酒造りだけでなく、味噌や醤油など日本の発酵製品で欠かせないのが麹です。麹と云えば、私にとっては甘酒です。高度経済成長が始まる前までは、西讃の田舎のわが家では秋祭り以外にもよく甘酒を作っていました。それを年寄りは楽しみにしていました。
観音寺市室本
その麹は、室本からもたらされたものでした。地域で一括して代表者が室本の麹屋に発注し、届けて貰って分けるというシステムで、当時はお店では販売していなかったように思います。西讃エリアの麹は、古くから室本がまかなっていたようです。今回は、室本の麹について見ていくことにします。テキストは、室本麹と専売権 観音寺市史222P」です
幕末に、丸亀藩が各村の庄屋たちに原稿提出を求めて作られた「西讃府志」には、室本の麹について、次のように記されています。
室本村ノ人、古ヨリ是ヲ製ルヲ業トシテ、国内二売レリ、香川氏ノ時ヨリ、三野那ヨリ西ノ諸村二、醴(甘酒)又 味噌ナド造ルニ、此村ヲ除キテ外二製ルコトヲ許サズ、香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ。 (西讃府志巻之五十)
意訳変換しておくと
室本村の人々は、古くから麹を製ることを生業とし、讃岐国内で販売してきた。(戦国時代の讃岐守護代であった)香川氏の時に、三野郡から西の諸村では、醴(甘酒)や 味噌などを作るときに麹については、室本以外には製造・販売を認めずに独占権を与えた。その香川之景の認可状が、この村には伝えられている。 (西讃府志巻之五十)
ここからは、室本には三野・豊田郡の麹の独占製造販売権が、戦国時代に西讃守護代の香川氏から認められていて、それが幕末まで続いていたことが分かります。
「香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ」とされるものが、永禄元年(1558)の香川之景の判物で、次のように記されています。
室本浦里
「香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ」とされるものが、永禄元年(1558)の香川之景の判物で、次のように記されています。
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以其筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、例状如件、水禄元 六月二日 (香川)之景 花押王子大明神別当多宝坊
意訳変換しておくと
讃岐国の室本の地下人の麹商売について、先書や元景の折紙で明示したように、その筋目をもって別儀を行う事を認めない。もし子細に問題がある場合には申し述べること、例状如件、水禄元 六月二日 (香川)之景 花押王子大明神別当多宝坊
この史料からは次のようなことが分かります。
①之景の先代である元景の時代から、室本では麹商売の独占的生産と売買権が与えられていたこと
②それを永禄元年(1558)に香川之景が改めて認めたこと
③多度津を拠点とする香川之景の勢力が観音寺室本まで及ぶようになっていたこと
④室本の麹行者は座を組織し、王子(皇子?)大明神を本所としていたこと
⑤王子(皇子?)大明神の管理権は、別当多宝坊が保持していたこと
⑥麹が永禄年代には室本の専売品として中讃・西讃地域に売りさばかれていたこと
ここで注目しておきたいのは④⑤の「王子大明神」です。
これは、現在の皇太子神社のことののようです。この神社では、今でも年頭弓射神事は、左右両講中の宮座によって行われています。この宮座が麹組合のものであり、室町期まで遡れることがうかがえます。
これは、現在の皇太子神社のことののようです。この神社では、今でも年頭弓射神事は、左右両講中の宮座によって行われています。この宮座が麹組合のものであり、室町期まで遡れることがうかがえます。
室町時代の麹座をめぐる状況を知るために、当時京都で起きた事件について見ておきましょう。
室町時代には、酒蔵が使う麹は麹屋が卸していました。酒蔵はまだ麹造りを行っておらず、「麹屋」という麹の製造から販売までを担う専門業界が別個に存在していたようです。
例えば京都で、麹の製造販売を独占していたのが北野天満宮でした。北野天満宮の下には、「麹座」と呼ばれる麹屋の同業者組合(北野麹座)が結成され、麹の製造や販売の独占権を取り仕切っていました。幕府が北野天満宮の麹座に麹造りの独占権を認めていたため、酒蔵が勝手に麹を造ることはできなかったのです。次の史料は足利義持下知状(1419年)です。
この「下知状」は、北野天満宮ゆかりの西京神に麹製造・販売の独占権を認めるものです。西京神人以外の京の酒屋には麹をつくらないと誓約させ、幕府の前で麹道具を壊して廃業させたことを記録しています。しかし、この独占は長く続きませんでした。
しかし、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、資本力のある酒蔵の中には麹造りに取り組む者も現れます。酒蔵の意を受けて麹販売権の規制緩和や撤廃を求めて圧力を掛けたのが延暦寺です。延暦寺と北野天満宮の対立はエスカレートしていきます。幕府は延暦寺からの抗議に折れた形で、北野麹座の独占権の廃止を認めます。これに反対する麹座の面々は北野天満宮に立て籠もり抵抗しますが、幕府側に鎮圧され、この事件(文安の麹騒動)により社が焼失します。
この事件の結果、麹屋は没落して酒造業へ組み入れられ、奈良の「菩提泉(ぼだいせん)」や近江の「百済寺酒」、河内の「観心寺酒」などの僧坊酒が台頭する一因になるようです。
ここでは、15世紀初め頃までは北野天満宮の神人たちが形成する座が、麹の独占権を幕府から認められていたこと。それが15世紀半ばになると台頭する酒蔵の意を受けた比叡山によって打破され、麹座の独占は破棄されたことを押さえておきます。
香川之景の室本麹座免許状が出されているのは、それから約百年以上経った16世紀半ばです。
讃岐では、麹座の特権が守護代の香川氏によって認められていたようです。同時に、室本の麹座の本所が皇子神社に置かれ宮座としても機能したことを改めて押さえておきます。
香川之景の室本麹座免許状が出されているのは、それから約百年以上経った16世紀半ばです。
讃岐では、麹座の特権が守護代の香川氏によって認められていたようです。同時に、室本の麹座の本所が皇子神社に置かれ宮座としても機能したことを改めて押さえておきます。
この香川之景の室本麹座免許状を室本の麹座は、その後も大切に保管していたようです。
麹組合の古文書の中には享保16(1731)年の室本浦「麹之儀御尋被為遊候ニ付差上口上書控え」というものがあります。そこに引用されているのが「香川之景の室本麹座免許状」なのです。
室本浦 糀室之儀御尋被為遊候二付差上申口上書控香川之景 書付之通二候得者 重書並ビ二元景之折紙可有之物紛無之右之子細二而モ可有之卜被遊御意候由 右之景之御書付 則御家老様方迄モ御覧二御入被為遊候旨 向後者下札可被遣トノ御義二而夫ヨリ以来 御下札被為下来り由候
意訳変換しておくと
室本浦の麹室についてのお尋ねについて、以下の通り返答を差し上げた口上書の控である。香川之景の書については、別添えの通りです。元景の折紙については紛失して子細は分かりませんが、その意は景之の書付とほぼ同一であると思えます。御家老様方にも御覧いただき、今後は鑑札を下札していただけるようになりました。
享保16(1731)年は、西讃地域は飢饉がつづき、住民はわら餅・松皮餅まで食べた伝えられています。そのため麹をつくる材料が手に入らないありさまになったようです。そこで麹組合として、香川之景の許可状を証拠に申し立てています。それに対して丸亀藩は、麹商売の許可札を下付します。使用する玄米については、中籾(籾米)・悪米(青米)を材料にして製造するように指示すると同時に、無税で販売をすることが許されているます。
江甫山と皇太子神社(観音寺市室本)
麹組合には、次のようなことが云い伝えられていると観音寺市史は記します。①昔は、「籠留(かごどめ)」・「棒留(ぼうどめ)」などと云って、 飢饉の際に一時期な米や麦の運搬停止命令が出た時でも、麹は生き物で使用日数に限りがあるので、鑑札を下付されて、それを持参していれば自由に糀の運搬ができる特典が与えられていたこと、
②西讃地域内での専売権があるので、他の者には麹製造や販売が認められていなかったこと
③無断で商売をする者がれば上訴するのは当然のことであり、無視する者には鍬・鋤を持って侵害者の家や庄屋に出向き中止させるよう実力行使をしたことも、たびたびあったこと
上訴した内容については、書控として次のような7件が残されています。
1705年(宝永2)乙酉年三野郡上之村(現香川県三豊郡財田町上)に糀室を作ろうとした時の対応。
室本村の庄屋善右衛門が三野郡奉行に差し止めを願いでて、それが上ノ村の属する多度津藩家老まで伝えられています。そして停止命令が、三野奉行所に下され、上ノ村の大庄屋に伝えられて停止措置がとられたのでしょう。その経過を上ノ村庄屋は、室本村が属する豊田郡坂本村の大庄屋に伝え、そこから室本の庄屋に下りてくるという伝達経路になります。
1731年(享保16)辛亥年6月19日 のことです。
丸亀城下の山之北・土器両八幡宮の「ふく酒糀」を、それまでは室本村の源七が納品していました。それを停止して、丸亀城下通町の糀屋徳右衛門が、造酒のため以外の糀商売を城下でできるように請願したときの対応表が次の通りです。
1731年(享保16)辛亥年6月19日 のことです。
丸亀城下の山之北・土器両八幡宮の「ふく酒糀」を、それまでは室本村の源七が納品していました。それを停止して、丸亀城下通町の糀屋徳右衛門が、造酒のため以外の糀商売を城下でできるように請願したときの対応表が次の通りです。
以上をまとめておくと
①永禄元年(1558)の香川之景の判物で、観音寺室本の麹座に対して、麹の独占販売権が既得権利として認められていること
②16世紀半ばに、室本の麹座は三野郡以西の麹独演販売権を持っていたこと
③室本の麹座は皇子神社の宮座として集結していたこと
④江戸時代になっても丸亀藩に麹の独裁権を再確認させていたこと
⑤多度津藩や丸亀城下町でも麹の独占権を拡大させていたこと
⑥独占権の擁護のために、違反者に対しては控訴や実力行使を繰り返して行っていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 室本麹と専売権 観音寺市史222P