瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の港町 > 宇多津

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宇多津の郷照寺 四国霊場で唯一の時宗寺院

宇多津の郷照寺は、四国霊場の中で唯一の時宗寺院です。この寺については、時宗開祖の伊予出身の一遍によって時宗の拠点であったとされてきました。しかし、最近刊行された調査報告書には、この寺が時宗に改修されたのは、髙松藩初代藩主の松平頼重によってであると記されています。どうして、そう言えるのかを今回は見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。



宇多津地形復元図
DSC03878宇多津
中世の宇多津海岸線の復元図と各寺院

6宇多津1
中世宇多津の景観復元図

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中世の宇多津地形復元図と各寺院

6宇多津の寺院1

郷照寺の開基由来について

郷照寺縁起

 郷照寺の開基については、A「寺開基山来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
①天台宗寺院として創建後、空海の四国霊場開基の際に78番札所となり、その後の退転
②一遍が正応元年(1288)に(1239-1289)が時宗に改めて再興
③中世後半は、24代遊行上人不外(1460-1526)より讃岐国内に末寺7か寺を賜るなどの寺勢を誇った
④天正期(1573~1592)の四国兵乱により悉く焼失(「寺開基由来帳」)。
寺蔵文書であるB「開帳中記録」には、次のように記します。「開帳中記録」天明4年(1784)
①弘仁3年(812)に弘法大師による阿弥陀如来の彫像を契機に「仏光山道場寺」として開山
②天台宗恵心僧都(942-1017)の後に退転していた諸堂を、仁治4年(1243)に讃岐へ配流された僧道範(1178-1252)が「大師古跡の場」「真言止観の床」として再興
③正応元年に一遍が時宗寺院の「郷照寺」に改めたと
ふたつの縁起ともに、18世紀になって書かれたもので、札所霊場としての弘法大師空海の由緒や、一遍の晩年の伊予帰郷や讃岐・阿波の遊行(「一遍聖絵」正安元年(1299))をもとに、後世に創作され付け加えられたものと研究者は考えています。どちらにしても、これらの由緒は同時代史料ではなく、そのまま信じることはできません。 建立時期の参考になるのは、次の二点です
A 本尊の阿弥陀如来坐像が平安時代後期の作と想定されること
B 境内から古代末から中世初頭の丸瓦(工芸品4・5)が出土していること
ここからは郷照寺は、古代に遡ることはできず、中世初頭頃までの創建と研究者は想定しています。
縁起が説く弘法大師空海伝説の「道場寺」と一遍の「郷照寺」の由緒は、中世以前の諸宗派による複数坊が並立していたことを伝えるものなのでしょう。ここからは、何人もの念仏聖や廻国修験者たちが、それぞれの坊を持ってこの地で活動していたことがうかがえます。それは善通寺や白峯寺・弥谷寺でも同じで、そのような姿が中世の一般的な寺院の姿だったことを押さえておきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
            讃岐国名勝図会 宇多津

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていて、ふたつの名前を持っていたようです。
高松藩初代藩主松平頼重の命により、寛文9年(1669)に各大政所(大庄屋)に郡内の寺社を書き上げさせたC「御領分中宮由来同寺々由来」には次のように記します。

藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡 郷照寺 
一、開基永仁年中、一遍上人建立之、文禄年中、覚阿弥再興仕事」

意訳変換しておくと
「藤沢遊行上人の末寺で、時宗の鵜足郡郷照寺
 一、開基は永仁年中で、一遍上人が建立。文禄年中に、覚阿弥が再興した」
寛文年間(1661~1673)の藩政資料にも、遊行上人末寺の時宗寺院と記されています。
寺院名については、藩政史料や時宗本山との記録には「郷(江)照寺」の名称が使用されています。ところが江戸時代に刊行の四国遍路関係の案内本などには「道場寺」と記され、弘法大師ゆかりの札所と紹介されています。例えば真念の「四国辺路道指南」(貞享4年(1687)では、次のように記されています。
「讃州丸亀城下へわたる時は宇足津道場寺より札はじめよし」
「七十八番道場寺 少山上 堂ひがしむき 鵜足郡宇足津村 本尊阿弥陀 座一尺八寸
 御作おどりはね念仏 道場寺 ひやうしをそろえかねを打也」
意訳変換しておくと
「讃州丸亀城下へ船で渡るときには、宇足津道場寺から巡礼を始めるのがよい」
「七十八番道場寺は、小さな山の上にある。本堂は東向きで鵜足郡宇足津村にあり、本尊は一尺八寸の阿弥陀仏が座している。御作おどりは、念仏を唱えながら拍子をそろえ、鐘を打ち鳴らして飛び跳ねる」
  ここからは道場(郷照)寺には、時宗の念仏踊りが近世初頭まで伝わっていたことが分かります。

1 郷照寺踊り念仏
跳ね踊る時宗の念仏踊り 中央が一遍 (一遍絵図)
滝宮念仏踊りの由来の中には「菅原道真の雨乞成就を祈念して踊られるようになった」と記されます。しかし、古代に念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、中世の一遍です。一遍によって時宗の布教手段として全国的に広がります。それが風流踊りとして、近隣の村落に受けいれられるようになります。滝宮念仏踊りの起源は、時宗の念仏踊りにあることを押さえておきます。

郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。


南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺
   弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を宇多津で広めたことが分かります。ここには高野系念仏聖の存在がうかがえます。この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろな宗教者が巡っていました。この中で高野聖や時宗経系念仏聖は、弘法大師信仰を持ちながら念仏行や念仏踊りを踊っていたことが分かってきました。つまり、近世以前の郷照寺は、志度寺と同じようにさまざまな宗教者が集まって布教活動の拠点となっていたのです。だから「道場寺」なのです。時宗単独の寺とは云ず、真言系や天台系などの修験者や廻国行者の活動拠点となっていたことを押さえておきます。

 志度寺や郷照寺・海岸寺などの海沿いの霊場を拠点に活動した高野聖を見ておきましょう。
高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖でした。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や郷照寺も別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があったようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

五来重「高野聖」読書メモ 四国霊場の弘法大師一尊化を進めたのは高野聖だった。 : 瀬戸の島から
高野聖
 高野聖の廻国のことを「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺・郷照寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。
 ここでは次のことを押さえておきます
①志度寺や郷照寺・弥谷寺)は、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)であった。
②そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していて、真言系や時宗などに区分することができなかった。
③廻国行者たちは芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布した。そのなかには念仏踊りもあった。

中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えます。 
貞享四年(1687)頃の真念『四国辺路道指南』には、次のように記されています。

「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

ここからは真言宗本来の光明真言が唱えられるようになっています。南無阿弥陀仏の念仏は、各霊場から「追放」され、弘法大師の一尊化が確立していたことがうかがえます。つまり、江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。郷照寺の版木は、弘法大師の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。彼らの伝えた念仏踊りが、滝宮念仏踊りとして伝えられていると私は考えています。それは中世の道場寺(郷照寺)の性格を表すものなのです。

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていた。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
道場寺と表記されている郷照寺 (金毘羅参詣名所図会)
各書物には郷照寺の呼名が次のように記されています。
A 寂本の「四国編礼霊場記」元禄2年(1689)
「仏光山道場寺此寺本尊阿弥陀大師の御作鎮守社・鐘楼あり 
 いつのよ(世)りか、時衆の寺となれり」
B 四国遍礼名所図会(寛政12年(1800) 
「七十八番道場寺「仏光山江照寺」と両寺名併記
C 金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847)
「仏光山道場寺宇足津にあり四国遍礼第七十八番の札所なり」
D讃岐国名勝図会(嘉永7年〈1854)、
「江照寺 仏光山広徳院道場寺と云ふ 寺領五斗二升 時宗相州藤沢浄光寺末寺 
 四国八十八ヶ所の一、七十八番札所
寺院境内や周辺の道路道沿いにある明治期までの道標の多くには「道場寺」と記されているようです。 以上をどう考えればいいのでしょうか。研究者は次のように指摘します。

江戸時代から明治時代にかけては時宗寺院としての「郷照寺」と、弘法大師ゆかりの四国霊場第78番札所である「道場寺」という2つの名称をその性格により使い分けていた

このためふたつの名前が併存していたようです。

4344102-55郷照寺
四国霊場 郷照寺 (讃岐国名勝図会)

どうして郷照寺は、江戸時代になってもふたつの寺号を使い分けたのでしょうか?
それは時宗末寺の「郷照寺」でありながら、17世紀後半になると四国遍路が盛況になり、「弘法大師古跡の場」として札所の由緒を示す「道場寺」の寺号を手放すことができなかったためと研究者は指摘します。
 「四国遍路道指南』には次のように記されています。
(大坂から船で)讃州丸亀城下へわたる時は、宇足津道場寺より札はじめよし」

ここからは全国からの金毘羅参りの盛行と併せて、畿内からの四国遍路たちは丸亀湊に上陸し、郷照寺が打ち始めの札所としていたことが分かります。そのため郷照寺には多くの遍路がやって来るようになります。それが郷照寺に経済的利益をもたらすようになります。
 寛政5年(1793)の茶堂寄進の「下津井講中」「普請中順留諸法一件書出控」や、文化7年(1810)の石垣寄進碑にみられる「備前下津井萩野屋久兵衛」、「同播磨屋喜八郎」(石造物参道4)などです。これらは備讃瀬戸対岸の備前児島下津井の寄進者達の名が刻まれています。これは当時の丸亀湊へ備瀬戸主要航路の活発な交易活動の中で捉えられるものと研究者は指摘します。

それでは江戸時代の郷照寺が本山の記録に、どのように記されているのかを見ておきましょう。
寛永10年(1633)の時宗本山の末寺帳には、郷照寺の名はありません。つまり、この時点では、郷照寺は時宗末寺ではなかったことになります。それが享保6年(1721)の七条道場の末寺帳の讃岐の項目に次のように「讃岐七ヶ寺」が記されています。
「興善寺 爾保、興勝寺 勝間、荘厳寺 一宮、江(郷)照寺 宇多津、興徳寺 太田尼、
 浄土寺 由祐尼、高称寺 観音堂尼」

 これ以降の末寺帳には郷照寺の名が記されるようになります。つまり、高松藩初代藩主の松平頼重がやってくる寛永19年(1642)以前に記された史料には時宗寺院としての郷照寺の一次史料はないようです。 それが松平頼重が寛文9年(1669)に作成させた「御領分中宮由来・同寺々由来」には、次のように記します。
「藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡郷照寺」
「寺社記」(天保4年(1833)書写)には
「一、高五斗弐升 相州藤沢山清浄光寺末寺鶴足郡宇足津村時宗郷照寺」
藩政史料には、郷照寺は藤沢市の時宗総本山の清浄光寺の末寺とされています。
そして、「寺開基由来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
「一 寺領高五斗弐升 従古来附来り候処 龍雲院様御代古来之通御改御寄附候由」

ここからは高松藩主松平頼重(龍雲院)から寺領として5斗2升の経済基盤が保証さます。以後は、寺領が保護され続けてたことが分かります。

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四国霊場 宇多津郷照寺
松平頼重は政治的な意図をもって、次のような藩内の宗教政策を進めたことは以前にお話ししました。
松平頼重の宗教政策

郷照寺を時宗に改宗させて、保護を与えた背後にはなんらかの意図があったことが考えられます。
以上をまとめておくと
①郷照寺は、寺伝にあるように中世から時宗寺院であったのではない。
②髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として、時宗寺院として再整備された
 松平頼重の宗教政策については以前にお話ししました。そのなかで讃岐の真言宗勢力の抑制のために、金倉寺や白峰寺・根来寺・長尾寺などを天台宗に改宗して整備保護していました。郷照寺の時宗への改宗もなんらかの政治的な意図があったことがうかがえます。それが何なのかは、今の私には分かりません。  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。








   海岸線が高松藩から金毘羅さんに寄進された!    
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江戸時代の後半の文政八年(1825)の2月12日に、高松藩は金毘羅大権現へ宇足津の寄洲を寄付します。高松藩からの通知には、次のようにあります。

「此度、殿様御心願在らせられ候二付き、鵜足郡土器村川裾より阿野郡堺迄之内海辺砂州 金毘羅神領御供用二土地寄進遊ばさるべきべき旨仰せ出され候二付き、其の段金光院え申し渡し畝間、郡奉行所役人指しだし取調の上、際面札立て右土地引渡申すべく候」

殿様(松平頼恕)の心願によって海辺砂州が金毘羅御供養田として寄付され、金光院に寄付されたという札が立てられたようです。寄州とは、河口や海岸などに、土砂が風波で吹き寄せられてできた州のことで、宇多津には大束川河口に広い寄州があったようです。
その範囲はどのくらいなのでしょうか?
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「年来実録」には次のように示されています。
南境は都て浪打ち際 東西長六百三拾三間、西境は土器村海手一開水門より弐拾間東にて北江五拾弐間除地見通し長三百八拾間、東境は川口番所裏西石垣より西江拾四間除地見通し長弐百九拾間、北境「東西見通し長五百八拾八間」

これによると南側は全て波打ち際での長さが約1,3㎞の海岸線です。北側は西は土器村の水門から東は川口番所裏の石垣まで約1,2㎞、両横の長さは約0・6㎞×0・76㎞のいびつな長方形で、相当に広い土地です。現在の土器川から役場辺りまでのエリアになりそうです。その年の九月二七日には高松藩役人と金光院役人との間で引き渡しが行われ四方に杭打ちが行われました。
しかし、この土地は「鵜足津浦海辺、南境波打際・・」とあるように海浜です。

鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
宇多津湊 道場寺(郷照寺) 金毘羅名所参拝絵図より
そんな海岸を高松藩は、金毘羅さんにどうして寄進したのでしょうか?
文書には続けて次のようにあります。
「鵜足津御寄付土地、追々開き立て(開発)候て、百姓共住宅井びに土地支配の義共、鵜足津村役人にて取り扱わせ、川口出入り等の義ハ、時々村役人より申し越し候ハ切手等指し出し申さるべく」
意訳変換しておくと
「鵜足津(宇多津)に寄付した土地については、追々に開発して、百姓たちの住宅や支配地に供用し、鵜足津村の役人に担当させる。また川口の船の出入りについては、定期的に村役人から報告させて、認可すればよい」

ここからは新たに「開発・埋立」して、百姓=住民達の住宅などにすると同時に、「川口出入」=「新港」構想があったようです。
実はこれより三年前の文政五(1822)年、大原東野が高松藩老木村黙老に、金毘羅の名を借りて、阿野郡青海村大藪から宇多津までの海岸を開拓することを進言しています。大原東野は奈良からやってきた画人ですが、丸亀街道整備などにも関わっていて、街道整備の勧進活動の棟梁的な側面も持っていた人物です。文政8年2月、高松藩から鵜足郡土器川裾より阿野郡界までの海辺寄洲一円を金毘羅神領御供田として寄附されたのは、大原東野の進言が実現したもののようです。

 この時期の讃岐をめぐる状況を見て見ましょう。

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幕末の丸亀湊 福島と新堀の二つの湊が整備されている
お隣の丸亀藩では、延享元年(1744)に金毘羅参詣船が就航して以来、上方からの金比羅参詣客が増えます。それに対応して文化三年(1806)には福島湛甫を完成させ、参拝客の急増に対応し、丸亀が参詣の湊として急速に発展していく時期です。丸亀湊の賑わいを見て、高松藩にも金刀比羅参拝の拠点湊を開き観光振興策の一つにしようとしたのではないでしょうか。そこで白羽の矢が立ったのが宇多津。宇多津は高松藩内では、金毘羅に最も近い湊です。ここを参詣客の玄関口として発展させようとする計画が生まれたと考えても不自然ではありません。
 その際に、取られたのが開発方法は高松藩が直接に工事を進めるものではありませんでした。「海岸線」を金毘羅に寄進し、埋立から開発までを「民間資本」の活用で進めようとしたのです。こうして、この年九月二十七日に高松藩の役人と金毘羅の別当・金光院の双方の重役が立ち会い土地の引渡が行われます。そして「間数四方へくい木打ち廻り」が行われたのです。

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  ところが、この土地は思わぬ方向に動き始めます
稲毛家文書の文政八年二月廿日に、次のような記事が見えます。
「金毘羅神領御寄附二付き、郷中金毘羅信こふの者より材木明俵等寄進致し候由ニテ日々賑々敷」
鵜足郡内で金毘羅信仰の厚い者達が寄進された土地を埋め立てようと材木や土砂の入った空俵などを持ってきて賑わうようになったというのです。
 これに対して藩側は
「全ク寄進致し候 事口ゆへ指留め候儀二「及ばず」とし「若者共はて成る衣類位の品ハ見免しあまり増長致さざる様」
にと、若者らに対しては派手な衣類などにならないようにと指示しただけで、作業を黙認します。その結果、次第に
「若者共そめき上方に流行の砂持ち様の真似ヲ以て花美過ぎ候」
と、寛政元年(1789)に大坂で起こった砂持明神騒ぎの様相に似てきたのです。
DSC03695宇多津

大坂で起きた砂持明神騒ぎとはなんでしょうか
 大坂の港や堀は上流からの土砂堆積で少しずつ埋まっていきます。そのため定期的に土砂などを浚える必用がありました。この作業を「砂持ち」と呼びました。
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 こうした大工事には、古代に古墳の石室の巨石や石棺の運搬や大坂城築城の巨石運搬と同じように修羅を大勢の人間が曳く作業が伴います。
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これは昔から土木作業という範囲を超えた祭礼行事の側面を持っていました。都市で修羅を曳くのは、お祭りなのです。近世の砂持ち作業も単なる土木作業に留まることはありませんでした。都市住民は、この機会に囃子屋台や仮装行列が繰り出し祭礼行事化していきます。
川や堀ざらえで取り除いた土砂はどうしたのでしょうか。
各町組の氏子らが川ざらえで出た多量の土砂は、最初は寺社の整地に使われていたようです。それが新開地の埋立に使われるようになり大規模化します。
下の絵は寛政元年(1789)5月下旬から大坂玉造稲荷で熱狂的な賑わいで行われた「砂持」の様子を描いたものです。
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この絵は、町単位でそろえられた纏と法被(はっぴ)が描かれています。砂持ちに参加した人々は、砂持ち大明神を担ぎ出し、町毎の幟を立て、太鼓や鉦を打ち鳴らして加勢します。ここからは、砂持ち大明神のパレードに町々が競い合った様子がうかがえます。
 川ざらえの土砂運搬である「砂持」は、しだいに祝祭的な要素を加えていきます。
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 「砂持」は、さらえた土砂を新開地や神社へ運ぶという作業を祭礼行事(パレード)に変えて行きました。人々は鳴り物入りで踊りながら熱狂してパレードした様子が伝わって来ます。さらに時代が進むと山車も登場しますし、「仮装」も行われ、祭礼空間が産みだされています。
 広島も太田川の河口にデルタ地帯の上に造られた城下町です。
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ここでも川底に堆積する土砂を除く川ざらえが欠かせません。絵図は幕末の文久2年(1862)に広島城下の町衆が砂持加勢の土ざらえの土砂を運搬する手伝いと称し、新しいお祭りを作り出します。この絵図は、城下の各町による仮装行列を描き出したもので、互いに趣向を競い合った「砂持ち風流」の様子が見て取れます。
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このような砂持ち大明神と埋立がリンクして役人から見れば「不穏な動き」が醸し出される要素があったのです。
 当時の宇多津の動きを「歴世年譜」は次のように記します。
「城下ノ者ハ土俵ヲ車輿牛馬二積ミ 各邑ノ旗幟ヲ建テ種々ノ紛議ヲ演ジ 鉦鼓管弦且ツ奏シ且ツ行キ往来織ルカ如夕日夜絶エズ」
各村々がのぼり旗を立て、仮装行列化し、鉦や太鼓で囃し立てる光景です。大坂で風流として流行していた風俗が宇多津にも現れていたことが分かります。高松藩の為政者には「統制できない不穏な動き」の前兆と写ったことでしょう。「まずい」というのが正直な反応だったと思います。以後、高松藩は厳しい申し渡しなどで規制を強めます。その結果、騒ぎは次第に収まっていったようです。しかし、民間の力による埋立開発=新港建設という計画は頓挫してしまいます。「歴世年譜」には
「後、藩政二窮乏ヨリシテ 埋立ノ議ハ亦止ミテ行ハレス」と記されています。
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嘉永五年(1852)に金光院は次のように再度の開発計画を高松藩に申請します
「先年源態様ヨリ御寄付二相成り候 宇足津村寄洲、此の度御一手ヲ以て御開発の義、先達て御書面ヲ以て御伺の趣」。
 これに対して高松藩の回答は以下のようなものでした。
(前略)右場所先年御寄付相成り候義二付き、今度御開発成され度き段は、御尤もの義二これ在り候処、天保十三寅年異国舟渡来の節、海岸防禦の義二付き、公辺より格段厳重の仰せ出されこれ在り。国々海岸の絵図取り調べ、井びに浅深も相量り、船付きの場所より城下陣屋迄の里数、或は兼ねて人数指し出し置き候台場遠見番所の類迄も、認メ加へ指し出し候様二と御指図これ在り。則ち巨細の絵図面出来、公辺え御届け相成る。
 右二付き此の御領分東西御人数、御備台場等の義迄御届け二相成り、右寄洲の場所は御領分境の義、別して厳重の御備場所二相成り居り候間、当時二おゐてハ、同所御開発の義は、兎角御挨拶及び難き義二御座候。先ず暫く御見合わせ相成り候様致し度く御座候。」
意訳すると「天保13(1842)年の異国船渡来により幕府は、海岸防御のため各地の沿岸の実情調査し絵図作成を命じた。高松藩もこれに応じて詳細な数字を書き込んだ絵図をすでに提出している。また宇足津寄洲は丸亀藩との境にあって重要な場所となっている。このような状況下においては開発を許可することはできない」との回答です。

 こうして高松藩の「民間活力の導入」という宇多津新港の建設は「砂持ち大明神」さわぎと異国船到来という事態中で立ち消えとなったのです。
小藩ながら新湊建設を成し遂げたのが幕末の多度津藩です。
多度津20111115_054609375
幕末に完成した多度津湊
この結果、多度津湊には幕末から明治にかけて金毘羅参拝客が急増します。
同時に新港に出入りする船舶も急速に増加し、明治には讃岐第1の港湾施設に成長していきます。そこで資本蓄積を行った地元資本は多度津七福神と呼ばれ、景山家の下に結集し新たな投資先を求めて行くようになります。それが多度津の近代へ脱皮・成長へとつながります。そういう意味では、新港計画が挫折した宇多津と成功させた多度津のターニングポイントはこの辺りにあったのかも知れません。
参考文献 丸尾寛 宇多津への金比羅神領寄進の影響について 







         

絵図から探る200年前の瀬戸内海の港 宇多津

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「宇多津街道図」で、宇多津町の法華宗寺院本妙寺に伝わる絵図です。宇多津西部の町並みが海側から鳥瞰するように描かれてています。とは言っても、二百年前の作品で見たとおり退色が進み、何が書いてあるか分からない状態です。もとは衝立であったのが、その後に巻いた状態で保管されていたのでしょう。
 画面向かって右下に、「東埜原民馨」の署名があり江戸時代後期の讃岐の絵師、大原東野が描いたものであることがわかります。近世後期の宇多津を描いた貴重な絵画作品として、宇多津町指定有形文化財に指定されています。 
 200年前の宇多津の街並み散歩に出かけましょう
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 先ほどの絵図を香川県歴史博物館が調査のために描き起こした写真です。手前に、宇多津の北に広がる海が描かれます。画面向かって右中央には、鳥居から続く階段とやや高くなった岩山の上に神社が見えます。これが宇夫階神社です。鳥居を抜けて階段を登ると隨神門があり、その奥に本社の屋根が見えます。
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本社の横には、宇多津の海を見渡す位置に高松藩の遠見番所が描かれ、また隨神門の左横には神宮寺と思われる建物が見えます。階段下の鳥居の脇には一対の常夜燈が描かれています。これは現在も宇夫階神社の境内にある文政10年(1827)9月の建立銘文をもつ常夜燈でしょう。この絵が描かれたときには建立されたばかりでした。
 宇夫階神社の大きな鳥居のすぐ左横には、秋葉社の鳥居と階段らしきものが描かれています。その前から西町を通って東にのびる丸亀街道には、荷を担いて行き交う人々の姿が見えます。宇夫階神社の北側には、すぐそばまで海が迫っていることが分かります。神社の崖下を丸亀街道が通っています。
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 宇夫階神社の鳥居に帰ります。
そこから東に向かうと街道の中ほどから、本妙寺へと続く参道が上に伸びています。その角には元禄年間(1799)に建立された石碑が描かれています。現在、この石碑は参道の西側に場所を移しています。本妙寺は、他の建造物に比べると本堂の屋根の形などが比較的詳しく描写されています。 
 本妙寺の東には、郷照寺の塀や建物と、画面左端から続く参道が描かれます。
本妙寺と郷照寺の参道口の中ほどに、鳥居のような建造物と小さな祠のようなものが見えますが、これは現在も浄泉寺前にある祠と石造物を表したものでしょう。
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その西隣りに描かれた四角形の台が描写されています。
しかし、現在はこれに相当する建造物は見当たらないようです。上の絵図は江戸時代後期にまとめられた「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」に収められた挿絵「郷照寺 浄泉寺」です。ここには、郷照寺の下の街道沿いにこの四角形の台が描かれ「御旅所」と記されています。その位置から考えて、宇夫階神社の御旅所でしょう。しかし、現在では宇夫階神社の御旅所は田町神事場と聖通寺神事場で、それ以外で町の中に御旅所があったという話は伝わっていません。
再び宇夫階神社前に戻って画面を見てみましょう。
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鳥居の前から画面右下に向かって横町の街道がのび、浜町の街道と交わります。その交差点ある方形の堂宇は、「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」の挿絵「宗夫階社 神宮寺 秋葉社 神石社」によると釈迦堂です。そして道向こうにある長い屋根の建造物は十王堂です。
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その海側には方形をした池の中央に祠のある亀石神社が見え、掘割とつながる導入溝も描かれています。現在ではこの周辺は埋め立てられ、中央公園や小学校が建っていますが、当時は亀石神社から海側にのびる地が砂州となっています。この時期は石垣などで整備されていない様子がうかがわれます。
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 東西にのびる浜町の街道には町屋が並び、往来する人々の姿が見えます。また、西町と浜町に挟まれた幸町付近は、家屋などのない低地であったことが知られていますが、この絵でも植物の茂みのような表現が見られるだけで、自然状態の利用されていない土地であったようです。
最後に、浜町から北の海側に広がる区画を見てみましょう。
 海に突き出た堤防に沿って十八世紀中ごろから開発が始まった古浜塩田が見えます。堤防の根元には、海水を煮詰めるための釜屋らしき建物が見え、その横には、木々に囲まれた蛭子神社と鳥居が見えます。塩田の周囲は石を積んで護岸されており、掘割の入口には目印となる燈篭が見えます。周辺には、掘割の中も含めて数艘の船が行き来する様が描かれており、港町として賑わっていた宇多津の様子が描かれています。さて、この絵を描いたのは誰なのでしょうか?
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作者は、大阪から琴平に移り住んだ大原東野です。 
明和八年(1772)奈良に生まれ、後に大阪に住み画家となります。文政2年(1819)6月に、息子の萬年とともに讃岐を訪れ、金毘羅の参詣道を修造するために「象頭山行程修造之記」を著します。これは、丸亀から金毘羅に至る街道の現状を嘆いた東野が、施主の求めに応じて扇面から屏風まで様々な絵画を制作し、その代金を街道修繕の工賃にあてるというもので、木版刷りで広く配ったようです。その後、大阪に帰らずに苗田村(現琴平町)の丸亀街道沿いに家を構え、石津亮澄著「金毘羅山名勝図会」の挿絵を手がけた以外にも、数多くの花鳥、人物図などを描きました。
 画家としての東野は人物図を得意としましたが、「金毘羅山名勝図会」などの景観図を描く技術と経験も充分に備えていました。さらに、讃岐の琴平に移り住み、宇多津のことを充分に知り、その地形の特徴を把握したうえでこの作品に取り組んだと考えられます。11年(1840)に没しました。各種の藤を育てていたという寓居は「藤の棚」と呼ばれ、今も地名にその名が残っています。   

制作目的と制作年代は?

 描かれている範囲が町全体ではなく、宇多津西部の景観に限定されている理由は何でしょう。
 
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この絵には見るものの目線を画面の主題へと自然に導く構図の工夫があるようです。私たちの目線は、まず手前に広がる海から、掘割を通って宇多津の町に向かいます。そして横町、西町と街道をたどって進み、中ほどで掘割と平行するようにのびる参道を登って本妙寺に至ります。意識しなくても、大きな水路や道をたどれば、画面中央に描かれた本妙寺に自然に辿り着くという工夫です。しかし、本妙寺は特に強調して描かれることもなく、あくまでも周囲の景観にとけこむように表されています。ここからこの絵の主題は、本妙寺ではあっても、宇多津の町に一体化した佇まいをみせる寺の姿を描くことにあったのではないでしょうか。海から宇多津を訪れた人や、街道を行く人々には、青ノ山を背に、町並みから一段高く位置する本妙寺が、この絵のように見えたのでしょう。 
 景観年代については、宇夫階神社の鳥居横に描かれる常夜燈を現存のものとみれば、文政10年(1827)建立以降と考えられます。また作者の大原東野は天保11年(1840)に没していますので、それまでの制作されたことになります。いずれにしても、街道が整えられ、船も人も行きかう二百年前の宇多津を描いた貴重な絵画作品といえます。
 以上のように、日常的風景の中に本妙寺を中心として成立する宇多津の景観を描く工夫が織り込まれている点を考えると本妙寺の依頼によって描かれた可能性が高くなります。そして当初は、衝立のような複数の人と鑑賞を共有できる画面に、風景として本妙寺の姿を表現してみせたのがこの絵ではないでしょうか。
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 参考史料 松岡明子 近世の宇多津を描いた景観図

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