17の船籍地は、現在のどの港になるのでしょうか。
すぐには分からないのが、入港数ベスト3に入る「嶋」です。この嶋船籍の船が大量の塩を運んでいるので、研究者は「嶋」は小豆島と判断していることは、以前にお話ししました。
「嶋」のように兵庫北関入船納帳は、島の港はすべて島名で記されています。例えば塩飽(本島)には泊や笠島などいくつかの港があったはずですが、それらが一括して島船と表記されています。瀬戸内海の海民たちは、昔から港名よりも島名で呼ぶ方が多かったようです。「嶋・塩飽・手嶋・さなき」は島であって、港ではありません。「塩飽・手嶋・さなき」の三島は塩飽諸島の島で、塩飽は本島のことで、さなきは佐柳島のことでしょう。
上から6番目に「平山」が出てきます。
研究者の中には、平山を備中真鍋島とする人もいるようです。しかし、宇多津の平山という説が強いようです。今回は、その理由を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権」です。
表4の平山の欄を見ると(塩)2290石とあります。これは生産地が記された産地特定の塩のことです。「讃岐船の積荷の8割は塩」で、讃岐船は塩専用船化していたと云われます。平山船にもその傾向が見えます。
一番右側の欄の全体合計数を見ると「塩13413石」「(塩・地域指名)12055石」とあります。両方併せると25468石の塩を讃岐船は畿内に向けて運び出していたことになります。しかし、これは讃岐船の塩輸送量であって、讃岐の塩の生産量ではありません。なぜなら他国の船が讃岐にやって来て大量の船を積み込んでいたからです。前回見たように、小豆島で生産された塩の半分以上は牛窓船が輸送していました。讃岐船の塩輸送総数25468石の内の1/10程度の2290石を平山船が運んでいることを押さえておきます。
ます。
それでは、平山船はどこの塩を運び出していたのでしょうか
私はすぐに、坂出や宇多津、丸亀の塩田を思い浮かべて、ここからの塩を運んでいたと思ってしまいました。しかし、これらの塩田は近世になって開発された塩田で、中世には姿を見せていませんでした。平山船が運んできた塩には「タクマ塩」と記されています。
兵庫北関入船納帳 讃岐産塩を運んでいた船の船籍地一覧
表8は地名指定商品(塩)が、どこの船で何回、兵庫北関を通過したが示されています。詫間(塩)を運んできた船は36回で、その積載量の合計が6190石となります。詫間周辺では中世に大量の塩が生産されていたことが分かります。詫間塩を積み込みにやって来た船は、宇多津17、平山12、多度津3、香西2、牛窓1、塩飽1です。詫間の塩は、宇多津・平山・多度津の船で畿内に輸送されていたのです。ここで私が疑問に思うのは、詫間港の船が出てこないことです。製塩地には、それを運ぶ輸送船がいたはずなのですが、それが詫間には現れません。他所の港からの輸送船に頼っています。もうひとつは、仁尾の船もやってきていません。このあたりが今の疑問です。
先ほど見たように、平山船の塩の総輸送量は2290石でした。平山船の一回当たりの輸送量は200石前後になり、小型船が使われていたようです。平山船は兵庫北関に19回やってきていますが、その内15件が積荷は塩です。そして12件が詫間塩を積んでいます。詫間塩は、平山船にとっては大きな商売相手だったことになります。
三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
「秋山家文書」には、次のような塩浜が相続の際の譲渡対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」「しおはま(塩浜)」「しをや(塩屋)」
ここからは本門寺から西側の東浜や西浜には塩田が並んでいたこと、その塩田の薪の確保のために「汐木山」が指定されていたことなどが分かります。詫間や三野湾では大量の塩が生産されていたのです。
詫間塩を運んでいるのは、いずれも讃岐船です。ここからは、平山船も讃岐船であると研究者は考えています。
それでは平山とは、どこにあった港なのでしょうか.
宇多津湾の中世復元図 太実線が想定海岸線
地図を見ると備讃瀬戸に突き出た聖通寺山の西北部に平山が見えます。現在は埋め立てられて宇多津と一体化していますが、中世の地形復元図では、海岸線が内陸部まで入り込んでいたことは以前にお話ししました。平山のある聖通寺山と宇多津のある青ノ山の間は海が入り込み隔てられていました。
湾を隔てて向かい合う宇多津と平山は、「連携」関係にあったと研究者は考えています。
上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのが裏付けられます。
①平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
『兵庫北関入船納帳』からは、平山に本拠地を置く船主いて、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。
中世宇多津復元図
「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は城を捨て、勝瑞城の十河存保のもとへ敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の麓の港で交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。
一方、宇多津は、後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。
宇多津と大束川周辺
大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業集団がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。宇多津は、川津荘の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。
このように宇多津は後背地の広いエリアからの集荷活動を行う一方
、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置します。その利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。
、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置します。その利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。
以上から、宇多津と平山の関係を研究者は次のように指摘します。
①両港は相互補完的関係にあり、「棲み分け」共存ができていた。②平山は坂出の福江・林田・松山・詫間などを商圏とし、宇多津は西讃から備讃瀬戸全域を商圏としていた。
常大坊旦那分書立写に「一、さぬきのくにうたづ ひら山一円」とあります。
常大坊輩下の先達によって導かれる檀徒集団が、宇多津と平山にいたことが分かります。檀徒集団がいたということは、多くの人々がいて、町並みを形成していたのでしょう。平山は聖通寺城の麓という位置から考えても、軍港的役割を果たす港であったと研究者は推測します。
宇多津の目と鼻の先に平山湊がありました。しかし、宇多津と平山は商圏エリアが異なっていたこと、平山は、御供所と同じく、阿野郡(坂出市周辺)の福江・林田などの港物資を集積する港であると同時に、三野郡詫間の塩を輸送していたいうのです。そう考えれば、隣接して二つの港があったことも説明がつきます。こうして、平山は備中真鍋島ではなく、讃岐平山とします。
もうひとつ平山を特定する根拠があります。海産物の鯛です
もう一度表4を見ると、鯛(干鯛・塩鯛)は、宇多津・平山・塩飽船だけが運んでいます。それも4・5月に限定されています。今は番の州工業地帯で陸続きとなっている瀬居島付近は鯛の良魚場で、ここで獲れる鯛は「金山魚」と呼ばれて評価が高かったようです。加工された金山魚を、瀬居島に近い宇多津・平山・塩飽船の船が淀魚市場へ輸送して商品魚となったと研究者は推測します。ここにも平山と宇多津の連動性が見えます。平山は真鍋島ではないとする根拠のひとつです。
近世の平山については、以前にお話ししました。
秀吉から讃岐一国を拝領した生駒氏は、丸亀城の築城を開始します。その際に城下町形成のために、鵜足郡聖通寺山の北麓の平山と御供所から「漁夫」280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させたと史料には出てきます。これをそのまま「漁夫」と捉えると何も見えなくなります。平山に住んでいたのは、「海の民」で梶取り(船長)や船主などの海運業者や流通商人たちです。そのため城下町に移住させた狙いは、次のような点にあった研究者は考えています。
丸亀城の御供所・平山住人の移転先 土器川西側の海岸線
近世の平山については、以前にお話ししました。
秀吉から讃岐一国を拝領した生駒氏は、丸亀城の築城を開始します。その際に城下町形成のために、鵜足郡聖通寺山の北麓の平山と御供所から「漁夫」280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させたと史料には出てきます。これをそのまま「漁夫」と捉えると何も見えなくなります。平山に住んでいたのは、「海の民」で梶取り(船長)や船主などの海運業者や流通商人たちです。そのため城下町に移住させた狙いは、次のような点にあった研究者は考えています。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫編成②瀬戸内海交易集団の拠点作り③商業資本集団の集中化
丸亀城の北の砂浜には、平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアは、下図の通りです。
丸亀城の御供所・平山住人の移転先 土器川西側の海岸線
江戸時代半ばまでの丸亀港は土器川河口にありました。そのため平山住人の移住先は港に続く一等地として、繁栄するようになります。金毘羅船で大坂からやってきた参拝客は土器川河口に上陸して、御供所・平山の宿に泊まっています。彼らが丸亀の「商業資本」に成長して行きます。
以上をまとめておきます
以上をまとめておきます
①兵庫北関入船納帳に、寄港した船の船籍地として「平山」が出てくる。
②「平山」は、次のような根拠から宇多津の「平山」であると研究者は考えている。
③「平山」には、中世に交易活動を行う「海民集団」が定住していたこと
④宇多津と商圏の棲み分けを行って、宇多津港の補完的な役割を果たしていたこと
⑤詫間・三野湾では、塩浜があり大量の塩を生産されていたこと
⑥詫間産塩を主に運んでいるのが「宇多津・平山・多度津」船であったこと
⑦平山船のほとんどが詫間産塩の輸送のために、兵庫北関に入港していること
⑧瀬居島の鯛は加工されて、宇多津船と平山船が運んでいること
以上から兵庫北関入船納帳に出てくる平山船は、宇多津の平山の船であったと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献