足に向けた報告が次のように記されています。
「○讃岐にも研究団体を 今度当地方民間停承会員が中心となりまして民俗研究並びに採集の団体を作る事になりました。既に二回程集合しました。 一年間に四回「民間伝承」と同型式の会報を発行致し、大に県下の同士に呼びかける事となりました。創刊号の原稿は十一月締切りとして着々と準備は進行して居りますが木曜会の諸氏初め広く皆さんの御助力を仰ぎます」
ここからは香川の「民間博承会員が中心」なり、研究会を設立することになったことが分かります。柳田國男の民間伝承の会は、讃岐にも種がまかれ拠点が芽吹き始めたことになります。 この中に創刊号の原稿〆切が1938(昭和13)年11月とあるので、それ以前に、発足会合は行われていたはずです。
こうして、1938(昭和13)年12月25日に『讃岐民俗』第1号が発刊されます。
巻頭を飾るのは柳田國男の「ぢんだら沼記事」です。ここで柳田は、相模の沼にまつわる伝説について述べています。一見すると讃岐民俗研究会となんの関連があるのかは分かりませんが、読み進めていくと、相模の沼にまつわる小さな伝説にからめて次のように記します。
「他の人のまだ心付かぬ文化現象に手分けをして観察の歩を進め、末には巨人の尻餅や地団駄といふような埋没した古い信仰の痕跡までが、一目に見渡されるやうにしてもらひたい」
これは『民間伝承』第一号掲載の「小さい問題の登録」において柳田が述べた「日本民俗学上の諸問題の登録を、この小さな月間物の一つの事業としたい」という文章と、共通する趣旨だと研究者は評します。
次に来るのが武田明の「民間伝承の話」です。要約しておくと
民間伝承の學、即ち民俗学は生活解説の学問として吾が常民の伝承を其の封象としてきた」
「その特徴は実地見間による資料の比較研究にある」
そのため比較研究にあたっては「より綜合的な全罷的な意固のもと」
「お互いが連絡をとって無駄な採集の重複」をしないようにしたい
ここからは、採集資料のデータベース化、そして研究者間のネットワーク構築を構想した柳田と同じ構想が語られています。
もう少しエッセンスだけを紹介しておくと
「此学問には吾々郷上人の誰もが豊かな希望を持って参加することが出来る」「採集は郷土人でなければ理解出来ぬ採集とされてゐる。即ち吾々の採集が最も期待され得る採集だと云ってよからう」
こうして、郷土人としての会員の採集を呼び掛けます。現在の香川民俗学会の大きな特徴でもある「郷土人による民俗学」という姿勢は、ここから生まれていると研究者は評します。
その後に、次のような報告が載せられています。
山村調査で五郷(観音寺市大野原町)を訪れた瀬川清子による「昔話のない村」栗山雉子彦(武田のペンネーム?による「阿波祖谷山諄」編集部による「禁忌習俗語彙採集標目」
また会員通信として、次のような文章が載せられています。
石川和夫の「幼き日の思ひ出」佐柳太郎(これも武田のペンネーム?)の「市埃」三宅周一の「ユゼキ」入江道夫の「南無阿弥陀仏の弾」
『讃岐民俗』に掲載されている「本會小規」には次のように記されています。
①会の名前は「讃岐民俗研究会」で、目的は「讃岐を中心とする民間博承の組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡をはかること」②會報「讃岐民俗」を年四回発行し、会員に無料配布すること、年額は六十銭③本會世話人は、石川和夫(三豊)、監田忠太郎(仲多度)、三宅周一(多度津)、川野正雄(小豆)、青井常太郎(高松)、多田勇(高松)、九山匡右(大川)、武田明(多度津)
そして「編集後記」には、「目下予定では会員は是非一村に一人以上と望んでゐます」と記されています。
民間伝承の会の目的と方針については、上記①に「組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡を図ること」とあり、一郡一人の会員を目指しています。『讃岐民俗』第一号の紙面構成も『民間伝承』に類似しています。ここから武田明は「民間伝承の会」の讃岐版として、讃岐民俗研究会を考えていたと研究者は推測します。「讃岐民俗』第一号は、発行後すぐに柳田に送られたようです。
翌年1939(昭和14年)1月14日の消印付けの柳田から葉書が、武田の元に残されていました。
翌年1939(昭和14年)1月14日の消印付けの柳田から葉書が、武田の元に残されていました。
讃岐民俗初号先拝見 先つお祝申上げ 之の昔話記述ハ非常な進況となり候 此調子で話しを集出し肝要と存候 誤植及送りかなのまちまちなるハ体裁わるく侯 ■■学問にて多度津を御選任可候 然バ、防長文化、島根民俗、因伯民談、高志路なと交換を求められるやう御すゝめ申候 諸君にもよろしく御伝え 謹言一月吉日」
意訳変換しておくと
讃岐民俗の初号を拝見しました。まずはお祝申上げます。この中に掲載されている昔話からは貴会の活発な活動がうかがえます。この調子で昔話を採集することが肝要です。なお誌面の誤植や送りかなの不統一は体裁が悪いです。あなたが学問拠点を多度津に選んだのであれば、防長(山口)文化、島根民俗、因伯(鳥取)民談、高志路なとの会誌交換を行い交流を図って行くことをお勧めします。諸君にもよろしく御伝えください。 謹言一月吉日」
この中で柳田は、武田の昔話収集への励ましと、会誌体裁統一のへの指摘を行っています。さらに、当時活動を行っていた地方民俗学会である防長文化研究会、島根民俗学会、鳥取郷土会、高志路会と会報を交換し、情報交換や交流を行う事を求めています。東京の民間伝承の会を中心としたネットワークだけでなく、横のつながりを持つことを奨めています。
讃岐での研究会の発足と『讃岐民俗』発刊は、東京の民間伝承の会でも取り上げられています。
昭和14年3月『民間伝承』4巻6号には、橋浦泰雄によって「讃岐民俗」の各論文の紹介があった後に次のように記します。
「遂に讃岐にも日本民俗学の旗が立てられた事を第一に喜びたい。然し旗は比較的容易に立てられるものだが、それを護り成長させる事は、百倍の困難さを伴って居るものであるから、そのつもりで大いに頑張って頂きたい」
同じ号では、
「○讃岐民俗は続刊 遅くなりましたが創刊号送りました。誤植が多くて残念でした。紙材不足の折柄続刊を遠慮してはとの意見もありますが今の庭では続刊の決心です。年末には土佐長岡郡豊永村へ採集へ行きましたが葬制資料として素晴らしいものがありました。柳田先生の酒と民俗の放送も遠く拝聴しました。(讃岐 武田明)」
さきほどみたように「讃岐民俗』第一号では、武田のペンネームと思われる人の投稿が多く、会員からの採集報告は限られていました。 その一方で、民俗学の概論や禁忌習俗や年中行事の採集標目が示され、採集調査の際の共通の土台が築かれたことは大きな意味がありました。特に武田明が「郷土人の調査」を呼びかけたことは、現在でも学会のモットーである「郷土人の民俗学」の発端になったと研究者は評します。
最後に武田明と讃岐民俗研究会発足までの流れを整理しておきます。
①大正三年、武田明は「多度津の七福人」と称される武田家の次男として生まれた
②武田明とともに讃岐民俗研究会を設立する和気周一は、武田の兄の同級生であり、讃岐民俗研究会発足以前より知り合いであった。
②武田明とともに讃岐民俗研究会を設立する和気周一は、武田の兄の同級生であり、讃岐民俗研究会発足以前より知り合いであった。
③旧制多度津中学5年生の時に、「石神問答』を読み民俗学に出会い、道祖神探訪などを行うようになる。
④慶應義塾大学予科で折口信夫に国文学を学びながら、昔話の採集を始める。
⑤1935年、関敬吾主催の『昔話研究』に投稿をし、関が柳田に紹介する。
⑥木曜会や日本民俗学への出席を通じて、各地の研究者と交流を行っていた。
⑦柳田國男の指示に応じて各地に採集調査を行った。
⑧1936年6月に、民間伝承の会に三宅(和気)周一が入会する。
⑨和気周一は、民間伝承に投稿を続け、編集部から激励をうけ、研究活動(語彙収集)を続けた。
⑩1937年、慶応大学大学院を修了後、兄の召集で研究生活を諦め多度津に帰郷する。
⑪高松高等女学校教諭として、女学生による昔話採集などの実践を行った.
⑫1038年9月以降、和気周一と語彙の収集を行うほか、石川和夫らと座談会を行う.
⑬民間伝承の会会員を中心に、讃岐民俗研究会を発足させ、その中心として活動する
以上から讃岐民俗研究会の設立に至る特徴について研究者は、次のように指摘します。
A「民間博承会員が中心」に設立されたことB「民間伝承の会」の讃岐版として讃岐民俗研究会を構想していたことC「綜合的な全般的な意同のもと」「お互いが連絡をとって無駄な採集の重複」をしないように武田明は考えていたこと
これらはどれもが、柳田国男が民間伝承の会に込めた構想を継承したものです。1935年の民間伝承の会設立後、武田明によって讃岐に「移植」されたとも云えます。それだけに武田明の果たした役割が大きかったとも云えます。
以上のような整理の上に立って、研究者は次のように指摘します。
以上のような整理の上に立って、研究者は次のように指摘します。
①武田明は柳田國男に師事してきたようにみえるが、古典に造詣が深く、万葉集についての講義を家族にしたことがあるほか、能や太鼓についても明るかった
②慶応大学で折口に学んだ国文学がベースになって、昔話の採集に進んでいった
③そのため折口の民俗学をも含みこむ内容でスタートした。
④その間口の広さが、讃岐民俗研究会の特徴でもある。
最後に柳田國男から武田明への葉書で印象的なものを紹介しておきます。
武田明は戦後の多度津町長選挙に立候補して、当選します。その当選直後のもののようです。
最初に出征していた兄の戦死の知らせが届いたことへの悔やみの言葉があります。その後に町長当選によって武田明が民俗学から離れることを危惧して、次のように記します。
④その間口の広さが、讃岐民俗研究会の特徴でもある。
最後に柳田國男から武田明への葉書で印象的なものを紹介しておきます。
武田明は戦後の多度津町長選挙に立候補して、当選します。その当選直後のもののようです。
最初に出征していた兄の戦死の知らせが届いたことへの悔やみの言葉があります。その後に町長当選によって武田明が民俗学から離れることを危惧して、次のように記します。
「世のために学業をおすてにならぬよう願い上げ候」
ここには、武田氏の研究者としての器を評価し、学問から離れることを惜しむ柳田國男の心情が表れているように思えます。また武田明の子息総一郎氏は次のように述べています。
「柳田氏を師に持ったことを何よりも喜びとしていた父にとって、このはがきは一番の心のよりどころだった」
柳田國男氏が弟子を気遣っていることが見て取れます。武田明が柳田氏からどんな指導を受けていたかや、その関係性を知る手がかりにもなります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
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「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
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