瀬戸の島から

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仁尾町の賀茂神社 - 三豊市、賀茂神社の写真 - トリップアドバイザー
仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
関連記事

 


 
7仁尾
仁尾町の沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進した島の一つです。 荘園が置かれると荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが一般的でした。こうして、大蔦島に京都の賀茂神社が勧請されます。そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。以後、仁尾浦の住人は、京都賀茂社の神人(じにん)として社役を担うようになり、特別の権威を持ち交易や通商、航海等に活躍することになります。このことについては、以前にお話ししましたので、今回は中世仁尾の景観復元を、例のごとく香川県立ミュージアムの冊子で見ていくことにしましょう。
7仁尾2
 仁尾を巨視的に見ておきましょう。
瀬戸内海に鬼の角のように突き出た庄内半島の西側の付け根にあるのが仁尾浦です。庄内半島の東側が粟島から塩飽諸島や直島諸島など「多島海」なのに対して、仁尾のある西側は、燧灘に伊吹島がぽつんと沖に浮かぶだけです。そのために冬は北西風が強く、強い波風が海岸に襲いかかってきます。しかし、仁尾浦は、庄内半島の湾岸最奥部にあることと、その前に浮かぶ大蔦島・小蔦島と磯菜島(天神山、昭和前半期には島であった)が天然の防波堤となり港を守ります。そのため「西風が吹いても入港できる西讃唯一の港」と云われる天然の良港でした。
 一方、託間の南の三野津湾は中世までは奥深く海が湾入していたことが分かります。海岸線は吉津付近にまで入り込んできていました。古代の吉宗で焼かれた瓦も、この湾に入ってきた船で藤原京に向けて運び出されていったのでしょう。古代の三野郡の津であった三野津は吉津と呼ばれるようになり、江戸時代初期まで港湾集落として機能していたことがうかがえます。
 吉津は、高瀬川流域の内陸部との繋がりが強かった港湾であったようです。それに対して、詫間は多量に生産される塩を瀬戸内海沿岸各地に積み出す拠点港だったようです。そういう意味で託間は、讃岐の外に向かって開かれた港です。
 中世の仁尾浦は、背後の三方をすべて山地に囲まれていて、西の海だけが開かれている地形になります。しかし、三野郡とは、詫間峠越えで詫間に通じ、南側の仁尾峠越えで吉津や高瀬などにつながっていました。また、詫間から加嶺峠越えで仁尾に入る道路は、西に突き出す八紘山に沿って浜に延びますが、その西麓付近に「境目」という地名が残っています。この加嶺峠越えの道路が詫間荘と草木荘との境界線と重なっていたと研究者は考えているようです。
 仁尾浦を鳥瞰すると、核となる施設は二つあるようです。
その一つは京都から大蔦島に勧請され、一四世紀に対岸の仁尾村に移転されたと伝えられる賀茂社であり、一五世紀にはその境内の一角に神宮寺もありました。
北部の古江が初期仁尾の拠点? 
下の地図で分かるように、今は仁尾の海岸部は埋め立てられていますが、明治三〇年代の海岸線は、50㍍ほど内側にありました。特に、北部の「古江」は深い入り江で、磯菜島(天神山)とその沖合にある大蔦島とによって風波を防ぐ天然の良港でした。上賀茂社の供祭人たちが、最初に活動の拠点としていたのは、大蔦島・小蔦島沿岸海域からこの「古江」一帯にかけての海域・諸浦であったと研究者は考えているようです。
7仁尾3

 仁尾の海岸線 実線が近世・点線が中世の海岸線
「古江」の南に拡がる仁尾浦の中心部分について見てみましょう
  覚城院はもともとは  草木八幡宮の別当寺?
もう一つは11世紀半ばの創建、で約二百年後の寛元年間の再建とされる覚城院です。この寺は、もともとは草木荘内にあった伝えられます。一時衰退した時代があり、応永三三年(1418)讃岐・大川郡で活動中の熊野系の僧増吽の勧進によって中興されて、今日に繋がる基礎が築かれたとされます。永享二年(1430)には、覚城院は23の末寺があり、その中に賀茂社神宮寺や塔頭と見られる宮之坊も含まれていました。仁尾の賀茂社の別当寺となったのは、増吽の勧進による再興の際のことだったと研究者は考えているようです。
 しかし、この時の覚城院は現在地にあったわけではないようです。永享二年当時、覚城院の僧宗任が「託間庄草木覚城院」と称し、さらに文明17年(1485)の細川元国が発した禁制には「江尻覚城院」と書かれています。つまり、この時期には、草木荘の江尻にあったようです。
江尻周辺を地図で見てみると、江尻川が大きく蛇行して海に注ぐ河口にも近く、その対岸には、草木八幡宮やその供僧の地蔵坊や千台寺もあり、かつて覚城院が草木八幡宮の別当寺であったという伝承に納得します。覚城院が現在地に再移転したのは、戦国末期から近世初頭のことのようです。
 それに伴って草木八幡宮の別当寺は、覚城院から吉祥院に交代したのでしょう。その他の中世以来の寺院を見てみると広厳院・新光坊・常徳院・金光寺・蓮花寺・多聞寺・如観寺・道明寺などがあり、このうち広厳院・新光坊を除くすべての寺院が八紘山西麓を南北に縦貫する街路の東側に並んでいます。この南北街路が「常徳寺敷地」の西の堺とし「大道」、「覚城院御堂敷」西の堺として見える「大道」にあたるようです。この道筋の起源は、15世紀初頭まで遡れることになります。この「大道」をもう少し追いかけて見ると、賀茂社の東側を通過したあと、北東に向きを変え、詫間峠越えの道路となって詫間へ通じていたと考えられます。その道筋の近くには、「こうでんじ原」[ぜんこうじ原]という地名が残り、覚城院末寺の金伝寺・善光寺があったようです。
  いままでの仁尾の街道レイアウトをまとめておきましょう
①基本街路は詫間峠越えで仁尾と詫間を結ぶ「大道」
②集落北部に神宮寺と賀茂社が鎮座し、南部には草木八幡宮の別当寺であった覚城院があった
③詫間荘と草木荘の境界とされた加嶺峠越えの道路が仁尾浦を南北に分ける。
④その道路沿いに道明寺があり、高瀬・吉津から仁尾峠越えで仁尾浦南部(もとは草木荘域)に入る道路の途上に草木八幡宮や吉祥院があった。
⑤さらに広厳院・新光坊が15世紀前半から現れ、その門前を起点に「大道」と平行する道路割が見られる
⑥この道路の西側に綿座衆の拠る「中須賀」があったことから、仁尾浦の町場集落は二本の南北街路と三本の東西街路を基本とする港湾都市に成長していた
15世紀半ばに、仁尾浦の神人たちが香西氏の非法を訴えた文書の中で、
「地下家数、今者現して五六百計候」
と主張しているのも、誇張ではなく、それなりに根拠のある数値だったようです。
中世仁尾の港湾は、どこにあったのでしょうか。
先ほどの地図を見ると中世の海岸線は、賀茂社門前まで海が迫り、その東側の広厳院・新光坊を起点とする南北街路の西側近くには砂浜が拡がっていたようです。そして、加嶺峠越えの道路が浜に突き当たる地点の北側に綿座衆のいた中須賀があります。ここからは、港湾機能を持つ浜の一つは、このあたりにあったと研究者は考えているようです。
 しかし、賀茂社の北側には「大浜」という地名もあります。
この付近は磯菜島の島影で、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところのようです。仁尾浦の核である賀茂社があること、その賀茂社との関係から「大浜」と呼ばれていたことなどから、仁尾浦の港湾の中心となっていたのはおそらくこの周辺と研究者は考えているようです。海岸部が埋め立てられた現在でも、この「大浜」の沖合に「仁尾港」やヨットハーバーが立地しているのは単なる偶然だけではなさそうです。
  もう一つ注目されるのは江尻川河口付近です。
江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、この河口は現在は「父母が浜」として人気スポットになっているように広い干潟が広がり港の機能は果たせません。中世においても港湾としては不向きだったようです。石清水の神人たちが上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったのは、おそらく彼らの活動舞台である「港の優劣」にもあったのかもしれません。
 参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開

   仁尾のボラ地曳網とは?
  釣り人にとってボラは人気のない魚のようです
しかし、冬のボラは「寒ボラ」と呼ばれて美味しく、脂も乗って刺身にすると多少歯ごたえもあって真鯛とも似ています。
200017999_00149仁尾
金毘羅名所参拝図絵に描かれた仁尾

燧灘に突き出る荘内半島の仁尾では戦前まで地曳網でこれを捕獲していました。

冬のボラは群になって一か所に留まる習性があります。仁尾と大蔦島と小蔦島に囲まれたマエカタと呼ばれる地先の海域には冬場になると、ボラが集まってきました。その群れは寒くなるにつれて大きくなり、翌年の3月の彼岸ごろにはいなくなりました。この間、ボラの群れを散らさないために、この海域は禁漁となり、船舶の侵入も禁止とし、密漁を防ぐために番船に自炊用具を持ち込み、昼夜監視を続けたともいいます。ボラの群れ大きくなりすぎると他に移動してしまうこともありました。また、雨や風の影響で移動が早まることもあるので、地曳網を入れる時期を慎重に判断したようです。地曳網の全長は約1200メートルと長いもので、網地は木綿で網目は、細かいものを使用しました。ボラは動きが激しく網目を抜けやすいためです。
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父母ゲ浜とその向こうに浮かぶ大・小の蔦島
 地曳網を入れて引き揚げるまでには4時間ほどかかりましたので、潮が満ちるまで網を曳く広さと勾配のある砂浜が必要した。最も適したのは小蔦島の砂浜だったようです。
 こうして、仁尾の海に「冬網」と呼ばれるボラ地引き網が牽かれる日がやってきます。
仁尾町大北集落・恵比須神社のボラ地曳網の絵馬
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ここには明治41年(1908)2月21日と昭和8年(1933)12月5日にボラ地曳網の絵馬が奉納されました。明治の者は香川県立ミュージアムに収蔵されて、ここの社殿内に掛けられているのは昭和のものです。絵馬には天神山と弁天山の間で網を曳く場面が描かれています。いつもは小蔦島の砂浜で網を曳いていたそうですが、この時は湾内にスナメリが侵入し、これに追われてボラの群れが逃げてきたために、ここで網を牽くことになりました。大漁で網が裂けましたが10万匹のボラが捕れる豊漁でした。
その大漁を神に感謝してこの絵馬は奉納されたものです。
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 絵馬の左側には縦書きで網元の吉田家のマタナカの屋号に続いて「冬網連中 周旋人 河田輝一」と記されています。私は、この人が網元と思いましたが、そうではないようです。
「冬網」はボラ地曳網の呼び名で「周旋人」は絵馬奉納の世話人のことです。仁尾のボラ地曳網の従業員には、網元に年中雇われている「内人」と、地曳網の時にのみに参加する「網子」がいました。周旋人の河田輝一は「内人」にあたる人物で、この人が絵馬奉納を網元に持ちかけたそうです。
 絵馬の下側には右から「内人」七人、中央に一五人、左に九人の名があります。左端には絵馬に文字書きした「書記」の名が見えます。生存者からの聞き取りによると中央の15人は「網子」、左の9人は「網子」とは別に網を曳きに来た人で、いずれも誰の名を記すかは、すべて「内人」で相談して決めたといいます。
網元の吉田熊吉の名はなく、その子の久吉の名はあります。どうしてでしょうか?
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 息子久吉は、現場の指揮者として名が記されたようです。
絵馬奉納は網の従業員の「共同行為」として行われます。網元の吉田熊吉はこの神社の鳥居に願主として名前が刻まれています。つまり、奉納物の種類により奉納行為がランク付けされていたようです。
 これは近世以降のイワシ地曳網の絵馬にも見られる現象で、網漁の絵馬の多くは従業員が共同で奉納するような「庶民的な奉納物」だったのです。
 そういえば、戦前の三豊女学校の講堂建設に際して、建物自体への寄付金を出しているのは、西讃一の大庄屋と言われた山本町河内の大喜多家や仁尾の塩田王の塩田家など、三豊の名家に限られていたのを思い出します。その次のランクはピアノなどの備品を寄付していました。ここにも寄付の種類にランク付けがありました。
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網漁の絵馬は全国的にも少ないようです。
それが、仁尾では同じ神社に、二度も奉納されたのはどうしてでしょうか?
仁尾と蔦島の間の海には、集まってきたボラの大群を地引き網で一網打尽にすることができる「特殊海域」でした。この時のように驚異的な大漁を、もたらすこともありました。
しかもその場所は、自分たちの住んでいる目の前の海なのです。網が入れられる日には、この絵馬にも描かれているように、地元の人たちがギャラリーとして取り巻いたのです。その中での記録的な大漁。それは漁に関わった人たちをはじめ、浜の人たちまでも喜びに包みこむ大イベントとなったはずです。その渦中にいた「内陣」たちが大漁を喜び祝う気持ちと神への感謝を込めて、先例にならって絵馬を奉納させたのだと思います。

DSC00435

参考文献
真鍋 篤行 仁尾のボラ地曳網と絵馬 香川歴史学会編 香川歴史紀行所収

仁尾浦 賀茂神社の「神人」とは何者なの?イメージ 1


  仁尾沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。 荘園になると、荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが当時の習わしでした。こうして、応徳元年(1084)に山城国賀茂大明神(現在の上賀茂神社)の分霊が蔦島に勧進されます。これが現在の大蔦島の元宮(沖津の宮)です。今でも賀茂神社の秋祭りの際には、祭礼を取り仕切る年寄・頭人がここに参拝しています。
 そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。

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  京都賀茂社の神人(じにん)として活躍する仁尾浦の住人

 やがて仁尾浦の住人が京都賀茂社の神人(じにん)として社役を奉仕するようになります。神人とはいったいどんな人たちなのでしょうか。神人は、特別の権威や「特権」を持ち、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
 このように仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
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赤米の積み出し港 仁尾浦

中世の仁尾は賀茂神社に奉仕する神人と称する人々によって「浦」が形成されます。浦とは、海に従事する人々の海辺集落で、漁業・海運の拠点だけでなく、農林・商工業製品移出入の地でもありました。
周辺からいろいろなな物資が集められ積み出されました。その中で注目するのが赤米です。
 赤米とは鎌倉時代から室町時代にかけて大陸からもたらされた米で、低湿地や荒野でも栽培が可能でした。そのため多くの地域で栽培されるようになります。特に塩害のあった三野地域では、国内で最も早くから栽培されていたようです。讃岐の港から赤米が積み出されていたことが資料からも分かりますが、仁尾からの積出量が最も多く、西讃地方の特産物であったようです。
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公的な警備活動にも従事した仁尾浦の神人たち

室町時代に讃岐の守護であった細川氏は、応永二七年(1420)朝鮮回礼使宋希憬の帰国の際に、その護送のために兵船を出すよう仁尾浦に指示を出しています。
また永享六年(1434)遣明船が帰国した時に、燧灘を航行する船の警護のため仁尾浦から警護船を徴発しています。このように、仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、時には兵船御用を努めたり警護船を出すなど公的な任務にも従事していました。賀茂神社は信仰の対象だけでなく、神人を統括する役割を果たす存在でもありました。
    覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』には、永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が見えます。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」とあり、
当時の仁尾浦に、五〇〇~六〇〇の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。
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「千石船見たけりや仁尾に行け」

 仁尾は、後ろは三方を山に囲まれ、前は海で、大蔦島、小蔦島、磯菜島(天神山)の三島が天然の暴風波堤として、港を守ってくれる良港でした。15世紀には細川氏の軍事基地ともなり、また賀茂神社に綿座がおかれたことから、同神社を中心に各地から商人が集まって市が開かれました。そこでは、あらゆる農産物・海産物等が売買され繁栄しました。
 近世になって、これらの産物は、天然の良港の仁尾より仁尾商人の手によって瀬戸内海沿岸や讃岐各地に販売され、仁尾の繁栄につながっていきます。たとえば、塩を必要とした土佐北部山分の地方で生産されていた土佐茶(碁石茶が大半)と、瀬戸内内地方特産の塩との交換が仁尾商人によって行われ、土佐茶の売買が発展していきます。 
 江戸時代の港町仁尾は、醸造業・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿總糸所・両替商などの大店が軒を連ね、近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んに人々が往来しました。港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞘・尾道などにまで物資を集散する大型船が出入りして「千石船見たけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれました。
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近世期の仁尾港の状況は、どうだったのでしょうか。

それを考える上で重要な地名は、賀茂神社の北側に残る「大浜」です。この神社付近は磯菜島の島影になり、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところと言われます。仁尾浦の港湾の中心となっていたのは、この神社周辺のではないでしょうか。
弘化四年刊行の『金毘羅参詣名所図絵』所収の「仁保ノ湊」に、まだ防波堤は描かれていませんが、仁尾町宿入に残存している「金毘羅燈寵」は描かれています。この燈龍は、湊への出入りで灯台的役割を果たしていた物で、この北側には丸亀藩船番所がありました。
 そのため賀茂神社の西側に近世期の港があったと考えられます。
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土佐藩参勤交代の瀬戸内海側の出発港でもあった 仁尾港

仁尾港が、西讃岐を代表する港町であったことは、流通面だけではありません。 土佐藩主の参勤交代は、江戸中期以後は「北山越え」がのメインルートとなります。これは、現在の高速道路の笹ヶ峰から伊予新宮を経るルートで、仁尾港から瀬戸内海へスタートすることが多くなります。
 仁尾を出航した例として、八代豊数の時のルートを紹介すると。
豊数は宝暦11年(1762)1月5日に高知城を出発し、4月6日に江戸に到着しています。その間、3月10日朝、川之江を駕寵で出発し、姫浜で休息、夜8時過ぎに仁尾に到着し、本陣の塩田長右衛門宅に入りました。
 翌日朝5時、仁尾から乗船し9時前に出港、箱之三崎まで漕ぎ出し、そこから帆走して暮れ頃に与島、8時に対岸の出崎(岡山県玉野市)に到着しています。翌日は室津(兵庫県たつの市御津町)に上陸し、その後は山陽道を陸路で江戸に向かっています。
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 この時には、土佐藩丸亀京極家の御船住吉丸など五艘を借用しています。ここからも、仁尾湊の重要性が分かります。また操船方法として、箱浦の三崎まで漕ぎ出し、潮流などを考慮して四国を離れています。庄内八浦の一つである箱浦及び三崎が操船上の重要ポイントであったことを推察させます。これは、幕末期に丸亀藩によって海防のため三崎砲台が設置されることと相通じるのかもしれません。

参考史料 三豊市教育委員会 近世の三豊
 

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