前回は弥生時代から、古墳時代・律令時代までの金倉寺周辺を、善通寺エリアとの比較で以下のようにまとめました。
今回は金倉寺の中世について見る前に、比較対照として多度津の加茂神社と道隆寺を見ておくことにします。多度津の北鴨・南鴨は京都の鴨神社の荘園になったことが次の史料から分かります。1090(寛治4)年7月13日の官符によって、白河上皇が京都の賀茂神社(上下)に次の荘園(御厨・供祭所)を寄進しています。
①賀茂社摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘
この時に寄進された各「御厨」・「供祭所」の位置を見ると、瀬戸内海の「海、浜、洲、嶋、津」に集中していることが分かります。そのひとつが讃岐国葛原荘(多度津)で、現在の北鴨・南鴨一帯の60町余りの土地になります。


明治39年 道隆寺周辺 国土地理院地図
葛原荘の「御厨」・「供祭所」化には、どんなねらいがあり、それがどんなことをもたらしたのかを見ていくことにします。
葛原荘の「御厨」・「供祭所」化には、どんなねらいがあり、それがどんなことをもたらしたのかを見ていくことにします。
その際に先例として参考になるのは仁尾です。仁尾津のスタートは、白河上皇が京都賀茂社へ仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島を、御厨(みくり、みくりや)として寄進したことに始まります。 御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、海産物の神饌を調進する場所のことで、転じて領地(荘園)も意味するようになります。そこに特権を得た漁撈者や製塩者などが「神人」として入り込み排他的な権利を持つようになります。
神人(じにん、じんにん)・供祭人については、ウキには次のように記されています。
古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、③神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、④国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では⑤漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権、水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)
神人・供祭人には、次のような特権が与えられました。
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
意訳変換しておくと
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)がおよぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
そして「魚付の要所を卜して居住」とあるので、好漁場の近くの浜を占有した神人・供祭人が、地元の海民たちを排除して、各地の浜や津を自由に行き来していたことがうかがえます。こうして彼らは漁撈だけでなく廻船人としても重要な役割を果たすようになります。御厨・所領の分布をみると、その活動範囲は琵琶湖を通って北陸、また、瀬戸内海から山陰にまでおよんでいると研究者は指摘します。
以上を参考にして、「御厨」・「供祭所」化された葛原荘(多度津)で起こったことを推測すると次の通りです。
以上を参考にして、「御厨」・「供祭所」化された葛原荘(多度津)で起こったことを推測すると次の通りです。
①葛原荘(多度津)が京都の加茂神社の荘園となり、分社が勧進された。②同時に御厨として、海産物の神饌貢納のために「神人」が堀江に定着するようになった。③堀江の神人達は、排他的操業権や水上交易の交易を握り、瀬戸内海交易の拠点とした。④その結果、多度郡の港は弘田川河口の白方から金倉川河口附近の堀江へと移った⑤葛原荘は、賀茂神社の勧進によって北鴨・南鴨と呼ばれるようになった。⑥京都の鴨神社の荘園となった葛原荘の堀江は、丸亀平野の拠点港として機能するようになった。
南鴨の賀茂神社の境内からは、鎌倉時代の巴文軒丸瓦や、開元通費や北宋~元銭等を含む6000枚弱の埋蔵銭が出土しています。これも瀬戸内海を通じた大陸との交易を通じて得たものと私は考えています。
また賀茂神社には、寛喜3~4年(1231~32)に書写された大般若経が伝えられています。中世に大般若経をもつ神社は、地域の郷社的な存在です。それを裏付けるのが、南鴨念仏踊りの編成組織です。滝宮(牛頭天王)神社に踊り込むために、善通寺方面の村々までを組織していたことは以前にお話ししました。先ほど見たウキには「②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、③神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。」が思い出されます。同時にこの神社が牛頭信仰の拠点であり、修験者を通じて滝宮神社と深いつながりがあったことを押さえておきます。

多度津の南鴨念仏踊りの道具割 左が参加する村落名 善通寺と多度津一円が含まれている。
加茂神社の神宮寺的な役割を果たしていたのが道隆寺です。神仏混淆の中世には両者は、一体化して運営されていました。それは先ほど見たように、大般若波羅蜜多経が賀茂神社に保管されていたことからも裏付けられます。
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には14世紀初頭の発願状があって、寺の由来を次のように記しています。
①鎌倉時代末期の嘉元二(1304)年に、領主の堀江殿が入道して本西と名乗ったこと。②那珂郡鴨庄下村地頭の沙弥本西(堀江殿)は、道隆寺を氏寺として崇拝する理由を、藤原道隆と善通寺の善通は兄弟だからだ答えたこと③兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。④ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
ここからは衰退していた道隆寺を、鴨庄の地頭・堀江殿が「入道」し、本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などを建立し伽藍整備を行ったとします。堀江殿は「道隆寺中興の祖」で、「入道」して修験者でもあったようです。これが道隆寺の実質的な建立かも知れません。時は元寇撃退の後で、幕府の論功行賞策として地方でも寺院建立が奨励されていた時代です。国宝になっている本山寺が姿を見せるのと同時期になります。
地形復元すると堀江には湾入する入江があって、その湾に面して道隆寺は堀江殿によって建てられたことが分かります。
道隆寺の南、本坊の西が「堀江殿の入道屋敷」跡とされる。
この入江に、堀江殿が道隆寺を建立したねらいは次の通りです。
堀江付近の地形復元図 道隆寺まで湾入する潟があった
地形復元すると堀江には湾入する入江があって、その湾に面して道隆寺は堀江殿によって建てられたことが分かります。
道隆寺の南、本坊の西が「堀江殿の入道屋敷」跡とされる。
この入江に、堀江殿が道隆寺を建立したねらいは次の通りです。
①堀江港の管理センター的な役割を担わさせること②交易活動を通じて、塩飽諸島や庄内半島にいたるまでの寺社を末寺化していくこと
それを担ったのは熊野行者や児島の五流修験などの真言系修験者だったようです。この結果、これらの寺社の開眼供養などには道隆寺明王院主を導師として招かれる一方で、道隆寺の法会にも結集しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されます。『道隆寺温故記』には、次のように記されています。
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧 集会ス」
ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしていたことが分かります。堀江港をおさえた道隆寺は、海運を通じて宗教活動を展開し、広域な信仰圈を形成していたこと押さえておきます。まさに「海に開かれた寺」に成長していったのです。
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のようなことを指摘します。
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた
つまり、有力寺院による地域寺院の組織化(末寺化)と、新たな信仰対象物の形成が同時進行で行われていたというのです。讃岐でも室町期には、荘郷を超えて寺社の相互扶助的関係が形成されていきます。研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。
道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。
与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。三豊平野の本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったことになります。以上を次のように整理して起きます。
与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。三豊平野の本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったことになります。以上を次のように整理して起きます。
道隆寺は談義所となり、南北朝期には談義所相互のネットワークのなかにいました。そして金倉寺も談義所でした。そうすると多度津・金蔵寺・善通寺は、大宗教ゾーンを形成していたことになります。次回は、そのような中での金倉寺の中世の動きを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」
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